第 30 号記念誌 国際理解教育、開発教育研究実践誌 国 際 教 育 ☆パイオニアたちのうちたてた道標は 21 世紀に向かっている/ ☆人々の視点で世界をとらえる/ 第 30 号 ☆「生きる力」と「グローバリズム」への学び ☆「出会い」・「体験する」・「互いの経験」を学びあうことで変わる 近好評発売中! 「総合的な学習」こう展開する シリーズ 『国際理解教育〔地球学習〕 』清水書院 編集●東京都高等学校国際教育研究協議会 2000(平成 12)年 5 月 1 日 東京都高等学校国際教育研究協議会 (T.H.A.I.E.) TOKYO HIGHSCOOL FOR INTERNATIONAL URL http://www.kokusaiken.com/tokyo 1 EDUCATION 国際教育研究協議会の事業 1.国際理解教育の研究 2.海外事情の調査、資料の収集 3.校内国際理解関係クラブ活動の育成 4.外国関係者との親睦交流 5.関係団体との提携 目 第一部 次 東京都高等学校国際教育研究協議会の歴史と展望 国際教育 30 号発刊によせて 東京都高等学校国際教育研究協議会 会 「喜捨」と「国際協力」 長 矢田部 国際協力事業団関東支部 支部長 榎本 国際教育の草創期を回顧して 正義 …………… 8 全国高等学校国際教育研究協議会 元会長 野中 国全国高等学校国際教育研究 協議会にかかわって 正照 ………… 6 進 ……………… 9 東京都高等学校国際教育研究協議会 理 事 2 山口 敏雄 …………… 12 第二部 21 世紀国際理解教育への展望 ―研究協議会の活動報告・実践的研究― 第1回教員研究協議会報告 東京都立八潮高等学校 「古着からみる世界」 教諭 第2回教員研究協議会報告 川﨑 由紀恵 18 東京都立羽田高等学校 「食を通じて学ぶ韓国の文化とそのパワー」 教諭 橘 都 21 第3回教員研究協議会報告 「海外日系人の国際貢献――移住〜NGOまで 紛争と民族 東京都立桜水商業高等学校 ユーゴと南アジアの体験から」 教諭 生徒国際交流研修会 全国高等学校国際教育研究大会 24 教諭 橘 都 28 東京都立多摩工業高等学校 (福島大会)をふりかえって 第 36 回 雅子 東京都立羽田高等学校 「留学生と一緒に『アフリカの音楽』体で感じよう」 第 36 回 関根 教諭 女屋 隆充 32 全国高等学校国際教育研究大会 〈教科における研究〉「倫理における開発教育の一例 東京都立多摩工業高等学校 −モンゴルでの体験を導入して−」 教諭 JICA国際協力事業団 女屋 隆充 34 東京都立調布北高等学校 「高校教師海外研修旅行(ザンビア)報告書」 教諭 青年海外協力隊東京OB会 小島 義晴 43 東京都立芝商業高等学校 「中学・高校生のためのパラオスタディーツアー」 教諭 アフリカ女性教員たちとの出会い 竹山 哲司 54 東京都立玉川高等学校 「JICA青年招聘事業合宿セミナーに参加して」 教諭 「アフリカ女性教員訪問」 濱砂 千夏 64 東京都立小川高等学校 教諭 「ジョルダンと日本って関係あるの?」 高島 みゆき 68 東京都八潮高等学校 教諭 「中3の修了論文の指導について」 斉藤 宏 71 雅夫 79 玉川聖学院 教諭 3 幸田 資料 第 37 回全国高等学校国際教育研究大会開催実施要項(案)抜粋 …………………… 94 1999(平成 11)年度事業報告 …………………………………………………………… 96 2000(平成 12)年度事業計画 …………………………………………………………… 97 東京都高等学校国際教育研究協議会の主な研究実績 …………………………………… 97 1999(平成 11)年度決算報告 …………………………………………………………… 98 2000(平成 12)年度予算 …………………………………………………………………… 99 2000(平成 12)年度役員 ……………………………………………………………………0100 2000(平成 12)年度事務局 …………………………………………………………………0101 「国際教育」の原稿依頼について …………………………………………………………0103 東京都高等学校国際教育研究協議会会則 …………………………………………………0104 会員名簿 ………………………………………………………………………………………0106 NGOリスト …………………………………………………………………………………0113 第一部 東京都高等学校国際教育研究協議会の歴史と展望 第二部 21 世紀国際理解教育への展望 ―研究協議会の活動報告・実践的研究― 4 国際教育 30 号発刊によせて 東京都高等学校国際教育研究協議会 会長 矢田部 正照 (東京都立農産高等学校長) 平成 11 年度「東京都高等学校国際教育研究会(略称・都高国際研)」の機関紙第 30 号が発刊となる。 千年記とも重なり記念すべき年でもある。 設立当時を知る関係者の一人として感慨深いも じ高校に勤務していた縁もあり、以後 30 年近く のがある。私に関していえば、都立農林高校から、 当会の会員として事務局を担当することとなる。 瑞穂農芸高校へと異動した時代ででもある。 会務を担当した先生方も既に、現役を退き悠々自 適の生活と聞く。時の経つのを感ずる日々でもあ 当時を振り返ると、この機関紙の第1は昭和 45 る。 年(1970 年)となる。この年に、全国組織も合わ せ設立されている。会の創設に当たっては当時の 次は、この会の設立の動機であが、当会は、先 「海外移住事業団」(現・国際協力事業団、略称・ にも触れたように、戦後、海外移住者の募集行う JICA)の強力な支援によって設立されたのは 目的で、外務省管轄下海外移住事業団が実業高校 事実である。このことは以後、十数年に渡って当 (現・専門号校)の教員を集めて説明会 会の事務局(全国)を事業団の総務部広報課の職 を開催してこいたのが発端である。移住推進を目 員によって担当されていたことでもわかる。 途に南米移住者の船便であった「アルゼンチ やがて、移住事業団が機構改革され、幾つかの 外務省管轄の組織(海外経済開発・青年海外協力 ン丸」や「ブラジル丸」に大阪や東京から各都道 隊等)と統合され国際協力事業団となる。かつて、 府県を代表する教職員を移住者と一緒に乗船す 移住を推進されていた部門も、我が国の高度経済 る便宜を図っていた。二泊から三泊の船内体験の 成長もあって、移住者も減少し、移住関係の組織 中で、事業団主導の研修会や広報活動が開催され は年々縮小されていた。 たと聞く。 ところが、東京オリンピック後、国内経済が安 こうした背景もあって、当会の事務局何時まで も事業団にお任せする事も叶わず、当時の事務局 定するなかで、進路指導としての移住が衰退し、 長校や会計担当の山口先生の勤務する学校で保 一方では、国際化が進み「高校生の国際理解に対 管していただいた。この事務局の移管に当たって する教育が問われる時代」へと進展してきた。教 は、既に故人となられた大森東高校の柵木先生が 科指導の上からも国際理解教育の重要性が問わ 大変苦労され、山口先生と私の三人で暫し相談し れるようになってきた。以後、設立までの多少の たことも記憶に新しい。 経緯はあるが、こうした時代背景のもとに文部省 からの指導を受けて会の設立となるが、一方では、 さて、設立当初の会長は「稲垣実夫」都立瑞穂 従来通り移住事業団の支援を受けての事業決定 農芸高校長で、全国会長を兼ねていた。当時、同 5 いても一層の推進を切望する。 であった。 次に、この機関紙「国際教育」について、当初 は、会の名称と同じ「海外教育」とした名称で、 全国高等学校国際教育研究大会 タブロイド版のたった2ペ−ジものを発刊して 今後の開催県の紹介 いた。この編集には当初から関わりはしたが、不 慣れなこともあって、大変苦労した。今日のよう に冊子として発刊したのは佐藤勇夫会長の頃で 今年は北海道での開催です。また、2001 年の開 あった。区切りのよい 11 号(?)から冊子とし、 催県は、以下のように決定しております。各開催 漸く研究会誌としての体裁を整えるまでになっ 地とも精一杯努力いたしますので、ぜひとも皆様 た。しかし、出版はしたが、印刷費について、当 のご参加をお待ち致しております。 時の同僚で編集に携わった丸岡先生と苦労した ことを思い出す。 第 37 回 会の名称については、設立当初「海外教育」略 2000(平成 12)年 北海 道大会 称を「高海教」として広く認識されていたが 8/8〜8 昭和 60 年(1985 年)に会の目的からして、時 /9 代を先取りする形で「国際理解」とし 60 年に規 ホテル ライフォート札幌 第 38 回 約改正を行い今日の名称とした。名称変更では、 大会 創設からの名称であり、地方での反対が強く、し ばらくは「海外教育」の名称を使用していた県も 見られた。その後は、臨教審を始めとし学習指導 要領の中にも「国際理解」とした文言が多くみら れるようになり統一名称となった。 なお、都高国際研 30 年の歴史において、画期 的なことは永井實 10 代会長の奔走により平成5 年から東京都教育研究団体に認定されて、加盟費 の公費支出が可能になったとである。(全国は文 部省管轄の教育連合会に加盟)長年の懸案であり 歴代の会長が苦慮されていた問題が解決され、当 会の活性化に拍車をかけた一件でもあり忘れら れない。 最後に、21 世紀を展望した教育が着々と進展し、 内外ともに、大きく変化する時代である。国際教 育も「理解」から「開発」へ「静」から「動」へ の時代である。こうした時代を支えるのが若い世 代の柔軟さであり、その英知を以て国際理解につ 6 2001(平成 13)年 愛媛 国 際 教 育 第 30 号 発行日 2000(平成 12)年5月1日 発行者 東京都高等学校国際教育研究協議会 会 長 矢田部 正照 (東京都立農産高等学校長) 事務局 東京都立八潮高等学校 定時制 事務局長 黒羽 博行 〒140‑0002 東京都品川区東品川3丁目 27 番 22 号 TEL 03‑3471‑7384 FAX 03‑3472‑9840 印刷所 社会福祉法人東京コロニー 〒165‑0023 東京都中野区江原町2丁目6番2号 TEL 03‑3953‑3536 FAX 03‑3951‑9163 私はすでに退職して 5 年となります。 国際教育の草創期を回顧し 資料もあまり残しておらず、記憶力も年々減退 しているので、編集担当者の期待に応えるだけの て 文章はとても書けるわけでもない。 従って、頭に浮かんできたことを徒然に綴り、 その責を果たすことができ得たらと思う次第で 全国高等学校国際教育研究会 元会長 野中 進 ある。 昭和 40 年代、この頃、私は青梅市にある都立 (元東京都立園芸高等学校長) 1970 年(昭和 45 年)に東京都の高等学校国際 農林高等学校の全日制園芸科の教員として勤務 教育研究協議会の前進である「高等学校海外教育 をしていた。ある年の初秋であったと思うが、定 研究会議会」が結成されて、既に 30 年が経過し 時制に勤務している中山仁恵教諭(後の全局事務 た。結成と同時に東京都では機関紙として「国際 局長)から突然に「10 月末に全国海外教育推進高 教育」の編集・発行が始まり、近く 30 周年の記 校教師連絡会」があるので、東京都の代表として 念号が発行されることになり、それに寄稿できる 参加してほしいこと、なお、その協議会の終わっ 機会を得たことを光栄と思い、且つ感謝したい。 た後、横浜から南米移住船に乗って神戸まで行く 7 のでその積もり準備すること」といった内容の案 直接会うことができたが、この人達が異口同音に 内を受けた。 南米大陸の印象は、一言で表現するならば「天国 と地獄が同居している大陸だ」と話していたが、 その年の 10 月末に私は横浜の移住事業団の施 テレビの描いた十年ごと三つに区切られた現実 設である海外移住センターに出掛けた。 は、この表現とまさしく一致したものであった。 その 2 泊 3 日間の内容は、海外教育についての 話を元に戻すならば、そもそも国際教育の草創、 特別講演、研究発表、討論会、懇親会とあり、最 出発点は海外移住と深い関わりを持ち、農業移住 後が移住船の体験航海であった。 当時、移住船には「ぶらじる丸」と「あるぜん 者を多く送り出している農業関係高校の教師を ちな丸」の 2 隻があり、私が乗船したのは「ある 対象として、移住事業のいわばPR事業の一環と ぜんちな丸」であった一万屯級の船内には、二百 して発足し、かなり長い期間活動が続いていたこ 名近い移住者が乗船しており、夕食には赤飯をは とは確かと言えよう。 その証拠には、最近まで全国支部の事務局校を じめステーキなども出て、日本を出発して、南米 はじめ、各都道府県の事務局校の大半を農業関係 に向かう前途を祝しての豪華なものであった。 高校が担当してきた事実をみても明瞭なことで 船上、大型船とはいえ深夜遠州灘辺りに差しか あると思う。 かると、船がかなり揺れて軽い船酔いの出てきた ことが思い出される。翌朝 8 時近く神戸港に入港 昭和 40 年代後半のいわゆる高度経済成長期に し、そこで協議会の参加者 50 名近くが下船し、 入ると、移住事業とりわけ農業移住の必要性は年 国鉄(現JR)の神戸駅で解散して各自帰途につ 毎に希簿となっていった。同時に日本が工業立国 いた次第である。 の方向に急速に進み、輸出を中心とする貿易が盛 んとなり、海外交流の機会はにち日増しに拡大し 戦後の昭和 26 年から南米への移民が再開して 以来、移住者は船舶を利用していたが、私たちが 変貌を遂げていった。 乗船した昭和 46 年の「あるぜんちな丸」が船で こうした背景の下に、当然の結果として名称と目 の最終回であり、それ以降はすべて航空機での移 的を変更せざるを得なくなり、1985 年(昭和 60 住となっていった。 年)に従来の名称から今日の「全国高等学校国際 今年 3 月、NHKテレビがスペシャル番組とし 教育研究協議会」と改正することとなった。協議 て「移住 31 年目の乗船名簿」と題して、1968 年 会の目的も国際理解と国際協調はもとより、開発 (昭和 43 年)の移民船「あるぜんちな丸」で 136 教育や国際交流と幅広い分野に及ぶに至ったこ 人が南米に渡り、その人々のその後の明暗を記録 とは、やはり時代の趨勢であり、必要、当然なる したドキュメンタリーを前・後編で 2 夜連続放映 対応であったと思う。ただ、ここで忘れてならな し、視聴者からのかなりの反響が模様である。 いことは、研究協議会の運営組織の実態と、苑 当面する課題についての認識の問題である。 私は昭和 52 年度の「海外派遣研修高校教師団」 7 名中の一員として加わり、アルゼンチンから入 東京都の研究協議会の発足の当初を振り返っ ってパラグアイ、ブラジル、そしてアメリカ西海 てみると、先に名前の出た中山仁恵先生を中心に 岸等 20 日間の研修旅行をしてきた。南米の各地 都内 6 農業高校の有志教員数名が集まり、そこに で勤務校(都立農林高校)出身の移住者十数名と 普通高校の教員特定の私立高校の教員が、加わつ 8 ても、総勢 20 名足らずの陣容が、かなり長い間、 (Newspaper In Education)「教育に新聞を」 運営を担当してきた。 が導入されつつある。これは米国のANPA(米 さらに重要なことは、東京都の場合、都の研究 国新聞協会)がモデルに日本新聞協会が 1985 年 協議会と同時に全国の協議会の運営を兼ねてき に新聞を教育に生かす運動を提唱したことによ たことにあると思う。 り始まっている。要は、新聞を学校の授業の教材 として利用するためのものである。 今でこそ、連続または隔年に地方でも全国大会 が開催される時代となつたが、かつては、地方大 都道府県に推進校が置かれ、毎年実情発表をか 会は 5 年に一度程度であり、都の組織は都の活動 ねた研究協議が開かれている。私も、東京での発 と言うよりは全国組織、全国大会開催のための機 表会に一度出席したことがあるが、「全ての教科 関であり組織であつた。 で可能な学習方法の一つである」など耳にすると、 かつての「国際教育とは何か、どう指導すべきか」 幸いなことに、歴代の全国協議会の事務局長が 人望と共に統率力も秀ており、それが都側組織の と研究協議会での議論を思い出し、丁度、新しい 役員(会長)と常に連携し、協調してきたことは 星がうまれてくるかの如くNIEも、おなじよう 高く評価されるべきことであり、全国的にみても なことをしていると一種の親しみを覚えた次第 特質的というか、ユニークな運営体であったこと である。国際教育が「教科、特別活動、国際交流」 は確かである。 と三分野に整理され、年々その内容が充実しつつ あると思うと、草創期を知るもにとつては嬉しい 国際教育の草創期を振り返るとき、組織や運営 限りである。 とはべっに、その指導理念についての様々な論議 また、かつてはごく僅かの教師が全国の代表と のなされたことも思い出される。 四国支部の代表での全国副会長をされた中島 なつて南米に派遣されていた海外研修も、最近で 圭之助(故人)が全国理事会や全国大会の席上で、 は多数の教師が東南アジアを中心に派遣されて、 よく「活動には指導理念の確立が不可欠である。 その成果が教材化され、文字通り国際教育の実践 国際教育とは何ぞや、未だ不鮮明と言わざるを得 がなされつつある。 一方、国際協力事業団の積極的な啓蒙策として、 ない。しかし、私はすでに結論を下している。国 際教育とは、生徒指導の一環であり、重要な部分 全国の高校生の「作文コンクール」が年々盛んに を占めるべきである」といった内容のことを、大 なり、上位入賞者の海外見学が実現しており、そ きな声で発言されていてことを今でも印象に残 の当人にとって将来への大きな進路選択への動 っている。 機付けとなり、自信となっていることも高く評価 今日の如く、国際教育とか国際協調、国際交流、 されるべきことであると思う。 さらには開発教育がごく一般化、日常化されるに さらに、1997 年(平成 9 年)の第 34 回全国大 至るまで、約 30 年の長い期間に多数の人々の真 会(東京大会)あたりより高度情報化の進展に伴 摯な主張や議論が繰り返され、その結果、結果と って「ネットワークを広げる国際交流」と銘打っ しての「国際教育」という動かざる「総称」が生 てパソコン利用による国際交流の時代にも突入 まれてきたわけである。 していることもたしかである。 教育における「不易と流行」がよく叫ばれてい ごく最近、全国の小、中、高校の教育現場NIE 9 るが、国際交流においても、この不易(ハード) 職して間もない年であり、この研究会が生まれた と流行(ソフト)の調和が重要視される時代をす 年とほぼ同じということになります。当時の研究 でに迎えているわけである。 会の名称は全国高等学校海外教育研究会であっ た。この東京都海外教育研究会の参加案内がきっ 最後に老婆心ながら具体的提案をしておきた かけで、研究会に参加することになった。また、 いと思う。決して目新しいことではない。 当時の本校の校長は高体連レスリング部長であ 東京都における研究議会への加盟校数は確か り、日米高校生の交換親善試合などを実践してい に少なく、組織の充実、拡大は必要である。しか たので、海外教育に興味もあった。参加者は全国 し、東京都には多種多様の類似した団体が多数あ および東京都の会長である農業高校の稲垣実夫 り、国際教育への加入、拡大の道は厳しいと思う。 校長先生をはじめとする数名の先生と私であっ そこで、まず大切なことは、現在加盟し、活動し た。また、研究会に参加したものは、全部がなん ている学校を大切にすることであり、各校は、ま らかの役員とされ、何も解らないまま、研究会の 会計のお手伝いをすることになった。 た必ず後継者の確保、育成に努力してほしいこと 全国高等学校海外教育研究会の設立の経緯は、 である。 海外教育研究活動が定着し、活発化するにつれて、 できる限り多数の教師に海外研修の機会を与 各地区から、全国指導教師連絡会議開催の要請が え、研修実践の発表の舞台を与えることが寛容と 強まり、昭和 39 年 10 月に神戸移住センターにお 思う。教師は、「義理」を意外に重んじる。一度 いて第1回の全国高等学校海外教育研究会(指導 の海外研修の体験が、優秀な指導力の養成、確保 教師連絡会議)が開催された。 以降、この研究会は昭和 44 年 8 月の第6回ま の有効策となり得るものと思う。 で神戸移住センターと、ブラジル丸やアルゼンチ 指導者の真価はやはり優れた後継者をつくる ナ丸を活用し、(財)日本海外協会連合会がスポ ことか否かで決定されると思う。各校の責任者、 ンサーとなって、海外移住の正しい理解と発展を 担当者が常に後継者の育成の確保に熱意を抱き、 促す教育の必要性から、主に農業高校に海外移住 実践、努力されることを心から念願し、期待して、 推進高校を設置し、指導教師の育成と生徒サーク この拙文を閉じたいと思う。 ル活動に対する援助などが、各都道府県単位での 研究活動が行われた。 2.全国高等学校海外教育研究会が全国組 全国高等学校国際教育研究協議 会 (全国際教)にかかわ って 織:協議会(全高海協)へ 本研究会は昭和 45 年 10 月 13 日現在 969 校加 盟を機に、全国組織結成の機運が高まった。高海 協の会則できる。初代会長 会長 理事 山口 山本 猛(東京) 設立趣意書の一部:望ましい国際社会の一員と 敏雄 (東京実業高等学校 中島圭之介(徳島)・小木曽滝男(栃木) 事務局長 東京都高等学校国際教育研究協議会 稲垣実夫(東京)副 なるために、正しい国際理解と感覚を身につけ行 教諭) 動することが大切であり、その育成は学校教育に 1.全国際教の設立経緯と出会い 期待されるところ大である。国際的視野に立ち行 私が全国際教との出会いは昭和 40 年頃である。 動できる青少年の育成は、国民的課題であり、海 私は昭和 39 年に民間企業から東京実業高校に奉 10 外教育の目指すところである。そのために、教育 しての「全高海協インフォーメイション」の創刊 に携わる教師自身が、積極的に海外教育の研究に 号が昭和 48 年 10 月に発行され、それ以後毎年、 努め、資料の収集や研修を行い、正しい国際感覚 継続され現在に至っている。 を学びとり、国際社会に対する理解と認識を深め この第1号、創刊の言葉として全国高等学校海 ることが急務である。 外教育研究協議会会長 稲垣実夫は次のように 記されています。テレビ・ラジオなど科学技術の 3.文部省中央教育研究団体の指定・日本 発達普及、航空機の発達は国境感覚、時間感覚に 教育研究連合会の入会 昭 和 48 年 10 月 18 日 大きな転機をもたらし「地球は一つ」という感を 文部省大臣あて、 強くしてき た。食料、資源、地球汚染などの問題をはじめ、 研究団体指定ならびに補助金交付の申請 昭 和 50 年 11 月 1 日 政治、経済、教育、文化などいずれも世界規模で 文部省中央教育研 影響しあう時代となってきた。いわゆる国際社会 究団体に指定 という言葉が実感のあるものとなっている。個人 昭 和 51 年 2 月 24 日 全国教育研究活動 に自由を、国に独立と主権を、これらが尊重され 振 興 会 を 経 由 、 50 万 円 の 補 助 金 交 付 、 同 時 るべきだということは、他人の自由、他国の独立 に、日本教育研究連合会の入会をはたした。 と主権を尊重するということが前提を成してい 中央教育研究団体指定に対して次の様なお るのであり、 「独善と独断」を容認しているもの 祝いが寄せられた。 ではない。自分を知るために他人を知ることが必 文部省初等中等教育局長 のお祝いの言葉 諸沢 要であるように、自国を知るためには他国を知る 正道氏 ことが必要である。国際人としての広い視野が必 このたび全高海協が文部 要であるという。 省中央教育研究団体としての指定を受けた しかし、それはどの様にして養われるものであ こ と は 喜 ば し い 。中 央 教 育 審 議 会 の「 教 育 ・ ろうか。国際理解とか国際的協調といわれている 学 術・文 化 に お け る 国 際 交 流 に つ い て 」の 答 がそれはどんな事をすることであろうか。これら 申 に あ る よ う に 、急 激 に 進 展 す る 国 際 か の 時 の問題について少しでも視野を広げたいという 代 に あ っ て 、わ が 国 が 諸 外 国 と 協 力 強 調 し つ のがお互いの願いである。このような志を持つ多 つ 、共 存 共 栄 の 実 を 上 げ る た め に は 、国 際 社 くの人々のお力添えをお願いし発刊の言葉と致 会において信頼と尊敬を受けるに足る日本 します。 人 を 育 成 す る こ と が 緊 要 で あ り ま す 。海 外 教 5.第 11 回全国高等学校海外教育大会・徳 育 は 、こ の 面 に お い て と く に 重 要 な 役 割 を 果 島大会(S49.8.20‑21) た す べ き も の と 考 え ま す 。( 昭 和 51 年 2 月 ) この大会が地方で開催された手作りの研究大 昭 和 52 年 5 月 20 日 、 50 万 円 の 補 助 金 交 付 会の最初である。昭和 49 年 8 月 20 日〜21 日に会 に 対 し て 、会 計 検 査 院 の 会 計 帳 簿 の 監 査 を 受 場は第1日:徳島市文化センター郷土文化会館、 ける。 第2日:医師会館、宿舎は金泉閣であった。 研究協議の内容の主なものは、記念講演アルゼ ンチン駐日大使と京都大学教授の高坂 4.「全高海協インフォーメイション」第 正堯氏 1号が発刊される。(S48.10.) 海外教育の実践発表、全体討議は教科指導、クラ 全国高等学校海外教育研究協議会の機関紙と ブ活動、学校行事等で海外教育をいかに実践すれ 11 ばよいか。使命感を培う海外教育について。懇親 際 教 と 東 京 都 の 会 長 は 同 一 人 で あ る が 、全 国 会の途中に徳島県一流の阿波踊り連代表による 際教と東京都の事務局長の仕事は全く異な 波踊り観賞と踊り指導をうけ楽しんだ。 るものである。 し か し 、以 前 、全 国 と 都 の 事 務 局 長 を 兼 任 6.第 18 回全国高等学校海外教育研究大会 し た 結 果 し ば し ば 混 同 す る こ と も あ っ た 。特 茨城大会・第1回英語弁論大会(S56.8.7‑8) に 、毎 年 開 催 さ れ る 総 会 で は 、午 後 か ら 東 京 都総会、関東地区総会、理事会、全国総会、 この大会から英語弁論大会が実施された記念 教育懇談会とたて続けに開催するのには目 すべき大会で、文部省からは文部事務次官諸澤正 が回る忙しさである。 道氏が出席された。英語弁論大会の趣旨は次ぎの し か し 、最 近 の 事 務 局 は 、関 東 地 区 は 神 奈 とおり、国際社会にあっては、相手の立場に立っ 川 県 に 、東 京 都 と 全 国 の 事 務 局 は き ち ん と 整 て、その国情や人間に対する理解を勧め、政治、 備 、分 担 さ れ 、若 手 人 材 の ボ ラ ン テ ィ ア に よ 文化全般に亙る交流を深めることが緊急の課題 っ て 旨 く 運 営 さ れ て い る 。ま た 、全 国 際 教 の である。本大会はこの趣旨にこたえ、未来をにな 加 盟 校 名 簿 、機 関 誌 イ ン フ ォ メ ー シ ョ ン や 都 う青少年に対し、国際理解への主張を外国語(英 国際教機関誌等の出版についても情報機器 語)をとおして発表する機会を与え、今後海外に を活用し経済的、能率的に行われている。 雄飛する青年の心構えを育てると共に海外教育 のより深い浸透を期そうとするものである。 7.全国高等学校国際教育研究協議会(略 称全国際教)へ名称変更 (S60.3.30) 各都道府県高等学校海外教育研究協議会の加 盟校は当初、農業高校が中心であったが、年を追 うごてに、農業高校以外の普通高校、商業高校、 工業高校等の加盟や全校加盟する県もあり、加盟 校は増加していった。また、全国大会や研究会で の研究内容においても、英語に限らず、むしろ、 一般教科等に関連するバラエティーに富んだ大 きな変化が見られた。 こんな変化に対して、昭和 60 年度の全国高等 学校海外教育研究協議会総会において、 全国高等学校国際教育研究協議会(略称全国際 教)と名称変更の議題が提案され可決された。 8.全国高等学校国際教育研究協議会と事 務局との関係 全国高等学校国際教育研究協議会の事務 局は設立当初から東京都内の会長または事 務 局 長 の 所 属 す る 学 校 に 置 か れ て き た 。全 国 12 ★ 研究大会の開催都府県 1974 S49 徳島 1990 H2 青森 1975 S50 東京 JOCV 1976 51 静岡 1992 4 滋賀 1978 53 東京 JOCV 1977 52 千葉 1993 H5 岐阜 1980 55 経済協力 1979 54 宮城 1995 7 佐賀 1983 58 都大森東 1981 56 茨城 1996 8 群馬 1985 60 東京府中 1982 57 栃木 1998 10 宮崎 1986 61 東京 JOCV 1984 59 愛知 1999 11 福島 1989 H1 東京 JOCV 1987 62 兵庫 2000 12 北海道 1991 3 東京 JICA 1988 63 神奈川 1994 6 東京 TIC 1990 H2 青森 1997 9 東京 OYC 1992 4 滋賀 第1回教員研究協議会報告 「古着からみる世界」 報 告 東京都立八潮高等学校 日 時 1999(平成 11 年)7月 12 日(月)15:00〜16:30 場 所 国際協力事業団 東京国際研修センター(TIC) 会次第 1.会長挨拶 全国国際教育研究協議会長 2.講師紹介 福家 洋介氏(大東文化大学 矢田部 川﨑 由紀恵 正照 国際関係学部 助教授) 3.講演テーマ 「古着から見る世界」 4.質疑応答 内 容 世界を知ろうというときに、政治学とか経済学 やはり規模が大きいために、見えてこない部分が などのような学問としての知識から学び始める あるのだ。しかし、現場主義というか、現地の生 と、なかなか現実に世界が見えてこない。車や家 活に密着したところから調査を始めていくと等 電製品などの輸出から世界を知る方法もあるが、 身大で見えてくる。そういった考えの基に、今回 13 講演をしていただいたのが、大東文化大学国際関 けて輸出されていくのである。現地に届けられた 係学部助教授の福家洋介先生である。福家先生は、 ジャージは、市場やプランテーション、建設現場、 今迄身近な事柄をテーマに、国際関係の実態調査 漁港などで、労働者達の労働着として擦り減るほ をしてきた。例えば、えびやヤシそして中古衣料 どに使い込まれているのである。 マレーシアやインドネシアなどの東南アジア だ。これらの輸出後の経緯をもとに調査を進めて 諸国でジャージに出会うと考える。私たちはジャ いくのだ。ここからは、講演の概要をのべる。 現在、約 5,000 トンの中古衣料が東南アジア方 ージを捨ててせいせいしたかもしれないが、その 面に流通している。その中で、最も目を引く存在 後のことはほとんど考えもしない。リサイクルブ が、校章と個人のネームタグがつけられたままの ームになる前から古着を回収し、再生品を作った ジャージである。 り、商品として日本各地にいるのである。この調 査が、大量生産−大量廃棄だけで、社会が成り立 小、中学校を卒業して不必要になったジャージ は、その役目を終え、簡単に捨てられてしまう。 たないということを考えるきっかけになればと その後、業者によって回収され、商品として、イ 願う。 ンドやマレーシアといった東南アジアの国に向 ― 中古衣料 経由国 ― 日本−東南アジア−シンガポール経由 東アジア−香港経由 マレーシアその他の周辺国行き 中国行き 南アジア−インド・パキスタン アフリカ…多少(数量としては少ない) ※全ての中古衣料が合法的に輸出されたものではなく、密輸も行われている。 