1973年のニューヨーク、セントラル・パークを辿る

1973年のニューヨーク、
セントラル・パークを辿る―西 翼(YCAM)
1973年のニューヨーク、
セントラル・パークを辿る
YCAM)
西翼
(アシスタント
・キュレーター、
Panorama of the north of Manhattan, from the Rockefeller Center, New York|original figure: Martin St-Amant, Wikipedia,
100万年前のセントラル・パークにいることを想像してもらいた
成した、
ニューヨーク州立法府が定めたその名の通りの中央公園であ
ニューヨーク、セントラル・パークそして、その造園計画を進めたフレデ
セントラル・パークは都市が効率化を求めて、無駄を排し、
その純粋な目
い。4000マイルの氷河の壁、厚さも2000フィートある広大な
当時のアメリカはイギリスとの独立戦争を経て、さらに南北戦争を
る。
リック
・ロー・オルムステッドの業績を取り上げることは、公園そのものの
的のために無機質な様相へと変貌していく環境と、それと平行して都市
氷河の板の上に、あなたは立っていることになる。氷河が南
終え、
民主国家としての歩みを着実に進めていた時代と言える。世界的
環境と機能、そして公園を内包する都市との関係から読み解く必要が
に暮らす主体として、休息やくつろぎを求める市民の要求に応えるも
側から少しずつ崩れ、瓦解し、裂けていることを、
巨大な氷河の
に見れば「セントラル・パーク」以前にも
「公園」はもちろん存在していた訳
ある。つまり考察自体が、歴史、政治、経済、生物学など非常に広範な議
のとして立案、設計された。つまり、急激に進展する産業の機械化と効
上にいると気づくことはない。その氷河の運動の痕跡として、
だが、
それは民主化以前の支配者が所有していた庭園の所有者を市民
論を必要とするため、本論考ではやや論点を絞って、
セントラル・パーク
率化、
そして平行して進展した民主化の総体が「近代化」
を意味するなら
凄まじい量の岩石の屑をその場所に残していくことになる。現
へと移譲し、王宮の庭園や、特権階級者が娯楽としての狩猟を楽しむ土
本章で
とオルムステッドの業績の特筆すべき点を以下の4点にまとめ、
ば、
セントラル・パークはまさに「近代化」
そのものの産物ということもでき
在、回転木馬があるあたりは、凍てついた深度にあり、氷河の
地を市民へと公開したものが一般的であった。当然、民主化以前、封
概観してみたい。
るだろう。
動きによって堀刻まれ、岩盤の表面にもたらされた痕跡にあ
建制の時代には「公園」は存在せず、権力者が自らの権威を誇るように、
なたは気づくことはできない[1]。
所有地を庭園として整備し、限られた人のみがアクセスできる場所とし
て存在していた。つまり民主化以前の一般庶民にとって、住環境と併置
ニューヨーク、マンハッタン島に東西0.8キロ、南北 4キロにわたって広が
される
「公園」
は存在せず、私たちが現在持っているような、あたり前の
るセントラル・パーク。1960年代にかけて、アメリカのアース・ワークと呼
ように公園がある、
という認識は一般的ではなかった。別の側面から考
ばれる、大地の彫刻ともいえる作品を制作した代表作家の1人ロバー
えると、民主化と平行して進展した、工業化により、人口が都市部に集中
ト・スミッソンは、
このセントラル・パークの造園を指揮したフレデリック・
し、住環境が劇的に変動したことも、公園の整備を後押しした側面があ
ロー・オルムステッドをアース・ワークの先駆者として評価している。オル
る。
–
1.民主的な社会に必要な公共の保養の場を提供
2.都市と自然の共存
2.都市と自然の共存
–
3.歴史過程と急激な発展に伴う都市の劣悪な環境を改善
4.造園を景観の問題へと展開
根本的には人工的に築かれた都市空間の中に、
緑地や池、
林や
しかし、
広場を持つ巨大な公園を整備することは、
都市全体の設計マスタープ
–
1.民主的な社会に必要な公共の保養の場を提供
–
ランに関わる問題である。セントラル・パークの敷地となった土地は南
北にのびるマンハッタンのほぼ中心に位置しており、
1811年に採用され
た碁盤の目状の交通網による都市整備計画との共存を前提とした都
ムステッドは公園の計画の際、数百万年前に氷河がこの土地の地形
詳しい考察は後述するが、本論考の前提として、時代や社会状況によっ
上に引用したようにセントラル・パーク
市設計の中に組み込まれる必要があった。直行する道路で均一な区
にもたらした変化を調査し、ニューヨークの都市開発の中で劣悪な状
て
「都市」
と
「公園」
に代表される、
「人と自然」の関係は常に変化してき
は歴史上はじめてつくられた公園とい
画を整備し、用地全体を滞りなく都市として開発する
「1811年委員会計
う訳ではない。だが、入植者がアメリカ
画」
という設計計画は将来的なニューヨークの発展を考慮に入れた、先
況におかれた土地を、人為と自然の過程(プロセス)が行き交う緑地へと
