イタリア・オペラにおける舞台上のバンダ(1)

イタリア・オペラにおける舞台上のバンダ(1)
── 前史とロッシーニ作品における用法 ──
水谷 彰良
初出は『ロッシニアーナ』
(日本ロッシーニ協会紀要)第 31 号(2010 年 5 月発行)の拙稿『イタリア・
オペラにおける舞台上のバンダ──前史とロッシーニ作品における用法』
。書式を変更し、若干の情報を追
加して HP に掲載します。
(2013 年 7 月)
はじめに
19 世紀イタリア・オペラ愛好家にとって「バンダ(banda)[伊]」の名称は、意識するとせざるとにかかわらず
聞き馴染みがあるに違いない。そもそも banda は楽隊を意味するイタリア語であるが、語源は中世ラテン語の「バ
ンドゥム(bandum)」にあり、ルネサンス期には「バンデ(bande)」の語が楽器奏者のグループを指すようになっ
ていた1。これに対し、19 世紀イタリア・オペラにおけるバンダはオペラの上演で行進曲や異国風の音楽を演奏す
る木管・金管・打楽器の一団(例:バンダ・トゥルカ banda turca)や、舞台と客席の間の管弦楽用スペース(以下、
便宜上ピットと称する)2のオーケストラとは別に舞台の上や装置の後ろで演奏するアンサンブルを意味した。後者
には「舞台上のバンダ(banda sul palco)」3の名称を適用し、その起源は 18 世紀にあるものの、ロッシーニが採用
して以後「イタリア・オペラの恒常的特色」4とされるに至った。
一般のオペラ・ファンもヴェルディ作品の上演で接しているにもかかわらず、舞台上のバンダの存在はあまり
意識されず、その定義や歴史的用法についても詳しい説明がされてこなかった。舞台上のバンダとは何か、それ
はいつ頃オペラに採り入れられたのか、バンダの演奏パートはそのオペラの作曲者がすべて作曲するのか、舞台
上のバンダは誰が担っているのか?……こうした基本的な問題に関心を抱く人がいても、オペラ書の中に明確な
答えを見つけることはできない。理由の一端は、バンダを必要とする 19 世紀オペラの上演システムに関する研究
の遅れにあり、そうした研究は過去四半世紀間に本格化したにすぎず、バンダをめぐる諸問題もロッシーニ全集
やヴェルディ全集の制作過程で問い直された、と言っても過言でないからだ。これは、1990 年に出版されたロッ
シーニ全集《湖の女》の序文に、
「現在、19 世紀イタリア・オペラのバンダ用法に関する決定的研究を欠く」5と
書かれたことでも判る。
それゆえ 20 年前の 1990 年でもなお、オペラにおけるバンダ研究は進捗をみず、これに関するロッシーニ全集
の記述も明らかに不充分であった。しかし、そうした状況は徐々に改善されており、筆者も一定の研究成果をふ
まえ、2007 年の日本ヴェルディ協会例会において 19 世紀のオーケストラとバンダに関する講演『ヴェルディ時
代のオーケストラとバンダ』を行なった6。本稿はこの問題をより詳しく論じるために新たに執筆したもので、19
世紀の舞台上のバンダについて日本語で書かれた最初のまとまった論考となるはずである。分量の関係で独立さ
せて 2 回に分けて掲載し、本号では 18 世紀オペラにおける舞台上の楽士起用、ロッシーニによる本格的導入とそ
の用法について明らかにしたい。
I. 18 世紀末までの舞台上の楽士起用と舞台上のバンダ
I-1 モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ》における舞台上の小オーケストラ
舞台上に楽器奏者を起用した最も有名な 18 世紀オペラは、モーツァルトの《ドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni)》
であろう(1787 年。正式題名《罰せられた放蕩者、またはドン・ジョヴァンニ[Il dissoluto punito, ossia Il Don Giovanni]》)。
この作品では、各幕フィナーレに、舞台音楽(Bühnenmusik)を演奏する楽士たちが登場する。第 1 幕フィナーレ
では三つの小編成のオーケストラが舞台上でメヌエットを奏するが、新モーツァルト全集版《ドン・ジョヴァン
ニ》7はその楽器群をオーケストラ(Orchestra)I・II・III に区分、演奏部分の冒頭に「舞台上で、遠くから(sopra
il teatro, da lontano)」と指示している8。個々の編成は次のとおり。
1
オーケストラ I
オーボエ 2、ホルン 2、チェロなしの弦楽器(ファゴット任意)
オーケストラ II
ヴァイオリン[複数]とバッソ[コントラバス]
オーケストラ III
ヴァイオリン[複数]とバッソ[コントラバス]
第 2 幕フィナーレの舞台で食卓音楽を奏する楽士たちの編成は、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、
ホルン 2、チェロである。こちらは新モーツァルト全集で「吹奏者とチェロ:通例、舞台の上で(Bläser und Violoncello:
üblicherweise sopra il teatro)」と注釈されている9。それゆえ《ドン・ジョヴァンニ》における舞台上の必要人員は、
第 1 幕フィナーレでは、オーケストラ I の弦楽器をヴァイオリン 2、ヴィオラ 1、コントラバス 1、オーケストラ
II と III のヴァイオリンをそれぞれ最少 2 名としても、三つの小オーケストラの合計がアド・リビトゥム[任意]
のファゴットなしで 14 人にのぼる。これに第 2 幕フィナーレで必要なクラリネット 2 とファゴット 2 を加えた合
計 18 人が、このオペラの舞台上で必要な奏者である。
《ドン・ジョヴァンニ》初演当時のプラハ国民劇場(Gräflich Nostitzsches Nationaltheater)のオーケストラは、
「22
~30 名と小編成だが、ヴィルトゥオーゾ揃い」だったという10。ちなみにこの作品のピットに必要な管弦楽編成
は、フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、ホルン 2、クラリーノ 2、トロンボーン 3、ティン
パニ、マンドリン、弦楽合奏(ヴァイオリン I・II、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)、それにレチタティーヴォ・セ
ッコの伴奏楽器(フォルテピアノまたはチェンバロ、チェロ、コントラバス)11である。
これに対し、1796 年の年鑑に基づく 1787 年プラハでの《ドン・ジョヴァンニ》のオーケストラ編成は、弦楽
器 13(内訳:ヴァイオリン 8、ヴィオラ 2、チェロ 1、コントラバス 2)、フルート 2、オーボエ 2、クラリネット 2、フ
ァゴット 2、ホルン 2、トランペット 2、打楽器 1、チェンバロ 1 となっている12(総計 27)。これが事実なら、三
つのトロンボーンは他の金管楽器奏者、マンドリンは弦楽器奏者、レチタティーヴォ・セッコの低弦楽器奏者は
通常のチェロやコントラバス奏者が兼務したか、別に加えなければ帳尻が合わない。さらに、舞台上の楽士に関
する疑問も残る。ピットの奏者が総計 27~30 人であるのに対し、これとは別に第 1 幕フィナーレに 14 人、第 2
幕に 9 人の舞台上の奏者が必要になるのだ。前記のように最少編成でも 18 人が必要で、ピットの奏者の兼務はほ
ぼ不可能だから、舞台上の楽士は臨時に雇われたのであろう。
いうまでもなく、
《ドン・ジョヴァンニ》における舞台上の楽士は、19 世紀前半のイタリア・オペラで一般化す
る舞台上のバンダとはその本質を異にしている。なぜなら舞台上で演奏する音楽の全パートがモーツァルトの手
で作曲され、ピットのオーケストラと同等の演奏技術を求めたからである。これに関してフィリップ・ゴセット
は、「(ロッシーニの用いた)舞台上のバンダはプロフェッショナルな音楽家によって構成されず、例えばモーツァ
ルトが《ドン・ジョヴァンニ》の中で用いたような舞台上や舞台の袖で演奏する管弦楽のアンサンブルと混同し
てはならない」と述べている13。
ならば、ロッシーニが後期のオペラ・セーリアで用いた舞台上のバンダの起源や原点はどこにあるのか。オペ
ラの舞台における楽士起用について、時代を遡って考えてみよう。
I-2 モーツァルト以前の舞台上の楽士起用(ヘンデル、サリエーリ、パイジェッロ)
オペラの歴史において、通常の伴奏オーケストラとは別に舞台上で奏者を用いる試みを最初に誰が、どこで行
なったかは特定しえない。舞台と観客の間にオーケストラを配置する方式は、17 世紀ヴェネツィアの商業劇場で
採用されて以降一般化したが、バロック・オペラの包括的研究が遅れている現状では、舞台上の楽士起用の可能
性を示す資料が存在しても、それを史上初の使用と断ずることができないからだ。それゆえ、ここでは明確な舞
台上の楽士起用の例としてヘンデル作品から話を始めよう。
ヘンデルは複数のオペラにおいて、分割したオーケストラの一部や特定の楽器を舞台上で使用している。分割
したオーケストラの第二グループを舞台上もしくは書割の背後で用いたのは、
《エジプトのジューリオ・チェーザ
レ(Giulio Cesare in Egitto)》
(1724 年)パルナッソス山のシーン、
《アリオダンテ(Ariodante)》
