北広島遺産 ハンドブック 歴 史 遺 産 北広島市エコミュージアムセンター 知新の駅 ~0~ 歴史遺産編 目次 1 2 3 4 北広島の歴史 東部・団地・南の里エリア 2-1 東部・団地・南の里エリアの歴史 2-2 東部・団地・南の里エリアの歴史遺産 歴史遺産マップ 東部・団地・南の里エリア編 ・・・・・・ 3 ・・・・・・ 9 ・・・・・・14 ・・・・・・25 大曲・西部エリア 3-1 大曲エリアの歴史 3-2 大曲エリアの歴史遺産 3-3 西部エリアの歴史 3-4 西部エリアの歴史遺産 歴史遺産マップ 大曲・西部エリア編 ・・・・・・26 ・・・・・・27 ・・・・・・32 ・・・・・・35 ・・・・・・42 西の里・北の里エリア 4-1 西の里エリアの歴史 4-2 西の里エリアの歴史遺産 ・・・・・・43 ・・・・・・45 4-3 北の里エリアの歴史 4-4 北の里エリアの歴史遺産 歴史遺産マップ 西の里・北の里エリア編 ・・・・・・49 ・・・・・・50 ・・・・・・53 ■北広島遺産ハンドブック:歴史遺産編の地域区分について このハンドブックでは、第 2 章で東部・団地・南の里、第 3 章で大曲・西 部、第 4 章で西の里・北の里を各エリアとして扱っています。これらの地 域区分は、平成 26 年 9 月及び 10 月に開催した地域遺産発見バスツアー の(市内を3地域に分け、各回1地域を巡回した)区分にならったものです。 ~1~ 北広島市エコミュージアムセンター 知新の駅 北広島遺産ハンドブック ■エコミュージアム、それは屋根のない博物館 エコミュージアムでは、地域全体を「屋根のない博物館」に見たてます。1960 年 代のフランスでエコミュージアムは誕生しました。建物の中にある博物館と違い、人々 の生活と地域の文化、その自然や歴史を地域の「遺産」として現地において保存、育 成、展示する野外博物館のことをいいます。そのことにより、一人一人がまちの魅力 を発見し、地域社会全体が発展していくことを目的としています。 eco:エコ 語源は古代ギリシャ語のオイコスから + 「生活をとりまく環境」 museum ミュージアム 博物館 = エコミュージアム 「屋根のない博物館」 ■北広島の遺産ハンドブック 北広島市には数多くの遺産があります。北広島エコミュージアムで扱う遺産とは、 遠い過去から遺されてきたものだけでなく、現在から未来へ遺していくべきものも意 味します。エコミュージアムは、これらの遺産を発掘していくことから全てが始まり ます。このハンドブックでは、北広島にある遺産を、大きく「自然遺産」「歴史遺産」 「産業遺産」3つのタイプに分類し、地図に各遺産の位置を示します。このハンドブ ックを手に持って遺産めぐりをしてもらえるように作りました。 ■はじめに 北広島市は、石狩平野の南部に位置する 周囲52.5km、総面積119.05km2の都市 です。市の北東部には北海道最大の石狩川 水系が流れる石狩平野(石狩低地帯)が広が り、半島状に突き出た野幌丘陵、南西側は 島松山(492.8m)を頂点とする山地が あり様々な地形がみられる場所です。また、 住宅地が森林や公園に点在しており、そこ には様々な生き物が生育しています。北広 島は、札幌という大都市に隣接しながらも、 多様な生き物を育む森林や緑が身近に存 在する自然豊かな街です。 図出典:宮坂省吾ほか(2011)『札幌の自然を歩く(第3版 道央地域の地質あんない)』北海道大学出版会 p269, 岡孝 雄・田中実「札幌周辺の地史」より一部加工 ~2~ 北広島 1 北広島の歴史 ■北広島の考古 約1万年前に最終氷期が終わり気候が温かくなると、人間の生活は移動型の狩猟生活か ら定住型の狩猟・漁労・採取生活へと変化します。「縄文時代」の始まりです。北広島に は平成26年4月現在59か所の埋蔵文化財包蔵地が確認されています。北広島で発見さ れた遺跡の年代は、縄文時代早期から続縄文時代までで、約 1300 年前から始まる擦文 時代の遺跡は未確認です。中近世のアイヌ文化期の遺跡は、チャシ(砦、館、柵、柵囲な ど)が2か所で確認されています。 時代区分 本州 2~30000年前 北海道 旧石器時代 北海道と北広島市の歴史年表 北海道に人が住みはじめる。 細石刃文化がひろがる。 12000年前 縄文時代 縄文時代 土器が使われはじめる。 (草創期) (早期) 市内を流れる輪厚川や音江別川流域などの段丘上に人々が住みはじめる。 8000年前 竪穴住居に住み、貝殻などで模様をつけた土器がつくられる。 (共栄1遺跡、美沢1丁目遺跡、冨ヶ岡遺跡など) (前期) 気候が温暖になり、海水面が上昇、各地に貝塚が残される。 7000年前 繊維を含む土器がつくられる。(北の里3遺跡) (中期) ヒスイ交流 ※ など、本州との交流が盛んになる。 5000年前 市内各地域(東部、西の里、大曲、島松など)に遺跡が残されている。 4000年前 (後期) 道内各地にストーンサークル ※ や周堤墓 ※ などがつくられる。 3000年前 (晩期) 東日本に亀ヶ岡文化 ※ が栄え、道内にも影響を与える。 市内の遺跡は低地帯にも広がりを見せる。 土器のかたちが用途によっていろいろに変化する。 2300年前 弥生 続縄文時代 本州以南の弥生文化とは異なり、海と川、漁労の文化が発展する。 (南の里2遺跡) 琥珀のネックレスが流行する。 古墳 金属器が伝わる。 1400年前 飛鳥 (592~) オホーツク文化期 サハリンからオホーツク文化の人々が渡来する。 1300年前 擦文時代 擦文土器がつくられる。 奈良 (710~) 市内では未だ遺跡が確認されていない。 平安 (794~) 北海道式古墳がつくられる(江別市、恵庭市で発見)。 土器が使われなくなる。 800年前 鎌倉 (1192~) 室町( 1 3 3 4 ~) 南北朝 安土桃山( 1 5 9 1 ~) 400年前 江戸 (1603~) アイヌ文化期 交易による鉄鍋などの金属製品が使われる。 (近世) 松前藩が成立する(慶長9、1604年)。 300年前 市内中の沢、島松にチャシが築かれる(中の沢チャシ跡、島松川左岸チャシ跡)。 200年前 和人の地理探検記録などにアイヌ語地名としてシママップ、ワッチ、 オテネベツなどの名が現れる。 100年前 明治 (近代・現代) 島松駅逓所が設置される、中山久蔵が寒地稲作に成功する(明治6年)。 和田郁次郎ら広島県人による開墾(明治17年)、広島村の開村(明治26年)。 ★色文字は、北広島の出来事です。 ~3~ 【解説】 ※1 ヒスイ交流: 北海道と東北との間でヒスイや黒曜石などの鉱物資源の交易がありました。ヒスイは新潟県糸 魚川産のものであることがわかっています。 ※2 ストーンサークル(環状列石) : 石を環状に配置した古代の遺跡です。主に青森県と秋田県北部、北海道では渡島半島を中心に 道北を除く道内各地で発見されています。日本ではじめて公表されたのは明治 19 年小樽市の 忍路環状列石です。 ※3 周堤墓: 縄文時代後期後半に造られた大規模な集団墓です。地面に円形の竪穴を掘り、掘り上げた土を 周囲に環状に積み上げることで大規模なドーナツ状の周堤が造られます。その区画の中に複数 の墓をつくる形式を周堤墓といいます(千歳市 キウス周堤墓群など) 。 ※4 亀ヶ岡文化: 亀ヶ岡遺跡は、青森県西部、津軽半島岩木川左岸にある集落遺跡。完形品を含む多数の造形的 に優れた土器、土偶、植物製品、ヒスイ製の玉類などが出土しています。 ■独自の発展をとげる北海道の文化 北海道は、本州との間に津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独 自の文化を育みました。本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道では続縄文時代 やオホーツク文化期でした。稲作は行われず、採取や漁労の文化が続きます。 その後本州では、激動の戦乱の世が続きま すが、北海道では擦文(さつもん)時代やア イヌ文化期が永く栄えました。擦文時代は7 世紀初め頃から始まります。続縄文時代には 土器に縄目の模様が付けられましたが、擦文 時代では表面に幅1cm 程の刷毛目(はけめ) が付けられました。これは土器の表面を整え るため、へらで擦って(こすって)つけたものと 考えられており、名前の由来となっています。 ㊤擦文文化の主な遺跡分布図 桑原他「北海道の歴史がわかる本」より ~4~ ■石狩低地帯は「文化のクロスロード(交差点)」 北海道が歴史資料に始めて表れるのはいつ でしょうか。 『日本書紀(720 年)』に「渡嶋 蝦夷・夷(エミシ)」と呼ばれる人々が記され ており、彼らの中心的居住圏は石狩低地帯だっ たと考えられています。その頃には積極的に本 州との交易を行なっており、石狩低地帯の続縄 文人が積極的に東北地方へ南下していったこ とも遺跡から確認されています。 ㊤国指定史跡名勝天然記念物「江別古墳群」 南北の文化の交差点となった石狩低地帯には、東北北部の文化に接触することによっ て土器製法や鉄器加工法、古墳築造が導入されることになり、北広島近隣でも続縄文文 化から擦文文化への移行期である多くの遺跡や遺物が発見されています。 擦文時代の終末期からアイヌ文化期への移行期にかけての遺跡は、道内でわずかしか 発見されていません(羅臼町,オタフク岩洞窟)。アイヌ文化の重要な要素である「クマ送 り」をたどると、オホーツク文化と擦文文化の接触によりアイヌ文化へと発展したので はないかと考えられます。 11、12世紀頃から、「蝦夷」の読み方がエミシからエゾと変化します。源頼朝が 征夷大将軍につくと、安東氏が朝廷に代わり支配する「蝦夷管領(えぞかんれい)」と なりました。鎌倉時代から近世頃まで、北海道は蝦夷島(えぞがしま)、蝦夷が千島(え ぞがちしま)と呼ばれ、そこに暮らすアイヌの人々を「渡党」、 「日の本(ヒノモト)」、 「唐 子」と分類していました。 「渡党」は多くの歴史資料に記述 が残っており、現在の函館や松前に 暮らし津軽海峡を自由に往来し交易 を行なっていました。 「日の本」は千 島列島やカムチャッカとの交易、 「唐 子」は北海道の日本海側に住むアイ ヌとみられ、 「唐太(樺太)」につなが る言葉からもわかるように、中国大 陸との交易を意識して呼んでいまし た。 ㊤中世における蝦夷島概念図 桑原他「北海道の歴史がわかる本」より ~5~ ■アイヌの人々の自然観と北海道の地名 17世紀に入って、蝦夷島に誕生 した松前藩はアイヌとの交易によ って藩を保ち、「蝦夷地」を幕藩制 国家に組み込んでいきます。また、 18世紀末頃から蝦夷地へ近づく ロシアの動きが幕府の政策を大き く変えていきます。これによりアイ ヌ社会も大きな影響を受け、後に和 人との衝突がおきます。 伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図 (1816)』、松浦武四郎の蝦夷地渡 航記録をはじめ、江戸時代の探検家 や測量隊が記した蝦夷地の地図に は多くのアイヌ語地名が記されて います。 ㊤「西蝦夷地石狩場所絵図」(幕末期作成) 北海道大学北方資料室所蔵 (赤丸箇所)シママフと3箇所記されている。 現在の旧島松駅逓所あたりと千歳川合流地点あたり と考えられる。 アイヌの人々は、川や谷、岬や崖などに沢山の言葉を使っていました。その多くが現 在の北海道の地名や河川名の由来になっています。アイヌの人々は、季節によって狩猟 や採集のためのチセ[家]を持ち、海岸で漁労する居住点と内陸で狩猟や冬越しをする居 住点との二重生活をすることもありました。その居住点との交通は主に川を利用してい たので、アイヌの人々にとって川やそれをとりまく地形などの自然環境への理解は生命 に直結することであり、そこに目印のように名前をつけたのかもしれません。 川は、アイヌ語で「ベツ・ペツ」「ナイ」と二種類あります。「ベツ」は水かさが増す とすぐに氾濫してしまう危険な川、「ナイ」は岸がしっかりしていて、洪水に強い川を 表しています。「ベツ」がつく川は、洪水の歴史や危険がある川かもしれません。北広 島市内にも輪厚川、島松川、音江別川などアイヌ語が由来となっている川があります。 ~6~ ■たび重なる制度の改変、北海道開拓の歴史 享保 4 年(1719)、幕府により松前藩主が蝦夷島の大名として正式に認められます。 松前藩は「和人地」と「蝦夷地」で区別し、蝦夷地への和人の定住は禁止しました(運 上屋は特例)。 その後、南下するロシアへの対抗策とし て、蝦夷地を東蝦夷地(1799)、西蝦夷地 (1807)とに区分けて、江戸幕府が直接 治める「幕府直轄地」となります(これに より松前藩は国替へ)。この時、島松川は東 蝦夷地と西蝦夷地の境界の一部でした。 さらに幕末期(1855~)には、幕府は 蝦夷地を東北六藩へ分け与え、開発と守衛 を命じました(北広島は庄内藩の領地とな りました)。 ㊤東蝦夷地と西蝦夷地(1800 年当時) 桑原他「北海道の歴史がわかる本」より 千歳川 明治2年(1869)、明治政府は蝦夷地を「北 海道」と改名します。同年、開拓使が設置され、 北海道に中央政府からの巨額の資金が投入され 現)江別恵庭線 ます。その後明治 15 年(1882)に開拓使が 廃止され函館・札幌・根室の3県が設置されま す。しかし、行政上の運営の非効率により、明 治 19 年に3県体制は廃止され、北海道庁が誕 生します。 主な開拓政策としては、道路や鉄道、港湾、 駅逓といった交通運輸手段の整備の他に、植民 地の選定と調査・区割りの実施がありました。 調査は、明治 19 年から 10 か年をかけ、大原 野およそ 34 億坪の調査を完了し、その結果は 札幌本道 『北海道殖民地選定報文』、『植民地区画図』と して公刊されました。 輪厚川 音江別川 島松川 ㊧「石狩国札幌郡月寒原野区割図(明治 38 年発行)」 北海道立図書館北方資料室所蔵 (赤丸箇所)札幌本道から東側に植民地計画があった ことが記されている。現在の西部地区のあたり。 ~7~ また、国有未開地の処分として、それまでの「北海道土地売貸規則(明治 5 年)」に 代わり「北海道土地払下規則(明治 19 年)」が制定され、開拓者は道庁に事業計画書 を提出し審査が通ると10万坪を限度に土地が無料貸付されました。開墾成功後は、 1000坪1円 (当時の物価指数から換算して現在の 2000 円程)で購入できました。 参考文献 長沼孝ほか(2011)『新版 北海道の歴史 上』北海道新聞社 田端宏ほか(2000)『北海道の歴史』山川出版社 桑原真人,川上淳(2008)『北海道の歴史がわかる本』亜璃西社 ― MEMO - ~8~ 2-1 東部・団地・南の里エリアの歴史 ■広島開墾地と東部エリア 東部エリアは、地形区分では主に石狩低 地帯と、野幌丘陵の縁に位置する台地上に あります。石狩川の水系である千歳川に、 輪厚川・音江別川・島松川が注ぎ入る場所 で、かつて低地帯には泥炭地・湿地が広が っていました。耕作不適地であった場所は、 昭和20年程まで開墾されませんでした。 また、現在の東部、団地、南の里、北の 里はもともと月寒村の一部でした(明治4 年当時まで、ここら一帯はワッツ・ワッチ と呼ばれていました)。そこに明治 17 年 に和田郁次郎率いる広島県人らによる集 団入植があり「広島開墾地」となります。 その後明治27年に島松、大曲とともに月 寒村から分村し広島村が誕生します。 わ だ いく じ ろ う ■北広島開拓の祖、和田郁次郎 和田郁次郎は、弘化4年(1847)、旧広島藩安芸国沼田 郡段原村(現在の広島市南区段原町)山田家に生まれ、後に和 田家を継いで名を郁次郎と改めました。明治15年(1882)、 北海道開拓を志した郁次郎は、河野正次郎とともに渡道。各地 を調査して農業の可能性を実感すると、翌16年(1883)、 再び渡道し石狩国札幌県月寒村字輪厚を適地と定めます。同年、 谷川杢左衛門、村上源九郎、松田岡十、武田与市、長谷川倉助 が渡道し、移住者用の小屋掛、道路開削、種子の手配、開墾地 100万坪の請願などを進めました。こうした準備の下、17 年(1884)、広島県人25戸103人が入植しました。 ㊤和田郁次郎(1847-1928) 明治26年(1893)、385戸田畑は600町余り(約6km2)に広がった広島開 墾地を見た北垣国道北海道庁長官は、郁次郎の業績を高く評価し、「和田村」としての独 立を勧めました。しかし郁次郎は郷里広島の人々と一村を開く計画を進めてきたので「広 島村」としていただきたいと申し出て、明治27年、大曲・島松とともに札幌郡月寒村か ら独立して札幌郡広島村が誕生しました。 ~9~ また、第2第3の広島村の開村にも労を惜し まず、現在の札幌市西区西野や奈井江町厳島地区 などへの広島県人の入植・開墾にも着手し、成功 しています。 開墾後 6 年目に新築した郁次郎の自邸は、郵 便局としても使用され、郁次郎が初代局長を務め ました。また、明治27年に広島村が開村した際 には、村役場としても使用されました。 ㊤和田郁次郎の自邸 郵便局や村役場として使用されました。 自邸の模型は、エコミュージアムセンター 知新の駅に展示されています。 お よ て い ち さいがん ■「御予定地再願」の話 明治15年、北海道を視察し広島県に戻った郁次郎は、明治15年6月19日、函館 県宛てに輪厚川筋100万坪の払下げを出願しました。 しかし、明治16年に再び渡道し、入植予定地を実 測してみたところ、46万4千坪しかありませんでし た(現在の中央 1・2・3・4 丁目、美沢、中の沢、 共栄町 1・2・3・4 丁目付近)。そこで、地続きの葮 原(だんばら)であった、輪厚川左岸(現在の東共栄、 共栄付近)に43万坪と、輪厚川右岸(現在の朝日町、 輪厚川 稲穂町付近)に10万5千坪、3か所合わせて100 万坪にして払い下げて欲しいと再度要望し、これは許 可されました。広島開墾地の誕生です。 島松川 ㊤御予定地再願の図 (郷土研究北ひろしま第16号より) ■水害との戦い 東部や南の里エリアは石狩平野の 低地帯に位置し、大雨が降ると頻繁に 氾濫し、家屋の浸水や田畑の水没、家 畜の溺死などの災害と共にありまし た。