技術の導入と継承 - 科学技術社会論学会

不確実性の高いナノテク政策導入とその推移に関する研究
-カーボンナノチューブを中心にして-
五島綾子(科学著述家)
1.研究の背景と目的
アメリカにならって 2001 年にわが国に導入されたナノテク(ナノテクノロジー)政策はマスメ
ディアにより煽りたてられ,産業界には“ナノテクは錬金術”のような期待感が膨らんだ.しか
し昨今は,沈静化し,大半の研究者はあのナノテクはどうなったかと問い返すことさえはばかれ
る.莫大な予算が投入されたはずの科学技術政策が,どこで,どのような意図で,どのように決
められるのかが見えにくいまま,新しい次なる科学技術政策に飛び移っていく.繰り返される事
態に対してもはや私たち社会は科学技術政策を検証する力を失っているようである.
本研究では,このような問題意識をもとにわが国のナノテク政策の導入の推移,それをめぐる
メディアの報道を分析する.さらに日本のナノテク政策,ナノ・ハイプの特徴をアメリカの場合
と比較考察する.この調査でわが国の科学界では政策立案過程においてナノテク概念を深める論
争を生み出してこなかったことを明らかにする.その上でこの状況が,その後のナノ・ハイプ,
ナノのイメージ商品の横行,異分野融合の視点の欠如,研究開発の方向性などに影響を与えたの
ではないかという問いを提示する.特にカーボンナノチューブ(CNT)の公的プロジェクトの推移は
ナノテク概念論争の不足と関係したのではないかと推測される.しかし CNT の最前線の進行しつ
つある研究開発はリスクの可能性を抱えながら,ブレイクスルーゾーンでエネルギー,ヘルスケ
アの分野の応用にむけて着実に進む.今回の発表では,現在,進行しつつあるベネフィットと陰
に潜むリスクを包含するナノテクに対して科学界がどのように社会に意思表示するのか問われて
いることを提示したい.
2.研究方法
新聞のキーワード検索と内容分析,国のナノテク関連報告書の分析,企業へのインタビュー,
文献調査などである.
3.科学者の間で深まらなかったナノテク概念論争
1986 年にドレクスラーの『創造する機械』がアメリカで大ヒットし, 1990 年代からナノテク
論争は科学者,政策立案者の間で議論が活発になされるようになった.2000 年のクリントン元大
統領の NNI(国家ナノテクノロジー・イニシアティブ)宣言の前後にナノテクのベネフィットと
リスクの論争は投資家,市民団体,SF 作家まで加わって盛り上がっていった.
それに対し,我が国でもナノテクは超微細加工技術という意味を担い,1990 年代から一部の科
学者がナノサイズの範囲で示す特異な現象に注目していた.しかし NNI 立ち上げに刺激を受けて
主導したのは経団連であり,日本政府が策定したものは,
「ナノテク・材料」の分野であった.わ
が国の材料分野の研究が世界で一流であり,優れた素材が画期的な商品を生み出すというコンセ
プトがあったからである. ところが,メディアが煽る期待と裏腹に目に見える成果が上がらない.
そのために本来のナノテクとは何かという批判に答える形で 2005 年に総合科学技術会議で『True
Nano』という概念が提案され,第 3 期基本計画に反映された.しかし科学界でのナノテク概念の
論争は深まらなかった.
4.深まらなかったナノテク論争は社会になにをもたらしたか
主な影響の項目を以下に示し,科学界のナノテク論争との関係を論ずる.
① 素材中心のナノテクへの重点配分
② NNI と異なる異分野融合の考え方の不足
③ メディアのナノ・ハイプに関する科学者の批判・分析の不足
④ ナノのイメージ商品に対して生まれなかった科学者の警鐘
⑤ ナノテクのビジョンとそれを語るオピニオンリーダーの不在
⑥
リスク専門家とナノテク推進派の専門家との論争が生まれない
5.進む CNT 研究開発とリスク研究:分離された科学者の議論
2007 年に CNT の大量生産のめどが立ち,困難であった CNT の可溶化も克服しつつある.さら
に産業総合研究所では CNT の金属型と半導体型の分離に成功し,より高性能なエレクトロデバイ
スへの応用の期待が高まった.また CNT を用いた高分子アクチュエータ素子の開発に成功し,人
工筋肉の実現に現実味がでてきており,医療・福祉用途のロボットなどへの期待が高まってきた.
一方,2003 年から CNT にリスクに関する論文が急激に増加し,2008 年に国立医薬品食品衛生研
究所(国衛研)グループおよびエジンバラ大学グループが多層 CNT のマウスの腹腔内投与試験か
ら中皮種を確認したとして反響を呼んだ.アスベストとの構造上の類似性が有害性を決定すると
いう仮説は現在,有力ではあるものの,研究者の間でまちまちである.しかし大企業から中小企
業に至るまで CNT 研究開発のマインドは急激に下がった.
