RPT2016001 - 天理大学情報ライブラリーOPAC

ISBN:978-4-903058-83-2(C1000)
マールブルク 天理
と
1950 ∼ 2015
マールブルク市長 天理来訪の記録・記念誌
編者:森本智士・菅井宏史・近藤雄二
„Marburg und Tenri “
― die Beziehungsgeschichte zwischen 1950 und 2015 ―
zum Gedenken an den Tenri-Besuch vom
Oberbürgermeister der Universitätstadt Marburg
Die Herausgeber:
Satoshi Morimoto, Hiroshi Sugai, Yuji Kondo
Universitätsverlag Tenri
天理大学出版部
表紙および本文中のマールブルクのスケッチは、故、東出 格(当時:柏野分教会・教会長)氏による
もので、1975 年にマールブルクで開催された天理教展覧会開催時の街である(関連記述:p.23)。
マールブルクと天理を発刊するにあたり
マールブルクと天理を発刊するにあたり
Vorwort
ドイツ連邦共和国、ヘッセン州にある人口
合併して「市制」を施行する。その際、教団
約 7 万 2 千人の大学都市であるマールブル
の天理を冠した市名称が採用されることにな
クは、聖エリザベートの奇蹟を求めて人々が
り、宗教都市、天理市が誕生した。そして
巡礼した中世の聖地として、また宗教革命の
2015 年に、市制 60 年を迎えた。天理市の
先駆者となったフィリップ(1 世)方伯(1504
人口は約 7 万、マールブルクとは人口規模
~ 1567) が、23 歳 に な っ た 1527 年 に ド
だけでなく、歴史と宗教・文化、教育の街と
イツで最初の、そして現存する大学としては
いう多くの共通性をもつ。
世界で最も古いプロテスタントの大学を設
天理とマールブルクとは、1950 年代から
立したこと、また、ルターとツヴィングリが
関係、交流がはじまり、現在にまで至ってい
宗教改革をめぐり意見を対立させたマールブ
る。マールブルクとの交流は天理教教団本部、
ルク宗教会議(1529)がおこなわれるなど、
天理図書館、天理大学との間に留まらず、天
宗教的歴史に溢れた町だ。
理市とマールブルク市との姉妹都市関係づく
マールブルク大学(フィリップス大学マー
りへの歩みへとすすみつつある。
ルブルク)は、初代学長、ヘッセン宮廷裁判
所の判決人ヨハン ・ アイルゼルマンのもと
本誌は、2015 年 3 月 31 日~ 4 月 5 日の
で、11 人の教授、94 人の登録学生からはじ
あいだ天理市制 60 周年と天理大学創立 90
まった。
周年を祝うために天理来訪をしたマールブル
一方、天理市は、大和国山辺郡庄屋敷村の
ク市長を代表とした一行、すなわち、エゴ
農婦・中山みきを教祖として 1838 年に成立
ン・ファウペル市長、リタ・ファウペル市長
した宗教教団「天理教」の名称を都市名に冠
夫人、マールブルク大学スポーツセンターの
する宗教都市である。
ブリギッテ・ホイジンガー教授とゲルハルト・
教祖中山みきの曾孫にあたる天理教二代真
ホイジンガー氏(建築家)、スポーツ実習コー
柱中山正善氏(1905 ~ 1967)は、教義体
ディネーターのヨルグ・チレク氏、ギムナジ
系の整備に力を注ぐ一方、外国語学校(天理
ウム教師であるとともにヘッセン州(競技)
外国語学校、後の天理大学)
、図書館(天理
柔道、 視覚障害者柔道指導者のマルクス・
図書館)、民族学・考古学資料の博物館(天
ツァウムブレヒャー氏、公式通訳者として同
理参考館)、印刷所(天理時報社)といった
行したチレク氏と同様にスポーツ交流実習の
海外布教に必要な関係施設を整え、さらに教
コーディネーターの鶴木泰子氏、この 7 人
義に基づく医療施設
(天理よろず相談所病院)
の来訪を記念する記録と記念誌である。この
の設立、またスポーツ振興にも力を注ぎ、更
機会に 1950 年代から 2015 年までのマール
には学者や各界の著名人との広い交流を通じ
ブルクと天理との交流史をまとめた。
て、天理(教)の名を国内に留まらず、広く
海外にも知らしめたことでも知られている。
2016 年 3 月 25 日
1954 年に山辺郡丹波市町、朝和村、柳本
編者 Die Herausgeber
町、櫟本町、二階堂村と福住村の六か町村は、
森本智士、菅井宏史、近藤雄二
目 次
マールブルクと天理を発刊するにあたり(編者)
目 次
マールブルク市長一行の滞在記録(写真構成)
… ……………………………………………………… 1
古き友、マールブルクとの交流の発展を期して(天理大学長、飯降政彦)
… ……………………… 3
マールブルク市とのさらなる交流を願って(天理市長、並河 健)
… ………………………………… 4
マールブルクと天理 wie immer und immer weiter(森本智士)
… …………………………………… 5
親愛なる天理の友人の皆様(マールブルク市長、エゴン・ファウペル)
… ………………………… 7
天理・マールブルク間に生まれた 4 年前からの新たなパートナーシップ(ヨルグ・チレク)
…… 8
マールブルク・フィリップス大学、国際交流部からメッセージ
(国際交流部長、ぺートラ・キーンレ)
… …… 9
マールブルクと天理
マールブルクと天理 交流史①(菅井 宏史)
… …………………………………………………… 11
マールブルクと天理 交流史②(近藤 雄二、森本 智士)
………………………………………… 25
マールブルクと天理 思いで (橋本 武人)
… …………………………………………………… 37
天理とマールブルク 1960 年から今日まで(マルティン・クラーツ)
………………………… 42
マールブルクと天理 パートナーシップについて(ヴェルナー・シャール)
… ……………… 44
「マールブルクと天理」年譜… ………………………………………………………………………… 46
大学間交流協定にもとづく学生交流者一覧(1995 ~ 2015 年度)
… …………………………… 52
マールブルク市長訪問団とその日程………………………………………………………………… 53
マールブルク市長一行滞在日程表…………………………………………………………………… 55
Vorwort…………………………………………………………………………………………………… 56
Liebe Freundinnen und Freunde (Egon Vaupel)
…………………………………………………… 57
4 Jahre "neue" Partnerschaft zwischen Tenri und Marburg(Jörg Chylek)
… …………………… 58
Philipps-Universität Marburg Internationale Angelegenheiten und Familienservice
(Petra Kienle, Dezernentin)… … 59
Zusammenfassung:„Austauschgeschichte zwischen Marburg und Tenri“ (SUGAI, Hiroshi)… … 60
Tenri und Marburg 1960 bis Heute (Martin Kraatz)
……………………………………………… 61
Über die Partnerschaft der Philipps-Universität Marburg und der Tenri-Universität
(Werner Schaal)
… … 63
編集後記………………………………………………………………………………………………… 65
マールブルクと天理 交流史①
マールブルク市長一行の滞在記録
(滞在中の主な行事、日程は、p.55 を参照のこと)
天 理 市 関 連
3 月 31 日、天理市庁舎玄関前で並河市長、議員、
職員の出迎えを受けるファウペル市長
議場において天理市制 60 周年の祝辞を行う
ファウペル市長
議場にて市理事者、市議会議員の皆さんと記念撮影
天理市庁舎 1 階ロビーに設置された
「マールブルクコー
ナー」を案内する並河市長と説明を受ける市長ご夫妻
国史跡 黒塚古墳(展示館)にて
崇神天皇陵において記念撮影
―1―
マールブルクと天理 交流史①
天 理 大 学 関 連
4 月 1 日、天理大学の入学式において
祝辞をのべるファウペル市長
市長一行のために企画された附属天理図書館の
特別展「ドイツと日本」を鑑賞
4 月 1 日に開催の歓迎レセプションにて
飯降学長とともに
2011 年 11 月に日独交流 150 周年を記念して
ドイツ連邦共和国大使館から寄贈の菩提樹のまえで
天理大学附属天理図書館会議室にて、
宮田元副館長、大橋副学長らと懇談
さよならパーティ (4 月 4 日 ) で
お別れのあいさつをする飯降学長
―2―
古き友、マールブルクとの交流の発展を期して
マールブルクと天理 交流史①
古き友、マールブルクとの交流の発展を期して
In der Erwartung, dass sich die Partnerschaft mit unserem alten Freund, Marburg, weiter entwickelt
飯降 政彦
IBURI, Masahiko
2015 年 3 月末より 4 月初旬にかけて、天
実施、音楽や柔道等のスポーツ交流、さらに
理大学創立 90 周年(2015 年度)と天理市
宗教学科を軸とした共同研究プロジェクトや
制 60 周年(2014 年度)を記念するドイツ・
シンポジウム等も盛んに行われるなど、多く
マールブルク市長一行の天理来訪が実現し
の人的交流を蓄積しつつ今日に至っている。
た。本学入学式ではエゴン・ファウペル市長
また 2011 年からは本学国際学部と体育学
より祝辞をいただいたほか、同市長表敬訪問
部の共催による「国際スポーツ交流実習」が
記念として附属天理図書館で開催した特別
ドイツで毎年実施されており、参加学生たち
展「ドイツと日本」や天理大学、また天理市
はマールブルク市を挙げての歓迎を受けてい
が主催する歓迎レセプションなどを通して、
る。2016 年 2 月の実習においても、トーマ
マールブルクと天理の親密な関係を確認し、
ス・シュピース新市長のもと、たいへん暖か
一層絆を深める機会となった。
いおもてなしを受けたと聞いている。この実
天理とマールブルクとの交流は、本学の創
習での経験を動機として、その後マールブ
設者・中山正善天理教二代真柱様が 1960 年、
ルクのスポーツクラブに所属し、サッカーや
マールブルク大学を会場に開催された「第
ホッケーの選手として活躍している頼もしい
10 回国際宗教学・宗教史会議」において、
卒業生の姿もある。また目下、市民の協力を
天理教を初めてヨーロッパに紹介されたこと
いただきながらインターンシップについても
を嚆矢とする。その後も創設者の数度にわた
開拓が進められている。
るマールブルク訪問により交友関係が培われ
2013 年に再調印された本学とマールブル
た。
ク大学との協定書には、さらに多角的な交流
創設者が出直された翌年の 1968 年、私は
へと拡充していくことが記されている。両大
天理教青年会によるユーラシア大陸 29 ヶ国
学の交流は、今後、天理市とマールブルク市
巡回の隊員としてマールブルクに立ち寄っ
の提携へと広がり、それが日本とドイツの修
た。当時、まだヨーロッパでは、日本からの
好の架け橋となっていけばと願っている。
天理教布教師が点在するのみで、ほとんど天
歴史と伝統、宗教的な雰囲気に包まれ、大
理教としてのまとまった活動は行われていな
学のある文化都市である等、天理とマールブ
かった中で、マールブルク大学では既に天理
ルクは取り巻く環境が似ている。両者が一層
教の資料数点が大学附属宗教学博物館に展示
関係を深めていくことで、今後も相互に学び
されていた。我々は驚きと感激をもって見学
得ることは非常に多いという思いは、今回の
した。
創設者の足跡を偲ばせていただく上に、
市長来訪によりさらに強いものとなった。創
実に有意義なマールブルク訪問であった。
設者の縁により結ばれたマールブルクとの友
その後、1975 年にはマールブルク大学宗
誼をこれからも大切にしつつ、本学の宗教性
教博物館主催の「天理教展覧会」が同大学
と国際性を高めていく努力を進めていきた
図書館で開催され、1996 年には天理大学と
い。
マールブルク大学との間で学術交流協定が締
結。以後、学生や研究者の交換、文化実習の
( 天 理 大 学 学 長,Präsident der Universität
Tenri)
―3―
マールブルク市とのさらなる交流を願って
マールブルクと天理 交流史①
マールブルク市とのさらなる交流を願って
In der Hoffnung des weiteren Austausches mit der Stadt Marburg
並河 健
NAMIKAWA, Ken
昨年3月末から4月にかけて、
エゴン・ファ
介するコーナーを設けました。
ウペル市長(当時)をはじめとするマールブ
様々な機会を通じて、多くの市民の皆さまに
ルク市訪問団の皆さまが、本市の市制60周
マールブルク市を紹介していきたいと考えて
年並びに天理大学創立90周年への祝意を表
います。
するために本市を訪問されてから、早や一年
今後のマールブルク市との交流につきまし
の月日が過ぎました。天理市制60周年への
ては、引き続き天理大学とマールブルク大学
祝意に、あらためまして感謝を申し上げたい
の交流を支援していく中で、本市とマールブ
と思います。
ルク市の交流のすそ野が広がっていくこと
天理とマールブルクとの交流の始まりは、
は、本市自身の魅力を再発見し、地方創生の
1960年に中山正善天理教二代真柱がマー
上でも重要だと考えています。先般のマール
ルブルクを訪問されたことが端緒になったも
ブルク市訪問団の皆さまの本市訪問が、交流
のであると承知しています。以来今日までの
の新たな歩みとなることでしょう。また、大
長きに亘り、両大学の関係者の皆さまが交流
学同士の交流だけではなく、市民同士の交流
を重ねられ、友好関係を築いて来られました
の可能性も考えながら、将来的に両市がパー
ことに心から敬意を表します。
トナーシップを結ぶことも含めた両市の着実
マールブルク大学があるマールブルク市
な交流を進めていくことができれば素晴らし
は、宗教、スポーツ、そして国際色豊かなド
いものになると思っています。
イツの代表的な「大学まち」であり、一方、
結びに、天理大学とマールブルク大学との
本市にも天理教教会本部、天理大学があり、
交流がさらに実りあるものになることを祈念
また市内各所に古くからの歴史や文化観光資
いたします。
産を有し、スポーツ、音楽、そして国際色豊
かなまちであるなど、マールブルク市と多く
( 天 理 市 長,Oberbürgermeister der Stadt
Tenri)
の共通点をもっています。
そうしたこともあり、天理大学が2014
年に実施された「国際スポーツ交流実習」に
は本市職員も参加の機会を得て参加し、マー
ルブルク市の優れたまちづくりについて学ぶ
ことができました。マールブルク市長の訪問
は、天理大学のこれまでの交流の積み重ねに
より実現したものであると考えています。本
市では、今回のマールブルク市長の訪問を機
に、市庁舎1階ロビーにマールブルク市を紹
市応接室で並河健市長、大橋基之市議会議長と
懇談するマールブルク市長ご夫妻
―4―
マールブルクと天理
マールブルクと天理 交流史①
wie immer und immer weiter
マールブルクと天理 wie immer und immer weiter
Marburg und Tenri,wie immer und immer weiter
森本 智士
MORIMOTO, Satoshi
個人的には外国語学部から国際文化学部の
り、そこに大きなリソースも機能しているこ
改組にあたり関わり始めたマールブルク大学
とには何の疑問もないだろう。
との関係は、文化実習の終了を持ってピリオ
こうして生まれたスポーツ交流実習は、さ
ドが打たれるものと思っていた。
らに人的ネットワークの広がりをマールブル
マールブルク大学からは日本センターがな
クにおいて見せながら年を重ねるごとに内容
くなり、また本学ではドイツ語を看板とする
を充実させることができた。そのひとつは
専門領域もない状況からすれば、まさにマー
マールブルクのスポーツ団体 BlauGelb の役
ルブルクとの関係は一つの終焉を迎えざるを
員をするヨルグ・チレク氏との出会いであっ
えない時期であった。しかし、そんな時カリ
た。当初もちろん大学関係を中心に展開を意
キュラムの改正などから生まれた国際スポー
図してきたが、2 つの国のスポーツに関する
ツ交流実習が設置され、その開催地の候補と
組織の違いからくる、地域スポーツへの参画
して2年に一回ドイツでの研修が企画され
がプログラムには不可欠であり、その仕事を
た。そのドイツでの研修内容について立案を
皮切りにチレク氏との共同作業がプログラム
受けることになったのである。スポーツを
により大きな意味をもたらすことになった。
テーマにドイツでの研修というこれまで対応
そして関係はさらにマールブルク市、マール
したことのない、体育学部生をはじめとする
ブルク・ビーデンコップ地域のプログラムへ
アスリート系学生のためのプログラムを作る
の協力をも引き込むことになっていったので
にあたっては、文化実習を立案した時の経験
ある。一つの例がマールブルク市長主催の歓
が役立ち、かつては一部に取り入れていたス
迎会が市役所歴史的ホールで開かれることで
ポーツを取り入れたプログラムを再構築し、
ある。また実習の成果として、このスポーツ
また現地活動をさらにいかせるためのドイツ
実習に参加した学生が再びこの地で、良きク
語学習も念頭に入れ計画を立てた。もちろん
ラブプレーヤとしてまた良き市民として生き
こうした企画段階ではかつてのマールブルク
ている意味も大きい。年々我々と市長をはじ
大学との強い関係にあった人的ネットワーク
めとする関係は強くなり、当初は外交的な言
が背景にあり、若干の不安もあったがその担
葉の交換であったものが、マールブルク市長
当者の了解を受けることができ、骨子を作る
の天理への関心も大いに高まり、天理大学
ことができた。さらには偶然から生まれたケ
90周年、天理市政60周年の機会に訪問す
ルン体育大学との関係もそこに結びつけるこ
るという現実を迎えることになったのであっ
ともできた。しかし、やはりマールブルクと
た。
の強固な関係がその基礎にあったことであ
これは単なる偶然ではなく、これまでの積
―5―
マールブルクと天理
マールブルクと天理 交流史①
wie immer und immer weiter
み重ね、二代真柱のマールブルク訪問を起点
とする脈々とする関係が故であろう。しか
し、大学の関係が市まで及び、またそこに天
理市までが関わることになった意義は、今後
とも検証していかなければならないものであ
るが、少なくとも自分自身にとっては驚くこ
とであったが、一方でこの関係を今後いかに
より良きものにするかは大きな課題である。
両大学両市の意向を鑑みても、紙の上の交
流つまり単なる協定の締結を求めるのではな
く、真の人的交流の可能性を模索していくこ
とが大きなテーマである。どの組織の指導歴
立場にある方々と話しても、真の交流に対す
る思いは同じであるといってよかろう。これ
2013 年 2 月に実施する国際スポーツ交流実習の事前
打ち合わせを紹介する現地新聞(2012 年 9 月)
写真は右から、森本氏、チレク氏、シューマー博士、
クラーツ博士、ドゥクサ言語センター長、鶴木氏
だけ情報が世界を駆け巡り、日本にいながら
実に手にあまるほどの情報を私たちは IT の
恩恵を受けて手にすることができる。しかし
その時代であればあるほど、個人的にはマー
ルブルクやケルンを訪れる度に、いつもは
メールを交換している相手の目を見て手を握
ることの意味の大きさ、その意義を思わずに
はいられない。今後もし、どこかに両大学や
両都市を結ぶ小さな結び目・パイプができあ
がり、誰もが利用できるものであればと思う
エゴン・ファウペル市長と飯降学長との初会談
(旧市街地の市役所にて、2013 年 2 月 19 日)
この頃である。
マールブルクと天理の関係は、大学そして
市との関係も一つの組紐になるこの関わりの
意義の大きさを改めて認識するときかもしれ
ない。
マールブルクの街に着くとなんとも言え
ない安堵感を覚える、ああ wie immer、そし
て新たな出会いがエネルギーを与えてくれ
immer weiter と奮い立たせてくれる。
(言語教育研究センター , Sprachenzentrum
der Universität Tenri )
マールブルク大学との改訂協定の調印直後
(クラウゼ学長とともに学長室にて、
2013 年 2 月 18 日)
―6―
マールブルクと天理 交流史①
親愛なる天理の友人の皆様
親愛なる天理の友人の皆様
Liebe Freundinnen und Freunde
エゴン・ファウペル(Egon Vaupel)
数日後にマールブルクで再会できますこと
をうれしく思います。この大学町マールブル
クで皆様に挨拶させていただくことができる
のを楽しみにしております。
ります。スポーツというものは、そこに向う
ための橋を架けることであり、そしてスポー
ツはこうしたアイデンティティーを互いに結
び付け、作り上げるものなのです。
妻と私が初めて日本に、正確に言うなら、
皆様方のマールブルク訪問を楽しみにして
天理を訪れるために大阪に降り立ってから、
一年が経過しようとしています。私たちは興
味津々で、期待に胸を膨らませていた一方、
私たちに何が待っているのか、という一抹の
不安もありましたが、天理に来てすぐに明白
おります。特にマールブルクを、またドイツ
をはじめて訪れる学生さん方には、特別なる
挨拶を申し上げたいと思います。
になったのは、私たちは友人たちのもとに到
着したということでした。私たちは心からな
方々を歓迎するものです。私たちのこの町に
ついての自慢できる歴史というのは、世界の
る歓迎を受け、たくさんの対話の機会、歓迎
会、見聞を広める機会、観光などに際して、
そしてとりわけ多くの方々との交流におい
て、この双方の都市間の、双方の大学間(特
にスポーツに関する)の交流というものがど
多くの国々の人々によって恵みを受けて来
た、ということなのです。この大学町には
141 もの異なった国籍を持つ人々が暮して
おります。このことが私たちの相互関係をよ
り彩り、生き生きとした、享受すべき多様性
れほど実りの多いことなのかということ、ま
たそれを育て上げ、より拡大してゆくべきと
いうことが明らかになったのでした。
を私たちに与えてくれているのです。
私たちはこの大学町に来られるゲストの
皆様のご訪問を楽しみにしております。
ここに、この交流を長年にわたって築き上
げ、育て上げてこられた全ての方々に、心か
らなる感謝の意を表する次第です。関係の
(ファウペル氏は、2015 年末に市長を退任
しました。本挨拶には、2016 年 2 月 10 日
からマールブルクで実施される国際スポーツ
方々がこれまで成し遂げられてきたことは本
当にすばらしいの一言であります。長い年月
の経過と、多くの方々の関わりなしには、こ
れは成しえなかったことであります。
交流実習を待つ旨の記述もある。)
特にスポーツの分野における交流を私は嬉
しく思っております。世界中で数々の政治的
な問題に直面する中で、青少年の正にスポー
ツにおける交流は、互いを理解し、公正で、
平和に満ちた相互関係構築のための基礎とな
るものです。
私たちはこうした理想の未来に、
一つの世界の中で共に到達できると信じてお
―7―
天理・マールブルク間に生まれた
マールブルクと天理 交流史①
4 年前からの新たなパートナーシップ
天理・マールブルク間に生まれた 4 年前からの新たなパートナーシップ
4 Jahre "neue" Partnerschaft zwischen Tenri und Marburg
ヨルグ・チレク(Jörg Chylek)
2007 年に、マールブルク大学は、日本学
科の新入生を受け入れなくなり、研究機関
Japan Zentrum(日本センター)を廃止した
後、この両大学間の良好な関係というものは
大きく損なわれることとなってしまった。そ
れまでいた日本学を学ぶドイツ人学生という
のが、マールブルクにはいなくなってしまっ
たのだ。
しかしながらこの関係を今後も維持する
ために天理大学が払った尽力というものは、
じつに最大級の称賛に値するものだった。
2012 年 9 月、森本智士教授、ディーター・
シューマー博士、マルティン・クラーツ博士、
ドウクサ女史(博士)
、ヨルグ・チレク及び
鶴木康子氏が一堂に会して、この両大学間の
パートナーシップを今後いかに見据えてゆく
のか、の話し合いの場が持たれた。
そして 2013 年 2 月、天理からの学生の
グループが引率の教員と共にマールブルクを
訪れることとなった。この新たなパートナー
シップの重点というのは、大学的な領域内に
とどまることなく、大学都市マールブルクの
文化、スポーツ、歴史および政治といった分
野にも及んでいる。この学生のためのプログ
ラムはそれ以来、次第に磨きがかかり、彼ら
の訪問の意義というのは、このマールブルク
市にとっても、またこれら学生にとっても、
ますます大きなものとなっている。日本、よ
り正確に言うならば、天理は、マールブルク
を形作るモザイクの中で、小さいながらも重
要な石となっている。
例えば、両大学間のパートナーシップ協定
は 2013 年に更新され、また東日本大震災の
犠牲者のための記念施設が同年に設立され
た。
とりわけ注目すべきは、天理から来た学生の
何人かは、マールブルクで勉学やスポーツを
継続しようという決断をしてくれていること
だ。こうした事態は我々関係者全てにとって、
大きな喜びなのである。
マールブルク側から見ての最も大きな出来
事は、やはりマールブルクからの使節団が
2015 年 3 月に天理を訪問したことであろう。
当大学都市の前市長エゴン・ファウペル氏、
リタ・ファウペル夫人に率いられ、一行はそ
こで、天理大学と天理市を、大変友好的にそ
して様々な専門領域の面でも、広く見聞する
こととなった。帰路、スーツケースに、はち
切れんばかりの一杯の幸せを詰め込んで、一
行はマールブルクへと戻った。
2016 年の今、天理の学生達の次の訪問が
目前に迫っている。スポーツ交流、サッカー
のブンデスリーガ試合観戦、新しい市長・トー
マス・シュピース博士との歓迎レセプション、
ケルンの体育大学への日帰りツアー、及び必
須の語学授業が伴うこのプログラムには、他
にも多くのことが盛り込まれている。
この旅行が全ての参加者にとって、再び特
別な出来事となってくれるであろうことを確
信している。
新市長トーマス・シュピース氏(左)
、森本氏と
ヨルグ・チレク氏(中央)ー 2016 年 2 月ー
(本学スポーツ交流実習現地コーディネー
ター、マールブルクスポーツ団体 BlauGelb
顧問)
―8―
マールブルク フィリップス大学、国際交流部からのメッセージ
マールブルクと天理 交流史①
マールブルク フィリップス大学、国際交流部からのメッセージ
Philipps-Universitat Marburg, Internationale Angelegenheiten und Familienservice
部長 ペートラ・キーンレ(Petra Kienle)
1996 年、天理大学とマールブルク大学は
最初の交流協定に署名を致しましたが、両大
学及び双方の学者同士の繋がりというもの
は、マルティン・クラーツ博士が宗教学者と
して、マールブルクでの第 10 回の国際宗教
学宗教史会議を企画準備した 1960 年にまで
さかのぼるものです。その学会には天理教の
当時の真柱も参加されておりました。
く思っております。
これまでの 50 年にわたる、特に宗教学、
神学分野における学問的な繋がりというのは
さらに強化されており、例えば「相互行為と
しての祈り」などといった、双方にとって極
めて興味深く、有益なテーマでのシンポジウ
ムが、天理とマールブルクで交互に開催され
ています。2014 年に、私たちが、
「宗教と
文化におけるマイノリティ(もの・かたち)
」
というテーマのシンポジウムに、天理大学の
一行をお迎えさせていただけたことをうれし
2013 年 2 月に更新された協定で焦点があ
てられたのは、双方の学生の交流ということ
です。天理大学の学生は「スポーツと言語」
をモットーとするプログラムの枠で、マール
ブルク市と当大学を訪問するというもので
す。学生のためにドイツ語コースが提供され、
彼らはマールブルクにおけるスポーツ全般を
体験するのです。
私たちはこの新たに提案された内容を喜ん
でいます。そして私たちはこれを、両者のこ
の友好的関係をさらに深めたいという願い、
希望と結びつけて行こうと考えています。
(マールブルク大学 国際交流部長、PhilippsUniversitat Marburg, Internationale
Angelegenheiten und Familienservice)
天理大学の貴賓室には、16 世紀にフィリップス大学(マールブルク大学)が時の皇帝から認可された
証書の写し(写真中央額下、p.39 参考)や 1975 年に開催された天理教展覧会(p.11 参考)のポスター
(写真左、Heiner Rothfuchs 作)など、マールブルクからの贈呈品などが並べられている。
飯降政彦学長とともに(2016 年 3 月 11 日撮影)
―9―
マールブルクと天理 交流史①
マールブルクと天理
マールブルクと天理
Marburg und Tenri
市長来訪に至る経過も含めて、そのはじまりから 2015 年に至るまでの交流史をまとめた。
交流史①(菅井宏史)
はじめに
天理教展覧会(1975 年)の開会式
山口繁雄氏とヴォルフ・ヘーニッシュ氏
ヘーニッシュ氏,マールブルクへ(1950 年)
マールブルク宗教学
富永牧太氏とヘーニッシュ氏
中山正善氏と第 10 回国際宗教学宗教史会議(1960 年)
エルンスト・ベンツ氏の天理訪問
第 9 回国際宗教学宗教史会議
フリードリッヒ・ハイラー氏
1960 年以降
高橋慶男氏とあらきとうりょう号
ヨハネス・ラウベ氏
マルティン・クラーツ氏
天理教展覧会以降
まとめ
エピローグ
交流史②(近藤雄二・森本智士)
はじめに
ドイツ学科文化実習先としてのマールブルク大学
1996 年の学生交流協定
協定調印以降の交流
共通の宗教テーマによる共同研究プロジェクト
学術交流協定への大幅な改定、その背景
国際スポーツ交流実習のはじまり
ゼロからのドイツ語研修
天理市とマールブルク市の友好の芽
マールブルク市への天理職員の派遣
マールブルク市長の天理訪問
まとめ
エピローグ、フォペルの地球儀
思いで(橋本武人)
はじめてのマールブルク訪問
第 2 回目は雅楽部海外演奏旅行団長として
第 3 回目は天理大学長として
第 4 回目はシンポジウム参加発表者として
天理に迎えたマールブルク関係者
1960 年から今日まで(マルティン・クラーツ)
パートナーシップについて(ヴェルナー・シャール)
年譜:
「マールブルクと天理」
― 10 ―
マールブルクと天理 交流史①
マールブルクと天理 交流史①
Austauschgeschichte zwischen Marburg und Tenri I
菅井 宏史
SUGAI, Hiroshi
はじめに
ドイツ・マールブルク市のエゴン・ファウ
ペル(Egon Vaupel)市長一行が去る 2015
年 3 月 31 日から 4 月 5 日にかけて天理を
の「天理教展覧会―ようきぐらし」
(以下、
天理教展覧会)が如何に重要な出来事であっ
たかは、今更言うまでもないであろう。
これは、マールブルク大学宗教博物館が主
催した天理教をテーマとする学術展で、マー
訪れた。天理大学創立 90 周年、天理市制施
行 60 周年を祝うための表敬訪問であった。
天理・マールブルク間には長い交流の歴史
があることはすでに知られている。現在の天
理大学・マールブルク大学間の交流協定もこ
の歴史の上に築かれたものだが、そこに「現
職のマールブルク市長の天理市来訪」という
ルブルク大学図書館を会場に、1975 年 5 月
12 日から同年 6 月 15 日まで開催されたも
のである。
マールブルク大学では、大学図書館のロ
ビーを会場に、年に数度、学内の各学科、学
部、付属の研究機関等が持ち回りで学術展を
新たな歴史の一ページが加わったのである。
これをきっかけに、今後両市の間の交流がい
開催するのが恒例となっているが、この天理
教展覧会も実はその範疇に属するものでも
よいよ本格的に始まる、ということなのであ
ろうか?
