政策研究レポート - 自治体総合政策研究所

政策研究レポート
2010
2010.
10.11.10(No.4
.10(No.43)
1 論 説
「『協働』
協働』とは何
とは何か」の再整理―その 4―
2 提 言
日本の
日本の水源が
水源が危ない(
ない(中)
―自治体はどう
自治体はどう対応
はどう対応すべきか
対応すべきか―
すべきか―
3 時 事
誘致企業の
誘致企業の破綻
―誘致IT会社の破綻、補助金 2100 万円未回収
万円未回収―
未回収―
4 コーヒーブレイク
「Z」と
「Z」と「V」二
「V」二つの映画
つの映画と
映画と「市民社会」
市民社会」
自治体総合政策研究所
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論
説
「『協働
『協働』
協働』とは何
とは何か」の再整理(その 4)
―今や意味不明な
意味不明な言葉となった
言葉となった『
となった『協働』
協働』は不要か
不要か―
自治体総合政策研究所
石井 秀一
4 荒木の
荒木の「協働」
協働」論
1)「コプロダクション」概念に基づく「
コプロダクション」概念に基づく「協働」
協働」論
荒木は、著書「参加と協働」の中で、コプロダクション(Coproduction)について
次のように紹介している。
「コプロダクション(Coproduction)という用語は、1977 年インディアナ大学の政治
学者ヴィンセント・オストロム教授が『地域住民と自治体職員とが協働して自治体政府
の役割を果たしてゆくこと』の意味を一語で表現するために造語したものである。」
(6 頁)
そして、荒木は、この「Coproduction」という言葉が、
「Co-」と「production」を結
合した用語であることから字義的な意味合いを次のように抽出する。
「Co-」は、共同、協力、協働、協調のことであり、相互性、水平・平等の観念が包
摂されている。他方、
「production」は、生産・作品・提供・成果の意味で、
「用語法上は、
ある価値を有する財やサービスをもたらすための活動ないし、その活動結果として使わ
れる」用語である。
したがって、「字義的には、コプロダクションとは、相互に平等な立場で協働しつつあ
る価値をもつ財やサービスを生産するための活動(組織)であると定義づけられる。」
(7
頁)とするのである。ここでいう「相互に平等な立場」とは誰と誰の関係なのかについて、
荒木は「それは地域住民と自治体職員とが相互に平等な立場に立つということである。
」
としている。
そして、荒木は、オストロム教授のいう「自治体政府の役割を果たしてゆくこと」の
意味と、字義的な意味合いから導き出した「ある価値を有する財やサービスを生産する
こと」の符合性(同じ意味であること)について論理を展開する。
-2-
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まず、
「自治体政府の役割」とは何かについて、次のように述べている。
「自治体政府の役割とは何かということである。原理的には、自治体政府というのは、
当該地域住民の信託に基づいて形成される統治(自治)機関であり、それゆえ、地域住
、、、、、、、
民の意思に基づいて活動する。その場合、住民意思の統合が政府としての一つの基本的
、、、、、、、、、
役割になり、今一つは統合された住民意思による統治という役割を担う。そして、その
統治作用には住民に犠牲や譲歩を求め、あるいは負担や損失をかける強制の契機を伴っ
た権力的作用と、住民を保護し、彼らの日常生活が健康・安全・利便かつ快適に過ごせ
るための財やサービスの生産・供給といった非権力的作用がある。
、、、、、、、
、、、、、
かくして、自治体の政府の役割は意思決定の機能と住民福祉向上のための財やサービ
、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、
スの生産・供給機能に大別される。今日では、後者が圧倒的比重を占めている。
」
(7~8 頁。下線、傍点は筆者。) ・・・・①
つまり、自治体政府の役割は、原理的には「住民意思の統合」と「統合された住民意
思による統治」の二つであるとする。そして、後者の「統治作用(行為)
」は、権力的作
用と非権力的作用に大別され、今日、非権力的作用である「住民福祉向上のための財や
サービスの生産・供給機能」が、自治体の役割として「圧倒的比重を占めている」とす
るのである。
次に、
「ある価値を有する財やサービス」とはどのようなことなのかを論じ、次のよう
に説明する。
「ただ漠然と「ある価値」をもつといっても、自治体政府としては、統合された住民
意思に基づかないものであれば、政府が生産する財やサービスと認めるわけにはいかな
い。しからば、統合された住民意思に基づく価値とはどんな価値なのか。それはある特
定の個人だけが有用と感じるものではなく、当該地域社会を構成している人々が有用と
考え、社会的に実現すべき性質のものと考えられる、いわば公共善であろう。」(8 頁)
荒木は、こうした論理展開を踏まえ、「住民福祉向上のための財やサービスの生産・供
給機能」が今や自治体政府の大きな役割であり、したがって、「自治体政府が地域住民の
福祉向上のために有用であると判断を下した公共的性質を持つ財やサービスを生産し提
供していくこと」は、オストロム教授の言う「自治体政府の役割を果たしてゆくこと」
に符合している(と同旨)とするのである。
そして、コプロダクションを次のように定義する。
「コプロダクションとは、地域住民と自治体職員とが、心を合わせ、力を合わせ、助
け合って、※地域住民の福祉の向上に有用であると自治体政府が住民の意思に基づいて判
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断した公共的性質をもつ財やサービスを生産し、提供してゆく活動体系である」
。
(9 頁。下線は筆者。)
※ 「心を合わせ」
、
「力を合わせ」
、
「助け合って」という情緒的語感を有する用語を使っての定義は、