6.日米欧の CNT 製造業の研究開発の姿勢の違い
海外の CNT 製造企業の対応は日本のそれらと大きく異なる.EU に本拠を持つ 3 大 CNT メーカー
Bayer 社などは CNT の安全管理の取り組みと EHS 問題に対する社会への情報発信の姿勢が顕著で
ある.それとともに多層 CNT の複合材料の風力発電用のブレードや自転車のフレームなどの応用
に積極的に取り組んでいる.しかも多層 CNT 複合体の安定性や暴露についての取り組みも公表し
ている.アメリカの DuPont 社は,ナノマテリアルのリスク評価・管理に関する技術指針を環境
NGO と共同開発し,この技術指針を ISO/ナノテク技術委員会に提案し,彼らの主導の下,世界標
準への作業も進んでいる.消費者はきちんととした情報が公開されていれば,安心するものであ
るという考え方が基本にある.わが国の企業とは対照的である.このような姿勢がみられない大
企業から中小企業に至るまで科学者の深められない論争とは無関係ではあるまい.
7.まとめ
わが国の科学者がナノテクの概念論争を深めなかった要因は様々であるが,科学界の姿勢がナ
ノテクと社会の相互作用に大きな影響を与えている.物質科学の歴史は分子を探る歴史である.
したがってナノテクは今後,名称が変わろうとも,広い範囲の技術を支え,やがて生命現象にも
つながっていくことは明らかである.ナノテクに潜むリスクをどのように克服し,ベネフィット
を生かすかの責任の一端は科学者にあることが理解される必要があり,より一層ナノテクの概念
論争や歴史観が深められなければならない.ライフサイエンスとナノテクが本格的に結びつくと
きは,私たち社会はその推進の帰結を予測できないからである.
謝辞:貴重な情報を御提供いただき,ご教示いただいた JFE テクノリサーチ客員研究員の栁下晧
男氏に深く感謝します.
連絡先;〒112-0002
東京都文京区小石川 4-16-13-1005( e-mail:[email protected])
日本社会の再帰的近代化と伝統的な麻産業の変遷
萩原優騎(日本学術振興会特別研究員 PD[東京大学])
群馬県の吾妻川流域は,かつて麻栽培が盛んな地域として知られていた.「岩島麻」は地域の名
産品として知られ,全国に流通していた.しかし,戦後の状況変化と共に,それは衰退の一途を辿っ
ていった.一方,近年は,伝統技術を活用した地域の活性化の試みもなされようとしている.このよう
な地域社会の変容の過程の背景には,日本社会における近代化の問題がある.そのことについて,
技術とそれが置かれた社会との関係に焦点を当てて考察することが,発表の目的である1.
この地域で麻栽培が本格的になされるようになったのは,20 世紀初頭であった.麻産業に携わる
人々によって組合が作られ,品質の統一,流通先での用途に関する調査,等級の設置がなされた.
その後,産業の更なる活性化を目的として,麻織物の製造に着手した.記録によると,1917 年に 2 名
が派遣されて各地を視察し,奈良県から招かれた人物による講習会が実施されている 2.こうして発
展を遂げていった岩島麻に転機が訪れたきっかけは,第二次世界大戦である.戦後,日本社会の
構造は一変した.第一に,大麻取締法が制定され,許可なく麻を栽培することが禁じられるようにな
った.第二に,化学繊維が普及するようになり,麻の需要が減ったことが挙げられる.当時の急激な
変化について,統計資料で確認してみよう 3.吾妻町における麻栽培面積の推移を見ると,1955 年
には 3871 アールであったのに対し,1960 年には 1250 アールへと激減している.栽培戸数について
は 1963 年以降のみ掲載されているが,同年には 73 戸だったのが 3 年後の 1966 年には 42 戸へと
大きく減っている.
こうして地域の麻産業が衰退していく中で,その技術の保存を模索する動きが出てきた.1977 年
に発足した「岩島麻保存会」は,現在までその活動を継続している.1992 年には,岩島麻の生産技
術が群馬県選定保存技術第 1 号に認定された.2000 年には平成 12 年度地域文化功労者表彰を
受け,2008 年には財団法人ポーラ伝統文化振興財団の「伝統文化ポーラ賞」の「地域賞」を受賞した.
