第 4回 交換と展示:価値を疑え! 林道郎 はじめに

第4回
それはしかし、モダニズム、あるいは近代主義的な美
交換と展示:価値を疑え!
術の見方である。日本全国どこに行っても風景が変わら
林道郎
ないというのは、ある意味で、近代主義というものが資
本の力一辺倒で都市風景や郊外の風景といったところに
影響を及ぼしてきた一つの結果だと思うのですが、美術
はじめに
の世界でも、ことに近代的な市場原理の中では、そうい
僕は金沢に来るのは初めてで、今日は3時間ぐらい前
うふうに一つの作品というものが変わらない不変の価値
に飛行機で飛んできまして、兼六園を見て、その中の料
を持つものだと。それはどこに行っても同じ価値を持っ
亭でご飯を食べました。そういう経験をすると、金沢と
ている。ものは動くけれども価値は動かない。そういう
いう土地の風土も料理も、東京とはやはり違うというこ
考え方の中で受け止められてきて、しかも交換をされて
とが即座に感じられるのですが、一方で、空港から金沢
きて、展示をされ、売買もされてきた。そういう大きな
の町へ入ってくる道筋のいわゆるロードサイド・ビジネ
歴史を背負っているわけです。我々はみんなそういう教
スというのでしょうか、いろいろなファースト・フード
育を受けてきて、そういうものの見方というのは、無意
の店があったり、ビデオ屋さんがあったり、ああいう風
識に我々の感じ方とか判断のしかたを非常に深いところ
景というのは、僕らの子どものころと違って、日本全国
で規制しているという感じがします。
どこへ行っても同じになったなということをすごく感じ
今日の話は、物事はそう簡単ではないのだという話で
ました。どこかにあるんだけれど、どこでもないような
す。つまり、作品の価値は作品に内在するだけではなく、
風景。
作品の外側の言葉や社会の状況、歴史、そういったいろ
そんなことが美術と何のかかわりがあるのかという疑
いろな要素と絡み合いながらつくり出す、無限定ではな
問が出るかもしれませんが、実は、今日は価値の話をす
いけれども無形の曖昧で多元的な重層的な様相を持った
るというお題目をいただいています。メインのタイトル
ものである。そういうことをあらためて考えてみる必要
は「交換と展示」となっていて、「価値を疑え!」という
があると感じているのです。
副題がついていまして、いささか大きすぎる課題をいた
それは実は近代的な美術においてもそうで、セザンヌ
だいたなという感じなのですが、その背景にある問題の
の絵画に内在する価値というのは、
「内在する価値」とい
1つは、おそらく、美術作品というものには本質的な価
うふうに我々が言葉で言ったとたんに、言葉と作品は関
値が内在していて、それを我々が見たときに感じ取って、
係を持ってしまっているわけで、作品を取り巻く言説、
読み取って、取り出していく、それが美術鑑賞の正しい
言葉、語りとその作品というものは常に絡まり合って存
やり方だという考え方があると思うのです。つまり、美
在しているわけです。ですから、価値というものは常に
術作品の価値は不変である、動かない。作品は動くけれ
その作品と社会との接点において一筋縄ではいかない多
ども価値は動かない。つまり、額の中に1つの作品が納
様な動きをしている。もごもごとうごめいているという
まっている。セザンヌは金沢の21世紀美術館にあっても
感じがあるわけです。
1枚のセザンヌであるし、横浜美術館にあってもセザン
それを今日はピカソの《ゲルニカ》という有名な作品
ヌであるし、パリにあってもニューヨークにあっても1
の足跡をたどりながら、作品の価値というものがどんな
枚のセザンヌであって、その作品の価値は変わらない。
ふうに重層的に作り上げられていくのか、それもピカソ
基本的に我々はそういう教育を受けてきているわけです。
が最初に意図したのとは全然予想もつかない方向にその
40
作品の価値というものが作られていったり、認識されて
ルの、ギュスターヴ・モローのサロメや日本のアニメー
いったり、あるいは否定されていったりするのかという
ションに現われるサイボーグのイメージなどにヒントを
ことを、一つのケーススタディとして考えてみたいと思
得たこういう新しい衣服の作品が並列されることの意味
っています。
は何か。そうすると、田中敦子さんの≪電気服≫とこう
ピカソの《ゲルニカ》はどんどん居場所を移します。
最初はパリで展示されるのですが、ロンドンに行って、
ニューヨークに行って、しばらくニューヨークにあって、
いうものとの並列の中で新しい意味の層が見えてくると
いうことがある。
つまり、作品はいつも動き回って旅をしていて、ある
それでスペインに帰ってくる。そういう壮大な旅をしま
場所からある場所へ移って、その場所で今度は何と出会
す。
うかということによって、どんどん意味機能を変えてい
旅をしてきたという意味では、この会場に展示されて
くというところがあるわけです。《ゲルニカ》はその最
いる田中敦子のこの作品もそうですし、ガブリエル・オ
たる例だと言っていいと思うのです。それを一応前置き
ロスコの作品は特にそうです。オロスコの作品は、さき
にして、《ゲルニカ》の具体的な話に入っていきたいと
ほど学芸員さんから伺った話によれば、もともと一点一
思います。
点別々に発表されたものが、たまたまあるギャラリーの
展覧会でまとめてインスタレーションとして展示された。
それを一つのまとまりとしてこの美術館は購入されて、
ゲルニカ爆撃
皆さんよくご存じの《ゲルニカ》です(図1)。ピカソ
今そこにそういうふうに展示されているわけです。一つ
が1937年に作った作品で、この作品ができた直接の契機
一つの作品は一点一点としても作品として存在して、し
というのは、ヒトラーの命を受けたドイツ空軍によるゲ
かし、それは移動して、今ああいうふうなかたちで複雑
ルニカ爆撃でした。
な構成体の中の一部を構成している。したがって、その
これが当時のスペインの地図(図2)なのですが、
1枚の作品の持つ意味とか価値というものは、独立して
1937年というのはスペイン内戦が起こっていたときでし
展示されていたときと、今ここでこういうかたちで、よ
た。スペイン内戦は、第2次世界大戦の前哨的な市民戦
り大きな作品の部分として展示されているときとはまっ
争です。フランコという軍部の将軍がクーデターを起こ
たく変わってくるわけです。これは作家が、そういう組
して、スペインの共和国政府に対して反旗を翻す。それ
換えによる意味の変更を意識的にやっている珍しい例で
で、モロッコのあたりからずっと攻め上がっていくわけ
すね。
です。これは37年3月、ちょうどゲルニカが爆撃される
田中さんのこういうカンヴァスの作品などの場合は、
直前の勢力地図で、斜線の部分がフランコ軍の占領地区、
一枚絵として成立しているわけですから、この価値は不
そして白の部分が共和国軍がまだ堅守していた地区です。
変だというふうな言い方ができるかもしれない。しかし、
そして、その間の境界線がディフェンスラインというこ
田中敦子さんの≪電気服≫のパフォーマンスのヴィデオ
とになるわけですが、スペインの一番上の少しだけ白く
とこの作品が並べられたときに、このキャンバスの上の
残っている部分がバスク地方といわれるところで、右上
イメージがどう違って見えてくるか。それは展示という
のところにゲルニカという文字が見えます。ビルバオと
場、現場の中で、その作品の持つ意味や価値の新たな層
いう町のすぐ近くなのですが、ビルバオとゲルニカの位
が掘り起こされるという感じがある。同時に、田中さん
置関係、それからバスク地方がそこにあるということを
の≪電気服≫と、ここにある韓国の新しい作家のイ・ブ
記憶に置いておいていただきたいと思います。
1 パブロ・ピカソ≪ゲルニカ≫
2 1937年3月のスペイン勢力地図
3 爆撃後のゲルニカ
林 道郎
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当時、フランコはヒトラーとムッソリーニに支援を受
た仕事で、それをどういうふうにしようかということを
けていました。共和国側はソ連に支援を受けていました。
悩みつつ制作を進めていました。その時ちょうどゲルニ
つまり、フランコ率いるファシズム軍対ソ連が支援する
カ爆撃のニュースが入ってきて、それを聞いてピカソは
コミュニスト、共和国政府軍の戦いというのがスペイン
壁画のアイディアを変更することになります。
市民戦争で、だからこそ第2次世界大戦の前哨戦的なも
当時のピカソの愛人であったドラ・マールという人の
のとして、歴史的には重要な意味のある戦争なわけです。
証言によると、彼は空爆直後の5月1日に新たな構想の
バスク地方はフランコ軍がなかなか落とせなかった地
壁画の制作を開始して、6月末までにはほぼ完成してい
区なのです。ディフェンスラインが非常に強くて、共和
たと言っています。スペイン館の開館自体は1937年の7
国側が離れ小島になりながらも、なんとか陣地を維持し
月12日です。そのときには、その壁画の下に
ていたところです。それをなかなか攻め落とせないもの
“Guernica, Picasso”というふうにタイトルがつけられ
だから、ヒトラーが1937年の4月26日に空軍機を送って、
て、スペイン館に展示をすることになります。皆さんご
3時間半にわたってゲルニカという町を無差別爆撃しま
存じのとおり、それ以降、この壁画は反戦のシンボルと
す。これは歴史上一番最初ではないのですが、いわゆる
して広く知られるようになり、現在はマドリッドの王妃
無差別爆撃の最も早いものの一つなのです。それまでの
ソフィア美術館に所蔵され展示されていますが、現在の
空爆というのは、軍部施設や軍隊をターゲットにして行
居場所に落ち着くまで、先程申し上げましたとおり、長
われるものでした。ところが、このゲルニカの爆撃は無
い旅をしています。その過程において最も長い時間を過
差別に市民たちを殺した爆撃であったわけです。実際に
ごしたのがニューヨーク近代美術館です。その足跡をた
何千人という人がこのときに亡くなって、その悲劇のニ
どりながら、いろいろに異なる歴史的な、あるいは文化
ュースはすぐに西側プレスによって報道されることにな
的な文脈の中で、《ゲルニカ》という作品がどんなふう
ります。
に使われたか、あるいは解釈されたかということを見て
これは、その爆撃のあとのゲルニカの町の様子です。
