LA-NY Footrace 2011 完走報告

LA-NY Footrace 2011 完走報告
ロサンゼルス~ニューヨーク (5139.2km)
2011年6月19日~8月27日
越田 信 Makoto Koshita
2012年3月30日発行 (第0.999版)
目
次
LA-NY Footrace の概要
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 1
渡米前
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2
6月15日
出国前日の準備
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
6月16日
出国、ロサンジェルス到着 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
6月17日
開会式
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 3
6月18日
ステージ1のコース下見
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4
第1週 6月19日~6月25日
Huntington Beach (CA) - Needles (CA)
483.9 km (300.7 miles) ・・・ 5
第2週 6月26日~7月2日
Needles (CA) - Birdspring (AZ)
473.2 km (294.0 miles) ・・・10
第3週 7月3日~7月9日
Birdspring (AZ) - Abiquiu Lake (NM)
515.5 km (320.3 miles) ・・・16
第4週 7月10日~7月16日
Abiquiu Lake (NM) - Guymon (OK)
540.6 km (335.9 miles) ・・・19
第5週 7月17日~7月23日
Guymon (OK) - Pawhuska (OK)
509.0 km (316.3 miles) ・・・22
第6週 7月24日~7月30日
Pawhuska (OK) - KS - St Robert (MO)
524.8 km (326.1 miles) ・・・25
第7週 7月31日~8月6日
St Robert (MO) - New Berlin (IL)
466.5 km (289.9 miles) ・・・29
第8週 8月7日~8月13日
New Berlin (IL) - IN - South Vienna (OH)
567.9 km (352.9 miles) ・・・33
第9週 8月14日~8月20日
South Vienna (OH)- Hancock (MD)
564.1 km (350.5 miles) ・・・39
第10週 8月21日~8月27日
Hancock (MD)-PA-MD-PA-NJ-New York(NY) 493.7 km (306.8 miles) ・・・42
休養、観光、帰国
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・47
レースを振り返って
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・49
LA-NY Footrace の概要
2011年6月19日から8月27日までの70日間にわたって、 LA-NY Footrace 2011 が開催さ
れた。主催者は UltraRunning Association (URA)で全員がフランス人。当初は五大陸横断走
を行った Serge Girard が企画の中心だったが、大会直前に彼は自らがランナーとして参加す
ることを決めて、彼のパートナーである Laure Magnan に運営を任せた。 URA は彼女を中心
に Rene Girard が全行程の運営にかかわり、前半は Bertrand Plaquevent 、 Anne Plaquevent 、
David Antonine が加わり、中盤の中継ぎ役に2名、後半は Berengere Courant と Emilie Carion
が加わり、最終盤には Bertrand と David が再登場した。
コースはロサンゼルス近郊の Huntington Beach ハンティントンビーチから New York ニュー
ヨークまでの約 3,200 マイルで、コース変更が何度かあり、最終的な距離は、 5,139.2 km
(3,193.4 マイル)になった。走った州は、カリフォルニア州(CA)、アリゾナ(AZ)、ニューメキシコ
(NM)、オクラホマ(OK)、カンザス(KS)、ミズーリ(MO)、イリノイ(IL)、インディアナ(IN)、オハイオ
(OH)、ウェストヴァージニア(WV)、ペンシルバニア(PA)、マリーランド(MD)、ニュージャージー
(NJ)、ニューヨーク州(NY)の 14 州だった。参加者はランナー14名、サイクリスト1名、キックバ
イカー1名だった。
No. 氏名
報告での表記 国名
備考
1 James Adams
ジェームズ イギリス
スパルタスロン、サハラマラソンなどを完走
3 Gerard Bavato
ジェラード フランス ニジェール横断 1 位、 Badwater 世界記録
4 Philippe Grizard フィリップ
フランス トランスガウレ、バッドウォーターなどを完走
5 Patrick Malandain パトリック
フランス Le Havre - Istanbul 2007 miles in 53 days
6 Rainer Koch
ライナー
ドイツ
TE-FR 2009 1 位、 PB: マラソン 2:39:28
7 Markus Mueller マルカス
ドイツ(米国)
Trans Australia Footrace 2001, ロー
ドブック作成協力者
8 Italo Orru
イタロー
イタリア サハラマラソン、アタカマ横断
9 Yoshiaki Bando 坂東 日本
アフリカ大陸横断(ケニア-カメルーン)5500km
10 Makoto Koshita 越田 日本
Run Across America 2002 完走
11 Yoshiaki Ishihara 石原
日本
スパルタスロン、サハラマラソンなどを完走
12 Yoshimi Tanaka 田中 日本
4倍トライアスロン、日本アルプス縦走ランなどを完走
13 Serge Girard
セルジュ
フランス 5大陸横断完走(40979km, 551日)
14 Jenni De Groot
ジェニー
オランダ TE-FR 2009 (3300km)
16 Alexandro Bellini アレックス
イタリア
ボートで地中海・大西洋、ペルー-オースト
ラリア単独横断
00 Peter Bartel
ピーター
ドイツ
キックバイカー、 TE-FR 2009 完走
14A Anneke Kuiper
アンネケ
オランダ サイクリスト、ジェニーをサポート
70日間のレースのうち初日から13日目まではサポートクルー帯同が義務づけられていた。
日本人ランナー4名は、菅原強さん、浪越保正さん、井口章司さんの3名に全行程を、岩田智
さんには第28ステージまでをサポートしてもらった。
8名のランナーと1名ずつのキックバイカーとサイクリストが完走。2日目に1名、4日目に3名、
8日目に2名のランナーがリタイアしたが、ステージランナーとしてニューヨークまで走った。
- 1 -
渡米前
ランナーとクルーの相談は、メールのやりとりで主に行ったが、4月5日には愛知県一宮市の
岩田邸にランナー4名と菅原さんと岩田さんの6名が集まって相談会を行った。4月9日には大
阪で石原さんと私が浪越保正さんと延賀浩二さんに会い、サポートクルーに加わることを依頼
し、浪越さんは全行程のサポートを、延賀さんは7月11日頃から8月初めまでのサポートを引き
受けてくれた。しかし、延賀さんは都合が悪くなって辞退された。5月15日には菅原さんから
「井口さんがサポートクルーに加わることが可能」との連絡が入り、6月10日に東京で菅原さん
・井口さん・田中さん・越田の4名で相談会を行った。
4月20日には、イタリアのイタローから「日本人クルーにサポートしてもらいたい」という主旨
のメールが、分かりにくい英語と意味不明な日本語で届いた。ランナーとクルーで相談した結
果、「大歓迎ではないが仕方なく認める」ということになった。しかし、サポート費用についてや
りとりしているうちに返事が来なくなり、渡米前に確認したら、「日本人によるサポートは不要」
という返事で一安心した。
米国内でのホテルの6割くらいは自分たちで予約することになっており、4月7日からはメー
ルまたはホームページで予約を開始した。メールを出してもなかなか返事が来なかったり、返
事が来ても確認メールのやりとりが必要で、手間がかかり、思い通りに予約は進まなかった。1
3日目までくらいは予約しておきたかったので、渡米が近づいてからは、坂東さんにも予約を
分担してもらった。最初の1ヶ月近くまでは宿泊先の大部分が確定したが、残りは渡米後に予
約する必要があった。
上記のような準備を行いつつ、2005年から呼びかけ人あるいは事務局長を務めている広島
-長崎リレーマラソンの実行委員会開催、参加呼びかけと要項のメール送信、コース地図修正
なども行ったので、装備の準備は後回しになった。
シューズは気に入ったものがなかなか見つからなかった。5足持参したシューズのうちの新
品は2足。1足は出発前日にようやく入手した。これは使用経験のあるシューズなので安心し
て使えるものだった。もう1足は某有名芸能人が地球一周した時に使用したタイプということで
はあったが、自分では使用したことがないもので、自分に合うかどうかは分からないものだっ
た。3足目は少し使用したもの、残りの2足はかなり前から使っており、足には馴染んでいたが
老朽化著しいしたものだった。帽子は日除けの付いた物を準備したかったが、良いのを見つ
けられなかった。 GPS(Garmin 社 foretrex401)を使用して、ベース確認とコースアウト防止に活
用するつもりだったが、1月に故障したままで、修理できなかった。
- 2 -
6月15日
出国前日の準備
登山用ザックにウェア、シューズ、テント、寝袋、塩熱サプリ、石原さんが入手してくれた粉
末CCDなどを詰め込み、ディパックにはパソコン、ビデオカメラ、大会関連の資料などを収
納。その後、広島-長崎リレーマラソンのコース地図を完成させ、コンビニでコピーし、封筒詰
めして就寝。すでに日付は出国日になっていた。
6月16日
出国、ロサンジェルス到着
朝、目が覚めてメガネをかけようとしたが見つからなかった。予備のメガネはテンプルが壊
れかけていたが、それをかけて渡米用荷物を確認・補充した。メガネをもう1回の探したが、や
はり無かった。予備の腕時計(高度計・コンパス付き)を持って行きたかったが、それはバッテリ
ー切れで止まっていた。
中部国際空港13:00発の便(台北経由)でロサンゼルスに向かうため、10:00少し前に名古屋
の自宅を出発。広島-長崎リレーマラソンのコース地図をメール便で送付し、日焼け止めクリ
ームを買い、電車に乗車した(10:24)。
中部国際空港駅に到着し(10:48)、空港カウンターに向かっていると、クルーの岩田さんと
見送りのモミさんが歩いているのを発見。エバー航空のカウンターで航空券を入手し、荷物
(登山ザック)を預けた。まだ時間があったので、年会費無料のクレジットカード(ゴールド)を利
用して第2プレミアムラウンジでビールを飲んでから、モミさんの見送りを受けて、岩田さんと一
緒に出発口へと向かった。
台湾桃園国際空港に15:00に到着(時差1時間)。ロス行きの便まで3時間40分あったので、
空港内を散策し、メール送受信を行った。18:40に台北からロスに向けて出発。ロサンゼルス
到着は同日の15:25。時差が日本とは16時間(台湾と17時間)あるため、見かけ上は名古屋か
らロスまでたったの2時間25分(実際は18時間25分)で行ったことになる。
ロサンゼルス空港付近のレンタカー会社で、岩田さんにレンタカーの手続きをしてもらい、
ハンティントンビーチのホテルへと向かった。このホテルは9年前に宿泊したホテルと同じだっ
た。私たち以外は、すでにホテルに到着しており、チームジャパン総勢8名が揃った。
6月17日
開会式
開会式はホテルの別室で行われ、これも9年前と同じだった。主催者 Laure ロールは、それ
を知ってたいへん驚いていた。多くの注意事項が説明され、ランナー紹介、ランナー代表選
出(ライナーに決定)、参加賞のTシャツ配付などが行われた。
距離を主にマイルで表示するか km で表示するかが問題になり、 km を基本とすることにな
った。米国では道路標識も車のスピードメータもマイル表示が基本なので、米国内で走るとき
にはマイルを使用したほうが便利だと思ったが、参加者の大部分はヨーロッパ勢であり、私た
ちの考えは少数意見だった。
- 3 -
6月18日
ステージ1のコース下見
初日のコースが複雑であることがわかったので、チームジャパン全員でコースの下見に出
かけた。コースは複雑だったが、難しいところは車からおりて現地確認し、クルーとランナーが
別の道を走る箇所もしっかりと確認した。6月19日に宿泊する Norco のホテル Regency Inn は
2部屋しか予約しておらず、もう1室増やす必要があったので1部屋の追加予約も行った。
午後、浪越さん・岩田さん・越田の3名は、約$25 で AT&T の電話も購入した。
夕方になってから、イタローから日本人クルーにサポートしてくれるように要請があった。渡
米前にメールで依頼があったが、その後に不必要との連絡を受けていたし、開会式では他の
ランナーのクルーにサポートしてもらうと紹介されていたので安心していたが、サポート依頼の
要請は予想外で戸惑った。明朝5:30スタートのために、装備の準備をしなくてはいけないの
に、それを後回しにして、急遽チームジャパンで相談開始した。大会規則で13日目まではサ
ポートクルー確保が義務づけられているのに、イタローはそれを行わずに現地入りしたことに
なる(14日目以降は、クルーがいないランナーは主催者がサポート)。サポートクルー不在のた
めに出走できないのは気の毒でもあり、相談の結果、クルーの交通費やレンタカー代を考え
て1日$50 、13日間で$650 を支払えばサポートを引き受けることを告げた。しかし、$650 をまと
めて支払えないという。「政府からの支援があることを期待しているが、まだなので現金が手元
に少ししかない」とのことだ。外はだんだん暗くなり、こちらは早く準備を整えて休みたいので、
「$50 を支払えば明日(6月19日)はサポートする」ということで妥協点を見いだした。クルーの宿
泊費や食費も必要だから、これは後日精算とも伝えていたが、これは有耶無耶にされた。サポ
ートについて不本意ながら一件落着し、翌日の準備をしようと思ったら、今度は「部屋に泊め
てくれ」と言い出した。宿泊ホテルは各ランナー(またはクルー)が予約することになっている(一
部ホテルは主催者が予約)。スタート前日のホテルすら予約せずに渡米し、「ホテル代を支払
ったら、エイド費用を出せなくなる」と言うのだから呆れたが、「外にテントを張ろうかなぁ」とか
言い出すので、岩田さんと相談して私たちの部屋の床に泊まることを不本意ながら了解した。
走る準備も不十分なまま就寝。初日から睡眠不足でスタートすることになった。
- 4 -
6月19日~6月25日
Huntington Beach (CA) - Needles (CA)
483.9 km (300.7 miles)
D1 6月19日 Huntington Beach - Norco 73.5 km (45.7 miles) 関門 13:00
ニューヨークを目指してスタート
10:46:57 (11 位/14 名完走)
午前 5 時 30 分、 Huntongton Beach をランナー14名とサイクリスト1名、キックバイカー1名が
スタート。コース説明は3頁あり、難しい5個所の地図も付け加えられていた。曲がり角が20個
所もあり、自転車道を通る時はサポートカーは別の道を走るなど複雑なコースだったが、前日
のコース下見が役に立ち、ランナーもクルーも道に迷うことなく Norco まで進むことができた。
1位は予想通りにライナーでダントツのタイムだった(6:52:06)、ジェラードが2位(8:06:02)。坂
東さんは3位(8:12:46)、パトリックが4位(8:26:15)、イタローは5位(8:43:16)だった。私は途中ま
ではジェニーと自転車のアンネケとほぼ同じペースで走っていた。信号機があるとアンネケが
先に進んでジェニーのために押しボタンを押して緑に変えていたので、何度も恩恵を被った。
ジェニーのペースは速く、そのまま同じペースで行くとつぶれると思い、中盤から意図的にペ
ー スダ ウンした 。ジェニ ーはセ ル ジュとと もに 6位でフィニッシュ(8:44:43)。 アレック スは8位
(8:44:43)で、5~8位は大接戦。ジェームズは9位(9:36:26)、マルカスは10位(9:56:54)だった。
私は11位でマルカスよりも50分遅れの 10:46:57 で Norco の Regency Inn 前にフィニッシュした
(16:16)。その約50分後に石原さん(11:35:47)と田中さん(11:36:17)が相次いでフィニッシュ。最
終ランナーはフィリップ(12:10:46)だった。
D2 6月20日 Norco - Hesperia 78.7 km (48.9 miles) 関門 14:00
カホン峠越えとフィリップのリタイア
13:52:13 (11 位/13 名完走)
スタートは午前5時30分と規則で決まっていたが、朝のミーティーグと写真撮影が終われ
ば、すぐにスタートした。 2002 年には3日目に Cajon 峠を越えたが、山火事のためにコース変
更があった。峠越えのおもしろいコースなので、全行程をビデオカメラで撮影しながら走った。
その他の日はスタート時だけビデオ撮影した。
日本人ランナー4名は傷んだ牛乳を飲んだせいか、全員が下痢気味で苦戦。初日に好調
だった坂東さんは熱中症にかかってペースダウンし10位。私と石原さんと田中さんは、終盤に
一 緒に な り、 関門 の 約8分前 に3人 揃っ て11位で Hesperia の Motel 6 前 に フィ ニッ シュ
(19:21)。私たちの次にフィリップが完走すると思っていたが、彼はリタイアしたので公式ランナ
ーが 13 名になった。
D3 6月21日 Hesperia - Barstow 76.3 km (47.4 miles) 関門 13:30
暑さと疲労の中での激走
13:16:17 (9 位/13 名完走)
Run Across America 2002 では、初日は Huntington Beach を8時にスタートして 47.41km を
走り、それ以降は6時スタートで2日目は 67.62km 、3日目は 58.36km 、4日目は 64.72km を
走 っ て Barstow に 達 し た (通 算 238.11km)。 今 回 は 、 こ の 区 間 (228.5km)を Trans-America
Footrace (1992-95 年)と同様に3日間で走った。最初の米大陸横断レースである International
Trans-Continal Foot Race (1928 年)では、ロサンゼルス郡 Gardena 市にあった Ascot Speedway
から Barstow までの 214.2km を 4 日間で走った。今回の大会では 1928 年の大会で1位にな
った Andrew Payne が走った道を辿ろうということが唱われていたから、序盤の距離も踏襲して
ほしかったが、各ステージを決定するのは主催者権限なので致し方ない。
- 5 -
Victorville のT字路(左折地点)ではロールが道案内してくれた (15.8km, 7:44)。ルート 66
博物館 Route 66 Museum の前を通過(7:46)。時間があれば立ち寄りたいが余裕はない。貨物
列車がコースの右側を通っていき、私のすぐ後ろを田中さんと石原さんが走っていた(8:07)。
Helendale に入った(11:30)。沙漠地帯は湿度が低く、熱中症対策には水浴びが有効だっ
た。ペットボトルのキャップに小さな穴をフォークで開けて、暑いと感じたら水を入れたペットボ
トルを逆さにして水を頭や腕にかけて体温上昇を防いだ。衣類はすぐに乾いたので、頻繁に
水浴びした。坂東さんに追いつき(12:20)、石原さんもすぐ近くを走っていた(12:31)。
私はマルカスと一緒に9位で Barstow の Ramada Motel 前にフィニッシュ(18:45)。関門の約1
4分前だった。その約7分後に坂東さんが11位でフィニッシュ。かなり疲れている様子だった。
関門時刻が迫ってきたが、石原さんと田中さんがまだ来ない。レースディレクターのロール
が「2~3分であれば、関門時刻から遅れても完走と見なす」と言う。
猛スピードの田中さんの姿が見えた。右折してモーテル前にフィニッシュするのだが、右折
