スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体 ――短編

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菅原祥:スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体―短編『テルミヌス』を中心に―
原著論文
開智国際大学紀要 第 15 号(2016)
スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体
――短編『テルミヌス』を中心に――
菅原
祥
1
20 世紀後半のポーランドを代表する作家スタニスワフ・レムは、自身の作品の中で一貫して人
間の認知の問題、とりわけ理解不能な「他者」を前にしたコンタクトの可能性について考察して
きた作家である。こうしたレムの問題関心は、現代の多くの社会学的問題、例えば認知症患者の
ケアの現場などにおける介護者‐被介護者の相互理解の問題などを考える際に多くの示唆を与え
てくれるものである。
本稿はこうした観点から、スタニスワフ・レムの短編『テルミヌス』を取り上げ、理解不可能
な存在を「受容する」ということの可能性について考える。
『テルミヌス』において特徴的なのは、
そこに登場するロボットがまるで老衰した、認知症を患った老人であるかのように描かれている
ということであり、主人公であるピルクスは、そうしたロボットの「ままならない」身体に対し
て何らかの応答を余儀なくされる。本稿は、こうしたレム作品における不自由な他者の身体を前
にした人間の責任‐応答可能性について考えることで、介護に内在する希望と困難を指摘する。
………………………………………………………
キーワード
……………………………………………………
スタニスワフ・レム 『テルミヌス』 SF 認知症
ロボット
1.はじめに:『宇宙飛行士ピルクス物語』
における「故障した機械」
は徐々に人間の認識のあり方そのものを問うよ
20 世紀のポーランドを代表する作家の 1 人であ
け『ピルクス』において興味深いのは、その中の
るスタニスワフ・レムの『宇宙飛行士ピルクス物
多くの作品が、「機械」と「人間」の関係性を主
語』
(以下『ピルクス』と略記)(1)は、そのタイト
題としているということだ。
うなシリアスな考察が中心となっていく。とりわ
ルが示す通り、宇宙飛行パイロットのピルクスを
SF 作家レムの中心的な主題が、『ソラリス』
主人公とした 10 の中短編からなる連作短編集で
Solaris(1961)『天の声』Głos Pana(1968)な
ある。主人公であるピルクスは若い訓練生からス
どのいわゆる「コンタクト」をテーマとした作品
タートし、やがて周囲から尊敬を集めるベテラン
を中心として、人間の認識のあり方そのもの、と
パイロットへと成長していく。それとともに、彼
りわけ、人間とは根本的に異質な「他者」に相対
が作品内で遭遇する事件も複雑さを増していく。
した時の人間の認識力や倫理の限界を描き出す
ユーモアとウィットに満ちた宇宙冒険譚、という
ことにあった、というのは、我が国の SF 論壇に
色彩の強い最初の数篇を経た後、その後の作品で
おいてもこれまで定番のレム受容のされ方であ
2015 年 9 月 23 日受理
“Disabled Body” of the Robot: Stanisław Lem’s “Terminus”.
*1 Sho Sugawara
開智国際大学リベラルアーツ学部
ったし(2)、また大きな異論はないと思う。こうし
た理解の延長線上で言えば、『ピルクス』ではロ
ボットや AI、そして広い意味での「機械」全般
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開智国際大学紀要 第 15 号(2016)
がその「他者」に相当するものとして据えられて
本来合理的で、人間にとって「透明」な存在であ
いると考えることもできよう。ただし、人間から
るはずの機械は、逆説的にもその本来の活動から
は理解不能な「他者」という意味で言えば、ロボ
は外れた「故障」や「動作不全」の瞬間において
ットや機械という存在は少々特殊だ。というのも、
こそ、ある意味でその真の異質性、人間にとって
人間的な思考によっては完全に理解不能な『ソラ
の不透明性を露わにする。そしてわれわれ人間は、
リス』の「海」や、そもそもどんな存在が送って
それらロボットが人間的な思考からは根本的に
きているのかすらわからない『天の声』の「メッ
異質な「他者」であるということを重々認識しつ
セージ」などとは違って、ロボットや AI、機械
つも、なおそこに人間中心主義的な願望や偏見、
などは人間が自分たちの明快な意図を持って、自
そして時には「共感」や「同情」をすら抱いてし
分たちの役に立つように作った、完全に合理的・
まう生き物なのである。
論理的な存在だからである。
このように、
『ピルクス』で特に問題となってい
ところが、
『ピルクス』収録の各作品を読んでい
るのは、機械やロボットといった人間にとって
ると、それら本来的にはヒューマンフレンドリー
「近しい」ものでありながらも同時に「異質」な
で、理解可能なはずの機械やロボット達が、急に
存在をいわば鏡として、そこから「人間」という
その存在の不透明性を露わにし、それまで人間が
ものを逆照射するような試みに他ならないとい
親しんでいたのとは全く異質な相貌を見せる瞬
えるだろう。実際、文芸批評家のマウゴジャタ・
間がある。そして本作品集ではそうした瞬間は、
シュパコフスカは、『ピルクス』などのレムがロ
多くの場合機械やロボットの何らかの「不具合」
ボットを扱った一連の作品を、レムの一連の評論
や「故障」
、
「動作不全」と強く関わっているよう
における人間の「脳」をめぐる考察の延長線上に
だ。
『パトロール』“Patrol”や『条件反射』“Odruch
位置付けている。レムの一連の評論の主張によれ
warunkowy”では、探知機械のバグによってスク