実は、中山正善二代真柱が 1960 年に初め
てマールブルクを訪れた後に、両市の間で姉
妹都市関係を結んではどうか、両大学間で教
あった。しかしながら、この時の天理教に関
する学術展は、歴史あるマールブルク大学図
書館展の中でも類を見ないもので、未だこれ
を超える規模の展示は行われたことがないと
いう。これは筆者が十数年前にマールブルク
授交換をしてはどうか、という話が既に持ち
上がっていたらしい 1)。その時は諸般の事情
関係者から実際に聞いた話である。
から実現には至らなかったようだが、それか
さて、その天理教展覧会のオープニングで
ら三十数年後の 1996 年、両大学間で相互交
流協定が結ばれ、そして五十数年が経った
2015 年 3 月にマールブルク市長が天理市を
表敬訪問したのである。両者の関係は、事実
として今そのような段階にまで達している。
挨拶に立った関係者の多くが、それまでにす
でに構築されていた「マールブルクと天理」
の関係について触れている。
中山善衛真柱は「… ところで、考えてみ
ますと、マールブルクと天理との間には、長
本稿はそうしたマールブルクと天理の歴史
の淵源を可能な限り遡り、そこから始まった
両者の交流の歴史を紐解くことに主眼を置く
ものである。
い交流の歴史がございました。わけても、私
の父である二代真柱が、1960 年に当地で開
かれました国際宗教学宗教史会議に出席いた
しまして、天理教に関する研究発表をして以
来、その密度が一層濃くなったように記憶す
るのであります。…」2)と述べている。
同図書館館長のフランツ・ハインリッヒ・
天理教展覧会(1975 年)の開会式
天理とマールブルクを語る上で、1975 年
1)教祖九十年祭たすけ委員会 ,1976, p.3
2)教祖九十年祭たすけ委員会 1976, p.ii
― 11 ―
マールブルクと天理 交流史①
フ ィ リ ッ プ(Franz-Heinrich Philipp) 教 授
は、「この展覧会は、マールブルクと長年に
わたって友好関係を持ってまいりました今の
時代を共に生きる日本の宗教教団、天理教を
よって育てられてまいりました」5)と、この
関係が特にヘーニッシュ氏を中心として築き
上げられてきた点に触れている。
この時の関係者らの発言の中に「マールブ
描き出すことに寄与するものです」3)とその
関係に触れ、続いて、元館長ヴォルフ・ヘー
ニッシュ(Wolf Haenisch)博士は、
「天理と
マールブルクの関係を強めたのは、中山正善
氏の開放性によるところが大きいのでありま
ルクと天理」を語る上でのキーワードがいく
つか登場しているが、それらを手掛かりに、
天理教展覧会のあとさき、つまり、1975 年
へと至る「それまでの歴史」と、そこからさ
らに、1996 年の天理大学とマールブルク大
学との相互協定に至るまでの「それからの歴
史」について振り返ることにしたい。
す。第十回国際宗教学宗教史学会の際に、す
でに述べられたように、私たちの神学部のフ
リードリッヒ・ハイラー(Friedrich Heiler)
、
エルンスト・ベンツ(Ernst Benz)両教授と
の繋がりを築いたことにもよりましょう。当
地の宗教博物館によって、一度も絶えること
なく持ち続けられた関係は、さらに、マール
ブルク出身の若き学徒たるヨハネス・ラウベ
(Johannes Laube)氏による天理大学での 3
年間の滞在を通して、一層強固なものになり
ました」と述べ、そしてさらに「親愛なる富
永先生、ここで一言申し上げることをお許し
ください。貴方は、1952 年にはじめて、マー
ルブルクを訪れられたのですが、長い年限の
後、またこうして、ここで再会できましたこ
とをうれしく思います」4)とも述べている。
また、宗教学科のクルト・ゴルダマー(Kurt
Goldammer)教授は「天理とマールブルク
の関係は既に述べられましたように、もう長
い間続いております。この関係はかなり以前
から、マールブルク出身の日本学者たち、そ
してその老大家であるヘーニッシュ教授に
山口繁雄氏とヴォルフ・ヘーニッシュ氏
天理とマールブルクを語る上で先ず登場願
わねばならない人物がいる。山口繁雄教授で
ある。
山口氏は中山正善天理教二代真柱の旧制大
阪高等学校時代の同期生で、同校を卒業後、
京都帝国大学に進学。そして在学中、ライ
プツィッヒ大学との交換留学プログラムで、
1930 年から 1932 年にかけてドイツ留学を
経験する。その後中山正善氏との縁で天理に
迎えられ、天理図書館が 1932 年から 1940
年まで発刊した英、独、仏語による外国語新
聞 TENRIKYO のドイツ語の翻訳、編集等に
携わる。更に、天理外国語学校のドイツ語講
師、戦後は天理大学ドイツ学科の教授として、
その一生を天理でのドイツ語学・文学の研究
とその教育に捧げられた。
この山口氏がライプツィッヒ大学に留学し
た際の、ライプツィッヒ大学から京都帝国大
3)“Die Ausstellung ist der Darstellung einer zeitgenössischen japanischen religiösen Gemeinschaft, der Tenrikyo
gewidmet, zu der von Marburg aus seit langen Jahren freundschaftliche Kontakte bestehen.“(教祖九十年祭たす
け委員会 1976: 110)
4)“Nakayama Shozens Aufgeschlossenheit ist aber auch der Ausbau der Verbindung mit Marburg zu verdanken,
dadurch daß er anlässlich des Internationalen X. Religionsgeschichtlichen Kongresses, wie schon gesagt wurde,
Beziehungen mit den Professoren unserer theologischen Fakultät Friedrich Heiler und Ernst Benz aufnahm. Eine
Beziehung, die dann von der Religionskundlichen Sammlung ununterbrochen sorgfältig weitergefpflegt wurde,
und die zuletzt noch durch die dreijährige Tätigkeit eines jungen Akademikers aus Marburg Johannes Laube an
der Tenri-Universität ihre Bestätigung fand.[…]Für Sie, lieber Herr Tominaga – erlauben Sie mir alle bitte die
Anmerkung – der Sie Marburg 1952 zum ersten Mal besuchen, ist das ein Wiedersehen nach langen Jahren.“(教
祖九十年祭たすけ委員会 1976: 112-113)
5)“Die Beziehung Marburgs zu Tenri dauern, wie eben angedeutet wurde, schon eine geraume Weile. Sie werden
seit langem besonders von Marburger Japanologen und dren Nestor Professor Dr. Haenisch gepflegt.”(教祖九十
年祭たすけ委員 1976: 114)
― 12 ―
マールブルクと天理 交流史①
ヘーニッシュ氏、マールブルクへ(1950 年)
学へ交換留学生として来日した人物が先に名
前が登場したヴォルフ・ヘーニッシュ氏で
あった。交換留学生同士として両者は以来親
交を持つに至るが、この山口氏とヘーニッ
シュ氏の親交が、その後中山正善氏と同氏の
親交へと発展してゆくこととなる。
ヘーニッシュ氏と山口氏の関係について
は、ヘーニッシュ氏の教え子の一人シャウ
ベッカー氏(Schaubecker)が、
ヘーニッシュ
氏への追悼文の中で次の様に述べていること
からも、
その堅固な友情関係の程が偲ばれる。
ヘ ー ニ ッ シ ュ 氏 は、 戦 前 及 び 戦 後 の
1950 年 ま で は ベ ル リ ン で 暮 ら し て い た。
1945 年 か ら は 公 共 学 術 図 書 館 Öffentliche
Wissenschaftliche Bibliothek(旧プロイセン州
立 図 書 館 ehem. Preußische Staatsbibliothek)
の初代館長として、戦争で大きな損傷を受け
た歴史あるプロイセン州立図書館の復興のた
めに尽力していた。そして 1950 年にテュー
ビンゲン大学とマールブルク大学の双方から
招請を受け、氏は大学図書館館長としてマー
ルブルク大学に着任することになる 8)。それ
「京都の留学時代の知人たちとは、その後生
涯の友として関係が続くことになったが、わ
ゆえ「マールブルクと天理」という観点から
けても後年天理大学のドイツ学科教授となる
山口繁雄氏との関係は、学術的繋がりの中心
的なものとなり、
1958 年 -1959 年、
1963 年、
1977 年と日本を訪れる度に、ヘーニッシュ
氏をその大学の有名な図書館へと導くことと
すれば、1950 年という年がその歴史の始ま
りと言うことができるかもしれない。
なった」6)。
れたのかは、氏がベルリンの公共学術図書館
館長を務めていたということとおそらく無関
ヘーニッシュ氏が天理を最初に訪れたの
係ではないだろう。余談ではあるが、多少そ
の辺りの経緯を述べておくことにしたい。
は、実はそのもう少し前、天理市が誕生する
以前の、まだ丹波市町と呼ばれていた時代の
昭和 23 年ごろであったらしい。当時の天理
語学専門学校のドイツ語部の生徒を前に講演
を行なっているようで 7)、おそらくこの時に
山口氏を介して中山正善氏はヘーニッシュ氏
と面識を持つことになったと考えられる。
マールブルクと天理の歴史というのは、つ
まりはマールブルクの関係者と天理の関係者
間の交流史ということにもなろうが、ヘー
ニッシュ氏と山口氏の関係も、ヘーニッシュ
氏と中山正善氏の関係も、実はこの時点では
まだ「マールブルクと天理」という関係枠で
のことではなかった。ヘーニッシュ氏がまだ
マールブルガー(マールブルクの人)ではな
かったからだ。
ところで、ヘーニッシュ氏がなぜテュービ
ンゲンではなくマールブルクの招請を受け入
ベルリンにあるプロイセン州立図書館は戦
前、その蔵書の質と量においてドイツ語圏随
一の規模を誇っていた。戦時中の空爆から
蔵書を守るため、1941 年から一部を除く約
300 万冊全ての図書の疎開措置が取られる
ことになり、ドイツ国内の約 30 箇所(鉱山
の中や、教会、お城、学校など)に分散して
移されたという。
戦後、ソ連の占領地域(旧東ドイツ)とな
る場所に移されていた図書は、ソ連軍などに
よって処分されたり、接収されるなどして、
約 80 万冊が再びベルリンに戻ることはな
かったのだという。アメリカ、イギリス、フ
ランスの占領地域(旧西ドイツ)となる場所
6)“Einige in jener Zeit in Kyoto entstandene Bekanntschaften wurden dauerhafte Freundschaften,[…]
insbesondere wurde die Beziehung zu dem späteren Orginarius für Germanistik an der Universität Tenri, Sigeo
Yamaguchi, zu einer tragenden akademischen Verbindung, und weitere Aufenthalte in Japan, 1958/59, 1963 und
1977, führten Wolf Haenisch stets zu der dortigen bedeutenden Bibliothek.“(Schaubecker, 1984)
7)教祖九十年祭たすけ委員会 1976, p.2
8)Schaubecker, 1984, p.3
― 13 ―
マールブルクと天理 交流史①
に移されていた図書に関してはそのようなこ
とはなかったものの、プロイセン州立図書館
自体が東ベルリン地区に位置していたため、
冷戦下においてはこれらの図書は行き場を失
うこととなった。そして、それら図書の “ 亡
命先 ” として白羽の矢が立ったのが実はマー
ルブルクであった。1947 年にマールブルク
大学図書館内に、旧プロイセン州立図書館の
図書を管理維持するための図書館が設置され
たのである 9)。
プロイセン州立図書館復興のための学術図
書館初代館長であったヘーニッシュ氏にとっ
言えるだろうが、マールブルク大学の宗教
学 関 係 の 研 究 機 関 が、 神 学 部 の 宗 教 史 学
科(Fachgebiet Religionsgeschichte)、 非
欧州言語文化学部の宗教学科(Fachgebiet
Religionswissenschaft ― 現 在 は 組 織 改 編
され、社会学・哲学学部内に宗教学科の講
座が開設されている―)、そして宗教博物館
(Religionskundliche Sammlung)と、三つも
存在するというのも実に異例である。
国際宗教学宗教史会議が戦後、アムステル
ダム、ローマ、東京/京都という大都市に続
いて、1960 年にドイツ語圏としてははじめ
ては、マールブルク大学を選ぶのは、ごく自
然な流れであったように思われる。
て、この小さな町で開催されたのも、そうし
た「マールブルク宗教学」の伝統ゆえであっ
た。そして、このマールブルクでの宗教史学
1950 年のヘーニッシュ氏の選択が仮に
テュービンゲン大学であったとして、今日の
マールブルクと天理の関係のような状況が
テュービンゲンでも起こり得たのであろう
か?中山正善氏及び山口繁雄氏とヘーニッ
会において、天理教の中山正善二代真柱と
マールブルク関係者との間の関係は決定的に
深められることになる。
また、1975 年の天理教展覧会での開会式
で、ルドルフ・ツィンゲル(Rudolf Zingel)
シュ氏の交流が、
その後も続くと仮定しても、
それ以上の発展がテュービンゲン大学で可能
学長が「私は、この展覧会が、偶然にこのマー
ルブルクで開催されるようになったのではな
であったのだろうか?マールブルクならでは
の客観情勢というものが、その後の天理と
マールブルク関係の構築に大きな役割を担っ
たことの高い蓋然性は、以下のような点から
も考えられるのである。
いと思っております。マールブルクの偉大な
宗教学者たちは、特に東アジアの分野の研究
に重点をおいた学問的伝統を作りました。当
大学の宗教博物館に収集されておりますもの
が、そのことの確かな証拠であります」10)
マールブルク宗教学
ドイツ語圏の大学の中で、宗教学・宗教
と語っているように、マールブルク宗教学の
伝統、特に東アジアに重点を置く学問伝統が
あったからこその天理教展覧会の開催であっ
史分野におけるマールブルク大学の名声
は、ルドルフ・オットー(Rudolf Otto)
、フ
リ ー ド リ ッ ヒ・ ハ イ ラ ー、 ク ル ト・ ゴ ル
ダマーなど著名な学者の名と共に揺るぎ
な い も の で あ っ た。 そ し て そ れ 故 に、 と
たわけである。
つまりマールブルクと天理を語る際に欠か
せない 1960 年と 1975 年のこの二つの大き
な出来事は、テュービンゲン大学では起こり
得なかった、と言ってよい。
9)この図書館は、ヘッセン図書館(Hessische Bibliothek),西ドイツ図書館(Westdeutsche Bibliothek),そし
てプロイセン文化維持財団州立図書館(Staatsbibliothek Preußischer Kulturbesitz)と名称を変えながら、1968
年までマールブルクに置かれていた。マールブルクはその間 Bibliotheksstadt(図書館都市)と呼ばれ,西ドイツ
の中でも特別な役割を担っていた。
10)“Meine Damen und Herren! Ich glaube, es kommt nicht von ungefähr, daß diese Ausstellung in Marburg
stattfindet. Große Religionswissenschaftler aus Marburg haben wissenschaftliche Traditionen begründet, die
schwerpunktartig nach Ostasien hin orientiert gewesen sind.“(教祖九十年祭たすけ委員会 1976: 111)
― 14 ―
マールブルクと天理 交流史①
富永牧太氏とヘーニッシュ氏
天理図書館館長の富永牧太氏は、1952 年
8 月から 12 月にかけて欧米の 50 余りの図
書館の視察を行っているが 11)、その際にマー
る。その中でヘーニッシュ氏に関しては以下
の記述がある。
「図書館に、ヘーニッシュさ
んを訪ねました。京都大学で学んだ経験のあ
る、日本語の上手な方です。天理大学の山口
繁雄君と交換されて、第一回交換留学生とし
ルブルク大学のヘーニッシュ氏を訪ねてい
る。当然二代真柱及び山口氏からのメッセー
ジを携えてのものであっただろうが、これ以
て日本に来た方で、富永君などもよく知って
いる方です。…」。また、9 月 16 日の中山
正善氏の研究発表当日の記述には、「八時半
に出発、発表に出かけました。何となく気を
重くしてきた日です。三階の二十五番教室で
発表しました。ヘーニッシュさんの司会で
あったので、少々知己を得た思いで気が楽で
降両者間の交流も始まることとなった。互い
に図書館長として、両者の間には同じ立場の
者同士の特別なものがあったことが想像され
る。
ヘーニッシュ氏自身が日本学者として、後
の 1965 年 11 月に、約一カ月間天理に研究
滞在することがあったが 12)、氏の天理図書
した」13)とある。
実はその二十五番教室には、その後の「マー
ルブルクと天理」のキーマンとなる、マルティ
館での新井白石研究のために、富永氏があら
ゆる配慮をしたであろうことは想像に難くな
い。ヘーニッシュ氏が 1975 年の天理教展覧
会開会の挨拶の際に「親愛なる富永先生、
…」
と個人名をもって富永氏のことにわざわざ触
れたのは、そうした特別な間柄からであり、
その富永氏と再びマールブルクで再会できた
ことを、ことのほか喜んでのものだったに違
いない。
この 1952 年の富永氏との出会いの後、次
の交流の機会は 1958 年のヘーニッシュ氏の
天理訪問であった。そこでさらに深められた
双方の絆が、1960 年にマールブルクで開催
された第十回国際宗教学宗教史会議へと繋
がってゆくのである。
中山正善氏と第 10 回国際宗教学宗教史会議
(1960 年)
中山正善氏の著書『北報南告』に、学会参
加のためはじめてマールブルクを訪れた際
の、その滞在の様子が細かく記録されてい
ン・クラーツ(Martin Kraatz)氏の若かり
し姿もあった。その時の様子をクラーツ氏は
後年こう語っている。
「この発表の後、ヴァン・
ストラーレン(Henry van Straelen)氏が真
柱に対して少々いじわるな質問を投げかけた
が、その時、司会のヘーニッシュ氏が機転を
利かせて、直接真柱から答えてもらわなくて
もいいように、出席者のその場の討論に切り
替えた」。
さて、この『北報南告』を見ると、マール
ブルクでの真柱一行に対する歓迎ぶりはヘー
ニッシュ氏のみならず、様々な関係者によっ
ても示されていることが分かる。特にベンツ
教授、ハイラー教授という名前がよく登場し
ている。
山口繁雄氏は、『みちのとも二代真柱追悼
号』の中で「二代真柱とドイツ人」という追
悼文を寄せているが、その中に次の様な、両
氏に関しての記述がある。「僕は専門がドイ
11)9 月にデンマーク・コーペンハーゲンで開催された国際図書館協会会議にも出席している。
12)教祖九十年祭たすけ委員会 1976, p.2
13)中山 ,1960,134。この時の中山正善氏の発表テーマは “The Various Form of Verbal Evolution in Tenrikyo
Doctrine”。同じ分会の中でヴァン・ストラーレン氏も “Tenrikyo, die Religion der Himmlischen Weisheit Japans
größte religiöse Bewegung”(天理教、天の理の宗教、日本最大の宗教的運動)と題する天理教をテーマにした発
表をおこなっている。「元の理」、「かしもの・かりもの」「出直し」「ようきぐらし」等の内容がそこで説明されて
いる。(I.A.H.R 1961:121-123)
― 15 ―
マールブルクと天理 交流史①
ツ語の関係から、ドイツ人と共に真柱にお会
いする機会が何度もあった。学者、宗教家、
政治家と各方面の、それも本国では一流の、
時には世界的に有名な人がおぢばを訪ねて来
た。
(…)三年前ドイツに行った時、おぢば
に来た事のある二、
三の人を訪ねて見た。
マー
ルブルク大学のベンツ教授は、真柱からも
らったハッピを見せ、先週もある会で天理教
のことを話したばかりだといった。
(…)
マー
ルブルクの山上にある博物館には天理教のお
面がおさめてある。ミュンヘンのハイラー教
Glasenap)博士と共に天理教本部の夕づとめ
を見学。その後、中山正善二代真柱と夕食を
共にしている 18)。
氏はその後度々天理の地を訪れており、同
年 12 月 3 日には「十八世紀におけるプロテ
授 14)は、天理から来たと聞いて、いそがし
い時間をさいてくれた。なつかしい天理の事
を思い出し、今一度お訪ねしたいのだが、そ
れも老齢と持病のため実現出来ないと残念
がっていた。別れに臨んで、真柱に宜敷と、
いつ迄も手を握りしめた姿が印象的であっ
た。日本人であると、
外国人であるを問わず、
スタント伝道初期のはじまり」、同 10 日は「ド
イツ古典文学と哲学に現れた再生観念」と題
する特別講義を天理大学でそれぞれ行ってい
る 19)。また、翌年 1 月には天理教の正月の
行事、お節会にも参加した 20)。さらに 2 月
26 日にも中山正善氏を訪ね、ドイツの教会
建築様式(コプラと称する半球の丸屋根天井)
をスライドで紹介する 21)など、天理訪問を
接する者に与える真柱の魅力は誠に不思議で
ある。一度おぢばを訪れた事のある人は、何
れも真柱のお姿を忘れない」15)。
重ねて、中山正善氏との親交を深めていった。
ベ ン ツ 氏 は、 天 理 で お 節 会 に 参 加 し た
際 の 印 象 を、 帰 国 後 に 新 教 の 年 次 報 告 書
Quatember 誌 の 23 号(1958/59) に 掲 載
した “Japan、Asien und die Christenheit(日
本、アジアそしてキリスト教徒)“ と題する
エルンスト・ベンツ氏の天理訪問
エルンスト・ベンツ博士はマールブルク大
学神学部の教授で、キリスト教の教会史、神
秘主義研究家として知られている。同氏に関
しての『北報南告』での記載は以下の通りで
ある。「日本で知り合ったベンツ博士のお宅
へ招かれました」16) 及び「九時、ベンツ博
士の迎えをうけて、近代寺院建築研究所を訪
ねまして、ロッグ博士の説明を聞きました」
17)
たい。
ベンツ氏が初めて天理を訪れたのは 1957
年 9 月 12 日であった。おそらくヘーニッシュ
氏がとりなしての訪問であったと思われる。
この時同志社大学客員教授として京都に滞在
中であったベンツ氏は、ドイツのインド学の
大家フォン・グラーゼナップ(Helmuth von
。さて、そのベンツ氏との最初の出会いと
いうのはどういうものであったのだろうか。
1960 年から少し時間を戻して振り返ってみ
研究報告の中で、次のように述べている。
「キリスト教以外の宗教で愛餐を共にした
中で、印象深かったことの一つが、天理教の
真柱から招待を受けて参加した教団の行事で
ある。
(…)この教団では正月にお節会とい
う行事を行ない新年を祝う。天理市を訪れた
その日、私は一万五千人の信者が集って、一
緒にお餅を食べる様を目にした。
(…)それ
14)ハイラー氏は 1961 年,40 年間滞在したマールブルクの地から,出生地のミュンヘンへ戻り、そこで生涯を
終えている。
15)山口 ,1968, 213
16)中山 ,1960,133
17)中山 ,1960,137
18)天理教道友社 ,1957(9 月 22 日号)
19)天理教道友社 ,1957(12 月 8 日号)
20)天理教道友社 ,1958(1 月 12 日号)
21)天理教道友社 ,1958(3 月 2 日号)
― 16 ―
マールブルクと天理 交流史①
はまことに、五千人もの人を一度に給食する
という壮観な図であった。焼いた餅を熱いだ
し汁とともに食べるのだが、数百人の信者が
餅焼に精出し、他の人達はそれを大広間にい
る何千もの人達に配っていた。どの信者も一
杯の酒をふるまわれ、祭壇に供えられていた
大きなお餅は切り分けられて供される。私は
このお節会に、全ての信者と同様の、背中に
「天」と「理」の二文字が記されている法被
という黒の服を着た真柱と席を共にさせてい
ただいた。全体に、実に純粋で、自由意思か
姿もあった。この時ハイラー氏は二代真柱と
個別に会う機会を持ったのだが、その仲介も
ヘーニッシュ氏であったようだ 24)。
フリードリッヒ・ハイラー氏
“Das Heilige“(聖なるもの)の著書で知ら
らなる、陽気さの溢れる教団との印象であっ
た」22)。
れるルドルフ・オットー氏と並んで世界的に
も著名なハイラー氏は、マールブルク宗教博
物館の三代目の館長もつとめた、マールブル
ク宗教学を代表する学者である。1917 年に
著された氏の代表著書 “Das Gebet“(祈り)は、
宗教学の古典として知られている。
日本で行なわれた大会から二年後の 1960
第 9 回国際宗教学宗教史会議
年、第 10 回国際宗教学宗教史会議がマール
ブルク大学で開催された。組織委員会の代表
このベンツ氏の研究報告が発表された
1958 年といえば、第 9 回国際宗教学宗教史
会議が日本で開催された年である。この国際
会議の戦後以降の開催は、五年に一度を原則
として今日まで続けられているが、第 9 回
の日本(東京/京都)開催だけは唯一例外
で、1955 年の第 8 回ローマ大会から三年後
の 1958 年に行なわれている。
同会議の出席者 215 名はこの時、宗教研
究ツアーの一環として、9 月 6 日と 7 日の
両日天理を訪れている。一行は神殿、教祖殿
での本部員による説明を最初に受け、その後
おてふり(天理教の手振りを伴った祈りの所
作)
の練習の様子を見学、
夜の歓迎レセプショ
ン、翌日は天理参考館を見学や天理図書館講
堂での討論会などのスケジュールをこなして
いる。参考館では、祭儀に使用するかぐら面
も特別に展示されていたようだ 23)。
そしてその一行の中に『北報南告』で名前
が登場するフリードリッヒ・ハイラー教授の
として開会式の挨拶に立ったハイラー教授
は、同会議に参加した三笠宮様への言葉の後、
「中山」という名前を挙げて次の様な挨拶
を述べている。“We are especially glad that
among them is the Patriarch of the great
religious community Tenrikyo、Nakayama、
by whom we ware received with such kind
hospitality two years ago.“25) 中山正善氏
は『北報南告』の中で、
「ハイラー教授の式
辞の中で、思いがけなくも、一昨年の東京大
会にふれ、かつ天理での接待につき、中山の
氏名さえあげて天理教のもてなしを感謝され
ました。これにはまったく驚き、かえって
私は固くなって、精神的な重荷を感じまし
た」26)と書いている。
その他、『北報南告』の中でハイラー氏に
ついての記述は以下の通りである。「朝九時、
ホフマン博士の車で、睦信などを伴い、ハイ
ラー博士をお城の宗教博物館に訪れました。
開会式のあった所です」27)、「《 この部屋は、
22)E.Benz「天理教のお節会に参加して」『翻訳』1970, pp.41-42
23)天理教道友社 ,1958(9 月 14 日号)
24)Durch seine Vermittlung kamen Begegnungen des Philosophen Nishitani und des Patriarchen der TenrikyoSekte mit dem Religionswissenschaftler Heiler in Marburg zustande, desgleichen ein Vortrag des genannten
Patriarchen anläßlich der internationalen religionswissenschaftlichen Tagung 1960 in Marburg.(Schaubecker,
1984: 6)
25)I.A.H.R 1961, p.40
26)中山 ,1960,128
27)中山 ,1960,133
― 17 ―
マールブルクと天理 交流史①
この付近で一番大きいリッテル・ザールです》
とハイラーさんは説明してくれました。それ
から、エジプトや、キリスト教室、東洋室な
ど、宗教別、地区別にかざられた宗教博物館
を見せてくれました。ハイラー博士は今では
この博物館の主任なのです。二年前、おぢば
で差し上げたひのきしん服も、日本の部屋に
飾られてありました。この日、私は開会式以
来のご好意に応ずる意味でおつとめ衣をおく
りました。次回に訪れたときにはひのきしん
服のそばに飾られてありましょう」28)。
交換プログラムに関しての具体的な話し合い
がなされたのである。また、先に紹介した山
