周縁化されたコミュニケーション領域

Kyushu Communication Studies, Vol.9, 2011, pp. 1-24
©2011 日本コミュニケーション学会九州支部
【 研究論文
】
周縁化されたコミュニケーション領域
―お蔭様を鍵概念としたコミュニケーション研究の探求―
坂井
二郎
(立教大学)
Marginalized Areas of Communication:
Searching for the Communication Research
Based on Okagesama as a Key Concept
SAKAI Jiro
(Rikkyo University)
Abstract. The purpose of this article is to determine the marginalized areas of
communication studies, which may have potential value for future contribution. In order
to accomplish this objective, one Japanese word, okagesama (i.e. a sense of gratitude for
hidden or invisible force working behind our everyday life) was chosen as a key concept
to find out hidden or invisible resources of communication studies. For this purpose, this
paper first tries to reveal some of the major presuppositions in the area of
communication studies. Clarifying these presuppositions helps unveil the major themes
and related dominant cognition patterns that have been shared in communication
studies. As a result of that attempt, it is suggested that certain areas of communication
have been marginalized for particular reasons. Second, the author attempts to interpret
the epistemological nature of okagesama, so that the way to apply this word for this
current study becomes clearer. Third, the author illustrates ecological communication,
spiritual communication, and sentient communication as examples of marginalized areas
of communication taking place in the world of okagesama. Unintentional and
spontaneous communication and communication of bodily sense are also illustrated as
examples of okagesama in our everyday cultural world. Through this task, the current
article demonstrates the value of affordance theory in ecological psychology and process
theory in process-oriented psychology to contribute communication studies in the future.
Finally, some of the limitations and future directions of this study are pointed out.
1
0.はじめに
人が普通に当たり前に日常生活を送れるとは何を意味しているのか。まず、酸素を吸えるから
である。空気の存在、大気という場に酸素が常に存在しているお蔭
1)である。そしてそれは同時
に呼吸を正常に行い続ける身体のお蔭でもある。同様に様々な食物が存在しているお蔭で生命維
持が可能になっている。また、この場に存在できるのは、親の存在のお蔭であり、そして彼らの
先祖の存在のお蔭でもある。また、外出し無事に帰宅できるのは、日常生活に様々なルールと暗
黙の了解や常識が存在し共有されているお蔭である。このように尐し内省するだけでも、当たり
前に生活を送れることの前提として、無数の関係性が日常の中にお蔭様的に布置していることが
わかる。これは我々が無数の関係性の網の目の世界で存在していることを表している。
それら無数の関係性には見えるものもあれば、見えないものもあり、気づきやすいものもあれ
ば、気づきにくいものもある。つまり、それら全ての関係性を我々は自覚しているわけではない。
その状況下では、当たり前の関係性は忘却し、自力で生きていると錯覚する時さえある。実際、
多くの関係性は当たり前の名の下に忘却される傾向にある。この現象は、習慣化された日常にお
いて選択的に物事を意識しコミュニケーション活動を行う人間にとっては自然なことである。し
かし、その当たり前の忘却と選択的コミュニケーションは、選択されなかったコミュニケーショ
ンをコミュニケーション参加者の意識圏外の蔭の領域に移行し、とどまらせる。その結果、我々
とその蔭の領域とのつながりの感覚は鈍化する。
蔭の領域とのつながりの感覚が薄れる一方、蔭として周縁化された関係性は、比喩的に言えば、
「お蔭様」と呼べる関係として我々のコミュニケーション活動に影響しつづける。他者や他文化
に対する無関心、身体感覚の鈍化現象などはこの例といえる。つまり、
「お蔭様」を鍵概念にして
コミュニケーションを検証していくとは、選択的コミュニケーションにより周縁化され自覚圏外
に移行する可能性がある様々な関係性を積極的に開示し再発見し、複雑で豊かな射程を持つコミ
ュニケーションの全体像に迫っていく試みといえる。さらに、持続可能性を模索する現代社会に
おける環境資源のリサイクルと同様、周縁化されたコミュニケーションをリサイクル資源として
みなし、再発見し、コミュニケーション研究に再統合しようとする試みは、今後の包括的なコミ
ュニケーション研究に対し新たな視点と知見をもたらすと考えられる。
本論では、まず、現代のコミュニケーション研究の多くに共通する暗黙の前提を考え、それに
よりコミュニケーション研究における中心的テーマとの呈示とそれに付随する支配的認知構造を
浮上させる。そのことによりコミュニケーション研究において周縁化されてきたテーマと領域の
浮上、その周縁化の理由に迫っていく。次に、本論の鍵概念である「お蔭様」という言葉の意味
を特定し、それを鍵概念としたときに浮上してくるコミュニケーション研究領域の概観を述べる。
また、その概観を説明する際、関連領域の生態心理学のアフォーダンス理論とプロセス指向心理
学の二次プロセスの概念を適宜呈示し、それらがお蔭様を鍵概念としたコミュニケーション研究
の特定における有効性とその周縁化領域で生起するコミュニケーションプロセスへの知見を説明
する。生態心理学は、従来のコミュニケーション研究で軽視されがちな生態的自己観に基づいた
形態の異なるコミュニケーションプロセスの可能性を提示している。そしてその中心的理論であ
るアフォーダンス理論は、生態的存在としての人間と環境の関係性の理解に知見をもたらすため
本論における援用が妥当と判断した。同様に、プロセス指向心理学は、プロセスの流動的関係的
性質の全体像を理解することに特化して発展しているため、周縁化されたコミュニケーションプ
ロセスを表す二次的コミュニケーションプロセスの理解に多大な知見があると考えられる。その
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ため、本論での援用が妥当と判断した。最後に、お蔭様を鍵概念としたとき浮上してくるコミュ
ニケーション研究の課題と展望について述べる。
1.現代のコミュニケーション研究の多くに共通する暗黙の前提 2)
はじめに明言しておくべきことは、現代のコミュニケーション研究の多くに共通する暗黙の前
提を導き出していくにあたって、コミュニケーション研究の全てを網羅した上で以下の前提を「還
元」しているのでない。そして、以下の前提以外にも様々な前提と傾向性があることは言うまで
もない。そのことをまず確認し論考を進める。まず、暗黙の前提を浮上させる理由は、コミュニ
ケーション研究における共通の中心テーマを際立たせ、それにより不可避的に周縁化された「蔭」
の領域を浮上させることが可能になる点にある。また、暗黙の了解には、通常、その共同体で共
有される支配的認知形式が隠されており、その認知構造に共同体の構成員は一定の影響を無意識
的に受けていると考えられる。つまり、暗黙の了解の浮上の意識的作業には、コミュニケーショ
ン研究に携わってきた研究者として筆者自身が経験してきたコミュニケーション研究の無自覚な
傾向を自己認識する意味がある。その上でコミュニケーション研究に自覚的にかつ批判的に再接
近することが可能になるのである。そして、最終的に今後のコミュニケーション研究の課題と方
向性に対する知見につながると予想される。
まず、コミュニケーション研究が生起する地平と現代のコミュニケーション研究の置かれてい
る地平の両方を考える必要がある。
「コミュニケーション 3)」という概念は、ある現象を表象する
ものとして認識され、意味ある一つの学問領域として認知され存在している。全てのコミュニケ
ーション(と認識されている)現象もコミュニケーション研究のテキストも、あるコンテクスト
の中で育まれ顕現する
4)。従って、コンテクストの力がコミュニケーションをコミュニケーショ
ンとして認識させ、同時に、コミュニケーション研究を生起させる大きな不可視の因子として働
いていることになる。ここでは、コミュニケーション(として認識されている)現象がそれとし
て生起すると暗黙に認知されているコンテクストの開示を第一に試みる。そして次にコミュニケ
ーション研究が顕現してきた歴史的コンテクストの力の性質を考えていく。その上で、
「コミュニ
ケーション」と呼ばれる現象の性質に関する暗黙の了解を探っていく。それらの作業を通し、
「コ
ミュニケーション研究」として分類される多くの研究に共通する暗黙の前提の浮上が予想される。
1.1.「コミュニケーション」5)現象が生起されるとされる暗黙の了解としてのコンテクスト:
人間社会
まず、コミュニケーション研究の多くは、暗黙のうちにコミュニケーション現象が起こるコン
テクストを人間の世界に重きを置いて研究している。これは、様々な形で「コミュニケーション」
として認識されている現象の多くが、人間の間で生起する何かとして暗黙のうちに認識されてい
ることを示す。つまり「コミュニケーション」の多くは、人間間で生起するという支配的認知構造
がそこに存在していると解釈できる。従って、コミュニケーション研究の多くは、人間社会にお
いて「コミュニケーション」として認識されている何かについての様々な問題や解決法や、コミ
ュニケーションプロセス(人間の間で生起する「コミュニケーション」と呼ばれる何かのプロセ
ス)の解明が中心的主題として浮上する傾向がある。また、後に述べる社会科学の一つとしての
コミュニケーション学の発展を目指すとき、そのコンテクストは自然に人間社会にまず絞られ、
