イタリア近代建築とオスティア遺跡発掘(1938-1942) —ファシズム期ローマの背景にみる古代ローマ遺跡— 福田 哲也 1. 研究の背景と目的 インペリアーリ通り )、「海の道」( 現在のテアトロ・ 第一次世界大戦後、イタリアのファシズム、ドイツ ディ・マルチェルロ通り ) が挙げられる ( 図 2.)。 のナチズムに代表されるように欧州諸国では全体主義 「帝国通り」は古代ローマ建築コロッセオとヴェネ が興隆した。この時期の建築・都市計画に関しては、 ツィア広場を連結する長さ 850m、幅 80m の直線道 鵜沢隆、北川佳子、小山明等の既往研究があるが、そ 路である。その開設目的は、ファシズムと古代ローマ れらはファシズムと密接に関係していた合理主義や の「連続性」の可視化により、ファシズムの権威性を ジュゼッペ・テッラーニ、またはナチズムに関するも 誇示することであった。 「帝国通り」開設の際、古代ロー のである。当時のローマではファシズムによって活発 マ遺跡が発掘されたが、それらは十分な調査・研究も に遺跡発掘が推進されており、ファシズム期終盤に当 行われることなく、再び埋め戻され、「帝国通り」の たる 1938-1942 には、ローマ市中心部から南西 24 ㎞ 犠牲となった。これにより多くの古代ローマ遺跡は「破 に位置するオスティア遺跡で、国家政策により大規模 壊」された。このようにムッソリーニは同じ古代ロー な発掘が行われた。しかし、このような古代ローマ遺 マ遺跡の中でも、利用価値の有無により「選別」と「破 跡がファシズムに及ぼした影響に焦点を当てた研究は 壊」を使い分けていた。 日本では行われていない。 また、「海の道」は、ヴェネツィア広場からサンタ・ 本稿ではファシズム期のローマの建築の流れを把握 マリーア・イン・コスメディン教会付近へと続く道路 するとともに、その裏側に存在する古代ローマ遺跡と であり、ローマ市内とオスティア、ティレニア海を繋 の関係を指摘し、1938-1942 のオスティア遺跡発掘 ぐ高速道路と連結している ( 図 11.)。「海の道」は「帝 をイタリア近代建築史の中に位置づけることを目的と 国通り」のように歴史的価値のある建築物を利用した し、以下の構成で進められる。2章でファシズム体制 道路開設とは異なり、帝国を地中海へと拡大させたア のもとローマで行われた都市改造の背景、内容を述べ ウグストゥスとの「連続性」の構築を意図したもので るとともに、ナチズムベルリン改造計画との相違点を あった。 1) 2) 指摘する。3章では「ローマの合理主義」と「ミラノ レ川 の合理主義」の乖離までの流れを述べ、その要因を指 テヴェ 摘する。4 章では、2、3章のまとめを書く。5章では、 2009 年夏オスティア遺跡考古局文書館で入手した当 時の資料をもとに、1938-1942 に行われたオスティア ⇩ Piazza 写真 1. ファシズム期に改造された通りのファサード ヴェネツィア広場 so Navona 破壊 demolizione l Cor Via de 遺跡発掘の意義について述べる。最後に6章で研究の rio to Vit まとめを書き、総括とする。 eⅡ ll ue an Em Cors o Vitt orio コロッセオ 2. ローマ都市改造 2.1. 道路開設 Ema nue lleⅡ 1930 年 代、 ム ッ ソ リ ー ニ に よ る 道 路 の 開 設 は 破壊 + 改築 ⇩ e 過 激 化 し、 様 々 な 時 代 の 遺 産 を 考 慮 せ ず「 破 壊 テヴェレ川 demolizione e ricostruzione re ve te demolizione」が行われた。また、道路拡張のみに留ま ⇩ 帝国通り らず「破壊+改築 demolizione e ricostruzione」という方 法により、通りのファサードがファシズム特有のデザ 海の道 インに統一された ( 図 1. 