Q1)日本からアジア諸国へ、古着がどんどん輸 な影響はない。ただし、中古衣料の輸入禁止を実 出されてくることによって、現地の繊維産業を圧 施している国もある。現在のところ、実際に大き 迫してしまうということはないのか? な影響が出ているということは、聞かない。 A.中古衣料は、一つの産業として確立しており、 Q2)中古衣料の輸入を禁止している国はどこで 現地では定着しているものです。中古衣料とは別 すか。理由は何ですか? なものとして繊維産業が存在しているため、大き 14 A.中古衣料の輸入を禁止している国は、中国と インドネシアである。中国や東南アジアの人件費 は他国に比べ、非常に安価であるため、それを武 器として安い新品の衣料を海外へ輸出し、大きな 需要を得ている。これは、中古衣料産業からの被 害がでないよう、繊維産業の保護対策をとってい るのである。 Q3)日本の小学校や中学校で、卒業時にジャー ジを集め、まとめて東南アジアやその他中古衣料 の需要の高い国に寄付するという形で、生徒の国 際社会への関心を高めようとする事は、現地の古 着市場に悪影響を及ぼすでしょうか? A.実際、日本がそういった国際貢献といった立 場からそのような活動をすることは、必ずしもよ い事だとは言えないと思います。それは、知らず 知らずのうちにリサイクルの責任を海外に押し つけているということになります。それよりは、 古着を国内で循環させていけるような社会のシ ステムに変えていく事が先決であると考えてい る。 15 感想 ① <英語・教諭> 以前から古着の扱いについては気になっていて、海外に送られている事は聞いていたものの、その行 方を知りたいと思っていました。時間が短かったせいか、この古着の流れと特にそのもたらす問題点が 充分明確ではなく、その点が残念でした。 感想 ② <日本史・教諭> 役に立った。 感想 ③ <英語・教諭> もっと、現地に調査にいったときの具体的な話や、どこで何がいくらで売られていたか等が、聞きた かった。 前々から興味があったテーマでしたが、もっともっとアジアと日本経済・政治のつながりを把握すれ ば、理解が深まると思いました。 16 第2回教員研究協議会報告 「食を通じて学ぶ韓国の文化とそのパワー」 報 告 日 時 1999(平成 11)年 12 月 13 日(月)14:00〜17:00 場 所 東京都立国際高等学校 会次第 東京都立八羽田高等学校 橘 都 調理室 1.会長挨拶 東京都立農産高等学校長 矢田部 2.会場校挨拶 東京都立国際高等学校長 高橋 3.講師紹介 東京都立国際高等学校講師 許 正照 哲男 潤子(ホ・ヨンジャ) 4.本日の調理実習についての説明 5.実習開始 矢田部会長のあいさつ 本日はお忙しい中、本会合においでいただき、ありがとうございました。45 年から発足しているこの 会は国際協力・理解教育に関する古くからある会でありますが、現在は新しく趣向を凝らし楽しく実践 をとおしながら研修することをモットーとした会です。年間3回の研修会では各国料理研修と各界から の講師を招いての講演会をおこなっています。 国際高校長のごあいさつ 前年に引き続き研修会場校として国際理解協議会の本会場においでいただきありがとうございまし た。本日は韓国の食文化の紹介担当講師として本校でふだんはハングル語の講師としてお勤めのホ・ヨ ンジャ先生にお願いしております。どうぞみなさん、有意義な一日を過ごして下さい。 ホ・ヨンジャ先生のお話 最近は韓国の食べ物が普及しまして日本の食べ物として浸透しております。慣れない料理の講習をす ることになり、緊張して昨晩は眠れないほどでした。 韓国と日本との食文化の違いでは食器の材質やつくりが違う。持ち上げることができない。菜箸をお かず。自分のじかばしでそれぞれの皿にとっていく。なべでもそれぞれのさじでとって食べる。汁物を とるとき、かならずはしとさじ両方使うのが正式。 また、昔は食べ物を少し残すことが礼儀でしたが、現在は残さない方がよいとされています。日本で は不作法とされていようだが韓国では親しいもののどうしのしきたりではこのようなことがかなり日 本と違うところではないかと思います。 今日つくる料理はワカメスープ、ねぎのパジョン、ナムルの 三種類です。 17 「韓国料理を通じて学ぶその文化とパワー」 於:東京都立国際高校 99.12.13 材料と作り方: 1. ワカメスープ 調理室 4 人分 ワカメ 牛肉 50 グラム 100 グラム 調味料: おろしニンニク ゴマ油 ネギ(千切り) 塩 醤油 胡椒 小さじ 1/3 大さじ1と 1/2 1本分 小さじ 1 少々 少々 ▲ 講 師 許 潤子(ホ・ヨンジャ) ① ワカメは水で戻してよく洗い、ざく切りにする。 ② 牛肉は細かい千切りにし、醤油を入れ、よくもみ、調味料を加えて鍋にとる。 ③ ②とワカメを肉の色が変わるまで炒めてから、カップ6杯ぐらいの水をさす。 ④ だしがよく出たら、ネギの千切りを入れ、塩を加え味をととのえる。 2.ネギのパジョン(=チヂミ) ニラ 万能ネギ むきエビ イカ 卵 小麦粉 塩 1把 1把 100 グラム 50 グラム 1コ 1カップ 少々 タレ: しょう油、ネギ、ゴマ、ゴマ油 ① ニラと万能ネギは、根を切り落とし、きれいに洗って5センチ程度の長さに切りそろえる。 ② イカは細く切り、エビは粗く切る。 ③ 小麦粉に①と②を入れ、溶き卵と塩少々をまぜる。 ④ フライパンにゴマ油をひいて両面をよく焼く。 食べやすい大きさに切り、作っておいたタレに漬けて食す。 18 3.ナムル ゼンマイ ホウレンソウ 大豆もやし 300 グラム 1把 400 グラム 調味料: ゴマ ゴマ油 ニンニク(すりおろしたもの) 長ネギ(みじん切り) 唐辛子の粉 醤油 塩 (ゼンマイのナムル) ① ゼンマイは固いところを切り落とし、4〜5センチの長さに切る。 ② フライパンに水をさし、①を少しゆでる。 ③ ゴマ油をひいたフライパンにゼンマイとニンニクを弱火で炒める。 ④ ゼンマイが柔らかくなったら、調味料(ネギ、醤油、ゴマ、ゴマ油、ニンニク)をまぜて、味をと とのえる。 (大豆のナムル) ① もやしはひげを取り、水1カップに塩を少々入れた鍋の中に入れ、10 分間ゆでる。 ② 水気をよく切り、調味料(ゴマ、ゴマ油、唐辛子、ニンニク、長ネギ、塩)をまぜて味をととのえ る。 (ホウレンソウのナムル) ① 鍋に塩を入れ、ホウレンソウをゆでる。 ② よく水気を切り、調味料(ニンニク、ゴマ、ゴマ油、醤油、塩)をまぜ、あえ、味をととのえる。 第3回教員研究協議会報告 「海外日系人の国際貢献――移住〜NGOまで 紛争と民族 ユーゴと南アジアの体験から」 19 報 告 東京都立桜水商業高等学校 日 時 2000(平成 12)年3月 14 日(火)14:00〜16:30 場 所 新宿マインズタワー 会次第 国際協力事業団本部会議室 1.会長挨拶 東京都国際教育研究協議会長 矢田部 2.講師紹介 恵泉女子大学 正明氏 3.後援挨拶 東京都国際部交流推進室事業担当課長 助教授 20 大橋 正照 二階堂 久和氏 関根 雅子 内 容 年度末の多忙な時期にもかかわらず約 40 名の教師が集まり、今年度最後の研究協議会が行われた。 ▲ 大橋 正明氏 1.移住事業指導者養成から国際理解教育へ 東京都国際教育研究協議会の歴史は、日本の移住事業と深い関わりがある。そもそも東京都国際教育 研究協議会の所属する上部団体である全国国際教育研究協議会は、戦後海外移住が再開され南米などを 中心に農業青年の海外移住がさかんになった際、その対象となる青年に移住に関する正しい理解と発展 を促すための教育が必要とされたところから始まっている。 まずは、各県レベルで、海外協会(県における海外移住実務機関)が、海外に関心を持ってクラブ活 動などを行っている農業高校を「海外移住モデル農業高校」に指定して資料の配付や講師派遣等の助成 をし、その教育活動を支援していたのたが、中央の海外移住実務機関であった、日本海外協会連合会も 昭和 33 年には、「海外移住指定高校」 を設定して、 指導教師の育成とサークル活動に対して支援を始め、 そのような事業が全国的な規模へと発展していった。昭和 38 年に、 「海外移住指定高校」は、海外移住 事業団(現国際協力事業団)にひきつがれ、「海外教育推進高校」として、引き続き支援を得ていった。 今回の研修会の会場として、国際協力事業団の会議室お借りしているのは、このような関わりがあった ことによるのである。その後、日本経済が飛躍的な発展をとげ、国際社会において、日本の地位が向上 して、国際人としての日本人の教養が論議されるようになってくると、指定高校代表者の研究集会など において、しばしば、国際理解、国際協力に関する学校教育のあり方とその方法が検討されるようにな り、国際化時代に即した教育としての「海外教育」の研究が盛んになっていった。全国国際教育研究協 議会の前身である、全国海外教育研究協議会はこのような中から結成されていったのである。このよう に、農業高校を卒業後、海外農業移住をする青年の指導育成のための研究会が、日本の進展に伴い農業 高校だけの問題でなく、広く国際社会に貢献する国際人としての青年の指導育成をする研究会として今 に至っているのである。 2.東京都の国際交流事業 東京都国際教育研究協議会は、国際理解、開発教育の指導及び教育実践をするべく、国際協力事業団 から様々な面でご協力をいただいているが、第3回の本研修会については、東京都生活文化局国際部交 流推進室からもご支援をいただいた。国際交流推進室の二階堂氏による事業説明の中で特に印象的だっ 21 たのは、海外の都市と東京都が、姉妹関係を結ぶなどして交流を進めるといった東京都直営の国際交流 事業から、現在では都民、民間、NGO 等と連携して行う事業に移行してきているという点であった。か つては国際交流などは公の機関が中心にならなければなかなかできなかったことが、今では民間レベル での国際交流がさかんになったことで側面から支援するという体制に変わってきているということで ある。それだけ、市民レベルでの国際化が進んでいるということなのだが、神奈川県などと比較して、 東京都は国際都市と言いながらも、これまで NGO 等が一同に会して情報交換などをするような場は少な かったということである。しかしこれからはNGOの活動については、ますます活発化し、注目されて いくのではないかと思う。また、高校生の国際交流についても民間レベルでの交流の活発化に伴い東京 都が全面的に支援する派遣事業は縮小の傾向であるということである。 3.NGOの現場から さて、その注目されているNGOで、実際に活動され、また特に南アジアのNGOの研究をされている 大橋先生から、今回お話を伺うことができたのは大変有意義であった。 大橋氏は「シャプラニール:市民による海外協力の会」という日本のNGOのバングラディッシュ駐 在員を勤め、日本で事務局長もされた。その後日本赤十字社および国際赤十字・赤新月社連盟の駐在員 として再度バングラディッシュに駐在し、サイクロン被害軽減プロジェクトを中心に活動された経験を もたれている。恵泉女子大学で教鞭をとりながら、世界中の紛争についてどう考えたらよいのか、どう したらよいのかなどをテーマに研究をつづけておられる。 99 年 3 月、NATO軍がユーゴスラビア連邦に空爆を開始し、コソヴォ自治州からアルバニア系住民 が大量(80〜90 万人)に難民となって流出したというニュースは記憶に新しい。99 年 4 から 5 月、氏 は日本赤十字社を通じて、国際赤十字・赤新月社連盟の駐在員として、コソヴォ難民を抱えるアルバニ アで、食料などの救援物質配布にかかわられた。 4.コソヴォにおける紛争と民族 コソヴォ問題の背景と歴史 いったいなぜあのような大量の難民がでたのか。その民族的、歴史的背景を整理してみると、コソヴ ォは、多民族国家であるユーゴスラビア連邦を構成するセルビア共和国の南側にある自治州で人口は約 200 万。東京、神奈川、、千葉をあわせたくらいの面積を持つ。人口の9割(180 万)がアルバニア系住 民で、隣接するアルバニア(人口 330 万)と同じ言葉を話す。宗教的にはイスラム教徒。残り(1割) の大半はセルビア語を話すセルビア系住民。ローマカトリック、プロテスタントと並ぶキリスト教のひ とつオーソドックス(ロシア正教、ギリシャ正教等)のセルビア正教徒である。 歴史的にはもともと紀元前 1000 年頃イリュア人が定住していたところに6〜7世紀にセルビア人が 到来し、イリュア人とセルビア人は共棲していた。しかし 12 世紀中世セルビア共和国が成立すると、 イリュア人の追放が行われた。そのイリュア人の末裔がアルバニア人であるとされている。もともとは 国境などなく広く住んでいたのである。 13 世紀セルビア正教が成立するとコソボはセルビア民族の聖地となった。14 世紀オスマン・トルコ 22 の支配下に入るとアルバニア人は宗教的にフレックスだったのかイスラム教に改宗し、その支配機構の 一部を担った。セルビア人からするとアルバニア人はオスマントルコの支配下、宗教的に迎合したと見 られている。その後 500 年オスマントルコの支配下にあったが、1912 年バルカン戦争を通じてセルビア 王国がコソヴォを奪還。第2次大戦中はイタリアとドイツの支配下に入ったが、1945 年ユーゴスラビア 連邦人民共和国が成立し、その中のセルビア共和国のコソヴォ自治区となった。1968 年アルバニア人の 権利拡大と共和国格上げ要求の暴動がおこるが昇格は認められなかった。しかし独自の憲法、三権の制 度をもつようになった。チトー大統領時代は、ユーゴスラビア人という国民意識が強かったが、死後民 族意識が台頭。アルバニア、マケドニアと共に同民族としての自覚が高まり、大アルバニア主義が強ま った。80 年代には、経済危機、高失業率が問題となり、ユーゴ国内の、経済格差が拡がった。(最貧コ ソヴォは先進スロベニアの1/8)経済的困窮から政権への不満も高まり、ミロシェビッチ大統領はコ ソヴォ独立を認めればその政治生命も危うくなりかねなかったので、セルビア民族主義を高揚させ、セ ルビア人から熱狂的な支持を受けていた。1991 年にルバゴを指導者とするコソヴォ民主同盟がコソヴォ 共和国の独立宣言をするがセルビア共和国はコソヴォ議会および政府を解散させた。98 年 2 月から事態 が急激に悪化し、アルバニア系武装組織・コソヴォ解放軍による武力闘争が台頭し、それに対するセル ビア軍の掃討作戦と対立が強まり、虐殺事件がおこるなどし、難民(old refugees)が流出した。1999 年 2 月フランスのランブイエでユーゴ政府とアルバニア系住民が和平交渉をしたが決裂し、3 月 NATO 軍の 空爆が始まったため、大量の難民(new refugees)が流出した。 コソヴォの民族対立をどう見るか? 民族意識をイリュア人の末裔のアルバニア人のアルバニア主義とセルビア父祖の聖地のセルビア主 義という歴史観、イスラム教徒対セルビア正教徒という宗教対立を背景にもつ)のみにもとめてしまう と、歴史的には共棲していた時代があったことの説明がつかなくなる。そのことを考えると民族意識は、 政治家やマスコミによって操作され、高揚されて高まったのではないかと氏は分析している。2つめは、 1984 年から拡大した経済格差が、民族意識をつよめている。すなわち共和国としての権利がないために スロヴェニアにくらべて1/8の所得しかないのだと主張していたことである。しかし実際にはコソヴ ォのアルバニア人よりアルバニアのアルバニア人の方がさらに貧しく、アルバニアに流入した難民の方 が金持ちであったりするそうだ。 スライドから実際の難民の様子 アルバニア人は海外移住をしてきた民族であるため世界中に親族などのネットワークがある。そのた め公衆電話の前に長蛇の列ができ、国外の連絡をとろうとしているそうだ。行き先がある場合は難民と はならないので、国際赤十字もテレカを提供しているという。しかし周辺にはマフィアも多く外国に渡 る闇のルートなど、いろいろなものを売り買いしている。町の隅々には施設両替商がたち、難民は乗っ てきた車を売って、ドイツマルクを買うそうだ。米ドルよりもドイツマルクでないと通用しにくい。難 民は歩いて、あるいはベンツに乗ってやってくる。NGO等が難民へのパンの提供をしている。一人あ たり1日 1/2 本、450g。飢えるということはないが、センター、テントの生活の質など問題はある。 23 UNHCRが地代を払って難民キャンプ地を確保し、テントをはる。難民の大半は女性、老人、子供で、 若い男はKLAに参加したりセルビア兵に拘束されたりしているそうだ。やはり家族と別れ、国境を越 えてたどり着くまでの恐怖と緊張のあとは隠せないようだ。 コソヴォの今後 アルバニア人は独立したいと言っているがユーゴは主権を放棄していないためどうなるか不透明で ある。しかしコソヴォにも強力な指導者や組織はない。ミロシェビッチの今後の動きに注目する必要が ある。 5.まとめ 限られた時間のなかで、大橋先生の専門である南アジアの民族と紛争についても言及があったのだが、 紙面の都合で割愛し、民族問題をどうみるのか私たちにとっての課題としてあげられたことを整理する と。 民族とは何かを考えるとき、宗教や文化が大きな役割をはたしており、歴史観とその土地に代々住ん でいるという帰属意識があることがその民族を民族として自覚させるものであるが、民族対立が起こる ようなときにはそれを操作する勢力(ミノシェビッチがセルビア主義を利用した例)があるのではない か。また現代の民族紛争にはマスコミの影響も大きいことが指摘された。 民族紛争の解決として、政治制度を整える際、そもそも民族自決権を認めて制度化を積極的にすすめ るのかどうか?多民族、多文化の共存という方向性に国際社会が積極的に動こうとしているのかどうか。 コソヴォでも選挙を通じて多数の意思表示をしたがそれを国際的にサポートするシステムがないた めに、より暴力的な方向にすすんでしまった。個人の人権が侵された時には民族自決権は国際的に保障 されるのか、今後国際社会で民族問題を考える際の国際秩序の構築をどのようにしていくのか。国連の 今後の役割と正当性についても議論していかなくてはならないのではないか。 6.おわりに つい最近の国際情勢を肌で感じて、現場で活躍された大橋先生のお話は、非常に生々しく、同じ地球 上に住む一市民として、遠い国の出来事として傍観していられないような気持ちになった。 生徒にそのような生きた国際社会の現実というものを何とか伝えたいと思った。民族主義が高まって いる今日、民族紛争はますます増えていくのではないか?答えの出ない現実の問題に対して、どう考え ていくのか。機会をつくって、生徒たちに投げかけてみたい。そして様々な問題意識を持った生徒が、 自ら出来ることを模索していってほしいと思う。ただ、知識として知るだけでなく、何をしていくのか まで問われるのが、国際教育の難しいところでありまた、醍醐味ではないかと改めて思わされた。 24 生徒国際交流研修会 「留学生と一緒に『アフリカの音楽』体で感じよう」 報 日 時 2000(平成 12 年)10 月 1 日(金) 都民の日 場 所 国際協力事業団 9:40〜16:30 東京国際研修セン ター(TIC) 渋谷区西原 2‑49‑5 TEL 03(3485)7051 目 的 より深い国際交流と異文化理解への 開かれた心の態度を育成する。 直接留学生や研修生と交流し、交流の 中から海外のことが自分自身のこと を再認識する。 参加者 都内の日本人高校生 45 名 女子 37 名 男子 8 名 都内の外国人留学生 17 名 女子 14 名 出身地 男子 3 名 ニューヨーク市、オーストラ リア(New south Wales 州)、ジャカル タ市、 サンパウロ市 教師参加者 20 名 今年の特徴は私立学校からの参加が 増えたこと、校長先生が参加された学 校もあった。大変な盛会だったが、生 徒は日本人、留学生とも女子の参加が 目立ち、もう少し男子生徒の参加 が期待されるところである。 25 告 東京都立羽田高等学校 橘 都 時 程 10:00〜10:15 開会式 10:15〜11:30 グループ分け・ディ スカッション 11:30〜13:00 昼食・TICの研修 生と話してみよう 13:00〜14:00 楽器つくり 14:00〜16:00 アフリカの音楽と踊 り 16:00〜16:30 内 閉会式 容 午前中は留学生と日本人生徒が主として日本語で日本のよいところ・悪いところ(留学生にとって理 解しがたいところ)について話しあい、発表をしました。さらに留学生の出身地についての演技を交え た紹介を行いました。午後の催しに用いるマラカスのような打楽器つくりをしました。昼は全員でエス ニック料理を食堂でとりました。 午後は、てづくり楽器を完成した後、体育館に移動し、アフリカ、ニジェールからの音楽家ジョンさ んとアフリカとアメリカで音楽活動をし、現在は日本各地で西アフリカの音楽の紹介活動をしている辻 一高さんによる演奏を聴きました。その後、自分たちが作った楽器を用いてジョンさんたちの音楽に合 わせて、全員で踊りを楽しみました。 講師紹介 ◇ジョン・ソハ・コリーさん Mr.Abdou Alidau Maiguizo 国籍ニジェール (芸名 Mr.John Sofa Kolly ) Sofa Kolly は old spirit の意味アフリカ各地での演奏活動をしているがニジェールでは音 楽産業 が全く発達していないため、国内ではCDはおろかテープすら出ていない。ニジェールの Cetre de Formation et de promotion Musicale のギター講師 ◇辻 一高さん 室蘭出身の音楽家。アメリカで現代音楽とギター学び、その後青年海外協力隊員としてニジェールに 派遣される。日本各地で演奏活動をしている。 ジョンさんの音楽の紹介 ジョンさんの歌の歌詞はもともとはハウサ語かザルバ語でかかれています。内容は非常に理想主義 的ですが、彼の国あるいは周辺国の状況を思うととても考えさせられるものがあります。一曲ご紹介し ましょう。 26 FATINA(ニジェールの音楽祭で二回目のグランプリをとった曲です) 神が創造した空、神が創造した大地、人々が平和に暮らせるようにと願って神は戦争が望んだのでは なく、ただ人間がこの大地の上で暮らすことを願ったのに。ここに集まって、みんなで良いものを分か ち合おう。 リベリア、アンゴラ、一緒に仲良くしようよ。 アンゴラ、ソマリア、みんな一緒に手を取って集まろう。 コソボ、サラエボ、集まって、良いものを作り出そう。 インド、パキスタン、集まって、ひとつになろうよ。 ここに集まって、みんなでよいものを平等に分かち合おう。 ニジェールの紹介 ◇ 北はサハラ砂漠、アルジェリア、リビア、 南はナイジェリアと接する。 ◇ 公用語は、フランス語であるが、Hausa 語、 Djerma 語のほか多くの言語を話す人がいる。 ◇ 1960 年フランスより独立した共和国。 ◇ 面積 126,700 万平方キロ(テキサス州の約二 倍)国土のほとんどが砂漠。 ◇ 一人あたりの国内総生産 970 米ドル(1998 推 定)主な産業は農業。 ◇ 人口 9,962,242 人 人口増加率 ◇ 15 歳以上国民の識字率 (男 20.6% 2.95% 13.6% 女 6.6%) ◇ 幼児死亡率 112.6/1,000 人 (以上 1999 年) 生 徒 研 修 会 参 加 感 想 文 27 「日本と世界の人々」 はなく外国人の方もいました。 私は、助けてくれた人たちに、もう一度お礼を 東京都立桜水商業高等学校 清水 麻由美 言いたいと思っています。そして、私は、このよ うな日本人と外国人との話し合いの場がもっと 多くなると良いと思います。 私は、10 月1日に東京都高等学校国際理解研究 協議会の国際交流会に行きました。私は、当日の また、私は多くの人たちに、人間には、たくさ 朝は、シンガポールなどの人達と上手に話し自分 んの良いところがあることを、今より知ってもら の気持ちを伝えることができるかどうか心配で いこれからも、私が転んだ時のように、助けても した。 らったり、助けたりがいつもできる世界であって ほしいと思います。 また、その気持ちと同じくらい私は、シンガポ ールなどの国々の人達は、どんな生活をして、ど 午後は、アフリカの音楽を、体験しました。ア んな考え方をしているか私は知ってみたい気持 フリカの音楽は、明るく楽しい自然に体が動いて ちもあったのでドキドキしながら、行きました。 くるような感じでした。アフリカでは、音楽の中 まず、「午前中は、日本人の良いところや悪い でも生活の中でも太鼓を使うそうで、太鼓で話を ところ」について、話し合いました。その中には、 したり、学校では、ベルなどに使ったりするそう 日本人は、同じ格好をする人が多い。日本の学校 です。私は、アフリカの人たちは、どうやって太 の始まる時間が遅いなどの意見が出されました。 鼓を使って話をするのか私も実際体験してみた 私たち日本人が、毎日の生活の中で、別に意識し くなりました。 また、太鼓のほかにも日本には無い楽器なども ないでしてきたことが、おかしく見たりすること あり、初めて見る楽器の音などを、聞いたりでき、 があるということです。 とっても楽しい時間を過ごすことができました。 例えとしては、こんなことがあります。まず、 1 つは、日本人の学校は男女クラスの学校多いの そして、この1日の中で多くの人たちと話した に、男女が普段あまり話をしないこと。2 つ目は、 り、友達になることができたことが、私は1番う 日本の男性は若々しい女性を好むことが多いこ れしいことでした。これからも新しいことにでき と。そして、3 つ目として、日本人が恥ずかしが るだけ多くチャレンジし、日本や世界の人たちと、 りの人が多いということです。 できるだけたくさん話し、自分の考え方をもっと もっと広げて、今よりももっともっとたくさんの ところで、私は足が悪く、どこでも転んでしま 人たちと友達になりたいと思います。 いますが、そんな時には、いろんな人たちに助け てもらいました。その中には、日本人の方だけで 28 東京都立富士森高等学校 石井 光子 私は、友達から「国際交流があるから行ってみない。」と、さそわれ、以前から興味を持っていたの で、すぐに「行く」と、返事をしました。当日が来るまで、楽しみな気持ちと不安な気持ちがまざり、 不思議な感じでした。 しかし、当日、部屋に入り同じ年ぐらいの留学生の姿をみると自然と、はやく仲よくなりたいなとい う、楽しい気持ちでいっぱいになりました。間近で留学生を見ると日本の高校生とはまったくちがう一 人一人とても個性が目立っていました。それから、開会式がはじまりグループ分けをして、同じ班の人 たちと交流が始まると、あまりの日本語のうまさに、ただただ驚かされてしまいました。まだ日本に来 て半年しかたっていないと聞いていたので、片言の日本語しか話せないものだと思っていました。ディ スカッションで日本の良い所や悪い所を留学生に色々聞きましたがどちらの点でも日本人の私たちが 思っていることと全く一緒で、何かとても嬉しかったです。国は違っていても嫌だと思う所は、日本人 である私達が変えていこうと決めました。このように話し合えたことはとても良い経験だと思いました。 私が交流を通して日本人と外国の方と一番違うと感じたことは、午後に行われたジョンさんと辻さん の演奏会の時でした。アフリカの軽快なリズムの音楽に合わせて、みんなで盛りあがり始めた時に、先 頭をきって輪の中心に入り、二人のブラジルの女の子がすばらしいダンスを躍り始めました。日本人で も踊っている人はいましたが、私をはじめ棒立ちでそのダンスを見ている人がほとんどでした。その時 にやはり文化の違いを感じました。基本的に日本では普段の生活で踊ることがないのでリズム感があり ません。それに比べブラジルなど各国では、音楽が中心といってもいい生活をしていて文化の違いがハ ッキリしています。 私は、大学に行ったら絶対留学しようと思っていたのでこの文化の差に少しショックを受けてしまい ました。そして海外の音楽や文化にもっと興味を持っていけるようにこのような素晴らしい交流会に又、 参加したいと思いました。今年、初めて参加しましたがいい経験と思い出ができました。今度は、私が 海外で留学生として英語を話しながら、日本のいい文化を相手に与えられたらいいと思います。 第 36 回 全国高等学校国際教育研究大会 (福島大会)をふりかえって 報 告 29 東京都立多摩工業高等学校 女屋 隆充 第 36 回全国大会は、1999 年8月5日(木)〜6日(金)、福島県郡山市・磐梯熱海温泉の「ホテル華 の湯」を会場に開かれた。テーマは「これからの学校教育における国際教育の在り方を求めて」で、参 加者は、来賓 20 名・教員 165 名・生徒 71 名の総勢 256 名であった。 ▲ 福島大会実行委員長 遠藤 算彦 開会式の後、国際交流フォーラムが行われた。テーマは「これからの国際教育の在り方」。コーディ ネーターは吉田成志氏(財団法人福島県国際交流協会事務局次長)で、パネリストが永田リセ氏(いわ き市国際交流アドバイザー) ・五十嵐まりい氏(ヘーラット財団会津サクラランカ会代表) ・鈴木吉重氏 (福島県立白河高等学校教諭)であった。フォーラムは、「外国人から見た日本の英語教育、または国 際教育」、「学校教育と NGO の関係」、 「学校教育が果たす国際教育への役割」の3点を中心に討論された。 トンガ王国出身の永田氏は、21 年前に福島県に来た当時に比べ、外国人に対する接し方や見方がかな り変わってきたと話された。その上で、日本での国際理解にはまだ問題点があるといわれた。氏は、国 際理解には世界にはそれぞれの国情があるという前提を理解することこそ重要とした。そして、英語教 育では教師の指導法の見直しを、NGOではボランティアの考え方の修正を、進めるべきだと提言され た。永田氏の発言は、個性的かつ率直なもので、個人的には大変おもしろかった。 NGO活動でスリランカと関わりが深い五十嵐氏は、NGO活動での経験を発表する場が少ないこと を指摘され、学校でこうした機会がたくさんあれば、海外での経験がなくても生徒たちの視野が広がる と話された。また、英語力が乏しくても外国人とのコミュニケーションはとれるとも言われた。現場を 見て何が必要かを考え、その国 情にマッチした援助活動の必要性に言及された部分は、説得力を強く感じた。 高等学校の社会科教員として現場に立たれている鈴木氏は、長年JICA(国際協力事業団)の高校 生エッセーコンテストや国際教育研究協議会などでの関わりを続けておられる方である 国際理解を深めることは、人間理解を深めることにつながると考えていると話され、人間形成という 教育の場における国際理解の必要性について提言された。 1日目午後に、第 19 回英語弁論大会と生徒交流会が行われた。報告者は並行して行われた講演(「21 世紀の国際化に向けて教育が果たす役割とは何か」)を聞いていたため、両方ともその様子はわからな 30 い。例年通り、弁論大会のスピーチは別に発行された『大会報告書』に全文掲載されている。生徒交流 会は、福島県内の大学で学ぶ留学生たちと主に福島県内の高校生たちが参加したようだ。 講演の方は、津田塾大学学長の志村尚子氏によるものだった。氏は国連での経験を豊富にお持ちで、 国連組織の機構的なユニークさと歴史的特徴に触れながら、日本社会の位置づけをされていた。社会科 教員としては、なかなか興味深く聞けた講演であった。 講演の後、全体会での研究発表が行われた。全部で4名の発表だった。今回、女屋もその1名として 発表をさせていただいた。この内容については、別の項で詳しく報告してあるので、そちらをご覧いた だきたい。 2日目は、教科・特別活動・国際交流の3分野における研究報告が分科会形式で行われた。報告者は、 「教科における国際教育」の分科会に参加した。総合学科における実践と英語の授業実践報告のレポー トがあった。前者の報告は、岩手県立高校で「国際奉仕基礎」「比較文化」 「国際地域提携」を担当され ている方からのもので、新しい分野だけに試行錯誤されている様子であった。