地点を直進し、遠回りしてフィニッシュ。11秒のタイムオーバーは問題なし。続いて石原さんも
ラストスパートしてフィニッシュ。1分46秒のタイムオーバーも当然OKとなった。しかし、田中さ
んと石原さんはフィニッシュ前の激走により、熱中症にかかったようで、翌日の走りへの悪影響
が懸念された。
暑さと疲労に苦しむのはランナーだけではなかった。井口さんが体調を崩し、翌日のサポ
ートが難しくなった。翌日は Ludlow まで走ってホテルに宿泊し、翌々日は Amboy まで走り、
Ludlow に戻って同じホテルに連泊することになっていた。
そこで、 Ludlow のホテルがチェックインできる時刻になったら、井口さんを Ludlow のホテ
ルに連れて行き、6月22日と23日の2日間は Ludlow で休養してもらって体調が快復すること
を期待することになった。
D4 6月22日 Barstow-Ludlow 81.9 km (50.9 miles) 関門 15:00
4日連続の長距離で3名リタイア
14:33:14 (7 位/10 名完走)
第4ステージは今までで一番距離が長い日。3日間で疲労が蓄積しているので、かなり辛
いステージだが、これを乗り切れば、距離が短い第5ステージにつながる。
スタート前の説明で、ロールが「今日は厳しい一日になるので、クルーとランナーがあまり離
れないように」と注意し、関門時間が予定より30分延長されて15時間になった。
4.7km 地点で海兵隊兵站基地 Marine Logistics Base に入り、基地内を 2.7km 走った。歩道
がない場合は、左側を対向車に向かって走ることになっていたが、基地内は右側を走るように
指示があり、写真撮影は禁止された。基地内では海兵隊員から給水のサポートを受けた。基
地を出たところで、隊員から許可を得て写真を撮った(6:28)。サポートカーは基地に入れず、
基地の南側のインターステート Interstate 40 (I-40)を迂回した。なぜ基地内を通ったかと言う
と、基地内をルート 66 が通っているからで、主催者が通行許可を得たからだ。 2002 年のコー
ス説明には"Turn Left into gravel parking lot just before Marine Corps Logistics Base."と なって
おり、基地の北側の道を迂回した。
ルート 66 の名所である Bagdad Cafe に到達(35.3km, 11:08)。屋根の庇の陰でアレックスと
ジェニー、アンネケが休憩していた。
砂漠の中をまっすぐに進むと、貨物列車が時々通り過ぎていった。やがて石原さんと田中さ
- 6 -
んがリタイアしたという連絡が入った。前日のラストスパートの影響が大きかったようだ。この日
さえ乗り切れば、翌日はたったの 45.5km だから、何とかなったと思うので残念で仕方ない。
右前方に Amboy Crater を眺めながら走り、 Ludlow Motel 前にフィニッシュ(20:02)。当初の
関門時間のままだと3分14秒のタイムオーバーになるところだったが、関門時刻延長により関
門の26分46秒前に完走できた。
私の16分後には暑さが苦手のマルカスがフィニッシュし、その7分後(関門の4分50秒前)に
は坂東さんがフィニッシュして倒れ込んだ。初日は 2 位だったジェラードは約20分のタイムオ
ーバーでフィニッシュしたが完走と見なされた。
石原さんと田中さんだけでなく、ジェニーもリタイアしたので、公式ランナーは3名減って 10
名になった。
規則では「レース開始7日以内に撤退・失格になったランナーは、レースにとどまることはで
きない」とされており、規則通りであれば石原さんと田中さんは帰国しなければいけないが、
「帰国指示」は出されなかった。規則には「8日目以降に撤退・失格になったランナーは、レー
ス参加者に迷惑をかけないのであれば走ることができる」と記されており、この規則が拡大適
用されたようで、石原さんと田中さんはステージランナーとして走ることが容認された。
D5 6月23日 Ludlow - Amboy 45.5 km (28.3 miles) 関門 8:00
モハーヴェ沙漠深部へ
7:42:12 (8 位/10 名完走)
距離は70日間で2番目に短く、ルート 66 を進むだけで曲がり角が一度もないので迷いよう
がない。コース説明の本文は10行だけで短く、文字の大きさも Run Across America の時と同
じ 14 ポイントくらいで読みやすかった。コース説明は通常は 8~ 9 ポイントで書かれていて、補
足説明は 7ポイント の場合もあり、しかもインクジェットプリンタを使っていたので、水で濡れると文
字が滲んで読みにくかった。
主催者は田中さんについては復調していると判断して走ることを認めたが、石原さんにつ
いてはまだ体調が悪いと判断し、走ることに否定的で、石原さんは残念ながらスタートを見送
ることにした。
Ludlow Motel 前をスタートし、 Mojave 砂漠の深部である Amboy に向かう。お昼が近づけ
ば猛烈な熱風が正面から吹き付けて、全ステージでの最高気温に達することが予想された。
Amboy まで 13 マイル地点(23.8km)の少し手前で歩いているジェニーを追い越した(9:13)。
彼女はまだ不調のようだ。 10 時を過ぎると、気温がどんどん上がっていった。 2002 年には熱
風が正面から連続して吹き続けたが、今回は断続的な熱風だったので、相対的には楽だっ
た。しかし、気温は 50 度くらいまで上がったと思われる。
セルジュが乗った車が 11:40 に、ライナーとピーターが乗った車が 12:05 に Ludlow に向か
って走っていった。
Amboy Creater
の標識 (42.6km)をとクレーターを右に見て進む (12:37)。残りの距離は
3km で、関門時刻まで 50 分以上あったので楽に間に合いそうだ。
フィニッシュ地点は 2002 年の 6 日目と同じ Roy's
Cafe 前。その少し手前には踏切があり
(44.8km)、 2002 年には長い貨物列車が近づいてきたので急いで渡ったが、今回は列車の気
配はなく、ゆっくりと走ってフィニッシュした(13:09)。 2 分半後にマルカスが、その 1 分後に田
- 7 -
中さんが、さらに 5 分半後には坂東さんがフィニッシュ。坂東さんは初めての最終ランナーに
なった。
ホワイトボードに記された速報によれば、パトリックが1位、ジェームズが2位、セルジュが3
位で、ライナーはイタローと同着の4位となり、今回のフットレースで初めて1位を逃した。そし
て、ニューヨークに着いてみれば、1位を逃した唯一の日となった。スタート地点の Ludlow に
戻って宿泊。
D6 6月24日 Amboy - Fenner 64.0 km (39.8 miles) 関門 11:30
Kelso 分岐を直進し、ルート 66 を進む
11:15:56 (9 位/10 名完走)
井口さんがサポートクルーに復帰。まだ熱があり、体調は万全ではないように見受けられ
た。あまり無理しないように願ったが、炎天下でサポートすること自体が無理難題だ。石原さん
はステージランナーとして復帰した。
距離が 64km と平均距離よりも 10km も短く、 55.4km 地点で左折するだけの分かりやすい
コースで、ルート 66 をひたすら進んだ。
スタートしてから 3km ほどの所で、ジェラードは足のマメをフィリップに手当てしてもらってい
た(5:59)。
Kelbaker Rd が左に分かれる地点を通過(9.3km, 6:54)。 2002 年はここで左折して、進路を
北東へと変えて Kelso に向かい、ラスベガス、セントジョージへと進んだが、今回は東へ進む
ことになり、 2002 年とは完全に異なるコースに入った。初めての道なので新鮮ではあるが、気
温が高いまま続くことが予想される点は気になるところだった。
Cadiz Rd を横切る(18km, 8:23)。たまにはなだらかなカーブはあるが、周囲は沙漠で、所々
に壁だけが残る家を眺めながら走った。
Essex という人口 100 人の町に入った(51.9km,
14:30)。ペースは時速 6km を下回ってきた
が、残りの距離は約 12km で時間は2時間半あったので、慌てる必要はなかった。この日唯一
の曲がり角で左折して Goffs Rd に入り(55.4km, 15:10)、 Fenner の Sahara Oasis - Gas Station
にフィニッシュ(16:40)。坂東さんは7分後にフィニッシュした。
翌日のフィニッシュ地点である Needles の Needles Inn へ I-40 を利用して移動。
D7 6月25日 Fenner - Needles 64.0 km (39.8 miles)
マルカスが大幅タイムオーバー
関門 12:00
11:04:34 (8 位/10 名完走)
前日のフィニッシュ地点まで戻ってスタートし、 Goffs Rd を走る。
午前 7 時過ぎ、道路と並行した線路を長い貨物列車が通り過ぎた。周囲に人影は見当たら
ないが、椅子が道路脇に転がり(7:20)、車のタイヤが路肩に立っていた(7:53)。 Lanfair Rd が
左に分岐(16km, 8:12)。T字路で右折して US95 に入った(38.7km, 12:21)。主催者スタッフのレ
ネ Rene が、水を入れたスプレーを手にして車から降りて来て、水をかけてくれた(12:29)。
49km 地点で I-40 の跨道橋を渡り、左折して I-40(US95 と重複)に入り(49.1km)、
約 10km は高速道路の右端を走った。途中、水浴び用の水が無くなりかけたとき、未開封のミ
ネラルウォーターのペットボトルが転がっているのを発見。貴重な水なので拾うと、「水」ではな
く、「お湯」になっていた。タオルやバンダナをお湯で濡らしてビュンと振り回すと、気化熱の効
果で一気にひんやりしたタオルとバンダナに早変わり。それで顔や腕を拭くと冷たくて気持ち
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が良かった。
高速道路の途中にはやや拾い路肩があり、そこで1回は短時間のエイドを受けることができ
た。クルーは車外に出ず、車の窓から水とジュースを受け取った。
高速道路を人が通るのは本来であれば認められない。しかし、主催者は木曜日の午後に
Needles で California Hwy Patrol をしている Vergal McCallister 巡査部長から口頭で許可を得
ており、そのことがコース説明下部に記されていて、もし高速道路走行に関してトラブルが発
生した場合は、それを見せるように主催者から言われていた。
高速道路を走っていると、遙か前方にランナーの姿が見えたような気がしたが、錯覚かもし
れないとも思った。高速を出て右折して Historic Rd 66 に入ると(59.6km, 15:51)、前方に坂東
さんの姿が見えた。残りの距離は 4.4km 、時間は 100 分なので、ゆっくり進んでも確実に完走
できる状況になった。坂東さんとの距離は少しずつ縮まり、時間内完走を確信してゆっくり走
る坂東さんを追い越した。 Needles Inn 前にフィニッシュ(16:36)。坂東さんは 14 分後にフィニ
ッシュした。
主催者が心配していたマルカスは、 14:27:48 でフィニッシュ。約2時間半の大幅タイムオー
バーだった。
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6月26日~7月2日
Needles (CA) - Birdspring (AZ)
473.2 km (294.0 miles)
D8 6月26日 Needles(CA)-Kingman(AZ) 82.5 km (51.3 miles) 関門 16:00
特例ルールも空しく2名がリタイア
14:49:12 (7 位/8 名完走)
スタート前のミーティングで、ロールは「70日間のうち1日くらいは体調が悪いときもありうる
ので、1回だけはタイムオーバーしても完走と認める」と述べ、ランナー側もそれを了解した。
この決定により、マルカスはこれ以降のステージで時間内完走を続ければ、最終的にも完走と
認められることになった。この日の関門時間は、 82.5/5.7=14.47 なので、 14:30 になるはずだ
ったが、暑さと距離が長いことが理由だと思うが 16:00 に設定された。東に進んでいることもあ
り、フィニッシュが近づくと暗くなることがありうるので、その場合は蛍光ジャケットとライトを使用
するようにコース説明に記されていた。
2.1km 地点で、カリフォルニア州からアリゾナ州に入った(5:51)。
エイド中のマルカスを追い越したが(6:19)、カジノ前で追い越された(8km, 6:39)。スタート後
しばらくはゆっくり走るセルジュにも追い越された(6:42)。
右折して US95 から Boundary Rd = Road 153 に入る地点では岩田さんからエイドを受けた
(14.8km, 7:42)。 Mohave & Milltown Railroad Trails の 標識があり、ここで菅原さんと井口さん
からエイドを受けた(10:44)。
Outman という町に入った(35.1km, 11:46)。ここはルート 66 の趣を残した町で、幌馬車を置
いてある家、刑務所博物館 Jail Museum 、レストラン、革製品店などが並んでいた。 Outman
の中心街に近づくと、人だかりが見えた(12:06)。それは「決闘シーン」の再現ショーだった。見
物人の前を歩きながら、デジカメで動画撮影。保安官の合図で決闘が始まった。結果は相撃
ちで、観客は大喝采していた。このショーは道のど真ん中で行っていたので、岩田さんはショ
ーが終わるまで、待機せざるを得なかった。
Outman の町を過ぎると長い登り坂が始まり、金鉱を横に見ながら歩いた。路肩がほとんど
ない道だったが、車はたまにしか通らないので危険を感じなかった。
午後1時頃、エイドで大休止し、遅めの昼食を摂り、靴底の修理を行った。持参したほとん
どの靴のアウトソールがすり減ってしまい、修理が必要になったが、ステージ距離が長いため
フィニッシュ後に修理する時間は取れないと判断したからだ。関門時間が予想よりも90分延長
されたので、時間的な余裕もあった。
なぜ靴底が減るかというと、私が摺り足走法を採用しているからだが、ルート 66 の路面がヤ
スリ状になっていることが、それを加速した。
ルート 66 は、1926年11月11日に米国初の国道として創設され、カリフォルニア州サンタモ
ニカとイリノイ州シカゴとを結び、全長は 3,755km(2,347 マイル)だった。
1 928年 3月 4日 か ら 5月 26日 に か け て 、 C.C.
Pyle が 最 初 の 米 大 陸 横 断 レ ー ス で あ る
International Trans-Continal Foot Race (通称 Bunion Derby)を開催したのも、このルート 66 が
開通したことが契機となった。
ルート 66 は Interstate(州間高速道路)が発達したことにより、 1985 年に廃線となった。現在
でも集落のある所では残っているが、路面にひびが入ったり、舗装のコンクリートが剥がれる
などの傷みが激しい区間、消滅した区間もある。
長い坂を登り、 Sitgreaves 峠(海抜 3550 フィート=1082m)を越えた(13:52)。時速 6km よりも
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約1時間遅れていたが、長い登りを歩き、靴底の修理をしたのでやむを得ない。下り坂になり、
ペースを上げて走りたかったが、景色が良くて写真撮影が増え、予想外に時間がかかった。
STOP の標識のある交差点で右折して Shinarump Rd に入った(73.8km, 18:52)。 I-40 の跨
道橋を渡ってからT字路で左折して、 I-40 の側道 Frontage Rd に入った(74.6km, 18:59)。
"Welcome to Kingman"の標識を見て進む(76.6km, 19:23)。周辺の山の陰が路面に長く延び
始めた。
2002 年には、 6:00 スタートで距離が 90km を越えた日でも暗くなったことはなかった。今回
は 5:30 スタートなので、走っている途中で暗くなるはずがないと思っていたが、残り 2 ~ 3km
のところで薄暗くなってきた。交通量はさほど多くはなかったが、スピードを出して走ってくるの
で、サポートカーに預けていたライトを使用して、車が走ってきたときはライトを点けて、存在を
知らせた。
坂東さんを 20:00 に追い越し、 Kingman City Limits を越えた(81.3km, 20:08)。
Kingman の Motel
6 前にフィニッシュ(20:20)。私の2分後に坂東さんがフィニッシュした。し
かし、残念なことにマルカスは 17:11:30 と大幅なタイムオーバーで失格となり、ジェラードはフ
ィニッシュできず、2名がリタイアとなり、公式ランナーは8名になった。特例ルールと関門時刻
延長は二人には役に立たなかった。
1928 年の米大陸横断レースでは、 Kingman には 10 日目に到達していた。 83 年前のペー
スであれば、全員がここまで走り続けられたかもしれない。
D9 6月27日 Kingman - Truxton 68.1 km (42.3 miles) 関門 12:00
11:44:16 (7 位/8 名完走)
無理せず、ゆっくり
スタートして 0.2km 先にあるT字路で右折すると、あとは曲がり角がない。 Kingman の町並
みを眺めながらルート 66 を進む。車を扱っている店の壁にルート 66 の道筋が描いてあり、
Kingman のところに"YOU ARE HERE"と書かれていた。陶器店、骨董品店などもあった。
周囲が沙漠に変わり、鉄道と並行した道を進む。"Flagstaff 149"の 標識(21.6km, 8:47)、
"Flagstaff 139"の標識(37.7km, 11:40)を通過。時速 6km を目指しているので順調だ。坂東さん
とはエイドで何度も会った。所々に店があり、観光客の姿も見えた。"Grand Canyon 158"の標
識を通過(49.7km, 13:44)。
道端にはサボテンが生えていたが、背の高い木はないので暑い。関門時間に気をつけな
がら、ペースを落とし(実は自然に落ちて)、関門に間に合う範囲で無理せずにゆっくり走り、
関門の約16分前にフィニッシュ(17:12)。坂東さんは関門の 3'13"前にフィニッシュ。これが坂東
さんにとっては、一番ギリギリのフィニッシュとなった。
D10 6月28日 Truxton - Seligman 73.9 km (45.9 miles) 関門 13:00
Route 66 をひたすら進む
12:43:14 (7 位/8 名完走)
曲がり角がなく、ルート 66 を進む。 Hualapai
Indian
Reservation に入った(2km,
5:47)。
Peach Spring に入ると(13km, 7:38)、 Grand Canyon 観光に向かう Jeep Tour の黄色い車がたく
さん並んでいた(7:44)。 Hualapai Indian Reservation を通り過ぎたが(28.2km, 10:20)、ネイティ
ブアメリカンの方とは一度も会わなかった。海抜 5400 フィート(=1646m)の地点を通過(66.8km,
16:58)。
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Seligman(1886 年設立、海抜 5250 フィート)に入った(72.9km, 17:59)。南北戦争が終わって
か ら 21 年 後 に 、 上 高 地 よ り も 標 高 が 100m 高 い 位 置 に 町 が 作 ら れ た と い う こ と に な る 。
Seligman には、ルート 66 らしい町並みが残り、骨董品が店の前に並び、土産物店やレストラ
ンが並んでいた。その一角にある Canyon Lodge 前にフィニッシュ(18:10)。坂東さんは 10 分後
にフィニッシュした。
フィニッシュ地点で休憩していると、日本人女性が赤ちゃんを抱いて現れた。夫(米国人)と
一緒に観光旅行に来ているということだった。
私たちはフィニッシュ地点の斜め向かいにある Deluxe Inn に宿泊。
夕食をとったレストランで、 Route 66 のロードマップを購入した($6.40)。
D11 6月29日 Seligman - Ash Fork 49.4 km (30.7 miles) 関門 8:45
靴の修理は大人気
7:53:43 (7 位/8 名完走)
背の低い木が周囲に見えるようになった。"Elevation 5700 FT"の標識の横を通過(16.5km,
8:06)。海抜 1737m だ。 I-40 の跨道橋を渡り(28.8km, 9:48)、 T 字路で左折して I-40 の側道に
