森本本店社史(PDF 53MB)

M O R I M O T O
SINCE
H O N T E N
1781
C O N T E N T S
はじめに
はじめに 代表取締役会長 森本敏郎 ...................................................................... 2
株式会社森本本店は平成27年(2015)に創業以来230有余年を数えるまで
社 是
になりました。
奉仕
誠実
工夫
努力
ろに記したものは何もなく、家訓、信条といったものも皆無でした。ただし、
協調
当社の歩みについて、幾らか記しておきたいと思ったのですが、私共のとこ
1781 ‐ 1815[天明元年 ∼文化12年] 初代森本善七、知多から名古屋へ ....... 4
1815 ‐ 1874[文化12年∼ 明治 7 年] 名古屋鉄砲町に笹屋あり ............................... 6
1875 ‐ 1928[明治 8 年 ∼ 昭和 3 年] 財界との結びつきを深める .............................. 8
古い部分については、世間に伝えられた事柄、出版された印刷物などの端々
1928 ‐ 1930[昭和 3 年 ∼ 昭和 5 年] 西洋雑貨の取扱開始 ................................... 10
に見られる事実などによって多少窺い知ることができ、これ等を参考にして記
1931 ‐ 1948[昭和 6 年 ∼ 昭和23年] 開店休業からの立て直し ............................ 12
したいと思います。
1949 ‐ 1954[昭和24年∼ 昭和29年] セミセルフ方式を採用 .................................... 14
初代の森本善七がどのようにして商いの道を始めたのか、詳しくは分かりま
1955 ‐ 1959[昭和30年∼ 昭和34年] 衣料品が取扱商品に .................................... 16
せん。行商をして小間物を売り歩いたのか、あるいはどこかの店で丁稚奉公を
1960 ‐ 1962[昭和35年∼ 昭和37年] 経営・取引先の拡大 .................................... 18
して手代か番頭の資格を得善七という名前を頂いた、と推察されます。その
1963 ‐ 1965[昭和38年∼ 昭和40年] ルームアクセサリー登場 ................................ 20
後独立して商いを始めましたが、善七という名前をいつまでも守っていったの
です。初代善七は最初どこに店を構えたのか、鉄砲町、末広町のような大店
の集まった土地でいきなり店を構えることはないだろうし、店の場所は不明な
のです。
1966 ‐ 1969[昭和41年∼ 昭和44年] 進む商品の多様化 .......................................... 22
1970 ‐ 1977[昭和45年∼ 昭和52年] ヤング財布で掴んだ成功 ............................. 24
1977 ‐ 1984[昭和52年∼ 昭和59年] 量販店時代の到来 ......................................... 26
1985 ‐ 2001[昭和60年∼ 平成13年] 改革の実行 ......................................................... 28
2001 ‐ 2014[平成13年∼ 平成26年] メーカー機能を備えた問屋へ .................... 30
初代善七が亡くなった当時、二代目善七となる萩原宗平(宗滋)の息子は4
歳の幼児でありました。その間の店の運営は初代善七の妻か店の番頭かが引
き継いで行っていたと思われます。二代善七が萩原宗平家のような格式のあ
る家から森本家の養子となることも、当時の規模からいって相当驚くべきこと
であったと思われます。
[社長インタビュー]
これからも長い歴史を刻んでいける会社でありたい。
取締役社長 岡田康男 .............................................................................. 32
森本本店のいま ............................................................................................................................ 36
その後の事象については、諸先輩、諸兄も他界されており、知り得る範囲
で記すことにし、戦後から暫らくの時代については簡単に記すにとどめました。
往時より今日まで、幾度の時代、幾多の波を乗り越えて、
「人々の日々の生
資料編
森本家家系図 ................................................................................................................................ 40
活をより豊かに」の信条で努力してまいりました。また実に大勢の人々によって
現役員 ................................................................................................................................................. 41
支えられてきたのも事実であります。このことに衷心より思いを馳せて、今後
役員任期一覧 ................................................................................................................................ 42
も変わらぬ精進を続けてまいりたいと存じます。
組織の変遷 ...................................................................................................................................... 44
売上高の推移 ................................................................................................................................. 46
代表取締役会長 森本
2
敏郎
年表 ...................................................................................................................................................... 47
MORIMOTO HONTEN 3
1781
1815
天 明 元 年
文化
12
年
初 代 森 本 善 七 、 知 多から名古 屋 へ
奉公人名簿と店勘定帳
笹屋の奉公人の名簿。帳簿づけは店勘定帳で管理されていた。
天明元年、初代森本善七が鉄砲町に店を構える。
森本本店の前身、小間物屋「笹屋」創業。
笹屋の創業
元は長宗我部の家臣か
江戸時代中期の天明元年(1781)
、31 歳の森本善七は、
一説によると、森本家の先祖は戦国時代に土佐を統一
名古屋の大久保見に笹屋の号で小間物屋の店を構えた。
した 長 宗我部氏の家臣であったという。しかし関ヶ原の戦
世は十代将軍徳川家治の時代。森本本店の前身の誕生で
いで西軍として参戦した長宗我部盛親が斬首となった。森
ある。
本家は土佐に留まり土佐藩(山内家)に仕えたと思われる
後に鉄砲町と名を変えたこの地は、北の名古屋城を頂点
が、やがて武士を辞め、はるばる知多に新天地を求めて、
として、城下町へと続く本町通りを南へ直進し、広小路を
農民になったのではないかというものである。
越えた場所にあった。現在の中区栄 2 丁目、白川公園の北
初代森本善七は、寛延 3 年(1750)知多郡の古見(現・
向かいにあたる。本町通りは名古屋の開府以来、呉服屋や
知多市浜脇)で生まれている。父は森本弥之右衛門。森本
糸屋などの御用達商人たちが店を構えるメインストリートで
家はその頃には、知多で森屋敷と呼ばれる家を構える豪農
あった。笹屋が開業したのち、鉄砲町は江戸中期から幕
となっていた。
末にかけて、反物商や小間物商、袋物商などが立ち並ぶ、
森本家から名古屋へ出て、笹屋を創業した時、善七は
活気ある界隈に成長を遂げていく。
31 歳であった。武家や豪商など富裕層の持ち物である小
笹屋が扱ったのは、女性の髪を飾る 簪 ・櫛・ 笄 であ
間物を商いにするには、資産だけでなく客に見合った教養
る。この頃の女性の髪形は、貴族風の垂髪から結いあげ
や品性も求められただろう。善七はおそらく若い頃に名古
る日本髪が一般的になり、様々な髷 が考案されるように
屋で奉公人として下積みを経験し力をつけ、独立の時を迎
なっていた。素材も木や竹から、鯨の髭、象 牙、鼈 甲、
えたと思われる。
簪
鼈甲、銀、珊瑚で作られた玉簪。玉を1つあしらっ
たスタンダードな玉簪は明治・大正時代まで廃れる
ことのない人気商品だった。
(東京・日本宝飾クラフト学院蔵)
はこ せこ
箱迫
和装の女性が懐にはさ
む紙入れ。江戸後期に
武家女性の間で用いら
れた。現在では礼装で
用いる。
(東京国立博物館蔵)
銀などが使われるようになり、蒔絵や珊瑚、水晶など、装
飾性の高いものが用いられるようになっていた。
美しい髪飾りは女性のあこがれである。そうした商売を
櫛
選んだ善七は、商才とともにセンスの良さと優れた審美眼
も持ち合わせていたのだろう。
4
佐野川市松・べにうりおまん/奥村利信画
江戸中期の歌舞伎俳優、佐野川市松が振り売りの小間物屋に扮し
た浮世絵。派手な着 物を着、背負った木 箱には櫛や笄が飾られ、
手には紅を持っている。振り売りは呼び込みをしながら町を練り歩
いた。(東京国立博物館蔵)
