地域総合研究 - 鹿児島国際大学

ISSN 0914-2355
REGIONAL STUDIES
Vol. 38, No. 1
Vol.38 No.1
September 2010
地 域 総 合 研 究
REGIONAL STUDIES
地域総合研究
第38巻第1号 2010年9月
CONTENTS
第
Articles
Area Marketing Techniques in Japan 38
Megumu Kinugawa(   1)
Haruo Yoshida(  37)
Hiroshi Tomizawa(  49)
論 文
Satoshi Fukami(  63)
Review on Realizing Geopark and Geotourism Research Note
About Regional Promotion of Shinkin Bank and Shinkumi
Bank in Kagoshima Prefecture (2) SangKyun Hahn(  73)
Book Reviews Haruo Yoshida(  87)
Local Information THE INTERNATIONAL UNIVERSITY OF KAGOSHIMA
Phone : 099-261-3211 Ext.9412 Fax : 099-261-3565
Publication Date : September 30, 2010
衣川 恵(   1)
エリアマーケティングの実務 小林 隆一(  13)
富岡製糸場が意味するもの
―世界遺産とネットワーク形成①― 吉田 春生(  37)
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方 富澤 拓志(  49)
ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察 深見 聡(  63)
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2) (101)
鹿児島国際大学附置地域総合研究所
THE INSTITUTE FOR REGIONAL STUDIES
中心市街地活性化の先進事例
―高松市と長浜市の事例― 研究ノート
Ryuichi Kobayashi(  91)
News and Announcements 8-34-1 Sakanoue, Kagoshima-shi, 891-0197, Japan
目 次
Ryuichi Kobayashi(  13)
The Meaning of the Tomioka Silk Mill The Future of Industrial Promotion in Branch Plant Economy 巻第1号
Two Examples of Successful City Center Revitalization
—The Cases of Takamatsu City and Nagahama City— 韓 尚均(  73)
書 評 吉田 春生(  87)
地 域 情 報 小林 隆一(  91)
研究所通信 (101)
鹿児島国際大学附置地域総合研究所
論文執筆者紹介
衣川 恵 本学経済学部・大学院経済学研究科教授
小林隆一 経営コンサルタント,前本学経済学部地域創生学科教授
吉田春生 本学福祉社会学部教授
富澤拓志 本学経済学部・大学院経済学研究科准教授
深見 聡 本研究所客員研究員,長崎大学環境科学部准教授
『地域総合研究』編集委員会
編集長 瀬地山敏 本研究所長
委 員 衣川 恵 本研究所専任所員
吉田春生 〃
富澤拓志 〃 深見 聡 本研究所客員研究員
韓 尚均 〃 事務担当者
鵜木 忍,大西由以子,櫛山雄大,池端真理
『地域総合研究』 第38巻第1号
2010年9月30日発行
編集委員長 瀬地山 敏
発 行 鹿児島国際大学附置地域総合研究所
〒891-0197 鹿児島市坂之上8-34-1
電話(代表)099-261-3211(内線)9412
Fax 099-261-3565
E-mail [email protected]
印刷・製本 斯文堂株式会社
論
文
中心市街地活性化の先進事例
―高松市と長浜市の事例―
衣川 恵*
With the enforcement of three town planning acts, the centers of Japanese regional cities
have suffered markedly and become notably hollowed out. In particular, old shopping districts
have deteriorated significantly.
Despite these conditions in much of Japan, the city centers in Takamatsu and Nagahama
have been revitalized. Takamatsu’s Marugamemachi Shopping Street Association has redeveloped the shopping district making use of a fixed-term land lease. In Nagahama City, the traditional shopping district was revitalized by making use of an old bank building. The Kurokabe
Corporation established a glassware business as a third sector company with private sector
capital. As a result, the old shopping district is frequented by tourists throughout the year.
As successful examples of the improvement and vitalization of their city centers, we con-
sider the methods applied by Takamatsu and Nagahama in this paper.
はじめに
全国的に自動車が多くの家庭に普及し,都市計画によって郊外の市街化が推進されるなかで,中心市街
地の衰退傾向が現れるようになった。このような状況において,1998年に改正都市計画法と「中心市街地
における市街地の整備改善及び商業等の活性化の一体的推進に関する法律」(中心市街地活性化法)が施
行され,2000年に「大規模小売店舗立地法」(大店立地法)が施行された。これらの3法は「まちづくり
3法」と呼ばれている。2000年には「大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律」
(大
店法)が廃止された。
まちづくり3法はまちづくりに貢献し,この3法がまちの中心街を活性化させるものと期待された。し
かしながら,まちづくり3法施行後に,巨大小売店舗(ショッピングモール等)が郊外に数多く展開する
ようになり,多くのまちの中心街が著しく衰退していった。そこで,まちづくり3法が改正されることと
なったが,中心街の活性化に成功したまちは少ない1。
このような状況のなかで,高松市の丸亀商店街の取り組みと長浜市の(株)黒壁を中心とする取り組み
キーワード:中心市街地活性化,民間主導第,まちづくり,地方分権
*本学経済学部・大学院経済研究科教授
1 本稿において,中心市街地という用語は,通常の意味での中心街と同義で用いている。一般に,中心街は,中心商店街のある
繁華街を意味している。しかし,中心市街地活性化基本計画では,このような意味での中心街以外の区域も中心市街地に含めら
れる場合が多い。このことは,中活事業の補助の対象区域を拡大することと関連があると考えられる。
― 1 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
は,中心街活性化の先進事例とみなすことができる。ただし,この2つの事例は,まちづくり3法以前か
ら取り組まれ,まちづくり3法そのものによって活性化が実現したわけではない。また,これらの事例も
現在進行中であり,現時点での考察である。
本稿では,以上のような視点から,高松市の丸亀商店街の取り組みと長浜市の(株)黒壁を中心とする
取り組みについて,その内容を紹介し,考察する。
Ⅰ 丸亀町商店街の事例
1 高松市中心街の衰退
高松市は,四国の玄関として発展してきたが,郊外店舗が展開するようになり,商店街の衰退が懸念さ
れるようになった。そのようななかで,大店法の廃止と,大店立地法の施行がなされ,郊外に広大な無料
駐車場を備えた大型商業施設が展開されるようになった。
1998年に,ショッピングモール「ゆめタウン高松」が中心街の南の郊外にオープンした。2006年9月に
増床し,店舗面積約5.5万 m2となった。「ゆめタウン」は,広島に本店を持つイズミが西日本で展開して
いるショッピングモールであり,スーパーマーケットしてはきれいな店づくりがなされている。多数の買
い物客で賑わっており,高松では,このゆめタウンが最も集客力があると言われている。
2007年4月,イオン高松が中心街から西の郊外にオープンした。店舗面積は4.2万 m2であり,これも巨
艦の郊外型大規模店舗である。この他に,高松郊外には,1995年に開店した店舗面積約2.7万 m2の東高松
ショッピングセンター(高松サティ),2007年に開店した店舗面積約2万 m2の西村ジョイ屋島店など,
1万 m2以上の店舗が2007年5月現在で9店存在している2。高松中心街は,これらの郊外型大規模店舗に
包囲され,衰退が激しくなっている。
その結果,中心商店街は多くの顧客を奪われ,中心商店街の歩行者通行量が著しく減少した。表1に見
られるように,休日の1日の歩行者通行量は,中心商店街の15地点の合計で,1995年の約17.4万人から
2010年には約9.3万人に激減した。平日も,同期間に,約20万人から11.9万人に半減した。
丸亀町商店街について見ると,かつて歩行者は平日よりも休日の方が多く,1995年には,休日で約1.9
万人,平日で約1.6万人であった。しかし,最近は休日の方が少なくなり,2010年には休日が1.2万人に減
少し,平日の1.3万人よりも少なくなった。ライオン通り商店街では,1995年から2010年の間に,休日で
約6,000人から約3,000人に半減した。また,常磐町商店街も同期間に,休日で約1.8万人から約7,000人へと,
表1 高松市中心街歩行者通行量の推移
丸亀町
ライオン通り
南新町
常盤町
15地点合計
休日
平日
休日
平日
休日
平日
休日
平日
休日
1995年
18,902
16,032
5,980
7,060
19,456
20,576
17,594
14,378
173,802
1997年
16,392
20,388
4,744
6,206
17,372
17,512
18,152
11,586
167,284
2000年
15,336
16,814
5,170
5,644
18,066
16,002
19,914
13,078
158,016
2002年
14,422
16,490
5,216
5,442
15,698
16,100
18,822
11,798
149,516
2004年
14,842
15,940
4,326
5,430
16,166
13,916
13,752
7,852
134,882
2006年
13,076
13,228
4,832
5,320
12,416
13,088
9,852
8,090
119,844
(単位:人)
2008年
2010年
14,494
12,192
13,968
13,476
4,488
3,152
4,944
4,530
10,860
9,408
12,250
11,610
7,566
6,960
7,604
7,810
114,850
92,768
(注)各年10月のある1日の午前10時から午後7時まで9時間の調査(ただし,2002年は9月,2010年は5月)。
(出所)高松市。
2 高松市『高松市中心市街地活性化基本計画』2007年,参照。
― 2 ―
中心市街地活性化の先進事例
表2 高松市中心商店街の空き店舗数の推移
(単位:店,%)
丸亀町
空き店舗
空き店舗率
ライオン通り 空き店舗
空き店舗率
常磐町
空き店舗
空き店舗率
中心商店街
空き店舗
合計
店舗数
空き店舗率
1995年
3
1.8
23
9.9
8
6.5
65
1,043
6.2
1997年
6
3.4
27
11.8
3
2.6
74
1,034
7.2
2000年
12
6.9
33
14.7
11
9.5
117
1,015
11.5
2002年
9
5.1
38
16.8
15
12.9
126
1,027
12.3
2004年
22
13.6
39
17.2
24
22.0
151
1,000
15.1
2006年
16
9.8
50
21.7
31
29.5
181
998
18.1
2008年
14
10.0
41
18.8
31
31.3
179
958
18.7
2009年
13
8.7
45
20.5
34
33.0
188
970
19.4
(注)12月時点の中心商店街の全フロアー合計。
(出所)高松市商工会議所。
半数以下に激減した。
また,中心市街地での歩行者通行量の激減や小売業の衰退の結果,中心商店街の空き店舗が著しく増加
した。中心市街地の空き店舗の合計の推移みると,1995年に65店であったものが,2009年には188店へと
約3倍に激増し,空き店舗率では6.2%から19.4%へと3倍以上に増加した。元気のよい丸亀商店街でも,
95年に3店舗であった空き店舗が2004年には22店舗に激増した。しかし,丸亀商店街の活性化策によって,
2009年には13店舗まで減少した。それでも,95年から2009年の間に,同商店街の空き店舗率は1.8%から
8.7%に著増した。兵庫通りは,同期間に空き店舗率が4.0%から12.3%へ増加したが,丸亀商店街に次い
で空き店舗率が低い。ライオン通り商店街では9.0%から20.5%へ倍増した。常磐通り商店街では6.5%か
ら33.0%へと約5倍に激増した(表2参照)。かつてはライオン通りよりも活気のあった常磐通り商店街
であったが,今日では厳しい状況となっている。
人口をみると,高松市全体では,1990年代には微増であったが,2006年に合併が行われて大幅に増大し
た。他方,中心市街地では1990年から2005年の期間に,2.5万人弱から2万人強へと,約5,000人減少した。
市全体としては合併の影響により人口が増加しているが,中心市街地は空洞化が見られる(図1参照)。
これらの結果から,高松市の中心商店街や中心街は明らかに衰退していると言うことができる。
2 丸亀町商店街の取り組み
上記のように,高松市の中心市街地は厳しい状況になってきたが,高松市中心商店街の1つである丸亀
町商店街は,注目すべき試みを行っている。この商店街は,高松城下の大手通りで400年の伝統をもつが,
伝統にしがみつくことなく,早くから商店街の衰退をくい止めるべく対処してきた。
中心商店街の空洞化が全国的に激烈になる前の1983年に,丸亀町商店街振興組合は100年後を展望した
まちづくりの研究を開始した。当時は,丸亀町の歩行者通行量が休日3.5万人,平日2万人であり,全盛期
に近かった。しかし,同商店街では,他のまちの商店街を視察するとともに,商店街活性化の研究を行っ
た。研究の結果,商店街の機能強化を行えば,郊外型大規模店舗に対して競争力を維持できるとの結論に
至り,翌84年からまちづくり事業を展開した。
1984年に,同商店街振興組合は,アーケードやカラー舗装の改修を行っただけでなく,中心街に不足し
ていた駐車場2箇所(計370台)を建造した。これを皮切りに駐車場の拡充を図った。1993年に第3駐車
場71台,2003年に第4駐車場325台,2006年に壱番街駐車場を建造した。現在,同組合は,合計で1,000台
を収容できる駐車場を建造・管理しており,収益も上げている。また,98年にポイントカード,2000年に
― 3 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
(万人)
45
41.83
40
35
33.79
33.29
33.1
32.97
30
25
20
15
10
5
0
2.49
2.25
1990
1995
2.10
2.04
2000
2005
2.05
2010 (年)
図1 高松市の人口の推移
(注)2005年以前は,合併後の現在の市域に組み替えていない数値である。
(出所)高松市『高松市統計年報』および中活基本計画関連資料。
はクレジットカード丸亀を導入した。
さらに,2008年には,商店街に大規模な円形ドームを総工費8.8億円投じて完成させた。自然光をふん
だんに取り入れられるように設計され,2階部分が通りの両側をつなぐ通路となっている。この大きな丸
形ドームは,来街者に一種のサプライズを提供している。このドームの下の広場では,大小さまざまなイ
ベントが頻繁に行われており,人々を引き付けている。郊外のショッピングモールに負けない工夫である。
丸亀町商店街は,470mの長さの商店街をA街区からG街区の7つに区分けし,再開発事業を順次実施
する戦略をとっている。2006年にA街区壱番街ビル(再開発ビル),壱番街駐車場が完成し,2008年には,
B,C街区で小規模連鎖型再開発の工事を開始し,2010年にはG街区の再開発工事も始めた。また,商店
街の通りの再開発とともに,周辺部の再開発も計画しており,市民市場,屋台村,温泉施設,町営シネコ
ン,ホームセンターの導入も予定している。丸亀町商店街振興組合は,1984年から始まる商店街改良のた
めに,再開発事業を除いても,約56億円を再投資している。また,駐車場など共同事業を行っており,法
人として毎年3000万円を超える税金を納めており,市の財政にも貢献している。このような点は,商店街
の取り組みとして刮目に値するものである。
丸亀町商店街振興組合は,同商店街の再開発について,①「市民が集う,にぎわいの広場を中心とした,
都心にふさわしい商業施設の充実」,②「不足業種(飲食,生鮮,雑貨等)およびコミュニティ施設の導入」,
③「都心居住を促進する階上住宅の建設」という3つのコンセプトを採用している。この再開発事業は,
1984年に始まる商店街の機能強化事業の中核的位置を占めている。A街区の再開発がそのフロントラン
ナーであり,2006年にA街区壱番街ビルと壱番街駐車場が完成した。具体的には,A街区再開発によって,
再開発ビルにおけるテナントミックスを実現し,市民広場(円形ドーム),駐輪場442台,駐車場223台,
イベントホール,カルチャー教室,各種休憩スペース,公衆トイレ,マンション,自転車道,快適な歩道,
街路樹・花壇,ベンチ等を創設した3。
3 高松丸亀町商店街振興組合『事業説明資料』,参照。
― 4 ―
中心市街地活性化の先進事例
この再開発は,従来の再開発と大きく異なるため,丸亀(再開発)方式と呼ばれているが,その特徴は
以下の諸点にある。第一は,定期借地権を利用して,再開発ビルの土地の所有権と使用権を分離したこと
である。従来の再開発ビルは,再開発ビル会社が,公的資金や金融機関の融資等によって大部分の土地を
買い上げ,運営を行う形式をとっていた。そのため,多額の借金を抱え込み,家賃収入が予想通りに入ら
ない中で,破綻に直面するケースが多かった。しかし,この丸亀の知恵は,土地を買い取らないために,
まちづくり会社の借入金の負担が大幅に軽減され,経営の健全化が担保できる利点がある。また,壱番館
の管理会社は,形式的には第三セクターであるが,高松市の出資はごくわずかであり,仮に壱番館の管理
会社が破綻したとしても,高松市の税金はほとんど投入しなくてもよく,税金の無駄遣いを回避できる。
さらに,まちづくり会社が,市議会に気兼ねなく,スピーディに,思い切った事業展開を行うことが可能
になる。
第二は,変動地代家賃制である。まちづくり会社は,テナントの家賃・共益費の中から,借入金の返済,
管理経費を差し引いた金額を,所有者(オーナー)に地代・家賃として分配し,オーナーへの地代・家賃
は1年ごとに見直されることになっている。オーナーは,テナント家賃の最低保証によってある程度の収
入は見込めるが,テナントの状況次第で収入の減少やリスクを負う可能性がある。そのため,オーナーが
まちづくり会社の管理運営能力の向上に関心を持たざるをえない仕組みになっている。
第三に,売り上げの悪いテナントは入れ替えられるシステムが採用され,テナントも売り上げの向上に
努めなければならない仕組みになっている。このシステムにより,テナントの近代化や活性化が期待でき
る。実際に,売り上げ基準を満たさないために入れ替えられたテナントもあるという。
このようなシステムによって,再開発ビルの活力が担保され,まちづくり会社の運営リスクが軽減され
るように設計されている。市が筆頭株主となって管理運営する第三セクターのまちづくり会社とは決定的
に異なっている。
このような再開発方式を採ることができたのは,丸亀町商店街が他力本願ではなく,自己責任で商店街
や中心街を活性化させようとする強い意欲と実現能力を有したからである。むろん,再開発に対する公的
補助などの支援制度は利用するが,商店街や中心街の生き残りのために,丸亀町商店街が自分でリスクを
とって,自己責任で再開発を行っているのである。なお,丸亀方式による再開発は,将来に助成金を上回
る納税を行い,市の財政健全化に寄与しうるところに大きな意義がある。
コンパクトシティという点では,高松市は青森市や富山市の中活基本計画ほどには注目されていない
が,実はすでにコンパクトシティと言うにふさわしいまちである。中心街の西側に国の出先機関,県・市
の役所,大規模病院,大学・学校などの公共施設が集められている。そして,中心部は,北側に JR の高
松駅と高松琴平電鉄の高松築港駅,東側には琴電の瓦町駅と片原町駅があり,近郊の人々を多数引き付け
る公共交通システムが出来上がっている。郊外部の宅地化が進行しても,昼間には,多数の人々を中心街
に誘導する都市構造となっている。駅から中心街を通って通勤・通学するような構造になっており,アー
ケード街は徒歩者や自転車利用者にとって風雨を避けられる便利で安全な主要通路となっている。
高松市は,県庁所在地としては人口がそれほど多いわけでもなく,また多くの郊外型大規模店舗が展開
しているにもかかわらず,中心商店街が比較的元気がよいのはこの都市構造に起因するところも大きい。
近年の国の行政のまずさにもかかわらず,高松では,地理的利点のほかに,城下町を活かした都市計画と
交通網によって,郊外型大規模店舗の影響が緩和されていると考えられる。丸亀町商店町の努力が大きい
ことは評価されなければならないが,他のまちと比較して,良好な環境も丸亀町商店町の試みを支えてい
ると考えられる。
― 5 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
Ⅱ 長浜市の事例
1 長浜市中心街の衰退と「黒壁」の展開
滋賀県長浜市は,東海道線と北陸本線の分岐点である米原駅から3駅北に進んだところにあり,琵琶湖
に面する湖北のまちである。このまちは,豊臣秀吉が自分の城として初めて建造した長浜城の城下町とし
て発展してきた。秀吉は,楽市楽座として,長浜を商業のまちとして発展させた。大阪城が落城し,彦根
藩に組み入れられたが,楽地楽座の制度と町人自治が認められた。また,長浜は,陸上交通と湖上交通の
要衝でもあり,商業に適していた。
長浜市の中心商店街は昭和50年頃まで繁盛したが,モータリゼーションの進行と郊外の開発(国道の新
8号線周辺等)によって,昭和50年代には中心街の歩行者が激減し,空き店舗が増加した。そこで,なん
とかしなければならないという声が起こった。
1983(昭和58)年に,長山城が博物館として復元され,「長浜出世まつり」が盛大に行われた。翌84年
3月に長浜のまちを博物館のようにする「博物館都市構想」が策定され,個性ある美しいまちをつくる方
向が打ち出された。
この博物館都市構想のもとに,次の3つのことが行われた。第一は,市・商工会議所・商店街が一体と
なって,商業振興と中心商店街の活性化する方向を示したことである。第二は,青年会議所の OB が中心
となった「21市民会議」が長浜駅前開発・長浜ドーム・大学誘致などのプロジェクトを提案し,その実現
のための運動を行ったことである。この運動は,第三セクターの株式会社黒壁を生み出す素地となった。
第三は,「黒壁銀行」の保存運動が(株)黒壁の設立とその事業展開によるまちづくりへと発展したこと
である。これらの3つの流が長浜のまちおこしに結実された。しかし,(株)黒壁の事業展開が長浜市中
心市街地を活性化させた大きな原動力となっていることは明らかである。そこで,(株)黒壁の事業展開
についてみることにしたい。
1900(明治33)年,長浜の中心街の北国街道沿いに百三十銀行(本店:大阪)の長浜支店が木造土蔵造
りで建造された。その外壁が当時流行の黒漆喰であったため,「黒壁銀行」と呼ばれて親しまれた。この
建物は,その後持ち主が替わったが,長浜が空襲を受けなかったこともあり,戦後も残った。しかし,
1987年に,当時の持ち主であった長浜カトリック教会が売却し,取り壊されるという話が浮上した。長浜
市への買い取り要請もなされたが,市は買い取りをしぶった。
郊外で会社経営を行っていた笹原司郎氏が中心となって保存の努力が行われ,民間と市が出資して,第
三セクターの株式会社黒壁を設立して,この物件を買い取り,その保存と活用を模索することとなった。
この(株)黒壁は,資本金が1億3,000万円で,1988(昭和63)年4月に設立された。出資者は,市民7人,
長浜市,長浜信用金庫であり,市は約3分の1の4,000万円を出資した。ポイントは,民間が中心になっ
た第三セクターの株式会社ということである。この(株)黒壁の創業の背景には,中心商店街の衰退によっ
て長浜曳山祭りが衰退することを回避したいという笹原氏らの強い思いがあった。
しかし,会社を設立した段階では,事業内容はまだ決まっていなかった。出資者は,伝統ある中心商店
街を再生させたいという思いが強く,商店街と競合する業種を避け,来街者の増加を図ることのできるイ
ンパクトのある事業を模索した。歴史性,文化芸術性,国際性という3つのコンセプトを掲げ,長浜とは
縁のなかったガラスが選択された。小樽などのガラス産地の動向,市場調査を経て,デザイナー,ガラス
職人などを外部から迎えて,1989年(平成元年)にガラスショップの黒壁ガラス館(1号館)のオープン
にこぎつけた。その後も,黒壁の店舗展開は推進され,現在,ガラスショップ,ガラス工房,ギャラリー,
ガラス美術館,レストランなど11館の直営店を展開している。他に,グループ店舗として,黒壁のまちづ
くりに参画する18の店舗があるが,これらは経営が別である。なお,1993年には,黒壁は3億円の増資を
― 6 ―
中心市街地活性化の先進事例
(万人)
(億円)
250
10.0
9.0
200
8.0
年商
7.0
150
6.0
来街者
5.0
100
4.0
3.0
50
2.0
1.0
0
1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008
0.0
(年)
図2 黒壁の年商と来街者の推移
(出所)株式会社黒壁。
行い,そのうち民間の2億円は地元企業40社が500万円ずつ出資した。長浜市は,第三セクターの黒壁が
うまく軌道に乗った背景として,長浜の経済界で信用と発言力を有してきた「長浜大好き」の中堅実業家
7人が結束して民間主導で動き出したことにより,多くの企業が企業メッセの形で協力を惜しまなかった
ことを挙げている4。
黒壁の開業により,先述のように,長浜中心商店街への来街者は急激に増加した。図2に見られるよう
に,1989年度に9.8万人であった来街者が,翌90年には20.5万人に急増し,1995年には100万人となり,
2001年には200万人を突破した。その後,変動はあるものの,ほぼ200万人を維持している。
また,黒壁の年間販売額を見ると,初年度の1989年度に1.23億円,その後の10年間は毎年増加し,1998
年には8.77億円まで増加した。しかし,その後は減少し,2008年には6.01億円まで減少している。さらに,
ここ3年ほどは赤字が続いているという。いわゆるリーマンショック後,買い物の客単価が小さくなって
いることや,力のある個店が出てきたことが指摘されている。また,空き店舗対策として,古い店を活用
しているので,店舗面積に対して人件費が大きいことや,まちづくりのために不採算店舗を閉じることが
難しいことなども指摘されている。
専務取締役の笹原氏は,郊外で倉庫業を中心とする4会社を経営する社長であったが,会長職に退き,
無報酬の常勤専務として黒壁の経営に没頭した。市側は助役が取締役,市長が監査役だが,職員は出向し
ていない。また,出資以外の財政的支援は行っていない。黒壁の関連施設は,江戸,明治,大正期に建造
された町家を活用したものである。笹原氏は,経営が軌道に乗った背景について,決算書を読める人間が
8人集まったこと,「市の出資割合を3割程度にとどめ経常的な補助は一切仰がなかったこと」,先行投資
を絶えず考えてきたこと,第三セクターとして長期低金利資金が借りられたことなどを指摘している5。
株式会社黒壁は,ガラス工芸の人材育成なども行っているほか,不動産会社を設けて中心商店街の空き
店舗対策を行うなど,長浜のまちづくりを牽引している。黒壁の従業員は,2008年時点で,33名(女子27
4 長浜市『長浜物語』,「株式会社 黒壁 会社案内」および『長浜市史』第4巻 490~491を参照した。
5 前掲『長浜物語』,32頁。
― 7 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
表3 長浜市中心商店街の歩行者・自転車通行量の推移
ながはま御坊表参道
ゆう壱番街
北国街道
大手門通り
7地点合計
1982年
3,262
2,188
7,934
6,746
31,428
1985年
2,970
2,044
5,182
6,570
27,510
1995年
1,934
1,141
3,785
5,331
19,143
2003年
4,064
4,685
6,931
11,252
39,389
2005年
2,053
2,256
3,208
9,222
24,522
(単位:人)
2008年
3,730
3,878
5,686
8,455
32,579
(注)10月下旬から11月上旬の平日と休日の平均。
(出所)長浜商工会議所。
名,男子6名)であるが,非正規社員は66名であり,合計約100名にのぼっている。
2 中心市街地の活性化
1990年前後から,多くの地方都市において来街者が著しく減少したが,長浜市では,(株)黒壁の事業
展開が成功し,来街者が激増し,中心商店街が賑わいを回復し,中心市街地が活性化した。歩行者・自転
車通行量を見ると,中心商店街7地点の合計で,1995年に約1.9万人であったものが,次第に増加し始め,
2008年で約3.3万人になっている(表3参照)。中心商店街の空き店舗率も減少し,1996年に20%であった
ものが,2000年には11%,2008年には10%に低下した。ゆう壱番街商店街では,1996年に空き店舗率が
40%と厳しい状況となったが,2000年には8%に改善し,2008年には13%で推移している。現在,長浜市
で最も繁華な商店街は大手門通り商店街であるが,2008年に歩行者・自転車通行量は8,455人であり,空
き店舗率は3%である。北国街道では歩行者・自転車通行量の減少が続き,1982年から2008年の間に約
8,000人から5,700人に減っている。この通りは,古い家並みが残っており,また黒壁のグループ店がある
ために観光客も目立つが,車道であり,自動車や自転車もかなり通過している。
ただし,小売店舗の売上高では,1997年から2004年の期間に,長浜市全体では1,005億円から1,089億円
に増加したが,中心市街地では367億円から254億円に減少し,中心商店街の減少が顕著になっている。販
売額が低下しても,空き店舗率が目だって増加しないのは,空き店舗が出ると,(株)黒壁を中心にそれ
を埋める努力がなされていることや観光客など歩行者通行量が多く,新規参入希望もあるためと考えられ
る。また,中心市街地において小売店舗が減少しているにもかかわらず,従業員が微増しているのは,黒
壁グループを中心とする店舗展開や他の都市の店舗誘致などが奏功しているものと思われる。
なお,2006年度に経済産業省中心市街地活性化推進室が行ったアンケート調査によれば,長浜市中心市
街地の印象評価では,「歴史や文化がある」,「このまちに住んでみたい(住み続けたい)」,「生活に便利な
施設が充実」,「医療機関が充実」といった点での評価が高く,「夜の賑わい」,「レジャー施設」などの点
での評価が低い。このアンケートに示されるように,長浜市の中心街は歴史や文化が感じられ,魅力的で
ある。昼間は観光客を中心に来街者が多くなった。しかし,夜の中心街は人通りが少なく,レジャー施設
も乏しいのが現状である6。
なお,中心市街地の居住人口は,1970年には約1万6,600人であったが,2005年には約1万800人に減少し
ている。2000年頃から減少に歯止めがかかり,1万人台で横ばい状態にある。
3 民間主導のまちづくり
1996年に,NHK大河ドラマ「秀吉」に関連して,4月7日から11月30日まで,長浜で北近江秀吉博覧
6 長浜市『中心市街地活性化基本計画』2009年6月認定,2009年11月変更,2010年3月変更,28~29頁参照。
― 8 ―
中心市街地活性化の先進事例
表4 長浜市中心商店街の空き店舗数の推移
ゆう壱番街
大手門通り
ながはま御坊
表参道
中心商店街
合計
空き店舗
空き店舗率
空き店舗
空き店舗率
空き店舗
空き店舗率
空き店舗
店舗数
空き店舗率
1996年
25
40
3
9
2
7
69
339
20
1998年
11
18
3
9
1
4
47
339
14
2000年
5
8
4
11
1
4
36
336
11
2002年
2
3
0
0
3
11
33
339
10
(単位:店 ,%)
2004年
2006年
2008年
5
5
8
8
7
13
0
0
1
0
0
3
2
3
3
7
12
12
31
19
25
342
272
262
9
7
10
(出所)長浜市商工会議所。
会が開催された。この博覧会は,運営委員長の笹原氏らが中心となり,短い準備期間にもかかわらず,市
民400人規模のボランティアの協力を得て,目標の倍を超える82万人を集める成功を収めた。大手門通り
商店街の旧商家がこの博覧会事務局であったが,ここが「まちづくり役場」に発展した。準備期間を経て,
1998年1月に非営利のまちづくりの拠点として,まちづくり役場がオープンした。その後,2003年には,
NPO まちづくり役場となった。
まちづくり役場の機能は,①情報発信機能,②ネットワーク機能,③まちづくり研究の3つに大別され
る。具体的には,秀吉博で活躍した熟年スタッフ(55歳以上)が経営するプラチナプラザ(八百屋,総菜
屋など)の支援,黒壁グループ協議会の事務局,イエ・ミセ・マチ研究所,長浜まち歩きマップの作成・
配布,長浜まちづくりの視察受託など多彩である。長浜まちづくりの視察受託では,1998年から2009年9
月末の期間に約2,000団体を受け入れるという驚くべき実績をあげている。初代理事長は山崎弘子氏であ
り,新聞記者の経験を活かして精力的な活動を行っている7。
また,2009年8月には,新中活基本計画の事業の一環として,長浜まちづくり株式会社が設立された。
発起人は,長浜市,長浜商工会議所,滋賀銀行,長浜信用金庫などであり,資本金は7,200億円で,長浜
市3,000万円(41.7%),長浜商工会議所1,000万円(13.9%),民間業者3,200万円(44.4%)である。代表取
締役社長は高橋政之(長浜商工会議所),代表取締役副社長は吉田敏雄(長浜市副市長),取締役5名であ
る。ここでも,市が50%以下の出資であり,民間中心の形式にされているのが長所である。
長浜まちづくり会社の主な機能は,①中心市街地エリア内におけるタウンマネジメントを行い,②行政
と民間事業との調整(中活協議会との連携)を行うことである。その他に,不動産仲介業務(空き店舗・
空き地の調査や有効活用の検討,地権者への事業提案等),不動産経営業務(駐車場経営,コミュニティ
施設の経営,テナントの経営),情報戦略業務(事業広報,まちなか情報の発信等)も行っている。事務
局は,タウンマネージャー(協議会),コーディネーター(会議所),サブコーディネーター(市職員)な
ど専任4名である。
このように,長浜市では,(株)黒壁,まちづくり役場,まちづくり株式会社という民間主導の組織が
3つもあり,これらが重層的にまちづくりを行っており,民間組織と行政とがうまく連携を図っている。
民間,行政,市民が一体となってまちづくりに積極的に取り組んでいるという点では,長浜市は,他のま
ちよりも,先行していると言ってよい。長浜には,まちづくりに熱心な人材が多い。
7 特定非営利活動法人まちづくり役場「イエ・ミセ・マチ まちづくり役場という運動」2009年10月,第2版参照。
― 9 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
小 括
以上においてみたように,高松市丸亀町商店街の事例と長浜市の(株)黒壁の事例は,中心市街地の活
性化のために大きな貢献をしており,先進事例と考えられる。
丸亀町商店街の事例は,商店街振興組合が中心となって,定期借地権を活用して,今日の消費者のニー
ズに合った新たな商店街の改造を行うものであり,先進的である。このようなことは,行政からも,専門
家からも不可能だと言われたという。この商店街には,商店街のコミュニティが残っているほか,優れた
創造力と実行力がある。高松市では,丸亀商店街がフロントランナーとなり,他の商店街を活性化させる
方向が目指されている。
また,丸亀町商店街は,このような再開発事業によって,商店街を再生して収益性を回復し,再生事業
に補助された金額以上に税金を納入できる状況を創り出すことを目指している。少子高齢化が進行するな
かで,中心市街地の再生がまちの経営を支え,財政の健全化を目標としている点でも先進的である。自治
体主導の再開発ビルの多くにおいて,巨額の税金が投入され続けているのとは対照的である。
長浜の(株)黒壁の事例は,商店街振興組合ではなく,伝統文化を守り,まちの活性化を目指す民間の
活動から生まれた(株)黒壁による商店街の活性化・まちおこしとして,先進的である。この事例では,
歴史的な建造物や町家を活かした店づくりとガラス工芸を組み合わせた商店街づくりによって多数の観光
客を呼び込んで,中心市街地を活性化させるところに特色がある。なお,長浜市中心商店街については,
観光客向けに特化されており,市民のショッピングの場としての性格が弱くなっていることが指摘されて
いる。
本稿で検討した2つの事例の特徴は,繰り返し述べているように,民間が行政と連携しているが,民間
が主体となっており,行政主導ではないという点である。第三セクターの株式会社を立ち上げ,行政から
の資金援助を活用しているが,民間が主体的に取り組み,民間主導で事業展開している点が大きな特色で
ある。このことが,スピーディで自由な発想による経営を可能にし,成功をもたらしている。
行政に期待されることは,まちや商店街が活性化するために必要な側面支援であり,環境整備である。
具体的には,必要な資金援助を行うことや課税システムの改善等である。
今日では,中心市街地が衰退傾向となるなかで,多くのまちにおいて,幹線道路沿いの隣接商業地域や
ショッピングモール等が設置されている地域の商業集積が大きくなっている。このような地域は,収益性
が高くなっており,地価の上昇も見られ,経済原理から見て,課税の強化がなされて当然である。行政が
このような改善を行うことは,中心市街地の商業活動の競争条件を改善することでもある。中心市街地の
活性化に関しては,このような点がもっと留意されてよい。また,市外からきた大型店舗も店舗設置の地
方自治体にもっと多く納税するような改善もなされてしかるべきである。このような行政の支援と民間の
努力が行われれば,地方都市の中心市街地の活性化は大いに促進される。
最後に,他のまちの商店街が,丸亀町商店街や長浜の黒壁の取り組みから学ぶべきことは多いが,その
まま真似ても成功するとは限らない。それぞれのまちの諸条件や特質をよく分析して,それぞれのまちに
適した施策を行うよう留意することが必要であることを付言しておきたい。
(多くの方々が取材に応じて下さったが,氏名を割愛させて頂いた。取材に応じて下さった方々にこの
場を借りてお礼を申し述べたい。)
参考文献
1. 西郷真理子「徹底研究=高松丸亀町再開発:土地・主体・デザイン」(日本建築学会編『中心市街地活性化とま
― 10 ―
中心市街地活性化の先進事例
ちづくり会社』丸善,2005年)。
2. 西郷真理子「長浜・黒壁か町づくり会社を考える」,同上書所収。
3. 角谷嘉則『株式会社黒壁の起源とまちづくりの精神』創成社,2009年。
4. 高松市『高松市中心市街地活性化基本計画』2007年。
5. 高松市「認定中心市街地活性化基本計画のフォローアップに関する報告」2010年3月。
6. 高松商工会議所『平成20年度中心市街地商業活性化推進事業報告書』2009年3月。
7. 高松百年史編集室編『高松百年史』上,高松市,1988年,下,1989年。
8. 高松丸亀町商店街振興組合『事業説明資料』。
9. 特定非営利活動法人まちづくり役場「イエ・ミセ・マチ まちづくり役場という運動」2009年10月,第2版。
10. 長浜市『中心市街地活性化基本計画』2009年6月認定,2009年11月変更,2010年3月変更。
11. 長浜市史編さん委員会『長浜市史』,長浜市,第4巻,2000年。
12. 長浜市総務部市史編さん担当編『長浜物語』長浜市制50周年記念事業実行委員会,1993年。
13. 山田竹系『昭和50年高松商店街展望』四国毎日広告社,1975年。
― 11 ―
エリアマーケティングの実務
小林 隆一*
I am a management consultant with my business specialized in the marketing field. Most of
questions from my customers are “how they can sell much more to make money”. In answer to
their request, I have proposed to introduce the “Area Marketing” that it is effective to meet local
needs without performing a uniform marketing activity in all the company.