たものと考えたい。それを踏まえた上で、現在、私たちの
「人と自然」
の
変化させた。セントラル・パークは設計当初から自然の長期的変動と、
関係を描く典型となっている
「公園」
の原型をニューヨーク
「セントラル・
大陸へと渡り、
ヨーロッパの封建的社会
見的な計画であったと評価されている。だが、
一方で、人工的で均一な
人々の使用による改造や荒廃が念頭に入れられ、多層的な時間の中
パーク」
に見いだすこと、さらに芸術と自然の枠組みにおいて、
1960年
から独立を果たし、民主主義という新た
街の印象は景観の単調化を招いた。大都市の中心にセントラル・パーク
で人々と自然を分け隔てなく扱うよう作られた。
代、
70年代に活躍したスミッソンの目を通して考察された「セントラル・
な社会基軸を標榜した街の象徴として
の造園が容認された背景には、このような景観の単調さに抗う機運が
–
パーク」
を辿ることで、スミッソンとフレデリック
・ロー・オルムステッド、双方
ニューヨークという街は整えられていく。
あったといえるだろう。
現在、私たちに与えられている住環境の中で、
「公園」
の存在はあたり
に見いだすことのできる思考の構造を取り出してみたいと思う。
ヨーロッパに脈々と受け継がれている歴
史から自由になり、新天地で試みられた
前の存在すぎて、それがなぜ必要なのか、
またなぜそこにあるのかと
実験の中で、
セントラル・パークは公園の
集合住宅や住
いったことを考える機会は少ない。自宅に庭がなくても、
宅地には必ず遊具やベンチが整備された公園が併置され、市街地に
オルムステッドのセントラル・パーク造園計画
おいても、都市のスケールにあわせた緑地や公園が当然のようにおか
使用者である
「市民」に提供されるもの
として造園された。都市に暮らす一人一
れている。
これは
「都市公園法」
が1956年に日本で制定されたことによ
セントラル・パークは世界で初めての公園ではない。
ロンドンの
人を受益者とする社会において、
「マン
り、公園の配置基準が定められ、そこに暮らす人、
1人あたりに対して一
ハイドパークは1652年に市民に開放されており、ルクサンブー
ハッタンの暑く無味乾燥な幾何学状の
定の公園の面積が保証される仕組みが策定されたことに端を発してい
ルやベルサイユの王室庭園は1830年代に市民に解放されて
街路の中での生活を強いられている多
が配置されるという仕組
る。人が暮らす環境に対して、一定量の
「公園」
(中略)
しかし、
これらはすべて偶然に公共用地になった空
きた。
くの都市生活者のために、休息とくつろ
みは、法律により定められたものではあるが、
もはや私たちの住環境に
「公園」
が完全に浸透していると言い切ることもできる状況にある。
|01|
A map of Central Park from 1875
本論考で取り上げるニューヨークの
「セントラル・パーク」
は1876年に完
間であり、他の目的のためにつくりだされてきたものであった。
セントラル・パークは、公共利用のために特に計画された最初
の壮大なオープンスペースである[2]。
ぎとレクリエーションのための避難所」
[3]
を提供することがこの造園の根幹と
なった。
Original figure: Elizabeth Barlow Rogers (1987). Rebuilding Central Park –
A management and restoration plan. MIT Press(エリザベス・バーロー・ロジャーズ
亀山章
若生謙二
)よみがえるセントラル・パーク」
、
ソフトサイエンス社)
(監修)
、
(訳)
(1994「
p.40
都市機能と、
公園の実現のために、
用途
オルムステッドがとった戦略は、
の違いによって使用される動線を分けること、
また、それらの動線の高
さを調整することであった。公園の利用者ではないが、公園を横断する
必要のある市街地交通(当時は馬車道であった)
は、公園内で目立たずに横
切ることができるように、公園の地盤よりも一階層低く配され、
公園内
り、
このようなところでオルムステッドが仕事を始めたことがわ
の移動動線とは完全に分断されていた。公園の外周にある周遊道も、
[5]
かる
。
自然を享受できるようにオルムステッドは設計をおこなった。
人工的に造成された自然という、相矛盾した概念が両立してしまう公園
人々は整備と破壊
の本質にふさわしく、植物は生成と腐食を繰り返し、
を繰り返す。
そのようなセントラル・パークの姿をロバート・スミッソンは自
周囲と段差をつけ、植栽することにより市街地から遮断された環境を
確保している。これにより都市の中の公園に居ながらにして、その都市
不法定住者をはじめとした、セントラル・パーク予定地に住んでいた人々
ら散策しながら文章に書き起こしている。次の章では、スミッソンのアー
の機能を公園自体が疎外することなく、なおかつ公園の内部では都市
が、このために立ち退きを迫られたという事実もあるが、
ヨーロッパか
