クマリ信仰 - So-net

クマリ信仰
− ネパールにおける処女崇拝 −
マイケル・R・アレン
磯
忠幸
著
訳
(縦書き表示用に作成したものを横書き表示にした原稿ですので、数字が漢数表記になっています。)
初版前書き(一九七五年)
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マイケル・アレン博士(シドニー大学人類学部)が、当協会に加入なさっていたのは、一九七三年九月から
翌年の一月までの間であった。博士の目的は、「ネパールのネワール族の社会と宗教」に関する調査を行なう
ことであった。このモノグラフは、この調査の成果である。加入に際して、トリブヴァン大学との間で取り交わさ
れた規定に従って、博士が当協会へ提出なさった調査報告は、それらが有益と判断されれば、いずれ公開さ
れるであろう。当書は、クマリあるいは「処女神」の崇拝に関する最も包括的な研究であって、これまで企てら
れたことのないものである。それゆえ、ネパールの文化史に興味のある読者諸氏にとって、このモノグラフの持
つ価値は、まったくもって明白である。アレン博士がこの作品においておさめられた成功は、こうした主題に関
する資料を初めて編纂なされたことにとどまるものではない。この信仰が、カトマンドゥ渓谷に住む人々の宗
教 − 社会的な生活にとって、どれほど深い意義を持っているのかを示されたのだ。また、当書で取り扱われ
ている資料は、社会学的な視角からも提示されている。そして、こうした視角から眺めることで、主題は新鮮な
アプローチを施されているわけだ。願わくは、当書の刊行をきっかけとして、将来にわたって「生ける」ネパー
ル文化に関する類似した研究の計画が促進されることを希望する。最後になったが、わたしは、心からの感謝
をアレン博士に表したい。博士は、当協会が出版できる素晴らしい研究をなさって下さったのであるから。
マハナヴァミ
P.R.シャルマ
一九七五年一○月一三日
ディーンにて
音訳について
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固有名詞はすべて頭文字を大文字で表記してあり、特殊記号も含め、そのほとんどが因襲的な仕方で音
訳されている。ただ例外もあって、これには幾つかの有名な地名(< Patan>は< Patan> など)や頻繁に繰り返さ
れる固有名詞(<Brahman> は<Brahman> 、<Newar> は<Newar> 、<Dasai> は<Dasain>など)が含まれる。
カースト、儀礼、祝祭、月、神々の名称も、主として可能な限り
ネパール語で、その他の場合にはサンスク
リット語かネワーリ語で音訳されている。また、他の外来語もすべてイタリック体で表記され、音訳されてい
る − サンスクリット語とネワーリ語は、初出の際には、各々<Skt.>や<New.>という記号が付されている。ごくわ
ずかな例外(<de facto>など)を除けば、その他のイタリック体表記はすべてネパール語である。ネパール語の
音訳は、ターナーの辞書(一九六五年)に、サンスクリットの場合はモニエル−ウィリアムスの辞書(一八九九
-1-
年)に従っている。
カタカナ表記について(日本語訳版)
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サンスクリット語、ネパール語及びネワーリ語のカタカナ表記については、原則的には、菅沼晃『新・サンス
クリットの基礎』(一九九四年、平河出版社)、戸部実之『実用ネパール語入門』(一九九三年、泰流社)に準じ
ている。しかし、現地の人々の発音も考慮に入れ、文法書に従っていない場合もある。(たとえば、「クマリ」が
それで、原著では< Kumari>と表記されているため、「クマーリ」とするところだが、上記の理由により敢えて「ク
マリ」とした。)
特に、神々の名称をはじめ宗教的な用語のカタカナ表記については、以下の文献を参考させて頂いた。
・ラーマクリシュナ・G・バンダルカル『ヒンドゥー教』島岩・池田健太郎訳(一九八四年、せりか書房)。
・中村元『インド思想史』(一九六八年、岩波書店)。
・立川武蔵『女神たちのインド』(一九九○年、せりか書房)。
・立川武蔵・石黒淳・菱田邦男・島岩『ヒンドゥーの神々』(一九八八年、せりか書房)。
【目
次】
(目次の頁数は、本ファイルの頁数と一致しておりません。)
前書き(P.R.シャルマ)
音訳について・カタカナ表記について
写真(一∼三二)・図(一∼三)
第一章
序論
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
第二章
ロイヤル・クマリと旧ロイヤル・クマリ
一
・・・・・・・・・・
ネパールにおけるクマリ信仰の歴史的背景
カトマンドゥのロイヤル・クマリ
パタン・クマリ
ローカル・クマリたち
39
97
(非ロイヤル・クマリ)
・・・・・・
カトマンドゥのヴァジュラーチャーリヤ・クマリ
ムバーハー
カワーバーハー
ブンガマティ・クマリ
121
125
132
135
母にして、美しき処女かな
・・・・・・・・・・・・・・・・
カウマーリー − 地母神
143
バーラ・クマリとパンチャ・クマリ
パンチャ・クマリ
109
115
パタンのジャープュ・クマリ
第四章
一○八
110
カトマンドゥのジャープュ・クマリ
チャバヒ・クマリ
27
72
バドガオンのクマリたち
第三章
二二
154
-2-
149
一四○
内的なクマリと外的なクマリ
第五章
少女の思春期儀礼
イヒ儀礼
158
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一七六
180
第一日目(ドゥサラ・キリヤー)
181
浄化 182
測定
184
第二日目
185
結婚儀礼としてのイヒ
189
疑似初潮儀礼(バーラー・タイエグ)
ヤルマンとインドの疑似結婚
ナヤル族とネワール族
結論
原註
204
206
219
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
参考文献
197
二二六
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二三八
Michael R. Allen, The Cult of Kumari : Virgin Worship in Nepal, 1975, Institute of Nepalese and Asian Studies
(INAS), Tribhuvan University Press. ( Kathmandu, Nepal : Himalayan Booksellers.)
写真キャプション
(写真一)
(写真はファイルサイズの関係上掲載していません)
カトマンドゥのラージ・クマリ。ハヌマン・ドカの外側で、パチャリ・バイラヴァの到着を見つめている。時刻は、間
もなく真夜中になろうとしている。アーシュヴィンの満月の五日目のことであった。(一九七四年一○月一○日)
(写真二)
デヴィー・クマリの写真のコピー。南インドのコモリン岬にあるカニヤークマリの寺院では、こうした写真を台紙
に貼ったものが信者に売られている。
(写真三)
カトマンドゥのタレジュ寺院。
(写真四)
パタンのタレジュ寺院。
(写真五)
パンチャ・ブッダが、ラサ・ジャートラーの開始を見つめている。クマリ・ジャートラーの初日のことである。一九
七四年九月。
(写真六)
チニ・ソバ<Chini Sobha>。カトマンドゥの元ロイヤル・クマリである。彼女は、一九三○年代におよそ一○年間、
その地位に就いていた。一緒に写っているのは、彼女の娘二人と孫娘である。(撮影は一九七四年。)
(写真七)
カトマンドゥのクマリ・シェ。クマリの山車(ラサ)を収容するガレージ(写真右手)に注目してほしい。
(写真八)
ラージ・クマリの山車。クマリ・ジャートラーの開始直前。バサンタプールの外側に停めてあるところ。一九七四
年。
(写真九)
カトマンドゥのラージ・クマリ。セト・マチェンドラナートの水浴に出席後、カワーバーハーからクマリ・シェへ連
れ戻されているところ。一九七四年一月。
(写真一○)
消防団が、インドラ・ジャートラーの直前に、クマリ・シェ前の広場に放水している。一九七四年一○月。
(写真一一)
毎年、インドラ・ジャートラーの前日になると、ラージ・クマリの山車の舳は、バイラヴァの表象物とともに、化
粧直しされる。
-3-
(写真一二)
化粧直しが終了し、乾燥しきってしまうと、バイラヴァの顔を描いた金属製の飾り板が舳に取り付けられる。
ここには、通りすがりの女学生が神を崇拝しているのが写っている。インドラ・ジャートラーの初日には、クマリの山車の出
発直前に、山羊とあひるが各々一匹ずつ、バイラヴァに供犠される。
(写真一三)
役人たちが、ラージ・クマリのために、白い敷物を広げている。クマリは、この上を歩いて、クマリ・シェの扉
のところから、広場を横切って、自らの山車へと向かう。
(写真一四)
自らの山車に乗せられているクマリ。
(写真一五)
パタンのクマリ。一九七四年のダサインの際、彼女の自宅で撮影。年齢はおよそ二○歳と思われる。
(写真一六)
自らの玉座に着き、日々のプージャー(ニティヤ・プージャー)を行なっているパタン・クマリ。
(写真一七)
自宅からハワバーハーに運ばれるパタン・クマリ。そこでガナ・クマリと落ち合う。その後、マンガル・バザー
ルにあるムール・チョークへ連れて行かれ、タレジュ祭司によって、アガム内で崇拝される。ダサインの九日目(ナヴァミ)の
夜のことである。
(写真一八)
ハワバーハーに到着したパタン・クマリ。バーハーの成員に運ばれて、入り口をくぐっているところである。
(写真一九)
クマリの木彫刻。自らの乗り物である孔雀(ヴァハナ)の上に立っている。このトーラナ< torana>があるのは、
ハワバーハーの主たる中庭から、クマリの崇拝区画を含む小さな付属内庭へと至る扉の上である。
(写真二○)
バドガオンのエカンタ・クマリ。サンコタバーハーの中庭で立っている。アガムを出た直後の場面である。そ
こで彼女は、ダサインの間、毎日崇拝されていたのだ。一九七四年一○月。
(写真二一)
アーチャージュー祭司に伴われ、シャーキヤ・プジャーリに運ばれているクマリ。彼女は、サンコタバーハー
からディパンカラバーハーへ戻るところなのである。
(写真二二)
ディパンカラバーハー内で、自らの玉座に着いているところ。そこで、彼女は、ダサインの間、毎日崇拝され
る。崇拝するのは、アーチャージュー祭司である。その祭司は、バドガオンの旧マッラ宮殿内にあるタレジュ寺院からやっ
て来る。
(写真二三)
有名な黄金のトーラナ。バドガオンにある旧マッラ宮殿内のタレジュ寺院へ至る戸口の上にある。このトーラ
ナは、一七五三年に、バドガオンのラジャであるラナジット< Ranajit>によって聖別されたもので、全アジアでも金メッキした
銅作品の最高傑作の一つに数えられる。
(写真二四)
カトマンドゥのタメル地方<Thamel locality>にあるバガワンバーハー内のクマリ寺院。
(写真二五)
カワーバーハーのクマリが、バガワンバーハーへ入ろうとしているところ。ダサインの間、彼女は寺院のアガ
ム内で崇拝される。一九七四年。
(写真二六)
カワーバーハー・クマリ。年齢はおよそ七歳。カワーバーハーに属する一団の少女たちのために執り行わ
れたイヒ(疑似結婚)儀式に出席しているところ。一九七四年一月。
(写真二七)
パタンのジャープュ・カーストに属するソニマ・クマリ。彼女の宝飾類に注目してほしい。写真撮影用に、彼
女の母親がつけたものである。
(写真二八)
ブンガマティ・クマリ。普段着のままである − しかし、赤い服とクマリのへアースタイルは整えられている。
(写真二九)
チャバヒ・クマリ。自宅で両親とともにポーズをとっている。
(写真三○)
チャバヒの内庭にいるチャバヒ・クマリ。彼女は、ダサインの一○日間、ここに居住しなければならない。この
間、当地の帰依者たちがやって来て、彼女を崇拝するのだ。
(写真三一)
カトマンドゥにあるクシバヒで行なわれたイヒ。第二日目をむかえた少女たち。一九七四年一月。主宰少女
のリネージに属する最年長の老女(タカーリ・ナキ)が、カニヤーダーン結婚儀礼に先立って、少女たちの浄化を介添えし
ている。各少女たちの首に黄色い聖紐の輪(サット・ビンナ・カ)が巻かれていること、さらに少女の頭上にはカラシュの代
用物が描かれた一片の紙が置かれていることに注目してほしい。
(写真三二)
ベル果実は、粘土製の器(ソラパ< solapa>)の中に、花弁や葉、それに長さ八インチの束ねられた紐などと
-4-
一緒に入れられていた。少女たちの父方の叔母(時には母親)たちが、少女たちの前で跪き、果実の上に葉々を置こうと
している。この後、男性の父系親族、大抵なら父親が、少女の両手に果実を置く。父方の叔母が、背後に立って、新しい
サリ(イヒ・プラシ<ihi Prasi>)を贈与しようとひかえる。
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クマリ信仰
第一章
序論
女性の神々を崇拝することは、長い間に渡って、人間の宗教的な行為の中で最も重要な部分を担ってき
た。地母神は、地中海、小アジアそして中東といった古代文明において、崇拝対象の神々の中でも主要なも
のとされていたし [Bhattacharya, 1971, pp.6-13.]、現代の多くの種族社会においても、豊饒性や出産し月経のある女
性が持つ力といったようなテーマが、主たる信仰の焦点となっている。しかし、おそらくはこう言ってよいであろ
う。女性原理が最も明確に認識されてきたのは、とりわけインド亜大陸においてなのだ。考古学的な証拠で明
らかなように、地母神はモヘンジョ・ダロやハラッパといった古代文明の宗教において中心的な位置を占めて
いたし [Marshall, 1931, vol.1, p.57.]、後にシャクティズムへと発展した古代サンキャ哲学の伝統も、女性原理(プラク
リティ <prakrti-サンスクリット>)及びそれと男性原理(プルシャ <purusa-サンスクリット>)の合一を重要視していたのである。シャ
クティズムは、今日でもなおインドのいたるところで見られる人気のある信仰であり、その主要な独自の特徴
は、シャクティ <Sakti>(デヴィー <Devi>)を至高神として崇拝することにあるのだ。
ネパールではネワール族 <Newar>がカトマンドゥ渓谷において数的に優勢なエスニック集団であるが、そのネ
ワール族の間では、タントラ教がヒンドゥー教と仏教の両宗教に影響を与えたために、セクシャリティーとシャク
ティの崇拝がともに重要性を持っている。従って、サラスワッティー <Saraswati>、ラクシュミー <Laksmi>、パールヴァ
ティー <Parvati>といった情け深い女性神に人気があるだけではなく、儀礼的活動の大部分がデヴィーの崇拝に
割かれているのだ。その際デヴィーは、危険で、成熟した、血を渇望する多数の形態(カーリー < Kali>、ドゥル
ガー < Durga> 、アジマー < Ajima> 、バイラヴィー < Bhairavi> 、タレジュ < Taleju> など)で崇拝されるのである。しかしなが
ら、彼らネワール族の宗教で最も顕著な、おそらくは独自の特徴はといえば、クマリ <Kumari>つまり生ける処女
神の崇拝に尽きるのだ。わたしが当書で提示しようとするのは、このクマリ信仰の主要な特徴の概要なのであ
る。(1)
歴史的背景
クマリ・プージャー < Kumari-puja> あるいは「処女崇拝」は、後期ヴェーダ期にまで遡る大いなる古代のヒン
ドゥー教が持つ特徴の一つである。その崇拝の長き歴史の何れの時期のおいても、女神は極めて両義的な
種類の性質を示してきた。女神クマリは、その名称通り「処女の」あるいは「純潔な幼い少女」であるのだが、そ
の一方で地母神集団の一人として分類されている。彼女ら地母神は主要な男性神たちの性的パートナーでも
-5-
あるわけだから、そうしたうちの一人として数え上げられているということは、クマリも成熟した女性パートナーと
いう様相を孕んでいるということになる。たとえば、紀元前三、四世紀の経典『タイティリヤ・アランヤカ
< TaittiryaAranyaka> 』では、ルドラ <Rudra> の妻アムビカ < Ambika> は、カニヤークマリ < Kanyakumari> と称されている [Muir,
1873, IV, pp.426-27, and Chattopadhyaya, 1970, pp.153-55.]。アムビカとは文字通り「小さき母」を意味するが、他方カニ
ヤーもクマリもともに、若い未婚の少女について言及するための言葉なのである。大抵の場合、カニヤーは、
カニヤーダーン<kanyadan>という言いまわし(「少女贈与」つまり結婚の際純潔なる処女を嫁がせること)→ p.2.で
用いられ、それゆえヒンドゥー的な脈絡では、必然的に幼い初潮前の少女を指す表現となっているのだ。
クマリという言葉は、モニエル−ウィリアムスによって、次のように翻訳されている。つまりクマリとは、「幼い少
女で、それも一○歳から一二歳までの少女であり、処女、娘のこと。あるいは[タントラでは]一六歳までか、も
しくは月経の始まるまでの処女」 [Monier-Williams, 1899, p.292.]のことである。またモニエル−ウィリアムスも記して
いるように、クマリとは、クマーラ <kumara> の女性形でもある。クマーラとは、「子供、少年、若者、息子のこと[『リ
グヴェーダ』;『アタラヴェーダ <Atharveda>』]で、[特に演劇用語では]王子、つまり現に権勢を振るっている王朝
に関連づけられた、王国の法定相続人を指す」。その一方で、クマリは、『マハバーラタ』や他の初期のテキス
トにおいては、ドゥルガーすなわち男性魔神に対する美しくも成熟した破壊者の持つ数多くの通り名のうちの
一つとして記録されている。こうした両義的性質は、クマーラにも同様に当てはまる。クマーラも、一般には、ス
カンダ < Skanda> やカールティケーヤ < Karttikeya> と同一視されているのだ。スカンダすなわち「精液の噴出」がク
マーラと呼ばれるのは、スカンダが永久に若く独身のままであるからだが、その一方でカールティケーヤとは、
戰や戦闘の強力な神なのである。クマーラとクマリは、彼ら共通の父親つまり偉大なる神シヴァ < Siva>を通じて
兄妹関係にあるが、クマーラは一般に、サプタ・マートリカー <sapta matrka>(七母神)あるいはアシュタ・マートリ
カー < astamatrka>(八母神)についての様々な目録に、クマリの配偶者としても記録されている。実のところ、クマ
リとは、まだ月経を経験していない純潔な少女として形式的に定義されてはいるものの、初期のテキスト上で
は、先に挙げたような、武器をふるう強力な地母神たちの一人として、ごく一般的に表象されている。さらに、ク
マーラも、神話上では永遠の独身貴族として広く表象されているものの、イヒ < ihi-ネワール> 儀式の際には、高位
カーストの少女すべてと象徴的に結婚する神聖なる夫でもあるのだ(第五章参照)。ネワール族のイコノグラ
フィーのような世俗的な文脈では、クマーラは時として、悪戯好きで太っちょの子供として描かれることもあるの
である [Pal, 1975, p.133.]。
クマリはその歴史の古さにおいても、文献上においても突出しているわけだが、インドで特にクマリを奉納し
ている寺院といえば、私の知る限り、次の三つしかない。つまり南部のコモリン岬 <Cape Comorin>にあるカニヤー
クマリの寺院、北東パンジャブー <the north-east Punjab>のカングラ渓谷 <Kangra valley>にあるカニヤー・デヴィーの寺
院、そしてラジャスタン < Rajasthan> のビカネール州 < Bikaner state>にあるカラニ・マタの寺院である。なかでもカニ
ヤークマリの寺院が歴史的にかなり古く、しかも重要であるのは、次のような点から明らかだ。つまり、あるギリ
シャ人の航海長が紀元後約六○年頃にこう記していたのである。「ここを越えたところにコマリ <Comari>と呼ばれ
るもう一つ別の場所がある。そこはコマリという岬で、港になっているのだ。余生を聖別しようと望む男たちがこ
ちらへやって来ては、聖浴したりして、禁欲生活を送っている。また女たちも同じことをしている。というのも、か
つてある女神がここに住み、聖浴した、と云われているからである」 [Schoff, 1912, p.46.]。それから約七○年後に
は、地理学者のプトレミィー <Ptolemy>が、その岬を「コマリア・アクロン <Comaria Akron>」と称した。今日でも、その
寺院は巡礼の重要な場所であり、インド中から帰依者たちがやって来て、この強力で、ブラフマンに統制され
た女神(写真二)のプラサーダ <prasad>(祝福)を求めるのだ。カングラの寺院に関しては、ローズがこう記してい
る。「[ラグパタ < lagpata>には]カニヤー・デヴィーつまり処女神に奉じられた寺院があって、その祝典はハール
<Har>の九日に催される。女神のブラフマン・プジャーリ <Brahman
-6-
pujari>はボジョキ <Bhojki>であり、ボグ <bhog>が供
えられるだけだが、夕刻になると一灯のランプが灯るのだ」 [Rose, 1919, i, p.320.]。→ p.3
クマリの崇拝は、クマリの祠や寺院が少ないとはいっても、その数から推察されることよりは遥かに大きな重
要性を持っていたし、今でもそれは変わらない。インドの多くの地方、とりわけベンガル、パンジャブー、南部
地方では、クマリ・プージャーが、タントラの信者たちの間で高い人気を得ている。このクマリ・プージャーという
儀礼では、単に処女神あるいは純潔な幼い処女を崇拝するだけではなく、むしろそのような少女の純潔性を
用いて、ドゥルガー、カーリー、サラスヴァティー <Sarasvati>などのような強力で成熟した女神たちの現前を喚起
することが目的とされている。バラティは、クマリ・プージャーについて、こんなふうに簡潔な描写をしている。
「楽しくも印象的な儀式が、ベンガル全域のみならず、インドの他地域でも行われている。とはいっても、それほど頻繁に
なされているわけではない。ブラフマンの家系に属する、一二歳の少女が、シャクティの像の如くピータ< pitha>上に座らさ
れ、プラティスタ< pratistha>すなわち就任儀式を経て、適宜崇拝される。この特別なプージャーの際、処女が表象している
のは、女神サラスヴァティーなのだ。しかしながら、大抵のブラフマンは、この儀式のために自らの娘を差し出すことが不吉
なこと(アクサラ<akusala>)だと考えている」[Bharati, 1965, p.160, fn 95.]。
インドの多くの地方では、そして度々言うようだがとりわけベンガルでは、正統な再生族のヒンドゥー教徒た
ち(カーストの上位三階級を指すが、特にブラフマンのこと)は、例年の習わしとして、ドゥルガーの崇拝に捧
げられた一○日の間、家族内の未婚少女をドゥルガーの生ける形態として崇拝する。この短い期間中、少女
はドゥルガーなのであるが、期間の終了時には、再び通常の人間に戻ってしまう。
ローズは、これよりも期間が幾分か長続きする信仰について、数多くの言及をしている。カングラ渓谷では、
このような信仰が、デヴィーの生ける形態としての幼い未婚の少女の崇拝をめぐって、散発的に展開される。
たとえば、こうだ。
「デヴィーは、年に二度、一○歳以下の少女に体現され、その少女に供物がなされる。それは、こういった行事の際に、あ
たかも女神に対するかのようになされるのだ[Rose, 1919, vol.1, p.327.]。デヴィーの崇拝が突然生じるのは、いつものこと
だ。何年か前には、カプールタラ<Kapurthala>州に住む、企みを抱いた数人の者たちが、二、三人の幼い未婚の少女たち
をかつぎだし、その娘たちがデヴィーの力を持っていると言い立てた。世間知らずの者たちが、この信仰を受け入れ、少
女たちを女神として崇拝していた。少女たちはジュルンドゥール< Jullundur>地区の様々な地方を訪れ、どこででも大いに
尊敬を集めた。しかし、良い結果が続かなくなると、そのような信仰は消滅してしまった」[Rose, 1919, vol.1, p.329.]。
これまでに言及してきたクマリ・プージャーはすべてインドでの事例であって、次のような点でネパールのも
のとは異なっている。生きた少女がデヴィーの処女的形態として認められているのは共通しているが、インドの
場合には、そのような認識が通常は短期間しか持続せず、少女の変容は規模が大きなものにも、永続的なも
のにも決して至ることはないのである。しかしながら、一つだけ顕著な例外がある。→ p.4.一六世紀の初頭に
ビカネールのラジャスタン州で、一人の幼い少女がクマリとして認められ、その後彼女は国家が後援する寺院
の本尊として祀りあげられたのだ。ネパールにおいてもそうであるように、女神の持つ宗教的な力と国家が持
つ政治的な力との関係は、当の信仰の増大や普及にとって中心的な事柄である。しかし、ネパールでは生け
るクマリという伝統が制度化されたのに対して、ビカネールでは、始祖カラニ・マタ <Karani Mata>が亡くなってしま
う と 、信 仰 は 寺院 の 女神 家 に 安置 さ れ た像 を崇 拝す るこ とによ って のみ継 続さ れて きたに 過ぎ ない [ Paul,
1984.]。
-7-
ネパールにおけるクマリ崇拝
ネパールでは、ネワール族の少女たちが、生けるクマリとして崇拝されている。ネワール族とは、カトマンドゥ
渓谷の土着の人々で、今日でも渓谷人口の約五○パーセントを占めている。渓谷には約二五万人のネワー
ル族が住んでいるし( 2) 、ネパールの他地方やインドにも約二○万人が散在している。彼らは、数百年もの
間、実質的には都市住民であったし、今もそうなのだが、経済的には稲作にその大部分を頼っている。一七
六 九 年 の ゴ ル カ 朝 < Gorkha> に よ る 征 服 以 前 で は 、 カ ト マ ン ド ゥ と そ の 近 隣 の パ タ ン < Patan> 及 び バ ド ガ オ ン
<Bhadgaon>という三都市は、各々独自の神聖王を擁する自立した王国の首都であった。都市は、各王国の中心
に位置し、その都市の中心には宮殿があった。また、宮殿の中心には神聖王とその孔雀の玉座があり、宮殿
のすぐ隣にはロイヤル・クマリ <royal Kumari>の住居がしつらえられていた。さらに、ロイヤル・クマリではない、地
方的に崇拝されているクマリもたくさんいたし、実際に現在も存在している。(第三章参照)
ネワールの文化と社会については、その初期に関してまだほとんど知られていない。それでも、信じるに足
る幾つかの根拠をもとにすれば、渓谷への最初期の移住者たちは、社会構造上は主として種族的であり、宗
教に関してはシャーマニックであったようだと推測し得る。しかし、少なくとも紀元後一世紀までには、そしてお
そらくはそれよりもかなり早い時期に、都市の中枢と主要な政治的構成単位は、成熟していた。渓谷が肥沃で
あったことや、位置的にはインドとチベット間の交易の要概地にあたっていたことなどが、こうした都市の発展
に寄与していたのであろう。また、仏教は、紀元前六世紀に、たった六マイル足らず南方で起こったので、西
暦の始まる頃までには渓谷内で十分に確立されていたようだ。しかし、少なくとも紀元後四世紀早々には、ヒ
ンドゥー王朝が、供奉者たるブラフマン祭司と不可触の奉仕カーストを伴って移住し、土着の農民、交易者、
技工者を空前絶後の複雑な社会システムに包含していったのである。インドでなら何処でもそうであるように、
そのような歴史的過程の必然的な結果として、高度に階層化されたカースト・タイプの社会構造が出現したの
だ。移住者が、言語的にも文化的にも、ますますネワール化していったのに対して、ネワール族自身は、宗教
的にはますますヒンドゥー化し、→ p.5.カースト原理に従って内的にも(部族内においても)階層化されていっ
たのである。ネワール仏教は、ほぼ二○○○年にも及ぶヒンドゥー的な政治支配、特にここ二○○年間では
外来のゴルカ朝による統治のおかげで、大衆性に関して決定的な衰退を被ってきたことは否めない。しかし、
それでもなお、仏教は、人々が持つ複雑な宗教的信念や行為の中で、主要な構成要素であり続けてきたの
である。
ヴァジュラヤーナ仏教のネワール版に備わる主たる顕著な特徴は、通常の仏教で言うところの僧院的で禁
欲的な宗教的ヴァートゥオーゾが、世襲的な婚姻僧侶にすっかり取って代わられていることである。そのような
変容が歴史的な性格の出来事であるのは、次のような点で明らかだ。つまり、現代の僧侶やその家族がいま
だ所有し、主に住んでいる建物は、もともとは明らかに僧院の占有物として設計されていたものであるし、今な
おヴィハーラ <vihara> (ネワーリ語ではバーハー <baha>及びバヒ <bahi>)として知られているものだからである。その
ような僧侶を、グリーンウォルドは的確にも、仏教徒のブラフマンであるとして描写している [Greenwold, 1974.]。彼
ら仏教徒ブラフマンは、仏教の経典やシンボルを用い、もっぱら仏教の崇拝対象に言及するものの、それでも
なおかつ以下の三つの重要な点でブラフマン的なのだ。まず、彼らは、世襲的で同族婚によるコミュニティー
を構成している。その成員たるや、自らを他のネワール族の仏教徒すべてよりも清浄だとみなしているのであ
る。次に、世襲的な檀家(ジャジャマーン <jajaman>〔クライアント〕)を持っているという点である。檀家側からすれ
ば、そのような僧侶は、幅広い儀礼的法要、主として浄化儀礼の類を遂行してくれるのだ。最後に、彼らこそ
は、最も強力なタントラ的仏教信仰へと導いてくれる、ネワール族の中では唯一の適任者なのである。
-8-
ネワール社会における仏教の歴史的な重要性は、今日でさえ仏教の僧侶(ヴァジュラーチャーリヤ
< Vajracarya> あるいはグバージュ < Gubhaju> )の数がヒンドゥー教の祭司(デオ−ブラフマン <Deo-Brahman>
あるいは
デオバージュ <Deobhaju>)の約一○倍であるという点からして、明らかである。他のカーストに属する人たちが仏
教徒なのかそれともヒンドゥー教徒なのかを分類するには、家庭規模での浄化儀礼の際に何れの宗教の聖職
者を雇うのか、ということを見分けなければ、ほとんど分からない。圧倒的多数なのはジャープュ < Jyapu>として
知られる農業従事者たちの属するカースト・カテゴリーで(ネワール族の全人口のほぼ五○パーセント)、伝統
的には仏教徒とみなされてきたが、今日彼らの多くはブラフマン祭司を雇うようになっている。
まず第一に、指摘しておきたいことがある。生ける女神として崇拝されている少女は一一人が現存している
のだが、彼女たちが様々な点で変則的事態を呈している、ということである。中でも最も明解な変則点とは、こ
ういうことである。つまり、クマリとは古典的なヒンドゥー神格で、偉大なるシヴァの娘にして、ガネーシュとは片
親違いの兄弟なのであるが、少女たち自身はすべて、伝統的な(正統な)仏教徒のネワール族カーストに属
する成員なのである。この表面上の謎解きには後ほど戻るとして、わたしはそれよりもまず、これら少女に関わ
るさらにもっと重要な変則的事態の概要を述べようと思う。
先述したように、ネワール社会は、仏教の影響下にあったにもかかわらず、長きに渡り神聖なるヒンドゥー王
たちに支配されてきたし、最も複雑なカースト構造を発展させてきた。→ p.6.ヒンドゥー的世界でなら何処でも
そうであるように、カースト序列は、清浄さと汚穢の相対関係で表現される。上位カーストが崇高な地位を占め
るのは、そのカーストに属している者たちが清浄だと信じられているからであり、反対に底辺へ位置付けられる
者たちは、極めて不浄だと信じられているために、都市の境界の外に住み、他のカーストの成員との接触を一
切避けなければならないのである。高い清浄さを備えているとされるのは、人間関係や対物関係にしろ、ある
いは振る舞いにしろ、特に崩壊的あるいは腐敗的な類のものだけならず、増大、拡張、蓄財といった肯定的な
力も含めて、世俗的な過程に最低限度しかかかわらなかったことの直接的な結果である。逆に、不浄性は、以
上のような世俗的な諸力と長々と密接にかかわったことの報いなのだ。こうしたイデオロギー的な説明によっ
て、高い地位というものがブラフマンに与えられるのは、終日バルコニーに座ってヴェーダを講読しているから
であり、それに相対する恥辱が不吉な不可触民と結びついているのは、彼らの仕事といえば、便所掃除であ
り、月経の血で穢れた衣服の洗濯であり、死体の処理であり、あるいは農夫を理髪してやることであるからなの
だ、ということが明らかになるわけである。
この伝統的なヒンドゥー教のパースペクティヴからすれば、もともと女性というものは男性ほど清浄ではない
とみなされている。女性は、男性以上に、たとえば月経、出産、授乳といった点で、世俗的な過程と深く関わら
ざるを得ないと信じられているわけである。男性ならば、特にサドゥー <sadhu>あるいはヨーギ <Yogi>のような清浄
な意識的世捨て人のみならず、「上位の」再生族カーストに属するあらゆる成員が、女性というものは救済の
達成に対する大きな障害である、と考えているのだ。
いくら男性が女性を不浄なものとみなそうとも、そうした女性の持つ不浄性という「問題」を一切の忌避によっ
て解決できるのは、ヨーギ、リシ <risi>(聖仙)、サドゥーなどのような世捨て人たちだけである。他の者たち、いわ
ば家族、カースト、国家という制限の内側にとどまらざるを得ない人たちは、その代わりに(不浄性の)汚染を
最小限に止めようと、様々な策略を労しようとする。たとえば、女性が最も汚れた時期には接触を回避したり、
生殖義務を果たせる程度にまで性交を減らしたり、性交後の浄化手続きを厳守したり、そしておそらく最も重
要なことなのであろうが、制約の対象となるような社会的活動を完全に一纏めにしてしまうことで、女性の持つ
清浄さを最大限確保しようとしたりするのである。この最後の配慮は、非常に重要であるため、カースト間の位
置付けに関する主要な手段とみなされるようになってきたのだ。
ヤルマンが説得力をもって主張していたように、インドのみならず、実質的には清浄さが地位区分の原理的
-9-
な特色であるところなら何処ででも、女性の貞節(肉体的な純潔)を維持することが最大の関心事となっている
[Yalman,
1963.]ことは確かである。あるカーストに属する男性成員は、自カーストの女性が持つ清浄さ − まず
第一に自分たちが嫁がせる娘や姉妹の純潔、そして第二に自分たちが妻としてめとる女性の純潔 − の評
価によって、自らが持つ地位を左右される。→ p.7.自分たちのカーストに属する女性が清浄だと判断されたな
ら、その男性成員は大いに恩恵を得ることになる。というのも、その後うまく行けば、さらに高位のカーストの属
する男性を説得して、自分の娘を嫁がせることができるからである。それゆえ、極めて重要なのは、少女たち
が如何なる種類の個人的不浄も被らないうちに、とりわけ初潮を迎える前に、嫁がせるべきだ、ということなの
である。そのような少女たちはカニヤーだと言われている − カニヤー、すなわち純潔な少女こそ、その父親
が同等か更に高位のカーストに属する婿に嫁がせるに相応しいものなのである。他の重要な清浄維持のため
の制約といえば、一般的には、伝統的なヒンドゥー教的女性観ということを強調することである。それには、離
婚と未亡人の再婚に対する厳格な禁止が含まれていて、禁を犯した者は人目から遮るという習慣で隔離され
たり、未亡人たちは亡くなった夫の火葬で一緒に焼かれたりするのである。
ここまででわたしが専ら論じてきたことといえば、標徴的で世俗的な価値のことではあるが、それは制約的な
社会制度という形態での清浄維持に備わる価値についてであった。また、そうした価値とそれに相関する諸制
度が存在するお蔭で、苦行あるいは世俗放棄の理念が社会的な変容を被るのだ、ということも示唆してきた。
従って、ブラフマンとは、いわば世俗的な外観をしたサドゥーであるというわけだ。しかし、ヒンドゥー教的な社
会生活は、大昔から、ある付加的な価値体系に基づいてきたが、それは(サドゥーのような)禁欲主義者とはほ
ぼ正反対のものなのである。それゆえ、わたしがここで言及したいのは、幾つかの対立関係があるということな
のだ。すなわち、世俗肯定/世俗放棄、夫婦生活に付与された高い価値/禁欲生活や僧院主義、セクシャリ
ティーについての肯定的なエロティックで、生殖に関する、儀礼的な価値/誘惑や不浄性、あらゆる形態にお
ける豊饒性の物質的な有利さ/そのイデオロギー的な不都合さ、そしてリネージ、家族、カースト、村落、国
家及び寺院の持つ構造的な重要性/アスラマ <asrama>つまり修道院、といったような対立関係である。
実際、世俗肯定的な諸価値は、ヒンドゥー教の思想や実践の中で非常に強調されているので、宗教的な連
続体 <spectrum>の主要な構成要素となっている。シヴァ、ヴィシュヌ、ガネーシュ <Ganes>のような神々は、とりわけ
人生に現時点で満足を与えることに関連しているが、女性神たちの構成する巨大なパンテオンも、健康、富、
そして世俗的な成功のために喚起されるのが常である。また先祖崇拝も、ヒンドゥー教徒にとっては、かなり重
要なものである。それはあまりにも大切なことなので、息子をもうけることができなかった者には火葬が許されな
いほどである − こうした悲運の持ち主は、先祖伝来の地位を得られないばかりか、究極の宗教的目的たる
モークシャ <moksa>つまり解脱にも至れないのである。
母親が担う役割は、ヒンドゥー教の神話、習俗、現代の映画、政治的イデオロギー、家族の日常生活にお
いて、肯定的に評価されている。そのことは良く知られているのだから、そんなに詳述する必要はなかろう。た
とえば、家族内で新参者たる嫁は、当初持っていた隷属的な地位を払拭し、ついには一人ないしは複数の息
子の母親としての地位を確立するに至ると、多大なる深い敬意の焦点となり、大抵なら複合家族内で、究極的
にはリネージ内でかなりの影響力を持つ位置を占めるようになる。ヒンドゥー教世界のいたるところで、母性と
いう真なる理念は、→ p.8.大きな敬意を受けていて、それゆえ、大いなる精神的権能という役割を果たすの
だ、と一般に信じられているというわけなのである。
世俗放棄と世俗肯定という二つの理念は、概念的なレヴェルでは、相反している。また、それら両理念は、
純潔な処女と多産な母という理想的な女性の類型を各々持っているが、こうした類型も同様に相反しているの
だ。(では、実際的にはどうだろう。)保護儀礼や浄化儀礼でいかに注意深く制限しようとも、子供を産むという
ことによって、家族全員、なかでもとりわけ当の母親が、月経、性交、そして出産そのものによって生成される
- 10 -
強固で反復的な不浄性を被ることは、避けられない。さらに、母親というものは、なかんずくその子供にとって
は、強烈な人格として経験されるのであり、実際に母親は、その子を一人前の男に育て上げてしまう頃までに
は、複合家族内でかなりの権勢を振るうようになっているのだ。しかしながら、ヒンドゥー教思想によれば、それ
でもなお、清浄さと世俗的権力は、相互にアンチテーゼとなっているのである。
さて、もうこの辺で、カトマンドゥ渓谷のクマリ信仰の話題にもどるべきだろう。幼い少女たち、大抵なら二歳
から四歳くらいまでの少女たちが、形式的な清浄さの基準に照らして選ばれ、女神の生ける形態となる。彼女
たちは、完全に健康でなくてはならないし、重い病気、とりわけ疱瘡のような、身体上に址を残しかねない病気
を罹ったことがあってはならない。その他では、何よりもまず、出血をしたことがあってはならない。特に、歯の
喪失に絡んでの出血や、時期尚早の初潮などによる出血が問題となる。カトマンドゥのロイヤル・クマリの場合
なら、心身両面での完璧さを示す特別で、さらに明白な徴表が、厳格で最大限の努力を要する検査において
求められる。この検査を実行するのは、王付きの祭司(ラジュグル <Rajguru>)が任命する公式の委員会である。
選出が済むと、その後さらに祭司たちが、少女を浄化して、その身体に入って取り憑く女神の精霊を呼び出
す準備をする。少女が生けるクマリとしてとどまり、定期的に崇拝されるのは、何らかの不浄が生じるまでの間
である − 時には歯の喪失だけで、不浄に十分値する場合もあるが、大抵なら初潮を迎えるまで在位するの
が普通である。
ここまでのことだけなら、この信仰を分析するには、デュルケムの概念に基づけば十分である、と思われるか
もしれない。清浄さとは、カースト・システムを支えるイデオロギーであり、さらにそのカースト・システムがネワー
ル社会の基盤となっているというわけだ。従って、処女の少女を崇拝するということならばネワール族だけに限
られることだが、それがカトマンドゥのロイヤル・クマリということになれば全ネパール人が、カーストそのものに
備わる真なる理念 − つまり、相対的な清浄さという概念に基づいた社会的ヒエラルキーに備わる真なる理
念 − を賛美し、称揚しているということになろうか。しかしながら、これらの少女に纏わる奇妙な事態 − 清
浄さとヒエラルキーということを重視して考えるのならば、奇妙と思わざるをえない事態 − が即座に目につく
はずだ。先ず以て、それは彼女たちの外観のことであって、これこそは一目瞭然のことである。ヒンドゥー教世
界でなら何処でも、清浄さは、サットヴィック < Sattvik> と呼ばれる色彩 ― 典型的には白色であるが、金色、銀
色及び黄色も含まれる ― に関連づけられている。これとは対照的に、ラジャス <rajas>という色彩→ p.9.(特に
赤色で、桃色、紫色、深紅などにまで拡張されることもある)は、創造性や豊饒性と連関されていて、さらに他
方でタマス< tamas>という黒色や拡張的にはダーク・ブルーである色彩が、破壊、腐敗、分解などを表してい
る。こういった図式を基にすれば、処女神には、当然サットヴィックの色彩が用いられると思われるであろうが、
実際には明るい赤色の衣服を身につけている。そのような赤い服を着るのは、通常なら、出産経験のある既
婚女性だけなのである。もう一つの顕著な特徴は、赤くペイントする箇所が多いということである。額はほとんど
完全にペイントされ、それは足指も同様である。サットヴィックの色彩が用いられる箇所といえば、多数の金銀
の宝飾類(ネックレス、踝環、ブレスレット)と、額や足指の赤いペイントを囲む白色または黄色のラインだけで
ある。そのような赤色と白色の組み合わせは、結婚儀礼の際の少女が身につける衣服と宝飾にも見られ
る − 両色の脈絡にのっとれば、そのメッセージは明確である。ここにおいて、少女にはセクシャリティーと多
産が見込まれ、おそらく意味をさらに拡張して、富や食料のような既婚女性に一般的に関連づけられる価値
だけではなく、不浄な俗界で清浄を保持することに関する規則すべてに従えば抑制されてしまうような、他の
世俗的な諸価値が見込まれているのだ。
そのような解釈に従えば、注目すべきなのは、クマリを崇拝しに来る人たちとは、まれにサットヴィックつまり
世俗的なものとは異なった、清浄な動機から崇拝する場合もあるが、むしろラジャスつまり世俗的な動機を持
つ者たちなのだ、ということである。多分、クマリ崇拝者の中で大部分を占めるのは女性であり、それも様々な
- 11 -
問題、特に月経に関わる障害、のみならず自分の子供の健康についての問題を抱えている女性たちである。
男性の場合なら、最も共通した動機は、権勢の獲得、維持、あるいは権力喪失の防御ということになる。
こうして処女神に纏わる矛盾した事態に注目すれば、ついには、こんなことに気づくはずだ。つまり、神とし
て祀られている少女がクマリと称されているといっても、その就任式で呼び出され、今や少女自身がそうである
と言われているところの当の女神たちは、決してその初潮前の清浄さゆえに耳目をひいているのではないの
だ。ヒンドゥー教の崇拝者にとってみれば、少女は、タレジュ・バヴァーニ <Taleju Bhavani>つまりカーリーの一形
態にして、魔神を殺す強力なる女神たちの中でも、主座なる者なのである。こういった女神たちは、供犠され
た動物の血で、絶えず宥められていなくてはならないのだ。ヒンドゥーの神格すべては清浄であるに違いない
のだが、タレジュ崇拝者が求めに来るものは、タレジュの持つ破壊力であって、清浄保持力ではない。まさに
この破壊力ゆえに、三人のネワール王も含め非常に多くのヒンドゥー王朝が、そして今日のネパールのゴルカ
王朝さえもが、タレジュを殿中にその守護神として就任させたのである。
ヒンドゥー教は、表面上は矛盾する諸価値→ p.10.
― 純潔、多産性、そして破壊能力といった諸価値 ―
を女性の属性だと考えているが、わたしが論じたいのは、どのようにして初潮前の処女の少女が、自らの人格
の中に、これら矛盾する諸価値を兼ねあわせ持っているのか、その方法なのである。この方法のお蔭によって
こそ、インドとネパールのヒンドゥー教世界のいたるところで、家族やリネージ内での例年の女神崇拝も含め
て、少女に対する莫大な崇敬が発展してきたのである。ネパールでは、この習慣が、幼い少女を生ける女神と
して就任させ、崇拝するという形態で、多年にわたり、制度化されたのだ。この異例な形態での制度化は、特
別な歴史的出来事の結果であると理解されるべきものである。つまり、クマリ崇拝という制度は、ヒンドゥー教徒
の王たちが、ますます増幅する構造化されたカースト、なかでも仏教徒の臣民に対して政治的権力を行使す
るという自らの主張の正当性を象徴化する手段として、少女の効用を認めた結果、生じた制度なのである。こ
ういった解釈を擁護するにあたって、読者諸氏には、次のようなことに注目してもらいたい。古典的なヒンドゥー
教の神格の生ける形態となるべき少女たちは、実のところ、純粋な仏教徒のカーストから選ばれているのだ。
従って、このことから次のようなことが明らかになる。つまり、そのような神格の主座はタレジュであり、つまりは
王の政治的な権力の源であるのだから、ネワール族の仏教徒たちは、自族の少女を候補者として供すること
で、王が自分たちを統治する権利を認めていた、というわけだ。だから今日でさえ、ネワール族のクマリは、プ
ラサーダをゴルカの王に与える際には、さらにもう一年間ネワール族を治める権利を王に与えているのだ、と
言われているのである。そんな見解を裏付ける説話は、出所が怪しいとはいえ、たくさん存在する。たとえば、
一 九 五 四年 のこ と であ っ た。 そ の 当時 のロ イ ヤル・ クマ リ は とて も幼か った ため 、在 位中 の王ト リ ブヴ ァ ン
< Tribhuvan> に与えるはずのプラサーダを誤って若き皇太子マエンドラ < Mahendra> に与えてしまった。一年も経た
ぬうちに、トリブヴァン王は病気で崩御し、マエンドラが王になったのである[Anderson, 1971, p.135.]。
第二章
ロイヤル・クマリと旧ロイヤル・クマリ
現在では、一○人のネワール族の少女が、生けるクマリとして、定期的に崇拝されている。そのうちわけは、
カトマンドゥに三人(ごく最近までは四人だった)、バドガオンに三人、パタンには二人、そしてデオパタン
< Deopatan> とブンガマティ < Bungamati> にはそれぞれ一人ずつ存在する。これらのクマリたちにはそれぞれ大きな
違いがあって、少女が属するカーストのメンバーシップ、少女を崇拝する者の種類、どのような女神のどのよう
- 12 -
な属性が最も強調されているのか、といったような変数によって、大きな差異が生じているのだ。シャーキヤ・
カースト、統括神格としてのタレジュ、そしてヒンドゥー教徒の王宮による後援といった三つの項目間には、特
に密接な歴史的結びつきがあるが、その関係は不変のものではない。たとえば、次のようなことがそのことを証
明している。パタンの旧ロイヤル・クマリは、ヴァジュラーチャーリヤ < Vajracarya>のコミュニティーから選出されて
いる。また、他の四人のヴァジュラーチャーリヤ・クマリも、シャーキヤ・クマリ以上にタントラ的で仏教的な性格
を持っているし、ヒンドゥー教のタレジュやドゥルガーよりもヴァジュラーチャーリヤの神格ヴァジュラデヴィー
< Vajradevi>
との結びつきが密接である。さらには、二人が存在するジャープュ・クマリを崇拝しているのは、ネ
ワール族の高位ヒンドゥー・カーストであるプラダーン <Pradhan> とデオ−ブラフマンなのである。さて、一一人の
クマリすべてのリストは、以下の通りである(3) 。
カトマンドゥ
①
ラージ <Raj>・クマリ(ロイヤル・クマリ) 、またはラーユクー <Layku-ネワーリ>・クマリ 。(王宮クマリ)。
シャーキヤ・カーストの出身で、王と国民に崇拝される。
②
ム <Mu>・クマリ( チーフ・クマリ )。ムバーハー <Mubaha>に属するグバージュ(ヴァジュラーチャーリヤ)・
カーストの出身であり、主たる崇拝者は、中央(ダトゥ< Datu>)カトマンドゥに住む、クマリ自身の属するカースト
の成員である。この地位は、ここ数年の間、空位のままだ。
③
カワーバーハー <Kwabaha>・クマリ 。カワーバーハーに属するグバージュ・カーストの出身。北部(タネ
< Thane> ) カ ト マ ン ド ゥ に い る 、 ク マ リ 自 身 の カ ー ス ト の 成 員 と タ メ ル < Thamel> 地 方 の バ ガ ワ ン ・ バ ー ハ ー
<Bhagawan-baha>に属するプラダーンたちが崇拝する。
④
キ ラ ガ ー ル < Kilagar> ・ ク マ リ 。 ジ ャ ー プ ュ ・ カ ー ス ト 出 身 。 主 と し て キ ラ ガ ー ル − イ テ ゥ ム バ ー ハ ー
<Kilagar-Itumbaha>)
地域のプラダーンが崇拝する。
パタン(ラリットプール <Lalitpur> )
⑤
ガバハル < Gahbahal>地方にあるホウバーハー < Hawbaha> に属する旧ロイヤル・クマリ。グバージュ・カースト
出身。ほとんどのパタン居住者、さらにはネワール族に限らず、他所から大勢の個々人がやって来て、崇拝す
る。
⑥
ソニマ <Sonimha> ・クマリ 。ミカバーハー <Mikhabaha> に属するジャープュ・カースト出身。当地方のデ
オ−ブラフマンたちによって崇拝される。
バドガオン(バクタプール <Bhaktapur> )
⑦
エカンタ <Ekanta>・クマリ 。彼女は、バドガオンにある何れのバーハーからも選出可能なので、グバー
ジュかシャーキヤの何れかのカーストに属していることになる。クマリの公邸はディパンカール・バーハー
< Dipankar-baha>
内にあり、その昔はバドガオンのマッラ王たちが崇拝していた。今日では、バドガオンの住民の
ほとんどが公的に彼女を崇拝しているが、求められれば、彼女は私的な依頼にも応じる。→ p.12.
