発表日:2010 年 9 月 15 日 発表者:横路啓子 テクスト:葉石涛『台湾文学史綱』第二章、高雄:春暉出版社、1987 年 2 月、pp19-68。 1. 台湾文学概観 今学期、日本統治期の台湾文学を学ぶに当たって、実際の授業に入る前に文学史をさっ と説明しておきたいと思います。私が参考にしたのは、葉石涛の『台湾文学史綱』第二章 です。この本は、台湾文学を学ぶ上でバイブルとも言うべきもので、日本統治期だけでは なくて 1980 年代までの台湾文学を網羅しています(日本人が台湾文学を語る時、日本統 治期にばかり焦点が合わされているのも変な話ではあります。ただこの授業の場合には、 日本語文学研究所に設置された授業ということで、仕方がないのですが。これについては また後ほど考える機会があると思います)。一般的に「××文学史」というと、すでにそ れが正しい歴史だと考えられがちですが、台湾文学に関して言えば決してそんなことはあ りません。葉石涛のこの本も実にイデオロギーにまみれており、文学=純粋な学問ではな いことを教えてくれます。 ただ現在のところ、一応最もまとまった形で台湾文学史が語られているのは、この本し かないので、これを使って日本統治期の台湾文学史の中で抑えておかなければならない点 を説明しておきたいと思います。 2. おおまかな流れ 日本統治時代は「第二章 台湾新文学運動的展開」と題されていることからわかるよ うに、日本統治時代の台湾文学の動きを「台湾新文学運動」としてとらえています。この 「新文学運動」というのは、中国の文学史の影響を受けた命名だと思われます。そして第 一節では「語文改革と新旧文学論争」と題し、台湾文学の近代化とそのきっかけを中国の 新文学運動に求めて書いています。この中心となるのは新旧文学論争で、主要な論客であ る張我軍は板橋の出身でありながら、当時は北京におり、1924 年から 1926 年にかけて台 湾の旧文学を批判しました。張我軍の批判の矛先は主に「擊缽吟」という連歌活動に向け られるのですが、これが果たして本当に「旧文学」であったかは検討の余地があると思い ます。この新旧文学論争は台湾文学が白話文を受け入れるようになる画期的な出来事とし て多くの研究がなされていますが、私はこれに対してもかなり懐疑的です。 「中国の影響 を受けて台湾文学は近代化した」という言説は、もう一度徹底的に史料を調べることで、 その意味合いの重さを考えていかなければならないと思っています。もちろん、これは決 してそれまでの研究の歴史を否定するものではありませんし、その研究の歴史自体がまた 私にとっては興味深いものだったりもします。 第二節は「台湾話文と郷土文学」についてですが、台湾文学の初期の研究ではあまり注 目されていなかったこの部分が、葉石涛のこの『台湾文学史綱』によって特に一節を設け られ語られているということは、最初に述べたような「台湾独特の発展形式を描き出そう」 とする明確な意思の表れの一つだと考えてよいでしょう。1930 年代の郷土文学論争は実 1 に興味深い論争で、私はこの論争が台湾知識人の郷土台湾に対する大きな転換点になって いると考えています。これについては後日お話をする機会があるでしょう。 さて第三節では、台湾新文学運動の時代区分について述べています。日本統治期は 1895 年から 1945 年のちょうど 50 年間ですが、葉石涛はこの 50 年間のうち台湾新文学が開始 したのを 1920 年の『台湾青年』の創刊として、残りの 25 年を次の 3 つの時期に分けてい ます。まず第一の時期は揺籃期―1920 年『台湾青年』の創刊から、頼和の初めての散文 「無題」が『台湾民報』に掲載された 1925 年までの 5 年間、第二の時期は頼和が「鬪鬧 熱」を、楊雲萍の「光臨」を『台湾民報』に発表した 1926 年から、総督府が全面的に漢 文の使用を禁止した 1937 年まで、この時期を「成熟期」と称しています。第三の時期は 1937 年から台湾の光復の 1945 年までの 8 年間で、この時期を「戦争期」としています。 2.1 台湾文化協会の設立から分裂まで(1920-1927) →「萌芽期」 ・ 1924~26 年 「新旧文学論争」―張我軍と「擊缽吟」 媒体: 『台湾青年』 『台湾』 『台湾民報』 『人人』 2.2 プロレタリア文学の影響(1930 年代) →「成長期」 ・ 1930~34 年 「郷土文学論争」―左翼陣営の内部分裂から漢語文化圏全体 への論争へ→「郷土」の意味合いの変化 媒体:日本人を中心とした雑誌―『無軌道時代』(1929) 『台湾文学』(1931) 台湾人による雑誌―『伍人報』 『明日』『洪水』(1930) 『南音』 (1932) 『フォルモサ』 (1933) 『先発部隊』『第一線』 『台湾文芸』 (1934) 、 『台湾新文学』 (1935) 2.3 漢文使用が禁止された時期(1937~45 年) →「戦争期」 ・ 『文芸台湾』VS『台湾文学』 媒体: 『文芸台湾』 (1940) 、『台湾文学』(1941) 、 『民俗台湾』 (1941) 3. 