また,岩島麻は,宮内庁,伊勢神宮,日本民族工芸保存協会等に納められていて,繊維業者や宗
教関係者からの問い合わせも後を絶たないという.このように,岩島麻は一定の高い評価を受けてい
る.しかし一方で,その技術の継承やそれを用いた地域産業の展開については,見通しが明るいと
は言いがたい.保存会の活動の主な目的とされてきたのは,あくまでも技術の保存と継承である.そ
のため,生産規模は限られている.全ての工程が手作業によるものであり,生産量は少ない.また,
神社等からのある程度の需要はあったとしても,それだけでは地域産業として成立させることは容易
ではない.現在の栽培量では,保存会のメンバーが麻産業で生計を立てていくには程遠い状況で
ある.需要の拡大をどのように図るかということだけでなく,栽培や加工に携わる人員をどのように確
保するかということも,今後の課題だろう.
地域産業として成り立たせるとすれば,その管理の在り方についても考えなければならない.知名
度が上がれば,それだけ人々の注目も集まるようになる.特にメディアで岩島麻が紹介されると,地
1
岩島麻の歴史的経緯については,以下に挙げる文献以外に,吾妻町教育委員会事務局社会教育課
が発行したパンフレット「岩島の麻」,企画展「岩島麻――黄金のマテリアル」のパンフレット等を参照した.
2
丸橋春倭「大麻」,岩島村誌編集委員会編『岩島村誌』岩島村誌編集委員会,1971 年,p.617
3
小林文瑞「いまの岩島村」,前掲『岩島村誌』,p.11
域外から訪れる人々との間でのトラブルが,これまでに度々発生してきたという.具体的には,麻薬に
興味を持つ人々によると思われる,盗難事件である.一例として,2003 年 10 月 29 日の上毛新聞に,
「岩島麻 盗まれる」という記事がある.同年 9 月 5 日,翌年の種子用に残しておいた十数本の麻が
刈り取られていたことが発見された.数日後にも十数本の先端部分が刈られ,11 日には畑を囲うネッ
トが切り裂かれて,ほとんどの麻がなくなっていた.この被害が出る直前の 3 日に,保存会の活動が
テレビで紹介されたという.この事件が報じられると,防犯対策をしなければ翌年の栽培を許可しな
いとする文書が県から出され,早急に対策を立てることとなった.このように,法的に規制された状況
下での栽培においては,当然のことながら厳重な管理が要請される.地域産業として定着させるため
に栽培量を増やすとすれば,これまで以上に大規模で徹底的な管理が必要となるはずである.
以上のような経緯の背景には,麻が伝統的に栽培されていた状況が,法的に規制されるに至った
歴史的変化がある.それについて,アンソニー・ギデンズらによる再帰的近代化論を参照して考察し
たい.ギデンズは,近代の出発点を 17 世紀のヨーロッパに位置づけている.これに対しては,科学史
や哲学の観点から各種の異論があるかもしれないが,ここでは暫定的にこの定義を採用することにし
たい.当時のヨーロッパに出現した社会生活や社会組織の様式が「モダニティ」であり,その影響は
世界中に及んでいった 4.モダニティが成立する際には,一つの変化が当該の社会に生じる.その変
化は,「脱埋め込み」と呼ばれる.それは,社会関係を相互行為のローカルな脈絡から切り離し,時
空間の無限の拡がりの中に再構築することである 5.近代化を遂げる以前の状況では,当該地域に
おける営みがその場に限定されたものとして成立していたということが,「相互行為のローカルな脈
略」ということの意味である.近代化とは,そういった状況が変化して,地域の境界を越えた相互影響
の中で,社会が変化を遂げていくことである.今日「グローバル化」と呼ばれている現象は,そのような
変化が急速かつ大規模に展開するようになった結果であると考えられる.
脱埋め込みが実現した社会状況の特徴としてギデンズが挙げるのは,専門家システムの影響力
の増大である.諸科学が発達した近代社会では,それらに基づく知識体系が支配的となる.そこで
は,伝承されてきたということだけでは伝統を正当化する根拠にはならず,伝統それ自体によっては
その信憑性を検証できない知識に照らしてのみ,正当化が可能になる 6.つまり,伝統そのものの中
には,正当性を保証するとされるものを,もはや見出すことができなくなる.それに代わって,専門的
知識を判断基準として,伝統の再評価がなされることになる.こうして,従来は自明だったローカリテ
ィが問い直され,社会は再帰的に近代化を遂げていく.もちろん,従来の伝統が完全に消失してしま
うわけではない.「脱埋め込み」に続いて,「再埋め込み」がなされる.それは,「脱埋め込み」を達成
した社会関係が,再度充当利用されたり作り直されたりすることである 7.そこに見られる伝統は,もは
や「脱埋め込み」を遂げる以前のものではない.ただし,近代的な要素が全面的に支配するわけでも
なく,既存の要素がそのまま保存されているわけでもない.両者が相互に浸透し変容を遂げる中で,
近代的な要素が社会の中心的な位置を占めるようになる.