いきたいと思います。
(図3)そして、次のイメージは、パリで発行されていた
『ユマニテ(Humanité)』、つまり人道性、英語でいうと
「ヒューマニティ」というタイトルの新聞の第1面です
パリ万博
パリ万博の時点に戻りますが、この写真は1937年、ス
(図4)。「Femmes et enfants ont été massacrés à
ペイン館で展示されたときの様子です(図5)。スペイン
Guernica(女たちと子どもたちはゲルニカにおいて虐殺
館の1階、しかも入ってすぐ右側の壁に展示されていま
された)」というタイトルで、ゲルニカ爆撃のことを報じ
した。その部屋の中央には、この写真の前景に部分が見
ています。これは爆撃から3日あとの新聞です。その横
えていますが、アレクサンダー・カルダーという作家の
にたまたまグラムシという思想家の死亡記事が出ていま
≪アルマーデン鉱山≫という水銀の鉱山を記念した、噴
す。それは関係ないのですが、こんなふうにパリでも
水状の作品が設置されていて、このときのスペイン館に
大々的に報道されるわけです。
は、そのほかにもホァン・ミロとかアルベルト・サンチ
ピカソは当時何をしていたかというと、パリにいて、
ェス、フリオ・ゴンザレスなどの作品が飾られて、それ
1937年の夏にオープンするはずだったパリ万博の中のス
ぞれに共和国側をサポートするメッセージを発していま
ペイン館のために壁画制作の準備をしていました。その
した。
スペイン館の壁画は、ゲルニカ爆撃の前にピカソが受け
このスペイン館は、フランコのクーデターに対してま
6 1937年パリ万博スペイン館外観
4 『ユマニテ』紙、
1936年4月29日
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5 1937年パリ万博スペイン館1階
だ命脈を保っていた共和国政府の出展ですから、館の中
対していました。真ん中に見えるのがエッフェル塔で、
や外には反ファシズムのスローガンが、あちこちに大き
手前には巨大な噴水が見えていますが、その向こうの左
な文字で書かれていました(図6)。しかし、興味深いこ
がドイツ館、右がソ連館です。この両者は、この1937年
とには、そのスローガンのどれを読んでも具体的な名前
の万博では、ほかの国々のパヴィリオンを圧倒的に凌駕
を名指していない。つまり、反ファシズムという抽象的
して、巨大な存在感を誇示していました。
なメッセージは並ぶのですが、そのどれを見てもヒトラ
これがそのドイツ館です(図9)。アルベルト・シュペ
ーやムッソリーニ、フランコの名前は出てこないのです。
ーアという、当時ヒトラーのお抱え的な建築家だった人
なぜかというと、この万博のホスト国であったフランス
がデザインしたもので、垂直線を強調したモニュメンタ
の人民戦線政府が、スペイン市民戦争に対してと同様、
リティの強い構造物で、その上にナチを象徴するワシが
この万博に対しても不干渉主義、非介入主義の政策をと
乗せられています。
ったことに起因しているわけです。
先程、スペイン館における反ファシズム的なスローガ
次のイメージは、そのスペイン館の1階の平面図です
ンの中には、ヒトラーの名前もムッソリーニの名前も何
(図7)エントランスを入ってくるとすぐ右手に《ゲルニ
も出てこないと言いましたが、当然なのです。同じ万博
カ》の壁画がかかっているというつくりです。
会場にヒトラーは招待されて、もっとも巨大なドイツ館
ちょっと余談ながら注意していただきたいのは、《ゲ
を作っているわけですから、その中でスペイン館が反ヒ
ルニカ》という作品が最初に誕生したときには、このよ
トラーだなどということを言ったら政治的な問題になる
うに、スペイン館のこの壁にこのサイズで掛けられると
ことはまちがいない。フランスは、そういうことはでき
いうことがあらかじめ決まっていたということです。つ
るだけやらないでくれという、事勿れ政策を取っている
まり、サイトスペシフィックな作品なわけです。この館
わけです。スペイン館はおそらくその意をくんで、名指
のためにこういうふうに飾られるように作られた作品で
さないという妥協的な抗議のしかたをしたのだと思いま
ある。つまり、ある場所に特有の作品であるということ
す。
です。
向い側のソ連館は水平性の強いデザインですが、これ
この会場でいうと、例えばエルネスト・ネトさんのそ
はこれでやはりモニュメンタルな建築です(図10)。そ
の作品などはそうです。この人はこの作品を作るときに、
の上にはハンマーを持った労働者とカマを持った農民の
このスペース、この展示スペースに合わせてこの作品を
女性の、とてもシンボリックな彫像が置かれている。こ
作っているわけです。
のように、ファシスト国家であるドイツと共産主義国家
現代美術において往々にしてあることですが、ある作
であるソ連が会場の一番中心にあって対面している構図
品というものがある場所、ある特定の居場所のために作
は、まさに、当時スペインで進行中だった市民戦争の状
られるということがある。それを「サイトスペシフィッ
況をそのままを反映しているわけです。ドイツが応援す
ク」というふうに言いますが、ピカソの《ゲルニカ》も
るフランコ側とソ連が応援する共和国側が戦争をしてい
もともとはサイトスペシフィックな作品であったという
る、その最中に万博会場でドイツとソ連が向き合ってい
ことは、明記しておくべき一つの事実だと思います。
る。
さて次は、そのパリ万博のときの中央広場の写真です
こういったドイツとソ連の二大国の大きなパヴィリオ
(図8)。このメインのスペースには、大きなパヴィリオ
ンに比べて、スペイン館は非常に小さなものです。ドイ
ンが右側と左側に一つずつ建っていて、写真のように相
ツ館やソ連館とは全然比較にならない大きさだったとい
7 1937年パリ万博
スペイン館1階平面図
8 1937年パリ万博会場
9 1937年パリ万博ドイツ館
林 道郎
43
うことです。
館がオープンした7月12日の翌13日、スペイン館のオー
ピカソがこのスペイン館の「名指さない抗議」のポリ
プンを報じてはいるのですが、《ゲルニカ》にふれてい
シーを知っていたかどうかというのは、ちょっとわかり
るのはほんの1行、ほんの1つのコメントにすぎません。
ません。ひょっとしたら、だれかが彼にそれを示唆した
最初にこの新聞が《ゲルニカ》をきちんと紹介するの
かもしれない。いずれにしても、この《ゲルニカ》とい
は7月31日を待たなければなりません。つまり、スペイ
う作品の中に攻撃者のイメージがないということは注目
ン館がオープンしてから約20日たった時点なのです。こ
すべきことの一つだと思います。それはスペイン館が置
れがその《ゲルニカ》が図版として新聞に載った最初の
かれた非常に難しいポジションと見事に呼応していると
ものだと思いますが(図13)、脇に見える新聞の活字と
いうか、対応しているわけです。同時に、被害者に集中
比較してみてください。非常に小さな記事なのです。と
したイメージというのは、逆にいうと、その後《ゲルニ
ても小さな図版が唐突に1枚載っているにすぎない。
カ》があらゆる戦争の場面とかあらゆる悲劇の場面で反
しかし、これはまだいいほうで、当時、フランスで非
戦の象徴として使われていく理由の一つになったと思わ
常によく読まれていた『フィガロ』という新聞がありま
れます。
すが、非常に保守的な新聞だったためでしょうが、これ
しかしながら、ここで皆さんの注意を喚起しておきた
にいたっては《ゲルニカ》に対する言及は全くありませ
いことがあります。現在、我々は皆、《ゲルニカ》とい
ん。スペイン館に関しては、7月28日、7月30日、そし
うのは反戦の象徴、平和の象徴というふうにすぐ自動的
て8月29日と写真入りで紹介しているのですが、そのど
に思い込むところがあるわけですが、《ゲルニカ》がそ
れにおいても《ゲルニカ》の「ゲ」の字も出てこない。
ういうふうに象徴化される、人々にそういうイメージと
『フィガロ』は、実をいうと、さかのぼる5月3日の時点
して共有されるというのは、実はそれほど早いことでは
でゲルニカ爆撃そのものも事実ではなかったというふう
ないのです。万博の期間中はどうだったかというと、
に報道していますので、そういった保守寄りのスタンス
《ゲルニカ》はほとんど新聞報道の関心をひいていませ
の反映なのかもしれませんが、《ゲルニカ》に関しては
ん。先程お見せした『ユマニテ』という新聞は当時のフ
全く言及がないです。
ランスではファシズムに対して最も批判的で、しかもフ
さらに、ジェームス・ハーバートという最近の研究者
ランスの不干渉政策に対しても最も厳しい批判を展開し
がこの37年のパリ万博に関する本を発表したのですが、
た新聞です。たとえば、これは『ユマニテ』の記事です
この中で彼は、その会場の公式ガイドブックにも《ゲル
が、「La France doit Secourir les Basques(フランスは
ニカ》に関する記述は全くないと言っています。
バスク人たちを救わなければいけない)
」とあります(図
つまり、この1937年の万博の時点では、プレス、報道
11)。これはフランスの不干渉政策を批判しているわけ
における《ゲルニカ》受容というのはほとんどなかった、
です。さらに、「Les Basques Tiennent Sauvez Leurs
あるいは非常に静かだったと言っていいです。唯一《ゲ
Femmes et les Enfants(バスクは女性や子供を救い続け
ルニカ》を積極的にプロモートしたのは美術雑誌の『カ
る)」(図12)。やはりこれも、女性、子どもを救わなけ
イエ・ダール』です。これは、ピカソの友人であり、か
ればいけないということが盛んに言われているわけです。
つピカソのカタログ・レゾネを作ったクリスチャン・ゼ
このように、スペインで生じている事態に対して深い関
ルボスという人が出版していた美術雑誌ですので、ピカ
心を寄せ、しかも共和国側に立ちながらフランスの不干
ソの作品を一生懸命プロモートするのは自然なことなの
渉政策を批判した『ユマニテ』においてすら、スペイン
ですね。この雑誌の周辺には、シュルレアリストたちを
10 1937年パリ万博ソ連館
11 『ユマニテ』紙、
1937年5月2日
44
12 『ユマニテ』紙、
1937年5月7日
はじめ、当時の前衛サークルの人間が多く集まっていま
