五島市久賀島の文化的景観 保存計画 長崎県五島市 平成 23 年3月 【 目 次 】 ご と う し ひ さ か じま 五島市久賀島の文化的景観保存計画 序章 沿革と目的 1 計画の目的 ................................................................................................................. 1 2 検討体制..................................................................................................................... 1 3 計画策定に至る経過 ................................................................................................... 2 4 位置及び範囲 ............................................................................................................. 3 5 文化的景観の申出について ........................................................................................ 5 第1部 文化的景観保存調査の概要 第1章 保存調査の目的 第1節 保存調査に至る経緯 ........................................................................................ 7 第2節 保存調査の内容と方法 .................................................................................... 7 第2章 五島市の概要 第1節 位置と環境 ...................................................................................................... 8 第2節 歴史・沿革 .................................................................................................... 29 第3節 文化財 ........................................................................................................... 51 第3章 景観構造と特徴 第1節 集落 ............................................................................................................... 55 第2節 交通 ............................................................................................................... 61 第4章 生業 第1節 ツバキ実採取 ................................................................................................. 71 第2節 その他の生業 ................................................................................................. 97 第5章 民俗・習俗 第1節 年中行事 ...................................................................................................... 102 第2節 信仰 ............................................................................................................. 114 第6章 文化的景観の本質的価値 第1節 ツバキ林の分布と管理 ................................................................................ 125 第2節 ツバキ油生産とその特色 ............................................................................. 129 第2部 第1章 文化的景観保存計画 文化的景観の保存に関する基本方針 1 文化的景観の概要と価値、課題 ............................................................................. 137 2 保存管理に関する基本方針 .................................................................................... 138 3 整備活用に関する基本方針 .................................................................................... 139 4 管理運営に関する基本方針 .................................................................................... 141 第2章 文化的景観の保存に配慮した土地利用に関する事項 1 保存管理に関する考え方........................................................................................ 142 2 既存法令等による土地利用規制の整理 .................................................................. 144 3 景観法に基づく景観計画による行為誘導............................................................... 146 4 現状変更の取扱い .................................................................................................. 148 第3章 文化的景観の整備活用に関する事項 1 整備活用に関する考え方........................................................................................ 150 2 整備活用の方針 ...................................................................................................... 150 3 整備活用計画 ......................................................................................................... 155 第4章 文化的景観を保存するために必要な体制に関する事項 1 管理運営に関する考え方........................................................................................ 159 2 地域住民の役割 ...................................................................................................... 159 3 行政の役割 ............................................................................................................. 160 第5章 文化的景観における重要な構成要素 1 景観を構成する重要な構成要素の考え方............................................................... 161 2 重要な構成要素一覧 ............................................................................................... 161 第6章 1 参考資料 公共事業におけるガイドライン等の尊重............................................................... 175 2.風力発電施設についての考え方 ............................................................................. 175 序章 沿革と目的 1.計画策定の目的 五島市地域は、奈留島、久賀島、福江島の主要島と属島からなり、主な基幹産業は第1次産 業である。中でも久賀島は、古来より椿油の生産地として名高く、島内にはヤブツバキの自生 が目立つ。またキリシタン集落が点在し、教会と集落は地形的特徴、周囲の自然環境と相まっ て独特の景観を有している。 このような状況から、五島市久賀島の文化的景観を文化資源として捉え、五島市の地域再生 ・活性化に資するため、文化的景観保存調査で明らかになった五島市久賀島における文化的景 観の価値付けを行い、文化的景観保存管理計画を策定し、保存・継承を図っていこうとするも のである。 2.検討体制 五島市久賀島の文化的景観の保護と活用を図ることを目的として「下五島地区文化的景観保 存調査委員会」を設置し、調査を実施した。本計画策定にあたっては同委員会の中で協議を重 ね、また市関係部署とも連携を図り計画内容の検討を行ってきた。 なお委員会等の構成は以下の通りである。 下五島地区文化的景観保存調査委員会名簿 委員氏名 所属等 専門分野 委員長 松本 作雄 五島市文化財保護審議会副委員長 植生 委員 清川 昌一 九州大学大学院講師 地質学 〃 木方 十根 鹿児島大学准教授 建築 〃 加藤 久雄 長崎ウエスレヤン大学非常勤講師 歴史・考古学 〃 尾立 綾子 九州大学大学院助教 社会学 〃 高尾 忠志 九州大学大学院特任助教 景観まちづくり 調査 調査員氏名 調査員 山田 亨 所属等 ハワイ大学大学院(H22.4.1~) -1- 専門分野 文化人類学 指導 氏 名 所属等 井上 典子 文化庁文化財部記念物課文化財調査官 鈴木 地平 文化庁文化財部記念物課文部科学技官 古門 雅高 長崎県教育庁学芸文化課課長補佐 中尾 篤志 長崎県教育庁学芸文化課主任文化財保護主事(~H22.3.31) 長崎県知事公室世界遺産登録推進室主任主事(H22.4.1~) 小林 利彦 長崎県教育庁学芸文化課文化財保護主事(H22.4.1~) 馬場 秀喜 長崎県知事公室世界遺産登録推進室係長(~H22.3.31) 山口 美沙 長崎県知事公室世界遺産登録推進室主任主事(~H21.3.31) 3.計画策定に至る経過 (1)文化的景観保存計画 平成 20 年度から検討を行っている文化的景観調査委員会は、申出までに 3 回開催(ワーキングを含 めると 5 回)し、申出範囲の調査研究や重要な構成要素の検討等を行ったほか、各調査委員とは随 時協議しながら取り組みを進めた。22 年度からは文化庁、県の指導を受けながら追加調査を随時 実施した。また、地域説明会を実施することで合意形成と周知啓発を行った。 ■文化的景観調査委員会の概要 番号 期 日 名 称 1 平成 20 年 6 月 5 日~8 日 調査委員による合同調査 2 平成 20 年 6 月 27 日 五島市文化的景観保存調査委員会(第 1 回) 3 平成 20 年 11 月 12 日 〃 (第 2 回) 4 平成 21 年 2 月 1 日 〃 (第 1 回ワーキング) 5 平成 22 年 1 月 31 日 〃 (第 2 回ワーキング) 6 平成 22 年 3 月 16 日 〃 (第 3 回) (2)景観計画 平成 16 年 12 月の景観法施行に基づいて、五島市は長崎県と協議を行い、平成 20 年 7 月に景観 行政団体となった。以降、景観計画策定委員会の開催及び地区説明を実施しながら取り組みを進 め、平成 21 年 3 月に景観計画を策定し、平成 21 年 12 月に景観条例制定、平成 22 年 12 月に景観 計画の告示を行った。 策定にあたっては、文化的景観保存調査の価値を踏まえるとともに、関連計画との整合を図り、 本市まちづくりの一環として検討を行った。文化的景観地区については、景観保全のためのルー ルを定めている。 -2- ■景観保全の意味 ・優 れ た 公 共 財 の後 世 への継 ・観 光 交 流 の促 進 ・郷 土 への愛 着 や誇 りの醸 成 ・地 域 の魅 力 ・個 性 の創 出 ・生 活 環 境 の快 適 性 の向 上 景観形成 地域づくり や まちづくり 策定にあたっては、文化的景観保存調査の価値を踏まえるとともに、関連計画との整合を図り、 文化的景観地区については、文化的景観区域として景観保全のためのルールを定めている。 今回、重要文化的景観に申出する久賀島地域においても、大学との連携により行政と地元有志 で構成する「久賀島まちづくり協議会」を立ち上げ、「観光と暮らしの共生を図り、島の景観と 島民の暮らしを後世に伝えていく」を基本理念に「久賀島景観まちづくり計画」を策定したとこ ろである。 4.位置及び範囲 五島市が所在する五島列島は、九州の最西端に位置し、北東から南西へと連なる列島であり、 北から、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の主要島と属島からなる。明確な境界がある わけではないが、一般的に中通島、若松島を上五島地域、奈留島、久賀島、福江島を下五島地域 と呼称し、それが行政単位の新上五島町、五島市となっている。 五島市は、長崎港の西方海上約 100km にある福江島を主島に、奈留島、久賀島、椛島、黄島、 赤島、蕨小島、黒島、島山島、嵯峨島、前島の 11 の有人島と 52 の無人島から構成されている。 総面積は 420.81k ㎡で、地形はきわめて複雑で火山群を伴っており、また多くの溺れ谷を持ち、 その海岸線は屈曲に富んでいる。 気候は列島西を通る対馬海流の影響で比較的温暖であり、年間平均気温は 16.5℃、降水量は 2,300mm 前後である。年間平均風速は 3.3m/s、最大風速 10m/s 以上の年間日数は27日となって おり、とくに冬場の北西風が強い。また、台風常襲地帯でもある。 五島は島内全域にヤブツバキの自生が多く見られ、古くから利用されてきた。なかでもツバキ 実から搾油されるツバキ油については、「東の伊豆大島」「西の五島」と称されるほどツバキ油 の生産地として名高く、全国でも有数の生産量をほこってきた。またツバキ実の採取のみならず、 屋敷林、防風林などにツバキを利用するなど様々に活用してきた。 特に久賀島はその中心地としてツバキ原始林やヤブツバキの高い分布密度が認められるなど、 地域の景観や文化を特徴付ける大きな要因となっている。それらの一部は、指定文化財(天然記 念物)として保護が図られている(県指定天然記念物「久賀島のツバキ原始林」など)。 よってツバキ産業の要素を色濃く残し、代表的な地域である久賀島全島域と福江島北東部の奥 浦地区を文化的景観の保存調査対象地域とした。 最終的な申出の範囲については、久賀島全域に決定した。この範囲については、今後の調査によ り拡大されることも考えられる。(図1) -3- 図1 申出範囲図 -4- 5.文化的景観の申出について (1)段階的な申出 「五島市久賀島の文化的景観」のうち、久賀島地域 12 地区の集落で構成されており、申出予定 面積は 3881.1ha と広域な農漁村景観であることが特徴である。 既に、五島市全域が景観計画区域であり、保存調査を行った地域のうち久賀島全域が文化的景 観地区に設定されている。 平成23年1月に、文化的景観として保全を急ぐ地域を1次申出することとし、その後、地域 住民の景観保全に対する意識醸成、地域内で行われる公共事業の調整、その他文化的景観として 価値を高める補足調査や地域内での景観協定の締結等を行いながら、久賀島全域(海域含む)に かかる申出が完了するよう計画している。(図2) ■申出計画表 順番 1次 申出予定年月 平成 23 年 1 月 地 区 面 外幸泊地区、蕨地区、小島地区、猪之木地 積 3,881.1ha 区、永里地区、大開地区、久賀地区、市小 木地区、内上平地区、田ノ浦地区、外上平 地区、深浦地区、弁天島 漁港区域水面 2次 平成 24 年 1 月 海域(久賀湾) 検討中 合 計 3,881.1ha (2)地区の概要 地区名 五輪地区 平成 22 年 11 月現在 人口:男 人口:女 人口:計 世帯数 備考 3 3 6 2 1次 42 40 82 54 〃 蕨小島地区 7 5 12 6 〃 猪之木地区 25 22 47 23 〃 永里地区 9 8 17 13 〃 大開地区 18 19 37 22 〃 久賀地区 52 51 103 64 〃 市小木地区 20 18 38 19 〃 内上平地区 9 11 20 10 〃 田ノ浦地区 12 10 22 13 〃 外上平地区 18 25 43 27 〃 深浦地区 11 13 24 13 〃 226 225 451 266 蕨地区 合 計 -5- 図2 申出計画図 -6- 第1部 文化的景観保存調査の概要 第1章 保存調査の目的 第 1 節 保存調査に至る経緯 五島は、日本の西端の離島という地理的要因から古来より大陸との交流の窓口となり、 遣唐使派遣時代には中国へ渡る日本最後の寄港地として知られてきた。島内には遣唐使ゆ かりの寺社、史跡等が数多く所在する。また、江戸時代後期に潜伏キリシタンが逃れてき た歴史的背景から、キリスト教の教会堂が数多く所在することでもよく知られた島でもあ る。これらの一部は五島の地域史に欠くことが出来ない貴重な文化遺産として保護・活用 が図られている。 最近では、平成19年1月に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界文化遺産暫 定リストに登録され、その構成資産候補「旧五輪教会堂」 「江上天主堂」 「堂崎教会」が所 在する地域として近年注目を集めている。 そうした中、独特の集落景観は五島が辿ってきた歴史・文化により形成された文化的景 観として捉え、下五島地域の文化的景観が有する価値について調査すべく、国及び県の補 助を受けて、下五島地域の文化的景観保存調査を実施することになった。 第2節 保存調査の方法と内容 下五島地域は、奈留島、久賀島、福江島の主要島と属島からなり、主な基幹産業は第1 次産業である。中でも久賀島は、古来より椿油の生産地として名高く、島内にはヤブツバ キの自生が目立つ。またキリシタン集落が点在し、教会と集落は地形的特徴、周囲の自然 環境と相まって独特の景観を有している。 このような状況から、下五島地域の文化的景観を文化資源として捉え、下五島地域の地 域再生・活性化に資するため、「下五島文化的景観保存調査委員会」を設置し、下五島地 域における文化的景観の特徴や価値付けを行い、文化的景観保存管理計画を策定するため 平成 20 年度から 22 年度にかけて保存調査を実施した。 ①調査項目 調査にあたっては、以下の内容について調査を進めた。 ①集落景観… 景観構成要素の整理、景観特性の構造的把握 ②地質と地形… 調査範囲の地質学的調査 ③社会調査… 生業、生活、社会構造等の調査 ④歴史・民俗… 地域史を中心に、歴史学・民俗学的調査 ⑤建築… 景観構成要素となる建築物の調査 ⑥植生… 調査区域内の自然・植生調査 7 第2章 五島市の概要 第 1 節 位置と環境 (1)位置と環境 五島市が所在する五島列島は、九州の最西端に位置し、北東から南西へと連なる列島であ り、北から、中通島、若松島、奈留島、久賀島、福江島の主要島と属島からなる。明確な境 界があるわけではないが、一般的に中通島、若松島を上五島地域、奈留島、久賀島、福江島 を下五島地域と呼称し、それが行政単位の新上五島町、五島市となっている。 五島市は、長崎港の西方海上約 100km にある福江島を主島に、奈留島、久賀島、椛島、黄 島、赤島、蕨小島、黒島、島山島、嵯峨島、前島の 11 の有人島と 52 の無人島から構成され ている。総面積は 420.81k ㎡で、地形はきわめて複雑で火山群を伴っており、また多くの溺 れ谷を持ち、その海岸線は屈曲に富んでいる。 気候は列島西を通る対馬海流の影響で比較的温暖であり、年間平均気温は 16.5℃、降水 量は 2,300mm 前後である。年間平均風速は 3.3m/s、最大風速 10m/s 以上の年間日数は27 日となっており、とくに冬場の北西風が強い。また、台風常襲地帯でもある。 平成16年8月、下五島地域を構成する福江市、富江町、玉之浦町、三井楽町、岐宿町、 奈留町が合併し、五島市となった。 下五島地域の地勢 8 (2)人口構造 平成 17 年度に実施された国勢調査によると、五島市の総人口は 44,765 人で、前回(平成 12 年)より、3,768 人(7.8%)の減少となっている。最も減少率が高いのが奈留地区の 14.9%で、 次いで三井楽地区 13.8%、玉之浦地区 12.6%、富江地区 10.4%、岐宿地区 7.7%、福江地区 4.9% の順になっている。また、地区別の人口構成は福江地区 26,311 人と全体の 58.8%を占め、次 いで富江地区 12.8%、岐宿地区 8.9%、三井楽地区 7.7%、奈留地区 7.5%、玉之浦地区 4.3%と続 いている。 1 世帯あたりの平均世帯人員は 2.3 人で、前回(平成 12 年)より 0.1 人減少している。地 区別では福江地区 2.4 人、富江地区 2.2 人、玉之浦地区 2.2 人、三井楽地区 2.3 人、岐宿地区 2.4 人、奈留地区 2.1 人となっている。 年齢構成の割合については、 年少人口(15 歳未満)13.8%、生産年齢人口 (15 歳~64 歳)55.7%、 老齢人口(65 歳以上)30.5%となっており、前回(平成 12 年)と比べると年少人口 2.3%、生産 年齢人口 1.8%の減少に対し、老齢人口は 4.1%増となっており、少子高齢化がますます進んで いることが分かる。 人口及び世帯数推移 人口(人) 世帯数(戸) 年次 総数 男 女 人口増減数 (人) 人口増減率 1世帯当たり (%) 人員(人) 昭和30年 91,973 45,390 46,583 18,596 昭和35年 87,232 42,751 44,481 19,401 ▲ 4,741 ▲ 5.2 4.5 昭和40年 78,642 38,086 40,556 19,542 ▲ 8,590 ▲ 9.8 4.0 昭和45年 68,649 32,547 36,102 19,206 ▲ 9,993 ▲ 12.7 3.6 昭和50年 63,410 30,040 33,370 19,230 ▲ 5,239 ▲ 7.6 3.3 昭和55年 60,947 28,819 32,128 20,159 ▲ 2,463 ▲ 3.9 3.0 昭和60年 57,736 27,082 30,654 20,473 ▲ 3,211 ▲ 5.3 2.8 平成2年 54,143 25,132 29,011 20,187 ▲ 3,593 ▲ 6.2 2.7 平成7年 51,295 23,690 27,605 20,113 ▲ 2,848 ▲ 5.3 2.6 平成12年 48,533 22,493 26,040 19,967 ▲ 2,762 ▲ 5.4 2.4 平成17年 44,765 20,610 24,155 19,305 ▲ 3,768 ▲ 7.8 2.3 各年10月1日現在 4.9 国勢調査 9 集落別人口(久賀) 400 人 350 300 250 200 150 100 50 0 S40 45 50 久賀 細石流 55 60 H02 03 市小木 田ノ浦 04 大開 外上平 05 06 07 内上平 折紙 08 09 年 蕨 内幸泊 10 11 外幸泊 浜泊 12 13 14 15 小島 16 猪之木 17 18 19 永里 20 21 深浦 (3)就業者数と産業構造 本市の就業者数は、人口減少と相まって年々減少している。昭和 30 年には 39.353 人だった のが、平成 17 年には 18,858 人となり、52%の減少率となっている。 産業別就業者数を見ると、平成 17 年の国勢調査では、第 1 次産業が 17.1%、第 2 次産業は 16.1%、第 3 次産業が 66.7%となっており、昭和 30 年と比較すると第 1 次産業が 88.5%の減少、 第 2 次産業が 0.01%の減少、第 3 次産業が 150%の増加となっている。 産業(大分類)人口推移 年次 第1次産業人口第2次産業人口第3次産業人口分 人 割合(%) 人 割合(%) 人 割合(%) 類 不 人 能総 割合(%) 数 前回比較 人 人 昭和30年 28,220 71.7 3,079 7.8 8,053 20.5 1 0.0 39,353 昭和35年 23,970 65.6 3,509 9.6 9,075 24.8 8 0.0 36,562 ▲ 2,791 昭和40年 18,603 59.3 2,895 9.2 9,853 31.4 13 0.0 31,364 ▲ 5,198 昭和45年 14,453 51.7 2,702 9.7 10,779 38.6 2 0.0 27,936 ▲ 3,428 昭和50年 11,154 45.8 2,520 10.3 10,663 43.8 20 0.1 24,357 ▲ 3,579 昭和55年 9,571 38.3 3,438 13.8 11,948 47.9 7 0.0 24,964 昭和60年 8,410 35.2 3,274 13.7 12,198 51.0 14 0.1 23,896 ▲ 1,068 平成2年 5,901 26.4 4,244 19.0 12,241 54.7 5 0.0 22,391 ▲ 1,505 平成7年 4,787 22.0 4,136 19.0 12,826 59.0 2 0.0 21,751 平成12年 3,616 17.8 3,923 19.3 12,785 62.9 5 0.0 20,329 ▲ 1,422 平成17年 3,227 各年10月1日現在 17.1 3,030 16.1 12,584 66.7 17 0.1 18,858 ▲ 1,471 国勢調査 10 607 ▲ 640 (4)地質及び地形 ①概要 五島列島の大部分の地質は、五島層群とよばれる新第三紀中新世に堆積した砂岩、泥岩、 及び安山岩質凝灰岩などで構成されている。この基盤層に花崗岩類、玢岩が迸入し、流紋岩、 粗粒玄武岩などが岩脈として貫入している。椛島及び周辺の島々は迸入した玢岩からでき、 花崗斑岩の迸入によってダイアスポア、蝋石を主とする熱水鉱床ができた。 火山活動による玄武岩類は、福江島の南東部(福江)、北部(岐宿) 、北西部三井楽)、南 部(富江)に分布する。福江島に分布する玄武岩は、環日本海新生代アルカリ岩石区の西端 にあたり、その噴火活動時期は洪積世-沖積世である。 五島列島の地形を海底地形から概観すると、およそ 100m 以浅の浅海によって九州本土と 結びつき、構造的に九州の半島とみなすことができる。また、中国大陸の東端に位置し、ア ジア大陸の東縁に広がる大陸棚の一部とみなすこともできる。 五島列島は、新第三紀中新世およそ 2000 万年前頃の堆積物と 1500 万年前頃に貫入した花 崗岩類及び地殻運動で骨格が造られている。日本列島は、中新世前期までアジア大陸に接続 し、この東端の部分に淡水湖が点々と分布していた。やがて 2100 万~1100 万年前にはさら に断裂は大きくなり、西南日本は長崎県対馬南西部付近を中心に時計回りに 40~50 度回転 し、同時に東北日本は北海道知床半島沖付近を中心に、こちらは反時計回りに 40~50 度回 転したとされる。五島列島の基本的構造が北東~南西であることは、この地殻変動による褶 曲運動、断層運動、マグマの貫入によって決定されたと考えられる。 この基本構造に直角に横切る北西~南東の断層も発達する。これは沖縄トラフの活動の影 響により形成されたと考えられ、この断層が五島列島の主要島を分離する瀬戸となっている。 これらの地殻運動、陸地の浸食及び沈水は、島の分離、溺れ谷の形成、各島の谷や山稜、 瀬戸の方向に大きく反映し、出入りの激しい海岸線と多島海を形成している。福江島中央部 の山内盆地は、花崗岩類が深層風化し浸食されたのに対し、周囲は熱変質を受け岩石が硬化 し、浸食されずに急峻な山地形を形成している。同様に花崗岩類が広く分布する久賀島久賀 湾も盆地状地形をなしている。 第四紀になり、北東~南西方向の断層に沿って火山活動が始まり、福江島の北西部、南部、 南東部に火山性台地が形成され、沖合には火山活動で形成された島々が浮かぶ。これらの地 形は、基本構造の急峻な山地形と異なり、なだらかな台地を形成している。 ②地形による景観 下五島地域の海岸地形は火山地形とともに重要な自然的景観となっている。この代表的も のは沈水地形である玉之浦湾、岐宿湾、戸岐湾、奥浦湾などの溺れ谷である。また、五島の 海岸地形の優れた特徴は海食地形にある。風波や海流は地層の断層、節理、軟層を浸食し、 海食崖や海食洞をつくっている。福江島の西方に浮かぶ嵯峨島の西海岸は、海食により火山 の西半分が失われ、二つの火山の断面が表れ火山噴出物の堆積状況がよく観察できる。 福江島の南西海岸には、高さ数十mの海食崖が島山島西海岸から大瀬崎、大宝まで総延長 11 ■表層地質図 花崗岩質岩石 奈留島 砂岩・泥岩(Ⅰ)の 玄武岩 奈留瀬戸 礫・砂・泥 久賀島 熔結凝灰岩 田ノ浦瀬戸 京ノ岳 砂岩・泥岩(Ⅰ)の 互層 熔結凝灰岩 福江島 花崗岩質岩石 火ノ岳 鬼岳 富江港 熔結凝灰岩 凡例 出典: 「表層地質 図」(1/20 万) 旧国土庁、1975 12 玄武岩質砕屑物 および集塊岩 ■地形分類図 大起伏丘陵地 火山山麓地 奈留島 奈留瀬戸 岩石台地(下位) 三角州性低地 扇状地性低地 久賀島 田ノ浦瀬戸 小起伏山地 福江島 岩石台地(下位) 火ノ岳 出典: 「地形分類図」 (1/20 万)旧国土庁、1975 13 小起伏火山地 約 15kmにわたって続き、その壮大な景色から五島を代表する自然景観地となっている。 海食崖はまた、久賀島の西海岸にも発達する。 海食洞は、福江島北部の沖合に浮かぶホゲ島をはじめ、五島ではよく見られる地形的景観 である。 海食崖などから供給された砂礫等が運搬堆積され、砂嘴となることもある。その代表的な ものが久賀島田ノ浦の湾口をなすもので、長さ 400mにも及んでいる。福江島の南に浮かぶ 黄島宮の鼻も同様の砂嘴地形で、いずれも砂嘴の内側を港として利用し、周囲に集落が形成 されている。福江島北東部の堂崎海岸では、砂嘴が発達し岬の先端と小島を結び陸繋島とな っている。このような地形は奈留地区においてもみられ、前島と末津島は干潮時に砂嘴によ って陸繋島となる。 砂嘴の成長で湾口が完全に閉ざされると内側に潟湖(ラグーン)ができる。このような地 形は奈留島においてよく見られ、汐池、皺の浦に典型例が観察できる。このうち汐池地区で は、砂嘴上に集落が築かれており、特異な集落景観を有している。やがて潟湖が堆積物で埋 められると平野となり耕作地として利用されるが、福江島南部の大浜、田尾にその例が見ら れる。 入江に堆積した砂礫は、浜堤や砂丘、砂浜海岸をつくり、主に福江島において顕著にみら れる。福江島東部の六方、北西部の白良ヶ浜、高浜、頓泊、南部の丸子、田尾、大浜、香珠 子などにみられ、かつては周囲に松が生い茂り文字通り白砂青松の美しい景観をなしていた。 いずれも海水浴場として利用されている。 福江島の火山性台地の海岸部には、火山から流出した溶岩で形成された溶岩海岸が広がり、 五島列島の他地域では見られない海岸景観となっている。特に南部の鐙瀬海岸は五島を代表 する景勝地としてよく知られている。また、火山活動により形成された火山体のうち、福江 島南東部にある鬼岳火山群の火山体は比較的良好にのこされている。特に鬼岳は山体全体が 草原となっており、市民憩いの場や観光名所にもなっており、重要な景観資源でもある。 火山活動により形成された特異な地質現象として、溶岩トンネルがある。これは、火山活 動によって噴出した軟らかい玄武岩質溶岩が波打ちながら流れ出る際に、溶岩の表面と下部 が固結して、内部の固結していない溶岩が流出して空洞をつくったものである。このような 溶岩トンネルは福江島南部の富江地区と、福江島南の沖合に浮かぶ黄島に確認されており、 ともに長崎県の天然記念物に指定され、保護が図られている。 14 黄島溶岩トンネル 鬼岳 大瀬崎断崖 大瀬崎粗粒玄武岩の平行岩脈群 嵯峨島火山海食崖 奈留島・池塚のビーチロック ③久賀島の地形・地質 本調査の対象地域である久賀島は、福江島の北東に位置している。 地形は東西に約 5km、南北に約 7km、総面積は約 37.35 km2 で、北部から島の中部にかけ 15 崖 小起伏山地 丘陵地(Ⅱ) 丘陵地(Ⅰ) 中起伏山地 久賀湾 三角州および海岸平野 猪ノ木川 中起伏山地 谷底平野 磯(海食棚) 丘陵地(Ⅰ) 田ノ浦 谷川・市小木川 大開川 崖 出典:「地形分類図」 (1/5 万)旧国土庁、1974 て約 5km にのびる久賀湾を中心に馬蹄形の形状をなしている。この久賀湾を囲んで見下ろす ように 2~300m級の山々が連なっており、これらの山系の湧水を源流とした複数の河川が 16 閃緑岩 砂岩・泥岩互層 砂岩・泥岩互層 猪ノ木川 閃緑岩 礫・砂・泥 斑岩 礫・砂・泥 花崗斑岩 田ノ浦 斑岩 凝灰質岩 出典:「表層地質図」 (1/5 万)旧国土庁、1974 島内各地の各集落に流入している。山系の分水嶺は基本的に外海寄りに偏っているため、久 賀湾を囲む地域は傾斜が緩やかで河川の流域面積は広いのに対し、外海に面した地域は比較 的急傾斜で河川が短い傾向となる。久賀湾に面した地域は、湾に流れ込む中小河川の影響に より浸食され、下流域には浸食作用の結果形成された極小規模の沖積地が点在し水田が拓か 17 れているが、河川沿いにも五島列島では稀な棚田・段畑群が形成されている。また、長崎県 の島嶼部をはじめとして、全国的に島嶼地域においては水利環境が厳しいのが一般的である のに対して、久賀島においては島嶼地域では稀といえる豊富な湧水を基礎とした棚田や段畑 などの農業景観が形成されている。 久賀湾の中心部、久賀泊地の水深は 18m の平坦地となっているが、弁天島東の水深 21m にある凹地は北に延び、深さを増してトモロ崎で 25m と海溝状となる。しかし、湾口部の赤 ハゲ鼻では水深 14m と浅くなる。島の西側は山腹が海岸まで迫り、海食崖が発達し海食洞も みられる。一方、田ノ浦湾は水深 10~13m ほどあり、南西端から東へ砂嘴が発達しており、 標高 5~6m、幅数 10m、長さ 400m ほど延びている。 田ノ浦湾と砂嘴 西海岸の断崖 久賀島の地質は、第三紀中新世に堆積した堆積岩類と中新世中期に貫入した花崗岩類から できている。堆積岩は砂岩、泥岩及び凝灰岩で、一部熱変成を受け硬化、ホルンフェルス化 している。堆積岩の全層厚は 650m を超えており、主に島の西部及び南部域の一部に分布す る。西海岸の切り立った崖は、堆積岩からできている。火山活動と密接に関係する凝灰岩は、 島の南部で厚く数㎝の角礫を含む角礫凝灰岩で、北部で次第に薄くなる。また、火山豆石が 福江島北部、久賀島、奈留島から見られ火山活動による降灰時の降雨を推測させる。 島の北部から東部の広い範囲に五島花崗岩類が分布している。多くは花崗斑岩-石英斑岩 と呼ばれるもので、斑晶が小さく有色鉱物の少ないことを特徴とする。風化を受けると全体 的に軟らかくなり、長石は白い粘土鉱物変化し、石英はガラス質で残り、黒雲母は褐色を呈 し周辺の鉱物を褐色に染めている。さらに風化が進み「真砂土(まさど)」となるところも ある。 浜脇の海岸から久賀町にかけて道路沿いに露出するものは、福江島北東部(田ノ浦瀬戸を 挟んで田ノ浦の対岸にあたる)の奥浦地区に分布する花崗斑岩の延長で、溶触された同形の ざ ざ れ 石英を含む福江島に普通に見られるタイプである。細石流から深浦、猪之木にかけては、角 閃石や黒雲母を含むアルカリ花崗岩に分類されるものが分布する。内幸泊から蕨にかけては、 黒雲母、角閃石、長石の小さい結晶で構成された花崗閃緑岩が分布する。折紙地区では、有 色鉱物をほとんど含まない。弁天島は角閃石が黒雲母より多い花崗閃緑岩。花崗閃緑岩は、 18 五島列島に普通に見られる花崗岩類を捕獲しており、花崗岩類貫入後に花崗閃緑岩の貫入が あったことがわかる。 久賀島には北西-南東及び北東-南西方向の斑岩や玄武岩類の岩脈が数多く認められ、小 断層の方向とも一致している。 (2)植生 ①概要 五島列島は、西方沖を流れる対馬暖流の大きな影響を受け、気候は温暖で、全域に照葉樹 林帯が広がり、その代表的植物はヤブツバキ(ツバキ原種)、タブ、スダジイなどであり、 また亜熱帯系の植物が多いのが特徴である。地理的にも地質的にも複雑であることから、植 物の種類も多く、特に「九州西廻り型分布」の南方系植物ヘゴ、リュウビンタイ、ハマジン チョウ等は植物学的に貴重である。五島列島は、これら亜熱帯系植物の自生北限地となって おり、地域によっては自生地一帯を天然記念物として文化財に指定し、保護を図っている。 下五島地域の広い範囲で、「シイ・カシ萌芽林(伐採後の切り口付近からの萌芽を育てた 森林)」と「スギ・ヒノキ植林」があり、奈留島及び久賀島の西部、福江島の中央部に両者 が入り組んで分布している。「ハマビワ-オニヤブソテツ群落」は、下五島地域の海岸沿い に分布しているのが特徴的である。 「ススキ-チガヤ群落・ススキ-メカルガヤ群落」は、 奈留島及び久賀島の西部、福江島の南半分において散見される。「アカマツ-オンツツジ群 落」は、久賀島中央部と福江島の広い範囲で散見される。福江島北西部、南東部には「畑地 雑草群落」が広く分布し、また「クロマツ群落」が散見される。 五島列島には、神社の社叢以外には原生林がほとんど残っていない。これは、江戸期にな って生活燃料、建築用材として伐採されてばかりでなく、製塩業・煮干製造等の薪として盛 んに切り出され、また島外にも売り出されたためである。 ヘゴ(五島ではオニヘゴと呼称) ハマジンチョウ 19 20 シイ・カシ萌芽林 スギ・ヒノキ植林 畑地雑草群落 猪ノ木川 大開川 ハマビワ- オニヤブソテツ群集 谷川 田ノ浦 水田雑草群落 出典:「現存植生図」(1/5 万)旧環境庁、1986 久賀島の植生図 21 戸岐神社社叢 樫の浦のアコウ 下五島地域の代表的な植生としてツバキの自生があげられる。ツバキは、照葉樹林帯を構 成する代表的な樹種で、南西諸島から青森県夏泊半島まで分布している。ツバキの木質は固 く緻密で均質であり、かつ木目は余り目立たず、摩耗に強くて摩り減らない等の特徴から工 芸品、細工もの等に使われる。また、日本酒の醸造には木灰が必要で、ツバキの木灰が最高 とされており、アルミニウムを多く含むことから古くは染色用にも用いられた。木炭として も最高級品として使われてきた。ツバキは生長すると樹高 20m ほどになるが、上記のように ツバキは利用価値が高いため、全国各地でツバキの大木は伐採され、現在ではツバキの大木 はほとんど見られない。下五島地域においては、主にツバキ油の採種のために利用されてき た。特に久賀島では村制時代に条例でツバキの伐採を禁じていたため、ツバキの原始林が保 護され、ツバキの大木も島内各地に自生している。 ツバキはまた屋敷、畑の防風林としても利用されている。福江島の北西部に位置する三井 楽半島には畑の原初的な形態といわれている円畑が広がっているが、冬場の強い北西風など の防風林として円畑を囲むようにして利用されている。また防風林としてだけではなく、ツ バキ実の採種や薪炭材としても広く利用され、なだらかな溶岩台地が広がる三井楽地区では このツバキ防風林が一種の里山としても利用されてきたことが伺える。 また福江島の南東部に位置する大窄地区では、集落の開拓時に防風林(屋敷林)として植 えられたものが大木となり、現在は県指定天然記念物「福江島の大ツバキ」 (2 本)として 保護されている。 22 久賀島亀河原のツバキ林 椿の実 久賀島に多く自生する大ツバキ 久賀島に多く自生する大ツバキ 三井楽円畑の防風林(ツバキ) 23 【ヤブツバキの特性】 我が国に自生するツバキ属は亜種や変種なども含めて次の八種があるとされている。 ①ヤブツバキ、②ホウザンツバキ(琉球列島に自生するヤブツバキの一亜種)、③リンゴツ バキ(ヤブツバキの変種又は品種)、④ユキツバキ、⑤ユキバタツバキ、⑥サザンカ、 ⑦オキナワサザンカ、⑧ヒメサザンカ このうちヤブツバキやユキツバキは、世界の原種約 100 種のうちでも最北端に分布し、耐 寒性に富むことから多くの園芸品種を生む母体となった。日本各地の山林に最も多く見かけ るものがヤブツバキで、普通にツバキといえばヤブツバキを指すほどである。五島において 自生するツバキは全てがヤブツバキである。 樹性は立性、多くは単幹で7~8mの高木になって海岸付近に群生する傾向を持つ。全国 のツバキ巨樹、大木のほとんどがヤブツバキである。都市公害にも強く、日陰でもよく育つ ため、緑化花木としての価値が認識されてきている。 分布域は先述したように南西諸島から青森県夏泊半島まで分布しており、日本以外では朝 鮮半島の南、西部の海岸域、済州島など僅かの地域に限って分布しているのみで、日本固有 種と考えても良い。ツバキ属の学名「Camellia japonica」がそれを示している。 ヤブツバキに限らずツバキ属は他のツバキ属とも容易に交雑し、多くの種間雑種ができる。 このことから古くから品種改良が行われてきており、江戸時代以降大名や京都の公家などが ツバキの園芸種を好んだことから、庶民の間でも大いに流行し、たくさんの品種が作られる ようになった。 野生にもヤブツバキの変種が発生しやすく、中でも有名なのが福江島玉之浦の山中で偶然 発見された玉之浦ツバキが幻のツバキとして有名である。 幻の名花「玉之浦ツバキ」 ヤブツバキの花 ②植生による景観 今日の下五島地域における森林のほとんどが人の手が加わり、原始の姿を留める森林はほ とんど残されていない。殊に福江島や久賀島ではスギ、ヒノキの植林が進み自然林が非常に 少なくなっている。残った自然林も薪や木炭を得るため繰り返し伐採した後にできた二次林 24 である。 下五島地域のかつての原始の森の原型をよく残すものとして、神社の社叢があげられる。 現在の神社社叢は、鎮守の森として森(あるいは山全体)そのものがご神体として信仰の対 象になっていたとも考えられ、また、海岸部の森林が魚付き保安林として古来より大事に保 護されている場合、必ずと言っていいほど神社が祀られている。