宗教コース324−325 教義と聖約 生徒用資料 発行所 末日聖徒イエスキリスト教会 東京都港区南麻布5−10−30 初版発行日 1986年2月28日 改訂版発行日 1997年3月10日 2M 印刷所 三美印刷(株) Copyright 1986,1997 by The Church of Jesus Christ of Letter Day Saints. All Rights Reserved. Printed in Japan. 目 次 コース紹介 …………………………………………………vii 彼の言葉を受け入れなければならない」 …………… 47 地 図 ………………………………………………………viii 第22章 序 章 教義と聖約──すべての人への主の声 ……………… 1 バプテスマ──新しくかつ永遠の聖約 ……………… 50 第23章 第1章 主のはしがき──警告の声 …………………………… 4 「絶えず教会員を強める」……………………………… 51 第24章 第2章 「先祖に与えられた約束」……………………………… 7 第3章 「神の業と計画がくじかれることは ……あり得ない」 ……………………………………… 10 第4章 「ラッパの音のようにわたしの福音を告げ 知らせなければならない」 …………………………… 53 第25章 「選ばれた婦人」………………………………………… 55 第26章 同意の律法 ……………………………………………… 58 「おお,神の務めに出で立とうとする人々よ」……… 12 第5章 第27章 「聖餐を受けるとき」…………………………………… 59 三人の証人の証 ………………………………………… 14 第6章 第28章 「あなたはあなたの長……である者に オリバー・カウドリの到着 …………………………… 16 第7章 命じてはならない」 …………………………………… 62 第29章 黙示者ヨハネ …………………………………………… 19 第8章 艱難の日に備える ……………………………………… 64 第30章 啓示の霊 ………………………………………………… 20 「あなたの心は……世の事柄のうえにあった」……… 69 第9章 「あなたの胸を内から燃やそう」……………………… 22 第31章 「家を治め」……………………………………………… 70 第10章 第32章 神の知恵は「悪魔の狡猾さに勝っている」 ………… 24 第11章 レーマン人への最初の伝道 …………………………… 71 第33章 「まずわたしの言葉を得るように努めなさい」……… 27 第12章 「わたしの福音を告げ知らせる」……………………… 73 第34章 ジョセフ・ナイト・シニアに与えられた啓示 ……… 29 オーソン・プラットに与えられた啓示 ……………… 75 第13章 アロン神権の回復 ……………………………………… 30 第35章 「わたしは……一つのさらに大いなる業のために 第14章 デビッド・ホイットマーに与えられた啓示 ………… 32 あなたを備えてきた」 ………………………………… 76 第36章 第15−16章 エドワード・パートリッジに与えられた啓示 ……… 78 ジョン・ホイットマーとピーター・ ホイットマー・ジュニアに与えられた啓示 ………… 33 第37章 「オハイオに行く」……………………………………… 80 第17章 三人の証人への啓示 …………………………………… 35 第38章 「備えていれば恐れることはない」…………………… 81 第18章 人の価値 ………………………………………………… 37 第39−40章 ジェームズ・コービルに与えられた啓示 …………… 86 第19章 第41章 悔い改めの賜物 ………………………………………… 40 第20章 最初の監督が召される ………………………………… 88 第42章 教会の規定と聖約 ……………………………………… 43 第21章 主の律法 ………………………………………………… 89 第43章 「あたかもわたし自身の口から出ているかのように, 「主が天から声を発する」……………………………… 94 iii 第44章 第4回総大会 …………………………………………… 98 第45章 「主の大いなる日が来るのを……待ち望む」………… 99 第46章 「熱心に最善の賜物を求め」……………………………107 第47章 教会の記録の重要性 ……………………………………111 第48章 オハイオ──一時的な居住地 …………………………112 第49章 「シェーカー派の人々に……わたしの福音を…… 宣べ伝えなければならない」 …………………………113 第50章 「人を教化しないものは,神から出てはおらず」……116 第51章 エドワード・パートリッジ監督と奉献の律法 ………120 それによって,天の王国が来て」 ……………………152 第66章 「あなたは清いが,完全に清いわけではない」………154 第67章 「主なるわたしは,あなたがたの前にある これらの戒めが真実であるという証を あなたがたに与える」 …………………………………155 第68章 聖文は救いを得させる神の御心, 思い,御言葉,声,力である …………………………157 第69章 歴史記録を保存するようにとの指示 …………………160 第70章 主の管理人 ………………………………………………162 第71章 「もしだれかがあなたがたに反対して 声を上げるならば」 ……………………………………164 第52章 第72章 「二人ずつ組んで行きなさい」…………………………122 第53章 監督の義務 ………………………………………………165 第73章 世を捨てるようにとの, シドニー・ギルバートへの召し ………………………124 『聖書』の改訂 …………………………………………167 第74章 第54章 「あなたは,わたしが任命した職にしっかりと 立たなければならない」 ………………………………125 第55章 幼い子供たちは聖い者である …………………………168 第75章 「怠けることもなく,あなたがたの勢力を尽くして ウィリアム・W・フェルプスが召され,選ばれる …126 働くことである」 ………………………………………169 第76章 第56章 主は命じられ,また取り消される ……………………127 栄光の階級の示現 ………………………………………171 第77章 第57章 黙示録に関する質疑応答 ………………………………181 インディペンデンス──シオンの中心の場所 ………129 第58章 第78章 奉献──永遠の聖約 ……………………………………185 シオンの地 ………………………………………………130 第59章 第79章 主は忠実な僕たちに祝福を授けられる ………………187 「世の汚れに染まらずに自らを さらに十分に清く保つために」 ………………………136 第60章 第80章 「あなたがたがこれまでに聞き,確かに信じ, かつ真実であると知っている事柄を 「あなたは時間を無駄に過ごしてはならず, またタラントを隠して……はならない」 ……………142 告げ知らせなさい」 ……………………………………188 第81章 第61章 主は地を祝福し,水をのろわれた ……………………143 フレデリック・G・ウィリアムズの召し ……………189 第82章 第62章 「あなたがたは祝福されている。あなたがたが 述べた証は……記録されているからである」 ………145 第63章 「今は警告の時であり, 多くの言葉を費やす時ではないからである」 ………146 「あなたがたがわたしの言うことを行うとき, 主なるわたしはそれに対して義務を負う」 …………191 第83章 やもめと孤児に関する教会の律法 ……………………194 第84章 神権の誓詞と聖約 ………………………………………195 第64章 「あなたがたには, 第85章 「箱を支えるために」手を伸べる者 …………………201 すべての人を赦すことが求められる」 ………………149 第65章 第86章 小麦と毒麦のたとえ ……………………………………204 「神の王国が進み行きますように。 iv 第87章 末日における戦争 ………………………………………208 第88章 オリーブの葉 ……………………………………………212 第112章 使徒への主の言葉 ………………………………………298 第113章 イザヤ書の解釈 …………………………………………302 第89章 第114章 知恵の言葉 ………………………………………………222 第90章 デビッド・W・パッテンに与えられた啓示 …………303 第115章 神託 ………………………………………………………228 「わたしの教会は,終わりの時にこのように 第91章 聖書外典 …………………………………………………231 ……呼ばれなければならない」 ………………………304 第116章 第92章 「あなたは……活発な一員でなければならない」……232 大会議 ……………………………………………………306 第117章 第93章 「真理とは……物事についての知識である」…………233 第94章 御業を進めるための家 …………………………………239 第95章 「真昼に暗闇の中を歩いている」………………………240 ウィリアム・マークス,ニューエル・K・ ホイットニー,オリバー・グレインジャーに 与えられた啓示 …………………………………………307 第118章 十二使徒会への啓示 ……………………………………310 第119章 第96章 ステークを強くする ……………………………………243 什分の一の律法 …………………………………………312 第120章 第97章 「心の清い者,これこそシオンである」………………244 教会基金の配分 …………………………………………314 第121章 第98章 「戦争を放棄して,平和を宣言しなさい」……………247 神権の制定 ………………………………………………315 第122章 第99章 ジョン・マードックに与えられた主の言葉 …………252 第100章 ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンを 慰める主の言葉 …………………………………………253 「これらのことはすべて,あなたに経験を与え」……321 第123章 迫害に関する記録の収集──緊急の義務 ……………322 第124章 厳粛な宣言──神権制度の確立 ………………………324 第101章 第125章 聖徒たちは「受け継ぎの地から追い出され」 ………255 第102章 アイオワの聖徒たちに下された神の御心 ……………332 第126章 高等評議会の設置 ………………………………………263 第103章 ブリガム・ヤング──主に愛された者 ………………333 第127章 権能によるシオンの贖い ………………………………266 ノーブー神殿と死者のためのバプテスマ ……………335 第104章 貧しい者のための教会の制度 …………………………270 第128章 死者のためのバプテスマ ………………………………337 第105章 シオンの陣営への啓示 …………………………………275 第129章 神からの導きを識別する鍵 ……………………………341 第106章 「あなたがたは光の子となるために」…………………279 第130章 教えに関する事項 ………………………………………343 第107章 第131章 神権定員会の組織 ………………………………………280 第108章 昇栄に至る鍵 ……………………………………………346 第132章 従順は祝福をもたらす …………………………………287 第109章 結婚──永遠の聖約 ……………………………………349 第133章 カートランド神殿の奉献の祈り ………………………289 『教義と聖約』に対する主の付録 ……………………357 第110章 鍵をもたらす御使いたち ………………………………298 第134章 この世の政府と法律 ……………………………………367 第111章 最も大いなる宝 …………………………………………296 第135章 殉教者への賛辞 …………………………………………371 v 第136章 シオンの陣営の組織 ……………………………………373 第137章 日の栄えの王国に関する示現 …………………………376 特別講座G 律法の本質と目的 ………………………………………417 特別講座H 終わりの時 ………………………………………………422 第138章 特別講座I 死者の贖いに関する示現 ………………………………379 公式の宣言1 教会を見守るイスラエルの判士 ………………………430 特別講座J 宣言 ………………………………………………………384 欺きを避けるための鍵 …………………………………436 公式の宣言2 「教会の忠実なふさわしい男性」………………………387 特別講座K 「研究によって,また信仰によって 特別講座A 警告の声 …………………………………………………388 学問を求めなさい」 ……………………………………441 特別講座L 特別講座B シオンの確立 ……………………………………………392 特別講座C 個人の啓示を受ける ……………………………………398 特別講座D 『教義と聖約』の貢献──イエス・キリストに 奉献と管理の職の律法 …………………………………446 特別講座M 神権と教会の統治,第1部 ……………………………454 特別講座N 神権と教会の統治,第2部 ……………………………462 特別講座O ついての理解を深める …………………………………404 特別講座E 死者の救い ………………………………………………468 引用文献 ……………………………………………………475 罪の克服と赦し …………………………………………409 特別講座F 聖句索引 ……………………………………………………478 主題別索引 …………………………………………………501 「あたかもわたし自身の口から出ているかのように」 ──教会における預言者の役割 ………………………413 vi コース紹介 はじめに あなたはこれから『教義と聖約』の学習を始めようとし に採り上げている。多くの啓示は,ジョセフ・スミスのそ の時々の状況に応じて与えられたものである。したがって, ているが,少しの間,この『教義と聖約』という書名が自 分にとってどのような意味を持つか考えてみていただきた 各章について短く歴史的背景が説明されており,その後に 啓示自体に関する注解が続く構成になっている。 い。この書には救いの教義,また人を完全な喜びに導く原 則の数々が明らかにされている。過去の神権時代に,主は 『教義と聖約』に収められている啓示は,約20年に及ぶ 時代の中で,個々に与えられたものであるが,幾つかの主 人と聖約を交わされ,人もそれによって,神に対し義務を 要なテーマが多くの章の中で繰り返し強調されていること 負うことになった。そして,それらの聖約が最後の神権時 代に再び明らかにされてきたのである。138の章から成る に気がつくことであろう。このようなテーマについては, 付録の特別講座に採り上げられている。したがって,章ご この書を通して,あなたはこの世のいかなる宝よりも貴い とに順を追って進めていくより,特別なテーマについて 教えと聖約を知ることができる。 『教義と聖約』の「序文」 『教義と聖約』に書かれている教えを学びたいと思う場合 の中で,十二使徒たちは,この書が「すべての人にとって は,特別講座を研究するとよい。例えば,キリストの再臨 有益」であると証している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ というテーマなら,特別講座Hを見るとよい。各特別講座 をどの章で学んだらよいかについては,本文中に指示があ 本書の構成 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,『教義 る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ と聖約』を最も効果的に学ぶ方法について,次のように語 っている。 本書の利用法 本コースの基本テキストはあくまでも『教義と聖約』で 「『教義と聖約』はあまりにも辞書のような感じがするの あり,この生徒用資料ではない。ただ本書を読むだけでは, で,読む気にならないと言う兄弟がいた。『教義と聖約』 は筋を追う物語ではない。主題が次々と変わっていく。な 有意義な学習体験はできない。しかし,本書を『教義と聖 約』の学習の補助資料として活用するなら,有益な情報や るほど確かにそうである。 昔わたしは七十人定員会の会長をしていたことがあっ 見解を学ぶことができるであろう。それが本書の作成の意 図である。 た。そのころ,勉強に関しては何の監督も受けていなかっ 正規のクラスで教師から学ぶのでなく,自分独りで本書 た。この七十人定員会は『教義と聖約』を勉強することに 決め,わたしが教師に任命された。わたしたちは1章ずつ を学ぶ場合は,自分のペースに合わせて,章を追っていく ようにするとよい。特別講座は,本文中の指示に従って学 採り上げていった。ほかの方法ではそこに書かれている内 容を全部学び取ることはできない。主題ごとに,あるいは ぶ。しかし,正規のクラスに登録している場合は,教師か ら学習予定について指示を受けるであろう。教師はクラス 教義別に採り上げたければそれもよいであろう。しかしそ への割り当てとして,各章をどのように学ぶかを決める。 れでは『教義と聖約』を理解することはできない。章ごと に採り上げなければ,『教義と聖約』に書かれた内容を全 必ずしも各章を初めから順番に進めていかなくてもよい。 また,各特別講座を採り上げるかどうか,採り上げるとす 部学び取ることはできない。章ごとに学ぶ場合も,教会歴 史に記されている背景に照らして学ぶべきである。」(『救 ればいつ行うかを決めるのも教師の責任である。 引用箇所の出典は本文中に表記されているが,巻末には いの教義』3:178) 引用文献の一覧も載せられている。 本資料は,スミス大管長から勧められた方法で『教義 と聖約』を学べるように構成されている。中に書かれてい なお,末日聖典(邦訳)の改訳に伴い,1995年以前に邦 訳され出版された教会出版物からの引用については,聖句 る情報は3つの種類に分類できる。各章を順を追って個々 や教会用語を改めている。 vii viii 教義と聖約── すべての人への主の声 啓示は再び 序章 神は残りの者を呼ばれ,エルサレムのみならずシオンにお イエスと使徒たちの死後,神権の力が旧世界の人々から いても彼らに救いを与えてくださる。もし神がこれ以上啓 取り去られ,大背教の時代が始まった。キリスト教徒たち に残されたものは,それまでに記録として書き留められ, 示を下さらないとしたら,わたしたちはシオンやこの残り の民をどこに見いだせばよいのだろうか。神は,荒廃が地 聖徒たちに伝えられてきた啓示だけであった。後にこれら の啓示は一つに集められ,過去の時代の預言者たちの記録 を覆う時が近く,そのとき神は残りの者の中に,またシオ ンの中に,救いの場を設けてくださると語られた。 」(Kirt- とともに合わせられて「旧新約聖書」となった。キリスト land Council Minute Book『カートランド評議会議事録』末 教の歴史および発展において『聖書』がもたらした影響や 意義を過小評価することはできない。一般の人々に啓示が 日聖徒イエス・キリスト教会記録保管所,pp.43−44) 預言者は暴徒に殺されてしまったが,それでも啓示はや 与えられることがなくなったことを考えれば,間もなく 『聖書』が神の言葉の唯一の源になったことには何の不思 まなかった。外套(列王上19:19参照)は人から人へ,預 こんにち 言者から預言者へと受け継がれ,今日もなお生ける預言者 議もない。その一例として,『聖書』には「神のすべての が保有している。鍵が預言者から預言者へと譲り渡される 勧告」が収められていると言明している教派もあれば, 「『聖書』には救いに必要なすべての事柄が収められている」 のに伴い,啓示も与えられた。スペンサー・W・キンボー ル大管長は次のように述べている。「これらの製本された と言っている教派もある(バックマン,American Religions 『アメリカの宗教』p.449)。 神聖な記録で,『預言者たちは終わり』だとする人々がい る。しかし,啓示は続き,時々刻々ともたらされる啓示が 何一つ欠けたところのない完全なものと見なされていた その書物の中に,若いジョセフ・スミスが祈りによって神 教会の保管庫やファイルに収められるということを,わた あかし したちはまた世に証する。」(Confernce Report『大会報告』 がいとう かぎ を求めるきっかけとなった言葉があった。「あなたがたの 1977年4月,p.115) うち,知恵に不足している者があれば,その人は,とがめ もせずに惜しみなくすべての人に与える神に,願い求める ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ がよい。そうすれば,与えられるであろう。 」(ヤコブの手 紙1:5) して聖徒たちの手に入るようになったか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,『教義 そして,この謙遜な祈りに対する答えとして,栄光に満 と聖約』が出版されるまでのいきさつを短く次のように説 ちた示現が与えられ,1,400年間沈黙していた天が開かれ, 再び地上に啓示の光が注がれ始めたのである。1千年以上 明している。 「教会が組織されて間もなく,教会員はそれまでに与え にわたり,生ける預言者はこの地上に存在しなかった。し かし,今こそ,神御自身がその姿を現され,天使が教え導 られた啓示の写しを手に入れることを望んだ。1830年の夏 に,預言者は神の戒めを受けて啓示を写し始めた。明らか き,ウリムとトンミムが再び授けられ,古代の聖文が翻訳 に啓示をまとめて出版しようと準備していたのであった。 され,教会が回復されたのである。啓示が再び人間に与え られるようになったのである。預言者ジョセフは,教会が 一部の長老たちは主から許された範囲で写しをポケットに 入れていた。当時,世に発表することを禁じられていた啓 回復されてから2年もたたない時点で次のように述べてい る。「教会のこの幼年期に,何らかの点でわたしたちの救 示があったからである。 1831年11月1日,2日に,長老たちの大会がオハイオ州ハ いにかかわっているあらゆる事柄について,主の言葉を頂 イラムで開かれ,そこで啓示を編集し,出版することが決 きたいという切なる願いがあった。 」(History of the Church 『教会歴史』1:207) 定された。大会の初日に主はこの計画を承認し,一つの啓 示を与えて,『これは……わたしの戒めの書へのはしがき 1820年の春の喜びの日から1844年6月27日の悲しみの午 後に至るまで,末日の神権時代を開くために選ばれた人物 である。おお,地に住む者よ,これらの戒めは,あなたが しもべ たに知らせるためにわたしが僕たちに与えたものである』 けんそん 啓示から出版に至るまで──『教義と聖約』はどのように を通して,次から次へと啓示が与えられた。『聖書』は主 (教義と聖約1:6)と言われた。 これはジョセフ・スミスに与えられた最初の啓示ではな の言葉として聖徒たちから愛され,受け入れられていた。 しかし,主の言葉はそれだけではなかった。預言者ジョセ いが,今日,本の巻頭にはしがきを置くのが自然であるた フ・スミスは次のように述べている。「わたしたちは今, 過去のいかなる時代の人々とも異なる状況の下にある。し め,『教義と聖約』の最初の啓示と見なされている。オリ バー・カウドリとジョン・ホイットマーが啓示をミズーリ たがって,過去に与えられた啓示がわたしたちの状況に当 てはまらないことがある。それらの啓示は過去の時代の 州インディペンデンスに運んで行き,そこで出版するよう に任命された。預言者は急いで啓示を選び整理して,二人 人々に与えられたものだからである。しかし,この末日に の兄弟が11月中旬にはミズーリ州への旅に出かけられるよ 1 うにした。 索引が付けられた。信仰に関する7つの講話は正式な啓示 初期の教会員の一人ウィリアム・W・フェルプスは,印 刷業を職業としていた。彼はすでにミズーリ州へ行ってい とは見なされていなかったので,この版から削除され,多 妻結婚の中止を宣言した書簡が「公式の宣言」として付け た。印刷機と活字は,それを購入した町シンシナティから 加えられた。 オハイオ川を下って,また陸を横切ってインディペンデン スまで運ばれた。そして,預言者が選んだ啓示は,その大 教会は1976年の総大会において,二つの啓示を聖文とし て認め,4つの標準聖典に付加するというキンボール大管 部分が活字に組まれた。しかし,これらの仕事はなかなか はかどらなかった。彼らは開拓者の時代に住んでいたこと 長の提議を支持した。この二つは,預言者ジョセフ・スミ スが受けた日の栄えの王国に関する示現(1836年に受けた を思い出す必要がある。カートランドからミズーリまでの 距離は,開拓者がロッキー山脈に向けて旅立つ起点となっ もの)と,ジョセフ・F・スミス大管長が受けた死者の贖 いに関する示現(1918年に受けたもの)である。これらの たウィンタークォーターズからソルトレーク・シティーま 啓示は,最初『高価な真珠』に収められたが,脚注,相互 でと同じくらいあった。わたしたちはこのことに気づかな いが,相当の時間がかかったのである。1833年の夏ごろに 参照表記,項目別索引などが大幅に増補された新版の標準 聖典を発行するに当たり,第137章および第138章として は大部分の啓示が印刷されたが,全部ではなかった。 当時紛争が起こり,暴徒が印刷機を破壊し,活字を散乱 『教義と聖約』の中に収められた。この最新版には,138の 章のほかに,二つの公式の宣言,すなわち1890年にウィル あがな させた。これによって印刷された書物の大部分が使用でき フォード・ウッドラフ大管長によって発表された宣言と, なくなったが,数部は残った。これは『戒めの書』と呼ば れた。 〔初版は65章から成る。 〕すでに述べたように,この 1978年にスペンサー・W・キンボール大管長によって発表 された神権に関する宣言が収められている。 書はほんの数部しか残らなかったので,完成されたものは ごくわずかしか現存しない。わたしが知っているかぎり今 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『教義と聖約』──末日のための聖典 日5,6部しか残っていない。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この本 1834年に,大管長会とその他若干名から成る委員会が組 織され,再び啓示を編集し,出版することになった。この が末日において重要な意義を持つものであることについて 次のように述べている。 啓示の選択の作業が進められ,1835年8月17日に開催され た大会で提議され,承認された。 〔1835年版は102章から成 「わたしの判断では,人間に与えられた書物の中で『教 義と聖約』として知られるものほど大切なものはない。教 る。〕預言者は選択を終えたとき,この啓示集は地上の富 義における基準を与える『モルモン書』や『聖書』,『高価 をすべて合わせたよりも価値があると語った。…… この大会で『教義と聖約』の出版に当たり7つの『信仰 な真珠』を考えに入れてもそうである。『教義と聖約』は, 上記のものとは異なった特殊な地位にあるのである。 に関する講話』を含めることが決定された。これらの講話 は,1834年から1835年にかけてカートランドで長老の塾に その理由を話そう。こう言うからといって,わたしが 『モルモン書』や『聖書』,『高価な真珠』を価値のないも おいて教えられたものである。この7つの『信仰に関する 講話』を受け入れるに当たって,これは啓示と並んで受け のと思っているとは考えてほしくない。わたしは価値ある ものだと思っている。わたしはだれにも負けないほどこれ 入れられるものではなく,教会の教義の研究を助けるもの らの聖典を読んだ。わたしは3冊の聖典を感謝している。 として受け入れることが明らかにされた。このことを承知 のうえで,これらの講話が『教義と聖約』に加えられた。 」 これら3冊の聖典はいずれもすばらしいものであり,そこ にはわたしたちが心に留めなければならない教義や啓示, (『救いの教義』3:172−174) また,啓示ではないが,ほかに二つの記事がこの版に加 戒めが含まれている。しかし,『聖書』は昔の人々に与え られた教義や戒めを含んだ歴史である。『モルモン書』も えられた(教義と聖約第134章の「歴史的背景」を参照)。 それと同じことが言える。この大陸に昔住んでいた民にか その一つは結婚に関するものであり,もう一つは政府に関 するものであった。 かわる教義や歴史,戒めが記されているのである。 しかし,この『教義と聖約』は,今日この地上に住む から追放される前に111章を収めた版が印刷された。1876 人々への神の言葉である。これはわたしたちの本であり, 末日聖徒のものである。黄金よりも貴い。預言者はこの聖 年には136章を収めた新しい版が出版された。この版では, 典を,この世のすべての富に勝って大切にしなければなら ブリガム・ヤング大管長の指示の下にオーソン・プラット 長老によって初めて各章が節に分けられ,以降の版の基準 ないと語っている。はたしてわたしたちはそうしているだ ろうか。その価値を知り,それを理解し,また何が書かれ となった。3年後には,再びオーソン・プラット長老によ り脚注が付け加えられた。その版では結婚に関する記事は ているかを知れば,この聖典を富よりも価値あるものとす ることができる。わたしたちにとってこの聖典は世の富よ 印刷されなかった。 1921年,十二使徒定員会のジェームズ・E・タルメージ りも価値があるからである。」(『救いの教義』3:177− 178) 1844年6月27日の預言者の殉教後,聖徒たちがノーブー 長老は,参照事項をさらに修正し,本の体裁を変更するよ うに任じられた。彼の指導の下に,本文の各ページは2段 組になり,各章に短い前書きが付き,脚注が増補改訂され, 2 またあるとき,スミス大管長は『教義と聖約』の中の啓 示を研究する人々に次のような約束を与えている。「これ らの啓示を生活に応用し,主の戒めを守るならば,わたし 序 章 たちは真理を知るであろう。そして,わたしたちを攻める 興宗教や多くの偽りの信仰があり,奇妙な考えが横行して ために造られる武器はまったく役に立たないであろう(教 義と聖約71:9−11参照)。偽りの教義,すなわちわたした いる。しかし,これらの啓示を調べるならば,わたしたち は様々な誤りに対抗してとりでを築き,さらに強さを増し ちを惑わす人間の教えは存在しない。世の中には多くの新 加えられるのである。 」(『大会報告』1931年10月,p.17) 3 主のはしがき──警告の声 第1章 主は第4節の中で, 『教義と聖約』は「警告の声」として 歴史的背景 「すべての民に及ぶ」と宣言しておられる。この主題は ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『教義と聖約』の全体を通して幾度も繰り返され,将来世 を訪れる裁きと,人の子らがそれらから救われる方法とを 天が開かれ,啓示が与えられ,教会は設立以来成長を遂 げ,1831年11月1日,オハイオ州ハイラムにおける大会で 長老の会議が召集された。この大会が開かれたのは,それ までに与えられていた啓示の出版計画について検討するた めであった。そして,それらの啓示を『戒めの書』と題し て出版し,第1刷として1万部出版することが決定された。 大会の最初の部会でこの決定がなされ,続いて預言者ジョ セフ・スミスがこの決定について神の確認を得るために主 に祈り求めた。その確認はすばらしい方法で与えられた。 主はその計画を承認されたばかりでなく,この書物のため に主御自身のはしがきとして啓示を与えられたのである。 そのはしがきが,教義と聖約第1章である。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:1−4 『教義と聖約』はすべての人に向け られた警告の声である 明らかにしている。付録の特別講座Aには,この点につい てさらに詳しく述べられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:6−7 主はこの章を「はしがき」と呼ばれ た はしがきは,書物の内容を読者に紹介するためにあり, その書物の主題や著者の目的を要約したものである。これ はジョセフ・スミスが最初に受けた啓示ではないが,主御 自身が定められたところに従い,第1章として冒頭に置か れることとなった。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に述べている。「『教義と聖約』は主御自身によってはしが きが与えられるという栄誉を受けた現存する唯一の書物で あるが,そのように信じる人にとってこの書物は,とりわ け興味をそそる何かを持っている。……これはジョセフ・ 『教義と聖約』のはしがきは,この書物の主旨を紹介し スミスによって書かれたものではなく,イエス・キリスト によって口授されたものであって,教会と世のすべての人 ている。この聖典は全体を通して,神が侮られることはな いという警告を国々に発している。この警告の声に注意を に向けて語られたイエス・キリストとその御父の言葉が載 っている。それによって,神を信じる信仰と罪の悔い改め, 払う者は守りと平安を得ることができるが,それを拒む者 は苦い実を刈り取ることになる。ジョセフ・フィールディ イエス・キリストの教会の会員となる特権が,信じる者の カトリックや長老派の人々,メソジスト,そのほか非キリ スト教徒から無神論者に至るまでのすべての人の書物であ 教義と聖約1:8−10 すべてに与えられ,また再び新しくかつ永遠の聖約が定め られるのである。」(Church History and Modern Revelation ング・スミス大管長は,この書物が末日聖徒だけに向けら れたものではないことについて,次のように言っている。 『教会歴史と近代の啓示』1:252) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「さらに言うならば,それは,世のすべての人,すなわち る。『教義と聖約』は,受け入れる人にとって自分自身の 書物となるのである。主はこの書物を世の人々の救いのた めに与えられた。信じないというのであれば,はしがきで ある第1章を読んでみていただきたい。この書物を与えて くださったのは主であり,これにははるか遠く,海の島々 にいる者にあてた事柄が載っている。そして主の声は,す べての人が聞けるようにすべての民に及ぶのである。した 「信じない者や背く者」を結び 固めるとはどういうことか しもべ 「この最後の神権時代に主の僕たちに授けられた結び固 めの力は,『信じない者』や『背く者』にも及ぶものであ る。……主の僕たちには,かたくなに福音を拒み,教えに 背く者に対して,非難を結び固める力がある。このように して結び固められ,その状態にとどまる者は,神の激しい 怒りを被るであろう。この結び固めは, 『信じない者』 ,す がって,この書物は末日聖徒だけでなく,世のすべての人 なわち福音の教えを受け入れるのを拒む者と,『背く者』, すなわち主の僕たちに背を向ける者,特に教会員としての のものと言える。そして,この聖典によって彼らも裁かれ るし,あなたがたも裁かれるのである。」(Conference 特権や祝福にあずかった後にそうする者たちにかかわるも のである。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注 Report『大会報告』1919年10月,p.146) 解』p.6) 4.また,警告の声は,この終わりの 時にわたしが選んだ弟子たちの口 を通して,すべての民に及ぶ。 「警告の声は……すべての民に及ぶ。」 (教義と聖約1:4) 4 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:12−13 「来るべきことのために備えな さい」 『教義と聖約』には「備え」という言葉が約110回出てく る。この警告こそ『教義と聖約』の主題の一つである。主 第1章 される力を表している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:14 「聞こうと〔しない〕者たちが…… 絶たれる日が来る」 すべての民への警告の声の一部として,主は御自分の僕 たちの声を聞こうとしない者たちが絶たれる日が来ると予 告された。ジョージ・Q・キャノン副管長は,預言者に背 を向けることの霊的危険性について次のように説明してい る。「神がその僕たちを選ばれたのである。もし彼らを罪 に定める必要があるとするなら,罪に定めるのは神の特権 であると言っておられる。神は,彼らを罪に定める権利を わたしたち個人には与えられなかった。いかに信仰が強か ろうと,神権の高い職にいようと,主の油注がれた者の悪 口を言ったり,地上で神の権能を持つ者のあら探しをした りしながら,神の不興を買わずに済む人はいない。聖なる み たま 御霊はそのような人から離れ去り,その人は暗黒の中を歩 むことになろう。こういう訳だから,わたしたちが注意深 くあることがどんなに大切かが分かるであろう。中央幹部 ジョセフ・フィールディング・スミスは,はしがきはイエス・ キリストによって口授されたものであると断言している は常に,人々に来るべきことに備える機会を与えておられ る。この神権時代に与えられる啓示は,聖徒たちが備えを するための助けとなるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のとる行動がどんなに不可解に見えても,わたしたちはあ まり性急に彼らの行動をいぶかったり,間違っていると決 めつけたりすべきではない。」(Gospel Truth『福音の真理』 1:278) 付録の特別講座Fには,預言者に従うことについてさら に詳しく述べられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:13−14 主の剣,主の腕とは何か 剣は,戦いのときのように,悪人のうえに注がれる破壊 教義と聖約1:15−16 と裁きの象徴である。この剣は主の御心を行うために,今 像を拝んでいた過去の時代の罪であるという考えが誤りで あることを指摘して,次のように述べている。 みこころ まさに振り下ろされようとしている。 「『腕』という言葉は,古代ヘブライ語の口語体では,人 現在の世の状態は神を怒らせる スペンサー・W・キンボール大管長は,偶像礼拝とは偶 「偶像礼拝は罪のうちでも最も重大な部類に属する。不 こんにち 間の力を意味するものとして広く用いられていたに違いな い。しかし,『聖書』の中では,神の力の表現として用い 幸にも,今日では,何百万という人が金,銀,木,石,土 などで造った像にひれ伏している。しかし,ここでわたし られている場合がほとんどである。中でもイザヤ30:30 たちが採り上げる偶像礼拝とは,意識的にほかの神を礼拝 していることである。あるものは金属とクロムで造られて は,神の腕の動きを,人間の腕の動きのようにいきいきと 表現した出色のものである。……また神の腕を,攻撃的な おり,またあるものは木や石や織物で造られている。これ 動きを示す『伸ばした』という言葉で表現した箇所も数多 くある(出エジプト6:6;詩篇136:12;エレミヤ27:5参 らの像は神や人間の姿に似せて造られてはいないが,人間 に慰めと楽しみを与え,欲求,功名心,情熱,願望を満た 照)。しかしその場合でもほとんどは,語句本来の躍動感 を失い,抗し難い神の力を表すにしては非常に平凡な表現 してくれるとして大切にされているのである。あるものは まったく物理的に形を成しておらず触れることすらできな となっている。その顕著な例がエレミヤ32:17に見られる い。 多くの人は自分の生活の基盤となるものを『礼拝』して 『大いなる力』と同じ意味の『伸べた腕』という箇所であ る。」(Interpreter’s Dictionary of the Bible『聖書解釈辞典』 いるようである。このような人々は飲み食いするために生 「腕」の項参照) ひ ゆ この比喩的表現は破壊的な力の意味だけで用いられてい きているのである。このような生き方をしている人々は, 神御自らの導きによる国全体の繁栄で多くの自由の恩恵を るわけではない。例えば,教義と聖約29:1には,罪に対 受けたにもかかわらず,その思いは『エジプトの肉のなべ』 以上の域に到達し得なかったイスラエルの子らに似てい あがな あわ する贖いをした主の「憐れみの腕」について述べられてい る。この言葉は,憐れみ深い贖いの計画には人を救う力が あることを示唆している。『モルモン書』の原稿116ページ が失われた後に,主はジョセフ・スミスに対し,「その腕 を伸べて」数々の誘惑に対抗できるように支えると言われ た。ここでまた用いられている「腕」という言葉は,怒り に満ちた力ではなく,憐れみをもって人を助けるために示 る。彼らは肉体上の欲求を満たす以上のことには目を向け られないようである。パウロが言っているように,彼らの 『神はその腹』 (ピリピ3:19)であった。 現代の偶像,偽りの神は衣服,家,仕事,機械,自動車, ヨット,その他種々の物質的なものであって,わたしたち を神の道からそらそうとしている。 今挙げたようなものが, 5 いわゆる偶像の形を取っていなくとも,どれほどの違いが 難を被ってしまうこと,また彼らに悔い改める気持ちがな あると言えるだろうか。ブリガム・ヤングは,『わたしは しんちゅう 自分の財産を礼拝している人を見るくらいなら,真 鍮 や いことを御存じであった。それでも,子供たちを何とか救 いたいとお思いになり,僕であるジョセフ・スミスを召し 木で造った小さな神を礼拝している人の方を見たい気がす て人々に警告させ,悔い改めを叫ぶようにさせられた。ま る』と言っている。 手で触れることのできないものは容易に神になる。 学位, た,ほかの人々には,『悔い改めなさい。天の王国は近づ いているからである』 〔教義と聖約33:10;42:7参照〕と 証書,称号は偶像になる。多くの若人は,まず第一に伝道 に出るべきなのに, そうしないで大学へ進学しようとする。 の大いなる宣言に対して行動を共にするように求められ た。主は危険や災難が差し迫っていることを警告されただ 進学することによって得られる学位,富,保証が何をおい ても大切なことのように思え,伝道は二の次になってしま けではない。来るべき危険から逃れる手段も同時に与えら れたのである。」(Conference Report『大会報告』1923年10 うのである。ある人は,大学生活を送っている間,学業に 月,pp.30−31) 重きを置き,神と交わした霊的な聖約を無視して,教会に おける奉仕をなおざりにする。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み わざ 教義と聖約1:19−20,23 主が御 業 を行うために 多くの人はまず家を建て,家具を備え,自動車を購入す じゅうぶん る。その後で什 分 の一を納める『余裕がない』ことに気 「世の弱い者たち」を選ばれるのはなぜか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この質 づくのである。このような人々はだれを礼拝しているので 問に対し次のように答えている。「主はジョセフ・スミス あろうか。天地の主ではないようである。わたしたちは愛 する者に仕え,愛情と望みの対象をまず念頭に置くからで やほかの人々を世の弱い者たちの中から選ばれたが,それ けんそん はジョセフやその同僚たちが罪を深く悔い,謙遜であった ある。学位を得るまで子供をもうけないでおこうとする若 い夫婦は,そのような態度は偶像礼拝であると指摘された からである。主は,国々の力ある強い者たちを,彼らの高 慢と独善のゆえに用いることがおできにならなかったので としたら,少なからず打撃を受けることであろう。」(『赦 ある。…… しの奇跡』pp.44−45) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主の方法は人の方法とは異なる。主は,自らを賢者とし, 学ぶ事柄は何もないとする人を選ぶことはなさらない。主 教義と聖約1:17−18 預言者ジョセフ・スミスの召し は,地上の諸国に対する主の警告とどのような関係がある は喜んで教えを受ける人を選び,彼らを強め,力ある強い 者たちを打ち破られるのである。……この教会の宣教師制 か 度について考えるならば,どのようにして弱い者たちが強 主は,ほかの様々な時代の預言者と同じように(教義と 聖約1:18参照),世の人々に悔い改めを叫び,キリストの い人々の中に出て行き,勝利を収めてきたかが分かる。力 ある強い者たちがこの教会の謙遜な長老たちによって打ち 道に立ち返るよう警告を発するために,預言者ジョセフ・ スミスを召された。メルビン・J・バラード長老は,ジョ 破られてきたのである。」(『教会歴史と近代の啓示』1: 255) セフ・スミスやほかの預言者の必要性について次のように 説明している。「わたしはこのこと〔教義と聖約1:17− ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 18,22−24〕から,主が世の状態,すなわち1830年の状態 「肉の腕」という言葉は,人間の弱さ,もろさ,不完全 も,今日の状態についてもはっきりと御存じであることが 分かる。……主は,子供たちがその方向を変えなければ災 さを示している。人間の力に頼ってはならないという勧告 は,聖典の随所に出てくる(教義と聖約3:7;2ニーファ ゆる 教義と聖約1:19 「肉の腕」とは何か イ28:31;モーサヤ23:14;歴代下32:8参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:30 「全地の面〔の〕唯一まことの生け る教会」 「死んだ教会と生ける教会には大きな違いがあります。 死んだ教会には形式や様式が整い,儀式典礼が定められて いるかもしれませんが,生ける教会には命があります。今 この教会は生ける預言者によって導かれています。この教 会には生気に満ちた動きがあり,人の心を捕らえる精神が みなぎり,接触するすべての人の生活を高め,伸ばし,助 け,祝福をもたらす栄光があります。この教会は神が定め られた将来に向けて前進していくことでしょう。」(A・セ オドア・タトル『大会報告』1975年4月,p.135) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:33−35 「あなたの宝のある所には,心もあるからである」(マタイ6: 21) 6 「わたしの御霊はいつでも人を 励ますわけではない」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この節 第1章 に述べられている「御霊」とは何かについて次のように説 べての人に対して公平であられる。主は罪悪から義に立ち 明している。 「今や主は世から御霊を取り去られた。このことはそれ 返る人を皆受け入れ,等しく愛し,御父が約束されたすべ てのものをもって祝福してくださる。しかし主が,主に従 ほど理解しにくいことではないだろう。主が世から取り去 られた御霊とは,聖霊ではなく(彼らがこれを持つことは 順でない者,主の戒めを守ろうとしない者にも同じ祝福を 授けてくださると考えないようにしよう。もしも主が,背 決してなかったからである),聖典中でキリストの御霊と して語られている真理の光である。これは,世に来るすべ く者を,悔い改めていないのに,義人と同じように祝福さ れるとすれば,主は人を偏り見る御方ということになって ての人に与えられるものである。このことについては教義 しまう。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:255) と聖約第84章〔46節〕に記されている。 世の悪のため,その御霊が取り去られた。そして,主の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:36 イドマヤ 御霊が人を励まさなくなると,サタンの霊が働く。このこ とから,わたしたちは教義と聖約第1章で言われている時 「ボズラを首都とするイドマヤ,すなわちエドムは,塩 湖の南に位置する国であり,そこをエジプトとアラビヤを がすでに来ていることを,確かに知ることができる。…… 結ぶ交易路(『王の大路』と呼ばれる)が走っていた。イ 平和はすでに地から取り去られている。悪魔はすでに自分 の領域を支配し,主の御霊はすでに取り去られている。主 ドマヤ人,すなわちエドム人は,イスラエルには属さない 邪悪な民であった。そのため預言者にとって,彼らの国を が御霊を取り去ることを望まれるからではなく,人類の悪 のゆえに,主の御霊を取り去ることが必要になるのであ 旅して通るのは,邪悪な世の中を生きていくことの象徴で あった。このようなことから,イドマヤは世を意味してい る。」(“The Predicted Judgments” Brigham Young University た。」(マッコンキー,Mormon Doctrine『モルモンの教義』 『ブリガム・ヤング Speeches of the Year「予告された裁き」 大学年度講話』1967年5月21日,pp.5−6) p.374) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約1:35 主が人を偏り見ないのはなぜか 教義と聖約1:37 じておられる ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,「人を 偏り見る者」という言葉の真の意味を次のように説明して 「この教会の会員は皆,これらの戒めを調べ,それに従 うように命じられている。これはほかのすべての人につい いる。「それは,すべてのことで主に従順な者も,神を敬 ても言えることである。わたしたちがこれを行わず,主か わない者も,主から同じように見られるという意味ではな い。主が,背く者よりも,主を愛し,主の戒めを守る者を ら与えられた教義や聖約,戒めを知らないままでいると, み ざ 数々の書物が開かれる裁きの日に,主の御座の前において 重んじられるのは疑いのないことである。主は悔い改める すべての人に,ひいきすることなく,救いと昇栄にあずか 罪に定められるであろう。わたしたちは主の御心を知り, 信仰や知識,知恵において成長できるように,調べる必要 るための同じ特権と機会を授けてくださるというのがこの がある。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:256) 主はこれらの聖文を調べるように命 一節の正しい解釈である。主は義人と悪人とを問わず,す 「先祖に与えられた約束」 第2章 歴史的背景 に収められた。「あるとき,ジョン・A・ウイッツォー長 老はこの章に関して次のように述べました。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,1820年春の栄光に満ちた示 『教義と聖約第2章の中には,福音のすべてが書き尽くさ れている。この章は福音というすばらしいアーチのかなめ 現について書いた後に,天使モロナイの訪れを受けて教え を授けられたときの状況を記録している(ジョセフ・スミ 石である。中央のその石が弱くなって外れてしまえば,福 ス−歴史1:37−39参照)。このときモロナイは,年若い預 言者に,マラキ4:5−6を含めて幾つか聖句を引用した。 音の構造全体が崩れ落ち,その教義は体系的なまとまりを 失ったただの石のようになってしまう。』」(エルレイ・ しかしその言葉は,『聖書』に見られる言葉どおりではな L・クリスチャンセン,Conference Report『大会報告』 1960年4月,p.48) かった。教義と聖約2:1−3はモロナイの言葉を記録した ものであり,1876年にブリガム・ヤング大管長の指示の下 マラキのメッセージは非常に重要で,各標準聖典に繰り 返し出てくる。 に,オーソン・プラット長老によって『教義と聖約』の中 『聖書』──マラキ4:5−6 7 『モルモン書』──3ニーファイ25:5−6 何だろうか。それは,かつてこの世の人々に与えられてい 『教義と聖約』──2章;27:9;128:17 『高価な真珠』──ジョセフ・スミス−歴史1:37−39 た力と権能を回復することであった。その力と権能は,人 が神の王国で完全な救いと昇栄を得るために不可欠のもの モロナイはマラキのメッセージの表現を一部変えてお である。言い換えれば,エリヤは,神権の力のすべてを, り,それは末日聖徒がこの預言を理解するうえで助けとな っている。例えば,ジョセフ・フィールディング・スミス 主から正式に任命された地上の預言者に授けることによっ て,それを地上に回復するために来たのである。この神権 大管長は,エリヤが1836年4月3日に再び地上を訪れたこと について興味深い指摘をしている。 は,人の救いに関するすべての儀式と原則を地上において も天においても結び固め,神の日の栄えの王国においてそ 「エーデルシャイムは,その著書『神殿』(The Temple) こんにち の中で次のように述べている。『今日に至るまでユダヤ人 れらの効力を発揮させる鍵を保有している。」(『救いの教 義』2:102−103,109) の家庭では例外なく,過越の祭のある部分〔すなわち3杯 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 目を飲むとき〕に差しかかると,戸を開けて,預言者エリ ヤがメシヤの先駆者として入って来ることができるように 教義と聖約2:1 神権の結び固めの力を回復するために エリヤが選ばれたのはなぜか している。その間,彼らは,すべての異邦の国々が滅亡す ることを預言した適切な聖句を読んでいる。主イエスが御 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,エリヤ の主要な役割を理解するには,彼が地上にいたときの任務 自身の晩餐を定めるに当たって,裁きの象徴ではなく,深 について知る必要があると指摘している。 い愛の象徴を「3杯目」の杯と結びつけられたことは驚く べき偶然の一致である。 「多くの教会員は,この重要な使命がなぜエリヤに与え られたのか,またこれらの権能がなぜ他の預言者,中でも 1836年4月3日に,過越の祭を祝っていたユダヤ人はエリ ヤが入って来られるように戸を開けていたということをわ 時の中間の神権時代に権能の鍵を持っていたペテロ,ヤコ ブ,ヨハネによって与えられなかったのか,不思議に思っ たしは聞いた。まさにこの日に,エリヤは入って来たので ている。もし委任されていれば,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ ある。ただユダヤ人とともに過越の祭を祝うために彼らの み な 家に来たのでなく,主の御名のために建てられ,主に受け がこの権能を授けることができたことに疑問の余地はな い。アダムもすべての神権時代の鍵を持っていたので,同 入れられたカートランドの主の宮に現れたのであった。そ してそこで,まさにユダヤ人が家に集まって求めていたこ じことができたであろう。エリヤがこの使命を果たすよう に定められていた理由は,預言者ジョセフ・スミスによれ とを成就する鍵 が授けられたのである。」(『救いの教義』 ば,次のとおりである。 2:91−92) 『エリヤは神権の鍵を所有していた最後の預言者であり, 最後の神権時代が始まるに当たって権能を回復し,神権の 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 鍵を与えて,すべての儀式が義にかなって執行されるよう にする預言者であった。救い主がこの祝福を授ける権能と 教義と聖約2:1 エリヤが預言者ジョセフ・スミスに明 らかにし,回復することになっていた神権の権能とはどの 力を持っておられたことは真実である。しかし,レビの息 子たちはあまりにも偏見を持たれていた。……なぜエリヤ ようなものか を遣わすのか。それは,彼が神権のすべての儀式を執行す 1836年4月3日にエリヤがカートランド神殿に現れるまで に,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは,すでに る権能の鍵を有しているからである。権能が与えられなけ れば,もろもろの儀式は義にかなって執行することはでき (1829年6月に)ペテロとヤコブとヨハネの手からメルキゼ デク神権を受けていた。しかし,その神権に必要不可欠な ない。 』」(『救いの教義』2:104) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ すぎこし ばんさん さかずき かぎ 鍵はまだ授けられていなかった。エリヤが訪れて回復した 力と権能について,ジョセフ・フィールディング・スミス 大管長は次のように説明している。 「エリヤが所持していた鍵は永遠の神権の鍵であって, 主が彼に与えた結び固めの鍵である。エリヤが……預言者 ジョセフ・スミスに与えたのはこの鍵である。それは生者 と死者のために結び固めを行うことも含んでいた。それは 生者に限定されず,また死者に限定されず,両者を対象と している。…… エリヤの使命は結び固めの力に関するものであった。彼 は両親が互いに結び固められ,また子供が両親に結び固め られる鍵を保有していた。そしてこの鍵を預言者ジョセ フ・スミスに授けたのである。これは,主イエス・キリス トの来臨以後の死者と生者の両方に適用される。 しかし,この末日におけるエリヤの地上に対する使命は 8 結び固めの力の鍵がエリヤによって回復された 第2章 教義と聖約2:1 エリヤの来訪は「主の大いなる恐るべ これがなければならない。」(『救いの教義』2:118) き日」に先立つ エリヤの来訪は,「明瞭に預言されているとおり,主の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 大いなる恐るべき日の少し前にある出来事である。主の大 いなる恐るべき日とは, この預言で宣言されているように, アブラハムや他の先祖たちは,主と交わした聖約に忠実 であったために,主から気高い報いを約束された。アブラ 主が大いなる栄光をもって天の雲の中を来る日である。そ して,この日に主は,神を敬わない者に報復されるのであ ハムの子孫はその心を先祖に向け,自分自身と亡き先祖に 同じ祝福が授けられるように求めなければならない。そう る。この日は,悔い改めず罪に染まっている者にとっては でなければ,地は荒廃するであろう。ジョン・A・ウイッ 恐ろしい日であるが, 正しい者には平安と救いの日となる。 しかし,この日が来る前にエリヤの権能が回復され,力強 ツォー長老は,この約束の意義とそれに関する末日聖徒の 役割について,次のように説明している。 く業が進められる。その業は大きな力を発揮するため,地 球が破壊されるのを,すなわちのろいをもって打たれるの 「わたしたちは前世において,大会議の日に,全能者と ある契約を結んだ。主は,主御自身がお考えになった一つ を救うのである。 」(『救いの教義』2:103) の計画を提示され,わたしたちはそれを受け入れた。その ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約2:2 「先祖に与えられた約束」とは何か マラキが述べた,父とはだれで,子供 計画は全人類のためのものであるため,わたしたちはその 計画の下にすべての人を救う当事者となるのである。わた とはだれか この語句を理解することは,マラキ書の聖句全体を理解 したちはまさにそのとき,その場で,自らの救い手だけで なく,ある程度まで全人類家族の救い手となることに同意 するのに重要である。「子供たちの心をその父に向けさせ したのである。わたしたちは主と協同して働く者となった るとは,子孫の心に死者の記録を探求したいという気持ち と望みを植え付けることである。子孫の心にこの望みと気 のである。したがってこの時点から,この計画の遂行は単 に御父の業や救い主の業だけではなく,わたしたちの業と 持ちを植え付けることが必要である。子孫が主の宮に行き, 福音を知らずに死に,したがって完全な福音を受け入れる もなった。わたしたちの中の最も小さい者,最も卑しい者 も,永遠の救いの計画の目的を達成するのに,全能者と協 特権に浴さなかった先祖のために必要な働きをするには, 同して働く者となるのである。」(Utah Genealogical and 教義と聖約2:2 「子孫の心はその先祖に向かうであろう」(教義と聖約2:2) 9 Historical Magazine『ユタ系図歴史機関誌』1934年10月号, ことごとく荒廃するであろう」と述べた。ジョセフ・フィ p.189。History of the Church『教会歴史』6:59−61も参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ールディング・スミス大管長は,その理由を次のように説 明している。「エリヤの結び固めの力によって,家族を 教義と聖約2:3 代々最初に至るまで結び合わせることが可能となる。さて, この権能が地上になければ,家族の単位を存続させる結び 結び固めの力が回復されなかったなら ば,なぜ地がのろわれ,ことごとく荒廃するのか 福音のすべての儀式は,神権の結び固めの力によって, 固めの業は行われない。そうすると,すべての祝福を地上 においても天においても結び固める力が存在しないことに 天においても有効なものとされる。この結び固めの力は, なる。もしそのようなことになれば,地はのろいをもって 生者と死者の昇栄に不可欠な,先祖と子孫の結合をもたら すものである(教義と聖約128:18)。モロナイは,マラキ 打たれることになる。なぜなら,これまでなされたすべて の業は,この結び固めの儀式がなければ,果たされずに失 が語ったのろいという言葉の意味を明らかにし,もし結び 固めの力が回復されなければ,主の来臨のときに「全地は 敗することになるからである。」(『救いの教義』2:112) 「神の業と計画がくじかれることは ……あり得ない」 第3章 最後の返答に従い,指示された以外のことはしないと極め 歴史的背景 て厳粛な態度でわたしに誓うことを彼に求めた。そして, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 彼はそれを行った。 彼はわたしが求めたように誓いを立て, 原稿を持って出て行った。しかし,厳しい条件を守ると言 預言者ジョセフ・スミスは,1842年に書いたかの有名な ウェントワース書簡の中で,回復された教会の力を宣言し み わざ ている。「いかなる汚れた者の手も,この御業の発展を止 い,厳粛にわたしと誓いを立てたにもかかわらず,彼はそ れをほかの人々に見せ,策略により原稿を取り上げられて めることはできません。迫害は威を振るい,暴徒は連合し, 軍隊が集合し,中傷の風が吹き荒れるかもしれません。し しまった。そして,原稿は今日 に至るまで戻ってはいな い。 かし,神の真理は大胆かつ気高く,悠然と出で立ち,あら ゆる大陸を貫き,あらゆる地方に至り,あらゆる国々に広 こんにち マーティン・ハリスが原稿を持って行った間に,わたし まり,あらゆる者の耳に達し,神の目的は成し遂げられる はマンチェスターの父の家族を訪問した。」(『教会歴史』 1:21) でしょう。こうして,大いなるエホバは,御業は成ったと 告げられることでしょう。」(History of the Church『教会歴 マンチェスターの両親の家を訪ねたときのことや,マーテ 史』4:540) その14年前の1828年夏,神は劇的な事件を通して,ジョ ジョセフの母ルーシー・マック・スミスは,ジョセフが ィン・ハリスが原稿を紛失したことを聞かされたときのジ く もん セフ・スミスにこのことを教えられた。預言者はそのとき ョセフの苦悶について書き記している。マーティンは大分 たってから,ジョセフの両親の家にやって来て,原稿が見 の経緯を次のように詳しく書き残している。 「〔マーティン・〕ハリス氏はわたしのために書き取るこ つからないことを告白した。 「それまで自分の心の内にある心配事をおくびにも出さ とを始めてから間もなく,原稿を家に持ち帰って家族に見 させてくれるようにしつこくせがみ始めた。そして,それ なかったジョセフが,マーティンの言葉を聞いて飛び上が ができないかどうかウリムとトンミムによって主に尋ねて るようにして席を立ち,大声で言いました。 『マーティン, あの原稿をなくしたというのですか。誓いを破って,あな くれるようにと求めてきた。そこで,主に尋ねたところ, そうしてはならないという答えであった。しかし,彼はこ ただけでなくわたしにも罪を被らせようというのですか。』 『そうなんだ。なくなってしまった。どこにあるのか見 の答えに満足せず,もう一度尋ねてくれるように求めてき た。また尋ねてみたが,答えは以前と同じであった。しか 当がつかない。』マーティンは答えました。 『ああ,どうしよう。 』ジョセフは腕組みをしながら言い し,彼はそれにも満足せず,もう一度尋ねてくれるように しつよう と執拗に迫った。何度もせがまれた末に,主に再び尋ねた ました。『もうだめだ,もうだめだ。どうしよう。わたし ところ,ある条件の下に原稿を持って行ってもよいという は罪を犯してしまった。神の怒りを招いたのはわたしなの だ。わたしは主から受けた最初の答えで満足しなければな 許可が与えられた。その条件とは,マーティンの兄弟プリ ザーブド・ハリスと,マーティンの妻,彼の父母,彼の妻 らなかったのだ。あの書き物を人手に渡すのは危険だと, 主が言われたのに。』ジョセフは涙を流し,悲痛に身を震 の姉妹コッブ夫人だけに見せるということであった。この わせながら部屋の中を歩き回りました。 10 第3章 それからジョセフは,もう一度家へ戻って捜すようにマ ーティンに言いました。 『だめです。』マーティンは答えました。『無駄です。わ 注 解 たしはベッドを引き裂き,まくらを引きちぎって捜したの に,それでもなかった。家にはないのです。 』 教義と聖約3:1−2 どのような点で神の道は「一つの わ 永遠の環」であるのか 『それではわたしに,原稿はなくなりましたと言いに帰 れと言うのですか。そんなことはできません。どのような 「神は,すべてを,完全に,変わることなく,常に律法 により治めておられる。神は同じ原因からは常に同一の結 顔をして主の前に出ればいいのですか。いと高き神の天使 果が出て来るように定められた。主は人を偏り見ることな く,『変化とか回転の影とかいうものはない』 (ヤコブの手 からどのようなおしかりを受けるか分かりません。 』 その翌朝,ジョセフは家路に就きました。別れを告げる ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 紙1:17;教義と聖約3:1−2)御方である。したがって, きょう わたしたちの胸は重く閉ざされていました。わたしたちが 今まであれほど楽しみに待ち続けてきたもの,人知れず心 主の道は『一つの永遠の環』であり,『昨日も,今日 も, またとこしえに』変わることがないのである(教義と聖約 に大きな満足を与えてくれていたものが姿を消してしまっ 35:1)。」(マッコンキー,Mormon Doctorine『モルモンの 教義』pp.545−546) たのです。」(History of Joseph Smith『母親ルーシー・マッ ク・スミスの語るジョセフ・スミスの生涯』pp.128−129) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ その後の出来事について,預言者ジョセフ・スミスは次 のように述べている。「家に戻ってから,少し道を歩いて 教義と聖約3:3 人間の業もサタンの業も神の計画を妨 げることができないのはなぜか いたときであった。見よ,以前のあの天の使者が現れて, この質問に対してジョセフ・フィールディング・スミス 大管長は,神が全知の御方であると断言し,次のように答 再びわたしにウリムとトンミムを渡してくれた。これは, 原稿をマーティン・ハリスに持って行かせるよう許可を求 えている。「わたしたちの御父は限りない知恵をもって, めて主を悩ませ,マーティン・ハリスが約束を破ってその 原稿をなくしてしまったためにわたしから取り上げられて 御自分の業の進歩を止めたり遮ったりする,ありとあらゆ る困難や問題に対して備えをされた。この地上にも地獄に いたものである。わたしはウリムとトンミムによって主に 尋ねて,〔教義と聖約3章〕を受けた。」(『教会歴史』1: も,神が定められたことを覆すことのできる力はない。悪 魔のあらゆる計画は失敗するであろう。なぜなら,主は人 21−22) のひそかな思いを御存じであり,未来についてもあたかも 過去の出来事のようにはっきりと,また完全に見ておられ るからである。リーハイの息子ヤコブは喜びのうちに宣言 した。 『おお,わたしたちの神の聖さは何と偉大なことか。 神はすべてのことを御存じであり,神の御存じでないこと はない。 』(2ニーファイ9:20)主は,サタンが原稿を盗ま せてその内容を変えることにより,『モルモン書』がこの 世に出るのを妨害しようとすることを御存じで,イエス・ キリストの生誕の数百年も前にそれに対する備えをされた のである。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴 史と近代の啓示』1:26) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約3:5 ジョセフ・スミスに与えられた厳しい 戒めと約束とはどのようなものか ジョセフ・スミスがモロナイに初めて会ったときに与え られた注意と約束もその一つである(ジョセフ・スミス− 歴史1:33−54,59参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約3:6−8 「あなたは人を神よりも恐れては ならなかった」 預言者ジョセフ・スミスは神よりも人を恐れたために, 神の戒めと律法に背いてしまった。ジョセフの恐れはおく 病者の恐れではなく,まだ年端も行かず非常に未熟な者で あったという事実に起因するところが強かったように思わ れる(ジョセフ・スミス自身も,自分が犯した過ちの多く は若さと未熟さが原因であったと述べている。ジョセフ・ スミス−歴史1:28−29参照)。このとき,ジョセフ・スミ マーティン・ハリスは116ページの原稿を紛失した スが接したマーティン・ハリスは,世間に名を知られた23 11 歳も年上の富農であり,彼の話を信じてくれた数少ない人 働いていたり,敵意に満ちた不信な世間に『モルモン書』 の一人であって,金銭面においても働きにおいてもジョセ フを支えてくれた人物であった。ジョセフは,マーティ を売りつけようなどと考えたりしていたならば,この業は イエスが救い主であることをユダヤ人や異邦人に確信させ ン・ハリスに感謝を示したいという強い気持ちに動かされ たのであろう。 るために進み行くなどと,あえて言うようなことは決して なかったであろう。たとえ彼が愚かにもそのような宣言を 「神を信じる彼の信仰はほんとうに堅固なものであった。 しかし,経験が少なかったことによって,何度も懇願を続 しても,ごまかしである以上,それはたちまち馬脚を現し て,1年と続かなかったであろう。また,欠点だらけであ ける,まだよく知らないこの友人を信じてしまったのであ るために,世の厳しい目によってその愚かさをすべて白日 る。」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』 p.19) の下にさらされていたことだろう。しかし,幾多の攻撃を 受け,それについて何冊もの本が出版されたにもかかわら ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約3:12−14 マーティン・ハリスはどのよう ず,いかなる批判も攻撃も一つとして存続せず,何千とい う人々が,この驚くべき業の真実性について主から啓示を な意味で「悪人」であったか 受けたと証しているのは,依然として変わらぬ事実であ 「マーティン・ハリスは,神が最初に許されなかったこ とを執拗に求めたという点で『悪人』であった。また,原 る。」(『教会歴史と近代の啓示』1:28−29) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 稿を守るという神聖な誓いを守らなかったという点でも 『悪人』であった。しかし,それ以外の点では,彼はこの 教義と聖約3:17−20 ニーファイ人,ヤコブ人,ヨセ フ人,ゾーラム人は今日アメリカの地にいるのだろうか。 言葉が普通意味するような悪人ではなかった。父親は従順 それとも今いるのはレーマン人だけだろうか でない子供に対して,そのような状態にあるとき,悪い子 だと言う場合がある。」(スミス,ショダール共著『注解』 ニーファイ人の国が紀元400年ごろに完全に滅ぼされて しまったところから,その民は絶滅したと一般に信じられ p.20)主はこの言葉の意味を13節で明らかにし,マーティ ン・ハリスがなぜ「悪人」と呼ばれたか,その理由を4つ ている。しかし,救い主が『モルモン書』の民を訪れられ た当時,彼らはキリストの子として一つとなり,ニーファ 挙げられた(教義と聖約10:7も参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ イ人やレーマン人といった区別はなかった(4ニーファイ 1:17参照)。後に再び悪事が広がったとき,人々はレーマ 教義と聖約3:16−20 ン人やニーファイ人という名の集団に分かれた。しかし, 「それでも,わたしの業は進み 行く」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この預 それは血統ではなく,義に従っているかどうかによるもの であった。神の戒めに従って生活することを望んだ人々が 言の意味とその成就について次のように説明している。 「自分一人の力だけであったなら,ジョセフ・スミスは, ニーファイ人であり,そうでない人々がレーマン人であっ た(4ニーファイ1:38参照)。このようにして,ニーファ 激しい敵意に満ちた世に向かって,この御業はいかなる力 イ,ヤコブ,ヨセフ,ゾーラムの子孫は,その当時のレー をもってしても止めることができず,全世界への証として 進み行く,などとあえて預言するようなことはしなかった マン人の中にいたのである。そして,彼らの子孫は今日の アメリカ原住民の中にもいる。ニーファイの子孫の中には, であろう。主は,御自身の業が確立されることを定められ た。教会の設立以前から,主はすでにそれを『驚くべき業 モルモン6:15に書かれているような人もいた。すなわち, モルモンの民の一部の者は,最後の戦いのときに離反して と不思議』と呼んでおられた。ジョセフ・スミスが詐欺を レーマン人の側に加わったのである。 あかし 「おお,神の務めに 出で立とうとする人々よ」 第4章 しかし,わたしは直ちに翻訳に取りかかることはせず, 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 家族を養うために,妻の父親から購入したわずかばかりの 畑で働いた。1829年2月にわたしの父が訪ねて来た。その 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。「上 記の啓示〔教義と聖約3章〕を受けた後で,版と,ウリム とき,わたしは父のために次のような啓示を受けた。〔教 義と聖約4章〕」(History of the Church『教会歴史』1:23, とトンミムとは再びわたしから取り上げられた。しかし数 日後にそれらはわたしに戻され,わたしが主に尋ねたとこ 28) この啓示は預言者の父親に与えられたものであるが,神 ろ,主から次のように告げられた〔教義と聖約10章〕。 に仕えようとするすべての人に向けて言われたものでもあ 12 第4章 る。ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,7節し 在であった。しかし彼は,神の指示の下に進めていた業が かないこの啓示について次のように指摘している。「この 中には生涯研究して余りあるほどの勧告と教えが含まれて この世において不思議な驚くべき業になるとあえて言っ た。兄弟姉妹の皆さん,友人であれ敵であれ,わたしたち いる。これを達成した人は一人もいない。この啓示はジョ セフ・スミス個人に与えられたものではなく,『神の務め について語る人が分別をわきまえた正直な人であるなら ば,たとえこの業の土台についてどのような意見を持とう に出で立とうとする』すべての人を益するものである。こ れは教会の各会員,特に神権を持つすべての人への啓示で とも──わたしたちにはその土台が何であるか分かってい るが──これが驚くべき業と不思議であり,長い世界の歴 ある。神の務めに携わる教会員の資格について,これほど 史の中でもほかに類のないものであることを宣言するであ 偉大な教えをこれだけ凝縮した形で表現しているところ は,聖典の中のどこにも見いだせないのではないだろうか。 ろう。預言者ジョセフ・スミスによって明らかにされた真 理は,文明世界の信仰あるすべての人に霊感をもたらし, 内容は広く,高尚で,永遠の深みがある。教会のいかなる 長老といえども,天から下されたこの教えをたとえ少しな 彼らの信仰を良い方向に向けて大きく変えてきたのであ る。」(Conference Report『大会報告』1946年4月,pp.21− りとも自分のものにするまでは,教会で教えたり,救いの 22) メッセージを世の人々に伝えたりすることはできないので ある。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 近代の啓示』1:35) と,力を尽くして神に仕えなさい」 この聖句は,力を惜しまずに主の業にすべてをささげて 注 解 献身すべきであると言っている。この献身には感情的,霊 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約4:1 大いなる驚くべき業は予告されていた 的,知的,肉体的なエネルギーが必要である。別な言い方 をすれば,「神の栄光にひたすら目を向け」(教義と聖約 教義と聖約の6:1;11:1;12:1;14:1も,1830年4月 6日に教会が組織される前に与えられたものである。 4:5)ることであり,「だれも,ふたりの主人に兼ね仕え ることはできない」 (マタイ6:24)ということである。 主が何かを指して大いなる驚くべきものと呼ばれたなら ば,それは確かにそのとおりなのである。末日の業はささ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約4:3 「あなたがたは神に仕えたいと望むな やかに始まったが,やがて生者と死者のすべての世界を貫 らば,その業に召されている」 いて,すべてのひざがかがみ,すべての舌が告白するよう になる。ジョン・A・ウイッツォー長老は,この預言が文 この戒めは専任宣教師だけに当てはまるものだろうか, それとも教会のすべての会員に当てはまるものだろうか。 字どおり成就されたとして次のように宣言している。「無 名で,教育も名声もない〔ジョセフ・スミス〕は,広大な 神に仕えたいと望む人は,宣教師として任命を受けなけれ ばならないのだろうか。後に8代目の大管長になったジョ 州の辺境の名もない小さな町で忘れ去られていくはずの存 ージ・アルバート・スミス長老は,この聖句はすべての末 教義と聖約4:2 「あなたがたの心と,勢力と,思い 日聖徒に当てはまるものであると言っている。 「わたしが自分のこの世での最も大切な使命であると理 解しているのはこれである。すなわち,第1に,教えられ たとおりに神の戒めを守ること,第2に,それらをまだ理 解していない御父の子らに教えることである。…… の 真理を宣べるのに,必ずしも召しを受けて伝道地へ行く 必要はない。あなたの隣の家に住んでいる人から始めなさ い。その人に対する信頼で心を動かし,あなたの義を見て あなたに愛を感じさせるようにしなさい。そのとき,あな たはすでに伝道活動を始めているのである。」(『大会報告』 1916年10月,pp.50−51) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約4:4 ている」 「畑はすでに白くなり刈り入れを待っ ひ ゆ ここでは小麦畑が比喩的表現として用いられている。そ の穂波はすでに緑色から輝くばかりの黄金色になり,夏の 太陽に照らされて目もくらむばかりの白色になっている。 このような光景は収穫の時が間近に迫っていることを物語 っている。 (マタイ9:36−38;ルカ10:1−2;教義と聖約 33:3;101:64−66を参照し,主がここで使われた比喩的 表現の意味をさらに明らかにする。 ) ジョセフ・スミス・シニアは主の御心を求めた 福音が回復された当初,幾千もの人が福音を受け入れる 13 ように備えられ,非常に多くの人が教会に入るのを見て, 4:6に見られるものとほとんど同じ特質を挙げている。ペ この業に敵する人々は脅威を感じた。町から一人,家族か ら二人というようなものではなかった。一会衆の全員がこ テロはこれらの神聖な特質を熱心に伸ばすようにと励まし ている。デビッド・O・マッケイ大管長はペテロの教えを ぞって御業に加わったのである。ウィルフォード・ウッド ラフは英国での伝道において,1年に満たない間に一人で 末日聖徒に当てはめて,次のように語った。 「〔ペテロは〕あるとき,『神の性質にあずかる者になる 2,000人以上の改宗者にバプテスマを施した。教会が設立 された最初の10年間でも幾万という人が教会に入った。し ためである』 (2ペテロ1:4)と書いた。……霊的なものに 触れ,現世のもの,官能的なものに打ち勝って,神の神聖 かし,収穫の時が終わったわけではない。1960年から1973 な御霊にあずかるというのがどういうことか,彼は知って 年の間に教会は合衆国において103パーセント,合衆国外 の地域においては350パーセントの増加率を見た(Church いた。 ……御霊にこたえて官能を制する能力をもっと身に付け News『チャーチニューズ』1973年8月11日付け,pp.8−9参 照)。現在では,毎年約100のステークが設立されている させようとする目的はそれである。…… わたしたちがすべての若い男性とすべての若い女性に対 。1829年に (Ensign『エンサイン』1980年4月号,p.15参照) し,時間を賢明かつ有益に用いてその心を御霊と調和させ 与えられた主の言葉は,確かに今も成就の過程にある。畑 はまだ白くて刈り入れを待っている。 るように求めている理由はそこにある。そうするときに神 の御霊にあずかり,神の性質にあずかる者となることがで ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ きるのである。」(『大会報告』1961年10月,p.90) み わざ 教義と聖約4:6 み たま 神に仕えるために養わなければならな い属性 ペテロは聖徒たちに「神の性質」(2ペテロ1:4−8)を 身に付けるように勧告しており,その中で,教義と聖約 三人の証人の証 第5章 たいと望んでいた。確かな証明を得るために,『モルモン 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 書』の版の文字の写しをアンソン教授のもとへ持って行っ たのは,彼である。」(ジョン・A・ウイッツォー,Joseph マーティン・ハリスは原稿を紛失してしまった自分の愚 かさをへりくだって悔い改めたが,それでも版の存在を直 Smith『ジョセフ・スミス』p.53) 「『モルモン書』の版の写しをニューヨークの学者のとこ 接確かめたいという気持ちを捨て切れなかったようであ ろへ持って行ったとき,マーティン・ハリスはすでに, る。1829年の3月,主はジョセフ・スミスに教義と聖約第5 章の啓示を与えられた。この啓示から明らかなように,マ 『モルモン書』についての預言者ジョセフの主張が真実で あることに対して,すばらしい確証を得ていた。すなわち, ーティンは依然として,ジョセフが版を持っていることに ついて「確証を得たい」(1節)と望んでいた。24節には, アンソン教授から『それらはほんとうの文字である』と告 げられ,さらに預言者を通して啓示(教義と聖約3:12参 彼が実際に自分の目で版を見たいと強く望んでいたことが 示されている。主はジョセフを通してマーティンに,信仰 照)も受けていた。しかし,それでもマーティンは満足で をもってへりくだるなら,その望みをかなえられ,特別な きなかった。失われた原稿の翻訳原版を預言者ジョセフが 実際に持っていることの証拠となるものをさらに求めてい 三人の証人の一人として版を見ることができると言われ た。 たようである。」(スミス,ショダール共著,Commentary 『注解』p.25) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約5:10 「この時代の人々は,あなたを通し 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ てわたしの言葉を受ける」とはどういう意味か 教義と聖約5:1 を求めたか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,主の メッセージが奇跡的な現れではなく,預言者を通して与え 「マーティン・ハリスは宗教心に富んだ裕福な農場主で あった。幾分強情そうにも見えるが,正直な人であった。 られることの重要性を次のように説明している。「この啓 示は,この時代の人々はジョセフ・スミスを通して主の言 そして,自分が受け入れるすべての事柄について確信を得 葉を受けると宣言している。これを不合理なことと考える 14 マーティン・ハリスはどのような証拠 第5章 人や,主は奇跡的な手段を用いて世の人々を改宗させるべ きだと考える人がいるかもしれない。いきさつをよく理解 していない人々は,……『モルモン書』の生い立ちを聞い ても,その版はどこかの博物館にあって見ることができる のかという質問をよくする。ある程度科学的な教育を受け たことのある人の中には,もしも学者がその版を見て調べ, 読めるようになったら,自分は『モルモン書』が真実であ り,ジョセフ・スミスが真実を語ったことを証しよう,ま たもしそうなったら世の人々もすべて改宗するだろうと言 う人がいる。そのような人々は,天使が版を持ち帰ったこ とを知ると,懐疑心を持ち,立ち去っていく。しかし主は 言われた。『わが思いは,あなたがたの思いとは異なり, わが道は,あなたがたの道とは異なっていると主は言われ る。天が地よりも高いように,わが道は,あなたがたの道 よりも高く,わが思いは,あなたがたの思いよりも高い。』 (イザヤ55:8−9)わたしたちは,人々が改宗するのは, 奇跡や記録を検討することによってではないことを知って 主の御霊は,人々を改宗に導く真の源である いる。たとえ主が,学者たちが検討できるような場所に版 こんにち を置かれたとしても,今日と同様,彼らはそれを笑い草に しもべ したことだろう。 人はへりくだって主の僕の証に耳を傾け, 聖霊を受けて再び生まれ変わる(教義と聖約5:16参照)。 しかし,この証を拒む人は罪の宣告を受ける。マリオン・ その心を主の御心に貫かれることにより,改宗するのであ ま る。ユダヤ人は主の奇跡を目の当たりにしたが,それでも G・ロムニー長老は次のように語っている。「主は新たな 神権時代を開く度に,必ずその時代の人々のために立てた 主に逆らい,主を十字架につけてしまった。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1: 預言者を通して警告を発せられる。主はこの世代に対して みこころ 39−40) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約5:11−14 主は証人を用いられる パウロは「すべての事がらは,ふたりか三人の証人の証 言によって確定する」(2コリント13:1)という原則を教 も,ジョセフ・スミス・ジュニアという偉大な回復の預言 者を通して同じことをされた。主は彼を通して,この世は 罪悪が熟し,人が悔い改めないかぎり破滅に見舞われると 繰り返し宣言された。 例えば,1829年3月に,主は次のように言われた〔教義 えた。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこの と聖約5:19−20〕。 この予告が過去の予告と同じように,条件付きのもので 律法について次のように言っている。「ジョセフ・スミス に加え,3人の証人の証を世の人々に与えたことによって, あることに気づかれると思う。『もし彼らが悔い改めなけ れば』というのがその条件である。主はほかの世代の人々 主はその律法を守られた。わたしたちはこの世において信 仰により歩むようにと言われている。目に見えるものによ と同様に,この世代の人々のためにも逃れる方法を備えら るのでも,雷の声を持つ天の使者の宣言によるものでもな れた。その方法がイエス・キリストの福音であることは, 昔も今も変わりがない。」(Conference Report『大会報告』 い。それは主が遣わされる,正当な権能を持つ証人の宣言 によるのである。すべての事柄は証人たちによって確定さ 1958年4月,p.128) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れるのである。」(『教会歴史と近代の啓示』1:40) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約5:22 「たとえあなたが殺されようと」 この聖句と教義と聖約6:30に示されているように,主 教義と聖約5:14 「わたしは……ほかのだれにも,こ れと同じ証を受ける力を授けない」 は,預言者ジョセフが末日における役割を果たすために暴 三人の証人の証は,天使の手によって版を示されたとい 力によって殺されることを予知しておられた(教義と聖約 136:39;ヘブル9:16−17参照)。 う点で類のないものであった。ほかの8人も版を見せられ たが,そのときには天の使者は現れなかった。それ以来, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約5:23−28 マーティン・ハリスは三人の証 「これと同じ証」を受けた人はいない(教義と聖約5:14。 History of the Church『教会歴史』1:52−58参照)。 人の一人になるという約束を条件付きで与えられた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ マーティン・ハリスは,へりくだって自分の犯した過ち (教義と聖約5:24,28節参照)を認めるなら,版すなわち 教義と聖約5:15−20 厳粛な約束と警告 世の人々はこの3人の選ばれた証人が書き残した証を軽 「これらのもの」(教義と聖約5:2,11)の証人になること ができるという約束を与えられた。116ページを紛失した 視するかもしれないが,その言葉を受け入れる人,拒む人 の両方に,厳粛な約束が与えられている。彼らの証に注意 ことから教訓を得ていたはずであるにもかかわらず,マー を払う人は,『モルモン書』の中に神の言葉を見いだし, ティンにとって,へりくだることは依然として容易ではな かった。それでも,彼はへりくだって,結局は天使と版を 15 目にすることができたのである。(そのいきさつを伝える 参照する。 ) 預言者の記録については,教義と聖約17:1の「注解」を オリバー・カウドリの到着 第6章 にやって来ることを知らされたのです。したがって,ジョ 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1829年の冬,オリバー・カウドリはジョセフ・スミス・ シニアの家の近くにある学校で教べんを執っていた。教師 セフはカウドリ氏から訪問の理由を聞かされても,少しも 驚きませんでした。 」(『ジョセフ・スミスの生涯』p.141) このときの様子は,預言者の記録に次のように述べられ が生徒の家に寄宿することは当時の習わしであった。スミ ている。「カウドリ氏が到着してから2日後(4月7日)に, わたしは『モルモン書』の翻訳を開始し,カウドリ氏はわ ス家の子供たちがオリバーの学校に通っていたところか ら,彼はスミス家に寄宿するようになった。彼はそこにい たしのために書き取ることを始めた。このような状態で翻 訳をしばらく続けた後,わたしはウリムとトンミムによっ る間に『モルモン書』の版についての話を耳にし,父スミ スに詳しいことを聞きたいと頼んだ。最終的に父スミスは て主に尋ね,次の啓示を受けた〔教義と聖約6章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:32−33) その願いを聞き入れ,オリバー・カウドリはその物語を家 族から打ち明けられた数少ない人の一人になった。ルーシ ー・マック・スミスは,それに続いて起こった出来事を次 注 解 のように記録している。 