ティストとしての営為の特徴をまとめ、スミッソンがオルムステッドにい
の喧噪や均一さから解放される空間を担保した。オルムステッドが造園
らの移民と生活のための開発のために、
この土地がバランスを失い、
かに共感を感じ、
セントラル・パークを評価したかを考察するための足が
かりとしたい。
計画を進めていた当初は、
公園以南がニューヨークの中心部にあたり、
荒廃していたことは確かなことである。劇的に発展する都市の傍らで、
公園を横断する交通の必要性が明確にはなかっただけに、
この設計は
手をつけられずにいたそのような土地を人々の憩う場所へとオルムス
彼の先見性の一例を示すものだといえる。ただ、
そのために費やされ
テッドは変化させた。
た地盤を掘削する作業量は、当時の技術を前提にすると、膨大なもの
–
であったことが想像できる。
4.造園を景観の問題へと展開
–
–
3.歴史過程と急激な発展に伴う都市の劣悪な環境を改善
オルムステッドはランドスケープ・アーキテクトという肩書きを名乗った歴
その中でも公園中央部の、ひと際大きな湖に面する
「ランブル」
と呼ば
–
史上、最初の人物といわれている。オルムステッドの時代から遡ってみ
れる散策のための入り組んだ遊歩道の設計にあたっては、オルムステッ
このような大規模な事業を進めるにあたり、用地買収から土木工事、造
ても、
それまで庭園設計をおこなう職業や、庭師と呼ばれる職業もやは
ドの入念なメモが残されており、セントラル・パークの景観設計における
園まで莫大な費用を要したことは容易に想像できる。税金や寄付金が
景
り存在していた訳だが、公園を設計する仕事をあえてランドスケープ、
核心部であると認識されている。起伏に富んだ、森林の中の入り組ん
これにあてられたが、用地買収の際に、公園の受益者を隣接する地域
観や風景に携わる職業としたことは、
その問題意識の変化を物語って
だ小道からの眺望において、オルムステッドは歩道に近い場所には色
に設定したことにより、受益負担が可能な富裕層が公園敷地に隣接す
いる。景観を設計する人、という大まかな括りは理解できるものの、
ス
の濃い低木を配し、歩道から離れた場所に色の薄い葉の茂みを植栽す
る土地にあつまることになった。これは公園整備により環境改善効果
ケールが変化するだけで、個人の邸宅の庭師、造園家から公園の設計、
るなど、さまざまなアイディアが盛り込まれた。それにより、ランブル内の
が見込まれ、それによる利益が評価された証左といえるだろう。これ
公共スペース、はたまた都市設計家までこのランドスケープ・アーキテ
歩道を散策する人の目には、絵画で使用されるような遠近法の効果が
によりセントラル・パークの隣接地の地価が高騰し、税収の増加により
クトという職能に含んでしまう射程を持つ。さらに時間軸上での変化も
加わった景観が広がることになる。
ロバート・スミッソンが芸術表現にもたらしたもの
Central Park, NYC, 2006
Original figure: Niesy74, Wikimedia Commons
ニューヨーク市はこの事業への投資を回収することができた。
考慮に入れる仕事になるため、
サステイナブル・デザインの領域までカ
またセントラル・パークは自然を堪能できる場所ではあるが、もともとの
バーする、複合的な役割を担うことが想定される。ランドスケープ・デザ
(ランブル)
車道も乗馬道みられなかった。
曲がりくねった
には、
そこ
土地がそのような豊かな環境だった訳ではなく
「かつては不法定住者
インや環境デザイン等、類似する業種を示す言葉は現在もあるが、
「ラ
歩道は、
きめ細かく配された眺望の連なりによってきわだたさ
とヤギのほかには住む者もなく、廃物がまきちらされ、
マンハッタン片岩
特別なニュアンスも含まれ
ンドスケープ・アーキテクト」
と名乗る場合は、
[ 7]
れ、
たえまなく移り変わる風景の散策に利用者をいざなった。
のとがった岩肌とぬかるみの低湿地が点在するほとんど不毛の細長い
るものになるだろう。
「アーキテクト」つまり建築家と同等の操作を景観
[4]
土地であった 」
。
ニューヨーク、そしてアメリカ大陸自体がもともとは先
に対して施す、
という一定以上の構築的要素に踏み込むことを宣言して
公園ができあがる以前から、その場所に自生していた植物も多く、造園
住民の住む場所であり、そこにあった原始林は入植から2 世紀半経過
いるようにも受け取れる。
前からオルムステッドは地形的、園芸的に興味を寄せていた箇所であっ
し、開発や戦争を経過することで打ち捨てられた場所と化していた。
–
た。そこで展開されたオルムステッドの造園は、その場所を散策するも
実際にオルムステッドのセントラル・パークでの仕事は、着工前の荒廃
のから見える景観を中心に考え、都市の中にいながらにして、めくるめく
した土地、湿地、数百万年前の氷河期に地殻に刻まれた不規則な地形、
自然の情景を体験させるものとなった。均一なグリッドによって、
システ
隣接する大都市ニューヨークの急速な発展など、実に多くの要素を見