蒔 絵 の 櫛、真 鍮 鼈甲櫛 には 赤 い
珊瑚がちりばめられている。木材
資源が豊富にあった中部地方は、
元禄時代より木櫛の一大生産地と
なっていた。
(東京・日本宝飾クラフト学院蔵)
MORIMOTO HONTEN 5
1815
1 8 74
文化
明 治
12
年
7
年
名 古 屋 鉄 砲 町 に 笹 屋 あり
堅実経営に力を注いだ二代善七、
尾張藩御用達格となる。
素封家から養子として迎えられた二代善七
用達にも任命された。ここでいう国産品とは尾張国の産物
初代善七は子どもを幼い時に亡くし、知多郡大野(現・常
という意味である。
滑市大野町)の萩原宗平の子どもを養子として迎えた。萩原
森本本店は二代善七によって大きく発展を遂げ、現在の
家は味噌溜醸造業を営んでいた旧家であったといわれている。
桜通、広小路、覚王山などにかなりの土地を持っていた。
二代善七と初代善七の年齢差は 61 歳。初代善七が存命
ところで、大坂や江戸では多くの御用達商人などが明治
中に養子を迎えたのであれば二代善七が 4 歳までのことで
維新後に財を失ったが、尾張商人の多くはむしろ活躍の場
ある。二代善七が成長するまで指南していたのは初代善七
を広げている。大坂や江戸の商人は大名へ高利で金を貸し
の妻や番頭であったのかもしれない。
付けていたため、版籍奉還によって収入を減らした大名が
返済金を焦げ付かせたのに対し、尾張商人は利益のうちの
尾張藩御用達商人となる
6 割で土地を購入し、借家などを造って家賃収入を得てい
明治初期の森本本店
二代善七は簪などの他、袋物、喫煙具、貴金属、財布、
た。こうした堅実経営は尾張商人の特徴だといわれている。
さ の長
昭和43年に松坂屋で開催された老舗展で飾られた絵。⃝
暖簾が掲げられた森本本店の店先と、賑わう本町通りが描かれ
ている。
豊饒御蔭参之図/歌川芳幾
幕末、庶民たちは飢饉や物価の高騰による困窮にあえぎ、慶応3年には各
地で「ええじゃないか」騒動が湧きおこった。笹屋が尾張藩御用達商人となっ
た頃、世の中は新しい時代へと変わってゆく過渡期であった。
(三重県立博物館蔵)
帯留めや半襟といった和装の小物なども取り扱い財を築い
たようだ。二代善七の名が知られるようになったのは、天
文化人としても活躍
保 11年(1840)につくられた「名古屋分限見立角力」という
明治 4 年(1871)に廃藩置県が行われ、名古屋県ができ
長者番付の東前頭 45 番目に載ってからである。
区という行政区分が生まれ、区長、戸長が置かれることに
幕末、明治維新の動乱にあった慶応 4 年(明治元年、
なった。二代善七は岡谷祐紀とともに第一大区第七区の戸
ファッションの最 先端は鹿鳴館
明治元年(1968)、横浜でドレスやハンドバッグなどの
舶来品を扱う小間物屋が開業した。
1868)の『名古屋商家集』によると、森本本店は尾張藩の
長を務め、多くの事業の開発にあたった。名古屋博物館
御勝手御用達格となっており、使用人 23人、資産 5,000 両
の設立に際しても副頭取役に推薦された。
とある。この時の格付けは御用達商人 353人中、筆頭の
さらに曹洞宗の檀家として信仰心も厚く、学問を志すも
関戸哲太郎から数えて 29 番目であった。
のに対しては援助もしていた。後年、曹洞宗大本山永平寺
欧化を進める国の推奨もあり、洋装は一時的なブームを
の貫主として、明治の高僧としてその名を輝かせた森田悟
巻き起こした。
明治16年に政府によって鹿鳴館が建造されると、女性
たちは束髪にボンネット、ウエストを絞ったドレスに身を
包んで舞踏会に現れるようになった。米一升が6銭だっ
た当時、ドレスは一着数百円もする高価なものだったが、
明治30年代になると、女学生が髪にリボンを飾った
質実剛健な名古屋商人
由禅師が信仰の道に入ったのは善七の感化を受けたからだ
二代 善七
り、編み上げ靴をファッションに取り入れたりするなど、
二代善七は、尾張藩の御勝手御用達格に任命されると
という。明治の元勲伊藤博文が森田禅師に深く帰依したこ
洋装は次第に女性の暮らしのなかに溶け込んでいった。
すぐに尾張藩勘定奉行所内に設けられた国産係の国産御
とは有名な話である。
幕末から明治にかけて活躍した洋画家、五姓田芳
柳が描いた二代目善七の肖像画。帯刀しているの
は藩から認められた御用達商人の証である。
6
図:於鹿鳴館貴婦人慈善会之図(一部)/橋本周延(早稲田大学図書館蔵)
MORIMOTO HONTEN 7
1875
1928
明 治
昭 和
8
年
3
年
財 界 との 結 び つきを 深 め る
急速な近代化が進む名古屋の街。
三代善七は産業界の発展に尽力する。
数々の企業設立に関わった三代善七
昭和 3 年(1928)に亡くなるまで貴族院議員(現在の参議院)
二代善七も子どもに恵まれなかったため、実家である萩
も務めている。
原家から甥の元吉(幼名)を三代目として養子に迎えた。三
一方産業界では、明治 24 年、県下の主な産業の事業者
代目は安政 2 年(1855)生まれで二代目との年齢差は44 歳。
が集まる「愛知五二会」が設立された。この会は県の重要物
元吉が森本家の養子となったのは明治 8 年(1875)
、20 歳の
産である織物、陶磁器、漆器、製紙、銅器の五業に、敷物
九日会
時であった。
と雑貨を加えたもので、この雑貨部門に小間物・袋物部会
明治30年頃、富田重助、滝定助など元尾張藩御用達商人の名古屋財界人によって結成された。
2列目の右から二人目が三代善七。
三代善七は地元財界との結びつきを深め、多くの企業の
が設けられた。大正 9 年には雑貨部門から小間物、袋物、
役員や社長を務めた他、公職にも就いた。きっかけとなった
化粧品などがそれぞれ単独組合として独立し、
「名古屋小間
のは明治14 年 3月に設立された名古屋商法会議所(明治18
物卸商組合」が誕生した。その後昭和15 年の商業組合法に
年に名古屋商工会議所に改組)発起人、議員になってから
基づいて、愛知県全域の企業を含めた「愛知県小間物雑貨
である。このとき、三代善七は 26 歳の若さであった。
卸商業組合」となっている。
明治15 年に私立の銀行として伊藤銀行に次ぎ名古屋で 2
番目に設立された名古屋銀行の設立発起人にも名を連ね、
東京進出と台湾でのデパート経営
設立時は副頭取、その後第 4 代頭取も務めている。名古屋
森本本店は明治13 年(1880)に東京へ進出した。明治15
銀行は昭和 16 年(1941)に伊藤銀行、愛知銀行と合併し東
年 8月から11月までで 6,670 円の売り上げで、670 円の利益
海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)となった。なお、現在の名
を出している。当時の小学校教員の初任給が 8 円程度で
古屋銀行とは別の銀行である。
あったことから、現在の価値でいえば 4カ月で1億円から2
億円を売り上げたことになる。
政界へ進出、財界にも存在感を放つ
さらに日清戦争後の明治 30 年には、勅使河原商行の名
三代善七は政界でも活躍した。明治14 年(1881)の第 1
前で台湾の台南市へ進出し、現地の人を雇い雑貨類一般の
回県会議員と第 2 回県会議員を務めている。
小デパートを経営した。名前は三代善七の娘婿である勅使
後の名古屋証券取引所の前身である株式取引所が設立
河原欽也の名前からつけられた。繁昌していたが、明治 37
されると頭取に就任した。明治 22 年に名古屋市が誕生する
年に日露戦争が勃発し、勅使河原が戦死してしまった。こ
と9 年間にわたり市会議員を務めた。大正元年(1912)から
れにより台湾のデパートは閉鎖することとなった。
8
三代 善七
明治15年開業の名古屋銀行
三代目善七の他、小出庄兵衛、神野金之助ら10人が中心となって中区伝馬町で設立、
初代頭取には滝兵右衛門が就任した。尾張徳川家ゆかりの商人らによって設立された。
旧東海銀行。
『写真集明治大正昭和名古屋』
(国書刊行会)より
名古屋電灯(現・中部電力)、名古屋瓦
斯(現・東邦ガス)、東海倉庫(現・東
陽倉庫)などの設 立発 起 人となり、明
治44 年から大正7年まで日本車輛製造
の第三代社長を務めた。
MORIMOTO HONTEN 9
1928
1930
昭 和
昭 和
3
年
5
年
西洋雑貨の取扱開始
通信販売カタログ「森本本店商報」が評判を呼ぶ。
店則をつくり近代経営をめざした四代善七。
四代 善七
昭和3年に四代善七を襲 名。多彩な商
品を取り扱った 通 信 販 売カタログ「森
本本店商報」の発行は業界の先駆けで
あった。太平洋戦争後には、開店休業
状態の森本本店の立て直しを図った。
大正15年の森本本店
先進的な経営の四代善七
の整理、荷造り、発送など徹夜の作業が続くこともあった。
三代善七には男子がおらず、莱という娘が一人いたが跡継
正月休みに映画へ出掛けても、仕事が気になってゆっくり鑑
ぎの娘婿は日露戦争で戦死した。そこで東京で洋反物商を
賞することができなかったという社員もいたという。売り上げ
営んでいた前田兼七の次男、前田三郎を孫娘の倭文子の婿
は10 年で約 5 倍になった。
養子として大正 11年(1922)に迎え入れた。前田三郎は大
通信販売が人気になった理由は、豊富な品揃えと注文の
正 8 年に東京帝国大学法科を卒業し、三菱商事に 2 年間勤
手軽さにあった。簪などの小間物だけではなく、いわゆる西
めた後、家業を手伝っていた。
洋雑貨といわれたものの比率も高まり、ハンカチやハンドバッ
昭和 3 年(1928)に三代善七が他界し、三郎は四代善七
グなども取り扱うようになった。この通信販売で取扱品目が
を襲名した。四代善七は昭和 2 年に店則をつくり、慶弔費な
大幅に増えている。
木造2階建ての当時の店舗。店先には長暖簾が掲げられており、写真中央
には羽織姿の四代善七の姿が写っている。社員のそばに置かれた自転車は、
狭い道でも小回りが利くため重宝していた。
どを細かく決め、採用にあたっては面接や試験を行ってい
る。休日も第 1・第 3日曜日の月2 回を定め、近代的な経営を
セルロイド製品の取り扱いと製造開始
めざした。なお、鉄砲町、末広町の本通問屋協同組合が第
通信販売が人気となった理由の一つに商品構成の豊富さ
1・第 3日曜日を定休日としたのは昭和 31年11月からで、名
があった。
古屋装粧品卸協同組合もこの年の11月の第 3日曜日から実
そうしたなかで扱いを始めたものにセルロイド製品がある。
施している。
日本でセルロイド製品が一般に普及したのは大 正 12 年