教室の授業とフィールド ワークの両方を試みられており、意欲的な取り組みといえよう。後者の報告は、福島県立高校の進学校 での実践で、大学受験を念頭に置きながら国際教育を進めているものであった。スピーキングに力を入 れているそうだが、受験でのウエートが低いことと、準備が大変なため、こうした取り組みはなかなか 広がらないそうだ。 最後に、途中でも記したが、全国大会の報告書が別に発行されている。今大会の詳細については、そ ちらを参照していただきたい。 (必要な方は、事務局へ問い合わせを。 ) 第 36 回全国高等学校国際教育研究大会〈教科における研究〉 『倫理における開発教育の一例』 (モンゴルでの体験を導入として) 報 告 31 東京都立多摩工業高等学校 女屋 隆充 1 はじめに 1998(平成 10 年)年の夏に、私はJICAが行う高校教師海外研修に参加する機会があり、東日本 の先生方とモンゴルを訪問しました。帰国後、JICAからの 宿題 であったモンゴルでの体験を取 り入れた授業を、3年生の倫理で試みました。今回の発表では、昨年の取り組みの概略と、授業をした 後で考えたことのいくつかについて報告させていただきたいと思います。 2 実践の概要 実践科目名:倫理(2単位・必履修) 対象学年 :3学年全クラス(学年5クラス= 機械科2/電気科2/工業化学科1) 時 間 数 :各クラス4時間 実施時期 :10 月下旬〜11 月上旬(2学期中 間テスト後〜文化祭までの期間) 3 勤務校の状況 ○ 進路:大半の生徒が就職。進学する生徒は専門学校が中心で、大学進学者は学年1名程度。 ○ 学力:それほど高くないというのが率直な印象。クラス・学科により、差があると思われます。 ○ 生徒の気質:全体的にはおとなしく、まじめな生徒たちです。西多摩という地域性からか、都心部 の学校より純朴な生徒が多いと評価されています。3年生のためか、出席状況も悪くなく、授業もきち んと受けられる生徒がほとんどという印象を持っています。 ○ 国際教育の取り組み:学校全体として組織的な取り組みは行っていません。また、生徒会活動など でもこれまで関わることはありませんでした。 4 実践内容について 1時間目・・・モンゴルの暮らしは? *授業の流れ* 同行された岩手県立一関農業高等学校・藤本先生撮影のVTRを教材に、以下の5シーンを選んで見 せました。 ①ウランバートルの様子 ②モンゴルの風景 ③モンゴルの学校〜第23外国語学校 ④モンゴルの音楽・民族衣装 ⑤食料品売場(マーケット)の様子 やり方は以下の通りでした。 2〜3分VTRを流す→説明を加える+画面からわかったことや印象をメモさせる→次のシーンを 流す・・・(以下、くりかえし) 32 時間は、全部で 30 分程度かかりました。 見終わった後、①〜⑤の各場面についてメモしたことを発言させ、それらを板書しました。最後にそ れぞれのシーンについての補足説明を加え、授業を終えました。 *1時間目のねらい* この授業は、4時間全体の導入と位置づけ、モンゴルについてのイメージを具体化させることを主な 狙いとしました。また、勤務校の生徒たちの様子から、自作プリントや地図での説明から始めるよりも、 VTRを見させ、視覚的に訴えた方が入りやすいと思いました。生徒たちはモンゴルについての情報を ほとんど持っていないと思われましたので、彼らが身近に感じる題材は何かと考え、VTRの中から上 記の5つの場面を選択しました。 授業方法論的になりますが、VTRを数分見させて説明し、また見させるといったやり方は、生徒の 集中力を保つという点では1時間中流すよりも効果的であったと思います。 *生徒たちの発言* 以下、主なものを並べておきます。 ・ウランバートルは、首都なのに、車も人も 少なかった。 ・道路は広いが、建物は古ぼけていた。 ・草原の国というのは本当だった。 ・岩がごつごつしている山が多かった。(奇岩 の景勝地を訪問した場面だったためか?) ・モンゴルの学校の生徒は、日本語が驚くほど うまかった。 ・マーケットに並んでいるものは日本とあまり変わらなかった。でも、並び方や売り方 は違った。 見たままの答えばかりですが、生徒たちは結構よく画面を見ていたように思います。クラスの反応も 様々でしたが、導入としての狙いはまずまず果たせたのではないかと思います。 2時間目・・・1枚の写真からわかること *授業の流れ* まず、クラスを6〜7グループに分けました。続いて、研修中に撮影した写真のカラーコピー(B4 サイズ・厚紙に貼りつけたもの。写真はすべてモンゴルの人が写っているもの。)を8枚用意し、それ ぞれ適当なコピーを選ばせました。 それから、以下の課題を与えました。 内容……「1枚の写真からわかることをもとに、グループで自由にストーリーを作ってみよう」 約 15 分ほどストーリー作りをさせた後、各グループから発表させ、最後に次の質問をしました。 「この写真の人たちは、幸せそうですか?辛そうですか?」 「もし、自分がここで暮らせといわれたら、どうですか?」 33 *授業のねらい* この授業では、1時間目に見たモンゴルの印象と、モンゴルの人々の表情とが結びつくかを考えさせ ようとしました。私たちは日本という「先進国」に住んでいるため、「途上国」に生活する人々を「低 く」見がちです。こういった見方の妥当性を検討する授業でもよかったのですが、ここでは「低く」= 「不幸」というイメージでとらえていないかを考えさせようとしました。 <物質的に豊かな国民が幸福で、そうでない人々が不幸であるということは一面的な見方なのではな いか。このように言い切れないのではないか。>ここまで到達できなくても、「物質的に貧しい国の人 たち」=「不幸な人たち」というのはなんとなく変だなぁという感覚を持たせられれば大成功と考えて いました。 ストーリー作りという授業方法を取り入れたのは、各自の感覚で自由にモンゴルの人々の暮らしをつ かませたいと考えたからです。この時間のヒントはTIC(JICA東京国際研修センター)での事前 研修にあります。そのときは、複数の写真のカラーコピーが配られ、ストーリー作りを行いました。今 回、グループ1枚ずつとしたのは、注意してみれば1枚の写真からでも色々なことはわかるし、複数の 写真を使うより想像力がふくらむのではないかと考えたからです。 1時間使ってストーリー作りで「遊ばせ」、最後の質問で「考えさせる」。「正解」を求めず、押しつ けないで、オープンエンドとする。こんな授業にしようと思いました。 *生徒たちの作ったストーリー* 次の文章は、あるクラスの生徒たちが作ったストーリーです。 ワタシ、バット、モンゴル人。今日モバス工場で働イテイマス。メンバーハバクサント、日本人ノ山 本サン。きょうハ、エンジンノメンテナンスヲシマシタ。コノエンジンハ、日本カラ持ッテキタモノデ ス。コレヲ直スノニ、大変デシタ。2時ゴロカメラマンノ池田サンガヤッテキテ、取材ヲシマシタ。ソ レデ写真ヲ撮リマシタ。ドウデスカ、僕タチガンバッテルデショ?コウシテ僕タチノバスハモンゴルノ 市内デ元気ヨク走ッテマス。8月5日バットノ日記ヨリ。 原文のままです。カタカナにしたのは、外国っぽくしたかったからでしょうか? なお、生徒たちに問いかけた最後の質問2つへの反応の一例も付記しておきます。 「よくわからないけど、不幸には見えない。」 「表情はやさしそうだと思う。」 「今ここで(モンゴルで)暮らせといわれたら、電化製品は使えるのか? (使えないなら、不便だと思う。 )」 3時間目・・・国同士の関係は? *授業の流れ* 事前に、人数分の「情報カード」を準備しておきました。ここには、各国の GNP・人口・国土の面積・ 産業や暮らしの様子などが書かれています。 時間のはじめにこのカードを1人1枚ずつ配布し、ワークシートも配りました。それから次のように 指示をしました。 内容……「これから、自由に教室を動いて、5人と話をしよう。相手に自分のカードの内容を伝え、 34 終わったら、相手のカードの内容を聞こう。お互いに話したら、相手の国とはどんな関係を持ちたいか? を決めてプリントに記入すること。理由も簡単に書いたら、別の人と話をすること。なお、カードは見 せないで下さい。」 約 20 分程度の時間をとりました。 一通り作業が終わったら、自分の席に戻らせ、 「答えが全部同じになったか?」を質問し、Yes の生徒・ No の生徒の挙手を求め、それぞれになぜ、そうなったのかを答えてもらいました。 最後に、「国同士の関わり方はいろいろあるけれど、どういうつきあい方が望ましいと思いますか?」 と質問をしました。 *授業のねらい* 3・4時間目は、問題を一般化したいと考えていました。また、2時間目のストーリー作りの雰囲気 が伸びやかでしたので、この状態を何とか保ちたいと思いました。そこで、ゲーム要素を取り入れた授 業をすることにしました。 世界には 200 弱の国や地域があり、それぞれの状況は大変幅広く、関わり方も多様です。こういった 中で、どんな関係を持つことが望ましいのかを考えさせ、モンゴルと日本はどういった関わり方をすれ ばいいのかを考えさせることをねらいとしました。確認したかったことは、「先進国」が「途上国」へ 施しを与えるという価値観に立つ関係は望ましいとはいえないということと、モンゴルと日本という2 国間の関係は、日本が他の国に対して関わる延長線上にあるのではないか(あるべきではないか)とい う2点でした。 生徒たちは、国際社会の複雑さについてほとんど知識はありません。従って、「どんな関係がいい?」 と聞いただけでは「遠い話だ・・・」と思われてしまいます。そこで、少々乱暴ですが、「身近な人間 関係から考えるとどう思いますか?」と尋ねて見ました。 なお、ワークシートの選択肢の設定は、平成9年度『未来の地球人たちへ』の実践学園高校・大内先 生がおやりになった質問を参考にしました。 カードを使った作業の時間が長引き、前半部分は何とかカバーできましたが、後半部分は時間切れと なり、4時間目に回すことになりました。 *生徒たちの様子* 教室内を自由に動いたため、クラスに活気が出ました。取り組む姿勢は、生徒によって多様でした。 いろいろな人間関係では、「タテ関係の友だちづきあいはいやだ」という答えが出ましたので、そこ から「公平(平等)なつきあいがいいのは、人間同士でも国同士でも同じではないか」と展開しました。 この点については、生徒たちと共感できたように思います。しかし、彼らは、現実の世界はこうなって いないことを認識していたようでした。(つまり、「あるべきだ」という思いと、現実とは差があるとい うことを感じていたと思われます。 ) また、大内先生の質問に対する生徒の回答同様、「援助」という言葉には抵抗感を持つ生徒が見られ ました。(援助交際と結びつけた生徒もいました) 4時間目・・・なぜ、日本はモンゴルに多くの援助をするのか? 35 *授業の流れ* この時間もグループ学習の形態をとりました。席の近く3〜4人を1グループとし、以下の3つの質 問をしました。 ①「なぜ日本はモンゴルに援助するのか?」 ②「世界の国々が対等な関係を持てるために、日本がなすべきことは何か?」 ③「世界の国々が対等な関係を持つために個人として何ができるか?」 約 15 分ほど時間をとり、各グループからの答えを板書しました。 最後に、以下の3つのことばをキーワードとして紹介し、これからの国際協力についてのコメントを して、授業を終えました。 ①かかわり・・・世界各国は様々なかかわりあいを持っています。ですから、関係を持たないことはあ り得ないし、関係を断ち切ろうとすることは望ましいとはいえない。 ②公平・・・国連総会の「1国1票制」に見られるように、大国も小国も平等であるというのが原則。 けれども、経済力の差などにより、立場に強弱があるのが現実。 ③共生・・・流行の言葉。競争と対立する考え方として紹介し、向かうべき理想的な方向の1つか。 *授業のねらい* 3時間目にできなかったモンゴルと日本の関係について触れた後、国際関係全体へ問題を広げていく ことを狙いとしました。国家間の望ましい関係として「対等な」という価値観を入れたのは、前の時間 からのつながりを意識したという授業論的配慮と、問題を<理念>としてとらえさせたかったからです。 また、日本ができること・個人ができることの2つに分けたのは、自分たちが何やったって、関係ない し意味がないというイメージを持たせたくなかったからです。 4時間全体のまとめとして、最後に3つのキーワードを示したのは、何も指針がないとどう考えて行 くべきかが生徒たちにはつかめず、未消化のままで授業を終えてしまうのではないかと考えたからです。 3つにまとめた言葉がすべてをくくれるはずはありませんが、一応、今後の国際協力についての方向性 を提示し、後は彼らの感性にまかせようと思いました。 *生徒たちの反応* 質問事項が抽象的だったせいか、あるいはグループで議論する経験に乏しいためか、生徒たちの取り 組みは今ひとつでした。最後にまとめをしなければならないといったあせりが私にあり、終わりはあわ ただしくなってしまいました。 キーワードは、パソコンでB4サイズに拡大して打ち出し、それを提示したため、生徒の注意をひく ことはでき、少しは印象に残ったのではないかな?と思います。 4 今回の授業を実践して考えたこと 今回、TICでの事前研修や開発教育の実践例に影響を受け、授業方法にゲームやグループ学習とい ったものを多く取り入れてみました。必履修の授業ですので、興味のある生徒もいれば、全く関心を示 さない生徒もいます。普段の講義形式のスタイルとはかなり異なるやりかたを彼らがどう受けとめるか は、私の関心事の1つでした。振り返ると、開発教育に見られる参加型学習は「多くの生徒たちに1時 36 間飽きさせない授業を行う」という観点からみると、かなり効果的だということがわかりました。教室 内を動く時間を取ったせいか、活気が出ましたし、楽しそうな表情で時間を過ごしている生徒たちが多 かったように思います。事実、生徒たちの感想はおおむね好評でした。 一方、このような学習方法を「楽しい」レベルに終わらせないためには、教師の周到な準備と明確な 方向性が必要ではないかとも感じています。私は、こうした授業を行うときには、生徒たちの感性や自 主性を大切にしながら、学ぶべき点、考えるべきことがらを外さず、深みのある授業が理想と考えます。 (理想ですから、欲張りに書きました。)別の表現をすれば、「にこにこ」「わいわい」→「ふ〜ん」「う 〜ん」→「へ〜え」「なるほどねぇ」 ・・・こういった授業にしたいのです。私はうまくできませんでし たが、本当ならば、彼らから出てくる様々な意見や感想などを注意深く受けとめ、こちらが目指すこと がらに関わる反応があったときに、それを逃さず、そこから授業を展開させる力が授業者には求められ ると思います。 5 最後に 私はこれまで、倫理は「生き方」「在り方」を扱うのだから、自分の生き方を見つめさせる項目を授 業しようと考えてきました。従って、「宗教」や「ソクラテス」や「生と死の問題」など内面的なこと がらを中心に取り上げてきました。これは、99 年度の1学期も変わりませんでした。国際関係の問題は こうした私の授業の流れからは異質でしたので、授業準備から生徒たちの反応まで、どれをとっても新 鮮でした。 実は、この授業は年間の授業計画に組んでいませんでした。体育祭と文化祭という大きな学校行事の 間の授業で、しかも「突然、何のつながりもなくいきなりモンゴルの話をされた」のにもかかわらず、 生徒たちは想像以上によく取り組んでくれたと感じています。 2003 年から「総合的な学習の時間」が始まります。国際教育もその時間を使って行われる内容の1つ になるといわれています。今回の経験を生かし、これからも生徒たちにとって興味・関心をひく授業づ くりに取り組んでいきたいと考えています。そして、彼らが視野を広げる助けとなる授業を目指したい と思います。 添付資料No1 1998年 倫理 資料 PRINT モンゴルと日本(1) ○これから秋涼祭までの授業(約 4 時間)は、モンゴルと 日本をテーマに授業をします。 まず、この夏にモンゴルで撮影した VIDEO を流します。 以下の項目についてメモしながら見て下さい。 (途中でそれぞれのシーンについてコメントして進めます。) 1 ウランバートル市内 37 2 風景(バスからの車窓・遊牧民のくらし) *家畜= モンゴル語でタワン・ホショー・マル(5つの 鼻 づらの家畜)。ウマ・ラクダ・ウシ・ヒツジ・ 3 第 23 外国語学校 ヤギを指す。ウマは乗用等に、ヒツジは主たる 食料になるため、モンゴル全土に分布する。 ラクダはゴビ地方(南部)に多い。 (『モンゴルは面白い』金岡秀郎著より) 4 博物舘での音楽演奏 *少年(弟)が演奏していた楽器= ・モンゴルの弦楽器。馬の弦楽器(モリンホール) といい、モンゴルのチェロと形容される。棹の先 5 マーケット にウマの頭が彫刻され、胴体にはウマの皮を張る。 ただし、蛇などの皮でもよい。弦、弓毛ともに ウマの尾毛を束ねてつくる。 (『モンゴルは面白い』金岡秀郎著より) *遊牧民の住居 *青年(兄)の歌い方= =内モンゴル自治区(中国)では=包(パオ) ・一人で二つの声を出す歌い方。鼻のホーミー、 ・モンゴル牧民のポータブル住居。北アジアー帯に 見られ、トルコ語ではユルタという。漠民族は包 胸のホーミーなど 5 種類の歌い方がある。 ホーミーで歌うことをホーミードホという。 (パオ)と呼ぶ。天幕ともいう。モンゴル牧民は、 西部モンゴルのアルタイ地方で始まったと 季節ごとに移動して家畜を放牧させる。木の骨組み される。 と羊毛からつくったフェルトの覆いでできており、 (『モンゴルは面白い』金岡秀郎著より) 解体・設営が簡単。(『モンゴルは面白い』金岡秀部署より) 添付資料No2 1998年 倫理 資料 PRINT モンゴルと日本(2) ○1枚の写真から・・・ *あらすじ 配られた写真からわかること、想像できることを まとめ、1つのストーリーを作ってみましょう。 グループ内で相談し、以下の余白にあらすじをメ モして下さい。後で、代表の人に発表してもらい ます。(3 分程度のストーリーで結構です) 38 *クラスは 3−( ) *メンバーは・・・ *配られた写真は・・・ 1 つずつ切り、厚紙に貼りつけて配布 カード(3 時間目)の例 Nol 人口約 12 億人 (人数分作成) 面積約 960 万 km2GNP620 ドル/人 この園は広い園土に恵まれ、平野では農業が盛んで、米や小麦を多く栽培しています。しかし、世 界最大の人口を抱えるため、食料を輸入しています。豊富な石油・石炭・鉄鉱石などを使った重工 業も盛んですが、施設が古いので、効率がよいとはいえません。人口抑制政策を実施しています。 No2 人口約 4500 万人 面積約 10 万 km2 GNP9700 ドル/人 この国は経済成長が著しく、自動車産業やコンピューター産業でも先進国に肩を並べるまでに成長 しました。しかし、政治的に隣国との対立が深く、軍事面に力を入れなければなりません。人々の 暮らしは豊かで、教育や医療の水準も高い国です。 No3 人口約 230 万人 面積約 160 万 km2 GNP310 ドル/人 この国は草原が広がる遊牧民の国です。内陸国で、道路も未整備のため輸送にコストがかかり、な かなか有力な産業が育ちません。教育に力を注いでいますが、遊牧民の子どもたちは学ぶ機会が乏 しく、−方都市部ではストリートチルドレンが問題となっています。 *作成にあたり「帝国書院 地歴高等地図」の−郡データを参考としました。 添付資料No3 1998年 倫理 資料 PRINT モンゴルと日本(3) 3−( )No( )Name ○「援助」?「協力」? 各自 1 枚ずつ国の様子(人口・面積・GNP・その 4 友人の国番号=No( ) 他)がわかる『情報カード』を配布しました。これ ①自分の国は相手の国に援助したい から、教室内を自由に動き、友人の『カード』に書 ②自分の国は相手の国に協力したい かれている内容を聞いて下さい。そして、その国に ③自分の国は拍手の国か援助を受けたい 対し、自分の国はどんな関係を持ちたいか、以下の ④自分の国は相手の国から協力されたい 39 以下の 5 つの中から選んで下さい。1 人 5 つ ⑤自分の国は相手の国とは関係を持ちたくな い (=5 人)くらいと話しましょう。 5 友人の国番号=No( ) =参考= 日本…人口 1 億 2503 万人( 94) ①自分の国は拍手の国に援助したい 面積 37.8 万 km2 GNP34630$/人(94) ②自分の国は拍手の国に協力したい ③自分の国は拍手の国から援助を受けたい 1 友人の国番号=No( ) ④自分の国は相手の国から協力されたい ⑤自分の国は相手の国とは関係を持ちたくない ①自分の国は拍手の国に援助したい ②自分の国は拍手の国に協力したい *話した相手によって違いはありましたか? ③自分の国は拍手の国から援助を受けたい (あった なかった) ④自分の国は相手の国から協力されたい ⑤自分の国は相手の国とは関係を持ちたくない 2 友人の国番号=No( ) *なぜこのような違いが出てくるのでしょうか? *「援助」「協力」どちらが ①自分の国は相手の国に援助したい いい関係 だと 思いますか? ②自分の国は相手の国に協力したい ( 「援助」 「協力」 どちらも同じ) ③自分の国は相手の国から援助を受けたい ④自分の国は相手の国から協力されたい 1 人間関係の場合 ⑤自分の国は相手の国とは関係を持ちたくない 3 友人の国番号=No( ) 2 国際関係の場合 ①自分の国は拍手の国に援助したい ②自分の国は相手の国に協力したい 3 人間関係の場合と国際関係を結びつけて ③自分の国は拍手の国から援助を受けたい みると‥‥‥ ④自分の国は相手の国から協力されたい ⑤自分の国は相手の国とは関係を持ちたくない 添付資料No4 1998年 倫理 資料 PRINT モンゴルと日本(4) ○【モンゴル】の授業の締めくくりです。 ○質問その3: 40 前回、<援助>と<協力>は違うのか? <援助(協力)したい><援助(協力) されたい>の分かれ目はどこにあるのか? などを確認しました。 さて、今日は・・・ *これらの質問は、授業でお話しします。 よく聞いて下さい。 ○質問その1: *グループで考えました。 メンバー・・・3−( ) ○質問その2: *個人で考えました。 3−( )No( )Name ○添付資料No1〜4までは、いずれも授業で配布したプリントの体裁を整えたものです。 ○今回の実践は、JICAから課せられた<宿題>をこなしたものです。 詳細については、JICA発行の『平成 10 年度高校教師海外研修』p4〜13 をごらんください。 41 JICA 「高校教師海外研修旅行(ザンビア)報告書」 『援助することの難しさ』 報 研修期間 1 告 東京都立調布北高等学校 小島 義晴 1999 年 7 月 28 日〜8 月 9 日 ザンビアという国 ザンビアは遠かった。距離的にも心理的にも。19 時間の飛行の果てには想像もつかない世界が広がっ ていた。 ザンビアは8つの国に囲まれたアフリカ中南部の内陸国で南緯9〜18 度、東経 23〜24 度に位置し、 面積は 753 千平方キロ、人口 1,000 万人の国である。周囲の国は内戦状態にあるところが多い。銅製産 にだけ頼ってきた経済は、銅の値下がりとともに壊滅的な打撃を受け、景気はひどく下降線のままであ る。GDPは 264 ドル(1994)。失業率、約 50%。つねにインフレ状態にある。通貨クワチャの価値は 下がる一方であり、外貨不足が続いている。現在ザンビアに流れ込む外国資金のおよそ 70%が主に国際 金融機関の負債返済に充てられている。 都市に人々が流入し、40%以上の人が都市に住む。それもコンパウンドと呼ばれる水も満足に出ない 地域にである。医薬品も不足。医者も満足にいない。ちなみに 12,000 人に一人しか医者はいない。貧 困層を中心に学校へ行っていない子も多い。平均寿命は 47〜48 歳。潜在的なエイズ感染者も人口の2 割はいるという。 農業はザンビアの国内総生産の 15%貢献し、労働力の 75%を雇用している。ほとんどが小規模農業 でトウモロコシ中心。他には綿花、南京豆、煙草、キャッサバや野菜がある。 貧しいといってしまえば、それまでだが、貧富の差が激しい。中国人、インド人には金持ちが多い。 なにも食べるモノがなく夕食のために売春をする人がいる一方で、五つ星ホテルで半日結婚式の披露宴 をやる大臣の息子もいる国である。ある意味で矛盾が山積している。しかし現地の人はそれほどつらい と思っているようにも見えない。それが彼らの人生そのものなのだ。希望がないというのでもない。ど の人も人なつっこく、いい笑顔だ。 一月、6,000 円の給料をもらうのがやっとという国の中で、一泊、9,000 円のホテルに泊まった。高 い塀、バラ線、警備員の姿を見ながらJICAの事務所でのブリーフィングも受けた。治安の悪さ。昼 間でも自動小銃を持った強盗がでること。夜は外を歩かないように。健康のために水を確保すること。 蚊にさされてはいけない。マラリアになる可能性が大。どれも暢気な国で暮らしている日本人にとって は遠い話だ。しかしこれがザンビアの現実そのものなのである。 42 2 アグリカルチャー・ショー 着いた翌日、さっそくアグリカルチャー・ショーというものを見学に行く。これはいわば農業万博の ようなもの。といっても日本のそれのようにきちんと内容が整えられているというのでもなく文化祭の 延長のような印象である。しかし会場にはチルバ大統領も顔を見せ、未来の農業にかける意欲を感じさ せた。各ブースの展示コーナーには主食のメイズ(トウモロコシの粉)や、衣類、ポリプロピレンなど の容器が並んでいる。ただしこの国には主要な企業と呼ばれるものがなく、中小企業もほぼ壊滅状態で あるという。 広いグラウンドでは軍隊の模擬演習も行われたらしい。これはホテルに戻ってからテレビで見た。国 営ザンビア放送である。しかし機材がよくないのか、はっきり映らず、チラチラと画像が流れて見にく い。5,000 クワチャ(250 円)の入場料を払える人はかなりいい階級の人なのだろう。とにかく月収の 多い人で 10〜15 万クワチャである。貧しい人はほとんどその日暮らしといった有様なのだ。ちなみに 自転車が 20 万クワチャ。主食のメイズ(トウモロコシの粉)は 25 キロで 15,000 クワチャである。5,000 クワチャの入場料がいかに高いか理解できるだろう。 農業に力を入れなければ生き延びられないところまで、追いつめられているようだった。しかし南ア フリカなどの大きな資本が大農場を経営し、あとはごく零細なその日暮らしの農業である。肥料もない。 灌漑施設があるというわけでもない。約 4,200 万ヘクタールの潜在的農業適地のうち、実際に使ってい るのは 250 万ヘクタールだけである。ほとんどが灌漑施設をもたず自然の雨だけに頼っている。政府の 農業セクター投資プログラムが成果をあげることを祈りたい。 3 リビングストンの大きな滝 翌日、首都ルサカから 500 キロ離れたリビングストンに向けて出発した。実に東京、大阪の距離であ る。それをただマイクロバスに乗って突っ走る。最初は大きな観光バスでもチャーターしてくれるのだ ろうと思っていたが、そんなものはどこにもない。クッションの悪い、しかしそれでも十分に走るマイ クロバスである。運転手さんがいい人で、運転もうまい。JICA関係の運転はほとんど彼にまかせて いるようである。 舗装は日本の簡易舗装に近い。しかし道路に穴があいていないだけ良しとしなければならない。実際 首都ルサカの町にはあちこちに穴のあいた道路があった。しかし修理する予算がないのだという。メイ ンストリートはさすがにきれいだったが、これは日本の援助でなおしたとのこと。 道にはたくさん炭の入った袋がおいてある。車で誰かが積んで運ぶのだろう。それに歩いている人が 多い。ヒッチハイクなのか、ただ手をあげている人、さらには焼き畑農業のために真っ黒になった野原。 マッシュルームハウスといわれる農家の家々。どれも珍しい風景であった。なかでも黒い煙を上げてい る畑が道の脇まで続いているのは壮観だった。地球の資源、環境破壊といってもここにはなにもない。 肥料を買う金もない。手っ取り早く草を燃やすしかない。真っ黒な草原を見て、悲しくなる。しかしこ れが途上国の現実だ。煙が高くどこまでもたなびいている。 リビングストンではまっすぐで大きな滝を見た。ビクトリア・フォールである。ごく普通の旅行者な ら、美しい、壮大だと感嘆し、それで終わりだろう。しかし私たちにとっての旅はまだ始まったばかり 43 である。世界三大瀑布に数えられる滝は確かにすごかった。水しぶきにあたりながら、急いで虫よけス プレーをする。蚊に食われたら、マラリアになる。特に水たまりの多いこの場所が危険だと事務所で医 療調整員の青木さんに言われた。前に渡された薬を飲まなかっただけに、少し緊張する。 午前中、リビングストン博物館を訪れた。システムエンジニアの曽江隊員はコンピュータが自由に使 えないことを嘆いていた。事前の話ではすぐに使えるコンピュータもあり、館内の収蔵品のデータベー ス化もはかどるものと予想していたらしい。しかし現実に与えられたものはなにもないがらんとした部 屋一つと、つっかえ棒でなんとか窓にしがみついているおんぼろクーラーだけ。彼はなにもまだ仕事ら しいことをしていないので、説明することがなくてつらいと語った。 ザンビア事務所経由、日本のJICA本部のOKがでて、実際にコンピュータが搬入されるまでには、 まだ3ヶ月はかかるとのこと。とはいっても近くにコンピュータを売っている店は一つもない。ロンド ンから運び込むために時間もかかる。さらには停電防止用の装置、電圧を一定に調整するための装置も 必要となる。青年海外協力隊の任期は2年。毎日マラリアの薬を飲みながら、過ごす月日は長いのか、 短いのか。辛いときはビクトリア・フォールを見て心慰めると言った彼の表情は、しかし少しも暗くは なかった。 あまりあくせくしても仕方がない。今はやれることをやるだけです、と彼はきっぱり語る。だが曽江 さんがいなくなった後、データベース化された資料はどのように利用されるのか。結局はドナー国から もらったコンピュータ一台だけが残るということにならなければいいが。そのことを考えると、少し気 が重くなった。しかしさすがにザンビア一の博物館だけはあって収蔵品はなかなかのもの。ルサカ市内 にあった博物館とは雲泥の差である。 だがここでも給料の遅配とかで、数ヶ月も支給が滞っているとのこと。館長さんは優しい人だったが、 個人人の力ではどうしようもない国の現状を考えざるを得なかった。 一方、同時期に保健省自動車整備で入った岩橋隊員も穏やかな人柄の好人物だった。仕事場は博物館 からすぐ。それほど離れていない。ほとんど村の自動車修理工場のような印象。周囲を高い塀で囲わな ければ、なにもかも盗まれてしまうのだろう。中に入ると 10 台位の車が雑然と並べてある。新しいの はほとんどない。どの車も 30 万キロは走らせるとのこと。それだけ車は貴重である。修理もたいてい は自分でなおしてしまうのが主だそうで、一番多い故障はバッテリー。とにかく値段が高いので我慢し て使い、ヒューズがとんだら、そのまま直結してしまうために、走行中に突然燃え上がったりもするそ うだ。 岩橋さんは暑い太陽の下で、ぽつぽつと仕事のことを話してくれる。口が重い。やはり文化の違いに 参ったという印象のようだ。ザンビアの人はとにかく自分のやり方に固執していて、どんなアドバイス をしても意見を聞こうとはしないらしい。ボスのいうことだけを聞いていれば、とりあえず給料はもら える。技術がどんなに稚拙でも、それはお構いなし。公務員の体質が露呈したままのようだった。今の ままではじり貧なので、保健省以外の車を修理して日銭を稼ぐということを口にしても、誰も耳を貸そ うとはしないという。時にボスが自分の顔で知り合いの車を持ち込み、修理代はポケットマネーにして しまうこともあるという。しかし誰も文句を言わない。