フランス第二帝政の権力政治

[ 注 ]以 下 の 論 考 は 拙 著『 フ ラ ン ス 第 二 帝 政 下 の パ リ 都 市 改 造 』( 日 本 経 済 評
論 社 、 1997年 、 430頁 ) の 第 2 章 「 第 二 帝 政 の 権 力 政 治 」 で あ る 。 本 稿 の 第 1
節
「 皇 帝 の 独 裁 権 」の 部 分 が 第 二 帝 政 期 を 理 解 す る う え で 重 要 と 判 断 し 収 録 し た 。
フランス第二帝政の権力政治
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
序
第二帝政の都市改造の特質
第二帝政のパリ都市計画はそれまでの事業と著しく異なる点があった。それまでは
既存の都市施設に対する何らかの付加、そして問題の顕在化にともなう弥縫策の域を
出なかったが、第二帝政の計画は、都市の将来をも見通したグランド・デザインをま
ず描き、それに基いて思いきった対策を練るという点で根本的に異なっていた。さら
に付け加えるならば、都心部の再開発が根幹をなしていることである。町の発展は一
般に周辺に向かって進むのがふつうであって、だからこそ都市計画は「付加」が主要
な要素となったのである。ところが第二帝政のそれは、既存の都市施設、ときには史
跡という聖域にさえも立ち入り、必要とあらばそこにもメスを入れ、「患部」を切除
す る と い う 徹 底 性 を も っ て い た 。都 市 計 画 家 コ ル ビ ュ ジ ェ は こ れ を「 パ リ の 外 科 手 術 」
と称したが、まことに的を射た評言である。
基本構想、都心部再開発と並んでもうひとつの特徴を指摘するならば、パリの改造
は長期にわたった点である。およそ十数年もの間、パリの全体が破壊と建設の槌音と
埃につつまれ、パリ市民は異常な活気のなかで毎日を過ごした。第二帝政の全体をと
おして工事の騒音が日常的であり、静穏がむしろ例外的であった。アンリ四世の時代
もルイ十四世の世紀も、そしてまたナポレオン三世が自らの鏡として崇敬したナポレ
オン一世の時代も、これほどの建造熱を経験したことはなかった。
このような大々的な工事が行われたのは、本章で明らかにするように、パリがその
ような「手術」を要するほどに病んでいたことはむろんのことである。だが、必要が
存在することだけで、事が自ずと解決するわけではない。必要の存在から事件を説明
するやり方は片手落ちというもの、何事においてもそれを可能ならしめる主体的条件
を無視することはできない。19世紀半ばにおけるパリの窮状を見る前に、この主体
的条件の形成を概観しておく必要があろう。主体とはここでは主に為政者の側、権力
構造を意味する。そして主体があれば、同時に客体を想定しなければならない。客体
とはふつうは、為政者の意思に応える市民であるだろう。
1
主体的条件の中核をなすのがナポレオン三世、そして彼と一体の強権政治である。
この強権があればこそ、諸利害が真向からぶつかりあう大計画に対する公然・隠然た
る反対や妨害を物ともせず、また宿命的に付きまとう財政上の困難にもめげず計画の
実行が可能であったのである。このことは今まで見てきたように、過去においてそう
であったし、問題の19世紀半ばにおいてもそうであった。すなわち、同じ第二帝政
期でも、後半になると皇帝の独裁権力は目に見えて衰えていく。それに比例するかの
ように、都市計画の進捗度は日に日に落ちていく。末期ともなると、それまでじっと
沈黙を守りつづけていた世論が声をあげはじめた。議会もそれに呼応して体制に反旗
を翻す。じっさい、皇帝の独裁権力が世論や議会に対して睨みが利くか否かは都市計
画の進捗にとって、いわば温度計のような役割を果たした。それが高温を示している
ときは万事が順調に進むけれども、低温になると滞りがちになり、しまいに下がりき
ってしまうと、もはや氷結するしか術はない。こうして世論と議会の総反撃を前にし
てなす術もなく立ち往生した権力は、計画のすべてを投げ出してしまうのだ。
そこで問題になるのは、この強権はどこから来たのかである。ルイ=ナポレオンが
伯父大ナポレオンの真似をしようとしたことは間違いないところである。しかし、そ
れだけでは権力政治の由来を説明したことにはならない。そこには、この人物を権力
の座につけた経緯、いくつかの要素の絡み合いの説明がなされねばならない。
だが、市民はときには為政者に代わって主体を演じることすらありうる。革命のよ
うなときがそうである。そのような意味で、主体と客体の相互的互換性の可能性は捨
てきれないであろう。しかし、第二帝政期のように、さまざまの制度的、経済的、文
化的制約が課されているなかでは、個々の政策の実行に関して一般市民が「イエス」
「ノー」の反応だけを示すような受動的態度をかなぐり捨て、積極的提言や政策立案
を行う能動的態度に転ずることは皆無に近い。したがって、ここでは主体を為政者と
し、客体を市民とするのがじっさいに適っているだろう。
第一節
1
皇帝の独裁権
第二帝政の政治制度
第二帝政の開始は法制度上は、憲法の発効する1852年12月からであるが、前
年同月における大統領ルイ=ナポレオンのクーデタ敢行によって事実上1年前から始
まっていた。なぜ彼は大統領の地位にあって、すでに権力を掌握していながら、クー
デタを行わねばならなかったであろうか。ここに第二帝政の幕開け・栄光・挫折を解
く鍵がある。
二月革命は七月王政の政治制度への反省から生まれた。後者の弊害のひとつは制限
選挙制により国民主権が形骸化していた点、もうひとつは、この選挙から生まれた議
2
会が行政権を抑制する力をもてなかった点である。三番めには、それでも飽き足りず
王政末期ともなると、政権は出版・言論・集会・結社を制限するようになった点であ
る[注]。
[注]Chevallier,
titutions
rne
J.-J.,
politiques
( 1 7 8 9 - 1 9 4 5 ),
Histoire
de
Daroz,
la
des
France
1958,
ins
mode
p p .2 1 6 - 7 .
二月革命から生まれた共和制政府はフランス革命の伝統への回帰をめざして、一院
制 と 絶 対 的 権 力 を 並 立 さ せ た 。す な わ ち 、普 通 選 挙 に 基 礎 を お く 一 院 制 議 会 に 対 し て 、
これまた国民の直接普通選挙で選出される大統領を対抗させた。それは、七月王政の
強すぎる行政権と弱すぎる立法権をともに、国民の監視下において均衡をはかろうと
いう意図に基づいている。だが、ここに問題があった。議会と大統領が対立したばあ
い、どちらの意思を優先させるかが定められていなかった。議会は大統領を解任でき
なかったし、反対に大統領は議会を解散させることもできなかった[注]。
[注]オルレアン派の指導者の一人オディロン・バローは憲法案が通過したとき、友
人に次のように書き送っている。「今や『憲法』の名において、われわれは、大統領
と単一議会の死闘、つまり独裁と無政府状態のどちらを選ぶかという不可避の選択を
迫るところの争いを引き起こしたのだ。この憲法から何が帰結するかは神のみぞ知る
ところである。その広範囲の権限とその尋常ならざる無力さをもつ不幸な大統領に対
し て は 同 情 を 禁 じ え な い 」 、 と 。 R ém o n d ,
itique
965,
th,
en
tome
La
vie
France, 2vol. Armand
Ⅱ:
W.H.C.,
France
R e n é,
1848-1879,
Second
1848-1871,
Colin, 1
pp.103-5.;
Empire
Longman,
and
pol
Smi
Commune:
1985,
pp.5-
6.