口氏の二代真柱追悼文中に「マールブルクの
山上にある博物館には天理教のお面がおさめ
てある」という記述があるが、このお面がマー
ルブルクに寄贈されたのは、この時のことで
あったと推測される。マールブルクに対して、
中山正善氏がいかに大きな配慮を示していた
かの証であろう。尚、このかぐら面は後年天
理教側からの申し入れで、天理に戻されてい
る。
こうしたヘーニッシュ氏と中山正善両氏の
交流の中で、冒頭にも述べたマールブルク市
このマールブルクでの第 10 回大会は、三
笠宮様のご参加や、日本から大勢の参加者が
あったこともあり、全体的に日本に対する少
なからぬ配慮が感じられる雰囲気があったよ
うだ 29)。前回大会からわずか二年後という
ことで、日本での記憶がまだ鮮明だったこと
に加え、その時の研究ツアーで訪れた教団の
と天理市とで姉妹都市関係を結んではどう
か、マールブルク大学と天理大学とで教授交
換をしてはどうか、という話が浮上したのだ
が、1967 年の中山正善二代真柱の死去とい
う事態もあり、この話が実現に至ることはな
トップが大会に参加しているということで、
開会式のハイラー氏の挨拶の中でのこのよう
な中山正善氏への謝辞となったのであろう。
かったのである。
このマールブルクと天理の関係の一方の
大きな柱を喪失してしまうという状況の中、
いずれにせよ、こうした大きな国際大会の公
式のスピーチの中で、その名前が事改めて取
り上げられるという事実は、歴史的意味とし
て小さくはないであろう。
ヘーニッシュ氏の尽力で、次の交流の芽生え
が新たに生れてくる。
1960 年以降
この 1960 年の宗教史会議参加の後、中山
が、プロイセン文化維持財団の州立図書館の
研究員としてマールブルクに約二年間、図書
高橋慶男氏とあらきとうりょう号
1968 年から天理図書館員の高橋慶男氏
正善氏は 1963 年に二回目のマールブルク訪
問をおこなった。しかしながらこの時は、フ
ランクフルトからの日帰りでの、ほんの数時
間の短い滞在であった。1965 年には、先に
も述べたように、ヘーニッシュ氏が天理に約
一カ月滞在し、ここを拠点に天理図書館など
で新井白石研究をおこなっている。
その翌年の 1966 年、今度は中山正善氏の
館学の研究に従事することとなる。もちろん
ヘーニッシュ氏の力添えであった。この特殊
な図書館の存在が、ヘーニッシュ氏をマール
ブルクへ引き寄せ、天理から高橋氏を呼びよ
せることとなった。そして、この高橋氏から、
マールブルクと天理の次のキーマンであるヨ
ハネス・ラウベ氏へと繋がってゆく。
その高橋氏を訪ねて 1968 年 9 月 18 日、
三度目のマールブルク訪問がおこなわれ、そ
の際にヘーニッシュ氏との間で、両大学間の
天理教青年会のあらきとうりょう号のキャラ
バン隊(山田忠一氏、町田明夫氏、乾光男氏、
28)中山 ,1960,133
29)中山正善二代真柱は、「マールブルクの一週間、それは日の丸に抱かれた一週間でした。日本の庇護の下にく
らしたようにつくづく感じられます」と述べている。(中山 1960: 139)
― 18 ―
マールブルクと天理 交流史①
飯降政彦氏)がマールブルクに立ち寄ってい
る。ヨーロッパからアジアに至る巡回の日々
を記録した『大望の三万五千キロ あら号巡
回記』の中で、隊長の山田忠一氏はマールブ
に傾斜し、ついには博士論文のテーマを天理
教の神観念とすることを決意。帰国後にまと
め上げられたその論文 31)によって、ラウベ
氏は 1976 年にマールブルク大学から哲学博
士号を取得した。
この博士論文『OYAGAMI』の出版の前書
ルクを「おぢばの匂いがいっぱい」と表現し
て、次のように記している。
「マールブルク
は(…)第十回国際宗教学宗教史会議が開か
れ、二代真柱様もご出席になり、本教教理の
一端を披露されたことがある。またこの宗教
博物館には世界各地の宗教に関するコレク
ションに混じって、本教のおつとめ着、かぐ
きには、氏の天理での三年間の研究活動を支
えた関係者の名前が謝辞と共に列記されてい
る。高橋慶男氏と高橋一男氏及びその家族、
田中喜久男氏、宗教学科の芹沢茂教授、高野
友治教授、中島秀夫教授、ドイツ学科の三好
成美教授らの名前が挙げられている。特に中
島秀夫氏はこの本の巻頭緒言執筆者でもあっ
ら面の実物大の模型が陳列してある。この前
で、世界たすけを目指しながら満足そうに立
たれていたありし日の二代真柱様のお顔を、
私は忘れられない。
(…)マールブルクには
ここの国立図書館で高橋慶男君(天理図書館
員)が研究している。
(…)
」30)。
ヨハネス・ラウベ氏
天理大学ドイツ学科では、それまでの非常
勤で済ませていたドイツ人教師を、専任講
師という立場で新規に採用することとなり、
マールブルクに滞在中の高橋慶男氏にその候
補者選定を依頼していた。そして高橋氏を通
じて名前が挙がった人物がヨハネス・ラウベ
氏であった。
ラウベ氏は 1971 年 4 月から天理大学の
ドイツ語専任講師として、天理での三年間を
過ごすこととなる。氏はもともとイエズス会
の神父で、マールブルクで哲学、神学、宗教
学で修士を取得。日本学、中国学等も履修し
ていたため、日本語も堪能であった。天理大
学でドイツ語を教える傍ら、日本滞在中の自
身の研究テーマは当初京都学派の哲学、
「田
辺哲学」を予定し、京都大学にも研究のため
通っていたようだ。しかし次第に天理教研究
た。
ラウベ氏はこの天理教研究の成果を、自
身の論文においてだけではなく、1975 年に
マールブルクで開催された天理教展覧会にお
いても存分に発揮し、極めて大きな貢献をす
ることになる。マールブルクと天理の関係に
おけるラウベ氏の貢献、この展覧会における
ラウベ氏の貢献に関しては、開会式における
関係者のスピーチの中で、繰り返し言及され
ている。
ゴルダマー教授は「ラウベ氏は、天理大学
の語学教師として、現地で活躍しておりまし
たが、快く、展覧会に協力して、天理教の生
活や、その教えの内容を知らせてくれました。
この展覧会の開催に非常に協力してくれまし
たラウベ氏にお礼申し上げます」32) と述べ
ている。
また展覧会の実行責任者であったマルティ
ン・クラーツ氏もその挨拶の中で次の様に述
べている。
「私どもの協力者として、ラウベ
氏の名前をあげるべきであります。氏は語学
教師として、3 年間にわたり天理で仕事をさ
れ、その地で、この宗教を実際に原典類の典
30)山田 1970, pp.119-121
31)博士論文のタイトルは
『親神 現代の天理教神観』
(OYAGAMI Die heutige Gottesvorstellung der Tenrikyo)
「
。親
神」と呼ばれる天理教の神の属性について詳細に論述した B5 版 322 頁にも及ぶ大著で,これほどまとまった形の,
天理教に関して日本語以外の言語で書かれた学術論文は他に類を見ないものである。
32)“Herr Laube hat sich in seiner Tätigkeit an Ort und Stelle als Lektor an der Tenri-Universität mit ihrer
freundlichen Hilfe über das Leben und Lehrgehalte von Tenrikyo unterrichten können. Ihm ist auch mache
Mithilfe an der Gestaltung dieser Ausstellung zu danken.”(教祖九十年祭たすけ委員会 1976: 114)
― 19 ―
マールブルクと天理 交流史①
拠史料によって研究されました。氏からの言
語上の及び事実に即しての説明を受けること
がなかったならば、多くの重要なことを私た
ちは見過ごすことになっていたでありましょ
付の部屋に入って来た。そのなんとも言えな
ラウベ氏はこの天理教展覧会のために、
『天
理教教典』のドイツ語初版(1959)の全面
改訳をおこなった。その後も、
『おふでさき』
、
『稿本天理教教祖伝』という天理教の重要書
い周りを圧倒するような雰囲気に驚き、聞く
とそれは天理教という日本の宗教教団のトッ
プとその一行だという。それがクラーツ氏の
天理教との初めての出会いであった。その時
に中山正善氏が放っていた強烈なカリスマ性
とでも言える何かが、その後天理教に関する
学術展開催というアイディアを生じさせる動
機にもなったと、クラーツ氏は後に語ってい
る。クラーツ氏はまた、二十五番教室での中
物のドイツ語翻訳に全面的に携わることにな
山正善氏の研究発表の際にもその場にいて、
る。この時、共同で翻訳検討作業をおこなっ
たのが、上記の中島、三好の両氏と、岩田春
雄氏の三氏であった。岩田氏はラウベ論文の
一部をいち早く邦訳し、教内にその内容を紹
介した人物だ。
その時の先に紹介したエピソードを伝えてい
る。
1975 年の展覧会のカタログがマールブル
ク大学から出版されている。その緒言でク
ラーツ氏は、同展覧会が開催されるに至る経
マルティン・クラーツ氏
緯を短く述べている。それによると、
「既に
四年前にこの展覧会の構想が同宗教博物館か
さて、いよいよ天理教展覧会以降の「マー
ルブルクと天理」を語る上での最重要人物と
言って差し支えないであろう、マルティン・
クラーツ博士に関してである。
クラーツ氏はハイラー教授の下で宗教学を
ら天理教の真柱に伝えられ、それから二年後
に真柱がマールブルクを訪れた際に、この
マールブルク側の構想に対して、天理教は基
本的にそれに協力する用意がある旨の発言が
真柱からあった。これを受けて、当時の大学
学び、インド学研究で哲学博士号を取得。歴
史あるマールブルクの宗教博物館の 6 代目
館長を 1968 年から 1998 年までのほぼ 30
図書館館長ヘーニッシュ教授が同図書館のロ
ビーでの開催を提案し、次期館長のフィリッ
プ教授もそれに同意してくれた」34)とある。
天理側の記録では、宗教博物館の構想が真
う。この展覧会への氏の貢献は極めて重要で
した。ありがとうございました」33)。
年間の長きにわたり務めた人物である。
氏は中山正善氏を、1960 年の国際宗教学
宗教史会議の際に少しだけ目にする機会が
あったという。それは、ハイラー氏と共に大
会の実行委員に名を連ねていた氏が、事務局
で会議出席者の受付業務をおこなっていた際
のこと。長旅のためか少々くたびれたスーツ
を着込んだ日本人の一行数名が、突然その受
柱に伝えられたのは 1972 年となっている
が、このクラーツ氏の記述に従えば、それが
1971 年ということになる。その後 1973 年
に中山善衛三代真柱自らがマールブルクに立
ち寄り(コンゴ・ブラザビル教会巡教の途次)、
マールブルク側の要請に対して協力を約束し
た。これがこの展覧会の開催が決定したとき
33)Über die Universitätsgrenzen hinaus gingen wir, indem wir auch Lizenziat Laube zu unseren Mitarbeitern
zählen durften. Als Lektor hatte er drei Jahre in Tenri gearbeitet und dort diese Religion wirklich an der Quelle
studiert. Ohne seine das Sprachliche und das Sachliche kombinierenden Exkurse wäre vieles von uns unbemerkt
geblieben. Sein Beitrag zu dieser Ausstellung ist essentiell. Ich danke Ihnen, Herr Laube.“(教祖九十年祭たすけ委
員会 1976: 121)
34)Die Idee einer solchen Ausstellung war schon vor vier Jahren von der Religionskundlichen Sammlung
dem Shimbashira der Tenrikyo vorgetragen worden. Zwei Jahre später erklärte er bei einem kurzen Besuch
in Marburg, daß Tenrikyo grundsätzlich bereit sei. Der damalige Direktor der Universitätsbibliothek,
Professor Haenisch, schlug das Foyer dieses Hauses vor. Sein Nachfolger, Professor Philipp, stimmte dem zu.
(Religionskundliche Sammlung der Philipps-Universität 1975)
― 20 ―
マールブルクと天理 交流史①
の経緯である。開催に向けての具体的な動き
がここから始まった。
この展覧会のマールブルク側の企画推進
の中心メンバーは、クラーツ氏の他、ヘー
夫人の真心溢れる様子、展覧会が始まってか
らの様子や様々なエピソードなどについて
ニッシュ氏、ヒルバート氏(Dr. Peter Paul
Hilbert)
、デーゲン女史(Erika Degen)及び
ラウベ氏の 5 名であった。
一方、天理側も準備委員会(ヨーロッパ
陽気ぐらし展覧会準備委員会)を 1973 年 4
月に立ち上げた。
そのメンバーは以下の通り。
委員長に中山慶一表統領、委員には、喜多秀
義真柱室長、永尾広海道友社長、山澤秀信天
理教校長、深谷善和道友社副社長、土佐元表
天理教展覧会以降
この天理教展覧会の後、1976 年 1 月、ク
ラーツ氏ははじめて天理を訪れている。この
マールブルクでの展覧会に対する天理側の位
置づけは、教祖九十年祭(1976 年1月 26
日~ 2 月 18 日)に向けての記念行事という
ことでもあった。それゆえにこの展覧会の天
理側の開催主体は「教祖九十年祭たすけ委員
会」の下の「ヨーロッパ展覧会委員会」であっ
統領室次長、田中喜久男天理大学長、富永牧
太天理図書館長、丸川仁夫天理参考館長、畑
林清次海外布教伝道部長、篠森靖人海外布教
伝道部次長、森井敏晴海外布教伝道部詰がそ
れぞれ任命された。
た。そうしたことから、クラーツ氏はこの教
祖 90 年祭に天理側からの招待を受け、参拝
そして実際に現地に派遣された主要メン
バーは、畑林清次氏、森井敏晴氏、谷口忠三
氏(海外布教伝道部)
、岩田春雄氏(史料集
することとなったのである。
1977 年 11 月にはヘーニッシュ氏が天理
を訪れているが、これが氏の最後の天理訪問
となった。氏はその翌年の 1978 年 2 月 3 日、
マールブルクにてその 70 年の生涯を終えて
成部)、丸川仁夫氏、近江昌司氏(天理参考
館)、富永牧太氏、木村三四吾氏(天理図書
館)
、
中島秀夫氏(天理大学)
、
三好成美氏(天
理大学)
、木村実氏(道友社)
、東出各氏(技
術スタッフ)の 12 名であった。
この学術展はマールブルク側からの要請で
開催されたものであったとはいえ、
内容的に、
諸宗教の比較宗教学的な展示ではなく、一宗
教のみを対象としたものであったため、教団
の宣伝に州政府が運営する大学が加担してい
る、
という批判を受けかねないものであった。
そのような批判を招かないためのマールブル
ク大学関係者の腐心は相当なものであったよ
うだが、逆に言えばマールブルク側はそのよ
うなリスクを負ってまでしてこれを開催させ
た、ということでもあった。
そのあたりの準備から開催に至るまでの具
体的な経緯、準備に奔走するクラーツ博士と
は、既出の『天理教展覧会―人間の陽気ぐら
しのために―』や、天理教側の開催委員会事
務局詰として準備作業に奔走した森井敏晴
氏による『マールブルク天理教展覧会報告
記』35)に詳しい。
いる。当時の天理教海外布教伝道部ヨーロッ
パ課長の森井敏晴氏が、海外布教伝道部報に
追悼文を寄せ、マールブルクと天理の関係の
生みの親とも言えるヘーニッシュ氏の死を悼
んでいる 36)。
これ以降、マールブルク側の天理との関係
の中心的役割を担う人物はクラーツ氏となっ
てゆくが、天理に対して理解と協力を惜しみ
なく示してくれるこの人物の存在があったか
らこそ、現在までマールブルクと天理の関係
は支えられてきた、と言って差し支えないだ
ろう。
ラウベ氏の後、天理教関係書物(
『稿本天
理教教祖伝逸話篇』『おさしづ抄』はじめ多
35)天理時報の 1975 年 7 月 20 日号から 10 月 12 日号に連載
36)森井 ,1978
― 21 ―
マールブルクと天理 交流史①
数の書物)のドイツ語翻訳に関しての労を長
らく取ってくれたのもクラーツ氏(及びマル
ゴット夫人)ならば、天理の雅楽オーケスト
ラが何度となくマールブルクでコンサートを
だったのが平野睦夫氏の存在であった。
平野氏は天理大学ドイツ学科卒業後、私費
で渡独し、天理教展覧会の準備と会期中の諸
業務に従事した後、そのままドイツに移住。
その後約 20 年間マールブルクに滞在しなが
ら芸術家の道を歩み、ドイツ国籍まで取得し
た人物だ。その間、クラーツ氏にとって平野
氏は常に最も身近にいる天理関係者であっ
た。そうした両者の間の良好な関係が、その
後のマールブルクと天理の関係にとって、決
催す際 37)の、その受け入れに奔走してくれ
たのもクラーツ氏なのである。天理大学と
マールブルク大学の交流協定に向けての最初
の重要な役割を担ったのも実はクラーツ氏で
あった 38)。
氏のその協力を惜しまない姿勢は、その後
のローマのグレゴリアン大学でおこなわれた
して小さくない意味を持ったということは是
非指摘しておきたい点である。氏は現在イタ
リアに在住し、芸術活動に従事している。
39)
シンポジウム
や、天理大学とマールブル
ク大学間での学術シンポジウムの機会でも同
様であった。
ヘーニッシュ氏という日本語が堪能な人物
の存在で始まったマールブルクと天理の関係
であったが、クラーツ氏との間では、ドイツ
そしてもう一人、平野氏と同じような役割
を現在において担っている人物がいる。海外
布教伝道部員として一度マールブルク留学を
経験し、後年、同部を退部した後に、私費で
同大学に再留学した志水美郎氏だ。
語(または英語)と日本語の間の言葉の媒介
者(翻訳者/通訳者)の存在がこの関係を維
氏はマールブルクで修士号取得の後、現在
はケルンに在住。天理教の布教師として従事
持する上で必要不可欠であった。
天理教展覧会をきっかけに、天理教海外布
教伝道部では、マールブルク大学への留学生
として部員(小室、佐々木、菅井、志水)を
随時派遣し、ドイツ語の人材育成及び天理と
マールブルクの関係の継続を図ってゆくこと
しながら、ケルン大学で雅楽を教え、さらに
「天理独日文化工房」40)という文化団体を主
幹・運営し、日本とドイツの文化交流の上に
大きな貢献をしている人物だ 41)。この「天
理独日文化工房」はドイツで社団法人として
の認可を得ているが、実は、
「天理」という
になる。
ところで、そのような部員の派遣と共に、
名を冠するこの法人の理事長はクラーツ氏で
あるという。志水氏からの要請をクラーツ氏
が快く引き受けた結果である。両者の繋がり
マールブルク(クラーツ氏)と天理を繋ぐ役
割、言葉の媒介者というだけではない、ある
種の潤滑油的役割を担ったという意味で重要
の深さの証であろう。
37)天理教音楽研究会の雅楽オーケストラが 1988 年にウィーン楽友協会の招きでコンサートを行うことになっ
た際に,ウィーンの他,パリ,ロンドン,アムステルダムという欧州の大都市での開催も併せて企画された。こ
の時ドイツでの会場となったのは,人口十万人にもはるかに満たないマールブルクであった。さらに天理大学雅
楽部が 1995 年にヨーロッパ演奏旅行を行ったが,その際にもマールブルクが会場の一つになっている。
38)1991 年 7 月から 8 月にかけて翻訳検討会議出席のため天理を訪れていたクラーツ氏は,天理大学の大久保
学長(当時)との会談の機会を持ち、そこで両大学の連携に向けての最初の話し合いがおこなわれている。その後、
教員の相互訪問など交流の動きが少しづつ始まり、1996 年の両大学間の学術・文化交流協定へと繋がっていった。
39)1998 年,ローマのグレゴリアン大学を会場に,天理教側の学者とカトリック側の学者によるシンポジウム「天
理教とキリスト教の対話」が開催された。中立的立場の宗教学者として,マイケル・パイ(Michael Pye)教授,
ニニアン・スマート(Ninian Smart)教授,ヨハネス・ラウベ教授,マルティン・クラーツ博士の 4 氏が参加し
ているが、この 4 氏の内,ニニアン・スマート氏を除く実に 3 名がマールブルクの関係者であった。
40)Tenri Kulturwerkstatt e.V.
41)志水氏はこうした活動が評価され、2011 年に JaDe Stiftung(日独学術文化交流財団)から表彰され、メダ
ルが授与されている。
― 22 ―
マールブルクと天理 交流史①
まとめ
ヘーニッシュ氏と山口氏、ヘーニッシュ氏
と中山正善氏、ヘーニッシュ氏と富永氏、中
山正善氏とベンツ氏、そして中山正善氏とハ
ルブルク大学で開催された国際宗教学宗教史
会議に参加した中山正善天理教二代真柱に関
わる資料、1975 年にマールブルク大学図書
館にて開催された天理教展覧会に関する資料
がそれである。
その 1975 年の展覧会に関係する資料の中
に、マールブルク市内の建物や町の様子を軽
イラー氏。こうした繋がりが背景にあって
の 1960 年のマールブルクでの国際宗教学宗
教史学会。中山正善氏の死去後の、ヘーニッ
シュ氏やラウベ氏と天理関係者との更なる繋
がり。
そしてそうした歴史的背景から、
クラー
ツ氏によって提案され、開催された 1975 年
の天理教展覧会。その後のクラーツ氏と中山
妙なタッチで描いたスケッチ画が何点か展示
されていた。この絵は天理側のスタッフの一
人であった東出 格(ひがしで いたる)氏が
描いたものである。天理教の教会長(柏野分
教会)を務める東出氏は、展覧会会場の設営
のために、その高い大工技術を買われてこの
天理教展覧会のプロジェクトに参加した。絵
の嗜みもあり、展覧会の記録誌『天理教展覧
善衛氏をはじめとする天理関係者との交流の
進展。
マールブルクと天理の関係は、常にこのよ
うな人と人との繋がりと、そこから生まれた
様々な出来事によって形作られてきたことが
わかる。こうした人物間交流が次の時代へと
引き継がれ、それが様々な状況と重なり合い
ながら、現在まで継続、発展を遂げてきた。
現在の状況というのは、正にそうした、ある
種奇跡的連鎖の結果と言えるのではないだろ
会―人間の陽気ぐらしのために―』の中で使
用されているカット群はどれも氏の筆になる
もので、それらの一部が今回の特別展におい
て展示されていた、というわけである。
筆者がマールブルク留学中であったある日
(詳しい時期は失念してしまったが、1999
年ころであっただろうか)
、東出氏の夫人と
うか。
1996 年以降、大学間の連携が本格的に始
まってからの今日までの経緯については、他
稿に譲るが、今のこの天理大学とマールブル
ク大学の関係というのは、正にこうした歴史
の木に実った果実である、と言って間違いな
い。この木を現在に引き継いでいる我々は、
これを枯らすことなく、もっと大きく成長さ
令嬢がマールブルクを訪れたことがあった。
東出氏が他界された後の話である。氏は生前、
ことあるごとにマールブルクでの思い出を家
族に語っていたそうで、このマールブルク訪
問は、「夫の思い出の地マールブルクを是非
エピローグ
マールブルク市長一行が天理に滞在中、歓
迎行事の一つとして天理図書館において特別
展『ドイツと日本』が開催された 42)。同図
書館所蔵のドイツゆかりの稀覯資料が多数展
示されたのだが、それらと並んでマールブル
一度訪れてみたい」という夫人のたっての願
いが実現されたものだった。
この時、クラーツ氏がお二人に会う時間を
作って下さり、ゆかりの地を一緒に巡りなが
ら、東出氏の思い出を夫人にいろいろと語っ
てくれたこと、またこの時夫人は、東出氏の
形見の品(ズボンのベルト)を持参し、
「主
人にとっての思い出に満ちたこの町のどこか
に、これを埋めていただけないでしょうか」
との依頼をクラーツ氏にされたことなどが、
クと天理の交流史に関する資料も何点か紹介
されていた。本稿で述べてきた 1960 年、
マー
今も思い出される。
天理大学の体育学部に今この東出氏の令孫
せる責務を負っていることを改めて自覚した
いと思う。
42)天理大学創立 90 周年記念特別展「ドイツと日本」„Deutschland und Japan“
― 23 ―
マールブルクと天理 交流史①
Religions(I.A.H.R.)1961、X. Internationaler
Kongress für Religionsgeschichte 11. – 17.
September 1960 in Marburg/Lahn
(男子学生)が在学中だという。そして彼は
目下、祖父の思い出の地への留学準備を進め
ている。
(天理教海外部翻訳課,Übersetzungsbüro
Religionskundliche Sammlung der PhilippsUniversität、1975. Yokigurashi Frohes Leben
Ausstellung über Tenrikyo
der Auslandsabteilung der Tenrikyo)
参考文献
Schaubecker、D. 1984 “Wolf Haenisch
(1908-1978)、“ Zeitschrift der Deutschen
Morgenländischen Gesellschaft Band 134 –
教祖九十年祭たすけ委員会 ヨーロッパ展覧
会委員会、1976『天理教展覧会―人間の陽
気ぐらしのために―』
Heft 1
『天理時報』1957 年 9 月 22 日号
『天理時報』1957 年 12 月 8 日号
『天理時報』1958 年 1 月 12 日号
『天理時報』1958 年 3 月 2 日号
『天理時報』1958 年 9 月 14 日号
中山正善 1960『北報南告』
森井敏晴 1975「マールブルク天理教展覧会
報告記」『天理時報』1975 年 7 月 20 日号
から 10 月 12 日号に連載
森井敏晴 1978「ヘーニッシュ氏を偲ぶ」
『天
理教海外布教伝道部報』
山口繁雄 1968「二代真柱とドイツ人」
『み
ち の と も 二 代 真 柱 追 悼 号 』 第 1077 号 pp. 213-214
山田忠一 1970『大望の三万五千キロ あら
号巡回記』
Ernst Benz「天理教のお節会に参加して」
『翻
訳』1970、pp.41-42
International Association for the History of
― 24 ―
マールブルクと天理 交流史②
マールブルクと天理 交流史②
Austauschgeschichte zwischen Marburg und Tenri II
近藤 雄二、森本 智士
KONDO, Yuji MORIMOTO, Satoshi
はじめに
1960 年、二代真柱中山正善氏は、フィリッ
プス大学マールブルク(以下、マールブルク
大学とする)において開催された第 10 回国
城あり、その城をとりまき、石畳の隘路
がクネクネとめぐっていますが、その調
和されたふんい気は少しもコセコセした
感じをあたえません。
際宗教学宗教史会議で研究発表のためにマー
ルブルクに 9 日間滞在した。そのマールブ
住民の方々は親切であり、イライラした感
じは少しもあたえないところに心がうたれ、
ルクの印象を「北報南告」に次のように記し
ている。
こんな所で勉強できる学生がうらやましく思
いました(原文のママ)。2)
さて、マールブルグを去るにのぞんで、
一週間にわたる印象に一言ふれておきま
「こんな所で勉強できる学生がうらやまし
く思いました」と中山正善氏が書き記した
しょう。
マールブルグは山にはさまれた、
谷間の町です。実に落ち着きのある大学
マールブルクで天理大学生が定期的に学びは
じめたのは、1996 年からである。この年、
天理大学は、マールブルク大学と学生交流に
関する協定提携で実現した。
天理大学は、現在 22 の国 ・ 地域で 45 教
街 で、 八 千(?)の学者が、神学、法
経、哲学、医学の四学部にわかれ、哲学
には、理学の部門まで混っていると申さ
れます。学生には恵まれた空気の澄んだ
所で、“ ドイツ中で一番自動車運転のむ
つかしい所です。交通整理はパリに範を
とりました ” と語られました。
私のおりました一週間は、三笠宮様の
おられたときで、駅頭およびクール・ホ
テルの屋上には日の丸が夜となく昼とな
くひるがえり、まったく日章旗に抱かれ
て暮しました。
“ あの山、京都の山のようです。人が
寝ているように見えましよう ” ホテル
の玄関から見ると、向側の山は、京都の
東山のようです。その前にエリザベス寺
院の尖塔がそびえ、その左手の丘上に古
育研究機関と学術交流協定を結んでいる 3)。
はじめての協定校は、1963 年に調印した韓
国外国語学校であるから、そこから数えると
マールブルク大学は 10 校目にあたる。ドイ
ツの協定校は、他に 2008 年に協定調印をし
たケルン大学がある。
本稿は、1990 年以降、2015 年までのマー
ルブルクとの関係を記して、1950 年代以降
からつづくマールブルクとの交流の展開の広
がりと深さに触れたい。
ドイツ学科文化実習先としてのマールブルク
大学
執筆者の一人、森本智士は、1991 年 9 月
1)フィリップス(1 世)方伯(1504-1567)が 1527 年 5 月 30 日、ドイツで最初に設立したプロテスタント大学。1)
フィリップス(1 世)方伯(1504-1567)が 1527 年 5 月 30 日、ドイツで最初に設立したプロテスタント大学。
初代学長は、ヘッセン宮廷裁判所の判決人ヨハン ・ アイルゼルマン、11 人と学生 94 人、あわせて 105 人の登録
のもとで講義がはじまったといわれる。
2)中山正善『北報南告』(道友社 1960)138-139.
