無宗教の宗教心と自然

修士論文目次
Table of Contents
第一章 Introduction・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
1-1
課題選択の目的と理由
1-2
単語の定義
1-3
自然に対する筆者の思考の経緯
第二章 What to say・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
2-1
中二病から考える宗教
2-2
聖なるものを求める無宗教の宗教心
2-3
自然崇拝と花鳥風月
2-4
描くモチーフにネットスラング「ネ申」
2-5
崇高さについて
第三章 How to say・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12
3-1
理想郷を描くこと…救いの場としての自然
3-2
具象性
3-3
「バーチャル世界」の現実性と「リアル社会」の非現実性
3-4
今後の課題と展望
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・17
参考文献
第一章
1、課題選択の目的と理由
研究のテーマは「無宗教の宗教心と自然」である。
“自然”と“無宗教”を関連付けながら、自然に対
する著者の想いを体系化し、絵に還元していくことを目標とする。
このテーマに設定した発端は、今までの制作において、絵のどこかに必ず自然物を入れるようにしてき
たことがきっかけである。私は自然の風景が好きだ。大自然の中にいると、いつも神秘的な気持ちにな
る。その雄大な存在感に圧倒されるのか、無宗教であるにも関わらず、思わず祈ってしまうような感情に
襲われることがある。この「神秘的な」という、形而上学的単語を手掛かりに、宗教学方面で研究をして
いく中で、ある疑問を抱いた。それは、特定の教団に属していたり、神様を信じていなければ、宗教心と
いうものは生まれないのだろうか、つまり、人間誰もが持ちうる宗教心というのはないのだろうか、とい
う疑問である。そう考えた理由は、人間の歴史では宗教が大きく作用していた点、加えて、現に今でも宗
教が根強く存在している事実があるからだ。そして、自然へ向かう自身の気持ちの根底には「無宗教ゆえ
の宗教心」があるのではないかという考えに至ったのである。そこで、
“自然”に対する著者の心を、
“宗
教”という言葉を用いながら言語化することが本論の論旨である。
第二章では、本テーマについて、先行研究を引用しながら著者の感情を明らかにし、理論の体系化を試
みる。広告業界用語で言うところの「What to say(註1)」の部分である。第三章では、
「How to say」と
して、第二章でまとめた考えを、どのように制作に反映しているのかを具体的に述べていく。
2、単語の定義
・自然…三省堂大辞林(註2)によると、名詞として使われる際の意味は以下の4つである。
①山・川・海やそこに生きる万物。天地間の森羅万象。
②人や物に本来的に備わっている性質。
③事物に内在する固有の本性ないしは本性的な力。
④被造物一般のことであり、さらに神の恩寵に対して人間が生まれつき具有するものを指す。
本論では①の意味に依拠する。
・神秘的…同じく三省堂大辞林によれば、
「人知でははかり知れず、また言葉にも言い表せないほど不思
議なさま」を意味する。本論では、画壇や文壇でいわれる「神秘主義」とは区別する。
・無宗教…世界の各宗教者と無宗教者の人口の割合を調査しているピュー・リサーチ・センター(註3)の
定義では「確立された宗教を信仰しない」人を無宗教者としている。本論では、先の意味に加
えて、超自然現象や神秘を信じていない人も含める。
反対に、本論中に出て来る“宗教的”という言葉は、確立された宗教を信仰するしないに関わ
らず、神様や超自然現象、神秘がある世界観のことを指す。
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3、自然に対する筆者の思考の経緯
論を進める前に、なぜ自然への関心が強いのかという、その背景を簡単に示しておきたい。何故なら、
本論は哲学的論考となるので、個人の主観が大きく影響してくる。予め立ち位置を明確にしておくこと
で、自身の思考の傾向(偏りと言ってもいい)を先に提示しておきたいと考えるからである。
①環境的要因
考えられる環境的要因は、少なくとも4点ある。
一つ目に、アニメの影響がある。私は保育園児の頃、ディズニーアニメを見て育った。その中でも特に、
白雪姫やオーロラ姫、人魚姫といった「お姫様が主人公のお伽話」は、今の自然観のベースを形作る要因
になったと考えている。というのは、これらのお伽話には共通して、お姫様が自然の中で植物や動物と戯
れるシーンがあるからである。保育園児の女の子にとって、お姫様は理想の女性像だった。そのような憧
れの女性が、植物や動物に優しく語りかけている場面を観れば、
「自然との共生は善いことなんだ」と思
い込む。これが、自然物への受容の最初であった。
2つ目は、環境汚染の社会問題である。私が生まれた 1990 年には、すでに環境問題が叫ばれていた。
小学校から社会科の授業や総合の時間で、環境汚染の危険性とエコロジーの大切さを繰り返し教えられ
た。それは知識としてだけでなく経験も伴っていた。私は、自然の極めて少ない住宅街で育ったため、私
にとって自然は希少価値の高いものという認識があった。近くに海があったが、ヘドロでどす黒い色を
し、砂浜には捨てられたゴミ屑が大量に放置されている状態が常で、時折なぜかトマトや栗や玉ねぎが浮
いているという有様だった。海周辺には高速道路と工場地帯が面し、排気ガスが鼻をつく。自然とはほど
遠い場所で育ったからこそ、自然の恵みのありがたさを身に染みて感じるのである。
3つ目として、自然災害を直接体験したことがない点である。東日本大震災や御嶽山噴火などの痛まし
い災害ニュースは、メディアを通じてリアルタイムで見聞きはしているが、どうしても第三者的な立場か
ら脱却することができず、どこか世界の違うところで起こっている出来事のような感覚が拭えない。知識
だけで、経験が伴っていないのである。それよりも、自然の畏怖の側面より遙かに「人工=害の対象」の
図式の方が私の中では大きいために、自然への行き過ぎた渇望があるのだと思う。
4つ目は、非社交的な生活が挙げられる。私は大学生になるまで、人とのコミュニケーションによる楽
しみを見出し辛い質だった。むしろ、人との関わりは生活の弊害だとさえ考えていた。そのため、生きる
支えとなっていたのは人間関係ではなく、自然を眺めることだった。自然に限らず、物や風景を「見る」
ことが生甲斐だったのだ。学校が終わり家に帰れば、屋根に上って、親が仕事から帰ってくるまで 2~3
時間と移り行く空を見ていたり、休日はテレビの画面に向かいながらゲームの中のバーチャルの風景を
眺めていた。
「見る」ことの依存による目の愉しみが、私を生かしていたといっても過言ではない。
②内面的要因
私は、ドラマや映画、小説といった「人を描く」
