久保ゼミ 久保ゼミ論文 ゼミ論文 法学部三年三類能美善行 二大政党制下の 二大政党制下の第三政党 -1992 年大統領選挙 大統領選挙における 選挙におけるペロー におけるペロー現象 ペロー現象と 現象と政治不信の 政治不信の含意- 含意- 1、序 2、アメリカ政治史上 アメリカ政治史上における 政治史上における第三政党 における第三政党と 第三政党と第三の 第三の候補者 3、二大政党制維持の 二大政党制維持の理由 -長期的要因に 長期的要因に関して- して- 4、90 年代の 年代の政治変動 -短期的要因 短期的要因に 要因に関して- して- 5、ペローの ペローの選挙運動 6、第三政党が 第三政党が生じる可 じる可能性 7、第三政党のもたらす 第三政党のもたらす影響 のもたらす影響 8、二大政党制と 二大政党制と日本 9、結語 ① 1、序 アメリカは二大政党制下の国である。ましてや、その純粋性は非常に高いとされる。例えば、2004 年第109議会における上院において、 共和党および民主党に属さない議員は定員100名中1名であり、 下院において両党に属さない議員は 435 名中 4 名に過ぎないとされる1。また、大統領選挙も事実上、 共和党、民主党、両政党の候補者の一騎打ちとして争われてきた。二大政党制の国であるとされるイ ギリスですら有力な第三政党が恒常的に存在してきたことを考えれば、アメリカは世界でも最も徹底 した二大政党制の国であるということができよう。 しかしながら、アメリカ史上、しばしば様々な形で第三政党が登場してきた。そもそも、共和党も 1854 年の結党当初は第三政党として出発しながらも二大政党制の一角を占めるに至ったものなので ある。だが、その後に登場する第三政党、大統領選挙における第三の候補者が民主、共和両政党の候 補者を凌駕するという事には至らなかった。 しかし、1992 年の大統領選挙は第三政党および大統領選挙における第三の候補者の当選の可能性を 感じさせる選挙であったということができよう。有力な第三の候補と目されたロス・ペローは、ハリ ス社の六月の世論調査では 36%の支持率を獲得し、一時的に共和党の現職ブッシュ候補、民主党クリ ントン候補の支持率を凌駕する場面もあった。そして、1992 年 11 月 3 日に行われた大統領選挙の一 般投票においては、選挙人獲得には至らないまでも得票率 18,9%を記録し、現職のブッシュ大統領が 敗れ、新人のクリントンが当選するという大統領選挙の結果に大きな影響を与えたということができ よう。 このように、アメリカでは長年二大政党に対抗しうる第三政党の出現の可能性は乏しいと考えられ てきたのだが、1992 年の大統領選挙におけるペロー候補の得票は第三政党および第三の候補の可能性 を感じさせるものであったということができる。しからば、なぜこの時期に第三政党の可能性が生ま れてきたのであろうか。その背景と条件を探り、アメリカにおける二大政党制の原状について検討す ることにしたい。また、第三の政党は政治にいかなる影響を与えるのか。またさらに米国の二大政党 制は近年政党の再編の進行した日本の政治状況についても多くの示唆を与えるのではないかと考えら れる。このようにこの拙論ではいままで堅固であると考えられてきたアメリカの二大政党制が実は揺 らいでいるのではないかという疑問からスタートし、その背景を探ることによってアメリカにおける 有権者と政党政治の関係について検討することとともに日本の現在の二大政党制の議論について考察 することにしたいと思う。 2、アメリカ政治史上 アメリカ政治史上における 政治史上における第三政党 における第三政党と 第三政党と第三の 第三の候補者 では、これまでアメリカ政治史上における第三政党、第三の候補者とはどのようなものがあったの だろうか。ここでは、歴史的な展開について振り返ってみることにしよう。 まず、第三政党として有名なものとして人民党の存在を上げることができる。人民党は 1880 年代末 の農業不況期において、農民の支持を集めてきた農民同盟が北部の組織と南部の組織を連合して新し い全国政党を組織することで 1892 年に生まれたものである。人民党は農民の要求を綱領として掲げ、 ジェイムズ・ウィーヴァーを大統領候補に指名して 1896 年の大統領選挙を戦い、8,3%の得票を獲得 し、大統領選挙人も 22 人を獲得した。また、連邦議会議員も十数人送ることに成功した。しかし、人 民党の支持者である農民層は二大政党の一つである民主党の支持者と競合することになるため、1896 年の大統領選挙においては民主党候補であるブライアンを指名することになり、その後の党勢の拡大 には至らなかった。このような第三政党の類型として他にグリーンバック党などがあり、これらの政 ② 党は経済的抗議を主目的とした第三政党しての分類をすることができる2。 次に示しうる第三政党の分類としては、イデオロギー的な意味での第三政党の存在をあげることが できる。すなわち、社会党(1901 年~1960 年) 、および共産党(1920 年代~)などの左翼政党を挙げ ることができる。社会党は大統領選挙において 1912 年には約九十万票、1916 年には約五十八万票、 1920 年には約 91 万票、1928 年には 26 万票、1932 年 88 万票を獲得したが選挙人獲得には至らなかっ た。これはアメリカには欧州と異なり、社会主義政党を支持する土壌が存在せず、国民のイデオロギ ー分布の枠の外側に存在したがためであるということができよう。 さらに指摘できるのは、特定の政策の実現を目的とする政党の存在である。すなわち、単一争点的 第三政党が存在してきたことをあげることができる。つまり、奴隷制拡大の阻止を目指したフリー・ ソイル党(1848 年~1852 年)あるいは禁酒党(1869 年~)をあげることができる。 次に大統領選挙において第三の候補として多くの得票を獲得した候補として 1968 年大統領選挙に おいてアメリカ独立党から立候補したジョージ・ウォーレスをあげることができる。ジョージ・ウォ ーレスが 1968 年の大統領選挙において訴えたのは第一に公民権法に対する反対であった。また、反共 外交を訴えて南部地域の白人層の支持を取り付けさらに福祉制度の拡大や反戦運動に反感をもってい た北部のエスニック系(アイルランドやユダヤ系、イタリア系)の白人労働者階級にも支持を広げて いった。 そして、 一般投票では 990 万票を獲得し南部五州で勝利して選挙人 46 人を獲得した。 しかし、 ウォーレスの得た得票は南部では白人の人種主義者であり、北部ではブルーカラーのエスニック系白 人労働者たちであり全国的規模での幅広い支持を得たわけではなかった。 また、1980 年の大統領選挙ではジョン・アンダーソンが無所属として立候補し一般投票で 570 万票 を獲得したが、選挙人獲得には至らなかった。 以上のように、米国史上においては第三政党、第三の大統領候補は多く存在したが二大政党制の一 角を崩すには至らなかったのである。 しかしながら、1992 年の大統領選挙で現れたロス・ペローはこれまでの第三政党および第三の候補 者としての存在の分類にあてはまるものではなかった。その主張するところは、経済不振に対する抗 議の意味もあったが、その中心が政治不信に対する抗議である点である。狭い意味での政治不信を争 点にした候補者の存在は新たなものであった。そして、ロス・ペローの登場は今後の第三の候補者が 議席を獲得する可能性について多くの示唆を与えると言うことができるのである。 