その技術水準もお話にならないと言った。 さらには部品を買おうと思っても、どこにもない。首都ルサカにいって、その度に探すのだそうだ。 44 実に 500 キロ離れているのである。しかし最近の車はコンピュータ化が激しく、全くのお手上げ状態だ といった。あるいはあっても車種にぴったりのものはなく、全部自分で改造するらしい。前任者が帰っ て1年が経過し、随分意識改革が進んだという報告書を読み、勇んで来たものの、すべては全く前の状 態に戻っていたと、語ってくれた。ワーカーたちはどんな機械を今度JICAが買ってくれるのかと聞 く。しかし岩橋さんは、安易にものを買うのは厭だとはっきり言った。ここには援助馴れの実態をみて とることもできる。人よりもモノをという姿勢だけでは、自助努力ができないと思うのだが。 4 チョマ・セカンダリー・スクール 学校がやはり見たい。リビングストンから首都への帰り、チョマに寄った。ここまで約 200 キロ。乾 いた土の中を少し走るとチョマ・セカンダリー・スクールがあった。中学と高校をあわせたという印象 である。しっかりした学校のようだ。生徒数約 700 人。 教育はなんといっても国の根幹である。しかし予算不足ともあいまって、基礎教育の就学率も次第に 下がっているという。小学校(7歳〜14 歳)までで終わってしまう子供が大半なのである。就学率約 60%。言葉は最初の数年間部族語でそれ以降は英語になる。 事実後に訪ねた時に見た小学校は窓ガラスも電気もない教室3つ、教師 10 人、生徒数 500 人。一日 3回に分けて授業が行われていた。そんな環境のなかで、高校にまで進めるということは、大変恵まれ ている。進学率が同世代の約2割という数字がそれを物語っている。大半が寄宿舎に住んで勉学を続け ている。結構学費の負担が大きく、さらにはテキスト、制服、靴と物いりである。さらには試験の度に 費用をとられる。成績もすべて張り出す。現在は女子生徒の妊娠が大きな問題であるとのこと。以前は 退学にさせていたが、現在では通学可能であるという。男子におとがめなしというところが、この国の 現状か。退学者の数はばかにできないものらしい。もともと 15 歳頃から口減らしのために結婚する国 柄であり、一夫多妻の習慣、男尊女卑の考えが抜けないとのことであった。 また教師の待遇が悪い(月収約 50 ドル、最低 80 ドルないと生活できない)ため、特に理数系の教師 は他の国へ行ってしまい、常に教師が足りない。事実JICAへの要請も理数系教師が大変多い。新関 隊員も大学院で教育哲学を勉強している最中に応募したという。もちろん教えているのは数学である。 それも週に 40 分授業を 30 から 35 コマはやるらしい。日本では考えられないハードワークである。 生徒はテキストがないため、先生のいったことをすべてノートにとる。そしてどんなことでも手を挙 げて訊く。その態度は日本人の高校生とは比較にならないほどよい。無論、授業中に携帯電話が鳴るこ ともない。授業終了後、生徒と話し合いをした。皆将来の希望を述べる。会計士、医者、獣医、科学者 など様々である。しかし新関さんによれば、現実にはほとんど不可能であるとのこと。ここから大学に 行く生徒はほとんどいないらしい。国内にある二つの大学の生徒数はほんのわずかであり、両者あわせ ても一年に 1,400 人が入学許可定員である。 ルサカのザンビア大学、キトウェのコッパーベルト大学に入ることがいかに至難かを改めて思い知っ 45 た。多くの高校生は短期大学か、職業訓練校に入れれば、それだけでありがたいというのが実態のよう だ。とはいうものの、高校まで出られただけで、親に感謝しなくてはならない。一家族7〜8人の子供 の中で満足に育ちあがるのは約半数。1,000 人中 200〜300 人は5歳までに死んでいく。平均寿命が 50 歳に少し満たないという数字がそれを示している。エイズに感染している人の数も正確にはわからない ものの、全人口の2割。感染症(結核、マラリア)などとHIVとが相互に関連して、若くして亡くな る人が多いのもこの国の特徴である。 司祭のお祈りの後、昼食をいただく。この国の常食、シマである。トウモロコシの粉を熱い湯の中で こねながら、固まるのを待つ。それを指の先で丸めながら、魚や肉などとともに食べる。正直、大変お いしかった。やや肉などの味付けが濃くて脂っこいが、それがちょうどシマにあう。ただし彼らはいつ もこれほどのご馳走を食べているわけではないらしい。脇に添えられていた菜っぱのようなものと、テ ラピアという干し魚が普通というところか。 ちなみにこの昼食の費用をすべて新関さんが出したという話を聞いてまた驚いてしまった。遠方から の客にご馳走しようにも、その費用が出せないというのが実態のようだ。教師の給料も遅配になり、か なり苦しい生活を強いられている。日本人教師との座談会の中で給料を日本人はいくらもらっているの かという話になり、その天文学的な(彼らにとってみれば)数字にただ驚いていた。しかし彼らの気持 ちになれば全くよくわかる。隊員の給料は月 500 ドル。このことは現地の人に知られないようにしてい たようだが、しかし自然と知れ渡ってしまっていたらしい。10 人分の給料をもらう日本人教師の立場の 難しさにもあらためて考えが及んだ。 お金についていえば、一度貸してもなかなか返さない。ダメモト精神で借りにくる。東洋人とはまた 違った精神風土の中にいる彼らと2年間暮らすのはなかなか骨が折れただろう。最後に任期を終えるに あたって、協力隊員のおかげでビデオプロジェクターを買ってもらい大変感謝しているという校長の話 があった。自分の国の理数科教師に逃げられ、その分をつねに外国人の教師によって補うという構図か らどうしたら抜けられるのか。ちなみにザンビア在住の海外協力隊 68 名(シニア隊員を含む)中、理 数科系教師 21 名(隊員の 31%)という数字はなにを物語るのか。 銅という単一の天然資源に予算のすべてを頼りすぎていたために、そこからの脱却ができず、新たな 指針をたててもなかなか思うようにはいかない、国の様子がみてとれるのである。モノカルチャーの政 策から、全く新しい展開を求められる段階に入っている。 5 国立科学技術研究所 協力隊員の活動現場を訪れるため、国立科学技術研究所に向かった。ルサカ市内にある。広い敷地の 中にポツンポツンと建物がたっている。最初になにを研究しているのか、興味津々だった。しかし豆炭 製造と聞いて、少し驚いた。1987 年から始まり 12 年、今日では着々とその成果が上がっている。豆炭 製造の基本は森林資源の保護につきる。炭をなるべく使わずに豆炭を、そのために熱効率のいい七輪を 開発する。現地の人が使っている鉄製の七輪は確かによく燃えるが、燃焼時間が短すぎる。それをザン ビアの実状にあったものにしていくという気の長い研究である。「粘土コンロ製造技術普及計画」のた 46 めに現在3人の日本人スタッフが働いている。 勝矢シニアによれば、コンロはできたものの、それを製造してくれる会社がない。資金がないという ことで、現地の人を何人かのグループで呼び、粘土の内釜の製造法を教えるというシステムをとったと いうことであった。日本ならば少し儲かるということであるならば、どこかの会社が製造に乗り出すと いうことがあるだろうが、ザンビアではそれもない。すべて自分で作って自分で使うのである。これで はなかなか普及するまでに時間がかかる。おまけに今使っているものより、割高であるとするなら結果 は見えている。 確かに熱効率のいいのはよくわかってる。しかし少しでも割高であるとしたら、長期的にみて得なの はわかっていても、なかなか使うということができない。炭ならばどのオープンマーケットでも手に入 る。しかし豆炭となると、少し手間がかかる。その面倒さと効率の良さをどう天秤にかけるのか。 豆 炭の製造も実際に無煙化する行程も見せてもらった。JICAのマークの入った機械がたくさん並んで いる。この国にはなにもないのだ。そのことが悲しい。粘度コンロ育成コースがさらにすすみ、どこか の業者がこれはいいということで、事業化に乗り出してくれないものか。現在のように炭をつかってい れば、砂漠化は予想以上にはやい。 確かに日本もかつては炭を使った。そして豆炭や練炭も使った。現在ではガスが基本のライフライン だが、ザンビアではガスを使う家庭はない。電気による調理器を使えればかなりいい方だろう。ガスに ついては現在、牛糞などを使ってメタンガスを利用する装置を考えているとのことだった。実際に屋外 にあるセメントで固めた装置も見せてもらった。これも地方の農家にとってはありがたい研究である。 しかし実用化されるまでには、まだかなりの月日がかかることだろう。採算性まで入れて研究している 訳ではなさそうだった。 ところでこの研究所の現金収入の道は何か。それはずばりチョークの生産である。学校で使う、あの チョークである。石灰の粉を溶かし、かつて日本で使っていた機械に全て手で流し込む。固まるまで待 って取り出し、2日ほど乾燥させると出来上がりだ。これが一番の現金収入源と聞いて、道は遠いとい うか、気が遠くなると言うか。しかしそれがザンビアの現状だと思い直した。しかし3人の協力隊員は めげるわけでもなく、黙々と自分の仕事をしている。最後に研究所で作ったという陶器の土産を買った。 現地の人はただで持って行けと言ったが、市場調査で入っている鈴木隊員がそれではだめだ、少しでも お金になることを考えなければ、とワーカーを説得し、結局金を払って買うことになった。一つ一つ現 金収入の道を具体的に教えていくことが、ここではもっとも基本なのかもしれない。 6 カピニ村あげての大歓迎会 午後、市内から 30 分ほどのところにあるカピニ村を訪れることになった。首都ルサカから車で少し 走っただけで、電気、水もない。赤土の乾いた道をマイクロバスはどんどん村の中へ入っていく。ここ にはザンビア文化事業協会に配属された二人の協力隊員がいる。最初に説明してくれたのは、食用作物 の関谷隊員。畑の畦道におかれた足踏みポンプの説明をしてくれる。50 ドルをポケットマネーで買い、 現地の人に利子をつけて返すよう指導しているとのこと。そうしないときちんと使いこなさないことが 47 多いのだという。さっそく子供がポンプの上に踏み始める。すると近くの沼にある水が、畑に流れ込む という次第である。 現地の子は手分けをして、この作業をする。無論靴など履いていない。遠くからもらわれてきた親戚 の女の子が一番、仕事をするという。要するに捨てられた子である。関谷さんによれば、現地の人は他 人のことを妬む気持ちが強く、なかなか指導にのりにくいという。多くの人で共同使用すればいいのだ が、それはだめなようだ。どうしても自分一人で所有したいということらしい。つまり、どこまでいっ ても個人の世界であり、協同組合的な思想が根本にないという。このことが村落開発の一番の難しさだ と言った。 これは文化の問題であり、もっとも厄介な点だ。彼らは相互扶助的な考えを持たないわけではなく、 困っている人に食事を与えることはよくあるのだという。その時になにもしないで自分だけ富を蓄積し ようとすると、最悪の場合、呪い殺されてしまうこともあるという。ウィッチ・クラフトというものを つくり、毒をもることもあるというから恐ろしい。 つまりザンビアの人々は、誰かが富を持つということに対して、かなり敏感なようだ。一族の中でそ のような人がいれば、皆で押しかけて、財産を食いつぶしてしまうということもある。だからこそ村を 良くしようとすることはなかなかに困難である。意識の内層までの変化ということになると、これは至 難である。全体に男尊女卑の傾向が強く、男はあまり働かない。もっともその日食べるモノだけをなん とかすればいいという意識に立てば、それほどあくせくすることもないが。 事実、一日中木陰に座っておしゃべりをしている男たちの姿をよく見かける。焦らない、あわてない ということがここでの生き方の根本なのだろうか。東洋人には全く理解できない、文化の深層である。 次に訪れたのが村落開発普及員の柿沼さんの実施している洋裁教室だった。ふっくらとした柿沼隊員 は、すっかり村の人気者で、皆に「カキ」と呼ばれて親しまれている。少し夕暮れに近い時間ではあっ たが、小さな建物の中では、女性たち数人が、一生懸命ミシンに向かって洋裁をしていた。一夫多妻の この国では年をとった女性から捨てられたり、他の人のところへいったまま、男性が戻ってこないこと も多いという。 そういう人の自立をめざし、少しでも現金収入があればいいということから、始めているプロジェク トである。しかし彼らには布を買う予算もない。ここでも隊員が自分のポケットマネーを出して、布を 買い、それを貸し付けていた。たとえ、1ドルでも現金が入ればそれでいいという発想のようだ。無論 技術は稚拙だが、それで彼らにとっては十分なようである。 ミシンはもちろん日本製でかなり昔のもの。電気がないので手回しと足踏み式である。これもJIC Aからの供与ということだった。子供がいても男たちは別の女のところへいってしまう。そしてそのこ とをあまりとやかく言わずに暮らしているという。この実態についてはこれがザンビアなのだと理解す るしかない。子供は重要な働き手であり、女の人は口減らしもかねて割合早く結婚し、家を出ていくと いう社会の構造がなおっていかない限り、寡婦の生きる道は厳しい。 さてそこから歩くこと 20 分。いよいよ村の広場に出た。太鼓の音が先刻から鳴り響いている。村中 の人が全て総出で歓迎してくれているのがよくわかる。さっそく踊り。これがアフリカだというエネル ギッシュなもの。本当にここまで来て、目の前で見ているのが信じられない。村の人があっという間に 48 踊りの渦の中に入り、広場は砂煙でよくみえなくなる。目の中に砂粒が飛び込み、喉ががらがらする。 とにかく数ヶ月、雨は全く降らないのだ。湿度は20%をきっている。 村長の話。皆静まり返って聞いている。再び踊り。そして詩の朗読。教育委員会のお偉方の話。その 度に司会者が笛を吹いて黙らせる。子供たちの大半は裸足だ。一緒に踊らないとつまらないと思ってい るのではないかと心配すると言われ、一緒に輪の中に入る。すぐに汗をかく。もう夕暮れだ。晩餐の準 備がしてある。メニューは鹿の足。毛がついたままだ。それにネズミの肉。これはハツカネズミのよう な食用のもの。頭から食べるらしい。さすがにこれはパス。あとは酒。どぶろくのようなトウモロコシ からつくったものだという。 子供たちが大勢見ている。彼らにとっては全く縁のない食事だ。ザンビアの人はシマをどんぶり2杯 ぐらい食べる。後は少しの野菜とテラピアと呼ばれる小魚。肉などは滅多にお目にかかれない。せっか くだから村長の家を覗く。いわゆるマッシュルームハウスだが、少し高級である。お嬢さんが出てきて、 どうぞ中に入れという。中は真っ暗。窓もなんにもない。ただの土間である。6畳あるかないかという ところ。ここに7〜8人寝るという。なにも敷かないようだ。風呂にも入らず、どのようにして暮らし ているのか、全く想像もつかない。しかし幸せとはなにか、つくづく考えてしまう。彼らの顔は一様に 明るい。明日への希望があるのかどうか。それもよくわからない。 子供たちはこれからどうなっていくのか。近くの小学校で、先生方と懇談会を持った。その席上、ど こから共通の話題を探せばいいのか、苦労した。それほどなにもかも状況が違う。石でできた黒板はあ ちこち剥がれ落ちている。教室には電灯もない。窓にはガラスもない。机も椅子も満足に揃っていない。 教科書もない。ないないづくしである。これで共通の話題を話し合うといってもどうしたらいいのか。 小学校の先生はセカンダリースクールを出ればなれるのだという。給料も遅配続きで苦しそうだった。 しかし子供たちの歌や踊りは楽しかった。お揃いの緑色の制服を買うだけでも、親にとっては大変だろ う。 村を出るときにはもう星が出ていた。真っ暗な道を歩いた。道がでこぼこである。自分たちで少しは 直そうとしないのだろうか。確かに雨期になれば赤土はぐちゃぐちゃでどうしようもないのかもしれな い。しかし少しは自分たちでやれることがあるのではないか。だが砂利を撒くには金がかかる。スコッ プ一つ調達するのにも金がかかる。 7 ジョージ・コンパウンドで見たもの プライマリー・ヘルスケアという表現はこの国で初めて聞いた。市内では急激な人口増加が続き、特 に低所得者居住区(コンパウンド)では住民の健康状態が悪い。その改善のために5人の日本人が働い ている。 最初に事務所でリーダーの斉藤さんより、全般的説明を受けた。下痢、マラリア、栄養失調、呼吸器 疾患など、病気の種類は多い。特に安全な水の確保が最優先ということで、JICAは水道を設置。だ が月1ドルの支払いを拒み、浅井戸を利用する人が多いとのこと。これが集団コレラ発生の原因と考え られる。また貧困対策として、職能訓練も実施している。これはミシンによる縫製が主である。 また毎週乳児たちの体重測定も行われている。彼らはグラフが書けなかったり、はかりの目盛りが読 49 めないこともあり、専任のスタッフがそれにあたっているようであった。 さて実際に 14 万人が住むというジョージと呼ばれるコンパウンドに入って見たものはただ驚きの連 続というしかなかった。掘ったて小屋のような家、裸足の子供、小さな店。テラピアという小魚に群が っている蠅の数。ここで一生暮らせと言われたらば、その場で卒倒してしまうだろう。子供たちはほと んどが学校へ通っていないという。汚れたままの服。それでもとにかくコンパウンドの中を歩いた。体 重測定をしているところを見学してくれという。 広場のようなところで会った妹尾隊員は保健教育の任務で、以前モザンビークにいたこともあるとか。 今の仕事は楽しいと語ってくれた。芯の強そうな女性だ。今回会った女性みなに共通していえることだ が、この厳しい環境の中でよくやっているなあというのが、正直な感想である。都会を毎日おしゃれし て歩き回っているような人ではとても我慢できないだろう。体力以上に精神力が強くなければ、できる 仕事ではない。 子供が秤にかけられている。定期的に体重をはかることで、病気の予防になるというのはよくわかる。 保健所のような施設があればいいのだろうが、ここの人はなかなかそのような施設にくることはないと いう。むしろ出張して、現場に出るということが大切なのだ。測定をしているのは地元住民の保健活動 家ということであった。このような人々がいなければ、医者不足を解消することはできない。日本の母 子手帳に似たシステムをとり死亡率の高い5歳未満児のカウンセリングを行う。 それにしてもコンパウンドの中は汚い。いたる所にゴミが捨ててある。これが雨期になると流れだし、 コレラの発生原因になるようだ。昨年も 618 件のコレラがこのジョージの中だけで発生したとのこと。 簡易トイレの改善、排水溝の清掃、ゴミ処理などやらなければならないことが、山のようにある。しか し男たちは何をしているのか。あまり勤勉に働いているようにも見えない。 子供たちが大勢集まっている広場では、何人かの若者が太鼓を叩きながら、啓蒙的な内容の歌をうた っていた。手を洗うことの大切さや、きれいな水を飲もうといった内容だという。これもPHCの活動 の一つである。すぐ近くにJICAの作った水道があった。清潔な水がでるという。しかしその使用料 をけちって、彼らはなかなか使おうとしない。月に1ドルで下痢をせず、コレラにもかからないのにで ある。多くの住民たちは、社会主義時代のなごりなのか、国に税金を払うという意識をもっていない。 そのことがまたこの国の発展を遅らせる要因にもなっているようだ。 8 感染症プロジェクト 引き続いて訪れたザンビア大学ウィルス研究所では、この国のもっとも深刻な問題であるエイズにぶ ちあたった。1992 年、設立されたこの研究所はアフリカにおける研究の最前線となっている。従来はア メリカやヨーロッパに血液をおくっていたものが、今ではここでは検査できる。 内部は病院の検査室そのものであり、ほとんどの器具、検査機械、測定装置にJICAのマークがつ いていた。これはかなり高価なものばかりだというのが第一印象である。また人材の育成にもこころが け、20 名の医師や技術者が日本で研修をうけ、200 人の地方の医者がここで研修をしたという。チーフ アドバイザーの沼崎さんは東北大を退官後、ここに来た。その他山梨医大や新潟大からも医師が派遣さ れている。 50 一日に一回シマを食べられればいいという環境の中で、血中のタンパク質が常に少なく、栄養不良で あるという。特にエイズの人が結核などを併発して非常になくなるケースが多く、そのために結核の検 査も迅速に行うと話してくれた。エイズは今日もっとも恐ろしい病気であるが、何人がHIVに感染し ているのかをなかなか知ることができないという。アフリカ全体、昨年だけで 400 万人の患者が発生し たといわれているが、この数字ももちろん正確ではない。ちなみに日本では 6,000 人。実際はその5倍 ぐらいはいると言われている。それでもこの数と比べてみると、この地域の特殊性がすぐに理解できる であろう。 2000 年にはポリオを撲滅するというスローガンとともに、日本の援助がこの分野にはたした役割の大 きさが実によくわかった。保健大臣がかつての同僚(ザンビア大学微生物学教室主任教授)ということ もあって、関係はすこぶる良好なようである。しかし試薬から検査器具まで全て日本のものであり、医 者の一人は特に試薬が常に不十分であると訴えていた。 この国のために定年後もがんばろうとしている日本人の医師がいることに感動したことはいうまで もない。ザンビア大学獣医学部を日本人のスタッフで全て立ち上げたことと並んで、大きな意味を持つ。 9 まとめとして 最終日、協力隊員や専門家との懇親会があった。無論、ホテルの中。入り口には無線機を持ったガー ドマンが立っている。治安の悪さ。それがザンビアだ。 席上JICAの石田事務所長はザンビアという国の可能性を熱く語った。今より少しでもよくなれば、 それはこの国のためになったということであると。全くその通りなのだろう。どこまでいけば終わりと いうことはない。たくさんの水資源を持ち、耕作可能な土地を持ち、やろうと思えばやれないことはな い環境を持っている。そこに少しでも種をまき、彼らの自助努力を喚起していくことで、この国はよく なれるはずだと語ってくれた。 何のための協力かというのは難しい。なぜ協力をしなければならないのかということにもすぐ結論は でないだろう。しかし同じ人間として何かをしなければならないという感覚は十分に理解できる。アジ アへの協力と違い、アフリカは日本にとっても遠い国である。それだけに真の援助とは何かということ が常に試されるだろう。パーティーに集まった多くの隊員や、専門家に暗さは微塵もない。そのことが 救いだった。 何もかも満ち足りている国を出て、病気の可能性や、身の安全というリスクを背負ってまで、異国で 何かをしようとする若者がいるというその事実があらためて重い。本当に頭が下がる。それもあまり大 げさに声を出してというのではなく、ごく草の根のレベルで自分にできるところから始めるという態度 がすばらしい。配属先でよく子供が死ぬのをみて、最初隊員たちはすぐに無線を使い、事務所に薬を要 求してくるのだという。しかし本部は絶対に薬を与えてはいけない。一人にやれば、全員にあげなけれ ばならない。それにもしその直後死んだりしたら、かえって恨まれるだけである。彼らの民間伝承によ る医療に任せた方がいいという指示をするそうである。そうした事実を何度も目にしながら、隊員たち はどんどん強くなっていくという。現実をありのままにみて、そこから本当の援助のあり方を学ぶ。た だのヒューマニズムだけでは真の援助にはならない。 51 今回の旅行は従来にない重い課題ばかりを背負わされ、正直いってかなり疲れた。同じ教育の現場に いるものとして、教育の大切さを肌身で知るとともに、ジェンダー、技術教育、言語の問題もあらため て考えるよいきっかけとなった。英語を学ぶことの大切さを痛感した次第である。今後ザンビアで学ん だことをさらに自分の中で発展させながら、教育の現場に戻していくことが大きな課題になるものと思 われる。 十年たってもこの国は変わらないという人もいれば、ほんのわずかでも変わるのならば、そのために 働きたいという人もいる。どちらが正しいのか、今の私にはよくわからない。その結論はこれからも考 え続けなければならないだろう。 青年海外協力隊東京OB会による 「中学・高校生のためのパラオスタディーツアー2000」 報 告 東京都立芝商業高等学校 竹山 哲司 (青年海外協力隊東京OB会パラオスタディツアー実行委員) 1.はじめに 青年海外協力隊東京OB会では、「日本人の忘れ物」「ちょっと昔の日本探し」「パラオでの日本再発 見」をキーワードに、西暦 2000 年1月にパラオ共和国へのスタディツアーを実施しました。 対象は東京の中学生や高校生で、申し込みにあたり「わたしの家族」「わたしが自慢できる日本の文 化(郷土の伝統など)」 「わたしが今いちばん気になること」という題で、エッセイを書いてもらいまし た。健康であること、食べ物の好き嫌いのないこと、どこでも眠れること、事前勉強会に参加すること を、参加の条件にしました。引率は青年海外協力隊東京OB会役員5名で、現職の高校教師や看護婦な どです。旅行費用は、往復の航空運賃、ホテル3泊、夕食1食、ペリュリュー島見学、空港とコロール 市内の送迎、空港使用料で、119,500 円に抑えました。他にはホームスティに関わる経費や食費として 1万円ほどかかりました。 東京都高等学校国際教育研究協議会をはじめ、東京都、国際協力事業団、協力隊を育てる会、青年海 外協力協会からも後援をいただきました。 パラオ共和国は西部太平洋に位置し、バベルダオブ島を中心とするパラオ諸島とその周辺の島々からな る、屋久島ほどの大きさの国です。パラオの歴史を振り返ってみると、1994 年の独立前は、スペイン、 ドイツ、日本、米国に統治・支配されてきました。1919 年から 45 年までは日本が、パラオを含むミク ロネシア地域を国際連盟の要請により、委任統治してきました。その頃のミクロネシア地域は「南洋群 島」と呼ばれ、多くの日本人が移住し、パラオの発展にも寄与しました。その日本統治時代も、太平洋 戦争が終わるとともに幕を閉じました。パラオ諸島はこの戦争で、史書に名を残すほどの激戦の地とな り、日本がパラオの人たちに多くの被害をもたらしたことも、けっして忘れてはならない歴史的な事実 52 です。 私たちの暮らしている時代は激動の 20 世紀などとも呼ばれ、多くの発明や発見がありましたが、一 方、戦争が世界中のどこかで今でも続いています。まもなく、西暦 21 世紀を迎えますが、私たちはど のような未来を作っていくべきでしょうか。技術が発達し、世界中が狭く感じられるようになってきま した。しかし物事の好き嫌いに個人差があるように、価値観も、国家、民族、宗教、そして時代によっ て大きく異なります。まさに、世界が狭くなればなるほどに、その多様性に戸惑うことになります。私 たちはその中で、公平に判断できる見方や考え方を養う事がとても大切ではないでしょうか。 パラオには、戦争という大きな迷惑をかけましたが、戦前パラオに暮らしていた日本人には立派な人 も多く、それが今でも親日的である要因のひとつです。現在のナカムラ大統領は、日系3世です。また 青年海外協力隊員として若い世代の人々が、このパラオで日本の技術や文化を伝える活動を行っていま す。パラオの人たちといっしょになって、汗を流して働く協力隊員がいることも、日本を近くに感じて もらっている理由のひとつかも知れません。私たちは、今の生活の中で、ちょっと昔の生活や歴史を知 る事があるでしょうか。学校で学ぶ歴史は、100 年以上前の、私たちの誰もが生きていなかった時代の 事がほとんどです。委任統治というつながりも含めて、ちょっと昔の生活や歴史を知り、パラオの人々 やパラオで暮らす日系人や日本人に触れながら、未来を担う若人に、私たちが住む国である日本のこと や自分たちの暮らしを見つめ直す機会をもってもらいたいと思いました。 このため、2泊3日のホームステイを組み込みました。ホームスティ先はバベルダオブ島南部のアイラ イ Airai 州で、主にアイライ州小学校の先生や生徒などのお宅に1〜2人ずつがお世話になりました。 パラオの小学校は、日本の小学1年から中学2年までに相当します。アイライ小学校は、教職員14人、 生徒数約 180 人で、千葉県の飯岡小学校から派遣された笹本紀子先生が協力隊員として活動しています。 ホストファミリーの経済的な負担は最小限にとどめるよう十分に配慮しましたが、結果としては、大歓 迎を受けかなりの負担をかけてしまいました。 2.参加生徒とその事前研究テーマ 参加者は、東京都高等学校国際教育研究協議会事務局の先生から推薦された生徒や、国際協力事業団 のエッセイコンテストの優秀者を中心に、17 名が集まりました。スタディツアーということで5回の事 前勉強会を行い、その中で事前研究にも取り組んでもらいました。以下は、参加生徒とその事前研究の テーマです。 曽根あゆみ(私立中学2年)・二見沙綾佳(同)パラオの気候風土、史跡、政治制度、言語と民族、歴 史 白尾瑞希(私立高校1年)パラオの食糧資源、伝統的な食文化最近の食生活、特色的な果物 宮田かなみ(都立高校2年)・早野真知(同)パラオの歴史、社会制度、地理、生物相、パラオ人の食 生活 53 佐藤久華(私立高校1年)パラオの経済の歴史的な背景、特に食糧の輸出入について 永江奏子(私立高校1年)パラオの民族構成、政治制度、日本の委任統治時代、米国の信託統治時代、 日本とパラオの関係 小島信彦(私立高校1年)土方久功「パラオの神話伝説」について 平良アイリーン(都立高校1年)日本とパラオの関わり方、パラオの言い伝え・神話、マネービーズ 野村明香(都立高校1年)パラオの学校教育制度、特にドイツ時代・日本時代・アメリカ時代の比較 小原隆志(私立高校1年)パラオの建築物、建設業、土地と住宅、エネルギー資源、水資源 駒崎恵理(私立高校1年)日本人小学校教師から見たパラオでの太平洋戦争 鈴江知子(私立高校1年)パラオの地理と歴史、太平洋戦争のペリュリュー島の攻防戦 森本裕子(私立高校1年) ・鈴江直子(同) ・和田絵美(同)パラオ人の水の使い方、現代の食生活、嗜 好品 麻生柳太朗(私立高校1年)パラオの自然、歴史、食文化 ▲ コロールのベラウ国立博物館にて集合写真 3.事前調査報告 青年海外協力隊東京OB会としては、初めて主催するスタディツアーなので、現地事前調査を2回行 いました。実行委員会などの都内での会合は、30 回を越えました。 1回目は 1999 年7月 21 日から 28 日まで、①JICAパラオ駐在員事務所の草野所長や吉田調整員 との打ち合わせ、②アイライ州小学校訪問、③Sabino Anastacio 国務大臣、Billy Kuartei 教育大臣、 54 Tmewang Rengulbai アイライ州知事への挨拶と協力要請、④コロール空港やパラオホテルの下見と安全 点検、⑤JOCVの利用医療機関や医師への挨拶、⑥ペリリュー島の下見などを行いました。 私は、7月 25 日から 28 日まで、Ignacio Rengulbai 家に宿泊しホームステイを体験しました。パラ オのほとんどの家屋は玄関がなく、すぐに居間に入るように作りになっており、浴室は屋内にもありま すが、たいていは屋外のシャワー室を使っています。Rengulbai 夫妻はともにコロール州の職員で、 Ignacio さんはマルキョクの酋長の継承権を持っています。夫人 Lin さんは、Miriam&Tadao Sakuma 夫 妻の娘で、Miriam さんは元小学校長、Tadao さんはパラオ高校 Palau High School の教師です。Palau High School は、パラオ唯一の公立高校です。 2回目は 11 月 23 日から 27 日まで、①現地での交通手段の確認、②食事の手配、③見学させてもら う青年海外協力隊などの活動現場の下見、④アイライ側とのホームスティ中のプログラムの打ち合わせ などを行いました。 4.