選びにおける神の主権 使徒パウロが、歴史における神の選びの不思議さ

牧師のデスクより
ローマ書 9 章 14〜18 節
選びにおける神の主権
使徒パウロが、歴史における神の選びの不思議さについて語ったとき、それ
に対して反対派から突き付けられたのは、「神が、或る者を救いに選び、或る
者を選ばないということは不公平ではないか。不合理ではないか」という問いか
けであった(9:14)。
そこで、この反論に対して、パウロは、「とんでもない!」と言い、旧約時代の
二人の人物を引き合いに出して論駁する。すなわち、モーセを引き合いに出し
て、神の憐れみが如何に主権的であるかを示し、またエジプトの王ファラオを
引き合いに出して、罪人に対する神のお取り扱いもまた主権的であるということ
を教えることによって、神の側に不正があるのではないか、という問いに答える
のである(14〜18 節)。
ファラオというのはエジプトの絶大な権力者である。悪の権化である。その悪
の権化であるファラオでさえも、神は支配しておられて、救いのご計画のために
用い給うという、神の支配の不思議さにパウロは目を向けさせる。
イスラエル解放を頑なに拒む横暴な王ファラオに対して、神はモーセを通し
て言われた(17 節)ファラオよ、あなたは、自分は絶対権力者、誰にも左右され
ることはない、自分の思いのままに何でもできる、と思っているが、そのあなたで
さえ、神の支配の外にあるものではない。神はあなたでさえ、その御手の中に
置いているのだ!と。フォラオの傲慢に対する警告の言葉なのである。事実、
やがてこの傲慢な権力者「ファラオとその軍勢」は神に打ち砕かれ、イスラエル
は驚くべき神の救いの御業によって、エジプトを脱出して、約束の地カナンへと
旅立っていくのである。
使徒パウロはこのことを指摘する。このファラオが、歴史の舞台に現れてエジ
プトの王となり、イスラエルを奴隷にして弾圧し、神に敵対し反対していったの
は、単なる歴史の偶然ではない。ファラオの頑な反抗を通して、また、それに対
する神の裁きを通して、この世の権力者でさえも神の御手とその支配の下にあ
ることを示し、こうして、神の主権が崇められ、神の栄光が現れるためであった、
というのである。
神は、ご自身の御心にかなう者だけでなく、神を無視し反抗する者でさえも、
人間の傲慢と罪の行為でさえも、その救いの御業の中で用い給うということ、モ
ーセだけでなく、フォラオも、また、キリストを裏切ったユダでさえも、ローマ総督
ポンテオ・ピラトでさえも、用い給う神の主権的ご支配の不思議さ!
この世は罪に満ちている。悪の力がはびこり、私たちを取り巻く状況は厳し
いように見える。一体この世界はどうなるのだろうか?この時代はどうなるのだろ
うか?私たちはどうなるだろうか? と不安になってくることがある。しかし、神は、
この世の全てのものに「主権」を持っておられるお方である。ファロオのようなこ
の世の権力者でさえも神の御手の下にある。
そして「この私も」また、神のご主権の下にある、恵みの主権の下に生かされ
ている! 私たちを取り囲む状況がどう変わろうと、この神のご主権は変わらな
い。神の恵みは変わらないのである! 私たちはこの恵みの確かさの中に生か
されている! この神の恵みの事実、この神の恵みの確信——ここにキリスト者
の慰め、希望がある。