写真 1.)。過激化した道路開 帝国通り 改築 設の代表例としては「帝国通り」( 現在のフォーリ・ 18-1 0 海の道 500m 図 1. ローマ都市計画 1931 年 図 2.「帝国通り」、「海の道」開設前後 左 表 1. 第 1 回イタリア合理主義建築展の会場と参加グループ一覧 右 表 2. 第 2 回展イタリア合理主義建築展の参加者と所属 MIAR 支部名一覧 _'KNYJ4'/(.` MZ]S ' ( ) * + , - . / \LQP \LQP PYR []V []V []V []V MZOU-5WXR D[]VC 5 H I=MZ]SH; ^2103@D0&YTX8'/(.B[]VB> YhAd` )'", ";IMelS MeS +eiD8le _dS +3E>9e hl^ #dUN6d hl^ ^!CDMZ]S )'", E<D[]VC 図 3. 新議事堂大ドーム計画案 アルベルト・シュペーア 1937-40 m5Ge30! n YhAd` (TfLICle1(W4DlP1&]IelP +\IMlP _dS/ _dS "gPblPb \hlPb %^iEIK41&_;IJ4 UNj2 +\IMlP1$"AeIW4lP1&^iWgL4 _dS/ &_iQIH &<I]lP ,^hIJ:kLIdkhI< hl^ hl^ &<iH8hIK4 )H8g?lP1*MLE>lP _dS .UdL4lP hl^ ! -@IJ4 MeS "U7gIG Me9EK hl^ "LId@3 _dS *LcfBhW MeS $W2fL4 _dS (W4DlP1&WgIK1"eZd1&]IelP _dS/hl^ &W4;elP hl^ ! &U=lS hl^ &[iC[lR (VIHOlM MeS Ugfa hl^ $XI] hl^ )eNfW4 hl^ ,hEHb5fN _dS 44:<KNYJ#C9@?6G &WgIK _dS ,fEK4H8Ie hl^ ^D2103C?DA7 &?d MeS "CfMeE DcRlj ^[]VC @99?":<FCD5 442103[]V$CE<D5"% 440&YTXH; $"AeIW4lP1&^iWgL4 hl^ )d\ D8Sj2 ! "E<f[Ie $FIMCE hl^ MeS ! &gj4aiGfHlP1&U=lS MeS &KIdlP _dS "eZd hl^ &Mi\d UNj2 "eZd1)eNfW4 hl^/ &j8NgE Te "eZd1&]IelP hl^_dS (j49IK4 hl^ もたらしたものはローマの合理主義者達の活動の域の 拡大であった。つまり、「ミラノの合理主義」のロー 写真 2. ベルリン都市改造計画写真 2.3. ナチズムベルリン改造計画 マでの浸透、体制への介入を試みることで「イタリア 図 4. ヒトラーのスケッチ 1925 合理主義」を確立しようとしたリベラの意に反して、 1938 年に公表されたベルリン改造計画全体案 ( 写 結果的に「ローマの合理主義」を確立させたのである。 真 2.) は、幅員 156m の南北軸線道路とそれに直交す 3.2. ローマの郵便局設計競技(1933 年) る東西軸線道路、環状アウトバーン網等に見られる大 更に 1933 年、国家プロジェクトとして行われたロー 規模な交通計画であった。また、ヒトラーは南北軸の マの郵便局の設計競技で、A. リベラがアヴェンティー 北端に高さ約 300m を誇る新議事堂大ドーム ( 図 3.) ノ郵便局 ( 写真 3.)、M. リドルフィがボローニャ広場 を計画していた。ヒトラーは古代ローマで見られるよ 郵便局 ( 写真 4.) に入選した。両者は MIAR のローマ 3) うな都市のシンボルを希求しており、ベルリンの新議 の代表的メンバーであり、この設計競技にて「ローマ 事堂大ドームがそれを担うと考えていた。