「人を主体とする」作品が苦手だ。どんなにハッピー
エンドでも、ストーリー途中のネガティブなシーンであったり、ハッピーエンドにならなかった他の登場
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人物(登場しなかった人物含め)の方に注意が向いてしまい、複雑な気持ちになってしまう。恐らく、感
受性が過剰に強いために感情をかき乱されることが苦手な点や、自身の慢性的な人嫌いが影響している
のだろう。
一方で、私は、自然を描写した和歌や俳句が好きだ。そこには人と人が紡ぎ出すドラマもなく、知的欲
求を満たすような要素もない。画壇でいわれる「精神性」と呼ばれるものや、人間関係の間に生まれる人
倫といった美も見出せず、四季の様相が謳われているだけだが、私は感動する。この感動は、
「人を描く」
作品への感動とは違う類のものだと直感的に感じる。同じように、
“人”の歴史を描く歴史画、
“人”の心
を描く抽象画、
“人”の主張を描くコンセプチュアルアート、これらに対して、山水画や写生画を観た時
の感動も、互いに異なる性質ものだ。
人の社会の中にいる時、意識は専ら人間関係であったり、自我と世間・社会との関係に集中する。そし
て、
「なぜ私は生まれてきてしまったのか」
「社会の中でどう生きるべきか」
「何が正義か」と意味付けば
かりをグルグルと自問する。その意味付けに正解のないことは頭で理解しているにも関わらず、人間の矛
盾に突き当り逡巡しては心が疲弊してしまう。一方で、自然の中にいる時は、人間の社会とは一旦離れ
て、環境と自分との関係に意識が向く。光、大地、植物、空、空気、星、水、影、物質、色…。それは言
い換えれば、地球に生まれ、人間に生まれた事実に、思いを馳せることである。
「なぜ生まれてきたのか」
という疑念ではなく、
「偶然にも、私は今、この場所で生きている」というように、自分や周囲の自然の
存在に対する驚きと不可思議さに感じ入る。自分以外の人の気配が感じられない空間が、人間的矛盾や自
我の問題以前の、生きていること自体への認識を促し、その時間がとても心地良い。人との関係性の中で
は感じ得ない感情である。
私は、人の物語を読むより、四季を詠む方が、明らかに心が豊かになるし、神秘的な心持になる。そし
て、純粋に自然を美しいと感じる。これは思考ではなく生理的な感情が先行しているために説明できな
い。要は嗜好の類である。
さて、筆者の時代背景と立ち位置を明確にしたところで、
「無宗教の宗教心と自然」について本格的に
論を進めていきたい。
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第二章
1、中二病から考える宗教
私は生粋の無宗教者であると自覚している。初詣は行かず、毎年行く家族との墓参りも形骸化してい
る。占いも、受験の合格祈願も興味がなかった。そのような、宗教的行事には縁のない著者が、なぜ“自
然”と“宗教”を結びつけたのか。
“中二病”を関連させながら述べていく。
“中二病”という言葉は、ネットスラングゆえにそれに関する学術文献が存在しない。そのため、中二
病の定義にあたりウェブ上にある Wikipedia、
ピクシブ百科事典、
ニコニコ大百科を参考にした。
ただし、
抽象的な意味にとどまっているため、定義の具体性は個人の主観に委ねられている。
中二病(註 4)の最初の提唱者はタレントの伊集院光氏である。当初の意味は、
「
(日本の教育制度におけ
る)中学 2 年生頃の思春期に見られる、背伸びしがちな言動を自虐する語」であった。現在では転じて、
「思春期にありがちな自己愛に満ちた空想や嗜好などを揶揄したネットスラング」を意味し、専ら批判・
軽蔑のための用語となっている。本論では後者の意味に依拠する。
“中二病”と扱われる対象は、創作物と人の場合がある。創作物では、「身の丈に合わない壮大すぎる
設定や仰々しすぎる世界観を持った作品」・
「非現実的な特別な世界観や設定そのもの」を指す。例えば、
SF やファンタジー、ホラー等のジャンルである。対象が人の場合は、いくつかのパターンに分かれるよ
うである。反社会的な言動をしている自分を好む「DQN 系」や、流行に流されず、他人とは違うマイナ
ー路線の趣味を持っている自分を好む「サブカル系」等があるが、対人の場合、ここでは“邪気眼系”と
いう種類に意味を限定する。邪気眼系とは、
「不思議・超自然的な力に憧れ、自分には物の怪に憑かれた
事による発現すると抑えられない隠された力があると思い込み、そのような「凄い力」がある自分を格好
いいと思い込んでいる」状態の人を指す。例えば、自分を霊能者であると思い込む等である。ここでは
「不思議・超自然的な力に憧れ」という件に注目されたい。
対象が人であれ創作物であれ、ここで共通するのは、非現実的で超越的な要素を嗜好している点であ
る。恐らく、アニメ・漫画・ゲーム文化の浸透による流行が影響していると思うが、もう一方で私は、超
越的・宗教的な世界観を求めてしまう、人間にとって普遍的な何かがあるのではないかとも考えている。
今では私自身、無宗教者が超自然的な事柄を言おうものなら“中二病”だと冷めた目で見るようになって
いるが、絶対的なもの、神聖なものへの憧憬は未だに拭えていない。
というのも、宗教的世界観を持つことの喜びを過去に体験したことがあるからだ。私がかつて中二病で
あったかと問われれば、そうだったのだろうと思う。今となれば闇歴史だが、恥を忍んで公開しようと思
う。始めにその兆候が出たのは、たしか、私が保育園児の頃だった。十中八九ディズニーアニメの影響が
大きい。
「岩も木もみんな生きて、心も名前もあるわ(註 5)」という歌詞や、妖精や神々が戯れる『ファン
タジア』の世界から、雲であれ、空であれ、光であれ、自然界の全てには霊的な意志が宿っていると信じ
ていた。小学生時代は宗教的世界観から離れたが、TV ゲーム(主にファンタジー系)や漫画(神話をモ
チーフにした物語)に手を出したからか、やはり中学2年生あたりから再発し、タロットカードやお守り
などの宗教的事物を所持するようになった。それらを身に付けていれば、何か神聖な力に肖れるかもしれ
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ないという期待があったからだ。また、理由は分からないが、もし草木に精霊的なものがいたら…と急に
思い始め、人知れず植物に話しかけたりしたこともあった。これらの感情は、高等学校進級後に間もなく
消えた。現実的な科学的・論理的思考に価値を置くようになったためである。
この論文を書いている現在からすると、創作の世界と現実世界との分別が無い幼少時代だったと感じ
る。しかし、中二病を患っていた頃は、今よりも世界が豊かに感じられていたと思う。草や石に霊的なも
のが宿っているという神秘的な世界の中にいる感覚、神聖な力に肖ることで希望を得ていた感覚、超越的
な存在があるという感覚が、生活に彩を与えていたと感じるのである。特に当時は、現実社会で起こる現