憲法が立法権と行政権のいずれが優越するかを定めなかったことが、第二共和政全
体を覆う政治的混乱の原因となり、そして、この新体制を短命に終わらせる。両者の
平行線状態に決着をつけるべく、未来の皇帝ルイ=ナポレオンによってクーデタが敢
行されることになる。
12月2日のクーデタ直後の52年1月のデクレは憲法制定権をルイ=ナポレオン
に委任することを定めていた。同時にこのデクレは憲法起草のばあいの「5原則」を
掲げていた。
① 任期10年の大統領
② 行政府が選任する大臣
③ 法律を起草する国家参事会(Conseil
d ´E t a t )
3
④ 普通選挙に基づく立法院(Assemblé
l ég i s l a t i v e )
⑤ 大 統 領 が 選 任 す る 元 老 院 ( S én a t ) ― が そ れ ら で あ る 。
これは第一帝政の復活を予告しているようなものである。つまり、①の大統領任期
を世襲制に振り替えれば、まさしく帝政そのものになってしまう。じっさい、同年1
1月7日の元老院令はそのように規定を変更することによって、帝政復活への道を開
いたのである。議会政治はこれでもって一挙に形骸化した。直接選挙で選ばれる大統
領(皇帝)は全閣僚の任免権を掌握し、しかも議案提出権をもつ。したがって、大統
領 は 立 法 に 関 し て も 直 接 介 入 す る こ と が で き た 。法 案 起 草 を 担 当 す る の が 国 家 参 事 会 、
法案を審議するのが立法院、その合憲性を審査するのが元老院であるわけだが、これ
ら3つの機関のうち2つ、つまり参事会と元老院に関して、大統領はメンバーの任免
権を握っていた。それでも心配なのか、大統領は法律の裁可権を有し、正規の手続き
を経て可決されたものであっても、その法律が気にいらなければ布告を拒否できた。
二重の安全装置というべきか。
民主政治には行政権と立法権の関係、とくに後者の前者に対する優越が不可欠の要
素であるが、第二帝政下ではこの関係は逆転し、行政権が圧倒的に優越していた。立
法院が選挙で選出されるといっても、その権限はほとんど立法の名に値しないほど微
弱である。政府閣僚は立法院から独立し、皇帝に対してのみ責任を有することから、
立法院に出席することすらなかった。皇帝はこれでもなお立法院の独走を懸念したせ
いであろうか、議長・副議長の任免権すら掌握し、議会の停会、延会、解散すらも自
由に行うことができた。
だが、猜疑心が強く、万事において慎重でありつづけたルイ・ナポレオンがたった
一つだけ見落した点があった。立法院に与えた予算承認権がそれである。予算が成立
しなければ、何ごとも実行不可能に陥ってしまう。かくて、立法院はこれを盾に行政
府に噛みつくことになる。パリの都市計画においても、躓きは予算面から始まること
になるだろう[注]。
[ 注 ]S m i t h ,
cit.,
I b i d .,
p .1 3 .;
Chevallier,
Op.
pp.264-8.
1852年憲法は普通選挙を実施した。選挙人および被選挙人に関して、何らの制
限も設けなかったから、これは制度上は真の意味の普通選挙と評してよい。だが、こ
れにも抜かりなく安全装置が施してあった。法律に抵触しない範囲で、行政府は選挙
に干渉することができたのである。被選挙人については政府公認の「優良な」候補者
を特別に優遇する措置をとった。印刷業者や配送業者を脅して「不良な」候補者への
協力を拒絶させる。これらの業者は行政府によって営業許可権を握られていたから、
従うよりほかはなかった。
4
野党候補者および支持者に対するもっとあくどい脅しは警察によって行われた。体
制の「破壊」につながるあらゆる思想と行動が警察の監視下におかれ、検閲制度は新
聞や出版物はおろか、私的な書簡にまで及んだ。1852年2月の新聞条例により保
証金制度が敷かれ、新聞にして反体制的な論調が強まれば、警告ののち、廃刊と保証
金没収の措置がとられた。集会や結社は著しく制限され、私的な会合にまで私服や密
偵が派遣され、あらゆるところに監視の眼が光っていた[注]。
[注]この第二帝政の権力政治体制は「ボナパルティズム」といわれる。これについ
ては、西川長夫『フランスの近代とボナパルティズム』(岩波書店、昭和59年)所
収の「Ⅳ
ボナパルティズムの原理と形態」(同書128~64ページ)に詳しい。
国民投票という民主的な装いをもちながら、唯一人にすべての権力を集中させ、敵対
する党派を権力的に消滅させる目標を掲げる点で、ボナパルティズムを20世紀のフ
ァシズムの起源とする人もいる。
じっさいこのようにして、最初の立法院選挙(52年2月)では8人の非公認候補
しか当選しなかった[注]。野党候補者はたとえ当選したとしても、議員になるため
には大統領に対する忠誠を宣誓しなければならなかったから、政府に反対を唱えるこ
とは非常に困難であった。この理由で辞任に追い込まれた者も、初回の選挙から存在
した。
[注]Agulhon,
periment
83,
Maurice,
1848-1852,
The
Republican
Cambridge
U.P.,
ex
19
p.175.
し た が っ て 、こ の「 官 選 候 補 制 度 」は 本 来 的 に 立 法 府 の 選 挙 で あ り な が ら 、皇 帝( 行
政府)に対する信任投票的な色彩を帯び、最初から大勝利が予定されているようなも
のであった。じっさい当初はそのように展開したが、帝政の権力政治に飽きが感じら
れるようになり、選挙での大勝利がおぼつかなくなると、体制そのものの崩壊につな
がる恐れがあった[注]。
[注]西川『同掲書』、147ページ参照。
2
「自由主義帝政」
1860年と69年、70年の3度にわたって皇帝は独裁政治を緩める挙に出る。
1 8 6 0 年 と い え ば 、皇 帝 権 力 が 絶 頂 に 達 し て い た と き で あ る 。に も か か わ ら ず ― だ
か ら こ そ と い う べ き か ― ナ ポ レ オ ン 三 世 は 敢 え て こ の 時 機 を 選 ん で 、自 由 化 と い う 、
そ れ ま で の 専 制 政 治 が 嘘 の よ う な 、謎 の 行 動 に 出 る の で あ る 。改 革 の 骨 子 は ① 立 法 院 ・
元老院の議事録の公開、②問責質問制の確立、③無任所大臣の議会への臨席、④議会
による予算審査権の完全化である[注*]。これらはいずれも、議会制の根幹をなす
5
事柄である。このことから、歴史家が第二帝政を考察するとき、一般に1860年を
分岐点として前半を「権威主義帝政」、後半を「自由主義帝政」と区分するのがふつ
うとなっている。経済(貿易)自由化政策が打ち出されたのも、またパリ都市計画の
実行が最高潮に達するのもこのときのことである。経済政策と都市計画、目指すとこ
ろは異なっていても、体制の自信と余裕を示す点では共通している[注**]。
[注*]Chevallier,
Op.
cit.,
pp.273-4.