ペイン難民救済基金という、スペイン市民戦争のために
したから、そういったサークルにおいては、たしかに
故国を離れざるをえなかった人たちを助けるための組織
《ゲルニカ》は、ある熱狂を持って迎えられました。
によって、ロンドンに運ばれてそこで展示され、そして
『カイエ・ダール』はいち早くドラ・マールがピカソ
ニューヨークに行きます。ロンドンには1938年、そして
の制作中に撮った写真を全部紹介した雑誌でもあって、
ニューヨークには1939年に送り出されることになりま
これは『カイエ・ダール』に紹介されたドラ・マールの
す。
作品です。全部で7枚あったのですが、今、6枚お見せ
これはロンドンでストップ・オーバーしたときの作品
します(図14、15)。これを見ていくと《ゲルニカ》は
ですが、ホワイトチャペル・ギャラリーというところで
どんなふうにできたかということがよくわかるわけです
展覧をされて、共和国側を支援しようという人たちがそ
が、今日はその《ゲルニカ》の内的な分析にはあまり入
の前の壇上に立っていろいろと皆に呼びかけています
らないので、一応こういう紹介が『カイエ・ダール』と
(図16)。《ゲルニカ》の展示をすることによって、フラ
いう雑誌においてあったということを覚えておいてくだ
ンコの非道を一般に知らしめ、同時に難民救済のための
さい。
資金を募ることが目的でした。ピカソという画家の名声、
ほかの美術雑誌ではどうだったかというと、ほかに
そしてこの絵のサイズの大きさ、万博で展示されたとい
『ボザール』という雑誌にわずかに《ゲルニカ》の紹介が
うこと、すべてが話題づくりの格好の材料になったに違
あるのですが、この『ボザール』での紹介には《ゲルニ
カ》というタイトルが全く出きません。
「ピカソによる装
飾」というかたちでしか出てこないわけです。
いありません。
このロンドンからニューヨークへ移っていく過程で、
《ゲルニカ》の受容というものがだんだん高まってくる
さらに、この当時スペイン館を建築した建築家である
というところがあって、特にインテリやジャーナリスト
ホセ・ルイス・セルトという人の回想によると、現場に
たちによって非常に好意的に受け入れられていくことに
おける観客の反応もほとんど無反応に近かったというこ
なります。スペイン市民戦争に対しても、ご存知の通り、
とです。彼の言葉を読みますと、「人々はそこに着いた。
英米からは、多くの人たちが義勇兵あるいはジャーナリ
彼らはこの作品を見たが理解できなかった。ほとんどの
ストとして参戦するほど関心が高まっていましたが、そ
人はそれが意味するものを理解できなかったのだ」
。こう
ういった背景もあって、フランスにおける冷たい反応が、
言っています。
しだいに新たな熱狂によって取って代わられることにな
つまり、この最初期の受容においては、一方に、一般
公衆におけるほとんど無反応と無理解があり、他方に
『カイエ・ダール』を中心とした前衛美術のコミュニティ
っていきます。ことにアメリカに「上陸」してからは、
全米各地を巡回するのですが、各地で新聞報道に取り上
げられ、話題づくりに貢献していくことになります。
における熱気を持った受容があった。この格差はとても
しかし、同時に忘れてはならないことは、《ゲルニ
大きく、現在《ゲルニカ》という作品が、広く世界中に
カ》に対する両義的な態度、つまり、これはわからない、
おいてユニヴァーサルな反戦の象徴として受け取られて
この作品は理解できないという否定的なものと、これは
いるのとはまったく違った状況があったということです。
すばらしいという肯定的な評価のあいだの揺れ動きは、
40年代後半ぐらいまでかなり一般的なものとして残り続
ニューヨークへ
《ゲルニカ》は、この37年に万博が終わったあと、ス
けることになるということです。例えば、戦後1947年、
MoMAがピカソの芸術を回顧して、「彼の芸術の40年」
13 ≪ゲルニカ≫の記事、『ユマニテ』紙、
1937年7月31日
14・15 ≪ゲルニカ≫制作過程、『カイエ・ダール』誌、
1937年、4-5合併号
林 道郎
45
というピカソの大回顧展をやるのですが、そのときに同
これをちょっとキャッチフレーズ的に言うなら、「学問
時に「ゲルニカ・シンポジウム」というのを開きます。
的展開」とでも僕は呼んでみたいわけですが、この動向
このシンポジウムの中で、例えば、当時アメリカではよ
を経て《ゲルニカ》は、政治の現場からいったん解放さ
く知られた左派の画家だったベン・シャーンという人が、
れて(といっても、暗黙裡の政治の場には依然として絡
≪ゲルニカ≫というのは大衆にとって理解不能なもので
めとられているわけですが)
、あらかじめ価値が保証され
あって、政治的には意味はないというふうに批判の声を
た学問的な解釈の対象になっていく。それと軌を一にし
上げています。
て、美術館の中の作品、つまりミュージアム・ピースに
でも、大きな目で見ると、47年のピカソの展覧会とい
もなっていく。そういう過程において、《ゲルニカ》の
うのは《ゲルニカ》の神聖化にとっての大切な一歩だっ
政治的な有効性を問う議論は、しだいにその絵画の内的
たということはまちがいありません。この展覧会を企画
構造の分析、そして絵画にこめられた象徴的意味の解釈
したのがアルフレッド・バーJr.という当時の近代美術館
によって取って代わられることになっていきます。
の館長で、この人はもちろんこの作品の美的な価値、あ
実際に、50年代以降、数多く出版されることになるゲ
るいは政治的な価値を擁護しますし、この展覧会と同じ
ルニカ関係の研究書や記事、論文などを見ていると、伝
47年に初めて《ゲルニカ》のモノグラフ、つまりそれを
統的な方法論を用いた図像学的な分析であったり、ある
主題にした研究した書物が出るのです。これを書いたの
いはピカソの自伝的な要素と結びつけて《ゲルニカ》を
は、ピカソとも親交のあったホアン・ラレアというスペ
解釈する自伝的、伝記的な解釈、そういうものが非常に
インの人ですが、この人もMoMAのシンポジウムに参加
増えてきます。皮肉なことに、そういうプロセスを経て
していて《ゲルニカ》の価値を積極的に擁護します。
《ゲルニカ》が傑作化していくことは、まちがいなく、
このころから不思議な価値の逆転が起こってきます。
ゲルニカ爆撃の記憶を世界中の人々の記憶に刻みつけて
つまり、50年代から60年代の頭にかけて、《ゲルニカ》
いくことに貢献をしていきます。ピカソの絵がなかった
のわかりにくさは批判されるべきものではなくて、むし
ら、現在、私たちがゲルニカという街の名をこれほど強
ろ解読されるべきものとして扱われるようになっていく。
く脳裏に刻みつけていたかどうか、はなはだあやしいも
すでに大芸術家としての名声をほしいままにしていたピ
のでしょう。しかし同時に、《ゲルニカ》の文句なしの
カソという名の力、そして近代美術館という権威の力、
傑作化は、歴史の複雑で具体的な肌触りを、ゲルニカ―
そして、第二次大戦後の政治地図の中においてファシズ
ピカソ―反戦―平和というような、抽象的なお決まりの
ムの打倒者として指導的地位を確立せんとするアメリカ
観念連想のパターンへと還元し、かえって歴史的・政治
の気分などが無意識に絡み合ってそういう動きが進んで
的想像力の働きを鈍らせるというような状況へもつなが
いくと思うのですが、次々にゲルニカ解釈、ゲルニカ研
っていくように見えます。
究書が出版されることになっていきます。その代表的な
この《ゲルニカ》の普遍化、非政治化というプロセス
ものは、ルドルフ・アルンハイムという人が書いた
において非常に象徴的なのは、先程ちらっと言いました
『Genesis of a Painting: Picasso’
s Guernica(絵画の誕
が、アンソニー・ブラントというイギリスの研究者のケ
生−ピカソのゲルニカ)』(1962年)、もう1つはアンソ
ースです。この人は1930年代には非常によく知られたコ
ニー・ブラントというイギリスの研究者が書いた『ピカ
ミュニストであったわけですが、37年の《ゲルニカ》発
ソ〈ゲルニカ〉の誕生』(1969年、邦訳版1981年)など
表の時点で彼は《ゲルニカ》を痛烈に批判するのです。
です。
16 ホワイトチャペル・ギャラリーでの
展示とスペイン救済活動
46
英語の短い文章ですが引用して読みますと、
「Guernica is not an act of public mourning. The
な視点からの批判をすっかり無かったことにして、学問
expression of a private brain storm which gives no
的対象として傑作《ゲルニカ》を論じます。いや、うが
evidence that Picasso has realized the political
った見方をすれば、結果としてどの政治的陣営にも帰属
significance of Guernica.(《ゲルニカ》は公的な哀悼の
場所を失ったブラントにとって、疑いの余地のない反権
表現ではない。それは全く私的な頭の混乱の表現であっ
力の象徴と化していた《ゲルニカ》を論じることは、挫
て、ピカソが《ゲルニカ》の政治的な重要性を全く理解
折によって生じた穴を埋める一つ救済策だったのかもし
していなかったことの証拠である)」これは新聞に発表し
れません。
た文章ですが、アンソニー・ブラントはこうまで言い切
っています。
1964年に彼はスパイであったことをつきとめられるの
ですが、一般には知られないわけです。有名なスパイ・
ところが、彼は1966年にはオックスフォード大学で
ケースで、64年にキム・フィルビーという人が見つかっ
《ゲルニカ》に関する講演を行って、それを増補して、
てソ連に亡命しますが、そのグループにはスパイが4人
69年にゲルニカ研究の1冊の本を上梓します(先ほど挙
いたということになっていて、その4番目がこのアンソ
げた本です)
。ここではむしろ《ゲルニカ》を非常に持ち
ニー・ブラントだったのです。64年にその4人目が捕ま
上げて、《ゲルニカ》を図像学的、それから形式的要素
ったということがわかるのですが、それがだれであった
に集中して事細かに分析をしていく。しかし、その政治
かということは明かされないままに過ぎていきます。
的な効果については全くふれないのです。30年代に彼は
しかし、やはりメディアは結構ほじくり出して、1979