象(人に関わるあらゆる営みや交流)に関心が持てなかった私にとって、中二病は私と現実生活を繋ぐ潤
滑油であったのかもしれない。
実際、大きな存在の中にいるという感覚は人に勇気をもたらすことがある。具体例として、文化人類学
者のレヴィ=ストロース氏がまとめた、南米クナ族の慣習を挙げる。クナ族では、女性の出産時に、長老
が傍らで、先祖の英雄の伝記を語る習慣があるそうだ。そうすると妊婦は、民族の歴史の流れの中にいる
感覚、言い換えれば、超越的世界観の中に存在する感覚を得ることによって、耐えがたい出産の苦痛を和
らげることができるのである(註 6)。
超越的世界観を宗教に当てはめるなら、聖なる存在と共に生きるということになる。この宗教的感覚が
あるのとないのとでは、世界の見方が大きく変わってくる。特に、私の話したキリスト教徒達は、全く異
なる世界観を有していた。信者らは自身に「聖霊が宿っている」感覚、
「御霊と共にいる」感覚、
「聖化」
される感覚を常日頃持ち合わせている。そして、何か困難が降り注いでも、
「きっと神様が良い方向へ導
いて下さる」と信じているため、将来に希望を持ち続けられる。聖なる存在が見守っているという感覚
が、現実世界を生き抜く勇気を与えているように私には思えるのである。
2、聖なるものを求める無宗教の宗教心
宗教の歴史は長く、人間はそれを災害や不幸を乗り越える力としてきた。何かしらの宗教を信じること
で解決できた問題が、私にはあるように思えるのである。逆に言えば、人口の半数以上の 7200 万人が無
宗教であり(註3)、宗教者がマイノリティとなりつつある現代日本において、科学的・論理的思考だけで
は限界の問題があるように感じてならない。だからこそ、宗教的世界観への憧れを抱く時がある。
宗教的世界観を求めてしまうこの心を、仮に“宗教心”と呼ぶことにする。先に註釈を入れると、この
定義はあくまで私自身が無宗教側から考えたものである。宗教者や宗教学者なら、
“宗教心”についても
っと別の意味を与えるであろうし、宗教者を無視して宗教を語ったり、宗教用語を定義したりするべきで
はないが、本論は著者が抱く感情を言語化することを趣旨としているため、無宗教の視点を重視して考え
たいと思う。宗教的精神体験を持たないにも関わらず、自身の感情が厳密に“宗教心”と言えるかは分か
らないが、便宜上ひとまず広義に定義づけをする。そうすることで、宗教者と無宗教者という区別を取り
払い、人間に共通して備わる普遍的な心情として解釈していきたいと考えるためである。
“宗教”の定義は、専門家の間でもまだ曖昧のようで、
「仏教」や「キリスト教」といった特定の名称
のある宗教にのみに“宗教性”を限定する研究者がやはり多いように感じる。三省堂大辞林(註2)による
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と、
“宗教”の意味は次の2つである。
①神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また、神仏の教え。
②経験的・合理的に理解し統御することのできないような現象や存在に対し、積極的な意味と価値を与え
ようとする信念・行動・制度の体系。
下線部に注目されたい。私は、特定の宗教団体に属しているかどうかではなく、宗教に向かう動機といっ
た人の心性に焦点を当てて宗教を考えようとするのである。
ではここで、
“宗教心”に関して参考にした、2名の宗教学者、大村英昭氏と保坂幸博氏の見解を紹介
することにする。両者に共通しているのは、
「神様を信じること=宗教」ではなく、宗教的な思考を求め
てしまう感情(=宗教心)にフォーカスを当てた宗教論を展開している点である。
大村氏は自身が浄土教徒の立場から、宗教の本質と価値について考察されている。そして、全ての人間
の内には宗教性があると主張している。むしろ、教団や祭祀を離れた人間ほど宗教心があるのだという。
その理由は以下の3点である。教団化した宗教は、当初の目的よりも経営の問題の方が大きくなってしま
う点。教団が中流階級並になってくると、教義が段々ときれいごとになっていってしまう点。そして、特
に日本の場合は、ハロウィンやクリスマスや初詣といった祭祀が、宗教的行事であることは忘れられ、も
はやただの風物詩や慣習になってしまっている点が挙げられる。以上のことから、本当の人間の宗教心と
いうものは、教団や祭祀を離れたところに存在すると大村氏は主張している。
“宗教”について、大村氏は次のように定義している。非合理的問題を原因とする人々の苦しみや悲し
み、不安を「鎮める文化装置」が宗教である。つまり、決して理論付けできないもの、例えば、何故この
人が親なのか、何故この時この場所に生まれたのか、また、不遇な環境や早死にの理由など、正確な因果
関係が得られない問題に対して、何かしらの非合理的な意味付け・解釈付けを施す営みのことを指す。
解釈付けには 2 通りある。
まず一つは、無害な非合理性への解釈である。対象が無害、あるいは人に平穏をもたらすものであれば、
それは何かしらによる“恩恵”として解釈をされやすい。私たちはそれらに、
“感謝”や“愛”の形で応
える。日本の「縁」や「おかげ様」が典型例である。命や、命を取り巻く世界に見出した神秘性への解釈
といえるのだろうと私は考える。
二つ目の方が大村氏にとって重要なのだが、有害な非合理性への解釈である。特定宗教であれば“裁き”
や“祟り”として解釈され、畏怖の対象になる。一般人レベルの例でいえば、死に直面した際の負の感情
を回避または受容できるように、私たちは解釈を施す。大村氏の言葉を借りれば、
「無意味な死」に“死
にがい”を定める行為が「宗教的な解釈」なのである。この意味では、臓器移植も宗教的であることに等
しい。脳死者(とその身内)は、自らの臓器を移植して他者の生に貢献することで、死への意味付けを行
い、死を受容させる助けとしているのだ。このように、形而上学的なものでなくても、不安を鎮めうる非
合理的な“解釈”が宗教的行為である。生死の問題だけに限らず、人生の中で被った理不尽によって高ぶ
った感情や欲望を抑える役割を担っている。そして、こうした解釈を求めざるを得ない心境が、宗教の本
質なのだと大村氏はいわれる。同文献からの孫引きだが、M・ウェーバー氏の「宗教が社会現象である以
上に、実は社会のほうこそ宗教現象なのだ」という言葉には私も考えさせられるところがある(註 7)。
人を宗教へ向かわせる、悩みや苦悩といった心理的動機が「宗教的」ではないのかという疑問は、保坂
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氏も投げかけている。大村氏と違う点として、たとえ神様を心から信じてないとしても、社寺で拝むとい
う行為も宗教的行為に入ると言われている。何故なら、参拝行為に何らかの意味があるからこそ、慣習と
して成り立つからである。つまり、一見風物詩と思われるような宗教行事でも、それを行おうとする心理
的動機には宗教性があるという見解だ。
保坂氏は無宗教の立場から、宗教の社会的機能について俯瞰的な視点で研究をされている。そして、