事前勉強会 事前勉強会は、主催者が参加者といっしょになってスタディツアーが運営できるよう、参加者が企画 に対して受け身にならないように、工夫しながら進めていきました。会場は、青年海外協力隊広尾訓練 研修センターの研修室を借りました。 第1回は 1999 年8月 29 日(日)で、実行委員や参加者の自己紹介、参加者相互が打ち解けるための ゲーム、パラオについての概要説明、スタディツアーの趣旨や企画した経緯などの説明、旅行代金や保 険についての説明、第1回事前調査の報告、勉強会の今後の予定や事前研究課題などについての説明を 行いました。事前研究のテーマとして、実行委員会から次のような例を出しました。 ・パラオに残る日本文化(言葉、食べ物など) ・パラオ人の家族(暮らし、仕事、家族構成など) ・パラオ社会の特徴(共同体作業、酋長制、母系制社会など) ・戦前の日本人のくらし(どのような人が移民したのか、どのような暮らしと仕事をしていたのか、な ぜ沖縄からの移民が多かったのかなど) ・日系パラオ人の暮らし、社会的な位置づけ ・戦後パラオに住み着いた日本人の体験 ・日本人の旅行者(パラオへの影響、良い点・悪い点など) ・太平洋戦争のはなし(ペリュリューやアンガウルでの戦闘、コロールの空襲など) ・ドイツ時代と日本時代とアメリカ時代の比較(教育、産業、民政など) ・日本文化の紹介 ・自作の日本料理パーテー ・畑仕事やさかな取りの手伝いなど ・踊りや歌などの伝統芸能をまなぶ ・民話をまとめ絵本にする 第2回は9月 12 日(日)で、パラオからの国費留学生を講師に迎えての生活基礎講座やパラオ語講 55 座、事前研究の計画書の作成、今後の仕事の分担、太平洋戦争当時のパラオでの体験談、国際協力フェ スティバルでの仕事の説明などを行いました。 第3回は 1999 年 10 月2日(土)と3日(日)に、例年、日比谷公園で開催されている国際協力フェ スティバルに参加してもらいました。各ブースなどを見学する合間に、ブルキナ風焼き肉、ケニア風チ ャイ、各国の切手やアクセサリー類の販売など、東京OB会のブースの手伝いをしました。この売上金 の一部は、スタディツアーでの交流会などの費用に充当しました。 第4回は 11 月 14 日(日)で、事前研究課題の発表と質疑応答、実行委員からの補足説明、健康管理 についての説明、基礎的な旅行英会話の練習、パラオへ旅立ちに向けての心構えや諸注意などを行いま した。 第5回は 12 月 11 日(土)から 12 日(日)まで、国立オリンピック記念青少年総合センターに宿泊 して行いました。内容は、報告書の編集方針と執筆分担の確認、アイライ小学校などへのお土産など団 体の荷物の確認、第2回事前調査の報告、「しおり」の配布と説明、基礎的な旅行英会話の練習、阿波 踊りの練習、現地での仕事分担の確認、緊急時の連絡体制について、ホームスティの諸注意などです。 結団式は、第5回勉強会に引き続き 12 月 12 日に国立オリンピック記念青少年総合センターで、在日 本パラオ共和国大使館経済通商担当官 Hayato Sugiyama 氏、東京都生活文化局青少年課・郡山学課長、 東京都高等学校国際教育研究協議会会長・矢田部正照先生などをお招きして執り行いました。 5.現地での活動 1/3(月)の夕刻成田空港に集合し、グアムで2泊してパラオへと向かいました。 1/5(水)の朝、コロール空港に到着すると、アイライ小学校の8年生全員と笹本紀子隊員が、プ ルメリアの首飾りを用意して出迎えてくれた。初めてのパラオの光景と人々の歓迎ぶりに、参加者は興 奮に近い状態でした。午前は、JICAパラオ事務所表敬訪問の後、一部はアイライ小学校で野球道具 贈呈式に参加し給食をご馳走になりました。残りは高齢者センターを訪問し大橋隊員の活動を見学しま した。午後は、パラオ高校で和田弘子隊員の数学の授業に参加し、パラオディケアセンターで佐藤理恵 隊員の活動を見学し、パラオ海洋資源養殖センターで赤津澄人専門家からパラオでの水産資源養殖の実 態などの説明を受けました。夜は、パラオJOCV/JICAとの交流会でした。隊員の生の声を聞き、 将来隊員になろうという意志を固めた参加者もいました。隊員からは、参加者の事前研究の密度の濃さ に驚嘆する声も聞かれました。 1/6(木)は、ペリリュー島で、戦没者墓地、日本軍の倉庫跡や司令部跡、平和記念公園、日本軍 大砲の残骸、日本軍トーチカ跡などを見学しました。戦没者墓地では、厳かにお祈りしました。事前学 習の成果か、平和や人命の尊さを考え、戦争の恐ろしさが実感できたようでした。帰路は、ロックアイ ランドを通り「パラオ松島」の絶景を満喫し、魚への餌付けを楽しみながら戻ってきました。夕食では、 タピオカやタロイモも食べました。 1/7(金)からは、2泊3日のアイライでのホームスティです。ホストファミリーとの顔合わせの 昼食会後、それぞれのホストファミリー宅へ向かいました。途中、Tシャツやゴムゾウリを買ってもら った参加者もいました。いったん家に着いて荷物を置いた後、ホストファミリーの自家用車で、浄水場 56 やダム、政府要人が集まる夕食会、ワニの飼育場、アイライのアバイ、州知事官邸など、それぞれいろ いろなところへ連れていってもらいました。 1/8(土)は、アイライの人々の手配した漁船4隻に乗り、アイライのロックアイランド巡りに出 発し、海水浴や海岸でのピクニックを楽しみました。夜は、各自の工夫で、伝統的な遊び道具や写真な どを使い、日本の文化などを紹介しました。 1/9(日)は、ホースティ最終日ということで、アイライの集会場でお別れの合同昼食会が行われ ました。会場に着くなり、涙ぐむ参加者もいました。パラオ側の参会者は老若男女あわせて約 100 名、 日本側はスタディツアー参加者・引率者 23 名、JOCV隊員4名、草野所長などでした。日本舞踊を 披露し、阿波踊りをパラオの人々も輪に加えて一緒に踊りました。長老たちも、ゆっくりした足取りで はあるが、輪に加わってくれました。アイライ出身の歌手の歌にあわせて、ダンスタイムとなりました。 昼食会が終わり、コロールへ戻るバスに乗車するとき、パラオの長老や子どもたちが日本語で、「上を 向いて歩こう」や「蛍の光」を合唱してくれました。参加者は別れを惜しみ、皆涙していました。たっ た3日間ですが、涙するほどの別れができたということは、それだけ密度の濃い、温かい交流ができた ことの証でしょう。翻るに、日本での日常生活の中では果たして、涙して別れるほどの出会いをどれだ け経験しているのでしょうか。 1/10(月)の未明、空港まで来てくれたホストファミリーに見送られながら、これといった事故や 病気もなく、全員無事に帰国の途につきました。グアム、名古屋を経て、午後には無事東京へ戻りまし た。 6.参加した高校生の感想文・事前研究レポート アイライでのホームステイとマネービーズ 東京都立九段高校 1 年 平良(タイラ)アイリーン ホストファミリーと初めて会ったのは、合同昼食会です。それぞれのホストファミリーと私たちの名 前が呼ばれ、それが初めての対面でした。私のホストマザーは、レイモンドさんという人で、合同昼食 会後、彼女が勤めている教育省や他の省の職員たちが集まっている「ガバメントパーティー」に連れて 行ってもらいました。それまで、お互い緊張していて余り喋れなかった分、その場のアットホームな雰 囲気と一緒になってやっと安心できました。コロールからアイライのホームステイ先へ行き、とうとう 家に着きました。私が、「よっし」と気合を入れたと同時に、かわいい女の子たちがにこにこして集ま ってきたのです。私が考えていた自己紹介や想像していたシュチュエーションなんてどうでもいいくら いに、彼女たちはすぐ手をつないでくれたのです。本当に小さな子がすぐに私たちを受け入れてくれた というのは、私にとってその時とても大きなものでした。今、日本に帰ってきてもすべて鮮明に覚えて いることの 1 つに、その日の夕方の事があります。4人の女の子のうち2人は、ホストファミリーのゴ ルダとチェルダの友達でした。その4人と私たち2人はちょっと遊ぼうということで、近くにメンバー が泊まっている家へ行こうとてくてく手をつないで歩きました。お互いの名前を覚えあったりちょっと した事で笑ったり、その家に着いた時もその家の人はすぐに受け入れてくれました。帰り道、雨が降っ てしまい、どこか屋根に隠れようと待っていた時、ワニが出てきたらどうしようかとか、サンダルをは 57 いているものだからビショビショになってしまった事、いい匂いの花を採ったりした事、私にとってそ の時初めて本当に少しパラオの人たちに触れた時でした。彼らは、年齢も国籍も関係なく、友達として 迎えてくれていました。 その晩は、お母さんの手料理をみんなでベランダのテーブルに運び、夕食を食べました。チキンにご 飯、タマゴサラダにおしるこ。どれもおいしくて、それが伝わったのかみんながニコニコしていました。 私たちは、写真などを使い自己紹介しました。その時、ホストファミリーが、とても自分たちのことを 分かろうとしようとしてくれていることがとてもうれしかったです。2泊3日をどれだけ私たちにとっ て深いものにしてあげようか、いつも考えてくれていました。それと同時に、パラオの人たちの生活を できるだけ私たちに知らせようともしてくれました。シャワーはお水、普段子どもたちの履き物はサン ダル、11 歳のゴルダが運転する車のドライブ、ちょっとした生活の違いから大きな生活の違いまで、パ ラオの生活に触れることが出来ました。けれども、私が一番ホームステイで得たことは、彼らと自然に 接している時に感じる彼らのやさしさ、温かさ、強さ、大きさという「心」です。パラオの人たちの「心」 がホームステイを通じて学んだもので一番大きなものだといえるでしょう。それは、寝る時も起きた時 もいつもふざけて笑っているチェルダや、いつも全体を見ながらやさしく笑っているお姉さんのゴルダ、 子どもの 1 人として強く見守ってくれたお父さん、お母さん。そしてその中で、本当に幸せにのんびり と早寝早起をして、朝昼晩とキチンと食べ、走り回って泳ぎ回って学んで生活したことは、このホーム ステイで感じたことです。ロックアイランドやピザ屋さんなどいろいろなところに連れていってもらい ました。 自然と、本来はこうあるべき健康的な生活をさせてもらいました。まるで、夢だったかのような元気 いっぱいの生活や、「もう朝だよ」と花を持って伝えに来てくれていたホストマザーの事など、これか らも大切にして行きたい。そして、ホストファミリーは何よりも私の家族だということを思っていきた いです。 <事前研究レポート> 〜マネービーズについて〜 今回スタディツアーを通して、私が調べようとしたものの 1 つに「マネービーズ」があります。マネ ービーズの最初の記録は、1783 年のイギリスのヘンリーウィルソンによるものです。マネービーズはパ ラオで両替システムとして使われた珍しいもので、子どもの誕生、死、結婚、家を建てるときなど、伝 統的風習の中で、使われました。このシステムは、約1世紀続きました。 パラオの女性にとってマネービーズをつけていることは、金持ち階級の出身であることか、その階級 に嫁いだことのしるしなので、これに感謝して正しくつけます。ビーズにもいろいろな種類があり、バ エル、クルク、テロベなど色、形、質、価値がそれぞれ違います。私が面白いと思ったのは、若い女性 が小さい丸いビーズをつけるのに対し、妊娠中になるとオンバエル(創造・作ること)を意味するカブ のビーズをつけます。パラオの人たちはマネービーズを付けるとき、黒い紐に 1 つのビーズをつけてい ます。お年寄りは、タッキーと呼ばれる尊敬される金色のビーズをつけたりします。 マネービーズにはいろいろな伝説があります。女の子が鳥をガラルドとアンガウルヘ送りその鳥が石 に変えられてしまったとか、ゲロド島に船がとおる時、いつも虹で覆われていてその船長がある鳥を捕 58 まえようとしたら、死んでしまいそれが緑のガラスの玉、今でいうタブになったそうです。これらは、 バイなどに描かれています。こういった深い意味を持つためか、現地の人々はマネービースを見せるこ とを好みません。そして、どのように手に入ったのか、どのくらい持っているか知りたがりません。 実際私自身も現地であるおばあさんに聞こうとしたところ、私が日本で調べたただお金の価値のある マネービースという価値観と現地の人のもつマネービースに対する深い価値観が違い、話してくれませ んでした。しかし、私もマネービースをもらった 1 人なので、これからもパラオの人たちの持つ意味を 調べていきたいです。 (2)パラオスタディツアーに参加して 東京都立国際高等学校 1年 野村明香(ノムラハルカ) 今回のツアーは、本当にいろいろな意味での勉強ができたツアーだったと思う。まず、第二次世界大 戦に関する部分では、パラオだけでなく、思いがけず滞在することのできたグアムでも学ぶことができ た。日本では、原爆についてや、無差別な空襲の被害などがクローズアップされているが、グアムの国 立太平洋戦争歴史公園で見た映画では、全くの奇襲攻撃である真珠湾攻撃によって戦争が始まった、と いう取り上げかたをしていた。高校の授業で、日米の戦争観の違いについて学んではいたが、実際に自 分の目と耳でたしかめてしまうと、改めて、公平に歴史を知るということは難しいことだと感じた。そ してパラオでは、まず屋外に戦争の遺物がそのままの形で残されていることに驚かされた。特に、赤く 錆びた戦車や高射砲などは、博物館などで保管した方がいいのではないかと思うくらいの状態だった。 しかし逆に、そのような戦争の傷痕をそのままの状態にしておくというこの状況こそが、パラオの 人々の戦争に対する思いなのかもしれないと思った。慰霊塔の前にはいくつかの墓碑があり、兵士たち の戦死した当時の年齢も刻まれていて、それを見ると、こんなにも若くして死んでしまったなんて、さ ぞ無念だっただろうと心が痛んだ。今は美しいオレンジ・ビーチも、今こうして自分が立っているこの 場所ですさまじい戦闘が繰り広げられ、多くの兵士たちが死んでいったのだと思うと背筋が寒くなった。 それは、今まで日本では経験したことのないほどの生々しい戦争への嫌悪感だった。それと同時に、同 じくらい強く、この平和を守らなければならないとあらためて感じた。 そして、このツアーのメインとも言えるパラオの人々との交流の中にも、いろいろと考えさせられる ことがあった。ホームステイ初日、ステイ先のお父さんの生まれた村に連れていってもらった時のこと だ。だいぶ荒廃しているその村の、1軒の家から小さなおばあさんが出てきて、ステイ先のお母さんと 二言三言話したかと思うと、私たちに向かってなめらかな日本語で話しかけてきたのだ。今年83歳に なるというそのおばあさんの日本語は、だいぶ忘れてしまったとは言いながらも、私がパラオで聞いた 中でもっとも流暢な日本語だった。さらに、もっと奥の家のおばあさんもすばらしい日本語で「貧しい 村、貧しい暮らし。日本から来たら驚いちゃうでしょう。日本はきれいだから。」と私に言った。私は 「そんなことはないです。自然がきれいだから。」と言うのが精いっぱいだった。失礼な言い方かもし れないが、こんなにも山奥の村で、お年寄りが 50 年以上昔に習わされた言葉を、少しもつまることな く使って自分と会話しているという事実が、私にとってはとてもショックだった。そして、このような 日本語教育を行った当時の日本がおそろしく感じられた。 59 でも、楽しい思い出も多い。アイライ小学校やパラオ高校では、ほぼ同年代ということもあり、良い 交流ができたのではないかと思う。特に小学生は好奇心のかたまりで、私たちとパワー全開で交流して くれたのが、私はとても嬉しかった。日本から持っていった野球道具などの贈呈式のあと、一緒に給食 を食べたり、バレーボールをしたり、校舎を案内してもらったりと、時間の経つのがとても早く感じら れた。だが、なんと言っても楽しかったのはホームステイの3日間だった。私と、もう 1 人のメンバー がステイした家は、回りに他の家が 1 軒もなく、生活用水は雨水、お風呂は水だけが出るホース、とい う日本とは全く違う環境で、とても新鮮だった。また、ホームステイ2日目には、パラオの伝統行事オ メスルに参加するという貴重な体験もできた。これは、無事第一子の出産を終えた母親が親戚一同の前 に登場する、というもので、陽気なパラオ人の気質の表れている楽しい儀式だった。他にも、自家用の 船を海の真ん中にとめて釣りをしたり、誰もいないビーチで泳いだり、日本では絶対にやれないことを たくさん経験することができた。最終日、ホストファミリーとのお別れパーティーもとても楽しかった が、その後の別れはとても辛いものだった。3日間という短い時間でも、かけがえのない時間を共に過 ごし、それぞれのホストファミリーとみんなが本当の家族になれたと感じたのだと思う。 また、このツアーに参加したメンバーとの関わりも、このスタディツアーにおいて大きな意味を持っ ていたと思う。17 人の仲間、6人の引率の方々、これだけの大所帯でいれば、自分と価値観の同じ人、 違う人、相性のいい人、悪い人いろいろなタイプの人がいて当然だろう。実際、このツアー中にメンバ ー同士でうまく意志の疎通がはかれなくなったこともあったが、それをそのままにせず、メンバー全員 で話し合いをして、お互いの関係を改善することができたことで、改めてコミュニケーションの大切さ を知ることができた。 このパラオスタディツアーを通して、本当にたくさんのことを学び、たくさんの貴重な体験をするこ とができた。これからの日本での生活の中でも、このかけがえのない経験と出会いを大切にしていきた いと思う。 最後になりましたが、青年海外協力隊東京OB会の皆さんをはじめ、このスタディツアーに関わった すべての方々に感謝します。どうもありがとうございました。 7.ミクロネシア地域の教育について 以下の文は、「パラオの歴史」の著者である Elisabeth Rechebei さんの 1999 年 12 月2日のお話を、 青木公さんがまとめてくださったものです。「パラオの歴史」は、パラオの高校や専門学校の歴史の教 科書で、1997 年に出版されました。Rechebei は北マリアナ(サイパン島など)の文部省の局長で、父 はサイパン人、母は日本人で、夫はパラオ国務省の漁業交渉担当官です。 (1)スペイン植民地時代(西暦 1899 年まで) ミクロネシアの人々のキリスト教化につとめた。 1669 年に初めて、男性のみを対象とする学校が開設された。 (2)ドイツ植民地時代(西暦 1899 年から 1914 年まで) 男女とも6歳から 13 歳の子どもを対象とする、公立学校が開設された。 学習よりも、勤勉さや労働意欲を身につけることに、重点が置かれた。 60 (3)日本委任統治時代(西暦 1918 年から 1945 年まで) 第1次世界大戦中から、日本海軍が、日本語、唱歌、算術を教え始めた。 1918 年には、8歳から 14 歳までの男女を対象に、3年制の公学校が開設された。1日6時間の授業 で、日本語、地理、修身(道徳)、算術、体操を教えた。日本の価値観を教え込むことが目的であった。 ミクロネシアの中の大きな6つの島にしか公学校はなかったため、小さな離島からは子どもだけを連 れてこようとした。就学率は約 50%であったが、パラオではほぼ全員が公学校に通っていた。 1930 年代からは日本からの移住者が増え、ミクロネシアの人々向けと移住した日本人向けの2本立の 公教育になった。ミクロネシア人向けの公学校は3年制で、さらにその上に2年制の補習科があった。 パラオだけは、補習科の上に2年制の木工科があった。日本人向けの小学校は6年制の尋常科で、その 上に2年制の高等科があった。 日本人とは区別した教育であったが、パラオ人を含めミクロネシア人に、教育が大切であるという考 え方を根付かせた点は評価できる。 ▲ ペリリュー島にて、旧日本軍の戦車の残骸 (4)米国信託統治時代(西暦 1945 年から 1980 年代まで) 太平洋戦争後、ミクロネシアの人々はまず米軍に、家屋の復旧に先駆けて、学校建設を要求した。日 本時代に比べ、3倍の数の学校が開設され、離島でも学校教育が受けられるようになった。ミクロネシ ア人教師の養成に力が入れられ、米国で高等教育が受けられるように、奨学金制度ができた。 1960 年代後半には、アメリカ平和部隊(Peace Corp)が活動を始め、英語(米語)を普及させた。 (5)独立後 米国の信託統治領であったミクロネシアの大部分はすでには、マーシャル諸島共和国、ミクロネシア 連邦、パラオ共和国として独立した。現在では、小学校の3年生までは英語と母語(ミクロネシアの言 語)で教育が行われているが、4年生以上はすべて英語で行われている。学力試験なども米国と同じ基 準で行われているため、独立後であっても、学力が低いと見られてしまう。米国からの援助では、校舎 の建設費と教師の人件費しかまかなえないため、教材が不足し、ミクロネシア人としての教育ができな いままである。 高校進学で、よりよい職を得ようとする家庭が多い。公立学校は学力水準が低いと見られるため、20% ほどの子どもは私立学校に通っている。外国で高等教育を受けても(大学を卒業しても)、弁護士と医 師以外の職は、母国にはほとんどない。最大の雇用主は、政府である。民間企業は少ないので、ミクロ ネシア人(マーシャル 56,000 人、ミクロネシア 108,000 人、パラオ 17,000 人)のうち、25,000 人は外 61 国で働いている。 4つの外国統治を教育について比較するのは、難しい。日本は教育の大切さを根付かせたこと、米国 は教育の機会を広げミクロネシア人の教師を育てたことが、評価されるであろう。ミクロネシアは経済 的に自立していないので、ミクロネシア人のための教育ができないでいる。「パラオの歴史」は、ミク ロネシア人によって書かれた初めての教科書だが、英語で書かれており、米国の援助で出版された。 <参考> ミクロネシア3カ国の経済水準の比較(一人あたりのGDP) パラオ 8,000 米ドル ミクロネシア連邦 1,900 米ドル マーシャル諸島 1,700 米ドル トンガ王国 1,800 米ドル 日本 35,000 米ドル 8.パラオ公学校 校歌 (1)みいつかしこき そりてたてる まなびやは (2)てんけいうすき れらがめにも すめらぎの ひごとにつどう このしまに ひはさしぬ 天皇の 学舎は 我らの庭ぞ (2)天恵薄き ぬ 皆学舎の この島に 賜ぞ もうじんのごと 深き恵みの 露承けて あな嬉しやな やしのはそよぐ あなうれしやな うまれきて たまものぞ 椰子の葉そよぐ そ うれしやな にしもひがしも あなうれしやな このおかに しらざりし わ たのしやな この丘に そそりて立てる 嬉しやな 盲人のごと産まれきて あな嬉しやな つゆうけて われらのにわぞ みなまなびやの (1)御威光畏こき 日毎に集う ふかきめぐみの 西も東も 知らざりし 我らが眼にも 日は差し 楽しやな 9.日本統治時代のパラオの学校の沿革 大正3(1914)年 第1次世界大戦勃発し、日本は連合国側にたって参戦した。帝国海軍は、ドイツ 領南洋諸島を占領した。 大正4(1915)年 南洋群島小学校規則の制定に伴い、小学校としてコロールに設立された。 大正7(1918)年 小学校を島民学校と改称した。パラオでは、ペリリュー、アンガウル、ガラルド に分校が置かれた。 大正9(1920)年 南洋群島の人口は約 52,000 人で、そのうち日本人が約 3,600 人であった。 大正 10(1921)年 臨時南洋群島防衛隊民政部をトラック諸島夏島からコロールに移した。 大正 11(1921)年 南洋庁小学校規則および公学校規則が施行された。パラオでは、コロールにパラ オ尋常小学校が、コロール、マルキョク、ペリュリュー、アンガウル、ガラルドに公学校が置かれた。 62 コロールとアンガウルには、医院と郵便局も置かれた。 昭和 10(1935)年 南洋群島の人口は約 10 万人で、うち日本人・朝鮮人・台湾人が約5万人であっ た。サイパン尋常小学校に、御真影が御下賜された。 昭和 11(1936)年 アンガウル島にアンガウル尋常小学校、バベルダオブ島にガルドッグ尋常小学校 を設置した。 昭和 12(1937)年 バベルダオブ島アイライ村にアイライ尋常小学校、同アルモノグイ村にガルミス カン尋常小学校を設置した。 昭和 15(1940)年 コロールに南洋神社が建立された。 昭和 16(1941)年 国民学校令により、小学校は国民学校と改称された。 昭和 19(1944)年3月パラオ群島空襲。9月ペリュリュー守備隊玉砕。 昭和 20(1945)年8月日本、太平洋戦争に敗戦。 アフリカの女性教員たちとの出会い JICA青年招聘事業合宿セミナーに参加して 報 告 東京都立玉川高等学校 濱砂 千夏 アフリカというところは、いつもニュースや本の中の世界であった私にとって、アフリカ大陸の 18 カ 国からはるばる集まった先生方との 2 泊 3 日は、もしかすると今年一番のイベントになりうる、そんな 貴重な体験であった。 1.プログラムと合宿セミナー概要 JICAが実施する技術協力事業のひとつに「青年招聘事業」というのがある。開発途上国から、そ の国の将来を担う若者たちを専門分野別にわが国に約1ヵ月間招き、それぞれの専門分野について学ん でもらいながら、民間の日本人青年との合宿やホームステイ体験などのさまざまな活動を通じて、相互 理解と友情を築くことを目的としたプログラムである。 今回私が参加したのは、アフリカの女性教員 24 人との合宿セミナーであった。 それは、文字通り「合宿」だった。とはいえ、相模灘を見晴らせる絶景と、梅見、晴天、温暖、とお もてなしにはこの上ない恵まれた条件の中、2000 年 2 月 11 日(金)から 13 日(日)の日程で、伊豆は 熱海のMOA瑞雲会館という研修施設で実施された。日本人参加者は、アフリカ側と同数の 24 人(プ ログラムコーディネーターや通訳などは除く)で、もちろん全員女性。約半数が現役の教員、残りは民 間や官公庁からの社会人と大学生および院生で、職業構成が多岐にわたっていたのが特徴的だ。また年 齢的にも、アフリカ側が 30 代中心であったのに対し、日本側に 20 代から 40 代までの幅があったこと は、単なる「異文化間交流」の枠にとどまらず、「世代間交流」(といっては大げさか?)的な要素もあ 63 って、個人的には大いに楽しめた。 内容は実に盛りだくさんで、公的には、レクリエーション、グループ別ディスカッション、スピーチ 発表、交流パーティ、私的なところでは、食事や公衆浴場(温泉!)といった多様な場面で、異文化間 コミュニケーションをはかることができたと思う。 2.アフリカの参加者たち すばらしい!の一言。とにかくアフリカ、日本ともに良き人材に恵まれ、いい刺激を受けられた。だ が、アフリカ参加者のすばらしさは、われわれ日本人たちを超えていたかもしれない。とりわけ、時間 厳守の姿勢や、協調的取り組み、そして女性として、母として、教育者としての自信と責任感あふれる 言動、その成熟ぶりなどが印象深い。私が感じたこのような面は、彼女たちがその国のいわばエリート であること、また平均寿命が日本と比べてはるかに短く、30 代となれば多かれ少なかれ、立派に責任あ る地位につくというあちらの事情を抜きには考えられないことだが、やはり、見習わなければならない ことが多かったと思う。 彼女たちの出身 18 カ国であるが、地図を見ていただきたい。主にイギリスの植民地支配を受けた歴 史を持つ国々だが、参加者それぞれが背負っている文化、宗教、社会、歴史は地図の広がりのごとく多 様である。共通項をあげるとすれば、 「女性」「教員」「英語」これくらいではなかったか。そんな中で、 エリトリア出身者一人だけが不適応をおこしていた。今回初めて知ったことだが、この国はわずか 7 年 前にエチオピアから独立したばかりで、もともとはイタリアの支配下にあった、ということである。不 適応の原因はいくつか考えられると思うが、その大部分は「英語力」ではなかったか。彼女の方に幾分 かでも英語の基本的会話能力がそなわっていたら、こちらに体調不良や、自分の気持ちなどを伝えられ ただろうに。おそらくエリトリア人と知り合って話せるチャンスというのも、めったにないことだとす ると、少々残念だった。 とにかく、これだけの地域からメンバーを集められるJICAの組織力には感服する、と同時に、事 業の運営規模の大きさを考慮に入れると、上記のエリトリア人のようなパターンもたまには出てくるの かもしれない。(彼女に関しては、あくまで 2 泊 3 日という限られた時間と空間におけるごく私的な観 察だということをここに記しておく。) もう一つ、ついでに付け加えさせてもらえるなら、「エジプト」出身者がいたことが驚きであった。私 の理解では、エジプトはアラブ圏だ。正式国名も、「エジプト・アラブ共和国」のはず。中東に含めず、 アフリカ(大陸の国々)として一括りにするのは、単に事務処理上のことかもしれないが、大雑把すぎ て、細かな配慮に欠けていると感じた。とはいえ、私がこのエジプト女性と図らずも懇意になれた最大 の理由は、彼女が他のアフリカ勢からぽつんと一人、(上記の事情で?)やや孤立気味にあったことで はないかと、かえって偶然のめぐり合わせというものに大いに感謝している。ちなみに、すでにこの夏 にはエジプトの彼女の実家でのホームステイが私を待っている。 3.文化紹介の場 このような交流活動には、互いの文化紹介なるものが必然的についてまわる。両陣営とも皆がそれぞ 64 れの持ち味を生かし、できる範囲で積極的に関わっていた姿勢に私は感動した。日本側の出し物は、浴 衣に身を包み、「桜」と「花」の 2 曲をコーラス。一方、アフリカ側のプレゼンテーションは、色鮮や かな民族衣装ショーに、セイシェル出身のダンスの先生を中心に、多様な地域の歌と踊りを披露してく れた。実はこの中で、私にとって小さな感激があったのだ。わずかな練習時間で、われわれ日本側は2 部合唱を試み、うまくハモれたのだ。胸を打つ歌詞とメロディ、それを皆がわずかの練習時間でシェア できるという、小学校からの音楽教育の積み重ね、またその歴史や日本の学校教育という制度、ごく当 たり前のそんなことに想いを馳せながら、つい胸が熱くなってしまった。歌を歌いながらジーンとなっ た久々の体験。歌は心で奏でるもの。だが、歌う側がいくらこうでも、受け手に伝わらないと相互交流 は生まれない。日本人のコーラスは、アフリカ側にどう響いたのだろうか。 そして、何と言っても、さまざまな文化背景をもつアフリカの参加者たちが、その多様性を殺さずに、 しかも一つのまとまったプレゼンテーションを提示してくれたことに、私は、彼女たちのすばらしさを、 ここで最も感じ取った。 4.もう一つのアフリカ この体験は、私の中のアフリカを一挙に身近な、バーチャルでない、リアルな存在としてくれた。ま た、想像していたとおり、あらゆる意味で「違い」を実感した。そしてこの「違い」には、私の想像し ていたのとは「違う」という意味での「違い」も含まれるのだ。 というのも、確か本のタイトルにもあったが、「本当にアフリカは貧しいのか」という素朴な疑問も 生じたからだ。ここに「アフリカ」として一括りにしてしまう危険性と、「アフリカ=貧しい」という 図式をそのまま鵜呑みにし、ある程度それを期待してしまうこちら側の単純さ、狭量さ、認識の甘さが あると思う。ほんの一例だが、セイシェルは生活レベルをデータで見る限り、途上国と呼ぶには相応し くない一人当たりのGNP水準である。実際、彼女らとの会話でわれわれとの生活感覚が似ていること が想像できるのだ。ところが、マラウィという国では事情が違う。データによれば、GNPはセイシェ ルの 38 分の1。しかし、マラウィ人の一人は、今回の来日で車(中古車だが)を購入していったとい う。 私の先の疑問は、物質的な面だけに向けているのではない。家族を大切にし、与えられた生活環境の 中で精一杯、がんばっている参加者一人一人と意見を交換しながら、「毎日ストレスにさらされ、ゆと りのない暮らしを余儀なくしているエコノミックアニマル国、日本と比べて、一体どこが貧しいのか」 と思わざるをえなかったのだ。 