[注**]1860年の1月15日の官報『モニトゥール』紙は突如として、英仏両
国が貿易自由化で合意に達した、という趣旨の国務大臣の見解を発表した。それがあ
ま り に も 強 引 、唐 突 で あ っ た た め 、こ れ は ボ ナ パ ル ト の「 経 済 ク ー デ タ 」と 言 わ れ る 。
ナポレオン三世の貿易自由化政策もとかく同時代人および後代の歴史家の毀誉褒貶に
晒され、評価において激しく揺れる政策であった。最近の研究によれば、フランス国
民経済の近代化の達成という点ではこの「クーデタ」は必ずしもマイナス面のみを残
したのではないことが明らかにされつつあるが、自由化策は一部の製造業者に打撃を
与えたことは確かである。その結果、それまで体制を支えていたブルジョアジーが分
裂し、ボナパルティズムの権力基盤が弱体化する。体制はこの離反を前にして、労働
者に接近するのである。服部春彦「第二帝政下の貿易自由化と産業資本」(河野健二
編『フランス・ブルジョア社会の成立』岩波書店、1977年、所収。120~14
7ページ)
69年と70年の改革は帝権が衰弱しているときに出され、狙いは世論の批判を
躱すためのものであり、60年改革と同じ自由化の文脈にあるといっても、背景はま
ったく異なるといわねばならない。69年改革によって、立法院は皇帝と同じく法案
提出権をもつにいたった。さらに立法院は、参事会が受理しなくても修正案を提出す
る権利を獲得し、かくして文字どおりの議会制へと進んだ。もともと元老院は違憲審
査権(!)しかもたなかったが、近代議会制の本質的要件たる第二院として、法案の
再議権と問責質問権をもつにいたった。何よりも重要なことは、皇帝が最終的に任免
権を握っているとはいえ、大臣が両院議員のなかから選任されるようになったことで
ある。これは文字どおりの議院内閣制であり、皇帝による独裁政治がついに終わった
ことを意味する[注]。
[ 注 ] R ém o n d ,
Op.
cit.,
pp.194-5.
70年改革は、同年5月の国民投票によって成立した憲法に基礎をおく。元老院が
憲法制定権を喪失し、代わりに法案審議権を獲得した。大臣は議会に対して責任をも
つこととなった[注]。70年改革によって、イギリス風の議院内閣制は完成するわ
けであるが、ただ一つだけ違う点は、国民投票制の存在である。行政府の長たる皇帝
は国民投票によって国民に責任を有し、立法院も直接投票によって国民に責任を有す
6
るのであるから、行政府と立法府の優越関係は依然として曖昧なままになっている。
議院内閣制は議院を通じて行政府を構成するわけであり、大統領制とは原理的に両立
しがたい。しかし、この矛盾は第二帝政期には露呈しなかった。というのは、この改
革よりのち、帝政の残余期間はあまりに短かったからである。
[注]C h e v a l l i e r ,
第二節
1
Op.
cit.,
pp.281-3.
皇帝独裁とパリ市民
パリ市民の反体制的態度
1870年5月の国民投票はナポレオン三世が自らの政治的延命を賭して打った
窮余の一策であった。帝政がしだいに不人気に陥り、議会や街頭において反体制派が
活発な活動を展開するに及んで、その圧力を肌身で感じるようになった皇帝は野党の
要求(自由化と民主化)に屈するよりも、それを逆手にとって自らのイニシアティヴ
で政治改革を達成し、野党に肩すかしを食らわせようとしたのであった。
これは賭けであった。全国規模の投票結果ではひとまず勝利し、帝政の維持は決まっ
た。しかし、パリでは敗北であった。パリ市、正確にいえば選挙区単位であるセーヌ
県は、フランス全国諸県で唯ひとつ、帝政の政治改革に「ノン」という回答を突きつ
けた[注]。皇帝は選挙結果を耳にするや、こう呟いたといわれる。
[ 注 ]Pressis, Alain, The Rise and Fall of the Se
cond Empire, 1852-1871, 1979. Tr. by Jonathan M
andelbaum, Cambridge, U. P., 1985, p.167.
「パリ市民はつねに政府に敵対的である。余がこの町に対してマザランのように貪
欲な態度でもって接しなかったとしても、市民はやはり、かつてマザランを風刺歌で
揶揄したように、余に対して反対投票をしたであろう」、と[注]。
[ 注 ]Aubry, Octave, Le Second Empire, Fayard, 19
38, p.549.
皇 帝 の こ の 述 懐 に 、慙 愧 な 思 い が 込 め ら れ て い る 。パ リ は 統 御 し が た い 町 で あ る 。
皇帝はクーデタでもって政権に就いた、まさにその瞬間からパリの敵意に遭遇した。
それは武力弾圧でいったんは挫くことに成功したが、それでおさまるというものでも
なく、在位中ずっと共和主義革命の亡霊に脅かされつづける。皇帝におけるパリ都市
改造の動機のひとつに、暴動時におけるバリケードの拠点としての民衆街区を一掃し
ようとする観点があったことはまちがいなく、また、貧民救済の諸施策(たとえば労
働者住宅の建設)を講じることによって、労働者を懐柔しようとする意図もあったの
7
である。それは行論で明らかにするように、結果としては成功せず、むしろ、それま
で燻っていた市民の反感に火を放つことになるのである。
ナポレオン三世が手懐けるのに苦労した、パリ市民のこの反抗的態度はどこから
来るものであろうか。それは皇帝個人に向けられたものではなくて、歴史的なもの、
制度的なものであった。歴史といったが、古くは14世紀半ばのパリ市長エティエン
ヌ・マルセルの乱(第一章 ― 第一節 ― 3参照)や17世紀半ばのフロンドの乱が
あり、比較的近いものとしてはフランス革命がある。だが、体制に対するパリ市民の
反抗的態度を歴史的、伝統的なものとして片づけるにはあまりに物事を単純化しすぎ
るという謗りを招きかねない。たしかに、原因はそれぞれの局面において異なるとい
えるからである。
問題の19世紀について考察することにしよう。そこには制度的な問題が介在して
いる。パリという町は長い間、フランスの政治生活から疎外されてきた。「フランス
の政治生活から疎外」というと、意外な感じをもつ人もいるだろう。フランス革命か
らパリ・コミューンまで革命は数えて大きなものだけでも4度あり、それはいずれも
パリに始まり、つづいて全国に波及していったという歴史的経過をどう説明したらよ
いのか、それ自体がパリの政治生活ではないのか?
しかし、原因を探ると、やはり政治生活からの疎外に行き着かざるをえない。市民
が政治生活から疎外されていたからこそ、ここに暴動が頻発したという逆説的な言い
方が可能である。
2
選挙結果から見たパリの政治的特異性
まず表面的事実の確認から始めよう。パリは選挙結果で示す意思表示において、つ
ねに時の政府に対して挑戦的態度をとりつづける。以下は、われわれが問題とする第
二共和政から第二帝政の終りまでの主な選挙における全国結果とパリのそれの比較で
ある[注]。
[ 注 ]パリの政治的特異性はなにもこの時代に始まるのではない。革命はいつもこのパリから始まった
わけであり、それ自体が特異性の一つを構成する。しかし、選挙結果から得意性を数値で追跡しようと
するとき、条件としては、民意がじゅうぶん反映されるような制度的保証がなくてはならない。普通選
挙がそれである。けれどもそれが実施されるのは二月革命のときであり、これ以前に溯って市民の動向
を観察することは不可能である。そして、第二帝政期に普通選挙に依拠したのは立法院と国民投票しか
ない。したがって、それ以外のもの、つまり皇帝の指名に基づく元老院および参事会は考察の対象から
除かれることになる。
なお、第二帝政下の選挙結果に関しては、以下の著書が包括的に扱っている。Echard, Wi
lliam E.(ed.), Historical Dictionary of the Fr
ench Second Empire, 1852-1870, Greenwood Pr.,p
p.207-15.