3、二大政党制維持の 二大政党制維持の理由 -長期的要因に 長期的要因に関して- して- 以上のようにアメリカ政治史上においては 1854 年における共和党の二大政党制への参入以来、 様々 な第三政党および第三の無所属候補が存在したが既成政党である民主党、共和党、両政党の二大政党 制を崩すまでには至らなかった。 では、 なぜアメリカ政治史上においては、 既存の二大政党制が堅固に維持されてきたのであろうか。 その理論的、および歴史的な理由について検討してみることにする。さらに、近年その諸条件が崩れ うるのではないだろうかということについて検討を加える。ここでは二大政党制を規定してきた長期 的な要因について検討する。 ①選挙制度 選挙制度 アメリカ合衆国における連邦の選挙、すなわち大統領選挙、上院、下院の選挙は事実上の小選挙区 制であることを指摘することができる。すなわち、 “デュヴェルジェの法則”によれば小選挙区制の下 ③ では政党システムとして二大政党制が形成される傾向にあることになる。すなわち、第三政党の候補 者を支持する有権者はどうしても当選確率の低い候補者を支持することになるのであるが、実際の投 票においては自らの投票が死票になることを嫌い二大政党の内、より自分の立場に近いいずれかの候 補者に投票することになり、結果として二大政党制が形成されることになる。 しかしながら、小選挙区制であることは必ずしも二大政党制にいたることを意味しない。他国の例 を見れば小選挙区制にもかかわらず、有力な第三政党が存在する国もある。また、小選挙区制という だけでは、既存の政党を支持しないという選挙区が生じてきてもいいはずであるのに出てこない理由 の説明がなされず、また、上院議員は州全体から選出されるのに、なぜ決まって共和党員であるか、 民主党員であるかの説明もなされていないのである。 逆に、小選挙区制は第三の候補者の当選の可能性を秘めているとも考えられる。すなわち、選挙前 の世論調査で第三の候補者と目される候補者が二番目までの支持率を獲得していれば、三番手であっ た既成政党の支持者が二番目の選択として第三の候補者を支持する可能性を持っているからである。 つまりは、両政党の候補者と異なり、より中道に位置する場合の第三の候補者は状況によっては、両 政党の緩やかな支持者層の支持を獲得する可能性を秘めているのである。この点、世論調査が選挙に あたえる影響に関しては近年変化が考えられる点がある。すなわち、以前は世論調査というものは頻 繁に行われることなく、また正確性も低かったとされる。そのため、第三の候補者を支持する有権者 は第三の候補が当選する可能性について懐疑的にならざるえなかった。しかしながら、今日世論調査 の精度が上昇しまた回数も頻繁に行われる状況に至り、もしも第三の候補が支持を投票日まで維持し ていれば、逆に既成政党の支持者がより自らの選好に近い第三の候補を支持する可能性を持っている ということができるからである。こうして必ずしも小選挙区制であることが二大政党制を維持すると は限らないと考えられるのである。 ②イデオロギー的 イデオロギー的な包括性 アメリカにおける二大政党制の維持の条件として次にあげられるのは、民主、共和両政党のイデオ ロギー的な同一性、包括性である。すなわち、アメリカの二大政党相互間には、イデオロギー的対立 が存在せず、両政党がともに同一の価値体系を共有していることがあげられる。さらに二大政党が共 有している価値体系は同時にアメリカ国民が共有している共通の信条であることがあげられる。この ように共和、民主両政党のイデオロギー対立が少ないために、第三政党の要求する運動が共通の信条 の枠内にある場合には、既成政党はそれを実現することによって第三政党の訴える不満を吸収しよう と努めるために、第三政党の運動は消滅せざるえなかったとされる3。 しかしながら、この条件に関しても近年変化が見られるのである。すなわち、近年アメリカの政党 はイデオロギー的な色彩が強くなってきていると指摘されている4。すなわち、1960 年代から単一争 点的な社会運動が政党に対して強い影響力を行使するようになり、かつてよりもイデオロギー政党化 が進行することになった。それらはすなわち、公民権、平和・反戦、フェミニズム、環境保護あるい は消費者保護(以上民主党系) 、完全自由主義、人工中絶禁止(以上共和党系)などに関する運動であ る。こうした社会運動が政党に影響を及ぼし始めた結果、各団体がそれぞれの政党に影響を及ぼし始 め、それぞれの政党との関係を強化して影響力を増しているとされる。これらの団体は、予備選挙お よび本選挙において特定の候補者を支持し、自らの主張や思想に近い議員を増やしているといえるの である。 ではなぜ、イデオロギー対立の激化が第三政党の可能性を秘めているといえるのであろうか。この ④ 点に関して 1992 年に出版された Dionne,E. Why Americans Hate Politics によれば、60 年代の公 民権運動、フェミニズム、人工中絶禁止などの文化的戦争が今日におけるイデオロギーの分極化の基 礎を作り出し、その分極的な対立が今日にも引き継がれていると言う。そしてそのイデオロギー対立 が中道的な意見を無視する結果に繋がり、政治的疎外感を生じさせているという。たとえば、女性の 社会進出については、保守主義は伝統的家族の擁護を唱え、リベラルはフェミニズムに傾斜した議論 を展開することになるが、実際には、この両者とも選択肢として不適当であり、人々の実際の関心は 女性の社会労働と家事労働とのバランスをどうとるかについてなのである。妊娠中絶に関しても二者 択一の選択肢ではなく、実際の世論は一定の場合に中絶を容認するという折衷的なものである。この ようにイデオロギーの対立が健全な政治活動にとって障害になっていることを指摘し、そうした憎悪 の政治に変えて、新しい政治的中道の形成を訴えている。こうした政治的不満は「ペロー現象」によ っても実証されたといえるが、この点に関しては、二大政党制という政党システム自体に対する不支 持の増加によっても指摘することができよう5。 このようにイデオロギー対立に関する変容という点からしても今日第三政党および第三の候補者の 可能性を感じさせるものであるということができよう。この場合には第三政党は中道に位置すること になろう。事実、ペローは穏やかな民主党支持者、共和党支持者の両陣営の second choice として支 持を獲得していたのである。 ③立候補条件の 立候補条件の存在 アメリカの選挙において第三政党および第三の候補者が当選しづらい条件として立候補自体に対す る制限の存在をあげることができよう。すなわち、投票用紙へ候補者名ないし政党名が記載されるた めには、前回選挙での得票実績や多数の署名集めなどの厳しい要件が存在してきたことがあげること ができる。 例えば、フロリダ州では新たに政党が選挙に参加するためには、196,255 人の署名が必要とされて いる。これは、選挙の過程において合理的な規制と考えられていたが、現実問題としてこうした立候 補の条件が第三政党および候補者の足かせとなってきたのは、事実のようである。しかしながら、ペ ローは選挙資金をすべて自己資金で賄うことをとなえ、多くのボランティアを獲得してグラス・ルー ツ運動を展開し、 多くの支持者を組織することに成功していき全米 50 州での立候補を可能にしたので ある。 ④その他 その他 そのほかにもアメリカが恒常的に二大政党制を維持してきた理由として、アメリカにはいつの時代 にも二つの大きな対立する問題があったとする考えもある。そしてその解決策について常に国民の政 治上の意見は二つに分かれていたという議論がある6。例えば、建国期においては商業・金融資本と農 業振興の対立、その後には北部と南部の対立があった。