ば、「機械」は「意識」を持ち得ない。しかしそ
リーン上に現れた(それ自体は本来何の意味もな
れでも、「考える機械」を一種の思考実験として
い)光点に、人間の側が勝手に何らかの意味を見
フィクションの中で持ち出すことによって、われ
出してしまうことによって引き起こされる事件
われは人間性の本質についての新たな視点を手
が描かれる。人間の能力・知力をはるかに上回る
に入れることができる (3) 。そこで問われるのは
能力を有する『審問』“Rozprawa”のアンドロイ
「人間のような思考を行う機械は製作可能か」と
ド、バーンズが最後に自ら墓穴を掘ってしまうの
いった考察ではもはやなく(レムの考察によれば
は、合理的思考を行うアンドロイドにとっては全
それは不可能である)、
「機械」が持ちうると(フ
く理解不能なピルクスの人間的な「ためらい」に
ィクション上で)想定されるような「意識」を人
バーンズがうまく対処できなかったからだった。
間の意識と対比することによって、あくまで後者
『運命の女神』“Ananke”の宇宙船自動操縦コン
の特異性を明らかにするような試みなのである
ピューターが異常動作を起こしたのは、そのコン
(4)。例えば、ポーランド文学研究者の
ピューターを「調教」したパイロットの強迫神経
ブスキの指摘によれば、ピルクスが多くの事件を
症がコンピューターによって完璧にシミュレー
解決に導くときに活躍するのは、科学者ではない
トされてしまった結果である。さらに、『事故』
「普通の人間」であるピルクスの思考が有してい
“Wypadek” や『狩り』“Polowanie”においては、
る非論理性、あるいは「本能」とでも呼ぶべきも
故障によって暴走・異常動作を起こしたロボット
のである。近代科学の合理的・分析思考によって
に対して、主人公ピルクスが一種の「共感」や「道
特徴付けられた専門家知識やそこから生み出さ
徳的な負い目」すら感じてしまう。このように、
れた合理的なコンピューターの思考とは違い、人
J.ヤジェン
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間の思考は、そうした合理的・分析的な手続きを
そ、レムがかつてその作品で問うたような人間の
飛び越え、自らのさまざまな記憶や連想・願望を
「自我」や「意識」
、
「主体性」といったものが日々
もとに一見ばらばらの事象をつなぎあわせ、直感
問題化され問い直されつつあると考えるからだ。
的な思考を行うことによって世界を認識するこ
もっとも、後に見ていくように本作『テルミヌス』
とができる。『審判』の中でピルクス自身が述べ
は、直接的・表面的には特に介護を描いたもので
ている言い回しに従うならば、人間とアンドロイ
あるとは言えない。しかし私見では、レムの作品
ドを分けるのは、人間の「不完全さ」であり「欠
が提起するさまざまな問題関心は、近年の介護、
陥」なのである。そして逆説的にも、それこそが
とりわけ「認知症介護」をめぐるアクチュアルな
人間を人間たらしめているもの、人間に科学的・
議論に対して多くの示唆を与えてくれるのであ
合理的手続きとは異なる認識力を与えているも
る。
のなのである(5)。
例えば、介護の対象として近年ますます大きな
比重を占めつつあるのは、いわゆるアルツハイマ
2.
「ロボットと介護」という問題系
ー症などの認知症を患った高齢者の介護である
が、これら認知症患者は、従来の科学的・専門的
このように、
『ピルクス』という作品集は、レム
の他の代表作とも共通する人間の認識の問題を
扱いながらも、それを人間にとって異質であると
同時に近しい存在である「ロボット」との関係性
の中で描き出すことで、「人間性」というものの
本質と限界を問い直すことを主眼とした作品集
として主に評価されてきた。『ピルクス』に関す
るこのような論点を踏まえたうえで、本稿では
『ピルクス』の中の 1 編である『テルミヌス』
“Terminus”を集中的に論じたい。上で紹介した他
の諸短編と同様、この『テルミヌス』もまた、ロ
ボットの動作不全とそれを前にした人間の認識
のあり方に関する物語である。だが、ここであえ
てこの短編に特に着目する理由はそれだけでは
ない。というのもこの作品では、上に述べたロボ
ットの「機能不全」が、まるでそれが介護を必要
とする老人の身体であるかのような、驚くほど
生々しい身体性と共に立ち現れてくるさまが読
み取れるのである。この作品に触発される形で、
本稿は特にこれまでのレム作品の読解の中では
(管見では)全く言及されることがなかった「介
護」や「ケア」といったテーマのもとでのレム作
品の読み直しを試みたい。なぜなら現代社会にお
いては、まさにこれらの身近でありかつますます
その重要さを増しているような領域においてこ
な医学知識の観点からは脳機能に障害を来した
「病人」であり、それゆえ合理的なコミュニケー
ションが不可能な「他者」に他ならなかった。し
かし井口高志によれば、近年の認知症介護の現場
においては、こうした「疾病」として認知症を捉
える「疾病モデル」から、認知症患者とのコミュ
ニケーションを重視する「関係モデル」への転換
が図られているという。疾病モデルとは逆に「関
係モデル」のもとでは認知症患者は一定の主体性
を持った存在、コミュニケーション可能な他者と
され、それゆえ認知症の症状の発現や変化もまた
周囲の環境や人間との関係・コミュニケーション
の中で起こるものであるとされる
(6)
。
しかし重要なのは、介護者の側からこのように
して前提とされた被介護者の「コミュニケーショ
ン可能性」「理解可能性」とは、あくまで一種の
擬制、フィクションに過ぎないということである。
介護者は、被介護者のさまざまな「問題行動」や
その変化から、それが何を意味するのか、そこに
被介護者のどのような思考や主体性が存在する
のかを読み解こうとするが、それはあくまで介護
者による一方的な解釈・推測にすぎない。にもか
かわらずそこで介護者が被介護者との間に「理解
可能性」を担保できるのは、そこに合理的で透明