あれほど《ゲルニカ》を罵倒したのに、60年代には同じ
年にアンソニー・ブラントが実はそのスパイであったと
絵を神聖化するような内容の本を書いて上梓する。
いうことが初めて暴露されました。これは『ニューヨー
この過程には裏があって、実はこのアンソニー・ブラ
ク・タイムズ』の記事(図17)ですが、そのときにブラ
ント自身の政治的信条が変わったということがその背景
ントのアイデンティティは暴露され、彼はその前に女王
にあります。彼は1964年まで、実はソ連のスパイとして
様から「Sir」の称号をもらっていたのですが、それを剥
働いていた人なのです。1964年に、彼はソ連のスパイと
奪されることになります。
してイギリスの情報をソ連に流していたということを
そのブラントのケースというのは、《ゲルニカ》の非
M I6という英国の情報部に暴露され、接触されて、自分
政治化というか、傑作化というか、ミュージアム・ピー
はスパイであったということを告白するわけです。その
ス化というプロセスに関わる特殊な例で、まあ、エピソ
翌年から、彼は逆に英国情報部に対してソ連について彼
ード的に紹介してみたのですが、そのプロセスは実は、
が知っていることをどんどん話をしていきます。つまり、
「学問的展開」だけに帰されるものではないわけです。そ
《ゲルニカ》への非政治的なアプローチというのは、彼
の学問的展開に見合うように、1950年代には《ゲルニ
の政治的な心情の転向というものをまさに反映している
カ》は西欧各国、イタリア、デンマーク、フランス、い
と同時に、新たな彼のアイデンティティというか、ソ連
ろいろなところ――といっても、西側諸国ですが――を
の情報をイギリスに渡すという新たな役割の隠れみのに
巡回します。南米にまで行って、ブエノスアイレスでも
もなっているという非常におもしろい状況があるわけで
展覧されますが、世界各地で、反ファシズムの象徴イメ
す。37年に《ゲルニカ》を痛烈に批判したときには、共
ージとしてプロモーションされます。
産主義的な人民の立場から、ピカソの独善的な表現を批
それと同時に、美術史関係の教科書的なテキストブッ
判するのですが、60年代(冷戦の時代)には、そのよう
ク、例えばH.W.ジャンソンという人が書いた非常に有
17 アンソニー・ブラントの記事、
『ニューヨーク・タイムズ』紙、
1979年11月16日
林 道郎
47
名な、今でもアメリカの美術史の最初のコースで必ず使
ーを作った例です。
われる『芸術の歴史』という本がありますが、この中で
これもそうです(図19)。「ANGRY ARTS」というの
は、60年代初頭ぐらいから《ゲルニカ》が常時登場する
はその当時の反戦グループの名称で、このグループは非
ようになり、63年の版では、初めて《ゲルニカ》に関し
常に激しく反戦運動を展開するわけですが、67年にこの
て一段落全体があてられるということになります。他の
グループは公開書状というものをピカソに対して出しま
教科書的なテキストも、早かれ遅かれ、同じような変化
す。それに約400人の作家が署名している。その中で彼
をしていくことになります。
らはピカソに対してこういうことを言います。
「このヴェ
さらに、そういった傑作化の動きを反映するかのよう
トナム戦争の期間、アメリカからあなたの作品を引き上
に、MoMAにおいては、64年までは2階の一室にあった
げることによって、あなたの作品の精神をもう一度復活
《ゲルニカ》を、3階の非常に目立つ、エスカレーター
させてください。そして、そのメッセージを再び感じら
を降りてすぐのところの中央のギャラリーに移動して、
れるようにしてください」。
まさに傑作にふさわしいステージを与えました。
つまり、《ゲルニカ》はその間にどんどん有名になっ
ていって、世界中に知られていく。そして、だれもが疑
つまり、《ゲルニカ》をピカソの名においてMoMAか
ら撤回してくださいという要望をピカソに出すんです。
なぜかというと、MoMAというのはアメリカのエスタブ
う余地のない傑作として受け入れられていくということ
リッシュメントとつながっている機関ですから、MoMA
があるわけです。しかし、同時に《ゲルニカ》がもとも
を運営している偉い人たちには当然、ヴェトナム戦争を
と持っていた政治的な含意というものと、傑作化の過程
支持している政治家とつながっている人たちやヴェトナ
がちょっとアンバランスに、ずれを伴ってそういう事態
ム戦争にかかわる軍需産業とつながっている人たち、い
が進行していくわけです。アメリカ及びMoMAは、その
ろいろな人たちがいるわけです。そういう、反戦の立場
ような傑作の守護者――ファシズム政権が続いているス
から見ればダーティー・マネーにまみれたMoMAみたい
ペインに返すわけにはいかない《ゲルニカ》を民主主義
なところが、《ゲルニカ》を展示し続けるのはけしから
陣営の中心として守っている――としての地位を、自尊
ん、そこにはモラルの矛盾があるのではないかと。だか
心の基盤であり、世界へのメッセージとして積極的にア
ら、ピカソに直接呼びかけて《ゲルニカ》を引き上げて
ピールするわけですが、そういうアメリカ自身が、果た
もらおう、そういう書状を彼らは出します。ピカソはそ
してその表向きのアピールに見合うような政治的な貢献
れに応えません。直接的には何も反応していません。間
を国際社会に対してしているのかどうか、そこに潜在的
接的には反応しているのですが、それはMoMAに任せる
な矛盾があるわけですが、その矛盾が一挙に表面化する
という程度のものです。
のが、60年代のヴェトナム戦争の反戦運動の文脈の中で
でした。
そんな状態の中で、アメリカのヴェトナムでの問題あ
る行動が次々に明らかになってきます。例えば有名な
「 ソ ン ミ 村 の 虐 殺 」( ア メ リ カ で は 、 一 般 に M y l a i
反戦の象徴
Massacreとして知られています)がそうですが、そうい
まずこのイメージを見てください。これ(図18)は、
う事態を受けて、さらに3年後の70年に再びピカソに対
ヴェトナム戦争当時、反戦運動にかかわっていた作家た
し て 公 開 書 状 が 発 せ ら れ ま す ( 図 2 0 )。 今 度 は A r t
ちが、《ゲルニカ》の下の左の方に見える死んだ兵士の
Workers Coalitionというグループが差出人になっていま
部分を使って、ヴェトナム戦争に反対するというポスタ
す。
18 ヴェトナム戦争反戦ポスター
19 ANGRY ARTS、ヴェトナム
戦争反戦ポスター
48
20 Art Workers Coalitionによ
るパブロ・ピカソへの公開
書状、1970年3月13日
“Open letter to Pablo Picasso.”彼らは、“Open letter”
1月3日には、MoMAの前でArt Workers Coalitionのメ
ですから、新聞メディアにこれを出すのですね。たとえ
ンバーたちが、ヴェトナム戦争で殺された子どもたちの
ば『ロサンゼルス・タイムズ』に、
“Dear Pablo Picasso”
ためのメモリアルサービスを敢行します(図21)。その
ということで出す。ピカソにももちろんそれは送ってい
5日後、同じグループのメンバーがソンミ村の虐殺の有
るわけです。
名な写真を掲げて、《ゲルニカ》の前で抗議行動を繰り
全 部 は 読 み ま せ ん が 、 一 番 最 後 の 段 落 、“ We are
広げます(図22)。
asking your help.”というところだけ見てみます。「あな
こういう行動を通じて美術館という場所、あるいは美
たの助けが必要だ」と。“Tell the directors and trustees
術という制度の自立性、あるいは展示的な価値、美的な
of the Museum of Modern Art in New York, that
価値と政治的な価値といったものの矛盾が新たに問題と
Guernica can not remain on public view there as long as
して、かつてないほどあぶりだされる結果になっていく
American troops are committing genocide in Vietnam.”
わけです。
簡単にいうと、MoMAのディレクターとかお偉いさんた
だから、政治的な意味を持った《ゲルニカ》は、美術
ちに、《ゲルニカ》は公に展示することはできないのだ
的な傑作ということではなくて、新たに政治的な「もう
ということを言ってくれと。アメリカはヴェトナムで大
一度《ゲルニカ》の声を思い出そう」というようなかた
量虐殺をやっている間、そういうことはできないのだと
ちで《ゲルニカ》が神聖化されていく、象徴化されてい
いうことを言ってくれと言っている。
くということがヴェトナム反戦のときに起こります。も
“Renew the outcry of Guernica by telling those who
remain silent in the face of Mylai that you remove from
them the moral trust as guardians of your painting.”
ともとの価値がまた新たに上乗せされるという感じなの
ですが。
同時に興味深いことは、そういう雰囲気の中で、《ゲ
《ゲルニカ》の叫び声というものをもう一度復活させて
ルニカ》が再び政治的な絵画として神聖化されていくこ
ほしい。そして、「ソンミ村の虐殺」のような事態を前に
とへの過敏な反応と言っていいでしょうか、にわかに
して沈黙を保っている人たちにはあなたの作品の保護者
《ゲルニカ》を、純粋に形式主義的な立場から非難する
である権利などないと言ってほしいと。
言説が次々と登場します。
“ American artists and art students will miss
その兆候というのは60年代半ばからすでにあったわけ
Guernica, but will also know that by removing it you are
ですが、クレメント・グリーンバーグ、マイケル・フリ
bringing back to life the message you gave three
ード、ダービー・バナードといった、いわゆるフォーマ
decades ago.”