This paper “Area Marketing Techniques in Japan” is written completely through my consult-
ing business above and my experience, knowledge and skill obtained in lectures at a management school.
1. What “Area Marketing” is
“Area Marketing” is a theory of marketing set up in Japan in the 1970s. Its concept is that
“the sales system to increase profit” in a local place is built up by discerning the local characteristics such as local culture, residents’ nature, industrial structure and regional differences, excluding the same and uniform marketing activity throughout the country.
2. Local characteristics and their main factors
The abovementioned local characteristics are the local originality and characteristics includ-
ing the residents’ nature, local culture and local industry and are also expressed in other words
as the remarkable differences with other regions.
As the four main factors producing the local characteristics, there are (1) natural environ-
ments such as physical aspect and climate, (2) historical background, (3) composition of population and (4) difference of regional economy based on industrial structure and commercial capital.
青い目の日本人ビル・トッテン氏は,その著『年収6割でも週休4日という生き方』で,日本経済の規
模が500兆円から300兆円にまで減る6割経済の時代が来る可能性があると警鐘を鳴らしている。
日本経済が落ち込み,経済規模が好景気の時の6割台に落ち込むという「6割経済」1 時代の到来が囁か
キーワード:エリアマーケティング,マーケティング,縮小の時代,6割経済
*経営コンサルタント,前本学経済学部地域創生学科教授
1
「6割経済」とは,経済規模が好景気の時の6割になっているということを指す。企業経営では,6割経済のビジネスモデル,詰
まり,売り上げがピーク時の6割になっても,継続できる事業計画を立て実行できなければ,生き残れないというわけである。
青い目の日本人ビル・トッテンはその著『年収6割でも週休4日という生き方』において日本経済の規模が500兆円から300兆
円にまで減る6割経済の時代が来る可能性があると警鐘を鳴らしている。
6割経済を嘆いても,状況が好転するものではない。市場縮小への対応のみが企業の明日の活路を拓くのである。かりに6割
経済が到来しても,びくともしない経営への体制固めをしていかなければならない。
― 13 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
れる状況にあって,人口の増加,経済成長を前提としたビジネスモデルやこれまでの成功体験にすがった
経営では,発展はおろか現状維持さえも難しい。
とはいっても,事業規模の縮小,あるいは人員削減による損益分岐点の維持といった消極策のみでは,
企業イメージや信用低下,さらには社員の士気低下を招き,経営の持続を危うくしかねない。
また,価格訴求に力点をおいての PB 合戦や安売り,あるいは店舗の大型化といった体力勝負は自ずと
限界がある。また,無定見な多角化や新規事業への進出は,成功はおぼつかない。
市場縮小の時代のおける,
“企業の生き残り”のポイントは顧客の囲い込みにある。そして“持続的発展”
の原動力は,需要創造である。顧客囲い込みと需要創造で,6経済が到来してもびくともしない経営への
体制固めが実現する。
そのためには,経営者が自身のフィロソフィーに沿った「あるべき姿」を明確に打ちだし,その実現に
向けての「経営戦略」の形成とその実現に向けての全社一体となっての取組が必要不可欠である。
マーケティング戦略策定に当たっては,時代の流れを見定め,自社の身の丈を踏まえ,自社の魅力(コ
アコンピタンス)を生かしての地域性(地域特性,地域差)に対応の売れるしくみづくり,すなわち,エ
リアマーケティングの発想が有効である。
1 縮小の時代のエリアマーケティング
エリアマーケティングは,日本生まれの発想である。それは,歴史と風土が育んだ地域特有の価値観や
社会構造などから生ずる市場(顧客)ニーズに応えるという,地域性(地域特性)対応のマーケティング
にある。
消費の多様化・個性化に加え,市場縮小の時代にあっては,全国一律の大雑把な売り方では,顧客の支
持を得ることは難しい。エリアマーケティングでは,地域の独自性,異質性を見極め,「郷には入れば郷
に従え」で地域別あるいは商圏別に「売れるしくみ」を創り上げるという,営業活動の個別化により,売
上高や市場シェアの向上を目ざす。
エリアマーケティングでは,都道府県,市町村といった行政区分,あるいは複数の行政区域にまたがる
広域都市圏,経済圏といった単位で,市場細分化し,エリアを括る。そして,各エリアの地域性,地域格
差を踏まえ,マーケティング戦略を組み立て,それを実行する。
1-1 身の丈相応のマーケティングの展開
マーケティング(marketing)は,営業活動(sales),あるいは広告宣伝活動(advertising)と同じと
思われがちであるが,営業活動や広告宣伝はマーケティングを構成する一機能にすぎない。マーケティン
グとは,生産者(メーカー),流通業者(問屋,小売業)から消費者に向けての「売れるしくみづくりと
その実行」に関する広範な機能である。
マーケティング活動は,顧客ニーズを知りそれに応えることに始まる。メーカーであるならば,「顧客
の困っていること,真に欲している製品を開発,製造し,流通させる」ことである。小売業では,「消費
者(顧客)の生活になくてはならない商品やサービスの品揃えとその販売」にある。
やっかいなのは,顧客ニーズは,時代とともに絶えず変化していることである。したがってマーケティ
ング成功の要件の一つは,「時代の流れを読む」ことにある。
だが,顧客ニーズ対応といっても,分相応ということがある。ライバルの動きを見据え,強者は強者な
りに,弱者は自社の身の丈を知り,自社の持つ強み(Strengths)や魅力(Core Competence) を生かして
の戦略形成 Create Strategy)とその実行が求められる。すなわち「強者には強者の,弱者には弱者の,
― 14 ―
エリアマーケティングの実務
分-身の丈-を踏まえての売れるしくみ」の追求にある。これは企業の身の丈に合ったマーケティング戦
略(Marketing Strategy)にほかならない。
1-2 縮小の時代にあって客層拡大を実現する
市場縮小に時代にあっても,経営の持続的な維持・発展には,顧客の拡大が必要不可欠である。そこで,
既存顧客の囲い込みとともに,新規顧客層の呼び込みによる顧客層の拡大が,顧客拡大の両輪の輪となる。
①顧客(市場)ニーズへの対応-顧客の囲い込み
マーケティングの基本的役割は,「顧客(市場)ニーズ」を把握し,それに対応した「商品(製品)」や
「サービス」の提供にある。メーカーならば「顧客の望んでいること」や「困っていること」,すなわち顧
客の要望,問題を把握し,その解決に向けて,競争相手の動きも見据えながら,商品(製品)を開発,製
造し市場に送り出していくことである。
こうした顧客ニーズ対応に向けての取り組みが,顧客の囲い込み,固定客化に有効である。
②市場創造―明日の顧客をつくる
いま,マーケティングに期待される機能に市場(顧客)創造がある。新製品を成功させたいと真剣に願っ
たところで,その売上げが保証されているものではない。市場(顧客)は,売り手の意のままにならぬ存
在ではあるが,それに甘んじてはいられない。ある程度,作り手が市場をコントロールできなければ,生
産や開発に向けての投資の回収もおぼつかないからである。
そこで,マーケティングの重要な機能として,市場創造がクローズアップされる。従来の「顧客ありき」
のマーケティング活動と併せて,「まず,商品ありき」で商品(製品)やサービスが売れる(求められる)
市場を,切り開いていくという市場創造による新たな客層の取り込みが必要なのである。
既存顧客の囲い
新規顧客の取り込み
込み―ニーズ対応
―ニーズ創造
顧客層の拡大
1-3 市場細分化(マーケットセグメンテーション)で市場を分類する
「人口減少時代」,少子高齢化の進展で,日本列島総縮小の様相にある。だが,悲観することはない。「過
去の成功体験や既存概念」,「思い込み」や「決めつけ」に陥ることなくゼロベース思考の新たな発想で市
場を見ると,新たなビジネス機会が浮かび上がってくるものだ。
世界第1位の米国小売業ウォルマートの創業者サム・ウォルトンは,『企業が大きくなればなるほど,
偉大なことを成し遂げようとすればするほど,小さな単位で考えて判断し,即座に改善行動をとることが
カギだ』との教訓を残した。市場を「小さく,狭く」見て,その細やかな変化に目を凝らし,市場特性に
対応したマーケティングの展開は,サム・ウォルトンが実践した「小さく考える」にも通じる策である。
市場を小さく区切る手段・方法が市場細分化(マーケットセグメンテーション)である。市場細分化で
― 15 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
は,共通のニーズやウォンツを持つグループ(セグメントメント)に市場を分類する。市場を細分化する
切り口としては,国や地域,行政の規模などの「地理的変数(ジオグラフィックス)」,性別や年齢,職業
や所得といった「人口動態変数(デモグラフィックス」)がよく使われる。ほかには趣味や趣向,生活価
値観やライフスタイルといった「心理的変数(サイコグラフィックス)」がある。
地域を軸とした市場細分化がエリアマーケティングである。地理的区分にはじまり,顧客を年齢や性別
など段階別に分類し,区切って見ることで,集団ごとの同質のニーズが明らかとなる。こうして明らかと
なった地域市場の実態にそくしたマーケティングの展開は,必然的に顧客との取引関係を深め,顧客ロイ
ヤリティ(固定客化)の向上を実現する。
○エリアマーケティング――消費財メーカー,小売業の市場細分化の手順
地域(地理)をキーとして細分化
・行政区分(県,市町村)
・交流(生活圏,商圏)
人口属性をキーに細分化
・性別
・既婚,未婚
・年齢別
・世帯人数,家族構成,ライフサイクル
社会,経済的属性をキーに細分化
・収入,職業,学歴など
ライフスタイルによる細分化
・感性,価値観
・行動様式
・生き方,信条
・生活様式
購買行動,生活場面,使用場面
などによる細分化
1-4 地域性への対応
一口に日本といっても地勢や気候といった自然条件のみならず,気質や風俗にも「土地柄」といわれる
独自性・異質性が見られる。地域性(地域特性)とは,地域特有の自然環境や,長い歴史に育まれその土
地ならではの特有の価値観や社会構造,経済構造を指す。
地域性は,南北に細長く四季に富む島国という日本の地勢,さらには遠く律令制にさかのぼる地方行政
区分によって育まれてきた。日本各地には,特有の自然条件や律令の時代から明治維新までつづいた藩制,
旧国のもとで育まれた文化があり,その土地ならではの生活や社会がいまも続いている。
― 16 ―
エリアマーケティングの実務
「食」を例にとれば,関西のうどんつゆは昆布だしで薄口の塩味,関東では,鰹だしで濃い目のしょう
ゆ味といったように著しい違いがみられる。
「土地柄」を示す事例としては,長野県は長野,上田,佐久,松本,伊那と六つの盆地それぞれが個別
に生活・文化・経済圏を形成している。幕末に松本,諏訪,上田,など11藩があり,異質な地域社会が構
成されていたものを,廃藩置県で一つの県にまとめたという経緯から,「長野県は信州合衆国だ」と言い
切る県民もいるほどである。
青森県は,江戸時代には野辺地あたりを境界にして東は南部,西は津軽と二つの藩から成り立っていた。
その伝統はいまに続き津軽弁を使い稲作文化の津軽地方,畑作文化の南部地方と県内でも価値観や生活習
慣を異にしている。
静岡県は「伊豆」・「駿河」・「遠江」の三つの地域が明治の廃藩置県でひとつの県にまとまったという経
緯がある。この三つの地域に住む人の気質を表す言葉として,「伊豆餓死,駿河ものごい,遠州泥棒」と
のたとえがある。このたとえは,
「もしも食べるものがなかったら,どうするか?」というと,伊豆の人は,
いつも食べ物に困っていないので,いざという時は何もせず餓死する,すなわち「諦めが早い性格」。駿
河の人は「おっとり」としていて働くよりも物乞いをして暮らす。そして遠州の人は,泥棒してでも生活
する「ガッツ溢れる性格」というわけである。
兵庫県は神戸を中心とした東部の摂津,姫路を中心とした西部の播磨,内陸部の丹波,日本海側の但馬,
淡路で,それぞれの土地柄が異なる。
同様な事例は,山形県の山形市 vs 酒田市,広島県の広島市 vs 福山市など全国各地に見られる。
地域性(地域特性)を構成する歴史・地勢・風土
地域の特徴 歴史の歩み 領地・藩制度
地域の宗教
祭事・催事などの伝統行事
地勢 山・川,海峡による分断
平野・盆地,山岳地帯,島
地質 火山灰土壌 畑作
沖積土壌 稲作
気候 温暖,寒冷
降水量
地域特有の価値観や社会構造,経済構造を生む主な要因としては,歴史,地勢,気候などを核として,
地場産業などの産業構造,人口,年齢構成や世帯構成,所得水準,持ち家比率,といった要因が影響を及
ぼしている。
①人口
特に消費財は,人口,世帯数,さらに年齢別構成,職業別人口などの地域間格差が売上に大きな影響を
およぼす。小売業では,昼夜間人口比率(昼間人口 ÷ 夜間人口 ×100,昼間流入人口,自然増減(出生
者数と死亡者数の差)と社会増減(転入者数と転出者数の差),若年人口・高齢人口などが,地域特性を
分析するに当たり無視できない要因である。
― 17 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
◆図表 横浜市-各区の人口ピラミッドにみる地域性(地域差)
グラフの出典:横浜市 HP http://www.city.yokohama.lg.jp/
横浜市を例として行政区別に年齢3区分別割合をみると,65歳以上の老年人口は南区が19.4%と市内で
最も高く,以下,中区(18.9%),西区(18.7%),磯子区(18.0%)と続く。各区で老年人口の割合は拡
大しているが,西区では65歳未満の人口流入が大きかったため,高齢化が進む中,唯一,老年人口の割合
が縮小している。平均年齢は,最も高い区が中区で43.80歳,ちなみに最も低い区が都築区で36.21歳であ
る。
②産業構造
産業構造は,地域に立地する産業別の構成比,製造品別出荷額の構成比で読み取れる。また,産業構造
の特性は,時系列の変動や地域間,あるいは全国平均との差異から一定の傾向が見い出せる。
首都圏を例にとると,東京は第三次産業構成比が86.1%と全国で最も高い。その一方で茨城,栃木,群
馬は第二次産業構成比が30%台後半と全国平均の25.7%より大幅に高い反面,第三次産業は60%前後と全
国平均の73.1%をかなり下回っている。また,山梨もこれら3県と同様の傾向を示し,埼玉,神奈川,千
葉は第二次,第三次産業とも全国平均並みである。これは,東京が大手企業の本社機能を始めとする中枢
管理機能を担うのに対して,東京に隣接し交通の便も良く,地価も比較的低い北関東三県や山梨には製造
機能が集積しているという地域特性を示すものである。
また,都道府県別に県内総生産の産業別構成比によると,第一次産業の比率が高いのが北海道や東北,
九州等の道県である。一方,第二次産業のシェアが高い県は北関東や東海に集中している。これに対し,
第三次産業のシェアが高い都道府県は全国に点在するが,東京,大阪のような大都市圏の中心や,宮城,
福岡のような地方中核都市圏を有する県のほか,第二次産業のシェアの低い県で相対的に高くなっている
― 18 ―
エリアマーケティングの実務
傾向が見られる。
1-5 地域差
情報化の進展から地域差は薄れつつあるといわれている。だが,生活行動面では依然として地域差が存
在し,そこから派生する市場構造の特徴と変化は,マーケティングを進めるおえで要因となっている。こ
うした消費行動面での地域差を,内閣府「小売店舗等に関する世論調査」と『2010年版九州経済白書』を
引用して例示する。
①買物場所の地域差
「小売店舗等に関する世論調査」(2005年・内閣府実施)によると,生鮮食品など最寄品を主に買う店は
都市規模,地域ブロックで顕著な地域差がみられる。
都市規模別では,東京都区部や政令市では,人口密度が高いため近くに大型店がある場合が多く,家か
ら遠い大型店での買物は1割程度と少ない。また駅周辺の商店街も残っている場合が多く,商店街・中小
8.4
10.1
総数
49.0
︹都市規模︺
東京都区部 3.5 7.1
55.3
政令指定都市 4.4 5.2
6.5
54.2
6.8
北海道
︹地域ブロック︺
13.5
北陸
東海
6.5
近畿
7.0
32.3
3.7
10.6
5.5
8.2
九州
0
50.6
1.2
46.3
8.3
20.1
24.0
22.2
38.7
9.1
40
60
1.8
5.7
0.7
1.7
2.0
2.4
1.7
3.0 0.9
1.9
1.7
2.3
4.0 0.8
3.1
1.0
6.2 3.7
25.9
21.9
4.4
44.1
20
3.8
4.8
7.4
5.3
20.2
4.1
63.7
20.6
4.6
6.3
57.4
中国 4.0 7.3
四国
25.2
53.5
2.7
2.7 3.3
26.3
34.1
19.8
12.3
東山
8.4
9.7
14.5
7.8
10.2
関東
17.7
4.3
47.6
22.5
22.0
5.0
26.0
8.7
東北
27.1
50.5
15.9
17.4
町村
5.2
9.1
14.5
小都市
23.4
4.3
54.2
8.4
中都市
22.7
5.4
14.5
19.1
33.7
80
家から離れている郊外大型店
家から離れている中心部の大型店
家に近い大型店
家から離れている商店街・中小小売店
家に近い商店街・中小小売店
その他
0.9 1.4
2.0
2.4
3.2
2.9
2.1
2.0
1.5
2.9
100 %
わからない
日常の買物場所の地域差(2005年)
(注)回答者の属する世帯で生鮮食品など最寄り品を主に買う店についての回答結果。都市規模,地域ブロックの定義は,中都市(人
口10万以上の市),小都市(人口10万未満の市),北陸(新潟県,富山県,石川県,福井県),東山(山梨県,長野県,岐阜県),
東海(静岡県,愛知県,三重県),沖縄は九州に含まれる。
(資料)内閣府「小売店舗等に関する世論調査」平成17年5月調査
出典:内閣府HP http://www8.cao.go.jp/survey/h17/h17-kouri/index.html
― 19 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
店舗での買物も全国平均より多い。
人口密度が薄い都市,町村では,家から遠い郊外型大型店での買物が多くなる。特に町村では「家から
近い大型店」での買物は26.0%と約4分の1に止まる。中小都市と町村の買い物行動の差は,中小都市は
商店街・中小店舗での買い物が少ないのに対し,町村では商店街・中小商店での買物が政令市並みに多い
点である。これは町村では,クルマを使った買物と高齢世帯の身近な商業施設での買物と,行動パターン
が二極化しているためであろう。
地域ブロック別では,サンプル数が約2105と少ないので,断定はできないが,東北地方や北陸地方では
「家から遠い大型店」での買物が多く,中国地方で「家から近い大型店」での買物が多い,九州地方で「商
店街・中小小売店」での買物が多いことが読み取れる。
②九州・山口に見る消費行動面の地域差
『2010年版九州経済白書』(九州経済調査会刊)の「九州・山口における市場構造の特徴と変化」(7~
8ページ)は,消費行動面での「お金の使い途」に関する九州の地域差を論理的に分析している。
図表「品目別購入支出額全国比のばらつき」では,この差が大きいほど全国と九州の差がある品目とみ
ることができる。「お金の使い途」の地域差について,もっとも値の高い品目は酒類であり,次いで住宅,
運輸となっている。住宅は持家や借家等,住宅の所有関係により支出額が大きく異なることから,地域差
が大きい。また運輸も自動車保有率等によりガソリン代などに大きな差が生じるため,地域差が大きい。
次いで地域差が大きいのは生鮮や加工食品といった食料品関係となっている。逆に家事用雑貨より右にあ
図表 「品目別購入支出額全国比のばらつき」
出典:
『2010年版九州経済白書』第1章 片山礼二郎氏執筆(九州経済調査会刊)
― 20 ―
エリアマーケティングの実務
る菓子,身の回り品,飲料といった商品には,あまり地域性がみられない。つまり,売れるもの売れない
ものに地域によって大きな差はないという性質の商品と言えよう。
1-6 地域格差の拡大
エリアマーケティングの展開にあたり,地域格差の拡大も見過ごせない重要な要因である。今後の人口
減少,少子化の進展のもとで地域経済の今後を展望した「人口減少下における地域経営について――2030
年の地域経済のシミュレーション」(05年に経済産業省の地域経済研究会)によると,2000年と比べて経
済規模(域内総生産)が拡大するのは,東京都特別区(10.7%増),大阪市(同10.3%増),名古屋市(9.9%
増)などの大都市圏,仙台市(4.3%増)神戸市(6.1%増)や福岡市(4.7%増)などの政令指定都市など
わずか35地域にすぎない。
地方都市で人口増が見込めるのは,出生率が高く観光客の増加が見込まれる沖縄県の那覇市(17.9%
増),石垣市(11.9%増)など極僅かである。ちなみに,鹿児島市は(8.1%減),枕崎市にいたっては(35.1%
減)と予測している。
また,地域経済を表す代表的な指標の一つである「県民経済計算」によると,1位の東京と地方各県と
の県民所得格差は大きいものがある。1位の東京都が482万円に対して,最下位の沖縄県は208万9千円で
その差は222万5千円である。なお,鹿児島県と東京都の差は,202万8千円,その差は年々広がっている。
表1 域内総生産と人口の推移
域内総生産
2030年
2000年
東京特別区
福岡市
鹿児島市
川内市
鹿屋市
枕崎市
名瀬市
国分市
1,596,450
92,325
25,235
4,342
3,740
791
1,692
4,082
変化率
1,767,368
96,649
+10.7
+4.7
23,191
3,912
3,427
542
1,424
4,126
-8.1
-9.9
-8.4
-31.5
-15.9
+1.1
2000年
116,694
23,360
21,014
2,873
2,782
550
1,515
2,034
人 口
2030年
128,547
21,130
19,076
2,575
2,480
397
1,229
2,044
変化率
+10.2
-0.9
-9.2
-10.4
-10.8
-27.7
-18.8
+0.5
単位:総生産 億円 人口 百人
表2 東京都と九州7県・沖縄県の1人あたりの県民所得の差
調査時点
東京
福岡
佐賀
長崎
熊本
大分
宮崎
鹿児島
沖縄
2000年度
4,365
2,660
2,580
2,345
2,646
2,765
2,440
2,325
2001年度
2002年度
4,219
2,529
2,453
2,336
2,522
2,637
2,440
2,285
4,080
2,605
2,448
2,256
2,444
2,585
2,445
2,246
2,271
2006年度
4,820
2,665
2,475
2,159
2,398
2,594
2,150
2,283
2,089
2006年度
東京都の差
―
-2,155
-2,345
-2,661
-2,422
-2,226
-2,670
-2,537
-2,731
単位 : 千円
また,勤労者の賃金面での地域間格差は,所定内給与,年間賞与ともに広がりつつある。
― 21 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
表3 都道府県別平均賃金水準(2007年:事業所規模5人以上,男女計)
43位
44位
45位
46位
47位
下位5県
長崎県
青森県
岩手県
秋田県
沖縄県
平均所定内給与
211,012
210,133
209,284
208,975
203,154
1位東京との格差
104,557
105,536
106,385
106,694
112,515
出典:厚生労働省 単位 : 円
地域性(地域特性)を示す要因一覧
1 土地・気候
1-1 歴史の歩み:律令・領地・藩,旧国名,地域の宗教
1-2 地勢:山・川・海峡などの地域分断要素,平野・盆地などの生活圏
1-3 地質:火山灰土壌(畑作)・沖積土壌(稲作)
1-4 気候:温暖・寒冷,降水量・積雪量,風(筑波おろし,上州の空っ風,・・・)
1-5 祭事・催事などの伝統行事
1-6 食文化:地域料理・嗜好
2 人口構造
2-1 人口:住民基本台帳人口や国勢調査人口の推移,出生数,出生率,社会増加率
2-2 人口構成,世帯構成:性・年齢別人口構成(人口構成・ピラミッドグラフ)
2-3 昼間人口・夜間人口
2-4 世帯構造の変化 3 経済構造,富裕度
3-1 経済成長:実質経済成長率,鉱工業生産指数
3-2 県内総生産・所得
3-3 産業構造:1次・2次・3次産業比率,
3-4 農業:主要農産物,生産量,農家数の推移
3-5 主要製造品,主要業種
3-6 地域別製造業立地
3-7 住宅事情:持ち家比率,住宅居住面積
4 流通構造(都市の商業力)
4-1 都市の商業力:小売販売額,商業力指数,商業人口,大型店総店舗面積,衣料品,食料品,飲食,
贈答品などの吸引力
4-2 大型店出店状況:ショッピングセンター,総合スーパー,地域スーパー,その他チェーンストア,
専門店,商店街
4-3 小売:商店数,売場面積,小売販売額
4-4 卸:商店数,卸売販売額
5 地域開発・交通
5-1 鉄道:新線,延長,新駅
5-2 道路:高速道路,優良道路,一般道,農免道
5-3 工業団地:
― 22 ―
エリアマーケティングの実務
5-4 学校:小・中・高・大学,専門
5-5 住宅:住宅着工件数の推移,住宅開発
5-6 自動車:自動車保有台数(乗用車・軽自動車)
6 健康
7 社会教育・文化・スポーツ
2-1 エリア範囲(戦略事業単位:SBU)
エリアマーケティング戦略策定に当たり,対象とするエリアの範囲(戦略事業単位・SBU:Strategic
Bussiness Unit)は,メーカーと小売業で,あるいは全国を総括する本社のマーケティング部,支店・営
業所といった営業拠点といった会社内での位置づけによっても異なる。
①小売業のエリアは商圏を指す
小売業の商圏とは,「小売店舗,ショッピングセンターなど商業集積の顧客吸引力が及ぶ範囲」である。
商圏範囲は,競合の状況や店舗規模,道路事情など複数要因が重なり合って形成される。
商圏とは,「小売店舗,あるいは商店街,ショッピングセンターなどの商業施設の顧客吸引力が及ぶ範
囲」であり,「地域に住む消費者が買い物のために来店する店から何キロ以内といった地理面,あるいは
来店所要時間20分以内といった時間軸からの範囲」である。多くの場合,来店客の7~8割以上が居住ま
たは通勤しているエリアを第1次商圏とする。
商圏の広がりは,そこに住む人々の生活行動を基本に,店の業態や売り場面積,駐車場規模あるいは周
辺の道路事情や競合店の状況といった諸要因が複雑に絡み合って形成される。
たとえば,食品スーパーの場合,通常は店舗を中心に数キロ,あるいは店への来店時間十数分以内の商
圏と呼ばれる店への来店範囲,コンビニエンスストアでは,店舗を中心とした500m 圏を指す。
ショッピングセンターや総合スーパーなど売場面積が10,000m2を超える大規模店舗の休日商圏は,休日
は,平日の数倍に広がる。この点は,エリア戦略を練るうえで留意を要する。
商圏範囲の測定と設定方法は,①来店客調査,消費者調査といったアンケート調査法による,②住宅地
図や1万分の1といった詳細な地図上での推定,③徒歩,車で10分以内の範囲の実測による推定,④ハフ
モデルや商業力指数といった統計モデルによる推定などの手法による。
②メーカーのエリア
日本全国に営業網を張りめぐらし営業活動を展開するメーカーでは,多くの場合北海道,東北,甲信越,
北陸,近畿,中国,九州,沖縄といった地方と呼ばれる基準で細分化している。支社・支店・営業所といっ
た営業拠点では,「テリトリー」とも呼ばれる拠点別の担当範囲でエリア区分を設定している。
2-2 広域・生活圏単位でのエリア区分
県,あるいは郡といった行政区分にとらわれずに,県庁所在地や中核都市を中心に県境や郡境を越えて
関係市町村をまたいだエリア範囲の設定が,広域・生活圏単位でのエリア区分である。
鉄道網が全国に張りめぐらされ,道路網が整備された今日,東京銀座,福岡市天神で見られるように,
広く県境を越えて人々の移動が盛んに行われている。このような場合,県市町村といった行政ブロック単
位のエリア区分は,実態に合わない。
そこで,複数の行政区城にまたがる広域流通経済圏,広域生活圏,あるいは人口の集中度合いで大都市
圏,中郡市圏といった単位でエリアをとらえる考え方が広域・生活圏である。
最近の事例としては,中国山地の奥深く,鳥取,島根,岡山,広島の4つの県境をまたぎ,隣り合う16
市町村が,「エメラルド・シティ」と呼ぶ行政の枠組みにとらわれないつながりを築き,居住環境整備,
― 23 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
都市機能を分担し合う「圏域づくり」をめざしている。また,中核都市を目指し,「広域連合」による市
町村合併の気運も全国的に高まっている。
2-3 行政区分によるエリア細分化
都道府県,市町村,丁町といった行政区分によるエリア細分化区分は分かりやすく,人口や世帯数など
の統計データも集めやすいことから,広く採用されている。
行政区分は地番からはじまり階層型をとる。行政区分は実務面からも適用しやすい区分である。学校区,
税務署管轄地域,陸運事務所管轄地域などと区分方法は多種多彩である。
①国勢統計区
日本の国勢統計区は,市町村別区分よりもさらに小さい地域区分となっている。これは,都市内部のき
めこまかなデータを総合的に示すことをねらいとしている。
③地域メッシュ
メッシュ(mesh)とは,ふるいの目,網の目などという意味である。地域メッシュとは,対象となる
地域を方形の小地域に細分して設けられた統計地域である。通産省が商業統計として公表している地域
メッシュは,経度と緯度(1km メッシュは緯度30秒,経度50秒)の大きさで区分し,日本列島全体を38
万6千4百個の1キロメートルメッシで覆うことができる。
3 エリアマーケティング戦略-地域性対応の3つの視点
メーカー,小売業に共通する地域性対応の目的は,地域性に適合した「売れるしくみ」により,顧客の
支持を得て,ブランド(店名)の認知度を高め,来店度合を高めることにある。
①営業活動の個別化
地域の独自性,異質性を見極め,「郷には入れば郷に従え」で地域別あるいは店舗別に「売れるしくみ」
を創り上げ,営業活動の個別化により,売上高や市場シェアの向上を図る。
②営業活動の標準化
エリア間の差異に着目した個別化とは正反対に,地域間の同質性に着目し,全支店・全店舗に共通する
標準的なマーケティング・ミックスを組み立て,営業活動の標準化による経営規模の拡大,ローコスト運
営による利益追求を目指す。この考え方は,シェア1位の業界リーダー企業や地域限定のドミナント展開,
あるいは全国展開を図るチェーンストアでとられてきた。
④営業活動の集中化
ライバルとの市場シェアの比較,自社・自店の営業力や物流体制などに照らして重点エリアを設定し,
そこに精力を集中し,効果的な営業活動の展開により,シェアと利益の向上を図る。この考え方は,トッ
プを目指す2~3位企業や新規参入を図る場合に有効である。
― 24 ―
エリアマーケティングの実務
図表 地域を貴塾とした地域細分化の例
4 エリアマーケティングの導入事例
地域性対応のマーケティングの考え方を取り入れ,成果を挙げている企業の事例を紹介する。
①伊藤園の小選挙区並の営業拠点配置
飲料メーカーの伊藤園は全国の茶葉の2割を使っており,優良産地を押さえている。茶葉に対する高い
ブレンドや抽出の技術も持っている。
――営業力の強さにも定評がある
同社の営業力の強さは,定評あるところである。現在は北海道に8支店,1営業所など全国約2百箇所
に営業拠点を持ち,3000人の正社員の営業担当者がいて,地域を担当している。また,市町村単位での細
かいシェアも把握しており,徹底した地域対応のマーケティングを展開している。
現在は平均して人口60万人に一つの割合で支店を置いている。拠点は細胞分裂のように現在も増えてお
り,7~8年後には40万人に1つとする計画。これにより,衆議院選挙の小選挙区と同じく全国3百拠点
となり,よりきめ細かなマーケティングが可能となる。
②イトーヨーカ堂の店舗戦略―地域別,個店別対応を徹底
鈴木敏文セブン&アイ HD 会長は,「商品のライフサイクルは,放物線を描く長いものから,あっとい
う間にピークが来てストンと落ちる茶筒型へ。今はそれがペンシル型へとさらに短くなった」と指摘する。
ユニクロの新製品の相次ぐ投入と話題づくりは,このペンシル型消費をつかむ手法と論破している。
そして待ちの販売でなく,何が売れるか,ピークはいつか予測を立て,ものづくりや品揃えに生かすこ
とが必要と説いている。そのために必要なのが,従業員一人ひとりができるだけ長くお客に接触してニー
ズを聞き,それを仕入れて売ることとし,地域別,個店別に品揃えを大きく変える地域性対応の徹底を指
示している。
③ヤオコー(東証1部上場)「豊かで楽しい食生活提案型のスーパーマーケット作り」
首都圏(1都6県)に出店する食品スーパーのヤオコー(売上高1978億円,2010年)は,10年3月期に
18期連続の連結増益,単体では21期連続の増収増益を達成した。同社は,画一的店舗運営ではなく「個店
経営」という方法を進めている。同社では,首都圏では自分のライフスタイルに合った食事,生活シーン