なコミュニケーションとは別の形の、いわば非合
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理的で直感的な、あるいは日常知的なコミュニケ
が気にかかり始める。
ーションの回路が存在するからである。例えば翁
テルミヌスが最初にピルクスの前に姿を現す
和美が自らのフィールドワークにおける詳細な
時、まず印象に残るのは彼の奇妙な「人間臭さ」
観察から論じているように、そうしたコミュニケ
である。宇宙船のなかにまぎれこんだ黒猫は何故
ーションは「日常生活世界」というフィクション
かテルミヌスによく懐き、彼の肩に登って座った
を介護者と被介護者との間で絶えず構築し続け
りすらしている。そして当のテルミヌス自身はと
るような日常的な実践を通じて達成されている
いえば、そのしぐさや一挙手一投足は、まるで耄
場合もあるかもしれない(7)。このように、認知症
碌し、体の自由がきかなくなった老人であるかの
介護をめぐる議論は、専門家的・医学的知のパラ
ように描写されるのである。
ダイムにおいては「理解不能」とされるような他
者を、それでも我々がどういうわけか「理解でき
「そこにいるのは誰ですか」歪んだ、まるで
てしまう」のは何故なのか、あるいは仮に理解で
鉄のパイプから出しているかのような声が言
きなくても相手の存在を受容するという経験は
った。
「こちらはテルミヌスです。そちらは誰
どのようにして可能なのか、という、まさにレム
ですか」
がその作品において問うてきたような問題系と
「そこで何をしてるんだ」ピルクスは尋ねた。
接続してくるのである。
「こちらテル‐ミヌス―私は―寒‐い―よく
このような観点から、本稿では『テルミヌス』
を、ロボットの「故障した身体」をめぐる介護の
―見えない」しゃがれ声がつっかえつっかえ
言った。
可能性を描いたものとして読みなおすことを試
「原子炉を見張っているのか?」ピルクスは
みる。そこにおいてはロボットの「不自由な」身
尋ねた。彼は、船全体と同様につぎはぎだら
体が、人間であるピルクスに対して無視すること
けのこのオートマトンから何かを聞き出せる
ができないような圧倒的な存在感と強制力を持
とはもう期待していなかったが、それでもど
ったものとして立ち現れる。本来、無機的で感情
ういうわけか猫の緑色の双眸を前にすると、
中立的な「合理的身体」として動作することが期
言葉を半分しか言わずに立ち去ることはでき
待されているロボットが、なぜ故障の際にこれほ
なかった。
どまでの生々しい身体性を持って人間の眼前に
「テルミヌス―原子炉を」コンクリートに囲
迫ってくるのだろうか。そして、人間はそうした
まれた奥からくぐもった声が聞こえた。
「私―
、
原子炉を。原子炉を」とロボットはまるでう
、、、
すのろのような満足げな声で繰り返した。
ロボットの「ままならない」身体からどのような
メッセージを受け取ることになるのだろうか。
(……)
3.
テルミヌスの「ままならぬ身体」の
メッセージ性
『テルミヌス』は、主人公ピルクスが骨董品寸
前のオンボロ宇宙船「青い星」の船長として初出
港するところから始まる。この船の中でピルクス
は、船の付属品であるオンボロのロボット、テル
ミヌスと出会う。テルミヌスのボロさ加減に辟易
としつつも、ピルクスは徐々にテルミヌスのこと
「テルミヌス!」ピルクスは、まるでちょう
ど耳の遠い人に話しかけているかのように叫
んだ。
「持ち場に戻るんだ!」
「わかりました。テル‐ミヌス」(8)
ここでピルクスは、テルミヌスに話しかけるの
が無駄なことだと知りつつも、何故か彼に、しか
もまるで「耳の遠い人に話しかけるかのように」
話しかけるのをやめることができない。ロボット
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の、半ば故障した「不自由な」身体、
「うすのろ」
のような声は、まさにそれが不自由な身体である
まるで見えない敵と戦っているかのように、
が故に、ピルクスに対して無視することが不可能
彼の手の打撃は素早かった。(10)
なある種のメッセージ性を持って立ち現れる。
さて、その後ピルクスが知ったところによると、
しかしこうしたテルミヌスの手さばきの巧み
実はこの宇宙船は元々「コリオラン」号という名
さの中には、それを見る者の中にある種の不吉な
前で、19 年前に有名な隕石衝突事故によって大
予感を掻き立てるようなものが潜んでいる。ちょ
破し、16 年もの間行方不明になっていたという
うど、認知症に侵された老人が、ある特定の作業
いわくつきの船だった。そしてテルミヌスは、19
や特定の他者との会話においては驚くほどの正
年前の事故の唯一の「生還者」であったのである。
常さや巧みさを発揮するのを見て、はっとさせら
ある時ピルクスは、テルミヌスが奇妙な動作をし
れるときのように。そしてその「不吉さ」は、テ
ているのを目撃する。テルミヌスは、放射能漏れ
ルミヌスの腕が作業と同時に無意識のうちに打
を防ぐためにセメントを壁に叩きつける動作を
ち続ける、断末魔の悲鳴のようなモールス信号の
しながら、同時にその打撃音によって、彼自身も
形を取ってピルクスの耳に響くのである。さらに
無意識のうちにモールス信号を発していたので
付け加えるならば、テルミヌスが自らの「問題行
ある。それは、19 年前の「コリオラン」号を襲
動」を全く自覚しておらず、場合によってはそれ
った事故の際に生存者達が交わしていたモール
を自ら否認する(
「放射能漏れを塞いでいるだけ」
)
ス信号を再現したものだった。生存者達が死ぬ間
という点も、やはり認知症の初期症状を強く連想
際まで送り続けていたモールス信号が、どういう
させるものである。テルミヌスの身体はピルクス
わけかそっくりそのままテルミヌスの頭脳の中
にとって、まるで介護を必要とする老いた「まま
に記録されてしまったとしか考えられない現象
ならぬ」身体として立ち現われているかのようだ。
が起こっていたのである。ピルクスは慄然とする。