学術研究者としてはいかがなものなのかと思う。近年、こうした定義が横行している。分かりやす
さ、親近さを求める余り、逆に定義の不明確性を強くし、学術としての「定義」の意味をなさない
ものまで出てきている。
、、、、、
例えば、ある学者は、自治基本条例を「まちを元気にする
元気にするため」の理念や制度・仕組みであると
、、、、
、、、
定義し、自治基本条例のポイントとして「がんばる
がんばる規定」
、
「元気で
元気で活動することができる規定」を
定めることと説明する。しかし、定義はスローガンではない。これでは定義の内容がまったく不明
であり、客観的、論理的を旨とする学者の定義としては甚だ問題である。
最後に、荒木は、前述までの論理を是とするとしても、何故に「地域住民と自治体職
員」とが協働して自治体政府の役割である公共的な財やサービスの生産に従事する必要
があるのかという、
「協働」の重要ポイントについて論じる。
まず、現行の間接民主制に基づき「協働」を批判する考えに対して、次のように反論
する。
「いくら地域住民が地域社会における自治の主人公であるといっても、こんにちの間
接民主制の下では、かれらが信託した機関(意思決定機関としての議会、執政機関とし
ての首長およびその補助機関としての行政組織)に、当該地域社会に継起する問題の解
決・処理は委ねており、素人の住民が手出しするより専門の職員に任せておいた方が合
理的ではないかと。たしかに、現在の自治行政の仕組みが原理どおりに有効に機能する
、、、、、、、、、、
ならば、そのとおりかもしれない。しかし、それは理想でしかない。地域住民の意思と
彼らが選出した代表者のそれとが同一であれば、政府の役割は究極的には住民の意思に
基づくが、直接的には住民の代表者で果たされても相違はない。
しかし、地域住民の意思というのは不可視で多様であり、それが自治体政府の意思と
して統合される過程はブラック・ボックスの中にあって、統合された結果として表明さ
、、、、、、、、、、、、
れる政府の意思は当初の住民のそれとは同じではなくなる。政府の役割は本来、住民意
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
思に基づいて果たされなければならないのに、今の仕組みでは必ずしもそうならない。
」
(9~10 頁。下線、傍点は筆者。)・・・・②
論旨は、現行の自治行政の仕組み(間接民主制)においては、「自治体政府の意思とし
て統合される過程」がブラック・ボックスの中にあるため、それからアウトプットされ
る意思は、住民意思とは乖離したものになっていると指摘する。つまり、
「住民意思」と
「統合された自治体政府意思」の齟齬の問題、すなわち、間接民主制の問題点を指摘し
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ているのである。
さらに、荒木は続けて、以上のような問題点があるため、その問題点を解決するため
に「協働」する必要があるというのである。
「このように考えると、地域社会における住民意思の代行機関たる自治体政府は、そ
、、、、、、、
、、
の役割である意思決定の機能や財やサービスの生産、給付機能を果たしていく際、その
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
過程に住民が影響力を行使しうる機会の保障を基本的要件にして活動しなければならな
いことが分かる。このことが、自治体政府の役割を住民と行政とが助け合って果たして
いかなければならない原理的理由となる。」
(10 頁。下線、傍点は筆者。) ・・・・③
また、荒木は、経済学の「サービス生産性」の視点からも、コプロダクションの必要
性を説く。つまり、サービスの生産性効果を考えると、サービスの生産者と消費者、双
方が満足するサービスを生産することが重要となる。したがって、サービスの生産者が、
「あるサービスの生産過程に消費者の意向を取り入れて生産し、消費者に提供したとす
ると、その生産性効果は高いもの」(19~20 頁。)となる。
つまり、「政府サービスの消費者は地域住民であり、その意味で、地域住民が公的サー
ビスの生産過程に関与する方が、一方的に政府の判断で生産するよりもその効果は挙げ
られる」(12 頁。)とするのである。
「自治体政府が生産し供給するサービスの生産性効果は、そのサービスの本来的生産
、
者である自治体職員とその本来的消費者である地域住民とが、その生産過程において相
、、、、、、、、
互に依存し合って生産・供給する方が地域住民の満足度を高めて効果も大きい」
。
(21 頁。下線、傍点は筆者。) ・・・・④
2)荒木の「協働
荒木の「協働」
協働」論の問題点
荒木が、「協働」は地域住民と自治体職員との関係であると主体を明確化したこと、公
共サービスをそれぞれが協力して「生産し、供給する」と定義づけたことは、現在、意
味不明となっている「協働」を原点に戻って再考する上で意義があるといえよう。
しかし、荒木の「協働」論は、論理の展開においては、少なからず問題点を有してい
る。
ⅰ)「協働」の対象範囲の
「協働」の対象範囲の混乱
範囲の混乱
、、、、、、、
上記③の文中、荒木は、財やサービスだけでなく、自治体政府が「意思決定の機能」
を果たしていく際についても、住民が影響力を行使しうる機会の保障を求めている。
しかし、前述の「統合された自治体政府の意思」とは、議会の意思であって、行政の
意思ではない。行政はあくまでも、議会における「統合された自治体政府の意思」に
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基づいて執行するだけである。
しかし、ここで荒木が着目しているのは、上記①で述べている、「協働」の対象とし
ての非権力的作用である「財やサービスの生産、給付」(行政)についてであり、「統
合された自治体政府の意思」(議会)ではない。
荒木は、①において、自治体政府の役割は、
「意思決定の機能」と「財やサービスの
、、、、、、、、、、、
生産・供給機能」に大別されると区分けをして、