― 25 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
作りは人によって千差万別であり,食生活についても微妙に違う。その違いは,直接お客様と接している
店の従業員でないと判別できないとし,できるだけ店に主体制を持たせ,各店のお客様のことを考えた商
売をしていこうというのが個店経営の考え方である。
④コメリ(東証1部上場)― 業種や地域に適した品揃えの標準化
ホームセンターで店舗数(2010年7月現在1000店舗)と,全国一位のコメリ(売上高2854億円,2010年)
が品揃えについて注力しているのが標準化である。「店舗が多ければいいということではない。標準化さ
れた店舗がなければ,店舗が多くても何のパワーにもならない」,とし,地域性対応の店舗づくりに取り
組んでいる。
地方独特の商品への対応も怠ってはならず,地域商材の品揃えも行う。「コメリに行けば,いつもある」
という認知によって地域密着を高めていきたい,としている。
◆ローコストの徹底で商圏人口1万人でも出店可能
コメリの出店戦略は,10万人の商圏人口に2800坪を標準とする POWER,商圏人口1万2000~1万3000
人,商圏5キロメートル基準とするハード&グリーン(HG),その中間を埋めるのがホームセンター(HC)
とし,これを「船団方式」と呼称する出店戦略をとっている。また,ローコスト経営の徹底による標準化
を図っているが,これも多店化を可能としている要因である。
5 事例 ホームセンターのエリアマーケティング
◆業態の成熟期を迎え,淘汰の時代に突入
ホームセンターは,生活雑貨,日用品,DIY 用品などノンフーズと呼ばれる分野を網羅した品揃えが,
消費者に受け入れられた。日常生活から発生する生活需要のほとんどに対応できるというノンフーズのワ
ンストップショッピング性の,市場規模は約3兆4億円である。
1970年代前半の,「週休2日の余暇時代の到来。職人の減少と手間賃のアップ,衣食につぐ住生活の向
上」といった時代ニーズに対応し,DIY(DO it yourself)という概念が米国から入ってきた。こうした
時流に乗って70~80年代,ホームセンターが続々誕生した。
発展を遂げた要因は,①店舗は地価の安い郊外へ集中し,車で
総合ディスカウントストアを
指向 業
態
変
化
の
方
向
の買い物に便利な店として,車社会の到来に対応した,②総合
スーパーが回転率が低いとし効率面から切り捨てた金物,日用雑
貨,住関連品を幅広く品揃えしたすきま商法,③ローコスト経営
に取り組み,低価格政策を実践してきた点にある。
園芸と金物、インテリア、
ペット関連などの専門店化
近年,ディスカウントストア,ドラッグストアといった新業態
の台頭,さらにスーパーの巻き返しにあって業績格差が生じ,勝
ち組と負け組が明確となっている。
いま,勝ち組企業同士の競争,負け組淘汰の時代に突入したと
DIY用品、文具・事務用品
を中心とした都会型 も,いわれている。
●勝ち組企業の特徴
消費低迷時にあっても,安定した業績をあげているホームセンターの共通点は,自社の得意とする分野
を持ち,それをライバルとの差別化の武器にしている点である。差別化は,次の3つに集約される。
①は価格戦略である。徹底した価格調査に基づき,家庭用品,日用品については,エブリディ・ロープ
ライス(毎日が他社より必ず安い価格で販売する)という低価格戦略で差別化を図っている。②は,DIY
― 26 ―
エリアマーケティングの実務
用品を中心に園芸,家庭用品などの HI(ホームインプルーブメント)に絞り込み,専門化を志向する戦
略である。プロショップ並の深い品揃えは,一般の消費者のみならず,農家,建築業者からの業務用需要
も取り込んでいる。
③は,“住まいと暮らしの総合センター”を目指し,日用品・雑貨・住関連用品に関しては,顧客の要
望に丹念に応え,店別の深い品揃えと,それに加えて,文具や業務用資材を取り扱うといった大型化戦略
である。これがあの店に行けば必ず欲しい物があるという評判を生み,広域から集客している。
以上のような,市場環境を踏まえて,
「ホームセンターのエリアマーケティン」を,事例分析する。なお,
ここでの事例は,筆者(小林隆一)が手がけた実際例をもとに,それを事例(モデル)化したものである。
モデル事例・ホームセンターデイスリー笹部店のプロファイル
ホームセンター(HC)のデイスリーは,売上高1600億円,経常利益85億円,18都県に140店舗の大手
チェーンである。同社の注目される点は,消費低迷を生き抜くローコスト経営にある。徹底した価格調査
に基づき,常に他社より必ず安い価格で商品を販売する低価格戦略をとっている。
この薄利多売路線を支えるのがローコスト経営にある。その仕組みは,①パートの戦力化による人件費
低減,②地域集中(ドミナント)出店,店舗の標準化による店舗経費の圧縮,③に現金決済や問屋中抜き
のメーカーとの直取引による仕入交渉を有利に進めるといった,点にある。
同社は,単なる安売り店ではない。接客にも力を注ぎ,専門知識をもつ社員を各売場に配置し,お客か
らの相談に対応している。
Ⅰ 事業概況
■店舗概要
ホームセンター・デイスリー笹部店(売場面積4,950m2・1998年開店)は,農業資材,DIY 用品に関し
ては,プロショップと同等の品揃えを前面に掲げた店である。
商圏人口は約40,000人(世帯数約9,600世帯)と中規模である。同店から10km 圏内では,競合店6店が
出店している。
そんな中で,同店の安さと品揃えの充実が人気を呼んで,ここ数ヶ月間の来店客数は増加しているが,
客単価が伸びないことから,売上高の伸びは客数増に比例していない。店の業績向上には,客単価の向上
が必要である。そこで,笹部店が農業地域に立地するという地域特性を踏まえ,大規模農家の取り込みに
的を絞って,エリアマーケティングに取り組んでいる。
■商圏概況
●店舗立地市町村の概要
人口総数
世帯総数
生産年齢人口(15歳~64歳)
商店数
年間商品販売額
60,187人(男29,541 女30,646)
21,226世帯/1世帯あたり2.8人
37,854人(63.3%)
1,016店(卸売業171店 小売業845店)
10,664,305万円
― 27 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
●農家統計
農家数(販売農家)
農業就業人口(販売農家)
林家数
731戸(うち専業農家139戸)
1,241人
512戸(うち非農家林家276戸)
Ⅱ エリアマーケティング戦略策定の着眼点
①顧客の絞り込み
ここでは,農業地域に立地するという地域特性を踏まえ,大規模農家の取り込みに的を絞っての,エリ
アマーケティング戦略事例を取り上げている。
なお,3年サイクルで農林省が行われている「世界農林業センサス調査」データーにより市町村別に農
業集落の分布,各集落別の総農家数,販売農家数を把握できる。
②選択と集中によるドメインの再定義
ターゲットとする重点顧客,重点エリアの絞り込みが行われている。このように販路を絞り込んだ場合
は,①商品拡充し専門特化する,あるいは②取り扱い分野を広げる,の2つの方策が考えられる。
ここでは,販路を絞り込んだ場合の事業ドメインの再定義を取り上げている。
― 28 ―
エリアマーケティングの実務
問題点
改善・改革のポイント
客
数
の
減
少
既存顧客の来店頻度向上
客
単
価
の
低
下
買い上げ点数の増加
顧客ロイヤ リテ ィ向上
来店動機の増加
商圏拡大 新規顧客の獲得
競合店対策
機会ロスの 低減
衝動買いを促す
一品単価の向上
品揃えの見直し
ボリュ ーム の増大
在
庫
日
数
増
加
売れ筋商品導入・拡大
品揃えの見直し
季節需要に対応
地域ニーズに対応
営業数値から見た業績向上のチェックポイント
6 デイスリー笹部店 エリアマーケティング実施企画書
1 なぜ,エリアマーケティングに取り組むのか
当店の来店客数は増加しているが,客単価が伸び悩んでいる。この理由は,店内購買(衝動買い,まと
め買い,関連購買)が少ない点にある。その原因としては,陳列,品揃えなどにも問題があると考えられ
る。この解決策の一環として,重点顧客とする農家のニーズと競合店舗の販売戦略の実態を探り対応策を
検討する。
2 企画の概要
当社と同様に品揃えの充実と資材館を併設するホームセンター・ジョイトップ,JA 直営の農業資材店
グリーンセンターを中心に,10km 圏内の競合店6店舗を対象としてストアコンパリゾン(競合店分析)
を行う。
①目的
客単価向上策検討の一環としてのデータ収集
②調査仮説
当店の客単価が上がらないのは,陳列方法,関連陳列などに問題があるのではないか。客単価が上がら
ない理由は,次に示す“×”項目にあると思われる。
○ 接客は競合店以上の水準にあり,顧客満足を得ている。
○ 価格は割安感を訴求し,認知されている
○ 欠品は防止されている
○ POP 広告は,有効に機能している。
× 売り場配置の稚拙から買いものしにくい売場となっている
― 29 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
× 関連販売や衝動買いを喚起する売り場演出や陳列技術ができていない
× チラシ広告が来店客増や売上増に結びついていない
× チラシ掲載に合わせた陳列,POP 広告などとの組み合わせに欠ける
③ 対象店舗,対象売場
ホームセンタージョイトップを中心に,10km 圏内の競合店6店舗を対象とする。特に農業資材および
家庭雑貨や PB 商品に関する品ぞろえや関連陳列の実態を綿密に観察する。
④調査方法と調査内容
各店舗に出向いての実地観察を基本とする。なお,折り込み広告会社の来店客調査で当店の価格の安さ
は,顧客に十分認知されていることが立証されているので,今回は品揃え,陳列方法,売場構成,従業員
の接客面に重点を置いて調査を行う。
⑤実施要領
平日,休日の両日の見学,他店舗については各店のチラシ配布当日に見学する
⑥実施時期
z月zz日 ~ z月zz日
3 関連資料
事前に次の資料を収集する。
種類・項目
AAA店商圏調査データ
競合店店舗概要
〃
〃
〃
〃
商圏データ
お取引先からの情報収集
データ,資料名称
折り込み広告会社調査報告書類
スーパー名鑑,ホームセンター名鑑
営業状況
上場企業については有価証券報告書
販売革新,激流,商業界の記事
インターネットWWWより
AA県商圏調査報告書
AA市買い物調査報告書
担当営業マンとの懇談から
参考:インターネットでのチェーンストア関係の情報源
マーケティング&マニュアル・ 小売業,統計データのリンク集。ストアコンパリゾン講座。
ゼミ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~kobayasi/
日本のみならず米国の小売業情報を掲載。
小売業研究のページ
http://urban.ne.jp/home/take/
会員企業のHPへのリンク集
日本小売業協会
http://www.japan-retail.or.jp/
企業リンク集サーチエンジン
東証1,2部上場企業のHPへのリンク集
http://www.net-b.co.jp/jbox/A1/navi.html
総務庁の検索エンジン。統計情報の所在を知ることができる。
行政情報の総合案内
http://www.clearing.somucho.go.jp/
― 30 ―
エリアマーケティングの実務
4 商圏マップ
●⑥JAグリーンセンター
●⑤ホームデポ
●④ケイヒン
●
①リンク
●②ジョイトップ
自店舗
● ③ラッキー
競合店一覧表(エリアの競合店舗概要)
1
2
3
4
5
6
リンク××店
ジョイトップ笹岡
ラッキー××店
ケイヒンAAA店
ホームデポ笹岡店
JAグリーンセンター
出店年月
94.3 92.10
85.4 87.6 93.2 79.8 売場面積(m2) 年商(億円)
3,960
20
4,015
23
1,020
12
2,500
15
1,684
14
505
9
駐車台数
450
550
210
250
160
40
距離(km)
5
8
6
4
10
11
5 関連資料
事前に次の資料を収集する。
種類・項目
商圏調査データ
競合店店舗概要
〃
〃
〃
〃
商圏データ
〃 取引先からの情報収集
データ,資料名称
広告代理店調査報告書類
スーパー名鑑,ホームセンター名鑑
営業状況
上場企業については有価証券報告書
雑誌 販売革新,激流,商業界の記事
インターネットWWWより
県商圏調査報告書
市買い物調査報告書
担当営業マンとの懇談から
― 31 ―
入 手 先
店長管理ファイル
本部へ依頼
商工会議所
書店経由で購入
手持ち
WWW
県商工労働部
市商工観光部
績
)
― 32 ―
戦略が明確:メリハリをつけている
価
・店内回遊性の良さを心がけている
・売場の整理、整頓は全員で常時実行
・正社員の大半がDIYアドバイザーの有資格者
・接客教育を常時実施している
・レイアウト
・陳
列
・ サービス
・ 従業員の態
度
格
・重点客層に合わせた品揃えを指向している
・DIY用品,農業資材については,プロショップ
を目指している
・店舗は幹線道路に面している
・売場面積4,950㎡と地域一番店である
商圏人口:40,000人,13,000世帯
商圏吸引力:流入商圏・流出商圏・?
業績:↑ → ↓・?
特記事項:重点顧客は農家、自営商工業者
現状分析・特記事項
エリア(商圏)の現状の事実
(店舗名:笹岡店
品揃え
店舗施設
・業
・商圏動向
(シート7)
強み・弱み分析
み
・
良
さ
弱
強みと弱み分析
み
・
悪
い
点
・資材類の専門的な相談にも対応できる
・社員の団結,チームワークはよい
・地域に根ざした活動を行っている
・地域ニーズを把握しきれていない
・午後6時以降,パートタイマーが帰った後の
接客体制が手薄である
・売場がわかりにくいとの声がきかれる
・各通路に表示物が多く,雑然とした感じ
・主通路のはみ出し陳列の日常化している
・新商品,話題の商品は概して競合店より高い
・専門品の品揃えはよいが,価格の高い店と言
われている
・プライスポイントが明確である
・チラシ商品は,安いことで定評がある
・業務用(プロ向け)価格より品質重視
・通路は広くカートでの買い物が楽
・見やすく,手に取りやすい陳列
・POP広告は手作りで工夫を凝らしている
・新商品,話題の商品の導入が遅れる
・同機能,同用途の重複が多く,選びづらい
・品揃えが特定メーカーに偏っている
・家族連れでの買い物を楽しみにくい
(休憩場所,自販機少ない)
・駐車場の出入りがし難い
・通路が狭く陳列棚が高いため買い物しにくい
・金物,工具,建築資材の1品目当たりの陳列
量は多く,色,サイズの品切れもない
・日用品の幅広い品揃え
・店内は明るくきれい
・清掃,整理が行き届いている
・店の位置が遠くからでも分かる(認視率高い)
・広い売場(通路も広い)
・客数は増加している
・客単価,買上点数とも落ちている
・農家や自営業(プロ)の来店が増えている
・目的買い客が多く衝動買いが少ない
・農家後継者(30~40 歳代)にJAより買い物
・ライバル店が5キロ圏内に大型店出店予定
しやすいと好評
強
エリア(商圏)動向に基づく
・強み・弱み,機会・脅威の理由を明示する
・第三者にも容易に意味が理解出来るよう,具体的に書く
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
エリアマーケティングの実務
問題の整理と課題の検討
シート9
●市場目標,あるべき姿[何をめざすか,店や売り場にしたいのか,売上目標数値など]
1 市場目標
・売上目標の達成:年間27億円
・地域ナンバー1店の位置を確固たるものとする
2 あるべき姿
・専業農家,兼業農家,自営商工業者から頼られる店
・新商品,話題の商品の速やかな陳列によるストアロイヤリティの確立,客単価の向上
・買い回り品,専門品の購買意欲を促す売場づくり,店づくりを実現する
●現状の問題点[分析シート1~7を参考に検討]
・新商品,話題の商品の導入が遅く価格も競合店に負けている
・季節,地域行事への対応が十分でない
・専門品,買い回り品の店内レイアウトがわかりづらい
・関連販売,セット販売ができていない
【現状の問題点】
問題とは,到達目標と
現状の格差のことであ
る。
・ライバルのジョイトップ笹岡店と品ぞろえが似ている
●原因[なぜ、こうなったのか]
・新商品,話題の商品に関する情報が乏しい
・店内流動調査,レイアウトの見直しを怠った
・専門品,買い回り品売場のはみ出し陳列が日常化している
・主要顧客である農家,自営業者のニーズを把握しきれていない
(必需品の品揃えに欠ける)
・地域,社会行事を把握していない
・ライバル店を明確にしていないことから対策も不十分であった
●課題・対策[あるべき姿,目標実現のためどうすればよいか]
・農家(特に大規模農家,農業後継者のニーズ,JAや競合店の利用状況を調査し対応する
・専門品,買い回り品の品ぞろえの幅,深さとを追求する
・商品別の使用場面を想定して,売場レイアウトの見直しを行う
・主通路のはみ出し分は撤去する
・生活関連用品と業務用品の同時購買を促進する(クロスマーチャンダイジングの実施)
・本部商品部との連携を密にし,取扱メーカー数を増やす
・地域行事カレンダーの作成と地域行事対応の催事,販促の実施
・ライバルをジョイトップ笹岡店と定め,当店の強み,独自性を生かして,差別化対策を練る
― 33 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
シート10
エリアマーケティング戦略立案シート
部門・拠点名(SBU)
PPM区分
花 形
金のなる木
問題児
負け犬
ホームセンター笹部店
エリア区分
当店まで車で15分未満の来店範囲
坂上,坂北地域
当店まで車で15分以上の来店範囲
市場目標,営業指針など
チラシ広告の配布,来店客調査によるニーズ把握
HCの真空地域
競合店を上まわる魅力の品揃え
地勢・風土・顧客ニーズ・競争の状況など
地
域
特
性
売上目標,シェア目標など(Where)を設定
1 日本有数の農業地域である
コメ,野菜,花きの生産は,質量共に日本の
トップレベルにある農業県の中央部に位置す
る。
2 JAコープ店も活況を呈している
県域JAは,その経営実績と先見性から全国
のJAリードする役割を果たしている。近年,
営農指導と農業資材のセット販売で,購買量
を増やしている
3 自動車,電子部品関連の工業も盛ん
山岳地帯特有の乾燥した風土が精密部品製造に
適していることから,自動車部品,電子
産業関連の工場も達す多数立地している。
1
市
場
目
標
売り上げ目標
年間30億円
2 地域一番店を確実にする
3 あるべき姿
・プロ顧客(業務ユーザー)に頼られ
る店
・新商品,話題の商品をライバル店に
さきがけて導入する情報感度の良さ
・関連販売,セット販売のできる店
どこの(Where)
・誰に(Who)
戦
略
ド
メ
イ
ン
農家,商工自営者,一般家庭
何を(What)
資材,生活用品
どのように(How)
エリアマーケティングの実践
誰に(Who)
,何を(What)
,どのように(How)奉仕していくか,到達目標(Where)を設定。
1
マ
|
ケ
テ
ィ
ン
グ
ミ
ッ
ク
ス
品揃え:DIY用品,生活用品,園芸・農機具・植物を核とした品揃え
生活用品:生活の必要品を幅広く品揃えする。
DIY用品:業務用の需要にも応えられる専門性を持った品揃えを志向する。
農業資材:大型農家,農業後継者の若い世代に支持される品揃えを目指す。
2 価格
生活用品:ハイ・アンド・ロー戦略の徹底,チラシ広告商品に関しては競合店より1円でも安く。
DIY用品,農業資材:JAグリーンセンター,競合店より1円でも安くを徹底する。
3 販促
生活用品:チラシ広告,大量陳列,季節行事対応の徹底。
DIY用品,農業資材:各売り場担当を中心としたコンサルティングセールス,お客さまへの一声
活動を通じて一対一の販売(ワン・トゥ・ワン)を実践する。
4 売り場レイアウト・陳列
見やすく,買いやすい売り場づくり:陳列,売り場レイアウトに関しては,競合店の良さから学ぶ。
5 季節性への対応
季節商品は,ライバル店より3~7日前に売り場導入するべくストアコンパリゾンの実施。
― 34 ―
エリアマーケティングの実務
シート11
対策・実行プラン
(店名・部門)
笹岡店
改善・改革目標、売上目標
1売上目標:年間30億円
2改善・改革目標
①売場レイアウトの見直し
②専門品の品揃え強化
③新商品,話題の商品の迅速導入
④重点顧客客のニーズ把握と対応
⑤①~④の実現による顧客ロイヤリティ
の向上で来店頻度,客単価アップ
№
対策項目(どこを、どのように)
方
針
→ 1ライバル店
①ジョイトップ笹岡,JAグリーンセンター
←
②競合店調査・分析の定期的な実施
2商品部と品揃えに関する密接なコミュニケーションを
とる
3店長,マネジャーのマーケティング知識の習得
実行計画(いつまでに、どのような手段・方法で)
ウエイト
1 農業資材売場の充実
30~40歳代の農業後継者とのコンタクトをとる
・モニター調査,集団面接調査の実施
・メーカーの強力を得て,売り場構成の一新
2 売場レイアウトの見直し
(買い物がしやすい売場づくり)
本部の了解を得て,早急に実行
・来店客調査データの分析
・ジョイトップ笹岡,JAの優れた店から学ぶ
・日用品売場は,現状維持
・比較選択型商品,専門機能重視商品の売場配置の見直し
・通路幅を10㎝広げる
・主通路のはみ出し陳列の撤去
3 関連販売の実行
特に雑貨,日用品など日常生活に密着した商品分野で実行
・農業資材と生活用品のセット販売
・季節行事と生活必需品の組み合わせ
・地域行事に対応の品揃え
4 定期的なストア・コンパリゾンの実施
ジョイトップ笹岡,JAを中心に2週間サイクルで実施
4 マーケティング知識の習得
職場内での勉強会の実施
― 35 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
〈主な参考文献〉
1. 松谷明彦著,『人口流動の地方再生学』日本経済新聞出版社,2009年
2. 松田久一編著,『これからどうなる?47都道府県の経済天気図』洋泉社,2006年
3. 藻谷浩介著,『実測!ニッポンの地域力 』日本経済新聞出版社,2007年
4. 内橋克人著,『共生経済が始まる』朝日新聞出版,2009年
5. 中谷巌著,『資本主義はなぜ自壊したのか』,集英社インターナショナル,2009年
6. 岡田・川瀬・鈴木・富樫著『国際化時代の地域経済学』,有斐閣アルマ,2007年
7. 中村剛治郎著『地域経済学』,有斐閣ブックス,2008年
8. 中村・田淵・黒田著『都市と地域の経済学』,有斐閣ブックス,2008年
9. 総合観光学会『観光からの地域づくり戦略』,同文館出版,2006年
10. 小林隆一著『基本エリアマーケティング」評言社,2003年
11. 〃 『エリアマーケティング事例集』マネジメント社,2009年
12. 〃 『エリアマーケティングの実務』マネジメント社,2009年
13. 〃 『リージョナルマーケティング』(仮題)日本経済新聞出版社,2011年1月刊行予定
14.(財)九州経済調査協会『変わる消費と流通イノベーション』九州経済調査協会,2010年
― 36 ―
富岡製糸場が意味するもの
――世界遺産とネットワーク形成①
吉田 春生*
The Tomioka Silk Mill, built over 100 years ago, was the world’s first large scale reeling fac-
tory at that time. The Meiji Government made the factory for raw silk resources. A French
technician, Paul Brunat, was hired for the construction of the Tomioka Silk Mill. It was operated
under both new European technology and original Japanese methods of construction.
The turning point for the Tomioka Silk Mill was a close of the operation in 1987. Some people
recognized the significance of the factory’s existence, and then the Tomioka Silk Mill Association
was organized in 1988. Many people came to feel that the Tomioka Silk Mill and other cultural
assets relating to raw silk were important for the city of Tomioka. Finally in 2007 those were
designated as a potential World Heritage Site. In this process, citizen activities played an important part. At same time we should consider how Katakura Industries made a large contribution
toward being designated as a potential World Heritage Site.
はじめに
2007年1月,鹿児島県の尚古集成館(旧集成館機械工場)や長崎県の端島炭鉱(軍艦島),福岡・熊本
両県の三池炭田坑,山口県の萩反射炉など6県11市で提案した「九州・山口の近代化産業遺産群」は,文
化庁の世界遺産暫定一覧表に記載されることはなかった。当時,世界遺産の一覧表における不均衡が問題
となっており,その是正のため産業遺産と文化的景観に該当するものが優先される可能性があった。その
とき,最大のライバルとなったのは,群馬県の富岡製糸場だった。
富岡製糸場の場合も単独ではなく,県内各地に散らばる「絹産業遺産群」も含めた「富岡製糸場と絹産
業遺産群」が正式な世界遺産暫定一覧表記載の表記である。具体的には,繭・生糸・蚕種(蚕の卵)輸送
に使用された旧上野鉄道関連施設(繭・生糸用レンガ倉庫),蚕種を保存する冷蔵施設だった荒船風穴(以
上下仁田町),全国の標準となる養蚕法を開発した教育組織,高山社発祥の地(藤岡市),重要伝統的建造
物群保存地区となっている赤岩地区養蚕農家群(六合村),碓氷峠鉄道施設(安中市),官営の富岡製糸場
とは異なる組織形態で知られる(後述)旧甘楽社小幡組倉庫(甘楽町)など10点で構成される。富岡製糸
場を強い磁場として,群馬県内という限定された地域に近代の絹産業にかかわる遺産が存在している。し
かもそれらはその関係性において,明らかにネットワークを形成していた。
九州・山口の場合には,6県(後に7県での申請となる)という空間的な拡散もさることながら,日本
の産業近代化に貢献したという時代の一般性を広く提示しているものの,富岡の絹産業群のように個別具
キーワード:官営製糸場,甘楽社小幡組,トポフィリア,「記憶の共同体」,片倉工業
*本学福祉社会学部教授
― 37 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
体的なテーマは生まれていない。炭坑関係が比較的多いものの,造船所や砲台跡,反射炉,機械工場など
拡散した産業的特色という印象である。九州・山口の産業遺産群は2008年9月26日,世界遺産国内暫定リ
ストに記載されることとなったものの,富岡の場合のように,明確なストーリー,すなわちネットワーク
形成という点では必ずしも説得的ではなかった。
おそらく,石見銀山の逆転登録の事態が私たちに示したのは,世界文化遺産の評価においては,過去に
おいて成立していた産業面におけるネットワークがいったん消滅した(産業として機能しなくなった)後,
産業遺産としてそのネットワークが再発見されたという推移だったと思われる(毛利2008)。本論ではこ
うした産業遺産における過去のネットワーク形成とともに,いったんそれが衰退した後にネットワークが
再発見されることの意味を,地域振興・地域活性化という視点から考えてみたい。
その過程で,重視されるのは歴史的な意義や地理的(空間的)な条件ばかりではない。
1. 富岡製糸場の設立
官営製糸場設置の必要性と役割
安政6年(1859年),江戸幕府は鎖国の一部を解き外国との貿易を許した。そのとき,有力な輸出品と
なったのは生糸だった。2008年に日本で公開された日本・カナダ・イタリアの合作映画『シルク』では,
その題名どおり,19世紀の世界的なスケールで生糸をめぐる時代背景が描かれていた。フランスなど欧州
地域の養蚕国では蚕の疾病が発生し,養蚕業者の父の命を受けた主人公は,良質の生糸を求めて日本まで
やって来たのだった。しかし生糸の粗製濫造も行なわれたため,日本の生糸の評判は落ちていった。映画
では中国産の生糸で間に合うようになった。
因みに,貿易が許された年の翌年,万延元年(1860年)に生糸・蚕種の輸出に占める割合は68.3%で,
翌文久元年(1861年)から2年間は86.0%,83.6%と増加したものの,その後減少し,明治元年(1868年)
には66.6%,明治3年には49.8%に落ちていた。((財)文化財建造物保存技術協会2006:9)
近代化(= 西洋化)を推進することが急務だった明治政府には,富国強兵・殖産興業の大方針の下,上
記のような幕末からの生糸をめぐる状況もあり,製糸場を建設することが必要とされた。ただ,これは民
間に委ねるには資金面・人材面から不可能であったため,官営の模範工場を建設することになった。その
基本的な考え方は次のようなものである。
(1)外国の器械製糸機を導入し,外国人を指導者として製紙技術の伝習を図る。
(2)全国から工女を募集し,伝習を終えた工女は国元へ戻り地元の指導者とする。
(3)生糸の輸出に便利なように東京(横浜)から余り遠くない場所とする。
(4)原料繭の確保に便利な養蚕地帯とする。
((財)文化財建造物保存技術協会2006:9)
明治政府は明治3年(1870年),工場建設,器械製糸機の導入,日本人工女の育成まですべてを一括し
て任せるべくフランス人ポール・ブリューナを招聘した。工場建設地の選定にはブリューナの他,初代所
長となる尾高惇忠らが当たった。埼玉,群馬,長野の候補地から富岡が最適地として選ばれたのは,製糸
に必要な繭と水,工場建設用の広い土地,工場の動力源となる石炭,地元に歓迎されることのすべてが
揃っていたからである。
富岡製糸場は明治5年(1872年)10月4日に開業し,わが国の近代産業化の第一歩が踏み出された。ま
だ産業革命の端緒にさえ着いていなかった日本にあって,富岡製糸場は欧州の近代的工場をいくつかの点
― 38 ―
富岡製糸場が意味するもの
で凌駕していた。
まず,工場の規模である。操糸工場は長さ140.4m,幅12.3m,高さ12.1m のレンガ造り平屋建てで世界
最大規模だった。鉄製の製糸器械も,産業革命が終了している当時の欧州の器械製糸工場でも50~150台
が普通のところ,300台所有していた。富岡製糸場は格段の生産能力だったといえる。
生産規模ばかりでなく工場の環境衛生面でも,ブリューナによってその時代としては十分な配慮がなさ
れていた。
創業時,石炭の煤煙を空中放散する役目を担っていた鉄製煙突は36m 以上の高さだった。操糸工場の
排水や繭倉庫などの雨水排水用に当初から地下にレンガ積み排水溝が造られていた。こうした配慮は,そ
れまで日本にはなかった環境衛生思想が根底にあったからだと見ることができる。
つまり,富岡製糸場は同時代の「女工哀史」で語られるような労働環境とは大きく隔たっていた。福利
厚生面での配慮も十分になされていたからである。開業の翌年2月頃にはフランス人医師を常駐させ,6
畳間の病室8を備えた病院も建設されていた。治療費や薬代は工場側の負担であり,食費も寄宿舎も無料
だった。休日には芝居小屋見物や貴前神社への参詣なども許されており,季節ごとの花見や盆踊りも行な
われていた。「いずれにしても,富岡製糸場はその近代的な設備のみならず,七曜制の導入,労働時間,
服務規律,月給制,寄宿制,診療所など,労働環境の面においても,わが国に最初に労務管理法を導入し
たといえる」。((財)文化財建造物保存技術協会2006:11)
ところで,官営工場としての富岡製糸場は二つの点で研究者から批判を受けていた。一つは慢性的な赤
字経営だったこと,いま一つは「技術の地方拡散に貢献していない」との見方からである(読売新聞文化
部2003:211)。こうした見方に対して,『旧富岡製糸場建造物群調査報告書』は次のように反論している。
明治8年(1875年)まで在任したブリューナらフランス人技術者たちの給料が破格の高額だったため
年間の経費が大きかった。しかし,これは幕末の生糸粗製・濫造を修正していくためにはやむを得ない道
筋だった。そして「技術の地方拡散」については,富岡製糸場調査検討委員会によって,富岡製糸場を模
範として設立された全国の器械製糸場の主たるもの14がリストアップされ,同じく帰郷後活躍した工女・
工男の足跡も調査された。前者は隣県の長野が多いものの,遠くは熊本県や北海道にも及んでいる。
((財)
文化財建造物保存技術協会2006:11–13)
内発的発展としての製糸業――もう一つのストーリー
なお,
「富岡製糸場と絹産業遺産群」というとき,明治初期からの富岡製糸場を中心とした原料生産(養
蚕農家)・製造・保存(風穴と倉庫)・運搬(鉄道)・養蚕法の教育(高山社)から成るネットワーク形成
というストーリーとは別に,次のような観点のあることにも十分注意すべきである。
さて,富岡町にはもう一つの顔があった。それは1880年に創設された甘楽社の存在である。目前に
模範工場があるにもかかわらず,改良座繰製糸を主体とする甘楽社はアメリカ向けの大量の生糸生産
を図り,ゆるぎない実績をあげていった。
このように富岡製糸場と甘楽社が競合しながらも共存できたのは,いみじくもアダムスが指摘した
富岡周辺が原料繭を供給できたヒンターランドであり続けたことにほかならなかった。(今井2007:
39)
ヒンターランドとは,先に富岡に官営製糸場が誘致できる条件として挙げられていた,製糸に必要な繭
と水が得られる後背地として富岡周辺という土地空間が機能できることを指している。すなわちそれは,
上(国)からの官営工場というかたちでなく,江戸から明治時代にかけて全国の多くの地域において見ら
― 39 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
れたように,地元の力によって,地域資源を活かした地場産業というかたちの道筋も可能だったことを示
している。明治時代,農家500戸を超えていた小幡村は,山間の僻地ではあったものの養蚕に適した土地
であり,ほとんどの農家で養蚕が営まれていた。地域開発という点からすれば,国から持ち込まれた外来
型開発というべき官営製糸場とは別に,甘楽社小幡組の製糸事業は内発的発展と評価されるべきものであ
る。もともと小幡村には水田が少なく,各農家は養蚕に熱心だった。水力を利用した生糸揚返し場が有志