移動する思想 さて今学期のテーマは、 「移動する思想」 (中国語で言うと「旅行思想」 )です。このテ ーマを聞いて、皆さんはどんな感じを持たれるでしょうか。 今回、私が方法論として考えているのがサイードの「移動する理論(traveling theory) 」 です。日本語では「移動」 、中国語では“旅行”と翻訳されていますが、要するにサイー ドが言っているのは、理論が一つの場所から他の場所に移された時に、どんなふうに変化 2 するか、その現象そのものを考えてみよう、ということです(ちょっと簡単すぎるかもし れません。反論をお待ちしています)。この授業は、日本統治時代の台湾文学がテーマで すので、今学期はその中から 2 つの思想を取り出して、これが移動することでどのように 変化したかについて考えていくことになります。 まず 1 つ目は、左翼思想です。これは台湾文学史的には、2.2 のプロレタリア文学の時 期にあたります。ただ左翼思想自体は 1920 年初頭からすでに留学生を通じて台湾にもた らされており、すでに台湾知識人にとって抗日運動を支える大切な理論の一つとなってい ました。左翼思想とプロレタリア文学は、理論と実践のような関係ですが、台湾でプロレ タリア文学が盛んになった理由としては、1931 年の満州事変が大きなかぎとなっていま す。それ以前は、台湾でも左翼的な社会運動が盛んで、農民組合だったり労働者組合など の組織が進んでいたのですが、満州事変の少し前(1930 年前後)から台湾島内の思想の 取り締まりが厳しくなり、満州事変前後は台湾島内の左翼関係の運動は沈滞します。なの で、それまで知識人の意識が社会運動に向かっていたのが、統治政府のこうした行動によ って文学活動に向かうようになるのです。 授業では、日本のプロレタリア文学と台湾人が書いたプロレタリア文学を読み比べる形 で授業を進めていきます。扱う作品は、以下のとおりです。 テクスト: ・ 藤原泉三郎「陳忠少年の話」(1929) ・ 小林多喜二「蟹工船」(1929) ・ 楊逵「新聞配達夫」(1934) ・ 呂赫若「牛車」(1934) 参考: ・ 栗原幸夫『プロレタリア文学とその時代』(2004)第一章。 ・ 林淑美『中野重治連続する転向』(1993)第一章。 2 つ目は、皇民化運動に関する言説です。これは、葉石涛の時代区分では 3 つ目の「戦 争期」にあたります。皇民化運動というのは、台湾文学史では一般的に、1937 年に開始 されたもので、当時の小林躋造(こばやしせいぞう、1877 年 10 月 1 日 - 1962 年 7 月 4 日)総督が掲げた皇民化、工業化、南進基地という 3 つの方針のうちの 1 つとされていま す。 台湾での具体的な皇民化運動の内容は、新聞雑誌などの漢文欄の禁止、台湾語でのラジ オ放送の中止、日本語推進の強制、改姓名、祖先の位牌の焼却、寺廟の取り壊し、神社の 建造、天皇崇拝、旧正月の禁止、台湾戯曲(布袋戯、歌仔戯)などの禁止、初等教育の義 務化、日本語常用の強化、民俗習慣の日本化(ゲタ、畳の使用など)がありました。また 台湾では、日本の大政翼賛会の影響を受け、1941 年(つまり大政翼賛会発足の翌年)4 月に台湾でも「皇民奉公会」が発足しました。この時には、台湾の総督は長谷川清で、長 谷川の場合は小林と違い宗教や文化に対する圧制は少なかったのですが、 「忠君愛国」、 「尽 忠報国」などの精神教育を重んじ、台湾語の使用を禁止、国語運動を強化しました。 このような皇民化運動が文学にどのような影響を与えたのか、台湾知識人がどのように 3 これを受け止め、描いたのか、を考察していきます。扱う作品は次のようなものです。 テクスト: ・ 西川満「赤嵌記」(1942) ・ 張赫宙『岩本志願兵』(1943) ・ 周金波「志願兵」(1941) ・ 王昶雄「奔流」(1943) ・ 陳火泉「道」(1943) 参考資料: ・ 小熊英一『単一民族神話の起源-「日本人」の自画像の系譜』第八章 張赫宙は朝鮮人作家ですが、やはり志願兵に関する作品を書いています。 4
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