「今日では、後者が圧倒的比重を占め
、、、
ている」として、自治体政府の役割の大半を後者が占めていると論じている(下図「自
治体政府の役割」参照。)
。
また、荒木は、前述のとおり、オストロム教授の定義の「自治体政府の役割を果た
してゆくこと」のさす意味と、荒木の定義の「ある価値を有する財やサービスを生産、
供給すること」は同趣旨であるとしている。
これらを考慮すれば、「意思決定の機能」を「協働」の対象範囲に含めることは論理
矛盾がある。
もっとも、著書の全体からすると、荒木が「協働」の対象として着目しているのは
行政であり、行政が行う「財やサービスの生産、給付」についてである。だからこそ、
定義において、
「協働」の主体は、
「地域住民」と「自治体職員」としているのである。
やや論述に混乱があるが、結論として荒木の論旨は、コプロダクションという「共
同生産」の概念を基礎に論じているもので、非権力作用の「財やサービスの生産・供
給」における分野での「協働」を念頭に置いていることは明らかである。
◎自治体政府の
自治体政府の役割
住民意思の
住民意思の統合
(意思決定機能)
自治体政府の
自治体政府の役割
権力的作用……強制の契機を伴う
もの
統合された
統合された住民意思
された住民意思
による統治
による統治
(統治作用)
非権力的作用……財・サービスの
生産・供給
ⅱ)「協働」する理由
「協働」する理由
荒木は「協働」する理由について次のように述べている。すなわち、上記②で、荒
木は、「自治体政府の意思として統合される過程」がブラック・ボックスの中にあり、
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アウトプットされる意思は、住民の意思と異なるとする。現行制度(間接民主制)に
はこのような欠陥があり、
「今の仕組み」のままではそれを是正できず、是正するため
には、地域住民と自治体職員の「協働」が必要であるとする。
しかし、この荒木の論理の展開には、不鮮明な部分がある。ここでも、ⅰ)で述べ
た「統合された自治体政府の意思」の問題が絡んでくる。
一般に、
「政策過程」は、下図のとおり行政(首長)が政策を立案し、議会に提案し、
そして、議会が政策決定し、その決定されたことを行政が執行するという形である。
◎「政策過程」
政策過程」と荒木の
荒木の「協働」
協働」論の関係
∥←・・・・・・・・・ブラック・ボックス?
ブラック・ボックス?・・・・・・・
→∥
ブラック・ボックス?
(行 政)
(議 会)
仮定された「住民意思」の立案
政策の
政策の立案・
立案・提案
(行 政 )
統合された「住民意思」
→
政策の
政策の決定
→
執 行 (財やサービ
↑↓ スの生産・
↑
住民参加 (政策立案に参加)←
←・・・・・←
←
協 働 供給)
したがって、ⅰ)で述べたとおり「統合された自治体政府の意思」として顕現化す
るのは、議会の決定(議決)である。議会と住民の意思の不一致を問題視するのなら、
議会制度の改革や住民投票制度などの制度改革を推し進めるべき話である。そういっ
た議会との意思の不一致を是正するものが、荒木が言うところの「協働」という話で
はないだろう。
荒木が言うところの意思の不一致は、議会との意思の齟齬の問題というより、むし
ろ荒木が提唱する「コプロダクション」概念に基づく公共サービスの生産・供給の当
事者である、行政と住民の公共サービスをめぐる意思の齟齬の問題であると考えるべ
きである。
言い換えると、
「ブラック・ボックス」化しているのは、公開の議会の決定場面では
なく、行政の立案、執行過程ではないだろうか(もっとも、行政の根回しによる議会
の予定調和としての政策決定を議会が行うのなら、その政策決定までの道筋が議会で
公開されないという意味では、議会を含めた「ブラック・ボックス」という指摘には
理屈があるだろう。しかし、荒木の論理はその点を議論しようとしているわけではな
い。)。
つまり、入り口(立案)と出口(執行)において地域住民が関わることによって、
住民意思の齟齬をなくそうとする考えのようである。確かに、立案については、住民
参加制度の充実により住民意思とかなりの合致を求めることができるであろうし、執
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行についても立案時の住民意思に沿った形で執行されれば、住民意思との乖離も少な
くなる。非権力的な作用の「財やサービスの生産・供給」分野であれば、そうした地
域住民の関わりで齟齬を無くせるのであり、それが「協働」する理由だとする。
以上のように考えると、最初に、荒木が議会を含めた「政策過程」全般にわたるブ
ラック・ボックスを射程においているのではなく、そして自治体の役割の全部でもな
く、しかし、それは大半を占めるとする「財やサービスの生産・供給」分野における
入り口(立案)と出口(執行)における「協働」を論じていると思われる。
ⅲ)もう一つの「協働」する理由
荒木は、ⅱ)の意思の齟齬の問題に触れて、それを経済学の理論でとらえることに
よって、なお一層「協働」する理由が追加され、強化されるとする。
、、、、、、、、、、、、
荒木は、「住民ニーズの多様性に行政側が対応していく場合、もはや住民の理解と協
力なくしては円滑にいかない」(11 頁。下線、傍点は筆者。)という状況があり、自治
体政府の役割(その中心は、「財やサービスの生産、提供」である。)を果たすために
は、地域住民との「協働」は不可欠であるとするのである。
、、、 、、、
そして、「協働」は、「自治体政府組織の目的をいかに効果的・合理的に達成してい
、、、、
くのかの手段概念」
(11 頁。下線、傍点は筆者。
)であるとする。なお、ここでいう「自
治体政府組織の目的」とは、荒木の論理展開においては「財やサービスの生産、供給」
のことである。
さらに、続けて、
「政府という組織が掲げる目的を協働という手段を駆使して合理的
、、、、、、、、
に達成していき、その場合、目的―効果の関係において現状の手段よりもベターにな
ると考えられれば、協働の手段をとればよい」