島松川・輪厚川・音江別川が増水 すると、低平地の河川のため千歳川が 増水し逆流し、字裏の沢・中の沢・音 江別一帯が浸水しました。公記録では、 明治31年、昭和25・28・31・3 6・37・40・41・46・50・56 年に大きな水害があったと記録されて います。 ㊤昭和25年の大水害の様子 (道道江別恵庭線から共栄町をみる) ~ 10 ~ ■道営北広島団地 道営北広島団地の計画は、昭和44年3月に字 富ヶ岡、広島、中の沢の地域に、収容人口3万1 千人、収容戸数約8千戸を基本計画として策定さ れました。真駒内、大麻団地に続き、3つ目の道 営団地でした。開発の第一の目的は、過密化傾向 の札幌圏の人口・産業の計画的措置ではあるもの の、単なるベットタウンではなく、団地周辺の既 成市街地を含めまちづくりの核となるよう計画さ れました。区域内の樹木は、積極的に公園や緑地 等に保存し、現地形を生かした配置となりました。 これにより、緑豊かな自然環境にとけ込んだ住宅 団地になっています。 ㊤昭和 55 年当時の北広島団地 竹山の方から団地地区を見る。 ■音江別川と南の里 南の里は、昭和12年の字名改正までは富ヶ岡 の一部とともに「オ・テネ・ベツ(音江別)」という 地名でした。オテネベツは、アイヌ語で「川尻が 濡れている川」いう意味で、音江別川の由来とな っています。その語源のとおり、音江別川は、水 源涵養林が大きく、小沢が多く分岐していたので、 一旦適量を超えた雨が降ると必ず溢れて堤防が決 壊し、田畑への流出が大きい川でした。河口付近 はいつもジメジメと濡れた沼地・湿地帯となって いました。 音江別に最初に入植したのは、明治19年福井 県から移住してきた白崎氏と小木氏で、両名とも 和田郁次郎の小作人として開墾に入りました。こ の地区にはいくつも沢が流れており、造田には好 適地でした。現在でも、水田の広がる地域です。 ~ 11 ~ ㊤南の里地区の風景 広島開墾地 明治17年当時の移住者住居略図 明治6年開通「札幌本道」 現:国道36号 現:輪厚中の沢線 現:道道栗山北広島線 現:道道江別恵庭線 出典:郷土研究ひろしま ~ 12 ~ 第4号より きたひろ昔ばなし④ ~広島開墾地、当時の様子~ 広島開墾地当時の様子が伝わるお話があります。 山本長次郎さんのお話です。 「部落の人たちの集ま りといえば大抵夜だったが、集まる場所もないの で、大きな焚火を焚き、その火の回りを囲んで皆 で話し合った事は、この北海道も住めば都で中々 よい処だということでした。故郷の広島県に帰っ てみても、土地はなし立派な百姓に成れるわけで もなし、和田さんのいう事を聞いて、立派な村を 作るように皆で辛抱して一生懸命働こうではない か。そんなことを語り合うのが楽しくて夜の更け るのも忘れたものでした。」 文章:郷土研究ひろしま、第一号、広島村郷土史研究会より ― MEMO - ~ 13 ~ ㊤明治42年~45年の頃の広島神社 2-2 東部・団地・南の里エリアの歴史遺産 の歴史遺産 現地で見学・観察可能です。 1 寺 東部 無碍光寺 むげこうじ 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。 2 東部 石碑 創世移民留魂塚 明治27年創立。浄土真宗大谷派のお寺で す。もともとは字音江別の空き家を借受け て、北海道寺 務出張所の僧 侶が説教所を 開いたのが始 まりです。明 治34年に現 在の場所に移 転しました。 大正12年、和田郁次郎 の出資、協賛多数により 建立。和田が「創業時代 に苦楽を共にした人達」 のことを思い設置した。 塚に刻まれているのは、 明治17年に移住した人 たちの名前です。 所在地:共栄町5丁目1 所在地:共栄町3丁目10 3 東部 石碑 4 東部 石碑 岩間先生の碑 彰徳碑 しょうとくひ 昭和4年、広島尋常高等 小学校有志により建立。 岩間鉄次郎は山形県から 移住し、明治41年に広 島尋常高等小学校の校長 に任命されます。広島教 育会、青年会、青年団の 育成に尽力されました。 大正7年、小池三郎(当 時村長)や協賛400人 程により建立。北海道開 道50年の式典の際に、 和田郁次郎が北海道の開 発の功労者130名に選 ばれたことを記念して建 てられました。 所在地:共栄町3丁目10 所在地:共栄町3丁目10 5 東部 遺跡 6 東部 共栄2~6遺跡 美沢1丁目遺跡 輪厚川左岸に位置 し、縄文時代中期 から晩期までの土 器片・石器片・黒 曜石片が出土して います。 輪厚川右岸の河岸 段丘上から、縄文 時代の土器片・石 器片が出土してい ます。 所在地:共栄町1丁目3、2丁目2、 3丁目1、 4丁目7 遺跡 所在地:美沢1丁目2付近 ~ 14 ~ 7 東部 開墾 大正橋 市役所から大曲へ向かい約800m。道道栗山北広島線と 輪厚川が交差する所に大正橋が架けられています。この橋 の歴史は広島村以前の開拓期まで遡ります。 明治17年、 和田郁次郎らが現在の北広島交番の辺りから札幌本道(今 の国道36号)までの道を拓きました。その突貫工事で輪 厚川に架けられた橋が始まりです。当時この橋はカツラの 大木を対岸に向けて切り倒し、一本の木の上を渡ったこと から一本橋と呼ばれていました。明治24年には村費で初 めてとなる土を覆いかぶせた土橋に架け替えられました。 その後、大正末期に架け替えられた際、「大正橋」と改名 されました。 所在地:美沢3丁目9付近 8 東部 遺跡 中の沢B遺跡 標高約30mの丘陵の先端部にある、縄文中期 から晩期にかけての竪穴住居を中心とした集 落遺跡です。特に9号竪穴住居跡は直径4m の円形で、その床面から縄文中期後半の柏木 川式土器が2個出土しました。遺物が出土し た地層の花粉分析から、当時の気候は今より 少し暖かく、針葉樹は稀で、ナラ・ハンノ キ・ニレが主体でした。草本類の花粉化石も 多く確認されています。 所在地:中の沢240-11(広葉通り沿い・広葉橋付近) 9 東部 遺跡 10 東部 遺跡 中の沢C遺跡 中の沢A遺跡、中ノ沢チャシ跡 輪厚川旧河川跡に 面する河岸段丘上 にあります。縄文 時代の土器片、黒 曜石片が散布出土 しています。 縄文時代中期から 後期の遺跡です。 アイヌ文化期の 「中の沢チャシ 跡」と複合する遺 跡です。 所在地:中の沢198-1 所在地:中の沢248 ~ 15 ~ 11 東部 遺跡 中の沢D、E遺跡 12 東部 寺 光顕寺 輪厚川右岸の河岸段丘上にあり、土器片、黒 明治25年創立。 曜石片、石鏃(せきぞく)・石斧(せきふ)などが 浄土真宗本願寺派 出土しています。 のお寺です。前身 は、和田郁次郎が 札幌から僧侶を招 き明治20年に開 いた説教所兼学校 でした。明治25 年に本堂が建立さ れました。 所在地:中の沢426、428、399-1 13 東部 所在地:共栄町1丁目12 遺跡 共栄1遺跡 台地上にあり、東に広がる低地帯からは約10mの 標高差があります。縄文時代早期から晩期までの土 器、石器が出土しています。焼土層も確認されてい ます。また石斧や砥石が人為的に埋没した状態で発 見されているのが特徴です。儀式や祭礼に用いられ たと考えられます。 所在地:共栄町1丁目7付近 14 東部 教育 広島簡易教育所跡 東部小学校の前身である広島簡易教育所があった場所で す。広島村における教育機関の創設は、明治25年、中の 沢(現在の共栄町1丁目)に設置した広島簡易教育所に始 まります。広島開墾地の戸数が280戸余りに達し、学齢 児童が増加したため、教育所の設置が決まりました。その 後教育所は、28年に広島尋常小学校となり、33年に高 等科を併設し広島尋常高等小学校と改称。昭和9年には高 台尋常小学校・音江別分教場の2校と統合して広島東部尋 常高等小学校となり、同年、現在の東部小学校の場所に移 ります。昭和22年には村立東部小学校に改称され、現在 も市立小学校として歴史を刻み続けています。 所在地:共栄町1丁目13 ~ 16 ~ 15 東部 2 修景・冒険の池 中の沢地区に入植した人々の田を潤した溜池が現在はレク リエーションの森の修景・冒険の池になっています。明治 25年、官林の一部を借りて溜池を作ったときは、近所の 人たちが大勢来て、モッコに土を入れて天秤棒で担ぎ、沢 の左右から土を盛って堤を築いたそうです。この原始林の 溜池の水は2haの田を潤して、良い米が採れました。昭 和38年頃まで使われていました。 所在地:北広島レクリエーションの森内 16 東部 石碑 開拓記念公園内の石碑 「飛躍の碑」 昭和59年、広島 開拓団移入から1 00年を記念して 建立されました。 「開村80周年記念碑」 昭和39年、和田郁次郎 の功績を残すため建立さ れました。 「廣島村記念日唱歌」 昭和20年頃まで、開村 記念日には広島神社境内 で合唱されました。当時 の様子を偲ぶ唱歌です。 「交流の翼」 平成8年、広島市 と北広島市の野球 少年団の交流の一 環として建立され ました。 