入 っ た 。 こ れ が ル ート 66 の よ う で 、ル ー ト 66 の マーク が 入っ た 古い 橋を 渡 った (33.5km,
10:34)。路面は未舗装または舗装がかなり剥がれていた。岩田さん・浪越さんからエイドを受
けてから完全なトレイルに入った(10:55)。車はこの小道には入れないので、ランナーは 7km
の間はエイドを受けられない。クルーは I-40 跨道橋があった所まで戻り、 I-40 などを通って迂
回し、ランナーを待ち受けることになる。
トレイルには分岐があるたびに、小麦粉で矢印が描かれ、時にはリボンが木の枝に付けら
れて迷うことはなかった。モーバイルハウスには犬がいるとの話だったが、私が通ったときには
姿が見えなかった(37.1km, 11:14)。その先では主催者メンバーの Bertrand が雨が降れば川に
変わるという石がゴロゴロした地点で通過確認をしていた(37.9km, 11:22)。そこから約 1km 先
には発泡スチロールの箱が置いてあり、その中には氷で冷やした水の PET ボトルが入ってい
たので1本いただいた(11:34)。
白い教会が右に見えたら(42.3km, 12:10)、クルーとの合流点は近い。まず、レネが出迎えて
くれ、井口さん・岩田さん・浪越さんが待っていてくれた(42.6km, 12:12)。ここから先は舗装道
路となり、T字路で左折してルート 89 に入った(44.8km, 12:42)。
13:19 、 Ash Fork に入った(49.2km)。海抜 1568m にあり、 1882 年に設立された町だ。
Copperstate Motel 前にフィニッシュ(13:21)。猛追してきた石原さんが、 34 秒後にフィニッシュ
した。ホワイトボードに記されている記録を見たら、私の 36 分前にジェームズとイタローが同
時フィニッシュしていた。この日の朝、イタローは$50 を支払わなかったので、日本人クルーは
彼をサポートしなかったが、ジェームズのサポートクルーがイタローのサポートも行ったようだ。
距離が短く、早い時間にフィニッシュできたので靴の修理を行った。靴の修理はヨーロッパ
勢には珍しかったようで、ランナー・クルーから何枚も写真を撮られた。
夕食のためにホテル近くのレストランに向かう途中、 2002 年に Huntington Beach で購入し
たサンダルが壊れた(17:04)。運良くすぐ横に店があったので、粘着テープを買って応急修理
を行った。ついでにルート 66 の絵はがきも買った。
睡眠時間もようやく6時間は確保できそうだった。今までは4~5時間しか睡眠時間を確保
できない日がほとんどで、走っている時も眠たいことがあった。
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朝のミーティングで、「タイムゾーンが変わるので、時計を1時間進めるように」という指示が
あったように思ったので、フィニッシュ後、時計を1時間進めた。
D12 6月30日 Ash Fork - Williams 48.8 km (30.3 miles) 関門 8:45
7:54:18 (8 位/8 名完走)
1時間の損失
5:15 にスタート地点にチームジャパンのメンバーが集合。しかし、主催者はもとより、他のラ
ンナーやクルーが現れなかった。「時計を1時間進める」のは、どうやら数日後の話で、私が聞
き間違えたようで申し訳ない。仕方ないので部屋に戻って、ベッドの上で1時間近く休憩した。
スタートしてから写真撮影のために前方に出たが、 10 分くらいのうちに、ほとんどのランナ
ーに追い越された。
11.3~43.5km は未舗装道路だった。サポートカーも通れたのは良かったが、ほこりっぽい
道だった。コース説明にはランナーと車のタイヤのために、徐行運転するようにとの注意書き
があり、サポートカーは徐行してくれた。しかし、トラックがたまに通ると、ランナーへの配慮な
しに通り過ぎるので、土埃がしばらく消えなかった。
送電線の下を通過したら、ジリジリジリ…と大きな音が聞こえた(30.8km, 10:19)。今度は、パ
ーン、パーンと言う音が前方から聞こえてきた。近づくと、道の左側の空き地で、男性が標的
を狙って射撃していた(11:36)。誤射があると嫌だなと思いながら、銃口が自分のほうには向い
ていないのを確認しながら通り抜けた。 Holden 湖を右に見て進む(41.9km, 12:18)。久しぶりに
大量の水を見た。
舗装道路に変わり、 Williams の町に入った(47.9km, 13:18)。海抜 2055m の地に 1881 年に
設立された町だ。
Comfort Inn の前に8位でフィニッシュ(13:21)。
前日に続いて距離が短く、坂東さんは痛めていた左足が復調したようで、5位でフィニッシュ
(6:38:40)。ジェームズとイタローは同着6位(6:49:11)だった。
相対的には遅いフィニッシュだったが、時刻としては早かったので。まだホテルのチェックイ
ンはできないとのことで、先に着いていたランナー・クルーはホテル敷地内で休憩していた。
私も足をアイシングしたり、ビールを飲んで時間を潰した。
ようやくチェックインができ、シャワー・洗濯の後、石原さん・田中さん・岩田さん・浪越さんと
私の5名はグランドキャニオンの見学に出かけた。坂東さん・菅原さん・井口さんは出かけずに
ホテルで休息をとった。
グランドキャニオン国立公園の入場料は車1台$25(7日間)だった。しかし、夕食を摂って、
ゆっくり休みたいので。観光見物は1時間で切り上げてホテルに戻った。慌ただしかったが、
期待通りの雄大な渓谷を眺めることができ、時間と体力を使って行った甲斐があった。
D13 7月1日 Williams - Flagstaff 65.1 km (40.5 miles) 関門 12:00
複雑な道
10:42:47 (7 位/8 名完走)
距離は比較的短いが、コースが複雑で曲がり角が15箇所もあり、悪路もあり、クルーもラン
ナーもコースアウトする可能性があって要注意の1日だった。
最初の曲がり角は 4.3km 地点で右折して Bearizona Blvd に入った(6:02)。曲がり角には大
きな電光掲示板があり、その横には木に登る熊の像があった。 0.4km 先で未舗装道路にな
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り、そこから 2.6km 先の左折地点が厄介だった。「左折して舗装道路に入る Turn left
on
pavement road 」と言うが、「舗装道路の名前はない Pavement Rd - No name to see 」という説
明だ。ここで左折するかもしれないと思う道があったが、先ほどまで見えたランナーの姿が見
えず、他のランナーのサポートカーがまっすぐ進むのが見えたので直進した。間もなく、その
サポートカーが土埃をあげながら戻ってきて、「コースを間違えた」とのこと。振り返ると、坂東
さんも左折地点を直進して走っている姿が見えた。少し戻って右折するように合図したつもり
だったが通じず、合流してから説明した。他の人も間違っていれば、私たちが1位、2位を走っ
ていることになるのだが、そんな都合の良い話があるはずもなく、ダントツの最下位争いとなっ
た。
9.1km 地点からも未舗装道路となり、目の前を牛が数頭横切っていった(7:02)。牛たちが道
路を進めないような仕掛け Cattle Guard をこの日はあちこちで見かけた。舗装道路に変わり、
T字路で右折してルート 66 に入った(15.1km,
7:36)。 27 ~ 32km 、 39.7km 以降も未舗装道
路で、特に 42km ~ 47.8km は悪路で車は通れないので、クルーは 38.1km 地点まで戻って
I-40 を通り、 47.8km 地点まで迂回するようにコース説明に記されていた。
42km 地点では主催者スタッフのダビッドが道案内してくれた(12:00-03)。岩田さんがサポー
トしてくれ、写真撮影しているうちに、せっかく追いついていた石原さんが先行した。石が所々
に転がった道を進み、T字路左折地点に行くと、レネと Bertrand が通過チェックをしていた
(43.9km,
12:24)。「石が多くて大変だったでしょう」と言われたが、「日本にはもっと歩きにくい
道があり、問題なかった」と答えた。後日、主催者が撮った写真を見たら、ほとんどのランナー
は走っていたので、彼らは足元が不安定で疲れたかもしれない。 47.8km のT字路左折地点
にはアンネが待っていてくれ(13:05)、菅原さんからエイドを受けた。 0.5km 先からはまたも未
舗装道路が約 10km 続き、 Cattle Guard を何度も渡った。
15:15 、左折地点に Bertrand とアンネが待っていて、「左折」と教えてくれるとともに、「坂東
さんと石原さんが直進した」と教えてくれた。ランナーの私が探すわけにもいかず、コース通り
に進んでいると、坂東さんが逆走してきた。間違った地点まで戻ると言う。車に乗ってもよいと
思ったが、規則かどこかに主催者に無断で車に乗ることは違反と書いてあったように思ったの
で、戻っていく坂東さんを止めなかった。先ほど Bertrand と会ったときに、車で戻ることの許可
を得ておけば良かったと悔やんだ。
石原さんを心配しつつ、曲がり角に注意しながら進んでいると、石原さんが正しいコースに
復帰したとの情報が入った。
Flagstaff の Days Inn 前に 7 位でフィニッシュ(16:11)。石原さん、田中さん、そして坂東さん
もフィニッシュした。
ジェームズとイタローはこの日も同着だった(5位, 9:19:27)。14日目からは、サポートクルー
が義務づけられておらず、サポートクルーのいないランナーは主催者からエイドを受けること
ができる。したがって、ジェームズとイタローの共走は、この日が最後だろうと予想した。
食事が終わってから、罰則規定の 18 番目に"Riding in a moving vehicle without having
previously notified the organizers""Immediate suspension!"と 記されているのを見つけた。坂東さ
んがコースアウトした地点まで戻ったのは正解だった。
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D14 7月2日 Flagstaff - Birdsprings 85.4 km (53.1 miles) 関門 15:00
テント内でシャワー
12:34:30 (7 位/8 名完走)
ここまでの最長 距離のステージだったが、 0.1km 地 点で左折し、 4.4km 地点で右折し
(6:00)、 17.3km 地点で左折したら(7:35)、後は曲がり角がないというコースで、前日とは違って
迷うことなく安心して走ることができた。ルート 66 とは D37(7 月 25 日)までお別れとなり、ルー
ト 66 の北側の道がコースになった。
"Mile 0"の標識を通過し、道路名が Rd 505 から B.I.A.
N15 に変わり(10:59)、 Navajo
Reservation に入った(41km, 11:00)。後で分かったが、ここがタイムゾーンがパシフィックからマ
ウンテンに変 わった地点だ った 。土が 固まっ たような岩がゴロゴ ロした横を通り(13:31-36)、
Leupp Boarding School 寄宿学校前を通過(64.1km, 14:35)。 Emergency Medical Service 救急
車がコース脇に待機しており(14:41)、これ以降数日間、私たちランナーに「大丈夫か」と声を
か け て 何 度 も す れ 違 う こ と に な っ た 。 ほ と ん ど水 の ない Little Colorado 川 を 渡 り(65.1km,
14:44)、砂漠地帯を進んだ。 Birdsprings Chapter House にフィニッシュ(18:04)。小型テント内で
シャワーを浴びて洗濯。アンネなどが調理した食事をご馳走になった。時計を1時間進め、マ
ットを敷き、シュラフに入って就寝した。
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Week 3 July 3 - July 9
Birdspring (AZ) - Abiquiu Lake (NM) 515.5 km (320.3 miles)
D15 7月3日 Birdspring - Indian Wells 65.8 km (40.9 miles) 関門 11:45
1,000km 通過と砂嵐と竜巻
11:04:56 (7 位/8 名完走)
1,000km 地点を通過。 Navajo 族の方々から応援してもらった。フィニッシュが近づいた頃、
前方の舗装道路が赤茶色に染まってきた。砂嵐だ。右横から強風が吹き、身体に砂粒が当た
って痛かった。
Indian Wells Chapter House にフィニッシュ(16:34)。石原さんと坂東さんのフィニッシュを待っ
ていると、竜巻が発生して空高く砂が舞い上がっているのが見えた。
Navajo 族の方々が何をしているのか様子を見に来た。
D16 7月4日 Indian Wells - Kinlichee 77.2 km (48.0 miles) 関門 13:45
12:48:48 (7 位/8 名完走)
独立記念日
米国の独立記念日。
Indian Wells Chapter House 前でスタートし、未舗装道路を 1.1km 走った後、 2.1km 地点で
ルート 77 に入り、 6:32 に太陽が昇ってきた。 6.8km 地点で Rd 15 に入ると、ジェラードと彼の
クルー、主宰者スタッフのレネが応援してくれた(6:37)。
周囲にはテーブルマウンテンの小型版のような山が並び、牧場が多く、牛たちに時々見つ
められた。彼(女)たちには、ランナーが近づくと、じっーと見つめ続ける習性があった。右折し
て Rd 15A に入り(13:34)、浪越さんからエイドを受けた。
13:59 に未舗装道路に入った。 C413 に入って間もなく、雨がパラパラッと降ってきたので、
せっかく持っていた傘を差して走った(14:19)。遠くには黒い雲があったが、雨はすぐに上がっ
た。 C427 に入って間もなく、石原さんに追いついた(15:42)。
"STOP"の標識があるT字路で右折し、 Rd
264 に入った(16:35)。路側帯がないところが多
く、車が来たときには砂利や草の上に避難した。 17:23 に坂東さんに追いつき、田中さんの姿
も前方に見えるようになった。 Fish Wash とい川を渡った(17:53)。「川」」には水はなかったが、
子犬が立っていた。
駐車スペースのある道路脇に、石原さんと一緒にフィニッシュ(18:28)。
フィニッシュ地点では、ロールが星条旗をまとってランナーを出迎えていた。
ホテルは Navajoland Inn & Suites で、約 32km 離れており、 Hwy 264 を利用して移動した。
D17 7月5日 Kinlichee(AZ)-TwinLakes(NM) 71.7km(44.6miles) 関門 13:00
アリゾナ州からニューメキシコ州へ
11:47:01(7 位/8 名完走)
スタート地点への移動時間を考慮してスタートは午前 6 時頃に変更。スタート直後の道は
路肩がほとんどなくて、交通量が少ないとはいえ危なかった。ライナー、セルジュ、私などは、
車道ではなく、草むらの中を走った。日の出は 6:14 だった。
路肩がある道に変わり(9:17)、歩道がある道に変わった(10:46)。前夜泊まった Navajoland
Inn & Suites 前を通過(30km, 10:53)。
プレードッグを左に見て走り(11:40)、石原さんと一緒にアリゾナ州(AZ)からニューメキシコ州
(NM)に入った(11:59)。少し遅れて坂東さんも NM に入った(12:01)。
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岩山がキノコの形など珍しい形をしていたので、写真を何枚も撮った。遠くに雨雲とそこか
ら降り注ぐ雨が見えた(15:46)。左折して Hwy 491 に入った(62.1km, 16:14)。この日唯一の曲
がり角だった。
Twin Lakes の Chapter House 前にフィニッシュ(17:44)。 Gallup の El Rancho Motel まで約
18km 移動して宿泊。 Gallup はルート 66 沿いにあり、 1928 年のレースでは 20 日目に到達し
た町である。
D18 7月6日 Twin Lakes - Crownpoint 66.4 km (41.3 miles) 関門 11:45
9:52:38 (6 位/8 名完走)
ジェームズがタイムオーバー
5:30 前にスタート。 3km 地点で右折してルート 9 に入った(5:49)。早朝は涼しいので、やや
速く走ったが、右折してからは日本人以外のランナーに次々に追い越された。
Crownpoint Shopping Center にフィニッシュ(15:19)。再び、 Gallup に移動して El Rancho
Motel に宿泊。
この日、ジェームズには追い越されなかった。ジェームズは大幅タイムオーバーの 12:16:32
でフィニッシュした。胃腸の不調が原因だとのこと。「一回のタイムオーバーは認める」という8
日目に作られた特例があり、翌日の復調が期待された。
D19 7月7日 Crownpoint-Pueblo Pintado 64.4 km (40.0 miles) 関門 11:30
10:34:32 (8 位/8 名完走)
雨の七夕
6 時前にスタート。 0.6km 地点で左折してルート 371 に入った(5:57)。 6:04 に太陽が昇って
きた。砂漠地帯を走り、交通量は少なかったが、道路工事は多かった。
Pueblo Pintado Chapter にフィニッシュ(16:28)。
シャワーは少し離れた建物の中で浴びた。男性用・女性用が1個ずつあるだけで、男性用
が空くのをしばらく待っていたが、なかなか空かなかったので、建物を管理している女性職員
の承諾を得て、女性用のシャワーを利用させてもらった。この日も靴底を修理。洗濯物を外に
干していたら、雨が降り出したが、すでにほとんど乾いていた。
前日不調だったジェームズは 10:14:53(6 位)でフィニッシュ。体調不良から快復したようだ。
D20 7月8日 Pueblo Pintado - Cuba 87.2 km (54.2 miles) 関門 15:30
水のない川
14:04:04 (7 位/8 名完走)
距離が長いので、午前5時頃にスタート。道路工事が多く、何度も犬と遭遇した。
水が全く流れていない「川」に架かる橋を渡りながら、「川」をのぞき込むと、トラックに砂をス
コップで積んでいるカップルがいた。自分たちで使うということだった(12:07)。
森岡さんの応援を受けた(16:36)。彼は東京~京都をバスケットボールをドリブルしながら走
ったことがあると言い、数日前からロールを通じてメール連絡を受けていた方だった。
Cuba の Frontier Motel にフィニッシュ(19:07)。ジェームズは緑茶を飲んでいた。
坂東さん(20:01)に続いて石原さんがフィリップと一緒にフィニッシュ(20:07)。森岡さんはフィ
ニッシュ地点にも応援に来てくれた。20日間で最長距離だった。
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D21 7月9日 Cuba - Abiquiu Lake 82.8 km (51.5 miles) 関門 14:30
キャンプ中止
13:46:37 (6 位/8 名完走)
5時頃にスタート。地層が露出した山が多い。 2002 年に St. George に向かったときのような
景色だ。ジェームズ、フィリップ、坂東さん、越田の4名が一緒に走る機会があった(11:33)。ス
タート直後ならばいざ知らず、6時間半も走ってから4名のランナーが一緒になるのは珍しいの
で記念撮影した。
午後3時半過ぎから遠くに雨雲が見えるようになり、局地的な大雨が降り始めた。
海抜 2,400m を越える峠を越え、 Riana Campground に入り、 Abiquiu 湖畔にフィニッシュ
(18:46)。
日本人ランナーが全員フィニッシュしてから、主催者が調理した食事をご馳走になった。当
初の予定では、ここでキャンプするはずだったが、夜間の悪天候が予想されたため、 Espanola
まで車で移動して Motel 6 に泊まった。
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Week 4 July 10 - July 16
Abiquiu Lake (NM) - Guymon (OK) 540.6 km (335.9 miles)
D22 7月10日 Abiquiu Lake - Velarde 62.0 km (38.5 miles) 関門 11:00
パンク!