⑧
ワラ・ラク <Wala lakhu>・クマリ 。エカンタ・クマリと共に選出されるが、彼女の場
合には、ワラ・ラク、つまり近接するダッタトレイヤ< Dattatreya>寺院のバーハーのような中庭との結びつきが特
に強い。彼女はここに専用のアガム< agam>を持っている。崇拝されるのは、ダサイン <Dasain>の間だけである。
⑨
テブクシェ <Tebukche>・クマリ 。他のバドガオンのクマリと共に選出される。グバージュまたはシャーキ
ヤ何れの家系からも選定可能。彼女も、ダサイン期間中のみ崇拝されるが、特にテブク < Tebuk> 地方のジャー
プュによって崇拝される。ユニークなのは、このクマリが乳離れしていない乳幼児でなければならず、それゆ
- 13 -
え、毎年交代が行なわれねばならないという点である。
デオパタン <Deopatan>
⑩
チャバヒ <Chabahi>・クマリ 。彼女は、チャバヒ(スヴァルナプルナマハヴィハーラ <Suvarnapurnamahavihara>)
に属するシャーキヤの成員から選ばれる。かつてはデオパタンの王たちに崇拝されていたといわれているが、
今日ではその崇拝者は主として、彼女の属するバーハーの成員に限定されている。
ブンガマティ<Bungamati>
⑪
ブンガマティのクマリは、グバージュ・カーストに属する単系の父系拡大家系(カワ < kawa> )から選出され
る 。 こ の 家 系 の 成 員 た ち は 、 パ ン ジ ュ < Panju> と し て 知 ら れ て お り 、 彼 ら の 有 名 な 神 マ チ ェ ン ド ラ ナ ー ト
< Matsyendranath>に関連した重要な儀礼上の諸義務を担っている。クマリは、ブンガマティの清浄なカーストに属
するすべての成員によって、崇拝されている。
なかでも三人のクマリ(番号でいえば①、⑤、⑦のクマリ)たちが特に重要である。彼女たちは、ゴルカ朝の
征服以前には、カトマンドゥ、パタン、バドガオンという三都のマッラ王たちによって崇拝されていたのだ。彼女
たち三人は、王宮の後援のお蔭で、人気のある神々の中でも主座に位置付けられていたし、今日でさえ、昔
日の王たちから寄贈された多くの蔵物、特に宝石を誇示している。ゴルカ人たちは、渓谷を征服したとき、カト
マンドゥを首都に定めた。そのため、パタンとバドガオンは単なる一都市へと貶められてしまったのである。パ
タンとバドガオンの旧ロイヤル・クマリたちは、まだ地方的な重要性を保っているとはいえ、自分たちのホーム・
タウン以外でなら、実質的には知られていない。それとは対照的に、カトマンドゥのロイヤル・クマリはさらに多
くの高名を獲得してきた。新しいシャハ王朝の保護を引き続き受けてきたからである。今や、彼女は国家的重
要性をもった神格なのであり、その山車例祭は壮観で色彩豊かな行事となっていて、多くの群衆が参列する
のだ。この章で、わたしが注目するのは、これら三人の「ロイヤル」クマリたちである。
ネパールにおけるクマリ信仰の歴史的背景
ネパールにおけるクマリ信仰の歴史は、今なお多くの伝説と謎に包まれたままである。この名前を持つ女神
が、非常に長い間、少なくとも六世紀早々以降からは確実に、崇拝されてきた。このことを示し得る証拠は存
在する [Hasrat, 1970, pp.41-42, and Wright, 1972, p.125.] とはいえ、生けるクマリを崇拝するという習慣の起源に関して
は、確かなことが言明できるわけではない。→ p.13.
様々な一次的資料から考えられ得るのは、この崇拝が、
規模の小さな、地方的で散発的な信仰形態で、それもおそらく北東パンジャブーで今なお見受けられるような
信仰に類似した形態で、ヴァジュラヤーナ仏教 <Vajrayana Buddhism>が導入された直後の一一世紀中には始まっ
ていたのではないか、ということである。ネパールの年代記(ヴァムシャーヴァリー < vamsavali> )を歴史的な目的
で 使 用 す る に は い さ さ か 制 約 が 伴 う が 、 中 で も 重 要 度 の 高 い 年 代 記 の 一 つ が 、 ラ ク シュ ミ カ ー マ デ ヴ ァ
<Laksmikamadeva>、つまりカンティプール <Kantipur>のラジャ<Raja>について記録を残している。それによると、彼が
君臨していたのは、おそらく紀元後一○二四年から四○年にかけてのことであった。
「彼(ラクシュミカーマデヴァ)の祖父[伝えられるところによればグナカマデヴァ< Gunakamadeva>]は、クマリの助力のお蔭
で、かなり多くの財を獲得し、世界中を征服した。このことを思い起こしたラクシュミカーマデヴァは、同じことをしようと心に
- 14 -
決めたのである。こうした意図のもと、パタン・ダーバー< Durbar>へと出向き、バンダヤ< bandya>[シャーキヤ・カースト]の
娘をクマリとして崇拝した。バンダヤとは、ダーバー< Durbar>近辺のビハール< bihar>に住み、ラクシュミー・バールマン
<Lakshmi-barman>という名称で知られるカーストである。ラクシュミカーマデヴァは、クマリの像を建立し、クマリ・プージャー
を制定したのであった」 [Wright, p.157.]。
この引用には、特に興味を引くものがある。というのも、在位中のパタン・クマリが選出されたのは、高位カー
ストの仏教徒のバーハー(元寺院で、一般的にはハカバーハー< Hakabaha>として知られている)であるが、こ
の バ ー ハ ー は ラ ク シ ュ ミ カ リ ヤ ナ サ ム ス カ リ タ ラ ッ ト ナ カ ラ マ ハ ー ヴ ィ ハ ー ラ
<Laksmikalyanasamskaritaratnakaramahavihara> というサンスクリット名を持つからである。このバーハーは、ラクシュミカー
マデヴァによって、宮殿に隣接したハカ地区に建立された。しかし、一七世紀に宮殿が拡張されたのに伴っ
て、ガバハル・トル <Gahbaha tol>内の現在の地所へ移転されたのである。ヴァムシャーヴァリーを信じ得るに足る
証拠であるとするならば、パタンのクマリの方が、知名度の点では上位であるカトマンドゥのクマリよりも、さらに
古い歴史を有することになろう。ところが実際には(資料から推定すると)、ラクシュミカーマデヴァの生きてい
た時代の方が、生けるクマリに受肉すると一般的には信じられているタレジュ・バヴァーニ <Talejubhavani> 、すな
わちマッラ王朝のリネージ神のネパールへの導入よりも、ほぼ二世紀分古いのだ。また伝え信じられていると
ころによれば、インドラ・ジャートラー <Indra jatra>も含め多くの重要な祝祭を始めたのも、ラクシュミカーマデヴァ
(あるいは、いくつかの説話でのようにグナカーマデヴァ)であったとされている。そして、このインドラ・ジャート
ラーは、今では、カトマンドゥのロイヤル・クマリの壮観な山車祝祭(ラサジャートラー < rathajatra> )を併合してし
まっているのである[Sharma, 1971, p.109.]。
ラクシュミカーマデヴァがクマリの崇拝を重要だとみなした要因は、一一世紀に北部インドとネパールのいた
るところで、タントラ教、ヒンドゥー教及び仏教の各派の普及が増大していた状況と関連づけられよう。ラクシュ
ミカーマデヴァ王が生けるクマリとしてシャーキヤ(仏教徒)の少女を選出していたのは、アティサ < Atisa>という
偉大なるインド人神秘家の影響に負うところが大きいと考えられる。一般には、ラジャ< Raja>の治世の末期頃
に、ヴァジュラヤーナ仏教をネパールへ導入したのが、このアティサだと認められている [Regmi, 1965, Part 1,
pp.121-2.]。しかしながら、主たる動機が政治的な方便であったことは確実だ。ラクシュミカーマデヴァ王も、すべ
ての渓谷の王たちと同様、数的には圧倒的な仏教徒の農民たち住民を支配するヒンドゥー君主であった。→
p.14.
それゆえ、ラクシュミカーマデヴァ王も、高位カーストの仏教徒の少女を著名なヒンドゥー神格の生ける
形態として崇拝することに専心する信仰を確立することで、ヒンドゥー教の普及を促進し、同時に自らが仏教
徒臣民を支配する正当性を強固にしたのにちがいない。
また、こういったことも指摘しておく価値があろう。クマリ・プージャーのタントラ的用法では、選定された少女
は低位カーストの出身でなければならないのだ。実のところ、地位が低ければ低い程よいのである。しかし、
高位に序列される崇拝者たち、とりわけ王族にしてみれば、そのような条件は、多少とも当惑を感じるもので
あったに違いない。それでも、選出されるのが高い地位の仏教徒の少女であるお蔭で、崇拝者たちは、過度
の汚穢に関わる危険を冒さずに、この形式的な条件に対応することができるというわけなのだ。
クマリに言及がなされているコロフォン碑文 <colophon inscription>の中でも最初期のものは、一七世紀後期にア
ナンタ・マッラ<Ananta Malla>の統治期に作成されている。それら碑文はペテックによって記録されていて、最初
の碑文は『クマリ・プージャー』と題され、一二八○年四月三○日の日付があり、二番目のものは『クマリ・プー
ジャー・ヴィッダナ』(ヴィッダナ <vidhana>とは「規則」あるいは「法規」を意味する)で、一二八五年一一月二四日
の日付となっている [Petech, 1958, ms 3 on p.95, and ms 12 on p.97.] 。わたしはこれらの碑文を十分に解釈する機会に
恵まれなかったが、(これらの碑文からして)王自身がこれら両プージャーを遂行していたことは明白である。
- 15 -
後世のロイヤル・クマリ信仰に備わる重要な特徴、つまりクマリと王、それに王の私的な女神(王のイスタデ
ヴァタ < istadevata> )の関係は、これくらい初期のパタンの記述になると見当たらない。しかしながら、ネパールの
名高いリッチャヴィ朝の統治者マナデヴァ一世が、紀元後五世紀後期という古い時期において、すでにマネ
スヴァリ <Manesvari>を自らの個人的な女神として崇拝していた [Slusser, 1982, vol.1, p.317.]、ということに関しては明確
な証拠が存在する。事実、マネスヴァリが、ドゥルガの一形態として、渓谷の宗教においてこういった卓越した
地位を保持していたのは確かなようだが、それも結局は、タレジュに取って代わられるまでのことでしかなかっ
た − この交代劇が生じたのは、渓谷の政治にマイティリが介入してきた動乱の時期、おそらくは一一・二世
紀のことであった。クマリ信仰にとりわけ関連が深いのが、このタレジュなのである。タレジュとは、ドゥルガーの
持つさらにもう一つの別形態のことで、それは敵を壊滅する強力な形態なのだ。
ネパールの年代記に従えば、ハラシマ・デヴァ <Harasimha Deva>、つまり北インドのアヨディヤ <Ayodhya>出身の
カルナタク < Karnatak> 王朝の王がシムラオンガッダ < Simraongadh> を統治していた時代に、イスラムの支配者ガヤ
シュッディン・トゥグラク・シャハ<GayasuddinTughlak Shah>が都市部へ侵入してきた。一四世紀早々のことである(4)
。シムラオンガッダが位置していたのは、今日の南ネパールに属する地方にあたる。王ハラシマは、驚くこと
なかれ、カトマンドゥ渓谷へと逃走して来てしまったのであった。渓谷の政治にハラシマが登場することになっ
たのは、イスラム勢力の拡大にその原因があり、これに伴って北部インドのヒンドゥー系王国が崩壊したことに
よる直接的な結果なのである。→ p.15. ハラシマが渓谷の政治の中でどのような役割を果たしていたのかにつ
いては、歴史家たちは確証していないが、この時期までに、タレジュ・バヴァーニがネパール王朝の守護神と
して堅固に確立されていたことには、疑問の余地がない。多くのヴァムシャーヴァリーには、その女神を、シュ
リー・ヤントラ <sri yantra> という形で、シムラオンガッダからバドガオンへ初めてもたらした者として、ハラシマ・デ
ヴァの名が揚げられている。しかし、その信仰は、この事件よりも先行して、すでに渓谷で確立されていたので
あり、それはナニヤ・デヴァ <Nanya Deva>による、これまたシムラオンガッダからのもっと早期の侵入、つまりは一
一世紀末期にまで遡れるのだ、ということが記録された証拠も存在するのである。
ある長い説話がある。わたしは口述で教えてもらったのだが、おそらくはヴァムシャーヴァリーに基づいたも
のであろう。その説話の中で、タレジュは、デヴィー < Devi> 、つまりは『ラーマーヤナ』に際立って登場し、最初
はスリ・ランカでラヴァンナ < Ravanna> を援護したが、後にラマ・チャンドラ < Rama Chandra> に味方した、あのデ
ヴィーなのだ、とされている。ラマは、ラヴァンナを打ち負かしてしまうと、デヴィーをシュリー・ヤントラという形
で、自らが治める首都アヨダヤ <Ayodhya>へと連れて行った。北インドにあるその首都では、デヴィーを自らのア
ガム < agam> 神として崇拝したのである。こうしてこの説話は、どのようにしてヤントラが王から王へと代々崇拝さ
れ続けたのか、ということを描いているのである。この崇拝は、ハラシマ・デヴァが、先ずはそのヤントラをシムラ
オンガッダへ、その後にはバドガオンへ持って行くまで続いていたのである( [Wright, pp.105-8, and Singh, 1968,
pp.205-6.]を参照のこと)。
タレジュは、今日に至るまで、ネパール諸王の主たる守護神とみなされ続けてきた。新しい首府が築かれる
ときには、その創建の第一歩として、タレジュの寺院が建立された。その後に就任した王たちが、タレジュのた
めに寺院を新築したり、大規模な改修を行ったりしたのも、一度や二度のことではない。数々のヴァムシャー
ヴァリーが、女神たちのマントラの重要性について、頻繁に言及している。そうしたマントラは、正統なる王位
継承の徴として考えられているからである ― このマントラを受納し損ねた支配者は、必ずや自らの王国を失
うとみなされたのである。
ハラシマ・デヴァがその信仰を導入した当時、渓谷は一つの王国のもとに統一されていた。ヤクシャ・マッラ
<Yaksa
Malla>が一五世紀初頭に三分割を行って以降、先ずカンティプール <Kantipur>(カトマンドゥ)の寺院が、
次にパタン(ラリットプール <Lalitpur> )の寺院が建立された。紀元後一五○一年に小さなタレジュ寺院を建立し
- 16 -
たのは、ラットナ・マッラ <Ratna Malla>、つまりカンティプールを統治していたヤクシャ・マッラの息子である[Wright,
p.202.]。マヘンドラ・マッラが現構築物の地所に堅固な三層寺院を建立したのは、一五四九年になってからの
ことである(写真三を参照)。パタンのタレジュ寺院(写真四)は、一六二○年にシッディナラシマ
<Siddhinarasimha>によって建立されている [Wright, p.233, and Hasrat, p.67.]。
タレジュ信仰の確立が重要な意味を持つのは、バドガオン、パタン、カトマンドゥという三つの都市に存在す
る主要なクマリの各々が、今日でさえタレジュの生ける顕現とみなされているからである。各都市には、数多く
の説話が残されている。それらは、ヴァムシャーヴァリーに記録されているものもあれば、口述により伝承され
ているものもある。こういった説話の中では、当該都市の王がタレジュの機嫌を損ねてしまう者として描かれて
いる。激怒したタレジュは、→ p.16. それ以上直接に王と係りあうのを拒む。しかしその代わりに、シャーキヤ・
カーストに属する幼い処女の姿となって会うことを主張するに至る。クマリの起源に関して聞き取り調査すると、
いつも決まってこういった説話を聞くはめになる。ほとんどの調査報告がカトマンドゥのロイヤル・クマリに焦点
をあててきたのは、一般的には、関連する王つまりジャヤプラカーシャ・マッラ <Jayaprakasa Malla>がその風習を確
立したのだ、と考えられているからである。しかしながら、刊行された著作物の多く [Hasrat, 1970, pp.59-60, Shrestha
and Singh, 1972, p.29, and Moaven, 1974,p.173.] が述べるところによれば、導入した最初の王は、トライロキャ・マッラ
<Trailokya Malla>
であるとされている。この王は、当時まだ分割されていなかった王国の君主であり、バドガオン
において約一五六○年から一六一三年までの間、君臨していた。ほとんどのジャヤプラカーシャに纏わる説
話と同様、そこに描写されている王は、自らの守護神(女神)と親密に交際し、トリパーサー < tripasa>(三個の賽
をボード上に投げて遊ぶゲーム)に興じている。ある日、王の娘が二人の間に立ち入った。どうやらこのことが
女神を当惑させてしまったようだ。続いて、王は女神の夢を見る。その中で、女神が告げたこととは、「今後、
王が女神の姿を見ることはないし、女神に相談することもかなわない、ということであった。しかし、女神はこう
言ったのである。『わたしは、高いカーストに属する少女の姿となって現れましょう。』(5) こんな次第で、そのラ
ジャ < Raja> (王)は、バンダヤ < Bandya> の少女を、クマリあるいは処女の名のもとに崇拝することにしたのである。
こういった風習が、まだなお今日まで現存しているというわけなのだ」[Hasrat, p.60.] 。
多少とも興味を引くことが、ライトの記録したヴァムシャーヴァリー(二○七)に記されている。そこには、こう
記 さ れ て い る 。 後 に 規 模 の大 きな タ レ ジ ュ寺 院 を 建 立 す るこ と に な る カ ト マ ン ド ゥの 王 マ ヘ ン ドラ ・ マ ッ ラ
<Mahendra
Malla>が、しばらくの間であるが、トライロキャ・マッラとともにバドガオンで暮らしていたことがあって、
そこでタレジュ(トゥルジャ−デヴィー <Truja-devi>)を毎日崇拝していた、と述べられているのだ。その女神は、王
が敬意を示してくれたことにいたく喜んだようで、王のダーバー(<durbar>広場)に女神の寺院を築くよう命じたの
であった。
パタンでも、類似した説話が語られており、同じように賽遊びの場面が中心になっていて、その後女神は
シャーキヤの少女の姿の中に身を宿す。しかし、ここで関わってくる君主は、最初にタレジュ寺院を建立した
一七世紀の王シッディナラシマか、その息子のシュリニヴァサ・マッラ <Srinvas Malla> の何れかである。(やはり、
ここでも登場人物の名称については混乱が見られる。)パタンでのわたしの第一インフォーマントは、博識な
デオ−ブラフマンで、シッディナラシマの名高いグル(師)であったビシュワナート <Biswanath>[Wright, p.233.]直系
の子孫である。そのインフォーマントが、次のように述べてくれた。彼がたくさんのヴァムシャーヴァリーを読解
して分かったことによると、シッディナラシマこそが、最初にタレジュをパタンにもたらし、その寺院を建立したの
であって、タレジュがクマリになったのは、その息子シュリニヴァサ・マッラの在位中のことなのである、と。ところ
が、わたしのインフォーマントが話してくれた賽遊びの説話中では、言及された君主がシッディナラシマであ
る、といった具合なのだ。
これらの説話すべてに備わる重要な特徴とは、タレジュが首尾一貫して美しい女神として表現されているこ
- 17 -
とである。この女神は、後にはその崇拝者となる王と、かつては親密な関係を保っていたのであるが、そんなあ
る日、事件が起こって、女神はいたく機嫌を損なうことになってしまう。その結果、彼女はもう肉体的な姿で現
れなくなってしまうのだ。いくつかのヴァージョンでは、王自身が、無礼を犯してしまう。→ p.17. 女神を見ては
ならないという掟を、出向いた際に破ってしまったのである。また、女性の家族が邪推して無礼をはたらく、と
するヴァージョンもある。その場合、無礼者は妻か娘の何れかである。しかし、どのヴァージョンにしても、ある
暗示がそこには常に存在している。それは、王が女神を性的に所有したいという強い欲望を募らせているとい
う暗示で、事例によっては、これが白日のもとにさらされてしまうこともあるのだ。その夜、タレジュは王の夢の
中に現れ、こう告げる。わたくし女神タレジュは、以前のようにして王に会うわけにはいかないが、幼い少女の
姿となることで、王に崇拝と会談の機会を与えよう、と。しかし、その少女の家族は、卑しく、穢れた職を営んで
いる。大抵のヴァージョンなら、そのカーストの名称はシャーキヤであるが、パタンの場合はグバージュである。
(こうした説話の)抜粋は二つの件で興味深い − というのも、マッラ朝の王たちは伝統的なヒンドゥー教徒で
あるし、タレジュもクマリも間違いなくヒンドゥーの神格であるのに対して、シャーキヤもグバージュも品位の高
い仏教カーストなのである。この両カーストは、以前に仏教の僧院であった建物の唯一の占有者である。僧院
制度の崩壊後六・七○○年経った今日でさえ、これら僧院に属する少年たちは、イニシエーション儀式を連帯
で受ける。その際、少年たちは四日の間だけ僧侶になるのだ。グバージュのみが、仏教徒の檀家付き僧侶
( domesticpriest) として実践する権利を持ち、機能的にも地位的にもヒンドゥー教のブラフマンの精巧なレプリカと
なっている[Greenwold, 1974, pp.101-23.]。一方シャーキヤは、世俗僧侶 <household priest>になれないが、それでもな
お「純粋な」仏教徒である。実際に、彼らシャーキヤは、釈迦牟尼仏陀(シャカムニ・ブッダ <Sakyamuni Buddha>)
を生んだ釈迦族 <Sakya clan>の直系子孫だと主張している。しかし、ほとんどのシャーキヤや多くのグバージュの
職業は、伝統的に金細工業である。この業種には、たくさんの穢れた行為が含まれている。たとえば、他の金
属成分と分離するために、金を溶解するという作業が、特に穢れたものとされているのだ。
三都にそれぞれ存在する主要なクマリたちは、わけてもタレジュ・バヴァーニの生ける形態とみなされている
のだから、この女神の本性を考察すべく、機会を設けることにあながち価値がないわけでもあるまい。バヴァー
ニとは、文字通り「実存の贈与者 <giver of existence>」を意味していて、シヴァの配偶者であるシャクティあるいは
デヴィーがもつ数多くの通り名のうちの一つである。中央インドのデカン <Deccan>ではバヴァーニは独立した神
格として特別な崇拝を受けているのだが、そういったような地域においては、その属性が、通常ならドゥルガー
やカーリーに結びつけられているような属性と類似している。ドゥルガーは美しく、平穏なものとして、それに対
してカーリーは怒れる、狂乱したものとして表象されるのが一般的であるが、共通している点もあって、両者は
男性魔神や敵に対する強力で官能的な破壊者でもあるのだ。バヴァーニの持つ恐ろしいカーリー的様相は
悪名高きトゥグゲエ信仰 <Thuggee cult>において最も明確であるが、美しき守護者という様相の方はといえば、主
宰家系マラタ< Maratha>の守護神として、その容姿を強調されている。多数存在するインドのバヴァーニ寺院
のなかでもとりわけ著名なのは、ハイデラバッド <Hyderabad>にある小さな町トゥルジャプール <Tuljapur>の寺院であ
る。ここが古代からの巡礼地であるといっても、バヴァーニが広範な名声を獲得したのは、一六世紀後半に
なってボスレ家 < Bhosle> が崇拝し始めてからのことである。マラタの統治者のうちで最も有名なシヴァジ < Sivaji>
も、→ p.18. 重大事を前にしては必ずやタレジュ・バヴァーニに相談を持ちかけおり、一六五八年には、この女
神のためにとても印象的な寺院をプラタップガッダ < Pratapgad>に新築している。ネパールでのように、女神は、
支配者の力と知恵の源泉として表象されているというわけである [Kincaid and Parasnis, 1918, pp.113-15, p.153,
pp.158-59, pp.210-11, and pp.53-78.]。
クマリとタレジュの同一化(同等化)は、二つの脈絡上で最も明確に読み取ることができる。つまり、新しいロ
イヤル・クマリの就任祭祀の際と、ダサインの期間中に何百頭もの水牛や山羊をタレジュに供犠する例祭のと
- 18 -
きである。この二つの行事は密接に連関されている。というのも、就任儀式は、大量の動物供犠の直後に執り
行われるからである。
カトマンドゥのロイヤル・クマリ
今からちょうど二世紀前、ゴルカ族は、渓谷を征服した際に、カトマンドゥをその首都と定めた。それゆえ、
当地のタレジュ・バヴァーニは、バサンタプール・クマリ <Basantapur Kumari>としてのその生ける顕現と並んで、多
大なる配慮が払われることになった。(ゴルカ族の王)プリティヴィ・ナラヤン・シャハ <Prithvi Narayan Shah>がカトマ
ンドゥに侵入したのは、クマリの例祭の真っ最中であった。その際、この王は、先ずは女神からプラサーダを授
かり、次いで祝祭の継続を宣言したのである。このような経過は、事実上、この国のあらゆる歴史上の教書に
物語られている。つまり、この出来事こそが、新しい王朝に正統性を授けるものとして、先ず第一に表象されて
いるというわけなのだ − こうした大いなる重要性を持つ象徴的行為は、年に一度、王がクマリからティカーを
受け取りにやって来る度毎に、今でも繰り返されているのである。この様にして王宮の後援が継続されたお蔭
で、クマリは、今日でさえ、ネパールの神格の中でも至上神の一角を占めることになっている。それに反して、
パタンやバドガオンのクマリは、相対的なものとして忘却の彼方に消え入りつつあるのだ。
ヴァムシャーヴァリによれば、王宮のクマリ崇拝を創設したのは、カトマンドゥのマッラ朝最後の王ジャヤプラ
カーシャである。代々の王たちもこうした崇拝を行なっていたのかどうかに関しては、多少疑問が残る。しかし、
宮殿に隣接してクマリの公邸を最初に建造し、山車例祭を開始したのが、ジャヤプラカーシャであることは確
実なようだ。ジャヤプラカーシャは、増大するゴルカ族の脅威に日々不安をつのらせるようになって、タレジュ
をはじめその他の女性神格の慰藉にますます傾倒していった。女神たちが大いなる力を王と国家に授けてく
れるという信仰にすがったのである。こうしたことを示唆している証拠は、たくさん存在しているのだ。
シャーキヤに属する男性の娘であれば、クマリとして選出されるのに適格であるとされている。しかし、その
父親はカトマンドゥのバーハーのメンバーシップを有していなくてはならない。バーハーのメンバーシップは、
少年時の形式的なイニシエーションによる批准を通して、男系的に世襲される。従って、カトマンドゥ外から
やって来て、この都市に定住したサキヤは、→ p.19. いくら多くの世代を重ねようとも、自分の娘を選定に供す
ることはできない。また、バヒ < bahi> の成員であるシャーキヤの娘たちも除外される。バヒは、主として町外れに
あり、その成員たちは、他のシャーキヤとの内婚や共食を自由にできるが、僅かながら劣った地位を有すると
みなされているのだ。現在、在位中のクマリの家族は、カトマンドゥの下町にあたるジョール・ガネーシュ < Jhor
Ganesh>地区にあるオムバーハー <Ombaha>に住んでいて、父親は同地区にあるビカマバーハー <Bikamabaha>(ヴィ
シュヴァカルマーヴィハーラ <Visvakarmavihara>)の成員である。これまでの在位者のうち、二人のクマリが北部に
あるナガ・トル<Nagha
tol> の出身者であったが、それ以外の多くの者たちは、インドラチョーク <Indrachok> 近
辺の中央カトマンドゥにあるオムバーハー、チラムバーハー < Cirambaha> 、タハラムバーハー < Tahrambaha>、クマ
リ・ハウス(シェ < che> )真隣にあるシカムバーハー < Sikhamubaha> 、そして下町にあるラガンバーハー < Laganbaha>
の出身であった。
シカムバーハーは、帰属する成員から少女が選択される確率が高いことに加えて、パンチャ・ブッダ <Pancha
Buddha>を四人も輩出するという点で、女神との結びつきが極めて密接である。パンチャ・ブッダ(写真五)とは、
ヴァジュラチャーリヤ(グバージュ)・カーストに属する五人の僧侶のことで、例年のクマリ・ジャートラーで祭祀
を司るだけではなく、女神に関する様々な他の儀礼的職務を担っている。彼らパンチャ・ブッダを構成してい
るのは、二人のラージ・グバージュ <Raj Gubhaju> で、一人はシカムバーハー出身、もう一人は中央カトマンドゥ
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にあるサヴァルバーハー <Savalbaha> の出身であり、残りの三人は、シカムに属するグバージュである。ラージ・
グバージュは、世襲的に地位を保持していて、その起源はマッラ期に遡る。その当時、彼らは、王の権威を背
景に、ネワール族仏教徒の間で生じた紛争を静めたり、数々の儀礼的職務を実行したりしていた。今日でさ
え、そのような争議は、主として檀家(クライアント)に対する権利をめぐってのものであるが、大抵のものなら一
八人のバーハーの長たちの耳の届いている。長たちは、そういった数々の争議を、クマリ・シェ最上階の大会
合室で聞き及ぶわけだ( 6) 。シカム・ラージ・グバージュは、目下のところ七四人の男性成員を抱える父系リ
ネージの最長老成員であり、その成員のほとんどが、マル・トル <Maru tol>内にあるラージュキルティマハーヴィ
ハーラ < Rajkirtimahavihara> に居住している。クマリとの関係から言えば、このグバージュこそが、極めて重大な意
味を持っている。というのも、日々のプージャーやアガムでの特別なプージャーを遂行するだけではなく、新し
いクマリの選定と就任の際に重要な役割を果たすのも、このグバージュであるからだ。さらに、自分の属する
バーハーの成員の中から望ましいと思う者たちを、三人の補助パンチャ・ブッダとして、個人的に選択するの
である。これら三人のうちの一人は、クマリ・シェでプージャーを遂行する際に、このグバージュの補助係(ウ
パッドヤヤ <upadhyaya> )として働くのだ。
在位中のクマリが、資格喪失の徴表の何れか一つによって、もはや女神の聖霊が少女から抜け去りつつあ
ることを明かしてしまうやいなや、クマリの従者(クマリマー < Kumarima> )は、事の次第をバダ・グルジュ < Bada
Guruju>に報告しなければならない。バダ・グルジュを担っているのは、宗教的な問題に関する法律顧問として、
勅命を有するパルバティヤ・ブラフマン <Parbatiya Brahman>である。祭司は、王に伝え、その了解を得てから、王
宮付き占星術師に、新しいクマリの選定に縁起のよい日を決めるよう求める。その期日は、通常ならダサイン
の一か月前とされるのだが、何れにしろ設定されると、その告知がパンチャ・ブッダに送致されて、今度はパン
チャ・ブッダが、適格な少女のいるバーハーに属する長老たちに通告する。選定→ p.20.
委員会を構成する
のは、バダ・グルジュ、タレジュ寺院のアーチャージュー祭司、パンチャ・ブッダ、それに王宮付きの占星術師
である。彼らは、ハヌマン・ドカ <Hanuman Dhoka>内の一室で、少女を検分する。その際、女神に見受けられる三
二の美点( 7) についての一覧表が用いられることになっている。しかし、もっと単純で簡素な一覧表に基づい
て判断を下している、というのがほぼ確実な実状のようだ。最も頻繁に言及される特徴を、列挙してみるとこう
なる。健康優良で、なんら重病を特に疱瘡を患ったことのないこと、傷のない膚、黒髪に黒い瞳、体臭がきつく
ないこと、初潮を迎えていないこと、そして歯の損失のないことなどである。新生児なら以上のような要求すべ
てに適っているのだが、離乳を済ませ、歩行できる少女を選択するのが一般的である。実際のところ、選択さ
れる少女が、少なくとも二歳以上でなければならない、という意見を持っている者もいる。多分、離乳していな
い子供なら、母親から離されてしまうと、実務上の問題が生じるばかりか、クマリに求められる沈着さで振る舞う
などということはできそうもない。また、子供(選出された少女)には、その就任儀式の際も含めて、特定の公式
行事の折に、歩くことも要求されるのだ。選定委員会の成員たちは、身体的な徴表に加えて、少女の人格や
家族の世間一般での評判といったような事柄も検討するよう求められている。少女は沈着かつ恐れを知らぬ
性格の持ち主でなければならず、その家族は敬虔だという評判でなければならないのだ。三二の美点につい
ての形式的な一覧表は、(クマリの選考やその後の実務と)実際的な関連性があるようには思えない。このこと
は、美点の多くが成熟した女性にしか見られないものであるという点からして、明らかである。たとえば、四○
本の歯(抜けてしまった乳歯に加えて一揃いの永久歯)、獅子のような胸、菩提樹のような身体などがそれで
ある。実のところ、この一覧表にいおいては、クマリが、完全に成熟した女性として、(選出されるのが幼い少女
であるという外見上の様相ではなく)本来の、あるいは内的な形態で捕らえられていることは明白である−この
主題には、後ほど戻ることになる。
委員会は、すべての候補者が何らかの好ましくない特徴を示していることに気がついた場合、こうしたことは
- 20 -
滅多に生じないというわけではないのだが、そうした時には、理想に最も近い少女を指名することで、良い結
果に至れるよう期待することしかできない。(委員会が検分を済ませた)この時点で、占星術家が、選定された
少女のホロスコープを調べ、それが概して好ましいものであるかどうかだけではなく、王のホロスコープとも決し
て衝突するものではないことを検分する。この重要な検査に合格すると、バダ・グルジュ<Bada Guruju>が少女を
王宮へ連れて行く。そこで王が少女に一枚のコインを供する。それから、少女は自宅へ戻り、最終検査の時ま
で待機する。就任の公式儀礼が遂行されるのは、この後のことなのだ。信じ伝えられているところによれば、こ
の空位期間中に、クマリの聖霊はすでに、ゆっくりとではあるが、その少女に入りつつある。もしこの少女が何
らかの点で不相応であるなら、その身体には、三、四週間の間に必ずや否定的な反応が現れるのだ。
マハー・アスタミー < Maha astami> 、つまりダサインの「偉大なる八日目」は、ドゥルガーによる魔神マヒシャ
< Mahisa>の殺戮を祝う日である。カールラトリ <kalratri>、つまり「漆黒の夜」に、何百頭もの水牛、山羊、羊、鶏、
あひるが、国中にあるバガヴァティ <Bhagavati> 、ドゥルガー、タレジュ、その他の地母神の寺院で供犠される。し
かしながら、ドゥルガの勝利が再演されるのは、とりわけムールチョーク、→ p.21. つまり隣接したタレジュ寺院
へ至るハヌマン・ドカ内の小さな内庭においてなのである。夕暮れになると、魔神を表象する八頭の水牛が、
内庭の端にぐるりと立てられたポールに繋がれ、喉を切り裂かれて屠殺される。こうした屠殺方法をとるため、
水牛の鮮血は、バガヴァティ < Bhagavati>の祭壇目がけて高く噴出することになる。数時間後、真夜中になろうと
する頃、さらに一○八頭の水牛が、同数の山羊諸共、ムールチョークで屠殺される。そのすぐ後に、選出され
た幼いクマリが、その最終検査と就任式のために、入り口のところへ連れていかれる。(切断された)水牛の頭
部には、角の間に灯芯が点され、内庭を交差する列をなして配置されている。選定委員が待機しているのは、
こうした場所の階上のベランダなのである。いよいよ少女は、一人でということになってはいるが、おそらくは誰
か導き手と共に、入り口をくぐる。そして内庭の盛り土された端を、時計回りに歩くよう求めらる。こうしてやっと
少女は、恐ろしい八本手の女神の祠に到達することができるのだ。少女は、完全なる平静な態度を保ったまま
で、この祠に入らねばならない。すべてが首尾よくはこんだなら、タレジュ・アーチャージュー <TalejuAcahju>とそ
の補助祭司たちは、少女を一階へ連れ降り、そこで就任儀式用のアガムへと入る。アガム神は、聖なる水差し
(カラシュ<kalas>)という形態となっていて、その頂上に女性的な三角形の徴表が描かれている。
わたしは、就任の儀礼についての描写を得ることが出来なかった。しかし、その儀礼はパタン・クマリの就任
の際になされるもの − これは七五−七頁に描写してある − と類似しているに違いない。そう信じるに足る
根拠は存在しているのだ。そうだとしたら、続く儀礼は、本来なら、少女の身体からあらゆる過去の経験を除去
することで構成されることになるはずだ。その結果、少女の身体は、そこに入るべき女神の聖霊のために、完
全に純粋なる容物になるわけである。こうしたことは、儀礼を通じて、ゆっくりとなされる。少女が、適切な髪型、
ティカー・マーク、第三の目、赤い衣装、足指の赤いペイント、精巧な宝飾類などで、クマリとして完全に飾り終
えられ、その後ついに自らの玉座につく時になって、ようやくクライマックスを迎えることになる。儀礼に長い時
間がかけられねばならないのは、新しいクマリが、朝のおよそ四時、五時頃まで、ハヌマン・ドカを離れないか
らである。(その後)彼女は、大観衆に迎えられ、その後白い布の上を歩いて、公広場を横切り、公式の住居
へと向かう。
ヒンドゥー教の見地からすれば、ムール・チョークでなされた諸儀礼を以て、クマリの就任は完遂するわけだ
が、ネワール族の仏教徒にしてみれば、諸手続きの重大な部分にはいまだ至っていない。そして、この仏教
徒たちこそがクマリ崇拝者の大部分を構成しているのだということも忘れてはならない。仏教徒たちは、クマリ
がタレジュの処女形態であるという信仰に異議を差し挟むわけではないが、彼ら仏教徒にしてみれば、クマリ
は、さらに肝要なことに、ヴァジュラデヴィー <Vajuradevi>、つまりヴァジュラヤーナ仏教の主宰女性神格と同一化
されるのである。少女はムール・チョークからクマリ・ハウスへ戻って後、二階にある祠へと連れられて行く。そ
- 21 -
こで、二人の先達グバージュ僧が少女をヴァジュラデヴィーとして崇拝する。ヴァジュラデヴィーとは、チャクラ
サムヴァラ <Cakrasamvara>の性交相手であり、チベット仏教にも顕著に登場する恐ろしい多手神格のことなのだ。
→ p.22.
この時点で、わたしは、最初の選定手続きと就任儀礼との間に顕著なコントラストがあることを強調しておき
たい。最初の選定手続きの目的は、純潔な幼い処女、それも何よりも先ず、いかなる仕方であれ、いまだ出血
を経験したことのない処女を見つけ出すことであった。それにもかかわらず、就任式では、その場面そのもの
が血みどろの惨劇の一景となっており、少女に憑依すべく召喚された女神は、性愛的であると同時に残忍で
もあるのだ。
少女は、一旦就任してしまうと、自らが神聖なる者であるよりもむしろ人間であるということをはっきりと何か
徴表をもって示すまで、クマリであり続ける。最も確実なる徴は、出血である。歯の喪失、初潮、怪我、内出血、
何れによって引き起こされたものであれ、出血が最も明確な失格の徴とされているのだ。また深刻な疾病、特
に疱瘡も失格の原因となる。少女たちがその地位に留まるのは大抵が五・六歳くらいまでで、ほぼ共通して歯
の喪失によって失格に至るようだ。あたかも歯の喪失そのものが根本要因のように話すインフォーマントもいる
が、その反対に、出血がほとんど無い場合には、歯の喪失は大目に見られ得ると強調する者もいる。
一人の元クマリがいる。もう五六歳になる老いたお婆さんだ(写真六参照)。彼女がクマリの地位にあったの
は、三歳から一三歳までの一○年間であった。その彼女が話すには、自分の場合、クマリ在位中には如何な
る否定的な徴表も現れなかったという。にもかかわらず彼女は結局解任された。彼女が主張するように、不実
にも、でっちあげられた初潮を理由として。彼女の告白によれば、乳歯はすべて失ったのだが、何れの歯にし
ても、永久歯がすでにうまく生え出てきていて、出血も、目だった空隙も無かったそうだ。もう一人、カトマンドゥ
の元クマリの例を挙げよう。今や四五歳くらいだろうか。彼女の場合、一六歳までクマリの地位にとどまってい
たのである。そして、何と現在のパタンの在位者(写真一六、一七、一八参照)は、(一九八四年現在で)およ
そ三○歳なのである。
新しいクマリの就任式が済むと、先代クマリは、両親宅で四日の間、屋内にとどまるよう求められる。この間、
人々は彼女(先代クマリ)を崇拝しに来てもかまわない。彼女の世話は、家族の者がするが、四日目には、二
人のジャープュの女性がやって来て、彼女の髪を解き、最後のプージャーをする。次に、先代クマリは、クマリ
の装束を脱ぎ、宝飾類をすべて外す。簡素な衣服なら僅かながらも取り残しておくが、貴重な品目はすべて、
クマリマー <Kumarima> の保護下に戻さねばならない。さて、もう今や彼女は通常の家族成員とみなされている。
通常のライフサイクル諸儀礼、たとえば初潮のための一二日間の隔離などによる処置を済ませ、結婚がそのク
ライマックスとなる儀礼や交換へと進むよう求められるのである。しかし、当然のことながら、他者が彼女を普通
の人間として受け入れることにも、彼女がみずからに求められている全く新しい役割に適応することにも、幾多
の困難がある。人格形成期のかなりの時間、彼女は、強力な女神として取り扱われ、誰からも、王からさえも崇
拝されてきた。彼女はどんな気まぐれも − 新しい玩具が欲しいとか、遊び相手を呼んでほしいとか、あるい
は気に障る奴は排除してほしいといったような気まぐれでさえも − かなえてくれると思い込むようになってし
まったのだ。→ p.23. また決定的なことに、彼女は、自分を訪れる者は誰もが、たとえつまらない物であろうと、
何らかの供物を差し出すものなのだ、と期待すようにさえなってしまっているのである。確かに、こういった時期
が長く続いてしまったことが、ネワール族の妻という将来像に向けて、理想的な社会化を構成するとは言い難
い。母としてであれ、妻としてであれ、あるいは姉妹としてであれ、ネワール族の女性が有する地位は、大抵の
隣接するヒマラヤや北部インドの女性の持つ地位と比べれば、かなりましなものである(第五章参照)。しかし
それでも、その地位の主幹は、堅固に維持されている。つまり、奉仕と服従、特に夫に対する奉仕と服従に、
かなりの比重が置かれたものであることに変わりはないのだ。先ず(退位の)ほとんど直後に、この気高き幼い
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女神は、月経の隔離という侮辱を被らねばならない。次に、結婚するやいなや、彼女は、最も困難な局面を向
えることになる。うら若き乙女として、夫に仕え、崇拝しなければならないからだ。毎年、王をしてさえ、自らのの
足元に平伏させていた彼女が、今や自分の夫に対してそうしなくてはならないのである。
多少意外な感がするかもしれないが、元ロイヤル・クマリとの結婚は、最強の者を除けば、どんな男性諸氏
にも、不幸を招きかねない、とする信仰が広範に流布している。元ロイヤル・クマリの持つパーソナリティーに、
理想的な慎しい妻の姿を望むのはとうてい不可能なことだ。さらに加えて、こうした少女は、以前保持していた
力を幾分か残し持っている、とする信仰が根強く存在している。こうした次第は、元クマリたる者すべてが、そ
の余生を尽くして、ディヤ・メイジュ <dya meiju-ネワーリ>− つまり「神女」として話しかけられるということからして、
明らかである。こうして残存する力は、かなり強力なので、弱い夫なら殺されかねない、と言い立てる者たちも
いる。それゆえ、こんふうに考えられているのである。彼女たちが歩む共通した運命とは、早々にして未亡人
になってしまうというものなのだ、と。また、さらにもう一つ共通したステレオタイプがある。元クマリは、自身より
も低位のカーストに属する男性と結婚せざるを得ない、というのがそれである。現実はどうかといえば、ここ数
年で退位した一○人のクマリたちのうち五人が、自身と同じカーストの男性と結婚しており、これまでのところ
(自分たちに与えられた妻という)新しい地位に適応できているようだ。老年まで未婚婦人であったのはわずか
二人に過ぎず、ごく最近退位した少女が二人、同じく独身のままであるが、そんな状態が長く続くとは思われ
ていない。一九七四年現在で、五六歳になる元クマリの女性がいる(写真六)。実は、この女性がこれまでに
送ってきた生活ぶりこそ、流通している(元クマリに関する)イメージを形成するのに一役買って来たのである。
彼女が、クマリとして君臨していたのは、一○年間であり、三歳から一三歳までのことであった。そして(退位
後)、ついに彼女はサキヤの男性と結婚するに至ったのであるが、それは彼女が二五歳になってからのことで
ある。その五年後のことである。この間、彼女は二人の娘をもうけていたのであるが、夫は何か謎めいた病気
で、おそらくはガンで、亡くなってしまった。その後ほぼ一○年間、未亡人として暮らしてきたのだが、街の一
角で一杯飲み屋を営むというその生活は、誰から聞いても芳しいものではなかった。彼女は、こうした時代、派
手に着飾り、本当かどうか知らないが、多くの恋人がいると噂されていたのだ。結局は、シュレスタ・カーストに
属する商人の男性と再婚することになった。このカーストは、シャーキヤより一ランク下位であるが、まだ清浄で
尊敬に値するカテゴリーに類されるものではある。その結婚生活は、今も続いているが、彼との間には子供は
いない。わたしが彼女にインタヴューしたのは、一九七四年のことである。その際、彼女の力強いパーソナリ
ティーには、強く印象づけられた。元クマリというものが、普通の女性の生活に適応するには、多くの困難が伴
うということは、彼女自身もすでに同意するところである。実際、→ p.24. およそ三年前に、彼女の実の娘の一
人をクマリの選出に供してはどうか、という申し入れがあったが、その際彼女はきっぱりとこれを拒否した。ま
た、さらに最近のことであるが、孫娘の立候補も思い止まらせているのだ。
ロイヤル・クマリというものは、その在中、絶えず女神とみなされ、そうした者として取り扱われる。クマリは、
家族のもとを離れ、クマリ・シェ内に住居を定める − クマリ・シェは、バーハーという内庭風の地所内に構築
された堅固な建造物であるが、主要な祠を覆うパゴタ風の屋根は持っていない(写真七)。それは、三層構造
の建物で、その両側には神の祠が位置している(図一参照)。一階には、バーハー・タイプの祠があり、五つ
のタターガタ <tathagata>と保管区域を持つ。二階は、タントラ的な一対、ヴァジュラデヴィヴィーとチャクラサムヴァ
ラ < Chakrasmvara>を含む典型的なアガム祠部屋があり、その両脇には世話人とその家族の私室がしつらえられ
ている。さて三階は、クマリ自身の私室と三つの崇拝用の区画が別個にあつらえられている。それらのうち、一
つは専らロイヤル・プージャーや国家プージャー専用で、いま一つは通常の日常的なクマリ崇拝用であり、三
つめは私的なクラ イアン トに応じ るための特別なプージャー用のものである。クマリの堂々たる山車(ラサ
< ratha> )(写真八)は、主構造物に隣接した別棟の中に保管されている。ちょうど、現代的な郊外住居に隣接し
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てしつらえられる車庫のようなものだ。クマリがアガムへ入ることは、滅多にない。パンチャ・ブッダの一人が、
毎朝、ヴァジュラデヴィーに対してニティヤ・プージャーをするために入る場合でも、クマリはその外側で待っ
ている。クマリが入るのは、特別な行事の際だけで、たとえばかなりタントラ色の濃い形態のクマリ・プージャー
が遂行される場合などである。クマリの出席が求められる重要なアガム・プージャーに、ディシ・プージャー <disi
puja>がある。これは、年に二度、夏至と冬至の時に行なわれるものである。
先述したように、ヴァムシャーヴァリーによれば、クマリ・シェを建立したのは、ジャヤプラカーシャ・マッラだと
されている。これは美しい建物で、その窓、バルコニー、門戸には豪勢な木彫が施されている。ティムパヌム
(トーラナ <torana>)には、夥しい数のドゥルガーの彫刻があり、これこそは、幼い初潮前の処女と美しくも官能的
な地母神との同一性を示す十分にして唯一の証となっているのだ。他にも著しい特徴があって、幾つかのとて
も素晴らしい孔雀窓がそれである − この鳥、孔雀は、その昔より、処女クマリと独身王子にして戦士たるク
マールの乗り物として認知されてきたものなのだ。
現在、クマリマー < kumarima> を務めているインドラマヤ < Indramaya> は、およそ五○年にも渡って在職してきた。
この地位は、彼女インドラマヤが、夫の父親から受け継いだものであり、その父親も自らの姉ベティ・マヤ < Beti
Maya> を経てその母パンチャ・ラクシュミー < PancaLaksmi> から順番に引き継いできたものなのだ。パンチャ・ラク
シュミーの時代に至るまでは、クマリの世話を誰がするのかに関しては、決められた規定が全く無かった。どう
やら、クマリとなった少女たちの何れか一人の母親が、自らにわが娘の世話をする権利があるのだと主張し
て、政府に申請書を提出したらしい。ところが、その母親の訴えは認められず、→ p.25. ラナ・マハラジャ <Rana
Maharaja>は、パンチャ・ラクシュミーに対して、その家族が代々に渡ってその仕事を担当するとしたラル・モハル
<lal mohar>(宮殿からの法的証書)を与えたのである。
インドラマヤには大勢の家族がいる − 四人の既婚の息子とその妻たち、そして大勢の孫たちといった具
合だ。彼らは皆、クマリ・シェに住んでいて、この老女インドラマヤを助け、女神の世話をし、女神を慰めてい
る。毎朝、女たちの一人が、クマリを洗い、服を着せ、髪をシニョンに結い、額に大きなティカーを描き、第三の
目を付け、目の回りには黒いラインを引いて、それから専用の獅子の玉座(シムアーサン <simhasan>)に座らせ
て、日々の崇拝(ニティヤ・プージャー)に備える。この崇拝をするのは、タレジュ寺院のアーチャージュー祭
司である。祭司は、パンチャバーハーラー・プージャー <pancabahara puja>と称される簡単な浄化儀礼を行なう。こ
の儀礼を構成するのは、五つの供物であり、それら供物各々が対応する五つの感覚器官を一つずつ浄化す
るとされている。たとえば、耳には小麦粉、口は米、目は灯火、鼻は香、触覚には赤い粉といった対応関係に
なっているわけだ。また、祭司には一人の女性宮殿給仕人が随行していて、この女性がクマリにその日の最
初の食事(米、卵、凝乳)を給仕する。これに先立って、タレジュ・バーヴァニに、同じ食べ物を供えるのも、こ
の女性なのである。次に、クマリマー自身とおそらくは幾人かの家族成員が簡単な仕様で、菓子と花々を供え
ることによって、クマリを崇拝する。また、ラージ・グバージュ<raj Gubhaju>がやって来るのも、こうした時間帯のよ
うだ。彼も多少簡素な仕方でクマリを崇拝するようだが、その主たる義務は、アガムに入り、チャクラサムヴァラ
とヴァジュラデヴィーの像を崇拝することである。夕刻になると、ラージ・グバージュは、一階ではブッダに、ア
ガムではヴァジュラデヴィーに、そして玉座上のクマリに、簡単な献灯をする。
クマリマーは、女神の公式の委員と連絡しあって、必要とされる手配のすべてに責任を持つ。私的なクライ
アントのために、その自宅においててであれ、クマリ・シェにおいてであれ、クマリの崇拝を望まれれば、その
手筈を整えることは、彼女クマリマーの仕事となっている。従って、そうした行事すべてに先立って、少女が
服、宝石、記章を正しく着付けているかどうか確認しておかねばならない。彼女の報酬は、(金銭ではなく)物
的な形態をとる。というのも、彼女には、女神に供えられたものすべてに、その所有権が与えられていているか
らである。ただし、衣服や宝飾品といったような耐久物は除かれている。そういった物は、そもそもこの制度が
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相続する資産の一部となるよう意図して供えられた物であるからだ。(クマリマーの報酬となるものとしては)崇
拝者たちからの洪水のような供物だけではなく、さらに今日では、美しくも小さき少女をその窓辺に一目見よう
として、観光客たちが付け届ける寄贈品もある。
クマリの日課は、どのようになっているのだろうか。クマリを崇拝する訪問者たちのために、専用の玉座にお
よそ二・三時間座ること。世話人の孫たちと遊ぶこと。そして外国の観光客たちのために窓辺に立つこと。こう
いったことから構成されている。崇拝者の数は、毎日一○人から一二人くらいである。崇拝の仕方には、形式
的な必要条件は特に何も無い。寺院神格を崇拝する通常の仕方で、簡単な供物皿を持って来る者もあれば、
→ p.26.