(11 頁。下線、傍点は筆者。)として、
「効
用最大化」論に逢着する。
つまり、サービスの「効用最大化」が図れれば、住民の「消費者満足」が実現でき、
自治体政府の役割が果たされるということである。換言すると、
「協働」するのは公共
サービスの「効用最大化」のためであり、そして、それは、
「住民意思」と合致すると
いう論理である。かくして、「住民意思」と「自治体政府の意思」の齟齬問題は、「政
治学的」問題から公共サービスの生産・供給をめぐる「経済学的」問題に置き換えら
れる。
しかし、公共サービスのすべてが「消費者満足」という視点だけで論ぜられるもの
でもないし、
「消費者の賢明さ」という前提は、
「メディアポリティクスや巧妙なマー
ケティング戦術の前に説得力を失いかねない」
(高橋克紀、
「市民参加像の再考:コン
トロール理論と公共圏」179 頁)ものでもある。
センは、
「純粋な経済人は事実、社会的には愚者に近い。しかしこれまで経済理論は、
そのような単一の万能の選好順序の後光を背負った合理的な愚か者(rational fool)に
占領され続けてきたのである。」(アマルティア・セン「合理的な愚か者」(1989 年))
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といっている。
経済理論の前提は仮説であり、仮説により論理が構築されている。センが指摘する
ように「経済人」は、生きている生身の人間としてではなく、経済理論の前提として
仮定された「合理的な愚か者」として位置づけられる。
「効用最大化」論もそれを前
提としたものである。社会的意思の決定と個人的な利己主義に基づく「効用最大化」
という合理的選択原理を同一視するわけにはいかないのではないだろうか。
そこには、個人間の差異がある。
「実際のところ、人々はそれぞれの健康状態、年齢、
風土の状態、地域差、労働条件、気質、さらには(衣食の必要量に影響を及ぼすとい
う点で)体格、の違いに伴って各人各様に変化するニーズをもっている」
。
また、人は、自らの効用のみを最大化するために行動するとは限らない。
「その人の
手の届く他の選択肢よりも低いレベルの個人的厚生をもたらすということを、本人自
身が分かっているような行為を〔他人への顧慮ゆえに〕選択する」ことだってある。
センは、これを「コミットメント」と呼んでいる。つまり、選択肢の中でこれを選ん
だほうが自分にとって大変有益であるということを理解しつつも、ある選択は自分に
とって低い有益性しかないが、それが他人のためになるのだったら(「他人への顧慮」)
、
それを選択することがあるということである。
以上、荒木がいう「効用最大化」論に基づく「消費者満足」の視点だけで行政サー
ビスを論ずるのは、個々人の問題だけでなく、社会的意思決定ということも含めて問
題がある。また、こうした分析は、経済理論による机上の論理に引き戻されていると
いう感が否めない。
そもそも、税金に基づく公共サービスを「サービス」という言葉において市場原理
と同視されることには問題はないのであろうか。
「生産・供給者」と「消費者」という
関係は、「政府」と「主権者」という関係を失わせてしまわないか。
たとえ、非権力的作用であっても、地域住民の意思の統合による意思決定によって、
税金で公共サービスを賄おうとしているのである。税金とは、住民に対して強制力を
持って集められたお金である。したがって、そのお金は社会的に役立つものに使用さ
れることが含意されている。
市場においては、「生産・供給者」によるサービスを購入するかしないかは、「消費
者」の自由な判断に委ねられる。しかし、公共においては、住民個々人の自由な判断
ではなく、
「統合された」という形で政府の意思決定により購入が決定される。
そういった関係を「サービス」という言葉で一括りして、「生産・供給者」と「消費
者」の関係に還元してよいものだろうか。そこには、「政府」と「主権者」という関係
は出てこない。サービスの機能面を強調したのだというのなら、別段「協働」という
概念を持ち出す必要もない。
また、前述のとおり、個人の差異を考えず、「コミットメント」も考慮しない、「合
理的な愚か者」を前提とした「効用最大化」論に基づく「消費者満足」という切り口
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で、公共サービスを論ずるのには無理があると考える。
3)まとめ
そもそも、
「コプロダクション」という用語は、1980 年代のアメリカを中心に用いられ
た用語で、行政サービスの「消費者」である市民をサービスの「共同生産(Coproduction)
」
者として捉えなおそうとするものであった。そして、その出自は、新自由主義時代にお
ける「財政・福祉サービス削減政策」を契機としていることに留意する必要がある。
1980 年代、レーガン政権は、財政難からこれまでのサービスの調達を見直すことにし
た。そこで、
「小さな政府」(アメリカと同様、イギリスにおいても、サッチャー政権の下
「小さな政府」が主張された。)を標榜して、行政サービス分野の外部委託を大幅に拡大
し、効率性の向上、行政サービスの質の向上、政府支出の削減、税負担の軽減そして市
場経済の活性化などが企図された。こうした政府の「財政・福祉サービス削減政策」の
中から生まれたのが、「コプロダクション」というものであった。それ故に、この用語は
政府側から盛んに述べられることになるのである。
しかし、荒木をはじめ学者間において、
「コプロダクション」という言葉は、地域住民
と行政の理想的な「協力・相互発展の関係」
(荒木の表現では「相互に依存し合って」と
している。上記④参照。
)として定義されるのである。そこには、肥大化した政府の関与
を縮小させようと考える「市民社会」論をはじめとした市民社会サイドからのアプロー
チがある。
前述してきたとおり、荒木は、
「地域住民」と「自治体職員」の「共同生産(コプロダ
クション)
」が「協働」だと定義したが、それだけではうまく行かないとする。その理由
を次のように述べている。
、、、、、、、