岩島麻の栽培状況の変化は,このような近代化の一例である.制度の面から言えば,やはり戦後
の大麻取締法の制定が決定的であった.逆に戦時中までは,戦争により物資が不足すると,麻の生産
4
5
6
7
Giddens, Anthony: The Consequences of Modernity, Polity, 1990, p.1
Ibid., p.9
Ibid., p.38
Ibid., pp.79-80
は奨励され盛んになり,岩島の全農家約 700 戸で生産されていたという 8.つまり,規制命令が出る以前に
は,麻の栽培はむしろ奨励されていた.その後 1945 年,「ポツダム宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関ス
ル件(昭和 20 年勅令第 542 号)」が公布・施行された.それに伴って制定されたのが,「麻薬原料植物
ノ栽培,麻薬ノ製造,輸入及輸出等禁止ニ関スル件(昭和 20 年厚生省令第 46 号)」である.これによ
り,麻は薬物として規制対象となり,栽培が禁止された.しかし,「大麻取締規則(昭和 22 年厚生・農
林省令第 1 号)」が制定されたことで,その扱いは麻薬とは異なるものとなり,許可制での栽培が認め
られた.そして 1948 年,大麻取締規則は廃止となり,新たに大麻取締法が制定された.同法では,
学術研究,繊維や種子の採取に麻の用途を限定し,免許制による取り扱いとすることを定めた.こう
して,麻栽培に従事できる人物は限られ,栽培環境も限定されたものとなっていく.
次に,技術面での変化を見てみよう.法的な規制の対象になる以前は,国内での麻の用途は,よ
り多様であった.例えば,印度大麻煙草は喘息の薬として,戦後まで市販されてきたという 9.戦後,
化学繊維の需要が増大したことも,麻産業の衰退の一因となった.ただし,栽培状況の変化は戦時
中に既に現れつつあった.召集・徴用で労働力が減少し生産量が低下したこと,軍の必需品として
10
供出を強制されたことなどが挙げられている
.岩島麻保存会の会長によると,麻栽培に従事してい
た人々の多くは,コンニャク栽培へと転化したという.栽培が楽であり,収入面でも期待できるという理
由だった.この地域は,以前からコンニャクの栽培に適しているとされていた反面,病菌による被害も
大きかったのだが,消毒技術の普及に伴い,それを未然に防げるようになった
11
.すると,コンニャク
の栽培量は飛躍的に増大した.1966 年の吾妻町でのコンニャクの栽培量は 10 年前と比べて倍加し
ており,岩島でも同様の伸びを示している
12
.地域産業としての役割を失った岩島麻は,地域の伝統を
象徴するもの,保存され継承されるべき技術として位置づけられることになる.それは,地域社会において
主要な役割を担うことはないという意味で,形式的なものであると言える.
岩島麻が衰退していく過程とそれ以前を比較してみると,伝統の果たす役割が大きく変化していること
が分かる.近代以前の社会にも再帰性がなかったわけではないと,ギデンズは考える.過去が尊敬の対
象とされる伝統的文化では,伝統とは行為の再帰的モニタリングを共同体の時空間と結び付けてい
く様式である
13
.ただし,そこでの伝統の再帰性は,近代化以降のそれとは異なる.近代以前では,
再帰性は伝統の再解釈と明確化にほぼ限定されていて,過去により多くの比重が置かれていた
14
.
それに対して,近代においては専門的知識を尺度として伝統が評価される.そればかりか,社会は
専門家システムとの関係において,再帰的に変化を遂げていく.その例として,ギデンズは社会科学
の影響を挙げている.社会科学の概念や理論は,人々の行動内容を積極的に組み立てていき,そう
した行動をとるに至る理由を告知していく
8
15
.すると,そうした言説の影響が,社会や個人に対して再
丸山不二夫『全国に広まった上州岩島の精麻を追って 付,吾妻地方の麻の史的考察』シライシ印刷
(自費出版物),2002 年,p.84
9
丸井英弘「群馬県吾妻地域の麻産業の変遷と今後の可能性」,研究報告書『安全な生活環境の実現と
地域の再生――吾妻川流域を実例として――』国際基督教大学 21 世紀 COE プログラム,2008 年
10
丸山,p.82
11
小林,p.11
12
同上
13
Giddens, p.37
14
Ibid., pp.37-38
15
Ibid., p.41
帰的に作用することになる.ここに,社会の再帰性と認識主体の再帰性との接点を見ることができる
だろう.
その具体例が,メディアやサブカルチャーなど,様々な場面で大麻が頻繁に語られる状況である.