四代善七が作成した店則。
(1923)の関東大震災以降である。セルロイドは色彩がきれ
カタログ「森本本店商報」による通信販売
いなうえ加工しやすいため、櫛・簪・石鹸箱・化粧セット・
三代善七の頃から、大衆品的な商品も扱うようになった。
帯揚げなどいろいろなものが作られた。しかしニトロセル
昭和 4、5 年頃から「森本本店商報」という名で通信販売用
ロースと樟 脳を原料としていたため発火しやすいという欠点
カタログを毎月発行した。写真をふんだんに使い、品名と価
があった。
格を記載し、全国の小売店へ発送した。さらに中国、台湾、
四代善七は昭和 15 年(1940)セルロイド生地を加工して
南洋諸島、樺太の洋品雑貨商へも送り、注文を取った。
櫛・石鹸箱・湯桶などを製造する東海セルロイド工業所を設
当時、通信販売を手掛けているところはあまりなかった。
立し、会長になると同時に愛知県セルロイド工業協同組合
やがて通信販売が軌道に乗ると注文が殺到し、社員は伝票
の理事長としても活躍した。
10
「森本本店商報」
婦人 用バッグの 紹介には「国策に躍
るハンドバック」というキャッチコピー
が。ヘアゴム付きのリボン、ヘアアク
セサリーなども掲載された。
クローバー印
通信販売を始めた昭和初期から森本
のブランドとして、クローバー印を用
いるようになった。これは森本家の家
紋であるカタバミを図案化したもので
あった。昭和30年頃、裁縫用品会社
のクローバー株式会社から使用したい
と申し入れがあり、了承したというエ
ピソードがある。
MORIMOTO HONTEN 11
1931
194 8
昭 和
昭和
6
年
23
年
開 店 休 業 からの立 て 直し
火事で本店が全焼し営業不可能に。
戦後、復員した社員たちとともに再出発。
火災と空襲で開店休業状態
ていたため、補修・改装し、昭和 21年 7月に商売を再開し
日本の軍国主義が強まるとともに昭和 13 年(1938)に国
た。間口二間半(4.5m)、社員も後藤律(後の専務)
、内
家総動員法が制定され、人も物も政府によって統制される
堀一長、服部功、大森邦夫、奥田秀雄のわずか 5人での
ようになった。昭和 16 年 12月、日本軍はハワイの真珠湾
再出発であった。
を攻撃し、ついにアメリカとの間で戦争が始まった。多くの
一方、東京の店は番頭をしていた人に運営を任せ、昭和
若者が徴兵され、店も縮小せざるを得なくなった。
23 年から株式会社森本東京店の名前で別法人とした。
終戦後の栄の街並み
昭和 19 年 6月半ばの暑い時期、鉄砲町の店の前に積ま
れたセルロイドが自然発火して森本本店は全焼してしまっ
アメリカ村の隣で再建
た。さらに昭和 20 年 3月には空襲によって森本家の本宅も
戦争で店も家も商品も失ったとはいえ、森本本店には尾
失った。東京にあった店も空襲で焼失した。ついに森本
張藩御用達商人以来の伝統と信用があった。人々は平和
本店は開店休業状態となった。
な時代を味わうかのように商品を買い求め、商売は軌道に
乗り始めた。そんな頃、鉄砲町一帯に、通称アメリカ村と
終戦後、栄付近にはバラック小屋の闇市が立ち、多くの人で賑わった。(Network2010提供)
世相を映す鏡だった女性の装い
大正時代から戦後にかけて、世の中の動き
大須の小さな店で再出発
呼ばれた進駐軍の将校用住宅が造られることになった。
昭和 20 年(1945)8月、戦争が終わり、復員してきた社
アメリカ村の計画はかなり大規模なもので、北は広小路
員は森本本店の再興を訴えた。
の1 本南の筋から、南は若宮大通(通称 100m道路)まで、
会に出て働く職業婦人が現れた。髪を短く切
政府は生活物資不足による激しいインフレを打破するた
東は本町通から西は伏見通までであった。
り、不便な和服を避け洋服に身を包んだ女性
め新円切り替えを行った。さらに財産税法、戦後補償特別
計画がそのまま実行されると鉄砲町、末広町にあった問
昭和10年代に戦時色が強まり、物資は配
措置法が新しく制定された。
屋街はなくなってしまう。そこで問屋たちは陳情を行い、
給制となった。親、兄弟、夫らが徴兵されて
火災と空襲によって店も住まいも失ったものの森本家に
本町通から1 本西の道のところまで規模を縮小させた。こ
はそれなりの資産があったが、これらの政策や法制度に
うして昭和 22 年(1947)10月には鉄砲町の旧店舗跡に店を
よってその多くを失い、生活もままならなくなってしまった。
移し、営業を再開することができた。間口は二間(3.6m)
そこで四代善七は森本本店の再開を決意する。
ほどの店であった。店の裏には森本の自宅を建てた。
幸いにも、昭和の初め頃に大須(名古屋市中区)万松寺
アメリカ村は昭和 33 年に返還され、現在は白川公園と
商店街に建てた貸ビルが戦災による大きな被害もなく残っ
なっている。北側の土地は元の地主に返還された。
12
とともに女性の装いは変わっていった。大正
時代には百貨店の店員や電話交換手など、社
たちはモダンガールと呼ばれた。
いくなか、女性の生活も一変する。宝石など
の贅沢品の販売が禁止され、服装は空襲に備
えた防災ずきんにもんぺ姿が普段着になった。
女性たちは訪問着をもんぺに仕立て直したり、
防災ずきんの裏地に柄物を忍ばせたりと、限
られた自由のなかで工夫を凝らすほかなかっ
た。写真は『戦争中の暮しの記録』
(暮しの手
帖社)より。
MORIMOTO HONTEN 13
1949
1954
昭和
昭和
24
年
29
年
セ ミセ ル フ 方 式 を 採 用
株式会社森本本店の誕生、
若き社長、森本敏郎が五代目に就任。
個人商店から株式会社へ
森本敏 郎は昭和 29 年に大学を卒業するが、在学中に
清須にあった東海セルロイド工業所は戦災を免れ、櫛、
患った病気のため、名古屋へ戻って来たものの入院治療に
湯桶、石鹸箱などのセルロイド製品がよく売れた。1日に 2
専念しなければならなかった。
回も清須へ商品を取りに出掛けなければならないほど売れ
病気が回復し、森本本店へ名実共に入社したのは昭和
たこともあったという。
32 年 4月、その年の 9月に箱根小涌園で小売店の方々を招
その後も売り上げは順調に伸び、森本本店は昭和 24 年
いて新社長就任の挨拶を行った。
昭和24年当時の森本家
左から長男の肇、父四代善七、母の倭文子、学生服姿の敏郎。二列目は左から姉の茂子と達子。この年、森本本店は株式会社となっている。
(1949)5月、個人商店から株式会社組織にあらためた。資
本金は100万円であった。
画期的なセミセルフ方式
戦後は小間物と呼ばれる商品の幅も広がり、装粧品と呼
四代善七が亡くなったことで、相続税が重くのしかかっ
ばれるようになっていた。装粧品は一般的にアクセサリー
た。そこで大須にあった貸しビルを物納した。
関係のものが多いが、それだけではなく、様々なものの総
昭和 29 年(1954)10月、鉄砲町で再開した店舗を改装
称としても呼ばれていた。アクセサリーへの関心が高いの
し、間口を二間から八間(約14.5m)ほどに広げセミセルフ
はやはり女性である。購買者層にあわせ、昭和初期から
方式を採り入れた。問屋の販売方式には、泊まりがけで小
扱っていたハンカチ、ブラジャー、コルセット、ストッキン
売店を回り注文を集める方法と、小売店に問屋の店頭に来
グなど、衣料品や女性用下着の幅をさらに広げていった。
て貰い販売する前売りがあった。お客は店に並べられたサ
ンプルや、店の奥からもってこさせたサンプルを見て、数量
森本敏郎、学生のまま社長に就任
などを発注していた。
商売が軌道に乗ってきた昭和 28 年(1953)8月、四代善
新しいセミセルフ方式はサンプルだけでなく、商品その
七が 61 歳で亡くなった。森本敏郎は次男であったが、長
ものを店に備え、小売店が購入したい商品を、購入したい
男の肇は学校の教師をしており、会社経営にはあまり関心
数だけ店に備えられている籠に入れ、そのまま持ち帰って
がなかった。敏郎はまだ学生で、東京商科大学(現・一橋
もらう方式である。当時、セミセルフ方式の問屋はほとん
大学)の 3 年生であったが登記上は代表取締役となった。
どなく、仕入れてすぐに売りに出せると好評を博した。
実務は専務取締役をはじめとした役員に任せることになっ
た。
14
箱根招待旅行
社長就任の挨拶で訪れた箱根小涌園で、招待客の小売店のお客様と。
社長就任当時の森本敏郎
昭和32年に入社。平成13年に会長職とな
るまで44年にわたって森本本店の屋台骨
を支えた。
洋装の普及とともに
女性の装飾品、化粧品、根付けや財布などの商品から始まった小間物屋。太平洋戦争の後には衣料品なども取り扱うようになり、その
なかには女性用下着も含まれていた。ハンカチやスカーフだけでなく下着まで取り扱ったのはなぜか。
洋装が普及する前、女性たちは着物の下に腰巻と呼ばれる巻きスカートのような下着を身に着けていた。女性の洋装は明治20年代から
昭和初期にかけて、主に上流階級の間で普及し、小間物屋では輸入物の下着も扱っていた。女性の洋装が一般的な日常着になっていくの
は昭和20年(1945)以降、戦後のことである。森本本店をはじめ、小間物屋が女性用下着を取り扱うのも自然な流れであった。
MORIMOTO HONTEN 15
1955
1959
昭和
昭和
30
年
34
年
衣料品が取扱商品に
装粧品の範囲が拡大。
連鎖市の日に活気を見せる問屋街。
装粧品の範囲を明確に
商店経営相談室で小売店を援助
名古 屋 小 間 物 雑 貨 卸 協 同 組 合 の 名 称 が 昭 和 30 年
鉄砲町、末広町およびその周辺の雑貨問屋でつくられて
(1955)から名古屋装粧品卸協同組合に変更となった。装
いた名古屋中心問屋連盟に属する本通問屋協同組合の連
粧品といっても、何を指すのか分かりにくいところがある。
鎖市部会によって連鎖市が定期的に開かれていた。
そこで日本装粧品組合連合会では昭和 32 年に名古屋で開
連鎖市の日は近隣から多くの小売店が仕入れに集まり、
かれた総会の「装粧品の範囲を明確にする」の決議に基づ
賑わいを見せていた。各問屋は連鎖市にあわせてそれぞ
いて 13 部門、197品目を装粧品の範囲とした。電気カミソ
れ独自の催しを行った。森本本店は昭和 33 年(1958)から
リやマスクなどの理容・衛生用品、オルゴールなどの雑貨
小売店経営の一助となる経営相談室を開いており、こうし
も装粧品の一つとなった。
た経営相談を行っていたのは森本本店だけであった。
伊勢湾台風の爪痕が残る市内