(1735 年)のフィナ
ーレ、
《デイダミア》
(1741 年)の最初のシーンで、
《エジプトのジューリオ・チェーザレ》では 9 人の奏者がこれ
を担った。また、
《ポーロ(Poro)》
(1731 年)の自筆楽譜には舞台上でコルノ・ダ・カッチャ[狩猟ホルン]を用い
る指示があり、
《アルミーラ(Almira)》
(1704 年)と《ジュスティーノ(Giustino)》
(1737 年)の台本でも舞台上の
奏者に関する指示がある14。《アルミーラ》は 19 歳のヘンデルがハンブルクのゲンゼマルクト劇場で初演した作品
だから、この段階でイタリア以外の都市にも舞台上の楽士起用があったことになるが、その起源は 17 世紀のヴェ
ネツィアと思われる15。
2
分割したオーケストラの舞台上での起用は、後のイタリア・オペラにも例がある。サリエーリが 1774 年にヴィ
ーンのケルントナートーア劇場で初演した《心をひきつける磁石16》もその一つである。この作品では第 2 幕第 6
景の舞台に、
「楽器奏者と音楽家たちを乗せた、明るく照らされた装置」が現れる(台本のト書きによる)。サリエー
リはここでピットのオーケストラを分割し、その半分を舞台に乗せており、舞台上のオーケストラ(orchestra sopra
[in scena])の編成は、フルート 2、ファゴット 1、ホルン 2、ヴァイオリン 2、チェロ 1、通奏低音(basso continuo)、
ピットで演奏するオーケストラ(orchestra sotto [in buca])の編成は、オーボエ 2、クラリネット 2、トランペット
2、ヴァイオリン 2、ヴィオラ 2、通奏低音となっている17。
しかしながら、ここまで挙げた用例は数人の楽士か小オーケストラ、ないしは分割オーケストラの舞台上での
使用であって、ロッシーニが用いた舞台上のバンダの起源とは見なせない。そのことは、
『新グローヴ・オペラ事
典』の項目「舞台上のバンダ(Stage band)」が、さまざまなバンダ使用の起源をパイジェッロ《ピッロ(Pirro)》
(1787 年)としたことでも判る18。そして同事典の項目「Pirro」は、この作品の特色として木管・金管アンサンブ
ルの使用を挙げ、導入曲と各幕のアンサンブルに使われるバンダはそれぞれ複数のオーボエ、フルート、ホルン、
ファゴット、打楽器で編成されたとする。そしてパイジェッロ自身も自伝的書簡でそれを新機軸と述べ、第 2 幕
では軍楽隊が舞台を横切って行進し、二つの出来事が同時に示されたという19。
これは紛れもなく舞台上のバンダの先例であるが、《ピッロ》を起源と考えるのは疑問である。なぜなら 1746
年 1 月 20 日に同じサン・カルロ劇場でハッセ《イペルメストラ(Ipermestra)》が再演された際に、ピエタ・デイ・
トゥルキーニ音楽院の 40 人の生徒たちが舞台上で演奏したとの記録があり20、それが木管・金管アンサンブルで
あれば舞台上のバンダに相当するからである。
《ピッロ》の 40 年前に舞台上のバンダがサン・カルロ劇場で使用
されたのであれば、さらなる前例があっても不思議でなく、同劇場では 1741 年のサッロ《エツィオ(Ezio)》と
1746 年のハッセ《ティグラーネ(Tigrane)》に軍楽隊を用いたとする文献もある21。
18 世紀のサン・カルロ劇場におけるバンダ使用の事実関係と詳細な分析は、前記作品も含めた専門研究者に委
ねるほかなく、次に時代を 19 世紀に移し、
《リッチャルドとゾライデ》に始まるとされる 19 世紀オペラの舞台上
のバンダについて検討してみたい。
II. ロッシーニ作品における舞台上のバンダ
II-1 《リッチャルドとゾライデ》と《エジプトのモゼ》改訂版の〈祈り〉
19 世紀イタリア・オペラにおける舞台上のバンダ初使用を、ロッシーニの《リッチャルドとゾライデ(Ricciardo
e Zoraide)》
(1818 年 12 月 3 日 ナポリ、サン・カルロ劇場)とする記述が複数の音楽書に見出せる22。しかし、それに
先立つ 18 年間の使用例を絶無と断言しうるほど包括的研究がされたはずもなく、バンダ研究家アンジェロ・デ・
パオラは、「19 世紀初頭のオペラにおける舞台上のバンダ指示の一つ」としてシモーネ・マイール[ジモン・マイ
ヤー]の《ザモーリ、またはインドの英雄(Zamori, ossia L’eroe delle Indie)》
(1804 年)を挙げ、そのバンダ編成を
「オッタヴィーノ[ピッコロ]以外にクラリネット 2、ファゴット、セルペントーネ、ホルン 2 で、大太鼓もあっ
た」とする23。この作品は 1804 年 8 月 10 日、ピアチェンツァ市立劇場のこけら落としに初演されており、デ・
パオラの記述が事実なら従来説は覆るので、以下、
《リッチャルドとゾライデ》を「ロッシーニ作品における最初
の舞台上のバンダ使用」として話を進めたい。
ロッシーニがナポリの王立劇場の音楽監督兼作曲家となったのは 1815 年、
《リッチャルドとゾライデ》はナポ
リで発表した 5 作目のオペラ・セーリアである(これに先立つ 4 作は、
《イングランド女王エリザベッタ(Elisabetta,regina
d’Inghilterra)》1815 年、《オテッロ》1816 年、《アルミーダ(Armida)》1817 年、《エジプトのモゼ(Mosè in Egitto)》1818
年)。英雄オテッロの凱旋を民衆が歓呼の声で迎える《オテッロ(Otello)》導入曲のように、舞台上のバンダを使
う劇作上の余地があったにもかかわらず、なぜ《リッチャルドとゾライデ》までそれを用いず、なぜこの作品で
初めて使用したのかとの疑問に対し、明確な答えを出すことはできない。
ゴセットは、「ロッシーニはおそらく《リッチャルドとゾライデ》のためのバンダ・パートを作曲していない」
(註:バンダ編曲の手引きとなる音符だけを書き、パート譜への編曲は第三者に委ねたという意味。後述)が、バンダ・パー
トは「同時代の筆写譜にしばしば見られ、同時代の印刷楽譜にもセットとして組み込まれている」とする24。事実
1828 年にローマのラッティ(Ratti)社が出版した《リッチャルドとゾライデ》初版総譜にもバンダ・パートが印
刷され、その編成は、オッタヴィーノ 1、クアルティーノ(F管の小クラリネット)1、クラリネット 4、ホルン 2、
トランペット 4、トロンボーン 2、セルペントーネ 1、ファゴット 2、大太鼓となっている25。
3
初使用する舞台上のバンダの効果にロッシーニが周到
な配慮をしたことは、冒頭の〈シンフォニーアと導入曲〉
だけでも充分理解しうる。とりわけ導入曲で舞台上のバン
ダが行進曲を奏し、ピットの管弦楽がフォルテの総奏で一
瞬関与する用法が強いインパクトを与える(楽譜
楽譜 1)。二つ
のオーケストラのコントラストも見事というほかなく、旋
律を細かな音符に変奏するオッタヴィーノとクアルティ
ーノのソロもバンダ奏者に委ねられている(この行進曲は、
第 2 曲アゴランテのカヴァティーナの締め括りに、退場の音楽と
して再帰する)。さらに第 5 曲三重唱の中間部では、舞台裏
の女声合唱がクラリネット 4、ファゴット 2 のバンダとハ
ープ伴奏で歌われる(ハープも含め、ここは舞台裏での演奏を
想定したものと思われる)。フル編成の舞台上のバンダは第 1
幕と第 2 幕のフォナーレでも使われ、第 1 幕のそれに《湖
の女》を先取りする音楽が聴き取れる。
楽譜 1: 《リッチャルドとゾライデ》総譜初版の導入曲/
行進曲冒頭(上図は下から 2 段目がバンダ用
の旋律。下図は同じ部分のバンダ・パート譜)
仮にロッシーニ以前に他の作曲家が舞台上のバンダを用いたとしても、
《リッチャルドとゾライデ》におけるそ
れが創意に満ちたものであるのは疑い得ない。ちなみにロッシーニ作品における舞台上のバンダは、研究者によ
りその要員が「実際に舞台の上(sul palco)で衣装をつけて(in costume)」演奏した、と断言されている26。
続いてロッシーニは、3 ヵ月後にサン・カルロ劇場で予定した《エジプトのモゼ》再演(1819 年 3 月 7 日)のた
めに改作を施し、新たに作曲した〈祈り〉
(N.12)の中で舞台上のバンダを用いた(このオペラの初演版では舞台上の
バンダが使われない)。ここでロッシーニはみずからバンダのパート譜を作曲したが、その編成は第三者による《リ
ッチャルドとゾライデ》のバンダ編曲とほぼ同じで、オッタヴィーノ 1、クアルティーノ(E♭管の小クラリネット)
1、クラリーノ 2、クラリネット 2、ホルン 2、トランペット 4、トロンボーン 2、セルペントーネ 1、大太鼓とな
っている(総員 16 人)。ちなみに〈祈り〉自筆楽譜冒頭頁の左欄外にある添え書きは、ホルン、トランペット、フ
ァゴット、トロンボーン、ティンパニ、大太鼓、シンバルならびに舞台上のバンダ・パートをスコア末尾に別掲
載したことを表わし、実際に〈祈り〉の総譜に続いて 5 頁分のバンダ・パート(楽譜
楽譜 2)
、さらに 5 頁分のスパル
楽譜 2: 《エジプトのモゼ》自筆楽譜より〈祈り〉 の冒頭(左)とスパルティティーニに書かれたバンダ・パート(右)
4
ティティーニ(spartitini 註:総譜に収まらない金管楽器や打楽器のパートを別に抜書きした楽譜)が置かれている27。《エ