人間社会における「コミュニケーション」として認識される何かの科学的解明に向かっていくの
である。その方向性は、社会科学の一つとして認知されうる上でも重要だった
3
6)と考えられる。
そのため、コミュニケーション研究は人間社会内における様々なコミュニケーション現象とその
問題の解明に焦点がおかれる。それにより、人間社会の合意現実(間主観的世界)以外のコンテ
クストは二義的研究に周縁化される。そして、人間社会の合意現実における人間の間のコミュニ
ケーション活動は、当たり前だが、自己と他者が、物理的にも心理的にも異質性があり距離があ
ることを暗黙の前提としている。これは、後に述べる、個の自立と自律性を重要視する個人主義
という価値観とも関係している。
1.2.コミュニケーション研究における歴史的コンテクストとそこに内在する力
全ての学問領域は、その領域として形成されていく際、何らかの形で様々な必要性からある領
域として棲み分けがされ、それとして認知され立ち上がっていく。そこにはその領域が成立する
意義と解決すべき問題意識が存在したと思われる。社会学であれば、社会学が存在する意義、社
会における様々な問題意識、そして社会学によって呈示されうる指針(解決策)の必要性が認知
されているが故に、学問領域としての社会学が成立できる(現象化できる)のである。これは、
学としてのコミュニケーションの成立にも同様なことが言える。コミュニケーション研究は、心
理学、社会学、社会心理学、ジャーナリズム、教育学、文化人類学など様々な周辺領域で研究さ
れてきたが、一つの学問分野として成立したのは比較的最近である。Rogers(1994)は、学問領
域としてのコミュニケーション研究の成立が、戦後 7)の北米であることを指摘している。これは、
現代日本におけるコミュニケーション研究者の多くが北米でコミュニケーション研究の教育を受
けていることとも関連している。その解釈の妥当性は別として、コミュニケーション研究が一つ
の学問領域として形成、発展してきたのは、戦後における北米という歴史的文化的コンテクスト
が影響してきたことは明白であろう。では次に戦後という時代のコンテクストが有した力につい
て考察する。
1.2.1.グローバル化維持のためのコミュニケーション研究
「コミュニケーション」は、戦中においても情報戦略の基盤になっていたのは想像に難くない
が、戦後という時代は、植民地時代における武力による権力拡大から、コミュニケーション(通
信・伝達)技術の発展による権力拡大へ移行したと考えられる。武力による植民地化の時代後の
平和と独立という名の下に、優越した権力を有すインターネットをはじめとする様々なコミュニ
ケーション(情報伝達)技術は、グローバル現象
8)を引き起こし世界中に利便主義的かつ効率主
義的コミュニケーション観を浸透させつつある。コミュニケーション研究もそれに連動し、技術
や道具としてのコミュニケーションの効率化や利便性の促進を暗黙に求める傾向にある(池田、
2006;板場、2000;吉武、2005)。グローバル化の現代においては、それを象徴する時代精神と
そこに隠される権力 9)がコミュニケーション研究内容、研究方法、理論
10)などにも不可視の力を
行使している。それは裏を返せば、現代におけるコミュニケーション研究がグローバル化を推進
している力の一部として機能している可能性があることも視野に入れておく必要がある。
1.2.2.個人主義、民主主義の権力維持と拡大のためのコミュニケーション研究
北米という特定の文化圏というコンテクストの中で一つの学問領域として形成発展してきた可
能性が高いコミュニケーション学は、北米文化の主要価値観であるとされている個人主義と民主
主義の影響も強く受けている。個人主義とは、もともと分割できない個人の主体性と尊厳を認め
た言葉である(寺澤、1997)。確かに利己主義とは意味合いが異なるが、自己と他者を明確に区
別しているという前提がある。そのため、個人主義が台頭するコンテクストにおいては、意思の
疎通としてのコミュニケーション 11)の意義がより大きくなってくる。個人主義を維持するために
4
は、意思の疎通は自然に成立するものではなく、意識的努力を要する問題と認識されていた可能
性が考えられる。また、民主主義におけるコミュニケーション研究は、その政治体制にそぐう体
裁も要求される。そのため、「コミュニケーション」の諸問題も個人の基本的人権の尊重を考慮に
入れた多数決原理などの民主主義的手続きに基づき処理されていくことになる。そこには、
「コミ
ュニケーション」が民主主義の権力とイデオロギーを行使する道具として意味付与され実体的に
認識されてきた痕跡を垣間見ることができる。
1.2.3.社会科学としての地位向上のためのコミュニケーション研究
「コミュニケーション」は新しい学問領域であり、Rogers(1994)によると、コミュニケーシ
ョン学は 1900 年以降認知された数尐ない社会科学の研究分野であると述べている。この社会的
背景は、コミュニケーション研究に科学的であるべきであるという暗黙の力を行使し続けている。
このことは、コミュニケーション研究の内容が、科学的処理が可能であることを要求している。
これは、科学的であることが五感で確認できる領域を逸脱しないという暗黙の了解とも重なって
いる。このことにより、科学的データ分析が困難な領域はコミュニケーション研究の対象から疎
外される傾向にある。このことにより、例えばコミュニケーションにおける感情は、理性的でな
い上、主観的過ぎるという理由で第一義的には扱われない。また、言語化が困難で不明瞭な身体
感覚なども同様の理由でコミュニケーション研究の中心になることはない。同様に、祈りや直感
といった要素も社会科学として処理可能な領域を逸脱するという理由で周縁化される 12)。
1.3.コミュニケーション現象の性質に関する暗黙の前提:
「コミュニケーション」の主体性
「コミュニケーション」を素朴に想像する際によく浮かんでくることの一つとして、人間間の
意思の疎通や意思の伝達、対話といった意味がある。この素朴な認識行動の中には、それを人間
の行為というだけでなく、意識的で主体的な性質を持つ人間の活動という暗黙の認識が存在して
いる。つまり、自己という主体が中心となって行う活動がコミュニケーション研究の前提になり
やすい傾向が存在している。確かに岡部(1993)が述べているように、コミュニケーション研究
においては、コミュニケーションの意図性だけでなく非意図性 13)も認知されている。しかし、実
際のコミュニケーション研究の多くは、方法論の違いはあれ、データの性質が、研究参加者の気
づいていること、意識していることが中心になる傾向がある。データは、コミュニケーションの
主体としての研究参加者が有すると暗黙に考えられている。これは、社会科学によって確立され
てきた科学的方法論や分析方法が適用されやすいことが一因であろう。裏を返せば、実際の研究
においては、このような当事者の自覚症状が無い(または薄い)コミュニケーション活動は科学
的分析が困難であり、通常の方法論の適用が困難であるという暗黙の理由で周縁化されやすいの
が実情である。
しかし動的相互作用プロセスとしてのコミュニケーションは、コミュニケーション研究ですで
に認知されている通り、主体的な性質のものだけではない。私たちは、自分ではない他人の意思
を肩代わりする場合もあれば、自分の言いたいことを他の人に代弁してもらう時もある。また、
自分の感情が自分の意思とは関係なく相手に伝わる場合もある。自分が気づかずに感情がまるで
主体的に動き、相手にまるで伝染していくといった様相をとる場合もある。また、動きたいのに
身体が固まってしまうという自分の意志に反し身体が動かないケースさえある。これらの例は、
コミュニケーションには、主体的な性質を持つもの以外に、非主体的な性質のコミュニケーショ
ン、つまり自己一致せず無自覚で自然発生的なコミュニケーションが存在していることを示して
いる。まず留意すべき事は、コミュニケーションは主体的であり自覚症状があるという前提は、
5
自覚症状があまりなく、そのため自己一致せず非主体的に生起するコミュニケーションプロセス
を周縁化する傾向がある点にある。そして、研究範囲を科学的分析の安易さで無自覚に設定する
ことは、自覚症状がなく生起するコミュニケーションを、偶然や例外などの科学的処理が不可能
で無意味なものとして断じ、暗黙のうちに疎外することにつながり、コミュニケーションプロセ
スの全体像の理解という点では不十分であることも留意すべきである。
以上、コミュニケーション研究の多くに見られる暗黙の前提を述べてきたが、まとめると以下
の五点がある。
1.コミュニケーション研究の多くは、人間の文化世界内におけるコミュニケーション活動を前
提として発展してきた可能性がある。
2.コミュニケーション研究の多くは、現代の日常生活における人間間の異質性を前提として発
展してきた可能性がある。
3.現代コミュニケーション研究の多くは、現代の時代精神(特にグローバル化)の力を暗黙の
前提として反映させている可能性が強い。
4.コミュニケーション研究の多くは、社会科学の立場から科学的処理が可能である領域を前提
として研究している可能性が強い。
5.コミュニケーション研究の多くは、主体的である程度自覚症状のある性質のコミュニケーシ
ョン現象 14)を暗黙の前提として研究している可能性が強い。
以上の前提とそれに連動する中心テーマは、それが暗黙であるがゆえに、ある種の認知的支配
構造が成立しており、その前提に当てはまらないコミュニケーション領域(優勢でない認知領域)
を蔭の領域に周縁化してきた可能性が高い。言いかえれば、ある一定の支配的認知構造を基盤と
して形成・発展してきたと解釈できる。しかし、それら周縁化される傾向にあったコミュニケー
ション領域(やテーマ)も、包括的視野に立てば、中心領域が依拠している場であり、そこに密
接な関係性が存在している点は留意が必要である。その意味でも中心領域の蔭に再度光を当て、
見過ごされてきた領域を見定め中心領域との関係性を模索する事は、コミュニケーション研究の
全体像を再検討することで今後のコミュニケーション研究の方向性に新たな知見を与えると考え
られる。この試みは、暗黙のうちに不要視していた周縁化領域を潜在的利用可能な資源と位置づ
けるため、コミュニケーション研究のリサイクル運動と象徴的に呼ぶこともできる。そして、周
縁化されてきたコミュニケーション領域の特定作業の際、中心領域が依拠する場として支え今後
のコミュニケーション研究の活性化につながる隠れた未知の資源という意味をこめ、
「お蔭様」と
いう言葉を本論では意図的に使用する。そして論考進行上の鍵概念として適用する。そのため次
項にその概念定義を行い、鍵概念として使用する理由を述べていく。
2.鍵概念としてのとしてのお蔭様の定義
本項では、鍵概念としてのお蔭様の概念定義を行う。より包括的な概念定義を行うため、お蔭
様の日常的意味と辞書的意味に加え、歴史的意味を考慮に入れながら論考を進め、最後に鍵概念
として適用する理由を述べる。
2.1.お蔭様の日常的定義
お蔭様の日常生活における意味は、感謝の意を内包した一種の挨拶として暗黙裡に定義されて
いる。お蔭様で 20 周年を迎えることができましたとか、お蔭様で完治することができましたとか、
ある種の他力に対する感謝と自力に対する謙譲の意を表す挨拶として使われる事が多い。また、
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「お蔭」は通常、お蔭で助かったとか誰か特定の人に対し感謝の意で使用される場合もあれば、
おかげで大変だったというように、他人からの受けた災難といった意味で日常使われるときもあ
る。このように、日常における「お蔭様」という言葉は、慣例表現の一つとして無意識に使用され
ている。しかし無意識的に使う一方、
「お蔭様」を口にするとき、他力や偶然などの自力以外の力
の認知が根底にある点に留意が必要である。
2.2.お蔭様の辞書的定義
『日本国語大辞典』
(第二版)
(小学館国語辞典編集部、2006)によると、
「お蔭様」は、
「1.