「この話を聞いて間もなく,彼〔オリバー〕はわたしの 教義と聖約6:1−9 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ なぜ『教義と聖約』には同じ言葉 夫に,それを聞いて非常にうれしく思ったこと,また一日 が繰り返し出てくるのか 第6章の1−9節は第11章1−9節と同一であり,1−5節は 中それについて深く考えたことや, 深い感銘を受けたこと, いつかジョセフのために書き役を務める特権を受けたいと 第12章1−5節および第14章1−5節と同じである。これらの 聖句が伝えるメッセージは,すべての聖徒に当てはまる重 考えていることなどを話し,さらに,学校が休みに入った らジョセフを訪問する決心をしたことを告げました。…… 要なものである。主は次のように言われた。「わたしは一 人に言うことをすべての者に言う。」(教義と聖約61:18, 翌日やって来ると,彼は次のように言いました。『昨日 話したことが心に深く残ったようで,一時も心を離れませ 36;82:5;92:1;93:49)反復はそれが非常に重要なも ん。それでわたしはこれからどうするかを決めました。サ ミュエル〔・スミス〕がペンシルベニアに行って,ジョセ フのところで春を過ごすそうですが,わたしも用意をして 彼と一緒に行くことにします。……そのことについて祈り, みこころ わたしがそこに行くのは主の御心であると確信したからで す。このことについてわたしになすべきことがあるならば, わたしはそれに専念するつもりです。 』」(History of Joseph Smith『ジョセフ・スミスの生涯』p.139) 4月に,サミュエルとオリバーはペンシルベニア州ハー モニーに行き,ジョセフを訪問した。ルーシー・マック・ スミスは次のように記録している。「ジョセフは俗事に多 忙を極め,霊的な務めを続けることができず,それを速や かに完成させるのはとても無理な状態でした。またジョセ フには,もう一つ思うようにならないことがありました。 妻が家事に追われて,ジョセフのために書き役としてはご くわずかな時間しか働けなかったことです。このような事 情のために,ジョセフはサミュエルとオリバーが到着する 3日前に,天使の約束にあったように筆記者を遣わしてく ださるよう主に願い求めました。そして,筆記者が数日中 16 オリバー・カウドリはスミス家の子供たちの教師であった 第6章 のであることを強調しているのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 同様にジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次 「生きていて,力があり,もろ刃の剣 のように教えている。「教会の初期に,兄弟たちがジョセ フ・スミスのところにやって来て,主は彼らに何をするよ よりも鋭くて」 神の言葉は生きていて,力がある。それは生命やエネル うに望んでおられるのかと尋ねた。『シオンの大義を起こ すこと』,それが彼らに与えられた答えであった。わたし ギーの源であり,真の力の源だからである。 昔の刀剣の多くは片刃であった。もろ刃の剣が造られた たちの責任は,シオンを確立し,神の王国を築き上げ,世 の のすべての造られたものに福音を宣べ伝えて,真理を伝え とき,その武器の威力には目を見張るものがあった。どう られる可能性のある所でだれ一人も見落とされることのな 振り下ろしても切れるのである。これで分かるように,神 ひ ゆ の言葉をもろ刃の剣にたとえるのは,鮮明な比喩である。 い よ う に す る こ と で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1951年 4月 , pp.152−153) 鋭い剣が,手足を切断し,命を奪うほどに深く切り傷を与 えるように,神の言葉も,それに耳を傾けようとしない 付録の特別講座Bでは,シオンの大義を確立するという テーマについてさらに詳しく述べられている。 人々に滅び(霊の死)をもたらすほど強力である(ヘブル ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 4:12;黙示録1:16;2:12,16参照)。神の言葉には,剣 と同じように人の魂を貫き,その最も深い部分を刺し通す 教義と聖約6:7,11 か 力がある(3ニーファイ11:3;教義と聖約85:6参照)。そ れは,もろ刃の効果をもって過ちや偽りを両断することが 「奥義とは,神の啓示によらなければ知ることのできな い真理,すなわち神聖な秘密である。 」(スミス,ショダー 教義と聖約6:2 神の奥義は求める必要があるの できるのである。 ル共著,Commentary『注解』p.141。教義と聖約42:61, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:5−7,14 主は求める忠実な聖徒に豊か 65;76:5−10;89:18−19;1ニーファイ10:19;アルマ 12:9−11参照) な恵みを施される 「真理をどこに見いだしたらよいのか分からない,とい ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,奥義を 同じように定義づけている。「主は忠実に主に仕える人々 うような言い訳は絶対に許されない。預言者ジョセフ・ス ミスが真理を見いだすために主のもとへ行ったと同じよう に御自身の奥義を明らかにすると約束された。……福音に 関しては奥義はない。ただわたしたちが弱いために福音の に,へりくだり,謙遜な心と信仰をもって求めるなら,そ 真理を理解できないだけである。……バプテスマや贖 罪 れを見いだすであろう。そのことに疑問の余地はまったく み たま ない。もし人が主の御霊のささやきに耳を傾け,主が望ん などのような分かりやすい福音の原則も,主の御霊の導き を受けない人々には奥義となる。」(Church History and でおられるようにイエス・キリストの福音の知識と理解を 求めたならば,必ずそれを見いだすことができるのである。 Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:43) 「奥義」には触れないようにというのが教会で聞く一般 ただし,心がかたくなであったり,この世のものに執着し 的な意見である。しかし,この聖句は非常に肯定的な面か たりしているときは別である。『たたけ,そうすれば,あ あかし けてもらえるであろう。』これはわたしの証であり,これ ら奥義について語り,奥義を求める義人にはそれが明らか にされると約束している。ブルース・R・マッコンキー長 が真実であることをわたしは知っている。」(ジョセフ・フ ィールディング・スミス,Conference Report『大会報告』 老は,一見矛盾しているように思えるこのことについて, 次のように説明している。 けんそん 1951年4月,p.59) しょくざい 「この『奥義』という表現には限定的な用法がある。そ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:6 回復の最大の目的はシオンを起こして れは聖典に限られた用法というより口語的な慣用法であ こんにち り,不確かな領域の教え,すなわち主が今日はっきりと示 確立することである 早くも1829年に,すなわちこの神権時代に教会が組織さ しておられないことに関連している。長老たちが奥義に触 れないようにと勧告されたのは,このことを言っているの れる1年前に,主は聖徒たちにこう言われた。「シオンの大 義を起こして確立するように努めなさい。」(教義と聖約 である。 預言者は言った。『イスラエルの長老たちよ,わたしの 6:6)後に預言者ジョセフ・スミスは,シオンについて次 声を聞きなさい。宣べ伝えるために遣わされるときは,託 のように宣言している。「シオンを築き上げるということ は,あらゆる時代の神の民が関心を示してきた大義である。 されたことだけを語りなさい。「悔い改めよ。天国は近づ いた。悔い改めて福音を信ぜよ」と声を大にして宣べ伝え 預言者,祭司,王たちは特にこのテーマについて語るのを 喜びとした。彼らはわたしたちの時代を楽しみに待ち望ん なさい。第一の原則を宣言しなさい。そして,滅ぼされな いために,奥義に触れてはならない。獣の示現や自分が理 でいた。天からの喜びのおとずれに胸を躍らせ,この時代 解していない事柄に手を出してはならない。』(Teachings を詩歌に歌い,文章に表し,また預言した。……わたした ちは神から末日の栄光をもたらすように選ばれた,恵まれ 『 教 え 』 p.292)」( Mormon Doctrine『 モ ル モ ン の 教 義 』 p.524) た民である。この末日の栄光を目にし,それに加わり,前 進させるのはわたしたちの任務である。 」(『教会歴史』4: 609−610) 17 たまもの 教義と聖約6:10 主はオリバー・カウドリに何の賜物 に次のことを語ってくれた。彼は,わたしの父の家に滞在 を与えられたか 教義と聖約8:6−9の「注解」を参照する。 し,わたしが版を手に入れたことを聞いた後,寝室に入っ て自分が聞いたことが真実かどうか知るために主を呼び求 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:10−13 「あなたは尋ねるならば」 めた。すると主はそれが真実であるとの答えを彼に授けら 主が聖徒たちに啓示を与えると約束されたことについ れた。しかし,彼はそのことを一切秘密にしてだれにも話 さなかった。それで彼は,この啓示が授けられた後,この て,ブルース・R・マッコンキー長老は次のように指摘し ている。「啓示を受け,御霊の賜物を享受することは,全 業が真実であることを知ったのであった。なぜならこの啓 示の中で語られていることは,神とオリバー以外だれも知 教会員の特権であり,権利である。わたしたちは教会の会 員に確認されるとき,聖霊の賜物を受ける。これは,信仰 らないことであったからである。 」(『教会歴史』1:35) に基づいて,神会の御一方である聖霊が絶えずともにいて ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:23 「わたしは……あなたの心に平安を くださるという権利である。この賜物を実際に享受できる かどうかは個人のふさわしさ次第である。…… 告げなかったであろうか」 啓示が与えられる方法は数多くあり,その表れ方の程度 啓示を受けることは教会の会員の権利である。ジョセ フ・スミスは述べている。『神はジョセフに啓示なさった も様々である。神御自身が人に御姿を現すこともあれば, 天使を遣わしたり,示現を与えたり,静かな細い声のささ ことを,十二使徒たちにもお知らせになるであろうし,ま たいと小さい聖徒でさえも,受け入れることができるよう やきを通して語られる場合もある。ここで主はオリバー・ み すがた になればすぐにでもすべてのことをお知らせになるであろ カウドリに,啓示を与える一つの方法,すなわち心の平安 について証をされた。絶望や困惑で心を乱されていても, う。……』 (『教え』p.149) また,次のようにも述べている。『神に関する事柄につ 慰め主が与えてくださる平安により,それまで心にあった 動揺を直ちに静めることができる。そのような気持ちは, いて語るのは,すべての長老の特権である。またわたした ちは皆,完全な信仰のうちに一つの心,一つの思いを抱い かすかな,また直接的でない方法で与えられたとしても, てともに集まり,今週と同様に次週も,否いつも幕を開け 示現と同様に啓示であり,はっきりと実感できるものであ る。 てもらうことができるであろう。 』(『教え』p.9) 宗教は啓示によって神からもたらされるものであり,霊 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:25−28 ほかの記録 的な事柄を扱うものである。したがって,人は啓示を受け ないかぎり,宗教を信じているとはいえない。また,御父 教義と聖約8:1,11を参照する。 の王国での救いに通じる道を歩んでいるとはいえないので ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:29−31 「彼らはわたしに行った以上の ある。 」(『大会報告』1971年4月,pp.100−101) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ことをあなたがたに行えないからである」 救い主の時代の邪悪な人々は,救い主を十字架につける 教義と聖約6:13 ないからである」 「救いの賜物に勝る大いなる賜物は ことはできたが,主の業を止めることはできず,救い主の 霊を滅ぼして来世で昇栄できないようにすることもできな 「真実かつ完全な意味での『救い』は,『昇栄』あるいは 『永遠の命』と同義語であり,それは日の栄えの王国にお かった。主はここで,ジョセフ・スミスとオリバー・カウ ける3つの天の最高の階級を受け継ぐことである。ほとん ドリに,彼らの行動や証のゆえに起こり得る最悪の事態は 死であるが,たとえそうなっても,末日の主の業がとどめ ど例外なく,これこそ聖句が教える救いであり,聖徒たち が求めている救いである。主が『救いの賜物に勝る大いな られることもなければ,悪人が彼らの霊を滅ぼすこともで きないと言われた。しかし後にオリバー・カウドリは信仰 る賜物はないからである』(教義と聖約6:13)と言われた のは,この救いのことである。この完全な救いは,家族の を失い,しばらく教会を離れた。一方,ジョセフ・スミス 単位を永遠に続けていくこと自体の中に,またそれを続け は信仰を守り通し,最後は迫害によって殉教した。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,ハイラ ていく過程において得られるものであり,それを得る人が 神々なのである(教義と聖約131:1−4;132章参照)。」 ム・スミスの殉教とオリバー・カウドリについて次のよう に述べている。「オリバー・カウドリが忠実であって,証 (マッコンキー『モルモンの教義』p.670) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約6:16 人の思いはどこまで隠されたものか を翻さずず,『第二の長老』および大管長補佐として召し に忠実であったならば,彼は預言者ジョセフ・スミスとカ ーセージへ行って,ハイラム・スミスの代わりに命を落と 「人の思いは隠れたものであり,ほかの人,また悪魔と いえどものぞき見ることはできない。」(『モルモンの教義』 していたであろう。わたしはそうなっていてもまったく異 存はない。それは彼の権利であった。殉教を権利と呼ぶこ p.777。列王上8:39参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ とは少し奇異に聞こえるかもしれない。しかし,それは権 利であった。オリバー・カウドリはこの権利を失い,ハイ 教義と聖約6:22−24 があなたに告げた」 「だれも知らない事柄をわたし ラム・スミスがそれを得た。神の律法である証人の律法に 「この啓示を受けた後に,オリバー・カウドリはわたし よって,それが必要だったのである。 」(『救いの教義』1: 210) 18 第7章 黙示者ヨハネ 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「愛弟子」あるいは「黙示者」と呼ばれた使徒ヨハネが 後にどうなったかは,キリスト教世界において一つのなぞ 教義と聖約7:1−3 3ニーファイ28:1−7を参照する。類似した例として, となっている。ヨハネ21:20−23の聖句が混乱のもととな っている。ヨハネについて救い主はペテロに次のように言 ヨハネと同じ望みを持ったニーファイ人の弟子たちに同じ たまもの 賜物が与えられたことが書かれている。 われた。 「『たとい,わたしの来る時まで彼が生き残ってい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ることを,わたしが望んだとしても,あなたにはなんの係 わりがあるか。あなたは,わたしに従ってきなさい。』こ 教義と聖約7:2 「死を制する力」とは何か この聖句は,人は絶対に死なないと言っているのではな ういうわけで,この弟子〔ヨハネ〕は死ぬことがないとい ううわさが,兄弟たちの間にひろまった。しかし,イエス い。なぜなら,人は皆死ななければならないからである (1コリント15:22参照)。キリストでさえも,死を制する は彼が死ぬことはないと言われたのではなく,ただ『たと 力を持ちながら(ヨハネ10:17−18参照),死を味わわれ い,わたしの来る時まで彼が生き残っていることを,わた しが望んだとしても,あなたにはなんの係わりがあるか』 た。死を制する力を持っている人は,神の御心により一時 的に死期を引き延ばされるのである(マタイ16:28;マル と言われただけである。 」 この言葉から当然次のような疑問がわいてくる。ヨハネ コ9:1;ルカ9:27;3ニーファイ28:7−8参照)。そのよ うな人は身を変えられた人と呼ばれる(3ニーファイ28: は死んだのだろうか。もしそうでなかったとしたら,どの ような状態にあるのだろうか。もし死んだのだとしたら, 1−40;Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.804−808参 照)。 まな で し どうしてイエスはあのようなことを言われたのだろうか。 みこころ 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。「身 この問題は様々なキリスト教派の間で何世紀にもわたって 論じられてきた。彼は死んでエペソに葬られたという学者 を変えられた体は,死と同等の変化を経なければ安息に入 ることができない。身を変えられるのは将来の使命のため もいれば, 彼はまだ生きてこの地上にいるという人もいる。 また,彼はエペソに葬られたが,ほんとうに死んだのでは で あ る 。」(『 教 会 歴 史 』 4 : 4 2 5 。 T e a c h i n g s 『 教 え 』 pp.170−171;テーラー,Mediation and Atonement『仲保と しょくざい なく,救い主の再臨まで墓の中で眠っているにすぎないと 贖 罪』pp.74−78参照) いう考えもある(スペリー,Compendium『概要』pp.66− 67参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約7:3−6 ヨハネはどのようにしてもろもろ ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは,主に尋ねる ことによって,ついにこの疑問に対する答えを得た。預言 の国民に預言をし,救いを受け継ぐ人々に仕えたか 『聖書』の中の5つの書,すなわちヨハネによる福音書, 者ジョセフ・スミスは次のように記録している。「4月中, 3つの手紙,黙示録は,ヨハネによって書かれたものであ わたしは翻訳を続け,彼〔オリバー・カウドリ〕は筆記を 続け,その後小休止をし,その間に数々の啓示を受けた。 る。世界中で最も広く行き渡っているのが『聖書』であり, 1979年現在,部分的に翻訳されている言語は1,785か国語 『新約聖書』に登場する使徒ヨハネが死んだのか,今なお 生きているのかということについて意見が分かれたので, に上る。1815年から1975年の間に発行された『聖書』は概 算で25億部に達する(『ギネスブック’85』p.205参照)。確 わたしたちはそれをウリムとトンミムによって尋ねてみる ことにした。」(History of the Church『教会歴史』1:35− かにヨハネが書き残した預言はもろもろの国民の間に広め られているのである。 36) 1829年のメルキゼデク神権の回復に際し,使徒ヨハネは 主に尋ねた結果が,第7章の前書きに書かれている。ジ ョセフがここに述べられている羊皮紙を見て,それを翻訳 ペテロとヤコブを助けて,ジョセフ・スミスとオリバー・ カウドリを教え導いた(教義と聖約27:12参照) 。 する力を与えられたのか,それとも原文を見ることなくそ の内容だけを示されたのかは明らかでない。いずれにして 1831年6月3日の大会で,預言者ジョセフ・スミスはヨハ ネの使命について次のように教えた。「そのとき,黙示者 も,それは大きな問題ではない。とにかく,その訳文は啓 ヨハネは,かつてアッスリヤの王シャルマネセルによって 示を通して預言者に知らされたのである。 連れ去られたイスラエルの十部族の中にいて,長期にわた る散乱から戻れるように彼らを備えていた。」(『教会歴史』 1:176) ヒーバー・C・キンボール長老は,黙示者ヨハネがカー 19 トランド神殿に現れたことを次のように記録している。 「預言者ジョセフが大管長会,十二使徒会,管理監督会 のエンダウメントを終えると,大管長会は油注ぎの儀式を 結び固めて確認するために,一人一人の頭に手を置いた。 各人への祝福が終わる度に定員会の会員は,ホサナ,ホサ ナなどと叫んでそれにこたえた。 これらのことが行われている間に,預言者ジョセフ,オ リバー・カウドリ,そのほかの者はわたしたちのただ中に 愛弟子ヨハネの姿を見た。」(ホイットニー,Life of Heber C. Kimball『ヒーバー・C・キンボールの生涯』pp.91− 92) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約7:7 かぎ ペテロとヤコブとヨハネの持っていた 鍵とはどのようなものか 「ヨハネが,ペテロとヤコブと自分自身に与えられたと 言っている務めの鍵(教義と聖約7:7参照)は,その神権 時代における教会の大管長会の権能に相当するものであっ た(『教会歴史』3:387;マタイ17:1−9;教義と聖約 へんぼう 81:1−2参照)。これらの鍵は変貌のときにこの3人の使徒 たちに与えられたもので,彼らはそれをこの神権時代にジ ョセフ・スミスとオリバー・カウドリに与えたのである ( 教 義 と 聖 約 27: 12− 13; 128: 20参 照 )。」( ス ミ ス , ヒーバー・C・キンボールは,カートランド神殿に愛弟子ヨハ ネが現れたことを記録している Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓 示』1:49) 第8章 啓示の霊 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは,昔の記録を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約8:1 信仰をもって求めるものは与えられる 翻訳する賜物を神から与えられた(教義と聖約6:25−28 参照)。二人が翻訳の業を始めたときから,ジョセフ・ス 霊的に備えのできた人が疑わずに信仰をもって求めるな ら,主はその人に惜しみなく与えてくださる(ヤコブの手 ミスが翻訳をし,オリバー・カウドリは筆記者を務めた。 翻訳作業を続けるうちに,オリバー・カウドリがより前面 紙1:5−6参照)。これはオリバー・カウドリにも約束さ れ,忠実なすべての聖徒にも約束されていることである に出た働きを望むようになったので,預言者はウリムとト (3ニーファイ18:19−20参照)。事実,この神権時代に天 ンミムによって主に尋ね,啓示を与えられた(スミス, Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓 の窓を開けたのはこの約束であった(ジョセフ・スミス− 歴史1:11−18参照)。 示』1:50参照)。 預言者は次のように述べている。「翻訳の業を続けてい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約8:1,11 昔の記録に関連して,オリバ た4月,オリバー・カウドリは翻訳の力を授けられること ー・カウドリにどのような賜物が授けられたか をしきりに願った。この望みに対して次の啓示が与えられ た。〔教義と聖約8,9章〕」(History of the Church『教会歴 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に説明している。「主はジョセフ・スミスだけでなく,オ 史』1:36) リバー・カウドリに対しても,版の翻訳の仕事に携わるこ とを望んでおられたようである。主は,啓示によって知識 たまもの を受けるのに必要な資格について,また昔の記録を翻訳す 20 第8章 るのに必要な方法について,かなり詳細な教えを与えられ るならば,命をつけねらう人々や,誘惑して罪に陥れて霊 た。そしてオリバーは,正直な心で信仰を実践しなければ この力が授けられないことや,昔の記録や彫刻文について を滅ぼそうとする人々から,自分を守ることができたので ある。 の知識が与えられるはずであることを学んだのである。… … 霊の滅亡について,ジョセフ・フィールディング・スミ ス大管長は次のように述べている。 主はオリバーに,『モルモン書』の翻訳が終わるまで筆 記者の仕事を続けるべきこと,またいずれ現される昔の記 「霊は滅びない……。 この世に生まれて来る人はすべて復活し,不死不滅とな 録がほかにもあること,そして,忠実ならばいつかそれら って永遠に存在する。したがって,滅びるということは壊 を翻訳する特権にあずかるようになることを告げられた。 『モルモン書』から明らかなように,ほかにも多くの記録 滅して存在しなくなることを意味するのではない。主が人 類を滅ぼされるであろうと言われるとき,その意味は御自 があり,人々が信仰によってそれらの記録を受ける備えが できたときには,それらも翻訳されて,信仰の篤い人々の 身の前から追放されるであろう,光と真理の前から絶たれ て,昇栄を得る特権にあずからないであろう,ということ 知識と救いのために世に出されるのである(2ニーファイ である。これが滅びることの意味である。 」(『救いの教義』 27:7−8;3ニーファイ26:6−11;エテル3:22−28;4: 5−7参照)。」(『教会歴史と近代の啓示』1:50,52) 2:209。アルマ12:16;ヒラマン14:18参照) 2ニーファイ28:30;マタイ25:14−29;教義と聖約9: ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1,5,10−11には,賜物をおろそかにする人々への主の警 告が述べられている。 教義と聖約8:1−3 啓示の霊とは何か ジョージ・Q・キャノン長老は次のように教えている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この霊は,「モーセが持っていたと同じ啓示の霊であり… …神の民の中にあって先任使徒として管理権を持つ人に与 教義と聖約8:6−9 アロンの賜物とは何か 「オリバー・カウドリにはもう一つの賜物が与えられた。 えられるものである。この教会の使徒たちはすべての権能 かぎ とすべての鍵を持ち……この民を神の日の栄えの王国にお それはアロンの賜物である。アロンが杖を持ってモーセの 代弁者としてその前を進んだように,オリバー・カウドリ られる神の小羊のもとに導くのに必要な,すべての啓示の 霊を持っている。 もジョセフ・スミスの前を行くはずであった。彼がこの賜 物の力によって主に願うことは,信仰と知恵をもって求め しかし,モーセに授けられていたと同じ啓示の霊,すな つえ るかぎり,何でもかなえられるはずであった。オリバーは, わち紅海を通ってイスラエルの子らを導く力をモーセに与 しもべ えたあの啓示の霊が,この民の中の神の僕たちのうえにあ ジョセフ・スミスとともにこの神権時代の鍵を持つという 特権に恵まれ,アロンのように,多くの場で代弁者となっ ることは確かである。また皆さんは,彼らの勧告に耳を傾 け,導きを受けるなら,確かにそのとおりであるというこ た。この神権時代で最初の公開説教を行ったのはオリバ ー・カウドリである。」(スミス『教会歴史と近代の啓示』 とを完全に得心するであろう。」(Journal of Discourses『説 1:52) 教集』21:270−271) 個人の啓示と,それがどのように授けられるかについて 「オリバー・カウドリは『アロンの賜物』も持っていた。 アロンはモーセの兄であった。彼は主の御霊に促されて荒 は,付録の特別講座Cにもっと詳しく述べられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れ野で弟と会い,一緒にエジプトへ行った。アロンはモー セをゴセンの地のイスラエルの民に会わせた。また,パロ 教義と聖約8:4 の前ではモーセの代弁者となり,モーセが宣言するように すべての人に当てはまる,オリバー・ カウドリへの警告 み たま オリバー・カウドリは,御霊の声を理解する賜物を与え られた。したがって,聖霊から与えられる霊感に耳を傾け 託された神権時代の幕開けを助けた。オリバー・カウドリ はこの新たな最後の神権時代におけるアロンであった。」 (スミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.44) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約8:10−11 か 信仰にはどれほどの力があるの J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長はこう宣言し ている 「わたしは信仰,すなわち力を伴うこの原則について考 えるとき,それがある種の理知的な力であると信じざるを 得ない。それがどのようなものか,わたしには分からない。 しかし,それはわたしたちが知っているほかのすべての力 に勝り,それらを統御するものである。…… 兄弟の皆さん,わたしたちにはこの偉大な力,この信仰 の力が与えられている。これに関して,わたしたちは何を しているだろうか。救い主が行われた偉大な業をなすこと オリバー・カウドリはジョセフ・スミスの筆記者として働いた ができるだろうか。できる。それをなすに足る信仰と義を 21 備えた教会員が,実際に行ってきている。福音に従って生 にある力を引き出すことができるのである。」(Conference 活するだけで皆さんの力の中に生じるものを考えていただ きたい。福音に従って生活するだけで,皆さんは自分の内 Report『大会報告』1960年4月,p.21) 「あなたの胸を内から燃やそう」 第9章 歴史的背景 翻訳をしなかったからであると指摘された。オリバーは, ジョセフ・スミスが行っていた翻訳は神の賜物と力による ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ものであることを学ぶ必要があったのである。オリバーが 教会はその初期に,主の方法によって訓練された堅固な 指導者を必要としていた。そのような一人に数えられるの 十分に指示を受けていたことは明らかである。しかし,彼 はそれに従わず,自分自身の方法で,自分の知恵に頼った。 がオリバー・カウドリである。彼は有能な青年で,神の業 それで彼は翻訳をやめていたのである(5節参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を行うことを切望していた。 しかしオリバーは,ジョセフの筆記者として翻訳の手助 教義と聖約9:2 まだ明らかにされていない,ほかの記 けをするだけでは満足できなかった。自分もジョセフのよ うに翻訳したいと思ったのである。しかし,主がオリバー 録があるのか 『モルモン書』には,人間に対する神の計らいを記した に望んでおられたのは,筆記者として引き続き働き,そし たまもの てさらに大いなる賜物を求めることであった(教義と聖約 記録でまだ明らかにされていないものが数多くあると書か れている(2ニーファイ27:7−8;3ニーファイ26:6− 9:2−3参照)。それでもオリバーはしきりに翻訳すること を求め,自分で翻訳する許しまで得たのである。教義と聖 11;エテル3:22−28;4:5−7参照)。この啓示が与えら 約第9章には,オリバーが自ら求めた翻訳の業に失敗した れた数年後に,ジョセフ・スミスはアブラハム書の翻訳の 基となった記録を入手した。恐らく,これも主が言われた ことが述べられている。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 「ほかの記録」の一つであると思われる。また,金版の一 部が封じられていることも心に留めておくべきである。こ に述べている。「オリバー・カウドリは好奇心から翻訳し たいという望みを抱いたことは十分あり得ることだが,そ れも将来いつか明らかにされ,またほかにも主がここで言 われた様々な記録が出現することであろう。 れに対して主は彼の立場を明らかにし,翻訳がオリバーが ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,オリバ 考えるほど簡単ではないことを示された。その後の啓示 (9章)の中で,オリバーの失敗は,翻訳の業を最初に始め ー・カウドリと当時の一般の教会員の過ちによって,今日 これらの記録がまだ明らかにされるに至っていないこと たように続けなかったから起こったこと,また彼にとって 翻訳の業は難しく,そのため信仰が失われてしまったとい を,次のように指摘している。「『モルモン書』を与えられ た人々が真心からそれを受け,その教えに忠実に従ってい うことが説明された。彼が学んだこの教訓はまさに彼にと たならば,そのうちのあるものは翻訳されていたかもしれ って必要なものであった。というのは,彼は自分の地位が ジョセフの筆記者という地位であり,主の命により翻訳を ない。これは主が『モルモン書』を通して約束されたこと である。主は,民の信仰を試して,もし彼らがほんの一部 するよう召され,任じられるのはジョセフであることが示 されたからである。恐らくオリバーは,預言者と同等の立 (『モルモン書』)に忠実なら,もっと大いなることを知ら せると言われた。しかし,これが行われなかったことは明 場になりたいという願望があり,筆記者という立場に甘ん じるのを潔しとしなかったのであろう。しかし,翻訳の賜 らかである。もっと大いなることを知ることができるよう こんにち 物を用いることに失敗した彼は,主の御心を喜んで受け入 に,主の御心を知るほどの信仰と意思をもって『モルモン 書』や『教義と聖約』の中の啓示を受け入れてこなかった。 れたのである。」(Church History and Modern Revelation『教 会歴史と近代の啓示』1:50−51) オリバー・カウドリは,この点に関して幾らかの責任があ る。彼はその働きが必要とされたときに,教会から去って みこころ しまったからである。オリバーは自分の不従順によって翻 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:1 オリバー・カウドリはどのような点で 失敗したか 主は,オリバーが失敗したのは,彼が主に望んだように 22 訳する特権を失い,民もまた,主がモルモンに言われた 『もっと大いなること』を受ける特権をなくしてしまった (3ニーファイ26:8−11)。そして人々はすべてのことにつ いて喜んで従順になり,ヤレドの兄弟のような信仰を行動 に示すようになるまで,それを授かることができないので 第9章 ある。この地上においてそのような信仰が示されたことは あまりなかったことに留意しなければならない。そうなる と,不義の支配が終わるまで待たなければ,主から『世の 初めから世の終わりまでの神からの啓示』(2ニーファイ 27:7)を含むこれらの記録は与えられないのかもしれな い。」(『教会歴史と近代の啓示』1:52−53) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:5−6 主はなぜオリバーから翻訳の権利 を取り去られたのか 主が1829年の時点で,オリバーがやがて教会を離れる日 が来るのを知っておられたことは間違いない。ある人々は, 主が「このようにあなたを遇したことは,わたしの知恵に かなうからである」(教義と聖約9:6)と言われたのはそ のためであると考えている。しかし主は,まだ犯していな い罪のゆえに人を罰するような御方ではない。たとえその 人が将来罪を犯すことを知っておられてもである。オリバ ーはそのときの不十分な信仰によって,翻訳をするのはし ばらく待った方がよいということを自ら露呈してしまっ た。また,ジョセフも筆記者を必要とし,オリバーも翻訳 が見かけほど易しくないことを知って,筆記者の務めを行 うことについてもどかしさを覚えることはなくなってい た。このように神がオリバーを待たせられたことには,神 の知恵があったのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:7−8 「あなたは心の中でそれをよく思い計り,その後,それが正し いかどうかわたしに尋ねなければならない」(教義と聖約9: 8) オリバーは翻訳に際してどのよう な過ちを犯したか ラドローは『教義と聖約』についての著作の中で,オリ バー・カウドリが翻訳を試みたときにぶつかった問題の本 質について,次のように述べている。 「『モルモン書』とい う神聖な記録の翻訳には,精神力や労力を尽くすことだけ でなく,霊的な面での努力も要求された。オリバー・カウ ドリは,翻訳に必要なのは主に尋ねることだけであると思 っていた。しかしここでは,正しいか否か主に伺うだけで なく,心の中で『思い計』らなければならないと教えられ ている。主はさらに,翻訳が正しいときにそれを知ること かぎ ができるよう,一つの鍵をオリバーに与えておられる。そ の鍵とは,心が内に燃えるというものである。」(Companion『必携』1:94) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:8−9 「わたしはあなたの胸を内から燃 やそう」とはどういうことか S・デルワース・ヤング長老は,確認を与えるという神 の約束はすべての聖徒に当てはまるとして,次のように述 べている。「主から啓示を受けるためには,主の戒めを守 ることにより,主と調和しなければならない。そうすれば 必要に応じて,主の知恵により,主の言葉が自分の思いを 通して心の中に浮かび,胸の内に何かを感じる。それは言 葉では言い表し難い感情であるが,『燃える』という表現 がそれに最も近い。同時に,平安と,それが正しいという あかし より確かな証が必ず与えられる。一度この燃える思い,こ の感情,この平安を覚えた人は,日々の生活において,あ るいは導きを受けるに際して,決して迷うことはないであ ろう。」(“The Still Small Voice” Ensign「静かな細い声」 『エンサイン』1976年5月号,p.23) オリバー・カウドリが,ここで述べられている,胸が 内に燃えるという確認を得ていなかったことは明らかであ る。そのために,彼は翻訳ができなかったのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:9 「あなたはわたしから与えられなけれ ば,神聖なことを書くことはできない」 ジョン・A・ウイッツォー長老は,預言者ジョセフが召 しを果たす力をつけてくるにつれて,啓示を受ける方法も 違ってきたと指摘している。最初は神と,御子,天使の訪 れという直接的なものであった。その後,預言者はウリム とトンミムを啓示を受ける手段として利用した。そして最 後には,「預言者は自分の精神を聖なる力と調和させ,い わば精神そのものが彼にとってはウリムとトンミムになっ たのである。それにより,外的な手助けなしに神の御心を 示されるようになった。」(Joseph Smith『ジョセフ・スミ ス』p.267) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:8−9 この言葉はすべての教会員に当て はまるだろうか 心の中でよく思い計り,胸の内に感じる燃える思い,あ るいは鈍くなる思いによって確認を求めるという原則は, オリバー・カウドリが『モルモン書』を翻訳する際に教え られたものである。 啓示を受ける過程を示したこの原則は, すべての聖徒の役に立つものである。ジョセフ・フィール ディング・スミス大管長は次のように述べている。「これ 23 と同じ特権は,祈りの心と信仰をもって知識を求めるすべ 教義と聖約9:10−11 「あなたは恐れた」 ての教会員に与えられる。主は,安らかな気持ちとこれは 真実であるという気持ちを人に与え,燃える思いを胸中に ここでは,オリバー・カウドリが翻訳に失敗したもう一 つの理由として,彼が「恐れた」ことを挙げている(教義 感じさせてくださる。それは真実であるという圧倒される ばかりの気持ちが起こるのである。 伝道地で働く宣教師は, と聖約9:11)。恐れは信仰の欠如と,最後までやり通す意 思がないことに起因する。オリバーは最初に始めたように 聖文を調べるときに,あるいは街頭や集会で会衆を前に話 すときに,この賜物の現れを感じることがある。霊感を受 続けていたならば,翻訳の賜物を得ることができたであろ う(5節) 。ところが彼は恐れたために,その賜物を失って けた人が何か新しいことを話すのを聞いて,それが真実だ しまったのである。 という燃える思いと満たされた気持ちを覚えたことはない だろうか。また反対に,すでに啓示されている主の言葉に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約9:12 主はオリバー・カウドリの失敗をど 反する話を聞いて,思いが鈍くなったり,暗くなったり, み たま 不快に感じたりしたことはないだろうか。御霊の示しによ のように補われただろうか 「この啓示に示されているように,主は記録の一部を翻 って,それは正しくないと感じたことはないだろうか。こ 訳する特権をオリバー・カウドリに与えられた。そして, の識別の霊,すなわち啓示は,すべての人が受けることの できる偉大な賜物である。なぜなら,識別の霊は啓示の霊 オリバーがその試みに失敗すると,主は『それを補う十分 しもべ な力を……僕ジョセフに与え』られたのである。このよう だからである。」(『教会歴史と近代の啓示』1:51) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ にして,翻訳に関する責任はすべてジョセフに託された。」 (ラドロー『必携』1:96) 神の知恵は 「悪魔の狡猾さに勝っている」 第10章 うに生々しく描いている。 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「わたしはそのように言うジョセフに向かって,しばら けんそん ゆる く謙遜になって悔い改めたら主は赦してくださるだろうか マーティン・ハリスの不注意により116ページの原稿が ら,そんなに嘆かないでおくれと申しました。しかし,家 失われた直後,ウリムとトンミムも預言者から取り上げら れてしまった。その聖なる道具はしばらくして返され,こ 中の者が一人残らずジョセフと同じ気持ちでいるときに, どうして慰めることができましょう。皆悲しみのためにむ れを通して特にマーティン・ハリスへの叱責として第3章 の啓示が与えられた。その後,金版と,ウリムとトンミム せび泣き,その嗚咽の声が家中に響き渡っていました。で も,ジョセフの苦しみはほかのだれよりも大きかったと思 が数日間取り上げられたが,これは若い預言者が,自分が います。神の命令に従わなければどうなるか,だれよりも 完全に主に依存している者であることを理解するうえで欠 かすことのできない教訓であった。その後,それらのもの よく知っていたからです。それから彼はどうしようもない といったふうに部屋の中を行きつ戻りつし,時折声を上げ がまたジョセフに戻され,彼は紛失した原稿に関して啓示 を受けた。それが第10章である。 」(スミス,ショダール共 て泣いていました。説き伏せられてようやく食事をしたの は,日が沈みかけたころでした。 著,Commentary『注解』p.49) この啓示を受けたときの状況について,ジョセフ・スミ その翌朝,ジョセフは家路に就きました。別れを告げる しっせき スは次のように述べている。 「前述の啓示〔教義と聖約第3 わたしたちの胸は重く閉ざされていました。わたしたちが 今まであれほど楽しみに待ち続けてきたもの,人知れず心 章〕を受けた後,版と,ウリムとトンミムとは再び取り上 げられてしまった。しかし,数日してまた戻され,わたし に大きな満足を与えてくれていたものが姿を消してしまっ たのです。」(History of Joseph Smith『ジョセフ・スミスの は主に尋ねた。すると,主は次のように語られた。〔教義 と聖約10章〕」(History of the Church『教会歴史』1:23) 生涯』p.129。教義と聖約3章の「歴史的背景」を参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約10:4 注 解 主はなぜ自分の力以上に急ぐことの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ないようにとジョセフに警告されたのだろうか ウリムとトンミムと,版とを再び受け取った預言者ジョ 教義と聖約10:2 「あなたの思いは暗くなった」 ルーシー・マック・スミスは,116ページが紛失したこ セフ・スミスは,無駄にしてしまった時間を何とか取り返 さなければと思ったことであろう。しかし,主は「与えら とを知らされたときの息子のジョセフの落胆ぶりを次のよ れた力……以上に急いだり,それ以上に働いたりすること 24 第10章 の周りの人々の幸いを気遣う気持ちを心に満たし,それが 絶えず主への祈りになるようにしなさい。」(アルマ34: 27) 祈りの精神に満ちた態度は,わたしたちがいつもしてい る形の祈りと相まって,祝福をもたらす。祈りはサタンや しもべ その僕たちに打ち勝つのに必要な力の源である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約10:6 これらの人々はどのようにしてジョ セフ・スミスを滅ぼそうとしたか 聖典から明らかなように,原稿を奪い(8−27節参照), サタンの力とその影響に身を任せたこの人々は,ジョセ フ・スミスが預言者ではなくていかさま師であり,『モル モン書』もまやかしにすぎないと人々に言い広めようとし 預言者の母,ルーシー・マック・スミス のないようにしなさい」(教義と聖約10:4)と勧告され た。 これと同じ勧告が『モルモン書』の中でもベニヤミン王 により与えられた。ベニヤミン王は,聖徒はどうあるべき かについて長い説教をしてから,次のように述べた。「こ れらのことはすべて,賢明に秩序正しく行うようにしなさ い。人が自分の力以上に速く走ることは要求されてはいな いからである。しかしまた,賞を得るために勤勉に励むの は必要なことである。したがって,何事も秩序正しく行う ようにしなさい。」(モ−サヤ4:27)預言者ジョセフ・ス ミスに対する主の勧告でも,ニーファイ人に対するベニヤ ミン王の勧告でも強調されているのは,昇栄への道を登る のに大切なのは速度よりも,熱心さと方向性であるという 点である(教義と聖約84:43参照)。どんなに熱心に働い ても,知恵と忍耐が伴わないと失敗してしまうことがあ る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約10:5 どのようにすれば,常に祈っている ことになるか 神に祈るときには必ず声に出して嘆願しなければならな いと考えている人もいる。ジョセフ・F・スミス大管長は, 祈りで大切なのは言葉よりも思いであるとして,次のよう に述べている。「祈りには特別な言葉はない。祈りは言葉 から成るものではない。むしろ,真実の,信仰深い,真心 からの祈りは,謙遜に,信仰をもって,主の祝福を受けた いと願う内なる望みと心から生じるものであり,単なる感 情以上のものである。 」(『福音の教義』p.212) 祈りが神への思いを含むものであるとすれば,「常に祈 りなさい」という戒めでは,神に対する思いが一つの条件 になっているのではないだろうか。使徒パウロは「絶えず 祈りなさい。すべての事について,感謝しなさい」 (1テサ ロニケ5:17−18)と言っている。天の御父に対する愛と 感謝の気持ちや,天の御父に喜んでいただける生活をしよ うといつも心がけるのも,「常に祈る」ことと同じである, ていた。彼らはそのようにして,自分は預言者であるとい うジョセフ・スミスの主張を覆し,人々が彼の言葉に感化 されないようにしようとしたのである。同様に,彼らは 『モルモン書』がまやかしであるということを人々に示す ことによって,末日における主の業の一部を損なおうとし た。第6節の「滅ぼそう」という言葉は,真実性を否定す ることや,失敗に終わらせることを意味する。これと同じ 意味の言葉が,7,12,19,23,25,43,52,54節にも書 かれている。第27節の「滅ぼそう」および第22節の「滅 び」は,霊の死をもたらそうとすること,また最終的な霊 の滅びを意味する。 マーティン・ハリスが『モルモン書』の初めの部分の原 稿を紛失したために,ジョセフ・スミスはしばらくの間, 翻訳することを許されなかった(教義と聖約3:12−14参 照)。その後,マーティン・ハリスは版を見たいと思った ようであるが,へりくだるまで,預言者ジョセフ・スミス に与えられた霊感を通してそれを拒まれた(教義と聖約 5:1−3参照)。後に,彼は三人の証人の一人として版を見 ることを許された。マーティン・ハリスは預言者とその働 きを故意に滅ぼそうとするつもりはなかったが,彼が同じ 状態を続けていたならば,そのような滅びの原因になって いたに違いない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約10:12,23−29,63 サタンは非常に用 こうかつ 意周到であり,「狡猾な計画」を企てる 第10章には,サタンが真理を攻撃するために用いる方法 が幾つか列挙されている。 20節。サタンは悪人をあおり立てて善いことに逆らわせ ようとする。 24節。サタンは悪人をあおり立てて,神の業に対して怒 らせている。 25−36節。サタンはごまかし,偽り,へつらいなどの方 法を用いる。『教義と聖約』の中には,サタンの欺きを識 別するための助けとして聖徒たちに与えられた章が数多く ある(教義と聖約28,43,45,46,49,50,52章参照)。 欺かれないために必要なことについては,付録の特別講座 と考えることはできないだろうか。アミュレクも同じよう Jで詳しく学ぶ。 63節。サタンは教義についての争いをあおり立てようと な助言を与えている。「あなたがたの幸いと,あなたがた する。イエスはこの問題に関連してニーファイ人をとがめ 25 られた(3ニーファイ11:28−29参照)。主はジョセフに, して勝利を収めることの前触れであった。 サタンが教会の会員たちの間にそのような争いを引き起こ そうとすると警告された。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約10:23 求めよう」 「わたしは彼らの手にこの責任を み わざ 教義と聖約10:38−45 神の予知 ニーファイは預言者ジョセフ・スミスの生まれる何世紀 も前に,神が2組の版(ニーファイの大版と小版)を作る ようにと命じられたことを証している。ニーファイにはそ 主は御業を滅ぼそうとする者にはその責任を求めると言 っておられる。たとえサタンがその背後にいるとしても, の目的が分からなかった(1ニーファイ9:5−6参照)。ニ ーファイの時代から約1,000年後の人物であるモルモンは, 人には選択の自由があり,悪魔の誘いを拒むかそれに従う かは本人次第である。したがって,人は主の前でそれぞれ 自分の短くまとめた記録にニーファイの小版を収めたが, 主からそう命じられたということ以外,その理由は分から の行いに責任を問われるのである(教義と聖約93:31−32 ないと言っている(モルモンの言葉1:3−7参照) 。 参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 116ページの原稿の紛失を考えると,主がなぜニーファ イとモルモンにそのように命じられたかが明らかになる。 教義と聖約10:25 サタンはうそや偽りの父である ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,ルシフ ジョセフは,すでに大版から翻訳していた箇所をそのまま にしておき,その代わりにニーファイの記録から翻訳を再 ェルがどのように働くかについて次のように述べている。 開するように命じられた。 「あらゆる可能な手段を用いて人々の心の心を暗くし,真 理を装った誤りや惑わしを与えようとしている。サタンは 神が初めから終わりを御存じであるということを知れ ば,今を生き,未来に向かって進んでいく人々は,心に確 模倣の技術にたけている。純粋な福音の真理がかつてなく の 豊かに世に宣べ伝えられている。それにつれて,サタンも 信を得るに違いない。神の予知についてさらに理解を深め るためには,次の聖句を参照するとよい。イザヤ42:9; 偽りの教義という偽金を世にばらまいている。サタンの偽 48:3;エレミヤ1:4−5;使徒2:23;17:26;ローマ 造通貨に気をつけなさい。これで買えるものは,落胆と, 悲しみ, それに霊的な死以外の何ものでもないからである。 11:2;1ペテロ1:2;1ニーファイ20:3;アルマ13:3, 7;40:10;ヒラマン8:8;モロナイ7:22;教義と聖約 サタンは『偽りの父』と呼ばれている。サタンは長年邪悪 な業を続けてきたので熟練しており,できれば選民さえも 1:17;38:2;モ−セ1:6;アブラハム2:8。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 欺こうとしている。」(“Witchcraft” Juvenile Instructor「魔 教義と聖約10:55 術」『ジュブナイル・インストラクター』1902年9月号, p.562) 王国に救われるか 聖文を学ぶ人々は,主はある種の言葉を特別な意味で使 スペンサー・W・キンボール長老は次のように述べてい る。「サタンは,まことしやかな論理と合理的な方法を用 われるということを覚えておかなければならない。主は日 常的な用法とは異なる定義や意味で言葉を用いられる。バ いて,人を破滅させようとする。そして真意を隠して,一 時にほんの少しずつ扉を開け,人を純白の状態から灰色の プテスマを受けて教会員になっても,その生活を悔い改め ないかぎり,「天の王国」を受け継げない人が多くいるこ 過程を経て,暗黒の状態へと導くのである。」(Faith Pre- とは明らかである。それならば,なぜ主は「だれでもわた cedes the Miracle『奇跡に先駆ける信仰』p.152。モロナイ 7:17参照) しの教会に属する者は,恐れる必要がない」と言っておら れるのだろうか。答えは明白である。主はこの章の後ろの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約10:33 サタンはどのような目的でジョセ 方で,主の教会の真の会員とはどのような人か述べておら れる。バプテスマを受けただけで真の教会員になるのでは フを打ち破ろうとしたか ない。「だれでも悔い改めてわたしのもとに来る者は,わ この聖句は預言者ジョセフ・スミスに対する主の警告で あかし ある。ジョセフ・スミスの証や『モルモン書』が世に出さ たしの教会である」(教義と聖約10:67)とある。「教会」 というこの言葉の定義によると,主の教会のすべての会員 れることについて,サタンがこれほどに関心を持っていた のはなぜであろうか。もちろんサタンはあらゆる神権時代 は天の王国を受け継ぐ。また,最後まで堪え忍ぶ者をすべ て「わたしはわたしの岩の上に建てよう。そうすれば,地 に神の業に敵対してきた。しかし,この最後の神権時代に 獄の門も彼らに打ち勝つことはない」(教義と聖約10:69) ジョセフ・スミスを通して回復された力(『モルモン書』, 神権,王国の確立など)は,全地を満たすようになるまで と,主は言われた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 前進する(ダニエル2:44参照)。シオンが確立され,バビ ロン(サタンの支配)は完全に打ち倒されるのである。サ 教義と聖約10:57−70 『モルモン書』の目的 主はこの一連の聖句の中で,救い主について証するとい タン自身がつながれ,千年の間力を奮うことができない (黙示20:1−2;1ニーファイ22:22−26参照)。サタンが う『モルモン書』の大切な目的を教えておられる。 60節。『モルモン書』は,主には他の「羊」がおり,彼 ほんとうにすべての教会員が神の 初めからジョセフを滅ぼし,その働きを覆そうとしたこと らはイスラエルの家に属するということを明らかにする には何の不思議もない。預言者ジョセフ・スミスがその働 きを開始したことは,やがて神の王国がサタンの王国に対 (ヨハネ10:16;3ニーファイ15:21−24参照)。 61節。『モルモン書』は, 『モルモン書』の民が主の名に 26 よって行った驚くべき業を明らかにする。 65節。『モルモン書』は,末日にイスラエルの民が真の 62節。『モルモン書』は,真の教義を明らかにする。 63節。『モルモン書』は,キリスト教徒たちの間に多く 見られる教義上の争いをやめさせる助けとなる。 教会に集合することを予告している。 67−68節。『モルモン書』は,キリストの教えを確立す る助けとなる。 「まずわたしの言葉を 得るように努めなさい」 第11章 のことを語り,行うようにと望んでおられるのである。こ 歴史的背景 れを行わない宣教師はその務めを怠っている者である。」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,1829年5月15日にオリバ (スミス,Church History and Modern Revalation『教会歴史 と近代の啓示』1:57) ー・カウドリとともにバプテスマを受けた後,次のように 記録している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:10−11 ハイラム・スミスはどのよう 「今やわたしたちの心に光が注がれ,わたしたちは聖文 たまもの な賜物を約束されたか をはっきりと理解できるようになってきた。より不明瞭な 聖句の正確な意味と意図が,以前に一度も経験することの ハイラム・スミスは,オリバー・カウドリのように(教 義と聖約8:6−9参照)主から一つの賜物を約束された。 できなかった方法で,あるいは以前に考えもしなかった方 法でわたしたちに明らかにされたのである。しかし,すで ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,その賜物 について次のように説明している。「主は,ハイラム・ス に周りの地方に迫害の気運が現れていたので,しばらくの 間,わたしたちは神権を受け,バプテスマを受けた事情を ミスは一つの賜物を持っていると宣言された。彼が持って 秘密にせざるを得なかった。…… いた大いなる賜物は, 優しさと思いやりに満ちた心であり, あわ 憐れみ深い精神であった。主は後に次のように言っておら しかしながら数日後,わたしたちはそれが義務であると 感じ,知人や友人に,それこそ会う人ごとに聖典から説き れる。『わたしの僕ハイラム・スミスは幸いである。彼の 心が高潔であるので,また彼がわたしの前に正しいことを 始めた。このころ,弟のサミュエル・H・スミスが訪れて 来た。…… 愛するので,主なるわたしは彼を愛する,と主は言う。』 (教義と聖約124:15)この大いなる賜物は,預言者の身に それから程なくして,兄のハイラム・スミスがやって来 害が及ばないようにと寝ずの番をしたことの中にもうかが てこれらのことを尋ねたので,ウリムとトンミムによって 主に尋ね,彼のために次の啓示を受けた。〔教義と聖約11 える。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:57) ハイラムの賜物は無条件に約束されたのではない。イエ 章〕」(History of the Church『教会歴史』1:43−45) ス・キリストを信じる信仰を働かせて初めて与えられるも のであった(教義と聖約11:10参照) 。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:12−14 「わたしの御霊はあなたの思 いを照らし」とはどういう意味か み たま 教義と聖約11:1−9 この聖句については,教義と聖約4:1−4;6:1−9の 「注解」を参照する。 ロレンゾ・スノー大管長は,御霊に従う人の人生にもた らされる力強い影響について,次のように教えている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:9 「悔い改めのほかに何も語ってはな 「人が神と人の前に明らかな良心を持ち続けるためには, らない」とはどういう意味か それなりの方法がある。それは自分の内に神の御霊を持ち 続けることである。その御霊とは,すべての男女に与えら 「当時のほかの人々と同様に,ハイラム・スミスもまた 『この時代の人々には,悔い改めのほかに何も語ってはな れる啓示の霊である。この霊は,最も細かな事柄について も,その人が何をなすべきかを提案として示してくれる。 らない』と命じられた。これはバプテスマのヨハネが宣べ しもべ 伝えていたことである。主はその僕たちに悔い改めのほか わたしたちはこの霊の本質を理解するように努めなければ に何も語ってはならないと命じておられるが,それはバプ テスマを宣べ伝えたり,人々に主の戒めに従うように求め ようになるからである。これは広く末日聖徒全員に与えら の ならない。それが理解できれば,常に正しいことを行える たりできないという意味ではない。そうではなく,主は僕 れている特権である。わたしたちは,毎日の生活において 霊の現れを受ける特権が与えられていることを知ってい たちが人々を悔い改めに導くという気持ちをもってすべて る。……福音を受け入れ,バプテスマの水に下り立ち,聖 27 の 人 の た め で あ る こ と を 示 し て お ら れ る ( 11: 27)。」 (Companion『必携』1:108−109) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:15−17 「あなたは召しを受けるま で,教えを説くために召されたと思うには及ばない」 神の代理として働くためには神から正当な権能を受けな ければならないという考え方は,末日聖徒の教会組織論の 中心を成すものである。ジョセフ・フィールディング・ス ミス大管長は次のように述べている。「主から召されてい ないのに,権能を得ていると主張し,主の名を用いて行動 するのは,世の人々にとってはごく普通のことである。正 しく召されないかぎり, だれも主の名によって行動したり, 儀式を執行したりすることはできない。そのために,神権 が回復され,教会が組織されたのである。この啓示が与え られたときに,教会はまだ組織されていなかった。光と主 みこころ の御心を求めていた人々の中には,主が自分に話しかけら れたときに,主の名によって出て行く権能を与えられたと 考えた人がいたようである。主はここでハイラム・スミス に,『もう少しの間待ちなさい』(16節)と告げられた。そ して彼は,聖なる御霊を信頼し,へりくだって歩み,義に かなって裁かなければならなかった。『これはわたしの御 「わたしの僕ハイラム・スミスは幸いである」(教義と聖約 124:15) 霊の賜物を受けるために頭に手を置かれて以来,わたした ちには,間違ったことをして自分の手で追い出してしまわ 霊である。 』」(『教会歴史と近代の啓示』1:57) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:18−20 戒めを守ることは,王国で奉 仕の業を行うための必要条件である 主は戒めを守るようにという指示を何度か繰り返してお ないかぎり,友がいるのである。その友とは聖なる御霊, られる(9,18,20節参照) 。 モーセ1:39で,主は,「見よ,人の不死不滅と永遠の命 すなわち神に関する事柄を察知してはわたしたちに示して くださる聖霊である。これこそわたしたちが光を知ること をもたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光 である」と言われた。一方,ハイラムに対しては, 「見よ, ができ,続けて暗黒の中にとどまることのないように,主 が備えてくださった偉大な手段なのである。」(Conference あなたの勢力と思いと力を尽くしてわたしの戒めを守るこ とが,あなたのなすべきことである」(教義と聖約11:20) Report『大会報告』1899年4月,p.52) と言っておられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:15−16 人は主に仕えるためにどのよ 主はパリサイ人から「律法の中で,どのいましめがいち ばん大切なのですか」と尋ねられたとき,これと同じよう うな備えができるか ここでハイラム・スミスに与えられた教えは,伝道の備 な言葉を用いて答えられた(マタイ22:36−37参照)。人 は主の戒めを守ることによってのみ,主への愛を示し,主 えをしているすべての人にとって重要な価値を持つ。ラド ローはそれを次のようにまとめている。 の業を遂行することができるのである。 「1.主に仕えたいと望む(11:10,17) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:24 「わたしの福音であるわたしの岩」 2.御霊が『あなたの思いを照らし,あなたの霊に喜び を満た』してくれるよう,主の御霊を受けるにふさわしい 主は何度か,福音を指して「岩」という言葉を用いられ た(マタイ7:24−25;3ニーファイ11:32−39;教義と聖 生活をする(11:13) 。 3.何を求められるにせよ,主の業を助けながら,主の 約18:4−5,17;12:12−13参照)。 戒めに従う(11:18−20)。 「岩」という言葉は,福音の原則を指す場合もある。預 言者ジョセフ・スミスはそれを次のように説明している。 4.主の言葉を得るように努める。そのために,(1)す でに与えられている主の言葉,すなわち『聖書』と,(2) 「イエスはその教えの中で『わたしはこの岩の上にわたし の教会を建てよう。 地獄の門もそれに打ち勝つことはない』 当時翻訳が進められていた主の言葉,すなわち『モルモン 書』を学ぶ(11:21−22)。 と言っておられる。岩とは何であろうか。それは啓示のこ とである。 」(『教会歴史』5:258) 5.啓示の霊や預言の霊を否定することなく,福音に基 聖典の中で,「岩」という言葉を主御自身を直接に指す づいて生活する(11:24−25)。 主はさらに,これらの提案は『善い望み』を持つすべて ものとして用いている場合もある(教義と聖約50:43− 44;申命32:2−4参照)。 28 教義と聖約11:25 「啓示の霊も預言の霊も否定して る。主はこの世を去る前に,人をすべての真理に導く別の はならない」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,ハイラ 助け主を送ると約束された〔ヨハネ15:26;16:7参照〕。 神の啓示は常に生ける教会の特徴であり,それはこの地上 ム・スミスに与えられたこの勧告について,次のように語 こんにち っている。「今日すべての人に当てはまるすばらしい勧告 において教会が組織として存続するうえで絶対に欠かすこ とのできないものである。」(『大会報告』1961年10月, である。教会の会員の中には,主が『教義と聖約』に加え られるほどの啓示を,初期のころのように授けてくださら pp.93−94) 個人の啓示については,付録の特別講座Cでさらに詳し ないと不平を言う人がいる。彼らはなぜ啓示がやんでしま く述べられている。 ったのかと言う。このような批判家は,主からすでに与え られている戒めを忠実に守っていない場合が多く,主の啓 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:26−27 「あなたの心の中に大切に蓄 示や導きが教会に絶えず与えられているという事実を理解 できないでいる。識別の霊を持っている者なら,主の手が えておきなさい」 この戒めの重要性やこれに従うことによって与えられる 初めからこの民を導いており,今もその導きは,へりくだ 祝福については,教義と聖約84:85を参照する。 って悔いる霊を持っているすべての人に,以前と同じよう に与えられていることが分かるはずである(『モルモン書』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ヤコブ4:8参照)。」(『教会歴史と近代の啓示』1:57) ヒュー・B・ブラウン副管長も,教会における啓示の重 ということには,どのような意味が含まれているか 教義と聖約76:51−60;84:33−38;132:22−24;モ 要性を次のように教えている。「神に関する事柄は神の御 ーセ6:57−68;1ヨハネ3:1−10を参照する。 教義と聖約11:29−30 主を受け入れ,神の子になる 霊によらなければ理解できない。神の御霊は啓示の霊であ ジョセフ・ナイト・シニアに 与えられた啓示 歴史的背景 第12章 ヨーク州ブルーム郡コールズビルに住むジョセフ・ナイ ト・シニア氏で,わたしたちが翻訳で多忙を極めているこ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「彼は15年の間,信仰篤く,また忠実で,公明正大,模 とを耳にし,親切にもたくさんの食糧を運んで来てくださ 範的であり,徳高く,親切で,右にも左にも道を外れるこ とはなかった。見よ,彼は義人である。……シオンの息子 中断するような事態に陥らずに済んだ。ここで申し上げた いのは,彼はまるで義務であるかのように,30マイルは優 たちは,彼をイスラエルの忠実な者と呼ぶであろう。そし にあると思われるところを食糧や日用品を携えて何度も来 て彼の名前が忘れられることは決してないであろう。」 (History of the Church『教会歴史』5:124−125) てくださった。おかげでわたしたちは仕事を続けることが できた。これがなければ,しばらくの間翻訳の仕事を中断 上記の賛辞は,ジョセフ・スミスが1842年8月22日に, 誠実で信頼できる友人ジョセフ・ナイト・シニアについて しなければならなかったであろう。 わたしはこの業における彼の務めをどうしても知りたい 述べたものである。 気持ちに駆られ,主に尋ねたところ,次のような答えを受 ジョセフ・ナイト・シニアは教会の初期の時代に,預言 者の頼りがいのある親友になった。ジョセフ・スミスがジ けた。 〔教義と聖約12章〕 」(『教会歴史』1:47−48) 預言者は1829年5月,ペンシルベニア州ハーモニーに住 ョセフ・ナイトに初めて会ったのは,1826年,ニューヨー ク州ブルーム郡コールズビルにあるナイトの農場や製紛所 んでいるときに,この啓示を受けた。 で働くために雇われたときであった。それ以後,ジョセ 注 解 フ・ナイトは物質的にも霊的にもジョセフ・スミスに援助 を与えてきた。『モルモン書』の翻訳にとって非常に重要 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ なときに,預言者と彼の筆記者の生活に必要なものを与え たこともある。ジョセフ・スミスは次のように述べてい てくる表現 ほとんど同じ表現が幾つかの章の中に反復して出てくる る。 理由については,教義と聖約6:1−9の「注解」に説明さ れている。 「時を同じくして,一人の老紳士がわたしたちのもとを 訪れて来られた。謹んで申し上げたい。その紳士はニュー った。おかげでわたしたちは日々の糧がなくなって翻訳を 教義と聖約12:1−6 『教義と聖約』の中に繰り返し出 29 たしが思うには,謙遜になるためには,自分が他に依存し て生きているということを心に留める必要がある。では, だれに依存しているのだろうか。主である。そのことを心 に留めておくにはどうすればよいだろうか。それには,心 を込めて,常に怠ることなく,礼拝の精神と感謝の気持ち をもって祈ることである。」(“Humility” Brigham Young Univercity Speeches of the Year「謙遜」『ブリガム・ヤング 大学年度講話』1963年1月16日,pp.2−3) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約12:8 「愛に満ち」 はらから 愛は人に行動を起こさせる力である。神と同胞への愛が 心に満ちている人は,神と人のために奉仕する動機づけが できている。預言者ジョセフ・スミスは次のように教えて いる。「愛は神の主要な性格の一つであり,神の子となる ことを望む人々が身に付けなければならないものである。 神の愛に満たされた人は,祝福が自分の家族だけにとどま ることに満足できず,目を全世界に向け,広く全人類が祝 福を受けることを望む。 」(『教会歴史』4:227) ジョセフ・ナイトは自分の持ち物をささげてジョセフ・スミス を援助した ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約12:9 「世の光であり命である」とはだれ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のことか 「それは,この言葉を語っておられるわたしたちの主で けんそん 教義と聖約12:8 「人は謙遜であり」 スペンサー・W・キンボール長老は,救い主の生涯につ いて簡単に説明した後で,謙遜さについて次のように語っ ている。 「主が柔和で,へりくだり,謙遜な御方であったとすれ ば,人が謙遜になるためには,主が行われたことをしなけ ればならない。すなわち,敢然と悪を非難し,雄々しく義 の業を推し進め,勇気をもってすべての問題に対処し,自 分自身や自分を取り巻く状況を思うままに治め,自分の誉 れはほとんど気に留めないことである。…… 適切な謙遜さと柔和さは,まさしく徳の高さを示すもの であり,弱さを示すものではない。その二つは変わること のない穏やかな気性を示し,怒りや激しい感情とは無縁の ものである。謙遜さは,激しい感情や大げさな振る舞いと も無縁のものである。それは混乱したものではなく,仰々 しいものでもない。また,盲目的な服従ではなく,恐れや おびえでもない。 謙遜さを身に付けるにはどうすればよいのだろうか。わ アロン神権の回復 ある。主は御自身のことを世の光であり命であると言って おられる(ヨハネ1:4,9;3:19;6:35;12:35;14: 6)。救い主はこれらの啓示の中でしばしば引用しておられ る。いやむしろ,ヨハネの記録を読む人々になじみのある 表現が繰り返し出てくると言った方がいいかもしれない。 ヨハネはこの神権時代の幕開けに際して重要な役割を果た み つかい した。彼はパトモス島で,『強い御使』がわたしたちの時 代に『開かれている巻物』を携えて降りて来るのを目にし, 『あなたは,もう一度,多くの民族,国民,国語,王たち について,預言せねばならない』(黙示10:11)と言われ た。この預言は,ヨハネがほかの二人の使徒とともに,メ ルキゼデク神権をジョセフ・スミスとオリバー・カウドリ に与えたときに成就した。この使徒たち,特に,最初の十 二使徒の中で最後まで残ったヨハネの教えの精髄が,これ らの啓示の中にはっきりと認められたとしても,何の不思 議もない。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注 解』p.67) 第13章 して,それに続く何世紀もの間,人はもはや神に代わって 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 行動する権能を持たなかった。その状態は次のような預言 の成就を助長するものであった。「地はその住む民の下に 救い主と使徒たちの死後,全面的な背教が起こった。そ 汚された。これは彼らが律法にそむき,定めを犯し,とこ 30 第13章 しえの契約を破ったからだ。 」(イザヤ24:5) 教義と聖約13:1 救い主が約束されたように(マタイ17:11−13参照), この神権時代におけるバプテスマのヨハネの訪れは,人が き 再び創造主の代わりに行動する権能を神から委託されたこ とを示すものであった。 けた自分の経験について,次のように記録している。 「わたしは祭司の職にあるとき,天使の働きを受けた。 ジョセフ・スミスは,アロン神権の回復にまつわる経緯 を説明している(ジョセフ・スミス−歴史1:68−72参 また,示現と啓示を受けた。数千マイルに及ぶ旅もした。 権能を持っていなかったため,確認はできなかったが, 照)。それは,ペンシルベニア州のハーモニーの近くにあ 人々にバプテスマを施した。わたしがこのことを語ってい るサスケハナ川の岸辺でのことである。このときに預言者 いけい と一緒であったオリバー・カウドリは,畏敬と驚異の念に るのは,人は神権のどの職にあろうとも恥じてはならない ことを申し上げたいからである。」(Discourses of Wilford 満たされた。彼にとって,天の使者との交わりはそれが初 めての経験であったからである。彼は次のように述べてい Woodruff『ウィルフォード・ウッドラフの説教集』p.298) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。 教義と聖約13:1 あがな アロン神権者に与えられる天使の働 ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,天使の働きを受 「これは決して再び地上から取り去 「突如,永遠のただ中から来たかのように,贖い主の声 がわたしたちに平安を告げた。それと同時に,幕が分けら られることはないであろう」 「この現世の状態が続くかぎり,アロン神権が地上から れ,神の天使が栄光をまとって降って来て,わたしたちが かぎ 切に待ち焦がれていた知らせを告げ,悔い改めの福音の鍵 取り去られることは決してないと断言してもよい。この世 的な事柄に関する指示や,『備えの福音』に関する儀式の くだ を渡してくれたのである。何という喜びであろう。何とい 執行は,常に必要とされるからである。」(スミス,Church う驚異であろう。何という驚きであろう。世の人々が苦し み,当惑していたときに──幾百万の人々が目の不自由な History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』 1:62) 人のように壁を手探りしていたときに,また万人が一団と なって不確実な状態にとどまっていたときに,『白昼の光』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約13:1 「レビの子ら」とはだれか の中にいるように,まことにそれ以上に,そのとき自然界 にその輝きを放っていた5月の陽光にも勝って,わたした ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に説明している。「イスラエルの民がエジプトを出て荒れ ちの目は見,わたしたちの耳は聞いたのである。 野にいたとき,モーセは主から,アロンとその息子たちを そのとき,その声は,優しいながらも心の底まで貫いた。 しもべ そして,『わたしはあなたがたと同じ僕である』というそ 民のための祭司として聖任し,聖別するようにという戒め を受けた(出エジプト28章参照)。そのとき,すべての部 の言葉は,すべての恐れを吹き飛ばした。わたしたちは耳 を傾け,わたしたちは目を注ぎ,わたしたちは感嘆した。 族の長子の代わりに,レビの全部族の男子が選ばれて祭司 となり,アロンとその息子たちには,このようにして授け それは栄光からの天使の声であり,またそれはいと高き御 られた神権を管理する責任が与えられた。それ以来,これ み つ 方からの御告げであった。そして,わたしたちはそれを聞 いて喜んだ。同時に,いと高き御方の愛はわたしたちの心 に火をつけ,わたしたちは全能者の示現に包まれた。疑い の余地がどこにあろうか。どこにもない。不確実は消えう せ,疑いは没してもう姿を現すことはなかった。同時に, 虚構と欺きも永久に消えうせたのである。 しかし,愛する兄弟よ,考えてみてほしい。さらにしば し考えてみてほしい。……その手によってわたしたちが聖 なる神権を受けたとき,どれほどの喜びがわたしたちの心 を満たし,またどれほど驚いてわたしたちがひれ伏したか を(このような祝福を受けてひざまずかない者がいるだろ うか)。」(Times and Seasons『タイムズ・アンド・シーズ ンズ』1840年11月1日,p.202) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約13:1 なぜ小神権は「アロン神権」と呼ば れるのか 教義と聖約107:13−14を参照する。また,教義と聖約 84:26−27と比較する。 バプテスマのヨハネはアロン神権を回復した 31 はレビ神権を含む,アロン神権として知られている。」 たもの,すなわち犠牲は,継続するのである。」(Teach- (『教会歴史と近代の啓示』1:63) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミス の教え』pp.172−173) 教義と聖約13:1 「レビの子らが再び義をもってささ げ物を主にささげる」とはどういう意味か ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,さらに 次のように説明している。「わたしたちが住んでいるこの この聖句について,預言者ジョセフ・スミスは次のよう に述べている。 時満ちる神権時代にすべてのものが集められ,時の初め以 来の万物が回復される。この地球でさえアダムの背きの前 「一般に,犠牲はかの大いなる犠牲,すなわち主イエス の状態に戻る。さて道理上,犠牲の律法も回復されること の犠牲がささげられたときに終わりを告げ,将来は,犠牲 の儀式はまったく必要がないと思われている。しかしなが になる。そうでなければ,主が定められたように万物が回 復されることにはならない。したがって,昔イスラエルで ら,このように主張する人は,神権の義務や特権,権能に ついて,また預言者について無知な人である。 血の犠牲をささげたレビの子らが再びそのような犠牲をさ さげて,この神権時代にこの儀式を完成する必要がある。 犠牲をささげることは神権と関連するものであり,神権 血を流すことによって行われる犠牲は,アダムの時代に定 の義務の一部である。これは神権とともに始まり,キリス トの来臨の後まで代々続くであろう。…… められたのであり,必ず回復されなければならない。 上述の神殿が建てられるとき,回復を完成させるために これらの犠牲と,神権に属するすべての儀式は,主の神 殿が建てられ,レビの子らが清められるときに,あらゆる 動物の犠牲がささげられるであろう。福千年の初めに,あ るいは回復の過程において,血の犠牲はこの神権時代にお 力と効果と祝福を伴い,ことごとく回復されるであろう。 ける回復が完成するまでささげられるであろう。その後, メルキゼデク神権の力が十分に現れていたときには,かつ てこれがあった。また,これからもそうであろう。そうで 犠牲は別の性格のものに変わるであろう。」(『救いの教義』 3:85−86) なければ,聖なる預言者たちの語った万物更新がどうして あるであろうか。モーセの律法がそのすべての儀式ととも 教義と聖約128:24の「注解」には,レビの子らのささ げ物としてほかにどのようなものが加えられるかについ に再び設けられると考えてはならない。預言者たちはその ようには言わなかった。しかし,モーセの時代以前にあっ て,さらに説明がされている。 デビッド・ホイットマーに 与えられた啓示 第14章 預言者ジョセフ・スミスは次のように記録している。「6 歴史的背景 月初旬,彼の息子であるデビッド・ホイットマーが2頭立 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリが,ペンシルベ ての馬車を仕立ててわたしたちの家にやって来た。わたし たちをその父親のもとに連れて行き,翻訳が終わるまでそ ニア州ハーモニーの預言者の農場で『モルモン書』の翻訳 に携っていたとき,迫害が激しくなり,翻訳の完成は遅れ こにいられらようにするためであった。わたしたちが金銭 の負担なしで下宿できるように, すでに手配がされていた。 る一方であった。オリバー・カウドリがデビッド・ホイッ トマーあてに手紙を書いたのはそのときであった。オリバ また,彼の兄弟の一人がわたしのために筆記を手伝うこと ーはデビッド・ホイットマーに,ハーモニーまで来て,自 になっていた。都合のつくときは,彼自身も助けてくれる ことになっていた。わたしたちは非常に大変な仕事でこの 分とジョセフ・スミスをニューヨーク州のフェイエットに 住むデビッドの父,ピーター・ホイットマー・シニアの家 ような時宜にかなった援助を必要としており,またホイッ トマー家の近所の人々がこれらのことについて聞く機会を に連れて行ってくれるように頼んだのであった。オリバー とジョセフは,翻訳の仕事を完成するまでホイットマー家 心待ちにしていると知ったことで,わたしたちはその招き を受け入れ,ホイットマー氏と一緒に彼の父の家に向かっ に滞在できればと考えていた。ジョセフ・スミスは以前か た。そして,翻訳が終わり,版権が得られるまで,そこに ら,ピーター・ホイットマーをはじめ,ホイットマー家の 幾人かと知り合いであった。オリバー・カウドリも『モル 滞在した。彼の家に到着すると,ホイットマー氏の家族が 翻訳の業についてしきりに知りたがっており,またわたし モン書』の翻訳が行われていたとき,すでにデビッド・ホ イットマーと文通しており,それによって,ホイットマー たちに非常に好意的であることが分かった。それはその後 もずっと続いた。わたしたちは約束どおり下宿をさせても 家の人々は皆,回復の業について知っていた。 らい,特にジョン・ホイットマーは,残りの翻訳の筆記者 32 じ ぎ を務めてくれた。 そうしているうちに,デビッドとジョン,それにピータ ー・ホイットマー・ジュニアはわたしたちの翻訳の業の熱 心な支持者,援助者となった。それで各自の務めを知りた いのでわたしから主に尋ねてくれるようにと求めてきた。 そこでわたしはウリムとトンミムによって主に尋ね,次の 啓示を受けた。〔教義と聖約14,15,16章〕」(History of the Church『教会歴史』1:48−49) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約14:1−7 「大いなる驚くべき業が,まさ に……現れようとしている」 ジョセフ・スミスに与えられた啓示で,最も初期のころ に与えられた啓示の中には,幾つかの大切な概念が繰り返 し述べられている。それについては教義と聖約第4,6,11 章の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 復元されたピーター・ホイットマーの家。ここで『モルモン書』 の翻訳が完成した 教義と聖約14:9−11 だれのことか ここで言われている異邦人とは 教義と聖約14:7 戒めを守り,最後まで堪え忍ぶ ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,聖徒たちは デビッド・ホイットマーのみならず,神の子供たちは皆, 「異邦人」という言葉を特別な意味に使っているとして, 永遠の命を得るためには,最後まで堪え忍ばなければなら 次のように指摘している。「わたしたちは隣人や友人を異 ない。すなわち,試しの世にある間,忠実でなければなら 邦人と呼んで,彼らから良く思われないことが時折あるが, ない。この教えは聖典の至る所で述べられている(マタイ 10:22;24:13;マルコ13:13;1コリント13:7;1ニー わたしたち自身も皆,異邦人なのである。末日聖徒は一国 ファイ13:37;2ニーファイ9:24;31:20;3ニーファイ 民として見れば皆,異邦人である。福音は異邦人のわたし たちにもたらされた。わたしたちはユダヤ人ではない。福 15:9;27:16−17;教義と聖約10:69;53:7;信仰箇条 1:13参照。聖句ガイド「堪え忍ぶ」の項も参照) 。 音をまず最初に聞くことになっていたのは異邦人であっ た。すべてのクリスチャンがこの福音を聞くことになる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約14:8 「証人になれるように」 そして,彼らが福音を拒むとき,律法が束ねられ,証が封 あかし 主はデビッド・ホイットマーに,聖霊を受け,『モルモ じられて(教義と聖約88:84参照),福音はイスラエルの こんにち 家に向けられるようになる。わたしたちは今日まで,福音 ン書』が真実であることを目と耳で確認して知ることがで きるように,信仰をもって求め,信仰深くあるようにと勧 を異邦人に宣べ伝えるようにという召しを受け,それを行 ってきた。わたしたちは,これを最後の機会として,世の 告された。デビッドの信仰はそれに十分こたえるもので, 彼は『モルモン書』の特別な三人の証人の一人となった。 人々に警告を発してきた。わたしたちはその業を45年間続 の けてきたのである。 」(Journal of Discourses『説教集』18: 112) ジョン・ホイットマーと ピーター・ホイットマー・ ジュニアに与えられた啓示 第15―16章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約第14章の「歴史的背景」を参照する。 教義と聖約15−16章 『教義と聖約』には個人に向け た啓示も含まれている ジョン・A・ウイッツォー長老は,特定の人物に与えら れた個人的な啓示が『教義と聖約』に収められている理由 を,次のように述べている。 33 「『教義と聖約』は,ジョセフ・スミスの受けた啓示を編 いることが分かる。教義と聖約1:14;3:8;35:8;イザ さんしたものであり,その中には個人にあてられたものも あれば,教会全体を導くために与えられたものもある。預 ヤ52:10;ヨハネ12:38;3ニーファイ9:14。教義と聖約 1:14の「注解」も参照する。 言者は,この業が始められた最初の時期から,この業の進 展に関するあらゆる記録を保存した。一見ささいに思える ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 事柄に注意を払ったことに,彼の誠実さがうかがえる。例 えば,ジョン・ホイットマーとピーター・ホイットマーが う」 主は以前にも,心の思いと志について,同じような啓示 助けを求めてきたとき,ジョセフは彼ら一人一人のために をオリバー・カウドリに与えられた(教義と聖約6:16の 啓示を受けた。その啓示の内容は,実質的にはほとんど同 じものであった〔教義と聖約15−16章〕 。 「注解」参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この短い啓示は個人にあてられたものであり,ちょっと 見ただけでは,教会にとって永続的な価値は何もないよう 教義と聖約15:3−5 教義と聖約15:6 と」 「だれも知らない事柄を告げよ 「あなたにとって最も価値のあるこ に思える。しかし,それは神から与えられた啓示として保 十二使徒定員会のラドガー・クラウソン長老は,この啓 存され,出版された。誠意のない人であれば,このような 啓示などはあまり重要性のないものとして削除してしまっ 示がすべての人にとって重要な意味を持つものであること について,次のように述べている。「この教会の初期の時 たことも十分に考えられる。しかし,ジョセフはそうでは み こと ば なかった。主が語られ,その御言葉は神の王国を築く役割 代に思いをはせてみよう。ジョン・ホイットマーという, キリストの教会に入ってまだ日の浅い人物がいた。彼の前 を果たしたのである。そしてその助言は,当時も今も,多 途には様々な職業を選択できる機会が待ち構えていた。農 くの人の役に立つものである。」(Joseph Smith『ジョセ フ・スミス』pp.251−252) 場で働くこともできれば,商売に携わることもできた。鉱 山で働くことも,医師や弁護士を目指して勉強することも ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約15:2 「わたしの腕は全地のうえにある」 できた。また,ほかの人々が携わっている多くの職業の中 から,何か一つを選ぶこともできたのである。彼がこのと とはどういう意味か 人の腕はその人の強さと力を表す。同様に,「神の腕」 き自問していたのは,自分にとって最も価値があるのは何 だろうかということであった。勤勉さと倹約によって,多 という言葉は,聖典の中では神の力と権能を指している。 くの富を蓄えることもできたかもしれない。また,必要な 以下の聖句を見ると,この言葉が様々な意味で用いられて ものをすべて備えた,自分にとっても家族にとっても快適 で使いやすく,この上なくすばらしい家を手に入れること もできたかもしれない。専門的な分野において世間的な名 声を得,勉学と熟考によって優れた医師や賢く有能な法律 家になれたかもしれない。確かに彼にはこれらの機会があ ったのである。