「システム構成要素としての行政と市民はその本来的役割において互いに排他関係に
ある。つまり、行政は法令と強制によって目標の実現を図ろうとするのに対し、市民は
自発的に自由な活動を通して創造的活動を展開しようとするからである。こうした排他
、、、、、、、、、、、
的関係にある両者には何らかの結合させる部分がなければ、協働はおぼつかなくなる。
」
(240 頁。下線、傍点は筆者。
)
そこで、荒木は、結合させるものとして、新たに「媒介構造」というものを提示する。
その「媒介構造」とは次のようなものである。
「媒介構造は行政と市民の中間に位置し、公共的領域の問題について行政から市民へ、
市民から行政へと両面交通的橋渡しの役割を演じる」(240 頁)
。
「この媒介構造の母体は換言すれば、自治体行政区域内に存する諸々の住民活動組織
のことといってもよく、その態様は活動の目的や範囲、運営の方法、構成員数や構成員
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になるための要件、地域組織か地縁組織かなどによって千差万別である。」「要はいかな
る態様をとる媒介構造であれ、それらが地域住民によって構成されるということであろ
う。」(240~241 頁)
そして、町内会や自治会、文化、体育、福祉、ボランティアの団体、そして NPO など
の「中間支援組織」が連携して、「媒介構造」としての「両面交通的橋渡し」の役割を果
たしていくことを期待するのである。
このようなアソシェーション(結社)的考え方は、
「市民社会」論を背景にしていると
ころがあり、この問題については後述することとしたい。
さて、荒木の「協働」論には、前述したような問題点があるが、原点に戻って、
「協働」
というものを考える上での手がかりを示してくれる。近年、
「協働」するものだという前
提のもとに話が展開してきた。しかし、何故しなければならないのか。
「協働」とは何か。
その法的意味合いは何なのかという問題については、明確な論述が少なく、イメージだ
けが先行している。
「協働」ありきにおいて、
「対等の原則、自主性尊重の原則、自立化の原則、相互理解
の原則、目的共有の原則、公開の原則」(横浜コード)をあげても、「協働」の実相は見
えてこない。
また、前述したとおり、「協働」には、財政逼迫の政府の立場からの論理と、「市民社
会」や NPO などの立場からの論理の、対抗的方向性からの「新しい公共」という不明確
な領域が創出されている。
このような問題については、後述することにしているが、「協働」を考える上で重要な
論点である。
(つづく)
- 11 -
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提
言
「日本の
日本の水源が
水源が危ない」
ない」(中)
―自治体はどう
自治体はどう対応
はどう対応すべきか
対応すべきか―
すべきか―
自治体総合政策研究所
石井 秀一
2 山林をめぐる
山林をめぐる現状
をめぐる現状と
現状と問題
1)地籍調査がまったく
1)地籍調査がまったく進んでいない
まったく進んでいない
わが国では地籍調査がまったく進んでいない。地籍とは、その土地の所有者、土地
の境界、面積などを明らかにするものである。
この地籍が、明確でないと、土地の境界を巡るトラブルが頻発することが予想され
る。グローバル時代、トラブルの相手が、外国企業であったりすると、契約書を楯(た
て)に、土地の所有権を主張され、外国企業の訴訟担当部門により、訴訟を提起され
ることは、予想に難くない。個人所有者ではこれに対抗することは相当困難である。
1951 年から、国はこの地籍の調査をしているが、未だ国土の 52%が調査未了の状況
である。したがって、調査未了地については、正確な所有者実態はもとより、面積の
把握すらできていない。
調査未了地のほとんどは、毛筆で記された不正確な図面しかなく、実際に測量する
と、「縄伸び」で、面積が2倍、3倍に増えることが多い。また、相続時においても名
義未変更のまま放置されるなど、大半の森林地は不動産登記簿上も正確な所有実態が
記載されていない。
そこには、森林売買は相続税対策や所得税対策などの事情を考慮し、秘密裏に売買
を進めることが少なくないし、売り手の多くが不在地主であったり、また、該当する
森林が普段、人目につかない山奥に所在したりすることも、地籍の不明確性の遠因に
なっている。
ちなみに、諸外国では、ドイツ、フランス、オランダ、韓国では地籍調査が完了し
ており、地籍は 100%確定している。
2)地籍調査は市町村等の自治事務
地籍調査は市町村等の自治事務である。しかし、これまで実施体制を整備するため
の人件費補助が出ない、財政悪化で着手に踏み切れないなど現場サイドから財政的な
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面で進捗しない理由が言われてきた。
しかし、最大の原因は、国、自治体ともに、国土保全、水源地保全、グローバル化
おける外国資本の資源取得、そして国防という重要な問題に関して、これまで政策順
位も低く、とくに、後半の二課題については、まったく無関心だったということにあ
る。
地籍は土地に関する行政活動、経済活動の最も基本的な情報である。これを整備し
ておくことは、行政の基本であり、自治体の責務でもある。
地籍調査が未実施であると、様々な問題を引き起こすことが考えられる。道路や公
園などの整備、市街地再開発事業などによる土地の買収や交換に関して、正確な地籍
情報は欠かせないものである。東京の六本木ヒルズでは、約 400 筆あった境界の調査
に4年間も費やされ、大きなコスト(多額の税金)がかかった。
また、阪神・淡路大震災では、地籍情報が整備されていなかったため、境界確認な
どに時間をとられ、復旧が遅れたり、土地を担保にした住宅再建資金の借り入れがで
きなかったりした。
自治体にとって、固定資産課税の適正化や地理情報システム(GIS)への活用など重
要な行政上の目的でもあり、さらには、森林管理の適正化など地籍は重要な情報源で
ある。