9:33:25 (6 位/8 名完走)
暗いうちにホテルを出発し、スタート地点(公園入口)に移動。キャンプグランドの出入口に
は、「警告 (出口から)入るな タイヤに深刻な損害」"Warning, Do Not Enter, Severe Tire
Damage"という警告が出ていることに前日に気づいていた。しかし、私が助手席に乗っていた
車が、逆走防止のツメに引っかかりパンクしてしまった。まだ暗い中で、他のランナーとクルー
がだんだん集まり、ミーティングが開始。その間もクルーの方々はタイヤ交換を続行した。
5:30 頃にスタート。短い下り坂に続いて登り坂になったが、すぐに長い下り坂になったの
で、しばらくは先頭で走った。初めて大量の水が流れる川が見え、背の高い木を久しぶりに見
ることができた。
平坦路になると失速し、ライナー、パトリック、セルジュに追い越され、イタロー、ジェニー、
アレックスにも追い越された。
正午頃、小さな女の子二人が何か叫びながら走ってきた。応援だと思っていたら、"Candy,
Candy"と叫んでいた。これでは戦後の日本の子供たちと一緒だ。
Velarde の Shamrock というガソリンスタンドにフィニッシュ(15:06)。マルカスは応援に来てい
た奥さんと一緒にフィニッシュした(15:47)。17.5km離れた Hotel Resort Casino Ohkay へ移動し
て宿泊。
2002 年には、 29 日目に大陸分水嶺の Rabbit Ears 峠 (海抜 2,873m)と Muddy 峠 (海抜
2,673m)を 越 え 、 31 日目 に 大陸 分 水嶺の Berthoud 峠 (海抜 3,445m)を 越え 、そのたびに
"Continental Divide"の大きな標識があった。今回は Cuba から Velarde までの間にロッキー山
脈を越えたはずだが、山脈の最南端部だったため、標高はせいぜい 2,400m 程度だった。
D23 7月11日 Velarde-Palo Flechado Pass 75.5km (46.9miles) 関門 13:30
Palo Flechado 峠(標高 2783m)
12:52:28(7 位/8 名完走)
4時に起床。スタート地点(Velarde)に移動し、 5:30 にスタートし、ルート 68 を進む。川を左
手に見て坂道を登っていくと、 7:59 にリオグランデ峡谷"Rio Grande Gorge"という標識を見つ
けた。
マルカスによれば、この川は彼が住んでいる町(Eagle)の方角から流れてきているという。リ
オグランデは米国とメキシコの国境を流れる川という認識だったので驚いた。 1997 年の年末
から 98 年正月にかけて、友人と二人で米国南部をレンタカーで旅行した時、テキサス州のビ
ッグベンド国立公園を訪れ、すでに時効だと思うので告白するが、単独でリオグランデ川を渡
ってメキシコに密入国したことがある。そのリオグランデが、コロラド州のロッキー山脈に源を発
していることを全く知らなかった。マルカスが暑さを苦手とする理由の一つは、彼がロッキー山
脈の中にある町に住んでいるからなのだろう。マルカスは8日目にタイムオーバーで失格にな
ったが、3日間の休養後にレースに復帰し、12日目以降のステージは全て完走した。実力が
あるだけに惜しかった。
Taos の町を通り抜け、右折してルート 585 に入り(46.8km, 13:08)、T字路で右折してルート
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64 に入った(50.4km)。いよいよ Palo Flechado 峠 (海抜 2783m) への登りになった。路肩がな
い道があり、車が来ると草むらに避難した。
プレーリードッグが多く、写真をアップの写真を撮りたかったが、近づくと素早く逃げられてう
まくいかなかった。彼らは車には警戒心が無くて交通事故の犠牲者にあちこちでなっていた。
車が後ろから走ってきて、大きく私を除けて追い越したと思った途端、パーンという音がした
(17:17)。その音を聞いた牧場の馬2頭が車を追いかける方向に突然走り出した。パンクした車
は路肩が広いところに停車し、ドライバーは途方に暮れ、同乗女性は不機嫌だった。
Palo Flechado 峠(海抜 9101 フィート)にフィニッシュ(18:22)。 1000 マイルにも到達した。宿
泊地は Angel Fire の Community Center で、ポートカーに乗り、峠から翌日のコースをしばらく
進んだ後に、コースから分かれて向かった。ほとんど毎日、睡眠不足で走っているため、ラン
ナーもクルーも疲労が蓄積してきた。
D24 7月12日 Palo Flechado Pass-Cimarron 66.4km (41.3miles) 関門 10:30
最初の下りだけは1位
8:16:24(7 位/8 名完走)
6:00 スタート。パロフレチャド峠からの急な下り坂がしばらく続き、速く走るつもりはなくても
自然とスピードが上がって先頭に立った。時々振り返ると、数十メートル後ろをライナーが走っ
ていた。やがて下り坂がなだらかになってペースが落ちると、ライナーにあっさりと追い越され
た(6:18)。次に私を追い越したのは坂東さんだった。気持ち良いくらい次々に追い越された。
Eagle East の町は西部劇に出てくるような雰囲気だった(8:38 ~ 8:46)。 9 時頃には右手に
大きな Eagle Nest 湖を眺めながら坂道を登った。下り坂になると、左手に小さな川(急流)が流
れ、その左手には切り立った崖が続いていた。この Cimarron 渓谷も美しかったが、花も蝶もき
れいだった。キャンパー・ハイカーなどの休憩所があちこちにあったが、"Area Closed"という看
板が全てに貼り付けられており、閉鎖されていた。山火事の危険性が高いためだ。そのおか
げで、クルーはサポートカーを休憩所に停めてエイド物資を出していると、パトロールしている
人から文句を言われて苦労した。
Cimarrron の Canyon Inn にフィニッシュ(14:12)。
帰国後に地図を見たら、サングリデクリスト山脈 Sangre de Cristo Mts. を横切っていたはず
だったが、川沿いの下り坂が多い道で、 15 マイル付近に小さな峠があっただけで、山脈を横
切ったという感覚はなかった。
D25 7月13日 Cimarron-Point of Rocks Area 86.3km(53.6miles) 関門 15:15
激戦!
13:20:13(8 位/8 名完走)
5:00 前にスタート。道路脇には牧場が多く、牛だけでなく、馬も多かった。
海 抜 5857 フ ィ ート(1785m)に ある Springer と い う町に 入った(11:10)。 町並みを過ぎてか ら
Santa Fe Trail の標識を見た(11:53)。
View of the Rockies の説明板があり(17:28)、ロッキー山脈の恩恵が記されていた。坂東さ
んが道路脇の空き地にフィニッシュするのが見え、坂東さんに1分08秒遅れてフィニッシュした
(18:14)。 Springer に戻り、 Oasis Motel に宿泊した。
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D26 7月14日 Point of Rocks Area-Clayton 88.2km (54.8miles) 関門 15:30
スピード違反
12:15:06 (5 位/8 名完走)
ホテルからの移動があったのに、午前 5 時前にスタート。ライナーがマルカスとドイツ語で
おしゃべりしながら走っていたので、先頭に出て Gladstone Mercantile という店までは先頭で
走った(6:17)。大部分のランナーはここに立ち寄って店を見学し、ライナーはアイスクリームを
買い、私はアイスクリームとコーヒー豆を買った。買い物に 10 分かかり、外に出ると田中さん
が通り過ぎるところだった。
ライナーは店を出た途端にペースを上げた。パトリックには 6:59 、イタローには 7:31 に追い
越された。ジェームズには 10:45 に追い越されたが、主催者スタッフから彼がエイドを受けて
いる最中に追い越した(12:01)。この段階で公式ランナーの中では4位に浮上した。今までは6
位が最高だったので、7時間も走って4位というのは信じがたいことだった。そのうちに追いつ
いてくると思っていたセルジュは 14:28 になってようやく追いついてきて「今日は、速いなぁ」と
言って追い越していった。平坦な道では、それほど差が開かなかったが、登り坂になると一気
に差が広がり、再度4位に浮上するのは無理になった。 Clayton が近づくと、後方にアレックス
の姿が見えてきた。しかし、あと数 km しか残っていなかったので逃げ切って5位で Clayton の
Best Western Kokopelli Lodge にフィニッシュ(17:09)。
ビールを飲みつつアイシングしていると、アレックスがフィニッシュし、目をまん丸くして、「ス
ピード違反で刑務所行きだ!」と私に言ってきた。
D27 7月15日 Clayton(NM)-Boise City(OK) 78.9km(49.0miles) 関門 14:00
ニューメキシコ州からオクラホマ州へ
12:40:19(7 位/8 名完走)
5 時半の少し前にスタート。
"You Are Leaving New Mexico"と赤字と黒字で書かれた黄色の背景色の標識があり、ニュ
ー メキシコ州からオクラホマ州に入り、タイムゾーンがマウンテンからセントラルに変わった
(19.5km, 8:30)。 9:44 、浪越さんの車に石原さんが乗って追いついてきた。石原さんは州境で
リタイアしたという。8日目以降はずっと完走を続けてきたから、残念な結果だった。
新しい主催者スタッフ2名(Berengere とエミリー Emilie)がアンネと Bertrand と一緒に応援し
てくれた(13:10)。 Boise City に入った(16:34)。遠くから見えた Red Cabin の横にフィニッシュ
(18:05)。 Boise City の Townsman Motel に移動して宿泊。タイムゾーンが変わったので、時計
を1時間進めた。
D28 7月16日 Boise City - Guymon 89.8 km (55.8 miles) 関門 15:45
岩田さんサポート最終日
15:14:07 (7 位/8 名完走)
時計を1時間進めたばかりだというのに、オクラホマ州は暑いので、午前5時スタートするこ
とになった。前日のスタート地点 Clayton では、まだ午前4時だ。
周囲の畑はほとんどが枯れていた。気温が高く、風も熱い。
Guymon の Ambassador Inn にフィニッシュ(19:41)。坂東さんは 20:02 にフィニッシュ。
岩田さんのサポート最終日であり、本来であれば、レストランで岩田さんの送別会を開きた
いと思ったが、距離が長かったためフィニッシュが遅くなり、夕食はテイクアウト料理となった。
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Week 5 July 17 - July 23
Guymon (OK) - Pawhuska (OK) 509.0 km (316.3 miles)
D29 7月17日 Guymon - Balko 73.0 km (45.4 miles) 関門 13:00
岩田さんが帰路に
12:44:45 (7 位/8 名完走)
岩田さんの見送りを受けて 5 時半頃にスタート。岩田さんは井口さんとともに Amarillo に行
き、レンタカーを返してロサンゼルス経由で帰国。井口さんは新しいレンタカーを借りて戻って
くることになっていた。スタート前、岩田さんに「ニューヨークまでサポートを続けてほしい」と言
ったら、にっこり笑って無言で断られた。この日のサポートは菅原さんと浪越さんの2名だけと
なった。
Hardesty の町に入った(10:43)。周囲は相変わらず枯れた畑が続いた。自転車に乗った 10
名以上の集団とすれ違った(13:29)。
坂東さんと一緒に走っていると、 Berengere が自転車に乗って迎えに来た(17:52)。 Beren が
坂東さんと一緒にフィニッシュしたいと言っていたのを思い出して、フィニッシュ地点が見えて
きたので少し速く走り、坂東さんに1分14秒の差を付けて Balko の学校にフィニッシュ(18:12)。
地元の方が食事を準備して下さり、学校の体育館に泊まった。
D30 7月18日 Balko - Laverne 83.5 km (51.9 miles) 関門 14:45
14:23:05 (7 位/8 名完走)
2部屋に7人
5:30 頃にスタート。日の出は 6:37 。写真を撮っているとアレックスに追いつかれた。セルジ
ュには 6:52 に追い越された。
自転車に乗った 10 人くらいの集団とすれ違った(11:05)。前日にも自転車集団とすれ違っ
た。彼(女)たちは、夏休みを利用して米大陸を横断しようとしていた。
Harper 郡に入る直前に、"No Mann's Land"という説明板があった(16:39)。オクラホマ州は北
西部の北部のみが細長く西へと延びている(北緯36゚30'-37゚、西経100゚-103゚)。7月15日の州
境からこの日のフィニッシュ地点の Laverne にかけての地域だ。これは Missouri Compromose
(Masson-Dixon)によって決められたとのことだ。
Laverne の Budget Motel にフィニッシュ(19:49)。
部屋数が少ないため、日本チーム 7 名は2部屋に入った。
D31 7月19日 Laverne - Crossing US64/Rd198 51.6 km (32.1 miles) 関門 9:15
8:45:57 (7 位/8 名完走)
アライグマとの遭遇
5:30 頃にスタートし、 Laverne の市街地に入ると、"Welcome to Larverne"のお横断幕のよう
な標識があり、 1967 年のミスアメリカは Jane Jayroe だと記されていた(5:39)。44年前の話だが
町一番の出来事なのだろう。
Buffalo の小さな City
Hall 前を通過(11:52)。星条旗を纏ったバッファローの像が建物前に
立っていた。
午後1時頃、前方に土埃が見えた。それは牛の飼育場内を走る車が原因だった。広大な飼
育場では膨大な数の牛が細長い餌場に群がっていた。今まで見てきた牛たちは、広いところ
でのんびりと暮らしているように見えたが、ここの牛たちに「自由」は全くないように見え、気の
毒だったと言おうか、こんな飼育をされた牛の西は食べたくないと思った。
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飼育場の写真を撮りながら進んでいると、アライグマ2頭が道を横切ろうとしていたが
(13:08)、私に気づいてUターンした。車には警戒心が無くて、時々ご遺体に遭遇するが、人
には警戒心があるようだ。
Road 198 を左に分岐した US64 の右側にある東屋にフィニッシュ(14:09)。 Buffalo の高校に
戻り、体育館に宿泊した。
D32 7月20日 Crossing US64/Rd198 - Alva 76.4 km (47.5 miles) 関門 13:30
車のミラーが右肩に激突
13:07:45 (8 位/8 名完走)
マルカスと一緒になり、幅2mくらいの路肩をマルカスのすぐ後ろを走っていた。フィニッシ
ュ地点が近づいたとき、マルカスが何かを叫んで左へ飛び退いた。その直後、路肩を走って
きた車の右ミラーが右肩に当たって激痛が走った。ぶつかった勢いで後ろを振り返ると、車が
路肩にはみ出して走り続けていた。マルカスと彼のクルーが大声を出してその車に停止を命
令。その車はUターンして戻ってきたが、こちらが抗議しても、女性ドライバーは「どうして私が
止まらなくてはいけないの!」と叫んでいた。マルカスのクルーがドライバーに警察に電話す
るように要求。すぐに保安官がやってきて、「病院に行くか?」と尋ねられたが、打撲だけで骨
折はしていなかったし、関門時間が迫っていたので、事後処理はマルカスのクルーに任せ
て、マルカスと私はレースを続行した。
菅原さんから氷をもらい、右肩を冷やしながらゆっくりと走った。途中で、熱中症で倒れてい
るジェニーを追い越して、 Alva の Northwestern Oklahoma 州立大学のキャンパス内にフィニッ
シュ。ジェニーとフィリップは私に遅れてフィニッシュした。
フィニッシュ地点では、私が右肩を痛がっているのに、主催者もクルーも「良かった」「良か
った」「命が助かって良かった」の大合唱。「ちっとも良くないよ」と言っても、「いやぁ、運が良
かった」と言われた。
大学の寮に泊まり、ここでも氷のうで右肩を冷やしながら寝た。
D33 7月21日 Alva - Medford 84.2 km (52.3 miles) 関門 15:00
大干ばつのオクラホマ州
14:35:50 (7 位/8 名完走)
5時頃にノースウェスタン・オクラホマ州立大学をスタート。右肩がまだ痛い。右腕をふれな
いので、いつも以上にゆっくりと走った。背負っているデイパックからペットボトルを出し入れす
るたびに右腕が痛くて不自由だった。
オクラホマ州は 117 年ぶりの大干ばつで、「 9 ヶ月ぶりに雨が降った」とニュースになるくら
いだ。トウモロコシは枯れており、耕作を放棄した畑が大部分だった。牛たちはたくましく生き
ていたが、彼(女)たちは、枯れ草を食べても生きていけるのだろう。
Medford の Fire & Ambulance にフィニッシュ(19:37)。気温40度前後の日々が続き、 2002
年と比べてはるかに厳しい。
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D34 7月22日 Medford - Ponca City 67.6 km (42.0 miles) 関門 12:00
右肩が快方に
11:25:10 (7 位/8 名完走)
5 時前にスタート。右肩の痛みが薄らいできた。距離も42マイル(67.6km)と短いので、気楽
に走れた。
走っていると突然、足に何かがからみついた。何かと思ったら犬だった。今までに会った犬
の多くの犬は番犬の類が多く、吠えたり追いかけてきて困ったが、この犬は親しげに身体をす
り寄せてきて、足を前に出しにくかった。歩くと道端の枯れ果てた畑に行ったが、走ると足に絡
みついてきた(9:25)。困っていると、後ろから女の子の声が聞こえた。犬の飼い主だと思い、走
るのを止めてその子が来るまで立ち止まり、金髪の女の子が首輪を持っているのを確認して、
ようやく走りを再開した(9:28)。
Ponca City の Comfort Inn にフィニッシュ(16:23)。
ホテルではインターネット接続が良好で、久しぶりにメールを見ることができた。
D35 7月23日 Ponca City - Pawhuska 72.7 km (45.2 miles) 関門 13:00
フィリップのサポート開始
12:28:20 (7 位/8 名完走)
日本人クルーがフィリップへのサポートを開始した。これは彼本人と主催者からだいぶ前か
ら依頼されたためだ。クルーの方々は、ランナー4名のサポートでも大変なのに、日本語はも
とより英語もほとんどできないフィリップをサポートすることには否定的な意見が強かったが、ラ
ンナー側からの要望で、クルーの皆さんが引き受けてくれた。
アレックスが拾った車のナンバープレートを自慢げに見せてくれた(6:38)。
Pawhuska の Economy Inn にフィニッシュ(17:25)。足にマメを作っていたセルジュが8分後に
フィニッシュした。
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Week 6 July 24 - July 30
Pawhuska (OK) - (KS) - St Robert (MO) 524.8 km (326.1 miles)
D36 7月24日 Pawhuska - Oolagah 80.1 km (49.8 miles) 関門 14:45
路面に水たまり
13:57:12 (8 位/8 名完走)
5 時前にスタート。 Barnsdall という町を通過。カメラを持った男性が「日本人ですね」と声を
かけてきて応援してくれ、お互いに写真を撮った(9:30)。雨雲があり、路面に水たまりを発見し
た。
犬と 25 分間、共走し(17:43-18:08)、 Oolagah のガソリンスタンド前にフィニッシュ(18:54)。
Claremore Motel に移動して宿泊した。
D37 7月25日 Oolagah - Big Cabin 61.1 km (38.0 miles) 関門 10:45
Andrew Payne の故郷を通過
10:24:44 (8 位/8 名完走)
5 時前にスタート。踏切を渡り、右折して US66 に入った(8:56)。14日目に Flagstaff を出てか
らは、ルート66の北側の道をコースとしてきたが、ここからはルート66を走る機会が多くなった。
前方にはかなり前を走っていたはずのジェームズの姿が見えた。ずいぶんと遠回りがあるよう
だ。 Foyl に入った(9:05)。この町は1928年の米大陸横断レースで 1 位になった Andrew Payne
の故郷の町である。 Payne の像の前に行くと、エミリーが記念撮影してくれたので、こちらもエ
ミリーの写真を撮った(25.5km, 9:06)。ペイン像の説明には、アンドリュー・ペイン(1907-1977)
は、ロサンゼルスを1928年3月4日にスタートし、 3,422.3 マイル走ってニューヨーク市に5月26
日に辿り着いたこと、36年間オクラホマ最高裁判所で事務職を務め、オクラホマ市立大学から
法学博士を取得し、陸軍にも従軍したことが記されていた。
踏切を渡った直後の交差点で前方に見えた地点には"Okulahoma Route 66"の記念碑が立
ち(26.8km, 9:20)、アンドリュー・ペインが1927年に(高校を)卒業し、1928年の大陸横断レース
で LA-NY3423.5 マイルを573時間4分34秒の世界記録で優勝したと記されていた。彼は高校
生時代に自宅(農場)から 5 マイル離れた学校まで走って通っていたと記されていた。
ペイン像と記念碑の距離は 1.3km しか離れていないが、1928年に走った距離には 1.2 マイ
ル(約 1.9km)の差があった。
Chelsea の町に入り、ルート 66 の土産物店の壁にサインした(40.7km, 11:47)。
正午には Historic Route 66 の "Pryor Creek Bridge" がコース脇にあることを見つけ、寄り道
して写真撮影した。
Big Cabin の Super 8 にフィニッシュした(15:19)。
D38 7月26日 Big Cabin - Miami 65.9 km (40.9 miles) 関門 11:45
セルジュが迷子
11:01:56 (7 位/8 名完走)
6:42 に"Will Rogers Highway"の説明板の写真を撮っているとセルジュが追い越していっ
た。ウィル ロジャース(1879.11.4~1935.8.15)はコメディアン、作家、評論家などで活躍し、19
29年 の 米大 陸 横断 レー スでス ター タ ーを 務め た人 だ 。ルート 66 の 右 折地 点で右折 した
(6:56)。不思議なことにセルジュのサポートクルーのウィリアムがまだ車を停めていた。どうやら
セルジュはコースを間違えて右折地点で直進したらしい。
10:54-57 、ルート 66 の土産物店でエイドを受けた。 11:59 、セルジュが追いついてきた。
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「自分でコース設定したのに間違うなんておかしい」と言うと、「その通り」と照れ笑いをしてい
た。
Miami の Super 8 に、フィリップに 19 秒の差を付けてフィニッシュした(16:00)。
D39 7月27日 Miami (OK)-Carthage(MO) 78.5km (48.8miles)
竜巻被害地 Joplin 通過
関門 14:00
13:46:57(8 位/8 名完走)
21.3 km (13 miles) 地点でオクラホマ州からカンザス州に入り(8:35)、 35.2 km (21.8 miles)地
点でミズーリ州に入った(11:11)。
Joplin の 町 に 入 り、 32th St を 過 ぎ る と、 屋 根 が 壊 れ てい る 家 が 観 ら れ る よ う に な った
(43.4km, 12:42)。さらに進んでいくと、家の破壊の程度が激しくなり、ついには津波の後のよう
に、家々が壊滅している地帯に入った。5月22日にこの町を襲った竜巻のせいだった。竜巻の
被災地で浪越さんと菅原さんのエイドを2回受けた。竜巻被害が収まったのは Murphy
Rd を
横切った辺りだった(50.8km, 14:09)。写真撮影と地元の方々との話に時間をとられ、ダントツ
の最下位になった。
16 時頃、 Webb City の街を走っていると、ロールがやってきた。「田中さんが道路の真ん中
を走っているのを目撃した。熱中症ではないか。」と言う。歩道がない場合は左側走行(対向
車に向かって走る)という規則があり、これを守らなければ処分の対象になる。田中さんに注意
してほしいと言われたが、田中さんは私より前を走っており、追いつけなかった。
Carthage の Guest House Motel にフィニッシュすると(18:49)、ロールが再びやってきて、田
中さんに処分のことを話すように依頼された。田中さんは道路の斜面がきついので、右側を走
ったり、左側を走ったりしたので、道路中央を走ったこともあると認め、処分に従うことにした。
マルカスのクルーを担当している Klavs クラブスが「竜巻が襲ってから2ヶ月も経っているの
に、竜巻が昨日来たかのように家々が倒れたままだ。アメリカという国は貧乏だな」と言ってい
た。私もそう思ったが、3月11日に東日本を襲った大地震とそれによって引き起こされた津波と
原発事故からの復旧は、もっと長い月日が経っているのに復旧にはほど遠く、日本も貧しいと
いうことになる。
D40 7月28日 Carthage - Springfield 84.5 km (52.5 miles) 関門 15:00
ペットボトルをぶつけられた!