所在地:中央2丁目5(開拓記念公園内) 17 東部 開拓 北広島始まりの場所 和田郁次郎邸跡 道道江別恵庭線が輪厚川と交差する所。明治17年、ここ に最初の集落が形成され、和田郁次郎も居を構えました。 当初の和田邸は、役場・子弟の教育所・郵便物取扱いの役 を担い、やがて移住者が増えて住宅や商店が並び、郵便局 や学校もこの一帯に置かれて村の中心となりました。 その 後、和田邸跡を記念して作られた広島小公園に、昭和39 年の開村80周年記念事業で「広島村この地に始まる」と 記された碑が建立しました。そこがまちの礎であること を、次の世代に伝える碑でした。しかし昭和59年、ひろ しま100年を記念して作られた開拓記念公園(中央2丁 目)に、碑や樹木は移設されました。 所在地:中央1丁目2(北広島交番付近) ~ 17 ~ 18 東部 神社 広島神社 和田郁次郎は明治16年4月の来道の際に、伊勢の国に寄 り伊勢神宮を参拝し、開墾農事の成功を祈願しました。そ の際に御神霊申し受け、これを村の守護神として明治17 年に祠を建て祀ったことが始まりです。和田郁次郎の渡道 の目的は、あくまで広島県人の村を北海道に建設すること でした。和田はいかにして移住者の心を安定させ定住させ るか、いかにして離散させないかという配慮から広島神社 の建立と発展に力を注ぎました。 昭和20年頃まで、開村記念日の5月23日には例大祭が 行なわれ、村民皆で開拓唱歌を歌い、村の繁栄を祝いまし た。現在でも「春まつり」として受け継がれ、5月23日 にお祭りが開催されています。 所在地:中央4丁目3-1 19 東部 石碑 20 東部 石碑 廣島開村碑 忠霊塔 明治41年、全村民の寄 附により建立。和田郁次 郎が開村を志した明治1 6年から25年を経過し たことを記念して建てら れました。明治41年、 人口は5千人になってお り、田畑は、5500町 も広がっていました。 昭和33年、広島 村忠霊塔建立期成 会により建立。太 平洋戦争で亡く なった村内出身者 100名の慰霊碑 として建立されま した。 所在地:中央4丁目3(広島神社境内) 所在地:中央4丁目3(広島神社境内) 21 22 東部地区 石碑 東部地区 教会 広島神社の狛犬 カトリック北広島教会 大正2年1 0月10 日、字島松 の和田郁次 郎の小作地 (和田農 場)の小作 人々が奉納 しました。 札幌の大国元助と 宣教師フヲリュに より、明治23 年、和田郁次郎の 宅地を借受け、中 の沢に集会所兼仮 聖堂を建てたのが 始まりです。明治 36年現在の場所 に移転しました。 所在地:中央4丁目5 所在地:中央4丁目3(広島神社境内) ~ 18 ~ 2 23 東部 24 寺 東部 石碑 2 昌福寺 富ケ岡会館の石碑 明治32年創立。日蓮宗のお寺です。広島開 墾地(字音江別)の集落全体で協議し創立し ました。創立 当初は、南の 里地区のホク リョウの近く に建っていま した。 富ヶ岡は、昭和13年に字高台と字下音江別 が合わさり誕生した地名です。昭和45年の 団地造成の際、それまで高台に暮していた 人々の多くがこの 付近に移転し、昭 和53年土地整理 区画事業を経て新 富町という地名が 誕生します。 所在地:中央6丁目8 所在地:新富町東2丁目3(富ケ岡会館敷地内) 25 東部 開拓 戦後開拓碑(東の里地区の歴史) 昭和47年、広島町農業協同組合初代組合長 藤田牟他130名に より建立。昭和20年東京大空襲の戦災疎開者と、数十万人にも のぼる戦後引揚者・復員者の食糧難の打開、就業対策として開発 の遅れている北海道が疎開先として選ばれ、北広島(広島町)に も200戸の開拓者が送り込まれました。送り込まれたのは西の 里(今の光原、新光、北光)、東の里地区、輪厚・竹山・高台地 区、大曲地区でした。 西の里地区は野幌国有林内で、70戸入植。重粘度地帯で水に苦 労しました。東の里地区に入植した開拓者は、何度も見放されて きた低地帯をあてられたため、毎年千歳川の氾濫にみまわれ苦労 しました。輪厚、竹山、高台地区には約40戸、大曲地区には約 40戸入植ましたが根曲竹に悩まされました。それらの人々の農 業指導としてつくられたのが、広島村開拓農業組合(昭和23 年)、富ヶ丘開拓農業組合、日進開拓農業組合(大曲)。それか ら17年ほど経って、3つの開拓農協は解散し、その役割を「広 島町農業協同組合」が引き継ぎました。その記念として東の里に この石碑が建てられました。 所在地:稲穂町東8丁目4(東公園の脇) ~ 19 ~ 26 東部 遺跡 富ヶ岡D(北広島団地第2)遺跡、富ヶ岡E(北広島団地第1)遺跡 D遺跡(第2遺跡)では、縄文時代後期 のピット17か所、住居跡3か所が発 見されています。E遺跡(第1遺跡) はJR千歳線沿いにあり、縄文時代中 期の土器片が出土しています。 所在地:青葉町3丁目、1丁目付近 27 東部 遺跡 富ヶ岡D遺跡 28 東部 富ヶ岡E遺跡 遺跡 富ヶ岡1、2遺跡 富ヶ岡3遺跡 縄文中期から後期 の土器片や石器が 出土しています。 長年の耕作によ り、遺物含有層が 耕作土に取り込ま れ、わずかしか出 土していません。 富ヶ岡B遺跡と音 江別川を挟んで対 岸に位置していま す。主に縄文時代 早期から中期の土 器片、石器及び石 器片など約300 0点出土していま す。 所在地:富ヶ岡424-1、339-7 所在地:富ヶ岡454、456 29 30 東部 遺跡 富ヶ岡A、C遺跡 東部 遺跡 富ヶ岡B遺跡(富ヶ岡遺跡) 音江別川右岸の河岸段丘上から、縄文時代前 音江別川右岸の台地上から、ピットや焼土層 期から後期までの、土器片・石器・黒曜石片 が出土し、焼土中からは火焼を受けた土器片 が出土しています。 などが2000点余り出土しています。石器 は出土が少なく、 100点ほど出土 しています。縄文 時代早期から晩期 までのもが出 土しています。 所在地:富ヶ岡622、91-2ほか 所在地:富ヶ岡687、688-1 ~ 20 ~ 31 神社 東部 竹山神社 明治38年頃建立。ご神体は春日大社と書かれた木札ですが、神 社としては珍しく、毘沙門様の像が祀られ、両側には仁王像が二 体置かれています。毘沙門様と仁王像は後に合祀されたものです が、竹山に最初に入植した長南清三郎ら竹山地区の人々によって 大切に守られてきました。 所在地:富ヶ岡538 32 石碑 東部 竹山神社の石碑 明治38年建立。竹山に入植した長南清三郎と交流のあった白石 村の斉木岩次郎の所有だった毘沙門様を、明治38年に竹山神社 に合祀した際に、この石碑は建立されました。合祀は、斉木さん の夢枕に毘沙門様が立って竹山に祀って欲しいとお告げがあっ た、という話に感動した長南さんの好意によるものでした。 所在地:富ヶ岡538 33 東部/団地 寺 高台にあった正覚寺 明治34年創立。真宗大谷派のお寺でした。現在の北広島団地の高台町あたりは、明治36 年当時の公文書に字高台と記載があるように、明治の開拓期に拓かれた集落があり、正覚寺 というお寺がありました(現在の高台5丁目付近)。しかし、昭和36年正覚寺は閉じ、字 高台は昭和45年道営北広島団地の敷地内となり、集落全員が移転することとなりました。 所在地:現在の高台町5丁目付近 34 東部 地蔵尊 富ヶ岡地蔵尊 もともとは字高台にあった正覚寺の前に立っていたお地蔵 様です。字高台に初めて入植したのは、明治19年に福井 県から入植した白崎小吉で、当初は和田郁次郎の小作人と して字音江別(現:南の里)に入り資金を蓄え、明治25年 に字高台にあった和田郁次郎の土地を付与されて自家農業 を始めました。80年近く字高台の集落の人々を見つめて きたお地蔵様でしたが、団地造営により集落全体が移転さ れる際に、白崎家に引きとられ現在の場所に立っていま す。 所在地:私有地のため立ち入りはできません。 ~ 21 ~ ~ 22 ~ ~ 23 ~ 参考文献 北広島市史編さん委員会 編(2007)『北広島市史 上巻』北広島市 内田優一(2004)『開村120周年記念版 写真でみる 北広島のあゆみ 大谷義明(2004)『郷土研究 北ひろしま第16号 』弘文社 広島村創業前後の史料(田辺安一収集)』 北広島郷土史研究会 大谷義明(2005)『郷土研究 北ひろしま第18号 碑は語る』北広島郷土史研究会 北広島市教育委員会 (1996)『きたひろしま歴史物語』 北広島市「新・博物史 きたひろしま MAP」北広島市ホームページ ~ 24 ~ 歴史遺産マップ 東部・団地・南の里エリア編 至江別 2 天然記念物 野幌原始林 レクリエーションの森 3 1 4 12 13 14 5 15 17 11 9 輪厚川 7 6 18~21 10 16 25 22 8 23 26 島松川 24 33 音江別川 31 29 32 28 34 36 35 27 36 30 35 44 43 37~41 36 至恵庭 45 1 番号はハンドブック内の遺産の番号です。 ~ 25 ~ 42 3-1 大曲エリアの歴史 おおまがり ■ 大 曲 の由来 明治27年(1894)、大曲は広 島開墾地・島松と共に月寒村から分村 し広島村が開村します。