そのほかに、土地所有者にとっては、土地境界紛争の防止、土地取引や相続の円滑
化、登記費用の節減など関係者にとって、地籍は有益なものでもある。
自治体においては、早急に地籍調査を行わないと、物証(土地の境界を示す目印な
ど)や、人証(境界に関する人の記憶)が失われ、確定が困難になるという問題が生
じてきている。
このように地籍調査は急務となっているが、国はこれに対応するため、この度法改
正と財政面の手当てを行った。
2010 年 3 月、国は、国土調査法、国土調査促進特別措置法を改正した。これにより、
民間活用など地籍調査の実施を自治体に促している。
国土調査法の改正により、民間活力の導入による国土調査の実施が可能になった。
これにより、自治体が行なう国土調査に係わる調査、測量等を、一定の要件を満たす
法人に委託することができることになった。
また、国土調査促進特別措置法の改正により策定された「第 6 次国土調査事業 10 カ
年計画」では、「基本調査の範囲の拡大」が明示された。具体的には、「都市部におい
て、官民境界情報の整備を促進するための基礎的な調査を実施する。」
、「山村部の境界
情報を保全するための基礎的な調査を実施する。
」となっている。
財政面については、特別交付税措置により市町村の負担は実質5%となった。また、
法改正で導入された都市部での官民境界情報整備のための調査などにも、国の予算が
手当されることとなった。
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地籍調査は、自治体の自治事務であり、行政の基礎をなす情報のひとつである。そ
して、国が法改正、予算の手当てなどを行った今、早急に取り掛かるべき自治体の課
題というべきである。
3)林業の疲弊
国の林野政策の失敗により、林業は疲弊してきた。このことが、現在の水源地問題
にも影響している。しかし、林業の疲弊は、それに留まらず、森林が持つ機能、すな
わち、生命の源となる水や空気の生成、保水機能による防災、森林・河川に生息する
生物の多様性保持、海岸の砂浜形成、自然環境改善などの機能を失わせている。
とくに、国のスギ植林政策は、商品となるのに 60 年間かかかり、その間資金を回収
できず、それに加え外国産の安い木材の流入によって、生産者は大きな打撃を受けた。
また、副次的にスギ花粉症を全国に広げることにもなった。
現在、木材の価格は長い下落が続き、樹齢 200 年のスギでも 100 万円に満たない。
森林地の価格も同様に低迷しており、10 アール当たりの全国平均価格(北海道、沖縄
を除く)は 5 万 2747 円である。林地(用材)においても、1ヘクタールあたりの全国
平均価格は、21 年 3 月末現在で約 53 万円である。なかでも奥深い林地は、二束三文
で売られることが多い。
こうした中で、前述の安価な外国木材の流入、森林地等価格の下落をはじめ、高齢
化、後継問題など林業経営を継続していくことが困難になっており、森林地を手放す
所有者が増えてきている。
また、そうした所有者の経済的な事情もあって、植林放棄地が増えている。林野庁
の 2009 年の調査によると、植林放棄地は約1万4千ヘクタールとしている。しかし、
国土交通省の衛星画像による調査では、2万~10万ヘクタールとの推計もあり、実
際には林野庁の調査以上に植林放棄地は広がっているようである。
そもそも植林放棄は森林法違反であり、それには市町村長の勧告手続きがある。し
かし、所有者に経済力がないため、現在、勧告の手続きがとられることはない。
このような現況が、外資の参入を容易くさせている。経済交流が盛んになることは
良いことではあるが、こと水がからむ問題については、
「21 世紀は水の時代」であり、
慎重な対応が要求される。
4)中国資本による山林買収の実態
2010 年の林野庁の調査によると、2006 年~2009 年の間における外資による森林地
の取得状況は、取得総森林面積が 558 ヘクタールであり、そのうち、中国資本が取得
した森林面積は 162 ヘクタールで、全体の 29%を占めている。
林野庁の調査結果からは、中国資本をはじめとした外資がそんなには入っていない
ように見える。
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しかし、それは、森林地所有者や地元自治体が慎重な姿勢であることもあって、表
立って、売買交渉が成立していないだけである。実態は、三重県大台町での中国の企
業関係者による湖北一帯の私有地約 1000 ヘクタールの買収交渉や、長野県天龍村での
中国人の代理人による森林地買収交渉など、個人も含めて中国資本の森林地の買い入
れ話はあとを絶たない。
2007 年頃、長崎県対馬市では、韓国資本が不動産を買収していることが問題となっ
た。その際、日本人名を使った、いわゆる「ダミー名義」による売買が進められ、そ
の実態の把握ができなかった。
森林地売買でも同様なことが起こると予想される。つまり、森林ブローカーを使っ
ての売買により、外資の顔を見せないという方法もある。森林地所有者は、日本人以
外には売らないとしても、売買相手が日本人名義であったら売買が成立することもあ
る。しかし、それは、対馬市の事例のように実質の所有者は中国資本をはじめとした
外資であったりするのである。
登記簿を一筆ずつ確かめたとしても、名義だけでは所有実態が分からないのが実情
で、林野庁の上記調査結果だけでは完全に払拭はできない。
とくに中国資本による森林地買収は、中国の水事情に起因しているとする考え方も
ある。
専門分析によると、中国は、2030 年までに人口が 16 億人に膨れ上がり、国際的な
水不足の指標、一人当たりの年間の水資源 1700m³に接近するとされている。現在でも、
中国の 669 の都市中、400 余りの都市が水不足である。人口 100 万人以上で見ると、
32 の大都市のうち、30 の大都市で水不足となっており、中でも北京が最も厳しい状況
にある。
中国の年間平均降水量はおよそ 660 ミリで、日本の 1700 ミリと比べて半分にも満た