人の行為や親切などに対して感謝の気持ちを表す挨拶の言葉、2. 人から受けた力添えや恵みを
その人を敬って言う言葉(p. 1012)」と定義されている。また、「お蔭」は、漢字では御蔭、御陰、
御庇のどれかの形で表記され、意味は、
「1.神仏の助け、加護、2.人から受けた力添えや恵み、
また利益。またある物事や行為が原因となって生じた結果、3.他から受けるよくない影響、4.
御陰祭り(p. 1011)」と同辞典では定義されている。また、
『新明解国語辞典』
(柴田その他、2004)
では、お蔭を「御陰」とし、
「1.神仏や善意のある人から受けた恩恵(によってもたらされた幸
運)
、2.偶然の出来事(本来、それを意図して行ったものではないこと)によってもたらされた
幸運、3.
((~で)の形で接続詞的に)前件の有形・無形の効果として、後件の好ましい(幸運
な)状態がもたらされたと捉える事を表す(p. 175)」と定義している。これらから共通するお蔭
様は、自力ではなく、他力の存在と、その恩恵や恵みに対し感謝と敬意を示す言葉と定義される。
ただ、例外的に他人からの負の影響という意味も存在している。また、坂倉(2011)は語彙的見
解から、日本語においては、神はかげ(蔭、陰、影)などの日の当たらないところを意味し、隠され
たところを元来意味し、神と「かげ」の語彙的関連性を指摘している。日常的定義同様、辞書的
定義でもはっきりしてくることは、お蔭様が自分以外の他者や神の存在とそれらとの関係性の認
知に基づく概念であり、脱自的志向性をその特徴とする点である。
2.3.お蔭様の歴史的定義
「お蔭」は神道の世界では「御蔭」という字があてがわれる。この字は、日本においては、神
道における大祓詞の中の一節として、「天の御蔭、日の御蔭」
(そうよう、2001、p. 73)という形
で神々を称する言葉として現れている。そしてこの大祓詞の中では、
「おかげ」とは読まず、
「み
かげ」と読まれていた。また、御蔭参り、御蔭年、という風習があり、伊勢神宮の御遷宮のあっ
た翌年を御蔭年として、お蔭(恩恵)をいただける有り難い年として定め、そのお蔭年に、伊勢
神宮にお蔭をいただくために参ることを「お蔭参り」とし、未だにその風習は残っている。つま
り、歴史的に見ると、「お蔭」や「お蔭様」は、人知を超えた力、すなわち神からの恵みを表す言
葉であった。そこから、明白な認識の有無にかかわらず、自力以外の他人や偶然などからの恵み
に対し、感謝と敬意を込め、「お蔭で」とか「お蔭様で」という形で言葉に表し始めたと考えられ
る。すなわち、お蔭様とは、その言葉を使用してきた日本においては、まずは、神々、特に祖霊
を表しており、第二義的に、自分以外の他の人々や自分の周りで起こる様々な出来事から受ける
有り難い恵みを積極的に認知する概念として形成されてきたと考えられる。また、お蔭様という
概念は、仏教における縁起の世界観にも通じるところがあり、関係的、縁起的な世界認識に基づ
き、自己中心的認識を是正する機能を特徴として有することは留意が必要である。お蔭様はまた、
自己と他者を明瞭に分離して考えない日本人の伝統的な思考パターンを反映した慣用表現と捉え
ることもできる。どちらにしても、お蔭様が、
「御庇様」とも書かれることから、お蔭様は、見え
ない、または、気づかれない存在として常に存在し、生命を庇護し支えている存在として日本人
7
に暗黙的に認識され概念化してきたと考えられる。また、このお蔭様とは対照的にお天道様は、
太陽の神として概念化されており、小学館国語辞典編集部(2006)は、
「天地を支配する神」(p.
831)の概念として定義している。日本では、お天道様は、お日様として生命を育む表の神に対し、
お蔭様は、生命の背景で蔭の神として生命を育んでいる存在として概念化してきたと解釈できる。
日本人は、お天道様(お日様)とお蔭様という二つの言葉を使いつづけることで、生命を生かす
存在を認知し、自然の一部として自己を認識する生態的自己観を無意識のうちに保持しつづけて
いる可能性がある 15)。以上のように歴史的に「お蔭様」を考察すると、日本人の宗教感が浮かび上
がり、神の認識と神との関係性を反映した言葉として歴史的に概念形成されてきたと解釈できる。
日本人の歴史的宗教観に関する文献調査により、「お蔭様」の歴史的意味の更なる検証は必要だが、
ここから留意すべき事は、歴史的に概念化されてきた「お蔭様」が脱自的全体性の感覚を反映し
ており、脱人間中心主義的志向性へのきっかけとして機能している点にある。
2.4.お蔭様の概念的定義のまとめとコミュニケーション領域への転用
以上のお蔭様の定義を転用し、お蔭様を鍵概念としたときに浮上してくるコミュニケーション
現象について考察する。お蔭様とは、字義的にいえば、通常は他力の恩恵に対する感謝の意を表
す言葉であり、普通は、事後的に使用される。これは他力という脱自的性質の力の認識の反映で
ある。また、日常的には、お蔭様という概念は、人間の日常生活の内側で、個々人の背後で働い
ている有形・無形な力を象徴しており、その対象として、何か具体的な恩恵をもたらしてくれた
具体的な他者、また一般的な意味での他者の力、そして、蔭で支えてくれている不可視の力の総
称を表す概念である。このことからも、お蔭様は他者や個々人の背後で働く力といった自分中心
主義を超える脱自的志向性を持つ概念といえる。お蔭様はまた、日本においては、お日様という
概念との対照から、太陽が照らし育む日常生活を背後で支える不可視の蔭の世界の尊称(坂倉、
1982)を表す概念として歴史的に概念化されてきた経緯を持つ。以上のことからお蔭様という概
念の大きな特徴は、その脱中心的志向性にあるといえよう。
人間の意識は当然のことながら中心化と周縁化のプロセスを習慣的に繰り返す。これはコミュ
ニケーションのプロセスでも同様である。自己中心主義も自文化中心主義もコミュニケーション
の選択性により自己や自文化を中心化することで起こる現象である。重要な事は、人間は日常生
活において何かを選択的に中心化して理解し、それ以外を背後に追いやりながら生活を送ってい
る点にある。それが人間の意識の志向性のメカニズムであり、選択的コミュニケーションもこの
意識の志向性と連動して自動的に起こるため、自己中心主義、自文化中心主義、人間中心主義な
どは、その弊害に気づきながら容易に変更できないのである。そのため本論では、脱中心的志向
性をその概念上の特徴とするお蔭様を鍵概念にするのである。すなわち「お蔭様」という概念の
持つ脱中心的志向性により、周縁化された(つまり脱中心化した)領域に意識を向けることが可
能になるのである。それゆえ鍵概念としてお蔭様を本論では使用する。
そこで「お蔭様」という言葉を鍵概念として周縁化されたコミュニケーション研究領域を考え
ると、大きく分けて二つのコミュニケーション研究領域が浮上してくる。一つは、人間の日常世
界(または通常意識)に周縁化された「お蔭様の世界」のコミュニケーション研究である。もう
一つは、日常世界の内側で優先的コミュニケーション研究に周縁化され蔭の領域で生起している
コミュニケーション研究のことを指す。以下に、
「お蔭様」を転用したときに浮上するコミュニケ
ーション研究領域を「お蔭様の世界」として日常世界と重層的に存在している領域と、日常世界
の内側で周縁化されているコミュニケーション研究領域の順で論考を進める。
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3.「お蔭様」を鍵概念とするとき浮上してくるコミュニケーション研究領域
以下に「お蔭様」を鍵概念とするとき浮上するコミュニケーション研究の領域を提示していく。
3.1.人間の日常生活(合意現実)に周縁化された「お蔭様の世界」の「コミュニケーション」
人間の日常生活に周縁化された「お陰様の世界」のコミュニケーションとは、象徴的な意味で
の「お日様の照らす世界」としての通常の日常生活におけるコミュニケーションに対し、日常生
活(人間の文化生活)を背後で支え、重層的に共に存在している蔭の世界でのコミュニケーショ
ンといえる。ここでいう「お蔭様の世界」におけるコミュニケーションには尐なくとも三種類が
考えられる。
A.第一の「お蔭様の世界」は、人間の文化世界(日常世界)の元来の基盤である自然の世界、つ
まり、生態世界であろう。この自然の世界における「コミュニケーション」を自然なコミュニケ
ーション(または生態的コミュニケーション)とここでは呼んでおく。自然・生態世界領域における
コミュニケーションは、人間を生態系の一部として位置づける。しかし、カッシーラー(1997)
が指摘しているように、人間はシンボリック(象徴的)な存在であり、人間が構築した文化世界
そのものがシンボル世界である。そして、コミュニケーションは、シンボル(象徴)行為であり、
それがコミュニケーション定義上の有力な前提になっている(林、1988; 末田、福田、2003;
Gudykunst & Kim, 1992)。そのため、シンボル領域の外の生態世界領域はコミュニケーション
研究から周縁化されやすい傾向にある。
B.第二の「お蔭様の世界」は、ミンデル(2001、2006)によると、日常生活の基盤である合
意現実に対し意識を深めていくと、自・他の区分ができる前の、日常世界より微細で、通常意識
では認知しにくい世界が開示されていくという。この微細な夢のように通常意識では自覚が難し
い現実をミンデルはセンシェントな現実と呼んでいる。このセンシェントな世界における「コミ
ュニケーション」をここでは微細コミュニケーション(センシェント・コミュニケーション)
16)
と呼んでおく。センシェント領域は、コミュニケーションが社会、すなわち、間主観的な合意形
成により構築された世界内の現象であるという暗黙の領域の外部にあるため周縁化されてきたと
考えられる。そしてその不明瞭性と主観的性質は、社会科学としてのコミュニケーション学の対
象領域としてそぐわなかったであろう。ただ我々は日常、場の雰囲気や突然の直感や偶然の一致
などに適宜アクセスしコミュニケーション活動を送っているのも程度の差はあれ事実であろう。
包括的コミュニケーションプロセスの全体像を知るためには、今後このようなセンシェント・コ