都市の中心に据えられたセントラル・パークの
マティックな運動を続ける、
Aerial view of Spiral Jetty, June 1993
Photo: Mark Ruwedel Original figure: Bob Phillips, George Bake, r Lynne Cooke, Karen J. Kelly,
Robert Smithson Spiral Jetty: True Fictions, False Realities, DIA Art Foundation,
New York /University of California Press, 2005. p.27
越した公園設計が要求されていた。その上、整備されるのは人工物で
核心部であるランブルに進入すると、
都市との連続性が景観によって分
はなく、植物や池、湖といった自然の要素、そしてそこで憩う人々の活
断され、
起伏を越え、曲がりくねった道を進むごとに、
ニューヨークという
ロバート
・スミッソンは1960年代後半のアメリカで、彫刻家たちによってお
動の要求に応える環境であった。
大都市の場所性から解放される感覚を体験することができるだろう。
こなわれた「アース・ワーク」
という野外での彫刻表現の旗手として、代表
作《スパイラル・ジェティ》がよく知られている。彼の創作活動は彫刻的
An overview of the Central Park site in 1862
Original figure: Elizabeth Barlow, Frederick Low Olmsted s New York
Whitney Museum / Praeger Publisher, 1972, p.58
表土の
景観の実態は、
植物の成長や死、
土壌浸食、霜の動態、
いくつかのトピックにわたって、ニューヨーク、セントラル・パークの造園
作品から、写真、映像テキストなど多岐に渡り、その他さまざまな土地の
堆積などの自然の力により、
ゆるやかではあるが絶えず変化して
にあたり、特筆すべき事項を考察してきたが、最後に取り上げた景観
記録や岩石などの鉱物を使用したものもある。
スミッソンの作品は基本
[6]
(後略)
いるものであり、
それは止めることができないものである
これは1970年代にセントラルパークの最初の保全、修復担当者となっ
の問題こそが実はすべての点においてセントラル・パークの特徴を包含
的には、サイト・スペシフィック、つまりある場所の固有性に基づいて制作
する可能性をもっている。ひとつの公園をつくりあげる時に、それを空
されたものであるが、その発表形態や使用するメディアを見ると、断片
間構成要素の集まりと認識するのではなく、それぞれの時間的要素ま
化した場所の特徴がさまざまなスケールで展開していることが分かる。
片岩と花崗岩の基盤の上を酸性土壌が薄くおおった、氷河
た建築家、ジェームス・マーストン・フィッチの言葉である。この言葉から
で汲み取って設計することにより、景観、
ランドスケープを取り扱うこと
人為と自然、過去と未来、ミクロとマクロ、生成/構築と瓦解など相
また、
作用をうけたごつごつした地形は、農業の発展には役立たな
もわかるように、オルムステッドはセントラル・パークにおいて公園的要
が可能になる。そこには公園の利用者である市民の時間性、つまり街
反する概念を等価に扱う事が特徴的である。ここではスミッソンが、オ
かった。森林ははるか以前に伐採しつくされ、二次林は炭焼き
素の空間的配置に留まらず、それぞれの要素が異なった時間軸状で変
の歴史や文化が浸透する余地が残されている。現にニューヨークの歴
ルムステッドのセントラル・パーク造園と自らの芸術表現を重ね合わせ に使われた。その当時の写真をみると、北部には簡素な木屋
化していくことも念頭に置いていた。湖や遊歩道、開かれた芝地や峡
史の中で、長年に渡って都市生活者の憩いの場として活用されてきた反
た証左となるような、スミッソンの表現の特徴を取り上げたい。
や農家が散在しているものの、南端は不法定住者の小屋や縄
谷、橋や人々がくつろぐベンチや東屋など、ひとつの公園という空間の
面、
セントラル・パークは一時的に犯罪の温床となっていた時期もあれば、
でつながれたヤギやゴミ捨て場などがみられる不毛の地であ
中でさまざまな環境が共存し、そこを訪れる市民は思い思いの方法で
ランブルは同性愛者の発展場として機能した時期もあったようである。
1973年のニューヨーク、
セントラル・パークを辿る―西 翼(YCAM)
瓦解作用を作品に取り込むことの意図
芸術作品として制作されたものに、崩壊や断片化の象徴としてエントロ
空港ターミナル建設計画に関った経験からスミッソンが発想したもので
ピーという概念を導入したアーティストの第一人者として、
スミッソンは認
ある。同時代のアーティスト、マイケル・ハイザー、デニス・オッペンハイムと
環境
「視覚化されたエントロピー」
というスミッソンのインタビューでは、
何か具体的なものを破壊すること
められている。