ない量である。長江や黄河には支流が少ないため、大地に水が行き渡りにくく、また、
平地が多いため、河川の水の流れが遅く、汚れた水が滞留しやすいなど地形上の欠点
もある。
都市部では、水道整備が不十分なこともあって水の汚濁がひどい。都市の 90%の地
下水、河川、湖沼の水の 75%が汚染されており、毎日 7 億人が汚染された飲料水を飲
んでいるといわれている。また、北部では水面の蒸発により地下水が過剰に採取され、
渇水状況が生じている。このように、中国は慢性的な水不足に陥っている。
世界銀行の分析によると、現状の改善がなければ、2020 年までに水が原因の 3000
万人の環境難民が発生するとされている。
中国は、世界人口の約 20%を占めているが、水資源は世界全体のわずか 7%程度であ
り、国として重要な問題に直面している。資源獲得競争の時代でもあり、中国にとっ
て水の確保は優先課題となってきている。
(つづく)
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時
事
誘致企業
誘致企業の
企業の破綻
―誘致IT会社の破綻、補助金 2100 万円未回収
万円未回収―
未回収―
札幌市が誘致したIT企業2社が経営破綻した。2社は、札幌市の補助金制度を利用し
ており、返還義務のある約 2100 万円の補助金が、今現在未回収のままとなっている。
2007 年に、上田文雄市長の発案に基づき、この制度が創設された。制度の名称は、
「IT・
バイオ・デジタルコンテンツの立地支援制度」で、ITやバイオなどの企業が、5人以上
を市内で新規雇用するか市内に異動させるかして事業所を開く場合に、人件費や設備費な
ど最高 2000 万円が交付される。制度の詳細は下表のとおりである。
◎IT・バイオ・デジタルコンテンツ企業に対する補助金の概要
IT・バイオ・デジタルコンテンツ企業に対する補助金の概要
(札幌市HPより)
主な補助
種
類
限度額
助成内容
条
件
建物付属設備費、通信設備費等の1/2
※建物付属設備費とは?…事業所内の区域において、
事業を行うために必要と認めるセキュリティ設備及
開設費補助 500 万円
び音響設備、空調設備、試験研究設備設置に伴う物品
購入及び工事費等
・過去 1 年
※通信設備費とは?…電話及びルーター等の機器購
以上の操業
入及び設置工事費等
実績
600 万円
人件費補助
×2 カ年度
新規正社員及び新規異動者 1 人あたり 50 万円
・新規正社員
又は新規異
動者が 5 名
採用経費の 1/2
※新設に伴い新たに雇用正社員の採用に要した、求人 以 上 で あ る
広告費、広告制作費、企業説明会等の会場借上費等 こと
採用費補助
300 万円
研修費 1 人あたり 20 万円上限
研修費補助
※新設に伴い新たに雇用した正社員に対し、業務に必
要な知識や技術に関する研修にかかる費用で、講師謝
金、教材購入費、会場借上費等
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上田市長は、雇用創出や新産業育成のため「2010 年度までに 15 社誘致」を選挙公約に
掲げて再選された。再選後、目標の 15 社が進出、10 社に計約1億 1000 万円の補助金が交
付されていた。
補助を受けた企業は6年以上、市内で事業を継続させることが条件として義務付けられ
ている。しかし、2008 年 4 月に進出したソフトウエア開発販売会社「システムウッド」
(東
京都中央区)は、わずか 10 か月の 2009 年 2 月に事業停止が発覚した。また、2008 年 3
月に進出したシステム開発会社「フロンティアソリューションズ」(東京都新宿区)も、2
年 6 か月の 2010 年 8 月に事業停止した。
現在、「システムウッド」社とは連絡が取れない状態で、また、「フロンティアソリュー
ションズ」社は、破産手続き中で、市の補助金、併せて 2100 万円は札幌市に返還されてい
ない。
市では、「補助の要件を満たしていたので、当時の交付に問題はなかった」とか、2008
年当時、リーマン・ショックによる不況は予測できなかったなどと認定の正当性の理由を
説明している。しかし、誘致企業の経営実態の把握、例えば、申請時に詳細な財務内容を
報告させていないなど、事業見通しを審査しない制度自体に問題があると専門家などから
指摘されている。
また、市長の公約を果たすために、無理やり認定したとの話もあり、今後議会において
追及されることとなっている。もし、そのようなことがあるとしたら、額は少ないが、大
変重要な問題が潜んでいる。
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コーヒー
ブレイク
「Z」と
「Z」と「V」二つの映画
つの映画と
映画と「市民社会」
市民社会」
《映画のタイトル
映画のタイトル「Z」
のタイトル「Z」の
「Z」の意味》
意味》
ギリシャの野党議員グレゴリオス・ラムブラキスは、アテネ大学の医学博士で、学生
や労働者に支持される平和主義者で、ギリシャにミサイル配備が行なわれることに反対
の立場をとっていた。
1963 年 5 月、平和集会での演説直後、議員は交通事故死した。後に、この事故は、憲
兵隊の将校が右派組織を使って起こした暗殺事件であったことが判明する。
映画「Z」
(1969 年)は、この事件を克明に追っていく。映画の中では、若き予審判事
が、日本の「特捜」のように深い暗部に切り込んでいく。判事は、犯人が警察組織の一
員であることをつきとめ、事故が政治的な計画殺人、暗殺事件であると判断する。そ
して、警察組織の幹部を告訴する。
しかし、重要な証人たちが突然行方不明になるなど審理続行が難しくなってしまう。
そして、判事に対する政治的圧力も加わり、解任される。そんな中、政府当局は、事
故と警察組織とは無関係であると発表し、事件を闇の中に葬り去ってしまう。
映画は、そこでエンディングとなる。このエンディングで「Z」という映画のタイ
トルの意味がようやく判明するのである。まず、エンディングのナレーションは、次の
ように語る。