それまでは大 曲はアイヌ語で「ヌプオルオペツ、イ ナヲ坂、クウナイ」とも呼ばれていま したが、開村当時の公文書に「大曲」 という地名が記されていることから、 それ以前からこの地名があったこと がわかります。 由来は、明治6年(1873)に 開通した函館―札幌間の札幌本道(現 国道36号)と関係していて、野津幌 川(大曲川)の深い谷を渡るために大 きく湾曲(カーブ)した難所の道があ ったことから、大曲となりました。 ■大曲開拓の歴史 酪農地帯から商工業地帯へ 明治2年に設置された開拓使は、札幌圏へ広葉樹などの堅材の供給のため、周辺 の森林を官林として指定し無許可での伐採を禁止しました。しかし、大曲は官林の 範囲ではなかったので、比較的早い時期から林業を主として栄え、札幌本道の街道 沿いには商店や宿業を営む人も現れました。明治27年頃から昭和15年頃までの 開拓期では120戸から60戸前後の人口推移でしたが、主に杣夫(そまふ・林業従 事者)、炭焼き、製材、運搬等を本業として、農業は自家用でした。森林資源が減少 すると伐採跡地を耕し畑作や酪農をする人が現れました。 村は地帯別農業の構想を打ち出し、昭和 40 年代大曲は大規模な酪農地帯へと転 換します。一方で、昭和30年代に始まった住宅団地の開発と工業地化が進むにつ れ離農する酪農家が増え(※)、大曲の農業景観も大きく変化していくことになります。 ※昭和44年:酪農家40戸、飼育頭数557頭 昭和59年:酪農家7戸、飼育頭数157頭 ~ 26 ~ 3-2 大曲エリアの歴史遺産 現地で見学・観察可能です。 1 大曲 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。 交通 大曲 由来となった道 現在の国道36号の基になった札幌本道は、明治6年 に完成しました。かつてこの道をたどり札幌へ向か う人は、島松駅逓所などで休憩をとり、三里塚(現: 里塚)へ向かいました。しかし、三里塚へ行くに は、大曲川の深い谷を一度下り、橋を渡ってから再 び坂を登らなくてはなりませんでした。この大きく 曲がる道は「大曲」と呼ばれ、「室蘭街道七曲難 所」の一つに数えられました。これが、いつしかこ の一帯の地名となりました。明治期、この道沿いに は商店や宿屋がありました。 所在地:大曲並木1丁目付近、大曲北通線 2 大曲 遺跡 大曲B、C遺跡 道央自動車道建設工事に伴い昭和51、52年に発掘調査 が行なわれました。野幌丘陵の丘頂部に位置するこの遺跡 は、北海道の南と北双方の文化的要素が見られ、石狩低地 帯が南北文化の交差点であることが裏付けられました。縄 文時代晩期の住居跡1か所、円形ピット2か所ほか、土器 片・石器などの遺物が約3000点も出土しています。 ※ピット:穴状の遺構 所在地:大曲緑ヶ丘2丁目他、大曲796 3 大曲 寺院 来広寺 昭和5年創立。大曲の開拓が進むと住民の要望もあり、村 長中村佐久弥と中山留蔵が協力して、中山家から提供され た家屋に本堂が建立されたのが始まりです。昭和8年、中 山家の土地であった現在の場所に新築を建立します。昭和 25年に寄進されます。 中山留蔵は、1861年(文久元年)大阪府南河内郡磯長村に 生まれます。明治9年15歳のときに北海道に来て島松に 住む叔父中山久蔵の元に到着しました。その後中山久蔵の 養子になり、中山家の土地が大曲にもあったので、その場 所で農業や宿業を営みました。 所在地:大曲幸町2丁目1-2 ~ 27 ~ 4 大曲 開拓 酪農地区だったことを偲ぶサイロ 5 大曲 交通 大曲東通 道央自動車道北広島インターチェンジの南側 大曲東通は開拓期の頃からの古い道です。現 に、ブロック積みのサイロが建っています。 在の札幌市もみじ台や北広島市西の里には、 昭和40年代、村の地帯別農業の構想により 明治17年頃から団体入植があり、主に炭焼 大曲地区は酪農地帯へと変化します。一方で きを行なっていました。作った炭を札幌に運 同時に工業地化が進みます。開拓期は、炭焼 ぶには厚別に出れば近いのですが、当時厚別 きや製材などの林業が主、その後畑耕作地 には湿地が広がっていて通れず、わざわざ険 へ、さらには一 しい野津幌川上 大酪農地帯と 流域(立花川沿い) なった大曲地区 の尾根づたいを登 ですが、今でも り大曲へ出て札幌 その姿はいくつ まで運びました。 か残るサイロで その時に使われた 偲ぶことができ のがこの大曲東通 ます。 です。 所在地:大曲中央1丁目 私有地のため立ち入りはできません。 6 大曲 交通 百年橋 7 大曲 遺跡 大曲A遺跡 道道栗山北広島線が道央自動車道と交差する 縄文時代の住居跡が発見されました。 部分に、「百年橋」という名前の橋が架けら れています。橋の完成は昭和46年9月で す。当時このあたりにはほとんど住宅がな く、野菜畑だけ。道路も砂利道で、時おり路 線バスや野菜を積むトラックが通る程度でし た。この橋を着工し た時期が、北海道に 開拓使が置かれてか ら100年であったこ とにちなみ、百年橋 と名づけられました。 所在地:大曲末広1丁目、大曲中央通 8 大曲 所在地:大曲緑ヶ丘1丁目付近 石碑 御野立処の碑 明治44年建立。大曲川や輪厚川上流域に位置する大曲 は、開拓以前から湧き水が出る場所がいくつもありまし た。明治13年頃、三宮栄蔵が札幌本道を通行する人のた めに、湧き水の側に休憩所を設けました。さらに明治14 年、明治天皇が北海道巡幸に合わせ、地元の人たちによっ て現在の大曲中学校正門左横のこの碑の辺りに御休場が造 られました。それを記念し地域の人たちにより建立されま した。 ~ 28 ~ 所在地:大曲中央2丁目4 大曲中学校体育館横 2 9 大曲 教育 2 大曲尋常小学校の校門 大曲会館の裏に建つレンガ積みの門柱。学び舎の変遷を今 に伝える校門です。左門に「札幌郡廣島村立大曲小學 校」、右門には「廣島村立大曲中學校」と書かれた表札、 また左門の裏には「大曲尋…」と読める割れた表札が入っ ています。大曲小学校は明治25年、月寒小学校厚別分教 所として大曲川の近くに移転されます。明治27年広島村 開村を経て、明治32年村立大曲尋常小学校に改称され、 明治42年には現在の大曲中学校旧校舎の辺りに移転しま す。昭和22年大曲小学校と改称、昭和53年に柏葉台に 移転します。 所在地:大曲中央2丁目4付近(大曲中学校北側、大曲会館の裏) 10 大曲 神社 2 大曲神社 諸説ありますが明治30年頃、中山留蔵と富谷平吉が発起人 となり、中山留蔵の敷地内に建てられたのが始まりです(現 大曲並木3丁目付近の大曲川沿い)。何度かの移転と改築 を経て、現在の社殿は平成7年に改築されました。大曲地 区の歴史を見つめてきた神社です。 所在地:大曲柏葉1丁目2 11 大曲 交通 2 四里塚 札幌本道と街道を偲ぶ地名 国道36号沿いの大曲柏葉5丁目付近は「四里塚」とも呼 ばれます。明治6年、現在の国道36号の基礎となる札幌 本道が開かれ、一里(約4キロメートル)ごとに里程標 (りていひょう)が建てられました。室蘭まで三十四里あ り、札幌本道は別名「室蘭街道」とも呼ばれました。札幌 本道の起点は、豊平川(創成橋)で現在記念碑が建ってい ます。二里塚は現在の札幌ドームあたり、三里塚は平岡南 公園あたり。三里塚から南東に進むと大曲に入り、やがて 四里塚に至ります。当時そこには里程標とともに木が植え られていたと考えられますが、今ではその場所を知る手掛 かりはありません。明治37年の古地図に「四里塚」とい う地名が記されていますが、今では町内会館の「四里塚会 館」、「四里塚公園」という名称が残るだけとなりまし た。現在の島松地区あたりに五里塚があるはずですが、こ ちらは名称を残しているものはありません。 所在地:大曲柏葉5丁目付近 ~ 29 ~ 12 大曲 交通 明治16年に開かれた道「大曲道路」 村史(昭和35年発行)によると、明治16年、現在の北広島交 番の辺りで広島県人の入植準備を始めた和田郁次郎と谷川杢左エ 門ら6人は、翌春に入植者を迎えるため開拓小屋11棟を建て、札 幌本道(現在の国道36号)までの道路を開きました、後の大曲 道路です。この明治16年に開かれた道は、輪厚川の沢沿いを上 り、比較的傾斜のゆるい大曲東通付近で尾根を上り、現在の道道 栗山北広島線に沿い、大曲北通へとつながっていました。道の長 さは約8km、大木を切り出し、地をならす作業が冬の間続けら れ、工事は困難を極めました。翌17年5月、広島県からの団体 が小樽に着き、札幌、大曲を経て中の沢を通り、広島開墾地に入 りました。なお、現在の大曲道路はかつての道筋と異なります。 所在地:現在の大曲北通~道道栗山北広島線 13 大曲 石碑 大曲東通の馬頭観音 入口には鳥居と「馬頭観世音菩薩」と彫られた標柱が立ち 一見神社のような佇まいですが、北広島で一番古くから祀 られている馬頭観音です。道道栗山北広島線と大曲東通の 辻に祀られています。明治33年、佐藤芳蔵、坂本利作、 坂井次助らによって祀られ、その後も大曲地区の人々の手 によって大切に守られてきました。 