ジプトのモゼ》再演が《リッチャルドとゾライデ》初演の 3 ヵ月後であることから、ロッシーニはここで《エジ
プトのモゼ》と同じ楽団(バンダ)の演奏を想定したものと思われる。
興味深いのは、ロッシーニが《エジプトのモゼ》再演に際してたった 1 曲のために舞台上のバンダ(ロッシーニ
は前記の添え書きに「舞台上の sul Palco」と明記)を作曲したことで、みずからバンダのパート譜を書いたのは後にも
先にもこれが唯一である。しかし、1825 年に出版された《エジプトのモゼ》全曲印刷総譜(ローマ、ラッティ&コ
ンチェッティ Ratti e Concetti 社)には、
〈祈り〉のバンダ・パートは掲載されなかった。
II-2 《エルミオーネ》と《湖の女》における用法の拡大
続くロッシーニの新作は、
《エジプトのモゼ》改訂版初演から 20 日後の 1819 年 3 月 27 日に同じサン・カルロ
(N.5.Marcia)と第 2 幕〈エル
劇場で初演した《エルミオーネ(Ermione)》である。この作品では第 1 幕〈行進曲〉
ミオーネの大シェーナ〉
(N.9.Grand Scena Ermione)にのみ、舞台上のバンダを用いている28。ここで興味深いのは、
No.5〈行進曲〉においてロッシーニは自筆総譜にバンダのための手引き(Guida per la Banda。註:第三者がバンダ・
パートに編曲するためのグイダ・メローディカ guida melodica もしくはグイダ・デッラ・バンダ guida della Banda と呼ばれ
る、単旋律もしくは複数パートの略記譜)用にあらかじめ五線の一段を設けながら、音符を記さなかったことである。
全集版の編者(パトリシア・B・ブラウナーとフィリップ・ゴセット)は、これは舞台上のバンダがピットのオーケスト
ラと同じ音楽を二重に演奏するものと解釈している29。それゆえ批判校訂版の総譜では、
「Banda sul palco」の後
に「coll’Orchestra」と付記されている(311 頁)。
第 2 幕〈エルミオーネの大シェーナ(Grand Scena)〉では、エルミオーネのシェーナの歌い終わりと同時に舞台
上のバンダが単独で祝賀行進曲を演奏し始める。以後バンダの音楽を背景に、クレオーネとエルミオーネ、さら
に合唱が歌い、その間ピットの管弦楽は僅かに関与するだけである(120-171 小節。バンダの演奏は全 52 小節、時間
にして 2 分に満たない)。ロッシーニはこの部分にバンダのための手引きを書いたが、
《エルミオーネ》の同時代筆写
譜にバンダ・パートの編曲が一切見出せないため、前記校訂者は《エジプトのモゼ》のバンダ編成に沿って編曲
している(全集版には掲載せず、リコルディ社の上演用貸し譜のみ)30。
次作《エドゥアルドとクリスティーナ(Eduardo e Cristina)》は 1819 年 4 月 24 日にヴェネツィアのサン・ベネ
デット劇場で初演されたが、四つの旧作(《ブルグントのアデライデ(Adelaide di Borgogna)》《エジプトのモゼ》《リッチ
ャルドとゾライデ》《エルミオーネ》)のパスティッチョとして作られ、ロッシーニ自身が新たに加えたのは合唱曲と
シェーナの一部(N.6 と 12)、レチタティーヴォと小二重唱(N.15[推測])、レチタティーヴォ・アッコンパニャー
ト[推測]のみである31。パスティッチョ・オペラゆえ原曲の自筆楽譜は存在しないが、バンダを伴う転用曲はそ
のままバンダ付きで演奏されたものと思われる32。事実であれば、ナポリ以外の都市のために作られたロッシーニ
作品での最初のバンダ使用となろう。
《エルミオーネ》の半年後、1819 年 10 月 24 日にサン・カルロ劇場で初演した次作《湖の女(La donna del lago)》
では、バンダの規模が飛躍的に拡大し、
「舞台上の六つの変ホのホルン(Sei Corni in Elafa [Mi♭] sul Palco Scenico)」
「舞台上のバンダとトランペット(Banda e Trombette sul Palco)」の他に、
「舞台の袖で演奏する小オーケストラ
(Un’orchestrina dietro le quinte)」も採用している。最初に使われるのは、導入曲(N.1 Sinfonia, e Introduzione)の
冒頭合唱の途中から関与する六つのホルンによる狩のファンファーレである(153-195、273-315、380-409、533-548、
601-612 小節)33。これは舞台上の演奏を意図しており、後に《ギヨーム・テル(Guillaume Tell)》
(1829 年)で用い
た舞台上のホルンの先駆けといえる。それらは常に舞台上の同じ場所で演奏したのではなく、奏者は舞台衣装を
つけ、合唱の部分とエルチャとウベルトの歌唱部分とではシーンが異なることから、適宜場所を移動して演奏し
たものと推測される。
舞台袖の小オーケストラは、第 2 幕の〈小カンツォーネ〉
(N.11 [Canzoncina] sul Palco)に使われる。ロッシーニ
はこの部分に「舞台上の」楽器としてクラリネット 4、ホルン[2]、ファゴット[2]、ハープを求めており、全集版
の校訂者は「ロッシーニが舞台袖の小オーケストラを指示」したと解釈する34。これもまたバンダの一種と理解し
てよいが、ハープを伴う小編成であるのは、ジャコモ 5 世が室内で歌うカンツォーネと関連する選択であろう。
以上 2 箇所を除けば、通常のバンダ使用は N.6〈合唱とロドリーゴのカヴァティーナ〉
、N.7〈合唱と第 1 幕フ
ィナーレ〉
、N.12〈合唱〉
、N.13〈エーレナのロンド=フィナーレ〉の 4 箇所である。
〈合唱とロドリーゴのカヴァ
(N.6.Coro e Cavatina Rodrigo)では、ロッシーニの指示による「舞台上と装置内のバンダ(Banda sul palco
ティーナ〉
e dentro le scene)」が使われる。このナンバーは舞台上のバンダで演奏が始まり、弦楽合奏、トライアングル、ク
ラリネットが加わり、合唱開始と同時に音楽がピットのフル・オーケストラに移行する。バンダの関与は最初の
5
合唱部分(1-41、62-103 小節)と、ロドリーゴのカヴァティーナのカバレッタ部(242-243、259-310 小節)である。
全集版はバンダ・パートの編曲を、ナポリ音楽院の筆写譜に基づいて行なっている(全集版の略号 NA26、編成は、
オッタヴィーノ 1、クアルティーノ 1、クラリネット 4、ファゴット 2、ホルン 2、トランペット 4、トロンボーン 2、セルペン
トーネ 1、大太鼓)35。総勢 18 人にのぼるが、この作品のバンダの最大編成は N.7〈合唱と第 1 幕フィナーレ〉で
用いられ、驚くべきことにそのストレッタは、オッタヴィーノ 1、クアルティーノ 1、クラリネット 8、ファゴッ
ト 2、ホルン 2.トランペット 13、トロンボーン 5、セルペントーネ 1、グラン=バッシ(Grand-bassi セルペントー
ネと同様の機能を持つ金管楽器)1、大太鼓と、合計 35 人の奏者用に編曲されている。
第 2 幕 N.12〈合唱〉では、ロッシーニ自身の指示した「舞台上のバンダとトランペット(Banda e Trombette sul
Palco)」が使われる。ロッシーニは最初の 4 小節のみバンダを一段に 2 声で記譜したが、5-26 小節は旋律のみで、
「全員(T[utti])」と「トランペット・ソロ(Trombe solo)」と適宜指示を変え、最後の 7 小節(46-52 小節)も実質
的に同じである36。
N.13〈エーレナのロンド=フィナーレ〉におけるバンダは、63 小節から 119 小節までの全 57 小節で、ロンド
の主題を単独に前奏として演奏し、その後も部分的に合唱を単独で伴奏するなど重要な役割を担う。ロッシーニ
はその音楽を明確にするため、バンダの旋律以外に和声的な補筆も行い(最大で六つの音からなる和音)、全集版では
ナポリの手写譜に基づき、オッタヴィーノ 1、クアルティーノ 1、クラリネット 4、ファゴット 2、ホルン 2、ト
ランペット 3、トロンボーン 2、セルペントーネ 1、大太鼓に加え、クラリネット 3、トランペット 6、トロンボ
ーン 3 と、29 人の奏者用に編曲し、自筆楽譜に記載のない 150-173 小節(曲の末尾)もバンダがピットのオーケ
ストラと一緒に演奏できるように編曲している。
II-3 ロッシーニ最後のナポリ・オペラ《ゼルミーラ》
次にロッシーニがオペラで舞台上のバンダを用いたのは、サン・カルロ劇場初演の《マオメット 2 世(Maometto
secondo)》
(1820 年)であり、
《湖の女》と《マオメット 2 世》の間にミラーノのスカラ座で初演した《ビアンカと
ファッリエーロ(Bianca e Falliero)》
(1819 年)には使われない。これは当時スカラ座で舞台上のバンダを使用する
習慣がなかったためであろう37。それゆえロッシーニは、《湖の女》のロンド・フィナーレを改作転用した《ビア
ンカとファッリエーロ》のアリア・フィナーレにおいて、バンダ・パートをピットのオーケストラに置き換える
改作を行なっている。
次の《マオメット 2 世》に関しては、全集版が未出版のため本論では割愛し、話を《ゼルミーラ(Zelmira)》に
《マオメット 2 世》と《ゼルミーラ》の間に作られたローマ初演の《マティルデ・ディ・シャブラン(Matilde