5.提案 さて、ここでささやかな提案をしたい。着物についてである。実を言うと、これは私の今回の反省も 込めている。日本の文化紹介アイテムとして、着物は欠かせない存在だ。今や誰もが携帯電話を持って いるように、「一家に一台」ではなく、「一人に一枚」、簡単に身に付けられる素材のものがあればいい な、と思う。また日常着として復活しにくいのならば、せめてこのような交流の機会こそ利用しない手 はないだろう。今回のパーティ用に浴衣を用意できなかった人は、強制ではないが研修所の浴衣で代用 65 するということがあった。しかしあれはみっともない。寝巻きでしかない。私事になるが、私は宿の浴 衣は着たくなかった。今から思えば何とも大人気ないことで、皆の協調性にケチをつけたと済まなく思 っているが、美しくないものを見せる必要は無いのだ。色とりどりの浴衣姿の日本人女性は、前もって ちゃんと準備していた心がけも見事だったし、また当日も実に艶やかで美しかったと思う。私も次回か らは多少面倒でかさばっても、着物(よそ行きの浴衣)を持っていくことにしよう。そう、早速、今夏 のエジプト旅行から実践してみよう(暑そうだな〜)!皆さんも、ぜひ、このようなハレの場、文化交 流の場に積極的に着物を纏って参加しようではありませんか。 6.感謝の気持ち 最後に、もう一言。「いつかアフリカに行ってみたい」と事あるごとに夢の種を蒔いていた私であっ たが、ちゃんと心にとめて、さりげなくその実現可能な方法を提供してくれた小川高校の高島みゆき先 生には、とても感謝している。私にとって今回の最初の dream provider である。また、実際の受け 入れ活動を担当した DAY(財団法人ユースワーカー能力開発協会)スタッフの方々や、有能な通訳の方々、 そして参加者の皆さん、すべて、すべてありがとう。いつか一緒にアフリカをお訪ねしましょう! 「アフリカ女性教員訪問」 報 告 東京都立小川高等学校 高島 みゆき 昨年度のヴェトナム教員の訪問に引き続き、JICAの青年招聘の一環として、2000 年 2 月 15 日(火) にアフリカ女性教員 24 名(英語圏 18 カ国)が小川高校を訪れました。単に見学だけで終わらないよう、 出来るだけ生徒との直接会話したり、体験できる内容に工夫しました。また、訪問日が 2 月いうことも あり、暖房の使える場所使うよう配慮しました。内容は以下の通りです。 10:00〜10:20 学校の概要説明。歓迎の横断幕や 各国の国旗作りも準備もした。 10:20〜11:20 校内見学、生物実験(ウニの受精 と発生) 3 グループに分かれ、校内の施 設や授業を見学。 理科の先生には、 ウニの実験を実際に体験。初めて卵 割を見て感激。 11:30〜12:40 (4 時限) 英語の授業で異文化交 流 <各教室>1 年 2 組、4 組、6 組。 生徒 5 人のグループにアフリカの教 66 員が 1 名ずつ入り、グループディス カッション。予め、質問を考えさせ ていた。また、アフリカの先生の「漢 字の名前」も予め考えさせておいた。 生徒はアフリカや日本のこと質問 したり、お手玉、折り紙、けん玉、 納豆、梅干など日本の文化を紹介し、 盛り上がっていた。 <生徒の感想> * 外国人と話すのは初めてで、緊張した。黒かった。女子校生よりも黒かった。 * はじめ、黒板の前にアフリカの人が並んだ時とてもドキドキした。自己紹介をしていくと、日本語 で自己紹介をしてくれた人もいて、なんだか少し安心した。私たちの班にきたクリスチィンさんは「あ りがとう」とか日本語を話してくれて嬉しかった。質問する時、紙を見ながらでも上手く読めず、緊張 してしまって、大きな声がでなかった。でも、クリスチィンさんは一生懸命に私の口の動きを見ていた。 私は目をみて話せるように努力した。隣の班からおせんべいを分けてもらった時「Senbei is made from rice」 と言ってみた。すると意味を分かってくれたらしく、「oh!」と驚いていた。たったこれだけ でも、英語が通じたことがうれしかった。50 分という時間はあっと言う間に過ぎてしまった。もっとた くさん話をしたかった。 放課後、私たちのブラスバンド部は彼女たちのために演奏をすることになったいた。数日前に私がソ ロをやることになった。すごくドキドキしていた。ソロを吹ききって安心した。その後、彼女たちがダ ンスを踊ってくれた。リズム感がすごいことに気づいた。うちの部とは大違い。曲にあわせて体を動か すことでこんなにもリズムが感じられるのには驚いた。うちの部にもあんなノリがあったらいいにのと 思った。今回アフリカの人が来てくれたことで、私は英語を話せるようになりたいと思った。普段、学 校で教科書の英語を訳すだけじゃいけないと思った。他の国の人々と接しなければ、英語は見につかな いと思った。もし、来年こういう機会があるのなら、それまでに英語をもっと勉強して会話がもっとた くさんできたらなと思う。 <教員側の感想> * 生徒 5 人に 1 人のアフリカ教員が入ることで、どの生徒も積極的にかかわらなければならない状況 が、生徒を主体的にさせた。どの生徒も片言の英語で何とか通じさせようと努力していた。 * 予め、アフリカの国のことや質問内容を考えていたので、交流がより深まった。予想以上に生徒は 積極的で楽しそうだった。アフリカの先生方も何とか理解しようと一生懸命だったのが生徒の心が楽し くなった原因かもしれない。 12:40〜13:10 昼食と教員との懇談 67 教職員は、お弁当持参で集まり、 各自懇談する。 12:10〜15:00(5 時限・6 時限) 調理実習 アフリカ料理の 2 年 3 組<調理室> 10 班に分かれて、ココナッツクッキ ー、バナナスィート、チャイを作り、 懇談。甘い匂いとともにいつも会話 もはずんだ。 2 年間の家庭科の授業の中で一番印 象に残っているとの生徒もいた。 15:30〜16:00 生徒会主催の交流会 1 <体育 館・書道室>柔道部、合気道部、剣 道部の演舞。ダンス部の踊り。書道 体験 16:00〜17:00 生徒会主催の交流会 2 <音楽室 >合唱部とブラスバンド部の演奏 アフリカの音楽・踊りなど 15:30 からの生徒会主催の交流会は、生徒会が全て、司会進行してくれた。 事前の打ち合わせで、是非放課後は、生徒会主催でやりたいとのことで、全面的に生徒会に任せた。予 想以上に、生徒は準備や企画をしっかりやっていた。何しろ楽しそうにやっているのが印象的だった。 <全体的な感想> 昨年に引き続いてのこともあり、今年はスムーズに企画できた。また、他の先生方の大きな協力もあ り、私自身も楽しんで 1 日を過ごすことが出来た。今年の経験で楽しんでいただけた先生方が、「また 協力するよ。 」と言ってくれたことも心強かった。 普段の高校生活、生の日本の高校生を見てもらおうと肩肘張らずに企画した。しかし、初めは、生徒 が興味を示さず黙っているのではないか?またアフリカの方ということで差別的な表現をしたりしな いか不安もあった。実際は生徒の英語力がなく、会話は不自由であったが、とても楽しそうに接してい た。お互い解り合おうとしているのが、微笑ましかった。直接体験させることが、いかに重要か実感し た。また、訪問人数も 24 名と多かったので、生徒に直接接するチャンスが多かったのも良かったかも しれない。機会があればまた実施してゆきたい。 この機会を与えていただいたJICAやユースワーカー能力開発協会に感謝致します。 「21 世紀のための友情計画 青年招へい事業」とは・・・ The Friendship Programme For The 21st Century Youth Invitation Programme 68 21 世紀に向けて日本とアジア・太平洋諸国との人的交流を拡大し、友好と協力の関係をより強固にする ため 1984 年度から開始された、JICA の青年招へい事業です。開始、当初はアセアン諸国の青年招へい中心でし たが、その後、ビルマ(ミャンマー)、太平洋諸国、中国、韓国、南西アジア諸国、アフリカ、インドシナ各国、さらに 1 昨年より、 中南米と対象国が拡大されています。 人数 25 名程度 研修期間と内容 (1 例) 2000 年 2 月 2 日(水)〜2 月 29 日(火)の 28 日間 2 月 2 日(水) 3 日(木) 来日 開講式、日本語学習 4 日(金)〜8 日(火) 日本語学習 講義「日本 の学校教育について」他 9 日(水) 10 日(木) NTT マルチメディアセンター東京 見学 文部省訪問、私立女子高訪問 11 日(金)〜13 日(日) 合宿セミナー(熱海) 日本の青年 25 名と交流や討論な ど・・希望者は参加できます。 15 日(火) 都立小川高校 訪問 16 日(水)〜23 日(水) 京都府で、小中学校、 養護学校訪問、ホームステイなど 24 日(木)〜26 日(土) 広島平和記念公園、宮 島など見学 28 日(月) 評価会、歓送会など 29 日(火) 帰国 *詳しくはJICAまで 「ジョルダンと日本って関係あるの?」 報 告 東京都立八潮高等学校 (ヨルダン派遣中) 69 斉藤 宏 ジョルダンはどんな国 わっていきます。時期になるとそれぞれ大量につ ところで、ジョルダンというと何を思い浮かべる まれるのです。季節感が食べ物で感じられると言 でしょうか。私もイメージは希薄でした。イスラ うのは忘れていた感覚でした。また、この国では エルとイラクにはさまれて、中東の危険な地域に 女性が一人でそとに出かけることはあまりあり ある国で、アラビアのローレンスが活躍した場所、 ません。家の中をきれいにしたり、料理を作った さらに、インディジョーンズの映画に出てきた神 りしますが、主要な買い物はすべて男の仕事です。 殿がある、砂漠と岩山のイメージがすべてでした。 野菜も、果物もホブスという独特の丸いパンもす ところが、フセイン国王が亡くなられ、彼の手腕 べて男が買いに行きます。男が市場で果物を選ぶ で築かれた中東和平のバランスが崩れるかもし 手際の良さは必見です。食生活では朝起きて朝食 れないと、急遽世界の注目を浴びる場所になりま は食べません、アラビアコーヒーか紅茶です、こ した。ジョルダンを少し説明すると、日本の 1/4 れも大量の砂糖をいれたもので、それを飲んで男 の広さで 8 割以上が未利用の砂漠や荒地です。人 は仕事に行き、10 時頃になるとお腹がすくのか、 口は約 400 万人、宗教は 93%がイスラム教で 7% ホブスという丸いパンと、豆を引いたものとオリ がキリスト教です。民族は大部分はアラブ人で、 ーブオイルを混ぜたホンモスというペーストを その他砂漠の遊牧民ベドウィンも少数住んでい つけて食べます、この時間は仕事中ですが、数人 ます。顔立ちはヨーロッパ人に近く、金髪に白肌 で集まって食べているのです。仕事は三時半ぐら の白人的な感じの人たちも少なくありません。し いまで、休みなしで続きます。家に帰ると昼食で かしイスラムの信仰の強い女性は、真っ黒の生地 す。この国は昼食がメインです。主食は米ですが ですべてを覆い目だけ出している独特の衣装で、 ホブスもつきます。おかずは一番がマンサフと言 それほど厳しく考えていない女性でも、白いスカ われる羊の肉を羊のヨーグルトで煮込んだスー ーフを頭にかぶり見分けはつきます。緯度は日本 プ、次が鶏肉を使った料理、ごはんは肉や野菜や の九州と同じぐらいですが、南部のアカバは海抜 ナッツを混ぜて焼き飯のような感じにしあがる がないため夏には 40 度を超す気温が昼も夜もつ マグルーバーや、サフランを入れて黄色くしたド づきます。山は木一本も生えていない岩山です。 ライカレーのような物など、いずれの料理も油を それに対して北部は高地で、首都アンマンで 800m 多く使います。それを大量に食べます、お皿には 前後の高さがあり、気温は夏でも、夕方になれば 山盛りです。食べ終わると、甘い紅茶を飲み、昼 涼しい風が吹く気候で、冬には雪もふります。北 寝です、既に5時近くですがそのまま 1、2 時間 部のジョルダンバレーと呼ばれる深い渓谷では は昼寝をするのです。そして、暗くなると町にに ジョルダン川がながれていて、様々な作物が豊富 出かけます、暑いときは店も閉まっていますので に生産されています。野菜や果樹には季節感があ 家の中にいるしかないのです。夕食は 10 時過ぎ り、市場では次々と種類が変わります。夏の初め に食べるのです。そして、しばらくして就寝です。 にはスイカがマーケットに山のように積まれま 朝は仕事に行く時間が7時頃のため睡眠時間は す。水分が多く、甘さも充分で砂漠で乾燥しきっ 多くはありません。夜、食べてすぐ寝る、油を多 た生活にあう果物だと再認識です。スイカが終る く使う、甘い紅茶、コーヒー、甘い果物を好んで と、メロン、そして秋の果物の洋ナシ、ブドウ、 食べるどう見ても健康に良い生活とはかけ離れ 桃、プラム、無花果、リンゴなど次々と果物が変 ています。まさに成人病候補です。体型はアルコ 70 ールを飲まないのにビール腹で肥満に見えます。 か海草エリアで見る事が出来る。遠洋の魚類は湾 しかし、これが昔から続いてきた生活習慣なので の開口部で見つかる。ブラックチップシャーク、 す。彼らは年に一か月ラマダンの時に断食をしま ハンマーヘッドシャーク、ジンベイザメ等は何度 すが、実はこれがこの食生活の肥満解消になって も観察されている。湾岸地方固有の軟体動物の 12 いるのかも知れません。 パーセント(80 の種類がしられている)。15 パー セントの guil’s Amphipod(ワカレラ類甲殻網) ジョルダンの情報を見るにはジョルダン大使館 は唯一アカバ湾と隣の紅海のなかで記録されて のリンクを使おう。 いる。 魚類は 268 種が記録され、7 種は固有のもので http://www2.giganet.net/private/users/emb‑j ある。このエリアは沿岸の山が海岸から急勾配で ord/jap.htm そびえたち、珊瑚礁はきわめて狭い場所に存在し 開発か環境か、三つのセクターから激しい攻撃を ている(一般的には 30 メートルより短いエリア) 。 受けるアカバ湾の環境 結果この前面の珊瑚礁は深度 100 メートルを越す たった 27 キロしかないジョルダンのアカバ湾 までの急斜面に生育している。特に南部のシナイ はいま工業開発と観光開発と交通開発の三者か は 涸れ谷からの沖積層の扇状地の流失物で覆わ ら攻撃を受けている。ここ 50 年の間の人間の活 れ幅広い平らなリーフとラグーンを形成してい 動によって、たった7キロの海岸線しか自然のま るところがいくつかある。 ジョルダン領域に於いてはきわめて重要な珊 まに残っていない。港やホテルや住居や工場によ るものだ。工業と観光と交通三者のセクターの激 瑚の多様性が急勾配のリーフに観察されている しいエリア獲得競争とそれらが出す公害、汚染物 海草は湾岸の海底に普通に存在する、特に珊瑚礁 質に対して環境はただ耐えているのである。ジョ のすぐ近くで、魚類やエビや他の無脊椎動物の保 ルダンのアブドラ国王が最近アカバ支庁に対し 育場所を提供している。まるですべての生物を育 て開発計画を進めるように提言した。勿論環境保 てるホストのようである。 海洋性ほ乳類にはジュゴンも少数であるが観 護を満たすように条件を付けてだが、もし注意深 くモニタリングをしないならアカバのユニーク 察されている。きわめて少数であるが、Tiran な環境はダメージを受けるのは明白である。 島の海草エリアで捕食している姿が観察されて いる。マダライルカやバンドウイルカも住んでい アカバ湾は特別な多様性を持つ珊瑚礁とそれ る。またウミガメも住んでいる。 により養われている生物が多く観察されている。 このユニークな環境が人間達のの影響により ある統計によると、湾岸の半分は珊瑚礁によって 縁取られこれは世界の北限の珊瑚礁分布である。 厳しい攻撃にさらされている工業と観光と交通 192 種を越す造礁珊瑚と 120 種を越すソフトコー の。三者の開発競争によってである。 ラルがすでに観測されている。ジョルダンエリア ビーチを追い散らしたアカバ港は。3つの大き にはこのうち 120 種の造礁珊瑚と 10 種のソフト なポートで成り立ち様々な製品を輸入と輸出し コーラルが記録されている。魚類に関しても熱帯 ている。隣酸塩とカリウム、肥料、石油、といく や亜熱帯の魚類が 268 種、他の場所でのトータル つかの危険な工業化学薬品等である。アカバの慢 は 1,000 種である。ほとんどの種類はリーフの中 性的な環境の問題は船への積み込みと積み出し 71 からでるリン酸のダストである。このダストは結 アカバ支庁との 24 時間の話し合いのためのホッ 局は海水の中に沈む、そして、水には溶けずらい トラインもまだできていないのである。 ため珊瑚の上に沈殿する事になる。そして、珊瑚 これらの反応として、アカバ支庁は世界銀行の は窒息して死んでしまうのである。(人間の肺に 支援で 320 万ドルを環境のためのアクションプラ は直接の影響はないので心配には及ばない)船の ンとして沿岸を管理し、環境に責任を持つマナー 移動は別のバラストウオ−ターの排出から公害 確立のために使う方向である。最も優先される事 を持ってくる、固体のゴミ、オイルの漏れ、アン のひとつに。自然のまま残っている7キロの浜辺 カーによる破壊。 の範囲を守ること、そしてそこをマリンパークと して計画する事、ツーリズムに対しても自然が耐 新しい開発プランは、メインポートを南のビー チに移動する事を提案している。ここにはより高 えられる範囲のなかで最大限要求に答えること。 い独特の珊瑚の多様性が存在する。このような提 マリンパークはゆっくりだが効果的に進展して 案に実施の手段を与えたら南の浜の珊瑚礁に重 いる。ビジターセンターは建設が始まっているそ 大なストレスを与える事になる。 して、管理されるゾーンは発表された。アクショ 観光開発の結果として、環境への人間の行動に ンプランはいくつかの他の部分も含んでいる、環 よるダメージが大きい、地元のツーリスト達が珊 境へのインパクトに対するアセスメント、沿岸の 瑚を折って家におみやげとして持って帰る。勿論、 ゾーンごとの管理、環境公聴会、環境モニタリン 環境保護法 25 条には誰でも珊瑚にダメージを与 グ、公害予防と国民への啓蒙である。 アカバ支庁(ARA)が実効のあるものにしよう えたものは最低でも1万 JD の罰金となっている。 これは驚くほどの額であるがこの条項は一回も としているこの最も新しい開発計画としての環 使われていない。100 回のビーチにおける破壊や 境アクションプランであるが、いくつかの危険な 収集の違反の事例に対してもである。 側面も含んでいる。とりわけ問題は巨大ポートの 移動の提案である。その大きさから考えられるダ ここにはいくつかの大きな重工業があるこれ メージは大きなスケールになるだろう。 らが環境破壊を起こしている、公害のガスを排出 している。また海からすった海水で機械を冷やし 考えて欲しいのは珊瑚礁は経済資本にまさる それをまた海に戻している。勿論、最大の肥料工 とも劣らない自然の宝であることである。自然か 場とセメント工場は環境管理の排出基準の 開発か? この決定は裏返しには出来ない。 ISO14,000 に達している。しかしすべてにわたる 環境条件は悪化している。二つの公害源の肥料会 しかしこの最も危険な開発の決定に対して厳し 社はさらに工場建設をすすめている。当然環境に いモニタリングが適用されるべきである、Batir 対するストレスは増加するだろう。 Wardamprogramme development officer of the national office of the world conservation 付け加えて、イスラエルの汚水処理施設からの union(IUCU) in jordan 周期的な汚水のリークは過去2年の間何度もジ ョルダンの海域を汚染している。この慢性的なイ スラエルの問題はまだ解決策は見えていない。ま モニタリングはどのような組織で行われるのだ たこれらの事件が起こったときすぐに対応出来 ろうか。ジョルダンでモニタリングを行う組織の るようイスラエルのエイラートとジョルダンの 概要を紹介しよう。 72 グを指揮する。 アカバ湾のモニタリングで活躍するマリンサイ アカバ湾の海洋環境に与える様々な汚染の影 エンスステーション 響とインパクトを研究する Marine science station (MSS) ジョルダン大学とヤルムーク大学の環境と海 1974 年に設立 洋科学の分野の在学生や大学院生に関係する学 設立母体は国立ジョルダン大学と国立ヤルム 術的なプログラムを実施する。 ーク大学の共同研究所として設立された。研究内 アカバ湾の海洋環境のインフォメーションを 容は、海洋環境、魚類学、珊瑚礁の生態系、栽培 関係する研究所や関係する国の部局に供給する 漁業、等 1.国の環境保護に対する決定を助ける 研究者、専門職員、技術職員、事務管理部門職 2.自然環境教育や国民啓蒙のプログラムを行う 員、ボートマン、フイッシャーマン、運転手、イ 3.海洋環境を保護する ンストラクター、庭園管理、メインテナンス、J 4..湾岸の開発の計画やマネージメントを行う。 ICAシニアボランティアー 5.,自然環境が 環境アセスメントの調査エリア そのほかに、ドイツなどのプロジェクト関係者 の中の公的や私的なセクター等の開発に耐えう それと毎年両大学から、優秀なマスターコースの るか否かのモニタリングデーターの研究室とフ 学生が 10 名程度1年半の間学びながらモニタリ ィールドでの計測と分析 ング等を手伝う。合計で常時 37 名ほどが働いて 6.国内と国外の研究施設との協力 いる。 活動とプロジェクト ホームページで確認してみよう、実際の活動の様 1.海草の種類の識別と分布 子が見られる 2 海藻の種類の識別 Address 3. ハードコーラルの識別と多様性 Marine Science Station P.O.Box 195 Aqaba‑Jordan 4. 魚類の識別と多様性 Tel:962 3 2015144 5. 海流のスピードと方向 6. 海洋汚染の大きさと分布の調査 962 3 2015145 7. 汚染の指標としてのアカバ湾の水中沈殿物及 Fax: 962 3 2013674 Homepage address び生物相のモニタリング ホームページはここを確認しよう。 8. アカバ湾の北部の海水面水準と潮汐の記録 9. 研究を進めるために内外の大学からの研究者 http://www.ju.edu.jo/mss/index.html 英語の手紙を送ってみよう と大学院生の受け入れ E‑mail [email protected] 11.研究者や大学院生の研究のためのダイヴィン 日本語の場合は [email protected] グコースの実施 MSS の目的 12.地元でとれる魚を使った先導的な養殖の研究 海洋学のあらゆる分野に関してコンサルトする。 13.開発プロジェクトや工場の環境に与える影響 の評価 海洋性の植物と動物の分布と多様性のフィー 14.政府や私的な会社などに関係する問題などを ルド調査を指揮する。 コンサルトする。 アカバ湾のフィールド調査と環境モニタリン 73 酸、カリウムの三大栄養素のうち、窒素を抜いた、 他の物質は自国でまかなう事が出来るのです。 シニアボランティアとは 国際協力事業団のシニアボランティアとは、よ 日本ジョルダン肥料会社 く知られている青年海外協力隊が 39 歳までの青 年を対象とするのに対して 40 歳以上 69 歳までの アカバ湾の一番南のサウジアラビアとの国境 専門性を持った人を海外に派遣してボランティ のすぐ横に肥料を作って日本に直接送っている、 ア活動を青年だけでなく、経験を持った人たちに 日本ジョルダン肥料会社があります。この会社は 開発途上国で活躍してもらう機会を与えるため 1992 年に設立された、始めての日本とジョルダン に作られた制度です。それだけに開発途上国から とのジョイントベンチャー会社です。 の信頼とニーズも高く、ODA 予算削減の中でも、 この会社は 1988 年にジョルダンのハッサン王 政府が増員の方向で動いています。この二つの制 子が2つのジョルダンの会社と4つの日本の会 度の意味はライフステージすべての段階におい 社を呼び寄せ、その出会いで互いに興味を持ち会 て、国際協力に参加できるようになっていること 社設立の可能性を研究し始めた事から始まりま です。シニアボランティアでは、本人だけでなく した。 日本ジョルダン肥料会社に参加した日本側メ 家族で任地に行けるため家族を含めた交流を通 じて日本を理解してもらう事もできる、すばらし ーカー い制度です。 朝日工業(株)〒170 東京都豊島区東池袋 3‑1‑1 サンシャイン 60 03‑3478‑2163 シニアボランティアや青年海外協力隊の情報 を見るにはここにアクセスしよう 全国農業共同組合連合会 〒100 東京都千代田 JICA ホームページ 区大手町 1‑8‑3 農協ビル 03‑3279‑0211 http://www.jica.go.jp 三菱化成(株)〒100 東京都千代田区丸の内 2‑5‑2 三菱ビル 03‑3283‑6572 「ジョルダンの砂漠や死海の海水が日本の野菜 株主の比率 を育てている」 日本側が 60 パーセント、ジョルダン側が 40 パー セントを持っています。 これ知っていましたか? 私たちが毎日食べている野菜はジョルダンの地 日本側の 30 パーセントは全農(農協の全国組織) 質時代にできた養分を吸収して育っているので です。 す。 三菱化学が 10 パーセント 朝日工業が 10 パーセント ジョルダンからは周辺の国と違い原油がでま せん。しかし、砂漠から大量のリン鉱石がとれる 三菱が 10 パーセント のです。国土の 60 パーセントがりん鉱石の国な ジョルダン側はジョルダンホスヘイトマイン(燐 のです。また塩分が濃く、生物が住めない死海か 鉱山会社)20 パーセント らはカリウム鉱がとれるのです。 アラブポタッシュが 20 パーセントを持っていま す。 もう一つの原料、チッソは近隣の湾岸諸国の豊 富な原油に含まれていて、肥料の原料に非常に恵 資本金は US$ まれた立地条件にあります。つまり、窒素、りん 投資の合計 74 2.4 億ドル は US$8.5 億ドル 日本・ヨルダンの初のビッグプロジェクトとし 会社設立に当たってのジョルダンにおける特別 て両国間の友好を深めることにも役立っていま な環境 す。 ジョルダンは肥料を作るために必要な燐鉱石 とカリウム原石の重要な産地である。 詳しくは全農のホームページを見てみよう。 必要な中間物質、リン酸塩やアンモニアは JPMC 会社から供給されるし、カリウムはアラブポタッ 出来あがった肥料の名前はアラビアンナイトの シュ会社から供給されるのである。 舞台ジョルダンにちなんで、「アラジン」と名付 けられました。 電力や水は、JPMC の化学工業団地から供給され るし、輸送などの機能も同じように使えるのであ http://www.zennoh.or.jp/ZENNOH/DATABANK/ALA る。 DDIN/1.htm 会社は「フリーゾーンコーポレーション法」に より、税金面で免除を受けられ、すべての利益を りん鉱石とカリウムについて 受ける事が出来るのである。 ヨルダンは国土の 60%がリン鉱石で覆われて また全農は専用船も持っています。肥料のコス おりリン酸原料が豊富です。カリは、死海の湖水 トのなかの物流コストを軽減するためです、その 中から抽出します。チッソは近隣の湾岸諸国の豊 ためここで出来る肥料は他の化成肥料に比べて 富な原油に含まれていて、肥料の原料に非常に恵 2割程度安くつくる事が出来るのです。 まれた立地条件にあります。 日本の化成肥料の中のおよそ3割のシェアー を持っている肥料なのです。 りん鉱石 生産の開始 燐鉱石はリン酸カルシウム(リン酸石灰)を含 設立の合意が日本側とジョルダン側で出来て む鉱物で、りん工業の原料となる鉱石をいう。り から 1994 年に工場が日本企業の千代田コーポレ ん鉱石は、成因によって無機質と有機質燐鉱石に ーションにより建設された。 分ける。無機質燐鉱石は、マグマや火成岩の生成 プラントは 1996 年の 12 月に計画通り完成し、 活動によるもので、代表的な鉱物に燐灰石(アパ 1997 年の5月から商業生産を始めた。 タイト)がある。主成分はリン酸三カルシウムで、 生産能力は 300,000MT/Y 化学肥料すべてを日本 に輸出している。フランスの GRAND 外観が黄色、緑、褐色など、美しい色のアパタイ Paroisse トは、宝石として利用する。 会社の AZF プロセスのライセンスを受け生産して 有機質りん鉱石は、古い地質時代の魚類や脊椎 いる。 動物の遺骸が海底で堆積後、地殻の隆起で陸化し 会社は 15,000 平方メートルの土地をアカバ市 てりん灰土に団結した原料をいう。海成りん鉱石 内にもち、そこに 50 戸でトータル 7,300 平方メ や堆積りん鉱石の別名がある。 ートルの家具入りの職員住宅を建設して福利厚 世界のりん資源は、大部分が海成で、アメリカ 生として職員に使わせている。 のフロリダ州、モロッコ、ヨルダンに多い。無機 会社の運営は日本側とジョルダン側で共同運 質の鉱床は、アメリカのアイダホ州、旧ソビエト、 営している。雇用者は 110 名で日本人は4人ほと カナダ、中国に分布する。 んどはジョルダン人です。 世界のりん鉱石の主な生産国は、アメリカにつ 75 いで旧ソビエト、モロッコ、中国、ヨルダンの順 ひとつである。俗に根肥といい、根の発育を促進 で 1988 年の生産量は 1 億 6,500 万トンに及んだ、 し、寒さや病気にたいして、抵抗力を付ける働き また先進国の生産量は 60 パーセントにあたるが、 がある。 カリは地殻中にも平均 2.82%を含み、土壌中か 最近、ヨルダン、中国、ブラジル、イスラエルな ど発展途上国の増産が目立ってきた。この中でも、 らも 0.5 から 3.0%検出できる。これは、長石や 南アフリカは、アメリカやヨルダン、モロッコと 白雲母等のカリ分が溶出した結果である。 ともに、日本の有力な供給国となっている。 窒素、りん酸、カリを肥料の三要素という。り ん酸は、農作物の根の発育、茎、葉の成長や開花、 結実を促進し、病虫害に対して抵抗力を強くする 効果がある。 肥料には、有機質肥料と無機質肥料とがある、 有機質肥料は、堆肥や油かすのように動植物の有 機物を成分にした肥料をいう。これに対して無機 質肥料は、硫安や塩化カリのように鉱物質を原料 にしており、一般に化学肥料と呼ぶ。化学肥料に は三要素の合計成分量が 30%以上の高度化成肥 料と 30%未満の普通化成肥料とがある。 りん鉱石の副産物には、酸化ウランの他に、り ん酸石膏と弗酸とがある。りん酸石膏は、セメン トや石膏ボードの原料として利用する。 カリ鉱 カリ鉱は、古い地質時代に塩湖(塩分に富んだ 湖)や熱帯や亜熱帯地方の内湾や入り江で、水分 が蒸発して濃縮し、他の塩類とともに沈殿、堆積 した資源である。世界の有名なカリ鉱床はすべて 岩塩や石膏を含む地層の中に発達する。世界の主 な差出国は旧ソビエト、カナダ、ドイツで全生産 量の 80%をしめる。 ジョルダンではこのカリ鉱を死海から採掘し ている。 