によって設置され,各農家は家庭で作った座繰り糸を持ち寄り,揚げ返しして品質のよい生糸を作った。
富岡製糸場を訪問した三井物産の磯清五郎はその生糸を評価し,販売の労を取ることになり,富岡製糸場
が設立されて6年後の明治11年には有志29名が発起人となり,組合制による揚返し工場ができた1。
地域開発の方法として富岡製糸場と甘楽社小幡組とは明らかな違いがあった。しかし世界遺産の登録と
いう観点から見るならば,単にネットワーク形成というよりも,富岡製糸場という官営工場に対するカウ
ンターカルチャーとして,地域文化(=地域社会・地域産業のあり方)として甘楽社小幡組が存在するこ
とは,「富岡製糸場と絹産業遺産群」という表記に絹産業をめぐる組織・生産方法の違いという重層性・
多様性をも孕んでいるということであり,文化審議会文化財分科会世界文化遺産特別委員会が指摘した,
富岡の資産は「日本の近代化を表し,絹産業の発達の面において世界的な意義を持つことから,顕著な普
遍的価値を持つ可能性が高い」とか,「日本の世界文化遺産及び世界遺産暫定一覧表に記載された文化遺
産には未だ見られない分野の文化遺産」だとする評価以上に,絹産業遺産相互間に文化の重層性・多様性
ともいうべき異種が含まれていることに注目すべきだと筆者には思われる。
2. 富岡製糸場の存在と認知活動
トポフィリアからの始まり
以上見てきたように,富岡製糸場が日本の近代産業史において果たした役割の歴史的価値・評価は疑い
を容れる余地がなかった。またそこに,絹産業群のネットワークのみならず,カウンターカルチャーとい
うべき甘楽社小幡組の存在が含まれていたことは,世界遺産の登録基準でいう,「顕著で普遍的な価値」
を有するのだといってよい。その地域での地形や気候,歴史に規定される独自性と,世界の他の地域へと
アナロジーを可能にする普遍的な可能性を有する点において,それは世界遺産に登録される資格を有して
いる。一方で,私たちはそうした歴史性を離れて,地域における富岡製糸場の存在感にも圧倒される。
私たちが正面入り口から入って対面する東繭倉庫の美しさは,明治時代の洋風建造物としては卓越した
ものである。明治初期,殖産興業のため多くの官営工場が建設されたものの,創建時の建物がほぼそのま
まのかたちで残っているのは富岡製糸場だけということも確かにある。しかしながら,その即物性・存在
そのものに私たちが心奪われるのも確かであろう。端的にいえば,木材で骨組みを作り,その間をレンガ
で埋める和洋折衷型の東繭倉庫や西繭倉庫である。フランスのアルザス地方やノルマンディ地方では,
ハーフティンバーと呼ばれる木組みの建物がよく見られるが,それらはごく普通の民家であることが多
い。二つの倉庫は,当時の世界最大規模の生糸生産工場の一翼を担うものであり,桁行の長さ自体も
104m を超えていた。その迫力・華麗さは民家の比ではない。
こうした存在感を地域住民は,特にその少年・少女時代において強く感受していた。それは日本全国で
起きている,地域の「記憶の共同体」が形成され,トポフィリア(場所愛)が育まれてゆく典型的な事例
であると筆者には思える。
例えば,富岡製糸場が世界遺産登録を目指すには,後述するように,所有していた片倉工業から富岡市
1 甘楽社小幡組の記述については群馬県のウェブサイトを参照した。
― 40 ―
富岡製糸場が意味するもの
に建造物が寄付されたことが大きな転機となるが,その際交渉に当たった当時の富岡市長,今井清二郎の
ことである。山﨑益吉は次のように書いている。
最後に今井の富岡製糸場にかける情熱がどこからきているのかを探っておこう。それには今井の原
体験を見るのがよい。今井は筆者と同じ富岡高校の一つ上の先輩である。筆者も自転車通学の折,
からたち
枳 の垣根越しに製糸場を見て過ごした。今井は製糸場の北通りに友人がいたので放課後よく立ち
寄って,枳の垣根越しに製糸場の雄姿を見て感動したと述懐しているが,どうも今井の原体験はここ
にありそうである。
(山﨑2009:152)
地域社会を考える際,私たちが度々想起するものと,ほぼ同じ感触がここからは得られる。1970年代,
福岡県の柳川市で掘割の大部分を埋め立てようという計画が軌道に乗ったにもかかわらずそれが中止と
なったのは,子ども時代にその川で泳いだり魚を取ったりした思い出のある人たちによる行動の賜物だっ
た。あるいはまた,明治時代に第百三十銀行の支店として建てられ,いまでは黒壁ガラス館として知られ
る,外壁が黒漆喰の土蔵造りという異色の建物が象徴的な滋賀県長浜市のケースである。子ども時代にそ
の建物に親しんでいた人たちは,それが取り壊される可能性が出てきたとき,何とか保存したいと買い戻
し運動を開始したのである。これらはともにトポフィリアという感情の契機抜きには起こりえなかった現
象である。(吉田2006:50–53)
筆者は富岡製糸場の周りを西側から北,そして東の正面入り口までぐるりと歩いてみた。西の通りは塀
の間近まで西繭倉庫が接近してきており,そこを行く子どもたちが富岡製糸場の存在を意識せずにいられ
なかったであろうことが容易く実感できた。塀越しに見えるその威容は,東繭倉庫の存在感と変わらない。
元市長である今井にしてもその少年時代に,この壮大な建造物を見てどのような感慨を抱いたかは容易に
想像できる。しかし,富岡製糸場の重要性を認識し,最初の一歩を踏み出したのは,今井のように地域の
「記憶の共同体」に強く促された地元の人間ではなかった。
山﨑益吉によれば,1988年に発足した「富岡製糸場を愛する会」は甘楽町の有志が主体となって結成さ
れた。甘楽町長だった田村利良や,甘楽町新聞主幹の松井義雄らの,前年に操業を停止した富岡製糸場を
そのまま放置しておくのはもったいない,との一念が起点だったとされる(山﨑2009:153–154)。外から
の視線で地域振興が新展開を見せるという例は各地で起きているが,ここでも出発時点では同様だった。
先に述べたように,甘楽町は官営工場たる富岡製糸場とは異なる方法で,いわば地場産業として,内発的
発展の一つのかたちとして製糸業が成立していた。そんな甘楽町の住民からすれば,巨象ともいうべき富
岡製糸場はやはり驚嘆すべき存在だったはずである。甘楽町小幡組がカウンターカルチャーであったれば
こそ,逆に富岡市民よりも富岡製糸場の偉大さが痛感されたのだということができる。そしてそれにトポ
フィリアに促された富岡市民が加わったのである。
いま述べてきたように,世界遺産の登録が目指されたからトポフィリアが意識され,「記憶の共同体」
が想起されたというのではなかった。順序は逆である。この部分は,むしろ別府においてウォーキングツ
アーからオンパク(温泉泊覧会)で注目されることになる過程とよく似ている(吉田2010)。それぞれの
時期に何が起こっていたかを明確に分析することは,世界遺産を目指すほどではないけれども,地域の特
性を意識して観光振興を図ろうとする地方自治体が注目すべきポイントだと筆者には思える。拙著『新し
い観光の時代』の別府の研究(同書第5章「温泉観光都市別府 再生の軌跡」)で明示したように,その
過程で何が起こっているかを富岡の場合で検証してみよう。
― 41 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
「富岡製糸場を愛する会」の活動
片倉工業に経営が移っていた富岡製糸場は,1987年(昭和62年)操業を停止した。その価値を認め,逸
早く立ち上がったのが翌88年に誕生した「富岡製糸場を愛する会」だった。富岡製糸場の価値を市民に伝
えることにより地域の活性化につなげることができないか,との問題意識から生まれている。当初は数名
の会員が市内外で学習会や講演会を行なっていた。ここまでの段階で参加していた人たちは,強くトポ
フィリアに促されたのだと想像できる。また,淵源となった甘楽町の田村利良や松井義雄でいえば,富岡
製糸場は貴重だという共通感情に動かされてのものだったと考えることができる。この時点では,一般市
民には富岡製糸場の価値の認知についてはそれほどではなかったとされる(山﨑2009:154)。
しかし,2003年が大きな転機となる。群馬県知事が4期目の方針として,富岡製糸場の世界遺産登録を
目指すと宣言したからである。これは県が富岡製糸場の歴史的な意義を認め,産業的な側面ばかりでなく,
文化的な側面も含めて位置づけがなされたことを意味する。同年11月の市民集会シンポジウムには市民
500名が参加し,富岡製糸場を見る目が明らかに変わった。潮目が変わったのである。
「富岡製糸場を愛する会」の会員数は2004年が30名だったが,その後,05年800名・20団体,66年1,200名・
40団体,07年1,300名・50団体となる。潮目が変わったとは単に会員数が増加に転じたということなので
はない。それをいうならば,08年に会員数1,100名・9団体となったことにも注目しなければならない(山
﨑2009:155)。会員となる人たちの性格が変わったのではないかというのが,潮目が変わったという表現
の真意である。すなわち,トポフィリアに促されてというよりも,「記憶の共同体」への熱い思いが生ま
れたというよりも,世界遺産というブランドに一時的に飛びついた人たちがいたという流行現象だったの
ではないかという疑念が生まれざるを得ないのである。団体についてはもっと極端である。県が推進する
運動に対して,当座,参加しておこうという団体があったのではないかと疑われるのである。
「富岡製糸場を愛する会」の会則は,その目的に関して,2003年10月,次のように改正された。「本会は
富岡製糸場の歴史的,文化的,産業的な遺産価値を認め,これを愛護する者をもって組織し,富岡製糸場
について学び合いながらその輪を広げることを目的とする。さらに『富岡製糸場と絹産業遺産群』が,世
界遺産に登録されることを期待し推進するものとする」(第2条)。前半の文言は,発足当時からの精神が
語られているが,後半は,県が世界遺産登録を目指すとした状況の変化を反映している。そのことで,世
界遺産登録後,あるいはその推進運動展開の過程でのビジネスの可能性が多くの人に認識されたに違いな
いのである。いわば別府におけるオンパク化が起きたのだといえる。
大所帯となったためイベントごとの部会が設置された。2005年にはロゴマークやステッカーの作成,
キャラクターネーム,シルキーちゃんなど矢継ぎ早に発表される。06年には教育用 DVD も作成され,ビ
ジネスとしての広がりを見せていく。このような性格の変化――潮目が変わること――はなんら批判され
ることではない。ただ,トポフィリアや「記憶の共同体」が意識されて活動していた頃と,そこに大きく
ビジネスの契機を求めて運動が展開されるのとでは,性格が異なってしまっていることに気づくべきでは
ないかと筆者には思われる。
特に世界遺産登録が目指されるようなケースでは,観光による地域振興というような段階を大きく越え
て,地域社会のアメニティが著しく低下するということが岐阜県の白川村や島根県の大田市では起きてい
る。これは筆者の問題の建て方では,スモール・ツーリズムかせいぜいミディアム・ツーリズムに留まる
べきなのか,マス・ツーリズムを招来するようなかたちで考えるべきなのかという選択となる。それは地
域にとって深刻な,切実な選択となるはずである。
― 42 ―
富岡製糸場が意味するもの
3. 片倉工業の役割
富岡製糸場と片倉工業
富岡製糸場の歴史的な意義が官営工場にあったことは事実である。明治政府にとって,生糸の増産と品
質の維持は国の重要政策だった。しかも,すでに述べたように,民間には委ねることができず官営工場が
必要だった大きな理由は,ヨーロッパから採り入れた製糸技術を学んだ工女が全国各地にそれを持ち帰る
こと・伝播することも目的とされていたからである。
しかしながら,富岡製糸場を語ろうとするとき,片倉工業の存在を欠かすことができないのも事実であ
る。富岡製糸場が富岡市に寄付された際の市長今井清二郎(在任1995∼2007年)の感謝の言葉にそれは現
われている。2005年に開かれた感謝の集いで今井は,次のような内容を発言している(山﨑2009:150)。
「片倉工業だからこそ,赤煉瓦建物を完全な姿で保存管理してもらえた。片倉工業だからこそ,重要文化
財にもなる貴重な赤煉瓦建物を寄付してもらえた」,と。地域を考える上で,片倉工業のような企業のあ
り方を理解することは重要である。
ともあれ,まず官営工場として設立され,片倉工業によって富岡市に寄付されるまでの富岡製糸場の歴
史を辿ってみよう。
明治26年(1893年)には三井家に払い下げられ,三井富岡製糸場となる。明治35年(1902年)には原合
名会社に譲渡され,原富岡製糸場となる。原時代には新式操糸機の導入,蚕業改良部の設置,繭の品評会
の頻繁な実施,優良な原料繭の確保などにより製糸業の黄金期を迎えた。昭和13年(1938年),片倉製糸
紡績株式会社(後に片倉工業)の所有となり,名称は株式会社富岡製糸所とされたが,翌年には片倉富岡
製糸所と改名され,その後も片倉工業株式会社富岡製糸所(1943年),片倉工業株式会社富岡工場(1961年)
と名称が変遷する。特に昭和18年(1943年)の名称変更は,片倉工業という現在の名称に本社が変わった
ことによるものだった。片倉時代には,戦前は多数の建物を増築し,戦後は大型機械を導入するなど生糸
生産の最盛期を迎える。しかしながら,その後,外国産生糸の増大や化学繊維技術の進展による生糸価格
の低迷が起こり,昭和36年(1988年),操業停止となったのである。((財)文化財建造物保存技術協会
2006:14)
片倉工業は2005年9月には建造物一切を富岡市に寄付するが,これは世界遺産登録を目指すに当たって
重要な転機となる。同年10月から富岡市の管理が始まるのだが,翌年1月には土地が富岡市に売却され,
7月には国指定重要文化財となる。この経過には大きな意味がある。世界遺産登録に当たってユネスコは
「国内法の保護」を条件に挙げているからである。自然遺産であれば国立公園や自然環境保全地域に指定
されていることが必要であり,文化遺産であれば文化財保護法による指定が必要である。ところが,産業
遺産の場合にはその所有者との関係で次のような事情が生じる。
例えば,構成資産に岩手県釜石市の橋野高炉を加えた(2009年10月)ことで7県11市28件の申請となっ
ている「九州・山口の近代化産業遺産群」の場合には,その中に現役で使用中の三菱重工業長崎造船所向
島第三ドック(長崎市)や,新日鐵八幡製鉄所旧本事務所(北九州市)が含まれている。世界遺産登録の
条件である「国内法の保護」,すなわち文化財に指定されれば企業にとって利用の制限を招くこともあり
うる。この点では,もちろん片倉工業が操業停止していたからこそ富岡市に寄付し,重要文化財の指定を
受けることができたのだということもできる。しかしながらそのことは,年間1億円をかけ建造物や屋内
の製糸機を保存管理してきた企業にとって,その将来的な活用の可能性を放棄することを意味するのであ
り,並大抵のことではない。先の今井富岡市長の感謝の言葉の中にあった,「片倉工業だからこそ保存管
理してもらえた」というのはこのことを指している。
ここに至って私たちは,片倉工業がどのような企業であったかということにも思いをめぐらす必要が出
― 43 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
てくるのである2。
富岡製糸場が開業した翌年に当たる明治6年(1873年),片倉市助が長野県諏訪郡川岸村(現岡谷市)
の自宅の庭で小規模な10人取りの座繰り製糸を開始した。これが片倉工業の始まりである。この時期,岡
谷では生糸づくりを志す多くの製糸家が誕生している。もともと岡谷は乾燥した空気と水に恵まれてお
り,農家の副業として養蚕・生糸づくりが盛んだったからである。イタリアやフランスの先進的な操糸機
を参考に独自の諏訪式操糸機を開発し,生糸の工場生産体制が整えられていく。また,小規模の製糸家が
単独で生糸を出荷するのでなく,製糸結社を結成して生糸の品質を統一し,大量に出荷するという方式も
取られた。やがて製糸結社から独立し,県外に進出して経営を拡大する製糸家が続出し,岡谷の製糸は全
盛期を迎え,「糸都岡谷」と呼ばれるようになる。
片倉市助には4人の息子がおり,長男の兼太郎が明治9年(1876年)に市助から家督を相続する。そし
て初代片倉兼太郎は,地主であるよりは,明治初期,国を挙げて輸出産業として力が入れられていた製糸
業に邁進することを決意するのである。明治11年(1878年)に彼は川岸村字垣外の天竜川畔に32人繰りの
洋式器械製糸工場,垣外製糸場を開設した。しかし,自分の製糸場だけでは出荷量に課題が残るため,翌
年の7月,尾沢金左衛門,林倉太郎とともに開明社を創業した。開明社は同業者をまとめ上げ,品質を統
一し,優良な製糸の生産に努めた。なお,参加組員は18名311釜だった。
製糸はその取引上荷かさの多いことが必要とされるため,各所で共同荷造りの結社が誕生していた。し
かしそれ以上に重要なことは品質の均一化であり,開明社はそれを解決するために明治17年(1884年),
岡谷地方最初となる共同揚げ返し場を新設し,品質の均一化と促進化を実現したのである。生糸の輸出港
となる横浜では,こうした努力もあって,開明社ブランドとしてその生糸は高値で取引されるようになっ
た。開明社は長野県下では生産・販売額がトップの結社となった。片倉自体としても明治23年(1890年)
に諏訪郡外への初進出となる松本工場を新設し,明治28年(1895年)には片倉組を設立,同時に東京京橋
に支店を開設,国各地に工場を建設した。また,初代片倉兼太郎の時代にすでに農林事業に着目し,北海
道や台湾などで土地買収を行なっていたが,明治37年(1944年)に朝鮮平壌府で住宅地の経営に乗り出し
たことを機に,こうした事業と製糸業を統括するための片倉合名会社も設立された。なお,富岡製糸場を
所有した際の,片倉製糸紡績株式会社の名は大正8年(1914年)3月に片倉組を継承するものとして付け
られた。
片倉市助の4男左一は,明治10年(1877年)長男兼太郎の準養子となり,初代片倉兼太郎の事業を手伝っ
た。初代兼太郎が大正6年(1917年)に逝去すると左一が2代目兼太郎を襲名し,更なる多角経営に乗り
出した。製糸業において朝鮮(現韓国慶尚北道)大邱府に製糸工場を開設する一方,紡績,肥料,製薬,
食品,保険などの事業を傘下に収めて片倉財閥を形成したのである。「シルク王」とも呼ばれた2代目片
倉兼太郎は,ただ事業拡大のみに執着する人間ではなかった。初代の薫陶を受けて,2代目兼太郎は労使
協調・共存共栄の精神を受け継いでいた。大正9年(1920年)には労使協調の証しとして,利益の1割以
上を全従業員に配分すると発表した。また,初代兼太郎は,当時の従業員に義務教育未修了者が多くなっ
たため,川岸村に私立尋常小学校を計画したが,竣工を見ないで他界していた。兄である初代の遺志を受
け継いだ2代目兼太郎は工事を完成させ,知事の認可を得て,兄の亡くなったその年に「私立片倉尋常小
学校」を開校した。しかも翌年には,近隣の製糸業者の要請を受けて,共同の義務教育機関として機能さ
せたのである。
しかし,より注目すべきは,「企業は社会の公器」との信念を持つに至った2代目兼太郎の次のような
2 以下の片倉工業に関する記述については,『片倉製糸紡績株式会社二十年誌』を参照した。
― 44 ―
富岡製糸場が意味するもの
行動であろう。そこには富岡製糸場が世界遺産登録を目指す際に果たした役割がなぜ可能だったかの解答
が潜んでいるように筆者には思える。
まず,どのような時代だったか――。昭和2年(1927年),国会での大蔵大臣の軽率な発言がきっかけ
で金融恐慌が始まる。明治から昭和初期にかけて日本の主軸産業であった製糸業もその影響を受け,岡谷
地方の製糸業界も大打撃を受ける。しかしこの混乱の時期,2代目片倉兼太郎は片倉同族の協力を得た基
金60万円をもとに片倉館を建設する。昭和2年1月の着工,翌年10月の竣工である。諏訪湖畔の3,000坪
の敷地に温泉大浴場やサウナ等を備えた浴場棟と,文化交流や娯楽を目的とした会館棟(建築総面積訳
750坪)から片倉館は成っている。これは自社の従業員のみでなく,地域の住民のためにむしろ造られた
ものだった。そうした発想は,2代目片倉兼太郎が大正11年(1922年)から12年にかけて出かけた欧米視
察旅行での見聞の賜物である。特にヨーロッパでの(ドイツでの),地方においてすら充実した温泉保養
施設の整っていることに感銘を受けたことがきっかけだった。
こうした企業だったからこそ,富岡製糸場は世界遺産登録のための条件,すなわち富岡市に寄付され,
重要文化財に指定されるという条件を満たすことが可能となったのである。
地域社会と片倉工業
筆者にとって印象深かったのは,上信越自動車道の富岡インターチェンジを出る際に目にした「富岡製
糸場のあるまち」という大きな表示だった。企業や観光が地域社会とどのような関係性を取り結ぶかに関
心のある筆者にとって極めて暗示的だったからである。
現在の片倉工業株式会社は,同社のウェブサイトによれば,主要な事業として衣料品,機械電子,ショッ
ピングセンター,小売,その他としてゴルフセンター,住宅展示場を挙げ,関係会社の事業として繊維関
連,医療用医薬品,農業用機械,消防自動車・消防関連機器,ビル管理を挙げている。片倉工業が現在の
岡谷市で製糸業からスタートしたとはいうものの,こうした広がりはこれまで見てきたような同社の歴史
からすれば当然であろう。地域的な広がりについても,大正11年(1922年)に本社を東京京橋に移し,製
糸工場・蚕種製造所を全国展開してきたことからすれば当然である。群馬県富岡市の富岡製糸場について
もそうした製糸業の広がりの一つであったと見ることができる。このことは逆に,片倉工業にとって富岡
製糸場が必ずしも過重な意味合いを持つ唯一のものではなかったことを示している。
具体的に見ていこう3。
片倉工業にとって思いの強い製糸工場は,ひょっとしたら富岡製糸場よりも熊谷工場の方であったかも
しれない。岡谷の地から始まった片倉の製糸業の歴史は,平成6年(1994年)12月31日,最後の製糸工場
であった熊谷工場が操業を休止したことで,蚕糸業121年の幕を閉じたからである。なお,熊谷工場自体
は,地元有志によって設立された三木原製糸場を明治40年(1907年)に買収し,石原製糸場として操業を
始めたところから歴史は始まっている。
総面積34,197m2(10,345坪)の熊谷工場の跡地は,現在,全体としては商業施設「熊谷サティ」となっ
ており,その一画を片倉シルク記念館としている。もとからあった蜂の巣倉庫をそのまま保存し,敷地内
にあった建物(蔵造りの繭貯蔵倉庫)をその北側に移して展示スペースとしている。展示スペースの1階
は,製糸工場で実際に使われていた機械を用いて製糸工程を説明している。2階はメモリアルギャラリー
として熊谷工場での活動や寮での生活を写真で紹介している。その内容は,富岡製糸場で私たちが知った
のと同様の,片倉工業の従業員への対し方・地域社会への対し方を示している。案内掲示の文章も,「か
つて製糸という大きな『しごと』があり,それがこの熊谷の地にも長い間存在していたこと,そして多く
3 以下の片倉工業熊谷工場の記述については,片倉シルク記念館における展示資料を参考にした。
― 45 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
の人々がそこで働いていたこと…」,と結ばれている。ここでも地域の「記憶の共同体」というべき感情
が形成されているのだと見ることができる。
「記憶の共同体」はある種ノスタルジーを孕む。熊谷工場は職場である同時に,そこに働く人々にとっ
て,食・住を共にする生活の場でもあった。寮や社宅ばかりでなく,プールやバレーコートなど娯楽の場
や,診療所などの厚生施設,働きながら料理・編み物・生け花などを学ぶための私立片倉石原青年学級(片
倉熊谷高等学園)の教室もあった。
次のような熊谷工場で行なわれた行事の記録は,仕事と季節の行事が切り離せない熊谷工場での生活の
あり方を物語っている。4月には観桜会,社員旅行,卓球大会,展示即売会の予定があるが,5月には春
繭の集荷,6月には春繭の乾燥安全祈願祭と仕事上の予定が入っている。あるいは,夏から秋にかけての
行事では次のようになっている。7月はうちわ祭り,プール開き,安全週間,夏繭の集荷,7~8月にキャ
ンプ,8月の納涼大会,初秋繭の集荷,8月から9月にかけて父兄会,9月から11月にかけての社員旅行,
10月の晩秋繭の集荷,10月~11月のバレーボール大会,ソフトボール大会,運動会,そして10月下旬から
11月初旬にかけての晩々秋繭の集荷,となっている。従業員にとってみれば職場での,仕事上の行事ばか
りでなく多くの楽しみのための行事が提供されていたのである。
父兄会は製糸工場の行事として奇異に映るかもしれないが,実は3月の熊谷工場の行事として入学式と
ともに片倉学園卒業式も入っている。現在の岡谷市に位置する川岸村に私立片倉尋常小学校を,初代の遺
志を継ぎ2代目片倉兼太郎が開校したことについてはすでに触れたが,従業員への教育について片倉工業
の一貫した姿勢を読み取ることができる。また,地域社会への対し方も行事予定の中にも見られる。うち
わ祭りは熊谷市八坂神社の伝統的な夏祭りで,山車が町中を練り歩く。熊谷工場はその休憩のための場所
を提供している。こうした現在も続く地域とのかかわり方については,すでに消失してはいるものの,か
つて熊谷工場の象徴として目立っていた33メートルの煙突の存在が地域住民の記憶に拭いがたく残ってい
るはずであり,それに加えてうちわ祭りへの参加は,地域の「記憶の共同体」としての新たな実質を形成
しつつあるのだと見ることができる。
片倉工業の地域社会への対し方を考えるのにより適切な事例は,敷地面積3,180坪(10,492m2)を有する
上諏訪の片倉館であろう。すでに触れたが,今日,上諏訪のランドマークともいうべき温泉施設である片
倉館は,2代目片倉兼太郎が大正11年(1922年)から12年にかけての海外視察において,ヨーロッパの農
村地域で充実した文化福利施設――特にドイツやチェコスロバキアの温泉保養地における温泉施設――を
目にしたことで建設を決意したものである。彼は自社従業員の福利厚生施設としても考えていたし,地域
住民の慰安休養施設としても考えていた。しかし,地域における片倉館が果たす役割はさらに今日,重要
性を増している。
上諏訪温泉は地元民専用の共同湯の多いことで,雑誌でも特集されるほどによく知られている。一方,
下諏訪温泉は外来者にも開放される共同湯が多く上諏訪とは対照的である。この対比のさらに興味深いこ
とは,地元民専用の共同湯の多い上諏訪温泉の方がマス・ツーリズム対応型の大規模温泉旅館が多く,下
諏訪温泉の方が逆に小・中規模の温泉旅館が主流だという点である。上諏訪は温泉が地域文化として強く
根を張っている一方で,観光客が団体で大挙訪れやすい温泉観光地でもある。
上諏訪はかつて,掘ればどこでも温泉が出るという状況だったが,乱掘が進み,住民同士の諍いも起
こったため,諏訪市では市として集中管理することになり,昭和63年(1988年)にそのシステムは完成す
る。現在では源泉数11,配湯センター・中継ポンプ室20ヵ所,契約給湯数2,850件,毎分契約湯量は10,000
リットル余りとなっている(「諏訪の水道と温泉」諏訪市水道局)。路地を歩いてみれば,共同湯や家庭用
に使われる貯湯タンクが目につく。このように,湯量豊富な温泉は日常的に使用する水としても,地域住
― 46 ―
富岡製糸場が意味するもの
民のコミュニケーションの場でもある共同湯としても,地域のあり方を規定するものだった。片倉館はこ
のような日常的な温泉利用が普及している上諏訪にとっても独特なものだった。
片倉館の竣工したのが昭和3年(1928年)であったことは,ほとんどまだ温泉旅館が一般化する以前に,
華麗な洋風建築の公衆浴場を造ったという点で特筆されてよい4。大理石造りの浴槽で,深さ1.1m で底に
玉砂利を敷き詰めた大浴場は,100人が一度に入れるほどの規模である。その広さはマス・ツーリズム対
応型の大規模温泉旅館の大浴場に匹敵するもので,繰り返すがそれを昭和3年に完成させているのであ
る。その時代においてその規模というのは,従業員や地域住民に対する思いからであったに違いない。そ
れを2代目片倉兼太郎は温泉保養地で見た大規模な温泉保養施設からヒントを得たのである。いわば大分
県の由布院温泉が今日の発展を迎えることのきっかけとなった溝口薫平や中谷賢太郎らが昭和46年(1971
年)に西ドイツの温泉保養地のあり方に大きな刺激を受けたことのさきがけであったともいえる。
そうした片倉館の歴史もさることながら,多くの地域で明治から昭和初期にかけての近代化遺産とし
て,洋風建築は称揚されることが多い。しかし西洋建築としての華麗さとそれが公衆浴場として建てられ
たという事実を考えるなら,極めて特異な建物だということがいえる。浴場ということでいうなら,これ
に匹敵する個性を有するのは,湯屋建築で知られる道後温泉本館や野沢温泉の大湯ぐらいであろう。やは
り洋風建築での公衆浴場という点で,上諏訪温泉のランドマーク――道後温泉本館と同様,観光の対象と
して機能しているということを意味する――としての価値が高い,というべきだろう。すなわち,地域社
会への貢献度が高いのだと見ることができる。
まとめ
本論はこの後,世界遺産登録に当たってストーリーの形成(=ネットワークの形成,もしくは再発見)
が必須であるとの観点から,逆転登録で話題となった島根県の石見銀山,富岡製糸場との対比で最も有効
と思われる鹿児島の尚古集成館などを含む九州・山口地区の近代化遺産,さらには浄土思想の広まり(=
ネットワーク形成)をテーマに日本政府の推薦で申請したものの初の落選となった「平泉の文化遺産」へ
と論を進める予定であるが,紙数の都合で,本稿ではここまでとなる。
ただ,ここまでの世界遺産としての意義と地域との関係という観点から,富岡市においてどのような段
階があったかを整理しておきたい。富岡市で見られたのは次のような段階である。
①世界遺産登録はまったく意識されない段階で,富岡製糸場の歴史的意義を認める人たち(甘楽町の有
力者ら)や,少年時代に富岡製糸場に親しみトポフィリア(場所愛)を感じていた富岡市民が立ち上
げた「富岡製糸場を愛する会」の,1988年から始まる初期における活動の段階。
②②と③の区分は必ずしも明確でないが,2003年に群馬県知事が4期目の方針として,富岡製糸場の世
界遺産登録を目指すと宣言した時期がおぼろげながらの分起点となる。2003年以前は地域活性化とし
て地域資源を見直す,もしくは学ぶという市民レベルが中心の段階。
③2003年を機に,地域に活力を生み出すということを(観光による)地域振興と捉える人たち・企業が
運動に参加するようになった段階。
すでに本論で述べたように,別府の八湯ウォークからオンパクに至る成功例が暗示するのは①の重要性
だった。もしくは②があってこその③が有効に機能するということだった。世界遺産とネットワーク形成
はこうした観点からも思考されるべきである。
4 公衆浴場と共同湯の区別などについては吉田(2010)を参照のこと
― 47 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
参考文献
1. 今井幹夫 2007「富岡製糸場―群馬県富岡市」『地理』2007年11月号 pp36–39 古今書院
2. (財)文化財建造物保存技術協会 2006『旧富岡製糸場建造物群調査報告書』富岡市教育委員会
3. 毛利和雄 2008『世界遺産と地域再生』新泉社
4. 山﨑益吉 2009「市民の支援と産業遺産の関わり」高崎経済大学附属蚕業研究所編『群馬・産業遺産の諸相』
pp145–167 日本経済評論社
5. 吉田春生 2006『観光と地域社会』ミネルヴァ書房
6. 吉田春生 2010『新しい観光の時代』原書房
7. 読売新聞文化部 2003『近代化遺産 ろまん紀行 東日本編』中央公論新社
― 48 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
富澤 拓志*
Constructing an industrial park as the way of the promotion of local industry is now more and
more losing effectiveness. The trend of industrial location changes as time goes by. Companies
came to pursue the optimal plant location not only in Japan but also in Asian countries. More
and more companies come to take the overseas location of their plants into consideration. The
regional governments should recognize that, however small the factories are, they are continuing
to change themselves in order to survive in global competition, and thus should promote local
industries without relying on the temporal competitiveness of a few major branch factories. The
exhausted regions, where the local industries such as agriculture or manufacturing are declining
are increasing in these days. However, there is no royal road in the promotion policy of local
industry. Thus it is necessary for the region to grasp the whole regional industry and to make
the vision for economic development not to depend on a particular industry, and then encourage
the local residents and firms in the long-run basis. On the other hand, it is important to the local
policy maker to be in close contact with workplace of the local industries and to understand the
reality of the business administration and the worker’s subsistence. Making such a steady efforts, the government will have the capability to make an effective industrial policy, and then can
utilize the branch plants placed in the region.