ここまでの記述を踏まえてここでいくつか確
認しておきたいことがある。まず、合理的な「労
「おまえは…何をしていたんだ?」ピルクス
働する機械」としてのテルミヌスの身体は、あく
は言った。
までただの「機械」なのであり、そのぎこちない
「放射能漏れを塞いでいます。毎時 0.4 レン
動作が「老いた人間の身体」のようなものとして
トゲンの漏れです。作業を続けてもいいです
立ち現われるのは、あくまでピルクスという「人
か?」
間」側の主観によるものにすぎないということ。
「モールス信号を送っていたじゃないか?何
また同様に、「合理的な」行動をプログラミング
を送っていた?」
されたロボットとしてのテルミヌスの「作業」の
「モールス信号」全く同じ声のトーンでロボ
意味は、あくまで「放射能漏れを塞ぐ」というこ
ットは繰り返すと、言葉を返した。
「わかりま
となのであり、その際に付随する打撃音のリズム
せん。作業を続けてもいいですか?」(9)
は、その「作業」に付随する単なる偶発的で無意
味な「ノイズ」に過ぎないということである。実
このシーンで興味深いのは、この「放射能漏れ
際、先にも述べたとおり、テルミヌス自身は自分
を塞ぐ」作業をするテルミヌスの動作が、さきほ
の手の打撃がかつての死者たちのモールス信号
どの登場シーンにおけるぎこちない動作とは打
を再生しているとは、全く自覚していない。だか
って変わって、非常に素早く、リズミカルに、そ
ら、その「ノイズ」が何らかの「メッセージ」に
して巧みに行われているということである。
聞こえてしまうのは、いかにそれが正確なモール
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ス信号を打っていようとも、やはり単なる人間側
このように、本稿では『テルミヌス』に登場す
の主観に過ぎない。言い換えると、人間とは機械
るロボットの身体を、老いて認知症を抱えた、
「ま
の何らかの動作不良、バグ、故障、そしてノイズ
まならない」身体と共通の経験の基盤を持つもの
にすら、何らかのメッセージ性を見出し、それに
として捉え返す視点を得たわけだが、ではこのよ
反応・応答せざるをえない生き物なのである。そ
うな「ままならない身体」としてのロボットの表
してこの、ロボットという「機械」が体現する「ま
象は、SF というジャンルにおけるロボットの取
まならぬ身体」のメッセージは、まさにそれが一
り扱いにおいてそもそもどのような意義を持つ
切の感情や意志を剥ぎ取られた「機械」が発する
のであろうか。ここで一旦レムから離れて、そも
ものであるからこそ、より一層切実なものである。
そも SF の歴史においてロボットという主題がど
なぜなら、そうした機械がたとえどのような挙動
のようにして生まれ、そして扱われてきたのかを
や発言をしようとも、それに対してわれわれは、
ごく簡単に概観しておこう。よく知られている通
その奥底に潜むと想定される何らかの「人格」や
り、
「ロボット」という言葉は、チェコのカレル・
「尊厳」などを一切考慮するする必要などないは
チャペックの 1920 年の戯曲『R.U.R.』において
ずなのだから。それにもかかわらず、テルミヌス
この言葉が初めて使われたことに由来する。そし
を前にしたピルクスはその身体そのものが発す
てまたこれもよく知られていることだが、このロ
る強烈なメッセージ性に打ちのめされ、まごつき、
ボットという言葉をチャペックの兄ヨゼフが考
それに何らかの形で応答せざるを得ない。ここに
えだしたのは、チェコ語において「労働」を意味
は、人間が他者の病を抱えた身体、老いた、「ま
する robota という語からの連想によるものだっ
まならない」身体に直面するという経験をする際
た。チャペックのロボットは、文字通り、人間に
の、ある原初的・普遍的な経験の可能性が存在し
本来備わっている人格や感情といった非合理
ているのではないだろうか。
性・非能率性を剥ぎ取られた、純粋な「労働する
第二に確認しておきたいのは、ここでのテルミ
身体」として考えだされたのである(12) 。
ヌスが、いわば自分自身から疎外された状態にあ
『R.U.R.』においては、やがてロボットに感情
るということである。テルミヌスは、自らがかつ
が芽生えることでロボットの反乱が起き、人間は
ての「コリオラン」号の生存者のモールス信号を
ロボットによって滅ぼされてしまうことになる。
無意識のうちに模倣しているとは、自分では決し
そして最後には、「愛」という感情を覚えたロボ
て認識できない状態にある。それはつまり、テル
ットが新しい世代の「人間」そのものとなる、と
ミヌスが自らのうちにある種の意味付け不可能、
いう結末を迎える。このような「ロボット」のス
理解不可能な「記憶」を内包しているということ
トーリーを着想したチャペックの想像力が、急速
であり、さらに言えば自らの内部に制御不可能な
に発展する資本主義とそこにおける労働者の過
根源的「他者性」を抱え込み、それになすすべも
酷な生活実態、そして、ロシア革命によるソ連の
なく晒されているということである。社会学者の
成立という形で結実した資本家階級に対する労
天田城介によれば、まさにこうした経験こそは
働者階級の反乱、といった、当時の世界を動かし
「老い衰えゆく」という経験が内包する根源的な
ていた社会情勢に深く影響されていたというこ
困難に他ならないのである(11)。
とは、改めて指摘するまでもないだろう。ただし
ここで強調しておきたいのは、チャペックの着想
4. 労働する機械:SF におけるロボットと
に影響を与えた、当時隆盛を極めていたフォード
労働者の「身体=機械」
主義・テイラー主義型の資本主義とそこにおける
労働管理のあり方自体がそもそも、なにもフィク
菅原祥:スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体―短編『テルミヌス』を中心に―
11
ションを持ち出すまでもなく、労働者の身体を
体を一種の「機械」へと作り変えていくことが理
「役に立つ」身体、