彼の前にはあらゆる機会に満ちたこの国が あり,それらの機会はすべての人の手の届く範囲にあった からである。わたしたちは自由の国に住んでいる。皆さん にもわたしにも道が開かれているように,この人にも道は 開かれていた。彼はこのような状況に置かれていて,しか もキリストの福音の中で訓練を受け始めてまだ日数が浅か った。ここに記録として存在するので,わたしは皆さんに 申し上げるが,ある声が永遠の世界から彼のうえに臨んだ のである。その声はあらゆる疑いや恐れを静めた。いずれ かの道を選択しなければならなかった人生の極めて重要な 時にあって,その声は,彼にとって最も価値があるのは 人々に悔い改めを宣言することであり,人々をキリストに 近づけることであると宣言したのである。その教えは非常 に重要なものであって, 『はっきりと力強く』迫ってきた。 『戒めの書』にはジョセフ・スミスに与えられた初期の啓示が 収められている 34 それはイエス・キリストの声であった。」(Conference Report『大会報告』1901年4月,p.7) 第17章 三人の証人への啓示 天使はデビッド・ホイットマーに,『デビッドよ,主とそ 歴史的背景 の戒めを守る者とは幸いである』と言った。そしてその後 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『モルモン書』の翻訳を続けていたころに,預言者ジョ すぐに, わたしたちの頭上の輝く光の中から声が聞こえた。 『この版は神の力によって現され,神の力によって翻訳さ セフ・スミスは次のように記録している。「わたしたちは, 主が3人の特別な証人を与えてくださり,この書( 『モルモ れた。あなたがたが目にしたものの翻訳は正確である。わ あかし たしはあなたがたに命じる。今見聞きしたことを証しなさ ン書』)の翻訳の基となった版を見せることをお許しにな い』と。」(『教会歴史』1:54−55) ることが分かった。また,その証人たちがそれについて 〔エテル5:2−4;2ニーファイ11:3;27:12〕証するはず ジョセフ・スミスは,彼らのもとを去ったマーティン・ ハリスのことが気になった。「さて,わたしはデビッドと であることを知った。……このことが分かって間もなく, オリバー・カウドリとデビッド・ホイットマー,それに前 オリバーとをその場に残してマーティン・ハリスを捜しに 行くと, かなり離れた所で熱心に祈っている彼を見つけた。 に述べたマーティン・ハリス(彼はわたしたちの仕事の進 み具合を尋ねに来ていた)が,自分たちがその3人の特別 しかし彼は願いがまだ主に聞かれないと言い,わたしたち な証人となる特権を頂けないかどうか主に尋ねてくれるよ と同じ祝福が得られるようにぜひ一緒に祈ってほしいと言 った。そこでわたしも一緒に祈り,ついに願いは聞き届け うにと申し出てきた。 彼らがあまり強く熱心に求めるので, ついにわたしはそれに応じ,ウリムとトンミムによって次 られた。祈りがまだ終わらないうちに,同じ示現が開かれ たのである。その示現は再びわたしに開かれ,わたしは同 の 啓 示 を 受 け た 〔 教 義 と 聖 約 17章 〕。」( History of the Church『教会歴史』1:52−53) じことをもう一度見聞きした。その瞬間,マーティン・ハ リスは喜々として,『すばらしい,すばらしい。確かに見 えた,見えた』と大声を上げ,飛び上がって『ホサナ』と 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 叫び,神をほめたたえ,大変な喜びようであった。」(『教 会歴史』1:55) 教義と聖約17:1 神の約束 預言者ジョセフ・スミスは,『モルモン書』に対して主 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約17:1 三人の証人は何を見たか の証人となることを求めた人々がどのようにしてこの特権 を与えられたかを,次のように記述している。 以下の聖句を参照する。ジョセフ・スミス−歴史1: 「上記の戒め(第17章)が与えられてから数日後,マー 34−35;1ニーファイ4:8−9;16:10,16,26−30;2ニ ーファイ5:14;『モルモン書』ヤコブ1:10;エテル3: ティン・ハリス,デビッド・ホイットマー,オリバー・カ ウドリとわたしの4人は,上記の啓示で主に約束されたと 23−24,28。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ おり版を見せていただくために,森に入って熱心に謙遜に 祈ることにした。わたしたちはホイットマー氏の家の近く 教義と聖約17:3 けんそん 神の力によって与えられた証 の森を選び,そこへ行ってひざまずき,約束が実現される 三人の証人は天使に会い,また版を見て,手で触れると いう特権を与えられたが,彼らの証の真の力は聖霊を通し ようにと強い信仰をもって全能の神に祈り始めた。 前もって決めておいたとおり,初めにわたしが声を出し て与えられた。ジョセフ・フィールディング・スミス大管 長は,その理由を次のように説明している。「キリストは て天の御父に祈りをささげ,続いてほかの3人が順番に祈 った。しかし最初の祈りでは,神の答えや恵みのしるしは 神会の第二位の御方である。しかし,たとえキリストの御 み 得られなかった。わたしたちはもう一度同じ順序で,神の 名を呼び,熱心に祈ったが,結果は前と同じであった。 すると,マーティン・ハリスは自分がいるから願いが聞 き入れられないのだと考え,その場から引き下がると言っ て,わたしたちのところから去って行った。残ったわたし たち3人は再びひざまずいたが,祈り始めて何分もたたな いうちに,頭上の空中に強く輝く光が現れた。そして見よ, わたしたちの前に天使が立っていた。天使はわたしたちが 見せていただくために祈ってきたあの版を持っていた。そ して版を一枚一枚めくったので,わたしたちはそこに刻ま れている文字をはっきりと見ることができた。それから, 三人の証人:オリバー・カウドリ,デビッド・ホイットマー, マーティン・ハリス 35 たま 霊による示し,あるいは触れることのできる体を持った天 ィン・ハリスは,『モルモン書』が真実であることを証す 使の訪れを受けても,聖霊の示しによって得られる消え難 い印象や確信ほどのものは得られない,とキリスト御自身 しかしながら, るのに臆するようなことは決してなかった。 歴史から明らかなように,彼らは教会に関するほかのこと が宣言された。直接の訪れを受けても時がたつと印象は薄 らいでしまうが,この聖霊による導きは,導きを受けるに でつまずいてしまったのである。デビッド・ホイットマー おく ふさわしい生活を送っていれば,日々に,あるいは年々更 は教会を去り,二度と教会に戻ることはなかった。オリバ ー・カウドリとマーティン・ハリスは教会を離れたが,後 新され,継続する。 」(『救いの教義』1:44。ルカ16:27− 31;教義と聖約5:7−10も参照) に再びバプテスマを受け,教会員として世を去った。しか し,3人は教会を離れている間でも,自分たちの経験した ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ことが真実であったことについては,変わることなく厳粛 教義と聖約17:3−4 な証を述べ続けた。彼らは,「戒めに従うならば,地獄の 門もあなたがたに打ち勝つことはない」という彼らに与え 証人についての主の律法 三人の証人は,主が定められた大切な律法を成就した。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明してい かぎ る。「主は福音を明らかにし,神権と鍵を人に授けて神権 られた主の警告の重みを感じていたに違いない。 フランシス・W・カーカムは,オリバー・カウドリの死 時代を確立されたときはいつでも,必ず自ら定められた 『証人の律法』に従って事を進めてこられた。それは『す について次のように述べている。「1878年,デビッド・ホ イットマーは,オリバーの死について,オーソン・プラッ べての事がらは,ふたりか三人の証人の証言によって確定 する』という律法である(2コリント13:1;申命17:6; 19:15;マタイ18:15−16;ヨハネ8:12−29)。 啓示された真理に基づく新しい神権時代を確立するにせ よ,そのメッセージや警告を世の人々に伝えるという重荷 を果たしていくにせよ,一人だけでそれを行うようなこと は決してない。アダムから現代に至るどの神権時代を見て ト長老とジョセフ・F・スミス長老に次のように述べた。 『オリバーの死に際は,わたしがかつて見た中で最も幸せ に思えるものでした。彼は家族の者と握手をし,妻と娘に 口づけをすると,「わたしはこれから最後の眠りに就く。 救い主のみもとへ行く」と言って間もなく,顔に笑みをた たえて息を引き取った。 』」(New Witness for Christ『キリス も,常に2人あるいは3人の証人が証を共にしている。そし トについての新たな証』1:248) 『リッチモンド・デモクラット』(Richmond Democrat) て,それを聞く人々が証を拒否した場合,裁きの日に言い 訳をする余地がないようにしている。」(Mormon Doctorine 紙は,デビッド・ホイットマーについて次のように書いて いる。 「(1888年1月22日)日曜日の夕方5時30分,ホイット 『モルモンの教義』p.436) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約17:4 証人の証により守られたジョセフ・ マー氏は家族や何人かの友人を枕もとに呼び集め,付き添 いの医師に向かって次のように言った。 『ブキャナン先生, 臨終の証を述べる前に,わたしが正気かどうか言っていた スミス 預言者の母ルーシー・マック・スミスは,三人の証人に だきたいのですが。』医師は『はい,あなたはしっかりし ておられますよ。わたしは今あなたとお話ししたばかりで 神聖な現れがあった後に帰宅したジョセフの心境につい て,次のように記録している。「彼らが家に帰って来たの すからね』と言った。すると,ホイットマー氏は自分のベ ッドを囲む人々に次のように言った。『あなたがたは皆, は午後の3時から4時にかけてのことでした。そのとき,ホ イットマー夫人と夫のスミスとわたしは寝室で腰をかけて キリストに忠実でなければならない。「聖書」とニーファ いました。すると,ジョセフは入って来るなりわたしのそ イ人の記録( 「モルモン書」 )は真実である。あなたがたが, わたしが臨終の床でこの証を述べるのを聞いたとほかの人 ばにどっかと座り,大声で言いました。『お父さん,お母 さん,わたしがどれほどうれしく思っているか,分からな に言えるように, わたしはこのことを皆に言っておきたい。 キリストに忠実でありなさい。そうすれば,自分の行いに いでしょう。主は,わたしのほか3人の人に版を見せてく ださったのですよ。あの人々は天使に会い,天使は彼らに 応じて報いを受けるだろう。神があなたがたを祝福してく 証をしました。あの人々は,わたしがこれまでに語ったこ ださるように。キリストへのわたしの信頼は永遠に変わら ない。アーメン。』」(ジェンソン,Biographical Encyclope- とが真実であることをこれから証していかなければならな いのです。わたしが人々を欺こうとしているのではないこ dia『末日聖徒人物列伝』1:270) マーティン・ハリスの最後の証を聞いたのは,彼の臨終 とが,彼らにも分かったからです。背負い切れないほどの 重荷を取り除かれたような気持ちです。とてもうれしいで の場に立ち合ったウィリアム・ハリソン・ホーマー長老で す。わたしはもうこの世の中で一人ぼっちでなくなったの あった。彼は次のように記録している。 「翌日,すなわち1875年7月10日が最後の日であった。そ です。』」(History of Joseph Smith『ジョセフ・スミスの生 涯』p.152) れは夕方のことで,牛の搾乳の時間であった。マーティ ン・ハリス・ジュニアと妻のナンシー・ホーマー・ハリス ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約17:5 「証しなければならない」 は,乳搾りや夕方のうちにしておかなければならない仕事 などで外に出ていた。寝たきりで動けないマーティン・ハ 三人の証人による証は,『モルモン書』の初めの部分に 載せられている。 リスと一緒に家に残っていたのは,かつてカートランドで オリバー・カウドリ,デビッド・ホイットマー,マーテ 36 彼と楽しい日々を過ごしたことのあるわたしと,わたしの 母エライザ・ウィリアムソン・ホーマーだけであった。わ たしは彼の右手を取って枕もとに,母は彼の足もとの方に これはW・H・ホーマー夫人,ジョセフ・ホーマー,リ 立っていた。マーティン・ハリスは何日間も意識不明の状 態であった。わたしたちが部屋に入って行ったとき,この ア・ウイッツォー,ジョン・A・ウイッツォーの立ち合い の下に署名された。 」(『キリストについての新たな証』1: 老紳士は眠っているようであった。間もなく彼は目を覚ま し,水を求めた。わたしはこの老紳士の体の下に腕を入れ, 253−254) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 彼を起こし,母がコップを彼の口もとに当てた。彼は心ゆ くまで水を飲むと,わたしを見上げ,わたしがだれか分か 教義と聖約17:8 て十分であり」 ったところで,『あなたを知っている。わたしの友人です 「わたしの恵みがあなたがたに対し 人は自分でできることをすべて行った後に初めて,主の あわ ね』と言った。そして,こう言葉を続けた。『そうです。 わたしは,「モルモン書」が書かれた版を見ました。天使 恵み(すなわち,主の愛と憐れみと深い慈悲)によって救 われるのである(2ニーファイ11:24;25:23参照)。3人 も,確かに見ました。神の声も,確かに聞きました。ジョ セフ・スミスが,聖なる神権の鍵を持つ神の預言者である は,この啓示で教えられていることをすべて行うならば, 主の恵みが彼らの救いを確かなものにすると約束されてい ことを,わたしは知っています。』それが最後であった。 た(2コリント12:9;エテル12:26−27参照)。 神の業の証人として神から選ばれたマーティン・ハリスは わたしの手を握っていたが,やがてその力を抜くと,わた ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に教えている。「わたしたちは幾ら善人になろうと努めて しの手を離した。そして再びベッドに横たわると,太陽が クラークストーン山に沈むのと時を同じくして息を引き取 も,皆ある程度律法を破っているので,自分自身の行いで あがな 自分の罪からの贖いを受けることはできない。……わたし たちが救われるのはイエス・キリストの恵みによる。」 った。 〔署名〕ウィリアム・ハリソン・ホーマー (『救いの教義』2:285) 第18章 人の価値 は皆の集まりで,互いに聖任し合うことについて彼らの賛 歴史的背景 成の支持を得なければならず,またわたしたちを霊に関す ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ バプテスマのヨハネが現れて大神権の回復を予告した後 る事柄を教える者として快く受け入れるかどうかを賛意の 表明によって決めてもらわなければならなかった。またわ (教義と聖約13章参照) ,預言者ジョセフとオリバー・カウ ドリは,「アロン神権を授けてくれた天使の約束が果たさ たしたちは,その会でパンを祝福して裂き,ともに食し, ぶどう酒を取って祝福し,ともに飲むように命じられた。 れるのを待ち焦がれるようになった。すなわち,わたした そしてその後で,主の命に従って互いに聖任し合い,それ から聖霊が示す人々を召して聖任し,それを終えたら,そ あんしゅ たまもの ちが忠実であれば,按手によって聖霊の賜物を授ける権能 を有するメルキゼデク神権を授かるという約束である。わ けんそん れまでにバプテスマを施したすべての人に按手して聖霊の たしたちはしばらくの間このことに関して謙遜に祈ってい たが,最後にホイットマー家の一室にともに入り,わたし 賜物を授けるように,またこれらすべてのことを主の名に よって行うように命じられた。次の戒めは,わたしたちや たちのその願いについて主に熱心に祈り求めた。そしてこ こに,わたしたちは救い主の約束が真実であることを悟り, これから召されるほかの人々のこの神権への召しの本質が いかなるものかを,さらに深く説明してくれるものである 言いようのない満足感に浸ったのであった。主は言われた。 〔教義と聖約18章〕。」(History of the Church『教会歴史』 『求めよ,そうすれば,与えられるであろう。捜せ,そう すれば,見いだすであろう。門をたたけ,そうすれば,あ 1:60−62) けてもらえるであろう。』わたしたちが厳粛に,また熱心 に祈り始めてから程なく,部屋の中に主の声が聞こえ,わ 注 解 たしがオリバー・カウドリをイエス・キリストの教会の長 教義と聖約18:1−4 老に,また彼もわたしを同じ職に聖任するように命じられ た。また,ほかの人々もその都度名が知らされるので聖任 て,オリバーに与えられた主の証 「この啓示で,オリバー・カウドリはこの業,特に『モ するように告げられた。しかしわたしたちは,バプテスマ を受けた兄弟やこれから受ける兄弟を集合させられるよう ルモン書』について,真理の御霊による証を受けた。『モ ルモン書』の翻訳が行われていたとき,彼はこのような示 になるまでは,聖任しないように命じられた。わたしたち しを何回か受けた。すなわち,この業が真実であることに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この業が真実であることについ あかし み たま 37 ついて,御霊の示しを受けたばかりでなく,この啓示が与 えたのと同じ力と権能を,この神権時代にある人々に与え えられるに先立ち,天の使者の訪れを受けて,その手から 聖なるアロン神権を受けていたのである。したがって,主 ると宣言しておられる(教義と聖約18:9)。」(ラドロー, Companion『必携』1:133−134) は彼にこう言われたのである。『わたしは,あなたが(筆 ブリガム・ヤングの教えによれば,ジョセフ・スミスと 記者として)記してきたものが真実であることを,度々わ たしの御霊によって示してきた。それゆえ,あなたはそれ オリバー・カウドリ,デビッド・ホイットマーの3人がこ の神権時代における最初の使徒である(Journal of Dis- が真実であることを知っている。』」(スミス,Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1: courses『説教集』6:320参照)。ヒーバー・C・キンボー ルによれば,これにマーティン・ハリスが後から加えられ 81) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている(『説教集』6:19参照)。この人々は,十二使徒定 員会を構成するほかの12人を見つけて聖任するようにとい 教義と聖約18:4−5,17 う指示を受けた。 「わたしの福音,わたしの 岩,わたしの救い」とはどういう意味か 「わたしの教会」という主の言葉は,主の名を受けてそ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約18:10−16 「人の価値が……大いなるも の福音に従うという聖約をした信者および弟子たちを指す (教義と聖約10:67参照)。主は御自身の福音について,教 のであること」 十二使徒定員会のラドガー・クラウソン長老は次のよう 義と聖約39:6の中で定義を与えておられる。この章をは に問いかけている。「わたしたちは人の価値がどれほどの じめとする箇所に出てくる「岩」という表現については, 教義と聖約11:24の「注解」を参照する。 ものだと考えたらよいのだろうか。この問題に対する答え も,啓示によって与えられている。人は神の目に非常に貴 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約18:8 ヨセフという名前にはどのような意 いものであり,神はそのために世に独り子を送られた。御 子の血が流されることにより,人々をみもとに引き寄せる 義があるか ためである。この神権時代における偉大な預言者ジョセ 「この名前は非常に興味深いものである。なぜならば, 聖典には,末日にヨセフ(すなわち,ジョセフ)という名 フ・スミスをはじめ,ジョン・ホイットマー,オリバー・ カウドリ,デビッド・ホイットマーなどは,人々をキリス の偉大な解放者が現れると預言されているからである。ニ ーファイの記録によれば,族長のヨセフは,アメリカ大陸 トのもとに導くために召された人である。そのような人が 生涯この業のために働いて,ただ一人の人しかキリストの にイスラエルの家が建てられ,一つの『義にかなった枝』 もとへ導くことができないとしても,それが自分の妻であ が出て,自分と同じ名(ヨセフ,すなわちジョセフ)で, その父とも同じ名の聖見者が現れると預言している(2ニ るならば,その人は天において,妻とともに大いなる喜び にあずかるであろう。また,もし生涯この業のために働い ーファイ3:1−15参照)。」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』p.83) て自分の妻と子供しかキリストのもとに導くことができな いとしても,天において妻子とともに大きな喜びを受ける ヘブライ語で「ヨセフ」という名は,「主がわたしに, なおひとりの子を加えられるように」(創世30:24)とい であろう。」(Conference Report『大会報告』1901年4月, pp.7−8) う意味である。この名前を持つ神の偉大な息子たちが何人 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かいる。ヤコブの力強い息子ヨセフはその一人である。彼 はイスラエルの生得権を受け継いでいた。また,キリスト 教義と聖約18:20 「悪魔の教会」とは何か サタンの後押しや導きを受けている組織について述べる の母マリヤの夫となったヨセフ,この末日における教会の 最初の祝福師となったジョセフ・スミス・シニア,末日に のに,「教会」という言葉が用いられているが,この用法 に当惑する人々がいる。特定の宗教的な組織という,もっ おける偉大な聖見者のジョセフ・スミス,啓示の中で,イ と限られた意味でこの言葉を考えているからである。しか スラエルの大いなる群れを見た第6代大管長ジョセフ・ F・スミス(教義と聖約138:38−46) ,それに第10代大管 し,ここで「神の教会と王国」という言葉を考えるならば, 「悪魔の教会」という言葉がどのような意味を持つかをさ 長で,この末日における力強い義の説教者ジョセフ・フィ ールディング・スミスがいる。確かに主は,ヨセフの血統 らによく理解できるであろう。それは悪魔の王国,悪魔の 影響力の範囲,悪魔の勢力圏のことを言っているのであ を通してイスラエルに偉大な息子たちを与えられた。この る。 ヨセフは,イスラエルの家が彼に頭を下げるのを夢の中で 見たのである(創世37:3−11参照)。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明して いる。「神と神の律法から,また神の王国における救いか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約18:9 「パウロが召されたと同じ召しに召 ら人々を導き出し,道を踏み誤らせようとするために建て られる教会や組織は,その名称や性格が何であろうと,悪 されている」とはどういう意味か 「『新約聖書』の時代に,救い主は弟子および使徒と呼ば 魔の教会,また大きな忌まわしい教会という呼称でそれを 表すことができる。政治,思想,教育,経済,社交,友愛, れる12人の人を召し,彼らを聖任して,御自身の特別な証 公民,宗教,そのいずれの組織であろうとこのことが言え 人とされた。後に,パウロを含むほかの人々も使徒として 召され,聖任された。主はこの啓示の中で,昔パウロに与 る。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.137−138) この定義から,ニーファイが次のように教えられた理由 38 第18章 れた(3ニーファイ11:28−30参照)。預言者ジョセフ・ス ミスはそれと同じ原則を次のように教えている。「長老た ちは出て行き,それぞれ独力で主を弁護して立たなければ ならない。……まじめに柔和な心をもって出て行って,キ リストとキリストの十字架上の死について教えなさい。相 手の信仰や宗教について議論することなく,確固とした道 を歩みなさい。これはわたしが戒めとして与えるものであ こうべ る。これを守らない者はその頭に迫害を招くであろう。一 方これを守る者は常に聖霊に満たされる。わたしはこれを 預言として宣言し,ホサナとアーメンをもって結び固め る。」(『教会歴史』3:431) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約18:34−36 主の声を聞くこと 人が主の声を聞くにはどうすればよいかについて,S・ デルワース・ヤング長老は次のように宣言している。 「1835年に,皆さんも御存じのように十二使徒が選ばれ た。そしてあるとき,彼らは皆一堂に集められ,指示を受 けた。オリバー・カウドリが話し手であった。力強くまた 心の温まる指示を与えてから,非常に感動した彼は,2,3 度,声を詰まらせて涙を流したほどであった。そして彼は 最後に〔現在18章として知られている〕啓示を読んだので ある。 ブリガム・ヤングもその啓示に深く感動し,ごつごつと した筆跡で日記にそれを記している。わたしも同様に感動 した。これがそのときの言葉である〔教義と聖約18:34− 「人の価値が神の目に大いなるものであることを覚えておきな さい」(教義と聖約18:10) が分かる。「教会は二つしかない。一つは神の小羊の教会 であり,もう一つは悪魔の教会である。したがって,神の 36〕。 これに関連して,わたしは心に非常に強く感じているこ とがある。それは,以前には考えもしなかったことである。 『教義と聖約』を読むとき,もし御霊に耳を傾けるならば, それは単に読んでいるのでなく,主の声を聞いているので 小羊の教会に属していない者はだれでも……あの大きな教 会に属する者である。 」(1ニーファイ14:10)聖典の中で, ある。 何度も主に特別な証を求めたが与えられなかった,とい サタンの王国は,バビロン,大きな忌まわしい教会,娼婦 う人の話をこれまでによく聞いたことがある。その人々は 主の声を聞きたがっているようである。 正直に告白すれば, の母,悪魔の教会,悪魔の王国(1ニーファイ22:22;2ニ ーファイ28:18−19;モルモン8:28−38;教義と聖約 わたしも何年もの間,聞こえない耳を傾けていた自分に気 10:56;18:20参照)など,様々な呼び方をされている。 それであるから,聖徒たちは悪を見たら必ず,それに立 づかずに,主の声を聞こうとしたことがよくあった。わた しはこの経験を通して目を開かれた。」(『大会報告』1963 ち向かわなければならない。その方法は明確である。ジョ セフ・フィールディング・スミス大管長は次のように教え 年4月,p.74) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている。「出て行って教える人々は,知恵をもってそれを 教義と聖約18:37−40 『モルモン書』の特別な証人 によって,12人の特別な証人が選ばれた 行い,ほかの教会と争ったり無益な論争などをしたりしな いようにし,むしろ,親切な心をもって教え,人々が真理 ジョセフ・スミスは現代の神権時代における使徒職を持 を受け入れることができるように,説得しなければならな い。」(『教会歴史と近代の啓示』1:83) つ最初の証人であった。そして,教義と聖約20:3に記さ れているように,オリバー・カウドリは第2の証人であっ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た。デビッド・ホイットマーとマーティン・ハリスも特別 な証人になった。このようにして,12人の特別な証人から 教義と聖約18:20−21 なぜ争いは良くないのか 「争う」という言葉には,議論,競い合い,いがみ合い, 口論,論争などの意味が含まれている。救い主は,このよ うな方法で伝道するのは福音の原則に反していると教えら 成る最初の定員会が,回復を証する最初の特別な証人たち によって召されたのである。 39 第19章 悔い改めの賜物 あがな 『世の贖い主』 キリストはわたしたちの贖い主であり, 歴史的背景 罪悪の束縛を逃れてみもとに来る人々を救ってくださる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主はわたしたちを『買いとられた』 (1コリント6:20;7: 23;2ペテロ2:1)。この世は定められた時が来ると,サタ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この章 が与えられた背景を次のように説明している。「〔ニューヨ ーク州マンチェスターにおいて〕この啓示が与えられたの ンの力や,罪と罪から生じる結果,すなわち戦争や貧困, 無知,病気,死などから解放されるのである。」(Commen- は,1830年3月のある日のことである。マーティン・ハリ スは,自分の背きのために気持ちが非常に乱れた状態にあ tary『注解』p.91) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ったため,主の前における自分の立場についてもっと確信 教義と聖約19:3 を得たいと思っていたようである。彼はすでに熱烈に懇願 して三人の証人の一人となる特権を与えられており,あの ブルース・R・マッコンキー長老は,この表現は地球の 終わりを意味しているのではないとして,次のように説明 驚くべき示現を受けていた。 恐らくこのことがあったので, 彼は真剣に考え,さらに光を求めるようになったのであろ している。 「『世の終わり』とは不義の終わり,すなわちわ 「世の終わり」とは何を意味するか う。しかしながら,『教会歴史』 (History of the Church)に たしたちの知っているこの世的な状態の終わりのことであ り,それは『悪人の滅亡』 〔ジョセフ・スミス−マタイ1: は,啓示が与えられた理由も正確な日時も出ていない。し かし,これがマーティンにとって大きな慰めとなったこと 4〕の結果としてもたらされる。この世が終わり,福千年 が始まるときには,新しい天と新しい地がある(イザヤ は疑いの余地がない。またこの啓示は,この神権時代に与 えられた偉大な啓示の一つに数えられる。これよりも重要 65:17−25;教義と聖約101:23−24参照)。あらゆる情欲 や肉欲,享楽は姿を消す。なぜならば,それは『世の終わ な啓示はあまりないと言ってよいであろう。個人に直接適 しょくざい 用される主の贖 罪 の教義,およびここで述べられている り』だからである。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』 『永遠の罰』は,教会員にかつて知られていなかった光を p.848) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 投げかけてくれるのである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:85) 教義と聖約19:4−12 な真理 注 解 されるよりも大切な洞察が与えられている。ジェームズ・ E・タルメージ長老は次のように述べている。「〔教会の歴 神の罰に関するそのほかの偉大 この箇所には,裁きについて,ほかのどの聖句に見いだ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約19:1 主の名 み な スミスとショダールは,ここに書かれている御名の重要 性について次のように説明している。 「わたしたちの主は,この啓示の冒頭で……5つの異なる 御名を用いて御自身を紹介しておられる。その御名はそれ ぞれに,主の性質や働きを示している。 史が始まってから〕この100年の間に,それまでに知られ ていなかった多くの偉大な真理が人々に宣言されてきた。 中でも大切なのは,地獄には入り口だけでなく出口もある という教えである。地獄は,執念深い裁判官が,自分の栄 光のためだけに囚人たちを苦しめたり,罰したりする所で これはギリシャ語アルファベ はない。それは,この地上において学ぶべきことを学ばな かった者を教え,訓練するために備えられた所である。確 ットの最初と最後の文字であり,初めと終わりの象徴とし て使われている。キリストはこのように呼ばれた。キリス かに,わたしたちが読むものの中には,永遠の罰,終わり のない苦しみ,永遠の罰の定めなどの言葉が出てくる。そ トはすべてのものの創造者であり保護者だからである(ヘ ブル1:2,10参照)。 れは恐ろしい表現である。しかし,主はその憐れみをもっ 『アルパでありオメガ』 あわ キリストとは油注がれた者の意味 て,それらの言葉の意味を明白にしてくださった。主は, 『永遠の罰』とは神の罰のことであると言われた。なぜな である。預言者,祭司および王は油注がれた者であり,主 はこれらの職を併せ持っておられるのである。キリストは らば,神は永遠の御方だからである。罰を受けるに値し, ほんとうに罰を受ける必要のある罪人のために,そのよう 油を注がれた主である。ギリシャ語のキリストという言葉 に当たるのが,ヘブライ語のメシヤという称号であり,こ な条件や状態,可能性が存在はしていても,それはその苦 『主なるキリスト』 の称号はヨハネ1:41と4:25に出ている。…… 『初めであり終わりである者』 主は初めからおられ, しみを受ける者,すなわち罪人が永遠に苦しみ続けなけれ ばならないという意味ではない。さらに良いものを受ける 永遠に存在する御方である。主は無窮であられる(教義と にふさわしい状態になれば,だれもそれ以上長く地獄にと どめておかれる人はいない。人がその状態に到達すると, 聖約19:4参照)。 地獄の門が開かれ,その人をさらに良い状態に迎え入れる 40 第19章 者たちの間に喜びの声がわき上がる。主は御自身の律法や たにすぎず,それはほんとうの血ではなく血のようなもの 福音の運用について,以前の神権時代に言われたことを少 しも変えてはおられない。それどころか,それらのすべて であったと言っている。しかし,この啓示の中でイエスは きっぱりと,それらが誤りであることを示された。苦しみ を通して,御自身の慈しみと憐れみとを明らかにしてこら れた。なぜなら,人の不死不滅と永遠の命をもたらすこと は神の律法に背いたことに対する代価である。ゲツセマネ の園で,救い主は世の人々のすべての罪のためにその代価 こそ,主の栄光であり,主の業だからである。」(Conference Report『大会報告』1930年4月,p.97) を払われたのである。 キリストが受けなければならなかった苦しみの大きさに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ついて,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次 教義と聖約19:7 相違があるか のように述べている。 「主は死と罪からのこの贖いをもたらすために,自らひ いつく 永遠の罰と永遠の罰の定めの間には ブルース・R・マッコンキー長老は,これら二つの言葉 の相違を次のように説明している。 どい苦しみを受けられた。わたしたちはその苦しみを理解 することはできない。 主がひどい苦しみを受けられたのは, 「永遠の罰の定めとは永遠の命の反対語であり,永遠の 手足を釘で打たれて十字架につけられ,息を引き取られる 命,すなわち日の栄えの王国内の最高の天における救いを 手に入れることのできない者は,永遠の罰の定めを受ける まで放置されたときであると,一般に考えられているよう である。その苦痛は堪え難いものであったが,主が受けな 者である。永遠の罪の宣告とは,彼らに限界が定められて いて,神の状態にまで進歩することも,すべてのものを完 ければならなかった最も激烈な苦しみではなかった。わた しには理解の及ばないある方法により,主は全世界の罪の 全に得ることもできないことを意味する。 重荷を負われたのである。わたしはこれを信仰により受け 彼らは『永遠にわたって,昇栄することなく……それぞ れ独りのままでいることになる。それから後,彼らは神々 入れている。皆さんも信仰により受け入れなければならな い。わたしには自分自身の罪を負うことさえも困難である。 ではなく,とこしえにいつまでも神の天使である。 』(教義 と聖約132:17)彼らの王国あるいは進歩は『終わり』で 皆さんはどうであろうか。わたしたちの救い主,堕落した 世の贖い主として全世界の罪を負わなければならなかった あって, 『増し加えることができない。 』(教義と聖約131: 4)彼らは永遠に霊の子供を持つことができず,『死』を受 うえに,十字架につけられる前に受けられた苦しみが非常 に激しかったので,よく知られているように,主は体の毛 け継ぐ。すなわち,復活しても子孫が与えられないのであ 穴から血を流し,御父に祈られたのである。」(『大会報告』 る。 彼らは決して霊の堕落から贖われることがなく,神の前 1947年10月,pp.147−148) 同様に,ジェームズ・E・タルメージ長老も次のように に戻って神の栄光を受けることもできない。従順な者だけ が『肉体の死によって不死不滅によみがえり,永遠の命を 書いている。 く もん 「ゲツセマネの園におけるキリストの苦悶は,その大き 受けられる』のである。不従順な者,すなわち『信じない さにしても原因にしても,人間の心では計り知れないもの 者』は不死不滅によみがえり,『永遠の罰の定めを受ける。 彼らは悔い改めないので,霊的な堕落からの贖いを受ける である。……イエスは,これまでこの世に生を受けた人が, 考えつくこともないような重荷の下に苦悶し,うめきたも ことができないからである。』〔教義と聖約29:42−44〕」 (『モルモンの教義』p.234) うた。イエスに,あらゆる毛穴から血が吹き出るほどの苦 痛を与えたのは,一人肉体の苦しみでもなければ,心の苦 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しみでもなく,それは神だけが経験することのできる,霊 教義と聖約19:13−41 れた指示 的な苦悩であった。どんなに肉体的に精神的に耐えられる 人であっても,イエスのほかにはそのような苦しみに耐え マーティン・ハリスに与えら くぎ 「この聖句にはマーティン・ハリスへの特別な指示が収 められている。『モルモン書』について多くの示しを受け られなかったであろう。 その肉体は苦しみに屈してしまい, 仮死の状態で無意識と忘却に陥ったことであろう。その苦 たにもかかわらず,彼は罪に当たるほどに疑惑に悩んだ。 懐疑もそれが人に研究を促すものであるかぎりは,正当な 悩のときに,サタン,すなわち『この世の君』が加えるこ とのできるあらゆる恐怖に立ち向かい,これに打ち勝たれ ものとして認められるが,圧倒的な証拠がありながら疑う たのである。……人間には理解できないが,実在する非常 のは悪である。」(スミス,ショダール共著『注解』p.96) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に現実的なある方法によって,救い主はアダムから世の終 わりに至るまでの人類の罪の重荷を自身に引き受けられ 教義と聖約19:13−20 の強烈さ た。」(『基督イエス』p.700) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ キリストが受けられた苦しみ イエスは,御自身の苦しみについて述べられた啓示の中 キリスト 教義と聖約19:13−21 「わたしは,悔い改めるよう で,贖いのときの苦痛がどれほどつらいものであったかを 示された。ゲツセマネで苦しまれたときの血について述べ にあなたに命じる」 ラドローは次のように指摘している。「『教義と聖約』の ているのは,ルカによる福音書のみである。「そして,そ の汗が血のしたたりのように地に落ちた。」(ルカ22:44) この章の前書きに述べられているように,これは通常の単 なる『啓示』ではなく,むしろ『神の戒め』である。第19 これを理由に,多くの注釈者は,ルカは比喩的表現を使っ 章は啓示による戒めと言える。なぜならば,この啓示には ひ ゆ 41 『モルモン書』ばかりでなく『教義と聖約』の中でも, リーハイの子孫はユダヤ人と呼ばれている。その一例が第 19章27節に見られる。〔教義と聖約19:27〕カートランド からミズーリへ旅をして来た長老たちへの指示の中で,主 は再び神殿を建てる場所を明らかにし,『西方に位置して いる土地,すなわち,ユダヤ人と異邦人の間をまっすぐ走 っている境界線に至るまで』 (教義と聖約57:4)の土地を 購入するように指示を与えられた。この西の方の境界線と は,白人とインディアンの居住地を区切る境界線のことで あ っ た 。」( “How Was Lehi a Descendant of the Jews?” Improvement Era「リーハイはなぜユダヤ人の子孫なのか」 『インプルーブメント・エラ』1955年10月号,p.702) 『モルモン書』のミュレクはユダに属しており(モーサ こんにち ヤ25:2;オムナイ1:14−19;ヒラマン8:21参照),今日 のレーマン人はこの血を受け継いでいる。『モルモン書』 の中では,ユダヤ人という言葉は時々イスラエルの全家を 意味するものとして用いられていることがある(1ニーフ ァイ15:17,20参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約19:28,38 祈るようにとの戒め ラドガー・クラウソン長老は,この聖句に深く感銘して 次のように述べている。「この聖句は,少なくとも,自分 の責任を負う年齢から墓に至るまでの間,一人一人の生活 の一部となり,やがて生活のすべてを含むようになります。 人はどのような状況にあっても祈らなければなりません。 「もしも悔い改めなければ,彼らはわたしが苦しんだように必 ず苦しむであろう」(教義と聖約19:17) 指示だけではなく,『悔い改めなさい』という明確かつ限 定的な戒めが,次のように述べられているからである。 『わたしは,悔い改めるようにあなたに命じる』(15節), 『わたしは再びあなたに命じる。悔い改めなさい』(20節), の 『わたしはあなたに命じる。悔い改めのほかに何も宣 べ伝 えてはならない』 (21節)。 悔い改めの教義を完全に理解すれば,教える必要がある のは悔い改めだけであるということが分かってくる。悔い 改めは悪い行いをやめるだけでなく,正しいことを始める ということも含むからである。」(Companion『必携』1: 143。教義と聖約1:31−32;58:42−43;82:7参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約19:24 る」 「わたしはイエス・キリストであ あかし 付録の特別講座Dには,キリストを証するものとしての 『教義と聖約』に関する記述がある。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約19:27 どのような意味でレーマン人はユ ダヤ人の「残りの者」なのだろうか ジョセフ・フィールディング・スミス長老は次のように 教えている。「リーハイはユダ王国の,エルサレムの一住 民であった。彼の家族は何代かにわたってエルサレムに住 んでいたと思われる。どの部族の子孫であろうと,ユダ王 国の住民はすべてユダヤ人として知られていた。…… 42 祈ることは戒めである 祈りは安息日や特別な場合のためにあるのではありませ ての聖徒の義務でもある(モーサヤ18:9−10参照)。預言 ん。祈りは教会の総大会でささげられるだけではありませ ん。祈りの精神が絶えずわたしたちの心の中になければな 者ジョセフ・スミスは,「様々なことが語られてきたが, 結局,最も偉大で最も大切な務めは,福音を宣べ伝えるこ りません。わたしたちは家族の中で祈らなければなりませ ん。ひそかに祈らなければなりません。そして心の中で祈 とである」と言っている(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.113)。 らなければなりません。夜寝るときや朝起きたときに,祈 りの精神を持たなければなりません。日々の務めのために 福音の回復,および伝道活動を通して福音を分かち合う 聖徒の義務については,特別講座Aを参照する。 家を離れるとき,また,職場,店,野や山や谷や,どこに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いようとも,いつも祈りの精神がなければなりません。… …その精神があるならば,主はわたしたちを祝福してくだ 教義と聖約19:37 ホサナとはどういう意味か 「ホサナはヘブライ語(あるいはセム語)で文字どおり さり,祈りの答えとして与えられる数々の祝福は,地の宝 よりももっと大切なものになるであろうと言われていま 『お救いください』という言葉の音訳であり,『わたしたち かりいお に救いをお与えください』と訳される。仮庵の祭でのユダ す。」(『大会報告』1904年4月,pp.42−43。アルマ34: ヤ人の祈りのほとんどはこの言葉で始められた。また,イ 17−28;3ニーファイ18:15;マタイ26:41;教義と聖約 10:5;88:126参照) エス・キリストがこの地上における最後の週にエルサレム に入られたとき,人々がイエスを迎えるあいさつとしても ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 使われた(マタイ21:9,15参照)。『教義と聖約』では,5 つの章にこの言葉が出てくる(教義と聖約19:37;36: 教義と聖約19:29−32 福音を分かち合うこと マーティン・ハリスは,会うことを許されるすべての人 に回復された福音の「喜びのおとずれを告げ知らせ」るよ う命じられた(教義と聖約19:29)。そして,これはすべ 3;39:19;109:79;124:101)。」(ラドロー『必携』2: 136) 第20章 教会の規定と聖約 何度となく継続して指示を与えられた。この種の多くの啓 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 示の一つが以下に挙げるものであるが,これは預言と啓示 の霊により主から与えられたもので,わたしたちに数々の みこころ この偉大な啓示は,教会歴史における幾つかの初めての 出来事と関連がある。この啓示は教会の最初の大会(1830 年6月9日)において,現在第22章として知られる啓示とと もに,「教会の規定と聖約」として教会員の前で読み上げ られ,満場一致で受け入れられた(Far West Record『ファ 知識を提供するのみならず,わたしたちが主の御心と戒め とに従って,この地上に再び主の教会を組織する正確な日 付が示された〔教義と聖約20章〕。」(History of the Church 『教会歴史』1:64) ーウェスト記録』末日聖徒イエス・キリスト教会記録保管 注 解 所,p.1参照)。したがってこの啓示は,ジョセフ・スミス を通して与えられた啓示の中で,正式に教会員の支持を受 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ けた最初のものである。 「教会の規定と聖約」は1832年6月 に,この神権時代に教会から発行された最初の新聞『イブ ニ ン グ ・ ア ン ド ・ モ ー ニ ン グ ・ ス タ ー 』( Evening and Morning Star)創刊号の第1ページに掲載された。 第20章には,末日聖徒イエス・キリスト教会の教義,儀 式,教会員に求められる事柄について,非常に基本的な事 柄が簡明に説かれている。また,『モルモン書』が書かれ た目的や, 以前にジョセフ・スミスに与えられていた啓示, ジョセフ・スミスに対するオリバー・カウドリの援助など 教義と聖約20:1 教会はなぜ4月6日に組織されたか 預言者ジョセフ・スミスは,主が教会を1830年4月6日に 組織するように命じられたと記録している(『教会歴史』 1:64参照)。ハロルド・B・リー大管長は,4月6日の重要 性について次のように語っている。「1973年4月6日という 日は,特に意義深い日である。それは,この日がこの神権 時代における末日聖徒イエス・キリスト教会の設立を記念 する日であるということだけではなく,救い主であり,わ たしたちの主であるイエス・キリストの生誕を祝う日でも あるからである。 」(Conference Report『大会報告』1973年4 についても書かれている(教義と聖約18:1−5参照)。 月,p.4) 預言者はこの章について,次のように述べている。「こ スペンサー・W・キンボール大管長はこう語っている。 のようにして主は, わたしたちに委任された義務に関して, 「イエス・キリストの名とその意味するものは世界の歴史 43 の奥底に深く根を下ろしており,それが抜き取られること 優しく扱い,もしもわたしが惑わされていると思ったなら は決してありませんでした。キリストは4月6日にお生まれ になりました。神の息子の一人であり,また神の独り子で ば,適切な愛情に満ちた方法でわたしを改心させるように 努めて当然であった人々によって迫害されたため,わたし あるキリストの誕生にはこの上ない大きな意味がありま はあらゆる誘惑を受けるに任された。また,わたしはいろ す。」(『大会報告』1975年4月,pp.3−4) 預言者ジョセフ・スミスは,1833年の教会の記念日に次 いろな人々と交わって, しばしば多くの愚かな誤りを犯し, 若者としての弱さと人間性の至らなさを示した。遺憾なが のように記している。「この末日の王国に関係する事柄に ついて,互いに知識を交換し合った。人が永遠の命を得ら ら,このために神の目にかなわない様々な誘惑に誘い込ま れた。この告白をしたからといって,わたしが何か大きな れるように救い主がその命をささげられたのは,今からち ょうど1,800年前のことである。そして,最後の神権時代 罪,すなわち憎むべき罪を犯したと思うには及ばない。こ のような罪を犯す性質など,決してわたしにはなかった。 に備えるため,教会が荒れ野から出てきて,わずか3年で しかし,わたしは軽率な行動をし,時には陽気な仲間と交 ある。 」(『教会歴史』1:337) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わるなどして,わたしのように神から召された者が当然保 つべき性格に一致しない行動をした。しかし,わたしの若 教義と聖約20:2−4 預言者ジョセフはなぜ教会の 「第一の長老」に選ばれたのか いころを思い出し,わたしの生来の陽気な気質を知ってい る人には,このことはそれほど不思議には思われないであ 教会全体に対する啓示を受ける人が一人しか立てられな ろう。 」(ジョセフ・スミス−歴史1:28) いことの合理性を考えると,主が教会歴史の初期に,「第 一」と「第二」の長老を立てられたことの理由が明らかに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:9 『モルモン書』に「完全な福音」が なってくる。 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。「わ 載っていると書かれているのはなぜか 「わたしたちに授けられている啓示によれば,『モルモン たしは,いかなる教会員であっても,自分より高い権能を 書』には完全な福音が載っている(教義と聖約20:9; 持つ者のために指示を受けることは神の摂理に反すると申 し上げたい。そのような指示を心に留めると不都合が生じ 27:5;42:12;135:3参照)。『モルモン書』は,完全な 福音を持っていた民に対する神の計らいの記録であり,最 るであろう。もしも人が示現を受けたり,天の使者の訪れ を受けたりすることがあれば,それはその人個人のためで 高の救いに導く律法と原則がその書に記されているという 意味において,確かにそのとおりである。」 (マッコンキー, あり,個人に指示を与えるものである。なぜなら教会の基 Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.333。3ニーファイ 本原則や制度,教義は王国の鍵 に帰属するからである。」 (『教会歴史』1:338) 27:13−20参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かぎ このように,もしジョセフ・スミスが明確な形で長とし て立てられることがなかったなら,混乱と様々な問題が引 教義と聖約20:18−20 人 生まれながらの人,堕落した き起こされていたであろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人間が性善かそれとも性悪な存在かという問題は,様々 な時代の人々が心にかけてきた基本的命題の一つである。 教義と聖約20:5 「世の虚栄に巻き込まれた」とはど 人間は生来善なのだろうか,それとも悪なのだろうか。人 ういう意味か この聖句に関連する時期と主から指摘された行動につい 間は誕生を通して,原罪のようなものを何か受け継いでい るのだろうか。それとも生来善なる存在なのだろうか。性 て,預言者ジョセフ・スミスは次のように説明している。 「示現を受けたときから1823年までの間,わたしは当時の 悪説をとる人々は,世界が悪で満たされている証拠を際限 なく挙げる。確かに人間には,利己的な行為や不道徳,無 どの教派にも加わることを禁じられており,非常に未熟な 慈悲, 貪欲に陥りやすいという一般的な傾向があることは, 年齢でもあって,本来ならばわたしの友となり,わたしを これまでの例から明らかである。しかし,性善説を唱える 人々は,もし人間が生来悪ならば,人間は神の子供なので どんよく あるから,その悪は神から受け継いだものになってしまう と主張する。それが,わたしたちに知らされている神の属 性に一致しないものであるのはもちろんである。 このような論争に心を乱される末日聖徒も中にはいる。 そのような人々は,近代の聖典には人間の本質が悪である と教えられていると考えているのである。ベニヤミン王は 「生まれながらの人は神の敵」(モーサヤ3:19)であると 教え,アルマも人は「生まれながらの本性のために,肉欲 や官能におぼれ,悪魔に従う者となった」 (アルマ42:10) と言っている。しかし,これらの聖句と教義と聖約第20章 教会が組織されたピーター・ホイットマーの家 44 をあわせて考えれば, 「生まれながら」「本性」という言葉 は,人の永遠の存在の中で受け継ぐものを言っているので 第20章 きよ はなく,神の律法に背いた結果陥った一つの状態であるこ 教義と聖約20:31 「聖め」とは何か とがはっきりと分かる(特に20節参照;アルマ42:12も参 照)。 ブリガム・ヤング大管長は,聖徒にとって聖めはどのよ うな意味を持つかを次のように説明している。 聖典は「生まれながらの人」という言葉を,堕落した人, 「『聖め』という言葉を定義するとすれば,それはあらゆ 不従順な人と定義している。そして,この本性(アルマ み たま 42:10参照)は,人が「聖なる御霊の勧めに従い,主なる る罪に打ち勝ち, キリストの律法に完全に従うことである。 神はわたしたちの中に純粋な霊をお与えになった。この霊 キリストの贖 罪により,生まれながらの人を捨てて聖徒」 となる(モーサヤ3:19)なら,克服できるのである。 が,何の妨げも受けずに支配を始め,肉体を制し,主が天 地を治めておられると同じように統治力を有するようにな このように『教義と聖約』の啓示によって,最も賢明な ると,わたしはそれを聖めの祝福と呼ぶ。…… 主がわたしたちに望んでおられることは,まず自分自身 しょくざい 人々でさえも心を悩ましてきた問題が,他の多くの事柄と 同様に解明されているのである。 の心を新たにし,それからその原則を家族,隣人,さらに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:28 御父と御子と聖霊は一つの神であ 地に住む人々に広めていき,やがてはサタンの力を地上か ら一掃し,彼をそのおるべき所に追いやることである。こ る 神会には御三方がおられると教会で教えられているため れこそイエスが推し進めておられる業であり,わたしたち はイエスとともに働く者となるのである。現世において罪 に,この聖句は一部の末日聖徒に混乱を与えている。ジョ の誘惑を受けなくなる時がいつか来るなどという考えを持 セフ・フィールディング・スミス大管長は,どちらの考え 方も正しいことを次のように説明している。 「『高価な真珠』 たないようにしていただきたい。中には,現世で肉体と霊 の聖めを受けて,真理の敵の影響力を二度と感じなくなる と『聖書』に記されているように,わたしたちにとって神 は唯一であるということ〔モーセ1:6;マルコ12:32参 ほどまでに清められることができると考えている人がい る。もし現世においてそこまで完成した状態に達し得る人 照〕,これはまったくの真理である。この場合の神を正し がいるなら,その人は死ぬこともないであろうし,罪が支 く解釈するならば,それは神会という意味である。神会は 御父と御子と聖霊とによって構成されているからである。 配する世にとどまることもないであろう。この世には罪が 入り込み,罪によって死がもたらされるようになった。思 この神会がわたしたちを管理しておられる。この世に住む すべての者にとって,御三方は一つの神,すなわち神会を うに,わたしたちは生きているかぎり多かれ少なかれ罪の 影響を受け,やがては死の試練を通り過ぎていくのであ 成すのである。御三方を除いてほかに神はない〔1コリン る。」(Journal of Discourses『説教集』10:173) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ト8:5−6参照〕。わたしたちは神会の権威に従う義務があ る。そして,わたしたちが従う神会はこれよりほかにない。 教義と聖約20:32 「恵みから落ち」るとはどういう しかしながら,預言者が示したように,ほかの神々も存在 し得るし,また存在するのである。」(Answers to Gospel 意味か セオドア・M・バートン長老は,この聖句について次の Questions『福音の質疑応答』2:142) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ような考えを述べている。「この聖句の言わんとするとこ ろは,わたしが理解するかぎりでは,もしわたしたちが心 教義と聖約20:30 わたしたちはどうすれば,義とさ を尽くして主に仕えるなら,イエス・キリストはわたした れるか ブルース・R・マッコンキー長老は,義認の律法を次の ちに優しさと慈悲を示してくださるが,すでに過去のもの となった義の行いや奉仕の業に救いを求めることはだれに ように定義している。 「『すべての聖約や契約,きずな,義 務,誓詞,誓言,履行,関係,交際,期待』(教義と聖約 もできないということである。またこの聖句は,義の水準 に関してすでにかなりの域に達している人も含め,すべて 132:7)である。人はこの律法を受け入れ,義にかなって の人は良い状態から落ちる可能性があるということも意味 これを踏み行わなければならない。そうするときに聖なる 御霊は,救いを願う者をそのなした事柄によって義とされ している。したがって,わたしたちは皆,信仰,祈り,教 会の様々な活動や責任をいいかげんにするような習慣の中 るであろう。……御霊によって義とされる行為とは,約束 の聖なる御霊によって結び固められる行為,言い換えれば, に落ち込むことのないように注意しなければならない。わ たしが日々,これまで行ってきた以上に神に近い生活を送 聖霊により認可される行為である。この義認の律法は主が り,主の選ばれた預言者や使徒にさらに熱心に従おうとい う思いを新たにしているのは,その理由によるのである。」 福音のうちに定められた規定であり,不義な行為が地上に おいても天においても決して祝福をつなぐことがなく,ま (『大会報告』1973年10月,p.153) ただれも労せずに祝福にあずかって,来世の自分の地位す なわち栄光を高めることがないようにするものである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:37 「打ち砕かれた心と悔いる霊をも ほかのあらゆる救いの教義と同様,人が義とされるのも あがな キリストの贖いの犠牲があるからである。しかしそれは, って進み出て」とはどういう意味か ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この二 その人が義にかなった状態にあるときにのみ,効力を及ぼ つの言葉を次のように定義している。 すのである。 」(『モルモンの教義』p.408) 「悔いるとは,罪に対する深い悲しみを伴う砕けた心の 表れであり,間違った行いの本質を理解し,神の恵みによ 45 ゆる る赦しを得たいという望みを抱いたことの表れである。悔 あるいは神会の御一方のもとに戻る特権を,従順さと忠実 いる霊は救いを得るのに欠かせない。」(Religious Truth Defined『明らかにされた宗教の真理』p.273) さを通して得るのである。そして,日々の生活において, 「砕けた心とはどういうものであろうか。それは謙遜な 心であり,主の御霊に感じた心であり,福音が包含するす ともに歩み,言葉を交わしたように,聖霊から導きと指示 けんそん あたかもアダムがエデンの園において神である天の御父と べての聖約と義務を喜んで守ろうとする心である。」(『大 を受けるのである。聖霊からのこのような導きと指示を受 けるには,霊的に再び生まれなければならない。」(『大会 会報告』1941年10月,p.93) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 報告』1947年10月,p.64) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:38 う意味か 教義と聖約20:57 「使徒は長老であり」とはどうい 執事の職のおもな役割は何か 「主がここで明らかにされたように, 『長老』という呼称 執事の職の責任については特に述べられていない。「執 事の義務は教師を助けることにある。執事にはアロン神権 は,使徒をはじめ,メルキゼデク神権を持つほかのすべて の人にも当てはまるものである。この呼称を用いれば, の初めとして与えられた力と権能がある。その義務をよく 果たす者は,さらに上の職を受ける資格を得る。 」 (スミス, 『使徒』『祝福師』『大祭司』などの神聖な言葉を不必要に 用いることがなくなる。一般的な用法として,使徒,七十 人,またほかのすべてのメルキゼデク神権者を長老と呼ぶ のは適切である。もちろん,大管長という呼称も適切なも のである。 」(スミス,Church Histoty and Modern Revelation 『教会歴史と近代の啓示』1:95) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:41 「火と聖霊によるバプテスマ」 ブルース・R・マッコンキー長老は,両方のバプテスマ ショダール共著,Commentary『注解』p.108。特別講座M およびN参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:60 教会の創立に際して,神権のすべ ての職が知らされなかったのはなぜか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に述べている。「主は初め,すべてが整った完全な組織体 としての教会に必要な知識と組織を,教会員に一つ残らず の重要性を次のように概説している。 啓示することはなさらなかった。もしそのようにしていた ら,それは抗し難い洪水のようになり,滅亡をもたらして 「責任を負う能力のある人は,救いを得るためには,二 つのバプテスマを受けなければならない。その二つとは, いたであろう。真理は,わたしたちが知識を得るときのよ うに,規則に規則,教訓に教訓と,段階的に知らされなけ 水のバプテスマと御霊のバプテスマである(ヨハネ3:3− 5参照)。御霊のバプテスマは,火と聖霊によるバプテスマ ればならない。しかし,教会が組織された当時,教会の統 とも呼ばれる(マタイ3:11;ルカ3:16;2ニーファイ 治には,この章に啓示されている事柄で十分であった。」 (『教会歴史と近代の啓示』1:95) 31:13−14;3ニーファイ11:35;12:1−2;モルモン7: 10;教義と聖約20:41;33:11;39:6参照)。聖めを与え ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:61−62 教会の大会の目的 る御方である聖霊の力によって(3ニーファイ27:19−21 参照),悔い改めた人の汚れ,罪悪,肉欲,情欲,またす ハロルド・B・リー大管長は,末日聖徒にとって大会が べての悪いものが,あたかも火によるかのごとくに焼き尽 くされる。そして清められた人は,文字どおり聖霊によっ て新たな者となる(モーサヤ27:24−26参照)。その人は 再び生まれるのである。 火のバプテスマとは,聖霊を受けることのほかに何かを あんしゅ 受けることではない。それは,バプテスマのときの按手に たまもの よって授けられる賜物を実際に享受することである。主は 非常に重要なものであることの理由を次のように教えてい る。「さて,あなたがた末日聖徒は,大会のこの3日間に, これまで思い煩ってこられた事柄や問題についてこの上な い霊感あふれる宣言をお聞きになったことと思う。聖徒た ちに主が知ってほしいと思っておられる事柄が何であるか を知り,これから6か月間の導きと指示を得たいと思うな らば,大会の説教録を1部入手することである。そうすれ 『罪の赦し』は『バプテスマ……および火すなわち聖霊』 ば,聖徒たちに関する最新の主の言葉が分かる。」(『大会 報告』1973年10月,p.168) によってもたらされると言っておられる(教義と聖約19: 31;2ニーファイ31:17)。火のバプテスマを受けた人は, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:65 同意の律法の原則 『あたかも火で満たされたかのように』(ヒラマン5:45) なる。 」(『モルモンの教義』p.73) 教義と聖約第26章の「注解」を参照する。 さらに,ハロルド・B・リー長老は次のように説明して ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約20:65 教会役員をどのように支持するか いる。 「水に沈めるバプテスマは,罪ある人間の死と埋葬を象 ジョン・テーラー大管長は,役員を支持することの裏に 隠れた意味について次のように述べている。「人を支持す 徴したものである。そして水から出て来ることは,復活し て霊的に新たな人生が始まることを意味する。バプテスマ ることにはどのような意味があるのだろうか。わたしたち の後で,バプテスマを受けた信者の頭に手が置かれ,信者 は聖霊の賜物を授かるという祝福を受ける。このようにし て,バプテスマを受けた人は約束,すなわち聖霊の賜物, 46 はそれを理解しているだろうか。皆さんにとってはどうか 知らないが,わたしにとってそれは非常に簡潔である。例 えば,もしある人が教師になり,わたしがその職にあるそ の人を支持するという意思を挙手をもって示したなら,そ の人が正式な訪問をして来た場合,わたしはその人を喜ん た信仰と祈りの唱和によって益を得るのである。 」(Millen- で迎え入れ,丁重に接する。また,必要な場合は助言を求 め,できる限りのことをして彼を支持する。それが本来あ nial Star『ミレニアルスター』1878年4月15日,p.235) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るべき姿であり,義の原則なのである。わたしは彼の人格 を傷つけるようなことは決して口にしない。もしもこの考 教義と聖約20:71 なぜか えが正しくないとするならば,わたしはまだまだ勉強不足 ということである。またわたしは,だれかが彼の名誉を傷 「バプテスマは罪の赦しのための儀式である。そして, 人は神の前に責任を負う年齢に達するまで罪を悔い改める つけるようなことをこそこそ話しているのを聞いたら, ことはできないのである。」(『救いの教義』2:46。モロナ 『あなたはそれでも聖徒ですか』と言う。『聖徒です』と言 えば,『あなたは手を挙げて彼を支持しませんでしたか』 イ8:5−26参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ と尋ねる。 『支持しました』と言えば,『それなら,なぜそ のようにしないのですか』と言う。支持するとはこういう 教義と聖約20:73,77,79 定められた祈り せいさん バプテスマの祈りと聖餐の二つの祈りは,様式が定めら ことではないだろうか。名誉はだれにとっても大切なもの れている。様式が定められている祈りは,一語一語そのと であり,もしだれかが彼の名誉を損なおうとしたら,わた しはそのようにして彼を擁護する。 」(『説教集』21:207− おりに読み,覚え,復唱しなければならない。言葉を自由 に変えられないことは,これらの祈りの重要性をさらに増 208) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ し加えている。「様式が定められたこの二つの祈りは,非 常に威厳のある,霊的で,美しいものであるとともに,わ 教義と聖約20:70 幼児がバプテスマを受けないのは 教会員の前で子供の祝福をするの たしたちがもっと心を向け, 深く学ぶに値するものである。 はなぜか ジョン・テーラー大管長は,この戒めが神から直接与え 主の肉と血の象徴は,大いなる犠牲の記念として受けるべ き も の で あ る こ と に 注 意 す べ き で あ る。」( ス ペ リ ー , られたものであるということに加えて,次のような点を指 摘している。「この戒めはエホバから直接与えられたもの Compendium『概要』p.97) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ である。とすれば,わたしたちはためらいや不服を捨てて, 熱心に従わなければならない。この戒めが子供と両親の双 教義と聖約20:75,79 いか 方に益をもたらすものであることを証明するすばらしい理 聖餐にぶどう酒を用いてもよ 教義と聖約27:1−4の「注解」を参照する。 由は,実に数多くあると思う。両親たちは子供を教会員の 前に連れて来ることにより,子孫を増やしてくださったこ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ と,また無事出産できたことへの感謝の念だけでなく,兄 弟姉妹が見守る中で神の言葉と約束を信じる信仰を示すの 特別講座Iには,会員の戒めへの背きの取り扱いに関す る教会の律法について,より詳しく述べられている。 教義と聖約20:83 である。そして子供もまた,そこに集う聖徒たちの一致し 「あたかもわたし自身の口から 出ているかのように,彼の言葉を 受け入れなければならない」 第21章 人々が近代の預言者の指示の下にイエス・キリストの教会 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を組織したのである。 この集会は厳粛な祈りによって始められた。ジョセフ・ 黙示者ヨハネが預言したように,イエス・キリストの教 あら の 会は背教のゆえに,17世紀以上の長きにわたって「荒野」 スミスとオリバー・カウドリが神の王国における指導者と して支持を受け,末日聖徒イエス・キリスト教会を組織す の中にあった(黙示12:14。教義と聖約86章参照)。キリ ストの教会は,人の教えによって腐敗堕落してしまったの ることが全会一致で承認された。預言者ジョセフ・スミス はその後の模様を次のように記録している。 である。 「それから,わたしはオリバー・カウドリの頭に手を置 1830年4月6日火曜日,ニューヨーク州のピーター・ホイ ットマー・シニア家で少数の人々が集会を開いた。この集 き,『末日聖徒イエス・キリスト教会』の長老に聖任し, その後彼がわたしを同教会の長老の職に聖任した。次いで 会には国の指導者も当時の宗教界の指導者も招待されなか った。また,その出来事を報じる新聞もなかった。しかし, わたしたちはパンを取って祝福して彼らとともに食べ,ぶ どう酒を祝福して彼らとともに飲んだ。その後,わたした 天においては天使たちが喜び,地上では,この選ばれた ちは聖霊の賜物を授けてキリストの教会の会員に確認する たまもの 47 ために,一人一人の頭に手を置いた。聖霊がわたしたちの に与えられる主の力を用いて行われる。要するに,聖見者 うえに豊かに注がれ,ある者は預言をし,またわたしたち は皆主を賛美し,非常な喜びを得た。そして,皆が一緒に とは物事を見る人,開かれた目をもって主の光の中を歩む 人である(モーサヤ8:15−17参照)。」(Evidences and Rec- いた間に,わたしは次の戒めを受けた〔教義と聖約21 onciliations『証言と和解』1:205−206。モーセ6:36参照) み たま 翻訳者 「翻訳者」という呼称は,神の御 霊によって 章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:77−78) 預言者に授けられる以下の二つの祝福を受けている人に当 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約21:1 「あなたがたの間で記録を記さなけ ればならない」 しもべ 教会が組織されたその日から,主はその僕たちに,啓示 てはめることができる。 1.書かれた言葉や話された言葉をほかの言語に変える 能力(教義と聖約20:8参照) 2.すでに授けられている言葉の意味を明らかにする能 力 の記録をとり,教会の日々の歴史を記した記録を残すこと の大切さを教えられた(教義と聖約128:4−5参照。教義 預言者は翻訳の賜物を通して,原著者が書いた言葉を読 者が用いる言葉で伝えるだけでなく,啓示によって原著者 と聖約第47章の「注解」参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の考えや意図も読者に正しく伝える。 預言者 以下はウイッツォー長老による定義である。 教義と聖約21:1 主の預言者に召される人には,特別 「預言者は教師である。預言者という言葉の基本的な意 にどのような霊的賜物が与えられるか 以下の定義は,教会の大管長という特別な召しを明確に 味はこれである。預言者は,主が人に明らかにされた一連 の真理である福音を教え,またそれを民が理解できるよう する助けとなる。 聖見者 ジョン・A・ウイッツォー長老は聖見者を次 に霊感を受けて説明する人である。預言者は真理の解説者 である。さらに彼は,人の幸福は神の律法に従ってこそも のように定義している。「聖見者とは,霊的な目をもって たらされることを教える。また,真理からそれている人々 見る人である。ほかの人には意味の判然としないことでも, この人には分かる。したがって,永遠の真理を解釈し,明 に悔い改めを叫ぶ。預言者は,人類に関する主の目的を達 成する戦士となる。彼の生活の目的は,主の救いの計画を らかにする人とも言える。彼は過去や現在の出来事を通し て未来を見る。このことは主から直接に,またはウリムと 支持することである。彼はこのことをすべて主との密接な 交わりによってなす。そして,やがては『主のみたまによ トンミムのような神から授かった道具の助けを借りて間接 って力に満ち』るのである(ミカ3:8。教義と聖約20: 26;34:10;43:16参照)。…… 時の経過とともに,『預言者』という言葉は主として啓 示を受ける人,主から指示を受ける人の意味に取られるよ うになってきた。そして,預言者の仕事が未来の出来事を 予告し,預言するものと間違って解釈されてきている。こ れは幾つかの預言者の働きの一端にすぎないのである。 もしも預言者がただ主から啓示を受けるだけの人なら ば,『聖見者,啓示者』という呼称は『預言者』という呼 称をただ強調するだけのものとなる。」(『証言と和解』1: 204−205) 出エジプト4:15−16;7:1−2には預言者の役割につい て書かれている。 使徒 使徒は全世界に対するイエス・キリストの特別 な証人である(教義と聖約107:23参照)。預言者ジョセ フ・スミスは質疑応答の形で,重要な使徒の職について説 明している。 「これら十二使徒の召しが教会のほかの召しや職と比べ て重要なのはなぜであろうか。…… この職に召される人は,十二使徒として巡回高等評議会 の職に召される人である。彼らは異邦人の中で聖徒たちの 教会を管理する。そこには会長会が設けられる。主がユダ の ヤ人に福音を宣べ伝えるようにとお命じになるときまで, 使徒の職にある人々は異邦人の間を巡って宣べ伝える。彼 かぎ らはこの教導の鍵を保ち,すべての国民のために天の王国 ウィルフォード・ウッドラフの日記の一部 48 の扉を開き,すべての生ける者に福音を宣べ伝えなければ ならない。これが使徒職に属する力であり,権能であり, 第21章 務めなのである。 」 (『教会歴史』2:200) 長老 21:4−5)。信仰と忍耐を必要とするものもあるだろう。 メルキゼデク神権の一つの職の呼称である長老 は,この神権を持つ人を表す一般的な呼称でもある。ブル 中央幹部からのメッセージを快く思えないことがあるかも しれない。あなたの政治上の見解や社会観と相いれないも ース・R・マッコンキー長老はさらに,長老とは主の代表 であるとして,次のように述べている。「長老とはどのよ のもあるかもしれない。また,あなたの社会生活を多少妨 げるかもしれない。……わたしたちの安全は,主が主の教 うな人であろうか。長老は主イエス・キリストの教職者で あり,聖なるメルキゼデク神権を持っている。すなわち, 会を管理するよう召された人に従うかどうかにかかってい る。主はこの教会を管理させたいとお考えになる人を御存 同胞に教えを説くに当たって,長老の長である主に代わっ じである。決して誤ることはない。主は気まぐれに物事を て働くよう委託されている主の代理人なのである。その使 命は福音を宣べ伝え,聖徒を完全な者にすることにある。 」 なす御方ではない。…… わたしたちは大管長に目を向け……ようではないか。」 はらから (“Only an Elder” Ensign「ただの長老だろうか」『エンサイ ン』1975年6月号,p.66) (Conference Report『大会報告』1970年10月,pp.152−153) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約21:6 教義と聖約21:4−5 聖徒たちは,だれの言葉を主御 自身の言葉と同じように受け入れるべきか なすばらしい祝福が授けられるか この聖句の中では,預言者の言葉を心に留める人々に3 主の僕を受け入れる人にはどのよう ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この問 いに対して次のように答えている。「預言者ジョセフ・ス つの祝福が約束されている。 1.「地獄の門もあなたがたに打ち勝つことはない」 ブ ミスに与えられた『あたかもわたし自身の口から出ている ルース・R・マッコンキー長老は,この点ついて次の かのように,彼の言葉を受け入れなければならない』とい う主の言葉に関連して,これまで様々な推論がなされてき ように説明している。「地獄の門は,暗黒の領土への 入り口である。悪人はそこへ行き,罰の定めの復活に た。これはモーセに関連して主がイスラエルに与えられた み こと ば 御言葉であるが,全能者の代理人として支持されるほかの 出て来る日を待つのである。人々をおびき寄せるこれ らの門は,そこを通り抜けるすべての人を打ち破る。 すべての人にも当てはまるものである。後に主は,霊感を 受ける僕に関して次のように述べておられる。『何であろ しかし,福音の律法と儀式に従う人々には,地獄の門 も勝つことができないと約束されている。」(Doctrinal うと聖霊に感じて語ることは,聖文となり,主の心となり, New Testament Commentary『新約聖書教義注解』1: 主の思いとなり,主の言葉となり,主の声となり,救いを 得させる神の力となる。』(教義と聖約68:4)この神権時 388−389) やみ 2.「神はあなたがたの前から闇の力を追い払い」 代の人々にも昔の民と同じ傾向が見られる。どちらかと言 えば,過去の神権時代に語られたものを主の言葉として受 3.「あなたがたの……ために天を震わせるであろう」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ け入れる傾向が強く,今日主がその選ばれた僕を通して語 教義と聖約21:7 られることについては,批判的であったり,信じなかった りする。しかし,この点に関する主の言葉は非常に明快で 預言者に従うことこそ安全な道である 7節の「彼」はジョセフ・スミスを指しているが,教会 ある。主によって選ばれた僕の声に聞き従い,主の言葉を 見失うことがないようにしようではないか。それはジョセ を導く鍵を授けられるすべての人にも当てはまる。1830年 当時の聖徒にとっては,ジョセフ・スミスこそが,シオン フ・スミスであれ,ほかの大管長であれ,同じことである。 の大義を推し進めるように神から霊感を受けた預言者であ こんにち よ み 神の預言者はシオンの大義を導く− 『黄泉 の力もそれに打ち勝つことはない。』(マタイ16: 18)」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近 った。また,1860年の聖徒たちにはブリガム・ヤングが, 1980年の聖徒たちにはスペンサー・W・キンボールが,シ 代の啓示』1:107−108) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ オンの大義を推し進めるために召された預言者なのであ る。次の二つの言葉には,生ける預言者に従うことがなぜ 教義と聖約21:5 主の預言者を支持するのに忍耐と信 仰が必要なのはなぜか 安全な道であるのかが示されている。デルバート・L・ス テイプレー長老は次のように述べている。 ハロルド・B・リー大管長は,主の預言者を支持すると 「兄弟姉妹に証申し上げる。神は〔生ける預言者〕を支 いう特別なチャレンジについて,次のように警告してい る。 持しておられる。今日この世に,彼以外にこのような立場 にある人はいない。なぜなら,彼は預言者,聖見者,啓示 「さて,この教会の会員であるわたしたちにとって最も 安全な道は,教会が組織された日に主が教会に語られた言 者としての聖なる召しを受けており,この時代に地上にあ って主の代理をする人だからである。教会全体に関する啓 葉に厳密に従うことである。わたしたちは主が預言者を通 示を受ける権利は,彼にしか与えられていない。すべての じて下される言葉や戒めを心に留めるようにしなければな きよ らない。『彼がわたしの前を完全に聖く歩み,わたしの言 人がこのことを理解していれば,教会や崇高な原則から引 き離そうとねらっている者たちにかき乱されることはない 葉と戒めを受けるとき』 ,『忍耐と信仰を尽くして,あたか もわたし自身の口から出ているかのように,彼の言葉を受 であろう。…… そして,偽りの教師や反キリストの介入を防ぐために身 け入れなければならない』とあるからである(教義と聖約 を固めるのである。そのような者が実際にわたしたちの群 あかし 49 れの中にいる。」(『大会報告』1953年10月,p.70) 幾つか書かれている。付録の特別講座Fには,このテーマ またハロルド・B・リー長老は次のように証している。 「わたしたちは,標準聖典に含まれている過去に与えられ についてさらに詳しく述べられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た啓示だけに依存しているのではない。それらは確かにす ばらしいものであるが……。わたしたちには神の代理人が 教義と聖約21:7−8 「もうシオンのために彼を嘆き 悲しませないようにしよう」 与えられている。神はこの代理人に御自分の思いと望みを 明らかにされる。現に神はそうしておられるのである。神 「シオンの大義を推し進める」中で,ジョセフ・スミス が味わう悲しみはまだ終わっていなかった。それどころか, は預言者がわたしたちを誤った方向に導くことを決してお 始まったばかりであった。しかし,主は御業の確立に助け 許しにならない。すでに語られているように,わたしたち がそのようなことをしようとすれば,神はわたしたちをこ を求める彼の祈りを聞き入れられた。ジョセフの罪は赦さ れ,主はジョセフの働きに対する祝福を明らかにされた。 の召しから外されるであろう。皆さんは何も心配するには 及ばない。神の支配と統治は主にゆだねていただきたい。 そして,ジョセフ・スミスは王国をただ一人で支える必要 がなくなったのである。王国は教会の組織をもって建てら 預言者,すなわち生ける預言者,聖見者,啓示者を通して れた。人手によらずに山から切り出された石は,シオンが 神のみが啓示により関与される管理やそのほかの事柄につ いて,あら探しをしてはならない。」(The Place of the Liv- 十分に確立されて全地を満たすようになるまで,転がり行 くのである(ダニエル2章参照) 。 ing Prophet『生ける預言者の務め』〔セミナリー・インス ティテュート職員への講演〕1964年11月8日,p.45) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 生ける預言者の務めについては,『教義と聖約』の中に み わざ ゆる 教義と聖約21:11 教義と聖約20:2−3を参照する。 バプテスマ── 新しくかつ永遠の聖約 第22章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 以前にバプテスマを受けた人の中には,再びバプテスマ を受けることなく教会の会員になりたいと望む人がいた。 教義と聖約22:1−4 神権の権能によって神聖な儀式 を執行することは,どれほど重要なことか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,このよう な新しい改宗者が権能という概念を理解できるように助け ジェームズ・E・タルメージ長老は,神権時代に権能が 与えられなければならない理由を次のように説明してい を与えることについて,次のような説明をしている。 る。 「教会が組織されるやいなや,改宗者が出た。そのうち の何人かは,水に沈めるバプテスマを信条とする教会に属 「主は御自身の教会をこのアメリカ大陸のニーファイ人 の中に設けられたとき,選ばれて聖任され,権能を授けら していた人々であった。事実当時の改宗者の多くがこの様 式を受け入れ,これが正しいと信じていた。しかし,神の れた人々に,バプテスマの儀式の執行の仕方を実際に教え られた。彼らは次のように言うよう命じられた。『わたし 権能については,心の中に確固としたものがなかった。そ あかし の結果,ジョセフ・スミスの話が事実であるという証を受 はイエス・キリストより権能を受けたので,御父と御子と み な 聖霊の御名によって,あなたにバプテスマを施します。ア け入れて主の教会に加入することを希望する人の中にも, ーメン』しかし,それは今の時代のわたしたちに権能を授 自分は水に沈めるバプテスマの儀式に従ったのに,なぜも う一度バプテスマを受ける必要があるのかと,疑問を持つ けるものではない。キリストが昔の使徒たちに語られた言 葉は,現代の使徒にも,この教会のいかなる長老にも,権 人が出てきたのである。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:109) 能を付与するものではないのである。もう一度申し上げる。 わたしたちは,ニーファイ人の中から選ばれた弟子たちに このような状況に応じて,ジョセフ・スミスは主に尋ね, 第22章を受けた。 語られた主の言葉によって権能を与えられるのではない。 そうではなく,主はこの時代に再び語りかけ,昔と同じ力 と権能を授けて,わたしたちが主の名によって語り,主御 自身が定められた方式による福音の儀式を執行できるよう にしてくださった。したがって,自らの信仰を告白して罪 を悔い改めた人々をバプテスマの水に導く現代の長老や祭 50 司たちは,自分に権能が与えられていることを宣言し,イ エス・キリストから権能を託された者として,御父と御子 と聖霊の名によってバプテスマを施すのである。」(Conference Report『大会報告』1924年4月,p.68) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約22:1 「新しくかつ永遠の聖約」とは何か 「新しくかつ永遠の聖約」という言葉は『教義と聖約』 の中に何度も出て来る。ジョセフ・フィールディング・ス ミス大管長は,この言葉を次のように定義している。 「新しくかつ永遠の聖約とは,完全な福音のことである。 み たま それは約束の聖なる御霊すなわち聖霊により,もろもろの かぎ 鍵を持つ教会の大管長の権能によって教会員に結び固めら れる『すべての聖約や契約,きずな,義務,誓詞,誓言, 履行,関係,交際,期待』から成る。大管長はメルキゼデ ク神権の鍵を持っている。大管長は権能を他の人々に委譲 して,神権の聖なる儀式を執行する権限を与える。 永遠の結婚は一つの新しくかつ永遠の聖約である。バプ テスマも一つの新しくかつ永遠の聖約である。神権への聖 任も同様である。また他のすべての聖約は永遠であり,す べてのものを含む新しくかつ永遠の聖約の一部である。」 (Answers to Gospel Questions『福音の質疑応答』1:65) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約22:4 「門から入りなさい」 バプテスマは門である。すなわち,責任を負う年齢に達 「門から入りなさい」(教義と聖約22:4) った。彼は成長し,教会の中で能力のある傑出した人物に したすべての人が日の栄えの王国に入るための必要条件で なった。わたしが覚えているかぎりでも,彼は教会の宣教 師として5,6度召しを果たしている。彼は同じ腕,同じ ある(2ニーファイ31:15−21参照)。バプテスマの儀式は 絶対に必要なものであるが,それにふさわしい生活の変化 足,同じ体,同じ心を持つ同じ人であったが,永遠の真理 を受け入れる人にもたらされる御霊によって変わったので を伴ってこそ有効になるのである。再び生まれるというこ とは,その人が新しい生活を始めること,また新しい人に ある。このような例は,家族,友人,またわたしたちが住 なることを連想させる。ジョン・A・ウイッツォー長老は んでいる小さな町の中にもあるのではないだろうか。隣人 への愛,毎日の仕事への愛,また人生のあらゆる善いもの そのような生活の変化について,こう説明している。「わ たしは,わたしに教会に入るためのバプテスマを施してく に対する自分の愛が,次第に深まっていくのを感じたこと はないだろうか。 」(『大会報告』1952年4月,p.34) れた人のことを覚えている。彼は初めごく普通の人であっ た。日に2,3度ビールを飲み,夜が更けてからはウイスキ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ーを引っかけて酔っ払い,またほとんど一日中たばこを口 教義と聖約22:4 てはならない」 から離さず,日に3度の食事をし,肉の欲を満たすだけで, 何の目的もない無益な生活をしていた人であった。その彼 以下の聖句の内容を熟考する。教義と聖約3:1−9; 63:55;124:84;136:19;『モルモン書』ヤコブ4: が福音を聞き,受け入れたのである。福音はすばらしいも のであった。それこそ彼がずっと探し求めていたものであ 10;モーサヤ4:9;イザヤ55:8−9。 「絶えず教会員を強める」 「あなたがたの神に忠告しようとし 第23章 フ・スミスのもとに,オリバー・カウドリとハイラム・ス 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ミス,サミュエル・H・スミス,ジョセフ・スミス・シニ ア,ジョセフ・ナイト・シニアが訪れた。彼らは,ジョセ 1830年4月,ニューヨーク州マンチェスターのジョセ フ・スミスを通して,自分たちに関する主の思いと望みを 51 わざ 知りたいと望んでいたのである。