3)2015 年 11 月現在の協定校数。2009 年の協定校は 18 ヶ国 29 大学であったが飯降学長就任の 2010 年以降,
大学の国際化、海外協定校やインターンシップ受け入れ企業開拓がすすんだ。
― 25 ―
マールブルクと天理 交流史②
から半年間、ドイツ連邦政府の奨学金を受け
て日本のドイツ語教師を対象にしたセミナー
受講のためにミュンヘンに滞在していた。そ
の時期の天理大学を取り巻く状況といえば、
験、今後の交流の展開の可能性等を考慮しな
おすことになる。その結果、文化実習先は、
急展開してマールブルク大学に決めた経緯が
ある。
1988 年に創設以来の大規模な大学改革のた
めに大学改革推進委員会が発足し、人間学部
の新設と外国語学部を国際文化学部に発展さ
せる大幅な改革改組が学内で承認された時期
にあたり、1991 年度には文部省(当時)の
認可もおり、1992 年 4 月から大規模な大学
改革が実施されるなかにあった。
海外文化実習の受け入れと継続的な展開り
ためには、マールブルク大学と早い時期に交
流協定を結ぶことが望まれる状況がでていた
のである。
森本は、ドイツ語のための海外文化実習の
原案を作成して、シューマー氏と具体的な話
し合いを始めた。プログラム内容は、1991
新しい学部、国際文化学部では、異文化理
解の訓練と国際的コミュニケーション能力の
年にミュンヘンのセミナーで学んだ教授法を
ベースに、言語学習にかかわる理論をもとに
養成を基本理念に掲げ、11 学科からなる各
学科履修学生に学習目標言語を地域で学ぶ新
しい必須科目「海外文化実習」が設置される
ことになっていた。
外国語学部ドイツ語学科は、国際文化学部
作成した。さらにドイツ人学生チューターの
導入も提案した。この案は、謂わば机上の
理論に基づく案であり、新しい試みも取り入
れていたこともあり、有効に実施されるか一
抹の不安があった。森本がミュンヘンで学ん
ドイツ学科となる。1980 年代中頃から自由
参加の形で「海外(ドイツ)研修」の経験を
もつが、本学学生のみを受け入れて教授的試
だセミナーは新しい言語教育のあり方を問う
性格を持っていたのに対して、当時日本で主
流であったドイツ語教育法は、最新の言語教
みを含むプログラムをドイツ語圏大学で見い
だすことは容易ではなく、何度となく学科で
の議論を繰り返し、ミュンヘン近郊のアイヒ
シュテット(Eichstätt)大学を海外文化実習
育法を顧慮しない伝統的なプログラムであっ
たため、あまりにも先進的と考えられなくも
なかったからである。たとえば、スポーツと
ドイツ語を同時に学ぶ身体活動と語学学習を
の最終候補としていた。この時期、ドイツに
滞在していた森本は、ドイツ語学科の意向を
受けてアイヒシュテット大学を訪問し、文化
実習の受け入れと実施の可能性を話し合い、
融合する試みがそうであった。しかしシュー
マー氏は、この原案を受け入れた。マール
ブルク大学の既存プログラムに ”Sport und
Sprachen” があり、担当者のイヴォ・ゼベア
実施できる感触をもち 1992 年 3 月に帰国
した。
そのような時に脇坂豊学科主任(当時)か
ら本学の文化実習に興味を示すドイツの大学
関係者がいることが知らされた。関心をもつ
関係者とは、
マールブルク大学のディーター・
シューマー(Dieter Schümer)氏であった。
ディア(Ivo Severdija)氏の協力も可能なこ
とからスポーツを積極的に組み入れる計画に
なった。セベアディア氏は、クロアチア出身
であったが、当時、スポーツを教えドイツ語
教育に関わっていた。ドイツ人ではないこと
でドイツ語を使わねばならないスポーツ教育
や語学教育を極め、語学教育のあり方を客
シューマー氏は、北海道大学でドイツ語教授
の経験をもち、当時マールブルク大学の国際
交流部長であった。ドイツ語学科は、現地で
の実習受け入れ、運営スタッフ数、大学の規
模と街のサイズ、地理的文化的条件、受け入
れ校のアジア地域の大学との共同作業の経
観的に考えていた当時としてはまだ数少ない
存在であった。実習では、マールブルク大学
のオーストリアにあるヒルシュエッグ研修所
(山の家)でドイツ語によるスキー実習の形
として実現することになる。
― 26 ―
マールブルクと天理 交流史②
1993 年 7 月 に 参加希望学生を募り、集
まった 14 名の学生とともにマールブルク大
学で「語学研修」をはじめて試みた。そして
1995 年 2 月には、この先行試行研修をもと
問)を団長としてヨーロッパ 5 ヶ国 6 都市
を訪問する第 11 回目のヨーロッパ巡演を行
う運びとなり、文化実習の直前に最初の公演
が、マールブルク大学の主によりマールブル
に、新しい国際文化学部ドイツ語学科の新カ
リキュラム、第 1 回目の文化実習を実施す
ることができた。森本、山本伸二の両教員
のもと 32 名の学生が実習に参加し、マール
ブルク大学日本学専攻ドイツ人院生 6 名が
チューターとしてかかわった。
第 1 回目の文化実習は、1 週目「都市とし
ク城の王侯の間で挙行された。クラーツ氏と
マールブルク大学オーケストラメンバーの協
力によってチケットは完売、盛況なうちに終
わった。
てのマールブルクとその歴史」
、
第 2 週目「ド
イツの学校制度と若者達」
、
第 3 週目「スポー
美講師(当時)が、マールブルク大学の招
聘を受けて柔道指導を 4 月からの 1 セメス
ツとことば」のテーマ構成とした。スポーツ
とドイツ語学習の融合は、スキー実習とテニ
ス実習として実現させたが、マールブルク大
学担当者ゼベアディア氏が急逝したため「ス
ポーツとことば」の継続は途切れ、第 2 回
ター担当することになった。この指導には毎
回 40 名ほどが参加し、当時の参加学生や社
会人の多くは、その後柔道クラブ ”Blau-Gelb
Maruburg「柔道クラブ」” に所属し、天理
大学からの留学生や研究滞在の教員らに手厚
目からの実習からは内容を変えて継続するこ
とになる。
シューマー氏は、実習実施のほぼ同じ時
いサポートをしてくれている。
こうした大学間交流は、1996 年 5 月に「天
理大学とマールブルク大学の学生交流に関す
期 に 国 際 交 流 部 を 離 れ、 ド イ ツ の 大 学 入
学をめざす外国人のためのドイツ語授業
(Studienkolleg)を担当する国際言語文化セ
ンター(IZS)長として、天理大学の文化実
る協定」4)
(発効は 9 月 1 日)として実を結び、
植田平一学長(当時)とヴェルナー・シャー
ス ポ ー ツ 交 流 も 1995 年 に は じ ま る。
シャール学長の強い希望で体育学部の正木嘉
ル(Werner Schall)学長(当時)のあいだ
で正式調印された。協定書前文には、
「本協
定は、天理大学とマールブルク大学との 30
年以上に及ぶ友好関係に基づいて締結される
ものである。」と記されている。
習も担当することになった。
1996 年の学生交流協定
菅井論文に記述があるように 1991 年に天
理を訪れた大学附属宗教博物館館長クラーツ
氏は、大久保昭教学長(当時)と両大学の連
携に向けた会談を行う。1993 年 7 月、ドイ
ツ学科によって試行された「語学研修」は、
その交流をより促進することになる。このよ
うな状況のなかでマールブルク大学と本学と
の交流は、意識的かつ積極的に幅広い部門で
行われはじめた。
1995 年 2 月には国際文化学部ドイツ学科
のカリキュラムにもとづく文化実習を行った
が、同時期に(2 月 13 日~ 3/10)天理大
学雅楽部は、橋本武人教授(当時、雅楽部顧
協定調印以降の交流
1996 年 の 協 定 調 印 後、2002 年 と 2006
年にほぼ同じ内容の協定を更新した。ドイツ
で実施した文化実習(文化実習、海外文化実
習を含む)は 19 回、そのうち 16 回をマー
ルブルク大学で実施した(1993 年の試験的
な文化実習を含む)。また協定にもとづく交
換留学生は、1996 年度から 2015 年度まで
の 10 年間で本学 33 名(うち 8 名は認定留
学)
、そしてマールブルク大学生 26 名が本
学で学んでいる。また本学の長期在外研究員
制度(現在の特別研究員制度)を利用して、
4)天理大学編『フィリップス大学マールブルクとの学術交流協定調印の記録』
(天理大学出版部,2013)62-64.
― 27 ―
マールブルクと天理 交流史②
マールブルク大学に研究滞在した教員はのべ
8 名である。
学生交換以外の交流も活発に行われてき
た。1998 年 3 月には、
シャール学長の提案で、
契機となり、天理大学宗教学科とマールブ
ルク大学宗教学科が共通のテーマで議論す
る「天理大学 ・ マールブルク大学共同研究プ
ロジェクト」(Tenri University and Marburg
本学ドイツ学科ゼッテコルン助教授(当時)
の美術展覧会 ”Mingling Spirits”(まじわる
精神 - ヨーロッパと日本)
」がマールブルク
大学附属美術館で開催された。同年の 10 月
には、マールブルク大学交響楽団 60 名が天
理を訪れ、天理市民会館の「祝真柱継承奉告
祭」で演奏をすることになる。
University Joint Research Project)が開催さ
れることになり、以後、継続することになる。
第 1 回目は、2006 年に「相互行為としての
祈 り 」(Prayer as Interaction) を テ ー マ に
マールブルク大学で、天理教教祖 120 年祭
記念として開催された。2010 年には「清め
る:こころと身体の宗教的変容」
(Purification
2000 年には、宗教学科が 25 年前のマー
ルブルク天理教展覧会の立案者、クラーツ氏
: Religious Transformations of Mind and
Body)をテーマに天理において第 2 回目が
を招いて特別講演会「現代世界における宗教
の役割:宗教学者の視点から」を開催してい
る。2003 年には、言語教育研究センターが
シンポジウム「これからの外国語教育を考え
る」を企画し、シューマー氏を招き、マール
行われ、2014 年 9 月にはマールブルクで「宗
教と文化のマテリアリティ」(Materiality in
Religionand Culture)をテーマに第 3 回目が
開催された。
第 1 回目(2006 年)のシンポジウムでは
ブルク大学における外国語教育の報告と実験
授業を行った。
マールブルク大学、バベッテ・ジモン(Babette
Simon)副学長が歓迎の言葉を次のように述
べた。
共通の宗教テーマによる共同研究プロジェク
ト
2004 年には、橋本武人学長(当時)が欧
州の各交流協定校を訪問し、マールブルクを
キリスト教と天理教という宗教的背景を持つ
大学として、長年にわたり協定関係にはあり
ましたが、このたび最初の学術交流が実現し
訪れた際に両大学による国際シンポジウム開
催の企画がもちあがる。橋本学長のマールブ
ルク大学訪問は、最初の訪問先であり、それ
はシャール元学長との約束を果たすものでも
ました。・・・、しかしまた、宗教学以外の学
問分野もこのような共催企画に加えていただ
きたいと思います。たとえば、文化やアイディ
ンティティ面におけるスポーツの統合的効果
あり、同時にマールブルク新学長、V. ニー
エンハウス(Volker Nienhaus)氏に会って
天理とマールブルクとの永い親密な関係を理
解してもらう目的もあった。シャール氏は、
学長在職中に3度にわたり天理を訪問し、そ
の間に大の天理びいきになった。
は、両大学にとって益となるでしょう。体
育学部の教員の交換を確立することも可能で
はないでしょうか。つまり、ヨーロッパのス
ポーツを天理で、日本のスポーツをフィリッ
プス大学で教えるということです。これは、
2 ~ 3 年前に天理大学から柔道の重量級世界
チャンピョンを一学期間、ゲスト講師として
橋本氏の訪問の成果は、マールブルクと天
理の交流、特に学術交流という側面で大きい
ものであった。両者の宗教学者による国際
シンポジウムの企画が持ちあがり、それが
お迎えしたことの延長となるわけですが、今
でもその時のことはよき思いでとなっていま
す 5)。
5)シンポジウムテーマ「PrayerasInteraction」は,マールブルク大学宗教学の権威,ハイラー博士の主著 “DasGebet”
(祈り)に敬意をはらってつけられた。
― 28 ―
マールブルクと天理 交流史②
その 8 年後、2014 年 9 月にマールブルク
で開催されたシンポジウム「宗教と文化の
マテリアリティ」で飯降政彦学長は、“The
World View of Tenrikyo” という講演を次の
には、飯降学長と一瀬孝治国際交流部長らが
訪独して、新しい協定書をカタリーナ・クラ
ウゼ(Katharina Krause)学長との間で調印
した。
言葉で締めくくった。
昨年、今年と、本学の国際スポーツ交流
実習をドイツにて開催し、マールブルク
大学の協力、さらにマールブルク市の支
援もいただきつつ、実に有意義な内容の
研修を行わせていただきました、その
1996 年に学生交流協定が結ばれて以降、
17 年ぶりの大改訂であった。これまで「学
生交流に関する協定」の名称は「学術交流協
定」と変更され、「それぞれの大学の学部・
機関・学科に相互の利益をもたらす教育的学
術的な協同プロジェクトを立ち上げることに
同意する」6)とした。従来の協定内容にある
上からいろいろと考えさせていただく
と、
私ども天理大学が所在する天理市と、
学生留学に留まらず、幅広い学術、文化、ス
ポーツの交流をさらに活発化する内容をもつ
マールブルク大学が所在するマールブル
ク市とは、いろいろな共通点を持ってい
ます。両市の人口がほぼ同じ、双方とも
に歴史的環境に包まれ、大学がある町で
ある。最も貴学は本学の約 6 倍の規模
ことになった。
この協定改定は、1 年以上前から準備され
ていた。2011 年 9 月、ドイツの協定校、ケ
ルン大学に招かれた飯降学長は、森本を同行
しマールブルク大学のクラウゼ学長を表敬訪
問し、両大学における現状と今後を見据えた
協定内容の見直しを協議し、それ以降、両大
学の国際交流部門で意見交換・調整を経て協
ですが…。加えて、この町にはエリザ
ベート寺院があり、最古のカトリック信
徒の巡礼の地であったことを聞いていま
すが、天理市も天理教の聖地であり、多
くの参拝者が寄り集うという環境も似て
いる点であります。
このようなうえから、将来は、天理市
定案を検討してきた経緯がある。
協定を大幅に改定する必要性が生じた両大
学の事情にも触れておきたい。マールブル
ク大学の環境変化は、日本語学科が 2007 年
に廃止されたことである(完全廃止は 2012
年 3 月)。協定にもとづく相互交換学生数は、
毎年各 2 名であるが、日本語学科廃止によ
とマールブルク市が何らかの形でパート
ナーシップを結べるものと期待を寄せて
おります。
このように宗教学、音楽、美術や柔道など
の交流を積み重ねるが、柔道の交流と海外
文化実習の「スポーツとことば」の試みは、
2013 年からはじまる国際スポーツ交流実習
に引き継がれ、さらに活かされ、新しい関係
構築が生まれることになる。
学術交流協定への大幅な改定
国際スポーツ交流実習がはじめてマールブ
ルクで実施される期間(2013 年 2 月 18 日)
り本学への留学希望者の恒常的確保が危うい
状況がもたらされた。また海外文化実習の際
に現地で日本語ができるドイツ人チューター
の確保や交流と支援も得られにくい状況も生
じていた。
一方、天理大学は、1992 年の改革以降、
2003 年に学部改組が行われ、国際文化学部
のドイツ学科はヨーロッパ学科のドイツ語
コースとして編成し直された。この改革によ
るドイツ語コースは、4 年間ドイツ語を学ぶ
学生達が在籍していた。しかし、2010 年に
6) 天理大学編『フィリップス大学マールブルクとの学術交流協定調印の記録』(天理大学出版部,2013)1418.
― 29 ―
マールブルクと天理 交流史②
る 12)。いずれもマールブルクのスポーツ団
再度行われた国際学部への再編成では、ドイ
ツ語コースは廃止され、国際学部の学生は地
域文化学科の専修語 7) の一つとしてドイツ
語を学ぶだけの形態になった。同時にそれま
で毎年度実施の海外文化実習も 2010 年度で
廃止されることになった。
体 BlauGelb の顧問をし、また本学のスポー
ツ交流実習の現地コーディネーターでもある
ヨルグ・チレク(Jörg Chylek)氏の支援で
国際スポーツ交流実習のはじまり
「国際スポーツ交流実習」は、2010 年の
学部改組で国際学部の共通科目(全学開放
科目)
「国際スポーツ協力論」と一対で設
置、開講された。開講の背景には、大学を挙
げてのスポーツ振興 8)が強く関係している。
地域スポーツクラブへの加入が実現したもの
である。
また、マールブルクでのインターシップを
可能にする受け入れ機関も開拓され、出版社
Mediakontakt Laumer と覚え書きを交わし、
2014 年にインターシップが行われている。
国際スポーツ交流実習の内容は、文化実習
でスポーツを取り入れたプログラム実践の経
2010 年の改革は、様々な入試形態が導入さ
れ、その一つに全学的なスポーツ推薦のアス
リート選抜入試 9) が導入された。これに伴
い国際学部(とくに地域文化学科)には、多
くのアスリート系学生が在籍、増加すること
験を活かし、①実習のテーマがスポーツ中心
であること、②参加学生の質の違い、つまり
「ドイツ(語)」を専修する学生ではないこと、
③実習期間を 2 週間とし、マールブルク大
学をベースにケルン体育大学にも訪問するこ
になり異文化とスポーツを結びつけた実習科
目が配置されることになる。
国際スポーツ交流実習は、当時の国際学部
と、④ドイツ語を全く学ぶ機会のなかった学
生にドイツ語研修の授業を提供すること、を
配慮し立案している。
長(吉川敏博)と体育学部長(近藤雄二)が
両学部の協力・連携もとに共同して企画・運
営する申し合わせをする 10)。第 1 回目はカ
ンボジアで行い、第 2 回目以降は、マール
ブルク大学を拠点にしてケルン体育大学と
マールブルクで実施している 11)。
国際スポーツ交流実習の成果として触れ
て お か ね ば な ら な い こ と は、 実 習 を 介 し
2 週間の実施期間のうち、1 週目はケルン
に滞在しドイツ生活に慣れることを主に、ケ
ルン体育大学と交流する。2 週目はマールブ
ルクに移動して、午前中にドイツ語授業を組
て 4 人の学生がマールブルク大学に籍をお
き、地域スポーツクラブで競技能力を学んで
発揮するスポーツ留学を実現したことであ
み込み、午後はスポーツ・アクティビティを
行う構成である。
ケルン体育大学は、身体活動文化研究所
(Institut für Tanz und Bewegungskultur)の
ヴォルフガング・ティート(Wolfgang Tiet)
所 長( 当 時 ) ら 一 行 を 2010 年 12 月、 本
学に迎えての交流が契機となっている 13)。
7)1 ~ 2 年次の 4 学期間でドイツ語を選択して学ぶ形態。2015 年からは専修語が専攻語となり学ぶ期間は 4
期から 3 学期に減じられた。
8)2002 年に学校法人は,天理大学の重点強化競技種目 4 種目(柔道,ホッケー,ラクビー,硬式野球)を決定。
2003 年から重点強化種目の「天理スポーツ選抜」が開始され,2009 年までに体育学部以外で 354 名が入学する。
9)2010 年からは一般強化種目にも拡げた「天理アスリート選抜入試」が導入され,2010 年から 2016 年度入
学者(2016 年度は合格者)は 913 名(体育学部以外 654 名),そのうち 525 名が地域文化学科に所属する。
10)天理大学国際学部・体育学部編『第 1 回目国際スポーツ交流実習報告書』(国際学部・体育学部,2012)4850.
11)実習参加者数は,2013.2 は 62 名,2014.2 が 13 名,2015.2 が 15 名。2016.2 は 14 名で実施
12)2012 年 4 月に 2 名(サッカー),2014 年 4 月には 1 名(サッカー),さらに 2015 年 4 月に女子学生 1 名(ホッケー、
山口育海)がスポーツ留学をし、2016 年度にはフランクフルトのドイツリーグ 2 部チーム(EintrachtFrankfurt)
に移籍してセミプロとしてデビューすることが決定した。
13)2010 年 12 月の交流は,天理大学体育学部国際交流事業として行われた。塚本順子・森本智士監修『表現で
つながる』(天理大学出版部,2011)にまとめられている。
― 30 ―
マールブルクと天理 交流史②
2013 年 2 月のスポーツ実習では、ティート
教授が出迎えプログラムを提供してくれた
が、2 回目以降は同研究所のスタッフ、マ
ル コ・ グ ラ ヴ ン タ ー(Marco Grawunder)
氏 14)らが受け入れ、毎年、プログラムを充
実させている。2015 年 2 月からは、ケルン
体育大学のスタッフの尽力によってホームス
テイが可能になった。
ケルンでの実習プログラムは、ケルン体育
大学の教育 ・ スポーツ ・ 研究施設を見学し、
実技、学習研究空間を肌で感じ取ることを第
1の目標としている。研究所のスタッフによ
る身体表現のワークショップに参加。ワーク
ショップの最後は、各自の専門種目の動きを
とり入れた振りを組み込む作品発表で締めく
歴史に関するテーマをマールブルクという言
葉の意味、街の成り立ちについて、学生達が
直前まで滞在したケルン、自身もケルン体育
大学で学んだ経験をもとに講義をする。
午前中は、マールブルク大学の言語セン
ターとそのスタッフによるドイツ語授業であ
るが、午後からは、さまざまなスポーツへの
参加、交流、実践の場と観戦が組み入れられ
る。
ブンデスリーガ 1 部の女子バスケットの
試合観戦、地元フットサルチームとの交流、
ブラジル柔術の体験、地元サッカーチーム
との交流、アルティメットの体験交流、剣
道クラブとの交流、GSP 機能を用いたマー
ルブルク旧市街地のオリエンテーリング
くる。また参加学生の専門の種目に応じたプ
ログラムも組み込まれ、レスリング部員が参
(Geocaching)の対抗戦への参加、マールブ
ルク市内から出てサッカーブンデスリーガの
加した年度はドイツのトップクラス選手の練
習に参加する機会をもった。またドイツ・ア
ルティメット・フリスビー協会長によるアル
ティメットのレクチャー、チャレンジを踏ま
え、ゲーム展開まで指導される。
試合観戦も恒例になっている。そして、最後
は、マールブルク・ビーデンコップ警察刑
事課のシュテファン・バックハウス(Stefan
Backhaus)氏が考案したクロストレーニン
グと呼ばれるサーキットトレーニングでプロ
その他ケルン滞在中には、カーニバルへの
参加、ケルン大聖堂やホームステイ先でのさ
まざまなイベントの日程を組み込んでいる。
グラムが終了する。
滞在期間中は、歴史と伝統をもつマール
ブルクのギムナジウム phillipinum を訪問す
ケルンからマールブルクへの移動後は、ス
ポーツ実習の恒例になったマールブルク大
学ダンス発表会 15) への参加である。ダン
ス授業履修者の前で天理大学生が作品を披
露し、ブリギッテ ・ ホイジンガー(Brigitte
る。ギムナジウムの数学と理科の教員である
マルクス・ツァウムブレッヒャー(Markus
Zaumbrecher)氏の企画、案内役で、体育を
含む複数の授業に実際に触れ、また教育実
習生が担当する授業参観等も組み込まれて
Heusinger)教授が講評することからマール
ブルクの実習が開幕する。
マールブルク市内を知り、滞在中の生活を
いる。マールブルク市長が主催する歓迎パー
ティは、観光名所の旧市街地の中心にある歴
史的建造物、旧市役所庁舎で催される。
過ごすためのスーパー、コインランドリー等
の案内は、現地のコーディネーターの鶴木泰
子氏とチレク氏が担当し、また言語センター
長であったシューマー氏は、マールブルクの
ゼロからのドイツ語研修
マールブルクで実施するドイツ語授業にも
触れておきたい。参加する学生は、専門的に
14)マルコ・グラヴンター氏らは,2015 年 11 月に開催した天理大学創立 90 周年記念事業,ケルン体育大学と
の交流企画「スポーツとことばの融合」に国際学部、言語教育研究センターと体育学部の招きで天理を訪れ,ワー
クショップ等の学術交流を行った。
15)ホイジンガー教授が担当する教員志望学生必修のダンス授業履修者による学期末発表会の場において,天理
大学創作ダンス部員が天理から作品を用意して実習に参加し,この場での発表が恒例になっている。
― 31 ―
マールブルクと天理 交流史②
ドイツ語を学んでいない学生が大半である
が、マールブルク大学言語センターは、その
事情を考慮して本学スポーツ実習のための
語学研修を組み立てている。森本は、この
のとして、教育できる語学授業を前提と
した作りになっており、我々が日々使う
教室では構造上難しい事もある。本学で
も教室の構造というものにもっと積極的
経過を第 4 回国際スポーツ交流実習報告書
(2015.2)で次のように紹介した。
スポーツ交流実習でドイツのケルン体育
大学とマールブルク大学を拠点に実施さ
れている。事前に大学でドイツ語学習や
それにまつわる授業に触れる学生は多く
な取り組みが必要と考える。内容では文
法を先行して教えるのではなく、ある動
きの中で様々な例文を学習させ、ある程
度学習者の頭に自分でルールをイメージ
させたところで着席し、ホワイトボード
を使っていわゆるオーソドックスな説明
をする手法である。こうしたルールを発
ない。そこでドイツでは少しでもドイツ
語によるコミュニケーションができるよ
見させて学習する手法は、学習効果があ
ると言われ多用されている、SUCHE と
うにとマールブルク滞在の期間の午前
中にドイツ語授業を学生に提供してい
る。この授業はマールブルク大学の言語
センターが担当しているが、このスポー
ツ交流実習を計画するにあたり、旧知で
いったそれを前提とした教科書も出版さ
れている。教科書の DIE SUCHE(探す)
は、犯人を探すというストーリーを展開
しつつ、文法規則なども学習者が探して
見つけることを意識させて、学習記憶の
あったセンター長のズザンネ・ドゥクサ
(Susanne Duxa)氏にこのプログラムの
主旨を理解してもらい、独自のカリキュ
定着などに結びつけるアイデアが盛り込
まれている。本学のドイツ語授業でも、
一時期集中的に取り入れた事もあるが、
ラムを立ててもらった。結果、いわばで
きるだけ早くドイツ語を運用できるよう
にするためのコースとなった。当初はそ
の成果に不安なところもあったが、学生
当時日本では教授者の負担も多く、また
ヨーロッパの言語施策による到達度の明
確化との関連もあり広く使用されること
はなかったように思われる。
の評判も良く、またすぐに使える内容で
もあり、学生達は積極的にドイツ語の世
界に入ろうとしていると言える。
授業は朝 9 時から休憩を入れながら 12
マールブルクでのゼロからのドイツ語
教授は、日々の言語生活を前提とした 5
日間、午前中のみであるがドイツ語のな
んたるかを実感し、もちろん十分とはい
時半まで行われる。内容はもちろん非常
にベーシックなものであるが、その教授
手法は大変興味深いものである。授業中
学生はかなりの時間机から離れ、先生の
指示に従って動く、リズムとともにドイ
ツ語を発音し、ゲームを取り入れたドイ
ツ語練習を行う。とにかく学生を動かす
かないが実際の運用にまでこぎつけるプ
ログラムは大変興味深い 16)。
のは興味深いところである。どちらかと
いえば通常机に座りがちな日々の授業に
も取り入れられる要素となり得る。ただ
一つ教室は、この言語センター独自のも
天理市とマールブルク市の友好の芽
マールブルクで行うスポーツ実習の準備段
階では、これまでの文化実習とは異なり、マー
ルブルク大学の外国人のためのドイツ語教
授を担当する言語センターだけでなく、マー
ルブルク大学のスポーツセンター(Zentrum
für Hochschulsport)のイェンス・クルーゼ
(Jens Kruse)センター長が全面的に協力す
16)天理大学編『第 4 回国際スポーツ交流実習報告書』(天理大学出版部,2015)31.