「合理的」で「効率的」な「機
想とされることになった。他ならぬレーニンその
械」そのもののような身体へと作り変えていくプ
人が、フォード主義・テイラーシステムの熱烈な
ロジェクトそのものであったということである。
信奉者だったのである。彼は、フォード主義・テ
実際、フレデリック・テイラーの「科学的管理法」
イラー主義の中から資本主義の「搾取的な」要素
においては、労働者の労働はその一挙手一投足に
を取り除き、「科学的達成」のみを取り出すこと
至るまで正確に時計で測られ、労働プロセスは
によって社会主義の発展に役立たせることがで
個々の単純な動作の繰り返しへと果てしなく細
きると信じていた。それゆえ、1920 年代のソ連
分化されていくことになる。20 世紀という時代
では大量のフォードトラクターの発注、人材派遣
は、そもそも大量の人間たちが「ロボット」へと
などを含めた大規模なフォード社との協力・交流
作り替えられていく時代であったのだ。
が行われたのみならず、フォードの自伝がベスト
チャペックの『R.U.R.』は、こうした労働者=
セラーとなり、さらに民衆のレベルではフォード
ロボットの合理的な身体、従順な身体がやがて人
がレーニンなどと並ぶほどの神格化を受けるな
間に対する反乱を起こすという物語だったが、こ
ど、「フォード・カルト」とでも呼ぶべき現象が
のような労働者=ロボットの「不従順な」身体が
起こったのである(14)。
やがて反乱を起こすのではないかという恐怖は、
こうした理念の影響を受けた実践面における労
その後の英米ロボット SF の進展にも多大な影響
働者の肉体の管理という意味においては、1930
を与えたといえるだろう。例えば、かの有名なア
年代以降のソ連で活発化し、戦後ポーランドをは
イザック・アシモフの「ロボット工学三原則」
(
「ロ
じめとした東欧諸国にも波及した「労働競争」運
ボットは人間に危害を加えてなはらない」「ロボ
動が重要であろう(15)。労働への熱狂的な参加と労
ットは人間にあたえられた命令に服従しなけれ
働プロセスの合理化によって、何百%もの驚異的
ばならない」「ロボットは自己をまもらなければ
な「ノルマ超え」をなしとげたとされる当時の「労
ならない」)(13)は、まさにロボット=労働者「従
働英雄」たちは、その身体の頑健さ、そして複数
順」な身体が「不従順」になるのを予防し、それ
の機械を一度に操作するなどの徹底的な作業効
によってそれら不従順な身体の反乱の可能性を
率の向上などを通じて、
「壊れることのない機械」
徹底して封じ込めるための原則を表現したもの
「効率的な機械」としての労働者の肉体の可能性
として読むことができる。この条文に端的に表現
を最も端的に表現する存在だったといえるだろ
されているのは、労働する身体が管理者の言うこ
う。レムが SF 作家としてのキャリアを本格的に
とに従順に従い、管理者に反乱を起こさず、そし
スタートさせたのは、ちょうどポーランド全土を
て、自殺や自己破壊などの非合理的な「サボター
「社会主義建設」のプロパガンダが駆け巡り、こ
ジュ」によって経済に損害を与えることもない、
れら偉大な「労働英雄」たちの活躍が新聞やニュ
一種の産業的ユートピアの姿そのものなのであ
ース映画、文学などで盛んに称揚されていた、そ
る。
の頂点に当たる時期であった(16)。
このような当時のポーランドの時代背景、そし
5. 社会主義体制と「機械としての人間」
て他ならぬレム自身がかつて社会主義リアリズ
ムの詩学の影響下からその SF 作家としてのキャ
さて、話をレムへと戻そう。レムが生きた社会
主義体制下の東側ブロックにおいても西側と同
様に(というより西側を模倣して)、労働者の身
リアを出発させ、後にそれを乗り越えていったと
いう経緯を考えるならば、『テルミヌス』に描か
れたロボットの「耄碌した」身体、
「ままならぬ」
12
開智国際大学紀要 第 15 号(2016)
身体が発する非合理的な「メッセージ」を、こう
さらに続く。彼は、船内で飼育されているネズミ
したかつての社会主義リアリズムにおける「合理
に水をやろうとして、船室をうろうろ歩きまわっ
的な身体=機械」の一種のアンチテーゼとして解
ているところをピルクスに目撃される。「水はど
釈したとしても、全くの的外れというわけではな
こだ」と聞くピルクスにテルミヌスは「わ‐すれ
いだろう。そう考えると、先に紹介した、テルミ
ました」と答え、その声のあまりの「無防備さ」
ヌスが放射能漏れを塞ぐ作業をする際のセメン
にピルクスは呆然とする(18)。ピルクスはまた、テ
トを手で掬って壁に叩きつけるという動作の描
ルミヌスが実際にネズミの世話をしているとこ
写は、1950 年代初頭の「労働競争」全盛のポー
ろもこっそり覗き見する。
ランドで労働者のシンボルとされたような職業、
例えば「炭鉱夫」「機関士」そして「レンガ積み
ガラス越しに、汚れた空のケージの底が見え、
工」といった職業に特有の反復的動作と奇妙に似
さらにワイヤーネット越しの、どこか高いと
通ったものとして我々の前に立ち現れてくるし、
ころにある反射板付きライトによって照らさ
また、テルミヌスが働く宇宙船の描写(船首から
れた部屋の奥には、ロボットの水でびしょぬ
船尾の原子炉へと至る「立坑」)は、ちょうど炭
れになった背中が見えた。ロボットは空中に
鉱夫が働く鉱山の坑道のように見えてはこない
ほぼ水平に浮き、両手をのろのろと動かして
だろうか。ロボットのテルミヌスはこれら 1950
いた。彼の甲冑のそこらじゅうを白いネズミ
年代の「労働英雄」たちのいわば兄弟なのではな
が這いずりまわっいた。ネズミたちは、テル
いだろうか。そして、1950 年代の労働英雄たち
ミヌスの金属の腕当てや胸殻の上を速足で駆
の身体が、現実においては全く従順な身体でも完
けずり回り、大きな水滴が溜まっている腹部
璧な機械でもなかった
(17)
のと全く同様に、テルミ
の体節の窪みに集まっては水を舐めると、ジ
ヌスの「ままならぬ」身体もまた、合理的な「労
ャンプして空中に飛びあがった。そしてテル