預言者は彼らの願いを聞 業の初めに当たり,自分の息子に心からの信頼を寄せ,彼 き入れ,今日教義と聖約第23章として知られる啓示を受け た(History of the Church『教会歴史』1:80参照)。 のために尽くしたジョセフ・スミス・シニアに対し,この ように告げられた。『あなたもまた何ら罪の宣告を受けて 最初『戒めの書』の一部として刊行されたとき,この啓 いない。そして,あなたの召しもまた,説き勧め,教会員 を強めることである。これが今から後とこしえにあなたの こんにち 示は17章から21章として,5つの部分に分けられていた。 しかし,その後の版では一つの章にまとめられた。 務めである。アーメン。』」(『教会歴史と近代の啓示』1: 121) 注 解 ジョセフ・ナイト・シニア ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約23:1−6 授けられる 初期の教会指導者たちに啓示が 「この教会に加入する 前に,ジョセフ・ナイトがあまり祈りをしていなかったと いうことは,十分に考えられる。彼は非常に自由主義的な 見解を持つ普遍救済論者であった。この啓示は,彼がこの ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この啓 示の中に名を挙げられている人々について,次のように述 教会に加入する前に与えられたものである。彼は,教会の 最初の大会の後,コールズビルの堰が敵に壊されたときに べている。 オリバー・カウドリ 「主は初めにオリバー・カウドリ バプテスマを受けた。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:122) ジョセフ・ナイトの息子,ニューエル・ナイトもあまり に語られ,誘惑に陥ることのないように,高慢に気をつけ 祈りをしていなかった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るよう言われた。それはオリバー・カウドリが陥りやすい 罪であった。オリバー・カウドリは,カートランドの困難 教義と聖約23:6 十字架を負うとはどういう意味か な時期にへりくだっていたならば,教会における職や会員 資格を失うことはなかったはずである。彼に授けられてい ラドローは次のように説明している。「十字架を負うと いう表現は,昔の聖典にも現代の聖典にも出てくる。少な たものは非常に偉大なものであり,自ら進んでへりくだっ くとも『教義と聖約』には3度出てくる(23:6;56:2; 112:14) 。マタイ16:24で,救い主は次のように述べてお かぎ ていたならば,自分の特権として,時満ちる神権時代の鍵 を持ち,永遠にわたり預言者ジョセフ・スミスと並び立つ み こと ば られる。『だれでもわたしについてきたいと思うなら,自 ことができたのである。しかし,この御言葉を求めた時点 では,罪の宣告を受けるところは何もなかった。彼は自分 分を捨て,自分の十字架を負うて,わたしに従ってきなさ い。』『聖書』の霊感訳には,イエス・キリスト御自身が語 の召しを教会員と世の人々の双方に知らせるように命じら られたままに,この言葉の意味が記されている。 『そして, 自分の十字架を負う者は,すべての不信心とあらゆる世の れた。これを行えば,彼の心は開けて,それから後とこし えに真理を教えることができたであろう。彼に与えられた 欲を捨て,わたしの戒めを守らなければならない。 』(ジョ 偉大な使命は,この神権時代の救いの鍵を持って,預言者 ジョセフ・スミスと並び立つことであった。また彼には, セフ・スミス訳マタイ16:25−26)」(Companion『必携』 2:56) 全人類に福音の回復を証 するという義務も与えられてい た。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近 ジェームズ・E・タルメージ長老はこう書いている。 「わたしたちが負うべき十字架は重いかもしれない。重す あかし 代の啓示』1:120−121) ハイラム・スミス 「ハイラム・スミスに与えられた ぎて担い切れず,引きずるほどかもしれない。わたしたち は十字架というと, 自己否定しかないと考えがちであるが, この短い祝福の中には,別の非常に重要なものが含まれて いる(教義と聖約23:3)。このように述べられている。 『あなたの務めはとこしえに教会に対するものである。こ れはあなたの家族のゆえである。アーメン。』この啓示が 与えられたときに,預言者ジョセフ・スミスがこの御言葉 の意味するところを理解していたかどうかは疑わしい。後 に明らかになることであるが,これは祝福師の職について 語られたものであった。」(『教会歴史と近代の啓示』1: 121) サミュエル・スミス 「サミュエル・スミスはまだ世 の の人々の前に宣べ伝える召しを与えられていなかったが, 主はサミュエルに,彼の務めは教会員を強めることである と言われた。彼がこの神権時代において3番目にバプテス マを受けた人物であることも思い起こされる。彼は長老の 職に聖任された最初の一人であった。彼は程なく,人々を 教えるために遣わされ,自分でも考えられないほどの成功 を収めた。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:121) く み ジョセフ・スミス・シニア 「主は,この奇 しき御 52 最後の神権時代の最初の宣教師に召されたサミュエル・スミス 自己否定というものを広い視野に立って,すなわち肯定的 けることであるが,別の人にとっては,ほかの事柄の厳格 な面と否定的な面の両方を持つものとしてとらえるのでな ければ,その考えは正しいとは言えない。ある人にとって な遵守とあわせて,イエス・キリストの福音が求める様々 な 働 き を 怠 慢 な 態 度 で お ろ そ か に す る こ と で あ る 。」 十字架とは,行いたいことをやめることかもしれないが, 別の人にとってそれは,あまり気の進まないことを行うこ (Vitality of Mormonism『モルモニズムの活力』p.339。教義 と聖約56:2の「注解」参照) とかもしれない。また,ある人にとって罪とは,悪事にふ 「ラッパの音のようにわたしの福音 を告げ知らせなければならない」 第24章 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・スミスは1830年の4月を,ニューヨーク州コ ールズビルのジョセフ・ナイト・シニアの家で過ごした。 ナイト家の人々はジョセフ・スミスのメッセージを喜んで 聞いていた。そこに滞在中,預言者はジョセフ・ナイトの 息子ニューエル・ナイトから悪霊を追い出した(History of ま the Church『教会歴史』1:82−83参照)。その奇跡を目の 当たりにした人のほとんどが,やがてバプテスマを受けた いと望んだ。しかしその結果,敵意が増し,それがバプテ スマを妨害したり,偽りの告発によって預言者に対し何度 もいやがらせの訴訟を起こしたりという具体的な行動にな って現れてきた。預言者はこれらの訴えに適切に対処し, 無罪となったが,失われた時間は多かった(『教会歴史』 1:88−89,95−96参照)。彼は自分の家族の世話だけでな く,同時に,人々に導きと勧告を与え,新しく組織された 教会を指導しなければならない立場にあった。 主は,ニューヨーク州コールズビルからペンシルベニア 州ハーモニーの自宅へ戻った預言者に,第24章として知ら れる啓示を与えられた。預言者はこの啓示が与えられた理 由を特に記録していないが,法廷での経験を通して,自分 の時間を奪い,できれば末日の偉大な業を阻止しようとし てなされる様々な企てをはっきりと認識するに至った。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約24:1 れ」 福音は「ラッパの音のように」宣べ伝えられる(教義と聖約 24:12) 「あなたはすべての敵から救い出さ 自分に与えられた召しの大きさを思い巡らし,また敵対 して来る勢力を目の当たりにするときの,預言者ジョセ フ・スミスにとって,ここで過去に受けた祝福と救いを思 い起こすよう促されたことは大きな励みであった。ジョセ フ・スミスは,エノク(モーセ6:31参照),モーセ(出エ ジプト4:1参照)をはじめ,人間の能力を超えた働きをす るように求められた人々が味わった思いを,幾らか経験し たに違いない(『教会歴史』1:86参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約24:3−9 「彼らはあなたを支えるであろ う」 ジョセフ・スミスは教会の数多くの責任に加えて,家族 を養う責任も負っていた。彼の責任はおもに霊的なもので あったが,家族の世話をおろそかにすることはできなかっ た。当時預言者は,この世的な必要を満たす責任から完全 に解放されたわけではないが,物質的な事柄について教会 に援助を求めるように主から言われた。ブルース・R・マ 53 あかし ッコンキー長老は,教会のために全時間をささげるように ての人に言葉と行いで証をするのである(教義と聖約20: 求められる人々について次のように述べている。 「わたしたちが神の王国で行う奉仕のすべては,永遠の 69参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 律法に次のように記されています。『シオンで働く者は, 教義と聖約24:13−14 「奇跡を求めてはならない」 オリバー・カウドリは,主から命じられないかぎり福音 シオンのために働くべきである。もしも金銭のために働く ならば,滅びるであろう。 』(2ニーファイ26:31) の宣教に伴うもののほかに奇跡を求めてはならないと戒め わたしたちは,働き人が報酬を受けるのは当然であるこ とを十分承知している。王国の建設に全時間を注いでいる られた(マタイ10:8;マルコ16:17−18;教義と聖約 84:66−72参照)。正しい行動をとる神権者は,神権に関 人々は,衣食住や生活必需品を受ける必要がある。学校の する業を行うはずである(教義と聖約63:7−12参照)。 主が第13節の中で挙げられた数々の奇跡は,マルコ16: 教師や神殿を設計する建築士,教会堂を建てる業者,教会 の事務を行う管理者などは雇わなければならない。 しかし, 16−20;モルモン9:24−25;教義と聖約84:64−72に出 こうした雇われた人々も,他の教会員と同様に,主の業を 推し進めるために自由意志を用いて自発的に参加してい てくるしるしと同じである。 これはキリストの福音を信じ, み たま それに従う人々に授けられる御霊(聖霊)の賜物であり, る。銀行の頭取が福祉事業で働いたり,建築家が設計の仕 事を置いて伝道に出たりしている。建築業者が道具を休め 人々を真理に帰依させるためではなく,すでに改宗した 人々を祝福するために与えられるものである。奇跡の現れ て,ホームティーチャーや監督として働く。弁護士も法典 を必要とする人には,自分でそれを求めさせるとよい。そ うすれば,聖典の言葉が成就する。すなわち,奇跡は信じ や法律書をしまってテンプルスクウェアのガイドとして働 く。教師も教室を出ると病気の孤児や未亡人を見舞う。そ る者のために行われ,その人の信仰のしるしとなるのであ の卓越した才能を使って生計を立てている音楽家が喜んで 教会の聖歌隊を指導し,教会の集まりで発表する。また, る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 絵を描いて生活の糧を得ている人も喜んで,しかも無償で 教義と聖約24:15 「のろいを残さなければならない」 のろいも祝福と同じように,神権の力と権能によって行 援助を申し出る。 」(Conference Report『大会報告』1975年4 月,p.52) われる(教義と聖約124:93参照) 。のろいの中には,信じ しかし,会員から与えられる物質的な援助も,聖典のこ の箇所に示唆されている事柄から見ればごく一部でしかな ない者や背く者たちに罰を結び固めることも含まれる(教 しもべ 義と聖約1:8−9参照)。主の僕を拒む者への証として足を いように思われる。教会員は考え得るありとあらゆる方法 洗い清める行為はのろいの儀式であり,それは真理の証を 伝えて拒まれたことを示すだけのものではない。この清め で預言者を助けるように勧告されたのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ こうべ の儀式によって,真理を拒んだ人々は自分の頭に罪をとど の 教義と聖約24:3−9 「世俗の働きについては,あな たは力を持たないであろう」 めることになるが,その人々に福音を宣べ伝えた人は彼ら のことについて,もはや主に責任を問われることがないの 「預言者ジョセフの賜物は霊的なものであって,金銭的 なものではなかった。しかし主は彼に,召しを尊んで大い である(教義と聖約88:81−82参照)。この聖句だけでな く,『教義と聖約』の後の箇所に出てくる聖句からも明ら なるものとするならば必要なものは常に与えられると約束 かであるが,この儀式は特に主から命じられた場合だけに 執行すべきものである(教義と聖約75:20−22参照) 。 たまもの された。経済的な能力も,神の栄光のために用いることが できる賜物の一つであるが, 預言者は理財家ではなかった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 富を蓄積するために生きたのではなかった。神の王国が彼 の最大の関心事であった。」(スミス,ショダール共著, 教義と聖約24:19 Commentary『注解』p.124) 人たちはぶどう園が汚れから清められる約束の焼き払いの 日が来る前に,散乱したイスラエルを集めるために出て行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約24:10 「世の人々の前に……わたしの名 ぶどう園の刈り込み 「この神権時代には,全地が主のぶどう園となり,働き く(教義と聖約33:2−7;72:2;75:2−5;101:44− を伝え続けなければならない」 教会員としてバプテスマを受ける人は皆,キリストの名 62;135:6参照)。」(マッコンキー,Mormon Doctrine『モ ルモンの教義』p.452) を受け,クリスチャンと呼ばれるようになることを聖約す この句の比喩的描写は,オリーブの木の比喩に用いられ ているものと同じである(『モルモン書』ヤコブ5章参照) 。 る。したがって彼らは,救い主とその使命について,すべ 54 ひ ゆ 第25章 「選ばれた婦人」 と言われた。これは救い主の称号の一つである。また主は 歴史的背景 この節の中で,エマ・スミスを御自身の娘と呼んでおられ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ニューヨーク州サウスベインブリッジの小さな村で預言 る。聖典には以下の教えが明確に述べられている。すなわ ち,バプテスマの聖約を交わす人は皆,生まれ変わって神 者ジョセフ・スミスとエマ・ヘイルが結婚してから,よう やく3年が過ぎたばかりのころで,ジョセフ・スミスは25 の王国に入り,救い主の息子や娘になることができる。彼 らは「キリストから生まれ」るからである(モーサヤ5: 歳,エマは26歳であった。 7;モーセ6:64−68参照)。そのような人々は,この聖約 アイザック・ヘイルとエリザベス・ヘイルには9人の子 供があったが,エマはこのうちの7番目の子供として, を受け入れることによって,地上に住むほかの神の子供た ちとは異なる者となる。この聖約に入らない者は「人の子」 1804年7月10日にペンシルベニア州ハーモニーで生まれた。 預言者はハーモニーで,ジョサイア・ストールに雇われて と呼ばれ(モーセ8:14−15参照),またカインと同じよう な罪を犯す者は「滅びの子」と呼ばれる(モーセ5:24; 働いていた間にエマと知り合い,交際するようになった。 エマは魅力的な人柄の美人で,家計の切り盛りや料理に優 教義と聖約76:31−32参照)。 れ,また,上品さと威厳を備えた女性としても名高かった ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約25:3 エマはどのような意味で「選ばれた と言われている。彼女はメソジスト教徒としての教育を受 けていたので,音楽をこよなく愛していた。 婦人」なのか はんりょ エマは回復の預言者ジョセフ・スミスの伴侶として,彼 結婚後の3年間は,実に緊張と苦しみに満ちたものであ った。ジョセフは結婚後8か月にして天使モロナイから金 を助ける召しを与えられた。この啓示の中で彼女は「選ば れた婦人」とも呼ばれた。その後,1842年3月17日に預言 版を受け取り,以来二人の生活は迫害と苦難に絶えず脅か 者ジョセフ・スミスが扶助協会を組織したとき,エマはさ されていた。それでもエマは夫とともにそれらの試練に耐 たまもの えた。ジョセフが翻訳の賜物を失った苦悩の日々,エマは らなる責任を与えられた。預言者は次のように述べてい る。 ジョセフの傍らに寄り添い,また一時期は彼の筆記者とし て働いたこともあった。預言者が偽りの告発によって何度 「わたしはロッジルームで『ノーブーの女性扶助協会』 の組織に着手した。エマ・スミス姉妹を会長に,エリザベ も何度も逮捕された時期,エマは心を痛めていたに違いな ス・アン・ホイットニーとサラ・M・クリーブランド両姉 い(教義と聖約24章の「歴史的背景」参照)。預言者の伝 道の旅にも幾度となく同行し,伝道に伴う喜びと悲しみを 妹を副会長に召した。わたしは多くの指示を与えてから, 『新約聖書』と『教義と聖約の書』の『選ばれた婦人』に 分かち合った。エマは大きな勇気と強い意志を持つ女性で あった。預言者の母ルーシー・マック・スミスは,エマに 関する箇所を読んだ。そして,選ばれたとは,ある御業の ために選ばれたという意味であり,わたしは,エマ姉妹が ついて次のように書いている。 扶助協会の会長に選ばれたことによってこの啓示が成就し 「わたしは,彼女のようにひるむことのない勇気と情熱 と忍耐とを持ち,長年にわたって来る日も来る日も苦難と たことを示した。彼女は聖文を説き明かせるように,すで に聖任されている。」(History of the Church『教会歴史』 疲労に耐えることのできた女性をこれまでに見たことがあ りません。わたしは,彼女が耐えなければならなかった事 4:552−553) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 柄をよく知っています。……ほとんどの女性は圧倒されて あらし しまうでしょうが,エマは迫害の嵐 を物ともせず,また 教義と聖約25:4 エマはなぜつぶやいたのか み わざ 人々や悪霊の猛威に立ち向かいました。 」(History of Joseph 『教義と聖約』のこの章は,エマ・スミスが直面してい た特別なチャレンジについて,幾つかのことを教えてくれ Smith『ジョセフ・スミスの生涯』pp.190−191) 1830年7月,エマの誕生日の前後と思われるころ,主は る。第14節とジョセフ・フィールディング・スミス大管長 の次の言葉には,意味深いものがある。 エマに啓示を与えられた。それが教義と聖約第25章であ る。 「エマ・スミスは,普通わたしたちが持っている人間的 な性格を数多く備えた人物である。全能者から祝福を受け た男性の妻として,彼女は自分が何か特別な恩典を与えら しか 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れて然るべきだと思った。これは,エマのような立場に置 かれたらだれでも考えることである。彼女は,版やウリム 教義と聖約25:1 娘だからである」 とトンミム,その他の神聖な品々を特別な証人には見せた のになぜ自分には見せてくれないのか理解できなかった。 「わたしの王国において息子であり, 主はこの節の中で,御自身を指して「主なるあなたの神」 そこで彼女はしばしば人間的な考えを起こし,つぶやいた 55 り,なぜ自分は特権にあずかれないのか預言者に問いただ したりした。 」(Church History and Modern Revelation『教会 歴史と近代の啓示』1:125) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約25:7 この聖句の「聖任」という言葉には どのような意味があるか 「『聖任』という言葉は,教会初期においては,聖任と任 命の両方に用いる言葉として一般的なものであり,語義的 に見ても誤りのないものであった。神権を持つ男性は,支 部を管理し,特別な働きをなすよう『聖任』を受け,姉妹 たちも何か特別な義務と責任に召された場合は,『聖任』 されるという言い方が使われていた。しかし,後になって 『聖任』と『任命』は区別されるようになった。男性は神 権の職に聖任され,その後で,ステーク,ワード,支部, 伝道部,あるいは補助組織を管理するように任命を受ける のである。そして姉妹たちは,補助組織会長,宣教師など の責任に任命を受ける。姉妹たちの場合は聖任ではない。 エマ・スミスが聖文を説き明かすために『聖任』されたと いう表現は, 彼女に神権が授けられたという意味ではない。 彼女がこの職に任命されたという意味である。そして,そ れは教会の扶助協会の中で成就した。」(『教会歴史と近代 の啓示』1:126) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約25:7 教会員に説き勧めるというエマの召 しと,婦人は教会の中で語ってはならないという使徒パウ 「義人の歌はわたしへの祈りである」(教義と聖約25:12) ロの言葉とは,どのような関係があるか 預言者ジョセフ・スミスの『聖書』の改訂版では,婦人 は教会で語ってはならないという使徒パウロの言葉(1コ 「賛美歌集の必要性は,教会が組織されたときに明らか になった。エマ・スミスは,版を見る特権にあずかれなか リント14:34−35)の正確な意味が示されている。預言者 はこの句を,婦人は教会において「治める」べきではない ったことで,自分は軽んじられているという気持ちでいた かもしれない。しかし,『選ばれた婦人』として,困窮者 と変えている。この句の明らかな意味は,女性は教会にお いて神権者の指示に従うべきである,ということである。 の援助について教会の女性を管理するように召され,教会 預言者ジョセフ・スミスは最初に組織された扶助協会の会 員に聖文を説き明かすという神聖な責任を果たす特権を 得,教会で使うために出版する賛美歌を選ぶ責任に召され 員たちに対し,この原則について次のような話をしてい る。 たということは,大変な誉れである。確かにエマはこの点 において才能に恵まれていた。実際に仕事の成果を見ると, 「皆さんは,神が定められた神権の秩序を通して指示を 受け,この最後の神権時代に教会の諸事を管理するよう任 その才能の程がうかがえる。エマはウィリアム・W・フェ ルプスの助けを得て仕事を進め, 賛美歌の選択を終えたが, 命された人々を通して導かれます。わたしは今,主の御名 その出版は1835年まで待たなければならなかった。この選 によって皆さんのために鍵を回します。この協会は喜びに 満ち,今より後,知識と英知があふれ出るでしょう。これ 集の中には知恵と思慮深さがうかがえる。この本の扉には こう書かれている。『末日聖徒の教会のための神聖な賛美 はもっと良い時代の訪れであり,これによって貧しい人や こうべ 乏しい人は喜びを得,皆さんの頭には祝福がもたらされる 歌選集,選者エマ・スミス;オハイオ州カートランド,印 刷者F・G・ウィリアムズ,1835年』末日聖徒の作曲家が でしょう。 」(『教会歴史』4:607) いなかったために,この選集の中には数多くの教派の賛美 教会員に説き勧めるというエマの召しは,神権者の指示 の下に,その後扶助協会において彼女に与えられた責任と 歌が収められているが,ウィリアム・W・フェルプス,パ ーリー・P・プラット,エライザ・R・スノーによる賛美 完全に一致するものであった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 歌もかなりの数含まれている。」(『教会歴史と近代の啓示』 1:126) み な かぎ 教義と聖約25:11 エマ・スミスに与えられた最初の 賛美歌集編さんの責任 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,エマに 与えられたこの責任の意義について,次のように説明して いる。 56 この最初の賛美歌集には90曲,2番目の1841年版には340 曲が収められていた。最初の版は,哀悼の歌,別れの歌, せいさん 夕べの歌,バプテスマの歌,聖餐の歌,結婚の歌に区別さ こん れていた。エマ・スミスが最初に選んだ曲の幾つかは,今 にち 日も末日聖徒によって愛唱されている。その中には『主の 第25章 みたまは火のごと燃え』 『主は生けりと知る』 『イスラエル らの影響を発見するとき,ふさわしくない思いを心の舞台 の救い主』『主のみ言葉は』などがある(ドクシー,Doctrine and Covenants Speaks『教義と聖約は語る』1:152− から降ろそうとして,音楽が自然に始まるのである。…… 良い音楽の及ぼす影響は,古代の聖典にも近代の聖典に 153参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ も数多く言われている。主御自身もその助けを借りて,最 大の試みに遭う用意をされた。『聖書』にこう記されてい 教義と聖約25:12 る」 る。『彼らは,さんびを歌った後,オリブ山へ出かけて行 った。』(マルコ14:26)」(Conference Report『大会報告』 「義人の歌はわたしへの祈りであ 心の歌とは何であろうか。感情と真の礼拝はどのように 1973年10月,pp.24−25) 結びつけて考えることができるだろうか。 ブルース・R・マッコンキー長老は,音楽の重要性につ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約25:16 「これはすべての者へのわたしの いて次のように述べている。 「音楽は神の目的を進めるために,神から与えられたも 声である」 最後の訓戒として,この啓示はエマ・スミスに与えられ のである。甘美な旋律は人の魂を和らげ,福音に備える助 たものであるが,すべての人,特にすべての女性に向けら けとなる。真理を受け入れた後でも,神への賛歌は魂を清 め,浄化してくれる。偉大な優れた音楽は当然,旋律と歌 れたものであることが述べられている。この啓示には, 「選ばれた婦人」と呼ばれる女性はどのような行いをする 詞とによって神を賛美し,神の真理をたたえるものである。 一方,音楽は感覚的な快楽を与えることや,肉欲的な目的 人かが書かれている。これは,時代や場所を問わず,すべ ての人に当てはまるものである。 のために用いられることもある。主の目的を達するために 1.夫を苦難に遭うときに慰める(5節参照)。 は,歌詞と旋律がともに人を啓発し,健全な思いや感情に 導くものでなければならない。道徳にかなった音楽もあれ 。 2.御霊によって聖文を説き明かす(7節参照) 3.御霊によって教会員に説き勧める(7節参照) 。 ば,低俗な音楽もあるのである。 娯楽を本来の目的とする軽音楽でも,健全なものであれ 4.記録することと,多く学ぶことに時間を用いる(8 節参照) 。 ば受け入れることができる。音楽的な素養に恵まれた人々 を喜ばせる,重厚なクラシック作品の演奏も同じである。 5.教会員の中にあって夫からの支持を受ける(9節参 照)。 ただし,主を礼拝するために設けられた集会では,聖徒た 6.この世のものを捨てる(10節参照) 。 ちは,福音について教える歌,信仰を高める歌を歌うべき である。旋律が美しいだけでは十分ではない。歌詞が伝え 7.この世に勝る世のものを求める(10節参照) 。 8.神聖な賛美歌を選ぶ(11節参照;教義と聖約25:12 るメッセージも真理の原則と調和したものでなければなら ない。賛美歌に含まれる教えは,聖典に書かれている真理 の「注解」参照)。 9.心を高めて喜ぶ(13節参照) 。 と厳密に一致したものでなければならない。」(Mormon 10.聖約を固く守る(13節参照) 。 Doctrine『モルモンの教義』p.521。教義と聖約45:71; 136:28;1コリント14:26;エペソ5:18−19参照) 11.柔和な心を持ち続ける(14節参照) 。 12.高慢に気をつける(14節参照) 。 ボイド・K・パッカー長老は,霊感あふれる音楽はわた したちの人生の霊的な力の源になり得ると述べている。 13.「あなたの夫と,彼に来る栄光とを喜びなさい。」 (14節) 「皆さんにお教えしたいのはこのことである。教会の神 み たま 14.絶えず戒めを守る(15節参照) 。 聖な音楽の中から好きな賛美歌を1曲選びなさい。心を高 けいけん めてくれる歌詞と敬虔な音楽で,霊感に近い何かを感じさ ニール・A・マックスウェル長老は,女性について,ま た主の計画の中で女性の占める重要な位置について,次の せてくれる曲を。リー大管長の勧告を思い出しなさい。 『神の子です』の歌もそれに当たる。それを心で消化し, ように述べている。 「兄弟姉妹,わたしたちは男性と女性の務め,ならびに 覚え込んでいただきたい。たとえ音楽教育を受けていなく ても,賛美歌を心に蓄えることはできる。 母親と神権者の役割がそれぞれ分担されている理由をあま り理解することなく過ごしている。これらの役割は前世に そこでその賛美歌を, あなたの思いの行き場にしなさい。 おいて神によって定められたものである。わたしたちは, いざというときの水路にしなさい。後ろ暗い役者が思いの 端から心の舞台に滑り出て来るときには,その曲を奏でる 男性が神権を持ち,指導に当たっていることから,神に従 う男性に目を向ける傾向がある。しかし,現代を含めあら のである。 音楽が始まり,思いの中に歌詞が登場すれば,ふさわし ゆる時代,あらゆる神権時代に,神に従うすばらしい女性 たちがいて,神権者と並んで義の感化を人々に及ぼしてい くない役者は恥じたように消え去るであろう。そこで心の るという事実を忘れてはならない。人の偉大さは,新聞で 舞台の雰囲気はがらりと変わる。心を高揚する清らかな雰 囲気に,卑しい思いは姿を消す。徳は汚れと好んで交わら あれ,聖典であれ,そこに記されたその人についての記事 の多少によって測られるものではない。神に従う女性たち ず,悪は光に耐えられないからである。 やがてあなたは,折にふれ,心の中で音楽を口ずさむ自 の物語は,ドラマの中の語られぬドラマである。…… 世界の基が据えられる以前に予任された男性がいたよう 分に気がつくであろう。自分の思いを顧みて,周りの世か に,ある務めを果たすよう定められた女性もいた。それは 57 偶然ではなく,神の計画によったのである。イエスの母に なるよう定められたマリヤがその好例である。少年預言者 ジョセフ・スミスは偉大な父親だけでなく,この神権時代 全体に影響を及ぼしたルーシー・マックという立派な母親 にも恵まれた。 現代の神の王国で,扶助協会を通じ,女性たちに愛の奉 仕がゆだねられているのも偶然ではない。男性の奉仕がか なり意識的であるのに比べて,女性の奉仕は天性のもので あるように思われる場合が多くある。敵対する者がシオン の娘たちを放っておかないのは,彼女たちがただならぬ存 在であるからにほかならない。…… 姉妹たちは自分に差し迫った問題があるときにも,人々 を慰め励ます。それは十字架上のイエスが示された寛大さ に似ている。苦悩の中の思いやりはまさに神性の一部であ る。…… 人類の真実の歴史がすべて明らかにされるとき,脚光を 浴びるのは砲火の響きであろうか,それとも子守歌の調べ であろうか。軍人の停戦条約であろうか,それとも家庭や 地域社会で女性たちが作り出す平和であろうか。議会での 出来事よりも,揺りかごや台所の出来事にいっそうの抑止 力があることを知るであろう。 時の流れが大ピラミッドを砂と化すときにも,永遠の家 族はなお存在し続ける。それは,星の栄えの時間を超えて 形成された日の栄えの制度だからである。神に従う女性は 夫を「喜びなさい」というエマ・スミスへの訓戒は,妻である すべての女性に与えられた務めでもある(教義と聖約25: 14) それを知っている。 神に従う男性が比類のない役割を果たす姉妹の皆さんを 支持するのは,何ら驚くに当たらない。なぜなら,社会運 れる方々の一致した承認があるということを。そこでは, わたしたちは肉体の『目がまだ見』たことのない美しいも 動のために家族を見捨てる行為は,洪水の予防を考えずに 泳ぎを教えようとするのに似ているからである。 のを目にし,肉体の『耳がまだ聞』いたことのないこよな 最後に忘れないでいただきたい。わたしたちがほんとう の家庭に戻る時期については,『高き世』で統治しておら 同意の律法 き調べを耳にすることであろう。そのようなこの上ない名 誉の帰宅が,天の御母の同意なしに果たして可能であろう か。」(『大会報告』1978年4月,pp.13−15) 第26章 歴史的背景 た。『聖文を研究する』というのは, 『聖書』の翻訳と何ら かのかかわりがあると思われる。なぜなら,1830年の夏か ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約第24章の「歴史的背景」を参照する。24, ら秋に記された,最初の肉筆による書き込みが,ジョン・ ホイットマーとオリバー・カウドリが記録した写本の中に 25,26の各章は,ほぼ同じ時期に与えられたものである。 見られるからである。明らかに,『翻訳』と『研究』が同 注 解 時進行していたのである。実際,その二つは切り離して考 え ら れ る も の で は な か っ た で あ ろ う。」( マ シ ュ ー ズ , ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約26:1 大会までの主の指示 Joseph Smith’s Translation of the Bible『ジョセフ・スミスの 「聖書」の翻訳』p.27) 「『西部』へ行くとは,約160キロの距離にあるニューヨ ーク州フェイエットへ行くことを指している。1830年9月 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 26,27の両日,フェイエットで『次回の大会』が開かれ 58 教義と聖約26:2 同意の律法 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明して いる。「教会の管理上の諸事は,同意の律法に従って行わ なければならない。この律法は地上の神の王国における律 法であり, なすべきことを勧告するのは王の務めであるが, 臣下はそれを受け入れるか拒むか選択を任される。選択の 自由の原則が義にかなって行使されないと,人は進歩して 天の王国での究極の救いを受けることはできない。したが って,教会の役員は,その人を選ぶ責任を持っている人に 働く啓示の霊によって選ばれるが, 実際に仕事を行う前に, 管理を受ける人々の支持を受けなければならないのである (教義と聖約20:60−67;26:2;28;38:34−35;41: 9−11;42:11;102:9;124:124−125参照) 。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.149−150) この原則は,教会役員の支持のみならず,方針,重要な 決定,新たな聖文の受け入れ,そのほか聖徒たちの生活に 影響を及ぼす事柄に対しても適用される(教義と聖約26: 2参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約26:2 会員の同意なしに,教会の職に就く ことができるか 「この教会では,いかなる人も人々の同意なしに役職に 就いて管理することはできない。主は,様々な責任ある地 位に召される人を挙手によって支持する責任をわたしたち に課せられた。人々が反対の挙手をすれば,だれもこの教 会で末日聖徒の集団を管理することはできない。しかし 人々は人を指名推薦したり,選んだりする権利を持ってい ない。それは神権に属する権利である。」(『救いの教義』 3:110) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約26:2 反対の挙手はどのようにすべきか 「わたしには,単にその人が好きでないからとか,個人 的に意見が一致しない,あるいは反感を持っているからと いう理由で,この教会のいかなる地位に任命される人に対 しても反対の挙手をする権利はないのである。それができ るのは,その人が悪事を働いた場合,すなわち,召されよ うとしている職に就くことを妨げるような行為をして教会 の律法に背いた場合だけである。」(『救いの教義』3: 110−111) 「聖餐を受けるとき」 歴史的背景 「すべてのことは……同意を得て行わなければならない」(教義 と聖約26:2) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約26:2 支持する人の責任 ローレン・C・ダン長老は,支持という行為に伴う責任 について次のように説明している。 「わたしたちには役員を支持する機会が与えられている。 これは,すでに啓示によって主から召されている役員を支 持する場を与えられているということである。……さらに 主はわたしたちに,神よりの召しに支持を表す機会と,も し何らかの理由で反対した方がよいと感じるならばそのよ うに表明する機会を与えてくださっている。支持するとい うことは,自分が支持した人々を支援するという責任を自 分自身に課すことである。腕を直角に曲げて挙手するとい う神聖な動作を行うことによって,公私ともに,表明した 支持の意に矛盾しない行動をとろうと決意したのである。 このことを忘れてはならない。」(Conference Report『大会 報告』1972年4月,p.19) 「支持の挙手をするとき,皆さんは主と神聖な聖約を交 わすのである。それは自分が挙手した役員を支持する,す なわち完全な忠誠と支援を無条件に与えるという聖約であ る 。」( ハ ロ ル ド ・ B ・ リ ー 『 大 会 報 告 』 1970年 4月 , p.103) 第27章 妻もわたしの妻も確認の儀式を受けていなかったので,彼 せいさん ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ らが帰る前に妻たちに確認の儀式を施し,ともに聖餐にあ ずかってはどうかということになった。そこでわたしは聖 預言者ジョセフ・スミスは次のように記録している。 「8月の初旬,ニューエル・ナイトと彼の妻がペンシルベ 餐の儀式の準備のためにぶどう酒を買いに出かけたが,少 し行ったところで天の使者に会い,次の啓示を受けた。最 ニア州ハーモニーのわたしたちのもとを訪れた。当時彼の 初の4節はそのときに記され,残りは9月に記された。〔教 59 義と聖約第27章〕」(History of the Church『教会歴史』1: を定義し,それが今日の教会に当てはまることを次のよう 106) に説明している。 「エゼキエルの預言の中での一つの際立った表現に,ヨ 注 解 セフの木とユダの木がエフライムの手で一つになるという ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約27:1−4 「聖餐を受けるとき……あなた ものがある。エフライムはその生得権によって末日にイス ラエルの部族の頭に立つとされている。ニーファイ人の記 がたは何を食べ,何を飲んでも差し支えがない」 この啓示が与えられた理由とその意味について,ジョセ 録を託され,これを翻訳したジョセフ・スミスは,エフラ イムの部族の出である。主がそのことを啓示された。この フ・フィールディング・スミス大管長は次のように説明し 神権時代に福音を受け入れてきた大部分の人がそうであ る。したがって,このヨセフの木はエフライムの手の中に ている。 「この天の使者はジョセフ・スミスに,聖餐に何を用い あり,そして彼によりユダの木と一つに合わされ,エゼキ ても差し支えない,また敵からぶどう酒も強い飲み物も買 ってはならないと告げた。その理由は明らかである。預言 エルの預言が成就したのである。 『モルモン書』はヨセフの記録である。この書には,こ 者には多くの敵がいたからである。しかし,それには,単 に敵から身を守るということ以上の意味がある。なぜなら, のアメリカに住んでいたヨセフの子孫,すなわちエフライ ムとマナセの子孫の歴史が載っている。これはジョセフ・ これらのものに不純物を混ぜようとする邪悪で腹黒い人々 スミスに与えられたことによってエフライムの手に渡り, に対する警告でもあったからである(第89章「知恵の言 葉」参照)。ジョセフ・スミスはまた,聖徒が造ったもの 現在も宣教師が出て行ってその真理を世の人々に宣言する ことによりエフライムの手の中にあるのである。宣教師も でないかぎりぶどう酒を聖餐に用いてはならない,また用 いる場合でも,新たに造ったものでなければならないとも エフライムの血を引いているからである。」(『救いの教義』 3:188) 告げられた。当時の初期の教会には,聖餐には水しか用い ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ないという習慣はなかったが,このとき以来,ぶどう酒に 代わって水が用いられるようになった。それまでは,血に 教義と聖約27:6−7 このエライアスはだれか エライアスという呼称は複数の人物に対して用いられる 似ているということでおもにぶどう酒が用いられていたの こんにち である。今日では,教会全体を通じて,悔い改めて福音を ために,混乱を引き起こすことがよくある。ブルース・ R・マッコンキー長老は次のように説明している。 受け入れるすべての人に罪の赦しを得させるために流され 「啓示の霊によって『聖書』を改訂した預言者は,キリ たイエス・キリストの血の記念として,聖餐には水が用い られている。 」(Church History and Modern Revelation『教会 ストが万事を元どおりに改めるエライアスであるというバ プテスマのヨハネの言葉を回復した(ジョセフ・スミス訳 歴史と近代の啓示』1:132) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ヨハネ1:21−28参照)。またわたしたちは啓示によって, 万事を元どおりに改めるエライアスは現世でノアとして知 教義と聖約27:5−14 が飲まれる時が来る られていた天使ガブリエルのことであるとも知らされてい る(教義と聖約27:6−7;ルカ1:5−25;Teachings of the ゆる ぶどうの実から造ったものを主 救い主は,「地上で」(教義と聖約27:5)御父の王国に Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』 おいてともに聖餐にあずかる者として,『旧約聖書』や 『新訳聖書』,『モルモン書』の時代の預言者を挙げておら p.157参照)。また,わたしたちは同じ信頼できる典拠か ら,約束されたエライアスは黙示者ヨハネであるというこ れる。エジプトに売られたヨセフが挙げられているのが興 味深い。『聖書』ではアブラハム,イサク,ヤコブの神と とも教えられている(教義と聖約77:9,14参照) 。このよ うに3種類の啓示の中で,3人の別個の人がエライアスの名 述べられるのが普通だからである。ヨセフは『聖書』にも で挙げられている。では,どのように結論づければよいの 『モルモン書』にも名が出てくる重要な人物であり,周知 のごとく,『モルモン書』の民の多くの者の父祖に当たる であろうか。 だれによって回復が行われたかという質問に対する答え 人物でもある。 すぎこし 「救い主は過越の食事をされた夜,神の王国で『あなた を見いだすことによって,わたしたちはエライアスとはだ れなのかを知り,一見相矛盾するこれらの啓示が無理なく がたと共に,新しく飲むその日までは,わたしは今後決し 調和するものであることを知ることができる。万物を回復 て,ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない』と言 われた〔マタイ26:29;ルカ22:18参照〕。これはジョセ したのはだれであろうか。それは一人であったのだろうか。 かぎ そうでないことは確かである。地上の人間に再び鍵と力を フ・スミスへの啓示の中でも繰り返された。主はその啓示 の中で,地上に築き上げられる御父の王国で,預言者や聖 授け,それぞれの神権時代と栄光とをゆだねるために,多 み ざ くの天使が栄光の御座から遣わされたのである。少なくと 徒とともに食し,飲むと約束された。」(『教会歴史と近代 の啓示』1:132−133) も以下の天使たちが地上を訪れている。モロナイ,バプテ スマのヨハネ,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,モーセ,エリヤ, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ エライアス,ガブリエル,ラファエル,ミカエル(教義と 教義と聖約27:5 「エフライムの木」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこの言葉 聖約13;110;128:19−21参照)。以下の事柄は非常に明 白である。すなわち,回復の重責を担ったのはただ一人の 60 第27章 たまもの 使者ではなく,それぞれの使者が特定の賜物を携えて天か 人生の目標を象徴する足。そして最後にわたしたちの思い ら来たのである。とすれば,エライアスが複数の人物を指 していることが明らかになってくる。この表現は,この最 を象徴する頭。…… わたしたちは腰に真理の帯を締めなければならない。で 後の神権時代に地上の人々に鍵と力を授ける使命を帯びた 使者たちの名や称号であると理解しておかなければならな は,真理とは何であろうか。主が言われたように,真理と い。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.221。教義と は現在あるとおりの,過去にあったとおりの,また未来に あるとおりの,物事についての知識である〔教義と聖約 聖約110:12−16参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 93:24〕。……『わたしたちの腰は真理で守ることができ る』と預言者は語った。 教義と聖約27:13 時満ちる神権時代 次に心臓であるが,どのような胸当てで人生におけるわ 者となったデビッド・W・パッテン長老は,次のように語 たしたちの行動を守ることができるであろうか。正義の胸 当てで心臓を覆うのである。真理について学んでいれば, った。 「さてそれでは,時満ちる時代とはどのようなものであ 善悪を判断する基準がある。そうすれば正しいと分かって いる事柄によって自分の行動を測ることができる。わたし ろうか。その広がりや権能はどうであろうか。それはこう いう意味である。すなわち,時満ちる神権時代とは,世界 たちの行動を覆う胸当ては正義の胸当てである。 わたしたちの足を守るものは何であろうか。すなわち, が始まって以来今日に至るまでのすべての神権時代を包含 するものである。最初アダムに一つの神権時代が与えられ 人生におけるわたしたちの目標を評価するものは何であろ この神権時代における最初の使徒の一人であって,殉教 た。神がエデンの園において自らアダムに語りかけ,メシ うか。……『平和の福音の備えを足にはき』(エペソ6: 15)……。 ヤの約束を与えられたのは, よく知られていることである。 そして,ノアにも神権時代が授けられた。イエスはこう語 子供時代に父と母の家庭で両親から悔い改めの教義と, 生ける神の御子キリストを信じる信仰, バプテスマの意味, っておられる。『人の子の来臨の時も,ちょうどノアの時 代と同じようである。』そのときには義人が救われ,悪人 按手によって聖霊の賜物を授かることについて教えられた あんしゅ が滅ぼされたが,この時代にも同じようになるであろう。 皆さんは,何と幸せであろうか。祈ることを教えられ,現 在までその道を歩んでくることができた子供は幸せであ そしてノアからアブラハム,アブラハムからモーセ,モー セからエリヤ,エリヤからバプテスマのヨハネ,さらにイ る。その足には平和の福音の備えがある。…… 最後に救いのかぶとである。 ……救いとは何であろうか。 エス・キリストへ,イエス・キリストからペテロ,ヤコブ, ヨハネ,使徒たちへと,各時代において,これらすべての 救いとは救われることである。何から救われるのか。死と 人に神からの啓示によって神権時代が授けられてきた。そ 罪から救われるのである。…… 〔使徒パウロは〕武具に身を固めた者の片手に盾を持た れは世界が始まって以来のすべての聖なる預言者たちによ って語られてきた偉大な回復の計画を成し遂げるためであ せ,他方の手に剣を持たせた。これら盾と剣は,当時の武 み たま 器であった。この盾は信仰の盾,剣は御霊の剣,すなわち る。それらの最後が時満ちる神権時代である。この神権時 代に,創世以来語られてきたすべてのことが成就するので 神の言葉である。信仰と,神の言葉を記した聖典の知識以 上に強力な武器をわたしは思いつかない。このような武具 ある。」(『教会歴史』3:51) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ と武器で身を固めた人は,光の敵よりも恐れられている敵 「わたしの武具を身に着けな であっても,立ち向かう備えができているのである。…… わたしたちは目が利く白昼にやって来る敵よりも,目が利 さい」 ハロルド・B・リー長老は,この聖句に出てくる象徴に かない夜の闇に紛れて攻撃を仕掛けてくる敵を恐れなけれ ばならない。 」(“Feet Shod with the Preparation of the Gospel 教義と聖約27:15−18 ついて次のように説明している。 やみ 「闇の力によって最も攻撃を受けやすい……体の4つの部 分がある。徳と純潔を象徴する腰。行動を象徴する心臓。 of Peace” Brigham Young University Speeches of the Year「平 和の福音の備えを足にはき」『ブリガム・ヤング大学年度 講話』1954年11月,pp.3−7) 61 「あなたはあなたの長…… である者に命じてはならない」 第28章 みこころ 啓示を受けることについて御自身の思いと御心を明確にし 歴史的背景 ておられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 当時教会は設立後数か月しかたっていなかったが,この 大会が開かれ,まず初めにハイラム・ページに関連して 例の石の問題が討議された。多くの時間を事実の究明と討 啓示が与えられた1830年9月ごろ,最初の重大な問題に直 面していた。それは,教会のための啓示を受ける特権はだ 議に費やした後で,ページ兄弟をはじめ出席した全教会員 がその石と関連する啓示とを捨てることになった。それは れにあるのかという問題であった。この問題の発端は,ハ わたしたちにとって大きな喜びであり,満足であった。」 イラム・ページがある石を手に入れ,それを通して啓示を 受けていると公言したことにあった。 (Journal History『歴史記録』1830年9月26日) 初期の教会員の中には, 会衆派からの改宗者が多少いた。 会衆派の教会では,会衆の同意があればだれでも教義を宣 注 解 言することができた。したがって,彼らにとってハイラ ム・ページの啓示を有効なものとして受け入れるのは,自 教義と聖約28:1 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主が教会員に,オリバー・カウドリ 然なことであったと思われる。また,この啓示をきっかけ の言葉に耳を傾けるように言われたのはなぜか 当時オリバー・カウドリは教会の第二の長老であった に,ニューヨーク州の聖徒たちは,主から教会全体に関す る啓示を授けられるのはたった一人しかいないということ (教義と聖約20:3参照)。聖徒たちはすべての中央幹部の 勧告に耳を傾けるべきである。それと同じように,オリバ を理解したのである。そして,カートランドの新しい改宗 者たちも,これと同じ教訓を学ばなければならなかった ー・カウドリの言葉に注意を払うように勧告されたのであ る。 (教義と聖約43章参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この出来事の目撃者であったニューエル・ナイトは,日 記に次のように書き残している。 教義と聖約28:2−3 ハイラム・ページは,教会への 神の導きに関する真の秩序をどのように乱したか 「家で自分の諸事を整えてから,第2回の大会に出席する ために再びフェイエットへ出発した。その大会は,当時ジ 預言者は次のように教えている。 「わたしは,いかなる教会員であっても,自分より高い ョセフが住んでいたホイットマー翁の家で開くよう指定さ 権能を持つ者のために指示を受けることは神の摂理に反す れていた。到着してみると,ジョセフ兄弟がハイラム・ペ ージのためにひどく心を悩ませていた。ハイラム・ページ ると申し上げたい。そのような指示を心に留めると不都合 が生じるであろう。もしも人が示現を受けたり,天の使者 は,教会の統治やほかの事柄に関する啓示を与え,兄弟た ちの間に不和を引き起こそうとしていたのである。彼はそ の訪れを受けたりすることがあれば,それはその人個人の ためであり,個人に指示を与えるものである。なぜなら教 の啓示を, 自分が手に入れた石を通して受けたと主張した。 会の基本原則や制度,教義は王国の鍵に帰属するからであ 実際に彼はそれらの啓示を書いた一つの巻き物を持ってお り,それによって多くの教会員が道を踏み外したのである。 る。」(History of the Church『教会歴史』1:338) 1913年に出された大管長会の公式声明は,この原則に関 それらの啓示は『新約聖書』や末日の啓示とも矛盾するも のであったが,オリバー・カウドリやホイットマー家の して別の面から光を与えてくれる。 「ハイラム・ページのとき以来(教義と聖約28章参照), 人々までがそれに従うありさまであった。サタンはこの機 に乗じて小さな群れをかき回し,これを手段として,迫害 教会員に偽りの霊が現れた例は数多い。時には過ちを犯し た男女に現れた。罪を犯しているためたやすく大詐欺師の では果たせなかったことを成し遂げようとした。ジョセフ えじきになってしまったのである。またあるときは,教会 は途方に暮れ,この新たな危機にどう対処したらよいのか, ほとんどなすすべを知らなかった。その夜,わたしはジョ の規則や儀式に厳格に従うことを誇りとしていた人々が, 偽りの霊に惑わされている。そのような霊はその力を神の セフがいた部屋で彼とともに過ごし,多くの時間を祈りと 嘆願に費やした。これらの兄弟たちに対して多くの働きか 力と見分けがつかないように行使するため,選民と自称す る人でもその相違を識別することが難しいのである。サタ けがなされた。そして,彼らは自らの非を認め,神から与 ン自身,『光の天使』となって人々の前に姿を現している えられたものでないそれらの啓示を捨てることと,サタン が真の救いの計画に対する彼らの確信を覆そうと謀ったこ ほどである。 示現や夢,異言,預言,内なる声,そのほか通常と異な とを,声をそろえて告白した。この結果,ジョセフは大会 が始まる前に主に尋ね, 『教義と聖約』の〔英文〕140ペー った賜物や霊感が,教会ですでに受け入れられている啓示 と一致しないとき,また任命された幹部の判断と調和しな ジに載っている啓示〔第28章〕を受けた。神はその中で, いとき,末日聖徒は,いかにまことしやかなものであって 62 かぎ たまもの 第28章 も,それが神からのものではないということを知ることが 義あるいは啓示を確立すべき立場にないと言っておられる できるのである。また教会員は,教会に対して神から授け かしら られる指示は教会の頭を通して来るということを理解しな のである。それは預言者のみが果たす職務なのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ければならない。すべての忠実な会員は,自分自身や家族, あるいは自分に管理を託されている人々のために聖霊によ 教義と聖約28:5−6 「あなたはあなたの長……であ る者に命じてはならない」 る霊感を受けることができる。しかしながら,いずれにし ても教会の頭を通して神から下された啓示に一致しないも ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に説明している。 のは,権威のあるもの,あるいは信頼できるものとして受 「この勧告がオリバー・カウドリに与えられるのは必要 け入れてはならない。聖徒たちは,宗教的なことに限らず この世的な事柄についても神の導きと啓示を受けることが なことであった。というのは,彼は啓示の問題に関してま で預言者に異議を唱える傾向があったからである。 しかし, できる。しかしこれは,他の人々を導く権利を与えるもの ではない。ましてや教会の聖約や教義,規律,既知の事実, この不愉快な出来事も,転じて多くの祝福をもたらした。 教会には秩序があり, 会員を導く戒めと啓示を受けるのは, 証明済みの真理,良識などに反するものであれば,受け入 その務めに任じられたただ一人の人だけであり,その人こ れることはできないのである。…… すでに確立された権威への不信感をあおり,真の科学の そ神から召された者である,ということを教会員が学んだ からである。当時の教会員がこのような過ちに陥ったのに 原理や発見に相反する言動をとり,教会制度に対する神か らの直接の啓示から離れさせようとする霊や影響力には, は,無理からぬ部分があった。というのは,彼らは教会員 になってまだ日も浅く,神の王国とその統治に関してあら いかなるものであっても欺かれてはならない。聖霊の示し ゆる事柄を学ばなければならない状態であったからであ に矛盾はない。真理は常に調和のとれたものである。神を 敬う姿を装いながらその中身は偽りである場合がよくあ る。彼らは預言者以外の者が自ら全能者の代弁者と称する ことの非を理解していなかった。そして,そのようなこと る。主が召された人を通じて与えられる主の勧告は,安心 して従うことのできるものである。あなたがた末日聖徒は をすれば混乱が生じることや,ほかの者が後任として任じ られるまではジョセフ・スミスが啓示の鍵を持つことを, この警告の言葉から益を得ていただきたい。」(ジョセフ・ F・スミス,アンソン・H・ランド,チャールズ・W・ペ この啓示を通して学んだのである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:135−136) ンローズ,“A Warning Voice” Improvement Era「警告の声」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『インプルーブメント・エラ』1913年9月号,pp.1148− 1149) 教義と聖約28:8−16 人への伝道に召される オリバー・カウドリがレーマン オリバー・カウドリは,「あなたは戒めとして記すので はなく,知恵をもって記さなければならない」(教義と聖 「レーマン人への伝道は,設立後間もないとはいえ,活 気に満ちた教会にとって非常に重要な動きであった。この 約28:5)と命じられた。別な言い方をすれば,主はオリ ときの宣教師たちの中で,最初に任命を受けたのがオリバ バーに,聖徒たちに勧告と助言をしてもよいが,教会の教 ー・カウドリである。後に啓示(30章)により,ピータ 大管長会(1911−1918)アンソン・H・ランド第一副管長(左),ジョセフ・F・スミス大管長(中),チャールズ・W・ペン ローズ第二副管長(右) 63 ー・ホイットマー・ジュニアが加えられ,さらに,パーリ 教義と聖約28:9 「それはこの後明らかにされるであ ー・P・プラットとザイバ・ピーターソンが加えられた (32章)。この大会の直後,彼らは約1,500マイル(およそ ろう」 ジョセフ・スミスはモーセとエノクに与えられた啓示を 2,400キロ)の危険に満ちた旅に出発した。主が道を開い てくださるとの確信をもって,彼らは徒歩で出発した。バ 受け,それによって初期の聖徒たちは,シオンが再び地上 に確立されるはずであることを学んだ(モーセ7:62参 ッファローの近くでは,カタローガス・インディアンを訪 ね,『モルモン書』を置いて行った。その後オハイオ州カ 照)。聖徒たちがシオンの建てられる場所を知りたいと望 んだのは,至極当然のことであった。 ートランドへ向かい,当時キャンベル派の牧師として声望 「ハイラム・ページが受けた偽りの啓示の中にこの問題 を集めていたシドニー・リグドンを訪れた。シドニー・リ グドンと彼の友人の幾人かが教会員になったのを手始め (シオンの場所)に関するものがあったのも,十分考えら れることである。聖徒たちはその預言が速やかに成就する に,宣教師たちはしばらくの間,夜を日についで,カート ランドとその近辺の人々に教えを伝えた。宣教師たちは, ように求めて,熱狂的な状態にあった。それに対して主は, その聖なる町を建てるべき場所はまだ明らかにされない シドニー・リグドン,アイザック・モーリー,ジョン・マ が,『レーマン人に近い境の地』であると言われた。この ードック,ライマン・ワイトなどを教導の業に聖任してか ら,さらに西へ向かった。サンダスキーの近くでは,ワイ 点に関しては,後になってさらに啓示が与えられることに なる(教義と聖約57:2−3参照)。」(スミス,ショダール アンドット族を訪れて福音を宣べ伝えた。しかし,シンシ ナティとセントルイスではごくわずかな収穫しか得られな 共著『注解』p.142) ジョセフ・スミスがここで用いた「レーマン人」という かった。セントルイスでは猛烈な吹雪で前に進むことがで 言葉はインディアンを指し,「レーマン人に近い境の地」 きなかった。年が明けて1831年の初めに,彼らは旅を続 け,雨露をしのぐ家も暖を取る場もないまま,凍りついた へ行くとは,辺境の地へ赴くことを意味していた(教義と 聖約28:9)。当時旅をする場合は,人通りの多い道を通っ とうもろこし,パン,生の豚肉でしのぎながら,徒歩で 300マイル(約500キロ)の道のりを進んだ。そしてつい て,人々の多く住む地域へ行くのが普通であった。その点, インディペンデンスは宣教師たちが到着するわずか4年ほ に,合衆国で最も西の辺境に位置するミズーリ州インディ ペンデンスに到着した。そこに至るまでの4か月間,彼ら ど前に建設が始まったばかりの町であった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は言葉に出せない数々の苦難を味わいながら,インディア 教義と聖約28:12 教会の聖約 ンの二つの部族と何千人もの白人に宣べ伝え,教会の強固 な支部を幾つか組織した。 ここに述べられている教会の聖約とは,教義と聖約第20 章に出てくる教会の規定と聖約を含む。その啓示の中で主 インディペンデンスで少し休息した後,その兄弟たちの うちの3人は辺境地帯を横断し,ショーニー・インディア は,教会を管理する者の名を挙げ(教義と聖約20:2−3参 照),またほかのすべての会員と神権者の務めについて説 ン,さらにデラウェア・インディアンのもとを訪れた。こ 明された(教義と聖約20:38−71参照)。教会全体に対す れらの部族の人々は『モルモン書』に深い関心を示した。 すると,聖職者たちはそれをねたみ,宣教師たちを保留地 る啓示を受けたというハイラム・ページの主張は,『教義 と聖約』のこの章の教えと矛盾するものであった。この教 から追い出すようにインディアン保護官を説得したのであ る。それで,宣教師たちはジャクソン郡へ戻って,しばら えと関連性があるのが,(教義と聖約20:63−67に説明さ れている)同意の原則である。教義と聖約28:13による くの間そこで働き,将来への励みとなる成功を得た。 」(ス と,ハイラム・ページは,自分の受けた啓示にすべての教 ミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.144) 会員が従わなければならないと主張することによって,そ の原則に背いたのである。 の 艱難の日に備える 歴史的背景 第29章 家族がニューヨーク州フェイエットに転居するのを助け ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た。スミス家はそこでデビッド・ホイットマー家の人々と 一緒に住むように招かれていたのである。 1830年9月以前の何か月かにわたって,ジョセフ・スミ スがペンシルベニア州ハーモニーで受けた迫害は実にひど 教会は設立後まだ6か月足らずであった。6月に最初の大 会が開かれ,その大会で聖徒たちは非常に強く霊的な力を いものであった。それでニューエル・ナイトは,預言者の 感じていた。そして聖徒たちは1830年9月26日に予定され 64 第29章 ていた第2回の大会を心待ちにしていた。ジョセフ・スミ スはこの大会が開催される直前に,ハイラム・ページがそ れを通して啓示を与えられたと主張していた石について, 主に尋ねた(教義と聖約28章参照)。預言者ジョセフ・ス ミスはそのときのことを次のように記録している。 「大会が9月26日に予定されていたので,わたしは兄弟た ちとそのことについて話をするよりは大会まで待つ方が賢 明だと考えた。しかしながら多くの人が,特にホイットマ ー家の人々やオリバー・カウドリまでが,その石によって 明らかにされた事柄を深く信じるようになってしまった。 そこでわたしたちは,その重大な一件について主に尋ねる のが最良の策だと考えた。そして大会前に受けたのが次の 啓 示 で あ る 〔 教 義 と 聖 約 28, 29章 〕。」( History of the Church『教会歴史』1:110) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:1−2 「めんどりが羽の下にひなを集 めるように集めよう」 この表現は『教義と聖約』の中に3回出てくる(教義と 聖約10:65;29:2;43:24)。これは,ひなの身に危険が 迫ったときに母鳥が翼を広げ,鳴き声を上げて,懸命にひ なを集めようとする様子をいきいきと描写している。ひな たちは,たとえ庭中に広く散らばっていても,すぐにその 「めんどりが羽の下にひなを集めるように集めよう」(教義と聖 約29:2) (“The Sin of Adultery and Its Consepuences” Millennial Star かんいん 「姦淫の罪とその結果」『ミレニアルスター』1863年3月14 呼び声に従い,急いで母鳥の翼の下に保護を求めて来る。 日,p.169) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主はここで,神の守りを求めて来る人々の3つの性質を 挙げておられる。 (1)神の声に耳を傾ける。 (2)へりくだ 教義と聖約29:8 「彼らは……一つの場所に集められ なければならない」 りる。(3)熱心な祈りによって神を呼び求める。ユダヤの 国民も,アメリカ大陸のニーファイの民も,主の呼びかけ ジョセフ・スミスの時代に聖徒たちは,シオンの町を築 に聞き従うのを拒み, これらの条件に従うのを拒んだ結果, くためにミズーリの地に集まるように命じられた(教義と 聖約57:1−2参照)。聖徒たちは今でも,最初に指定され 大きな悲劇と滅亡に見舞われた(マタイ23:37;3ニーフ ァイ10:4−6参照)。集合の教義については,教義と聖約 た場所にシオンが建設されるのを待ち望んでいる(教義と 聖約101:17−18参照)。しかし聖徒の集合は,時代の必要 29:7−8;101:17−23,および付録の特別講座Aを参照 する。 に応じて改めて与えられた指示に従って進められている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ハロルド・B・リー長老は,集合について次のように説明 している。 教義と聖約29:7 「選民」とはだれか 「神の選民は,特に選ばれた集団,すなわち末日聖徒イ 「集合の霊は,回復のとき以来,教会とともにある。イ スラエルの血統に属する人々は,バプテスマを受けると, エス・キリスト教会の忠実な会員の中でさらに中枢の人々 から成る。それは来るべき世で完全な福音の報いを受け継 定められた地で多数の聖徒たちに合流したいという義にか なった望みを持つ。…… ぐ者となれるように,この世で完全な福音の律法を守るた めに心を尽くして努力している教会員のことである。」(マ 主は集合の御業を指揮する責任を教会の指導者にゆだね み わざ ッコンキー,Mormmon Doctrine『モルモンの教義』p.217) られた。主はこのような集合が将来いつ,どこで行われる みこころ か,彼らに御自身の御心を示される。いずこの地にある聖 ジョージ・Q・キャノン長老は,選民を集める方法につ いて次のように説明している。「人々が思いと行いを清く 徒も,神のすべての約束と預言に関する驚くべき出来事が 起こる前に,自らを備えていただきたい。また,集合地に 汚れのないものにしていると,神の御霊が働きかけ,彼ら は容易に真理を認め,理解するようになる。神の子供たち 関して大管長会から指示が与えられるのを待ち望み,それ み たま の中でも特にすばらしい人々がいろいろな国から集められ が正しい経路を通して主から明らかにされて与えられるま で,心を乱さないようにしていただきたい。」(Conference るのは,この方法による。真理は真理に結びつき,光は光 に,清さは清さに結びつくのである。福音はその影響力で, Report『大会報告』1948年4月,p.55) したがって,聖徒は大管長会に頼り,指示されたときに, 福音の原則を愛する人々を集める。もし福音の求める条件 に従えない人が集められたとしても,そのような人は離脱 指示された方法で集合しなければならない。 していき,自分と気の合う人々と交わるようになる。」 65 教義と聖約29:8 集合の目的は何か ている。 ジョセフ・スミスはこの質問に答えて,次のように記し ている。 ……主の再臨の日は近い。わたしはそれがいつであるか きょう を知らない。……今日〔1936年4月5日〕ここに集まってい 「〔集合の〕おもな目的は,主のために家を建てることに る何人かがまだ地上に住んでいる間にその日が来るであろ あった。主御自身がそこで,主の家の儀式と王国の栄光を その民に明らかにし,救いの道を教えることができるよう うと,わたしは心から信じているからである。その日は間 近に迫っている。そのため,わたしたち末日聖徒は家を整 にするためである。なぜなら,ある種の原則や儀式は,そ のために建てられた特別な場所か家でなければ,教えるこ え,神の戒めを守り,必要であれば悪から義に転じ,へり くだって,信仰と祈りをもって主に仕える必要がある。」 とも執行することもできないからである。 世のどの時代にも神権の原則と律法が民の集合を基とす (『救いの教義』3:2−3) 特別講座Hには,再臨について『教義と聖約』にどのよ るというのが,世界の存在する前に,天の会議で計画され うな教えが出ているかが,さらに詳しく論じられている。 たことであった。 この同じ目的のために, 神は末日に御自分の民を集めて, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:12 十二使徒はイスラエルの家に属す 彼らを儀式やエンダウメント,洗い清めや油注ぎなどに備 えさせようと主のために家を建てさせるのである。」(『教 るすべての者を裁く ジョン・テーラー大管長は,裁きについて次のように述 会歴史』5:423−424) べている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:9 悪人はわらのように焼かれる 「この箇所でキリストは生者と死者の裁き主,すなわち 全地の裁き主と称されていると明言しても差し支えないと これは比喩的な表現なのだろうか,それとも邪悪な人々 はほんとうに焼かれるのだろうか。ジョセフ・フィールデ 思う。聖典には,エルサレムで教え導いた十二使徒が 『12の位に座してイスラエルの12の部族をさばくであろ ィング・スミス大管長は次のように言っている。「これは う』(マタイ19:28)と記されている。また,次のように 意味のない修辞的表現ではない。かといって,主が焼き払 いについて語られるのを,文字どおりに解釈すべきでもな も記されている。〔教義と聖約29:12;1ニーファイ12: 8−10〕 い。主の来臨のときに悪を行う者と背く者はわらのように なり,焼き尽くされるという主の言葉は,聖典のあちらこ これは,次に挙げる裁きの原則を示している。まず初め は,偉大なる大祭司であり王であるナザレのイエス,神の ちらに書かれている。イザヤはそのように預言している。 御子による裁き,次にイエス御自身から任じられたアジア ……確かに,主の言葉を軽視したり,意味のないものと考 えたりしてはならない。 」(Church History and Modern Reve- 大陸の十二使徒による裁き,そして3番目に来るのはこの アメリカ大陸の12人の弟子による裁きである。この12人の lation『教会歴史と近代の啓示』1:238) キリストは栄光を受けておられる,日の栄えの状態の御 弟子はこの大陸の民を裁く者であり,エルサレムで教え導 いた十二使徒の管理会の下にあると思われる。また,その 方である。このような状態の御方の栄光は,太陽の栄光に 匹敵するものである(教義と聖約76:70参照)。したがっ 管理会はペテロとヤコブとヨハネによって構成される,神 の承認を受けた十二使徒の管理会である。彼らは初めは地 て,キリストがその栄光をもって来られるとき,キリスト 上で,後に天でこの神権を有し,神権のもろもろの鍵の正 の臨在は焼き尽くす火のようである。山々は御前に崩れ落 ち,物質は酷熱で溶かされ,水は沸き立つ。そして,太陽 統な管理人としてジョセフ・スミスとオリバー・カウドリ のもとを訪れ,二人にそれを授けたのである。また,聖徒 でさえも恥じてその顔を隠してしまう(ヘブル12:29;教 義と聖約133:40−44,49参照)。聖典にはまた,「焼き尽 たちも世を裁くと言われている。このように最も上位にお られるのがキリストであり,それに続くのが使徒たちと弟 くす火」が悪を行う者のうえに注がれるときのことも書か 子たち,次に聖徒,すなわち神権の系統にいる他の指導者 れている(教義と聖約29:21。教義と聖約35:14;1ニー ファイ22:17,23;エゼキエル38:22;39:6参照)。 で,世を裁くと言われている人々が来る。恐らくこの一体 となった神権者の組織が人類家族の行く末を握り,人々を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:9−11 「その時は近く」 すべてのことについて裁くのであろう。」(Mediation and しょくざい Atonement『仲保と贖 罪』pp.155−157) ひ ゆ み まえ かぎ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この聖 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 句の真の意味を次のように説明している。 「世界は急速に終わりに近づいている。言い換えれば悪 教義と聖約29:17−21 「わたしは悪人に報復しよ う。彼らが悔い改めようとしないからである」 の時代が終わりを告げようとしている。罪悪が十分に熟す ときに,主は天の雲に乗って来られ,神を敬わない者に報 最後の裁きに関する預言の生々しく恐ろしい表現につい て,ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べて いを下されるであろう。なぜなら,主は彼らに対して怒り を燃やされるからである。主が来臨を遅らせておられると いる。「繊細な感情の持ち主にとって,キリストの平和の 統治に先立つ最後の大戦争のときに地を覆う荒廃,滅亡, 考えてはいけない。もしもわたしたちが望むならば,その 死などは,思い浮かべるのさえつらいことである。その大 日がまさに門口に来ていることをわたしたちが知ることの できるように,主の来臨のしるしの多くがすでに与えられ 量殺戮,死体の山と流血は実に驚くべき規模のもので,腐 敗した死体は『旅びとを妨げる。』それらを取り除くだけ 66 さつりく 第29章 でも大変な仕事になるであろう。そして,諸種の鳥と野の ものがそれに取って代わるという意味でもなければ,天が 獣が『勇士の肉を食い,地の君たちの血を飲』むために集 まる(エゼキエル39:18)というエゼキエルの預言が成就 消滅し,新しい天がそれに取って代わるという意味でもな い。地球と天が死によって過ぎ去った後,不死不滅の状態 するのである。それに続いて,ヨハネが書き記した叫び声 が聞こえてくる。『さあ,神の大宴会に集まってこい。そ に更新されるという意味なのである。この地球は生きてい るが,いずれ死ななければならない。しかし地球は律法に して,王たちの肉,将軍の肉,勇者の肉,馬の肉,馬に乗 っている者の肉,また,すべての自由人と奴隷との肉,小 従っているため,復活を通して回復され,日の栄えの状態 となって,日の栄えの栄光を受ける人々の住まいとなるの さき者と大いなる者との肉をくらえ。』(黙示19:17−18) である。 そのことがこの啓示の次の箇所に説明されている。 これは将来,文字どおり実際に起こる恐るべき出来事であ り,末日の啓示の中でもはっきりと確認されていることで 〔教義と聖約29:24−25〕 そこでわたしたちは, 主が救おうと考えておられるのは, ある(教義と聖約29:18−21参照)。」(『モルモンの教義』 p.772) 地球と天だけではなく,また地球上に住む人間だけでもな く,主が創造された万物も同様であることが分かるのであ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,このよ る。獣も,海の魚も,空の鳥も,人間と同じように復活を うな恐ろしい預言について次のように述べている。「これ らは不快なことであると思う。わたしでさえ,こうしてこ 通して更新される。なぜなら,それらも命あるものだから である。」(『大会報告』1928年10月,pp.99−100。教義と こに立ち,これが聖典に書かれていると皆様に申し上げる のは快いものではない。主が国々と争われるとき,主は彼 聖約88:17−19,25−26参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ らを剣に渡されるであろう。彼らの遺体は葬られずに,地 教義と聖約29:26 「わたしの天使長ミカエルはラッパ の面に糞土となる。それは快い情景ではないだろう。しか しわたしたちはこのことを知っておくべきではないだろう を吹き鳴らす」 「ミカエルはアダムであり,シオンの聖者であるイエ か。これらの事柄を読んで理解することは,わたしたちの 義務ではないだろうか。主がわたしたちにこれらの事柄を ス・キリストの指示と勧告の下に人類の救いの鍵を持って いる〔教義と聖約78:15−16参照〕。アダムは,地球が清 知らせてくださったのは,わたしたちがこれらの事柄を知 けんそん っておいて,謙遜になり悔い改めて信仰を持つことによっ められて日の栄えの天体となるときに,自分の子孫である 人の子らを管理する。ミカエルはアダムであり,『君,天 て自らの備えをし,これら昔の預言者たちが述べた恐ろし 使長』である。地球が形造られる以前,永遠において,ミ い状態から免れることができるようにするためであったと は考えられないだろうか。わたしがこれらの事柄を読むの カエルは天使長であった。そしてこの地上に来てアダムと なり,人類家族の始祖となったのである(教義と聖約 はそのような理由からである。わたしには皆様と同じよう に,このような状態について強く感じるものがある。わた 107:54−57参照)。 預言者ジョセフ・スミスは,アダムについて次のように しはこのような状態が終わりを告げることを祈るととも 言っている。『最初の人であったアダムは,ダニエル書で に,正しい形で終わることを望んでやまない。」(Signs of the Times『時のしるし』pp.154−155) 「日の老いたる者」と言われている。言い換えれば,すべ ての人の最初で最も老いた者,偉大な始祖である。また, 満ちみちた憤りの杯(教義と聖約29:17参照)という表 現は,悔い改めない悪人に報復するのを主がそれ以上引き あるところではミカエルと呼ばれている。……アダムは時 ふん ど さかずき 伸ばされないということを示唆している。杯に入る量に限 界があるように,悪をなす人々に主が示される忍耐にも限 界がある。それ以上長く耐えることは,決して徳ではない。 それどころか,主が救い主として人類のために御自身をさ さげられたのにかえって彼らを害することになる。救い主 あがな の贖 いの血は悔い改めようとしない者を清めることはな い。そこで救い主は,心の鈍っている,静かな細い声に耳 を傾けようとしない者の目を覚ます手段として,疫病,飢 餓,悪疫,破壊などを用いられる(1ニーファイ17:45; 教義と聖約43:20−27参照)。これらの恐ろしい裁きは, 人の悪事が招く当然の報いである。神は人々に,このよう な悪事をやめ,罪の恐るべき結果を身に招かないようにと 心から望んでおられるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:22−25 この地球が滅ぼされた後,別 に新しく地球が創造されるのだろうか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に説明している。この聖句は,「この地球が消滅し,別の 地球は復活する 67 満ちる神権時代の鍵を持っている。すなわち,世の初めか このように,初めに霊的なものがあり,次いで物質的なも らあらゆる神権時代が彼を通して明らかにされてきたし, これからもまたそうされるであろう。』(Teachings of the のが続いた。そして終わりには,物質的なものが先で,霊 的なものがそれに続くのである(マッコンキー,Doctrinal Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』 New Testament Commentary『新約聖書教義注解』1:669参 pp.167−168) 」(スミス『教会歴史と近代の啓示』1:309) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 照)。主がこのような言い方をされたのは,死すべき状態 にあるわたしたちが理解できるようにするためにほかなら 教義と聖約29:27−29 遠の火に入れ」 ない。しかし神にとっては初めも終わりもないし,すべて は霊的なことなのである。 「わたしから離れ去り……永 ここに挙げられている悪人たちは,「悪魔とその使いの ために用意されている永遠の火」(教義と聖約29:28)に 「人間は現世の律法と霊にかかわる律法とを区別する。 そして,中にはその二つを区別することに大いに心を配る 投げ込まれる。教義と聖約29:28と76:36とは,非常によ 人もいる。 主にとってはすべてが霊にかかわるものであり, く似ている。主はかつて,彼らは戻って来ると告げたこと はないと言っておられる(教義と聖約29:29参照)。逆に, またこの世にかかわるものであるが,結果的に,主から与 えられる律法は霊にかかわるものである。なぜなら,主の 彼らは主のおられる所に来ることはできない,彼らにはそ み たま の力がないと言っておられる。つまり,御霊の力が彼らか 律法は霊的な存在にかかわるものだからである。主は,ア ダムには顔に汗してパンを食べるようにと命じ,モーセに ら完全に退き去っていたのである。(「わたしの力の言葉」 は岩を打って民に水を飲ませるように言われた。また,預 については,教義と聖約29:30を参照する。)これらの補 足的説明はすべて,ここに述べられている人々が第二の死 言者ジョセフにはノーブーハウスを建てるように,そして ユタの聖徒たちには垣を巡らして道を造るように命じられ を受け,滅びの子になるということを示している(『モル モンの教義』pp.280−281;教義と聖約76:31−38参照)。 た。これらの律法はこの世の幸せのためであったが,同時 に霊の幸せのためでもあった。このような律法が与えられ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ たときにそれに従うのは,霊的な義務である。『人にでは 教義と聖約29:30 「わたしのすべての裁きが人々に 明らかにされるわけではないことを覚えておきなさい」 なく主に仕えるように』(エペソ6:7)日々の務めを果た す人は,その務めが何であるかを問わず,そこから霊的な 死すべき状態にある人間は,非常に限られた理解力と不 完全な性格を備えているので,完全かつ全知である神の裁 祝福を得ることができるのである。 」(スミス,ショダール 共著,Commentary『注解』p.156) きを完全に理解することはできない(教義と聖約38:2参 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 照)。神は御自身の裁きや働きの理由をすべては明らかに されない。しかし,神の裁きが公正で正しいものであるこ 教義と聖約29:34 「わたしが創造した……アダム」 この啓示を授けられたのがキリストであることから(教 とは間違いがない。 預言者ジョセフ・スミスはこう教えている。「神はその 義と聖約29:1参照),この聖句はアダムがキリストの子孫 であると教えている,と考える人がいるかもしれない。事 手に裁きの手綱を持っておられる。神は賢明な立法者であ り,すべての人を裁かれる。人間の狭い心によってではな 実,アダムをはじめとする地上の人間はすべて父なる神の 子孫なのである。キリストはここで,ブルース・R・マッ く,『善であれ悪であれ,……行ったことに応じてそれぞ コンキー長老が説明しているように,「神聖な権能の付与」 れ』裁かれるのである。……神は人々を『持たないところ によらず,持っているところによって』裁かれる。律法な と呼ばれる原則によって御父に代わって語っておられるの である。 しに生きてきた人は律法なしに裁かれ,律法を受けている 人はその律法によって裁かれる。わたしたちは偉大なエホ 「キリストはすべての面で完全であるという点において 御父と一つであり,また御父の力と権能を行使しておられ バの知恵と英知を案じるには及ばない。エホバはすべての る。したがって,キリストが言われることや,行われるこ 国民に,それぞれの功績と,英知を得た方法,彼らを治め ていた法律,正しい情報を得るために提供された施設,お とはすべて,同じ状況の下であれば,御父が言われること や,行われることとまったく同じなのである。 よび人類家族に関する神の計り知れない計画に従って裁き を下し,あるいは慈悲を示される。また神の計画が明らか それゆえに,御父は御自身の名を御子に冠し,あたかも 御父であるかのごとく一人称で語る権能を授けておられる にされ,将来を閉ざす幕が引かれるとき,わたしたちは皆, のである。……主の啓示が,『イエス・キリストの声を聴 全地の裁き主が事を正しく行われたことを告白しなければ ならないであろう。 」(『教会歴史』4:595−596) きなさい』という言葉で始まり,そのすぐ後に『わたしの 独り子』と続くのは,このような理由によるのである(教 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:31−35 「わたしにとってはすべてが 義と聖約29:1,41−46)。後者はキリスト御自身の言葉で あるが,神聖な権能の付与によって,キリストは天父のご 霊にかかわるものであり」 主は地球の創造に際して,まず万物を霊的に創造された とくに語ることができるのである(教義と聖約93:3−5; モーサヤ15:1−5参照)。」(『モルモンの教義』p.130。タ (モーセ3:5−9参照)。万物が物質的となったのは,堕落 ルメージ「御父と御子:大管長会と十二使徒会とによる教 後のことである(教義と聖約77:6参照)。地球は最後に, 物質的なものが再び霊的なものとなる(信仰箇条1:10)。 68 義の解説」 『信仰箇条の研究』pp.612−626も参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約29:46−48 「幼い子供たちは……世の初 課しておられる(48節参照)。主が両親に対して求めてお めから贖われている」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この言 られることは,教義と聖約68:25−28;申命6:5−7に述 べられている。 葉の意味を次のように説明している。「イエス・キリスト の贖罪によって幼い子供たちはすべて贖われている。幼い ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 子供たちは罪を犯さないし,サタンにも彼らを誘惑する力 が与えられないからである。そうすると,『幼い子供たち 幼い子供たちや,知的な障害によって神の律法を理解で きない人々は,それを理解できる人々と同じ基準では裁か は,わたしの独り子によって……贖われている』という主 れない(モロナイ8:22;2ニーファイ9:25−27参照)。こ の言葉(46節)の意味について疑問がわいてくるかもしれ ない。これは,贖罪が創世の以前,あるいは創世の時点で の原則について,ジョセフ・フィールディング・スミス大 管長は次のように教えている。「末日聖徒イエス・キリス なされたという意味ではない。それは救いの計画が受け入 れられたときに,幼い子供たちと律法の適用を受けない ト教会は,理解力の遅れたすべての子供については,責任 を負う年齢に達しない子供とまったく同じに考えている。 人々のための備えがなされたという意味であり,それが成 彼らはバプテスマを受けずに贖われ,神の日の栄えの王国 就したのは,イエス・キリストの贖罪によるのである。」 (『教会歴史と近代の啓示』1:144。教義と聖約74:7; に行って,御父の憐れみと公正さにより能力や失われたも のを取り戻すことができる。わたしたちはこのように信じ 137:10;モロナイ8:8−24;モーセ6:54参照) 主は幼い子供たちの救いに関して,父親に大きな責任を 教義と聖約29:50 「理解する能力のない者」 あわ ている。 」(『福音の質疑応答』pp.121−122) 「あなたの心は…… 世の事柄のうえにあった」 第30章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示は1830年9月にニューヨーク州フェイエットで, 教義と聖約30:1−4 しっせき デビッド・ホイットマーは何を 預言者ジョセフ・スミスに授けられたものである。最初こ の啓示は『戒めの書』で3つの別個の啓示として発表され したために,主から叱責を受けたか 「デビッド・ホイットマーはハイラム・ページに聞き従 たが,後に預言者は1835年版の『教義と聖約』でこれを一 つの章にまとめた。 ったことと,そして恐らくは,聖見者の石と思われていた 石に心を動かされて家族に影響を及ぼしたことについて, 預言者ジョセフ・スミスは,この章が与えられた経緯を 穏やかな叱責を受けた。その中で指摘されたように,デビ 次のように記録している。 「ついに大会が召集された。前述の石の問題が話し合わ ッドは人を恐れており,また教導の業を果たすことや,御 霊と霊感された預言者に聞き従うことよりも,世の事柄に れ〔教義と聖約28,29章の「歴史的背景」参照〕,質疑が 延々と続いた後で,ページ兄弟を含め出席した全教会員が 心を奪われていた。その結果,彼は自分自身で主に尋ねる に任され,預言者が彼に代わって尋ねることはできなかっ その石と石を通して『啓示』された事柄を放棄し,わたし たちは互いに納得して幸福な気持ちに包まれた。それから たのである。また彼は,さらに指示が与えられるまで家に とどまり,当面は教会員と近隣の世の人々のための働きに わたしたちは聖餐を受け,また多くの人に確認や聖任の儀 専念するように命じられた。狭い道から逸脱すれば必ず何 式を執行し,第1日およびそれから後2日間にわたり,広範 囲に及ぶ教会の事務を行った。その間わたしたちの間には がしかの結果を招き,その結果は罪が赦された後も残るの である。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注解』 神の力が満ちあふれていた。聖霊が降られ,わたしたちは 言い尽くせない喜びを味わった。平安と信仰と希望と慈愛 p.162) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ がわたしたちの間にみなぎっていた。 教義と聖約30:1−4 わたしたちは別れる前に次の啓示を受けた。〔教義と聖 約30,31章〕」(History of the Church『教会歴史』1:115) うえにあった」 ほとんどの末日聖徒は,ここにあるデビッド・ホイット せいさん ゆる 「あなたの心は……世の事柄の マーの名を自分の名に置き換え,有益な勧告を見いだすこ とができる。