― 32 ―
マールブルクと天理 交流史②
ることになり、新たな取り組みを軌道にのせ
る見通しができていた。また正木氏がドイツ
滞在中に指導した柔道の教え子達らは、チレ
ク氏とともに地域スポーツクラブとの協力・
ることをお伝えしたく思います。数年の
うちに若い人たちが両都市を相互に訪
れ、お互いに学びまた交流し合う可能性
を提供してはいかがでしょうか。こうし
連携を準備してくれた。さらにマールブルク
市は、スポーツ交流として市で受け入れると
の意を表明し、
市長主催の歓迎会も予定され、
また市スポーツ部門がプログラムを提供する
形として開始されることが決定されていた。
スポーツ実習の受け入れ態勢にマールブル
ク市が協力 ・ 連携することを知った飯降学長
た基礎の後に単なる署名だけの協定書と
は異なる実の伴う両市のパートナーシッ
プへと結びつくものと確信しておりま
す。
マールブルク市はヨーロッパと北アフリ
カに既に6つのパートナーシップを結ん
でおりますが、いずれも市民の強い関与
は、学術交流協定改定調印のために訪独する
際に、マールブルク市長、エゴン・ファウペ
に基づくものであり、それによって強い
パートナーシップが維持されています。
ル(Egon Vaupel)氏を表敬訪問して、
スポー
ツ交流実習の受け入れと各種の援助・支援の
お礼とともに懇談・会談を予定するが、その
際には、マールブルク市長宛ての天理市長南
佳策氏(当時)の親書を持参すべく計画を立
天理市とも同様に将来もそうした訪問を
援助し、また計画に参与して相互の交換
プログラムを発展させていきたいと願っ
ております。
今後とも両市関係がさらにより良きも
てた。
マールブルク市長宛の天理市長の親書に
は、天理大学がマールブルク市の支援のもと
のに発展することを願いながらご挨拶申
し上げます。
に第 1 回目の国際スポーツ交流実習が実施
されることへのお礼、それとともにマールブ
ルク大学と天理大学とともにマールブルク市
と天理市に芽生えた友好の絆をさらに確かな
マールブルク市への天理市職員の派遣
2013 年 10 月、天理市長は、南市長に代
わり新市長に並河健氏が就任した。並河市長
は、「天理教や天理大学などと連携して産業
ものに育てたいという夢が記されていた。
その親書に対してファウペル市長は、次の
ような南天理市長宛ての返書を飯降学長に託
した。
の活性化や街の魅力づくりを進めていく」17)
ことを表明して、これまで天理大学と天理
市との間で行われている協力関係を踏まえ、
「天理市・天理大学包括連携協定」18)を希望
し、その協議を 11 月から始める。その過程
でマールブルク市との交流促進は、前市長か
2013 年 2 月 6 日付けの親書を頂戴し大
変感謝しております。またその心遣い大
変うれしく存じます。このたび貴市にあ
ります天理大学の学生の皆様を私共は喜
んでお迎えいたしました。この度天理大
学とマールブルク大学が学術交流協定を
改めて調印されたことも受けまして、私
どもマールブルク市も将来共同の交換プ
ログラムに参画させていただく用意があ
ら引継いでいる旨が伝えられ、交流促進に積
極的な姿勢を示す。それを受け、飯降学長は、
2014 年の「国際スポーツ交流実習」に天理
市職員を派遣することを提案する。
この提案は、「マールブルクへの学生実習
を含め、天理大学が実施するさまざまな国の
多くの大学との国際交流が市民に知られず行
われていることが大変残念であり、もったい
17)2013 年 12 月定例市議会・所信表明
18)2014 年 4 月 23 日の天理大学創立記念日に調印された。
― 33 ―
マールブルクと天理 交流史②
ない、市としても市民に知ってもらい、また
応援したい」旨の天理市長の返答となり実現
することになった。
ドイツで第 2 回目となるスポーツ実習に
立 90 周年を祝うために天理を訪れることに
言及したのであった。
は、天理市職員の南幸次郎(当時、市長公室
総合政策課)氏が「マールブルク市の『まち
づくりを学ぶ』
」19)ために同行した。南氏は、
マールブルク市長宛の天理市長の親書を携え
るが、そこには、
マールブルク市長の天理訪問
国際宗教シンポジウム(2014 年 9 月)の
ためにマールブルクを訪れた飯降学長は、滞
在中に市会議長・助役らと懇談をして、市長
が来日することを確認し、帰国後に天理市と
連携しながらその準備に取りかかった。マー
ルブルク市長一行の歓迎のために、天理市と
・・・・、今回の『国際スポーツ交流実習』
には、本市職員の南幸次郎が参加の機会
天理大学のそれぞれに歓迎委員会が設置され
ることになる。
を得て貴市を訪問いたします。今回の訪
問では、スポーツプログラムを含めた貴
市の優れたまちづくりを学ぶ機会にした
いと考えており、貴市滞在中には特別の
ご配慮をよろしくお願い申し上げます。
天理大学は「マールブルク市長創立 90 周
年表敬訪問歓迎企画委員会」(委員長:飯降
学長)を発足させ、天理教海外部から切貫
元治、菅井宏史、奥山真一の 3 氏が加わり、
また天理大学附属天理図書館(諸井慶一郎館
さて、本市は 2014 年4月1日に市制
60周年を迎えます。この時期に貴市職
長)の協力を得て歓迎の特別展示会開催のた
め、天理図書館の神﨑順一と福田由紀子の両
員にぜひ天理市を訪問していただきます
よう希望いたします。
氏が担当として協力することになった。
マールブルク市長には、90 周年を迎える
年度当初の入学式での来賓挨拶を依頼するこ
とになった。ちなみに本学入学式で海外から
の来賓が新入生に向かってあいさつをするこ
とは、はじめてのことであった。 入学式においてファウペル市長は、1878
年に地理学者であり日本の研究者であるヨ
と結びました。同時に飯降学長は、実習
責任者森本にマールブルク市長宛の親書
を預け、そこに次のように記した。
・・・、今回は、本学の実習生一行に天理
市職員も加わせて頂きますが、この訪問
がマールブルク市と天理市の交流を進め
る契機となりますことを期待いたしま
す。
さらに天理市長からもご案内の通り、
天理市制 60 周年を迎えます本年、貴市
職員の天理訪問が実現しますことを、本
学においても待望しております。・・・。
さて、天理市職員の訪問、天理市長及び天
理大学長からマールブルク市長宛の親書は、
思わぬ展開を生むことになった。親書を受け
とったマールブルク市長は、市制 60 年と創
ハ ネ ス・ ユ ス ト ス・ ラ イ ン 氏(Johannes
Justus Rein)20) が、ドイツ語圏における日
本に関する大学ではじめての講義をマールブ
ルク大学で行い、その後 1927 年に宗教博物
館が開設されたことを紹介し、また 1970 年
代には、ヴォルフ・ニッシュ氏により日本学
研究所が創設され、これが 1989 年にマール
ブルク大学日本センター設置へとつながった
こと、しかし残念ながら 2005 年にヘッセン
州文部省は日本センターをフランクフルトへ
移転させることを決定し、2007 年から学生
の受け入れを中止し、日本学科は 2012 年に
19)天理大学編『第 3 回国際スポーツ交流実習報告書』(天理大学出版部,2015)13-15.
20)ライン氏は,1878 年にマールブルク大学地理学教授に就任し,
「日本の地理と自然史」,1 年後「日本の文化
史」の講義を行い,マールブルク大学の日本学研究の基礎を築いた。
― 34 ―
マールブルクと天理 交流史②
廃止され、マールブルクでの日本学研究は終
わったことに触れながらも、現在につづく天
理大学とマールブルク大学の交流について
この繋がりは、途切れさせないよう常に
新しい息吹を吹き込み、これまで築き上
げたものを維持する多方面にわたる両者
の営みで支えられてきたもの、
私たちは、
皆がこれに貢献することが出来、またす
べきである。
まとめ
以上、1990 年以降の「マールブルクと天
理」をふり返った。1990 年以降、天理とマー
ルブルクの交流の担い手は、ヘーニッシュ氏
から世代交代し、宗教博物館長のクラーツ氏、
そしてシャール学長へと継承され、また語学
教育のシューマー氏となる。シャール氏は、
学長の立場で交流をおし進め、積極的に環境
づくりを行い協定書に自らサインした。
一方、天理では、1967 年 12 月に中山正
善氏が 63 歳で死去後、二代真柱の意志継承
と述べ、最後に新入生に対して「交換プログ
ラムや留学などでマールブルクにおいて再び
のため、天理教青年会は創立 50 周年記念事
業「天理教青年海外派遣」「海外布教研修会」
「あらきとうりょう号による海外巡回」を発
表し、1968 年には「あらきとうりょう号」
で山田忠一隊長(後に学長)のもと 3 人の
会えることを願っている」と語りかけた。 一方、天理市では、主な市会議員と幹部職
員を前に議場での挨拶を受ける計画を組ん
だ。またこの機会に天理市庁舎 1 階奥ホー
ルに「マールブルク・コーナー」
(仮称)を
隊員がユーラシア大陸 29 ヶ国、7 ヶ月の巡
回行い、その途中、9 月 18 日にマールブル
クに立ち寄る。そこで 3 人の隊員の一人、
常設し、これまでマールブルク市長から並河
市長に贈呈された記念品をはじめ、国際ス
ポーツ交流実習の様子や天理市と共通性をも
つ町の写真展示や観光案内パンフを通して、
マールブルクを多くの市民に知ってもらう企
画を計画した 21)。 このような経緯で、2015 年 3 月 31 日か
ら 4 月 5 日までの間、マールブルク市長夫
妻を始め、ホイジンガー夫妻(マールブルク
大学教員)、ギムナジウム教員でありヘッセ
ン州(競技)柔道、視覚障害者の柔道指導
者でもあるツァウムブレッヒャー氏、地域ス
ポーツクラブのコーディネーター、国際ス
ポーツ交流実習の現地受け入れ担当者の鶴木
氏とチレク氏の7名が天理を訪れた。マール
ブルクとの長い交流の歴史のなかでもマール
ブルク市長が天理を訪れたのは、はじめての
ことであった。
当時 26 歳の飯降政彦青年は、マールブルク
大学において天理教の祭儀資料数点が大学附
属宗教学博物館に展示されていることに驚き
感激したことを記しているが 22)、この時に
クラーツ氏と大学図書館長へーニッシュ氏と
出会っている。時は経ち 42 年後の 2010 年、
飯降氏は、学長に就任して、これまで以上に
大学の国際化を進める。マールブルクとの関
係については、新しい協定書の改訂に取り組
み新協定書に自らサインをするだけでなく、
二代真柱が望んだマールブルク市と天理市と
の友好都市関係づくりに取り組んでいる。
2015 年 4 月、天理大学創立 90 周年を祝
うために訪れたマールブルク市長は、天理を
離れる挨拶のなかで、近い将来、マールブル
クに「天理友好協会」(仮称)を設置するこ
とに言及したことからも交流の発展は次に進
むことになるであろう。天理とマールブルク
を結ぶ交流の担い手は世代間継承をくりかえ
21)マールブルクの観光パンフレット等は,2015.4 月に MarburgTourismusundMargurgGmbH より親善大使を
委嘱された筆者のひとり森本に託され,天理市に届けられた。
22)塚本順子・森本智士監修『表現でつながる』(天理大学出版部,2011)48-50.
― 35 ―
マールブルクと天理 交流史②
しながら確実な歩みを進めている。
市が姉妹都市関係を結ぶことを望み、その翌
年に米国でドイツ・ケルンのフォペル製作の
現存する最も古い地球儀とであう。それは
33 年後にマールブルク大学の学長と、また
エピローグ、フォペルの地球儀
マールブルク市長一行のために開催した特
別展「ドイツと日本」では、ドイツと関係あ
る貴重資料類を展示した。
そこには最古級のドイツの地球儀と天球儀
を配置した。天理図書館には、16 ~ 18 世
紀のヨーロッパ製の地球儀・天球儀類が 51
個所蔵され、わが国でこの規模の地球儀コレ
クションはない。1961 年から 1963 年にか
54 年後にはマールブルク市長が天理で観る
機会がつくられる。
巡り会いと出会いを大切にした天理とマー
ルブルクの交流は、ケルンで製作され天理に
たどり着いたフォペルの地球儀も大きく貢献
している。
けて天理図書館に地球儀 20 個、天球儀 12、
渾天儀 12 の全 38 個がまず収蔵された。こ
参考文献
れらは、1961 年に海外布教のために米国を
訪問した二代真柱中山正善氏がニューヨーク
の古書店のヨーロッパのコレクターから預
かった地球儀 15 個を購入からはじまるが、
そこにフォペルの地球儀もあった。
天理大学(2013.8)
、フィリップス大学マー
ル ブ ル ク((Philipps-Universität Marburg)
と の 学 術 交 流 協 定 調 印 の 記 録 ―1996 年、
2001 年、2006 年、2013 年―、天理大学
数学者であるカスパル ・ フォペル(Caspar
Vopel、1511-1561)は、ケルン近郊に生ま
れケルン大学で数学を修めたギムナジウムの
マールブルク市長創立 90 周年表敬訪問歓迎
企 画 委 員 会 編(2015.4)
、
「ドイツと日本」
“Deutschland und Japan”(特別展図録)、天
数学教師であり、天文学や地理学に興味をも
ち地図 ・ 地球儀や天球儀の製作者としても知
られている。彼が製作した球儀のうち現存す
るものは 9 個、天理図書館所蔵の 1536 年
理大学出版部
製の地球儀はフォペル作の地球儀としては現
存最古のものであり、ケルンに現存する同年
製作の天球儀(直径 28cm)と対をなすもの
と考えられている。
書、ビブリア題 144 号、155-159、附属天
理図書館
1994 年 10 月に協定関係づくりのために
国際交流事務長のトーマス・コム(Thomas
Komm)氏とともに天理を訪れた数学者でも
あるシャール学長は、天理図書館でフォペル
の地球儀とグーテンベルグの四十二行聖書に
であい、この二つをマールブルクで展示する
企画をたてたという。移送時の保険費用が膨
近藤雄二、神崎順一(2015.10)
、マールブ
ルク市長一行歓迎特別展「ドイツと日本」覚
(体育学部、国際学部言語教育研究センター,
Universität Tenri)
大なためにマールブルクでの展示は断念さ
れ、幻の展覧会になったが、11 年後にマー
ルブルク市民の代表である市長にやっと観て
いただけた。
1960 年にはじめてマールブルクを訪れた
中山正善二代真柱は、天理市とマールブルク
2015 年 4 月 2 日及び 3 日開催の
特別展「ドイツと日本」に展示された
フォペルの地球儀と天球儀
― 36 ―
マールブルクと天理 思いで
マールブルクと天理 思いで
Meine Erinnerungen an „Marburg und Tenri“
橋本 武人
HASHIMOTO, Taketo
私 は、1974 年 か ら 2006 年 ま で の 凡 そ
30 年の間に、何れも短期間ながら、4回マー
ルブルグを訪れており、またその間に、W.
シャール学長、M.クラーツ博士、M.パイ
頃、大学の宗教学研究室では、ヨーロッパで
開催される天理教展覧会において、天理教の
教理を如何に説明するか、そのプレゼンテー
ションの方法についての会議が重ねられてい
博士その他の要人たちを何度か天理大学にお
迎えし、さらにはフィリップス大学交響楽団
たが、当然のことながら、元々キリスト教神
学者であり宗教学者であるラウベ博士にも加
のメンバーを天理に迎え演奏会を開催してい
る。
はじめてのマールブルグ訪問
1974 年9月、ひょんなことから出席する
わってもらっていた。この会議中、特に展覧
会場では教理の体系を一目見て分かるように
図示できないかということで、まだ若かった
私も何枚かのスキームを描いて提出した。し
かし、どれも採用はされなかった。
ことになった第2回世界宗教者平和会議(ベ
ルギーのルーヴァンで開催された)からの帰
ただし、『天理教展覧会』(教祖九十年祭た
すけ委員会編)という記録集の巻末(204 頁)
途、翌 75 年に開催される天理教展覧会の準
備の一環として、天理側の意向をドイツ側に
伝えるためマールブルグに立ち寄り、宗教博
物館のM.
クラーツ博士を訪ねたことがある。
ところが私の貧弱な英語力ではその内容が旨
に、参考資料として3点の図形が載せられて
おり、さらにラウベ博士の博士論文が後に『親
神 現在の天理教神観』として日本語に翻訳
出版されているが、その 81 頁に(橋本武人
氏の提示による。ヨハネス・ラウベが簡略化
く伝わらないので、折しも天理大学での教育
研究を終えて帰国され、コールバッハという
町に新居を構えられたばかりのJ.ラウベ博
した。
)という但し書き付きで、1点の図形
が紹介されている。
これらの図形は、1975 年の天理教展覧会
士に通訳してもらうべく、急遽クラーツ博士
の車で駆けつけることになった。これが親切
で面倒見のよいクラーツ博士との初対面の経
緯である。
ラウベ博士は、1971 年4月から 74 年3
月までの3年間、マールブルグから派遣され
たドイツ語の専任講師として天理大学で教鞭
を取り、その傍ら京都大学にも出向いて「田
本番には参加できなかったけれど、その開催
準備作業には及ばずながら携わっていたとい
う証になるだろう。
辺哲学」の研究を目論まれていた。しかし、
日本滞在中の研究テーマは次第に天理教研究
へと傾いて行き、実際帰国後にまとめられた
論文 OYAGAMI Die heutige Gottesvorstellung
理大学雅楽部第 11 回海外演奏旅行の時であ
る。この演奏旅行最初の演奏会は、マール
ブルグの丘に聳えるランドグラーフェン城
(Landgrafenschloss)王侯の間(Frustensaal)
der Tenrikyo によって、76 年フィリップス
大学から哲学博士号を授与されている。
そのラウベ博士が天理に滞在中の丁度その
に、W . シャール学長ご夫妻初め満員の観客
を集めて、盛大に開催された。言うまでもな
く、この演奏会の成功は、1975 年の天理教
第2回目は雅楽部海外演奏旅行団長として
次 に 1995 年 の 2 月、 実 に 20 年 ぶ り に
マールブルグを訪れたのは、ドイツ、フラン
ス、イタリア、スペイン、イギリスを巡る天
― 37 ―
マールブルクと天理 思いで
展覧会以後、天理とマーブルグとの太いパイ
プ役を務めてこられたクラーツ博士の絶大な
るご支援と、ホームステイを引き受けてくれ
たフィリップス大学交響楽団員の協力があっ
長、M.パイ博士、ケルンから駆けつけてく
れた志水君も加わって、市内のレストランで
昼食を共にしながら、これまでの文化実習や
学生交流の在り方について意見を交換する。
たからである。このとき私は雅楽部顧問とし
て、演奏旅行団団長をつとめていた関係か
ら、この最初の演奏会場において、後にいろ
いろお世話になるM.パイ博士から、
「日本
宗教学会でお目にかかっています」と流暢な
日本語で挨拶されて驚いたり、天理・マール
ブルグの人間関係においてはその第1世代に
午後2時半いよいよ学長室へV.ニーエン
ハウス学長を訪ね、コム国際部長、メンクハ
ウス日本研究所長を交えて、1時間ほど学術
交流のさまざまな可能性について話し合う。
なお、志水君がドイツ語の通訳として同席し
てくれたので、ニーエンハウス学長に天理と
マールブルグの長い親密な関係について説明
属し、三笠宮崇仁親王殿下や二代真柱様とも
親交のあったE.ベンツ夫人から挨拶を受け
し、理解してもらう。
夜はレストラン アルター リッターで、
て、マールブルグとの長い歴史を実感したこ
とを覚えている。
当時フィリップス大学学長として、前年の
94 年に天理大学に来訪されていたシャール
博士は、この公演に先立ち、学生食堂メンザ
H.クラース副学長による歓迎夕食会が開か
れ、メンクハウス所長も同席して通訳の労を
とってくれたので、大学と宗教という問題に
ついても話し合うことができる。 30 日は午前中宗教博物館にパイ博士を訪
階上の特別室で、雅楽部員を歓迎する昼食会
を催して下さり、天理とマールブルグとの長
い交流の歴史に触れる挨拶をなされたばかり
ね、昼はマーケットスクエアのホスタリアと
いうレストランで、コム国際部長、R,アル
バート教授、H.ディンゲルダイン教授らド
でなく、
演奏会の後、
山頂のお城から少し下っ
たところに位置する宗教博物館(Religions
kundliche Sammlung)で開催された打ち上
げのパーティにも顔を出され、舞楽の「太平
イツ語サマースクールの関係者たちと昼食を
共にしながら、文化実習の新しいシステムに
ついて相談する。
午後は、クラーツ博士夫妻、パイ博士に案
楽」など雅楽部員の素晴らしい演技を称え、
その労を労って下さった。
第3回目は天理大学長として
内されて、元はドミニコ会の修道院だったと
いう歴史的な建物の神学部に、H,バルト教
授とG.マーティン教授を訪ね、クラーツ夫
人差し入れのケーキでコーヒーを飲みなが
三度目のマールブルグ訪問は、2004 年6
月 28 日から 30 日までの3日間。この時初
めて天理大学長として谷口忠三国際交流部長
を帯同しての公式訪問となる。
クラーツ博士夫妻は、わざわざフランクフ
ルトまで迎えに出て下さり、その晩はマール
ブルグの街の灯を遠望する瀟洒なレストラン
ら、フィリップス大学神学部と天理大学宗教
学科との交流について話し合う内、具体的な
案として英語による学術的なシンポジウムを
開催してはどうかという話になる。
それはM.クラーツ,M.パイの両博士と
も、1998 年と 2002 年、天理大学が教皇グ
レゴリアン大学と共同して、
「天理教とキリ
で旧交を温める夕食会を開いて下さる。
翌 29 日は先ず国際部長のT.コム博士を
訪ねて挨拶。天理からの留学生、児玉弘美さ
んとも会い、次いで日本研究所を訪ねてE,
パウエル前所長に会い、所内を案内してもら
う。そこへ授業を終えたH.メンクハウス所
スト教の対話」と銘打った国際シンポジウム
を、最初はローマで次には天理で開催した時
に、天理教とローマカトリックの双方に通じ
た中立的な立場の宗教学者として参加されて
おり、天理大学の陣容に英語でのディスカッ
ションが可能な若手の研究者が充実してきて
― 38 ―
マールブルクと天理 思いで
いる実情を把握しておられたからである。
こうして 29、30 日の両日に大学の要人た
ちと会見した最終日の夜には、シャール前学
長夫妻による晩餐会が Kleines というレスト
ベースに乗せて、しかも英語を共通の言語と
して討論することが目論まれていた。そこで
双方から 10 名ずつの研究者が参加し、それ
ぞれ与えられたテーマで発表し、その内容を
ランで用意されていた。しかしシャール前学
長が急に体調を崩され食事を共にすることが
不可能になられたので、ホスト、ホステス役
を日本語の達者なパイ博士夫妻に任されただ
けでなく、律義にもわざわざレストランまで
挨拶にお見えになり、玄関ホールで食前酒の
乾杯だけお付き合い下さってお帰りになっ
めぐって活発なディスカッションが展開され
た。
なお、このシンポジウムの成果は、天理大
学側の尽力によって、英文のプロシーディ
ングズ Prayer as Interaction が、また一般の
人々にも分かりやすく解説したブックレッ
ト『相互行為としての祈り』が何れも天理大
た。
学出版部がら出版されているので、その学術
的な価値や評価については、それぞれご判断
第4回目はシンポジウム参加発表者として
かくてマールブルグへの4度目の訪問は、
2006 年9月、バベット・ジモン副学長が歓
迎の言葉の中で「橋本先生には、私たちの交
流協定校の学長としてだけではなく、共催シ
いただけるだろう。ただ、このシンポジウム
のもう一つの意義は、天理とマールブルグと
の関係が第二世代で途切れず、第三世代の若
い研究者たちに引き継がれていったことであ
る。未だ矍鑠として第一、第三セッションの
ンポジウムの研究発表者としても、お越しい
ただきました」
と述べられているように、
フィ
リップス大学神学部と天理大学宗教学科との
基調講演をつとめられたパイ博士もクラーツ
博士も、フィリップス大学では停年を迎えら
れていたからである。
共同研究プロジェクトとして開催されたシン
ポジウムに参加発表するという形で実現し
た。
「相互行為としての祈り」というシンポジ
この時、シャール博士も学長を退いておら
れたが、宿には先生の名でワインが差し入れ
られており、さらにマールブルグから車で
30 分ほど離れた Amöneburg という小さな
ウムのテーマは、天理とマールブルグとの親
密な関係が、1958 年と 1960 年、中山正善
二代真柱様とF.ハイラー博士との二度の出
会いから一層深まった歴史に鑑み、その主著
村の Dombacker という素敵なレストランに、
天理側5人マールブルグ側5人を招いての特
別晩餐会をご夫婦で催して下さり、その席上
16 世紀にフィリップス大学が時の皇帝から
に『祈り』
(Das Gebet)という著作のあるハ
イラー博士に敬意を表して決定された。
また、
このシンポジウムが提案されてから僅か2年
後の 2006 年に開催されたのは、教祖百二十
年祭を記念して、その年に開催するのが天理
側にとって意義があるだろうというクラーツ
博士の提案によって決定されている。
認可された証書の写しを天理大学に贈呈され
たのであるが、その挨拶の中で「此処が 38
母屋の料理に匹敵するレストランです」と言
われたのを印象深く覚えている。
カトリックとプロテスタントの違いこそあ
れ、このシンポジウムも「キリスト教と天理
教との対話」という性質を帯びることになる
が、しかし、互いに信仰信念を吐露し合う類
いの宗教間対話を越えて、双方が問題点を宗
教学あるいは哲学や社会科学という学問的な
天理大学に来訪されている。1999 年1月に
来訪されるときは、日本の学術会議か文部科
学省か定かでないが、ドイツの7大学の学長
が招聘されて東京での会議を終え、次に京都
での会議のため西下されるとき、京都へ直行
される他大学の学長さんたちから離れて天理
天理に迎えたマールブルグ関係者
私の学長時代に、W.シャール学長は3度
― 39 ―
マールブルクと天理 思いで
へ立ち寄られ、翌日京都で合流されるという
忙しい日程であった。したがって、天理へ到
着される時刻は午後8時すぎになり、夕食も
8時半すぎになってしまう。
されている。この時も真柱様にお願いをし
て 38 母屋にお泊まりいただき、たまたまご
都合がつかなかった真柱様に代わって理事長
がホストとなって歓迎の晩餐会を開いている
天理とマールブルグとの関係を考えれば大
切なお客様である。前年、三代真柱様から真
柱の理を継承された現真柱様に事のよしを申
し上げ、真柱様のお客様として 38 母屋に泊
めていただくようお願いし、さらに真柱様に
お出ましいただいて、表統領(飯降政彦)理
事長(山田忠一)図書館長(飯田照明)や小
が、その席では日本やドイツの大学事情につ
いての話が盛り上がり、教育談義に花を咲か
せている。
このようにシャール学長の天理大学訪問
は、その度に真柱様が 38 母屋でレセプショ
ンを催して下さったので、38 母屋での接待
や料理のことが、先生の胸に強く印象づけら
坂学部長、ドイツ学科の鈴木、相良両教授、
通訳の志水君を加えての晩餐会を催していた
れていたに違いない。ここに、既述の如く
2006 年のシンポジウムでマールブルグを訪
だいている。
翌日は、38 母屋での朝食をともにした後、
定刻の9時には学長室にお迎えし、ドイツ学
科のスタッフを交えて、ドイツ学科の文化実
習やスタートしたばかりの学生交換の問題点
れたとき、もう学長職から退いておられたの
に、天理とマールブルグ双方を招いた特別の
晩餐会を催すため、わざわざ街から離れたレ
ストランに案内され、「此処が 38 母屋に匹
敵する料理を供するレストランです」 とユー
について話し合い、少しでも京都に近い奈良
ホテルで昼食を取りながら、時間ぎりぎりま
で話し合い、京都での会議に間に合うよう近
モラスな挨拶をされた所以があると思う。
鉄奈良駅までお見送りしている。
2度目は前学長という立場で 2001 年3
月 13 日に来訪され、翌 14 日学長室で交流
協定の改正案を協議する時である。実はこの
ルグ側の中心になって活躍されたM.クラー
ツ博士は、その後、天理教教義原典やその他
の教義書の翻訳などで招聘され、度々天理に
来訪されたので、その度にお会いするように
協議に先立ってD.シューマー博士が来学さ
れ、ドイツ学科のスタッフと何度か話し合い
をしていたので、簡単に終わると思っていた
が、あきひろ亭での昼食会にまで協議は引き
なる。
わけても 2000 年3月にマーゴット夫人同
伴で来訪されたときには、同 24 日午後3時、
道友社6階のホールで「現代世界における宗
継がれて、この時には調印に至らず、後に出
来上がった協定書に署名して、4月早々に渡
独する森本講師にことづけている。なお、前
日の 13 日には 38 母屋にお泊まりいただき、
真柱様にお出ましいただくレセプションをお
願いしている。出席は真柱様奥様、
表統領
(飯
降政彦)
、理事長(安野嘉彦)
、図書館長(飯
教の役割:宗教学者の視点から」と題して講
演していただいている。この時には主催者と
して開会の挨拶を述べており、午後7時コト
ブキで開催の歓迎夕食会に同席している。
3月 30 日には大学の宗教学研究室にご夫
妻をお招きして、宗教学の研究会を開催し、
その後宗教学科の教員たちとコトブキで会
田照明)、ドイツ学科、日本学科の主だった
先生たちであった。
3度目は 2005 年5月 11 日、
ヘルマンシュ
タット大学長という立場でありながら、フィ
リップス大学の元学長として、天理とマール
ブルグとの関係強化のためにご夫妻で来訪
食。この時には、マールブルグの宗教博物館
創設者R.オットーを研究するため同館に長
らく滞在し、館長のクラーツ先生にお世話に
なったという鹿児島大学の前田 毅教授にも
参加を呼びかけて旧交を温めてもらってい
る。 1975 年の天理教展覧会に際し、マールブ
― 40 ―
マールブルクと天理 思いで
4月4日には、マールブルグで大変お世話
になった雅楽部が開催したお礼の夕食会に同
席し、4月5日には、個人的にも感謝の念を
伝えるべく、ご夫妻と志水君を郡山の弁慶へ
母屋階下の大食堂で行われている。
招待してワインとフレンチのフルコースを楽
しんでもらっている。
国際宗教学宗教史学会の会長をつとめられ
たこともあるM.パイ博士は、日本宗教の研
究が専門で、晩年には大谷大学の兼任教授と
して京都にもお住まいがあったので、多くの
とによって、時には継続が困難になる場合が
ある。20 世紀の末に予言されていた文明の
衝突が 21 世紀に突入するや否や現実化し、
先鋭化してくる中で、イスラーモフォービア
に陥りやすい西欧世界ではいち早く、国や州
政府による研究予算の配分も、いきおい中東
研究、イスラーム研究に重点が置かれるよう
場合、日本の諸宗教を研究する外国人研究者
たちを引率して天理に来られている。2000
になる。フィリップス大学に設置されていた
日本研究所が、フランクフルト大学に吸収統
年 11 月3日に来訪された時は、外部からの
お客様を接待する施設である信者部分室で、
宗教学科のスタッフ一同とともに歓迎の晩
餐会を催している。東京で第 19 回国際宗教
学宗教史学会が開催された 2005 年の4月に
合されることになったのも、こうした時流に
よるものと思われる。
一方、少子化の影響を被っている天理大学
でも、学部学科専攻の再三の編成替えによっ
て、ドイツ語ないしドイツ研究を専攻する学
は、この学会にも出席されたであろう大勢の
研究者たちと来訪されたている。
この時には、
表統領の飯降政彦先生にお願いして、奈良の
生が減少する中、長年続けられてきた文化実
習もできなくなり、交換学生にふさわしい語
学力を身につけることも困難になってくる。
近藤豆腐店で歓迎の晩餐会を開いてもらい、
珍しい豆腐の会席料理によって皆様に大変喜
んでいただいたことがある。
そんな中、「国際スポーツ交流実習」がフィ
リップス大学、さらにケルン体育大学の協力
のもとに始まっていることは、学生の交流を
続けて行く上で大いなる意義があり、将来が
1995 年、雅楽部がマールブルグを訪れた
とき、クラーツ博士の口利きでホームステイ
