イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938

イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938-1942)
—ファシズム期ローマの背景にみる古代ローマ遺跡—
福田 哲也
1. 研究の背景と目的
インペリアーリ通り )、「海の道」( 現在のテアトロ・
第一次世界大戦後、イタリアのファシズム、ドイツ
ディ・マルチェルロ通り ) が挙げられる ( 図 2.)。
のナチズムに代表されるように欧州諸国では全体主義
「帝国通り」は古代ローマ建築コロッセオとヴェネ
が興隆した。この時期の建築・都市計画に関しては、
ツィア広場を連結する長さ 850m、幅 80m の直線道
鵜沢隆、北川佳子、小山明等の既往研究があるが、そ
路である。その開設目的は、ファシズムと古代ローマ
れらはファシズムと密接に関係していた合理主義や
の「連続性」の可視化により、ファシズムの権威性を
ジュゼッペ・テッラーニ、またはナチズムに関するも
誇示することであった。
「帝国通り」開設の際、古代ロー
のである。当時のローマではファシズムによって活発
マ遺跡が発掘されたが、それらは十分な調査・研究も
に遺跡発掘が推進されており、ファシズム期終盤に当
行われることなく、再び埋め戻され、「帝国通り」の
たる 1938-1942 には、ローマ市中心部から南西 24 ㎞
犠牲となった。これにより多くの古代ローマ遺跡は「破
に位置するオスティア遺跡で、国家政策により大規模
壊」された。このようにムッソリーニは同じ古代ロー
な発掘が行われた。しかし、このような古代ローマ遺
マ遺跡の中でも、利用価値の有無により「選別」と「破
跡がファシズムに及ぼした影響に焦点を当てた研究は
壊」を使い分けていた。
日本では行われていない。
また、「海の道」は、ヴェネツィア広場からサンタ・
本稿ではファシズム期のローマの建築の流れを把握
マリーア・イン・コスメディン教会付近へと続く道路
するとともに、その裏側に存在する古代ローマ遺跡と
であり、ローマ市内とオスティア、ティレニア海を繋
の関係を指摘し、1938-1942 のオスティア遺跡発掘
ぐ高速道路と連結している ( 図 11.)。「海の道」は「帝
をイタリア近代建築史の中に位置づけることを目的と
国通り」のように歴史的価値のある建築物を利用した
し、以下の構成で進められる。2章でファシズム体制
道路開設とは異なり、帝国を地中海へと拡大させたア
のもとローマで行われた都市改造の背景、内容を述べ
ウグストゥスとの「連続性」の構築を意図したもので
るとともに、ナチズムベルリン改造計画との相違点を
あった。
1)
2)
指摘する。3章では「ローマの合理主義」と「ミラノ
レ川
の合理主義」の乖離までの流れを述べ、その要因を指
テヴェ
摘する。4 章では、2、3章のまとめを書く。5章では、
2009 年夏オスティア遺跡考古局文書館で入手した当
時の資料をもとに、1938-1942 に行われたオスティア
⇩
Piazza
写真 1. ファシズム期に改造された通りのファサード
ヴェネツィア広場
so
Navona
破壊
demolizione
l Cor
Via de
遺跡発掘の意義について述べる。最後に6章で研究の
rio
to
Vit
まとめを書き、総括とする。
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コロッセオ
2. ローマ都市改造 2.1. 道路開設
Ema
nue
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1930 年 代、 ム ッ ソ リ ー ニ に よ る 道 路 の 開 設 は
破壊 + 改築
⇩
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過 激 化 し、 様 々 な 時 代 の 遺 産 を 考 慮 せ ず「 破 壊
テヴェレ川
demolizione e
ricostruzione
re
ve
te
demolizione」が行われた。また、道路拡張のみに留ま
⇩
帝国通り
らず「破壊+改築 demolizione e ricostruzione」という方
法により、通りのファサードがファシズム特有のデザ
海の道
インに統一された ( 図 1. 写真 1.)。過激化した道路開
帝国通り
改築
設の代表例としては「帝国通り」( 現在のフォーリ・
18-1
0
海の道
500m
図 1. ローマ都市計画 1931 年
図 2.「帝国通り」、「海の道」開設前後
左 表 1. 第 1 回イタリア合理主義建築展の会場と参加グループ一覧
右 表 2. 第 2 回展イタリア合理主義建築展の参加者と所属 MIAR 支部名一覧
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図 3. 新議事堂大ドーム計画案
アルベルト・シュペーア 1937-40
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もたらしたものはローマの合理主義者達の活動の域の
拡大であった。つまり、「ミラノの合理主義」のロー
写真 2. ベルリン都市改造計画写真
2.3. ナチズムベルリン改造計画
マでの浸透、体制への介入を試みることで「イタリア
図 4. ヒトラーのスケッチ 1925
合理主義」を確立しようとしたリベラの意に反して、
1938 年に公表されたベルリン改造計画全体案 ( 写
結果的に「ローマの合理主義」を確立させたのである。
真 2.) は、幅員 156m の南北軸線道路とそれに直交す
3.2. ローマの郵便局設計競技(1933 年)
る東西軸線道路、環状アウトバーン網等に見られる大
更に 1933 年、国家プロジェクトとして行われたロー
規模な交通計画であった。また、ヒトラーは南北軸の
マの郵便局の設計競技で、A. リベラがアヴェンティー
北端に高さ約 300m を誇る新議事堂大ドーム ( 図 3.)