ゆえに神社の社叢は、その 立地条件から下五島地域の低海抜地、平野部、丘陵部等におけるかつての植生自然の姿を知 る手がかりとなっている。 代表的なものとしては、福江島北部の戸岐神社社叢(魚付き保安林) 、巖立神社社叢(県 指定天然記念物)、笹岳樹叢(国立公園)、南西部の白鳥神社社叢(県指定天然記念物)、岩 谷岳の樹叢(水源かん養保安林) 、奈留島の権現山樹叢(国指定天然記念物)、船廻神社社叢 (県指定天然記念物)などがあげられる。これらの森林は、他の自然林(二次林)と比較し て、一見して樹叢形態が異なっており、自然豊かな下五島地域でも特異な自然景観を有して いる。 先述したとおり五島列島は亜熱帯植物の自生北限地帯となっており、島内各所に亜熱帯系 植物の自生が見られる。海岸部にはハマジンチョウの群落が見られ、五島の海岸部における 植生的景観となっている。代表的なものは福江島の荒川、奈留島の皺の浦の群落地で、いず れも県指定天然記念物となっている。 亜熱帯系樹木の中には、大木となり地域の重要な景観構成要素となっているものもある。 代表的なものとして、福江島北部の樫ノ浦のアコウ、南西部の玉之浦のアコウ(いずれも県 指定天然記念物)などがある。 ③久賀島の植生 久賀島の植生を概観すると、沿岸域にハマビワーオニヤブソテツ群集が分布し、内陸部の 山中にはスギ・ヒノキ植林が分布している。山中のほとんどがかつて田畑として耕作された ものが雑木林となり、シイ・カシ萌芽林と化している。棚田などの田地が広がる地域には 水田雑草群落が分布している。 久賀島の植生を特徴付けるものとしては、ヤブツバキの自生があげられる。平成 21 年度 に農林課が実施したツバキ分布調査(約1㎢当り 10 箇所の 10m×10mの方形観測地点を設 定して調査。コドラード調査(方形区法))、久賀島では 811,580 本のヤブツバキが確認され た。これは、他の島と比べても自生密度は非常に高いものとなっている。 久賀島では、ヤブツバキの原生林が 2 箇所所在する。原生林とはいえ、人跡未踏の原始林 というわけではなく、古くから人の手によって保護・管理され、ヤブツバキ以外の樹木を伐 採することによって形成されたヤブツバキの純林である。 ・長浜のツバキ林 久賀島の南東部の海岸に位置し、樹林面積は 6,800 ㎡ほどである。やや浅い谷合とゆるい 斜面に発達しており、土壌は砂礫が多い土質のため痩せ地であり、ために大木は少ない。 25 おおむね幹まわり 30~50 ㎝程度のものが大半を占める。林内の植生は貧弱であり、ヤブツ バキの下層には1m前後のカクレミノ、ヤブニッケイ、スダジイ、ハマビワなどが広がり、 ツバキ林を取り囲む樹木にはフウトウカズラ、イタビカズラ、テイカカズラなどの蔓性植物 が着生している。 林内の植生が貧弱なのは、かつてツバキ実採種のため定期的に下草払いを行ってきたため、 ヤブツバキが優勢となり他の樹木が育成しにくかったためであろう。現在でも市の委託を受 けて 1 年に 1~2回程度の割合で下草払いを行っている。 現在、長崎県を代表するツバキ原始林として、長崎県の天然記念物の指定を受け保護され ている。ツバキ分布調査では、367 本のヤブツバキが確認されている。 ・亀河原のツバキ林 久賀島の南西部に位置し、樹林面積は 6.7ha ほどである。北向きの山の中腹から海岸際ま で斜面全体をヤブツバキで覆い尽くした純林である。海岸に近い周辺部のものは直接強風を 受けるためか分枝が多く高さ4m前後であり、一方樹林内部のものは直立し、高さ 7~8m と特に大木はないが、幹まわりは平均して 45~60 ㎝ほどである。 ツバキ林内には他の樹木はほとんどないが、下層にはツワブキ、シダ類が一面に広がる。 また、管理が行き届かないためか、現在ではツバキ林の大部分をツタカズラガ覆い尽くそう としている。ツバキ分布調査では約 10,000 本のヤブツバキが確認されている。 久賀島ではまた、日本に古くから野生していた日本固有の柑橘類であるタチバナ(現在で は希少種となっている)の自生が数本確認されている。 (3)気候・気象 五島列島は九州の西端に位置し対馬海流に四方を表れているため冬は暖かく夏は比較的 涼しい海洋性気候である。世界最大規模の海流である黒潮暖流から分岐して、九州西岸を洗 いながら対馬海峡及び日本海へと達する対馬海流の真っ只中に位置する五島列島の気候は、 地形的な影響よりはむしろ海流の影響を大きく受けるのは当然のことといえる。以下、五島 列島においての四季の気候について述べたいと思う。 春は3・4日の周期で低気圧が通過するため九州本土と同様天気の移り変わりは早いが、 降水量は長崎より多くなっている。これは五島近海の水温が気温より高いためと見られてい る。この時期の特徴的な気象現象として黄砂現象があげられる。黄砂は、特に中国を中心と した東アジア内陸部の砂漠地帯の砂塵が、強風によって上空に巻き上げられ、春を中心に中 国、朝鮮半島及び日本列島など東アジアの広範囲に飛来し、地上に降り注ぐ気象現象である が、五島列島は地理的位置の関係から本土部よりは早い時期から黄砂が降り注ぐ。近年では 気温が高くなる時期に黄砂の影響によると思われる光化学スモッグが発生し、注意報まで出 されたことがある。 梅雨期は、気象学的な擾乱による大雨もあるが、地形的影響による局地的大雨はほとんど 26 確認されていない。また、地形的に山が多く河川は比較的短く流域が狭いので、水害として は洪水よりも、山、崖崩れなどの地面現象による災害が起こりやすくなっている。 夏は、8月を中心に晴天の日が多い。島が小さく周囲の海水温が割合高いことから、日中 の日射による対流活動は弱く、熱雷の発生はほとんどない。直射日光が厳しく降り注ぐが、 気温は九州本土部に比べ若干低く、真夏日も福江測候所が報告している「五島の気象特性」 には、「五島の真夏日34日は、長崎48日、福岡55日、熊本69日、鹿児島69日より はるかに少ない」と述べられており、五島の夏は九州本土より過ごしやすい日が多いことを 示している。 この時期の降水量は全般的に多い方であるが、旱魃の記録も多く、梅雨期の降水量が少な かったり台風による降水量が少ない時は水不足となり、農作物への影響は大きくなる。 台風は7~9月に接近するものが多く、7,8月は五島列島の西側を北上し、9月以降は 東側を北上するものが多い。特に島の西側を通過した場合、台風の東側は危険半円となるた め、被害は甚大なものになる。7月に接近する台風の数は日本の各地に比べやや多い。とは いえ、五島列島を直撃する台風は平均して毎年1~2個で、他地域と比較して特に多いとい うわけではない。 秋は台風の接近や秋雨前線の影響により大雨となることもあるが、全般的に曇りや雨の日 は少なく晴天の日が多い。移動性高気圧が、大陸から東へ移動してきて日本海北部をゆっく りと通過すると五島付近は晴天であるが、かなりの風速をもった北もしくは北東の風が吹き 続くことがある。地元の古老の間ではこれを「あおぎた」と呼んでいる。この風が吹く時は 空が晴れ渡り、海の色が青く見えることからこの名があるのであろう。一方低気圧が五島の 北を通過すると、それに伴う前線によって天気がぐずつき、雨とともに低気圧に吹き込む南 風が強くなる。これを古くから「しろばえ」と呼んできた。 「あおぎた」といい「しろばえ」 といい、五島で漁業を生業にしている人々にとっては、その生活に深い関心をもっているの である。 また、奈留島に「白這(しろばえ)」という地名があるように、東向きの湾には「東風泊 (こちどまり)」、南向きの湾には「南風泊(はえどまり)」という風・気象現象に関わる地 名が五島各地につけられているのも特徴である。 冬は日本海側気候に類似し、曇りや雨天の日が多く、厳しい北西風が吹き荒れ、時雨や降 雪日が多いが対馬海流の影響で、気温と海水温の差は10度にも達し、五島列島の冬の気温 は高めに経過する。しかしながら、最深積雪の記録によると、昭和38年(いわゆる三八豪 雪)福江における43cmの積雪は山岳部を除くと九州で第1位である。 この時期に吹く北~北西の季節風は、陸上で風速10~15m程度になる日が月に4~5 日もあり、時には突風を伴う風速20mを超える強風が吹くこともあり、小型船舶の航行が 危険にさらされる。 五島には、この時期にこのような季節風の他に「西風落とし」と呼ばれる突風が吹くこと がある。これは発達した低気圧が日本海に入り、そこから延びる寒冷前線が五島を南下する 27 ような場合に多い。特に寒気が厳しい時は、突然、海上でにわか雨やにわか雪を伴った突風 が繰り返し襲いかかって海は大時化となり、小型の船舶や水産関係の施設に大きな被害をも たらすことがあって恐れられている。 五島市の気象 気温 年月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 平均 平成17年 平成18年 7.0 6.9 9.3 15.2 18.5 22.9 26.7 27.2 25.3 20.2 14.7 6.9 16.7 平成19年 7.9 8.2 10.3 14.3 18.4 22.3 26.6 27.6 23.5 20.4 15.8 10.3 17.1 平成20年 8.6 10.1 11.6 14.8 19.3 22.6 25.9 28.1 26.2 20.8 14.5 10.9 17.8 8.6 6.8 10.9 14.9 18.5 21.6 27.5 27.3 24.6 19.9 14.5 9.6 17.1 単位:℃ 平成21年 7.4 10.7 12.0 15.0 19.0 22.4 26.1 27.0 24.0 19.7 13.9 12.9 17.5 平成21年月別平均気温 ℃ 30.0 25.0 20.0 15.0 10.0 5.0 0.0 気温 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 月 降水量 年月 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 年間降水量 平成17年 57.0 175.0 249.0 147.5 140.5 58.5 347.0 174.0 528.5 73.0 265.0 145.0 2360.0 平成18年 91.5 135.0 113.0 333.0 395.5 386.5 354.0 366.5 362.0 11.0 165.0 48.0 2761.0 平成19年 36.5 111.5 158.0 138.5 108.0 151.0 365.0 139.0 121.5 62.0 4.5 205.5 1601.0 平成20年 94.0 46.0 152.5 174.5 233.5 366.0 195.5 218.5 279.0 48.0 116.0 107.0 2030.5 平成21年月別降水量 400.0 300.0 ㎜ 200.0 降水量 100.0 0.0 1 2 3 4 5 6 7 8 月 28 9 10 11 12 単位:㎜ 平成21年 145.5 151.5 228.0 276.0 91.5 291.0 336.0 147.0 92.0 74.5 231.5 79.0 2143.5 気象庁調 第 2 節 歴史・沿革 (1)原始・古代 ①旧石器時代~古墳時代 長崎県教育委員会が発行した「長崎県遺跡地図」によれば、下五島地域で旧石器時代の遺 跡9、縄文時代の遺跡 77、弥生時代の遺跡 19、古墳時代の遺跡 7 が周知の埋蔵文化財包蔵 地として登録されている。五島における遺跡の立地的特性として、海岸部に集中することが あげられる。特に縄文、弥生時代の遺跡はほとんどが海岸部か、かつて海岸であった場所に 所在し、出土遺物は漁労生活に関わる遺物が大半を占め、稲作農耕社会となった弥生時代に おいても漁労の伝統が強く残り、新しい稲作社会への転換はあまり見られなかったものと思 われる。これは、現在の五島地域で内陸部に集落が少なく、主要な集落が海岸部にあるのは 古くから海に依存した生活が続いてきたためであろう。また、縄文時代の遺跡では、明確な 集落遺構が検出されておらず、数世代にわたっての定住ではなく、よりよい生活環境を求め て移住を繰り返したものと思われる。 出土遺物から類推すると、全体として九州本土と同じような出土遺物組成を持ち、文化圏 としては西北九州文化圏の範囲内である。しかし一方で、南九州系の土器も出土しており、 九州本土部との広範域にわたる海を通じた交流がうかがえる。 遺跡の数は弥生時代後期から漸減し、古墳時代になると遺跡の数は激減する。古墳時代を 特徴付ける遺跡・遺構である古墳(高塚式墳墓)も五島では、小値賀島に2基が確認されて いるに過ぎない。 ②古代 五島列島が文献に登場するのは、 「古事記」 「肥前国風土記」に記述されたのが最初である。 ち かしま 古事記上巻の国生みの章には、大八島を生んだ後「・・次に知訶島を生みき。亦の名を天之 忍男という。 ・・」という記述があり、この知訶島が五島列島を指すと言われている。なぜ 知訶島と呼ばれるのかは、肥前国風土記の中で、景行天皇九州巡行の際、志式島(平戸)に 立ち寄ったところ、西海を望むと海の彼方に煙が立ち上っているのを見て「この島は遠しと いえども、なお近きが如く見ゆ。近島というべし」と言ったことに由来するという。 五島列島が歴史の表舞台に登場するのは、遣唐使派遣時代になってからである。当初、遣 唐使船の航路は九州北部を発し、壱岐、対馬へと渡り、朝鮮半島沿いに寄港しながら大陸へ 渡る北路がとられていたが、朝鮮半島を巡る国際情勢が悪化したため、九州北部から五島列 島へ渡り、島伝いに寄港しながら一気に大陸へと渡る南路がとられるようになった。肥前国 あ い こ た とまり 風土記にも、 「…西に船の泊まるところが2カ所あって、一つを相子田の停 といい二十艘余 りの船を泊めることができ、一つは川原の浦といい十艘余りの船を泊めることができる。遣 唐使はこの港から出発して、川原の浦の西にある美弥良久の埼を経て西を指して海を渡る。 …」と記述されており、このうち相子田の泊が現在の新上五島町青方(相河)、川原の浦が 29 五島市岐宿町の白石湾(川原郷)、美弥良久の埼が五島市三井楽町の柏崎に比定されている。 遣唐使船の寄港地となり、五島列島は日本と大陸との交易・往来の中継基地として利用さ れることになる。9世紀には頻繁に貿易船が寄港するようになり、承和9年(842)には、 唐の商人李処人が博多から唐へ向かう途中、値嘉嶋奈留浦(奈留島)に寄港し、老朽化した 船を廃棄し、島の楠を切り出し僅か3ヶ月という期間で新船を完成させ、僅か6日間で唐へ と渡っている。このことはすなわち、五島という地域において、貿易船の建造体制が整い、 それに見合う技術者、労働者などの造船スタッフの充実、また、新造船(貿易船)のための 資材の供給源もある程度島内で確保されていたことが容易に想定されるものである。この造 船に従事した人々が、唐人船大工を頂点として日唐の工人、人夫、水夫などを含む国際色豊 かな集団であったことは容易に想像され、唐人等の外国人や日本本土からの流入者とともに 一種の開放的・国際的な居留地や業界を形成していたことも想像されることである。 また、 「日本三代実録」には、貞観18年(876)大宰権師在原行平の建議により、肥 前国松浦郡庇羅(平戸)、値嘉(五島)の二郷をあわせて上近、下近の二郡とし、値嘉嶋を 設置。肥前国から分離・独立させることを認めたことが記されている。この場合の嶋とは、 壱岐嶋、対馬嶋と同じく国に準ずる行政体を意味する。値嘉嶋を設置した理由は、この地域 は特産物を多く産出するが、あまりにも広大であるため官吏の目が行き届かず、在地の郡司 らが私的な搾取を行っているため、厳しく取り締まる必要があること。また、大陸や朝鮮半 島に近く、交易航路の要所であり、貞観11年(869)には新羅の海賊が九州沿岸に襲来 した際この地を経由していることから、国防を充実させなければならないこと。さらには、 交易の際立ち寄る唐の商人達が、勝手に地元の特産物などを安価で手に入れ多大な利益を得 ていると指摘、このことからもこの地の支配を徹底すべきと論じている。 しかしながら、値嘉嶋の設置については承認されたもののその後編纂された延喜式には、 値嘉嶋や上近・下近の郡名は見えない。設置はされたものの、それほど長続きせず、やがて 旧態に復されたものと思われる。 同時期の中央から見た五島に対する認識を示すものとして、貞観儀式(875)大儺の祭文 があげられる。大儺の祭文とは、平安時代における疫鬼を宮中及び日本国内から追い払う追 儺の儀式で読み上げられた呪文(祝詞)である。そこには疫鬼を都及び日本の千里の外に追 放するのに、日本境界の四方「東方の陸奥、西方の遠値嘉、南方の土佐、北方の佐渡」より 遠いところにせよとなっている。このことはつまり、当時の日本(少なくとも都)では日本 の西の果てが遠値嘉(五島)であると考えられていたことを物語るものである。 10世紀代については、歴史上空白の時期で、文献あるいは遺跡の出土遺物からもあま り知られていない。この時期、周辺諸国の情勢は激動の時代を迎えており、中国では唐が滅 亡し、五代十国を経て宋が建国され、朝鮮半島では新羅が滅亡し、高麗が建国される。一方 日本においては、律令体制が崩壊し、各地で荘園が形成されていき、地方豪族が台頭してく る頃である。長崎においても各地に寄進地系の荘園が成立し、五島地域は宇野御厨の一部に 組み込まれている。 30 10世紀中葉の都においては、天皇親政による政治が執り行われ、遣唐使が廃止に伴う大 陸文化の流入が止んだため、それらを昇華するかたちで国風文化が華開いていた。特に文学 では、古今和歌集などの勅撰和歌集、源氏物語に代表される物語、土佐日記、枕草子などの 日記・随筆が書かれ、国風文化の一翼を担った。その中で、代表的な日記文学である「蜻蛉 日記」 (作者は右大将藤原道綱の母)に五島に関することが以下のように書かれている。 「この亡くなりぬる人のあらはに見ゆるところなんある。さて近く寄れば消え失せぬなり。 遠うては見ゆるなり。」 「いずれの国とや。 」 「みみらくの島となむいふける。 」 などと仏僧たちが語るのを聞いた道綱の母が、亡き母を偲んで、 ありとだに よそにても見む名にし負はば われに聞かせよ みみらくのしま と嘆き悲しむと、兄がそれを聞いて泣きながら、 いずことか 音にのみ聞くみみらくの 島がくれにし人をたづねむ と返歌した。 また時代は下るが、大治3年(1128)頃に編まれた源俊頼の家集「散木奇歌集」には、 みみらくの わが日のもとの島ならば けふも御影にあはましものを と書かれており、この「みみらく」という場所が、五島福江島の三井楽地区を指すものと考 えられる。この和歌から読み取れる五島(三井楽)のイメージとして異国か日本の地か曖昧 な場所であり、日本の西の果て=異国との境界上にある島と認識されつつも、当時広まりつ つあった浄土教の西方浄土思想と相まり、死者に会える島とイメージされるようになったと 思われる。 いずれにしても、当時の都にいる貴族にとって五島は上記のような日本最果ての地、異国 との境界上に浮かぶおぼろげな島「国境をまたぐ島」としてイメージされており、そこには 国防あるいは交易上の重要な地としての値嘉嶋(五島)という認識はもはや感じられない。遣 唐使廃止から僅かの間に、五島に対してのイメージが大きく変容したことが伺い知れる。 11世紀代になると、出土遺物の中に貿易陶磁器が検出されるようになる。この時期は、 日宋間による私貿易が活発化していく時期であり、平氏政権が成立すると平清盛により正式 な国家間の貿易として確立され、隆盛を迎える。この交易航路のルート上に五島地域が位置 しており、交易船の寄港地として利用されたことは想像に難くない。その物証となるのが各 地の遺跡から出土する同時期の貿易陶磁器である。 ここで、五島市内の代表的な遺跡である大浜遺跡の出土遺物から、五島の古代における歴 史的変遷を辿ってみたいと思う。大浜遺跡は、五島市の福江島南部に位置し、時代的には縄 31 文後期~平安後期までの複合遺跡であり、それまで空白とされてきた古代における下五島地 域の歴史を垣間見ることができる重要な遺跡でもある。 大浜遺跡の出土遺物における初現は縄文後期に属するものであり、出土した石器・骨角器 から西北九州型漁撈文化を特徴付けるもので、島嶼部の縄文後期文化を代表するものとして 捉えられよう。 縄文晩期以後、気候変動に伴い数mの砂が堆積し、大浜遺跡一帯は砂丘となり、海岸線も 後退したことが確認されている。このような縄文晩期~弥生前期にかけて形成された砂丘は 福江島各地でも確認されており、その砂丘上に貝塚、墓地などが営まれたことがいくつかの 遺跡の調査から判明している(白浜貝塚等)。 砂丘が形成されたことに伴い、次の弥生時代には砂丘上に配石墓をつくるなど大規模な墓 地が形成されていった。この時期の特徴的な遺物として、牛の歯の出土があげられる。当時 の日本の地誌を記した「魏志倭人伝」には日本には牛馬なしと記述されていることから、歴 史的整合性を巡って話題となった。 古墳時代に関連する出土遺物は他時期の出土遺物の量と比較すると僅かである。このこと は五島全体の遺跡にも言えることであり、前述したように五島では古墳時代にはいると遺跡 の数が激減する。大浜遺跡では僅かに3世紀後半~4世紀初頭に属する土器が出土している が、中でも注目されるのが山陰系の鼓形器台の出土である。鼓形器台が祭祀的な性格を内包 する特殊な土器であるだけに、在地の有力豪族、あるいは大和政権と強い繋がりを持った西 北九州の勢力による祭祀が行われたことが示唆されている。 古墳時代終末期以降、6世紀後半~7世紀後半にかけての時期に入ってくるとにわかに出 土遺物量(特に須恵器)が増加する。この時期は遣唐使派遣の初期の頃にあたり、遣唐使船 の航路からは外れるものの中央集権体制の枠組みの中に組み入れられたことが想定される。 この時期の特徴的な遺物としては新羅系の印花文陶器があげられ、当時の朝鮮半島との交流 を示すものとして注目される。また、自然遺物ではシカ、イノシシなどの在地に生息してい た動物遺存体とともにウマ、ウシの遺存体が多量に出土している。このことは、大浜遺跡の 近隣地に牧が経営されていた可能性を示すものであり、大浜遺跡が牧の管理施設としての機 能を持った場所であることが考えられる。 8世紀~9世紀の時期に入ると、遺物の量が増加する。質的にも畿内産緑柚陶器や墨書土 器が出土するなど、官衙あるいは寺社等の存在が想定される。この時期は、律令国家の出現 と遣唐使船が五島列島を経由する南路を取ることにより、五島列島の存在がますます重要に なってきた時期である。五島も律令国家体制の中に組み込まれ、肥前国松浦郡五郷のうち値 嘉として編成されている。この後、値嘉郷は庇羅郷と併合し、値嘉嶋という律令国に準じる 行政体になったことは前述したとおりである。大浜遺跡から出土した畿内産緑柚陶器や墨書 土器などは、中央や大宰府との結びつきが非常に強くなった状況を示すものである。 10世紀代については、文献上に五島が登場しなくなるのと同じく、大浜遺跡からも出 32 大浜遺跡出土遺物編年表(福田編1998) 33 土遺物が皆無に近い状態になる。 11世紀~12世紀代に入ると貿易陶磁器を主体とする遺物が出土する。この時期は博多 を中心とした日宋貿易が広く行われ、西北九州各地で貿易陶磁器が爆発的に出土する時期で ある。大浜遺跡でも中国産の白磁椀を主体に高麗青磁など初期貿易陶磁器が多く出土してい る。このことは、律令体制の枠から脱却した在地土豪への勢力転換を示すものと考えられる。 以上、大浜遺跡の出土遺物から想定される古代から中世直前に至る五島の歴史を組み立て てみた。しかしながら、これ以降文献上から五島に関する記述は皆無となり、歴史上空白の 時期となる。 (2)中世~近世 ①中世 中世という時代を武家政権による支配の開始と位置づけるなら、五島における中世は、文 治3年(1186)に始まると言えよう。この年、宇久家盛が五島列島の最北端島である宇 久島に上陸し、五島全域を支配下に治めた。宇久家盛の由来は諸説あるが、一説には、治承・ 寿永の乱(いわゆる源平の戦い)を逃れた平家盛(平清盛の実弟)が、宇久島に上陸、在地の豪 族に請われ五島の在地領主となり、上陸した地に因み宇久家盛と改姓したという。また一説 には、宇久家盛は、逆に源氏の系譜を引く豪族で、武田左兵衛尉有義の子武田次郎信弘であ り、家紋が武田菱であることがそのことを物証するものであるという。 武田次郎信弘は、平戸黒髪山麓に居を構え、のちに宇久島に渡って宇久次郎家盛と称した。 鎌倉幕府に忠誠を尽くした功により、肥前守に叙せられ、代々五島を領するようになり、宇 久を称するようになったと伝えてられている。 いずれにしろ、宇久家盛の出自はどうであれ、この時期に五島において地方豪族(領主) による支配体制が確立しつつあったことが伺える。同時代の歴史史料、古文書からは五島に おける中世期前半の動きはうかがい知れないが、宇久家盛を始祖とする宇久氏(後に改姓し 五島氏となる)により、支配下に組み込まれていったのであろう。 文献により、五島及び宇久氏の動きが登場してくるのは、8代目領主にあたる宇久覚が五 島における支配体制をより強固なものとするため、弘和3年(1381)宇久島から五島列 島最大の島である福江島に居を移したことに始まる。 当初は福江島の北部の岐宿に居を構えていたが、続く9代目の宇久勝の時、元中5年(1 388)に福江に移る。福江の大津に辰ノ口城という居館を構え、五島各地の豪族と一揆契 約(盟約に基づく政治的共同体)を結び、名実ともに五島の領主となっていく。また、宇久 氏は平戸松浦氏を惣領とする松浦党(肥前松浦地方(平戸、五島など)を中心とした豪族の 連合体)の一派となった。 この時期より、東シナ海周辺地域(主に朝鮮半島や中国沿岸)を中心に、倭寇が活発化する ようになる。彼らは、ある時は私貿易を行い、交渉が決裂すると海賊行為に及び、いわば半 商半海賊的な性格を帯びていた。そのような海賊行為に宇久氏を含む松浦党がどの程度まで 34 積極的に関与していたかは、今後の調査・研究に委ねるが、倭寇の構成は主に対馬、壱岐、 松浦地方から九州~瀬戸内沿岸部を拠点とする水軍集団だと考えられている。この時期は鎌 倉幕府が崩壊し、建武の新政を経て室町幕府が成立したものの南北朝の動乱が収まらず、中 央政権の支配力が地方まで及んでいないような状態であった。また、朝鮮半島も高麗王朝の 末期にあたり、中国大陸においても強大な勢力を誇った元も権力闘争、重商主義による地域 経済の疲弊等により、政権末期の様相を見せ始めていた。そうした状況の中での倭寇活動は、 両地域の政権に経済的な打撃を与え、王朝崩壊を決定的なものにした。 その後日本においては、南北朝の動乱(観応の擾乱)を経て、足利義満が3代将軍となる と国内の反勢力は徐々に平定され、ついには南北朝合一を実現し、朝廷の分裂という異常事 態を終結させた。たが、義満は日本国内での絶対的な地位を確立するため、前代の元王朝を 打倒し東アジアの大国となった明との国交正常化を図り使者を送るなどして正式な国交を 成立させた。同時に朝貢貿易を開始した。歴史的にいう勘合貿易の始まりである。この勘合 貿易の開始(正式な日明国交樹立)により、東シナ海沿岸を荒らし回った倭寇も日本、高麗・ 李氏朝鮮、明の徹底的な取締りと管理貿易により、その活動は急速に終息していく。 一方五島では、宇久氏9代目領主の宇久勝の時代、応永20年(1413)五島各地に拠点を 構えていた豪族により五箇条の規約を設けた「宇久浦中契約」が成立し、宇久勝が五島の党 首に推された。このことにより宇久氏の五島統一がなった。 徹底した管理貿易である日明、日朝貿易が開始されると貿易船が五島に寄港するようにな り、五島は遣唐使時代と同じく大陸との貿易上、重要な寄港地として認識されるようになっ た。幕府は、交易ルートの安全保障を確保するために五島に居を構えていた豪族である宇久 氏や奈留氏に遣明船の警護を命じている。3代将軍義満の死後、室町幕府の統治機構も再び 混乱を来すようになり、幕府の目が地方に行き届かない状況に乗じて、宇久氏をはじめとし た五島各地の豪族も(主に朝鮮半島との)独自の貿易を開始していく。李氏朝鮮の宰相で あった申叔舟が日本国と琉球国について記述した歴史書「海東諸国紀」 (1471 年刊行)には、 当時五島の豪族が李氏朝鮮との交易をしていたことが記されている。そこには、五島玉浦守 源朝臣茂、五島悼大島太守源朝臣貞茂、五島太守源貞、五島日島太守藤原朝臣盛などが使を 遣わしたと記述されている。これらの人物の官名に付された場所は、玉浦が福江島の玉之浦、 悼大島が福江島の南沖合に浮かぶ無人島である板部島、日島が若松島の属島である日ノ島と 比定されているが、これらの地域に外国との交易を行い得るような地方豪族がいたとは容易 には想像できない。そこで最近議論されているのが「偽使」の存在である。偽使とは、いわ ゆる他人の名義を使用して李氏朝鮮との交易を行った偽の使者たちの総称である。この偽使 の主な構成メンバーは対馬の領主であった宗氏と博多商人であったと推測されている。五島 における上記の朝鮮通信使も、おそらく宗氏が五島領内の地名を使い、有りもしない官職を 偽装して朝鮮王朝との通商を行ってきたものであろう。 もちろんその偽使も全てが五島内の在地豪族に無断で名義使用して通商を行っているわ けではなく、当初は五島の豪族が直接通商を行っていたものが、次第に宗氏や博多商人に取 35 って代わられ、あるいは直接通商は行わず名義貸しを行い間接通商を行ってきたことも想定 される。 いずれにしろ、この時期、五島の豪族(主に領主の宇久氏)が直接・間接的に大陸・半島 との交易に従事し、領地経営を図っていく上で、この交易が経済的に大いに潤いを与えてい たことは容易に想像できる。 その後、東アジアから東南アジアにおいて、15 世紀に入ると明が海禁政策(他国との貿 易を厳しく制限するいわゆる鎖国政策)を行い、また日本の室町幕府との日明貿易(勘合貿 易)が途絶した事などにより倭寇(後期倭寇)による私貿易、密貿易が活発になっていった。 そうした中、天文9年(1540)、明の商人であった王直(現在の安徽省黄山市の出身で、い わゆる新安商人、徽州商人である)が、通商を求めて五島に来航した。領主であった宇久盛 定は、家臣の反乱を平定した直後で、財政的にも逼迫していたこともあり、喜んで通商を許 可し、城下に居住地を与えた。これが今に残る唐人町の由来となっている。また付近には、 王直ら中国人が船舶用水、飲料用水用として造ったとされる六角井(長崎県指定史跡)も残 されている。 王直は平戸にも拠点を移し、自ら「五峯王直」と名乗り、日本との間で私貿易を開始して いく。王直はまた、天文 12 年(1543)の鉄砲伝来にも深く関わった人物とされ、王直らの 乗るジャンク船が種子島へ漂着、同乗していたポルトガル人が日本に鉄砲を伝えたとされる。 また、豊後国の戦国大名である大友宗麟とも接触をもったと考えられている。こうして王直 ら中国の商人たちは、私貿易を通して巨万の富を築き上げ、東シナ海を舞台に、一大海上勢 力として君臨するようになった。彼らは時に武力を背景に交易を行っていたため、半商半 海賊的な存在で、倭寇(海賊)の一派と見なされるようになり、明の官憲から厳しい取締り を受けることになる。 王直はその後、本格的に倭寇の鎮圧を開始した明に捉えられ、1556 年に処刑される。ま た、天正 16 年(1588 年)には豊臣秀吉により海賊停止令が出され倭寇ら海賊集団の活動は 一応の収束をむかえることになっていく。 ②中世末~近世 王直らが築き上げた海上ネットワークは、日本にそれまでになかった出会いを経験するこ とになる。西洋諸国の接触であり、キリシタン文化との出会いである。 天文18年(1549)、イエズス会宣教師であったフランシスコ・ザビエルが日本での布教を 目指し、鹿児島の地に上陸したことに始まった出会いは、日本に新たな文化をもたらすこと になる。 五島地方にキリスト教が伝わったのは永禄 9 年(1566)のことである。領主宇久純定は、ハ ンセン氏病に罹患していた子息の治療のため、横瀬浦にいたトーレス神父に医師の派遣を求 めた。当時西洋医師としても名高かった宣教師ルイス・アルメイダが来島することになり、 日本人宣教師ロレンソ了斎も同行してきた。 36 ■キリシタン発展期におけるキリスト教の伝播 主な参考文献 ・『福江市史 上巻』福江市、1995.3.31 ・平山徳一『五島史と民俗』平山匡彦、1989.10.1 ・片岡弥吉『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、1989.5.31 ・浦川和三郎『五島キリシタン史』仙台司教出版部、1951.12.20 ・『浦頭小教区史 430 年の歩み』浦頭カトリック教会、1994.9.15 37 城下での布教を許された後は、家臣や住民の間にも続々と洗礼を受けるものが出て、やが ては教会が建設されるまでになった。そしてついには、純定の跡を継いだ宇久純堯が洗礼を 受け、五島におけるキリシタン大名の誕生となった。 特に奥浦地区では、信者が増え教会も建設されるなど、五島におけるキリスト教文化の中 心地となっていった。 (3)近世 キリシタン大名であった 19 代領主宇久純堯が若くして世を去ると、甥の宇久純玄が領主 の座を継いだが、この時宇久純堯の異母弟である玄雅との間で跡目相続の争いが起きている。 純堯自身は熱心なキリシタンであったが、死去直前にはキリシタンへ反発する家臣団との対 立が次第に強まっており、純堯の死去後は、洗礼を受けていたキリシタン擁護の玄雅一派と キリスト教弾圧に転じようとする純玄一派との争いとなった。結果的には玄雅一派が敗れ、 長崎へ逃れ純玄が第 20 代の宇久家当主となった。純玄は、豊臣秀吉の禁教政策を遵守し、 領内のキリシタンを厳しく取り締まることになり、この時期の五島領内におけるキリシタン は停滞の様相を見せるが、朝鮮出兵の参加していたこともあり、本格的な取締りは実施でき なかった。純玄は、朝鮮出兵の陣中で没したため、五島家(朝鮮出兵の折、純玄は姓を五島 に改めた)家中として復帰していた玄雅が第 21 代の五島家当主となった。玄雅は、江戸幕 府による禁教令に反し、表向きには自身は棄教しながらも、宣教師を招き布教を許していた ため、長崎と同様に禁教政策下においてもキリスト教信者は増え続け、慶長 11 年(1606)に は領内の信者数は 2300 人を超えたといわれている。 しかし、次代を継いだ五島盛利は、継承直後に勃発したお家騒動や居城の江川城焼失とい う難題を乗り越え城下の統一を図るため、江戸幕府のキリスト教禁教政策に呼応し、一転し て厳しい迫害・弾圧を推し進めることとなった。ために、領内からキリシタンは衰微してい き、ついには壊滅状態に陥ったといわれている。 盛利はまた、領主権確立のために五島各地に居住していた在郷家臣団を福江城下に集住さ せる「福江直り」を強行した。ここに五島において本格的な「まちづくり(都市計画)」が始 まっていくことになる。 盛利は、福江城下のまちづくりの手始めとして慶長 19 年(1614)に焼失した江川城に代 わる居城の築城を計画する。結局藩の財政状況から本格的な城郭を築城するにはいたらず、 陣屋敷を建築するにとどまった。この陣屋敷を建築するに際しては、海に面した場所、石田 の浜に建設し「石田陣屋」と呼ばれるようになった。石田陣屋は、本格的な城郭のそれと比 して簡易な石積みに囲まれた陣屋敷であった。石田陣屋の構築と並行して、それまで五島各 地に領地を持ち島々に在住していた有力家臣団を石田陣屋の周辺地に強制的に移住させる 「福江直り」を断行した。これは、五島における中央集権体制の確立を目指したものであり、 近世に入り幕藩体制が確立していく過程で、五島家自体も封建的領地経営を実施していく上 で、有力家臣団を直接支配下に置くことは必然的であったといえよう。 38 藩士 177 家の「福江直り」は寛永 11 年(1634)に完了し、その後、足軽階級の家臣を三 分して、一番(弓)、二番(鉄砲) 、三番(長柄)の3町を新設し、城下町の周辺に配置した。 こうして藩主自らにより開始された「福江直り」は、五島における本格的な都市計画の端 緒となり、福江城下の城下町が形成されていった。 24 代当主盛勝の治世、それまで幼い藩主の後見役として藩の重職にあった五島盛清(前 藩主の弟)は、寛文元年(1661)後見役を辞し、五島藩 76 ヵ村のうち 20 ヵ村、石高 3000 石をもって富江に分知、徳川将軍家の旗本となった。そのため、五島列島の知行地は五島藩 と旗本富江領及び平戸藩領が複雑に入り組む知行地となった。 『五島列島における各藩の領地』(出典:「五島市と民俗」に加筆) 特に中通島では、富江領の魚目と五島藩領の有川との間で捕鯨に絡む領地境争いが頻繁に 起きていた。捕鯨は当時の藩財政を支える重要な産業であったので、五島藩、富江側とも慎 重な姿勢を取っていたが、業を煮やした有川の漁民が直接江戸に向かい、幕府の裁定を仰ぐ という状態になった。 五島における近世期の歴史的特性としては、移住があげられる。 五島近海は古くから好漁場としても知られ、特に捕鯨は「鯨 1 頭捕れれば、七浦潤う」と いわれ、藩財政にも大きく貢献してきた。五島各地に鯨組が生まれたが、乱獲により資源が 枯渇し、幕末には解散していった。それでも明治以後、島外資本による捕鯨会社が捕鯨基地 39 を有していたが、終戦後まもなく撤退していった。 またキビナゴ漁は、江戸期の文献にも登場するほど古く、特に田ノ浦瀬戸に面した久賀島 の田ノ浦湾や福江島北部の戸岐湾などで盛んであった。これらの漁を行う漁民集団は、主に 瀬戸内地方や関西方面(主に泉州や紀州)からより良い漁場を求めて移り住んでいった。また、 その後も五島各地で移住を繰り返していったと言われている。 江戸期においての大規模な移住で特筆されるべきことは、寛政 9 年(1797)の大村藩領外 海地方からの移住である。その頃の五島藩では、相次ぐ飢饉と主要産業であった捕鯨の不振 が重なり、藩の財政は逼迫していた。そこで、幕府の寛政の改革として行われていた帰農令 (商業重視から農工業重視への政策転換)に呼応するかたちで、五島藩領への移住民を募り、 田畑を開墾させ石高を増やそうと計画した。一方、大村藩においては、増えすぎた人口を抑 ■寛政 9 年(1797)における外海地方からの移住先 主な参考文献 ・『福江市史 上巻』福江市、1995.3.31 ・平山徳一『五島史と民俗』平山匡彦、1989.10.1 ・片岡弥吉『長崎のキリシタン』聖母の騎士社、1989.5.31 ・浦川和三郎『五島キリシタン史』仙台司教出版部、1951.12.20 40 制する人口統制政策を執っており、両藩の思惑は合致し、五島藩は大村藩領からの開拓民を 移住させる働きかけをし、寛政9年(1797)、外海地方から108名が五島へ移住した。そ のほとんどが潜伏キリシタンであったといわれている。彼らは、六方(むかた)の浜に上陸 した後、平蔵、黒蔵、楠原などに土地を与えられ、移住していった。移住した場所は山間の 湿地帯であり、水田耕作には適さない場所だったが、開墾すれば水田耕作が可能な場所でも あった。移住した人たちに土地が与えられたことを知ると外海地方からの移住者が続々と増 え、その数は3000名以上にも上ったといわれている。 当時、外海地方で下記のような唄が流行ったという。 五島へ 五島へ 皆行きたがる 五島はやさしや土地までも 五島に移住した彼らは、山間部の僻地や陸路での往来が困難で人里離れた入江などに移り 住み、キリシタン弾圧の手が及ばないところで信仰の火を灯し続けていった。 (4)近代~現代 昭和 32 年(1957 年)11 月 1 日に福江市に合併された昭和の市町村大合併以前は、島全体 が久賀島村という独立した地方自治体であり、現在でも島内の 4 つの町内会地区(田ノ浦、 久賀、猪ノ木、蕨)は久賀島村当時の行政単位(郷)を引き継ぐ体系で現存している。 五島市の市町村行政区画の変遷 平成16年8月1日 明治22年 福江村 福江町(T8.10.1町制) 奥浦村 福江市(S29.4.1市制) 崎山村 福江市 本山村 大浜村 (S32.3.31 編入) 樺島村 (S32.11.1 編入) 五島市 久賀島村 富江村 富江町(T11.9.1町制) 玉之浦村 玉之浦町(S8.11.3町制) 三井楽村 三井楽町(T15,11.3町制) 岐宿村 岐宿町(S16.4.3町制) 奈留島村 奈留町(S32.11.3町制) 41 (4)久賀島の歴史・沿革 ①先史・古代の久賀島 長崎県遺跡地図によると、久賀島には 3 箇所の埋蔵文化財包蔵地が確認されており、その いずれもが海岸近くの低湿地に小規模の広がりを見せる縄文時代の散布地である。 久賀(島)が歴史の登場するのは遣唐使船が寄港したといわれている「田ノ浦」が最初で ある。霊亀 2 年(716)第八次遣唐使の乗船が唐に向かう途上、逆風にあって田ノ浦に漂着、 また延暦 23 年(804)には空海の乗船した遣唐使船が肥前国松浦郡田ノ浦を出航したとある。 この田ノ浦については上五島の青方・相河、久賀の田ノ浦、平戸の田ノ浦と諸説があるが、 古くから「田ノ浦」の地名が知られていたことは確かなようである。 永禄 5 年(1562)鄭若曾(ていじゃくそう)が倭寇対策のために著した『籌海(ちゅうかい)図 編』に倭寇の根拠地として五島の地図が描かれており、「達奴烏喇」という地名が出てくる が、この「達奴烏喇」が田ノ浦と推定されている。 田ノ浦? 『籌海図編』(九州大学文学部図書室蔵) ②烽火と番屋岳 久賀島の西半島中央に位置する番屋岳(標高 340m)は肥前国風土記にある「値嘉の烽三 所」の 1 カ所とされ、烽火台が設けられ火を盛んに焚いたこととから火盛島→火栄島→久賀 島と名付けられたという説もある。五島の北西域を見張るには絶好の場所であり、江戸時代 の弘化 2 年(1845)には異国船監視のため頂上に番所が設けられた。 42 ③キリシタン史 永禄 9 年(1566)第 18 代領主宇久純定の要請に応じたルイス・デ・アルメイダが日本人 修道士ロレンソ了斎を伴って来島し、五島各地へキリスト教の布教を始めた。久賀島におい ても布教され、多くの信者がいたという。中でも深浦、蕨、市小木は島内でも最も信者が多 い所であったが、慶長年間からの徹底した禁教政策により、信者の数は壊滅状態になった。 く が その頃久賀島には、久賀殿という島主がいたが熱心なキリスト教信者で、五島家当主から 再三にわたって棄教を勧められたがこれを断り、結局五島市に攻め滅ぼされたといわれてい く が る。久賀殿は田ノ浦に居を構えていたらしく、今なお残る「殿墓」や「殿屋敷跡」は、この く が 久賀殿に関連するものであろうと伝わっている。 このようにして五島からはキリシタンの姿は消え去ったが、18 世紀末~19 世紀初頭にか けて大村領外海地方よりいわゆる潜伏キリシタンの移住が始まり、久賀島へは大野、細石流、 大開、幸泊、久賀、蕨(五輪)、田ノ浦、上ノ平、永里などに移住している。 当初は移住者に対し五島藩のキリシタン取締りも寛大で黙認の形であったとされるが、 移住者の増加と目を見張るほどの信仰の復活、加えて幕府からの圧力もあって次第に取締り が厳しくなっていった。 江戸幕府崩壊後も明治新政府はキリシタン禁制の政策を引継ぎ、明治元年 9 月には久賀島 から五島の迫害・弾圧が始まった。 久賀島の迫害までの経緯について述べると、慶応4年9月頃、久賀島から細石流の作次郎、 勝五郎、又助(吉)上平の惣五郎、馬川の助蔵、利惣吉、銀蔵、上平の音五郎。亀蔵、よし 以上 10 名が頭ヶ島に要理研究に行き、大浦天主堂にて受洗した。その後、パウロ久米蔵、 ロレンソ長八、ロレンソ栄八、善太等は、大浦天主堂に参詣し、聖体拝領の秘跡によって勇 気が湧き、宣教師より守札など所持してならないと教えられ、久賀島に帰ると 80 戸分のキ リシタンが所持していた守札を1ケ所に集めて焼き、キリシタン宗門だけをたてるとの願書 を参三郎が書き、上平の小頭の要助が、これから神社への出し物(米や金銭)は一切断わる 旨を庄屋の江頭忠八を通じて、久賀代官日高藤一に差し出した(田中 1965)。 