8
A
1848年5月、二月革命後の最初の国民議会選挙
これは第二共和政のもとでの最初の普通選挙であり、有権者は七月王政期の25万
人から一挙に900万人に増えた。選出された議員900人を党派別に括ってみると
[注*]、オルレアン派200人、ブルボン正統王朝派100人、穏健共和派500
人、急進共和派100人である。このときパリの34の全議席を共和主義諸派が占め
た。すでにパリ市民の左傾が明瞭である[注**]。
[ 注 * ] 当時は、近代的な議会政治とは異なり、政党はまだきちんとした組織体制をもっていないの
で、党派別分類というのは多分に恣意的な分類、大雑把な推計にならざるをえない。
[注**]Chevallier, Histoire des institutions pol
itiques, op. cit., pp.240-1.
B
1848年12月、第二共和政大統領選挙
第二共和政憲法下での大統領選挙において、ルイ=ナポレオンは540万票を獲得
し、第2位のカヴェニャックに400万票の大差をつけて圧倒的勝利を収めた。その
得票率がフランス全体で74パーセントであるのに対し、首都では58パーセントに
すぎず、市民は未来の皇帝に対して無条件的歓迎の態度を示してはいない。同じこと
は直前九月に行われた立法議会補欠選挙においてもあらわれている。すなわち、セー
ヌ県の有権者は当票数24万7千のうちルイ=ナポレオンに11万票を与えたが、こ
の得票率は46パーセントであり、過半数に達しない[注]。
[ 注 ] Chevallier, Ibid., p.250.;Agulhon, Maurice,
The Republican Experiment, 1848-1852, Cambridg
e, U. P., 1983, pp.69-73.; Rémond, René, La vie
politique, op. cit.,pp.74-80.
C
1850年5月、立法議会選挙
5 0 年 5 月 、選 挙 法 改 正 が 行 わ れ 、普 通 選 挙 法 は 事 実 的 に 骨 抜 き に さ れ た[ 注 * ]。
すなわち、有権者名簿に登録されるのに、これまでは選挙区に6か月間在住すればよ
かったのが、3年間に延期された。居住は直接税の納入票、または雇用主(有権者で
あることを要する)の書き付けのいずれかによって証明されねばならなくなった。こ
れによって、それまでの有権者の3分の1が権利を喪失することになった。全国レベ
ル に お い て 従 来 の 9 6 0 か ら 6 8 0 万 人 に 減 少 し た 。パ リ で の 減 り 方 は も っ と ひ ど く 、
有権者は従来の22万5千人から8万人、つまり3分の1に縮小したのである。その
減り方は貧民区、いいかえれば共和主義左派が強い選挙区ほどひどかった。法改正の
狙いが左派勢力の撃滅にあることは自明である。政治的手段を奪われた左派は以後、
地下活動を展開するしかなくなるであろう[注**]。
[ 注 * ]1849年6月、パリにおけるルドリュ=ロランの指導する蜂起に肝を潰した「秩序派」(最
9
大多数の保守派)が左派攻撃のために、選挙を改正した。これに反対するルイ=ナポレオンは単独での
権力奪取の機会をもつことを決心した。Cf. Smith, Second Empire, op.
cit., p.8.
[ 注 * * ] Girard, L.,La Deuxième République, op. ci
t., p.66.
この選挙では「秩序党」(ブルボン=オルレアン派の反共和派連合)が全国議席の
3分の2を占めたが、パリでは急進・穏健の共和派が圧勝する[注]。
[ 注 ] (20)Chevallier, Op. cit., p.255.
D
1851年12月、第1回国民投票
普通選挙および憲法改正を主張する大統領と、王政復活を狙う議会との対立は、究
極 的 に 前 者 に よ る ク ー デ タ に 発 展 す る 。ク ー デ タ に 対 す る 抵 抗 は 散 発 的 な も の に 終 り 、
帝 政 は 成 功 裡 に 幕 を 開 け る 。残 る 問 題 は 、そ の 法 的 追 認 を ど の よ う に と る か で あ っ た 。
ク ー デ タ ともに大統領が出した宣言において、ルイ=ナポレオンは普通選挙を完全復活させ、自己の
政治綱領について国民投票で信任を問うことを約束した。この国民投票はクーデタの直後に(12月2
1日・22日)行われた。大統領のこの行為は全国で700万票を超す得票によって承認された[注]。
[注]Smith, Op. cit., p.11.;Agulhon, Op. cit., p.
172.
この投票におけるクーデタ承認率が92パーセントであるのに対し、パリでは62パーセント、セー
ヌ県を含めても67パーセント。このときパリの棄権率は37、4パーセントに達した。全国では棄権
率は15パーセントでしかないから、パリは倍以上ということになる[注]。
[注]Girard, Op. cit., p.78.; Agulhon, Op. cit.,
p.173.
E 1852年2月、第1回立法院選挙
これは帝政下での最初の選挙であった。全議席261のうち、ほとんど全部を官選議員が占めた。非
官選候補者で当選したのは八人であるが、うち5人は、伝統的に保守の地盤としてのフランス西南部か
ら選出された正統王朝派であった。他の3人が左派ということになるが[注]、2人はパリから、もう
1人はリヨンから選出されたのである。セーヌ県に当てがわれたのは九議席であり、そのなかの2議席
ということに注意する必要がある。
[注]これら3人はカルノー、カヴェイニャック、エノンである。Agulhon, Ibid., p.
175.
既述のように、議員になるためには皇帝への忠誠の宣誓をしなければならなかったが、これら3人も
宣誓を忌避し、代わりに、「われわれは非倫理的な沈黙の理論と精神的な制約を拒絶する」という宣言
10
を発して議席を断念した。したがって、帝政の船出は議会も行政府も全部が全部与党によって構成され
たかたちで始まったことになる[注]
[注]Agulhon, Ibid., pp.175-6.
F 1857年6月、第2回立法院選挙
初回における野党議員8人の当選に対して、2回目は7人にしかならなかった。注目すべきは、セー
ヌ県に割り当てられた10議席中、5議席が野党議員によって占められたことである。ともかくも政府
は信任された。同時にパリの野党もそうであった。パリにおける野党の得票率は48パーセントに達し、
帝政反対勢力は文字どおり真っ向から政府に対抗できる力をつけたことを示した。彼らは「5人組」を
結成し、体制批判を続ける[注]
[注]Chevalier, Op. cit., p.271.
G 1863年5月、第3回立法院選挙
これは自由主義帝政に転じて最初の選挙であり、また、反体制派が政治復帰したなかでの選挙でもあ
った。反体制派の政治復帰とは次のような事情によるものである。クーデタ直後の追放令によって多数
の政治犯は獄中ないし流刑あるいは国外亡命という形で政治活動から完全に排除されていたが、その後
の段階的な恩赦令により続々と帰国していた。決定的な転機は、イタリア戦争の勝利を記念した185
9年8月の無条件の恩赦令によって訪れた。共和派は指導者を得て、勢力を盛り返した[注]。
[注]Rémond, Op. cit., pp.176-7.
広義の反体制派は1857年のときの120万票に対して約200万票を集めた。野党議員の合計は
32議席になった[注*]。野党の前進は明白となった。勝利がもっと明らかなのは首都である。ここ
では得票の絶対数において初めて野党が優勢となった。野党は17万5千票のうち15万3千票、実に
得票率の87パーセントをさらう。そして、セーヌ県に割り当てられた九議席の全部を野党議員が占め
た。野党の完勝といってよい[注**]。
[注*]野党32議席のうち17議席が共和派であった。Ibid. Ⅱ, p.185.