「信仰=宗教」という図式は一神教的見方だと主張し、第二の宗教の在り方のモデルとして「日本の自然
崇拝」を挙げている。そこで次は、自然にまつわる宗教に焦点を当てながら、保坂氏の論を挙げていくこ
とにする。
3、自然崇拝と花鳥風月
自然と宗教の関係、とりわけ日本古来の自然崇拝について論じる時、真っ先に思い浮かぶのは「アニミ
ズム」である。高校の倫理や社会の教科書で必ず出てくるワードだ。保坂氏の論を引用する前に、まずは
この言葉の意味と起源を明らかにしたい。
日本は温暖多湿の気候で、四季の変化に富んでいることから、自然は人間と対立するモノではなかっ
た。そのため、古来の日本人は意識のうちに自然を対象として確立することができず、自然と人間の区別
がなかったといわれる。それと同時に、自然には神々が宿っていると考えられ、信仰の対象でもあったと
いう理論がパンセイズムである。
「自然」という言葉がいつ生まれたかについては、私はまだ確認できていないが、仏教思想が普及した
頃には、自然と書いて「じねん」という言葉があったらしい。自然を人の生死の依ってきたところである
と認識し、同時に世俗ごとから解放される救いの場所を意味したようである。人間と生き物双方がどうす
れば救われるかを考える大陸の仏教と、パンセイズムが融合することで誕生した日本仏教では、人間や生
き物だけでなく、草木や大地といった、生命をもたない物までも、仏に成りうると説いた。これがアニミ
ズムである。万物に霊魂が宿るという思想のことだとよくいわれる(註 8)。
アニミズムの語源はラテン語のアニマ。これは、生き物の内面にある霊魂を表す言葉である。未開人の
宗教としてアニミズムを提唱した代表的な学者の一人は、エドワード=バーネット・タイラー(19世
紀)である。タイラーによれば、アニミズムの観念の経緯について、まず初めに人間や動物にはそのもの
を生かし動かすものである霊魂が宿っているという観念があった。やがて、霊魂の存在を動物だけでな
く、無機物も含めた存在しているもの全てに押し広げて見出すようになったとしている。
しかし、このアニミズム理論は、あくまで西洋人がキリスト教を土台としたヨーロッパの宗教学の視点
から提唱したものであり、実態とは乖離があるのだと保坂氏は言う。そして、自然崇拝の本質はアニミズ
ム理論(=キリスト教)とは対極をなすものであると説く。
キリスト教の視点で宗教及び宗教心を定義しようとすると、
“信仰”が重要になってくる。また、キリ
スト教(=一神教)の他の特徴として、人の在り方や人倫の基準を示す経典が存在する点と、神様が人格
を持っていて対話が可能であると考えられている点、創始者が信仰を支える重要な要因になっている点
が挙げられる。ある意味で「人を主体とする」宗教であるといえる。
反対に、日本の自然崇拝を主とする民族宗教では、信仰があるかないかは関係なく、その土地で生まれ
たかどうかで宗教者を判断する。創始者は特段重要ではなく、文字による経典も存在しない。神様は人格
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神ではないと考えられていたため、アニミズム理論でいわれる「霊魂」は本来誤解であり、崇拝者と崇拝
対象物の間では、キリスト教のように共感関係を築くことはない。では、非人格的な崇拝対象と人との間
にはどのような関係性が築かれるのかというと、保坂氏は明確な言葉の提示をされていないが、古来日本
人特有の“花鳥風月”の心に近いものだという(註 9)。
「花鳥風月」
「雪月花」といった言葉が物語っているように、自然に対する昔の日本人の感受性の強さ
は特徴的である。今でも、芭蕉の俳句は欧米人にとって理解が難しいらしく、芭蕉の俳句を読んだドイツ
人の感想が「それで?」の一言だったという、藤原正彦著『国家の品格』に書かれた森本哲郎氏のエピソ
ードがある。自然と心を通わせる習慣がない欧米人には、俳句はストーリー性がないゆえに情緒に繋がら
ないのである(註 10)。また、ある盆栽の雑誌によると、理想化とシンメトリーを好む欧米人には、できる
限り自然の姿に近づけようとする盆栽を美術として理解するのが難しいものであることが書かれてあっ
た(註 11)。自然の描写が単なる写真的描写だという解釈で終わらず、そこに「人間の実存感情」が湧くの
が“花鳥風月”の心である。この実存感情の享受が更に推し進められた結果、山伏のような、自然には何
か大きなエネルギーのようなものが備わっているという信仰に繋がっていく。
このように、キリスト教が人間中心主義的傾向のある宗教であるのに対して、自然崇拝は、人間が人間
とは異なる存在に対して尊敬・崇拝をする宗教である。そして、詩歌などで表される、自然に対する日本
人の感性も「宗教性」があるといえるのではなかろうか、というのが保坂氏の見解である。
4、描くモチーフにネットスラング「ネ申」
日本の“幸せ”の基準が GDP であることや無宗教者の割合が多いことなどから伺えるように、現代の
日本は科学主義・合理主義的風潮が強い。例えば宗教に関しても、
「宗教」や「信者」という言葉が、知
識人の文献の中でさえも、人を蔑む言葉として使われているのをしばし目にする。従って私は、社会の中
で神秘的なものに救いを願うことも幸福を祈ることも叶わなくなっていると感じている。私自身、そのよ
うな行為が悪いことであるかのように周囲の人間から教わってきた。そのため、形而上学的な事柄は一切
信じない体質になってしまった。だからこそ、無宗教であるが故に、何かに縋りたいという充たされない
欲求を抱えている。
「何か」とは、特定の宗教でなくても良い。大村氏が言うような“死にがい”を見つ
けられる場所、保坂氏の言う“実存感情”を満たせる場所なら、身近なところでも構わないのだ。
大村氏は、
“生活”と“人生”は違うということを、小説家の遠藤周作氏のメッセージを引用しながら
述べている。生活とは、社会の中での自分の役割や機能に価値を置きながら生きること。人生とは、
“生
命の不可思議さ”や“縁”に思いを馳せながら生きることである。第一章で述べた私の背景と重ね合わせ
れば、人の社会にいる時は“生活”に意識が向き、自然の中にいる時は“人生”に意識が向いている状態
であるといえる。そう考えると、私は自然を見ていながら非合理性に向き合っているということで、そこ
から「神秘的」や「崇高」という宗教的用語が連想されるのだろうか。いや、人の社会の中で溜め込んだ
“宗教心”を、社会を離れた自然の中でだと開放できる、という感覚の方が近いかもしれない。
宗教心を持っている無宗教者は私だけだろうか。自然を前にして世界の神秘性に思いを馳せるのは私
だけだろうか。いま、何故このような心情を絵に描くのか。
ある油画の教授から次のような話をされたことがある。東日本大震災以降、一時期『上を向いて歩こう』
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という歌がブームになったそうだが、教授はこの歌がひどく心に沁みたのだという。その理由が、被災者
....