特に近年は,新書等でも大麻の問題を扱ったものが出版されるようになってきた.大麻の弊害や有
用性が盛んに論じられることで,その議論を通じて人々の認識や言説空間が不断に再構築されてい
る.その結果,興味本位で岩島麻を盗みに来る人々も後を絶たず,麻薬等のサブカルチャー的な関
心から大麻解放を主張する人々が現地に押し寄せるという現象も生じるようになった.これらの反応
に,岩島麻の栽培に携わる人々は困惑している.一方で,地元関係者らの認識に変化が生じている
ことも確かである.これまで保存会では,メンバーの高齢化も悩みの種であった.栽培から加工まで
に至る技術は,経験を通じて伝承されるものであり,短期間で習得できるものではない.それゆえ,
技術をどのように次世代に伝えていくのかということが課題とされてきた.近年では,定年退職後に保
存会の活動に関わりたいという人々が増えている.また,麻挽き,麻を素材とした携帯電話のストラッ
プ作りやランプシェード作り等の体験学習を,地元の子供たちを対象に町が企画し,好評のようであ
る.今後は麻炭を作る計画もあり,地域産業の一つの可能性を模索している.
ただし,現在のように栽培量が限られているならば,たとえ需要の拡大が見込めたとしても,それに
見合うだけの生産は難しいだろう.大麻取締法に則った運営が必要であり,生産規模を拡大するな
らば,管理面での負担は一層大きくなる.また,作業に従事できる人数を確保するには,技術を継承
する人材の育成が課題となる.これらを実現するには,諸問題の根本的な再検討が必要である.そ
の可能性として,現地関係者へのインタビューの中で出てきたのは,外からの視点の獲得という論点
であった.現地で育ち,都会に出て戻ってきた人々が関わることで新しいものを創出できると,JA あ
がつまの理事長は語る.実際,近年はそのような人々が増えているという.自らも岩島麻保存会の会
員となり,その活性化を図る東吾妻町社会教育課の職員も,その一人である.このような存在は,地
域にとって「よそ者」の役割を果たす.そのような存在によって外部的視点が導入されることで,地域
における暗黙知的なローカル知を明確な形で言語化,問題化することができる
16
.そして,現場に通
う研究者も,地域の人々との交流を通じて,同様の役割を果たせる可能性があるだろう.
昨年の発表で紹介したように,吾妻川流域では長年にわたってダム開発問題が論争の対象となっ
てきた.岩島麻の栽培地域はダムに沈む範囲からは外れていたとはいえ,流域全体を考慮に入れた,
より普遍的な視点で地域の活性化を考えることが必要だという意見が,近年は地元からも出てきてい
る.その課題に取り組むには,各地域間の交流だけでなく,自分たちの置かれている状況をより広い
コンテクストに位置づけ,検証する営みが必要となるだろう.そのような作業に「よそ者」として貢献で
きるよう,自身の研究を深めつつ,今後もこの地域に関わっていきたい.
※本研究には,平成 20 年度,21 年度科学研究費補助金[特別研究員奨励費](課題番号 208320)を
使用した.
16
鬼頭秀一「環境破壊をめぐる言説の現場から」,飯田隆他編『岩波講座 哲学 8 生命/環境の哲学』
岩波書店,2009 年,p.167
国際開発協力プロジェクトと技術導入
―ベトナム・ハノイ市でのバス IC カード導入をめぐって―
寺戸宏嗣(東京大学大学院)
はじめに
本報告は,ベトナム社会主義共和国ハノイ市におけるバス交通システムへの交通 IC カー
ドの試験導入事例から,発展途上国における技術導入に果たす国際開発協力プロジェクトの
役割を考察するものである.
途上国における技術導入,とりわけ本報告にかかわるインフラ整備に付随するそれは,国
際開発協力プロジェクトによって実施されることが多い.だが,技術導入をめぐる従来の諸
研究では,テクノロジーの送り手側と受け手側との制度構造や社会状況の差異に関心が集中
し,その技術導入を媒介するプロジェクトの役割について十分に論じられてこなかった.STS
研究の文脈では,Akrich (1992) が途上国における技術導入を扱った代表的な研究であり,技
術的人工物にはその使用実践の筋書きが埋め込まれているとして,送り手側(先進国の技術
者)による「スクリプト化 in-scription」と,受け手側(途上国の地域住民)によるその「脱
スクリプト化 de-scription」の過程を通じて,移転に伴うテクノロジーの変容を明らかにし,
また同時にテクノロジーによる社会規範ないしモラリティの構成機序をも描出しようとす
る.この分析視点は途上国における技術導入の STS 的研究の基本となるべきものだが,彼女
の議論ではプロジェクトの役割は明示的な考察の対象とはなっていない.他方,技術導入を
伴う国際開発協力プロジェクトを扱った人類学的研究では,プロジェクトに独自の社会的ダ
イナミズムがあり,導入されるテクノロジーの持つ意義もそのダイナミズムの一部を構成す
ることが明らかにされてきた(Grammig 2002, Rottenburg 2009).