[注**]Ibid.
総じて、この選挙は反体制的気分が全国に波及しつつあることを示したが、その点ではやはりパリが
傑出しており、全国の指導的役割を担っていることを意味する。この選挙で、1852年12月のクー
デタにより政治舞台から消えていたアドルフ・ティエールが議席を獲得し、野党の首魁として活動を再
開したことも付け加えておかなければならないだろう[注]。
[注]1863年選挙において野党が進出したとしても、このことがただちに共和派の 勝 利 を 意 味 す
るのではないことも事実である。共和派はたしかに伸びたが、一方では体制より右の
勢力(正統王朝派とオルレアン派)の伸張も促していたのである。それは貿易自由主
義と、フランスのイタリア統一運動へ干渉とに対して、保護主義者とカトリック教会
の憤激を招来した。Smith,
Op.
cit.,
p.22.
11
H 1869年5月、第4回立法院選挙
帝政は譲歩に譲歩を重ねる。出版規制の漸次的緩和(1860~68年)、公共集会の権利(186
8年) ― これらは政府が自ら意図してのものであったかもしれないが、政府反対派への譲歩であるこ
とに変わりない。労働運動の復活、普墺戦争におけるフランスの外交上の失敗、メキシコ遠征の失敗の
なかで迎えた立法院選挙においては、激しい反体制キャンペーンが繰り広げられ、当初、与党の苦戦が
予想された。
だが、政府はもちこたえた。与党は450万票を得て信任された。しかし、左右各派の野党得票の合
計は350万に達し、当選者は93人を数えた[注]。この状態は体制の将来に対して暗雲を投げ掛け
るものであった。結果としてはそのように展開したが、当時はとてもそのような雰囲気ではなかったこ
とも事実である。というのは、野党の各派がことごとく分裂していたからである。
[注]C h e v a l l i e r ,
Op.
cit.,
p.279.
パリの問題に戻ろう。セーヌ県は人口膨脹のため有権者数が増えたにもかかわらず、定数の是正はさ
れず、9議席のままであった。政府は「敵」に多くの議席を与えることを欲しなかったのである。それ
どころか、セーヌ県の選挙区の区割りにすら手を加えて、体制派議員を当選させようとした。しかし、
この策も実を結ばなかった。結果的に、このときもセーヌ県は9議席のすべてを野党議員で埋める。第
一回投票での野党各派の得票の合計23万4千票に対して、官選候補は7万7千票しか集められなかっ
た。つごう野党投票率は75パーセントに達した[注]。
[注]( 3 1 ) G i r a r d ,
Op.
cit.,
p.
397.
I 1870年5月、国民投票
ナポレオン三世は、彼が終始反対した議会制度を導入せざるをえないところにまで追い詰められた。
ナポレオン三世は新憲法を呈示する。それに織り込まれた帝政の新体制を承認するか否かがこの選挙の
争点であった[注*]。結果は全国レベルで賛成735万、反対157万、棄権190万であり、国民
は3たび体制を承認した。有効投票数に対する賛成票で示される信任率は83パーセントであり、皇帝
の圧勝のような印象を与える。しかし、セーヌ県における信任率は半分の43パーセントにしかならな
ず、首都に関するかぎり、改革帝政に「ノン」の回答を与えた[注**]。
[注*]5 月 8 日 の 国 民 投 票 を 予 告 す る ポ ス タ ー は 、 皇 帝 が 国 民 に 呼 び か け る 『 宣 言 』
の形をとっている。その内容はひじょうに興味深い。「過去十年間に実現された自由
主義的改革の承認を求める私の要請に『よし』と答えていただきたい…」。このポス
ターおよびリーフレットは財団法人・大佛記念館が所蔵している。
[注**]セ ー ヌ 県 と 並 ん で 信 任 率 が 半 分 を 下 回 っ た の は 、マ ル セ イ ユ を 県 庁 所 在 地 と
す る ブ ッ シ ュ = ロ ー ヌ 県 で あ る 。C h e v a l l i e r ,
282.;
R ém o n d ,
Op.
cit.,
Op.
c i t .,
p.
pp.198-200.
12
3 小括 ― 選挙結果から見たパリと地方 ―
すでに明らかなように、パリ(セーヌ県)の選挙結果は地方のそれと比べて、第二帝政期全体を通し
てはっきりと目に付く特徴をもっている。一つは棄権率が非常に高いということである。もう一つの特
徴は反体制的傾向である。
地方の棄権率が数パーセントであるのに対し、セーヌ県のそれはしばしば20~30パーセントにも
達した。なぜであろうか? その主たる原因は頻繁な人口移動にある。つまり、パリはこの時期、外か
ら人口を受け取るとともに内部での移動が激しかった。そのために住民は有権者名簿に載らないことが
しばしば起こった。登録から漏れる度合いは社会的階梯を降りれば降りるほど高くなる。すなわち、貧
民はさしずめ「流浪の民」であり、多くの者が住民登録をしなかったし、また、登録しても無意味であ
った。無意味であったわけは、たとえ彼らが登録の意思をもったとしても、資格取得に一か所定住の義
務づけがあり、この条件を満足できなかったのである。たとえば前項[C]で述べたように、1850
年5月の選挙法改正は定住3年という条件を課しており、これは「流浪の民」にとって、政治生活から
の事実上の排除を意味した。
したがって、棄権率の異常に高い街区があるとすれば、それはそこに住む階層との関わりが強く、全
住民の意思が投票数に反映されないゆえに、投票結果は割増しして考察しなければならないだろう。
高棄権率は住民の政治活動への忌避としてとらえてよいのであろうか。これはそうでもあり、またそ
うでもない。そうだ、とするわけは簡単である。選挙制度が事実上、民意を反映できないシステムつま
り官選候補に対する信任選挙になっていたため、それに対する反感から住民は選挙そのものを忌避し、
自ら進んで棄権という手段を選んだからである。そうではない、とするわけは、選挙に不信をいだいた
からといって、彼らが諦めきっていたのではない、それどころか、彼らは別の手段で政治活動への参加 ―
端的にいえば暴動 ― を考えていたからである。いずれにしても棄権は消極的なものにせよ積極的なも
のにせよ、ひとつの政治的な意思表示とみるべきである。
さらに、投票結果について、もう一つだけ留意すべきことがある。それは、パリを総体として一括し
ても意味がないということだ。国政選挙は県単位で行なわれるのであり、したがってパリの選挙区はセ
ーヌ県のそれに含まれるのであるから、固有のパリの意思は、それを取り囲む農村的、保守的な郊外に
よっても薄められがちであった。それだけではない、固有のパリの中でも地域差がある。それは行政単
位の変更を背景にもっている。詳細は後述に譲るが、徴税請負人の柵の内側におけるパリと、1860
年1月の市域拡大で新たに首都に編入され、「小郊外」と言われたパリとは産業や住民階層の点で差異
がある。前者が商業的であるとともに職人的であるのに対し、後者は多分に農村的であるとともに工業
的でもある。そして旧街区のパリにも地域差がある。一般に西半分がブルジョア的であるのに対し、東
半分は民衆的パリを代表していた。
もう一つの特徴すなわちパリの反体制的体質の問題について移ろう。パリにもいろいろあるといった。
たしかに街区別のニュアンスはある。だがそれにしても、地方の農村と比較したとき、パリの投票行為
は一貫して時の政府に対して反抗的であると断言してかまわない。たとえば1848年4月の選挙では、
地方がおおむね穏健共和派を多数派とし、王党派を少数派として送り出したのに対し、首都は共和派の
13
みを選出した。また、第二帝政下での国政選挙で、パリはずっと共和派議員を送りつづけていた。それ
はほとんどパリだけといってもよかった。