南北戦争後の時代には富の配分をめぐって、 労働者と資本家の対立があったのである。 しかしながら、 同様の対立は他国にも存在するであろうし、 何ゆえにアメリカだけ二大政党制が成り立っているという決定的な説明にはなりえないであろう。 また、アメリカには乗り越えることのできないような社会階層が存在しなかったという指摘もある が、アメリカには共産党が存在し、社会主義政党も存在する。これらが政府の妨害によって活動がで きないにもかかわらず、依然として存在することはアメリカが自由主義の一枚岩でないことを示して いるといえよう。 ⑤ 4、90 年代の 年代の政治および 政治および社会変動 および社会変動 -短期的要因に 短期的要因に関して- して- では、より短期的に見た時に 1992 年の大統領選挙における所謂“ペロー現象”をもたらした背景は 何であったのだろうか。ここではより短期的な条件について検討する。 ①経済状況の 経済状況の悪化 大統領選挙においてその結果を最も左右するのは、選挙時の経済状況であろう。事実、現職政治家 は任期の後半になると経済出動を重視し、なんとかして景気を上向きにしようとする。しかし、1992 年の大統領選挙時には経済状況は上向かず、1991 年の経済指標では、経済成長率では、-1,7%を記 録し、失業率、消費者物価指数も 1988 年大統領選挙時よりも悪化していた。しかし、当時ブッシュは 有効な経済政策を示すことができなかった。例えば、1991 年を通じて経済の状態が沈滞していたにも かかわらず、経済担当のスタッフは、経済状況は決して不況期にあるわけではなく、選挙期間までに は上向くと大統領に助言していた。 結果として大統領は経済が不況期にあることを認めることをせず、 後にも国民に対して経済は一時的な下降の局面にあるという発言をしている7。さらには、選挙戦にお いては「新世界秩序」を打ち出し冷戦の勝利を誇示して、外交的な成功を訴えていったが現実には有 権者の外交に対する問題意識は小さかったようである8。 結局、アメリカの大統領選挙に対してその勝敗の結果を左右する基本的要因は、庶民の「懐具合に 関わる問題」(Pocketbook Issue)である9。もしも第三政党および第三の候補者にとって勝利する可能 性が生じうるとすれば経済の後退期であり、現職の議員、大統領が有効な経済政策を打ち出せない、 もしくは経済政策の効果が生じてこない時期であるということができるであろう。 ②政治不信の 政治不信の醸成 ペローの出現を担保したものに関して次に考えられるのは連邦の議会、大統領の政治に対する不信 感の醸成であるということができよう。すなわち、1992 年の大統領選挙の時期は連邦政治全般に対し ての不信感、政治的疎外感が生じていたということができよう。例えば、その政治不信の端的な現れ として指摘できるのは 1991 年のロサンゼルス暴動であり政治不信の表出であるということができよ う。 しかしながら、長期的な意味での政治不信の表れとして二大政党制自体に対する不信感も生じてき ていることが指摘できる。その背景として指摘することができるのは、まず、特殊利益を追求する利 益集団の支援のもと政党が活動する傾向が強まり、アメリカの国が直面するであろう中心課題に取り 組むことを困難にさせていることがあげられる。さらには、ディオンが述べたように、民主、共和両 政党がイデオロギー的に分極的な態度をとるために実際には選好しない選択肢による投票を余儀なく されるのである。また、それに拍車をかけるのは、両政党における予備選挙の存在である。すなわち、 大統領候補となるためには両政党における予備選挙を勝ち抜かなければならない。この予備選挙にお いて投票を行うのは各政党の党員である。この予備選挙において投票する党員のイデオロギーの分布 は各政党ともそれぞれのイデオロギー分布へ偏りが生じている。こうした場合に予備選挙での当選を 果たすには候補者がそれぞれ有権者の多く存在するイデオロギー分布の位置へと動くことになる。も しくはそこに位置する候補者が有利となる。そして、その位置に動いた候補、もしくはその位置にい た候補が当選を果たすことになり、 次の一般投票においていざ全有権者を対象にするとなると民主党、 共和党両候補の分極化が激しくなる。中道により多く分布するとされる一般の有権者にとっては、自 ⑥ らの選考から乖離した選択肢の中から投票することを余儀なくされており、より政治的疎外感を感じ させ政党離れを生じさせるのである。 さらに政党離れを助長させる要因として各政党の行うネガティブ・キャンペーンをあげることがで きる。ネガティブ・キャンペーンのはじまりとしては、1964 年選挙におけるリンドン・ジョンソンの バリー・ゴールドウォーターに対するネガティブ・キャンペーンをあげることができよう。それが今 日まで続けられてきたのであるが、 こうしたネガティブ・キャンペーンの効果は短期的なものであり、 長期的にみれば両政党に対する不信感を高めることになるのである。その結果として、共和党、民主 党というラベルが非常に堕落したものになり、選挙の各候補者は広告や選挙に利用される道具に関し て自らの所属する政党の名を掲げることを避けるようになっていると指摘されている10。 こうした二大政党に対する不信のもと所謂無党派層が増大してきており、両政党離れが進行してき ている。そしてその無党派層の存在は第三政党および第三の候補者の生じる可能性を孕んでいるとい えるのである。 ③国際環境の 国際環境の変化による 変化による社会不安 による社会不安の 社会不安の醸成 さらに加えて考えられる条件としていうことができるのはアメリカの歴史におけるいわゆる集団ヒ ステリー的な状況の発生を上げることができよう。 歴史を紐解いてみれば、米国の置かれた国際的環境・状況の変化が米国内の政治や社会の変動に影 響を与えることが間々あることに気づく。例えば、18 世紀の対英独立戦争の勝利によって対外的危機 が解消された時には、独立自体は合衆国の安定化を意味したが逆に対外的な危機の解消が諸州間の統 合の契機やその必要性の意識を弱めることになったのである。すなわち、対外戦争のために抑制され た地方間の対立、各州間の反目、穏健派と急進派の抗争が、戦争が終了することにより顕在化する危 険性が危ぶまれたのである。こうして独立を達成したものの、強力な中央政府を樹立し得なかったア メリカはアナーキーに陥る危険性を孕み、それゆえにこの時期は「危機の時代」と呼ばれることにな るのであった(この時期ワシントンに対して王になるように進める人間もいたと言われる。 )11。 さらには、1950 年代初頭の所謂マッカーシズムの運動について考えてみても、その支持基盤、背景 についても諸説あるのではあるが国際的な環境要因の変化を指摘することができる12。つまり、第二 次世界大戦に勝利しファシズムを打ち倒したはずの米国を中心とした西側陣営が戦後の中国革命によ る「中国の喪失」 、ソビエト連邦の原爆保有や朝鮮戦争の勃発などによって共産主義陣営の脅威に曝さ れているという認識が生じ、それを背景にして生じた国民の不安や不満をもとに反共主義的ヒステリ ー現象としてマッカーシズム現象を説明することができるのである。 そして、それ以後の国際環境の変化として最大の変動として指摘することができるのは、1989 年の “冷戦の終焉”と 91 年のソビエト連邦の崩壊であるということができよう。この国際社会の変動はア メリカ国内に対していかなる動揺を与えたのであろうか。その変動について検討してみるに、80 年代 末から 90 年代初頭にかけて生じてきた対日強硬派の一群、すなわち“リビジョニスト”の存在がヒン トを与えてくれるだろう。