用途 カリは、窒素、りん酸とともに肥料の三要素の 76 1980 年 1,585,304 645,366 85,136 316,000 7,748 0 0 122,816 34 2,762,404 アメリカ モロッコ セネガル ジョルダン イスラエル オーストラリア 南アフリカ ナウル そのほか 計 カリウムの世界生産量 旧ソビエト カナダ ドイツ フランス アメリカ イスラエル スペイン ジョルダン イギリス イタリア ブラジル 中国 1985 年 1,347,690 617,932 63,090 291,600 24,265 49,539 18,143 0 1,349 2,413,608 1990 年 749,560 168,935 56,005 237,650 39,050 0 249,027 0 43,075 1,543,302 りん鉱石 輸入推移(単位:トン) 出所 大蔵省通関統 計 (単位:1000 トン) 1980 年 8,800 7,300 6,159 2,040 2,239 797 130 0 322 130 0 12 1985 年 10,367 6,661 6,048 1,750 1,296 1,200 659 561 343 205 40 1988 年 11,000 8,070 5,800 1,502 1,521 1,244 766 800 460 160 40 40 28,480 29,151 31,429 計 カリ塩類輸入量 塩化カリウム フランス ドイツ イスラエル 旧ソビエト カナダ アメリカ ジョルダン その他 合計 (単位トン) 1980 年 3,050 121,608 95,803 287,898 645,869 108,666 0 301 1985 年 1,263,195 1990 年 0 147,247 12,900 275,936 597,132 74,591 30,000 3,288 0 72,501 20,252 182,838 587,337 38,493 43,000 0 1,138,094 944,421 出所 77 大蔵省通関統計 中3の修了論文の指導について 報 1 告 玉川聖学院 幸田 雅夫 はじめに 玉川聖学院の社会科が発行している冊子に「探究」というのがある。中3以上には全員配付している が 1997 年配布のものが 17 号である。創刊当時私は高等部の「地理」「倫理・社会」を担当していた。 高1の「地理」のグループ研究で各国のことを調べさせ、生徒たちに発表させる学習をしていた。「倫 理・社会」の授業の中でレポートを書かせたりしていたので、生徒たちのレポートの書き方としての一 つの手本が示されればもっと生徒たちが勉強しやすいだろうと思い、教科会で提案したところ協力を得 て、発行することに至った。内容は高1「地理」、中3「公民」、高2の倫理・社会」の課題、「歴史」 のレポートがまとめられ掲載することになった。最初にかかれてあるレポートの書き方については水出 先生が執筆された。私が担当していた「地理」のグループ研究のレポート例として選ばれたものには、 本校の体育科の庵原先生のもの*1がある。 同時期に行われていたのが「修了論文」であった。当時は水口先生が何と一人で、中等部の全生徒の レポートの指導をされていた。当時の中等部の生徒数が少なかったはいえ、きめ細やかな指導を隣で見 て「素晴らしい学習」という感想を私は持っていた。 創刊号にはその一例として佐久間さんの「日照権」が掲載されているが、この年の3月に何人かの代 表が中等部の全生徒の前で、自分の1年間勉強して調べたことを発表する会が初めてもたれた。これが 発表会の第1回であるが,現在まで継続している行事「修了論文の発表会」である。修了論文は20年 近く継続されていることになる。当時は中等部の生徒の人数も、現在の1学年の生徒数よりも少ないく らいで、全校生徒の前での発表といっても、アットホームな雰囲気だった。 生徒数が増加し、1982 年2クラスになったときに「公民」を担当した。「修了論文を一人担当すると なると指導が行き届かない」ということで、社会科全員の先生方にお手伝いをしていただいた。中等部 を教えていなくても、毎年何人かの生徒とは関わりを持っている。 修了論文を今年度担当し、今まで中3の授業を何度か担当したことから、この度私が報告させて戴く が、これはまだ途中経過であり、もう少し完成し、系統化したものはほかの先生からいつか報告がある と思う。どのようなことが、例年行われているかを中心として述べたい。 2 1年間の流れ 5月の中間試験が終了した頃に以下のような、印刷物を生徒に配布している。教室又は図書室で一つ 一つ解説をして、質問をとりながら、説明を毎年している。次のものは 1997 年度のものである。 このようなプリントを配布して生徒に説明している。夏休み前に、テーマを決め、実際にやり始めるの は夏休みとなる。夏休みにやったものを提出して、アドバイスを受け、そして1月の提出となる。 78 中学校3年生の「修了論文」は、次のような要領で実施します。すでに、何を調べようか とテーマを考えている人もいることだと思います。社会科の学習の総まとめとして考えること。 テーマをさがして論文を書き、必ず実地踏査をすること。本や誰かの考え方を真似することな く、各自で「レポート」を作成してください。 ○テーマ設定に関する約束 必ず、体験、経験を通して考えられるものにする。 現地の見学、聞き取り調査、施設での手伝い、製作体験、博物館や資料館野見学、街頭調 査などを取り入れること。 ○日程について ・6月 13 日(金) 第1回テーマ提出 所定の用紙に、テーマ・動機・調査方法 調査の見通しなどを記入し担当の先生に提出。 ・6月中に担当の先生からテーマ票が生徒へ返却されます。 各担当の先生方からアドバイスをいただく。 ・夏休み中 各自の調査・研究 ・9月5日(金) 第1回論文提出 ・12 月5日(金) 第2回論文提出。以後冬休みまで各担当の先生との個別指導 ・冬休み 論文の完成,「充実した冬休みを」 ・1月 12 日(月) 論文最終提出 ・1月中旬 合否判定会議、担当の先生が講評を添え生徒へ返却。 ・2月 発表者準備,再提出者締切 ・3月 10 日(火) 「修了論文発表会」予定 ○テーマ の提出について 1.考えているテーマについてよく検討し、具体的に決定する。 2.次のことを、右の例を参考にまとめて整理し、6月13日(金)1:00 までに各クラスの 社会科係が持参すること。 ・テーマ(大テーマ、サブテーマも書く) ・動機(このテーマにした理由、研究しようとしたきっかけ、研究のねらい所を簡単に) ・テーマの概観(このテーマについて、どんなことをどんな方法で調べたり研究してゆ くかの全体像を描く) 3.提出したテーマは、指導担当の先生が御覧下さった後、各個人に助言注意をしてだきます。 積極的に相談すること。 4.書き方などについては「探求」を参考にすること。また、先輩達の良い例を見ると良い。 バックナンバーは玉聖の図書室にも置いてある。 3 レポート作りの第一歩 をする。魅力的なテーマを選べるかによって調べ 毎年、4月の授業開始時には、修了論文の説明 方も変わってくる。実際にテーマについての作業 が入る。「テーマを捜しておくこと」という連絡 は前期中間試験が終わった頃からである。図書館 79 でテーマについての概観などを調べさせる。もち ーマ表を発表。同時に担当の先生の割り当が決定 ろん1、2時間では終わらないので、その場合は する。個別の指導がはじまるのはこれからである。 テーマの概観がいかに大切であるかは、調べて 家庭学習となる。 図書館にはたくさんの本がある。自分のテーマ いく内容が深まるにつれわかってくる。一体自分 に関係した本が1冊見つかればそこから学習が は何を問題として何を解決するのか。それがはっ 始められる。興味あるテーマに関する本をいかに きりと見えてくる。問題解決の道筋についての指 見つけだすかでスタートは決まるといっても良 導が先生方の役割である。社会科としてのレポー い。 トであるので、問題として社会問題を必ずどこか で扱うようにアドバイスしている。依頼心が強い 一つのテーマをレポートとしてまとめるには、 相当の苦労努力がいる。「苦痛」と考えるよりも 生徒は先生に問題点を探してもらっているよう 「調べる楽しさ」を中学生の段階に体験してもら な状態だが、やはり、自分から問題点を探し出さ えれば、この学習は効果があったといえる。一つ ないと、持続していかない。 のことがわかり、次から次へとわいてくる疑問を 4 解決していく楽しさは、ゲームに似たところがあ 図書室で調査をする る。「楽しさ」と同時「知的興奮」を体験できれ 図書館である程度のことについて基礎知識を ば最高である。調べたりすると「知的好奇心」が 頭の中に入れておく。テーマと関係する本が決定 自然と生まれてくるものである。テーマを自分が している場合は問題ないが、それがまだ決まって 好きになり,追いかけられるかが分かれ目である。 いない場合には、テーマについてある程度の内容 時間があればKJ法*1などについても体験 を入れておかないと、壁にいきなりぶつかってし させ,KJ法のような手段で整理させたいのだが まう。百科事典などを利用することになが、図書 指導するとなるとそれなりの時間、理解力が要求 室の司書の先生にお願いして、最新版を準備して されるので、さわり程度を口頭で次のように説明 いただいている。テーマについてのヒントとなる している。 第一歩の本は百科事典のほかに、専門事典、白書、 年鑑などたくさん揃えてある。中学生向けの年鑑 ①B5版の紙を8つに切り、問題点などを1枚 としてわかりやすいものには「ジュニア朝日年 につき一つ記入する。 鑑」。資料編と学習編にわかれている。私は中学 ②それを 30 枚くらい作り、共通したものをあ 生の授業の時の資料などにはこの本を利用して つめる。そうすると中項目ができる。 いる。 ③1枚1枚は小項目になるから、このような方 「現代用語の基礎知識」「イミダス」「知恵蔵」 法をやれば、問題点が整理できる。 授業の時に必ず入れている。忠実に守って実行 *1などの用語辞典は利用価値がある。とくに毎 をしている生徒はこの段階でかなり良いものを 年特集となっている部分は興味あるところで、こ 提出している。KJ法は自分がこれから抱える課 のあたりを読んでいると政治、経済をはじめ現代 題についてはっきりとわかる。 の動きが見えてくる。付録などもかなりの活用で きる。*2 自分のテーマについての概観がとらえてから 新聞の縮小版や、「新聞ダイジェスト」「月間 本格的な調べが始まる。 保健」などは新聞資料としてわかりやすい。テー 全員のテーマが提出された段階で、教科会にテ 80 マ別に分類してあるので、私も授業の時にも活用 心を持っていた証である。そこまで追っかけると している。新聞社の記事については最近はパソコ 楽しくなる。レポートよりもスクラプブックの方 ン通信やインターネットを利用してすぐに入手 が厚かった。何紙かの新聞を比較するともっと楽 できる時代となった。URLの活用やFAXの活 しいものになる。 用でいくらでも情報を手に入れることができる。 5 情報化社会の現在、パソコンを使って調査するの 担当の先生方からのアドバイス が主流と成りつつある。インターネットで 中等部4クラスになってからは、ひとりの社会 「YAHOO」などを利用して検索をすれば瞬時にわ 科の先生方が平均 20 人の生徒の指導を担当して かる。また、日経のイエローページ*3で検索(C いる。社会科の論文とはいえ、テーマが専門外の D−ROM)することができる。時代と共に検索 ものもあれば、これは調べてもどうかなと思われ の方法が変わってきている。パソコンは調べ学習 るものもある。生徒の中にはテーマ選びの初期の に必要なものに成りつつある。 段階でいい加減にやってきたのもいる。実は第1 回目のテーマがとても重要である。というのはこ 視聴覚のものとしては、ビデオなどがあるが、 留守録をしたり、番組をチェックしたりする煩わ れから調べはじめるのにゴールが見えないと息 しさはあるが、タイムリーなものであれば、テレ 切れをおこしてしまう。ゴールとはいかなくても、 ビの番組も十分に使える。本校の社会科は膨大な 次に何をしなければならないのか、何をすべきな 量のビデオが収録され保管されている。ほとんど のかがわからないと、楽しい論文は書けない。 第1回のテーマ提出の際には以下のような書 のものは非公開であるが、その中には、修了路う 類が出される。各先生方はこれでひとつ仕事が増 ん分に役立つような番組が数限りなくある。 玉聖の図書室は全国紙を三大紙(朝日・読売・ えるのであるが、一人一人にアドバイスをし、不 毎日)の他に日経、産経まで購読しているので、 足しているところにはどのようにしたらよいの それらの新聞もかなり使える。新聞は情報の宝庫 かヒントを与えている。1対1の指導が始まる。 であるということを聞くが、まさにそうである。 学校で見ているだけでは時間がないので論文も すみからすみまで読まなくてもかなりな量の情 そうだが、週末などに自宅に持ち帰り、チェック 報が掲載されている。データーの信憑性は週刊誌 をしないと間に合わないときがしばしばある。自 のデーターよりはいくらかあるように思える。 分が得意なテーマならばアドバイスなどはしや 指導した生徒の中には、レポートとは別にスク すいのであるが、必ずしも、自分の得意なものば ラップブックを作って「参考文献」として提出し かりを指導するわけではない。先生方も生徒同様 た生徒がいた。自分のテーマについてそれだけ関 に調べる。 81 ≪提出の書類≫ 玉 川 聖 学 院 修 了 論 文 3年 組 番 テーマ サブテーマ 動機 テーマの概観 1.どんなことを調べたり、考えたりして研究するか(予定で良い) 2.調査、研究方法、参考文献(予定で良い) 論文指導の先生 先生 印(1997 年 月 日) テーマについてのアドバイス 6 いるものである。小学校の時の自由研究では保護 現場で調査をする 者の力、企画、アイデアなどが目立つことが多い。 修了論文の場合、十分に「人的資源」を活用し ている生徒は素晴らしい成果を見せている。生徒 修了論文の中にも親のアドバイスや指導を感じ の今までの社会的体験、経験だけで修了論文を書 ることがある。時には本人よりもむしろ、親の方 き上げるのは限界がある。小学校の時に、大部分 が熱心だったこともあると聞いている。親子の関 の生徒は「自由研究」のようなものをやっている。 係が一つの課題を仕上げることで親密になる。 最近発行をしなくなってしまったので大変残 そのような時に、親からのアドバイスは重宝して 82 念なのだが「情報源」(講談社)という年鑑があ る。生徒たちの質問について親切にお応えして下 った。目次や索引から引き出すと意外な情報を見 さっている。生徒たちの報告を見てこちらの方が い出すことができる。社会科研究部の顧問をして 逆に勉強になることの方が多いくらいである。ま いたときにはしばしばこれを利用して、「調査」 た、問い合わせについてFAXで返答をして下さ 「ヒアリング」に生徒を行かせたものだった。N るという親切な企業がたくさんある。消費者の声 TTの電話帳で調べてもわからないようなこと を大切にする姿勢が感じられる。 がここに出ている。これに代わったのが前にも述 訪問したいところはたくさんあるが、人間の一 べたがインターネットでの検索やパソコン通信 生の中で見たり聞いたりできるところというの であろう。「こんなことまで調べられるんだ」と は数に限界がある。「修了論文」という機会が無 思わず、時間を忘れさせてしまう。「情報社会の ければもしかしたら、行けないところもある。 担当した生徒の中には、発電所まで見学に行く 麻薬」となりつつあるものである。 私が以前これらの本などを活用して電話で問 のにわざわざ発電所の方から家が近いせいもあ い合わせをしたところ、「この件につきましては ったのであるが、車で迎えに来てくれたとの報告 ○ ○ に お 問い 合 わ せ にな る と わ かる と 思 い ま を聞いた。会社の中には積極的に見学を推進して す。」と言って次のところを紹介して下さったこ いるところもあるし、また逆に丸秘部分が多いと とがあった。自分の足で調べにいく前に、必ずア 断わられるケースがある。 ポイントを取って出かけた方が間違えがない。電 自分の目で見て、しかも自分で触れない限りは 話だけではわからないことがたくさんある。担当 納得がいかないことが多い。この学習は「偽物」 の方に直接質問して聞いた方が電話やFAXの でなく「本物」を見分ける眼を大切にしている。 やりとりに比べ何倍も良い。人の顔が見えてこな 本物を見て論文として書いているのかどうかが い「修了論文」は誰かのものを盗作しているよう 論文としての価値につながるし、同時に生徒にと に見える。 っての勉強の違いにもなる。本物を見ない限り、 社会を見る目も甘くなる。偽物でだまされてしま 玉聖の高等部の生徒は、以前のカリキュラムで うのである。 は「現代社会」を履修していた。その時にグルー プ研究を行ってきたが、この時も「調査」を生徒 今では街角にコンビニがあるのは普通の都市 たちは行っていた。夏休みなどを利用して調べに の風景であって、珍しくも何とも無くなっている。 行っていたが、「制服」で出かけるとどうも会社 コンビニにどのような人が、何時頃買い物に来て などは親切に答えて下さったようだ。制服の着用 いるのかを調査した論文があった。調査は深夜に の仕方などしっかりしていれば、「この子たちは までにわたり、当然ながら本人だけではできなか まじめに勉強するんだ」ということで好感を持っ ったようであった。家族全員が協力をして、調べ て親切に応対して下さり、適切な資料を提供して ていたことに生徒のやる気を感じた。マーケティ いただける。総合科「人間学」でその実践は受け ングの手法としては、店を開く時に当然のことな 継がれているが、足で歩いて探す楽しさを体験し がら「市場調査」などは慎重に行っているの。そ たものは、高等部に入っても生かされている のような利潤追求の目とは違った調査をしてい るところに意義がある。観点が違えばまた、コン 大企業のメーカーなどでは「広報室」などがあ ビニの見る見方も変わる。 り、親切に案内をしてくれるし、説明をして下さ 83 7 調査の方法として、「風呂屋」の調査も素晴ら 第1回目の提出 しかった。96 年度の修了論文の時発表してもらっ 夏休みかけて、まとめたものが夏休み後に提出 たが、本当に体当たりの調査であった。風呂屋の となる。夏休み前に以下のような注意事項を生徒 経営ががなかなか成り立たなくなっている現在、 に配布している。授業の際に確認をしている。 計画的に夏休みを過ごすことができる生徒に 体当たりでその盛衰を見てきている。「家風呂」 があるのになぜか人気の風呂屋には人が集まる。 は、このように目的がはっきりしている、学習は そこでまた、人と人との会話が弾む。人と人との 簡単なものである。大部分の生徒は、意識をして ふれあいの場がまだあったんだという発見があ 書いている。時には、夏休みの後半になって開始 る。 し、提出日になってもまだ終わらない生徒が残念 時代とともに忘れがちなところに目を付けてい ながらいる。 注意事項にも書いてあるように「本の丸写しは た。 私どもの修了論文は、最後の発表会の時に「助 だめ」ということだが、著作権に違反している生 言者」にお越しになっていただいて、コメントを 徒も見られる。しかし、この段階で既に合格水準 戴いている。「助言者」の先生方は在校生または まで達しているものがある。 卒業生の保護者にお願いしていることが多い。講 9月は学校行事がものすごく多い月である。学 評の時に適切なアドバイスを戴いている。この時 院祭、体育祭と続き授業時間の変更などがある。 に助言下さった先生は、何と生徒たちの発表のた そのような多忙な中で、生徒達の書いた作品に目 めの調査場所を全て自分の足で歩かれていた。96 を通す。修了論文以外にも課題として生徒達に論 年度の助言者の小林孝男先生は「風呂屋」につい 文を課題として出した先生はものすごく忙しく て調べた生徒と同じように調査に出かけられ、生 なる。何とか9月中に目を通し、不足がある場合 徒の目と自分の目とがどのくらい違うのか、足で には個別に指導。 歩かれ助言下さったのは頭を下がる思いであっ た。 中3公民 修了論文の作成に 1997/7 すでにテーマが決まり、いよいよ修了論文の作成となりました。自分の目で見て、肌で感じ、そ して自分の手足を使って、頭を使って、自分の言葉で書いて下さい。 ○作成に関する約束 必ず、体験、経験を通して考えられるものにする。現地の見学・聞き取り調査・施設でのお手伝 い・製作体験・博物館や資料館の見学・店頭調査・街頭調査・企業の訪問 ○提出レポートの書式 1.第1回目(9月5日(金))の提出はB5版レポート用紙に、一行おきに鉛筆で書く。 84 2.第2回目(12 月 5 日(金))の提出も同様、第1回のものに追加したり差し替えたりすることは可 3.最終提出のものは B5 版 400 字詰め原稿用紙に、ペンまたはボールペンで横書き、横とじで提出。 ワープロで作成したものも可。 4.第2回提出以降は、それ以前に提出したものをすべて添付する。 ○注意 1.提出期限は絶対守る。 2.指示された要領で書く。 3.図や表・イラストは原則として自分で描く。安易にコピーをしない。 4.参考文献を明記する。(無断借用は犯罪です) 5.本の丸写しは絶対しない。 6.年代は元号だけで表記しない。西暦を併記すること。 明治元年は1868年だから明治☆年は ☆+1867→西暦 大正元年は1912年だから大正○年は ○+1911→西暦 昭和元年は1926年だから昭和△年は △+1925→西暦 平成元年は1989年だから平成◇年は ◇+1988→西暦 7.話をうかがったり、見学、体験させてもらう場合は十分準備をして、丁寧にきちんと対応するよ うに。 8.ビデオ、録音式カセット、カメラなどは持っていくと大変良い。許可無く撮影をするといけな い場所もあるので、撮影出来かどうか確認する。録音する場合も同様の配慮をすること。 8 し、この段階である程度終わっていないと、最終 第2回目の提出 第1回目の提出後に各担当の先生よりアドバ 提出までは間に合わない。1回目のレポート提出 イスを受けることになる。1回目で合格水準まで からどのように考え、とらえ、そして注目をして 到達している人はまれであるから、その間に再度 いるか、こちらとしても興味ある。 第1回のようにどこかにいって見学をすると 調査、文献検索などを行うことになる。 現在の学校行事の関係で、中3は 10 月以降忙 なると時間をつくるのが困難な時期である。中間 しい。修学旅行を控えるている。修学旅行は学校 の評価となるが、この段階で一応の目安となる点 行事の中でも特に重点を置いてグループ学習を 数は各先生方より出される。合格点を 70 点とし 行っている。「自主研修」ということで各班が企 て何点かズバリ点数で出る。また、第1回目同様 画し・実行するという他の学校ではあまり見られ にコメントが出されるので、それに従って冬休み ない、生徒の自主性を重んじている方法がここ 10 に勉強してもらって提出となる。合格点は 70 点 年以上とられている。その関係もあって、各先生 であるが勿論それ以上の点数がとれている生徒 方からアドバイスを受けたとしても、すぐにそれ 達もたくさんいる。テーマがいかに自分の興味関 を実行する生徒はいない。実際には 11 月の修学 心あるものであるか、どれだけ楽しみながら勉強 旅行終了後であるが、11 月末には感謝祭、中間試 をしているか。調べたりする楽しさを知っている 験と行事が続く。 生徒達の作品についてはかなり高い水準のもの であるし、大人の目では気がつかない感性を生徒 生徒達が落ち着いて再び、修了論文について考 達は持っている。 えるのは中間試験が終了してからのようだ。しか 85 か、約束事が守れない。理由は様々である。結局 1997 年度については以下のような注意事項を 期限まで仕上がらなかったというのが理由の多 中間試験の時に生徒に渡した。 残念なのは、提出期限を授業の時にも生徒に伝 くだが、それにしても、それなりの報告をすると 達してあるにもかかわらず、出さない生徒である。 思えるのだが。自分から逃げてしまう生徒、それ 欠席の場合でも、何らかの連絡が教科担任や担当 については、こちらとしては妥協しないで、個別 の先生にあっておかしくないのだが、何の返答も に指導をしている。このような生徒は本当に残念 ない生徒がいたことだ。社会的な常識が欠落なの だが毎年何名かいる。 <修了論文第2次提出について> ○提出期限:1997 年 12 月6日(金) 13時までです。時間厳守のこと。 各自指導担当の先生に直接手渡すこと。 締め切り日に本人や先生が欠席でも、期限を過ぎたものは受け付けないので注意すること。 ○提出するときの注意事項 1)B5版レポート用紙。夏休みと同じように書くこと。 2)鉛筆書きでよい。(図表などは色鉛筆など使用可) 漢字の間違えなどないようにする。 なお、ワープロで打ったものは1ページ(40 字×25 行)とする。 3)表紙は限られたもの。アドバイスシートなどを一緒に添付。 4)書き方はすでに配られたプリントの注意に従うこと。特に引用の部分,参考文献の明示 などに注意する。 5)図、表、写真、グラフなどは論文の展開にそって、見やすいように配置すること。 6)「探究」誌の「論文、レポートの書き方」と掲載されている諸論文を必ず読んでから、 それらを参考にする。 7)今まで受けたアドバイスや質問したことに対する解答を十分ふまえ、合格する論文を提出 しよう。 9 ではない。しかし、生徒の目でのアンケートであ 最終提出 る。母集団があまりにも少ないので、後で集計す 第2次提出が修了となるといよいよ最終提出 となる。第2次提出でいただいたアドバイスを中 るとなると、数字がいい加減になりがちである。 心に冬休みにかけてまとめる。冬休み前くらいに アンケートを本格的にやるとなると中学生には なると、急にアンケート調査が多くなる。毎年の 高度である。 ことであるが、アンケートは実はそう簡単なもの しかし、単純に考えると本校での生徒の傾向な ではない。質問事項を考えたり、それについての どが伺うことができる。後のことになるが、修了 答えについてどのようにするかなど、安直なもの 論文の発表会の時には、かなりアンケートが印象 86 図、表、写真なども本文説明のために添付となる。 的である。 序論では本論で取り上げる問題は何か。その問 最終提出は当然のことながら大変である。冬休 みの宿題となる。毎年、年あけてからも授業中に 題を取り上げた理由や背景が書かれる。そして、 内職をして困るというようなご意見を授業の担 本論には調査・研究の具体的な方法内容、結果な 当者から耳の痛いお言葉をいただいている。「授 どが出される。結論は自分の意見や今後の問題点 業中にやる」というはなはだ、授業態度に疑問を などが示される。教室内で説明をしている。写真、 持つようなことから 97 年度については、教科会 図、グラフ、はじめのレーポートなども一緒に添 で当初予定していた日程よりも4日ほど早くな 付される。 生徒達の論文は指定の表紙をつけて提出とな った。 生徒達の質問で、「何枚書いたら合格でしょう る。各クラス毎に色が違いどのクラスのものかが か」という質問が毎年ある。入学試験は答えが必 すぐに見分けができるようになっている。便利で ず出てくるような問題である。近年は推薦入試な ある。横とじとなっているが、資料などは別途で どで字数制限の小論文を課するところがあるが、 提出することもある。ビデオやカセットなど添付 修了論文に枚数制限はない。枚数ではなく、いか のケースもあった。 に生徒が楽しんで調べてそれをまとめているか 現代では 35mmのカメラ以外にもデジカメな である。本の丸写しなら何も原稿用紙に写しとっ どが大流行。かさばらず、気軽にしかもパソコン たものよりは、原本かコピーを見ればよいのであ の中で処理ができるような時代なので、今後この る。枚数だけが合格基準ではない。人のものを無 ような情報化時代の武器が使われるのは時間の 断で盗用となるとこれは問題である。「出典は何 問題であろうか。まだ、e‑mail で提出することは なのかははっきりさせること」と指導はしている。 ないが、24 時間質問を受ける体制というのもサー 体験・経験・自らの足で調べてきたことがとて ビスとして我々の業務として求められくるのか も大切なのである。そこから何が見えてくるのか、 調べれば調べるほど、枚数は増えていくであろう。 もしれない。 今までの例で、生徒が病気で母親が提出日に届 自分が納得するまで追求していくという姿がそ けたり、何らかの方法で提出日にはほとんどの生 こで見られなくては、まだ不足である。調べてい 徒が間に合っている。具合が悪くなった生徒でも、 くことにより楽しさがわかる。知的興奮がどこか 提出時間までには何とか這ってでも出てきて、担 に現れてくるはずである。 当の先生に提出している。その後保健室で休養と いった涙ぐましい生徒達の努力もあった。 例えばスポーツシューズが売れているならば、 その裏側にはどのような問題があるか、表側には 提出された段階で、再び「合・否」の連絡が各 どんな問題があるか、それについて自分としては 生徒まで届く。十分にできていないものに関して どのような意見をもっているかなど、調べていけ は、指定の日程までに生徒達が再度調査をするこ ばいくらでもある。 とになる。下の諸注意の「8)提出する論文には, 中間提出した論文も一緒に添えて提出すること。 論文の基本的な形としては次のような構造で その際これまでの様々の票がすべて,所定の位置 ある。 1.序論 2.本論 3.結論 にそえられていること。」というのは、生徒達が 4. 今まで指導通りにできているかを確認するため 参考文献、参考資料ほか 87 忙しくても、読む時間は確保している。毎年のこ である。 とながら生徒達のパワーを感じている。 合格できたものを中心に今度は、修了論文の発 表会に向けてのものと、「探究」に向けてのもの 以前、修了論文の発表会のコメントにいらして が各先生方より推薦がある。約 20 編ぐらいが候 下さった卒業生の保護者で新聞社の記者で、短大 補にあがる。各先生方は生徒達の作品を読み、候 の講師も兼任されていた酒井憲一先生から短大 補作を推薦する。入試などがあり、学校が忙しい 生の論文指導を見せていただいたが、本校の生徒 時期にこれが並行して行われるので、先生方にと の作品とさほど差がないものがあった。中学生で ってはものすごい負担となる。生徒達が精魂込め も短大生と同じようなものができるのである。 て提出した作品はどれも素晴らしいものである。 <修了論文最終提出について> ○提出期限:1998 年1月8日(木) 13 時までです。時間厳守のこと。各自指導担当の先生に直接手渡すこと。 締切日に本人が提出。期限を過ぎたものは受け付けないので注意すること。 ○提出するときの注意事項 1)B5版の 400 字詰め横書き用の原稿用紙を使用。(市販のものでよい) 2)黒のボールペン、万年筆を使用のこと。(図表などは色鉛筆など使用可) ていねいに読みやすい字で清書すること。漢字の間違えなどないようにする。 なお,ワープロで打ったものも清書原稿として受理する。字詰めについては1ページ (40 字×25 行)とする。 3)とじ方は横とじとする。指定のとじひもでていねいに綴じること。 4)表紙は限られたものに限る。 5)書き方はすでに配られたプリントの注意に従うこと。特に引用の部分、参考文献の明示 などに注意する。注意事項に従っていない場合は、内容が良くても不合格になる場合がある 6)図、表、写真、グラフなどは論文の展開にそって、見やすいように配置すること。 7)「探究」誌の「論文、レポートの書き方」と掲載されている諸論文を必ず読んでから、 それらを参考にして、構成の仕方などを考えてから書き始めること。構成の仕方などは重要 なポイントになる。 8)提出する論文には、中間提出した論文も一緒に添えて提出すること。その際これまでの様 々な票がすべて、所定の位置にそえられていること。 9)今まで受けたアドバイスや質問したことに対する解答を十分ふまえ、合格する論文を提出し よう。 10 修了論文の発表会 まとめてもらう。一人でやるとなると間に合わな 候補作品の中から、また教科会の中で選考され いこともあるので、協力者をもとめてやってもら た作品が発表となる。3月の半ばに発表となるが、 っている。