明治元(1868)年、代官日高藤一によってキリシタン農民約 200 名が逮捕され、そのうち 22 人が福江に送られ、彼らは三尾野の庄屋宅で 10 日以上も青竹打ちなどの拷問を受けた。 久賀島でも少人数が見せしめのために海中での水責め、そして火責め、また算木責めなどを 受けた。福江に送られた 22 人も、その後、久賀島の松ヶ浦大開猿浦)に設けられた牢(現・ 牢屋の窄殉教記念聖堂の横の広場)に送られ、わずか6坪の土間に 200 人ほどが収容された。 3日もすると高齢者や子どもは脚、腰が腫れてつぎつぎと倒れた。このような状態が8ヵ月 も続き、牢内の死者は 39 人にも達した。牢内で死んでも屍骸を葬ることさえ許されず、5 昼夜もそのまま放置され、身動きできない状態のなかで大勢に踏みつぶされたという。収容 者が全員帰宅したのは、2年後のことである。 キリシタン信仰だけの理由で、このような非道を敢えてしたことに対し、フランス公使ウ ートレーが政府に抗議したが、要領を得ない回答を得ていた。明治2年 11 月 29 日、イギリ 43 ス公使パークスは、自ら五島に乗りこんで実状を調査、パークスの抗議により、ようやく拷 問が中止され、久賀島猿浦の囚人たちも中心人物を除いて、出牢を許された。 以下のパークス書簡(片岡 1972)は明治2年(1869)4月7日外国官知事伊達宗城、同 副知事東久世通禧、同事務局判事大隈重信に宛てたものである。 44 45 ④流刑の島 江戸時代の刑罰で遠島の刑は死罪に次ぐ刑罰であったが、五島は八丈島などとともに幕府 公認の配流地であった。従って多くの罪人が長崎から、あるいは京、大阪からも送られてき た。五島藩においても同様に遠島の刑があり、嵯峨島や久賀島に多く流されている。 久賀島への数多い流刑者の中で最もよく知られるのが元禄 5 年(1692)に五島に流されて きた高野山行人僧で、125 人の一部が久賀島へも流されている。 元禄 14 年(1701)には、長崎でおこった深堀騒動で五島へ流罪となった深堀義士 9 人の うち 1 名が久賀島へ配流されている。 ⑤久賀島人附帳 旧代官家に伝わるこの人附帳は、安永 4 年(1775)に作成されたもので、久賀島の戸数を 記録したものでは最も古い。その中から当時の久賀島の諸役人、戸数、人口について述べる。 諸役人 奈留島・久賀島兼帯代官 荒木倫左右衛門(奈留島在) 久賀・田ノ浦掛代官 山口太郎右衛門(久賀村) 下代・船見・口銭役 江頭権右衛門(久賀村) 船見・山掛役 山口紋左衞門、山口新之丞(田ノ浦) 山掛・牧司役(足軽) 江頭権助(久賀村) 庄屋 江頭久太夫(久賀) 戸主役 久四郎(田ノ浦) 小頭役 町人 忠次郎(久賀) 同 甚之助(大平木村) 同 足軽 江頭利三八(猪之木村) 同 鍛冶 喜右衛門(市小木村) 同 地百姓 与四兵衛(蕨村) 島民の構成 家 九十一軒 人 四五六人 郷侍 七軒 四六人 寺 二軒 足軽 五軒 二五人 町人 九軒 地百姓 四六軒 二二六人 窯百姓 八軒 四二人 二人 社人 四六人 三軒 十二人 職人 三軒 浜百姓 六軒 三三人 寺百姓 二軒 十一人 地百姓の内訳 久賀村 市小木村 九軒 六軒 大平木村 九軒 猪之木村 蕨村 十一軒 46 十一軒 十三人 ⑥久賀薪と椿 五島には江戸時代初期から瀬戸内海沿岸地方から用材や塩田に使用する薪を求めて船が 往来しており、島でも重要な換金物であるため盛んに刈りだしていた。そのため五島の山々 は地肌を現すようになってしまったという。 中でも久賀島産の薪は良質で評判が良く「久賀薪」と呼ばれ、本土部以外にも五島領内に 多く売り出していた。 五島全域にはヤブツバキの自生が多く、ツバキ実の採種と防風林を兼ね植樹もされてきた。 特に久賀島は古くより椿の島といわれるほどで、その中心地であった。 ツバキ実からは油を搾り取り、それが食用油、整髪油、化粧油などとして利用された。五 島各地には精油所もあり、その品質も高く評価され、かつて全国一の生産を誇った五島の特 産品であった。しかし時代の社会環境の変化により安い人口油脂の輸入によってツバキ油の 需要も激減していった。 久賀島では、長浜や亀河原にはツバキ原生林が見られ、それぞれの集落共有林(郷有林) 個人所有林にも多くのヤブツバキの自生が見られ、以前はツバキ実は取っても木を折ったり 伐採したりすることはタブーとされ、村制時代には椿樹保護条例を制定し、保護してきた。 ツバキ油の生産は島の基幹産業の一つであるとされ「ツバキ一升、米一升」という言葉も 残っている。 ⑦集落の概要 A.久賀 久賀が島の行政の中心になったのは宝暦年間(1751~63)、代官所が田ノ浦から移されて からである。 当時の久賀は郷士に取り立てられた家も出たように、生産や経済力が向上し、それにつれ て戸数、人口も島内で最も多い地区となっており、支配に便利な島の中央に位置するという 地理的条件も合わせて代官所の移転がなされたと思われる。 往時は、田ノ浦とともにオゴ(海藻)、薪、炭等の集散、積み出し地でもあった。 B.田ノ浦 遣唐使船の寄港地として知られ、天文年間に明人によって描かれた五島の地図に「達奴烏 喇」の地名で出ていることから明との貿易船やそれ以前の倭寇の船も寄港したと思われる地 で、島内では最も早くから開けたところである。 江戸時代において、住民は浜百姓が主で、藩の指定した「五カ所漁場」の一つであり、城 中の台所に用いる魚の納入を担当させられたという。久賀島に最初に代官所が置かれたのは 田ノ浦であり、後に久賀に移されるまで藩政の島の中枢地であった。 田ノ浦に深く入り込む田ノ浦湾は、福江との往来に港として利用されてきたばかりではな く、有数のキビナゴの好漁場でもあった。大正末期までは大潮時毎晩のように網入れしたと いわれ、昭和に入ってからも月に三回ほどの漁を行い、漁獲高は少ない時でも千杯から三千 47 杯(一杯は一斗枡またはトロ箱一杯の意味)、大漁時には一万杯も獲れ、処理できずに畑に 蒔いて肥料にすることも度々であったという。当時、東西の納屋には 15,6 人の漁民が常勤 し、網入れの時には他地区から 50 人ほどを雇い入れ、集落の全女性も曳子となって働いた。 曳き上げられたキビナゴは煮干しに加工され、各方面へ出荷し、後に鮮魚による販路も拡 大し、集落は活況を呈していたという。 キビナゴ漁の沿革は天保年間より浜百姓の網としてキビナコ網の記録があり、後に地曳き 網漁法が伝わり漁獲高は飛躍的に増加した。以来 15 名の漁業権者で操業されてきたが、戦 後の漁業権開放で漁業協同組合に移管され、昭和 40 年代中頃まで好漁が続いたが、次第に 衰微していき、ついに漁場を閉じてしまった。 C.蕨 久賀島では久賀に次いで大きな集落である。海に沈んだ高麗島から逃れてきた人々が住み 着いたといわれるが、各地から移住者が増えてきたことにより形成されていった集落といえ よう。生業的には半農半漁の集落である。 蕨の東沖合に浮かぶ蕨小島は、周囲 1.4km 程の小島で、日本で一番小さな有人離島で有名 である。 D.猪之木 平家の落人伝説が残る集落である。早くから人が住み着いたことは、島内唯一の村社であ った折紙神社が猪之木郷内に創建されていたことからも窺い知れる。 藩政時代は肥喜里村と呼び、村に猪や樹木が多いことから猪之木村に改名したというが年 月は不明。記録では享保年間には猪之木の名前が出てくる。 富江旗本領が分知されてから郷内の稜線から西側は富江領とされた。 E.市小木 中世末、五島におけるキリスト教布教後は島内でもキリシタンが多い地であったが、その 後の弾圧でキリシタンは根絶したといわれている。その後の移住者によって開拓され、薪炭 や農産物の生産があり、さらに藩命によって福江島から郷士を移住させ土地開拓の指導にあ てたという。延宝 3 年(1675)の農民数が島内中最も多かったはそのためであろう。 F.深浦 藩政時代、久賀島には深浦だけに窯百姓がおり、塩づくり、炭焼きに従事していた。また 海藻の採取も行い、藩の記録にも深浦からオゴを買い上げたことが残っている。 G.大開 島内他地域(主に久賀)の二男、三男が移住して広く開墾したので、それがこの地名の由来 といわれる集落で、その後も多くの移住者が加わって耕地が広がり、久賀一の耕作地を作り 上げた。 藩政時代には地区南手の山麓に藩の牧場が置かれていたという。 H.細石流(ざざれ) 久賀から 8.5km ほど隔てた北西端の集落で、ここより少し離れた野首とともに大敷網場 48 で知られ、マグロ、ブリ、カツオ、イカなどの漁獲が多かった。 天保 5 年(1834)の記録で、細石流の鮪網代は経営するのに魚見二人、炊事員一人、 曳子乗船十二人、納屋人二十人の計三五人が従事する中規模クラスの大敷網であった。 G.内上平(うちかみひら) 内上平地区は、もともと尾根向こうの外上平とあわせ「上ノ平」という同じ集落であっ たが、自治会(町内会)を組織するにあたり、尾根を境にして、島内部の集落を内上平、 外海に面した集落を外上平とした。 久賀湾に流れ込む市小木川の流れによって形成された谷間に沿って集落が築かれている が、集落構造としてのまとまりはなく、各住居は点在しているのが特徴であり、このような 集落構造は 18 世紀末に外海地方から移住してきたキリシタンによって築かれた各集落とも 似通っている。 H.外上平(そとかみひら) 外上平地区は、もともと尾根向こうの内上平とあわせ「上ノ平」という同じ集落であった が、自治会(町内会)を組織するにあたり、尾根を境にして、島内部の集落を内上平、外海 に面した集落を外上平とした。 久賀島南部に位置し、田ノ浦瀬戸に面している。背後の急峻な山腹から海岸まで棚田景観 が続いており、この集落の景観を特徴付けている。 49 細石流 深浦 蕨 五輪 久賀 猪之木 内上平 市小木 大開 田ノ浦 外上平 久賀島の主要集落分布図 50 第 3 節 文化財 五島市管内には、平成 22 年現在、85 件の指定文化財が所在する。指定区分の内訳を見る と、国指定 9 件、県指定 34 件、市指定 39 件、国選択 3 件となっている。 種別の内訳は、有形文化財 16 件(建造物 7 件、美術工芸品 9 件)、無形民俗文化財 11 件、 記念物 55 件(史跡 23 件、名勝 1 件、天然記念物 31 件)となっている。 指定文化財に見る特色としては、キリスト教文化を象徴する教会堂が 3 棟指定されている。 いずれも明治初期~大正期に建てられた教会堂で、建築当時の姿を良好にとどめている。 また、五島列島が属する気候帯は温暖湿潤気候地域であるが、亜熱帯植物の自生北限地とな っており、指定文化財の中にもヘゴ、リュウビンタイなど亜熱帯性植物の自生北限地帯とし て指定され、保護が図られているのも五島の地理・自然的特色を良く表すものといえよう。 【代表的な文化財】 堂崎教会:明治初期、五島布教の拠点であった。 六角井戸:倭寇時代の遺構 往時の姿を今なおとどめる武家屋敷通り 五島藩主の居城石田城内にある庭園 51 指定文化財一覧表 五島市 国 9件 県 34件 市 39件 国選択 3件 計 85件 旧福江市地区 指定区分 名 称 国 銅 国 造 如 来 立 種 別 指定(認定)年月日 所 在 地 所有者(管理者) 像 有 形 文 化 財 昭56. 6. 9 吉田町1905番地 明 堂 有 形 文 化 財 平11. 5.13 蕨町993番地11 の 無 形民 俗文 化財 昭62. 2.12 下崎山町 事 園 名 勝 平 3.11.16 池田町1番7号 五 島 市 下 崎 山 町 内 会 (ヘトマト保存会) 五 島 典 昭 星 院 国 旧 五 輪 教 会 下 崎 山 町 ヘ ト マ ト 行 石 田 城 五 島 氏 庭 国 ヘ ゴ 自 生 北 限 地 帯 天 然 記 念 物 大15.10.27 増田町二里木場 国 男 女 群 島 天 然 記 念 物 昭44. 8.18 浜町1255番地外 県 堂 崎 教 会 有 形 文 化 財 昭49. 4. 9 奥浦町(堂崎) 県 浦頭カトリック教会 県 浦 頭 教 会 聖 教 木 版 画 有 形 文 化 財 昭52. 1.11 平蔵町2716番地 明 星 院 の 有 形 文 化 財 昭52. 7.29 吉田町1905番地 木造阿弥陀如来立像 明 星 院 本 堂 有 形 文 化 財 昭61. 8.29 吉田町1905番地 県 チ 上大津、下大津青年団 国 県 ャ ン コ 角 コ 無 形民 俗文 化財 昭29. 4.13 上大津町、下大津町 大 櫛 伝 一 外 国 長崎カトリック大司教区 明 星 院 明 星 院 県 六 井 史 跡 昭29.12.21 江川町5番地12 五 県 石 田 城 跡 史 跡 昭41. 9.30 池田町1番1号 五 県 白 浜 貝 塚 史 跡 昭56. 3.27 向町2443番地1 五 島 市 県 五 島 樫 の 浦 の ア コ ウ 天 然 記 念 物 昭27. 5.13 平蔵町1570番地 五 島 市 県 鬼 岳 火 山 涙 産 地 天 然 記 念 物 昭29.12.21 上大津町2539番地 五 島 市 県 黄 島 溶 岩 ト ン ネ ル 天 然 記 念 物 昭39.10.16 黄島町1209番地 黄 島 町 内 会 県 福 江 の 大 ツ バ キ 天 然 記 念 物 昭42. 2.20 野々切町(大窄)1729 五 県 福 江 椎 木 山 の 漣 痕 天 然 記 念 物 昭42. 9. 8 平蔵町(椎木山)1297 白 浜 弥 吉 外 県 久 賀 島 の ツ バ キ 原 始 林 天 然 記 念 物 昭47. 5.26 田ノ浦町(長浜) 五 市 天 天 満 神 社 市 武 家 屋 敷 松 園 新 子 市 五 社 神 社 の 筥 崎 鳥 居 有 形 文 化 財 平11. 1.21 上大津町五社神社 五 社 神 社 市 白 浜 徴 氏 筆 犬 の 絵 有 形 文 化 財 平11. 1.21 五島観光歴史資料館 福 江 小 学 校 市 佐 藤 一 斎 の 手 紙 有 形 文 化 財 平11. 1.21 五島観光歴史資料館 五島市教育委員会 市 坂 部 貞 兵 衛 の 手 紙 有 形 文 化 財 平16. 2.20 五島観光歴史資料館 五島市教育委員会 市 戸 祭 無 形民 俗文 化財 昭63. 7.21 戸岐町 戸 岐 町 内 会 市 吉 引 無 形民 俗文 化財 昭63. 7.21 吉田町 吉 田 町 内 会 市 椛 祭 無 形民 俗文 化財 昭63. 7.21 本窯町 本 窯 郷 市 明 五 島 市 市 五 市 嘯 月 市 常 灯 市 満 神 岐 社 神 田 島 宝 松 園 邸 有 形 文 化 財 平 4. 6.24 武家屋敷2丁目2番7号 社 の 神 物 有 形 文 化 財 昭43. 4. 1 下大津町716番地1 例 綱 社 例 島 島 市 典 島 昭 市 島 市 五 島 典 昭 園 史 跡 昭43. 4. 1 福江町1032番地2 三尾野町1307番地 跡 昭58.10. 1 木場町216番地 跡 昭58.10. 1 吉久木町660番地1 五 島 典 昭 鼻 史 跡 昭58.10. 1 福江町大波止 五 島 市 福 江 武 家 屋 敷 跡 史 跡 平 4. 6.24 武家屋敷2丁目1番20号 五 島 市 市 育 跡 平11. 1.21 福江小学校玄関前 福 江 小 学 校 市 坂 部 貞 兵 衛 の 墓 史 ク 跡 平11. 1.21 福江町宗念寺墓地 モ 天 然 記 念 物 昭43. 4. 1 下大津町630番地(八幡神社) 貞 市 八 市 タ メ 天 然 記 念 物 昭43. 4. 1 高田町翁頭池一帯 五 楽 無 形民 俗文 化財 平14. 2.12 八幡、住吉、五社、天満神社 福 江 五 島 神 楽 保 存 協 会 国選択 五 人 島 家 英 墓 館 ワ ヌ 堂 史 記 ズ キ 島 イ ア 神 ヤ 地 史 碑 史 52 方 幡 典 神 島 社 市 旧富江町地区 指定区分 名 称 種 別 指定(認定)年月日 所 在 地 所有者(管理者) 県 富江町・山崎の石塁 史 跡 昭45. 1.16 富江町岳 山 県 富江 溶岩トン ネル 「井 坑」 天 然 記 念 物 昭32. 3. 8 富江町岳 五 本 島 義 市 夫 市 富 江 五 島 家 古 文 書 有 形 文 化 財 平22. 3.26 富江町 五 島 市 市 狩 立 オ ネ オ ン デ 踊 無 形民 俗文 化財 昭50. 8.18 富江町狩立 狩立オネオンデ保存会 市 山 下 オ ネ オ ン デ 踊 無 形民 俗文 化財 昭50. 8.18 富江町山下 山下オネオンデ保存会 市 小 島 コ バ コ ( ナ ギ ナ タ ) 踊 無 形民 俗文 化財 昭50. 8.18 富江町富江 小島コバコ踊保存会 市 富 市 宮 市 黒 市 富 江 小 学 校 ア コ ウ の 木 天 然 記 念 物 平 2.10.29 富江町富江(富江小学校) 江 藩 主 下 瀬 国選択 五 の 貝 鯨 鯢 島 の 墓 史 跡 昭50. 8.18 松尾郷(瑞雲寺) 五 島 カ ズ エ 塚 史 跡 平 2.10.29 富江町富江 個 碑 史 跡 平 2.10.29 富江町黒瀬 五 島 市 五 島 市 楽 無 形民 俗文 化財 平14. 2.12 富江神社、七岳神社 神 人 富江神楽保存会 旧玉之浦町地区 指定区分 名 称 種 別 指定(認定)年月日 所 在 地 所有者(管理者) 国 ヘ ゴ 自 生 北 限 地 帯 天 然 記 念 物 大15.10.27 玉之浦町荒川字矢ノ口 五 島 市 県 大 宝 寺 の 梵 鐘 ( 一 口 ) 有 形 文 化 財 昭39. 3.16 玉之浦町大宝631(大宝寺) 大 宝 寺 県 下 五 島 大 宝 の 砂 打 ち 無 形民 俗文 化財 昭57. 1.25 玉之浦町大宝 大 県 五 島 市 五 島 市 県 五 島 玉 之 浦 の ア コ ウ 天 然 記 念 物 昭27. 5.13 玉之浦町玉之浦 丹奈のヘゴ,リュウビンタイ 天 然 記 念 物 昭29. 4.13 玉之浦町丹奈 混 交 群 落 荒 川 の ハ マ ジ ン チ ョ ウ 天 然 記 念 物 昭29.12.21 玉之浦町荒川字矢ノ口 五 島 市 県 七岳のリュウビンタイ群落 天 然 記 念 物 昭29.12.21 玉之浦町荒川字七岳 五 島 市 県 頓 泊 の カ ラ タ チ 群 落 天 然 記 念 物 昭29.12.21 玉之浦町丹奈字頓泊 五 県 島 山 島 の ヘ ゴ 自 生 地 天 然 記 念 物 昭45. 1.16 玉之浦町玉之浦浅切 玉 之 浦 郷 県 白 叢 天 然 記 念 物 昭52. 1.11 玉之浦町玉之浦1630(白鳥神社) 白 鳥 神 社 市 大宝寺奥の院五重の層塔 史 跡 平22. 3.26 玉之浦町大宝631(大宝寺) 大 瀬 崎 粗 粒 玄 武 岩 天 然 記 念 物 平 2. 2.19 玉之浦町玉之浦 の 平 行 岩 脈 群 県 市 鳥 国選択 五 神 社 島 社 神 楽 無 形民 俗文 化財 平14. 2.12 白鳥神社 国選択 下 五 島 大 宝 の 砂 打 ち 無 形民 俗文 化財 昭54.12. 7 玉之浦町大宝 宝 郷 島 会 市 大 宝 寺 五 島 市 玉之浦神楽保存会 大 宝 郷 会 旧三井楽町地区 指定区分 名 称 モ ン デ 種 別 指定(認定)年月日 所 在 地 所有者(管理者) オ 県 貝 津 の 獅 子 こ ま 舞 無 形民 俗文 化財 昭47. 8.15 三井楽町貝津 貝津獅子こま舞保存会 県 漣 五 島 県 嵯 峨 島 火 山 海 食 崖 天 然 記 念 物 昭34. 5.19 三井楽町嵯峨島 五 島 市 市 嶽 市 カ 国選択 オ ー ー 無 形民 俗文 化財 昭35. 3.22 三井楽町嵯峨島 県 痕 天 然 記 念 物 昭34. 1. 9 三井楽町浜の畔字横浜 家 牢 グ ー 屋 ラ モ 敷 サ ン デ オーモンデー保存会 市 跡 史 跡 昭50. 2.26 三井楽町岳 五 島 市 ン 史 跡 平22. 3.26 三井楽町柏 五 島 市 ー 無 形民 俗文 化財 昭46.11.11 三井楽町嵯峨島 53 オーモンデー保存会 旧岐宿町地区 指定区分 名 称 神 所 在 地 寄 岐 宿 町 タ ヌ キ ア ヤ メ 群 落 天 然 記 念 物 昭27. 5.13 岐宿町松山桑木場465 桑 木 場 部 落 五 市 巖 宇久五島家八代覚公墓 史 跡 昭55. 4. 5 岐宿町岐宿(金福寺) 五 市 城 嶽 山 城 跡 昭55. 4. 5 岐宿町岐宿(城嶽) 五 市 と も づ な 石 史 跡 昭55. 4. 5 岐宿町川原(白石) 白 石 町 内 会 市 楠 原 牢 屋 跡 史 跡 昭55. 4. 5 岐宿町楠原(東楠原) 五 島 市 市 本 蔵 史 跡 昭55. 4. 5 岐宿町岐宿(宮町) 五 島 市 国選択 五 六 島 地 神 叢 天 然 記 念 物 昭45. 6. 9 岐宿町岐宿字スゴモ(巖立神社) 島 県 寺 社 五 市 宮 社 跡 昭37.11. 8 岐宿町岐宿寄神ほか 所有者(管理者) 県 神 塚 史 指定(認定)年月日 県 立 貝 種 別 址 史 楽 無形 民 俗文 化財 平14. 2.12 巖立神社 島 島 市 英 島 子 市 岐宿神楽保存会 旧奈留町地区 指定区分 国 名 称 江 上 天 主 種 別 指定(認定)年月日 所 在 地 堂 有 形 文 化 財 平20. 6. 9 奈留町大串1131 所有者(管理者) 長崎カトリック大司教区 国 奈 留 島 権 現 山 樹 叢 天 然 記 念 物 昭33. 3.11 奈留町浦1897,1899、泊字松ヶ崎 五 島 市 県 叢 天 然 記 念 物 昭31. 4. 6 奈留町船廻939,940 の 天 然 記 念 物 平元. 9.29 奈留町大串字池塚503-1 落 跡 史 跡 平 3. 6.19 奈留町船廻801 五 島 市 五 島 市 市 船 廻 神 社 社 奈 留 島 皺 の 浦 ハ マ ジ ン チ ョ ウ 群 遠 見 番 山 烽 火 台 五 島 市 市 水 晶 天 然 記 念 物 平 3. 6.19 奈留町泊1023,1024,1042 五 島 市 市 池 塚 の ビ ー チ ロ ッ ク 天 然 記 念 物 平 3. 6.19 奈留町大串字池塚503-1 五 島 市 市 宿輪の淡水貝化石含有層 天 然 記 念 物 平 7. 4.12 奈留町浦1134-1,3 五 島 市 県 晶 岳 の 双 54 第3章 景観構造と特徴 第 1 節 集落 (1)集落の立地と土地利用 久賀島の集落は、そのほとんどが水源である河川に沿って形成されている。島内の主要水系 である大開川(2.7km)や市小木川(2.2km)、そして、猪之木川(2km)をはじめとして、島内に は山の湧水を水源とする河川が点在している。特に、集落と水田は馬蹄形の山脈から久賀湾に 向かう斜面に多く存在しており、集落名でいうと、久賀、大開、猪ノ木、蕨(幸泊)に棚田・ 水田景観が広がっている。上記の集落における現在(平成 22 年 6 月)の耕作地、および、耕 作放棄地の分布状態からは、以前は標高が高いところまで棚田が河川沿いに開かれていたこと が伺える。また、島の外岸側においては北東部の福見においても谷から海岸に流れる川に沿っ て水田が形成・維持されている。東部の五輪をはじめ、南西部の浜脇、野園、田ノ浦において も各地区の河川沿いに急斜面を切り開いた棚田・段畑があったが、現在は耕作放棄地となって いたり(五輪、浜脇)、放牧地(野園) 、あるいは、椿林(田ノ浦)になっていたり、土地利用 形態が変容しているケースも多く見られる。 (2)集落の分類 久賀島内の集落にみられる共通点は、標高約 100m 弱の地点が地理的境界となっていること であるが、各集落の景観特性と空間機能的特性は、おおまかに①島の内岸である久賀湾に面す る集落、②外岸に面する集落、そして、③その両方の特性を持つ集落に分類される。前者の久 賀湾に面する集落は、標高約 100m、もしくは、それより標高の低い地点から、大開川、市小 木川、猪之木川といった全長 2km 以上の傾斜が比較的緩やかな河川沿いに、湾を見下ろすよう に広がっているのに対して、後者である外岸に面する集落は長さが比較的短い河川の河口付近 に漁港、居住地域、そして、農地が密集しているだけでなく、海を挟んで隣接する島の集落に 面している。また、久賀島内の全ての集落に共通している点として、集落の限界域に椿林が立 地していることがあげられる。以下に、各集落のそれぞれの特性を記述する。 55 ①久賀湾に面した水系と集落の特性 馬蹄形に並ぶ山系を背景として猪ノ木、久賀、市小木、大開の各集落は、久賀湾に面して立地 しているが、それぞれの集落は各集落の水源である河川に沿うように緩やかな斜面に形成され ている。西内岸部に流れる猪之木川(2km)に沿うように猪之木地区の棚田・水田は形成され、 久賀湾に面した集落 (猪之木集落) また、島の南部より中央部に流れる市小木川(2.2km)に沿うように、上流より内上平地区、市 小木地区、そして、下流には久賀地区が連続した水田・段畑景観が形成され、南東部から内岸 に流れる大開川(2.7km)には河川に沿うように棚田・水田景観が形成されている。猪ノ木、 久賀、市小木、大開の各集落においては居住地域と生業地域である水田は明確に区分されてい 56 る。また、久賀湾に面した集落の水田に共通することは、傾斜が緩やかなこともあり、外岸の 集落と比較して棚田・段畑の区画が大きく取られていることである。農業のための用水は各集 落が面している河川から引かれ、田植えの準備が行われる 3・4 月には河川に沿った谷全体が 市小木川流域の水田(左)と大開川流域の棚田(右) 河川の流域となるような幅広い棚田の渓谷が形成される。 ②外岸に面した水系と集落の特性 内岸の久賀湾に面する集落が傾斜の緩 い 斜面に立地しているのに対して、島の 外岸においては、長さが比較的短く、かつ、 傾斜が急な河川に沿って集落が形成され ている。田ノ浦、浜脇、野園、福見、五輪 といった集落に流れている河川は、その長 さ、および、流域面積が内岸に流れ込んで いる河川と比較して短く、河川に沿う急斜 面に石垣積みの棚田・段畑が作られ、河口 野園集落の旧棚田・段畑 付近に漁港や居住地域が形成されている 現在は牛の放牧に利用されている。 (註 1) 。 ③内岸集落と外岸集落の両方の特性を持つ集落 久賀島の第 3 の集落分類として、内岸集落と外岸集落の両方の特性を持つ集落である北東部 の蕨集落があげられる。第 1・2 分類の集落がひとつの水系沿いに形成されているのに対して、 蕨地区は峠を挟むように集落が形成されており、集落の中に島の外岸に流れ込む水系と久賀湾 に流れ込む水系の両方を含有しているという地理的特性を持っている。蕨地区全体を見渡せる 久賀地区方面に向かう南側の峠や福見地区に向かう東側の峠から集落を見渡すと、約 500m2 の 区域内に漁業(蕨港)、居住地区、そして、農業(棚田)が帯状に配置され、一見、半農半漁 の集落特性を凝縮した空間特性を持っているような印象を受ける。特に島の中央につながる道 57 外海に面した集落 (田ノ浦集落・五輪集落) 58 内海と外海両方の要素を有する集落 (蕨集落) 蕨の集落景観 左:集落の南西に位置する峠から撮影。棚田-集落-漁港と続く。 右:集落の東部の海側から撮影。棚田-集落と続く。 59 峠越えのアクセス道路 蕨集落 内幸泊の棚田 蕨集落と内幸泊の棚田との位置関係 内幸泊の棚田(遠景) 内幸泊の棚田(近景) 路にある峠は標高約 60m 弱であるものの、その勾配は約 12%(約 500m の距離に 60m の標高差) と急であるだけでなく居住地域が坂の入り口で途切れているため、視覚的に集落の空間的境界 がこの峠であるような印象を受ける。しかし、峠の南側である幸泊地区の棚田や養殖場で従事 している者に蕨地区の居住者が多く、視覚的な自然地理的特性を機軸とした集落の景観と住民 の生活範囲が必ずしも一致しているわけではない。つまり、景観判断の基点となる峠や河川を 60 境界として帯状(漁業地域[港]‐居住地域‐農業地域‐墓地‐椿林)に集落が完結している のではなく、むしろ、蕨地区の生活・生業の空間は山を挟んだ広域の帯(漁業地域[港]‐居 住地域‐農業地域‐椿林‐峠[山]‐農業地域‐漁業[養殖場])に続いている。漁港に面し 密集している居住地域には、学校や公民館といった公共施設が配置されているだけでなく、居 住地域の南東部にある標高約 30m の丘には集落を見渡すように集落の神社である蕨神社が位 置している。峠の北東部にある農地はこの蕨神社を境にして東側に 3 本の河川が形成する谷に 沿うように広がっている。それに対して、峠の南部である幸泊地区は蕨地区の生業の場となっ ており、漁場である養殖場を中心として棚田が密集している。農業従事者は軽トラック、およ び、原付自転車に肥料を積み生業に取り組んでいる。 空間配置から得られる視覚的特性と集落のつながりが一致していないという印象を受けるの ではあるが、以前より行政区分として幸泊地区は蕨地区に入っており、集落機能としては峠を 挟んだ連続性を持っていたことが伺える。 第2節 交通 (1)久賀島と隣接する島々の集落との結びつき 海を介した久賀島と隣接する島々の結びつきを記した地図として、長崎県平戸市の松浦資料 館に収蔵されている『伊能図・九州全図』(文政 5 年[1822 年] :縮尺 1/432,000)[京都大学 付属図書館なども所蔵] 、 『五島之図』 (年代不明) 、そして、 『肥前国五島絵図』 (年代不明) [松 浦資料館収蔵、長崎県平戸市]があげられる。これらの地図では、蕨、久賀村、田ノ浦、深浦 といった現存する集落の名前とともに、田ノ浦港と久賀湾が港として記載されており、当時は 内岸の集落も船を介した海上交通網と連携していたことがうかがえる(註 2)。とくに『肥前 国五島絵図』に久賀島と他の島々を結ぶ田ノ浦-福江間の航路が記されているように、これら の古地図から当時の主要航路を読み取ることはできる。しかし、上記の地図においては集落住 民の日常の海上行動の形態までを読み取ることは難しい。 本調査では、久賀島住民への聞き取りにおいて、住民の海上移動のパターンや、調査者本人 が低速移動の漁船や海上タクシーを利用して調査地や五島灘を実際に移動することにより、江 戸期から近年における住民の海上移動のパターンを検証してみることを心がけた。久賀島を含 め海に面した集落は、集落住民の生活空間が集落が立地している陸地のみで完結せず、集落が 海を挟んで面している島々にある集落を含めたより広域の範囲を含んでいる。例としては、久 賀島南部の集落(田ノ浦、浜脇、野園)は福江島の奥浦地区との海路を跨ぎ結びついており、 また、北東部の集落(蕨、福見、五輪)は奈留島西部の集落と結びついている。このような 海を介した集落機能の結びつきは、近年の造船技術の発展や道路開発、そして、車の普及など をはじめとした交通・運輸の変容とともに変化してきている(註 3)。しかし、久賀島北東部 の集落(蕨、福見、五輪)における生業・習俗に焦点を当てると、海が各集落の機能において 重要な位置を占めていたことがわかる。以下の節では、このことについて蕨地区と五輪地区、 そして、長崎港から福江港への航路を事例として取り扱いたい。 61 『伊能図・九州全図』〔文政5(1822)年〕松浦史料館所蔵 『五島之図』〔年代不明〕松浦史料館所蔵 当時の主要港が赤く着色されており、久賀島では田ノ浦、深浦、久賀に港湾が存在したことが分かる。 『肥前国五島絵図』〔年代不明〕松浦史料館所蔵 田浦港から福江港につながる航路が記されている。 久賀島関連古地図 62 (2)近年における海を介した集落機能の変容 ①蕨地区と奈留島 久賀島内の集落と隣接する島々との関係性とその変容は、市町村合併といった行政的側面や 物流の変化といった経済的側面のみならず、近年における島内の各集落の生業と習俗の関連性 の変化という社会・文化的側面もあげられる。特に、近年の久賀島の習俗は、福江島や奈留島 といった連接する島々との密接な関連性を持っているだけでなく、その形態にもいくつかの変 化が見られてきた。 そのなかでも特に顕著な事例として挙げられるのが久賀島北東部の蕨地区における習俗の 運営の変化である。蕨地区の習俗は、奈留島との関係を抜きにして議論することが難しいだけ でなく、奈留島における習俗の運営においても蕨地区は機能的に重要な役割をはたしている。 蕨地区を含めた久賀島北東部の集落と奈留島は 3km ほどの海峡を挟んで面しており、濃霧の日 以外は対岸の集落を明確に望むことが可能で ある。平成 22 年 6 月現在、久賀島北東部と奈 留島を結ぶ定期船は無く、移動には個人が船を 大串集落 出すか、もしくは、海上タクシーをチャーター するかのいずれかに限られている。つまり、五 島列島における現行の海上航路においては、久 奈留島 賀‐奈留の両岸は結びついてはおらず、そのた しめ縄材料提供 め、現地調査の際に車を主な移動手段として用 いると久賀‐奈留両岸の結びつきを把握する 宮司兼任 のは難しい。しかし、蕨地区の習俗・生業の変 容過程において、奈留島にある奈留神社の宮司 が蕨地区の神社である蕨神社の宮司を兼任す ることになり、奈留島に点在する神社のしめ縄 蕨集落 の藁が、最近まで蕨地区の水田よりまかなわれ ていたことなど、習俗・生業は島々の集落の結 びつきや集落間の機能の関係を再考する素材 久賀島 である。 折紙神社をはじめとして、島内の 4 地区(蕨、 蕨集落と奈留島の関係 久賀、田ノ浦、猪ノ木)それぞれに神社があり、 昭和 43 年(1968 年)までは角田伊織氏が島の神社の宮司として従事していた。その角田氏が 昭和 43 年に宮司職を離職する際、島内の神社・祭事の管理は、各集落毎にそれぞれ別の宮司 に依頼するようになった。以来、久賀島に常住している宮司はいない。現在は福江島と奈留島 に居住している宮司が久賀島内の各地区の神社の宮司を兼任している(註 4)。蕨地区にある 蕨神社においては、昭和 43 年に登記上、角田元宮司より奈留島の奈留神社の宮司であった月 川芳博氏に移管されて以来、現在まで奈留神社の宮司が蕨神社と金比羅神社の宮司を兼任して 63 いる(註 5) 。そのため、祭礼をはじめとして奈留神社の宮司は奈留島より海上タクシーを利 用して蕨地区での職務についている。奈留島から宮司が移動してくるのに対し、数年前まで蕨 地区からは奈留島へ稲わらが奈留島内の神社のしめ縄の材料として供給されていた。蕨地区の 水田で取れた稲わらは蕨港よりチャーターした船に積まれ、奈留島まで運ばれた後、奈留神社 の氏子の手作業でしめ縄とされたあと、奈留島内の各神社に供給された。奈留島では、以前、 船廻地区に水田があったものの、現在では島内において生業として稲作に従事している島民は 非常に少ない。そのため、奈留島にとって久賀島蕨地区は稲わらの重要な供給地であった。し かし、奈留神社にとって蕨地区より稲わらを提供してもらうことは、近年において神社を運営 していくための費用対効果という側面から難しくなってきたことに伴い、稲わらを通じた両岸 の集落関係は、現在、中断されている(註 6)。 また、以前は奈留港経由の長崎行きのフェリーに乗船するために、蕨地区から船をチャータ ーして奈留港に移動する蕨地区住民の姿も見受けられたが、近年は、海上交通の運賃の上昇や 奈留港経由のフェリーが 1 日に 1 便ずつ(博多方面 1 便、長崎方面 1 便)と限定されているこ ともあり、船のチャーター利用は非常に稀になっている。 ②五輪地区と奈留島 蕨地区と同様、久賀島の東岸に位置する五輪地区も以前は奈留島との結びつきが強かった。 蕨地区と奈留島の結びつきが、稲わらとしめ縄といった生業と神道行事を機軸につながってい たのに対して、五輪地区と奈留島の結びつきはカトリックという宗教を介した結びつきと、漁 業と農業という生業を介した結びつきという二重のつながりがあった。現在、五輪地区には漁 業を営んでいる 3 世帯が居住しているのみであるが、農作業は生業としてではなく、自家消費 のためのサツマイモ栽培のみであり、収穫されたサツマイモは主に天ぷら、もしくは、カンコ ロ餅として加工され消費されている。また、畑の南側を河川が流れているが、現在は五輪地区 において稲作はおこなわれてはいない。 蕨地区と奈留島の集落機能の結びつきに関する内容の時間軸が昭和 40 年代以降(1960 年代 後半以降)であるのに対して、五輪地区と奈留島の集落機能の結びつきに関する時間軸は主に 昭和 40 年代以前である(註 7)。これは、五輪地区で聞き取り調査に応じてくれる住民が限ら れていることが理由として挙げられる(註 8)。昭和 30 年代頃まで、五輪地区ではイワシ漁が 活況であったとともに、イワシの缶詰工場が建設・稼動していた。その当時は、五輪地区の世 帯数は約 40 世帯弱であり、イワシ漁に加えて農業も集落内での消費のみならず島外への販売 を含めた生業として取り組まれていた。特に、サツマイモ栽培は焼酎の原料として島外に販売 されていた(註 9)。五輪地区の住民だけでは農作業に必要な人手は不十分であり、協力の要 員として遠洋漁業の漁師が潮の干満にあわせて隣接する奈留島や中通島の奈良尾より伝馬船 で協力のため日帰りで五輪地区に来たとのことである。また、海を挟んで奈留島側にある江上 地区の江上教会においてクリスマスの礼拝が行われた際には、五輪地区の住民を含めた久賀島 北東部に住むカトリック信者が伝馬船で礼拝に参加していた。 64 (3)海上交通と集落機能の結びつき 久賀島北東部の集落機能の地理的広がりに焦点を当ててみると、各集落の機能が航海技術を 基礎とした海上航路によりつながっていることが伺える。そのため、海は生活範囲の限界では なく、むしろ、住民の生活圏を形成する貴重な地理的要素として捉えることができる。五島を 含め長崎県各地に形成された、カクレ、および、カトリック集落が「交通的に不便で辺鄙な僻 地に点在する」と議論されることがしば しばあり(註 10)、特に久賀島の五輪地 区はその「不便で辺鄙」な地域の例とし て取り上げられることが多い。しかし、 奈留島 海上交通の視点から五輪地区をはじめ とした久賀島外岸の集落などを分析す 江上集落 ると、必ずしも「不便で辺鄙」な場所に クリスマスミサ参列 集落が立地しているのではなく、むしろ、 海からのアクセスが良好な場所に立地 しているといえる。カトリック集落であ る五輪地区も、奈留島や上五島方面を結 久賀島 ぶ海上航路に面しており、 「隠れ」てい るというよりは、むしろ、航路上機能的 な位置に「隠れず」に目立って立地して 農作業の 労働力提供 いる。 例えば、五輪地区には、木造船を舟付 五輪集落 けしやすい浜があるだけでなく、生活に 不可欠である飲料水の源となる河川が 五輪集落と奈留島の関係 存在している。また、それだけではなく、 奈留島の中心地である奈留港から約 3km ほどしか離れていないうえに、小型船が潮流を活用し た際に通る長崎‐福江の海路に面しているなど、海上からのアクセスが良好なところに位置し ている。伝馬船など人力で海上を移動する際、船頭は潮流や風力をはじめとして、潮汐や潮位 を把握・活用することにより移動にかかる労力を最小限に抑えながら移動する。その際、潮汐 や潮位の変化の判断の基礎となるのが、陰暦、もしくは、潮時表である。これは、五島地区を はじめとして漁船や海上タクシーといった小型の船舶を扱っている漁師や船乗りの間では、効 果的に漁や航海に従事するための判断材料として現在も活用されている(註 11) 。 また、久賀島においても、漁業を営んでいる集落では潮時を基にした生活のリズムが営まれ ている。これは、漁(特に素潜り漁)においては潜っている時間を最小限に抑え、身体的な負 担を軽減するために、干潮の時間帯に漁を行う(註 12)。そのため、干潮の時間帯には、住民 全てがいなくなるような錯覚を受けるぐらい集落が静まりかえり、干潮時には農業をはじめと した漁業以外のことに従事している住民を見かけることは稀である。 65 また、潮流・潮時は住民の移動の判断にも用いられている。例えば、五島灘を長崎から五島 方面に西方に低速で移動 する際、地元の漁師や船乗 りは潮時をもとに移動日 や航路の予測を立て、そし て、移動当日の潮流や風力 といった要素を織り交ぜ ながら実際の航路を決定 する。大まかな潮流のパタ ーンをもとに地元の漁師 や船乗りが好むのは、長崎 の伊王島付近より福江港 に向かって直線方向に進 む航路ではなく、潮流が比 較的弱い長崎の外海地域 海上から見た五島列島 外海付近の会場から五島列島を望む。太陽の周りの島が中通島。 付近から中通島に向けて 西方に向かう航路である。濃霧のときを除いて、外海地方の海上からは中通島から福江島まで を一望することができ、また、星空が明瞭な天候が良好な日においては夜間でも五島列島の 島々の位置関係を明確に把握することが可能である。筆者も平成 22 年 7 月 18・19 日に長崎港 より福江港に向けて漁船・海上タクシーで時速約 0.4~3 ノット(時速 0.8~5km)の低速で移 動した際、海上より五島列島の外岸に面した集落の位置関係を目視で把握することが可能であ った(註 13) 。この外海‐中通島‐福江島の航路を移動する際、航海者の視点はやや北東方面 から南西方面に五島列島を眺めるかたちになる。そのため、久賀島の五輪地区や福江の大泊地 区といった旧隠れキリシタンの集落は航路上良好な位置に立地しており、海上からは「隠れて いる」というよりは、非常に目立った位置に立地している印象を受ける(註 14) 。 また、久賀島を含め、福江島、奈留島、中通島の旧隠れキリシタン集落は海上航路からは良 好な地域に立地しており、海上地理的視点から考察すると非常に機能的な地域に集落が形成さ れている。隠れキリシタンが隠れた集落に立地していたという言説は、むしろ、陸上交通のみ を基礎とした議論であるといえる。また、過去における隠れキリシタンの海上航路と、現代に おける漁師・船乗りの航路分析が重複することを比較すると、外海‐五島の航路は「隠れ」て 移動するための航路ではなく、船外機が普及する以前から地元の航海技術として用いられた航 路であったと推測できる。 (4)交通網の変容がもたらす空間認識の変容 以前は福江島において、九州商船のフェリーが福江‐玉ノ浦間の北回りの定期船を運航して いた。久賀島の南部のカトリック集落である浜脇地区、野園地区、そして、福江側のカトリッ 66 ク集落である半泊地区、堂崎地区、間伏地区も、上記の航路上に面している。現在の公共交通 機関で、五輪地区を望む海上航路を通るのは奈良尾から福江に向かう航路か(九州商船)、若 松から福江に向かう航路(野母商船、五島汽船)の数航路に限定されており、調査期間が限ら れている場合には既存航路、もしくは、海上タクシーの航路以外から集落を眺めることは比較 的難しい。 また、道路の整備がすすみ、自動車が普及している近年においては、陸地の移動に伴う利便 性や不便性は、自動車が普及する以前と比較し大きく変容している。自動車では、貨物を搭載 したまま急斜面や標高が高いところを移動することの不便性は軽減されるのに対して、1 隻あ たりの搭載量に制限が伴う海上交通がもつ不便性は解消されにくい。そのため、昭和 30 年代 以降、住民の主な移動手段が海上交通から陸上交通へと変化するに伴い、交通や物流を基礎と した久賀島内外の集落機能の結びつきが変容してきた。研究者による集落構造のとらえ方の変 化も、陸上交通の発展に伴い研究者の視点がより陸上からの視点に変化してきたことに伴うも のであるといえる。実際に、現在、久賀島で道路が整備されている地域においても、標高 60m を越える地域には、集落、および、住居が建てられていない。むしろ標高 60m を超える高さに 建設されているものは、島南部の浜脇地区と島中央部を結ぶ峠を越える道路のみである。また、 折紙神社の祭礼を除いて、現在においても島内の各集落の機能や習俗が海を跨ぐことはあって も、島内の山系を越えることが稀であることを考えると、現在においても島内集落の地理的境 界は海ではなく、むしろ、島内の山系と捉えることが適切である。 