昭和34年9月26日に東海地方へ上陸し、観測史上最大の被害をもたらした。
とりわけ名古屋市は南部を中心に最大の被災地域となった。(名古屋市提供)
また、昭和 31年に鉄砲町、末広町にあった有力な問屋
取扱品目の拡充
8 社で「名秀会」を結成、研究会を開催した。さらに毎年
昭和 28 年(1953)放映の映画「君の名は」が大人気とな
春と秋には共同企画で名古屋駅前にあった豊田ビル 6 階
り、ヒロインに倣って頭から肩までスカーフを巻く「真知子
ホールを第 1会場として、2日間にわたり共同展示会を行っ
敏郎は伊勢湾台風からわ
巻き」が大流行していた。森本本店でもこの年からスカー
ていた。名秀会の活動は、昭和 44 年まで続いた。
ずか20日後の10月16日に和
忘れられない結婚式
子との 結 婚 式を控 えて い
フ、ハンカチ、靴下など衣料品の取り扱いが徐々に増えて
た。会社の被害は少なく挙
いった。昭和 32、33 年頃からはブラジャー、コルセットな
名古屋市街を襲った伊勢湾台風
どの女性下着の扱い比率も高まりだした。
昭和 34 年(1959)9月26日、名秀会の秋の展示会が終
この頃、森本本店の主な取引先は化粧品店、次いで洋
わった日の午後 9 時過ぎ、猛烈な雨風が吹き荒れだした。
はどうかという声もあった。
品店、呉服屋、袋物屋などであった。
名古屋市南部を中心に死者・行方不明者約 5,000人もの甚
しかし、結婚式の日取りは
当時の化粧品店では化粧品のほかに櫛、ブラシ、歯ブ
大な被害を出した伊勢湾台風である。
ラシ、ハンカチ、ネッカチーフ、スカーフ、マフラー、さら
台風が去った 27日早朝、森本敏郎が店へ駆けつけると、
には女性下着も扱っていた。森本本店にも化粧品店からブ
床上 60 ∼ 70cmもの水が溜まり、低い場所にあった商品に
ラシ、化粧パフ、化粧器具関係、下着類などの注文が増え
相当な被害が出てしまったが、建物自体はそれほどの被害
ていた。
はなかった。
16
式に問題はなかったが、多
くの人が 被災して苦しんで
いるなかでの式は延期して
前々から決まっており、招
待 状も出した後であった。
敏郎夫妻としては気がひけ
る思いだったが、予定通り
連鎖市の経営相談室
講師を招き、小売店の経営や接客について講義を行った。
に広小路の名古屋観光ホテルで盛大に挙式を執り行った。
新郎新婦にとっては忘れられない結婚式であった。写真は
千種区大島町の新居にて。
MORIMOTO HONTEN 17
1960
1962
昭和
昭和
35
年
37
年
経 営・取 引 先 の 拡 大
衣料品スーパーとの取引を開始、
木造からコンクリート造りの新店舗へ。
新店舗の内装
1階と中2階を店舗として螺旋階段で結び、吹き抜け構造
の広々とした店舗とした。1階はカーテンやスカーフなどの
婦人洋品を並べ、中2階はアクセサリー類を陳列した。2
階から上は事務室、商談室、展示室が設けられ、3階と4
階には社員宿舎、食堂、娯楽室がつくられた。社員宿舎
は8畳の部屋に2段ベッドを2組置き、1部屋に4人が寝起
きを共にした。
単独での秋の新作展示会を開催
衣料店スーパーとの取引を開始
昭和 35 年(1960)
、池田内閣は国民所得倍増計画を打
昭和 37年(1962)に衣料品スーパーの株式会社西川屋と
ち出し、日本中が明るい将来を夢みていた。この年の 5
の取引が始まった。当時、西川屋は販売品目の拡大を図っ
月、森本本店は資本金を100 万円から 400 万円に増資し
ており、森本本店のほとんどの商品を扱うようになっていっ
た。さらに 8月には中区栄町にあった千代田生命ビルの 8
た。西川屋は株式会社ほていやと昭和 44 年に合併し、株
階ホールで森本本店単独での秋の新作展示会を開催した。
式会社ユニーとなった。
11月には豊田ビル 2 階ホールで、森本本店をはじめ地元装
名古屋や関東など各地で創業した衣料品スーパーは、そ
粧品の有志 11社での第 1回装粧品見本市も開かれた。
の後数社で合併し、量販店となっていく。昭和 38 年から
昭和 36 年には日頃のご愛顧に応える形で、上得意の小
は株式会社岡田屋との取引も始まった。昭和 45 年、岡田
売店約 80 社を下呂温泉に招待している。この当時、森本
屋はジャスコ株式会社、さらにイオン株式会社となり、現
本店が取引を行っていた小売店は、東は静岡県、西は三
在も全国への店舗拡大を続けている。
本店の新装祝い
重県、滋賀県、北は北陸 3 県が中心であった。
コンクリート造りでモダ
ンな外観へと変わった
店 頭。新 装パーティに
は 小 売 店 を招 待した。
店先には祝いの花が届
けられている。
社員とともに新築を祝う。
鉄筋コンクリート造りのビルに新築改装
NCR会計機の導入
問屋街には終戦後に建てられた木造家屋も多く、防火
売り上げは順調に伸び、社員も増えていたが、収支の計
設備も十分ではなかったためしばしば火災が起きていた。
算はソロバン頼りで、勘定元帳に手で書き込んでいた。そ
当時は住み込みの社員も多く、火災となった時に大きな事
こで事務処理の合理化を図るために、昭和 36 年(1961)頃
故につながる恐れがあった。
に日本NCRから会計機を購入した。電卓が普及する以前の
そうしたなか、国は中高層耐火建築に建て替える場合、
ことで、 高卒 者の初 任 給 が 1 万 5,000 円ほどの時 代に、
低金利で融資する制度を設けた。この制度により、本通問
160万円もする機械であった。会計機といっても足し算と引
屋協同組合が中心となって耐火建築に建て替えることを推
き算ができる程度のものでしかなかったが、その当時、こ
進した。
うした機械を導入しているところはほとんどなかった。
森本本店も、昭和 37年(1962)にそれまでの木造社屋か
ら鉄筋コンクリート造りの中 2 階付き4 階建て(実質 5 階建
て)ビルに新装改築した。
18
当時の役員
秋の新作展示会
1列目左から後藤律専務取締役、上野勲取締役、
森本敏郎社長、2列目左から内堀一長取締役、
服部功取締役、大森邦夫取締役。
昭 和35年8月に千 代 田
生命ビルで展示会を単
独開催した。
MORIMOTO HONTEN 19
1963
1965
昭和
昭和
38
年
40
年
ル ー ムアク セ サ リ ー 登 場
キャラクター商品の登場と、
若い世代をターゲットにした商品の裾野の広がり。
「オバQ」から始まったキャラクター商品
産業の保護育成を目的に外国製品の輸入を厳しく管理して
昭和 39 年(1964)
、週刊少年サンデーで「オバケのQ太
きたが、昭和 35 年に貿易為替自由化大綱を策定し、輸入
郎」
の連載が始まった。アニメ放映も開始し人気が高まると
の自由化を進めてきた。昭和 39 年には自由に海外へ観光
ともに、オバQが描かれた文房具などがジュニア層に普及し
旅行ができるようになった。また、この年にはアジアで初
ていった。こうして昭和 40 年代にかけて、オバQをはじめ
めてのオリンピックが東京で開催され、海外に対する関心
寮住まいの若手社員たち
とするキャラクター商品への需要が高まった。森本本店で
が高まった。装粧品も海外の流行により影響されるように
忙しい仕事の合間を縫って、ボーリングや野球
などで余暇を過ごした。
も売り上げの柱の一つとなり、ノート、マグカップ、弁当
なっていた。
箱、ハンカチ、ぬいぐるみ、陶器のマスコット、貯金箱な
昭和 41年、ラッキー止製作所が創立 80 周年記念として、
ど様々なキャラクター商品を扱うようになっていく。キャラ
取引先を香港、台湾、沖縄への旅行に招待した。この海
クター商品はルームアクセサリーという分野で扱われた。
外旅行へ森本敏郎も招待された。
森本本店では夏場専用の商品としてはサングラスくらいし
昭和 40 年頃は、時代の一つの節目となったようだ。昭
かなかったが、女性の水着を夏場の商品として採り入れ
和 41年 3月31日をもって、新住居表 示制度が実施され、
た。この頃から、10 代∼ 20 代の若者が欲しがる商品を集
鉄砲町、末広町は新しく栄 2 丁目、3 丁目となった。
百貨店のアクセサリー売り場。
めて流通させるのが装粧品の卸業の役割になり、次々と新
しい商品を開拓し、販路も広がっていった。
寮住まいの若手社員の生活
化粧品店や洋装店といわれる小売店に並ぶ商品構成も、
森本本店の新入社員は、入社後半年は毎日荷造りを行っ
変化を始めていた。ルームアクセサリー関係も最初は化粧
た。その後は名古屋市内を中心に近隣のお客様のところへ
品店でも数多く扱っていたが、化粧品店は化粧品の比率を
の配達を行い、土地勘やお客様の顔と名前を覚えていった。
高め、アクセサリー関係はファンシーショップとして独立さ
新入社員は女性を除いて全員が住み込みで、寮生は原則
せるところも現れてきた。
として私用での外出は禁止されていた。厳しい半面、給与
は名古屋でもトップクラスの企業と同額をめざすなど優遇さ
時代の節目となった昭和 40 年
れていた。
昭和 40 年(1965)頃から、取引先を海外視察旅行へ招
寮生活も昭和 40 年代半ば、いわゆる団塊の世代が入社
待する装粧品メーカーが現れてきた。戦後の日本は、国内
するようになって、次第に規律が緩やかになっていった。
20
昭和40年代の営業車
ルームアクセサリー
人形やぬいぐるみなど、若者向けの商品が扱われる
ようになった。
昭和40年代の初め、市内の営業には主にオートバイが使われ、市内配達には日産系列の
愛知機械工業が生産していた軽商用車コニー、北陸など遠方への商談にはダイナというト
ラックを使用した。
MORIMOTO HONTEN 21
1966
1969
昭和
昭和
41
年
44
年
進む商品の多様化
躍進する業績のなかで、
森本本店の復興を支えてきた社員らが勇退。
伸びる売上高と、増える取扱商品の種類
電子会計機の導入
森本本店は昭和 30 年代の初めに続き昭和 42 年(1967)
森本本店では会計機をすでに導入していたが、売り上げ
にも優良申告法人に推挙された。昭和 40 年代に入ってか
計算などにソロバンも使用していた。しかし作業量が膨大
ら、森本本店の売上高は急速に伸びていく。昭和 41年に
となり、昭和 42 年(1967)に新たな会計機を導入した。新
は約11億円だった売り上げは、翌年には 12 億 7,000万円と
しい会計機は掛け算や割り算もできるもので電子会計機と
なり、昭和 44 年には16 億 7,800万円となった。
呼ばれ、森本本店の高卒初任給が 1 万 9,000 円だった当