14:48:34 (8 位/8 名完走)
スタート前のミーティングで田中さんの処分(7日間の出場停止)が決定された。ジェームズ
も路肩からはみ出して走っていることがあるとのことで 30 分の罰則が与えられた。ジェームズ
は不服申し立てをしていたが、認められなかった。
ミーティングに時間がかかり、スタートは 5:09 。日の出は 6:23 頃だった。 96 号線(Old 66)を
ひたすらまっすぐ進む。時々、ルート 66 らしく、骨董品で飾られた店があった。
序盤は 10 分/km より少し速いペースだったが、気温上昇とともにペースが落ち、"Rd M"が
右に分かれた地点(49.2km)を 13:47 に通過。時速 6km で走っていれば、 8 時間 12 分でここ
まで来ているから、それよりも約 30 分遅れている。残りの距離は 36km 弱なので、このままの
ペースだと 6 時間以上かかり、関門(15 時間)ギリギリになる。
下り坂があれば、それをきっかけにペースを上げようかと思っていた、ちょうどその時、右脚
下部外側(足首の上)を「後ろから棒で殴られた」ような激痛を感じた。振り返ったが、後ろには
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誰もいなかった。前を見ると、目の前に空のゲータレードのペットボトル、反対車線の路上に
は青色のゲータレードが半分くらい入ったペットボトルが転がっていた(13:59)。ペットボトルを
後方から来た車から右脚にぶつけられたようだ。
あまりの痛さに、しばし立ち止まり、靴下をめくって患部を見ると、赤く腫れていた。止まって
いては関門に間に合わないので、脚をひきずってゆっくり歩いていると、フィリップが追いつい
てきたので事情を話すと、私のペースに合わせて歩いてくれた。エイドでは氷をもらって靴下
の中に入れてアイシングしながら歩いた。
フィニッシュ地点まで歩き続けたのでは関門に間に合わない。関門時刻の1時間前からは
走ることに決めて、足の痛みが軽くなることを期待しながらひたすら歩いた。夕方になれば、日
差しが和らいで気温も少しは下がるだろうし、1時間くらいであれば、痛みを我慢して走れるは
ずだ。
午後7時になり、関門時刻まであと1時間となった。"Rd T" (75.3km)を 18:41 に通過してい
たので、残りの距離は約 8km と推測。フィリップに「 It's time to run. 走る時間になった」と告げ
て走り出すと、フィリップも走りだした。気分としてはフルマラソンを走っているようなつもりで走
った。そうでないと関門に間に合わないはずだ。線路の高架下(84.2km)を 19:52 に通過。フィ
ニ ッ シ ュ ま で 0.7km な の で 、 関 門 に 間 に 合 う こ と を 確 信 し 、 19:57 に フ ィ リ ッ プ と 一 緒 に
Springfield の Ramada Motel にフィニッシュ(84.9km 、 19:57)。写真撮影時刻によれば、"Turtle
Dove"
(78.1km)を 19:10 に 通 過していたから、そこからの 6.8km を 47 分で走っており、
6'55"/km で走ったことになる。
フィニッシュ後には念入りにアイシングし、翌日以降に備えた。しかし、翌日は駄目かもしれ
ないとも思った。菅原さんに弱音を吐くと、静かな口調で完走を目指すように諭された。
D41 7月29日 Springfield - Conway 71.6 km (44.5 miles)
リタイアの危機と多くの応援
関門 12:45
12:33:45 (8 位/8 名完走)
右脚の痛みが強くて、最初からほとんど走れなかった。正直に言えば、走る意欲があまり起
きなかった。無理して走れば患部が悪化するので、関門時間を有効に使って、できるだけギリ
ギリに完走したほうが良いと思い、歩きを中心にして遅くなりすぎないように時々走った。
前日はペットボトルをぶつけられるという嫌なことがあったが、この日は応援が多かった。自
転車に乗っていた女性が目の前で止まり、写真を撮って応援してくれ(10:21)、二人の男性が
カメラ片手に応援してくれた(12:37)。
Marshfield に入り(45.1km 、 13:05)、市街地で右折してすぐ左折する所があるので慎重に歩
いていると、車に乗っている男性が話しかけてきた。「何をやってるのか。」と尋ねられたので、
「ロサンゼルスからニューヨークまで走っている。」と答えると、「それは凄い。どうして、そんなこ
とが出来るのか。」と言うので、「サポートしてくれる人がいるからです。」と答えて前を見ると、
菅原さんのサポートカーが見えた。
エイドを受けていると、先ほどの男性が「写真を新聞に載せたい。」と言う。そのうちに彼の
知り合いが集まってきて、写真を何枚も撮られた(13:22 頃)。私としては、関門ギリギリペースで
進んでいるので、さっさと先に行きたかったが、レースのことが報道されたならば周辺の方々
に理解が広がって、前日のような妨害行為が減ることを期待して「取材」」に応じた。新聞に掲
載されたかどうかは定かでないが、レースに好意的な方が数名増えたことには間違いない。
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アレックスが追いついてきたとき、前日にペットボトルを右脚にぶつけられたことを話すと、
前々日(7月27日)には彼が対向車から乾電池を右肩にぶつけらて負傷したとのことだった。
アメリカという国には、友好的な人も多いし、異常な人も少なくないということだ。
アレックスは、前日には電話修理のためにホテル 20km 先の町まで行き、途中にあった寿
司屋で20個食べたとも話していた。早く完走できる人は羨ましい。
Conway の Budget Inn Motel にフィニッシュ(17:33)。関門の 11 分前だった。
D42 7月30日 Conway - St. Robert 83.1 km (51.6 miles)
3,000km 通過、豪雨襲来
関門 14:45
13:38:58 (8 位/8 名完走)
3,000km 地点を通過した(10:33)。日中は相変わらず暑い。ガソリンスタンド横の店を見つけ
(12:34)、アイスキャンデーを買って食べた。
道路右側に"High Water Mark"を見つけた(13:25)。2008年3月19日に Gasconade 川が氾濫
して道路が水に浸かったという。"Record Level of 34.88 Feet (14.88 Feet Above Flood Stage)"と
記してあったが、標識には地面から 2m くらいの所に線が記されていたので、水位は海抜表
示なのかもしれない。
この辺りは大雨が降ることがあるんだと思いながら走っていると、空模様が怪しくなってき
て、前方 100m くらいでは明らかに雨が降り始めていた(13:42)。雨の中に突入。傘を広げたの
で、顔や肩は雨にあまり当たらなかったが、雨脚が強まったので、タイツと靴はびしょ濡れにな
った。コースになっている道路 MM の左側には I-44 が並行しており、行き交う車はライトを点
滅させながら激しい水しぶきを上げて走っていた。おまけに農薬の臭いがしてきたので顔をバ
ンダナで覆い、農薬を吸い込まないようにした。
浪越さんのエイドに着いたときには雨は激しく降っていたが(13:59)、井口さんのエイドに着
いたときには小降りになっていた(14:32)。そこから 4.4km は未舗装道路となったが、数分後に
雨が上がった。舗装道路に入ってから 4.1km 先で再び未舗装道路(2.7km)に入ったが、いず
れの道も所々に水たまりがある程度だった。
St. Robert(人口 2760 人)の町に入り(81.9km 、 18:26)、 Super 8 にフィニッシュ(18:37)。フィ
ニッシュ後、ランナーの中に湿疹が出ている人が多いことが判明した。雨に当たったランナー
は露出していた部分に湿疹ができて、数日間辛かったそうだが、私は傘とバンダナを使用し、
長袖シャツとタイツを着用していたので、被害はなかった。
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Week 7 July 31 - August 6
St. Robert (MO) - New Berlin (IL) 466.5 km (289.9 miles)
D43 7月31日 St. Robert - St. James 66.5 km (41.3 miles) 関門 11:45
11:01:12 (7 位/8 名完走)
起伏と曲がり角の多い道
午前 5 時にスタート。 8:40 頃、左側が下がった急斜面の道を走った。路側帯がない下り坂
で、走ると自然に身体が道路脇の草むらに入り込んでしまうので、車が来ないこと確かめつ
つ、車線の中央を走るようにした。それでも身体は草むらに入りそうになった。
Rolla という町に入った(41.3km, 11:29)。気温が上がってきたので、暑いのが苦手なマルカス
は日陰で停まっているサポートカーでの休憩が長くなり、時々追いついた。ジェームズも店を
見つけるとアイスキャンデーを買いに行くので何度か追いついた。石原さんも私もコースとな
っている道路 BB の左側にあった公園内の木陰が多い小道を走った。
Rolla の町外れからは、コース説明に "UP AND DOWN -WE ARE IN MISSOURI" と 書い
てある通り、起伏に富んだコースになった。
St.James に入り(61.3km,15:14)、残り距離が 5.2km となり、 16:01 にフィニッシュ。
曲がり角が18回もあるコースだった。路面には曲がり角ごとに矢印が記されていたのでラン
ナーにとっては、それほど難しくないコースだったが、車からは矢印が見えづらく、サポートク
ルーの方々は道を探すのに苦労したと思う。
フィニッシュ地点のホワイトボードには「 FOR D44 & D45 START AT 5:00 or 5:30 or 6:00?
What do you prefer? -Less of 50 km for this 2 stages 」 と記されていた。日本人ランナーは睡眠
時間確保のために 6 時スタートを願うが、たぶん 5 時スタートが多数派だろうと思った。
D44 8月1日 St. James - Owensville 46.8 km (29.1 miles) 関門 8:30
曲がり角は1個所だけ
6:57:15 (5 位/8 名完走)
予想通り5時スタートとなった。 50km 未満の距離であれば、ライナーは時速 10km 以上で
走るだろうから、 9 時半くらいにはフィニッシュしてしまう。そんなに早くホテルについても困る
と思うのだが、フィニッシュ後に車で興味あるところに出かけたり、歩いたりするので、走り終わ
った後でたくさん時間がほしいのだそうだ。他のランナーも真っ暗な午前5時にスタートするこ
とが気にならないらしい。5時半頃にようやく夜明けを迎えた。
7月25日にルート66に入ってから St. James まではルート 66 を主にコースになっていた。ル
ート66は St. James から北東へと向かい、 Cuba 、 St. Louis 、 Springfield(8月7日通過予定)を経
て Chicago に至るが、スタートして間もなく進行方向を北へと変えてルート 66 から分かれた。
1車線しかない橋 "Narrow Bridge" (17.8km)を通過(7:28)。路肩が狭いので、車が来ないう
ちにさっさと渡った。石原さんとほぼ同じペースで走ったが、登り坂になるたびに距離を広げら
れた。この日唯一の曲がり角で右折し、道路 B から 28 East に 入った(36.2km, 10:19)。
Owensville に入ると (46.1km, 11:48)、残りは 700m となり、 11:53 に Owensville Motor Inn にフ
ィニッシュした。
距離が短かったのでアレックスにもジェームズにも追いつかれなかった。
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D45 8月2日 Owensville - Hermann 48.1 km (29.9 miles) 関門 8:30
28 East から 19 North へ
7:25:47 (8 位/8 名完走)
距離が短い日の2日目。午前5時スタートなので Owensville の市街地を通り抜けても、暗す
ぎて町の様子が分からないのでつまらない。 Walmart が右手に見えたので、もうじき左折地点
だと分かる。左折して 28 East から 19 North に入った(4.4km, 5:34)。午前6時頃にようやく明る
くなってきたと思ったら、アレックスに追いつかれた(6:08)。T字路で左折(17.3km, 7:16)。道は
19 North のまま。 Swiss という町に入り(29.3km, 9:26)、 Gasconade County の Sheriff's Dept.を
右に見て進む(31.4km, 9:45)。左側に駐車場があり、そこで浪越さんからエイドを受け(45.5km,
11:59)、 Hermann に入り(46.4km, 12:05)、 Hermann Motel に最下位でフィニッシュ(12:19)。坂
東さんは前日より距離が 1.3km 長いのに 1 時間 23 分も早くフィニッシュして 5 位だった。
Hermann にはワイナリーやビールレストランがあり、時間的に余裕があるので、それらを楽し
むことが可能だった。しかし、パソコンでメールを読むと、これからの宿泊に関していくつかの
メールが主催者から届いており、それを検討する必要があった。坂東さんは少しでも身体を休
めていたいと言うことで、私と坂東さんを除く6名が Stone Hill Winery の見学とワイン試飲に出
かけた。
D46 8月3日 Hermann - Bowling Green 88.4 km (54.9 miles)
Bad Boy!
関門 15:45
13:21:29 (6 位/8 名完走)
セルジュが追い越していったが、小さなウェストバッグを付けているだけで、水もコース説明
も持っていなかった。サポートにルドヴィックが加わって2名体勢になったので、水などの携帯
が不要になったとも言えるが、明らかにルール違反だ(8時頃)。
交 通 量 の 多 い 道 を 避 け る た め な の か 、 未 舗 装 道 路 を ジ グ ザ グ に 進 ん で い る と (29 ~
36.2km)、マルカスが追いついてきて、「セルジュがルール違反するのはおかしい」と言う(9 時
頃)。セルジュの違反行為を知ったロールがやってきて、セルジュに規則を守るように話してい
たようだったが、効果はなかった。アレックスも尊敬していたセルジュが違反行為をするのは納
得できないと批判した(13 時過ぎ)。
Bowling Green に入り(86.5km, 18:00)、 Super 8 にフィニッシュした(18:16)。
※セルジュは、後日、この日の自分のことを"Bad Boy だった"と述べていた。
D47 8月4日 Bowling Green-Hannibal 72.4 km(45.0miles) 関門 12:45
誕生日
11:25:10 (7 位/8 名完走)
この日は私の誕生日。しかし、スタート前のミーティングで、セルジュに30分のペナルティ処
分 が決定された後にお祝いがあり、今ひとつ盛り上がらない。主催者からは、"C.C.PYLE'S
AMAZING FOOT RACE, The True Story of the 1928 Coast-to-Coast Run Across America.
