Introduction 武術の世界 ■インドと南アジア 文化と伝播◆ガッカ◆ムクナ◆シェイスター・ヴィディヤ◆タン・タ◆ムキ・ボクシング◆インブアン・レスリング◆アキ・キチ◆シラムバム◆カラリッパヤットゥ ビハインド・ザ・シーン カラリッパヤットゥ◆武器と防具 インドの武器◆ヴァイラ・ムシュティ◆クットゥ・ヴァリサイ◆マリューサム◆マーマ・アディ◆ボサッティ アンガムポラ◆バンデッシュ◆ブットゥ・マーラ・アッティ◆ナータ◆チェーナ・アディ◆ラスィー◆クシュティ◆ビハインド・ザ・シーン クシュティ ■中国と東アジア 文化と伝播◆ブフ◆天山派◆ボアボム◆侠家拳◆白鶴派◆峨嵋拳◆白虎拳◆白眉拳◆心意六合拳◆少林功夫◆ビハインド・ザ・シーン 少林功夫◆八極拳 豹拳◆短拳◆大成拳◆柔功門◆連拳◆羅漢拳◆ビハインド・ザ・シーン 京劇◆八卦掌◆戮脚◆九派門◆華拳◆地躺拳◆警拳道◆太極拳 ビハインド・ザ・シーン 太極拳の達人◆北派螳螂拳◆虎拳◆劈掛掌◆長拳◆黒鶴功夫◆梅花拳◆形意拳◆点穴◆ウーシュウ◆ビハインド・ザ・シーン 武術学校 酔猿◆通背拳◆大聖門◆三皇砲捶◆八法拳◆猴拳◆彈腿◆北派鷹爪拳◆翻子拳◆ゴチ・ボクシング◆ビハインド・ザ・シーン シュワイジャオの達人◆秘宗拳 五祖拳◆黒虎拳◆福建白鶴拳◆洪家拳◆狗拳◆洪佛拳◆山黎峒派◆蔡李佛拳◆龍拳◆道派功夫◆虎爪派◆武器と防具 中国の武器◆散手◆散打◆達磨拳 蔡家拳◆南拳◆少林南北拳◆唐手道◆風手◆詠春拳◆紅拳◆佛家功夫◆劉家拳◆南派螳螂拳◆鴻勝◆蛇拳◆拳法◆五形拳◆酔拳◆力拳◆シルム スバク(手縛)◆ユスル(柔術)◆トゥコンムスル(特攻武術)◆キュキドー(撃氣道)◆クゥォンブップ(拳法)◆クムド(剣道)◆テッキョン◆ハプキドー(合気道) スンカンム(禅観武)◆ヨンムド◆クンゲクド(拳撃道)◆ファランドー(花郎道)◆クンムド(拳武道)◆クッスルウォン(國術院)◆テコンドー◆タンスドー(唐手道) ハンクンドー(韓剣道)◆ウォンファドー(円和道)◆ハンムドー(韓武道)◆ハンキドー(韓気道)◆ホイジェオンムスル(回転武術)◆ヘァドングンドー(東海剣道) ■東南アジアとオセアニア 文化と伝播◆バンドー・サイン◆バンドー・ヨーガ◆バンシャイ◆ミン・ズィン◆ポンギィ・サイン◆ナバン◆ラウェイ◆カビー・カボーン ビハインド・ザ・シーン カビー・カボーン◆武器と防具 カビー・カボーン◆ムエタイ◆ビハインド・ザ・シーン ムエタイ戦士たち◆ムエボラーン◆ラードリッ トゥーターン◆リング・ロム◆ボッカトー◆プラデル・セレイ◆クメール・トラディショナル・レスリング◆ヴォヴィナム◆チュン・ヌー◆トモイ◆プンチャックシラット リウ・セオン・クンタオ◆シンド◆バーシラット◆カリ・シカラン◆カデナ・デ・マノ◆ブノ◆クンタウ◆クンタウ・リマリマ◆パニャムット◆ゴクサ◆エスクリマ エスパダ・イ・ダガ◆サガサ◆スンツカン◆ヅモグ◆バリンタワク◆シカラン◆マウ・ラカウ◆コムバタン◆エスクリド◆ラメコ・エスクリマ◆ヤウ・ヤン◆ジェンド モダン・アーニス ■日本と沖縄 文化と伝播◆武器と甲冑 侍◆沖縄空手◆劉衛流◆少林流◆松濤館◆戸山流◆上地流◆泊手◆手組◆沖縄古武道◆和道流◆剛柔流◆那覇手◆修交会 天真正伝香取◆日本拳法◆八光流◆護身柔術◆神道揚心流◆大東流合気柔術◆忍術◆ビハインド・ザ・シーン 忍者の師◆武器と甲冑 忍者◆柔術◆中村流 居合道◆柳生新陰流◆剣術◆手裏剣術◆棒術◆剣道◆流鏑馬◆弓道◆極真空手◆シュートボクシング◆プロレス◆相撲◆ビハインド・ザ・シーン 力士たち 柔道◆合気道◆逮捕術◆少林寺拳法◆一心流◆薙刀術◆新体道◆躰道◆拳法会◆南武道◆玄武館◆自然館 ■ヨーロッパ 文化と伝播◆バタイレアクト◆スコッティッシュ・バック・ホールド◆ランカシャー・レスリング◆コーニッシュ・レスリング◆キャッチ・レスリング◆クォータースタッフ バティツゥ◆ディフェンドー◆ジエイシュダン◆ウォリアー・ウィンチュン◆ジョゴ・ドー・パウ◆シーポタ◆ルータ・コルサ◆フェゴ・デル・パロ◆ルチャ・カナリア