また、交通や物流の変化の要因は陸上交通の発展のみならず、造船技術の発展や海上交通の 変容にも起因している。昭和 40 年代以降、FRP(Fiber Reinforced Plastics:繊維強化プラ スチック)を船体の素材とする FRP 船が普及した。久賀島を含めた五島列島の各地においても 五輪地区の漁船(左)と福見地区の漁港(右) すべてFRP船。小さいながらも岸壁がある五輪港では船を港に横付けできるが、岸壁が未整備の福見港では沖合 に船を泊めて小舟に乗り換えて上陸している。 FRP 船は普及しており、現在は五島における漁船、高速船、海上タクシーのほとんどが FRP 素 材を用いている。FRP 素材は強度が強く軽量であるという利点がある反面、強い衝撃を受ける と素材が剥離するという弱点を持っている。そのため、FRP 船の運用には港湾整備が必要とな り、浜に直に係留するのには適していない。つまり、造船技術の発展は、船体の軽量化など海 67 上交通へ一定の利益をもたらしたものの、それまで木造船で可能だった浜へのアクセスへ制限 がかかるなど、海上移動を機軸としていた久賀島住民の行動様式と行動範囲に新たな制限をも たらした。例えば、長浜や亀河原の椿林へ海上から上陸を試みる際、両地域の浜は礫浜である ため、FRP 船に乗って直接上陸することは困難である。近年、地域のボランティアの方が海上 から亀河原の浜への上陸を試みた際、船を浜のぎりぎりまで近づけた上で海に飛び込み、泳い で上陸をしなければならなかった。船は集落内の浜、もしくは、岸壁に係留することによりそ の利便性が確保されるのであり、係留ができなければ同じ船舶を使って再度海上移動をするこ とは不可能になる。事実、久賀島において現存している集落は港湾整備が行われている地域で ある。それに対して、消滅している集落には港湾整備が施されていないことが共通点としてあ げられる(註 15)。このように、昭和 30・40 年代以降の交通技術の発展と交通網の変化は、 久賀島の住民の行動様式に変容をもたらしたとともに、その変容にともなう物流の変化は集落 の生業や集落機能の結びつきに影響を与えてきた。奈良尾地区や奈留地区の住民が五輪地区を 訪れる頻度は激減するとともに、現在、五輪地区を含めた久賀島北東部の住民が、船を使って 直接奈留島を訪れることは稀である(註 16)。 久賀島の景観を議論する際に、欠かせないのが「水」と「海路」である。島内の各集落には えびすを祀る神社と大物主神を祭る金比羅神社がある。えびすも大物主神も、漁業・海運の守 り神であり、作上り届をはじめとした生業に関わる歳時も海にまつわる神に対してささげられ ていることからも分かるように、久賀島の住民にとって水は切り離すことのできないものであ る。島の総面積が 38km2 に満たない中で、人口が一時期は約 4000 人近かった住民に飲料水と 作物を自給できるだけの水量を湧水のみで賄えるように水利管理をしてきた島嶼地域は全国 的に見ても稀である。また、島の住民による海上交通における潮流をはじめとした自然の変化 の活用や集落内における河川の活用など、住民が持つ水利知識をもととして、きわめて機能的 な場所に集落が形成されている。農業従事者の間では稲作をはじめとする治水を基礎にした誇 り、そして、漁業従事者には海の変化を把握できる誇りとがそれぞれにあり、そのような「水」 にまつわる久賀島の住民の誇りは過疎化や高齢化が進む現在においても健在である。 しかし、交通技術や交通網の変化、さらに過疎化や高齢化が進むにつれ、久賀島が有してき た水と海路を基礎とした景観に変化がでてきている。港湾整備と道路整備の両方が及んでいな い地域においてはすでに集落が消滅しているだけでなく、港湾整備が及んでいるところでも陸 上交通が不便なところでは過疎が極端に進んでいる地域も見られる(例:細石流、深浦、浜泊、 五輪など)。また、港湾整備が整っている地域においても、漁獲の変化や燃油の高騰、そして、 市場における魚の卸価格の下落なども影響し、船舶の利用を見合わせている集落も多い(註 17)。農業従事者も漁業従事者も、出荷に関しては物流・運輸を既存のフェリー航路に依存せ ねばならず、主要航路へのアクセスがいい海路や道路網への依存度が必然的に生じる。そのた め、海路や道路網が変化すると、集落機能の結びつきの変化をはじめ、集落自体が持つ機能に 大きな変化が生じる。例えば、奈留島が持っていた地域の中核地として機能と海運の中継地と 68 しての役割が低下するにつれ、蕨地区をはじめとした久賀島北東部と奈留島の結びつきが弱く なったと同時に、久賀島内の道路交通網が発展したことにより田ノ浦港を通じて久賀島全域が 福江島に対する依存関係を強めていった。そのため、北東部地域の集落をはじめとして、福江 島との結びつきが弱かった久賀島の北部地区の集落は、福江市を中心とした五島列島南部地域 における地域的機能の周辺に置かれることとなった。それに対して、以前より福江島との関係 が深かった久賀島の内岸部や南部が島内で持つ社会的機能は維持されてきたといえる。特に、 水田の 1 区画を広く取ることが可能である内岸部において農業用具の機械化にも対応するこ とが可能であったのに対し、外部の急斜面の地域では農業の機械化の不自由にともなう農業離 れが見られることとなった。 つまり、久賀島の景観の変容は、島内の住民が海運や農業における技術革新を、生活のなか でどのように受容してきているのかを表象している景観であるといえる。島が持つ豊富な湧水 と複数の海路を基礎として農業と漁業に関する新技術を島の特性にあわせながら受容するこ とにより、農地や椿林の管理状況だけでなく神道行事をはじめとした関連する祭事にも変化が 見られてきた。換言すると、久賀島の住民が今後の技術や交通の変化にどのように対応してい くかによって、島全体の景観は今後も常に動的に変化していくといえる。 【脚註】 1.例外として、福見地区に流れる河川は傾斜が緩やかで、河川を中心とした平坦な地域には区画が大きい水田が広がっ ている。 2.これらの地図においては、久賀島内岸の深浦地区が目立つように記載されている。それに対して、久賀地区や大開地 区の水深は現在でも浅く、上記の地域は搭載量が大きい船舶には不向きである。 3.特に現在においては、フェリーを中心とした海上航路と島内の道路網が各集落の地理的結びつきの基礎となっている。 4.各地区の宮司の兼任状態は、蕨地区が奈留神社(奈留島) 、久賀地区が七岳神社(福江島) 、田ノ浦地区が住吉神社(福 江島)、そして、猪ノ木地区が住吉神社(福江島)となっている。また、カトリック教会も小教区が存在しているもの の、福江教会神父が兼任しており、島内に常駐している聖職者はいない。寺院も類似した変容を見せており、久賀島 の襌海寺が福江島の松山町に布教所を設立している。ちなみに、法要、葬儀は久賀島の寺院のみで行っている。 5.蕨神社現宮司の月川氏が、奈留神社と蕨神社の兼務者として引き継いだのは昭和 56 年(1981 年)2 月 19 日である。 6.月川氏によると、氏子への差し入れなどをはじめとしたしめ縄作成のための費用と、五島外部の業者よりしめ縄を 購入する際にかかる費用があまり変わらないとのことである。現在は奈留島にある神社のしめ縄は、京都にある株式 会社・井筒より購入している。 7.例外として、携帯電話に関する話がある。数年前まで、五輪地区に面した携帯電話の中継アンテナが無かったのでは あるが、数年前に五輪地区の対岸である奈留島に中継アンテナが建設されたため、五輪地区でも携帯電話の利用が可 能になった。このことは集落住民が笑顔とともに話していた。 8.調査に応じてくださった五輪地区のS氏は、以前、近海・遠洋漁業に従事されており、五輪地区に帰ってこられたの が約 40 年前になる。そのため、S氏への聞き取り調査においては、活気があった頃(漁業で集落を離れた頃)と活気 が失われて以降(ここ 40 年)に時間軸が区分されている。 9.加工用のサツマイモ生産は、中華人民共和国との国交正常化以降に安価なサツマイモの輸入開始以降、急激に減少し た(当時の中国産サツマイモの卸価格は、国産サツマイモの約 10 分の 1) 。これは、五島地方だけでなく佐世保市黒 島をはじめとした長崎県全域のサツマイモ栽培に共通して見られた(長崎県の農業統計) 。 10.第 1 回長崎県世界遺産学術会議(平成 20 年 12 月 26 日開催)の配布資料など。 11.潮時表の形態は様々で、小型の『ポケット潮時表』を携帯したり、漁船に潮時を記す器具を取り付けたり、または、 携帯電話で確認したりなど、その形態は五島地区でも多様である。 12.久賀島の素潜り漁では、テングサ(天草) 、サザエ、ウニ、あわびなどが漁の対象となっている。ちなみに、加工後 不要になったウニの殻などは、そのまま畑の肥料として使われている。これは殻が肥料として使える石灰質であるた めであり、田ノ浦地区をはじめとした五島の各地で眼にすることができる。 13.平成 22 年 7 月 19 日は小潮であり、第 1 の満潮が午前 1 時 18 分頃であった。そのため、長崎より五島に向かう船に 69 とっては、満潮前後約 5 時間(18 日午後 10 時ごろより 19 日午前 3 時ごろ)が「向い潮」という逆流に向かうかたち になり速度が極端に遅くなった。また、干潮(午後 7 時 10 分ごろ)前後約 5 時間(18 日午後 5 時より 9 時ごろ)は 「追い潮」という順流であった。 14.つまり、海上交通網から目立ったところに集落を形成していたということは、宗教的隠密性は地理的位置関係より も、むしろ、集落に来た訪問者に対して居住者の宗教実践のあり方を分かりづらくするために、主に住居のデザイン や儀礼の運営などに「隠れ」の要素を織り込んでいたと考えられる。このことは平戸や外海を含めた長崎県の島嶼地 域、および、海に面した集落における隠れ信仰の形態に共通している。 15.ちなみに、久賀島南部の対岸に位置する、福江島の間伏地区は港湾整備はされているが、現在住民はいない。 16.また、奈留島の中心部と比較して福江島のほうが商業的な活気があることも要因として挙げられる。近年、久賀島 の住民も奈留島の住民も、生活物資の購入や娯楽の為には福江まで移動することが多い。福江島の中心街が五島列島 南部の機能的中心地となっているのに対して、奈留島は社会・経済機能的に見て福江島の従属的地域としての色合い がより強くなっている。そのため、久賀島の北東部の集落の住民は奈留島を介し福江島と間接的な生活機能の従属関 係を持つよりも、整備された陸上交通網を活用して南部の田ノ浦港を経由し福江島と直接的な関係を持つほうに重き がおかれるようになったといえる。 17.これは、久賀島だけでなく、福江島や奈留島の漁港で特に目にする光景である。 ※ この章は、平成 22 年度の民俗調査を行った山田 市が補足調査を行い、追補のうえ再編集した。 70 亨氏(ハワイ大学大学院)の調査成果に基に、五島 第4章 生業 第 1 節 ツバキ実採取 (1)概要 五島列島の林業については、近世の五島藩で、小物成として薪や薪炭とともに椿の実物納が 行われていたことが知られている(宮本 1952)。近世における椿実物納は、五島藩では、百姓 が棟別 1 升 2 合(家主のみ)、頭別 1 人前 2 升 4 合(15 歳から 60 歳までのもの)のほか、町 人および職人、浦々の足軽、浦船頭、御家中被官も軒別 1 升 2 合を納めることが規定されてい た。ツバキ実生産の利点は、果樹栽培などに比べて労力が少なくて収益が比較的大きい点、人 畜および病害虫が少ない点、耕地でなくてもいかなる土地にも適する点にあるが(三浦 1965)、 五島藩では既に椿油の有用性が理解され、林業の一つとしてツバキ実が盛んに採取されるとと もに、藩の納税体系にも組み込まれていたことが分かる。 大正 6~9 年の統計では、長崎県内での生産量は全国生産の 40~45%を占めている。県内の 内訳では長崎市が最も多く、南松浦郡(五島列島)の生産量はそれほど多くないが、この統計 はツバキ実の出荷量に基づくものであり、自家消費が多かった南松浦郡(五島列島)の生産量 は、実際よりもかなり低く見積もられている点に留意する必要がある。昭和 20 年代になると、 五島列島におけるツバキ実生産量は長崎県下の約 8 割を占め、その中でも久賀島は最も生産量 大正時代のツバキ実生産量 全国との比較 全国(石) 長崎県(石) 比率(%) 大正6年 2,911 1,155 40 大正7年 2,490 1,121 45 大正8年 2,866 1,169 41 大正9年 2,328 1,006 43 長崎県内生産量 長崎市 西彼杵郡 東彼杵郡 北高来郡 南高来郡 北松浦郡 南松浦郡 壱岐郡 対馬 大正9年 400(23) 339(19) 60(3) 62(3) 12(1) 228(14) 303(17) 85(5) 278(15) 大正10年 400(37) 44(4) 111(10) 40(4) 11(1) 43(4) 325(30) 85(7) 30(3) ※ 単位は石 ( )内は県内での割合 昭和26年度南松浦郡町村別ツバキ林面積およびツバキ実生産量 奥浦村 ツバキ林面積(町歩) 生産量(石) 本山村 玉之浦町 北魚目村 三井楽町 岐宿町 久賀島村 その他13町村 5 33 30 6 10 20 120 60 125 42 50 60 84 50 250 252 71 が高かった(三浦 1965)。最近の全国統計でも、別表に示すとおり長崎県(久賀島)は東京都 (伊豆大島)と並んでツバキ実の一大生産地となっている。 ツバキ油生産量 H15 都道府県 H13 H14 H16 東 京 12.6 16.1 21.0 21.8 福 岡 0.4 0.4 0.4 0.4 長 崎 12.6 20.0 14.2 9.1 熊 本 0.1 0.5 0.4 0.4 大 分 0.2 0.3 0.2 0.0 鹿 児 島 0.0 0.0 7.1 1.8 全国生産量 25.9 37.3 43.3 33.5 特用林産物需給動態調査(林野庁林政部経営課) 生産割合 都道府県 13 東 京 40 福 岡 42 長 崎 43 熊 本 44 大 分 46 鹿 児 島 H13 48.6% 1.5% 48.6% 0.4% 0.8% 0.0% H14 43.2% 1.1% 53.6% 1.3% 0.8% 0.0% H15 48.5% 0.9% 32.8% 0.9% 0.5% 16.4% H16 65.1% 1.2% 27.2% 1.2% 0.0% 5.4% H17 9.1 0.4 13.6 2.0 0.0 7.1 32.2 H18 19.1 0.0 8.5 2.0 0.1 7.0 36.7 H19 21.3 0.0 31.8 2.0 0.1 12.0 67.2 単位:キロリットル H20 H21 41.4 27.3 0.0 0.0 28.8 19.0 0.0 0.0 0.0 0.0 5.4 4.4 75.6 50.7 H17 28.3% 1.2% 42.2% 6.2% 0.0% 22.0% H18 52.0% 0.0% 23.2% 5.4% 0.3% 19.1% H19 31.7% 0.0% 47.3% 3.0% 0.1% 17.9% H20 54.8% 0.0% 38.1% 0.0% 0.0% 7.1% H21 53.8% 0.0% 37.5% 0.0% 0.0% 8.7% 80.0 60.0 40.0 20.0 0.0 H13 H14 H15 東京 熊本 全国生産量 H16 H17 H18 H19 福岡 大分 H20 H21 長崎 鹿児島 久賀島のツバキ実生産の最大の特徴は、ツバキ林の維持・管理体制にある。後述するように、 昭和 30 年代まではツバキ林を郷有林とし、採取前の下草刈からツバキ実採取、採取後のメン テナンスまで、集落単位の共同作業で行い、ツバキ実採取じきにも一貫したルールが存在した。 また、昭和 29 年 3 月 20 日には、当時の久賀島村が「椿樹及びしきみ樹保護条例」を制定し、 椿樹の伐採を許可制にするなど、行政としてツバキ樹の保護策を講じている。昭和 29 年の条 例制定の経緯については、 「昔から不文律として守られてきた」という趣旨の文書が残ってお り、条例制定以前から集落単位でバキ樹の伐採が暗黙の内に規制されていたことを示している。 この条例は、合併後の五島市にも引き継がれ、現在に至っている。 72 (2) 『椿春秋』にみる昭和 20 年代のツバキ林管理とツバキ実生産 昭和 20~30 年代の久賀島におけるツバキ利用の具体像については、元東京大学教授で、当 時ツバキ研究の権威であった三浦伊八郎による『椿春秋』に詳しい(三浦 1965) 。この資料は、 昭和 24 年に長崎県林務技師らによる調査成果を南松浦支庁長松本光之氏が発表した資料、お よび昭和 26 年に長崎県林業地区技術普及員古賀 淳氏が調査した久賀島の報告書を中心に、 概要をまとめたものである。商品作物として統計上最もツバキ実生産が多かった昭和 20~30 年代の久賀島の具体像を知る上で、非常に重要な資料となっている。この『椿春秋』に依りな がら、最盛期におけるツバキ実生産を概観する。 ①ツバキ林の管理 久賀島の林野面積 3401 町歩のうち、ツバキ林は 120 町歩(うち、純林 50 町歩、散生林 70 町歩)で全体の 3.5%を占めていた。土地所有関係は、公有と私有がほぼ相半ばしていた。 ツバキ実のことを久賀島では「カタシ」とよび、その油を「カタシ油」と呼称した。椿・樟 樒は特用樹として保護され、伐倒したものには罰金が科せられるという不文律があったという。 ツバキ林が維持された理由としては、天然林中にツバキの混交率が高いため、雑木を除伐すれ ば純林にもなる便益があったことが挙げられる。もう一点は、郷有林(集落有林)などの公有 林が多いかったため、ツバキ実の採取や下刈、ツバキ樹の枝打など、維持管理に必要な労務に ついては各戸から人を出して共同作業をおこなうことができた点にある。 ツバキ林を維持する方法としては、A.雑木を除伐して天然稚樹を保育する方法、B.伐採後の 萠芽を整理撫育する方法の 2 種があった。 天然稚樹を保育する場合、具体的作業として除伐・下刈・元出し(元寄せ) ・整枝などがあ る。除伐は雑木を除いてツバキの稚樹や萠芽を保護し、壮齢林では劣等樹を伐採する。下刈は ツバキ樹の根本付近の雑木を払うことである。元出し(元寄せ)は、下刈後に根株の周囲を熊 手や唐鍬で土を掻き出し、かき寄せる作業で、毎年収穫後に行っていた。また、元出し(元寄 せ)後に根株に敷き草を行うこともあった。整枝は剪定のことで、7~8 年の幼齢期から剪定 を行って徒長を防ぎ、壮齢林では、結実の調整で徒長枝・裾枝・懐枝を剪定し、結実枝の生成 や花芽の分化を促し、除伐とともに陽光の透射や通風を良好にし、病害を予防していた。整枝 はツバキ実採取後の 10~11 月中に行っていた。 伐採後の萠芽を撫育する場合、天然苗植栽、山地直挿法、直播法の 3 種があった。天然苗植 栽は、ツバキ林から取った苗を畑地に植え、肥培管理する方法である。山地直挿法は、直径 2 寸程度の太い挿穂を優良母樹から採取し、下部を四つ割りにして粘土をつけ、山地に直挿する 方法で、 「打ち込み」とも呼ばれた。活着率はかなり高かった。直播法は、熟した種子を下刈 した林地に播く方法で、ごく稀に行われていた。 73 ※「久賀島村史」(1951)に加筆・修正。 74 ※「椿春秋」 (三浦伊八郎 1965)に加筆・修正。 75 ②ツバキ実の品種 久賀島民はツバキ採取に際し、ツバキの枝や葉、果実、種子の形状や、種子や油の産出量と いった特徴に基づき、ツバキ実を数種類に分けて認識していた。 A.「おろかたし」 「山おろ」「山よろこび」 果実は楕円形、大型、厚皮で、種子の粒数は少なく収量も少ない。葉は大で油質は可良。 B.「瓢箪かたし」 果実は楕円形・薄皮で、種子の粒数が多く、良質で収量大である。下枝は下垂する特徴があ る。葉は狭長で花は下向性、枝条は拡張する。 C.「紫かたし」 希少品種で油は良好であるが、結実量は少ない。種子は黒色光沢があり、花は暗紅色である。 D.「七夕かたし」 早熟種で、7 月の七夕頃熟し採取可能となる。 E.「紅かたし」 樹幹が通直に伸び、枝を拡張しない。果実は赤色で小型である。 F.「あめかたし」 各品種に共通するもので、日陰で育ち油分が少なく軟化した種子を指す。 ③ツバキ実の採取 収穫は集落総出で行い、木に登ってもぎ取っていた。特に女子が上手で、柔道着に似た上着 を身につけ、もぎ取って懐に入れていた。共同作業で得たツバキ実の販売は一括して入札し、 収益は均分していた。ツバキ実の産額は 250 石で、農家収入の 8%であった。 (3)聞き取り成果に基づく昭和 30 年代前後のツバキ林管理とツバキ実生産 次に、島民への聞き取り調査成果に基づいて、集落毎にツバキ利用に関する具体を記述する。 聞き取りの対象者は、久賀島内に居住する 60 歳~70 歳台の男女で、ツバキ林管理やツバキ実 採取、採取後の処理、ツバキ油の利用法など、ツバキ利用に関する網羅的な内容について、子 供の頃の状況(今からおおよそ 50~60 年前(1950 年~1960 年頃) )を中心にヒアリングを行 った(註 1) 。 ①蕨集落 蕨集落のツバキ林は、集落北側の山林および福見岳周辺に所在していた。すべて郷有林で あった。柳集落には、旧道から山裾に列をなす範囲の「上の組」 、旧道に沿って東側に列をな す範囲の「中の組」 、海岸線に沿って東西に列をなす範囲の「須ヶ崎組」という3つの組があ った(註 2) 。このうち、集落北側の山林のツバキ林は上の組が、福見岳周辺のツバキ林は、 中の組と須ヶ崎組が利用していた。ちなみに、上の組が利用するツバキ林郷有地は、久賀集 落のツバキ林郷有地と隣接し、両者の境界が錯綜していたため、権利関係が複雑であった。 76 ツバキ林の管理は、組単位で行っていた。まず、イモ植えが終わった 6 月ごろに、ツバキ 林のシタザラエを行った。これは、ツバキ実採取の際の通路を確保するための道払い程度の 除草である。この時期は、 テングサやオゴなど海草採 りの最盛期で、海が荒れた 上の組のツバキ 林 日などを見計らって、組単 位でシタザラエを行った。 蕨集落 その後、9 月 10 日過ぎく 福見岳 らいにクチアケとなる。ク チアケの日は、各組総出で 中の組、須ヶ崎組のツバキ 林 それぞれのツバキ林に入り、 木に登って一斉にツバキ実 久賀集落 を採取した。ツバキ実採取 の際には「ドンザ」と呼ば れる作業着を着用した。 クチアケで採取したツバ キ実は各戸毎に庭先に天日 干しし、各自の収穫量に応 じて個々人の収入となった。 管理されたツバキ林 天然林のツバキ樹 福江島へ 採取ルート 出荷ルート 蕨集落のツバキ実採取地と出荷先 クチアケは基本的に 1 日の みであるが、ツバキ実が 多いときは 2 日間行わ れることもあった。 クチアケが終わると バラシとなる。バラシの 上の組 後は、ツバキ林内で個人 でのツバキ実採取が可 須ヶ崎組 中の組 能となる。おおよそ 9 月一杯までツバキ実採 取を行った。 ツバキ実採取後の秋 にシタアライ(下草刈 り)を行って終了する。 蕨集落の組 ツバキ林以外にも、各々が所有する山でもツバキ実採取を行っていた。個人の山では、ク チアケやバラシの日に関係なく、個々人が自由に木に登って採取していた。 ツバキ林でのツバキ実採取のほか、畑の畦にツバキ樹を植えていた。分家した次男以降は 77 畑を開墾しなければならなかったが、北風が強く作物を保護する必要があったため、石垣の 保守と防風林を兼ねて、畑の北側にツバキを植えていた。ネンガラという堀棒で穴をあけ、 山林のツバキを根こそぎ掘って畑の北側に移植した。 おおよそ 3~4 年で成木になったという。 昭和 40 年代頃は集落背後の山はすべて畑地であったが、現在は耕作放棄地となり雑木が生い 茂っているため、ツバキ樹の防風林を見ることはできなくなった。 ツバキ実は福江に出荷して油に絞ってもらうほか、久賀集落に個人が経営する製油工場が あり、そこで絞ってもらうこともあった。 林業では、ツバキ実採取のほか、薪伐採も盛んであった。集落の有力者が山を買って、10 人くらいの人夫を雇って薪を集めていた。薪は出荷する際に港で中身をチェックする係員が おり、一定の長さのヒモで 1 締め 1 締め計測して出荷していた。もしツバキの木が薪に混じ っていると買い取ってもらえず、没収されたという。また、自家用の燃料としての薪拾いは 子供の仕事であったが、自分の山でのみ採取が可能で、郷有のツバキ林では薪採取はできな かった。 ツバキ油は食用や整髪に使うほか、ツバキの葉は米団子の下敷きとして使っていた。ツバ キ油が使えるのはおおよそ 2 年程度で、それ以上になると腐ってしまったという。 ②五輪集落 五輪集落は郷有林を持たなかっ た。そのため、ツバキ実の採取は、 集落周辺の個人所有の山や、大開 に抜ける道路沿いの天然のツバキ 樹をもっぱら利用していた。個人 所有地であるため、下草刈りなど の共同作業やクチアケなどのルー 集落周辺山林の天然ツバキ ルはなく、9 月頃実がなると個々 人で採取していた。 五輪集落 採取したツバキ実は福江に出荷 道路沿いの天然ツバキ して絞ってもらった。出荷の際に は、自分が採取したツバキに札を 付けて、各世帯で持ち寄って出荷 していた。自分の土地で取れるツ バキ実は少なく、5~6 升程度の実 を油にすると 1~2 升程度であっ 管理されたツバキ林 天然林のツバキ樹 福江島へ 採取ルート 出荷ルート 五輪集落のツバキ実採取地と出荷先 たため、自家消費用にしかならな かった。 78 かつてはツバキ油を髪に 塗ったり、けがをしたときに 傷に塗る薬代わりに使って いた。 ③大開集落 大開集落のツバキ林は、 長 浜にあった。ツバキ林は、集 落の郷有林であった。ツバキ 林管理は集落の共同作業で 行っていた。 まず 8 月頃にツバキ林の 久賀港 大開集落 草刈りを共同で行った。この 際、ツバキの枝払いやツバキ 樹の伐採は一切してはなら 長浜 管理されたツバキ林 天然林のツバキ樹 なかった。枝払い等をしなく ても、 ツバキ樹同士が適度な 福江島へ 採取ルート 出荷ルート 間隔で生えていたため、下草 大開集落のツバキ実採取地と出荷先 刈り程度でもツバキ実採取の作業に支障はなかった。 9 月上旬~中旬(9 月 10 日前後)にクチアケとなった。集落の構成員がツバキ林に入り、木 に登って共同でツバキ実を採取した。ツバキ実採取の際には、 「ドンザ」と呼ばれる作業着を 着用した。「チャンチャンコ」のような衣服であるが、綿が多く入っておらず、堅く厚く重ね た綿で織られているため非常に丈夫である。また、袖口を細く絞っており、採取したツバキ実 を袖に入れてもこぼれ落ちないようになっている。着用時は帯で腹部をしめるが、ゆったりと 余裕を持って着る。前合わせの内側から堅くて丸いものを当てがってヘソ(突起)をつくり、 ヘソの根元をヒモで縛る。ヘソは衣服のボタンのような役割を果たし、ツバキ実を胴回りに詰 めても前あわせからこぼれにくくするための工夫であった。あとは木に登ってツバキ実を採取 し、胸から実を入れ、胴回りや袖に袋のように貯めていく。袋を持って木に登るよりも、両手 が使える点で非常に効率的であった。若い人は高い木に登り、老人は低い木に登って採取した。 ドンザの隙間に詰め込んだツバキ実は、木から降りるとワラで作った「カマス」という容器に 入れ、これを背負って集落まで持ち帰った。採取したツバキ実は、作業に参加した集落の構成 員で平等に分配した。 クチアケは 1 日程度であり、その後は個々人で自由に採取して良かった。10 月頃まで採取 したが、採取後のツバキ林の下草刈りなどはしなかった。ツバキ実採取の際に地面を踏み固め るため、下草が余り生えていなかったからである。 79 ドンザ着用例 ■着用手順 ①襟口を頭にかぶり、腕を袖に通す。 ②帯を腰の位置に締める。 ③襟口を首の位置に戻す →胴回りがゆったりする。 ④前合わせの内側から堅くて丸いもの(今回はミカンを使用)を当て がって表にヘソ(突起)をつくり、ヘソの根元をヒモで縛る。 ※木に登って採取したツバキ実は、前合わせから腹回りに入れてい き、一杯になったら袖にも入れていく。 ■袖口拡大 採取したツバキ実は、腹回りだけで なく袖にも入れるため、袖口から漏 れ落ちないように絞っている。 ■ヘソ拡大 ツバキ実をドンザの中に入れて いった際、前合わせからこぼれな いための工夫。ヘソの位置は、ツ バキ実採取の上限ラインになる。 ツバキ実採取は、ツバキ林以外に個々人が所有する山林などでも採取していた。これもおお よそ 9 月~10 月頃であった。 採取したツバキ実は福江に出荷していた。5 トンくらいの運搬船が久賀に定期的に入ってき ていて、この船に運んでもらっていた。 80 ④久賀集落 久賀集落のツバキ林は、トウセト、折紙、徳女岳周辺に所在する。いずれも郷有林であり、 戦後から昭和 40 年くらいまで 折紙 集落共同で管理していた。 ツバキ実採取は 9 月末~10 月にかけて行うが、その前に 集落共同で下草刈りを行った。 下草刈りはツバキ実採取の際 の道路を確保するために行っ 海路 ていた。ただし、折紙のツバ キ林は、人家の近くで比較的 管理されていたため、ツバキ 徳女岳 実採取の際の簡単な草刈りで 久賀集落 事足りたので、事前の下草刈 りはやらなかった。 陸路 ツバキ実採取は、早期米の 管理されたツバキ林 稲刈りを 8 月中旬に終えて、 天然林のツバキ樹 農作業が一段落した 9 月末~ ト ウセト 10 月に行った。ツバキ実採取 久賀集落のツバキ実採取地 する日を決め、その日には集落共同でツバキ実採取を行った。トウセトや徳女岳のツバキ林 には徒歩で、折紙のツバキ林には久賀湾を船で渡って行った。ツバキ実は、ドンザを着用し、 木に登って採取した。採取したツバキ実はカマスに入れたが、トウセトの場合、片道 1 時間 以上カマスを背中に背負って徒歩で戻らなければならなかったため、カマス半分くらいで止 めていた。採取したツバキ実は、共同作業に参加した人で均等に分配した。 共同作業でのツバキ実採取は 1 日程度で、その後はバラシといってツバキ林内の実を自由 に採取して良かった。共同作業の時に成りの良い木をチェックしておき、バラシの後に仲間 を誘って取りに行っていた。なお、バラシの後であっても、久賀集落のツバキ林では久賀集 落の住民しかツバキ実を採取することはできなかった。また、ほかの集落が管理するツバキ 林では、バラシの後でも採取することはなかった。 ツバキ林の共同利用以外に、個人で所有する山では個人単位でのツバキ実採取も併行して 行われていた。 81 上五島方面へ 折紙 ツバキ樹伐採 →スギ植林 薪として奈留島へ 徳女岳 ツバキ樹伐採 →ヒノキ植林 久賀集落 集落内での搾油あり 久賀集落 ツバキ樹伐採 →雑木林 福江島へ 久賀集落のツバキ実出荷先 ト ウセト 久賀集落のツバキ林利用 (昭和40年代) ツバキ実にはいくつか種類があった。 「ヤマオロシ」は、ツバキ実は大きいが皮が厚く、種 は小さいため、油は少なかった。「ベニツバキ(ベニカタシ)」は、実の皮が薄く種が大きい ので油が多くとれた。また、ツバキ実の成りにはオモテドシとウラドシがあり、年により結 実する実の量に変動があった(註 3)。 採取したツバキ実は、福江に出荷するほか、上五島からも久賀湾まで船で乗り付けて買い 付けに来ていた。また、かつては集落内に精油所があり、そこにも出していた。久賀の精油 所ではマンリキで絞って搾油していたが、毎年 1 トンくらい絞っていた。ツバキ実の絞りか すは、肥料として畑に蒔くこともあった。 昭和 40 年代に、ツバキ実を取っても金にならなくなったため、折紙、トウセト、徳女岳の ツバキ林のツバキ樹をすべて伐採し、薪として奈留島に出荷した。奈留島は当時キビナ漁が 盛んで、茹で干ししてイリコに加工していたため、薪の需要が多かった。伐採した後のツバ キ林には、折紙にはスギを、徳女岳にはヒノキをそれぞれ植林したが、トウトセはそのまま 放置したため、現在は雑木林になっている。スギ・ヒノキの植林は、この時期全国的に奨励 されていて、将来必ず儲かると聞いていた。植林をやり出してからツバキ実採取が下火にな った。 ⑤猪之木集落 猪之木集落のツバキ林は、インオロシ(犬卸山のこと。ここでは地元の呼称に従う)と岩屋観 音にあった。いずれも集落の郷有林であった。 インオロシ、岩屋観音ともに、集落共同での管理は特にしていなかった。インオロシは集落 から谷を抜けて外海の釣場に向かうルートに当り、往来が頻繁にあったため下草は生えなかっ た。また、インオロシの浜には炭焼小屋があり、雑木で炭を作っていたので、結果としてツバ 82 キ林が管理されていたのかもしれ ない。 インオロシや岩屋観音のツバキ は、海風があたるため樹高が低か った。しかし、面積は比較的広く、 特にインオロシのツバキ林は、現 在残る亀河原のツバキ林の 3 倍く らいの広さであった。 ツバキ林でのツバキ実採取は、 インオロシ 個々人で勝手に行っていた。集落 猪之木集落 で日を決めて、共同で採取するこ 久賀港 岩屋観音 とはしなかった。また、ツバキ林 以外の個人の山でも個々人でツバ キ実を採取していた。ツバキ実は、 管理されたツバキ林 山に行けばいくらでも取ることが できた。それくらい自生したツバ キ樹が豊富であった。 天然林のツバキ樹 採取ルート 福江島へ 出荷ルート 猪之木集落のツバキ実採取地と出荷先 採取したツバキ実は、福江に出 荷していた。集落内でツバキ油を 絞ることはなかった。 絞ったツバキ油は食用として利 用するほか、髪に塗る整髪剤 としても使っていた。特に女性 はよく髪に塗っていた。 ⑥田ノ浦集落 田ノ浦集落のツバキ林は、カメ ゴウラ(亀河原)に所在する。当 初久賀島村の所有であったが、そ の後田ノ浦集落の郷有地となり、 亀河原 昭和 32 年以降個人所有となった という。郷有地の頃までは田ノ浦 田ノ浦集落 集落の住民が集団で管理していた。 管理されたツバキ林 特に亀河原のツバキ林は、優良樹 天然林のツバキ樹 を選定し、母樹から育てていた。 福江島へ また、戦前までは、畑の防風林と 採取ルート 出荷ルート 田ノ浦集落のツバキ実採取地と出荷先 83 してツバキを植樹していた。植樹は毎年 2 月に行っていた。ツバキ実の採取は 8 月~10 月に かけて行っていた。 (5)福江島におけるツバキ油搾油技術の一例 久賀島内で採取されたツバキ実は、その多くが福江島に出荷されていた。福江島には稼働中 の精油所が 2 箇所あるが、そのうち I 精油所は、現在でも昭和初期の玉締め機や濾過機を用い た昔ながらのツバキ油搾油を行っている。往時のツバキ油搾油技術の一端が伺えるため、以下 に紹介する。 ①建設地 製油所は県道に面して立地し、東側の緩やかな谷地に製油所の経営者を含む 2 家族 3 世帯が 居住している。周囲に建物は少なく水田や荒地が広がる。幹線道路から入る小道沿いに水路が 流れている。西方約 30m あたりの道沿いに薪や農具を保管する納屋があり、その裏山では椿を 植樹している。これは収穫と鑑賞(五島の椿を広く知らせるために)畑を転用して最近行われ ている植樹である。建物南側には薪保存専用の小屋がある。小道を奥には労働者の家屋があり、 周囲の小山の中腹には墓地が立地している。 県道からみた製油所・納屋、椿林 薪小屋 西側立面 小道奥の民家 墓地 南方の水田 I精 油 所 の 周 辺 環 境 ②経緯 製油所の建物は築 80 年以上(開業は T.14=1925 年、HP より)であり、移築されたものであ る。もともとは現在の県道沿いではなく、小道に沿い東の奥に入ったところに建っていた。 当時は奥浦湾の埋め立て以前であり、製油所付近まで海路で到達することができた。したが って福江島各地、さらには離島から海路によって、製油所まで収穫物が持ち込まれていたとい 84 う。県道が敷設されたのち、流通の便と、製油所の位置が分かりやすいようにとの考えから、 道路沿いの田を埋め立てて移築された。その際は解体した部材を馬の背に乗せて運搬したとい う。 建物内部は大きく 2 つに分かれている。北西側は、主に搾油を行う場所で、搾油が効率的に 行えるように各機材が配置されている。南東側は、現在は主に椿の実を保存する倉庫となって いるが、以前(S.50 年頃まで)は住居として利用していた。 倉庫(元住居部分) 搾油場 精油所の内部構成 ③建築者 当初建物の建設者は不明である。ただし以前は 5〜6 人の作業員が製油所で働いており、移 築の際には家族と作業員が相当の作業をしたという。 ④建物の内容 I精油所は、下五島に唯一残る手絞りの椿油の製油所である。五島列島には昔からヤブ椿が 多く自生し、食用の椿油が作られてきた。以前はほとんどの集落ごとに小さな製油所が存在し たが、現在は下五島にこのI製油所一軒だけとなっている。 個人で採取した椿実の持ち込みもある。また、椿油だけでなく、なたね油の搾油も行ってい る。 精油所と納屋 精油所外観 精油所外観 85 ⑤搾油方法 搾油方法は、搾油率が少なく高品質な油が抽出できる玉締式で行われている。 [搾油工程] 1)椿実を乾燥させる。 2)乾燥させた実の粉砕。 3)粉砕した実を蒸気で蒸す。 4)玉締め機に詰める。 5)圧縮して椿油を抽出。 6)搾った椿油をろ過。 7)容器に入れる。 元住居部分の造作 内観 炒り機(左)と蒸し器(右) エンジン 玉締め機 粉砕機(ツバキ用) 内部構成詳細(搾油施設) 86 各工程は手作業で行われ、使用される玉締機や濾過機などの機材は、昭和初期に購入された もので、当初のまま使い続けられている。機械の手入れは今日でも自身で行われている。動力 は建物内にあるエンジン(ディーゼル)でまかなわれ、水は山の湧水を使用している。機械導 入以前は圧縮などを足踏みで行っていた。 動力が必要な機材は、北側に配置されるエンジンと建物上部でベルトによって繋がっている。 現在は、2階(屋根裏)があり 1 階の天井を機材のベルトが貫通している状態であるが、以前 は 1 階の天井はなく天井高の高い一体空間であった。屋根裏には中央の階段を上り入ることが できる。 平成 13 年、保健所の指導により、天井が張られたほか網戸付きのサッシが取り付けられた。 同時期に柱などの塗装が行われた。 南側倉庫には、今日も床や敷居・鴨居などの造作が残り、元住居であった様子をとどめてい る。 1.エンジン 2.蒸し器 9. 1. 3.炒り機 4.玉締め機 4. 5.粉砕機 (椿用) 2. 倉庫(元住居部分) 5. 事務所 3. 6.粉砕機 (菜種用) 7.8.粉砕機 (滓用) 6. 9.濾過機 7. 8. I精油所平面図 87 屋根裏 搾油場 屋根裏 屋根裏 搾油場 倉庫(元住居部分) I精油所断面図 88 (6)他地域との比較 ①上五島地域との比較 久賀島を含む下五島地域と、同様にツバキ実 生産が盛んであった上五島地域を比較すると、 ツバキ樹の大きさに違いがある。久賀島や三井楽といった下五島地域では、樹齢が古い大ツバ キが各所に見られ、ツバキ林や防風林を形成するのに対し、上五島地域では老木がほとんど見 られないのである。 ツバキ樹は、 樹齢 40 年ほどでツバキ実の生産効率が下がることが知られている (三浦 1965)。 また、樹齢が重なり高木になると、木に登ってツバキ実を取るのが困難になる。上五島地域の 津和崎集落では、ツバキ樹を伐採していた事例を多く聞くことができた。また、同じく上五島 地域の米山集落や大曽集落では、伐採したツバキ材を薪として活用していた事例も確認できた。 ツバキは多くの油分を含んでいるため、火力が強いうえ火の粉や灰が少なく、その上火持ちが 良い材であった。おそらく、ツバキ実の生産効率が下がった個体の伐採や優良樹の植林などに より、成りの良いツバキ樹の数をコントロールし、さらには伐採したツバキ樹を薪として活用 するような、何らかの里山管理を行っていたものと推測される。一方、久賀島では戦後にツバ キ樹の伐採禁止条例が制定され、ツバキ樹自体が徹底して保護された。ツバキ実およびツバキ 樹の効率的な利用を追求した上五島地域と、ツバキ実生産とともにツバキ樹そのものの保護も 重視していた久賀島を含む下五島地域とは、極めて好対照をなしている。 もう 1 点、搾油方法にも違いがあった可能性がある。上五島地域の津和崎集落での聞き取り 調査では、粉末にしたツバキ実を水と煮て、油を溶出し掬い取る「溶出法」が、70 年ほど前 まで行われていたらしい。また、同じく上五島地域の米山集落では、粉砕して蒸したツバキ実 を、長さ 100cm、幅 40m 程度の 3 枚のマツ材に挟んで固定し、楔を打ち込んで絞る「楔圧搾法」 の事例を確認した。一方、久賀島の聞き取り調査では、粉砕して蒸したツバキを圧搾機やジャ ッキ状の工具で絞る圧搾法が一般的であった。米山集落の「楔圧搾法」は、久賀島と同じ圧搾 法の一種であるが、津和崎集落の溶出法は加熱して採油するもので、原理が全く異なっている。 採油方法が異なる要因には不明な点が多い。一般に、溶出法では油が褐色となり品質を害す るといわれるが(三浦 1965)、一方で作業自体が比較的簡単であるため、女性や子供でも採油 することができる(註 4) 。簡便で比較的古くから用いられたと推測される溶出法が、たまた ま島嶼である上五島地域で残っただけなのかもしれないが、あるいは、ツバキ樹の薪利用に端 的に表れた燃料資源の利用形態の差が、加熱による溶出法として顕在化した可能性も検討の余 地があるであろう。 ②伊豆大島との比較 伊豆大島は、久賀島と並んでツバキ実生産の一大産地である。 昭和 40 年代に伊豆大島でのツバキ実生産の取り組みを視察した久賀島住民への聞き取りに よれば、伊豆大島では落下したツバキ実を採取することや、ツバキ樹を伐採して薪や備長炭と して利用していたこと、搾油方法は非加熱で行っていたそうである。また、ツバキ林にツバキ 89 ※久賀島における大ツバキ分布図 90 実採取のためのモノレールが敷設されていたり、T 精油所という工場では、伊豆諸島のツバ キ実のほか中国産のツバキ実を取り寄せ、混合させて採油していたこと、また、毎年行われる ツバキ祭は 60 回を数え、地元の船会社が積極的に広報活動を行っているなど、ツバキ油が地 元の特産物との認識が住民に十分浸透し、産業としても成り立っている、との印象を持ったと いう。 久賀島との比較では、ツバキ実採取の方法及びツバキ樹の利用形態で大きな違いがあったこ とが分かる。すなわち、伊豆大島では落下した実を採取するのに対して、久賀島では落下する 前のツバキ実を木に登って採取する点、また伊豆大島ではツバキ樹を伐採して薪炭等に利用す るのに対して、久賀島ではツバキ樹の伐採を規制して畑の防風林等に利用する点が相違点であ る。 久賀島でツバキ油生産が産業として成り立っていたかどうかについては、住民への聞き取り では「おまけ感覚」という声が聞かれた。稲作・畑作や畜産などメインの生業があって、それ を補う程度の役割であったという。ツバキ実生産の最盛期であった昭和 20 年代の統計でも、 ツバキ実生産高が農家収入の 8%に過ぎなかったことは、このことを裏付ける(三浦 1965)。 伊豆大島と比較して、久賀島でのツバキ油生産は、生業に占める割合はそれほど高くなく、農 業や漁業をはじめとする他の生業と補完しながら成り立っていた。この点は、ツバキ油生産が 産業として成り立っていた伊豆大島と異なる久賀島の最大の特徴であろう。 (7)ツバキ林管理およびツバキ実生産の現状 ①ツバキ林管理とツバキ実採取の変貌 久賀島でのツバキ実生産は、昭和 40 年代以降急激に衰退した。衰退の原因を住民に聞くと、 ①菜種油など安価な他の食用油が島内に普及したことにより、ツバキ油の需要が減少したこと、 ②ツバキ樹が大きくなり、木登りでのツバキ実採取が困難になったこと、③早期米の導入によ り稲の収穫期とツバキ実採取期が重なるようになり、生業としての優先順位が高い稲作を優先 するようになったこと、④植林が盛んになったことを挙げる人が多い。