を引き受けてくれたのがフィリップス大学交
響楽団のメンバーである。
楽しみである。
加うるに、この度マールブルグ市と天理市
との交流が始まろうとしている。その内に姉
妹都市として協定が結ばれるならば、大学間
1998 年 10 月、同交響楽団が来日すると
きには、雅楽部が一手に引き受けお世話どり
をしている。ただ雅楽部員の人数だけでオー
ケストラのフルメンバー全員をホームステイ
に引き受けられないので、大学の教職員やそ
の他の関係者に協力を仰いでいる。
10 月 9 日、 真 柱 継 承 奉 告 祭( 同 25 日 )
の学術交流に留まらず、文化、スポーツ、芸
術その他の分野においても、さまざまな市民
レベルの交流も生まれるだろう。
( 天 理 大 学 前 学 長,Ehemaliger Präsident
der Universität Tenri)
大学間交流の主流は学生交換であり、交換
教授の制度であるが、時代の趨勢が変わるこ
記念と銘打った天理での演奏会は、市民会館
ホールに満席の聴衆を集めて大成功を収め、
この時来聴された真柱様は楽屋の応接間で楽
団代表から挨拶を受けられている。また、演
奏会終了後に開催された歓迎の晩餐会は、表
統領の飯降先生にホストをお願いして、38
― 41 ―
天理とマールブルク 1960
マールブルクと天理 思いで
年から今日まで
天理とマールブルク 1960 年から今日まで
マルティン・クラーツ
(Martin Kraatz)
天理とマールブルクの関係について、個人的
博物館に集約することになります。
に回顧してほしい、との依頼を受けておりま
す。私たち(妻と私)にとって、宗教教団・
それまで、天理とマールブルク間には個人的
天理教との最初の出会いは 1960 年 9 月の
な繋がりだけが存在し、公的レベルのもので
ことでした。二代真柱中山正善氏がマールブ
はありませんでした。日本学の学者であり、
ルクでの第十回宗教史学会に参加のために来
マールブルク大学図書館館長のヴォルフ・
訪され、自身の宗教の原典に関する発表をさ
ヘーニッシュ氏が、かつての学友であったド
れたときのことでした。聡明で、型にはまら
イツ学者の山口氏の仲介で、前世紀の 50 年
ない、カリスマ性に富んだこの人物が、私た
代に天理を訪れ、二代真柱との友好関係を築
ちをどれほど深く印象づけたかを、私たちは
き上げたのでした。教会史家のエルンスト・
忘れることはありませんでした。そしてその
ベンツ氏が、50 年代後半に客員教授として
12 年後に私たちは、この天理とマールブル
京都に滞在中、何度も天理で講演を行なって
クの大学間関係が益々発展してゆくことにな
おりました。宗教史家のフリードリッヒ・ハ
る、
あの大がかりなことを行なったのでした。
イラー氏は、1958 年、第 9 回国際宗教史学
会の参加者のために実施された天理への宗教
私は、1968 年にルドルフ・オットーによっ
研修ツアーの際に、この天理教という宗教を
て設立された宗教博物館の館長となり、二代
知ります。60 年代初頭にはヘーニッシュ氏
真柱との出会いの記憶の中で、天理教に対し
の教え子、ヨハネス・ラウベ氏が天理大学で
て以下のご提案を一通の手紙の中で申し上げ
の二年間のドイツ語の講師として任を引き受
たのでした。
それは、
一つの活動的な
「新宗教」
けることになります。
の一例として、ここマールブルクで天理教の
紹介をしたい、というものでした。1967 年
90 年代初頭には、海外布教伝道部翻訳課が
のお父様の死去以来、その地位に就いておら
私の妻に対して、『稿本天理教教祖伝逸話篇』
れた三代真柱中山善衛氏は、私のこのプラン
のドイツ語翻訳の文法的、文体的チェックの
の説明を聞かれた上で、この展覧会への同意
依頼をされ、これを妻と私の二人で引き受け
の意思をお示し下さり、この準備と実現のた
ることになりました。私たちによって訂正が
めの物的、人的な全面的支援をお申し出て下
加えられたこのテキストを、今度は天理の地
さったのです。マールブルクと天理の間の活
で、翻訳に携わった面々や天理教を代表する
気に満ちた協力作業によって仕上げられ、実
方々を交えて、長い時間をかけて検討作業を
現化されたこの展覧会は、1975 年の春に、
行ないました。この最初のプロジェクトの後、
マールブルク大学図書館のロビーを会場に開
年月の経過の中で、更なる数々の翻訳協力作
催され、多くの来場者を迎えることができた
業が続いて行くことになります。特に挑戦的
のでした。そしてその後、次第に活況を呈す
であったのは『おさしづ抄』のドイツ語訳の
ることになる天理とマールブルクの交流は、
見直し作業でした。その作業は天理において
ここ、フィリップス大学の一施設である宗教
二週間にわたり、翻訳者や天理教教義の専門
― 42 ―
天理とマールブルク 1960
マールブルクと天理 思いで
年から今日まで
家も交えて、一字一句を詳細に検討したこと
でした。60 歳の誕生日を記念して出版され
しばしば友人と呼べるほどの仲にまでなっ
た、
三代真柱のテレビでの教話を集録した
『喜
た、各地に在住されているそうした日本の仲
びの日日』
のドイツ語翻訳に際する作業では、
間たちとの間でこれまで築き上げられてきた
天理教内、教外を問わずに、人々に向けられ
数々の関係(それは妻と私にとって 1959 年
た愛情に満ちた三代真柱の思想や感情を、そ
来、発展を遂げて来たものでありますが)の
してそれによって三代真柱ご自身のことも、
下においては、天理および天理教との間にあ
私たち二人はよく理解することができたので
るこの繋がりというのは、常に、より特別な
した。
もの、となりました。長い歴史を持った既成
宗教との比較の上では、まだ歴史の浅いと呼
1991 年の夏に天理を訪れようとしていたと
べる一宗教への私たちの当初の、ただただ客
き、当時の天理大学長、大久保昭教氏より、
観的な宗教史的関心というものが、結果とし
天理とマールブルク双方の大学間提携の可能
て導いてくれたのは、私たちがこれまで互い
性についての話し合いの場を持ちたい旨の依
に理解し合ってきた、そして現在も理解し
頼がありました。当時のフィリップス大学の
合っている多くの人々と天理で知り合い、互
副学長で、
後に学長となるヴェルナー・シャー
いを尊重し合ってきたという、この事実であ
ル氏、及び大学の外国人学生部長のディー
ります。私の記憶の中での感動的な心の出会
ター・シューマー氏との合意により、数年後
いの一つが、大学長の職責をこのたび離れら
には天理大学のドイツ学科の学生グループが
れることになった飯降政彦氏とのそれであり
2,3 週間マールブルクを訪れ、語学コース、
ました。
ドイツ国内の文化研修、またマールブルクの
今申し上げて来たこれら全ての事に対して、
スポーツ系の学生とのスポーツ交流などが行
私は感謝に絶えません。そしてその気持ちは、
なわれることになりました。
私が生きている限り、いつまでもそうあり続
けることでありましょう。
さらに、学術的な提携というものが、宗教学
という分野の中でもたらされることになりま
マールブルクにて、2016 年 3 月 20 日
す。
天理大学の宗教学者である澤井義次氏と、
マルティン・クラーツ
マールブルク大学の実践神学者ゲアハルト・
マルセル・マルティン氏、及び私の三者間で
(マールブルク大学附属宗教学博物館、6代
行なわれた 2004 年秋の準備会合の後、三度
目館長を 1968 年から 1998 年まで務めた)
のシンポジウムが行なわれたのです。2006
年のマールブルクでの「祈り」に関するもの、
2010 年天理で行なわれた「浄化」に関する
もの、そして 2014 年にマールブルクで行な
われた
「宗教と文化におけるマイノリティー」
に関するものがそれです。この天理とマール
ブルクを結ぶプロジェクトは、それぞれの発
表原稿が本として文書化され、4 年ごとの開
催というリズムで継続されることになってい
ます。
― 43 ―
マールブルクと天理
マールブルクと天理 思いで
パートナーシップについて
マールブルクと天理 パートナーシップについて
Über die Partnerschaft der Philipps-Universität Marburg und der Tenri-Universität
教授、博士、名誉博士 ヴェルナー・シャール
(Prof. Dr. Dres.h.c. Werner Schaal)
マールブルク・フリップス大学では 19 世
紀の後半以来、日本語の講座が開設されてい
ました。そしてこれは、前世紀の 70 年代に
非欧州言語文化のための研究機関の設立、日
本学コースの導入、及び後の日本センターの
設立によってより拡大され、強化されたので
す。このカリキュラムの学生たちは日本語を
学ぶだけではなく、
現代の日本及びその文化、
社会や経済を習熟する可能性を有しておりま
した。その他にマールブルク大学では、神学
部において宗教史の講座、社会学・哲学学部
における宗教学研究室、そして宗教博物館が
存在しています。そのすべての施設は、日本
の文化や歴史と関係しており、マールブルク
の日本学関係者はそれらと密な繋がりの中で
共に研究を行ってきました。当時の日本セ
ンターではエリッヒ・パウアー、イェンス・
リックマイアー、マイケル・パイ、マルティ
ン・クラーツといった教授陣が教鞭を取って
おりました。宗教博物館の館長を長年にわ
たってつとめたマルティン・クラーツ博士が、
1975 年にマールブルク図書館において、日
本の宗教天理教に関する展示会を企画・開催
したことは触れられるべきでありましょう。
この展示会に際して、特に中山善衛真柱が訪
問されました。
日本経済の重要性が増していた時代におい
ては、この日本センターに出入りする学生の
数は急増することになります。そこで 1990
年のフィリップス大学の副学長選挙後すぐ、
私は数名を伴って東京に出向いたのでした。
大学間の協定を結ぶのが目的でした。この旅
にはパイ教授が専門的観点から同行してくれ
ておりました。
その後、マールブルク大学に対して、天理
大学が日本学のカリキュラムの設置に同意し
てくれることとなったのです。こうした関係
で、私はフィリップス大学の学長選挙の直後
の 1994 年、天理大学をはじめて訪問するこ
ととなりました。この天理大学はその当時、
ドイツ語に関しての素晴らしい学科を有して
おりました。相良憲一教授やドイツ人のマリ
オン・ゼッテコルン教授、ウーベ・カールス
テン教授など、有名な日本人のゲルマニスト
やドイツ人教授らがその学科にはおられまし
た。この訪問の間、また後の訪問の際にも、
森本智士教授がお世話どりをくださいまし
た。私の最初の訪問の際に、当時の天理大学
長植田先生と私は、両大学間の交換学生に関
する協定書に署名をすることとなりました。
私のこの最初の訪問のクライマックスは、有
名な天理の図書館を案内いただいたことと、
体育学部の関係者による実演を拝見したこと
でした。当時の図書館館長の飯田照明氏は、
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと
トーマス・マンに関する小展示をご準備下さ
り、そこにおいては、ルターバイブルの写本
やその他の貴重な本の数々が展示されていま
した。その際にお聞きしたことの記憶が正し
ければ、この有名な図書館を設立した人物が
あの二代真柱であったといいます。この機会
をお借りして、私は飯田教授と奥様が、マー
ルブルクで行われた私の 70 歳の誕生会にご
参加くださったことに感謝申し上げたいと思
います。この訪問は両大学間の親密な繋がり
の特別な証でした。当時はまた、柔道チャン
ピオンの正木嘉美氏を紹介され、私はその場
ですぐに、私たちの大学で半年滞在をしてい
ただくべく、招待申し上げたのです。彼はそ
の招待を受けて下さり、夏学期に夫人とお子
さんと共にマールブルクへ来てくれました。
彼が担当した授業は大きな成果を上げ、マー
ルブルク滞在中に、他のドイツの大学からも
招待を受けたほどでした。その後も彼は何度
― 44 ―
マールブルクと天理
マールブルクと天理 思いで
パートナーシップについて
もマールブルクへ来てくれています。この私
の最初の天理訪問の際、及びその後の天理大
学訪問の際のもう一つのクライマックスと言
えば、真柱様と奥様からご招待をうけたゲス
トハウスでの夕食会でありました。
両大学間の学生の交換留学は残念ながら均
衡の取れたものではありませんでした。マー
ルブルクの数名の学生のみが、天理大学で学
ぶという機会を得ているに過ぎません。しか
しながらこれら学生の全員が、天理で日本人
のスタッフによってなされる素晴らしい受け
入れを称賛していたのです。私たちの交換留
学に関する協定は、日本の学生に対して短い
期間でもマールブルクで学ぶ可能性を開くも
のでした。そうしたことで天理の学生の多
くが、約四週間という短期間ではあります
が、マールブルクに滞在するということも行
われてきたのです。学生たちはここでドイツ
語コースを受講し、またドイツを旅行する機
会も持つことになりました。このドイツ滞在
のためのイニシアチブを取って下さったのも
森本教授でありました。天理の学生グループ
がマールブルクやドイツに来るたびに、同行
の労を取ってくれているのが森本氏でありま
す。森本氏は、ご家族、すなわち奥様やお子
さん方と共に、2000 年から一年間マールブ
ルクに滞在されましたが、これはそういう
氏に対しての、せめてものねぎらいの機会で
もあったわけです。ゼッテコルン教授もまた
同様に、天理の学生のマールブルク滞在の同
行者であったことがしばしばです。彼女がこ
の様な形でマールブルク訪問したある機会に
は、彼女のスケッチや作品の個展を当方の博
物館で開催することもできました。”Mingling
Spirits” と題するこの個展は 1998 年春に行
われました。
後継者であるケルン教授との間で、そして
2006 年には更に彼の後継者であるニ―ハウ
ス教授との間で行われました。この双方の協
定延長は橋本学長の署名で行われています。
現在の学長であるカタリーナ・クラウゼ教授
が飯降学長との間で締結した更なる協定で
は、学生間の交換交流に留まらず、さらには
教授や講師、また事務員間の交流をも盛り込
んだ内容のものであることを、私は大変うれ
しく思っています。
残念ながら私共の日本センターは 2012 年
に閉鎖されてしまい、日本学に関するカリ
キュラムも無くなり、それらはフランクフル
トに移されてしまいました。日本センターが
私共の大学において最もうまく機能していた
機関の一つであったということを鑑みると
き、私は個人的には、これが正しい決定であっ
たとは決して思ってはおりません。
天理大学及びその関係の方々と共に歩む機
会を持てたこと、天理大学を何度も、引退後
もなお、訪問させていただくことができたこ
と、そしてこのパートナーシップが更に進展
し、生き続けているということに、私は感謝
しております。
マールブルクにて、2016 年 2 月
( マ ー ル ブ ル ク 大 学 元 学 長,Ehemaliger
Präsident der Philipps-Universität)
森本氏はまた、橋本武人学長、飯降政彦学
長のマールブルク訪問の準備や手配に際して
も、その労を惜しまぬ姿勢を示してくれたの
でした。この両学長がそれぞれ訪問された際
に、天理大学との協定の更新手続きが行わ
れたのです。最初が 2001 年で、それは私の
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「マールブルクと天理」年譜
マールブルクと天理 思いで
「マールブルクと天理」年譜
Chronik von „Marburg und Tenri“
1930 ~ 1932 年
ヴォルフ・ヘーニッシュ氏と山口繁雄氏(中山正善二代真柱と大阪高等学校時代の同期生)
が、それぞれ京都帝国大学とドイツ・ライプツィッヒ大学へ交換留学
1932 年~
山口繁雄氏、天理図書館員として英独仏の外字新聞 TENRIKYO のドイツ語編集に携わる
1940 年からは天理外国語学校独語部講師に
1948 年頃
ヘーニッシュ博士来日。天理語学専門学校独語部で講演をおこなう
1950 年
ヘーニッシュ博士、マールブルク大学図書館館長に就任
1952 年
富永牧太天理図書館長、マールブルク訪問。ヘーニッシュ氏と面談し、ドイツにおける図
書館事情を調査
1954 年 4 月
天理市制発足
1957 年 9 月 12 日
マールブルク大学神学部教授エルンスト・ベンツ氏天理来訪。二代真柱と会食
1957 年 12 月 3 日
ベンツ氏天理来訪。天理大学にて講演:「十八世紀におけるプロテスタント伝道初期のは
じまり」
1957 年 12 月 10 日
ベンツ氏天理来訪。天理大学にて講演:「ドイツ古典文学と哲学に現れた再生概念」
1958 年 1 月
ベンツ氏、天理教お節会参加
1958 年 2 月 26 日
ベンツ氏天理来訪。ドイツの教会建築様式を紹介
1958 年 9 月 6 ~ 7 日
マールブルク大学フリードリッヒ・ハイラー教授が第 9 回国際宗教学宗教史会議出席者
一行 215 名と共に天理来訪
1958 年 10 月
ヘーニッシュ氏、天理来訪
1960 年 9 月 11 日
中山正善二代真柱、第 10 回国際宗教学宗教史会議参加のため、はじめてマールブルクを
訪問(~ 18 日)
1960 年 9 月 16 日
中山正善氏「天理教教義における言語的展開の諸形態(The Various Forms of Verbal
Evolution in Tenrikyo Doctrine)」と題して研究発表をおこなう。(この時の分科会司会者
がヘーニッシュ氏)
1963 年
中山正善二代真柱、マールブルク訪問(フランクフルトから日帰りで立ち寄り)
1965 年 11 月
ヘーニッシュ氏、天理来訪。約一か月天理に滞在し新井白石研究をおこなう
1966 年
中山正善二代真柱、マールブルク訪問。マールブルク大学と天理大学の交換プログラムが
検討される
1967 年 11 月 14 日
1968 年 7 月
1968 年 9 月 18 日
中山正善二代真柱出直し(死去)。享年 63 歳
高橋慶男氏、プロシア文化維持財団図書館の職員としてマールブルクへ
(1970 年 3 月まで)
天理教青年会あらきとうりょう号キャラバン隊一行(山田忠一氏、町田明夫氏、乾光男氏、
飯降政彦氏)がマールブルク訪問
1971 年 4 月
ヨハネス・ラウベ氏、天理大学ドイツ学科講師として天理へ(1974 年 3 年まで)
1972 年 2 月
マールブルク大学宗教博物館長マルティン・クラーツ氏が天理教展構想を中山善衛三代真
柱に伝える(フォトダイアリー送付に対する礼状の中で)
1973 年 2 月 5 日
中山善衛三代真柱、マールブルクをはじめて訪問。展覧会開催への協力を約束
1974 年 1 月 10 日
クラーツ氏より計画書の草案が届く
1974 年 4 月
ヨーロッパ陽気ぐらし展覧会準備委員会が天理にて発足
1974 年 4 月
ラウベ氏の後任として、マールブルク大学出身のヘーニッシュ氏の教え子、シャウベッカー
氏が天理大学ドイツ学科非常勤講師に着任
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「マールブルクと天理」年譜
マールブルクと天理 思いで
1974 年 9 月
橋本武人氏、第 2 回世界宗教者平和会議(ベルギー)の帰路、天理教展覧会の準備・打
1975 年 1 月 8 ~ 9 日
森井敏晴ヨーロッパ課長、展覧会最終打ち合わせのためマールブルク訪問
1975 年 3 月~
小室文夫氏、海外布教伝道部から派遣されマールブルク大学に留学(~ 1977 年 3 月)
1975 年 5 月 11 日
中山善衛三代真柱夫妻一行マールブルク訪問(~ 13 日)
1975 年 5 月 12 日
天理教展覧会―人間の陽気ぐらしのために―開幕。(~ 6 月 25 日)
1975 年
平野睦雄氏(ドイツ学科卒業)は、天理教展覧会の前にマールブルクで展覧会準備に協力
その後、現地に残り、マールブルク大学に入学後、長期間滞在し、修士号取得、画家、造
ち合わせのためにマールブルクを訪問し、クラーツ博士と懇談
形家として活躍、ドイツ国籍取得、現在はイタリア在住
1976 年 1 月 25 日
クラーツ氏、天理初来訪。教祖 90 年祭祭典参拝(~ 2 月 20 日)
1977 年 6 月~
佐々木省三氏、海外布教伝道部から派遣されマールブルク大学に留学(~ 1979 年 3 月)
1977 年 11 月 10 日
ヘーニッシュ氏天理来訪(最後の訪問となる)(~ 17 日)
1978 年 2 月 3 日
ヘーニッシュ氏マールブルクにて死去。享年 70 歳
1985 年 6 月 16 日
中山善司天理教青年会長(現真柱)マールブルクを訪問。クラーツ氏の案内で宗教博物館
見学
1986 年 4 月~
菅井宏史氏、海外布教伝道部から派遣されマールブルク大学に留学(~ 1988 年 3 月)
1988 年 5 月 29 日
天理雅楽ヨーロッパ公演がおこなわれ、マールブルクがその最初の演奏会場となる(会場:
シュタットハレ)
1990 年 7 月 4 日
宗教博物館に東西礼拝場完成後の本部神殿模型を寄贈(浜田道仁海外布教伝道部ヨーロッ
パ課長がマールブルクを訪問)
1991 年 3 月~
志水美郎氏、海外部から派遣されマールブルク大学に留学(~ 1994 年 3 月)。志水氏は、
海外部を退職して 2000 年からマールブルク大学に私費留学し、修士取得、博士課程を経
て、現在ケルンに在住、「天理独日文化工房」を主宰、ケルン大学でも雅楽を教える
1991 年 7 月 31 日
クラーツ氏夫妻、翻訳検討会議出席のため天理来訪(~ 8 月 11 日)
この時、大久保天理大学長と両大学間の協定に向けた話し合いをおこなう
1992 年 3 月以降
ドイツ学科は、ドイツ海外文化実習先としてアイヒシュテット大学を最終候補としたが、
本学の実習に関心を示す関係者(マールブルク大学のディーター・シューマー博士)を知
ることになり、検討の結果、文化実習先をマールブルク大学に決定
1993 年 7 月
マールブルク大学において初めての夏期ドイツ研修を試行実施(ドイツ語学科森本智士講
師とドイツ学科希望学生)
1993 年 4 月 1 日
マールブルク大学国際言語文化センター長、ディーター・シューマー博士、天理大学を訪
問
1994 年 4 月 21 日
マールブルク大学・国際言語文化センター長、シューマー博士、天理大学を訪問
1994 年 10 月 7 日
マールブルク大学学長、ヴェルナー・シャール博士および国際交流部長、トーマス・コム
氏、協定締結にかかわる意見交換のために天理大学を訪問。その際、付属図書館を見学し、
フォペルの地球儀、四十二行聖書をマールブルクで展示する計画をもつ
1995 年 2 月 13 日
天理大学雅楽部のヨーロッパツアーの一環で、マールブルクで演奏会開催(雅楽部顧問と
して橋本武人氏もマールブルクを訪れる)
1995 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(授業科目の実習としての第 1
1995 年 4 月~ 7 月
正木嘉美氏(体育学部)、マールブルク大学からゲスト講師として招聘され1セメスター
回目、担当教員:森本智士、山本伸二)
柔道指導をおこなう
1995 年 7 月~
浅川千尋氏(教養部)、本学在外研究制度によりテーマ「ドイツ統一と基本法改正論議」
でマールブルク大学に 3 ヶ月研究滞在
1995 年 7 月 17 日
マールブルク大学・国際言語文化センター長、シューマー博士、天理大学を訪問
1995 年 10 月~
マールブルク大学より 2 名の学生を受け入れ(交換留学の開始)
1996 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:山本伸二、中川義英)
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「マールブルクと天理」年譜
マールブルクと天理 思いで
1996 年 3 月~
天理大学から 2 名の学生がマールブルク大学へ留学(本学からの交換学生の初回)
1996 年 5 月
天理大学とマールブルク大学の「学生交流に関する協定」を締結する(大学間のはじめて
の協定は、植田平一学長と W.Schaal 学長とが署名)
1996 年 8 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:鈴木直行、中川義英)
1997 年 4 月~
天理大学から 2 名の学生がマールブルク大学へ留学、9 月からはマールブルク大学の学生
2 名を受け入れ
1997 年 6 月 23 日
マールブルク大学・国際言語文化センター研究員、モニカ・ビーブッシュ女史が天理大学
を訪問
1997 年 8 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:鈴木直行、相良憲一)
1997 年 9 月~
菅井宏史氏、海外部から派遣されマールブルク大学に留学(~ 2000 年 7 月)
1998 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:相良憲一)
1998 年 3 月
シャール学長の提案でマールブルク大学附属美術館にて M. ゼッテコルン助教授の作品展
「Mingling Spirits」(まじわる精神―ヨーロッパと日本―)が開催される
1998 年 3 月 9 日
ローマ・グレゴリアン大学にて「天理教とキリスト教の対話」シンポジウムが行われ、宗
教学者の立場で、マールブルクからクラーツ博士、パイ教授、ミュンヘン大学のラウベ教
授が参加する(~ 11 日)
1998 年 4 月~
天理大学から 2 名の学生がマールブルク大学へ留学、10 月からマールブルク大学の学生
1 名を受け入れ
1998 年 9 月~
伊藤和男氏(教養部)、本学在外研究制度によりテーマ「ドイツ教育事情の研究」でマー
ルブルク大学に 1 年間研究滞在
1998 年 10 月 3 日
マールブルク・フィリップス大学交響楽団一行 60 名来訪(~ 12 日)
11 日、市民会館にて演奏会「真柱継承奉告祭記念公演」開催
1999 年 1 月 14 日
マールブルク大学のシャール学長来訪(ドイツの 7 大学長が招かれた東京での会議の帰
路に天理に立ち寄る)
1999 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:森本智士、中祢勝美)
1999 年 4 月~
天理大学から 1 名の学生がマールブルク大学へ留学、10 月からはマールブルク大学から
学生 1 名を受け入れ
2000 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:森本智士、山本伸二)
2000 年 3 月 13 ~ 15 日
マールブルク大学前学長、シャール博士ご夫妻、天理を訪問
2000 年 3 月 24 日
クラーツ氏夫妻、翻訳検討会議のため天理来訪(~ 4 月 9 日)
25 日、道友社にて「現代世界における宗教の役割」と題して講演する
2000 年 4 月~
天理大学から 2 名の学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学からの受け入れ
学生はなし
2000 年 4 月~
浅川千尋氏(教養部)、本学在外研究制度によりテーマ「統一ドイツの基本法を巡る新た
な動向―環境保護、男女平等を中心に―」でマールブルク大学に 6 ヶ月研究滞在
2000 年 4 月~
山本伸二氏(国際文化学部)、本学在外研究制度によりテーマ「『初期シュタウフェン』政
治史の研究」でマールブルク大学に 1 年間研究滞在
2000 年 11 月 3 日
マールブルク大学のパイ教授、マーティン教授ら来訪
2001 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:B.U. カルステン、
中祢勝美)
2001 年 3 月 14 日
マールブルク大学のシャール学長来訪(橋本学長と交流協定の改正案の協議のため)
2001 年 4 月~
森本智士氏(国際文化学部)、本学在外研究制度によりテーマ「ドイツにおける外国語教
育研究の実践と理論に関する調査」でマールブルク大学に 1 年間研究滞在
2001 年 4 月
天理大学とマールブルク大学の学生交流に関する協定を更新(橋本武人学長と H. F. Kern
学長とが署名)
2001 年 4 月~
天理大学から 2 名の交換学生と 1 名の認定留学生がマールブルク大学へ留学、9 月から
はマールブルク大学からの学生 3 名を受け入れ
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「マールブルクと天理」年譜
マールブルクと天理 思いで
2002 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:B.U. カルステン、
山本伸二)
2002 年 4 月~
天理大学から 1 名の学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学からの受け入れ
なし
2002 年 9 月 28 日
シンポジウム「天理教とキリスト教の対話 II」が天理にて開催(~ 30 日)
マールブルクからクラーツ博士、パイ教授が参加
2003 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:B.U. カルステン、
森本智士)
2003 年 4 月~
天理大学から 2 名の学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学から 1 名の学生
を受け入れ
2003 年 4 月 17 日~
言語教育研究センター主催シンポジウム「これからの外国語を考える」を開催しシューマー
博士を招きマールブルク大学における外国語教育の報告と実験授業を行う(~ 5 月 1 日)
2004 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:中川義英、M. ゼッ
テコルン)
2004 年 4 月
飯田照明天理図書館元館長夫妻、シャール前学長の 70 歳の祝賀会に招待を受けて参加
2004 年 6 月 28 日
橋本武人学長、マールブルク訪問(同行者:谷口忠三国際交流部長、~ 6 月 30 日)
2004 年 7 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:森本智士、中祢勝美)
2004 年 9 月~
マールブルク大学から 2 名の学生を受け入れ、天理大学大学からの留学生なし
2004 年 11 月 25 ~ 27 日
マールブルク大学理学部長 Mabfred Sommer 教授と Ushi Sommer(マールブルク大学国
際交流部員)ご夫妻が本学を訪問(岐阜県で開催されたマルチメディアに関する国際会議
の帰路にシャール元学長の名代として天理を訪問)
2005 年 2 月~
天理大学から 2 名の学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学から 3 名の学生
を受け入れ
2005 年 5 月 11 日
シャール前学長がご夫妻で来訪。この時シャール氏は、ヘルマンシュタット大学学長であっ
たが、マールブルク大学の元学長として天理とマールブルクの関係強化のために来日(学
長との会談、国際文化学部教授会でのスピーチ、講演会)
2006 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:中川義英)
2006 年 2 月~
天理大学から 1 名の学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学から 4 名の学生
を受け入れ
2006 年 4 月
天 理 大 学 と マ ー ル ブ ル ク 大 学 の 学 生 交 流 に 関 す る 協 定 を 更 新( 橋 本 武 人 学 長 と V.