もっと精巧な供物したり、経典を朗唱する者もいる。また、祭司を雇って、規模の大きな儀礼を行なう
者さえいる。帰依者たちの構成は、農夫から傑出した政府関係者に至るまで、ネパール社会の広範囲に及ん
でいる。すべての生けるクマリはネワール族の仏教徒カーストから選出されているわけだが、ロイヤル・クマリの
崇拝者たちの側には、多数のパルバティヤー <Parbatiya>のヒンドゥー教徒、特にシェトリとブラフマンが含まれて
いる。
クマリの崇拝者の中でも主要部分を占めているのは、出血に関する障害に苦しむ人々、特に月経障害を持
つ女性たち、慢性の出血に悩む人々、それに常習的に吐血する人々である。崇拝者の二番目のカテゴリーを
構成するのは、最近まで儀式に関与していた人たちである。というのも、儀式は、クマリ・プージャーで締め括
るのが望ましいとされているからである。実のところ、こうしたことは、どんな儀礼的行事にも当てはまるのだ。ク
マリ・プージャーで締め括らなければ、これまで為してきた全てのこと(儀礼行為)が、無力なものとなり、水の
泡になってしまうのである。しかしながら、実際に生けるクマリを崇拝できるのは、(儀礼)参与者のうちでごく僅
かにすぎない − 殆どの者たちは、イコンか像といったような、何らかの最も手頃なものにプージャーするだ
けで済ませているのである。特に失業あるいは降格を心配する人々も、ロイヤル・クマリに供物をしにやって来
る。時折りであるが、その中に、役人や大臣さえもが、見いだされるはずだ。さらに、もう一つの崇拝者カテゴ
リーを構成するのは、こんなことを信じている人たちである。クマリは、未来の出来事を予見する能力をもって
いるのだ、と。こういったことを信じている人々は、いわばクライアントとして、特に自らが企てた行動が成功し
そうか否かを予見してもらおうというわけだ。上述の諸脈絡の各々において、彼女クマリは、まさしくクマリとして
崇拝されているのであり、それゆえ強調されているのは、純潔な幼い少女としての役割なのであるが、ここに
至ってさえ何らかの両義性が必ず伴われているのである。こうした両義性(いわば対立項)は、ヒンドゥー教徒
にしろ仏教徒にしろ、私的に組織されたタントラ的な儀式に生けるクマリの出席を請う人たちの間にも、持続さ
れているのである。各行事の際、幼い少女は、何か他の女神、通常なら、成熟した美しく好色な女神の聖霊が
入るための適格な器あるいは容物として用いられる。ヒンドゥー教のタントラ的儀礼の場合なら、そうした女神
は、大概がシャクティかデヴィーの諸形態のうちの一つである。一方、ヴァジュラヤーナの儀礼では、女神は、
赤い裸身のヨーギニー <Yogini>あるいはダーキニー < Dakini>の一形態、特にヴァジュラデヴィーである場合が最
も多い。そうした儀礼において、特に崇敬されるのは、クマリから敷衍された十分に性愛的で創造的な能力な
のである。クマリは、肉体的には純潔な幼い少女であはあっても、性愛的な女性の持つ力をも負わされている
のである。
クマリは、崇拝のために自らの玉座に着いている際、どんな食物も飲み物も、肉、香辛料、アルコールも含
めて、何を供えられてもかまわないし、どんなものを受け取ってもかまわない。強力なるシュリー・ヤントラ・マン
タルがその上に描かれた聖なる座に着くことで、クマリは、女神と完全に同一化され、ゆえに大いなる力を持
つことになるからだ。しかし、日常生活の普通の日課においては、この力の幾分かは、クマリから抜け落ちてし
まっている − 女神であるとはいっても、ある部分では、クマリも弱さを持った人間的な自我(自己)を備えて
いるわけだ。ゆえに、クマリは、特に幼い場合は、日々の常食の際に、できるだけ危険から保護されるべく、そ
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の 食 事 は 香 辛 料 を 含 ま な い 食 物 ( サ ト ヴ ィ ッ ク ・ ボ ジ ャ ン < sattvik bhojan> ) だ け に 制 限 さ れ て い る よ う だ →
p.27.
− 特別な配慮のもと、ガーリック、玉葱、香辛料、アルコールは避けられている。クマリには、まかり間
違っても、地面を歩くことで汚穢の危険を冒すようなことは許されない。普通なら、戸外へ出る時は必ず、運び
上げられることが必要条件となっている。しかし、例年の祝祭のような大きな行事の場合、クマリは、一枚の白
い布を用いることで、特にその崇高さを尊ばれる。クマリは、この白い布の上を歩いて、自らの住居から山車へ
と向うのだ(写真一三)。クマリは、常に赤い衣装を着用していなくてはならない。この衣装、普段着用は綿製
で、特別な行事用になると錦織になる。また、髪は頭頂で束ねるよう手入れされていなければならないし、さら
には額に第三の目(アグニ・チャクチュ <agni chakchhu-ネワーリ>、つまり「火の瞳」)を付け、腕には黄金のブレスレッ
トをはめていなくてはならないのである。通常の日々の崇拝には、以上のものだけで十分だが、クマリの住居
(クマリ・ハウス)で行なわれるものであれ、外注によるものであれ、全ての特別なプージャーの際には、宝飾品
と装飾品の膨大なコレクションの中から精選品を身につけるのである(写真一三、一四。また詳細なリストにつ
いてはモーヴァンを参照のこと。)。玉座に着いている時、クマリは口をきいてはならない。同意、不同意を示
すには頭を動かして、それを伝えるのだ。
クマリは、女神であるのだから、自らの欲するところに従って行動するものとされている。従って、クマリの従
者たちが、時にはかなり気まぐれな行為に対処せざるを得ない羽目になるといったことは、十分に生じ得る。
個人が私的なプジャの遂行を望む場合、先ず会見を求めなければならない。次に、供物をしてから、クマリの
許しを乞うことになる。クマリが拒めば、それでお仕舞い。その人にできることといえば、多分、数日後にもう一
度試みることぐらいしかなかろう。聞いた話では、遊び相手は、クマリに従わなかったら、罰せられるのだそう
だ。しかしながら、気まぐれにも許容の限界というものがあり、それも相当に狭い範囲となっている。女神として
は不適切とみなされるような仕方で振る舞うことが絶えない場合、その時にはクマリマーか祭司の一人が、そ
の少女は不適切であると宣告し、新しい候補者を捜し始めるのである。少女が担っている女神としての地位が
どれほど重い意味を持っているかについては、こんなことからも明らかになる。つまり、クマリは、全知博識で
あって、それ故如何なる形式の教育も訓練も必要としない、とされているのだ。こうしたことは、伝統的には、少
女のその後の人生に何の重大な不利益も多分起こさなかったであろうが、今日では、重大なハンディキャップ
となり得ると考えられている。聞いたところによれば、少女は、実際には、読み書きに関して相当量の教育を受
けているようだ。クマリは、ディヤ・メイジュ <dya meiju>(神女)と呼称され、その個人名では決して呼び掛けられる
ことはない。また、誰かが、クマリの目や特にクマリ用にあてがわれた住居の窓を覗き込んだりしたら、その当
人は嘔吐したり出血したりする羽目になる、とされている。過度の月経出血や流産に悩む女性は、クマリの邪
視にさらされたことがあるとされ、それゆえクマリに供物をしなければならないのだ。
クマリとは、実はタレジュであり、ゆえに国家の守護女神である。こうした信仰があるために、王や政治家た
ちが、クマリ崇拝者の中で、主要な位置を占めることになっているのだ。王は、自らの力が女神に負っている
のだということを示すために、→ p.28. インドラ・ジャートラー <Indra jatra>の楽日に、クマリを崇拝しにやって来る。
また、新しい王は、その玉座に就くにあたって、戴冠式の際、必ずやクマリに敬意を払わねばならない。政治
家たちが女神を崇拝するのは、自分たちのキャリアが成功するようにと願ってのことである。しかし、日々の崇
拝者たちの中で大部分を占めるのは、出血、特に口や鼻からの出血に苦しむ人々である。崇拝者の三つ目
のカテゴリーとしては、儀式に最近参加した人たちがあげられる。儀式は、クマリ・プージャーで終えるのが望
ましいと考えられているのだ。このことは、ヒンドゥー教のブラタ・バンダ<brata bandha>(初めての髪切り)、仏教の
バレ・チュイエグ <bare chuyegu>(象徴的な僧侶へのイニシエーション)といった結婚以前の儀礼だけでなく、結婚
儀式そのものにも、当てはまる。こうした脈絡内では、クマリ・プージャーは、儀礼的な制約やタブーから参与
者を解放するという重要な機能を持つことになる。多少異なったカテゴリーとしては、複雑なヒンドゥー教あるい
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は仏教のタントラ的儀礼を遂行しようと望んでいる人たちのことがあげられる。そうした儀礼では、クマリ・プー
ジャーは不可欠な構成要素となっているのだ。しかしながら、そうした儀礼のためには、クマリが長期間、自ら
の住居を不在にする必要があるため、最も裕福で勢力のある人たちの中でも、ロイヤル・クマリの同意を得るこ
とに成功するものは、ごく僅かしかいない。それほど高貴ではないクマリ、特にヴァジュラーチャーリヤ・カース
トに属するクマリなら、大抵の場合、自身の住居であれ、寺院の外であれ、私的な役目のために、出席に応じ
てくれる可能性は高いはずだ。
ロイヤル・クマリは、年間を通じて数多くの重要な祝祭に出席を求められる。以下には、そうした祝祭を列挙
しよう。
1.一二月下旬か一月初旬の満月の八日目の夕刻、高い人気を誇る憐れみの小さな白き神セト・マチェンドラ
ナートが、その祠から中央カトマンドゥのバーハー(ジャナバーハー <Janabaha>あるいはカナチャイティヤマハー
ヴィハーラ < Kanakacaityamahavihara>)へと連れ出される。マチェンドラナートは、着ている衣や付けている宝飾をす
べて取り外され、次に大きな器に数杯分の水を頭上から注がれて洗浄される。こうした印象的な浄化儀礼は、
バーハーの内庭の一角に盛り土をしてしつらえられたプラットフォーム上で執り行われ、それを大勢の興奮し
た見物人の群衆が取り囲んでいる。神が祠からプラットフォームに運ばれるや、ロイヤル・クマリが男性従者の
肩に担がれて、内庭へ連れて来られ、寺院のベランダの一角に用意された座席に着く。この席から、クマリ
は、マチェンドラナートの洗浄を見物できるのであり、また機会を窺っていた人々の供物や敬意を受け取るの
である。群衆のほとんどは、(洗浄という)主たる行事にその関心を奪われて、クマリには見向きもしない。しか
し、三○分もすれば、個々人は間断の無い流れとなって、クマリを崇拝する。また、そのためにクマリも出席し
ているわけだ。クマリは、自宅(クマリ・ハウス)からジャナバーハーに連れて来られているわけだが、帰りもその
時と同様、渡し棒の上にしつらえられた天蓋付きの玉座に乗り、六人の男たちに担がれて連れ戻される(その
場面を撮影したのが写真九である)。その距離は僅か半マイルほどなので、男たちが徐行しているといっても、
クマリが路上にいるのはごく僅か数分のことでしかなく、何が行なわれているのか、気づかない見物人さえいる
のだ。
2.ミラ・プニ < Mila Punhi> つまりマグ < Magh> の満月の始まる日(→ p.28.
また、スワスタニ・プルニマ< Swastani
Purnima> としても知られ、通常ならおよそ一月中旬にあたるマグの一二日目)に、神ナーラーヤン < Narayan> は、
チャング <Cangu>にある歴史的にも有名な自らの丘上寺院から、カトマンドゥのハヌマン・ドカへと運ばれる。チャ
ングはバドガオンの北西約二マイルのところにあって、そこからこの神は、その首を、彫刻の施された銀の水
差しという形態をとって、運搬人たちに連れ出されるのだ。神がカトマンドゥに到着する夕暮れ頃までには、帰
依者たちが大きな行列をなして付き従っており、それをハヌマン・ドカに属する王宮付きの祭司からなる軍隊
的な分遣隊が先鋒している。
「パレードは、ハヌマン・ドカにあるタレジュ寺院の閉じた門の前で止まる。クマリ、つまり生ける女神による出迎えを待って
いるのだ。この女神は、すぐ隣にその住居を構えている。人々は、周りに押し寄せ、『ナーラーヤン、ナーラーヤン、ナー
ラーヤン』と叫びながら、熱烈に崇拝する。その間、特定の宗教儀式が、燃え立つ松明に照らされて、行なわれている。間
もなく、小さな楽団が到着する。その中心には、従者の腕に抱えられたクマリがいる。従者は、クマリを、ナーラーヤンの像
の近くにしつらえられた低いベンチに着席させる。彼女は、ここから、その丸くてエキゾティックな眼で、崇拝している見物
人の群衆を見つめるのだ。ついに、タレジュ寺院の門が開けられる。ナーラーヤンが素早く内側へと連れ入られると、礼砲
が鳴り響く。クマリは、その住居へと連れ戻されるが、僧侶の軍楽隊は、ハヌマン・ドカの門をくぐって、行進する」
- 27 -
[Anderson, p.229.]。
3.馬の祝祭ゴーダ・ジャートラー<Ghoda jatra>が開催されるのは、チャイトラ<Caitra>の暗き月の二週間の一五
日目(三月下旬か四月上旬)である。この祝祭は、競馬、自転車競争、それにタンディケル <Tundikhel>で開催さ
れる行進やパラシュート降下のような軍事的見せ物で構成されている。様々な民族の混じりあった膨大な数の
群衆が繰り出し、王やクマリも出席する。王と外国の高官たちは、地所の一端にしつらえられたロイヤル・スタ
ンドで、クマリはもう一端にある専用の小さなスタンドで見物することになっている。あるインフォーマントが示唆
してくれたところによると、クマリの出席は、もっと古い時代、おそらくはマッラ王朝の時代からの名残であると
いう。その当時、(この祝祭の)主たる特徴は、馬に跨がったラージ・クマリ( 8) が、王やその家来を引き連れ
て、近くにあるバドラカーリ < Bhadrakali> 寺院を訪問することにあった。また、別のインフォーマントは、クマリがタ
レジュ・バヴァーニとしての役割から、競争に出席していたのだ、教えてくれた。ゴーダ・ジャートラーについて
の最もポピュラーな起源説話では、タンディケルは、かつて肥沃な農地であったとされている。しかし、農夫た
ちが失踪し始めると、人々はこの地を恐れるようになった。王は困惑し、タレジュに訴えた。すると、女神が王
の夢の中に現れ、こう話した。その地は、タンディ <Tundi>と呼ばれる魔神の住み処であり、農夫を殺戮したのも
この魔神なのだ、と。魔神が死を迎えた時、人々はその胸の上を馬に跨がって駆けたのだった。現代の競馬
は、タンディをその場所に留めておくために行なわれているのであり、タレジュとしてクマリが出席するのは、彼
女こそが王に魔神を祓い除く方法を忠告したからである( [Anderson, pp.266-7, and Sayami, 1972, p.39.]を参照のこと)。
→ p.30.
4.クマリが再びセト・マチェンドラナートと相見えるのは、この神の山車(ラサ)祝祭の時である。その祝祭は、
チャイトラ(四月)の明るい半月の八日目から一一日目にかけて行なわれる。初日、クマリは、ジャマラ <Jamala>
あるいはトリ−チャンドラ大学 <Tri-Chandra College>近くのティンダラ <Thindhara>に連れて行かれ、山車の引き始めを
見物することになっている。マチェンドラナートは、この時、アサン・トル <Asan tol>へ連れて行かれる手筈になっ
ているのだ。翌日、マチェンドラナートは、宮殿域内にあるカーラ・バイラヴァ <Kala Bhairava>寺院へ連れて行か
れる。しかし、クマリは、自居に留まっている。それでも、自居の窓から、この行列をできる限り見ようとするの
だ。三日目、山車は、カトマンドゥの下町(コネ <kone>)を経て、ラガン・トル <Lagan tol>へと引かれる。そこへは、ク
マリも連れ出されていて、樹下にしつらえられた玉座から、その様子を見学し、敬意を受ける。四日目及び楽
日には、マチェンドラナートは、ジャナバーハー <Janabaha>にある自らの住居へと引き戻されるのだ。
5.グラ <Gula-ネワーリ>(八月下旬)の満月の第二日目。この日、カトマンドゥにあるバーハーとバヒは、所蔵する聖
像、経典、旗を陳開する。クマリも連れ出されて、装飾された輿に乗り、これらを見て回る。
6.バードラ <Bhadra>(九月)の満月の一二日目。この日には、ハヌマン・ドカの外側で、旗竿が立てられる。この
行事が、インドラ・ジャートラーの開始を告げることになる。クマリは、ガネーシュ <Ganes>とバイラヴァ < Bhairava>と
共に、ムール・チョーク <Mulchok> へ連れ出され、タレジュを御守りしているアーチャージュー祭司によって崇拝
される。
7.その二日後、つまりバードラーの一四日目、クマリ・ジャートラーが始まる。その際、何千もの人々が、クマリ
の自居の前にある広場に集まる。三台の巨大な古式ゆかしい山車(写真一○)が通りの縁で待機している。一
台はクマリの山車であり、後の二台は男性従神たるガネーシュとバイラヴァの山車である。通りでは、楽団が演
- 28 -
奏し、仮面を付けた踊り手たちが跳ね回っている。内外の高官たちが、クマリ・シェの対面にある旧官庁のバ
ルコニーに整列している。王と妃がバルコニーに現れるやいなや、クマリは自居から自らの山車へと、凄じい
興奮の中を歩み出す(写真一三)。クマリは、自らの持てる最も壮麗なる宝飾類を身に着け、自らのグティ
<guthi>の男性成員に取り囲まれている。彼女が座を占めるのは、美しく装飾された寺院のミニチュア(山車のこ
と)である。クマリに続くのは、ガネーシュとバイラヴァである − クマリほどではないにしても、ほぼ同程度に着
付けられ、飾られている。この二神も、各々専用の山車に据えられるのだ。
クマリの山車の軛上で一頭の山羊が供犠されると(これは危険なバイラヴァを宥めるためである − 写真一
一、一二)、行列は、礼砲を合図に、ゆっくりと動き出す。クマリ(クマリの山車)が高官たちのいるバルコニーの
下で停止すると、王は彼女に御辞儀をする。一方、クマリは神々しく一瞥を返す。それから行列は、カトマン
ドゥの下町の街路へと立ち去って行く。そこでは、さらなる大群衆が待ち構えていて、三神を迎えるのだ。その
翌日、つまり満月の日には、行列は、再び繰り出し、今度は北部カトマンドゥの街路を通過する。→ p.31. 行列
がハヌマン・ドカに戻る頃には、もう夕刻になっている。その際、行列は、大きな青い姿をしたアカーシャ・バイ
ラヴァ <Akasa Bhairava>の近くや、宮殿の壁に掲げられたセト・バイラヴァ <Seto Bhairava>の巨大な仮面の前にも停止
する。二つの仮面の口からはビールが流れ出ていて、クマリとその従者たちが、グラス一個と一皿の供物を供
え終ると、群衆が、この聖なる御神酒を味わおうと、我先に殺到する。
三日後は、ナイニチャ・ジャートラー <nainicha jatra>として知られるインドラ・ジャートラーの楽日である。この日、
山車はカトマンドゥのキラガール地域を巡回する。広く信じられているところによれば、この日の行事は、ジャ
ヤプラカーシャ・マッラ <Jayaprakasa Malla>が、追加した特別な日なのである。ジャヤプラカーシャは、この地域に
住む自分の妾の一人が女神を見れるよう、こうして追加設定したのだとされている。行列がクマリ・シェに戻っ
て来ると、三神は、各々の山車から降ろされ、その住居の前に立つと、タレジュ祭司がラサ・クサ・プージャー
<lasakusa puja-ネワーリ>を遂行することで、迎え入れられる。次に、三神は、内へ連れ入れられ、王の到着を待つ。ク
マリは、国家の迎賓室内にある専用の獅子の玉座に着く。すると、従者たちが、クマリを孔雀の羽の扇で仰ぐ。
ガネーシュとバイラヴァは、隣接した部屋へ連れて行かれ、窓際に座り、彼らもまた仰いでもらう。間もなく、通
常なら午後七時頃であろうか、王が到着する。王は、先ずクマリを崇拝すべく、自らの額で、クマリの赤く塗ら
れた足指に触れ、一枚の金貨を供える。クマリは、返礼として、王にプラサーダ <prasad>を授ける。これは、赤い
テイカー・マークを王の額に置き、花輪を首にかけることで行なわれる。次に、王は同じ仕方で二人の男性神
を崇拝するが、この場合は、供えられるのは普通貨であり、平身低頭もしない。王がいなくなってしまうと、そう
はいってもその到着後から僅か七、八分しか経っていないわけだが、大群衆がクマリ・ハウスの門扉に押しか
けて来て、内側へ入ろうと先を争う。群衆は、クマリに供物をし、またティカーという形でクマリのプラサーダを
受け取ろうとしているのだ。長い列が、夜遅くまで続く。その頃には、この祝祭も、とうとう終わりを迎える時が来
たのであり、その徴として、宮殿の外側に立っていたインドラの旗竿も降ろされてしまうのである。
8.アーシュヴィン <Asvin>(一○月初旬)の満月の五日目、クマリは外出して、ハヌマン・ドカの門のところで、パ
チャリ・バイラヴァ <Pacali Bhairava>と落ち合う。パチャリとは、多くのバイラヴァの中でも、最強にして、最も人気の
高いバイラヴァである。パチャリの屋外寺院は、旧カトマンドゥの真南、トリプレスヴァラ < Tripuresvara>とカリマティ
<Kalimati>の間を流れるバガマティ <Bagmati>川の近くにある。アーシュヴィンの四日目は、実はダサインの期間に
あたり、この日は、神を表象している聖なるカラシュ kalas> が、その年の当番になっているジャープュの農夫
の家から、川岸にあるパチャリの寺院へと持ち出される。翌日の夜遅くまで、パチャリはここに留まり、絶え間な
く続く流れをなした帰依者から、供物を受け取るのだ。帰依者たちは、楽団を伴ったり、様々な種類の贈り物
を携えてやって来る。贈り物の中には、たとえば肉、ライス・ビール、無数の山羊や鶏の血などが含まれてい
- 29 -
る。その後、真夜中頃になると、大勢のしかも興奮した群衆がやって来て、先ずはガネーシュを、次いでアジ
マー <Ajima>を歓迎する。ガネーシュは、カサイ太鼓 <Khasai drum>の上に乗せられ、小さな像として、連れ出され
ており、アジマーの方は、銀の器として持ち出され、一人のジャープュに抱えられている。これらの聖なる表象
物を抱え持つ男たちは、二人とも、ガネーシュとアジマーの各聖霊に各々憑依されていると信じられている。
→ p.32.
群衆は、ガネーシュをパチャリ・バイラヴァの息子として、アジマーを同じく妻として迎えるのだが、ア
ジマーはガネーシュの継母とされていて、実の母親ではない。何度もの荒々しい揺さぶりや叫びの後、とうとう
大きなパンチャ・バイラヴァの瓶(水差し)は、寺院の平土間から、およそ一○人の男たちによろめきつつも頭
上高く支えられて、登場する。次に、行列が組まれて、パチャリとバイラヴァを、旧カトマンドゥ経由で、旧宮殿
前のハヌマン・ドカ広場へと運ぶ。アンダーソンによれば、またわたしのインフォーマントも確認していることだ
が、通常の手続きとして、この次には、規模の大きなプージャーが、以下のような次第で遂行される。
「数頭の山羊と水牛が供犠され、その血は、バイラヴァ、クマリ、そしてその他の血に飢えた神々の衣装を纏った演者が
飲む。供犠用の動物は、ネパールの王の名の下に政府が提供する。これは古代よりの慣わしに従って為されることであっ
て、その昔ならネパール王自身が直々にそうした儀式へ出席していたのである」 [Anderson, p.163.]。
わたし自身が居合わせたのは一九七三年のことで、その際の行事は至って簡素になってしまっており、供犠
など全く行なわれなかった。聞けば、こうした事情には理由があって、国家が王マヘンドラの崩御に対して、ま
だ公的な喪中に服しているからだという。行列が広場に到着するのは午後一時二○分であるが、そのおよそ
五分前になると、クマリ付きの若い男性従者が、その肩にクマリを担いで、クマリ・ハウスから現れる。二人の幼
い従者がそれに続く。男性従者は、クマリを、ハヌマン・ドカの外側にある遮蔽されたテラスへと連れ上げ、簡
素な木製の椅子にかけさせる。クマリの到着を目撃できる者は誰もいない − 実際、内庭は無人で静まり返っ
ているため、重要な行事が進行中であることなど一切わからないのである。クマリ(写真一)は、その適切な髪
型に結われ、第三の目を付け、黄金の蛇のネックレスをはじめ幾つかの装飾品 − クマリ自身の祝祭日と比
べればずっと少ないのだが − を身に着けている。年齢およそ一三歳と八歳の少女が二人、クマリの椅子の
背後に立つ。若い男性従者が、美しい銀のカラシュと小さな器を、クマリの足下に置く。それから、次の五分
間、およそ五○人の人々が宮殿の門近くに集まり、パチャリ・バイラヴァを迎える。これら主として老年の男性
たちの約半分が、クマリに敬意を表すべく、数枚のコインを彼女の両手に置き、次に自らの額でクマリの足に
触れる。若い従者が、頃合いを見計らっては、クマリの両手からコインを取り出し、それらを足元の器に入れ
る。そうこうするうちに、突如として到来したアジマーとパチャリ・バイラヴァは、荒々しく広場を横切り、宮殿の
扉へと辿り着く。そこでこの二神は、辺りを揺れ周り、旋回し、再び数度揺れ荒れる。こうしたことは、クマリの真
下、ほんの数フィートのところで為されているのだが、何の明確な接触も無く、何れの神にも気づかないのであ
る。二神が立ち去る直前には、再び旧式歩兵銃が大きく鳴り響いたのだが、クマリは全く動じなかった。その
理由を、私は知っている、私は見たのだ。男性従者が素早くクマリの両耳を覆うのを。パチャリとその従者が
ジャープュの家屋へ戻るべく立ち去ってしまうと、若き従者はクマリを抱き上げ、ほんの数ヤードしか離れてい
ないクマリ・ハウスへと連れ帰る。二人の少女従者たちが、椅子、カラシュ、器を持って、後続する。さらにその
後を、四人の老年男性が、ちょっとした行列をなして、トランペットを奏でつつ、続くのだ。→ p.33.
どうしてクマリがこの特殊な儀式に出席しなければならないのか、これについては、インフォーマントたちも、
どうもはっきりしない。何人かの者たちが、こうし示唆してくれた。つまり、クマリは、タレジュの生ける形態とし
て、そしてそれゆえに王の腹心の友として、神々が宮殿の門へと連れてこられた際には、必ず居合わせるよう
求められているのだ − こうしたことの別の事例としては、クマリによるチャング・ナーラーヤンの歓迎が挙げら
- 30 -
れる。しかし、別様のさらにもっと可能性の高い説明がある。すなわち、クマリは、パチャリ・バイラヴァとタレ
ジュ・バヴァーニの娘として出席しているのだ、というのがそれである − この関係は、クマリ・ダンスの中で、
劇化されている [Sayami, pp.14-15.]。クマリ、バイラヴァ、そしてガネーシュの三神間の、これに類似した密接な関
係は、クマリ・ジャートラーの際、三神全てが各々の山車を連ねてパレードすることにおいても、明白である。
確かに、パチャリは、局所的な神格ではあるが、ガネーシュの父親として表象されているし、古典的なヒン
ドゥー神話においても、そのタントラ的形態がバイラヴァとなるシヴァは、これまたガネーシュの父親なのであ
る。
9.カールラトリ <kalratri> 、つまりダサインの大いなる八日目の「漆黒の夜」には、一○八頭の水牛と一○八頭の
山羊が、国家の主催のもとで、屠殺される。その場所は、中央カトマンドゥにある旧ハヌマン・ドカ宮殿内の
ムール・チョークである。このムール・チョークは、タレジュ寺院の真隣にあり、サプタミ < saptami> からダシャミ
<dasami>に至る重要な四日間の供犠日の間、女神のシュリー・ヤントラ・マンダル <sri yantra mandal>が保管される
場所でもあるのだ。動物たちは、不可触のネワール族仏教徒カサイ <Khasai>たちによって屠殺されるのだが、こ
の間、中庭の端あたりにぐるりと据えられた石柱に繋がれている。カサイたちは、喉を切り裂くので、動物たち
は、身体に長々と痙攣を起こしつつ、ゆっくりと死を迎える。頸静脈から、血が細い流れとなって、間断なく溢
れ出るのだ。次に、彼らカサイたちは、頭部を切断し、それらを引きずって、中庭を回ってから、一階にあるア
ガムへと運ぶ。タレジュへの供物となるわけである。
次の夕刻(ナヴァミ < navami>)、九人の幼いシャーキヤの少女と二人のシャーキヤの少年が、クマリの住居に
おいて、ガナ・クマリ<Gana Kumari>、ガネーシュ及びバイラヴァの役割を果たすべく準備を整えられる。彼ら、彼
女らは、ごく僅かの宝飾類を身に着け、特に少女たちの方は、髪と顔をクマリ・スタイルに化粧される。次に、
少年少女らは、行列をなして、ダーバー広場を横切り、ムール・チョークへと連れて行かれ、その上階の部屋
で、アーチャージュー祭司に崇拝されるのだ。その後、クマリ・シェに連れ戻される。しばらくすると、今度はロ
イヤル女神(ロイヤル・クマリ)が敷布の上を歩いてムール・チョークへと向かう。女神は、アガムへ連れられて
行き、水牛の頭が並ぶ中央に席を取ると、そこでアーチャージュー祭司に崇拝される。しかしながら、遂行さ
れる儀礼に関しての詳細は一切得ることができなかった。アガムには、タレジュ祭司たち以外、誰も入ることが
できないからである。
ここで再び、女神に備わる両義的な性質が明らかになる。クマリは処女なのだから、彼女に対して血の供犠
は一切為されてはならないはずだ。とりわけ、クマリが仏教徒神格として崇拝される場合は、禁止事項になっ
ている。しかし、クマリが担う、強力な地母神の生ける形態としての「内的な」役割においては、→ p.34.
クマリ
は、自らの名の許に殺される犠牲獣の生暖かい血でしか満足しないのである。このことは、クマリが、タレジュ、
ドゥルガー、カーリー、カウマーリー、あるいはバル・クマリのような本質的にヒンドゥー的な神格と同一化されよ
うとも、また、仏教的なヴァジュラデヴィーやヴァジュラヨーギニーと同一化されようとも、等しく当てはまることな
のだ。こういった神格は全て、ネワール族の用語では、ムワーヒ・ディヤ<mwahi dya>− つまり、生きているもの
(ムワー <mwa>)の血でしか満足できない神々 − なのである。カールラトリの夜、クマリは、大量の供犠の場へ
と連れ出され、血まみれの動物の頭が連なる円環の中心に座らされる。この間、クマリを崇拝するのは、アー
チャージュー − 大概の供犠を仕切る、低位カーストの司祭 − である。しかしながら、動物たちは、直接ク
マリの名の許に供犠されるのではない。むしろ、謎めいた、姿を持たないタレジュのために供犠されるのであ
る。さらにまた、クマリは、屠殺の現場に居合わせるのではない、ということも付言しておこう。
翌日の朝(ナヴァミ < navami> )、クマリの所有物だとされる一頭の馬が、宮殿内に住む一団の女性たち(ラク
ニー < lakhuni> )によって崇拝される。年間を通じて、この馬は、宮殿の中庭で自由に放し飼いにされていて、そ
- 31 -
の毎日の飼育費は、政府のグティ事務局によって供給された基金から賄われている。ナヴァミの日に馬が崇
拝されるのは、一般的な実践に準じてのことであって、人々は皆誰もが、乗り物、道具、楽器、他の実用的な
器物に供物をするのである。それゆえ、同じ理由から、クマリの山車や可動式の玉座にも供物がなされるの
だ。
では、どうしてクマリは馬などというものを所有しているのか。わたしのインフォーマントの中には、このことを
説明できるものは一人もいなかった。ただ、元ラージ・グバージュの息子が示唆してくれたところによると、この
ような馬が存在しているのは、生けるクマリの確立よりも古いことらしい。実際のところ、馬はタレジュに属してい
るのであって、タレジュが初めてネパールにもたらされた時から、そうであったのだ。この馬が、公の前に姿を
現す行事がもう一つある。つまり、クマリが、ゴーダ・ジャートラーのために、タンディケルに連れ出される時、こ
の馬はクマリに随伴し、レースの際には、彼女のすぐ隣に立っているのだ。
パタン・クマリ
このクマリ(写真一五)は、かつてはパタンのマッラ王の守護神であった。特に彼女自身の街においてなら、
かなりの重要な意義を今なお保っている。実際のところ、ライトのヴァムシャーヴァリーが正しいとするなら、こ
のクマリは、最古のクマリであって、一一世紀のラクシュミカーマデヴァの時代にまで遡れることになる。しか
し、わたしのインフォーマントたちは、この君主の名称には言及しない。その代わり、このクマリの崇拝の起源
をシッディナラシマに帰すのである。シッディナラシマとは、最初にタレジュ寺院を建立した、一七世紀の支配
者のことである。広く知られている説話があって、それには、タレジュとしてのクマリが、宮殿内のアガムで、シッ
ディナラシマと語り合っていた経過が物語られている。シッディナラシマは、タレジュの忠告に従って王国を治
めていた。そんなある日、二人がトリパーサー(賽遊び)に興じていると、それを妃が鍵穴から覗き込んだので
ある。妃は王に不平を漏らしたところ、これを女神が聞きつけ、王にこう話した。もうこれ以上宮殿に来ることは
できない。何となれば、疑念の目で見られているのだから、と。シッディナラシマは不安げに、女神に求めた。
女神が何か別の姿をとれば、何とか会い続けることができるのではないか、と。女神は、→ p.35.
幼い少女の
身体に宿りましょう、と答えた。しかし、その両親は、穢れた、品位の低い職業に就いていることになっている。
シッディナラシマは自ら、そうした家族を捜し求めた。そして、王は選び出したのだ、ドゥシャーというヴァジュ
ラーチャーリヤ・カーストの区分に属する者を。ところが、やはりその成員たちたるや、がらくたから金粉を集
め、それを溶かして作り直すということを生業としていたのであった。
こうした内容の説話は、三都の何れにおいても語られていて、ほとんどのヴァージョンにおいて描写されて
いるように、女神がその身を宿すとして選ぶ少女はシャーキヤ・カーストに属している。しかも、このカーストが
選ばれる理由は、伝統的なヒンドゥー教の見地からすれば、その成員が下品な低い地位を有するからとされ
ている。シャーキヤ・カーストは、神ヴィシュヌを象徴する金を溶かす者として、理論上は不可触民に分類され
ているのである。実際ここでも、ドゥシャーの仕事は、殊のほか穢れているとされている。彼らドゥシャーは、塩
剤と硫黄を用いて金と銅を分離するという職業を生業としているのだから、この(ヒンドゥー教の)原理を乱して
いるわけだ。タレジュ・クマリの説話が意図しているのは、それゆえ、女神に対して色欲を抱いたかどで罰せら
れる者として王を描写することであろう。ところが、ネワール族の間でなら事情は異なる。シャーキヤもヴァジュ
ラーチャーリヤも、高位に序列される仏教徒カーストとして、高い地位を与えられているのである。シャーキヤと
いう地位に備わる、こうした御都合主義的な矛盾に訴えかけることで、(女神から課せられた)難題は解決され
ている − つまり、王は、女神の要求に従うわけだが、(選ばれたカーストが仏教的には高位であるため)汚穢
- 32 -
の危険からは救われるているのである。しかしながら、どうして女神がそのような要求をしなければならなかっ
たのかについては、それほど容易に答えられない。説話中で描かれている王のディレンマには、優勢な仏教
徒住民の臣従義務を獲得するに際して、伝統的なヒンドゥー教徒の支配者が経験することになる困難が反映
されているのかもしれない。しかし、わたしの考えは、少し異なる。ところで、クマリ信仰は、それ固有の矛盾を
数多く孕んでいる − たとえば、成熟し性愛的に魅力的なタレジュが幼い処女という形態をとること、血に飢
えたドゥルガーが、クマリという形態をとった場合には、供犠をなされてはならないこと、幼い初潮前の少女が
永久歯を全て持っていること、そして王が低位カーストの生ける女神を崇拝しなければならないこと。実は、こ
ういったこそが重要なのであって、説話中の王が経験する困難も、こうしたクマリ信仰が固有に抱える矛盾の
一つに数えあげられるべきものなのではないのだろうか。こうした外見上の諸矛盾は、タントラ教のまさに本質
をなすものでもあるのだ。
パタンのドゥシャーはすべて、ガバハル <Gahbahal>地区にあるハワバーハー <Hawbaha>の成員である。このバー
ハーは、かつてはマンガル・バザールの宮殿地域内に位置していた。ところが、シッディナラシマは、自らの宮
殿を拡張すべく、この地所に目をつけた。その際、成員たちは、ガバーハー内の新しい小区画を王に保証し
てもらったのである。一九七四年現在、バーハーはおよそ一七○人のイニシエーション済の男性成員を抱え
ていて、その成員は、東部低湿地帯にあるダラン < Dharan> に居住するシャーキヤの一所帯を除けば、全員が
ヴァジュラーチャーリヤである。
パタン・クマリは、こうしたハワバーハーに属する男性の娘から選ばれる。以下に描写される選定手続きに
ついて教えてくれたのは、一九四六年から一九五一年にかけて在位していた少女の父親である。前任者が不
適格とみなされたのは、およそ一二歳の時であった。幾つかの醜い徴候が、その少女の顔に現れたのであ
る。一報は、→ p.36.
パタンの行政システムに属するチェバデル <chabhadel>部のハーキム <Hakim>に送られた。
ハーキムとは、旧マッラ体制から残存している役職の一つで、ごく最近に廃止されてしまうまで、世襲の在職者
が務めていた地位であり、数々の儀礼に関する業務を実行していたのである。マッラ朝時代なら、この地位に
ある者は、王国内でも最も権勢を振るう男性の一人ということになっていただろう。さて、そのハーキムは、ハワ
バーハーにやって来て、少女の様子を見極めると、不適格を宣言した。そうしたうえで、間をおかず、地方中
にこうふれて回った。適格な少女は全て、バーハーに連れられたし、と。(この事例の際には)二○人の少女た
ちがやって来た。(選考に際して)彼女たちは、入り口のちょうど右側にある盛り土されたプラットフォームの上
に座った。そこで、デオ−ブラフマン・カーストの者が担っているタレジュ付きのムルプジャーリ < Mulpujari> (「主
任司祭」)(9) が、証人としてのハーキムとともに、少女たちをカーストごとに検査する。少女たちの母親への尋
問やら、身体的な検証やらを経て、ムルプジャーリは、候補者を四人にまで絞り込む。選定の基準は、理論的
にも、実践的にも、カトマンドゥ・クマリの場合と同じである。次に、ムルプジャーリが、最終選考のために、四人
の少女を、カトマンドゥにいるバダ・グルジュ<Bada Guruju>(王宮付司祭)の所へ連れて行く。先ず最初に、バダ・
グルジュの妻が、少女たちの身体面を検分する。その結果さらに二人の少女が失格とされた。さて、バダ・グ
ルジュは、二人の男性補助祭司(アシスタント)に、二人の少女をどう考えるか尋ね、しばらく協議してから、わ
たしのインフォーマントの娘を推薦した。さらに簡単な検査を済ませて後、バダ・グルジュは、その少女が次の
クマリであると宣言するに至ったのである。
新しいパタン・クマリの就任にとって理想的な時節されているのは、ダサインのマハー・アスタミー < maha
astami>であるが、王宮付き占星術師が別の吉日を命じることもある。四月あるいは五月に行なわれるマチェンド
ラナートの祝祭に出席するクマリがいないなどという災禍を避けるために、必要とあれば、こうした措置が取ら
れるわけだ。バダ・グルジュによる選定後、少女は王の処へ連れて行かれ、王から簡単な敬意を受ける。その
後、行列を組んでパタンへと戻る。ほんのしばらく間があるが、いよいよその吉日をむかえると、少女はマンガ
- 33 -
ル・バザールにいるムルプジャーリの自宅へと連れ出される。このムルプジャーリこそが長くて複雑な諸儀礼を
遂行するのであり、そうした儀礼を経て、少女は文字通り女神になるのだ。出席する人々はごく僅かで、当の
ムルプジャーリとその家族のうちで出席を望む成員、ジョシ・ジョティ<Josi Jyoti>(ネワール族の占星術師)、それ
に少女自身である。儀式はその全体を、クマリ・スタパナ・プージャー <Kumari sthapana puja>(「クマリ創設崇拝」)と
称されている。少女は、祭司とそのアシスタントの前に、裸身で座り、導入部としての浄化儀礼を受ける。その
際、少女の身体には、聖なる器(カラシュ)から汲み出された水が振り撒かれる。その次に続くのが主要なプー
ジャーで、ここでは、少女の身体から、以前の生活経験全てが一掃され、完全に清浄なる存在となって、女神
の聖霊が入れるようになるわけだ。このプージャーは、アンガショダナ・プージャー <angasodhanapuja-サンスクリット>(ア
ンガ < anga>は「身体の各部位」を意味し、ショダナ< sodhana> とは浄化の一形態である)、あるいはサート・チャ
クラ・ショダナ・プージャー <sat cakra sodhanapuja-サンスクリット>と称されている。少女は裸で座り続け、その間、祭司は
少女の身体の六つの感覚器官の各々を浄化する。この浄化は、マントラを朗じることや、長い草(クス < kus>)、
乾燥した小枝(シト <sitho>)、樹皮、様々な葉々などの品目を束ねたもので各部位に触れることによってなされ
る。六つの感覚部位(チャクラあるいはカーマル <kamal>)については、それら各々に対応する聖別された品目
の数量とともに、以下のように説明されている。→ p.37.
ところで、こうしたタントラ的なリストと伝統的なヒン
ドゥー教とを比較することは、多少なりとも興味深いことである。それゆえ、以下の一覧表には、後者について
も、括弧内に入れて併せて提示しておいた。
1
−
アジュナキヤ<ajnakhya-サンスクリット>
両目
−
二
(王冠と矢じり状の縫合線との結合)
2
ムーラーダーラ<muladhara-サンスクリット>
−
陰門(陰唇)
−
四
(恥骨の上部の部位)
3
サヴァーディスターナ<svadhisthana-サンスクリット>
−
ヴァギナ
−
六
(臍付近の腹中央部)
4
マニプーラ <manipura-サンスクリット>
−
臍
−
一○
(胃の凹み)
5
アナーハタ <anahata-サンスクリット>
−
−
胸
一二
(鼻の付け根)
6
ヴィシュッダ <visuddha-サンスクリット>
−
喉
−
一六
(額の隴の間の谷)
祭司が、少女の崇高なる身体から、世俗的なものに纏わる過去の経験全てを取り除くにつれて、少女の中に
クマリの聖霊が入っていく。それに応じて、少女は徐々に赤く赤くなり始める。わたしのインフォーマントはデ
オ−ブラフマンに属する者で、こうした儀礼にアシスタントとして出席していたのであるが、その彼も、こうした
具合に色が変容していくのを見た、と自ら請け負ってくれた。
儀礼が終了すると、ムルプジャーリは、少女にサカン <sakan-ネワーリ>(タントラ的な儀礼食で、茹で玉子、平らに
打ち延ばされた米、凝乳、乾燥魚、茹で肉、ライス・ワインからなる食事)、ベテル・ナッツを一個、それに新し
いクマリの装束一式を与える。次に、彼は、少女の家族に言葉をかけ、誰かを差し向けるよう求める。通常なら
少女の母親がこれに応じ、少女に衣装を着せ、クマリ式に髪と化粧を施し、宝飾類を身に着けさせる。この
間、ムルプジャーリ自身は、クマリの玉座をしつらえている。この玉座は、簡素な低いストゥールで、その上に
は石灰の粉でシュリー・ヤントラ・マンダルが描かれる。こうした三角形を基盤とするマンダルは、かなり以前よ
- 34 -
り、シャクティあるいはタントラ教のデヴィーの有する強力なエンブレムとみなされている。ムルプジャーリは、
適切なマントラを唱えつつ、ストゥールにきれいな布をかけ、白いクッションをあつらえる。こうして、少女はそう
した自ら専用の玉座に着くわけであるが、少女がクマリになったとされるのは、まさにこの瞬間なのである −
つまり、マンダルとマントラの力が結びつくことで、最終的な完全なる変容がもたらされるのだ。
この時になって初めて、ムルプジャーリは、少女を完全なクマリ・プージャーで崇拝する − このプージャー
は、儀礼行為の複合体であり、何とおよそ一時間も続くのだ。次に、少女は、プージャー部屋から、さらにもっ
と広い部屋へ連れて行かれ、そこでムルプジャーリの他の父方親族及びその配偶者たちと一緒にもてなされ
る。その後、行列が組まれ、少女は、マンガル・バザールから自分の両親宅へと運ばれる。少女は、ここでも、
応接室で数時間もの間座っている。この間に、一般大衆がやって来て、クマリを崇拝し、そのティカーを受け
取るのである。
クマリ・シェは、非常にに小さく、なんら装飾的な木彫もない建物で、ハワバーハーの共有財産の一部となっ
ている。そこには、女神用の玉座以外にはほとんどなにもなく、ダサインの期間中を除けば、滅多に使用され
ない建物なのである。内庭から眺めてみても、たった一つの表示物以外には、他の簡素な通常の住居と区別
できるようなものはなにもない − その唯一の表示物とは、→ p.38. 壁に突き刺さった小さな石彫物で、これに
は三つのエンブレムが刻まれている。クマリが肉体的に存在しない場合には、これらエンブレムが、ひと纏め
にして、クマリとして崇拝される。エンブレムとは、左から右へ順に、カルティ・パトラ < karti patra> 、ダルバール
< dhalbar> 、そしてカルナー < karuna> の三つである。最初のエンブレムの構成は、上にカルティ、下にパトラとなっ
ている。さらに、カルティは、シュリスティ<sristi>とサンガル <sangar>、つまり創造と破壊のシンボルで構成されてい
る。そして、パトリの方はといえば、それは足跡である。これら全体が、創造と破壊の無限のサイクルについて
の基本的な哲学的概念の象徴となっているのだ。残りの二つのエンブレムの場合、ダレバールは英知を表象
し、カルナーは憐れみを意味している。あるインフォーマントは、後者を孔雀(クマリの乗り物)の羽という形態
で描写していた。
パタン・クマリは、カトマンドゥのロイヤル・クマリとは異なり、自分の家族とともに自宅で暮らす。しかしなが
ら、次章において描写されるような、もっと規模の小さいクマリたちの場合とは異なり、常に女神として取り扱わ
れる。それゆえ、制限と崇敬が両存する、殊に異例な生活を送っているわけだ。パタン・クマリの家族は、三つ
の部屋をしつらえねばならない − 先ず一つ目は、小さな私室で、クマリが寝食を送る部屋。次に、これまた
小さな部屋で、クマリの玉座がしつらえられ、日常のプージャーや他の小規模のプージャーのために用いられ
る部屋。三つ目は、もっと広い部屋で、崇拝後の饗宴、規模の大きなプージャー、そして公式の迎賓に用いら
れる部屋である。家族のうちの誰か、大抵なら父親が、プジャーリ < pujari>としての役割を担い、ニティヤ・プー
ジャー <nitya puja>を毎朝行なうという義務を果たすことになっている。午前八時頃、クマリは、プージャー部屋へ
入り、自らの玉座(写真一六)に着く。この間に、プジャーリが、香、灯明、花々、穀類、調理された玉子、肉、
ライス・ワインで、およそ三○分間崇拝する。クマリは、最小必要条件として、赤い装束を纏い、額には第三の
目をつけ、そして髪をクマリ・スタイルに結わねばならない。一般の成員たちもやって来て、ニティヤ・プー
ジャーの際にクマリを崇拝する。その際、数々の供物を持って来る者もいれば、クマリの足元に平伏すのを望
む者、マントラを唱える者など、様々である。彼らは、扉の開いた部屋の外側にいて、プジャーリがそのお祈り
を終えるまで待ち、それが済んでから、彼ら自身の供物をするのである。多数の様々な種類のプージャーがあ
る中で、完全なクマリ・プージャーの遂行を望む者は、先ず女神に会見を求め、その許しを請わねばならな
い。クマリが同意する場合、家付き占星術師と相談の上、適切な日取りが設定される。こうした場合、通常なら
依頼者が自身の祭司を連れて来て、プージャーを遂行する。わたしが教えてもらったところによれば、ダサイ
ンの間なら三○○人から四○○人がやって来て崇拝するが、それ以外の時なら、週に僅か五・六人しか供物
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しないそうだ。プージャーをしにやって来る人たちは、以下のようなカテゴリーに分類できる。
1 .サムスカール <samskar>(ライフ・サイクル儀礼)の一つに参与しているため、食物やその他の諸制約を受けて
いる人々。大抵の場合、こうした人々は、タブーからの解放の手立てとして、クマリ・プージャーを遂行する。
2 .出血系の問題を抱えている個々人 − 特に月経障害を持つ女性だが、出血や慢性の嘔吐の場合も含
む。→ p.39.