ノ郵便局 ( 写真 3.)、M. リドルフィがボローニャ広場
を計画していた。ヒトラーは古代ローマで見られるよ
郵便局 ( 写真 4.) に入選した。両者は MIAR のローマ
3)
うな都市のシンボルを希求しており、ベルリンの新議
の代表的メンバーであり、この設計競技にて「ローマ
事堂大ドームがそれを担うと考えていた。その設計者
の合理主義」は実現を迎えた。
は A. シュペーアであるが、実情はパンテオンを模倣
したヒトラーのスケッチ ( 図 4.) が計画案の基盤であ
4)
る。まさにヒトラーが目指した「古代の都市の公共の
記念建造物」そのものであった。
このようにファシズムローマ都市改造では、古代
写真 3. アヴェンティーノ郵便局 1933-34
A. リベラ
写真 4. ボローニャ広場郵便局 1933-34
M. リドルフィ
3.3. リットリオ宮設計競技(1934,1937 年)
ローマより積層し続けた都市の歴史に対して「選別」
1934 年にリットリオ宮 ( ファシスト党ローマ中央
と「破壊」という方法を用い、強弱・疎密を与えるこ
本部 ) 設計競技が行われた。ムッソリーニの審査介入
とで、ファシズムへと続く「歴史の ( 連続性の ) 強化」
が大きな混乱を招く結果となり、結局一等案は選出さ
を図ったのに対して、ナチズムベルリン改造計画は「歴
れず、1937 年の第二次設計競技へと持ち越された。
史の始点」の創出を目指していたと言える。両者の計
古代ローマ遺跡コロッセオを背景とした、ファシズ
画は、ともに変革性とダイナミズムを過度に演出した
ムの象徴としての建築を要求されたことから ( 表 3.)、
暴力的な歴史の一部であることに間違いはないが、両
多くの計画案はシンボリック、モニュメンタルな表現
計画間には差異が存在し、それは古代ローマ遺跡との
であった ( 図 5-10.)。また、設計競技を通して古典化
距離感の差から生じたものであった。
する「合理主義」が可視化されたため、それを拒絶す
3. ローマの合理主義
る「ミラノの合理主義者」により、様々な議論が巻き
3.1. 合理主義建築展(1928 年、1931 年)
5)
グルッポ7の形成によりミラノで合理主義運動が誕
表 3. 第 1 次リットリオ宮設計競技要項
生した。ローマから唯一グルッポ7に参加していた
A. リベラは、合理主義運動の全国規模への拡大と体制
への介入を目論み、1928、1931 年にローマで合理主
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義建築展を開催した。その結果、第2回展の開会式翌
日の政府機関紙には「ムッソリーニはその運動に同意
6)
を示した」と掲載され、体制の支持を獲得したと考え
られる。しかし、両展覧会に占めるローマの合理主義
7)
者の割合が高いように ( 表 1.2.)、この展覧会が事実上
第1次リットリオ設計競技計画案 1934 年
上左 図 5.A. リベラ案、上中 図 6.M. パランティ案、上左 図 7.B.B.P.R. 案、
下左 図 8.G. テラーニ A 案、下中 図 9.G. テラーニ B 案、下右 図 10.E. デル・デッビョ、フォスキーニ案
18-2
起こされた。その一端は 1933 年から 1938 年の『カー
ローマ中心部
8)
ザベッラ』において確認することができる。
EUR
体制との妥協の中で徐々に変容した「ローマの合理
テヴェレ川
主義」は、リットリオ宮設計競技を期に「ミラノの合
ティレニア海
オスティア・アンティカ(オスティア遺跡)
リド・ディ・オスティア
理主義」と完全に乖離した。そして、その引き金となっ
古代から存在する土地
近代に埋め立てられた土地
たのは「古代ローマ遺跡を背景とした近代ファシズム
ローマ中心部からティレニア海へ
向かう高速道路
写真 5.EUR
図 11. ローマ地図
建築」という構図の登場であったのは間違いなく、そ
れはリットリオ宮設計競技の結果が物語っている。
4. 小結
2、3章より、古代ローマ遺跡はファシズム期ロー
マの建築・都市に対し以下のように機能したと言える。
写真 6. オスティア遺跡
図 12.1938-1942 の発掘範囲
1)そのシンボリックさゆえに、明確な時間軸を都市
覧会は中止となった。
に与えるため、ファシズムの都市改造の利用対象と
5.2. オスティア遺跡発掘(1938-1942)
なった。それが起因して「選別」と「破壊」による
オスティアは、紀元前4世紀テヴェレ川河口を防衛