はじめに
前稿(富澤 2010)では,分工場に依存することの危険性について論じてきた。地域を代表する企業の
経営が危うくなることで地域全体が危機に瀕するということはこれまでもしばしば見られてきた。しか
し,このことは外来の工場を誘致すること,さらにいえば工業の立地そのものを否定するわけではない。
なぜならば,外来の誘致企業が地域産業の発展の基礎となった事例もまた存在するからである。各地に散
在する産業集積の形成過程をたどると,かつて東京などの大都市から誘致された工場が元になって地域に
中小企業が集積したという例も少なくない。こうした産業集積の多くは,現在苦境に陥っているとは言え,
長期にわたって地域経済を支える主軸であり続けている。また,現在も中山間地を含む地方に点在してい
る分工場も数多いが,それらの中には数十年以上にわたって操業し続け,その地域の貴重な雇用機会と
なっているものもある。こうした企業は,必ずしも所在地近辺に関連企業があったり密接な取引関係を持
つ企業があるわけでもなく,いわば地理的には孤立しているにも関わらず,その場に長期間立地し続けて
いるのである。このように,本来はその所在地となんら関連を持たず,外部から落下傘のように降りてき
キーワード:分工場経済,地方経済,産業振興
*本学経済学部・大学院経済学研究科准教授
― 49 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
た典型的な外来工業でありながら,その地域に産業集積を形成したり,地域内で安定的に操業したりする
例があるのもまたもう一方の事実である。そこで本稿では,外来工業が地域産業を発展させた事例を検討
し,分工場が地域に定着する可能性と地方における産業振興のあり方について検討していくことにした
い。
1.地域に定着した分工場
1-1.誘致工場の周囲に地元企業が創業して形成された産業集積
現在日本の各地に存在する地方都市型の産業集積地域の多くは,戦後の経済成長に伴って規模を拡大
し,その地域の基幹産業となってきた。これらの中には,それまではほとんど工業の素地がなかったにも
かかわらず,誘致した企業・工場が母胎となって周囲に関連工場や企業が創業し,集積を形成したものが
ある。例えば長野県の諏訪市・岡谷市の産業集積や坂城町の産業集積などはその例である。これらの地域
では,戦災を避けて立地した疎開工場が戦後も操業し続け,企業の成長に伴って,従業員が独立して関連
下請け工場を建設するという動きが見られた。地域外からやってきた工場で地域の人材が働き,生産現場
で技術的な経験を積むことによって,結果的に人材が育成され,そしてその人材が起業することで関連産
業が地域内に生まれたのである。そして,これら関連下請け企業でも同様の人材育成によって孫企業が生
まれるというサイクルが継続した結果,地域内に技術知識を持ち,さらに企業家としての経験も併せ持っ
た人材が蓄積することになったのである1。
こうした人材の蓄積は,それまで地域産業を牽引した大企業が破綻したときにも地域産業の崩壊を防ぐ
効果を持った。この点で諏訪地域の産業集積の経験は印象的である。諏訪地域では,主力製品が時計,オ
ルゴール,カメラ,プリンタ,産業用機械と時代に応じて変化してきたが,その移り変わりの都度,有力
メーカーの倒産や地域外メーカーによる買収等が起こっている。企業の解体・縮小の都度,その従業員の
流出が生じたのだが,その従業員から地域内で中小企業を創業する起業者が出現するのである。これらの
新企業は,地域内の他の中小企業と連携しながら各種の下請的業務を行う。その結果,地域産業の崩壊や
失業者の流出といった事態に一定の歯止めがかけられてきたのである2。
地域内でこのような柔軟性が機能する上でもっとも基本的な条件は,この地域にある程度まとまった量
で関連産業が蓄積していることである。企業間・人材間の結びつきが複雑であるが故に,外生的なショッ
クの影響が分散され,また失業に至った人材の新たな活動の場もまた失われないことになる。また,地域
内の最終メーカーが複数あり,それらが技術的には相互に関連を持ちながらも製品分野としては多様な広
がりを持っていることも重要である。すなわち,地域内には,自社製品を持たない下請け企業が多く存在
しているが,これらへ仕事を回し,経営を維持させている親企業が一社しかなければ,その企業が苦境に
陥れば地域全体が危機に陥る。しかし諏訪地域ではこうした「親」の役割をする企業が複数あり,また下
請け企業も一社専属ではないために,地域全体では環境変化に強い産業が維持されることになっているの
である。
同様の指摘は,浜松地域のソフトウェア産業の集積形成過程を分析した長山(2010)でもなされている。
浜松のソフトウェア産業集積は1980年代以降に形成されたが,浜松地域のヤマハ発動機やスズキ自動車な
ど複数の輸送用機械メーカーがこの創生期に顧客として存在したことがソフトウェア製品の開発に大きな
1 産業集積における技能形成と経営の分化についての文献は数多いが,坂城町についてはたとえば野松(1997),関・柏木(1990),
大都市集積については,大田区については渡辺(1997),墨田区については渡辺(1998),大阪市の一例としては松永(2004)な
どがある。
2 群馬県東毛地域では,産業構造の転換を何度も経験しつつも多業種を抱えることで地域の従業者総数は安定して推移したとい
う(松島 2005)。
― 50 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
日本楽器製造(現ヤマハ)
1887
ヤマハ発動機
1955 (梶川)
設立年
舟艇事業部出身
1980 年
YEC
1980
(堀内部長)
アルモニクス
1984 (秋山)
1985 年
技術電算委員会
ミネルバ
1986 (松野本)
(清野室長)
スペースクリエイション
1987 (青木)
1990 年
インテグラ
技術研究所
1991
(ミヤノ・奥津)
アミック
1992
(田北)
アルテア
1993 (鈴木)
1995 年
アールテック
1998 (小杉)
アメリオ
1996 (三浦)
エムシースクウェアド
1999 (大野)
ソフテス
1997 (鈴木)
エリジオン
1999 (小寺)
2000 年
プロス
2000 (太田)
ゾディアック
2003 (堀田)
2005 年
光分野
(2001)
(注) ( )は社長名,敬称略。
図1 ヤマハ発動機(株)からのスピンオフ連鎖図(ソフトウェア業)
出所:長山(2010)
意味を持った。
このソフトウェア産業集積が形成されるきっかけは,ヤマハ発動機が収益悪化に伴って技術者の早期退
職を促したことにあった。これに応じた技術者のスピンオフが連鎖的に発生して,三次元データに基づく
設計開発支援ソフトウェアを中心とする企業が多数生まれたのである。そしてヤマハ発動機以外の最終
メーカーが,顧客としてこれら企業に厳しい要求を行い,製品を洗練させていく推進力となったのである。
このように,元々浜松には,最終メーカーが多数存在する複合的な産業集積が存在しているが,その厚
みが経営危機に陥った企業の技術者を地域内にとどめる受け皿として機能し,そしてこれらの技術者が新
たな産業集積を地域に付け加えていくという累積的なプロセスが見られるのである(図1)。
しかしながら,1980年代後半以降こうした産業集積は縮小の段階に入っている。とりわけ90年代以降は
危機が深化し,製造業の縮小は他地域よりも著しい(植田 2004)。その主因は親企業の生産の海外移転が
機械関連業種の全般に及ぶようになったことである。それ以前の危機を業種転換によって乗り切ってきた
産業集積地域も,ほぼすべての製造業種が海外での調達と生産を本格化させたことで,新産業の発生や新
製品の開発段階から中国などのアジア諸国と競合することとなったのである。多様な業種を抱える産業集
積地域といえども,地域全体が完成品メーカーの量産下請という立場であったために,幅広い完成品メー
カーが一斉に海外に抜けたときにはその影響を逃れることはできなかったと言える。現在の産業集積地域
は,相当数の企業数の減少を伴いながらも,量産下請からの脱皮と新たな市場開拓を目指した変革期にあ
― 51 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
ると言えよう。
1-2.多数の工場を誘致することによって外来の工場が主体となった集積
第二のケースは,自治体による積極的な誘致が功を奏し,多数の外来工場が立地したために産業集積が
形成された例である。岩手県北上市,島根県斐川町などがその典型である(関 2004)。これらの地域では,
先覚的な町長や自治体職員,それを支える地域の有志グループが存在しており,活発な誘致活動を早期か
ら長期にわたって継続している。大都市圏の工場が郊外や地方へ向けて分散する傾向があること,高速道
路や新幹線などの高速交通網が整備されてきたこと,そしてそれに伴って迅速で小口でも配送可能な流通
サービスが広がったことなどによって工場の広域展開が容易になったこともあって,大企業の分工場のみ
ならず,その関連の中小企業の移転もまた進むことになった。これらの中小企業は,大企業の分工場が連
れてきたものもあるが,単独の誘致に応じて移転してきたものもあった。こうして外来の工場群がまと
まって立地することによって,地域内の工業系人材が地域に残ることができるようになった。また,同種
の技術を持つ中小企業が複数立地しているため,これらの企業に共通の課題を立て,地域全体で技術開発
などの具体的な連携・交流活動を作ることもできるようになった。こうして産業基盤を整備する必要性に
ついて地域全体に合意を取りやすくなり,単なる企業誘致を超えた地域産業育成のための取り組みが広が
ることになった。このようにして,外来の工場を主体としつつも,一定の厚みを持った産業が地域に生ま
れることとなったのである。
北上市と斐川町のケースに共通しているのは,誘致活動の熱意が強いということである。たとえば関・
加藤(1994)によると,北上市の誘致が成功した最大の要因は行政側の誘致に対する果敢な取り組みであ
る。北上市では誘致担当職員が毎朝主要経済紙を読み,メーカーの工場増設を感じ取ると,その企業を即
座に訪問し,断られても数回にわたって粘り腰で訪問を続ける。こうして地方工場を展開する意向を確か
めると,次に市長が即座に企業を訪問して誘致活動を積極化させると,候補地を探していた企業は北上市
の熱意に打たれて進出を決定したというのである。しかもこの誘致は闇雲に行われたわけではなかった。
北上市では,機械金属関連業種の生産連関を念頭に置きつつ,地域の生産機能を多様化することをねらっ
て,大手のみならず中小企業にも立地を働きかけていったのである。こうした戦略は当初から構想されて
いたわけではなく,誘致を働きかけた工作機械メーカーのミヤノとの関わりの中で生み出されてきたもの
であった。積極的でねばり強い誘致活動が自治体側にこうした「気づき」を引き出し,北上市の地域産業
形成をいっそう深みのあるものにしたということが出来よう。
また,斐川町の例では,富士通の工場を誘致したときには,担当者は10年間富士通に通ったという。企
業に何度となくお邪魔して御用聞きを繰り返すことはもちろんこと,地域に工場が来た後もご用聞きを続
ける。これは斐川に来れば成功するというブランドを作ることをねらっているからである。村田製作所を
誘致したときには1ヶ月で150名の従業員を集めるように依頼され,企業側担当者とともに周辺市町村を
回るということもあった3。
このような熱心な誘致活動は,斐川町で約30社,北上市では165社が移転してくるという大きな成果を
上げた(Ibid.)。しかしこれら外来型の集積形成は,また共通の問題点も有している。
もっとも大きな問題点は,外来企業と在来産業との連関が薄いということである。これには二つの要因
がある。
第一は,地元側に外来の工場の仕事を請けられる企業が少ないということである。関連業種が元々少な
いということもあるが,より深刻な問題は,同業種(たとえば金属加工業や機械機器製造業)であっても,
3 斐川町役場での筆者インタビューによる(2004年12月)。
― 52 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
外来の工場が要求する技術水準・生産能力等に応えられるだけの企業が地元にほとんど存在しないという
ことである。在来企業が周辺の工業的需要を満たすことを中心として形成してきた技術的能力と外来の工
場が広範な市場で競争力を持つ製品を作るのに要求する技術的能力とは相当程度に異なっていたために,
在来工場が外来の工場の協力工場として仕事を請けるには,技術水準の向上にかける時間が必要であるだ
けではなく,既存事業を打ち切って外来工場向けの新規投資を行うなどのかなり思い切った決断を必要と
する。このように,在来工業と外来工業との技術ギャップは外来工業の地元調達率を低めた一因と言える。
第二の要因は,外来企業の生産体制がそもそも自己完結的であって外注を余り必要としないということ
である。たとえば純粋な外来工場がノックダウン工場であれば,部品供給は親企業とその関連企業から
100%支給されるから,地元工場に外注する余地はほとんどない。また半導体工場や化学工場は生産プロ
セスの管理を厳格に行うために工場内ですべての工程を統合させている場合が多い。また,地元企業には
外注先として期待できないと外来企業が判断した場合には,工場設置段階で自社内での一貫生産を行う形
でラインを組むこともある。
こうした理由から,企業誘致主導で形成された産業集積では地域内に生産の連関ができにくいという傾
向がある4。このため,北上市では生産の連関を作る上で必要な業種(たとえばメッキや金型など)の中小
企業を選択的に誘致し,さらに岩手大学との産学連携を進めることによって,機械工業に必要な基盤技術
を地域内に確立することを目指している。外来工業を地域に定着させ,少数の分工場の動向に左右されな
い産業に育てようとしているのである。
1-3.集積を形成していない分工場
しかしながら,これらの地域のように,誘致された企業を中核として産業集積を形成するケースはそれ
ほど多くはなく,進出企業が孤立したまま地域内に産業連関を形成しない場合がほとんどである。大都市
圏から外れた地域には,このような孤立した進出企業が大小さまざまな規模で多数点在している。こうし
た孤立した工場が点在している地域の例として,関・松永(2009)にしたがって,島根県雲南市の事例を
検討してみる。
雲南市は2004年に大東町,加茂町,木次町,三刀屋町,掛合町,吉田村の6町村が合併して生まれた市
であり,島根県東部の典型的な中山間地域に位置している。関・松永によれば,この地域で把握されてい
る進出企業は1961年以降の37件であり,その業種別の内訳は表1のようになる。
この表によれば,雲南市に進出した企業の特徴が年代によって大きく変化していることが分かる。1960
年代にこの地域に進出したのは,主に繊維工業であり,60年代の進出件数14件のうち7件を占めている。
2件の電機・電子関連業種と併せると,全体の約6割が労働集約型・軽作業型であり,もっぱら女子労働
力の調達を目的とした進出であった。
続いて1970年代にも全部で14件の進出が見られたが,この時期に入ると繊維産業に代わって金属・機械
関連業種の進出が目立つようになる。この業種は主に男子労働を利用するが,依然として「安くて豊富な
労働力」としての雇用という位置づけであった。
1980年代に入ると,雲南市の進出企業は2件にとどまるが,1990年代になると再び工場進出が増加して,
金属・機械関連業種5件を中心として7件となっている。この時期に進出した企業の進出動機を見ると,
本社の生産拡大に伴う地域間分業の再編,生産機能の分離をきっかけとしていることが多い。特に関西か
ら九州にかけての西日本への納入を目的として,都市部に比べて人材調達の容易さが期待されていたよう
である。たとえば広島のマツダへの納入を目的として作られた九州住電装島根工場,本社岡山事業所の製
4 同様の問題は,海外技術移転においてもよく指摘されている。
― 53 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
表1 島根県雲南市の誘致企業
進出
件数
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
繊維
閉鎖
14
14
2
7
電気・電子
閉鎖
存続
2
存続
7
1
1
1
1
金属・機械
閉鎖
存続
2
日用品
閉鎖
存続
3
5
1
4
2
その他
閉鎖
存続
2
1
2
1
1
出所:関・松永(2009年)から筆者作成
品組立・検査工程に特化した島根イーグルがそうである。これらの工場の進出は,製品納入先からの立地
可能範囲の中で人材確保の見込みが高い地域を選んで行われたと考えられる。
その一方,それ以前に立地した既存工場では,当初の生産品目は既に海外へ移管されたり市場が縮小し
たりして消滅していることが多い。特に電子部品生産と縫製業ではこうした変遷が大きく,生産品目の技
術的な成熟化や市場における陳腐化,海外における生産拡大によって海外移管される以外にも,他工場の
生産品目の増産などに伴う支援・機能分担の要求によっても,業務の変更が起こっている。そしてそれに
伴って雇用もまた増減している。分工場自体の立地は継続していても,工場内部では絶えず業務再編の圧
力に晒されているのである。そして,そのような対応が出来なかった工場の多くは消滅してしまったと考
えられる。実際,60年代に雲南地域に進出した工場14件のうち13件が,70年代の14件のうち3件が閉鎖さ
れている状況である。
このように,農村や山間部にあり,国際競争とは一見無縁なように見える工場であっても,産業の動向
や本社企業の経営に組み込まれた存在である。数十年間変わらずその地で安定して操業を続けているよう
に見える外見とは裏腹に,工場の内部では競争環境の変化や企業の生産体制の再編への対応を迫られ,操
業維持のための持続的な努力が求められているのである。
以上,地域に工場が定着しているこれら三つのケースのいずれにおいても,存続のための取り組みが続
けられていることが確認できる。進出当時の情勢は変化し,その変化に対応するための努力が繰り広げら
れている。地域にとっても,工場が立地すれば経済が活性化するのではなくて,その工場のこのような経
営努力が実を結び続けることが活性化の重要なカギとなる。工場の安定的な操業をどのように支援できる
かが問われているのである。
2.企業誘致型産業振興の限界
高度経済成長期から近年に至るまで,日本の各地では工場誘致は産業振興の重要な柱であった。これは
大都市圏の過密と地方の過疎を緩和し,大都市圏と地方との経済格差を縮小させることを目的とした国土
計画とも合致した動きであり,工業の地方分散はこのような政策上の取り組みによっても促進されたと考
えられる。近年においては,企業誘致は大都市圏の工業集積再編の手段としても重視されるようになって
おり,とりわけ臨海部での先端産業集積への取り組みが活発化している。しかしながら,地方においては,
工場誘致を産業振興の柱と見なすことはすでに困難になっている。
そもそも,地方の工業集積の成長と分工場の地方分散は,第二次世界大戦後の日本の地域構造の変化に
合わせて起こってきたものである。高度経済成長に象徴される所得の向上と自動車と電化製品に象徴され
る機械製品の普及は,各地の工業発展の基礎条件となった。たとえば,岡谷市などの工業集積の発展の原
動力になったのが日本の工業の市場拡大であったことは疑えない。自動車や電気機械等に対する高度成長
期における急速な増産要求は,企業内の生産能力拡張よりもむしろ企業外の中小工場を利用する動機とし
― 54 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
て作用し,系列的で重層的な下請制を発展させた。この過程で地方都市の工業集積には機械部品加工,組
立等の仕事が大量に舞い込むことになった。この仕事量の急速な拡大への対応として,分工場や上位下請
工場の周辺に中小工場の増殖が見られたのである(富澤 2005)。
また,経済成長と同時並行的に発生した農村部から都市部への労働力移動による過密と過疎という大き
な構造変化は,大都市圏から地方へ工業が脱出する圧力として作用すると同時に,政策的にも工業を地方
へ分散させる契機となった。たとえば前述した北上市の事例は,大企業が自社工場を地方展開させるとい
う動きに乗じて関連産業を戦略的に誘致し,地域内に大企業の分工場を軸とした産業連関を形成しようと
した事例ということができる。北上市への工場立地の主ないきさつは,既存工場がある都市部での拡張が
困難となって地方への展開を模索しているところへ,北上市の立地条件と地元の強い誘致努力とが相まっ
て進出したものである。この地方展開への動機は,工業再配置政策が象徴するように,都市部からの工業
の排除政策に加えて,都市部の人口集中による宅地化圧力と,産業の高度化に伴う地価上昇・人材難を回
避するためというものであった。これと同様の工業の地方分散圧力は,各地に孤立的に散在する分工場の
進出についても見ることができる。先に見たように,雲南市に進出した企業の進出動機には,都市部では
確保困難な労働力・人材を得られるという見込みがあった。これらの事例は,都市の成長と集中が進むに
つれ,立地の高コスト化と操業条件の悪化に直面した企業が都市郊外へ,そしてさらにその周辺へと工場
を移転させていくプロセスを示したものと言える。
こうして,日本の経済発展は,工業が地方へ拡大しつつ分散するための基礎条件を形成したのであるが,
この地方分散を容易化したのが,鉄道と道路網の整備による流通・移動の高速化と,生産工程の自動化と
高速通信網を実現した技術革新である。このあたりの事情を安東(1986)にしたがって整理すると次のよ
うになる。1960年代以降製造業,とりわけ機械工業で進展したオートメーションとシステム化という二つ
の技術革新によって,それ以前の労働者個人の属人的な熟練労働に依拠した生産体系が,管理労働と単純
労働とへ分化した。これは,それまで企業内で進められていた分業システムを企業外へ拡大することを容
易にし,その結果,それまでの工程に固有の労働能力を必要としない単能的な労働力を分工場,あるいは
下請系列工場の形で地域分散的に調達・編成することが可能になった。このことは,地域の側においても,
十分な資本や経営技術,工業生産に特有の技術などを持っていなくても,労働力と土地を提供できさえす
れば,工場の誘致が十分可能であることを意味する。そして,このような単能的労働力利用を目的とした
立地は「二重の構え」をもって行われた。すなわち,第一に地方の若年労働力を多用する比較的規模の大
きい量産型拠点工場である。このタイプの工場は,大都市圏で開発設計された製品の量産を受け持つため,
大量の資材・製品の輸送と周辺地域からの通勤に便利な幹線道路沿いに立地する。第二に「縁辺労働力」
の活用を目的とした労働集約的な小規模工場の立地である。ここでは,遠距離通勤の困難な農家の主婦な
どのパート労働力の利用を目的として生産性の低い労働集約的な工程が切り離され,幹線道路とは離れた
山奥など,交通が可能で労働力利用が見込める土地であればどんなところであっても立地した。
こうした生産体系の変化の結果,研究開発機能や管理機能は大都市圏に集中して残り,量産品の加工組
立という生産機能は,技術革新とともに分離可能となった工程から次々と地方へ移転していくこととなっ
た。このような工程は地域特殊的な立地要因を持たないから,未熟練であっても一定量の労働力や用地の
調達等を見込めれば,どこに立地してもかまわないことになる。地方が物流・通信インフラを整備し,用
地整備を行えば,一定の工場進出が見込め,そしてそれが地域の産業振興・雇用確保政策として有効で
あったのは,このような事情によるものであったのである。
こうして,都市部の企業による生産機能の分散というトレンドに乗って地方の工業化が進展した。その
結果,量産型の工場が市場である大都市圏に比較的近い立地を選択し,そしてその量産工場へ向けた部品
生産や未熟練労働集約型で量産化しづらい生産工程を受け持つ工場はさらにその周辺に立地するという地
― 55 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
域間の分業構造が形成された。これにより,地方に展開する工業の構成が立地選択の幅が広く海外と競合
しやすい量産品の生産機能に集中するという地域産業構造の「純化」(柳井 1996)が生じたのである。確
かに,諏訪地域のように,地域に進出した分工場や下請工場が地域内での取引関係を深め,それが関連企
業の簇生と自律的な研究開発機能の蓄積をもたらすという事例は存在したが,そうしたケースはきわめて
限られており,ほとんどの地域では,依然として管理・開発機能を持たず,都市部の管理に服する分工場・
下請的な生産機能のみへの特化が続いている。従って,企業誘致による地方の工業化は,地域の産業連関
を深化させ産業を発展させることには十分つながらなかったと言えよう。
3.変わりつつある国内工場の役割
企業誘致は,地域に製造業の連関を作り出すことには成功しなかったとは言え,地域内に雇用を生み出
し都市部との所得格差縮小に一定程度の効果があったと考えられる。これは,地域内に比較的高賃金な仕
事を生み出だされたことによって,より低所得の部門,すなわち農業やその他自営業の業主層や家族従業
者,専業主婦などが高所得部門へ移動したことによっている。ただし,地方に進出した工場は,比較的生
産性の低い生産工程を担うものであったため,地域間の生産性格差はほとんど縮まることがなかった。さ
らに,これらの進出工場は,地方における新規学卒者のニーズを満たす労働条件を持つものは少なく,新
規学卒者を地域内につなぎ止める力とはならなかった(安東 1986)。この意味で,地方の企業誘致は,地
域経済を分工場経済へと転化させる要因となるものであった。
このような分工場経済への転化は,上述のように,工業の成長が継続し,大都市圏から地方へ向けた生
産機能の移転が続いている限りは,大都市圏との所得格差,生産性格差を一定程度温存しつつも,地域の
工業化と所得向上をもたらしうる。しかし,今日の日本では,こうした条件はほぼ失われている。それは,
従来地方立地の根拠とされてきた二つの優位性,すなわち労働力供給面での優位性と大市場への近接地と
しての優位性のいずれをも失いつつあることによっている。
まず労働供給面の優位性については,地方は従来の分工場の進出先という役割をアジア諸国によって奪
われつつある。これは,地方で「純化」される生産領域が,アジア諸国が競争力を持つ生産領域とほぼ重
なっているからである(関・加藤 Op. cit..)。このため,地方が従来果たしてきた量産品の生産機能の受
け皿としての役割はアジア諸国に取って代わられつつあるのである。これがアジアと日本との圧倒的な賃
金格差によることは言うまでもないが,アジア諸国への工場流出が急速に進んだ背景には,アジア各国に
おいて工業化が進展し,交通網と通信網とが整備されて企業立地の選択肢がきわめて広域に拡大したこと
がある。こうして大手メーカーは,アジアにおいて若い労働力を豊富に利用できるようになった一方,国
内では,それまで労働集約的な工程の受け皿であった地方においても,すでに十分な労働力を確保できな
い状況が生じている。過疎化と高齢化によって若年労働力の実数自体が減少しているだけではなく,工場
での現場労働が忌避される傾向も強まっているからである。実際,先に見た島根県雲南市の事例において
も,進出してきた工場が満足に人材を雇用できず,人員不足のまま操業していたり,離職率の高さに悩ん
でいたり,外国人の技能研修・実習生を利用していたりしている実態が見られる。これから工業化が本格
的に進展するアジア諸国に対して,これらの地方はすでに労働力の天井と言っていい段階に達しつつある
のである。
次に,地方は大市場圏への供給を意図した市場近接型の立地についてもさほど期待を持てなくなってい
る。1980年代までは大都市圏内の立地困難を理由とした地方への工場進出が相次いでいたが,日本経済が
低成長・縮小型に移行した現代では国内市場の大きな成長をあまり望めなくなっている。図2のように,
工場等の新規立地意向はここ20年間で大きく低下しており,新規立地を大きく期待することはできなく
― 56 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
図2 新規立地意向割合の推移
出所:神藤(2010)
なっている。
加えて,都心での工場排除圧力も弱まっており,工場立地は再び都市部への集約化傾向を見せつつある
(神藤 2010)。都心での工場立地規制が緩和されており,再び大都市圏への集約化が起こりつつある。そ
れに加えて,大都市圏の臨海部再開発に見られるように,都市型産業集積の再生を目指そうという動きも
出始めている。こうして,地方は,工場の都市部脱出の受け皿という役割も失いつつあるのである。
4.企業誘致と地域産業振興の行方
以上で見てきたように,地方が従来型の工場進出を期待することは今後ますますできなくなって来るで
あろう。今後日本に残る工場は,研究開発機能,プロトタイプ創出機能に特化したマザー工場と,海外か
らの輸入品との内外価格差の面で優位性が残る分野における国内市場向けの工場が中心となるであろう。
そして,これらのどちらの工場も,地方に立地するメリットはあまり大きくないと考えられるからである。
マザー工場においては,専門性の高い研究開発要員を確保し,関連技術を持つ企業群や顧客と密接な情報
交換をしなければならない。こうした面では大都市圏に立地優位性があるのは明白である。さらに近年で
は,中国を初めとするアジア圏の高度人材に期待して,研究開発拠点を日本から移転させる動きも見られ
るようになっている。したがって,熟練度の低い労働力の豊富さにおいても,高度な人材や研究機関の蓄
積においても,日本の地方はアジア圏に対して優位性を持っていないのである。
また,国内において市場近接型立地を行う場合にも,すでに大都市圏でも人口集中圧力が徐々に低下し
つつあって,都市内またはその近郊での立地可能性が向上しつつあることや,大都市圏の産業振興におい
ても都市内へ工業を呼び戻そうという動きが起こりつつあることを考慮すると,地方圏への進出可能性は
それほど期待できないであろう。仮に地方に立地したとしても,その立地は微妙な費用条件のバランスの
上に成り立っているものである以上,その立地は絶えず移転する可能性をはらむものとなる。特に近年は,
― 57 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
開発・生産技術の向上と生産システムの革新が進んでおり,費用管理が高度化し,原材料・部品の調達先
も世界規模で広域化し,流通管理も精密に行われるようになってきている。このことは,原材料・部品の
価格変化や為替レートの変動などの立地選択に対する影響が大きくなりつつあること,言い換えれば立地
選択が流動化しつつあることを意味している。加えて,近年は製品開発サイクルが短縮化し,既存製品の
陳腐化が早くなっている上に,異分野融合も進展しているため,工場側の生産内容や規模の変化を予測す
ることが難しくなっている。このように,今後は工場立地の不透明化・不安定化が進むと考えられる。従っ
て,地方が企業誘致活動で期待できる経済的利益は従来よりも縮小し,分工場が地域産業を不安定化させ
る可能性は今後ますます大きくなっていくであろう。
4-1.地域が取りうる対応
以上で概観してきたように,今後,企業誘致を軸として地方振興を行っても,その実現可能性は大きく
なく,またそこから期待される効果も小さい。従って,過去の周辺地域の立地動向や産業の動向に基づい
て立地予測を立て,用地整備計画を作るのは危険である。新たな工業用地造成ではなく既存用地の利活用
を主にし,極力よけいな開発コストを負担しないようにし,過剰なリスクを取らないようにすることが重
要である。特に,工業集積の薄い地方圏では,地理的条件だけで誘致しても進出企業は長続きしない。工
場が持続的に競争力を向上させられる環境を整備することに重点を置くべきである。
また,地域の余剰労働力を吸収してもらうために工場があるのではない。1980年代後半までの,単純労
働を提供して現金収入を与えてもらうために工場があるという図式はもはや通用しないのである。従っ
て,雇用創出を主眼として新規立地を増やすという方法にはこだわるべきではない。地域に固有の存立基
盤を持たない産業は,その規模が拡大すればするほど地域の不安定要因となる。従って,地域内の関連性
が高い既存産業を育成強化することを産業振興の主軸とすべきである。企業誘致も,こうした観点から,
既存産業の発展に資する企業を戦略的に選別して行うべきである。
4-2.工場が地域にある意義は何か。
そもそも,工場を地域に呼び込むことの意義は,資本や技術が乏しく,自力では工業化を起こしにくい
地域に産業発展の核を導入し,地域に「労働の成果物を地域内でより効果的に蓄積し,より効果的に組み
合わせることによって,同一労働量でより高い価値の生産を可能にしていく循環的・累積的な発展機構」
(安東 Op. cit., p.21)を形成することにある。このためには,生産現場,市場,財務,組織運営などの分
野で経験と知識を身につけ,経営的マインドを持った企業家的人材を地域にある程度の厚みを持って滞留
させられることが必要である。しかしながら,こうした知識,マインドは,実際の業務の中で互いに厳し
く切磋琢磨するような経験の中で培われるものであり,それはしばしば地域外の大手メーカー等の要求水
準が高い顧客や取引関係によって磨かれるものである。この点で,地域に進出した工場は地域の内と外と
をつなぐ窓という意義を持っているのである。地域の人々が工場を媒介として産業に携わる知識・経験を
得て,自らのものとして消化することで,地域の人々が主体的に関わる産業の発展を準備すること,この
ために工場を維持する意味があるのである。
しかし,現実には地域に工業の「循環的・累積的な発展機構」が形成されることはほとんどなく,産業
の蓄積を進めるには外部からの継続的な工場進出に期待するしかない状況である。これらの工場は生産機
能に特化した分工場であり,経営的判断を行う管理機能も市場開拓を行う販売機能も持っていないものが
多い。さらに,工場が現地採用する人員の多くは現場オペレータ要員として配置される。このため,工場
勤務の経験で得られる知識や情報は生産面に偏っており,多くの場合,工場のラインワーカーとしての技
能形成に限られてしまうのである。このことは,内発的な産業集積の形成時にしばしば観察される技術者
― 58 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
や技能者からの起業において,これらの技術者や技能者が創業前にすでに潜在的な顧客や協力者に関する
知識とネットワークを持っていることと対照的である。
しかし,地方の工場が大都市圏の製造業の量産機能の脱出先という役割をアジア諸国に奪われつつある
近年には,地方圏で存続する進出工場の中に興味深い動きもあるようである。たとえば,前述した関・松
永(Op. cit.)の報告によると,雲南地域の進出工場の中には,進出当時はほぼ完全な1社専業下請であっ
たが,その後親企業が発注を海外移管する中で,自力での生き残り努力を求められ,工場の管理職が取引
先開拓の試行錯誤を行う中で,それまでに工場で蓄積した技術・製品を再評価していくという経験を行っ
ているものがあるようである。また,いったん経営破綻した誘致工場を従業員や労働組合,地元の有志な
どが買い取り,地域の人々が自らの手で販売先の確保や経営管理,生産管理等を行い,苦労しつつも経営
を軌道に乗せていくという経験をしているところもある。これらの例では,いずれもが地元の人間が経営
や販売などの権限を持ち,日々経営上の意志決定を行っている点で共通している。分工場の進出を契機と
して,紆余曲折の後ではあるが,結果的に地域の工場として自立への道をたどろうとしているように見え
るのである。
ところがこれらの事例とは対照的に,工場進出後に地元採用された人々がどのような仕事上の経験を積
み,どのような技能を形成していくのか,この人々を経営的知識を持った人材へ育てていくためにはどの
ような方策が必要なのかという観点から行政が産業振興を位置づけている例は皆無と言ってよい。ほとん
どの場合,企業誘致の成功とは進出企業の工場が稼働し始めることと同義だと思われている。しかし,こ
のような態度は,地域産業の「循環的・累積的な発展機構」を作るための資源である地域の労働力,人材
を特定業種の生産技能しか持たないラインワーカーへ変形してしまう。こうして地元での起業の芽をつぶ
していくことで,結果的に地域経済を分工場経済の持つ不安定性の中へ引き込むことになるのである。
4-3.地域を守るために
本質的に不安定性を抱えているとはいえ,進出工場は地域にとって貴重な雇用の場であり,また地域の
産業創生の礎となる可能性を秘めた存在でもある。今後の企業誘致においては,誘致前だけでなく誘致後
にその企業をどう活用するかを視野に入れつつ,戦略的な努力が必要とされることは言うまでもないが,
現在すでに地域で操業している工場をどのように維持し,活用していくかを考えることもまた重要な課題
である。工場の雇用調整や再編,撤退に地域の側が干渉することはきわめて困難であるが,それでもなお,
地域の側で行えることはいくつかあるように思われる。
まず,工場,企業との連絡を密接にし,工場の新たな展開について絶えず工場・親企業側と情報交換し
ておくことである。また,それに並行して業界の動向に関する情報を把握しておくことも重要になる。大
都市圏に本社がある大手企業の分工場の場合,工場再編時に地域側の事情を斟酌する余地は小さいかもし
れないが,業界動向と工場の現況とを対照することで,その工場の社における位置づけや工場の“寿命”
をある程度予測できるようになる。工場がどんな問題を抱えているかを具体的・詳細につかむことが,い
ち早い対応を可能にするということである。また,工場側とのこまめな情報交換は,地域と工場との相互
理解・協力関係の素地を生み,工場が地域に残りやすくする上で適切な支援を行うことも可能になる。
次に,労働供給面での協力も重要である。地方と言えどもすでに工場が人を集めるのは容易ではなく
なっている。地域に製造業の担い手をどう育てていくかという問題とも絡む重要な課題だと言える。さら
に,一時帰休などを含む雇用調整へどう対応できるかも重要な問題である。工場側の労働力の弾力的な運
用を支援しつつ,短期で変動する雇用調整が労働側の生活不安に直結しないようにすることを目指す必要
がある。この面で,フルタイムで働き家計を支える中心的な役割を担う人や他の仕事や活動を行いつつ仕
事をする多就業の人など,個々人の働き方を十分に把握しておくことが重要である。
― 59 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
このほかにも,中核を担う地元人材を継続的に供給することや技術的連関を近隣と広域で形成するこ
と,市場開拓支援など経営戦略面での関与を強めることなどで工場側と関係を強めることが考えられる。
いずれにせよ,工場側に地域との関係を強めさせ,その一方で,この工場に関連する領域の技術的な連関
を強めていくという方向での方策が求められるのである。
4-4.既存工業の脱落に備える方向
このように,既存工場の動向を注視し,工場との関係を深めて工場が撤退するリスクを減らすという努
力に加え,これらの工場が撤退したときの備えを整えることもまた重要である。工場の立地がますます流
動化しつつある今日,現在安定的に操業している工場であっても,いずれ生産の海外移管,撤退という日
が来ることを想定しておくことは,撤退時に地域経済が過剰なショックを被らないためにも重要である。
実際に撤退が生じたときに解雇された人への緊急支援体制を普段から準備することが望ましいが,この
段階で実効的な対策を取ることは,産業の蓄積が小さい地域においては容易ではないであろう。そこで,
こうした支援体制の整備に加えて,労働側の柔軟性を確保することが重要になる。たとえば,家計の収入
源を分散させられるような就業形態を地域全体で実現する方向はその一つである。農林水産業のみならず
サービス業なども含めた兼業の促進や,家計収入を支える人が複数いるような家族構成の形成を支援した
り,地縁血縁を通じた相互扶助のネットワークを維持発展させることなども一考に値しよう。また,解雇
時に転職を容易化するように,工場側と協力して労働者の幅広い技能形成を支援したり,普段から就労し
ながら異分野の教育訓練を受けられるような制度を設置したりすることも有効であろう。
しかし,最も根本的な対策は,リスクヘッジと分工場経済の不拡大路線を取ること,すなわち,地域産
業を複線化することである。たとえば,大型の誘致は避け,大型プロジェクト等による財政拡大路線を取
らないことは重要である。地域の経済規模と調達可能な労働力の見通しに基づいて,これらの制約条件と
整合的な産業構成を構想することが必要である。高度成長期から今日までの地域産業振興は,他地域との
格差に注目して産業開発を行う発想に基づいていたと言える。この発想の基に,個別産業単位で地域間の
集積規模や競争力を比較し,個別産業における自地域のプレゼンスを強化するという地域産業の発展モデ
ルが作られていた。
しかし,この方法は外来産業の誘致に安易な頼り,地域に自律的な産業創生システムを作り出すという
努力を怠るというバイアスをもたらした。もはや企業誘致に多くを期待できなくなった以上,今後は在来
の企業・産業を基礎とした低成長安定型の経済構造を目指すことを基調とするべきである。これは,地域
の固有性を尊重し,他地域との差別化を図りながら,産業構成のポートフォリオバランスを整えることで,
個別産業の発展可能性は不透明でも,地域全体としては安定的な経済を実現するという方向である。
まとめ
工業団地を整備して地域産業を振興するという手法の有効性はますます薄れつつある。企業の立地は時
代に応じて移り変わり,立地の選択はますます広域化していくであろう。地域は,特定工場の存在を前提
にせず,地域内に操業する工場は絶えず変化するものだということを前提した上で地域産業の育成に取り
組まなければならない。農林水産業や地場産業が衰退するなど疲弊が進行している地域は増加している
が,産業振興には本来的に決め手などは存在しない。地域産業を総合的に捉え,一業種に依存しない構想
を地域が持ち,長期的視野で地域の住民・企業へ働きかけていく必要がある。その一方で,農林水産業か
らサービス業に至るまで産業の現場に密着して,経営の実情と働く人々の生活実態を普段から理解するこ
とが重要である。こうした地道な取り組みを基礎として,初めて企業誘致は効果を発揮するのである。
― 60 ―
地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方
参考文献
1. 安東誠一(1986)『地方の経済学』日本経済新聞社
2. 植田浩史(2004)「産業集積の「縮小」と産業集積研究」植田浩史編著『「縮小」時代の産業集積』創風社
3. 神藤伸夫(2010)「新規工業立地計画に関する動向調査」産業立地第49巻第1号,45–49ページ
4. 関満博(2004)『地域産業の未来―21世紀型中小企業の戦略』札幌大学経済学部附属地域経済研究所
5. 関満博,加藤秀雄編(1994)『テクノポリスと地域産業振興』新評論
6. 関満博,柏木孝之編(1990)『地域産業の振興戦略』新評論
7. 関満博,松永桂子編(2009)『中山間地域の「自立」と農商工連携―島根県中国山地の現状と課題』新評論
8. 富澤拓志(2005)「日本の補助産業の技術形成とその教訓──いかにして技術習得の努力を編成するか」桜美林
大学産業研究所年報第23号
9. 富澤拓志(2010)「分工場依存型地域産業の課題」地域総合研究第37巻第2号,23–36ページ
10. 長山宗広(2010)「新しい産業集積の形成と地域振興」吉田敬一・井内尚樹編著『地域振興と中小企業―持続可
能な循環型地域づくり』ミネルヴァ書房
11. 野松敏雄(1997)「産業集積地域調査報告―坂城町工業集積の特質」地域経済第17集,43–47ページ,岐阜経済大
学地域経済研究会
12. 松島茂(2005)「産業構造の多様性と地域経済の「頑健さ」―群馬県桐生市,太田市および大泉町のケース」橘
川武郎,連合総合生活開発研究所編『地域からの経済再生―産業集積・イノベーション・雇用創出』有斐閣
13. 松永桂子(2004)「大都市小零細工業における技能形成と継承」植田浩史編著『「縮小」時代の産業集積』創風社
14. 柳井雅人(1996)「工業のアジア展開と地域経済」経済地理学年報第42巻第4号,223–239ページ
15. 渡辺幸男(1997)『日本機械工業の社会的分業構造―階層構造・産業集積からの下請制把握』有斐閣
16. 渡辺幸男(1998)『大都市圏工業集積の実態―日本機械工業の社会的分業構造 実態分析編1』慶應義塾大学出版
会
― 61 ―
ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察
深見 聡*
The primary objective of this writing is to clarify what Geopark is and what the characteris-
tics of Geotourism are, which have been developed in Geopark, to provide further predictive insights into various issues for progressions in both.