この時期の対日強硬論、所謂リビジョニズムはなぜ生じてきたのか。この 点リビジョニストたちの主張を検討してみるにその特徴が明らかになる。まず、その特徴としていう ことができるのは、日本異質論の主張における欧米中心主義的傾向である。1980 年代に入り、日米貿 易摩擦が激化してくる中、日本の経済が対外的に閉鎖性をもち、内部では非民主主義的な近代化を成 し遂げたに過ぎないことが認識され所謂「日本モデル」の普遍性が疑われるようになったことをあげ ⑦ ることができる。そうしたなかで、アメリカは自由と民主主義を中心とした西洋の近代主義に改めて 世界史的な普遍性を見出し、反文化相対主義的な立場から文化論を再構築するに至ったようである。 そして、1989 年に冷戦体制が崩壊しさらにソビエト連邦が崩壊し、東側陣営に対してイデオロギー的 な勝利を成し遂げ、西洋近代主義についてさらに自信を回復したにもかかわらず、中国や日本といっ た国々が経済的な台頭を果たしたことに対し、逆に西欧的な価値観に固執するようになったようであ る。また、リビジョニズムの運動に関しては、1950 年代のマッカーシズムと同様な現象であるとの指 摘がある。John Creighton Campbell Japan Bashing: A New McCarthyism?という論文において両 方の現象の比較がなされている。ここではこの二つのキャンペーンの間の比較がなされている。まず 反ソキャンペーンの中身について検討がなされるが、その現象のなかには①ソ連および国際的な共産 主義組織の軍事的、経済的、イデオロギーの分野における米国への脅威の存在、②根本的な社会シス テムの相違(自由と隷従、市場と統制) 、③基本的人権を尊重しない不道徳、④すべてのソ連の行動は 米国を狙った戦略に基づくこと、 ⑤生活レベルの低さ、 といったイメージが含意されていたとされる。 これに対して日本についてのイメージを見てみるならば、①アメリカの国益に対して大きな脅威と なる日本(経済的、政治的、安全保障上も) 、②『普通』の市場とは違うルールに乗っ取った非自由市 場、③集団主義的であるといった価値観の批判、④長期的な目的のために計算された行動、⑤国とし ては豊かだが消費者の実態は豊かでないこと、といった意味が含意されているという。このように反 ソキャンペーンと反日キャンペーンの類似点を指摘している。さらに、そのキャンペーンにおける反 知性主義的側面や集団ヒステリー的な面が指摘されている。そして、その現象の一つの帰結として 1992 年選挙における「ペロー現象」を位置づけることができるという。すなわち、ペローの主張には リビジョニスト的な側面が見え、 また選挙運動においてもある種の救世主願望が見出しうるのである。 この点は次章で述べることにする。 ここでいうべきは、第三政党および第三の候補者が勝利するような劇的な政治の変動が生じうる条 件としてある種の社会的不安や集団ヒステリーの発生しうる国際環境の変化を上げることができるの ではないだろうかということである。 5、ペローの ペローの選挙運動 では、 実際に第三の大統領候補として 1992 年の選挙において大きな旋風を巻き起こしたペローにつ いて検討してみることにする。ペローはいかにして堅固な二大政党制に対抗していったのか。 まず、ペローとはいかなる人物なのかその人物像について探ることにしてみよう。 Henry Ross Perot 氏は、1930 年 6 月 27 日にテキサスで生まれた。彼は後に海軍に入隊するが 1957 年には海軍をやめ、IBM のセールスマンとなった。そこでトップセールスマンとして成功するが、1962 年には IBM をやめ、Electronic Date Systems(EDS)をテキサス州ダラスに設立することになる。EDS は成功を収め、1968 年には雑誌 Fortune がペローのことを“fastest、richest Texan”と呼ぶにいた った。こうして彼はアメリカンドリームの体現者としてのイメージを持たれることになる。さらに、 彼の人物像をかたるエピソードとしてあげることができるのは、イラン革命の時に自らの会社の従業 員二名がイラン政府に捕らえられてしまうという事件があったのだが、彼はアメリカ陸軍を退役した 人々の中から救出部隊を結成して無事成功を収めたということがあげられよう。この点はペローの強 力なリーダーシップをもった経営者であるというイメージを生み出した。 また当初から政治的な活動も行っていたとされる。イランでの救出活動をおこなった年には、テキ ⑧ サス州知事に対し、非合法ドラッグの利用減少の法案について協力した。また、公教育制度について の提言も有名である。さらに、1980 年代の後半から 1990 年代の初頭にかけて、連邦政治に対する批 判を展開するようになる。アメリカはもはや超大国ではないという認識をもっていたと指摘されてい る13。 そうしたなか 1992 年 2 月 20 日 CNN の Larry King Live に出演したペローは、もしも支援者が 50 州すべての投票用紙にペローの名を載せることに成功すれば、 大統領選挙に出馬することを表明した。 1991 年に大統領選挙への立候補を要請された段階からペローは“もしも大統領になったら、まず取り 組みたいのはこの経済についてである”と考えていたようである14。その考えを背景にしてペローは これまで大統領選挙ではあまり中心的な争点にならなかった財政赤字の問題を表面にとりあげ、選挙 戦を繰り広げていくことになった。 ところが、 1992年の7月突然にペローは選挙戦の離脱を表明する。 このことに関しての真相は謎であるらしいが、10 月に全 50 州でペローの名が投票用紙に記載される 資格が与えられると、11 月 1 日に再び大統領選挙戦に参加することを表明した。そして、彼は世論調 査において15%以上の支持を獲得することに成功し、 三回にわたるテレビ討論会に第三の候補者とし て参加することに成功した。そして特に第一回目の討論においてはブッシュ、クリントン両候補を上 回る成功を収めたようである。 そして、 1992年11月3日火曜日に行われた大統領選挙の一般投票において18,9%の得票を獲得し、 1912 年のセオドア・ルーズベルト以来最も成功した第三の候補者となったのである。特にメイン州に おいては、ペローは 30,44%の得票を獲得し、ブッシュの 30,39%という得票率を上回った。また、ユ タ州では、27,34%の得票を獲得し、クリントンの 24,65%という得票率を上回ったことは特筆に値す るであろう。選挙戦からの離脱などがなければより多く得票したであろう点からしてもこの現象は検 討に値するものである。 この得票率によりペローは 1996 年の選挙に立候補する資格を与えられること になった。 以上のように、ペローの選挙活動について概観してみたが、より細かく見ると今後の第三政党の可 能性についての示唆をあたえる。そのために上記の章で検討した条件について分析を試みる。 ①経済情勢の悪化 第三政党が生じる可能性について考える場合、経済情勢の悪化は必須条件になろう。経済状況の悪 化は現職政治家批判の格好の材料になる。 現職のカーターが敗れた 1980 年の大統領選挙においても経 済状況は悪化していた。経済の悪化は現職の抗弁が難しく、また世論は一致して批判の対象とする。 こうした条件からしても経済の悪化は第三政党の登場に対して必須の条件になろう。 1992 年の場合には、92 会計年度(1991 年 10 月から 1992 年 9 月)の財政赤字は 2,902 億ドルに上 り、史上最高だった 91 会計年度の 2,695 億ドルを大きく更新していた。