移したい(なお、
di Shabran)》には舞台上のバンダが使われない)。
ナポリのためにロッシーニが書いた最後のオペラ《ゼルミーラ》
(1822 年 2 月 16 日サン・カルロ劇場初演)では、
第 1 幕の〈三重唱〉
(N.3 Terzetto)、
〈合唱とイーロのカヴァティーナ〉
(N.4 Coro e Cavatina Ilo)、第 2 幕フィナー
レ(N.11 Finale Secondo)に舞台上のバンダが使われる38。N.3 三重唱での使用は 136 小節から 159 小節までの 24
小節で、プリモ・テンポを中断する形で挿入され、その部分は台本のト書きに「混乱した叫び声と行進曲が遠く
から聞こえる」とある。バンダ旋律は低音部と歌唱パートの間の一段に書かれ、3 人の歌手とバンダのみの演奏と
なる(楽譜
楽譜 3)。
楽譜 3:《ゼルミーラ》 自筆楽譜の N.3 三重唱におけるバンダ開始部(136-141 小節)
ここでのバンダ奏者は舞台の袖か装置裏で演奏したはずで、そのことはこの音楽がイーロのレスボス帰還の先
触れをなし(イーロはまだ登場しない)、続く N.4 合唱とイーロのカヴァティーナの中で完結することからも明らか
である。この N.4 ではピットのオーケストラの前奏に続いてバンダが合唱と共に加わり(41-123 小節。楽譜
楽譜 4)、ピ
ットの管弦楽を音量的に強化しつつ並奏する。そしてイーロのカヴァティーナのカンタービレ部で新たに合唱と
共に関与すると(144-154 小節)、続くカバレッタでは断続的ながら歌や管弦楽と複雑に絡んで進行する(169-174、
6
楽譜 4:《ゼルミーラ》 自筆楽譜の N.4 合唱におけるバンダ開始部(41-47 小節)
221-245、293-331 小節)。ここは前曲と舞台設定が異なり、音楽が同期することから、衣装をつけたバンダ奏者が舞
オーボエ 2、クラリネット 2、ファゴット 2、コントロファゴット 1、ホルン 4、トランペット 6、トロンボーン 1、
台に参加したと推測しうる。なお、
《ゼルミーラ》全集版のバンダ編曲はこのオペラの校訂者ではなく、すでに他
のオペラでバンダ編曲したブラウナーとゴセットが手がけ39、最大編成はオッタヴィーノ 1、クアルティーノ 1、
セルペントーネ 1、小太鼓、大太鼓と、合計 23 人を要する。
ロッシーニの培った舞台上のバンダ用法が音楽的に進化したことは、第 2 幕フィナーレでも明らかで、そこで
は木管楽器がピットの木管楽器と同じパッセージを演奏するなど本来の管弦楽団と同質の演奏技術を求めている
(演奏箇所は 1-15、38-61、71-72、76-77、88-106、116-117、121-122、133-170 小節)。このナンバーのバンダのための
手引きは、「ホルン」「ティンパニ」「大太鼓、シンバル etc」と共にスパルティティーニの最下段に記されている
が(2 段目のバンダはトランペットのみで、三和音で書かれた部分がある。楽譜
楽譜 5)、こうした単純な書式のバンダ指示が、
どう 23 人の奏者用に編曲されるかは、全集版の編曲を見なければけっして理解できないはずである。
なお、この作品の自筆楽譜では N.8〈第 1 幕フィナーレ〉にも当初バンダの使用を想定し、楽譜に「バンダ」
と記した箇所がある(1005 小節)。しかし、ロッシーニはバンダのための手引きを書かず、同時代の写譜にも N.8
のバンダ・パートが存在しないため、全集版はこのナンバーをバンダの適用外としている。
楽譜 5: 《ゼルミーラ》 自筆楽譜の第 2 幕フィナーレのスパルティティーニより(最下段がバンダのための手引き)
II-4 最後のオペラ・セーリア《セミラーミデ》における舞台上のバンダ
次作《セミラーミデ(Semiramide)》
(1823 年)は、ナポリを去ったロッシーニがヴィーンに招かれて一連の上演
で成功を収めた後に書かれ、結果的にイタリアにおける最後のロッシーニ作品となった。と同時にナポリ以外の
都市の劇場のために作曲した、舞台上のバンダを用いる最初で最後のオペラという点でも重要である。
ヴェネツィアではこれに先立ち、前記ロッシーニ作品の同地での上演により舞台上のバンダが導入されたこと
が、
《セミラーミデ》初演批評から明らかになる(《セミラーミデ》初演以前のヴェネツィアでは、《リッチャルドとゾライ
デ》が 1821、22、23 年、
《エジプトのモゼ》と《マオメット 2 世》が 1822 年に上演されている)
。そして次の批評を通じて、
ヴェネツィアではロッシーニの導入した舞台上のバンダが好まれなかったが、
《セミラーミデ》の初演が観客の認
識を改めさせたことが判る。
7
(《セミラーミデ》の)導入曲でロッシーニが舞台上に持ち込んだ大人数の軍楽隊は、合唱の心構えと歌の伴
奏に驚くべき効果をもたらす。かつてロッシーニは、彼が導入した舞台上のバンダの使用と濫用をひどく酷
評された。私たちは専門的な議論に加わるつもりはないと公言してきた。しかし、バンダの敵たち(inimici delle
bande)の何人かに、この《セミラーミデ》の効果を聴きにきてほしいとの願いを表明することは許されよう。
そうすれば、彼らはきっと意見を変えるだろう。それ(舞台上のバンダ)は、上演の壮麗さに少なからぬ貢献
をするのだ。バンダ-有名なエステルハージ歩兵部隊の皇室王室連隊[I.R. reggimento di fanteria Esterhazy]
による-を正しく称賛するなら、その演奏は望みうる完璧以上のものと言えよう。
(『ガッゼッタ・プリヴィレジャータ・ディ・ヴェネツィア』第 44 号、1823 年 2 月 22 日付)40
《セミラーミデ》での舞台上のバンダは、第 1 幕導入曲(N.1)、第 1 幕フィナーレ(N.7)、第 2 幕セミラーミデ
とアッスールの二重唱(N.8)の三つのナンバーに使われる。全集版の校訂者によれば、この作品は自筆楽譜と一
緒に初演時のバンダ・パート譜が残されており、N.1 と N.7・N.8 とでは楽器選択に重要な違いがあり、他の筆写
譜や印刷総譜との比較を通じてオリジナル編成を特定できるという41。その結果、全集版は導入曲のバンダ・パー
トをオリジナル・ヴァージョンとヴェネツィア稿(versione di pVE Banda)をそれぞれ掲載し、オリジナル・ヴァ
ージョンの編成はオッタヴィーノ 1、クラリネット・ピッコロ 1、クラリネット 3、ファゴット 2、ホルン 4、ト
ランペット 5、トロンボーン 2、
[小]太鼓、大太鼓の合計 20 人、ヴェネツィア稿のそれはオッタヴィーノ 1、テ
ルツィーノ 1、オーボエ 2、クラリネット 32、ファゴット 2、ホルン 4、トランペット 4、トロンボーン 2、セル
ペントーネ 2、コントロファゴット 1、小太鼓、大太鼓の合計 24 人となっている。
導入曲における使用箇所は、最初の合唱(前奏を除く。110-280 小節)とセミラーミデ登場前の合唱(前奏にも関与。
363-455 小節)である。最初の合唱では舞台上のバンダがピットのオーケストラの前奏に続く合唱から(ピットの管
弦楽と一緒に)演奏するので、オーケストラの音量が倍加して壮麗な音響を現出する。セミラーミデ登場前のそれ
は、管弦楽が演奏するフラメンコ風の前奏(歌曲《スペインのカンツォネッタ(Canzonetta spagnuola)》の転用)の中
でバンダの総奏が瞬間的にフォルティッシモでアクセントを付与し、リズムを一致させるのが非常に難しい(楽譜
楽譜
。これは、
《リッチャルドとゾライデ》のバンダ行進曲でピットの管弦楽がフォルテ
6。バンダの演奏部分を↑で示す)
でアクセントを与えた用法(楽譜 1 参照)の、バンダと管弦楽のあり方を逆転させたものといえる。
第 1 幕のフィナーレでは冒頭合唱に舞台上のバンダが関与し、導入曲と同様、音楽に壮麗さを加える(前奏を除
く。46-90、127-180 小節)。編成はオッタヴィーノ 1、クラリネット・ピッコロ 1、クラリネット 2、ファゴット 2、
ホルン 4、トランペット 5、トロンボーン 2、小太鼓、大太鼓の合計 19 人である。
第 2 幕セミラーミデとアッスールの二重唱(N.8)におけるバンダは、曲の中間部で王宮内の祝典音楽(musica
festevole nella Reggia)を演奏する(183-207 小節)。その音楽は第 1 幕フィナーレで聴かれたものと同じだが、調性
は長三度高く移調されている。ここは楽譜に舞台上のバンダと書かれていても、明らかに舞台袖または装置の後
ろでの演奏が想定され、舞台のセミラーミデとアッスールがこれを耳にして王宮内の祝典開始を知る、という劇
の運びに沿っている。
《セミラーミデ》の舞台上のバンダは、
1826-7 年に出版された 19 世紀における唯一
の全曲印刷総譜(ローマ、ラッティ&コンチェ
ッティ Ratti e Concetti)にも、スパルティテ
ィーニとして掲載されている42。印刷総譜に
おけるバンダ・パート掲載は、これらの作品
に舞台上のバンダが不可欠であると周知さ
せる役割をも果たしたといえよう。
バンダのための手引き ⇒
楽譜 6: 《セミラーミデ》 自筆楽譜の第 1 幕導入曲、
セミラーミデ登場に先立つ合唱の前奏
[バンダの演奏部分]
8
↑ ↑
↑
↑
III. バンダの担い手、ロッシーニによるバンダ使用の意義と反響