しかし、スミッソンは、
の対話の中で、モノレイクで制作した「ノン・サイ
ト」に話が及び、
スミッソン
は作品のコンセプトを説明しながら、以下のように語っている。
やエネルギー問題、経済システムなどの中にあらわれる成長や構築
を目的として、
エントロピーを作品の要素としている訳ではない。
スミッソ
ではなく、瓦解へと向かう要素、エントロピーが取り上げられる。
その中
ンのエントロピーへの関心と、そこから制作された作品は、孤立したオ
で1970年にオハイオ州ケント大学でスミッソンが行った
《部分的に埋め
ブジェとしてではなく、さまざまな状況に対して開かれたものとして存
(
「ノン・サイト」に対応した)
場所の興味深いところは、
その場所を訪
(1970年)
と、
インタビューが行われた73年にアイスランドの
られた木屋》
在するものであった。結果として、さまざまな人の思惑や、社会的な出来
れることで、訪れた人が周縁へと投げ出されるところである。
ウェストマン諸島、ヘイマエイ島でおこった火山噴火により生み出された
事、自然災害などと結びつき、作品の価値をその都度改変していった。
言い方をかえると、そこには把握できるものが石灰殻(モノレイク
光景の類似が取り上げられる。溶岩流に半分埋もれた家の様態は、
ス
スミッソンにとって、自らの作品にエントロピーを導入することは、生成
の「ノン・サイト」の素材)
を除いて何もなく、特定の場所に焦点をあ
ミッソンが荷車20杯分の土を木屋に堆積させた様態と類似を見せる。
や創造と等価に瓦解や崩壊を扱うことである。
それと同時に、このよう
てる方法もないことだ。場所が失踪する、あるいは見失われる
《部分的に埋められた木屋》は人工物である木屋に土砂を堆積させ、
そ
な両極のプロセスが常態である自然に対して、作品を閉ざさずにおこう
ということも出来るかもしれない。この地図はあなたをどこか
の後の変化もあわせて作品としてケント大学で管理された。代表作で
とする姿勢を示すものであった。また、スミッソン個人の制作の営為と、
(
》1969年)
という妻ナンシー・ホルトとの共同制作した作品を取り上
に連れて行くだろう。しかし、その場所に着いた時、あなたは、 (湿地)
ある
《スパイラル・ジェッティ》
と同じように、恒久的におこっているエネル
そこから発生する自然や人の営為を混在させることにより、作品そのも
[8]
自分が本当はどこにいるのか分からなくなる
。
ギーの散逸、破壊のプロセスを意識化させる作品である。
のがより大きな受け皿となる可能性をスミッソンは見いだしていたとい
鉱物の結晶を見つめる微視的視点と、地図や鳥瞰の写真による巨視
る葦は人の身長以上の高さがあり、カメラのレンズ越しの視界しか与え
的視点の両方を扱いながら、スミッソンはどこでもない場所へと鑑賞者
られていないホルトは、自分の足下の状態、そして対象物である葦との
対局のものとして考えようとする思考を宙づりにする、スミッソンの意図
を誘い出そうとする。あくまで統合や統一性に抗うスミッソンの考え方
距離が認識できなくなる。スミッソンはホルトに葦や刺の位置を言葉で
のあらわれとして捉えることが出来るだろう。
批評家のクレイグ・オーウェン、ロザリンド
を、
・クラウス、ゲーリー・シャピ
指示し、
ホルトは湿地を進んでいく。スミッソンはこの6分の映像作品を
ロウは、
「de-centering」つまり脱中心的考え方と捉えた。スミッソンの
[10]を扱ったものだとした。
「慎重な妨害、あるいは計算された無目標」
芸術への取り組みはある一つの完結した彫刻であったり、文章、写真、
映像には戸惑いながらカメラをまわすホルトと、指示を与えるスミッソン
あるいは映像としては捉えきることが出来ない。スミッソンは目の前にあ
映像を
の声が収録され、画面は葦で覆われ、
ホルトの視界と同じように、
る映像や写真、文章と、遠く離れた場所で存在する作品、
あるいは場所
見ているものの方向感覚や距離感が失われる。
「elsewhere」に投げ出
の関係を入れ子構造化させていると考えられる。例えば、
《ジェッティ》
方向や距離の感
される時に味わう感覚はこの映像に映されたように、
をめぐる関係性を軸とした思考がある。
「ノン・サイト」
と呼ばれる作品の
文章の中で捉える時、
私たちは《ジェッティ》の全容を知
を映像や写真、
覚を失うことともいえるのかもしれない。
シリーズでは、採石場や崖など、ある特定の場所で採取された岩石が、
ることが出来る。
しかし、実際にグレートソルトレイクに赴き、
《ジェッティ》
鑑賞者のいる展示室に運ばれ、鉱物は箱に詰められ、
採取された場所
をこの目で見ようとしても、その存在はあまりにも大きく、一時に一つの
ここまでごく一部ではあるが、スミッソンの芸術表現の特徴を辿ってみ
の地図や俯瞰の写真とともに展示される。
形態として認識することは困難である。このような遠近、微視と巨視の
たが、ある意味でここに取り上げた内容は、彼の芸術や思考活動の
距離の逆説をスミッソンの多くの作品から読み取ることが出来る。