Nienhaus 学長とが署名)
2006 年 9 月 5 ~ 7 日
天理大学とマールブルク大学共催の国際シンポジウム「相互行為としての祈り」がマール
ブルク大学で開催、橋本武人学長は発表者としても出席。(出席者「天理側:橋本武人学長、
澤井義則、澤井義次、堀内みどり、東馬場郁生、島田勝巳、岡田正彦、山中修吾、森下三
郎、深谷太清。マールブルク側:マイケル・パイ、マルティン・クラーツ、ゲルハルト・M・
マルティン、ハンス・ユルゲン・グレシャート、ディートリッヒ・コルシェ、ディークヒ
ルト・フォン・ブルメンタル、ディルク・ケスラー、ウルリケ・ヴァーグナー、クリスト
フ・エルザス、モニカ・ラング」)
2007 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:B.U. カルステン)
2007 年 2 月~
天理大学から 2 名の交換学生と 2 名の認定留学生がマールブルク大学へ留学、マールブ
2007 年 8 月~
浅川千尋氏(総合教育研究センター)、特別研究員制度によりテーマ「ドイツ基本法と国
ルク大学から 4 名の学生を受け入れ
家目標規定―動物保護・環境保護をめぐる論議―」でマールブルク大学に 3 ヶ月間研究
滞在
2008 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:M. ゼッテコルン、
森本智士)
2008 年 2 月~
天理大学から 3 名の学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学から 1 名の学生
を受け入れ
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「マールブルクと天理」年譜
マールブルクと天理 思いで
2008 年 9 月~
近藤雄二氏(体育学部)、特別研究員制度によりテーマ「疲労及び健康支援に関するヨーロッ
パ型研究スタイルの獲得」でマールブルク大学に 6 ヶ月間研究滞在
2009 年 2 月~
天理大学から 3 名の交換学生と 1 名の認定留学生がマールブルク大学へ留学、マールブ
ルク大学からの学生の受け入れなし
2010 年 2 月
ドイツ学科のマールブルク大学でのドイツ文化実習を実施(担当教員:M. ゼッテコルン、
森本智士)
2010 年 9 月 18 日~ 30 日
天理大学とマールブルク大学共催の国際シンポジウム「清める―心と身体の宗教的変容
―」が天理・マールブルク学術交流 50 周年記念として天理大学で開催される。飯降学長
の開会式でのあいさつでシンポジウム始まる。(出席者「天理側:飯降政彦学長、澤井義則、
澤井義次、堀内みどり、東馬場郁生、島田勝巳、岡田正彦、山中修吾、森下三郎、深谷太
清、菅井宏史。マールブルク側:マイケル・パイ、マルティン・クラーツ、ゲルハルト・M・
マルティン、カティア・トリプレット、クリストフ・エルザス、ヨルク・ラウスター、ウ
ルリケ・ヴァーグナー・ラウ」)
2011 年 9 月 6 日
飯降政彦学長、ケルン大学を訪問途上、6 日にマールブルク大学にクラウゼ学長主催晩餐
会に出席、翌 7 日にマールブルク大学を表敬訪問し、カタリーナ・クラウゼ学長らと協
定改定の会合(同行者、森本智士・言語教育研究センター)、滞在中にクラウゼ学長とと
もに宗教博物館を訪れる(9 月 6 日~ 8 日)
2012 年 4 月
マールブルク大学に所属しながら現地スポーツクラブに所属してサッカー競技を行う、い
わゆるスポーツ留学の第 1 号が実現する(2012.3 卒業、羽根田充、ドイツ 6 部リーグ
SF/BG Marburg 所属の契約選手)
2012 年 8 月~
マールブルク大学から 1 名の学生を受け入れ、天理大学からの交換留学はなし
2012 年 8 月~
塚本順子氏(体育学部)、特別研究員制度によりテーマ「身体と動きの教育についてード
イツのダンス学習における自己表現と他者受容の視点からー」でマールブルク大学に 2 ヶ
月間研究滞在
2013 年 2 月
第 2 回国際スポーツ交流実習をマールブルクを拠点にしてはじめて実施(ケルン体育大
学を含めて実施、担当教員:森本智士、備前嘉文)
2013 年 2 月 18 日
天理大学とフィリップス大学マールブルクとの「学術交流協定」を締結(飯降政彦学長と
K. Krause 学長とが署名、学生交流協定から学術交流協定に名称変更、同行:一瀬孝治国
際交流センター部長、吉川敏博国際学部長、近藤雄二体育学部長、森本智士言語教育研究
センター准教授)
2013 年 2 月
飯降政彦学長、マールブルク大学との協定調印の際にマールブルク市長、エゴン・ファウ
ペル氏を表敬訪問し、天理市南市長の親書(両市の交流を望む)を手渡す
2013 年 3 月~
天理大学から 1 名の認定留学生がマールブルク大学へ留学、マールブルク大学からの受
け入れなし
2013 年 11 月
天理市長に就任した並河健氏は、11 月 14 日に飯降学長を表敬訪問した際に前市長から
マールブルク市との交流促進を引き継いでいる旨の発言し、11 月 26 日の天理大学・天
理市実務者打ち合わせの場で「マールブルクへの学生実習を含め、天理大学が実施するさ
まざまな国との多くの大学との国際交流が市民に知られず行われているのは大変残念であ
り、もったいない、市としても市民に知ってもらい、また応援したい」と発言する
2014 年 2 月
第 3 回国際スポーツ交流実習をマールブルク及びケルン体育大学実施(担当:森本智士、
備前嘉文,日野貴夫)
2014 年 2 月 3 日
マールブルクの出版社、Mediakontakt Laumer とインターンシップ覚書締結。マールブ
ルク大学での留学終了学生(森末浩世)が 2 月 3 日から 20 日までの間、マールブルクで
のインターンシップ第 1 号として研修
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「マールブルクと天理」年譜
マールブルクと天理 思いで
2014 年 2 月 15 日
天理市市長公室企画政策課南幸次郎氏は、天理市並河市長の親書を持参して「マールブル
ク市のまちづくりを学ぶ」ために、スポーツ交流実習に同行してケルンおよびマールブル
ク市を訪問し、市長と面談する
2014 年 4 月
天理大学から 2 名の認定留学生、2 名の卒業生留学、うち1名は、スポーツ留学(国際スポー
ツ交流実習 2013 参加者の新谷伊織-体育・サッカー部-は、マールブルク大学に所属し、
FC Ederbergland を経て、現在 SF/BG Marburg に所属。スポーツ留学の 2 人目)をマー
ルブルク大学に派遣、マールブルク大学からの受け入れ学生はなし
2014 年 9 月 17 ~ 19 日
天理大学とマールブルク大学共催の第 3 回目となる国際シンポジウム「宗教と文化のマ
テリアリテイ」をマールブルク大学で開催。飯降学長は「The World of Tenrikyo」の講
演を行う。(出席者「天理側:飯降政彦学長、澤井義次、堀内みどり、東馬場郁生、岡田
正彦、島田勝巳、森下三郎、深谷太清、梅谷昭範。マールブルク側:ヴァーナー・シャー
ル(マールブルク大学・元学長)
、マイケル・パイ、エディス・フランケ、ベーベル・バ
インハウアー=ケーラー、ヨルク・ラウスター、ウルリケ・ヴァグナー・ラウ、ゲルハルト・
M・マーティン、マーティン・クラーツ、クリストフ・エルザス、カティア・トリプレット」)
2014 年 9 月 18 日
国際シンポジウム開催期間中にマールブルク市を訪ね、市長の天理訪問に関わり市会議長、
助役らと懇談する
2014 年 8 月 6 日
「マールブルク市長創立 90 周年表敬訪問歓迎企画委員会(委員長:飯降政彦学長、副委員長 :
澤井義則副学長)」を発足させる
2015 年 2 月
第 4 回国際スポーツ交流実習をマールブルク及びケルン体育大学で実施(担当教員:森
2015 年 3 月 31 日
マールブルクのファウペル市長一行 7 名が天理を表敬訪問(天理大学創立 90 周年及び天
本智士、梅崎さゆり)
理市制制定 60 周年を祝って)(~ 4 月 5 日)
天理市議場にて歓迎セレモニー(両市長のスピーチ)
2015 年 4 月 1 日
天理大学 2015 年度入学式にファウペル市長ら一行は、来賓として出席し、本学の入学式
では初めてとなる来賓挨拶・祝辞(ファウペル市長)を受ける
2015 年 4 月 2 ~ 3 日
天理大学附属天理図書館において市長一行記念特別展「ドイツと日本」を開催
2015 年 4 月 4 日
マールブルク市ファウペル市長、天理教真柱宅にて中山善司真柱と懇談(同席者:飯降政
彦学長、森本智士言語教育研究センター准教授、近藤雄二体育学部教授)
2015 年 4 月
天理大学からの認定留学生 1 名(前年度からの継続)とスポーツ留学1名(国際スポー
ツ交流実習 2013 参加者の山口育海-体育・ホッケー部-がマールブルク大学に所属して
VFL 1860Marburg Hockey Club に所属。スポーツ留学の 3 人目)を派遣。マールブルク
大学からは 1 名の学生を受け入れる
2015 年 4 月 23 日
天理大学創立 90 周年目の創立記念日。(陽気ホールで記念式典が挙行され、午後からは、
ふるさと会館にて「天理大学創設者中山正善生誕 110 年記念シンポジウム」を開催)
2015 年度末
第 5 回国際スポーツ交流実習がマールブルクで開催される。2 月 19 日にはトーマス・
シュピース新市長の歓迎を受ける(参加学生 14 名、担当教員:森本智士、梅崎さゆり、
2016 年 2 月 10 日~ 24 日)
本学・国際交流センター足立正文職員は、ケルン体育大学、ケルン大学、フリブール大学、
オルレアン大学、天理日仏文化協会を訪問し、それぞれの国際交流部を訪ねて、交換留学
等を含む両大学間の今後の交流について意見交換した最後にマールブルク大学国際交流部
門を訪問、責任者の Kienle 氏らと交換留学等に関わる意見交換を行う(2016 年 2 月 22 日、
同席:森本智士)
穴井隆将氏(体育学部)宛てに、マールブルク市スポーツ振興局スポーツ部長名、およ
びヘッセン州柔道連盟師範名で穴井氏を柔道指導者としてマールブルクに招待する招聘状
が届く(2016 年 3 月 7 日付け)
― 51 ―
大学間交流協定にもとづく学生交流者一覧(1995
マールブルクと天理 思いで
~ 2015 年度)
大学間交流協定にもとづく学生交流者一覧(1995 ~ 2015 年度)
年度
交換留学生
天理大学からの派遣学生
認定留学生
卒業生
マールブルク大学からの受入れ学生
短期(交換)留学生
宿舎:若江の家
Krcmar, Snjezana(10/25 ~ 8/30)
Chartschenko, Catharina Maria
(10/25 ~ 8/30)
1995
(H7)
1996 近藤 亜有子
(3月~2月)
(H8) 池内 公彦
(3月~2月)
1997 児玉 弘美
(4月~3月)
(H9) カルステン 愛子
(4月~3月)
Muller, Brigitte(9/8 ~ 8/19)
Hachfeld, Bernd(9/8 ~ 8/19)
1998 奥山 真一
(4月~3月)
(H10) 藤原 衣子
(4月~3月)
Madeleine, Marie-Luise Sandstede
(10/21 ~ 3/18)
1999
葭安 由何
(4月~3月)
(H11)
Salge, Ruta(10/4 ~ 6/29)
2001 本田 麻衣子
(4月~3月)
(H13) 松尾 知佳
(4月~3月)
Heumann, Cheyenne(9/12 ~ 7/14)
Gerber, Daniel(9/12 ~ 8/1)
Ott, Gebhard(9/12 ~ 8/16)
2000 佐々木 みのり
(4月~3月)
(H12) 吹田 友美
(4月~3月)
宿舎:親里4号館南棟
久野 千沙(4月~3月)
2002
苑田 昌嗣
(4月~3月)
(H14)
宿舎:アメニティー・ホウコク
2003 山本 真由美
(4月~3月)
(H15) 鍋田 直美
(4月~3月)
Gerhard, Axel(9/1 ~ 8/4)
2004
(H16)
Nonnast, Eva(9/13 ~ 9/10)
Glas, Viviane(9/13 ~ 2/25)
2005 鈴木 和果菜
(2月~1月)
(H17) 長谷場 裕純
(2月~1月)
Winkler, Florian(9/2 ~ 9/2)
Klenzmann, Axel(9/2 ~ 8/31)
Naito, Christoph Golo(9/15 ~ 9/1)
宿舎:親里4号館南棟
Dirk, Katharina(9/8 ~ 7/17)
Fuchs, Patrick(9/8 ~ 7/17)
Rockel, Matthias(9/8 ~ 7/17)
Rogalski, Simon(9/8 ~ 7/26)
2006
八田 康平
(2月~1月)
(H18)
2007 大崎 史子
(2月~1月)
(H19) 岡本 曉子
(2月~1月)
Stein, Isabelle(9/4 ~ 8/25)
Dresp, Nicolo(9/4 ~ 9/1)
Ruehl, Christina(9/4 ~ 8/25)
Falkenhain, Astrid(9/4 ~ 8/25)
山本 隆史(9月~8月)
児嶋 俊宏(9月~8月)
佐藤 宮子
(2月~1月)
2008
甲斐 景子
(2月~1月)
(H20)
宮田 侑季
(2月~1月)
清水 晶子
(2月~1月)
2009
大西 賢哉
(2月~1月)
(H21)
橘 優
(2月~1月)
宿舎:アメニティー・ホウコク
Oszfolk, Carolin(9/3 ~ 8/28)
甲斐 景子(4月~8月)
2010
(H22)
2011
(H23)
2012
(H24)
羽根田 充弘(4月~3月) Tschentscher, Benjamin(8/31 ~ 8/17)
2013
(H25)
森末 浩世(4月~3月)
2014
(H26)
木村 保(4月~3月) 酒井 夏葉(4月~3月)
新貝 祐喜(4月~3月) 新谷 伊織(4月~3月)
2015
(H27)
木村 保(4月~3月)
計
25名
山口 育海(4月~3月)
8名
4名
― 52 ―
Glaess, Jenny(8/24 ~ 2/29)
26名
マールブルク市長訪問団とその日程
マールブルクと天理 思いで
マールブルク市長訪問団とその日程
Aufenthaltsprogramm der Marburger Delegation
2015 年 3 月 31 日(火)に関西空港に到着した市長一行 7 名は、天理大学国際交流センター職員、
海外部員の出迎えで、宿舎(天理教第 38 母屋)に移動した後、表(p.55)に示す行事日程をこ
なして予定通り 4 月 5 日に帰国しました。その間、4 月 4 日には、天理市庁舎での「さよならパー
ティ」の後、エゴン・ファウペル市長は飯降学長に案内されて天理教真柱宅に向かい、中山善司
真柱と懇談される機会をもちました。
また 4 月 1 日、18 時からは、天理大学と天理市による歓迎レセプションが宿舎和楽棟にて行
われました。その出席者を以下に記します。
Reception Attendants 4 月 1 日歓迎レセプション出席者
A. Marburg City & University マールブルク市長およびマールブルク大学一行
エゴン・ファウペル
Egon Vaupel
M
市長
リタ・ファウペル
Rita Vaupel
F
市長夫人
ゲルハルト・ホイジンガー
Gerhard Zinke-Heusinger von Waldegge M 建築家
計 7名
ブリギッテ・ホイジンガー
Brigitte Heusinger von Waldegge F マールブルク大学教授
ヨルグ・チレク
Jörg Chylek
M
スポーツ実習コーディネーター
マルクス・ツァウムブレヒヤー Markus Zaumbrecher
M
ギムナジウム教員・柔道指導者
鶴木 泰子
F
スポーツ実習コーディネーター
Yasuko Tsuruki
計12名
B. Tenri City 天理市
並河 健
NAMIKAWA, Ken
M
天理市長
藤井 純一
FUJII, Junichi
M
天理市副市長
森継 隆
MORITSUGU, Takashi
M
天理市教育長
藤田 俊史
FUJITA, Toshifumi
M
天理市上下水道事業管理者
山中 由一
YAMANAKA, Yoshikazu
M
天理市市長公室長
河北 性治
KAWAKITA, Shouji
M
天理市総務部長
大橋 基之
OHASHI, Motoyuki
M
天理市議会議長
堀田 佳照
HOTTA, Yoshiteru
M
天理市議会副議長
三橋 保長
MITSUHASHI, Yasunaga
M
天理市議会議員(総務財政委員長)
市本 貴志
ICHIMOTO, Takashi
M
天理市議会議員(文教厚生委員長)
中西 一喜
NAKANISHI, Kazuki
M
天理市議会議員(経済産業副委員長)
飯田 和男
IIDA, Kazuo
M
天理市議会議員(議会運営委員長)
― 53 ―
マールブルク市長訪問団とその日程
マールブルクと天理 思いで
計 3名
C. Tenrikyo Overseas Department 天理教海外部
永尾 比奈夫
NAGAO, Hinao
M
海外部次長
菅井 宏史
奥山 真一
SUGAI, Hiroshi
M
海外部翻訳課
OKUYAMA, Shinʼichi
M
海外部翻訳課
計11名
D. Tenri University 天理大学
安野 嘉彦
YASUNO, Yoshihiko
M
理事長
飯降 政彦
IBURI, Masahiko
M
学長
大橋 正叔
OHASHI, Tadayoshi
M
副学長
澤井 義則
SAWAI, Yoshinori
M
副学長
鈴木 光
SUZUKI, Hikaru
M
事務局長
山倉 明弘
YAMAKURA, Akihiro
M
国際学部長
太田 雅夫
OHTA, Masao
M
体育学部長
近藤 雄二
KONDO, Yuji
M
体育学研究科長
塚本 順子
TSUKAMOTO, Junko
F
体育学部教授
森本 智士
MORIMOTO, Satoshi
M
国際学部准教授
一瀬 孝治
ICHISE, Takaharu
M
国際交流センター部長
4月 1 日の歓迎レセプション終了後の集合写真(天理教第 38 母屋にて、雅楽部員らとともに)
― 54 ―
マールブルク市長一行滞在 日程表
マールブルクと天理 思いで
マールブルク市長一行滞在 日程表
月日(曜)
時 間
~ 11:30
第1日目
11:30
11:30 ~ 11:50
3月31日(火) 11:55 ~ 12:15
12:20 ~ 13:00
13:10 ~ 14:00
14:10 ~
午前
第2日
4月1日(水)
13:30 ~ 15:30
4月2日(木)
第5日
4月4日(土)
市長・議長表敬訪問 (応接室)
市制60周年祝辞(議場)
天理教第38母屋
昼食会(特別会議室)
石上神宮見学
宿舎着
<市内観光>
天理大学入学式への来賓参加
市内観光(黒塚古墳、崇神天皇陵、長岳寺等)
天理教第38母屋
14:35 ~ 15:40 長岳寺見学
宿舎着
午前
天理大学による図書館案内等、特別展「ドイツと日
13:30 ~ 14:30
シャープミュージアム見学
14:45 ~ 15:45
歓迎レセプション(第38母屋)
<市内観光>
本」の鑑賞
天理観光農園あわ餅つき
天理教第38母屋
稲田酒造酒蔵見学
宿舎着
<京都 文化探訪>
終 日
天理出発 → 京都へ
二条城等、京都探訪(同行・案内:菅井宏史)
ホテル日航奈良
京都出発 ⇒ 奈良着
午前
13:00 ~ 14:30
14:40 ~
第6日
市役所到着
16:00 ~
17:00 ~
4月3日(金)
関西国際空港出発~天理市役所
14:05 ~ 14:30 崇神天皇陵見学
15:55 ~ 16:45
第4日
宿 泊 <到着・出迎え、市長・議長表敬、歓迎昼食会等>
13:30 ~ 14:00 黒塚古墳(展示館)見学
18:00 ~
第3日
日 程
終 日
4月5日(日) 午 前
<奈良見学・さよならパーティー>
奈良見学
さよならパーティー開催
(市民ホール)
真柱宅訪問、中山善司真柱と懇談
宿舎着
<帰国>
宿舎発⇒関西国際空港到着
― 55 ―
天理教第38母屋
マールブルクと天理 思いで
Vorwort
Vorwort
Die in Mittelhessen liegende Universitätsstadt Marburg mit ihren 72.000 Einwohnern hat eine
große religiöse Geschichte. Sie war der Ort des Wirkens der heiligen Elisabeth im späten Mittelalter.
Hier vollbrachte Sie ihre Wunder und wurde so zu einem der bedeutensten Wallfahrtsort für
viele Pilger. Die Universitätsstadt Marburg hat auch die älteste protestantische Universität der
Welt. Sie wurde im Jahre 1527 vom Landgraf Philipp dem Großmütigen begründet. Unter dem
Gründungsrektor Johannes Eisermann, Professor der Rechte, begann der Wissenschaftsbetrieb mit
elf Professoren und 95 Studenten. Fast gleichzeitig, im Jahre 1529, war Marburg der Schauplatz
des weltberühmt gewordenen Religionsgesprächs zwischen Martin Luther und Ulrich Zwingli.
Die Stadt Tenri ist auf der anderen Seite eine einzige Stadt Japans, deren Namen mit der
Bezeichnug einer Religonsgemeinschaft getragen wird. Sie heißt Tenrikyo, die im Jahre 1838 von
einer Bauernfrau Miki Nakayama hier gegründet wurde.
Der zweite Shimbashira (Oberhaupt der Tenrikyo), Shozen Nakayama, der Urenkel der Stifterin
der Tenrikyo ist, legte nicht nur auf die Veröffentlichungen der heiligen Schriften und die
Systematisierung der Lehre sein großes Gewicht, sondern auch errichtete viele Einrichtungen
für die Auslandsmission der Tenrikyo, wie Sprachschule (spätere Universität Tenri), Bibliothek,
Museum, Druckerei, und auch Krankenhaus als Sozialhilfe. Er widmete sich auch der Förderung
des Sports. Darüber hinaus war er sehr aktiv mit Austausch mit vielen Persönlichkeiten aus
verschiedenen gesellschaftlichen Kreisen. Dadurch hat er den Namen von „Tenri“ in der Welt
bekannt gemacht.
Sechs Dörfer (Tambaichi, Asawa, Yanagimoto, Ichinomoto, Nikaido und Fukuzumi) legten
zusammen und starteten 1954 als eine Stadt, wobei die Bezeichnung der hier geborenen
Religionsgemeinschaft „Tenrikyo“ als Stadtname aufgenommen wurde. Auf diese Weise wurde die
Stadt Tenri geboren. Und im Jahre 2015 ist in der Stadt deren 60. Jubiläum gefeiert worden. Die
Einwohnerzahl von Tenri ist ca. 70.000. So gibt es viele Gemeinsamkeiten zwischen den beiden
Städten, nicht nur die Stadtgröße sondern auch die alten Geschichten und Kulturen, die Religiösität
und die Eigenschaft als Erziehungsstadt.
Die Beziehung zwischen Marburg und Tenri begann in den 50er Jahren des vorigen Jahrhunderts
und bleibt bis heute. Und die Beziehung zwischen Marburg (Marburger Universität) und Tenri
(Tenrikyo, Tenri-Bibliothek und Tenri-Universität) kann auf ein neues Stadium gelangen, d.h. auf die
Beziehung zwischen den beiden Städten.
Diese Schrift ist zum Andenken bzw. Dokument dafür veröffentlicht worden, dass die städtische
Delegation aus Marburg vom 31. März bis zum 5. April 2015 Tenri besucht hat, um das 60.
Jubiläum der Stadt Tenri und das 90. Jubiläum der Universität Tenri zu feiern.
Unsere verehrte Gäste aus Marburg waren: Der Oberbürgermeister der Stadt Marburg, Egon
Vaupel, seine Frau Rita Vaupel, die Direktorin des Sportszentrums der Marburger Universität,
Brigitte Heusinger von Waldegge und ihr Mann, Architektur, Gerhard Zinke-Heusinger von
Waldegge, Betreuer SF BG Marburg e.V., Herr Jörg Chylek, Gymnasiumslehrer, Vorstandsmitglied
der Judo-Abteilung SF BG Marburg e.V. und hessischer Landestrainer für Sehbehinderte und Blinde,
Herr Markus Zaumbrecher und Dolmetscherin, Yasuko Tsuruki.
Anlässlich dieser Gelegenheit haben wir auch die Austauschgeschichte zwischen Marburg und
Tenri vom Anfang bis zur Gegenwart umfassend zusammgefasst.
Tenri, 25. März 2016
Die Herausgeber:
Satoshi Morimoto, Hiroshi Sugai, Yuji Kondo
― 56 ―
Liebe
マールブルクと天理 思いで
Freundinnen und Freunde
Liebe Freundinnen und Freunde
Egon Vaupel
Liebe Freundinnen und Freunde, in Tenri. Es ist schön, dass wir uns in wenigen Tagen in Marburg
wiedersehen. Wir freuen uns sehr, sie alle in der Universitätsstadt Marburg herzlich begrüßen zu
können.