その設計者 の合理主義」は実現を迎えた。 は A. シュペーアであるが、実情はパンテオンを模倣 したヒトラーのスケッチ ( 図 4.) が計画案の基盤であ 4) る。まさにヒトラーが目指した「古代の都市の公共の 記念建造物」そのものであった。 このようにファシズムローマ都市改造では、古代 写真 3. アヴェンティーノ郵便局 1933-34 A. リベラ 写真 4. ボローニャ広場郵便局 1933-34 M. リドルフィ 3.3. リットリオ宮設計競技(1934,1937 年) ローマより積層し続けた都市の歴史に対して「選別」 1934 年にリットリオ宮 ( ファシスト党ローマ中央 と「破壊」という方法を用い、強弱・疎密を与えるこ 本部 ) 設計競技が行われた。ムッソリーニの審査介入 とで、ファシズムへと続く「歴史の ( 連続性の ) 強化」 が大きな混乱を招く結果となり、結局一等案は選出さ を図ったのに対して、ナチズムベルリン改造計画は「歴 れず、1937 年の第二次設計競技へと持ち越された。 史の始点」の創出を目指していたと言える。両者の計 古代ローマ遺跡コロッセオを背景とした、ファシズ 画は、ともに変革性とダイナミズムを過度に演出した ムの象徴としての建築を要求されたことから ( 表 3.)、 暴力的な歴史の一部であることに間違いはないが、両 多くの計画案はシンボリック、モニュメンタルな表現 計画間には差異が存在し、それは古代ローマ遺跡との であった ( 図 5-10.)。また、設計競技を通して古典化 距離感の差から生じたものであった。 する「合理主義」が可視化されたため、それを拒絶す 3. ローマの合理主義 る「ミラノの合理主義者」により、様々な議論が巻き 3.1. 合理主義建築展(1928 年、1931 年) 5) グルッポ7の形成によりミラノで合理主義運動が誕 表 3. 第 1 次リットリオ宮設計競技要項 生した。ローマから唯一グルッポ7に参加していた A. リベラは、合理主義運動の全国規模への拡大と体制 への介入を目論み、1928、1931 年にローマで合理主 +CA $`8d^@TX0_$ +DA 8dOc(hDGH7SVInzlkOc_ryxo_*&P>SfZ`]cUI8d^@TXjs}< `[KeR\ +EA 1js}_;]/^'3r~h2Qe +FA (_BS`:5_qx{lmv_u ph4N]LR\ +GA W_)_\!^%?_="h#MR\J,_rx|`I_-\_9. _b\^IjtwPa6iY S\S\TXb_\]gM 義建築展を開催した。その結果、第2回展の開会式翌 日の政府機関紙には「ムッソリーニはその運動に同意 6) を示した」と掲載され、体制の支持を獲得したと考え られる。しかし、両展覧会に占めるローマの合理主義 7) 者の割合が高いように ( 表 1.2.)、この展覧会が事実上 第1次リットリオ設計競技計画案 1934 年 上左 図 5.A. リベラ案、上中 図 6.M. パランティ案、上左 図 7.B.B.P.R. 案、 下左 図 8.G. テラーニ A 案、下中 図 9.G. テラーニ B 案、下右 図 10.E. デル・デッビョ、フォスキーニ案 18-2 起こされた。その一端は 1933 年から 1938 年の『カー ローマ中心部 8) ザベッラ』において確認することができる。 EUR 体制との妥協の中で徐々に変容した「ローマの合理 テヴェレ川 主義」は、リットリオ宮設計競技を期に「ミラノの合 ティレニア海 オスティア・アンティカ(オスティア遺跡) リド・ディ・オスティア 理主義」と完全に乖離した。そして、その引き金となっ 古代から存在する土地 近代に埋め立てられた土地 たのは「古代ローマ遺跡を背景とした近代ファシズム ローマ中心部からティレニア海へ 向かう高速道路 写真 5.EUR 図 11. ローマ地図 建築」という構図の登場であったのは間違いなく、そ れはリットリオ宮設計競技の結果が物語っている。 