所在地:大曲東通、大曲411付近 14 大曲 交通 2 国道36号(札幌本道、室蘭街道) 北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代(約300年前)、太 平洋と日本海を結ぶ道は、主に川を利用して船で移動しま した。その後明治時代になり開拓使はアメリカ人のホーレ ス・ケプロンの指導を受けて、函館から札幌まで道内初の 馬車道を開きます(森から室蘭は海上移動)。それが明治6 年開通の「札幌本道」で、当時は道幅が7m程でした。現 在の国道36号は、昭和27年に着工し1年余りで延長3 4.5㎞の区間を完成させたことなどから通称「弾丸道 路」と呼ばれ親しまれています。なお、旧島松駅逓所前の 道がかつての札幌本道でした。室蘭と札幌を結ぶ道路でも あったので別名室蘭街道とも呼ばれています。 ~ 30 ~ 15 大曲 交通 2 野島の坂 この道は、輪厚川の沢をS字に曲がりながら降りてまた 登って渡る室蘭街道(国道36号)の中でも一番の難所 だったそうです。昭和27年の改良舗装工事の前までは、 道幅7m程で、素掘りの側溝があるだけの簡単なものでし た。雨が降った後は、多くの馬車がぬかるみに埋まり、そ のまま投げ捨ててあったり、脚を折って動けなくなった馬 も生きながらそのまま放置されたということです。 所在地:大曲320付近、国道36号 16 大曲 石碑 2 大曲の馬頭観世音菩薩 昭和10年青山峻一氏建立。野島の坂の付近の室蘭街道沿いに建 てられました。亡くなった馬の霊を慰め、街道を通行する馬の安 全を願って建てられました。その後、国道改良工事により場所を 転々とするも、現在の場所で大切に祀られています。 所在地:野島の坂付近、私有地のため立ち入りはできません。 ~ 31 ~ 3-3 西部エリアの歴史 ■古記録にのこるシュママップ(島松) 島松という地名の由来はアイヌ語の「シ ュマ・マッ・プ(岩石のある川のところ)」 です。では、どの場所を指してアイヌの 人々はそう呼んだのでしょうか。島松川上 流域には支笏火山噴火堆積物である島松 軟石が沢沿いに露出していて、そのあたり はかつてアイヌのコタン(村)があったとさ れています。現在でも旧島松駅逓所のある 島松沢あたりでは由来どおりの景観が広 がっています。 一方で、1780年頃から幕末期まで石狩川流域 でのサケ漁と交易を行なう元小屋のある場所を「石 狩十三場所」と呼び、シュママップはその十三場所 のひとつでした。江戸時代の古地図には、島松川下 流域(千歳川合流地点)にシュママップと記されて おり、サケ漁労の拠点として一時は賑わい、松浦武 四郎などの旅行記にも記録されています。 また島松川は、幕府直轄時代の西蝦夷地と東蝦夷 地の境界でした(北広島側は西蝦夷地、恵庭側は東蝦 夷地)。その後明治政府が制定した新しい地方区分で は、石狩国と胆振国の境界になりました。現在は、 恵庭市との境界になっています。 ㊨シュママップ・島松川上流域の画 安政5(1858)年。右側に露頭が描かれている。 北広島市史(上)p51 より転写 わっ つ に べつ に い べつ みしま ■輪厚、仁別(仁井別)、三島 丘陵地と山地の開拓 輪厚地区はアイヌ語のウツナイ(脇川、助骨川の意)を語源とする輪厚川の上流 域に位置します。輪厚地区は月寒原野として明治27年に払い下げられ開墾用地と なり、明治30年には170戸の入植があったと記されています。また、仁別と三 島地区は、島松川の支流である仁井別川と三島川の両岸を含む地区で、小川と谷戸 の風景が広がるのどかな地区です。また、仁別・三島は輪厚官林、島松官林の範囲 でしたが、明治29年に大部分が払い下げになり、林業、製炭を主に開墾され、河 川沿いの低地には田畑が開かれました。 ~ 32 ~ ■国指定史跡 きゅうしままつえきていしょ 旧島松駅逓所 駅逓所(えきていしょ)とは、交通不便の場所 に駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便をはかる ために設置されたものです。松前藩によって設置 されたのが起源ですが、寛政 11 年(1799)、蝦 夷地が江戸幕府が直接治める「幕府直轄地」とな ったことで各地に駅逓所が設置されます。明治以 降も開拓使によって継続され、北海道内に延べ六 百十数か所あり、開拓期の北海道において重要な 役割を果たしました。北海道庁時代になり、明治 33年(1900)頃には、官設駅逓所での自由営 業が主になり、昭和 22 年(1947)に駅逓制度は 廃止されます。現在ではほとんど残存していませ ん。 島松駅逓所は、明治 6 年(1873)札幌本道(函 館~札幌・道内初の車馬道、現在の国道36号) の開通に伴って千歳郡島松村に設置されました。 明治 17 年(1884)、札幌県から中山久蔵(札幌 郡月寒村)が駅逓取り扱いを命じられ、中山宅が 正式に駅逓所となりました。その後、明治 30 年 (1897)に廃止されるまで、中山家が島松駅逓 所の経営にあたりました。昭和56年、国指定文 化財(史跡)となり、現在の建物は、保存修理工事を 経て平成2年に開館しました。 なかやまきゅうぞう ㊤明治末期ころの旧島松駅逓所 札幌本道沿いに建っていた。 ㊤国指定史跡 旧島松駅逓所 か ん ち いなさく ■中山 久 蔵 と寒地稲作 中山久蔵は文政11年(1828)、河内国石川郡春日村(現 大阪府南河内郡太子町)で松村家次男として生まれ、弘化2年 (1845)、17歳で故郷を離れ大阪、江戸など諸国を巡り ます。嘉永6(1853)年に身を寄せた仙台藩が蝦夷地警備 の任務を与えられたため、安政2(1855)年、藩士片倉英 馬の従者として胆振国白老郡白老に渡り、以後、白老・仙台を 行き来した後、明治2(1869)年に北海道永住を決意。片 倉家を辞して渡道します。 ㊤中山久蔵(1828-1919) ~ 33 ~ 明治4年(1871)、久蔵は44歳で島松沢にて 開墾を始め、寒地では困難とされた米づくりにも挑戦。 明治6年(1873)、大野村(現北斗市)から取り 寄せた水稲赤毛種を用い、川の水を温める水路(暖水 路)や、風呂の湯を水田に注ぐなど、工夫と努力によ り米の栽培に成功し、10アール(約 300 坪)当た り345㎏を収穫。希望者にはその技術と赤毛種の種 籾を無償提供した久蔵の功績は、米づくりを道央以北 へと普及させました。やがて、北海道の米の取れ高は 100万石(15万t)に成長したことから、島松沢 は「寒地稲作発祥の地」と呼ばれます。 ㊤旧島松駅逓所敷地内の暖水路跡 明治14年(1881)の明治天皇北海道巡幸では、 久蔵宅が行在所に指定され、久蔵は天皇と直に米づくり について言葉を交わしました。近年、美味しくなった道 産米のルーツは、中山久蔵が改良した赤毛種の種籾。久 蔵の挑戦は、北海道農業を豊かにしただけでなく、生活 文化や食文化をも変えることになりました。 たいし ㊤赤毛種 いだ ■島松沢で発せられた「青年よ、大志を懐け」 ウィリアム・スミス・クラークは、1826年米国マサチューセ ッツ州生まれ。マサチューセッツ農科大学の学長となり、明治9年 (1876)50歳の時に開拓使に招かれ札幌農学校(現北海道 大学)の教頭、及び農学・化学・数学・英語の教授になります。 当時の札幌農学校は学生24人。後に同校校長となる佐藤昌介や、 道職員として開拓農民の入植地決定など実務で名を残した内田瀞 など、後に北海道の発展に貢献する人物を多数輩出しました。 明治10年(1877)4月16日、任期満了のクラークは職 員や学生たちと札幌を後にし、約20㎞離れた島松(現在の北広 島市島松)に到着。別れの時がきて馬上の人となったクラークは、 教え子たちに向かい「ボーイズ、ビー、アンビシャス(青年よ、 大志を懐け)」と叫ぶと馬に鞭を振い、米国への帰途につきました。 クラークが築いた札幌農学校の基礎とフロンティア精神は、後 輩に継承されて北海道の農業・土木・医療などの発展に大きく貢 献。 「大志を懐け」の言葉は皆に勇気を与え、今日の日本を築いて きたといえます。 ㊤ウィリアム・スミス・クラーク(1826-1886) ㊦北広島市のカントリーサイン ~ 34 ~ 3-4 西部エリアの歴史遺産 現地で見学・観察可能です。 17 西部 神社 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。 2 輪厚神社 大正9年合祀建立。明治初期の開拓期、日本全国から北海 道開拓を志し入植した人々がいました。西部地区にも多く の入植団がいました。字上ニーベツ・下ニーベツには宮城 県から三野宮正助ほか。明治27年月寒原野払い下げ後の 「輪厚植民地」に福井県より新井喜八郎ほか。明治35年 奥輪厚に福井県から河村玉蔵ほか。明治36年に輪厚の室 蘭街道沿い(野島の坂付近)に野島源一郎ほか。それぞれ の集団で神社を建立し五穀豊穣を祈願しました。それら4 つの神社を合祀し、現在まで受け継がれているのがこの輪 厚神社です。合祀された神社の為、八幡大神・天照皇大 神・大國主大神と3つのご神体が祀られています。 