この結果政府の累積債務残高 は約4兆ドル程度(日本円換算で約 500 億ドル)となった。失業率は 7 月の時点で 7,7%におよび失 業者数は 976 万人であったのである15。 この点に関してペローの戦略についてテレビ演説会を分析することから検討してみることにする。 第一回のテレビ演説会は特にペローにとって成功を収めたものであったといわれている。第一回のテ レビ演説会は 10 月 11 日に行われた。 まず、最初の発言でペローはまず経済状況について述べているのだが、ブッシュ大統領の自分には 経験があるという主張に対しては「私には 4 兆ドルもの赤字を作り上げる経験などありません。そし て、誰も責任を取ろうとせず、互いに責任のなすり付け合いをする停滞した政府における経験などな ⑨ いのです」16と述べている。 これに対して現職のブッシュ大統領は有効な答えを提示することはできなかった。逆にブッシュは 外交政策におけるリーダーシップを誇示する作戦にでた。しかしながら、最初の質問に答えた後は、 ペローとクリントンが繰り返した経済政策の変化が必要だという発言に対して苦しい返答をするしか なくなっていったのであった17。 ②二大政党に対する不信感 上記の章で述べたように、当時の二大政党の双方に対して不信の念が生じていたようである。その 点ロス・ペローは既存の政党による連邦の政治を非難して以下のように述べている。 ペローは言う。 『私は二大政党のどちらにも属していない。どの PAC の献金も受け取っていない。ど の海外のロビーストの金ももらっていない。どの特殊利益の団体の金ももらっていない。 』として既存 の政党の候補者を非難している。さらに『私の立候補は 50 州の何百万人にもおよぶ自分たちに対して 仕事をしてくれる候補者を必要とする人々によるものである18』と述べ、既存の政党組織に属さない ことを強調している。さらにペローは、既存の二大政党によってうまく対処されていないとされる論 点を強く訴え自らのリーダーとしての的確性をアピールしていき、多くの新聞において最も高い評価 を獲得した。また、その演説に対する評価は 43%もの有権者が最も評価を高くするものであったとさ れる。こうしてロス・ペローは二大政党に対して不満を持つ有権者にアピールしていった。そして多 くの無党派層にも、支持を広げて言ったのである。 ③イデオロギー的中道 今日において第三政党が得票を獲得するにはイデオロギー的な中道性が必要となるようである。す なわち、第三政党は民主党、共和党の候補者の second choice としての受け皿となることによって、 得票を獲得することが可能になるからである。また、近年の二大政党制の現状は“急進的な穏健派” を生み出したと指摘されている19。すなわち、クリントンもブッシュも穏健派に支持を求めたが、政 治的疎外感を感じていた穏健派の支持を得ることができなかった。歴史的に考えれば中道の有権者た ちは穏健派のはずであり、運動を巻き起こすほどの十分な怒りを持つことはなかったはずであった。 実際にはアメリカの歴史上ペロー現象と類似するような出来事は起きてこなかった。そうしてこれま で、民主、共和両党が中道の有権者を奪い合う構図であったのだが、有効な中道の第三党が存在すれ ば効果的な受け皿になることを示したのである。この点に関してロウィは述べている。 『ペローが示し たアメリカの政治システムについて最も重要な含意は、決して急進的にならないと思われていた有権 者のある部分が急進化することを示したことである。すなわち、それは政治的な中道である。 』と述べ ている。このように以前とは状況の異なった中道の有権者に対してペローは有効な選択肢を与えたと いえるようである20。 ③立候補条件のクリア しかしながら、連邦の選挙に出馬し、投票用紙のうえに自らの名前を載せるためには前回の選挙に おける一定の得票率かまたは有権者の署名が必要になってくる。アメリカの選挙制度は極めて二大政 党に対して有利に設定されているために第三政党の候補者が立候補するだけでも障害が大きいのであ る。しかし、ペローは全米 50 州においてこの条件をクリアした。そのことを可能にしたものとはなん であったのか。 ⑩ 政治運動を巻き起こすために一番問題になるのは、 “フリーライダー”の問題である。すなわち、集 団で行う活動を行う場合、コストの面を考えると合理的な人は参加することを控えるのである。特に 特別な金銭的な利益の生じてこない運動の場合にはこの問題が生じやすいといいえよう。では、ペロ ーはいかにしてこの問題をクリアしたのか。まず、第一に挙げられるのは、ペローは選挙戦に参加す るにあたり、選挙キャンペーンの費用を自らの負担で賄うことを誓ったのである。すべての選挙資金 を自らの負担で賄うことで、組織形成について障害をもっていた人々の問題を解決し、フリーライダ ーの問題を解決したのである。そして、テレビにおいて一般大衆の政治に対する不満を代弁すること によってグラス・ルーツ運動の雰囲気を醸成していったのである。その結果全米において巨大なボラ ンティア組織の形成に成功し、 全 50 州で投票用紙にペローの名を載せることに成功していったのであ った。 ④ネガティブ・キャンペーンの不存在 さらにもう一つ加えるべきなのは、選挙キャンペーンの手法についてであるが、ペローがネガティ ブ・キャンペーンを活発に行わなかったことがあげられる。上記のようにネガティブ・キャンペーン は自らの評判を落とすことになりかねないのである。現職のブッシュはクリントンに対し人格や過去 の戦争への対応についてネガティブ・キャンペーンをおこなったとされるが、ペローはネガティブ・ キャンペーンを行わずに選挙戦を遂行していったのである。そうして手法面からの批判を避けるよう にしていったのである。 ⑤社会不安と救世主の待望論 そして最後に言うべきは 90 年代初頭という時代背景に基づいたペローの選挙戦術であろうか。 上記 で検討したように冷戦の終結した時代は大きな社会不安に覆われた時代であるということができるの である。すなわち、この時代は 1950 年代のマッカーシズムの時期にも比肩しうるような集団的な不安 をもった時期であったのである。それは上記で述べたように所謂「対日強硬派」 、リビジョニストと呼 ばれうる人々の影響力を考えてみても分かる。彼らの主張を簡単に論じれば、日本という新たな対外 的な脅威をもとに、実はアメリカ自身が今現在非常に危機的な状況にあることを訴えている。また、 アメリカ国内の親日派に対して攻撃を加えるなどマッカーシズム期のような反知性主義的な側面も見 られる。そして、マッカーシズムの時代にマッカーシーが反共の英雄であったように、90 年代の初頭 も政治的リーダーシップをもった英雄の出現が期待される時期であったといいうるのである。 この点に関してペローの選挙運動においてもその影響と見られる動きが報道されている。 1、政策的影響 ペローはリビジョニストが述べるような産業政策および管理貿易に賛成している。この点 NAFTA に 対する対応が典型的であろう。また、教育問題がアメリカに危機をもたらしていることを指摘してい る。また、アメリカが世界の安全保障のために巨大な支出をすることに対し反対を表明している。ま た、元アメリカ政府の官僚たちが外国のロビーストとして活動することに反対している21。 2、独裁的性向・救世主待望 ここで特に指摘しうるのは、ペローの選挙活動について表れたペローの独裁的性向および支持者の 救世主願望である。