III-1 舞台上のバンダを担った軍楽隊
ところで、ナポリにおけるロッシーニ作品の初演では、どのようなグループや団体がバンダを務めたのだろう
か。これに関して知りうることを次に記してみたい。
ロッシーニがナポリで導入した舞台上のバンダをどんなグループや団体が担ったかに関して、個々のオペラの
全集版には一切記述がない。同時代の新聞批評や公演レポートに具体的に言及されず、団体を特定するドキュメ
ントが未発見というのが原因であろう。けれども後述するように、ロッシーニがナポリで初演したカンタータの
バンダをブルボン家の軍楽隊が担ったことが明らかになっており、オペラの上演でも同じ軍楽隊が参加したもの
と推測できる。これについて述べる前に、イタリアにおけるバンダの 2 種の形態についてふれておこう。
19 世紀初頭のイタリアには、都市ごとの公設バンダ(Banda civile または Banda municipale)と軍に所属する軍楽
隊(Banda militare)の二つが存在した43。公設バンダの設立は都市によってさまざまだが、13 世紀のイタリア諸
都市に「コムーネの職員をメンバーとする」奏者の一団があり、フィレンツェでは 1232 年にそうしたバンダが確
認でき、「フィレンツェのみならず、シエナ、ピザ、ルッカ、ピストイアにも存在した」とされる44。公設バンダ
はコムーネの祝祭や行事で演奏し、ときには軍楽隊の役割も果たしたと思われるが、狭義には常設の軍隊に置か
れたバンダを軍楽隊と定義してよいだろう。
16 世紀にスペインの属州となったナポリは、18 世紀初頭の一時的なオーストリア・ハプスブルク家の支配を経
て、1734 年、カルロス 3 世の軍隊によって占領された。翌年カルロス 3 世がナポリ王カルロ 7 世とシチーリア王
カルロ 5 世に即位し、スペイン・ブルボン家の支配が始まった。ナポリにサン・カルロ劇場が開場した 1737 年に
は、ブルボン家の軍隊に 8~12 人の音楽家によるバンダがあり、さまざまな歩兵隊と騎兵隊がそれぞれ「笛、太
鼓、トランペット、オーボエ、ティンパニ」からなるバンダを持ったという45。それゆえ軍楽隊の語も、必ずしも
一個の団体やグループを意味せず、連隊ごとに存在したバンダの総称としても理解する必要がある。
はじめに記したように、ナポリのサン・カルロ劇場では 18 世紀半ばのオペラ上演でブルボン家の軍楽隊が舞台
上で演奏した記録があり、同地の音楽院の生徒が演奏に参加することもあった。ブルボン家の軍楽隊の編成が大
きなものであったことは、1788 年に一つの連隊のバンダが打楽器奏者を別にして約 25 人の奏者で構成され、ト
ランペット 9、ファゴット 3、クラリネット 11、オーボエ 3 の編成だったことでも判る46。しかしながら、当時の
イタリアのバンダがそっくりそのまま 19 世紀に引き継がれたのではなく、世紀末に始まったフランス軍のイタリ
ア侵攻と、これに続く約 10 年間のフランス支配がイタリアのバンダ編成に影響を与えたとされている。フランス
では革命期に軍楽隊が積極的に養成され、その規模を拡大するため 1792 年に軍楽学校が設立され、これがフラン
ス初の吹奏楽器奏者のための学校となった。近代バンダの歴史もここに始まり、イタリアでもフランス支配を通
じてバンダが豊富な楽器を用いる編成に変わっていったのである。ナポリの連隊のバンダ編成も、18 世紀最後の
10 年間には、前記の楽器以外にピッフェロ、フルート、ピッコロ、オッタヴィーノ、コルノ・ダ・カッチャ、ト
ロンボーン、セルペントーネ、小太鼓、大太鼓、シンバル、トライアングルが加わっていた47。
ロッシーニがナポリに活動の場を移したのは、フランス支配が終わり、ブルボン家の統治が復活した 1815 年で
あった。かくして王政復古と共にブルボン家の軍楽隊がパレルモからナポリに復帰し、ほどなくロッシーニ作品
のバンダを担うのであるが、近年の研究で明らかになった経緯をさまざまな文献から抽出してみよう。
ナポリでは 1816 年 3 月 14 日、部隊ごとの軍楽隊の割り当て人員を「バンダ長(Capo Banda)1、楽隊員 10、
大太鼓手 1、小太鼓手 1、小シンバル奏者 2、カッペッレット48奏者 2」とする通達が出された(バンダ長を含む総
員は 17 人)49。同年 9 月 4 日付の回覧状では、バンダ長に続く 10 人の楽隊員の構成が「クアルティーノ 1 を含む
クラリネット 5、ホルン 2、トロンボーン 1、トランペット 1、セルペントーネ 1、オッタヴィーノ 1」であるべき
ことが明示され、これとは別に各部隊は「大太鼓、小太鼓、小シンバル、中国風の小帽子(cappelletti alla cinese)
」
奏者を持つ、と規定されている50。1 ヵ月後の 10 月 26 日付の通達では正式な「大バンダ(Banda Grande)」とは
別に、バンダ奏者の見習いで構成した「小バンダ(Piccola Banda)」に言及され、全集版校訂者マルコ・ベゲッリ
は一つの連隊に大小合わせて約 40 人で構成されるバンダが存在した、とする。
これは、ロッシーニが 1819 年 2 月 20 日に初演したカンタータ《王立サン・カルロ劇場の芸術家たちが陛下に
恭しく捧げる敬意(Omaggio umiliato a Sua Maestà dagli artisti del Real Teatro S.Carlo)51》に関して『両シチーリア
王国新聞(Giornale del Regno delle Due Sicilie)』が、三つの連隊の軍楽隊員が「舞台上で有能なカリガーリ氏に指
揮された 120 の吹奏楽器」を演奏した、と報じたことで裏づけられる。このとき演奏を担当したのは「第一・第
9
二衛兵精鋭連隊(1˚ e 2˚ Reggimento Granatieri della Guardia)」と「海兵連隊(Reggimento della Marina)」のバン
ダで、指揮したカリガーリはサン・カルロ劇場管弦楽団の第一コルノ・ダ・カッチャ奏者ジュゼッペ・カレガー
リ(Giuseppe Calegari)52であった。
このカンタータは、国王フェルディナンド 1 世の病が癒えたのを祝して前年 12 月にサン・カルロ劇場の芸術家
たちが企画、当初は翌 1819 年 1 月 12 日の初演予定だった。早い段階で海兵連隊の出演許可が下りたことは、同
連隊査問官ライモンド・クレルの 1 月 3 日付の書簡から明らかで、第一・第二衛兵精鋭連隊についてはブリガー
タ連隊の総査問官(氏名不詳)による 1 月 12 日付の書簡に書かれている(最初の手紙には、軍楽隊が豪華な制服を着て
出演することも記されている)53。実際の初演は 2 月 20 日に行われ、バレエを伴って演奏されたカンタータに続いて
《リッチャルドとゾライデ》の第 1 幕と、
《解放されたイェルサレム》のグラン・バッロが上演された(2 月 19 日
付『両シチーリア王国新聞』による告知)。このカンタータでは終曲「合唱、レチタティーヴォ、バッラービレ(Coro,
Recitativo e Ballabile)」の冒頭合唱と、最後の合唱(525 小節以降)にバンダが使われている。10 週間後の 1819 年
5 月 9 日、サン・カルロ劇場で初演された《オーストリア皇帝フランチェスコ 1 世のためのカンタータ(Cantata per
Francesco I imperatore d’Austria)54》の合唱曲でも舞台上のバンダが使用されたが、その音楽は前作《王立サン・
カルロ劇場の芸術家たちが~》からの転用で、これと同じ軍楽隊を予定したことも 5 月 1 日付のバルバーイア書
簡55で明白である。
ロッシーニがみずからバンダ・パートを書いた《エジプトのモゼ》の〈祈り〉が 16 人の奏者を想定し、同時代
のナポリにおけるオペラのバンダ編曲の最大編成が《湖の女》の 35 人であることから、一つの連隊のバンダがこ
れを担ったと想像しうるが、個々のオペラに関して特定されていない56。バンダの手引きからのパート編曲も同様
で、バンダ長もしくは軍楽隊を指揮したサン・カルロ劇場の奏者が行ったと推論できるだけである57。ここでは、
ダ・パオラの書に転載された 1808 年 4 月 25 日付の文書『王立衛兵精鋭連隊と歩兵部隊の全バンダのための規則
書(Regolamento per l’intera Banda e Corpo dè Infanteria de Reggimenti Granatieri Guardie Reali)』58から、当時のブ
ルボン家の軍楽隊の一端を理解しておこう。
1808 年のブルボン家の軍楽隊は大将 D.バルダッサッレ・ダメリスの管轄下にあり、国王から 10 ドゥカーティの
固定給を受ける 10 人のプロフェッソーレ(全員が固定給とは別に、3~8 ドゥカーティの特別手当を受ける)と、特別手
当のみ 13 ドゥカーティを受ける 3 人のプロフェッソーレがいた。高い地位にあるオーボエ奏者イニャツィオ・ポ
ルタ(Ignazio Porta)はバンダ長と全バンダの管理者、音楽学校の監督を兼務し、毎月 2~3 曲の新曲を連隊に与
え、二つの小バンダの見習い奏者を教育する義務も負っていた。次席のコルノ・ダ・カッチャ奏者ジュゼッペ・
ピニャーラ(Giuseppe Pignara[またはピニェーリ Pigneri])は、毎月さまざまな行進曲と軍隊曲を作曲して連隊に供