所在地:輪厚115 18 西部 寺院 2 照道寺と輪厚尋常小学校 布教のため越後からきた曽我師は輪厚地区に来ましたが、 明治30年当時、この地区に寺院も学校もないのをみて、 説教場兼学校を建てたのが始まりです。当初15人だった 生徒も明治32年には54人にまでなり、より一層充実し た教育のため、寺と学校を分離することにします。後の西 部小学校になる簡易教育所・輪厚尋常小学校へと発展しま す。 所在地:輪厚元町1丁目6 19 西部 神社 2 札幌八幡神社 江戸時代から代々函館八幡宮の神職の家系であった菊地家 は、後に札幌神社(現北海道神宮)宮司になります。その 後、明治新政府による「王政復古・祭政一致」の方針によ り、宮司の世襲が認められなくなり、菊地家は神社庁の神 道から離れ、転居を経て現在の輪厚に昭和52年6月札幌 八幡宮を建立します。現在の宮司は15代目、学問・出世 の神様である菅原道真公を祀った神社です。 所在地:輪厚中央5丁目3-16 ~ 35 ~ ~ 36 ~ ~ 37 ~ ~ 38 ~ ~ 39 ~ ~ 40 ~ きたひろ昔ばなし③ ~ほおかぶり地蔵~ いつの頃か、島松駅逓所から少し入ったところに、誰呼ぶともなしに「ほうかぶり 地蔵」とよばれ親しまれているお地蔵さんがあります。もともとは島松に住む長谷川 さんのお父さんが建てられたものです。太平洋戦争で長谷川さんの末の弟さんが戦死。 その翌年、昭和18年南方に行った長谷川さんの無事を祈って建てたものでした。 終戦を南方トラック諸島で迎えた長谷川さんが島松に帰ってきたのは、暮れも近い 12月のことでした。半袖姿で疲れきった長谷川さんを一番先に出迎えてくれたのが、 雪の中から頭を出していたこのお地蔵さんでした。 何年かたって長谷川さんは、今度は村の人 を守ってほしいと農道にお地蔵さんを移しまし た。毎日「今日も元気に行ってくるよ」と出か けるある朝、寒かろうと腰のタオルでほおかむ りをしてあげました。するとお地蔵さんがニコ ッとほほえんだように見え、少しお父さんに似 ている気がしました。それ以来道行く人がかわ るがわるほおかぶりをかぶせてくれるようにな り「ほおかぶり地蔵」と呼ばれるようになった のです。今も道端に立つこのおじぞうさんの話 は、戦後50年経った平成7年、初めて長谷川さんが語ってくれたお話でした。 本文・イラスト 「きたひろしま歴史物語」1996 年,北広島市 参考文献 北広島市史編さん委員会 編(2007)『北広島市史 上巻』北広島市 内田優一(2004)『開村120周年記念版 写真でみる 北広島のあゆみ 』弘文社 大谷義明(1999)『郷土研究 北ひろしま第12号 開拓期の大曲』北広島郷土史研究会 大谷義明(2005)『郷土研究 北ひろしま第13号 続大曲の話』北広島郷土史研究会 大谷義明(2005)『郷土研究 北ひろしま第18号 碑は語る』北広島郷土史研究会 北広島市教育委員会 (1996)『きたひろしま歴史物語』 北広島市「新・博物史 きたひろしま MAP」北広島市ホームページ ~ 41 ~ 歴史遺産マップ 大曲・西部エリア編 大曲川 種苗管理センター 原原種ほ場 5 至札幌 2 1 6 3 7 12 8 4 13 9 10 輪厚川 11 22 21 輪厚仁別線 14 15 16 18 17 23 20 19 25 24 26 28 29 島松山 27 30 32 35 38 島松川 34 33 31 至恵庭 1 37 番号はハンドブック内の遺産の番号です。 ~ 42 ~ 36 4-1 西の里エリアの歴史 ■野幌の由来 西の里は、広島村の字野幌・字下野幌 が昭和10年に合併したことにより誕 生します。「野幌」の名がついた地名は 多く、札幌市厚別区内、江別市内にもあ ります。アイヌ語の「ヌプ・オル・オ・ ペツ(野の中を流れる川)」が語源とさ れています。ヌプ・オル・オ・ペツと呼 ばれていた川は、現在の「大曲川・野津 幌川・厚別川」にあたり、その川沿いの 各地で野幌の地名が使われたと考えら れています。 ■西の里の開拓者 三河林蔵 西の里開拓の先駆者は、明治22年10月28日に入植した阿波(徳島県)の蜂須賀 藩の家老の家柄であった三河林蔵です。このあたりの山林には明治18年頃にはすでに 杣夫(そまふ)とよばれる林業者が入っていましが、林蔵は家族を携え単身で居を構え、 背後の山を少しずつ切り開き、畑を拡げていきました。林蔵は、明治39年から41年 にかけて広島村議会議員、明治39年から45年までは村の学務委員(現在の教育委員) を務め、大正9年、自ら所有する土地を他者に譲り徳島に帰郷しています。 ~ 43 ~ ■西の里への集団入植 大曲・島松・広島開墾地の3集落が明治27年2月に月寒村から分村し、「広島村」 が開村します。その頃の西の里は「野津幌官林」の範囲内でした。北海道庁は明治28 年2月23日付で「北海道土地払下規則」に基づく移住民の公募を行ないました。野幌 の国有林内に223戸を入植させる計画で、その内の約100戸程が今の西の里に入植 しました。明治30年には「北海道国有未開地処分法」が公布され、自ら開墾した土地 が無償で与えられました。これにより西の里の開墾地がさらに広がります。 札幌道路(別名)広島街道 (明治23年開削) 現国道274号 立 花 橋 三河林蔵 入植地 野幌分教所 (明治40) 行幸橋 ( 簡 易 教 育 所 明 治 3 3 ) 大正15年8月21日開通 切替え前の千歳線 現エルフィンロード 裏の沢川沿いのベコネ沢 明治 30 年頃まで沢つたい に大曲まで通れた ㊤西の里、明治後半頃の開拓者分布図 出典:「風雪百年―西の里郷土史」p.31 西の里の明治の開拓者分布図より一部加筆 ~ 44 ~ 4-2 西の里エリアの歴史遺産 現地で見学・観察可能です。 1 西の里 立花橋 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。 昔話 たちばなばし 札幌市と北広島市の行政界でもある野津幌川。その野津幌 川にかかる橋に「立花橋」があります。明治23年に広島 街道が開通した当時は、このあたりは曲がりくねった坂道 の難所でした。しかし恵庭や千歳の人たちは札幌に出るの に札幌本道(現国道36号)ではなく、この道を通りました。 そのため人馬の行き来が多く、立花橋付近にはいくつもの 商店や飲食店が軒を列ね賑わっていました。その中に売 れっ子芸者「立花」が営む茶屋があり、通称「立花の坂、 立花の沢」と呼ばれ今では橋の名前として残っています。 大正15年の北海道鉄道の開通と共に商店はしだいに無く なっていきました。 所在地:虹ヶ丘8丁目1付近 2 西の里 3 交通 西の里 開拓 旧国道274号 三河林蔵 開墾地 この道は札幌道路(後の国道274号)の一部 でした。通称 広島街道とも呼ばれ、明治23 年に中の沢(現在の北広島交番の辺り)から 札幌に通じる道として開きました。その後、 昭和44年に道央 と道東を結ぶ国 道に指定されま す。国道274号 は札幌市から道 東の標茶町まで 365.8km、北 海道内で最も長 い国道です。 阿波(徳島県)の蜂須賀藩の家老の家柄で あった三河林蔵が明治22年10月28日当 時の野津幌官林に入植します。36歳で3人 の子供を連れての開墾は厳しいものでした。 ここから西の里開拓の歴史が始まります。 所在地:山根園パークゴルフ場裏 所在地:大曲東通り線、野津幌川沿い・山根橋近く ~ 45 ~ ~ 46 ~ ~ 47 ~ 13 昔話 西の里 行幸橋 14 西の里 開拓 戦後開拓の4地区 ぎょうこうばし 国道274号を共栄の交差点から上野幌の方 に向かって進むとバス停があります。昔そこ には裏の沢川にかかる「行幸橋」という橋が ありました。今はその橋はなくなってしまい ましたが、「行幸橋」というバス停だけが名 残となってい ます。 【きたひろ昔話ヘ】 昭和20年の終戦後、政府は食料増産と民生 安定を兼ねて、疎開者や引揚者に対して「緊 急開拓」事業を全国的規模で行ないました。 市内では214戸、そのうち西の里地区で6 3戸の入植があ りました。昭和 21年、野津幌 官林の土地を一 部解放し、新し く光源・平和・ 北光・新光の4 つの地区がつく られました。 所在地:国道274号・西裏線交差点近く きたひろ昔ばなし① ~行幸橋(みすて橋)~ 国道274線を札幌に向かい共栄工場 線を過ぎると、裏の沢川が横断しています。 かつてはここに「行幸橋(ぎょうこうばし)」 という小さな橋がありました。その昔この 橋は「みすて橋」と呼ばれていました。明 治のころでしょうか、一人の女の人がこの 橋までやってきました。その女の人は、北 海道に渡ったまま行方知らずになった夫 を探して旅をしていました。身重だった女の人は疲れ果てて、ついにこの橋のたもとで 産気づき、子供を産みました。しかし、母も子も寒さと疲れで、ここに凍死してしまい ました。近くの村人たちは、この母子を橋のたもとに葬りましたが、世間から見捨てら れた二人を哀れに思い、誰言うことなくこの橋を「みすて橋」と呼ぶようになりました。 