ラ・スクオラ・デラ・スパダ・イタリアナ◆リウ・ボウ◆ボクシング◆ビハインド・ザ・シーン プロボクサー◆ジャスティング◆キノミチ◆バトン・フランセーズ◆ゴウレン 武器と甲冑 中世のジャスティング◆ウェスタン・アーチェリー◆フェンシング◆グレコローマン・レスリング◆サバット◆パルクール◆ドイチェル・ジュウジィツ カンプフリンゲン◆ドイチェ・フェヒトシューレ◆シュウィンゲン◆パンクレイション◆スヴェボール◆リアルノグ・アイキドア◆コンバット56◆クリドリ◆ROSS システマ◆ブザ ◆サンボロシアン・オールラウンド・ファイティング◆スタヴ◆ハン・モー・ドウ◆グリマ ■アフリカ、中東、中央アジア 文化と伝播◆ラアムブ・レスリング◆エヴァラ・レスリング◆ダムベ◆エジプト式棒術◆ヌバ・ファイティング◆テスタ◆ラフ・アンド・タンブル◆スリ棒術◆ングニ棒術 ビハインド・ザ・シーン ングニ棒術の戦士◆武器と防具 ズールー族の武器◆クラヴマガ◆ハガナーシステム◆カパプ◆サヨカン◆ヤールギュレシ◆クラッシュ ■アメリカ 文化と伝播◆ウェン=ドウ◆ディフェンドウ◆ハリケーン・コンバット・アート◆シャオリン・ケンポー・カラテ◆シンギタイ・ジュウジュツ◆アメリカン・ケンポー ジークンドー◆MMA◆ビハインド・ザ・シーン MMAファイターたち◆カレッジ・レスリング◆ホーシン・ローシ・リュー◆トゥ・シン・ドゥ◆アメリカン・カラテ・システム シェン・ルン・クンフー◆チョイ・クワング・ドー◆LINEシステム◆ココンドー◆プログレッシブ・ファイティング・システム◆ジェイルハウス・ロック◆キックボクシング チュフエンドー◆アメリカン・コンバット・ジュードー◆モデル・マギング◆ネコリュウ・ゴシンジュツ◆SCARS◆海兵隊格闘術プログラム(MCMAP) グラップリング・イノウエ・レスリング◆リマラマ◆ルアー◆カリンダー◆マニ・スティック・ファイティング◆ティンク◆バーリ・トゥード◆コンバート◆ルタ・リブレ エル・フエゴ・デル・ガローテ◆カポエイラ◆マクレレ◆ブラジリアン柔術 用語集◆索引◆感謝を込めて◆あなたに向いた武術を見つける 68 中 国と東 アジア 技と流 派 豹拳 八極拳 概要 広東語で 「八つの究極の拳」 発祥時期 不明 概要 伝統的な 少林寺の獣拳 発祥時期 土着の技術 創始者 ジェイ ユアン (バイ ユアンと李叟が協力) 発祥地 中国、河南省 創始者 不明 発祥地 中国、河北省 起源は定かではないが、最も 古 い 記 録 で は 清 朝 時 代( 1 6 4 4 〜1911年)に、中国北部の河北省 孟村で生まれたとされている。 現在は、劈掛掌と弊習され る。両者は、お互いに補完する 目的で一つの術として教えられ ているのだ。一撃で相手を打ち 負かすことを目指す技術として 学び、足を強化するための低い 姿勢をとる。非情で容赦のない 八極拳は極めて強力な打撃で知 られている。 豹拳は伝統的な少林寺の五形 拳の一つで、虎爪と白鶴などの 速くて突き刺すような打撃が特 徴である。 豹の動きを参考にしており、 その一つは豹の拳で、豹の手が 相手の肋骨や喉を切り裂くよう な珍しい打撃である。この武術 の他の特徴は、身の危険をかえ 一撃の脅威 絶叫と死 絶叫し、足を踏みならすこと で、相手を威嚇すると同時に、 内部の力を出す。攻撃は近距離 で行われ、体8箇所、肘、肩、 頭、手、足、臀部、腰、膝が使 われる。 中国史上における3人の重要人 物、毛沢東、蒋介石、孫文の警 護人は、この残虐で効果的な殺 人術を使ったという。 りみない連続打撃であり、他の 格闘技に比べて防御技が少な い。攻撃することを第一として 特化した格闘技なので、攻撃の 一部が防御にもなっているた め、部外者からすると防御の必 要性がないようにも見える。 相手の動きを逸らすことが豹 拳のさらなる一面である。この 武術は近距離で効果を発揮する よう、スピードを重視してい る。