のために作った曲ではないからだそうだ。過去にも自分たちと同じように苦しんで、このようにして頑張
っていた人がいた、という事実が励みになったのだといわれた。そして「自分以外の誰かのためにという
気持ちも大切だが、そうではなくても共感は生まれることがある」ということを教えていただいた。この
話を聞いた私は、レヴィ=ストロース氏がシャーマンの呪術を説明する際に使用した、精神分析学の“消
...
散”の概念を連想した。シャーマニズムでは、白魔術師は患者のために自身の消散を行い、それによって
患者の消散を促す。つまり、シャーマン自身が消散された経験(正確にはシャーマンに目覚めた時の経
験)を患者の前で再現してみせることが、一種の心理療法になっているのである。結果として、心身相関
性によって呪術が成功する、という理論を氏は展開している(註 12)。芸術も、この呪術による消散の原理
に似ているように感じる。つまり、画家が自身の消散を行うことで、鑑賞者にも消散の作用が起きるので
はないか、と思うのだ。
ならば、私が生きていて心を惹かれるもの、自身が消散できるモチーフを描きたいと考えた。消散する
には、自分の宗教心を開放できる“ネ申”が必要である。
“ネ申”とはネットスラングであり、動画や画
像投稿サイトなどで、自分の求める作品を投稿した作者に対し、讃える気持ちを込めて使われる言葉であ
る(註 13)。この言葉の成立過程として私が思うに、
「自分の欲求をこれほどまでに満たしてくれるなんて、
まるで神様のような人物だ」という思いを表現するのに、
“神様”はあまりにも宗教的で強い言葉のため、
“ネ”と“申”を使って意味合いを和らげているのだと思っている。現世利益の欲求を内包し、宗教的な
言葉から宗教っぽさをギリギリ排除しているところから、無宗教者の私が宗教心を開放できる対象をこ
のように“ネ申”と呼ぶのはある意味合致していると考えている。そして、私にとっての“ネ申”に必要
な要素が自然なのである。
“ネ申”を感じられる場所が自然なのだ。そのために私は、自然物をモチーフ
に、自然の中にいる時に感じる崇高さや神秘性を表現していきたいと考えるのである。
5、崇高さについて
最後に、
“崇高”について論じたいと思う。その理由は、私が自然を前にして感動した時によく使う“崇
高”という言葉が、誤解を招きやすい意味を持っているからだ。絵画表現から自然の崇高さを鑑賞者に伝
えるためには、その意味を正確に把握しておかなくてはならない。
英語における Sublime の語源的な意味は、内的精神の高揚感、特に天上の精神世界へと飛翔する魂の
感覚のことである。Sublime という言葉が生まれたのは 17 世紀の頃で、それまでは近い意味として
astonishment を使っていた。この言葉は、「恐怖」と「感心」という 2 つの意味を同一に表現した言葉
で、
英語だけでなくギリシア語、
ラテン語、
フランス語にも同じ意味合いの語があった。
この astonishment
がベースとなっているため、Sublime は「恐怖や苦、驚異、悲嘆、醜悪さに伴う快」のことを指す。典型
的な例として、悲劇を見た時の感情を思い出してもらえれば分かりやすい。日本人の感覚だと、怖いもの
見たさ、という言葉がしっくりくるのではと私は思う。直接的な快だとする「美」と区別して、「崇高」
は、不快感に伴う快を指すのである。
アメリカの Sublime は、西洋の意味合いとは若干違う(この項は私自身いまいち理解できていない節
があるので、解釈に誤謬があるかもしれないことを先に記しておく)。アメリカの Sublime の場合は、
「驚
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異」の他に野心的な「ロマン」の追加が特徴である。ロマンが加わることで、驚異を感じさせるというだ
けでなく、空間的にも時間的にも圧倒的に隔たっていることが崇高の対象の条件となってくる。具体的に
は、宇宙や太古に馳せる感情のことである。野心的な、と私が付け加えたのは、対象に「神の世界」を見
出すと同時に、その分野の研究を進めれば一攫千金なり国の繁栄に繋がるといった欲望が付加されるゆ
えである。
次に、漢語の崇高をみていく。
「崇」という語はもともと、森羅万象が生成される場所や、そこに聖な
るエネルギーだったり、山の神だったりを見出す感情のことを指す。西洋では生命が存在し得ないような
荒々しい岩山に崇高さを感じたのに反し、漢語圏では生命が繁茂する緑豊かな山岳に崇高を感じていた。
例として、中国の山水画では、自然に帰すことを目的とする老荘思想を基盤としながら、
「天地造化」の
崇高性の表現を主眼としている。このように、英語の Sublime が畏怖に近いものなら、漢語の崇高は尊
び愛する感情に近い。また、漢語の場合は徳の高い人に対しても使われる(註 14)。ちなみに、中国人の留
チョン カゥ
学生に聞いたところ、現代の中国で使われている 崇 高 (Chong Gao)の意味は、専ら人の思想や人格に
対して使われるそうだ。英語の Sublime も人の徳を意味することがあるが、その場合は剛毅、正義、叡
知を指すのに対し、漢語では、親切や慈悲、愛情に対して崇高が使われるようである。ここでも英語と漢
語の違いが明らかである。
私が漢語圏の人間だからか、漢語の概念の方が私の感覚に近い。
「近い」というのは、英語・漢語両方
に言える「形而上学的な解決に向かう精神」は持ち合わせていないことから、完全な意味の合致ができな
いためである。ただ、保坂氏の定義するように、自然を愛でる日本人の美徳も“宗教性”があるといえる
のだとしたら、漢語の“崇高”は恐らく私の感覚に非常に近い言葉だ。
私は、緑豊かな自然環境や、人の慈悲に対して“崇高”と感じる。従って、制作では自然の恩恵の姿を
絵画表現していきたいと考える。
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第三章
1、理想郷を描くこと・・・救いの場としての自然
大学院での制作のテーマは「救いの場としての自然」である。前章で述べたような、宗教心を開放でき
る場所としての自然を描いてきた。聖人を描くことによってではなく、自然風景を主題とした宗教画を描
きたいと思ったのだ。
(図1)祈れる場所 93.4×66.7(㎝) パネル、油彩 2014
(図 2)祈れる場所 中央 194×134(㎝)、左右 81×150(㎝) キャンバス、パネル、油彩 2015
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草木が生えている場所、光が感じられる場所、自分以外の人がいない場所。これが私にとって“実存感
情”を満たせる理想郷である。森は、神社が木々に囲まれているように、人の社会との境界を象徴する。
光は、その言葉自体に「希望」の意味を持ち(註 2)、仏の「後光」や天使の「エンジェルリング」など、聖
人によく使われるモチーフである。ネットで「神々しい」と打って画像検索をかけると、トップに挙がる