In concrete, on promoting Geopark and Geotourism, we considered points to keep in mind
comparing with other kinds of tourisms such as tourism for the history or world heritage, also
the current conditions and problems about enhancement of geoscience and physical geography
education which are essential for promotion of Geopark.
As a result, specialist who study in tourism are obliged to elevate it into more characteristic
tourism area by giving honest advice from the standpoint of tourism specialist on the difficulty
of comments or setting of the routes of Geosites by standing on the definition of Geopark and
Geotourisms.
Thus, by grasping the balance of demand and supply from the viewpoint of tourism study
beforehand, such as Geoside which local residents want to introduce and which tourist feel like
to visit, we should be able see the direction for “sustainable social, economical progress of the
regions”
About geoscience and physical geography in school education, it is difficult to change it dras-
tically.
However, as long as schools exist in relationships with regional communities, we need to re-
think about how they could contribute as school educations in the areas where they call for Geopark and Geotourism.
Ⅰ.はじめに
筆者は,観光地理学を研究分野の中心に置いているが,学部は理学部地学科を卒業し,地質巡検(今日
でいう「ジオツアー」)を身近なものとしてとらえてきた。このことから,日本でもジオパークの議論が
地域づくりや観光といった内容と関連づけてなされている点に,大いなる喜びと関心のまなざしを向けて
きた。近年では,ツーリズムの新たな形態として,ジオツーリズムなる用語が登場し,グリーンツーリズ
ムなどとならびオンサイトツーリズムの1つとして位置づけられるようになった(平野,2008)。
一方で,筆者自身は,大学の講義でジオパークやジオツーリズムについて紹介しても,学生たちの多く
はその名称すら知らないという返答や,そもそも地学に対する関心が低いためにジオパークそのものへの
キーワード:ジオパーク,ジオツーリズム,ジオサイト,地学の面白さ,地学・自然地理学的教育
*本学附置地域総合研究所客員研究員・長崎大学環境科学部准教授
― 63 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
理解が深まらないという現実に遭遇している。これは学生に限ったことではなく,ジオパークをはじめと
する活動は,広く住民レベルにまで認知されているとは言い難い(河本,2009)との社会的動向も大きく
影響しているものと思われる。日本でのジオパークの議論は,まさにこれからが正念場といえよう。その
際,観光研究に身を置く立場からの研究は不可欠なものである。ところが,先行研究をみると,ほとんど
が地質学や地盤工学といった,いわゆる地学およびその関連分野の専門家からのアプローチによるもの
で,観光学からジオパークやジオツーリズムについてどのような展望を描いていくのかという視点のもの
は僅少である1。
本稿は,ジオパークとは何か,そしてジオパークで展開されるジオツーリズムの特徴は何かを明確にす
ることを第1の目的とし,真に両者の発展につながるために克服すべき諸問題について予察的な検討を加
えようというものである。具体的には,ジオパーク,ジオツーリズムを推進していく上で,他の種類の観
光,たとえば歴史観光や世界遺産観光などの場合と比較して留意すべき課題や,ジオパークの推進に欠か
せない地学・自然地理学的教育の充実について,現在抱えている課題について論を進めていきたい。
Ⅱ.ジオパーク,ジオツーリズムとは何か
1.ジオパークとは
ジオパークは,端的に「世界遺産の地学版」と紹介されることがある。これは,世界遺産と同じく,ユ
ネスコが関与している点や,世界的に普遍的な価値を有するものを保全していく点に起因している。より
具体的には,『各国のジオパークがユネスコの支援を得て世界ジオパークネットワークに参加するための
ガイドラインと基準(2008年6月版)』2 によると,「ジオパーク構想は1972年の世界遺産条約に新たな一面
を付け加えるもの」であり,加えて,「社会・経済・文化の発展と自然環境保護の相互作用という可能性
に光を当てる」役割が明文化されている点が大きい。
その後,ジオパーク構想は1992年にリオデジャネイロで開かれた国連環境開発会議で採択,2002年にヨ
ハネスブルクで開かれた,持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルグ ・ サミット)において
その重要性が再確認された。これに先がけて,2001年にはユネスコが世界各地のジオパークに関する活動
を支援していくことを決定している。このような機運をうけ,2004年に世界ジオパークネットワーク
(Global Geoparks Network;GGN)が誕生し,ジオパークに関する具体的な取り組みがなされるように
なった。本ネットワークは,以下の6項目にわたるジオパークの定義を定めている。
1. 地域の地史や地質現象がよくわかる地質遺産を多数含むだけでなく,考古学的・生態学的もしく
は文化的な価値のあるサイトも含む,明瞭に境界を定められた地域である。
2. 公的機関・地域社会ならびに民間団体によるしっかりした運営組織と運営・財政計画を持つ。
3. ジオツーリズムなどを通じて,地域の持続可能な社会・経済発展を育成する。
4. 博物館,自然観察路,ガイド付きツアーなどにより,地球科学や環境問題に関する教育・普及活
動を行う。
5. それぞれの地域の伝統と法に基づき地質遺産を確実に保護する。
6. 世界的ネットワークの一員として,相互に情報交換を行い,会議に参加し,ネットワークを積極
的に活性化させる。
1 ジオパークに関する地理学界の動向としては,2009年度日本地理学会秋季学術大会のシンポジウム「ジオパークと大地の遺産
百選」が6名の報告者のもとに開催されたのが先がけ的な議論の場と位置づけられる。そのうち,観光学の立場から論じたものは,
河本(2009),岩田(2009)の2件であった。国内でのジオパークの議論は,日本地質学会がパイオニア的存在であり,地学界か
らのアプローチが中心であることがわかる。
2 日本ジオパーク委員会ホームページ http://www.gsj.jp/jgc/GGNguidelineJ.html による(閲覧日:2010年7月21日)。
― 64 ―
ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察
GGN へ加盟することで,世界ジオパークを名乗ることができ,その審査には上記の視点が盛り込まれ
ていなければならない。加盟後は4年に1回の活動状況等の評価があり,場合によっては GGN からの認
定取り消しもあり得る3。その傘下として,日本ジオパークネットワーク(JGN)など国内レベルの組織が
置かれている。世界ジオパークを目指すには,国内版ジオパークネットワークに加盟するのが事実上の第
一関門となっている(図1)。
ユネスコ
支援
世界ジオパークネットワーク
(GGN)
日本ユネスコ
国内委員会
支援
GGN 加盟申請
評価
日本ジオパーク
委員会(JGC)
ジオパークの評価
GGN 申請候補の推薦
JGN 加盟認定
日本ジオパークネットワーク
(JGN)
広報・普及・企画
事務局:(独)産業技術総合研究所
評価
ジオパークを
めざす地域
図1 日本におけるジオパークの体制
日本ジオパーク委員会のホームページ http://www.gsj.jp/jgc/organization.html をもとに筆者が作成(閲覧日:2010年7月23日).
ジオパークの定義をみると,「生態学的もしくは文化的な価値
のあるサイト」も包含した,広義の大地の遺産ともいうべき姿が
読み取れる。また,保全や保護にとどまらず,「ジオツーリズム」
をとおした「持続可能な社会・経済発展」を標榜しており,保全
や保護を主目的とする世界遺産とは一線を画す特筆すべき特徴と
いえる。
2010年7月現在,63の世界ジオパークが認定されている。地域
別には,欧州34,アジア27,オセアニア1,南米1と分布してお
り(表1),とくに欧州と中国に集中している(写真1)。
また,JGN が認定する日本ジオパークは,2010年7月現在11
か所あり(図2),そのうち洞爺湖有珠山,糸魚川,島原半島の
3か所は2009年8月に世界ジオパークの仲間入りを果たした(写
真2)。その他,準会員(日本ジオパークの次期認定の候補地)
に箱根や霧島など6か所,オブザーバー(日本ジオパークの有力
な候補地)として磐梯山や茨城県北地域など12か所が名を連ねて
いる。日本ジオパークとなるには,世界ジオパークの場合と似て
表1 世界ジオパークの国別分布
(2010年2月現在)
国名
中 国
イ
ギ
リ
ス
ド
イ
ツ
イ
タ
リ
ア
ス
ペ
イ
ン
日 本
フ
ラ
ン
ス
ギ
リ
シ
ア
ポ ル ト ガ ル
オ ー ス ト リ ア
マ レ ー シ ア
イ
ラ
ン
ブ
ラ
ジ
ル
ノ ル ウ ェ ー
ア イ ル ラ ン ド
アイルランド・北アイルランド
ル ー マ ニ ア
ク ロ ア チ ア
チ
ェ
コ
オーストラリア
日本ジオパークネットワークのホームページ
掲載資料をもとに筆者が作成 .
3 これまで,オーストリア,イギリス,スイスにあった計3か所の世界ジオパークで,認定が取り消されている。
― 65 ―
指定数
22
6
6
5
4
3
2
2
2
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
写真1 黄山世界ジオパークのようす
2004年に認定.1990年には,世界遺産にも登録されている.
(左)黄山の峰々に立ち入るには,3か所あるロープウェイのいずれかを利用する.この利用料の一部は,ジオパーク内の環境保全
に充てられている.
(中)黄山ジオパーク内の各所に設置されている経路案内図.中国語のほか英語・韓国語・日本語で表記されている.
(右)黄山は古生代に隆起した花崗岩が約1億年にわたり浸食されていまの絶景を形成した.
洞爺湖有珠山
アポイ岳
糸魚川
恐竜渓谷ふくい勝山
山陰海岸
隠岐
島原半島
南アルプス
天草御所浦
阿蘇
室戸
0
400km
図2 日本ジオパークの分布
2009年11月現在.日本ジオパークネットワークのホームページをもとに筆者が作成.
― 66 ―
ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察
写真2 島原半島世界ジオパークのようす
2009年に認定.雲仙普賢岳の活動と防災といった,火山と人間の共生について学べるのが特徴.
(左)普賢岳をのぞむ仁田峠(雲仙市)
(右)環境省が整備した雲仙に関する情報館・雲仙お山の情報館(雲仙市)
いるが,JGN への加盟が条件となる。GGN が示したジオパークの定義にもとづき,日本版ガイドライン
が日本ジオパーク委員会(JGC)により策定されており,これにもとづく審査がおこなわれる。
2.ジオツーリズムとは
これまで述べてきたように,ジオパークの定義には,住民主導やツーリズムによる持続可能な社会の指
向性,そのことによる地学を切り口としつつ幅広い環境問題への教育・普及の重要性がうたわれている。
ジオパークの成否は,持続性という観点に立てば,とりわりツーリズムの役割が欠かせない(Newsome, D.
& Dowling, R. eds,2006;渡辺,2008)。
ジオツーリズムは,現在にまで刊行されている多くの観光学系の専門書には,観光形態の1種として記
述されているものはごく少数である。そもそも,ユネスコが支援する世界ジオパークの活動が21世紀以降
に確立しており,当然の結果ともいえる。ジオツーリズムという用語は,1990年代半ばに欧州ではじめて
登場し,2000年代半ばまで,①環境,遺産,文化,健康といった広義性を強調したもの,②地学的プロセ
スを正しく理解することが柱として存在し,考古学・生態学・文化的な価値が地質遺産の一部として扱わ
れるもの,という定義づけに関する2つの考え方が併存していた(横山,2008)。これに対し,近年では,
GGN の示したジオパークの定義に立ち返り,あまりにも幅広いとらえ方をしてしまうと,むしろ「エコ
ツーリズムとの区別がつきにくくなり,拡大解釈されてしまう」懸念から,②の方針が先行研究のなかで
も強調されるケースが増えつつある。一方で,「ジオツーリズムは単なる地質現象の見学や化石採集」で
はなく,「貴重なあるいは重要な地質・地形学的景観を保全している地域における,その景観や環境を損
なうことのない持続可能な」ものであり,子どもから大人までの多世代の生涯学習の場につながる観光と
いう,ジオパークの見どころ(ジオサイト)を積極的な学びの対象として活用することが強調されるよう
4
になった(横山,2008;2010)
。
4 この背景には,日本でもジオツーリズムに類似した観光がなされてきたが,そこには地学的な情報発信がほとんど不足してい
たことがある(岩田,2008)。このような対象(きれいな景観,珍しい化石など)や行動(きれいな景観を眺めるだけ,化石をも
の珍しく見学するだけなど)は,今日でいうジオパーク,ジオツーリズムとは異なると考えるのが一般的である。
― 67 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
Ⅲ.ジオパーク,ジオツーリズムの抱える課題
1.ジオパーク,ジオツーリズムの特徴を反映させること
ジオパークは,エコミュージアムと同様,「地域まるごと博物館」や「野外博物館」といったオンサイ
トツーリズムの一形態に位置づけられる。エコミュージアムは,自然環境と人間環境の地域資源が互いに
主役となって活用されるものであるが(深見,2007),ジオパークは,地質や地形といった地学を導入口
とし,考古学・生態学・文化的な見どころをジオサイトと位置付けて,地学的な価値づけをおこなうとい
う特徴をもっている。この点を踏まえなければ,ジオパークが位置するジオツーリズムの定着はむずかし
い。換言すれば,人間の生活は,地学的基盤(= geo)に支えられており,地質や地形なくして自然環境
と人間環境のかかわり(生態系)は成立しないという側面を学ぶ形に徹する必要がある(図3)。
人間の生活
自然環境
人間環境
生 態 系
地 学 的 基 盤 = geo
(生態系の維持を支える土台)
図3 「ジオ」に基盤をおく人間の生活
河本(2009)を大幅に改変し筆者が作成.
そこで,ジオパークにおいて観光資源を扱う際の課題について具体的に言及していくこととしたい。
第1に,地学は専門用語の多さや地質時間の時代スケールが難解というイメージが一般的に定着してい
る点である。地層や岩石は,もの言わぬ存在であるが故に,動物や植物など,おなじ自然環境に由来する
観光資源にくらべて地味であり,来訪者に多くのジオサイトについて関心を持たせるには相当の工夫が求
められるからである。たとえば,観光の分野において中心的なコンテンツとなっている歴史の場合,政治
史・生活史や人物・建築といった対象がもつ物語性が観光客をひきつける。大河ドラマやバラエティ形式
の歴史を主題とした番組も放送され,歴史は日常生活のなかで比較的メジャーな地位にあるといえる。一
方,地層や岩石は一般的にマイナーな存在であり,いくら魅力あるジオサイトであっても,単に岩石名や
層序,地質用語を羅列した解説をうけただけでは観光客が満足感を得るのは困難である。筆者自身,学部
時代に層位学・火山学・地震学といった科目を履修したが,当初は「柱状節理」や「ポットホール」など
地学における基礎的用語の意味を立体的にとらえ理解するのに苦労した記憶がある。
さらに,歴史の場合は有史時代以降であればわずか数千年のスパンの中で話題が展開されるが,地学で
は,数十万年前や何億年前まで時間をさかのぼるのはざらである。なぜなら,その期間の地表活動の結果
として,現在私たちが生活している場の景観が形づくられているため,歴史の場合に比べてかなりの長さ
の時間軸の設定が不可避だからである。その過程を,観光客が頭の中で地質学・地形学的な立体化したイ
メージをうかべながら,時間スケールに沿っていまの景観につながっていることを理解するには,相当な
理解力を求めることになる。
― 68 ―
ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察
これを打開するには,地学や自然地理学など,ジオサイトに専門的な立場から携わっている研究者・学
芸員・行政職員などがファシリテータとなり,観光ボランティアガイドといった地域住民を中心とするジ
オパークの直接の担い手たちを丁寧に育成していくしか道はない。そのために,ファシリテータが,まず
は分かりやすく,魅力的な態度で担い手と期待される人々と継続して接していくことが求められる。
筆者はつぎのような経験から,地学の面白さを実感している。学部学生の時,堆積学の科目を担当して
いた教員は,専門用語を平易な言い換え等を用いて説明してくださった。模型などの教材等を用いて地層
の立体イメージを構築させる等の工夫は,理解や関心の度合いに大きくプラス影響をもたらしてくれたこ
とを覚えている。加えて,教員自身が講義内容について熱意と関心をもって語られる姿勢が学生にも伝
わってくるほど迫力があった。端的な事例ではあるが,このように,専門家がファシリテータとしての役
割を積極的に担うことで,「地学は面白い」と感じる地域住民や来訪者の存在を地道に獲得していけると
考えられる。
第2に,世界遺産と同様の構図であるが,ジオパークは「外部」からの高い評価を受け認定されている
点である。これまで述べてきたように,地学的な価値を見出すのに,専門家の存在は不可欠である。とこ
ろが,その意味を地域住民が共有していなければ,持続可能な活動は望むべくもない。さらに,外部から
のお墨つきを得ることは,地域にとってジオツーリズムの活動をより加速させる効果が期待される。それ
とは対照的に,住民が,自地域がジオパークに登録されることと,ジオツーリズムが積極的に展開される
ことに対してどのような意思を有しているのか,また,それがどのように反映されてきたかが注目される
機会は意外に少ない。
ジオパークは,「公的機関・地域社会ならびに民間団体によるしっかりした運営組織と運営・財政計画」
を定義として掲げている。すなわち,地域住民と行政・民間団体の協働が前提として整っていなければな
らない。住民の意識に濃淡の差こそあれ,少なくとも,ジオパークやジオツーリズムに対する普及活動が
環境教育の場としても期待され,そして地域における活性化策の方針として,観光分野の中でもジオツー
リズムを軸としていく点に賛意が多数を占めるような民意を地道に積み重ねていく必要がある5。この合意
形成の過程を急ぎすぎると,住民に「押し付けられた観光形態」や「やはり地学は難しい」といった思わ
ぬ誤解を招くことになりかねず,さらに一度つくられたイメージを払拭するのは極めて困難になるといえ
る。
2.地学教育,自然地理学的教育の充実を図ること
ジオサイトを分かりやすく解説する人材として,ファシリテータとしての専門家の存在と,それに応え
る地域住民が主体の観光ボランティアガイドの存在があり,ともにジオパークの活動の成否を握る重要な
役割を担うことになる。GGN の『各国のジオパークがユネスコの支援を得て世界ジオパークネットワー
クに参加するためのガイドラインと基準(2008年6月版)』には,とくに学校教育や地域教育の重要性が
記されている。すなわち,大地の遺産の重要性をとくに「小中学校で郷土の地質,地形,自然地理につい
て教えるカリキュラムを組」むといった地学・自然地理学的教育の充実があって,はじめて持続可能なジ
オパークの展開が可能になるのである。
ところが,今日の地学教育・自然地理学的教育がそれに対応していく体制は危機的な状況といってよい。
学校におけるカリキュラムは,学習指導要領の改訂にもとづき科目の名称や内容,授業時間数も変化して
きた。さらに,自然地理学的内容の重心は,次第に理科のなかの地学・生物学へ移行されてきたのが実情
である(斎藤,1998)。そして,拍車をかけるように,高等学校において地学・生物学・物理・化学の基
5 世界遺産登録と観光について,地域住民と外部有識者の声が正面から対立している例として,鞆の浦(広島県福山市)がある。
住民の支持,合意形成が疎かになることへの警鐘を鳴らした論考として鈴木(2010)があるので参照されたい。
― 69 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
礎的内容を均等して扱う「理科Ⅰ」が廃止されたことと,「地学」を開講する割合の急激な低下,開講し
ていても受講生は文科系の生徒に制限しているところが大部分となっている。
地学は,理科の諸分野にくらべ最も総合的な性格を持っている。たとえば,火山災害を扱うには,溶岩
の成分分析(化学)や電波による地下探査(物理)から,生態系への影響(生物)や防災行政のあり方(社
会科学)まで実に幅広いアプローチが求められる。このように,地学が備える教育的な役割の重要さに異
論はないであろう。しかし,ジオパークの取り組みを進めている地域でも,そもそも高校のカリキュラム
において地学が開講されていなかったりする6。中長期的にみても,この点は地学を本格的に学ぶことなく
理科教育の現場に立つ先生方が多くなっていくことも意味する。ひいては地学の面白さを専門家の立場か
ら語れる人材の枯渇を招きかねない。
さらに近年のいわゆる「理科離れ」も加わり,地学・自然地理学的内容を小学校社会科から系統的に学
習できる機会がほとんど消滅してしまったといっても過言ではない。また,自然地理学的教育を含む地理
教育に対して,これまで学会レベルで議論の中心にされることも少なかった。たとえば,国内最大の地理
学会である日本地理学会が,地理教育の課題についての委員会を設置して活動を開始したのは1983年の
「地理教育のあゆみ刊行検討委員会」以後である。常設の委員会が設置されるのにはさらに15年を要した。
同年刊行の『地理学評論』で地理教育の特集が組まれたが,その後の動向をふくめて,地理教育の課題は,
ようやく広く共有されはじめてきた段階と位置づけられる(白井,2000;秋本ほか,2010)。さらに,「総
合的な学習の時間」の誕生で,本時間を活用して地学教育・自然地理学的教育の展望を見出そうとの動き
も芽生えている。これらの変遷をまとめると,ジオパークに中心的に関連する科目が,いかに形を変え品
を変えて,学校教育のなかに存在してきているかが理解できる。
さらに踏み込んで,大学地学・自然地理学的教育の現状はどうであろうか。「地学」や「自然地理」と
名称のつく科目は,教員養成課程のある学部と地学・地理学系の学科を置く学部においてみられる以外は,
著しく縮小傾向にあることは否めない。一方で,大学生であっても,ジオパーク,ジオツーリズムにつな
がるフィールドでの体験や学習の機会不足も顕著であり(深見,2010),環境教育をふくむ広義の地学・
自然地理学的教育が備える「地域を総合的にとらえる」という視点への期待が2000年頃より急速に高まっ
たものの現実にはそれに応えるのが難しい実態がみられる7。さらに,もともと「地学」や「地理」を研究
室や科目の名称に掲げていたところが,たとえば「環境」へと看板を掛け替える動きも起こっている8。し
かし,このことが,地学・自然地理学的教育の内容が社会において不要とされてきたのではない点に留意
すべきである。ジオツーリズムに有為な人材を育成する上で,地学・自然地理学的技能を習得せずして来
訪者を対象としたガイド活動に耐えうるだけの水準を備えることは不可能であるからだ。
3.小括
これまでみてきたように,ジオパークとジオツーリズムを発展させていくには,観光研究からみた課題
と,地学・自然地理学的教育からみた課題とを互いの専門家が理解するところから始めていくしか方策は
ないと考える。その過程で,地域住民に専門家と同等かそれ以上に合意形成に関する場面に積極的に参画
してもらい,ジオパークとジオツーリズムに関するボトムアップ的な機運の高まりを追求していくのであ
6 たとえば九州では,比較的県下全般的に地学が開講されているのは,福岡県・熊本県・鹿児島県にとどまっている。また,島
原半島ジオパークのエリア内にあり,学校規模がもっとも大きい長崎県立島原高校では,2010年度から正規カリキュラムのなか
から地学が消滅した。生徒数の減少等の理由で教員配置が難しいという側面があるだろうが,地学教育が危機に瀕していること
をしめす事例といえる。
7 月間『地理』の2002年9月増刊号は,「地理が切り拓く総合的な学習」と題して刊行されるなど,地理が本来有する総合性に期
待する声が高まったことを示す出版であったといえる。
8 たとえば,筆者の卒業した大学の理学部地学科は,1997年より地球環境科学科として新たなスタートを切っている。
― 70 ―
ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察
る。
以前,筆者は深見(2009)のなかで観光ボランティアガイドの養成について次の2点を強調して訴えた
ことがある。
1. 観光ボランティアガイドのもっとも大きな存在意義は,「駆け足ではなく,訪れる人びとの歩く
速度や視点で」,とりわけ「知的好奇心と行動力の豊かな「団塊の世代」が定年を迎える中,知
的資源を活用」(茶谷,2008)することにある。
2. その担い手として活躍が期待される地域住民は,多くがそのような活動に関心はあったとして
も,それぞれが事前に有する専門的な知識や技能は一様ではない。活動に身を投じていく過程で,
地域住民の目線から内容の修正や補足を要する点をみつけ適宜改善を図っていけるのが望まし
い。その段階に達してはじめて,住民に期待される真の「主体性」が生まれるのである。
ここでも述べているように,地域住民の主体性が高まることで,真に地域に根づいたツーリズムの展開
が可能となる(図4)。とくに,オンサイトツーリズムは全般的にその傾向が強く,その中でも比較的新
しいジオツーリズムに寄せられる地学関係者からの期待は大きい(今岡,2009)。これを受けて,観光研
究を専門におこなう者は,ジオパークやジオツーリズムの定義に立脚してジオサイトの解説の難易度や
ルートの設定に,観光研究の見地から率直な意見を提示していきながら,より特徴ある観光形態へと進化
させていく責務がある。
来 訪 者
観光客
専門家
観光資本
ジオツアー
企 画 者
観光対象
(ジオサイト)
ジオパーク内に暮らす住民(コミュニティ)
図4 ジオパークと観光を構成する4つの要素
筆者が作成.
また,学校教育のなかでの地学・自然地理学的内容の扱いについてであるが,これを急激に変化させる
ことは難しい。ただし,すくなくとも,学校は地域社会とのかかわりの中で存続し得るものであるので,
ジオパークやジオツーリズムを標榜する地域において,学校教育の立場からどのような点において貢献可
能なのかを,今一度考えなおす必要はあろう。
Ⅳ.おわりに
本稿では,ジオパークとジオツーリズムに焦点をあて,その特徴を把握することと,具体的な展開にあ
たって留意すべき課題の提示を目的として論を進めてきた。観光研究は学際性が強みといわれているが,
ジオツーリズムに関しては事例そのものが新しいとはいえ,研究の蓄積は意外に少なかった。それに対し,
日本地質学会など地学界を中心として地道な議論が重ねられつつある。これは謙虚に評価すべきことであ
る。一方で,地学の専門家が評価する露頭や岩石・地形(地学的な価値の高いジオサイト)が,必ずしも
観光客の指向性にそぐわないケースも往々にして考えられる。ジオパークの場合も,地域住民が紹介した
― 71 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
いと思うジオサイトや,観光客が訪れてみたいと感じるジオサイトという観光研究的な視点からみた需給
の均衡を事前に把握しておくことで,「地域の持続可能な社会・経済発展」への方向がみえてくるのでは
と思う。
2009年に世界ジオパークが国内に3か所誕生したことは,1993年に世界遺産が国内に初めて4か所誕生
したケースと同じく,これから次第に知名度の高まりにつながっていくと考えられる。そうなるまでに,
ジオパーク,ジオツーリズムに携わる者が,折を見てそれらの定義に立ち返りつつ,「大地の遺産」の魅
力を語る観光ボランティアガイドをはじめ地域住民らが一体となり,地学を切り口としたオンサイトツー
リズムの充実が図られることに期待したい。
本論文を脱稿後の2010年9月14日,JGC は世界ジオパークに「室戸」を申請することと,「白滝」(北
海道),「伊豆大島」(東京都),「霧島」(鹿児島県・宮崎県)の3か所を日本ジオパークに認定したことを
発表した。今後のジオパークの活動が活性化していく点に引き続き注目していきたい。
謝辞 島原市役所の江越美香氏(前 ・ 島原半島ジオパーク推進連絡協議会事務局主査)には,ジオパーク
に関するさまざまなご教示をいただいた。この場を借りて,厚くお礼申し上げる。
参考文献
1. 秋本弘章・滝沢由美子・石塚耕治・平澤香・揚村洋一郞・小宮正美(2010),「小学校教員養成における地理教育
の現状と課題―新規採用教員へのアンケート調査による分析」,『新地理』58(1),pp.33–42.
2. 今岡裕作(2009),「環境地質学にもとづく日本のジオパーク論―島根県の「神西湖」を題材として―」,『応用地
質』49(6),pp.350–357.
3. 岩田修二(2008),「ジオパークでの情報発信」,『地理』53(9),pp.32–38.
4. 岩田修二(2009),「ジオパークと大地の遺産百選」,『日本地理学会発表要旨集』76,pp.14.
5. 尾方隆幸(2009),「ジオツーリズムと学校教育・生涯教育―自然地理学の役割―」,『琉球大学教育学部紀要』
75,pp.207–212.
6. 岡本真琴(2009),「山陰海岸ジオパーク推進のための基礎研究」,『九州国際大学教養研究』16(2),pp.65–76.
7. 河本大地(2009),「ジオツーリズムで拓く地域づくりの未来」,『日本地理学会発表要旨集』76,pp.12.
8. 斎藤毅(1998),「「地理教育特集号」の刊行にあたって」,『地理学評論』71(2),pp.73.
9. 白井哲之(2000),「地理教育の展望」,『地理学評論』73(4),pp.320–326.
10. 鈴木晃志郎(2010),「ポリティクスとしての世界遺産」,『観光科学研究』3,pp.57–69.
11. 茶谷幸治(2008),『まち歩きが観光を変える―長崎さるく博プロデューサー・ノート―』.学芸出版社.
12. 平野勇(2008),『ジオパーク―地質遺産の活用・オンサイトツーリズムによる地域づくり―』.オーム社.
13. 深見聡(2007),『地域コミュニティ再生とエコミュージアム』.青山社.
14. 深見聡(2010),「長崎大学環境科学部における体験型フィールド教育―課外科目『地域力再生プロジェクト』の
事例―」,地域環境研究,2,pp.43–48.
15. 横山秀司(2008),「ジオツーリズムとは何か―わが国におけるその可能性」,『日本観光研究学会学術論文集』
23,pp.345–348.
16. 横山秀司(2010),「わが国におけるジオツーリズムの可能性に関する一考察」,『九州産業大学商経論集』50(2),
pp.3–16.
17. 渡辺真人(2008),「動き始めた日本のジオパーク活動」,『地理』53(9),pp.26–31.
18. Newsome, D. & Dowling, R. eds(2006),Geotourism.Elsevier.
― 72 ―
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
韓 尚均*
目次
はじめに
1.鹿児島県の地域的特性
2.鹿児島県の信用金庫と信用組合の地域活性化
まとめ
はじめに
グローバリゼーションのもとで,地域経済の疲弊は広がりつつあり,これからの地域経済の行方はどう
なるのかが懸念されている。資本主義経済の発展段階をみると,農業経済から工業経済へ,そしてその工
業化の進展による大量生産・大量消費の時代から,需要が低迷していき,少量生産・少量消費の時代へと
いうプロセスになっていく。そのような観点でみれば,現在の資本主義経済の発展段階では,地域経済が
疎外されていると言える。
こうして,今の地域経済の疲弊は,資本主義経済の構造的問題として捉えることができる。したがって,
地域経済を疲弊から回復させる際には,資本主義経済の根幹である,競争的,個人的,利益優先的といっ
た市場経済的(市場原則)な姿勢で取り組むのではなく,協同的,人間的,相互依存的といった非市場経
済的な姿勢で取り組むべきである。つまり,資本主義経済の競争原理から協力原理へと変わるべき時期に
なっている。
しかしながら,資本主義経済による方式が,決してすべて間違っているというわけではない。資本主義
経済による工業化,大量生産・大量消費社会は,その発展段階において自然的な流れであった。もし,そ
うした大量生産・大量消費の時代がなかったならば,今の先進国の経済はそもそもなかったはずである。
そうした意味で,競争原理による発展システムは,経済発展を導く基本原理として素晴らしいものである
と思う。ただ,そのような資本主義経済の根幹をなすシステムである競争原理だけでは,これからの時代
には,物足りないというのであり,ある意味で限界に至っているともいえるのである。したがって,それ
に取って代わるシステムが必要となり,その足りない部分を補うのが,協力原理であるといえる。すなわ
ち,資本主義経済の全部を否定するものではなく,資本主義経済の中に,競争原理だけという構成要素(中
身)に,協力原理を入れておくという発想である。
発展した段階の資本主義経済の競争原理では,地域における疲弊,特に農村での少子高齢化の進展や産
業の空洞化などで都市への人口流出が続出し,需要自体が弱体化されつつある現在の状況を,解決するこ
とは難しいと思う。したがって,競争原理だけではなく,協力原理の理念をも入れて,地域活性化を考え
るべきであろう。そして,需要の創出という面からすれば,その需要を補ってくれるのは都市であるので,
*本学附置地域総合研究所客員研究員・本学非常勤講師
― 73 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
地域(農村)の活性化は,いかに都市からの需要を創出することとなる。都市と農村の関係は,農村で生
産した生産物を都市に販売することから成り立つ。そして,都市ではできないことを農村が提供できるの
であれば,都市からの需要はさらに拡大するであろう。
本稿の目的は,地域において足りない需要を創出する際に,地元に営業基盤を置く信金・信組の動きに
注目し,新しい需要を引き出すための事業とその事業を金融面から支援する様子について考えてみること
である。
本稿のシリーズ(1)では,
「鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について」という題で,
最初に信用金庫と信用組合の歴史と現況などを概観したが,シリーズ(2)では,本論に入り,鹿児島県
の地域的特性とその地域的特性を活かしての地域活性化を行うときに,信用金庫・信用組合の役割を中心
に見てみたい。信用金庫と信用組合の地域活性化についての内容は,主に各信用金庫と組合の「2010年
ディスクロージャー誌」を中心に引用・参照して述べてみる。
1. 鹿児島県の地域的特性
(1)概要
鹿児島県にどのような地域的特性があるかをまず調べる必要がある。鹿児島県では,食品関連産業,電
子関連産業,自動車関連産業,情報通信産業,新エネルギー産業が強みのある産業として注目されている。
そこで,農業と食品関連産業,そして,畜産業に分けて考える。そのあと,それを地域別(市町村別)に
分けてみる。
『鹿児島県は,我が国本土の西南部に位置し,その総面積は全国10位で9,188平方キロメートル,2,643キ
ロメートルの長い海岸線を持ち,太平洋と東シナ海に囲まれた南北約600キロメートルにわたる広大な県
土を有しています。種子島,屋久島,奄美群島を始めとする多くの離島は,当県総面積の27パーセントと
大きな比重を占めています。中央部を南北に霧島連山が縦断し,北部の霧島から南部のトカラ列島まで11
の活火山が分布しており,豊富な温泉にも恵まれています。また,県下のほとんどの地域が火山噴出物で
ある「シラス」層によって厚く覆われています。』1
平成21年度の鹿児島県が作成した『かごしま元気おこし企業ガイド』によると,
『国では,各地域の「強み」である地域産業資源(農林水産物・鉱工業品及びその生産技術,観光資源)
を活用して,新商品・新サービスの開発・市場化を行う中小企業者を総合的に支援する「地域産業資源活
用事業計画」や,中小企業者や農林水産業者が一次,二次,三次の産業の壁を超えて有機的に連携し,お
互いの有するノウハウ・技術等を活用して,新商品の開発や販路開拓等を支援する「農商工等連携事業計
画」の認定を行っています。』2 と,されている。
同ガイドには,鹿児島県の地域的特性を活かした企業を97社選別しており,その97社の簡単な紹介(事
業内容の説明や特色など)をしている。以下では,『かごしま元気おこし企業ガイド』に掲載されている
97社の企業をエリア別に整理し,それを業種と市町村別に分類してみる。
1 鹿児島県ホームページより引用。
2 鹿児島県「かごしま元気おこし企業ガイド」平成21年7月より。
― 74 ―
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
図1:鹿児島県の地図
出所:鹿児島県ホームページより。
鹿児島県を7つの地域に分けると,
「①鹿児島エリア(37社),②南薩エリア(6社),③北薩エリア(10
社),④姶良・伊佐エリア(21社),⑤大隅エリア(18社),⑥熊毛エリア(3社),⑦大島エリア(2社)
となる」3。それをまた業種別に分けると,「①食料品(21社),②飲料(10社),③繊維・衣服(3社),④
天然素材(10社),⑤金属(9社),⑥一般機械(20社),⑦電気・電子(14社),⑧その他(10社)の8つ
になる。そして,7つの地域別の分類からそれぞれの業種を分けてみると,以下のようになる」4。
①鹿児島エリアでは,37社のうち,食料品が8社,飲料3社,繊維・衣服2社,天然素材4社,金属2
社,一般機械10社,電気・電子4社,その他4社となる。
②南薩エリアでは,6社のうち,食料品1社,飲料1社,金属1社,一般機械1社,電気・電子2社と
なる。
③北薩エリアでは,10社のうち,食料品2社,飲料1社,天然素材2社,一般機械1社,電気・電子2
社,その他2社となる。
④姶良・伊佐エリアでは,21社のうち,食料品2社,天然素材1社,金属5社,一般機械5社,電気・
電子6社,その他2社となる。
⑤大隅エリアでは,18社のうち,食料品6社,飲料2社,繊維・衣服1社,天然素材4社,金属1社,
一般機械3社,その他2社となる。
⑥熊毛エリアでは,3社があり,食料品2社と飲料1社となる。
⑦大島エリアでは,2社があるが,2社とも飲料部門である。
そして,図1から見るように,各エリアを市町村に分けてみると以下のようになる。
3 鹿児島県ホームページより(かごしま元気おこし企業の紹介)
;http://www.pref.kagoshima.jp/sangyo-rodo/syoko/genkiokoshi/
chiiki/index.html#2。
4 鹿児島県「かごしま元気おこし企業ガイド」平成21年7月より。
― 75 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
①鹿児島エリア:鹿児島市,日置市,いちき串木野市
②南薩エリア:南さつま市,南九州市,枕崎市,指宿市
③北薩エリア:薩摩川内市,阿久根市,出水市,伊佐市,さつま町,長島町
④姶良・伊佐エリア:姶良市,霧島市,伊佐市,湧水町(図1では伊佐市は入っていないので注意して
いただきたい)
⑤大隅エリア:垂水市,曽於市,鹿屋市,志布志市,大崎町,東串良町,肝付町,錦江町,南大隅町
⑥熊毛エリア:西之表市,屋久島町,南種子島町,中種子島町,三島村,十島村
⑦大島エリア:奄美市,龍郷町,大和村,宇検村,瀬戸内町(奄美大島)と,徳之島町,天城町,伊仙
町(徳之島),喜界町(喜界島),知名町,和泊町(沖永良部島),与論町(与論島)
このように,鹿児島県では,食料品(農業,畜産業),食品加工産業,電子関連産業などの発展可能性
があり,農業,畜産業,食品加工産業を活かして,地域活性化を模索することができると思われる。
「鹿児島県の平成18年度の県内総生産額は約5兆3千億円であり,その構成比は第1次産業(農林水産
業)が4.0%,第2次産業(製造業・建設業など)が19.5%,第3次産業(卸売・小売業,サービス業など)
が76.5%となっており,全国の構成比と比較して第1次産業が約3倍のウエイトを占める一方,第2次産
業のうち特に製造業が全国平均の約6割と低い点が特徴となっている」5(図2参照)。
第1次産業
4%
第2次産業
19%
第3次産業
77%
図2:産業別県内総生産額
出所:県民経済計算年報(平成18年度版)より。
(2)農業
鹿児島県では農業が発達しており,これを通じて地域活性化ができると考えられる。まずどのような農
業が発達しているか見てみよう。鹿児島県には,現在,15品目23産地が「かごしまブランド産地」として
指定されている(平成22年5月末現在)。これについて県のホームページによると,以下のように記入さ
れている(表1参照)。
「1.加世田のかぼちゃ,2.東串良のピーマン,志布志のピーマン,3.鹿児島黒牛,4.頴娃のさ
5 鹿児島県「かごしま元気おこし企業ガイド」(鹿児島のすがた),平成21年7月。
― 76 ―
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
つまいも,知覧のさつまいも,5.出水の紅甘夏,6.沖永良部のばれいしょ,長島地区のばれいしょ,
なんぐう地区のばれいしょ,7.指宿地区のそらまめ,出水のそらまめ,8.かごしま黒豚,9.指宿地
区の実えんどう,出水の実えんどう,10.川薩地区のハウスきんかん,南さつまのハウスきんかん,11.