3 .降格を恐れる政府役人。
4 .クマリは、未来の出来事を予見する能力があるとされている。このため、新しく店舗を開くといったような野
心的計画を抱く人々も、アドヴァイスを求めにやって来る。
少女の儀礼の必要物を賄っているのは、父親か、家族内の誰か他の男性成員である。しかし、日々の必需
品を用意したり、衣装と宝飾類を管理したり、あるいは特別なプージャーや会見を整えたりするのは、またさら
にクマリの生活一般に多大なる影響力を持っているのは、母親の方である。少女は、プージャーへの出席、衣
装の着用、日々の浄化、食物のタブー、睡眠調整、そして決められた特別な行事以外の外出の禁止といった
ような制約事項に従ってさえいれば、何を望んでもかまわない。望みさえすれば、クマリは通常の家事にも参
加してかまわないのだが、クマリたるもの、そうしたことを決して求めないものなのだ。少女は、女神なのだか
ら、なんら形式的な教育も必要ない。なるほど確かに、学校には通っていない。しかしながら、現在の在位者
は、その母親や他の成員から個人的な指導を受けて来た。しかも、このクマリは、およそ二七年も間その地位
にあり、今や(一九八五年現在)ゆうに三○歳を越えているのだ。
現在のクマリ(写真一五∼一六を参照。撮影時、彼女はおよそ二○歳だった。)の年齢は極めて異例なもの
で、パタンの居住者の間でも、これはかなり批判を受ける要因となっている。失格の形式的な徴表は、カトマン
ドゥのクマリにとってのものと同じである − つまり、出血、それも特に初潮による出血、歯の喪失、重病、皮膚
上にできるあらゆる種類の疵、特に疱瘡による疵痕である。いかなる失格徴表にしろ、それが現れれば、報告
する仕事は、少女を世話する人々、とりわけ母親の手中にある。そして、そうした報告がなされるまで、(失格を
確認する)公式活動は一切とることができない。現在のクマリが、月経の出血を経験せず、目だった出血も無く
乳歯を失うことは、理論上は可能かもしれない。しかし、わたしのインフォーマントたちのほとんどが、これにつ
いては懐疑的であった。彼らインフォーマントたちの推測によれば、何らかの徴が現れたに違いないのだが、
様々な理由から、無視されたか、見逃されたかしたのだ。(その理由として)少女の母親が、家族の社会的な
卓越性を引き続き維持したいと望んでいるからだとか、家族内にクマリを持つことで、多分ごく僅かなものなの
であろうが、得ることができる財政的報酬のためであるとか、こんなふうに推測している者たちも、少数とはい
え、いるにはいるのだ。しかし、大抵の者たちの意見はこうだ。そうした事情を暴き出したとしても(そしてそのこ
とによってクマリを交代させなければならないような事態になったとしたら)、困難な状況しか生じないではない
か。つまり、クマリとなる少女を見つけ出すのは極めて困難なことなのだ、と考えられているわけだ。我が娘をク
マリにすることに同意するような両親など、そうざらにいるものではない。クマリの家族は、供物類、それにクマ
リ・グティからの財政援助を得るのだが、それほどたいしたものではない。それでもなお、我が娘が学校に通え
なくなってもかまわないと思う者など、そんなにいるわけがないのだ。こうした一方(交代者を見つけるのが困
難である一方)で、現在のクマリの(完全に成人として成長しきってしまった)体長が、困惑と困難を生み出して
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いる。そもそもクマリは、特別な宗務を果すべく外出する際には、→ p.40.
(地面に触れないよう)運ばれねば
ならない。ところが、彼女は、今やもう、かなりの体重になっているわけだから、担ぎ篭で運ぶにしても二人の
男性が、玉座にいたっては四人もの男性が必要となる(写真一七参照)。幼いクマリなら、父親か男性親族の
腕に抱えて運べるのに(彼女の場合にはそうはいかないのだ)。
しかしながら、そうした実際上の困難があるにもかかわらず、多くのパタンの住民は、肯定的な意見に傾い
ている。つまり、クマリが身体的にも成熟しているということは、クマリを担う少女が、ドゥルガー、カーリー、タレ
ジュ、ヴァジュラデヴィーなどの官能的で強力なる女神として、自らの持てる神聖なる力を、今や完全に実現
できるようになっていることの明瞭な証なのだ、とみなされているのである。彼女は、余生を女神のままで送れ
る。事実、そう考える者さえもいるのである。換言すれば、彼女の(肉体的な)成熟は、女神としての地位を減じ
るどころか、むしろ高めているわけだ。
パタン・クマリの宝飾類は、カトマンドゥ・クマリのものほど価値があるわけではないが、それでも印象的なコ
レクションとなっている。では、わたしが見せてもらったものを以下に列挙しよう(名称はネワーリ語である)。
・ モトゥ <motu>(あるいはチャクリ <cakri>) :一三の花弁(キムキムバ <kimkimba>)の付いた銀の頭飾
・ ジャービ<jabhi>:赤い服地のエプロン。銀メッキされ、彫刻をほどこされた板の金属片で装飾されている。
・ バルスキナージェマラ <balsukinagmala>:銀メッキされたネックレスで、水蛇の王に因んでこの名がある。おそらく
は、彼女のコレクションの中でも最古の宝飾であろう。これは、グゥイエスウォリが、彼女を保護するために送っ
たものである。
・ ビジュバンタ・ターヤ <bijbanta taya>:金メッキされたネックレスで、通常なら結婚儀式で花嫁が身に着けるもの
である。
・ ターヤ < taya> :さらに簡素な金メッキされたネックレスで、紐部分にメッキされた赤い糸が付いている。これら
は、七匹のナーガ<naga>つまり蛇を表象しているとされている。
・ ナーラシラマラ<narasilamala>:二四の銀メッキされた珠が付いたネックレス。
・ シグリマラ <sigrimala>:銀メッキされた鎖環からできたネックレス。
・ バンマラ < banmala> :二○の花々が付いたネックレス。花は、銀メッキされていて、六つの花弁が付いている。
・ スチェプ <suchephu>:布製のアームバンドで、銀メッキされた飾り物が付いている。
・ モ <mo>:銀メッキされたブレスレット。
・ ピエカ・アング <pyeka angu>:四つの素朴な銀製の環で、両手の第三指と第一指に装着する。
・ バンジュ<bhanju>:銀メッキされた踝環で、四角い環状のもの。
・ トゥティバジェ<tutibage>:鐘の付いた踝環。銀メッキされている。
ハワバーハーの成員は、さらに複雑な構成のクマリ・プージャーのうちのいずれかを、あるいは女神の出席
が望ましいとされる他のプージャーを遂行しようと望む場合、クマリが同意さえすれば、そうしたプージャーを
自宅において開催してもかまわない。しかしながら、そうした私的に整えられた契約は、稀でかない。クマリと
外的な世俗界との接触は、大抵の場合には制限されていて、その出席が義務となっているような、ごく僅かの
例年の祭事に限定されているからだ。以下に描写されるのは、そうした祭祀行事である。→ p.41.
1.赤きマチェンドラナートの祝祭(10)
(この祝祭の際に)クマリは連れ出されると、自らの玉座(カ <kha>)に座り、通過する行列を見学して、帰依者
の供物を受け取ることになるわけだが、そうした機会は五度ある。先ず最初は、バイシャク < baisak>(四月)の明
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るい二週間の四日目である。その日、マナート < Minath>とマチェンドラナートの二つの山車が、パタンを経由し
て、ラガンケル < Lagankhel> への長い旅を始める。二回目の機会が巡ってくるのは、その翌日、あるいは二日後
で、クマリ自身の所属するハワバーハーに近いガバーハー <Gahbaha>においてであり、三回目は、ラガンケルの
端にあるタティバーハー <thatibaha>近辺においてである。ここでは、集まった大群衆が、一個のココナッツと七つ
の吉兆物が、マチェンドラナートの(山車の)尖頂から零れ落ちるのを目撃することになる。二つの山車は、ラ
ガンケルで数時間とどまる。ジャワラケル < Jawalakhel>に向かう最終段階の旅程を開始するにあたって、その吉
日を待つのだ。その当日、マチェンドラナートは、ジャワラケルへのほぼ中途にある休息所の前で、少しだけ
停止する。そこには、クマリが、玉座に付き、休息をとっているからである。(これが四回目の機会となる。)最後
に、クマリは、ジャワラケルでの劇的な終了儀式に出席するために、連れ出される。この時、古い聖なるチョッ
キ(ボト <bhot-ネワーリ>)が、大群衆にむけて披露される。群衆の中には、王族、政府役人、軍士官らの顔も見られ
る。この行事のために、クマリは、山車の真ん前、ロイヤル・スタンド脇にしつらえられたダールマシャーラー
< dharmasala> の中で、玉座に着いている。クマリは、こうした遠出をする際には決まって、まだ幼い場合なら、父
親か兄の何れかによって担いで運ばれ、成長が進んでいれば、数人のジャープュたちが駕籠に乗せて運ぶ。
公式の目的は、クマリが行事を見れるようにすることなのだが、付加的な動機もあって、それは、多くの人々
に、クマリ本人への供物をする機会を与えるというものである。なぜクマリがマチェンドラナートへ特別な関心を
寄せているのか。このことについて、わたしのインフォーマントが導き出した理由は、ただ一つだけである。つ
まり、マチェンドラナートの祝祭こそは、パタンのなかで、全くもって、最大にして最重要なものだからである。ク
マリは、その後援者たる王が出席するのだから、自らも出席するのは当然のことであろう。マッラ朝の時代に
は、パタンの王は、大抵の場合ならカトマンドゥとバクタプールの王を伴って、チュカバーハー <chukabaha>からラ
ガンケルへの最終行程の間、裸足で行列に参加していたのだ [Locke, 1973, p.29.]。
2.ダサイン
ナヴァミ、つまりダサインの九日目の夜には、ハワバーハーに属する九人の少女と二人の少年からなる総勢
一一人の子供たちが、ガナ・クマリ(集団クマリ)とガネーシュ及びバイラヴァの役を演じるために、支度をす
る。その準備は、いたって簡素なもので、顔を化粧し、第三の目、幾つかの簡単な頭飾を付け、髪を通常のク
マリ・スタイルに結い上げ、さらにはショールを羽織ることくらいである。サマ < sama-ネワーリ>(ティカー・マーク用の
粉などが入った化粧箱)とサムバル < sambahr-ネワーリ>(化粧品)が、政府から支給される。ガナ・クマリという名称
は、アシュタ・マートリカー <サンスクリット>(八母神)にウグラチャンディカー <Ugracandika>を加えたもので、事実上は、
ナヴドゥルガー <サンスクリット> (九人のドゥルガー)のことである。彼女たちは個別に、ダサインの最初の九日間、
各々のピータ <pitha>において崇拝される。こうした少女たちの選定基準は、歯の喪失と疱瘡址に強調点が置か
れないことを除けば、技術的には、チーフ・クマリの場合と同じである。→ p.42.
また、こうした基準に適ってい
るなら、バーハーの少女すべてが、少なくとも一度は選出されるのが望ましいとされていて、それゆえ、第一候
補は、まだ順番が巡ってきていない少女に充てられる。ガネーシュとバイラヴァを担うのは、美しい少年でなけ
ればならず、いかなる身体的不浄もあってはならない。こうした準備がなされている間、ムルプジャーリとその
アシスタントは、タレジュ寺院で、ガナ・クマリのためにショダナ・プージャー <sodhana puja>を遂行する。これを済
ませてしまうと、ムルプジャーリは、ハワバーハーへと歩いて向かい、クマリ集団のために、一皿の祝福物(プラ
サーダ)を運ぶ。ムルプジャーリには誰も触れてはならないので、念の為に二人のマハンタ <Mahanta>が各々前
後に付いて随行する。(マハンタは全部で五人いて、マンガル・バザールで世話人として働き、そのことで政
府から給金を与えられている。)(ハワバーハーに)到着するやいなや、ムルプジャーリは、少女と少年の各々
に額で触れ、タレジュのプラサーダを授ける。次に、行列が組まれて、クマリ一行は、マンガル・バザール内の
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ムール・チョークへと再び連れ戻される。マハンタには女性陣もいて、普段は宮殿内で暮らし、そこにある多く
の祠を清掃したり、安置された神々に御水や日々の供物を運んだりといったような業務に就いている。九人の
幼いクマリをムール・チョークへ運ぶのは、こういった女性たちである。また、行列には、政府より派遣された小
さな楽団も随伴する。ムール・チョークに着くと、ムルプジャーリとそのアシスタントは、少女たちを一階にある
部屋へ連れて行く。そこでムルプジャーリが簡単な儀式を行ない、少女たちを崇拝する。その際には、米、果
実、茹で玉子の献呈が強調される。少女たちは、この部屋からその西方の扉を通って出て行くと、今度は、各
自に、土製のストーブ(七輪のようなもの)、二つのポット(一方は米用、他方は豆類用)、ブレッド・パン用の土
製のかぶせ、底部に穴のある蒸し器(ポターシ <potasi-ネワーリ>)、それに幾つかの果実が与えられる。ポット類は、
政府から贈与されたもので、全てが玩具サイズであり、少女たちがそうしたおもちゃとして使用するのを意図し
たものである。最後に、少女たちは、行列をなして、ハワバーハーへ連れ戻されるのだ。
数時間後、同日の夕刻に、マッラ王朝の徴たる一本の剣が、宮殿からクマリ・シェへと送転される。クマリを
タレジュ寺院に召喚するためである。クマリは、ジャープュの従者たちが担ぐ可動式の玉座(写真一七)に乗
り、政府派遣のものも含め数々の楽団を従えて、公式の行列を組んで外出する。クマリは、ムール・チョーク西
側にある祠内に据えられ、そこでデオ−ブラフマンたちが、敬意を表して、長く複雑なプージャーを遂行する。
こうしたプージャーは五・六時間を要するのだが、現在のクマリはそうした長いセッションを好まないため、最重
要部分のほとんどが、クマリの到着前に遂行されてしまっている。これらの儀礼が遂行される祠には、何の像も
ないのだが、ダサインの主要な四日間だけは、この祠内にタレジュのシュリー・ヤントラ・マンダルが安置され
る。こうして一つの祠内に二つの神格が現前するということになるわけだが、この事態こそ、ここで再び、この二
神格が共通したアイデンティティを持っていることを示しているのだ。
数時間後、もはや真夜中を過ぎてしまうので、すでに日付はヴィジャヤー・ダシャミー < vijaya dasami>へと変
わってしまう。こうした時間帯になってようやく、クマリは、両親の家へと連れ戻される。家に戻ると、クマリは、自
らがダサイン・ティカーを授けることで、その日の祝宴を開始する。ティカーは、先ずプジャーリ(現在ならクマリ
の長兄)に、→ p.43.
次にタレジュ・ブラフマンたち、つまり旧マッラ宮殿内でいまだに維持されている様々な
世襲制の役職者たちに、そして最後は一般大衆に授けられる。
二日後、つまりダサインの一二日目に、クマリは、可動式の玉座に乗せられ、再び連れ出される。二つの私
的な財産管理組合(グティ)の成員から崇拝を受けること、宮殿の外側に立っているナレンドラ・マッラ <Narendra
Malla>(一六八四年から一七○五年まで在位したパタンの王)の像にプラサーダを授けることが、この外出の目
的である。先ずクマリは、ダウバーハー <Dhaubaha>に出向く。そこでは、僅か一家族だけが、グティ内に残存して
いるに過ぎない。このグティは、シッディナラシマの時代(一七世紀初頭)に、クマリ崇拝を目的として設置され
たものである。そもそもグティはあらゆるプージャー品目を供給するのだが、儀礼そのものはクマリ付きのプ
ジャーリが執り行う。次に、クマリは、宮殿の真北にあるソタ地区 <Sota locality>へと連れて行かれ、そこに住む二
つのシュレスタの家系の家屋を訪れる。ここでは、シュレスタたち自身が、短く簡素なプージャーを遂行し、ク
マリに御菓子、果実、花々を供える。最後に、クマリは、自らの玉座に乗り、ナレンドラの旗竿の基部へと運ば
れ、そこに一個のベテル・ナッツと一枚のコインを置く。こうすることで、クマリは、二日の間に自らが崇拝を受
けに来る回数を告知しているのだ − かつて、ナレンドラによって宮殿内で崇拝されていた時代に、昔日のク
マリがそうしていたように。それゆえ、一四日目には、クマリは再びムール・チョークの中庭へと運ばれ、そこで
タレジュ・デオ−ブラフマンからベテル、米、バター、砂糖を供えられるのである。
3. グラ < Gula>の月の間、数々のバーハー及びバヒでは、所蔵している最古にして最も貴重な像、写本、絵画
の幾つかを開帳するが、その際、ハワバーハーの中庭にクマリが座する機会は、別個に三度巡って来る −
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つまり、パンチャダーン <Pancadan>(輝ける月の二週間の八日目)、ダーンジャリヤ <Danjalya>(満月の翌日)、そし
てマタヤ <Mataya>(光の祝祭)の三度である。各行事の際、クマリは、およそ二時間、自らの装飾された玉座(シ
ムアサナ <simhasana>− 「獅子の座」)に座る。それは、開けた中庭内にある主要なシャカムニ・ブッダの祠の真
右にしつらえられている。最初の二つの行事の場合、訪問者たちが殺到して、バーハーの神々や仙骨 < sacra>
に供物しようとする。彼らは、席に着いたクマリにも同様のことをする。しかし、マタヤの場合のみ異なり、クマリ
には何の供物もされない。というのも、この日は、チャイトヤ < caitya>の崇拝に充てられているからだ。クマリは、
玉座に着き、事の次第を見ているだけなのである。
4. バードラ <Bhadra>の月、ガティラの断食日 <Gatila fasting day>に、各地区では、三人の有名な女神たち、ヴァスン
ダラー <Vasunndhara> 、クマリ、そしてマハーラクシュミー <Mahalaksmi>に対して、プージャーが遂行される。こうする
ことで、良い収穫が確保されるのだ。ガバーハー < Gahbaha> では、生けるクマリが、ヴァスンタラーとマハーラク
シュミーの絵画を両脇にして立ち、崇拝される。その際、クマリをその公邸内のアガムにおいて崇拝するのは、
ハワバーハーに属するタパージュ < thapaju>とベタージュ < betaju>である。ヴァスンタラーとは、マハヤーナ仏教の
神格で、富と幸運のヒンドゥー神格マハーラクシュミーの相当神である。ヴァスンタラーは、富の仏教神格ジャ
ムバラ <Jambhara>の一六歳になる美しき妻として表象されており→ p.44.
その主たるシンボルは、とうもろこしの
耳である。パタンの博学なヴァジュラーチャーリヤ・パンディト <Vajracarya Pandit>が、こう教えてくれた。これら三神
格は、ヴァジュラヨーギニー <Vajrayogini>も加えて、実は全てが単一の女神の持つ諸形態なのであるが、各々の
神格は特定のユガ<yuga>つまり「大年」(宇宙的周期)と結びつけられている。キリタ <Krita>あるいはサティヤユガ
< Satyayuga> という「大年」では、その女神はヴァジュラヨーギニーであり、炎のように赤い色をしていた。トレタユ
ガ < Tretayuga> の「大年」には、女神はヴァスンダラーであり、黄色となり、ダワーパラユガ < Dwaparayuga> では、マ
ハーラクシュミーで、橙色になった。そして現在、つまりカーリーユガ <Kaliyuga> の「大年」であって、この女神は
クマリとなっていて、赤色なのである。
(さて、もうこの辺りで、出席行事についての話題から、別の事項に関する話題へと移ろう。)クマリが病気に
なった場合、医者が召喚されるのは、唯一次のような事態だけである。つまり、クマリの病気があまりにも重い
ために、先ずクマリとしては不適格であると宣告され、それゆえ、もはやクマリではなくなってしまった場合であ
る。チャンドラ・シャムシェレ < ChandraShamshere> 首相(一九○一年−一九二九年)の時代に、あるクマリが、その
在位中に亡くなってしまった。その葬儀を整え、費用を賄ったのは、政府である。葬儀は、かなり壮麗に、厳か
に執り行われた。亡くなった 少女( クマリ)は、多くの楽団が随伴した大きな葬列を組み、バガマティ・ガト
<Bagmati Ghat>へと連れて行かれたのであった。クマリの家族成員が亡くなった場合は、それが同じ建物内で暮
らす居住者であるならば、クマリは、すぐに立ち去り、他の親類 − なるべくなら、クマリの母方のおじ(パジュ
< paju-ネワーリ>) − の処で滞在しなければならない。クマリ付きのプジャーリは、通常なら父親か兄がこれにあた
るわけだが、喪に服することになる。それゆえ、クマリを崇拝できなくなるため、家付きの祭司が日々の崇拝を
引き継ぐ。クマリ自身は、喪中に入ることはなく、七日後には父親の家へと戻ってくるのだ。
在位に不適格であると宣言された時には、直ちに少女は、女神だとはみなされなくなる。パタンの場合、カト
マンドゥ・クマリとは異なり、いかなる最終的な解除儀式も、移行儀式もなされない。少女は、同世代の少女が
送る通常の生活へと戻るし、その両親も、シャーキヤやヴァジュラチャーリヤ・カーストに属する適切な夫(花
婿)を見つけるにあたって、なんら困難を経験することはないようだ。このことについて、わたしのインフォーマ
ントたちの見解は、次のようなものであった。かつて女神であった少女との結婚には、常に危険な要素が付き
纏うが、逆に付加的な威信も伴われるという。では、ここで述べられている危険とは何か。それはこういうことで
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ある。つまり、クマリに関わる規則や制約、特にクマリの日々の崇拝に関するものが正確に守られていなかった
場合には、その後、当の少女とその夫は、何らかの困難、特に財政的なトラブルを被りかねない、というもので
ある。
以前にパタン・クマリであった娘を持つ父親が二人、不可思議な出来事を経験している。そして、それにつ
いて話してくれた。彼らは、そうした出来事を以て、自分たちの家族内に神聖なるものが現前していることの明
確な証拠と考えていたのである。先ず最初の父親の場合、彼の娘は、一九五一年から一九五六年、二歳から
五歳にかけて在位していた。その父親は、自宅内に置いてあった沢山の木炭が、自然と炎に包まれて燃える
のを目撃したのである。それは、前任のクマリが失格する前日のことであった。父親は、最初は驚いていたも
のの、懸命に水で消そうとしたが、なかなか消えなかった。その後、父親は妻とともに、二階へ上がったのだ
が、その際、上り段の上で見たのである、赤い蛇を − これこそは、何らかの神あるいは女神が、家にやって
来ていることの確実なる徴なのである。その夜遅く、二人はまたもや、家庭祈祷室(アガム)内で、別の蛇を見
ることになった。するとその翌日のことである。バダ・グルジュ<Bada Guruju>が、→ p.45. 彼の娘を次のクマリに選
んだのであった。在位中には何ら奇妙なことは起こらなかったが、それでも父親は気にかけていたことがある。
自分が以前に被った財政上のトラブルは、プジャーリとして自らが担っていた役割に関して、何か誤りか手抜
かりをしてしまい、それが原因となっているのではないか、と。娘に(クマリとして)不適格な時期が迫っている
のではないか。そのことに父親が初めて気づいたのは、顔に吹き出物が幾つかできた時であった。父親は、
「美しい肌」という規定に従い、直ちに事の次第を、マンガル・バザールにあるチェバデル事務局 < Chebhadel
office>へ報告した。しかしながら、検査後、役人は、まだクマリでいることが可能だと宣言した。そのおよそ三週
間後、少女は第一歯を失い、それを手の中へ吐き出した。このことを以て、彼女は直ちに失格となってしまっ
たのだ。今や(一九七四年)、彼女は、二六歳のうら若い女性となり、ヴァジュラチャーリヤ・カーストに属する
男性と結婚して、とても幸福に暮らしている。公務員として働く夫との間には、三人の幼い子供がいるのだ。
もう一人の父親の場合を見てみよう。彼の娘は、一九四六年から一九五一年、五歳から一○歳にかけて在
位していた。今では、この父親は多くの尊敬を集めており、貴金属と宝飾類の製造販売の店舗を自ら経営し、
それも繁盛している。年齢がおよそ五五歳に達していることもあってか、この父親は、コミュニティーとバーハー
の事務方でも、重要な役割を担っている。彼の娘がどのようにして選出されたのかについては、彼の言を借り
て、すでに述べておいた。実はその彼も、先述した父親と同様、何かしら重大な出来事が差し迫っているのを
予感していたのだ。彼は、こう話してくれた。選出の数週間前のある夜のことである。少女が泣き出し、狐が
やって来たと寝言を発した。翌朝、父親は、娘の部屋の窓の出っ張りの上に、大きな蛇がとぐろを巻いている
のを見る。父親は、こうした出来事で、とても心配したのだが、そうした問題に詳しい人から、心配しないよう諭
された。というのも、そのような出来事は、何か良い知らせに違いないと検分されたからである。娘のクマリ在位
中にも、多少とも注目すべき小規模の出来事が二つ生じた。父親自身が、いつものように、朝の日常のプー
ジャーをしていたのだが、ある時、クマリの前に座っていると正気を失ってしまったのである。彼が思うに、およ
そ三○分間、ある種のトランス状態で座っていたのだが、意識を回復した時、更なる慄きを覚えることになる。
こんなことになったのは、儀礼の遂行にあたって、自分が犯してしまった何か誤りの報いであるに違いない。父
親は、そう考えたのである。灯明を供えるという、夕刻の簡単なプージャーをするのは、母親の役目になって
いたのであるが、その母親も、これを遂行後、気を失ってしまったことがある。少女は、現在では、愛らしい、安
寧な顔つきの母親となっており、六人の娘をもうけている。夫はシャーキヤに属する男性で、旧ネワール宮殿
近くに一軒の店舗を構えている。父親によれば、二人は幸福な結婚生活を営んでいるとのことであった。娘
は、クマリであった時期のことについては、何も語ろうとしない。
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バドガオンのクマリたち
バドガオン、以前はバクタプール < Bhaktapur>と称されたこのネワール族の都市は、カトマンドゥの西方九マイ
ルに位置し、およそ九○、○○○の人口を抱えている。この都市は、紀元後八八九年に、王アナンダ・デヴァ
<Ananda
Deva>が創建したとされており、そのおよそ八五○年後のゴルカ朝による征服に至るまでの長い期間、
ここを治める王が、渓谷を統一した形で統治していたこともあるし、分割後もパタンやカトマンドゥといった二つ
の公国よりも明らかに勝った勢力を維持していた。ここでも、予想できるように、→ p.46. クマリ信仰は大きな意
義を持っていたし、王宮によるタレジュ崇拝と密接に結びついていた。この信仰は、王宮の保護を失ってもう
二○○年以上も経つのだが、タレジュの崇拝やダサインの際のナヴァドゥルガーとの関連上、今日でさえ突出
した必須の要素となっている。
今日、バドガオンでは、三人の生けるクマリに加えて、ガナ・クマリ(集団クマリ)の存在が確認されている。
ガナ・クマリは、アスタマートリカー < astamatrka> を各々担う八人の幼い少女たちと、ガネーシュ、バイラヴァ、マ
ハーデヴァ <Mahadeva>を表象する三人の少年たちから構成されている。こうした少女たちはすべて、バドガオン
内のヴァジュラーチャーリヤ/シャーキヤのコミュニティーから選出される。当地には、全部でおよそ五○○人
のヴァジュラーチャーリヤと七○○人のシャーキヤが住んでおり、彼らは五つのバーハーに区分されている。
三人の生けるクマリは、各々エカンタ、ワラ・ラク、テブクとして知られている。エカンタ(「単独の」あるいは
「孤高の」の意)は、最も重要なクマリで、カトマンドゥやパタンのロイヤル・クマリに匹敵するバドガオン・クマリ
である(写真二○、二一、二二)。エカンタ・クマリは、両親と一緒に自宅で暮らしているが、公邸(クマリ・シェ)
も持っている。この建物は、規模は大きいが、簡素で装飾性のない建造物で、北東バドガオンのディンパカラ
バーハー <Dinpankarabaha>( アーディブッダヴィハーラ <Adibuddhavihara>あるいはデオナニ < Deonani>)の内庭にある。
この建物を恒久的に占有している家系があり、バドガオンのクマリすべてにとってのディヤパーラ < Dyapala>とし
て、そしてクマリ・シェ及びその所蔵物の世話人として活動する権利を、何世代にも渡って、世襲的に保持し
ている。現在、この家系には、およそ五○歳と三五歳になる二人の男性がいる。この二人は、おじ/おいの関
係にあり、両者ともにその妻子と一緒に宗務を担当している。建物には、この家族の居住区に加えて、エカン
タとワラ・ラクの両クマリがアガムとして使用する部屋が二つある。また、エカンタ・クマリ用の二つの玉座 −
一つは階下に、もう一つは一階にある彼女専用のアガムの外側に保管されている − と、さらには彼女の衣
装及び宝飾類の保管庫もある。
生けるクマリは三人とも、数多くの理由で、密接に結びついている。たとえば、彼女たちを選定するのは、同
じ単一の委員会であり、その際、同一の基準が用いられ、共通した候補者群の中から選ばれるのだ。また、三
人ともがタレジュの諸形態と認識されている。さらに、同じディヤパーラを持つだけでなく、ダサインの際には、
三人が一緒に集うのである。あるインフォーマントが、三人のクマリの間のこうした結びつきについて説明してく
れた。彼の述べるところによれば、タレジュは、初めてバドガオンにやって来た時、木のうろから現れ、次にワ
ラ・ラク、テブク、バシェ <Bache>という三地区に落ち着いたとされている。このことこそ、タレジュが、こうした三地
区の各々に住むシャーキヤ/ヴァジュラーチャーリヤ(の少女)の形態をとろうと望む理由なのである。
エカンタ・クマリは、先ず、ディヤパーラが通常の基準に従って選出する。次に、ディヤパーラは、→ p.47.
ジョシ < Josi> 、アーチャージュー、デオ−ブラフマンといったカーストに属する三人の最長老男性(タカーリ
< thakali-ネワーリ>)を召喚する。旧マッラ宮殿内のタレジュ寺院において、儀礼的義務を世襲的に保持しているの
が、こういったカーストなのである。三人の長老たちは、シャーキヤのディヤパーラとともに、重要なクマリ・プー
ジャーすべてに出席しなくてはならず、また、公式の選定委員会も構成している。クマリは、数多くの検定を受
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けて、自らが堅固な精神を持ち、それゆえ、強力にして危険なるタレジュの乗り物として適格であることを証明
しなくてはならない。先ず、デオ−ブラフマンは、恐ろしい仕様に化粧する。そして少女が恐怖を露にすること
なく、自分の膝の上に座るよう求める。次に、少女は、クマリの玉座に着かねばならない。この玉座には、九匹
の蛇の木彫が施された天蓋が付いているが、それでも少女は、平静なままでいなければならないのだ。しか
し、クマリ・シェで行なわれるこうした試験は、わたしの理解するところでは、形式的な仕方で実行されているに
すぎない。また、ここクマリ・シェは、就任儀式が、三人の宮殿役人によって執り行われる場でもある。こうした
儀礼(就任儀礼)が行なわれる時期は、カトマンドゥでは、マハー・アシュタミー <maha astami>であるし、パタンで
なら、何らかの吉兆の日が適切だとされているのだが、バドガオンでは事情が異なり、ガタスターパナ
<ghatasthapana>、つまりダサインの初日に先立つ数日間、できれば木曜日か日曜日に遂行されねばならない。こ
うした日取りに設定されているのは、バドガオンの住民が、ダサインのためにクマリの存在を確保するためであ
る。
あるヴァジュラーチャーリヤのインフォーマントがこう話してくれた。かつて、マッラ朝の時代、ある伝統的なヒ
ンドゥー王が、シャーキヤ・クマリに平身低頭することに異議を申し立てたので、デオ−ブラフマンのコミュニ
ティーから一人の少女が選ばれ、クマリの地位を占めることになった。ところが、その少女は、ダサインの際、
水牛の供犠のためにタレジュ寺院へと連れて行かれると、怖がってしまい、泣き出してしまった。こうした事情
が報告されると、王は直ちに、シャーキヤ・コミュニティーから女神を選出するという伝統を再確立したのであ
る。失格の主たる兆候は、疱瘡、歯の喪失、それに月経である。しかし、パタンやカトマンドゥでは月経が強調
されているのに対して、バドガオンでは、歯についての基準が最も重要とされている。少女たちが、およそ七・
八歳を越えて、その地位に留まることが滅多にないのは、こうしたことに原因があるわけだ。
少女は、家族とともに自宅で暮らし、ダサインの期間中や何らかの私的なプージャーに応じる時以外は、同
年代の子供と何ら変わらない生活を送っている。ただし、少女は、汚穢(ジュート)を避けねばならないし、第
三の目はいつも付けていなくてはならない。クマリの髪型と赤い衣装は、正式にはするのが望ましいとされて
いるが、御座なりにされていても、たいして気にかける者はいない。少女は、他の子供と全く同様、近所で遊ん
でいてもかまわないし、その年齢に達していれば学校に通ってもかまわない。少女の家族も、日々のプー
ジャーを遂行する必要はない。ディヤパーラが、クマリの名のもと、その公邸において、これを執り行うからであ
る。クマリは、幾つかの銀製の宝飾品(写真二○)を所有している。これらは、宮殿構内にあるムール・チョーク
に保管されていて、ダサインや特に規模の大きな私的プージャーの時にだけ着用する。ガナ・クマリも、かなり
の宝飾品を持っているが、他の二人の小規模な女神たちは赤い衣装しか所有していない。→ p.48.
クマリ・プージャーの遂行を希望する場合、その依頼者は、先ずディヤパーラに根回しをする。次に、ディヤ
パーラが、クマリの実家へと出向き、クマリが公邸へ来るのに適切で吉兆の時節を調節する。クマリに髪型や
第三の目を施し、赤い服を着せるのは、母親の役目である。その後に、クマリは、歩くか、そうするにはまだ幼
すぎる場合には、幾人かの家族成員によって運ばれる。執り行われる行事がそれなりに重要であるなら、ディ
ヤパーラは、クマリの所有する公式の宝飾類を幾つか、あるいはそのすべてをさらに着付けさせることになる。
クマリには、こうした個人的なプージャーの要請を、毎年幾つか受けることが許されている。そうした要請のほと
んどは、自らの地位保全に不安を抱くカトマンドゥの政府役人たちからのものなのだ。
エカンタにとって、実際にはバドガオンのすべてのクマリたちにとっても、最大となる行事は、ダサインの期
間中に巡ってくる。最初の重要な行事は、ダサインの開始に先立つ一五日間の内の満月の日に行なわれる。
シャーキヤ・ディヤパーラは、新しいテブク・クマリとなるに相応しい赤ん坊を選出し、さらにワラ・ラクとエカンタ
を担う少女たちに、何か失格の兆候が現れていないか検分する。テブク・クマリは、まだ母親の胸で乳を吸っ
ているような、幼い赤ん坊が担うことになっているため、毎年、それに相応しい新生児を見つけ出さなくてはな
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らない。そうした赤ん坊は、シャーキヤ/ヴァジュラーチャーリヤのコミュニティーから選出されねばならのだ
が、その主たる崇拝者は、テブク・シェ近辺に住む多くのジャープュたちなのである。ナヴァミ、つまりドゥル
ガーとタレジュに血の供犠をするための大切な日に、テブク・クマリは、ジャープュの家(テブク・シェ)へと連れ
て行かれ、エカンタやガナ・クマリと一緒に、当地方の人々から崇拝を受ける。ガナ・クマリには、階下の小さな
部屋内にその座席がしつらえられるのだが、わたしの見た限りでは、そこは中庭内に居住する農夫たちが麦
藁の倉庫として使用している場所であった。エカンタ・クマリの方は、幾分小さな隣接する中庭内のバルコニー
に一人で座る。数時間にわたって、地方のジャープュの居住者たちが、そこへやって来て、供物をするのであ
る。小さなテブク・クマリは、建物内にある専用のアガムで、テブク・クマリ付きのグティ成員から崇拝される。そ
うした崇拝者は、主として当地のジャープュの長老居住者であるが、その中には、シャーキヤに属するテブク・
クマリの両親や一人のアーチャージュー(カルマーチャーリヤ < Karmacarya> )祭司も含まれている。プージャー
は、アーチャージューかジャープュ・タカーリ(リネージ・リーダー)の何れかによって執り行われることになって
いる。聞いたところによると、グティの成員以外の誰かが、このクマリを見ようものなら、何らかの災いがこの地
方に降り懸かるのだという。
ワラ・ラクは、エカンタに次いで重要なクマリとされている。彼女ら二人のクマリは、公的なクマリ・シェ内に専
用のアガムを持っていて、ダサインの際の一一日間は、両者ともそこに留まるのである。しかしながら、ワラ・ラ
クは、有名なダッタトレヤ <Dattatreya>寺院を含む大きな広場内の内庭にも、アガムをもう一つ持っている。この内
庭はバーハー内で見られるものに類似していて、一階には、入り口に対峙して、デヴィーと称される女性神格
を安置する祠がある。周囲の建物は、ワラ・ラクと呼ばれており、何人かのインフォーマントの見解によれば、そ
れはかつてマッラ王たちによって所有されていたものなのである。バドガオンで最も著名な神々であるナヴァ
ドゥルガー <navadurga>たちも、ここに専用のアガムを持っていることからして、この建物の持つ意義は明らかであ
ろう。ワラ・ラク・クマリ→ p.49.
が確立されたのは、ワラに住んでいた、あるマッラ王の妾が、ダサインの間にク
マリを崇拝し、見物したいと望んだからだとされている。エカンタ・クマリは、極めて聖性が高いので、汚穢のな
い者たちだけが崇拝できる − (こうした脈絡上でなら)妾というものが、秩序の外部のあるのは当然だろう。
それゆえ、王は、このワラ・ラク・クマリを、特別に妾専用として創設したのである。
ダサインの主要な期間(ガタスタパーナ <ghatasthapana>の午前から、タシャミ <dasami>にかけて)は、毎朝、二人
のアーチャージューが、タレジュ寺院からクマリ・シェへと出向き、そこでエカンタ・クマリをその専用アガム内で
崇拝する。ほんのしばらくすると、クマリは、公式の行列(写真二一)を組んで連れ出される。行列を先導する
のは、二人の男性で、クマリの銀の旗竿を持つ。また別の男性が、クマリの頭上に大きな儀式用の傘を掲げて
後続する。一行は、チャトゥヴァルナマハーヴィハーラ <Catuvarnamahavihara>(サンコタバーハー < Sankhotabaha>) へ
と向かうのだ − このバーハーは、宮殿近くに位置する美しいバーハーで、今でもかなりの成員を抱えてい
る。クマリを担う少女が、もうかなり成長して大きい場合には、全行程を裸足で歩くことになっているため、直接
地面に触れることになってしまう。しかし、まだ幼い場合は、行程中の幾許か、あるいは全行程を、ディヤパー
ラによって運ばれる。沿道のいたるところで、通行人たちが、立ち止まり、コインを供えたり、自らの額で(クマリ
の)赤く塗られた足先に触れることで簡単に崇拝したりする。サンコタに着くと、クマリは、アガムへと連れ上げ
られ、先ず最長老の女性宮殿従者から崇拝を受ける。また、クマリにタレジュのプラサーダを持ってくるのも、
この女性長老である。次に、当バーハーに属する他の者たちや、そうしたいと望む地方住民たちが、崇拝す
る。クマリは、クマリ・シェへの帰路においても、沿道にいる多くの人々から再び崇拝される。帰り着くと、クマリ
は、先ず階下にある印象的な専用の玉座に席を占め、地方のアーチャージュー祭司から簡単に崇拝を受け
る(写真二二)。次に、上階へ上がり、専用のアガムに入ると、今度はディヤパーラから崇拝されるのである。
ナヴァミには、ワラ・ラクの人々がやって来て、クマリを専用の地方アガムへと連れて行く。クマリは、そこに数
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時間留まり、敬意を受ける − 聞いた話によれば、クマリがそこへ行くのは、元々は、王の妾がクマリに会い、
崇拝するためであったということらしい。また、ナヴァミの日には、通常なら午後遅くか、夕刻早々に、ガナ・ク
マリとエカンタ・クマリが、クマリ・シェからテブク・シェへと連れ出される。地方住民が、供物を終えてしまうと、
宮殿の役人たちの一団が、楽団を伴って到着し、ガナ・クマリをムール・チョークへと連れて行く。彼女たちガ
ナ・クマリは、上階の部屋へと連れ上げられ、そこでアーチャージュー、ジョシ、そしてデオ−ブラフマンといっ
た家系のディヤパーラから崇拝を受ける。彼らは、今もって、タレジュの崇拝に関連する重要な世襲的義務や
他の宮殿職務を担当しているのだ。数時間後、役人たちと楽団は、テブク・シェに戻り、そこでエカンタ・クマリ
を呼び出し、ムール・チョークを経由して、更に内奥のクマリチョーク < Kumarichok> へと連れて行く。エカンタ・ク
マリは、中庭の中央に据えられた大きな玉座に座らされ、カトマンドゥにおいてもそうされているように、沢山の
供犠獣の頭に取り囲まれる。これらは、同日の朝早くに、ムール・チョークで屠殺されたものなのだ。ここでクマ
リは、→ p.50. 秘儀的で伝統的な仕様によって、三人のタレジュ・ディヤパーラたちから崇拝を受ける。タレジュ
そのものは、おそらくは金属製のシュリー・ヤントラという形で、これに先立つ二日(サプタミー < saptami>とアスタ
ミー <astami>)の間、ムール・チョークへと降ろされている − タレジュは、ナヴァミーの日、エカンタとガナ・クマリ
の訪問中には、現れないのだ。
ガナ・クマリとさらに有名なバドガオンのナヴァドゥルガーとの間には、興味深い結びつきがある。ガナ・クマ
リを構成する八人の女性神格たちは、実はアシュタ・マートリカー < astamatrka> なのであり、これにウグラチャン
ディカ < Ugracandika> が加われば、ナヴァドゥルガーとして現れることになるわけだ。しかしながら、ガナ・クマリが
幼い少女という形態をとるのに対して、ナヴァドゥルガーは青年男性によって表象される。こうした男性たちは、
地母神の聖霊に、一時的だが、憑依されるとされている。ダサインの九日間は、そうした女神たち(ナヴァドゥ
ルガー)の各々を順次崇拝することに割かれていて、帰依者たちは、バドガオン周辺に位置している女神たち
の九つの祠を、毎日順番に訪問していくのだ。そして、こうした崇拝は、ナヴァミーにクライマックスを迎えるこ
とになる。次に、ダシャミー、つまり慶事の楽日たる一○日目には、ナヴァドゥルガー・ダンサーたちが、真夜中
に、タレジュ寺院へと向かう。プージャーを済ませて後、ダンサーたちは、バドガオン中をくまなく経る長い行
程を開始し、バネパ <Banepa>、ティミ <Thimi>、ナラ <Nara>といった周囲の小さな街にも出向く。ダンサーたちは、ど
の行程においても、クマリという形態をとっている自分たちの相当物(少女たち)と会うことはない。しかし、ナ
ヴァドゥルガーとワラ・ラク・クマリは、ワラ・ラク内では、同一のアガムを共有しているのであって、こうした点から
しても、両集団(ガナ・クマリとナヴァドゥルガー)の間に結びつきがあることを、さらに指摘することができよう。
第三章
ローカル・クマリたち
(非ロイヤル・クマリ)
カトマンドゥのヴァジュラーチャーリヤ・クマリ
ロイヤル・クマリたちは、ネワ−ル族の仏教徒コミュニティーから選出されているとはいえ、タレジュ、ドゥル
ガー、そしてアシュタ・マートリカー(八母神)といったようなヒンドゥー教の神格の崇拝と密接に関係づけられ
ている。また、それぞれの事例において、クマリ付きの祭司はヒンドゥー教徒であって、その任に就くのはデ
オ−ブラフマンか、もしくはアーチャージュー < Acahju>に属するカルマーチャリヤ部門の者である。しかしなが
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ら、カトマンドゥでは、ヴァジュラーチャーリヤ・コミュニティーも専属のクマリを有している。また、このようなクマ
リたちは、仏教経典を用いる祭司(僧侶)によって崇拝され、さらには、主としてタラ<Tara>、ヴァジュラデヴィー
< Vajradevi> 、ヴァジュラヴァラヒ < Vajravarahi> といったような仏教の神格と関係づけられているのだ。カトマンドゥに
は主要なバーハーが一八あって、かなり昔から、地域別に三つの区画 < section>(ピュイ <phui-ネワーリ>)に区分され
ている。つまり北区画(タム < Tham>あるいはタネ < Thane>)、中央区画(ダトゥタワ < Datuthawa>− アサン <Asan>から
マル・トル <Maru tol>までの区域)、そして南区画(ヤン<Yan>あるいはコネ <Kone>)の三区画である。各区画は、独
自のメンバーシップや組織機構を保持しているが、単一の包括的なアーチャーリヤ・グティ< acarya guthi >も
とに連合していて、年一回、スワヤムブ <Swayambhu>で会合することになっている。今日では、都市に残っている
ヴァジュラーチャーリヤ・クマリといえば、たった一人だけである。このクマリは、特に北区画(タネ)との結びつ
きが強い。中央区画にも、ごく最近まで、ムバーハー <Mubaha> に居住するクマリがいたのだが、現在は空位に
なっている。ところが、ダウンタウン(下町)にあたる南部カトマンドゥのヴァジュラーチャーリヤたちに至っては、
自分たちの区画にも同じ様に独自のクマリがいたことさえ知らない。それでも、なかにはこう指摘する者もい
る。ロイヤル・シャーキヤ・クマリが特に密接な結びつきを持っているのは、カトマンドゥ広しと言えども、自分た
ちの地域なのだ、と。
ムバーハー< Mubaha >
ムバーハー・クマリは、特に興味深いクマリである。というのも、ヴァジュラヤーナ仏教徒にとっては、きわめ
て重要な存在であるからだ。わたしがここで「きわめて重要な」という表現まで用いて、伝えようとしている「重要
性」とは、こういうことである。つまり、それがいかなる個人であれ集団であれ、生けるクマリの崇拝を含む、特別
なヴァジュラヤーナの儀式を遂行しようと望む者にとっては、そのクマリを担う第一義の精選対象はムバー
ハーに属する少女なのである。そして、この少女こそが、ヴァジュラデヴィー、ヴァジュラヴァラヒ <Vajravarahi>、タ
ライロキャデヴィー < Trailokyadevi>といったような女性のタントラ神格の最も完全なる表象となるわけだ。またさら
に、その重要度を示す事例として、こんなことも付言しておこう。実は、この少女が、ロイヤル・クマリよりも優れ
たものとみなされることもあるのだ。というのも、たとえばロイヤル・クマリが病気になった場合、彼女の待者たち
は、ムバーハー・クマリに供物をするよう求められるからである。
しかしながら、このクマリ(ムバーハー・クマリ)が持つ名声や信望は、主としてカトマンドゥのネワール族の仏
教徒たちが構成する小さな世界に限定されている。先代の在位者がついに退位してしまったのは、一九七二
年のことであった。(結局、それが最後のクマリとなった。)しかし、その時には、少女が乳歯を失ってからもうか
なりの時間が経過してしまっていたのである。こんなふうに退位が遅延したのは、進んで継承者になろうとする
者が誰もいなかった、ということに原因がある。もうすでに一年以上経過しているが、その地位は空位のままで
あり、あたかもその地位たるや、もともと空位であるかのようにみなされているのである。
ムバーハー(ムーラシュリマハヴィハーラ < Mulasrimahavihara> )に属するある成員が、こう話してくれた。渓谷へ
定住した最初のヴァジュラーチャーリヤは、→ p.52.
パシュパティナート < Pasupatinath> 近隣のバティスプタリ
< Batisputali> と称される街に住んでいた。この街で彼らヴァジュラーチャーリヤすべてが滞在していたのは、ピム
バーハー <Pimbaha>と呼ばれる僧院であった。当時、パシュパティナートでは、あるヴァジュラーチャーリヤがディ
ヤパーラ< dyapala>を務めていて、コミュニティーに強力なタントラ的プージャーを遂行するよう勧めていた。あ
る日、秘儀の女神グヒイェシュワリ <Guhyeswari> が、彼らに新しいバーハーを建立するよう命じた。彼らは、一本
の木から新しいバーハーを築き、カトマンドゥにおける最初のバーハーとして建立したのであった。このバー
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ハーこそが、ムバーハー(主席バーハー)と知られているものなのだ。また、グヒイェシュワリは、タントラ形式の
プージャーを導入するよう命じたのだが、実はこのプージャーにこそ、生けるクマリによってシャクティ< Sakti >
あるいはデヴィーを表象することが含まれていたのである。
ムバーハーは、中央カトマンドゥにあるもう一つのバーハーと密接な関係にある。そのバーハーは、タシ
バーハー <Tahsibaha>(スラットシュリスハヴィハラ <Suratsrimahavihara>)と呼ばれているものである。これら両バーハー
は、グヒイェシュワリを祖神(ディグ < digu> 、ディヤ < dya>)として奉じているが、そうなったことの次第は、グヒイェ
シュワリ地区に由来する共通した起源に求められている。また、この両バーハーは、ダサインの一○日目では
なく一一日目にカドガ・ジャートラー < khadga jatra> (剣の祝祭)を遂行するという点で、カトマンドゥにあるバー
ハーの中でも、特異なものなのである。生けるクマリが居住しているのは、ムバーハーであり、大抵ならそれに
属する成員からクマリは選出される。しかしその一方で、(クマリの)選定委員として活動するチャクレスワル
<cakreswar-ネワーリ>(重要なアガム祭務に責のある(を担当する)最長老のヴァジュラーチャーリヤ)と五人の長老た
ち(アージュ <aju-ネワーリ>)は、タシバーハーに属しているのだ。候補者(クマリの候補者)は、ムバーハーの成員
によって、通常の身体的標準に従って主要な予備選定を経てから、公式のクマリ・アガムへ連れて行かれる。
このクマリ・アガムは一階にあり、入り口を入ってすぐのところに位置している。チャクレスワルが小さな巻き紙を
儀礼用鉢(パトラ <patra>)に入れ、次にその妻が各候補者に巻き紙を一つずつ与える。雷電(ヴァジュラ <vajura>)
が描かれた紙片を引き当てた少女が、次のクマリ − つまりヴァジュラデヴィーの生ける顕現 − となるわけ
だ。その後、選定された少女は、先代クマリの脇へ連れて行かれる。その時、先代クマリは、玉座またはアサン
< asan> と称される座席に着いている。宝飾やその他の記章といった様々なアイテムを、先代クマリから新クマリ
へと移し替えるのは、チャクレスワルの役目である。チャクレスワルは、先ず先代クマリにナッツを与え、次に、
先代クマリが席を離れると、新クマリにも同様にナッツを与える。次々と関連儀礼が遂行されていくわけだが、
くじの結果が知れた瞬間には、少女はもうすでにクマリになっているのだとされている。
クマリは、在位中の間ずっと、バーハー内にあるクマリ宿所で暮らすよう求められる。彼女は中庭で他の子
供たちと遊ぶことはできるが、儀礼的義務を果たすことを除けば、構内から出ることはまったく許されていな
い。遊び仲間が何か無礼をはたらいた場合、その子たちはクマリの前でお辞儀をし、その許しを乞うよう命じら
れる。クマリは不浄であってはならないので、ガーリックも玉葱も食してはならない。また、皮革製品やその他
の不浄なものとの接触は、一切避けられねばならないし、ロイヤル・クマリと同様、在位中には薬を飲んではな
らない。さらに、彼女は常に赤い装束を着用し、クマリのヘア・スタイルをを整え、第三の目と一対の黄金のブ
レスレッドをつけていなくてはならないのだ。彼女はたくさんの宝飾品を所有しているが、モーヴァンによると、
その保存状態は極めて貧相なものである。→ p.53.