写真の多くが日光であることから、世間一般でも光が崇高さの心情に繋がると認識されていることが伺
える。
(図1)
(図 2)双方に岩を描いたが、岩は、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『岩窟の聖母』の
岩窟のような「人物の舞台」か、日本の墓石のような「場所を象徴する目印」、あるいは日本の自然崇拝
で石に御幣を掛けるように「崇拝の対象」として描いた。自然の風景の中にある神秘的なイメージを構成
した結果、これらのような絵画が出来上がった。
(図 1)は、複数の白色の小石を拾ってきて組み合わせたものをモチーフにし、背景は雑木林のスケッ
チを参考にして描いた。元は縦構図で、水上に直立する岩のある風景を想定して描いたものでる。水面に
よって鏡合わせのように映る鏡像と実像はシンメトリーの輪郭を形成する。シンメトリーや中心的構図
は、キリスト教の祭壇や、仏教の仏壇などでよく見られる構造である。信者に親密感を与えうるゴシック
時代の S 字聖母像に対して、確かにロマネスク時代の正面直立の聖母像の方が、神々しさがあるように
感じる(註 15)。作品を縦構図から横にした理由は、岩の形からより「宗教性」を感じられる気がしたから
だ。描き方としては、まず別の紙にデッサンをした後、それをトレースし、灰色の下塗りから白黒で軽く
明暗を描き起こして、そこから色を置いていくやり方をしている。油絵具は、溶き油の調合量で透明色に
も不透明色にもなるため、状況によって厚く置いたり薄くグレーズしたりと使い分けているが、全体的に
薄い層で仕上げている。リアリティを出すためにモチーフは実際に見ながら描いているが、後の項で述べ
る「バーチャル性」を演出するために、色などを所々変えて想像で描くところもあった。
(図 2)は、
(図 1)と同じテーマで描いたものだが、祭壇画を意識して変形の画面を試みたものだ。ま
た、中央の絵と両サイドの絵では、地面は繋がっているが背景は繋がっていないという不思議な空間感を
演出した。女性が岩に座って静かに祈っている場面を想定して描いた作品である。中央のキャンバスで
は、同じように石(アクアリウム用のもの)を持ってきてモチーフにした。背景は想定で描いたが、木の
質感や枝の形は、実際の身近な木を観察して参考にしている。人物はモデルにポーズをとってもらい、写
真を基に描いた。人物に関してはテンペラ画の古典技法を応用しており、肌はテールベルトで下塗りをし
てから描いている。他は(図 1)と同様、デッサンをトレースした灰色下地から描き起こしている。両サ
イドのパネルでは、背景はあえて木々を描かずに、大地と空間のみで象徴性を強めた。大地は中心的題材
ではないため、モチーフの用意まではせずに絵具の偶然性を利用して想像で描いている。手前と背景との
コントラストが強い絵だが、暗い中でも様々な色を使い分けて、変化をつけるように気を付けた。
“理想郷”の英訳である“Utopia”の意味を調べてみると、その語源は T=モアの著書に依ることが分
かる(註2)。この著書は、
「架空の国ユートピアの見聞記の体裁をとり、共産主義・男女平等、また宗教上
の寛容を説く」という内容だそうだ。下線部にあるように、寛厳の厳重・苛酷な側面ではなく、受容の側
面が主題になっている。同じように、私が理想郷を描くということは、自分を受け容れてくれる心の救い
の場を描くことである。
前章でも述べたが、日本は気候、景観共に穏やかで恵まれているために、古く日本人は自然の恩恵に目
を向け、そこに美しさと神々しさを感じてきた(ちなみに、この感情を宮元健次氏は“優美”と呼び、日
13
本人特有の美意識として取り扱っている(註 16))
。私もこれに近い感情を持っていることから、人工都市で
はなく自然の中にユートピアを見出したのである。
理想郷を描くことは、中二病的嗜好で描くことと似ている。現実では不可能な設定を描くことだから
だ。現実の中では見出せない「生きる意味」を、空想によって補おうとする試みであると言い換えても良
い。ただ、想像力による非現実性ばかりを強調すると「御花畑」的な絵画になってしまうため、どこまで
現実性を入れるかは模索しているところである。
理想のものへの憧れは、思い返せば、高校生の時が始まりだったように思う。一例を挙げると、中学生
の時に太宰治著の『走れメロス(註 17)』という文学作品を読んだ時のことである。当時は、その内容があ
まりの綺麗事で現実味がなかったため、ただの夢物語であると嘲笑した。だが、高校生の時にもう一度読
む機会があり、その時にはハッとする思いがあった。文章で描かれている世界観が、現実には実現不可能
な理想状態であるからこそ、絶望を抱えながらもその理想を無性に求めたくなってしまう、このような感
情を抱いたのである。現実では綺麗事が許されない例で数えきれないが、文学や絵画の中だからこそ許さ
れる。そこに、理想郷を描くことの意味があると思っている。
2、具象性
制作技法について、一定の描き方というのはないが、グリザイユ技法を応用することが多い。また、よ
く日本画と間違われるほど、絵具を薄く溶いて描いている。いずれも、具象的に描くために私にとって一
番良い方法をとった結果である。
私は、具象的に描くことにこだわっている。何故なら、一個の物を見て美しいと感じる時、その光景に
出合えた偶然性にも感動するからだ。
この地球が属する太陽系の外にも沢山の太陽系があって、文明のある星が他にも沢山存在している可
能性もある。宇宙の外にも、違う次元で生物に似た存在が無いとも証明できない。そのような状況の中、
約150億年前の生物誕生から数十億年後にくる太陽膨張による地球の消滅の間に、私は偶然この時こ
の星で、人間という生き物に生まれた。しかも、命は一過性で儚く、その気になれば今すぐにでも死ぬこ
とができるほどのものである。そう思うと、いま目の前で見ている風景、そしてその風景と出会えたこと
は、ある意味で奇跡であると考えさせられる。命の儚さと偶然性を想う仏教思想の「縁」の感覚に近いの
かもしれない。このような思い入れから、具体的な物を描く時は、その物の持つ質感を大切にしながら具
象的に描くことを重視しいている。
具象画にこだわる理由のもう一つは、子供の頃から写実画の鑑賞が好きだったからである。3 次元の物
が 2 次元の画面に精巧に表現され、それが機械ではなく、人間の手によって描かれていると思うと、感
動に似た驚きを感じる。恐らく、スポーツを嗜む人々の心理に近いかもしれないと思う。スポーツとは、
人間の能力の限界に挑戦するという、人類の文化的行為である(註 18)。人間の持つ可能性や美しさ、スポ
ーツ選手の長期間にわたる多大な努力に思いを馳せる時、見る人は大きな感動を感じるものだ。同じよう
に、写実画またはそれに近い具象画を見ていると、人の手の可能性を垣間見られると思うのである。
具象画を描く際に必要となる“職人技”は、野暮ったい印象を与えがちな点と、個性が表れない点、流