給し、小バンダのコルノ・ダ・カッチャ奏者を教育した。他のプロフェッソーレもクラリネットやフルートなど
個々の楽器のスペシャリストで、小バンダの楽士教育も任された。バンダは毎週決められた場所でコンサートを
行い、土曜日には大バンダと小バンダの合同演奏を実施して見習い奏者の合奏能力向上に努めた。カンタータの
初演では三つの連隊バンダの総勢 120 人の合同演奏を行なったが、それはこうした日常的訓練を通じてブルボン
家の軍楽隊が高い演奏技術を備えたことの証といえよう。
ナポリ以外の二つの都市、ミラーノとヴェネツィアは 1815 年の王政復古で統合されてロンバルド=ヴェネト王
国となり、オーストリアの支配下に入っていた。既述のようにフェニーチェ劇場の《セミラーミデ》初演でエス
テルハージ歩兵部隊の皇室王室連隊がバンダを務めたのも、オーストリアの属国ゆえである。ミラーノのスカラ
座では《ビアンカとファッリエーロ》
(1819 年)に舞台上のバンダを使えなかったが、フェニーチェ劇場と同様、
それを必要とするオペラ・セーリアの上演を通じて 1820 年代前半には導入されていたと思われる。そして 1820
年代後半にはスカラ座だけでなく、他のミラーノの劇場でも舞台上のバンダが使用できたことは、《異国の女》
(1829 年スカラ座初演)に続いてベッリーニがカルカノ劇場初演の《夢遊病の女》
(1831 年)にこれを用いたことで
も明らかである。
III-2 ロッシーニの舞台上のバンダの意義と反響(パリにおける失敗)
以上、ロッシーニが用いた舞台上のバンダの概略を紹介したが(全集版未出版の《マオメット 2 世》を除く)、19 世
紀イタリア・オペラの舞台上のバンダ使用がロッシーニ以前にあるとしても、その用法と効果を広く知らしめた
のがロッシーニであることは、
《セミラーミデ》の初演批評からも理解しうる。そして批判者(バンダの敵)も存在
したヴェネツィアで《セミラーミデ》がバンダの評価を転換させるきっかけになったなら、それはロッシーニ自
身が初演の稽古を指導監督した結果でもあろう。新機軸としての舞台上のバンダは、これを採用した作曲家自身
の関与があって初めてその効果を十全に発揮しうるからである。ロッシーニは《リッチャルドとゾライデ》以後
10
サン・カルロ劇場の初演作で舞台上のバンダを使用し続けたが、これもまた、ロッシーニがナポリで行ったオペ
ラ改革の一つにほかならない。
一連の使用を通じてロッシーニのバンダ用法はより堅固になり、ドラマとの結びつきを深めていった。単に舞
台上で行進曲を演奏し、合唱の伴奏や管弦楽の音響を強化するだけでなく、バンダに多彩な用法と可能性のある
ことを示したのである。帰還する国王や英雄の到着を表わすために舞台裏や装置の背後で演奏させたり、祝典の
壮麗さを増すために衣装をつけた数十人のバンダ奏者が舞台に乗せるのはごく普通としても、ロマンティックな
劇の設定の補助としてコルノ・ダ・カッチャをさまざまな場所で吹かせたり、舞台上のバンダだけでアンサンブ
ルや合唱を伴奏させたり、ピットのオーケストラと絶妙な音の配合をさせたのは新機軸といえよう。舞台にソリ
ストだけがいて、背後の宮殿で祝宴が始まったことを表わす装置裏のバンダが演奏されれば、眼には見えない宮
殿内の様子を観客に想像させると同時に、舞台上のソロや重唱を寸断してドラマと音楽に不意打ち的な転換をも
たらし、劇の展開の動因にもなる。それゆえロッシーニが導入した舞台上のバンダは、単純な音響・視覚効果と
は別に劇のあり方そのものを変える要因の一つとなり、その用法はベッリーニ、ドニゼッティ、パチーニ、メル
カダンテ、ヴェルディ、プッチーニに継承・発展させられ、
《トゥーランドット(Turandot)》までの重要作品にお
いて独自のポジションを獲得したのである。
しかしながら、イタリア以外の国々では、舞台上のバンダはそれを必要とするイタリア・オペラの上演を除い
て使われることは稀で、その使用が定着することもなかった(それゆえバンダは「イタリア・オペラの恒常的特色」と
されるのである)。
《セミラーミデ》後のロッシーニも同様で、パリのイタリア劇場のために作曲した《ランスへの
旅(Il viaggio a Reims)》
(1825 年)、パリのオペラ座のために改作・作曲した《コリント[コリントス]の包囲(Le siège
de Corinthe)》
(1826 年)、
《モイーズとファラオン(Moïse et Pharaon)》
(1827 年)、
《オリー伯爵(Le comte Ory)》
(1828
年)、
《ギヨーム・テル》(1829 年)では舞台上のバンダを用いなかった59。ちなみに《ギヨーム・テル》では N.1
導入曲に四つの舞台上のホルン(4 corni sul teatro)を用い、スイスの山間で呼び交わすアルペン・ホルンのイメー
ジを巧みに表わした(そこでは 4 人の奏者のうち 2 人が装置の後ろか舞台袖でエコーや応答の役割を担ったと考えられてい
る)60。その第 2 幕フィナーレではホルンが単独に舞台上で演奏するが、こうした特定の楽器使用は舞台上のバン
ダとは別な位置づけをすべきであろう61。
ロッシーニがパリ初演のオペラで舞台上のバンダを使わなかった、もしくは使えなかった原因は、最初のパリ
訪問の際にオペラ座が行った《湖の女》フランス初演(1824 年 9 月 7 日)62のバンダの失敗にあったと思われる。
この上演では 16 人の奏者が衣装をつけて舞台上で演奏したが、トランペット奏者がやたらと音を外し、バンダと
ピットのオーケストラの連携もうまくいかず、惨憺たる結果を招いたのである。スタンダールがパリの新聞に寄
稿した批評から、これに関する証言を拾ってみよう。
今晩のオペラ座にはトランペット奏者が登場した。あいにく《湖の女》では必要とされる。それが絶えず
思いきり派手でとんでもない音を出して耳を痛めつけた。[中略]同様に、主人公のマルコムの後について舞
(中略)
台上を何度も行進した軍楽隊に対しても、一言いっておきたいところだ。拍子を取って歩かないのだ。
オペラの凡庸な上演と言っても限度があり、それ以下になればどんなに優れた作品でも聴衆にとって拷問に
(『ジュルナル・ド・パリ』1824 年 9 月 9 日号)63
なる。
スタンダールは 4 日後にも「音を間違えるトランペットやリズムの取れないクラリネット」
(1824 年 9 月 13 日号)
64に言及しているが、このときのバンダのレヴェルが低く、強い批判を招いたことは、他の新聞批評でも確認でき
る(例、『ラ・パンドール』紙における初演批評、9 月 9 日付)65。興味深いのはスタンダールが後日、
「また世論の新た
な犠牲者が出た。ルーヴォア座の観客は《湖の女》のトランペットと軍楽隊にひどい不満を示したので、エロー
ル氏がこの不都合をなくす役目を仰せつかった」
(1824 年 9 月 29 日号)66と書いたことで、これは観客の不満を解
消するために劇場が舞台上のバンダ使用を断念し、作曲家フェルディナン・エロール[エロルド]にピットのオー
ケストラが演奏するよう編曲させたことを意味する。実際にそれが行なわれたことは、外国の軍楽隊の高い演奏
水準を知るスタンダールが後日あらためて、優れたクラリネット奏者とホルン奏者を起用すれば「音楽が劇場に
及ぼす効果」を正しく判定できるのに、
「ルーヴォア座で軍楽隊をオーケストラに加えてからは、オペラの管弦楽
の部分は貧弱でしみったれた感じになってしまった」と書いたことでも判る(1824 年 10 月 15 日号)67。
《湖の女》の失敗が原因でパリのロッシーニ作品上演から舞台上のバンダが撤廃されたことは、翌 1825 年 6 月
19 日に初演した《ランスへの旅》にこれを使用せず、同年 12 月 8 日イタリア劇場における《セミラーミデ》フ
ランス初演でバンダ・パートをピットのオーケストラが演奏したことでも判る。スタンダールはそれを惜しみ、
批評にこう書いた──「音楽はどの部分も《オテッロ》の作曲者にふさわしいもので、もっと悲劇的な部分さえ
11
いくつかある。軍楽隊を舞台上に配置すれば、ハーモニーに活気をもたらす。今晩のようにオーケストラ・ボッ
クスの中に置いたら、けっして得られない効果である」68。
その後ロッシーニはパリでの音楽的影響力を強め、自分が顧問を務めるイタリア劇場の上演で舞台上の楽士や
バンダの起用を可能にしたが69、筆者の知る限りでは大規模編成のバンダではなく、小編成のアンサンブル、金管
楽器の重奏、ハープ独奏などの使用にとどめた。
III-3 現代のロッシーニ作品上演における舞台上のバンダとその諸問題
ロッシーニ作品における舞台上のバンダは、その特殊性ゆえに、今日の上演でもある種の障害となっている。
これを完全に用いる上演は稀で、ピットのオーケストラや少人数の奏者への置き換えが当然と思われているので
ある(現実にはポスト・ロッシーニの幾つかの作品を別にして、舞台上のバンダが作曲家の意図どおりに実行されるケースは
少ない)70。オペラの録音も同様で、スタジオ録音ではピットのオーケストラとバンダの区別が不明瞭で、実際は
歴然と異なる演奏場所と遠近感、響きの違いがきちんと反映されない。日本では舞台上のバンダを用いるロッシ
ーニ作品の上演が無きに等しく(2008 年ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル来日公演《マオメット 2 世》が唯一)、実
