シリーズ・街の記憶 ①

シリーズ・街の記憶 ⑥
成佛寺
― イギリス諜報員の華麗なるラブ・ロマンス
◎ 東海道神奈川宿・成佛寺
よく晴れた晩秋の昼下り、東神奈川駅東口を降りて
海側の旧東海道に向かい、京急仲木戸駅の高架を抜け
て二本目の細い路地を右に入り 5 分も歩くと、右手に
鉄筋造りの寺の本堂
が聳える。境内に入
ると左手には墓地が
拡がり、本堂裏手を
見慣れたツートンカ
ラーの京急 2100 型
の快特が轟音を上げ
て走り抜けていく。
現在の成佛寺
ここ正覚山成佛寺
がその名を歴史に留めるのは、ヘボン、ブラウン、バ
ラといった著名な宣教師達が開港直後の最初の住処と
したことによる。幕府が居留地造営前に神奈川宿界隈
の寺院を外国人施設として供した苦肉の策の結果であ
り、
周囲に散在する寺院には米英仏領事館も入居した。
ヘボンは本堂を 8 つの部屋に分け、そこには外国人
滞在者が相次いで投宿し、さながら居留地にホテルが
開業する前の外国人宿泊施設の様相を呈していた。
◎ 宣教師ブラウン
アメリカ人宣教師サミュエル・ロビンス・ブラウン
は 1859(安政 6)年 11 月 1 日、神奈川に上陸すると、
一足先に成佛寺に間借りしていたヘボンのもとにやっ
てきた。本堂の右手にあった庫裡を間借りすると、約
2 ヶ月後には、妻エリザベスと、翌二月に二十歳を迎
える才気溢れる娘ジュリア、歳の離れた二人の弟ハワ
ードとハッティの家族を上海から呼び寄せた。
後に日本最初の翻訳聖書をヘボンとともに出版し、
幕府の要請に従い英語通訳養成のための横濱英学所を
手始めに新潟英学校や修文館、明治学院などでキリス
ト教教育に献身することになるブラウンは、日曜日ご
とに成佛寺の庫裏の自宅を開放して礼拝を行った。
時は明治維新前夜。ヘボン、ブラウンの元には既に
来日中の外国人から勤皇の志士に至る様々な人間が出
入りすることになる。無論、世は尊王攘夷の動き喧し
き時勢、その周辺警護は極めて厳しいものだった。
◎ ジュリア・ブラウンのラブ・ロマンス
江戸、神奈川のあちらこちらで攘夷の志士による外
国人殺傷事件が相次ぐ緊張感の中で、礼拝日には華麗
な指さばきでオルガンを弾き、乗馬で遠乗りをしては
日本人を驚かせる、自由奔放な若きジュリアの姿はひ
ときわ異彩を放っていたに違いない。
そしてこのジュリアが父ブラウンの宣教師としての
地位を脅かすようなスキャンダラスな事件を惹き起こ
すことになる。ブラウン師の日曜礼拝に訪れていたイ
ギリス領事館付通訳生であったジョン・フレデリッ
ク・ラウダーの子を身籠ってしまうのだ。
実はラウダーの父も宣教師であり、上海のイギリス
領事館付牧師として勤務していたが、赴任一年で妻子
を残して事敀死する。ラウダーの母は女手ひとつで息
子を育て上げたが、丁度この事件が発覚した時、イギ
リス駐日公使オールコック卿と再婚の婚約をしており、
国籍と身分を越えたこの二人の結婚に猛反対したのだ。
このゴシップは在日外国人の巷間を賑せたのみなら
ず、ブラウン牧師の派遣元であるオランダ改革派教
会・香港のスミス司教にまで伝わり、司教はブラウン
牧師の帰任と、若い二人の離日を求めた。
しかし、二人はこの苦難を乗り越え、1862(文久 2)
年 9 月 13 日、神奈川イギリス領事館での結婚を許さ
れる。ジュリア 22 歳、ラウダー19 歳の若い夫婦の誕
生である。新婦出産の僅か二日前のことであった。
◎ 通訳官ラウダーの足跡
この新郎ラウダーこそ、34 年後、カリュー事件のイ
ギリス領事裁判で妻イーデスの無罪を主張した弁護士
であった。彼のその後の足取りを追ってみよう。
1858(安政 5)年、アメリカに引続き日英修好通商条
約を締結したイギリス政府は、翌年の開港に備え対日
外交の人材育成に取り組むことになった。その一つが
1860(七延元)年から始まった、イギリス外務省領事部
門による日本語通訳生の募集であった。これはロンド
ン、スコットランド、アイルランドの特定大学に在籍
する 18~24 歳の学生を対象とした政府官庁委員によ
る競争試験制度であった。
ラウダーは 1860 年の第 1 回試験に応募するが落第。
しかし再試験を懇願して許されて採用され、その年の
7 月に赴任した。その翌年に同試験で採用されたのが、
後のイギリス公使アーネスト・サトウであり、ラウダ
ーとサトウは初期において似たような職歴を経験する。
幕末から明治にかけてサトウが残した膨大な日記は
日本近代史を知る上で貴重な一級資料だが、そこには
日本着任前後に徹底した日本語教育を受けたことも記
されている。サトウもラウダーも日本語の勉強のため
に、ヘボン、ブラウンが住む成佛寺に頻繁に通い、そ
の薫陶を受けている。そして二人は、幕末から維新に
かけての混迷する政局を背景に、日英交渉の通訳官と
して様々な修羅場を経験していくことになる。
◎ イギリス通訳官の幕末・維新
ラウダーやサトウが通訳官として着任した時期、列
強の内フランスは幕府・佐幕派を支援し、イギリスは
尊王・倒幕派に加担していた、と言われている。サト
ウの日記によれば時のイギリス公使パークスはイギリ
ス本国から日本の国内問題には中立的立場を貫くよう
指示を受けている。イギリスの政治的立場は決して尊
王・倒幕派を支援するものではなく、日本が早く政治