すなわち、ペロー現象は 1950 年代のアメリカにおけるマッカーサー元帥やマッカ ⑪ ーシズムに表れた現象とよく似ていると指摘されており、現在のアメリカは政治的救世主願望とも言 うべき雰囲気に包まれているといわれている22。また、救世主と考えられているペローには独裁者的 な傾向があると指摘されている。すなわち、 「ペローの基本性向は独裁者であり、右派の無所属である が政党も綱領も持たない個性の強さを持っている」と指摘されている23。ミシガン大学のデイビット・ コールは『もし、ペローが大統領に選出されたら彼はわれわれが今世紀にもった、独裁者に最も近い 人物になるであろう』ことを指摘している24。このようにペローにはマッカーシズム期に期待された ヒーロー、救世主の待望感に適応していったといえるのである。 3、パット・チョートの助言 さらに付け加えるべきは、リビジョニストの一人として Agents of Influence を著したパット・チ ョートの影響についても指摘することが必要であろう。パット・チョートは Agents of Influence に おいてアメリカの政治は諸外国の雇ったロビーストによって支配されていると指摘し、その上で日本 人の陰謀論を述べ日本人をスケープゴートに仕立て上げている。すなわち、日本は途方もなく強力で あり、日本人の風習、慣行、および価値観は異なっている。秘密主義、欺瞞、カモフラージュ、背信 行為は日本人およびビジネスに不可欠な要素であると指摘し、これらの「異邦人」たちがアメリカの 金融・政治・教育機関に浸透腐敗させ、そして支配することに成功したと述べる25。 パット・チョートはペローに対して直接影響を与えていたとされる。 すなわち、 92年7月9日の Japan Times によれば『最近、数週間に渡り、貿易問題に対して、アドバイスを与えていたようである』と 指摘されている26。その結果、第三回の討論会の中で、ペローはパット・チョートの著作を引用し、 アメリカは外国のロビーストに買収されたと強調したとされている。こうしてペローはこの時期特有 の社会的な不安を煽ったともいえるのであろう。 このようにペローの選挙運動にはリビジョニズムの影響が見え、その性向として英雄的・独裁的な 傾向が見える。しかし、この時期のアメリカ社会の雰囲気にマッチしこの点でも選挙における支持を 獲得することに繋がったのであろう。 以上のような諸条件からロス・ペローが 1912 年のセオドア・ルーズベルト以来の 18,9%という得 票率を獲得した理由を考察してみた。 しかしながら、ロス・ペローは当初はブッシュ、クリントン両候補に支持率を凌駕するほどの世論 調査の結果をみせながらも、結局は一人の大統領選挙人も獲得することができなかった。この理由は 何であったのだろうか。この点についての考察が必要になろう。 まず、第一に考えられる原因としていえるのは、理由ははっきりしないが一度大統領選挙戦から離 脱したことをあげられる。有権者がペローを支持するという理由の最も多い理由はペローが“彼は正 直であり、彼の信じるところを述べているからだ” 、という評価であったが、選挙戦を離脱した後には 多くの有権者がだまされたという感覚を持ったことがあげられる。80%の一時的なペローの支持者は、 選挙戦から離脱したことを理由にして彼を信じない、としたといわれる27。 また、ペローに対する支持が経済問題のみであったことも挙げられるようである。経済問題以外の 点では支持は小さかった。 次に考えられるのは、世論調査の問題である。11 月の下旬のギャロップの世論調査の対象が “registered voters”から“registered and likely voters”に変更になったとされている。このこ との影響によってブッシュが三番手から二番手の存在に浮かび上がり、ペローに投票しようとした有 ⑫ 権者が死票の問題から、ペローへの投票を避けるようになったことが考えられる。こうしてペローは 世論調査の犠牲になったということもできるのである。逆に言うならば投票日直前まで世論調査での 支持を獲得していれば、second choice としてブッシュ支持の票が流れ、ペローの当選可能性もあっ たであろう。 最後に指摘できるのは民主党候補のクリントンが副大統領候補にアル・ゴアを選出するなど南部の 民主党員の票を効果的に奪回したこと。また、中道的な立場を維持し(クリントンは中道の立場を維 持したまま予備選挙を勝ち抜いたとされる)効果的に中産階級の支持を取り付けたことが上げられる 28 。 6、第三政党が 第三政党が生じる可能性 じる可能性 以上の検討からアメリカにおいて第三政党の生じうる可能性について検討してみることにする。ま ず言えるのはアメリカ国内においては二大政党以外を待望している世論は多々存在しているので潜在 的に第三政党の可能性は含んでいるということである。それは既存政党への政治不信を背景にしたも のであるが、その政治不信たるものは簡単には消えそうもないように思われる。この点今後長期的な 展望に立てば第三政党の可能性は捨てきれないであろう。そのきっかけとして必要なものは、政治不 信に加えての経済的な停滞感であろう。経済状況が好転している場合には現職政治家を無条件に非難 しうるような論点が生じにくく、第三政党の躍進の可能性は低いであろうと思われる。次に立候補条 件について考えてみるならば近年グラス・ルーツ運動が盛んになってきているとされる。ペローのよ うにフリーライダー問題をクリアするような手法が必要になってこよう。世論調査に関して言えば、 かつてよりも当選の可能性を秘めるような状況に変化してきたといえよう。投票日直前まで三人の候 補者のなかで二番手までの支持率を確保しておけば投票日において死票を避けるために第三番目の候 補者の票を獲得する可能性を持つからである。その場合には第三政党はより中道な路線を維持し多く の票を獲得しなければならないだろう。そして重要なことはアメリカ国内が社会的集団的ヒステリー ともいうべき状況にあることであろうか。上記で述べたように歴史的にもアメリカにはそうした状況 が現出する可能性を大いに秘めている。そうした状況においてカリスマ性をもった候補が登場すれば 当選の可能性もあるだろう。その結果独裁的と目される候補者が当選することが民主主義にとってい いことであるかどうかは分からないが…。 こうして考えてみればアメリカにおいて第三政党の生じうる可能性は皆無に近いのかもしれない。 しかし、第三政党の可能性は常に存在するであろう。逆にいうならば第三政党の可能性があることに よって既存の政党を牽制しうる役割を果たすことが大事であるという評価もできよう。ではもし第三 政党が生じたらアメリカの政党政治にどう影響をもたらすのであろうか。この点に関して検討してみ る。 7、第三政党のもたらす 第三政党のもたらす影響 のもたらす影響 ここまでは、第三政党がアメリカで生じうる可能性について吟味してきた。では、もし第三政党が 生じたとしたならば、それがもたらす政治に対する効果とは何なのであろうか。そして第三政党が生 じた場合に現在のアメリカ政治にいかなる変化をもたらしうるのか。 この点について Theodore J.Lowi の THE PARTY CRASHER という論考が参考になろう29。 ロウィはまず、1992 年の大統領選挙はアメリカの二大政党制システムの終焉の始まりであると述べ ⑬ ている。所謂ペロー現象が第三政党の可能性を充分に示したことを指摘している。さらに、第三政党 の存在は過去 20 年間の間、 ワシントンの政治を麻痺させた制度的な停滞を打破する可能性があるとい う。すなわち、二大政党は犯罪、福祉、経済規制、税、財政赤字、など“楔となる論点”を選挙にお いて扱うのを避けようとし、政治家は、選挙においてスキャンダルを利用して選挙を戦うことになっ てきた。