タイミング、スピード、低 い姿勢、しゃがんだ姿勢からの 攻撃、相手の体の柔らかい部分 への攻撃などといった要素が全 て含まれている。 型は仮想敵の攻撃を両手 の掌で防ぐ動きで始ま る。バランスを保つため に体重の七割を後足に乗 せている。 上段の突きや髪の毛をつ かみに来ることを防ぎな がら相手の中段に向けて 強く蹴り込む。 概要 広東語で 「短い距離の拳」 発祥時期 土着の技術 創始者 不明 概要 広東語で 「偉大なる業績」 発祥時期 1940年代 創始者 王向齋 発祥地 中国、河北省 発祥地 中国、河北省、深県 短拳は中国の河北省で人気が あり、その名が示しているよう に近距離での技術を重視してい る。修行者は絶えず流れるよう な動きで攻撃し、一般的に3歩か ら5歩の距離で何度にもわたって 攻撃を繰り返し、姿勢は低く維 持し、連打を浴びせる。極めて 低い姿勢をとるが、これには相 手を混乱させる目的がある。跳 躍や空中での動きはなく、力は 足と胴体から発生させる。 意拳は王向齋によって創始さ れた。体が弱かった王向齋は14 歳のとき、健康でなかったの で、生涯を通じての武術を始 め、1940年代には独特の流派を 作り上げた。新しい流派を作る ことになった動機は、修行者の 精神的な成長という点で姿勢や 動きを捉えていたという不満で ある。その結果、大成拳の信念 として、全ての動き、歩く、立 つ、座る、食べるという行為は 戦うことと同じであるという意 によってなされるべきであると されている。 連拳 著者によるメモ 概要 広東語で 「柔軟な力の流派」 発祥時期 800年代 創始者 不明 発祥地 中国、河南省、嵩山 古くから伝わる武術で、仏教 を起源としている。現在では柔 功門の修行は、長い期間にわた って肉体の強化を目指すこと が、その本質であると考えられ ている。歩法、肉体の調整、手 足の調整、反射の稽古、武器術 の稽古を行う。鉄掌、鉄体、指 圧治療、気功による健康法も同 時に学び、点穴の知識も教えら 柔功門は西洋では未だに知られて いないが、私にとっては気に入っ ている格闘技の一つである。私が 十代の頃に香港で修行を始めた 際、夏徳建師から習ったのであ る。彼は門人以外でこの術を修め た最初の人物である夏漢雄の孫だ った。 れる。 現代の柔功門は、陰陽思想に 大きく影響を受けている。剛と 柔の技術を戦いの最中に切り替 え、相手の力はそのまま返さ れ、打撃は功として呼ばれる巨 大な力で放たれる。この武術に ある功の力は、正しい呼吸法で 養われる。 羅漢拳 概要 広東語で 「連続した拳」 発祥時期 土着の技術 創始者 不明 連環拳 2 柔功門 大成拳 金立言 この起 爆 性の武 術 は、一撃で敵を殺す ために作られている。 金立言師は、台湾で最も評価されているシークレッ トサービスの師範である。戦う方法は大内八極拳 で、これは明朝時代に皇帝を警護する目的に特化し た八極拳である。今では総統を警護するために稽古 されている。金師は21年間にわたって4人の台湾総 統を警護し、現在、さまざまな台湾の治安維持団体 で指導員をしており、来世においても再び総統の警 護に当たることを強く願っていると言う。 1 短拳 3 低い姿勢のまま右の掌で 相手の膝か蹴りを押さえ る。 4 右側にいる二人目の攻撃 に対し、体を沈めて顔面 への突きをかわし、体を 90度右に回転させる。 5 跳ね上がり、2人目の敵に 対して金的を蹴る 概要 広東語で 「偉大なる人物」 発祥時期 土着の技術 創始者 達磨大師 発祥地 中国、河北省 発祥地 中国、湖南省 中国東北部にある河北省で最も 盛んに行われているが、1936年の ベルリン・オリンピックにおい て、演武を行ったことで世界中に 知られるようになった。 少林寺の僧が、阿羅漢の像が 取っている姿勢を真似て、そこ から18の動作を作ったとされて いる。実際に戦う中で発展、整 理されて24の動きが考案され、 今では108の動作がある。