この世の事柄に心を奪われ,それを神にかか わる事柄よりも優先したという経験が一度もない人は,ほ 69 とんどいない。そのようなときには,デビッド・ホイット マーと同じように,何が悪かったかを自分一人で考えるに 任されるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約30:5−8 ピーター・ホイットマーに与え られた啓示 ピーター・ホイットマーは叱責されていない。恐らくハ イラム・ページの石の問題に関して何ら責められる点がな かったのであろう。 レーマン人への伝道に関するより詳細な事柄について は,教義と聖約28:8−16;32章の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約30:9−11 ジョン・ホイットマーは,シオ ンの聖徒たちの中で働くように召される 「このときジョン・ホイットマーは,特に聖徒たちの間 で働くように召された。彼は預言者の助け手として教会で 非常に活発に働いていた。啓示の編さんを助け,またその 印刷を監督するためにオリバー・カウドリに同行してジャ クソン郡へ赴いたこともある。また,ジャクソン郡の教会 を管理するように任じられた7人の大祭司のうちの一人で ある。教会歴史家であり,また教会の重要な出版物の編集 者としても働いた。しかし最後まで忠実であることはでき なかった。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.163) ジョン・ホイットマーは伝道に召され,後に教会歴史家となっ た 第31章 「家を治め」 「トーマス・B・マーシュは, 『モルモン書』の16ページ 歴史的背景 み たま あかし ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 分の校正刷りに関して受けた御霊の証によって福音を受け 入れ,後にパルマイラへ移って教会に加入した。これが信 これは,預言者ジョセフ・スミスが1830年9月にニュー ヨーク州フェイエットで受けた4つの一連の啓示の最後の 仰である。多くの『探求者』は,完全な知識の泉を持ちな がら感動を味わえない。神はその信仰のゆえに,トーマ ものである。 回復の業は,神の最も高貴な子供たちを引きつけ始めて ス・B・マーシュを称賛されたのである。」(スミス,ショ いた。この啓示はそのような中の一人,トーマス・B・マ ダール共著,Commentary『注解』p.165) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ーシュに当てられたものである。マーシュ長老はバプテス マを受けて教会に入り,オリバー・カウドリによって長老 教義と聖約31:2,9 致 に聖任されたばかりであった。事実,この人は主から偉大 な召しを与えられた人物であった(History of the Church 「すべての人間がなすべき偉大な業……それは永遠の家 族という単位を作り,完成させることである。……救いは 『教会歴史』1:117参照)。 神の業に必要不可欠な家族の一 家族全体の問題である。」(ブルース・R・マッコンキー, 注 解 Conference Report『大会報告』1970年4月,pp.26−27) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約31:1 「わたしの業を信じる信仰のゆえに, 教義と聖約31:3−4 「あなたの舌は緩められ」 「忠実であったときはいつも,トーマス・B・マーシュ あなたは幸いである」 は雄弁であった。ミズーリ州クレイ郡における苦難の時期 70 しもべ 聖約29:2−8参照)。マーシュは全能者の僕として,人々 を強め,集合に備えさせる務めを果たすことになった。シ オンに集合するには人格面での強さと備えが必要である が,シオンの町がまだ築かれていない時点では,なおのこ とである。また,神の律法を守ることも必要である。マー シュは1832年の秋に,聖徒の一隊をミズーリ州ジャクソン 郡へ導いた。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.166) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約31:9−13 いに導く教え マーシュ長老とすべての人を救 「主はここで,御自分の僕を導くための特別な教えを与 えておられる。それは,苦難の中で忍耐強くあり,ののし る者にののしり返さず,家を治め,確固としており,誘惑 に陥って自分の報いを失うことのないように常に祈り,最 後まで忠実であるようにということである。 主はトーマス・B・マーシュに危険が迫っていること を知っていて,警告を与えられたのである。 」(スミス,シ ョダール共著『注解』p.166) 家族は主の王国の力となる最も重要な単位である に,彼は政府当局に聖徒たちの訴えを伝えるための委員会 の一員に任じられた。そのときの彼の話は,聞く人に強い 感動を与え,その場にいたアチソン将軍が涙を流したほど ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約31:10 トーマス・B・マーシュはどのよ うな意味で,教会員にとっての医者となったか トーマス・B・マーシュは自分の時間を割いて,教会の 会員たちの問題解決を助けていた。そのことを示す記録が であった。そして,聖徒たちが新しい居住地を探せるよう 数多く残されている。またマーシュ長老は,管理役員とし て教会法廷に何度も関与している。この点において,彼は に援助することが決議された。」(スミス,ショダール共著 『注解』p.165) 教会の規定と律法を通して,悔い改めた人々に希望を与え ている。トーマス・B・マーシュは,口当たりのよい薬草 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約31:8 「彼らを強くし,彼らが集められる の使用についても何がしかの技術を身に付け,その知識を ときのために彼らを備えなければならない」 もって人々を助けることができた。しかし,彼にとっても いや っと大きな召しは人の魂を癒すことであった。 「集合の原則が明らかにされたばかりであった(教義と レーマン人への最初の伝道 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「オリバー・カウドリとピーター・ホイットマーは,レ ーマン人のところへ伝道に行くように召されていた(教義 第32章 て,パーリー・P・プラットとザイバ・ピーターソンがそ の大切な伝道に加わるように召されたのである。」 (スミス, ショダール共著,Commentary『注解』p.169) 「レーマン人に遣わされた宣教師は,ニューヨーク州バ ッファローの近くに住むキャテラウグス族に対して伝道を と聖約28:8;30:5参照)。聖徒たちはこの伝道に大きな 関心を寄せていた。というのは, 『モルモン書』の約束(1 開始した。ここで彼らは歓待され,数冊の『モルモン書』 を置いて,さらに西への旅を続けた。そして彼らは途中少 ニーファイ15:13−18など,数多くの箇所)に従って,散 あがな らされた残りの者の贖いの時が訪れるのを待ち望んでいた し回り道をして,パーリー・P・プラットの友人でオハイ オ州カートランドの近くに住む牧師とその会衆を訪れて福 からである。預言者は祈りによってこの問題を主の前に持 音を宣べ伝えた。……伝道のおもな任務から離れて寄り道 ち出し,そしてこの啓示を与えられた。その中で,オリバ ー・カウドリとピーター・ホイットマー・ジュニアに加え をすることを考えたのはなぜであろうか。そこには改革バ プテスト派の説教者シドニー・リグドンが住んでいたので の 71 ある。パーリー・P・プラットは,シドニー・リグドンの のも,忍耐と信仰を尽くして切り抜けられるよう祈るもの 持つ信仰と感受性から,彼が福音のメッセージに必ず応じ ると確信していたのである。はたして彼の期待は外れなか である。アーメン。〔署名〕オリバー・カウドリ」(Journal History『歴史記録』1830年10月17日) った。 シドニー・リグドンだけでなく,その会衆の多くが教会 に加わったのである。短期間のうちに,その地区で130人 注 解 がバプテスマを受けて教会に入り,当時の末日聖徒の単独 グループとしては最大の規模となった。シドニー・リグド 教義と聖約32章 レーマン人の日 スペンサー・W・キンボール大管長は,現在をレーマン ンや他の人々に福音を紹介した宣教師たちは,数の多いレ ーマン人の部族が住む西部へ向けて旅を続けた。今や宣教 人の日として多くのことについて語り,書き残している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 師の数は,カートランドでの改宗者フレデリック・G・ウ 「レーマン人は現在,数も力も増しつつある。ナバホ・ インディアンが悲惨な捕らわれの状態を解かれてニューメ ィリアムズを加えて5人となった。しかし彼らの伝道活動 は,パーリー・P・プラットの逮捕〔宣教師たちのそれ以 キシコ州のフォートサムナーから戻ったとき,生存者はわ ずか9,000人であった。しかし,現在は10万人を超してい 上の成功を阻もうとする策略の一つ〕により一時遅れるこ とになってしまった。…… る。世界には1億3,000万人に及ぶレーマン人がいる。彼ら はそれぞれ居住する地域社会で政治的な責任と活動力を伸 宣教師はオハイオ州サンダスキーのワイアンドット族を ばしつつある。雇用状況も生活水準も向上している。 訪れた。ここから彼らは,荒れ地を通ってミズーリ州イン ディペンデンスの辺境の村に至る最も困難な旅を開始した 教会は彼らの間にすでに根を下ろし,これからも発展し 続けるであろう。現在35万人以上のレーマン人教会員がお のである。…… インディペンデンスに到着すると,二人の宣教師が伝道 り,彼らは熱心に教会に集っている。彼らは神権を持ち, み 支部長,定員会指導者,監督,ステーク会長など,この御 わざ 資金を得るために働き,ほかの3人はインディアンの土地 業のあらゆる分野で指導者として活躍している。また神殿 の近辺にとどまった。デラウェア・インディアンの中で最 大の成果を上げるられることは明らかであった。インディ に入り,昇栄に必要な儀式を受けている。彼らは英知ある 誠実な民,偉大な祝福された民である。 アンたちは以前にキリスト教の宣教師に利用されたことが あったので,最初は彼らを疑っていたが,オリバー・カウ わたしたちは自分の信仰を働かせてこの業をさらに進め ることができないだろうか。エノスは強い信仰をもって祈 ドリの感動的な話によって,この疑惑はすぐに打ち消され り,レーマン人が守られるという約束を主から得た。数多 た。…… しゅうちょう デラウェア族のアンダーソン酋長は深い感銘を受け,宣 い末日聖徒の家族が毎日ひざまずいて,信仰をもってこれ ら兄弟たちの間に御業が早く進められ,扉が開かれるよう 教師たちに冬の間とどまって『モルモン書』について教え てくれるように頼んだ。成功は目前に迫っていると見られ に祈ったならば,何とすばらしいことであろうか。 主イエス・キリストが再び帰って来てその民を導き,福 ていたが,ほかのキリスト教宣教師たちがインディアン監 督官に働きかけ,モルモンの長老たちをインディアンの土 千年が開かれ,地球が更新されて楽園の栄光を受け,陸地 が合して一つの地となる日が来る。レーマン人はその日の 地から追い出すようにしたため,彼らは伝道活動を中断せ ために,神の家の兄弟姉妹と一つになって御業を推進する ざるを得なかった。退去を迫られ落胆した宣教師はインデ ィペンデンスに戻り,そこにとどまった。一方,パーリ ー・P・プラットは,伝道の成果をジョセフ・スミスに報 告し,カートランドに残してきた聖徒を訪問することにな った。 」(『教義と聖約第1章から第102章』〔日曜学校福音の 教義クラス教師用,1979−80〕pp.93−94) この兄弟たちは召しを受けたときに正式な聖約を交わし た。その聖約の中に,彼らの決意の程を幾らか読み取るこ とができる。例えば,オリバー・カウドリは次のように書 いている。「わたしオリバーは,わたしを補佐するために 神が召された兄弟たち,パーリー,ピーター,ザイバを伴 って,レーマン人のもとへ行き,神の独り子の完全な福音 を彼らに伝えて胸躍る大いなる喜びのおとずれを告げ知ら あかし せ,また栄光ある新エルサレムに神殿が建てられる証とし て柱を立てるように,主なる神から命じられた。したがっ てわたしは,神の前をへりくだって歩み,聖霊に導かれる ままにこの栄えある業とこの任務を行うことを甚だ厳粛に 神に聖約する。常にわたし自身と兄弟たちの成功のために, また束縛や投獄をはじめ,わたしたちを陥れるいかなるも 72 教会初期のレーマン人への宣教師パーリー・P・プラット ために,再び威厳と力をもって立ち上がらなければならな 者になるように勧告された。1837年,カートランドの教会 い。預言者たちがこう告げたとおりである。『ヨセフの家 の残りの者は将来この地で増えて,この地は彼らの受け継 にはあつれきと不一致があり,パーリー・P・プラットも そのような風潮に打ち負かされていた。彼はジョセフの行 ぎの地となる。そして,彼らは主のために昔のエルサレム のような聖なる都を築く。また,彼らはもはや乱されるこ 動を挙げて過ちだと非難し,ジョン・テーラーを預言者に 背かせようとさえした。そのときテーラー長老は兄弟とし とはなく,終わりが来て大地が過ぎ去る。』(エテル13:8) わたしはこれを固く信じている。 」(“Our Paths Have Met て彼を叱責した。パーリー・P・プラットは涙のうちに預 言者のもとへ行き,自分の罪を告白した。預言者は心から Again” Ensign「道はまた一つになった」『エンサイン』 彼を赦し,ともに祈り,祝福を与えた。これが柔和さであ 1975年12月号,pp.5,7) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ り,男らしさである。真の謙遜さを持つことができるのは, 真に強い人格を備えた人だけである。」(スミス,ショダー 教義と聖約32:1 「柔和で心のへりくだった」 「パーリー・P・プラットは,柔和で心のへりくだった ル共著,Commentary『注解』pp.170−171) しっせき ゆる けんそん 第33章 「わたしの福音を告げ知らせる」 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「主はいつも,信仰をもって熱心に求める人々を教えよ うとしておられる。その主が,ニューヨーク州フェイエッ トで次のような啓示を与えられた。〔教義と聖約33章〕」 のように説明している。 「わたしたちは主に多くの負債を負っている。一つは邪 の 悪でよこしまな時代の人々にこの福音を宣べ伝えるという 負債である。…… 主は人に選択の自由を与えられた。人は自分の思いのま まに行動し,善を選ぶことも,悪を選ぶこともできる。 やみ (History of the Church『教会歴史』1:126) 「エズラ・セアとノースロップ・スイートは,レーマン 人々は行いが悪いために光よりも闇を愛すると,主は言わ れた。それでもわたしたちの使命は,力の及ぶかぎりでき 人への伝道が行われているときに教会に加わった。そして るだけ多く天の御父の子供たちを悔い改めに導き,改心さ 1830年10月,彼らは啓示によって,伝道に出るように,ま た主の声を聴くように求められた。その主の『言葉は生き せることである,と申し上げたい。これはわたしたちが負 っている負債の一つであって,主が教会に,もっと具体的 ていて,力があり,もろ刃の剣よりも鋭くて,関節と骨髄 ……を切り離すほどである。』しかし,ノースロップ・ス に言えば神権定員会に課せられた責務である。しかし,こ の責務はすべての会員が負っているものである。」(『救い イートが教会を離れたのはそれから間もなくのことであっ の教義』1:288) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た。彼はほかの幾人かと一緒に, 『キリストの純粋な教会』 と呼ばれたものを組織したが,それはすぐに消滅してしま 教義と聖約33:3 「11時」とはどういう意味か った。」(スミス,Church History and Modern Revelation『教 会歴史と近代の啓示』1:152) 「11時」という言葉は,10人のおとめのたとえと関連が あるように思われる(マタイ25:1−13参照) 。花婿は,待 注 解 ち受ける者の半分が油断している真夜中に不意にやって来 た。要するに,11時になったということは,花婿の到来の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 時が近くなったということを意味しているのである。 教義と聖約33:1 主の言葉の力 聖典では,神の言葉には命と力があるとはっきり教えら ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,このた とえが主の話された他のたとえとどのように関係している れている(2ニーファイ1:26−29;32:3;『モルモン書』 ヤコブ4:9;アルマ4:19;31:5;32:27−42;教義と聖 かについて,次のように述べている。「主の計算により, わたしたちが生きているこの時代は11時にたとえられてい 約1:37−38;21:4−6;84:44−47,85参照)。 る。わたしたちの時代がこの世の最後の時代だからである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約33:2 「曲がったよこしまな時代の人々に オーソン・F・ホイットニー長老は,この神権時代を『土 曜日の夜』と述べている。ぶどう園の労働者のたとえ〔マ わたしの福音を告げ知らせる」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,聖徒が タイ20:1−16参照〕によると,この時間に働く者には, 忠実であれば,人類の歴史上,前の時間に,すなわち様々 世の邪悪な者に対して負っている特別な責務について,次 な神権時代に働いた人々と同じ報いが与えられるのであ 73 る。」(『教会歴史と近代の啓示』1:153) へ行くことを布告し, 家臣たちに道を備えるように命じる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 必要であれば,道がない所に道を造り,丘をならし,くぼ 教義と聖約33:3 地を埋め,曲がりくねった道をまっすぐにさせる。セミー 「最後の時」 「主は『最後の時』という言葉で,時満ちる神権時代の ことを言われたのである。」(ジョセフ・フィールディン ラミス〔訳注:アッシリアの伝説上の女王〕も,特に自分 の旅に際して道路を造らせたと言われている。近代におい グ・スミス,Conference Report『大会報告』1946年4月, p.155。教義と聖約43:28−30;112:30−32参照) ても,トルコ政府は,ドイツ皇帝が聖都訪問の意向を示し たときに,ヤッファからエルサレムまで立派な道路を造っ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている。主の道を備え,主の道筋をまっすぐにするとは, 教義と聖約33:4 いる」 主の主権を認め,主を迎えるために万全の備えをするとい うことである。来臨に必要なすべての備えが整うまで,主 「すべての者が腐敗した心を持って ハイラム・M・スミス長老は,この聖句の「腐敗した」 が世を統治するためにこの地上に来られることはない。 という言葉の特別な用法を定義して,次のように述べてい 『この言葉を聞きなさい,世の人々よ。1843年のこの世に る。「少し説明させていただきたい。わたしが福音を教え ……そして花婿への備えがすべて整うまで,主が来て義人 る人々に関連してこの『腐敗した』という言葉を用いる場 合,それは主が預言者ジョセフ・スミスの祈りにこたえて を治められることはない。』(『教会歴史』5:291)」(スミ ス,ショダール共著,Commentary『注解』p.174) 宣言を下されたときに用いられたのと同じ意味であると信 じている。主も,わたし自身も,宗教界の教師を一個人と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ して道徳的に堕落し, 汚れているなどと言うつもりはない。 ンプの芯を切りそろえて火をともし」 一つの階層として見た場合, 彼らの道徳的な面での清さは, 並の人々より少しは上であると思う。主も同じように考え 主はここでも,『新約聖書』のたとえの中に見られる比 喩的表現を用いておられる。この句もまた,10人のおとめ ておられるのではないかと思うが,わたしはこの『腐敗し た』という言葉を,真理から離れている……偽りのものに のたとえと関連がある(マタイ25:1−13参照) 。花婿がや って来る時間になると,おとめたちは立ってランプの芯を 心を向けるという意味で用いている。偽りの教義は腐敗し た教えであり,偽りの宗教は腐敗した宗教である。そして 切りそろえた,すなわち準備を整えた。そのとき5人の愚 かなおとめたちは,油が切れているのに気がついた。明ら 偽りの教師は腐敗した教師なのである。偽りの教義を教え かにこの教えは,主の来臨が近づいているので霊的な準備 る人,また偽りの宗教を信じ,実践し,説く人々は,真実 でない汚れたことを教えるのであるから,すべて腐敗した を整えているようにという,聖徒たちへの警告である。 教義と聖約33:17−18 「常に祈り,あなたがたのラ 教師である。 」(『大会報告』1916年10月,p.43) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約33:5 教会はどのようにして荒れ野から呼 び出されたか ひ ゆ この比喩的表現は黙示録から取られたものである。そこ には,巨大な龍,すなわちサタンによって,女に象徴され るイエス・キリストの教会が荒れ野へ追われること,すな わち背教することが記されている(黙示12:1−17,特に ジョセフ・スミス訳黙示12:7に注意する。教義と聖約 86:1−3参照)。したがって,荒れ野から教会を呼び出す とは,何世紀にも及ぶ背教の後に,教会が地上に回復され ることを意味する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約33:10 どうすれば主の道筋をまっすぐに することができるか 「東洋の君主たちは国内を旅する場合,まず自分がそこ 74 賢いおとめたちはランプの芯を切りそろえて火をともし,油を 備えている オーソン・プラットに 与えられた啓示 第34章 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者の日記に次のような記述がある。「オーソン・プ ラットは19歳の青年で,およそ6週間前の9月19日(彼の誕 生日)にニューヨーク州カナンでバプテスマを受けた。兄 のパーリー・P・プラットが伝道した人々の中で最初にバ プテスマを受けた人である。1830年11月初旬,このオーソ ン・プラットが自分の務めについて主に尋ねてもらいたい と訪れた。受けた答えは次のとおりである。〔教義と聖約 34章〕」(History of the Church『教会歴史』1:127−128) オーソン・プラット長老はこの啓示について,日記に次 のように書き残している。「1830年の10月,わたしは預言 者ジョセフ・スミスに会うために,200マイル(約320キ ロ)以上の距離を西へ旅した。そして,ニューヨーク州セ ネカ郡フェイエットのホイットマー家に住んでいる預言者 に会った。わたしはこの立派な方や,『モルモン書』の証 人たちとすぐに親しくなった。11月4日,預言者ジョセフ はわたしのために主に尋ねて,教義と聖約第34章として発 表された啓示を受けた。」(Journal History『歴史記録』 1830年11月,p.1) ロレンゾ・スノーは神と人との関係について教義上の偉大な原 則を教えた アブラハム,イサク,ヤコブも同様に, 最初は赤子,後に大人に。そして成長して,神々に。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人が現在あるように,神もかつてあり, 神が現在あられるように,人もなり得る。 教義と聖約34:1−4 た」 これは人の行く末を明らかにする。 …………… 「わたしの子……あなたは信じ 主はオーソン・プラットを「わたしの子」と呼ばれたが, これは主が何度も繰り返された教え,すなわち人は皆神の もとへ行って神の息子や娘になれるという教えを表す一例 少年はやがて父のように成長し, 独自の個性を身に付ける。 である(教義と聖約25:1;モーサヤ5:7−8;15:10− 16;モーセ1:4−6;6:68;ローマ8:14−18;1ヨハネ 息子から親への成長は, 自然の摂理に反することなし。 3:1−3参照)。 神の子は神のようになり, ロレンゾ・スノー大管長は,人が神の息子や娘になると いう教義に関して,次のような詩を残している。 「あなたほどの大胆さがなければ, 人の行く末が明らかにされたでしょうか。 神格を自らのものとする。 心にこの望みを抱く神の子は, 罪から自分を清める。 」 (ロレンゾ・スノー “Man’s Destiny” Improvement Era「人 の行く末」『インプルーブメント・エラ』1919年6月号, このような気高い望みがあればこそ, pp.660−661) これほどに人を奮い立たせたのではないでしょうか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の 教義と聖約34:5−10 「わたしの福音を宣べ伝え…… 人が人生の戦いで目指すもの, それは幻影ではない。 預言しなさい」 オーソン・プラット長老は,自分に与えられた預言する 義人は長い王道を歩んだ末, 今や神々となる。 召しについて次のように述べている。 「『声を上げなさい……預言しなさい。そうすれば,それ は聖霊の力によって与えられるであろう。』わたしにとっ 75 て,この啓示の中のこの箇所は,あまりに崇高すぎて,い 教義と聖約34:7−12 「わたしはすぐに来る」 つまでも達成できないのではないかと思えたものです。そ れでも,そうしなければならないという厳然たる戒めを与 「わたしはすぐに来る」という言葉は,イエス・キリス トの再臨が近いことを述べたものであり,『教義と聖約』 えられていました。わたしはこの啓示のことをしばしば考 え,次のように自問することがよくありました。『この戒 (英文)の少なくとも13の章に出てくる表現である。この 啓示の幾つかが与えられてから,すでに150年ほどになる めを,求められている水準まで十分に果たしているだろう か。天から求められていることを果たすには,預言の霊を が,地球が星の栄えの状態で存続してきた約6,000年の年 月に比べれば,それはほんの短い期間である。再臨に関連 受けなければならないが,真剣にそれを求めているだろう のある預言の多くが成就されていることは,まさにこの出 か。』そして,自分の怠惰や,天から与えられるこの神聖 たまもの かつ偉大な賜物に関してほとんど進歩らしい進歩をしてい 来事が間近に迫っていることを物語っている。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この言 ない点を思い,自責の念にかられることが時折ありました。 はっきりと言えるのは,聖霊の霊感と力によってでなけれ 葉とその重要性を次のように説明している。 「『わたしはすぐに来る。』これは,聖典にしばしば出て ば,預言するつもりはないという点です。自分の考えで預 くる言葉である。黙示録には特に多い。これは『主の言い 言をするなどというのは,考えるだけでも不愉快なことで す。ですから,人々を前にして説教をするときに,心にか 方』による表現であり(教義と聖約63:53),主がすぐに 姿を現されるという意味ではない。主はまったく思いもか なり強く感じることが何かあっても,将来の事柄について 誤ったことを話したりすることのないように,それを口に けないときに不意に来られるという意味である。主は弟子 たちに,その日は夜の盗人のように人々が考えもしないと 出すのを控えることがよくありました。」(Journal of Dis- きに来ると言われた。『その日は地の全面に住むすべての courses『説教集』17:290−291) オーソン・プラットは,自分自身をこの召しにふさわし 人に臨むのであるから』 (ルカ21:34−35),わたしたちは 目を覚まし祈っていなければならない。また,だれも備え くないと感じていたようであるが,その著作をよく調べて みると,預言するようにとの主の戒めを彼がよく果たした ができていないことを弁解できない。警告は何度も,十分 なまでに与えられているからである。」(Church History and ことは明らかである。彼の著書は,預言的な洞察と約束に 満ちみちている。 Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:157) 付録の特別講座Hには,再臨に関する様々な出来事につ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いて,さらに詳しく説明されている。 「わたしは……一つのさらに大いな る業のためにあなたを備えてきた」 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第35章 ョン・ホイットマーが宣教師の責任に召されたため,預言 者の筆記者がいなかった。この啓示によって,シドニー・ リグドンは筆記者の空席を満たすように天から命じられ シドニー・リグドンは,1830年に初めて回復された福音 のメッセージを聞き,バプテスマを受けたが,その当時は た。 西部保留地と呼ばれるオハイオ州メントーに住んでいた。 注 解 バプテスマを受けて間もなく,彼は預言者に会うためにニ ューヨーク州フェイエットに向かった。預言者ジョセフ・ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わ 教義と聖約35:1 「一つの永遠の環 」とはどういう意 スミスは,シドニー・リグドンの来訪について次のように 記している。 味か 「神は律法によって,常に変わることなく,何一つ欠け 「12月に,シドニー・リグドンが主に尋ねるためにやっ るところのない完全な統治をしておられる。神の定めによ り,原因が同じであれば必ず同じ結果が出てくる。また神 て来た。また,彼とともにエドワード・パートリッジも来 けいけん た。彼は敬虔の模範であり,主の偉人の一人であった。こ は人を偏り見ることがなく,『変化とか回転の影というも れら二人の兄弟たちの到着後間もなく,主はこのように語 られた〔教義と聖約35章〕。」(History of the Church『教会 のはない』御方である(ヤコブの手紙1:17;教義と聖約 3:1−2)。したがって,主は『その道が一つの永遠の環で 歴史』1:128) ある者,昨日も,今日も,またとこしえに変わることのな い者』なのである(教義と聖約35:1−3)。」(Mormon 当時ジョセフ・スミスは『聖書』の翻訳に従事していた。 預言者の筆記者として働いていたオリバー・カウドリとジ 76 きょう Doctrine『モルモンの教義』pp.545−546) 第35章 教義と聖約35:1−3 「わたしにあって一つ」である はカートランドに着いたとき,おもにシドニー・リグドン とはどういう意味か ブリガム・ヤング大管長は次のように問いかけている。 の教えによって道が備えられていたことを知るのである。 そのような彼らに真理を確信させるのは難しいことではな 「末日聖徒の物の感じ方や理解は似ている。また,どこ で福音を受け入れるかにかかわりなく,心は一つ,思いは かった。シドニーは権能なくして宣べ伝え,水に沈めるバ プテスマを施していたが,彼らに福音のメッセージが届い 一つである。それはなぜだろうか。……末日聖徒は,救い 主が地上を去ろうとするときに約束されたもの,すなわち たとき,それらの働きは良い結果を生み出した。主はこの 啓示の中で,正当な権能についてシドニーに教えを授けら 慰め主を受けているからである。慰め主は天から与えられ れた。また彼らは,確信を得てバプテスマを受ける準備が る聖なる注ぎの油であり,神,信仰,バプテスマがそれぞ みこころ れ一つであることを教え,その思いは父なる神の御心と同 できていただけでなく,神権を授けられるほどの状態にも あ っ た の で あ る 。 そ し て 彼 ら は 神 権 を 授 け ら れ た 。」 の じである。慰め主には,信仰と行いの調和があり,分裂や 混乱はない。この新たな光を授けられた人々は,以前から (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の 啓示』1:160) の知り合いかどうかに関係なく,すぐに兄弟姉妹となり, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 永遠の聖約というきずなによってキリストの家族の養子と なる。そして,ルツが語った美しい言葉を口にすることが 教義と聖約35:8−10 「わたしの腕は短くない」 できるのである。『あなたの民はわたしの民,あなたの神 はわたしの神です』と〔ルツ1:16〕。」(Journal of Dis- ている(教義と聖約1:14の「注解」参照)。「短くない」 とは,神の力に限界がなく,神は特にこの終わりの日に, courses『説教集』18:259) 御腕を用いてそのことを知らしめるという意味である(教 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約35:2 「わたしの名を信じるすべての者」 義と聖約133:3参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約11:30では,救い主の御名を信じることが, 救い主を信じること,言い換えれば,イエスを救い主とし 教義と聖約35:11 「不貞に対する激しい怒りのぶど う酒を……飲ませてきた」 て受け入れることと同一視されている。救い主の御名を信 じていることは,福音の律法と儀式に対する従順さの中に 「この独特な表現の句は,教義と聖約35:11;86:3; 88:94,105の3つの章に出ている。どの場合も,バビロン み な 表れるのである(2ニーファイ25:13参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「〔主の〕腕」という言葉は,神の権威,力,権能を示し み うで (背教した世界と教会の象徴)あるいは, 『大きな教会…… 「シドニーに言う。……あなた 忌まわしい行いの母』(背教した悪魔の教会の象徴)と関 連して用いられている。『激しい怒りのぶどう酒を』飲む は……道を備えるために遣わされた」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,シドニ 者は,背教した世界や教会のこの世的な快楽と罪に身を染 め,邪悪な者たちがその裁きのときに被る荒廃と滅亡とを 教義と聖約35:3−6 ー・リグドンがオハイオに来た宣教師たちに会うまでの長 い間,どのように備えられていたかを次のように述べてい る。 「シドニーは,バプテスト派の会員としての働きや,後 にアレキサンダー・キャンベルやウォルター・スコットな どとともに『ディサイプル派』の創始者として働いたこと に関連して,主から『あなたとあなたの行いを見てきた』 と告げられた。それらの年月の間もシドニー・リグドンは 主の手に導かれて,当時の様々な教派の教えを受け入れな い大勢の熱心な人々を集めていたのである。彼は世の中か ら得られる以上の光を祈り求めていたが,今やその祈りに 対する答えが与えられた。そして,彼が道を備えるために 遣わされたこと,またカートランドやその近辺で同じ思い の人々を集め,群れを作っていた働きに主の手による導き があったこと,完全な真理を受け入れるための道が備えら れていること,などが主から告げられたのである。後に教 そうめい 会の指導者になった有能で聡明な非常に多くの人々が,主 の助けを得て,シドニー・リグドンによってこの地に集め み たま られていたことは注目に値する。主の御霊がシドニー・リ グドンやパーリー・P・プラット同様,これらの人々の上 にもとどまり,早い時期から彼らをカートランドに集めて いたことは,疑いの余地がない。したがって,パーリー・ P・プラットと,ザイバ・ピーターソンと,その同僚たち シドニー・リグドンはジョセフ・スミスの代弁者を務めた 77 刈り取るのである。」(ラドロー,Companion『必携』1: べてを授けられた。末日におけるイスラエルの家の集合の 219) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 鍵と権威をモーセから,また先祖の心を子孫に,子孫の心 を先祖に結び固める鍵をエリヤから授けられた。また,ペ 教義と聖約35:13−14 主はどのようにして「もろも ろの国民を打」たれるのだろうか テロ,ヤコブ,ヨハネからは使徒職とそれに付随するすべ てを授けられた。さらにエフライムの手にあるヨセフの木 「この表現はハバクク3:12にも出てくる〔訳注:ハバク ク3:12は「諸国民を踏みつけ」と訳されている。「打つ」 に関して必要なすべての鍵と権威をモロナイから受け,バ プテスマのヨハネからはアロン神権とそれに伴う鍵と権能 に対応する原語には「打穀する」の意味もある〕。昔の打 のすべてを,そしてこの神権時代につけるほかのすべての 穀は,打穀場で穀物を踏みつけるという形で行われた。福 音のおとずれを伝える人々が国々の中へ出ていくのは,固 鍵と権威も付与されている。 わたしは何ら恥じることなく, ジョセフ・スミスは神の預言者であり,これまで地上に確 い床の上で麦の束を踏みつけるのに似ている。大切な実は 丁寧に集められ,わらは捨てられるのである。」(スミス, 立された中で最もすばらしい業と神権時代の基礎を据えた と言うことができる。 」(『説教集』16:267) ショダール共著,Commentary『注解』p.186) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約35:20 ければならない」 教義と聖約35:16 いちじくの木のたとえ 教義と聖約45:34−38の「注解」を参照する。 「あなたは彼のために書き記さな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョージ・Q・キャノン長老は,ここで与えられている 戒めについて次のような説明をしている。「主はシドニー 教義と聖約35:17−19 に,ジョセフのために書き記さなければならないという特 しもべ 「わたしは,わたしの僕ジョ セフの手によって,わたしの完全な福音を送り出した」 ウィルフォード・ウッドラフ長老は,ジョセフ・スミス 別な戒めを与えられた。そして,ジョセフがすでに理解し ていたこと,すなわち,聖文は神の選民の救いのために, が回復に関する偉大な預言をどのように成就したかについ て,次のような明確な教えを述べている。「父祖アダムの 神の胸の内にあるままに授けられるということを教えられ た。その後間もなく,ジョセフは聖文の新しい翻訳に取り 時代から最後の預言者に至るまでに語られた膨大な量の預 言は,ここに成就の基礎が据えられている。この43年間に かかった。ジョセフはその働きの間に,長い間隠されてい た数多くの真理を知らされ,アダムの時代から主なる救い 地上で成就した預言は,それ以前の2,000年間に成就した 主の誕生に至るまでの間に神がその子らの中で行われたす 預言よりも多い。これらの力強い預言は……鉄の帯にも似 て,存命中のジョセフ・スミスの働きを律したのである。 べてのことを,純粋かつ神聖な形で示されたのである。」 (Life of Joseph Smith『ジョセフ・スミスの生涯』pp.83− 彼は生きている間に,父祖アダムからこの神権時代に至る かぎ までかつてこの世の人々に与えられた鍵と儀式と律法のす 84) エドワード・パートリッジに 与えられた啓示 歴史的背景 第36章 きにはバプテスマを受けていなかった。ルーシー・マッ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ク・スミスは次のように記している。 「同じ年〔1830年〕の12月に,ジョセフは我が家で集会 教会の揺籃期に,主は王国建設のために預言者ジョセ を開きました。ジョセフが説教をしているときに,シドニ フ・スミスを助ける者として義人たちを立てられた。1830 年には将来の指導者となるそれらの人々が数多く教会に加 ー・リグドンとエドワード・パートリッジが入って来て, 人々に交じって席に着きました。ジョセフは説教を終える 入した。エドワード・パートリッジもその一人である。彼 はマサチューセッツ州生まれで, 福音を初めて知ったのは, と,何か言いたいことがある人はそれを話すようにと機会 を与えました。すると,パートリッジ氏が立って話をしま オハイオ州カートランドにおいてであった。レーマン人の した。それによると,彼は前にマンチェスターを訪ねたと もとに派遣された宣教師たちが,ミズーリに向かう途中に 立ち寄ったときのことである。その後間もなく,彼はシド いうことでした。そのときの目的はわたしたちに会うこと ではなく,わたしたちが説いている教えについてもっと詳 ニー・リグドンとともにニューヨーク州へ旅立ち,1830年 の12月にフェイエットに到着した。 しく知ることでした。わたしたちがどういう人間かを,近 隣の人たちに聞いたそうですが,彼らが言うには,『モル エドワード・パートリッジは,預言者を初めて訪ねたと モン書』のことで彼らを欺くまでは,非難すべき点は何も 78 第36章 なかったということでした。彼はまたわたしたちの畑を回 れるように,神の権能を持つ僕が祝福を受ける人の頭に権 って,よく手入れされているのを見て,勤勉な働きぶりを 知ったということでした。さらに,わたしたちが信仰のた 能によって手を置くとき,それは神御自身がともに手を置 いて儀式を執行されるのと同じである。これによってわた めに犠牲にしたものを目にし,信仰を別にすればわたした ちがいかなる点においても正直さを疑われたことがないこ したちは,神が自ら権能の鍵を託した僕を通してどのよう に人々の間に力を示されるかが理解できるようになる。」 あかし とを聞かされました。彼はわたしたちの証を信じ,バプテ スマを受ける準備ができていました。そして,『ジョセフ (“Be Secure in the Gospel of Jesus Christ” Brigham Young University Speeches of the Year「イエス・キリストの福音に堅 兄弟からバプテスマを受けたいのですが』と言いました。 く立て」『ブリガム・ヤング大学年度講話』1958年2月11 ジョセフはそれに答えて,『パートリッジ兄弟,今日は とてもお疲れでしょうから,お休みになって,バプテスマ 日,p.6) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は明日になさったらよいでしょう』と言いました。 するとパートリッジ氏がこう言いました。『ジョセフ兄 教義と聖約36:2 柄」とは何か きょう 「王国にかかわる平和をもたらす事 弟がいちばん良いと思うようになさってください。わたし イエスは十字架につけられる少し前に,弟子たちに,平 はいつでもよろしいですから。』 そして彼はその翌日にバプテスマを受けました。」(His- 安の賜物を授けると約束された(ヨハネ14:27参照)。こ の平安は世の平安ではなく,内面的なものである。真理を tory of Joseph Smith『ジョセフ・スミスの生涯』pp.191− 192) 見いだし,罪の赦しを受け,永遠の命に至る道を歩んでい ることを確信する人に与えられる平安である。この知識と ゆる 確信は,聖霊によってもたらされる。聖霊は慰め主と呼ば 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れているが,実にふさわしい呼び名である。この争いと混 乱の世にあって,すべての聖徒たちは,聖霊の導きによっ 教義と聖約36:1 である キリストは「イスラエルの力ある者」 てキリストから平安を頂き,また自分の進んでいる道が正 しいものであるとの確信を得ることができるのである(教 「この啓示で,主は御自身を『イスラエルの力ある者』 と言われた。この呼び名はイザヤ書にも出てくる。(訳 義と聖約6:22−23;59:23参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 注:日本語ではこの呼び名が,イザヤ1:24「イスラエル 教義と聖約36:3 の全能者」,同30:29「イスラエルの岩なる主」と訳出さ れている。)それは強い腕をもって民をエジプトから導き 「ホサナ」とはどういう意味か 教義と聖約19:37の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 出された万軍の主,エホバを指している。アッシリヤの 『力ある神』は有翼の雄牛であり,ほかにも地上の王国で はわし,ライオンなどの意匠を力の象徴として取り入れて いるが,神の王国の『力ある者』はエホバである。 」(スミ ス,ショダール共著,Commentary『注解』p.191) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の 教義と聖約36:1 「ラッパの音のように」宣べ伝える 古代においては,ラッパは警告や戦闘の合図として,ま た王族の到着を知らせるものとして用いられた。つまり, ラッパの音は何か非常に重要なことの布告,告知を象徴し ているのである。 ラッパの音は大きくはっきりとしていて, それを聞くすべての人の注意を引きつける。エドワード・ パートリッジもそれと同様に,小さな声でおずおずとでは なく,権能を携えて,はっきりと大胆に福音を宣べ伝える ように召されたのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約36:2 「あなたにわたしの手を置こう」 バプテスマを受けたばかりのエドワード・パートリッジ あんしゅ たまもの は,この節において,按手によって授けられる聖霊の賜物 を約束された。そしてさらに教会における奉仕の務めを与 み たま えられた。そのような召しを果たすための御霊と権能も, 按手によって同様に授けられる。 ハロルド・B・リー長老の指摘によれば,この聖句は, かぎ しもべ 神が自ら権能の鍵を託した僕を通して人々の間にどのよう に力を現されるかを示している。「主がここで言っておら エドワード・パートリッジは「わたしの僕シドニー・リグドン の手によって」神権を授けられた(教義と聖約36:2) 79 教義と聖約36:6 「曲がった時代」とは 同じような表現が使徒2:40にも見られる。これらは当 時の民について述べたものである。曲がった時代とは,そ る。ヘブライ人は旅をするときや仕事をするときに帯を締 め,手足を動かしやすくするために衣のすそをはしょった 〔すその端を折って帯に挟んだ〕。主の僕は,神の業を行う の生活が主に向かっていない,反抗的で御し難い人々のこ とである。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は, ために,また神から召されたときに出で立つために,備え を し な け れ ば な ら な い 。」( ス ミ ス , シ ョ ダ ー ル 共 著 , 末日のそのような人々に関して次のように述べている。 やみ 「現代は曲がった時代であり,人々は霊的な闇の中を歩い Commentary『注解』p.201) 聖徒たちはこの時代に,福音を宣言するために腰に帯を ている。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴史 締め,より効果的な備えをしなければならない。スペンサ と近代の啓示』1:163) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ー・W・キンボール大管長は,そのことの必要性について 次のように述べている。 教義と聖約36:6 「火から出て来て,肉によって汚さ れたその衣さえも忌み嫌いなさい」とはどういう意味か 「わたしは,とにかくわたしたちの能力でできる限りの ことを行ったならば,主は門戸を開く方法を示してくださ 第6節の中のこの箇所は,ユダ1:23に関連したものであ ると思う。…… る。ブルース・R・マッコンキー長老は,この聖句に関し まん て次のように述べている。「昔のイスラエルでは病気が蔓 しかしわたしたちに入る準備ができていないのに主が門 を開けてくださるとは思えない。…… 延するのを防ぐために,伝染病によって汚された衣類は火 によって焼いた(レビ13:47−59;15:4−17参照)。教会 もっと多くの宣教師を求めているが,わたしが求める宣 教師は精神的に欠陥のある宣教師でもなければ,証のない における罪の場合も同様で,聖徒たちは罪と接触するのを 宣教師でもない。ましてや不道徳な宣教師であるはずがな 避けるようにしなければならない。いうなれば,罪人の下 着は火で焼かなければならないのである。すなわち,邪悪 い。わたしが願うのは,全世界のすべての支部とワードで もっと早い時期から,もっとよく宣教師を訓練していただ によって汚れたものは避けるようにしなければならない。 王国に入るように招かれる世の人々の場合も同様である。」 きたいということである。もう一つのチャレンジは,若人 に伝道に出ることがすばらしい特権であり,そのためには (Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』 3:428) 肉体的にも精神的にも霊的にも健全でなければならず,ま た『主……は,ほんのわずかでも罪を見過ごしにすること ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ はない』 〔教義と聖約1:31〕ということを理解させること 教義と聖約36:8 はどういう意味か である。 また家庭や教会の組織でよく訓練を受け,十分に教義を えん 「あなたの腰に帯を締めなさい」と 「『聖書』の中でこの『腰に帯を締める』という表現は, 旅や仕事に対する準備をするという意味で用いられてい 理解し,大いなる熱意を抱いて伝道に出てもらいたい。」 (Ensign『エンサイン』1974年10月号,p.7) 第37章 「オハイオに行く」 この啓示が与えられたときはすでに,パーリー・P・プ 歴史的背景 ラット,オーソン・プラット,シドニー・リグドン,エド ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示が与えられたのは,教会が正式に組織された8 ワード・パートリッジ,トーマス・B・マーシュなどの傑 出した指導者が,教会に加入していた。預言者ジョセフ・ か月後のことである。あの重大な1830年4月6日以来,教会 はニューヨーク州において約200人の会員を擁するまでに スミスは,聖徒たちへの導き,『聖書』改訳に伴う指示, モーセとエノクの記録など,数々の啓示を天から与えられ 成長した。伝道活動はオハイオ州カートランド,さらには ていた。しかし一方,サタンも休むことなくその働きを続 けていた。迫害はますます広がり,預言者は偽りの訴えに ミズーリ州の境へと,西に向かって進んでいた。宣教師は 特にカートランド周辺の地域で成功を収めていた。彼らは よって何度も逮捕された。そして,1830年12月に再び主の ミズーリ州に向かう途中,カートランドで2,3週間を過ご したが,その間に約127人の人にバプテスマを施している 声が臨んだ。このとき主はジョセフ・スミスに,『聖書』 の改訳をやめてオハイオに移るように命じられた。第37章 (ロバーツ,Comprehensive History of the Church『教会概 は聖徒たちに中心の場所への集合を命じた最初の啓示であ る。主はその中で,回復された教会に対し,西方への道を 史』1:231参照)。彼らが去った後も,教会はこの地域で 目覚ましい成長を続けた。 80 示された。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約37:1 必要ではない」 「これ以上の翻訳をすることは…… この言葉は『聖書』のジョセフ・スミス訳に関するもの である。預言者ジョセフがすでに『モルモン書』の翻訳を 終えていたことは改めて言うまでもない。『聖書』の改訳 も重要な仕事であったが,「敵のゆえ」 (教義と聖約37:1) オハイオへ移ることが優先事項であった。『聖書』の改訳 は後にオハイオで,おもにジョン・ジョンソン宅で続けら れた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み こころ 教義と聖約37:1 主はどのような御 心 で聖徒をオハイ オに集合させられたか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,その理 由を次のように説明している。「オハイオへの召しには二 つの理由があった。まずフェイエット周辺での妨害が激し くなったことと,カートランドでシドニー・リグドンに従 う多くの人々が改宗し,そこは友好的な雰囲気であったこ とである。そのころ教会は西へ西へと広がっていく傾向に あったが,迫害が起こって身を守る必要が生じたため,教 会はさらに西へ進んで行ったのである。これは主の計画で あった。シオンの町が建てられる地は西にあり,そこはシ あがな オンが贖われるまで永久の住まいとはならなくても,やが て教会がそこに移動する必要のある所である。このオハイ オへの移動の命はジョセフ・スミスとシドニー・リグドン カートランド神殿の塔から見たカートランドの町(1900年ご ろ) に限らず,全教会への命令となった。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:163) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ はこの伝道で同僚とともにニューヨーク,オハイオ,ミズ ーリと約2,300キロを旅した。また聖徒たちは,オリバ 教義と聖約37:3 オリバー・カウドリの帰還に先立ち オハイオで開かれた集会 ー・カウドリが「レーマン人に近い境の地」(教義と聖約 オリバー・カウドリは1830年10月15日以来,レーマン人 への伝道を続けていた(教義と聖約30:5−6;32:2) 。彼 28:9)から帰った後にシオンの確立に関してさらに指示 を受けるために,オハイオへ行くように命じられた。 「備えていれば恐れることはない」 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年を迎えたジョセフ・スミスの心中には,王国の繁 栄に関して「輝きに満ちた壮大な展望」が描かれていた 。以前から王国 (History of the Church『教会歴史』1:140) 第38章 11:6;12:6;14:6)。預言者は最初にこの戒めを受けた ときから殉教のときまで,そのために熱心に働いた。彼は こう語ったことがある。「わたしたちはシオンを築き上げ ることを第一の目標としなければならない。」(『教会歴史』 3:390) 1830年12月に,ジョセフ・スミスはモーセ書の残りの部 には,この神権時代の目的を確立するために,神から一つ の戒めが与えられていた。その戒めとは,「シオンの大義 分を啓示によって知らされた。第6章と第7章は特に,エノ クの時代におけるシオンの確立について述べたものであ を起こして確立する」ことであった(教義と聖約6:6; る。しかし,この時代にシオンを確立するためには,二つ 81 のことが必要とされた。一つは主の律法とシオンの秩序に 『永遠から永遠にわたって主は変わることのない御方であ 関する主の啓示であり,もう一つは聖徒の備えと聖めであ る。最初の条件は1831年1月2日から満たされ始めた。教会 り,主の年は尽きることがない。』(教義と聖約76:4)」 (Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.31) の第3回大会の会期中に,預言者は教義と聖約第38章を受 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ けた。その中で主は御自身について,「自分の懐にエノク のシオンを受け入れた者」(教義と聖約38:4)と言われ 教義と聖約38:1 天の「こうごうしい衆群」 「セラフとは,神の前に住む天使である。……セラフの た。主はまた,聖徒たちにオハイオへ行くように命じた理 由を次のように語られた。「わたしはそこであなたがたに 中にまだ肉体を受けていない前世の霊が含まれるのは,主 が『世界が造られる前に永遠の大いなる広がりと天のすべ わたしの律法を与えよう。あなたがたはそこで,高い所か ら力を授けられるであろう。 」(教義と聖約38:32)この啓 てのこうごうしい衆群を見た』(教義と聖約38:1)と述べ られていることから明らかである。ただし,セラフという 示は,なぜ真冬に480キロもの旅をしなければならないの 呼び名が,復活して完成した状態になった天使についても かと考えていた人々に対する主の答えであった。 当てはまるかどうかは明らかでない。…… ヘブライ語のセラフの複数形はセラピムである。」(『モ 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ルモンの教義』pp.702−703) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約38:1 教義と聖約38:2 きよ イエス・キリストはわたしは有ると 全知の神 いう大いなる者であり,アルパでありオメガである ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は「わたし 神は全知の御方なのか,つまり,神はすべてのことを御 存じなのかという質問をする人がいまだにいるのは,驚く は有る」という呼称の意味を次のように説明している。 「モーセが神の山ホレブで義父エテロの羊の群れの番をし べきことである。そういう人々は,神が人間に関するすべ てのことを御存じであるが,それでもなお得られる知識を ていたとき,主が燃える柴の中に姿を現され,エジプトへ 得ることを続け,進歩していると言う。この聖句をはじめ 行って,イスラエルの民を束縛の境涯から導き出すように と命じられた。このときモーセは主に言った。『「わたしが とするほかの多くの聖句は,神が全知の御方であると明確 に教えている(2ニーファイ9:20;教義と聖約88:41; イスラエルの人々のところへ行って,彼らに『あなたがた の先祖の神が,わたしをあなたがたのところへつかわされ 130:7;モーセ1:6参照)。神の全知に関して,条件や限 界は存在しないのである。 ました』と言うとき,彼らが『その名はなんというのです 知識は力をもたらす。したがって,神の知識に限界があ か』とわたしに聞くならば,なんと答えましょうか。」神 はモーセに言われた, 「わたしは有って有る者。 」また言わ ると言うことは,神が全能の御方であることを否定するこ とにもなる。預言者ジョセフ・スミスは『信仰に関する講 れた,「イスラエルの人々にこう言いなさい,『「わたしは 有る」というかたが,わたしをあなたがたのところへつか 話』の中でこの原則を次のように教えている。 「すべてのことを御存じなければ,神はいかなる創造物 わされました』と。」』〔出エジプト3:13−14〕……モーセ が知らされた名と,イエス・キリストがユダヤ人に告げら をも救うことがおできにならない。神が創造物について理 解し,創造物が永遠の命にあずかることができるのは,初 れた名とは同じであり,その意味は次の言葉の中に示され めから終わりまで, 神がすべてを御存じであるからである。 ている。神は『全知全能の遍在の御方であり,生涯の初め もなく命の終わりもない御方である。また神の中にはすべ 神がすべてを御存じであるとの思いがなければ,神を信じ る信仰を働かせることができないであろう。」(『信仰に関 ての善き賜物 と善き原則とが内在する。』(Lectures on Faith『信仰に関する講話』2)イエスはユダヤ人に,モー する講話』4:43。付録の特別講座D参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ セに現れて,『わたしは有る』と言った大いなる者は御自 教義と聖約38:3 分のであり,アブラハムに戒めを与えた神でもあると宣言 された。しかし,彼らはそれを理解することができなかっ 「イエス・キリストは御父の指示の下にこの地球を創造 された。ほかの者たちが助けたことは疑問の余地のないと た。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近 代の啓示』1:165−166。教義と聖約39:1参照) ころであるが,御父の指示の下に降って来て物質を組織し, あがな この惑星を造って,神の子らの住まいとしたのは,贖い主 しば たまもの 創造主イエス・キリスト 「アルパ」と「オメガ」はギリシャ語アルファベットの イエス・キリストであった。」(『救いの教義』1:71。2ニ 最初と最後の文字であり,キリストの時代に広く用いられ ていたものである。「アルパでありオメガ」は英語の「A ーファイ9:5−6;3ニーファイ9:15;モーセ1:33;2: 1,27参照) からZまで」,すなわち「初めから終わりまで」に匹敵す るものである。イエスが「アルパでありオメガ」と呼ばれ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約38:4 「わたしは自分の懐にエノクのシオ ていることは,イエスの中にすべてのものが含まれるとい うことを示唆している。ブルース・R・マッコンキー長老 ンを受け入れた者」 だれかの「懐に入る」とは,ヘブライ語の慣用的な表現 は次のように書いている。「ギリシャ語アルファベットの である。昔の人々は長く垂れ下がった服を着て,腰に帯を 最初と最後の文字から成るこの語は,主の存在が時を超え た永遠のものであることを象徴的に教えている。すなわち 締めていた。そうすると腰の周りにゆったりとした部分が でき,そこにいろいろなものを入れて運ぶことができる。 82 第38章 時には子供を入れることさえあった。「懐に入る」とはこ がここなのです。主はこれらの部屋を歩かれるのです。で こから出た言葉である。そのようにして運ばれるものは, 胸や腹にぴったりと付いた状態にあり,「他の人の懐に入 すから,特にどこをと考える必要はありません。主は確か にここで皆さんの中におられるのです。」(Conference る」という表現は,非常に親しく,仲の良い関係にあると いう意味になる(サムエル下12:8;ルカ16:22;ヨハネ Report, Britsh Area Conference『英国地域大会報告』1971 年,pp.135−136) 1:18参照)。 「アダムから7代目に当たるエノクは(ユダ1:14参照), ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約38:9,15 「敵は勝利を得ないであろう」 シオンという町を築いた。シオンとは,彼らが一致した義 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう にかなった民で,繁栄していたところから,主御自身が神 の民に付けられた名である。エノクの町は365年にわたっ に述べている。 「主はわたしたちに王国を与えられた。また主はわたし て繁栄を続けた。主はその後,わたしたちには分からない ある方法によって,全住民とともにその町を御自身の懐に たちに,王国の敵は決して王国を打ち倒すことはない,と 約束された。前途に困難があるかもしれない。わたしたち 取り上げられた。このようにして,来るべき洪水による滅 は過去に困難に遭遇したことがあった。将来敵対する力に 亡から彼らを救われたのである。 『そのことから,「シオン は消えうせた」という言葉が広まった。』(モーセ7:18− 出遭うかもしれない。しかしその勢力が神の業を滅ぼすこ とはない。 19,68−69)」(スミス,ショダール共著,Commentary 『注解』p.199。教義と聖約45:11−14;特別講座B参照) 福音は回復され,王国はダニエルの預言のとおり聖徒に 与えられた。この王国は再び取り去られたり,破壊された 主は,主の名を信じる者は皆キリストの懐の中に取り り,他の民に渡されたりすることはない。そればかりか主 入れられると約束しておられる。何とすばらしい約束では ないだろうか。 は御自分の方法で,時至って他のすべての組織を破壊し, 主の王国を栄えさせ,主御自身が主の主,全地の面におい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約38:5−8 悪人の行く先に破滅が待ち受け て王の王として統治されるのである。…… 主は将来,誤った体系や組織,結社を一掃されることを ているのはなぜか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,悪人の 強調された。どのように一掃されるのだろうか。それはも し受け入れるならそのような組織の構成員に真理を与え, 最後の運命について次のように説明している。 彼らが真理を受け入れてそこから抜け出し,主の王国に入 「しかしキリストは再臨されるとき,天の雲に乗って来 られる。 その日は神を敬わない者に対する報復の日となる。 この日,悪事を愛し,過ちを犯した者,神の律法に背いた み わざ 者は滅ぼされる。キリストが御業を行われていたとき,悪 事が世を支配していた。しかし,世界に宣言された上記の マラキの言葉にあるように,キリストが栄光の雲に乗って 降臨されるときには,人にも獣にも地に属する万物に対し ても精錬する者,清める者として姿を現される。なぜなら ば地球自体が変化を遂げ,昔の楽園の栄えを受けるからで ある。」(『救いの教義』3:10。2ニーファイ23:6−11;マ ラキ3:2−5;4:1参照) その日に堪えられるのは,清められている者だけである (教義と聖約38:8参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約38:7−8 る」 「わたしはあなたがたの中にい しもべ 主がその僕たちの近くにおられることについて,ハロル ド・B・リー大管長は次のように語っている。「わたしは 任地に赴こうとする宣教師のグループと神殿で集まりを持 つことがあります。そこでは,ほかの場所で話すには不適 切な,奥の深い事柄について質問することが許されていま す。時々,救い主は神殿の中のどこに姿を現されるのでし ょうかという質問が出されます。そんなときわたしはこう 答えることにしています。『ここが主の家であることを心 に留めてください。わたしたちはここをわたしたちのどの 建物よりも清く,神聖に保とうとしています。主が地上に おいでになるときに来られる所として,最もふさわしいの ロンドン神殿 83 るように導くことによってである。主の手はいつでも彼ら Destiny『人,その起源と行く末』pp.415−436,460−466 を受け入れようと差し伸べられている。 彼らが来なければ, すなわち彼らがこのメッセージを受け入れなければ,もち 参照) 。 月の栄えの地球。『わたしたちは……地球は更新されて ろん彼らはその組織とともに倒されるに違いない。真理は 楽園の栄光を受けることを信じる。』(信仰箇条1:10)こ 広がり,他のすべてのものが取り去られた後も存続し,必 ず地の面を覆い尽くすであろう。 」(『救いの教義』1:228) のように,地球は昔の楽園の状態,つまりエデンの園の時 代の月の栄えの状態に戻る。福千年の状態へのこの変化に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約38:10−12 「すべて永遠なるものは悲し 伴い,地球は焼かれる。言い換えれば,火のバプテスマを 受ける。このようにして新しい天と新しい地になり,再び んでいる。また天使たちは……命令を待っている」 天使が畑を刈り入れるために待っているという表現は, 健康,平和,安らぎがその面に広がる(教義と聖約101: 23−32;イザヤ65:17−25;マラキ3:1−6;4:1−6; 麦と毒麦のたとえから出たものである(マタイ13:24− 『人,その起源と行く末』pp.380−397参照)。 43;教義と聖約86:1−7参照)。永遠の領域に苦しみをも たらすのは,世の悪である。ウィルフォード・ウッドラフ 日の栄えの地球。福千年の後, 『しばしの間』 (教義と聖 約29:22−25)が過ぎると,地球は死んで復活し,『ガラ 長老は次のように説明している。「確かに今は来るべきこ とのために自分自身を備える時である。シオンとバビロン ス……の海』 (教義と聖約130:7)のようになり,『聖めら れた,不滅かつ永遠の状態』(教義と聖約77:1−2)にな の両方で,大きな事柄がこの世代を待ち受けている。バビ る。そして,貧しい者と柔和な者,つまり神を畏れる義人 ロンの滅亡に関するこれらの預言は,やがてすべて成就す る。45年前に,主は教会に対してこう言われた〔教義と聖 が地を受け継ぐ。 地球は御父と御子が住まわれる所となり, 永遠に日の栄えの状態の人々の所有となるのである(教義 約38:10−11〕。これによって世は静まり返り,すべての 永遠なるものが悲しんでいる。神の天使たちは,人々の悪 と 聖 約 88: 14− 26, 111参 照 )。」(『 モ ル モ ン の 教 義 』 p.211) 事のゆえに出て行って地を刈り入れるという,45年前に与 主の来臨のとき地にはのろいがないというのは(教義と えられた大いなる命令を果たすのを待っている。皆さんは 永遠なるものが今の時代をどう見ているとお思いだろう 聖約38:18参照),福千年のときの月の栄えの状態にある 地球の様子を述べたものである。一方,聖徒が永遠にそれ か。この啓示が与えられたときとは比較にならないほどの 悪事が, 現在の合衆国にはびこっているのはなぜだろうか。 を所有するという約束は(教義と聖約38:18参照),地球 の最終的な日の栄えの状態に関するものである。 全地の罪悪が熟しているのである。そして,霊感を受けた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ これらの人々,すなわちイスラエルの長老たちは全能者か ら,自分の衣がすべての人の血から清められるよう,出て 教義と聖約38:21−22 なり」 おそ 「わたしがあなたがたの王と 行って世の人々に警告するようにと命じられている。」 (Journal of Discourses『説教集』18:128) 「キリストは王である(詩篇5:2;10:16;44:4;47: 6−7;89:18;イザヤ6:5;43:15;エレミヤ23:5; 教義と聖約86:5の「注解」には,この天使たちが地を 刈り入れる命令を受けるときのことが説明されている。 46:18;1テモテ1:17参照)。これは,キリストが統治者, 立法者,また一切の権威を持つ主権者であることを意味し ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている。キリストは王として,天と地とその中にある万物 教義と聖約38:17−20 「約束の地」 ここに述べられている主の約束をさらによく理解するた を治められる(アルマ5:50参照)。また特別な意味におい て,キリストは地上の神の王国である教会と,天の神の王 めには,地球は神の子供たちが住む所として,主御自身に よって定められたということを理解しておかなければなら 国である日の栄えの王国も統治される。」(『モルモンの教 義』p.414) ない。地球はそれ自体が,その上に住む者たちの状態を反 イエスは権利と権能の面で王であるが,それに関連して 映している。ブルース・R・マッコンキー長老は,地球の 過去から将来にわたる4つの段階を次のように説明してい ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,アダム・ オンダイ・アーマンの会議において,キリストはこの世の る。 「エデンの園の状態の地球。地球は物質的な創造の後で 実際の政治的な統治者の任に就かれると教えている(教義 と聖約116:1の「注解」参照)。スミス大管長は,神の王 良しとされた。これが月の栄えすなわち楽園の状態である。 国は政治的な面と教会的な面の二つを併せ持つものである 人間をはじめ,いかなる生命体にも死がなく,生き物はす べて完全に健康な状態で,平和と喜びの中にいた(2ニー として,さらに次のように説明している。「救い主が福千 年において統治されるために降臨されると,すべての政府 ファイ2:22;Voice of Warning『警告の声』pp.89−91参 照)。 は主の統治に服することになる。この主の政府は神の王国 と呼ばれてきたが,まさにそのとおりである。ここでいう 星の栄えの地球。アダムが堕落したときに地球も落ち, 物欲や情欲に満ちた人々が住める, 死すべき世界となった。 王国とは,教会員であろうとなかろうとすべての民を包含 する政治上の王国である。すべての部族,国語の民,民族 この状態は6,000年の間続くと定められた。そして,地球 がイエス・キリストの統治に服するようになると,その姿 はこの状態にあるときに,水によるバプテスマを受けたの である(教義と聖約77:6−7,12;Man:His Origin and はこの政治上の王国なのである。わたしたちはこの二つの ものがあることを心に留めておかなければならない。しか 84 第38章 し神の王国とはイエス・キリストの教会であって,永遠に への怒りをかき立て,聖徒を迫害させるのである。」(『説 続く王国である。救い主が『御国がきますように』と祈ら れたとき,主は福千年の統治が始まったときに現れる天の 教集』19:24) ブルース・R・マッコンキー長老は,総大会で次のよう 王国のことを指しておられたのだった。 キリストが来られると,政治上の王国が教会に与えられ に語った。 「また,悲しみや苦痛がその峠を越したとだれが言える る。主はすべての国家に終止符を打たれる。この国も他の 国も同じである。神の王国というのは教会である。しかし であろうか。未来にもそれはある。まだ遭遇していないよ うな大きな危険,過酷な試練,そしてだれもが経験したこ 福千年の間,教会員でない地上のおびただしい群衆も統治 とのないような大きな悲しみに涙を流す時が訪れるであろ されなければならない。そのときに選ばれる役員の多くは 教会員ではないかもしれない。」(『救いの教義』1:217− う。 行く手は暗く,また恐怖に満ちている。これからも殉教 218) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は続き,カーセージの扉は再び罪のない者を閉じ込めるで あろう。この世の試練と悪が完全に過ぎ去るとは約束され 教義と聖約38:27 ていないからである。 み くに 「もしもあなたがたが一つでなけ れば,あなたがたはわたしのものではない」 ハロルド・B・リー長老は,王国の一致の必要性という わたしたちが一つの民として神の戒めを守り,宗教,政 治を問わずすべての面において教会を擁護する立場を取 基本的な事柄についてこう説明している。 「わたしたちは一致していなければ主のものではない。 り,聖なる御霊を導き手とするならば,またわたしたちを 教え導く使徒や預言者の言葉に聞き従うならば,永遠の見 ここで言われているように,一致しているかどうかは神の 地からすべてのものが良きものとなるであろう。 ものかどうかの試しでもある。もしわたしたちが愛におい て,隣人への思いやりにおいて,調和において一致してい 未来への視界は遮られない。わたしたちは,生死のいず れの状態にあっても,祝福された主が来臨して地上を統治 るならば,世の人々はわたしたちの中に,神のものである ことを示すこれらの資質のすばらしい模範を見て,改宗す されるのを見るであろう。また新エルサレムが天の神のも とから降り,わたしたちが建てた聖なる町と合流するのを るであろう。同様に,もし末日聖徒の家庭で夫婦が相いれ ひん ず,口論し,離婚の危機に瀕しているとすれば,両者また 見る。わたしたちはエノクの町の民と交じり合い,永遠に 主を礼拝し,主に仕えるであろう。 」(『大会報告』1980年4 はどちらかが神の戒めを守っていないことは明らかであ 月,pp.98−100) る。 わたしたちのワードや支部に,分裂や,一致しないグル ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ープがあるとすれば, 何か悪い点があることは明白である。 道理をわきまえ,思慮分別を備えた人であれば,教義上の エズラ・タフト・ベンソン会長は総大会の説教の中でこ の箇所を引用し,次のように語った。 様々な点について議論し,仲たがいしている人々を見て, 「わたしたちはどのような災いのために備えなければな 両方とも主の御霊によって異なる意見を言い合っているな どとは考えないであろう。…… らないのであろうか。第29章で,主は『激しい雹を伴う嵐 が送られて,地の作物を損なうであろう』(教義と聖約 この民が一致することがそれほど重要であるとすれば, サタンの軍勢がこの原則に挑みかかり,攻撃を激しくして 29:16)と警告し,第45章には『荒廃をもたらす病気が地 を覆う』(教義と聖約45:31)とあり,第63章には『地の くることは十分に考えられる。また,わたしたちの間に教 面に戦争があるように定めた』(教義と聖約63:33)とあ えに背く者がいるとするなら,彼らの中にはこの一致の原 則を偏狭で保守的なものとしてあざけり,さげすむ傾向が る。 マタイによる福音書の第24章には『ききんが起り,また あるということ,そして,敵対する者がこの原則に執拗な 攻撃を仕掛けようとすること,これらは十分に予測し得る 地震があるであろう』 (マタイ24:7)とある。主はこのよ うな災いが起こると宣言された。これらの預言は条件付き ことである。 」(『大会報告』1950年4月,pp.97−98) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ になってはいない。主は先見の明をもって,それらの災い が起こることを知っておられる。あるものは人為的に起こ 教義と聖約38:13,28 み たま しつよう 教義と聖約38:30 「備えていれば恐れることはない」 あらし 「敵はあなたがたの命をねら り,あるものは自然の力や自然をつかさどる神の力によっ っている」 わたしたちは,世の人々が神の王国に敵対し,御業を妨 て起こる。しかし災いが起こることは確かである。預言は 逆の歴史であり,神によって開かれる将来の出来事であ 害するであろうと神御自身から知らされているので,それ が現実にあっても驚くことはない。ジョセフ・F・スミス る。 しかし,その中でも主イエス・キリストは『備えていれ 長老は次のように語っている。「邪悪な人々の敵意は,過 ば恐れることはない』(教義と聖約38:30)と言っておら 去においても,これから先においても,常に神権や聖徒に 付きまとう。悪魔は人間に与えられた神の権威,すなわち れる。 では,それらの災いに備えさせる主の方法は何であろう 聖なる神権から片時も目を離さない。悪魔は神権を恐れ, 忌み嫌っている。そして自分が縛られるときまで,腐敗堕 か。これも教義と聖約第1章にある〔教義と聖約1:17− 18,37〕。 落した人々の心を休むことなくあおり,この権威を持つ人 かぎ ここに鍵がある。すなわち,預言者に神の言葉を求める 85 ことである。神の言葉は,来るべき災いに備える方法を明 ……わたしは貧しい生活を経験している。伝道に出ていた らかにする。 」(『大会報告』1973年10月,p.89) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ときのことであるが,どこへ行けば一口の食物を得られる のか見当がつかないこともあった。人々はこの教会に対し 教義と聖約38:39 世の富に対してどのような態度をとるのが適切かという て怒りを燃やし,わたしたちに顔を背け,家の中へ入れて くれる人はだれもいなかった。年も若く,友人がだれもい ことについて,聖典中で最も明確なものの一つがこれであ る。 ない地で,わたしは途方に暮れ,涙を流した。しかし,そ れでもわたしは幸せだった。あれはわたしの人生の中で最 ジョージ・Q・キャノン長老は,高慢と富の関係につい も楽しいときであった。物に恵まれているから幸福だとは て述べている。「人間の心の中には,繁栄すると高慢にな り,繁栄の原因や源を忘れてしまいがちな気質のようなも 言えない。それでも,自分と家族を養うに必要なものがあ れば,大きな助けにはなる。もしそれに加えて神の御霊が のがある。あらゆる祝福の源である神を忘れ,自分自身に 栄光を帰しがちなところがあるのである。人々に彼らの実 あるなら,それは祝福である。 」(『説教集』22:100−101) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 際の状況を認識させるためには, 常に神の言葉を宣べ伝え, 教義と聖約38:42 訴えかけ,神の御霊を感じさせなければならない。……神 から与えられた賜物や祝福は,賢明に管理しなければなら りなさい」 「昔のイスラエルでは,ある種の容器(鉢,つぼ,花瓶 ないのだろうか。物は節約して使うようにし,浪費を避け, 倹約を心がけなければならないのだろうか。確かにそうす など)や器具が宗教上の式典や儀式で用いられていた。神 殿で用いられていた容器には特別な意味があり,それを扱 るのは正しいことであり,そうでなければわたしたちは責 えるのは自らをふさわしく備え,正式に資格を認められた めを受けることになる。しかし,これに関してはほかにも 考えなければならないことがある。神がわたしたちを地上 者だけであった。それに幾分か似た言葉ぶりで,主は聖徒 たちに『主の器を担う』にふさわしい者となるために, 高慢と地の富 の 「主の器を担う者たちよ,清くあ に遣わしてくださったのは,このような事柄を管理させる ためではないということを,常に心に留めておかなければ 『悪人の中から』(教義と聖約38:42)出て,バビロンのこ の世的な事柄を捨てるようにと命じられた(教義と聖約 ならない。 それがこの試しの生涯の目的ではないのである。 133:5参照)。」(ラドロー,Companion『必携』2:317) ジェームズ・コービルに 与えられた啓示 第39―40章 歴史的背景 いう名の人がわたしのもとへやって来た。約40年間バプテ しもべ スト教会の牧師をした人で,主が僕であるわたしを通じて ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 与えられるどのような戒めにも従うと主と聖約を交わし 「召される者は多いが,選ばれる者は少ない……。」(教 義と聖約121:40)ジェームズ・コービルの話はこの聖句 た。そのときに受けた啓示がこれである。〔教義と聖約39 章〕」(History of the Church『教会歴史』1:143) そのままである。彼は預言者ジョセフ・スミスを通して与 えられた個人的な啓示によって,主のぶどう園で働くよう ジェームズ・コービルは,与えられた主の言葉に従って いれば,すばらしい約束が授けられていたであろう。40年 に召されたが,自分に与えられた主の勧告をまったく心に 続けた牧師の職を捨てることを考えたとき,彼の胸中には 留めなかった。末日のシオン建設の召しには,必ず個人的 な犠牲が要求される。ジェームズ・コービルは約40年間牧 どのような思いが満ちたのであろうか。 この教会に加入し, オハイオに移ることに対して,彼が犠牲として求められた 師の職にあった人物であるが,今やバプテスマを受けて主 の の教会に入って福音を宣べ伝えるようにとの命を受けた。 のはどのようなことだろうか。恐らくジェームズ・コービ ルはこうした事柄をはじめほかにも様々なことを考え,神 その召しを受け入れれば,これまで信じていた多くの教え の啓示を捨てる決心をしたのであろう。預言者ジョセフ・ スミスは次のような簡潔な記録を残している。「ジェーム を捨て,自分に従っていた人々に完全な真理を見いだした ことを告白し,オハイオへ向かわなければならなかった。 オハイオには差し迫った裁きの猶予を主に求める人々がい た。そうなると必然的に自活するために新たに職業を探さ なければならなかった。 預言者ジョセフ・スミスは1831年1月2日の大会の直後 に,次のように記録している。「ジェームズ・コービルと 86 ズ・コービルが主の言葉を拒んで,彼の以前の信条と人々 のもとに戻って行ったので,主はわたしとシドニー・リグ ドンに次の啓示を与えられた〔教義と聖約40章〕。主はそ み こと ば 」 の中で彼が御言葉に従わなかった理由を明らかにされた。 (『教会歴史』1:145) 第39―40章 録に残したこと以外,ほとんど何も知られていない。した がって,彼が何をしたために,主からこのような警告を与 えられたのかを具体的に挙げることはできない。しかし, スペンサー・W・キンボール大管長は同じような警告を現 代の聖徒たちに与えている。 「自尊心がわたしたちのじゃまをし,つまずきとなるこ とがしばしばある。わたしたち一人一人は次のように考え てみる必要がある。『平安よりも自尊心の方が大切であろ うか。 』 数々の非常にすばらしいこと,優れた貢献をした人が自 尊心のために本来受けられるはずの報いをふいにしている ゆる ことがよくある。 」(『赦しの奇跡』p.307) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約39:10−11 条件付きの祝福 ここで使われている「ならば」という言葉は,ジェーム 主のぶどう園で「最後の刈り込みが」行われる(教義と聖約 39:17) ズ・コービルに約束された祝福が条件付きのものであるこ とを示している。ハロルド・B・リー大管長は次のように 言っている。 「ある日,わたしが自分のワードの日曜学校のクラスに 出席したときのことである。そのクラスの教師は祝福師の 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 息子であった。彼は,以前自分の父親の祝福の種を明かし てやろうとしたことがある,と言った。そのとき彼は,父 教義と聖約39:5−6 ジェームズ・コービルは真の福音 を教えられた がいわゆる『条件付きの』祝福を与えているのに気づいた のである。父親は祝福を与えるが,それは,『これこれを ブルース・R・マッコンキー長老は「福音」という言葉 の意味を次のように説明している。 しないならば』という条件付きで述べられていたのである。 「イエス・キリストの福音とは救いの計画である。…… そして,その教師は次のように結んだ。『わたしは父が 「条件付き」の祝福を与えた人々の多くが,祝福師である 福音とは文字どおり神からのよきおとずれ,あるいは神 の言葉という意味である。つまりそれは,キリスト,また わたしの父が与えた警告に注意を払っていないことに気づ きました。その人々は,警告に従わなかったがゆえに,決 キリストの贖 罪 ,地上における神の王国の確立,日の栄 えの状態の神のもとにおいて将来授けられる受け継ぎなど してその祝福を受けることはなかったのです。』 しょくざい に関する喜びのおとずれであり,よき知らせである。預言 者ジョセフ・スミスは,啓示として次のような記録を残し この言葉を聞いて,わたしが思案を始めたことはお分か りいただけると思う。わたしは,『教義と聖約』を開き, ている。『天からの声がわたしたちに証した福音,すなわ 教会の様々な兄弟たちに与えられた『条件付き』の啓示を りつぜん 読み始めた。もし,何か慄然とするような経験をしたいと ち喜びのおとずれはこれである。 「彼,すなわちイエスは, きよ 世のために十字架につけられ,世の罪を負い,世を聖 め, 思うなら,預言者ジョセフ・スミスを通して,トーマス・ あかし それをすべての不義から清めるため世に来た。御父からイ エスの力の下に置かれて,彼により造られたすべての者が, B・マーシュ,マーティン・ハリス,ホイットマー家の幾 人かの兄弟,ウィリアム・E・マクレリンに与えられた警 彼によって救われるためである。」』(教義と聖約76:40− 告を読んでみるとよいだろう。この人々が,この警告に注 意を払っていたならば,そのうちの何人かはわき道にそれ 42)」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.331−332) 教義と聖約39:5−6で,主はジェームズ・コービルに, ないで済んだであろう。だが警告に注意を払わず,その生 活を意義あるものとしなかったために,わき道にそれてし キリストを受け入れるには,悔い改めとバプテスマ,聖霊 たまもの の賜物を受けることが不可欠であると説明された。ジェー まったのである。さらに,教会の会員の資格を失った者さ ムズ・コービルが以前にどのような教えを説いていたかは えいたのである。」(Conference Report『大会報告』1972年 10月,p.130) 明らかでないが,救い主はここで彼に真の福音を教えられ たのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約39:19−24 差し迫っているキリストの再 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約39:7−9 ジェームズ・コービルは過去に 臨 どのような問題で苦しんだか 第9節には,ジェームズ・コービルが「高慢と世の思い 煩いのために」何度も主を拒んだことが述べられている。 ジェームズ・コービルについては,ジョセフ・スミスが記 1831年に与えられたこの啓示の中で,主は再臨に関して 重要な真理を幾つか啓示された。 1.天の王国が近づいている(19節参照)。 2.神の僕たちは再臨のために道を備えなければならな い(20節参照) 。 87 3.再臨の日時はだれも知らない(21節参照)。 教義と聖約40:1−2 4.聖霊の賜物を授かる人は再臨を待ち望み,主を知る ようになる(23節参照) 。 の言葉を拒んだのか 「この約束された祝福から考えられることは,この愚か 5.主はすぐに来られる(24節参照) 。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように語ってい な男は真理を確信していたということである。なぜなら, 彼と主のみが真実であると分かる事柄を,主が彼に啓示さ る。 「いつ末日の災害や苦難が,わたしたち個人のうえに, れたからである。しかしながら,主の御霊の影響から離れ てしまい,そして世の仲間を失い,人々の間での地位を失 あるいは聖徒の群れのうえに注がれるか,わたしたちは知 うことを考えた彼は,ついに負けてしまい,主から与えら らない。それらはすべて,死すべき状態に伴う試練と経験 の一部である。しかし,主は故意に再臨の日時と,それに れた約束と祝福を拒んだのである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:174) 先立つ艱難の訪れる時をわたしたちに知らせることを控え ておられる。そして,主はわたしたちに,目を覚まし,常 主はジェームズ・コービルが教えを拒んだ説明の中で, 種まきのたとえに出てくる言葉を使われた(マタイ13: に備えているようにとだけ告げておられるのである。」 1−9,20−22参照)。 かんなん ジェームズ・コービルはなぜ主 み たま (『大会報告』1979年4月,pp.132−133) 第41章 最初の監督が召される 歴史的背景 は即座に廃止され,主の完全な律法に取って代わられるこ ととなった。そして啓示の光に照らすことにより偽りの霊 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第41章は,『教義と聖約』の中に収められている啓示の はたやすく識別され,退けられた。 主は教会に対して次のような啓示を下された〔教義と聖 中では,オハイオで与えられた最初のものである。預言者 ジョセフ・スミスとその妻エマ・スミスは,この啓示が与 約41章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:146− 147) えられる数日前にカートランドに着き,カートランド支部 が100人近くの会員を擁するまでに成長しているのを目に した。新しい改宗者の多くは「ディサイプル派」という集 注 解 団に属していた人々であった。彼らはこの教会に入った後 も,「権利譲渡組織」と呼ばれる全財産の共有制度を続け 教義と聖約41:1 カートランドのある聖徒たちがのろ いを受けたのはなぜか ていた。ところが,この制度の運用方法について会員たち 「例えばジェームズ・コービルのように,主の名を公言 し,主に仕えることを聖約しながら,行いにその誠意を表 の間に不和が生じたのである。ある会員が所有するものは, 支部内の全員のものと考える者もあった。