ミュニケーション領域の現象にも目を向ける事は無駄ではない。
C.第三は、いわゆる超自然界としてのお蔭様の世界とのコミュニケーションを指す。コミュ
ニケーション研究における前提で述べたように、コミュニケーション研究は社会科学として人間
世界にそのコンテクストを定めてきた。そのため、科学的世界観の守備範囲を逸脱する超自然的
または宗教的世界観は「お蔭様」という形で周縁化されてきた。しかしながら歴史的に言っても
人間は自然霊、神霊、祖霊に対し畏敬の念を持ち、それらの存在とのコミュニケーションは様々
な儀式や儀礼、祈りとして通時的、通文化的に見ることができる 17)。その上、岡部(1993)が指
摘しているように原義としての「コミュニケーション」は、神霊とのコミュニオン(交流)の側
面の意味合いが強い。そのことからも今後のコミュニケーション研究領域としての価値は十分に
ある。そのコミュニケーション領域のことをここでは、スピリチュアル・コミュニケーション 18)
と呼んでおく。では以下にその三つのお蔭様の世界 19)のコミュニケーションについて論じていく。
9
3.1.1.生態世界におけるコミュニケーション
我々人間は人間の世界に住んでいると思っている。しかし、人間の作る文化世界は、自然生態
世界のお蔭で持続可能になっていることは明白である。ここでは、文化世界の背景で常に人間を
支えている自然の世界における自然とのコミュニケーションプロセスと生態学的視野に立ったコ
ミュニケーション研究の可能性をアフォーダンス理論に言及しながら探求していく。
まず、自然の性質だが、自然は性質的にあるがままである。自然界と人間界の最大の違いは、
自然界では、生命活動があるがままに、いわゆる自然の摂理に従って人間の価値判断が関与する
ことなく進行している。それに比べ人間界、特に現代の人間界では、理性、自我、思考といった
人間独自の性質を駆使し、あるがままにただ従うのではなく、人間のために自然や環境を価値判
断し、予測、操作をしようとする。その結果、生態系の一部としての存在から、自然から乖離し
た存在として人間中心の文化世界を創造し始めたのである。そのため、コミュニケーション活動
も人間のためという名目で様々な予測、判断、コントロールを行い、結果に執着する。それに対
し、自然界の「コミュニケーション」は、そういった思惑や結果指向性が存在しておらず、主客
の分離が起こらない形で自発的にただ生成、維持、破壊のプロセスに従いただ流れ循環している。
3.1.1.1.自然界のコミュニケーションプロセス
自然界におけるコミュニケーションは、生成流転を繰り返す。花が咲き、散り、種が落ち、再
び芽が出て花が咲く、といったように創造、維持、破壊のプロセスを繰り返していく。それはは
じめも終わりもない永遠の循環のプロセスである。それは今ここに根ざした自発的で動的なプロ
セスだといえる。そこには自然の恵みもあれば、自然の蹂躙もある。生命は自然の中でその流れ
にあるがままに追従するだけである。その自然界に人間が参入していき自然と「コミュニケーシ
ョン」をする意味とプロセスを次に考える。
自然の中では、言語も必要とせず、そのため、コード化、脱コード化というコミュニケーショ
ンの文化的思考プロセスから解放され、素になり、ただ自然と触れ合い自然に交流するだけであ
る。しかし、スワン(1995)は、自然を自己の真の教師とするには、
「自然との共感関係」
(p. 53)
に入る必要があり、そのためには通常の自己を明け渡すことを学ぶ必要がある、と述べている。
これは、当たり前のことだが、通常の自我意識を持ち込んでも、自然と交流し自然と一体化する
事ができないことを暗示している。人間は文化的存在であると同時に、自然の生態系の一部であ
る。いわば、自然的存在でもある。自然の中で自然と「コミュニケーション」(交流)するとは、
自己内に本源的に存在している内なる自然としての自己を呼び起こすプロセスとも解釈できる。
そのことを暗示するようにスワン(1995)は、自己を明け渡すとは、内なる自己と和解するプロ
セスでもあると論じている。このことはコミュニケーション研究における自己内コミュニケーシ
ョンの理解に新たな視点をもたらす可能性がある。
通常、人間は、コミュニケーションの習慣性により、自分の経験を基に他人を理解しようとす
るが、過剰な自己中心性が他者理解の妨げになるのは想像に難くない。それに対し、自然との「コ
ミュニケーション」における自己を明け渡すプロセスを人間理解に生かす時、相手との共感関係
に参入することが可能であろう。例えば、腹を割って話すとか、裸の付き合い、といった言葉が
あるが、これらの言葉が示すコミュニケーション行為は、腹を割り、または裸になることで、お
互いが自我のよろいをはずし、自然な素の状態に立ち戻ることである種の一体感が築かれている
ことを示す。私たちはそのように自然なコミュニケーションに無意識にアクセスし、自然という
状況がもたらす恵みを受けとることもある。ただ、そのような自然なコミュニケーションの恵み
10
は、普通に起こるものではなく、お酒やお風呂などの他の要因の「お蔭」で初めて享受できる場
合が多い。逆にいえば通常状態でのコミュニケーションでは、自己をさらし相手に委ねることは
自然にできることではない。
前述したように、自然とのコミュニケーションや自然なコミュニケーションには、通常のコミ
ュニケーションプロセスで容易に経験できない安心感や癒しなどの様々な恵みが存在している。
これは「普通のコミュニケーション」と「自然なコミュニケーション」のコミュニケーションプ
ロセスの違いに一因がある。特に自然なコミュニケーションプロセスは、普通のコミュニケーシ
ョン特有の象徴行為の文化的ルールに縛られず、自発的かつ自由に展開する可能性がある。その
意味で、自然とのコミュニケーションプロセスの解明とそれに連動する自然なコミュニケーショ
ンプロセスの理解は、通常のコミュニケーションプロセスとは異なるコミュニケーションモデル
の提示につながる可能性を有しており、今後、コミュニケーション研究に知見をもたらすと考え
られる。
3.1.1.2.アフォーダンス理論とコミュニケーション研究における意義
ギブソン(1985)によると、人間を含む動物は、生態的存在として、環境の中に無限に存在す
る行動の可能性(アフォーダンス)を探索し、生命活動を維持しているという。自然界ではそう
いった動的で自発的な情報探索が常時行われており、それぞれの行動の可能性を、実践とそのフ
ィードバックを通して最適な行動が柔軟にかつ創造的に取られているとギブソンは述べている。
極論だが、人が孤立して無人島生活を余儀なくされた場合、衣食住を確保するため、その環境が
有するアフォーダンス、つまり、様々な行動の可能性にアクセスしていくことで生命維持が可能
になる。火を起こし、魚をとる行為を達成するために、その環境が付与している(つまりアフォ
ードしている)様々な行動の可能性(つまりアフォーダンス)にアクセスし、試行錯誤を繰り返
す必要がある。このアフォーダンス理論は、このように生態学的視点に立脚したアプローチであ
る。この生態心理学的アプローチで考えると、人間を含む動物は、環境がアフォードする様々な
行動の可能性(アフォーダンス)にアクセスして生きていることになる。生態心理学者の佐々木
(1994)は環境と人間との関係性を以下のように述べている。
すべての道具は、何か特定のことをアフォーダンスするようにつくられている。アフォー
ダンスをピックアップすることは、ほとんど自覚なしに行われる。したがって、環境の中
にあるものが無限のアフォーダンスを内包していることに普通は気づかない。しかし、環
境は潜在的な可能性の「海」であり、わたしたちはそこに価値を発見しつづけている。
(p.63)
以上の生態学的アプローチは、視点の転換を要求する。普段我々は無自覚のうちに人間中心主
義や自己中心主義に陥り、生態的環境のお蔭で通常生活が可能になっているとは思わない。例え
ば、大地を歩くときは、我々が大地の上を歩くのであって、大地のその上の存在を「支える」と
いうアフォーダンスにアクセスしているとは思わない。しかしこの生態学的視点は、我々を環境
と分離した個人ではなく、環境と相補的に存在する生態学的自己観を呈示する。環境と切り離せ
ず存在している生態学的自己観の確立は、持続可能な環境整備には欠かせないプロセスである。
このことはまた、人間が文化的存在であると同時に生態系の一部としての生態的存在であるとい
う根源的事実に立ち返ることでもある。
既存のコミュニケーション研究は、文化的存在としての人間を前提としており、生態的存在と
しての人間のコミュニケーションプロセスの解明はほぼ行われていない。その意味で、文化的存
在であり生態的存在でもある両義的存在の人間のコミュニケーションプロセス理解を深化させて
11
いくために、アフォーダンス理論は新たな知見をもたらし、コミュニケーション研究の熟成に大
きな貢献が予想される。また、生態学的アプローチでは、リード(2000)が述べているように、
環境と自己を分離しない形で知覚プロセスが生起するため、主観主義と客観主義の二元論を超え
ることになる。生態学的アプローチにおける知覚は、生態学的リアリズムというように、環境が
提供するアフォーダンスの情報を臨機応変に探索していくプロセスであり、生態学見地に立脚し
たコミュニケーション研究に知見をもたらすことは間違いないだろう。そして、「環境を知覚する
ことと自己を知覚することとの『相補性』
」
(佐々木、1994、p. 57)は、環境を知ることと自己を
知ることはきっても切り離せないことを表している。触ることは自分の皮膚の現在の状態や触っ
ている自分の手についての生の生態的情報をもたらし、同様に臭うことは自分の鼻の現在の状態
や鼻そのものに関する生の生態的情報を知ることでもある。人間の五感の特質や身体構造などの
生態的特質や、その変化と様々なコミュニケーション現象の関連性の模索はより現実的で生々し
いコミュニケーションプロセスを浮上させる可能性がある一方、人間のシンボリックな在り方と
は異なるアプローチのため周縁化される傾向にある。