れ作業のような描写によって感情が籠らないという理由から批判されることが多々ある。確かにそうな
14
のだが、しかしながら、職人のように洗練された動きで無心に制作することでしか生まれない美というの
もあると私は考えている。民芸運動家で職人技の美学を提唱した柳宗悦氏によると、手偏の漢字および偏
以外で“手”という字を持つ漢字は 800 字を超える。技の優れたことを「上手」
、拙ければ「下手」と書
き、誇る行いを「手柄」と書くように、
“技”が手の働きであることを語っている。
“手”に由来する文字
の多さは、手の技が生活に重い意味を持っていたことを表していると柳氏は述べている(註 19)。このよう
な歴史的観点も含め、私は、決して手による技巧性を軽視すべきではないと考えている。柳氏は、人の
“手”のことを「造化の妙の印」
「神が仕組んだ絶妙の機巧」と呼んでいるが、私が写実画を見る時も、
そのような人の手の不思議さを感じさせられる。私はたまにパソコンの描画ソフトで絵を描くことがあ
るが、そこでは「戻る」をクリックすれば簡単にやり直しが効く。一方で手作りではそうはいかない。こ
の違いを知っている分なおさら、人の手で描かれた具象画には付随する感動があると感じるのである。
以上の理由から、制作では具象画を描き続けてきた。
3、「バーチャル世界」の現実性と「リアル社会」の非現実性
制作の際の参考資料として、CG 等のデジタル画をよく見ている。実際のモチーフ(または写真)を見
たまま写生するのではなく、デジタルの雰囲気に似せて彩度や色遣いを変えている。何故なら、デジタル
画やバーチャル独特の空間は、時に現実よりも美しい現実性を見せるからだ。
幼少期から CG や3D 空間に親しんできた著者には、リアル社会よりもバーチャル世界の方がリアル
であると感じる感覚がある。特に自然風景は、現実世界ではあまり見られなかった分、バーチャルを見て
育った。小学校中学年で初めてテレビゲームを手にした時には、すでに3Dの仮想空間が完成していた。
そのため、いま現在“自然”と聞いて思い浮かべる風景は、バーチャルの風景であっても違和感がない。
むしろ、リアルよりもバーチャルの中の自然と接していた時間の方が多いため、リアルの自然風景を描こ
うとすると時折妙な非現実感を抱くことさえある。そのため、私にとって、現実味のある絵画とは何なの
かという問いは難しい。目の前にあるものを見たまま描写するのが具象画なら、目の前のバーチャル世界
に映るものを見たまま描写するのは果たして具象画ではないのか。
話は飛ぶが、三省堂大辞林にて“美術”は「美の視覚的・空間的な表現をめざす芸術」とある。ただ、
私は作品の視覚的美と内容の美は別問題だと考えている。たとえ素晴らしいと思えるコンセプトであっ
ても、視覚的に美しくなければ私は感動しない。作品鑑賞では「心理的喜びを得ること」を目的としてい
るからか、もしくは言論の自由の保障とネットの普及による人々の主義主張の騒音でうんざりしている
からか。兎に角、内容の美ばかりを重視した作品は苦手で、視覚的美と内容的美の両輪が揃った作品作り
を目指していきたいと考えている。そこで問題なのは、何を視覚的に美しいと感ずるかである。昔の日本
の美人と呼ばれた女性が、今の標準的なモデルとは異なり細目でふくよかな女性であったことからも伺
えるように、美の基準は時代や環境によって変化する。そして、私自身の美の基準にはバーチャルの影響
が大きく関わっている。
日本画の大学院生と話をした時のことである。その方は、バーチャルの影響をギリギリ受けていない世
代であった。彼女は、近年の後輩学生の絵画の傾向として彩度が高くなっていることと、その原因として
バーチャル世界が大なり小なり影響しているだろうことを指摘している。彼女にとって、その非現実的な
彩度の高さには違和感を覚えるそうなのだ。しかし、私から見ると、全くの違和感がない。バーチャル的
15
表現がリアルの写生よりも現実味を帯びることがあると私は感じている。
大学生時代の同級生にこの話をしたところ、次のような意見を貰ったことがある。
「リアル世界ではな
いバーチャル世界だからこそ、理想郷を反映させることができるのではないか?」。確かに、その可能性
も考えられる。私は、モチーフを写実的にそのまま描くのではなく、あえてデジタル特有の彩度の高さと
反射光の強さ、ガスっぽさを出しながら描くようにしている。そちらの方が私の感覚に合っているし、リ
アリティがあるのだ。
4、今後の課題と展望
大きく以下の2点が、現時点での課題である。
まず、オリジナリティの欠如である。作品が、まだ普通の風景画の域を脱していないと感じている。自
然風景の宗教画を描くためには、宗教性をもっと出すべきであり、宗教性の部分の工夫でオリジナリティ
が出せると考えている。これまでは、宗教性の象徴として、光・シンメトリー・中心的構図を意識的に取
り扱ってきた。また、参考にしている宗教は主に仏教と神道、キリスト教のみである。現在の提案として、
もっと様々な宗教の美術品を調べて比較し、共通項を基にした要素を絵に入れていき、オリジナリティを
出していけたらと考えている。
もう一つの課題は、作品がまだアートの域に達していないと感じる点である。もっとも、アートという
ものが何なのかという定義も、自分の中ではまだはっきりとしていないが、今現在の認識として、“美”
に“善”を盛り込むことだと考えている。
“美”とは、絵画に限定するなら、視覚的に快いものであると
私は定義している。参考として、文学者の橋本治氏による、
「美しい」は思考停止から生まれる感動の言
葉であるとする定義(註 20)や、中世の評論家エドマンド・バークの、意志ではなく「ちょうど氷や火が身
体に触れる時に熱いとか冷たいとかいう観念が生ずるのと同様」(註 21)のものだといっている見方に、私
は賛同する立場だ。一方“善”とは、外見の美醜ではなく精神の美しさ(=道徳)を指すものと私は捉え
ている。絵画を「美しい」から「感動」に昇格させるには、
“美”に“善”を加えることが重要なのでは
ないかと私は思うのである。
難しいところは、制作のテーマが「自然と自分との関わり」であることが一つ挙げられる。社会と個人
の関係性なら「人倫」が意識されるが、自然と個人の間に道徳は関与しない。
もう一つの難点は、
“善”を盛り込むことによる逆効果への懸念である。自分の中で善し悪しの判断の
基準はあるが、
「これが善だと思う、これが正しいと思う」ということを絵にしたところで、独りよがり
で押しつけがましくなってしまわないかという不安がある。
これらの解決の方向性として、教授から頂いた次のようなアドバイスは参考になると思っている。
「誰
かのためにする善ばかりを考えていると、偽善と看做されてしまうこともあり、見ている側もつまらな
い。自分のためにする善を考えてはどうか」。教授は「恥の精神」という。人が見ていないところでも、
これをやったらカッコ悪い、とか、これをやったら自分に情けない、という自分自身への戒めの感情のこ
とである。
今後は、