4. 小結 2、3章より、古代ローマ遺跡はファシズム期ロー マの建築・都市に対し以下のように機能したと言える。 写真 6. オスティア遺跡 図 12.1938-1942 の発掘範囲 1)そのシンボリックさゆえに、明確な時間軸を都市 覧会は中止となった。 に与えるため、ファシズムの都市改造の利用対象と 5.2. オスティア遺跡発掘(1938-1942) なった。それが起因して「選別」と「破壊」による オスティアは、紀元前4世紀テヴェレ川河口を防衛 建設活動が促進し、「ファシズムへと続く歴史=連続 するために創建された軍事植民都市であり、ローマ市 性」という新しい概念がファシズムの中で定着したこ の遠洋航路用の港として繁栄し、都市域を拡大させた とで、「歴史の最先端」として選択された「合理主義」 ( 図 11.)。しかし、紀元後 3 世紀には外敵の侵攻とマ はファシズムと接近した。 ラリアの蔓延で都市が衰退し始め、紀元後 5 世紀にテ 2)近代ファシズム建築の背景として登場することに ヴェレ川の氾濫により都市は土砂に埋もれた。そのた より、それらを古典化させる要因となり、様々な議論 め当時の町並みの保存状態は良好である ( 写真 6.)。 を巻き起こさせた。 イタリア政府によりオスティアで本格的に発掘が開 3)それとの距離感が作用し、ローマは他都市と異な 始されたのは 1890 年以降であり、発掘は現在まで継 る都市計画に至った。 続して行われている。オスティア発掘史上最も集中的 このように、古代ローマ遺跡を回転軸とし、その周 に大規模な発掘が行われた期間は 1938-1942 であり、 辺を回転している多くの事象が複雑に絡み合っている 発掘主任グイド・カルツァのもと遺跡の約3分の2に のがこの時代の特徴と言える。また、 「リットリオ宮」、 当たる 17ha の範囲が明るみに出された。発掘範囲は 9) ミカエル・ハインツェルマンにより後に明らかにされ 「コロッセオ」、「帝国通り」が示す「ファシズムへと 続く歴史=連続性」の構図は、1938-1942 に飛躍的に ている(図 12.)。 スケールを拡大させ、ローマにて実現することになる。 5.2.1. 発掘主任グイド・カルツァの思想的背景 5. 1938-1942 のローマ 1938-1942 発行の雑誌に掲載された、当時の発掘 1938-1942 のローマでは E42 開催に向けた EUR 建 主任グイド・カルツァの記事に注目し、オスティア遺 設、オスティア遺跡発掘が行われた。 跡考古局文書館書庫部門にてそれらを閲覧した。カル 5.1. E42( ローマ万国博覧会 1942) ツァは 5 年間で 24 のオスティアに関する記事を書い EUR( 写真 5.) とはファシスト革命 20 周年にあたる ており、1938 年の専門誌『Gnomon』と 1939 年の 1942 年完成を目指したローマ万国博覧会 (Esoposizione 一般紙 『Le vie d'Italia』 では、 以下のように発掘の意義、 Universale di Roma) の略称である。ローマ郊外に位置す 表 4.1938-1942 に発行された雑誌の E42 に関する記事の内容一部(カルツァ著) る EUR は現在も地名として残っている ( 図 11.)。 ne vĀ6ĀéÝíû vsÇ2 ªýāõ5$Ç&WÇIÇLR4®Ө5$ Ç#M;&®ÔâçìÜÛ´¨ 6ýāõ$qØOÆ[o¸ÕÔï°(ÈÉÊÁÇýāõÇ_bjÆ~}¸Õ¨P¸ ÕÔƯů©« E42 とも呼ばれるこの博覧会は、1935 年当時ロー マ総督であったボッタイがムッソリーニに進言したこ とが発端であり、会場である EUR 地区は博覧会期間 後ローマ新都心として機能することを期待されてい た。