パリは地方とは異なった意思表示を行なってきた。それゆえに、パリは政治生活の上で地方とは対立
状態にあったし、数の上で優勢な地方から包囲されていたのである。
普通選挙はこの状態(パリの孤立)をいっこうに改善しなかったし、かえって悪化させた。21才以
上の成人男子による普通選挙 ― 第二共和政が復活し、帝政が確立したが ― はかえってパリの政治的
地位を低めることになった。首都の投票は農村の投票の中に溺れてしまう。パリがいくら反体制的議員
を議会に送ろうとも、議席の数では所詮、少数派を占めるにすぎなかった。これは一種の政治的疎外に
ほかならなかった。市民は実際、それを感じていたし、合法的選挙制度に縋るかぎり、自らの意思の実
現は心もとない状態におかれた。選挙が民主性を欠いていればこそ、街頭闘争や反乱は合法性をもつこ
とができた。ところが、選挙が民主的選挙であった ― 上辺だけのものにすぎなかった ― ばかりに、
パリの叛徒たちの政治的失墜を決定的なものにしたのである。無権利状態が活動の自由を促し、有権利
状態がそれを奪うというのは近代民主制の内包するパラドックスである。
だが、政治的疎外を云々する場合、それは何もパリ市民に限られたものではなかった。むしろ農村こ
そが大きな疎外を味わってきたのである。30年の長きに亘って農民は政治機構から完全に排除されて
いた。1815、ナポレオン一世が失脚して以来、政治機構は少数のエリート集団に牛耳られていた。
パリはしばしば首都という特権を振りかざして、新たな政体を農村に押しつけてきた。パリの革命は即、
全体の革命というわけである。その際、農村に対する是非の打診は皆無であった。ここから、「パリは
電報で革命を送りつけてくる」と言われた。農村はつねづね報復の機会を窺っていた。普通選挙こそが
格好のチャンスを提供したのである。農村の投票はつねに大都市の、パリの勝手な行為にブレーキをか
けることになった。これが繰り返されると、対立はいつか敵意に転化し、敵意はいつか本物の内乱に転
化するはずである。
ところで、パリのこの反体制的傾向はいったい何に由来するのか? それはパリの政治的伝統である。
これをみるためにわれわれは、少々、歴史を遡らねばならない。パリは長い間、首都として特殊な行政
上の地位を与えられ、市民はいわば特権とも差別とも両様に解釈しうる政治生活を営んできたのである。
これについては、節を改めて論じる必要があろう。
第三節
1
パリの行政上の位置(19世紀)
第一帝政
フランス革命を引き継いだナポレオン一世はパリ市役所を廃止し、市長に代えて
自 ら が 任 命 す る 二 人 の 長 官 ( P r éf ét s ) を 置 い た 。 一 般 行 政 を 担 当 す る セ ー ヌ
県知事と、治安警察を担当する警視総監とがそれらである。一人の人物に権限を集
中しないところに狙いがあった。果たしてこの2人の長官は互いに牽制しあい、協
同することが少なかった。
県知事は内務省の管轄下におかれ、同省が知事の任免権を握っていたので、もと
14
もとから自主的発意で物事を行う権限を奪われていた。それゆえ、中央政府の意思
を地方にまで徹底させることができた[注]。
[注]Cf.
Tulard,
inistration
is,
1976,
Jean,
Paris
(1800-1830),
et
son
adm
de
Par
Ville
pp.73-103.
県には、選挙で選ばれる県会(conseil
g én ér a l
du
d ép a
rtement)が置かれたが、それは市町村に対する税課の割り当て、支出につ
いての付加税の配分など、きわめて小さな役割しか果たさなかった。
県知事の任免権を握り、県会の権限を最小限に止めても、ナポレオンはなお安心
しなかった。行政区についても、叛乱の中核となりうるパリを牽制する意図から単
独 の 行 政 区 に せ ず 、セ ー ヌ 県 と し て 緩 衝( 農 村 )地 域 で く る ん だ 。皇 帝 に と っ て は 、
パ リ の 行動を 監 視 する必 要 が あった の だ 。かく て 国 家は完 全 に パリの 行 動 を封 殺 し
た。
セーヌ県は3つの市町村区(arrondissements
communa
ux)に分割され、このうち第三市町村区がパリ市に該当した。パリは12の区に
分割され、それぞれに区長と、これを補佐する2人の助役とが置かれた。区長は戸
籍簿管理、兵役登録簿、学校管理の権限しか与えられなかった[注]。
[注]Tulard,
ire,
Jean,
1800-1815,
Le
op.
Consulat
cit.,
et
l ´E m p
pp.155-74.
重要なことは、後年、ナポレオン三世がこの行政制度をほとんどそのまま復活さ
せたことである。県知事と警視総監の確執、県知事の自主権の弱さ、パリの差別待
遇もそっくりそのまま引き継がれることになった。これは第二帝政下のセーヌ県知
事オスマンにとって重要な意味をもつことになるだろう。
2
復古王政
首都パリの行政制度は2人の長官つまり県知事と警視総監の並存など、基本的に
は第一帝政のそれの踏襲であった。前代との類似性は、第一帝政期の官吏を引き続
き任用したことによって強められた。さらに、パリの12の区における区長および
助役が副次的役割しか果たさなかった点も帝政期と 同一であった。区長の任期は 従
前の3年に代えて5年となった。
24人から成る市会議員(Conseil
municipal)すらも王によ
って指名された[注*]。総会は年一度、それもしばしば8月に行われたため、全
員を集めることはまずなかった。定例会議は月に最低一度はもたれた。市会といっ
ても議会を連想してはいけない、行政府の諮問機関と考えたほうがよい。予算審議
と行政への提言を行ったが、決定権はなかった[注**]。
[注*]主 宰 し た の は 、 生 え 抜 き の 正 統 王 朝 主 義 者 の ニ コ ラ = フ ラ ン ソ ワ ・ ベ ラ ー
15
ル
( N i c o l a s - F r a n ço i s
B e l l a r t )で あ り 、終 身 議 長 と し
て一八二六年の死去までその地位にあった。De
laume
e
Bertier,
de
Paris:
977,
La
3
Nouvelle
Restauration
Hachette,
[注**]I b i d . ,
Sauvigny,
Guil
histoire
d
1815-1830,
1
p.19.
p.21.
七月王政
パリの民衆の圧力を受けて革命新政府はパリの自治を復活させた。すなわち、選
挙に基づく市議会と区長制が三十数年ぶりに復活。セーヌ県議会は48人の議員か
ら成るが、うち36人がソー区およびサン=ドゥニ区(固有のパリを含む)から選
出された。これら36人がパリ市会(Conseil
municipal
de
Paris)を構成した。区長と彼を補佐する2人の助役は選挙民が選んだ12
人の候補者のなかから、国王が選んで任命した。また、パリ市は独自の予算審議お
よび決定権をもった。
問題なのは国政選挙のばあいと同じく、制限選挙制であった。選挙権が高額納税
者に限られたり言論統制が行なわれたりなどで、大部分の市民は自治に無関係であ
った[注]。
[注]市が予算決定権をもつにいたったのは、市財政が王政当初の政治的混乱や内
乱 、そ し て 経 済 不 況 の た め に 窮 迫 し て い た た め 、こ れ を 市 民( と り わ け ブ ル ジ ョ ア )
の協力でもって立て直す必要があったからである。Simond,
s,
Paris
900,
4
de
Tome
Ⅱ,
1800
à
1900,
3vol.