これら には極め、蹴り、突き、投げ、 倒しを強調した6つの型も含まれ ている。 羅漢は人間の表情や感情を取 り入れた仏教徒の武術で、中国 人だけに伝えられている。 打撃を優先 連拳は、効果的に戦えるよう、 組み技を避けるために突きと蹴り を多用する。他の中国武術と比較 して、習得するのは簡単な方だと 思われている。 特徴は、柔らかい動きと、ジャ ブから重くて決定的な一打を出す といった西洋のボクシング(P256 〜263を参照)に似た連打である。 6 倒れている二人の敵の間 に立ち(一人は右側に、も う一人は左側にいる)、 次の攻撃に備える姿勢を とる。 防御の準備 開始姿勢をとる少林僧。低い姿勢になり、 右手で蹴りを防ぎ、後方の左手で攻撃す る。 69 238 日 本と沖 縄 合気道 技と流 派 や家族を護り抜く、 と固く決意した。 概要 日本語で 「調和の道」となる 発祥時期 1925年 創始者 植芝盛平 発祥地 北海道、日本 合気道は、向かってくる相手の力 と動きを自分にとって有利に利用す る武道である。技は動きの流れを重 視し、 身体操作と精神を融合させて いる。合気道の肉体的な側面として は、 柔術(P216〜217を参照) の投げ 技と無数の関節技で成り立っている。 また、 剣術(P219を参照) を始め、 さま ざまな武器術の影響を受けている。 宗教的影響 合気道の精神的要素は、技と同 様に重要であり、 「 調和の道」 と訳さ れているこの名称は、稽古と試合を 行うときの心のあり方を意味してい る。創始者の植芝盛平は大本教の 影響を受けたが、 この宗教はユートピ アを見つけ出し、己に危害を加える 者に対してまでも思いやりを示すこと を強調している。 武術への傾倒 植芝の幼少期における体験が、 合気道の創生に大きな影響を及ぼし ている。幼少の頃は病弱だった彼 に、裕福な地主階級の父親は、相撲 や水泳といった運動を勧めた。植芝 の祖父は有名な侍であった。 さらに 植芝は曽祖父の優れた武勇伝を聞 かされて育ったことで、 日本武術への 眼を開かせた。彼の父親が政治的 な敵対者の手下たちによる激しい暴 力になすすべもなく耐えているところ を目撃したとき、 植芝は強くなって自分 植芝盛平 1883年、日本の和歌山県で、植芝は5人きょう 修行の期間 だいの中で唯一の男子として生まれた。 「大先 植芝は兵役中、武術の訓練を受 生」 と呼ばれることもある植芝は、生涯を通じて けることがあったが、除隊後の1912 無数の戦いを経て武道の達人となり、彼の勇敢 年、妻を連れ開拓移民として北海道 な戦いにまつわる多くの神話が生まれた。複数 に渡り、 自分の武術修行に新しいもの の門下生たちが日本刀を使って同時に攻撃する を採り入れ始めた。彼は各地に出か のをかわしたり、 自分の気合いだけで相手を倒し け、 さまざまな師範に就いて稽古を重 たりした伝説もある。 ねた。 その内のひとり、 武田惣角師範 の下における研鑽によって、彼は武 術へのさらなる展望を見出したので い間違いを犯すことになる。 相手を傷 あった。 つけ、打ち負かし、破壊するのは、人 1920年代から1930年代にかけ 間がなしうる最悪の行為である。 武士 て、植芝は、合気柔術という名称の (もののふ)の正真正銘の道はそう 独自の武術を教えていた。 この頃の した残虐行為を防止するのである。 平和の技であり、 愛の力であ 技には、相手の体の急所を狙った多 それは、 様な当て身、 打撃などが含まれ、 攻撃 る」 と述べた。 と防御のために相手へ接近する方 法は、 その後の技と比べると、 円を描 永遠の伝説 今日、合気道は最もポピュラーな くような、 そして流れるような動きになっ ていない。 武道のひとつになっており、 世界中い たるところで行われている。合気道の 霊的な知見 実践者たちは、 この創始者の植芝を 植芝は年齢と経験を重ねるにつ 武道の技術面で限界を超越し、 深遠 れて、 ますます超自然的な存在とな な域に到達した達人と見なしている。 