取扱商品の種類・数もさらに拡大を続けた。昭和 40 年
時、本体価格は 1,000 万円であった。操作が複雑なため、
代に売り上げの大きな柱となっていたのはインナーと呼ばれ
担当者は電子会計機の知識や操作を習得するため2 年ほ
る女性の下着関係や、スカーフ、ハンカチ、手袋、マフ
どかけて研修に通い、昭和 44 年から本格的に稼働した。
店内は洋品部と小間物部に分かれて陳列した。写真は色とりどりのハ
ンカチが陳列された一角。
ランジェリー類はブラジャー、ガードル、スリーマー、ショーツから、
ペチコート、パジャマ、ガウン、夏には水着なども取り揃えた。
アクセサリーでは、ネックレス、ブローチ、ペンダント、指輪、タイピン、
カフスボタンなどがこの時代によく売れた。和風の髪留めも置かれてい
る。
様々な世代や好みにあわせた化粧ポーチ、財布、バッグなどが整然と
並べられている。
コンサバティブなコーディネートに使用するスカーフ。
アクセサリー以外の小間物は、化粧パフやコンパクト、ピン類、櫛、
ヘアバンド、カミソリセットなどがあった。
ラーといった服飾関係であった。服飾関係のなかでもス
カーフ、手袋の比率が高まっていった。そしてインナーや
ビッグストアの視察と世代の交代
服飾関係と並行するように売り上げが伸びていたのが、ブ
名古屋市商工会議所の問屋経営研究会がアメリカ流通
ローチ、ネックレス、指輪などのアクセサリーであった。
機構視察団を組織して、昭和 44 年(1969)11月にアメリカ
のビッグストアの視察に旅立った。森本敏郎も視察団の一
店舗の隣に新館を建設
員として加わった。この視察によって、これからの日本にも
売り上げや社員の増加に対し、事務所は手狭になり、在
アメリカ式の大型総合スーパーが定着していくことを確信
庫を保管する場所も余裕がなくなってきたため、店舗の西
し、その後、国内の量販店との取引にさらに力を入れるよ
に隣接して鉄筋コンクリート6 階建てのビルを増築すること
うになった。
になった。昭和 42 年(1967)10月に新館増築工事は完成
こうして新たな事業戦略に乗り出す一方で、戦後の森本
したが、駐車場が不足してきた。そこで新館を増築した 1
本店の復興に貢献してきた後藤律専務をはじめ、戦前の
∼ 2 年後に問屋仲間と土地を共同購入し、駐車場にした。
義務教育を受けただけで丁稚として勤め上げてきた社員や
役員が順次退職することとなった。新たに戦後の義務教育
以上の教育を受けた社員が幹部になり始め、新役員となっ
ていた。
22
MORIMOTO HONTEN 23
1970
1977
昭和
昭和
45
年
52
年
ヤング 財 布 で 掴 ん だ 成 功
駐在員4人からの東京進出、
そしてイトーヨーカドーとの取引開始。
組合理事長に就任
なく石油を原料とする製品価格も上昇した。
東京、大阪、名古屋、京都の各地域の装粧品組合は、
オイルショックを契機として、日本経済はそれまでの高度
お互いのつながりを保つため、昭和 31年(1956)に日本装
成長時代から安定成長へと転換を始めていく。それでも森
粧品組合連合会を組織していた。連合会の大会は 4 都市
本本店の業績の伸びは続いていた。
の持ち回りで開かれていた。
森本本店の昭和 40 年の販売額合計を100とすると、昭
昭和 47年 5月、森本敏郎が名古屋装粧品卸協同組合理
和 43 年は156%、同 48 年 350%、そして同 50 年は484%に
事長に就任した。
も達している。ただ、経済成長は人件費も大きく押し上げ
一方、組合事業として商工中金より1,000 万円を借り受
ていった。
新設した第二ビル
け、組合員有志に貸し付ける転貸融資事業も行った。
取扱商品の増加に伴い、新たに本店の向かいに第二ビルを建設した。
1階部分は出荷場となっている。
東京進出とイトーヨーカドーとの取引開始
第二ビルを建設
森本本店ではユニー、ジャスコなどの量販店との取引が
昭和 48 年(1973)駐車場として使用していた本社ビルの
増えていた。関東方面で売り上げを伸ばすため、昭和 52 年
向かいの土地に、第二ビルを建てることになった。従来の
(1977)4月、台東区柳橋に所長以下駐在員4 人の東京営業
建物はA館、新しいビルはB館と呼ぶことになり、A館は前
所を新たに設置した。東京へ進出した当初、最初の取引
売り、B館は量販店向けが中心になった。
先はユニーだけであった。
B館は地下 1 階、地上 6 階で、1 階は出荷場、2 階部分に
これまで問屋業は、メーカーから仕入れた商品を販売す
駐車場を設けた。駐車場を2 階に設置したのは、伊勢湾
るだけの代理店業であったが、この頃から商品企画の重
台風の時に1 階部分が浸水したため、大水が出た時にお
要性に注目するようになり、量販店のニーズをメーカーに伝
客様の車に被害が出ないようにとの配慮からであった。
えるようになってきていた。イトーヨーカドーとの取引が始
まると、東京営業所はティーンズからヤングを対象としたヤ
イトーヨーカドーへ卸した商品(ヤング財布など)
高度成長から安定成長の時代へ
ング財布というそれまでにはない新感覚の商品を持ち込
商品企画の重要性を知るきっかけとなった商品。
資本金を 6,750 万円に増資した昭和 48 年(1973)の12
み、財布は驚くほどの売れ行きを見せた。この成果によっ
月、第 4 次中東戦争をきっかけに石油価格が急上昇した。
て東京営業所とイトーヨーカドーとの取引が大きく伸びて
第 1次オイルショックである。ガソリン価格の上昇だけでは
いった。
24
現在の東京支店
当初は台東区柳橋にあったが、
平成18年に中央区東日本橋に移転した。
MORIMOTO HONTEN 25
1977
198 4
昭和
昭和
52
年
59
量販店時代の到来
年
量販店からの要求に応える体制づくりのため、
ビッグストア事業部を発足。
ヨーロッパの視察を経て
まうため、見極めが重要であった。
高度成長から安定成長へ変化していく時代とともに、売
昭和 56 年 4月には、名古屋装粧品卸協同組合の創立 60
れ筋商品も変化する。森本本店はファション性の高いもの
周年記念祝賀式が名古屋栄の中日パレスで行われ、記念
に徐々に力を入れていくようになる。
出版物として『名古屋装粧品業界史』が上梓された。
昭和 52 年(1977)
、
53 年と森本敏郎はヨーロッパのファッ
ション展示会の視察旅行に参加した。目的はアパレルを中
SS事業部とBS事業部の設置
心にスカーフ、マフラーなどの流行を視察することであっ
ユニー、ジャスコ、イトーヨーカドーなど量販店との取引
た。この展示会はその後の森本本店の経営に多いに参考
が増えたため、量販店専用の部署「BS事業部」
(ビッグス
となった。特にこの頃から大きく伸びていた量販店との取
トア)
、専門店専用の部署「SS事業部」
(スペシャルストア)
引で、他店と差別化した商品を要求されるようになってい
を設置した。量販店からデザインに関しての要望も多くな
た。量販店の担当者は非常によく勉強をしていた。量販店
り、専門知識を持った人材が必要になってきたため、デザ
の要求に応えていくためにもファッションセンスは重要と
イナーの採用を行うようになった。
なってきていた。
また昭和 50 年代になると、旧役員はほぼ、新役員に入
イタリア視察旅行
スペイン・マドリードの視察旅行
イタリア・ボローニャの展示場入口。
昭和53年のヨーロッパ視察。マドリードの市内の公園にて。
パリの見本市の視察
東海銀行創立40周年記念パーティ
パリのポルトドベルサイユで開かれた皮革見本市の会場。
昭和56年6月には、名古屋市商工会議所で行われた東海
銀行創立40周年パーティに招待された。森本敏郎と当時
の加藤隆一頭取。
れ替わっていた。
爆発的に売れたキャラクター商品
日本は再びオイルショックに見 舞われた。昭 和 53 年
不祥事の発生
(1978)
、イランで革命が起き、石油輸出国機構が原油価
森本本店は東海銀行の創業に関わっており、中小企業
格の値上げを決めた。第 2 次オイルショックと呼ばれている
でありながら森本本店へ出入りできる行員は限られ、東海
が、森本本店は成長を続けていた。
銀行では「頭取銘柄」と呼ばれていた。
昭和 50 年から、サンリオのキャラクター「ハローキティ」
そんななか、社内で不祥事が発覚する。商品を横流しす
をあしらった様々なグッズが流行りだした。店頭に並べても
る社員や、会社とは関係なく小売店を開設し、商品を勝手
すぐに補充しなければならないほどであった。しかし、
に納入する社員が現れたのである。先輩たちの築いてきた
キャラクター商品は一度火がつくと大きな利益をもたらして
お客様からの信頼に泥を塗るようなこれらの不祥事に、森
くれるが、ブームが下火になると不良在庫を抱え込んでし
本敏郎は危機感を感じていた。
26
当時の社内旅行
昭和54年には、社内旅行で富士急ハイランドへ訪れた。
MORIMOTO HONTEN 27
1985
20 01
昭和
平成
60
年
13
年
改革の実行
業績がピークから一転、バブル崩壊。
再建計画の実行を決意する。
伸び続ける業績
わたり装粧品組合の発展に尽くしてきた功績が認められ、
昭和 60 年代に入り、森本本店はさらに売り上げを大きく
平成 4 年の秋の叙勲で藍綬褒章を受章した。
伸ばしていた。一方で、旧鉄砲町の問屋街のなかには、時
展示会
代の変化から取り残されて姿を消していく問屋もあった。
取引先から学んだマーケティング
昭和 61年(1986)
、一宮市丹陽町に高層ラック6 基の物
後に森本本店の社長となる岡田康男が平成 3 年(1991)
流倉庫を造った。経理部門では会計のオンラインシステム
に東京支店勤務となり、イトーヨーカドーを担当した。
を構築し、会計、経理の高度化、システム化を図った。名
岡田康男は、東京支店にいた4 年間、イトーヨーカドー
商品の絞り込み、不動産売却による借入金の圧縮、人員
がらリストラを実行して平成 15 年には 50人となった。
古屋装粧品卸協同組合でも組合員の商品配送の共同化を
の担当者から頻繁に市場調査の手伝いを持ちかけられた。
削減による経費削減の 4つであった。取引先と取扱商品の
約半数の社員への退職金の支払いはかなりの額となる。
進め、配送コストの低減を図った。
調査は「ディズニーランドへ来る人はどんなバッグを持って
絞り込みを徹底的に行い、量販店と専門店の数は約 3 分の
ただ幸いにも、バブル期の利益が出ていた時に、適格年
平成 2 年(1990)には会社設立以来最高の年間売上高