しかし、人間が生態系の一部として生態的に存在している以上、その生態学的見地は、コミュ
ニケーション研究に対し人間も含めた環境の直接的な関係性の理解に大きく寄与する可能性があ
る。そして、生態学的自己観に基づいた主客二分論を超えたコミュニケーションモデルの提示の
可能性をその射程に内包している点でも、より重要な領域として認知されていくであろう。様々
な持続可能性が問われる現代において。生態的コミュニケーション領域 20)の注目は高まると予測
される。
3.1.2.センシェントな世界におけるコミュニケーション
日常生活の五感で確認でき、お互いが合意できる現実を合意現実と本論では呼ぶことにする。
コミュニケーション研究においても、この日常生活の様々なコミュニケーション活動をテーマと
している。しかし、この合意された日常空間と重層的に存在し、普通の感覚では無視してしまう
ような微細な空間 21)が存在するとミンデル(2001)は述べている。これは、場の雰囲気 22)などを
考えるとわかりやすいかもしれない。そのように、ほのかに漂っている雰囲気は非常にあいまい
で、何となくしか感知できない。そのような非常に微細な空気の知覚には、直観力を含むより微
細な感覚(センシェンス)と共に開示されていくという。そのような通常の五感で感知困難だが、合
意できる世界と共に常に存在し、場に漂っている非常にあいまいな何かを中心とした不可視の世
界をセンシェントな世界と呼んでいる。ミンデル(2001、2006)は、日常空間と重層的に存在し、
センシェンス(鋭敏で微細な感覚)と共に開示されてくる世界が、そこに存在するコミュニケー
ション参加者に知らずに影響力を行使していると指摘している。言いかえると、そういった通常
感覚では感知できない場に何となく漂っている何かは、通常意識での知覚が不可能であるにもか
かわらず、人間は皆何となくどこかで感じており、コミュニケーション活動の方向性や質に影響
力を持つ。我々は、よく「重苦しい空気」とか、「気まずい雰囲気」とか、「いやなムード」とい
った言葉を使い、その場を何かを打開しようとしたり、その場を治めようとしたり、その場から
逃げようしたり、場の雰囲気に助けられたりする。これは、その場の何かがその場の成員に憑依
し、自分の媒体としてコミュニケーション活動をコントロールしているとも解釈できる。大切な
ことは、そういった微細な場の何かは場の全ての成員に何らかの影響力を暗黙裡に行使している
可能性を排除しないことである。ミンデル(2001)がゴーストロール 23)と呼ぶ、日常のコミュニ
ケーション活動に影響力を持つ隠された場の役割の自覚は、コミュニケーション現象の全体像の
12
解明に貢献していくと考える。
その日常空間と重層して存在するセンシェントな世界におけるコミュニケーションとはどのよ
うなものであろうか。センシェントな世界が開示することは、通常意識がある意味「変性」して
いることが条件になる。微細な雰囲気やどことなく漂っている何かを捉えるためには通常意識を
意識的に練成していく必要がある。そういった微細な世界のプロセスまで追従するため、プロセ
ス指向心理学(藤見、1999)では、プロセスと取り組んでいく(ワークする)という意味を込め
「プロセスワーク」と呼ばれている。このセンシェントなコミュニケーションは、通常意識の理性
や常識の応用による理解ができない。流れに身を任せ、自然のコミュニケーションで述べたよう
な、意識的な自我のコントロールへの欲求を弱める術を学ぶことがまず必要であろう。その上で、
流れや雰囲気に追従し一体化するために、様々な「ワーク」24)を通し身体で覚えることが重要だと
考えられる(ミンデル、1996)。どちらにしてもその領域の「コミュニケーション」は通常意識と
は異質で、変性意識状態で開示されてくるコミュニケーション領域といえる。
3.1.3.超自然界におけるコミュニケーション
我々人間は、遺伝学的にいっても、先祖が存在していたおかげで今ここに存在できている。つ
まり、祖霊はまさしく私たちにとって「お蔭様」としての存在である。日本では、この「お蔭様」
としての祖霊を敬う慣例がいくつも伝統として存続している。墓参りや先祖供養などは、通常の
人間同士とのコミュニケーションとは異なるものの、ある種の祖霊との関係性の認識のうえに成
立しており、日本においては特に重要なコミュニケーションの一形態とも言える。また、祖霊だ
けでなく、氏神、産土の神など、日本では、様々な神々を敬い、ことあるたびごとに神社に詣で
る。初詣の際には、氏神様のお札を受け、破魔矢を購入し、神々に様々な頼み事をし、おみくじ
を引き、お守りを買い身につける。このような光景は多くの日本人に見られるありふれたもので
ある。そして日本においては、いわゆる、神頼みが様々な形をとって成立し存続している。これ
らの伝統行事やしきたり、そして神頼みの現象形態を分析することで、ある種のスピリチュアル・
コミュニケーションの形態が開示されていくと考えられる。一つ言えることは、日本においては、
見えない力を感じつづける土壌が歴史的に存在している。現代の理性の時代においても、理性で
は分析不可能な何かに対し、ある種の畏敬または畏怖の念を抱きつづけ、それがある形態を持つ
スピリチュアル・コミュニケーション現象として生起している可能性がある。例えば、祈りなど
は、もともと神聖を表す「斉」を「宣る」ことであり、神の言葉を口に出すことで神とある種の
交流(コミュニケーション)を行うことであった(そうよう、2001)。このような祈りは、世界
中で実践され、人間の生活に影響を与えつづけている。従って、祈りのコミュニケーション形態
の理解を例に挙げれば、現象が理性的でなくかつ科学的分析が困難であるという理由で周縁化さ
れるのではなく、現実的に意味のあるコミュニケーション研究領域として認知される必要があろ
う。
3.2.日常生活において周縁化されたコミュニケーション:自覚圏外で生ずるコミュニケーシ
ョン 25)
お蔭様を鍵概念とした時に浮上してくるもう一つのコミュニケーション領域は、日常世界に重
層的に存在しているお蔭様の世界でのコミュニケーションではなく、お日様の世界(日常の合意
現実)の内側において、通常のコミュニケーション活動を蔭で支えている要因としてのお蔭様の
コミュニケーション活動のことをさす。
『日本国語大辞典』(小学館国語辞典編集部、2006)によ
ると、蔭とは、「1.そのもののために光や風などがさえぎられて届かない部分(草葉の蔭、戸の
13
蔭)、2.本人(他人)が見たり聞いたりしないところ」
(p. 250)、と定義されている。お日様の
世界での人間のコミュニケーション活動における主な光は、意識や意図と考えられる。意識の光
が照らすコミュニケーション活動をお日様の世界におけるお日様(意識、意図、意思)のコミュ
ニケーションと考えると、お日様の世界におけるお蔭様のコミュニケーション活動とは、お日様
の光にさえぎられる部分でお蔭様として機能しているコミュニケーション活動と考えられる。い
わゆる本人の自覚圏外で自然に発生し機能しているコミュニケーションプロセスのことをさす。
当人の自覚症状がなく自然に発生するコミュニケーションは、間違い、ただの癖、偶発的行為、
などとして比較的無意味なものとして暗黙のうちに片付けられる。しかし、このような、自覚症
状があまりなく生起する動作、感覚、言葉、ムードなどは、本当に無意味であろうか。プロセス
指向心理学では、当人の自覚症状のあるコミュニケーションプロセスを一次プロセスと呼び、そ
の対比として、自覚症状のあまり無いコミュニケーションを二次プロセスと呼んでいる。本項で
は、この二次プロセスのコミュニケーションを概観し、その上で身体感覚のコミュニケーション
を具体例として取り上げる。
3.2.1.二次プロセスのコミュニケーションの概観
プロセス指向心理学とは、我々が今、ここで経験するプロセスの多様で流動的なプロセスの全
体像をか細く浮上させることを目的として発展してきた心理学の一学派である。その目的のため、
アプローチは現象の実相に迫ることを目的とした現象学に類似している。その創設者のミンデル
(1996)によると、人間が今、ここで何かを経験している際のプロセスには大きく分けて、一次
的なものと二次的なものの二種類があるという。一次プロセスはそのプロセス経験者の自我に比
較的近いところで起こっているプロセスをさす。それゆえ、一次プロセスは比較的自覚しやすく、
そのプロセスが起こる際の自我のある側面に同一化しやすいという。例えば、教室における教員
が「教員」の役割に同一化する事はそれに当たる。それに対し、二次プロセスは、プロセス体験
者の自我意識から比較的遠いところで起こるプロセスである。従って、そのプロセスは意識しづ
らい。前の例を引くと、教室内で、教員としての言葉使いをしながら、顔は落ち込みなどの内的
感情を表すどことなく、ふさいだ表情が露呈してしまう場合もある。この場合の先生としての丁
寧な話し方が一次プロセスにあたり、どことなくふさいだ表情が二次プロセスにあたる。これは、
我々が外界で何かを経験する時は、一次プロセスが起こるのと同時に二次プロセスも平行して起
こっている事を示す。ただ、自我の近い所で起こる事に我々が同一化するとき、その同一化の枠
の外側は周縁化され着目されなくなる。その事によって、二次プロセスは自我から遠くなり、そ
のプロセスを意識化することは(自我には)困難になる。それゆえ、二次プロセスの現象は自我
と分断されることになる。ミンデル(1996)は、一次プロセスと二次プロセスを以下のように説
明している。
人は自分の意図していること、あるいは一次プロセスと自分を同一化する。二次プロセス
は、自分とはなじみが無い、遠く隔たったものとして経験される。例えば、あなたが全体
としてとてもやさしく礼儀正しい人だとしよう。そしてやさしさや慎み深さと自分自身を
同一視している。しかし、ときおりモンスターのようになる。このモンスターは自分に対
して起こるものである。したがって、このモンスターを自分とは異質であると感じる。そ
れはときおり自分の中から飛び出してくるように感じられる。モンスターであるというの
は、あなたの二次プロセスであり、やさしいということが一次プロセスなのである。
(pp.