Charle
Plon,
1
p.40.
第二共和政
二月革命の臨時政府は七月革命時と同じく、パリ市役所に本拠地をおいた。パリ
市役所こそ革命政府が誕生するにふさわしい場所であった[注*]。王政崩壊とと
も に パ リ 市 に も 自 治 が 認 め ら れ 、革 命 派 民 衆 の 後 押 し で 市 長 が 選 ば れ た[ 注 * * ]。
[注*]パリ市役所で新政府の樹立が宣言される慣行はフランス革命に始まる。1
7 8 9 年7月 1 4 日、バ ス テ ィーユ 牢 獄 を陥落 さ せ た叛徒 た ち は市役 所 に 押しか け 、
旧制度の官僚たちを追放してコミューンすなわち自治政府の樹立を宣言。16日、
コミューンは市長にバイイを選び、彼の主宰のもとに定例の会合をもった。これが
公式の機関となったのは翌年5月21日のことである。パリは48のセクシオン
(区)に分割され、そこから選出された96人の議員と行政官から成るコミューン
総評議会を構成するにいたる。Cf.
et
52.;
son
Tulard,
administration
Michel
c l o p éd i q u e
Mourre,
,
Jean,
op.
cit.,
Dictionnaire
d ´h i s t o i r e ,
8
vol.,
Paris
p.
ency
Bordas,
16
1978,
Tome
Ⅱ,
p.179.
以来、革命が起こるたびに、市役所で新政府の樹立が宣言されることになった。
七月革命のときも、二月革命のときもそうであった。これら2つの革命は民衆蜂起
を伴い、市民の革命であったから理解できるが、次の「革命」、すなわち市民とは
何の関係もない第二帝政の樹立に際しても、ここ市役所が利用された。さらに18
70年9月4日の国防政府の樹立のときも、翌年3月のパリ・コミューンの時も同
じことが繰り返された。
[注**]ランビュトー知事が辞職したのに伴い、早くも2月24日、民衆の後押
しのもとにガルニエ=パジェスがパリ市長就任を宣言した。これはむろん選挙によ
るものではない。ところが、ガルニエ=パジェスは2週間後の翌月12日には辞職
している。任に堪えないと自ら判断したからであろう。彼の行ったことは食糧の補
給と45サンチームの課税のみであった。後者が彼を著しく不人気にした。彼の後
を継いだのがアルマン・マラストである。しかし、彼が新制度の組織化の努力をつ
づ け て い る 間 に 内 乱 が 起 こ り 、4 か 月 後 に( 7 月 1 9 日 )市 役 所 が 廃 止 さ れ た た め 、
ほとんど何の仕事も終えないうちに彼も辞職に追いこまれた。Simond,
aris
de
1800
à
1900,
op.
cit.,
P
p.340.
しかし、同年の六月暴動以後は、民衆反乱に恐怖を覚えた政府は7月に市役所を
廃止した。かくて第一帝政期と同じく、県知事と警視総監の二頭体制が復活する。
地方の市町村がどんなに小さなものであれ議会と首長をもったのに比べ、パリは首
都のゆえに議会も市長ももたなかった。代わりに政府の指名する市会が置かれた。
国民議会に挑戦しうる、普通選挙に基礎をもつコミューンの出現が何としても恐れ
られたのである[注]。
[ 注 ] I b i d . , p p .3 4 3 - 4 .
この意味で、二月共和政はパリの自治に関するかぎり、七月王政期からの後退で
あった。王政が自治を復活し、共和政がこれを覆したという事実はしばしば忘れら
れる。ルイ=ナポレオンがもう少し早く政権に就いていたなら、必ずそのようにし
たであろう事柄を臨時革命政府が行なってくれたことは、彼にとってのっけの幸い
であった。つまり未来の皇帝は手を汚さずに済んだのである。彼がクーデタの挙に
出たとき、パリですんなりと受け入れられた理由のひとつはここに発する。しかも
彼は前節で述べたように、政権の座につくや否や、普通選挙を実施して人気を博し
た。
5
第二帝政
基 本 的には 第 一 帝政期 の 文 字どお り の 復活で あ っ た。パ リ と その周 辺 部 を合 わ せ
た セ ー ヌ県を 治 め るのは 県 知 事と警 視 総 監。こ の 2 人の任 免 権 を握っ て い るの は 政
府つまり皇帝である。同時に60人で構成される市会(Conseil
muni
17
cipal)も設けられたが、これも内務省の管轄で構成員は行政府が選んだ。会
議が非公開であったのと、議事録がのちのパリ・コミューンの火災で消失してしま
ったのとで、どんな議論を展開したのかが分かっていない。おそらくは市政に関す
る諮問を主務としたであろう。この市会は選挙とは無縁であり、一般市民にとって
は 誰 が 委員で あ る のかさ え 分 からな い あ りさま だ っ た。画 家 の ドラク ロ ア が委 員 で
あったことは知られているが[注]。
[ 注 ]G i r a r d ,
cit.,
Le
D e u x i èm e
R〓publique,
op.
p.331.
パ リ が選挙 で 選 ばれた 市 会 をもっ て い ないた め に 、納税 者 は パリ改 造 の ため の 巨
額の出費に同意できない、と主張したのは、立法院におけるエルネスト・ピカール
を始めとする「5人組」である。彼らはこう主張することによって、選挙に基づく
パリ議会の開設を要求した[注]。
[注]Ibid.,
p.344.