リストといわれる批評家たちが、《ゲルニカ》は決して
アメリカの作家や美術をやっている生徒たちは《ゲル
すぐれた作品ではないということを言いはじめます。そ
ニカ》がなくて寂しい思いをするだろうが、それを引き
の盛り上がりの頂点にあるのが、ダービー・バナードが
上げることで、あなたが30年前にこの絵画に吹き込んだ
68年と71年に『アートフォーラム』という雑誌に発表し
メッセージにもう一度命を吹き込むのだということがわ
た2本の長い《ゲルニカ》批判の論考です。つまり、ヴ
かるだろう、と言うわけです。
ェトナム反戦運動と並行して、同時期に、「《ゲルニカ》
ピカソはこれにも明確には応えていません。そんな中
でヴェトナム反戦運動はさらに盛り上がりを見せるので
す。そしてほとんど演劇的な次元にまで達する。1970年
21 Guerilla Art Action Group (Art
Workers Coalition中 の グ ル ー プ )、
MoMAの≪ゲルニカ≫前でヴェトナム
戦争で殺された子どものためのメモリ
アルサービス、1970年1月3日
は作品としてだめだ」と言うことをことさら強調する論
考を発表するわけです。
その批判の中で興味深いことは、バナードが《ゲルニ
22 Art Workers Coalition、≪
ゲルニカ≫の前でヴェトナ
ム戦争反対行動、
1970年1月
8日
林 道郎
49
カ》の欠点として挙げる形式的な要素が、演劇的な性格
ドやダービー・バナードの言う理想的な絵画の表現のあ
を持っているということなのです。つまり、例えば横長
り方なわけですが、そういった要素を《ゲルニカ》は完
の画面であって、分割可能ないわば書割的な構造になっ
全に欠いている。しかも横長の画面である。
ているということ。大きなサイズであること。その絵画
これも重要なことなのですが、一般的にキュビズムの
内の各要素が独立性を持ってばらばらに散らされている
画面というのは縦長のものが多いのです。それはなぜか
ということ。同時に、視線とか表情みたいなものを取り
というと、縦長のものは一視野に瞬間的に視野に収まり
上げて、彼は《ゲルニカ》の構造の弱さとか統一性の欠
やすく、観る者と対面的な関係をつくりやすいからです
如というふうに批判するのです。
ね。抽象表現主義などになってくると、横長の画面は増
なぜだめかというと、彼らフォーマリストたちが理想
えてくるのですが、それにしても、ポロックやニューマ
とするいい作品の条件というのは、絵画的な構成の緊密
ンなどは、縦長の画面の実験をずいぶん長くやって、そ
さ、統一感、そしてここが重要なのですが、それがさら
れから徐々に横長に移るのですね。そして横長に移ると
に瞬時に、一瞬において理解できる。そういったことが
きというのは、横長の画面でも緊密な統一性が保持でき
非常に重要だというのです。これはグリーンバーグの批
るオール・オーバーで均質なパターンを発見しているん
評やマイケル・フリードの批評などにも必ず出てくるこ
ですね。横長にしても画面が分断されない表面の方法を
とですが、作品というものはパッと見たときに一画面一
手に入れているんです。
視野に収められて、しかも瞬間的にその良さがわかるよ
そのほかの画家で言うと、ロスコやデ・クーニングの
うなものであると。そういうものである必要があるとい
場合は、ほとんど縦長が支配的ですが、縦長というのは
うのです。
モダニズムのパラダイムにとっては非常に重要なフォー
そのためには、絵画の構造というものが、表面のパタ
マットだと思います。横長の画面というのはどうしても
ーンというものが緊密に織り合わされていなければいけ
時間性というものを喚起してしまう可能性がある。《ゲ
ない。つまり、ある1つの部分だけを独立したものとし
ルニカ》は、見ての通り横長のフォーマットで、各モチ
て認識することができるとすれば、これを見て、あれを
ーフが明確な輪郭性をもって閉じられた形態になってい
見て、これを見てというふうに必ず視線が動いて、時間
るがゆえに、ばらばらに認識できて、漫画的な記号性を
性というものがそこに生じてきます。そうではなくて、
持っていて、しかもそれぞれのモチーフがこちらに訴え
1つのモチーフを取り上げようとすると、それが同時に
かけるようなある痛みの苦痛の表情などをしていて、非
画面上のすべてのモチーフを引っ張ってしまう。つまり、
常に演劇的な構造を持っているわけです。そこに、見る
こんがらがったラーメンのようなもの、ラーメンをすく
側には時間性というものが必ず生じてしまう。
い上げると全部ついてきてしまうみたいなものです。
キュビズムの画面というのは基本的にそうですね。分
しかし、よく考えてみると、この表面における各要素
の断片化された配置、それから絵画表現の非統一、そし
析的キュビズムの非常に細かく織り合わされた画面とい
てそういう要素によって要請される見ることの時間性、
うのは、画面内の一つ一つの形態を見ると、必ずオープ
そういったものこそ実は未完成の物語を感じさせる《ゲ
ン・シェイプで、隣接する形態や線につながっていく。
ルニカ》の構造であって、逆にいうと、それこそが我々
つまり、画面上のすべてのパターンが非常に緊密に織り
見るものにその物語の穴を埋めようという欲望を誘発し
合わされていて分断できない構造によって成り立ってい
ていくような構造になっている。ゲルニカ解釈というの
る。ああいうものがグリーンバーグやマイケル・フリー
は、これまでも数多く提起されていますが、どれが正解
50
かという結論は決してでないのだけれども、見れば見る
す。60年代には、オップ・アートというムーブメントも
ほど、何か読み解けるに違いないとは思ってしまう。意
ありましたが、これにも、田中さんの絵画に似て、非常
味ありげな姿をさらしながら、
「読んでください」と呼び
に演劇的なところがあります。つまり、両者とも、我々
かけるのだけれど、答えには行き着けないという、隔靴
の身体性、もっと正確に言えば、視覚的生理に直接的に
掻痒というか、悪い言葉でいうとおちょくられているよ
訴えかけてくるところがありますが、それは、観る者へ
うな、そういう感じもする絵画ではあるわけです。
の直接的な訴えかけを否定するかのようなキュビズム的
いずれにしても、この絵画の構造というものは、見る
ものを演劇的な空間の中に誘い込んで何か物語をつむぎ
な画面の統一性とか沈潜とかいう問題とはちょっと違っ
た性格の方にあるなという感じがします。
ださせる、そういった性格があって、近代主義というも
さて、本題に戻りますが、ヴェトナム反戦運動の余波
のが金科玉条のものとしてきた「沈黙の中における美的
を受けて1974年に起こったちょっとしたエピソードを紹
な鑑賞」といった態度を許さない絵画なわけです。考え
介しておくことにします。
てみると、ヴェトナム反戦の運動家たちというのは、逆
トニー・シャフラジという人がいまして、この人はイ
にこのような演劇的な性格を文字どおり演劇的空間の背
ランからの移民で作家だった人ですが、1974年2月28日
景として使用して、沈黙の美術館の中に声を導入して、
に、MoMAにあった《ゲルニカ》に近づいて、いきなり
逆にその絵の保護者である美術館自身にその声を向けて
みせたと、そういった見方も可能になってくると思いま
す。
その画面上にスプレーで落書きをしてしまうのです。
“Kill Lies All(すべてのうそを殺せ)”という言葉を《ゲ
ルニカ》の上に記して、その場で逮捕されます。これは
この演劇性という問題は実はなかなか重要な問題で、
そのときの記事です(図23)。これは、シャフラジが捕
67年にマイケル・フリードは「Art and Objecthood(芸
まったあと、美術館の修復家たちがスプレーの落書きを
術と客体性)」という非常に有名な論文を書いていまして、
一生懸命に消そうとしているところです(図24)。幸い
演劇性ということを近代的な絵画の価値に対する反対者
なことに《ゲルニカ》はニカワの層で守られていました
として措定している。いや、フリードのみならず、60年
ので、数時間後にはこれは全部消されたわけですが、こ
代後半、演劇性というのは、絵画論だけではなく、舞踊
ういう驚くべき事件がありました。
論や演劇論においてもずいぶん関心をもたれている問題
シャフラジという人がなぜこれをやったかというのは
で、たとえば、演劇の世界では、伝統的な演劇の形式に
非常に曖昧なままです。ヴェトナム戦争の反戦運動の中
のっとった演劇性とは異なる演劇性を模索していたとい
で、彼は特にアクティブな役割を果たしていたわけでは
うような状況がありました。したがって、フリードやバ
なく、反戦メッセージとしてやったのだとすれば、それ
ナードによる《ゲルニカ》批判も、そのような大きな文
までの目立たない活動との整合性がちょっとつかないの
脈の中で考えることができるかもしれません。
で、いろいろな解釈があります。中には、単なる売名行
余談になりますが、田中敦子さんの《電気服》の問題
為だとして、彼の行為を批判する人もいますし、それと
もちょっとそういうところがあると思うのです。なぜか
は逆に、シャフラジのやったことを作品として、アート
というと、田中敦子の《電気服》というのは舞台服でも
として評価するという人たちも出てくる。
あって、これは舞台の上で、演劇的な空間の中でパフォ
ジョン・ヘンドリックスとジーン・トッシュは、ヴェ
ーマンスをされる。その演劇性みたいなものが、彼女の
トナム反戦運動の中でも非常にラディカルなグループの
絵画にもやはり何か引き継がれているような感じがしま
中にいた人たちですが、シャフラジ事件のあと、この人
23 ≪ゲルニカ≫への落書きの記事、『デ
イリー・ニューズ』紙、1974年3月1日
24 落書きされた≪ゲルニカ≫の修復
25 ジョン・ヘンドリックスとジーン・トッ
シュによる≪ゲルニカ≫落書きを支持す
るMoMAへの手紙、1974年2月28日
林 道郎
51
たちは「シャフラジのやったことはピカソが《ゲルニ
実、スペイン政府には所有権があったということです。
カ》でやったことと同じで、反戦の意味を込めた非常に
しかしその事実は、フランコ政権時代には、フランコの
すぐれたアートだ」といった手紙をMoMAに送っている
返還要求に正当性を与えかねないということでずっと伏
のです。これがMoMAのアーカイヴにいまだに残ってい
せられていました)。もちろん、ピカソとMoMAはそれ
ます(図25)。もう一方で、ある運動家たちは、シャフ
に対して「ノー」と言うわけですが、69年のフランコの
ラジは私たちとは全く関係ないというふうにシャフラジ
返還要求が、その後の《ゲルニカ》の最終的な「里帰り」
との関係を否定したり、そういう混乱状態がありました。