的統一を図り平和裡に対外貿易を拡大してイギリスに
利益をもたらすことが最大の関心事に過ぎなかった。
しかし、ラウダーやサトウは必ずしもそうではなか
った。例えばサトウは「ジャパン・タイムス」に匼名
で 3 回論説を寄せ、日英修好通商条約を締結する権限
は天皇にありその正当性を主張した。一大名に過ぎな
い徳川幕府にはその正当性がない、
ということである。
これが『英国策論』として翻訳・出版され、日本国内
では、あたかもイギリス対日政策の公式見解のように
取り扱われた。
公使パークスはこれを苦々しく思っていたようだが、
直接制止することはなかった。あるいはサトウが一通
訳官の立場を越えた諜報・工作活動を行っていたので
はないか、
という後年の憶測はこの辺りに端を発する。
ラウダーについても同様のことが言える。ラウダー
は函館領事館に勤務していた 1865(元治 2)年 4 月、所
用で滞在していた長崎で、グラバーの支援でヨーロッ
パ人に扮装しイギリスに密航しようと目論んでいた高
杉晋作、伊藤博文に対し、政権交代も近いので、洋行
を思い留まるよう忠告をしている。ラウダーは前年ま
で長崎領事館に勤務しており、四連合艦隊の下関砲撃
の際の日英交渉にも通訳官として派遣されていた。尊
王・倒幕派の志士たちとの深い関係ができたのもこの
時と考えられる。
◎ 通訳官からの転身
こうして明治維新を迎えたラウダーとサトウであっ
たが、
その後の二人の人生は異なる岐路を辿っていく。
当時のイギリス外務省の機構は本省勤務と在外勤務
に区分され、更に後者は外交部門と領事部門に分かれ
ていた。通訳官は、外交部門より格下とされる領事部
門に所属し、原則的に領事部門から外交部門への転出
は叴わなかった。後年在日公使となったサトウはその
例外であったが、これは言語を含む極東の知識と経験
が余人をもって換え難いと判断されたことによるもの
の、一方で重要地域とは見做されていなかった極東地
域だったからこその例外でもあった。
ラウダーにもサトウにも、所詮総領事止まりの通訳
官の仕事に見切りをつける契機が何度か巡ったが、サ
トウは通訳官から書記官へ、バンコク総領事から公使
に転じたものの、
ウルグアイ、
モロッコ公使と転勤し、
1895(明治 28)年、ようやく在日公使に登りつめた。
一方のラウダーは、その後大阪副領事、新潟代理領
事、横濱領事を歴任したが、1870(明治 3)年、賜暇を
申し出てイギリスに戻り、法廷弁護士の学位を取得す
る。やがて明治政府雇用となって横濱税関の法律顧問
となり 1889(明治 22)年からは居留地の法廷弁護士と
して活躍した。ジュリア夫人はレディース・テニス&
ロッキー・クラブの役員をし、夫婦ともども横濱居留
地の名士となっていったのである。
◎ カリュー事件・二人の立役者
カリュー事件においてラウダー弁護士は極めて重要
な役目を担っていた。山手 203 番のラウダー家は居留
民が多く出入りするサロンであった。カリューの死を
看取ったホィラー医師が家庭教師ジェイコブの話を聞
いて欲しいと招かれたのもラウダー家であった。ここ
でジェイコブからカリューのヒ素飲用の事実を知らさ
れ、事件はカリューの死へと急転直下していく。
ラウダー弁護士は検死裁判の二日目から 3 ヶ月に亘
るイギリス領事裁判の評決まで、一貫してイーデスの
弁護に当るが、その裁判記録を読むと 53 歳の弁護士
の弁舌は冴えわたっている。前回ご紹介した早矢仕丂
郎の証言の変節を鋭く指摘し、訴追人の証言操作を厳
しく追及した。
イーデスの虚構と思しきアニー・リュークの出現に
も過怠なく傍証を重ねていくその手腕には探偵小説以
上の迫力がある。徳岡孝夫の追跡調査でも示唆される
ように、ラウダーは警察沙汰にもなったジェイコブの
過去の盗癖・虚言癖を知った上で、イーデス無罪に向
けた法廷闘争の戦術を練っている。イーデスの丌倫相
手ディキンソンとの恋文の遣り取りがジェイコブによ
って暴露されると、ラウダーは訴追人としてジェイコ
ブをカリュー殺しの真犯人として訴えるという寝技ま
で披露する。身分と立場を越えた自由恋愛の立場から
イーデスを無罪に持込もうとする執念さえ感じられる。
結果的にはイーデスに有罪の評決が出されて死刑が
確定するが、先にも述べたようにこれを異例の恩赦に
よって救ったのは、前年に駐日公使となったばかりの
アーネスト・サトウであった。おそらくは、ラウダー
からサトウへの何らかの働きかけがあったものだろう。
ラウダーは事件から 6 年後の 1902(明治 35)年、59
歳の誕生日を目前にこの世を去ってしまう。ジュリア
夫人は後年、逗子に住み横須賀の基督教会で海軍軍人
への布教活動を続けたという。幕末の志士達への思い
が重なっていた、のかもしれない。
[参考資料]
「横浜・山手の出来事」(徳
岡孝夫/双葉文庫)
「歴史を彩った 50 人・よこ
はま人物伝」(横浜開港資料
館編/神奈川新聞社)
「アーネスト・サトウの生涯」
(イアン・ラックストン/雄
山手203番のラウダー家跡には
現在、横濱女学院が聳えている
松堂出版)
「遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄」(荻原延壽/朝日文庫)