多くのアメリカ人はこのことは、アメリカの政治システムが破綻していることの証左である と考えている、という。そして、第三政党の参入がこの問題を解決する手立てを与えるという。まず 歴史的に見れば第三政党は多くの政治的な不満層を再び政治参加に促す可能性をもってきたと指摘す る。また、第三政党が生じた場合、政党は選挙において自らの立場をより明確にする必要があること を指摘している。そしてその結果多くの有権者を選挙に呼び戻し、政治参加を促す可能性を秘めてい るのである。さらには、第三政党の発生は大統領制をより議院内閣制に近づけることになるという。 すなわち、 第三政党が生じた場合、 大統領の選出が議会によってなされる可能性が高まるからである。 その場合、行政府と立法府が政策の決定をめぐってお互いに協議するのも容易になり、92 年当時のよ うな政策的な閉塞状況を打開する可能性を持つ、と言っている。 ここでまず言えることは第三政党の参入が新たな有権者の政治参加の機運を高める可能性を秘めて いるということは事実のようである。実際にも有権者の 60%にあたる人が新たな政党の誕生を望んで いるという調査もある30。 また、第三政党の弊害として考えられるのはもしも政党の規律が高かった場合、第三政党が政権の キャスティングボードを握る可能性があるが、アメリカのように政党の規律が低く各政治家の自立性 が高い場合は、こうした弊害は生じにくいと思われる。しかしながら、大統領が議会によって選出さ れた場合、 議会の影響力が大統領に強くおよびリーダーシップに弊害をもたらす可能性はあるだろう。 また、政党の選挙における主張においては、新たな第三政党は二大政党とは異なりはっきりとした明 確な立場を明言する可能性が高く選挙の活性化に繋がるであろうことは確かであろう。 8、二大政党制と 二大政党制と日本 以上のように長々とアメリカの二大政党制について検討を加えてきたのだが、近年日本においては 逆に二大政党制待望論が生じてきているといえよう。その点に関してアメリカの二大政党制というも のはいかなる示唆を与えてくれるのであろうか。議院内閣制と大統領制という違いはあれども、両国 に通じうるものがあろう。 まず、日本における二大政党制の待望論も政治不信から生じてきていることが指摘できる。すなわ ち、1955 年の保守合同以来 93 年の一時期を除き一貫して自民党が一党優位体制を形成し政権党の立 場にあったことは、それ自体が政治不信の醸成に繋がったのである。すなわち、二大政党制の議論は 政権担当能力をもった政党が二つ存在することによって相互に政権を交代することを期待するもので あるが政権与党の交代というものは、それ自体が政治的な満足感を生み出すものなのであるようであ る。こうした近年の日本の政治不信は状況すら違えども同様なものであろうか。 しかしながら、アメリカの二大政党と決定的に違いうるのは二大政党になるであろうと期待されて いる自民党と民主党のイデオロギー的乖離が著しく小さいことである。例えば田中愛治によれば小泉 純一郎と前原誠司の経済、文化、安全保障などに関してよって立つ立場が極めて近似していることが 指摘されている。つまりは、アメリカとは異なり二大政党のもしくはそれを期待されている政党のイ デオロギーの違いがないのである。この点は二大政党制の議論に関し重大な争点となりうる。つまり 日本の場合には二大政党が形成されてもどちらが政権を取ろうが政策的な中身については違いが生じ ⑭ てこないと目されるのである。そうなってくると政策の対立軸がなくなるので、有権者はどちらがよ り実行力を持つかで政権を選択せざるえないのである。このような場合には、有効な対立軸を提示で きない野党は政権を獲得する確立は極めて低くなるということができよう。すなわち、現在の政権与 党に対する不信感や実行力のなさだけでは有権者は野党である政党へは投票をしないであろう。この 場合、日本においてもしも現状のまま二大政党制が形成されたとしても政権交代の満足のみでは政治 不信の解消には繋がりにくいであろう。 つまり有効な対立軸が必要なのではないかということである。 その点アメリカでの現状が参考になるであろう。すなわち、アメリカではイデオロギーの乖離が政治 不信を助長したことがあげられるが、日本ではイデオロギー対立が生じていないのだが、有権者にと って必要なのは適切な対立軸を提示しその中での選択肢として政党をラベル化することであろうこと である。そうした場合に考えられるのはいかなる対立軸であろうか。現在の政治において対立軸にな りうるのは蒲島郁夫氏曰く、日本型システムの評価と安全保障の考えであるという。日本型システム の評価とは現在進められているような新保守主義型の改革を支持するかどうかである。この点に関し て、自民党、民主党ともに改革路線を走りその実行力を競う形になっている。また、安全保障に関し てもともに保守性が強くなっているということができる。こうして似通ってきた両政党間に有効な対 立軸を示すにはどうすればいいのか。その点 2005 年の 9 月 11 日に行われた先の衆議院選挙の結果が 参考になろう。結果として自民党が大勝し、民主党が惨敗したという結果になり、自民党の圧勝に終 わったわけであるが、この結果を考えてみれば、まず有権者は自民党と民主党を比較して小泉首相の 率いる自民党に改革の実行力を感じ多くの票を投じたわけである。この点は実行力の評価の違いが最 も影響したと考えられる。そこには改革の方向性やイデオロギーの違いなどは考慮に入らないのであ る。違いはといえば、改革の速度くらいなものなのである。しかしここで着目すべきなのは消滅する のではないかと思われていた社民党や共産党がしぶとく生き残った点である。この結果はなぜ生じた のであろうか。社民党や共産党は相変わらず護憲平和を訴えたがその主張の効果によって得票が伸び たとは考えずらい。ではなぜ、得票を伸ばしたのか。それは思うに自民党と民主党が新保守主義型改 革路線の実行力を競う中、よりソフトな変革路線を支持したからかもしれない。このことは、一見国 民総意の自民、民主の改革路線に対する対案の出現を示すものなのかもしれない。いずれにしても、 アメリカでの状況と今回の衆議院選挙から考えてみれば、二大政党制の有効な形として必要なのは有 権者にとって選択肢となる適切な対立軸の形成ではなかろうかということである。すなわち、アメリ カのようにイデオロギーの分極的な状況は政治的不満を醸成するのであるが、逆に日本のようにイデ オロギーおよび政策路線の近似は政策の選択肢を提示せず実行力のみの比較になるため有効な政治的 充足を果たさないであろう。その点からして、民主党が日本型システムについてより欧州型の社民主 義路線をとれば対立軸としてはっきりしてくるであろうか。日本はアメリカ型の二大政党制を目指し ているのかもしれないが、議席数の上だけでなく政治的有効感覚においても意味のある政党システム が形成されるにはより詳しい検討が必要になると思われる。 9、結語 序章で述べたように、まずアメリカで堅固と思われてきた二大政党制が近年揺らいできたのではな いか、について検討してみた。その結果その背後には政治不信や政治家不信、社会環境、国際環境の 変化などさまざまな要因が横たわってきていることが示された。 そして具体的に 1992 年の大統領選挙 におけるペロー現象について検討し実際に第三政党の可能性が孕まれていることがわかった。 そして、 第三政党のもたらす影響、効果について検討した。さらにアメリカとは逆に二大政党が待望されてい ⑮ る日本について検討した。