では,独自のダイナミズムを持つ国際開発協力プロジェクトは,技術導入のあり方にどの
ような影響を及ぼすのか?差し当たり,これは以下のふたつの問いに分解できよう――①プ
ロジェクトの目的・関心によって,いかなるテクノロジーの形が選択されるのか?②プロジ
ェクトの実施過程において,その論理がいかに変容するのか?これらの問いを念頭に,本報
告では Public Mobility プロジェクト(仮名)によるベトナム・ハノイ市での交通 IC カード導
入事例に見られた特徴を分析していく1.
1.
Public Mobility プロジェクトと交通 IC カード試験導入
2002 年 9 月~2008 年 3 月にかけて実施された Public Mobility プロジェクトは,同市のバス
交通システムの発展を目的としてハノイ市と西欧の 2 都市が協力して進めた国際共同プロジ
ェクトであり,EU の行政機関である欧州委員会の助成プログラムに採択されたものである2.
交通 IC カードの試験導入は,Public Mobility プロジェクトが掲げた複数の活動項目のうち,
乗車券システム改善のそれにおいて企画・実施された.このほか,同プロジェクトでは関係
2.
1
本報告は,筆者が 2007 年 9 月から 2008 年 12 月にかけて実施した同プロジェクトに関する資料収集,
インタビュー,会議等の観察から成る現地調査にもとづく.
2
このプログラムはヨーロッパとアジアの地方自治体間の協力関係を構築・促進しつつ,持続的開発
を達成しようとする目的から設けられた.助成を受けるには,アジアの 1 都市とヨーロッパの 2 都市
が共同でプロジェクトを企画し,欧州委員会の審査を通過しなければならない.採択されたプロジェ
クトに対し,欧州委員会はその総予算の約 50%を助成する.
機関の業務能力向上,(バス専用乗り換え施設の建設を含む)バス交通へのアクセシビリテ
ィ向上,バス車両の整備・修理機能の強化,情報システム構築などが実施された.
同プロジェクトは,ハノイ市交通土木局内にあり,バス交通の事業計画の策定やその管理
を担っていた UT Center(仮名)によって実際に進められた.というより,プロジェクトの
発案自体,この行政機関の長期滞在アドバイザーであったドイツ人専門家が中心となって作
られたものであり,UT Center と Public Mobility プロジェクトは結合児のような一体感を持っ
ていた.なお,実際に市バスを運行するのは,市営企業である HT Company(仮名)を中心
とする 5 社である.
さて,実のところ Public Mobility プロジェクト開始当初,交通 IC カード導入は構想されて
おらず,全路線定期券の導入を中心とする乗車券システムの充実化によって,いまだ定着し
ていないバス利用の推進が目指されていた.しかしプロジェクト開始直後,当の全路線定期
券の導入がハノイ市により急遽決定され,担当機関となった UT Center は,急いで必要とな
る機器をプロジェクト資金により調達し,発行を開始した.その効果は驚くほど大きく,一
年ほどの間にバス利用者が激増する.だが反面,それは偽造定期券の蔓延をもたらすことと
もなった.定期券は,利用者の情報が記載された紙製の台紙に,利用者の顔写真および1ヶ
月分の切手状シールを貼付する形式であった(利用者は1ヵ月毎にシールを購入する)ため,
偽造が容易であったからだ.
こうした状況の急変を受け,当初描いていた新規利用者獲得のための乗車券システム改善
から,急増した利用者の管理――とりわけ偽造定期券の防止――のためのそれへと,プロジ
ェクトは大きく方針転換し,そのための方策として当時世界的にも先端的なテクノロジーで
あった非接触式 IC カードの試験導入が計画されたのである.そして,それは 2008 年 1 月,
ハノイ市バス 32 系統専用の定期券として実現された.
携帯型カード読み取り機―技術選択上の特徴と理由
日本で現在ひろく使われている交通 IC カードは,クレジットカードとしても利用可能な
多用途・多機能なものとなっているが,ハノイ市のそれは,1 路線のみに,しかも定期券と
してのみ使える,使途をきわめて限定したカードとなっている.むろん,今はあくまでも試
験導入の段階に過ぎず,今後その利用範囲および使途が拡大していく可能性は大いにある.