いるかどうか調べてほしい」というような突拍子もないもの
1にした。
金に加入していたおかげで退職金の 5 割近くをそれで賄う
88 億 3,700 万円を達成した。社員数も、役員 8人、男子社
であったが、自ら乗り込んで調査することで、担当者の求
平成 12 年 4 月の株主総会で、それまでの役員の退任と
ことができた。また、会社側の真摯な取り組みによってク
員 103 人、女子社員 79人の 200人近い大 所帯となってい
めている商品の特徴が分かり、自社商品へフィードバックも
新たな役員の選任が決まった。そして平成 13 年 4月、専務
レームもでることはなかった。
た。
可能になる。調査の蓄積が後に森本本店にとって大いに
取締役に東京で経験を積んだ岡田康男が就任した。
役立つことになった。岡田が本社へ戻ったのは平成 7 年、
平成 13 年には本社の土地、建物を売却したうえで、B
廃業していく専門店
森本本店に深刻な経営危機が訪れようとしていた時期で
館をリースバック契約し、使用することになった。さらに専
平成 元 年(1989)12 月の大 納 会で 市 場 最 高 値の 3 万
あった。
門店を対象としたSS事業部を縮小、廃止の方向に向かわ
全国の取引先の方々のために、年10回程度、各種商品の展示会を行っている。
せることになった。
8,915 円 87 銭を付けた日経平均株価が平成 2 年から下がり
始めた。平成 3 年からは森本本店でも売り上げが下がり始
経営危機と経営再建計画
めた。売り上げの減少は、前売りによる小売店への売り上
森本本店の取引先は量販店が主力であったため、専門
リストラで大幅な人員削減
げの減少によることが大きかった。
店からの売り上げが減少しても、数年は持ちこたえること
平成 10 年(1998)からは赤字が続き、リストラを実施し
消費が低迷し、小売市場も低調になっていく。森本本
ができた。だが平成 6 年(1994)にはとうとう純利益が赤
なければならなくなった。新入社員の採用は控えていたた
店と取引契約を結んでいた専門店の多くが廃業していき、
字となり、平成 7 年には、売上高が 80 億円を切った。平
め、自然減により社員数はかなり少なくなってはいた。平
売り上げは急速に下降線を辿っていった。
成 11年には再建計画をつくることになった。再建計画の骨
成 12 年 1月時点で社員は 116人いたが、指名解雇のような
そんな折、朗報が飛び込んできた。森本敏郎が永年に
子は、経営陣の一新によるマネジメントの強化、取引先と
強制的な形をとらず、あくまでも社員本人の意思を尊重しな
28
森本敏郎、藍綬褒章受章
平成4年11月17日秋の叙勲にて、装粧組合での活動が認められ、
森本敏郎は藍綬褒章を受章した。
MORIMOTO HONTEN 29
20 01
2014
平成
平成
13
年
26
年
メー カ ー 機 能 を 備 え た 問 屋 へ
岡田康男専務が六代社長へ就任。
新生「森本本店」
として新たな一歩を踏み出す。
着実な再建への足音
キーな挑戦ではあったが、それなりの成果を上げることが
当時、多くの老舗企業が、銀行からの人的支援を受け
できた。この挑戦ができたのは、岡田康男にマーケティン
ながら次々と消えていた。しかし森本本店だけは、絶対に
グの経験があったこと、デザイナーの育成を行ってきたこ
潰さず再建をするというのが当時の東海銀行の方針であっ
と、BS事業部で海外生産のノウハウがあったこと、利益率
た。一つには森本本店は東海銀行のルーツに関わる企業
の高い仕入れを行うようになったことのおかげであり、まさ
だという理由であった。
しく全社を挙げての挑戦であった。
しかしいくら歴史があり名古屋財界のなかで重要な役割
こうして平成 12 年頃から、問屋業を兼ねながらメーカー
を果たしてきたとはいえ、老舗の看板だけが銀行を動かし
機能を持つようになっていった。
森本本店本社
グループの中枢となり、企画や業務の統括管理を
行っている。
ていたのではない。森本敏郎自身、バブル期に財テクに走
ることなく、経営が危ぶまれてからは私財を投入して運転
物流ビルと中国現地法人の設立
㈱マルサール
資金に充てるなどしており、こうした経営者としての姿勢が
平成 17年(2005)1月に本社を愛知県一宮市に移転した。
グループの物流加工を担い、商品のセット作りなどを行っている。
銀行マンの熱意を後押ししていた。
同年の 3月に岡田康男専務が森本本店の取締役社長に
グループの物流の中核となり、物販と物流を行いながら、
小売業者への販売も行っている。
様々な努力で経営再建計画を実行した結果、平成 12 年
就任し、森本敏郎は取締役会長に就任した。
(2000)の時点での負債は 18 億 9,200 万円であったが、平
成 15 年には約 8 億円にまで減少させることができた。
㈱乙女座スプリング
企業再建計画を立ててから約 5 年、森本本店の業績は
順調に伸びていた。平成 18 年には台東区柳橋の貸しビル
にあった東京支店を中央区東日本橋に移転、自社ビルを
新役員体制下での改革と進むメーカー機能
購入した。
平成 13 年(2001)に新しい役員のもと、森本本店は新し
取扱品目では、ギフト商品などの需要が増えていた。そ
いスタートを切った。商品は、コストの低い中国で本格的に
こでギフト商品に力を入れるため、平成 22 年、一宮市内
生産することに決定した。また国内メーカーに対しても、森
であらたな物流倉庫を購入した。この物流倉庫業務にあ
本本店がデザイン・企画したものを発注するようになった。
たっては別法人を設立し、株式会社乙女座スプリングと名
森本本店は、自ら企画し生産した商品として、1,000 円
付けた。また、中国での商品の検品の精度の向上をめざ
バッグの生産、販売に取り組んだ。この商品は森本本店サ
し、平成 24 年 2月に中国に上海森丸商貿有限公司を設立
㈱クロバー
上海森丸商貿有限公司
イドで市場分析を行い、需要予測を立て商品化した。リス
した。
マルサールの業務をサポートする形で物流を中心にした業務を行っている。
現地中国工場の商品を検品、管理を行っている。
30
MORIMOTO HONTEN 31
社 長 イ ン タ ビ ュ ー
創業は天明元年(1781)
、平成 27年(2015)で 234 年という歴史を紡いできた森本本店の舵をとるのは
平成 13 年から社長を務める岡田康男。
めまぐるしく変化する時代にあって、当社はしなやかに生き抜いてきた。
市場を見極める大切さ、人材育成が鍵という岡田が、経営の核心に迫る思いを語った。
これからも長い歴史を刻んでいける
会社でありたい。
経営危機を乗り越えるには、まず利
益を上げることです。もともとこの業界
の利益率は他業種に比べると高くはあり
岡田康男
取締役社長 ません。バブル期に高騰した人件費を抑
えるため、韓国からの商品輸入が増えて
いましたが、それも限界となり、ちょう
ど中国での生産へとシフトしていた時期
でした。国内で企画した独自商品の生
産を依頼することで、十分な利幅を設定
変化に対応することが
森本本店が創業したのは 1781年。つまり18 世紀の後期であり、日本ではまだ江
した独自の価格設定もできるようになり
歴史となる
戸時代の天明元年でした。そして明治、大正、昭和を生き延び、今、21世紀です。
ました。こうしたことで利益率は改善し
この間、明治維新の荒波を乗り越え、太平洋戦争とそれに続く混乱した世の中を生
ていきました。
き延びてきました。長い歴史があるから立派な会社だということではなく、これから
ただ、国内メーカーとの取引の場合、
先、さらに歴史を刻み、誇れる企業へと成長させていきたいと考えます。
小ロットでも仕入れることができますが、
森本本店は創業 234 年になりますが、同じことを続けてきたわけではありません。
海外生産をするにはある程度のロットで
時代や環境の変化にあわせ、変化を遂げてきました。変化することで、これだけの
依頼しなければなりません。その分のリ
歴史を有することができたのです。
スクも大きくなり、赤字となる場合もあり
私は平成 3 年から7年まで東京勤務となりました。多くのことを学ばせていただき、
ます。国内メーカーから仕入れていれば利幅は少ないかも知れませんが、安定した
本社へ戻って仕入れ担当となりました。本社では、平成 10 年頃からメーカー機能を
収益は上げられます。一方、海外生産した独自商品ならば、大きな収益につながる
備えた問屋へと変わり始めていました。私も、自分で売れそうな商品をメーカーさん
可能性を持っていますがリスクも大きく、国内から仕入れた場合と、収益にそれほど
に作ってもらい、それが売れたときの喜びは、メーカーが作った商品から売れそうな
大きな差が出ないこともありました。
ものを選んで仕入れるのとは大きな違いがあると感じるようになりました。自分でプ
会社の利益を向上させるには、売上高ではなく、利益率を重視することが大切で
ロデュースし、メーカーへ依頼して作ってもらうには、市場性を把握しなければなり
す。それまでの当社は、残念ながら売り上げ至上主義のようなところがあり、売り上
ませんが、東京勤務の経験が大いに役立ちました。メーカーという機能を得たこと
げのためなら後で返品の山を築くことになるかもしれない委託販売も厭わないという
は、会社のエポックとなる出来事でした。
風潮がありました。そうした意識が当社の経営を圧迫したのです。そこで当時の社
員には大胆な意識改革を求めました。
意識改革によって
私が本社勤務となる数年前には重大な経営危機に陥っていました。危機を乗り越
乗り越えた経営危機
えられたのは、培ってきた森本本店の偉大な歴史があったということもありますが、
自社で企画した商品を直接メーカーに生産してもらい販売するようになったのは当
それまでの経営の在り方と社員の意識が大きく変わったことも大きな理由です。独自
社だけではありません。主要な取引先である量販店も、問屋を通さずに直接メー
性を持たないと通用しない時代になったということを会社も社員も認識することがで
カーへ生産を依頼するようになっていました。その結果、多くの問屋が淘汰され、
きたということです。
現在も生き残っている問屋の多くはメーカー機能を兼ね備えたところです。今では
32
変わる業界地図
MORIMOTO HONTEN 33
これからは、他では扱っていなくて、しかも小売店が欲しいというものを企画販売
危機は
することに重要性が増します。森本本店でなければできない商品を企画することで
新しいことへ