種子島のレザーリーフファン,12.屋久島のたんかん,南さつまのたんかん,13.桜島の小みかん,14.
東串良のきゅうり,15.かごしまマンゴー」6。
表1:かごしまブランドと産地
産地名
加世田のかぼちゃ
東串良のピーマン
鹿児島黒牛
頴娃のさつまいも
知覧のさつまいも
出水の紅甘夏
沖永良部のばれいしょ
長島地区のばれいしょ
指宿地区のそらまめ
出水のそらまめ
かごしま黒豚
指宿地区の実えんどう
なんぐう地区のばれいしょ
出水の実えんどう
川薩地区のハウスきんかん
南さつまのハウスきんかん
種子島のレザーリーフファン
屋久島のたんかん
指定年月日・関係市町村
平成3年5月1日
南さつま市,枕崎市,南九州市
平成4年3月3日
東串良町,鹿屋市
肝付町(平成15年5月12日ブランド産地追加指定)
平成4年4月28日
鹿児島県全域
平成5年4月30日
(平成11年5月11日年間を通じたブランド産地に指定)
南九州市
平成5年4月30日
南九州市
平成5年4月30日
阿久根市,出水市,長島町
平成7年6月15日
和泊町,知名町
平成9年5月1日
長島町
平成10年5月8日
指宿市,鹿児島市,南九州市
平成11年5月11日
阿久根市,出水市,長島町
鹿児島県全域(15系列)
平成11年11月8日 9生産系列指定
平成12年5月9日 1生産系列指定
平成13年5月10日 2生産系列指定
平成14年5月21日 1生産系列指定
平成16年5月21日 1生産系列指定
平成18年6月7日 1生産系列指定
平成13年5月10日
指宿市,鹿児島市,南九州市
平成13年5月10日
錦江町,南大隅町
平成14年5月21日
阿久根市,出水市,長島町
平成16年5月21日
薩摩川内市
平成17年5月26日
南さつま市,南九州市,枕崎市
平成18年6月7日
中種子町,南種子町
平成19年5月24日
屋久島町
6 鹿児島県ホームページより引用。
― 77 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
桜島の小みかん
東串良のきゅうり
南さつまのたんかん
志布志のピーマン
かごしまマンゴー
平成20年5月30日
鹿児島市
平成20年5月30日
東串良町,鹿屋市,肝付町
平成21年5月29日
枕崎市,南さつま市,南九州市
平成21年5月29日
志布志市
平成22年5月28日
【県域】 日置市,いちき串木野市,南さつま市(JA さつま日置)
大崎町,志布志市(JA そお鹿児島)
出 所: 鹿 児 島 県 ホ ー ム ペ ー ジ;http://www.pref.kagoshima.jp/sangyo-rodo/nogyo/nosanbutu/brand/santi-white.
html
また,このこと(かごしまブランド産地)と食品加工業などとの密接な関連について,鹿児島県が出し
た報告書である,「鹿児島の農業」では,「鹿児島県の全製造業に占める食品製造業の出荷額の割合は,平
成20年度は約51% と全国平均の約5倍以上であり,全国でも高い占有率となっている。事業所有や従業
員数も全製造業の40% を超えており,農業振興への貢献とともに,地域に貴重な雇用機会を提供している。
また,さつまいも等地域資源を活用した様々な加工食品が生産されている。」7 と,書いている。
(3)食品関連産業
鹿児島県の製造業を業種別製造品出荷額でみると,食品関連産業(食料・飲料)が約5割,昭和40年代
以降,エレクトロニクス,メカトロニクス関連の先端技術産業が立地したことなどから半導体等の電子関
連産業が約2割を占めている(表2参照)。
鹿児島県は,豊かな自然条件を背景とした全国有数の農林水産業県であり,県内には多彩な農林水産資
源を活用した食品関連産業が見られる。例えば,本格焼酎,黒酢などの醸造製品は,近年,消費者の本物・
健康志向が追い風となって全国的に需要が伸びており,本格焼酎においては,平成15年,16年酒造年度に,
生産量,生産額とも対前年度2割から3割の伸びを示し,県全体の工業出荷額の約1割を占めるまで成長
してきている(「鹿児島県本土地域産業活性化計画」鹿児島県ホームページより)。
表2:鹿児島県の製造業出荷額上位10業種(産業中分類)
主な産業(中分類)
食料品
電子部品・デバイス
飲料・飼料・たばこ
窯業・土石製品
電気機械器具
一般機械器具
金属製品
パルプ・紙・紙加工品
非鉄金属
印刷・同関連産業
全業種
出荷額(億円)
5,617
3,654
3,242
1,604
705
675
548
453
336
264
18,344
全業種シェア(%)
30.6
19.9
17.7
8.7
3.8
3.7
3.0
2.5
1.8
1.4
100.0
出所:工業統計表(平成18年)(従業員4人以上)
特化係数:当該業種の鹿児島県全業種シェア/当該業種の全国全業種シェア
7 鹿児島県農政部「鹿児島の農業」平成22年3月より。
― 78 ―
特化係数
4.3
3.3
5.9
3.5
0.6
0.4
0.7
1.1
0.6
0.6
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
(4)畜産業
鹿児島県は,畜産業において特に牛肉と豚肉は日本全国1位である(表3参照)。以下では,鹿児島県
ホームページから引用する。
『鹿児島県は全国屈指の畜産県であり,なかでも肉質に優れた黒毛和牛の飼養頭数は全国の18.3%を占
め,全国1位となっている(平成20年2月1日現在)。県内全域で飼育されており,特に曽於,肝属,大島,
姶良,薩摩地域での生産が盛んである。安心・安全・おいしい「鹿児島黒牛」は,各方面で高い評価を得
ている。』
黒豚の場合は,次のように記述されている。『豚の飼養頭数(全国のシェア13.5%:平成21年2月1日
現在)及び肉豚出荷頭数(全国シェア11.5%:平成19年)は全国1位を誇り,なかでも肉質の優れた黒豚
(バークシャー)は消費者の皆様から高い評価を得ている。』
特に,かごしま黒豚の由来については,次のように書いてある。
『かごしま黒豚のルーツは非常に古く,約400年前に琉球から移入されたと言われています。その後鹿児
島の風土と密着して長年にわたり県内で広く飼育されてきました。「かごしま黒豚」は,明治から黒豚本
来の良さを生かすように改良が重ねられてきており,現在では発育や肉質の優れた系統豚「サツマ」
「ニューサツマ」「サツマ2001」が作出されています。』
続いて特徴については,『かごしま黒豚は体毛が黒色で 、 四肢 、 鼻梁 、 尾端の6箇所に白斑があり,六
白(ろっぱく)とも呼ばれています。脂肪融点(脂肪の解ける温度)が他の豚肉より高く,肉質は筋繊維
が細い等の特徴があり,「歯切れがよい,柔らかい,うまみがある。」と高い評価を得て,鹿児島の誇るお
いしい豚肉として全国に知られています。』と,されている。
また,肉用牛の飼養頭数は,
「平成21年は376,200頭となっており,全国の12.9%のシェアを占めている」8。
表3 鹿児島県の農業産出額の内訳
項 目
農 業 生 産 額
耕 種 部 門
米
い
も
類
野
菜
果
実
花
き
工芸農作物
他
畜 産 部 門
肉
用
牛
乳
用
牛
豚
鶏
卵
ブロイラー
他
加 工 農 作 物
農業産出額
H20年
構成比
4,151
100.0
1,690
40.7
261
6.3
288
6.9
464
11.2
94
2.3
149
3.6
392
9.4
42
1.0
2,383
57.4
788
19.0
91
2.2
739
17.8
234
5.6
509
12.3
22
0.5
78
1.9
H19年
(単位:億円,%)
増減
H20―H19
前年比
H20/ H19
98
63
20
16
35
0
△13
5
0
40
△28
1
27
22
14
4
△5
102.4
103.9
108.3
105.9
108.2
100.0
92.0
101.3
100.0
101.7
96.6
101.1
103.8
110.4
102.8
122.2
94.0
4,053
1,627
241
272
429
94
162
387
42
2,343
816
90
712
212
495
18
83
H20年順位
全国
九州
4位
14
28
2
16
25
7
2
―
1
1
18
1
4
1
―
2
1位
3
5
1
4
7
2
1
―
1
1
5
1
1
1
―
1
出所:農林水産省「生産農業所得統計」,「かごしまの食,農業及び農村に関する年次報告書」(平成22年9月)50ページより
再引用。
8 鹿児島県農政部「鹿児島の農業」平成22年3月,34ページ参照。
― 79 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
2. 鹿児島県の信用金庫と信用組合の地域活性化
前章で(第1章)でみたように,鹿児島の地域的特性としては,農業,食品関連産業,畜産業などが発
達していることが明らかになり,このような地域的特色を活かして地域活性化に取り組む場合,信用金庫
と信用組合の役割は,どのようなものであるべきかを考えてみよう。
金融機関の役割は,言うまでもなく,資金面からの支援にあるので,まずそれについて考えてみる。地
域活性化のために信金・信組などの地域金融機関では,地域密着型金融の推進に努めている。「地域密着
型金融」について,2007年4月に,金融審議会金融分科会第二部会がまとめた,「地域密着型金融の取組
みについての評価と今後の対応について」という報告書では,以下のように書いている。
『地域密着型金融とは,「金融機関が顧客との間で親密な関係を長く維持することにより顧客に関する情
報を蓄積し,その情報を基に貸出等の金融サービスの提供を行うことで展開するビジネスモデル」(金融
審議会金融分科会第二部会報告(平成15年3月27日))であり,その本質は,「長期的な取引関係により得
られた情報を基に,質の高い対面交渉等を通じて,早い時点で経営改善に取り組むとともに,中小企業金
融における貸出機能を強化することにより,金融機関自身の収益向上を図ること」にある。(リレーショ
ンシップバンキングのあり方に関する WG 座長メモ(平成17年3月28日)』
地域活性化を行うために,鹿児島県の信金・信組も,地域密着型金融を推進しており,ホームページや
ディスクロージャー誌にその経過などを公表している。
現在,日本では,大都市と地方都市,大企業と中小企業の格差がますます広がっており,地方都市(地
域)や中小零細企業は厳しい状況に陥っている。こうした状況のなかでは,地方や地域の自らが「何かを
しないといけない」という危機感に持って,新しい発想の基で危機をチャンス(機会)に転換させる努力
をしなければならない。言わば,チャレンジ(挑戦)精神が必要な時であると言える。
少子高齢化の流れの中で,人口はますます減りつつある。これに加えて,特に地方では人口の流出化も
進んでいる。こうした時こそ,地方や地域ならでの特色を活かして,人々の関心を集めないといけないの
である。すなわち,地方や地域の良さをアピールすることによって,地域おこし(地域再生)を図るべき
なのである。東京や大阪などの大都市にはないものをアピールすることであり,その良さを強調すること
によって地位を高めることであろう。決して,大都市と比べたら「勝てない,足りない,少ない」という
ことを言うのではなく,地方だからこそ「できる,ある,多い」というものを探して,それを集中的に研
究・開発し,宣伝するように努力しなければならないと思う。
最近,筆者の出身国である韓国では,サツマイモが健康に非常に良いということで,人気を集めている。
特に紫芋が健康面において注目され,鹿児島県がしばしば韓国のテレビ番組に紹介されることがある。隣
国の韓国からすれば,サツマイモの原産地であり,温泉や農業などで健康というイメージが強い鹿児島に
注目をしているわけであろう。そのような脈絡から,鹿児島の名物「イモ焼酎」が,韓国の人々に紹介さ
れたら,鹿児島の宣伝として非常にいいと思う。そのことは,韓国からの観光客の関心を集めるときにい
い材料になるに違いない。つまり,需要創出は,国内だけに限らないということであり,鹿児島の地理的
な特徴を活かして,隣国の韓国,中国はもちろん,東南アジアの国々までも視野に入れるべきである。
(1)鹿児島県の信用金庫の地域活性化
1) 鹿児島信用金庫9
鹿児島信用金庫(以下,かしん)では,地域貢献や地域活性化の一環として,「経営戦略や企業発展を
9 鹿児島信用金庫『2010 Kashin Disclosure』より。
― 80 ―
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
目指すための勉強をしたい」というお客様,特に若手の経営者のために,1年間の期間で「かしん経営大
学」を平成8年から開校している。また,平成22年度から「かしんトップマネージメント大学」を新たに
立ち上げ開校している。「かしんトップマネージメント大学」の目的としては,「鹿児島信用金庫の取引先
が受講し,受講内容を経営に取り込み企業の業績を向上させるとともに鹿児島県経済の浮揚にある」と,
されている。
そして,「かしん地域密着型金融推進計画」の基本目標としては,「1.ライフサイクルに応じた取引先
企業の支援強化,2.中小企業に適した資金供給手法の徹底,3.地域の情報集積を活用した持続可能な
地域経済への貢献,4.協同組織金融機関としての取組み」となっている。基本目標の1~4までのそれ
ぞれ項目別の中身をみると,1.ライフサイクルに応じた取引先企業の支援強化では,「①創業・新事業
支援機能の強化,②取引先企業に対する経営改善支援の強化,③事業再生に向けた積極的取組み,④取引
先企業に対する事業承継支援の強化」とされている。2.中小企業に適した資金供給手法の徹底では,
「担
保・保証に過度に依存しない融資の推進」とされている。3.地域の情報集積を活用した持続可能な地域
経済への貢献では,「取引先企業間におけるビジネスマッチング」となっている。最後に,4.協同組織
金融機関としての取組みでは,「①目利き能力の向上,人材の育成,②情報開示の充実に向けた取組み,
③法令等遵守(コンプライアンス)態勢の強化,④顧客保護管理態勢の強化」となっている。
2) 鹿児島相互信用金庫
鹿児島相互信用金庫(以下,そうしん)のホームページでは,平成21年度~平成22年度の「地域密着型
金融推進計画」の内容が掲載されており,それによれば,
「地域密着型金融推進計画」への取組みについて,
「1.ライフサイクルに応じた取引先企業の支援の一層の強化,2.事業価値を見極める融資をはじめ中
小企業に適した資金供給手法の徹底,3.地域の情報集積を活用した持続可能な地域経済への貢献,4.
協同組織金融機関としての取組み」という風に推進されている。具体的に見てみると,以下のようである。
1.ライフサイクルに応じた取引先企業の支援の一層の強化という項目には,4つの詳細の項目があり,ま
たそれぞれに詳しい内容も書いている。内容は以下の通りである。
(1)創業・新事業支援機能等の強化(①新連携・産学官との連携,②創業者への積極的な資金提供体
制の継続)
(2)取引先企業に対する経営相談・支援機能の強化(①コンサルタント能力・態勢の強化やビジネス
マッチング等を活用した支援強化,②国,地公体との連携による中小企業施策の活用)
(3)事業再生に向けた積極的取組み(中小企業の過剰債務の解消,事業の再構築,事業再生に向けた
積極的な取組み)
(4)事業継承(①相続対策のコンサルティング,株式買収に関する資金面の支援やM&Aのマッチン
グ支援,②法務,財務,税務等の外部専門家と連携した取組みの推進)。
2.事業価値を見極める融資をはじめ中小企業に適した資金供給手法の徹底という項目には,(1)担保・
保証に過度に依存しない融資の推進(不動産担保・個人保証に過度に依存しない融資の推進),(2)中
小企業に適した資金供給手法の徹底(①県保証協会保証,各保証会社保証を活用した融資推進,②
ABL(債権・動産担保)等の実行,私的財産,動産担保等を活用した融資制度の充実,③スコアリン
グモデルを活用した融資の推進,④農業融資推進)
3.地域の情報集積を活用した持続可能な地域経済への貢献では,(1)協同組織金融機関としての地域貢
献(地域開発事業への参画),(2)地域活性化につながる多様なサービスの提供(お客様の多様なニー
ズへの対応),(3)地域の利用者の満足度を重視した経営(利用者満足度アンケート調査の実施及びそ
の結果の経営方針への反映)
4.協同組織金融機関としての取組みでは,(1)目利き能力の向上,人材の育成(人材の育成),(2)身
― 81 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
近な情報提供・経営指導・相談,(3)ガバナンスの強化(総代会の機能向上等に向けた取組み,半期
開示の充実に向けた取組み),
(4)信用リスク管理態勢の充実,
(5)市場リスク管理態勢の充実,
(6)
法令等遵守(コンプライアンス)態勢の強化(法令等遵守態勢の有効性・実効性のモニタリングとして
の臨店指導の強化・充実)と,なっている。
そして,以上のこれらを,「平成21年度から平成22年度(平成23年3月)まで実施し,進捗状況を毎年
3月末を基準として,ホームページで公表する」と,されている。
また,取引先への支援等については,平成2年より実施している『TOBO 会』貿易ミッションにおい
て中国やタイなど海外の企業とお取引先とのビジネスマッチングのための商談会を企画運営し,お取引先
の新市場進出のサポートを行っている。そして,地域とのつながりについては,地域活性化に向けた取組
みとして「そうしんまちづくり振興基金」を平成2年創設し,毎年まちづくり事業へのお手伝いしている
ことや,文化・社会貢献活動などを行っている。
3) 奄美大島信用金庫
奄美大島信用金庫(以下,あましん)の営業区域は,奄美市,龍郷町,瀬戸内町,喜界町,徳之島町,
伊仙町,天城町,和泊町,知名町,与論町,大和村,宇検村,以上奄美群島一円および鹿児島市内となっ
ている。
店舗数は平成21年にあさひ支店が新設され14店舗となった。奄美群島は,総人口126,483人(平成17年
國調)であり,市町村数は1市9町2村からなっている。
あましんの地域密着型金融の取組状況については,以下のようになっている。
『当金庫は,「相互扶助」の精神のもと「広く地域社会の繁栄に奉仕する」を経営の基本理念として,地
域の皆様に愛され信頼される,「面倒見の良いあましん」を目指して日々の業務に努めているところであ
ります。地域密着型金融の推進につきましては,新長期3カ年計画『あましん「つなぐ力」発揮2009』の
基本方針に『地域密着型金融の深化』を掲げ,「 あましん地域密着型金融推進計画 」(平成21年度~平成
23年度)を策定して,①ライフサイクルに応じた取引先企業の支援強化,②中小企業に適した資金供給手
法の徹底,③持続可能な地域経済への貢献等に向けた具体的な取組内容の推進に努めてまいりました』10。
(2)鹿児島県の信用組合の地域活性化
1) 鹿児島興業信用組合
地域密着型金融の取組状況について,『鹿児島興業信用組合(以下,こうしん)は,平成15年度以降,
2次4年間の地域密着型金融推進計画を通して,取引先との長期にわたる親密な関係を大切にし,これま
で蓄積した情報やニーズを活かした金融サービスの提供に努めてまいりました。平成21年度においても,
引き続き地域の利用者のニーズを捉え,「選択と集中」を徹底し,創意工夫を凝らした取組みを実施しま
した。具体的な取組項目として,①ライフサイクルに応じた取引先企業の支援強化,②事業評価を見極め
る融資手段をはじめ中小企業に適した資金供給手法を徹底,③地域の情報集積を活用した持続可能な地域
経済への貢献等について積極的に取組み,中小企業の再生と地域経済の活性化を図り,地域の協同組織金
融機関として,地域経済。地域社会の永続的な発展に貢献したしております。』11 とされている。
地域密着型金融の取組状況(21年4月~22年3月)では,以下のようである。
1.
「ライフサイクルに応じた取引先企業の支援強化」策では,創業・新事業支援として,①中小企業融資
制度等の研修による融資審査能力の向上や,渉外担当者の実践訓練等の実施による融資営業の強化等の
人材育成を図る,②鹿児島県信用組合協会及び全国信用協同組合連合会・全国信用組合中央協会等の創
10 奄美大島信用金庫「地域密着型金融の取組状況について(平成21年度)」より引用。
11 鹿児島興業信用組合『KOUSHIN DISCLOSURE 2010』より引用。
― 82 ―
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
業・新事業支援に係るテーマの研修に参加,③金庫・公庫と業務連携締結を行い,特に大口の新規設備
等融資案件への対応は連携による協調融資を含めて検討している。これらについての平成21年度の進捗
状況としては,「①営業担当者については新規開拓実践訓練等研修を通じ,営業力の向上と業種の特性
調査,目利き融資の向上に繋がったと考えている,②窓口担保者についても研修を行い,窓口での営業
力の強化と窓口での勧誘に対する意識の改革を行うことができた,③情報収集に対する意識も向上して
きており,今後も定期的に研修を行い,更なる営業力の強化と,意識の高揚を図っていく,④創業支援
融資については,13件77百万円の実績となった」とされている。
2.
「事業価値を見極める融資手法をはじめ中小企業に適した資金供給手法の徹底」という項目では,担保・
保証に過度に依存しない融資等への取組みとして,具体的な取組内容に,「①事業からのキャッシュフ
ローを重視し,債務者の技術力や販売力などの定性部分も合わせて評価した融資推進の取り組みを行っ
ている,②事業価値を見極めた融資への取組として「リレバンローン」及び保証協会との提携商品とし
て「クイック保証」と称した融資商品を設定して推進している。主な内容は下記の通りである。
• リレバンローン:
ア . 対象先(債務超過・繰損なく当期純利益3期確保先,借入金返済がC/Fにて確保できる先,
永年同地域で営業し地域住民との間で信頼関係が構築できている先,等),
イ . 融資金額原則5,000万円以内とし,財務内容良好先に対しては3,000万円までは無担保・無保
証貸出も可とした,
ウ . 返済期間は最長7年,
• クイックローン:
ア . 鹿児島県信用保証協会との連携商品,
イ . CRD スコアにより個人事業者は45点以上,法人は50点以上,
ウ . 保証期限額2,000万円以内,
エ . 返済期間7年以内」とする。
そして,平成21年度進捗状況は,①事業価値を見極めた融資として取組んでいる「リレバンローン」
「ク
イック保証」の実績は,次の通りである。ア.リレバンローン:5件 488百万円,イ.クイック保証:
1件 3百万円,②動産(在庫)担保とした貸出は当座貸越契約1件200百万円の実績となった,とされ
ている。
3.