ジョン・ホイッ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ さない人がいたので,主は会員に指針となる啓示をお与え トマーは次のように記録している。「それで彼らは互いの 衣服や財産を取ったり,許しもなくそれを使うようなこと になり, 主の名を公言しながら従わない人々に警告された。 偽善者に対して,また心から聖約を公言し,明らかに十分 をしていた。その結果混乱が生じ,制度に失望する人が出 てきた。原因は彼らが聖文を理解していないことにあっ な信仰をもって受け入れた後その聖約から離れる人に向け られた聖句の中で,これほど厳粛かつ的を射た宣言はどこ た。」(“Church History” Journal of History「教会歴史」『歴 を捜しても見いだせないであろう。 」(スミス,Church His- 史記録』1908年1月,p.50) 預言者ジョセフ・スミスは次のように書いている。 tory and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1: 177−178。マタイ23:27−28;イザヤ32:6参照) 「主のぶどう園のこの地方にある教会の支部では,聖徒 みこころ たちが与えられた知識の許すかぎりにおいて神の御心を行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約41:2−6 聖徒に授けられた律法とはどの おうとしていた。しかし,ある奇妙な考えや偽りの霊が聖 ようなものか 徒の間にひそかに広まっていた。わたしは直ちにわずかな 警告と多少の知恵により,兄弟姉妹たちがそれらに打ち勝 預言者ジョセフ・スミスはカートランド支部の教会員た ちに,「権利譲渡組織」の計画を捨てて,ニューヨーク州 てるよう援助した。当時一般に,永遠の福音を受け入れた 会員で構成される『家族』と呼ばれるものの中に『権利譲 フェイエットで与えられた約束に従って主から授けられる より完全な律法を待ち望むよう説得した(教義と聖約38: 渡組織』を持つという計画があったのである。しかしこれ 32参照)。教義と聖約41:2−4で,主は教会の長老たちに, 88 この律法を受けるためにカートランドへ集合するように命 じられた。その数日後,現在では奉献の律法として知られ る律法が与えられた(教義と聖約42章参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約41:5 弟子とはどのような人か この節では,主の弟子の特徴として二つの点が挙げられ ている。すなわち,主の弟子は主の律法を受け入れ,それ を行うのである。 スペンサー・W・キンボール大管長は,実践の重要性に 関連し,聖徒がシオンの民になることについて,次のよう に述べている。「心の中にこのビジョンを持つことは非常 に大切であるが,単にシオンを定義づけ,言葉で述べるだ けでは,シオンを実現することはできない。教会員一人一 人が日々絶えず努力を重ねることによってのみ可能であ る。したがって,どのように苦しくても,また犠牲を要求 されても,わたしたちはそれを行わなければならない。 『実行』,これはわたしの大好きな言葉である。」(Confer- 最初の監督,エドワード・パートリッジ ence Report『大会報告』1978年4月,p.122) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約41:6 教会員は自分に関係のある神聖な戒 わしくない者や犬に与えることはよくないからである。す なわち,豚に真珠を投げ与えることはよくないからであ めや聖約をどのように重んじるべきか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,神聖な る。』しかしわたしたちは,愚かな人や無知な人を多々目 にする。神聖な原則や聖約の奥の深さを理解せず,それら ものを人々に伝える場合の条件について次のように述べて いる。「教会員であるなしを問わず,ふさわしくない人に を世の人々の前においてさえも軽々しく,不適切に扱って 王国に属するものを与えてはならない。主が人の救いのた いる人々の何と多いことか。」(『教会歴史と近代の啓示』 1:179−180) めに与えてくださった戒め,聖約,真理の原則のすべてを 最も神聖なものとして尊ぶことは,教会員の義務である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約41:9−11 エドワード・パートリッジに与 教会員がへりくだって受けるなら,主は世に属さない聖約 や恵みをすでに授けてくださっている。 『正しくかつ真実』 えられた教会初の監督の召し であろうとして聖約を交わして,『信仰によって勝利を』 奉献の律法において,監督は霊的な面と実務的な面の代 理人であり,プログラムの指示,共有財産の委託,財産の 得た人々に明らかにされる最も神聖な事柄,すなわち昇栄 をもたらす手段として与えられるものを軽々しく扱った 受領などを行った(教義と聖約42:33;72:9−15参照)。 その律法は間もなく明らかにされることになっていた。エ り,あざけったりしてはならない。また世の人々の前で話 すことも同様である。『王国の子らに属するものを,ふさ ドワード・パートリッジが教会初の監督に召されるのは, 主の律法 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフはオハイオ州カートランドに着くと,早 じ ぎ 時宜にかなったことであった。 第42章 グドンの働きによって,真理を受け入れる備えのできてい た人々が数多くいたため,この地での教会の成長には以前 から目覚ましいものがあった。 預言者は主から,オハイオへ移れば聖徒たちに神の律法 速,教会の秩序を整えることに取りかかった。主の指示の 下に,まず教会初の監督を召し,全財産共有という偽りの を啓示すると言われていたが(教義と聖約38:32参照), カートランドに到着後,さらにもう一つの条件を加えられ 制度を終わらせ(教義と聖約41章参照),多くの方針や手 順を定めた。ニューヨーク州の教会員がカートランドに殺 た。その条件とは,長老たちが主の言葉に関して考えを一 つにし,信仰の祈りによって一致しなければならない,と 到するにつれ,幾つかの問題が起きてきた。シドニー・リ いうものであった。そうして初めて,聖徒たちがともに安 89 らかな生活ができるようにするための律法が授けられるの 教義と聖約42:12−14 である(教義と聖約41:2−3参照) 。 そして1831年の2月9日,ジョセフ・スミスによって12人 命じられるままに教えるという厳粛な義務を負っている 福音を教える責任にある人々が果たすべき特別な義務に 福音を教える人々は,主から が招集され,彼らは祈りと信仰を一つにして,その律法が ついて,スペンサー・W・キンボール長老は次のように語 与えられるように願い求めた。それにこたえて主は彼らに 律法を授けられた(History of the Church『教会歴史』1: っている。 「初期の教会において,教会の教えであると称して人を 148参照) 。しかし,そのときに与えられたのは,第42章の 1−73節だけであり,残りは2週間後の2月23日に与えられ 惑わすようなことを教えていた人々がいたことは明らかで こんにち あるが,今日においても,教会の正当な教えに異論を唱え, た。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長によると, その残りの部分は,「奉献の律法と完全な福音への従順に これを誇りにする人がいることも確かである。彼らは啓示 された真理と一致しないことを教える。ある人々はよく知 よって建てられるべきシオンの都,すなわち新エルサレム らないでそうしている。また,うぬぼれからそうした行動 の確立のために与えられたものである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:184) に出る人もいる。あるいは,いろいろと考えた末にそうし ている人もいる。人間というものは自分に都合のいいよう 第42章は,密接な関連性があるとはいえ,二つの別個の 啓示から成るものである。したがって初めに『戒めの書』 に物事を考えがちである。しかし,そうした正当でない見 解を他人に押しつける権利はだれにもないはずである。そ として出版されたときは,二つの章に分かれていた。すな のような人は,自分の魂が危機にさらされることに気づか わち,1−73節までが第44章,また順序に異同はあるが, 74−93節が第47章となっていた。 なければならない。主は預言者ジョセフを通して,わたし たちに次のように言われた〔教義と聖約42:12−14〕 。 主の律法として知られるこの啓示の重要性について,ジ ョージ・Q・キャノン副管長は次のように述べている。 わたしたちが従事しているあらゆる業の大目標は,人々 の人格を築き,彼らの人生に信仰の力を増し加えることで 「全体的に見て,これは非常に重要な啓示である。この啓 ある。もしも教会のプログラムを受け入れて,正当な方法 示によって非常に多くの事柄が明らかになり,数多くの重 要な問題に対する答えがもたらされた。忠実な男女は,主 で教えることができなければ,その人は教えるべきではな い。そのようなときに自らその職を退くのは名誉なことで が御自身のものと認められた教会の会員であることを非常 に喜んだ。この啓示が下されたときもそうであるが,主は ある。そのまま教える立場にとどまる人は,不正直で人を 欺くことを行うだけでなく,実際に罪のある状態に置かれ 霊感された預言者を通して,御自身の言葉をこの教会に授 ることになる。なぜなら,その人を信じる『幼い者たち』 けられたのである。」(Life of Joseph Smith『ジョセフ・ス ミスの生涯』p.109) の信仰を失わせ,誤った教義へと導き,義に背き,攻撃を 加えるよりは,石うすを首にかけられて,海の深みに沈め 注 解 られる方がよかった,と主が言っておられるからである。 これは子供たちについてだけ言っているのではない。神を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:2 律法とは何か 信じ,神に頼る大人についても同じである。…… わたしたちの社会では,肉体を害した殺人者は捕らえ 福音的な意味において「律法」という言葉は,主から人 られ,投獄され,処刑される。ところが,疑いの種をまい 間に啓示された掟,裁決,救いの原則のことを指している。 キリストは律法であり(3ニーファイ15:9参照),律法の て人の信仰を台なしにし,その魂を死に至らしめても,何 ら拘束を受けないばかりか,依然として高職に居座り続け 中にキリストが具現され,律法こそキリストの象徴なので ある。主の律法はまさしく,主の属性と特質を明らかにす るような人がよく見受けられる。肉体は殺されても,永遠 の幸福には何の傷ももたらさない状態で再びよみがえる。 るものである。 しかし,信仰を損なわれた人は,霊体の完全な回復という 神がわたしたち人間に律法を与えられたのは,わたした ちが御父や御子に似た者となれるように助けるためであ ことがたとえあるとしても,それまでの長い間,苦しみを 味わうことになりかねないのである。」(Conference Report り,だれであってもキリストから授けられた律法への従順 なくして,御父のもとに行くことはできない(教義と聖約 『大会報告』1948年4月,pp.109−110。教義と聖約52:9参 照) 132:12参照)。罪とはこれらの律法に従わないことである ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ おきて (1ヨハネ3:4参照)。主はしばしばその限りない愛と知恵 をもって,人間の側にどれほどの備えができているかに応 み たま 教義と聖約42:14 か 御 霊 によって教えるにはどうする じて,それにふさわしい律法を授けられる。モーセの律法 はイスラエルの民をより高い律法に備えさせるものであっ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,次のよ うにはっきりと述べている。 た。また,第42章に与えられている律法は,シオンの確立 に向けて聖徒たちが生活を清められるようにするためのも 「完全に改宗し,真理に対して不動の証を持っている人 でなければ,教える責任に召してはならない。また,教会 のであった。 (『教義と聖約』が律法に関して教えている事 の教義を説こうとしてはならない。この証は祈りによる学 柄については,付録の特別講座Gにさらに詳しく述べられ ている。 ) 習と主のすべての戒めに従うことによってしか得られな い。また自分が実践していないことを,御霊によって教え 90 あかし 第42章 ることはだれにもできない。誠実,正直,忠実さが必要不 可欠の要素であり, これらは祈りの精神に伴うものである。 わたしたちは『すべてのことを知っている』慰め主に頼る べきである。そうすれば天の御父もわたしたちの教える行 為をよしとしてくださるであろう。」(『教会歴史と近代の 啓示』1:184−185) 第14節は戒めとも事実の提示ともとれるが,いずれにし ても,そこに書かれているのは真実である。御霊を受けな ければ教えるべきではないし,真の意味で教えることはで きないのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:18−29 教会員に語りかけられる主 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,十戒は 神の律法の一部であり,モーセの時代同様,今日も有効な ものであることを強調している( 『教会歴史と近代の啓示』 1:185参照)。主は第42章の中で,これらの戒めを律法の 一部として繰り返し,それに従うことを拒んだり,過ちを 十戒は昔と同様,現代においても有効である 完全に悔い改めようとしない教会員に対し,一つ一つの律 て次のように説明している。 「主が『心を尽くして』と言われたとき,そこにはいさ 法について重い罰を定めておられる(教義と聖約64:12参 照)。 さかの猶予も,言い逃れも与えておられない。女性に対し ては,このように言うことができる。『あなたは心を尽く 殺人(18−19節) 殺人の罪に対しては,この世におい ゆる しょく ても次の世においても赦しは与えられない。キリストの贖 して夫を愛し,夫と結び合わなければならない。その他の ものと結び合ってはならない。』 ざい 罪は,教会員が犯した殺人の罪に対しては効果を及ぼさな いのである。殺人の罪を犯した者は自分が犯した罪のゆえ 『その他のもの』という言葉は,すべての者やすべての はんりょ に苦しみを受けなければならない(Teachings of the Prophet 物事を指す。つまり,伴侶が最も大切であり,仕事や社会 的,政治的なつきあい,そのほかのいかなる関心事も人と 。ま Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.339) た律法には,殺人者は死刑に処せられるべきであると定め の交際も, 自分の伴侶に優先することはできないのである。 わたしたちは時々,夫のことは一切構わず子供に夢中にな られている。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長 は次のように言っている。「わたしたちは生きている人を っていたり,子供のために夫から遠ざかったりしている女 滅ぼすことはできない。というのはわたしたちは人の命を 性を目にする。 主はそのような女性にこう言われる。『夫と結び合わな 支配してはいないし,死刑の宣告を下す力を持っていない からである。地上に祭政一致が敷かれていた時代は,この ければならない。その他のものと結び合ってはならない。 』 結婚は完全な忠誠と義務を前提としている。夫(または 掟を実施することができた。わたしたちが生きている人を 滅ぼすことができないために,主が代わりに何をされるか 妻)は心を尽くして忠誠と尊厳と愛を示し,しかも敬意を わたしには何も言えない。しかし何らかの方法で行われる であろう。 」(『救いの教義』2:88) 盗み(20節)悔い改めようとしない者は破門される。 偽証(21節)悔い改めようとしない者は破門される。 かんいん 姦淫 と情欲(22−26節)情欲は,御霊や証を失わせ, 悔い改めなければ破門の対象となる。姦淫の罪を犯した もって自分の伴侶にすべてをささげるのである。伴侶以外 に心を向けることは何であれ罪であり,心をほかのものに 許すことは背罪である。わたしたちは,『神の栄光にひた すら目を向けて』と勧告されている。わたしたちは結婚生 活と伴侶と家族にひたすら目と耳と心を向けなければなら ないのである。」(Faith Precedes the Miracle『奇跡に先駆け る信仰』pp.142−143) 者は悔い改めができるが,同じ罪を繰り返すなら破門され ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:27 「あなたは隣人の悪口を言ったり, る。 教義と聖約59:5−12の「注解」を参照する。 隣人に害を与えたりしてはならない」 『旧約聖書』の十戒と,ここで教会員に与えられている ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:22−23 結婚は完全な忠誠と義務を前 律法にははっきりとした類似点がある。モーセに与えられ 提としている た9番目の戒めは,隣人についての偽証を禁じている(出 エジプト20:16参照)。ここで挙げられている律法はさら 聖典の中で,心を尽くして愛するようにと戒めている聖 句は二つしかない。まず,人は心を尽くして神を愛さなけ に包括的であり,隣人に対する悪口も禁じられている。ア ダム・S・ベニオン長老は,この戒めがなぜ今日の聖徒に ればならない(申命6:5;マタイ22:37参照)。また,心 を尽くして自分の妻を愛するように命じられている。スペ とって重要なものであるかを次のように説明している。 ンサー・W・キンボール大管長は,この戒めの意味につい 「殺人,姦淫,盗みといった,それぞれ生命,貞操,財 産に関係するものは,一般的に言って,法律的には偽証よ 91 りも重い罪だと考えられている。しかし,重大なものでな 教義と聖約42:40 くとも,偽証は非常に蔓延している。実際の問題として, これを勉強している読者の大部分は,疫病を避けるように る 先に述べた種類の社会的に見て大きい罪を避けているだろ は,教義と聖約42:40が現代に向けられたものであること う。しかし,意識しているいないにかかわらず,わたした ちは皆時として,不注意にうわさを広めたり,偽証したり について,次のように述べている。 「この節(第40節)はイザヤの時代のことを述べたので する誘惑に陥る可能性を持っているのである。…… 偽証をするということは,報告やほのめかしや推測やう も,アルマの時代のことを述べたのでもない。まさしく, わたしたちが生きているこの時代について述べたものなの わさを,まるで真実であるかのように語って,同胞に損害 を与えることである。そうした行動をとる原因は,時に正 である。主は預言者を通して与えた勧告の中で,わたした ちの義務について述べておられる。主はその中で次のよう しい情報の不足にあったり,時に理解の不足にあったり, に言われた。『さらにまた,あなたは心の中で高ぶっては 時に誤解にあったり,また時に,真実を曲げようとする悪 意にあったりする。 ならない。あなたの衣服はすべて簡素で,その美しさはあ なた自身の手の業の美しさであるようにしなさい。』これ 殺人というのは人の生命を奪うことであるが,偽証する というのは,人格や名誉を傷つけることである。それはや はわたしたちの社会の中で考えるべき重要なことである。 …… がて,世の中の評価をも完全に落としてしまうものなので 兄弟姉妹,これは深く考えるに値することであると,わ ある。 」(“The Ninth Commandment” Ten Commandment Today 「9番目の戒め」 『今日の十戒』pp.134−136) たしは思う。ぜいたくな生活ということについて話してい くが,皆さんも自分自身の家庭はどうかと考えていただき ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:30−35 シオンの建設と奉献の律法は たい。わたしも皆さんに語りかけながら,自分自身にも問 いかけていくつもりである。ぜいたくな生活のための出費 どのような関係にあるか が増えていないだろうか。自分で着るものは自分で作るよ 「この啓示の中で,奉献の律法は新エルサレムの建設の ための律法であると明確に述べられている。この律法は貧 うにと家族に教えているだろうか。…… 模範を示そうではないか。分相応な生活をしようではな しい人々のため,またシオン建設と奉仕の業のために与え られたものである。……聖徒たちはこの日の栄えの律法 いか。人に貸すことはしても借りないようにしようではな いか。高級車を乗り回したり,余裕があるほかの家と同じ (奉献の律法)によって,主の聖約の民となるのである。 ような生活をするために,生活の基盤である家や土地を抵 わたしたちはこのすばらしい天与の律法に従った生活がで きるようになるまで,シオンに関する完全な聖約に入るこ 当に入れたりすることがないようにしようではないか。朽 ちるもので身を飾るよりも,内面を豊かにすることにもっ とはできない。什 分 の一の律法を守れない者は,この奉 献の律法,すなわち次元の高い律法にあずかることはでき と心を向けようではないか。」(『大会報告』1915年4月, p.97) ず,受け継ぎが分け与えられるときに,何も与えられない のである。 」(スミス『教会歴史と近代の啓示』1:185。特 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 別講座L参照) きる限りのことをしなければならない ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:39 多くの財産を持つ異邦人がイスラ どんな病気でも,神権による癒しにだけ頼って治すべき であると考える教会員が時々見受けられる。これは教会の エルの家の貧しい人々をどのように助けてきたか 『モルモン書』の中で昔の預言者や救い主は,アメリカ 正式な教えではない。以下の記事は『チャーチニューズ』 (Church News)の論説欄に掲載されたものである。 合衆国を異邦人の国と呼んでいる(1ニーファイ22:7;3 「老 若 男女を問わず,すべての人は自分の体を神の宮と ニーファイ20:27−28参照)。これは,アメリカにはイス ラエルの家に属する者が一人もいないという意味ではな して大切にし,適切な休息と運動,バランスの取れた食生 活を心がけなければならない。主はわたしたちの肉体の健 い。国としては,イスラエルの家の一部に考えられないと いう意味である。主は合衆国とカナダに物質的な富と大い 康維持のために,知恵の言葉を授けてくださった。 病人のために祈るべき時もある。また,神権によって病 なる繁栄を祝福された。教会の初期のころから,合衆国と 人に按手し,祝福を与えるという手段を取る場合もある。 カナダの聖徒たちは,歴史上ほかにほとんど例のない繁栄 と物質的な富を享受してきた。忠実に什分の一を納め,宣 …… しかし,神の癒しの力への信仰は,決して十分な医療を 教師を援助し,ほかにもささげ物をするなどして,この異 邦人の国の聖徒たちは,王国の業を地上のもろもろの国に 受けるのを否定するものではない。十二使徒評議会会員の ジェームズ・E・タルメージ博士は,1921年の説教で次の 広げるために力を尽くしたのである。今では物質的な繁栄 を享受している多くの国々の聖徒がこの業に加わり,王国 ように述べている。 『次のように言って,わたしたちに矛盾があると非難す はさらに速やかにその目標に到達できるようになってい る人がいます。「癒しの賜物を信じているのなら,どうし る。 て医者が必要なのですか,どうして外科医が必要なのです か,なぜ病院を建設するのですか。」わたしたちは,「創世 まんえん はらから じゅうぶん 92 多くの問題はぜいたくに原因があ 後に大管長になったジョージ・アルバート・スミス長老 教義と聖約42:43 病気の人は快復のために自分にで いや ろうにゃくなんにょ あんしゅ たまもの 第42章 の前に天において定められた不変の律法があり……神から 教義と聖約42:48 人の死には定められた時があるか 祝福を受けるときは, それが基づく律法に従うことによる」 と教えられています。この律法を今話している事柄に当て スペンサー・W・キンボール大管長は,『教義と聖約』 のこの聖句について次のように説明している。 はめて考えると,自分にできることはすべて行うというこ とになります。…… 「わたしは死ぬべき時が定められていると確信している。 わたしは運命論者ではない。わたしが思うに,多くの人々 自分でできる限りのことをした後に,力の及ばない残り の部分について主に助けを求めるのです。ですからわたし は不注意であったり,肉体を酷使したり,不必要な冒険や 危険,事故,病気などに身を任せたりするので,『自分の たちは医学を尊んでいます。……人事を尽くした後に,天 時』が来る前に死んでしまう。…… の力が直接働きかけてくるのです。 』 現在,忠実な末日聖徒で医師としても世界的な名声を博 神はわたしたちの生活を治めて導きと祝福を下さるが, わたしたちの選択の自由も認めておられる。わたしたちは している人がいるが,この事実は,わたしたちが56年前の タルメージ博士の考えを変わりなく支持していることの証 神の計画にのっとった生活をすることもできれば,愚かに もこの世の生活を縮めたり,終わらせたりすることもでき 明である。」(『チャーチニューズ』1977年2月19日付け, るのである。 p.16) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わたしは,主が人の行く末を定めておられることをよく 知っている。わたしたちは寿命を縮めることはできても, 教義と聖約42:46 か なぜ義人は「死を味わわない」の 決して延ばすことはできないのである。わたしたちはいつ の日かすべてのことを理解するであろうが,そのときに過 この句を,身を変えられることの約束と考える人もいる 去を振り返ってみると,当時は理解し難く思われたこの世 かもしれないが,ジョセフ・フィールディング・スミス大 管長は次のように解説している。「主にあって死ぬ者は死 の多くの出来事に,満足感を覚えるであろう。」(Tragedy or Destiny『悲劇か運命か』pp.9,11) を味わうことがないという教えに,理解し難いものを感じ ている教会員がいる。彼らは,忠実で信仰深い人が何日も, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:53−73 聖徒たちに与えられた,管理 時には何か月も苦しんでから死んでいった姿を目の当たり にしている。しかし主はここで,肉体的な苦しみを味わう の職に関する報告 スミスとショダールはこの箇所に,簡単ではあるが見識 ことがないと言われたのではない。それは,邪悪な人々に に満ちた有意義な注解を加えている。 課せられる内面的な苦痛を受けないという意味である。肉 体的な苦しみはあるかもしれないが,自分が主の前にふさ 「53.『あなた』 第42,45節同様,すべての聖徒に向け られたものである。 わしい者であることを実感する人にとって,死は甘いもの なのである。主はマルタに『生きていて,わたしを信じる 54. 『あなたは,兄弟の衣服を取ってはならない。 』 取 り引きにおいても思いやりの気持ちを忘れてはならない。 者は,いつまでも死なない』と言われた。これは,第二の 返済を求めるのに過酷であってはならない。 死を味わうことがなく,神にまみえるときも悪人が受ける 苦しみを感じないという意味である。」(『教会歴史と近代 『支払わなければならない』 負債を避ける。現代の議 会の議員たちも,この点について,モーセの律法から学ぶ の啓示』1:186) ところがあるであろう。 56. 『わたしの聖文が与えられるであろう。』 ま 新しい英 訳版(15節)。 57.『そのすべてを受けるまで』 完成するまでの間, 新訳版に関しては教えないようにとの命令に注意する。 59−60.『あなたは受けたこと』 与えられた啓示に関 する言及。これらの啓示は教会を統治するための律法であ る。人はこの律法によって救いを受ける,あるいは罪に定 められる。 61−64.祈りに対する答えとして,聖徒たちは啓示と知 識を受けると約束されている。啓示の霊は,光を受けるた めに心を開いている聖徒たちに与えられる。この約束には 特に,新エルサレムの場所に関する啓示も含まれている。 68−69.このような約束を考えると,知恵を求めて祈 り,主の前に喜ぶことは聖徒たちの義務である。…… 70−73.霊的な事柄を管理する者は,管理の職を持ち, 自分の生活のために『会員と同じように』働かなければな 適切な運動と食生活は神の宮としての肉体の健康管理に留意す るうえで大切な原則である らない。これが『報酬』の律法である。この原則には深い 知恵がある。彼らはそれらの務めの中で自立し,恐れるこ の となく真理を宣べ伝えることができるからである。実務的 93 な事柄を管理し,全時間を公務のために使う人は,正当な ラエルの判士は,必要であれば義にかなった裁きを下す責 報酬を受けて当然である。生活費を自分で得なければなら ないとすれば,地域社会のためにすべての時間と精力を投 任がある。裁く責任を持つ人にとって大切な言葉が教義と 聖約第20章に出ているので読ませていただきたい。『律法 入することはできない。」(Commentary『注解』pp.233− 234) に背いている,あるいは過ちに陥っているキリストの教会 の会員はだれであろうと,聖文で指示されているとおりに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約42:74−93 神は罪を犯した人の処置に関 取り扱われなければならない。』(教義と聖約20:80) 兄弟たちよ,聖典と手引きを研究し,必要なときには教 する責任を委任された 会員を処罰していただきたい。直接管理する責任にある指 N・エルドン・タナー副管長は,判士の職に任命された 人は罪を犯した人をどのように処置すべきかについて,次 導者が罪悪を見て見ぬふりをしたり,大目に見たり,また は覆い隠そうとしたりすることは,律法に背いた人にとっ のような勧告をしている。 「伝道部長,ステーク会長,および監督には,あらゆる て決して愛ある行為ではないということを覚えておいてい ただきたい。 種類の背きについて,それをどう調査し,処理するか,そ このことについて触れたジョン・テーラー大管長の言葉 の方法が示され,教えられている。重い罪を犯している者 は,進歩することができない。そして罪の中にとどまって を読んでみよう。『さらに,何人かの監督は,会員の罪を 覆い隠そうとしているということを耳にしている。わたし いるかぎり幸福にはなれない。告白し,悔い改めるまでそ しか の人は囚われの身である。愛と然るべき処罰をもって正し は神の名によって彼らに告げる。彼らはその罪悪を負わな ければならない。あなたがたの中で人の罪に加担したり, く導かれた人は,後にあなたの思いやりと理解に,また指 あるいはそれを弁護したりする者はその罪を負わなければ 導力に感謝するだろう。適切に裁かれることによって,そ の人は悔い改め,再び教会の活動に加わる門戸が開かれる ならなくなるだろう。監督やステーク会長の責任にある人 はよくこのことを心に留めていただきたい。神はそれをあ のである。しかし何らかの措置は必ず講じなければならな い。 なたがたの手に求められるのである。あなたがたは義の原 則に手を加えたり,人々の非行や腐敗を覆い隠したりする 教会の活動に活発に参加していない人に気をつけなさ い。もし何かおかしい,あるいはだれか罪を犯しているよ ために教会の職に任命されているのではない。』(『大会報 告』1880年4月,p.78) うだと感じれば,愛をもってその人のところに行き,何が 兄弟の皆様,これは非常に強い言葉である。しかもこれ あったかを知る責任がある。その人はあなたの心遣いに感 謝するだろう。迅速に行動することによって,それ以上の は神の預言者である教会の大管長が語った言葉である。ま たジョージ・Q・キャノンも次のような声明を残してい 罪を防ぐこともできる。問題のある人を救い,囲いの中に 連れ戻していただきたい。 る。『神の御霊は疑いもなく,非常に悲しみ,このような 行為を犯した者を見捨てるばかりか,わたしたちの周囲で 一部の監督,またステーク会長さえもが,これまでに一 このようなことが行われるのを止めなかった者,行為者を 度も人を破門したり,処罰したりしたことがないし,今後 もするつもりがないと言っているという報告がわたしのも 責めなかった者をも見捨てるだろう。』」(『大会報告』1974 年10月,p.110) とにある。このような態度はまったく間違っている。イス 「主が天から声を発する」 第43章 歴史的背景 を許す教派からの改宗者が数多くいたのである。しかし, 主は教会が組織された日に,教会全体に対する啓示を受け ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1830年4月6日,主は聖徒たちに,シオンの建設のための る権利を持つ者はただ一人であるという原則を教えられ た。1830年9月の段階でも,ハイラム・ページの偽りを信 啓示が与えられる経路について教えを授けられた。主はそ じていた人が多くいたことから分かるように,聖徒たちは のとき,教会の大管長に関してこう言われた。「わたしは, 善のために大いなる力をもってシオンの大義を推し進める この教えを完全には理解していなかった。 1831年2月に,主はこの点についてさらに聖徒たちに指 ようにと彼に霊感を与えた。 」(教義と聖約21:7)しかし, ある聖徒たちにとって,この戒めに従うのは困難なことで 示をお与えにならなければならなくなった。第43章を受け るきっかけとなったのは,ハブル夫人の行動であった。彼 あった。自分の考えた教義を全会衆に向かって宣言するの 女は「いかにも自分が戒めや律法を啓示し,またほかの好 94 第43章 奇心をそそるような事柄について啓示を授けるようなそぶ 危険な所に立っているのである。教会に対する啓示を上記 りをした。 」(History of the Church『教会歴史』1:154)ジ ョン・ホイットマーはハブル夫人について次のように記録 の秩序と神権の経路によらないで直接主から受けたと主張 する人がいれば,その人は偽り者と見なされるであろう。 」 している。 「彼女は自らを主の女預言者であると呼ばわり, たくさんの啓示を受けていること,『モルモン書』が真実 (『福音の教義』pp.40−41) 欺かれないようにすることについては,特別講座Jで詳 であること,また自分がキリストの教会の牧師になること を公言した。彼女はいかにも神聖なそぶりを見せたため, しく説明されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 彼女の偽善を看破できなくて欺かれてしまった人が何人か 教義と聖約43:9 いた。しかし,そのほかの人は識別の霊を持っていたため, 彼女の愚かで醜悪な行為はすぐに暴露された。」(『教会歴 が聖くなるうえでどのように役立つか 人間同士で,また主に対して聖約をすることには,非常 史』1:154脚注) 偽りの霊の影響を受け,教会を導くために,また預言者 に大きな価値がある。わたしたちは人と聖約や約束をすれ ば,それに添った行いをするために誠実に自分自身を律し ジョセフの誤りを正すために啓示を受けていると主張する ようとする。またそれは,約束の履行を妨げようとする力 人が数多くいたが,ハブル夫人もその一人であった。ジョ ージ・A・スミス長老はユタ州オグデンでの説教の中で, に対する防備ともなる。別な言い方をすると,聖約は責任 感を生じさせ,さらには積極的な行動を促し,怠惰を戒め 教会初期におけるこの種の問題について幾つかの例を挙 げ,次のように語った。 「この教会の初期の歴史を見ると, る力となるのである。聖約を交わした人は,なすべき事柄 をはっきりと見極め,また決意の程を人に伝えることによ いつも長老たちの間に,自分は預言者ジョセフより多くの り,過去の生活や習慣を捨てて,自分に課せられた義務を 知識を持っていると考える傾向があった。長老たちはよく, 預 言 者 は 道 を 誤 っ て い る と 言 っ て い た も の で あ る 。」 履行する方法を確立できるようになる。聖約を守れば常に 良い結果があり,守らなければ好ましくない結果が伴う。 (Journal of Discourses『説教集』11:7)多くの会員は, 様々な主張を聞いて心を乱し,当惑するようになった。こ いかなる結果を招くかを正しく理解したうえで聖約をする 人は,自分の内にある様々な力を一つにし,天よりの祝福 のような状況にあって,預言者は主に導きを求め,教義と 聖約第43章として記録に残されている啓示を受けたのであ を確実なものとする。主は聖約に対するその人の自発性を 見て,御霊を授けてくださる。そして御霊は,聖約によっ る。 て選んだ道を歩き続けるための力を与えてくれるのであ 注 解 る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約43:2−3 教会全体に対する啓示を受ける 教義と聖約43:12−14 聖徒たちはジョセフ・スミス を支持することにより,王国の栄光と奥義にあずかること 権利を持つのは生ける預言者だけである ができた 教義と聖約21:7の「注解」ならびに付録の特別講座F を参照する。 聖徒たちは, 王国の栄光と奥義とを受けたいと望むなら, ジョセフ・スミスが彼にしかできない預言者の務めに専念 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約43:7 偽預言者に欺かれないようにするに できるように,物質的な援助を与えるように勧告された。 預言者ジョセフ・スミスは,次のように告げられた。「神 はどうしたらよいか からの最大の祝福は,ジョセフが聖文の翻訳に携わってい 聖なる御霊を導き手とし,記録された主の言葉を学んで それに従う人は,安全な道を歩み,真の預言者と偽りの預 たときに,彼の家族に必要なものを与えて援助した人々に 与えられるべきである。」(Teachings of the Prophet Joseph 言者を見分ける備えができる。主は聖徒たちが欺かれない ように,ほかにも導きとなるものを教会の中に備えてくだ Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.9) 聖徒たちはジョセフ・スミスに何がしかの援助は与えた さった。ジョセフ・F・スミス大管長は次のように説明し ている。 が,決して十分なものではなかった。教会の指導者たちも ジョセフ・スミスが『聖書』の翻訳に取り組めるよう,会 み たま 「啓示者,預言者,聖見者,霊感を受ける者として立ち, 聖約に対する義務を負うことは,人 員たちに物質的援助を呼びかけた。それにもかかわらず, 教会を導く啓示を与え,世界のどこであっても教会の管理 役員になることは,個人ではできないことである。……わ 財政的な困難によって翻訳の進行に支障が出た(『教会歴 史』4:136−137,164,187,493,517参照)。ジョセフ・ たしたちは,定められた経路すなわち神権組織を通して直 接与えられたもの以外,何も権威あるものとして受け入れ スミスは自分や家族の衣食を賄うための働きに常に追われ たので,翻訳は遅れ,原稿を印刷に付す準備も滞った。結 てはならない。神権組織こそ,神が御心を世界に知らせる 局,出版するようにとの主の戒めがあったにもかかわらず, ために定められた経路である。 ……人は一度神に目を向けようとしなくなるや,たちま 預言者ジョセフ・スミスは翻訳を完成させることができな かった(教義と聖約94:10;104:58−59;124:89参照)。 ちのうちに,サタンの誘惑の力に陥り,悪魔の僕となるに 任せてしまうようになる。そのような人は,神権の祝福を ジョセフの死後,原稿は復元イエス・キリスト教会の手に 渡った。初期の聖徒たちはこの勧告をないがしろにしたた 受ける真の秩序を見失い,神の王国から外へ踏み出して, めに,知識と霊的な祝福を逃してしまったのである。 みこころ しもべ 95 教義と聖約43:15−16 福音は高い所からの力によっ てのみ効果的に教えることができる の この箇所には,福音を宣べ伝えるように召された人々に 対する主の重要な教えが述べられている。神の王国の教師 は,この世の教えや哲学を使って教えてはならない。聖な る御霊の啓示を基にして教えなければならないのである。 きよ 主は自らを聖 める人々に力を授けると約束しておられ たまもの る。聖徒たちはすでに聖霊の賜物と神権を与えられ,程な く聖なる神殿においてエンダウメントを付与されることに なっていた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約43:18 「あなたがた聖徒よ,立ち上がっ て生きなさい。あなたがた罪人よ,わたしが再び呼ぶまで, そのまま眠っていなさい」 教義と聖約88:95−101の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ こんにち 教義と聖約43:17−25 今日,神の警告の声はどのよ うに響き渡っているだろうか 第22節に出てくる稲妻が実際に言葉を出すわけではない が,それは宣教師が語る警告のメッセージと同じように, 世の人々に対する警告となるのである。第25節によると, 主は教会の指導者,宣教師,天使,また御自身の声に加え て,あらゆる種類の自然現象を用いて,世の人々に悔い改 めさせ,将来に備えさせようとしておられる。 ブリガム・ヤング大管長は,世の人々に警告を発するこ ブリガム・ヤングは,来るべき破壊と災いについて語った の方法について,次のように述べている。「あなたがたは 今人々の間に広く災害があると思っておられるだろうか。 それほど多くの災害があるわけではない。わたしたちが聞 これらの大変動の意味について考えることは非常に重大 である。これらは時のしるしなのだろうか。主はこれらの き,経験したすべてのことは,これから述べられる説教の あかし ほんの始まりにすぎない。長老たちの証がやみ,主が彼ら 恐ろしい災害を通して,合衆国に語りかけておられるのだ ろうか。 に『帰りなさい。今度はわたしが地上の民に説教を宣べる』 と言われるとき, あなたがたの知っているすべてのことは, 主はこの末日に,暴風雨や洪水,地震,悪疫によって証 火と剣,暴風雨,地震,雹,雨,雷と稲妻,また恐るべき を宣言すると言われた。火山には触れておられないが,火 山も地震同様,主の手の中にあることには違いない。主は 破壊を伴って宣べられる説教の始まりとしか呼ばれないだ ろう。……あなたがたは,現在人々に憧憬の念で見られて セントヘレンズ山を爆発させて,悔い改めるように,また 主を認めるように警告されたのだろうか。 いる数々の巨大な都市が,住民もろとも地の中に埋没する のを聞くであろう。また海の高波が海岸線をはるか越えて 母親が子供の誕生とともに産みの苦しみを忘れるよう 打ち寄せ,数々の大きな町をのみ込んでしまうであろう。 に,わたしたちは自分が受けた苦しみをすぐに忘れてしま いがちである。残骸や壊れた橋は依然として残ったままに 飢饉は国々に広がるであろう。」(『説教集』8:123。教義 と聖約88:88−92参照) なっているが,今ではアリゾナの洪水について語る人はほ とんどいない。 合衆国西部の火山,セントヘレンズ山が噴火した数週間 後,『チャーチニューズ』(Church News)に次のような論 セントヘレンズ山についてのニュースでさえ,第一面に 説が掲載された。 は掲載されない。1日に50の竜巻が発生したときはどうだ っただろうか。第一面では,ニュースの要約欄にわずか数 「この数週間,異常な出来事が相次いで起こっている。 無論人々を最も騒がせたのは,多くの損害と犠牲者を出し 行記載されたにすぎない。見出しなどは1行も付けられな かったのである。 たセントヘレンズ山の噴火であった。 しかし,セントヘレンズ山が噴火を続ける一方で,合衆 警告の声を侮るほどに,また自分が受けた苦しみを忘れ てしまうほどに心をかたくなにするということは,あり得 国中部一帯では竜巻による被害が頻発した。1か月の間に あらし 900以上の『気紛れな』嵐がアメリカを襲った。わずか1日 ないことではない。しかし,普通の人はいざ知らず,家を に6つの州で50の竜巻が発生し,その翌日には24の竜巻が 失い,愛する者を失った人であれば,容易に忘れることは ないであろう。 アイオワ,ネブラスカ両州を襲っている。そして,これと 期を一にしてカリフォルニアが地震に見舞われた。…… 主はさらに声高く語らなければならないのだろうか。わ たしたちが主の警告の声に耳を傾けるようになるまで,さ 96 第43章 らに大きな災害を送らなければならないのだろうか。 1,000年間縛ると言っておられるが,それを実現する大き 人々はいつになったら神が実在の御方であることや,神 の忍耐には限度があること,この悩み多い時代にあって真 な力となるものの一つが,人の選択の自由である。主は御 自身に従うことを人に強制されたことは一度もない。今後 の安全を得る道はいと高き御方への従順以外にないことに 気づくのだろうか。なぜ人々は神を侮るのだろうか。」 もないであろう。したがって,サタンが人を支配する力を 持っているとすれば,それは人がサタンの力に屈服してい (『チャーチニューズ』1980年6月21日付け,p.12) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約43:31 るためである。…… 地上の邪悪な人々のうえに大いなる裁きが下される日は サタンは福千年の間,どのように そう遠くない。わたしたちの時代を待ち望んだすべての預 縛られるか ニーファイは,福千年の時代に関して次のように語って 言者が,悪人が滅ぼされるのを目にし,予告した。悪人の 滅亡は,(文字どおりの滅亡も含め)サタンの支配力の滅 いる。「〔主の〕民の義のために,サタンはまったく力を持 たず,長い年月にわたって解き放されることはありません。 亡を意味する。義人はそのまま地上にとどまり,彼らの義 あわ のゆえに,主は彼らに憐れみを示される。自分の選択の自 民が義のうちに住み, イスラエルの聖者が統治されるので, 由を正しく用いる義人は神の祝福を得,その結果サタンが サタンは彼らの心を支配する力を持たないからです。」(1 ニーファイ22:26) 縛られるのである。」(Gospel Truth『福音の真理』1:86− 87。2ニーファイ30:18;エテル8:26参照) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,サタン が縛られることについて次のように教えている。「サタン ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ が縛られるとは,地上に住む人々がサタンの誘惑に耳を貸 ぎ去るであろう」 さなくなるだけのことであると教える人々が数多くいる が,それは真実ではない。サタンはその間,いかなる人を 教義と聖約29:22−25の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ も誘惑することができないであろう(教義と聖約101:28 参照)。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史 教義と聖約43:33 中に入るであろう」 と近代の啓示』1:192) ニーファイとスミス大管長の言葉は一見矛盾しているか 預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「復 活してから,自分自身の汚れに対して罪の宣告を受ける人 教義と聖約43:32 「地球は火によるかのごとくに過 「悪人は消すことのできない火の に思えるが,実際はそうではない。聖徒たちの義のために, もいる。それは火と硫黄の池のような苦痛である。」(『預 サタンは彼らに対して力を振るうことができなくなるので ある。サタンの動きは,次に挙げる主の二つの重要な働き 言者ジョセフ・スミスの教え』p.361)ブルース・R・マ によって封じられる。 (1)主は再臨のときに星の栄えの邪 悪な状態を滅ぼし, (2)地上にそのまま残る義人には,主 の勧告に聞き従った報いとして,サタンの力を圧倒するほ どの御霊を注がれる。このようにして,サタンは主の民を 誘惑したり,彼らに悪い影響を及ぼしたりする力を失うの である。サタンを縛るためには,聖徒たちの義と主の力の 働きの両方が必要なのである。聖徒たちに聞き従う心がな ければ,神は御霊を注いではくださらない。そして,主の 助けなしに自分の力だけでは,悪魔の力に耐えることはで きない。 ジョージ・Q・キャノン副管長は,聖徒たちの義と神の 力の両方がなければサタンを縛ることはできないというこ とについて,次のように教えている。 「わたしたちはサタンが縛られることについて話してい る。サタンを縛るのは,神の力だけではない。サタンの言 葉に従わず,サタンに支配されないようにしようという, 神の民の固い決意にもよるのである。主は,サタンに支配 されることを望む人がいる間は,サタンを縛ってその力を 地上から取り去ることはされない。それは救いの計画に反 することだからである。人間から選択の自由を奪うのは, 神の目的に反することである。〔2ニーファイ2:15−16の リーハイの教えを参照する。 選択の自由を存続させるには, 反対の力に誘われることが必要である。 〕…… サタンが人間を支配する力を得るには,人間が選択の自 由を行使するという前提が必要である。主はサタンを ジョージ・Q・キャノンは,サタンがどのように縛られるかを 説明した 97 ッコンキー長老は,この象徴的な表現を次のように説明し 76:44,105参照)。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』 ている。「燃える硫黄は罪の宣告を受けた者の永遠の苦痛 を実によく表しているものと預言者たちは考えていた。し pp.280−281) たがって聖典の中には,悪人は『火と硫黄とで苦しめられ る』(黙示14:10。19:20;20:10参照)とか,『彼らの苦 教義と聖約43:34 味か 痛は,炎がとこしえに立ち上って消えることのない,火と 硫黄の池のようである』(2ニーファイ9:16。アルマ12: 「厳粛」という言葉は,何か非常に重要なことや崇高な ことを指す場合に用いられる。主はここで教会員に,永遠 17参照)といった表現が出てくる。恐るべき『火と硫黄の の価値を持つ重要な事柄,すなわち忠実な人々に与えられ 池』という描写は,『限りない苦痛』の象徴であり(2ニー ファイ9:19,26;28:23;『モルモン書』ヤコブ6:10; る聖約と大いなる祝福を心に留めるように言われたのであ る。絶えず永遠の観点に立って行動するならば,その人の アルマ14:14;教義と聖約76:36参照),そこへ行く人は, 第二の死を受けるのである(教義と聖約29:28;43:33; 生活にどのような大きな変化が起こることだろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「永遠の厳粛さ」とはどういう意 第44章 第4回総大会 年10月,pp.130−131) 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約第52章によれば,第4回総大会の重要な目的 は,シオンの町の位置を確認するためにミズーリへ行く宣 教会は創立以来,この時点までに,大会を3回開いてい 教師を選ぶことであった。またこの大会は,来るべき様々 る。第1回は1830年6月9日,第2回は同年9月26日,第3回は 1831年1月2日であった。これらの大会はすべてニューヨー な出来事やチャレンジに聖徒たちを備えさせる目的もあっ あかし た。ヒュー・B・ブラウン長老は次のように証 している。 ク州フェイエットで開催された。 1831年2月,主は預言者に再び大会を開くように命じら 「これらのすばらしい大会は,わたしたちに霊感を与えて, 戦いに備えさせるために召集される。」(Church News『チ れた。1831年6月3日にカートランドで開くように命じられ たこの大会は,第4回の総大会であり,オハイオ州で開か ャーチニューズ』1968年7月,p.10) れる大会としては最初のものであった。教義と聖約第44章 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約44:2 主は御自分の名によって集まる人々 にはその戒めとともに,聖徒を大会に集めるおもな目的が 幾つか概説されている。 にどのような偉大な約束をしておられるか この節は特に第4回大会に関して与えられたものである 注 解 が,その中の約束は,聖徒たちが集うすべての集会に当て はめて考えることができる。神権の指示の下に集まる人々 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約44:1 大会の目的 デビッド・O・マッケイ大管長は,教会の大会の目的を には,どのようなすばらしい祝福が与えられるだろうか (マタイ18:20参照)。 スペンサー・W・キンボール大管長は,1977年4月の総 次のように説明している。 「『教義と聖約』を見ると,教会の大会の開催には4つの 大きな目的のあることが分かる。 第1は,その時点で必要とされる教会の事務を処理する ことである〔教義と聖約20:62〕 。 第2は,教会全体の統計をはじめとする様々な報告を聞 くことである〔教義と聖約73:2〕。 そして第3は, 『わたし〔主〕が述べたそれらの名前を総 大会で承認するか,そうでなければ,それらを否認』する ことである〔教義と聖約124:144〕 。 けいけん 4番目は,真心と敬虔な思いとをもって主を礼拝し,互 いに励ましや勧告,教えを与え合うことである〔教義と聖 約58:56;72:7〕。」(Conference Report『大会報告』1938 98 ソルトレーク・シティーのタバナクルで開かれる総大会 大会の最後に,次のように証している。「わたしたちは主 柄について次のように書いている。「預言者ジョセフはそ の名によって集まって礼拝し,聖霊の力によって教えを受 み たま け,全員が主の御霊が注がれるのを感じた。聖徒たちの集 の生涯において,貧しい人々の世話を忘れたり,その問題 む とんちゃく に無 頓 着 であったりしたことは一度もない。彼は非常に まる場はどこでもこのとおりである。」(『大会報告』1977 年4月,pp.112−113) 情け深い人で,悲しい話や助けを求める訴えを聞けば,す ぐに同情の念を起こした。預言者がどんなに忙しく,また ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約44:4 聖徒たちはなぜ人の法律に従って組 苦しいときでも,問題があって彼に助言を求めに行った 人々は,熱心に話を聞いてもらい,励ましと助けを受ける 織を作る必要があったのか ことができた。彼にとって打ちひしがれた人に慰めを与え, 「主が福音を回復されると,それに伴い集合の気運が起 こった。主は聖徒たちに,集合するように命じられた。ま 貧しい人や苦しむ人に助けを与えることは,いついかなる ときでも喜びだったようである。また,彼の手厚いもてな た,一つの教会としてだけでなく,助け合い,自立し,他 の人に良い影響を与えることができるよう,国の法律の下 しぶりは,その人柄をよく表していた。彼の家はよその土 地から来た人々を歓待するためにいつも開け放たれてい に聖徒たちを組織し,働きと信仰を一つにして,地上に義 た。昔からの教会員の多くが最も楽しい思い出として覚え を確立するための勢力となるように命じられた(教義と聖 約44:4−5参照)。」(ジョセフ・F・スミス『大会報告』 ているのは,カートランドやほかの地に到着したときに, そこに住む『ジョセフ兄弟』から受けた親切と,温かく彼 1900年4月,p.47) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約44:6 の家に迎え入れられたことである。」(Life of Joseph Smith 『ジョセフ・スミスの生涯』pp.109−110) 「あなたがたは貧しい者と乏しい者 を訪れ,彼らに必要なものを与えて」 ジョージ・Q・キャノン副管長は,預言者ジョセフの人 「主の大いなる日が来るのを…… 待ち望む」 第45章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスのカートランド到着は,教会員 が急増する時代の始まりを告げるものであった。1831年6 教義と聖約45:2 「あなたがたの思いがけないときに」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこう説明 月初めまでに,教会は会員数2,000人を数えるまでに成長 していた。その中には,シドニー・リグドンの母親や長兄, している。「人間が犯す最大の過ちの一つは,罪に対して は罰が与えられるという警告を無視することである。これ また教会最初の宣教師の一人ルーク・S・ジョンソン,奇 までのどの時代においても,預言者たちの言葉が成就する 跡を目の当たりにして教会に加わったエズラ・ブースなど がいる。 のは,まだまだ遠い先のことであるというおかしな考えが あった。それは現代の人々についても言えることである。 社会の指導的立場にある人々,聖職者,新聞の編集者, 教区民たちは一丸となって,自分たちの隣人が新しい宗教 わたしたちは主の大いなる恐るべき日の到来が間近に迫っ ていることを何度となく警告されている。しるしもはっき に改宗するのを阻止しようとした。預言者の記録には次の りと現れている。……わたしたちはこの警告の中で,夏は ように書かれている。「人々が御業を研究するのを,ある いは信仰を受け入れるのを妨げようとして,多くの偽りの 終わりに近づき,その警告を心に留めないならば,夏が過 ぎ去り,収穫も終わり,自分たちが救いを逸したことを思 記事や愚かな作り話が出版されたり,流布されたりした。」 (History of the Church『教会歴史』1:158) い知らされるようになる。その日時を知っている人はだれ もいない。しかし,その日が不意に来たとしても,言い逃 非難や中傷が浴びせられたこの試練のときに,主は慰め, 平安,確信をもたらす啓示を聖徒たちに授けられた。その れはできない。しるしは数多くあり,それらが成就してい るのを現に目にしているからである。」(Church History and 中の一つが教義と聖約第45章である。預言者はこの章につ Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:195) ま み わざ いて,次のように述べている。「偏見や悪事と闘わなけれ ばならない聖徒たちにとって喜ばしいことに,わたしは次 の啓示を受けた。 」(『教会歴史』1:158) 99 「その時,その日は,だれも知らず」(教義と聖約49:7) 教義と聖約45:3−5 「弁護者」という称号にはどの 彼らの弁護者となってくださるのである。 ような意味があるか イエスを「弁護者」(ギリシャ語で「パラクレートス」) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ きょう 教義と聖約45:6 「今日と呼ばれる間」 と呼ぶ場合があるが,欽定訳『新約聖書』でこの呼称が用 いられているのは1か所だけである(1ヨハネ2:1。邦訳で この句の理解に役立つ聖句が3つある。近代の啓示によ ると,地球の現世の歴史は7千年に及び,1千年ずつの期間 は「助け主」と訳されている) 。「パラクレートス」という 語は聖霊に対しても用いられる(ヨハネ14:16。欽定訳で に分かれる(教義と聖約77:6−7参照)。ペテロとアブラ ハムは,地球における時間と神が住んでおられる所の時間 は「慰め主」 ,邦訳では「助け主」と訳されている) 。つま とを比較して,地球の1千年は神の時間の1日に当たると教 り,イエスは一人のパラクレートス,すなわち助け主(慰 め主)であり,聖霊も別の「助け主(慰め主)」と呼ばれ えている(2ペテロ3:8;アブラハム3:4参照)。この地球 は現世の状態を経た後に,日の栄えの状態となる。また, ている(ヨハネ14:16)。「パラクレートス」は, 「の側に」 という意味の「パラ」と,「呼ぶ」の意の「カレオー」の 地球は現在,1千年ずつ分けた期間の第6の時期にあるとい う。したがって,主の言い方によると,この第6の期間が 組み合わせである。「したがって,元々は法廷の弁護士の 「今日」であり,キリストは「明日」地上に来られるとい ように助けを与えるために側に呼ばれる人のことを指して いるのである。 」(ビンセント,Word Studies『言語の研究』 うことになる。後に与えられた啓示の中で,主はこの語法 に従って,次のように述べておられる。「今,人の子の来 1:486) 現代の司法制度上では,法廷においてほかの人に代わっ 臨までは今日と呼ばれる。……今日が過ぎると,焼き払い がある。……明日,すべて高ぶる者と悪を行う者は,わら て言い分を申し立てる法律家,すなわち弁護士に該当する のようになる。」(教義と聖約64:23−24) 言葉である。一般に弁護士は,依頼人は無罪であるという 前提に立って,また,もし有罪の場合でも情状酌量を求め ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:14 エノクの民や聖なる人々はどのよ て,言い分の申し立てを行う。人間は永遠の裁きのときに, 神のもとに行くには不完全でふさわしくない罪のある者と うにして, 「肉体にあって」将来の義の日を見るのか 「福千年の統治が始まると,その様子を昔の聖なる人々 して神の法廷に立つ。「すべての人は罪を犯したため,神 の栄光を受けられなくなって」(ローマ3:23)いるからで は『肉』にあって見ることができる。なぜなら,彼らは復 活して聖徒たちとともに住むからである。」(スミス,ショ ある。そのとき,すべての人は御父に対して弁護してくれ ダール共著,Commentary『注解』p.255。モーセ7:61−64 る弁護者を与えられる。そして,その弁護者は彼らの側に 立ち,大いなる裁き主の前で彼らのために弁護してくださ 参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るのである。しかしその弁護者は,彼らに罪がないという 弁護をするのではない。主は御自身が罪のない者であった 教義と聖約45:16 イエスが「肉体にあって……弟子 たちの前に立ち」,これらのことを話されたのはいつのこ ことを神に訴えられるのである(教義と聖約45:4参照)。 とか 主の完全さと受けられた苦しみが,「わたしの名を信じる これらわたしの兄弟たち」(5節)に対する正義の要求を満 この啓示のほとんどは,救い主がエルサレムにおられた ときに弟子たちに話された説教の繰り返しである。神殿を たす代価となる。弁護してくれる人がだれもなく,一人き りで裁きの法廷に出るときの名状し難い悲しみを想像して 出た救い主と弟子たちは,オリブ山へ登った。そしてそこ で神殿とエルサレムを一望のもとに見渡した。ここで弟子 いただきたい。真の信仰と悔い改めの精神をもって主のも たちが尋ねた。「これらのことは,いつ起こるのでしょう とに来ようとしない人がいるが,何と愚かなことであろう か。主のもとへ行けば,主は彼らの罪を負い,御父に対し か。あなたがおいでになる時や,世の終わり……には,ど のようなしるしがありますか。」(ジョセフ・スミス−マタ そば 100 第45章 イ1:4)長くまた詳細にわたる主の答えは,時のしるしと は皇帝の座に着き,ユダヤ鎮圧の仕事はその子ティトウス 再臨のしるしに関する啓示の中でも,きわめて重大なもの である。オリブ山で語られたこの説教の全容は,マタイに に引き継がれることになった。包囲攻撃は紀元70年に始ま き きん り,間もなく飢饉が襲った。エルサレムの人々は食用にす よる福音書の第24,25章に記されている。ジョセフ・スミ スは霊感に基づいて『聖書』のこの説教の部分に訂正を加 る草木の根を手に入れるために,捕らわれればローマ軍の 兵によってはりつけにされるという危険を冒してまで城壁 えたが,これは非常に重要なものなので,『高価な真珠』 (ジョセフ・スミス−マタイ1参照)の中に入れられてい の外に出た。 その恐ろしい刑に付された何百もの人の姿が, 城壁の中から見えることも度々あった。完全に孤立させる る。マルコとルカも,マタイほど完全にではないが,この ために,エルサレムの周囲には堀が掘られた。捕虜となっ 説教の一部を記録した(マルコ13:1−37;ルカ21:5−36 参照)。 た者たちは生きたまま体を切り開かれた。それは彼らが飲 み込んでいたかもしれない金を兵たちに探させるためであ オリブ山の説教が,教義と聖約第45章に引用されてい る。この説教は,教義と聖約45:16の「あなたがたは…… った。城壁の内部では60万人もの死者が出たために,死体 は葬られることなく,家の中に放置されたままになってい 尋ねたので」という言葉で始まる。救い主は第33節で引用 た。最後には神が助けてくださると主張していた狂信的集 を中断して少し説明の言葉を加えてから,第35節の「心配 することはない」という言葉で再び引用を始め,第59節の 団の熱心党は,殺人まで犯して,民を抵抗のために立ち上 がらせようとしていた。ティトウスでさえも,毎日見聞き 終わりまで続け,第60節からジョセフ・スミスに直接話し 始めておられるようである。 する恐ろしい出来事に精神状態がおかしくなるほどであっ た。エルサレムの人々は最後には神殿に立てこもった。テ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ィトウスも神殿をとりでと見なして攻撃した。ローマ兵が 教義と聖約45:16−17 昔の使徒たちが再臨のしるし を知りたいと強く願ったのはなぜか 命令に反して神殿に火を放ち,しばらく後には,そこで殺 りく 戮 と略奪が繰り広げられた。そして6,000人のユダヤ人が 「彼らがそのしるしを知りたいと強く望んだ理由の一つ が,ここに述べられている。キリストに属する者といえど 炎の中に息絶えた。この恐ろしい戦争でユダヤ人は150万 人以上の犠牲者を出し,多くの者が奴隷として売られた。 も例外ではないが,霊と肉体の分離は『束縛』の状態であ り,栄光に満ちた復活以外にそれを終わらせる道はない。 こうして『すべての国民の中に散らされ』たのである。」 (『注解』pp.260−261) あがな さつ 彼らは自分たちの贖いの日が近づいていることはどのよう 救い主がオリブ山で説教をされたのは,紀元33年,死を なしるしによって知ることができるのか,また,霊と肉体 はいつ結合するのか知りたいと思っていた。わたしたちも 前にした最後の週の間のことであった。エルサレムの陥落 は紀元70年である。「わたしがあなたがたに告げた荒廃が いずれはそうなるのであるが,すでにこの世を去った聖徒 たちは, まだ現世にいる聖徒と同じくらいの強い気持ちで, ことごとく起こるまで,この時代のユダヤ人は世を去らな いであろう」(教義と聖約45:21)という主の預言が成就 主の来臨のしるしを待ち望んでいる。イエスは恵み深くも, したのである。イエスのこの言葉を聞いた弟子たちの幾人 『贖いの日がどのように来るか,また散らされたイスラエ ルの回復がどのように起こるか』を彼らに示された。この かは,ティトウスの軍隊が神殿に火を放った当時,まだ生 きていた。 二つの出来事は不可分の関係にある。」(スミス,ショダー ル共著『注解』p.259) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:22 キリストの再臨のときに世の終わ 付録の特別講座Hには,再臨と時のしるしについてさら りが来るのか に詳しく述べられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ブルース・R・マッコンキー長老は,聖典におけるこの 語句の特別な用法を次のように説明している。「世の終わ 教義と聖約45:19−21 に散らされる ユダヤ人はすべての国民の中 りとは, わたしたちが知るかぎりでは不義の終わりであり, この世的な罪悪が終わるときである。そして,これは『悪 スミスとショダールは,この預言がどのようにして成就 するかについて,簡潔に要約している。「紀元66年,ケス 人の滅亡』(ジョセフ・スミス−マタイ1:4)によって来 るものである。この世が終わり,福千年の時代が始まると, チウス・ガルスはユダヤに進軍し, エルサレムを脅かした。 天と地は新しくなる(イザヤ65:17−25;教義と聖約 エルサレムを占領することもできたはずであったが,彼は 後退し,ベス・ホロンの近くでユダヤ人たちの攻撃を受け 101:23−24参照)。情欲,肉欲,そして俗的な快楽のすべ てがなくなる。世の終わりだからである。」(Mormon Doc- た。エルサレムにいたキリスト教徒たちは,主の言葉を覚 えていて,ペラの小さな町へ逃げた。しかしユダヤ人たち trine『モルモンの教義』p.848) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は一時的な成功に酔って,抵抗を再開した。その後ローマ 教義と聖約45:24−30 は反乱鎮圧のためにヴェスパシアヌスを派遣してきた。彼 はユダヤの拠点を幾つか占領し,エルサレムに迫った。ユ たそれが満ちるのはいつか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう ダヤ人は内部で分裂し,恐怖に支配されていた。そのため ヴェスパシアヌスは,彼らが互いに滅ぼし合っている間, に説明している。「異邦人の時は,贖い主の死の直後に始 まった。ユダヤ人はすぐに福音を拒み,それは異邦人に与 軍隊に休息を与えることに決した。後にヴェスパシアヌス えられた。以来今日に至るまで,異邦人の時は続いている。 「異邦人の時」とは何か。ま こんにち 101 主は,『しかし,多くの先の者はあとになり,あとの者は 邦人の時代に福音が回復されても,人々は人間の教えによ 先になるであろう』と言われた。当時,福音は初めユダヤ 人に与えられ,後に異邦人に与えられるようになった。こ って心をくらまされているから,それに気づくことができ ないという意味である。しかし,その時代にこのことは必 の神権時代においては,最初に異邦人に与えられ,後にユ ず起きる。異邦人の時は必ず満ちるのである。」(『教会歴 ダヤ人に与えられるようになる。」(『教会歴史と近代の啓 示』1:196) 史と近代の啓示』1:196) 4.エルサレムはもはや「彼ら〔異邦人〕に踏みにじら このように,異邦人の時は,パウロの示現とコルネリオ のバプテスマによってその幕を開けた(使徒10:1−48参 れ」ない(ルカ21:24)。再びスミス大管長の説明を見て みよう。「救い主は弟子たちに,ユダヤ人が散らされ『エ 照)。後にパウロやほかの使徒たちは,ユダヤの国民のほ とんどがイエスを拒んだために,異邦人に対して偉大な伝 ルサレムは,異邦人の時期が満ちるまで,彼らに踏みにじ られているであろう』と言われたが,その言葉について深 道の業を始めた。そして,スミス大管長が指摘したように, く考えてみれば,この啓示の中のこの……節〔教義と聖約 福音がおもに異邦人の国々に伝えられる時代は,回復のと きまで続いた。異邦人の時が終わるのは,すなわち満ちる 45:30〕の意味が正しく理解できる。エルサレムはその滅 亡の日から,イギリス軍のエドマンド・H・アレンビー将 のは,福音の宣教がおもにイスラエルの家に属するレーマ ン人とユダヤ人に焦点を合わせて開始されるときである。 軍によってトルコの支配から解放された1917年の終わりま で,異邦人に踏みにじられた。その戦争の後,パレスチナ 救い主はオリブ山の説教で,異邦人の時の終わりを告げ はイギリスの委任統治領となり,イギリスはその地をユダ る4つのしるしを教えられた。そのうちの3つは第45章の中 に述べられている。もう一つは,このすばらしい説教を今 ヤ人の保護地にするとの宣言を発し,ユダヤ人は帰還を勧 められた。……しかし,エルサレムがもはや異邦人に踏み に伝えるルカの記録の中に書かれている。以下がその4つ のしるしである。 にじられることなく,その地にユダヤ人が再び集合してい ることは,非常に意味深いことである。これは異邦人の時 1.ユダヤ人がエルサレムの地に再び集められる(教義 の終わりを告げるものとして,主から与えられたしるしで と聖約45:25参照)。1960年4月の総大会において,十二使 徒定員会のジョージ・Q・モリス長老は,終わりの時の3 ある。わたしたちは今,過度期にいる。程なくしてユダヤ 人の時が始まり,福音は彼らと,この地の残りの民に向け つの大きなしるしについて説明をした。その中で3番目に 挙げられたのが,ユダヤ人の集合である。 られるようになる。」(『教会歴史と近代の啓示』1:196− 197) 「3番目は,ユダヤ人をエルサレムに集めるという神の約 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長が上記のこ 束である。ユダヤ人がエルサレムに集合しようとしている というこれまでの言い方は改め,『集合した』と言うよう とを書いた1947年には,イスラエルはまだ国家として存在 していなかった。 イギリスの委任統治下にあったのである。 にした方が適切ではないだろうか。最終的な帰還は,彼ら がこの国を開き,さらに多くの人々が加わることによって しかし,1948年5月15日にイスラエルは独立国となり,エ ルサレムを首都にすると宣言した。この宣言に続く戦争で 成就するのである。…… ある人が次のようなきわめて興味深いことを書いてい ユダヤ人が引き続き支配下に置くことができたのは,エル サレムの西部地区だけであった。エルサレムの東部地区は る。『非常におもしろいことに,1848年にイスラエルが国 ヨルダンの制圧下に入った。1966年の総大会において,十 家として再建されたときの人口は60万人であったが,これ はモーセがエジプトの奴隷の境遇から導き出したときのイ 二使徒定員会会長の任にあったスミス長老は,次のように 話した。 スラエルの民の数と同じである。現在は約200万人に達し ているが,これもイスラエル全盛期の昔のソロモン王国の 「異邦人の時が満ちるまでユダヤ人はすべての国民の中 に散らされ,エルサレムは異邦人に踏みにじられると,イ 人口と同じである。 』 エスは言われた(ルカ21:24参照)。教義と聖約45:24− もはやユダヤ人はパレスチナに帰った,と言う方がよい と思うのはこのためである。」(Conference Report『大会報 29のユダヤ人に関する預言は文字どおり成就した。異邦人 により踏みにじられたエルサレムは,もはや踏みにじられ 告』1960年4月,pp.100−101) 2.異邦人の時が満ちるのは,社会的に非常に混乱した ることはなく,ユダヤ人の祖国となる。ユダヤ人はパレス チナに帰りつつあり,このことから,わたしたちは異邦人 時代である(教義と聖約45:26−27参照)。救い主が説か の時が終わりに近いことを知るのである。」(『大会報告』 れたのがまさにこの時代であるということは,ニュースと して報道される現代の出来事を1日か2日見てみるだけで十 1966年4月,p.13) 1967年の六日戦争で,イスラエルはエルサレムを含むヨ 分に理解できる。 3.ほとんどの異邦人が福音を拒むようになる(教義と ルダン川西岸地区を占領した。エルサレムがユダヤ人国家 の完全な支配下に入ったのは,紀元70年にティトウスの軍 聖約45:28−30参照)。ジョセフ・フィールディング・ス ミス大管長は上記の聖句について, 次のように述べている。 に滅ぼされて以来初めてのことであった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「主はこの啓示の中でこう言われた。 『異邦人の時が来ると, くらやみ 暗闇に座する者たちの間に光がさすであろう。それはわた しの完全な福音である。 』〔教義と聖約45:28〕これは,異 102 教義と聖約45:26 人々は気落ちするであろう エズラ・タフト・ベンソン長老は,この約束が現代に現 実のものとなったことについて,次のように述べている。 第45章 「主が予告されたように,わたしたちは現在人々が肉に ている。滅びの天使の剣は,平和の君が来られて悪人を滅 あっても,また霊にあっても弱っている時代に生きている (教義と聖約45:26参照)。多くの人はこの人生の戦いに疲 ぼし,大いなる福千年の到来を告げられるときまで,さや に納められないであろう。 れ,落胆している。最近の大学生のおもな死因は自殺であ ると言われている。また試練と苦難の伴う善悪の最後の対 地震や洪水や飢饉が起こり,津波が押し寄せ,雲は雨を 降らせず,地の作物は枯れてしまうことだろう。 伝染病, 決の時が近づくにつれて,現在サタンは失望と落胆,意気 消沈,憂うつをもって聖徒を打ち負かそうと,ますますそ 疫病,疾病が蔓延し,死を招くであろう。また,激しい苦 悩が地を覆い,荒廃を招く病気が全地に広がるであろう。 の力を増している。 あぶは地に住む者に取りついて,うじを生じさせ,『彼ら しかし,わたしたち末日聖徒は,すべての民の中にあっ て大いに楽天的となり,決して悲観的にならないようにし の肉は骨から離れ,目はその穴から落ちる……。 』(教義と 聖約29:14−20参照) なければならない。なぜなら,わたしたちは,『平和が地 から取り去られ,悪魔が自分の領域を支配する力を持つ』 ガデアントン流の強盗団がすべての国々に横行し,不道 徳な行為や殺人,犯罪が増加するであろう。また,兄弟同 ということを知っている一方で,『主も聖徒たちを支配す 士争い合うような状態となるであろう。 る力を持ち,彼らの中で治め』られるということを確信し ているからである(教義と聖約1:35−36) 。」(『大会報告』 これらの事柄について,これ以上説明する必要はないで あろう。 わたしたちは聖典を調べるように命じられている。 1974年10月,p.90) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 聖典には,これらの事柄がはっきりと記されており,これ らの事柄は必ず現実となることだろう。」(『大会報告』 教義と聖約45:27 人々の愛を冷やすのは何か まんえん 1979年4月,p.131。教義と聖約15:19−20;63:32−37; 「これと同じ表現がマタイ24:12にもある。『不法がはび こるので,多くの人の愛が冷えるであろう。』ここに書か 97:27参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れている『愛』とは,キリスト教徒間の一致と和合である。 はたしてキリスト教世界のどこに,この愛と一致の精神が 教義と聖約45:32 聖なる場所に立つ ハロルド・B・リー大管長は,聖なる場所という言葉を 浸透しているだろうか。利欲に基づく協力関係や,同じ教 派の信徒同士の親しい交わりは,数多くその例を挙げるこ 定義し,聖徒はどのように聖なる場所に集合すべきか次の ように述べている。 とができる。しかし,キリスト教徒としての純粋で,偽り 「近ごろ,次のように尋ねる人が多い。 『安全な場所はど のない,自分の利益を考えない不変の愛は,一体どこにい ったのだろうか。多くの人々がそれをなくしているのは, こにあるのだろうか。 』 これに対して主は次のように語られた。『しかし,わた 終わりの時を知らせる一つのしるしである。」(スミス,シ ョダール共著『注解』p.262) しの弟子たちは聖なる場所に立ち, 動かされないであろう。 しかし,悪人の中では,人々が声を上げ,神をのろって死 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ぬであろう。 』(教義と聖約45:32) 教義と聖約45:30−31 異邦人の時が満ちるのは,な ぜそれほど重要なことなのか そして主は,この『聖なる場所』がどこにあるかを示さ れた。『悪人の中にいて,隣人に対して自分の剣を取らな 救い主は,「あなたがおいでになる時……には,どのよ うなしるしがありますか」(ジョセフ・スミス−マタイ1: い者は皆,安全のために必ずシオンに逃れて来なければな らない。 』(教義と聖約45:68) 4)との弟子たちの質問に答えて,大いなる時のしるしに シオンはどこにあるのだろうか。 ついて語られたが,異邦人の時が満ちることもそのしるし の一つである。教義と聖約45:31には,その重要な意味に 主の代弁者である預言者たちは,様々な時期,すなわち 神権時代に,様々な理由から聖徒たちの集合の地を指示し ついて次のように述べられている。「その時代〔異邦人の 時が満ちる時代〕に生きていて,あふれる懲らしめを見る てきた。また,この神権時代に,主は特定の場所を指定し, 宣言を下された。『そして,ついに彼らのためにもう余地 まで世を去らない人々がいるであろう。」これは,第21節 に述べられているユダヤ人への救い主の警告とほとんど同 のない日が来る。そのとき,わたしが彼らに指定するほか の場所がある。シオンの幕のために,すなわちシオンを強 じである。そして必ず成就するであろう(教義と聖約45: めるために,それらはステークと呼ばれる。』(教義と聖約 21の「注解」参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 101:21) こうして主は,神に任じられた指導者たちの手に,集合 教義と聖約45:19,31 をもたらす病気」 の業を指揮する責任を託された。願わくは全世界の聖徒と 真理を求める人々が,神に召された預言者,指導者の言葉 「あふれる懲らしめ」「荒廃 ブルース・R・マッコンキー長老は,終わりの時にどの に耳を傾けるように。…… ような艱難があるかについて次のように警告している。 かんなん 「しかし,艱難が間近に迫っていることを忘れてはなら 人が主の戒めと,それに従う者に与えられた約束を学ぶ とき,どうすれば主が命じておられるように『聖なる場所 ない。戦争が国から国へと広がってすべての国々を覆い, 武装した2億人の兵士がハルマゲドンに集まるであろう。 に』立つことができるか幾つかの明確な答えを得る。それ には,すでにわたしが主御自身の言葉から読んだように, すでに平和が地から取り去られ,滅びの天使が働き始め 主の聖なる目的に従って守りを受けて,シオンを構成する 103 『心の清い者』の中に数えられる必要がある。」 (『大会報告』 らば,主はわたしたちに必要なものを与えて助けてくださ 1968年10月,pp.61−62) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ると,わたしは確信している。…… 来るべき滅亡の日にすべての聖徒が救われるとは断言で 教義と聖約45:34−35 きない。しかし,ここで申し上げられるのは,主を愛し, 「心配することはない」 マリオン・G・ロムニー長老は,この箇所に書かれてい る主の勧告に関して,次のように述べている。 主から命じられたすべてのことを行おうと努めている人々 以外に,安全や保護を約束される人はいないということで 「主が1831年にこれらの預言を再度ジョセフ・スミスに 語られたという事実は,それがわたしたちにとって重要で ある。 例えば,将来確かに訪れるであろう原水爆の大破壊から あることを強調する以外の何ものでもない。そして,弟子 たちが遠い将来に起こるこうした数々の災いについて,聞 個人や集団を守れるのは,信仰の力と神権の権能を除いて ほかにない。 いただけで心を悩ませたのであるから,災いが実際に起こ そこで,わたしたちは警告の声を上げて申し上げるので る場にいるわたしたちが心を悩ませるのは当然のことであ ろう。…… ある。『警戒しなさい。備えなさい。目を覚まして用意し なさい。 』従順と一致と義以外に安全な道はない。 」(『大会 主が弟子たちに『心配することはない』と言われたのは, 再臨という大いなる出来事を予見してのことであった。… 報告』1979年4月,pp.132−133) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ … 教義と聖約45:34−38 いちじくの木のたとえ 願わくは,わたしたちすべてがこれらの主の言葉に精通 し,新エルサレムの建設と旧エルサレムの贖い,エノクの 「イエスは, 『あなたがまたおいでになる時や,世の終わ りには,どんな前兆がありますか』〔マタイ24:3〕との弟 シオンの帰還,キリストの福千年の統治という,これから 起こるいろいろな出来事に関して知識を得ることができる 子たちの質問に答えて,御自身の来臨の時を示す確かなし るしについて語られた。それらは世の人々も見る目さえあ ように。 れば,今見ることができるしるしなのである。主は次のよ わたしは,わたしたちが今から起こるこれらの出来事に 精通するだけでなく,絶えずこれらの出来事に対するビジ うに言われた。『春の近いことを判断するように,このこ とを判断しなさい。あなたがたはいちじくの葉が出るのを ョンを心に描き続けるように望む。わたしがこのように申 し上げるのは,そうした出来事についてわたしが知ってい 見て,夏が近いことを知る。これらのしるしを見れば,人 の子の来るのが近づいていることを知ることができる。』」 るからであり,またその出来事が実際に起き,わたしたち (メルビン・J・バラード『大会報告』1923年10月,p.32) 一人一人がその出来事に関与し,キリストの『心配するこ とはない』という勧告の言葉の力に安らぎを見いだすこと ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:40−42 「彼らは数々のしるしと不思 を 証 で き る か ら で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1966年 10月 , pp.51−52) 議を見るであろう」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,ここに ジェデダイア・M・グラント副管長は次のように問いか けている。「混乱,争い,戦争,疫病,飢饉,国々の困窮 述べられているしるしについて次のように語っている。 「天のしるしの中には,月,太陽,いん石,すい星など, など,この世のあらゆる変動のさなかにあっても,末日聖 天体に現れるものもあるということは明らかであるが,そ 徒が心をまったく隠やかにし,平静でいられるのはなぜだ ろうか。それらの出来事が実際に地上に起こることを預言 のすべてとは言わないまでも,まだ一部も現れていないと いぶかっている人がいる。しかし,天のしるしについて言 の霊が知らせてくれているからである。わたしたちはそれ を理解し,その真理の光に照らして見ることができる。わ えば,それは地球自体とその周辺の部分に関するものなの である。しるしの多くは空中に現れる。わたしたちは空を たしたちはそれを全能者の示現によって理解している。」 行き来する様々な飛行機を毎日のように目にしていないだ あかし (“The Hand of God in Events on Earth” Improvenent Era「地上 の出来事の中に見られる神の手」『インプルーブメント・ ろうか。地にはラジオ,列車,自動車,潜水艦,人工衛星 など数多くのしるしが現れていないだろうか。そして,こ エラ』1915年2月,p.286) ブルース・R・マッコンキー長老は,将来様々な艱難に れから後,さらに大いなるしるしが示される。天は震い, 人の子のしるしが現れ,地上のもろもろの部族は嘆き悲し 遭っても心の平安を保つことができるよう,備えをするよ む。…… うに聖徒たちに勧告している。 「いつ末日の災害や苦難が,わたしたち個人のうえに, 130年前にエリヤが来た時点で,主の大いなる恐るべき 日の訪れが近かったとするならば,わたしたちは今,さら あるいは聖徒の群れのうえに注がれるか,わたしたちは知 らない。それらはすべて,死すべき状態に伴う試練と経験 に1世紀余りその日に近づいていることになる。しかし, こう言う人々もいる。『エリヤ! そんなことはない! の一部である。しかし,主は故意に再臨の日時と,それに 先立つ艱難の訪れる時をわたしたちに知らせることを控え あなたがたは間違っている! ……絶対に間違ってい る!』この世は終わりの日が来るまで,何百万年も今の状 ておられる。そして,主はわたしたちに,目を覚まし,常 態が続くに決まっている,と考えたり話したりしている人 に備えているようにとだけ告げておられるのである。 わたしたちが最善を尽くして将来起こることに備えるな が非常に多くいるようである。その行動から判断すると, 彼らはそれを強く確信しているようである。この世的な学 104 第45章 識を持つ彼らに話しかけ,何を言うか聞いてみなさい。彼 のみとなる。』(ゼカリヤ14:9)」(Voice of Warning『警告 らはこう言うであろう。『今と比べれば,昔はひどい時代 だった。あなたがたは以前よりも今の方が災害が多いと言 の声』pp.32−33) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ うが,それは間違いだ。地震は増えてはいない。地震はい つの時代にも起きている。ただわたしたちには,昔の人に 教義と聖約45:55 「サタンは縛られて」 はなかった情報収集手段がある。こうした出来事は時のし るしでも何でもない。 昔と比べて, 何も変わってはいない。 』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:56−57 10人のおとめのたとえ 教義と聖約43:31の「注解」を参照する。 このように人々は主が親切にも与えてくださった警告に聞 オリブ山の説教はマタイ第24章で終わると考えている人 き従おうとしない。そして自ら聖典の言葉を成就している のである。 」(『大会報告』1966年4月,pp.13,15) が多くいるが,第25章をよく読んでみると,そこに書かれ ている3つのたとえ(10人のおとめのたとえ,タラントの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:48−53 「その後,主はこの山の上に たとえ,羊とやぎのたとえ)も同じ説教の一部を成してい ることがはっきりと分かる(特にマタイ25:1,31に注意 足を置く」 する)。主はジョセフ・スミスに,10人のおとめのたとえ 「この山」とはオリブ山である。主はかつてここに座し, 偉大な説教をされた。ジョセフ・スミスの存命中に出され の象徴を理解するための鍵を啓示された。このたとえの重 要な要素である油は,聖霊から得られる霊的な力を表して たパンフレットの中で,パーリー・P・プラットはここに 描かれている大いなる出来事について説明している。 いる。 スペンサー・W・キンボール大管長は,このたとえが現 かぎ 「ゼカリヤは第14章で,大きな戦争とエルサレムに敵対 代の末日聖徒にとってどのような意義を持つものであるか する諸国民の敗北とについて,数多くのことを語っている。 そして,まさに敵の軍勢の敗北のときに主がやって来られ を,次のように述べている。 「10人のおとめはイエス・キリストの教会に属する人々 る,と簡潔に書かれている。確かに,主は万国の軍勢がす でにエルサレムの半ばを捕らえ,彼らの家をかすめ,女性 を表しており,世の一般の人々を指しているのではないと わたしは信じている。思慮深い者も思慮の浅い者もすべて を辱め,なおも攻撃を続けているさなかに来られるのであ る。こうして,彼らが久しく待ちわびていたメシヤは突如 おとめたちは婚宴への招きを受けていた。おとめたちは婚 宴の次第とその大切な日について知らされていた。おとめ 姿を現し,これらの国々と戦い,ユダヤ人を救うために, たちは異邦人でも異教徒でも偶像信者でもなかったし,堕 エルサレムから少し東に離れた所にあるオリブ山に立たれ る。ゼカリヤは,オリブ山は東から西に二つに裂け,山の 落した邪悪な者たちでもなかった。ただ永遠の命に影響を 及ぼす大切な出来事に対して愚かにも備えをしていなかっ 半ばは北に,半ばは南に移り,にわかに一つの大きな谷が できると述べている。そしてユダヤ人たちはユダの王ウジ た者たちなのである。 彼女たちは救いと昇栄をもたらす福音を知っていなが ヤの世に地震を避けて逃げたように,敵から身を守るため ら,その福音を生活の中心とはしていなかった。道を知っ に,この谷へ逃げ込む。そして主は来て,すべての聖徒は 主とともにいるようになる。そのときユダヤ人たちは,長 ていたが,忠誠と献身をわずかに示したにすぎなかった。 あなたがたに尋ねたい。エンジンのない自動車,水の入っ い間待ち望んだメシヤが力をまとって彼らを救いに来られ るのを見る。彼らはメシヤがそのようにして来ることを常 ていないコップ,食物の置かれていない食卓,油の入って いないランプに一体どんな価値があるだろうか。 に待望していたのである。メシヤはユダヤ人がまったく混 おとめたちは暗闇の道を照らすランプを急いで手にし 乱し,今まさに敵に飲み尽くされんばかりのときに,彼ら の敵を滅ぼし,苦難から救い出される。しかし,その解放 た。しかし半数のランプには油がなかった。