Ein Jahr ist mittlerweile vorüber als ich mit meiner Frau das erste Mal in Japan, genau gesagt in
Osaka eingetroffen bin um sie in Tenri zu besuchen. Wir waren neugierig, erwartungsfroh und
doch unsicher was uns erwartete. Schon bei der Ankunft in Tenri wurde deutlich, wir waren
bei Freunden angekommen. Herzlich haben sie uns empfangen und bei vielen Gesprächen,
Empfängen, Informationen, Besichtigungen und nicht zuletzt bei den vielen persönlichen
Kontakten wurde deutlich, wie ertragreich der Kontakt zwischen den Städten, Universitäten und
im Besonderen des Sports sind und gepflegt und ausgebaut werden sollten.
Hier gilt all denen, die diese Kontakte über viele Jahre aufgebaut und gepflegt haben mein
herzlicher Dank. Es wurde hervorragende Arbeit geleistet. Ohne einen großen zeitlichen Aufwand
und persönliches Engagement ist dies nicht möglich.
Mich freuen besonders die Kontakte im Bereich des Sports. Bei den vielen politischen
Fragestellungen in der Welt bleibt der Kontakt der Jugend gerade im Sport eine gute Grundlage für
ein verständnisvolles, faires und friedvolles Miteinander. Die Zukunft können wir nur gemeinsam in
einer Welt erreichen. Der Sport baut diese Brücken, der Sport verbindet und schafft Identität.
Wir freuen uns auf ihren Besuch in Marburg, ein ganz besonderer Gruß gilt den Studentinnen und
Studenten die das erste Mal nach Marburg, ja vielleicht auch nach Deutschland kommen.
Wir haben gerne Gäste in der Universitätsstadt Marburg. Die erfolgreiche Geschichte unserer
Stadt wurde durch Menschen aus vielen Ländern der Welt befruchtet. 141 unterschiedliche
Nationalitäten leben in unserer Universitätsstadt. Dies macht unser Miteinander bunt und gibt uns
eine lebendige Vielfalt die man einfach genießen muß.
Wir freuen uns auf Sie!!
Ihr
Egon Vaupel
(p.7 に日本語訳掲載)
― 57 ―
4 Jahre "neue"マールブルクと天理 思いで
Partnerschaft zwischen Tenri und Marburg
4 Jahre "neue" Partnerschaft zwischen Tenri und Marburg
Jörg Chylek
Nachdem im Jahre 2007 Marburg sein Japanzentrum eingebüßt hat, waren die guten Beziehungen
zwischen den beiden Universitäten stark gefährdet. Es gab jetzt keine deutschen Studenten mehr,
die in Marburg Japanologie studieren konnten. Die Bemühungen, auch gerade von der TENRI
Universität, die Beziehungen weiter aufrecht zu erhalten, verdient allerhöchste Anerkennung.
Endlich im September 2012 trafen sich Prof. Satoshi Morimoto, Herr Dr. Dieter Schümer, Dr. Martin
Kraatz, Frau Dr. Duxa, Herr Jörg Chylek und Frau Yasuko Tsuruki, um festzulegen wie eine neue
Partnerschaft aussehen könnte.
Im Februar 2013 kamen dann eine Studentengruppe, mit Ihren Begleitern, aus Tenri nach Marburg.
Neue Schwerpunkte waren jetzt nicht mehr nur der universitäre Bereich, sondern auch ihre
Teilhabe am kulturellen, sportlichen, geschichtlichen sowie politischen Geschehen in der
Universitätsstadt Marburg. Das Programm für die Studenten ist seitdem immer weiter ausgefeilt
worden und die Besuche und ihre Bedeutung für die Stadt Marburg, als auch für die Studenten
ist immer wichtiger geworden. Japan oder besser TENRI ist ein kleiner aber wichtiger Stein in
Marburgs Mosaik.
So wurde z.B. die Partnerschaft zwischen beiden Universitäten im Jahre 2013 erneuert und eine
Erinnerungsstätte für die Opfer der TOHOKU Katastrophe eingerichtet.
Besonders bemerkenswert ist, das einige Studenten aus Tenri beschlossen haben, ihr Studium oder
ihren Sport in Marburg weiterzuführen. Dies ist eine ganz besondere Freude für alle.
Höhepunkt aus Marburger Sicht war sicherlich der Besuch einer Delegation aus Marburg nach
Tenri im März 2015. Angeführt vom ehemaligen Oberbürgermeister der Universitätsstadt
Marburg Herrn Egon Vaupel und seiner Frau Rita Vaupel, wurden sie dort sehr freundlich und sehr
kompetent mit der Universität und der Stadt Tenri vertraut gemacht. Die Rückreise traten Sie dann
mit einem Koffer voller Glück wieder nach Marburg.
Jetzt im Januar 2016 steht der nächste Besuch der Tenristudenten bevor. Das Programm
mit gemeinsamen Sport, Besuch eines Fußballbundesligaspiels, Empfang beim neuen
Oberbürgermeister Dr. Thomas Spies, Tagesreise nach Köln zur Sporthochschule,sowie der
obligatorische Sprachunterricht und vieles andere mehr sind schon fest gebucht. Mit großer
Zuversicht hoffen wir das auch diese Reise für alle Beteiligten wieder ein herausragendes Ereignis
sein wird.
(p.8 にドイツ語訳掲載)
― 58 ―
マールブルクと天理 思いで
Philipps-Universität Marburg
Philipps-Universität Marburg
Internationale Angelegenheiten und Familienservice
Petra Kienle, Dezernentin
Im Jahre 1996 haben die Universitat Tenri und die Philipps-Universität Marburg einen
ersten Partnerschaftsvertrag unterzeichnet, jedoch gehen die Verbindungen zwischen den
beiden Universitäten und unseren Wissenschaftler/innen auf das Jahr 1960 zurück, als der
Religionshistoriker Dr. Martin Kraatz den 10. Internationalen Kongress für Religionsgeschichte in
Marburg mit organisiert hatte, an dem auch der damalige Shimbashira, das religiöse Oberhaupt
der Tenrikyo, teilnahm.
In den vergangenen fünfzehn Jahren wurden vor allem die wissenschaftlichen Kontakte in der
Religionswissenschaft und Theologie weiter ausgebaut und es wurden beispielsweise gemeinsame
wissenschaftliche Tagungen zu Themen wie „Prayer as Interaction“ in Tenri und in Marburg
veranstaltet, die für beide Seiten höchst interessant und befruchtend waren. Wir freuen uns daher,
dass wir im September 2014 eine Delegation der Tenri Unviersität zu einem Symposium mit dem
Titel „Materiality in Religion and Culture“ begrüßn dürfen.
Im Fokus des im Februar 2013 erneuerten Vertrages steht der Austausch unserer Studierenden.
Studierende der Tenri Universität besuchen im Rahmen eines Programmes unter dem Motto
„Sport und Sprache“ die Stadt und Universität Marburg.
Für die Studierenden werden Deutsch-Kurse angeboten und sie nehmen an einem Programm teil
rund um den Sport in Marburg.
Wir freuen uns über diese neuen Initiativen und verknüpfen damit den Wunsch und die Hoffnung,
unsere freundschaftlichen Beziehungen weiter zu vertiefen.
(p.9 に日本語訳掲載)
― 59 ―
Zusammenfassung:„Austauschgeschichte
マールブルクと天理 思いで
zwischen Marburg und Tenri“
Zusammenfassung:
„Austauschgeschichte zwischen Marburg und Tenri“
SUGAI, Hiroshi
Professor Dr. Wolf Haenisch und Professor Shigeo Yamaguchi, Herr Haenisch und der zweite
Shimbashira Shozen Nakayama, Direktor der Marburger Universitätsbibliothek Haenisch und
Direktor der Tenri-Bibliothek Herr Makita Tominaga, Professor Dr. Ernst Benz und Shozen
Nakayama, Professor Dr. Friedlich Heiler und Shozen Nakayama; und der X. Internationale
Kongress für Religionsgeschichte 1960 in Marburg, der diese Beziehungen noch weiter entwickelte;
und die weiteren Beziehungen zwischen Yoshio Takahashi u.a. und Marburgern wie Dr. Haenisch
und Herr Johannes Laube, nachdem der zweite Shimbashira Shozen Nakayama gestorben war;
die vor solchem historischen Hintergrund von Dr. Martin Kraatz vorgeschlagene Ausstellung über
Tenrikyo, die in der Marburger Universitätsbibliothek im Jahre 1975 stattfand; weitere Beziehungen
danach zwischen Dr. Kraatz und dem dritten Shimbashira Zenye Nakayama und anderen Leuten
aus Tenri:
Diese Beziehungen zwischen Marburg und Tenri haben sich auf diese Weise immer in den
verschiedenen persönlichen Kontakten und in daraus entstehenden verschiedenen Ereignissen
entwickelt. Die Beziehungskette, in der eine Beziehung eine weitere herstellt, hat sich in
verschiedenen Verhältnissen bis heute ununterbrochen fortgesetzt. Die heutige Lage ist eine Folge
solch wundersamer Kettenverbindungen.
Diese Vereinbarung, die zwischen den beiden Universitäten miteinander getroffen worden ist,
muss in dem Sinne nichts anderes als eine Frucht sein, die der Geschichtsbaum trägt. Wir, die
Erben dieser Beziehung, die den Baum in der Gegenwart besitzen, müssen uns bewusst sein,
dass wir die Verantwortung dafür tragen, ihn immer weiter heranwachsen, ohne ihn verdorren zu
lassen.
(Übersetzungsbüro der Auslandsabteilung der Tenrikyo)
(p.11 ~ 24 のドイツ語抄録)
― 60 ―
Tenri
マールブルクと天理 思いで
und Marburg 1960 bis Heute
Tenri und Marburg 1960 bis Heute
Martin Kraatz(6. Leiter der Religionskundlichen Sammlung der Philipps-Universität
Marburg〈Leitung:1968 – 1998〉
)
Einen persönlichen Rückblick soll ich geben auf die Beziehungen zwischen Tenri und Marburg.
Uns, meiner Frau Margot und mir, begegnete die Religion Tenrikyo zum ersten Mal im Septem¬ber
1960, als der zweite Shimbashira Nakayama Shozen den 10. Internationalen Kongress für
Religionsgeschichte hier in Marburg besuchte und ein Referat über die Grundschriften seiner
Religion hielt. Wie tief dieser kluge, unkonventionelle und charismatische Mensch uns beeindruckt
hatte, das vergaßen wir nicht, und ich tat zwölf Jahre später etwas, woraus sich nach und nach die
Beziehungen zwischen den Universitäten Tenri und Marburg entwickelten.
Ich hatte im Jahre 1968 die Leitung der von Rudolf Otto gegründeten Religionskundlichen
Sammlung übernommen und schlug, im Erinnern an die Begegnung mit dem zweiten Shimbashira,
der Tenrikyo in einem Brief vor, sie als Beispiel einer lebendigen „Neureligion“ hier in Marburg
in einer Ausstellung vorzustellen. Der dritte Shimbashira Nakayama Zenye, seit dem Tod seines
Vaters 1967 im Amt, kam nach Marburg, ließ sich meinen Plan erläutern, stimmte der Ausstellung
zu und bot an, deren Vorbereitung und Realisierung sachlich und personell voll zu unterstützen.
Die in lebhafter Kooperation zwischen Marburg und Tenri erarbeitete und realisierte Ausstellung
im Frühjahr 1975, im Foyer der Marburger Universitätsbibliothek, wurde gut besucht, und danach
begann ein immer lebendiger werdender Austausch zwischen der Tenrikyo und Marburg, hier nun
fokussiert auf die Religionskundliche Sammlung, eine Einrichtung der Philipps-Universität.
Bis dahin hatte es nur persönliche Kontakte zwischen Tenri und Marburg gegeben, ohne
institutionelle Folgen. Der Japanaloge und Direktor der
Marburger Universitätsbibliothek Wolf Haenisch war, vermittelt durch seinen ehemaligen
Kommilitonen, den Germanisten Yamaguchi, in den fünfziger Jahren des vorigen Jahrhunderts
als Lektor nach Tenri gekommen und hatte den zweiten Shimbashira zum Freund gewonnen.
Der Kirchenhistoriker Ernst Benz hielt, während seiner Zeit als Gastprofessor in Kyoto Ende
der fünfziger Jahre, in Tenri mehrfach Vorträge. Der Religionshistoriker Friedrich Heiler lernte
die Religion Tenrikyo 1958 kennen, als die Teilnehmer des 9. Internationalen Kongresses für
Religionsgeschichte eine Exkursion nach Tenri unternahmen. Anfang der siebziger Jahre übernahm
der Haenisch-Schüler Johannes Laube für zwei Jahre das Deutsch-Lektorat an der Universität Tenri.
Anfang der neunziger Jahre bat das Übersetzungsbüro des Kaigaibu meine Frau, die deutsche
Rohübersetzung der Erinnerungen an die Stifterin, Itsuwa-hen, grammatisch und stilistisch zu
überarbeiten. Das übernahmen wir beide. Den von uns erarbeiteten Text diskutierten wir dann in
Tenri in langen Besprechungen mit den Übersetzern und weiteren Vertretern der Tenrikyo. Diesem
ersten Projekt folgten im Lauf der Jahre viele weitere. Eine besondere Herausforderung wurde die
Überarbeitung der deutschen Übersetzung einer Auswahl von Osashizu, die wir dann in Tenri über
zwei Wochen hin mit den Übersetzern und einigen für die Lehre der Tenrikyo Verantwortlichen
Wort für Wort durchsprachen. Die Arbeit an der deutschen Übersetzung der im Original zu seinem
60. Geburtstag publizierten Fernsehansprachen des dritten Shimbashira, „Tag für Tag in Freude“,
Yorokobi no hibi, brachte uns sein den Menschen innerhalb und außerhalb der Tenrikyo liebevoll
zugewandtes Denken und Fühlen, und damit ihn selbst, recht nahe.
― 61 ―
Tenri
マールブルクと天理 思いで
und Marburg 1960 bis Heute
Als wir im Sommer 1991 nach Tenri kommen wollten, bat uns der damalige Präsident der
Unversität Tenri, Okubo Akinori, um ein Gespräch über die Möglichkeiten einer Kooperation
der Universitäten Tenri und Marburg. Nach Abstimmung mit dem damaligen Vizepräsidenten,
später Präsidenten der Philipps-Universität Werner Schaal und dem Leiter des Auslandsamts
Dieter Schümer kamen dann über etliche Jahre hin Gruppen von Studentinnen und Studenten
der Germanistik an der Universität Tenri für zwei/drei Wochen nach Marburg zu Sprachkursen,
Kulturexkursionen durch Deutschland, auch zu sportlichem Austausch mit Marburger
Sportstudenten.
Eine wissenschaftliche Kooperation hat sich in der Religionswissenschaft ergeben. Nach
Vorgesprächen zwischen dem Religionswissenschaftler Sawai Yoshitsugu von der Universität
Tenri, dem praktischen Theologen Gerhard Marcel Martin von der Universität Marburg und mir
im Herbst 2004 haben inzwischen drei Symposien stattgefunden, 2006 über Prayer in Marburg,
2010 über Purification in Tenri, 2014 über Materiality in Religion and Culture wieder in Marburg.
Dieses Tenri und Marburg verbindende Projekt, dokumentiert in der Publikation der Beiträge, soll
in vierjährigem Rhythmus fortgesetzt werden.
Unter den zahlreichen Verbindungen mit, oft auch zu Freunden gewordenen, japanischen
Kollegen an verschiedensten Orten, die sich für meine Frau und mich von 1959 an entwickelt
haben, ist der Kontakt mit Tenri und der Tenrikyo immer ein besonderer gewesen. Unser
nüchtern religionshistorisches Interesse an einer Religion in ihrer, verglichen mit lange
etablierten Religionen, noch jungen Geschichte führte dazu, dass wir in Tenri viele Menschen
kennen und schätzen lernten, mit denen wir uns gut verstanden und verstehen. Bewegend
herzliche Begegnungen waren in meiner Erinnerung die mit dem jetzt aus dem Amt des
Universitätspräsidenten scheidenden Iburi Masahiko. Für das alles bin ich dankbar und werde es,
solange ich lebe, immer bleiben.
Marburg, am 20. März 2016
Martin Kraatz
(p.42 に日本語訳掲載)
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Über die Partnerschaft derマールブルクと天理 思いで
Philipps-Universität Marburg und der Tenri-Universität
Über die Partnerschaft der Philipps-Universität Marburg und der TenriUniversität
Prof. Dr. Dres.h.c. Werner Schaal
Die Philipps- Universität Marburg bietet seit dem Ende des 19. Jahrhunderts das Studium der
japanischen Sprache an. Dieses Studienangebot wurde in den siebziger Jahren des vergangenen
Jahrhunderts durch die Gründung des Institutes für „Außereuropäische Sprachen und Kulturen“,
die Einführung eines Studienganges für Japan-Studien sowie die spätere Gründung des JapanZentrums ausgeweitet und intensiviert. Studierende dieses Curriculums hatten die Möglichkeit,
nicht nur die japanische Sprache zu erlernen, sondern sich auch mit dem modernen Japan,
seiner Kultur, seiner Gesellschaft und Wirtschaft vertraut zu machen. Außerdem gibt es an der
Marburger Universität eine Professur für Religionsgeschichte am Fachbereich Theologie, ein
Religionswissenschaftliches Institut am Fachbereich „Gesellschaftswissenschaften und Philosophie“
und eine Religionskundliche Sammlung. Alle diese Einrichtungen haben auch einen Bezug zur
japanischen Kultur und Geschichte, und die Marburger Japanologen arbeiteten mit ihnen eng
zusammen. Am damaligen Japan-Zentrum lehrten die Professoren Erich Pauer, Jens Rickmeyer,
Michael Pye und Herr Dr. Kraatz. Es sollte erwähnt werden, dass der langjährige Direktor der
Religionskundlichen Sammlung, Herr Dr. Martin Kraatz, eine Ausstellung über die Tenrikyu Religion
im Jahre 1975 in der Marburger Universitätsbibliothek organisiert hat. Diese Ausstellung wurde
unter anderem vom Shimbashira Zenye Nakayama besucht.
Wegen der großen Bedeutung der japanischen Wirtschaft nahm die Zahl der Studierenden am
Japan-Zentrum in diesen Jahren stark zu. Daher war es naheliegend, dass ich kurz nach der Wahl
zum Vizepräsidenten der Philipps-Universität im Jahre 1990 mit einer kleinen Delegation nach
Tokyo reiste, um dort Universitätspartnerschaften zu vereinbaren. Diese Reise wurde von Herrn
Prof. Pye fachlich begleitet.
Es gelang der Marburger Universität in der Folgezeit, die Tenri Universität davon zu überzeugen,
ein Curriculum für Japan-Studien (Japanese Studies) einzurichten. In dem Zusammenhang
besuchte ich die Tenri-Universität unmittelbar nach meiner Wahl zum Präsidenten der PhilippsUniversität zum erstenmal 1994. Die Tenri-Universität besaß zu dieser Zeit eine ausgezeichnete
Abteilung für Deutsch. Bekannte japanische Germanisten und auch deutsche Professoren
arbeiteten in dieser Abteilung. Ich erwähne nur Prof. Dr. Kenichi Sagara und die deutschen
Professoren Marion Settekorn und Uwe Karsten. Bereits während dieses Besuches und auch
bei meinen späteren Besuchen wurde ich von Herrn Prof. Satoshi Morimoto betreut. Während
meines ersten Besuches unterzeichneten der damalige Präsident der Tenri-Universität, Herr Prof.
Ueda, und ich eine Vereinbarung über den Austausch von Studierenden zwischen unseren beiden
Universitäten. Höhepunkte meines ersten Besuches bildeten eine Führung durch Tenris berühmte
Universitätsbibliothek und Vorführungen von Angehörigen des Sportinstitutes. Der damalige
Direktor der Universitätsbibliothek, Herr Prof. Iida, hatte eine kleine Ausstellung von Werken von
Johann Wolfgang von Goethe und Thomas Mann vorbereitet, in welcher auch eine Kopie der
Luther-Bibel und andere wertvolle Bücher gezeigt wurden. Wenn ich richtig informiert bin, war es
der Zweite Shimbashira, der diese bekannte Bibliothek begründet hat. Bei der Gelegenheit möchte
ich dankbar erwähnen, dass Herr Prof. Iida und Frau Iida mich anlässlich meines siebzigsten
Geburtstages in Marburg besucht haben. Dieser Besuch war ein besonderes Zeichen der engen
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Über die Partnerschaft derマールブルクと天理 思いで
Philipps-Universität Marburg und der Tenri-Universität
Verbundenheit zwischen unseren beiden Universitäten. Mir wurde damals auch der Judomeister
Herr Yoshimi Masaki vorgestellt, und ich habe ihn sofort für einen halbjährigen Aufenthalt
an unsere Universität eingeladen. Er nahm diese Einladung an und kam im Sommersemester
zusammen mit seiner Frau und seinem ersten Kind nach Marburg. Er unterrichtete hier mit großem
Erfolg und besuchte während seines Marburger Aufenthaltes auf deren Einladung viele andere
deutsche Universitäten. In den vergangenen Jahren ist er immer wieder nach Marburg gekommen.
Ein anderer Höhepunkt dieses Besuches und meiner späteren Besuche der Tenri-Universität waren
Einladungen des Shimbashira und seiner Frau in dessen Gästehaus.
Der Studentenaustausch zwischen unseren Universitäten war leider unausgeglichen. Nur
eine kleine Zahl Marburger Studenten nahm die Gelegenheit wahr, eine Zeitlang an der TenriUniversität zu studieren. Jedoch alle lobten die exzellente Betreuung, die sie dort durch die
japanischen Kollegen erfuhren. Unsere Vereinbarung über den Studentenaustausch eröffnete
japanischen Studenten die Möglichkeit, auch für kürzere Zeit in Marburg zu studieren. So kam
es, dass viele von ihnen lediglich für etwa vier Wochen in Marburg waren. Sie konnten hier an
Deutschkursen teilnehmen und hatten Gelegenheit, in Deutschland zu reisen. Diese Initiativen
wurden und werden nach wie vor von Herrn Prof. Morimoto organisiert, und er begleitet die
jeweiligen studentischen Gruppen nach Marburg und Deutschland. Dabei zahlt sich aus, dass
Herr Morimoto und seine Familie, Frau und zwei Töchter, ein ganzes Jahr in Marburg verbrachten,
2000/2001. Auf die Art entwickelte sich eine enge Verbindung von Herrn Morimoto zu Marburg.
Frau Settekorn begleitete ebenfalls mehrere Male die japanischen Studentengruppen bei deren
Marburger Aufenthalten. Während eines ihrer Marburger Besuche gelang es mir, eine Ausstellung
ihrer Zeichnungen und Exponate in unserem Museum zu organisieren. Die Ausstellung hatte den
Titel „Mingling Spirits“ und wurde im Frühjahr 1998 gezeigt.
Herr Morimoto erwies sich auch als sehr hilfreich, Besuche der Präsidenten Taketo Hashimoto
und Masahiko Iburi in Marburg vorzubereiten und zu organisieren. Anlässlich dieser Besuche
wurden die Vereinbarungen mit der Tenri-Universität zweimal verlängert, einmal im Jahre 2001
durch meinen Nachfolger Herrn Prof. Kern und 2006 durch dessen Nachfolger Prof. Nienhaus.
Beide Verträge tragen die Unterschrift von Herrn Präsident Hashimoto. Ich freue mich, dass unsere
jetzige Präsidentin, Frau Prof. Katharina Krause, im Jahre 2013 eine weitere Vereinbarung mit
Herrn Präsident Iburi unterzeichnet hat, welche nicht nur Studentenaustausche, sondern zusätzlich
auch solche von Professoren, Lehrenden und Verwaltungsangehörigen vorsieht.
Leider wurde unser Japan-Zentrum im Jahre 2012 geschlossen, das Curriculum für Japan-Studien
wurde in Marburg beendet und nach Frankfurt verlegt. Meiner Meinung nach war dies keine gute
Entscheidung, wenn man bedenkt, dass das Japan-Zentrum zu den erfolgreichsten Einrichtungen
unserer Universität gehörte.
Ich selbst bin dankbar, dass ich die Gelegenheit hatte, mit der Tenri-Universität und deren Kollegen
zusammen zu arbeiten, dass ich diese Universität mehrmals besuchen konnte, sogar nach meiner
Pensionierung, und dass die Partnerschaft weiterhin besteht und lebt.
Marburg, im Februar 2016
(p.44 に日本語訳掲載)
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マールブルクと天理 思いで
編 集 後 記
2015 年 3 月末から 4 月上旬に天理を訪問したマールブルク市長ら一行の歓迎とその行事の準
備過程でこれからも一緒に仕事をしたいと思うお二人とのであいがありました。附属天理図書館
の神崎順一氏と海外部翻訳課の菅井宏史氏です。市長一行のために神崎氏が惜しみなく協力して
くれた特別展「ドイツと日本」は、ともに「ビブリア」に開催の覚書きを執筆する機会を得ました。
市長一行の記録と記念誌作成に着手したのは、市長一行滞在中の交流の興奮がやっと落ち着き、
第 5 回国際スポーツ交流実習の実施が目の前に迫った 2016 年 1 月でした。天理とマールブル
クとの交流記録に論文を含め記念誌としてこの機会にまとめることにしました。
交流記録が資料的価値を伴う記念誌としてまとめられる予感は、マールブルク市長滞在の間、
通訳として関わった海外部の菅井宏史氏との出会いでした。1986 年と 1997 年からの 2 回、合
計 5 年余りマールブルク大学に留学して、海外部の仕事を通して交流の担い手でもあった菅井
氏からは、マールブルクとの関係は二代真柱を中心とする人と人とのつながりが紡ぎ出してきた
とアドバイスをされました。そしてもう一人、1990 年以降にマールブルク大学を本学の実習校、
協定校とする前後の時期から海外実習をプランし、また新たな関係構築を開拓してきた森本智士
氏、この二人の協働は、完成度の高い交流史を可能にすると考えました。そして年譜を含め、マー
ルブルクと天理の 1950 年から 2015 年(正確には 2015 年度)までを網羅した記録とともに記
念誌として発行することができました。菅井氏の指摘通り、二代真柱が培った人とのつながり、
その継承による更なる二世代、三世代の人と人とのつながりと広がりが交流史に浮かびあがりま
した。二代真柱にとどまらず三代真柱、そして現真柱様も、マールブルクを訪問してマールブル
クと天理の絆を強めてきました。
記念誌作成に着手したちょうどその時、飯降政彦学長は、2016 年 3 月末で交代する報が耳に
とどきました。中山正善二代真柱は、1967 年 11 月の死去までに 1960 年、1963 年と 1966 年
に 3 回、マールブルクを訪ねています。1966 年の訪問時にはマールブルク市と天理市との姉妹
都市の話もヘーニッシュ氏との間で話題にのぼりましたが、翌年に二代真柱が亡くなったため、
その後、姉妹都市の話題は語られなくなりました。そのマールブルク市と天理市の友好都市関係
を目指して、マールブルク市長が天理市制 60 周年と天理大学創立 90 周年を祝うために天理に
訪れる機会をつくりあげたのは、2010 年に天理大学の学長に就任した飯降政彦氏でした。天理
市の南市長(前)、並河現市長に働きかけ、マールブルク市長への親書を自らが現地に運び、天
理市職員のマールブルク市への訪問、天理市ロビーに常設のマールブルクコーナーの設置を実現
させ、そしてマールブルク市長の天理訪問が 2015 年に実現しました。
飯降学長は、学長就任後、2011 年、2013 年と 2014 年の 3 回(その他、1968 年に青年会
あらきとうりょう号キャラバン隊でも訪問)、マールブルクを訪問し、マールブルク大学との学
生交流協定を大幅に改訂して、学術交流協定を締結しました。4 回にわたって継続する国際スポー
ツ交流実習がマールブルク大学、マールブルク市、マールブルクスポーツ団体 BlauGelb の 3 者
の受け入れと天理市の協力で毎年度充実して実施されていますが、これはひとえに飯降学長の支
えとリーダーシップが大きな原動力になっています。
本記録・記念誌は、海外部・菅井氏の労を惜しまない姿勢と私たちとの協働でできあがりまし
た。こうして完成に至った本誌が天理教関係部署やお道の方々、天理大学教職員や天理市民をは
じめとする人々にマールブルクへの関心を呼びおこすことになり、また天理大学生が留学先とし
て選択することにつながれば、私たち編集に携わった者にとっては望外の喜びです。
最後に、本記録・記念誌は、2015 年度末発刊予定で進めました。3 月 26 日や 31 日ではなく
3 月 25 日を発行日としました。この日は、飯降政彦学長の最終執務日です。
(編者を代表して、近藤雄二)
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