建設活動が促進し、「ファシズムへと続く歴史=連続
するために創建された軍事植民都市であり、ローマ市
性」という新しい概念がファシズムの中で定着したこ
の遠洋航路用の港として繁栄し、都市域を拡大させた
とで、「歴史の最先端」として選択された「合理主義」
( 図 11.)。しかし、紀元後 3 世紀には外敵の侵攻とマ
はファシズムと接近した。
ラリアの蔓延で都市が衰退し始め、紀元後 5 世紀にテ
2)近代ファシズム建築の背景として登場することに
ヴェレ川の氾濫により都市は土砂に埋もれた。そのた
より、それらを古典化させる要因となり、様々な議論
め当時の町並みの保存状態は良好である ( 写真 6.)。
を巻き起こさせた。
イタリア政府によりオスティアで本格的に発掘が開
3)それとの距離感が作用し、ローマは他都市と異な
始されたのは 1890 年以降であり、発掘は現在まで継
る都市計画に至った。
続して行われている。オスティア発掘史上最も集中的
このように、古代ローマ遺跡を回転軸とし、その周
に大規模な発掘が行われた期間は 1938-1942 であり、
辺を回転している多くの事象が複雑に絡み合っている
発掘主任グイド・カルツァのもと遺跡の約3分の2に
のがこの時代の特徴と言える。また、
「リットリオ宮」、
当たる 17ha の範囲が明るみに出された。発掘範囲は
9)
ミカエル・ハインツェルマンにより後に明らかにされ
「コロッセオ」、「帝国通り」が示す「ファシズムへと
続く歴史=連続性」の構図は、1938-1942 に飛躍的に
ている(図 12.)。
スケールを拡大させ、ローマにて実現することになる。
5.2.1. 発掘主任グイド・カルツァの思想的背景
5. 1938-1942 のローマ
1938-1942 発行の雑誌に掲載された、当時の発掘
1938-1942 のローマでは E42 開催に向けた EUR 建
主任グイド・カルツァの記事に注目し、オスティア遺
設、オスティア遺跡発掘が行われた。
跡考古局文書館書庫部門にてそれらを閲覧した。カル
5.1. E42( ローマ万国博覧会 1942)
ツァは 5 年間で 24 のオスティアに関する記事を書い
EUR( 写真 5.) とはファシスト革命 20 周年にあたる
ており、1938 年の専門誌『Gnomon』と 1939 年の
1942 年完成を目指したローマ万国博覧会 (Esoposizione
一般紙
『Le vie d'Italia』
では、
以下のように発掘の意義、
Universale di Roma) の略称である。ローマ郊外に位置す
表 4.1938-1942 に発行された雑誌の E42 に関する記事の内容一部(カルツァ著)
る EUR は現在も地名として残っている ( 図 11.)。
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E42 とも呼ばれるこの博覧会は、1935 年当時ロー
マ総督であったボッタイがムッソリーニに進言したこ
とが発端であり、会場である EUR 地区は博覧会期間
後ローマ新都心として機能することを期待されてい
た。ファシズムの未来を背負う新都市 EUR の建設に
は 1941 年までに 3 億 7000 万リラが投入されていた
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が、第二次世界大戦の影響により開発は中断され、博
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18-3
または発掘と E42 との関係を示していた ( 表 4.)。
が予想される Caseggiato degli Aurighi であったが、
ⅰ)オスティアが古代ローマ研究において重要であり、
発掘誌を見た限りでは発掘報告にその根拠は見られな
現代との連続性を示す存在であること
かった。つまり、「発掘の実質」には見かけ上政治的
ⅱ)象徴性(発掘のタイミング・発掘規模と速度・ロー
圧力がかかっておらず、学術的独立性は保たれていた。
マの地域性と歴史性)を帯びた発掘であり、その発掘
6. 結
を行うファシズムの偉大性を強調していること
1938-1942 の 古 代 ロ ー マ オ ス テ ィ ア 遺 跡 発 掘 は、
ⅲ)E42 の開催、つまり新ローマ都市 EUR の完成時
ムッソリーニによって「選別」された象徴性を帯びた
期と古代ローマ都市オスティアの全貌が明らかになる
発掘であり、新都市 EUR 建設とともに進行・実現す