35-36)
14
このように、二次プロセスは通常意識の自分(自我)にとっては何らかの理由で周縁化してい
るため、自分と同一化できない。前の例でいうと、教室内では教員は何とか教員らしく話し「教
員の役」に徹しようとする一方で、落ち込みの感情は自覚症状なく周りには露呈してしまうこと
がある。つまり、二次プロセスはたいて自覚症状が無くなるか、あいまいな形に終わることが多
いのである。ただ、その自覚が困難であろうと、一次プロセスも二次プロセスも同時に生起し、
様々な形で様々なチャンネルを介してシグナルを発信している。これはコミュニケーションプロ
セスにおいては顕著であることはいうまでもない。一般的にいうと、コミュニケーションの一次
プロセスは、意図的なコミュニケーションプロセスといえる。意図的に使う言語、ジェスチャー
などは自我から近いところで生起するプロセスの例である。それに対し、コミュニケーションの
二次プロセスとは、自分(自我)の意図と関係なく自覚症状のあまり無い形で自然発生的に生起
し伝わってしまうコミュニケーションプロセスで、言葉のトーンとか、何気ない動作、顔の表情、
雰囲気などがその例である 26)。例えば、相手の話を「そうですね」と肯定しながら聞く一方、顔
の表情がときおりどこかうつろになるような場合、
「そうですね」と相手の言うことを肯定してい
る行為が一次プロセスであり、ときおりうつろになる表情は自分の意図と関係無く生起するため
二次プロセスにあたる。この例の「ときおりうつろになる表情」は、その当事者の通常意識が自
然に隠そうとして周縁化している深層意識の顕現であると解釈できる可能性があるため、通常意
識の層を基準にして判断することはできない。
つまり二次プロセスのコミュニケーションとは、意図しないに関わらず、言葉のトーンや何気
ないしぐさなどの様々なチャンネルを通し、自然に伝わってしまうコミュニケーションプロセス
である。そしてその二次的コミュニケーションプロセスは無自覚に自然発生する一方、コミュニ
ケーションの参加者には何らかのインパクトを与える。ここで重要な事は、一次プロセスも、二
次プロセスも全体のコミュニケーションプロセスを構成するものであり、それゆえ、この一次プ
ロセスも二次プロセスも同様に尊重し、両方のプロセスに着目することが、コミュニケーション
の動的相互作用過程の全体像を理解する上で重要だと考えられる。
このように、二次プロセスの「コミュニケーション」においては、意識のコントロールの外側
で意図せず起こる性質がある。そのため、コミュニケーションプロセスにおける自分の意図を言
語または非言語コードに変換し情報送信を行う意識的コード化のプロセスが存在せず、無自覚的
にコード化が自然発生し、何らかのコミュニケーションチャンネルを通って相手に伝わるのが特
徴的である。したがって、自己一致しない形で発生するコミュニケーションプロセスには、自覚
的コード化を含む一次プロセスと、無自覚的コード化の二次プロセスが自己矛盾を起こす形で送
信されることが多々多い。当人は、自分の知らない形で自分の深層の意図が相手に情報送信が行
われるため、後で指摘されるまで意識的に気づくことは難しい。先の例でいうと、ふさいだ表情
は授業後に学生に指摘されはじめて気づくといったケースだ。その上、たとえそれを指摘された
としても、当人としては(当人の通常意識にとっては)意図的コード化の意識が薄いため(つま
り、その深層の意図に関する自覚が薄いため)
、不本意に感じ、素直に認められない場合も多々あ
る。情報の受信者も、相手から受けるコミュニケーションのシグナルが相反する二種類を感知す
るため、その解釈化(脱コード化)に戸惑い、誤解する場合もでてくる。うつろな表情で「そう
ですね」とこちらの言葉を肯定されても、相手のわかったという言葉(コミュニケーションの一
次プロセス)を信じればよいのか、うつろな表情(コミュニケーションの二次プロセス)を基準
にして相手が聞いてないと判断すればよいのか混乱するということである。こういった自己一致
15
しない形で送信したコミュニケーションシグナルをミンデル(1996)はダブルシグナルと呼んで
いる。ミンデルはこのダブルシグナルについて以下のように述べている。
ダブルシグナルは、人間にとって自然で当たり前の現象である。しかしそれは自分自身お
よび、他者とのコミュニケーションを妨げるものとして現れる。自然な創造性や、意のま
まにならないチャンネルの存在や意識の妨げや、パラドックスを受け入れる能力の不足な
どがあいまって、生み出されるのだ。自覚の周辺で発生するダブルシグナルもあるが、は
るか彼方で発生するものもある。(p. 85)
このように、当人自身の自覚が薄いため、二次プロセスのコミュニケーションプロセス(例え
ば、ダブルシグナル)は、コミュニケーションプロセスを複雑化し混乱させる性質があるといえ
る。しかしその複雑さの一方で、流動的コミュニケーションプロセスの全体像を過不足なく理解
していくためには、この一次プロセスと二次プロセス双方を観察可能にする鋭敏で柔軟な感性と
複眼的な観察眼が必要であろう。
3.2.2.二次プロセスのコミュニケーションの例:身体感覚のコミュニケーション
では次に、自覚圏外で発生する二次プロセスのコミュニケーションの一つの形態である身体感
覚のコミュニケーションを説明する。我々はコミュニケーションにおける意図を重要視する傾向
がある。意識はその意図性、恣意性が認められるため、そこに焦点が当てられやすい。しかし、
身体感覚は、意図が関与せず生成し、病気やけがなどの異常状態を除き、通常では無自覚なため、
コミュニケーションプロセスの対象から疎外されやすい。また、満員電車など身体感覚を抑圧し
周縁化する(無視するまたは麻痺させる)習慣がついている現代人にとって、身体感覚は自然に
二次プロセスに陥りやすい。しかしながら、身体は常にコミュニケーション活動に参加し、意識
とは違う形でコミュニケーション活動を理解している可能性がある。心理療法の一つである、フ
ォーカシングを例に取ると、この理性的にはわかりにくいからだの感じをフェルトセンスと呼び、
その感覚を尊敬しそこにフォーカスしていく作業を積極的に取り入れている。フォーカシングの
創始者であるジェンドリン(1982)は、この身体の前言語的な身体感覚(フェルトセンス)を以
下の様に説明している。
フェルトセンスは、頭の上での経験ではなく、からだの経験です。身体的なものなのです。
つまり、ある状況とか、人、あるいは出来事について、からだで気づくことに他なりませ
ん。それはあるときある事柄について皆さんが感じている、知っているすべてを含むよう
な一種の内的な雰囲気(オーラ)的とでもいえるような経験です。それはすべてを含んで
いて、しかも、ひとつひとつではなく、一瞬のうちにそのすべてをみなさんに伝える、と
いったものであります。(pp. 59-60)
このようにジェンドリンが名づけたフェルトセンスは前言語的身体感覚のことであり、ある種
の叡智を宿していることが想定されている。それは前言語的であるゆえ、言語化できない暗黙知
27)とも呼ぶことができるかもしれない。実際このフェルトセンスの身体知(全体知、暗黙知)の
くみ出し方は、心理療法の一つであるフォーカシングの中で体系付けられ、臨床の場に役立てら
れている。また、対人理解に重要とされる傾聴 28)や共感の促進 29)にもこの身体の英知を積極的に
生かす姿勢が見て取れる。このことは、対人コミュニケーションの包括的理解にこの身体感覚が
重要性を持っていることを特に示唆している。
次に身体感覚のコミュニケーションプロセスを考察する。身体感覚はまず、身体の内的感覚で
ある。その上、前言語的な基本的性質を備えるため、その解釈(意味化、脱コード化、言語化)
16
に時間がかかる。しかし言語化に時間がかかる一方、コミュニケーションの場の雰囲気、メッセ
ージなど多くの事柄を瞬時にかつ意味に分節化せずそのまま受け取る性質を持つ。明示的解釈化
のプロセスには時間がかかる一方、全体としてのコミュニケーションの受容とある種の理解は瞬
時にかつ暗黙に行われているといえる。このことは、生きたコミュニケーション活動において、
通常の認知プロセスとは異質の認識プロセスが存在していることを暗示している。身体感覚のコ
ミュニケーションプロセスの追求は、コミュニケーション研究における新しいコミュニケーショ
ンモデルの提示にもつながる可能性もある。実際、臨床心理の現場では、この身体感覚に目を向
け積極的に活用する動きが現れている(クライン、2005;ジェンドリン、1982;藤見、1999)。
また、Nagata (2004、2007)は、数尐ないコミュニケーション研究として、コミュニケーショ
ン教育とその実践と習得における身体感覚の重要性を指摘している。今後、人間のコミュニケー
ション活動の全体像を探求していくことに意義を見出すのであれば、
「お蔭様」として常に私たち
を支える身体とその感覚の役割の探求は重要性を増し、コミュニケーション研究全体に大きな知
見をもたらすと考えられる。
4.お蔭様を鍵概念としたコミュニケーション研究のまとめと今後の課題と展望
前項までにおいて「お蔭様」を鍵概念としたときに浮上してくるコミュニケーション研究につ
いて論考を進めてきたが、本項では今までのまとめと今後の展望について述べる。
まず、お蔭様を鍵概念として周縁化されたコミュニケーション研究領域を考察した場合、人間
の文化世界(シンボル世界)領域から脱中心化した世界領域におけるコミュニケーションと人間
の文化世界内で脱中心化傾向のあるコミュニケーションの二種類が浮上した。はじめの周縁領域
には三種類あり、それは自然・生態世界領域、微細で繊細な意識状態で開示されるセンシェント
世界領域(量子的世界領域)、超自然世界領域である。そしてそれぞれの領域に対応する「コミュ
ニケーション」を生態的コミュニケーション、センシェント・コミュニケーション、スピリチュ
アル・コミュニケーションと本論では便宜的に名づけた。これらの「コミュニケーション」は通
常のコミュニケーションの範疇から周縁化される一方で、包括的コミュニケーションの考察には
不可欠な一部を構成している。
まず、生態的コミュニケーションは、生態的存在としての人間の在り方に基づいた「コミュニ
ケーション」活動である。生態的存在として動物や自然と交流し相互作用プロセルに参入する事
は、シンボル活動を介さない、より直接的でより自然なコミュニケーションプロセスの可能性を
示している。
次にセンシェント・コミュニケーションは超理性的存在としての人間のコミュニケーションの
可能性を模索することである。人間は目に見える状況だけでなく、目に見えない場の雰囲気や空
気を直感的に感じ読みながら総合的に判断し様々なコミュニケーション活動に参入している。微