2、3人の協力者とレジュメをつくり、 候補者は2月の初旬に連絡され、今度は発表用に OHPのシートに資料を書いてもらったりして 88 るが、中学生や高校生向けでは必ずしも無い。会 いる。 その間に、スライドにする必要がある写真はス 社でのものになってしまう。今後社会に出てプレ ライドに直したりする作業もある。3月上旬には ゼンテーションなどをするチャンスが生徒達に 後期の期末試験があるので準備は途中で分断さ はあると思うので、何かの機会に是非勉強させた れることになるが、試験終了後にリハーサルもさ い。 れる。発表者にとっては負担なことであると同時 発表の際の工夫として、話し方の工夫、内容構 にとても光栄である。500 に以上を前に自分のや 成をどのように組み立てるか。また以下のような ってきたことを発表できるような機会というの 発表プログラムを作らせている。この運行表通り は一生の間でもそう何回もあるわけではない。子 にできている。一人発表時間が 15 分前後なので 寅の今後の指導としては「プレゼンテーションの このような綿密なスケジュールが組み立てられ あり方」などについて研究の課題である。プレゼ ないと、手際よくできない。 ンテーションについは何冊か本が出版されてい 時 間 発 表 内 容 担当(OHP) スライドほか その他 また、聞いていいる側もただ漠然と生徒達の発表を聞いているだけではなく、中2の生徒達は来年は自 分たちがやるんだという意識を高める上にも、レジュメを渡し、記録用の用紙を配布している。よく、生 徒達はまとめている。 89 修了論文発表記録用紙 中等部 テーマ 発表者 年 内容のあらまし 90 組 番 感想など 11 まとめ 「吉本ばなな」さんという若手で有名な作家がいる。吉本隆明氏のお嬢さんであるが、高校に在学中 に「タロットカードの研究」というのを論文として書かれたそうである。その論文は「倫理・社会」の 課題であった。当時教鞭を執られ指導されていた先生が、小河信國先生であったが、その先生の論文の 方法は 50 枚以上の自由課題で生徒達に書かせ提出素晴らしい発表を以前参考にさせていただいたこと があった。 「私は自分の小・中・高での学校体験の中で、何がもっとも欠落していたかという自己反省の中で自 由課題論文の構想を立てたのであった。以来、8年、一人 50 枚以上の論文を毎年 400 篇近く読み、こ れに批評をつける作業を続けてきて私はますます「何のため学ぶのか」という問をより深くより痛切に、 生徒よりもまず自分に突きつけられる日々の中に生きている。恐らく、このような問は、教師として生 きようとするその時点で卒業していなければならぬものと考えられているのだろう。しかし、私はこの 問は年をとるとともに一層深くめり込んで往く、教育という営みの永遠の問であるように思う。」(都 倫研紀要第 20 集) 本校のこの実践が既に 20 年近く続けられていることは、教科内の先生方の協力、チームワークの良 さがあげられる。どの先生も同じように熱心に指導して下さる。自分の学年であろうが無かろうがそれ は関係ない。生徒達が一生懸命やろうとする姿を見ていて、何とか手助けをしようと誰でも考える。生 徒に対しての「アドバイス」を的確に行っている。 玉聖の生徒達はこの修了論文もそうであるが、提出物についてはかなり高い率で出している。あたえ られた課題に対して提出するという基本的な姿勢はできているようだ。 これからの時代、ものごとを調べる時にコンピューターの力を利用することが多くなると考えられる。 まだ一家に一台まで普及していないがそのような時代もそう先ではない。インターネットが学校の教科 活動の中に今以上に入り、ホームページなどから何かを調べたり、ヒントを得たりする学習に、今は現 在図書館などで行われているが、調べ学習の姿が変わっていくと考えられる。 CD−ROM ですばらしいものがある。現代社会の魔法の箱は使い方一つである。わざわざ出かけなく ても情報を得ることが出来るだろう。たとえば、外国などの情報だって瞬時である。高い飛行機代を払 わなくても,わずかな金額でそこの情報を得ることが出来る。しかし,そこにある空気,臭いなど体感 的なものは残念ながらコンピューターや数的なデーターではつかめない。「人と接する」という触れあ いが感じられない。 また,FAXのサービスなども受けることが出来るようになっている。新しいデータが必要なら所轄 の官庁に連絡すれば,送ってもらえる。 パソコン通信の Nifty などではフォーラムなどがあり,そのフォーラムから自分が関心持ったものな ど入り込んで情報を得ることもできる。「情報社会」の現代、情報をいかに使いこなしていくかであろ う。 しかし、修了論文のように自分の足を運び,体験するようなものはきっとこれからも無くならないで あろう。 会社などでは「プレゼンテーション」の方法が研究されている。修了論文も一つの「プレゼンテーシ 91 ョン」である。いかにわかりやすく報告をするか。修了論文の文章には文学的な表現などは全く必要な い。むしろ、端的に説明してある方が良い。 企画−立案し、それを実行するとなると、ものすごいエネルギーが必要だし、魅力ある学習が修了論 文である。自分のもっているものを全て出さないと解決できない。自発的に学習しない限り前へは進ま ない。中学生活の卒業を前にこのような学習をすることは意義あるし、後になってきっと役に立つ。た くさんの情報をいかに選択してまとめ上げ、本物はどれなのかを見極める判断力を修了論文の中で養う ことができる。「好奇心」旺盛で、最後まで追求していく姿勢が大切である。そのためには、日常の授 業の中で、ヒントとなるようなものを生徒たちに紹介し、私たち自身も勉強してきたものを活用するこ とができればと思う。 生徒全員の修了論文のテーマは「探究」に掲載されているが、全員のものが掲載されるようになった のは 1985 年度発行の第5号からである。先輩達のものを参考にしていることが多い。今までのものを 参考としてあげておく。また、「修了論文の発表会」の発表者についての記録として残っている限りの ものを最後にあげておく。 1984 年度3月 12 日第5回社会科修了論文発表会 発表者 森井 知子「ゴミ処理と再生利用」 徳田 智江「看護婦について」 解良佐知子「滅びゆく野生動物」〜アフ リカ象を追って 中村 真紀「児童福祉施設について」 久田 美菜「日本の戦争とサイパン島」 原山 知世「戦争反対」 1985 年度3月 17 日第6回社会科修了論文発表会 発表者 中村理恵子「プラスチック製品」 枝川 純子「昭和 20 年代からの人形の 移り変わり」 小出 純子「目黒川」 保谷野知子「いじめについて」 太田 恵子「長尾の里をたずねて」 1986 年度3月 16 日第7回社会科修了論文発表会 発表者 佐久間由香「川崎大師・大師線」 石川 友子「私達の食塩」 植田 裕子「都市の再開発事業」 韓 明子「産業廃棄物の処理」 92 大矢 悦子「日本の伝統工芸 紙 」 鈴木奈緒子 小泉あずさ「これからの農業について」 1987 年度3月 11 日第8回社会科修了論文発表会 発表者 筒井 文路「ファーストフードを考え る」 古幡 純子「二ヶ領用水について」 大野佐知子「切符のゆくえ」 森田 典子「東京湾の埋立地」 柿沼 信子「風呂敷」 長谷川祐美「フィリピンをたずねて」 1988 年度3月 13 日第9回社会科修了論文発表会 発表者 大柴 経子「相模原と横浜線」 小池菜穂子「公害(ぜん息)」 太田 裕子「伸びゆくコンビニエンスス トア」 瀧 ありさ「下駄」 横田 直子「東京大空襲」 1989 年度3月 12 日第 10 回社会科修了論文発表会 発表者 木村 薫「パン」 河野 有紀「アパルトヘイトについて」 藤本 真理「国分寺崖線」 大場 雅子「化粧品」 鶴岡律栄子「絶滅の危機がせまる動物 達」 1990 年度3月 12 日第 11 回社会科修了論文発表会 発表者 長澤久理子「公衆浴場について」 酒井 尋子「生活用水について」 加藤 宏子「折り込み広告について」 八重沢麻里「高齢化社会とその問題点」 川井 佐保「米について」 93 1991 年度3月 発表者 第 12 回社会科修了論文発表会 奥苑真由子「日本の主食 米 」 高須友梨子「援助」 奈良 貴織り「能面」 松木 利江「南武線」 1992 年度3月 発表者 三浦 第 13 回社会科修了論文発表会 由梨「在日韓国人」 鴫志田千春「都市近郊における農業」 木倉 リサ「世田谷線」 川村菜穂子「今、みなおされている木炭」 鹿討亜紗子「苗字について」 1993 年度3月 14 日第 14 回社会科修了論文発表会 発表者 田中 富子「江戸時代の食生活とゴミ処 理」 前尾みつえ「福祉の町・町田」 森田 真悠「多摩川にかかる橋」 山路 季代「古本屋の姿」 1994 年度3月 13 日第 15 回社会科修了論文発表会 発表者 服部 彩子「野生動物と人間の関わり 方」 牧山 恵子「佐渡島のたばこ栽培」 石塚裕美子「中原街道」 熊田 未来「長良川」 鈴木智恵子「ゴルフ場開発における自然 への影響」 1995 年度3月 11 日第 16 回社会科修了論文発表会 発表者 今井 理絵「銭湯」 小沢 礼奈「コンビニのお弁当」 斎藤 留美「神木公園トイレ設置問題」 大沢祐寿子「代官山にみる町のでき方と 移り変わり」 斉藤 麻子「放置自転車」 94 1996 年度3月 発表者 税所 第 17 回社会科修了論文発表会 道子「わたしが見た原爆の恐ろし さ」 松澤 美愛「駄菓子」 内田 有美「カラスの知恵袋」 堀越 千尋「バリアフリーの玩具」 田中 充子「和紙について」 <参考文献> 玉川聖学院「探究」創刊号〜17 号 都倫研紀要 本多 勝一 『日本語の作文技術』(朝日新聞社) 梅棹 忠夫 『知的生産の技術』(岩波書店)1969 清水 幾太郎『論文の書き方』(岩波書店)1959 東京書籍「現代社会」教科書 第 37 回全国高等学校国際教育研究大会開催実施要項(案)抜粋 1)大 会 名: 第 37 回全国高等学校国際教育研究大会・北海道大会 2)大会テーマ: 「これからの国際社会において私たちができる国際教育とは何か」 3)主 催: 全国高等学校国際教育研究協議会 北海道高等学校国際教育研究協議会 4)後 援: (予定) 文部省 外務省 国際協力事業団 財団法人日本国際協力センター 国際交流基金 北海道教育委員会 北海道高等学校校長協会 5)日 時: 平成 12 年8月8日(火) 8月9日(水) 6)会 場: ホテル 10:00〜17:30 09:00〜12:00 ライフォート札幌 95 〒064-0810 札幌市中央区南 10 条西1 TEL 011(521)5211 7)参加対象者: FAX 011(521)5215 全国高等学校国際教育研究協議会 各都道府県加盟校教職員 英語弁論大会 各地区代表生徒及び引率者(保護者) 英語弁論大会 交流会参加生徒 国際教育活動及びNGO等の担当者(関係職員) 8)大 会 日 程: 第1日目(8月8日・火) 9:00〜09:30 受付 9:00〜10:10 開会式 (1)開会の言葉 大会副会長 (2)主催者挨拶 大会会長・全国会長 (3)来賓挨拶 文部省・外務省・国際協力事業団・ 国際交流基金・北海道教育委員会 (4)来賓紹介 (5)感謝状贈呈 全国高等学校国際教育功労者 (6)閉会の言葉 大会副会長 (7)日程連絡 大会事務局長 10:20〜12:00 第 20 回生徒英語弁論大会 12:00〜13:00 昼食・休憩 13:00〜13:20 英語弁論大会表彰式・審査講評 13:40〜15:10 講演 15:30〜17:30 研究実践発表 18:30〜20:00 A 教科における研究 B 特別活動における研究 C 国際交流における研究 外国人日本語弁論(エクシビション) 教育懇話会・情報交換 第2日目(8月9日・水) 9:00〜11:00 分科会 (A)「教科における国際教育」 (B)「特別活動における国際教育」 (C)「国際交流について」 96 11:00〜12:00 全体会・閉会式 (1)開会の言葉 (2)分科会報告 大会副会長 (ABC各分科会座長) (3)講評 文部省 (4)謝辞 大会会長 (5)次期開催県挨拶 愛媛県代表 (6)閉会の言葉 大会副会長 (7)事務局連絡 大会事務局 北海道高等学校国際教育研究協議会 倶知安農業高等学校内 会 長 斉藤 輝雄 事務局長 中野 軍二 〒044-0083 虻田郡倶知安町朝日 15 TEL 0136(22)1148 FAX 0136(22)2252 1999(平成 11)年度事業報告 月 日 名 称 内 容 総会準備 備 考 4/17 役員・事務局会 事業計画 東京都立八潮高等学校 5/27 全国総会 事業、決算報告、新役員承認 事業、予算案審議 国際協力事業団東京研 修センター(TIC) 国際協力事業団東京研 修センター(TIC) 7/12 第1回 研究協議会 「古着から見る世界」講演会 講師 福家 洋介氏 (大東文化大学国際関係学部助教授) 7/ JICA高校教師 海外派遣研修 事務局から調布北高校の小島教諭 大泉北高校の宇治川教諭 参加 ザンビア班 全国(福島)大会 全国大会参加 英語弁論大会 文部省、外務省、JICA他後援 ホテル華の湯 生徒 国際交流集会 留学生と一緒に「アフリカの音楽」体で感じよう 東京都交換留学生との交流(歌い、踊り、楽しも 国際協力事業団東京研 う)、異文化クイズ 修センター(TIC) 留学生とのグループ別語り合い 8/5 6 10/1 97 12/13 第2回 研究協議会 食を通じて学ぶ韓国の文化とそのパワー 講師 許 潤子(ホ・ユンジャ)氏 (東京都国際高等学校講師) 東京都立国際高等学校 紛争と民族〜ユーゴと南アジアの体験から 3/15 第3回 研究協議会 3/4 〜 講師 大橋 正明氏 (恵泉女学園大学人文学部国際社会文化学科) 青年海外協力隊 OB 会共催 東京都生活文化局後援 国際協力事業団国際会 議場(新宿マインズタ ワー) 事務局長会議:各県活動報告、その他 研究協議会:基調講演「多文化共生社会と子ども 事務局会議:神奈川県 関東甲信越静地区研 の未来」、シンポジウム「どう進める、国際理解 立柏陽高等学校 究協議会および事務 教育」、民族芸能ステージ9ヶ国 14 団体、映画祭、研究協議会:地球市民 局長会議 中国・コリアを中心とした映画上映、ワークショ かながわプラザ ップ、ワールドフリーマーケットなど 5 上旬 機関誌発行 国際教育 第 30 記念号 2000 年度(平成 12 年度)事業計画 実施予定月 内 4 月 17 日(土) 役員会、事務局会 5 月 25 日(木) 全国総会 7 月上旬 第1回 8 月 8、9 日 第 37 回 容 (於 (於TIC 東京都立八潮高等学校) JICA幡ヶ谷国際研修センター) 研究協議会「イスラム」に関する講演会 全国高等学校国際教育研究大会・北海道大会 (於 ライフォート札幌ホテル) 10 月 8 日(日) 生徒国際交流集会 TIC(JICA幡ヶ谷国際研修センター) 12 月中旬 第2回 研究協議会 外国料理実習 3 月中旬 第3回 研究協議会 講演会 1 月末 機関誌 31 号編集締め切り、4 月末発行 98 東京都高等学校国際教育研究協議会の主な研究実績 1 全国高等学校国際教育研究協議会のモデル校(研究指定校)に指定 年 ル校 年 度 モ 1979 昭和 54 年 都立清瀬高校 1988 (S63) 都立国際高校 1980 (S55) 都立清瀬高校 1989 平成元年 都立志村高校 1981 (S56) 都立清瀬高校 1990 (H2) 都立国際高校 1982 (S57) 都立狛江高校 1991 (H3) 玉川聖学院 都立農業高校 1996 (H8) 都立八潮高校 1983 (S58) 都立園芸高校 1997 (H9) 都立大泉北高校 1984 (S59) 都立園芸高校 1998 (H10) 都立小川高校 1985 (S60) 都立忍岡高校 1999 (H11) 都立多摩工業高校 1986 (S61) 都立園芸高校 2000 (H12) 都立調布北高校 1987 (S62) 都立三田高校 2001 (H13) 2 度 モ デ 都立駒場高校 全国大会(研究大会)の東京での開催 昭和 46 年、47 年、48 年、50 年、53 年、55 年、58 年、60 年、61 年 平成元年、2年、3年、6年、9年 99 デ ル校 2000(平成 12)年度 役員 役 職 氏 名 所属高校 職名 勤 務 先 住 所 農産 校長 〒124‑0002 葛飾区西亀有 1‑28‑1 TEL3602‑2865 FAX3602‑8330 信義 八丈 校長 〒100‑1401 八丈町大賀郷 3020 TEL04996‑2‑1181 FAX04996‑2‑3738 後藤 英照 富士森 校長 〒193‑0824 八王子市長房町 42 TEL0426‑61‑0444 FAX0426‑62‑9830 副会長 福本 雄吉 小川 校長 〒1194‑0003 町田市小川 2‑1002‑1 TEL042‑796‑9301 FAX042‑799‑2765 理事 飯田 國雄 八潮 校長 〒140‑0002 品川区東品川 3‑27‑22 TEL3471‑7384 FAX3472‑9840 理事 久保 孝 芝商業 校長 〒105‑0022 港区海岸 1‑8‑25 TEL3431‑0760 FAX3435‑0240 理事 豊田 岩男 葛西南 校長 〒134‑8555 江戸川区葛西西 1‑11‑1 TEL3687‑4491 FAX3687‑4453 理事 松本 義昭 広尾 校長 〒150‑0011 渋谷区東 4‑14‑14 TEL3400‑1761 FAX3400‑8424 理事 近藤 淳一 練馬 校長 〒179‑8908 練馬区春日町 4‑28‑25 TEL3990‑8643 FAX3926‑8373 理事 服部 嘉光 田柄 校長 〒179‑0072 練馬区光が丘 2‑3‑1 TEL3977‑2555 FAX3977‑2617 理事 本間 研一 千歳 校長 〒157‑0063 世田谷区粕谷 3‑8‑1 TEL3300‑5235 FAX3300‑2306 理事 斉藤 武捷 赤坂 校長 〒107‑0062 港区南青山 2‑33‑77 TEL3402‑6621 FAX3402‑6803 理事 田中 平一 農芸 教頭 〒167‑0035 杉並区今川 3‑25‑1 TEL3399‑0191 FAX3399‑3996 理事 高田 幸一 江北 教頭 〒120‑0014 足立区西綾瀬 4‑14‑30 TEL 3880‑3411 FAX 3880‑6755 理事 山口 敏雄 東京実業 教諭 〒144‑0051 大田区西蒲田 8‑18‑1 TEL3732‑4481 FAX3732‑4456 会長 矢田部 副会長 上松 副会長 正照 100 2000(平成 12)年度 事務局 役 職 氏 名 所属高校 職名 勤 務 先 住 所 事務局長 黒羽 博行 八潮(定) 教諭 〒140‑0002 品川区東品川 3‑27‑22 TEL 3471‑7384 FAX3472‑9840 副局長 高島 みゆき 小川 教諭 〒194‑0003 町田市小川 2‑1002‑1 TEL0427‑96‑9301 FAX0427‑99‑2765 副局長 濱砂 千夏 玉川 教諭 〒158‑0094 世田谷区玉川 1‑20‑1 TEL 3700‑4110 FAX3700‑9219 副局長 竹山 哲司 芝商業 教諭 〒105‑0022 港区海岸 1‑8‑5 TEL 3431‑0760 FAX3435‑0240 会計 関根 雅子 桜水商業 教諭 〒168‑0073 杉並区下高井戸 5‑17‑1 TEL 3303‑2121 FAX3304‑2485 会計 女屋 隆充 多摩工業 教諭 〒197‑0003 福生市熊川 215 TEL042‑551‑3435 FAX042‑551‑7592 大泉北 教諭 〒178‑0062 練馬区大泉町 3‑5‑7 TEL 3925‑2871 FAX 3925‑2603 紀要編集 宇治川 秀 記録 川崎 由紀恵 八潮(定) 教諭 〒140‑0002 品川区東品川 3‑27‑22 TEL 3471‑7384 FAX 3472‑9840 記録 橘 都 羽田(定) 教諭 〒144‑0044 大田区本羽田 3‑11‑5 TEL 3742‑6533 FAX 3742‑6634 記録 藤田 美保 上野忍岡 教諭 〒110‑0014 台東区北上野 2‑24‑14 TEL 3841‑7916 FAX 3841‑6937 記録 栗谷 寛子 農芸 教諭 〒167‑0035 杉並区今川 3‑25‑1 TEL 3399‑0191 FAX 3399‑3996 記録 鈴木 衛 農芸 教諭 〒167‑0035 杉並区今川 3‑25‑1 TEL 3399‑0191 FAX 3399‑3996 調査研究 幸田 ・出版 雅夫 玉川聖学院 教諭 〒158‑0083 世田谷区奥沢 7‑11‑22 TEL 3702‑4141 FAX3702‑8002 写真記録 前田 暁穂 武蔵野北 教諭 〒180‑0011 武蔵野市八幡町 2‑3‑10 TEL0422‑55‑2071 FAX0422‑51‑4164 江北(定) 教諭 〒120‑0014 足立区西綾瀬 4‑14‑30 TEL 3880‑3411 FAX 3880‑6755 義晴 調布北 教諭 〒182‑0011 調布市深大寺北町 5‑39‑1 TEL0424‑87‑1860 FAX0424‑83‑7081 洋 羽田 教諭 〒144‑0044 大田区本羽田 3‑11‑5 TEL 3742‑6533 FAX 3742‑6634 文京 教諭 〒170‑0001 豊島区西巣鴨 1‑1‑5 TEL 3910‑8231 FAX 3915‑9886 調査研究 ビデオ記録 小賀野 記録 小島 勝芳 ネットワ ーク管理 石田 記録 八百板 知子 101 記録 山崎 信子 聖ドミニコ 学園 教諭 〒157‑0076 世田谷区岡本 1‑10‑1 TEL 3700‑0017 FAX 5716‑4646 記録 中人 薫 玉川 教諭 〒158‑0094 世田谷区玉川 1‑20‑1 TEL 3700‑4110 FAX3700‑9219 事務局・監事連絡先・関連連絡先リスト 事務局校 : 都立八潮高校(定)〒140‑0002 東京都品川区東品川 3‑27‑22 TEL 3471‑7384 FAX 3472‑9840 事務局長 : 黒羽 博行 メール [email protected] 都高国際研ホームページ 会計校 会 計 : 都立多摩工業高校 : 女屋 隆充 会の口座番号 名 監 事 称 http://www2.baynet.or.jp/ saito/ 〒197‑0003 東京都福生市熊川 215 TEL 042‑551‑3435 FAX 042‑551‑7592 郵便振替 10150―78154571 都高国際研 会計 女屋 隆充 : 都立荒川商業(校長) TEL 内田 孝明 03‑3912‑9251 都立三田高校(校長) 米田 敏男 TEL 03‑3453‑1991 国際協力事業団(JICA)国内事業部 〒151‑0053 実川 FAX 03‑3911‑2542 FAX 03‑3453‑2899 国内連携促進課 東京都渋谷区代々木 2‑1‑1 新宿マインズタワー12 階 幸司・鈴木幸枝 TEL 03‑5352‑5628 URL FAX 03‑5352‑5018 http://www.jica.go.jp 国際協力事業団(JICA)関東支部 〒336‑0002 埼玉県浦和市北浦和 4‑5‑5 北浦和大栄ビル7階 荒金 惠一 TEL 048‑834‑7770 102 FAX 048‑834‑7775 国際教育交流促進協会(AIEE) 〒101‑0045 東京都千代田区神田鍛治町 3‑3 大木ビル7階 田中 倫彦 TEL 03‑3257‑8568 URL FAX 03‑3257‑8190 http://www.aiee.gr.jp 『国際教育』の原稿執筆依頼について 都高国際研事務局 国際研の事業報告及び広報活動として毎年『国際教育』を刊行しています。今後「総合的 な学習の時間」によってますます注目を浴びることと思います。つきましては、以下の提出 要 項 を ご 確 認 の 上 、国 際 理 解 教 育・開 発 教 育 な ど に 関 す る 寄 稿 を お 願 い 申 し 上 げ ま す 。な お 、 経 済 面 や 時 間 的 な 問 題 か ら 、事 務 局 で 版 下 ま で 完 成 し た も の を 印 刷 所 へ 送 っ て い ま す 。ぜ ひ 、 ワープロ入力をした上でご寄稿下さいますようご協力お願い申し上げます。 1. 原稿のテーマ 総合的な学習の時間・国際理解教育・開発教育・海外研修・ボランティアなどに関するテーマ、研究 発表、実践報告などご自由にお書き下さい。 2. ワープロソフトについて (1)最終的な編集は、Windows98 DOS/V 版 Word & Excel で行います。 (2)ワープロ変換ソフトがあります。その他のワープロで入力されても変換可能です。 (3)機種によってはファイルの種類を「テキスト形式(txt.)」でフロッピーに保存して下さい。 3. 文書スタイルの設定について (1)A4版横書き (2)写真等を含んで2ページを標準とします。写真が入るときは、適当な字数を空けて下さい。 (3)文章中のナンバーの振り方については、以下のようにお願いします。 第一段階 1,2,3,....... 第二段階 (1),(2),(3)....... 第三段階 ①,②,③......... 4.原稿の提出について (1)締切は毎年1月末日です。 103 (2)提出方法はフロッピーと同時に、プリントアウトした原稿も送って下さい。 (写真、図表はご返却いたします) 提出先は編集委員まで 提 出 東京都立大泉北高等学校 宇治川 秀 先 玉川聖学院 都立大泉北高校 提出原稿の相談 Eメールでの投稿 〒178‑0062 練馬区大泉町 3‑5‑7 TEL 3925‑2871 FAX 3925‑2603 幸田 幸夫 宇治川 秀 TEL 03‑3702‑4141 TEL 03‑3925‑2871 [email protected] 東京都高等学校国際教育研究協議会会則 昭和 45 年 4 月 1 日施行 第1章 名称及び所在地 第1条 この会は東京都高等学校国際教育研究協議会と称し、事務局を原則として会長校におく。 第2章 目的および事業 第2条 本会は,高等学校において、国際理解と国際協調の精神を涵養し、国際社会の中で積極的に行 動できる有為な人材の育成をめざす国際教育と実践の推進を図ることを目的とする。 第3条 本会は,その目的達成のため次の事業を行う。 1.各教科科目および特別活動全ての教育活動の中での指導と実践。 2.国際教育に関する教師の実践教育と研修。 3.国際教育に関する諸行事。 4.海外事情の調査研究および資料の収集。 5.調査研究報告等の印刷物発行。 6.関係官庁および諸団体との提携 7.その他目的達成についての必要な事項。 104 第3章 第4条 会員および役員 この会の会員は、次の通りとする。 1.学校会員、東京都内の高等学校。 2.個人会員、東京都内の高等学校教員、または、これに準じるもの。 3.賛助会員、その他この会の趣旨に賛同するもの。 第5条 この会に次の役員を置く。 1.会 長 1名 会長は、理事会において互選する。ただし総会において承認を求めるものとする。 2.副会長 3名 副会長は、理事会において互選する。 副会長は、会長を補佐し、会長事故あるときは、これを代行する。 3.理 事 若干名 理事は、総会において選出する。理事は、会務を掌理する。 4.監 事 2名 監事は、総会において選出する。監事は会務を監査する。 第6条 役員の任期は1年とし再任を妨げない。補充された役員の任期は,前任者の残任期間とする。 第7条 この会に、顧問および参与を置くことができる。顧問および参与は、理事会の推薦によるもの とする。 第8条 この会に,事務局長および書記を置くことができる。 事務局長および書記は会長が委嘱する。 第4章 第9条 総会および理事会 この会の会議は次のとおりとする。 1.総 会 総会は、年1回以上開催する。 総会は、理事会において、必要と認めたとき開催する。 2.理事会 理事会は、会長が必要と認めたとき開催することができる。 第 10 条 総会においては、次の事項を協議する。 1.予算、決算の報告 2.この会の事業に関する重要事項。 105 総会を開くことが困難な場合には、理事会をもって、これに代えることができる。 第 11 条 理事会においては、次の事項を審議する。 1.予算の決議 2.決算の承認 3.必要な会務 第 12 条 会議の議決は出席者の過半数によるものとする。 第5章 第 13 条 会 計 この会の年会費は次のとおりとする。 1.学校会員 2,000 円(全日制、定時制それぞれ1校) 2.個人会員 1,000 円 3.賛助会員 第 14 条 10,000 円以上 この会の会計年度は、4月1日に始まり、翌年3月 31 日に終わるものとする。 第6章 付 則 第 15 条 この会計は,総会の議決を経なければ改正することができない。 第 16 条 昭和 61 年 5 月 27 日一部改正 昭和 61 年 5 月 30 日名称改正 昭和 63 年 5 月 29 日一部改正 平成 05 年 5 月 27 日一部改正 106 東京都高等学校国際教育研究協議会の皆様には常日頃よりJICA事業に対しましてご支援を頂い ており、お札を申し上げますと共に「国際教育」第 30 号の発刊をお慶ぴ申し上げます。 さて、昨年 11 月にNHKの特集番組で、「イスラムの潮流」が放映されました。この番組によります と、近年米国、インドネシア等世界各国でイスラムの胎動が目覚ましく、回教徒の人口も現在の世界人 口の約2割強にあたる約 13 億人から更にそれを上まわる勢いになっているとのことでした。世界各国 からメッカに集まって来る人々の姿、特にメッカの中心に設置されたモスクを何十万、何百万と云う膨 大な数の人々がお祈りのために命がけで、取り囲むように回っている光景には圧倒される思いで見入り ましたが、更に同番組ではイスラムの結東の強さ等に加え、政治、経済、社会などを規範しているイス ラムの考えや教えもいくつか紹介していました。その中で、私が特に関心を引かれたのは「喜捨」と云 う教えでした。 「喜捨」と云うのは、「自分より貧しい人がいればその貧しい人に施しをしなければならない」と云 う教えだそうで、村人がその村で生活に困る状況になった家族に牛を与えたり、商人が商売で得た利益 の一部を当然のことのように「喜捨を受け付けている団体に寄贈している場面等が紹介されていました。 私はかつてシリアとインドネシアの両回教国に勤務しましたが、僅かな給料で働いている運転手が交差 点の信号待ちや混雑で停車した時、その停車を待っていて物乞いをする人に、車の窓を開け小銭を当然 のように渡していたことを思い出しました。私はモスレムでもないし、またモスレムに改宗する気持ち もありませんが、少なくとも、このような「喜捨」の気持ちを持ち、それを当たり前の行為として行な えるモスレムの人々が世界でこのように多く台頭してきていることに感慨を覚えました。 現在、経済の白由化が進展し、ますます競争が激札して行く世界の中で、それに取り残された弱者の 救済にごく当たり前のこととして手を差しのべること、これは正に国際協力の原点であると思いますが、 これをごく自然に、当たり前の行為として行なえる社会の到来を願わずにはおられません。 JICAでは、日本の国際協力とその一翼を担うJICA事業に対する国民の一層の理解の促進と支 援を目的として、国民参加型援助の実施や地域に根ざした国際協力や開発教育への支援など色々な活動 に努めておりますが、東京都高等学校国際教育研究協議会の皆様には、今後ともより一層の国際理解教 育の推進にご尽力を預けますよう、またJICAの良きパートナーとしてご協力を頂けますようお願い 申しあげます。 107
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