核心にあたるものだといえる。スミッソンの言葉で説明するならば、
微視的視点と巨視的視点の導入により、スミッソンが作品にもたらそ
、つまり弁証法的と訳される言葉がこれにあたり、彼の
「Dialectical」
うとしていたものは何であったのか。それはスミッソンの文章にあらわ
文章にはこの言葉が度々登場する。
スミッソンはArtforum
1973年2月、
、
つまり
「どこか他の場所」
という言葉から考察すること
れる
「elsewhere」
(Frederick Law
誌に
「フレデリック
・ロー・オルムステッドと弁証法的風景
が可能である。マヤ文明の遺跡の多いユカタン半島を訪れ、さまざまな
Olmsted and the Dialectical Landscape)
」
と題されたエッセイを発表して
場所で鏡を設置し、
「Mirror displacement」を行った際の出来事を
いる。これは1972年にホイットニー美術館(ニューヨーク)で開催された展
綴った「ユカタンでの鏡の旅での出来事(Incidents of Mirror-Travel in the
(Frederick Law
覧会「フレデリック・ロー・オルムステッドのニューヨーク
[9]
Yucatan)
」
は、
「Yucatan is
Olmsted's New York )
」をもとに書かれたものであった。同時にセントラ
という言葉で結ばれている。
elsewhere」
先に「ノン・サイト」
に関するスミッソンの言葉を引用した箇所で、
「ノン・サイ
ル・パークに隣接する、ニューヨーク自然史博物館に幼少の頃から足し
ト」に導かれて、ある場所を訪れたとしても、その人は「自分が本当はど
げく通っていたスミッソンにとって、セントラル・パークは非常に身近な存
こにいるのか分からなくなる」
というスミッソンの言葉があったが、その
在であり、
原風景的要素があったのかもしれない。スミッソンはこの文章
ような感覚と
「elsewhere」は同質の経験といえるだろう。中心と周縁、
を通して、オルムステッドを自らの制作思想、活動の先駆者とし、
ヨーロッ
統合と拡散、都市と郊外、スミッソンは常に両極を示しながら、実は両極
パの歴史、美術史の後継としてではなく、別の芸術の系譜として示そう
を生み出そうとしていたの
の間にある空白の部分、つまり
「elsewhere」
とした。つまり、自らの関心を美術の文脈ではなく、造園やその背後に
ではないだろうか。さらに正確にいうならば、
「elsewhere」
にいる感覚
広がる庭園史、風景画など、自然と人間の交点に広がる大きな系譜にな
そこで示された地図などの情報をもとに、鑑賞者は実際に「ノン・サイト」
ともいえるだろう。そのような場所を自ら経験し、鑑賞者に経験させる
ぞらえようとした。
が属していた場所を特定することができる訳だが、スミッソンはそのよ
ために巨/微視的視点を活用させたと考えられる。
Robert Smithson, Partially Buried Woodshed, Kent, Ohio, 1970
Robert Smithson, Oberhausen Non-site, 1968
うに「ノン・サイト」が、展示室にいる鑑賞者を、街から僻地へと導きだす可
能性を持つものと考えた。展示室という閉ざされた場所から、境界のな
い広大な場所へと鑑賞者を誘うこの作品は、鉱物の結晶化への関心と、
Robert Smithson, Partially Buried Woodshed, Kent, Ohio, 1970
げておきたい。ニュージャージーの草地のぬかるみをホルトがボレック
スカメラを持って歩き、彼女にスミッソンが指示を与える。湿地に生息す
品そのものを壊してしまう力を取り入れたことの意味は、創造と破壊を
スミッソンの制作と切り離せないものに、地層や鉱物、また俯瞰の視点
|02|
「elsewhere」
の説明を補足するために、
スミッソンの映像作品《Swamp
作
うこともできるだろう。作品制作にとって負の要素と捉えられがちな、
相反する概念を同時に提示する意味
Robert Smithson, Partially Buried Woodshed, Kent, Ohio, 1970
Robert Smithson & Nancy Holt Swamp, 1971
セントラル・パーク、オルムステッドとスミッソン
泥と缶が詰まってい
ついた。
さらに下で放水路は小川になり、
編み目状の分岐が絡みあう小道である。ちょうど一日前に、
私は
この場所の1900年以前の立体写真を見ていた。オルムステッ
池のきれいな部分
た。泥はガップストウ橋の下に吐き出され、
ドの植栽が育ちきる前の物である。当時、湖の浜辺はまだ岩
から氾濫し、油と、泥と、そして鉄製のカップが渦巻き、ぬかる
題へと昇華させたことを端的に説明する好例である、ランブルと呼ば
がまき散らされた採石場の表情を醸していた。
オルムステッドは
みに変わる。長い間池の手入れはされていないようである。
本論