(Author; Geoff Williams)"という本と私が写った写真を数枚入れた写真立てが贈られた。本は
1928年に開催された史上初の米大陸横断レースを参加者本人からの聞き取りなどによって20
07年に著されたもので、レース前の世相やトレーニング状況、レースにおける競争やトラブ
ル、1929年のレース、それ以降のランナーや主催者の生涯などが記されていてたいへん貴重
なものだ。
セルジュからも個人的に「月桂冠」4合瓶4本をプレゼントされたが、処分を受けたばかりの
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ランナーからもらって喜んでいいのかどうか、微妙なところだったが、ありがたく受け取った。
セルジュには 7:54 に追い越された。マルカスには 8:25 、アレックスには 10:01 に追い越さ
れたが、彼らは木陰に停めたサポートカーで休憩していたので一旦は追い越した(10:15)。
右折して道路61=道路Cに入ると(10:28)、その先 3.8km はエイドができない区間になった。
車は別の道を進んで、ランナーを待ち受けることになっていた。 Ralls County に入り(10:54)、
片側2車線(中央分離帯あり)の幅の広い路肩を走っていると、前方の登り坂の途中からジェラ
ードが左手の草むらに入っていくのが見えた(10:58)。私も4分後には草むらの斜面を 10m ほ
ど登り、別の道に入った。主催者チームの男性スタッフが草むらに立ってランナーを誘導し、
菅原さんが待っていてくれた。フィリップは草の上で休憩中。リタイアしたとのことだった。
未舗装道路を走っているとジェームズに追い越された(11:38)。
New London に入った(12:35)。小さな町だが Ralls County の裁判所があったので(12:44)、こ
の辺りでは一番大きな町なのだろう。
Marion County に入り(16:02)、 Hannibal に入った(16:03)。ハンニバルはマーク・トウェインの
故郷であり、 Run Across America 2002 のコースと接近または合流することになる。
階段を下りてフィニッシュ(16:23)。アイシングしながらビールを飲み、宿泊予定の Super 8 の
位置が分からなかったので、パソコンの地図で探した。坂東さんのフィニッシュを見届け
(17:07)、ホテルへ移動。先着していた石原さんはライナーのクルーであるジューンに車で送っ
てもらったとのことだった。日本人とパトリック夫妻以外は、フィニッシュ地点の Armory に泊ま
った。
食事後には、私の誕生祝いをみんながしてくれ、ケーキをご馳走になった。
D48 8月5日 Hannibal - Florence 76.0 km (47.2 miles) 関門 13:30
雨、下り坂の爆走、黙祷
12:07:48 (7 位/8 名完走)
早起きしてスタート地点に移動し、半分残っていたケーキをジューンに渡して、みんなで食
べてもらうように伝えた。それを見ていたロールが「ケーキがあれば、嫌なことを忘れることがで
きる」と喜んでいた。レース運営で相当疲れているようだ。
午前5時にスタート。ミシシッピ川に架かる橋を目指した。ミズーリ州からイリノイ州に入った
が、暗すぎて 3.7km 地点の"Illinois"の標識は分からなかった。
菅原さんからエイドを受けた時もまだ暗かった(5:57)。8時頃には雨が降り出した。 8:31 に
Kinderhook(人 口 250 人 )に 入 っ た 。 10:31 に は 雨 が 強 く な っ た の で 傘 を さ し 、 14:01 に
Pittsfield に入った。
田 中 さ ん が エ イ ド 車 付 近 で 応 援 (16:18)、 子 犬 に 共 走 し て い る 石 原 さ ん と 一 緒 に な っ た
(16:49)。"HILL Trucks Test Your Brakes"という標識があり(16:56)、下り坂が近づいていること
が分かった。"Draw Bridge UP When Flashing"という標識もあり(16:58)、跳ね橋が近づいてい
ることも分かった。
下り坂が急になり、ペースが自然と上がって爆走開始。2002年にも前方の跳ね橋を渡った
記憶が甦り、イリノイ川を渡った先にフィニッシュ地点があると思いこんで走っていると、橋の手
前左側にフィニッシュ地点が見えて、あっけなくフィニッシュ(17:08)。平坦になれば石原さんに
追い越されると思っていたが、14秒の差を付けてしまった。
坂東さんが遅れていたので、井口さんの車で先にホテルへと移動。時差の関係で日本では
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すでに8月6日になっている。日本時間で 8:15
が近づくと、井口さんが車を道端に停めてく
れ、広島があると思われる西に向かって二人で黙祷を捧げた。
D49 8月6日 Florence - New Berlin 68.3 km (42.4 miles) 関門 12:00
11:29:54 (7 位/8 名完走)
坂東さんの友人現る
午前5時過ぎにスタート。イリノイ川に架かる跳ね橋には歩道がなくて危ないという理由で、
スタッフの車の後ろをランナーがまとまって走ることになった。橋の「路面」は金網状だったが、
真っ暗で川の流れは見えなかった。橋を渡ると、それぞれのペースで走り始めた。やがて、暗
い空のあちこちで雷鳴が轟き、稲妻が走った。
午 前 6 時 頃 、 よ う や く 明 る く な っ て き た 。 左 折 地 点 で ア レ ッ ク ス に 追 い 越 さ れ た (7:05)。
Jacksonville に入った(11:01)。人口 19,000 人の米国としては大きな町で、ショッピングセンタ
ー、 Ford 車販売会社、矯正センター、 Super 8 などがあった。
Alexander に入り(14:55)。 New Berlin(16:31)に入った。人口 1,100 人の町だ。パトリックが車
に乗ってコースを逆走(16:34)。 Jacksonville の Super 8 に泊まるのかもしれない。 New Berlin
の Fairground Sangamon Countyfair にフィニッシュ(16:38)。セルジュが出迎えてくれた。
フィニッシュ地点手前に日本人らしき方が立っていた。どなただろうと思っていたら坂東さん
の友人で、驚かそうと思って連絡なしに応援に来たとのことだった。レネと Béren の伴走でフィ
ニッシュ地点に近づいた坂東さんは、友人に迎えられてフィニッシュし、倒れ込んだ(17:01)。
夕食は歩いても行ける距離にある Capones Pizza Grill に出かけた。ただし、私と坂東さんは
菅原さんの車に乗せてもらった。この店では注文してから料理が出てくるまで長い時間がかか
り、よほど時間の余裕がないとき以外は、テイクアウトのほうが良いと思った。
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Week 8 August 7-August 13
New Berlin (IL) - (IN) - South Vienna (OH) 567.9 km (352.9 miles)
D50 8月7日 New Berlin - Decatur 87.4 km (54.3 miles) 関門 15:30
間違ったコース説明と 208 事件
14:23:15 (7 位/8 名完走)
午前5時にスタート。 87.4km の長丁場であり、曲がり角が 12 個所あるステージ。関門時刻
に余裕をもち、なおかつオーバーペースにならないように、コース説明にいくつかの地点に、
時速 6km ペースでの通過目標を記入しておいた。
スタートしてすぐに左折と右折があり、 Illinois
という道路に入った(0.2km)。日の出は 6:09
頃だった。
T字路で左折して Koke Mill Rd に入った(18.4km, 7:48)。目標より 16 分早かった。歩道が
なく、路肩もほとんどない道になったが(8:19)、交通量が少なかったので危険ではなかった。
次のT字路で右折して Washington St に入ると、道路の両側に歩道があった(23km, 8:28)。目
標より 22 分早い。 1km ごとにほほ 1 分の「貯金」を作っているので、ほぼ 9 分/km で走ってい
ることになる。順調だと思って走っていたら、反対側の歩道をベビーカーを押して走っている
女性がいた。「速い!」と感心してよく見ると、妊娠中のお腹を出して走っていた。反対方向か
らもベビーカーを押して走ってきた女性がいて、さっそうとすれ違っていた(8:39)。教会やリス
の写真を撮っていると、妊婦さんが折り返してきて今度は私とすれ違った。要するに彼女のス
ピードのほうが速かった。
路面の矢印にしたがって左折して Burns Ln に入り(25.4km, 8:51)、 1.7km 先で右折して N.
Grand Av N に入った(27.1km, 9:07)。左手に陸軍関連施設があり、 UNITED STATES ARMY
と機体に書かれたヘリコプターや飛行機が展示してあった(9:27)。 9:48 に踏切を渡ったが、コ
ース説明には出ていなかった。
さらに進むと、左手の建物に"Home of Lanphier Lions 1983 State AA Basketball Champs"と
いう看板が付けられていた(9:57)。その先には Springfield 公立学校の競技場と Robin Roberts
競技場があった。横切る道路名をコース説明で確認できず、しばらくは道なりなので問題ない
とはいえ、ペースを落として慎重に進んだ。
コース説明には 35.2km 地点に"Right Curve"があり、道路名が"Ridgely Hwy"に変わると書
いてあったが、道路名は"Ridgewood Ave"だった。さらに進むと、インターステート 55 の跨道
橋を越え(35.2km, 10:46)、自分の位置がどこなのかようやく完全にわかった。
T字路で右折し(38.4km,
11:15)、 300m 先の変則十字路(コース説明ではT字路)で左折し
た。金属製で小さくて狭い橋(Metallic Small and Narrow Bridgge)に行くと(39.9km, 11:28)、主
催者スタッフが待ち受けていて、コース説明に訂正があるという。最後の曲がり角(フィニッシュ
地点の 0.7km 手前)が右折ではなくて左折だという。訂正がなければ、フィニッシュ地点の近く
まで行ってから反対方向に進んでしまうところだった。
42km 地点で左折し、 43.9km 地点で右折すると(12:15)、そこから 24.1km は道なりなので一
安心。ホッとしていると、三人の男性が馬に乗り、右手はもう一頭の手綱を握り、合計六頭の馬
を操って馬車を引いて脇道から現れて、別の脇道へと入っていった(12:17)。彼らに見とれて
いると、後ろからサングラスをかけた女性が馬にまたがって現れ、彼らに付いていった。
右 手 に 工 場 が 見 え てき て、 敷地 内 か ら 怪し げ な煙を 出 し てい た 。コ ー ス 説 明 を見 ると 、
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"Industriel Company on the left side with strange built"と 書いてあった。綴りの間違いは御愛嬌
としても、右と左を間違えるのは問題だ。
68km 地点で左折して Old 36 に入った(16:27)。時速 6km よりも遅くなったが、残りの距離は
20km を切っており、時速 5km でも関門時刻に間に合うので焦る必要はなかった。コース説明
には、次の曲がり角まで 11.6mi/32.7km と書いてあった。「 11.6 マイルが 32.7km もあるはずな
いじゃないか!」と叫んでしまいそうになった。
18:35 、右手に駐車スペースがあり、"Lincoln's First Illinois Home"の説明板が立っていた。
86.7km 地点で、この日としては最後の曲がり角となり、T字路で左折した(19:24)。ここが 8 時
間前に訂正された曲がり角だ。 19:30 に Days
Inn にフィニッシュ。関門時刻の1時間前だっ
た。
石原さんは私より 25 分前にフィニッシュし、私が足をアイシングしている間にホテルに入っ
ていった。坂東さんもフィニッシュして、この日は無事に終わった・・・と思った。
しかし、食事をしようということになった時、石原さんが部屋にいないことがわかった。ホテル
の周りを探したけれど見当たらない。他のランナーまたはクルーと一緒に夕食に行ったのかし
れないとも思ったが、そうでもなかった。そのうちに姿を現すと思い、ライナーのクルーである
ジューンに「誘拐でもされたのかな? 社長さんだということがばれて、誰かに誘拐されたかも
しれない」などと脳天気なことを話していた。
テイクアウトの食事をするときになっても、石原さんの姿が見当たらず、みんなで心配した。
クルーの方々はあちこち探し回り、田中さんは電話をかけようと試みた。坂東さんは「そう言え
ば、心臓に持病があったはず。どこかで倒れているかもしれない」と心配していた。
午後 10 時半頃、ホテルのフロントにロールなど主催者スタッフとチームジャパンのメンバー
が集まり、フロントのご高齢の女性と石原さんの行方を捜すために話し合った。フロントの方に
石原さんの部屋(228号室)のカードキーを誰に渡したのかを尋ねたが記憶しておらず、石原
さんの写真を見せてもは見覚えはないと言う。
もし石原さんが見つからなかったり、不測の事態に至った時には、翌日以降の日本人ラン
ナーのレース続行は取りやめざるかも知れないと私は思い始めていた。
そのとき、石原さんが現れた。「部屋はどこなのー。」と笑顔で登場。
一同、唖然。部屋を勘違いして 208 号室にカードキーを入れたら、なぜかドアが開いたの
で全く疑問を持たずにシャワーを浴び、バスタオルにくるまって、ぐっすり寝ていたという。部
屋には着替えなどを入れた荷物が届いていなかったので、おかしいとは思ったが、部屋が間
違っていたとは思わなかったという。この出来事を私たちは、「208事件」と名付けた。
「石原さん失踪」発覚から約7時間、石原さん以外のチームジャパンメンバーは、気が気で
ない時間を過ごし、石原さんだけが熟睡していた。
D51 8月8日 Decatur - Tuscola 67.3 km (41.8 miles) 関門 12:00
眠い!
11:12:50 (7 位/8 名完走)
チームジャパンメンバーは 1 名を除いて睡眠不足で朝を迎えた。寝不足なので、関門時刻
に間に合いすれば良いと思ってスタート。
Decatur 湖を右に見て進んだ (6:35)。"Tuscola 23"の標識が見えた(9:31)。
11:20 、 Hammond に入った。人口 550 人の小さな町だった。"Old Hunter Xing"の標識が左手
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の家に立っていて、 9 年前にも見たような気がした。
5~6人の地元ランナーが私設エイドを準備して応援してくれた(11:25)。クーラーボックスに
は、いろいろな色のゲータレードが入っていたので、水色のを避けて1本いただいた。
Douglas County (13:10) に入り、"Tuscola 9"の地点を 13:11 に通過。 Atwood 1300(13:18)に
入り、 Kaskaskia River を渡った(14:47)。
Pheasant Habitat Restoration Area (キジ生息保護地区)を左手に眺め(15:20)、 Tuscola に入
った(15:56)。人口4500人の町だ。 16:10 に Super 8 にフィニッシュ。石原さんは、アレックスの1
0分後、ジェームズの45分前、私の1時間15分前、坂東さんの1時間45分前にフィニッシュ
した。睡眠時間の確保は大切だ。
日本時間8月9日11:02 (長崎への原爆投下時刻)にベッドの上で黙祷した。
D52 8月9日 Tuscola - Rockville 91.4 km (56.8 miles) 関門 16:00
13:05:52 (5 位/8 名完走)
最長距離を走り、刑務所へ
午前5時にスタート。 US36 を進み、曲がり角が1度もないコースで、道もまっすぐで分かり
やすい。ただし、距離はこのレースでは最長の 91.4km(56.8 マイル)だった。当初の予定距離
は 93.2km で、 1.8km を翌日に回して距離は少し短くなったが、暗くなるまで走っていたくなか
ったので、時速6km ではなく、時速4マイルを目標にして走った。
Edgar County に入った(16 マイル=25.9km, 8:24)。通過目標より 30 分以上早かったが、オ
ーバーペースではないのでペースを維持。
13:46 、イリノイ州からインディアナ州に入った(39.2 マイル=63.2km)。浪越さんが州境で待
ち受けてくれていたので、お互いに写真を撮った。目標より約1時間早かった。
大きなサイロに近づくと、日陰でジェニーとアンネケが休憩していた(14:28)。
左手に屋根付きの橋(Covered Bridge)があった。コース説明には"Have a look or go by old
walk bridge"と書いてあり、橋を渡った(43.6 マイル=70.2km, 14:49)。 1876 年に作られた橋だ。
Rockvilli に入り(55 マイル=88.5km,
17:54)、残りは約3km 。雰囲気の良い町並みを通り、
Parke Bridge Motel にフィニッシュ(18:06)。ここには主催者やランナーの一部が宿泊するが、ド
イツ・イタリア・日本などのランナーは、 500m 離れた Old Jail Inn に泊まった。要するに、刑務
所ホテルだ。部屋は鉄格子で囲まれていて、シャワーにはカーテンがあったが、トイレにはド
アもカーテンも無かった。
D53 8月10日 Rockville - Indianapolis 83.7 km (52.0 miles) 関門 14:45
監獄を出て彩雲を見る
12:52:55 (6 位/8 名完走)
刑務所のコーヒーハウス(Old Jail Coffee House)で朝食をとり、 500m 離れたスタート地点へ
と車で向かった。
この日は、 US36 East を 62.2km 走り、左折して Old 36 を 7.1km 走り、再び左折して US36
East に戻るという比較的に分かりやすいコースだった。
6:49 、アーミッシュと思われる御夫婦らしき方が乗った馬車が追い越していった。 Cecil
M.
Harden 湖の上を通るとき、太陽が登ってきた(7:13)。
アレックスと坂東さんの姿が石原さんの前に見えた。石原さんも私も彼らに追いつき、4人も
ランナーが揃うのは珍しいので記念撮影した(11:25)。
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正午少し前から白い雲が目立つようになり、空を時々見上げながら走っていると彩雲が見
えた(12:06)。見とれながら歩いていると、アレックスのクルー2名が小さな女の子二人とその母
親と何やら話をしていた。写真撮影担当のクルーに彩雲が見えることを伝えると、早速写真を
撮っていた。
Danvill の町に入ると、建物が増えてきた。店の前に温度表示板があり、81゚と表示されてい
た(14:05)。摂氏に換算すると 27.2 ℃だから、走るのには暑いとはいえ、ずいぶんとマシな気
温になってきた。
町外れのマクドナルドの店を過ぎてから 100m 先で左折して, Old 36 に入った(62.2km,
14:19)。左手の病院や電信柱の立替工事を見て進み、 7.1km 先で道なりの右折直後に左折
して US 36 East に入った(69.3km, 15:30)。ここからは片側2車線で分離帯が広い道となり、路
肩が広い点は良かったが、 Indianapolis に近づいていくため、交通量が増えたので油断は禁
物だった。クルーの方々は、適当なところでUターンしてサポートしなくてはいけないので、苦
労したことだろう。
17:50 に Indianapolis の Microtel Inn & Suites にフィニッシュした。
D54 8月11日 Indianapolis - Dunreith 73.5 km (45.7 miles) 関門 13:00
インディアナポリス通過
11:47:13 (6 位/8 名完走)
当初予定コースでは Indianapolis 市街地の西側郊外から市街地の南側を迂回して東側郊
外へと進む複雑なルートだった。しかし、スタート直前に渡されたコース説明では、
Indianapolis 市 街 地を通 る簡単な コース に 変わ って いた 。距離 も当 初予定の 75.9km か ら
2.4km 短くなっていた。
コース変更でランナーもクルーも楽になった。当初コースでは曲がり角が多いので、特にク
ルーは市街地を通り抜ける時に苦労すると思っていたが、その心配はほとんどなくなった。し
かし、予想外なことが起きた。浪越さんは当初予定されていた複雑なコースをGPSにダウンロ
ードしていたため、当初予定コースを進んでしまったという。どうもおかしいと思って、当日朝
に渡されたコース説明を見てようやくコース変更に気がついたという。
コースは簡単になったが、クルーの方々は市街地でエイド地点を探すのには苦労した。車
を停めていると私有地だから停めるなと警察が言ってきたことがあったという。ランナーとして
は、市街地を夜明け前に通り抜けたので、大都会の街の雰囲気を味わうことができなかった。
ただし、まだ暗いうちから道路の路面修理のために働いている人たちとホームレスの人が寝て
いるのを見かけた(6:24, 6:35)。
セルジュと石原さんと相前後して走っていたが、写真撮影しているうちに徐々に離された。
道路の右側にコンビニを見つけてトイレに入ってからコースに戻ると、田中さんが左側の歩
道を走っていた(7:32)。信号待ちになるまでは右側歩道を田中さんと併走した。
Greenfield に入った(11:14)。町並みがきれいで写真を撮りながら走った。 James Whitcomb
Riley の家の前を通過し(11:52)、 Riley 公園の前を通った(12:05)。 Riley 氏(1849-1916)は詩
人でインディアナ方言で作品を作ったということだ。
Democratic Party Rooster (12:07)、 National Road の説明板もあった(15:37)。
マルカスがサポートカーに乗って Super 8 のある Greenfield に向かっていった(15:44)。フィリ
ップに6秒遅れてフィニッシュ(16:42)。
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サポートカーでコースを Greenfield まで戻り、右折して Hwy 9 North に入り Super 8 へ。フィ
ニッシュ地点のからの距離は 32.4km だった。
参考: Birthplace JAMES WHITCOMB RILEY "The Hoosier Poet"
October 7, 1849 - July 22, 1916
Editor, author, poet, lecturer and entertainer. One of the best known Hoosier of all time. Riley first wrote under the
name of "Benj. F. Johnson of Boone" and was famous for his use of Hoosier dialect.
参考: BIRTHPLACE OF DEMOCRATIC PARTY ROOSTER
The use of the rooster as a Democratic Party symbol originated in Greenfield in the 1840 campaign.
was later adopted by the state and national Democratic parties.