“宗教心”と社会との関係性から“善”について考察していこうと考えている。そして、私な
りに“善”を作品に反映していくことを目指していく。
(19277 字)
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おわりに
(図 3)
「無宗教の宗教心と自然」のマトリックス(著者が作成)
無宗教と2つの宗教、それぞれの領域の重なり地点に私は立っている。宗教を信じられない無宗教者で
ありながら宗教的世界観を希求している私が私である。
人間に生まれた以上、
「無意味な死」
「無意味な生」と付き合っていかなくてはならない。社会生活を謳
歌できているのなら、そのような意味への問いも必要無いのだろうが、どことなく生き辛さを抱えている
私には考えずにはいられない問題なのだ。現実的な思考では決して正解は得られない問いであるし、現実
的な解決法が気休めにもならないこともある。そのような時、超越的存在のある非現実的な幻想世界に強
い憧れを抱くのである。
確立された各宗派は積極的に意味を与えてくれる。残念ながら私にはそれらを受け入れる土壌を持っ
ていないが、中二病を通して、宗教者の気持ちや動機の一部分においては共感できる心を持つ。そして、
現実社会にも確立された宗教にも救いが求められないならば、実力主義の競争社会から離れて平穏を思
い出させてくれる場所は、空想世界と自然である。そのために、私は宗教心を持ちながら、自然をモチー
フにした理想郷を描くのである。かつて日本人が自然物を崇拝したように、描いた自然風景が多少なりと
心の救いの場となれることを願いながら、筆を動かしていきたいと思う。
宗教とは無縁であると考えていた私は、このようなところから宗教者の理解を深め、繋がれる可能性が
見出せるとは思いもよらず、一つ視野が広がった心持である。こうした前向きな内省の機会を与えて頂い
た、筆者の指導教授である菊地武彦先生と、考えをまとめる際に多くの助言を下さった堀浩哉先生・小泉
俊己先生・日高理恵子先生・木島正吾先生に、心からの感謝を申し上げます。また、執筆にあたり貴重な
ご意見を下さったキリスト教徒の S.H さん・N.S さん・A.H さん・O.Y さん、査読をして下さった大先
輩の S.G さん、同じ世代を生き、美術について多くのヒントを頂いた同級生諸氏と、多摩美術大学の方々
に、感謝の言葉を申し述べたいと思います。
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註釈(参考文献)
(註 1)
“What to say”と“How to say”の用語の定義は以下参照。
佐藤達郎著『自分を広告する技術』講談社+α新書、2011 年
(註 2)三省堂スーパー大辞林 3.0
(註 3)
『ロイター通信』
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPTYE8BI02P20121219(2014/11/11)
(註 4)以下の資料を基に、
“中2病”の定義を行った。
『Wikipedia』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85(2013/11/27)
『ピクシブ百科事典』http://dic.pixiv.net/a/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85(2013/11/27)
『ニコニコ大百科』http://dic.nicovideo.jp/a/%E4%B8%AD%E4%BA%8C%E7%97%85(2013/11/27)
(註 5)Sephen Schwartz 作詞/Alan Menken 作曲『カラー・オブ・ザ・ウィンド』ディズニー
(註 6)保坂幸博著『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム』新評論、2003 年(※孫引き)
(註 7)大村英昭著『現代社会と宗教』岩波書房、1996 年
(註 8)以下の文献を基に、
“パンセイズム”と“アニミズム”の定義を行った。
小穴晶子著『なぜ人は美を求めるのか』ナカニシヤ出版、2008 年
保坂幸博著『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム』新評論、2003 年
『現代倫理』
(高校教科書のため著者無記名)清水書院、2006 年
(註 9)アニミズムの語源説明から花鳥風月の説明まで。
保坂幸博著『日本の自然崇拝、西洋のアニミズム』新評論、2003 年
(註 10)藤原正彦著『国家の品格』新潮社、2005 年(※孫引き)
(註 11)ふらりと立ち寄った店で読み下しただけのため、雑誌名は失念してしまった。
(註 12)レヴィ=ストロース著/荒川幾男・生松敬三・川田順造・佐々木明・田島節夫・共訳
『構造人類学』みすず書房、1972 年
(註 13)
“ネ申”に関しては学術文献が存在せず、Wikipedia 等の web 辞典にも掲載されていないため、
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定義は著者が独自に行った。
(註 14)以下の文献を基に、
“崇高”の定義を行った。
桑島秀樹著『崇高の美学』講談社選書メチエ、2008 年
エドマンド・バーク著/中野好之訳『崇高と美の観念の起源』みすず書房、1973 年
(註 15)以下の文献にて、ロマネスク時代の聖母像は「厳粛さ」
、ゴシック時代の聖母像は「優しさ」を
持つと解釈されている。
早坂優子著『西洋美術史入門』視覚デザイン研究所、2006 年
(註 16)宮本健次著『日本の美意識』光文社新書、2008 年
(註 17)太宰治著『太宰治全集 3』ちくま文庫、1988 年
(註 18)高石昌弘、他 32 名(高校教科書のため省略)著『現代保健体育』大修館書店、2006 年
(註 19)柳宗悦著『工藝文化』岩波文庫、1985 年
(註 20)橋本治著『人はなぜ「美しい」がわかるのか』ちくま新書、2002 年
(註 21)エドマンド・バーク著/中野好之訳『崇高と美の観念の起源』みすず書房、1973 年
著者の思考に影響を与えたと思われるその他の参考文献
ケネス・クラーク著/佐々木英也訳『風景画論』筑摩書房、2007 年
近藤卓著『パーソナリティと心理学』大修館書店、2004 年
今道友信著『美について』講談社現代新書、1973 年
スヴェトラーナ・アルパース著/幸福輝訳『描写の芸術 17 世紀のオランダ絵画』ありな書房、1993 年
田中英道著『レオナルド・ダ・ヴィンチ』講談社学術文庫、1992 年
長谷川宏著『高校生のための哲学入門』ちくま新書、2007 年
ベネディクト・アンダーソン著『創造の共同体』書籍工房早山、2007 年
間瀬啓允著『エコロジーと宗教』岩波書店、1996 年
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