これらの背景には、郷 有林の解体(個人所有化)や人口減少、少子高齢化といった社会構造の変化も関連している。 ツバキ実生産の衰退に伴って、ツバキ林自体の管理がおろそかになったため、現在では葛のツ タが絡んだ雑木林となり当時の面影はなくなってしまった。元々どこにツバキ林があったのか 分からなくなった事例もあるほどである。田ノ浦集落では、昭和 30 年代に郷有林が集落構成 員に分配され個人所有となったが、個人所有となった後は田畑として切り開いた人もいれば、 手入れを放棄してそのまま山にかえしてしまった人もいるという。 一方、近年では、化粧品業界を中心にツバキ油が注目されている。代表的な例では、某大手 化粧品メーカーが久賀島産のツバキ油をリンスに活用したり、ある企業でもオーガニック石け んの素材として利用している。このため、昭和 40 年代以前に 1kg400 円であったツバキ実の買 い取り価格が、近年は 800 円と 2 倍にまで高騰し、久賀島で再びツバキ実生産量が増加しつつ ある。 91 近年のツバキ実生産は、道路沿いの天然ツバキ樹や田畑の境界付近に植林したツバキ樹から 採取する点が特徴である。また、アクセスが容易な自分の山に、天然ツバキを移植して利用す る場合もある。ツバキ林の集団管理と活用を主軸に、畑の防風林や個人所有の山を個人で補助 的に活用する昭和中期のツバキ実生産から、ツバキ林の集団管理・活用が抜け落ち、個人によ る山林縁辺部のツバキ樹利用を主軸とする形態へとシフトしているのである(註 5)。これは、 山林縁辺部や田畑のツバキ樹の方が、ツバキ林内のツバキ樹に比べて実の成りが良好であるこ とや、軽トラックを使ったツバキ実採取が主体となったため、道路が整備されアクセスが容易 な場所のツバキ樹が好まれたことによる。一方で、ツバキ実採取の採取日が個々人の判断に左 右されるようになったこと(早い者勝ちになったこと)や、耕作放棄地が増加するなどしてツ 道路沿いの天然ツバキ樹 道路沿いの天然ツバキ樹 猪之木集落 現在のツバキ実採取箇所の一例 (猪之木集落) 畑の防風林の天然ツバキ樹 バキ樹の所有関係の認識が曖昧になったことにより、道路脇の個人所有のツバキ樹が何者かに 車を乗り付けられ、ツバキ実をまるごと採取されてしまう事例も起きている。 現在、ツバキ実は、久賀島内の JA もしくは福江島奥浦地区の I 精油所に出荷している。I 精油所ではツバキ重量の 23%が油になるのに対して、JA では 27%という。ツバキ実の種類に もよるが、目安として 4kg のツバキ実から 1kg のツバキ油が取れることになる。また、I 精油 所と JA では搾油のプロセスが異なるという。I 精油所では昭和初期の玉締め機を使い、昔な がらの搾油を行っていて、採油したツバキ油は 1 升 5000 円程度で販売されている。 92 ②ツバキを活用したまちおこし 昭和 28 年以降、旧久賀島村ではツバキを生かした村おこしを進めてきた。これは昭和の大 合併を目前に控え、久賀島が引き続き地域振興を図っていく上では観光振興しかないとの当時 の政策で、当時からツバキの島と名高かったことを利用し、島内のツバキを観光資源として活 用し観光振興、地域おこしを図ろうというものであった。かつてはミス椿を選んだり、つばき 音頭をつくって長浜で踊ったりした。これらの取り組みをメディアに流して PR していたとい う。このつくられた「つばき音頭」を下記のとおり紹介したい。 つばき音頭(その一) 一 ハァー日本一の久賀のつばき ヨイヨイ 島一面椿は咲いて コリャエ 潮の青さに潮の青さに チョイト映える ソラヨカ久賀は ヨカトコバイ ホラヨカ久賀は ヨカトコバイ(以下繰り返す) 二 つばき ハァーたらす黒髪椿油をつけて ヨイヨイ は え 恋の南風ふきや 匂いも高い コリャエ 娘十八 三 娘十八 花椿 ハァーパンヤガ岳に朝日が昇りゃ ヨイヨイ たすき姿の歌声はずみ コリャエ かたし 島の乙女は 島の乙女は 椿実となる 四 ハァー五島灘から吹きくる風に ヨイヨイ 赤い椿がホロリと落ちりゃ コリャエ 沖のかもめも 沖のかもめも 啼いている 五 ハァー長崎はなれて五十五海里 ヨイヨイ かたし 椿実豊かにそら五百石 コリャエ どんと積み出す どんと積み出す 宝船 つばき音頭(その二) 一 久賀よかとこ 椿の名所 四方見渡しゃ 花の山 ソレ ちょいと 一切 来なはれ 久賀島 合切 みな つばき ソラヨカ久賀は ヨカトコバイ ホラヨカ久賀は ヨカトコバイ(以下繰り返す) 二 秋のはじめの 頃ともなれば かたし うたう音頭で 椿実とり ちょいと 三 来なはれ ソレ 久賀島 娘島田は 濡羽の色か 93 香りゆかしい 髪油 ソレ ちょいと 来なはれ 久賀島 つばき音頭(その三) 一 ハァー 五島椿は久賀が本場 野にも山にも 野にも山にも みな椿 ほんにヨカヨカ 椿島 ヨイヨイ ほんにヨカヨカ 久賀島(以下繰り返す) 二 ハァー 日本一の久賀の椿 いとし香りを いとし香りを 人も知る 三 ハァー 送りませうよ 久賀の椿 可愛いあの娘の 可愛いあの娘の 黒髪に 昭和 29 年に制定された旧久賀村のツバキ樹保護条例も、ツバキを生かした観光振興策の一 つとして当時の町長主導でなされたものであった。 昭和 32 年の福江市との合併後も、それまで久賀島村で制定されていたツバキ樹保護条例を 「福江市椿樹及びしきみ樹保護条例」として引継ぎ、ツバキ油生産や活用の先進地事例として 福江市議会議員団が伊豆大島を視察し、その後ツバキ祭を開催するようになった。現在も続く ツバキ祭は、既に 16 回開催されている。 五島市となった平成 16 年にも、新たに「五島市椿樹及びしきみ樹保護条例」として移行し、 ツバキ樹保護政策の継続を掲げた。 【五島市椿樹及びしきみ樹保護条例】(平成 16 年8月1日条例第 181 号) (趣旨) 第1条 この条例は、久賀町、蕨町、猪之木町及び田ノ浦町の区域内の椿樹及びしきみ樹(以下「保護 樹」という。)の保護育成及び増殖について必要な事項を定めるものとする。 (伐採の禁止) 第2条 保護樹は、自然林又は人工造林のいかんにかかわらず、みだりに伐採してはならない。 (伐採の許可) 第3条 保護樹の改良、手入れその他やむを得ない理由により、これを伐採しようとするときは、市長 の許可を受けなければならない。 (罰則) 第4条 前2条の規定に違反した者は、科料に処する。 (委任) 第5条 この条例の施行に関し必要な事項は、規則で定める。 附 則 94 (施行期日) 1 この条例は、平成 16 年8月1日から施行する。 (経過措置) 2 この条例の施行の日(以下「施行日」という。)前に、福江市椿樹及びういきょう樹保護条例(昭和 32 年福江市条例第 52 号)(以下「合併前の条例」という。)の規定によりなされた処分、手続その他の行 為は、この条例の相当規定によりなされた処分、手続その他の行為とみなす。 3 施行日前にした行為に対する罰則の適用については、なお合併前の条例の例による。 また平成 20 年度には、「五島市つばき振興計画 ~日本一の椿の島づくり計画」を策定し、 五島市の地域資源「椿」を行かした地域振興プロジェクトとして、地域活性化へ取り組んでい こうと計画している。 「つばき振興計画」の基本方針として大きく 3 つの基本方針を立て、それぞれの方針に添っ て具体的振興方策(戦略)を掲げプロジェクトを始動させている。 民間レベルでの活動も盛んである。 「NPO五島の椿と自然を守る会」 「久賀島やぶつばき会」 「五島ギバロー会」「トンメ山下ヤブ椿会」などのツバキを愛する多くの市民団体によって、 ツバキの保護、育成及び商品開発研究等がなされている。 1 林地・原野への植栽推進 2 耕作放棄地への植栽推進 ① 植 栽 の 推 進 3 景観づくりのための計画的な植栽推進 4 苗木の育成・確保及び講習会 5 ツバキ林の育成と管理技術 1 多彩なイベントの開催及びPR ツバキに よる地域 振興 ② 観 光 へ の 活 用 2 体験メニューの開発・育成 3 観光コースの充実とガイドの育成 4 公園等基盤整備の充実 5 各種ツールによる情報発信 1 食用油としてのブランド化の推進 ③ 加 工 品 の 開 発 促 進 2 花や葉の新たな加工品の開発支援 3 搾油かすの利用促進 ※平成 21 年 3 月策定「五島市つばき振興計画」より抜粋 95 【脚注】 1.なお、ヒアリング対象の男性は、そのほとんどが働き盛りの 20~50 歳台頃に島外に出稼ぎに行っており、1970 年~ 1990 年頃の状況は曖昧な点が多いため、出稼ぎに出る以前の状況に絞ってヒアリングを行った。 2.蕨集落は昭和 47 年の大火でそのほとんどが焼失し、その後の再区画整理で水田を潰して県道を敷設するなどして集 落構造が大きく変貌した。現在は旧道沿いに一部古民家が残り、上の組、中の組のおおよその配置関係を知ることが できる。なお、組の所属は出自によって左右されており、例えば両親が上の組に所属し子供が須ヶ崎組の場所に居を 構えた場合、その子供は上の組に属したという。したがって、集落景観に現われた各組の配置はおおよその範囲であ り、特に昭和 47 年の大火以降の新興住宅地である須ヶ崎組には、各組の構成員が混在しているものと推測される。 3.ちなみに、平成 21 年は不作、平成 22 年は豊作であった。冬先のツバキの花の咲き具合で、おおよそその年の成り具 合が分かるという。 4.実際に、新上五島町では子どもたちの体験学習の一環として、溶出法によるツバキ油体験を実施している。 5.増加傾向にある耕作放棄地に、ツバキを植樹する取り組みも進められている。聞き取り調査によれば、これは景観上 の見た目をよくする取り組みの一環で、ツバキ実を積極的に利用する意図は今のところあまりないようである。 96 第 2 節 その他の生業 (1)農業 五島列島の農業は、小河川流域に沖積層が形成され水田となっているが、その周囲は玄武岩 台地での畑作が主体である。しかし、夏季の干天頻度が高く、土壌の重粘性と相まって乾燥の 被害が大きい。そのため、明治 12 年の記録によれば、五島列島全体での水田率は 21%で、米 の反当収量も県内の他地域に比べて低い。また、農産物価額でも甘藷・麦・大豆など畑作が中 心であり、この 3 種の作物による畑 2 年 3 作が広く行われていた(月川・立平編 1984)。 久賀島は、大正 7 年『久賀島村郷土誌』に「古来本村民ハ農業ヲ主トシ漁業ニ従事スルモノ ト雖唯漁期ニ及ヒテ兼業スルニ過キス」とあるとおり、総体として農業主体の島である。久賀 島では、湧水が豊富な地質環境に加えて傾斜が緩やかな地形環境と相まって、久賀湾側の谷筋 を中心に棚田群を形成し、五島列島の他の島には見られない景観となっている。以下、稲作と イモ作付について、昭和 55 年の民俗調査成果に基づいて概観する(立平 1981) 。 長崎県内における農業の概要(明治21年) 97 ①稲作 蕨集落と大開集落の例を参考に、早期米が導入される昭和 30 年頃以前の状況を復元的に記 述する。今回は 2 集落を取り上げたが、基本的に島全体が同一の稲作サイクルであった。 まず、4 月末にタネオロシをして 5~7 日間水につけた。 「タネオロシ」とは、納屋や玄関脇 の天井に種籾をつるしておいたものを下ろすことである。種籾は、5 升入りや 8 升入りの俵に してつるしておいた。水につけた種籾は、あらかじめ作られたノウトコ(苗床)に種播きをし た。ノウトコは、水田の一部の水を抜いて作ったものである。 田作りは、畝おこしをして田圃を柔らかく掻いたあと、「カシキ」と呼ばれる草を敷き込ん む作業をおこなった。カシキは田補の畦の草や畑の麦の草、山の木の葉などを集めたもので、 肥料の一種である。その他の自然物肥料としては、市小木集落では田ノ浦集落のキビナを腐敗 させたもの、蕨では奈留島のイワシを干して魚粉にしたものを使っていた。そのほかツボガイ やカツブセをいう貝殻をそのまま、あるいは粉末にして肥料にしていた。また、リンゴ貝とい う害虫を駆除する目的で、ツバキ実の絞りかすを水田に蒔くこともあったという。 田植えは 5 月半ばから 6 月中旬であった。5~6 軒が集まって、10 日程度ですませた。田植 えの日、一家の主人は、苗代田のそばのあぜ道に田の神様を祀った。2 本の草を束にして結び 神棚を作る。そこに昨年の刈上げの時に取っておいた稲穂を 10 本ほど供えた。この稲穂は、1 年間荒神様の棚に供えられていたものである。 稲の収穫は、それから 120 日を経て実が入るといわれており、9 月末に刈り入れを行った。 昔は上田で 1 反につき籾が 7~8 俵とれた。水田の等級は、上田が反当 10 俵、下田で 7 俵以下、 山田、深田と 4 等分していた。上田は久賀、大開、市小木に多かった。 昭和 30 年頃から早期米が導入され、昭和 40 年以降稲の早期栽培が広がった。昭和 40 年代 以前まで広く普及していた普通期栽培においては 6 月末に田植えを終了し、10 月が収穫期に なっていた。しかし、久賀島を含め西日本地域にとっての 10 月は台風の季節である。8 月中 には収穫が終わる早期栽培は、収穫期が台風シーズンより前になるため自然災害を回避できる 奈留島 イワシ魚粉 (肥料用) 久賀島 蕨集落 市小木集落 畑 に 蒔 か れ た サ ザ エ 殻 (田ノ浦集落) 田ノ浦集落 98 キビナ (水田肥料用) 自然肥料の供給関係 点が大きな利点である。また、収穫期がお盆 の時期となるため、島外に働きに出ている若 者を労働力として確保しやすい点、さらには、 かつて上田で 7~8 俵であった収量が早期米 では 8~10 俵と多い点でメリットが大きい。 一方、久賀島における早期栽培では、田植 えの終了時期が 6 月上旬となり、普通期栽培 と比較して約 3 週間から 1 ヶ月ほど田植えを 終了時期が早まるようになった。島内の各地 作 上 り 届 (久賀集落 H22.6.16) 区では、神社の年中行事として田植えの終了 後に「作上り届(さのぼりとどけ) 」という行事を行っている。これは、田植えが終了したこ とを神に報告する行事として位置づけられているが、実際の機能としては集落神社の草刈り、 かつ、集落の集会の場となっている。早期米の導入に伴う田植えの時期の変化により、作上り 届の時期も 6 月下旬から上旬へと変わっている(註 1)。このように、早期栽培の導入は、生 業と密着した年中行事に変化をもたらすこととなった。また、蕨集落では、8 月中旬~下旬の 稲刈りの時期がツバキ実の採取時期の準備と重なることとなり、ツバキ実生産が衰退する原因 の一つになったともいわれている。 ②イモ作付 大開集落では、イモを 1 町歩作付けしている所があった。1 町歩の作付けで 120~130 俵の イモが収穫できた。このうち、奈留島からの買い付けに 20~30 俵、福江からの買い付けに 80 ~90 俵出荷した。奈留島向けは食用、福江向けは芋焼酎の原料となった。残った 10 俵程度を 保存し、家族 8 人で 10~3 月までの半年分の食料とした。 また、イモの葉は乾燥して牛の飼料とし、ツルは皮をむいてオツケに入れたり、油で炒めて 食べた。平均して各家で 4 反以上の作付けがあった。イモ種は赤イモ(農林 5 号、2 号)が多 かったが、護国、ゲンキイモ(カンコロ用のシロイモ)も作っていた。カンコロはごく一般的 にどの家でも常食とした。 (2)漁業 久賀島の漁業については、大正 7 年『久賀島村郷土誌』によれば「村内田ノ浦郷ハ縣下屈指 ノキビナ漁場トシテ現ハレ近海ニハ鯣、鮪、鰤、鰹、魣、鰮ヲ産シ沿岸ニハ於胡、石花菜ノ収 穫多シ」とあり、田ノ浦周辺が良好な漁場であったことが記されている。また、漁網の類では、 鮪網2、鰮掛網 32、キビナ網 16 が記録されているが、キビナ以外は島外資本が入っており、 網代貸による運営が行われていたものと推測される。 上記の記録をふまえつつ、昭和 55 年に現地での民俗調査を行った立平 進によれば、 「久賀 島は必ずしも漁業の島とはなり得ていない」という(立平 1981)。これは、細石流のイカ漁に 99 従事する数人を除いて、漁業のみで生活してきた人が極めて少なく、ほとんどは農業を主とし て生活していたことによる。 ここでは、立平の調査成果に依りながら、田ノ浦集落で行われているキビナ漁と、蕨集落の イカ釣漁について記述する。 ① 田ノ浦のキビナ漁 田ノ浦のキビナ網は近世から行われていたようで、慶応年間に田ノ浦に 2 帖の網があったこ とを類推させる記録が残っている。明治時代には「庚午(明治 3 年)より申戊(明治 7 年)迄 五ヶ年季、キビナ網十四帖、税金七円」 (括弧内は筆者追記)で免許が下りた記録のとおり(内 海 1985)、キビナ網は占有漁業権を持った網元による経営に移った。明治 22 年の漁業法制定 により、翌 23 年には唐津の坂谷家が 10 年間の占有漁業権を得、明治 33 年には久賀の 15 人が 15 年間の占有漁業権をそれぞれ得ている。その後様々な変遷を経たが、田ノ浦はずっとキビ ナの網代であった。 田ノ浦のキビナ網は地形に即した地曳網であり、地元では目刺網と呼ばれている。漁期は 9 月から正月を挟んで 6 月までで、漁獲物は様々な用途に使われた。肥料として加工されたもの は固形のまま乾燥して広島、岡山方面に出荷した。瀬戸内海ではチヌの養殖のエサとして使わ れたという。10 月~11 月にかけては鮮魚として 市場へ出荷したが、大小の選別を要求され、鮮度 久賀島 の維持がなかなかうまくいかなかった。また、久 田ノ浦集落 賀島内の市小木集落では、キビナを田ノ浦集落か 市小木集落 水田の肥料 ら買い入れ、大きな瓶に入れて何日か放置して腐 らし、ひしゃくで汲んで水田に蒔き、速効性の肥 料として活用していた。 中国との貿易が盛んだった頃は、海から千両箱 瀬戸内方面へ(肥料・養殖エサ) 長崎方面へ(イリコ) を拾うように儲かったという。長崎の冨田屋にイ リコとして出荷していたが、油が回って赤くなっ 福江島 田ノ 浦集落のキ ビ ナの流通 たものでもトウマイブクロに詰めて出荷した。漁 キビナ漁の名残り (田ノ浦集落) 地引き網は巻き上げ機を設置して人力で陸に引き寄せた。現在は巻き上げ機の台座跡が残る。 100 が盛んな時期は、それぞれの家にカマが作られ、次から次に茹であげて、「土干し」といって 道端などに隙間のないほど干していたが、それでも間に合わず腐らせてしまうこともあったと いう。 ②蕨のイカ釣漁 蕨のイカ釣は棹による一本釣である。小型の木造船に乗り、蕨の地先から小島周辺で漁をし ていた。イカの最盛期には 30 人(30 隻)が漁に出ていたが、昭和 55 年には 10 人程度が行っ ていた。 漁期は 9 月~3 月頃まで、ミズイカ、スルメイカを対象とした。9 月頃に 1kg で 23 匹であっ たものが、11 月には 15 匹になり、正月には 8 匹、終了期の 3 月には 2 匹で 1kg になるという 具合に、初秋には小さなものが、徐々に成長していくのを捕獲するのであった。 イカ釣漁は満月を中心に行っており、月夜の頃は夕方から明け方まで、半月になれば夜半に は寄港していた。1 ヶ月に 22 日程度出漁していた。 漁具は、イカガタを使用した一本釣りである。全長 123cm、棹部は竹製、柄長 16cm で銅製、 アトヨマといって棹のあそびがついていた。全体に大変手の込んだもので、各自で工夫したも のを持っていた。みち糸の長さは漁場によって異なるが、12~18 ヒロ程度。棹は 1 本で、仕 掛けは他に 4 セット用意した。 イカはほとんどスルメイカとして家内で加工された。漁に出た翌日、イカの頭を開いて 2 日ほど素干しにした。生乾きになった状態で一升瓶を使ってヌベ(圧伸)たという。その後 5 日から 1 週間天日に干すとできあがりである。スルメイカは上品、中品、下品と品質に応じて 等級が付けられ、1 ヶ月に 10~30kg ほど月末にまとめて福江に出荷した。福江からは大阪や 神戸方面の問屋へ卸していたという。 ※ この章は、平成 20~21 年度の民俗調査担当・加藤久雄氏(長崎ウェスレアン大学)と建築調査担当・ 木方十根氏(鹿児島大学)、および平成 22 年度の民俗調査担当・山田 亨氏(ハワイ大学大学院)の 調査成果をもとに、昭和 55 年に立平進氏が行った民俗調査(立平 1981)を加味して、五島市が補足調 査を行い、追補のうえ再編集した。 【脚注】 1.ちなみに平成 22 年(2010 年)の作上り届は、6 月の第 2 週、第 3 週に行われ、調査員が参加した久賀地区における 作上り届は 6 月 16 日に開催された(蕨地区においては 6 月 12 日)。 101 第5章 民俗・習俗 第 1 節 年中行事 久賀島の年中行事は、正月行事が多く残っている点に特色がある。ここでは、昭和 55 年の 民俗調査成果に基づき、正月行事を中心に蕨集落と市小木集落の様相を述べる(立平 1981)。 (1)蕨集落 ①正月行事 歳末から新年の行事一覧を示す。なお、特に断りがない限り日付はすべて旧暦である。 ・ 12月20日~25日 大掃除(各戸毎) 墓掃除、宮掃除(氏神) ・ 12月25日頃から 正月のモノつくり(注連縄、幸木ほか) ・ 12月26日 正月飾り ・ 12月25日~27日 正月買物(福江へ) ・ 12月28日 モチ飾り(夕方満潮の時) ・ 12月29日~30日 正月料理つくり ・ 12月31日 ヒュウビキ(表開き) ・ 1月1日 ワカミンクミ(若水汲み) オシセトリ(若潮汲み) 正月のゼン(赤飯) 宮参り(氏神) 墓参り(先祖様参り) 親類まわり ・ 1月2日 船祝い(船霊様まつり) 田ノ神様、五輪様 墓参り(先祖様参り) 夢開き(初夢) ミチンオロシ ・ 1月3日 不浄日(行事は行われない) 1月5日 ・ 五日正月 松のあける日(一次明け) ・ 1月7日 七日正月 オンノメ焼(飾物を焼く) ・ 1月14日 松の内明け(二次明け) シリタタキタロベイ 年占 正月行事は 13 月 25 日頃からはじまる。いろいろな行事に先立って、各家では大掃除が行わ れるし、墓掃除や神社の掃除を行っている。これは、盆行事が旧暦 7 月 7 日の墓掃除から始ま るのと同じように、正月という晴れの日に向かって清めを行うことを意味している。 A.正月のモノつくり【12 月 25 日】 大掃除が終わった翌日から、注連縄やサイアン様など正月の飾物作りを始める。この飾物つ くりを行う人は一家の主人である。だいたい正月のモノつくりは、12 月 25 日から 26 日頃行 われ、その日に飾りつけられるところもあるが、大部分は 26 日以降につけられた。 正月のモノつくりの中で、特に注意を引くのが「サイアンサン」と呼ばれるものである。蕨 で聞くと、 「シャイアンサン」というようにも聞こえる。一般に「幸木(さいわいぎ) 」といわ れるものである。奈留島大串で「サヤドン」 、福江で「シャー木」 、同じ久賀島の市小木で「シ 102 ャワドン」と呼ばれるものは皆同じである。 蕨のサイアンサンは、松の木の幹を長さ一尋に切 り、皮をはいだものを玄関脇につるしていた。サイア ンの木は毎年取り替えるものではないが、家を新築し たり不幸のあった場合、歳末に作り替えることがあっ た。サイアンの木が玄関脇につるされている時、玄関 には入り方があって、ウレ(末)の方から先に入るこ とになっている。従って、モトが外へ向くことになる。 常時つるされているサイアンサンに歳末になるとお 飾りがされ、正月の魚類がかけられるわけである。 サイアンサン模式図 まず、サイアンサンの子と言われる 12 本の縄が つるされる。閏年は 13 本になる。その両脇にヘゴと 松の葉が付けられる。真ん中には、ハシ 2 本にダイダイが通され、コンブに巻かれてすわる。 さらに「カケイオ」というイワシの塩漬けを、ひとさげに 12 匹ずつ組んで対に下げた。他は 特別に決まったものはないが、イカ、ブリなどをサイアンサンの子と呼ばれる縄にいっぱいに 下げるのであった。 注連縄は 26 日のうちに 3 組作った。飾る場所は、神棚、玄関、床の間である。最近は、必 要に応じて器物に盛りつけることがあるという。 B.モチ搗き【12 月 28 日未明から】 旧暦 12 月 28 日頃にだいたい餅つきを行っているが、日選びをしている。山隣亡(三輪宝) は八方ふさがりといって避けたし、29 日は「苦餅」といって日が悪かった。12 月の三隣亡は、 午(うま)の日に当たっており、その日は火事が起こりやすい日といわれ、火を使うことに注 意した。これらの日には餅つきをしなかった。 また、28 日は一番鶏が鳴く午前 3 時頃から、別の言い方では申(さる)の刻からモチ搗き を始めたという。このように夜の明けないうちから始めるということは、1 軒で 1 俵も搗いて いたことによるといい、仕事の段取りのため夕方までにはすませたかったと言っていた。しか し、一方では、未明の頃から始めるということに、一種の儀礼的な意義が見いだされる可能性 もある。 ところで、旧暦の正月といえば、一番寒い時期である。そのころには朝搗いたモチが夕方に はもう堅くなりかけている状態で、鏡餅もすわりが良くなり、小モチは2段 3 段重ねにしてモ ロブタに片づけた。その後、甕などに水を入れ、「水モチ」にして 3 月頃まで食べたという。 C.モチ飾り【12 月 28 日夕方】 モチ飾りは、モチ搗きの日の夕方、満潮の時を見計らって行う。何事も「みつる(満願のこ と)」ようにという意味を込めて、満潮に行うという。一家の主婦が用意して、主人がすわら せる。鏡餅は、おすわりになるという表現をしている。 鏡餅は、 「カミ(神)さんのモチ」と俗称されている。二段重ねにして、上にダイダイを載 103 せ、上下のモチの間にヘゴ(ウラジロ)かミヤマザカキとコンブを挟む。それを三方や盆の上 に乗せて供える。それぞれの供物には、次のような言い方がある。例えば、ダイダイは家が代々 栄えるということ、ヘゴも家が栄える意味があるという。コンブは喜ぶといったように、掛詞 となっているものであった。これを床の間に据えるわけである。 モチ飾りは、鏡餅より他に小さな小餅を二段重ねにして、次のような場所に供える。 ・ 伊勢神宮 (中央) ・ 大国主命 (左側) 床の間に軸物がかかっていたり、あるいは神棚に御札が納められている。 ・ 豊国大明神 (右側) ・ 祇園様 ・ 金比羅様 ・ 先祖様 (仏壇) ・ 船霊さま (船) ・ 五輪様 ・ 田の神様 ・ 机や臼などの器物 伊勢神は国造りの神として中央に、大国主神は百姓の神といい、豊国大明神は豊臣秀吉を祀 ったものであり、それぞれを左右に配して神棚に一人一人餅飾りをする。 D.正月買物【12 月 25 日過ぎ】 12 月 25 日すぎから、何人かが寄って三丁艪仕立てで福江に買い出しに行った。女たちの正 月買いもんである。また、刺身やイリヤキにするブリは、細石流に大敷網があったのでそこま で男が行っていたという。 E.正月料理【12 月 29 日】 正月料理は、モチ搗き顔割って後、29 日頃から行う。特に正月用として目立つものを次に 示す。 ・ 煮染類:ゴボウ、コンニャク、ニンジン、アゲドウフ、ダイコン、サトイモ、ハス、コブ ほとんど食材は福江で仕入れたもので、それぞれを別に煮込まなければならなかったので、 時間がかかったという。十分煮染めておけば、寒の頃ではあるし長持ちした。 ・ ナマス 蕨のナマスには、生のキビナが入る。ダイコンとニンジンの酢和えにキビナが加わって、 地域料理の特色が出ているものである。 他は、キンナゴのイリヤキ、クジラの湯ビキ、カンテン、トロクスンという甘納豆、ソウメ ン、ウドンなどの類である。クジラは福江で買ったもの、カンテンはトコロテン草を 3~4 月 頃めいめいが採っておいたものである。ソウメン、ウドンはソバに代わるもので、蕨ではソバ を食べてなかったという。 E.ヒュービキ【12 月 31 日深夜】 104 この行事について、どのような見出し語を付けたらよいのかはっきりしないが、歳神を迎え る意味においてきわめて重要な行事であると思われる。 12 月 31 日、深夜 12 時をまわるかまわらないうちに、男の子が隣近所や親類の家の表戸を 開けてまわる行事である。これを「ヒュウビキ」といい、親は子供に「トバアケガイケヨ」と 言って送り出している。おそらく「表引き」のことを差し、表戸を開けて歳神様が入りやすい ように仕組んだものではないかと思われる。もう少し勘ぐれば、男の子が歳神に化身して訪れ る役にあたっているのではないかとも考えられる。男の子は、他家の表玄関に行き、戸を開け ながら「アケマシテオメデトウゴザイマス」と言ってくる。当家の人は誰が来たか確かめてお いて、正月 2 日にその子供に「ヒュウビキセン(銭) 」と言って祝儀をあげた。子供は多いと きは 20 軒もまわることがあったというから、重複することがあっても良いので、 「訪問神(お とない) 」としての歳神の性格を見ることができるのではなかろうか。この時、女の子は絶対 に家から出てはならなかった。 このヒュービキについては、具体的な形で「おとない神」の形態を見ることができるのであ るが、歳の夜に表戸を少し開けておく例は、五島列島のみならず周辺地域にかなり類例を見い だすことができる。 F.ワカミン汲み【1 月 1 日未明】 若水迎えのことである。子供の「ヒュウビキ」の声がかかった後、新年になってから一家の 主人が若水を汲みに行く。蕨では、若水を汲む場所が、ナカノカワとハイカラガワの 2 箇所で あった。両方とも湧水の出る地点に作られた小さな井戸である。これをカワと呼ぶ。 若水は、バケツに少し汲んで、家中の者が顔を洗う程度あればよかった。若水を汲みに行く 途中、他の人と会っても挨拶など全く話をしてはならないという禁忌がついているのは、五島 列島を含む西海地域で一般的な例である。 G.オシセとり【1 月 1 日未明】 若潮迎えのことである。 「オシセ」とは、初潮のことを「オシオ」ということからきている。 わざわざ「オシセミズ」と言い、それをになってくる桶を「オシセタゴ」と呼ぶ。オシセとり は、1 日の夜の明けない間に初めてくる満潮の時を見計らって浜に汲みに行く。若水汲みの後、 家中で一番の長老か、一家の主人が若水で身を清めてから行う。浜から初潮を汲んでくると、 かねてから用意してあった笹の葉を潮に浸し、その潮水で神棚や家中の神聖な場所、あるいは 家族のお払いをして清めた。 H.正月のゼン【1 月 1 日夜明け前】 正月の膳は、夜の明けない間の 5 時頃から 7 時頃にかけていただく。特に正月の三が日に食 する料理が出てくる。一つはセキハンで、もう一つはイワシの塩漬けであった。 セキハンは、糯米に小豆をまぜ蒸したもので、元日の朝、三が日分を 5 升作った。これを細 長く握り、1 つの神様に 1 個ずつ白紙に乗せて全部で 11 個、餅飾りをしたところに供えた。 他の地域で元日の朝、雑煮を食べるのと同じ意味であろうか。このような例は、五島列島や西 105 彼杵郡内など長崎県内に比較的多く見られるもので、 「モチなし正月」であった可能性を示し ている。 もう一つはイワシの塩漬けである。祝いものと言って、先に記した「サイアンサン」のカケ イオにしたものである。このイワシの塩漬けは、晩秋の頃奈留島から買ってきて、それぞれの 家で作った。生のまま塩をまぶして 3~4 日漬ける。それを取り上げてコモに塩をさらにまぶ し干す。こうしておくと、次の年の夏頃まで食べられたという。 このように、伝統的な食べ物が正月の膳には必ずついた。これを正月料理と一緒に夜の明け きらないうちに食べるのは、一種の正月儀礼であると考えられる。 I.墓参り【1 月 1 日と 2 日朝】 蕨では、初詣の後お墓参りをしている。元旦の朝、2 日と続けて参る。それは盆にお墓参り をするのと全く同じであった。 お盆には、旧暦 7 月 13 日に先祖様迎えをする。夕方、門ちょうちんを灯して先祖様が帰っ てくる道を照らすといい、14 日に精霊様の膳を据えて先祖をまつり、15 日には墓までお送り するというもので、盆まつりの期間中に 2 回お墓参りをしている。 五島列島では、この盆行事と全く対置できる正月行事の姿を見ることができる。歳の晩に歳 神様を迎えるため囲炉裏に大火を焚く例と、正月 7 日の「オンノメ」の行事は、とりもなおさ ず迎え火と送り火に対置できる最大の要素となる。さらにその上、正月の墓参りが行われてい たとする事実は、盆行事と正月行事の類似性を強調できる事例と言える。ただし、歳神様と先 祖様の神的存在形態の問題が今後に残された課題である。 J.船祝い【1 月 2 日】 船の神様である船霊様のおまつりを行うのが船祝いである。正月 2 日の夜明け前に、一家の 主人が浜に泊めてある自家の船まで行って 1 年間の航海安全を祈る神事で、御神酒と膳を供え る。すでに歳末には松飾りと餅が供えられているし、正月三が日には大漁旗や船名旗が飾られ て賑やかであった。特に新船を建造した家では、その時に旗や祝儀をもらった人々を招いて、 お祝いの膳を作った。 小型木造船や機械船にも、すべて船霊様が祀られていて、五島周辺海域では船霊様が海の天 候の具合を知らせてくれると信じられていた。これを「フナダマサンがイサム」というように 表現している。また、蕨ではフナダマサマは女の神様であるといい、気性の荒い神様であると いう。女性を漁船に乗せると天候が悪くなり、海が荒れると信じられていた。 K.ミチンオロシ【1 月 2 日】 まだ茅葺の屋根がたくさんあった頃のことで、新築したり屋根の葺き替えのあった家で行わ れた。ミチンオロシとは、茅葺の場合、軒先から棟まで葺きあがるため、道木を漬けてそこを 踏みながら作業をした足場のことで、その「道木をおろす」という意味であった。屋根普請は 秋頃に行われており、道木は仕事始めの 1 月 2 日に結んであった縄を外して、新年になってか ら仕事が終わったような形になる。前記した「船祝い」とほぼ同様の意味をもつもので、カセ 106 イにきてくれた人々を呼んで飲んだ。 L.夢開き【1 月 2 日】 初夢と言われているもので、その吉凶を占うことや 1 年間の夢見ということでもあった。そ れをどのように解くかというのが夢開きである。 夢開きでは、良い夢を見た時は言わないことにしており、悪い夢の時に他の人から夢解きを してもらった。例えば、サルの夢を見ると縁起が良くないというのは、サルは「ナキビシ(泣 きべそ) 」で顔相が悪いからという。ヘビの夢の場合、特にアオダイショウは縁起が良いとい う。ほか、いろいろと動物や植物に関する夢解きが数多くあったというが、全部は伝えていな い。 M.五日正月(1 月 5 日) 松のあける日といい、この日に歳神が帰ることになっている。それが五日正月として祝われ た。松の内の明け方には何種類か型式があるが、一次明け、二次明けの段階的な明け方が想像 される。 O.七日正月【1 月 7 日】 正月 7 日は、七日正月という行事がある。朝早くから神社に向かう道の側で「オンノメ焼」 をした。場所はミヤンミチと呼んでいるところである。子供たちが正月の飾り物のヘゴや注連 縄を持ち寄って焼いた。このオンノメ焼で餅を焼いて食べると、一年中達者(健康)に生活で きるといわれている。また、オンノメは天空を焼き焦がすように大火を焚くもので、一種の魔 払いの意味があるというし、この日鏡餅を持ち寄ってオンノメ火にかざしてススをつけ、また 家に持ち帰って飾るというのも興味を引かれる事例であった。 P.小正月【1 月 15 日】 正月行事と小正月の行事は、幾分違った受け取り方をされてきた。14 日の晩、再び大晦日 の再現をして、15 日に正月を迎えるという形態を取る。従来は、15 日に松の内が明けるとい うことで、五日正月、七日正月、十五日正月、あるいは二十日正月といわれてきたのであるが、 蕨では歳神様が五日に帰ると証言されていることにより、小正月行事の性格が正月行事に引き 続いたものとは必ずしも言えないような状況も考えられる。1 月 14 日の晩は、蕨では年占い、 シリタタキタロベイ、成木責めなどが行われていた。 ・ 年占い【1 月 14 日晩】 1 月 14 日の晩、一家の主人が煎った大豆を口に含み、ユルリに向かって大豆を吹きかけ る。さらにパリパリの木と、土地でいうボウでユルリをかき混ぜながら、1 年間の豊作を 占うものであった。その後、パリパリの木は 12 本の紙ヒモ(あるいは神のヒモ)で結ば れ、神棚に据えた。現在では何をどのように占ったのか占術の方法を聞くことはできなか ったが、焼罪とでも言おうか、苦労や災いを年の初めにことごとく焼いてしまおうという ものであった。この日に一年間の年占いを行ったのは、豊穣を願って予祝を行うのと表裏 一体をなしている。 107 ・ シリタタキタロベイ【1 月 14 日晩】 旧暦 1 月 14 日の晩は月夜である。蕨では、子供たちが「カッシャン(柏)の木」と呼ば れるボウを持って門々をまわりながら、未婚の女性の尻を打つ行事が、シリタタキタロベ イである。未婚の女性は、これに打たれるように、あるいは逃げ回ったりして夜遅くまで 騒いだという。この時の囃子詞が、「シリタタキタロベイ、ヨカコヲバモテ」と言いなが ら行うものであった。こうして、この 1 年間に良縁がありますように、あるいは結婚して よい子が生まれますように、という願いがこもっているということであった。 このカッシャンの木は、柏の皮をむいてグルグルと墨で渦巻文様を描いてあった。 ②その他の年中行事 正月行事以外の年中行事としては、次のような行事がある。特に断りがない限り、日付は旧 暦である。いずれも神々のまつりが恒常的に行われているもので、年中行事の主要な部分であ る。具体的な内容は信仰に関する要素が強いため、次項「信仰」で述べることにする。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 村祭 金比羅様 祇園様 弁天様 伊勢講 天神講 オジゾウ様 オダイシ様 エビス様 ホウニン様 ヘンドウサン 2月2日~3日(新暦3月2日~3日) 3月10日、6月10日、10月10日 6月15日 8月15日 1月11日、5月11日、9月11日 1月25日、5月25日、9月25日 毎月1日、17日 毎月21日、大祭3月21日 108 (2)市小木集落 ①正月行事 次に掲げる行事一覧表は、市小木集落において歳末から新年にかけて行われる正月行事であ る。必要に応じて後に解説を付した。 ・ 12月25日頃から 正月行事入り ・ 12月28日 モチ搗き 12月29日 ・ 正月のモノつくり (モロモ・シャワドン、門松ほか) モチあいさつ ・ 12月30日 家掃除 墓掃除 正月買物 正月料理つくり ・ 12月31日 モチ飾り(夕方満潮の時) 正月のモノ飾り ・ 1月1日 ワカミンクミ(若水汲み) カネムカエ(若木様迎え) 氏神参詣 正月料理 ノウライシキ(直会) ・ 1月2日 門寄り クワタテ ・ 1月7日 七日正月 飾物あけ 年占い(パリパリ) ・ 1月14日 ポッポラ(成木責め) 尻たたき ・ 1月16日 ヤブ入り(子守の里帰り) ・ 1月20日 二十日正月 A.モチ搗き【12 月 28 日】 12 月 27 日~28 日頃モチ搗きをした。29 日は「苦のモチは搗かん」といって日選びをして いる。糯米は 2 日も前から「ホトバカシ(浸すこと)」ていたという。市小木集落では、ひと 臼 3 升搗きで、10 臼以上も搗いた。その日は、朝まだ暗い 5 時前から搗き手を雇って搗いた。 一人搗きであるため、交代しながら搗いたといい、糯米がよく蒸れてきれいに搗きあがったも のを鏡餅にとった。 B.モチあいさつ【12 月 29 日、31 日】 表題のような決まった用語があるわけではないが、鏡餅ほどの大きな餅を持って、あいさつ に回る家がある。市小木集落では、本家とバッケ(分家)の関係がはっきりしていて、正月モ チを鏡餅よりやや小さく二段重ねにして、本家に届けた。本家では仏様の前にそれをおすわり させた。これは先祖様を同一にする一族の正月迎えの形式をとったものと思われる。 また、嫁にきた家から里に、ひと臼を二つに分けて、大きな二段重ねで持っていった。3 升 搗きのモチをひと臼全部持っていくことになっており、2 つにして持っていくと、里ではその うちの 1 つを返すことになっているという。これは歳の晩に持っていくことになっているが、 どうしても行けないような事情があれば、1 月 2 日にした。半分を持ち帰るという習慣につい てはいろいろなことが考えられるが、嫁と婚家との関係が微妙に反映されている事例である。 109 C.モチ飾り【12 月 31 日】 鏡餅は、お盆ほどもある大きさのものを二段重ねにして、上にダイダイを乗せ、下にヘゴを 敷いて三方や盆に白紙を敷いたものの上におすわりさせた。だいたい鏡餅は床の間に飾られ、 それを行うのは一家の主人であった。 そのほか、小さな鏡餅を二段重ねにして、次のような場所に据えた。神棚、床の間、荒神様 には 3 セットずつ、金庫、臼、クド、ツクエ、猿田彦神社(氏神) 、観音堂へそれぞれ 1 セッ トずつ供えた。床の間などは、大きな鏡餅と小さな鏡餅が二段重ねで 3 セット供えられ、モチ 飾りでいっぱいになった。これらのモチ飾りは、31 日の午前中、一家の主人が作っている。 D.モロモ【12 月 29 日頃】 正月のモノ作りの一つに、 「モロモ」と呼ばれるものがあ る。モロモとは、長さ 20cm ほどのシイの木のやや太めの幹 の両端を切断し、末を上に、本を下にして縦に 2 つに断ち 割ったもので、その間にヘゴ、ツンノハ(ユズリハ)を挟 み込み、上面から出して 2 箇所でその幹を縛り結んだもの である。これを 20 本ほど作った。 飾る場所は、荒神様 2 本、神棚 4 本、床の間 2 本、台所 モロモ (市小木) 2 本、井戸 2 本、猿田彦神社 2 本、観音堂 2 本、シャワン ドン 2 本と、モチを供えた場所と同じように供える。モチ搗きが終わってモノつくりをすると ころと、正月のモノつくりを先にするところもあるが、モノ飾りは 12 月 31 日の午前中に一家 の主人が行った。モロモを対にして供えるのは、おそらく男女のご神体を意味するものであろ う。 E.シャワンドン 市小木集落では、幸木がシャワンドン(殿)と呼ばれている。松の木の皮を剥いだ長さ 2m ほどのものを、玄関脇の中庭につるしていた。このシャワンドンには、ダイダイとモロモが必 ず正月様のしるしとして掛けられるほか、コブや正月用の魚などを掛けた。ブリ、スルメなど は「カケイオ」と呼ぶ。ブリはモチ搗き前に届けたといい、買ったときから塩漬けにしておい た。これを 2 本も 3 本も下げておいた。1 匹 7~8kg もするのであるが、田作りの時のさかな に使ったというほど日持ちした。そのほかダイコンなどを吊しておいたのは、正月料理に使う ためである。市小木集落では、吊すものは適当に扱ったということで、強い規制のあるもので はなかったが、不幸があったりすればシャワンドンは取り替えた。 F.ワカミンクミ【1 月 1 日未明】 1 月 1 日の行事は、夜のあけないうちに若水を汲みに行くことから始まる。ここでも呼称は ワカミン(若水)である。一家の主人がフウカブリをして、ニナイダルとヒシャクを担いで、 お供え物の米と塩を持っていった。途中で人に会っても決してものを言ってはならないという 禁忌がある。 110 市小木集落で若水を汲む場所は、4 箇所であった。いずれもカワという呼称がつく湧水点で ある。ウエンカワ、ムカシンノカワ、ワッタンカワ、シオンバンカワの 4 箇所である。若水を 汲んでくると、家中のものがそれで顔を洗った。 G.カネムカエ【1 月 1 日未明】 若水汲みが終わると、すぐ「カネムカエ」という行事がある。カネムカエとは、カナクソを ワラヅトに2包みずつこしらえて山へ行き、トウの木と呼ばれる木の枝を切って、その枝にカ ナクソのワラヅトをぶら下げて我が家に迎えるというものである。このカネムカエを行うのも 一家の主人である。それが終わると玄関の戸が開くといい、男の子が戸を開けた。 