演でその効果にふれる機会がない。その意味では、私たちはまだロッシーニ作品におけるバンダの真の効果を知
らないといっても間違いではない。
だが、ロッシーニの意図と書式、歴史的演奏様式をそのまま実現するには大きな困難があり、舞台上のバンダ
をめぐる問題もロッシーニ作品におけるピリオド楽器の使用と同様、解決の糸口はなかなか見えない。ゴセット
は音楽の歴史的考証の立場から幾つかの上演を批判しており、1990 年メトロポリタン歌劇場《セミラーミデ》の
舞台上のバンダに関しても、劇場の稽古で奏者がリズムを合わせられず、音楽をピットのオーケストラの僅かな
楽器に置き換えた結果、その演奏は「音楽の力のない、劇的な論理もない、センスもない、オリジナルの蒼ざめ
たイミテーション」と化し、
「徹底的な学問とオペラの有効性は、どちらも実用的なご都合主義の祭壇で犠牲にさ
れた」と厳しく断じている71。読者はゴセットによる批判を学者の理想主義と思うかもしれないが、学問的研究で
明らかにされた作曲家の意図、書式、歴史様式、演奏法を正しく理解し、指揮者、歌手、劇場関係者がこれを実
践して初めて作品の真価を知りうるという厳然たる事実を、肝に銘じる必要があろう。
もう一つの問題は、バンダ研究の遅れにより、少し前まで音楽学者自身がこれを表面的で通俗的なもの、と軽
んじてきた事実である。例えば高名な音楽学者ジュリアン・バッデンは、1973 年出版の『ヴェルディのオペラ』
第 1 巻の中でヴェルディのバンダ使用をロッシーニの影響とし、
「ロッシーニ自身による舞台上のバンダの使用は
常に自然主義的で表面的(perfunctory)だった。そして通例ロッシーニにおける表面的なものは、ドニゼッティと
ベッリーニでは平凡に陥りやすい。それは、バンダ行進曲が下品さの水深を測るものとしてヴェルディに残り、
彼の様式が全体的に改革されたときでもそうだった」と書いている72。バッデンはロッシーニによる舞台上のバン
ダ導入をイタリア・オペラの新時代の幕開けと評価しながらも、その皮相な部分をベッリーニとドニゼッティが
通俗化させて受け継ぎ、その悪影響をヴェルディも免れなかったと考えたのである。
だが、こうしたバッデンの認識は正しいものだろうか。筆者がバッデンの言葉から理解するのは、ロッシーニ、
ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディの批判校訂版が無きに等しく、作曲者の意図やオリジナルのオーケスト
レイションや書式がなお不明だった時代の、舞台上のバンダに対する誤解や認識不足である。1980 年以前のリコ
ルディ社の上演用楽譜がオリジナルとかけ離れたものであったことは批判校訂版で明らかになり、批判校訂版未
成立の作品はこれからその真実が明かされるのだ。それゆえベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディ作品におけ
る舞台上のバンダも、その用法の正しい理解は批判校訂版が出発点であり、その検討を通じて 19 世紀イタリア・
オペラの特殊性に関する真の認識を得られると考えるべきなのである。
(──以下、
『イタリア・オペラにおけるバンダ(2)』に続く)
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Banda の語義や起源、古代から 18 世紀末までの略史は De Paola, Angelo. La Banda; Evoluzione storica dell’organico,BMG
Ricordi,Roma,2002.,pp.1-66.参照、軍楽と軍楽隊の歴史に関しては古典的名著というべき Kastner, George. Manuel Général
de Musique Militaire a l'usage des Armées Françaises.,Typographie de Firmin Didot Frères,Paria,1848.が有益である。
通例「オーケストラ・ピット」は観客席の平面よりも低い位置に設けた、可動式に深さを調節可能な管弦楽用のスペースを指
すが、便宜上 19 世紀に一般的だった平土間と同じ平面の楽士用の区画にも適用される。本稿では、19 世紀の区画と 20 世紀
以降のオーケストラ・ボックスの双方にピットの語を適用する。
banda sul palcoscenico、banda di palcoscenico、banda sul teatro と同義だが、ロッシーニやベッリーニの時代は通例 banda
sul palco の名称を用いる(英語では stage band)。
The New Grove Dictionary of Opera.,4-vols.,Macmillan,London,1992.,”Stage band”[Julian Budden 筆]
Edizione critica delle opere di Gioachino Rossini.,vol.29 La donna del lago.,Fondazione Rossini,Pesaro,1990.,Prefazione,
12
p.XXXVIII.
2007 年 1 月 20 日、東京文化会館大会議室における日本ヴェルディ協会例会での筆者講演。
7 NMA(Neue Mozart-Ausgabe) II/5 Band 17.(Don Giovanni)
8 ibid.,p.197.
9 ibid.,p.399.
10 ヴォレク, トミスラフ『モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」
』
(竹田裕子訳。モーツァルト全集 14、講談社、1993 年。66
頁)
11 18 世紀~19 世紀初頭までのレチタティーヴォ・セッコは、一つの鍵盤楽器、チェロ、コントラバスの 3 人の奏者によって伴
奏され、《ドン・ジョヴァンニ》の初演でもこうした伴奏を用いたと推測しうる。
12 The New Grove Dictionary of Opera.,”Orchestra §5 Table 1”参照
13 Gossett, Philip.,Divas And Scholars, Performing Italian Opera.,The University of Chicago Press,2006.,p.554.,n.33.
14 ディーン,ウィントン『ヘンデルオペラ・セリアの世界』藤江効子・小林裕子訳、春秋社、2005 年。303 頁
15 ディーンはヘンデルが分割したオーケストラの一つを舞台上で使用したことに関して、
「これは古いヴェネツィアのやり方
で空間を積極的に利用するものである」と述べている(前掲書、303 頁)。ハンブルクの劇場がヴェネツィア・オペラの影響
下に成立したことを考えれば、その起源はやはりヴェネツィアであろう。
16 “La calamita de’cuori”(註:La calamita de’cori とする文献は印刷台本の記載に反する)
17 Parodi, Elena Biggi.,Catalogo tematico delle composizioni teatrali di Antonio Salieri; Gli autografi.,Libreria Musicale
Italiana,Lucca,2005.,pp.123-124.
18 The New Grove Dictionary of Opera.,”Stage band”
19 ibid.,”Pirro”[Gordana Lazarevich 筆]
20 Piperno, Franco.,Teatro di stato e teatro di città Funzioni,gestioni e drammaturgia musicale del San Carlo dalle origini
all’impresariato Barbaja.[Il teatro di San Carlo,Guida editori,Napoli,1987.],p.85.
21 Prota-Giurleo, Ulisse.,La grande orchestra del R.Teatro San Carlo nel settecento (da documenti inediti).,Napoli,1927.
(Cfr. Meucci, Renato.,La trasformazione dell’orchestra in Italia al tempo di Rossini.,p.458.[in Gioachino Rossini 17921992 Il testo e la scena.,Fondazione Rossini,Pesaro,1994..])
22『グローヴ・オペラ事典』や全集版を含むロッシーニ文献ではこれが共通認識となっている。
23 De Paola,op.cit.,p.50.
24 Ricciardo e Zoraide; A facsimile edition of the printed orchestral score.,2-vols,Garland Publishing, New York & London,
1980.,vol.I.,Introduction.