The rooster
参考: THE NATIONAL ROAD -- WEST
KNIGHTSTOWN -- First Town Platted on National Road after survey. 1827 -- Named after noted surveyor Jonathan
Knight.
Home of AMERICAN COMMUNICATIONS NETWORK founded in 1966, to preserve and perpetuate the "Ideals
that built America" and "the Dignity of Man." Situated in Henry County, so named for American patriot Patrick
Henry by special legislative dictate in 1821.
"Why stand we here idle? Is life so dear, or peace so sweet, as to be purchased at the price of chains and slavery?
Forbid it. Almighty God! I know not what course others may take; but as for me, give me liberty, or give me
death!"
D55 8月12日 Dunreith - Arlington 86.6 km (53.8 miles) 関門 15:30
オハイオ州に入り、 4,000km 通過
13:26:33 (6 位/8 名完走)
Greenfield の Super 8 から前日のフィニッシュ地点まで I-70 を利用して向かった。距離は
33.7km 。暗いので高速の入口と出口で間違わないように、地図付GPSを利用して、車のナビ
役を担当した。
4:56 にスタート。 200m 先で右折して US40 East に入り、 47.2 ~ 47.4km で右折と左折があ
るとはいえ、ずっと US40 East を走ることになる。
6:52 に太陽が朝靄の中を昇ってきた。対向車は朝靄の中から姿を現して近づいてくる。ゴミ
収集車(7:12)、女性の権利協議会 Woman's Rights Convention(7:54)
ガーデンセール(7:59)、 Indian Boundary Line(8:14)などを見ながら進んだ。
エイドで坂東さんと二人で補給していると、アレックスが追い越していった(9:02)。 Richmond
に入り、 9:58 にはエイドで補給給水中のジェームズを追い越した。
Richmond に入り、 Earlham
College の前を通過(45km,
11:52)。 11st
Street
で左折し
(12:20)、 Main Street (=US40 East)に入った(12:22)。 86 度(=30 ℃)の表示があり、まだ走るに
は暑かった。
インターステート I-70 の高架下を通り(52.5km, 13:32)、 300m 先でインディアナ州からオハ
イオ州に入った(13:35)。エイドで坂東さん、石原さんと一緒になった(15:04)。その 7 分後に
は、岩に足跡のような凹みのある Foot Print Rock の前を通過した。石原さんと一緒に"4000km
地点"に到着(17:59)。写真を撮っているとジェームズが近づいてきたので、少し待って記念撮
影した。
"Cessna Pilot Center"という標識が立つ地点にフィニッシュ(18:22)。標識よりは主催者の車の
ほうが遙かに目立った。石原さんが 1 分 31 秒後にフィニッシュ。
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ホテルは 2.7km(後で調べたら 3.6km)離れた Brookvilles という町の Holidays Inn
Express
だ。サポートカーには荷物が満載で、浪越さんの車には2名しか乗れないので、浪越さんに石
原さんを先にホテルに連れて行ってもらい、私は念入りに足をアイシングすることにして、浪越
さんが戻るのを待つことにした。しばらく待っていると、主催者スタッフのエミリーが車でホテル
に連れて行ってくれるという。浪越さんとすれ違いになる可能性もあったが、「ホテルにはすで
に一度行ったので、場所はよく知っている」と言うので、 2.7km のドライブ中にすれ違う確率は
低いと思って乗せてもらった。しかし、距離は実際には 3.6km 離れていたし、おまけにホテル
入口を通り過ぎてUターンしたので時間が余分にかかって、浪越さんに無駄な労力を使わせ
てしまった。
D56 8月13日 Arlington - South Vienna 78.0km (48.5miles) 関門 13:45
米大陸横断中の中国人女性
12:26:22 (7 位/8 名完走)
ホテルからスタート地点に移動してスタートし、 Hwy 40 を進む。
Englewood の街を過ぎて左折し(13km, 6:59)、長い橋を渡った。 2002 年にも渡った記憶が
蘇った。この橋には歩道がない点では危なかったが、交通量は少なかったので問題なかっ
た。
Dayton 国際空港を左に見て進む(7:52 ~)。 2002 年にはこの空港で射撃大会を行ってい
た。 23.8km 地点で右折して Brown School Rd に入った(8:39)。間もなく車が追いかけてきて
停まり、親子連れの3人が降りてきて、米大陸横断レース参加者なのか尋ねられた。「イエス」
と答えると、あれこれ質問され、写真を撮りたいという。時間に余裕はなかったが、つれない返
事をするのも気が引けて、一緒に記念撮影した(8:42)。
Donnelsville に入り(47km, 12:34)、 3km ほど走ると、前方を走っていたフィリップが立ち止ま
って誰かと話していた。追いつくと、話し相手は若い女性で買い物用のカートに荷物をたくさ
ん入れていた。英語をいつもはほとんど話さないくせに、なぜか熱心に話をしていた。フィリッ
プが「彼女はアメリカ大陸を徒歩で横断している最中だ」と教えてくれた。宿をどうしてるか尋
ねたら、テントを持っており、野宿を続けているとのこと。中国人だという。お互いに写真を撮っ
てから、私とフィリップは走り出した(13:05)。
South Vienna に入り (76.2km, 17:09)、 Fire House にフィニッシュ(17:23)。坂東さんは私の1
分19秒前にフィニッシュしていた。坂東さんより少し遅かったのは良いとして何かおかしい。誰
かに抜かれていないと思って、よく考えるとアレックスに追い越されていなかった。彼はスター
トしてから1時間は歩いてから走り始める。登り坂は歩くし、エイドでゆっくり休憩するときもあ
る。しかし、歩くのもけっこう速いし、走るときのペースはかなり速いので、たいていは午前中に
追い越されることが多かった。アレックスは足を痛めたせいで、私よりも50分以上遅くフィニッ
シュし、初めての最下位になった。
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Week 9 August 14 - August 20
South Vienna (OH)- Hancock 564.1 km (350.5 miles)
D57 8月14日 South Vienna-Reynoldsburg 68.6km(42.6 miles) 関門 12:00
コロンブス通過
10:14:45 (6 位/8 名完走)
スタート前に渡されたターンシート(コース説明)を見て、距離が 68.6km と当初予定よりも短
いことが判明。オハイオ州のコロンブスでは、坂東さん、石原さん、フィリップと一緒になり、市
内観光見物ランを行った。コロンブスは 2002 年には通算 4,000km 地点であり、ここで完走を
断念して帰国すれば、「不承認欠勤」による処分を受けなくて済んだ場所だ。今回はすでに
退職していたので何の気兼ねもなく楽しく走り抜けた。
土 砂 降 り の 降 る 中 で 、 レ イ ノ ル ズ バ ー グ (Reynoldburg)の Days Inn に フ ィ ニ ッ シ ュ し た
(15:14)。
暑さもようやくピークを過ぎ、ここ数日はスタート時は涼しくなった。おまけに今日は雨も降っ
たので、特に涼しかった。日本人ランナー4名は全員が完走した。
これからの58~69ステージの予定距離は、 83.3km, 88.4km,
81.6km, 78.8km, 82.2km,
81.4km, 74.3km, 78.4km, 42.2km, 81.3km, 77.4km, 82.9km で 、最終日は 55.5km 。
極端に距離が短い 66 ステージと最終日を除けば距離が長いし、アパラチア山脈の起伏に
富んだコースになるので楽な日はないが、ここまで来たのだからニューヨークのセントラルパ
ークまで走りたいと強く思った。
D58 8月15日 Reynoldsburg-Zanesville 83.3km (51.8miles) 関門 14:45
12:34:30 (6 位/8 名完走)
ピンチが続くアレックス
アレックスの足がまだ治らずピンチが続いていた。彼はスタート前にテーピングを念入りに
行っており痛々しい。
コース沿いには、ここ数日間、マイルストーンが多く見られ、特大のマイルストーンのそばで
井口さんからエイドを受けた(12:31)。 13:20 、石原さんと坂東さんに追いついた。
Zanesville に入り、Y字形の橋を石原さんに続いて渡った。 9 年前にも渡った記憶がある橋
だ。 Best Western にフィニッシュ(17:32)。アレックスは私よりも 38 分遅く、最下位でフィニッシ
ュした。
D59 8月16日 Zanesville - Morristown 88.6 km (55.1 miles) 関門 15:45
アレックスの足は復調か?
13:31:43 (7 位/8 名完走)
相変わらず暗いうちにスタートし、日の出は 6:48 頃だった。S字形の橋がコース脇に架かり
(7:00)、せっかくだからその橋を渡った。その後も何度もS字形の橋を見かけた。これは川が道
路と斜めに交差するときに、橋の長さを短くするための工夫だ。
大量の洗濯物を干している家があった(12:30)。住人はおそらくアーミッシュの人たちで、電
気や車を使わない彼らの家のそばには、幌馬車も置かれていた。
アレックスに一度は抜かれたが(13:50)、すぐに追いついた(14:13)。
Morristown の Arrowead
motel にフィニッシュ(18:34)。アレックスはこの日も最下位だった
が、私より 4 分ちょっとしか遅れていなかった。足が少しずつ良くなってきたのかもしれない。
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D60 8月17日 Morristown(OH)-WV-Washington(PA)81.0km(50.3miles) 関門 14:15
12:58:26(8 位/8 名完走)
アレックスがDNS!?
スタート前のミーティングの時、アレックスの姿が見えなかった。スタート時もいない。足の故
障が悪化して出走不能になったのかと思った。せっかくここまで走り続けてきたのに…、と悲し
かったし、当惑した。
しかし、悲しむ必要はなかった。アレックスは単に朝寝坊しただけだとの情報が入った。そし
て、後ろから迫ってくる足音に気づいて振り返ると、それはアレックスだった。話を聞くと、スタ
ート地点に着いてからテーピングして、それからスタートしたとのこと。睡眠を十分に取ったの
が良かったせいなのか復調したようで、あっさりと追い越されて引き離された。
31.1 km (19.3 miles)地点でオハイオ州からウェストヴァージニア州に入り、 56.7 km (35.2
miles) 地点でペンシルバニア州に入った。
アレックスは 12:00:29 (5 位)でフィニッシュ。4日間はゆっくりしか走れなかったから、足は痛
かったとは思うが、身体は休んでいたことになり、痛みが軽くなれば、むしろ速く走れるようだ。
D61 8月18日 Washington - Uniontown 78.8 km (49.0 miles) 関門 14:00
12:12:07 (6 位/8 名完走)
ブラスバンドの応援
11:16 、 Jefferson-Morgan Junior-Senior High School の 前を通ったら、生徒達がブラスバンド
の演奏して行進しており、カメラを向けると手を振って応援してくれた。
Uniontown の道路脇にフィニッシュ(17:10)。 Super 8 に移動して宿泊した。
D62 8月19日 Uniontown (PA)-Frostburg (MD) 82.2km(51.1miles) 関門 14:30
13:07:55(6 位/8 名完走)
歴史の道
前日のフィニッシュ地点に移動してスタート。
イギリス軍のブラドック将軍にかかわる史跡を眺めながら走った。彼はイギリスとフランスが
オハイオ川流域のネイティブアメリカンの領土を巡って戦ったフレンチ・インディアン戦争で敗
北した(1755 年)。
PA から MD に入る地点(47.4km)には、"National
Road"の説明板があり、以下のように記さ
れていた。"Our first national road; fathered by Albert Gallatin. Begun in 1811 at Cumberland,
Md.; completed to Wheeling in 1818. Toll road under State control, 1835~1905. Rebuilt, it is
present U.S. Route 40." 道路脇に頻繁に見られるマイルストーンには、"36 to Cumberland, 95
to WHEELING" などと記されていた。
アーミッシュの人がテントを張って野菜や果物を売っていた。
フィニッシュが近づくと雨が降り出し、土砂降りの中でフィニッシュ(18:34)。ホテルは2部屋し
か確保できず、各部屋に4人ずつ泊まった。私はベッドの上で寝させてもらったが、坂東さん
はジトッとした床の上に寝て、たいへんだったようだ。
D63 8月20日 Frostburg - Hancock 81.6 km (50.7 miles) 関門 14:30
ルート 40
12:28:09 (7 位/8 名完走)
2002 年には 64 日目に走った区間だ。しかし距離は今回のほうがなぜか 6.7km も長い。ル
ート 40 (Old National Road)を走るので、マイルストーンが次々に出てきた。
- 40 -
左手にデニーズなどの店があるショッピングセンターが見えた。駐車場の前を通り過ぎようと
すると、ライナーのクルーであるジューンが車から降りて立っていた(6:47)。車の前部を車止め
にぶつけて壊してしまい、途方に暮れていた。ランナーとしてはどうしようもないので、事故現
場の証拠写真を撮ってから走り出した。
少し走ると、主催者スタッフのエミリーがいたので、ジューンの事故を伝えた。後で聞いた話
では、ジューンは壊れたバンパーなどを粘着テープか何かで固定してサポートを続行したと
のことだ。
17:44 、 Old Bank Road Toll House が左手に立っていた。ルート 40 を通る車から料金を取
っていたとのこと。当時の料金も壁に記されていた・
Hancock の America Best Values Motel にフィニッシュ(17:56)。
- 41 -
Week 10 August 21-August 27
Hancock(MD)-PA-MD-PA-NJ-New York(NY) 493.7 km (306.8 miles)
D64 8月21日 Hancock(MD)-PA-MD-Waynesboro(PA) 74.4km (46.2miles) 関 門不明
MD → PA → MD → PA
11:33:07(6 位/8 名完走)
コース説明に関門時間が記されていなかった。距離からすれば 13:15 だろう。
7.5 km (4.6 miles)地点でマリーランド州(MD)からペンシルバニア州(PA)に入った。ジェーム
ズがいたので記念撮影した。 12.0 km (7.4 miles)地点で MD に戻り、 17.5 km (10.8 miles)地
点では再び PA に入った。
市街地を走っていると、店の前に骸骨が展示されていた。おもしろいので写真を撮ると、店
から出てきた人が、「誰でもいつかはこうなるのさ」と言うので、「私は自分がこうなった姿を見る
ことはないけどね」と答えた(12:18)。
車がすぐ横に停まり、何かと思ったら女性ドライバーが水の入ったペットボトルをくれた。米
大陸横断走中だということを知って、応援してくれたようだ。 12:52 、道路工事中の道に入っ
た。サポートカーは迂回しなくてはいけなかった。
Waynesboro の Days Inn にフィニッシュ(17:00)。
D65 8月22日 Waynesboro - York 78.5 km (48.8 miles) 関門 13:45
ゲティスバーグ通過
11:10:32 (6 位/8 名完走)
Civil War Hospital (1863 年 7 月)など南北戦争ゆかりの通過。ゲティスバーグには、リンカ
ーンが奴隷解放宣言を執筆した建物があり、その前にはリンカーンが市民と話をしている像が
あり、観光客らしき人に写真を撮ってもらった(10:56)。 2002 年には、ここで翌日からサポートし
てくれる予定の高橋さん・畑さんと彼女たちの支援のために同行した久保さんと出会った場所
でもある。
フィニッシュ地点の手前にある交差点で信号待ち(16:32)。すると、後ろから坂東さんが追い
ついてきた。田中さんと石原さんとは一緒にフィニッシュしたことがあるし、マルカスとも何度か
同時フィニッシュしており、残り数百mで今さら競走しても仕方ないと思い、「一緒にフィニッシ
ュしましょうか」と言うと、坂東さんは速攻で否定。仕方ないので、信号が変わると同時に下り坂
を利用してラストスパート。フィニッシュ直前には登り坂になって、やや失速すると、坂東さんが
予想に反して迫ってきたので、再スパートして6秒差で逃げ切った(16:35 頃)。
D66 8月23日 York - Lancaster 43.3 km (26.9 miles) 関門 7:45
タイムオーバーの危機
7:36:34 (8 位/8 名完走)
当初は 42.2km と言われていた楽なステージのはずだった。個人的にはフィニッシュ地点の
ホテルを通り過ぎて、あと 10km か 20km 走ることにしてくれたならば、それ以降の4ステージ
が楽になるのに、と思っていたステージだ。距離を決める権限は主催者にあるので、私の願い
が通じるはずもないので、短い距離をゆっくりと走った上で、午前中にはフィニッシュして、残
りの4日間のために休養と睡眠をたっぷり取る作戦だった。
距離が短いせいか、大会を盛り上げるためか、この日は主催者スタッフのダビッドと最後ま
で名前を発音でくなかった Bérengère も走った。ダビッドは牛の縫いぐるみを着て走った。
5:30 にスタート。まだ周囲は暗い。 1.4 km (0.8 miles)地点の説明には、"462 East straight",
"30 becomes 462 East"と記されていた。「ルート 30 をまっすぐ走っていれば、その道がルート
- 42 -
462 East に変わる」ということだろう。
29.8 km 地点までは曲がり角はないということで、気楽に走り出したが、ルート 30 は早朝か
ら交通量が多く、対向車のライトが眩しかったので、帽子を深くかぶって車のライトを避けて、
路肩を道なりに前方を走るランナーに従って進んだ。
やがて明るくなり、「この道で良いのかな」と漠然とした違和感を感じながらも走り続けた。主
催者スタッフも走っているので問題はないはずだった。違和感の原因は、コース説明には、い
くつかの道路を横切ると記してあるのに、それらしい道に気がつかなかったからであり、他のラ
ンナーも含めてサポートクルーがなかなか現れなかったからだ。
やがて、前方からパトリックが何かをフランス語で叫びながら逆走してきた。イタローもそれ
に続いていた。二人とも凄いスピードで逆走していった。どうやら、コースを間違えていたよう
だ。
このとき、石原さんと田中さんは私の前方を走っており、坂東さんの姿は見えなかったが後
方を走っていた(はずだ)。こちらも逆走を開始。石原さんと田中さんが戻ってくる姿が後方(少
し前までの前方)に見えた。フィリップ・ジェラード・ジェームズが戻っていくの追いかけながら
1.4
km 地点付近まで戻り、コースに復帰(6:49)。走っていたペースを考えると、私は約 5 マイ
ル(8km)を余分に走り、石原さんと田中さんは約 9km 余分に走ったはずだ。
43.3km を走る日に 8 ~ 9km を余分に走るというのは、関門時間を考えるとかなりきつい。コ
ース説明の不備(間違い)に憤りを感じつつ、自分の愚かさには、もっと腹が立った。ロードブ
ックには、この区間の地図が掲載されており、要注意と感じていたからだ。しかも、ホテルから
スタート地点に向かう途中の車中で、「この道(ルート 30)には分離帯があってエイドは難しい
ですね」と菅原さんと話をしていた。そのとき、「ルート 30 を走るのは最初だけで、すぐにルー
ト 462 に入るのでエイドには支障がないでしょう」と話していれば、スタート直後にもっと注意を
払っていたはず。しかし、全ては後の祭りだ。
正規コースに戻ったが、走る気持ちが起きない。1時間以上、エイドを受けていないので、
のどは渇くし、お腹もすいた。本来の4マイル地点を通過してが、サポートカーが見当たらなか
った。スタート時に持っていた水をちびちび飲みながら歩き、7マイル地点を通過したが、ここ
にもサポートカーが見当たらなかった。サポートクルーも迷子になっているのかと心配したが、
ランナーには探す術がない。
York の街には歴史的な建物が多く、写真を撮りながら、ひたすら歩く。後ろでは同じように
写真を撮っている田中さんが迫ってきた。
8:04 、ジェラルドのサポートクルーにコーラをもらうことができた(約 10km 地点)。追いついて
きた田中さんも何かをもらい、すーっと先に行ってしまった。
サポートクルーにようやく会えたのは、約 10 マイル地点だったように思う。石原さんまたはフ
ィリップが追いついてくるまでは歩き続けようと思い、ひたすら歩き続けたが、中間地点を過ぎ
ても追いついてこなかった。 22.4 km (13.9 miles)地点を 10:06 に通過。残りの約 21km を時速
6km で進むと、 3 時間半かかってしまい、タイムオーバーになる。「1回だけはタイムオーバー
になっても良い」という特例ルールはあるが、時速 7km で走れば関門には間に合うので、ぼち
ぼち走ることにした。
10:43 に Susquehanna River に架かる橋を渡り始めた。この川の上流にはスリーマイル島が
ある。原発事故の時はこの辺りも放射能で汚染されたに違いない。 2002 年にも渡った記憶の
- 43 -
ある橋だが、そのときにはスリーマイル島の近くを通っていたことに気がつかなかった。
11:38 に Prospect Rd を横切る地点(34.1 km)で、ダビッドと Bérengère に追いついた。二人
はだいぶバテているようだった。井口さんから3人でエイドを受けてから先行すると、ジョギング
中の男性を見かけた。一旦はすれ違い、次には後方から追い越された。彼はペースを落と
し、"Where are you from?"と話しかけてきたので、"Japan"と答えると、「日本にいたことがありま
す。萩往還マラニック 70km や富士登山競走に参加したことがあります。」「海兵隊員として岩
国基地などで働いていました。」と日本語で話し始めた。話しながら走っていると、 30 分くらい
遅れていたはずの石原さんが追いついてきたので記念撮影し、写真を送るために名前とアド
レスをコース説明の裏に書いてもらった。 Timothy さんの家の近くまで3人で共走し、彼とお別
れして間もなく、石原さんはペースを上げて、姿が見えなくなってしまった。
こちらは時速 6km で間に合うことがわかったので、ゆっくりペースで走り、関門時間内に
Travelodge に最下位でフィニッシュした(13:04 頃)。
Serge と Patrick は 4 位で同時にフィニッシュ。しかし、足を痛めていた二人は翌日と翌々日
に大苦戦する結果を招く。この日、 3,000 マイルを越えた。
追記: D66 では、 2002 年の Stage 67 (38.0 miles)と同様に Hwy 462 East を走った。 0.8 マイ
ル地点で、"462 East straight"と記されていた地点について、 2002 年のコース説明では以下
のように記していた。"Cross ramp for I-83 to continue on shoulder. Crews: DO NOT BEAR
RIGHT ON HWY EAST 30. Go straight ahead."