これを市小木集落では若木様迎えと言っており、ワカミンクミと関連のあるものなら若水で 清め、そこへ山から若木様に乗った金の神様が家々においでになるという形式が取られること になる。歳神様の性格がいくらかはっきりした姿でたどれる事例ではなかろうか。その後、床 の間で一家揃って正月料理の膳につくのであるが、ここでもまた、歳神様を迎えて直会の膳が 夜明けとともに行われている意義がはっきりするものであった。 H.ノウライシキ【1 月 1 日朝】 おそらく直会式のことを指すのであろうが、本家と分家や親しい間で正月客の行き来があっ た。紋付き袴姿で本家に集まるのが、朝 8 時~9 時頃。分家の主人が一人で行った。その後は 5 人ほどの組内でまわる順番などが決まっており、座を順繰りにかえて正月祝いを行った。こ の日は何も持たないでまわることになっていた。 I.門寄り【1 月 2 日】 特別に決まった呼称ではないが、1 月 2 日は正月の客呼びを行っている。夜の明けないうち から、子供か主婦を使いに立てて、 「オッがところにきてくれ」と正月客を呼びにやるのであ る。こうして一番早く呼ばれたところへ行くことになるという。元日のノウライシキが比較的 形式的なところがあるとすれば、2 日のそれは親しい者同士のつきあいということになろうか。 J.クワタテ【1 月 2 日】 正月 2 日は仕事始めの日である。夜が明けるかどうかという頃、一家の主人が畑に出て土を 掘り起こす仕草をする。そして、歳末につくっておいたモロモを 2 本持っていき、畑に据える のである。今年も豊作でありますようにと口の中で唱えながら、祈願する行事であった。 K.飾物あけ【1 月 7 日】 1 月 7 日は七日正月という。この日の夜遅く、「パリパリ」という行事を行う。パリパリと 音がするのは檜の葉であり、これは正月になってあらかじめ取っておいた。これをユルリにく べて大火を焚き、パリパリと音を出し、家内の悪いものを焼き払うものであった。 また、檜の葉の一部を紙で巻いて縛り、それに魚の尾を刺して荒神様に供えた。これは 1 年中飾っておくもので、次の年の 7 日に同じようにパリパリで焼くという。 また、この日は飾物を下げてオンノメヤキを行う日であり、松の内のあける日であった。家 の内でも大火を焚いて飾物の一部を家払いとして焼いたのは、正月行事の締めくくりでもあっ 111 たと思われる。 L.年占【1 月 7 日】 年占いの行事とともに行う行事である。一家の主人が、大豆を煎ったものを口に含んで噛み ながら、ユルリの火の火勢があがったところめがけて吐きかけるのである。これは 1 回 1 回唱 え事があって、例えば、 「1 年中ヒラクチに噛まれないように」とか、 「今年も豊作に恵まれま すように」、あるいは「家内安全」を念じながら行うものであった。 これらの行事は火を仲介して行われており、荒神様に供え物をすることや、荒神様と土地の 神様との結びつきが非常に強い地域であることなども考慮すると、一種の農耕神事に通じると 考えられる。 M.ポッポラ(成木責め) 【1 月 14~15 日】 1 月 15 日は十五日正月といわれるが、小正月の行事は 1 月 14 日に行われる。ポッポラとい うのはキャーハンの木とこの地で呼ばれている木を長さ 1 尺くらいに切ってきて、2 本を 1 対 で神棚に一晩据えるものであった。おそらく、木棒を対で神棚に据えるのは、それらが木偶と して男女の御神体を意味するものであり、1 月 14 日の晩は一種の神の夜と言えることになる。 な り き 翌日にはポッポラを神棚から下ろして、子供達が家の生木(成木)へ行って根元をたたく。 柿の木、梅の木、桃の木などの根元を、皮が剥げるまで「センナレ、マンナレ」と言って叩い た。これらの行事は、民俗学で一般に「成木(なりき)責め」と言っているもので、五島列島 一帯では「センナレ、マンナレ」とも言っている。これらは新年になって豊作を願う意味で行 う行事として、かなり広い地域で行われているものであり、予祝の行事として代表的なもので ある。 N.尻たたき【1 月 15 日晩】 小正月のもう一つの行事は、尻たたきである。15 日の晩、男の子たちがキャーハンの木で 未婚の女性の尻を叩いてまわるのである。 キャーハンの木は、長さ 90cm くらいに切ってきて皮をむき、白地になったところに墨で螺 旋を描いたものである。夜になると、これを持って辻々に出て、通りかかる娘さんの尻を叩い た。これは 15 日の昼に行われた「センナレ、マンナレ」と全く同じもののように考えられる。 木の根元を叩いて、あるいは娘さんの尻を叩いて、豊穣や安産を願うもので、ひいては良縁に 恵まれるようにということで叩かれに外に出て行くという、一種の約束めいた儀式であった。 直接的には、叩くという仕草によって、本来あるものを呼び覚ませるという動機付けが含まれ ているものと思われる。 O.子守の里帰り【1 月 16 日】 1 月 16 日には地獄のカマのフタが開くといい、地獄でも戸を開けて死んだもんを家に帰す と伝えることによって、子守などの奉公人を里家に帰した。市小木集落には、福江の崎山から 子守に何人も来ていたことがあった。10 歳から 15、16 歳頃までの子供であったという。これ を正月と盆の 16 日には里家に帰していた。給金は全くなかったが、正月には木綿の着物を作 112 ってやった。 ところで、久賀島の百姓・町人の娘は、江戸時代から明治時代まで、15 歳頃から 3 年間福 江島の士族の家に「デボウコウ」または「三年奉公」といって必ず出すしきたりになっていた という(瀬川 1937)。この事との関係は調査で明らかにできなかったが、崎山から子守が来る ようになったのは、何らかの関係がありそうな気がする。その子守も戦前にはなくなったとい う。 以上が正月行事のあらましである。二十日正月という言い方もあるが、正月行事のすべては、 一応 1 月 15 日で終わっている。 ②その他の行事 正月行事以外にも神々のまつりが恒常的に行われ、年中行事の全体に大きな影響を与えてい る部分も見られるので、市小木集落の祭日を記す。なお、日付は旧暦である。具体的な内容に ついては信仰の要素が強いため、次項「信仰」で述べる。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 村祭 金比羅様 八坂神社 観音講 大師講 男講 女講 9月7日 10月10日 6月14日 毎月17日 毎月21日 毎月10日、15日、17日、25日 毎月6日、16日、20日、23日 113 第 2 節 信仰 ここでは、年中行事と同様に昭和 55 年の民俗調査成果を参照しつつ、蕨集落と市小木集落 の状況を述べる(立平 1981)。また、久賀島におけるかくれキリシタン習俗についても触れた い。なお、日付は特に断りがない限り旧暦である。 (1)蕨集落 ①蕨神社 蕨集落の氏神で、 祭神は大国主命である。 蕨集落 2 月 2 日~3 日にかけて 例祭が行われ、これは 村祭を兼ねていた。 2 月 2 日には「丑の 刻さがり」と言い、午 前 2 時頃から「神」が 久賀島 おくだりになった。宮 ん道を通って、お旅所 まで御輿が渡御するの 例祭の神官 である。2 月 3 日は村中 をまわって、神社へお のぼりになった。当日 は蕨集落の各組から 1 田ノ浦集落 人ずつ 3 人の宮総代が 出て、まつり番をつと 神社のつながり① める。神官は田ノ浦神 社から来てもらったと いう。 特に注意を引くのは、 「丑の刻さがり」である。氏子は前日から神社に詰めなければならず、 前日祭としての宵宮の意味するところが示唆されている気がする。さらに、祭日は闇夜にあた っており、暗闇を介して神がおりますという形式をとっている。 ②金比羅様 金比羅様は、崇神天皇であると伝えられている。その関係は明かでないが、船を持った人た ちが、航海安全の神様として祀った。 祭日は 3 月 10 日、6 月 10 日、10 月 10 日である。これらが例祭になるが、この日を含めて 毎月 10 日には、「日ごもり」をジイサン、バアサンが行っていたという。 また、蕨集落にはコンピラ講が 3 組あった。村内の各組に 1 講ずつあったわけである。その 114 中でも須河崎組が最も熱心で、毎年 10 月 10 日前後に組内から 2~3 人が四国へ代参詣でをし ていたという。 ③祇園様 祭日は旧暦 6 月 15 日。祭神として素戔嗚尊を祀っていると伝える。祇園様信仰は、京都八 坂神社の旧名を祇園社といい、その民間祭祀として一般に普及したものである。また、別名を 牛頭天王にあて、牛馬の守護神として信仰されたため、普及した背景を持っている。 まつりの当日は、オバアサン達がボタモチなどを持ち寄って「日ごもり」をした。 ④弁天様 久賀港内の幸泊下に祀られており、祭日が旧暦 8 月 15 日である。当日、宮総代が御神酒、 魚を持って参詣した。 ⑤伊勢講 講組織は各組に 1 組ずつ、3 つの講があった。例会が毎月 11 日、祭日が 1 月 11 日、5 月 11 日、9 月 11 日であった。春頃、各組から 1 人ずつ伊勢神宮へ参詣する代参講の形をとってい た。久賀島内の 4 村は、それぞれに伊勢講を持ち、交代で代参を行っている。 ⑥天神講 蕨集落では、天神様が太宰府の神様のみを指すのではないと言われている。疫病神の性格を 持っているように語った。命日が 1 月 25 日、5 月 25 日、9 月 25 日である。この日は子供達が 集まって、宿を持ち回りで習字の練習などを行い、蕨神社に奉納した。その後、宿ではゼンザ イ、スシ、アマザケなどを作ってもらい、共同飲食があった。 ⑦お地蔵様 蕨集落には、「高麗なおり」と言い伝えられてきた地蔵様がある。久賀島の沖に高麗瀬と呼 ばれる暗礁があり、昔は島であったものが沈んだ場所と言い伝えられている。島が沈む前にそ こから持ち出されたのがこの地蔵であり、その後キリシタンが持ち伝えたという。 その地蔵様は、村はずれの観音堂の一角に移されている。砂岩質の石彫で頸部が妙に長い異 様な感じを受ける仏様である。光背と台座の高さ 75cm、仏様の立像 34cm である。 この地蔵様をお守りするのが地蔵講で、他地域の地蔵講とはかなり性格が異なっている。命 日が毎月 1 日と 17 日で、オバアサン達がおこもりをしている。 ⑧大師講 オダイシ様やコウボウ様と呼ばれている講で、毎月 17 日、21 日に「日ごもり」をした。墓 地の脇にある観音堂には、一角に先述した地蔵様が祀られているが、主体は女性の神様である 観音様とオダイシ様が祀られている。おこもりの日は重なっているが、コウボウ様の大祭が 3 月 21 日に行われていることから、観音様のおこもりが毎月 17 日、コウボウ様のおこもりが毎 月 21 日と推測される。この日は、村内のおばあさんや主婦が寄って御詠歌を唱えたり、一種 115 の憩いの場ともなった。 講組織については、信仰的なもののため金銭の持ち寄りで行われており、組織だったもので はなかった。 (2)市小木集落 ①猿田彦神社 市小木集落の氏神様である。祭日は旧暦 9 月 17 日で、この日は村祭を兼ねていた。この日 は、市小木集落在住の「ニイラドン」と呼ばれる民間神主が祭祀を司った。氏子は、注連縄を 取り替えて参詣する。神社には御輿が 1 台あって、1 年交替で御輿を出して家々を回った。 猿田彦神社 の御神体は「天 狗さん」と伝え られる。御神体 には、天狗の人 形がおかれてい るという。その 久賀島 天狗さんは、神 様の一番先走り であり、神様の 行列があるとき 先頭にひとにな 久賀集落 本宮意識 (田ノ浦神社) ニイラドン ぞらえられてい る。 村社意識 (折紙神社) 市小木集落 なお、市小 木集落では、村 社は本久賀の折 紙神社であると 田ノ浦集落 いう意識が残っ ており、初詣で など折紙神社に 神社のつながり② 詣ってから猿田 彦神社に詣るという人もいた。また、田ノ浦神社が本宮という人もいた。これは、市小木集落 のニイラドンの本家が田ノ浦神社の神官であったことによるものであろう。 ②ニイラドン ニイラドンと呼ばれる人は、神主を助けて神主の下にいる人をいう。市小木集落に K 氏とい うニイラドンが住んでいて、父親もニイラドンであったことから、世襲制のようにも考えられ 116 る。また、田ノ浦集落の神社には同姓の神官がおり、これを本宮と言っているのは、田ノ浦神 社の分かれであるとも考えられる。 神官とニイラドンは、はっきりとした違いがあったにもかかわらず、一般の人は神官までニ イラドンと呼ぶことがあったらしい。なお、ニイラドンの「ニイラ」の語源は明かでない。 ③講 市小木集落にはたくさんの講があった。特に、信仰のための講がいくつかあったが、実際は 親睦の役割を果たしているようにも見えた。 観音講は毎月 17 日の晩、14~15 人程の人々が「当前(とうまえ) 」と呼ばれる宿に集まる。 これは主婦組で行われた。 大師講は毎月 21 日の晩で、 「日なぐれ」といってバンバさん達が「当前」に集まった。 ほかに、昔は毎月 24 日に観音堂と呼ばれる地区のお堂におこもりし、線香やロウソクを灯 して念仏をあげていた。そして 10 人ほどが寝泊まりしたという。 また、男講や女講として別々に行われる集まりがあり、月のうち半分近くも講の集まりがあ ったりしたという。 (3)神社仏閣 ①田ノ浦神社 ・ 所在:福江市田ノ浦町 ・ 祭神:大己貴神、少彦名神、姫神 ・ 例祭:旧 1 月 15 日 ・ 由緒:創建年代は不詳であるが、宇久家の祈願社として創建され、医王権現宮と称して崇 敬され、領主から 1 石 4 斗 1 升 4 合の奉納があり、時の代官が奉幣使として参向するなど、 領主累代の崇敬厚い神社であった。特に江戸参勤から領主が往復する都度参詣し、海陸安 全の祈願神楽が奉納された。また、遣唐使が田ノ浦に入港した際、この宮において海上安 全祈願をしたといわれている。 ②鎮守神社 ・ 所在:福江市田ノ浦町字小浦 ・ 祭神:猿田彦神 ・ 例祭:旧 9 月 17 日 ・ 由緒:創建不詳。古くは明神権現と称していたが、明治 3(1870)年に鎮守神社と改称した。 古くは遣唐使の海上安全祈願社であったという。藩主より社領 1 斗 1 升 4 合を寄進され、 累代の崇敬厚かった神社である。 田浦港湾口に鎮座所である明神山があるが、ここの砂嘴は自然の防波堤となり、船舶を停 泊するには良港となっている。明神山はもともと独立島であったものを、遣唐使船の停泊 地として重要であったため、松を植えて祈願所として神社創建に至ったものである。 117 ③折紙神社 ・ 所在:五島市久賀町 ・ 祭神:天照大神、あめのこやねのかみ、ほ むだわけのかみ ・ 例祭:新暦 10 月 21 日 ・ 由緒:創建年代は明かでないが、慶長元 (1596)年、伊勢の国から天照大神の神璽で ある紙札を勧請したという。「折紙」は紙 符を意味するともいい、また、「降神」の 転化ともいう。古来より久賀島の総社で、 社領 2 石 6 斗 9 升 6 合を寄付されて、藩主累代の崇敬扱った神社である。 明治 24(1891)年、竹山田にあったものを本久賀に移転し、さらに明治 43(1910)年に現在 の境内に移った。神殿は熱田神宮と同型で、用材は尾張(愛知県)から搬入し、尾張の大工 が建築したもので、様式は熱田神宮の神殿そのものである。 ④天満神社 ・ 所在:福江市久賀町字久賀 ・ 祭神:菅原道真 ・ 例祭:旧 5 月 25 日 ・ 由緒:不詳であるが、境内の高麗犬に彫刻された文字によれば、 「寛政十年奉建」とある。 ⑤猿田彦神社 ・ 所在:福江市蕨町字蕨畑 ・ 祭神:猿田彦神 ・ 例祭:旧 9 月 17 日 ・ 由緒:不詳であるが、古くより霊験あらたかにして、修験業者の参籠が多かったという。 ⑥大開神社 ・ 所在:福江市久賀町字中島 ・ 祭神:久々能知神 ・ 例祭:旧 9 月 15 日 ・ 由緒:不詳であるが、古くは御坂様と称していた。慶応元(1865)年頃現在の場所に移り、 大開神社と改称した。 118 ⑦石神神社 ・ 所在:福江市猪之木町字宮ノ下 ・ 祭神:事代主神 ・ 例祭:旧 9 月 27 日 ・ 由緒:不詳であるが、古く漁民の大漁満足の祈願社として創建 され、 のち文政年間(1818~1829 年)から村民の氏神として崇敬 されてきた。 ⑧七社神社 ・ 所在:福江市猪之木町細石流 ・ 祭神:大山祗神 ・ 例祭:旧 9 月 25 日 ・ 由緒:不詳であるが、村人の大漁祈願社として創建された。昔 7 つの首が漂着したので、 それを祀ったという言い伝えが残る。 ⑨蕨神社 ・ 所在:福江市蕨町字牟田 ・ 祭神:事代主神 ・ 例祭:旧 2 月 15 日 ・ 由緒:不詳であるが、慶応年間(1865~1867 年)頃にはすでに社 殿があったという。藩主より社領 8 斗 2 升を献じられ、歴代藩 主はじめ村民の崇敬を集めて現在に至っている。 ⑩塩浜神社 ・ 所在:福江市久賀町字深浦 ・ 祭神:綿津見神 ・ 例祭:旧 9 月 2 日 ・ 由緒:創建不詳。漁民の大漁祈願社として創建 された。 119 ⑪禅海寺 ・ 所在:福江市久賀町 ・ 本尊:阿弥陀如来 ・ 宗派:曹洞宗 ・ 由緒:慶安 3(1650)年に大円寺九世普山 林周山和尚が創建した寺。宝暦 5(1755) 年の寺領は 12 石であった。伽藍天井絵 が有名で、広さ 10 畳分、80 枚にわたっ て描かれている。また、檀家は広く福江 島にも存在するが、要望を受けて昭和 63(1988)年に福江市松山町に布教所(分院)ができた。運営については禅海寺住職が兼任し ている。 (4)教会堂 ①浜脇教会 田ノ浦町に所在する。明治 14 年(1881) 、 久賀島で最初に教会建てられ、この時の教会 堂は現在五輪地区に移築されている。 現在の教会堂は、昭和 6 年に五島で最初の 鉄筋コンクリート造の教会堂として建築さ れた。 ②牢屋の窄殉教記念教会 明治元年(1868)に始まった五島崩れの発 端の地に建てられた教会堂である。敷地内に は記念聖堂のほか殉教記念碑も整備されて いる。 120 ③五輪教会 明治 14 年(1881)に浜脇教会堂として建てられた教会堂を、昭和 6 年(1931)に五輪地区へ移 築し、当地の信仰の拠り所とした。昭和 60 年、老朽化が甚だしくなったため、隣接して新し い教会堂を建築。これが現在の五輪教会堂である。 ④旧五輪教会堂 明治 14 年の建築で、元々浜脇地区に建てられた教会堂を移築したものである。現在は文化 財として五島市の所有になっている。 外観は和風でありながら内部は定法どおりの教会建築様式に仕上げている。明治初期の教会 建築史を物語る、土俗的建築様式を持つ貴重な建築物として、平成 11 年国の重要文化財の指 定を受けた。 旧五輪教会堂(左)と五輪教会(右) (5)かくれキリシタン習俗 ①歴史と現状 ルイス・デ・アルメイダが五島の島々へキリスト教の布教を開始したのは、永禄 9(1566)年 からである。その後、久賀島には大村藩からのかくれキリシタンの移住者が寛政年間に相次い だ記録がある。また、明治元年には政府によるキリシタン弾圧が起こり、火責め、水責め、算 木責めの拷問を受けた。特に、老若男女 200 名余りが収容された「牢屋の窄」には、わずか 6 坪の牢屋に押し込められ、飢えと苦痛のために死者が続出したという。8 ヶ月の入牢で死者 39 人、釈放直後に 3 人がなくなった悲惨な事件であった。 121 正面図 平面図 側面図 断面図 出典:「長崎県建造物復元記録図報告書」長崎県、1988 それでも、かくれキリシタンが昭和 35 年頃まで信仰を守り続けていたことが、平成 9 年の 調査で判明した。以下はその調査時の記録である。ただし、現在は信仰の継承は行われていな い。 ②組織 久賀島猪之木町の竹山と永里には、最盛期で 40 戸ほどがあったというが、その内の 20 戸が かくれキリシタンであったという。 役職については必ずしも明確でないが、4 人の人が集会を運営していたという。地元の人は 「ムニャムニャ」と呼ぶ集まりの日には、4 人の人が障子を閉め切って唱え事をしていた。赤 塗りの高お膳に、茶碗いっぱいの飯をついで供えていた。この場所は男性だけで、女性は決し て入れなかった。 ムニャムニャはオラショのことではないかと思われるが、その集まりは厳重に行われたため、 人に気づかれることはなかった。かくれキリシタンの一員で、この集まりの際、見張りをする 人が決まっていたという。 「牢屋の窄」のような明治初年の弾圧を経験し、それも後このような組織が存在したことに ついて、今までどうして人に言わなかったのか尋ねると、「隠すことが一つの目的であった」 と答えている。集まりが行われなくなって 38 年になるという。 ③信仰形態 この地の祭祀は神道祭と言い、竹山神社を設け、長く祭りが行われていた。竹山神社に石の 122 鳥居があり、社殿が設けられ、見たところでは他の神社と異なるところは全く見られなかった。 祭神はその名称は明かでなかったが、稲穂をもった木像であったという。台風の時に吹き出 されていたのを拾って中に納めた人がいて、その時に確認したという。 この地区の人々は葬式は神道で行っていたが、それは表面だけで、神職が帰るとすぐに注連 縄を切って自分らのやり方で葬式をした。しかし、神職はそのことを全く知らなかったはずだ という。 ところで、今日久賀島に住むかくれキリシタンの末裔の人々は、全く信仰を持たないという。 そして、かくれキリシタンとカトリックとは全然別のものであると言っていた。ある女性が亡 くなる際、「キリスト教で送ってくれ」と遺言されたが、この時のキリスト教はかくれキリシ タンのことであった。かくれキリシタンの信仰では、神社の鳥居をくぐってはいけないと言わ れていたので、神道祭も隠れ蓑ではなかったかという。 ④行事 行事については毎月何かが行われていたというが、キリシタンの行事と地元の一般の行事と の区別にはなかった。正月は元旦を祝い、2 日が船祝い(船霊様) 、3 日にかくれキリシタンの 集まりがあり、7 日には七草粥を炊いたという。2 月は初午を、3 月は節句、4 月は花見をした という。ただし、昔の話でよく思い出さないが、暦を読んで役職の人がその日を決めていたと いう。これが日繰りではなかったかと思われる。 久賀島の年中行事については、正月行事を中心にたいへん丁寧に念入りに行われている。ま た、村々に祀られる神々も多く、毎月の祭りを入れるとその数は相当なものになる。 実体は不明であるが、 久賀島全体では 1 月 3 日を不浄日として何もしない日になっているが、 かくれキリシタンはその日にお祭りをしていた。この点がかくれキリシタンと他の住民の行事 の違いとして認められた。 ⑤伝承・遺跡 A.折紙の鼻 キリシタンが五島に渡ってくる頃の事について、久賀島でわずかに伝えている事があった。 久賀島の入り口に折紙の鼻というところがある。そこは 30m もの断崖絶壁が海に入る瀬とな っているところで、海の難所でもある。 ここに、後から来る人に分かるようにと、折紙を目印として残した場所がある。それで地名 が残っているといい、キリシタンの五島への移住を物語る遺跡である。ここから飛瀬に渡って、 岐宿町へといったという。 B.竹山神社 遺跡としては竹山神社が完全な形で残っていたが、現在はなくなっている。竹山神社はかく れキリシタンの信仰形態を示すものであったが、昭和 38 年以降神社での祭りをしなくなった という。 123 祭祀を行っていた人々は「神社を捨てた」という表現をしている。もともとこの地は個人所 有地であったが、村に寄贈して神社を設けたという。氏子が金を出し合って神社を建てたので 共同のものという考えであったが、無断で境内の樹木を伐採する人がいてごたごたが続き、神 社を捨てたということである。戦後、イワシの豊漁が続き、茹で干しイリコにするために神社 の松林が伐採され、薪にされたという。また、炭坑の坑木のために伐採されたともいう。 ⑥その他 久賀島にかくれキリシタンが昭和 35 年まで伝承された事について、 「牢屋の窄」の事件が大 きく影響していたと考えられる。かつてのかくれキリシタンが、「隠すことが目的であった」 と証言していることは、そのことを十分物語っている。また、 「神道というのはかくれキリシ タンのことです」と明確に証言していた。自らをかくれキリシタンと呼ぶのは最近のことと思 われるが、その集まりを今日に至るまで捨てたことで、一定の距離を置いて考える事ができる ようになったものと考えられる。 124 第6章 久賀島の文化的景観としての価値 第 1 節 ツバキ林の分布と管理 (1)ヤブツバキの潜在植生 久賀島の山林の植生は、かつて田畑の開墾 や薪の伐採が進んだ影響で、二次林であるシ イ・カシ萌芽林が主体であり、一部スギ・ヒ ノキの植林が見られる。植生図を見る限りヤ ブツバキの密度は小さく、わずかに亀河原や 長浜の沿岸部に見られる程度である。 一方、平成 21 年に五島市農林課が実施した コドラード調査は、1 平方㎞あたり 10 箇所の 10m×10m の方形観測地点を 10 箇所設け、島内 のヤブツバキをカウントしたところ、推計で 折紙展望台付近のヤブツバキ 雑木を払ったところ、かなりの密度で自生していた。 811,580 本のヤブツバキが自生していることが分かった。自生密度では、五島列島の他の島 と比べて最も高い。ツバキ林が次々と放棄された昭和 40 年代以降、シイ・カシ萌芽林と化 す中でこれらの高木に覆われてしまったが、現在でも中低木としてかなりの密度で自生して いたのである。また、折紙展望台を設置する際に雑木を払ったところ、かなりの密度でヤブ ツバキが自生していたことは、聞き取り調査でも明らかになっている。 このように、久賀島の山林には潜在的に非常に多くのヤブツバキが自生しており、五島列 島の他の島嶼と比較しても特異な植生であることがうかがえる。 (2)ツバキ林の管理とその特徴 久賀島におけるツバキ林は、昭和 40 年頃まではいずれも集落の郷有林であり、蕨集落の 事例のように、ツバキ樹の伐採だけでなく薪そのものの採取も厳しく規制された、ツバキ実 採取専用の林であったと推測される。 ツバキ林では、9 月~10 月のツバキ実採取に先立って、ほとんどの集落で下草刈り(シタ ザラエ)を共同作業で行っていた。これは、林床内の下草をすべて刈りとるというよりも、 ツバキ実採取に際して、ツバキ林への進入経路を確保するための小規模な草刈りであった。 また、ツバキ実採取後に再度下草刈りを行う集落は蕨集落のみであり、他の集落ではツバキ 実採取時に地面が踏み固められて下草が生えなかったため、下草刈りは行わなかったという。 さらに、猪之木集落のインオロシや岩屋観音ように、郷有のツバキ林として認識されていな がら、下草刈りやツバキ実採取日の決定といった共同作業や決まり事が一切なかった集落も 存在し、久賀島におけるツバキ林管理を目的とした意図的な活動は、意外にも低調であった 印象を受ける。 125 ※平成 21 年度に五島市農林課が実施したツバキ分布調査成果を修正・加筆。 126 ここで注目したいのが、ツバ 折紙 キ林の分布状況である。いずれ の集落も、集落近辺のツバキ林 以外に、外海に面した谷沿いに ツバキ林を有している。久賀島 蕨集落 は分水嶺が外海寄りに偏ってお 福見岳 り、久賀湾に面した集落からは 遠距離であるうえ、ほとんどの インオロシ キ林までアクセスしなければな 徳女岳 亀河原 久賀集落 岩屋観音 らず、非常に苦労したとの話も 聞く。それにもかかわらず、外 五輪集落 猪之木集落 場合分水嶺を越えて徒歩でツバ 大開集落 田ノ浦集落 長浜 海に面した谷間のツバキ林を頻 管理されたツバキ林 繁に利用したのは、この場所の 天然林のツバキ樹 ト ウセト ツバキでなければならない理由 があったからである。 久賀島におけるツバキ実採取地 猪之木集落での聞き取り成果によれば、外海に面した郷有のツバキ林は、一様に樹高が低 かったという。五島列島は、冬場の北西の季節風が強く、秋には前線の影響で北東や南より の風が強く吹く地域であり、久賀島も例に漏れない。外海に面したツバキ林は、潮風に当た ることで樹高が抑制され、他の樹木の繁茂も限定されていた。久賀島でのツバキ実採取は、 木に登って採取する点が特徴の一つであるが、樹高が高いと作業がしにくく落下する危険も 伴うのに対し、樹高が低いツバキ樹はツバキ実採取に非常に有利である。また、季節風の影 響で他の樹木の繁茂が抑制されているため、年に一度集団でツバキ林に入って地面を踏みつ ける程度で、下草を押さえてツバキ林を維持することができた(註 2)。 つまり、久賀島では、ツバキ林を集団で意図的に管理して維持していたのではなく、むし ろ、島内に豊富に自生するツバキの中から、最小限の手間で維持管理が可能で、ツバキ実採 取に有利なツバキ樹が多い場所を、選択的にツバキ実採取地として利用していたことになる。 また、集団でツバキ林に入って反復的にツバキ実採取をおこなう行為そのものが、結果とし てツバキ林を維持することにつながっていた。ツバキ林の形成と維持管理は、久賀島の地形 と気象条件に基づく独特の植生を巧みに利用することによって成り立っていたのである。外 海に面した亀河原ツバキ林や長浜ツバキ林は、現在もツバキ林の面影を残しており、島民の 知恵の一端を知ることができる。 次に示す図は、久賀島におけるツバキ利用に関する景観構造イメージ図である。 127 128 第 2 節 ツバキ油生産とその特色 (1)ツバキ実採取とツバキ油生産 ①クチアケ・バラシ 久賀島における郷有林でのツバキ実採取は、採取日を決めて共同で採取し(クチアケ)、そ の後は集落の構成員が自由に採取して良い(バラシ)という暗黙のルールが存在した。このよ うなルールづくりは、資源管理を目的として、漁業や沿岸での採集活動(海草や貝類の採取) で行われることは多いが、陸上の植物を対象とした事例は極めて珍しい。明治時代以降、ツバ キ実採取が盛んであった五島列島全域を見渡しても、久賀島だけで確認することができる。 ②ツバキ実採取 ツバキ実採取は木に登って行っていたが、これは地面に落ちたツバキ実は虫に喰われて搾油 に適さないためであるという。木に登っての作業は常に落下の危険が伴う。そのため、「ドン ザ」と呼ばれるツバキ実採取専用の作業着を着用した。採集袋の役割を果たすこの作業着を着 用することで、木の上で両手を使って安全に作業ができただけでなく、一度の木登りで大量の ツバキ実を効率的に採取することができた。採取したツバキ実は、共同作業に参加した構成員 で均等に分配する場合(大開・久賀集落)もあれば、採取した量がそのまま個々人の収入にな る場合もある(蕨集落)。いずれにしても、このような共同作業や再分配を通して、集落の構 成員としての紐帯を強めていたことは、各集落に残る神社や祠にまつわる信仰行事の豊富さに も垣間見ることができる。 以上のようなツバキ林を中心としたツバキ実採取以外に、個人が所有する山林や共有地など でも随時ツバキ実を採取していた。つまり、ツバキ林での共同採取と、個人所有地での個人採 取とが重層的な関係をなしていたのである。これに対して、郷有のツバキ林を持たず、個人レ ベルでの採取に終始した集落もあった。五輪集落に代表される、18~19 世紀の移住民によっ て形成された集落である。これらの集落では、バラシの後であっても他の集落の郷有ツバキ林 での採取ができず、集落近辺の山中や、隣接する集落に抜ける道路沿いのツバキ実を採取して いた。歴史的な背景の違いがツバキ実利用に反映された例であり、ツバキ林と個人所有地の両 方のツバキ実を採取する利用形態とともに、久賀島におけるツバキ利用の特徴の一類型である。 ③ツバキ実の出荷・加工 採取したツバキ実は、福江島を中心に上五島地域にも出荷した。外海に面した集落は、個々 の集落の港から出荷したが、久賀湾に面した集落は久賀集落の港から船で出荷していた。また、 久賀集落には個人が経営する搾油工場があり、地元の集落だけでなく、大開集落や蕨集落から ツバキ実を集めて搾油していた。このように、久賀集落は久賀島の政治・経済の拠点であった だけでなく、ツバキ実をめぐる物流の拠点でもあった。 搾油は圧搾法が用いられた。よく乾燥したツバキ実を粉砕し、袋に入れて蒸した後、ジャッ キ状またはマンリキと呼ぶ工具で油を絞った。おおよそツバキ実重量の 1/4 が油になったとい う。ツバキ油は自家用で、食用油として用いるほか、女性を中心に髪に塗ったり、けがをした 129 際の塗り薬としても活用された。 このように、ツバキ実採取か ら加工に至るプロセスは、クチ アケなどの独自のルールや専用 蕨集落 の作業着であるドンザの存在な ど、久賀島独特の様相を示すも のである。また、各工程を通し て集落内での共同作業や集落同 猪之木集落 士の連携が伴う過程でもあった。 これらの過程を通じて、集落内 集落内に搾油工場あり 部および集落間の紐帯が強めら れたことは容易に想像できる。 五輪集落 久賀集落 大開集落 田ノ浦集落 このようなつながりの強さは、 各集落内での信仰行事の豊富さ や、複数の集落が共同で行う神 福江島への流れ 社の例祭などに反映されている。 久賀集落への流れ 久賀島のツバキ実出荷先 (2)集落との関係 ①土地利用に見る集落の特徴 第 3 章では、久賀島の集落を土地利用の特徴から大きく 3 つに分類した。 A.久賀湾に面した集落 →傾斜が緩やかで河川を利用した広い棚田群が特徴 B.外海に面した集落 →急傾斜地で沿岸部の集落と傾斜地の段々畑が特徴 C.久賀湾と外海の両者の特徴を併せ持つ集落 →集落は外海に立地するが、耕作地は久賀湾沿岸にある点が特徴 これらは、集落立地と耕作地の関係から分類したものである。この中で特徴的なのは、久賀 湾と外海の特徴を併せ持つ集落である。これに該当する蕨集落は、一見すると漁村に特徴的な 集村形態をとり、実際に漁業や物流にも関わっているが、同時に周囲に耕作地が展開しており、 特に尾根を挟んだ内幸泊には、久賀湾に面した広大な棚田を有している。いわば、外海と内湾 (久賀湾)の資源を利用する生業形態が、土地利用に反映されているとみることができる。こ のように、尾根を越えて内湾(久賀湾)と外海の資源を利用する生業形態は、久賀湾に面した 集落でも確認できる。 130 ②ツバキ実採取にみる集落の資源利用 久賀湾に面した大開集落、猪之木集落は、湧水を起源とする大開川、猪之木川が集落中央を 流れ、下流域を中心に傾斜の緩やかな棚田を形成している。生業の中心は稲作であるが、9 月 ~10 月にかけてはツバキ実採取を行う。両集落のツバキ林は外海に面した郷有林で、集落か らは山の稜線を越えてアクセスしている。 猪之木川流域の水田(左)と大開川流域の棚田(右) 一方、同じく久賀湾に面した久 賀集落は、干拓以前は港を有し、 久賀湾を利用した物流の拠点で あった。また、久賀集落では折紙 魚・交易物資 やトウセトなど、外海に面したツ バキ林でのツバキ実採取を行っ 農作物 ていた。 ツバキ このように、久賀島における資 源利用は、内湾と外海という異な った環境にある特徴的な資源を 猪之木集落 利用する点が特徴である。立地環 農作物 交易物資 境の違いにより異なった土地利 農作物 大開集落 用を見せる集落も、資源利用の観 農作物 市小木集落 肥料 点からは集落内の資源のみなら ツバキ ず、集落外の環境が異なる資源も ツバキ ツバキ林 田ノ浦集落 棚田 港 巧みに利用する点で共通してい る。 久賀島を含めた五島列島周辺 では、小値賀島の浦集落と在集落 外海と内湾の資源利用状況 の関係のように、沿岸部の海産物 131 と内陸部の農産物をめぐる集落相互の互恵関係が確認できる。このような関係は、田ノ浦集落 と市小木集落のように久賀島でも認められるが、久賀島の最大の特徴は、外海の資源としてツ バキ実を選択し、さらに内湾の集落がツバキ実を直接採取に出かけている点にある。これによ り、結果として各集落の資源利用の領域が広域に渡ることとなり、久賀集落に至っては久賀島 の北端から南端までを活動領域としているのである。このように、ツバキ林は外海に面した環 境に特徴的な資源として活用されており、特に内湾に面した集落での資源利用を特徴づける重 要な要素となっている。 (3)他の生業との関係 ①生業暦の比較 資源利用の項で述べたとおり、久賀島のツバキ実採取は他の生業との複合的に経営されてい る点が特色である。この特色の一端を示すため、生業暦の比較を行う。 集落別ツバキ実採取時期 8月 9月 蕨集落 10月 9/10クチアケ 五輪集落 大開集落 9/10クチアケ 久賀集落 9月末クチアケ 猪之木集落 田ノ浦集落 ツバキ実採取期間 生業暦の比較(蕨集落・久賀集落) 5月 6月 7月 8月 9月 10月 ★イモ植え 農業 ★収穫 普通米 ★田植え 蕨 集 落 11月 ★稲刈り 早期米 ★田植え ★稲刈り 漁業 テングサ・オゴ ツバキ ★シタアライ 6月 5月 久 農業 賀 集 落 ツバキ ★クチアケ 7月 8月 9月 10月 ★イモ植え 11月 ★収穫 早期米 ★田植え ★稲刈り ★シタ アライ ★クチアケ ツバキ実採取期間 132 ツバキ実採取時期、特にクチアケの時期を集落毎に比較すると、9 月上旬から 9 月末までば らつきがあることが分かる。一番早い田ノ浦集落では 8 月から採取し始めるが、一般には 9 月 10 日前後にクチアケとなる集落が多い。ただ、久賀集落については 9 月末がクチアケとな っており、最も遅い。採取期間は、おおよそ 9 月末から 10 月一杯までとなっている(註 3)。 9 月 10 日前後にクチアケとなる蕨集落と、9 月末がクチアケとなる久賀集落の生業暦は、別 表の通りである。 蕨集落では、6 月頃イモ植えが終わって田植えまでの間にシタアライを実施していた。この 時期はテングサ・オゴの採集が最盛期となるが、海が時化た日を見計らってシタアライの行っ ていたという。また、昭和 30 年代まで普通米を栽培していたが、5 月半ばから 6 月中旬にか けて田植えを行い、9 月末に稲刈りを行っていた。ツバキ実採取は 9 月 10 日頃クチアケでそ の後バラシとなり、稲刈りまでの 9 月一杯採取した。 ところが、昭和 40 年ごろから早期米が定着すると、田植えが 6 月上旬には終了し、8 月中 旬から下旬から稲刈りが始まるようになったため、クチアケの時期が稲刈りの最盛期と重なり、 ツバキ実採取が衰退したという。 一方、久賀集落では、昭和 30 年代からすでに早期米が導入されていた。8 月末の稲刈り終 了後、9 月上旬にはシタアライを行い、9 月末がクチアケ・バラシとなり、10 月一杯までツバ キ実採取を行った。 いずれの集落も、ツバキ実採集時期が他の生業に左右されていた点を指摘することができる。 特に稲作の農繁期を避け、稲作とツバキ実採取が両立できるスケジュールとなっていた。一方、 早期米の導入に伴って稲刈りとクチアケの時期が重なり、最終的に稲刈りを優先した蕨集落の 事例からは、ツバキ利用の優先順位が稲作に比べて相対的に低かったことを読みとることがで きる。 ②生業間の結びつき 生業間のつながりを示す事例として、田畑の肥料があげられる。ツバキ油の絞りかすは、畑 の肥料として活用されるほか、田んぼの害虫駆除に使われた。また、かつて田ノ浦集落で取れ たキビナは、肥料として市小木集落の水田に蒔かれていた。蕨集落では、水田の肥料として奈 留島からイワシ魚粉を購入していたという。このように、農業、漁業、林業(ツバキ)が密接 に関連し合って成立していた点が久賀島における生業の特色である。 集落との関連では、市小木集落と田ノ浦集落の関係は、沿岸部と内陸部の互恵関係を示す好 例である。また、蕨集落にみた久賀島外との交流は、神社の神官の往来など無形の要素にも反 映されているほか、五輪集落における農繁期の労働移入(奈留島)や田ノ浦集落における福江 島との結びつきにも垣間見ることができ、外海に面した集落の共通した特性であったと考えら れる。同時に、活動領域の広域性という点では、内湾に面した集落と共通した特徴を併せ持っ ていたと言えよう。 133 (4)ツバキ実採取の衰退と現在 ①ツバキ実採取衰退の要因 ツバキ林でのツバキ実採取は、昭和 40 年代から衰退に向かったことは各集落共通している が、衰退の原因については個々の集落で事情が異なるようである。これは、ツバキ実利用や他 の生業との関係が、集落によって微妙に異なっていることを反映している。 蕨集落の場合、早期米の導入が衰退の原因になったことは先述したとおりである。早期米栽 培とツバキ実採取を両立させていた久賀集落の場合、植林を始めたことが衰退の原因であると いう。久賀集落は、昭和 40 年代に、それまで利用してきたツバキ林をすべて伐採し、伐採後 のツバキ林にスギやヒノキを植林したという。昭和 40 年代は全国的に植林がブームになった 時期であり、山への働きかけが変化したことがツバキ利用の衰退の一因となった。大開集落の 場合、高齢化が最大の原因であったという。高齢化により、ツバキ林までの移動や木登りなど が困難になり、ツバキの利用が激減した。実際には原因は一つではなく、これらの要因が複雑 に絡んでツバキ林利用がおろそかになったのであろう。 ②ツバキ活用の動き 久賀島では、古くからツバキを保護し活用する試みが官民双方から行われてきた。昭和 29 年に制定された旧久賀島村によるツバキ保護条例は、福江市との合併を控えた旧久賀島村が生 き残りをかけたツバキの保護活用政策の一環であった。昭和 40 年以降の産業構造や社会構造 の変化に伴って、久賀集落でのツバキ林伐採とスギ・ヒノキ植林の事例のように、実効性が薄 れ形骸化した観も否めないが、現在の島民はヤブツバキを保護する意識が高く、平成 16 年の 五島市合併の際に「椿樹及びしきみ樹保護条例」を制定したことで、その想いは確実に引き継 がれている。 現在、ツバキ油は化粧品業界で注目され、ツバキ実買い取り価格も高騰している。これに伴 ってツバキ実採取が個人レベルで活発になっているが、沿道沿いや畑の防風林、個人所有の山 林での採取が中心であり、かつてのツバキ林は利用されていない。また、ツバキ実採取時期が 競合し、未熟なツバキ実を採取する事例や、民有地のツバキ実を他人が採取する事例も聞かれ る。ツバキ実採取に関するかつてのルールが見直されるべき段階にあると言えよう。 活用面では、亀河原ツバキ林を借上げて、島内の子どもを対象にツバキ実採取体験を行って いる「久賀島やぶつばき会」など、民間レベルでの取り組みも進んできている。恒例の五島椿 まつりはこれまで 16 回を数える。また、2005 年 2 月には「第 15 回全国椿サミット五島大会」 が開催され、体験講座などの各種行事が行われた。これを契機に、五島市は平成 21 年 3 月に 「ツバキ振興計画」を策定し、遊休地や街路への植林の推進や観光での活用、ツバキ油加工品 の商品開発などを政策として掲げ、五島市振興政策の一つに位置づけた。平成 21 年に五島市 椿園、五島鬼岳樹木園、鐙瀬ビジターセンターが国際椿協会から国際優秀椿園の認定を受けた ことは、これらの取り組みが国際的にも注目されつつあることを印象づけるとともに、今後の 取り組みの弾みになる出来事であった。ただ、現状では計画策定が中心であり、本格的なヤブ 134 ツバキの保護と活用はこれからの課題となっている。 第 3 節 文化的景観としての価値 (1)自然環境に対し、人々が営む生業の影響を与えることにより、形成された自然的空間の 価値。 久賀島では、ツバキ油生産を維持・向上させていくため、ヤブツバキを大事に保護して きた。このため、久賀島の植生状況を概観すると、他の樹種に比較してヤブツバキの自 生が優勢となっており、ヤブツバキ原始林(一部は県指定天然記念物として保護されている) やツバキ林が島内各所に確認され、久賀島の森林域におけるヤブツバキの自生密度は下五島 の他地域よりも密度が濃い結果となっている。 このように久賀島における自然的空間(主に植生)は、ツバキ実の採種及びツバキ油の生 産を発展させていく上で、ヤブツバキ樹を保護するという人為的な影響を与え続けられたこ とにより形成されてきた文化的景観である。 (2)離島という特殊な環境の中で、特異な地形を利用し、築きあげてきた生業的空間の価値。 