の交渉に向けての最初の一歩だったと言っていいと思い
いずれにしてもシャフラジの未発表のインタヴューと
ます。
いうのがあって、それをたまたま僕は見る機会があった
フランコがそういう要求をした背景には、彼なりの政
のですが、イランの新聞記者のインタヴューの中で彼は
治的な目論見がありました。1969年当時のフランコのス
こういうことを言っています。つまり、
「自分はなぜそう
ペイン政府は、政治的にも経済的にも大きな危機を迎え
いうことをやったかというのは、《ゲルニカ》のスピリ
ていたんです。その要因の一つは、バスク地方で高まっ
ットというものがまちがって使われていると思ったから
てきた独立運動でした。今も過激な活動を繰り広げてい
だ。そして、私は忘れられたその絵画の声にもう一度命
るETA(エタ)という独立運動の集団が結成されるのが
を吹き込みたかったのだ」というようなことを言ってい
62年なのですが、そのETAが初めて爆弾によるテロ活動
ます。
を開始するのが68年なのです。そういった状況の中で、
さらに、このシャフラジという人は80年代にソーホー
にギャラリーを開きまして、キース・ヘリングとか、ケ
フランコはなんとかバスク派を懐柔しようとする。
そのために、まず、フランコ政府は「ゲルニカ爆撃」
ニー・シャーフとか、いわゆるグラフィティ・アーティ
という歴史的な事実があったということを初めて認めま
ストたちをプロモートしたその本人でもありまして、彼
す。それまでフランコ政府は、この無差別爆撃の悲劇を
が74年に《ゲルニカ》の上にやったことと80年代に彼が
架空のこととして事実認定をせず、それによって自分た
グラフィティ・アーティストたちをプロモートしたこと
ちの関与も否定していたのでした。それが、この68年ご
の意味の間には、ひょっとしたら何か関係があるのかも
ろですが、政府お抱えの歴史家たちがこぞってゲルニカ
しれない、ないのかもしれない。ちょっとわからないと
爆撃は確かにあったのだということを言い出す。それも、
ころです。もしもチャンスがあれば、その辺りのことは
巧妙に責任をヒトラーに押しつけるかたちで。それと同
本人に聞いてみたいと思っています。
時にフランコは、《ゲルニカ》を返せということを
MoMAとピカソに対して要求するわけです。つまり、フ
スペインへの「返還」
ランコの意図としては、《ゲルニカ》をスペインに持っ
話を進めて、《ゲルニカ》の旅そのものに戻ろうと思
てくることによって、バスクの独立運動派たちとの関係
います。先程、ヴェトナム反戦グループが1970年にピカ
を改善しようとした。政治的交渉の手段として利用しよ
ソに向けて発表した公開書簡をお見せしましたが、その
うとしたわけです。
書き出しの部分は、こんなふうになっているのです。「フ
政治的な交渉の手段として芸術を利用するというのは、
ランコ政府が最近あなたに《ゲルニカ》の絵をマドリッ
この《ゲルニカ》のケースが非常に典型的ですが、一般
ドに返すように提案したときに、あなた(ピカソ)はノ
的に今の大きな美術館の大きなコレクションが普遍的に
ーと言いましたね。あなたは、スペインがもう一度デモ
抱えている問題でもあります。有名なところではエルギ
クラティックな、民主的な国になったときに初めて《ゲ
ン・マーブルという大英美術館のギリシャ彫刻がありま
ルニカ》をプラドに戻すのだと言いましたね」。
すが、あれはエルギンという人が19世紀にギリシャから
ここで言及されているのは、その1年前、69年に、フ
勝手にブリティッシュ・ミュージアムに持っていってし
ランコ政府が近代美術館に対して「《ゲルニカ》を返還
まったわけですが、それを今、ギリシャ政府が返せと言
せよ」と要求したことです。
「返還」というのはおかしな
っている。そういうことがあったりします。
話で、つまり、スペインに一度も展示されたことのない
それから、政府間の交渉ごとの中によく美術品のこと
ものを返還せよというのは全くおかしなレトリックなの
が出てくることがあります。ドラクロアの「自由の女神」
ですが、そういう要求をつきつけます(のちに明らかに
が日本に来たことがありましたが、日仏の政治交渉の中
なったのは、37年の万博当時、スペイン政府はピカソに
で、百済観音を貸してあげる代わりにドラクロアを貸せ
対して《ゲルニカ》の代価を支払っていましたので、事
よみたいな交渉があって、ああいうことが実現するわけ
52
です。つまり、美術品の価値というものが政治の場にお
立場は必ずしも一枚岩ではないかもしれません。ですか
いて非常に有効な手段として利用されているという状況
ら、この《ゲルニカ》返還をめぐって政府と美術館の間
は、現代の美術作品をめぐる状況の問題としては一つ見
に、何か微妙なやりとりがあったやもしれないなどと想
過ごすことのできない問題だと思います。余談ながら、
像したくもなるのですが、その辺りは、ちょっと資料か
指摘だけはしておきたいと思います。
らは見えてこないところです。ただ、視線をスペインの
さて、そのフランコの「返還」要求に対しては、ピカ
側に移せば、素朴な市民的感情として、民主化以降、ス
ソもMoMAも拒絶します。しかしその3年後、73年にピ
ペインの内部では《ゲルニカ》返還を待ち望む声がだん
カソが世を去ります。フランコはピカソよりも長生きを
だんと高まってきていたことは事実で、その圧力は無視
するのですが、2年後の75年にやはりこの世を去ります。
できないものだったと思います。
そして、この二人が死んだことによって事態が徐々に動
僕はこの夏、実際に王妃ソフィア美術館に行って、そ
きはじめるわけです。まず、78年に初めてスペインが民
の図書館長にインタヴューをする機会があって話を聞い
主的な憲法を採択します。その後すぐ79年の時点で、ス
たのですが、フランコ時代には、やはり反フランコ派の
ペイン政府、メディア、それから学者たちの何人かは、
人々が潜在的に多くいたわけですが、そういった家庭の
《ゲルニカ》返還についてアメリカ政府やMoMAに対し
ほとんどに《ゲルニカ》の複製があったとおっしゃって
て政治的圧力をかけはじめました。
ました。逆にいうと、《ゲルニカ》の複製を持っている
しかし、79年の時点でMoMAはすぐに返還に応じない
と、それは暗黙のうちに自分たちは反フランコ側であり、
わけです。なぜかというと、彼らはスペインの体制が本
体制をよしとしないというサインだった。それぐらい
当に民主主義的なものになったのかどうかと非常に疑念
《ゲルニカ》の複製はスペインの中に流通していたとい
を抱いていた。事実、スペインは民主化されたと言って
うのです。だから、反フランコ派の人たちにとって《ゲ
も、フランコ政府の要人たちは、とくに処罰されること
ルニカ》が戻ってくるというのは、長い圧政の時代の終
もなく、こぞって体制の中に残るわけですね。政治体制
わりを告げる象徴的な意味を持った事件だったというこ
が変わっても、その当時の将軍や政治化たちは皆要職に
とです。今、その何百万、何千万とあった複製というの
ついて新政府の中にいるという状態で、いつまたフラン
はほとんど消えてなくなっているらしいですが、当時を
コ派によるクーデターが起こってもおかしくないような
知る人たちが集まると、あの膨大な量の複製はいったい
状況ですから、まだ民主化したとは認められないという
どこに行ってしまったのだろうと冗談めかして語りあう
ことで、MoMAは返還を拒否するのです。
ことが少なくないそうです。
だから、《ゲルニカ》は人質になったような格好で、
最終的に《ゲルニカ》がマドリッドに帰ることになる
《ゲルニカ》の「返還」をめぐってアメリカ政府が、あ
のは1981年9月8日です。しかも、MoMAから、まずは、
るいはMoMA、あるいはピカソの遺産管理人が、スペイ
プラドの別館だったブエン・レティーロへ本当に秘密裏
ンの政治体制の民主化の程度をはかりにかけるという状
に。秘密裏にというのは文字どおりそうで、美術館のス
況になりました。一国の政治体制の評価が、一枚の絵の
タッフにしても《ゲルニカ》の輸送にかかわった人たち
帰趨によって決定されるという、前代未聞の事態が生じ
以外には全く事実が明かされないままに、次の日になっ
ることになったのです。これはしかし、政治の裏面を見
て、館長名で美術館のスタッフに対して「我々の《ゲル
ればかなり矛盾した事態とも言えません。なぜかという
ニカ》は昨晩、静かにここを去りました」という手紙が
と、アメリカ政府は、フランコ政府に対して、必ずしも
配られ、事後通知だったようです。その手紙も今、
一貫したポリシーを持ち続けていたわけではないからで
MoMAのアーカイヴに残っています。同じように受け入
す。戦後すぐまではたしかに、ファシズム批判で一貫し
れ側のプラドも非常に秘密裏にそれを受け入れます。
ているのですが、冷戦時代になると、反コミュニズムと
最初、プラドの分館のブエン・レティーロというとこ
いうことがアメリカの対外政策の根幹となり、その過程
ろに飾られるわけですが、そのときに長蛇の列ができて、
で、実は、フランコに共産主義排除および弾圧のために、
みんな《ゲルニカ》の返還を歓迎している様子です(図
随分と資金的な援助をしているのですね(日本でも佐藤
26)。
政権時代に同じような資金提供があったことは数年前に
ただし、当初は、こういうふうに防弾ガラスに守られ
明らかになりましたが)。ですから、《ゲルニカ》の保持
て展示されていました(図27)。なぜかというと、右翼、
者たるアメリカ政府も、フランコ政府を完全に突っぱね
左翼、それからバスクの独立運動関係者によるテロを恐
られるような立場にはなかった。政府の立場とMoMAの
れてこういう状況なわけです。移送が秘密裏に行われた
林 道郎
53
のも、そのような不測の事態を避けるためだったのです。
そして97年7月、最終的に、王妃ソフィア美術館は
この状態が92年まで続きます。92年に今の王妃ソフィア
《ゲルニカ》の物理的なコンディションが十分ではない
美術館に移されます。実際、ブエン・レティーロにあっ
ので貸し出しはできないという決定をします。これは、
たときには、これはプレスにはほとんど報道されなかっ
それを皮肉った「El Raina Sofia amarra el ‘Guernica’
たらしいですが、本当に毎週のようにバスク独立派の人
(レイナ・ソフィアは《ゲルニカ》がお好きなようだ)」
たちが《ゲルニカ》の前に来て、
「《ゲルニカ》は我々の
ものだ」と抗議運動をやったというのです。したがって、
というタイトルの記事です(図28)。
こちらの記事は、『エル・パイス』というスペインで非
マドリッド政府はこういうふうに警護兵を置いて、そう
常に権威のある新聞ですが、《ゲルニカ》のダメージの