働する機械」というその本来のあり方を踏み越え
ミヌスがつかまえようとすると、ネズミたち
た、不可解さと非合理性を具えた存在として我々
は彼の鉄の指の間をすばやく逃れ、その尻尾
の前に立ち現れるのである。
がまるで唐草模様のように丸を描くのだった
――その光景はあまりに珍妙で、あまりに滑
6. 他者を「受け入れる」という契機
稽だったので、ピルクスは吹き出しそうにな
った。(19)
こうして、
『テルミヌス』に登場するロボットの
身体は、近代的な管理のシステムが要請した合理
的に動作する「労働する機械」でもなく、まして
さらにピルクスは、テルミヌスが猫を探してい
るところに出くわし困惑する。
や自律性を有したコミュニケーション可能な「近
代的個人」でもなく、そうした通常の理解可能性
から外れた場所にその姿を表わすことになる。テ
ルミヌスは、より直接的で身体的な現前によって、
あるいは労働の際の動作が付随的に生み出す不
可解なノイズ=モールス信号の「メッセージ」に
よって、ピルクスに働きかけるのである。
さて、話を『テルミヌス』のその後のストーリ
ーに戻そう。テルミヌスの不審な「問題行動」は
「猫を探しています」テルミヌスは繰り返し
た。
「なんのために!?」
テルミヌスは金属でできた彫像のように固ま
って動かなくなった。
「わかりません」と彼が小さな声で答えたの
で、ピルクスは狼狽した。(20)
菅原祥:スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体―短編『テルミヌス』を中心に―
これらのシーンは、仮にこれがレムによって書
13
を一切考慮する必要がない存在であるからこそ、
かれたものでなければ、通俗的な SF などにしば
逆説的にも人間が目の前に存在する「他者」に向
しば見られる「ロボットに人間のような感情が芽
き合う際の原初的な経験の可能性を明らかにし
生えた」ことを表すシーンのように読めてしまう
てくれる存在として立ち現われてきた。 互いに
ところであるが、ここでレムが描こうとしている
その存在のあり方が全く異なる、相互理解の余地
のはよもやそのようなナイーブな物語ではある
など一切ない完全なる「他者」同士が、それでも
まい(21)。これらの場面においても依然として、テ
何らかの形で身体的・空間的な「触れ合い」を行
ルミヌスは自らのしていることすら全く理解し
いうるということは、その背後に何らかの「感情」
ていない、ただの老朽化した「機械」でしかない
や「人格」
、
「心の交流」などわざわざ想定するま
のである。ピルクスとテルミヌスの間に何の相互
でもなく、それだけで既に本質的な「わかりあい」
、
了解も存在していないのと同じように、テルミヌ
理解できない存在をそれでも何らかの形で「受け
スとネズミの間にも相互理解の余地など一切存
入れる」ということの原初的な契機をその内に孕
在していない。しかしそれでも、テルミヌスが無
んでいるのであり、だからこそ、テルミヌスとネ
重力の中でネズミと戯れるシーンは、どういうわ
ズミとの間の「触れ合い」と、それを目撃するピ
けかその奇妙な美しさで読む者の胸を打つ。そし
ルクスのシーンは、ある種の感動的とも言えるよ
て、その光景を見つめるピルクスもまた、テルミ
うな気持ちを読む者の内によび起こすのであっ
ヌスに対するそれまでの困惑をしばし忘れ、思わ
た。しかし、『テルミヌス』においてこの理解と
ず「吹き出しそうに」なるのである。このシーン
受容の物語は、最終的に失敗に終わってしまう。
におけるピルクスは、理解不能な不可解な他者の
物語の終盤、テルミヌスが繰り返す断末魔を記
ふるまいを前にして、それをどういうわけか「受
録したモールス信号を聞いているうちについに
け入れる」というある根源的な経験へと(わずか
我慢出来なくなったピルクスは、自らモールス信
ではあるが)一歩踏み出している。
号を打ってテルミヌスが再現している「会話」に
J. ヤジェンブスキは、レム作品において人間
介入してしまう。ところが、そのピルクスの送っ
が「他者」の存在を最終的に受け入れる際、しば
た信号に、なんと「死者」からの「返事」が返っ
しば「美的な経験」、すなわち主人公が理解可能
てきてしまう。ピルクスは慄然とするが、最終的
な他者を前にして何らかの形で「美」を感じると
にこれは、ちょうど人間が他人を夢に見て、その
いう経験がそうした「受け入れ」の契機となって
人物と夢の中で会話をするのと同じように、テル
いる、という重要な指摘をしている
(22)
。この指摘
ミヌスの電子頭脳の中に何らかの形で死者たち
を踏まえると、このテルミヌスとネズミの美しい
の「擬似個性」のようなものが記録されてしまっ
シーンは、ピルクスがテルミヌスの存在を「受け
たのだろうと結論づける。「死者」たちとの「会
入れる」ことに最も近づいた瞬間だったといえる
話」を続けて、彼らの死の状況に関する真実を明
のではないだろうか。もっとも次章で見るように、
らかにすべきか。ピルクスは苦悩する。
最終的にピルクスはテルミヌスの存在を受け入
れることに失敗してしまうのだが。
7. むすび:「介護」をめぐる希望と絶望
彼らになんて言えばいいのだ?君たちは既
に存在しないのだとでも?君たちは単なる擬
似個性で、電子脳の中の孤立した島、電子脳
これまで見てきたように、
『テルミヌス』におけ
が見る幻かその痙攣のようなものに過ぎない
るロボットという存在は、それが人工的に作られ
のだとでも?君たちの恐怖は単なる恐怖の模
た存在であり、それゆえその「人格」や「尊厳」
倣に過ぎず、また毎夜繰り返される君たちの
14
開智国際大学紀要 第 15 号(2016)
断末魔の苦しみは、擦り切れたレコード盤ほ
反抗し蜂起したというゴーレムの神話に思い
どの意味しか持っていないのだと?彼はまだ、
を馳せた。その神話は、全ての責任を負うべ
自分の質問によって引き起こされたあのぞっ
き人間たちが、その責任を放棄できるように
とするような打撃の激発を(……)覚えてい
考えだした嘘なのだ、と。(25)
た。