す。さらに、既存の販売先とは異なる新たな販売先を開拓し、より利益の上がる商
挑戦するチャンス
品を投入することです。新しいことに取り組むには時間を必要とし、開拓のためのコ
ストもかかりますが、それは将来に向けての投資です。これまでの取引先への売り
上げが減少するのは、我々にとっては危機ですが、見方を変えれば新たなことへ挑
戦できるチャンスでもあるのです。
私たちが扱っている商品に対する専門知識は大切です。しかし特定の商品に知識
を特化させてしまうと、全体としての傾向が分からなくなってしまいます。市場動向
メーカー、問屋、小売りといった位置付けがかなりボーダーレスとなり、それぞれが
には常にアンテナを張って情報収集しておかなければいけません。ファッション的に
海外の工場で製品を生産し、ダイレクトに販売しています。国内メーカーは固有のラ
は、どの商品が流行の先陣を切るのかを知っておくことが大切です。あるジャンルの
イセンスを持たなければ生き辛くなっています。
商品が売れることによって、他のジャンルの商品が追随していくからです。その時、
我々の業界の販売先を見ると、百貨店は持ち直しつつありますが、スーパーでの
先陣を切る商品は競争が激しいので赤字になることがよくあります。しかし全体の傾
取扱量は昔の半分くらいにまで減少しています。専門店は格差が広がっています。さ
向が分かっていれば、追随する商品で利益を出すことができるのです。
らに、過去にはなかったドラッグストア、通販、インターネットでの販売などが増えて
います。スーパーでもモールに出店している専門店が増えています。こうした環境変
化にあわせ、売り先を変え、当然商品も変化させていかなければならないでしょう。
どういった商品が売れていくのかを知るには、自分なりの仮説を立てることです。
仕事は、作業ではなく
それも難しい理屈を考えるのではなく、例えば商品サンプルについて、良い、普通、
クリエイティブに
ダメというような、簡単な仮説でいいのです。その商品が実際に販売されるように
現状分析が将来への道
34
時代は急速に変化しています。今やっていることが正しいことであったとしても、
なった時、自分が立てた仮説と比較し検証します。こうしたことを繰り返していると、
明日には通用しなくなるかもしれません。その時に慌てて変化に対応しようとしても
自分の仮説が当たる率が高くなってきます。また、一つの商品について全体としての
手遅れです。時代や環境は常に変化していることを念頭に置いて行動することが重
仮説を立てるのではなく、色、柄、形、素材などの構成要素ごとに検証します。そ
要です。
うしたことを行っていれば、次第に商品の見方が変わってきます。
変化に機敏に対応するには、今の方向性でいいのかどうか、常に検証していくこ
同じことは全ての職種にも当てはまります。企画はもちろん営業、総務、財務な
とです。進んでいる方向が間違っていれば、結果は数字となって表れます。重要な
ど、日々の仕事を作業としてこなすのではなく、クリエイティブなものとして捉えるこ
ことは冷静な判断力です。そのためには過去に起きたことを分析し今後どう対処す
とができれば、その人自身も大きく成長していきます。
べきかといった方法論を考え、いち早く実践することです。常に現状分析を行ってい
自分で考え、判断し、自分の意見をはっきり述べられるようになれば、10 年、20
れば、普段はなかなか気付かないことも見えてきます。現在の状況がどういった過
年後に、その人は大きく変わります。そうした社員が増えてくれば、会社は大きく変
程で起きたのか、問題を解決するには、何をいつまでに誰がどういったことを行えば
わり成長が期待できるのです。これからも森本本店が長い歴史を刻んでいくために
いいのか、などが判断できます。
も、人と商品を育てることを大切にした企業でありたいと思います。
MORIMOTO HONTEN 35
森 本 本 店 の い ま
36
MORIMOTO HONTEN 37
DATAS
資
38
料
編
DATAS
初代
森本弥之右衛門
大獄良山信士
妻
春山智光信女
二代
森本弥之右衛門
大春道香信士
一七五〇∼一八一五
初代
森本善七
見応良性居士
妻
法竜素海信女
春応奇山信士
萩原宗平︵宗滋︶
妻
心月清光禅尼
四代
森本弥之右衛門
千外慈舟信士
森本 敏郎
岡田 康男
横井 輝已
取締役
取締役
相談役
西尾 敏明
吉田 博利
寺澤 正明
二代
森本善七
包容庵︵宗維︶
宗維居士
︻萩原宗平家︼
妻
月堂周光尼首座
妻
栴茎俊芳禅尼
妻
玉峰貞輪大姉
双竹庵源徹宗心居士
一八一一∼一八七四
夏岳了雲信士
影幻禅童子
三代
森本弥之右衛門
秋山玄光信士
取締役
三代
森本善七
陳善院源潺長流居士
妻
悟山鍬堂禅尼
妻
真操院妙行日美大姉
前田兼七
精行院至徳日兼居士
元蔵
源性湛然居士
莱
浄室恵光禅尼
勅使河原欽也
是忠院殿欽哉日顕居士
取締役 社長
一八五五∼一九二八
代表取締役 会長
妻
釈尼慈音
和子
戒月和光大姉
一八九三∼一九五三
四代
森本善七
積善院徳相明慶居士
倭文子
積徳院静室明操大姉
寿子
芳寿院釈妙香禅尼
紅顔映輝禅童女
肇
大獄院夕照秋文居士
茂子
達子
森本敏郎
妻
和子
MORIMOTO HONTEN 41
40
現役員
森本家家系図
DATAS
役員任期一覧
西暦
(年)1949 1950 1951 1952 1953 1954 1955 1956 1957 1958 1959 1960 1961 1962 1963 1964 1965 1966 1967 1968 1969 1970 1971 1972 1973 1974 1975 1976 1977 1978 1979 1980
1981 1982 1983 1984 1985 1986 1987 1988 1989 1990 1991 1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 2010 2011 2012 2013 2014 2015
和暦
(年) S24 S25 S26 S27 S28 S29 S30 S31 S32 S33 S34 S35 S36 S37 S38 S39 S40 S41 S42 S43 S44 S45 S46 S47 S48 S49 S50 S51 S52 S53 S54 S55
S56 S57 S58 S59 S60 S61 S62 S63 H 元 H2
森本 善七
5.23
奥村直次郎
5.23
森本 しづ
5.23
奥田 秀雄
5.23
後藤 律
5.23
H3
H4
H5
H6
H7
H8
H9 H10 H11 H12 H13 H14 H15 H16 H17 H18 H19 H20 H21 H22 H23 H24 H25 H26 H27
9月
5月
森本 敏郎
3月
8月
9月
3月
3月
3月
9月
3月
3月
森本 肇
上野 勲
3月
8月
8月
服部 功
5.23
8月
大森 邦夫
5.23
8月
内堀 一長
5.23
8月
3月
4月
3月
3月
3月
3月
3月
3月
児島 三
児島三 3月
山中 昭
山中昭 3月
3月
渡辺 進
渡辺進 3月
3月
伊藤弥栄蔵
伊藤弥栄蔵 3月
4月
3月
9月
1月
安田 鏘一
1月
8月
安田鏘一 1月
8月
森本 達子
森本達子 4月
岡田 康男
岡田康男 4月
4月
3月
寺澤 正明
寺澤正明 3月
4月
3月
吉川 清二
吉川清二 3月
4月
3月
横井 輝已
横井輝已 3月
4月
西尾 敏明
西尾敏明 3月
吉田 博利
吉田博利 3月
野田底司 4月
野田 底司
4月
前原英明 4月
前原 英明
3月
前原明弘 3月
前原 明弘
代表取締役会長
常務取締役
代表取締役社長
取締役
代表取締役専務
相談役
取締役社長
監査役
専務取締役
42
MORIMOTO HONTEN 43
DATAS
組織の変遷
昭和44年4月
●会社役員
平成27年4月
第1課
∼
第3課
仕入係
●会社役員
代表取締役社長
森本 敏郎
代表取締役専務
後藤 律
取締役
上野 勲
取締役
服部 功
取締役
西尾 敏明
取締役
大森 邦夫
取締役
吉田 博利
取締役
内堀 一長
監査役
前原 弘明
監査役
森本 肇
小間物部
洋品部
第4課
∼
第13課
店頭課
店頭販売部
商品係
仕入係
代表取締役会長
森本 敏郎
取締役社長
岡田 康男
常務取締役
横井 輝巳
商品係
ポップライン
営業部
加藤昌弘
営業部
常務取締役
横井輝巳
ソフトライン
営業部
横井輝巳
店頭販売係
出入荷係
加藤昌弘
奥村一之
鈴木由加
天野沙織
松岡俊哉
小川博之
上田英典
服部優希
牧本好史
林 絹子
内田隼太
営業1部
阿部英明
阿部英明
関 伸幸
安藤 稔
浜野 仁
営業2部
西川真澄
西川真澄
増田誠司
天野康則
市野真司
営業4部
唐木研二
唐木研二
高橋規之
長縄真明
樋口行晴
白井寿樹
染井麻美
野口 旭
橋本憲幸
原島里絵
営業5部
植木幹樹
植木幹樹
二村浩司
脇田雄介
古橋龍也
加藤瑛二
村岡真希江
服部文菜
渡辺孝正
宮木道也
営業3部
加藤昌弘
荷物課
配送係
市内第1係
市内第2係
代表取締役会長
森本敏郎
取締役社長
岡田康男
市内課
市内第3係
専務
社長
市内第4係
外商部
地方第1係
取締役社長室長
吉田博利
相談役
寺澤正明
商品部
西尾敏明
商品部
取締役
西尾敏明
企画
西尾敏明
柴田恵里
森本美穂
河合宏明
辰原由佳
蔭原真由
真野雅子
吉田彩加
山口真奈
杉浦奈々
水野里実
高木麻衣
野田彩乃
総務部
新田浩司
新田浩司
清水 昇
出石裕子
増野泰生
大島直樹
加藤由美子
城所広美
EDP
松浦慎二
松浦慎二
村瀬弘章
和田篤人
マルサール出向
森本康裕
飯田和明
上海森丸有限公司出向
清水健太郎
地方第2係
地方課
西尾敏明
梅山文彦
飯田朋哉
夫馬里恵
和田伊久恵
(植木幹樹)
地方第3係
地方第4係
地方第5係
総務課
会計係
経理課
経理係
総務部
勤労係
労務課
総務部
厚生係
庶務課
44
庶務係
MORIMOTO HONTEN 45
DATAS
売上高の推移
年表
平成26年3月現在
(千円)
10,000,000
8,000,000
6,000,000
1750
期
年
売上高(千円)
期
年
第1期
1949
ー
第35期 1983 6,358,458
第2期
1950
ー
第36期 1984 6,533,548
第3期
1951
ー
第37期 1985 6,738,475
第4期
1952
ー
第38期 1986 6,785,227
第5期
1953
ー