いうプロテストが起こらないように、あるいは起こって
ある場所を四角に囲んで、全部事細かに、これこれこう
もすみやかに鎮静化できるように始終目を光らせていた
だからもうこの絵は動かせないのだということを発表し
ということです。
ます(図29)。それに対して、もちろんビルバオ市はバ
王妃ソフィア美術館に移ってからはそういうことは減
スクの歴史に対する配慮のなさに対して不平をもらしま
るわけですが、しかし、バスク地方とマドリッドの緊張
すし、グッゲンハイムはグッゲンハイムで同様に不満を
関係がなくなるかというとそうではなくて、その《ゲル
表明するわけです。反戦そして平和の象徴である《ゲル
ニカ》をめぐる駆け引きというのは、90年代後半になっ
ニカ》という絵画が、アメリカとスペインの間での綱引
て再び表面化します。それは、ビルバオのグッゲンハイ
きの道具に使われるという事態から解放されたと思った
ム美術館をめぐる駆け引きなのです。
ら、再び民族の軋轢の間に立たされて、その正当なる所
ビルバオのグッゲンハイムというのは97年に開くので
すが、ビルバオ市はバスク地方の文化的、経済的活性化
有権というのが争いの種になっている。非常に皮肉な事
態がここで起こっているわけです。
にはずみをつけようとしてグッゲンハイムを誘致するこ
その後、結局《ゲルニカ》は動かされることなく、王
とを決定します。その契約の中には、バスク地方のアー
妃ソフィア美術館に在り続け、現在に至っているわけで
ティストや作家たちは特に扱わなくてもいいという条項
すが、今見てきたように、37年に制作されてから2002年
が入っていました。グッゲンハイムの好きなようにやっ
の現在に至るまで、《ゲルニカ》という作品は本当に多
ていいからビルバオに来てくださいという内容の契約を
様な場面で論争を巻き起こしたり、人質になったり、政
やっているのです。
治的に利用されたり、様々な価値を負わされてきたわけ
でも、やはり《ゲルニカ》は無視するにはあまりにも
です。
象徴的な価値が高いので、バスク政府もグッゲンハイム
今日の話の中で触れることはできませんでしたが、さ
も、開館記念に《ゲルニカ》を貸し出して欲しいという
らに考えるべき問題は、複製というメディアをとおして、
要求を王妃ソフィア美術館、そしてマドリッド政府に対
《ゲルニカ》は自分が訪れていないところにもさまざま
して出します。その要求はメディアの中で盛んに取り上
な影響を及ぼしている。世界中に伝えられて別の価値を
げられるようになって、約1年以上にわたって、スペイ
創出している。例えば、日本における《ゲルニカ》受容
ン全体を巻き込んで大騒ぎになります。批評家や美術関
の問題はその特徴ある事例の一つですが、日本において
係者、作家、文化人などさまざまな人たちが、さまざま
は反核運動の中で《ゲルニカ》のイメージが盛んに使わ
な立場から「貸すべきか」
「貸さないべきか」ということ
れるということがあります。あるいは平和運動と結びつ
を論じました。
いて、戦後50年のときには小学校や中学校で《ゲルニ
26 プラド分館ブエン・レティーロの前の
長蛇の列
27 プラド分館ブエン・レティーロでの防
弾ガラスつき≪ゲルニカ≫展示
28『エル・ペリオディコ』紙、
1997年7月17日
54
カ》のレプリカを作ろうという運動が盛んにされたりし
経済的な価値、あるいは象徴的な価値、美的な価値と、
ます。これは今後の調査の課題なので、予告的に触れる
一元的なまとまりを許さない多元的な織物になっている
ことしかできませんが、そういった複製をめぐる受容の
わけです。
問題があります。
演劇的な構造を持った《ゲルニカ》という作品が、歴
そういう意味では、南米においても、《ゲルニカ》は
史のさまざまな舞台に駆り出されてきたと言っていいと
象徴イメージとして非常に重要な役割を果たしてきたよ
思うのですが、これからもまた、《ゲルニカ》という絵
うです。つまり、南米には軍事政権というのはいろいろ
が新たな舞台に引きずり出されるという可能性は十分に
なところにあり、現在もあるわけですが、それに対する
あるわけですね。特に今言ったようにSeptember 11以来
抵抗運動、革命運動の中で、《ゲルニカ》は抵抗者側に
の政治状況の中で、新たな《ゲルニカ》にとっての演目
とってのイコンのようなものとして使われてきたという
が増える可能性は大きいかもしれないということです
ことがあります。そしてその場合は、皮肉なことですが、
(事実、この講演の後、2003年の3月初め、イラクに対し
南米の軍事政権はほとんどアメリカによって援助されて
てアメリカが侵攻を始めようとする直前、アメリカのパ
いるわけです。一例を挙げると、1973年のSeptember
ウエル国務長官が国連で、その正当性を主張し、そのこ
11というのはほとんどの人が知らないかもしれません
とについて記者会見をしたとき、背景にあった《ゲルニ
が、チリで大虐殺が起こり、革命が起こってアジェンデ
カ》のタペストリーによる原寸大の複製が、青いヴェー
という大統領が殺された日でもあります。そのときにア
ルによって隠されるという事件が起こりました。開戦の
ジェンデという大統領を殺した軍部のクーデターを支援
火蓋を切ろうという主旨の発言の背景に、この絵が見え
していたのはアメリカ軍であって、アメリカ軍の戦闘機
てはまずいというわけです。このことは、すぐアメリカ
が実際に行ってアジェンデがいる大統領府を爆撃して殺
のいろいろなメディアによって報道され、翌日には、
しているわけです。そのあと、アメリカでトレーニング
《ゲルニカ》の複製をもった人々が国連前で抗議行動を
されたチリの兵士たちが戻っていって、どんどん反政府
するという事態も生じました。)
分子を粛清していって何万人という人が殺されたという
事態になった(ケン・ローチがSep.11への応答としてつ
質疑応答
くった短編映画はこのことを題材にしています)。
Q1
メッセージ性のある絵画を描いているベン・シャー
つまり、先に触れたヴェトナム戦争時の矛盾した状況
ンが《ゲルニカ》に対して最初否定的であったというこ
とも響きあうのですが、《ゲルニカ》を長い間保護し、
とですが、それはメッセージを伝えるのには不十分だと
民主主義の護衛官を自認するアメリカという国の横暴に
いう意味で否定的であったのでしょうか。
対して反旗を翻す人たちが、反米のシンボルとして《ゲ
A1
ルニカ》を使うというような事態がそこにあるわけです。
にはもう理解不可能だと。単純にいうと、ベン・シャー
それについても今後考えていかなければならない問題だ
ンの不満はそういう不満ですね。
という気がしています。
Q2
今見てきたように、《ゲルニカ》という絵画は歴史の
そういうことですね。あれでは絵画言語として大衆
《ゲルニカ》についてピカソ自身はどういうふうに
考えていたのでしょうか。
証人としての価値をベースにしながら、その後の歴史の
A2
中で多層的にその価値というものが積み重ねられて、あ
ったことはピカソは言っていませんし、逆にそれは見る
るいは対称的な方向へと使い回されて、政治的な価値や
人の自由だというようなことを言っているわけです。た
もちろん個々のモチーフが何を意味しているかとい
29 『エル・パイス』紙、1997年7月
林 道郎
55
だ、明らかにゲルニカ爆撃に対する抗議の意味を込めて
描いたということはほぼまちがいありません。
の会話の中でヒントをもらったものです。
保守反動の人たちが《ゲルニカ》を扱うことに関して
なぜそういうことが言えるかというと、ドラ・マール
は、少なくともスペインには、ねじれたかたちでありま
の証言などもありますが、爆撃のニュースを聞いて、そ
すね。フランコ側の人たちがゲルニカの爆撃さえ認めて
れでモチーフを変えて、すごい勢いで作品を仕上げたと
いなかったわけですが、69年には、政治的駆け引きの手
いうこともありますし、作品に《ゲルニカ》というタイ
段として《ゲルニカ》返還を言い出します。それまでは
トルをつけること自体、ゲルニカ爆撃のニュースがなけ
《ゲルニカ》の価値など露ほども認めていないわけです
ればありえないわけです。《ゲルニカ》という町はピカ
から、これは政治利用の非常にわかりやすいかたちだと
ソの出身地でも何でもありませんから、ニュースに触発
思います。
されてその作品を描いたということの一つの証拠と言っ
ていいと思います。
ご質問の主旨とはずれるかもしれませんが、微妙なの
はアメリカのケースかもしれません。なぜかというと、
同時に、《ゲルニカ》を描いたときに彼はスペイン政
アメリカは50年代に《ゲルニカ》が誰もが認める傑作と
府にお金をもらっているのです。あまり多くはないお金
なっていき、ジャンソンのテキストブックなどにも載っ
ですがもらっていまして、このもらっていたという事実
ていくという事情があるわけですが、その中であまり触
は長い間伏せられているのです。それはなぜかというと、
れられない問題はピカソとコミュニズムの関係なのです。
もらっていたという事実が明らかになるとフランコが所
ピカソは戦後、共産党員になりますから。53年には、新
有権を主張できるからなのです。フランコが死ぬまで、
聞の一面用にスターリンのポートレートを描いたりもし
ピカソがお金をもらっていたという事実はずっと隠され
ています。そのことは非常にアメリカにとっては都合の
たままでいるのですが、もらっているのですね。もらっ
悪いことで、MoMAなどはそのことを快く思っていなか
てどうしたかというと、37年当時、スペインの難民救済
ったと思います。ですから、《ゲルニカ》の名声はでき
の基金にほとんどのお金をすぐ寄付したりしています。
るだけ利用しながらも、共産主義とピカソの関係につい
だから、彼としてはやはりゲルニカ爆撃、スペイン市民
ては、できるだけ触れずにすまそうという傾向があると
戦争全体に対して非常に憤りを感じていたことは確かで、
思います。
それはまちがいないと思います。
《ゲルニカ》制作の時点までさかのぼってみると、共
さらにいうと、彼は《ゲルニカ》の1年ぐらい前でし
和国政府というのはソ連に非常に強くバックアップされ
ょうか、プラド美術館の名誉館長に任命されてそれを引
ていたわけですから、共和国政府というのは当然コミュ
き受けているのです。つまり、ナチに対してそのプラド
ニズムと関係があるわけです。ピカソが当時よく読んで
を、スペイン共和国の文化を守るのだと。共和国側に立
いて、ひょっとするとその紙面から影響を受けたのでは
って、共和国側に依頼されてプラドの名誉美術館の館長
ないかといわれている、一番最初に見せた『ユマニテ』
を引き受けていますから、明らかにスペイン市民戦争に
という新聞も共産党の新聞なのです。ですから、共産党
おいては反フランコという態度、考え方を持っていたこ