「軍は次のことを禁じた。長髪、ミニスカート、ソフォクレス(古代ギリシャ三大悲
劇詩人の一人)
、トルストイ、エウリピデス、ソ連賛歌、ストライキ、アリストファネ
ス、イオネスコ(女流写真家)、サルトル、アルビー、ピンター、報復の自由、社会学、
ベケット、ドストエフスキー、現代音楽、ポピュラー・ミュージック、現代数学、
『Z』。
」
「『Z』 の文字の意味は、古代ギリシャ語で 『彼は生きている』。」
そして、一人の少年が板切れで地面に大きな「Z」の文字を書くところでこの映画
は終わる。
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どんなに権力が抑圧、隠蔽しようとも、自由と正義を求める心は、それを打ち破るも
のだと、その「精神」(
「Z」)は、一般民衆の中に生きているのだからとメッセージを送
るのである。
《「V フォー・ヴェンデッタ』
フォー・ヴェンデッタ』(V for Vendetta)
Vendetta)》
この映画は、2005 年の映画である。ストーリーは、第 3 次世界大戦後、独裁国家とな
ったイギリスにおいて展開される。
ある晩、イヴィー(ヒロイン)は、夜の外出禁止時間中に、街を歩いているところを
秘密警察に見つかって、逮捕されそうになる。そこに、
「V」と名乗る謎の仮面をつけた
男が現れ、助けられる。このことにより、イヴィーは、
「V」の行動に巻き込まれていく。
この「V」は、国民から自由を奪い、徹底した言論弾圧、「テロ」対策を口実に張り巡
らされた国民監視網、テレビによる民衆支配(情報操作)などを通じて、国民を管理、
支配しようとする独裁者と国家に対して反抗のテロ活動を一人で行っていた。
やがて、イヴィーは、管理され、支配されているという真実に気づき、自由と正義を
取り戻す革命のために立ち上がる。
映画の中で、「V」が発する多くの言葉が、政治的な意味を持っている。TV局を乗っ
取った「V」は、全国民にアジ演説をする。
「罪ある者を探すなら、鏡を見よ」
。
「V」は、
政府に対する恐怖によって、立ち上がることのできない国民自身を断罪する。
そして、こう言い放つ。
「人民が政府を恐れるのではない。政府が人民を恐れるのだ。」
。
《権力に
権力に対抗する
対抗する市民社会
する市民社会》
市民社会》
二つの映画の共通認識は、権力は自らに不都合なものを隠蔽し、排除するために、国
民から自由と正義を奪い、管理、支配する。だからこそ、国民の自由と正義の戦いは重
要であるということだろうか。
しかし、個々人だけでは強大な権力に立ち向かっても、ひねりつぶされるだけだ。
実際の事件と同様、
「Z」では、議員と関係のある市民たちが、立ち上がって、事件を追
及し、判事に証拠を提供するなどの行動で、徐々に真実が明らかになっていく。
また、「V」の映画では、「V」の呼びかけにより、国王の圧制に反旗を掲げ、火薬陰
謀事件を引き起こしたガイ・フォークス(歴史上の実在の人物。国王暗殺未遂事件の犯人
の一人。)にちなんで、記念日の 11 月 5 日、国会議事堂前に、
「V」と同じ仮面、衣装を
つけた多くの国民が集結し、権力に抵抗する意思を明示する。
近年、注目を浴びてきている考え方に、
「新しい市民社会」という考え方がある。政治
社会(国家、権力)、経済社会(市場)に対抗し、それらを是正し、「良き社会」を構築
しようとする考え方である。その「市民社会」は、自由な諸個人により作られる様々な
団体(文化団体、スポーツクラブ、NPO等グループ、集団)の集合体である。
彼らは「public sphere」、すなわち「公共圏」を構成する。この「公共圏」という言葉
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は、日本で「公共性」と訳されることがあるが、それは正しくない訳である。そこは、
自由な市民が対等な立場で理性的な討論を行う空間とされ、世論が形成される空間であ
る。
「言説」により形成された世論は、政治社会や経済社会に影響を及ぼし、改革を促す。
しかし、彼らは革命により国家を変更するのではなく、国家内に留まり、内において
国家や市場に「言説」を持って変革を求めるのである。
ところで、二つの映画では、「Z」の議員は自由と正義のために暗殺され、「V」は革
命のために命を捧げる。どちらも血を流し、命を落とす。「新しい市民社会」では、果た
して、権力は暴力に訴えることはないのだろうか。
「言説」のみで権力は、過ちを改める
だろうか。
権力は合法的に「暴力装置」を持っており、その前では、「言説」による世論の形成は
力を失うのではないだろうか。
ゴヤ作「1808 年 5 月 3 日、プリンシペ・ピオの丘での銃殺」
1905 年ロシアで起こった「血の日曜日事件」では、宮殿の警備兵による無差別発砲で、
デモ行進をした労働者 6 万人のうち 4000 人もの参加者が死亡した。皇帝は、これにより
民衆を恐怖で支配できると考えたが、全国規模の反政府運動が発生し、ロシア革命の引
き金となった。
現代の先進国の社会では、このような政府行動は考えられないが、決してないとはい
えない。市民は、知らず知らずに、柔らかな戒厳令下に置かれているのかもしれない。
国家に管理、統制され、「家畜の自由」の中で生きるのか、「人間の尊厳」に基づき「自
由と正義」の中で生きるのか、その選択のとき、果たして命をかけて、それを守れるだ
ろうか。その覚悟はあるだろうか。
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「ある一個の存在が、厖大な、圧倒的な権威の前にさらされ、裸の、二本の足と二本
の手と、破れやすい皮膚と体をまもりきれぬ髪だけの存在に還元させられ、最低の、生
きてゆく権利を守るために絶叫する。それは絶叫であって、その声の悲しさだけが真実
であり、その内容が A であろうと B であろうと、それは、
〈生は生を欲する〉という一つ
の基本的原理を証明しているだけだ。」(高橋和巳「悲の器」
)
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