パリは区役所をもっていたが、その役割は小さかった。選挙人名簿・兵役名簿の
管理、学校事業、戸籍の管理、貧民救済事業が主たる仕事である。たしかに教育を
除けば、取るに足らない役割ではある[注]
[注]拙論文「パリ籠城下(1870~71年)の食糧行政」(『横浜市立大学論
叢』社会科学系列第41巻、第2号、1990年、参照。)
地方諸県の警察が県知事の管轄下におかれ、警察の下僚は市長村長の指揮下にお
かれたのに対し、パリ警視庁は県庁と同格に位置づけられていた。つまり、パリの
警察が特別の待遇を受けていたこと、換言すれば首都の治安がことのほか重視され
ていたわけである。これは効を奏した。というのは、後年、第二帝政期は犯罪が比
較的少なかった時代として思い出されることになるからである。
だが、住民にとって警察はまったく人気がなかった。帝政がクーデタから生まれ
た以上、力による体制維持は避けようがなかった。秩序紊乱・体制破壊に結びつく
あらゆる思想や行動が監視された。治安警察がつねに人の集まりそうな酒場や劇場、
カフェなどを巡回しただけでなく、諜報員が私服で始終、情報を求めて徘徊してい
た。密告が奨励されたことはいうまでもない[注]。
[注]Dansette,
4
septembre,
Adrien,
Du
Hachette,
2
d éc e m b r e
1972,
au
p.79.;
西川長夫「ボナパルティズムの原理と形態」(河野健二編『フランス・ブルジョア
社会の成立』岩波書店、1977年、48ページ)を参照。
6
まとめ
パリの自治的機能は歴代政府によって意図的に否認されてきたと結論づけるこ
18
とができよう。それは、つねにパリが革命勃発の舞台という特権を有していたがゆ
えの差別といってよいし、逆に、そうした差別があったからこそ、そうした特権の
正当化に根拠を与えてきたのである。この差別は明らかにパリ市民の矜持を踏みに
じるものであった。だからこそ、前節で見たような、市民の時の政府に対する敵意
がある。
こうした関係のそもそもの始まりは、人々の心に染みついた大革命の恐怖政治の
思い出であった。1789年から93年まで、パリは矢継ぎ早にドラスティックな
革命を達成し、ギロチンの恐怖とともに全国に号令してきた。この思い出はあまり
に強烈であったのである。
ところで、パリは同時代人の目にはどのように映ったのだろうか。王党派にとっ
てはパリが恐怖の的、共和派にとっては希望の星と映ったことは明らかである。と
くに地方の共和派は地元ではつねに少数派であり、民主主義的な趣をもつ改革を自
力でなし遂げることはとうていできなかった。したがって、中央が行ったことを追
随するしかなかった。その意味で、節目節目に革命を送り届けてくれるパリはあり
がたい存在であり、彼らにとって、パリ市民はまさしく「進歩のための代理人」に
ほかならなかった。
むろんパリ民衆の思い出のなかでも、かつての大革命時におけるコミューン自治、
正 確 に いえば 直 接 民主主 義 の 伝統は 生 き つづけ て い た。も と も とは防 御 的 なも の と
して出発したのであろうが、自らの意思を貫徹するのに蜂起(暴力)はまことに有
効な手っ取り早い手段であった。普通選挙がいくら民主的に行われたとしても、そ
れでもって政治に変化が生じることを期待できないことを、彼らは経験的に知って
いたのである[注]
[注]パリは国会(立法院)に共和派を送る。しかし、彼らは、「田舎者」が支配
す る 議 会では ま っ たくの 少 数 派でし か な い。パ リ の 抗議は か き 消され る の がつ ね で
あった。数による専制を前に、共和派とりわけその中の左翼はコミューンを、すな
わちかつて大革命時に国民公会と対等に渡りあったコミューンを夢見るのである。
二月革命直後の憲法制定議会召集のための選挙(4月23日)の実施に対して共和
派左翼が反対したのも、彼らにとって不利な結果が予測できたからである。
帝政のほぼ全期間に亘ってセーヌ県知事をつとめたユジェーヌ・オスマンにとっ
て 、パ リ は ど の よ う な 存 在 、あ る い は ど の よ う に あ る べ き 存 在 で あ っ た の だ ろ う か 。
彼の考え方は典型的なボナパルティストのそれである。
たしかに、彼はパリ市役所のパリ省への格上げを主張するほどに、強いパリ市を
望んでいたことはまちがいないところである[注*]。けれども、それは彼自身の
権限の強化と一体のもの、同時に皇帝に直接に責任を負う形での組織、いうならば
国家元首が号令しやすい中央集権的な市役所にほかならなかった。したがって、国
家権力から独立したコミューンが彼の念頭にあったわけでは毛頭ない[注**]。
[注*]Morizet,
A n d r é,
Du
vieux
Paris
au
19
Paris
moderne:
cesseurs,
Haussmann
Hachette,
et
1932,
ses
p r éd é
p.245.
[注**]1861年8月14日、すなわち皇帝の誕生日の前日にマレシェルブ大
通りが開通した。この式典の最中、政府閣僚や高官たちが集まったなかで皇帝の県
知事に対する労いの謝辞に答えて、オスマンは次のように述べた。「後世、わが国
の子孫たちは、わが国においてもカエサルの甥が帝都を刷新したことを認めるであ
りましょう」、と。知事の頭にあるのはローマの皇帝であり、それに直属する長官
であったのである。Morizet,
rd,
D e u x i èm e
Ibid.,
R ép u b l i q u e ,
p.221.;
op
Gira
c i t .,p .3 3 6 .
じっさい、彼はパリに自治を与えることを頑強に拒否しつづける。オスマンはパ
リに対して、とりわけ大衆に対して根強い不信感をいだいており、軽蔑さえしてい
た。彼はつねづねパリ大衆の中に、デマゴーグによって操られる根無し草のイミグ
レ、快楽にうつつを抜かす一時滞在者を見ていた。彼にとってパリの存在理由は首
都であることにあり、この意味で首都は国家に対してのみ奉仕し、国家の名代で地
方に号令さえすればそれでよかった[注]。
[注]ボナパルティストの主張する権力構造は形のうえではジャコバン主義者の主
張によく似ている。つまり、中央集権的権力をバックに地方へ号令するという図式
をみれば、確かにそうである。また、ボナパルティズムもジャコバン主義も究極の
理 想 に お い て は 、政 党 や 政 治 フ ラ ク シ ョ ン の 存 在 は 想 定 さ れ て い な い 。だ か ら こ そ 、
社 会 の 亀裂を も た らす党 派 と の政治 闘 争 におい て は 、それ に 対 する武 力 制 圧を 自 己
正当化する。しかし、明確に異なる面もある。ボナパルティズムの権力構造のヒエ
ラルキーの頂点にいるのは専制君主であるのに対し、ジャコバン主義のばあいは、
革命を志向する人民の集団的独裁である点において隔たりがある。
オスマンは他のボナパルティストと同じく、パリの自治はおろか、市民のいっさ
いの政治活動を認めず、それを徹底した警察の監督下におくことに賛成であった。
それゆえに、彼が1870年の年明けに政権から滑り落ちたときに、市民は喝采を
送ることになるだろう。
共和派左翼とボナパルト派の中間に自由主義者がいる。彼らは政権の基盤を危機
に陥れることなく、自治をパリに付与することを願う。彼らにとって選挙から生ま
れる市議会はコミューンと同義ではない、パリはフランスの敵ではなくて、フラン
スそのもの、フランスの象徴・統一の果実であった。自治の扼殺がパリの議会をコ
ミューンに、つまり暴力に転化し、首都を革命根拠地としてしまうのだ、と力説す
る[注]。
[注]拙論文「パリとフランスの和解―民衆出版物から見たパリ・コミューン―」
(横浜市立大学論叢』社会科学系列第39巻第2・第3合併号、1988年)を参
照。
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パリの自治を国家権力との関係においてどのように位置づけるかという議論は、
1871年冬以来のパリ・コミューン騒動の真直中において再燃するはずである。
それは重要ではあるが、われわれの当面の課題からは外れるので、これ以上はふれ
ないことにする。
政治権力の集中と分散、独裁と民主制、革命と反革命は大革命以来のフランスに
おいて交互に出現した政治形態である。19世紀の半ば、ナポレオン三世の治世は
こ の サ イ ク ル に お い て ち ょ う ど 集 権・独 裁・反 革 命 の 時 機 に 差 し 掛 か っ た の で あ る 。
1851年12月2日のクーデタによって、パリの自治は極限状態といえるほど
に圧縮され、ここにおける共和派のフラクションは投獄・追放・流刑などの弾圧を
受けて文字どおり根絶やしに近い状態におかれた。こうして数年にわたる革命の騒
動からパリは完全に平穏を回復した。少なくとも表面的にはそうである。政治環境
としては、皇帝が何事を行うにもまったく障害のない状態がここに現出した。それ
を 見 す まして か ら 、ルイ = ナ ポレオ ン は おもむ ろ に 念願の パ リ 都市計 画 の 実行 に と
りかかるのである。この強力政権が登場したところで、われわれもパリの都市問題
にたち戻ろう。
(c)Michiaki Matsui
2014
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