彼女たちは怠 惰であった。この準備をしなかった5人のおとめは愚かで 者の足もとにひれ伏し,それが自分たちのメシヤであるこ とに気づくときの彼らの驚きは,いかばかりであろうか。 あった。明らかに花婿は理由があって遅れたのであった。 彼らはその御方が昔, 手足やわき腹に受けられた傷を見て, それが何の傷かを尋ねる。そして,その御方こそ長い間拒 まれてきたユダヤの王,ナザレのイエスであられることを すぐに理解するのである。そして預言者ゼカリヤが言うよ うに,彼らは氏族に別れて泣き,その妻たちも別れて泣く のであるが,それは当然と言えば当然なことである。しか し,天はほむべきかな。彼らの嘆きにも終わりが来る。メ ゆる シヤは彼らの罪悪を赦し,汚れを清められる。エルサレム はそのときから聖なる都となり,全地はゲバからリンモン に至るまで平地のように変わる。また,エルサレムは高く なって,その元の所にとどまり,そこに人が住むようにな る。そして,エルサレムはもはや滅びることがない。『主 は全地の王となられる。その日には,主一人,その名一つ 主はオリブ山に立たれる 105 時はたっても,花婿は来なかった。おとめたちは前々から 献金と什分の一の納入,清い思いと行い,永遠の聖約に基 幾度も花婿の来ることについて聞かされていたため,その ような言葉を聞いても注意を払わなくなっていたと思われ づく結婚,これらも燃え尽きたランプの油を真夜中に補給 するための大切な一滴なのである。」(Faith Precedes the る。一体花婿は来るのだろうか。花婿が来るのを待ち始め Miracle『奇跡に先駆ける信仰』pp.253−256) てから長い時間がたったので,おとめたちは,花婿はもう 来ないものと決めつけていた。それを作り話のように考え ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:60−62 「あなたがたが来るべきこと たかもしれない。 今日非常に多くの人々がこの状態にある。信頼を失い, のために備えられるように,わたしはあなたがたが今それ を翻訳できるようにする」 忍耐心をなくしている。常に備えて待つというのは生易し いことではない。しかしわたしたちは眠っているわけには 主はジョセフ・スミスに,『新約聖書』の翻訳を命じ, その目的の一つは来るべきことに彼を備えさせることにあ いかない。主はこのたとえを特別の警告として与えられた ると言われた。この翻訳はジョセフ・スミス訳として知ら のである。 真夜中,花婿が来ようなどとはだれも思わなかった。ま れている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ さしく最も闇の深いときであった。世は苦難に満ち,助け が必要とされている。しかし時はとうに過ぎ去り,望みは 教義と聖約45:64−75 シオン──防御と避け所の地 聖典の中において, 「集合」「備え」「防御」「避け所」と むなしいかのように思える。キリストがおいでになるのは いう4つの言葉は,シオンという概念と密接に結びついて その時なのである。人生の真夜中,それは疲れ切った人々 に喜びをもたらすために神がおいでになる時である。しか いるように思われる。再臨の前に地上に注がれる艱難と裁 きは非常に広範囲に及ぶ破壊的なものであり,それから身 し呼ぶ声がするときには,もはや備えている暇はない。… …そしてランプや油を持たない人々は闇の中に取り残され を守る方法を主が備えてくださらなければ,主の民といえ ども滅びを免れることはできないであろう。しかし,主は る。彼らは遅まきながらも条件を満たそうと努め,何とか 御自分の民のために,この恐ろしい時代を切り抜けるため して広間に着くが,扉は閉ざされている。賢い者もそうで ない者も昼間は同じように見える。真夜中が試しと裁きの の手段を備えられた。それがシオンである。エノクは,主 が末日の艱難の中にあって,選民をシオンに集めて守られ 時である。そして喜びを与えられる時でもある。 思慮の浅いおとめたちは油を分けてくれるように頼んだ るということを知らされた。主の民はシオンにおいて,腰 に帯して(自らを備えて),主の来臨を待ち望むのである が,霊的な準備はすぐさま分け与えられるものではない。 (モーセ7:61−62参照)。これより前に与えられた『教義 思慮深いおとめたちは行かなければならなかった。さもな いと,花婿は行ってしまうからである。思慮深いおとめた と聖約』の中の啓示で,救い主は教会の長老たちに,艱難 の日に備えるために,選民を集めよと命じられた(教義と ちは自分のためにその油がすべて必要であり,思慮の浅い おとめたちを救うことはできなかった。すべて責任は自分 聖約29:7−8参照)。1838年に主は,シオンとそのステー あらし クへの集合は来るべき嵐に対して防御となり,避け所とな にあったのである。 これは利己心や不親切とは異なる。道を照らし,闇を明 ると説明された(教義と聖約115:5−6参照) 。これらの戒 めや約束は第45章にも見られる。聖徒たちは安全と平和と るくするのに必要なこの類の油は分けることのできないも 避け所の地であるシオンに集合するよう命じられている のである。什 分 の一の原則に対する従順な態度を分かち 合うことができるだろうか。義にかなった生活を送って得 (教義と聖約45:64−65参照)。世の中のほかの人々が恐ろ しい戦いの状況下にあっても(第68節参照),シオン(ス た心の平安,蓄積した知識を分かち合うことができるだろ うか。信仰や証をどうして分け与えることができるだろう テークも含まれる,教義と聖約115:5−6参照)には,平 和と喜びがある(教義と聖約45:69−71参照) 。 じゅうぶん か。また態度や純潔,伝道の経験を分け与えられるだろう 預言者ジョセフ・スミスがこの教義を理解していたこと か。神殿で得た特権を分け与えられるだろうか。この種の 油は自分で得なくてはならない。 は,彼自身が,シオンは終わりの時における救いの地であ ると言っていることからも分かる。 思慮の浅いおとめたちは油を買うのが嫌だったわけでは なかった。油を用意していなければならないことは知って 「シオンすなわち救いの地がなければ,わたしたちは倒 れるに違いない。太陽が暗くなり,月が血に変わり,もろ いた。ただ花婿がいつ来るかを知らないため,引き延ばし もろの星が天から落ち,地がかなたこなたに揺れ動くとき ていたのである。 たとえの中に出てくる油は店に行けば買うことができ が近づいているからである。そのとき,もしもこのことが きよ 起こるならば,またもしもわたしたちが聖められておらず, る。しかしわたしたちの生活における準備という油は,義 にかなった生活を送ることによって一滴一滴蓄えていくも 神が指定された地に,『聖書』に教えられている大きな愛 と信仰心をもって集合しなければ,わたしたちは倒れるに のである。聖餐会に出席することが,ランプに油を加え, 年月を経て油は蓄えられていくのである。断食,家族の祈 違いない。わたしたちは立っていられないし,救いも得ら れない。なぜならば,神が異邦人の中から聖徒たちを集め り,ホームティーチング,肉欲のコントロール,福音の伝 られると,その後に荒廃と破壊が続くからである。そのと 道,聖文の研究,すなわち献身と従順を示す一つ一つの行 いが,滴となって蓄えられていくのである。親切な行い, きは,神によって集められる心の清い者以外,だれもその 滅びから逃れることができないのである。」(Teachings of せいさん 106 the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.71。特別講座B参照) 第46章 「熱心に最善の賜物を求め」 歴史的背景 た。」(スミス,Church History and Modern Revelation『教会 歴史と近代の啓示』1:199) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 回復された主の教会は多種多様のチャレンジに直面し た。サタンは設立されて間もない神の王国の行く手を阻も 教義と聖約46:7−8 の賜物とは限らない うと休むことなく攻撃を続け,預言者ジョセフ・スミスと キリストの教会に加わるすべての人を滅ぼすために邪悪な マリオン・G・ロムニー長老は,聖徒たちがこの聖句を 理解できるように,次のような説明をしている。 超自然的な現象のすべてが御霊 霊が動員された。しかし,すでに天は開かれ,神は民を導 「『ある人には,種々の働きが神から出ているかどうかを く預言者に敵の企みと策略を明らかにしておられた。サタ み たま たまもの ンの働きと,聖徒が御霊の賜物を得ることの必要性につい 知ることが,聖霊によって許される。……また,ほかの人 には,霊の識別が与えられる。』(教義と聖約46:16,23) て,預言者ジョセフ・スミスは次のように言っている。 「人がその憎むべき力を白日の下にさらし,その人を滅 御霊の賜物に関するこの啓示から明らかなように,超自然 的な現象には聖霊の力によらないものがある。実際のとこ ぼす,魔性の,恐るべき姿を世の人々に明らかにするには, ろその数は実におびただしいのである。この世は偽りの力 に満ちている。これは今に限ったことではない。モーセの まず霊を識別する力を持たなければならない。なぜなら, 人の子にとって,神の御霊を受けていると思いながら実は つえ 時代, アロンの杖が蛇になったときのことを考えてみよう。 偽りの霊から影響を受けていたというときほど,大きな痛 手を受けるときはほかにないからである。今まで非常に多 この奇跡の後でパロの知者や魔法使い,魔術師らが投げた 杖も蛇になった(出エジプト7:11−12参照) 。イザヤはこ くの人々がその恐るべき力をその身に感じ,害を被ってき う警告した。 『「さえずるように,ささやくように語る巫子 および魔術師に求めよ」という時,民は自分たちの神に求 た。長い巡礼の旅,ざんげ,苦痛,そして災難と崩壊,こ れらはすべて偽りの霊に従う者に伴ってきたものである。 み こ むべきではないか。生ける者のために死んだ者に求めるで 民族間には大騒動が起き,王国は覆され,国は崩壊し,流 さつりく 血と殺戮と荒廃が偽りの霊に取りつかれた人々を覆ってき あろうか。 』(イザヤ8:19) 聖徒たちは,主の前をまっすぐ歩むように戒められた。 たのである。 」(History of the Church『教会歴史』4:573) 1831年3月8日,預言者はオハイオ州カートランドで第46 それも祈りと感謝をもってである。そうすれば『あなたが たが邪悪な霊,あるいは悪霊の教義,または人間の戒めに 章の啓示を受けた。この啓示には,聖なる御霊の真の賜物 打ち負かされ』ることはない(教義と聖約46:7)。 を識別することについての説明があり,聖徒たちがサタン の憎むべきたくらみを白日の下にさらすのに役立った。 以上挙げた引用の数々は,この世には御霊の賜物に対抗 する偽りの霊があることを教えてくれるのみならず,その 注 解 偽りの霊の源がどこかをも暗に示してくれるのである。し かしながらわたしたちは,この暗示のみを根拠としなけれ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ばならないわけではない。簡単ではあるけれども,主が偽 教義と聖約46:1−7 聖餐 会においては教会員でない 人をどのように遇すればよいか りの霊について具体的に説明しておられるからである。 『あるものは人間から出ており,またほかのものは悪霊か 「ジョン・ホイットマーは自身の歴史の中でこう書いて いる。『教会が組織されてまだ日も浅い初期のころ,弟子 ら出ているからである。 』(教義と聖約46:7) これら偽りの霊の中には露骨で容易に識別できるものも たちは信者でない者たちを外へ出すのが常であったが, あるが, 真の御霊の現れと非常に似通っているものもある。 かぎ したがって人は混乱し,欺かれてしまう。ある鍵を持たな せいさん 「モルモン書」に書かれている事柄に照らし合わせてみて, ある人々はこの対応を疑問に思い,意見を交わし合った ければ本物か偽物かを識別することはできないのである。」 (3ニーファイ18:22−24参照)。そこで,主は民が理解で きるように,この件について語られ,長老たちにはすべて (Conference Report『大会報告』1956年4月,pp.70−71) 付録の特別講座Jには,真の啓示と偽りの啓示を識別す の集会を御霊の導くままに指導することを常に許してきた と仰せになった。』この啓示が主から与えられた後は,教 るための原則について,さらに詳しく説明されている。 会員でない人の聖餐会への出席を禁止する習慣はなくなっ 107 ブリガム・ヤング時代の大管長会と十二使徒定員会。いつの時代にも,主の指導者に従う聖徒は欺かれることがない 教義と聖約46:11−12 「各人に……一つの賜物が与 えられる」 オーソン・プラット長老は,次のように教えている。 るための幾つかの賜物をも与えてくださる。御霊によって 生まれ,信仰をよく保ち続けている人なら,霊的な賜物を 何か一つは授けられているはずである。霊的な賜物を何も 「聖霊は一度人の中に宿ると,人がその影響力に従順にな 持っていない人は,自分を救いに導くほどまでに,神の御 ればなるほど,汚れを除き,清めてくださる。しかし,そ れだけにとどまることなく,当の本人やほかの人々を益す 霊を受けていない。そのような人は聖徒とも,神の子とも 呼ばれることはない。なぜなら,キリストの教会に属する 108 第46章 聖徒は,同じ御霊によるバプテスマを受け,一人一人が例 しれない。主はこう言っておられるのではないだろうか。 外なく何らかの霊的な賜物にあずかるからである。…… 一人一人の会員にこれらの賜物がすべて授けられるわけ 『様々な管理の務め』という表現が,教会の諸事を遂行す るための務めや職が様々あることを示しているのは明らか ではない。賜物は御霊の御心と知恵により,〔教会の〕全 体にくまなく分け与えられるのである。……中には,賜物 である(第15節参照)。教会には使徒,大祭司,七十人な どをはじめとする様々な務め,職があるが,それらの任に のすべてを理解し,あらゆる偽りの賜物を看破する備えを し,すべての会員の利益のために教会全体を管理すること あって働く人々は皆,教会全体の頭である主,救い主に依 存している。聖霊によって管理の職の違いを知る賜物を持 ができるよう,これらの賜物をすべて授かる人もいる。こ つ人は,主が御業を進められるための務めや責任の区別を み こころ かしら み わざ れらの霊的な賜物は,忠実さ,状況,生得の能力,職務, 正しく理解することができる。」(スペリー,Compendium 召しに応じて,教会員に分け与えられる。それによって, 『概要』p.196) すべての人が適切な方法で教えを受け,強められ,完全な 者となるためである。」(Masterful Discourses『説教と著作 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約46:16 種々の働きを知る賜物 今の世の中には,偽りの教えや偽りの預言者があふれて 集』pp.539−541) 御霊の賜物については,1コリント12:1−13とモロナイ 10:8−18にも記述がある。 いる。この賜物を授けられた人は,悪魔から出ることと神 から出ることの違いを識別できる。欺かれないためには, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 常に用心し,この賜物を求めるか,あるいはこの賜物をす でに受けている人に従う必要がある。さもないと,聖約に 教義と聖約46:13 イエスがキリストであることを知 る賜物とはどのようなものか よって選民となった人でさえもだまされることがある(ジ 「この知識が,数々の特別な賜物がある中で,1番目に挙 げられているのは,それが啓示を通してしか得られないも ョセフ・スミス−マタイ1:22;教義と聖約46:7−8の 「注解」参照)。 のだからである。ナザレのイエスが油注がれた者,メシヤ であり,世の罪のために十字架につけられた御方であられ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約46:17 知恵の賜物 ると信じることと,それを知ることとはまったく別のこと である。知識は特別な賜物の一つである。 」(スミス,ショ この句は知恵の言葉として知られている戒めではなく, 「惜しみなくすべての人に与える神に,願い求める」(ヤコ ダール共著,Commentary『注解』p.274) ブの手紙1:5)人が授かる知恵について述べたものであ この賜物に関して,ジョセフ・フィールディング・スミ ス大管長は次のような勧告を与えた。 る。この賜物は,長たる責任にある人々,監督,また彼ら の補佐として働く人々など,教会の指導者の中に見ること 「御霊が霊に語るとき,霊に刻みつけられた印象はとう てい消すことのできないものである。教会の各会員は,イ ができる。両親も子供に助言を与える場合に,この賜物を よく受けるかもしれない。 エスが神の御子であられることを聖霊の証を通してはっき ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ りと霊に刻みつけなければならない。」(“The First Presidency and the Council of the Twelve” Improvement Era「大管 教義と聖約46:18 知識の賜物 知識の賜物は,学習と従順を通して神から授けられるも 長会と十二使徒評議会」『インプルーブメント・エラ』 1979年11月号,p.979) のである。これは単に事実を示すだけの情報の貯蔵庫では ない。啓示を通して得られる神に関する事柄の知識の宝庫 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ なのである。次のように書かれている。「あなたは求めれ 教義と聖約46:14 ほかの人の証を信じる賜物 ほかの人が受けた証を信じる賜物を授けられる人もい ば,啓示の上に啓示を,知識の上に知識を受けて,数々の 奥義と平和をもたらす事柄,すなわち喜びをもたらし永遠 る。この賜物は,末日聖徒イエス・キリスト教会について 学んでいる人々の生活の中に表れることがある。そのよう の命をもたらすものを知ることができるようになるであろ う。」(教義と聖約42:61) な人々は自分自身の証を持つまでの間は,会員や宣教師の 証を信じているからである。子供たちにも,自分自身の証 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約46:23 霊を識別する賜物 あかし を得るまで,両親の証を信じる賜物が授けられる場合があ スティーブン・L・リチャーズ長老は,次のように説明 る。この賜物は第13節に出ている賜物の後に書かれている が,恐らく,第13節に挙げられているのは,救い主につい している。「表面から見ただけでは分からないものを読み 取り,隠れた悪を看破し,またそれ以上に大切なことであ ての特別な証を得るという預言者や使徒たちに授けられる 賜物だからであろう。第14節に述べられている御霊の賜物 るが,隠れているかもしれない長所を見いだそうとするな らば,〔この賜物は〕内なるささやき,すなわち霊的な面 は,一般に聖徒たちに神の僕の証を信じさせるためのもの へのささやきに鋭敏な感覚の中から,豊かにわき出てくる。 である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 中でも最もすばらしい識別力は,人の内面を理解し,内に 秘められたさらに優れた資質や生来の美しい性質を,その 教義と聖約46:15 様々な管理の務めを知る賜物 「使徒パウロが同じことに触れている1コリント12:5を 人々のために明らかに示すたぐいの識別力である。これこ そ世に福音を伝える宣教師に必要な賜物である。宣教師は ギリシャ語で読むと,適切な答えを得ることができるかも 自分が出会うすべての人を,どのような人物であるか判断 しもべ 109 しなければならない。真理へ向けて燃え立つ可能性を持つ の は , 監 督 の 特 権 で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1901年 4月 , 火花が,その人にあるかどうかを識別しなければならない のである。この識別の賜物は,人を過ちや障害物から救い, p.12) 義にかなった方法でえり分けられた人々への信頼感をわき 教義と聖約46:28−33 立たせずにはおかない。 」(『大会報告』1950年4月,p.163) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 御霊によって与えられる」 主と聖約を交わす,戒めに従う,全力を尽くし完成を目 教義と聖約46:24−25 異言の賜物 これはよく誤解される賜物であり,この世における惑わ 指す,などの行いを通して犠牲を払う人は,だれでも御霊 の賜物を受けることができる。熱心に求める人にとってこ しの大きな原因となっている。主は,特別なメッセージの ご じゅんせつ 的確な伝達や,耳慣れない言葉の理解のために,五 旬 節 れらの賜物は非常にすばらしいものとなるであろう。しか しそれは,外国語を学ぶのに助けを必要とする宣教師,感 の日のように,異言という劇的な方法を用いられる場合が 情に走りやすい人,子育てについて助けを求めている人な ある(使徒2:4−12参照)。しかし真実の教会において, これは若い宣教師たちの間によく表れる賜物である。彼ら ど,すべての人に授けられるものである。ジョージ・Q・ キャノン副管長は次のように書いている。 の外国語の習得は非常に速く,ともすると当然のことと考 えられがちである。 「あなたがたのうち何人が,神が授けると約束されたこ れらの賜物を求めているだろうか。 家族とともに祈るとき, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「御霊によって求める者は, この賜物は,まがいものが出たり,人を欺くために用い また一人ひそかに祈るとき,一体どれだけの人がこれらの られたりする場合がよくある。そのために,預言者ジョセ フ・スミスは次のように警告している。 賜物を請い願っているだろうか。さらに天父がこれらの権 威や賜物を通してあなたがたの前に御自身を現されること 「異言についてはあまり求めることをしないように。解 く人がいないときには異言を語らないようにしなさい。異 を,イエス・キリストの名によって天父に願い求めた人は あかし 何人いるだろうか。あるいはそうではなく,人の証に頼っ 言の第一の目的は外国人に話すことである。もしも人々が て,この問題については特別に何も感じないのだろうか。 自分の知識を見せたいとしきりに願うようであれば,自分 の国の言葉でそうさせなさい。すべて神の賜物は,適切に バプテスマを受けて教会員となり,そのことだけで救いは もう保証されたと思い込んでそれに満足し切っているのだ 用いられれば役に立つが,神の御心以外のところで用いら れた場合には,祝福どころか逆にとんだ痛手を負い,落と ろうか。 ……完全でなければ完全になれるように御霊を祈り求め し穴にはまり,のろいを受けてしまう。 」(『教会歴史』5: るのが人の義務というものである。わたしに不完全なとこ 31−32。1コリント14:1−25参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ろはあるだろうか。不完全だらけである。わたしの義務は 何か。この不完全さを克服するために,神に賜物を祈り求 教義と聖約46:27 物を授けられる 監督はすべての賜物を識別する賜 めることである。わたしが怒りっぽい人間であれば,長く 堪え忍び親切になれるように,慈愛を祈り求めなければな スティーブン・L・リチャーズ長老は次のように述べて いる。「識別の賜物は教会の指導者にとって欠かすことの らない。ねたみ深い人間であれば,ねたまないように,慈 愛を祈り求めなければならない。福音の賜物すべてについ できないものである。わたしが監督やステーク会長を聖任 てこれと同じことが言える。賜物とはこのような目的のた もしくは任命するときには,いつも彼らがこの祝福を授か るよう神に願ったものである。そうすることにより,彼ら めにあるのである。だれもこのように言うべきではない。 『ああ,どうしようもない。これが本来のわたしなのだか が人々の生活や心をよく読み取り,人々の内にある最も優 れた点を引き出すためであった。善悪の力が相対立するこ ら。』人はそのように言って自らを正当化することはでき ない。なぜなら神は,このようなことを矯正する強さを与 の世の中にあって,識別の賜物はすべての神の息子と娘に え,またこれらを根絶する賜物を与えると約束されたから とって欠かせないものである。」(『大会報告』1950年4月, p.163) である。知恵が欠けていたら,神に知恵を願い求めなけれ ばならない。同じことは何にでも言える。これが教会に対 アブラハム・O・ウッドラフ長老は,この賜物を用いる 神権指導者の権利について,次のように述べている。「聖 する神の計画である。主は主の聖徒たちが真理にあって完 全な者となるよう望んでおられる。そのため主は,これら 徒は神の御霊の導きを受け,集会を管理する人々に従わな の賜物をお与えになり,多くの弱さはあろうともこの地上 ければならない。イスラエルの一般判士である監督から, ほかの賜物についても同様であるが,この賜物を用いない において完全な民になろうとして御霊を求める者に,御霊 をお授けになるのである。なぜなら主は,完全な者となる ように言われた場合は,それに従わなければならない。監 督はこの識別の賜物を持ち,これらの霊が神からのものか ために必要な賜物を人々に約束されたからである。」(Millennial Star『ミレニアルスター』1894年4月,pp.260−261) どうかを告げることができる。そして,神からのものでな い場合, それは聖徒の集いにはふさわしくないものである。 主は第46章の終わりで,これらの賜物を受けるための方 法を概説しておられる。 これらの件で監督から賜物を用いないようにと言われて 1.第28節を読む。これらの賜物を受けるには何をしなけ も,監督を非難することはだれにもできない。それは監督 の責任であり,任期中にどのように事を進めるかを告げる ればならないだろうか。特定の賜物を求めるべきだろ うか。 110 2.第30節を読む。どのように求めるべきだろうか(ヒラ 4.第32節を読む。何をすることを忘れないようにしなけ マン10:5参照)。 3.第31節を読む。これらの賜物はだれの名によって,ま ればならないだろうか。 5.第33節を読む。毎日何を行うように言われているだろ た何の力によって授けられるだろうか。 うか。 第47章 教会の記録の重要性 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主は時の初めから主の民に,「主が彼らの先祖のために 教義と聖約47:1 要なのか 正確な記録を保持することはなぜ重 預言者ジョセフ・スミスは,正確な記録の大切さについ て次のように言っている。 どのような偉大なことを行われたか」(『モルモン書』タイ 「もしもわたしが今,この業の始まりのころからの教義 トルページ)の詳細を記した記録を,自分自身と子孫のた めに作るように命じておられる。アダムは霊感の霊によっ や義務に関する重要事項について,その決議を記した記録 をすべて持っていたならば,いかなる額の金を積まれたと て,1冊の覚えの書を記し(モーセ6:5参照) ,エノクも神 から示された手本に従い民の歴史を記録した(モーセ6: してもそれを手放すことはしないであろう。……しかし, 記録に残すことは軽視されてきた。もしも広く知らしめて 46参照)。また,リーハイは先祖の系図を手に入れるため いたならば,その力と権能の度合いに応じてわたしたちに に,息子たちをエルサレムに送り返し(1ニーファイ3: 2−4参照),ニーファイも世俗の記録と神聖な記録を忠実 とって偉大かつ栄光あふれる顕示となっていたものを,わ たしたちは無視してきたのである。したがって今わたした に残した(1ニーファイ9:1−6参照)。 同様に,時満ちる神権時代に預言者ジョセフ・スミスは ちは,教会に対して,また世に対してその記録を提供する ことができないのである。 教会の正式な記録を作るように主から命じられた。この重 十二使徒が選ばれた今,わたしはまだ彼らが認識してい ない観点から,一つの方針について話しておきたい。彼ら 要な仕事を補佐するために,オリバー・カウドリやほかの 人々が召された。後に,ニューヨーク州フェイエットで預 はそれに従うことによって,益を受けることができる。使 言者の秘書として働いたことのあるジョン・ホイットマー が,教会歴史の記録を行うよう要請を受けたが,彼自身の 徒たちが集まるとき,その会を管理する人を一人,また会 の議事を記録する人を一人かあるいはそれ以上指名して, 記録によると,その召しに対する彼の答えはまったく消極 的なものであった。しかし,ホイットマーはこのように述 いかなる内容のことであれ,質問や議事に関するすべてを 記録しておくならば,そこで決定されたことは永遠に記録 べた。「主の御心が行われるように。もし主がそれを望ん に残り,聖約や教義にかかわる事柄となるであろう。その でおられるのなら,聖見者ジョセフを通して主から示しを 賜りたい。」(History of the Church『教会歴史』1:166脚 ようにして決定された事柄は,当初は価値がなく,つまら ないもののように思えるかもしれない。しかし,それが出 注)預言者はそれを受けて,1831年3月4日にオハイオ州カ ートランドで主に尋ね,第47章として知られる啓示を授け 版され,後になってあなたがたのだれかが見直したとした ら,兄弟たちにとって無限の価値を持つだけでなく,自分 られたのである。 自身をも喜ばすものであるということが分かるであろう。 注 解 もう一つ重要なことがある。折々,集会を開き,重要な 問題について討議を進め,決定を下しても,それを書き残 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約47:1 ジョン・ホイットマーの歴史記録は しておかなければ,あなたがたは次第に苦しい立場に追い 込まれ,そこから抜け出すことができなくなってしまうで どうなったか あろう。というのは,適切な知識を得るに必要な完全さと 力を,自分の信仰に加えることができなくなるかもしれな み こころ ジョン・ホイットマーの記した教会の歴史は,1831年か ら1838年の間に生じた出来事の概要を述べたものにすぎな いからである。神が啓示を下されたときにそれを記録せず, み たま い。85ページから成る彼の記録には,預言者ジョセフ・ス ミスに与えられた啓示が数多く含まれている。彼は後に, その価値を十分に認めなかったために,御霊が退き,神の 怒りを招くかもしれない。それが原因で失われている重要 自分が書いた記録を持って教会を離れた。彼の死後大分た った1893年,教会は彼の歴史記録の写しを入手した。 な知識が,今も過去においても数多くある。 」(『教会歴史』 2:198−199。アルマ37:8参照) 教義と聖約128:2−4の「注解」にも,記録を残すこと 111 の大切さが述べられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約47:3 オリバー・カウドリは教会の歴史記 録に関してどのような役割を負っていたか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,次のよ うに説明している。「この教会の最も古い記録は,オリバ ー・カウドリの手になるものである。彼は,教会の初期の 時代の大会において,よく筆記者および記録者として働い た。その議事録や教義に関する書き付けは手稿本の中に収 められ,現在は歴史事務局に保管されている。どれも非常 に貴重なものばかりである。その後,1831年2月にオリバ ー・カウドリはこの責任を解かれ,ジョン・ホイットマー が後任となった。主はジョン・ホイットマーに対し,『さ らに別の務めに召されるまで正式な歴史を書き記して残す しもべ こと,またあなた,すなわちわたしの僕ジョセフを助けて あなたに与えられるすべての事柄を書き取ること』と言わ れた。しかしオリバー・カウドリはこの後も集会の議事録 主の民はいつの時代にも記録を残してきた をつけ,歴史的な事柄を記録し続けた。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:106) オハイオ──一時的な居住地 第48章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「シオン!」それは初期の聖徒たちの心をわき立たせる ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約48:1,3 聖徒たちはオハイオ州にどれく 言葉であった。しかし,新エルサレムの町はどこに建設さ れることになっていたのであろうか。1831年当時の聖徒た らいの期間とどまるのか 主はこの章の中で「今のところ」という表現を計3回使 ちの多くは, オハイオ州に移るように命じられたことから, 新エルサレムはオハイオに建てられるのではないかと考え われた。これはつまり,オハイオ州は一時的に教会の中心 になるだけであるということを示している。 た。ジョン・ホイットマーはそれについて次のように語っ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている。「ニューヨーク州をたった兄弟姉妹がオハイオ州 カートランドに到着する時期が近づいた。末の日に与えら 教義と聖約48:4 か れた数々の示現や啓示の告げるところによれば,ここが集 合の地,すなわち『モルモン書』で言われている新エルサ この町とは,聖徒たちの犠牲と奉献によって建てられる はずの新エルサレムである。教会員が初めてこの町につい レムの地ではないかと考えた者もいた。」(“Church Histo- て知ったのは,エテル13:3−8と,以前にジョセフ・スミ ry” Journal of History「教会歴史」『歴史記録』1908年1月, p.53) スに与えられた二つの啓示を通してであった(教義と聖約 28:9;42:6−9参照)。この町が正確にどこに建てられる 確かに集合の霊が聖徒たちに注がれていた。しかし,オ ハイオ州への集合に伴い,数多くの疑問が持ち上がってい ことになるのかについては,教会歴史のこの時点ではまだ 啓示されてはいなかった(教義と聖約48:5参照)。しかし た。新たに到着する人たちはどこに住むのか。彼らの定住 ながら,この第48章が与えられてから3か月後に,主はミ 地は購入という形で入手すべきなのか。オハイオへの永住 ということを基本に計画を立てるべきなのか。こうした ズーリ州が集合の地であると言われた(教義と聖約52: 2−3参照)。しかし主はこのとき特定の場所については言 様々な質問に対する答えとして,主は預言者ジョセフ・ス ミスに,現在第48章として知られる啓示を授けられたので 及されなかった。ジャクソン郡という場所が明らかにされ たのは,1831年7月のことである(教義と聖約57:1−3参 ある。 照)。 112 この節にある「町」とはどこのこと 教義と聖約48:5−6 聖徒たちの新エルサレムへの集 合を指導するのはだれか かぎ 大管長会が新エルサレムへの集合の鍵を持っている。ハ ロルド・B・リー大管長はこの点を強調して,次のように 言っている。「主はすでに,集合の業を指導する責任を, 教会の指導者の手にゆだねておられる。また主は将来,こ のような集合が,どこで,いつ行われるのかについて主の みこころ 御心をこれらの指導者に啓示されるであろう。神のあらゆ る約束と宣言を成就する驚くべき出来事が現実となる前 に,全地の聖徒たちは自らを備え,この教会の大管長会か ら集合の地に関する指示が与えられるのを待ち望むように しなければならない。聖徒たちは,主がふさわしい権能を 有する者に啓示された指示を受けるまで,心を乱すことの ないようにしなければならない。」(Ye Are the Light of the World『あなたがたは世の光である』p.167) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約48:6 「すべての人が自分の家族に応じて」 教会の記録を見るかぎり,このときシオンで分配する責 任を持っていたのはだれかについては,何も分からない。 教会にはまだ大管長会も正式に組織されていなかった。 ハロルド・B・リーは大管長会が集合の鍵を持っていることを 強調した 「シェーカー派の人々に…… わたしの福音を…… 宣べ伝えなければならない」 第49章 歴史的背景 かつての友人たちのところへ行って教えたいと願った。こ れに心を動かされた預言者ジョセフは主に尋ね,第49章に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ある答えを受けたのである。 教会の新しい本部となったオハイオ州カートランドから さほど離れていない所に,シェーキング・クエーカーとい 注 解 う名前の宗教団体があった。以前はクエーカー派であった この団体が,シェーキング・クエーカーあるいはシェーカ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約49:2 「彼らは真理を……知りたいとは望 ー派と呼ばれるようになったのには,二つの理由がある。 一つは服装や振る舞いが,ある点でキリスト友会(クエー んでいるが,すべてではない」 福音の全部は望まないが,一部だけなら受け入れたいと カー派)のものによく似ていたからである。もう一つは, いう人がよくいる。 安息日の集会には喜んで参加しながら, 礼拝の方法に,体を震わせたり,ひねったりすることがあ ったためである(訳注:シェーキングとは震えるの意)。 この教団は,1700年代の後半にイギリスで興ったものと思 われる。シェーカー派の創設者であるアン・リーは,その じゅうぶん 什 分 の一を納めようとしない人,知恵の言葉には従いな がら, 不道徳な生活は見過ごしにする人などがそれである。 回復の教えがシェーカー派に伝えられたとき,彼らは自分 たちの信仰と矛盾しないものについては受け入れたが,そ 崇拝者とともに1700年代の末にアメリカへ渡って来た。そ うでないものについては拒んだのである。 してオハイオ州に定住したため,聖徒たちとは距離的にあ まり隔たっていなかった。両者の間に何らかの接触が生ず ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約49:4 リーマン・コプリーが捨てなければ るのは時間の問題であった。シェーカー派の一人であった リーマン・コプリーは当教会に加入はしたものの,まだ多 ならなかったシェーカー派の信仰にはどのようなものがあ るか くの点で以前の信仰に縛られていた。それでもコプリーは スペリーは『教義と聖約』の研究の中で,シェーカー派 113 の信仰について次のように分かりやすくまとめている。 教義と聖約49:8 「シェーカー派の最も重要な信仰あるいは教義を列挙す れば,次のようになろう。 聖なる人々とはだれか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この聖 神が御自身のもとに残しておかれた 1.神は両性を備えた存在である。つまり神は雄性と雌性 なる者たちについて次のように説明している。「これは罪 を持っている。キリストの雄性は,ユダヤの大工の息 子であるイエスとして地上に現れた。雌性は『大母ア を犯すことなく主に残しておかれた者であって,黙示者ヨ ハネや3人のニーファイ人のようにその身を変えられた者 ン』(シェーカー派の設立者であるアン・リー)によ って現され,アンをもってして主の再臨の約束は成就 たちである。彼らは今の世代の人間ではないが,イエス・ キリストの再臨までこの地上に肉身でとどまって特別な使 したとする。ついでながら,シェーカー派の人々は, 天使や霊でさえも,この両性を備えた存在であると信 命を果たしているのである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:209) じている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 2.独身生活。結婚を非難したり結婚に反対したりしてい るわけではないので,この主張も多少割り引いて考え 教義と聖約49:3−10 ここで指名された宣教師たちは シェーカー派の人々の中へ行って主の命を果たしたか なければならないが,より高い位すなわち天使の位に 到達するには純潔を守ることが第一の条件であると主 ジョン・ホイットマーの記録によれば,シドニー・リグ ドン,パーリー・P・プラット,およびリーマン・コプリ 張している。 ーの3人が「出かけて行き,自分たちに与えられた啓示に 3.罪を公の場で告白すること。 4.共有財産制度。 従って〔福音を〕宣べ伝えた。しかし,シェーカー派の 人々はこのとき,3人の言葉に耳を傾けようとはせず,福 5.俗世からの離脱。虚栄,ぜいたく,および財産の私有 は罪であり,クリスチャン的でない。 音を受け入れなかった。因習と聖職者たちの策謀に縛られ ていたからである。こうして,彼らは愚かで空虚な想像の 6.反戦主義。 とりことなっているのである。」(History of the Church『教 7.男女両性の平等。 8.聖別された行い。 会歴史』1:169脚注) シドニー・リグドンは長年にわたって,ノース・ユニオ 9.絶えざる啓示。 ばんさん 10.外形的儀式『とりわけバプテスマと主の晩餐は,使徒 ンにいたシェーカー派の人々の近くに住んでおり,その指 導者たちとも知己でその教義にもよく通じていた。パーリ の時代に終わりを告げた。』(バーダー,History of All ー・P・プラットの親戚にもシェーカー派が多かった。パ Religions『宗教全史』p.502) 11.地上におけるキリストの王国はシェーカー教会の設立 ーリー・P・プラットは,ノース・ユニオンにいたグルー プと接触した最初の宣教師の一人でもあった。 しんせき とともに始まった。使徒の時代以降,シェーカー派の 人々が新しい天啓の時代に選民として選ばれて召され の るまで,教えを宣べ伝えるために主から遣わされた人 はだれもいない。 あがな 12.三位一体,身代わりの贖い,肉体の復活といった教義 は正しくない。 13.病気は神に対する罪である。 14.(少なくとも幾つかのグループにおいて)肉食を断つ こと。 」(Compendium『概要』pp.204−206) シェーカー派は,教会としては20世紀の初頭までは成長 を続けたが,その後信者数は次第に減少し,現在ではメイ ン州サバスデイレークに,活発な共同生活体を一つ残すの みである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ くだ 教義と聖約49:6 「地上に降って来て」 シェーカー派では,キリストを聖なる御方であるとは信 じていなかった。したがって,キリストの再臨を待ち望ん ではいなかった。シェーカー派の人々が求めていたのは, キリストの霊,すなわち彼らの指導者たちの中に満ち,各 人を現世的な存在から霊的な存在に変えるはずの霊であっ た。シェーカー派の信仰によれば,それまでこの霊に完全 に満たされた人物は4人いた。アダム,アブラハム,キリ スト,そしてアン・リーの4人である。 114 シドニー・リグドン,パーリー・P・プラット,リーマン・コ プリーの3人は,シェーカー派の人々の中で宣教師として働いた 第49章 ある土曜日の夕方,3人の宣教師がノース・ユニオンに 教義と聖約49:16−17 地球が創造された第一の「目 到着し,そこのグループの人々に福音に関する説教を長時 間にわたって行うことが許された。3人は夜を徹して準備 的」あるいは理由は何か 主は,霊の子供たちがその死すべき期間を過ごす場所と し,その翌朝,通常の日曜日の集会で話をした。シドニ ー・リグドンがその説教の一部として,シェーカー派の してこの地球を創造された。結婚し,子供をもうけること は,主の目的を達成するために必要欠くべからざることで 人々に与えられた啓示を読んで聞かせたが,そのグループ の指導者であるアシュベル・キッチェルによって即座に拒 ある。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次の ように述べている。 「この地球に現在住んでいる人々は皆, 否された。残りの人々もキッチェルに賛同し,宣教師たち この地上に来る前に霊界で生活していた。主の教えによれ はそこを引き揚げた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ば,この地球の創造は,その基が据えられる以前に,第一 の位を保った霊たちの住む場所として計画された。そのよ 教義と聖約49:10−14 要性 うな霊たちは皆,この地上に来て,骨肉の幕屋を受けなけ ればならないのである。そしてこれは,この世が造られる 福音の第一の原則と儀式の重 み たま シェーカー派の人々はバプテスマは拒んだものの,御霊 前の創造により生を受けた人の数に照らして行われる(申 の賜物があることは信じていた。そこで主は宣教師たちに, 主を信じる信仰と悔い改めとバプテスマと聖霊の賜物の重 命32:8−9参照)。アダムとエバに与えられ,後にノアに も与えられた戒めに従って,合法的かつ神聖な結婚生活を 要性を教えるように命じられた。2ニーファイ31:17によ れば,聖霊の賜物というのは,人が悔い改めとバプテスマ 通して子孫を増やし,この世に来て肉体を受けると約束さ れた霊たちがことごとくその特権にあずかれるようにする の門を入った後で初めて与えられるものである。預言者ジ のは,全人類の義務である。独身生活をするよう教え,結 ョセフ・スミスは,御霊の真の賜物を享受できるのは聖霊 の賜物を受けた者だけであると述べている。「わたしたち 婚を罪深いものと考える人々は,主の言葉と戒めに反して いる。 そのような教義は間違った源から出たものであって, は,使徒の時代と同じように今日も,聖霊の賜物を享受で きると信じている。そして,神権の働きをなし,神権の組 贖いの計画と第一の位を保った霊たちをこの世に送り込も うとする計画とを打ち砕くことを目的としている。サタン 織を作るためにはそれ〔聖霊の賜物〕が必要であると信じ ている。その賜物なくして,だれも神の業に働く職に召さ はあらゆる手立てを講じ,自分の力の限りを尽くして,主 の業を打ち砕こうと躍起になっている。サタンの目的は人 れることはない。わたしたちはまた,預言,異言,示現, を滅ぼすことである。 結婚が義に反する罪深いことであり, 啓示,賜物,癒しを信じている。しかもこれらは聖霊の賜 物なくしては享受し得ないと信じている。」(『教会歴史』 たとえ結婚しても子供をもうけてはならないと教えること によって,人が肉体を持つのを妨害できれば,サタンは自 5:27) ごじゅんせつ ペテロは五旬 節の日に同じ教義を教えた(使徒2:37− 分の目的を達したことになるのである。このような間違っ たささやきに耳を傾け, この邪悪な行為を実践する者は皆, 38節参照)。 神の御座の前で罪に定められることであろう。」(『教会歴 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約49:15 シェーカー派の人々は,キリスト 史と近代の啓示』1:209−210) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教徒としての最も崇高な生活は独身生活にあると信じてい た 教義と聖約49:18−21 「必要がないのに血を流した り,肉を無駄にしたりする者は,災いである」 スペンサー・W・キンボール大管長は,結婚の重要性に この聖句の中で,主はシェーカー派の人々に,人が用い ついて次のように証している。「雑誌では,この結婚を否 定する運動についての記事をよく見る。……もう一度言っ るべきものとして神によって定められたものがある,と教 えられた。そして第21節にある警告を加えられたのであ ておきたい。結婚は重んじなければならない。これは神の 計画である。気まぐれでも,選択の問題でも,好みの問題 る。狩猟について,スペンサー・W・キンボール大管長は 次のように言っている。 で も な い 。 結 婚 は 義 務 な の で あ る 。」( “Marriage Is Honarable” Speeches of the Year「結婚は重んじなければな 「さて,わたしは不必要な流血や殺生についてわたしの 考えを付け加えておきたい。預言者たちの情感あふれるこ らない」 『年度講話』1973年,p.261) れらの言葉に,あらゆる人は心を動かされると思う。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この啓 示の中になぜ結婚のことが触れられているのか,次のよう ジョセフ・F・スミス大管長は次のように述べている。 …… に説明している。「結婚に関するこの言葉は,シェーカー 派の人々の誤った教義を正すために与えられたものであ 『食料として必要でないかぎり,だれも動物を殺しては ならないとわたしは考えている。人の食用とならない罪の る。シェーカー教徒は,結婚は汚れたものであって,イエ ない小鳥を殺してはならない。命のある動物を殺そうとす ス・キリストに真に従う者は罪から離れキリストと完全に 交わるために,独身生活を維持しなければならない,と教 ることは,人にとって悪いことだとわたしは思う。ある著 名な人々が,動物の血を流すことを楽しみのようにしてい えていた。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:209) るのを見て,わたしは驚いたことがある。動物の血を流す ことは間違っている。』(『福音の教義』pp.265−266)」 たまもの こんにち いや あかし あがな み ざ (Conference Report『大会報告』1978年10月,p.64) 115 教義と聖約49:22−23 「人の子は,女の姿や地上を ために,二つの預言が与えられている。この二つの預言は, かぎ 旅する男の姿では来ない」 この章の最後の部分は,キリストの再臨に関するシェー 預言者ジョセフ・スミスが持っていた預言者としての鍵を 証するものである。 カー派の誤った教えに焦点を絞っている(教義と聖約49: 7の「注解」参照)。第22節では,「キリストの御霊」はア 第一の預言では「ヤコブ〔つまり現代のイスラエル〕は 荒れ野に栄え……シオンはもろもろの丘の上で栄え」(教 ン・リーに宿っているとするシェーカー派の信仰を論破し ている。第23節から25節までは,将来主の再臨に先立って 義と聖約49:24−25)と言っている。この預言は,聖徒た ちがイリノイ州ノーブーを追われ,ロッキー山中に定住し どのようなことが起こらなければならないかを説明してい たときに成就した。第二の預言は「レーマン人はばらのよ る。聖典を読めば,キリストは大いなる栄光のうちにその 神殿に戻って来られることがきわめて明瞭である(マラキ うに花咲くであろう」(24節)というものである。今日, 教会に加入するレーマン人の子孫の数は,加速度的な伸び 3:1−3参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を見せている。そして福音の光という温かな光の中で花を 咲かせつつある。 教義と聖約49:24−25 この聖句は何を預言している か この啓示の中には,シェーカー派の人々に主の再臨の前 にこのアメリカ大陸にどのようなことが起こるかを教える 「人を教化しないものは, 神から出てはおらず」 第50章 歴史的背景 た。ラバンの剣を持っているという幻想に取りつかれて, まるで軽装備の竜騎兵のように剣を振り回す者もいた。ま ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た,自分がインディアンでもあるかのように頭皮をはぐま サタンは,神の子供たちに祝福をもたらす福音が地上に 存在した神権時代にはいつも,様々な手段を用いて,偽り ねをする者や,蛇のような速さで床をはいずり回って,今 の レーマン人のところまでボートをこいで行って福音を宣べ の啓示で人々を欺こうとしてきた。そうしたサタンの方法 の一つは,理解し難いような経験によって人を欺くことで 伝えているところだ,などと言う者までいた。ほかにも空 虚で愚かなことが数多く行われたが,ここに書くのは適切 ある。これは,回復の業が始まった直後には特によく用い でなく,また何の益もない。こうして,悪魔は正直で善良 られた方法であった。預言者ジョセフ・スミスは次のよう に言っている。「カートランドに真の福音が確立されてか な弟子たちの目をくらましたのである。わたしがこうした ことを書くのは,神の子供というものがいかに無知で思慮 ら間もなくのこと,教会の幹部たちの不在中に,多くの偽 りの霊が入り込んだ。奇妙な示現を見た者も多く,異常で が浅いものか,また,神の王国に関して神に関する事柄が 種々書かれているにもかかわらず,人はいかに容易に背教 狂信的な考え方を受け入れる者もいた。例えば,この霊の の 道 を 歩 む も の か , と い う こ と を 示 す た め で あ る 。」 (“Church History” Journal of History「教会歴史」『歴史記 影響を受けて戸外へ飛び出したり,切り株の上に立って叫 んだりする者もいた。ありとあらゆる種類の狂信的な考え 録』1908年1月,p.55) が人々の間に見られたのである。ある人などは,ボールが 空中を飛んでいるのを見たと言って,そのボールを追いか パーリー・P・プラット長老も,こうした異常な霊の現 れを見聞きした。 け,絶壁の上まで来て,飛び降りる始末であった。このと 「こうした現象についてわたしはまったく知識がなく, 聞くところによると,事の起こりはわたしが伝道のために きはたまたま木の上に落ちて,一命は取り留めた。こうし たばかげたことが数多く見られた。これは神の教会に屈辱 み たま 教会を離れていたころ,それもジョセフ・スミス大管長が を与えようとの意図によるものであり, 神の御霊を退かせ, 人類の救いのために明らかにされた輝かしい数々の原則を まだニューヨーク州にいたころまでさかのぼるということ だった。 根絶やしにし,滅ぼそうとするためのものであった。」 (History of the Church『教会歴史』4:580) 自分たちの力のなさと経験不足を悟り,またこうした精 霊現象に対しては誤った判断をしてはならないと思ったわ ジョン・ホイットマーはその当時に見聞きした過剰とも 言える病的な霊の現れについて,次のように書いている。 「示現を受けながら,自分が何を見たのか言えない者もい 116 たしたち,すなわちわたしとジョン・マードック,それに 何人かの長老は,ジョセフ・スミスのもとへ行き,この現 象に関して主に伺ってくれるように頼んだ。」(Autobiogra- 第50章 phy of Parley P. Pratt『パーリー・P・プラットの自叙伝』 して霊的な現象の善悪を識別できるかということについ pp.61−62) 第50章はその問いかけに対する答えであった。 て,次のように説明している。 「非常に悪いことに,人間は霊の性質や力,法則,支配, 注 解 知性などを無視し,何か力や啓示,示現のようなものが現 れると,それが神からのものに違いないと考えてしまう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約50:2−9 サタンは偽りの霊の現れによっ …… 末日聖徒の間にしばしば現れる偽りの霊をだれが明るみ て人類を欺こうとしている に引きずり出して,その隠された秘密を暴くことができる 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。「悪 みこころ 魔は人を欺く大きな力を持っている。悪魔は,神の御心を であろうか。神権を持ち,霊を治める法則を知っている者 でなければこれができない,とわたしたちは答える。なぜ 行っている人々を驚かしその心を奪うために,様々な物事 を変化させようとする。」(Teachings of the Prophet Joseph ならば,神の御霊によらなくては神に関する事柄を知るこ とができないように,人間の持つ英知以上の英知を持ち, Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.227)末日聖徒 神権によって悪の策略を暴くのでなければ,いかなる人も は,サタンの惑わしから逃れたいと思うなら,主の助言に 従わなければならない。「すべての人に,わたしの前に真 悪霊とその力,影響力を知ることができないからである。 天使を装った外観,清らかそうな容姿と物腰,そしてしば 理と義にかなわないことを行わないよう気をつけさせなさ い。」(教義と聖約50:9) しば見せる神の栄光を求める熱心さ,また,預言の霊やい んぎんな感化力,信心深い態度,聖なる装い,これらは悪 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,多くの 霊特有の不可解な行動であり,やり方なのであり,これら 現れはサタンから来るとして,次のように教えている。 「人類の堕落以来,今に至るまで,天から投げ落とされた についての知識がなければ,偽りの霊を知ることはできな い。 サタンとその部下たちは人を欺き続けている。今日 でも, 初めのときと同様に,ルシフェルは『信じようと信じまい この憎むべき力を明るみに引きずり出し,その破壊的な, 悪魔の恐ろしい様相を世の中に明らかにするには,まず霊 と……わたしも神の子だ』と言っている。そして今日の 人々も,初めのときと同じ理由でこのサタンの言葉を信じ を識別する力を持たなければならない。 ……霊の性質やそれを支配する法則,霊を識別するため るのを拒んでいる。救い主はジョセフ・スミスに,『ある のしるしに無知であれば,そこに大きな問題が存在する。 ものは人間から出ており』(教義と聖約46:7)と教えられ た。……ある教えは悪霊から出ており,これらも大部分人 ……神に関する事柄を知るためには,神の御霊が必要であ る。そして悪魔の霊の正体を暴くには,この御霊に頼る以 間の活動を通して現されるのである。……こうした偽りの 霊は様々な方法であらゆる社会に出現する。偽りの霊の現 外にないのである。 」(『教会歴史』4:572−574。教義と聖 こんにち れのうち最も衝撃的で広く見られるものの中には,偽りの たまもの 異言の賜物や,宗教的な集会の中で現れるものがある。特 にある宗派の中には,礼拝する人々が一時的に興奮状態に 陥って, まったく無秩序に叫んだり歌ったり祈ったりする。 時には口から泡を吹いたり,体を不自然にねじ曲げたりす ることもある。」(Church History and Modern Revelation『教 会歴史と近代の啓示』1:200) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約50:10−12 「人が……互いに論じるよう に,わたしたちは論じよう」 主は, 人が互いに論じるのと同じように人と論じられる。 主が人と語るときにその人の使っている言葉で話しかけら れるのには理由があるが,主が人と論じられる目的もそれ と同じである。つまり,主は人が「理解できる」(教義と 聖約1:24。イザヤ1:18も参照)ことを望んでおられるの である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約50:13−21 悪霊はどのように識別し,そ の正体を暴くことができるのか 初期の聖徒たちの中には「それらを神からのもの」(教 義と聖約50:15)と考えて,過度の霊の現れの犠牲となっ た者があった。主はこうした現れは正しいものではないと 言われた。預言者ジョセフ・スミスは,義人たちがいかに 神から出ているものは光と真理であるが,そうでないものは暗 黒である 117 トと共同の相続人となり,御父の持っておられるすべてを 約129章の「注解」参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「神から出ているもの」とサ 受け継ぐ(ローマ8:17;教義と聖約84:38参照)。しか し,「だれもすべての罪から清められてきれいにされなけ タンから出ているものとは,どのような基準によって識別 れば,すべてのものの所有者ではない」(教義と聖約50: できるか 神のものは人を教化する。つまり,霊的な意味で人を支 28)と述べられている。つまり,神のすべての戒めを守る かぎ ことが,永遠の命を受けるための鍵となるのである。 え,より良い生活へと引き上げてくれる。それは人を天の 御父にいっそう近づける。一方,サタンのものはまったく 「わたしたちは,神が諸天から語り人類に関する御心を 宣言するために,その身を落とされたことを信じている。 反対の作用をする。霊的な成長も英知も,教化されること もない。預言者ジョセフ・スミスはこの点について次のよ これは人類に公正かつ神聖な律法を授けるためであり,正 しい行いを促し,まっすぐな道をそれないように導くため うに教えている。 であった。こうして神はふさわしいときに,そのような 「ある種の霊につかれ,それが原因で倒れる人もよくい る。そして多くの場合,その霊が働いている間は,ほとん 人々を御自分のもとに取り上げられ,御子とともに共同の 相続人にしてくださるのである。…… ど生気がない状態である。そういう人たちはそれが神の力 であり,神から与えられた栄光に満ちた現れであると考え こうなると,わたしたちの側にも直ちに考えなければな らない問題が出てくる。神は時や時期をその胸中にすでに る。一体,何の現れだと言うのだろうか。どのような英知 定めておられる。そのときに神は,御自身の声に聞き従い, を授けられたと言うのだろうか。天の幕が引き上げられた だろうか。神の目的が明らかにされただろうか。天使を見 その戒めを守ったすべての人を神の日の栄えの安息に招き 入れてくださるであろう。この安息は完全でしかも栄光に て,言葉を交わしたとでも言うのだろうか。輝かしい将来 の出来事が示されたのだろうか。そうではない。ただ体に 満ちたものであり,そこに入り祝福を享受するためには, その王国の律法に従って準備をしなければならない。この 生気がなくなり,霊の働きが停止しただけである。そして, 紛れもない真実のゆえに,神は人類に律法を授けられた。 そういう人たちが再び立ち上がったときに伝えてくれる英 知といえば,『栄光あれ』とか『ハレルヤ』という叫び, もしそれに従えば,神の安息を受け継ぐための十分な備え ができる。」(スミス『預言者ジョセフ・スミスの教え』 あるいは何か支離滅裂な言葉でしかない。それでも,彼ら は『力』を受けていたのである。 pp.53−54) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約50:22−24 シェーカー派の人々は,超自然的な力あるいは霊に促 教義と聖約50:29−30 「願い求めるべきものはあな されてぐるぐると歩き回る。そして自分たちは神の御霊 によって統治されていると考えている。また,メソジス たがたに知らされるであろう」 主の前に汚れのない人々は確信をもって祈り,自分の祈 トのジャンパー派の人々は,跳びはねて,あらゆる種類 の不可解な行動をとる。原始メソジスト教会の人々はこ りに義にかなった答えが与えられることを期待することが できる。そして彼らの願いは,主の御心に添うものであれ の霊の影響の下に,天も裂けよとばかりの大きな叫び声 を上げる。一方,神の御霊によって心が動かされると考 ばかなえられるのである(教義と聖約88:64参照)。「しか し,このことを知っておきなさい。願い求めるべきものは えるクエーカー派(すなわち,友会)の人々は,静かに あなたがたに知らされるであろう。」(教義と聖約50:30) 座ったまま何も言わない。このようなことがほんとうに 神から発することなのだろうか。これらの中には,神に 理にかなうものであり,かつ主の思いと御心に合うもので あれば,それを祈り求めるべきである。義にかなった生活 認めていただけるようなものが何か一つでもあるだろう か。はっきりしているのは,このような混乱したものを を送っているならば,神の御霊を享受し,「祈るべき事柄 が彼らに示され」るであろう。なぜなら,「願い事がいっ 幾ら積み上げたところで,天の王国に入ることはできな ぱいあったからである。」(3ニーファイ19:24)そして, いということである。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 pp.203−204) そういう人々は,主の御心にかなうもので自分に必要なも のを願い求めるようになり,それが日々の祈りの言葉とな ジョセフ・フィールディング・スミス大管長も次のよう に教えている。「偉大な真理を表現するものとして, 『人を るのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教化しないものは,神から出てはおらず』(教義と聖約 教義と聖約50:31−35 識別するための鍵 50:23)という言葉に勝るものはない。また神によらない ものは暗黒である。それが,宗教という形を取ろうと,ま この箇所には,本章における最も重要な聖句が幾つか含 まれている。自分では理解できないような悪霊に出会った た論理,哲学,あるいは啓示という形を取ろうと,問題で はない。神から授けられた啓示で人を教化しないものはな 場合,あるいは偉大な霊的な力を持っているように見えて も言っていることが疑わしい人物に出会った場合,その人 い。」(『教会歴史と近代の啓示』1:201−202) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ はイエスの名によって,それが善い霊によるのか悪い霊に よるのかを神に尋ね求めるように教えられている。もし祈 教義と聖約50:25−28 人はどのようにして「すべて りの結果,それが神から遣わされたのでないということが のものの所有者」となることができるのか 主の戒めを守ろうと熱心に努める人は,イエス・キリス 分かれば,「その霊を制する力」は神に願い求めるしかな い。人は自分だけの力では,悪霊を支配することも,征服 118 第50章 することもできない。しかし,神はそのための十分な力を わたしたちに授けることがおできになるのである(教義と 聖約50:32参照)。それゆえに,人は主により頼まなけれ ばならない(34節参照)。識別したり,悪を克服したり, 誘惑に対抗したり,悪習を変えたりすることができるよう に,主は聖徒たちに必要な力を授けてくださるからである。 主はこの部分の最後の箇所で,「力」が与えられるのは, 神から「定められていないすべてのものに打ち勝つ」ため である,と言っておられる(35節) 。 識別のための原則と欺かれないようにするための方法に ついては,付録の特別講座Jにさらに詳しく説明されてい る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約50:40−43 「父がわたしに与えてくださ った者は,だれも失われない」 マリナー・W・メリル長老はこの慰めの言葉を採り上 げ,それを家族の場合に当てはめて次のように言っている。 「もし教会に対する義務をすべてに優先させるなら,わた したちは教会にとどまり,互いに交わりを深める良い機会 にあずかることになる。そしてわたしたちが互いの交わり を深めるなら,主の御霊との交わりにもあずかり,生活の あらゆる面で導きを受け,家族とともに真理の中にとどめ て置かれるのである。家族の中から,道をそれる者が出る かもしれない。彼らはわたしたちが期待するのとは別な道 「父がわたしに与えてくださった者は,だれも失われない」(教 義と聖約50:42) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約50:45 …る日が来る」 「あなたがたが……わたしを見… 人が神の顔を見ることができるという約束は,ここを初 を歩む。このようなことは,数多くの家族で起こっている めとして,『教義と聖約』の幾つかの箇所に出てくる(教 義と聖約67:10;88:68;93:1参照)。 のではないだろうか。父親や母親に喜びを与えないような 行動をとる息子や娘もいることだろう。そのような場合に オーソン・ホイットニー長老は,主が子供たちに御自分 を現される方法は,その人のふさわしさや準備によって異 は,どうしたらよいのだろうか。最善を尽くしていただき たい。しかし,子供たちが主の業に信頼を置かなくなった なる,と指摘している。 「モーセや(モーセ1:11)ジョセ 原因が自分たちにあるとは思わないでいただきたい。忠実 フ・スミスのように,神の顔を拝するという機会はだれに でも与えられるわけではない。ジョセフが会った御方にま であって主に心から願い求めるならば,わたしたちは自分 自身の救いを確実にするだけでなく,主からゆだねられた みえるためには,まずその前によく備えがされていなけれ ばならない。……わたし自身は,主が預言者ジョセフに現 息子や娘を救いに導く器ともなることができると,わたし は信じている。主は慈悲深い御方であり,わたしたちの祈 れたような方法で,自分にも現れていただきたいなどとは りを聞き,そしてわたしたちが主とその業に信頼を置いて 思ってもいない。むしろ,主から賜った様々な賜物を通じ て,主と交わりを持ちたいと願っている。わたしのために いるかぎり,わたしたちの望みをかなえてくださる。こう して,わたしたちが忠実であるならば,言うことを聞かず, 主から御言葉を受ける権利を持っている人は別として,主 がわたしの兄弟や姉妹に授けられた賜物を通じて主と交わ また時には道をそれている子供たちも,次第に群れの中に 戻って来ることであろう。主は,子供たちのためのわたし りたいとは思わない。主がわたしたちに話しかけてくださ るとすれば,それはわたしたちの準備と賜物と権能に見合 たちの祈りを聞いてくださるからである。」(Conference Report『大会報告』1900年4月,p.29) った方法で行われるであろう。わたしたちには皆,それら み こと ば のものが何がしか与えられているからである。」(『大会報 告』1910年4月,p.60) 119 エドワード・パートリッジ監督と 奉献の律法 第51章 1874年8月11日,pp.498−499) 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ オハイオ州に集合せよとの呼びかけは,1830年の12月に 注 解 すでに行われていた(教義と聖約37:3参照) 。1831年5月, 聖徒たちがこの呼びかけにこたえて集合し始めたため,新 教義と聖約51:2 なぜ神は生活のよりどころとなる律 法を人に授けられるのか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しく教会の監督に任命されたエドワード・パートリッジ ブリガム・ヤング大学の卒業式のときに行われた記念講 は,オハイオ州に聖徒たちが到着したときの保護について 責任を感じていた。奉献の律法に関する基本的な要素はす 演の中で,映画『十戒』の製作者であるセシル・B・デミ ルは,律法に対する現代人の考え方について次のように語 でに教えられてはいたが(教義と聖約42章参照),状況の 複雑化に伴ってもっと詳細にわたる教えが必要になった。 っている。「わたしたちは,律法というものを何か単に抑 圧的なもの,わたしたちの行動を制限するものとあまりに パートリッジ監督は預言者ジョセフ・スミスに助けを求 強く考えすぎる嫌いがある。時には,律法というものを自 め,ジョセフはこの件について主に尋ねた。そして与えら れたのが,現在教義と聖約第51章として知られる啓示であ 由の対極にあるものとして考えることすらある。しかし, これは間違った考え方である。神の霊感を受けた預言者や る。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 立法者たちは,律法に対してこのような見方はしない。律 法には二つ目的がある。一つは,統治することであり,も に記している。「主はこのようにして,シオンへの旅の許 う一つは教育することである。」(Commencement Address, Brigham Young University Speeches of the Year「卒業記念講 しを与える前の準備の段階として, ほんの一部ではあるが, 偉大な奉献の原則をお教えになり,その中で教会員を訓練 演」『ブリガム・ヤング大学年度講話』1957年5月31日, しようとされたのである。それは,この律法を守ることに よってこそシオンが築かれるからであった。東部からの聖 p.4) リチャード・L・エバンズ長老は,なぜ神が人に律法を 徒たちはこのようにして神の律法に従って組織されること 授けられるのかについて,次のように述べている。「愛の 深い御父はその子供たちに何を望んでおられるのだろう となったのである(教義と聖約51:4−6参照)。こうして オハイオのこの土地は『しばしの間』,すなわち主が彼ら か。父親というものは一体その子供に何を望むものであろ のためにほかの場所を与えて,そこへ移るように命じられ るまで,聖別されることとなった(教義と聖約51:15−16 うか。平安と健康と幸福,そして知識と進歩と成長ではな いだろうか。また永遠の命を受け,愛する人たちとともに 参照)。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史 と近代の啓示』1:204) 永遠の交流を持つことではないだろうか。果たして天国は これ以下のものだと考えることができるだろうか。 御父が, オハイオ州トンプソンでジョセフ・スミスがこの啓示を 愛する者たちのために,また『自分のかたちに』 (創世1: 受けたときにその場に居合わせたオーソン・プラットは, このときの経験を次のように報告している。「特別大きな 27)創造された者たちのために備えられた計画や望みは, これ以下のものだなどと考えることができるだろうか。御 騒音が聞こえたわけでも,目に見えるしるしが示されたわ けでもない。 ジョセフは朝の太陽のように穏やかであった。 父は,御自分の業と栄光は『人の不死不滅と永遠の命をも たらす』 (モーセ1:39)ことであると宣言された。これが しかし,啓示が与えられたとき,彼は自分の表情に以前に 究極の目標である。これこそ御父が与えられた福音の目的 は経験したことのない変化が現れたことに気がついた。ジ ョセフの顔は非常に白く,輝いているように見えた。わた のすべてなのである。」(Conference Report『大会報告』 1959年10月,p.127) しはジョセフが『新約聖書』を翻訳しているときには,何 度かその場に立ち合ったことがあり,なぜ『モルモン書』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約51:3 主は平等をどのように定義しておら の翻訳のときのようにウリムとトンミムを使わないのか, れるか 奉献の律法では,この世の事柄については人を平等に扱 いぶかしく思っていた。このような考えがわたしの胸中を よぎったとき,ジョセフはまるでわたしの心を見透かした うことになっていた。しかし,J・ルーベン・クラーク・ かのように,顔を上げ,主がウリムとトンミムを与えられ たのは,まだ霊感の霊についての経験が浅かったためであ ジュニア副管長が指摘するように,この平等という言葉に は特別な意味がある。「ある兄弟たちが道を踏み迷うのは ると説明した。しかし,今ではその御霊の働きを理解でき るまでに成長したため,その道具の助けを借りる必要がな 次のことである。兄弟たちの間の平等に関する啓示につい てはいろいろなところで言及されているが,この平等が明 くなったのである。」(Millennial Star『ミレニアルスター』 確に述べられているのは1か所しかないとわたしは思う。 み たま 120 第51章 この啓示(教義と聖約51:3)で言われているように,す 惑させる人がいつでも何人か存在した。そうした企てを防 べての人は『各人の家族に応じて,また各人の事情と入り 用と必要に応じて,平等』でなければならない(教義と聖 ぐために,公正で正当な規定を作り,合法的な証書を作成 してその規定を保護する必要があったのである。」 (スミス, 約82:17;78:5−6参照)。明らかにこれは, 『寸分の違い もない』平等ではない。『平等』とは,人を取り巻く環境, ショダール共著『注解』p.298) 付録の特別講座Lには,奉献の律法に関するさらに詳し 家族数,必要としていることが変わるにつれて変わるもの である。 」(『大会報告』1942年10月,p.55) い説明がある。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約51:8 主はなぜ「代理人」を任命されたか 教義と聖約51:4−6 なぜ主は教会における受け継ぎ を証書によって保証したいと考えられたのか 「教会員の多い地域では,代理人がその代表を務めるこ とになっていた。代理人の特別な職務は,民の食糧や衣服 J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,この原則 について次のように説明している。「この制度の基本原則 を購入するために必要な金銭の取り扱いであった。責任の 分担に際しては,大いなる知恵が示される。監督会が財産 は,財産の私有権にあった。各人が完全な権利を得て各人 を受け取り,その『管理の職』に従って分配し,それぞれ の受取分,すなわち相続財産,もしくは管理の職を所有し た。他人に譲渡することも担保に入れることもできたし, の管理の職から得た利益を受け取った。代理人は,財産の 不当な蓄積がないようにし,また全員の必要が満たされる あるいはまったく自分のものとして扱うこともできた。こ のように教会が全財産を所有するということはなかった。 ようにした。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.298) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 共同制度の下での生活は共同社会生活ではない。これは預 教義と聖約51:9 言者ジョセフ・スミスが語ったことである(History of the Church『教会歴史』3:28参照)。共同制度は共同社会制度 平等であったか 共同制度の下では,全員が独立し,神の王国を築くため ではなく,個人を中心とした制度なのである。」(『大会報 告』1942年10月,p.57) に自分たちの賜物と才能を用いる機会に十分浴していたの で,この点において皆平等であった。さらに,その地域に クラーク副管長はさらに,証書が交付されたのは国法の 要求を満たすためであり,また各個人に対して財産の私有 居住するすべての人の様々な才能や能力から同じ恩恵にあ ずかれるという点でも,皆平等であった。しかし,所有し 権を保証するためであった,と述べている。こうした文書 た財産や得た収入などにおいても皆等しかったと考えるこ によって契約を結ぶことがどれほど重要であったかという ことは,だれにでも共同制度を脱退する自由が与えられて とは間違いである。この制度に加入していた人々は愛と目 的と献身においては皆一致していたが,すべてが均等であ いたことを思い出せば,明らかである。監督と各個人との 間で文書で交わされた契約は,その人が共同制度に加入す ったということではない。7人の子供を持つ人が必要とす 聖徒たちはどのような意味において たまもの るときに交わした協定の条件を保証するものであった(教 義と聖約51:6参照)。そのため,たとえある人が,すべて の財産は最終的にはすべて神のものであるということを認 めたとしても,法律的かつ実際的な目的のために,その人 が証書に従って譲渡された分は,その人の個人財産となっ た。教会の所有ではなかったのである。また,共同制度に 加入した当初に一人一人に与えられた土地や建物といった 相続財産についても,これと同様な処置が取られた。そし て,管理の職から生じた剰余のものは,ことごとく教会に ささげられた。 「過ちを犯し,教会員としてふさわしくないと判断され た場合,その人はその組織内における地位も失った。しか し譲渡された分を保有する場合でも,証書に従って譲渡さ れた財産はそのままその人の所有となっていた。だが,貧 しい人と乏しい人の扶助のために区分けされた配当につい ては自分の所有であると申し立てる権利はなかった。」(ス ミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.298) 共同制度から脱退した人々が,最終的には教会に対して 反感を抱くようになることがよくあった。そのため合法的 な手続きに従ってこうした問題を処理することにより,個 人にとっても教会にとっても無用な争いを回避することが できたのである。「教会員の多い地域では,共同制度を脱 退しようという人や,訴訟などによって残りの教会員を当 J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は奉献の律法の下に おける管理の職と相続財産とについて説明した 121 るものは,結婚生活を始めたばかりの夫婦が必要とするも 教義と聖約51:11−14 監督の責任 のとは当然異なっているからである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約51:10 か 主が言われている「教会」とは何 教義と聖約51:17 主はなぜ聖徒たちにこの地で「多 年にわたって」働くよう勧告されたのか 「この文中で使われている『教会』という言葉は,教義 と聖約20:81;45:64やそのほかの所で使われている言葉 近々引っ越す予定で一時的にある地域に住んでいる人々 は,教会への出席やそのほかの責任を怠りがちであるかも と同様に,教会の『支部』のことである。この聖句の意味 しれない。「ここにはどうせ長くいないのだから」と自分 は,ほかのいかなる支部もコールズビル支部の所有する財 産を自分の財産であると主張することはできない,という の行動を正当化するのである。主が聖徒たちに望まれたこ とは,そこに長くとどまるかのように,福音に従って生活 ことである。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.299) し,オハイオ州で福音を人々に伝えることであった。 共同制度を実施する第一の責任は監督にあった。 「二人ずつ組んで行きなさい」 第52章 会の開催地をミズーリと指定された。 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年6月3日,オハイオ州カートランドにおいてきわめ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約52:3,7−8,22−32 この啓示が与えら れた目的 て規模の大きな大会が催された。この大会が非常に重要な ものであったことは,宣教師たちに手紙が送られて,皆カ この啓示が与えられた目的の一つは,何人かの兄弟を宣 教師としてオハイオ州からミズーリ州への旅に出るように ートランドに呼び集められたことからもうかがえる(教義 と聖約44:1参照)。また,ニューヨーク州の聖徒たちをオ 召すことにあった。全体では,この啓示の中で28人の宣教 師が召されているが,実際には30人が伝道に出て行った。 ハイオ州に呼び寄せるための努力も払われた(教義と聖約 最初に召しを受けた28人のうち,一人が伝道に出ず,その 48:2−5参照)。 この大会の最中に,新しい重要な職が数人の兄弟たちに 後さらに3人が召されたのである(教義と聖約53,55−56 章参照) 。 授けられた。メルキゼデク神権の大祭司の職である。預言 者ジョセフ・スミスは預言の霊を受けて,黙示者ヨハネが ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約52:9 教会で教える内容を決定するための 十部族の中にいて長い間の散乱した状態から帰還するため 基準 この啓示の中で,主は一つの基準を定められた。それは の備えをさせている,と預言した(History of the Church 『教会歴史』1:175−176参照)。預言者ジョセフは, 「一致 宣教師や教師たちが,教える内容を決めるための基準であ の精神に満ち」,また「信仰が強められた」と記録してい る(『教会歴史』1:176)。多くの人たちが主の戒めに従い った。まず,主が預言者や使徒たちに啓示された事柄,そ して自分が聖霊の力を通して学んだ事柄を教えるのであ たいと思っていたが,個々に何ができるかという点につい てはまだ明確にされていなかった。大会が閉会した翌日, る。人々が各自の個人的な考えを教会の教義だとして教え 始めたら,たくさんの問題が起こる。1837年に十二使徒会 預言者ジョセフは各人のための召しと指示を受けた。それ は手紙を送って,次のように警告している。「皆さんは神 が現在教義と聖約第52章となっている啓示である。 の使者ですから,人の戒めや人の教義や人の儀式を神の御 こと ば 言葉として教えることのないように注意してください。神 注 解 み ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の御言葉を研究し,それを説いてください。自分の意見を 述べてはなりません。自分で立証できるものでなければ, 教義と聖約52:2 大会はどれくらいの頻度で開かれた いかなる原則も宣べ伝えてはなりません。聖句から立証で 主は,教会の大会を3か月ごとに,あるいは指定された きることは,たとえそれがたった一つであっても,万の個 人的な意見にも勝るからです。わたしたちはさらに次のよ 頻度で開催するように命じておられた(教義と聖約20: 61)。通常,教会の指導者たちが大会の開催中に,次の大 うに申し上げます。『この時代の人々には,悔い改めのほ かに何も語ってはならない』という啓示によく従い,王国 会の日程と場所を決定した。この啓示の中で主は,次の大 に関するそれ以上の奥義については,神がそれを宣べ伝え か 122 の 第52章 教義と聖約52:33 「互いにほかの人の土台の上に建 てることのないように」 「特別な指示がほかの長老たちにも与えられた。二人ず つ出て行って,聴衆のいる所ではどこででも,神の言葉を 宣べ伝えるようにと命じられたのである。長老たちはミズ ーリ州の西部辺境地帯を最終目的地としていたが,各自異 なった経路を取り,ほかの長老が建てた土台の上に建てな いように,すなわちほかの長老の通った跡をたどらないよ うに命じられた。」(キャノン,Life of Joseph Smith『ジョ セフ・スミスの生涯』p.116) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約52:39 主はだれに「自分の手を使って働 きなさい」と命じておられるか。またこの戒めに従うこと によって,どのようにして偶像礼拝を防ぐことができるか この指示は,宣教師としてミズーリ州へ赴く責任に任じ られなかった長老たちに与えられたものである。この人た ちには,今いる所にとどまって,カートランドの聖徒たち の神権指導者となるよう,責任が与えられた。この兄弟た ちは,神権の奉仕に対する金銭的報酬は受け取らず,自分 の生活を支えるために自分の手を使って働いた。それによ 宣教師たちは二人ずつ出かけて行く って,教会に起こりがちな偶像礼拝と偽善売教を防ぐ手立 てとしたのである(2ニーファイ26:29参照) 。現代の読者 てもよいと言われるときまで構わずにおいてください。今 は,偶像礼拝という表現を奇異に感じるかもしれない。偶 像礼拝というのは,何世紀も昔にこの地上から姿を消した はその時ではないからです。 」(『教会歴史』3:395−396) あかし ブルース・R・マッコンキー長老も次のような証 を述 べている。「どのようなことであっても,聖句によってそ れが真実かどうかを見極めることができる。聖句と一致し ているものは,受け入れてよい。しかし,聖句の教えに反 するものは, たとえ当座はもっともらしく見えたとしても, 終わりまで持ちこたえることはない。したがって,それは 捨てなければならない。」(Mormon Doctrine『モルモンの 教義』p.765) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約52:14−19 欺かれないための規範 「規範」という言葉は,辞典では判断,評価,行為など の基準になるもの,と定義されている。この箇所で主は, 神の霊感を受けていることを示す目に見える特徴の一つ は,その人が福音の儀式に従っているということである, と教えておられる(教義と聖約50:10−27の「注解」,ま た付録の特別講座Jを参照する) 。 慣行であると考えられることが多いからである。しかし, 主は『教義と聖約』のはしがきの中で,末の日の特徴の一 つを挙げて次のように警告された。「すべての人が自分の 道を,自分の神の像を求めて歩む。……その本質は偶像の どんよく それである。」(教義と聖約1:16)またパウロは,貪欲を 偶像礼拝であると定義している(エペソ5:5;コロサイ 3:5参照)。言い換えれば,この世のものや名声や権力に 心を奪われ,神はもはや至高者ではないと考えるようにな ると,その人にとってはそうしたものが神々となってしま う。そして,それを礼拝し,信じるようになる。この聖句 が言おうとしているのは,もしオハイオ州にとどまった長 老たちが自分の手を使って働くことをしなかったならば, 彼らもこの種の貪欲,すなわち偶像礼拝の罪に問われるで あろうということである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約52:43 ておられるのか 主はここでどこの町のことを言っ 教義と聖約42:35の「注解」を参照する。 123 世を捨てるようにとの, シドニー・ギルバートへの召し 第53章 ない場合もよくある。シドニー・ギルバートの願いは無視 歴史的背景 されなかった。主が教会における彼の召しと選びを明らか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ アルジャノン・シドニー・ギルバートは1830年に福音の にしてくださったからである(教義と聖約6:22−24参 照)。 もとに導かれたが,それ以前の経歴についてはほとんど知 られていない。シドニー・ギルバートはその後,オハイオ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約53:2 「世を捨てなければならない」とは 州カートランドで「ギルバート・アンド・ホイットニー」 どういう意味か 社の共同経営者として成功を収めていた。 教会に加入した後,シドニー・ギルバートは長老に聖任 「世を捨てなければならない」という言葉は,主と聖約 を交わした人々に対して与えられる戒めである。そのよう され,ミズーリ州へ派遣された。土地を購入し,小さな店 を経営するためである(教義と聖約57:8参照) 。暴徒たち な人たちは,堕落した世の標準や習慣を捨てなければなら ない。ジョージ・Q・キャノン長老は,この教えを霊的な が活動を始めたとき,彼は要求に応じて店を閉め,一時的 再生という教義に関連づけて,次のように述べている。 に暴徒たちを静めるのに貢献した。1833年7月23日,彼は ほかの仲間とともに,自ら進んで聖徒たちのために人質と 「わたしたちは再び生まれて,新たな心を自分の中に持つ 必要がある。わたしたちの中には古いパン種が多すぎる。 なった(History of the Church『教会歴史』1:391,394脚 注)。彼は献身的で忠実な人物であって,ミズーリ州の迫 わたしたちはまだ本来の姿に生まれ変わっていない。生ま れ変わることの必要性を,信じていないのだろうか。福音 害の折には, 自分の持ち物をすべて犠牲にしたほどである。 の影響の下にキリスト・イエスにあって新しく造られた者 にならなければならないということを,信じていないのだ しかしながら,説教の能力には自信がなく,ある記録によ の れば,「異邦人に福音を宣べ伝えに行くくらいなら死んだ ろうか。福音を理解している者なら皆,信じていると言う 方がましだ」と言ったと伝えられている( 『教会歴史』2: 118) 。皮肉なことに,その後彼はコレラにかかって死亡し だろう。あなたがたは再び生まれなければならないのであ る。自分の中に,いわゆる新しい望みと新しい心を持たな た。ヒーバー・C・キンボールは,自分の日記の中に「主 ければならないのである。だが,現実はどうだろうか。末 なら 日聖徒であることはおくびにも出さず,世の生き方に倣っ は彼の言葉どおりに彼を取り上げられた」と記している。 B・H・ロバーツ長老はギルバート兄弟について次のよう ている者もいる。教会員とは名ばかりで,世の中の人々と に書いている。「歴史書の記述やキンボール長老の日記に 書かれている内容が,アルジャノン・シドニー・ギルバー まったく区別がつかない人が数多くいる。欲求,考え,望 み,感情などが世の人々とまったく同じなのである。神は ト兄弟に関する誤解を生み出す原因となっている。実際に しもべ はこの神権時代において,主にとって彼ほど献身的な僕は わたしたちにこのようなことを望んでおられるのだろう か。