そこでは、政治的有効感覚において意味のある二大政党制の条件について アメリカの現状が示唆を与えるのであった。 以上の議論から結論として導き出しうるとすれば、国民と政治の現場をつなぐ役割を果たす政党の ダイナミズム、すなわち政党システムにおいて理想的な固定した形態は存在しないのではなかろうか ということである。すなわち、二大政党制も多党制も一義的に理想的なものとして規定することはで きないようである。アメリカにおける第三政党の待望論も盛んであるとされ、日本でも二大政党制へ の期待が示されている。しかしながら、アメリカの場合かなり、限定的な状況のもとにおいてすらわ ずかながら第三政党が生じる可能性を持つのみであった。また、日本においても二大政党制に至るこ とが期待される政党が有効な選択肢を与えていないと考えられるのである。 現状において言いえるのは、アメリカや日本のように長期的に固定化された政党システムは必ずや 制度疲労をおこし、国民の政治不信を呼び起こすようであるということである。その典型が 92 年のペ ロー現象であったのである。政党が私的利益を追求する団体としての存在を脱し、政治と国民を繋ぐ 媒体となった今日、政党への不信感はそのまま政治不信へと繋がるのである。以上から分かるのは、 政党システムに理想的な形は存在しないということである。固定化された政党システムはかならずや 制度疲労を起こし、有権者に“飽き”を引き起こす。そのときに有権者の中に生まれた変化の願望を 有効に反映するような政党システム、いわば変更可能な政党システムが存在するとすればそれが理想 となるのであろうか。そして政党システムの変更は、政治不信の解消のみならず、より有効な議会制 民主主義の可能性を秘めているといいえるのであろう。 ⑯ 参考文献表 <邦語文献> ジョージアキタ著『大国日本アメリカの脅威と挑戦』(日本評論社・1993 年) 五十嵐武士著『覇権国アメリカの再編』(東京大学出版会・1993 年) ダニエル・ベル編『保守と反動』(みすず書房・1958 年) 五十嵐武士他編『アメリカの社会と政治』(有斐閣・1995 年) 佐々木毅著『アメリカの保守とリベラル』(講談社学術文庫・1993 年) 久保文明他『北アメリカ』(自由国民社・2005 年) 「特集 米大統領選が始動」 『世界週報』(92 年 1 月 21 日号) 蒲島郁夫「徹底分析一九九二年米国大統領選挙-変化にかけたアメリカ」 『中央公論』(93 年 2 月号) 砂田一郎「一九九二年米大統領選挙の分析」 『国際問題』(93 年 1 月号) 太田俊太郎著『アメリカ合衆国大統領選挙の研究』 (慶応大学出版会・1996 年) 久保文明他著『国際社会研究Ⅰ 現代アメリカの政治』(放送大学教育振興会・2002 年) 『論座』(朝日新聞社・2005 年 12 月) 松尾カズ之『共和党と民主党』 (講談社現代新書・1995 年) <英語文献> John Creighton Campbell Japan Bashing: A New McCarthyism? Peter Goldman Quest for the Presidency 1992 College Station : Texas A&M University Press , 1994. edited by Robert E. Denton, Jr The 1992 presidential campaign : a communication perspective Westport, Conn. : Praeger 1994 Choate Pat Agents of Influence New York : A.A. Knopf ,1990(邦訳: 『影響力の代理人』文芸春 秋 90 年 10 月) Gordon S. Black, Benjamin D. Black The politics of American discontent : how a new party can make democracy work again New York : Wiley 1994 E.J. Dionne, Jr Why Americans Hate Politics New York : Simon & Schuster 1992 Japan Times July,9,1992 Time June,22,1992 Time May,4,1992 Time May,25,1992 The New York Times Magazine August,23,1992 <ホームページ等> http://en.wikipedia.org/wiki/Ross_Perot ⑰ 1 久保文明他著『北アメリカ』 (2005 年・自由国民社) :pp346 久保文明他著『国際社会研究Ⅰ 現代アメリカの政治』(2002 年・放送大学教育振興会):pp126 3 久保文明他著『北アメリカ』 :pp72₋73 4 久保文明他著『国際社会研究Ⅰ 現代アメリカの政治』 :pp123 5 Gordon S. Black, Benjamin D. Black The politics of American discontent : how a new party can 2 make democracy work again 6 7 New York : Wiley 1994:pp155 松尾カズ之『共和党と民主党』 (講談社現代新書・1995 年) :pp207 edited by Robert E. Denton, Jr The 1992 presidential campaign : a communication perspective Westport, Conn. : Praeger 1994:pp135 8 「特集 米大統領選が始動」(世界週報・92 年 1 月 21 日号) 太田俊太郎著『アメリカ合衆国大統領選挙の研究』 (慶応大学出版会・1996 年):pp427 10 Gordon S.Black 前褐書:pp152 11 久保文明他著『北アメリカ』 :pp28 12 ダニエル・ベル編『保守と反動』(みすず書房・1958 年) 13 http://en.wikipedia.org/wiki/Ross_Perot 14 Peter Goldman Quest for the Presidency 1992 College Station : Texas A&M University Press , 9 1994.:pp414 『1992 年米国大統領選挙等の概要(1)-連邦編-』 (自治体国際化協会・1992 年) 16 1992 年大統領選挙第一回公開演説会原稿 17 Edited by Robert E Denton 前褐書:pp96 18 第一回公開演説会原稿 19 Gordon S.Black 前褐書:pp127 20 同上:pp128 21 ジョージアキタ著『大国日本アメリカの脅威と挑戦』(日本評論社):pp218-219 22 Time June,22,1992 23 Time May,4,1992 24 Time May,25,1992 25 ジョージアキタ著前褐書:pp200 26 Japan Times July,9,1992 27 Gordon S.Black 前褐書:pp122 15 28 蒲島郁夫「徹底分析一九九二年米国大統領選挙-変化にかけたアメリカ」(中央公論・1993 年 2 月号) The New York Times Magazine August1992.23:pp28、33 30 同上:pp28 29 ⑱
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