れる散歩道周辺での経験を綴ったスミッソンの文章を取り上げて、
「シャクナゲ、アセビ、
ツツジ、
カルミア、
ロードア」
を植えようとした。
泥は、
さらい出されるべきだ。このメンテナンスの作業を芸術
最後に、
オルムステッドのセントラル・パークにおいて、造園を景観の問
考のひとまずの終着点としたい。異なる時間軸で変化する地形、植生、
の観点から「泥抜き取り彫刻」
としておこなうことができるかも
池や河の浸食や沈殿などの自然の要素と、都市環境、経済活動、技術、
しれない。映像か写真の力によって、記録の作業はメンテナン
生活や娯楽などの人為的要素を同じ俎上にのせることで、絶えざる変
スを物質的な弁証法に変えるだろう。泥は市の「満たす」こと
化を公園の総体として許容することができる。つまり
「Park」を空間の
への要求によって、
その場所を保証されるだろう。泥の移動は
問題だけではなく、時間の問題と捉える事で、造園を景観の対象とし
抜き取りの点から、堆積の点へ続くだろう。泥(mud)の意識と
た取り組みが試みられた。そして、景観を自らの営為の対象としながら、
堆積の領域は存在者としての風景を理解するために必要不可
Central Park, 1972, construction site with graffiti
original figure: Robert Smithson, The Collected Writings,
University of California Press, 1996, p.158
オルムステッドとスミッソンが共に目指したものは、風景の解体ともいえ
欠である。
と呼
る経験をつくり出すことであった。スミッソンはそれを「elsewhere」
何百万年前であったとしても、地勢的に巨大な変化は、
まだ私
び、それをオルムステッドの造園の中にも見いだした。
この意図により地
理的、空間的には均一なパターンに支配されている都市の中に居なが
らにして、風景は解体されていくのだ。
1973年当時のセントラル・パーク
を散策しながら、描写を試みるスミッソンの文章には、彼がアース
・ワーク
One of the many Central Park bridges, before 1900.
Original figure: Robert Smithson, The Collected Writings,
University of California Press, 1996, p.164
などを通して実現しようとしていた自然と人為、過去と未来、ミクロとマクロ、
東に歩くと、礫岩の上に描かれたグラフィティを通り過ぎた。地
たちとともにある。そのような巨大さを接続させた偉大なアー
下鉄の車両に描かれたグラフィティはどうにか受け入れられる
ティストであるオルムステッドは、
アメリカの芸術の自然/本性の
が、礫岩に描かれた物は厳しいものがある。象形文字が刻ま
すべてに新たな光を投げかける例証をおこなったのだ[11]。
れた石柱の台座にもグラフィティがある。突然、
メトロポリタン美
術館の近くの新たなトンネルの工事現場に出くわした。オレン
1. Robert Smithson, Frederick Law Olmsted and The Dialectical Landscape,
がない訳文はすべて引用者による
生成/構築と瓦解を往復する視点が彼の目の前にあったセントラル・パー
しかし、植栽は部分的にしか実現しなかった。オルムステッドは、
ジ色のクレーンが真ん中にある灰色の地帯だ。灰色の壁には
クを通して描き出されている。以下に、
スミッソンの文章を引用する。
彼が何も手をつけていないこの場所の状態に魅了されてい
いわゆる
「エコロジカル」なグラフィティがある。
た。なぜなら、それは
「モビジバフウ、ニオイベンゾイン、チュー
「メトロポリタン美術館を分散化しろ」
「公園を守れ!」
「メトロポリタ
リップツリー、ササフラス、
カエデ、ブラックオーク、ツツジ、そし
ン美術館は木々や花に良くない」
「メトロポリタン美術館は樹木
てアセビ」によって
「ことのほか入り組んでいた」からだ。彼は
のように良い香りがするのか?」
「野生の暮らしを守れ」
。オルム
迷宮の外にある迷宮を倒錯し、
この場所を通して、
この小道
ステッドの建物や美術館に対する視点は「公園を台無しにす
をネットワーク化した。結果としてあてどなく、無為に歩くため
るもの」であるとしている。
の場所、すべての方向に広がる迷宮としてのランブルが成立
「貯水タンクと美術館は公園の一部として不適切である。それ
都市のジャングルの中まで
した。今やこのランブルの成長は、
らは取り除かれるべきである。地下鉄は除かれることがない。
広がっている。そしてその薮には、
「チンピラ、ホームレス、路上
なぜならそれらの不可視の効果による。全体的に見て、建物
生活者、泥棒、ホモセクシャル」が潜んでいる。他の都市の登
から逃れられる機会を狭めずに広げること。
」
The Collected Writings, University of California Press, 1996, p.157 以下、訳者の表記