ファシズムの未来を背負う新都市 EUR の建設に は 1941 年までに 3 億 7000 万リラが投入されていた §¬£¤¢¤£6 ªýāõ$qÆ ¶¾âçìÜÛĀÛþ ªâçìÜÛȲ½ÒµºýāõÇôþóÝÏàûäùāðƨY%ÇøāýëñÇZVà ýāõÃÇ g=Ø`w¸¼°Ô+%®ԩ ìÜãÇlZ« ªÑÓr0Æ \ÅÿÜæ÷þØwz¹ÁÎÒ°¾Íƨ$1DcÆÑÓ4 ¯Ø¶¾©« Æo¹Çk ªâçìÜÛÇ*pNÅ[CȨ6Ç$qØi@¹ÁîÞāêßăöëèúāïĄÆÑÀÁS.¸ Õ¨'ÎÕ¾ýāõ4ÇÉÊ ØlZ¸¼Ñ°Ã¹Á¯¾©òáýĀýõāð¨5$Ó¨ñù ìÜāðǨàûäùāð¨ôþóݨÛòúãLR&Ç[CÇѰŨÝéúÛÇi,ÇÇ*p NÅMȨ7ÆÎ-f¹Á¯¾¨Î¹µÈV[ÆÈm×ÕÁ¯Å¯X?®À¾©½Ç¾ÍîÞāêß È¨ìÿßü3TÇýāõLR4ùÁW|GÆÑÓÆhK¹¾âçìÜÛƨºÑ°ÆU ^Ø9Á¸¼Ñ°Ã¹¾©« ¬¦ ¥¡ 6 ª*pNÅi,MȨyJÇ8*¸¨/mǸбƨi,ÇQƲ¯ÁÝéúÛË¾È ªýāõ$qÆ )$¸±Î´Å¯ÉÄ®À¾©« ¶âçìÜÛÈlÔ« ªăâçìÜÛØĄ:V¸¼¾Ç¿Ă·Õ´Ø>!¹Á¯ÔdzxjÇ]¸ÙȳԿְ³©¾¿ ýāõÆÇÌ+%»ÔýāõdaÇuBùÁǨòÚåçíÆÑÔ$\Ç®Ôi, Mﰷîԩ« ªq´Î¾Ò»Â®Ö°ÝéúÛÇEFÇ8*ÅHȨâçìÜÛÃÃÎƶÔÇ®ԩ« が、第二次世界大戦の影響により開発は中断され、博 ªòÚåçí" 6s<Çqăýāõ$qĄÇØOÆ{ØFҳƻÔ®ְâ çìÜÛØtÕÔ·ÃȨýāõ5$ÇÿÜæ÷þÇ-AØ>!»Ô®ְ©« 18-3 または発掘と E42 との関係を示していた ( 表 4.)。 が予想される Caseggiato degli Aurighi であったが、 ⅰ)オスティアが古代ローマ研究において重要であり、 発掘誌を見た限りでは発掘報告にその根拠は見られな 現代との連続性を示す存在であること かった。つまり、「発掘の実質」には見かけ上政治的 ⅱ)象徴性(発掘のタイミング・発掘規模と速度・ロー 圧力がかかっておらず、学術的独立性は保たれていた。 マの地域性と歴史性)を帯びた発掘であり、その発掘 6. 結 を行うファシズムの偉大性を強調していること 1938-1942 の 古 代 ロ ー マ オ ス テ ィ ア 遺 跡 発 掘 は、 ⅲ)E42 の開催、つまり新ローマ都市 EUR の完成時 ムッソリーニによって「選別」された象徴性を帯びた 期と古代ローマ都市オスティアの全貌が明らかになる 発掘であり、新都市 EUR 建設とともに進行・実現す 時期を意図的に合わせていること るよう演出されていた。その目的は「未来の展望」と ⅳ)オスティアと EUR を物理的にも感覚的にも繋ぐ 「栄光の歴史」の誇示を同時に行うことにより、その ために見通しの良い道路が存在すること 二つの事項から導かれた時間軸の中心に「偉大なファ 5.2.2. ファシスト党幹部ボッタイの遺跡訪問 シズム」を位置づけることであった。これらのことか オスティア遺跡考古局文書館写真部門では、遺跡の ら、イタリア近代建築史において「オスティア遺跡発 写真が地区・建物・年代別で保管されており、遺跡訪 掘(1938-1942)」は「EUR」と並列関係として捉え 問者・発掘者等の人物が写った写真も年代別で保管さ ることができる。 れていた。タイトルを参考にし、1938-1942 の遺跡訪 さらに、両者を繋ぐ道 ( 海の道 ) についても言及さ 問者・発掘者等の写真を確認したところ、ファシスト れていたため、 「EUR」、 「オスティア遺跡」、 「海の道」は、 党幹部ボッタイまたは E42 最高責任者等の写真が 3 枚 「リットリオ宮」、「コロッセオ」、「帝国通り」が示し 存在した ( 写真 7.8.9.)