25 前記ファクシミリ版の該当曲参照(以下同)
。
26 《湖の女》全集版(I-29[3])序文 p.IX. ゴセットは複数の論考でそう断言している(例:Gossett, op.cit.,p.189.)
。但し、舞
台の袖または装置の後ろでの配置が前提の場合は衣装無しもありうる。
27 《エジプトのモゼ》全集版とその校註書(Mosè in Egitto; Edizione critica delle opera di Gioachino Rossini.,I-24.,a cura di
Charles S.Brauner,2-vols+ Commento critico.,Fondazione Rossini,Pesaro,2004.)及び自筆楽譜複製 Mosè in Egitto; A
facsimile edition of Rossini’s original autograph manuscript.,2-vols,Garland Publishing,New York & London,1979.参照。
28 《エルミオーネ》全集版とその校註書(Ermione; Edizione critica delle opera di Gioachino Rossini.,I-27.,a cura di Patricia
B.Brauner e Philip Gossett.,2-vols+Commento critico.,Fondazione Rossini,Pesaro, 1995.)参照。
29 ibid.Commento critico.,p.59.
30 ibid.Prefazione,p.XLII.
31 Rescigno, Eduardo.,Dizionario rossiniano.,Biblioteca universale Rizzoli,Milano,2002.,pp.700-701.
32 レシーニョはこの作品の管弦楽編成に舞台上のバンダを含めている(ibid.,p.701.)
。
33 《湖の女》全集版とその校註書(La donna del lago; Edizione critica delle opera di Gioachino Rossini.,I-29.,a cura di H.
Colin Slim.,3-vols+Commento critico.,Fondazione Rossini,Pesaro,1990.)参照。
34 ibid.,Prefazione,p.XXXIIIV.
35 批判校訂版の最初のヴァージョンではバンダ・パートを校訂者 H.Colin Slim が編曲したが、全集版は Patricia Brauner と
Daniel Zimmerman が Philip Gossett の助言を得て再編曲したそれを第 3 巻に独立して掲載。
36 最後の 7 小節に関してロッシーニの指示はないが、校訂者は 5-26 小節と同様に解釈。該当箇所参照。
37 ミラーノでは 18 世紀末、遅くとも 1796 年には国立警備隊(Guardia Nazionale)に 15 人の奏者からなるミラーノ国立バン
ダ(Banda nazionele Milanese)が存在していた(Menucci, Renato, La trasformazione dell’ orchestra in Italia al tempo di
Rossini.[in Gioachino Rossini 1792-1992 Il testo e la scena.,Fondazione Rossini,Pesaro,1994.],pp.458-460.)。しかし、オペ
ラの舞台での演奏は現時点で確認できない。
38 《ゼルミーラ》全集版とその校註書(Zelmira; Edizione critica delle opera di Gioachino Rossini.,I-33.,a cura di Helen
Greenwald e Kathleen Kuzmick Hansell.,3-vols+Commento critico.,Fondazione Rossini,Pesaro,2005.)及び自筆楽譜複製
Zelmira; A facsimile edition of Rossini’s original autograph manuscript., 2-vols,Garland Publishing, New York & London,
1979.参照。
39 《ゼルミーラ》全集版の第 3 巻として独立して掲載。
40 《セミラーミデ》全集版(次註)I-34,vol.4.の序文 p.IX.での引用。
41 《セミラーミデ》
全集版とその校註書(Semiramide; Edizione critica delle opere di Gioachino Rossini.,I-34.,a cura di Philip
Gossett e Alberto Zedda.,4-vols+Commento critico,Fondazione Rossini,Pesaro,2001.) 及び自筆楽譜複製 Semiramode; A
facsimile edition of Rossini’s original autograph manuscript.,2-vols, Garland Publishing,New York & London,1978.参照
42 ラッティ&コンチェッティ版のスパルティティーニは前記自筆楽譜複製にも掲載されている。なお、このバンダのパート譜
はローマの筆写総譜に基づく。
43 民間バンダも各地に誕生したが、19 世紀初頭には数が少なく、オペラ上演と係わった記録は見出せない。
44 Berluti, Alessandro, Per una storia della banda musicale a Mondolfo.,Corpo Bandistico”Santa Cecilia”,Mondolfo,2000.,
p.17.
45 De Paola,op.cit,p.62.
46 ibid.,p.48.
47 ibid.
48 通例「カッペッロ・チネーゼ(中国帽子)Cappello cinese」
。棒の先に中国の帽子に似た傘があり、小さな鈴を吊り下げた楽
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器。「中国風の小さな傘 Ombrellino alla cinese」「小さな傘 Ombrellino」「小帽子 Cappelletto」「トルコ帽 Cappello turco」
その他さまざまな名称で呼ばれる。De Paola,op.cit.,p.221.参照。
Tre cantate napoletane; Edizione critica delle opera di Gioachino Rossini.,II-4.,a cura di Ilaria Narici, Marco Beghelli,
Stefano Castelvecchi.,Fondazione Rossini,Pesaro,1999.); Prefazione per”Omaggio umiliato a Sua Maestà dagli Artisti del
Real Teatro S. Carlo”[a cura di Marco Beghelli],pp.XXXVIII.
ibid.
台本に基づく正式題名は《Omaggio umiliato a Sua Maestà dagli artisti del Real Teatro S.Carlo in occasione di essere per
la prima volta la M.S. intervenuta in detto Real Teatro dopo la sua felicissima guarigione. la sera del dì 20 Febbrajo
1819》
52 ibid.,p.XXXVIII,n.28.参照。但し、ロッシーニ財団の『書簡とドキュメント』
(Gioachino Rossini, Lettere e documenti [次
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54
註])vo.I と IIIa の索引では Caligari とされる。
Gioachino Rossini, Lettere e documenti, a cura di Bruno Cagli e Sergio Ragni.,vol.I.,Fondazione Rossini,Pesaro,1992.,
p.349. [lettera 160]及び p.352.[lettera 163]
台本に基づく正式題名は《Cantata da eseguirsi la sera del dì 9 Maggio 1819 in occasione che Sua Maestà Cesarea Reale
ed Apostolica Francesco I, Imperatore di Austria ec.ec.ec. onora la prima volta di Sua Augusta presenza il Real Teatro S.
Carlo》
ibid.,p.369 [lettera 174]
軍の准尉マッシモ・セルヴァッジの 1820 年 12 月 3 日付の書簡から、
《マオメット 2 世》の初演(1820 年 12 月 3 日)には
おそらく「la prima Brigata della terza Divisione Attiva」の 40 名が舞台上のバンダを演奏した可能性がある(Lettere e documenti,op.cit.,p.451.におけるセルヴァッジの職名からの筆者推測)。
57 過去の全集版にはバンダの編曲者を「ローカル・バンダ、軍楽隊または公設バンダのマエストロ」とする記述が見られたが
(例:
《リゴレット》序文 p.XXVIII、《エルミオーネ》序文 p.XLI)、民間バンダと公設バンダの関与を示唆する記録がなけ
れば、後述するように軍楽隊のバンダ長もしくは上演でバンダの指揮を務めた音楽家(カンタータではサン・カルロ劇場の奏
者が総指揮を務めた)に絞り込むべきであろう。
58 全文は De Paola,pp.192-193.参照
59 バンダ・トゥルカは用いたが、これは 18 世紀にオペラ座のオーケストラに採用されていた。
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《ギヨーム・テル》とその楽器使用は全集版と校註書(Guillaume Tell; Edizione critica delle opera di Gioachino Rossini.,I-39.,
a cura di M. Elizabeth C. Bartlet.,4-vols+Commento critico.,Fondazione Rossini,Pesaro,1992.)参照
61 種々の楽器で構成される独立した演奏グループや団体をバンダと理解するなら、
《ギヨーム・テル》の「四つの舞台上のホル
ン」は舞台上のバンダのカテゴリーに入らない。
62 1824 年 9 月7日のフランス初演はオペラ座で行われたが 2 日目(9 月 9 日)以降は上演場所がイタリア劇場(サル・ルーヴ
ォア)に移された。
《湖の女》校註書 44 頁参照。
63 スタンダール『ディレッタントの覚書』
(『ロッシーニ伝』山辺雅彦訳、みすず書房、1992 年所収)、363-364 頁(初日の批
評。一部表記を変更して引用。以下同)
64 同前、367-368 頁
65 《湖の女》全集版序文 p.XXIX に部分引用されている。
66 スタンダール『ディレッタントの覚書』前掲書、372 頁
67 同前、375 頁
68 同前、415 頁
69 ロッシーニが公式にイタリア劇場の監督だったのは 1824 年 12 月から 26 年 10 月までだが、その後も 1836 年まで同劇場の
実権を握り、上演に関する一切を取り仕切った。
70 これは技術的困難や経済的理由だけでなく、衣装を着た楽員を舞台に乗せるのを嫌う演出家の意向も働いているようだ。ロ
ッシーニ・オペラ・フェスティヴァルにおいても、作曲者が明確に「舞台上」を想定したバンダがしばしば舞台の袖や装置の
後ろで演奏させられる。
71 この上演に対する批判は Gossett,op.cit.,pp.185-99.参照(バンダについては pp.189-191、引用箇所は p.191.)
。これはゴセッ
ト校訂《セミラーミデ》批判校訂版を用いた最初の上演であった。
72 Budden, Julian.,The operas of Verdi,vol.1.,Macmillan,Cassell,1973.,p.20.
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