それでもやはり,試験導入段階での技術選択が後々まで影響を及ぼすことは,テクノロジー
発展の経路依存性の観点からして想像に難くなく,おそらく Public Mobility プロジェクト関
係者も十分そのことを承知していただろう.機能・用途を限定したテクノロジーを選択した
のには,試験導入段階であるという事情のほかにも,Public Mobility プロジェクトなりの理
由と経緯があったはずである.
だが,ここではハノイ市の交通 IC カード技術に見られるもう一つの大きな特徴に注目し
たい.カードを読み取る装置が車載型の読み取り機ではなく,携帯型のそれである点である.
ハノイ市のバスには切符を販売し,定期券をチェックする車掌がいる.料金箱の導入により
バス運行のワンマン化を進めた日本と異なり,ハノイ市では車掌の存在を維持し,彼らに携
帯型読み取り機を携帯させる計画が選択された.
ハノイ市の交通 IC カードが日本等に比べて用途が限定されている技術上の要因は,IC チ
ップにマイクロプロセッサを搭載していない(メモリのみを搭載した)カードを用いている
ためであり,Public Mobility プロジェクトがそれを選択した直接的理由は価格の安さにあっ
た.しかし他方,カードに記録される個人情報や利用履歴を読み取る装置に車載型ではなく
携帯型が選ばれたのは,単にそのほうが安く済むからではなかった.カード本体および関連
機器を納入したベトナム国内企業は,試験導入段階に必要となる約 30 台の車載型読み取り
機を無償で貸与するとの提案まで示し,車載型の導入を推したものの同意が得られなかった.
3.
その理由のひとつは後述する HT Company の思惑と関わるだろうが,Public Mobility プロジ
ェクトにとっても,それがバス運行システム全体に及ぼす影響において車載型読み取り機は,
たとえ当面のコスト問題を導かないにせよ,なお選ぶに躊躇する代物だったと考えられる.
車掌の失業問題ではない.1 路線定期券に限定されている以上,車載型読み取り機を導入
したところで,他の種類の乗車券を販売・チェックする車掌の存在は依然として不可欠であ
る.問題の起点はバス利用者にある.日本のように整列乗車する習慣は,ハノイ市のバス利
用者には無い.バスがやって来るなり,それが完全に停車する前から,我先にと押し合い圧
し合い乗り込むのが常である.バス運転手のほうも,できる限り完全停車せず乗降を済ませ
たがる.乗る側と走らす側との事故を生みかねない共通了解は,しかし,乗降時間の短縮を
もたらしている.
だが,車載型読み取り機を設置するとなれば,乗客一人ひとりが順番にカードをかざして
いく必要がある.そのための整列乗車(および/または降車)の習慣を根付かせるのは,地
域社会を挙げての大事業となろう.バス業界にしてみても,ゆとりある乗降車を促すために
は十分な停車時間を確保する必要が生じ,運行スケジュールの再編が避けられなくなるに違
いない.車載型選択のためにそこまでの大手術を決断することに,時間的制約もある Public
Mobility プロジェクトが二の足を踏んだとしても何ら不思議ではない.それよりも,携帯型
読み取り機を選ぶことで運行システム全体への影響を抑えつつ(走行中に車掌がカードをチ
ェックして回ればよい),まずは IC カードの利用経験を得て,その成果をして業界や行政,
さらに社会全体に将来的により大きな変革を実施せしめることのほうが,実験的介入の学習
効果を旨とする Public Mobility プロジェクトの方針に適うものだったと言える.
読み取り機を持たぬ車掌―Public Mobility プロジェクトの限界
携帯型の IC カード読み取り機を選択した Public Mobility プロジェクトだったが,それを持
つはずのバス車掌の手に読み取り機が握られることは,現在までのところない.読み取り機
を使用しているのは,UT Center の数名の職員だけである.彼らは,運行中のバスに乗り込
み,車掌が正しく切符を販売しているかどうか,および定期券利用者が有効かつ自分自身の
定期券を利用しているかどうかを中心に,運行状況を抜き打ち検査するのが仕事である.む
ろん,バス車掌の役を代行することなどない.
何が起きたのか.交通 IC カード試験導入の対象路線となった 32 系統を運行する市営バス
会社 HT Company が,携帯型読み取り機を車掌に持たせることを拒んだのである.拒否の正
確な理由を知ることは難しいが,プロジェクト関係者に理解されているところでは,交通 IC
カード技術がもたらす利用状況の詳細な情報が核心にある.そして,これはハノイ市のバス
事業管理制度のあり方に深く関わり,その内側で活動してきた Public Mobility プロジェクト
に影を落とした.
カードの利用情報は携帯型読み取り機に記録され,毎日の業務終了後,バス会社のコンピ
ュータから UT Center に設置されたメインサーバへと集約される仕組みとなる予定だった.