こちらのほうが遙かに分かりやすい。
D67 8月24日 Lancaster - Kutztown 81.4 km (50.6 miles) 関門 14:30
パトリックの危機
10:52:04 (4 位/8 名完走)
Lancaster の町並みを薄暗い中で走る。 12:34 、温度計は 79F(=26.1 ℃)を示しており、日中
でも 30 ℃を下回っていてありがたい。
お腹がすいたし、トイレにも行きたかったので、マクドナルドに入ろうとすると、パトリックの奥
さんから"Are you James? (あなたはジェームズですか。)"と聞かれた。答えは、もちろん「イエ
ス」。この日もジェームズは、マグドナルドを見つけるたびに立ち寄っているに違いない。
坂東さん私は中盤ではほぼ一緒のペースで走っていた。すると予想外にもパトリックが彼の
奥さんとジェラルドと一緒に走って追いついてきた。ジェラードはずっとパトリックと一緒に走っ
ていたが、伴走者はその後はパトリックの息子さんなどに変わった。ジェラードは信号機のある
交差点が見えると、先に行ってボタンを押して歩行者用信号を緑にする役割もこなしていた。
しかし、街中でついに信号機が赤のままになった。パトリックは英語を滅多に話さないが、この
ときは"If I stopped here, I cannot go to New York!"と 叫んで、赤信号なのにジェラードと一緒
に渡っていった。一度止まったら、再び走り出すのがつらいのだろう。
私は無理して速く走ったつもりは無かったが、 16:24 に Campus Inn にフィニッシュし、休憩
しながら記録速報のホワイトボードを見たら4位になっていて驚いた。私に少し遅れてパトリッ
クがフィニッシュ。坂東さんもほどなくフィニッシュ。それにセルジュが続き、ジェームズが最下
位だった。
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D68 8月25日 Kutztown(PA)-Washington(NJ)82.2km(51.1miles) 関門 14:30
パトリック大ピンチ、 5,000km!
12:58:01(4 位/8 名完走)
あと3日。相変わらず、暗い中をスタート。 15:35 に橋を渡って、ニュージャージー州に入っ
た。 9 年前にも渡ったが、 9 年前は橋を渡って左折し、今回は右折した。
この日ついに 5,000km を越え(18:12)、 Countryside Luncheonnette Restaurant にフィニッシュ
(18:31)。
パトリックは大ピンチ。足の痛さに耐えられなくなり、レース途中で病院に行って2時間後に
レース復帰し、 16:41:00 でフィニッシュ。大幅なタイムオーバーだったが、「1回に限りタイムオ
ーバーは認める」という特例で翌日からのレースにも参加可能になった。
この日の Italo のタイムは 9:17:26 で、前日までの二人の差(16:02:48)は一気に縮まった。
Hackettstown の Comfort Inn に移動して宿泊。
D69 8月26日 Washington - West Orange 77.3km(48.0miles) 関門 13:30
11:23:43 (4 位/8 名完走)
ハリケーン情報
前日のフィニッシュ地点まで移動してスタート。 9:34 にセルジュが後ろに迫ってきた。すぐ
に抜かれると思ったが、そのまま抜かれることなく、 West Orange の Best Western Turtle Brook
Inn にフィニッシュ(16:53)。
ホテルで夕食会。ここで、翌日の最終ステージに関していくつかの相談が行われた。ハリケ
ーン(IRENE アイリーン)が近づいてきており、セントラルパークが閉鎖されるため、フィニッシュ
地点を宿泊予定のホテルに変更し、距離が約 1km 延長されることがロールから告げられた。
ハリケーン襲来によりジョージワシントンブリッジが正午に閉鎖される可能性も出てきた。した
がって、封鎖前にニューヨークに入れるように、スタート時刻を走力に合わせて、午前 5 時、 6
時、 7 時の3組に分けることになった。私たち日本人ランナーは当然にも全員が午前 5 時スタ
ートになり、最終日は真っ暗な中でのスタートすることが決まった。
D70 8月27日 West Orange(NJ)-New York(NY) 56.6km(35.2miles) 関門なし
8:01:33(6 位/8 名完走)
ついにニューヨークへ!
最終日のスタートは、当初、 5:30 と 7:30 に分けられる予定だった。その後、ランナー(特に
日本人)の意見が取り入れられて、 5:30 スタート組はやや明るくなった 6:00 にスタートすること
になった。しかし、最終的には、スタート時刻は 5 時、 6 時、 7 時に行われることになった。
5 時スタートは、日本人 4 名とセルジュ・パトリック・フィリップ・ジェームズの 8 名。 7 時はア
レックス・マルカス・ジェニー・アンネケ・ジェラード。 8 時はライナー・イタロー・ピーター。
5 時スタートではまだ周囲は暗く、スタート後すぐに左折すべき道の道路名の標識が見え
ず、そのまま直進し、 0.1 マイルほど進んでから間違いに気づいて道を戻った。道路名標識を
確認して正規コースに復帰。コース設定したセルジュが道を間違えて、恥ずかしそうにしてい
た。
最終日に限ったことではないが、コース説明 (Turn Sheet) の表現には不十分な点があり、
間違っていることすらあったし、おまけに小さな文字で印刷されているので、三度目の成人式
を迎えた私には読みづらく、注意も必要だった。
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ジョージワシントン橋を渡りだし、橋が閉鎖される前に通過できることが確定し、同時に完走
を確信してホッとした。ただし、橋の手前で受けられると期待していたエイドは受けられなかっ
た。
私がジョージワシントン橋を渡っているときに雨が降り出し、何度か強く降った。
ハドソン川沿いの道を走っているときには、ガス欠とのどの渇きで困ったが、ウエストバッグ
に入れていたあめ玉1個と川沿いの道に設置されていた水飲み場の水を飲んでなんとか凌い
だ。
セントラルパーク南西端のコロンブスサークル付近では土砂降りとなった。コロンブス像の
写真を撮っていると、マルカスと彼のクルーであるクラブスが追いついてきたので、3人で共
走。フィニッシュ直前ではジューンも加わって、雨の降る中、 NOVOTEL ホテルに4人でフィニ
ッシュした(16:53)。
私 に 続 き 、 石 原 さ ん 、 田 中 さ ん 、 そ し て 最 後 に 坂 東 さ ん が フ ィ ニ ッ シ ュ し て 、 LA-NY
Footrace 2011 は無事に終了した。
閉会式では、ランナーとクルーに賞状や記念品が渡された。
70 日間は長い期間ではあるが、終盤はあっという間に終わってしまった。
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休養、観光、帰国
8月28日 フットレース翌日
ハリケーン IRENE の影響で悪天候のためホテルで沈殿。菅原さんはレンタカーを返却し、
清々しい表情でホテルに戻ってきた。浪越さんと井口さんもレンタカーを返却。重荷が下りて、
クルーの方々3名はたいへんな「仕事」からようやく解放された。
荷物を整理し、不要になった物は捨て、持ち帰る物を登山用ザックに詰めた。。
夕食はランナーとクルー全員でレストランに行くつもりだったが、ハリケーンの影響が残って
いたので外出は控え、ホテル室内で日本人ランナーとクルー7名でパーティー。
坂東さんは他のホテルに移動した。
8月29日
坂東さんが帰国のために NY を出発する日。私たちのホテルまでお別れを言いに来てくれ
た。
その後、セントラルパークに散歩時々ランニングに出かけたところ、木の枝があちこちに散
乱しており、ハリケーンの威力を実感した。ハリケーンが来る前にフィニッシュできて良かった。
もし、ハリケーンの速度が増していれば、レースはジョージワシントンブリッジの西側(NJ)で終
わっているところだった。
午後からは観光バスでマンハッタンのダウンタウンを見学。
8月30日
朝から市内観光バスでマンハッタンのアップタウンを見学。途中で博物館前と美術館前で
下車して見学。
8月31日
午前 6 時、石原さん・浪越さんと同室の部屋で起床。別室の田中さん・菅原さん・井口さん
と私は午前 7 時にホテルロビーで待ち合わせた後、チェックアウト。
私は空港まで地下鉄で行きたかったが、菅原さんの強い希望でタクシーを利用することに
なった。おかげで荷物を地下鉄駅まで運搬する手間はなくなった。ホテル前で石原さんと浪
越さんの見送りを受けて出発し、 JFK 空港の Terminal 8 (AA 便などが出発)へ。
LA に向かう田中さん・菅原さん・井口さんと別れた。3人は LA で一泊後に成田へと向か
う。私はマイアミに行くためにデルタ便が出発する Terminal 3 に Airline Terminals Train (無
料)に乗って移動。受付カウンター前の列に並び、ようやく自分の順番になったら、機械を利
用してチェックインするように言われた。画面の指示にしたがって、航空券を入手。登山用ザ
ックを預けるには、$25 支払わなくてはいけないことがわかった。手続きを終えて再びカウンタ
ー前の列に並び、ザックを預けてようやく荷物が軽くなった。
時間があったので、 Airline Terminals Train に乗って各ターミナルを結ぶ路線を一周。
Terminal 4 には、荷物を預ける場所があることを確認した。
搭乗前の身の回り品検査は予想通りに厳重で、腕時計もベルトも外す必要があり、靴も脱
がされた。デルタ航空 1771 便 (JFK 10:45 → MIA 13:45)でマイアミ空港に到着した後、ホテ
ルを電話で予約。送迎シャトルバスが 30 分近く来ないので、問い合わせようとしたときに、シ
ャトルバスがようやく到着し、マイアミ空港付近にある Comfort Inn & Suites へと向かった。
このホテルのシングルルーム(1 泊、約$83)は、キングサイズのベッドのある広々とした部屋
で快適だった。3人用のソファーと1人用のソファーがあり、机と椅子、コーヒーメーカーと電子
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レンジと冷蔵庫、小さいが流しも付いていた。無料でインターネットも朝食も利用でた。高く
て、狭くて、インターネットも有料[$4.95/h, $9.95/day]、朝食も高額でだった NY のホテルとは
大違いだった。
LA-NY Footrace が始まってから、岩田さんがクルーの期間(7 月 16 日まで)は日本人8名、
岩田さん帰国後は日本人7名、 7 月 23 日からはフランス人のフィリップを加えた8名で「生活」
してきたが、気楽な一人暮らしになった。
9月1日
石原さんと浪越さんが NY から関空へと出発する日。
私は前日に予約していた車で Everglade National Park エバグレード国立公園へ。ボートで
公園のごく一部を見学し、ワニなどのショーを見ただけで、あっけなくホテルへと戻ってきた。
翌日は Key West に行きたいと思い、ホテル内の旅行案内の人に尋ねると、車だと$400 か
かると言われた。これでは高すぎるので、ホテルのフロントで Greyhound が近くにないかと尋
ねると、空港に行く途中にあることがわかり、徒歩で Greyhound に行き、往復のバスを$101.50
で入手した。
9月2日
Key West に行ってきた。ここは米国本土最南端の地である。
災難賃の地で記念撮影の列に並んでいたら、後ろのカップルから写真撮影を依頼された
ので「 OK 」と返事。こちらも写真撮影を依頼。順番を待っていたら、後ろのお二人が日本語
で話しているのに気がつき、お互いに日本人であることがわかった。
9月3日
マイアミ空港に行き、チェックインして荷物を預けた。搭乗までには時間があったので、バス
を利用してマイアミビーチを短時間だけ訪れた。町を歩き、砂浜を眺め、いくつかの店で土産
物を眺めてから、空港行きのバスに乗車。
マイアミから JFK へ (デルタ航空 82 便、 MIA 12:14 → JFK 15:25)。この便はビジネスクラ
スしか座席が残っていなかったので、料金は少し高かったが、荷物預けの料金が取られない
し、機内食も良いし、アルコールも無料で飲めるので悪くなかった。
JFK (Terminal 8 Gate 44)から AA21 便で LAX へ (JFK 7:15pm[19:27 離陸] → LAX
10:30pm[21:56 着陸])。
9月4日
LAX(1:55)から台北(6:10+1)へ BR(Eva Air) 0015 便で向かう。
9月5日
5:17 に台北空港に着陸。名古屋便までに時間があったので、空港内の店で紹興酒を購
入。台北から BR 2128 便(TAIPEI 8:00 → NGO 11:45(11:40 着陸))で中部国際空港へ。
台風 12 号が過ぎ去った日本に戻ってきた。
名鉄電車 中部国際空港→金山
タクシー(1040 円)で帰宅(13:05 着)
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レースを振り返って
Run Across America 2002 (4966.7km 、 71 日間)で米大陸を横断しているので、今回は2回
目の米大陸横断となった。 2002 年と 2011 年のレースを比べると、様々な点で厳しかった。
2002 年にはスタートから4日間で走った区間 (Huntington Beach-Barstow)を今回は3日間
で走った。そのことからも分かるように1日の平均走行距離は長かった。 2002 年の平均走行
距離は、 4966.7 ÷ 71 = 69.95 km だったが、 2011 年は 5139.2 ÷ 70=73.42 km だった。その
差はたった 3.5km だが、一日平均 30 ~ 40 分長い時間走ることになるので、疲労の蓄積は無
視できない。 2002 年は前半の平均距離は 65km 、後半は 75km だったから、前半は今回ほど
厳しくはなく、「走るための身体」を作り上げることができたが、今回は最初の数日間の疲労度
は大きかった。リタイアが2日目1名、4日目3名、8日目1名、それ以降はゼロという結果が、レ
ース序盤の厳しさを示している。参考までに言えば、 2002 年の場合は、リタイアは3日目に1
名、 29 日目に1名、 39 日目に1名だった。
気温も高かった。 2002 年には、ユタ州(UT)、コロラド州(CO)を通ったのに対し、 2011 年は
南に位置するニューメキシコ州(NM)、オクラホマ州(OK)を通った。しかも、異常気象のせいで
特にオクラホマ州では 40 数度の日が続いた。小雨が降ったとき、「7ヶ月ぶりの雨」と報道され
るくらいだった。 1000km 以上にわたり、枯れ果てたトウモロコシ、大豆などの農作物を眺め、
あるいは農耕を放棄した畑を見ながら走ることになった。
1928 年 のコースを可能な限り辿ろうとしたらしく、コースは複雑だった。コース説明(Turn
Sheet)の文字は小さく、 3 回目の成人式を迎えた身としては、読むのに苦労した。さらに言え
ば、不十分な点があるだけでなく、間違った記載すらあった。
2002 年は、マン・ツー・マンでサポートしてもらった。しかし、今回は、サポートクルーを確保
できないランナーがいたため、ランナー4~5名(日本人4名と序盤はイタリア人ランナー1名、
中盤以降はフランス人ランナー1名)をクルー3名(5 週以降)~4名(4 週まで)がサポートするこ
とになり、ランナーが十分にサポートしてもらえなかった場合もあったし、サポートクルーの方
々にはたいへんな労力を強いることになった。
大部分のホテル予約をランナーまたはクルーが行う必要があり(一部は主催者が予約)、夕
食のためのレストランや買い物をするスーパーマーケット探す必要もあった。 2002 年のレース
では主催者から詳細情報が提供されていたので効率的に食事・買い物ができた。
ホテル予約は途中からは主に浪越さんが担当するようにお願いしたため、私の負担は減っ
たが、浪越さんの苦労は増えた。
主催者ロールやランナー代表のライナーからの日本人メンバーへの連絡や提案は私に届
くことが多かったので、意見をまとめて返事を伝えるのにも時間がかかった。フィリップをサポ
ートしていた期間はフィリップのサポート費用・ホテル代・食事代の計算・請求・徴収も行った。
こうしたことが重なり、ランナーもクルーもレース序盤から睡眠不足状態の日が続いた。
さくら道(名古屋~金沢)に例えれば、 2002 年は尾張一宮から郡上八幡まで走り、 2011 年
は白川郷から兼六園まで走る状況に似ていた。それが毎日続いたので厳しかった。
ようやく走りやすくなったのは、ペンシルヴァニア州にはいってからだった。コースの起伏は
激しかったが、気温が下がり、水浴びをあまりしなくても走れるようになった。雨も多かったが、
炎天下で走るのよりは、はるかにマシだった。
ランナーが走ることができたのは、クルーの皆さんのおかげであったことは間違いない。
2002 年に走った時に「ランナーは孫悟空のように自由に走り回っているつもりでも、所詮はお
釈迦様(クルー)の手のひらの上で走り回っているだけ」と感じたが、その思いを新たにした。
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