馬蹄形の地形という地形的影響下のもと、島の中央部の久賀湾に中小河川が流れ込み、他 の五島列島の島々と比較して水系が発達している。このため、久賀湾を囲む地形は湾に流れ 込む中小河川の影響により浸食され、下流域には浸食作用の結果形成された極小規模の沖積 地が点在する。 久賀島の人々は生業を営む上で、この沖積地を水田地帯へと変容させ、急峻な山々から流 れ出る豊富な水量を利用し、山腹まで水田耕作地を広げてきた。久賀湾を囲む一帯には、五 島列島には珍しく棚田群が形成され、その結果、久賀島は五島でも有数の米所として発展し てきた。 このように、久賀島における現在の生業的空間は、地形の制約・影響を受けながらも、人々 が生業を営む中で特異な地形を巧みに利用しながら築きあげてきた文化的景観である。 (3)選定基準の適合。 (三)用材林・防災林などの森林の利用に関する景観地 (八)垣根・屋敷林などの居住に関する景観地 【脚注】 1.折紙に展望台を設置する際、雑木だけを払ってツバキ樹を顕在化する取り組みを行ったところ、かなりの密度でツバ キ樹が自生していることを確認したという。現在でも折紙展望台周辺ではまとまった数のツバキ樹を目にすることが できる。 2.猪之木集落では、ツバキ林の意図的な管理を特に行っていなかったが、ツバキ林が集落から外海の釣場に向かうルー ト上に位置したため、林内の人の往来は比較的多かったという。外海に面した立地特性と最低限の人為的な働きかけ で、結果としてツバキ林が維持されていた典型的な事例であろう。 3.このように、採取時期が異なる集落同士がそれぞれの時期にツバキ実を採取できたのは、前提として、集落が利用す るツバキ林が固定されており、たとえバラシの後であっても、他の集落は不可侵であるとの暗黙の了解が存在した点 は無視できない。現在のようにツバキ林管理がなくなり、いつでも誰でもどこからでも採取できる環境であれば、早 い者勝ちで採取され、久賀集落のように 9 月末からでも採取できる環境はあり得なかったはずである。 【参考文献】 立平進 1981「五島・久賀島の民俗」『長崎県三川内,久賀島,野母崎の文化-特定地域の基礎文化調査報告書-』長崎 県立美術博物館 五島・久賀島キリスト教墓碑調査団編 2007『復活の島 五島・久賀島キリスト教墓碑調査報告書』長崎文献社 135 月川雅夫・立平進編 1984『明治 13 年調べ長崎県佐賀県における農具図録』長崎出版文化協会 宮本常一 1952「五島列島の産業と社会の歴史的発展」『五島列島~九十九島~平戸島学術調査書』長崎県 三浦伊八郎 1965『椿春秋』 久保 清 1934『五島民俗図誌』 久賀島村 1951『ひさか椿』 内海紀雄 1985『五島・久賀島年代記-藩政時代と明治前半期を中心にした概観-』 五島観光連盟編『五島つばき事典』 瀬川清子 1937「五島雑記」 『旅と伝説』第 9 巻 10 号 福江市史編集委員会編 1995『福江市史』 136 第2部 文化的景観保存計画 第1章 文化的景観の保存に関する基本方針 1.文化的景観の概要と価値、課題 (1)文化的景観の概要と価値 「五島市久賀島の文化的景観」は、下記のような価値が考えられる。 久賀島の森林域では、ヤブツバキの自生密度が非常に高く、これを利用したツバキ油生産が伝統 的に盛んであった。同時に、ツバキの伐採を禁止する条例を制定し、資源保護に努めてきた。これ により、外海域を中心にツバキ林が形成されることとなり、他の地域では見られない独特の自然景 観となっている。 このように久賀島における自然的空間としてのツバキ林は、潜在植生の特徴を巧みに利用した生 業と、資源保護という人為的な影響を与え続けることにより独特の文化的景観を形成してきた。 また久賀島では、馬蹄形を呈し内海と外海が背中合わせになった地形となっており、島の中央部 の内湾域では、久賀湾に中小河川が流れ込み、他の五島列島の島々と比較して水系が発達し、小規 模な沖積地が形成されている。久賀島の人々は生業を営む上で、この沖積地を水田地帯へと変容さ せ、急峻な山々から流れ出る豊富な水量を利用し、山腹まで水田耕作地を広げてきた。久賀湾を囲 む一帯には、五島列島には珍しく棚田群が形成され、その結果、久賀島は五島でも有数の米所とし て発展してきた。 外海域を概観すると、地形は急峻であり、時期によっては強い季節風があたるため、他の植物よ りヤブツバキが優勢となり、かつ樹高の低い個体がまとまって群生していた。このツバキ群生をツ バキ実採取のため反復的に利用することで、ツバキ林が形成されることとなった。内湾の集落では、 棚田群での生産活動のみならず、外海域の林まで直接採取に出かけており、結果として各集落の資 源利用の領域が広域に渡っていた。 このように、久賀島における集落景観は、地形や水系、気象条件などにより異なる資源を生業空 間として取り込み、巧みに利用しながら築きあげてきた文化的景観である。 一 方 、 自 然 と 生 業 ・ 生 活 に 影 響 さ れ る 各集落の景観特性と空間機能的特性は、おおまかに下 記表の通りの種類の集落に分類される。 A.久賀湾に面した集落 →傾斜が緩やかで河川を利用した広い棚田群が特徴 B.外海に面した集落 →急傾斜地で沿岸部の集落と傾斜地の段々畑が特徴 C.久賀湾と外海の両者の特徴を併せ持つ集落 →集落は外海に立地するが、耕作地は久賀湾沿岸にある点が特徴 これらは、集落立地と耕作地の関係から分類したものである。久賀島における資源利用は、内湾 と外海という異なった環境にある特徴的な資源を利用する点が特徴である。立地環境の違いにより 異なった土地利用を見せる集落も、資源利用の観点からは集落内の資源のみならず、集落外の環境 が異なる資源も巧みに利用する点で共通している。 このように、地形や水系の違いにより異なった特徴を見せる集落であるが、資源利用の観点か らは、内湾域と外海域という異なった環境資源を巧みに利用する点で共通していた。中でも、ツ バキ林は外海に面した環境に特徴的な資源として活用されており、特に内湾に面した集落での資 源利用を特徴づける重要な要素となっている。 以上のような要素が有機的に結び付くことによって久賀島の文化的景観は構成されている。こ の詳細は保存調査報告書に述べているが、要約すると下記のとおりである。 自然環境に対し、人々が営む生業の影響を与えることにより、形成された自然的空間の価値。 離島という特殊な環境の中で、特異な地形を利用し築きあげてきた集落景観及び生業空間の価値。 - 137 - (2)課題 前項で久賀島における文化的景観の価値を述べてきたが、現状において様々な課題を内包して おり、それらの課題解決がなされないままの状態であると、久賀島の文化的景観の価値は急速に 失われてしまう可能性が大きい。特に、昭和の大合併で福江市(当時)に編入されて以来、急速に 進んだ人口流出は、過疎化、少子・高齢化という地域再生にとって厳しい結果を残してきた。 過疎化や生活様式の変化による森林や里山の荒廃は、ツバキ林などの自然的空間にも影響を及 ぼし、かつてのように人の管理が行き届かなくなったツバキ林はツタカズラなどの蔓植物に覆わ れはじめている。また、集落や生業空間においても空き家の増大などによる集落の荒廃、過疎化 による継承者の減少から耕作放棄地が増大している。 以上のような容易には解決しがたい課題が山積しており、久賀島においては個々の要素をどう 守り伝えていくかという課題解決の施策より、むしろ久賀島全体の地域活性化をどのように講じ ていくかが重要な課題である。 2.保存管理に関する基本方針 「五島市久賀島の文化的景観」は、文化的景観保存調査の成果から、島内に自生するヤブツバキ を利用しながらその資源保護に努め、その結果ツバキ林などの自然空間が形成されたことや特異な 地形を利用しながら独特の生業、集落空間が形成されたことが明らかとなっている。現在は、急激 な過疎化の影響により、ツバキ実採種などの生業システムの衰退や集落が荒廃しつつあり、社会シ ステムが脆弱化しているため、五島市においては保存管理に関する基本方針を、保存調査により明 らかになった久賀島の本質的価値から「自然的観点」、「集落及び生活・生業的観点空間」の観 点から示す。 以下の方針を定めるにあたり、各要素を保存していくためには地域に住む人たちの景観保全に対 する理解と自助的な取り組み、そして行政の役割を明確にしておくことが必要であり、それらを実 行できる体制づくりが何よりも必要であることを先に記しておく。文化的景観保存計画や景観計画 は、規制のための仕組みだと考えがちだが、良好な景観の創造に繋がるという視点も忘れてはなら ない。 また、五島市総合計画(2006~2015)土地利用構想において、土地利用方針として「豊かな自 然と共生する持続可能な土地利用」や「美しくゆとりある土地利用」がうたわれている。その中 で、「都市的土地利用にあたっての自然環境への配慮、生物の多様性が確保された自然の保全・ 創出」「ゆとりある環境の形成、緑資源の確保、水際資源の保全、歴史的風土の保存、地域の自 然的・社会的条件等を踏まえた個性ある景観を進める」とされており、この方針と整合性を図る ものとする。 (1)自然的観点 久賀島に数多く自生するヤブツバキやツバキ林の存在は、久賀島の文化的景観の保護における基 本的な要件である。 久賀島を含む五島列島は沖合を流れる対馬暖流の影響で、植生は全般的に温帯湿潤気候地帯の代 表的植生である照葉樹林帯という植物群系に入り、ヤブツバキ、タブノキ等を主体とする常緑広葉 樹の林が海岸付近まで発達しており、ハマビワの優占林(ハマビワ-オニヤブソテツ群集)が海 岸付近まで広がっている。これらの林は生活のための材料などを確保する里山的な性格も帯びて おり、中でも山林に数多く自生するヤブツバキはツバキ油資源として利用されてきた。久賀島の 人々はツバキ油生産の向上を図るため、島内のツバキを生業資源としてその保護に努めてきてお り、その結果、島内各所にツバキ林が形成されることになった。 こうしたツバキ林などの自然景観の保存については、現状の維持に努めるものの、凍結的な保 存ではなく適切に人為的な保存・管理を図る必要がある。市が策定している「五島市つばき振興 計画」の基本方針においても「ツバキ林の育成と管理技術」が謳われており、こうした関連計画 - 138 - との整合性を図りながら保存管理に努めることとする。 また、久賀島の地形的特徴から久賀湾に注ぎ込む中小河川などの河川についても、護岸形態や 川中の施設の形態等について配慮が必要である。ホタルが生息する河川もあり、それらの生態系 を維持できるよう河川環境の保全に努めることとする。 (2) 集落及び生活・生業的観点 久賀島島民の生業は農業・漁業といった第 1 次産業が大半を占めており、集落と一体的に形成 された農地や船着き場、漁港などの生業空間は地域を特徴付けるものである。 中でも特徴的なのは、久賀湾と外海に面する集落の立地性である。久賀湾に面した集落では、湧 水を起源とする大開川、猪之木川などが流れ、下流域を中心に傾斜の緩やかな棚田を形成してい る。生業の中心は稲作であるが、9 月~10 月にかけてはツバキ実採取を行い、これらの集落のツ バキ林は外海に面した郷有林で、集落からは山の稜線を越えてアクセスしている。また、久賀湾 の湾奥には戦後になってから水田干拓地が開発されているが、干拓以前は港を有し、久賀湾を利 用した物流の拠点であった。 一方外海に面した集落では、一見すると漁村に特徴的な集村形態をとり、実際に漁業や物流に も関わっているが、同時に周囲に耕作地が展開しており、例えば蕨地区では、尾根を挟んだ内幸 泊には、久賀湾に面した広大な棚田を有している。いわば、外海と内湾(久賀湾)の資源を利用 する生業形態が、土地利用に反映されているとみることができる。 このように、地形や水系の違いにより異なった特徴を見せる集落であるが、資源利用の観点か らは、内湾域と外海域という異なった環境資源を巧みに利用する点で共通していた。中でも、ツ バキ林は外海に面した環境に特徴的な資源として活用されており、特に内湾に面した集落での資 源利用を特徴づける重要な要素となっている。 これらの集落を構成する諸要素の保存については、いくつかの保存方法を組み合わせる必要が ある。まず農地景観の保存管理にあたっては、田畑や周辺域の防風林などの景観維持に努めると ともに、その景観を維持してきた技術の継承の支援を検討する必要がある。また、今後も棚田な どの生業空間を維持していくため後継者の育成や耕作放棄地の再活用策など、関係法令を踏まえ 有効な支援策を検討していく必要がある。 集落の良好な景観を構成している保存すべき要素として、集落内には歴史的な石垣・防風垣・ 石積み護岸が残されており、これらを維持・保存することに努めることとする。 3.整備活用に関する基本方針 前述した保存の方針に沿って、整備活用に関する基本方針を以下に示す。 (1)全体的な考え方 久賀島の文化的景観は、自然的空間と集落及び生活・生業空間が一体となった景観地であり、こ のような景観地は長年の営みによって生み出された景観地である。長期的な人々の生活・生業によ って生み出されたものである以上、人の手が加えられ続けることで、景観の維持・保全が可能とな ってくる。しかし過剰な手入れは逆に景観を損ねてしまう恐れがあるため、一定の整備方針を定め る必要がある。また、共同水路や祭礼・年中行事など伝統的コミュニティ活動を重視することも重 要である。 公共事業においても、これまで道路は道路、農地は農地、森林は森林といった縦割だった土地利 用計画を、総合的に見直し整理することが肝要である。このような観点から地域の景観マスタープ ランを法的に位置づけることができるのが景観計画であり、計画の見直しを行いながらまちづくり を進めることとする。 活用策に視点を移すと久賀島を訪れる観光客の多くは、旧五輪教会堂や豊かな自然景観を体感す ことが目的であり、日帰り観光客が多いことが特徴である。文化的景観を生かした地域振興が最終 的な目的であるため、広域的な観光ルートの設定や案内板等の設置だけではなく、地域自体の魅力 - 139 - を高め、そこへ行きたいと思わせる付加価値を付ける取り組みを行う必要がある。 平成 19 年 1 月、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産暫定リストに記載され、本 地域も構成資産のひとつとして検討されている。活用という面で考えるならば、潜在的な価値を持 っている場所であり、登録推進活動に併せ、文化的景観を核としたネットワークを形成していく必 要がある。既に民間で行われている「久賀島巡礼ツアー」、「ツバキ巡り」などの観光ツアーのほ か、都市部住民をターゲットにした農漁家民宿等も視野に入れ、地域内に組織されているまちづく りグループを主体とした施策を実施する必要がある。 ただし、このような観光施策を行う場合、過剰な観光客の増加等によって久賀島の景観が損なわ れることがないよう配慮しなくてはならない。観光客と島民とのトラブルなども心配されるため島 民と行政との緊密な連携も必要である。 (2)自然的空間 本地域には、ツバキ原始林(ヤブツバキの純林)が存在し、そのうち長浜のツバキ林は長崎県の天 然記念物に指定され文化財として保護され、島の南東部は西海国立公園に指定され、一体の自然景 観は自然公園法によって保護されている。また、島の西側においては冬場の厳しい北西風と激しい 波浪により形成された断崖景観が連続しており、一部は長崎県の自然環境保全区域に指定され保全 が図られている。これらの地区では現状維持のための保全を図り、久賀島の自然景観を代表するツ バキ林については植生回復を行っていくこととする。人工造林及び保安林については関係部署とも 連携を図りつつ、その保全・活用に努めていきたい。 (3) 集落及び生活・生業空間 本地域の集落に多く見られるのは、木造平屋建の住宅であり、現在も良好な景観を維持している。 特に建築物や工作物の高さや色には十分注意すべきである。景観計画でそれらの行為誘導を行って いるが、今後は景観協定の締結も視野に入れ、より自発的な景観創造への取り組みへと繋げていく こととする。 【景観協定】 景観計画区域内の一団の土地について、良好な景観の形成を図るため、土地所有者等の全員 の合意により、当該土地の区域における良好な景観の形成に関する事項を協定する制度である。 景観協定は、住民が自らの手で、地域のより良い景観の維持・増進を図るために、自主的な規 制を行うことができる有意義な制度であり、積極的な啓発・普及がなされることが望ましい。 土地所有者等の全員の合意による協定であることから、法に定める景観計画等よりも細やか なルールを策定したり、規制手法に馴染まないソフトな事項についても定めることができる等、 幅広い内容とすることができる。 農漁村集落については、建築物の形態意匠や農地の保全・利用を一体として定めること等に より、農漁村景観の保全を図ることが可能であるが、土地所有者等と十分時間をかけて協議す る必要があるため、段階的に協定の範囲を広げていくことが現実的である。 本地域の景観を構成するものに地形を利用した棚田や集落内に所在する歴史的石垣(防風垣な ど)、伝統的な石積み護岸があり、景観を特徴づける要素となっている。全国的に棚田の景観は観 光資源としても認知され始めており、それが高まって付加価値米の開発へと繋げていった地域もあ る。米自体のブランドを高めて付加価値米とするのか、棚田の景観を生かして交流人口を増やすの かは、地域の特性に合わせたものにすべきであろう。いずれにせよ、棚田としての景観が保全され ていることが前提であり、整備を行う際は、土地利用を尊重した整備を行うことが必要である。 また、本地域には 5 箇所の漁港がある。それらの改修工事等によってもたらされる景観の変化は、 大きな影響を与えることも考えられる。良好な景観を維持するための配慮が必要である。 - 140 - 4.管理運営に関する基本方針 本地域の文化的景観は、自然環境にそこで暮らす人々の生活・生業の働きかけがあって、初めて 作り出され、長い年月をかけて現在の景観へと変遷してきたものである。これは、継続し変化し続 けている景観であり、現在の景観が完成形ではないことを示している。 農漁村集落の過疎化等により、現在の景観を保つことは非常に難しい問題である。この良好な景 観を継続させるために、「誰が(主体・担い手)」、「何の目的で(生業のため・景観の保全のた め)」景観管理を行うのかという目的を明確にし、農漁村集落の景観が維持されるシステムを早期 に確立させなければならない。 重要なのは、その地で生活し生業を営む地域の人々の存在であり、農業を継続できない理由は何 なのかを把握し、現在の景観を維持し発展させるため、それらの要素を取り除く仕組み作りを検討 する。後継者不足であるのなら、農地所有者のみではなく、文化的景観地区に住む人々、周辺都市 部に住む人々が積極的に景観保全に係わることができる仕組みが必要だろう。 久賀島の一部地域では、景観保全と生業育成のために、一部の耕作放棄地においてツバキの植栽 が進められ活用されている。本地区は自治会組織が比較的確立された地域であるため、これら既存 の組織を活用した住民主体のまちづくりと景観保全、文化・伝統の継承を図るべきであろう。 一方、行政の体制も整理、強化される必要がある。文化的景観の継承・活用においては、教育委 員会のほか、都市計画、建設、農林、観光部局等の多くの協力連携が必要となる。県関係部局との 連絡調整も含めて、関係機関が緊密に協力できる体制を整備したい。その上で、地域活動を積極的 にサポートしていくこととする。 - 141 - 第2章 文化的景観の保存に配慮した土地利用に関する事項 1.保存管理に関する考え方 保存管理に関する基本方針を踏まえ、保存管理に留意した土地利用のあり方等を示す。 (1)自然的観点 現状の植生区分に従った管理を行うとともに、伐採跡地の回復、育成を行うことで森林保全に努 める。本地域において、優れた自然景観の一部は自然公園法や保安林として保護されているが、そ れらに隣接し、景観として連続したものについても、同様に保全されるよう努める。 景観を構成す 土地利用等についての考え方 る要素 天然林 ・ 天然林が残る森林の多くは、自然公園、保安林で保全されており、今後も 現状維持を行うこととする。 ツバキ林 ・ 島内に所在するツバキ林は、景観構成要素であり、その保全に努めること とするものの、荒廃を防ぐために適切な管理が必要である。 二次林 ・ 家庭で薪を使用していた際は、定期的に伐採され、更新されてきた場所で あり、スダジイ林が多い。森林の適切な維持管理を行うとともに、現状の 植生区分に従った植生の回復も検討する。 人工造林 ・ 水土保全を重視する森林整備に努める。 ・ 森林と人との共生を重視する森林整備に努める。 ・ 資源の循環利用を重視する森林整備に努める。 道路 ・ 生業・生活や森林の適切な維持管理のために必要とされる場合は、景観へ の配慮を検討した整備を行う。 海岸・河川 ・ 自然護岸、自然石積護岸、自然河床の保全に努める。 ・ 多様な生態系の維持に努める。 ・ 港湾整備などの公共工事においては、周囲の景観と調和するよう整備を行 うこととする。 その他 ・ 文化的景観区域内に大規模な鉄塔類を設けないことを原則とする。防災等 の観点からやむを得ない場合は、周囲の景観に十分配慮を行う。(山稜線 を分断しない、主要な眺望ポイントと同一視野に入らない等) ・ 風力発電施設については、文化的景観区域には原則として設置しない。 自然公園(西海国立公園)内については、環境省自然環境局が定めた「国 立・国定公園内における風力発電施設設置のあり方に関する基本的考え方」 (H16.1.19)があり、長崎県立自然公園においても長崎県自然環境課定めた 「長崎県自然公園内における風力発電施設(風車)の取扱い基準について」 (H14.11.11)がある。それらの区域に隣接し、周囲の景観と一体となった 文化的景観区域でも、同様に考えることとする。 (第7章参考資料:風力発電施設についての考え方) (2)集落及び生活・生業的観点 文化的景観を構成する主要な要素と位置づけ、良好に維持される生業空間に隣接する生活の場と して、景観計画と連携した景観形成を図る区域とし、景観保全を図るとともに、生業の支障となる 案件については、改善策を検討しながら生業景観の継承に努める。 - 142 - 景観を構成す 土地利用等についての考え方 る要素 住居 ・ 高さ、色彩、屋根の構造等について、周囲の景観との調和に努める。現在、 多くの家屋が木造であり、周囲の景観と一体となった良好な景観を維持し ているため、これまで同様に木造家屋が望ましい。 ・ 伝統的家屋については、文化財としての価値を高めつつ、重要な構成要素 としての特定を検討していく。 ・ 防風石垣や、家屋石塀等の保全に努める。調査報告書において、地域にお ける多様な石積技法が認められており、これらについては、従前の技法で 積み直すことが望ましい。 ・ 良好な景観を有する住居群(集落)としての景観保全に努める。 事業所 ・ 高さ、規模、色彩等の誘導を行い、周囲の景観との調和に努める。 ・ 敷地の緑化や、木壁等により、景観阻害要因の遮蔽に努める。 神社、寺、教会 ・ 構造、材料、色彩等の保存に努める。 堂 ・ 高さ、色彩、屋根の構造等について、従前と同様の伝統的な建築様式にな るよう努める。 ・ これら信仰に関する施設は、設置場所に意味がある場合が多く、文化的景 観の核となる施設でもあるため、原則として移設は行わない。 公共施設 ・ 高さ、規模、色彩等の誘導を行い、周囲の景観との調和を図る。また、改 修に合わせ、積極的な修景に努める。 ・ 敷地の緑化や、木壁等により、景観阻害要因の遮蔽に努める。 道路 ・ 新設、改良工事については、景観への影響が考えられるため、事業主体は、 五島市景観計画を尊重するとともに、文化的景観の価値が特に高いと認め られる地区については、景観への配慮を最大限行うこととする。 墓地 ・ 墓地様式及び時代性に価値のあるものについては、保存を検討する。 ・ 古い墓地は山野に埋もれている箇所もある。それらは文化的景観を構成す る無形の要素と関係が深い可能性があるため、住民の協力を得ながら保存 ・顕彰に努める。 集落の石垣景 ・ 集落内に多数分布する石垣の景観は特徴的であり、保全に努める。 観 広場 ・ 資材等の投棄場所にならないよう、景観の維持に努める。 ・ 集落と一体となって良好な景観を形成するよう整備方針を検討する。 石造物 ・ 場所に意味がある場合が多く、原則として移設を行わない。やむを得ない 場合は、近接した場所へ設置することとする。 ・ 古い時代の石造物も多く、地域の文化を実証する数少ない物証であるため、 原則として石材の更新は行わない。 防風林 ・ 住居や農地の周囲に自生し、結果的の防風林となっているヤブツバキ等の 樹木は、集落・生業景観の特徴でもあるため保全に努める。 集落の緑地及 ・ 保全に努める。 び景観木 信仰に関する 空間 耕作地 ・ 寺社仏閣・教会堂や殉教の地等の空間は、周囲の景観も含め保存すること とし、場所性を損なわないようにする。 ・ 耕作放棄地になっている場所が多いが、可能な限り農地としての再生の可 能性を検討する。 - 143 - 広場・耕作放棄 ・ 資材等の投棄場所にならないよう、良好な景観の維持に努める。 地等 ・ 集落と一体となって良好な景観を形成するよう活用方法や整備方針を検討 する。 工作物 ・ 景観の連続性を阻害しているものについては、修景に努める。 ・ 電柱類その他工作物を設置する場合は、設置場所や高さ、色について配慮 し、周囲の景観との調和に努める。 屋外広告物 ・ 設置は行わないことが望ましい。やむを得ない場合は、高さと色について 配慮し、周囲の景観との調和に努める。 ・ 交通誘導板、観光案内板等は、必要最小限に留めることとし、案内板が乱 立している場所では、撤去を検討する。 その他 ・ 景観協定を締結する等、集落内でのより細やかなルール作りを目指す。 2.既存法令等による土地利用規制の整理 申出対象範囲には、景観法に基づく行為規制が全ての範囲に適用されるほか、自然公園法、文化 財保護法、森林法、農地法、農業振興地域の整備に関する法律、河川法による行為規制が適用されて いる土地が含まれる。 ■土地利用規正法等による行為規制の一覧 根拠法令 対象範囲 許可・届出等 行為規制の内容 罰則規 定 自然公園法 特別地域 許可又は届出 (国立公園) 【許可事項】 懲 役 又 ①工作物を新築し、改築し、又は増築すること、②木竹を伐採 は罰金 すること、③鉱物を掘探し、又は土石を採取すること、④河川、 湖沼等の水位又は水量に増減を及ぼさせること、⑤環境大臣が 指定する湖沼又は湿原汚水又は廃水を排水設備を設けて排出す ること、⑥広告物等掲出・設置し、又は広告等を工作物等に表示 すること、⑦屋外において土石その他の環境大臣が指定する物 を集積し、又は貯蔵すること、⑧水面を埋め立て、又は干拓す ること、⑨土地の開墾、土地の形状を変更すること、⑩高山植 物その他の植物で環境大臣が指定するものを採取し、又は損傷 すること、⑪山岳に生息する動物その他の動物で環境大臣が指 定するものを捕獲し、若しくは殺傷し、又は指定動物の卵を採 取し、若しくは損傷すること、⑫屋根、壁面、塀、橋、鉄塔等 の色彩を変更すること、⑬湿原その他これに類する地域のうち 環境大臣が指定する区域内へ当該区域ごとに指定する期間内に 立ち入ること、⑭道路、広場、田、畑、牧場及び宅地以外の地 域 の う ち 環 境 大 臣 が 指 定 す る 区 域 内 に お い て 車 馬 ・動 力 船 を 使 用し、又は航空機を着陸させること、⑮前各号に掲げるものの ほか、特別地域における風致の維持に影響を及ぼすおそれがあ る行為で政令で定めるもの 【届出事項】 木竹の植栽、家畜の放牧 普通地域 届出 ①その規模が環境省令で定める基準を超える工作物を新築し、 - 144 - 懲 役 又 改築し、又は増築すること(改築又は増築後において、その規 は罰金 模が環境省令で定める基準を超えるものとなる場合における改 築又は増築を含む。)、②特別地域内の河川、湖沼等の水位又 は水量に増減を及ぼさせること、③広告物その他これに類する 物を掲出し、若しくは設置し、又は広告その他これに類するも のを工作物等に表示すること、④水面を埋め立て、又は干拓す ること、⑤鉱物を掘採し、又は土石を採取すること(海面内に おいては、海中公園地区の周辺一キロメートルの当該海中公園 地区に接続する海面内においてする場合に限る。)、⑥土地の 形状を変更すること、⑦海底の形状を変更すること(海中公園 地区の周辺一キロメートルの当該海中公園地区に接続する海面 内においてする場合に限る。)。 景観法 久 賀 島 地 届出 区 ①建築物の新築、増築、改築若しくは移転、外観を変更するこ 罰金 ととなる修繕若しくは模様替又は色彩の変更、②工作物の新設、 増築、改築若しくは移転、外観を変更することとなる修繕若し くは模様替又は色彩の変更、③都市計画法第4条第12項に規定 する開発行為その他政令で定める行為、④良好な景観の形成に 支障を及ぼすおそれのある行為として景観計画に従い景観行政 団体の条例で定める行為 五島市景観 重 点 景 観 条例 計画区域 届出 勧告 変更行為、②木竹の伐採、③屋外における土石、廃棄物、再生 ※添付 森林法 ①土地の開墾、土石の採取、鉱物の採掘その他の土地の形質の 資源、その他の物件の堆積、④水面の埋立又は干拓行為 地 域 森 林 許可 1haを超える開発行為 罰金 計 画 の 対 届出 立木の伐採 罰金 許可 ①立木の伐採 罰金 象 と な つ て い る 民 有林 保安林 ②立竹を伐採し、立木を損傷し、家畜を放牧し、下草、落葉若 しくは落枝を採取し、又は土石若しくは樹根の採掘、開墾その 他の土地の形質を変更する行為 文化財保護 周 知 の 埋 法 蔵 文 化 財 届出 土木工事等を目的として周知の埋蔵文化財包蔵地の発掘しよう - とする行為 包蔵地 文化財保護 県 指 定 重 条例 要文化財 市 指 定 重 許可 現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為 は科料 許可 現状を変更し、又はその保存に影響を及ぼす行為 要文化財 農地法 農業振興地 域の整備に 農地 農用地 罰 金 又 罰 金 又 は科料 許可 許可 農地の権利の移動、農地の転用及び農地転用のための権利の移 懲 役 又 動 は罰金 宅地の造成、土石の採取その他の土地の形質の変更又は建築物 懲 役 又 その他の工作物の新築、改築若しくは増築等の開発行為 は罰金 関する法律 - 145 - 3.景観法に基づく景観計画による行為誘導 重要文化的景観申出を行う前提として、景観法に基づく景観計画の策定が必要であり、五島市で は、平成21年3月、五島市全域を対象に「五島市景観計画」を策定し「五島市景観条例」を制定 した。 五島市景観計画では、市域全体を一般景観計画区域と文化的景観地区及び景観重要地区に分け、 文化的景観地区を以下の5つの区域に、景観重要地区を以下の5つの区域に分けそれぞれの景観 特性に応じた景観形成に努めることとし、そのうち重要文化的景観申出予定地区の久賀島におい ては「久賀島景観まちづくり計画」を策定し、景観誘導指針を示している。 ① 福江地区 ② 奥浦地区 ③ 久賀島地区(重要文化的景観申出予定地区) ④ 富江地区 ⑤ 三井楽地区 - 146 - (1)文化的景観地区における景観形成の方針 文化的景観地区においては、「久賀島地区景観計画における景観形成の方針」に基づき、以下の ような行為の制限を定める。 ① 建築物の新築、増築、改築若しくは移転、外観を変更することとなる修繕若しくは模様替え 又は色彩の変更行為 ② 工作物の新築、増築、改築若しくは移転、外観を変更することとなる修繕若しくは模様替え 又は色彩の変更行為 (2)良好な景観の形成のための行為の制限に関する事項 建築物・工作物について 位 置 ・ 集落においては、地形・樹木を大切にし既存の建築物との調和及び連続性に配置す る。 高 さ ・ 建築物及び耕作物の高さは10m以下とする。 ※久賀島の建築物及び工作物の99.9%は2階建て以下。 色 彩 ・ 建築物及び工作物の壁面及び屋根の基調色は、マンセル表色系において、全ての色 相について彩度6以下とし、周囲の景観と調和した色彩とする。ただし、自然素材 そのものの色の場合はその限りではない。 ※ 久賀島の建築物及び工作物の97.8%は彩度6以下の色を基調としている。 ・ 形 態 意 匠 使用する色数はできる限り少なくする。 ・ 建築物及び工作物の素材は昔より使われてきた素材と同等のものをできる限り用 いる。 ・ 建築物及び工作物の屋根のデザインは、切妻、寄棟、入母屋等の軒のある勾配屋 根を基本とし、できる限り陸屋根は用いない。ただし、母屋と同一敷地内に建設さ れるものであって、小規模な倉庫、小屋については、この限りではない。 緑 化 石積み ・ 既に樹木がある場合は、できる限りその保全を図る。 ・ 既に石積みがある場合は、できる限りその保全を図る。 屋外広告物について 種 類 ・ 自家用広告物のみとし、原則として宣伝用広告物の設置は認めない。 高 さ ・ 屋外広告物の最も高い部分の高さは地上から3m以下とする。 面 積 ・ 屋外広告物1枚あたりの面積は0.5㎡以下とする。 枚 数 ・ 自分の敷地外に設置する誘導用看板等の枚数は必要最小限とする。 素 材 ・ 屋外広告物の素材は原則として木材とする。 色 彩 ・ 屋外広告物の基調色は、マンセル表色系において、全ての色相について彩度6以下 とし、周囲の景観と調和した色彩とする。ただし、自然素材そのものの色の場合は その限りではない。 ・ 使用する色数はできる限り少なくする。 (3)景観計画におけるその他の事項 五島市景観計画において、①公共事業のデザインコントロール、②景観上重要な農地の維持、 ③景観重要建造物の指定方針、④景観重要樹木の指定方針、⑤大型開発に関する行為の制限、⑥屋 外広告物の行為の制限に関する事項、を定めている。 これらの方針は、景観行政団体である五島市が、今後も良好な景観を維持するために必要である - 147 - と定めた最低限の配慮事項であり、景観重要公共施設に指定されていない公共施設についても、こ れに準じることが望まれる。 また、屋外広告物は、地域の景観に大きな変化をもたらす場合があるため、上記した②の基本 方針のほかに、より細かい基準の策定を行うものとする。 4.現状変更の取扱い 重要文化的景観は、法執行上の規定として文化財保護法第 8 章(第 134 条-第 141 条)に、重要文 化的景観の選定や現状変更の規制等が記されている。 また、重要文化的景観に係る選定及び届出等に関する規則の一部を改正する省令(平成 20 年文 部科学省令第 24 号)の公布により、文化的景観を形成する重要な構成要素を特定することとなっ た。この改正により、重要文化的景観の滅失又はき損に係る届出(法第 136 条関係)及び現状変更 等の届出(法第 139 条関係)は、文化的景観における重要な構成要素を対象とすることとなった。 申出地域で行われる現状変更対象行為の多くは、自然公園法、農地法、森林法、景観法等に基づ く届出の対象行為となっている。 (1)文化財保護法の届出対象行為 文化財保護法で届出対象とする行為は、以下の行為である。当該物件の所有者は、現状変更の際 に、教育委員会と協議の上、文化庁長官に対して届出を行うこととする。 ■届出を要する行為 届出の種 届出が必要な場合 届出日 類 滅失 焼失、流失等により滅失した場合 滅失・き損を知った日から 10 日 以内 き損 災害等により大きく破損した場合 〃 現状変更 移転・除去等、当該景観重要構成要素の価値に影 現状変更しようとする日の 30 日 響を及ぼす増改築等の行為 前まで ※減失又はき損(法第 136 条)については、重要文化的景観の保存に著しい支障を及ぼすおそれが ない場合は届出を要しないとされており、その行為は省令(第 4 条)で定められている。 ※現状変更の届出等(法第 139 条)については、現状変更については維持の措置若しくは非常災害 のために必要な応急措置又は他の法令の規定による現状の変更を内容とする命令に基づく措置 を執る場合、保存に影響を及ぼす行為については影響の軽微である場合は、この限りでないとさ れており、その措置の範囲は省令(第 7 条)で定められている。 (2)文化財保護法の届出を要しない行為 以下に定める行為については、影響の軽微であるものとし、本計画において届出を要しない行為 として定めている。 ① 地盤面下又は水面下における行為 ② 仮設の建築物、工作物の建設等 ③ 通常の管理行為、軽微な行為 ア 建築物の新築、増築等、外観を変更することとなる修善若しくは模様替え又は色彩の変更行 為で、次のいずれかに該当するもの ・ 建築面積が 10 ㎡以下の建築物 - 148 - ・ 色彩の変更行為を行う部分が 10 ㎡以下のもの ・ 擁壁等(塀、柵含む)の構造物その他これに類するもので、面積が 10 ㎡以下のもの ・ 電柱、照明灯、携帯電話用アンテナ、その他これに類するもので高さ 3m 以下のもの ・ 生業を営むために行う、高さが 1.5m 以下の貯水槽、飼料貯蔵タンクその他これらに類する工 作物の設置等 ・ 生業を営むために行う、幅員が 2m 以下の用排水路又は幅員が 2m 以下の農道若しくは林道の設 置 イ 土地の形質の変更行為で、面積が 100 ㎡以下のもの(ただし、これにより建築物・工作物等 が生じ、アの基準を超える場合は届出を要する。) ウ 木竹の伐採で、次のいずれかに該当するもの ・ 森林の保育、施設管理のために通常行われる木竹の伐採 ・ 枯損した木竹又は危険な木竹の伐採 教育委員会は、重要文化的景観の現状又は管理若しくは復旧の状況を把握し、文化財保護法第 8 章(第 140 条)により報告を求められた場合は、文化的景観の現況について報告するものとする。 また、文化的景観区域内で五島市景観計画による届出等があったものについては、景観計画担当部 署及び教育委員会で協議を行うこととし、現状変更の内容によっては、所有者等と協議を行うことと する。(域内で行われる公共工事を含む。) 重要文化的景観の滅失又はき損が省令第 4 条に定める行為についても、教育委員会と事前に協議を 行うことを原則とする。 - 149 - 第3章 文化的景観の整備活用に関する事項 1.整備活用に関する考え方 基本方針を踏まえ、整備活用に関する考え方を以下に示す。 整備活用については、自然的空間と集落及び生活・生業的空間を体感し、地域の文化を知ること ができるようにすることを基本とする。調査研究による価値づけを継続することはもちろんのこ と、修景事業の計画・実施、景観保全を担う人材育成等、検討事項は多岐に渡る。 下五島地域(久賀島)の文化的景観の整備は、自然的景観と集落及び生活・生業的景観を保全する よう努める。文化的景観の保全については、関係部署と調整し、価値のき損や滅失がないように努 めることが原則である。 公共事業については、これまで管理者が異なるという理由から、隣接する場所であっても、工法 や材料の違いがあり、景観保全の整合性が取りにくいことが課題であった。公共工事は景観への影 響が大きいため、景観保全に対する認識を統一する必要がある。また、農漁村集落景観には、学校、 橋梁、道路、港等、景観に大きな影響を及ぼす公共施設が含まれている事が多い。これらについて は、景観計画の中で景観重要公共施設として位置づけ、整備に関する事項を定めることも想定され る。国土交通省から、「公共事業における景観検討の基本方針」(H21.4.1 改訂)が示されており、 その他景観ガイドライン等も多数策定されていることから、それらの内容を踏まえた事業実施に努 めることとする。(第 7 章参考資料:公共事業におけるガイドライン等の尊重) 文化的景観を確実に継承していくため、地域住民の必要に応じて景観計画の見直し等も検討して いく。 文化的景観の活用のため、上述した景観保全の取り組みと同時に、県内に分布する同様の価値を 持つ文化的景観地域との連携を図り、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録の取 り組みに併せ、広域な周知啓発ルート等の開発に取り組むこととする。 保存調査で抽出された景観阻害要因については、文化庁事業等を活用して、修景や除去に努める。 これらの修理修景を実施しながら、地域内の拠点施設の整備や、サイン計画等を併せて検討する。 また、文化的景観を長期的に保全し、継続していくために、地域産業の育成を図るものとする。 2.整備活用の方針 (1)自然的観点 景観を構成す 整備活用の方針 る要素 天然林 ①整備の方針 ・ 天然林としての保全に努める。 ・ 保安林として保全に努める。 ②活用の方針 ・ ツバキ林 全体眺望として、文化的景観の価値と併せて周知できる方法を検討する。 ①整備の方針 ・ その保全に努めることとするものの、荒廃を防ぐために適切な管理が必要 である。 ②活用の方針 ・ 二次林 ツバキ油搾油のためのツバキ実採取を図る。 ①整備の方針 ・ 下草刈りや間伐など手入れを行い里山として管理する。 ・ 用材として一定規模以上を伐採した場合は、植林を行うなど植生の早期回 復に努める。 - 150 - ②活用の方針 ・ 里山を活用した取り組みが望まれる。 ・ 木炭など林産物の生産を図る。 人工造林 ①整備の方針 ・ 用材として一定規模以上を伐採した場合は、植林を行うなど植生の早期回 復に努める。 ②活用の方針 ・ 用材などの林産物の生産を図る。 道路 ①整備の方針 ・ 地域内の価値は、散策することで理解が深まるため、必要な散策道の設定 及び整備、自然散策路の整備を検討する。 ②活用の方針 ・ 森林内を通る里道等を散策することで、林空間の活用を検討する。 海岸・河川 ①整備の方針 ・ 自然海岸としての保全に努める。 ・ 自然護岸や自然石積護岸を活かした整備に努める。 ②活用の方針 ・ 自然海岸は景観を活かした散策場所とする。 ・ 磯場は魚介類や藻類の採集場として保全する。 その他 ①整備の方針 ・ 修景に関しては、重要文化的景観保護推進事業のほか様々な支援策を検討 する必要がある。 ②活用の方針 ・ 海岸などの自然景観や天然記念物を活かした散策ルートの設定を検討す る。 (2)集落及び生活・生業的観点 景観を構成す 整備活用の方針 る要素 住居 ①整備の方針 ・ 現在、集落には木造平屋建で勾配のある屋根形状を有しているものが多い。 住居は木造が望ましく、高さについては2階建て以下を原則とする。 ・ 空家は所有者の協力を得て散策を行う際の休憩施設、物販所などとしての 整備が考えられる。 ・ 島内には廃屋が点在しており、これらは景観上好ましいとはいえない。私 有財産であり解体処分等の対策には法的な壁もあるが、所有者との折衝や 島内での協議などにより、対策を講じたい。 ②活用の方針 ・ 魅力ある集落景観を作ることで、交流人口の増加を図る。 ・ 農漁家民泊としての利用を検討し、交流人口への受け入れ態勢の充実を検 討する。 ・ ただし、これまでの島の暮らしを保全する観点からも、大規模な交流人口 - 151 - 増を目指すことは想定しない。 工場・事業所 ①整備の方針 ・ 地域イベント開催時の拠点施設として、周辺部の整備も考えられる。 ・ 現在、島内には地元産の土産品を流通販売する組織・施設がないため、こ れらソフト・ハードともに、その必要性や対応策を島内組織で協議する。 ②活用の方針 ・ 他の地域では漁協や農協など地域の組織で地場物産品の即売会を行ってい る事例も多数あり、他地区を参考に活用策を検討する。 神社、寺、教会 ①整備の方針 堂 ・ 旧五輪教会堂(重要文化財)については、各種補助事業等を利用し修景整備 を検討する。 ・ 参道や庭園等、建築物と一体となって良好な景観を形成しているものも含 めて保存整備を検討する。 ・ 従来の構造、材料、色彩等の保存に努めた整備を行うこととする。 ②活用の方針 ・ 観光利用が多い旧五輪教会堂は、地域活動の拠点となることも想定される 場所であり、整備活用計画との連携を図る。 ・ 島内の寺社やそれらに付随する石造物なども文化的景観の価値を付加する ことによって、更なる活用方策を検討することとする。 ・ ただし、これらは信仰の場であり、島内住民の生活に直結しているところ であるので、十分に配慮が必要である。 公共施設 ①整備の方針 ・ 学校や消防倉庫等を改修する場合は、周囲の景観との調和に努める。 ・ 漁港整備で、大きな構造物が設置される場合は、特に周囲の景観に調和す るよう配慮する。 ②活用の方針 ・ 既に設置されている公共施設(学校や公園等の広場)については、地域活 動の場として積極的に利用ができる要調整を行う。 道路・里道 ①整備の方針 ・ 地域内の価値は、散策することで理解が深まるため、必要な散策道の設定 及び整備、自然散策路の整備を検討する。現段階では島内の主要な幹線道 路及び里道がこれにあたることを想定する。 ・ 島内道路の整備については、無用な拡幅・拡張はせず、住民からの生活改 善要望として上がっている箇所については、必要最小限の幅員を確保する よう改修していく。 ・ 道路線形は既存道路の線形や地形を極力踏襲したものとし、新たに発生す る法面や切土面、護岸が最小限となるよう設計する。 ・ 法面や切土面には緑化を施す。 ・ 法面に吹きつけを施す場合には、彩度・明度の低いグレー系の色とする。 ・ 護岸は極力自然石護岸とするよう努める。自然石護岸の積み方や素材につ いては、周辺の既存の護岸と合ったものとする。 ・ 車両用防護柵を設置する場合はガードパイプを使用し、基本的にはベージ ュ色とする。海岸道路では亜鉛メッキかベージュを候補とし、現地での検 討により決定する。 - 152 - ・ 鋼橋の色は周辺景観と調和したものとなるよう現地での検討を行う。 ②活用の方針 ・ 荒廃している里道の復活など、既存の歩道等を利用した遊歩道の整備が考 えられる。 ・ 道路整備の際に生じる残地を活用し、駐車場や展望施設としての活用が考 えられる。 ・ 集落内の小道(歩道)については、散策マップ等を作成することで、新たな 観光コースとしての活用も考えられる。 墓地 ①整備の方針 ・ 集落ごとに形成された古墓は、現在管理されていない箇所もあるので、地 元の協力を得て草刈り等を行い、見学できるようにする。 ・ ただし、故人を弔った信仰の場であるので、無用な整備は行わない。 ②活用の方針 ・ 古墓については現段階で積極的な活用は想定しないが、歴史体験ツアーな ど教育文化的な事業に際しては見学できるようにしたい。 集落の石垣景 ①整備の方針 観 ・ 宅地を取り囲む防風垣や建築物の壁の一部となっている石塀は、久賀島地 域の景観の特徴となっており、保全に努める。 ・ 連続性を阻害しているものについては、修景若しくは除去を検討する。 ②活用の方針 ・ 集落内の小道を散策すると、数多くの特徴的な石垣景観を見ることができ る。貴重な地域資源であり、散策マップ等を作成することで、新たな観光 コースとしての活用も考えられる。 広場 ①整備の方針 ・ 公園整備等については、周囲の景観と調和した施設整備に努めることとす る。広場を囲む金網のフェンスや大規模なネット、舗装材、トイレのデザ イン等につては、十分な配慮が必要である。 ・ 既存の公園については、改修の際に修景を実施していくこととする。 ②活用の方針 ・ イベント広場として、又は日常的に利用可能な憩いの場としての活用を図 る。 石造物 ①整備の方針 ・ 地域に散在する灯篭等の石造物は、現状維持に努める。 ・ 新たな記念碑等は景観を阻害する要因となり得るため、原則として設置は 行わないこととする。 ②活用の方針 ・ 石造物は地域史に深く関連するものである。その地を訪れた旅行者等がそ の価値を理解できるようなマップ等の作成が考えられる。 防風林 ①整備の方針 ・ 強い季節風を防ぐためのものであり、現状維持に努める。 ②活用の方針 ・ 集落や農地を散策すると、大規模な防風林を見ることができる。貴重な地 域資源であり、散策マップ等を作成することで、新たな観光コースとして の活用も考えられる。 - 153 - 集落の緑地及 ①整備の方針 び景観木 ・ 森林として現状維持に努める。 ・ 地域景観の核となるような樹木の伐採は行わないことを原則とする。 ②活用の方針 ・ 説明板の設置や散策マップへの掲載など周知を図る。 信仰に関する ①整備の方針 空間 ・ 現在の景観を継承することを基本とし、原風景と極端に異なりコントラス トが強い構造物等がある部分については、修景を検討する。 ・ 無形の文化について引き続き調査を行い、それを継続させるための方策を 検討する。 ②活用の方針 ・ 無形の文化の保存に加え、公開の場を持つことで、伝承されてきた貴重な 地域文化に触れる機会を提供する。 耕作地 ①整備の方針 ・ 耕作放棄地になっている場所が多いため、活用策を検討した上で、農地と して回復を検討する。また目立つ場所については定期的な除草などを行う。 ・ 地域内の価値は、散策することで理解が深まるため、必要な散策道の設定 及び整備、自然散策路の整備を行う。 ・ 農地災害復旧工事では、可能な限り従前の石材を使用する等、景観の保全 に努める。 ・ 災害復旧工事の際に必要となる自然石については、市で事前にストックし ておくことで早急に必要となる石材として利用できないか検討を行う。 ・ 景観の連続性を阻害しているコンクリート擁壁等については、修景を検討 する。 ・ 地域内での石積み技術の継承に努める。 ・ 駐車場整備等のハード事業を行う場合は、適切な場所に最低限必要な規模 で整備を行うこととする。後に策定される整備活用計画に沿った整備を進 めることとする。 ②活用の方針 ・ 集落や耕作地の修景を行うことで、交流人口増加のほか、棚田米としての 付加価値付け又は販路拡大を目指す。 ・ 学校教育の学習教材として、文化的景観を知る、触れ合う機会を提供する。 ・ 地域ブランドとしての可能性を調査し、特産品の開発を行う。 ・ 地域の特性に合致するようであれば、棚田オーナー制を検討する。 広場・耕作放棄 ①整備の方針 地等 ・ 「耕作地」の方針に準じる。 ②活用の方針 ・ 「耕作地」の方針に準じる。 工作物 ①整備の方針 ・ 電線・電柱などの地中埋設化については、工事費の問題のほか、道路掘削 や付帯施設の設置等の景観上の問題もあり、長期的な計画策定を要する。 ・ 景観を阻害する要因については、修景事業を実施していく。 ②活用の方針 ・ 不用となった工作物が、長期間放置されることがないよう努める。 - 154 - 屋外広告物 ①整備の方針 ・ 必要最小限の場所に、適切な大きさ、適切なデザインのものを配置する。 ・ 貴重な文化財の脇に案内板を設置する場合は特に注意を要し、文化財自体 の価値を損なうことがないよう努める。 ②活用の方針 ・ 本地区の文化的景観は、説明板を設置しないとその価値が分からないもの も多く、関係部署と調整を図りながら設置を行い、文化財としての活用を 図る。 その他 ①整備の方針 ・ 文化的景観の価値を高めるため、地域内の文化財の調査、修復、整備を行 う。 ・ 地域で景観協定を締結し、より細やかなルール作りを目指す。 ・ 修景に関しては、文化的景観保護推進事業で行う事業のほか、様々な支援 策を用意していくことが考えられる。 ②活用の方針 ・ 文化的景観の価値については、その区域内の住民への周知に加え、観光客 を含めた幅広い周知を行う。 ・ 生涯学習の一環として、公民館講座等を活用し、文化的景観の周知を図る。 ・ 地域の魅力をどのように伸ばし活用するのか、目標を明確にする。 ・ 学校教育の学習教材として、文化的景観を知る、触れ合う機会を提供する。 ・ 増加が見込まれる交流人口(観光客等)の受け入れ態勢を確立させる。 3.整備活用計画 本章 1 項及び 2 項で文化的景観の整備活用の方針を示したが、詳細については、後に設置される 整備活用委員会で検討を行い策定される整備活用計画に拠るものとする。この整備活用計画は、保 存調査で明らかとなった文化的景観の価値を保護し活用するため、文化的景観地域内におけるより 詳細な整備活用の指針を定めるもので、今後は、同計画に基づき整備を進め活用を図り地域振興に 繋げることとしている。以下は、五島市内における既存の取り組み等を踏まえた、整備活用計画の 骨子(案)である。 【五島市久賀島の文化的景観整備活用計画 骨子(案)】 (1)基本構想 『ツバキ林を中心とした自然景観と独特な集落景観を次世代に引き継ぐ』 ― 文化的景観を生かした「まちづくり」 ― ①地域文化の継承と創造 ②文化的景観地域の資源を生かした整備と交流人口の拡大 ③地域産業の振興 水田や牧野の景観を軸に発達してきた農漁村集落の姿を体感し、地域の文化を知ることができる ようにするため、「地域文化の継承と創造」、「文化的景観地域の資源を生かした整備と交流人口 の拡大」、「地域産業の振興」を軸に基本構想の検討を行う。 (2)基本計画 重要な構成要素として「集落」を挙げているように、本地域の文化的景観の価値は「集落の構造」 にある。その構造を保全していくための整備計画と、それらを生かした活用計画の検討を行う。 ①地域文化の継承と創造 文化的伝統の保存・継承・活用、市民の文化活動への支援、地域の文化に触れる機会の提供等が 考えられる。 - 155 - ②文化的景観地域の資源を生かした整備と交流人口の拡大 農漁村景観を生かした、体験型・滞在型観光の推進について検討を行う。テーマにあったメニュー を充実させ、文化的景観を生かした周知啓発ルート(まち歩き型観光の擁立)の設定等が考えられ るが、併せて、地域におけるもてなし体制も充実させる必要がある。交流人口の対象は市外からの 観光客のみではなく、周辺地域に住む市民も対象にすべきであり、市民参加型イベント等を開催し ながら周知啓発の取り組みを継続させる必要がある。 文化的景観地域の情報発信の強化、広域連携による活用の方策、文化的景観に配慮した整備等、 地域と行政の連携も重要になってくる。 ③地域産業の振興 地域産業の振興は、地域社会の基盤を安定させるために重要なことであるため、関係機関と連携 を図りながら取り組みを進める。 ■地域資源を磨き、生かすための取り組み 地域資源を磨 地域資源を生 ■地域文化の継承と創造 ■文化的景観地域の資源を 生かした整備 ■地域産業の振興 ■文化的景観地域の資源を 生かした観光への活用 ■産業振興への活用 情報発信 交流人口の拡大、地域の活性化やにぎわいの創出 新たな観光施設を作るのではなく、既にある地域資源を磨き生かすことを考える。文化的景観地 域内での体験事業(農家、漁師体験、ツバキ実採取体験、ツバキ樹の植栽)や地域における景観保 全の取り組み等を踏まえ、総合的な整備活用計画を策定しなければならない。 (3)五島市における文化的景観地域の位置づけ 様々な計画や各種事業間における文化的景観地域の位置づけを明確にし、本地域の振興につい て、全庁的な取り組みを行える体制を確立させる。 また、施設整備にあたっては、現在の観光客の入り込み状況を把握しながら、適切な場所に拠点 施設を設けることが肝要である。 整備活用計画を策定するにあたっては、適切なゾーニングを行い、各地域が生かすべき魅力を把 握した上で、動線計画やそれに伴う整備計画をたて、それを活用するための方策について検討を行 う。 五島市における観光客数は年間約 20 万人であり、五島観光に期待するものとしては、「自然・ 景観」、「郷土料理」、「教会」、「海水浴」などが想定される。 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産暫定リストに登録されて以降、その構成資産 候補である「旧五輪教会堂」が所在する久賀島にも観光客が急増している。まずは、これまでの観 - 156 - 光客の流れを、旧五輪教会堂のみならず文化的景観地域へと周遊させる仕組み作りを行うことが必 要である。 以下に示すのは、久賀島の文化的景観地域における周知啓発ルートを「観光ルートの将来像」と 「観光基盤整備イメージ」に区分けした案である。 - 157 - - 158 - 第3章 文化的景観の整備活用に関する事項 1.整備活用に関する考え方 基本方針を踏まえ、整備活用に関する考え方を以下に示す。 整備活用については、自然的空間と集落及び生活・生業的空間を体感し、地域の文化を知ること ができるようにすることを基本とする。調査研究による価値づけを継続することはもちろんのこ と、修景事業の計画・実施、景観保全を担う人材育成等、検討事項は多岐に渡る。 下五島地域(久賀島)の文化的景観の整備は、自然的景観と集落及び生活・生業的景観を保全する よう努める。文化的景観の保全については、関係部署と調整し、価値のき損や滅失がないように努 めることが原則である。 公共事業については、これまで管理者が異なるという理由から、隣接する場所であっても、工法 や材料の違いがあり、景観保全の整合性が取りにくいことが課題であった。公共工事は景観への影 響が大きいため、景観保全に対する認識を統一する必要がある。また、農漁村集落景観には、学校、 橋梁、道路、港等、景観に大きな影響を及ぼす公共施設が含まれている事が多い。これらについて は、景観計画の中で景観重要公共施設として位置づけ、整備に関する事項を定めることも想定され る。国土交通省から、「公共事業における景観検討の基本方針」(H21.4.1 改訂)が示されており、 その他景観ガイドライン等も多数策定されていることから、それらの内容を踏まえた事業実施に努 めることとする。(第 7 章参考資料:公共事業におけるガイドライン等の尊重) 文化的景観を確実に継承していくため、地域住民の必要に応じて景観計画の見直し等も検討して いく。 文化的景観の活用のため、上述した景観保全の取り組みと同時に、県内に分布する同様の価値を 持つ文化的景観地域との連携を図り、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録の取 り組みに併せ、広域な周知啓発ルート等の開発に取り組むこととする。 保存調査で抽出された景観阻害要因については、文化庁事業等を活用して、修景や除去に努める。 これらの修理修景を実施しながら、地域内の拠点施設の整備や、サイン計画等を併せて検討する。 また、文化的景観を長期的に保全し、継続していくために、地域産業の育成を図るものとする。 2.整備活用の方針 (1)自然的観点 景観を構成す 整備活用の方針 る要素 天然林 ①整備の方針 ・ 天然林としての保全に努める。 ・ 保安林として保全に努める。 ②活用の方針 ・ ツバキ林 全体眺望として、文化的景観の価値と併せて周知できる方法を検討する。 ①整備の方針 ・ その保全に努めることとするものの、荒廃を防ぐために適切な管理が必要 である。 ②活用の方針 ・ 二次林 ツバキ油搾油のためのツバキ実採取を図る。 ①整備の方針 ・ 下草刈りや間伐など手入れを行い里山として管理する。 ・ 用材として一定規模以上を伐採した場合は、植林を行うなど植生の早期回 復に努める。 - 150 - ②活用の方針 ・ 里山を活用した取り組みが望まれる。 ・ 木炭など林産物の生産を図る。 人工造林 ①整備の方針 ・ 用材として一定規模以上を伐採した場合は、植林を行うなど植生の早期回 復に努める。 ②活用の方針 ・ 用材などの林産物の生産を図る。 道路 ①整備の方針 ・ 地域内の価値は、散策することで理解が深まるため、必要な散策道の設定 及び整備、自然散策路の整備を検討する。 ②活用の方針 ・ 森林内を通る里道等を散策することで、林空間の活用を検討する。 海岸・河川 ①整備の方針 ・ 自然海岸としての保全に努める。 ・ 自然護岸や自然石積護岸を活かした整備に努める。 ②活用の方針 ・ 自然海岸は景観を活かした散策場所とする。 ・ 磯場は魚介類や藻類の採集場として保全する。 その他 ①整備の方針 ・ 修景に関しては、重要文化的景観保護推進事業のほか様々な支援策を検討 する必要がある。 ②活用の方針 ・ 海岸などの自然景観や天然記念物を活かした散策ルートの設定を検討す る。 (2)集落及び生活・生業的観点 景観を構成す 整備活用の方針 る要素 住居 ①整備の方針 ・ 現在、集落には木造平屋建で勾配のある屋根形状を有しているものが多い。 住居は木造が望ましく、高さについては2階建て以下を原則とする。 ・ 空家は所有者の協力を得て散策を行う際の休憩施設、物販所などとしての 整備が考えられる。 ・ 島内には廃屋が点在しており、これらは景観上好ましいとはいえない。私 有財産であり解体処分等の対策には法的な壁もあるが、所有者との折衝や 島内での協議などにより、対策を講じたい。 ②活用の方針 ・ 魅力ある集落景観を作ることで、交流人口の増加を図る。 ・ 農漁家民泊としての利用を検討し、交流人口への受け入れ態勢の充実を検 討する。 ・ ただし、これまでの島の暮らしを保全する観点からも、大規模な交流人口 - 151 - 増を目指すことは想定しない。 工場・事業所 ①整備の方針 ・ 地域イベント開催時の拠点施設として、周辺部の整備も考えられる。 ・ 現在、島内には地元産の土産品を流通販売する組織・施設がないため、こ れらソフト・ハードともに、その必要性や対応策を島内組織で協議する。 ②活用の方針 ・ 他の地域では漁協や農協など地域の組織で地場物産品の即売会を行ってい る事例も多数あり、他地区を参考に活用策を検討する。 神社、寺、教会 ①整備の方針 堂 ・ 旧五輪教会堂(重要文化財)については、各種補助事業等を利用し修景整備 を検討する。 ・ 参道や庭園等、建築物と一体となって良好な景観を形成しているものも含 めて保存整備を検討する。 ・ 従来の構造、材料、色彩等の保存に努めた整備を行うこととする。 ②活用の方針 ・ 観光利用が多い旧五輪教会堂は、地域活動の拠点となることも想定される 場所であり、整備活用計画との連携を図る。 ・ 島内の寺社やそれらに付随する石造物なども文化的景観の価値を付加する ことによって、更なる活用方策を検討することとする。 ・ ただし、これらは信仰の場であり、島内住民の生活に直結しているところ であるので、十分に配慮が必要である。 公共施設 ①整備の方針 ・ 学校や消防倉庫等を改修する場合は、周囲の景観との調和に努める。 ・ 漁港整備で、大きな構造物が設置される場合は、特に周囲の景観に調和す るよう配慮する。 ②活用の方針 ・ 既に設置されている公共施設(学校や公園等の広場)については、地域活 動の場として積極的に利用ができる要調整を行う。 道路・里道 ①整備の方針 ・ 地域内の価値は、散策することで理解が深まるため、必要な散策道の設定 及び整備、自然散策路の整備を検討する。現段階では島内の主要な幹線道 路及び里道がこれにあたることを想定する。 ・ 島内道路の整備については、無用な拡幅・拡張はせず、住民からの生活改 善要望として上がっている箇所については、必要最小限の幅員を確保する よう改修していく。 ・ 道路線形は既存道路の線形や地形を極力踏襲したものとし、新たに発生す る法面や切土面、護岸が最小限となるよう設計する。 ・ 法面や切土面には緑化を施す。 ・ 法面に吹きつけを施す場合には、彩度・明度の低いグレー系の色とする。 ・ 護岸は極力自然石護岸とするよう努める。自然石護岸の積み方や素材につ いては、周辺の既存の護岸と合ったものとする。 ・ 車両用防護柵を設置する場合はガードパイプを使用し、基本的にはベージ ュ色とする。海岸道路では亜鉛メッキかベージュを候補とし、現地での検 討により決定する。 - 152 - ・ 鋼橋の色は周辺景観と調和したものとなるよう現地での検討を行う。 ②活用の方針 ・ 荒廃している里道の復活など、既存の歩道等を利用した遊歩道の整備が考 えられる。 ・ 道路整備の際に生じる残地を活用し、駐車場や展望施設としての活用が考 えられる。 ・ 集落内の小道(歩道)については、散策マップ等を作成することで、新たな 観光コースとしての活用も考えられる。 墓地 ①整備の方針 ・ 集落ごとに形成された古墓は、現在管理されていない箇所もあるので、地 元の協力を得て草刈り等を行い、見学できるようにする。 ・ ただし、故人を弔った信仰の場であるので、無用な整備は行わない。 ②活用の方針 ・ 古墓については現段階で積極的な活用は想定しないが、歴史体験ツアーな ど教育文化的な事業に際しては見学できるようにしたい。 集落の石垣景 ①整備の方針 観 ・ 宅地を取り囲む防風垣や建築物の壁の一部となっている石塀は、久賀島地 域の景観の特徴となっており、保全に努める。 ・ 連続性を阻害しているものについては、修景若しくは除去を検討する。 ②活用の方針 ・ 集落内の小道を散策すると、数多くの特徴的な石垣景観を見ることができ る。貴重な地域資源であり、散策マップ等を作成することで、新たな観光 コースとしての活用も考えられる。 広場 ①整備の方針 ・ 公園整備等については、周囲の景観と調和した施設整備に努めることとす る。広場を囲む金網のフェンスや大規模なネット、舗装材、トイレのデザ イン等につては、十分な配慮が必要である。 ・ 既存の公園については、改修の際に修景を実施していくこととする。 ②活用の方針 ・ イベント広場として、又は日常的に利用可能な憩いの場としての活用を図 る。 石造物 ①整備の方針 ・ 地域に散在する灯篭等の石造物は、現状維持に努める。 ・ 新たな記念碑等は景観を阻害する要因となり得るため、原則として設置は 行わないこととする。 ②活用の方針 ・ 石造物は地域史に深く関連するものである。その地を訪れた旅行者等がそ の価値を理解できるようなマップ等の作成が考えられる。 防風林 ①整備の方針 ・ 強い季節風を防ぐためのものであり、現状維持に努める。 ②活用の方針 ・ 集落や農地を散策すると、大規模な防風林を見ることができる。貴重な地 域資源であり、散策マップ等を作成することで、新たな観光コースとして の活用も考えられる。 - 153 - 集落の緑地及 ①整備の方針 び景観木 ・ 森林として現状維持に努める。 ・ 地域景観の核となるような樹木の伐採は行わないことを原則とする。 ②活用の方針 ・ 説明板の設置や散策マップへの掲載など周知を図る。 信仰に関する ①整備の方針 空間 ・ 現在の景観を継承することを基本とし、原風景と極端に異なりコントラス トが強い構造物等がある部分については、修景を検討する。 ・ 無形の文化について引き続き調査を行い、それを継続させるための方策を 検討する。 ②活用の方針 ・ 無形の文化の保存に加え、公開の場を持つことで、伝承されてきた貴重な 地域文化に触れる機会を提供する。 耕作地 ①整備の方針 ・ 耕作放棄地になっている場所が多いため、活用策を検討した上で、農地と して回復を検討する。また目立つ場所については定期的な除草などを行う。 ・ 地域内の価値は、散策することで理解が深まるため、必要な散策道の設定 及び整備、自然散策路の整備を行う。 ・ 農地災害復旧工事では、可能な限り従前の石材を使用する等、景観の保全 に努める。 ・ 災害復旧工事の際に必要となる自然石については、市で事前にストックし ておくことで早急に必要となる石材として利用できないか検討を行う。 ・ 景観の連続性を阻害しているコンクリート擁壁等については、修景を検討 する。 ・ 地域内での石積み技術の継承に努める。 ・ 駐車場整備等のハード事業を行う場合は、適切な場所に最低限必要な規模 で整備を行うこととする。後に策定される整備活用計画に沿った整備を進 めることとする。 ②活用の方針 ・ 集落や耕作地の修景を行うことで、交流人口増加のほか、棚田米としての 付加価値付け又は販路拡大を目指す。 ・ 学校教育の学習教材として、文化的景観を知る、触れ合う機会を提供する。 ・ 地域ブランドとしての可能性を調査し、特産品の開発を行う。 ・ 地域の特性に合致するようであれば、棚田オーナー制を検討する。 広場・耕作放棄 ①整備の方針 地等 ・ 「耕作地」の方針に準じる。 ②活用の方針 ・ 「耕作地」の方針に準じる。 工作物 ①整備の方針 ・ 電線・電柱などの地中埋設化については、工事費の問題のほか、道路掘削 や付帯施設の設置等の景観上の問題もあり、長期的な計画策定を要する。 ・ 景観を阻害する要因については、修景事業を実施していく。 ②活用の方針 ・ 不用となった工作物が、長期間放置されることがないよう努める。 - 154 - 屋外広告物 ①整備の方針 ・ 必要最小限の場所に、適切な大きさ、適切なデザインのものを配置する。 ・ 貴重な文化財の脇に案内板を設置する場合は特に注意を要し、文化財自体 の価値を損なうことがないよう努める。 ②活用の方針 ・ 本地区の文化的景観は、説明板を設置しないとその価値が分からないもの も多く、関係部署と調整を図りながら設置を行い、文化財としての活用を 図る。 その他 ①整備の方針 ・ 文化的景観の価値を高めるため、地域内の文化財の調査、修復、整備を行 う。 ・ 地域で景観協定を締結し、より細やかなルール作りを目指す。 ・ 修景に関しては、文化的景観保護推進事業で行う事業のほか、様々な支援 策を用意していくことが考えられる。 ②活用の方針 ・ 文化的景観の価値については、その区域内の住民への周知に加え、観光客 を含めた幅広い周知を行う。 ・ 生涯学習の一環として、公民館講座等を活用し、文化的景観の周知を図る。 ・ 地域の魅力をどのように伸ばし活用するのか、目標を明確にする。 ・ 学校教育の学習教材として、文化的景観を知る、触れ合う機会を提供する。 ・ 増加が見込まれる交流人口(観光客等)の受け入れ態勢を確立させる。 3.整備活用計画 本章 1 項及び 2 項で文化的景観の整備活用の方針を示したが、詳細については、後に設置される 整備活用委員会で検討を行い策定される整備活用計画に拠るものとする。この整備活用計画は、保 存調査で明らかとなった文化的景観の価値を保護し活用するため、文化的景観地域内におけるより 詳細な整備活用の指針を定めるもので、今後は、同計画に基づき整備を進め活用を図り地域振興に 繋げることとしている。以下は、五島市内における既存の取り組み等を踏まえた、整備活用計画の 骨子(案)である。 【五島市久賀島の文化的景観整備活用計画 骨子(案)】 (1)基本構想 『ツバキ林を中心とした自然景観と独特な集落景観を次世代に引き継ぐ』 ― 文化的景観を生かした「まちづくり」 ― ①地域文化の継承と創造 ②文化的景観地域の資源を生かした整備と交流人口の拡大 ③地域産業の振興 水田や牧野の景観を軸に発達してきた農漁村集落の姿を体感し、地域の文化を知ることができる ようにするため、「地域文化の継承と創造」、「文化的景観地域の資源を生かした整備と交流人口 の拡大」、「地域産業の振興」を軸に基本構想の検討を行う。 (2)基本計画 重要な構成要素として「集落」を挙げているように、本地域の文化的景観の価値は「集落の構造」 にある。その構造を保全していくための整備計画と、それらを生かした活用計画の検討を行う。 ①地域文化の継承と創造 文化的伝統の保存・継承・活用、市民の文化活動への支援、地域の文化に触れる機会の提供等が 考えられる。 - 155 - ②文化的景観地域の資源を生かした整備と交流人口の拡大 農漁村景観を生かした、体験型・滞在型観光の推進について検討を行う。テーマにあったメニュー を充実させ、文化的景観を生かした周知啓発ルート(まち歩き型観光の擁立)の設定等が考えられ るが、併せて、地域におけるもてなし体制も充実させる必要がある。交流人口の対象は市外からの 観光客のみではなく、周辺地域に住む市民も対象にすべきであり、市民参加型イベント等を開催し ながら周知啓発の取り組みを継続させる必要がある。 文化的景観地域の情報発信の強化、広域連携による活用の方策、文化的景観に配慮した整備等、 地域と行政の連携も重要になってくる。 ③地域産業の振興 地域産業の振興は、地域社会の基盤を安定させるために重要なことであるため、関係機関と連携 を図りながら取り組みを進める。 ■地域資源を磨き、生かすための取り組み 地域資源を磨 地域資源を生 ■地域文化の継承と創造 ■文化的景観地域の資源を 生かした整備 ■地域産業の振興 ■文化的景観地域の資源を 生かした観光への活用 ■産業振興への活用 情報発信 交流人口の拡大、地域の活性化やにぎわいの創出 新たな観光施設を作るのではなく、既にある地域資源を磨き生かすことを考える。文化的景観地 域内での体験事業(農家、漁師体験、ツバキ実採取体験、ツバキ樹の植栽)や地域における景観保 全の取り組み等を踏まえ、総合的な整備活用計画を策定しなければならない。 (3)五島市における文化的景観地域の位置づけ 様々な計画や各種事業間における文化的景観地域の位置づけを明確にし、本地域の振興につい て、全庁的な取り組みを行える体制を確立させる。 また、施設整備にあたっては、現在の観光客の入り込み状況を把握しながら、適切な場所に拠点 施設を設けることが肝要である。 整備活用計画を策定するにあたっては、適切なゾーニングを行い、各地域が生かすべき魅力を把 握した上で、動線計画やそれに伴う整備計画をたて、それを活用するための方策について検討を行 う。 五島市における観光客数は年間約 20 万人であり、五島観光に期待するものとしては、「自然・ 景観」、「郷土料理」、「教会」、「海水浴」などが想定される。 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産暫定リストに登録されて以降、その構成資産 候補である「旧五輪教会堂」が所在する久賀島にも観光客が急増している。まずは、これまでの観 - 156 - 光客の流れを、旧五輪教会堂のみならず文化的景観地域へと周遊させる仕組み作りを行うことが必 要である。 以下に示すのは、久賀島の文化的景観地域における周知啓発ルートを「観光ルートの将来像」と 「観光基盤整備イメージ」に区分けした案である。 - 157 - - 158 - 第4章 文化的景観を保存するために必要な体制に関する事項 1.管理運営に関する考え方 基本方針を踏まえ、管理運営に関する考え方を以下に示す。 地域の文化的景観は「地域の資産」であり、良好な景観とともに継承していくには、地域住民と 行政の協働が必要になってくる。「良好な景観」の定義は主観に拠るところが大きく、概念的であ り、地域の人たちがその議論を深めることは難しいと思われる。しかし、自分たちの町にとって、 何が好ましく、何を残していきたいのかを挙げることは可能であり、対象物が明確になると、景観 保全に対する意識も向上してくるものである。 久賀島は、自然への人為的な働きかけで景観が形成されてきた場所であり、それら生業が営まれ る中で形成されてきた景観を引き継ぐことが重要である。そのためには、地域住民及び行政は文化 的景観の価値を正しく理解し、その継承のために必要な体制づくりを進めなければならない。 本計画は、あくまで文化的景観の保存継承の枠組みを定めるものであり、この計画が効力を発揮 し景観保全への取り組みへと繋げていくためには、景観行政団体である五島市や国・県等の施設管 理者、地域住民の協力関係の構築が求められる。 文化的景観の整備と活用 【行政が行う整備】 ・修理基準、修景基準に基づく整備 ・庁内関係部署との連絡調整 ・国、県関係機関との協力体制 ・地域への支援策 【所有者が行う整備】 ・修理基準、修景基準に基づく整備 ・良好な景観を維持するための修景 ・行政と協力した担い手育成策 【早期に検討すべき整備活用計画】 ・観光、学校教育、生涯学習の場とし て ・地域にとって必要な公共事業とは ・地場産品の育成 2.地域住民の役割 景観法で高さや色等の基準を設けたところで、それを守れば必ずしも良好な景観が形成されてい くというものではない。画一的な「作られた景観」を形成することが目的ではなく、立地する場所 の条件や周辺環境により、景観に配慮すべき事項は異なってくるものである。景観は、庭の手入れ や空き地の利用の仕方等、それらの使い方に拠るところもある。地区を対象としたゆるやかな協定 により自主管理することは、地域景観へのコンセンサスを作っていく効果があり、そうした自主的 な取り組みで補完することによって広がりが出てくると考えられる。景観協定は、景観規制のルー ルとしても使えるし、自発的な景観創造の制度としても活用できるものである。 文化的景観の継承は、行政の施策と共にそこに住む地域住民の参画と自主性が重要となる。本地 区は、自治会組織が強く機能している地域であるため、これらを活動の母体組織として位置づけ、 - 159 - 自分たちができる事から始め、農地が荒れる原因として挙げられる、高齢化や後継者不足の問題を 補うための担い手育成への取り組み等を通じて、町全体で文化的景観の継承に取り組むこととした い。 3.行政の役割 五島市においては、地域の特性に応じて、景観計画により段階的な規制を設定した。地域づくり を行うにあたっては、規制のみの制度ではなく、規制のレベルに応じた支援策を用意すべきであり、 規制と支援のバランスの取れた制度にしていくことが肝要である。(支援については、人的支援、 経済的支援、規制緩和等が考えられる。) 文化的景観の管理と継承に関する効率的な行政運営を行うため、関係する庁内担当課との連携を 強化し、横断的な連絡調整が可能な体制づくりを行うこととする。 また、今後策定される、文化的景観整備活用計画については、新たな体制を整え検討することと したい。 - 160 - 第5章 文化的景観における重要な構成要素 1.景観を構成する重要な構成要素の考え方 「五島市久賀島の文化的景観」の景観は、「森林の利用に関する景観地」、「居住に関する景 観地」として典型的又は独特のものであり、また、それらに無形の要素が深く結びついていること が本質的な価値であることは保存調査で述べたとおりである。 本地域における集落の構造自体が価値を持つのであり、それらの集落における有形・無形の構造 を保全していくことが肝要である。 2.重要な構成要素一覧 文化的景観を構成する重要な構成要素であり、1 次申出を行うもの以外の要素についても、地域 における文化的景観への理解及び同意集約の状況をみながら、早期に追加申出を行うものとする。 (1)景観を構成する重要な構成要素一覧 1.集落 ※集落の範囲には、居住地(歴史的石積み、集落が管理する宗教施設、墓地、家屋、里道、排水路)、 生業空間(棚田、段畑、里山)、周囲の自然的空間(小河川、自然林、ヤブツバキ)を含むものとし、 これらの要素を保全することを原則とする。 番 号 種 類 名 称 管理者等 申出順 A 集落 外幸泊地区 自治会 1次 B 〃 蕨地区 〃 〃 小島地区 〃 〃 C D 〃 猪之木地区 〃 〃 E 〃 永里地区 〃 〃 F 〃 大開地区 〃 〃 G 〃 久賀地区 〃 〃 H 〃 市小木地区 〃 〃 I 〃 内上平地区 〃 〃 J 〃 田ノ浦地区 〃 〃 K 〃 外上平地区 〃 〃 L 〃 深浦地区 〃 〃 備 考 備 考 2.居住地を構成する要素 番 号 1 2 種 類 住居 神社、寺、教 会堂 名 称 管理者等 申出順 民家(F 邸) 個人 1次 特徴的な家屋 折紙神社 団体 〃 久賀島全体の鎮守社 3 〃 禅海寺 団体 〃 4 〃 旧五輪教会堂 市 〃 - 161 - 2.居住地を構成する要素(公共施設) 番 号 種 類 公共施設 5 (漁港) 名 称 管理者等 申出順 細石流漁港 市 1次 備 6 〃 蕨漁港 〃 〃 7 〃 五輪漁港 〃 〃 8 〃 田ノ浦漁港 〃 〃 9 〃 野園漁港 〃 〃 折紙展望台 団体 〃 県道久賀島線 県 〃 一般県道 久賀・永里線 市 〃 一級路線 公共施設 10 (公園) 公共施設 11 (道路) 公共施設 12 (道路) 考 13 〃 永里・細石流路線 〃 〃 二級路線 14 〃 永里・猪ノ木路線 〃 〃 〃 15 〃 大開・赤仁田線 〃 〃 〃 16 〃 浜脇・野園線 〃 〃 〃 17 〃 久賀島 7 号線 〃 〃 その他の路線 蕨林道 〃 〃 永里林道 〃 〃 久賀線 〃 〃 脇ノ内線 〃 〃 公共施設 18 (林道) 19 〃 公共施設 20 (農道) 21 〃 3.自然的空間を構成する要素 番 号 22 種 類 ツバキ林 名 称 管理者等 申出順 備 長浜のツバキ林 市及び集落 1次 原始林 亀河原のツバキ林 市及び集落 〃 二次林 考 23 〃 24 河川 猪ノ木川 県 〃 二級河川 25 河川 市小木川 〃 〃 〃 26 河川 市管理河川 市 〃 別添地図参照 - 162 - ■ 重要な構成要素(1 次申出に係るもの) 番 号 A 種 類 集落 名 称 外幸泊地区 住 所 五島市蕨町外幸泊 管理者 外幸泊町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 B 種 類 集落 名 称 蕨地区 住 所 五島市蕨町蕨 管理者 蕨町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 C 種 類 集落 名 称 小島地区 住 所 五島市蕨町小島 管理者 小島町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 D 種 類 集落 名 称 猪之木地区 住 所 五島市猪之木町猪之木 管理者 猪之木町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む - 163 - 番 号 E 種 類 集落 名 称 永里地区 住 所 五島市猪之木町永里 管理者 永里町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 F 種 類 集落 名 称 大開地区 住 所 五島市久賀町大開 管理者 大開町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 G 種 類 集落 名 称 久賀地区 住 所 五島市久賀町久賀 管理者 久賀町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 H 種 類 集落 名 称 市小木地区 住 所 五島市久賀町市小木 管理者 市小木町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む - 164 - 番 号 I 種 類 集落 名 称 内上平地区 住 所 五島市久賀町内上平 管理者 内上平町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 J 種 類 集落 名 称 田ノ浦地区 住 所 五島市田ノ浦町田ノ浦 管理者 田ノ浦町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 K 種 類 集落 名 称 外上平地区 住 所 五島市田ノ浦町外上平 管理者 外上平町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む 番 号 L 種 類 集落 名 称 深浦地区 住 所 五島市猪之木町深浦 管理者 深浦町内会 備 住居、墓地、集落が管理する農 考 地を含む - 165 - 番 号 1 種 類 住居 名 称 F邸 住 所 五島市久賀町 103・104 合併 管理者 個人 備 考 特徴的な武家屋敷造りの家屋 番 号 2 種 類 神社、寺、教会堂 名 称 折紙神社 住 所 五島市久賀町71番地外 管理者 宗教法人 備 考 久賀島全体の鎮守社 番 号 3 種 類 神社、寺、教会堂 名 称 禅海寺 住 所 五島市久賀町 94 番地第 2・95 番 地合併 管理者 宗教法人 備 考 久賀島唯一の寺。1650 年創建。 番 号 4 種 類 神社、寺、教会堂 名 称 旧五輪教会堂 住 所 五島市蕨町 993-11 管理者 五島市 備 国指定重要文化財。 考 - 166 - 番 号 5 種 類 公共施設(漁港) 名 称 細石流漁港 住 所 五島市猪之木町細石流 管理者 五島市 備 考 番 号 6 種 類 公共施設(漁港) 名 称 蕨漁港 住 所 五島市蕨町蕨 管理者 五島市 備 考 番 号 7 種 類 公共施設(漁港) 名 称 五輪地区 住 所 五島市蕨町五輪 管理者 五島市 備 考 番 号 8 種 類 公共施設(漁港) 名 称 田ノ浦漁港 住 所 五島市田ノ浦町田ノ浦 管理者 備 五島市 考 - 167 - 番 号 9 種 類 公共施設(漁港) 名 称 野園漁港 住 所 五島市田ノ浦町野園 管理者 五島市 備 考 番 号 10 種 類 公共施設(公園) 名 称 折紙展望台 住 所 五島市蕨町 260 番地 2 管理者 団体 備 考 番 号 22 種 類 ツバキ林 名 称 長浜のツバキ林 住 所 五島市田ノ浦町黒河原 管理者 土地:五島市 立木:大開町内会 備 考 県指定天然記念物 番 号 23 種 類 ツバキ林 名 称 亀河原のツバキ林 住 所 五島市田ノ浦町亀河原 管理者 土地:五島市 立木:五島市及び猪之木町内会 備 考 - 168 - 番 号 24 種 類 河川 名 称 猪之木川 住 所 五島市猪之木町 管理者 長崎県 備 考 二級河川 番 号 25 種 類 河川 名 称 市小木川 住 所 五島市久賀町 管理者 長崎県 備 二級河川 考 - 169 - 重要な構成要素位置図(集落) 170 重要な構成要素位置図(居住地) 171 重要な構成要素位置図(公共施設) 172 重要な構成要素位置図(自然空間を構成する要素) 173 重要な構成要素位置図(自然空間を構成する要素:河川) 174 第6章 参考資料 1.公共事業におけるガイドライン 国土交通省においては、平成 15 年7月に公表した「美しい国づくり政策大綱」において、良好 な景観形成に持続的に取り組むためのシステムを確立するという観点から「公共事業における景観 アセスメント(景観評価)システム」が位置づけられている。 「国土交通省所管公共事業における景観検討の基本方針」が、平成 19 年度から運用を開始されて おり、平成 21 年 4 月 1 日に最終改訂が行われている。今回の改訂のポイントは以下のとおりであ る。 ① 景観評価を景観検討の一環として位置づけ ② 対象事業を全ての直轄事業に拡大 ③ 景観上の重要度によって事業の景観検討区分を3分類 ④ 「景観整備方針」によって景観検討の一貫性を担保 ⑤ 景観検討に関する事後評価の適正な実施 ③の景観検討区分については、「重点検討事業」「一般検討事業」「検討対象外事業」の 3 つに 区分されており、重要文化的景観は「優れた景観を有する地域で行う重点検討事業」の対象地域と なっている。 その他、長崎県では「世界遺産登録に向けた公共事業のあり方ガイドライン(暫定版)」を作成し ているため、これらと連携し、一帯となった景観検討を行う必要がある。 2.風力発電施設について 環境省自然環境局において、平成 16 年 2 月に「国立・国定公園内における風力発電施設設置の あり方に関する基本的な考え方」を示している。 その中で、「風力発電施設が、地域へのエネルギー供給や地球温暖化防止へ寄与という公益性を 有することは認められるとしても、なお、国立・国定公園外において、立地の可能性や各種取組に よる風力発電の推進が期待される状況においては、一般論として公園の保護の公益性を上回るよう な特別な立地の必然性や公益性が認められるものとは判断できない。」とされている。 なぜその場所が国立・国定公園に指定されているのか、その意義や目的を踏まえ、国立・国定公 園における風力発電施設の立地の必要性や公益性について、個別に検討を行うこととする。 -175 - 【五島市久賀島の文化的景観保存計画】 発 行 五島市 平成 23 年3月 執筆編集 五島市文化推進室
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