り、精神的なものを重視するようにな それに留まらず、道徳的かつ哲学的 った。武術研究の専門家たちは、合 な要素を自分の技に組み入れた創 気道が誕生した時期を、今日よく知ら 始者は、敵の攻撃にさらされていて れているように1925年とすることが多 も、 調和、 思いやり、 そして理解を強調 い。 それは、 この年に素手の植芝が、 したのであった。 木刀を構えた海軍将校と戦い、彼を 負かしたという出来事に起因してい る。 その後、植芝は庭を歩いていると き、精神的な閃きを自覚した。 「私は 小鳥たちのささやき声を理解できる し、宇宙の創造者たる神の御心も明 確に認識することができる」 と語った。 もうひとつの霊的な体験としては、第 二次世界大戦期に、 植芝が「平和の 大いなる霊」 を幻視したことである。 こ れについて、彼は、 「武士(もののふ) の道は誤解されていた。 それは、 他人 を殺し、破滅させる手段ではない。相 手と戦い、勝とうとする者は途方もな スティーヴン・セガール アメリカ映画俳優のスティーヴン・セガールは 合気道で自分を鍛え上げた。俳優になる前の セガールは合気道の指導をしていたことがあ り、日本で自分の合気道の道場を構えた最初 の外国人であった。スクリーン上では、途方も ない戦闘技を持った復讐心満々の主人公とし て脚光を浴びることが多い。 屋外での演武 合気道の優れた技を示す演武会で、女子 学生が師範を投げる。 真の武道においては、 敵も対抗者もいない。 真の武道は宇宙と 一体化することである。 力強くなるために、 あるいは対抗者を投げるために、 錬磨してはならない。 植芝盛平 239 344 南 北 ア メリカ ブラジリアン柔術 概要 ブラジルで発達した柔術 発祥時期 1925年 創始者 カーロス・グレイシー、エリオ・グレイシー 発祥地 ブラジル この組技格闘技は講道館柔道か ら発展した。 ブラジルに移住した日本 人、前田光世のおかげである (次ペ ージの写真)。 この格闘技はグレイシ ー一族と同義語になっているほどで、 彼らがこの格闘技を開拓し、創生期 の総合格闘技(MMA) とアメリカの UFC (P318〜327を参照) で目覚まし い活躍を見せた。 実戦を重視 グレイシー柔術はブラジリアン柔術 の最も有名な流派である。柔術はス ポーツ化されているため、 トレーニング は競技でのポイント獲得法に重点が 置かれてれる。 グレイシー柔術は護身 を重視し、路上での戦いでもMMA の試合でも使える実戦性を有してい る。 技と流 派 クラシック・テクニック ブラジリアン柔術は、 ある程度であ るが、柔道の創始者、嘉納治五郎 (P234〜235を参照) の哲学に影響 を受けている。嘉納は、柔道は人格 の形成と肉体の強化をしなければな らないと提唱していた。 ブラジリアン 柔術と柔道のちがいは、 ブラジリアン 柔術が寝技を重視している点であ る。柔道のルールでは、競技者は立 って試合を開始しなければならない。 しかしブラジリアン柔術にはそのよう なルールはない。競技者が相手を床 に引き込んで有利なポジションをとる と、 ポイントになる。 スパーリングや選手権大会の成績な ガードポジションとマウントポジション どに基づき、指導者の自由裁量で帯 はブラジリアン柔術における2つの重 が与えられることである。 要なテクニックである。 ガードポジショ ンは、 自分が下になり、 両脚で相手の 胴を挟んで締める。 マウントポジション は、相手の上になって強力な打撃を 加えたり、崩したりしてチョークスリー パーなどで極めるためのポジションで ある。多くの日本武道と同じように、 ブ ラジリアン柔術は修行者の段階を識 別する方法として色別の帯を採用し ている。 ただし、 この格闘技で変わっ ているのは、段級位の基準がフリー パンチやキックを 身につける ことは重要だが、 自分を支えて くれるのは 寝技である。 