毎朝クマリは自らの玉座に着き、家族からサマイ・バジィ <samay baji>と称される供物類を受ける。私的な崇拝
で在家を訪れる際には、自分の父親に担がれるか、特別な可動式玉座で運ばれることになっている。主席
ヴァジュラーチャーリヤ・クマリは、あらゆる重要な仏教的プージャー、特にタハシマ < tahasimha> ( 73-74 頁参
照)、パンダラ < pandara> 、チャトリサママート < chatrisamamath> 、サミヤク < samyak> 、パンチャダン < pacandan> などのプー
ジャーにおいては、第一義的存在である。それゆえ、少女はけっこう多忙なのである。チャトリサママートは、
重要なアガム神チャクラサムヴラ < Cakrasamvara>に奉じるプージャーであり、カトマンドゥにあるすべての主要な
バーハーで例年行なわれている。ムバーハー・クマリは、中央区画(プュイ < phui> )で催される、こうしたプー
ジャーのすべてに出席するよう求められているのだ。しかしながら、最も重要な対外的コミットメントは、プス
<Pus>のアスタミ <astami>の日に、タシバーハー <Tahsibaha>で執り行われるマハバリ・プージャー <mahabali
puja>に出
席することである。タシバーハーに属するタカーリ <thakali>がムバーハーへ出向き、クマリを召喚すると、ムバー
ハーの男性がクマリを肩に担いで運ぶ。プージャーはクマリ・シェとして知られるタシバーハーの特別な地所
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で遂行される。また、バイサク < Baisak> の満月日やダサインのチャラ <chala> には、タシバーハーとダグバーハー
< Dagubaha> に属するタカーリたちがともに、ムバーハーへ出向いて、クマリに形式的な供物をする。ダグバー
ハーは、ムバーハーの近隣に位置しているが、かなり異例なバーハーでもある。というのも、それに属する成
員たちは、もっぱらヴァイディヤ < Vaidya> (広義のシュレスタ・カテゴリーにおける医師)で占められているから
だ。
ムバーハーに属する親たちが自分の娘をクマリという地位に提供するのを渋っているのは、ある部分では、
その地位が家族全員に幾つかの制約を課すからである。また、物理的な報酬といえば、ごくわずかな個人的
供物に過ぎないということも一因となっている。もっとも、国家はその少女に何ら関心を持っていないし、援助
をするグティすらも存在しないのだ。多くの地域住民が残念に思っているのは確かだが、現在では生けるクマ
リがいない、というのが現実なのである。しかしそうかといって、クマリの出席が必要とされるプージャーのすべ
てがもはや遂行不能になってしまったというわけではない。何人かの私的な檀家たち(依頼者たち)は、カワー
バーハーの少女を説得して、自分たちの自発的なプージャーへ出席させることに成功している − なかに
は、女神の聖霊に供物をする者もいるのだ。その際、女神の聖霊の現前は、ムバーハーより派遣されたマンダ
ラ、女神(クマリ)の玉座やその他の記章によって表象されることになるのだ。
カワーバーハー < Kwabaha >
カワーバーハー(マイトリプラマハーヴィハーラ <Maitripuramahavihara>は、北部カトマンドゥのなかでも主要な先
導的バーハーであり、都市全体を見回しても最古参のものとして頻繁に列挙されている。その成員はヴァジュ
ラーチャーリヤで占められ、なかでも男性たちは世襲的な権利を保有していて、二つの重要な非ヴァジュラー
チャーリヤの中枢 − シジャバーハー < Sighabaha> (あるいはカテシムブ < Kathesimbhu> )と呼ばれるシャーキヤ・
バ ー ハ ー と バ ガ ワ ン バ ー ハ ー < Bhagawanbaha> あ る い は タ ム バ ヒ < Thambahi> ( ヴ ィ ク ラ マ シ リ マ ハ ー ヴ ィ ハ ー ラ
<Vikramasilmahavihara>)と呼ばれるプラダーン・バーハー <Pradhan baha>といったような、ヴァジュラーチャーリヤ以外
のカーストがその中心成員として属しているバーハー − において、僧侶(プロヒット < purohit>として活動する。
カワーバーハー・クマリは、カワーバーハーに属するヴァジュラーチャーリヤの少女から選定されるが、(クマリ
崇拝に関しては)多くの点でバガワンバーハーとの連関がさらに密接である。この堂々として、きわめて異例な
るバーハー、バガワンに属するプラダーンたちは、独立した三層構造のパゴタスタイルの寺院を保有している
(写真二四)。この寺院は、年に四度ここにやって来て崇拝されるクマリのためだけに使用されるものなのだ。
→ p.54. その(伽藍)配置は、多くの点で、旧マッラ宮殿のそれを偲ばせるものである。このバーハーに属する
プラダーンたちが主張するように、実のところ彼らは、シマ・サルタ・バフ <Simha Sartha Bahu>と称される伝説的な
商人の子孫なのである [Kear Lal, 1971,pp.37-40.]。この人物は、一一世紀後期にはタメル<Thamel>地方のラジャで
あった [Wright, p.155, p.167.]。今日でも、タメルはラナ王宮<Rana palaces>の存在によって、ネワール族のカトマン
ドゥからは、独立したものとなっているのだ。さらに、バガワンバーハーは、広大な構内の中にそびえ、魅力的
な庭園と回廊を持っており、それらはまさしく宮殿の面持ちを思わせるものである。
プラダーンとは、チャウタリア <shautaria>(あるいはチャタレ <chathare>)として一括して知られるカースト集団の一
つである − 他の集団としては、マッラ、ラージバンダリ < Rajbhandari>、ジョシ < Josi> 、アーチャージュー <Acahju>、
アマティヤ <Amatya> 、そしてムシン <Munsi> などがある。前ゴルカ時代には、これら諸集団すべてが宮殿及び王
族と結びついていた。実は、こうしたこそが、それら諸集団の相互関係の基盤として推定されるものなのであ
る。つまり、マッラとは王たちのことであり、プラダーンは執行官及び参事官として、ラージムンシは書記あるい
- 48 -
は筆記者として、そうした王たちに仕えていたというわけである。また、これらのカーストは、すべてがというわけ
ではないにしても、幾つかがテライ <Terai>のシムラオンガッダに共通の起源を持つものとして、さらに深く結合し
あっているようだ。ライトとハスラットの記録したヴァムシャーヴァリーの両方ともが注釈しているように、ハラ・シ
マ・デヴァ <Hara SimhaDeva>は、一四世紀早々に、シムラオンガッダからバドガオンへやって来た時、七つのカー
ストを随行させていた。そして今日でさえ、それらカーストのうちの三つ、プラダーン、ラージバンダリ、アー
チャージューといったカーストに属する者たちは、自分たちの先祖がハラ・シマ・デヴァあるいはさらに古いカ
ルナティック <Karnatic>の王子ナニヤ・デヴァ <Nanya Deva>に随伴してやって来たのだ、と主張している。さらに、
カーストのうちの四つが、タレジュを通じて結びついている− マッラはタレジュを守護神として崇拝し、ラージ
バンダリはタレジュの寺院で料理人として働き、アーチャージューアはカトマンドゥとバドガオンでタレジュの僧
侶であったし(彼らアーチャージューがデオ−ブラフマンに取って代わられる以前は、パタンでもそうであっ
た)、ジョシは星占術家としてタレジュ寺院で重要な世襲義務を担っていたのである。バガワンバーハーに属
するプラダーンたちが、守護神としてタレジュを、処女の形態で崇拝しているという事実は、こうした(歴史的な
経緯と)同じパターンの一部をなすものとして理解されるべきである。
プラダーンは、清浄なる世俗的職務を担うカーストの成員であるため、自分たちのバーハーを維持したり、
あるいはその神格を崇拝したりする際には、仏教の僧侶カーストの協力を仰ぐことになる。そうした場合、カ
ワーバーハーのタカーリが、プロヒット・ヴァジュラーチャーリヤとして活動するのだ。その主たる宗務は、バガワ
ンバーハーに毎日出向き、アガム神(ボディサットヴァ <Bodhisattva>の姿をしたシマ・サルタ・バフ、また単にバガ
ワン・ディヤ <Bhagawan Dya>あるいはガル・ジュジュ<Garu Juju>としても知られる)を崇拝することである。またタカー
リは、パグン・パレワール <Phagun Parewar> の日(パーグン <Phagun>の満月の次の日)に、適切な諸儀礼を遂行す
べく、居合わせねばならない。その日、ガル・ジュジュが行列をなして、タメル地区中を巡行するからである。こ
ういった各諸行事の際に、タカーリはクマリ寺院へ出向き、女神の像を崇拝しなければならないのである。→
p.55.
生けるカワーバーハー・クマリがバガワンバーハーに連れて行かれる日は、年に四日ある。そのうちの二日
は、二回の至(夏至と冬至)(プス < Pus>のクルスナ・パクサ <Krsna paksa>の一○日目と、ジェスタ <Jestha>の同日)
で、その際にディシ(方向)・プージャー <disi puja>が執り行われる。あとの二日は、ダサインとガイ・ジャートラー
<Gai Jatra>の日(グラ <Gula>という仏教徒の聖なる月の満月の翌日)である。クマリはそういった行事の度毎に、自
分の家族成員やヴァジュラーチャーリヤ・プロヒットとともに、楽団を伴って、タメルへの小旅行を行ない、再び
カワーバーハー(写真二五)へと戻ってくる。わたしが聞いた話では、その昔、クマリは、スラヴァン <Sravan>にあ
るバガワンバーハーへ出向き、プロヒット・ヴァジュラーチャーリヤが、バーハーの所有するプラシュナパラミッ
タ <Prajnaparamit>の有名な金印字された写本から朗唱するのを聞いたものらしい。
こういった日以外なら、少女は自宅で家族と一緒に暮らしている。近所の子供たちと遊ぶのは構わないが、
学校へ通うことは許されていない。毎日、家族は(家族のうちの誰かで一人が)少女を崇拝しているらしいのだ
が、わたしのインフォーマントたちは、実際にはどうなのか疑っていた。少女は赤い服を着用し、髪はクマリ・ス
タイルに束ね、額に第三の目をつけることになっている。また、少女にとって川を渡ることは厳禁であり、まして
他のクマリと出会うことなどあってはならない。というのも、少女は他のクマリに第三の目で見つめられたら死ん
でしまうかもしれないし、少なくとも病気になってしまうからである。カワーバーハー・クマリも、簡素だが質の高
い銀の宝飾品を所有しているし、他のクマリと同様、公式行事の際には足指を赤くペイントされる。
現在の在位者は、年齢約六歳(一九七四年現在)で、在位して二年になる。私の聞いた話では、少女たち
は、大抵の場合、およそ十二歳を越えるころにはクマリの座を退くようだ。また、選定と失格についての基準
は、ムバーハーと同一であるようだ。選定委員会は、ラージグルジュ <Rajguruju>、カワーバーハー及びバガワン
- 49 -
バーハーのタカーリ、そしてバガワンバーハーの年次ディヤパーラで構成される。通常なら、どの少女が最適
の候補者であるのかに関して、簡単な同意決議がなされるが、委員会の意見が一致しない場合には、くじに
よる選定システムが採用される。
就任儀式は、カワーバーハーで挙行され、新旧のクマリが出席する。先代クマリは所有する宝飾すべてを
身につけ、自らの玉座に座る。一方、新クマリは先代の前でマットの上に座る。先代クマリから新任者へ、超自
然的な力を移行させるのは、カワーバーハーから出席しているヴァジュラーチャーリヤ・プロヒットの役割であ
る。プロヒットが花輪を失格した少女の首にかけると、その少女は身につけていた宝飾品をはずす。元クマリは
自らの玉座から立ち去り、新クマリの父親が自分の娘をそこに座らせる。先代クマリが新しい普段着を着せら
れるのとは対照的に、新任クマリはプラダーン・グティの財源から、新たに一揃いの赤い服を与えられる。その
後、旧クマリが公式のへアースタイルをほどき、これまた対象的に新クマリの髪が結い上げられるのだ。先代ク
マリとその両親がもてなされて後、ついに新クマリがすべての宝石で飾られ、僧侶(祭司)に崇拝されるのであ
る。→ p.56.
クマリを崇拝するには、クマリに会いにその自宅へ出向いてもいいし、クマリに自宅へ来るよう求めることもで
きる。このクマリは、今やカトマンドゥで唯一のヴァジュラーチャーリヤ・クマリとなってしまったので、頻繁に呼
び出されている。バガワンバーハーへの公式の外出遂行に加えて、集団的な通過儀礼や大規模なタントラ的
プージャーといったような儀式に出席するよう求められることもある。ある時、わたしは、クマリがイヒ儀式 < ihi
ceremony> (第五章参照)に出席しているのを観察することができた。カワーバーハーで催されたこの儀式では、
二○人の幼い少女がベル果実 < bel-fruit> と結婚させられたのである。クマリは、母親によって中庭に運ばれ、
ソーサー席 <saucer chair>に座らされて、そこで足を組んで座し、数時間に渡って事の次第を見守っていた。この
行事の際には、クマリはヘアースタイル、第三の目、赤い服、足指のペイント、銀の宝飾など、完全なる装備を
着付けられていたのである(写真二六、三五)。母親はクマリの脇に立ち、時おり何か囁いていた − 一度、
母親が少女に鼻の穴をほじるのをやめさせているのを目撃した。式次第が終わりに近づき、供物の交換がな
される頃になると、大部分の人たちがクマリに近づき、自らの額をクマリの足元につけ、クマリの鉢に小さな供
物を入れる。その後、クマリは母親の肩に乗せられて運び去られるのだ。
カトマンドゥのジャープュ・クマリ
カトマンドゥのプラダーンには二つの主要な集団がある − バガワンバーハーに属し、ヴァジュラーチャーリ
ヤ・クマリを崇拝する集団と、イトゥムバーハー <Itumbaha>に属するか、もしくはキラガール地区に住む人々の集
団である。ジャープュ・クマリを崇拝するのは、後者の集団の者たちなのだ。しかし、この二つの集団は密接な
相互関係にある。このことは、各集団の讃える二人の伝説上の英雄 − タメルのシマ・サルタ・バウとイトゥム
バーハーのケサカンドラ<Kesacandra>− が義兄弟の関係を結んでいるという事実に裏打ちされている。イトゥム
バーハーに属するプラダーンのインフォーマントが話してくれたことによれば、タメルの王は常に、イトゥムバー
ハーの王に敬意を払っていたようだ。今日でさえ、こうした関係はホリ <Holi>祝祭の後、楽団を伴った行列がタ
メルからイトゥムバーハーへ向かうことによって再演されているのである。
プラダーンたちの言うには、キラガール・クマリの信仰を始めたのは、自分たちであってジャープュではな
い。その少女が、ジャープュやキラガールの他の住民からもクマリとして認められ、時には崇拝されることもあ
る。しかし、このクマリの主たる存在理由は、プラダーンたちが、そのアガム崇拝の際に必要とされる儀礼を履
行するにあたって、その存在を必要とすることにある。キラガール地区にあるアガムは、ワリマ <Walima>と呼ばれ
- 50 -
ていて、その起源たるや、プラダーンたちがシムラオンガッダに定住したネパール歴四年(八七三年)にまで
遡ると云われている。そしてジャープュたちは長きに渡って、アガム崇拝の際にはプラダーンたちを援助してき
たのだ。アガム女神は、単にバガワティ <Bhagawati>と呼ばれていて、崇拝される時はいつでも(年に三度)、その
娘とされるジャープュ・クマリが居合わせねばならない。また、プラダーンたちが、このクマリに供物を捧げるの
は、以下のような祝祭の時である。マプージャー < Mhapuja> (ティハール < Tihar> の四日目、その際には私利 < the
self> が祝福され、死の神より長命が乞われる)、チャイトラ・アスタミ < Caitra
astami> (小さなダサイン)、インドラ・
ジャートラーの最終日、そしてガイ・アスタミ <Gai astami>(バドラ <Bhadra>)。→ p.57. こういった各々の行事の際に
は、六つあるプラダーンのリネージから、それぞれ少なくとも一人の男性成員がクマリの自宅へ出向き、供物を
捧げ、崇拝しなければならない。また逆に、クマリも思春期儀礼や結婚といったような、プラダーンたちの行な
う幾つかの重要な祭祀的行事に出席するよう招かれることもある。その際には、クマリは列の上座にある最長
老の位置に配されねばならない。およそ六年前のことになるが、わたしのインフォーマントがイトゥムバーハー
のプラダーンの長(タカーリ)を務めたことがあって、そのときにはプラダーンたち自身も、各自が順番に一年
の義務を果たすというローテーション原理に基づいて、毎日のようにクマリにプージャーをしていた。ところが
プラダーンたちのほとんどは、多くの雑用で多忙なため、長を務めていたインフォーマントが取り決めを変更し
てしまい、今日ではジャープュがプージャーをするようになっている。
三人のジャープュが、六つのロパニ < ropani>に対して、世襲的な権利を持っている。ロパニとは、何世代も前
にプラダーンが割り当てた土地のことである。ジャープュたちは、それを代償として、ワリマー、クマリ、グル
マーパー < Gurumapa> そしてシュラーダ < sraddha> と結びついた多くの儀礼的義務を遂行することになっているの
だ。ダサインのダシャミ < dasami> の際にも、これら三人にもう一人加えて計四人のジャープュが、クマリ・プー
ジャー、ヨーギニー・プージャー <Yogini puja>、ヴァイラヴィ・プージャーのために供物を行ない、そしてカットガ・
プージャー <khadga puja>の際には剣そのものを運ぶ [Anderson, pp.153-4.参照]。ジャープュたちは行列をなして、タレ
ジュ、キラガール、タメル、イエトゥカ< Yetkha>、クゥウォヒッティ < kwohiti> 、ウォラ < Wola> 、そしてテェバーハー
<Tehbaha>へと向かう。また同日に、ジャープュたちが、自分たちのクマリを、キラガールにある自宅からプラダー
ン・アガムへと運ぶと、そこで世襲性のアーチャージュー祭司がクマリを崇拝する。クマリはダサインの度毎に
二組の衣服を付与される。一組はプラダーンたち自身が組織するクマリ・グティの基金から購入され、もう一組
は中央の宝物省が購入することになっている。ところが宝物省の出す金額は数十年ものあいだ六・〇八ル
ピー(米国ドル換算で六○セント)のままなので、実際にはプラダーンたちが二組とも購入しなければならな
い。
三人のジャープュ・グティアル <guthiar>が、通常の基準に従って、適格なクマリ候補を選出し、その少女たち
をプラダーンに引き渡すと、最終的なくじ選定が行なわれる。このくじ選定を実施する委員会は、タカーリ、そ
の妻、そしてプラダーンのアーチャージュー祭司によって構成されている。こうした選定は、ダサインの最終
ティカー日(ダシャミ)に行なわれなければならない。選定された少女は、その頭上でジャープュがククリ<khukri>
を振り回すことによって批准される。このような認証手段が用いられるのは、カッドガ・ジャートラー <Khadga jatra>
の際に、主宰ジャープュによって同様の威かしを受けた時、少女が怯まないようにするためである。
失格の基準は他のクマリと同一で、歯の喪失や月経が強調されている − それゆえ、少女が一○歳を越え
てしまうことは滅多にない。プラダーンたちは退位失格を心配しがちで、何らかの兆候が現れる前に交代を実
行する。こうすることで、クマリが在位しない期間が長く発生しないようにしているのだ。というのも、クマリが就
任可能なのは、一年のうちでわずか一日だけしかないからである。もし、生けるクマリがいない時に、クマリ崇
拝が必要な行事を催すようなことになったとしたら、プラダーンたちは川近くの低位カーストの火葬場にあるイ
ンドラーニー寺院 < Indranitemple> へ、裸足で歩いて行かねばならない。こんなことは最も危険で嫌悪される行為
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であるため、プラダーンたちはこうしたことをする必要のないように、クマリの継続状態を維持しているというわ
けである。→ p.58.
少女は自宅で両親と一緒に住んでいて、その暮らしぶりは一年のほとんどの月日を通じて、この地方に住
むジャープュの同輩たちの生活と大した差異はない。インフォーマントの話によれば、プラダーンたちはここ数
年間に(クマリの生活上の)制約を緩めてきていて、そのお蔭で今日ではクマリは学校に通うことさえ許されて
いる。それでもクマリは皮革に触れてはならないし、赤い服を着用し、髪をクマリスタイルに結わなければなら
ない。しかし公式行事以外でなら、第三の目を付ける必要はなくなっている。少女は通りや野原で公然と遊ん
でいて、どんな重労働も課せられることはないのだ。
パタンのジャープュ・クマリ
パタンのデオ−ブラフマンは、六つの集団に分割されていて、それら各集団はリネージ(カワ <kawa-ネワーリ>)と
カースト(ジャート <jat>)の両方に連関されている。リネージに関しては、彼らデオ−ブラフマンたちは、インドに
いたカナウジュ < Kanauj>という六人のブラフマンの子孫だと主張している。その主張によれば、この六人のブラ
フマンは、先ずテライ < terai>にあるシムラオンガッダへ行き、その後初期のマッラ王朝に招かれてパタンへやっ
て来て、祭司として活動したのだとされている。各リネージは、それぞれが所有するアガムを維持している。ま
た、そのリネージ名称は、各々の成員のほとんどが今なお暮らしている地所に因んで命名されている。カース
トに関してはいえば、この六つの集団は、所属する男性成員が主宰資格を有する叙階式(デカ <dakha-ネワーリ>)
の数に応じて序列化されている。こうした地位の順列は、特に上位五つのリネージ間では、大した違いはな
い。上位の五つのリネージに属する成員は、自由に食事を共にし、内婚をする。第六位に序列された集団し
ても、上位のリネージ内に制限されている特別な結婚を除けば、それほど区別されているわけではない。
リネージ名称
カースト名称
1
バカニマ < Bakanimha >
スクラ < Sukura >
2
バラ < Bala >
パンデヤ< Pandeya >
3
タブ < Thabu >
アグニホトリ < Agnihotri >
4
タダリビ < Tadalibi >
5
ヌガ < Nuga >(断絶)
6
ソニマ < Sonimha >
インフォーマントによっても不明
ミスラ< Misra >
集団の中で最大にして最高位のバカニマに属する長老成員が、私に系図を見せてくれた。そこにはこの長
老自身が、創祖サクティ・ラム<Sakti Ram>から数えて第二十三代の父方子孫にあたると記されていた。この系図
の記録によれば、わたしのインフォーマントから十世代遡るビディヤナンダ <Bidyananda>は、ネパール歴八三七
年(一七一七年)に亡くなっていることになる。このことから、各世代の長さを平均して約二十五年と算出でき
る。この割合をもとにすれば、サクティ・ラムの生きていた時期を、十四世紀中葉、つまりハラシマ・デヴァがタ
レジュ信仰をシムラオンガッダから渓谷へもたらしたとされている時代に位置付けることができよう。
これら六人のデオ−ブラフマン集団の各々は、それ自身のアガムを維持していて、イニシエーションを済ま
せた男性成員が定期的にそこに集まり、タントラ的なプージャーを遂行する。→ p.59. ヒンドゥー・タントラに従
えば、どんな種類の宗教的パフォーマンスもガネーシュとクマリの崇拝から始めなければならない。こうした理
- 52 -
由から、かつては、六つの集団の各々は、各自のアガムや他の集団儀礼に出席するために、生けるジャー
プュ・クマリを持っていたのである。(クマリを担う)少女たちがジャープュ・コミュニティーから選ばれるのは、宗
教経典の中でこんなふうに述べられているからである。ブラフマンがクマリを崇拝するなら、クマリはスードラ・
ヴァルナ <Sudra varna>に属していなければならないし、崇拝者がシェトリ<Chetri>かラジャ(クシャトリヤ <Ksatriya>)で
あるならば、クマリはカンダラ(卑しめられたアウトカースト)に属していなければならず、ヴァイシャ <Vaisya>が崇
拝する場合なら、クマリはブラフマンに属していなければならないのだ。
今日では、ソニマ <Sonimha> ・デオ−ブラフマンのみが、自分たちのジャープュ・クマリを維持し続けている。し
かし、およそ六○年前までなら、バカニマ <Bakanimha>集団によって崇拝されていたジャープュ・クマリがもう一人
いたのである。他にもジャープュ・クマリがかつて存在していたとしても、何時それらが廃れてしまったのかにつ
いて知ることができるものは何も残されていない。ソニマは、もっと一般的にはソリマ <Solima>と呼ばれていて、
だいたいピムバーハー < Pimibaha> からパタン・ダーバーにかけて広がる北西パタンに位置する地域である。約
一二人のラジョパディヤ <Rajophadya>・デオ−ブラフマンたちが、この地域に住んでいて、アガムで連帯して崇拝
する。カトマンドゥ・プラダーンに属するタカーリの話によれば、ワリマ(カトマンドゥ・プラダーンのアガム)とソリ
マは、ともにきわめて古い歴史を持つアガムであり、その起源はシムラオンガッダに遡るという。こうした歴史性
の深さゆえに、生けるクマリが、彼らの執り行う諸儀礼との関わりで、今なお維持されているというわけなのだ。
ソニマ・デオ−ブラフマンたちは、自分たちのクマリを、約三○のジャープュ家系からなる下位カーストの中
から選出する。こうした下位カーストのジャープュたちは、ミカバーハー < Mikhabaha>やその近隣周辺に居住して
いる。通常の基準に従って少女を選択するのは、デオ−ブラフマン・タカーリか、その代理人である。アガムで
の就任儀式を済ませてしまうと、少女は自宅で両親と一緒に暮らすことになる。少女のライフスタイルは、公式
の儀礼行事を除けば、他のジャープュの少女たちの暮らしぶりと全く同じである。私がミカバーハーへ現在の
在位者を訪ねた時には、少女(クマリ)は、化粧を一切せず、特別な衣装も着ないで、さらにはヘアースタイル
さえ整えずに、中庭で遊んでいた。その年齢は、おそらく五歳くらいであろうか、クマリになって、まだおよそ五
か月しか経っていないのだ。私が写真を撮りたいと頼むと、少女の母親は、急いで家へ戻り、簡素で多少摩滅
した眞鍮製の装飾品を三つ − 頭飾りと二本のネックレス − をとってきた。次に、顔をさっと拭かれただけ
で、少女の撮影準備は完了といった次第であった(写真二七)。
クマリの家族の内の誰か一人、通常なら父親が、毎朝、米と花々を供えて、簡単なプージャーを行なう。毎
月の暗き半分の一四日目、クマリを崇拝しにやって来るのは、デオ−ブラフマン・タカーリである。単独でやっ
て来る場合もあれば、ジョシたちのタカーリが随伴することもある。ジョシたちも、ソリマにアガムを持っているか
らである(アガムを持つがゆえに、その崇拝・維持にクマリが必要なのである)。クマリにとって重要な日は、バ
イサク< Baisak
>の輝ける半分の四日目である。この日、多くのデオ−ブラフマンと当地区のジャープュたち
が、ミカバーハーへやって来て、クマリに供物をするのだ。しかしながら、クマリの主たる宗務は、ソリマ・アガム
に入ることである。デオ−ブラフマンやジョシたちは、クマリ・プージャーを行なうために、クマリの出席を求め
る。たとえば、男性成員の結婚やイニシエーション(ブラタ・バンダ→ p.60.<brata bandha>)の後になされるプー
ジャーなどが一般的な事例になるわけだが、そうした場合、クマリは必ずアガムへ入らねばならない。クマリが
単独で入ることもあるが、時として一一人の幼い友人たちに伴われることもある。こうした場合、彼女たちは、結
果的に、ガナ・クマリを構成することになる。
バカニマ < Bakanimha> とは、パンチャリ < Punchali>にある有名なプルナチャンディ <Purnachandi>寺院の近辺に位置
する地区のことである。プルナチャンディは、ドゥルガーの一形態で、パタンのすべてのデオ−ブラフマンに
とっては、祖神(デワリ・ディヤ <Dewali dya>)にあたる。デオ−ブラフマンたちが共通のデワリ・プージャーのため
に集まることはもうないが、所属する成員の誰かが結婚したり、イニシエーション儀礼を受けたりする時はいつ
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でも、各リネージ単位で寺院に集まって、この女神を崇拝することになっている。バカニマ・リネージは、およそ
二五の家族で構成されていて、四つの下位リネージに分割されている。かつて、このリネージは、ボリマ・トル
<Bolima
tol>にある大きな寺院内に専用のアガムを持っていた。また、ソリマと同様、この地区のジャープュ住民
が、アガム崇拝やデワリ・プージャーに必要な生けるクマリ(ム・クマリあるいは「チーフ」クマリ)のみならず、ガ
ナ・クマリの候補者の供給源にもなっていたのである。ところが、一九○八年に、そのアガム神や他の神像が、
寺院から盗まれるという事件が起こった。その後僅か数年で、生けるクマリの風習は放棄されてしまい、次いで
一九三○年に起こった地震で寺院が崩壊してしまうと、再建すら断念されてしまったのである。わたしのイン
フォーマントたちは、災難の原因を、数多くの諍いに帰していたが、そもそもそういった揉め事の結果、集団(リ
ネージ)は四つの区分に細分裂してしまったのである。それでも、バカニマ・デオ−ブラフマンたちは、クマリ
制度を構成している重要な要素の幾つかを維持し続けてきた。たとえば、クマリの玉座は、ボリマに住む所属
成員の家屋内に、今なお保存されている。それゆえ、彼らデオ−ブラフマンたちは、クマリ・プージャーを行な
おうと思えばいつでも、女神の聖霊を召喚し、そのクマリの玉座の上に置かれた聖なる水差し(カラシュ <kalas>)
に入魂させることができるというわけだ。ソリマ集団と同じく、バカニマ・デオ−ブラフマンたちも、結婚やイニシ
エーションとの関連からデワリ・プージャーを遂行する際には決まって、そういったことを執り行うのである。ま
た、そうした行事の折には、この地区のジャープュたちも、一二人の幼い子供たちをガナ・クマリとして送り出
すことになっている。ボリマには、廃墟となった寺院の傍に小さな建物があって、これがクマリ・シェと知られて
いる。一九七二年にその一部が崩壊するまで、マー・クマリ <Ma Kumari>として知られるジャープュの女性が、夫
や子供達と一緒に、そこで暮らしていた。その昔は、マー・クマリの宗務といえば、生けるクマリに日常のプー
ジャーを執り行うことであったが、今日でも、マー・クマリとその夫は、クマリの玉座に対してこの務めを果たして
いるのだ。このマー・クマリという地位は、少女(クマリ)の母親か親しい女性縁者によって履行されるのが一般
的であったが、ここ六○年の間、最後の(クマリ)在位者の時に就いていた女性の家族によって維持されてい
るのである。
ブンガマティ・クマリ
ブンガマティは、パタンの南西数マイルのところにある村落で、およそ七、○○○人いる住民は、すべてネ
ワール族で占められている。定住者たちは、その社会生活のほとんどを、マチェンドラナート(カルナーマヤ
<Karunamaya>あるいはブンガ・ディヤ <Bunga Dya>)に中心を置いて暮らしている。マチェンドラナートとは、偉大な
る国民的神格のことで、→ p.61.
年間のある期間をブンガマティ寺院で、他の期間をパタンのタハバーハー
< Tahbaha> において過ごす。ブンガマティのネワール族は、大部分が仏教徒であり、ヴァジュラーチャーリヤと
シャーキヤが有力なカーストとなっていて、住民の四分の一を占めている。ヴァジュラーチャーリヤに属する七
人とシャーキヤに属するに四人が、パンジュ< Panju
> として知られ、マチェンドラナートに関連した多くの宗
務を分担している。また、パンジュ・ヴァジュラーチャーリヤの七人は、自分の家族内から、生けるクマリを輩出
することになっている。このクマリは、しかしながら、他のクマリとは異なり、選定の際の理念的な基準に重きを
置かれない。その代わり、この地位は、適格な少女たちのうちで最年長の者へ優先的に回されるというシステ
ムがとられている。現在(一九七三年)の在位者(写真二八)は、五歳になる少女で、就任しておよそ一年が経
つ。聞いたところによれば、歯の喪失、疱瘡、麻疹、初潮などを被ると自動的に失格となり、それゆえ、少女が
三年以上に渡って在位し続けることは滅多にないそうだ。日常のプージャーは、父親か家族の何れかの者に
よって執り行われ、米、花々、それに赤いティカー・マークといった簡単な供物で構成されている。家族全員が
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クマリを尊敬しなければならないため、食事に最初に口をつけるのもクマリでなければならない。少女は、常に
クマリのへアースタイルを結っていなければならないが、他の点では、同年齢の幼い少女たちと同じ生活ぶり
で構わないとされている。ブンガマティに居住する全カーストの大部分の者たちのみならず、若干のシェトリや
ブラフマンも含め周辺に居住する人々までもが、結婚式、少年のイニシエーション(ブラタバンダ
<bratabandha>)、あるいは少女の初潮(バラ・テブ <barha
thebu-ネワーリ>といった行事を済ませた後に、クマリへ供物を
しにやって来る。また、病気になった時、特に出血で苦しんでいるような時にも、クマリのもとへやって来るの
だ。
ブンガマティのクマリは、その起源においても、現在の崇拝形態においても、マチェンドラナートとの結びつ
きが極めて密接である。伝え聞くところによれば、クマリがネパールに初めてやって来たのは、マチェンドラ
ナートに随行した数多くの神々の一人としてであった。マチェンドラナートというこの著名な神格が渓谷におい
て崇拝され始めたのは、少なくとも一四世紀、古くは一二世紀にまで遡ることができる。その縁日 <main day>は、
マングシル < Mangsir> あるいはマールガ <Marga> (一一月中旬)の一日で、マチェンドラナートの想像上の命日で
あり、大衆からの崇拝を受けるべく、クマリが姿を現すのも、この日なのである。クマリは、赤い衣装と宝飾類を
着付けされ、髪をクマリ・スタイルに結われ、額には第三の目と赤いティカを施されて、専用の玉座(アサン
< asan>)に座って、その日を過ごす。この玉座が置かれるのは、バイラヴァ(ハヤグリヴァ <Hayagriva>)寺院への入
り口脇の場所で、そこを遮るものは何もないが、設置場所は盛り土されている。ハヤグリヴァとは、パタンの誇る
四人のバイラヴァの先導者だとされており、公式の仏教用語では、アミタバ < Amitabha>・パンテオンに属する守
護神格の一人である。その容姿は、荒神として表現されていて、頭には馬の頭皮を被り、鎖あるいは足枷を携
えている。マチェンドラナートの寺院は、この同じ広場内の数ヤード離れたところにあって、(ここに納められて
いるマチェンドラナートの)像も、バイラヴァ寺院に持ち込まれる。ヴァジュラーチャーリヤ・パンジュたちが、先
ずマチェンドラナートとバイラヴァを崇拝し、次に肉、パンを二斤、それに打ち延ばされた米をクマリに供する。
→ p.62.
二二日後、つまりマールガ< Marga
> の暗き半分の八日目に、ガナ・クマリたちが、ハヤグリヴァの寺院へ
連れて行かれ、そこで饗宴でもてなされ、崇拝される。ガナ・クマリたちは、人数的には七・八人程度で、それ
以上にはならず、ヴァジュラーチャーリヤかシャーキヤ・パンジュの家族の何れかから選出されることになって
いる。
主たるクマリ(主役のクマリ)は、他日もう二回、マチェンドラナートに敬意を表して、公衆の前に姿を現す。
一度目は、冬至の際で、その時には、パンジュたちがマチェンドラナートの像をブンガマティの寺院から連れ
出し、パタンにあるマチェンドラナートの寺院へと運ぶ。二度目は、その六・七か月後で、マチェンドラナートが
ブンガマティへの帰還後、四日目のことである。この行事の際には、パタンとカトマンドゥから大群衆がやって
来て、マチェンドラナートが自らの寺院へ無事に安置されるのを確認するのだ。クマリはといえば、華美な衣装
を完全装着して、ハヤグリヴァの寺院の外側で、自らの玉座に座り、事の成り行きを見つめ、自らの崇拝者た
ちから供物を受け取るのである。
一二年に一度のことなのであるが、マチェンドラナートがその巨大な山車に乗ってパタンへ延々と引かれて
行き、再び戻ってくるという行事が行なわれる。その際、ブンガマティのクマリは、北方のナク川 <Nakhu>まで随
行する。この地点で、マチェンドラナートは、パタンのクマリに迎えられるのだ。
チャバヒ・クマリ< Chabahi Kumari >
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チャバヒは、人口約二、○○○人を抱える、主としてネワール族の集落であり、中央カトマンドゥの北東三マ
イル、ブッダナート <Bodhnath> と称される著名なストゥーパの真西に位置している。このストゥーパは、キルティプ
ニャ < Kirtipunya> あるいはデヴァパタン < Devapatan> と呼ばれる街の一角に建っている。このいにしえの街は、かつ
ては、ある王が統治した中枢要地であったのだ。近辺には、多くの僧院(ヴィハーラ<vihara>)の遺物がある。こう
した遺跡物の中には、たとえば、ブッダナートへの途上にあるマジュバーハー <Mejubaha>や、街の中心にあるオ
トゥバーハー <Otubaha>などの僧院も含まれる。チャバヒでとりわけ有名な遺跡物は、ダンド< Dando>(「お金の塊
<lump
of
money>」)と称されている大きなチャイトヤ<caitya >で、仏教の年代記によれば、偉大なるインド皇帝ア
ショカ王<Asoka>の娘カールマティー <Carumati>によって建立されたものである。カールマティーは、父たる王に
随行して、ネパールへ来たものの、ここに留まって、デヴァパラ <Devapala>と称される王子と結婚する決心をした
とされている。ライトの記録する年代記にも、カールマティーは、老年に達した時、「カールマティー・ビハール
<Carumati Bihar>」と称される僧院を建立し、修道女としてそこに隠遁してしまった、ということが記されている。ある
歴史編纂家の記すところによれば、その僧院が、今なお、デヴァパタンの真北にあるここチャバヒに存在して
いるとされれる。しかしながら、私がそこを訪れた時、何人かの高齢の成員たちが、こう断言したのだ。このバヒ
は、カールマティー − バヒ(さらに一般的には、チャバヒ< Cabahi
>という間略形で)として知られているが、
その本当のサンスクリット名称は、スヴァルナプールナマハーヴィハーラ <Suvarnapurnamahavihara>であり、デヴァパ
タンの女王であったカトマンドゥの美しきシャーキヤの少女ガンガ・マハラニ < GangaMaharani> が、ネパール歴八
五○年(一七四九年)に建立したものである、と。
このバヒは、ダンド・チャイトヤ <Dando caitya>の約七○ヤード西に位置していて、近代的な付加物は一切施さ
れていないが、保存状態は良好である。当バヒには、イニシエーションを済ませた男性成員が約八○人所属
していて、→ p.63.
他のすべてのバヒと同様、その成員はシャーキヤのみで、ヴァジュラーチャーリヤはいな
い。このバヒが保持している固有の生けるクマリは、所属する男性成員の娘たちの中から選出されている。通
常なら、(選出にあたって)七人から一○人の少女たちが申し出る。候補者すべてが、美しい肌、歯の未喪
失、初潮の未経験という通常の基準に適っている場合、くじによる最終選考が行なわれる。少女たちは、その
ために、主たるバヒ神の前へと連れ出される。このバヒ神は、四つ足で立つパッドマパニ < Padmapani> で、カル
ナーマヤ <Karunamaya>とも呼ばれている。くじ選考の手順は、こんな具合だ。幼い少女が一人、一個の鉢から紙
片を幾つか取り出し、各候補者に一枚づつ手渡す。「当たり <yes>」と記された紙片を得た少女が、次のクマリに
なる − つまり、この少女は、パッドマパニによって選定された、ということになるわけだ。選定された少女は、
儀式を経て、クマリの地位に就くことになる。この就任儀式が遂行される場所は、バヒ内にあるクマリ自身の部
屋か祠で、そのすぐ上座がマッドマパニの祠にあたる一角のちょうど左側の一階バルコニーである。バヒの全
成員がシャーキヤ・カーストに属しているため、カトマンドゥにあるマカムバーハー <Makambaha> に属する成員が
プロヒット・ヴァジュラーチャーリヤとして雇われる− この人物こそが、クマリの就任儀式を司るのだ。
現在(一九七三年)のクマリは、およそ五歳で、就任してちょうど七か月を迎える。前任者は、五歳から七歳
までの二年間、クマリであったが、前々任者は、一歳未満から九歳までという長期に渡って在位していた。少
女は、自分の家族と一緒に生活し、その暮らしぶりは、儀礼の目的で請われる時以外なら、ごく普通のもので
ある。私が訪問した際、少女(クマリ)は、友達と遊んでいたが、赤い服だけは纏っていた。私がここを訪れた
次第を説明すると、クマリの母親はすぐに応じてくれたので、完全な装備をした姿でクマリの写真を撮影するこ
とができた(写真九)。何となく見すぼらしい女神は、その煤けた顔を水で洗ってもらい、クマリ・スタイルへと髪
を結い上げられる(写真三○)。こんなふうに仕度を介添えしている少女も、数年前には、長期間に渡って、ク
マリの地位に就いていたのだ。今や、もう一一歳になっている。この間、クマリの父親が、チャバヒへと飛んで
行き、クマリの宝飾品や装身具を倉庫から引っ張り出してきた。これらの装飾品類は、重厚な銀製の品々で、
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頭飾り、ネックレス、ブレスレット、耳飾りなどの良質な装備一式であった。父親は、注意深くクマリの両目にペ
イントし、次にお決まりの第三の目を額に施し、ソーサー・チェアーに座らせた。こうして写真は撮影されたの
である。
カトマンドゥに住む裕福な者たちの中には、このクマリを個人的に崇拝しに来る者もいるらしいが、昨年は、
そういった吾人は、たった一人だけであった。何れのカーストであれ、エスニック集団であれ、当地方の人たち
はみな、結婚式、イニシエーション、そしてその他の重要な家庭祭祀の後には、クマリを崇拝することになって
いる。主要な祭礼は四つあって、その際クマリは、公式の崇拝のために、すべての徴章を身に着けねばならな
い。そうした四つの行事を以下に列挙しておこう。
1. 及び 2. ロイヤル・クマリやカワバーハー・クマリと同様、チャバヒ・クマリも、冬至と夏至(プス <Pus>の一○日
目とジェスタ <Jestha>の一○日目)には、ディシ・プージャー <disi puja>のために、チャバヒ・アガムへ連れて行かれ
る。チャバヒに属する五人のアジュ <aju>(長老たち)が、→ p.64. マカムバーハーのプロヒットとともに、アガム神
を崇拝し、クマリに供物をする。
3. アクサヤ・トリティヤ <Aksaya Tritiya>として知られるバイサーク <Baisak>の三日目に、クマリは、バヒへ連れて行か
れ、そこでアジュたちやプロヒットに崇拝される。アクサヤ・トリティヤとは、祝祭のことで、その際人々は、水を
混ぜたジャガリ <jagari>を互いに提供しあう。
4. グラの聖なる月の明るい月の二週間の八日目に、仏教徒たちは、五つの供物からなる儀式パンチャ・ダン
<panca dan>を遂行する。五種類の食べ物(殻付の米、精米、レンズ豆、小麦、塩)が、托鉢僧たち − シャーキ
ヤとヴァジュラーチャーリヤの成員たちが、自分たちを代表するよう選んだ僧侶たち − に、施される。托鉢僧
たちは、クマリとともに、バヒ内で整列し、施しを受けるのだ。
第四章
母にして、美しき処女かな
今日のクマリ崇拝のあらゆる形式には、根本的な重要性を孕んだ、循環性の謎が内包されている。名称か
らしても、その多くの属性からしても、クマリは幼い処女なのであるが、他の点からすれば、官能的で成熟した
母‐神でもあるという謎である。ロイヤル・シャーキヤ・クマリがどのような仕方で、タレジュ・バヴァーニの生ける
表象であるとされているのか、これについては、わたしはすでに述べた。賽ころ遊戯(の場面)を含むほとんど
の(説話の)ヴァージョンでは、タレジュは極めて美しい者として、王はその女神を性的に所有しようという望を
抱く者として、描写されている。事実、こうした野心ゆえに、タレジュは王宮を去ろうと心に決める。そして、
シャーキヤ・カーストの属する幼い少女となったタレジュと王との関係は、以前にもまして疎遠となり、形式的な
ものとして維持されるに過ぎなくなってしまう。こうした二人の女神(クマリとタレジュ)の同一化は、タレジュ寺院
で執り行われる重要な儀礼の際にも、明確に現れる。新しいクマリが就任するのは、そうした儀礼においてな
のであるからだ。
一般に、タレジュそのものは、国家 − 最初は、アヨッドヤ <Ayodhya>のラーマチャンドラ <Ramacandra>の王国、
次にシムラオンガッダのカルナティック <Karnatic>の王子、最後にネパールのマッラ王朝やシャハ王朝 − の守
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護女神という役割において、ドゥルガーと同一化される。クマリは、バサンタプール < Basantapur>にあるクマリ・ハ
ウスの彫刻を施されたティムパヌム(トーラナ)に見られるように、ドゥルガーとして直接に表現される場合、温厚
な幼い処女であると同時に、虎に跨がり、男性魔神を殺戮する、恐ろしくも官能的な女性でもあるのだ。こうし
たヒンドゥー教の女神たちはすべて、単一のデヴィーあるいはマハーデヴィー < Mahadevi>の有する対照的な性
質をもった諸形態だとされている。そして、このデヴィーこそは、シヴァのシャクティなのである。インドにおいて
タレジュの位置付けがどうなっているのか、私は詳しくは知らないが、それでもこのことははっきりしている。つ
まり、タレジュが承認されている処でなら何処においても、たとえばハイデラバッド < Hyderabad> 州のトゥルジャ
プール <Tuljapur>での事例のように、タレジュは守護女神として崇拝されているのだ。『宗教及び倫理学辞典』に
も、トゥルジャデヴィー <Tuljadevi>がデカンの彷徨える穀物運搬人バンジャラ <Banjara>たちによって崇拝されてい
る [The Encyclopaedia of Religion and Ethics, ii, p.3476.] と記されている。女神と穀物の関係については、サストリもさらに
確証しており、こう書いている。タレジュ−バヴァーニは、「アンナプールナー <Annapurna>と同様、一方の手には
一盛の美味なる食べ物を、もう片方の手にはそれら食べ物を配分するためのさじを一つ持っている[Sastri, 1916,
p.220.] 」。アンナプールナーは、カトマンドゥでは、インドラ・チョーク内にある穀物市場を統轄する女神にあた
る。チャールストンは、南インドでブラフマンに入門した際、その最終段階で、デサスタ <Desastha>たちのことに言
及している。デサスタとは、マラティ <Marathi>語を話すブラフマンたちのことで、アムバーバヴァーニ<Ambabhavani>
あるいはトゥルジャバヴァーニ <Tuljabhavani>を崇拝している [Thurston, 1901, p.393.]。ここで、アムバー <Amba>という名
称が登場することは、大変興味深い。というのも、この名称によって、その女神の有する母的な性質が明確に
なる(アムバとは文字通り「母」を意味する)だけでなく、クマリとの特別な関係が成立するからである。こうした
次第は、アムビカへの賛歌からなる一三の韻文において、明確に示されている。以下の引用は、ウッドロッフェ
の翻訳によるものである[Woodroffe, 1913, p.110.]。
鶏と孔雀に仕われしは誰ぞ。
ああ、完全無欠の御方よ!
シャクティなる武器を持つのは誰ぞ。
クマリの姿で存するは誰ぞ。
ナーラーヤニよ、汝には渾ての敬意を。
→ p.66.