。これらから、ファシスト党と ていた「ファシズムへと続く歴史=連続性」の構図の E42 関係者が「発掘後の遺跡」に実際に注目していた 拡大であったということも指摘することができる。 こと、また、ボッタイが Caseggiato degli Aurighi( 図 一方、ファシズムによって発掘後には政治的に遺跡 14. 写真 10.) を訪問したことが分かる ( 図 13.)。 を利用されたオスティアであったが、当初より研究者 5.2.3. 発掘誌からみる考古学的側面 によってその発掘の学術的価値は認められていた。ま オスティア遺跡考古局文書館歴史部門には発掘誌が た、発掘誌によれば、「発掘の実質」である学術的部 保管されており、1938-1942 の発掘は発掘誌 24 巻か 分の純粋性は保持されつつ進行されていたと言え、そ ら 28 巻にあたる。この発掘誌には日付、発掘場所、 そしてその日の発掘の情報が記録されており、ボッタ れは当時のオスティア遺跡発掘の一つの側面である。 【参考文献】 ※以下は参考文献の一部であり、参考文献一覧は本論に記載している。 [1] Antonio Cederna, "MUSSOLINI URBANISTA", Laterza, 1979 [2] 井上章一、『夢と魅惑の全体主義』、文春新書、2006 [3]Alex Scobie, "HITLER'S STATE ARCHITECTURE The Impact of Classical Antiquity", College Art Association, 1990 [4] 藤澤房俊、『第三のローマ イタリア統一からファシズムまで』、新書館、2001 [5]Terry Kirk, "the architecture of MODERN ITALY", Princeton Architectural Press, 2005 [6]『SD』8306、鹿島出版会、1983 年 6 月 [7]Guido Calza, "SCAVI DI OSTIA TOPOGRAFIA GENERALE", Istituto Poligrafico e Zecca dello Stato, 1996 [8] 北川 佳子、入江 正之、「イタリア合理主義建築展とそれに伴う MIAR の活動について」、建築雑誌、 昭和 55 年 11 月号 [9]『日伊文化研究』第 32 号、日伊協会、1994 年 [10]"Gnomon14", Princeton University Press, 1938 [11] "LE VIE D'ITALIA RIVISTA MENSILE DELLA CONSOCIAZIONE TURISTICA ITALIANA45 9", Touring Club Italiano, 1939 [12] Leon Krier, "ALBERT SPEER ARCHITECTURE 1932-1942", Archives d'Architecture Moderne, 1985 [13]Pino Scaglione, "EUR a Roma" Testo & immagine, 2000 [14] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、1979 [15] ディヤン・スジック、『巨大建築という欲望 権力者と建築家の 20 世紀』、紀伊国屋書店、2005 [16] Carlo Belli, "La citta fascista" Il Popolo di Brescia, 1931 [17] V. グレゴッティ、『イタリアの現代建築』、鹿島出版会、1979 イが訪問した Caseggiato degli Aurighi の発掘につい 10) ても記録が残っている。