とピカソの関係、あるいは《ゲルニカ》と共産党の関係
とはまちがいないです。
というのは、冷戦構造の中でかなり曖昧にされていく、
Q3
私は日本の中での《ゲルニカ》が小中学校で卒業記
あるいは不問に付されていくということがあります。
念などに制作されたことに最初関心を抱いて、新聞報道
同時に、アメリカ政府のフランコ政府に対する態度そ
などのレベルで、数量的な手続きで少し考察したことが
のものが180度変わります。これは冷戦構造の中でそう
あります。そのときちょっと驚いたのは、《ゲルニカ》
なのですが、冷戦体制が始まるのは55年ぐらいですか、
を卒業制作で制作することが「反戦=革新=反体制」と
50年代後半にアメリカはフランコ政府に円にして何十億
いう構図でとらえられて、例えば福岡の教育委員会など
かの支援をします。それは反コミュニズムのためにです。
では子どもにそういうことをさせたくないと一般市民も
それまでは、フランコをファシズムの政権だと言って
巻き込んでの裁判闘争にもなったということなのです。
さんざん非難しておいて、そのために亡命を余儀なくさ
そういう、保守反動の人たちが積極的に動きはじめるよ
れたバスク政府をアメリカは迎えいれたりしています。
うな文化圏とか精神風土というのは、日本以外にあるの
それが1940年代ですけれども、反フランコの声明を発表
でしょうか。
してバスク政権を擁護します。しかし、1950年代になる
最初に申し上げますが、この《ゲルニカ》のプロジ
とアメリカ政府はフランコに支援を始める。冷戦の中で、
ェクトはもともと、今ご質問いただいた太田昌子さんと
ソ連が当面の最大の敵になると、反共政策の一環として、
A3
56
フランコ政府に対して何十億という支援をし始める。そ
れでバスク政府は居場所がなくなって、どんどん周辺的
難しい問題です。
ただ、ヴェトナム反戦運動以前、60年代の頭ぐらいに、
な位置へ押しやられるというアメリカ政府そのものの態
ピカソはカーンワイラーという彼の画商だった人に対し
度の豹変がありました。ですから、バスクにはいまだに
て、「《ゲルニカ》という絵はアメリカにいることによっ
アメリカに対する不信が根強く残っています。いずれに
て一番よい役割を果たすだろう」と言っています。それ
しても、そういう冷戦構造の中において、ピカソとコミ
はヴェトナム反戦運動の公開書簡が出たときに、当時
ュニズムの関係をあまり強く言うのはアメリカにとって
MoMAの館長だったアルフレッド・バーがピカソに書い
都合の悪いことだったと思います。
た手紙の中に引用されている言葉です。その手紙の中で
しかし、福岡で裁判闘争になった事件のようなことは、
僕の知るかぎりはありません。
ちなみに、南米における軍部政府にアメリカがどんど
アルフレッド・バーは、
「あなたは以前、《ゲルニカ》と
いう絵画はアメリカにあれば一番いいことができると言
っていた。そのことを私はまだ信じていて、《ゲルニ
んお金を渡して、あるいは軍備を渡してというのも同じ
カ》はずっとMoMAに展示していたいと思うけれども、
なのです。反共、つまり、革命というのは共産主義です
どうでしょうか」みたいな手紙を出しているのですね。
から、共産主義を抑圧するためにチリにも軍隊を送るし、
それに対してピカソは、カーンワイラーだったか、弁護
グアテマラにも軍隊を送るし、CIAはオペレーションす
士だったかを通じて、「MoMAの責任で決めてください」
るしということですね。
というMoMAに判断を預けるような回答をしています。
ピカソ自身がなぜ沈黙を守ったのかということに対
それと、もう1つの内在する価値の問題ですが、難し
する林さんの解釈と、もし内在する価値というものがあ
い問題なのです。作品の意味とか価値というのは、内在
るとすれば、どういったものか聞かせていただきたいと
しないとしたら、では外在するのかというふうに考えた
思います。
くなるのですね。外在するとしたら、つまりいろいろな
Q4
ピカソ自身が沈黙を守った意味というのは、ちょっ
文脈、いろいろな立場から見たときに、どんな意味でも
と一言では言えないですね。ただ、ヴェトナム反戦運動
作品の意味になりうるのか。作品の意味は無限定に無限
にかかわった人たちは、ファシズム政権、フランコやヒ
であるのかという疑問が当然出てくると思うのです。
A4
トラーやムッソリーニがやったことと、アメリカがヴェ
そこを、やはりそうではないだろうと言ってみたい気
トナムでやっていることは同じだというふうに言うわけ
が僕はします。つまり、内在するのではないのだけれど
です。ですから、アメリカもヴェトナムでやっているこ
も、作品の物理的な存在、見えだとか、構造だとか、材
とはファシスト政権と変わりがないから、《ゲルニカ》
質だとか、そういった具体的な要素がやはりある有限な
を持っている資格はないという論法でいくわけです。そ
きっかけではあるわけです。有限なきっかけに対してど
れに対しては、ピカソはそうは思っていなかっただろう
ういう意味の広がり、解釈の広がりがありえるかという
と思います。
のは、確かに組み合わせは無限かもしれないけれども、
実は、ピカソに対する公開書簡に署名をしなかった人
もいるのです。その1人は美術史家のマイヤー・シャピ
ロという人で、マイヤー・シャピロは署名をしない理由
それは有限の見え、要素に基づいた無限さであって、限
定された無限なのだと思います。
なぜかというと、強い解釈と弱い解釈があると僕は思
をヴェトナムの反戦運動家たちに手紙で送っています。
っていて、強い解釈というのは作品の具体的なディテー
彼は「アメリカがヴェトナムでやっていることは確かに
ルとか、作品の見えの問題とか、まさに作品が作品とし
ひどい。ヴェトナム戦争には反対するが、しかし、アメ
て存在しているその細部と解釈というものがどこまでう
リカはヴェトナム戦争に反対する反戦運動を繰り広げら
まく有機的にドッキングしているかという問題だと思い
れる言論の自由がまだ保障されている国である。だから、
ます。弱い解釈というのは、作品の細部とか見えの問題、
ファシスト政権とは違うのだ」と。すごく単純化してい
構造とかの問題をかっこに入れておいて、どんどん恣意
うとそういうことで、《ゲルニカ》をアメリカに展示し
的に解釈を作っていってしまう。したがって、その解釈
て置いておくことは、そういう観点から言うと、逆に意
というのは、実は、対象となっている作品だけではなく、
味のあることなのだと。言論の自由ということをある意
他の似たような作品にもまったく問題なく当てはまった
味で保障するというか、それを必要としている。だから、
りする。ですから、弱い解釈と強い解釈を対象作品を前
ピカソにお願いをして《ゲルニカ》を引き下げさせるこ
にして比較すると、強い解釈のほうが、説得性を持って
とに私は同意したくないと書いているわけです。これは
響きます。
林 道郎
57
しかし、その解釈の勝ち負けは政治的な権力がそこに
仕事をしているということを考えなければいけないのだ
かかわってきますから単純に言えない問題なのですが、
と思うのです。だから、プロパガンダ的な意図があった
つまりヒトラーが退廃芸術展ということをやって、ピカ
ことはまちがいがないと思います。
ソやカンディンスキーやクレーや当時のものを集めて、
Q6
こういった芸術は退廃している、人間の精神の退廃を表
実は私はタピスリーでできているものも見たことがある
現しているのだというふうに解釈します。それは弱い解
のですが。
釈なのですが、ヒトラーという非常に政治的な権力を持
A6
った人が言った解釈だから強い解釈になってしまうので
スリーの複製は今日本にもありますね。群馬県立近代美
す。そこには解釈者の権力の問題ということが今度はか
術館が持っているはずですが、原寸大の複製は何枚かつ
かわってくるので、本当になかなか一筋縄ではいかない
くられています。ニューヨークの国連ビルにもタピスリ
問題だなと思います。逆に、《ゲルニカ》の場合だと、
ー・ヴァージョンがかかっていますが、これはネルソ
それを政治的、道義的に正義の立場に立って解釈すると
ン・ロックフェラーが寄贈したものです。ゲルニカの町
いうことが戦後一般化してきました。それも、矛盾する
に行くと、今セラミックの複製が町の通りに1つありま
ようですが、権力になりえるということです。60年代の
して、これはやはり80年代、90年代でしたか、に作られ
後半に、フォーマリストたちが、わざわざ、《ゲルニ
たもので、複製は結構あちこちにあるみたいです。
この作品にはほかのヴァージョンもあるのですか。
ピカソ自身は描いていないと思います。ただ、タピ
カ》は大した作品ではないということを声高に言わなけ
ればならなかった状況は、その正義の権力性を逆照射し
ているとも言えます。一般に、ある作品に対して、その
作品がすぐれた作品ではないという主旨で長い論文を書
くなんてことは、めったにあることではないです。それ
が起こっているわけですから、《ゲルニカ》礼賛は、あ
る意味で息苦しい状況をも作り出したと言えるでしょう。
Q5
特に作品のマスコミの中での存在ということに興味
をもったのですが、ピカソははじめからプロパガンダ的
な作品だという意識で作った可能性はないでしょうか。
この実物を見ると、色の選び方が珍しく、ほとんどモノ
クロ、白、黒、グレーです。はじめから印刷のことを意
識していたのではないでしょうか。
A5
確かに新聞的な色彩を意識してやっていると思いま
す。それは確実に思います。ただ、壁画というサイズは
同時に新聞にはない次元を持ってくるもので、30年代の
状況というものをちょっと考えないといけないですね。
つまり、30年代、壁画運動というのは実は世界的にすご
く盛んで、そのことは今日はお話しできなかったのです
が、この1937年の万博も壁画というメディアがすごく重
要な役割を果たしているのです。しかも、絵で描いた壁
画もあるけれども、写真壁画などというテクニックがこ
の当時はいっぱい出てきていて、大画面を使ったプロパ
ガンダというものが、メキシコもアメリカもそうですし、
WPAプロジェクトやメキシコのリベラ、シケイロスなど、
それが世界中を席巻する。それがすごく重要な役割を持
つ。
つまり、テレビがない時代ですから、公共空間に大画
面を出現させる、こういう壁画メディアはすごく強力な
機能を持っているわけです。その中でピカソがああいう
58
林道郎
美術史、武蔵大学比較文化学科助教授。モダニズム批評のみならず、現代文
化全般、都市論にまで思考の対象を広げている気鋭の美術評論家。主な共
著:『ポップ・アート:ルートヴィッヒ・コレクション』(セゾン美術館)、
主な訳書:E.ディ.アントニオ、M.タックマン『現代美術は語る』(青土社)