細な(センシェントな)場の雰囲気や流れを理解するセンシェントな存在的側面も統合したコミ
ュニケーション研究は未知ながら今後の課題の一つと考える。
最後の超自然界領域におけるスピリチュアル・コミュニケーションは、霊的存在としての人間
の在り方の可能性に開かれた領域である。科学的実証が困難な一方で、世界中で様々な宗教は形
を変えながらも存続し人間生活に直接的にも間接的にも大きな影響を与え続けている事は明白で
ある。この事実は、人間自体の在り方として、個の形と時空を超える存在としての霊的在り方が
内在し暗黙の了解となっているからと推測される。この意味でも霊的・スピリチャル領域のコミ
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ュニケーション研究は非科学的という一点だけで無視できない側面がある。実際、全米コミュニ
ケーション学会では、すでにスピリチュアル・コミュニケーションの領域が学会の一研究領域と
して正式に認知され確立されている。
これら三つの領域におけるコミュニケーション研究を模索する事は、文化的(かつシンボル的)
存在側面に加え、生態的存在側面、超理性的(センシェント的)存在側面、そして霊的(スピリ
チュアル的)存在側面の全てを併せ持つ全的存在として統合された人間のコミュニケーション研
究を模索することであり、真の意味での持続可能なコミュニケーションの全体像がそこに開示さ
れるはずである。
次に本論では、人間文化世界内で周縁化されたコミュニケーション領域として、自覚圏外で生
起する非意図的なコミュニケーションとその一例として身体感覚のコミュニケーションを浮上さ
せた。それらの領域は、認知され役割の重要性も理解されながらも、その非意図性、自覚の欠如、
自然発生的性質をコミュニケーション研究の一環に整合性と科学的見地を保持しつつ組み込むこ
とが困難であり、結果としてその研究領域が周縁化したといえよう。しかし多種多様な「コミュ
ニケーション」は、意識的かつ無意識的、意図的かつ非意図的に、コントロールされつつ自然発
生的に、相互関連しながら同時進行するのが実際である。比ゆ的にいえば、お互いがお互いの「お
蔭様」的役割を果たし機能しているといえる。意識的かつ無意識的側面を備えた包括的心身的在
り方を呈する人間が参入し様々な形で現象化するコミュニケーション研究は困難である一方、最
低限の考慮がコミュニケーション研究者には必要であろう。つまり、本論で展開された「お蔭様」
を鍵概念にしたコミュニケーション研究の模索とは、人間の多元的在り方に開かれたコミュニケ
ーション研究の模索であるといえる。
次に今後の展開と課題だが、第一の課題は、本論は、試論のため、概論的性質が強いものとな
った。今後は、本論考をいくつかの形に分け整理し再展開する必要がある。またその際、一つ一
つの論点の論拠をより明確に示しながら論考を進めることが望ましい。特に科学的実証がされて
いない領域については今後、具体的で詳細な論考を要すると考える。
第二の課題は、本論で提示された今まで周縁化されてきたコミュニケーション領域の研究意義
に関する点にある。その中にはコミュニケーション研究という枠組みにおける意義深さが明確な
ものもあれば、定かではないものもある。それをより明確にするため、コミュニケーション研究
における、今までの研究領域との関連性をより明確に提示し、どのような形で現代のコミュニケ
ーション研究に寄与が可能かを明白にして説明を重ねていくことが肝要であろう。
第三に、本論では、お蔭様を考察上の手引きとすることで、今まで周縁化されてきたコミュニ
ケーション領域をリサイクルすると述べている一方、その具体的なリサイクルの方法やそのプロ
セスの詳しい説明は省かれてきた。その知見自体にはある種の先見性があるかもしれないが、具
体的説明が無いため論点の説得力に今一歩かけるのも事実である。今後の課題と展望として、そ
れぞれの研究領域で周縁化されてきたコミュニケーションをどのような形でリサイクルし、それ
がコミュニケーションにおける持続可能性につながる道筋を示すことも重要であろう。例えば、
クラスルームコミュニケーションにおける予想外の展開や計画外で生起するランダムな現象、出
来事などは、通常の枠組みからは外れやすい要因、現象であろう。そのような周縁化要因・現象
を全体の場の一部として組み入れ研究していく事は、Backe(2008)が指摘しているように生き
た場としての教室内コミュニケーションの活性化につながる可能性がある。
第四に、本論では、コミュニケーション研究における暗黙の前提をいくつか指摘したが、
「コミ
18
ュニケーション」という言葉、そしてその言葉が指し示す事象に関する暗黙の前提についての明
確な言及はされなかった。そのため、「コミュニケーション」という言葉を使って論点を進めてい
く際に不明確な点が必然的に出てきた可能性がある。より明瞭な説明をするためにも、「コミュニ
ケーション」に関する優先的認知構造の変遷とその基盤となる歴史的コンテクスト(とそれに付随
する価値観)の変遷は今後の課題である。これは、困難であるが、コミュニケーション研究の今
後の方向性を考察する上で避けられない課題であろう。
以上、本論のまとめと、いくつか課題とそれに伴う今後の展望を述べてきたが、お蔭様を鍵概
念としたコミュニケーション研究の探求は、試論という性質から様々な課題を抱える一方、コミ
ュニケーション研究における周縁化領域を特定しそれを積極的に再利用しようとするコミュニケ
ーション研究のリサイクル運動的な意味がある。その試みにより、コミュニケーション研究は全
体として活性化され、コミュニケーション研究の領域同士のつながりの促進と探求だけにとどま
らず、コミュニケーション研究者同士の対話促進、他の隣接領域の研究者をも巻き込んだコミュ
ニケーション領域としての真の学際的発展につながる可能性をも含んでいる。
5.さいごに:もう一つのお蔭様のコミュニケーション
最後になるが、お蔭様を鍵概念にしたコミュニケーション研究領域の模索にはもう一つの意義
がある。お蔭様を論考上の手引きにしながらコミュニケーション領域を浮上させる作業は、まと
めの項で述べたように、人間の多元的在り方自体の全てを過不足なく考慮に入れたコミュニケー
ション研究の模索を本論では意味している。そのことにより、多元的存在としての人間のコミュ
ニケーションの諸相を包括的に理解することにより、より全体的視点から見たコミュニケーショ
ンの持続可能性の問題と新たな可能性が浮上することが予想される。また、お蔭様の概念自体が
持つ脱中心的志向性が、研究者自身の視点を脱自己中心化、脱自文化中心化の方向への思考変化
を要求することにも意義がある。これに対し、第二の意義は、
「お蔭様」としてコミュニケーショ
ン活動に参入すること自体にあり、そこから生ずる行動変化にある。我々は通常、他人や状況と
の関係性、コミュニケーションの動的相互作用の重要性などに気づきながら、実際の場では、自
分の目的や、欲求を優先させコミュニケーション活動に参入する傾向がある。程度の差こそあれ、
これは現代人の価値観をある程度反映すると共に、人間のコミュニケーションの反復的習慣性に
基づいている。しかし、この習性は、自己中心的、自文化中心的、人間中心的行動となり様々な
形で無自覚に現れる。つまり、お蔭様を鍵概念にしたコミュニケーションプロセス自体を真に理
解するためには、それぞれのコミュニケーション生成場の動的・流動的要求に従いコミュニケー
ション活動自体に参入することが必要なのである。それは行動として脱自己中心化を実践するこ
とであり、その実践経験を通して他者理解、他文化理解が進み、関係的・動的・流動的コミュニ
ケーションの理解が身体化されることで深まり、コミュニケーション研究と、コミュニケーショ
ンの持続可能性に関する生きた知恵が生まれるのである。流れ移る場に身を置き、その場その場
の要求に従い行動する事は困難であるが、コミュニケーション現象を真摯に探求する研究者にと
っては、遅かれ早かれ避けて通れない実践であり、道であろう。
註
1)
「かげ」は蔭、影、陰などいろいろな書き方があるが、人間の見えない隠れた神への畏怖とその神
からの恵みの意味を明確に含む「御蔭」としての「蔭」を統一して使用する。
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3)
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13)
池田(2006)は、このことに関し、「現代コミュニケーション学」の中で、既存のコミュニケーシ
ョン学の前提として、技術としてのコミュニケーション、心性を問題とするコミュニケーション、
マスコミ研究としてのコミュニケーション学の三つの前提を挙げている。
「コミュニケーション」という言葉の定義は多岐にわたる(Dance & Larson、1976)。その定義
は研究者の認識行動の現れであり、それが何かを限定することは多岐にわたる認識行動の限定でも
ある。ここではそれが何かと特定するのではなく、その認識行動をする際の暗黙の傾向性が存在し
ていないかを探っていく。ただ、「コミュニケーション」があいまいな学問といわれつづけるのは、
「コミュニケーション」と認識される何かが、その研究者に共通認識を可能にさせる以上の「限定
できない力」を本来的に有しているからかもしれない。それだけあいまいになりやすいということ
は、それだけあいまいなかたちで権力を行使する力を有していることを自覚しておくことが必要で
あると考えられる。
テキストとコンテクストとは切り離すことのできない相互依存関係にある。
これより以下「コミュニケーション」とかっこ付けで表記する場合は、それが、「コミュニケーシ
ョンとして認識されている何か」を表すこととする。このことは暗黙の了解(暗黙の認識行為)に
基づいた無自覚な語用を戒める一つの試みである。
ここには、社会科学としてのコミュニケーション学の地位の向上と、社会科学における権力の獲得
と保持という政治的意図が無自覚に存在している可能性がある。
今後「戦後」は全て「第二次世界大戦後」を意味する。
グローバル化は、文化の多様性を促進するというより、文化の均一性を促進し、抑圧構造を尐数民
族に強要している可能性がある。そのことにより尐数民族の言語、文化が危機状態に陥っていく。
シバ(2002)はグローバル化が生命と文化の略奪のプロセスに深く関与していると言及している。
グローバル化の現代において権力を持っている優越した時代精神として、資本主義、消費主義、物
質主義、競争主義、個人主義などが考えられる。これらの時代精神は、コミュニケーション研究者