バス事業を管理する行政機関である UT Center は,試験導入段階では限定的なものとはいえ,
利用状況に関する詳細なデータに基づいて事業の効率化に向けた方策を検討することが可
能となる.それは運行スケジュールや路線設計に関するものであるかもしれないが,もっと
も重要となるのは,事業者への補助金額算定式の修正である.その詳細は割愛するが,つま
るところ,市予算から HT Company に赤字補填されてきた補助金が削減される可能性が IC
カード技術を用いることによって生じるのである.
果たして HT Company がどこまで IC カードがもたらす損益計算をしていたかは分からな
いが,少なくとも,それが UT Center と HT Company との事業管理制度をめぐる長年来の主
導権争いに及ぼす影響を懸念したことは確かであろう.それが携帯型読み取り機の車掌業務
4.
への導入拒否につながったと考えられるが,上述したように UT Center と一丸となって進め
られた Public Mobility プロジェクトに,これを乗り越える政治力まではなかった.
こうして,交通 IC カード試験導入は片手落ちとも言えるかたちで実現された.当然その
影響は運行現場にあらわれてきた.有効期限が切れた IC カードの利用である.現場におけ
る携帯型読み取り機は,何より先にカードが真正かつ有効なものであるか否かをチェックす
る装置に他ならない.カード表面には利用者の氏名および顔写真などが記載されており,車
掌は従来の定期券同様,写真により本人確認を自らの眼で行うが,カードの有効期限は内蔵
の IC チップにのみ記録されているため読み取り機なしには確認できない.だが,その装置
を彼らは手にしていない.したがって,たとえ有効期限切れの IC カードを使い続けたとし
ても,携帯型読み取り機を持ってチェックして回る上述の UT Center 職員に出会わない限り,
見破られることはない.IC カードの試験導入から約半年後,UT Center のコンピュータにあ
るデータに拠れば,発行された IC カードの内およそ 3 分の 1 が更新されないまま期限切れ
の状態にあり,その他およそ 400 枚のカードが,期限切れであるにも関わらず使用されたと
して回収されていた.期限が切れたことに気づかぬまま使い続けていた者もいたかもしれな
いが,それを差し引いても,故意に期限切れカードを使用した利用者の多さを物語る数字と
言えよう.
おわりに
ベトナム初の交通 IC カード導入を果たした Public Mobility プロジェクトの功績を低く見積
もることはできないものの,皮肉にも,偽造定期券の防止を主たる動機として始まった試み
は,期限切れカードの利用として同種の問題を再燃させる結果をもたらした.それは上に見
てきたとおり,テクノロジーそのものの特性によるのでもなければ,開発者と利用者との何
らかのギャップによるものとも言い難い.それは,ハノイ市バス交通の現状に適合的な技術
導入のかたちを模索しつつも,その制度的立場に翻弄されざるを得なかった Public Mobility
プロジェクトの取り組みがもたらした,意図せざる結果だったと見なすべきものであろう.
国際開発協力プロジェクトは,技術的インプットと社会的アウトプットの間にいわばブラ
ックボックス的に挟まり,そこでの判断や折衝の過程を通じて技術導入のあり方に大きく作
用する.この過程は,国際開発協力プロジェクトであるが故の共通性と,プロジェクトごと
の個性による多様性とによって生起する.Public Mobility プロジェクトの事例には,すべて
のプロジェクトが本来的に抱える時間と予算の制約に加え,同プロジェクトの個性とも言う
べき,実験的介入を契機とする漸進的システム改変手法,学習効果と組織マネジメント能力
向上の重視といった活動理念や,さらには UT Center と HT Company との力関係に対する
Public Mobility プロジェクトの立ち位置に見られたような,プロジェクトの置かれた制度的
文脈が,無視できない要素として浮かび上がっていた.また,本報告では十分に検討しきれ
ていないものの,交通 IC カード試験導入に至るまでの活動が,Public Mobility プロジェクト
の個性なるものを関係者に再認識・再構築させていった面も無視できない.これらのダイナ
ミズムを民族誌的記述に基づきつつ理論化するのは今後の課題であるが,その際,冒頭で
Akrich を引いて言及した,社会的モラリティの構成機序への考察を深めることにより,現代
ベトナム都市社会に関する知見にもつながりうるのではないか.
5.
参考文献
Akrich, M. 1992: “The De-Scription of Technical Objects,” Bijker, W. & Law, J. (eds.) Shaping Technology /
Building Society: Studies in Sociotechnical Change, MIT Press, 205-224.
Grammig, T. 2002: Technical Knowledge and Development: Observing Aid Projects and Processes, Routledge.
Rottenburg, R. 2009: Far-Fetched Facts: A Parable of Development Aid, MIT Press.