カウマーリー< Kaumari > −地母神
カウマーリーとは、文字通りの意味では、単に「クマリに付き物の、あるいはクマリに関する」ということを意味
している。それでも実際には、この名称は、マートリカー < matrka>、つまり「聖なる地母神たち」の一人に言及す
るのに用いられるのが一般的である。彼女たち女神は、通常なら、女性的なエネルギー、あるいは偉大なるヒ
ンドゥー教の神々の配偶者(対応神格)として表象されており、ネパールでは、一纏めにして八母神(アシュタ・
マートリカー)あるいは九母神(ナヴァドゥルガー)とされている。こうした女神たちの祠は、三都各々において、
重大な意味を持っている。女神たちが崇拝されるのは、とりわけダサインの際で、その間には女神たちは魔神
に対する恐ろしき破壊者とみなされるのだ。大いなる神々は、魔神を打ち負かすべく、バイラヴァの形態(相)
をとり、それらのシャクティが、バイラヴィあるいはマートリカー < matrka> となるわけである。こうした仕組みが、古
典的なアーリア的神格を、シヴァに備わる様々な形態へと変容させる方法であるのは勿論のことである。という
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のも、バイラヴァとは、このシヴァ神の有する恐ろしく、破壊的な様相であるからだ。以下に示す一覧表は、パ
タンのヴァジュラーチャーリヤに属するインフォーマントが教えてくれたものである。このインフォーマントは、ダ
サインの際になされるアシュタ・マートリカー・ダンスを組織する担当者でもあったのだ。
シャクティ
1.ブラーフマニー (黄色)
偉大なる神
ブラフマー
< Brahmani >
2.ヴァーラヒー
(赤色)
< Indrani >(< Aindri >)
4.ルドラーニー
(白色)
ヴァラーハあるいはマハーカーラー
< Varaha >< Mahakala >
インドラ
(赤色)
< Kaumari >
6.ヴァイシュナヴィー (緑色)
ルドラあるいはマハーデヴァ
< Rudra >< Mahadeva >
アグニ
7.チャームンダー (赤色)
< Camunda >
8.マハーラクシュミー (赤色)
< Mahalaksmi >
プラサンダ・バイラヴァ
< Prasanda Bhairava >
< Ruruk Bhairava >
カランカ・バイラヴァ
< Kalanka Bhairava >
クロッダカ・バイラヴァ
< Agni >
ヴィシュヌ
< Vaisnavi >
< Asitanga Bhairava >
ルルク・バイラヴァ
< Indra >
< Rudrani >
5.カウマーリー
アシターンガ・バイラヴァ
< Brahma >
< Varahi >
3.インドラーナー(アインドリ)(橙色)
バイラヴァ相
< Krodhaka Bhairava >
ウンマッタ・バイラヴァ
< Visnu >
クヴェラ
< Unmatta Bhairava >
カパーラ・バイラヴァ
< Kuvera >
ヤマラージュ
< Kapala Bhairava >
サンガーラ・バイラヴァ
< Yamaraj >
< Sangara Bhairava >
これらに、ウグラチャンディ <Ugrachandi>を付け加えれば、一覧表はナヴァドゥルガーになるのである。
生けるクマリとマートリカー・カウマーリーとは、前者が幼く美しい、平穏な処女であり、後者は官能的で荒々
しく、時には醜い母であるとして、非常に異なっているのだが、それでも形式的には、同じ女神として同一化さ
れている。このことは、次のような点で明確になる。つまり、両形態とも、その色は血の赤色であり、乗り物は孔
雀、花はハイビスカスといったように、同じなのである。さらに、カウマーリーの配偶者であるアグニは、『ブラー
フマナ』においては、クマーラ <Kumara>として言及される。クマール(クマーラ) <Kumar(a)>とは、永遠に若く、独身
の汚れなき青年なのである − そして、そうした青年として、クマリつまり永遠の処女の配偶者(夫)でもあるの
だ。クマーラは、スカンダ、つまり「精液の噴出」として言及される場合には、時としてアグニとガンガー <Ganga>
の間の息子と表現されるが、その他のヴァージョンでなら、女性を介さずにシヴァの精液から生まれた者とされ
ている [Dowson, p.152.]。ダニエルロウは、自らが作成したサプタ・マートリカーの一覧表に、スカンダをカウマー
リーの配偶者(夫)として位置付けている[Danielou, 1964, p.28.] 。この同じ神(クマーラ)の有するもう一つの別名
称としては、カートティケーヤ <Karttikeya> が一般的である。つまり、戰と火星の神というわけだ。この名称でなら、
大抵の場合、その妻たるカウマーリーとともに、孔雀に跨がった姿として描かれている。また、カウマーリーとク
マリとの結びつきが→ p.67. 明確になるのは、カトマンドゥのロイヤル・クマリの例祭の時である。その際、クマリ
は二人の少年に伴われている。(先述したように)少年の一方はクマールの一形態チャンダ・バイラヴァ <Canda
Bhairava> であり、もう一方はガネーシュであった。ここでは、クマールとガネーシュは、マハーデヴァ(シヴァ)の
息子であるが、各々がガンガとパルヴァティー <Parvati>という別々の母親から生まれた義理の兄弟として結びつ
けられている。サストリは、南インドについての著作物の中で、処女と母親との間に類似した同一化があること
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を指摘しているが、それは次のようなことに注目していたからである。彼は、こう書いている。「タントラ教徒の有
するサプタ・マートリカーは、村落の神々の中に列挙されており、おそらくは『七人のカニヤーマール
<Kanniyamar>(「未婚の少女たち」あるいは「七人の姉妹」)』と同一のもである [Sastri, 1916, p.229.]」。
処女神に備わる根本的なセクシャリティーと母性は、ネワール族の間では、理想的な夫であると同時に永遠
の独身者でもあるクマールの持つ役割とパラレルになっている。クマールは、スヴァルナ・クマール < Suvarna
Kumar>としては、絶好の独身王子なのである。ヴァジュラーチャーリヤとシャーキヤといったカーストに属する少
女たちはすべて、五・六歳になると、イヒ儀礼、つまりベル果実儀式の際に、こうした姿でのクマールと結婚さ
せらる(第五章参照)。わたしのインフォーマントの一人は、パタンのデオ−ブラフマンなのであるが、こう話し
てくれた。クマリもクマールも両者ともが孔雀をその乗り物(ヴァーハナ <vahana>)として持つのは、この鳥が、性
的な交渉なしに繁殖するという、独特な鳥だからだ、と。雌孔雀たちは、雄孔雀の周りに集まり、その後雄孔雀
が雌孔雀の産んだ卵に涙滴を落として受精させるのだという。
「クマリ」という名称は、文字通り「処女の少女」を意味するが、それは、純潔なとか、未使用の、あるいは穢
れていないといったような意味においてなのである。結婚というものは、一般的には、こうした状態を損なうもの
として理解されている。しかし、結婚によって必ずしも、そのような状態が損なわれてしまうわけではない。この
ことは、少なくとも、以下の三つの脈絡において明白である。先ず、女神カウマーリーは夫を有するものとして
表現されるのが一般的である。また、伝統的なヒンドゥー教徒の間では、幼児婚の発生率が高いために、花嫁
は数年間しか処女を保持しえない。さらに、もう一つの別称であるカニヤー < kanya>が用いられるのは、嫁がせ
る用意の整った幼い少女(結婚儀式においては、カニヤーダーンとして知られるように)に言及するためであ
る。ヒンドゥー教では、幼児婚の重要性が絶えず増大してきたことで、少女たちの様々な身体的発育段階を指
し示す用語群が派生するに至った。そうした用語についての一覧表では、大抵の場合、次のような(用語と少
女の発育段階との)対応関係が見られる。カニヤーという用語は、およそ一○歳の初潮前の幼い少女に、ラ
ジャスヴァラ <rajasvala>(文字通り「赤のおしるし <red appearing>」)は、ちょうど初潮を迎え始める、およそ一○・一一
歳になる少女に、ロヒニ < rohini>は、およそ一二歳の「赤い」少女に、そしてクマリは、一三歳の少女に言及する
のに用いられる [Pandey, 1969, p.188, and Walker, 1968, p.434.] というわけだ。
ここで、クマリという用語が、初潮後の少女を指し示しているということは、非常に興味深い。というのも、ネ
ワール族の見解では、初潮が生けるクマリの失格を示す確実な徴表として強調されるからである。用語上から
すれば、生けるクマリが、先ず以て何よりも初潮前の少女であることは明白である。しかしそれでも、おそらく
は、われわれが他の様々な脈絡上で見いだしてきたように、根本的なセクシャリティーや母性とパラレルな関
係になっている内的な意味からすると、生けるクマリは、実際には、初潮後の少女ということになる。衣服、ティ
カー・マーク、花などに見られるように、クマリのお気に入りの色が赤色であるという事実が、このことを裏打ち
しているわけだ。→ p.68. 時折であるが、初潮を迎えているのが確実だと思われるような年齢に達しても、生け
るクマリに留まり続けるという事例が生じる。現在のパタン・クマリやおよそ二○年前に在位していたロイヤル・
クマリがこれにあたるわけだが、こうした事例も、この女神の真なる本性には根本的な両犠牲(アンビヴァレン
ス)が備わっているのだ、ということを示しているといえよう。少女がその結婚式の際に身に着ける宝飾品のな
かに、とりわけ重要な品目としてタヤ< taya >があるが、これもしばしば生けるクマリが身に着けているものなの
である。
バーラ・クマリ< Bala Kumari > とパンチャ・クマリ< Panca Kumari >
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処女神は、生けるクマリやマートリカー・カウマーリーだけでなく、バーラ・クマリやパンチャ・クマリという形態
でも崇拝されている。バーラ・クマリとは、基本的な四方に対応する形で、四体が存在する像のことで、それぞ
れが、ティミ <Thimi>(東)、パタン(南)、マヤティ<Mayati>(西)、マンガルプラ <Mangalpura>(北)にある各パゴタ型の
寺院に奉納されている。こうした形式で女神を表現することにおいては、未成熟性/成熟性の結合が、さらに
取り扱われることになる。というのも、バーラとは文字通り「子供」を意味するのだが、その像は、それ固有の乗
り物である孔雀に跨がった美しくも官能的な女性という姿で表現されているからだ。
パタンのバーラ・クマリは、街の東およそ半マイルの所にある三層式の寺院に奉納されている(詳しい描写
は [Barnier, 1970, pp.104-7.]を参照して頂きたい)。ある説話によれば、この寺院は、女神に敬意を表して建立され
たとされている。侵略してきたチベット人たちの間で流行したコレラから、渓谷をこの女神が守ったからである。
その際チベット人を率いていたのはトソンガカパ < Tsongkhapa> (一三五七年−一四一九年)であるとされている
が、この建物(寺院)にある碑文によれば、建立はネパール歴七四二年(一六二二年)と記録されていて、年
代的にはかなりの開きがある。寺院の近辺には、数は多くないものの、家屋が軒を並べていて、元々はディヤ
パーラ < dyapala>として働いていたサルミ <Sarmi> 、マハジャン <Mahajan>、シュレスタ <Srestha>といったカーストの人々
が混合集落を形成して居住している。
この寺院は、呪術師の集まる場所として、悪名が高い。夜になると、渓谷中の呪術師たちがここにやって来
て、自分たちの用いる呪文や祈祷文(マントラ)を強化し、効果を高めようと、必要な力を獲得しようとする。悪
名高いのは、そう信じられているからなのだ。クマリと呪術師との結びつきについては、ネワール族の小さな村
落ハラシッディ <Harasiddhi>において、さらに明確な証拠を見いだすことができる。パタンの南およそ四マイルに
位置しているこの村落では、その主宰女神ハラシッディは、クマリ、バイラヴィー、それにハラシッディの結合か
ら構成される三重神格なのである。これら三神すべては、ヨーギニー <yogini>であり、血の供犠で宥められねば
ならない。この村の男性の多くは、テチョ<Thecho>とコナ <Kona>という隣接集落に住む男性数人とともに、ジャラミ
<Jalami>として知られており、そうした者の常として、いつも奇妙な衣服を纏っている。その衣服は、多くの点で、
女性のものに似ており、主要アイテムは、プュジャマ・タイプ <pyjama-type>のワンピース一式で、女性のブラウス
のような上着も含まれている。彼らは、決して髪を切ることはなく、女性のようにシニョンに結い上げていて、時
にはカスト <kasto-ネワーリ>として知られる女性用のショールまで羽織ることがある。ジャラミ(という集団)は、毎年の
パーグン <Phagun>の満月になると、ダンス(ジャラ・プュアコ<jala pyako>)を上演する。これは、渓谷中にその名を
知られる有名なダンスなのだ。彼らダンサーたちは、怒れる女神たちの役を演じる。彼らが演じる女神集団の
中には、何とクマリも含まれており、しかも集団の統率者として役柄を割り振られているのだ。一二年に一度、
この一団は、渓谷中を旅し、→ p.69.
行く先々で望むだけのビールを振る舞われることになっている。彼ら一
座の者たちの取り扱いをめぐっては、敬意と懸念が入り交じっている。というのも、彼らは、一二年目毎にやっ
て来ては、犠牲者、それも好んで幼い初潮前の少女に呪文をかけ、翌年のハラシッディへの供犠のために確
保しておくのだと信じられているからである。彼らは、少女をジャングルの中へ連れ込み、そこで用心深く養成
し、タントラの秘儀を教えこむ。供犠の後、少女の身体は、幾つかの方法を用いて乾燥させてしまうので、細か
い粉状になってしまう。この粉は、マハ・ダップ <maha dup>と呼ばれていて、彼らジャラミは、これを高額で売り捌
く。この粉は、呪術に用いれば強力な物質として効力を発揮するし、また魔神に対する御守りとしても役に立
つのだ。わたしのインフォーマントたちは、こういった話が本当のことだと確信していた。しかし、ジャラミの漫遊
中に神秘的な事情で失踪してしまう人は、以前ほど多くはないらしい。だからといって、こうした供犠は廃れつ
つあるのだ、と考えられているわけではないのだ。
わけても有名なバーラ・クマリは、ティミにあるそれだ。パタンでなら、女神は、街の外側に位置し、従者たち
といえば低位カーストで、その寺院たるや呪術師たちの巣窟となっていた。しかし、ティミのクマリは、パタンと
- 61 -
は異なり、中央広場に堂々たる寺院を構え、自らに仕える祭司としてアーチャージューを有し、さらには、街の
神々の中でも、統轄的な地母神として主座を占めている。その像は、ハラシッディから程遠くない、渓谷南部
にある古いネワール族の街タシィ < Tashi> から、ここティミへとやって来たとされている。説話によれば、(そもそ
も)バーラ・クマリは、タシィに住むある家族のリネージ神(クル・デヴァター <kul devata>)であった。ところで、この
家族には、娘はいたが、(後取りとなる)息子がいなかった。少女(娘)は、両親が亡くなってしまうと、バドガオ
ンにある夫の実家へ女神を持って行こうとした。ところが、少女がティミに到着する頃には、雄鶏が鳴き始めた
ので、座って休憩することにした。気をとり直して旅を続けようとした時、少女は女神の異変に気付いた。どうし
たことだろう、女神は、今やもう、運ぶには重くなりすぎてしまっていたのだ。その時、クマリが少女にこう語りか
けた。わたしは、今いるここに留まりたい、と。
アーチャージューたちは、満月前の毎月一四日と満月毎に、バーラ・クマリへプージャーをする。パーグン
<Phagun>の満月になると、女神は、(楽団と信奉者たちに伴われて)チャング・ナーラーヤナ <Changu Narayana>を、
数マイル離れた山頂にあるその寺院へと訪れるべく、連れ出される。(この神は、年に一度カトマンドゥへ行
き、その際にハヌマン・ドカでロイヤル・クマリとも会うことになっている。)バーラ・クマリの例祭(ジャートラー)は
バイサーク <Baisak>の満月(四月中旬)に行なわれ、渓谷中でも、主要な新年の祝祭の一つとして有名なもので
ある。新年の日(元日)の間中、演奏家や崇拝者などの人々が群衆をなして、女神の寺院へやって来て、あら
ゆる種類の供物、特に真紅の儀礼用粉末を供える。群衆は夜も途絶えることがなく、数百もの人々が儀礼用
のオイル・トーチを頭上高く掲げ持って、やって来るのだ。バーラ・クマリ専用のトーチは、細い四つの灯心を
持つ構造になっていて、祝祭の間中ずっと燃え続けることになっている。もし消えてしまったりすると、王と国
民は何らかの困難を被ることになるのだ。アンダーソンは、この祝祭について、こんなふうに書いている。「一
纏めにされた炎から発する熱が、途方もない程までに蓄積されて、冬を追い払い、作物を育てる暑い夏の到
来を促すのだと信じられているのである」 [Anderson, p.47.]。→ p.70.
この祝祭の最大の呼び物は、第二日目に巡ってくる。大群衆が、三つの主要都市から各々詰めかけて来
る。早朝、男たちの集団が三二ある地区(トル)の各々に集まり、各寺院からその在住神を連れ出し、儀式用
の担ぎ輿(カト < khat>)に乗せて、行列をなして運ぶ。街中に狂乱的な興奮が高まり、各集団がここそこを駆け
回り、見物人たちも手いっぱいの橙かかった赤い粉を神々、寺院のみならず、自分たち自身お互いに投げ振
りかけあう。その頃には、(輿を担いだ)各集団がバーラ・クマリの広場に集結し終り、そこにあるバーラ・クマリ
に寺院の周囲を激しく回る。しばらくすると、劇的な瞬間が訪れる。ガネーシュが、隣村ナガディッシュ
< Nagadish>から、何百人もの信奉者とともに到着するのだ。地方神たちは、手荒い歓迎でガネーシュを迎え、そ
の後には、ガネーシュの帰還を少しでも遅らせようとする。ついにガネーシュが(この引き止め)を脱出し終える
頃、地方神が各々乗る担ぎ輿は、今度は、バーラ・クマリが旧タレジュ寺院へ入ろうとするのを阻止しようと躍
起になる。というのも、バーラ・クマリがそこへ入ってしまうと、輿行列は終幕を迎えることになるからである。言
い伝えられているところによれば、かつて、このタレジュ寺院の近くに、古い王宮が建っていたという。つまり、
ここでも、王族(王権)、タレジュ、クマリの三者間には、親密な結びつきが存在していた、と考えられるわけだ。
この日の残りの間中、個々人も各集団も、バーラ・クマリに供犠を捧げるため、鶏や山羊を連れて、クマリの
寺院へやって来る。聞けば、その昔は人身供犠が行なわれていたらしいが、今では黒山羊の屠殺によって代
替されているとのことだ。寺院のほんの少し外側に、一本のポールが立っていて、その頂点には美しい孔雀が
彫刻されている。一人のアーチャージュー祭司が片手一杯の米をその鳥に投げつけると、止まり木を離れ、
供犠の犠牲者を捜しに飛び立つ。かつては、そうしたことがなされていたのだ。今日では、アーチャージュー
祭司が、供犠の前日に山羊を選定する。その後、この山羊は、あたかも王になされるかのようにして、行き先を
示す彩色された布地に沿って、行列を組んで寺院へと連れて行かれる。山羊の肉はプラサーダとして、その
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日の余時間に女神を崇拝しに来た人々すべてが、その分配に預かれる。こうした肉は、単に食されてしまうの
ではない。たとえば、子供なら、胃腸炎などを患うと、長期間泣き続け、食を拒絶するものだが、こうした致命的
な小児病(アイサチャグ <aisachagu-ネワーリ>)の治療に効果があるとされているので、薬として保存されるのだ。子供
の病気、特に放出を伴うような病気(下痢、目ばちこ、敗血症、あるいは鼻血)の治療には、バーラ・クマリへの
供物が効果があるとされているのである。
パンチャ・クマリ
パンチャ・クマリ <Panca Kumari>は、時には寺院に安置される場合もあるが、大抵なら小さく、目立たない祠に
奉置されるのが普通である。各パンチャ・クマリの名称、つまりアハリヤー < Shalya> 、ドラウパディー < Draupadi> 、
シーター <sita> 、ターラー <Tara>、そしてマンドダリー <Mandodari>という五つの名称の各々について、あるネワール
族のブラフマンが、次のように教えてくれた。アハリヤーは、『ラーマーヤナ』では、インドラに拐されたリシ・ガ
ウタマ <Risi Gautama>の貞節な妻として登場する。ドラウパディーは、五人のパンドゥ<Pandu>王子たちの暗愚だが
美しい妻で、ニタ−ヤウヴァニ <Nita-yauvani> つまり「常しえの若女」としても知られている[Dowson, pp.94-7.]。また、
シーターは、ラーマー <Rama>の名高き妻であり、ターラーとは、ブハスパティ <Brihaspati>の妻のことである [Dowson,
p.63.]。そして、マンドダリは、→
p.70. ラーヴァナ<Ravana>のお気に入りの妻にして、インドラジット <Indrajit>の母に
あたる [Dowson, p.198.]。彼女たちはすべて、美しく官能的な女性であるが、唯一アハリヤーのみが純潔な形態で
表現される。
パンチャ・クマリと称される石があって、これも五個で一揃いとされている。これらの石は、ピータ <pitha>として
言及されることもある。ピータ−スターナ < pitha-sthana>といえば、文字通り「座席の場」のことであるが、タントラ教
徒によれば、サティー < Sati>が夫シヴァの肩上で朽ち果てた際、その肢体の落ちた場所が六四あるとされてい
て、これもそれらのうちの一つなのである。カルカッタにあるカリガット < Kalighat> やカトマンドゥのパシュパティ
ナート < Pasupatinath>のように、有名な祠になっているピータもあれば、目立たず、僅かにその地方在住者によっ
てしか知られていないピータもあるのだ。カトマンドゥにある幾つかの有名なパンチャ・クマリのピータは、アサ
ン・トル <Asan Tol>近くのカマル・ポカリ<Kamal Pokhari>や、あるいはインドラ・チョークへの途上や王道 <kings' Road>
上で見ることができる。
クマリ・プージャーが遂行される際には、必ずパンチャ・クマリにも供物がなされねばならない。パンチャ・ク
マリは、主役クマリの五人の女友達として表現されるのが普通で、たとえばクマリ・ヤグ・ラートリプージャー
<Kumari yag ratripuja>のような特定のプージャーでは、五人の初潮前の少女たちが選定され、パンチャ・クマリを
表象することもある。実際、クマリが、とりわけその生ける形態として、タントラ的な儀礼で崇拝される際、パン
チャ・クマリも生きた少女たちによって表象されると、必ずや破格の恩恵が得られるのだ。時には、結婚式に、
五人の処女が花嫁の女友達として登場することもある。また、ダサインの期間中、生ける形態をとったパン
チャ・クマリにプージャーをする家族までいるのだ。近年では、国王や外国の元首が、カトマンドゥ空港に到着
する場合などは、パンチャ・クマリとして知られる少女たちが、必ず現れる。彼女たちのこうした出番を財政面
で援助しているのは、国家である。一○代の少女たちが、高官に花輪をかけることで、歓迎の意を表するとい
うわけだ。
あるインフォーマントは、博学な仏教徒でもあるのだが、パンチャ・クマリを五つの重なり合った区分に関係
づけていた。こうした区分は、仏教とヒンドゥー教の何れにとっても根本的なものである。ヒンドゥー・タントラで
は、そうした区分はクラ <kula>(「家族」)と呼ばれていて、その各々が固有の色調を持っている。この色彩が、五
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つの要素をそれぞれ表象しているのである。特定のプージャーの際には、五人の幼い少女たちが、パンチャ・
クラの各部分を担う。その際、少女たちは、五つの不浄(憎悪、色欲、嫉妬、迷妄、悪意のある中傷)に通じる
五つの感覚器官を象徴しているのだとされている。従って、五人の少女たちがそうした儀礼で用いられるの
は、諸感覚に基づいた認識を生成するためなのである。その結果、(儀礼において)参加者たちは、至福へと
至る制御と抑制 − たとえば射精を抑止する時のように − の行使を学ぶことになるわけだ。このインフォー
マントは、パンチャ・クマリの各名称も教えてくれた。ラーガヴァジュリ < Ragavajri> 、ドヴェサヴァジュリ <Dvesavajri> 、
イルシャヴァジュリ < Irsyavajri>、モハヴァジュリ < Mohavajri>、そしてピスナヴァジュリ < Pisunavjri>の五つがその名称で
あり、これらはデヤーニ・ブッダ <Dhyani Budda>たちの五つのシャクティに対応している。
さらに、このインフォーマントは、タントラの秘儀にも言及してくれた。この儀礼では、九人の少女たちがナ
ヴァ・カニヤー <nava kanya>(「九人の処女」)を表象するのだ。少女たちは、九つの異なった職業集団から選定
されねばならず、その範囲は様々なカーストに及んでいる。それを以下に列挙すれば、こうなる。→ p.72.
ナティ <Nati> − ダンサーの娘。
カパーリニ<Kapalini>(クシャリ <Kusali>) − 不可触の塗装工の娘。
ヴァシャ <Vasya> − 未婚女性の娘で、一般的には娼婦の娘ということになる。
ラージャキ <Rajaki> − 洗濯屋の娘。
ナヤ・カンガナ <Naya Kangana> − 女役者の娘。
ブラフマニー <Brahmani> − ブラフマンの娘。
シュードラ・カニヤー <Sudra Kanya> − シュードラの娘。
ゴパール・カニヤー <Gopal Kanya> − 牛飼いの娘。
マラカ・カニヤー <Malaka Kanya> − 庭師の娘。
この儀礼の目的は、純潔な精神を持った少女たちのヨーニ<yoni>を崇拝することであり、それゆえ、現世での悟
りを得ることなのである。また、王がこうした少女たちを崇拝するならば、完全なる秩序がその王国中に広く行
き渡ることになる、とも云われているのだ。
内的なクマリと外的なクマリ
ヒンドゥー教徒にしろ、仏教徒にしろ、数多くのインフォーマントたちが強調しているのは、グヒヤ< guhya >
とバヒラ< bahira
>の区別の重要性である。グヒヤとは、すべての内的で秘儀なるものに言及し、一方バヒラ
は、外的で公開的なものを暗示する。こうした二分法は、あらゆる形式のタントラ教のみならず、ネワール族の
社会生活すべての機構にとっても、根本的なものなのである。集団のメンバーシップは儀礼的なイニシエー
ションによって限定されるのが一般的であるし、社会的な境界も秘儀や囲い込みによって維持されている。個
人は、イニシエーションを順次通過するに連れて、社会的な階段を上昇するだけでなく、かなり効果的で、強
力な宗教的実践、教義、イコンへと近づくことができるようになるのだ。
ネワール族の仏教徒にとっては、最も基本的な内/外の二分法とは、タントラ的/非タントラ的の区分という
ことになる。非タントラ的な宗教的実践は、イニシエーションを経ないで利用できる実践であり、教義上の用語
で言えば、シュラーワカヤーナ<Srawakayana>つまりヒナヤーナ仏教 <Hinayana Buddhism>に相当しよう。タントラ的な
宗教的実践、つまりヴァジュラヤーナ仏教は、秘儀とイニシエーションに特徴があり、その唱道者たちは、経験
と感覚の肯定的な修養を通して達成される解脱 <emancipation>についての教義を伝授する。こうした二つの宗派
間の差異は、性行為に対する態度において、最も顕著に現れる。伝統的な非タントラ的仏教は、禁欲生活や
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僧院生活の重要性を強調する。それに対して、ヴァジュラヤーナの信奉者たちは、男女の性愛的な結合(マ
ハースカ <mahasukha>)を崇拝しているのだ。
内的/外的という区分は、相対的であって、絶対的なものではない。それゆえ、クマリの本質的なアイデン
ティティーに関しても、様々なグラデュエーションが存在することになる。クマリが最も表面的で外的な形態で
存在するのは、アシュタ・マートリカーに数えあげられているカウマーリーとして、バーラ・クマリとして、そしてパ
ンチャ・クマリとして存在する場合である。こうした形態をとる場合、クマリは、何ら制限もなく接近できる存在な
のであり、どんな人でも崇拝できる。また、肉、血、ワインといった供物をすることも構わない。さらに、(こうした
形態でのクマリは)肉体的には官能的であるとはいえ、そのセクシャルな役割が強調されるわけではない。し
かし、次のような二つの段階では、クマリは、幼く純潔な処女であることは明らかなのであるが、その最奥部の
様態においては、顕著にセクシャルな形態をとった女性原理(プラジナー <prajna>)となるのだ。こうした段階は、
仏教的な見解からすると、マハーヤーナとヴァジュラヤーナの教義に対応していることになる。マハーヤーナ
仏教徒は、→ p.73. 「知」を暗示するこのプラジナーを二つの形態で崇拝する。つまり聖典『プラジナーパーラ
ミター <Prajnaparamita>』とディヤーニ・ブッダ<Dhyani Buddhas>の性的なパートナーという二つの形態として崇拝する
わけだ。この段階では、「本質的な」クマリは、特にアモガシィッディ<Amoghassiddhi>の妻ターラーと同一化されて
いる。この女神(「女性救世主」)は、その色が白色か緑色であり、平穏な性質を持っている。最終段階は、完
全にイニシエーションを済ませたヴァジュラヤーナ信徒、つまり秘儀であるアガム儀礼に参加する権利を獲得
済の信徒にとっての段階である。ここでは、クマリは、ヨーギーニ<yogini>あるいはダキニ <dakini>という形態のプラ
ジナーとして、とりわけチャクラサムヴァラ <Cakrasamvara> (ヘルカ <Heruka>)の美しく、赤く彩られた配偶者ヴァジュ
ラデヴィーとして崇拝されるのだ。チャクラサムヴァラは、絵画でなら中間青(ミディアム・ブルー)で描かれるの
が一般的である。描かれている姿といえば、三つの恐ろしい頭を持ち、一二の武器を手にして、炎に包まれ、
骸骨の冠を被っている。さらに、官能的な裸体のヴァジュラデヴィーを抱いているのだ(11)。二神(チャクラサム
バラとヴァジュラデヴィー)はともに、アリ <Ali>(マハーデヴァ <Mahadeva>)とカーリー(パルヴァティー <Parvati>)の死
体を踏みつけている−これは、昇華されたセクシャルな欲望の象徴なのである。ヴァジュラデヴィーは、大抵
の場合、ヴァジュラヴァラヒ <Vajravarahi>(マハーマーヤー <Mahamaya>の配偶者で、ヘルカの有する数多くの形態
の一つ)と同一化されている。主要なタントラ・プージャーで崇拝されるヴァジュラデヴィー・マンダルの中で
は、この女神は、細く、上品な姿で表現されていて、片足で踊り、骸骨の冠を被って、カトヴァーンガ
< khatvanga>(三つのしゃれこうべを串刺しにしている細い槍)を携えているのだ。女神は、二つの交差する三
角形(シュリー・ヤントラ)の中心に、自らの別形態でもある六人の守護女神とともに立っているのである( 12)。
あるヴァジュラーチャーリヤのインフォーマントは、どのようにして自分の母親が、五人の既婚の息子たちと
その妻子たちに援助されつつも、大いなるタハ・シナ・プージャー <taha sinha puja-ネワーリ>を執り行ったのかについ
て、以下のように描写してくれた。このプージャーは、マハ・シンドゥーラ・アブイカセ <maha sindura abhieskha-サンスクリ
ット>あるいはラハシャ・グヒヤ・プージャー <rahasya guhya puja-サンスクリット>とも称されている。この女性(インフォーマン
トの母親)の夫が亡くなったのは、息子たちがまだ幼い子供の頃で、そのため彼女は、持てる時間と労力すべ
てを割いて、息子たちに良い教育を与えようと心に決めた。また、末子が学業を終えた時には、幾つかのプー
ジャーをしようとも誓ったのである。(そしてそうしたプージャーを実行する時期に至ると)先ず最初に、彼女は
ピータ・プージャー <pitha puja>を行なった − ある一定期間のすべてを割いて、この家族は、渓谷内の三二の
ピータすべてを訪れ、それら各々において逐一プージャーをした。それらを済ませてしまうと、彼女はこう話し
た。「まあ何と言うことでしょう。わたしは幸福なのです。だから、今この時、タハ・シナ・プージャーをしたいので
す − 一人の女として、わたしはプラジナーのプージャーをしたいのですよ」。
儀式開催のおよそ二週間前になると、兄弟たち(息子たち)は、遂行にあたって必要とする人々すべて −
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ヴァジュラーチャーリヤの管楽器演奏者、宗教画家、一団の女性のお手伝いさんたち − に招待状を送付し
た。彼ら兄弟たち自身も、妻や親類の援助を頼みつつも、数日を割いて実家の一室で準備を整えた。彼ら
は 、 そ の 一 室 を 、 内 側 ( グ ヒ ヤ ) と 外 側 ( バ ヒ ラ ) と い う 区 画 に 分 割 し 、 チ ャ ク ラ サ ム バ ラ や ヨ ー ガー ム バ ラ
<Yogambara>といった高位のタントラ神格の絵画で飾りつけた。内側の区画には、デカ<
dekha > を取得済の者
たちだけしか入ることができない [Allen, 1973.]。この区画こそが、完全なる秘儀のタントラ諸儀礼が遂行される空
間なのだ。→ p.74.
こうした規模の大きなプージャーの前日には、一人の女性が、彩色された水差し(カラシュ <kalas>)を運びつ
つ、祭司一人に付き添われて、最寄りのガネーシュの寺院へ、歩み入ることになっている。当事例では、マ
チェンドラナート・バーハー近辺にある寺院がこれに用いられた。祭司が、簡単な儀礼を執り行って、ガネー
シュの聖霊を壷(水差し)へ移すと、持ち込んだ女性がそれを内側の部屋へと運び帰る。同時に、別の一組
が、最寄りのムバーハーに属するヴァジュラーチャーリヤ・クマリの処へ出向く。供物、それも日頃から崇拝者
たちが寺院へ持って行くような種類の供物を載せた盛り皿が運ばれる。こうすることで、翌日なされるタハ・シ
ナ・プージャーへ出席してくれるよう、女神(クマリ)に請うのである。クマリは、供物を受納し、勧請に来たカッ
プル(女性と祭司)に、自分の母親を通して、プラサーダを与えることで、同意したことを伝える。
年長のヴァジュラーチャーリヤ祭司が、内側の部屋へ入り、重要な儀礼を執り行う。この儀礼によって、ヴァ
ジュラデヴィーの聖霊がカラシュへと入魂されるわけだ。続いて、補助者たちの力を借りて、恒例のグル・マン
ダル <guru mandal>とサマーディ・プージャー <samadhi puja>を遂行し、さらにダサ・クロダ<Dasa Kroda>あるいはロカ
パーラ <Lokapala> − 一○人のバイラヴァ形態の男性守護神たち − の召喚が続く。バイラヴァの頭部が彫刻
され、彩色された小さな木製の楔釘が幾本か、プージャー・ルームの周囲の地面に打ち込まれている。重要
な予備行為は、今や一つを残すのみとなった−つまり、外側の部屋にヴァジュラデヴィー・マンダルを描くこと
である。これはわたしのインフォーマントが行なったのであるが、長老の祭司がその責務として必要なプー
ジャーを遂行してしまってから描かれねばならないことになっている。マンダルは、かなり大きいもので、盛り土
して漆喰で覆ったプラット・フォーム上に描かれる。これは、部屋の中央に位置しているので、誰もがこのマン
ダルを見ることができる。マンダルの基部には、あのシュリー・ヤントラ − 一対の交差する三角形で、ウパヤ
<upaya>/プラジナー<prajna>を表象している − が描かれているのだ。
翌朝、長老の祭司は、四人の補助祭司とともに、ヴァジュラデヴィー・マンダルの前に座り、ヴァジュラヴァー
ラーヒー・タントラ <Vajravarahi Tantra> のすべてを詠唱することで、プログラムを開始する。マンダルの儀礼的「開
帳」の後、幾人かの男たちが、ムバーハーへと出向き、ヴァジュラーチャーリヤ・クマリを召喚する。その間、当
の女性(インフォーマントの母親)は、五人の息子と五人の祭司とともに、構内の門のところまで出て行き、供
物の盛り皿、灯の点いたランプ、水の器、赤い布地巻き、その他の贈り物を揃えて、女神を迎える。女神(クマ
リ)は、その父親によって、外側の部屋へと運ばれ、ヴァジュラデヴィー・マンダルの真ん中に足組をして座る。
この瞬間から、プージャーが終了するまでのおよそ五時間、クマリはヴァジュラデヴィーとなっていたことになる
のだ。
それから、一人の女性が、クマリにパンチャ・サリ <panca sali>を供する。パンチャ・サリとは、五種類のライス・ワ
インの入った水差しのことである。これとは対照的に、一人の男性が、五種類の肉を盛ったトレイを供する。そ
れらの供物は、クマリが各々に少しだけ手をつけた後、崇拝している家族の成員たちにも回される。最後に、
クマリに対して八四種類の様々に色とりどりの食物を盛ったトレイが供されるが、これもまた崇拝者たちに回さ
れるのである。
プージャーが終了すると、クマリは、父親に連れられて自家へ戻る。一行は、ムバーハーに帰り着くと、クマ
リに対して、プージャーに纏わる誤りや手抜かり、あるいは不愉快なことがなかったかどうか、許しを請う。わた
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しのインフォーマントが強調していたのは、この特別なクマリが何を喜び、何がお気に召さなかったのかを明ら
かにすることであり、次いで、クマリが完全に満足していたかどうかを確認することであった。たとえば、もしクマ
リが何か特別な玩具を望んでいるなら、一行はそれを求めてマーケットへ行かねばならなくなるのだ。
以下に列挙するのは、生けるクマリが崇拝者の供物を喜ぶか否かについての形式的な徴表のリストである。
これは、別のインフォーマントに教えてもらったものである。
1. クマリが、食後に両手を擦り合わせるという行為しかしなかった場合、崇拝者は一か月以内に
病気
を患うことになろう − クマリが食べるのをためらった場合も、同じことになる。
2. クマリが、崇拝時に、大声で泣いたり笑ったりした場合、崇拝者は重病に陥るか、死亡さえす
る可能
性がある。
3. クマリがべそをかき、同時に両目を擦ったりしようものなら、崇拝者は間もなく死ぬことにな
ろう。
4. クマリが、憂鬱な表情を見せ、左右を見回すと、崇拝者の家庭に争議が持ち上がることになる。
5. クマリが爪で食物をつかむ(つまり、食物を抓み上げる)と、崇拝者はお金を失うことになろ
う。
6. クマリが爪先で唇を抓った場合、それは、彼女が満足しておらず、崇拝者は最初からやり直さ
ねば
ならない、ということを意味している。
7.
クマリが舌を突き出したら、それは、彼女が供えられたワインと肉を嫌っている、ということ
を示して
いる。
8. クマリがあくびをしたら、凝乳とミルクに満足していないことを示している。
9. クマリが、飲み物だけを摂り、食べなかった場合、崇拝者の仕事が巧く運ばなくなることを意
味して
いる。
10. クマリが手を打ったら、崇拝者は王を恐れるに足る理由を持つことになろう。
11. クマリが手で太鼓を叩くようなしぐさをしたら、崇拝者宅に泥棒が入るやも知れぬので用心し
なけれ
ばならない。
12. クマリが食物をとり、噛り、その後に床の上に置いたら、それは、準備段階で何らかの不浄が
あった
ことを示している。
13. クマリが、左右を向き、その後食事中に前後を向いた場合、崇拝者はネパールを去らねばなら
なく
なるであろう。→ p.76.
14. クマリが、少ししか飲まなかったにもかかわらず、酩酊の徴候を示した場合には、崇拝者の自
宅に
幽霊か邪悪な聖霊が居ることを示している。
15.
クマリが、食しないで、崇拝者の顔を見つめたなら、プージャーの際に何らかの誤りがなされ
たに
違いない。
16. クマリが、食しないで、何も話さなかったら、崇拝者の配偶者に死が訪れることになろう。
17. クマリが泣き続けた場合、崇拝者は不治の病に侵されるだろう。
クマリが、地面を蹴ったり、床を足で擦ったりすると、崇拝者は、自宅を去らねばならなくな
るだろ
19. クマリが震えようものなら、崇拝者は投獄されるような憂き目に遭うだろう − クマリの震える
時間の
18.
う。
長短が、投獄期間に対応している。
20. クマリが崇拝者を斜めに見たら、それは、彼女がプージャーの繰り返しを望んでいるというこ
している。
21. クマリが語りかけることなく、ウインクをしたら、それは、彼女が満足している証拠である。
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とを示
22. クマリが、頭を下げたまま、何も語らなかったら、それは、彼女が完全には満足していないと
いうこと
を示している。
23. クマリが、崇拝者を背にして振り返った場合、食物の中に何らかの穢れか不浄が入っていたこ
とを
示す。
24. 上述したことが何も起こらなかったら、その時は、崇拝者の望みが満たされることになろう。
あるデオ−ブラフマンは、女性神の属する様々な階級間の関係を説明しようと、連続的な力についての理
念に言及した。一にして偉大なるデヴィーは、純潔な幼い処女(クマリ)としても、性愛的に成熟した母(カウ
マーリー)としても、あるいは魔神に対する美しき殺戮者(ドゥルガー)としても崇拝され得る。これら三形態の
内で、何れが最も強力なのかについては、はっきりと明確化できるわけではない。デオ−ブラフマンが述べる
ように、ある脈絡上では、その連続はクマリからドゥルガーへと至る。地母神、つまり魔神に対する限りなく強力
な殺戮者は、血の供犠によって頻繁に宥められなくてはならない。また、デオ−ブラフマンは、こうも述べてい
た。つまり、各々の生ける女神のライフ・サイクルは、理念上、以下のような九つの段階、すなわちクマリ、トリ
ムールティ < Trimurti> 、カルヤーニ < Kalyani> 、ロヒニー < Rohini> 、カリカー < Kalika> 、チャンディカー < Candika> 、サーム
バヴィー <Sambhavi>、ドゥルガー、スバドラー <Subhadra>から構成されているのだ、と。女神は、僅か二歳で始まり、
一○歳で終わりをむかえるわけだ。つまり、スバドラーは、それ(一○歳の少女が体現する)にもかかわらず、
魔神を殺戮し、しかも官能的な地母神なのである。女神が、今やアティタ・クマリ <Atita Kumari>つまり真なるクマ
リであると云われる場合、それはこうしたスバドラーとして言及されているわけだ。しかし、別の脈絡上では、デ
オ−ブラフマンが述べるように、地母神たちは、実のところ、元クマリなのであり、その力は副次的な種類のも
のでしかないのだ。
ほとんどのネワール族に共通していることなのだが、わたしのインフォーマントの態度も、ここに至っては、宇
宙的な力についての二つの異なった概念の間で、動揺してしまう。ところで、ここでいう二つの力とは、こういう
ことである − 一つは、魔神を殺戮したり、供犠においては犠牲獣の血で宥められていなくてはならないよう
な、荒々しい神々に体現される力であり、もう一方は、さらにもっと神秘的な種類の力で、→ p.77. 観想や儀礼
の技巧に熟達した実践者のみが行使できる力のことである。こうした二つの思考様式は、ネワール族の宗教
のなかに浸透している対照性についての、おそらくは数ある事例中の一つでしかなかろう。こうした対照性は、
ネワール族の宗教においては、二つの対照的な力への信仰として浸透している。すなわち、一つは豊饒性、
セクシャリティー、母性といったような主題に具現される、基本的には世俗的な種類の力に対する信仰であり、
もう一つは知的な種類に属し、さらになお洗練された力への信仰である。このような信仰に備わる対照性は、
本質的には、教育のない農民たちの宗教的な信念と実践と僧侶や行者たちのそれらとの間に存する対照で
もあるのだ。クマリの真なる本性とはドゥルガーであるとする信仰は、これら二つの伝統を統合するための一つ
の試みとみなされよう。
なぜデヴィーがクマリとして崇拝されねばならないのか。博学なヴァジュラーチャーリヤにこれを尋ねてみた
ところ、次のように説明してくれた。
「ヴァジュラヤーナ仏教の主要な目的は、性交とはどんなものなのかということ、性交の際に至福を得られるのはどうして
かということを理解することである。生命は、対立物の衝突から生じる − このことは、生命の二つの根源の邂逅、太陽と
月との戯れ、男女の結合などにおけるのと同様のことなのだ。こうした結合から生じる空性(スーニヤター< sunyata>)につ
いての理念を理解するには、われわれは、プラジナー< prajna>すなわち最高知を必要とする。しかし、プラジナーそのもの
は、女性的なものなのだ − あるいはむしろ、それは女性の内に存するものなのである。最初に、プラジナーを処女の少
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女に比したのは、マンジュシュリ< Manjusri>であった。彼マンジュシュリは、プラジナーが純粋で損なわれていない創造性
であると悟ったのである。換言すれば、クマリは、処女ではあるものの、それでもなお潜在的には創造的なものである −
すなわち、クマリ(処女神)は、地母神になる可能性を秘めているというわけだ」。
ヴァジュラーチャーリヤのインフォーマントも、デオ−ブラフマンのインフォーマントも、両者ともが、こうした
言説や類似した言説を述べる。そして、そこでの中心的な主題は、デヴィーあるいは女神がその処女的な形
態で崇拝されるということなのである。なぜなら、女神とは、純粋であり、未だ壊れていない器なのであるが、そ
れでもなお自身の内に、創造的な母性という完き可能性を秘めているからである。しかしながら、女神はまた、
その暗黒面も有している。女神は、純化し創造する能力に加えて、恐ろしい破壊力をも持っているのだ。これ
まで見てきた通り、ヒンドゥー教徒である崇拝者たちによれば、この女神は、タレジュ・バヴァーニ、つまり神秘
的で、極めて強力な女神なのであり、国家を守護すべく、その敵を壊滅するのである。それは、仏教徒である
崇拝者にとっても同様で、この女神は、チャクラサムヴァラ < Cakrasamvara> の妻にして、武器を巧みに操り、血を
飲む官能的な女神ヴァジュラデヴィーなのだ。
ウォーカーは、ヒンドゥー教徒の処女たちに備わるこうした危険な力を、鮮やかに描写している。
「古代や中世のインドでは、→ p.78. 処女性という状態に伴う危険、特に少女との最初の性交に伴う危険について、ほと
んど普遍的とも思われるような信仰が存在していたようだ。処女膜の血は極めて強力であると考えられていて、それに触れ
ることは汚穢をもたらす。血の流出は、いつ何時でも避難されるべきものとされているため、処女の血の場合なら、なおさら
に避難されるわけだ。その危害を被り易いのが、男性である。というのも、性愛的な行為による興奮のために、処女とのあ
らゆる接触に固有な精神的(霊魂の)危険に対して、無防備となるからである。『男性の竿(ペニス)』に未だ触れられてい
ない女性は、処女を奪われる際に、必ず破壊的な恐ろしいオーラ < aura> を発する、と信じられている。こうしたオーラが男
性 に も た ら す も のと い え ば 、そ れは 破 滅で あ る 。彼 の 牛は 病に 罹 り 、家 庭 は荒 廃 し てし まう の だ 」 [Walker,
1968,
ii,
pp.571-72.]。
タントラ教の信徒たちは、クマリ・プージャーを遂行することで、そうした力を制御しようとする。その際、右道
実践者の場合には、因習的な儀礼手続きを用い、左道実践者の場合なら、象徴的か、あるいは現実的な性
交の何れかを行なう。換言すれば、別の脈絡でなら、男性やその行為(活動)に対して脅威となる処女が、ここ
においては、男性の精神的な切望を促進するにあたって、肯定的な効果をもたらすために用いられているの
で あ る 。 クマ リ ・ プ ー ジ ャ ー の タ ン ト ラ 的 な 遂 行 に よ っ て、 溢 れ出 る恩 恵 が、 『 ヨ ーギ ー ニ ・ タ ン トラ < Yogini
Tantra> 』の中では、生き生きと描写されている。
「こうした神々は、その供犠に関する理由から、崇拝のために、ブラフマン、処女、シャクティー、火、スルティ< Sruti> 、
そして牛を欲するのが常である。処女が崇拝される場合、それは第二のプージャーとなろう。処女崇拝の成果を語り尽く
すことはできない。可動世界も不動世界も、すべてが、クマリ[処女]とシャクティーに属している。幼い乙女が崇拝され、精
神的にのみ見られる場合、その際は疑いなく、あらゆる高貴な女神たちが崇拝されることになろう・・・結局、クマリ崇拝に
よって、崇拝者はシヴァフッド< Sivahood>に達するのだ。クマリが崇拝される処では、その国の大地は浄化されることにな
り、そうした場所は五千万年もの間、最も神聖な処となるであろう。そこでは、人々はクマリ・プージャーをしなくてはならな
い。そこでは、大いなる光明が立ち現れ、バラタ<Bharata>[インド]の地に顕現するのだ」 [Macdonald, 1902, pp.41-42.]。
しかし、清浄なるカーストに属するすべての男性は、結婚式後に幼い処女の花嫁と対面する際、そのような
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恐るべき力と直面するよう求められてきたし、今もまだそうされているのである。ほとんどの男性にとっては、結
婚儀礼が、(恐るべき力に対して)唯一にして十分なる保護を用意してくれる。しかし、花婿が危険と直面する
ことがないように、特別な予防策が講じられる場合もある。インドの大部分の地方では、母親か、特定の女性
近親者が、結婚に先立って、処女膜の破菰を行なう。たとえば、チャクラベールティは、こう記録している。→
p.79.
「ヒンドゥー教徒の処女膜は、その幼女期のうちに、日々の陰門の水洗浄の際、母親の人差し指で破ら
れるのが、一般的である」 [Chakraberty, 1945, p.111, p.325.]。また、ウォーカーが記しているところによれば、処女の
花を摘み取る(処女を奪う)ために、王や祭司といった儀礼的に強力な男性が用いられることもある [Walker,
1968, ii, p.572.]。しかし、多分最も興味深いのは、疑似結婚 <mock-marriage>という行事が普及していることであろう。
この行事で、幼い少女は、神々、ブラフマン、樹木、剣、蛇、あるいは他の性愛的で男根的な対象物と、疑似
的に結婚させられるのである。こうした行事のうちで、特に著名なのは、ケララ <Karala>に住むナヤル族 <Nayar>の
タリ−結合 < tali-Tying>儀式だ。ゴフが論じているように、こうした人々の間では、というよりは事実上ほぼインド全
域にお いては、 処女の持 つ力が、処 女と強 力な去勢す る母親の姿と の結合か ら 生じ ている [Gough, 1955,
p.71-74.] 。彼女ゴフによれば、疑似結婚は、処女から恐ろしい母性を取り除くために執り行われるのであって、
その結果、普通の男性でも処女と安全に性交できるようになるのだ。自論を擁護しつつ、彼女はこう記してい
る。儀礼の間、少女たちは、純潔な処女であると同時に恐ろしい存在でもある地母神バガヴァティー <Bhagavati>
と密接に関係づけられる。母像としてのバガヴァティーは、デヴィーとなり、それゆえ男性魔神を破壊する、シ
ヴァの荒々しい妻たち、すなわちドゥルガー、カーリー、バドラカーリー <Bhadrakali>と同等化されるのだ。処女神
としては、バガヴァティーは、カニヤークマリ、つまりコモリン岬の有名なあの神格として崇拝されるのである。さ
らに、ナヤル族の処女は、死亡すると、彼女自身がバガヴァティーの一形態となることがあり、それゆえ、亡く
なった処女のために祠が建立されねばならいのだ。
ゴフは、オーソドックスなフロイト的説明を、処女と母との同等化に適用し、この同等化が無意識的な近親相
姦への欲望の産物であると論じている。彼女は、こんなふうに書いている。「従って、こうしたカーストの処女
は、聖なるものなのである。つまり、処女性を取り扱うことは、儀礼的に危険であるということなのだ。わたしの
提示する仮説とは、こういうことである。すなわち、処女が聖なるものであり、その取り扱いが危険なのは、処女
が母親と無意識的に結びつけられているからである。母親という女性は、性愛的な目論見で近寄るには魅力
に溢れているのだが、父親による去勢や抹殺という脅威ゆえに、近寄り難い存在なのである」 [Gough, 1955,
p.71.]。
ゴフの注目すべき仮説は、ほとんど賛同を得てこなかった。たとえば、ヤルマンは、この仮説を次のような理
由から拒絶している。「精神分析学者によって描写されるようなオイディプス・コンプレックスは、普遍的な現象
として立ち現れてくる。従って、局地的で特殊な諸儀式の『説明』には、その効力を失うのだ」 [Yalman, 1963,
p.38.]。確かに、こうした一般的な人類学的批判に対する返答として、こう言えるだろう。オイディプス・コンプレッ
クスは普遍的な概念とされているかもしれないが、だからといって、このオイディプス・コンプレックスがすべて
の文化において等しい重要性を持っているということには必ずしもならないのだ。従って、オイディプス・コンプ
レックスが「局所的な諸儀礼」の持つ意義の一因となっているのならば、その際には、そうした文化では、この
コンプレックスが大きな威力を有しているのだということになろう。しかしながら、わたしは、ゴフの主張、すなわ
ちナヤル族の間では、実際にこうしたコンプレックスがかなり発展しているという主張を弁護しようとは思わな
い − 彼女の主張は、あくまで示唆的に過ぎず、必ずしも決定的なものでもないのだ。むしろわたしの狙い
は、彼女の経験的な発見、すなわちナヤル族の間では、そしてヒンドゥー教世界のほぼ全域においては、男
性魔神に対して剣を振るい、血を好み、しかも性愛的に魅力的な破壊者の聖霊が、処女神に吹き込まれてい
るという発見を確証することにある。→ p.80.