彼らは存在しなかったのか?では彼を呼ん
ここに、介護という経験をめぐる根源的な困難、
だのは、彼に助けを求めたのは誰だったの
天田城介が言うところの、介護という経験に内在
だ?そしてもし仮に、専門家たちがあの叫び
する根源的な「暴力性」が存在する。天田城介は、
は電荷の渦と、金属板の反響によって呼び起
介護という行為をめぐって二つの「暴力性」が存
こされた振動でしかないのだと言ったとして
在すると指摘する。ひとつめは、第 3 章の終わり
も、それがどうしたというのだ?(23)
で触れたような、認知症を患った高齢者が、自分
自身を根源的な他者性として経験し、またそのこ
皮肉なことに、ピルクスがテルミヌスという
とによって自ら自身について、あるいは自らの身
「理解不可能」で「不可解」な身体の奥底に、事
に起こった経験について語ることができないと
故の生存者の「擬似人格」という「コミュニケー
いう、アイデンティティをめぐる「根源的暴力性」
ション可能な」存在を見出した瞬間、彼にとって
である。そしてふたつめは、そのようにして自ら
テルミヌスの存在は耐え難いほどの苦痛と暴力
を語ることができない高齢者が介護を「受ける」
性を伴って迫ってくるものとなってしまう。その
という経験に付随する暴力性、すなわち、高齢者
結果、物語の結末でピルクスができたことは、テ
の周囲の人間が、「自らのアイデンティティを遵
ルミヌスを単なる「壊れた機械」として扱うこと、
守するために、高齢者の経験した出来事を既存の
すなわち「眉一つ動かさず」廃棄処分にしてしま
〈表象〉へと回収し尽くそうとする力を高齢者に
(24)
うことだけだったのである
。
見方を変えれば、このピルクスの苦悩もまた、
行使」してしまうことによる暴力性、すなわち、
介護者が高齢者に「暴力的」に働きかけ、高齢者
どこまで行っても結局は彼の独り相撲に過ぎな
がその「暴力」をひきうけることによって成り立
い。ピルクス自身も言っているように、
「専門家」
つ「ケア」という営みそのものが孕む暴力性であ
から見ればテルミヌスが送り続ける「メッセージ」
る(26)。この天田が述べる「暴力性」とは、上で引
は単なる故障=障害に過ぎず、それゆえ「擦り切
用したピルクスの言葉を借りて言い直すとすれ
れたレコード盤」ほどの意味しか持っていない。
ば、まさに介護の場において介護者が介護される
しかしだからこそ、そのテルミヌスが送るメッセ
身体を「自分たちの狂気の参加者に」してしまう
ージ、そこに含まれた死者たちの叫びは、ピルク
ような危険性に他ならないと言えるのではない
スを耐え難いほどの苦悩に巻き込む。それは、テ
だろうか。
ルミヌスが自らの行いを自覚してないだけに、ピ
だから、『テルミヌス』は、介護をめぐる「希
ルクスにとって余計と耐え難いものとなるので
望」の物語であると同時に介護の「失敗」に関す
ある。
る物語でもある。テルミヌスの身体が直接的・身
体的な「呼びかけ」を伴ってピルクスの前に立ち
〔ピルクスは〕機械に罪はないのだと考えた。
現れてきた時、ピルクスは相手の存在を「理解は
人間が機械にものを考える能力を与えて、そ
できないけれども受け入れられる」という境地、
れによって機械を自分たちの狂気の参加者に
先に言及した天田の言葉遣いを援用させてもら
してしまったのだ。また彼は、人間に対して
えば、他者からの「呼びかけ」によってもたらさ
菅原祥:スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体―短編『テルミヌス』を中心に―
れるアイデンティティの「脱臼」によって達成さ
れるような共同性 (27) へと限りなく近づいていっ
た。しかし、ひとたびピルクスがテルミヌスの身
体が発する「メッセージ」の中に何らかの「コミ
ュニケーション可能」な「人格」を読み取り、そ
れとの暴力的な関係性に巻き込まれてしまうや
否や、テルミヌスは彼にとって耐え難い苦悩をも
たらす存在として立ち現れることになる。ここに
は、我々が他者の介護を必要とする身体に直面し
た際のひとつの隘路がある。そして、ピルクスが
最終的にテルミヌスをあくまで「壊れた機械」と
して廃棄処分にしてしまえばよかったのとは異
なり、現実にわれわれが直面する被介護者の「故
障した身体」は、簡単に棄て置いたり見限ってし
まえるようなものではないのだ。テルミヌスとい
うロボットの身体を前にしたピルクスの姿は、介
護という経験に内在する希望と絶望を極限的な
形で描き出しているといえるのではないだろう
か。
だから、ロボットのテルミヌスは、われわれに
terminus
とって人間性と非人間性の間の「境界」を示す存
在であると同時に、介護される他者の身体に直面
terminus
した我々の倫理性の「限界」をしるしづけている
存在であるのかもしれない。レムが示したロボッ
トの「ままならぬ身体」と、それが人間に突き付
けてくる圧倒的な存在感は、今後間違いなく「介
護」という問題がさらに前景化されていくであろ
う現在の日本において、ますますリアリティを持
って読まれることになるのではないだろうか。
注・引用文献
(1)Stanisław Lem, Opowieści o pilocie Pirxie,
Wydawnictwo Literackie, 1968。以下、本作から
引用する場合は「OPP」と略記し、参照ページ番
号はポーランド語版は 1986 年の Wydawnictwo
Literackie 版に、また日本語版はハヤカワ SF 文
庫版(スタニスワフ・レム『宇宙飛行士ピルクス
物語』上下巻、深見弾訳、早川書房、2008 年)
に準拠する。ただし、本稿で引用する訳文は全て
15
筆者によるものである。
(2)日本におけるレム受容のありかたの概観としては、
例えば『SF マガジン』2006 年 8 月号(スタニス
ワフ・レム追悼特集号)収録の各論考を参照。
(3)Małgorzata Szpakowska, Dyskusje ze
Stanisławem Lemem, Warszawa: Open, 1996:
103.