その記録内容は全て発掘の状 況や発見された碑文の内容等についてであり、ボッタ イの訪問を含めファシストに関する情報は全く記録さ れていない。当時の写真からファシズムの関与と注目 左 写真 7. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(Caseggiato degli Aurighi) 1938 【注釈】 1)1921 年 11 月にファシスト党は結成し、1943 年 7 月に崩壊したため、その期間である 1921-1943 年をファシズム期と定義する。参考文献 [14]p14 、2) 参考文献 [4]p224、3) ヒトラーは「今日の我々の 大都市には、市の景観に大きな位置を占める記念建造物が存在しない。それはある時代全体の象徴とも 見なしうるものだ。こうしたことは、古代の都市では実際に見ることができた。」と述べている。参考 文献 [15]p62、4) 参考文献 [3]p109-118、5)Gruppo7「ラッセーニャ・イタリアーナ」誌上に掲載され た4篇の建築宣言によってその名を築いたグループ。参考文献 [17]p22、6) 参考文献 [16]、7)「ローマ の合理主義者」とここで記したものは、A. リベラと MIAR ローマ支部会員を示す。8)『La Casa Bella』 や『Casabella』等、現在まで雑誌名が 7 度の変更をみせるが、本稿ではそれらを総称して『カーザベッ ラ』と呼ぶ。9)Michael Heinzelmann(1966-) ケルン大学考古学専攻教授。著作 "Die Nekropolen von Ostia", Pfeil, Dr. Friedrich, 2000 等。10)「発掘場所」の欄の記録を見た限り、長期間連続して記録 されていたのは「デクマヌス通りマリーナ門方向」、「地区 A・B・C」、「発掘区 4」、「Caseggiato degli Aurighi」、 「発掘区 5」、 「デクマヌス通り」、 「マリーナ門」、 「山頂」、 「パラッツォ・インペリアーレ方向」 の9つのみであった。この 9 つの中で唯一「Caseggiato degli Aurighi」のみが建築物単体の名称であっ たことは特筆すべき点である。 中 写真 8. ファシスト党幹部ボッタイのオスティア遺跡訪問(フォーチェ通り) 1938 右 写真 9. 国民教育大臣と E42 最高責任者のオスティア遺跡訪問 1940 テヴェレ川 ロマーナ門 円形劇場 写真 8. カピトリウム デクマヌス通り フォロ フォーチェ通り 写真 7.Caseggiato degli Aurighi デクマヌス通り ラウレンティーナ門 【図版出典】 ( 図 1.) 参考文献 [1] より筆者作成、( 図 2.) 参考文献 [2]p17 より筆者作成、( 図 3.4.) 参考文献 [3]、( 図 5.) 参考文献 [4]、( 図 6.7.10.) 参考文献 [5]、( 図 8.9.) 参考文献 [6]、( 図 11.) 筆者作成、( 図 12.) 参考文献 [7] より筆者作成、( 図 13.) 参考文献 [7]、( 図 14.) 参考文献 [7]、( 表 1.2.) 参考文献 [8] より筆者作成、 ( 表 3.) 参考文献 [9] より筆者作成、( 表 4.) 参考文献 [10][11] より筆者作成、( 写真 2.) 参考文献 [12]、( 写 真 1.3.4.6.10.) 筆者撮影、( 写真 5.) 参考文献 [13]、( 写真 7.8.9.) オスティア遺跡考古局文書館写真部 門より入手 マリーナ門 左 図 13. オスティア遺跡の地図と写真 7.8. の撮影位置 右上 図 14.Caseggiato degli Aurighi 平面図、右下 写真 10.Caseggiato degli Aurighi 18-4
© Copyright 2025 Paperzz