とコミュニケーション研究を媒体にし、その権力を維持しようとする。そのため、それらの時代意
識は様々な形でコミュニケーション研究法だけでなくコミュニケーション教育に反映しようとす
る傾向と力を有すことを自覚する必要はあると考える。
コミュニケーション能力、コミュニケーショントレーニングなどの効率性と利便性を追求する技術
としてのコミュニケーション研究は依然として人気が高い。これらの傾向は、グローバル化を支え
る価値観の維持とグローバル化の世界の権力維持のためにコミュニケーション研究に暗黙の影響
力を与えつづけているとも解釈できる。Mindell(2000)はこのような時代精神の力をタイムスピ
リッツ(ドイツ語の Zeit Guist 、英語では Spirit of the Times)と呼び、その時代の成員や現象
にある意味で憑依しその力を保持しつづけようとすると述べている。ミンデルは、パラダイムシフ
トが起こるとは、このタイムスピリッツが変容することにより新しい合意現実に転換していくと述
べている。このことは、社会構造維持のためのタイムスピリッツもあれば、構造変容、構造転換、
構造破壊を促すタイムスピリッツも存在していることを暗示している。従って、コミュニケーショ
ン研究にも、社会構造維持の媒体としての研究もあれば、批判主義学派のように社会構造変容の媒
体としてのコミュニケーション研究も存在している。また脱構築主義に根ざすコミュニケーション
研究はある種の社会構造の破壊と再構築の媒体となっている可能性がある。
communication は語源的に考えると、
common を表す communis に由来するとされている
(寺澤、
1997)。また岡部(1993)も指摘しているように、神との心的交流にその端を発している可能性が
ある。ここで重要なことは、共通を作ろうという行為も、神と交流するという行為も、前提として、
分離の認識(ある固有性個人性の認識)が前提にあり、その分離を結合させようとする行為が
「communication」として認識されてきたのかもしれない。また、現代においては、現代のグロ
ーバル化の支配的価値観と合致する認知構造を有する「コミュニケーション」が、常識的なイメージ
(無意識的な支配的認知形式)としてある一定の暗黙の了解として定着していると解釈できる。
または、科学的見地から解釈をする。たとえば雤乞いなどの呪術的宗教的行為を科学という違うカ
テゴリー(範疇)に当てはめ解釈しようとすることは、カテゴリーエラー(ウィルバー、2004)と呼
ばれる。
コミュニケーション研究においては確かに“ One cannot not communicate”(Watzlawick,
Beavin-Bavelas, & Jackson, 1967)が示すように非意図的なコミュニケーションも「コミュニケ
ーション」として認識はされている。しかしながらこの非意図的コミュニケーションは、利便性、
効率性、操作性など現代人間社会に優勢的価値観と合致しないため、「コミュニケーション」の対抗
的認知の一つとしての権力を有しにくいと考えられる。それが言語であれ通信メディアであれ、意
図的なコミュニケーションは、操作性に優れているため、道具としての活用が容易である。
20
14) これは言いかえると、自己一致している(つまり自己矛盾しない)コミュニケーションを暗黙の前
15)
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17)
18)
19)
20)
21)
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23)
24)
25)
提として研究を行ってきたということである。
実際、源(1985)は「日本の古代世界においては<神・霊魂・自然・人間>は絶対的断絶の関係
に立つことなく、そこには一つの連続性」(p. 351)が存在すると論じている。また、金児(1997)
は、実証主義的研究結果から、日本では古代より「恵みとしての自然」としてのオカゲと「恐怖と
しての自然」としてのタタリの二重構造が日本人の宗教観の根幹を構成していると論じている。
ここでは、「センシェント」(sentient)を、直観力など通常の意識以上の微細な知覚力を含んだ意
識としてこの言葉を使っている.そのため、センシェントな世界とは、通常の知覚力よりより鋭敏
で微細な知覚力ではじめて開示してくる日常世界より微細で微妙な世界のことを指す。量子力学と
対応する「量子世界」ともいえる。そして、センシェント・コミュニケーションとは、その鋭敏で
微細な知覚力を基とした超理性的コミュニケーションを示す.例えば、日本における、空気を読む
とか、察する、などはこのセンシェント・コミュニケーションの一端を示している。また、通常の
インターパーソナル(対人)コミュニケーションを超えた領域という意味でトランスパーソナルコ
ミュニケーションとも呼べるが、「トランスパーソナル」という言葉は多義的解釈を有するため、
本論では、「センシェント」コミュニケーションをあえて使用する。
超自然界とのコミュニケーションは、民俗学の領域から多大な知見を得ることが可能なことはいう
までもない。
全米コミュニケーション学会のスピリチュアル・コミュニケーション部門ではスピリチュアリティ
(霊性)の枠組みを「…our framework for spirituality is based upon the following principles: (a)
spirituality represents a harmonious interconnectedness amongst self, other, and nature, and
(b) spirituality is both embodied and transcendent, exemplifying a inner knowing (i.e., a
source of inner strength), the potentiality of higher consciousness, and living in creative
harmony with the divine….」(http://www.freewebs.com/spiritcomm/)」と定めている。
石井(2001a)は、ここでいう、1 と 3 の世界に当たるものを、自然世界と超自然世界と位置付け、
仏教世界観に基づいたコミュニケーションモデルを呈示している。また、自然環境と人間のコミュ
ニケーション(生態学的コミュニケーション)や人間と超自然的存在物(たとえば霊的コミュニケ
ーション)とのコミュニケーションを 21 世紀における異文化コミュニケーション研究として重要
性を増していくであろうと述べている(2001a、2001b)。
生態学的コミュニケーション研究の重要性は石井(2001b)や Liska & Cronkhite(1995)なども
指摘している。
林(2008)はこの微細な空間のことを量子空間と読んでいる。
雰囲気の現象学的考察の一つとして、小川(2000)の「風の現象学と雰囲気」がある。その中で
小川は、雰囲気は「人間存在の身体状態からそれと一つになって開示された一つの全体的状況であ
る」(p. 13)と述べている。またハイデガー(1961)は、気分が現存在の根本的あり方そのもので
あると述べている。
このゴーストロールには、前に述べた時代精神(タイムスピリッツ)も含まれる。たとえば、効率
性やスピードを求める時代精神は、ゴーストロールとなり、我々のコミュニケーション活動に影響
力を行使しているのは明白である。そのため、暗黙のうちに話はなるべく手短にわかりやすくしよ
うとするし、決められた時間内に要領よく効率的に説明できたり理解できたりすることをよりコミ
ュニケーション能力が高いと思う傾向がある。また、話が長くなるとすぐにいらいらしたり、せか
したりするのも、この「スピード」という時代精神が我々に一定の影響力を与えている可能性がな
いとは考えられないだろうか。
この「ワーク」の技法についてはプロセス指向心理学やフォーカシングなどの心理療法の技法から
多くの知見を学ぶことができると思われる。このことに関しては、詳細な説明を要すため、本論で
は割愛する。
自覚症状はあるが、理性優越主義の影響を受け、蔭の領域に周縁化されているコミュニケーション
として、非理性的、超理性的コミュニケーションが考えられる。我々は日常の生活で、なるべく「わ
かる」事、「わかりやすい」ことを無意識に他人にも自分にも求める傾向がある。これは現代にお
ける理性主義という時代精神がコミュニケーションにおける理性を要求し、その結果としてコミュ
ニケーション参加者の我々にもそれを要求しているとは言えないだろうか。問題は、この暗黙の時
代要求により理性的かつ科学的見地からは非理性的と断じられる感情や矛盾、偶然などはコミュニ
ケーション研究の中心から疎外される結果を辿ることが多くなる。同様に理性を超える直感や様々
な共時性などは、科学的分析が困難なためやはり研究対象の中心からの周縁化が起こりやすい。し
かしながら、Gebser(1985)やウイルバー(1998)が述べるように、人間は日常生活で理性だけ
21
26)
27)
28)
29)
を使っているわけでなく、その時々で様々な前理性的な感情、非理性的な矛盾、直感や偶然などの
超理性などが随時蔭になり日向になりながら生起してくる。そのような意識構造の重層性と、その
関連性のコミュニケーションプロセスの理解もここから出現する「お蔭様」のコミュニケ―ション
研究の課題だといえる。
非言語コミュニケーションの領域の多くは非意図的であり自然生起するプロセスという意味では
二次プロセスのコミュニケーションと関連している。しかし、非言語コミュニケーション研究の大
半が、文化要因、個人要因などを考慮しながらも、そのプロセスを通常意識の次元で判断し、カテ
ゴリー的解釈をする傾向が圧倒的に強いことという意味では、その場その場で流動する二次プロセ
スのコミュニケーションの実質的な理解とは「似て非なる」ものである。そのため社会心理学にお
ける非言語の情報漏洩の研究領域などは本論では引用しなかった。
暗黙知については、ポラニー(1980)を参照せよ。
例えば、フォーカシングにおいて身体感覚にフォーカスしているクライエントに対する第一の援助
方法は絶対傾聴だとジェンドリン(1982)は述べ、相手から出てきた言葉の「ただの伝え返し」
の重要性を指摘している。
お互いの共感を促進するために身体感覚を積極的に利用する技法として、インタラクティヴ・フォ
ーカシング(クライン、2005)がある。
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