まだ汽車も自動車もない時代の、哀しいお話です。 本文・イラスト 「きたひろしま歴史物語」1996 年,北広島市 ~ 48 ~ 4-3 北の里エリアの歴史 ■ホロウンベツ(裏の沢川)と北の里 北の里地区は、広島村の字上裏ノ沢・字下 裏ノ沢が昭和10年に合併したことにより 誕生します。 裏の沢川は、千歳川の支流のひとつで、ア イヌ語で「ホロ・ウン・ベツ(大きい・そこ にある・川)」または「チ・エ・トイ・ウシ・ ナイ(我々が・食べる・珪藻土の・沢山ある・ 川」と言われています。その他に通称の字名 (あざめい)で、元夕張渡、官林下、五反歩、 砂山などの地名があります。地名は地域の歴 史を記録するものです。使われなくなった地 名の由来を記録することは、地域の歴史を受 け継ぐことにもなります。 ■北の里の開拓者 北の里の開拓は、明治17年に広島県から集団入植をした 23 戸の一人、岸本權平ら によって開拓されたのが始まりです。ホロウンベツ川(裏の沢川)周辺の樹木の比較的 少ないところに家を建て、畑を拓き、明治19年に川下に用水路を開き、低地帯の茅原 (かやはら)を排水して水田を作りました。 この地区では、一戸あたり一万坪を (現)江別恵庭線 開墾用地として地割されました。また それとは別に、造田用として一戸あた 五反歩の水田 り五反歩、幅十五間(約 27m)、奥行 き百間(約 180m)ずつを川下の南側 開墾用地 に15区画、北側の低地に9区画を地 割され与えられました。この由来から 「五反歩地区」と呼ばれています。取 水は、ホロウンベツ川に杭を打ち、小 さな堤防をつくり分水し造田しまし た。五反歩地区は、北広島で最も低い 場所で、千歳川と旧島松川と裏の沢川 が合流する地点にあり、少しの雨でも すぐに氾濫し、この地区一帯が水没し たと伝えられています。 幌音別橋 開墾用地 ㊤:入植当時の開墾用地と五反歩の水田の位置 ~ 49 ~ その後、広島県人だけでなく、福井県・岩手県等からの入植が続き、この五反歩以外 の低地と共栄の下地(現在の東の里地区)が開墾されていきました。しかし明治末期に は、深刻な水害やホロウンベツ川の水量不足もあって、五反歩地区の水田は全て荒廃し てしまい、大正から昭和初期までは一面の葦原となり、夏は馬の肥料用、初冬には雪囲 い用の葦刈り場になっていました。 北の里の原野が全て水田に変わったのは、戦後のことです。「拓北地区」の原野を開 田することになり、昭和24年には千歳川から取水する水門の建設を広島村農協が共同 で施工し、拓北地区の造田が一気に進みました。 4-4 北の里エリアの歴史遺産 現地で見学・観察可能です。 15 北の里 直接見学はできませんが今でも様子がわかるものです。 16 遺跡 神社 北の里 北の里1、2、3遺跡 北の里八幡神社 江別市との境界である志文別川の右岸側の河 岸段丘上で発見されました。とくに北の里3 遺跡は、縄文時代前期以降の竪穴式住居跡が 15か所、 焼土及び屋 外炉11か 所、その他 ピットが6 90か所発 見されまし た。 北の里八幡神社は、北の里の入植者有志が中 心となり明治24年に建立され、ご神体は入 植者の故郷秋田から 開拓の守護神として 分霊して納められ、 開拓者の子孫が大切 に守り続けています。 現在の本殿は、大正 2年築・総緋桂(ヒガ ツラ)造りの広島神社 本殿を移設したもの です。 所在地:北の里531、527、490ほか 所在地:北の里138付近 17 18 北の里 交通 北の里 昔話 道道江別恵庭線 大蛇神社跡 もとは江別停車場から恵庭村字漁村まで、室 蘭街道にいたる里道として明治22年に開通 しました。 この道路は広 島開墾地や江 別の北越植民 社の開墾事業 にとっても重 要な道路にな りました。 明治17年に広島県から和田郁次郎と共に入 植した久保武右衛門の土地に樹齢数百年にな るタモの老木が立っていました・・・。 【きたひろ 昔話ヘ】 だいじゃじんじゃあと 所在地:私有地の為立ち入りはできません。 ~ 50 ~ 19 北の里 交通 夕張の渡し 千歳川には江別の石狩川から、漁(いざり)、千歳 まで蒸気船や帆かけ舟の航路がありました。現在の 千歳川橋付近やその他にも船着場があり、物資の運 搬は道路よりも早く運賃も安いものでした。しかし 一方で、川向かいの幌向村(南幌町)とは行き来が ありませんでした。明治末期に砂山付近で渡し舟を 始めた人が現れ、行き交いが盛んになります。昭和 22年頃まで「夕張の渡し」がこのあたりにありま した。 20 北の里 開拓 21 北の里 五反歩地区、五反歩の池 遺跡 北の里4、5遺跡 ごたんぶ 裏の沢川左岸の河岸段丘上に縄文時代前期~ 北の里開拓の頃、自給のために裏の沢川の下 中期の土器片が出土しました。 流に水門をつくり、川の両側に五反歩(間口 15間・奥行100間)の水田を25区画 造ったのが地名の由来です。水不足から野幌 国有林の沢地を借り大きな溜池の堤をつくり ました。これが現在も残る五反歩の池です。 所在地:北の里60-1、79-2 所在地:西の里734付近、北の里384付近 22 23 北の里 遺跡 北の里 開拓 北の里6、7、8遺跡 アオンボ川 北の里6遺跡は、北広島で発見されている縄 文時代の集石遺構があり、墳墓だとされてい ます。北の里7、8遺跡は、縄文前期~中期 の土器片や黒曜石片が出土しています。 昭和13年に囚人たちの手によって掘削されま した。土木作業に動員された囚人たちは、青 い服を着ていたので「青ン坊」と呼ばれ、そ れがいつしか労働の成果である排水路の呼称 として残りました。この排水路掘削により、 現在の東共栄から北の里にかけての水田開発 が可能となり、広島村の水 稲作付面積が増 大します。 所在地:共栄326、362、北の里260ほか ~ 51 ~ 24 開墾 北の里 拓北地区 北広島で太平洋戦争後拓かれた、戦後開拓地のひと つです。それまでは、大部分が葦原(よしはら)で、 馬の背に乗っても前が見えないほど葦が茂っていま した。戦後、10数軒にも上る満州や樺太などからの 引揚者たちの入植が進み、一気に水田が広がりまし た。千歳川の水害防止のため築堤や、河川改修工事 も進みますが、北広島のなかでも一番低い場所で、 昭和30年代から40年代にかけては洪水の被害に悩 まされました。南の里地区と合わせ、北広島の低地 に広がる水田の風景が眺められる場所です。 きたひろ昔ばなし② ~大蛇神社 だいじゃじんじゃ~ 明治17年頃、北広島に入植した久保武右衛門さんの土地に、数百年になるタモの老木 が立ち枯れたまま立っていました。中はすっかり空洞になったその木が開墾のじゃまにな ったので、久保さんは木の根などと一緒に焼き払おうと火をつけたのです。 その日から久保さんに不思議なことがおこ りました。毎晩夢の中に長い髪の美しい女の人 が現れ「火を消してください」と頼むのです。 何日も夢は続き、久保さんはすっかり疲れ果て てしまいました。 そんなある日、はっと気がついた久保さんが 老木の中をのぞいてみると、なんとそこには焼 かれた大蛇の骨があるではありませんか。たた りを恐れた人々はそこに小さな祠を建て、大蛇 を祀りました。それはその後に「大蛇神社」と 呼ばれるようになりましたが、昭和の初めの水 害で流されて、神社は無くなってしまいました。 本文・イラスト 「きたひろしま歴史物語」1996 年,北広島市 参考文献 北広島市史編さん委員会 編(2007)『北広島市史 上巻』北広島市 郷土誌編集委員会(1996)『郷土誌 北の里のあゆみ』郷土誌作成委員会 上野光輝(2000)『風雪百年』西の里開基百年記念事業実行委員会 北広島市教育委員会 (1996)『きたひろしま歴史物語』 田中吉人(1982)『札幌郡広島周辺アイヌ語地名考 川と湖の物語 ~ 52 ~ 歴史遺産マップ 1 2 5 3 野津幌川 西の里・北の里エリア編 野幌森林公園 4 6 7 8 11 野幌森林公園 9 46 15 14 10 16 21 17 13 12 20 裏の沢川 21 18 種苗管理センター 原原種ほ場 19 24 22 千歳川 23 天然記念物 野幌原始林 道道栗山北広島線 レクリエーションの森 輪厚川 1 番号はハンドブック内の遺産の番号です。 ~ 53 ~ ―MEMO- ~ 54 ~ 探訪のマナー ●歩く場所に注意をしましょう 田畑や農道にむやみに立ち入るのはやめましょう。 私有地にある遺産は、敷地に立ち入らないようにしましょう。 ●駐車場がない場所では、路上駐車や私有地への乗り入れをしないようにしましょう。 ●ごみは必ず持ち帰りましょう。 きたひろ 130 年記念事業 北広島遺産ハンドブック(歴史遺産編) 平成26年12月 第1版 発行 平成27年11月 第2版 編集・発行 知新の駅~地域遺産発見バスツアー 北広島市教育委員会 教育部 エコミュージアムセンター 北広島遺産ハンドブック(東部地区・南の里地区編) 平成26年10月 18 日発行 ~ 55 ~ 編集・発行
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