女性の役割のこうした融合がフロイト的用語で理解できるか否か
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は別として、タリ−結合やそれに類する疑似結婚の儀礼が行なわれるのは、処女の内に存する危険な力を無
効化するためである、ということはかなり可能性のあることであろう。ゴフは、こうした注目すべき機能論的な論
法を展開したわけであるが、それに対して、わたしの場合、こう擁護したい。ネワール族は、生けるクマリという
規模の大きな信仰を発展させることで、処女性への関心を明確に示しきた。また、ネワール族は、処女を疑似
結婚させたり、初潮時あるいはそのまさに直前になると、少女に厳格な隠遁を課したりしているわけだが、そう
したことに重大な儀礼的意義を結びつけているのである。わたしは、こう論じることで、ゴフの主張に擁護点を
見出したわけだ。次章では、こうした儀式が描写され、分析されることになろう。
第五章
少女の思春期儀礼
ヒンドゥー教の色合いが濃い南アジア一円では、伝統的なバラモン教が前思春期の少女を儀礼的に取り扱
う場合、初潮という事態に先立って精巧な結婚儀式を遂行することが強調される。少女たちは、初潮の際、三
日間隠遁させられるのが普通で、その後しばらくしてから床入りによる結婚の完了に伴って、性交へと導入さ
れる[Walker, i, pp.250-1.]。こうした順序は、精巧にカースト化されたコミュニティーにおいてのみ見られるもので、
清浄維持についてのバラモン教的理念に深く関心を持った伝統的なカーストにおいて、最も十全に発展して
いるものなのだ。そのような共同体では、女性の性愛的かつ生殖的な機能は、リネージの継続や規模拡大と
いう点からすれば尊重されるものなのであるが、男性の苦行(禁欲)に関する理念や清浄さの維持という観点
からすれば、それに対立するものとして価値を減じられるものなのである。こうした両理念の明白な対立を解消
する方策は、男性が女性のセクシャリティーを制御するという教義に求められる(13)。そうした制御が行き届い
ている場合には、女性の生殖能力に高い価値が与えられることになるわけだ。ところが、男性による制御のパ
ラメーターの外側では、女性のセクシャリティーは、激情的で危険な力として考えられることになる。そのような
力は、社会システムの全機構にとって脅威となり得るからである。こうしたことからすれば、未婚であるが性愛
的に官能的な少女というものは、いかなる犠牲を払おうとも避けるべき異常な存在ということになる。男性(父
親たるもの)は、娘を初潮前に嫁がせ損なうと、胎児殺しという罪を犯してしまった(も同然)とされるし、家族内
にそうした娘が存在するということだけで、成人男性の居住者全員の清浄さは危険にさらされるわけだ。つま
り、結婚という範疇の外に存する生殖的なセクシャリティーは、危険なものと信じられているのである。従って、
少女たちの前思春期結婚とは、そうした危険に対しての制度化された反応として理解されねばならいのだ。こ
の制度は、夫が性愛的に活発な女性(妻)を制御するということと連関しているわけである。こうした制度や未
亡人の再婚禁止といった制度のお蔭で、男性は、女性のセクシャリティーと生殖性に接近できるようになるの
であり、またそれに厳格な制限を課することも可能になるのである。
ネワール族のみならず、ナヤル族も、こうした伝統的なパターンに準じている。両族の少女はすべて、ある
種の前思春期の結婚、及び初潮と何らかの関連を有する隠遁期間の両方を経験するよう求められているから
である。しかし、両族には、幾つかの点で(伝統的なパターンに)準じていない面もある。たとえば、少女が(前
思春期婚において)その将来の婚姻上の夫と結婚するのではないという点、あるいは隠遁期間が初潮時では
なく、それに先立ってなされるという点などがそうである。また、両族は、さらに重要なことなのであるが、制約
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に関するバラモン的なパターンを構成している他の諸構成要素からも逸脱しているのだ。特に、思春期後の
婚姻上の関係が解消される際の容易さ、成人女性に与えられる高い地位と自立性の高水準、そして未亡人
の再婚禁止の欠如といったような点で、伝統的なパターンとは異なっているのだ。
これら全く関わりあいのない二つ種族(ネワール族とナヤル族)が類似した非伝統的な結婚習慣有している
ことは、かなり以前から知られていた。カークパトリックは、一八○年以上も前にカトマンドゥを訪れ→ p.82.
た
人物であるが、次のような簡潔な対比を描写している。「ネワール族の女性は、ナイル族< Nair >の女性と同じ
く、実際には、夫を望むだけ何人でも持ってよく、一寸した口実からたびたび勝手に離婚しても構わないの
だ」 [Kirkpatrick, 1969, p.187.]。ハミルトンも、その僅か数年後に、補足的な情報として、こう記している。
「ネワール族の女性は、決して制約など受けていない。女性は、八歳になると、寺院へ連れて行かれ、ヒンドゥー教徒に
とってならごく普通の儀式を経て、ベル<Bel>と称される果実(アエグル・マルマロ<Aegle
Marmelo>、ロックスボ<Roxb>)と
結婚する。少女が思春期の年齢に達すると、その両親は、少女の同意のもと、同カーストに属する特定の男性と婚約させ
る・・・」 [Hamilton, 1971, p.42.] 。
ナヤル族に詳しい人になら、(両族間の)類似は明白であろう − 通常の伝統的なヒンドゥー教の幼児婚
が、離婚に対する厳格な禁止と対応しているのに対して、(両族においてなされる)儀礼的に精巧な幼少期の
疑似結婚は、解消するのが比較的に容易な思春期後の婚姻関係の形成と対応していることが分かるはずだ。
従って、二組の(ネワール族とナヤル族の行なう)非伝統的な結婚習慣は、ヒンドゥー教のカースト・システムが
理想とするモデルから、そしてそのモデルが清浄維持に関して連関するイデオロギーから逸脱しているわけで
ある。それゆえ、わたしがここで主張したいのは、これら二組の非伝統的な結婚習慣を理解するには、それら
が起こしている、こうしたパラレルな構造的逸脱を考慮に入れねばならないということである。
イヒ儀礼< ihi - ネワーリ >
イヒ(14)は、ネワール族の家庭祭祀の中でも、最も重視される聖なるものである。それゆえ、この儀礼を司る
のも、仏教の高位カースト(グバージュ)か、ヒンドゥー教の高位カースト(デオバージュ)の何れかであるのが
普通だ。主催者が、かなり高額ではあるが、その支出を賄う用意ができると、それがこの儀礼の開催時期とな
る。通常なら、多数の少女が同時にイニシエートされることになっているが、その規模は様々で、同じカースト
に属し、親しい関係にあるごく少数の少女たちによるものから、広範な諸カーストから少女が集められた三・四
○○人規模のものまである。イヒは、一般的に、他の幾つかの儀礼と組み合わせて開催される。たとえば、老
年儀礼、一連の結婚儀礼中のある段階の儀礼、新しい宗教的建造物の「入魂」儀礼、あるいはヤジナ <yajna>と
して知られる火の供物儀礼などと組み合わせて、遂行されるわけだ。従って、そのような行事が、単一の複雑
な儀礼次第の中で、三つ以上も同時に執り行われるなどといったことは、頻繁に生じることなのである。これか
ら以下において叙述する説明は、仏教徒たちが執り行った二つのパフォーマンスの観察に基づいている。こ
れらのパフォーマンスはともに一九七四年に催されたもので、その一方においては、グバージュとシャーキヤ
という二つのカーストに属する二四人の少女たちがイニシエートされ、もう一方においては、一六人の少女た
ちがイニシエートされた。後者の場合、少女全員がグバージュ・カーストに属していた。前者の儀式が開催さ
れたのは、クシバヒ <Khusibahi>であり、後者はカワバーハーで開催されており、両方ともカトマンドゥにあるもので
ある。
- 72 -
第一日目(ドゥサラ・キリヤー< dusala kriya >)
初日の早朝、少女たちは、自宅にて準備を整える( 15)。先ず浄浴を行ない、爪を摘む。その後、粋な新調
の衣服に袖を通し、おそらくはごく僅かの宝飾類を身に着ける。この時から儀式の終了時まで、少女たちは、
→ p.83. あらゆるアーミス <amis>(アーメ<ame-ネワーリ>)な食物を断たねばならない。アーメとは、かなり広範な食物
についてのカテゴリーのことで、伝統的なヒンドゥー教の見地からすれば、不浄(アスッダ < asddha>)であるがゆ
えに禁じられている食物であり、タントラ的見地からは、儀礼的に(たとえばパンチャマカーラ<panchamakara>にお
いて)処方された食物のことである。アーメな食物に含まれるのは、肉、魚、あひるの卵、トマト、ブリンジャル
< brinjal>、ビーンケーキ、黒レンズ豆、生姜、ガーリック、玉葱である − これらはすべて、ネワール族の常食に
よく出されるものばかりである。少女たちは各々、父親のリネージに属する年配の女性に伴われて、予め浄化
されている内庭の入り口( 16)のところへ集まる。そこ内庭では、祭司(17)たちが、ヤジナ <yajna>( 18) をはじめそ
の他の崇拝儀礼をすでに開始している。祭司のうちの一人が、その妻に介添えされつつ、外側にいる少女た
ちと対面し、一連の浄化儀礼( 19)を済ませる。その後、少女たちを割り振られた場所へと導き入れるのだ。少
女たちは、儀礼用装備を精巧に整えて、内庭の端にぐるりと、整列をなして座る。彼女たち各々の背後には、
父系のおばか母親が、介添えとしてすぐ近くに控えている。主要な儀礼品目は、一盛の標準的なプージャー
対象物(水、油、花々、種、凝乳、そして香)( 20)、ソラパー <solapa-ネワーリ>あるいはイヒパー <ihipa-ネワーリ>として知ら
れる美しく彩色された土器、それに白いチョークで地面に描かれるスワスティカ・マンダル <swastik mandal>であ
る。
浄化
次の二時間、少女たち担当の祭司は、妻の介添えを得て、一連の儀礼的行為により、重大な意義を持つ
浄化を少女たちに執り行う − 牛からとれる五つの聖なる産物(パンチャガビヤ<pancagabya>)(21)、ヴィシュヌマ
ティ川 <Vishnumati river>の聖なる水、そして頭上に撒かれる様々な花弁。これらすべてが、身体を浄化するため
に用いられる。また、小さく丸められた米チャイトヤ <caitya>(22)と一本の灯明が各少女の周りに運ばれる。こうす
ることで、過去のあらゆる罪を除去し、知の達成への道を示すのである。さらに様々なヴァジュラヤーナ・スート
ラが朗じられ、精神的な浄化がもたらされるのだ。ここで注目すべきは、執り行われているのが様々なタイプの
ヒンドゥー教の浄化儀礼であるにもかかわらず、その用法が明らかに仏教的であるということである(23)。解り易
い事例として、この主要な浄化次第の最後に用いられる最も重要なスートラを適宜翻訳してみよう。
「われら少女は、長き受難期を経て生まれ、ここに集い、ブッダ、ダルマ< Dharma>、サンガ< Sangha>、プラジナパラミタ
< Prajnaparamita>、そしてカルナーマヤ<karunamaya>の祝福のために祈る。その悟りに至った知は、スカンダ< sukunda>・ラ
ンプの姿となって、ここでわれらに示されるのだ。そなたに対して、われらは敬意を表する。そなたは人、神、そして魔物た
ちのグルであることが分かっているのだから。すべてのものに崇高なる敬意を受けるのだ。われらは、われらのイヒ儀礼に
そなたが居まわすことを、祈り求める」。
スートラは、当の祭司によって、サンスクリット語で朗唱される。その間、祭司はベルを打ち鳴らしているし、そ
の妻は調理されていない米、乾燥させた果実、花弁を木製の壷から取り出しては、少女たちの頭上に撒き散
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らすのだ。また、こうした儀礼の開始の局面においては、少女たちも、ガネーシュ、つまり少女たちのグルたる
ブッディサットヴァ・マンジュシュリ <bodhisattvaManjusri>を崇拝することになっている。→ p.84.
測定
ここまでは、こうした儀礼も、標準的な浄化に過ぎず、多くの脈絡上で見出されるタイプの崇拝でしかなかっ
た。ところが、(次に描写する)第二段階は、この日(第一日目)の主要な行事であって、イヒに全く独自なもの
となる。各少女たちは、六本をより合わせた黄色い紐で、頭から足先までを注意深く測定される。その後、この
紐は一八倍され(頭から足先まで九回測定を繰り返す)、合計一○八という単一のより合わされた体長を構成
し、全体として吉兆を作り上げることになる。この紐(サート・ビンナ・カ <sat bhinna ka-ネワーリ>は、土器の上に置か
れ、翌日までそのままにされる。博学な祭司でもあるわたしのインフォーマントによれば、この紐はブッダの黄
色い衣を表象している − ゆえに、清浄なる純潔、あるいは禁欲という付帯的意味を持っているわけだ。これ
に関して、次のような説話に言及する者たちもいる。かつて、サンク < Sankhu>の町に住む一人のネワール族の
少女が、王子に花冠を被せたことがあった。少女は、その時自らが身に着けていたクバ・カ < kubha ka>を用い
て、その王子と婚約を交わしたのであった。これと同じようにして、少女たちも、イヒの第二日目に、ビヤー <bya>
の果実に花冠を被せ、しばらくして後それを自身が身に着けるのである(24)。
(測定が済み)少女たちが再び座らされると、当の祭司は次の儀礼へと少女たちを導く。スヴァルナ・ヴァル
ナ・クマール <Suvarna Varna Kumar>の美しく金メッキされた像に対して、崇拝儀礼を捧げるのだ。スヴァルナ・ヴァ
ルナ・クマールとは、シヴァの息子で、絶好の独身者である。その像は、内庭のほぼ中央に設置されている。
祭司がマントラを唱え、鐘を打ち鳴らすと、少女たちは、米、殻粒、花弁を像に投げかける。しばらくすると、こ
の日の行事は、相互の祝福を以て、終わりを迎えることになる。
第二日目
(写真三一、三二を参照)
少女たちは、主要な浄化のために、内庭の外側に再び集合する。前日には、少女たちは上等の普段着に
おそらくはごく僅かの宝飾類しか身に着けていなかったのだが、この日には、かなり贅沢な支度を調えてい
る。たとえば、赤色や紫色あるいは桃色のスカート、ブラウスにショール(今日では、ドレスやさらにはスラックス
といったような洋服(現代的な洋服)に取って代わられていることが多い)、さらに金や銀の腕輪、踝環それに
ネックレスといった具合だ。こうした明らかな花嫁の様相をさらに完装すべく、額には赤いティカーを付け、両
目は黒い煤(アジャ <aja-ネワーリ>)で飾られねばならない。
浄化と崇拝儀礼から成る通常の開始次第を一通り済ませてしまうと、少女たちは内庭の端へと連れて行か
れる。そこで、少女たちは順番に、自分の左足を用いて、二一個の黒いダル< dall
>の種子を、小さなロー
ラーとボードで踏みつぶす。こうした種子は過去の罪深い行為を表象しており、こんなふうに踏みつぶすこと
で、その少女は、自らを道徳的(精神的)に浄化したわけである。さて、こうして少女は、聖なる内庭から、(宗
教的な意味合いで)中立的な(曖昧な)儀礼的地位と相関する盛り土された端へと歩み出す。この場では、少
女は理髪師カーストの女性を前にして座る。この女性が、少女の足指の爪を摘み、足を洗い、次に足指を朱
で塗るのだ。少女が内庭へ後退すると、今度は父方の親族が少女に聖水を与え、顔を洗い、頭上に振りかけ
る。こうして→ p.85.
すっかり浄化されてしまうと、少女はもと居た自分の場所へ戻る。さて、タカーリ・ナキ
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<thakali
naki-ネワール>、つまり主宰する少女の属するリネージのなかで、当時点において最年長にあたる女性が、
少女たちの列へと降りてきて、髪の分け目(シンチョ・パイエグ <sincho payegu-ネワーリ>)(25)に朱のペーストを注意深
く擦りつけ、小さな銅鏡(ジワラ・ナイカ<jwala nhaika-ネワーリ>)で各少女の頭に触れる。次に、各少女の父方のおば
が、前日に注意深く測定された黄色い紐を土器から取り出して、わが姪の首の周りにかけてやる。また、おば
は、少女にサリーの材料となる一片の布(およそ二×一二インチ)を与えると、少女はそれを膝の上に置く。こ
の布は、既婚女性のサリーを作るためだけに用いられるものでもある。最後に、おばが一枚の白い紙を少女
の頭にピンで留める。この紙には、聖なる水差し(カラシュ)が描かれている。この行為の意味については、イ
ンフォーマントたちは熟知しているわけではなかったが、おそらくはこういうことだろう。つまり、その白色は、カ
ラシュとの関連から、浄化と制約を意味していると思われるのだ(写真三一、三二)。
以上のようにして浄化と飾り付けが済むと、少女は、この日の主要な行事に向けて、用意が整ったことにな
る − (これから始まる主要な)一連の儀礼では、少女と野生の林檎の木の果実(サンスクリット語ではビル
ヴァ <bilva>、ネパール語ではベル <bel>、ネワーリ語ではビヤー <bya>)との関係に焦点が定めらている。(先ず)土
器が各少女の前に置かれる。まさに、その中にビヤーが入っているわけだ。土器は六つから八つ置かれ、そ
の各々が紐で結ばれている。一人の祭司が、この土器の列へと下り降り、その後続いて、少女たちの上向きに
された掌に、黄色い浄化用粉末を少々擦りつける。主宰少女の父方のおばが、各果実の真上に二枚の葉、
一枚は丸く、もう一枚は尖った葉を載せる。今度は、男性親族の一人が、ビヤーと二枚の葉を取り、それらを
少女の両手に置く。その間、別の男性親族が、その上に一枚のルピー紙幣を付け足し、同時に少女の両手
に花弁と米を幾つか注ぐ。第一人者、理想的にはタカーリ、つまり少女の父親が属するリネージの最年長の
男性成員ということになるが、実際には大抵の場合、父親自身が、果実を載せた少女の両手を折り畳み、その
手首を赤い紐で縛る。こうして拘束されてしまうと、次に少女は、この男性(父親)の膝の上に座る。
しばらくして、少女たちは、自身及びこれから歩む道筋のさらなる浄化を経て、父親によって行列へと導か
れ、内庭を三度回る。(もと居た)自分の位置に戻ると、少女たちは、土器の上で両手を開くことになる。この
時、紐が解かれると、果実は、先ず父親の両手に、次いで土器へと転がり出るわけだ。こうした儀礼は、奇妙
にもカニヤーダーン<kanyadan>、つまり「処女の贈与」と呼ばれていて、伝統的なヒンドゥー教の結婚儀式の際に
行なわれる同名の儀礼を模しているのだと云われている。しかし、(伝統的なヒンドゥー教の儀礼においてのよ
うに)父親が娘を夫(花婿)に与えるにあたって、娘の両手を夫の手中に置くわけではない。ここでは、父親
は、娘がビヤーから離れるのを、娘の手首を開く(解く)ことによって、介添えするのだ。なかには若干の父親
が、果実を娘の両手に再び括り直し、その後二回目に果実を放すといった点に、(伝統的なヒンドゥー教の儀
礼にはない)変則性を認めているようだ。→ p.86.
イヒを構成する、こうした重要な部分には、ヒンドゥー教的な側面が備わっているわけだが、そのような側面
がとりわけ綿密に踏襲しているのは、伝統的なカニヤーダーンの型である。そのことについて、適切な例を挙
げよう。少女たちは、吉兆の瞬間、父親の膝の上に座っている。そして、自らの手を父親の右の掌に重ねるの
だ。父親のその手には、大麦、シナ <sinha>・パウダー、胡麻の実、クサ <kusa>草が握られている。二人の手は、ス
ヴァルナ・クマールのイコンとしての金貨を載せたプージャー皿の上で開げられる。その間、少女の母親は牛
乳を、祭司の妻は水を、父娘の手や金貨の上に注ぐのである。その後、祭司が、スヴァルナ・クマールと少女
との結婚の日付と正確な時間を告げる。父親は、胡麻の実の混合物を自分の手から皿へ垂らし、次に娘の手
を掴む。そして娘がその親指で金貨に触れるよう仕向けるのだ。こうした行為は、伝統的なカニヤーダーン儀
式においても、それに相当する部分でなされている。そのことについては、疑う余地はない。ただ、カニヤー
ダーン儀式では、父親は娘の手を花婿の手に重ねるという相違点はあるのであるが。
(イヒ中での)カニヤーダーンも終わり近くなると、各少女は、両親からサリーとブラウスからなる一組の新し
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い成人用衣服を与えられる。この後、大仰な相互祝福が為され、場面は混沌とした状況になる。そして、主催
者や祭司をはじめその他の奉仕者たちの間で、財政処理が行なわれる。夕刻遅く、年長の少女の家族が、豪
勢な饗宴を催す。食べ物の取り分は、各少女が自宅へ持ち帰ることになっている。ここに至って、少女には、
こうした食物の幾分かを形式的なプラサーダとして父親に与えること、自分の額を父親の足に触れるまで平身
低頭すること、父親にグラス一杯の米蒸溜酒(エラ <ela-ネワーリ>)を注ぐことなどが求められる。こうした行為の各々
を以て、少女は、既婚女性としての家族内での新しい地位を、ここに表明するわけである。
結婚儀礼としてのイヒ
わたしはここまで、イヒを結婚儀礼として言及してきたが、その根拠は明らかだ。サンスクリットのテキスト(26)
も、また多くインフォーマントたちも、イヒをそうしたものとして描写しているからである。また、実際にこう主張す
る者さえ沢山いるのだ。つまり、イヒ儀礼こそは、ネワール族の少女にとって、唯一にして真なる結婚なのだ、
と。しかし、(通常の意味での結婚)儀礼は、(イヒ儀礼の)数年後に執り行われる。一組の男女が婚姻関係に
入り、二つのリネージ間で婚姻上の結合が確立されるのは、そうした際なのである。しかも、この結婚儀礼は、
伝統的なヒンドゥー教の儀礼に比しても、ほぼ遜色なく、複雑で精巧なものなのである。ところが、ここに、(上
述したような)特殊なカニヤーダーンつまり「処女贈与」儀礼が含まれることは滅多にない [Bajracharya, 1959,
pp.418-29, Nepali, 1968, pp.198-231.]。カニヤーダーンが結婚儀礼に含まれるのは、伝統的なヒンドゥー教色がもっと
濃いネワール族の幾人か、特にパルバティヤ <Parbatya>のヒンドゥー教徒の生活様式を模範とするようになって
いる人々の間においてだけである。イヒの特徴には(カニヤーダーンの)他にも、結婚へのある種のイニシエー
ションを明確に示しているものもあって、それには、たとえば次のようなものが含まれる。黄色い首輪飾りの使
用、少女の分け目に朱を塗ること、花嫁用の衣装・宝飾・化粧をしつらえた少女の披露、イヒのサリーの贈呈、
その後少女が父親に対してとる態度などがこれにあたる。結婚という主題は、もちろん、カニヤーダーン儀礼
において最も顕著である。→ p.87. 私の調査助手ラジェンドラ・プラダン<Rajendra Pradhan>は、ヒンドゥー教色の
濃いイヒ儀礼でのカニヤーダーンの場面を以下のように描写してくれた。執り行われたのは一九七九年二月
で、場所はカトマンドゥである。
「雇われ楽団が奏でるのは、ヒンディー語の映画音楽や通常の結婚式向きの楽曲である。楽団がいて、女たち、父親た
ち、それに訪問者らが交わす笑い声、冗談話し、雑談。この場を包む雰囲気は、むしろ祝祭のそれである。少女たちは、
自分たちが嫁にやられるのだという話しを聞かされるにつけ、少々恥ずかしいらしく、当惑した表情を浮かべているよう
だ。・・・タカーリ(最長老)が、一○歳になる孫娘[この少女は、カニヤーダーンが始まるのを祖父の膝の上に座って待って
いる]に冗談を飛ばして、こう言う。『おまえは、今から《見送られる》んじゃ』、と」。
こんなふうに、イヒが結婚式であるというのであれば、では少女は一体誰と結婚するのであろう。多くの世俗
的なインフォーマントたち、特に少女たち自身は、ビヤー果実そのものの名を挙げるのだが、単にこの果実は
神の自然的な表象(アヴィヤクッタ < avyakta-サンスクリット>− 神を表象し得る自然上の形態)に過ぎない、という意
見を持つ者もいる。また、神聖なる夫(花婿)はナーラーヤナ、つまりヴィシュヌのアヴァタラ <avatara>(化身)であ
ると述べる者もいるが、その一方で大部分の者が、シヴァの息子クマール(27)の名を挙げることで、シヴァ教的
解釈に同意している。こんなことを思い出してほしい。儀式の二日目、美しい金メッキされた神の像が、三人の
主要な祭司と直に向き合うようなかたちで、内庭の中心部を占めていたことを。それは、クマールの像であった
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はずだ。多くの行事の際に、神聖なる夫(神の像)は、祭司からも、少女からも崇拝され、第二日目の終わり頃
には、すべての人々が一緒になって神の像を崇拝し、この間、この像から内庭の周囲に張り巡らされた一本
の紐を掴むのである。多くの参加者がこの像の名を挙げているわけではないのだが、仏教徒にしろ、ヒン
ドゥー教徒にしろ、祭司たちは口を揃えて、こう述べていた。その像はスヴァルナ・ヴァルナ・クマールだ、と。も
ちろん、クマールは、シヴァの息子にして、永遠なる独身者であって、多くの場合、全くの女嫌いとして表象さ
れる− 仏教徒の僧侶の娘たちにしてみれば、表面上は奇妙な夫ということになろう。
しかしながら、さらによく考えてみると、クマールというのは、そのような奇妙な選択肢ではないことが解る。イ
ヒは、それを通過儀礼とみなすならば、未婚の処女としての少女という地位の終焉を徴づけているのだ。しか
し、今や既婚女性とみなされるようになったとはいえ、少女は未だ月経を経験しておらず、婚姻関係に入った
わけでもない。少女は、未成熟なブラフマンの花嫁と同様、微妙な閾の(リミナルな)状態にあることになってい
る。従って、こう考えるのが妥当であると述べて差し支えなかろう。つまり、ここで少女は、仮定上は独身の男性
神格と結婚しているのだ、と。さらに、少女とそうした夫との関係は、性愛的なものなどではまったくないのだ。
少女たちに求められていること、それは生けるクマリ女神に求められていることと同じで、赤い服の着用、その
髪は赤い辰砂で分け、赤い結びで纏めること、そして足指は赤くペイントし、額には赤いティカーを付けること
なのである。ヒンドゥー教文化圏では大抵そうであるように、赤色は、生命・セクシャリティー・母性を表象する。
それに対して、白色と黄色は、禁欲・純潔・制御を表象するのだ[Beck, 1969, pp.553-72.]。日常生活の脈絡では、
成熟し生殖可能な女性のみが、赤い衣服を着用するのだ。また、強調されねばならないのは、クマールを生
殖とは無関係な神として表象するだけでは、(少女が赤い色のものを身に着けて、妻たる女性として生殖性を
強調されていることからすれば)不十分であるということである。→ p.88.
父シヴァ(28)と同様、クマールもその
態度は両義的なのである。クマールは、ある脈絡でなら純潔として表象されていながら、別の脈絡上では強力
なエロティシズムを負わされいる。クマールは、これまた同様に両義的なその妻と神聖なる性的交わりを行なう
とさえされているのだ。前述したように、クマールは、一般には、スカンダ、文字通り「精液の噴出」としても知ら
れている。わたしは、こうしたことに加えて、この神(クマール)とビヤー果実との結びつきが、ヒンドゥー教の図
像学において、かなり顕著であるということを述べておきたい。というのも、インド亜大陸のいたるところで、ビル
ヴァ <bilva>(ビヤー)はシヴァと、さらに意味的に拡張してシヴァの家族たちとも結びつけられるのが一般的であ
るからだ。シヴァの有名な三叉の旗竿は、ビルヴァンダンダ < bilvadanda>と称されている。また、その木の葉々が
シヴァの興奮した男根像の上に置かれ、それを静めるといったようなことも、頻繁になされることなのだ [Liebert,
1979, p.43.]。
イヒ儀礼を執り行う理由は何か、とインフォーマントたちに尋ねたところ、若干の者たちがこう返答した。少女
たちを様々な危険、特に悪意のある聖霊たちのあり得べき攻撃から守る必要があるからだ、と。また、この儀礼
によって、少女たちは結婚まで処女性を保ち、その後にスヴァルナ・クマールと同じくらい美しい男性と結婚で
きるようになるのだ、と述べる者たちもいた。しかし、きわめて一般的な理由といえば、少女を未亡人という忌む
べきスティグマから保護するというものである。イヒは少女を神との永遠なる結婚に結びつけるがゆえに、夫の
死という事態が生じても、少女は既婚女性という地位を何ら喪失することはない。換言すれば、少女は、人間
的な婚姻関係を確立するのに先立って、既婚女性になっているのだから、人間たる夫の死後も、そうした地位
に留まれるというわけだ。このようにして未亡人という地位を回避することで、死亡した夫の火葬用に積まれた
薪に登る可能性が除去されるだけでなく、離婚や未亡人の再婚という事態にも論理的根拠が与えられるので
ある。ナヤル族のみならず、インドにおいても、類似した疑似結婚が遂行されるような地方ならそうであるよう
に、ネワール族の少女たちも、生ある者との結婚という婚姻上の局面を迎えるのは、初潮後の段階になってか
らである。ネワール族の少女たちが結婚する平均年齢は一六歳であるが、このことが近代的な発展のみによ
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る結果ではないということが、こうしたことによっても示されているのである[Nepali, 1965, pp.239-50.]。
仏教徒にしろ、ヒンドゥー教徒にしろ、さらにもっと博学なパンディットたちの中には、イヒを幼児婚という伝
統的なヒンドゥー教の習慣へ明確に関係づける者たちが幾人かいる。ヒンドゥー教徒の少女たちが、その初潮
に先立って嫁がされる(カニヤーダーン)のと全く同様に、ネワール族社会でも、少女たちは、初潮に先んじて
イヒを経験するよう求められている。しかしながら、こうした平行関係を引き合いに出すのと同時に、ほとんど者
がこうも付言するのだ。ネワール族がイヒを導入したのは、ヒンドゥー教の習慣を模したのではなくて、自分たち
ネワール族が、ヒンドゥー教的な結婚に備わるもののなかで、望ましくない特徴と考えるもの − 特に、夫の選
択に関して少女に課されている諸制約や未亡人の再婚の禁止 − を回避するためなのだ、と。仏教徒のある
パンディットが述べるところによれば、イヒとは、サンカルパ <sankalpa>(29)、つまり契約であり、両親の側からすれ
ば、娘を嫁がせることなのである。両親は、このイヒにおいて、→ p.89.
その同意を与えたのだから、すなわち
実際には、娘をスヴァルナ・クマールに嫁がせてしまったのだから、当の少女(娘)は、自分が望むなら、いか
なる少年だろうと(夫として)選べる自由を得たことになる。さらに、少女は、イヒ後に関係を持った後続する夫
たち各々にビヤーを順次渡し移すことで、そうした夫の何れもをスヴァルナ・クマールに同一化できるわけであ
る。従って、(イヒ後に何度結婚を繰り返そうとも)永続的な結婚の絆というヒンドゥー教の要請に準じて行なっ
たことになるわけだ。この同じ仏教徒のインフォーマントは、こうも主張した。イヒは、ヒンドゥー教が拡張しつつ
あることの証拠などではなく、むしろ明確なるネワール族の、特にグバージュの考案物とみなされるべきものな
のだ。こうしたイヒを考案したお蔭で、同時に表面上はヒンドゥー教的な諸理念を尊奉しつつも、実は(ネワー
ル族の)伝統的な結婚習慣の残存を可能にしてきたのである。こうした解釈を、明確なる歴史的な証拠で裏打
ちすべく、このインフォーマントは、次のように指摘した。ネワール族のヒンドゥー教徒の祭司デオバージュも、
自らの持つ檀家(クライアント)のためにイヒを遂行しているが、彼らデオバージュはごく最近まで、幼児婚を実
践していたのである、と。デオバージュが自分たちの娘のためにイヒを遂行し始めたのは、幼児婚が違法とさ
れてしまってからのことに過ぎない。そうなる以前の時期に、デオバージュがその檀家のためにイヒを執り行っ
ていたのは、単にイヒという儀礼がネワール族の習慣として確立されていたからに過ぎず、これを遂行しない
と、自分の檀家を競争相手たるグバージュに奪われかねないからであった。
ここまでで、わたしが強調してきたこと、それは、イヒが、伝統的なヒンドゥー教徒の行なうカニヤーダーン儀
式と同様、一つの通過儀礼であるということである。しかも、ここでは、初潮前の処女が、未だ処女なる女性で
あるにもかかわらず、結婚させられるのだ。しかし、イヒはまた、もっと別の脈絡上でなら、カーストのメンバー
シップの通過儀礼でもあるのだ。カニヤーダーンは、伝統的なヒンドゥー教徒にしてみれば、少女がその父親
のリネージ(いうなればカースト)から夫の属するリネージへと移行することを徴づけている。一方、イヒは、少女
とその父親との絆を再確保し、少女に父親の属するカーストの完全なるメンバーシップを授けるのである。仏
教徒にしろ、ヒンドゥー教徒にしろ、インフォーマントたちは、イヒを、特に少年の重要なイニシエーション儀礼
(ヒンドゥー教徒の間ではブラタ・バンダ <brta bandha>、仏教徒の間ではバレ・チュイエグ <bare chuyegu-ネワーリ>と称さ
れる)と比較していた。こうした儀礼の過程において、(少年たちは)苦行的で世俗放棄的な生活様式の一寸
したまね事を象徴的に済ませて、その後にカーストのメンバーシップを授けられるのである。ネワール族のヒン
ドゥー教徒は、この儀礼の自分たちのヴァージョンを、ウパナヤナ <upanayana-サンスクリット>− つまり古典的な再生
儀礼のことで、この儀礼が聖紐を纏う資格を有する人々すべてにカーストのメンバーシップを授ける − と言
及している。この儀礼の遂行こそが、そして仏教徒カーストの間ではその相当儀礼の遂行こそが、地位の低い
「一世」カーストと優れた「再生」カーストとの間に差異化をもたらすのである。イヒは、こうした「ウパナヤナ」の
少女版であるといわれている。つまり、少女もまた、このイヒ儀礼において、シュードラという地位から、その父
親の属するカーストの完全なるメンバーシップへと移し替えられるのである。こうした地位の変化は、共食習慣
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に関して、最も顕著に示される。イヒを経験するまでは(少年の場合なら、ブラタ・バンダあるいはバレ・チュイ
エグ以前では)、少女は、「清浄」であるならどんなカーストの者によって調理され、触れられた食べ物でも、口
にすることができる。しかし、儀式後は、父親のカーストによって順守されているすべてに規則に従わねばなら
ない。同じく重要な変化が、死に関しても生じる。少女がイヒを経験する以前に(少年ならウパナヤナ以前に)
死亡した場合、手を用いて→ p.90. 火葬場へと運ばれねばならない。イヒ後ならば、コタ <kota>つまり儀式用の
棺台を使用する資格が与えられるのだ。少女たちの親族も同様に影響を受け、イヒ以前に少女が亡くなった
場合には、たった四日の喪を守るだけでよいが、イヒ後ならば一二日間も喪に服さねばならない。また、多くの
インフォーマントたちが話してくれたところによれば、少女たちは、イヒの最中か、もしくは、さらにありそうなこと
なのだが、イヒの直後に、父親のアガン・ディヤ<agan dya-ネワーリ>の崇拝へと形式的にイニシエートされ、秘儀のタ
ントラ的マントラを授けられる − ここでも再び、イニシエーション後の少年たちの取り扱いとの平行関係が見
出されるわけだ。
疑似初潮儀礼(バーラー・タイエグ< barha tayegu - ネワーリ>
伝統的なブラフマンたちなら、自分の娘についてこう主張する。初潮に先立って嫁がせるべきだ、と。これと
同様、ネワール族も、イヒに関して同じ根拠を主張する。ネパールのみならず、インドにおいても、ブラフマン
たちは、現実の生理的な事態(実際の月経)が生じる際に、初潮儀礼を施す。ところが、ネワール族の場合、
思春期に先立って、数多くの少女のために集団的な儀式をなるだけ遂行しようとする傾向にある(30)。換言す
れば、イヒが疑似結婚として描写され得るように、バーラー・タイエグなる儀礼も疑似初潮儀礼と考えられるわ
けだ。
一団の少女たち、その数は常に均一で、五人から八人でそれを越えることは滅多にないが、そうした少女た
ちの一団が、暗室にされた自宅の一室に、一一日の間に渡って隠遁する。注意深い配慮がなされているた
め、太陽光線は一条たりともその部屋に入ることはない。というのも、この儀礼の明確な目的とは、少女たち
が、男たちにも、太陽ににも見られることのないようにすることだからである。最初の三日間は、特に危険だとさ
れている。多分、この期間が、ヒンドゥー教世界なら何処ででもそうであるように、出血を儀礼的に処理する時
期にあたるからである。少女たちは、身体を洗ってはならず、塩とアーメな食物をすべて厳格に避けなければ
ならない。
四日目(これを六日目、八日目とする場合も若干ある)、タカーリ・ナキ <thakali naki>が、水、油、大麦の粉末の
混合物(コ・チェカ <ko cheka-ネワーリ>)を運んでくる。すると少女たちは、これをペースト状にして、自分の顔に擦り
つけ、肌を清浄に、軟質にする。肌をそうすることは、少女の成熟の徴となる。また、少女は、髪に油を少々塗
りつけ、髪が垂れ下がったままにしておく。というのも、そのような状態になった髪を、結婚式の夜に、一つに
束ねることができるのは、少女の将来の夫ただ一人だけであるからだ。この同じ四日目には、少女たちの女友
達や女性親族らが大勢訪問しにやって来る。そうした親族たちは、父方にしろ母方にしろ、主として既婚の女
性親族である。彼女たち親族は、純粋に植物的な御馳走、特に焼いた穀粒、様々なそら豆やえんどう豆、パ
ン、お菓子、牛乳、凝乳、それに茹でた米などを持参してくれるのだ。また、友人たちのうちの幾人かは、隠遁
期が終了するまで暗室に留まることになる。さらに、半神半霊の小さな綿製の偶像(キヤー <khya-ネワーリ>を作り、
それを壁に吊す。それは、続く八日間、そのまま残されるのだ。この偶像(人形)は、どちらかといえば神秘的
な色合いの濃いもので、その姿といえば、縮込んだずんぐりした白い(黒いとされる場合もある)容姿で、毛は
縮れており、その赤い唇は尖らせている。→ p.91.
キヤーという言葉は、暗闇を意味するネワーリ語キユゥ
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<khiyuh>の派生語である。また、あるインフォーマントによると、キヤーの色が白色なのは、暗い部屋にいる少女
たちを安心させるためだという。毎日、少女たちは、食事の前に、キヤーに供物をしなければならない − もし
怠ったりすると、少女たちの健康は重大な危機に陥ることになるやもしれない。キヤーについては、それが少
女たちに友誼と娯楽を与えているのだと述べる者もいれば、実のところキヤーは少女たちに取り憑いているの
だと語る者もいる。二人の若い女性たちが話してくれたところによれば、キヤーは、供物に満足しなかった場
合、夜の間に止め金を外れ、少女たちの頭上に伸し掛かってくるという。パタンの仏教徒の間でよく知られた
説話中では、キヤーは、もともとは男性であったのだが、少女たちと性愛的な関係を持ったがために、今や女
性になってしまっているのだとされている。
一二日目の朝、理髪師とその妻がやって来て、少女たちと家屋全体を浄化する。二人は、牛の糞と赤土の
混合物で家屋を洗浄し、それからすべての部屋に、近くの川から汲んできた浄水を撒く。理髪師の妻は、少
女たちの汚れた衣服を脱がせ、少女たちを洗い、刺繍の施された赤いサリーを着せ、金色や赤色の輪飾り
や、花嫁に相応しいその他の宝飾品をなるだけ付けてやる。さらに、少女たちの爪を摘み、足指は赤くペイン
トして、額には赤いティカーを付けてやる。その間、夫の理髪師の方はといえば、扉に小さな穴をあけ、一条の
太陽光線が入るようにする。少女たちは、この一条の光を見る。このことこそが、スーリヤ・ナーラーヤナ <Surya
Narayana> ( 31)に対する少女たちの最初の一瞥となるわけだ。次に少女たちは、屋根(屋上)へと連れ上げられ
る。そこでは、家付きのプロヒットが、少女たちの母親、母親の兄弟、父親の姉妹、そして父親らとともに、少女
たちを待ち受けている。少女たちは、頭部をショールで覆われているため、誰も見ることはできない。母親たち
は、少女たちが太陽に顔を向けるのを介添えし、それからショールを外す。こうして、少女たちは、今やスーリ
ヤ・ナーラーヤナに自らの顔を見せることになるのだ。しかし、少女たちは、太陽の力を恐れているので、先ず
タライの水面に映った反射映像を見つめ、それから両目を上げて、直接太陽を見つめるのである。
さて次に、祭司は、少女たちが一揃いのプージャー装具の前に座るよう命じる。それら装具の中心には、マ
ンダルかスーリヤ・ナーラーヤナの像が一つ置かれている。少女たちは、花々、水、パンチャ・アムリット <panca
amrit>、シナ粉 <sina
powder>、果実、穀類、灯心などを供えることで、スーリヤ・ナーラーヤナを崇拝するのだが、
そうした供物の中でも特に重要なのが、ベテルの葉に包まれたベテル・ナッツである。今や、各少女たちは、
左膝を地面につけて跪き、浄化用の液体を、ヴァギナを型どった小さな器(アルガ < arga>)からスーリヤ・ラー
ナーヤナの上へと注ぐ。ナッツを供え、次にアルガ・プージャーを行なうことで、少女たちは、ガウリー < Gauri>
(パルヴァティー < Parvati> )と同一化され、ゆえにスーリヤ・ナーラーヤナを自らの夫と認めたとされるのである。
結婚という主題がさらに明確化されるのは、その後しばらくしてから、先ずは少女たちがスーリヤ・ナーラーヤ
ナの上に朱を置き、次にタカーリ・ナキが少女たちの額と髪の分け目に赤い粉を付ける際である。まさに、これ
は、イヒやその後の結婚儀式でなされるのと全く同じ仕方なのである。何人かのインフォーマントたちの述べる
ところでは、スヴァルナ・→ p.92. クマールが、イヒの際に、少女たちの最初の夫となるのと同じく、スーリヤもま
た 、 バ ー ラ ー の 際 に 、第 二番 目の 夫 と な る わ けだ 。 そ の 夜 遅 く に 饗 宴 が催 さ れ 、少 女 た ち は カ エ サ ガ ン
< khaesagan-ネワーリ>(あひるの卵、魚、水牛の肉、大豆粕、アルコール)を食する。従って、もうこの時点では、塩や
アーメな食物のタブーからも解放されているのである。
バーラーのシンボリズムの多くが初潮に関連していることは明白であるし、この儀礼は、実のところ、カトマン
ドゥ渓谷に住むヒンドゥー教徒の高位カーストの少女たちに(初潮時に)なされる儀式と類似しているのだ。し
かし、ヒンドゥー教徒たちが専ら各少女のためにそうした儀礼を行なうのは、月経が生じた際である。一方、ネ
ワール族の場合は、現実の事態(初潮)そのものに先立って集団儀礼を執り行う。ヒンドゥー教徒の事例では、
こうした儀礼を遂行することで、月経の血に備わる恐るべき汚穢の属性を抑制しようとしている。このことは全く
以て明白である。最初の一一日間の隠遁に加えて、女性なる者、出血する(月経の)度毎に、三日間分離さ
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れ、男性、神々、水との如何なる接触からも、あるいは調理活動からも、慎重に回避されねばならない( 32)の
だ。しかしながら、ネワール族の場合には、こうしたシンボリズムは、それほど明白なわけではない。最初の一
一日間の隠遁期もあれば、理髪師と祭司の担う浄化もあるわけだが、そもそもバーラー・タイエグが、通常な
ら、汚穢の事態(初潮)そのものに先立って遂行されているのである。この儀礼は、実際には、月経といささか
も関係ないのではないか、という疑念も生じよう。さらに、ネワール族は女性のその後も続く月経には全く関心
を示さないという事実が見出されるや、こうした疑念はなお一層強まるばかりである。ほんの僅かに存在する制
約といえば、ごく形式的なものに過ぎない。たとえば、沐浴してから調理しなければならないこと、家庭の祠も
含め神々を避けなければならない、といったことくらいであろうか。(月経中の)女性は、隠遁しなくてもかまわ
ず、むしろ普段以上にせっせと家事に精を出している。大抵の男性は性交渉を慎むらしいが、それも公式の
禁止事項ではなく、何ら(宗教的に)危険な意味合いは存在していないのだ(33)。
ならば、一体何のためにネワール族はこの儀式を遂行するのだろうか。そこで、イヒとバーラーの類似性に
ついて考えてみよう。両儀礼とも清浄維持に関心を示しているものの、これら二つの儀礼の重要な特徴が示
唆しているのは、そしてそれらの類似性は、清浄維持がそれほど大きな関心の的になっているわけではない、
ということである。わたしが主張したいのはそういったことなのであるが、それはまだ先に譲るとして、ここで強調
しておかねばならないのは、実は次のようなことなのである。初潮前の処女から既婚の非処女へ変換すること
をその総合的な結果とする、三段階から構成された一連の儀礼群があるが、バーラーとは、初潮と明確な結
びつきがあるとしても、こうした一連の儀礼中の第二段階として理解されるべきものなのである。イヒの場合、幼
い少女は、既婚の初潮前の処女という地位へ象徴的にイニシエートされるわけだが、バーラーの場合には、
少女は、同じく象徴的であるとはいえ、初潮後のセクシャリティーという状況へとイニシエートされるのである。
インフォーマントたちすべても同意しているように、バーラーにおける三人の中心的な登場人物とは、少女た
ち、カヤー、それにスーリヤである。カヤーに関していえば、彼カヤーが少女たちの処女を奪うかもしれないと
いう可能性は高い。スーリヤによる儀礼的な処女奪取に関しては、それほど説得力があるわけではないが、少
女が屋上へと連れ上げられる際に、「彼(ス−リヤ)を見させられる」、「彼に嫁がされる」、あるいは「彼に奪わ
れる」などと言われるということは、それはそれとして覚えておくべきである。→ p.93.
ネワール族の儀礼が、実のところ、伝統的なブラフマン的パターンを模して構成されているのならば、その
際には、バーラーを象徴的な処女奪取として解釈するにあたって、さらに副次的な証拠が存在するはずだ。
幼児婚が実践されている、そうしたブラフマン・カーストの場合、結婚の完了(床入り)は、初潮期の直後まで
生じることはない。先ず、少女は、三日の間隠遁し、その間に粗糖と塩を抜いた食物を取らねばならない。次
に、少女は儀礼的な沐浴をし、結婚の完了が遂行されるべき七日目、あるいは八日目へと至る。大抵の大家
の述べるところによれば、四日目が最良の夜とされている。その時こそ、息子(男児)が最も授かり易いとされ
ているからである。しかし、さらに七日間の自制を勧める著述家もいる。この間、夫は暫時的な予備交渉(前
戯)をすることで、妻に重大なる事態に臨む覚悟をさせるのだ。ネワール族の間でなされる次第との類似は、
顕著である。両方の場合とも、初潮前の処女は、カニヤーダーン儀式で、夫に嫁がされる。さらに、初潮の儀
礼的な取り扱いが、厳格な三日間で始まり、その後、この三日間に比べれば、もっと安寧で、長い期間が続
く。この期間に、少女はその処女性を失うわけである。こうしたことも、両方の事例に類似した点なのだ。ただ、
ブラフマンの少女の場合なら、その命に限りがある(人間の)夫に嫁がされ、処女を奪われるのであるが、ネ
ワール族の少女は、先ず独身の神に嫁がされ、次に醜い人形(偶像)か太陽の何れかによって処女を奪われ
る。唯一の差異は、こうした点にあるのだ。
- 81 -
ヤルマンとインドの疑似結婚
ヤルマンは、ナヤル族のタリ−結合儀礼( 34)を検討する中で、こう論じている。これらタリ−結合儀礼は、イ
ンドの他の疑似結婚ともども、前思春期の結婚というさらに一般的なブラフマン的習慣に対する機能上の互換
物として理解するのが最適である、と。ヤルマンの主張するところによれば、こうした儀礼群(疑似結婚)は、ヒ
ンドゥー教徒がカーストの清浄維持に専心していること − 「深遠なる『危険』状態、つまり女性的セクシャリ
ティーの顕現に専ら注意を絞り込み、焦点をあわせていること」 [Yalman, 1963, p.39.]− に対する、(ここでは、ナ
ヤル族側からの)制度化された反応として理解されるべきなのだ。彼ヤルマンは、かなりの説得力をもってこう
主張している。ヒエラルキー的に構造化された社会なら何れにおいても、清浄さが地位の差異化についての
語法(基準)であるならば、女性の清浄さの維持に主として専心するということが生じるのは確実である。インド
でなら、このことはまさにその通りなのだ。そこでは、カーストの清浄さが、自カーストの女性の有する清浄さと
直接に相関しているからである。議論を展開していく過程で、ヤルマンは、二つの結婚複合の間に存する類
似性 − 論の展開上、ナヤル族と、さらに伝統的なヒンドゥー教徒である彼らの諸隣族との根本的な類似性
へと的を絞っていく。
ヤルマンの提示する仮説は説得力のあるものなのだが、そう評価するにはある条件が伴う。彼の主張によ
れば、ナヤル族及び彼らに類似した結婚システムを有する他の種族は、実際に、女性の清浄さの維持に取り
憑かれている(固執している)とされている。しかし、その取り憑かれている程度は、彼ヤルマンがわれわれに
信じ込ませようとしている程までに強いものなのだろうか。つまり、条件とは、これに関してヤルマンに同意でき
るか否か、ということなのである。わたしが思うに、この主張に疑問を差し挟む余地は十分にある。ナヤル族と
ネワール族は別としても、疑似結婚についての主だった民族誌的諸事例の出所といえば、→ p.94.