ホリオン・グレイシー、2003年 世界を巡る前田 ラーになることを誓ったのだった。彼 1904年、前田光世はアメリカに遠 はあるサーカス団に加わり、 ヨーロッ 征する。 テディ ・ローズベルト大統領に パでレスリングの試合を行った。 この 柔道の演武を披露するためであっ 巡業中に彼はコンデ・コマ (「闘争の た。柔道創始者の愛弟子である富 伯爵」 という意味である) と呼ばれるよ 田常次郎が彼に同行した。常次郎 うになる。1909年から1913年までの がアメリカンフットボールの選手にレス 間、彼は、 メキシコ、 コスタリカ、 キュー リングの試合で敗北したとき、前田は バ、 ブラジルでレスリングの試合を行 ひどく当惑し、 プロフェッショナルレス った。最終的にはブラジルに定住す ることとなった。彼は、柔道に近いル ールで約1000試合を行い、無敗 だった。敗北したのはたった2 回で、 それらはレスリング形 式の別ルールだったとい われている。前田は嬉々 として多 種 多 様な格 闘 家に挑 戦 状を送りつけ た。 その中には、 当時のボ クシング・ヘビー級世界チ ャンピオンであるジャック・ジョ ンソンも含まれていた。 前田光世 前田光世は1878年、日本の弘前市に生 まれ、相撲(P226〜233を参照)を学ん だ が 、体 重 が 軽 す ぎ て 成 功 はしな かっ た。17歳のとき、両親は彼を上京させた。 講道館に入門し、他の格闘技家たちに挑戦 し好成績を挙げて有名になっていた横山 作次郎の指導を受けた。講道館での修行 に励み、前田は四段に昇段した。これは、当 時の技術レベルでは最高の段階を示して いる。彼は1904年(左の本文を参照)に 海外へ飛翔した。1914年にブラジルに定 住し、1941年にベランの地で永眠した。 グレイシー柔術の誕生 前田がグレイシー一族と最初に邂 逅した日は、正確にはわかっていな い。考えられるのは、 ガスタオン・グレイ シーはあるイタリア人ボクサーのマネ ージャーであり、 このボクサーが所属 していたサーカスと一緒に前田も巡 業したため、 この二人が出会い、 しば らくして、 ガスタオンの息子であるカー ロスが前田の弟子になり、講道館柔 道の基本を学んだ、 ということである。 1925年に、 カーロス・グレイシーはリ オ・デ・ジャネイロで最初のジムを創設 した。彼の5弟であるエリオ・グレイシ ーは、 ブラジリアン柔術が重視する寝 技に影響されたのであろう。エリオ は、 力よりもテクニックが大切であり、 グ ラウンドで戦えば、 自分より大きくて力 強い相手にも対抗できることを発見し たのである。 ザ・カリフォルニア・スクール 1980年代、エリオ・グレイシーの息 子たちはブラジリアン柔術をカリフォル ニアに 伝 え 、スクールを 開 設し た。1990年代、 ホリオンとホイスのグレ イシー兄弟はUFCで大成功を収め た。1994年、 フォート ・ベニングのアメリ カ陸軍訓練基地では新兵たちの訓 練法としてグレイシー柔術が導入さ れた。 挑戦状 グレイシー一族が、挑戦状を突き つける前田の伝統を受け継いでいる ことは注目に値する。エリオ・グレイシ ーはヘビー級ボクサーのジョー・ルイ スに挑戦した。彼の息子のホイスは マイク・タイソンに挑戦した。彼らの挑 戦が、 ブラジリアン柔術の人気を一 層高めたが、 これらの試合は開催さ れなかった。相手選手に支払われる ファイトマネーがあまりにも少額だった からである。 エリオ・グレイシー ブラジリアン柔術の創始者といわれているエリオ・グレイシーは、 4人の 息子、 ホリオン、 ヒクソン、 ホイラー、 ホイスの父親である。 この4人は格 闘家になった。 大接戦 総合格闘技の選手権大会でベテラン格 闘技家のヘンゾ・グレイシー (上) が、 ブラジ リアン柔術を使って戦う。 345
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