–
2. Elizabeth Barlow Rogers (1987). Rebuilding Central Park – A management and
(監修)
、若生謙二
(訳)
restoration plan. MIT Press(エリザベス・バーロー・ロジャーズ 亀山章
)よみがえるセントラルパーク」
、
ソフトサイエンス社)
(1994「
p.1
–
3. 前掲書 p.1
–
4. 前掲書 p.17
–
5. 前掲書 p.1
–
「ランブル」
ついて、詳細
6. 前掲書 p.2 ジェームス・マーストン・フィッチ。フィッチは1979年に後述の
な調査をおこなったものの一人である。その際6000本の樹木が目録に掲載され、それぞれの樹
木は景観と園芸上の価値にしたがって評価された
–
(ジョン・レッチー*ハードゲイ小説家「The City of Night」
を見よ)
。
場人物も
グレード・アーチの下を抜けて低湿地へ出ると貯蔵水池に着い
7. 前掲書 p.124
オルムステッドは、
マンハッタンの真ん中に根源的な状況をも
た。池の形状は実際にそこにあった土手のカーブと正確に相
8. Smithson, ibid., Discussions with Heizer, Oppenheim, Smithson, p.249
たらした。
ミニチュアの渓谷に渡された小さな岩で出来た橋
互作用が働いている。池は栓を抜かれ、優雅な荒廃の景色を
9. ibid., Incidents of Mirror-Travel in the Yucatan, 1969, pp.119–133
は、
もつれて繋がっている。葉のない木の下にある大枝は風に
もたらしていた。秋の木の葉の海である。池の周りの葉のない
セントラル・パークの西側、96番ストリートから公園に入った。私
木に向かおうとしている歩
よってより複雑に成長した。そして、
木々と地面から生えたバラはくすんだレースのようだ。そここ
は馬車道に面した溜め池の西側を南に向かって歩いた。ハー
行者の方向感覚をなくさせる。秋、木の葉が小道を滑らかにし
人々がその場所を幻影にかえる靄と日光の間を出たり
こで、
(今は球技場のある広場)
レム湖、グレートヒル、そして北の牧草地
て、人を無限の曲がりくねった道の中に誘い込む。ランブルに
入ったりしてぶらついている。
Central Park,1885, looking northwest from Park Avenue possibly around 94th or 95th Street.
Original figure: Robert Smithson, The Collected Writings,
University of California Press, 1996, p.157
を含めた公園の北側は水平、垂直の景観を計画していた。オ
(The Gill/渓谷)
続いて、ギル
と呼ばれる、小川と池の間を渡る水
– ルムステッドの言葉では公園の南側の不均一な特徴と対照的
の流れがあらわれる。その源泉は洞窟の下の大石の下から来
南に進み続けた。五番街の近くで最も新しい公園への侵略で
に
「大胆かつ全面的」
であるべき、
ということである。
ここに来る
ている。小さな谷、丘は散らばっており隔離と孤立の感覚を強
ある
「こどもの国」
を通り過ぎた。1970年にリチャード・デイター
と森の深部にいる感覚も覚えるだろう。この区域で疎外感が
調する道となっている。小さく平らな岩の島が浮いた湖が散歩
にデザインされたものだ。フィリップ・ジョンソンとマーク
・デ・ス
もたらされる。この巻き込まれるような感覚は木の葉のもた
道に接している。
ヴェロの寄せ集めに見える。
「こどもの国」
を囲んだフェンスに
らす調和、色調、そしてチャーリー・イヴの音楽(「Three Outdoor
かけられた看板からは、押付けがましさが感じられる。25セン
Scenes, Central Park at Night」そして「 The Unanswered Question」
トの
「子ども動物園」
であっても、
ディズニー的商魂を感じさせる。
「A Cosmic Landscape」
と銘打たれているものが特に)
のリズムに
古い動物園では檻に入った作業員が張りぼての生息地を設
よって深められる。バンク
・ロック橋がランブルの入り口の一つで
置していた。
ある。橋にはガラの悪い人物が立っている。カメラを盗みにき
ウォルマン記念アイスリンクから流れ出した水が流れる放水路
そうなタイプの奴である。急いで私はランブルに消える。そこは
私はショッピングカートが半分水に浸かっているのに気が
で、
–
–
–
10. ibid., interview with Gregoire Mueller,“…The Earth, Subject to Cataclysms,
is a Cruel Master”, p.261
–
11. ibid., pp.168–170