第39期 1987 7,002,273
第6期
1954
ー
第40期 1988 7,658,178
第7期
1955
ー
第41期 1989 8,385,367
第8期
1956
ー
第42期 1990 8,837,529
第9期
1957
ー
第43期 1991 8,798,095
第10期 1958
ー
第44期 1992 8,722,343
第11期 1959
232,294
第45期 1993 8,705,827
第12期 1960
317,803
第46期 1994 8,046,155
第13期 1961
387,404
第47期 1995 7,810,620
第14期 1962
540,810
第48期 1996 7,878,286
第15期 1963
ー
第49期 1997 7,556,515
第16期 1964
803,189
第50期 1998 7,184,072
第17期 1965
948,130
第51期 1999 6,068,289
第18期 1966 1,102,976
第52期 2000 4,580,334
第19期 1967 1,266,889
第53期 2001 3,319,882
第20期 1968 1,476,352
第54期 2002 3,314,283
第21期 1969 1,677,152
第55期 2003 3,366,936
第22期 1970 1,964,926
第56期 2004 3,530,936
第23期 1971 2,182,529
第57期 2005 3,482,565
第24期 1972 2,491,659
第58期 2006 3,754,499
第25期 1973 3,323,365
第59期 2007 4,148,426
第26期 1974 3,802,737
第60期 2008 4,351,500
第27期 1975 4,596,098
第61期 2009 4,035,756
第28期 1976 5,181,945
第62期 2010 4,387,785
第29期 1977 5,136,715
第63期 2011 4,827,340
第30期 1978 5,302,761
第64期 2012 4,600,381
第31期 1979 5,424,869
天明 元 年 ● 初 代 善 七、小 間 物 商「笹 屋」を創 業。小 間 物、
1811
文化 8 年 ● 後の二代善七誕生。醸造業の萩原宗平の子で
1815
1855
1973
1974
昭和48年 ● 資本金6,750万円に増資
昭和49年 ● 第二ビル(配送センター)を新築、地下1階、地上
5階、総面積3,621㎡
文化12年 ● 初代善七逝去
安政 2 年 ● 後の三代善七誕生。
(二代善七の生家・萩原家
1977
に生まれた甥、元吉)
1868
1875
1880
1881
1886
昭和52年 ● 東京営業所開設
●
を採用
明治 8 年 ● 元吉が森本家へ養子となり、三代善七となる
明治13年 ● 東京に店舗を構える
1986
昭和61年 ● 一宮物流センター開設、床面積1,324㎡。本館5
1988
昭和63年 ● コンピューターオンラインのレベルアップに伴い、
階を売り場に改装、売場面積2,177㎡
明治14年 ● 三代善七、名古屋商法会議所の議員となる
明治19年 ● 三代善七、株式取引所(後の名古屋株式取引所)
POSシステムを導入
明治26年 ● 後の四代善七誕生。
(東京で洋反物商を営む前田
兼七の息子、前田三郎)
1897
平成 元 年 ● 東京支店開設
平成 2 年 ● 店舗一部改装、全館リフレッシュ。中区栄3丁目に
アクセサリー館開設
1992
平成 4 年 ● 高度情報化、機能向上に向け一宮物流センターの
システムを再構築、新物流システムを稼働
大正 元 年 ● 三代善七、貴族院議員となる(∼昭和3年)
大正11年 ● 前田三郎、三代善七の孫の倭文子の婿養子に入る
昭和 2 年 ● 四代善七、店則をつくる
●
1994
2002
平成14年 ● 専門店との最先端ITによるテレビ会議を構築、情
2003
平成15年 ● 一宮に新物流センターを取得。土地990.00㎡、
ランドとライセンス契約
昭和 5 年 ● 四代善七、名古屋小間物卸商組合長就任
報発信基地となる
昭和12年 ● アイデア商法「通信販売」が爆発的人気を得る。
洋諸島・樺太などへ販路拡大
第33期 1981 5,389,551
建 物6階 建て延 べ2,791.89㎡。株 式 会 社マル
サールを設立し、物流業務を移管
● このころより、クローバー印が森本のブランドマーク
2005
となる
1944
1945
昭和19年 ● セルロイ
ドの自然発火により店舗焼失
平成17年 ● 本社を名古屋市中区栄2丁目から、一宮市へ移転
●
昭和21年 ● 中区大須、万松寺にて店員5人からの再出発
2006
2010
平成18年 ● 東京都中央区に新東京支店ビル取得
平成22年 ● 一宮に物流倉庫購入。株式会社乙女座スプリング
設立
昭和22年 ● 中区鉄砲町(現・栄2丁目)元本店跡に店舗を移す
昭和24年 ● 資本金100万円で株式会社に改組、取扱品目に
2011
平成23年 ● 東日本大震災発生で被害のあった東北地方に、手
婦人用品を増やす
2,000,000
1953
袋・マフラー・タオルなどを寄付
昭和28年 ● 四代善七逝去。五代目、森本敏郎が代表取締役
昭和37年 ● 旧店舗跡に5階建てビルを新築、1 ∼
拡大。資本金を1,800万円に増資
1964
1
1949
5
1953
10
1958
15
1963
20
1968
25
1973
30
1978
35
1983
40
1988
45
1993
50
1998
55
2003
60
2008
2階に店舗
出荷業務を行う株式会社クロバーを設立
平成24年 ● アンテナショップ「ラ・マルサール」を名古屋栄地
下街に開設
昭和29年 ● 近代的様式の店舗に改装、セミセルフサービス式
販売方法で好評を博す
1962
●
2012
社長へ就任
1954
森本敏郎代表取締役社長が取締役会長就任、岡
田康男専務取締役が取締役社長就任
昭和20年 ● 第二次世界大戦激化に伴い、空襲により本宅、
東京の店舗も焼失し、一時休業となる
1946
1947
1949
森本敏郎、藍綬褒章受章
平成 6 年 ● オリジナルブランドのさらなる増資と、国内外DCブ
昭和 3 年 ● 三代善七逝去、四代善七となる
毎月『森本本店商報』を発行し、中国・台湾・南
第65期 2013 4,475,346
1989
1990
明治30年 ● 勅使河原商行として台湾へ進出(日露戦争により
社長である娘婿の勅使河原鉄也が戦死し、閉鎖)
1912
1922
1927
1928
1930
1937
企業の躍進発展に伴い、いち早く先駆的なコン
ピューターオンラインを導入。営業部門に事業部制
明治 元 年 ● 尾張藩御勝手御用達格御用商人に格付けされる
の頭取に就任
1893
社屋を増築し、地下1階・地上6階建てとする。
1∼3階に店舗拡大。総面積3,347㎡、売場面積
1,423㎡
あったが、森本家へ養子となる
※第1期∼第10期・第15期はデータなし
46
昭和42年 ● 資本金5,400万円に増資
繊維小間物類、貴金属を扱う
第34期 1982 5,814,930
0
1967
●
1781
第32期 1980 5,633,103
4,000,000
寛延 3 年 ● 創業者、初代森本善七が知多郡で誕生。父は森
本弥之右衛門
売上高(千円)
2013
2014
平成25年 ●「雑貨屋七五三」を名古屋大須に開設
平成26年 ● インドにて革財布の生産開始
●
中国に上海森丸商貿有限公司設立
昭和39年 ● 資本金2,700万円に増資
65(期)
2013(年)
MORIMOTO HONTEN 47
編集後記
株式会社森本本店五代目当主である森本敏郎会長の発案により、社誌を編纂することになりまし
た。長く厳しい歴史を生き抜き、今後も益々発展していくために、先人の歩みを後世へ託したいとの
想いからであります。今後の会社経営の参考の一助になればと、ここに発刊の運びとなりました。
編集担当者は、当社が創業以来230有余年を数えるまでの歴史を有していることを知ってはいまし
たが、編纂作業を通して、各時代において中京財界へ果たしてきた輝かしい企業経歴を知ることと
なりました。江戸時代に創業し、明治維新を経て、明治、大正、昭和、平成の各時代を生き、戦
争、金融恐慌、オイルショック、バブル経済の崩壊等のいくつもの大きな荒波を、しなやかに、また
時には強かに生き抜いて今日があることを実感しました。記憶に新しいことでは、平成11年に戦後最
大の経営危機を迎え、岡田康男専務(当時)を中心に役職員一丸となって経営再建に取り組みまし
た。その結果、問屋形態から企画製造企業へと大きく変革を果たしました。
当社は、森本家の商店として創業され同族経営企業として歩んできましたが、森本会長は、今後
については社員のなかから社長を任命し、経営者と社員が一体となった開かれた企業とするとの方
針を打ち出しました。平成17年に岡田康男が社長に就任し、新生「森本本店」が誕生したのです。
現在も、当社を取り巻く諸環境は大変厳しく、生き抜いていくにも大変な時期にあります。諸先輩
に負けることなく
「人々の日々の生活をより豊かに」の信条を、商売を通じて果たし、さらなる発展を遂
げていきたいと願っています。
紙面の都合上、記録の正確性の追求や生々しい話は割愛せざるを得ず、断片的な記録とならざ
るをえなかったのも事実であります。次の機会に委ねたいと思います。
最後になりましたが、編纂にあたっては、双双編集の柴山信之社長、前田栄作氏他多数の関係
者に大変お世話になりました。同社なくしては本誌が日の目を見ることはなかったといっても過言ではあ
りません。この場を借りて心から謝意を表します。
平成27年3月
編集担当 寺澤
正明
吉田 博利
参考文献
●『名古屋装粧品業界史』名古屋装粧品業界史編纂委員会
●『日本装身具史 ジュエリーとアクセサリーの歩み』露木宏著/美術出版社
資料提供
東京国立博物館
● 三重県立博物館
● 名古屋市
● 暮しの手帖社
東京・日本宝飾クラフト学院
早稲田大学図書館
● 国書刊行会
●
●
●
M O R I M O T O
SINCE
1781
H O N T E N
平成27年5月発行
編集・発行
株式会社 森本本店
愛知県一宮市浅野字西大土96番地
TEL(0586)75‐0261
編集協力
双双編集