時期を意図的に合わせていること
るよう演出されていた。その目的は「未来の展望」と
ⅳ)オスティアと EUR を物理的にも感覚的にも繋ぐ
「栄光の歴史」の誇示を同時に行うことにより、その
ために見通しの良い道路が存在すること
二つの事項から導かれた時間軸の中心に「偉大なファ
5.2.2. ファシスト党幹部ボッタイの遺跡訪問
シズム」を位置づけることであった。これらのことか
オスティア遺跡考古局文書館写真部門では、遺跡の
ら、イタリア近代建築史において「オスティア遺跡発
写真が地区・建物・年代別で保管されており、遺跡訪
掘(1938-1942)」は「EUR」と並列関係として捉え
問者・発掘者等の人物が写った写真も年代別で保管さ
ることができる。
れていた。タイトルを参考にし、1938-1942 の遺跡訪
さらに、両者を繋ぐ道 ( 海の道 ) についても言及さ
問者・発掘者等の写真を確認したところ、ファシスト
れていたため、
「EUR」、
「オスティア遺跡」、
「海の道」は、
党幹部ボッタイまたは E42 最高責任者等の写真が 3 枚
「リットリオ宮」、「コロッセオ」、「帝国通り」が示し
存在した ( 写真 7.8.9.)。これらから、ファシスト党と
ていた「ファシズムへと続く歴史=連続性」の構図の
E42 関係者が「発掘後の遺跡」に実際に注目していた
拡大であったということも指摘することができる。
こと、また、ボッタイが Caseggiato degli Aurighi( 図
一方、ファシズムによって発掘後には政治的に遺跡
14. 写真 10.) を訪問したことが分かる ( 図 13.)。
を利用されたオスティアであったが、当初より研究者
5.2.3. 発掘誌からみる考古学的側面
によってその発掘の学術的価値は認められていた。ま
オスティア遺跡考古局文書館歴史部門には発掘誌が
た、発掘誌によれば、「発掘の実質」である学術的部
保管されており、1938-1942 の発掘は発掘誌 24 巻か
分の純粋性は保持されつつ進行されていたと言え、そ
ら 28 巻にあたる。この発掘誌には日付、発掘場所、
そしてその日の発掘の情報が記録されており、ボッタ
れは当時のオスティア遺跡発掘の一つの側面である。
【参考文献】
※以下は参考文献の一部であり、参考文献一覧は本論に記載している。
[1] Antonio Cederna, "MUSSOLINI URBANISTA", Laterza, 1979
[2] 井上章一、『夢と魅惑の全体主義』、文春新書、2006
[3]Alex Scobie, "HITLER'S STATE ARCHITECTURE The Impact of Classical Antiquity", College
Art Association, 1990
[4] 藤澤房俊、『第三のローマ イタリア統一からファシズムまで』、新書館、2001
[5]Terry Kirk, "the architecture of MODERN ITALY", Princeton Architectural Press, 2005
[6]『SD』8306、鹿島出版会、1983 年 6 月
[7]Guido Calza, "SCAVI DI OSTIA TOPOGRAFIA GENERALE", Istituto Poligrafico e Zecca dello
Stato, 1996
[8] 北川 佳子、入江 正之、「イタリア合理主義建築展とそれに伴う MIAR の活動について」、建築雑誌、
昭和 55 年 11 月号
[9]『日伊文化研究』第 32 号、日伊協会、1994 年
[10]"Gnomon14", Princeton University Press, 1938
[11] "LE VIE D'ITALIA RIVISTA MENSILE DELLA CONSOCIAZIONE TURISTICA ITALIANA45 9",
Touring Club Italiano, 1939
[12] Leon Krier, "ALBERT SPEER ARCHITECTURE 1932-1942", Archives d'Architecture Moderne,
1985
[13]Pino Scaglione, "EUR a Roma" Testo & immagine, 2000
[14] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、1979