中部イン
ドである。そこでは、幼い前思春期の少女たちは、矢と結婚することになっている。こうした儀礼の遂行は、社
会的ヒエラルキーの広範な連続体を貫いているとはいえ、ドゥベが記しているように、種族的な人々や低位
カーストの人々の間でなら特に一般性を持ち得るものの、ブラフマンの間では決して行なわれていないのであ
る [Dube, 1953, p.25.]。実際、ドゥベは、この習慣を、成人結婚への種族的な偏好と思春期における性のモラルの
かなりのだらしなさとに、明確に結びつけている。多分、そのようなだらしなさは、一般的な種族民というもの
が、女性の純潔保持に何ら関心を持っていないことについての一事例に過ぎないのだ。疑似結婚と、性愛に
関する保守性の不在との間のさらに明確な関係は、南部インドで普及している、こんな習慣にも見出すことが
できる。それは、若い娘が、寺院売春という職業へ従事するのに先立って、その寺院に居住する神と結婚する
というものである [Dumont, 1961, p.30, and 1964, p.85. Walker, 1968, 2, p.246-9.] 。こうした事例の何れからも、疑似結婚に
ついてこう主張する根拠が引き出せるはずだ。すなわち、疑似結婚が遂行されるのは、非伝統的(非正統的)
な性関係を結ぶのに先立って、伝統的なブラフマン的純潔についての理念への何かある種の明白な献身を
施すためなのである。換言すれば、こういうことだ。疑似結婚は孤立した種族コミュニティーにおいて行なわれ
るものである、などと考えているのではない。むしろ、中央インドのような、そうした地域でなら、種族民たちは、
ブラフマンやクシャトリヤによって支配された、規模の大きなカースト構造化された政治組織の中で、特殊化さ
れてしまっているのである。かえって、こうした環境においてこそ、疑似的な前思春期結婚と非伝統的な性モ
ラルが同時に共存しているという事態に象徴されるような、矛盾した価値間に、ある種の妥協点を見出せるの
かもしれないのだ。
ナヤル族とネワール族
- 82 -
高度に洗練され、カースト構造化されたナヤル族とネワール族に目を向け戻せば、事態がさらにもっと複雑
になるのは、それはそれで仕方のないことである。それでも、わたしはこう考えている。中央インドについての
資料との顕著な類似性には、得るべきことが何か示されているのだ、と。ナヤル族について、第一にして最重
要たる点を指摘しておこう。ナヤル族は国家的規模の広範なカースト・システムの一部を構成しているわけだ
が、このカースト・システムたるや、その厳格さについては、インド全域にその名を轟かせている。こうした厳格
さで以て、(ナヤル族の)内的なカースト関係も、清浄さと汚穢についての精巧なイデオロギーによって、制御
され、規定されている。だがしかし、彼らナヤル族は、多くの重要な点で、ナヤル族以外のブラフマンや不可
触民カーストとは異なっているのだ。ナヤル族も、カースト原理に準じて、その下位集団を内的に構成してい
るし、誕生、月経、死といったような脈絡上でなら、清浄さと汚穢に明格なる関心を寄せている。ところが、この
ナヤル族たるや、それにもかかわらず、多くのかなり非伝統的な(非正統的な)社会制度、特に母性の極端な
発展、女性の有する高い地位、そして一妻多夫制などを備えていることで、その名を知られているのである。
もちろん、非常に厳格な部外者(部族外者)たちは、こうした制度に対して反動的な措置を講じてきた。ここで
は、そうした事例の中から、たった一つだけだが、とりあげておきたい。以下は、ミソレ< Mysore >のムスリム王
ティップ・スルタン <Tippu Sultan>によって、一七九八年に出された宣言からの引用である。
「ああ、なんということだ、お前たちの習慣といったら。たった一人の女に、一○人もの男たちが交わっているではない
か。わが母や姉妹らが、→ p.95. そんな忌まわしい習慣の中で、何の制約もなくほっておかれているのに、全く何も構じよ
うとしない。そんなふうだから、すべての者が、不貞の中で生まれてくることになるのだ。お前たちの交わりは、野の獣よりも
恥知らずだ。この際、われは求める。お前らは、こんな罪深い習慣は捨ててしまえ。他の人間たちのようにして、暮そうでは
ないか」。(引用は [Fuller, 1976, pp.4-5.] による。)
そもそも、ヤルマンの仮説では、ナヤル族は、自族用のブラフマンを、女性の純潔保持に関心を持っている諸
隣族と共有していたとされている。しかし、反動的言動が、多少にせよ根本的な道徳的評価を得たとしても、
それでも引用したような宣言が存在すること自体、そうしたヤルマンの仮説が、良くても不適切、悪くすれば間
違いであるということを示唆しているのではなかろうか。多くの注釈家たちが、ナヤル族の女性の有する高い
地位 − それも、婚姻の自由に関してだけでなく、財産相続に関しても与えられている高い地位 [Fuller, 1976,
p.6.]− に言及してきたということ、このこともまた強調しておく価値があろう。さらに、高位カーストの男性と低
位カーストの女性の間で定期的に性的関係を結ぶことが望ましいとする考え方を内包したシステム内では、性
愛に関する保守性が欠如している [Fuller, 1976, p.120.]とは、フラーの強調するところであるが、そうしたことも、わ
たしはここで付言しておきたいのだ。
ヤルマン自身の示唆するところによれば、疑似結婚は、婚姻関係がそれほど強く制限されていないような社
会では、幼児婚よりも見出され易いものであるとされている。ヤルマンは、マラバル海岸< Malabar coast > に
おいて得られた資料によって裏打ちすることで、この仮説を証明することに、それほど苦慮してはいない。南
部ナヤル族の高度に洗練された疑似結婚は、母系組織や柔軟に限定されている婚姻関係と連動していると
されている。こうして、疑似結婚を一方の極にするならば、 − もう一端には − 幼児結婚、強度の父系制、
そして永続的な婚姻関係という、ナムブディリ族 <Nambudiri>の有するブラフマン的パターンが存在することにな
るわけだ。ところが、ヤルマンは、そのような差異が有する連関性を見落としてしまった。というのも、二極化さ
れてしまった差異間には、重要なことに両事例ともが女性の純潔と結びついているにもかかわらず、特に性愛
的な脈絡上でなら、平行関係をとり得る可能性も併せ持っていたからである。
この点について、わたしが特に強調しておきたい事実がある。つまり、ナヤル族とは、その歴史的に独特な
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自文化に対して強い意識を持った種族なのである − 彼らナヤル族は自らを、もっと規模の大きなカースト構
造化された社会システムの内側では特殊化されているものの、(自族内では)均質的な種族であるとみなして
いる − という事実である。ナヤル族が内的にもカースト構造化されていること、それはもう絶対に間違いなく
そうなっている。ナヤル族は、そうなっている限りでは、自族が置かれたこの状況を、自族と清浄なブラフマン
や不浄な不可触民との外的な(対外的な)関係の連鎖(結果)であるとみなしているのだ。ナヤル族について
は、そのもっと古い歴史は知られているわけではないが、わたしは敢えてこう推測したい。すなわち、ナヤル族
も、南アジアにおける他の母系制種族と同様、もともとは種族民であったのだ。マラバル海岸では、カースト構
造化された諸国家が発展し、拡張していく歴史的な過程の幾つかの時点で、ナヤル族も、インドに住むきわ
めて多くの種族民たちと同様、主として傭兵というかたちで、また幾分かは農作民として、システムの中へとり
込まれていった。様々な理由から、ナヤル文化の軍国主義化は異常な割合を帯び、その結果として、先在し
た母系制組織は、変容されるよりも、むしろ強化されるに至ったのである − そして、ここで注目すべきは、多
数の注釈家たちが→ p.96.
主張してきたように、ナヤル族の極端な母系制と極端な軍国主義との間には、直
接的な因果関係があるのだ。(ナヤル族の有する)母系システムたるタラヴァッド < taravad> は、伝統的なヒン
ドゥー教が強調する、結婚による絆の不可侵性と不変性に矛盾するものである − しかし、世紀を経るにつれ
て、ナヤル族は、ブラフマンの支配下に統制された国家規模の広範なカースト・システムを構成する必須の部
分となっていった。そしてそれゆえ、当然のことながら、女性の純潔維持に焦点をあてた、カースト制と連動す
るイデオロギーに、ますます関与するようになってきた。そのことには、ナヤル族自身も気づいていたはずだ。
こうしたことを踏まえて、わたしはこう示唆したい。つまり、タリ−結合儀礼は、あらゆる疑似結婚がそうするよう
に、(広範なカースト・システムに対する)上述したような限定されたかかわり方について、明確な象徴的表現
を供給しているのである。
さて、ネワール族のことへ戻ることにしよう。注目すべき第一点は、イヒとタリ−結合儀礼とは顕著な類似性
を示しているにもかかわらず、これら二つの社会システムが、幾つかの重要な仕様で異なっているということで
ある。ネワール族は、母系制を採用しておらず、因襲的な父系システムを持っていて、それにはリネージや父
系的接合家族が伴われている。さらに、一妻多夫制は持たず、共同的で永続的な家族ユニットという脈絡上
には、一夫一婦制や明確に限定された婚姻的結合が見出される。多少とも質的に異なったレヴェルに関して
ではあるが、ナヤル族の軍事的伝統と、ネワール族が農業、交易、工芸に力点を置いていることとの間には、
鮮やかなコントラストが見てとれよう。
そうはいっても、ネワール族は、少なくとも以下の三つの点で、ナヤル族と類似している。先ず、カースト原
理に従って内的に構造化されているとはいえ、それでもなお部外者からすれば、ネワール族も、単一のカース
トを構成しているようにみなされる傾向があるということ。次に、ネワール族も、結婚と性交に対して非伝統的
(非正統的)な態度を示すという点。そして、彼らネワール族も、女性に高い地位を与えているということ。以上
これら三点に、両族の類似性が認められるのである。
歴史的な証拠からも指摘できる通り、ネワール族は、そもそも種族的な起源を有していたが、その後に、僧
院的な仏教と伝統的なブラフマニズムとが相互に影響し合う長い時期を迎える。複合的な都市文明がその礎
を築いたのは、この間のことであった。土着民たるネワール族は、移民たるブラフマンとクシャトリヤを頂点と
し、不浄なる奉仕カーストを底辺とする複雑なカースト構造の中で、歴史的にかなり早い時期からすでに特殊
化されていた。ヒンドゥー教王朝の政治的支配にともなって、カースト構造と清浄維持に従属するよう圧力も増
加してきた。ナヤル族の場合がそうであったように、流動的な政治的脈絡上での上昇動向に対する圧力が、
カースト間の結合の普及という帰結をもたらしたことはほぼ確実である。サンスクリット文化が衰徴の一途を辿
るにつれて、(社会的な)成功を収めた男たちは、自分の子供のために有利なカースト間結婚を結ぶことで、
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さらに社会的上昇へと動勢を傾けていったのである。
デュモンは、これら二つの種族においてハイパーガミーとアナガミーがともに高い発生率を持つことに注目
した上で、彼ら両族の内的な下位区分は、実のところ、本当のカーストを構成しているわけではないのだ、とま
で主張した。デュモンは、こう記している。→ p.97.
「何れの事例においても、われわれが向き合っているのは、職業や社会的地位によって(そしてネワール族の間でなら、
宗教によってさえ)区分された諸集団からなる、一つの巨大な集塊なのである。確かに、こうした集塊は、本物の部外的な
カーストとの関連から、特定の状況のなかでなら、そうしたものとして出現し得るものかもしれないが、それでもカーストでは
ないのだ」 [Dumont, 1964, p.98.] 。
これらの下位区分はカーストではないと述べるなら、その場合には、わたしはデュモンが正しいとは思えない。
しかし、彼デュモンがそのような見解を提案したという事実そのこと自体は、(ネワール族とナヤル族の)両シス
テムが非伝統的(非正統的)な特徴を示しているということを、ある程度暗示しているとは言えないだろうか
( 35)。両コミュニティーをカーストという形式の外側に置くことを妥当とするよりも、むしろそれらがともに、かなり
の程度、共通した構造的、イデオロギー的逸脱を示しているのだと考える方がよかろう。結局、インドでもネ
パールでも、ほとんどの種族が、その歴史を十分に遡ってみることさえできれば、もともとは種族的であったこ
とが解るだろうし、大抵の種族は、今でもなお何らかの点で、ブラフマン的な諸理念から逸脱しているような結
婚習慣を保有しているのだ。しかし、ハイパーガミーとアナガミーが伝統性(正統性)の欠如を示す特に重要
な指標だとみなそうとしているのではない。ネワール族の間では、こうした二つ(の婚姻形態)が生じているの
は確かだし、特に彼らネワール族においては、急速に変化する政治的、経済的な環境が、社会的な上昇動
勢をもたらした。それでもなお、ハイパーガミーとアナガミーは、システムの主たる特徴ではないのだ。むしろ、
大抵の結婚は、ジャート < jat>、つまりエンドガミー(同族結婚)にさえ適合している。さらに、デュモン自身の基
準に従っても、これら両社会システムは、カースト・モデルに適合しているはずだ。様々な地位の下位区分は、
頂点に祭司、底辺に不可触民を配していることからして、明らかに相対的な清浄さについてのイデオロギーと
関連づけられて序列化されているからだ。
デュモンは、とり交わされた姻戚関係の性質の中に、伝統性(正統性)が欠如していることを強調した。しか
し、わたしは、そうした欠如よりも、むしろ逸脱を強調したい。つまり、女性や女性のセクシャリティーを評価す
ることのなかには、伝統的(正統的)な諸理念からの、もっと広範に基礎づけられた(構造的な)逸脱が見出さ
れるのだ。伝統的(正統的) なヒンドゥ ー教の教義に従えば、女性は不浄の主たる源泉だとみなされてい
る − 女というものは、月経があるし、子供も産めば、不埒な欲望や情熱を被り易いというわけだ。それゆえ、
われわれが見出すように、幼児婚、プルダ< purdah >、離婚及び未亡人の再婚の禁止、サティー <sati>に対す
る高い評価といったような制約制度を通して、男性による(女性の)制御の維持が強く強調されているのであ
る。女性のセクシャリティーが危険で、穢れた力だとみなされているのは、そうした力が男系継続(男児を出産
するということ)という脈絡上でしか価値を持たないからである。しかし、こうした(女性に関する)諸価値体系と
それに連関する諸制度(女性に対する制約的諸制度)から構成された完全な複合体は、ナヤル族において
も、ネワール族においても、その大部分が、女性に与えられた高い地位に焦点をあわせた、もっとさらに肯定
的な(価値に関する概念的)装置に取って代わられてしまっているのだ。ナヤル族の場合なら、こうした代替
は、軍事的な理由で男性が自宅を長期に渡って不在にすることの結果として現れる。また、ネワール族の場
合は、母系的でもなければ、軍国的でもないわけだが、女性は高い地位を与えられているために、経済の主
要分野に、むしろ顕著なまでに参与できるようになっているのだ。→ p.98.
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ハミルトンの場合、イヒ儀礼についての簡潔な説明をしてから、男性との婚姻関係において女性が行使す
る、連動した権利と自由に関して、詳細に論じている。
「カーストが高ければ高いほど、少女たちは、婚約させられるまで、純潔でいなければならないということが求められる。
逆に、カーストが低い者たちの間では、少女は、気にいった恋人たちと、それがヒンドゥー教徒でさえあれば、婚約前に耽
溺に耽っても、何らとやかく噂をたてられることはない。こうした放蕩は、何の因果も生まないと考えられているからだ。女性
は、望めばいつ何時だろうと、夫のもとを去っても構わない。そうして家を空けた間、自分の属するカーストの男性となら同
棲してもいいし、同棲相手がさらに高いカーストの場合なら、いつでも夫の実家へ戻り、その家族の配下に再び就いても
構わないのだ。女性が去る前に必要とされる唯一の儀式あるいは告知といえば、自分の床の上にベテル・ナッツを二個置
いておくことだけである。女性が夫との生活を望む限り、夫は別の妻をめとることはできない。ただし、妻が子供を産める時
期を過ぎてしまっていたら、話しは別だ。男が第二夫人をめとることができるのは、第一夫人が夫のもとから去るのを望ん
だり、あるいは齢をくいすぎている場合である。そうした場合、夫はいつでも、望むだけの側室を持てるのである」 [Hamilton,
1971,p.42.]。
プラダンは、優れたモノグラフをごく最近ものにしたばかりである。それは、渓谷の南部に位置する、農業中
心の小さな共同体ブル< Bulu
>に住むネワール族の女たちに関するものである。その中で、彼女プラダン
は、女たちが、離婚、別居、再婚についての伝統的な(トラディショナルな)権利を行使し続けていることを確
証している。このコミュニティーには、全部で六七人の既婚男性と六三人の既婚女性がいて、男性のうち二五
人と女性のうちの二○人が、最初の配偶者との離婚か、どちらの側からにしろ離縁去家の何れかを経験して
いた。さらに、三二組が離縁か駆け落ちで終わりを迎えていて、そのうちの二五組は、女性が率先した事例で
あり、男性の率先によるものはわずか七組であった。こうした数値を注釈しつつ、プラダンはこう述べている。
「男性だけでなく女性も、社会内での地位を失うことなく、何度でも結婚できる。またジャープュの女性なら、男性と同
様、離婚も別居もきわめて容易なのだ。ある女性が自らの結婚に終止符を打ちたいと思えば、彼女はそそくさと夫のもとを
去り、自分の実家(タアチェ< thaache > )に戻り、いつまでいても構わない・・・女たちは、一寸した口実で結婚をお仕舞い
にしようと思えばそうできるし、そうするための理由なら、いくらだってあるのだ」 [Pradhan, 1981, p.68.]。
再婚に関しても、彼女プラダンはこう注釈している。→ p.99.
「男性だけでなく女性も、如何なる社会的スティグマも被ることなく、あるいは地位喪失をも伴うことなく、再婚できる。事
例の中には、何と四度も結婚した老女が三人も含まれている。女性が再婚するのは、大抵の場合、夫に捨てられたり、未
亡人になったりしたか、あるいは現状の結婚に不満を持っているかなのだ」 [Pradhan, p.71.]。
ヴァジュラヤーナ仏教も、ヒンドゥー的タントラ教と同様、儀礼、瞑想、及び認識の力の源泉として、人間的
なセクシャリティーを肯定的に評価することに、その基礎を深く置いている。ブラフマティズムなら、性交を不浄
の主たる源泉として拒絶してしまうのに対して、ヴァジュラヤーナの信奉者は、性交を大いなる生成力という宇
宙的な力として賛美する。この教義に従えば、ヴァジュラヤーナの僧侶、つまりヴァジュラーチャーリヤ(金剛
師)にして「雷光の主」は、既婚男性でなくてはならない。こうした理由から、ヴァジュラヤーナの僧侶は、自ら
が必須とする儀礼上の相手 − 儀礼の目的成就のために、きわめて重大な力を表象していることになる女
性 − の現前を要請できることになるわけである。ネワール族の仏教徒にとって最も高度なイニシエーション
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(デカ<dekha-ネワーリ>)には、その効力に関して必要条件が課されているが、その条件とは、相反する性(対立性)
の相手とともに出席する者にだけに効力があるというものである。実は、こうした条件も、同じ教義によって支え
られているのだ。
以前に指摘したように、ネワール族の女性が高い地位を持っていることは、実際にはそれが現実的な成り
行き(の結果)に過ぎないとしても、女性が重要な経済活動に顕著に参与しているという点からして、明白な事
実なのである。この事実は、特に米作や衣服の紡績及び職工にも当てはまる。ネワール族は、都市住民とし
て、数多くの経済活動に従事しているのだが、稲作もまだかなりの重要度を占めている。渓谷は、かなり肥沃
であり、集約的な潅漑も備えているので、農民たちは少なくとも二期作が可能である。男性も女性も一緒に
なって、耕作サイクルのほとんどの段階に参与する。宗教上の理由から鋤は厳格に禁じられているので、農地
を栽培用に整えるために、男性は鉄製の鍬で耕し、女性は木製の粉砕機で掘り返しては均す。次に、男性が
稲の苗を(苗しろ)から引き抜き、その一方で女性が水田に植え直す。こうした田植え作業は、大勢の労働者
を要する、主要な社会的行事なのであり、大抵の場合なら、カーストに関係なく、労働者たちは田から田へと
移動する。その労働に対して土地所有者(地主)から報酬を受け取るのが女性であるという点で、労働を支配
しているのは女性であるということになるわけだが、単にそれだけでなく、水牛の肉、平たく打ち延ばされた
米、ライス・ワインからなる正午の饗宴も組織しているのだ。こうした饗宴は、陽気で、人気のある行事であるに
とどまらず、おそらくは長老女性の名声の一因ともなっているのだ。田植えから収穫までの間、男性は潅漑
に、女性は除草に精を出す。そしてついに迎えた刈り入れの時にも、労働力は男女とも等しい。男性は主とし
て稲刈りと脱穀、女性は乾燥、ふるいわけ、貯蔵に携わるのだ。→ p.100.
他にも、衣服の紡績や機織りといったことが、経済の最も重要な特徴の一つになっている。インド製の輸入
衣料の導入以前には、ネワール族は、自族消費分も、また渓谷内外に居住する他族に売却する分にも、十分
な材料を産出していた。紡績と職工はともに、専ら女性の仕事であり、製造された衣料を購入する側である洗
練された都市カーストたちの間でも、今日でさえ、紡績用車輪は、少女の持参品の主要品目なのである。
交易、工芸、金属細工といったような、他の経済領野への女性の参入は、その程度が農業や繊維部門ほど
多くはないとはいえ、それでもまだかなりのものである。女性の仕事を家庭内に制限すべく、何らかの策が講
じられているのは、実のところ、最も伝統的(正統的)なブラフマンやシュレスタの家系のうちのごく僅かだけな
のだ。家事以外の重要な仕事に直接関与したり、多分その結果としてこうなるわけだが、結婚や離婚という分
野でも(正統的なヒンドゥー教義にとっては)異例な権利と特権を行使したりすることは、(ネワール族の)女性
にしてみれば、ごく一般的な様式なのである。私が示唆してきたように、ヒンドゥー教徒においても、仏教徒の
間でも、タントラ教が大衆性を持ち得るのは、女性のセクシャリティーと女性の持つ「力」を、この信仰が高く評
価していることに基づいている。ナヤル族と同様、(ネワール族も)こうした(女性の)高い地位が、幼児婚、離
婚禁止、未亡人の殉死といったような制約的制度の可能性を効果的に妨げてきたわけだ。疑似結婚は、こう
した人々が直面する構造的な諸問題に対して、理想的な解決を与えるのである。
プラダンは、ブル村のジャープュの女性に関する研究の中で、こうした解釈についての興味深い確証を与
えてくれている。先述したように、この孤立した、顕著に農業的なコミュニティーに住む女性たちは、結婚、離
婚、再婚に関して、ネワール族の基準と比べてみても、殊のほか高いレヴェルの自立性を行使している。こうし
た性愛的な行為の領野において、実際に女性たちの自立性がかなり高いからといっても、このコミュニティー
の女性が置かれた状況を、上述したような種類の構造的な諸問題と関連づけて描写することは、重大な誤解
を招きかねない。しかも、女性のこうした自立性が高いことの原因を、伝統的なヒンドゥー教の清浄理念が及ぼ
す影響の度合いの弱さに関連づけるとなれば、なおさら曲解してしまうことになる。換言すれば、ブルに住む
ジャープュは、ヒンドゥー教に支配された権力の中枢から孤立しているのだから、自分たちの娘を永続的な
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(関係を解消できない)疑似結婚に参加させることで、ヒンドゥー教の清浄理念に対して明確なる遵奉を示そう
という強い動機づけを感じているなどということは、先ず以てありそうもない。さらに、プラダンは、こうした分析
を明確に証明すべく、こう報告している。ブル村のジャープュは、実のところ、イヒを遂行してはいない。イヒを
執り行っているのは、もっとヒンドゥー教の影響を受けた、さらに高位のカーストであるシュレスタなのだ[Pradhan,
1981, p.168.]
、と。僅かに異なった用語群の中に、この同じ見解を置いてやれば、こう表現できよう。ブル村に住
むジャープュの間では、女性が殊のほか高い地位を有しているために、幼児婚や離婚禁止といった制約的制
度の可能性ばかりか、そうした制約的な制度の疑似的代用物の可能性すらも阻止されているのだ。
結論
わたしが思うに、インド的な伝統内に見出される世界観の範囲は、世界肯定(世俗肯定)と世界放棄(世俗
放棄)という二つの極に分割されているものとして表象され得よう。このことには、いささかの歪曲も含まれてい
ないはずだ。一方には、生命やその生成力に対する高い評価に基づいて、行為についての、それゆえ人間と
自然の事柄との深い関わりあいについての様々な価値体系、哲学、様式といったものがある。そして他方に
は、生と死のサイクルは救済の実現化にとって障害物でしかなく、それゆえ、そのサイクルの絆からの離脱と
究極的な解放(解脱)を達成するには、多大な努力が必要とされているのだ、という前提に基づいた価値体系
が存在するのだ。こうした二極化は、ヒンドゥー教的/種族的、高位カースト/低位カースト、さらにはヒン
ドゥー教における伝統性(正統性)/非伝統性(非正統性)といった、単なる対立の問題なのではない。むし
ろ、伝統性そのものの内側で、二つの世界観をめぐって絶え間なく振り子運動が繰り返されているのだ。最高
水準になると、こうした弁証法は、王のダルマ < dharma> (法)とブラフマンのダルマとの関係において − つま
り、地位が政治−経済的な領域との関連から限定されるところの倫理学というコードと、相対的な価値が専ら
清浄さと精神性との関連のみから測定されるところのコードとの関係において − 劇的に表象されることにな
る。さらに、弁証法は、このこと以上に深く切り込んでいる。こうした弁証法は、専ら片方の価値(世界観)にし
か明白に関わっていないカーストにさえ、内的に行き渡っているからだ。たとえば、ブラフマンは、自制と純潔
についてのイデオロギーの主宰的な代弁者なのであるが、それにもかかわらず、自らを家族、リネージ、村落
といった世俗的な脈絡上に留めているのである。それゆえ、ほとんどのブラフマンたちは、独身生活(禁欲生
活)という生活様式を採用しないで、結婚もすれば、子供ももうけるのであり、さらには政治−経済的な領域に
さえ自ら自身もかかわることが一般的になっているわけだ。同様に、最低位の農民たちも、豊饒性、セクシャリ
ティー、生産性に高い価値を置くだけでなく、その一方で、村落を通過するサンニヤーシス<sannyasis>や他の世
捨て人たちを崇め、供物をするのである。二つの世界観(が存在するという)二元論的現前は、もちろん、中位
序列のカーストにおいて最も顕著なのであるが、カーストの両末端においても少なからずそうなっているのだ。
この章のはじめにおいて、わたしはこう主張した。純潔(清浄さ)についてのイデオロギーに最も深く関わっ
ているカーストに属する人々の間では、女性のセクシャリティーを男性が制御することに、強い力点が置かれ
ているのだ、と。カーストなるものは何れも、永続的な(関係性を有する)リネージを基盤とした構造なのだか
ら、セクシャリティーと生殖性の完全なる拒絶などというものは存在し得るはずがない − 反対に、(そうしたも
のを内包する)女性に対して、高い価値が与えられているのだ。もっとも、男児を出産することでリネージを維
持しているのは、女性たちだからである。そのような女性を制御するという問題に対しての解決策は、三つの
制度の発展の中に見出すことができる − 先ず、初潮に先行する少女の婚約、次に、夫による性愛的に活発
- 88 -
な女性(妻)の絶対的な制御、そして未亡人の再婚禁止。所与のコミュニティーが如何なるものであれ、それ
がカースト構造化されていればいるほど、そして所与のカーストが如何なるものであれ、それが清浄さの理念
に同意していればいるほど、そうした制約的諸制度を用いて女性の性愛的生活を制御するという事態が生じ
る可能性は高くなるのだ。逆に→ p.102.こうしたブラフマン的な理念への関わり合いの程度が低い場合ほど、
たとえば、種族的なコミュニティーや多くの低位カーストの間でのように、また時として非伝統的(非正統的)
な、あるいは改革論的なヒンドゥー教セクトでのように、成人婚、社会的に是認された離婚、未亡人の再婚など
の習慣が見出され易いのである。わたしは、ここでこうした議論を発展させるわけにはいかないが、こんなふう
に示唆することくらいはできよう。つまり、そのようなコミュニティーでは、正式な結婚の強調が、早期の結婚を
奨励するブラフマン的な強調にすっかり取って代わってしまっているのだ。それゆえ、種族的なコミュニティー
には、エクソガミーや手のこんだ近親相姦の禁止といった規則の強調が共通して見出されるわけである。
以上のような考察のもとに検討してみると、ナヤル族やネワール族、それに中部インドの幾つかのコミュニ
ティーが持っている、表面上は奇妙としか映らない結婚制度も、意味をなし始める。タリ−結合とイヒ儀礼は、
そうした種族民たちの目には、ブラフマン的な人々が執り行う前思春期の処女贈与儀礼と等しいものとして
映っているはずだ。しかし、少女たちは、この後、最初の夫との解消できない婚姻関係に入るわけではない。
彼女たちは、成人として、全く別の、そして容易に解消し得る二番目の結婚を確立するのだ。大まかに定義し
てみよう − ブラフマンが支配しているものの、それでもそこでの主要な諸価値が − 特に女性の地位と女
性のセクシャリティーや生殖性に関しては − かなり非伝統的(非正統的)であるようなコミュニティーにおい
ては、疑似結婚とは、そうしたコミュニティーが伝統性(正統性)と関わりあう(コミットメントする)際に演じる、形
式的な芝居なのではないだろうか。
しかしながら、わたしは、自分の分析を、こうした表面上の「合理的な」注釈で結論づけてしまうことに満足し
ているわけではない。儀礼なるもの、専ら解答を与えるためや、問題を解決するために存在しているのではな
い。もっとも、儀礼とは、本来的な意味からしても、そのようなものではないのだ。多くの儀礼は、そして、おそら
くは、とりわけ通過儀礼として適用される場合には、危険を解除し、望まれている目的への途上で立ちはだか
る障害物を除去する呪術的な能力を、その第一義的な存在理由としているのである。他所でも論じたように
[Allen, 1976, p.315.]、わたしは以下の点でなら、ヤルマン(一九六三年)とゴフ(一九五五年)に同意できる。つま
り、この二人の研究者は、ナヤル族のタリ結合儀礼を描写するにあたって、深く心に刻み込まれた危険、それ
も主として女性のセクシャリティーについての危険に対する制度化された反応として、この儀礼を描いている。
しかし、こうした危険がどのように生じるかに関しては、二人の主張に同意しかねる。思春期の少女は、性的な
成熟へ近づくことで、汚穢を生成する(月経、出産など)とされており、ヤルマンの主張によれば、そうした危険
は、この汚穢に対する恐れに基づいていることになるのだが、これについては、わたしにはどうも疑わしく思え
る。また、ゴフの仮説の趣意は、処女の少女を、近親相姦の欲望の対象となると同時に去勢しようとする母とい
う存在に同一化することから、こうした危険が生じてくるのだ、というものである。しかし、わたしは、この巧みな
仮説を過度に評価するつもりはない。わたしの見解では、この危険は、制御されていないセクシャリティーとい
う単純な危険でしかない。制御が必要とされる、こうした危険が存在するようになるのは、強力ではあるが、幾
つかの点で、異邦的であり、少数派でもある者が支配する、カースト構造化されたコミュニティーにおいてなの
である。たとえば、ケララ < Kerala>では、母系的に構造化されたタラヴァッド < taravad> の組み合わせ、ハイパーガ
ミー、サムバンダン制度 <sambhandan> が存在するお蔭で、カースト・ヒエラルキーの頂点に位置する男性たち、と
りわけナヤル族ではないナムブディリ <Nambudiri> のブラフマンたちは、ナヤル族の女性による性愛的な奉仕を
容易に、しかも搾取的に得ることができるのである。→ p.103.
これと同様、ネパールにおいても、征服者たるゴルカ族の再生族カーストに属する男性、特にラナスたち<
- 89 -
Ranas
> は、頻繁にネワール族の女性との抑圧的で搾取的な関係を持つことができたのである − このこと
からして、ネワール族の間には女性のセクシャリティーに関する厳格な道徳観が比較的欠如していたというこ
とを、かなり顕著に指摘できよう。。
汚穢についての恐れにしろ、強力なる母の姿による去勢への恐れにしろ、そうした恐怖が存在することで、
ナヤル族やネワール族の男性が女性のセクシャリティーの制御に対して示す関心は、さらに別様の展開をす
る可能性もあり得るわけだ。しかしながら、ヤルマンもゴフも、どうしてそのような制御が、ある時は幼児婚との
組み合わせからなる制度によって、またある時は疑似結婚の組み合わせからなる制度を通じて、行使されるの
かについて、十分な説明をしているわけではない。これに対して、わたしは、こう主張したい。ナヤル族やネ
ワール族のコミュニティーに属する女性は伝統的に高い地位を与えられているが、このことは、女性が成人と
しての制約から比較的自由であることと結びつくことで、自族の男性の抱く不安を一層激化させることになっ
た。というのも、男性たちは、自族の女性の性愛行為、とりわけ異邦の少数派に属する支配層の男性との関係
について、関心を寄せているのだから、このことは当然であろう。従って、ネワール族とナヤル族は、女性のセ
クシャリティーについての矛盾した対理念に対処すべく、わたしが当書で叙述してきたような、魅惑的な解決
策を発展させてきた。しかし、それは、展開し続けるカースト構造化された共同体の中へ、彼らが徐々にとり込
まれていく歴史的過程の、それもきわめて長い歴史的過程の結果でしかないのだ。
さて、ネワール族の解決策とは、一対の精巧な制度を発展させることであった。つまり、前思春期の女性が
有するセクシャリティーに固有のものとされる潜在的な力を抑制することが強調される場合には、疑似結婚や
疑似初潮儀礼という形態をとるのであり、政治的な目的やその他の世俗的な目的でそうした危険な力を得よう
とする場合には、クマリ信仰という形態をとるのである。
原
1
註
本稿の最初の四つの章が基づいている調査は、カトマンドゥ渓谷において、一九七三年九月から一九七
四年一月にかけての期間、及び一九七四年一○月に実行された。ネワール族の社会組織と宗教に関する背
景的資料は、一九六六年から七年にかけての一年間の野外調査の際に収集したものである。また、第五章が
基礎とする資料は、主として一九七八年から九年にかけてなされた六か月間の調査の際に収集されてたもの
である。わたしは、こうした野外調査を財政面で支えてくれた点で、シドニー大学、オーストラリア調査研究助
成委員会、メイヤー基金、オーストラリア社会科学アカデミーに対して感謝したい。また、トリブヴァン大学のネ
パール及びアジア研究協会、とりわけ学部長のプライアグ・ラジ・シャマル博士 <Dr. Prayag Raj Sharma>には大変
お世話になった。わたしはおおいに勇気づけられ、知的な刺激を受け、実際的な援助していただいたのであ
る。わたしの主要なインフォーマントたち、特にスリ・ヌシャル・バハドゥル・バジュラチャリヤ <Sri Nhuchle Bahadur
Bajracharya> 、スリ・ハルカ・ラトゥナ・ダクワ < Sri
Manabajra
Harkha
Ratna
Bajracharya>、スリ・アサカジ・バジュラチャリヤ <Sri
Dhakwa> 、スリ・マナバジュラ・バジュラチャリヤ < Sri
Asakaji
Bajracharya>
、スリ・バドリ・グルジュ<Sri Badri
Guruju>、そしてスリ・マンガラナンダ <Sri Mangalananda>にも、大変お世話になった。こうしてわたしは沢山の方々の
援助を受けたわけだが、とりわけ感謝しなければならないのは、モーヴァン・ニロファール <Moaven Niloufar> であ
る。彼女は、クマリ信仰を論じた貴重な論文の草稿を、寛大にも供与して下さったのだ。また、ラジェンドラ・プ
ラダン <Rajendra Pradhan> も、一九七八年一二月と一九七九年一月にヒンドゥー教徒が行なった二つのイヒ <ihi>
- 90 -
儀式についての詳細な描写を、気前よく与えてくれたのである。
2
ネワール族に関して背景となっている人類学的な情報については、以下の文献を参照のこと。アレン
[Allen, 1973, and 1976.]、フューラー−ハイメンドルフ [Furer-Haimendorf, 1956, and 1960.]、グリーンウォルド [Greenwold,
1974a, and 1974b.]、ホッジソン [Hodgson, 1874.]、レヴィ [Levi,1908.]、ナパーリ [Nepali, 1965.]
、ローサー [Rosser, 1966.] 、
シャルマ [Sharma, 1973.] 、トーファン [Toffin, 1975, 1976, and 1977.] 、プラダン[Pradhan, 1981.]。
3
スラッサーは、このリストをさらに拡張して、一三人にしている。そこでは、二人の付加的で小規模な地方
的女神 − キルティプール <Kirtipur>とトカ <Tokha> の女神 − が加えられている[Slusser, 1982, vol.1, p.311, n.12.]。
4
ベンガルのシャムスッディン・イリヤス<Shamsuddin Ilyas>が渓谷に侵入し、三都を略奪したの
は、ほんのわずか後のことで、紀元後一三四九年のことである。「ある災禍が、信仰上においても、図像に関し
ても、変容を引き起こしたのであるが、こうしたことは、グプタ朝 <Gupta empire>に対してハン族 <Hun>が仕掛けた攻
撃から生じた結末と類似している [Singh, 1968, pp.204-5.]」。
5
このヴァージョンは、高位カーストとしてのバンディヤ <Bandya>に言及したもののなかでも、特に異質なもの
である。他の刊行されている資料においても、わたし自身が収集した多くのヴァージョンにおいても、女神がバ
ンディヤを選択するのは、彼らの卑しい職業がその理由となっている。
6
フューラー・ハイメンドルフは、生けるクマリが、神聖なる証人として、そうした会合に出席していくてはなら
ない [Furer Haimendorf, 1956, p.25.] と報告している。しかし、わたしのインフォーマントたちは、そうしたことを否定
していた。グバージュたちがこの部屋を使用するのは、単にそこが広いからであり、ラージ・グバージュにして
みれば使い勝手がよいからに過ぎないのだ。また、様々な会合が、スワヤムブ <Swayambhu> にあるサンティプー
ル <Santipur>でも開催されている。
7
以下のリストは、あるヴァジュラーチャーリヤのインフォーマントが教えてくれたものである。
一、均整のとれた脚。
二、足の裏に螺旋形の紋様のあること。
三、整った爪。
四、長くて、形状のよい足指。
五、あひるのような手足(網目紋様のあること)。
六、柔らかく、しなやかな手足。
七、肩幅が広く、腰がくびれた身体。
八、鹿のような股。
九、小さく、上品に隠れた性器。
一○、獅子のような胸。
一一、上品にはった肩。
一二、長い腕。
一三、純潔なる身体。
一四、巻き貝のような首。
一五、獅子のような頬。
一六、四○本の歯。
一七、白く、尖った歯。
一八、歯間がないこと。
一九、小さくて、繊細な舌。
二○、湿った舌。
- 91 -
二一、あひるのように、澄んで、やわらかな声。
二二、青色か黒色の瞳。
二三、牛のような睫毛。
二四、白い光沢の映える、美しい容貌。
二五、黄金色に映える顔艶。
二六、毛穴は小さく、開き過ぎていないこと。
二七、剛く、右にカールした巻き毛。
二八、黒い髪。
二九、広く、上品に整った額。
三○、頭頂で円錐形となる丸い頭。
三一、菩提樹のような形状の身体。
三二、健康な身体。
8
この馬は、タレジュの所有物だと言う者もいれば、クマリのものだとする者もいるが、とにかく今もって、ハ
ヌマン・ドカ宮殿内で飼われている。馬の飼育費は、政府の基金から調達されていて、宮殿内の中庭で、自由
に放し飼いにされている。また、この馬は、例年のゴーダ・ジャートラー <Ghodajatra>の際に、クマリに随伴すべく
連れ出されて、クマリの見物台の傍に控えている。
9
カトマンドゥにおいてと同様、パタンのタレジュ寺院を管理している祭司たちがアーチャージュー・カース
トに属するカルマーチャーリヤー部門 <Karmacarya section>の成員であるのは、伝統的なことであった。しかし、彼
らはこの地位(役職)を失ってしまった。ムール・チーョクにある像が盗まれるという重大な事態が生じたことが
あったが、その際に当番であったカルマーチャーリヤーも共犯者であることが分かったからである。現在では、
ムルプジャーリはデオ−ブラフマン・カーストの成員によって構成されている。
10 赤きマチェンドラナートの信仰に関する、優れた詳細な説明については、ロック [Locke, 1973.]を参照のこと。
11 他の重要なアガム神を、その女性パートナーと併せて、以下に列挙しておく。
アガム神
女性パートナー
ヘヴァジュラ
ナイラートマー
< Hevajra >
< Nairatma >
ヨガームバラ
ギュヤナ・ダーキニー
< Yogambara >
< Gyana Dakini >
ヴァジュラダラ
ヴァジュラダリー
< Vajradhara >
< Vajradhari >
タライロキャヴィジャヤ・サムヴァラ
タライロキャ・デヴィー
< Trailokyavijara Samvara >
< Trailokya Devi >
マハーカーラ・サムヴァラ
マハーカーラ・デヴィー
< Mahakala Samvara >
< Mahakala Devi >
12 (六人の守護女神は以下の通りである。)
ウグラターラー・ヨーギニー< Ugratara yogini >
(ビジェスウォリー< Bijeswori > にある)
- 92 -
白色
カッドガ・ヨーギニー< Khadga yogini >
青色
(サンク< Sankhu >の上)
アーカシュ・ヨーギニー< Akas yogini >
黒色
(ビジェスウォリーにある)
ヴィディヤダリー・ヨーギニー< Vidyadari yogini >
赤色
(パールピン< Pharping >− ヴァジュラ・ヨーギニー
< Vajra yogini >としても知られる)
ヴァジュラ・ヴィラシニ・ヨーギニー< Vajra Vilasini yogini >
赤色
(プルチョク <Phulchoku> − ヴァジュラ・ヨーギニー
としても知られる)
ヴァジュラ・ヨーギニー
赤色
(ビジェスウォリー)
クマリは、こうしたヨーギニーの何れかと、特に赤いヴァジュラ・ヨーギニーと同一化され得る。
13 『マヌ法典 <The Lows of Manu>』 [ IX : 2-3. ] では、次のように詳しく説明されている。
「昼も夜も、女たちは、自分の家族の男たちに従っていなければならない。女たちが自らの肉欲の享楽に荷
ようなことがあれば、制せられねばならない。女というものは、幼少期は父親によって、若年の頃な
老いては息子によって保護される。まこと女というものは、自立にはほとほと向いて
担する
ら夫によって、そして
いないものなのだ」 [Buhler,
1969,
pp.327-8.] 。
14
イヒについての描写で刊行されたものは、ほとんどない。他に唯一刊行されている描写といえば、ネパー
リ [Nepali, 1965, pp.106-11.]の著作中に見ることができる。それと比較してみると、ほぼ類似しているのだが、詳細な
点では、多少とも相違がある。こうした差異は、わたしのインフォーマントが仏教徒であったのに対して、ネ
パーリの場合には、ほぼ疑いなくヒンドゥー教徒であったということに起因するものであろう。
15
少年のイニシエーションの初日に行なわれる儀礼も、ドゥサラ・キリヤー <dusala kriya>− 準備の儀礼 −
として言及される [Locke, 1975, p.4.] 。
16
年長の少女がグバージュかシャーキヤの娘である場合、(儀礼が執り行われる)中庭はバーハーかバヒの
何れかに位置することになる。さらにもっと低位の序列の仏教徒カーストの場合なら、チャイトヤ <caitya>さえ含
まれているなら、どんな中庭でも構わない。一方、ヒンドゥー・カーストの場合は、こうした儀礼は、規模が小さ
く、家庭の中庭かガネーシュ寺院の前かの何れかで遂行されるのだ。
17
二日の間、三人のグバージュは、献火の前で、足を組んで座っている。その位置どりは、中央にチャクラ
スウォール・グル <cakraswor guru>、その左にタカーリ・ジャジャマーン <thakalijajaman> 、右にはウパディヤーヤ・ベ
タージュ・プロヒット<upadhyaya betaju purohit>といった具合だ。チャクラスウォール・グルは、当バーハーに属する
最年長の熟練グバージュである。このバーハーでは、伝統的に、主催バーハーの成員のために祭祀を司る僧
侶を用意することになっているからである。ロックが述べているように、サンガ <sangha>(バーハーに属するイニシ
エーション済の男性成員たち)と世襲的な関係にある僧侶たちは、別のバーハーに属しているとはいえ、あら
ゆるサンガの集団儀礼においてプロヒットとして働くことになっているのである [ Locke, 1975, p.4.] 。チャクラス
ウォール・グルの右側にいるタカーリは、ジャジャマーンや依頼者(クライアント)の役割を果たす。これを担う
のは、主催バーハーの成員の中でも最年長の男性である。ウパディヤーヤ・ベタージュを担当するのは、主宰
僧侶のバーハーに属する二番目に年長の熟練したグバージュである。彼は、補佐役(アシスタント)として、自
らの目前に置かれている聖典から、適切なマントラを朗唱するという重要な任務を果たすのである。また、これ
- 93 -
ら三人の男たちは、三つの至宝、つまりブッダ、ダルマ、及びサンガを表象しているとされている。
18
献火儀礼ヤジュナ <yajna> は、古典的なヒンドゥー的儀礼であり、その起源はヴェーダ期に遡れる。この儀
礼は、ネパールにおいても、伝統的なヒンドゥー教の結婚儀式を構成する必須の部分となっている。しかし、
厳格なネワール族仏教徒の中には、この儀礼の遂行を拒絶する者もいる。この儀礼を仏教徒の間に導入した
のがイコン破壊主義的なヒンドゥー教改革論者シャンカラーチャーリヤ < Sankaracarya>によってであったために、
仏教的な儀礼が歪められてしまったからである。こうした純粋主義者たちは、その代わりに、カラシュ・プー
ジャー <kalas puja>のみを遂行しているのだ [Locke, 1975, p.20.]。(ロックは、カラシュ・プージャーについて、多少詳
細に論じている。)
19
これらの儀礼は、少女付きの祭司とその妻によって指揮される。祭司がスートラ <sutra> を唱えている間、妻
の方は少女を浄化する。妻は、花弁や米を少女の頭上に振り撒き、金属製の雷電(ヴァジュラ < vajra>)や金属
製の鍵で少女に触れ、浄化を行なうのだ。主宰少女の父親が属する集団の中で最年長の成員の妻が、この
鍵を少女の右手に置く。この妻は、主宰少女の右手に握られている鍵の一端を持ったままで、(次には)手を
つなぎあっている少女たちの列をバヒの中庭へと、されには少女たちに割り当てられている場所へと導く。こう
した歓迎儀礼は、ラワ・クサ <lasa kusa-ネワーリ>として知られており、多くのネワール族のコミュニティーに共通するも
のである [Locke, 1975, p.7.]。
20 プージャーの諸品目は、一纏めにしてプージャー・ジャワーラー <puja jwala-ネワーリ>として知られていて、プー
ジャーバ <pujabha-ネワーリ>と称される大きな眞鍮製の皿にのせて運ばれる。正規の崇拝対象物の中には、粘土製
のカップがあって、それは米穀で満杯にされているが、上には檳榔樹の実とコインが一つづつ置かれている。
このカップは、キサリ < kiali-ネワーリ>(文字通り、キ <ki>とは米であり、サリ <sali>とは小さな粘土製のカップを意味して
いる)として知られているもので、少女が頭で触れた後、チャクラスウォール・グルに与えられる。ここには多く
の象徴作用が働いていて、粘土製のカップは大地を、米穀は作物を、檳榔樹の実は空間を、そしてコインは
住民を象徴している− つまり、これらは全体として、人間世界(人間界)を表象しているわけだ。キサリをグル
に与えるという行為は、イヒ・イニシエーションを行なうにあたって、少女たちが自らの担う役割に深く関わって
いることを示しているのである。
21
牛乳、凝乳、液状バター、尿、糞がこれにあたる。また、豊かなる川から汲んできた清浄なる水(カトマン
ドゥの場合なら、ヴィスヌマティー川がこれに相当する)が、パンチャガビヤ < pancagbya> に混ぜられ、金属製の
雷電(ヴァジュラ)で一○八回掻き回される。
22
チャイトヤ< caitya
>とは、仏教徒の葬式のモニュメントあるいは聖遺物箱のことで、宇宙を表象してい
る − おそらく、このチャイトヤこそは、ネパールにおいて、もっとも頻繁に目につく宗教的構造物であろう。と
はいっても、その規模は、ちっぽけな米の盛から巨大な半球のモニュメントに至るまで様々なものがある。
23
ロックは、少年たちのイニシエーション儀礼(バレ・チュイエグ <bare chuyegu-ネワーリ>とアーチャー・リュイエグ
<aca luyegu-ネワーリ>)を論じる際、類似したことを観察して、こう述べている。「こうした諸儀礼の簡潔な概観ですら、
それらが真に仏教的な性質を有していることを示しているのだ」 [Locke, 1975, p.18.]。
24
イヒのヒンドゥー的なヴァージョンでは、少女たちは、測定の直後で、首に花輪をかける。そしてそれをつ
けたまま、初日の残りの時間を過ごすのだ。
25 花婿が、少女の髪の分け目に朱を塗りつける。しかし、こうしたことは、成人の結婚儀礼の重要な部分でも
あるのだ [Nepali, 1965, p.227.]。
26
パンディによれば、この儀礼のサンスクリット名は、プラタマヴィヴァーハ<prathamavivaha>(最初の結婚)と
シュリーパラヴィヴァーハ <sriphalavivaha>(祝福された果実結婚)である [Pandy,1972, p.134.] 。祝福された果実は、ビ
ルヴァ <bilva> つまりビヤー <bya> だと理解されるのが普通である。
- 94 -
27
スワミナタンとアリヤルが述べているように、少女たちは「ベル果実によって表象されている太陽神に嫁ぐ
のだから、その後、彼女たちが、未亡人や離婚という事態をむかえた時には、自由に再婚できるのだ」
[Swaminathan and Aryal, 1972, p.3.]
。わたしは、この方程式を裏打ちできる証拠を何ら見出せなかった。それもそ
のはず、この二人の著者は、イヒ儀礼と、その後に行なわれる疑似初潮の隠遁を混同してしまっているようだ。
少女たちがスーリヤを崇拝するのは、こうした隠遁の終わりにおいてなのである。
28
オフラヘルティ [O'Flaherty, 1973.] を参照のこと。また、リーチも、シヴァのもう一人の息子ガネーシュの態度
の中に見られる類似した曖昧さを論じている [Leach, 1962.]。
29 ターナーは、自らが編纂した『ネパーリ語辞典』の中で、サンカルパ <sankalpa>の項目のもとに、こう記してい
る。「ネワール族の結婚式で、少女がベル果実に嫁がされるのは、少女が決して未亡人にならないようにする
ためである[Turner, 1965, p.579.]」。
30
初潮がバーラー・タイエグ<barha tayegu>に先立って始まってしまった場合、その時には少女は、一人で
か、できるなら何人かの仲間と一緒に、直に隠遁させられる。このような単独の場合(バーラー・キュワンエグ
<barha cwanegu-ネワーリ>と称される)での行事の次第は、集団儀礼の場合と同じである。
31
リーベルトは、スーリヤ・ナーラーヤナ <Surya Narayana>を「スーリヤ<Surya> とシヴァのシンクレティステック(折
衷的)な表象 [ Liebert, 1976, p.288.] 」として描写している。こうした描写のお蔭で、少女とシヴァの妻パルヴァ
ティーとの、別様の驚くべき同一化についての説明が容易になろう。
32 カトマンドゥ渓谷におけるブラフマンとシェトリの初潮儀礼に関する情報については、ベネット [Bennett, 1976a,
pp.9-12, and 1976b, pp.191-3.]
33
を参照のこと。
何人かの高位序列のヒンドゥー・カーストからの情報によれば、月経中の女性は、台所に入るのを固
く禁じられている。しかしながら、ここでの場合でも、多くの他の事態でのように、そうしたカーストに属する成員
は、ネワール族の習慣よりも、むしろパルバティヤの習慣に従っている。このことについては、わたしは何の疑
念も持っていない。
34
ターリ儀礼(ターリケットゥカリヤナム <talikettukalyanam>)は、思春期以前に執り行われねばならない。さらに、
イヒ儀礼と同様、集団儀礼であるのが普通である。四日間の儀礼の中で中心的な行為は、儀礼上の花婿が少
女の首に黄金の装飾品(ターリ < tali>)をつけることであって、これは南インドの多くの地方で見られる結婚儀礼
にも共通していることである。この儀礼上の花婿を務める男性は、その後(少女との間に)如何なる権利も義務
も持たない。数年後、その少女は、初潮の隠遁を済ませてから、サムバンダム <sambandham>として知られる婚姻
関係に入る。この儀礼を詳細に描写し、優れた解釈を行なっている文献は、フューラーの著作である。詳しく
は、 [Fuller,1976.]を参照のこと。
35
現代のネワール族社会も、多くの種族民的特徴を有するものとして描写することができる。その中で、特
に注目に値するものを、以下に列挙しておこう。
1.ジャート <jat>。これは、リネージ原理に準じて構造化(組織化)されている。特に財産と
ダーシップに関してはそうだ。大抵のジャートは、土地と建物を共通の財産として持つ、
同体的な集団なのである。ジャートの成員は、強い結束感を共有しており、(集
リー
きわめて共
団内での地位が)最
高レヴェル(に属する者たち)でさえ、共同作業に参加するのだ。
2.ジャートのリーダーシップは、かなり発展していて、多数の種族民的共同体において見ら
れるものと類似している。
3.種族民的な類型に属する食習慣。特に肉とアルコールの飲食がこれにあたる。
- 95 -
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(本翻訳原稿は、日本語版出版のため 1992 年頃に磯忠幸が試訳した第一翻訳稿です。)
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