「地域の情報集積を活用した持続可能な地域経済への貢献」の項目では,地域全体の活性化,持続的な
成長を視野に入れた,同時期・一体的な「面」的再生への取組みとして,①地域社会・経済発展のため
に通り会,町内会等が街の活性化策に対するビジョンに対して金融支援を行っている,②商工会議所・
商工会・中小企業団体中央会・中小企業再生支援協議会との連携を強化している,と書いており,その
ための平成21年度進捗状況としては,①町内会・天文館地区等の活性化のための金融支援2先,②中小
企業再生支援協議会との連携による金融支援先1先40百万円,と記されている。
2) 奄美信用組合
奄美信用組合は,ホームページに「地域密着型金融推進3ヵ年計画」を公開しており,それによれば,
『当組合は地域経済の活性化や中小企業金融の円滑化に向け,平成15年度から平成18年度までの4年間
を「重点強化期間」として地域密着型金融の一層の強化・推進をするための計画を策定し,実施してまい
りました。その結果,一定の成果は得られたものの地域性に乏しく形式的な成果に止まった項目もあり,
今後の課題となっております。これらの結果を踏まえ,更なる地域密着型金融の推進を継続的に取組むた
めの基本方針として,新たに「地域密着型金融推進3ヵ年計画」を策定いたしました。この3ヵ年計画は,
― 83 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
お客様の身の丈・ニーズに合った取組みをベースとして,①ライフサイクルに応じたお客様の支援強化,
②中小零細企業に適した資金の提供,③地域経済への貢献,④経営力の強化,⑤地域の利用者の利便性向
上,以上5つの項目を柱と定め,具体的取組策に基づき,地域の情報ネットワークの要として,持続可能
な地域密着型金融の取組みを推進してまいります。また,地域のみなさまに当組合の取組姿勢を十分にご
理解いただけるよう,充実した分かりやすい情報開示の提供に努めてまいります。』12 と,されている。
以上のように,鹿児島県の信用金庫と信用組合の地域活性化のための方策を「地域密着型金融」を中心
に概略的にみたが,大事なことは,いくら地域金融機関が,地域活性化のために努力したとしても,あく
までも金融面からの支援であり,金融機関が地域活性化を直接するわけではないことである。すなわち,
地域活性化を行う主体は,地域に住む住民であり,住民自らが地域のニーズを把握して,互いに協同して
地域活性化をするわけである。
しかし,地域金融機関が,地域活性化のために直接的な動きはしないものの,その地域金融機関から資
金を借りている住民が地域活性化のために何かをするとき(この意味はその住民が自分のためにあるいは
自分の利益のために何かをすることと結局同じであろう),側面(金融面)から支援するわけなので,金
融機関にとって利益優先という姿勢より,地域にとって大義を優先して貸出を行うことが重要となる。こ
れが,まさに地域活性化のためにするべき地域金融機関の役割であろう。つまり,地域金融機関にとって
は,地域活性化のための金融面からの支援が主な仕事であり,地域活性化を直接するのではないことであ
る。
言い換えれば,地域の住民が自ら動かないと,誰も代わりに動いてくれないことになる。政府や地方自
治会に依存しながら,「何かをしてくれないかな」と期待しているだけでは,真の地域活性化はできない
のである。まず,個人から始まって,その個人と個人の繋がり,そして,そうした個人たちが集まって,
共同体をつくり,そしてまた,その共同体と共同体の集まりで連携をするという,ネットワークができて
からこそ,真の地域活性化ができるのではないかと思う。
そこで,また注意しなければならないのは,地域金融機関が地域活性化という大義名分のもとで,むや
みに(利益を重視しないで)貸出を行うのは避けるべきである。地域活性化のためなら,何でもいいとい
う姿勢で,失敗する可能性が高いところにまで,貸出を行うのは,何も意味がないわけである。本当に地
域活性化ができる(地域活性化に繋がる)と思われるところに貸出をすることが重要である。そのために
は,地域金融機関の自らも,地域活性化のための研究やニーズの把握を絶えず行うことが必要であろう。
その意味で,地域金融機関は,あたかも地域の住民の一人としての存在感を持って,誰より強く地域の活
性化のために努力する存在にならざるを得ない。
まとめ
これからの時代の流れは,多様性を求める社会の要請と同時に,環境と健康(Well-Being),正しく生
きる(暮らす),単純に生きる,自然に戻る,といったトレンドが注目を集めると予想される。そうした
視点からすれば,鹿児島県の地域的状況(特性)は,そのような条件に一致している。
資本主義経済の市場原則に基づく論理は,厳しい競争を強いる,弱肉強食の論理である。競争に勝つた
めには,絶えず利益というものを追求しなければならない。その結果,競争に負けた側は,そのまま淘汰
されるのである。しかし,地域経済の回復を考えるときには,問題の根本が資本主義経済の構造的問題か
12 奄美信用組合「地域密着型金融推進3ヵ年計画」より引用。
― 84 ―
鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について(2)
ら発生しているので,資本主義経済の根幹をなす競争原理と相反する協力原理に基づいて考えないといけ
ない。
地域活性化は,地域が発展して大都市と同じ機能をするのを求めるわけではない。地方・地域は,本来
の地方らしい,地域らしい色を維持しながら,独自に発展していくのが望ましい。地方と地域(特に農村)
に人々が求めるのは,都市的な機能ではなく,地域,地方ならでの「機能(味)」を求めるのである。し
たがって,それを活かして新しい需要を創出することが重要である。
参考文献一覧
1. 呉文二・島村高嘉『金融読本[第25版]』東洋経済新報社,2004年4月。
2. 岡田知弘『地域づくりの経済学入門』自治体研究社,2006年9月。
3. 岡田浩一・藤江昌嗣・塚本一郎編『地域再生と戦略的協働―地域ガバナンス時代の NPO・行政の協働―』ぎょ
うせい,2006年11月。
4. 本間義人『地域再生の条件』岩波新書,2007年1月。
5. 神野直彦『地域再生の経済学』中松新書,2007年4月。
6. 小野有人『新時代の中小企業金融―貸出手法の再構築に向けて―』東洋経済新報社,2007年6月。
7. 藤井良広『金融 NPO―新しいお金の流れをつくる―』岩波新書,2007年7月。
8. 安田原三・相川直之・笹原昭五編著『いまなぜ信金信組か』日本経済評論社,2007年10月。
9. 岡田真美子編『地域再生とネットワーク―ツールとしての地域通貨と協働の空間づくり―』昭和堂,2008年3月。
10. 片木淳・藤井浩司・森治郎編『地域づくり新戦略―自治体格差時代を生き抜く―』一藝社,2008年4月。
11. 関満博・鈴木眞人編『信用金庫の地域貢献』新評論,2008年6月。
12. 堀江康煕『地域金融機関の経営行動』勁草書房,2008年8月。
13. 高原一隆『ネットワークの地域経済学―小さな会社のネットワークが地域をつくる―』法律文化社,2008年10月。
14. 多胡秀人『地域金融論―リレバン恒久化と中小・地域金融機関の在り方―』金融財政事情研究会,2009年3月。
15. 岩佐代市『地域金融すステムの分析―期待される地域経済活性化への貢献―』中央経済社,2009年5月。
16. 岡田知弘『一人ひとりが輝く』新日本出版社,2009年7月。
17. 高橋克英『信金・信組の競争力強化策』中央経済社,2009年9月。
― 85 ―
『世界遺産と地域再生』
(毛利和雄著 新泉社 2008年6月刊行)
吉田 春生*
世界遺産の登録は地域振興の大きな武器として注目されている。一方で,世界遺産となったことで観光
客が過剰に訪れ,地域のアメニティ低下も大きな問題となっている。本書は全国各地で展開される世界遺
産を目指す動きとまちづくり・地域活性化の関連についての具体的なレポートである。同時に,世界遺産
認定の仕組みを知るうえでの基本的な知識も網羅されており,地域振興を世界遺産登録を通じて図ろうと
する地域にとっての必読書ともいえる。なお,著者は NHK で文化財報道に長年携わってきた経歴を有し,
現在は解説委員である。
この本の出版された前年の2007年には,世界遺産をめぐる大きなニュースがあった。いったんは登録延
期が勧告された島根県の石見銀山が,その決定を覆して登録が決まったからである。本書はこの石見銀山
遺跡の何たるかの解説から,銀山手前の大森地区におけるまちづくり運動推進の経過,登録に向けての活
動,評価を下すイコモス(国際記念物遺跡会議)が現在の世界遺産に求めている要件など,当時の最も話
題性の高かった石見銀山から記述が始まっている。その後,文化庁の暫定リストに記載された平泉や,結
局は世界遺産を目指さないことになった尾道,昨年10月に景観裁判において画期的な判決が出された鞆の
浦がレポートされている。
こうした内容の本書が評者にとって興味深かったのは,次の二点においてだった。
第一には,石見銀山の逆転登録の顛末が明らかにされる過程において,現在の地域総合研究所が研究
テーマとしている「地域の知のネットワーク形成」を彷彿とさせるような,過去のネットワーク形成が鮮
明に捉え直されている点である。あるいは,本書の出版後までつながる,浄土思想を形成する景観を主張
した平泉がその文脈形成(= ネットワーク形成)に苦心する様子である。因みに,平泉の世界遺産登録は
見送りとなったが,イコモスの判定では,浄土思想を形成するという景観の文脈が上手く伝わらないとい
う点にあった。
第二には,すでに岐阜県の白川村や鹿児島県の屋久島において起こっている,世界遺産登録後に観光客
の入込みが急増し,地域にとって観光公害ともいうべき現象が生まれていることと関係する。石見銀山の
手前にある大森地区における地域活性化の功労者とされる二人の人物において登録への思いが微妙に異
なっており,そこに観光学が取り組むべき重要な問題が潜んでいることが挙げられる。
以上の二点について考えてみたい。
石見銀山地区の特徴
世界遺産に登録された石見銀山の正式名称は「石見銀山遺跡とその文化的景観」である。それは,①鉱
*本学福祉社会学部教授
― 87 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
山跡と鉱山町,②街道(石見銀山街道),③港湾と港町の三つから構成される。
石見銀山は江戸時代前期に最も栄え,その後は生産量が低下していく。明治時代以降も新技術によって
大々的に再開発されることはなく,そのことでかえって,人力を中心に営まれた鉱山遺跡が良好に残る原
因となった。管理するための代官所が置かれた陣屋町である大森地区は,鉱山が正式に閉山した1923年
(大正12年)以降寂れていくが,当時の建築物が多く残ることで,1987年,国の重要伝統的建造物群保存
地区(以下,重伝建地区と表記)に選定された。これは後述するように世界遺産登録とは別のストーリー
である。
評者にとって地域のネットワーク形成という観点からするならば,鉱山町や,銀を運ぶための銀山街道
とともに,その積出港となる温泉津が組み入れられていく過程は大変興味深いものだった。銀が産出され
温泉津から積み出されたことが歴史的な事実であったとしても,それはかつての歴史としての,過去の事
実としての銀の運搬ルートであるに過ぎない。世界遺産として要求されるのは,単に過去にそうしたこと
があったというのでなく,今日なお,かつての地域のあり方が一定の証拠として現存していなければなら
ない。筆者はこの経過を適切に報告している。
すなわち,石見銀山が日本での世界遺産暫定リストに記載された2001年,大森地区同様,国の重伝建地
区に選定されることを目指していた(世界遺産登録に当たって必要な手順である)が,中世以来の手狭と
なっていた港を埋め立て,波止場を拡張する計画が持ち上がろうとしていた。それは世界遺産登録の資格
を失することを意味している。最終的には町の意思として,新たな港を作るよりも歴史遺産を重視したま
ちづくりを目指すことが決定されたのである。このことで「石見銀山遺跡とその文化的景観」を構成する
先の①~③が世界遺産にふさわしい地域のネットワークとして再生されたのである。このネットワークは
過去の歴史から甦らされたというべきものであり,自覚的な選択がなければ,すなわち温泉津の歴史を忍
ばせる港が現代風の機能的な新港となっていたならば,再生されることはなかった。これは世界遺産登録
を目指すということを抜きにしても,地域にとって重要な観点であろうかと思われる。
なお,温泉津は温泉地でもあり,世界遺産に登録されている温泉地は世界でもここだけということで,
観光的には大きな魅力を有することにもなった。
石見銀山地区の過去と現在
評者は石見銀山地区へは世界遺産登録前と登録後にそれぞれ出かけている。石見銀山というよりは,大
森地区はそのまちづくりが高く評価され,世界遺産登録前の段階で観光研究者の間では広く知られている
成功事例だった。評者の属する日本観光研究学会の全国大会が2003年に大田市で開かれた際にも,大森地
区は重要な紹介事例となっていた。
評者が訪れたときの印象では,とても小さな,静かな町――実際には,ただ一本の通りに並ぶ家屋だけ
といっていい規模だった。しかし,観光カリスマにも後に認定された松場登美さんの洋品雑貨の店「群言
堂」には,数人ずつの女性客が合計で10名ほど店内にはいた。群言堂はその製品(女性服)を東京や京都
の百貨店にも出店させるほどの,地域におけるビジネスの成功事例ともなっていた。群言堂の服のパンフ
レットは,それを作っている女性従業員がモデルとなっていることでも評者には興味があった。
本書でも触れられている,世界遺産登録後の混雑ぶりには筆者も2年前に直面した。岐阜県の白川村や
鹿児島県の屋久島などとまったく同様の観光公害が生まれているのである。松場夫妻はどちらかといえば
登録に積極的ではなく,別な功労者は世界遺産が町を活気づけるという確信のもとで運動に熱心だった。
NHK で1年ほど前に報道された映像では,この地域のアメニティ低下について松場夫妻が地道な活動を
していることが紹介されていた。しかし,押し寄せている観光客の多くは,その地域の良さを十分に理解
― 88 ―
書評
している人たちばかりでなく,地域はますます圧迫されることが予想される。その予兆については本書で
も指摘はされているが,具体的にどうすればいいかまでは,ヒントは示されてはいるものの,根本的なと
ころは詳述されてはいない。観光の研究者や行政の担当者によって解決されるべき大きな空白が残されて
いる。
今後解決を求められる課題は多いものの,本書は世界遺産登録前と後でどのような経過があったかが丁
寧な記述で紹介されており,世界遺産と意識したまちづくり・地域振興を考える地方自治体にとって必読
の書であると思われる。
― 89 ―
地域情報
地方独立宣言――補助金に頼らない独自性,主体性を持った
地域再生の取り組み
小林 隆一*
2007年のリーマンショック以降,地方の疲弊は深刻の度合いを深めていくばかりである。多くの地方都
市では,かつて活気のあった中心市街地から人通りが絶え,高齢者ばかりが目立つ。
農村部では,急速に集落が消滅しつつある。農業集落について見れば,農林水産省によると2000年には
13万5163あった集落が,2020年には11万6388と,20年間で約1万9000もの集落が消滅すると試算されてい
る。
鹿児島県に目を向けると,07年末の県調査によると,65歳以上の人口が半分を超えている集落が全体の
約14%にあたる943集落ある。地区別では,大隅304,姶良・伊佐227,南薩136,北薩130,鹿児島56,大
島52,熊毛38――である。65歳以上の人口が50%を超え,「水田や山林などの維持保全ができない」「冠婚
葬祭など日常生活における相互扶助ができない」など共同体の維持が限界に近づいている「限界集落」が,
県内の全6782集落の3.88%に当たる258集落である。
厚生労働省の国立社会保障・人口問題研究所(社人研)の推計によると,鹿児島県の全45市町村の人口
は,2035年には2005年に比べ全市町村で減少する。減少が最も著しいのは南大隅町で,05年の約半数
52.2%に落ち込み,過疎化が急激に進むと予測している。
2035年の鹿児島県の推定人口は,138万9千人で,2005年の175万3千の約26%減となる。全国レベルでは
2005年の15.4%減程度であるから,鹿児島県の減少割合は全国より大きい。
市町村別では,20%以上減少するのは8割以上の38市町村。このうち人口減が一番なのが南大隅町,続
いて錦江町(05年比54.8%),肝付町(同58.7%),瀬戸内町(同58.99%),曽於市(同61.3%)の順。鹿児
島市(同88.22%),霧島市(同89.3%),鹿屋市(同84.9%)も減少する。
また,65歳以上が40%以上を占める自治体は,1町から29市町村に急増。特に錦江,南大隅,与論の3
町は65歳以上が過半数の「限界集落」に近い状態となる。
2020年には14歳以下の年少人口割合が10%未満の自治体が10市町村出現。35年には23市町村に増え,少
子高齢化が一段と進行すると推計している。その理由として,社人研は「若年層の流出が,全国平均より
多いため,減少の速度が速いのではないか」としている。
こうした状況を知るにつけ,いま鹿児島県が取り組んでいる「観光立県」
「農業立県」そして「企業誘致」
といった諸施策は,「決して成し遂げられることのない幻想」に過ぎないのでは,との思いは深まるばか
りである。
市場縮小の時代における“企業の生き残り”の最低条件は顧客の囲い込みによる固定客化にある。そし
て“持続的発展”の原動力は,需要創造にある。その実現には,経営者自らが自社の強み,魅力を生かし
*経営コンサルタント,前本学経済学部地域創生学科教授
― 91 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
ての「あるべき姿」を明確に打ちだし,その実現に向けての「経営戦略」の形成とその実現に向けての全
社的取り組みが必要不可欠である。
地域経営においても,企業経営と同様に地域振興を果たし,活力の持続性を確かなモノとするためには,
地域振興の核として企業誘致や観光振興といった横並びの策に頼ることなく,地域それぞれの個性,すな
わち地域性(地域特性)を生かした地域のあるべき姿,すなわち地域ビジョンの確立と,その実現に向け
ての独自性を持った取り組みこそが活路を開く道であると確信する。
こうした前提のもとで,行政や補助金に頼ることなく,独自性と主体性を持って地域再生,活性化に取
り組み,実績をあげている事例をレポートする。
1 「やねだん」に見る行政に頼らない「むら」おこし
鹿児島県鹿屋市串良町柳谷地区。行政上の正式名は「やなぎだに」だが,地元では「やねだん」と呼ん
でいる。この集落は人口315人,電車もバスの便もない。この小さな集落が「過疎からの復活」を遂げ,
全国的にも注目を浴びている。06年までは下降をたどり285人まで減った人口が,07年には増加に転じた。
財政面でも豊かとなり,06年には部落に住む110世帯に1万円の「ボーナス」が渡された。
こうしたエピソードは麻生内閣の時,国会でも取り上げられ,一躍全国的な関心を集めた。近年は,韓
国,インドネシア,カンボジアなど海外からも年間4000人以上の視察団が訪れている。
どんな方法で集落を蘇らせたかは,非常に興味あるところである。
1996年3月の柳谷公民館の総会で公民館長に選出された豊重哲郎(当時55才)氏は ,
行政に「おんぶにだっこ」では,人も部落も育たないとし,集落を蘇らせるため「行
政にたよらない村おこし」が大命題として,子どもも元気でここに住んで見たいと思
える地域を目指す,との目標を掲げた。
豊重氏はその実現には,まず資金作りが必要と考え,当時は減反政策で放り出され
ていた畑での特産品のサツマイモ栽培を提案し,地元高校生に「イモ作りで儲けたら,
東京ドームでイチローを見よう」と協力を呼びかけた。東京ドーム観戦につられてな
れない畑仕事に四苦八苦の高校生を見かねて,大人達が指導や手伝いをかって出た。
やがて畑は世代を超えた語らいの場となる。98年の売上げ7万円,00年は63万円,02
年は90万円と収益アップを果たし,見事イチロー観戦を実現した。
さらに,土着菌を使ったサツマイモの有機栽培,そして有機栽培で育ったサツマイ
モを原料としての焼酎造りと活動の幅を広げ,05年には収益500万円を得るまでになった。この収益金で,
高齢者のための「緊急警報器」設置,手押しクルマの「シルバーカー」の購入,子ども向けの授業料ゼロ
の「寺子屋」塾の設立・運営,さらには06年の住民への1万円ボーナスと,着々と成功をおさめた。
自主財源の確保で,高齢者の元気を回復する一方,「若者の流出」にも取り組み,アーティスト限定で
全国から若者募集を打ち出した。07年,豊重氏は,無人となっている「古民家」を利用し,アーティスト
に限定しての無償での移住を呼びかけた。これに応じて,彫刻家,画家,写真家,陶芸家などが移り住ん
だばかりでなく,やねだんの活気を知った集落出身の若い世代が「子育てしたい」と県外からUターンし
てきたのである。それまで閉店していたスーパーは「ギャラリーやねだん」として,作品の展示販売に活
用されるなど,無惨な空き家が貴重な財産として活用されている。現在,やねだんの人口は131世帯・315
名。集落の過疎・高齢化に歯止めがかかったのである。
― 92 ―
地域情報/地方独立宣言――補助金に頼らない独自性,主体性を持った地域再生の取り組み
こうした数々のアイデアで集落再生のリーダーを果たしてきた豊重氏は,次代に向けて「ビジネス感覚
と地域経営学を共有し,情熱も持って人を動かそう」とし,後継者づくりにも注力している。
人口減少・高齢化社会を迎え,国全体が縮小していくなかで,これからは,集落が単に経済的な豊かさ
だけで地域住民を惹きつけることは難しくなるであろう。その集落が「住んでみたい地域」として選ばれ
るためには,地域の歴史に裏打ちされた独自の生活文化の存在が不可欠であり,今後はどのようにその生
活文化を維持し,その魅力を高め,発信し続けていくかが問われる所である。
鹿児島県鹿屋市の柳谷集落にあっては,生き生きとして暮らす地域住民の姿に惹かれて移住してきた芸
術家やUターン者が,自らの持つ独自の視点や発想を地域住民とどのように共有・協働し,新たな生活文
化の創出に関与していけるのか。地域住民とともに“進化する集落(コミュニティ)”としての,今後の「や
ねだん」に注目していきたい。
◆「やねだん」受賞記録
2002年 第8回日本計画行政学会「計画賞」最優秀賞受賞。地域づくりで「日本一」になる。
2004年 政府農村モデル選定(全国で30地区,九州で3地区だが,集落では唯一の選定となる)
2005年 半島地域活性性化優良事例受賞(国土交通省),MBC 賞(南日本放送)受賞。
2006年 農林水産省 地域再生賞 特別賞受賞,第57回南日本文化賞(地域文化部門)受賞,県民表彰(社
会活動部門)受賞
2007年 あしたのまち・くらしづくり活動賞,内閣総理大臣賞受賞,地方自治法施行60周年記念 総務大
臣表彰 受賞
*
原稿作成に当たっては,地域総合研究所事務室の協力を得ている。
*
「やねだんレポート」は,次回も予定。9~11月に部落に泊まり込みでの視察を予定している。
― 93 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
2 “コンクリートから人へ”を実現した町 海士町
島根県隠岐(おき)郡海士町(あまちょう)は , 島根半島の沖合い約60km の日本海に浮かぶ隠岐諸島
の中ノ島からなる面積33.5km2,人口2581人(平成17年国勢調査結果速報)の町である。中ノ島は,大山
隠岐国立公園に指定されるなど,豊かな海に囲まれ,また,鎌倉時代に承久の乱に敗れた後鳥羽上皇が流
されて一生を終えた島として知られ,貴重な文化遺産・史跡や伝承が数多く残っている島でもある。
この町は,1950(昭和25)年に7000人いた人口が2400人までに減少している。全人口に占める65歳以上
人口の構成比を示す高齢化率は39%を越える。一方,年少人口は10%であり,高卒者の大半が島外へ流出
していることから,20~30歳台の年齢層が極端に少なく,地域は活力を欠いた。
グラフの出典:http://www.wagamachigenki.jp/saisei/02_s01.htm
海士町の経済は,補助金と100億円を超える町の借金による公共事業で成り立っていた。それが2004(平
成16)年,地方交付税の突然の大幅削減で,国の指導・監督下で再建に取り組むという財政再建団体へ転
落の一歩手前という深刻な事態に陥った。
こうした状況からの脱却のため,町長山内道雄氏は,平成の大合併が進む中で,合併をしない道を選択
し,「単独町制」を貫くことによる徹底した行財政改革と,新たな産業の創出による地域経済活性化とい
う,「守り」と「攻め」の方策を打ち出した。
「守り」の政策としては,行財政改革が真っ先に掲げられ,2004年度・2005年度の単年度の絶対削減額
として,1億5千万円が目標とされた。先ず行政の内部改革を進め,民間給与との格差是正を考慮しつつ,
緊急措置として人件費の削減による財政破綻を自主的に回避しようとし,町長以下助役・教育長,議会,
管理職に始まり,一般の職員からも,給与の自主減額が提案・実施された。結果として,2004年度の人件
費の削減効果は1億1440万円,2005年度には,自発的な報酬及び給与のカット率を更に高め,3役(町長
50%,助役・教育長40%),職員(課長級30%,係長以下平均22%),議会議員及び教育委員40%,自治会
長10%の削減を行い,全国最下位のラスパイレス指数72.4(2005年4月1日現在)となり,2億1450万円
の削減効果を生んだ。
― 94 ―
地域情報/地方独立宣言――補助金に頼らない独自性,主体性を持った地域再生の取り組み
「攻め」の施策では,一点突破型の産業振興策の実践である。2004年3月の「海士町自立促進プラン」
では,長期戦略として,産業施策を掲げ,自然環境と地域資源を活かし,
「海」,
「潮風」,
「塩」の3つをキー
ワードに,地域資源を有効に活用して,「島をまるごとブランド化」するという究極のふるさと振興を実
現するべく,(1)地産・地消と交流人口の拡大を目指した戦略と(2)全国展開(外貨獲得)を目指した
大規模な付加価値商品づくり戦略を2本の柱として,島民一体となった地域活性化に向けた取組を強化し
た。
キーワード「海」の第一弾が「さざえカレー」の登場である。島では昔から肉の代わりに磯で獲れた「さ
ざえ」をカレーの具としてつかっていた。これが商品にならないかということで役場が先頭に立って商品
開発を進めたのである。それを「島じゃ常識・さざえカレー」として商品化し,今では年間2万6000個も
出るヒット商品となった。これまで島民には商品価値のあることすら分からなかったものが,外から見れ
ば驚きとともに新鮮な魅力として映る,そのいい見本がこのカレーの開発であった。
第二弾は,「いわがき」のブランド化である。種苗の生産から育成,販売までの一貫生産をめざし,U
ターンやIターンの方々と地元漁師が協力して株式会社を設立した。
「隠岐海士のいわがき・春香」という銘柄で販売を開始した。築地市場の評価も高く,今や首都圏の大
方のオイスターバーに「春香」ブランドで出荷している。2007年度には17万個ほどを出荷し,5000万円を
売り上げるまでに成長した。
第三弾は「イカ」をはじめとする豊かな水産資源の活用である。島では新鮮な魚介類を水揚げしても,
海を越えて本土の市場に届くころには鮮度が落ち価値を落としていた。そこで導入したのが磁場エネル
ギーを使った冷凍新技術 CAS(Cells Alive System,細胞は生きているという意味)という装置である。
CAS は生の味覚と鮮度を保持したまま凍結ができ,解凍後もいっさいドリップが出ない,細胞が壊れ
ないという画期的なシステムで,これを使って離島のハンディを克服し,付加価値の高い商品づくりに挑
― 95 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
戦している。現在,外食チェーンを中心に百貨店,スーパー,ギフト販売など着実に販路を広げて,徐々
に CAS 商品の認知度も高まりつつある。
第2のキーワードである「潮風」は,「島生まれ,島育ち,隠岐牛」のブランド化の推進である。隠岐
では,これまで放牧を中心とした和牛の繁殖経営で,仔牛の生産しか行わず,肥育まで一貫して手がける
畜産農家はいなかった。そこへ地元建設会社が100%出資の子会社「(有)隠岐潮風ファーム」を立ち上げ,
牧草の生産,すなわち農地が扱えるように農業特区の認定を受け,島で初めて和牛の肥育が始まった。島
は年中海から潮風が吹き上げるため,島の放牧地や牧草にはミネラル分が多く,おいしい肉質に仕上がる
という。
販売先は品質に厳しいといわれる東京食肉市場にしぼり,ブランド化をめざし,市場関係者から高い評
価を受けるまでになっている。
第3のキーワードは「塩」である。海士は古くから都へ海の幸を貢ぎ物として献上してきた。その進物
の鮮度を保っていたのが「塩」であり,海士の食文化継承には最も必要な産物でもある。
昔ながらの釜炊きの塩づくりを復活させたいと願う住民有志の取り組みがきっかけとなり,歴史にふさ
わしい「海士御塩司所」という製塩施設を建設して,本格的な天然塩の生産を始めた。町内集落や女性グ
ループの間からは,海士乃塩を使った梅干し,塩辛,干物,漬け物など島らしい商品を作る活動が始まり,
島まるごとブランド化に向けた地域コミュニティーの再生に期待が集まっている。
「海・潮風・塩」の三つをキーワードに一点突破型の産業振興を進めた結果,辺境の島にも構造改革が
着実に芽吹きつつある。
2004年度から2007年度の4ヵ年間で,88人のUターン・Iターン者の雇用を創出することができ,起業
を試みる若い青年も現れるなど,次代の担い手育成面にも光明を見い出している。また,Iターン者も20
代から40代の世代を中心に,この4ヵ年で93世帯,167人が定住した。
行財政改革をリードしてきた町長山内道雄氏は,「町の経営は企業経営と同じといっていい。他力本願
では出来ない。「自分たちの島は自分たちが守る」という自治の原点に立ち返り骨身を削りながら,もて
る知恵と力を振りしぼり頑張るしか生きる道はない。町政の経営指針である「自立・挑戦・交流〜そして
確かな明日へ〜」向かって,たゆまぬ努力と情熱で,ふるさとの未来を創り,理想の社会にして次世代に
手渡すことが私たちの使命であり,首長である私には,「人を繋ぎ束ねる」大きな責任がある」と語って
いる。
*
執筆に当たっては , 地域総合研究所事務室の多大な協力をいただいています。心より感謝します。
出典:http://www.afc.jfc.go.jp/information/publish/afc-month/pdf/AFC_Forum0806.pdf
3 県境を越えた広域連携
3-1 長野県南部 , 下條村の出生率向上策
人口約4000人の長野県下伊那郡下條(しもじょう)村は,出生率向上という人口対策が実を結び一躍注
目を浴びている。アイデアマンの伊藤喜平(きへい)村長が,リーダーシップの発揮のもとに打ち出す施
策は,ユニークである。伊藤村長の口癖は「中途ハンパはダメ」「真剣にやる」。
いま,全国の市町村の多くは,国の補助金頼りの行政で,考える力と自主性を失った。景気対策で実施
された公共工事の結果,全国の市町村は多額の借金にまみれ,国と地方の借金総額は約1000兆円。下條村
はこれらを申請せず,全て自前予算。村の財政の健全さを示す起債制限比率は1.7%と,長野県内一位で
― 96 ―
地域情報/地方独立宣言――補助金に頼らない独自性,主体性を持った地域再生の取り組み
ある。
また,下条村は,出生率を向上させたことでも全国的に知られる。2007年の出生率は2.12を記録した。
一時は578人に減った14歳以下人口が,2008年には723人にまで回復した。数年前には初のコンビニが誕生,
電器部品工場進出が決まるなど相乗効果も生んでいる。
最後に,伊藤村長の打ち出した代表的な施策を書き添える。
◆役所職員の意識改革
助役以下,村役場全職員をホームセンターに1週間の研修に出した。結果,一人何役もこなす職員に生
まれ変わった。そのかいあって退職職員の不補充が可能になり,職員数・人件費ともに半減した。
◆住民の意識改革
道路は役所が作るのが普通であるが,下條村では村民が道路をつくる。借金もなく道路がつくれ,皆で
力を合わせることで村民の意識連帯感も深まる。村の財政健全化にも取り組み,県の薦める大規模下水道
工事を断り,簡易な浄化槽方式により多額の借金もせずに安価に下水道を完成させた。
これら創意・節約でつくり出した財源を,子育て支援や教育,福祉の維持にまわすことができた。
◆村民増加計画 -- 若者定住促進対策
村内の各所に10棟124戸のタイルにおおわれた三階建てマンションがある。部屋の広さは2LDK で63平
方メートル。駐車場2台付きで,家賃は3万6000円で,近隣の飯田市の半分程度。いまや多くの夫婦が入
居待ちの状態にある。
村では子育て支援として子どもの医療費無料化を段階的に拡充,04年度からは中学生まで広げた。さら
にこの2年で村営保育園の保育料を20%値下げ。子供向けの書籍を中心に68000冊の蔵書がある村営図書
館も中心部に建てた。
なお,下條村が,若者定住促進対策が効果をあげるまでには15年を要している。ちなみに,下條村は,
俳優 峰竜太氏の出身地でもある。
出典:下條村自立(律)宣言
http://www.vill-shimojo.jp/01gyousei/07gappei/2009-0408-0942-9.html
2008年度 イエローリボン賞:伊藤喜平
http://www.fdc.gr.jp/cam/bestfather/2008/1.html
3-2 県境を越えた広域連携尾―三遠南信サミット,250万流域都市圏の創造
下條村が立地する三遠南信地域は,愛知県東三河,静岡県遠州,長野県南信州(飯田市/松川町/高森
町/阿南町/阿智村/平谷村/根羽村/下條村/売木村/天龍村/泰阜村/喬木村/豊丘村/大鹿村)の
57の市町村で構成する地域にあり,総面積5万7000km2・人口200万人と一つの県にも匹敵する規模をも
つ。
この地は,古くは,三州街道,伊那街道,秋葉街道を通じて人や物資の交流が活発であったことから,
県境を挟む地域であっても歴史的につながりが深く,文化的共通点を有している。
地理的には,南北に天竜川が流れ,豊橋市,浜松市,飯田市がそれぞれの地域の拠点都市として存在し,
山間部が中央に位置するといった特徴を持つ。
― 97 ―
地域総合研究 第38巻 第1号(2010年)
これら水系,拠点都市,山間部に着目した地域振興計画が戦後間もない頃から
策定されてきたが,1993年には,国土庁など5省庁により三遠南信地域整備計画
が策定されている。現在,三遠南信自動車道の整備が進められているが,その進
展に伴って今後さらなる連携・交流活動の活発化が期待される。
◆三遠南信サミット
三遠南信サミットは,愛知,静岡,長野の3県にまたがる三遠南信地域(愛知
県東三河,静岡県遠州,長野県南信州)の33市町村及び60商工会・商工会議所,地域住民の連携のもと,
一体的な振興を目的に平成5年度から開催されている。
◆三遠南信地域連携ビジョン
250万流域都市圏の創造を掲げ,日本の中央回廊の形成▽大伊勢湾環状を構成する中核的都市圏の形成
▽流域循環圏の形成を目指す。道路の整備やリニア中央新幹線飯田駅設置など地域基盤をはじめ持続発展
的な産業集積,中山間地域を生かす流域モデル,広域連携による安全・安心な地域など5つの基本方針を
示している。
◆信用金庫の連携
三遠南信地域にある8信用金庫(飯田・浜松・磐田・遠州・掛川・豊橋・豊川・蒲郡)は,広域での経
済発展を目指し,協働して「三遠南信しんきん物産展」「三遠南信しんきんサミット」を開催している。
4 信州・小布施(おぶせ)
信州・小布施は,人口1万2000人の小さな町である。この町にはピーク時よりはやや減ったとはいえ,
日本全国のみならず世界中から,年間80万人もの観光客が訪れる。また小布施に移住して,当地で活躍す
る人も多い。
小布施の何が人々を惹きつけるのか。また小布施の魅力の背後には何があるのか。
◆80歳を超えていた葛飾北斎が足繁く通った町
毎週末ともなると,小布施の中心街豪商・高井鴻山の記念館裏の通称「栗の小径」は,観光客で賑わう。
2006年に,ETC 搭載車に限り通行が可能なインターチェンジ「スマート IC」が小布施 PA に設置された
ことから,マイカーで来る客が一段と増えている。
小布施は元々,歴史的,文化的な魅力に満ちあふれる。江戸時代後期,既に80歳を超えていた葛飾北斎
がこの町に足繁く通い,パトロン的存在だった当地の豪商・高井鴻山の元に起居しながら多くの作品を残
したことは有名である。
小布施町内にある岩松院天井画や,祭屋台天井画はその代表例と言われる。また,栗の産地としても有
名で,200年以上の歴史を誇る栗菓子匠がいくつかある。
小布施に観光客が来るきっかけとなったのは,1976年開館の北斎館である。当時,田んぼの中の美術館
とマスコミに大きく取り上げられた。
― 98 ―
地域情報/地方独立宣言――補助金に頼らない独自性,主体性を持った地域再生の取り組み
5 地域活性化の成功事例は,地域再生の参考とはならない
過疎化・高齢化した小規模集落の地域住民が,自主財源をもとに自立した地域再生を果たした鹿児島県
やねだん(柳谷)集落には,年間,日本国内にとどまらず海外から自治体や地域づくり関係者など集落人
口の10倍以上の約3,500人もの視察者が訪れている。
注目される点は,集落全体の事業計画を決める自治公民館の集会には,集落内のほぼ全員が出席すると
いう点にある。この事実は高齢者から子どもたちまで集落の全員が,何らかの形で集落の運営に関わりを
持ち,親交を深め,集落内での連帯感が再生されてきたことの証であろう。
こうした賞賛に値する実績を承知のうえで,あえて主張する。「やねだん」のみならず,この稿で取り
上げた地方活性化の成功事例は,自らの地域の再生・発展に向けての参考とはならないと申しあげたい。
成功事例は華々しく取り上げられていることから,どこでも独創性と主体性をもって活性化に取り組め
ば,必ず成功すると受け取られがちであるが,地域住民全員が意欲を持ち取り組んでも成功するとは限ら
ない。成功事例はホンの一握りである。今回,成功事例として取りあげた地域に共通する点は,野心と才
智に富んだ卓越したリーダーの手腕による所が多である。こうした人材の出現は稀有(けう)にとどまる。
こうした現実からして,成功事例のみならず衰退の事例にも目を向け,それを反面教師として,自らの地
域の発展に役立てるべきと申しあげたい。
― 99 ―
研究所通信
2010-10-04「カナダプロジェクト九州セミナー論叢」出版
カナダ研究プロジェクト(リーダー:マクマレイ・デビッド氏)は,年間の活動をまとめたジャーナル
「Canada Project in Kyushu Colloquia(カナダプロジェクト九州セミナー論叢)」を出版した。
今回で6巻目の発行となる。
ご覧になりたい方は,地域総合研究所にお越しください。
自由に閲覧できます。
発行日 2010年7月20日
ISBN
978-4-901352-33-8
後援
カナダ政府
July 2010 • David McMurray & Hisako Sokei • IUK
カナダプロジェクト理解
Canada Project in Kyushu Colloquia • Vol. 6,
Understanding
Canada Project
― 101 ―
Canada Project in
Kyushu Colloquia
カナダプロジェクト九州セミナー論叢
2010 • Volume 6
Canada Studies Centre in Kyushu
at the Institute for Regional Studies,
The International University of
Kagoshima, Japan
鹿児島国際大学附置地域総合研究所『地域総合研究』投稿規定
1 投稿論文の種類 投稿論文は,研究論文,研究ノート,調査報告,研究動向,書評,紹介,時評,学
術資料,地域情報のいずれかで,執筆要綱に従って執筆された,未発表のものとする。
2 制限枚数 制限枚数は,1論文につき,400字詰め原稿用紙で,論文の種類に応じて以下の枚数以内
とする。
研究論文・・50枚 研究ノート・・30枚 調査報告・・30枚 研究報告・・30枚
研究動向・・20枚 書評・・10枚 紹介・・2枚 時評・・20枚 学術資料・・30枚
地域情報・・20枚
3 投稿手続 投稿に際しては,著者名(漢字仮名表記とローマ字表記),所属,表題(和文と英文)を
明記した投稿票(様式自由)を付し,原稿1部を提出すること。投稿原稿の種別は,編集委員会の決
定により変更を求めることがある。
4 原稿の採否 投稿原稿の採否は,編集委員会の審査に基づき編集委員会で決定する。
5 著作権について 著作者は,著作権の内,複製権と公衆送信権に限って,鹿児島国際大学附置地域総
合研究所に権利行使を委託するものとする。
執筆要綱
1 原稿は横書きとする。但し,研究論文には必ず500語程度の英文抄録を添付するものとする。
2 原稿をワープロで作成した場合は,そのファイル(フロッピー・ディスク)を提出すること。ファイ
ルから印刷された形を完全に再現できる場合は,印刷原稿を必ずしも提出しなくてもよい。再現可能
かどうかを編集委員または事務局に確認すること。ファイルから印刷された形を完全に再現できない
場合には,印刷原稿に加えて,テキスト形式で保存されたファイルを提出すること。なお,提出の媒
体はフロッピー・ディスクまたは電子メールとする。
3 傍点部分および欧文イタリック体部分は下線を引き,その旨明記すること。
4 図・表の挿入箇所を指定するときは,原稿にその箇所を明記すること。
5 注は本文末尾にまとめ,1論文にわたる通し番号とすること。
6 文献は本文中および注の中で引用したものだけについて,そのすべてを,注の後にまとめて記すこと。
本文中または注の中での文献の引用は,原則として,括弧の中に著者名,発表年を記すことによって
行うこと。同一著者同一発行年の文献が複数あるときは,発行年の後に,「a」,「b」などの記号を
付すことによって区分すること。
7 文献の表記は原則として以下のとおりとする
(a)和文単行書の場合 著者名(発行年),『書名』,出版社。
(b)和文論文の場合 著者名(発行年),「論文表題」,『雑誌名』巻,ページ
(c)欧文単行書の場合 Author(year),Title(タイトルに下線),publisher
(d)欧文論文の場合 Author(year),‘Title of the paper’,Journal(雑誌名に下線),vol,pages.
― 103 ―
編 集 後 記
本研究所の現行プロジェクトは,「知のネットワーク」というテーマのもとに,多角的に取り組んでき
た。現在,本プロジェクトは4年目を迎えており,本号はその成果の一部である。
掲載順にみると,最初の衣川恵「中心市街地活性化の先進事例―高松市と長浜市の事例」は,中心市街
地活性化の数少ない先進事例を紹介し,検討したものである。高松市丸亀町では商店街が中心となり,長
浜市「黒壁」では民間人が中心となって中心市街地の活性化に貢献している。
小林隆一「エリアマーケティングの実務」は,縮小時代におけるエリアマーケティングの有効性を説き,
これまで手がけた事例をもとに,企画書,分析シート,戦略立案シート,実行プラン等の作成方法を開陳
している。地域の特性を重視したビジネスという視点が注目されるとともに,実務家としての経験を活か
した内容が参考となる。
吉田春生「富岡製糸場が意味するもの―世界遺産とネットワーク形成①」は,富岡製糸場について歴史
的に概観するとともに,その保存運動が世界遺産の申請の運動へと発展した事情を考察している。特に,
富岡製糸場の世界遺産登録に向けた運動におけるトポフィリア(場所愛)から地域振興・商業振興への発
展段階が摘出されている。続編が予定されている。
富澤拓志「地方分工場経済における企業誘致型産業振興の行方」は,外来の分工場が地域経済に及ぼす
影響の検討を通じて,地域の産業振興のあり方を考察したものである。諏訪市や岡谷市のような成功事例
もあるが,グローバル化のなかでアジア地域への進出が進んでおり,従来のような企業誘致は難しくなっ
ており,既存工業用地の有効活用や多角的視座に立った地域産業振興の地道な努力が必要であることを強
調するとともに,このような視点から分工場の誘致を考える必要があることを指摘している。
深見聡「ジオパークとジオツーリズムの成立に関する一考察」は,「世界遺産の地学版」と言われるジ
オパーク,ならびにジオツーリズムの定着・発展について考察したものである。ジオパークやジオツーリ
ズムが発展するためには,学校や地域における人材育成が重要であることを指摘している。地域振興と観
光の多様化に資する研究である。
また,韓尚均客員所員から研究ノート「鹿児島県の信用金庫・信用組合における地域活性化について
(2)」,吉田春生所員から書評「『世界遺産と地域再生』(毛利和雄著 新泉社 2008年6月刊行)」,小林
隆一前所員から地域情報「地方独立宣言―補助金に頼らない独自性,主体性を持った地域再生の取り組み」
を寄稿いただいた。
なお,この「知のネットワーク」プロジェクトは,瀬地山敏所長のもとに,月1回の定例会議を行うと
ともに,所員がそれぞれの持ち味を活かして研究を行ってきた。しかし,鹿児島の地域経済について集中
して研究するにはいたらなかった。そのため,研究所専任所員の構成を含めて,次期研究体制が検討され
つつある。
(衣川 恵)
― 104 ―