[15] ディヤン・スジック、『巨大建築という欲望 権力者と建築家の 20 世紀』、紀伊国屋書店、2005
[16] Carlo Belli, "La citta fascista" Il Popolo di Brescia, 1931
[17] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、1979
イが訪問した Caseggiato degli Aurighi の発掘につい
10)
ても記録が残っている。その記録内容は全て発掘の状
況や発見された碑文の内容等についてであり、ボッタ
イの訪問を含めファシストに関する情報は全く記録さ
れていない。当時の写真からファシズムの関与と注目
左 写真 7. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(Caseggiato degli Aurighi)
1938
【注釈】
1)1921 年 11 月にファシスト党は結成し、1943 年 7 月に崩壊したため、その期間である 1921-1943
年をファシズム期と定義する。参考文献 [14]p14 、2) 参考文献 [4]p224、3) ヒトラーは「今日の我々の
大都市には、市の景観に大きな位置を占める記念建造物が存在しない。それはある時代全体の象徴とも
見なしうるものだ。こうしたことは、古代の都市では実際に見ることができた。」と述べている。参考
文献 [15]p62、4) 参考文献 [3]p109-118、5)Gruppo7「ラッセーニャ・イタリアーナ」誌上に掲載され
た4篇の建築宣言によってその名を築いたグループ。参考文献 [17]p22、6) 参考文献 [16]、7)「ローマ
の合理主義者」とここで記したものは、A. リベラと MIAR ローマ支部会員を示す。8)『La Casa Bella』
や『Casabella』等、現在まで雑誌名が 7 度の変更をみせるが、本稿ではそれらを総称して『カーザベッ
ラ』と呼ぶ。9)Michael Heinzelmann(1966-) ケルン大学考古学専攻教授。著作 "Die Nekropolen von
Ostia", Pfeil, Dr. Friedrich, 2000 等。10)「発掘場所」の欄の記録を見た限り、長期間連続して記録
されていたのは「デクマヌス通りマリーナ門方向」、「地区 A・B・C」、「発掘区 4」、「Caseggiato degli
Aurighi」、
「発掘区 5」、
「デクマヌス通り」、
「マリーナ門」、
「山頂」、
「パラッツォ・インペリアーレ方向」
の9つのみであった。この 9 つの中で唯一「Caseggiato degli Aurighi」のみが建築物単体の名称であっ
たことは特筆すべき点である。
中 写真 8. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(フォーチェ通り)
1938
右 写真 9. 国民教育大臣と E42 最高責任者のオスティア遺跡訪問 1940
テヴェレ川
ロマーナ門
円形劇場
写真 8.
カピトリウム
デクマヌス通り
フォロ
フォーチェ通り
写真 7.Caseggiato degli Aurighi
デクマヌス通り
ラウレンティーナ門
【図版出典】
( 図 1.) 参考文献 [1] より筆者作成、( 図 2.) 参考文献 [2]p17 より筆者作成、( 図 3.4.) 参考文献 [3]、( 図 5.)
参考文献 [4]、( 図 6.7.10.) 参考文献 [5]、( 図 8.9.) 参考文献 [6]、( 図 11.) 筆者作成、( 図 12.) 参考文献
[7] より筆者作成、( 図 13.) 参考文献 [7]、( 図 14.) 参考文献 [7]、( 表 1.2.) 参考文献 [8] より筆者作成、
( 表 3.) 参考文献 [9] より筆者作成、( 表 4.) 参考文献 [10][11] より筆者作成、( 写真 2.) 参考文献 [12]、( 写
真 1.3.4.6.10.) 筆者撮影、( 写真 5.) 参考文献 [13]、( 写真 7.8.9.) オスティア遺跡考古局文書館写真部
門より入手
マリーナ門
左 図 13. オスティア遺跡の地図と写真 7.8. の撮影位置
右上 図 14.Caseggiato degli Aurighi 平面図、右下 写真 10.Caseggiato degli Aurighi
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