(4)ibid., 93.
(5)Jerzy Jarzębski, “Pirx i sekrety
człowieczeństwa (posłowie),” Stanisław Lem,
Opowieści o pilocie Pirxie, Kraków:
Wydawnictwo Literackie, 2000: 443-448.
(6)井口高志、『認知症家族介護を生きる――新しい
認知症ケア時代の臨床社会学』、東信堂、2007 年。
(7)翁和美、
「認知症患者との『相互了解世界』の『構
築』――S 介護老人保健施設における『日常生活
世界』とパターン化実践」、
『ソシオロジ』54(3)、
37-54 頁、2010 年。
(8)OPP: 94-96; 邦訳上巻 155-157 頁。
(9)OPP: 118; 邦訳上巻 192 頁。
(10)OPP: 116; 邦訳上巻 189 頁。
(11)天田城介、『〈老い衰えゆくこと〉の社会学[増
補改訂版]』、多賀出版、2010 年。
(12)カレル・チャペック、
『ロボット(R.U.R.)』、千
野栄一訳、岩波書店、2003 年。
(13)アイザック・アシモフ『われはロボット〔決定
版〕』小尾芙佐訳、早川書房、2004 年:5 頁。余
談だが、スタニスワフ・レムはこのアシモフの「三
原則」を手厳しく批判したことでも有名である。
レムの批判の要点は、ごく簡単に言うとこの「三
原則」が論理的に矛盾を孕んでおり、従って現実
には決してあり得ないものだ、ということであっ
た。Stanisław Lem, Fantastyka i futurologia
tom 2, Kraków: Wydawnictwo Literackie, 1989.
(14)Richard Stites, Revolutionary Dreams: Uto-
pian Vision and Experimental Life in the Russian Revolution, New York: Oxford University
Press, 1988: 148.
(15)ポーランドにおける「労働競争」については以
下を参照。Hubert Wilk, Kto wyrąbie więcej ode
mnie? Współzawodnictwo pracy robotników w
Polsce w latach 1947 – 1955, Warszawa:
Instytut Historii PAN i Wydawnictwo TRIO,
2011.
(16)レムが初の単行本『金星応答なし』Astronauci
を出版したのは 1951 年のことであった。なお、
ポーランドで俗に「スターリニズム」と呼ばれる
こうした文化が支配的だったのは、長く見積もっ
ても 1949 年〜55 年ごろのごく短い期間にすぎな
い。
(17)例えば、ポーランドにおける労働競争の「父」
とも言える労働英雄、ヴィンツェンティ・プスト
ロフスキが病気により急死した(1948 年)とい
う出来事は、労働者たちの間に労働競争の参加に
よる健康への悪影響の懸念を呼び起こした。また、
労働競争によってノルマが引き上げられてしま
うということも、労働者たちの間に労働競争や労
働英雄への敵意を生む要因になった。Wilk, op.
cit.: 244, 277-279, 282-284.
(18)OPP: 127; 邦訳上巻 206 頁。
(19)OPP: 128; 邦訳上巻 207-208 頁。
16
(20)OPP: 130; 邦訳上巻 210 頁。
(21)もちろん、『事故』や『運命の女神』のように、
『ピルクス』の中にはある意味で機械が人間のよう
な「心」を持ってしまったという作品も存在してい
る。しかし、こうした物語はレムにおいては逆説的
にも「人間」と「機械」の間の異質さを際立たせる
ために用いられている。ヤジェンブスキが指摘する
ように、これらの作品において機械が人間から受け
継いだ「人間性」は、機械にとってはしばしば破滅
的な危険を招くものとして描かれている。
Jarzębski, op. cit.: 446-447.
(22)Jerzy Jarzębski, “Stanislaw Lem, Rationalist
and Visionary,” translated by Franz
Rottensteiner, Science-Fiction Studies 4 (2):
110-126, 1977. 例えば、レムの代表作である『ソ
ラリス』のラストで、主人公のケルビンがソラリス
の「海」の縁にたたずむ美しいシーンも、やはり同
様の「受け入れる」ということの根源的な契機を描
いているものとして読むことができるだろう。
Stanisław Lem, Solaris, Wydawnictwo
Ministerstwa Obrony Narodowej, 1961.(=『ソ
ラリス』、沼野充義訳、国書刊行会、2004 年。)
(23)OPP: 136; 邦訳上巻 220-221 頁。
(24)OPP: 136-137; 邦訳上巻 222-223 頁。
(25)OPP: 136-137; 邦訳上巻 222 頁。
(26)天田、前掲書:486-487 頁。
(27)同書:505 頁。
開智国際大学紀要 第 15 号(2016)
菅原祥:スタニスワフ・レムにおけるロボットの身体―短編『テルミヌス』を中心に―
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“Disabled Body” of the Robot: Stanisław Lem’s “Terminus”
Sho Sugawara*1
Synopsis
Stanisław Lem, one of the most famous Polish writers of the second half of the 20th century,
consistently dealt with the problems of human cognition in his works, questioning the possibility of contact with the incomprehensible “others.” His perspective and consideration are very
suggestive for many contemporary sociological issues, such as the relationship and mutual understanding between a caretaker and caregiver in caring for people with dementia.
From this perspective, this paper examines the representation of the body of the robot in Lem’s
short story “Terminus” and considers the possibility of “acceptance” of the incomprehensible
others. One of the most striking points of this story is that the body of Terminus—a robot—is
presented as the body of an elderly person with dementia, and that Pirx—the protagonist—is
forced to somehow respond to this robot’s “disabled” body. Considering the “responsibility” of
human beings in the face of such a disabled body, this paper presents both the hope and difficulties inherent in the caring for people with dementia.
………………………………………………………
Key words
……………………………………………………
Stanisław Lem, “Terminus”, science fiction, dementia, robot
*1 Faculty of Liberal Arts Kaichi Intarnational University
KAICHI INTERNATIONAL UNIVERSITY Bulletin No.15