そうではない。神が望んでおられるのは,わたしたち そういなかった。 」(『教会歴史』2:118脚注) が新しい心と新しい望みとを持つことである。神の福音を ジョセフ・スミスは,シドニー・ギルバートの求めに応 じて,第53章の啓示を受けた。シドニー・ギルバートは自 受け入れたそのときに,新しい人間となり,まったく新し 分が教会で何をしたらよいのか知りたいと思ったのであ る。啓示は非常な興奮のさなかに与えられた。霊的な大会 が終わったばかりであり,多くの人たちにミズーリ州へ行 く責任が与えられ,そこでさらに主から指示を受けること になっていたからである。この啓示によって,アルジャノ ン・シドニー・ギルバートもミズーリ州へ行くよう召さ み わざ れ,そこで監督の倉を管理する代理人として御業を助ける ことになった。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約53:1 「わたしはあなたの祈りを聞いた」 み こころ 多くの人々は自分自身に対する主の御心を知りたいと, 心ひそかに願っている。しかし多くの場合,その答えは非 常に神聖なものであり,それについてほかの人と話ができ 124 シドニー・ギルバートの所有していた店。彼はここで教会の実 務面の運営に当たった い動機に啓発されて,神の約束にぜひともあずかりたいと 人や家族に伝道して成功を収めたという記録が残っている いう信仰を持つことこそ,求められていることなのであ る。」(Conference Report『大会報告』1899年10月,p.50) (『教会歴史』2:119参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約53:3 神権への聖任は,人の奉仕のために 教義と聖約53:4 ったか 教会の「代理人」の義務とは何であ 召されることである シドニー・ギルバートに与えられた指示は,長老の職へ シドニー・ギルバートの召しは,教会のために金銭を受 け取り,土地を購入することであった。彼は,ミズーリ州 の聖任を受けたら,その職に伴う権能によって信仰と悔い の教会における実務的な事柄の運営に当たって,エドワー 改めと罪の赦しを宣べ伝えよ,というものであった。しか し,彼は自分は福音を説くには不向きであるという気持ち ド・パートリッジを助けることになっていた(教義と聖約 57:6−9参照)。 ゆる を持っていたため,この召しに完全にこたえることはでき なかった。しかし,彼がコネチカット州ハンチントンで友 「あなたは,わたしが任命した職に しっかりと立たなければならない」 歴史的背景 第54章 ニューエル・ナイトは日記にこう書いている。『コプリー ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ という名の男はそこ〔トンプソン〕に非常に広大な土地を 所有しており,それを聖徒たちに提供してくれた。かくて ニューヨーク州にいる聖徒たちは,オハイオ州に集合す 契約が成立し,初めは誠意をもってそれが遂行されていっ るように命じられていた(教義と聖約37:3;38:32参 照)。主はオハイオ州にすでに住んでいた聖徒たちに命じ たが,少ししてコプリーが約束を破ったため,わたしはジ ョセフ兄弟に会いにカートランドまで出向いた。』(Scraps て,新しい聖徒たちの到着に備えさせていた。すなわち, 各自の土地を移住者たちに分け与えるように,もし分け与 of Biography『伝記断章』5章。この本の中にはニューエ ル・ナイトの日記も収められている。)この件について, える土地がなければ,土地の購入の手助けをするように命 当時の教会歴史家ジョン・ホイットマーは次のように書い じられたのである。コールズビル支部の会員たちは,指示 どおり忠実にオハイオ州トンプソンに到着し,ほかの教会 ている。『このとき〔6月初旬〕,オハイオ州トンプソンの 教会はリーマン・コプリーの不従順のために大きな問題に 員が提供してくれた土地に住居を定めた。しかし,間もな くその申し出は撤回され,コールズビルから来た聖徒たち 遭遇していた。彼が以前に同意していたとおりのことを行 わず,そのために教会全体が混乱に陥ったのである。その はやむなくほかの土地に居住の場を求めなければならない 結果,主は預言者ジョセフを通じて語られた。』この後, ジョン・ホイットマーはニューエル・ナイトに与えられた ことになった。 ニューエル・ナイトは,コールズビル支部の人々から指 名されて,これから先どういう行動をとったらよいか主に 伺うようジョセフ・スミスに依頼することになった。この 啓示を引用している(John Whitmer’s History of the Church 『ジョン・ホイットマーの教会歴史』8章) 。」(History of the Church『教会歴史』1:180脚注) 一連の出来事について,B・H・ロバーツは次のように記 録している。「トンプソンの聖徒たちがどのような過ちを 注 解 犯していたかを正確に知るのは難しいが,心の底に利己心 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ や反逆心があったことは確かである。そしてリーマン・コ プリーとエズラ・セアが直接それに関与していたのも事実 教義と聖約54:2 に任命されたか である。コールズビル支部の会員は,オハイオの集合の地 に到着した際にカートランド近郊のトンプソンに全員一緒 ニューエル・ナイトは,教義と聖約38:34−36に与えら れている指示に従って,コールズビルの聖徒たちを指導す に住むよう勧告された。……トンプソンにはコールズビル る職に任命されていた。 からの移住が始まる前から住んでいた人もいたが,その中 にコールズビルからの聖徒たちとともに奉献と管理の律法 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約54:3 どのようにして敵から逃れるか を取り入れた者がいたことは疑いない。そして後に,この 聖約は彼らによって破られることになるのである。これら コールズビル支部の会員たちは,敵から逃れなければな らないと警告された。この敵が具体的にだれなのかは明確 の人々の中にリーマン・コプリーとエズラ・セアがいた。 にされていないが,その敵から逃れる方法ははっきりと示 ニューエル・ナイトはどのような職 125 された。預言者ジョセフ・スミスは,救いとは敵に勝つこ とであると教えている。 「救いとはすべての敵に打ち勝ち, 敵を足の下に踏みつけることにほかならない。この世にあ ってすべての敵を足の下に踏みつける力を持ち,また来る べき世にあってすべての悪霊に打ち勝つ知識を得るとき, わたしたちはイエスの場合のように救われる。イエスはす べての敵を足の下に踏みつけて統治されることになってい た。そして最後の敵は死であった。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.297) また別の機会に,預言者ジョセフはこう言っている。 「救いとは人がすべての敵から救われることである。とい うのは,人は死に対して勝利を収めるまで,救われること はないからである。それを可能にするのは,神権に関する 知識だけである。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.305) コールズビルの聖徒たちがしばらく住んだオハイオ州トンプソ ンのコプリー農場に建つ古い建物 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約54:4 どんな聖約が破られたのか リーマン・コプリーとエズラ・セアの二人がコールズビ ルの会員のために土地を提供することに同意した後,その 約束を踏みにじったことは明らかである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約54:7−9 「旅に出なさい」また「ほかの 人々のように生計を求めなさい」 ルズビルの聖徒たちは,オハイオ州を出てミズーリ州に行 くよう指示を受けた。しかし,奉献の律法に関する主の戒 めが完全に実施される前にミズーリ州に到着することにな ったため,主は正式に共同制度に入るまでの間,どのよう に行動したらよいかをコールズビルの聖徒たちに教えられ たのである。 カートランドで土地を入手することができなかったコー ウィリアム・W・フェルプスが 召され,選ばれる 第55章 みこころ フェルプスは自分に関する主の御心を知りたいと願い,そ 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の結果,バプテスマを受けて,家族をミズーリ州へ連れて 行くよう指示を受けた(教義と聖約55章参照。この啓示 ウィリアム・ワインズ・フェルプスは,1792年2月17日, ニュージャージー州モリス郡ハノーバーで生まれた。彼は は,1831年6月にウィリアム・W・フェルプスとその家族 がカートランドに到着した直後に与えられたものである)。 『ウエスタンクリア』(Western Courier)という名称の新聞 の編集者として働いた。後に,ニューヨーク州で『レーク ライト』(Lake Light)および『オンタリオフェニックス』 ウィリアム・W・フェルプスはその偉大な才能をもって 教会のために働いた。彼は教会のためにミズーリ州で最初 の印刷会社を設立した。また教会の最初の新聞である『イ (Ontario Phoenix)という名の,反フリーメーソンの新聞 社を設立した。彼はまた,友人たちからニューヨーク州の ブニング・アンド・モーニング・スター』(Evening and Morning Star)を創刊した。『戒めの書』(Book of Com- 副知事候補として立候補するよう指名推薦を受けた。彼は その指名推薦を受諾しなかったが,きわめて貴重な経験を mandments)の出版に当たっては,その中に入れる啓示の 選択,準備,それに出版の手助けをした。また,「主のみ 積むことができた。 たまは火のごと燃え」や「賛歌を捧げん」をはじめとする 1830年3月26日に,ウィリアム・W・フェルプスは, 『モ ルモン書』の出版が間近であるという記事を読んだ。その 数多くの賛美歌を作詞した。 後,パーリー・P・プラットに会い, 『モルモン書』を1冊 購入した。そして『モルモン書』を読んだ後,オハイオ州 カートランドへ行き,そこでジョセフ・スミスに会った。 126 ささ て,理解することができる。しかし,もし背信が忍び込み, 霊の光が暗黒に変わったとしたら,『その暗さはどんなに 深いことか。』」(マッコンキー,Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』1:240) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約55:4 れるように」 「幼い子供たちも……教えを受けら ウィリアム・W・フェルプスは,主から受けた責任につ いて次のように述べている。「一つの民として,わたした ちは待ち望んでいた結末に急速に近づきつつある。この結 末はほんとうは始まりと呼んでよいものかもしれない。今 のところ,指示に対して不従順であるという理由で非難さ れるものは,わたしたちには何もない。1831年に与えられ た啓示によって,わたしは『幼い子供たちも……教えを受 けられるように,この教会の学校のために書籍を選び,著 ウィリアム・W・フェルプス──初期の教会の新聞の編集者 作する仕事に携わる』よう召され,それ以後もさらに指示 を与えられてきた。わたしたちは今,この民の中から出て 行く準備をしているところである。わたしたちは世に出て 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約55:1 「神の栄光にひたすら目を向けて」 も義にかなって神に仕えることができる。それゆえ最初に しなければならないことは,わたしたちの子供たちを教え とはどういう意味か ることである。この子供たちは,昔のイスラエルと同じで ある。この王国を担って全世界に出て行くのは,この子供 「人は肉体の目によって光を見,その光によって現実の 世界を歩む。そして霊の目によって,永遠の命に至る霊の たちなのである。イスラエルに与えられた戒めのうち,約 束を伴った最初の戒めは,『あなたの父と母を敬え。これ 光の中を歩く。肉体の目に障害がないかぎり,人は物を見 ることができるし,日の光の中を歩むことができる。そし は,あなたの神,主が賜わる地で,あなたが長く生きるた て,神の栄光にひたすら霊の目を向けているかぎり,言い 換えれば,罪によってその目が濁っておらず,正しいこと み たま にのみ目が向いているかぎり,人は御霊に関する事柄を見 めである』というものであった。わたしたちは義の道を子 供たちに教えるつもりである。そして,その教えを1冊の 本にまとめたいと思っている。」(Times and Seasons『タイ ムズ・アンド・シーズンズ』1845年11月1日,p.1015) 主は命じられ,また取り消される 第56章 受けたのである(History of the Church『教会歴史』1:186 歴史的背景 参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年6月3日の大会終了後,主は教会に啓示を与えられ 注 解 た(教義と聖約52章)。この啓示によって,何人かの兄弟 たちが二人ずつミズーリ州へ行くように召された。また旅 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約56:2 「自分の十字架を負ってわたしに」 の途中で福音を宣べ伝え,そしてミズーリで次の大会を開 従う 教義と聖約23:6の「注解」を参照する。 の くように命じられた。しかしながら,エズラ・セアは,オ ハイオ州トンプソンで起こった問題のために,その責任を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 果たそうという気持ちをなくし,伝道に出るための準備が 非常に遅れてしまった。そのため,同僚として召されてい 教義と聖約56:3−4 どのような状況の下で,主は一 度下した命令を取り消されるか たトーマス・B・マーシュはジョセフ・スミスのところへ ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように述べてい る。「神の戒めにどうしても従おうとしない反抗的な者だ 行き,その問題をどう解決したらよいか尋ねた。預言者ジ ョセフは主に尋ね,現在第56章として知られている啓示を けが,このような処置を受け,祝福を取り消されるのであ 127 る。約束された祝福まで取り上げられるのは,このような 者だけである。この少し後に与えられた第58章の啓示の中 で,『主は約束を守らない,約束はするが,果たされない』 しっせき と口癖のように言う人々を主は厳しく叱責しておられる。 もっともわたしたちの中にも同じ叱責を受ける者がいても 不思議ではない。今でも同じことを言っているからであ る。」(Conference Report『大会報告』1921年4月,p.113) 主はさらに,教会員でなくても,主の業を妨げる者は罪 に定められると言っておられる(教義と聖約124:49−50 参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約56:6−8 責任の変更 この部分で主は,教義と聖約第52章の22節と32節で与え た責任を変更された。最初ニューエル・ナイトの同僚とし て召されていたセラ・J・グリフィンには,トーマス・ B・マーシュが同行することになった。ニューエル・ナイ トはコールズビルの聖徒たちとともにミズーリへ行くよう に召された。また,エズラ・セアは宣教師の召しから解任 された。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約56:8−9 わがままをどう克服したらよいか 「わがままというのは,自分のことばかり考えることで ある。これは肉の欲の一つであって,救いを得る者は必ず 克服しなければならない。わがままな人間というのは,他 惜しみなくささげられる献金は地上の神の王国を支える ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人を犠牲にして自分自身の楽しみや利益や立場に執着す 教義と聖約56:17−18 きか 貧しい人の態度はどうあるべ る。人はその高慢とわがままとを悔い改めるよう戒められ ている(教義と聖約56:8) 。実際にこれを悔い改めるため ジョージ・アルバート・スミス大管長は,他人のものを 取ってはならないと警告した。そして,教義と聖約56:17 の方法は,教会の中で奉仕し,教会のプログラムを支える ために惜しみなく献金することである。」(マッコンキー, を引用した後,次のように言っている。 Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.701) 「これがアメリカにいるわたしたちの兄弟姉妹の間に多 く見られる状態である。わたしたちはいまだかつてないほ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約56:16 物質的な祝福に対する適切な態度 どの高賃金をもらい,良い家を持ち,教育を受ける機会に 恵まれている。しかし現在,自分で働こうとしないだけで この啓示の残りの部分は,エズラ・セアに与えられた指 示である。エズラ・セアのわがままが直接的な原因となっ なく,ほかの人まで働かないようにさせる人すらいる。そ て,コールズビルの聖徒たちがオハイオ州トンプソンを出 ういう人たちは,自分で働いて生活費を稼ぎ出そうとはせ ずに,金持ちからもらうことばかり考えているのである。 なければならなくなったため,主は彼に,そしてすべての 聖徒たちに,この世の富の適切な用い方について勧告を与 …… わたしたちはほかの人々のような悪い習慣に陥らないよ えられたのである。教義と聖約56:16では,富める者の義 務が説明されている。主は預言者たちに,貧しい人をどう うにしなければならない。ほかの人の物をもらおう,など と考えてはならない。十戒に照らして考えてみていただき 世話したらよいのかということについて,度々指示を与え じゅう ぶん てこられた。什 分 の一や断食献金などの原則は,末日聖 たい。『あなたはむさぼってはならない』という短い言葉 こんにち 徒が貧しい人への責任を果たすうえで大きな助けとなって がある。これが,今日非常に多くの人が抱えている問題で ある。彼らは他人のものをむさぼっているのである。実際, いる(1テモテ6:9−10,17−19;『モルモン書』ヤコブ 2:17−19;モーサヤ4:26−27参照)。 そういう人々の多くは,まさしく自分が財産を奪っている 人々から世話を受け,生活の糧を得ているのである。」 (『大会報告』1949年10月,pp.170,172) 128 インディペンデンス── シオンの中心の場所 第57章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年6月の大会が終わった後,一つの啓示が与えられ, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約57:1−3 インディペンデンスはシオンの それによって何人かの宣教師たちがミズーリの地へ行くよ うに召された。主がそこでシオンの中心の場所を啓示され 「中心の場所」である 「インディペンデンスは,ミズーリ州の中でも特に魅力 ることになっていたのである(教義と聖約52章参照)。 的で健康的な地に位置する町である。……それは古い町で, ジョセフ・スミスも啓示によって,シドニー・リグドン とともに旅をするように召されたが,ミズーリの地へ到着 1827年に開かれ,1831年の時点ではまだほんの小さな村に すぎなかった。現在ここはカンザス・シティーの郊外に当 後,次のように記録している。「兄弟たち〔オリバー・カ ウドリ,ピーター・ホイットマー・ジュニア,ザイバ・ピ たる。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注解』 p.331) ーターソン,フレデリック・G・ウィリアムズの4人。こ 教会の初期の時代,ジャクソン郡はよくシオンの「中心 の4人は宣教師としてミズーリに来ていた〕との再会は, 長い間待ち焦がれていたことであっただけに感動的なもの のステーク」であると言われていた。しかし,この言い方 は厳密に言うと正しくない。スミスとショダールはこう指 で,涙また涙であった。兄弟たちが一つの心で集うとは, これほどすばらしく,心楽しいことなのか。しかし懐古の 摘している。「ジャクソン郡にはいまだかつてステークが 組織されたことがないということを思い起こすとよいであ 情もまた禁じ得なかった。高度な文化を欲しいままにして ろう。イザヤ33:20と54:2のたとえに従って考えれば, いた東部での生活を後にし,わたしたちは今合衆国の西の くらやみ 果て,辺境にたたずんでいる。そして行く手には,暗闇の 『シオンの中心のステーク』について語ることには無理が ある。『シオンのステーク』という言葉は,1831年11月に 中にただただ広漠たる荒れ野が続いている。このような所 に1世紀ほども文化に取り残されて住む人々(レーマン人) 与えられた啓示(68章)の中で初めて使われている。これ は,天幕をつなぎとめる杭にたとえられる。……シオンが は,堕落し,知性が低下し,野蛮である。わたしたちのよ 天幕である。では,どうしたら天幕がステーク(杭)にな うに進んだ文化を身に付けた者に対して警戒心を抱くのは 当然である。彼らは教養や気品や宗教心の恩恵を受けず, れるだろうか。」(『注解』p.189脚注)言い換えれば,天幕 はシオン自体の象徴であって,杭すなわちステークは,シ 放浪しているのである。 預言者は悲しみのあまり絶叫する。 『いつ荒れ野はばらのように花咲くのでしょうか。いつシ オンを強めるユニットの象徴である。したがって,シオン については「中心のステーク」と言うよりも,「中心の場 オンはその栄光のうちに築き上げられ,また,終わりの時 にすべての国民がやって来るあなたの神殿は,どこに立つ 所」と言った方が,はるかに正確である。 次の地図は,インディペンデンスで最初に定められた神 くい のでしょうか』と。わたしたちのこの懸念は次の啓示によ 殿用地(網目の部分)と当時の2万5,500平方メートル以上 って取り除かれた。〔教義と聖約57章〕」(History of the Church『教会歴史』1:189) の区画内,またその隣接地域内における重要な敷地の,現 在 の 所 有 状 況 を 示 し て い る ( コ ー ワ ン , Doctrine and この啓示が与えられる以前に,教会員は『モルモン書』 を読んで,新エルサレムがアメリカ大陸に建てられること Covenants『教義と聖約』p.93,およびユタ州ソルトレー ク・シティー,末日聖徒イエス・キリスト教会不動産部重 を知っていた(3ニーファイ20:22;21:23−24;エテル 要ファイル510−8578参照)。 13:1−12参照)。また,1830年9月には,聖なる町が「レ ーマン人に近い境の地」 (教義と聖約28:9)に建てられる インディペンデンスの神殿用地とその周辺 と主から教えられていた。そしてついに,新エルサレムの 正確な場所を啓示するという約束を受けたのである(教義 1.チャーチ・オブ・クライスト(神殿用地) 2.復元イエス・キリスト教会の講堂 と聖約42:62参照)。それゆえ,教義と聖約第57章の啓示 3.末日聖徒イエス・キリスト教会訪問者センター は教会員から大きな喜びをもって受け入れられたのであっ た。 4.復元イエス・キリスト教会神殿建設用地 5.新装なったミズーリ州インディペンデンス・ステーク センター 6.伝道本部 7.末日聖徒イエス・キリスト教会礼拝堂(1914年奉献) 8.伝道本部の事務所 9.復元イエス・キリスト教会の所有地 129 ユニオン通り リバー通り 以下の聖句には,レーマン人の先祖がユダヤ人であるこ とが述べられている。オムナイ1:12−17;モーサヤ25: 1−2;ヒラマン8:21;3ニーファイ2章;15章;4ニーファ レキシントン通り イ1:17。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約57:5 永遠の受け継ぎ 教義と聖約38:17−20;101:17−18を参照する。 1 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 4 ウォルナット通り 3 6 7 8 プレザント通り 2 5 10 教義と聖約57:9 許可書を手に入れる 「ギルバート兄弟には, 『許可書を手に入れ』るようにと いう指示も与えられている。この認可書が必要であったの は,恐らくは当時の法律によるものであり,彼が自分で雇 った店員やそのほかの人々によって,民のもとへ商品を輸 送するためであった。」(スペリー,Compendium『概要』 p.234) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ パシフィック通り 教義と聖約57:13 なぜオリバー・カウドリにウィリ アム・W・フェルプスを助けるようにという指示が与えら れたのか 「第55章4節でフェルプスは,カウドリを助けるよう任命 10.末日聖徒イエス・キリスト教会の所有地 末日聖徒イエス・キリスト教会の所有地 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約57:4 「ユダヤ人と異邦人の間をまっすぐ 走っている境界線」とはどこを指すのか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この表 現について次のように説明している。「これはジャクソン 郡におけるレーマン人と入植者とを隔てる境界線のことを 言っている。当時,合衆国政府はミズーリ川の西の土地を インディアンに与えていたが,この直後に再び彼らから取 り上げている。イスラエル人であるレーマン人は,ここで はユダヤ人と言われている。そして,異邦人とは川の東側 に住んでいた人々であって,その多くは無法を売り物にす る人々であった。」(Church History and Modern Revelation 『教会歴史と近代の啓示』1:206) シオンの地 歴史的背景 を受けている。ところがここでは,カウドリの方が助ける ことになっている。ここには別に矛盾はない。神は,同じ 業の中で同僚として助け合うようにと言っておられるだけ なのである。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.330) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約57:14−15 シオンに集まることになって いる家族とはだれのことか 「ここでは,監督とその代理人がコールズビルの聖徒た ちを受け入れる準備をするように指示を受けている。コー ルズビルの聖徒たちは,神の戒めに従順に従い(54:7− 8),シオンへ向かう途中であった。」 (スミス,ショダール 共著『注解』p.330) シオンの確立については,付録の特別講座Bで詳しく説 明されている。 第58章 ム,ハム,ヤペテの子孫がいる。レーマン人であるインデ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ィアンはセム,相当な数に上る黒人はハムの子孫である。 また近隣諸国からいろいろな人種が集まり,西部への開拓 預言者ジョセフ・スミスは,この章が与えられた経緯を 次のように説明している。 者は,そうしたすべての人種の集まりのようであった。こ の会で2人がバプテスマを受けた。完全な福音を以前に聞 「ジャクソン郡到着後の最初の安息日,ウィリアム・ いて信じていた人たちである。 前の啓示の後半(57:15)に明らかにされているよう W・フェルプス兄弟が合衆国の国境を越えて来た西部の聴 衆に説教を行った。合衆国にはあらゆる種族,すなわちセ 130 に,この週にコールズビル支部の会員たちとシドニー・リ 第58章 グドン,シドニー・ギルバートとその妻,モーリー長老, ブース長老が到着した。そしてわたしは次の啓示を受けた 〔教義と聖約58章〕。」(History of the Church『教会歴史』 講話』6:7) ブルース・R・マッコンキー長老は総大会の席上,現世 において聖徒が受ける試しについて,次のように説明して 1:190−191) いる。 「聖徒であると罪人であるとを問わず,現世の試みには 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ すべての人が遭う。しかも,福音を受け入れた人々の試み と試練は,世の人々に課せられるものよりはるかに大きい 教義と聖約58:2−4 ことが往々にしてある。アブラハムはその独り息子をいけ かんなん 主はなぜ御自身の民に艱難 が臨 むのを許されるのか ジョージ・Q・キャノン長老は次のように述べている。 「聖徒は,神の思いが人の思いとは異なることを常に覚え ておかなければならない。神は故意に御自分の子供たちを にえにするよう求められた。またリーハイと家族は,所有 の土地と富とを置いて荒れ野に入った。いつの時代の聖徒 も,持ち物すべてを祭壇にささげるように命じられてきた。 時には,自分の命さえも求められたのであった。 苦しめるような御方ではない。もし神が現在の苦難や試練 わたしたちの受ける個人の試練について言えることはた を耐えるように望んでおられるとすれば,それは別の形で 必ず襲いかかってくる,より大きな試練を免れることがで だ,わたしたちすべてには,あらゆる事柄を知っておられ, 万事好都合にしてくださる神の知恵によって,それぞれの きるようにするためである。また,今受けている祝福を何 か取り上げられるとすれば,それは将来にそれよりもはる 状況に応じた試みが与えられるということである。主はわ たしたち聖徒に対して,次のように言っておられる。『あ かにすばらしく輝かしい祝福を与えるためである。」(Mil- なたがたがふさわしいと認められるように,死に至るまで lennial Star『ミレニアルスター』1863年10月3日,p.634) 聖徒たちは,主の勧告を軽んじた場合に,それに対する もわたしの聖約の中にとどまるかどうか,あらゆる点であ なたがたを試すことを,わたしは心の内に定めたからであ 懲らしめとして苦しみを与えられることが時折ある(教義 と聖約101:1−8参照)。しかし主は,そうした艱難がへり る,と主は言う。 もしあなたがたがわたしの聖約の中にとどまらなけれ くだる心と悔い改めをもたらすことを望んでおられるので ある。また,たとえ聖徒たちが義にかなった生活をしてい ば,あなたがたはわたしにふさわしくないからである。』 (教義と聖約98:14−15)…… ても,ほかの人々の不義が原因となって,試練が臨む場合 しかし主の民が追い立てられ,迫害されることが時折あ もある。艱難は聖徒たちに霊的な成長と人格形成の機会を けんそん 与える。わたしたちに必要な謙遜さ,信仰,思いやり,忍 る。また主は故意に,忠実な聖徒たちが肉体的また霊的な 苦しみを受けるに任せておられる。それはあらゆる点で彼 耐,勇気,感謝の精神などは,艱難と迫害の精錬の火を通 してもたらされるものである。 らを試み,また死に至るまでも彼らが主との聖約を守るか どうか見るためである。そしてこれに耐えた者は永遠の命 聖徒たちは試練を通して,神と神の王国のために献身す を受けるにふさわしい者なのである。 ることや,喜んで試練を堪え忍ぶこと,進んで世のものを 捨て去ることを身をもって示し,それによって自分が永遠 しかしわたしたちがこの世で出あう事柄は何であろう と,ほんの一瞬にすぎない。そしてもしわたしたちが誠実 の祝福を受けるにふさわしい者であることを立証すること ができる。その献身は,各自のふさわしさを証明するとと であり,忠実であるならば,神はやがてわたしたちを高く 引き上げてくださるのである。わたしたちが失ったものや もに,永遠の命を得るのに必要な信仰をも強めてくれるの 受けた苦しみはすべて,復活のときにわたしたちに償われ である。預言者ジョセフ・スミスは次のように教えてい る。 るであろう。 」 (Conference Report『大会報告』1976年10月, pp.158−160) 「次のように申し上げる。すべてのものを犠牲にするこ とを求めない宗教には,命と救いに必要な信仰を産み出す ブリガム・ヤング大管長は,進歩するためには試練が必 要であることをよく理解していた。彼は次のように教えて 力はない。なぜならば,人が初めて存在するようになって 以来,命と救いを享受するのに必要な信仰は,すべてのこ いる。「聖徒たちは,試練を切り抜け,犠牲と呼ばれるも のを甘受するように求められるとき,物事をありのままに の世的なものを犠牲にしないでは得られなかったからであ 理解するなら,それらが自分に与えられた最良の祝福であ る。人が永遠の命を享受できるように神が定められたのは, この犠牲を通してであり,またこの犠牲をおいてほかにな ることに気づくであろう。」(Discourses of Brigham Young 『ブリガム・ヤング説教集』p.345) い。また人が,自分の行いは神の目から見て好ましいもの であると実際に知るのは,すべてのこの世的なものを犠牲 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約58:3−7,44 これらの聖句は,新エルサ にすることによってである。人が真理のために自分の持て レムが1831年には築かれないことを予示していたのだ るすべてを犠牲としてささげ,命さえもささげ,そして自 みこころ 分が犠牲をささげるように求められているのは神の御心を ろうか この問題に関する神の予知について,オーソン・F・ホ 行うことを望んでいるからであると神の前に信じるように なれば,そのときにこそ永遠の命を得るために必要な信仰 イットニー長老は次のように書いている。 「以上の出来事はすべて予見されていたに違いない。主 が得られるのである。」(Lectures on Faith『信仰に関する は,主の業にかかわるすべての事柄について予知しておら 131 れる。 民に新エルサレムを築くようにお命じになったとき, リ州のインディペンデンスを初めて訪れたとき,エドワー 主は民がその指示に対してどの程度の実行能力があるかに ついて,実際にその様子を御覧になった後と同じくらい御 ド・パートリッジは彼に同行した。このとき,シオンの地 で開かれた集会や大会の席上,パートリッジ監督は何度か 存じであった。主が驚かれたり,落胆されることはあり得 預言者の方針に強く反対し,預言者にその不信仰と頑固さ ない。『この世界のような幾百万の世界』を創造し,そこ あがな に人を住まわせ,贖い,栄光を与えてこられた全知全能の を激しく叱責された。事実,その場に居合わせた背教者エ ズラ・ブースは,監督と預言者のやり取りを,自分の離反 御方は,わたしたちのこの小さな星の上に何が起ころうと も,決して驚かれたりはしない。 を正当化する口実にしたのである。彼はパートリッジ監督 にあてた手紙の中で,そのときの様子について触れている かの全知なる御方は,シオンの建設者たちがどのような ことを行うか,あるいはどのようなことを達成できずに終 が,その手紙は反モルモンの文書に何度か掲載されている。 監督はさらに,その『不信仰と心の暗さ』を叱責され,ま わってしまうか,前もって知っておられたので,それに従 だ預言者とともにミズーリに滞在していた1831年8月に与 って計画を立てられたのである。確かに,シオンの贖いに 関しては時期尚早であった。聖徒たちには新エルサレムを えられた啓示の中で,重要な責任から転落する恐れのある ことを警告された〔教義と聖約58:14−15〕 。」(クラーク, 築く備えがまだ整っていなかった。彼らを管理するために 神が定められた律法に対して,彼ら自身が罪を犯していた Messages of the First Presidency『大管長会のメッセージ』 4:113) ことは明らかである。 」(Saturday Night Thoughts『土曜の夜 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の思い』p.187) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約58:16−18 エドワード・パートリッジは どのような使命を託されたのか 教義と聖約58:8−11 主の晩餐 古代から祝宴の中に見られる二つの象徴,すなわち「肥 エドワード・パートリッジは,ワードの監督という意味 での監督ではなかった。というのは,当時は,現在のよう えたもの」と「澱がよく精製されたぶどう酒」は,主の晩 な監督は一人もいなかったからである。当時教会はまだ非 餐にも当てはまる。二つの象徴は明らかに富を表し,この 祝宴がきわめて重要なものであることを示している(教義 常に小規模であり,彼は教会全体に対する監督であった (教義と聖約41:9参照)。間もなくニューエル・K・ホイ と聖約58:5−14;65:3;マタイ22:1−14;黙示19:7− 9参照)。 ットニーがカートランドの監督に召されたが,エドワー ド・パートリッジはそのままミズーリの監督の任にとどま ばんさん おり 「肥えたもの」とは,王族や大金持ちの口にしか入らな しっせき った(教義と聖約72章参照) 。 い脂肪のよく付いた,非常に味のよい肉のことであり,骨 髄を添えることによってさらに味が引き立てられた(カイ パートリッジ監督のおもな責任は,奉献の律法の実施に あった。聖徒からのささげ物を受け取り,彼らに管理の職 ル,デリッチ共著,Commentary『注解』第7巻:イザヤ 書,Prophecies of Isaiah「イザヤの預言」p.439参照)。 を与えるのである(教義と聖約41:9−11;42:30−35, 71−73;51;57:7,15参照)。彼にはまた,主の律法に従 「澱がよく精製されたぶどう酒」とはヘブライ語の「シ ュマリーム」という言葉で表されるものである。「シュマ って人々を裁く責任もあった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ リーム」とは元来,東洋の国々の王宮の宴において非常に 教義と聖約58:19−23 珍重されたゼリーやジャムを意味する。ここでは発酵が済 んだ後に,ぶどうの果皮のかすからできるものを指し,ぶ ように求められたのはどのような律法か 聖徒たちはこれより以前に,福音と奉献の律法を含む神 どう酒の持ちをよくし,その色と味を際立たせた。このか すから作った濃厚なジュースはこしてから,祝宴に出され の律法を守るという聖約を交わしていた(教義と聖約42: 30−42,53−55;59:1−24参照)。彼らはまた,「今ある ることがよくあった。このかすが持つ保存力は,こされた 権力に従い」 (教義と聖約58:22) ,その地の法律に従って ものかどうかを問わず,ジュースが強い酢に変質していく のを防ぐ作用をしたのである(ファローズ,Bible Encyclo- 生活するよう求められた。ジョセフ・フィールディング・ スミス大管長は,次のように述べている。 pedia, s.v. “wine”『聖書百科事典』「ぶどう酒」p.1724;ゲ セニウス,Hebrew and English Lexicon of the Commentary 「聖徒たちに与えられたのは,シオンの地においては神 の律法を守らなければならないという,非常に厳しい戒め 『旧約聖書ヘブライ語−英語辞典』pp.1036−1037;カイ であった。『だれも自分を支配者であると考えてはならな ル,デリッチ共著『注解』第7巻:イザヤ書「イザヤの預 言」p.439;Encyclopedia Judaica『ユダヤ百科事典』6: い。そうではなく,裁く者,言い換えれば,勧告する者や 裁きの座に着く者を,神に神の思いのまま治めさせるよう 1418参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ にしなさい。』今のわたしたちはこの戒めの厳粛さを理解 していない。聖徒たちは,初めから聖なる町,すなわち新 教義と聖約58:14−16 教会の最初の監督であるエド ワード・パートリッジが犯した罪は何か エルサレムが建設されると定められていた地に集合するよ うに求められていた。この地は奉献されていた。そして, 聖徒たちがシオンの地で守る ジョセフ・F・スミスが教会を管理していた当時,大管 そこに集合した人々は,神の律法に従うという聖約の下に 長会は次のような声明を出して,エドワード・パートリッ ジが果たしていた役割を明らかにした。「預言者がミズー 置かれた。その戒めは幾度となく彼らに向けて繰り返され たものであった。指示を受けたシドニー・リグドンが立ち 132 第58章 上がり,会衆に次のように尋ねた。 教義と聖約58:30−33 『皆さんは感謝の気持ちをもって,この地を主からの受 け継ぎの地として受け入れますか。 』 に従順でなければならない 「聖徒たちは時として,自分の義務を怠り,神の戒めを 主の祝福を受けるには,戒め 『この地において神の律法を守ると聖約しますか。それ は皆さんがこれまで住んでいた所では与えられたことのな 守らないことがある。それでも彼らは,神が忠実な者に与 えられた約束が自分たちに果たされるように望むのであ いものです。 』 『やがてここにやって来るほかの兄弟たちが神の律法を る。そして,神がそうしてくださらないと,不平を並べ立 てる。彼らは祈りを怠り,集会に出席せず,知恵の言葉を 守れるように助けると聖約しますか。』 破り,什 分 の一を納めようとしない。ところが,病気が じゅう ぶん やみ 会衆はこれらの質問一つ一つに対して『はい』と答え, その後,この地は彼らの集合と受け継ぎために奉献された 闇のように襲いかかってきて,恐ろしい影がその行く手に いや 見えてくると,長老たちの癒しの儀式によって,すぐにも のである。主はこれらの戒めについては厳格な態度で臨ま れる。この聖約を空文化することは許されなかった。聖約 神の助けが与えられるように願うのである。それがかなえ られないと,反抗的な態度で『約束が果たされていない』 に従わない者には艱難がもたらされると定められていたの と言う。それに対して主は,『彼らの報いは下に潜み』と である。…… 教会員の多くは,この地において『神の律法を守る』と 答えておられる。彼らは『下に』報いを求めなければなら ない。天に求めることはできないのである。」(スミス,シ いう聖約を忘れてしまった。その聖約は彼らが絶対に守ら なければならないものだった。これによって彼らのうえに ョダール共著,Commentary『注解』p.340) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 苦難がもたらされた。迫害が起こり,ついには彼らは受け 教義と聖約58:42−43 継ぎの地から追い出されるに至った。その苦難は主との聖 約の中で警告されていたものであり,すべてではないが, 完全な赦しを約束しておられる 主は,心から罪を悔い改める者は赦されると言っておら 一部は彼らの不従順に起因するものであった。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』 れる。このすばらしい祝福は,キリストの贖 罪 を通して 与えられる。キリストは「すべての人に代わって……苦し 1:212−213) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ みを負い,人々が悔い改めることによって苦しみを受ける ことのないように」されたのである(教義と聖約19:16) 。 教義と聖約58:26−29 かんなん ゆる 主は心から悔い改める人々に しょく ざい 神はその民にすべてのことを 主は,悔い改める者の罪は覚えられないと約束しておられ お命じにはならない エズラ・タフト・ベンソン長老は次のように説明してい る(エゼキエル18:21−22参照)。 しかし,悔い改めるためには,完全に罪を捨て,それを る。「通常の場合,主は,包括的な目的や指針は示される が,その詳細や方法については,わたしたちが自分で見い 告白しなければならない。スペンサー・W・キンボール大 管長は次のように教えている。 だすよう望んでおられる。その方法や手順は,普通,研究 「だれであっても,いかなる過ちであっても,悔い改め と祈りによって,さらにまた御霊の促しを受けてそれに従 った生活をすることによって,次第に展開されるものであ るまでは赦しは与えられない。そして,自分をさらけ出し, 弁解や合理化をせずに自分の心や弱点を認めるまでは,悔 る。モーセの時代の民のように,霊的に進歩していない こんにち 人々には,数多くの点で戒めが必要であった。しかし今日, い改めたとは言えないのである。その人は自分が犯した罪 が重大なものであることを,自分自身で認めなければなら 霊的な面の警告を受けている人々は,その目的をしっかり ない。犯した罪をほんの少しでも過小評価せず,その重大 と見詰め,主や預言者たちから示された指針を調べ上げ, そして『すべてのこと』を命じられることなく,祈りの精 さを合理化せず,罪の重さを軽視せず,しかもその罪をそ のままの姿で捕らえて告白した場合,その人は悔い改めの 神で行動している。このような態度こそ,人が神のような 者となるための備えなのである。…… 準備が整ったと言える。悔い改めのいかなる要素も,罪の 自覚が完全に確立されるまでは価値の薄いものとなる。罪 時として,主は,子供たちが自らの意志で行動を起こす ことを心待ちにしておられる。そして,行動を起こさない の自覚があって初めて悔い改めが実りあるものとなり,次 い で 赦 し が 得 ら れ る の で あ る 。」( “Love Versus Lust” み たま 場合,人は大きな報いを失うことになる。その場合,主は, すべてのものを引き上げられるか,その行動を起こさなか った結果生じた苦しみを人に味わわされるか,あるいはま Brigham Young University Speeches of the Year「愛と情欲」 『ブリガム・ヤング大学年度講話』1965年1月5日,p.10) 主は心から悔い改める人を必ず赦される。キンボール長 た,もっと詳細にその計画を説明してくださるかすること であろう。しかし,わたしが恐れるのは,普通,主から詳 老は次のように言っている。 「教会員であるなしを問わず, この呼びかけに耳を傾ける人は,赦しの奇跡にあずかるこ 細にわたって説明されればされるほど,わたしたちの受け とができる。神は人々の目から苦悶,悔い,驚 愕,恐れ, る報いはその分だけ小さくなるということである。 」(Conference Report『大会報告』1965年4月,pp.121−122) 罪の涙をぬぐい取ってくださる。そして涙の目は乾いた目 に,不安で心配げな顔は満ち足りた笑顔となるのである。 く もん きょうがく 何という慰め,何という安らぎ。何という喜びであろう か。背罪や悲しみや罪の重荷に苦しんでいる人でも,主の もとに立ち返り,主について学び,主の戒めを守るならば 133 赦され,罪から清められるのである。またすべての人は, ギ,各種の野草,カエデなどが茂っている。かん木も美し 日ごとの愚かな行いや弱さを悔い改めることによって赦し の奇跡にあずかることができるのである。」(『赦しの奇跡』 く,スモモ,ブドウ,野性のリンゴ,カキなどが見られ る。 土壌は肥よくで,3フィートないし10フィート(約1から p.380) 付録の特別講座Eには,赦しについてさらに詳しく説明 されている。 3メートル)の深さまでよく肥えた黒土であり,粘土と砂 が混じっている。収穫は豊かであり,小麦,トウモロコシ, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約58:44−48,56 聖徒たちが皆性急にシ サツマイモ,綿,ほかにも一般的な作物が実る。また,馬, 牛,豚なども,あまり良い品種とは言えないが,かなりい オンの地に集まることのないようにと命じられたのはなぜ か る。これらのほとんどは,夏は広い草原で,また冬は低地 で草を食べて野生動物のようである。もちろん,人間が耕 すべての聖徒がシオンの受け継ぎを得る時はまだ来てい 作を始めている地は,人間の手が入っていない地に比べて なかった。その時が来るまでは「長年」を要するのである (教義と聖約58:44)。シオンが完全に確立されるまでに 野生動物が少ない。野牛や大鹿,鹿,熊,おおかみ,ビー バー,そのほかの小さな動物が時折見かけられる。七面鳥 は,多くの働き,準備,忍耐が必要とされる。教会はシオ ンにおいて,すべての聖徒に必要な土地を購入する力も資 やガン,白鳥,カモ,そのほかの鳥類が非常に多く,神の 子供たちの受け継ぎの地であるこの良き地を楽しい地にし 力もなかった。したがって,シオンの確立の前に伝道活動 ている。 を大いに進め,教会の力を増し加えなければならないので ある。聖徒たちは,「地の果てから人々を押し集め」るよ 1年のうちのほぼ4分の3は穏やかで気持ちのよい気候で あり,シオンの地としても,北緯39度,西経は16度から17 うに命じられた(第45節)。すなわち伝道活動を通して, シオンを確立する備えとして,イスラエルの家の散らされ 度の間であり,アレゲーニー山脈とロッキー山脈,また大 西洋と太平洋の両方からほぼ等距離の位置にある。のろい た者を集めなけばならないのである。教会は今もその途上 が取り去られた暁には,この地は地上で最も祝福された場 にある。 この業に関する預言は,1ニーファイ22:3−12;3ニー 所の一つとなるであろう。冬も同緯度の大西洋岸諸州より 温暖であり,しのぎやすい気候である。主は勤勉な働きに ファイ21章に述べられている。付録の特別講座Bには,シ オンの確立に関する詳しい説明がある。 対しては祝福を授けてくださるが,この地に住む聖徒たち の徳がその祝福に値するものであれば,それだけで,彼ら ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は人生に喜びをもたらすものを豊かに受けることができる 教義と聖約58:50−51 にとの戒め のである。 」(『教会歴史』1:197−198) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ シオンの地の詳細を書くよう シドニー・リグドンは主から,ミズーリの地の詳細を書 みこころ み たま くように,またその地に関する主の御心を記すために御霊 教義と聖約58:52−53 得すべきものである シオンの地は購入によって獲 に耳を傾けるように命じられた。さらに彼が全教会員にあ てた手紙を書き,それに土地購入資金獲得のための同意書 主は聖徒たちに,シオンの中心の場所であるミズーリ州 インディペンデンス周辺の土地を購入し,法律的にも権利 を添えることになった。写真が手に入らない時代であった を明確にするように命じられた。そうすれば,所有権を巡 ので,シドニー・リグドンの書く説明が,聖徒たちに土地 購入資金の送付を勧める文書となるはずであった。しかし る争いはすべて法律で解決され,暴力の入り込む余地はな くなるからである。スミスとショダールはこの戒めが与え 後に,主は,シドニー・リグドンが書いたものを受け入れ ないと言われた(教義と聖約63:55−56は,シドニー・リ られた理由を次のように説明している。「末日聖徒は集合 の地の確保に際して,特に神の神殿の中でも最もすばらし グドンのこの責任を指していると思われる)。 い神殿が建てられる地を得るに際して,争いをしてはなら シオンの地を説明した以下の文は,『教会歴史』に載せ られているものであるが,主に受け入れていただくために ないと命じられた。殺人者や泥棒から自分の生命,家庭, 愛する者,自由,国家を守ることは禁じられていない。し シドニー・リグドンが書き直したものか,だれかほかの人 の手になるものかは明らかでない。「この地は樹木が生い かし,正当な理由なく他を攻撃することは禁じられてい る。」(『注解』p.379) 茂る東部の州とは異なる。見渡すかぎり,緩やかにうねる 教会は現在でも,シオンの中心の場所となる土地の入手 美しい大草原が海のように広がり,目の覚めるような花が 咲き誇るさまは筆舌に尽くし難い。花盛りの草原のいちば は購入によって行うという同じ方針を貫いている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ んの働き者は蜜蜂である。樹木は川沿いの地に限って見る ことができる。曲がりくねる川の流れにそのまま沿うよう 教義と聖約58:57 シオンの土地と神殿用地の奉献 シドニー・リグドンは,神殿用地を含めてシオンの土地 に樹木が1マイルないし3マイル(約3キロから5キロ)の幅 で,細長く帯状に生い茂っている。これらのうっそうたる を奉献するように主から任じられた。しかし実際には,神 殿用地の奉献はジョセフ・スミスが行った。ジョセフ・ス 森には,カシ,ヒッコリー,クログルミ,ニレ,トネリコ, ミスはそのときのいきさつを次のように記録している。 サクラ,サイカチ,クワ,コーヒー,エノキ,トネリコバ カエデ,シナノキなど様々な木が生え,川岸にはハコヤナ 「8月2日,わたしはインディペンデンスの西12マイル (約20キロ)の所にある町カウにおいて,教会のコールズ みつばち 134 第58章 ビル支部がシオンの基として,ある家の最初の丸木を据え るのを手伝った。その丸木はイスラエルの12の部族を記念 する12人の男性によって運ばれて据えられた。そしてその とき,祈りを通してシドニー・リグドン長老により,シオ ンの地は聖徒の集合のために聖別され,奉献された。それ は居合わせたすべての人々にとって喜びの時であった。ま た,忠実な者たちに得心がいくまでに明らかにされる将来 をかいま見た時でもあった。 」(『教会歴史』1:196) 「8月3日,わたしは引き続きインディペンデンスから少 し西の方にある神殿用地を奉献した。シドニー・リグドン, エドワード・パートリッジ, ウィリアム・W・フェルプス, オリバー・カウドリ,マーティン・ハリス,ジョセフ・コ ーが出席した。」(『教会歴史』1:199) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約58:64 主は聖徒たちに,福音を全世界に, そしてすべての造られたものに伝えるようにほんとうに望 んでおられるのだろうか マタイ28:18−20;マルコ16:15;ルカ24:47;使徒 1:8;黙示14:6−7;教義と聖約1:2,4;112:1,4, 16−17を読む。スペンサー・W・キンボール大管長はこれ らの聖句に触れながら,次のように語っている。 「わたしは,主が〔福音を聞く人々を指して〕『あらゆる 民族』『あらゆる国』 『世のあらゆる隅々』 『あらゆる国語』 『あらゆる民』 『あらゆる人々』『全世界』 『多くの国々』と いう言葉をお使いになったことに対して,主はそれらの言 葉を,吟味したうえでお使いになったのではないかと思 う。 確かにこれらの言葉は重要な意味を含んでいる。 確かに主の羊は,イスラエルで主を取り巻いた数千の人 や毎日接した人だけではない。全世界の民族のことである。 これは全世界の人々に向けて与えられた命令なのである。 …… 兄弟たち,わたしは,とにかくわたしたちの能力ででき る限りのことを行ったならば,主は門戸を開く方法を示し てくださると思う。これはわたしの信仰である。…… 主がこのようなコミュニケーション〔ラジオ,テレビ, テープレコーダー,通信衛星と地上受信局など〕の奇跡を 起こされ,わたしたちと宣教師,そして『遣わされた』す べての人が努力と献身を怠らないならば,『まことに,こ の知らせはこの地から全世界に,また地の最も遠い所まで の 出て行くであろう。福音はすべての造られたものに宣べ伝 えられ,信じる者には数々のしるしが伴うであろう』(教 義と聖約58:64)という神の命令は成就するであろう。わ たしたちはその方法を見いださなければならない。…… 皆さんは,最新の発明品や,これまでに開発されてきた用 具,またこれから出てくる機器を用いて,世の人々が福音 宣教師訓練センター。「この知らせはこの地から全世界に…… 出て行くであろう」(教義と聖約58:64) に帰依し,改宗者が満ちあふれるようになる日が来ること を理解できるだろうか。 わたしたち全員ができる限りのことをするならば,…… 主はわたしたちにもっと多くの発見をもたらしてくださる とわたしは確信している。主は人々の心に触れるために王, 皇帝,長官たちの心に変化を生じさせ,川の流れを変え, 海を広げ,様々な手段を見つけてくださるであろう。そし て 門 を 開 け , 伝 道 を 可 能 に し て く だ さ る で あ ろ う 。」 (“When the World Will Be Converted” Ensign「この世が改宗 するとき」『エンサイン』1974年10月号,pp.5,10−11, 13) ブリガム・ヤング大管長も同じような信仰を持ってい た。彼は福音を広めることについて,次のように述べてい る。「この王国はなおいっそう成長し,広まり,繁栄して いく。敵がこの教会を倒そうとするたびに,さらに領域を 広げ,力を加えていく。衰えていくどころか全地に満ちる まで成長と進展を続け,すばらしさを増し加え,世の人々 の目を引きつけるようになる。」(Journal of Discourses『説 教集』1:203) 預言者ジョセフ・スミスの次の言葉は,確かに成就する み わざ であろう。「いかなる汚れた者の手も,この御業の発展を 止めることはできません。迫害は威を振るい,暴徒は連合 し,軍隊が集合し,中傷の風が吹き荒れるかもしれません。 しかし,神の真理は大胆かつ気高く,悠然と出で立ち,あ らゆる大陸を貫き,あらゆる地方に至り,あらゆる国々に 広まり,あらゆる者の耳に達し,神の目的は成し遂げられ るでしょう。こうして,大いなるエホバは,御業は成った と告げられることでしょう。 」(『教会歴史』4:540) 135 「世の汚れに染まらずに自らを さらに十分に清く保つために」 歴史的背景 第59章 れるとき,その約束を守り,柔和な人々は自分の分を受け 継ぐ〔マタイ5:5参照〕。もし彼らが死んでも,彼らの受 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ニューエル・ナイトの母,ポーリー・ナイトの物語は, け継ぎはそのまま変わることがない。地球は日の栄えの王 国を受け継ぐ人々の永遠の住まいとなるように定められて この神権時代における偉大な信仰談の一つに数えられる。 コールズビル支部の会員であった彼女は,病気で非常に衰 いるからである。……この地球はやがて……義人や柔和な 人々のために備えられる。それは彼らの永遠の受け継ぎな 弱していたが,支部の会員たちと一緒にシオンの地へ行く のである。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴 と固く心に決めていた。 「息子ニューエルの話によると,ポーリー・ナイトの健 史と近代の啓示』1:215−216) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 康状態が悪化しているということである。彼女はカートラ ンドからミズーリへの旅のとき,かなりひどい状態であっ 教義と聖約59:5−6 二つの大切な戒め ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう た。息子ニューエルはこう語る。『しかし,母は休もうと に述べている。 しないのです。母のたった一つの,そしてかけがえのない 望みは,自分の足でシオンの地に立つこと,自分の身をそ 「この戒めは非常に重要なものであり,末日聖徒は数多 くの啓示の中に見受けられるこの戒めに注意を払ってい の地に置くことでした。わたしは母が目的地に着く前に容 態が急変して死んだ場合のことを考え,ひつぎを造る木を る。この戒めに律法全体と預言者とがかかっていることは 歴然としている。この章(59章)の第5節と6節に従う人 買っておきました。でも主が母の心に希望をお与えくださ は,神のすべての律法に従うようになる。ほかの戒めに何 も従わずにいながら,『心と勢力と思いと力』を尽くして ったので,母は生きてこのシオンの地に立つことができた のです。』(Scraps of Biography『伝記の断片』p.70)」(His- あがな 天の御父を愛し,贖い主なる独り子の名によって礼拝する tory of the Church『教会歴史』1:199脚注) ポーリー・ナイトの葬儀は1831年8月7日,日曜日に行わ ことはできない。この戒めに従うなら,ごく自然に,自分 を愛するように隣人を愛し,神の子であるすべての人に対 れた。ジョセフ・スミスは次のように記録している。 して思いやりと愛の気持ちを抱くようになるのである。わ きよ じゅうぶん たしたちは安息日を聖く過ごし,什 分の一を正直に納め, 「7日,ジョセフ・ナイト・シニアの妻であるポーリー・ ナイト姉妹の葬儀に参列した。この地に来て初めての葬儀 知恵の言葉を守って肉体を清く保ち,個人の祈りと家族の である。主のふさわしい教会員は,イエスにあって復活の 時まで眠るのである。 祈りを怠ることなく,ほかのすべての戒めにも従わなけれ ばならないと教えられている。しかし,心と勢力と思いと またわたしは次の啓示を受けた〔教義と聖約59章〕。」 (『教会歴史』1:199) 力を尽くして主なる神を愛するならば,これらのことを絶 えず意識しておく必要はなくなってくる。主の戒めをどれ 注 解 ほど守っているかを見れば,その教会員の神に対する愛の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 深さを知ることができる。」(『教会歴史と近代の啓示』1: 216−217) 教義と聖約59:1−4 義人であれば,生者も死者もと もに地を受け継ぐことができるか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約59:6−13 十戒の反復 第1節と2節は,神の栄光にひたすら目を向けてシオンの 主は現代において,人間と神との関係また隣人同士の関 地に来たポーリー・ナイトに関するもののように思われる が,もちろんこれらの祝福は,彼女と同じ気持ちでやって 係を明確にする基本的な律法を再び繰り返された。教義と 聖約第42,59章を出エジプト記の十戒と比較すると,末日 来るすべての人にも当てはまる。すなわち,主はこの箇所 で,忠実なすべての聖徒に偉大な祝福を約束しておられる の啓示が古代の記録を明確にし,さらに詳しく説明してい ることが分かる。見て分かるように,3つの啓示は細かい のである。 点まで対応させることはできないが,『教義と聖約』のこ の二つの章は,十戒に新たな洞察を加えているのである。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,義のう ちに死んだ人も地を受け継ぐことについて,次のように説 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 明している。「サタンの支配下にある地上には,現在,利 ごうまん 己心に満ち,傲慢で,一見地を受け継いでいるかのごとき 教義と聖約59:7−8 「打ち砕かれた心と悔いる霊」 キリストがこの地上に降誕される前に,主は動物や地の 人々があふれている。これは人類の堕落以来地上にはびこ っている不義の精神と符合するものである。キリストは王 実りを犠牲としてささげるように命じられた。その犠牲は, 主御自身がささげられる犠牲と,それをささげる人の喜ん の王としての権利をもって地を所有し,治めるために来ら で主に従う精神とを象徴するものであった。イエスは御自 136 第59章 出エジプト第20章 教義と聖約第42章 「あなたはわたしのほかに,なにもの 教義と聖約第59章 「あなたは心を尽くし,勢力と思いと をも神としてはならない。」(3節) 力を尽くして,主なるあなたの神を愛 さなければならない。 」(5節) 「あなたは,義をもって主なるあなた の神に犠牲を,すなわち打ち砕かれた 心と悔いる霊の犠牲をささげなければ ならない。 」(8節) 「イエス・キリストの名によって,神 に仕えなければならない。」(5節) 「あなたは自分のために,刻んだ像を 造ってはならない。 」(4節) 「あなたは,あなたの神,主の名を,「あなたはわたしを愛するならば,わ たしに仕え,わたしのすべての戒めを みだりに唱えてはならない。 」(7節) 守るべきである。 」(29節)* 「安息日を覚えて,これを聖とせよ。」 「また,世の汚れに染まらずに自らを (8節) さらに十分に清く保つために,あなた はわたしの聖日に祈りの家に行って, 聖式をささげなければならない。」(9 節) 「この主の日に,あなたはいと高き方 にあなたの供え物と聖式をささげ,ま た兄弟たちと主の前にあなたの罪を告 白しなければならないことを覚えてお きなさい。 」(12節) 「この日には,あなたはほかに何事も しないようにしなければならない。た だ,あなたの食物を真心を込めて準備 ……するだけである。 」(13節) 「あなたの父と母を敬え。 」(12節) 「あなたは殺してはならない。 」(13節)「あなたは殺してはならない。」(18 「殺してはならない。これに類するこ 節)* とをしてはならない。 」(6節) かんいん 「あなたは姦淫してはならない。」(14 「あなたは姦淫をしてはならない。」「姦淫をしてはならない。……これに 節) (24節)* 「あなたは心を尽くして妻を愛し,妻 類することをしてはならない。」(6節) と結び合わなければならない。その他 のものと結び合ってはならない。 」(22 節)* 「情欲を抱いて女を見る者は,信仰を み たま 否定するのであり,御霊を受けること はない。 」(23節)* 「あなたは盗んではならない。 」(15節)「あなたは盗んではならない。」(20 「あなたは盗んではならない。……こ * 節) れに類することをしてはならない。」 「あなたは,兄弟の衣服を取ってはな (6節) 137 らない。あなたは,兄弟から受けるも のに対して支払わなければならない。」 (54節)* 「あなたは隣人について,偽証しては 「あなたは偽りを言ってはならない。」「あなたは自分自身を愛するように隣 ならない。 」(16節) (21節)* 人を愛さなければならない。 」(6節) 「あなたは隣人の悪口を言ったり,隣 人に害を与えたりしてはならない。」 (27節) 「あなたは……ともに愛をもって生活 するようにしなければならない。 」(45 節) 「 あ な た は … … む さ ぼ っ て は な ら な 「情欲を抱いて女を見る者は,信仰を い。」(17節) 否定するのであり,御霊を受けること はない。 」(23節)* 「あなたは心の中で高ぶってはならな 「あなたはすべてのことについて,主 なるあなたの神に感謝しなければなら ない。」(7節) い。」(40節) 「あなたの誓言は,毎日,また常に, 義をもってささげなければならない。」 (11節) 「あなたは怠惰であってはならない。」「神はこれらのものをすべて人に与え (42節)* た……この目的のためにこれらのもの 「あなたは,自分の管理の職の場に立 は,思慮分別をもって,度を越さず, どんよく * たなければならない。 」(53節) 貪欲に取ることなく使うように造られ 「自分の生活に必要な分よりも多く得 たからである。」(20節) るならば……それをわたしの倉に渡さ なければならない。 」(55節)** 「あなたは受けたこと……を……わた しの律法として受け入れなければなら ない。 」(59節) 「あなたはこれらのことをすべて守ら なければならない。そうすれば,あな たの受ける報いは大きいであろう。」 (65節) 「あなたがたは受けた律法を守り,忠 実でなければならない。 」(66節) * この戒めの後には,律法を犯した人を処分するための指示が教会に与えられている。 ** これは,奉献の律法に適用される特別な戒めであり,律法である。 身の復活後にこれらの犠牲を廃し,以後は「打ち砕かれた に取って代わるものであり,多くの場合,悲しみと苦悩か 心と悔いる霊」を犠牲にするようにと命じられた(3ニー ファイ9:15−22参照)。スミスとショダールは,この二つ ら生じるものである。 」(Commentary『注解』pp.305−306) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の言葉の意味を次のように説明している。「『悔いる』には 『へりくだった』という意味がある。 『神の受けられるいけ 教義と聖約59:9−10 いと高き方に礼拝をささげる ジョン・テーラー大管長は,1881年6月のある日曜日の にえは砕けた魂です。神よ,あなたは砕けた悔いた心をか ろしめられません。 』(詩篇51:17)打ち砕かれた心と悔い 午前に,会衆を前にして次のように語った。「神に仕える ことは, わたしたちが存在する大いなる目的の一つである。 る霊は,謙遜な悔い改めによって,かたくなな思い上がり わたしは安息日に神を礼拝する機会があることを特権とし けんそん 138 第59章 「さてこの律法は全世界の聖徒に, 『夕べから夕べ』まで 断食し,食べ物も飲み物も取らないよう求めているが,聖 典から,特にイエスの言葉から,次のことが容易に分かる。 それは律法の冷たい文字を行うよりも,神と人に対して真 の愛を感じ,『清い心と他意のない意志』を持つことの方 がはるかに大切であるということである。主は道理にかな い,知性に基づいた基盤の上に,断食を定められたのであ る。主の業はどれ一つを取ってみても,むなしくあるいは 無意味に行われたものはない。主の律法は,ほかのものに おけると同様,この場合にも完全である。したがって,で きる人はこの律法に従うよう求められている。これは実行 可能な人々が逃れることのできない義務である。しかし, 24時間飲食を断って断食日を守ることが絶対的かつ不動の 古代の犠牲はイエス・キリストの苦しみの予型であった て感謝している。 そして神を礼拝するために集った人々が, 皆心から礼拝している姿を見ることは喜ばしい。そのよう 律法であるというわけではない。良心の問題として,また 知恵と分別を用いる事柄としてわたしたちに任されてい る。このことを覚えなければならない。体の弱い人が多く おり,ある人々は虚弱体質である。またある人は乳飲み子 を抱えている。このような人に断食を求めてはならない。 なときに,俗的なことを話すのはまったく場違いである。 この日は,何を置いても,わたしたちの気持ちと愛を神に 子供たちが断食日に食べ物を欲しがって泣いていたことが あった。このような場合,子供たちが食べずにいるのはよ 向けなければならない日なのである。神を賛美する歌を歌 くない。子供たちはこの日に対して歓迎の心を持たず,こ の日を嫌うようになるだろう。強制すると,主と兄弟姉妹 うときは,それにふさわしい気持ちを込めて歌おう。祈る ときは思いを集中して,心を込めて祈ろう。わたしたちが 心を一つにすることにより, 祈りと礼拝が神の心にかない, 神の御霊がすべてのものに浸透し,善良で忠実な聖徒たち の集まりに常にとどまるように。」(Journal of Discourses 『説教集』22:226) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約59:11−12 「供え物」とは何か ブルース・R・マッコンキー長老は,「供え物」という たちを愛する気持ちを抱かず,反抗の気持ちを起こすこと になるだろう。強制せずに,原則を教えて,大きくなった ときに自分で守れるようにした方がよい。 しかし,できる人は断食しなければならない。そしてど んな階層の人にも,その日に食べると思われる食物を節約 して,あるいは同額のお金を,貧しい人のために取ってお くように教えなければならない。この戒めが免除される者 ろうにゃく はだれもいない。老 若を問わず,あらゆる地に住む聖徒た 言葉の深い意味を,次のように定義している。 「昔のイスラエルも近代のイスラエルも, 『供え物』をさ ちにこのことが要求されている。貧しい人がいないという のは言い訳にならない。そのような場合,断食献金は,助 さげるように命じられている(レビ7:38;歴代下31:14 けを必要とするシオンのステークに送金されるよう然るべ き管理役員に送付される。」(『福音の教義』pp.236−237) しか 参照)。霊的に最も高度な意味から言えば,供え物をささ げることには主に心から献身すること,すなわち『打ち砕 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かれた心と悔いる霊』とをもって主にささげ物をすること である(教義と聖約59:8−12;3ニーファイ9:19−20)。 教義と聖約59:13−14 することができるか より低い,物質的な意味では,供えものとは犠牲をささげ 断食とはただ単に飲食を断つことと考える人がいる。主 はここで「喜び」という言葉を用いて,断食を説明してお ることである。つまり断食献金やそのほか,教会への愛の 献金を表す(エゼキエル44:30参照)。儀式とささげ物の 精神と意義が失われたとき,イザヤはそうした形式的な犠 牲を『むなしい供え物』と呼んだ(イザヤ1:13) 。またエ ゼキエルは,集合の日にイスラエルによって再び供え物が ささげられることを預言している(エゼキエル20:33−44 参照)。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.541− 542) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約59:13 に」 どうすれば真心を込めて断食 られる。食事の準備と断食は同時にできることである。ス ミスとショダールは次のように指摘している。「安息日に は食物さえも『真心を込めて』,すなわち主に心を向けて 準備しなければならない。つまり,心を煩わさずに簡単に するということである。その日は手の込んだごちそうを期 待すべきではない。準備のために安息日を聖日として過ご せない人が出てくるからである。 簡単な食物で十分である。 その点から考えれば,すべて安息日は断食日とすべきであ 「あなたの断食が完全になるよう ろう。完全な喜びが得られるからである。 あるとき,主はマルタとマリヤの家へ行かれた。マルタ ジョセフ・F・スミス大管長は,断食の目的と,それを は主に豪華な料理をいろいろ出そうと忙しく立ち働いた が,マリヤの方は主の言葉を聞きたがっていた。マルタが さらに完全なものとする方法について,次のように述べて いる。 妹をしかると,主はそれに優しく答えられた。『無くてな 139 はかり らぬものは……一つだけである。』主の日にはいつもこの 今こそ,わたしたち自身を秤にかけ,わたしたちが主に ことを心に留めておくとよいであろう。 」(『注解』p.352) 祝福を求めるにふさわしいかどうか,また戒めを破って祝 福を受ける資格を失ってはいないかどうかを評価してみる ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約59:15 「ひどく笑うことは罪であるので そうすることなく」 軽薄と不適切な笑いについては,教義と聖約88:69, 時なのかもしれない。…… こんにち ところが今日,この地の人々の多くは,安息日に仕事を し,海辺で過ごし,娯楽場や映画館に入り,買い物をして 121の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いる。主はこの戒めを守る人に次のような約束を与えてお られる。 教義と聖約59:16−20 『わたしはその季節季節に,雨をあなたがたに与えるで あろう。地は産物を出し,畑の木々は実を結ぶであろう。』 地の豊かさと民の義には関連 性があるのだろうか 『モルモン書』の重要なテーマの一つに, 「あなたがたは, (レビ26:4) わたしの命令を守るかぎり栄えて」(1ニーファイ2:20) というものがある。ここに言う「栄える」とは,物質的な 神は約束を果たされる。しかしわたしたちの多くは安息 日を汚し続けている。」(Conference Report『大会報告』 富の蓄積以上のものを意味するであろうが,この祝福の中 1977年4月,pp.4−5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ には少なくとも,この世における繁栄が含まれている。モ ーセはイスラエル人にこう言った。「あなたがこれらのお きてを聞いて守り行うならば,あなたの神,主は……あな たを愛し,あなたを祝福し,あなたの数を増し,あなたに 与えると先祖たちに誓われた地で, あなたの子女を祝福し, あなたの地の産物,穀物,酒,油,また牛の子,羊の子を 増されるであろう。」(申命7:12−13)これは民に対する 祝福であるだけでなく,地そのものに対する祝福でもあ る。 どん よく 教義と聖約59:20 味か 「貪 欲 に取る」とはどのような意 「『貪欲に取る』とは暴力,脅迫,法外な請求などにより 不法に何かを奪うことである。正直に働いて財産を得,そ れによってほかの良いものを手に入れることは法にかなっ ている。しかし,『あなた自身のようにあなたの隣人を愛 さなければならない』という偉大な律法に反する手段でほ かの人から何かを取るのは,不法な行為である。 」 (スミス, 主は第59章で,安息日の律法の厳守を含む霊的な従順に 対し,物質面での祝福を再び約束しておられる。合衆国西 ショダール共著『注解』p.354) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 部に深刻なかんばつの被害があった後,スペンサー・W・ 教義と聖約59:23 価 キンボール大管長は,そうした天災が人々の従順さ,特に 安息日の戒めに対する従順さと関連がないだろうかと問い 福音の実と,それを得るための代 マリオン・G・ロムニー長老は,この節で約束されてい かけている。 「主は時々天候を使って,主の律法を犯したことに対し る祝福と,それを得るために必要な事柄とについて,明確 で深い洞察に満ちた説明をしている。 てその民を懲らしめたもう。主はイスラエルの民に次のよ 「地上での生活が終わり,物事の真の姿が見えるように なると,主や預言者が何度も繰り返してきた教え,すなわ うに言っておられる。 『もしあなたがたがわたしの定めに歩み,わたしの戒め を守って,これを行うならば,わたしはその季節季節に, 雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し,畑の 木々は実を結ぶであろう。 あなたがたの麦打ちは,ぶどうの取入れの時まで続き, ぶどうの取入れは,種まきの時まで続くであろう。あなた がたは飽きるほどパンを食べ,またあなたがたの地に安ら かに住むであろう。 ち『福音の実は,人生のすべてをかけて求める価値のある 唯一の目標である』 という教えをさらにはっきりと理解し, 悟ることができるようになる。それを得る人は,真の富, すなわち主の目から見て価値あるものを手に入れる。わた したちは福音の実とは何かについて,常に理解と悟りを深 めていかなければならない。 主はそれを『この世において平和……来るべき世におい て永遠の命』(教義と聖約59:23)と定義しておられる。 わたしが国に平和を与えるから,あなたがたは安らかに 寝ることができ,あなたがたを恐れさすものはないであろ この啓示に述べられている『この世において平和』を定義 するのは少し難しい。しかし,それがこの世のユートピア う。……つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないで ンたちが夢想した安逸,ぜいたく,苦闘からの解放などで ないことは,はっきり分かるであろう。イエスは使徒たち あろう。 』(レビ26:3−6) 東部の非常な苦難と,ここ西部やその他の地におけるか に,たとえ苦しみのときでもそれを見いだすことができる んばつの脅威を考え,わたしたちは教会員に,神聖な祈り の輪に加わって,必要な地への水を求めてくださるようお と教えられた。『わたしは平安をあなたがたに残して行く。 わたしの平安をあなたがたに与える。』そして,念のため 願いした。すると間もなくわたしたちの祈りはこたえられ にこう付け加えられた。『わたしが与えるのは,世が与え るようなものとは異なる。』(ヨハネ14:27) た。わたしたちはそのことに言葉に尽くせない感謝を覚え た。しかしなお,このことについて引き続き祈り,主にこ たえていただくことが必要であり, またそう希望している。 この聖句で『来るべき世において永遠の命』と述べられ ているもう一つの福音の実も,すばらしいものに違いない。 …… なぜなら,主は『永遠の命を持つ者は豊かである』(教義 140 第59章 たま もの と聖約6:7),また『永遠の命……は,神のあらゆる賜物 しに従ってきなさい。 』(マタイ19:21)その青年はすべて の中で最も大いなるものである』 (教義と聖約14:7)と言 っておられるからである。永遠の命を得る者は,天の御父 において従順に生活することができたが,福祉プログラム の日の栄えの王国において昇栄を得るであろう。…… に関してはそうしなかった。 そのような例外は認められない。わたしたちはすべての もちろん,次の世で授けられるこの永遠の命の賜物を地 上で完全に理解することはできない。しかし,次の世で昇 ものを喜んで犠牲にし,自己修練と献身によって,いかな る状況においても進んで主に仕えることを主に示さなけれ 栄にあずかるという確認は, この世で受けることができる。 事実,日の栄えの王国の祝福は,そのような確認を受けた ばならないのである。そうするならば,来るべき世におい て永遠の命にあずかるという確信を得ることができる。そ 者にしか約束されないのである。示現によると,以下の3 して,この世においても平安を得るのである。…… 点を満たさなければ,これらの祝福を受けることはできな あかし い。第1に,『イエスの証を受け入れ,その名を信じ……そ 『ほかに何が足りないのでしょう』というあの金持ちの 青年の質問を,日々正直かつ真剣に自分自身に問いかけて 『この力を の埋葬に倣ってバプテスマを』受ける。第2に, あんしゅ 持つように聖任され結び固められている者の按手によって みようではないか。そして正直な心で自分自身の弱点を見 いだし,来るべき世で永遠の命にあずかるという確信から 聖なる御霊を』受ける。そして第3に,『約束の聖なる御霊 来る平安をこの世で受けるまで,その弱点を一つ一つ克服 により結び固め』を受ける(教義と聖約76:51−53参照) 。 預言者ジョセフは,そのような結び固めを受けた人は自 し て い こ う で は な い か 。」(『 大 会 報 告 』 1949年 10月 , pp.39−45) なら 分が霊によって生まれたとの確信を自らの内に持ち,次の 世では永遠の命を授けられると教えた。そして当時の聖徒 たちに,召しと選びを確かなものとすることによってその ような確信を得るように,繰り返し熱心に勧告した。この 確信がこの世における平安をもたらすのである。そして, かんなん その平安はすべての艱難に耐える力を与えてくれる。…… これらの福音の実,すなわち,いつか永遠の命を得られ るという確信や,そのような確信に基づく現世における平 安,来るべき世における永遠の命は,わたしたちすべての 者の手の届く所にある。…… わたしは,福音の祝福には計り知れないほど大きな価値 があると同時に,実に厳しくその代価が要求されると考え ている。この点について主が語られたことをわたしが正し く理解しているとすれば,この結論は正しい。しかしこの 代価は, わたしたちすべてが払うことのできるものである。 なぜならそれは,金銭やこの世のいかなる物品でもなく, 義にかなった生活をもって支払うものだからである。要求 されるのは,福音に対する心からの献身と末日聖徒イエ ス・キリスト教会への無条件の忠誠である。…… 中途半端な行いでは不十分であり,これらの祝福は得ら れない。そして,若いときから戒めは守っていると抗議し たものの,悲しみのうちに去って行ったあの金持ちの青年 のようになってしまう。 『ほかに何が足りないのでしょう』 と青年が尋ねたとき,イエスはこう答えられた。『もしあ なたが完全になりたいと思うなら,帰ってあなたの持ち物 を売り払い,貧しい人々に施しなさい。……そして,わた マリオン・G・ロムニー長老は次のように教えた。「福音の実 は,人生のすべてをかけて求める価値のある唯一の目標である」 ( 『大会報告』1949年10月,p.39) 141 「あなたは時間を無駄に過ごしては ならず,またタラントを隠して… …はならない」 第60章 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年6月3日に,オハイオ州のカートランドで大会が開 かれた。その大会で28人の宣教師が召され,ミズーリの地 の へ行くことになった。目的地までの道すがら福音を宣べ伝 えながら,その地へ行くのである(教義と聖約52章参照) 。 その務めを完了した「長老たちは,1831年8月8日,ミズー リ州で開かれた最初の大会の閉会に当たって,今後何をし たらよいのか知りたいと思った。預言者ジョセフは主に尋 ね,啓示を受けた。それは彼らの帰りの旅に関して指示を 与えるものであった。」(スミス,Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:220) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約60:1−3 「口を開こうとせず……タラン トを隠している」 長老たちがミズーリ州まで旅したことは,主にとって喜 ばしいことであった。そして今度はオハイオ州に向かって 速やかに帰還することになったのである。しかし,中には 主に喜ばれない者もいた。ジョセフ・フィールディング・ スミス大管長は,その理由を次のように説明している。 あかし 「長老たちは道すがら福音を宣べ伝え,民の中にあって証 を述べるように命じられていた。しかし,中には人を恐れ るあまり,この戒めに従わない者もいた。確かに皆が皆, 生まれながらの宣教師であるわけではない。だから,声を 上げて福音を宣言するようにという責任に,思わずしりご 警告を受けた人はその隣人に警告を与える責任がある みしてしまう者もいるのである。しかしながら,これは, この堕落した世界に対してわたしたちが果たさなければな らない義務である。長老たちは教会歴史のごく初期におい て,『心と,勢力と,思いと,力を尽くして』主に仕える ように戒められていた。畑はすでに白くなり刈り入れを待 っているからである。この戒めに従わない者には罰が下る ことになっており,また終わりの日に罪なしとされること はない,と言われていた。福音を宣べ伝えるということは, この長老たちにとっては滅ぼされないようにするための道 であり,救いを受けるための道だったのである。人に対す また最も価値のあるものであるが,同様に,戒めに従順に 従って自分を備える人々も,最も良い,また最も価値のあ る存在である。そのような人々こそ,救い主が栄光をもっ て来られるときに御自分のものとされる宝石なのである (イザヤ62:3;ゼカリヤ9:16;マラキ3:16;教義と聖約 101:3参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約60:8,13−14 「悪人の集まりの中でわ る恐れを抱きながらも,主の命を受けて遣わされる者も数 たしの福音を宣べるために」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の記述によ 多い。しかし主はそのような人たちに,主に信頼を置くな らば,その働きを支えてくださると約束しておられる。」 れば,主はしばしば「広く各地に散らばっている民を指し て『悪人の集まり』と言っておられる。わたしたちには, (『教会歴史と近代の啓示』1:220−221) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約60:4 「わたしが自分の宝石を集める」 いつの時代であっても,宝石は人間から高い評価を受け ている。宝石は,地から産出するものの中でも最も良い, 142 人々の集まりの中に邪悪がはびこっていた,と信じるに足 る理由がある。長老たちはそうした民の中から,心の正直 な人を探し出し,ほかのすべての人々には警告となる証を 残すように求められていた。このようにして,その血から 清められるのである。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:223) 教義と聖約60:13 「タラントを隠して……はならな フ・フィールディング・スミス大管長は,この行為の持つ い」 この警告の意味を完全に理解するためには,マタイ25: 深い意味を次のように説明している。「足を清めたという 事実は,それがちりを洗い落とすという形のものであれ, 14−30を読むとよい。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 払い落とすという形のものであれ,邪悪な人々に対する証 として天に記録されることになろう。しかし,これをその 教義と聖約60:15−17 としなさい」 邪悪な人の面前で行ってはならない。『ただし,彼らを怒 らせることのないように,彼らの前でせずに,ひそかにし 「あなたの足のちりを払い落 足のちりを払い落とす儀式は新約の時代に行われていた なさい。また,裁きの日における彼らに対する証として, が,この神権時代においても改めて定められた(教義と聖 約88:139−140;ヨハネ11:2;12:3;13:5−14参照)。 あなたの足を洗いなさい。』自分の義務を忠実に果たす教 会の宣教師たちは,その業を進める過程で接触するすべて 足のちりを払い落とす, あるいは洗い清めるという行為は, 福音を受け入れようとしない人々に対する証である(教義 の人々に証を述べる義務を負っている。この証は裁きの座 において,福音のおとずれを拒んだ人々に対する証言とな と聖約24:15;84:92;99:4参照)。この行為は重大な意 る。」(『教会歴史と近代の啓示』1:223。教義と聖約24: 味を持つものであるため,教会の指導者たちは,御霊の命 じるときしか行ってはならないと指導している。ジョセ 15の「注解」参照) み たま 主は地を祝福し,水をのろわれた 第61章 めを与えられた。この責任を果たすために,長老たちは 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示は,1831年8月12日にマクイルウェインズ・ベ ンドと呼ばれるミズーリ川の岸辺で預言者ジョセフ・スミ スに授けられたものである。預言者ジョセフは次のように 人々と接触する必要があった。それゆえ主は,カヌーを使 った旅では福音のおとずれを聞く必要のある人々と出会う ことはできないということを思い起こさせられたのである (第3−5,20−22,30−32節参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 記録している。「9日,わたしは10人の長老たちとともにイ ンディペンデンスを離れ,カートランドへ向かった。川を 教義と聖約61:5−19 か カヌーで下り,1日目はフォートオーセージまで行き,そ こで夕食に実においしい野生の七面鳥を食べた。3日目ま ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう な指摘をしている。「初めに主は水を祝福し,地をのろわ ではさして変わったことも起こらなかった。もちろん危険 れた。しかしこの終わりの時にはこれが逆になった。すな な目には何度か遭ったが,それは西部の川ではごく当たり 前のことである。ところがマクイルウェインズ・ベンドに わち,地が祝福され,水がのろわれることになったのであ る。少し深く考えてみれば,この言葉が真実であるという 野営したときのことだった。フェルプス兄弟が白昼の示現 の中で,滅ぼす者が力をもって水の面を進んで行くのを見 ことが分かるであろう。この地球の歴史における最初の数 千年間は,人類は土壌の組成のことも,収穫の後にどのよ たのである。ほかの者には音は聞こえたが何も見えなかっ うに土壌の養分を補う必要があるかも知らなかった。当時 た。 次の朝,祈りを終えた後に次の示現を受けた〔教義と聖 の道具や設備は原始的であり,そう立派なものではなかっ き きん た。また耕作可能な地所も限られていた。絶えず飢饉に見 約61章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:202− 203) 舞われ,現在のようなぜいたくは望むべくもなかったので ある。こう言うと,当時の土壌も現在と同じくらい生産性 注 解 が高かったはずだ,と言う人もいるだろう。それは事実か もしれない。しかしここではそれについて論じるつもりは 水はどのようにのろわれている ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ない。問題は,耕作の方法が異なっていたために,現在の 教義と聖約61:1−4,6,19 ことになっていた ような豊かな生産量を上げることができなかったという点 である。その原因が何であったかは重要ではない。しかし, あかし 兄弟たちは証を述べる 主は長老たちに向かい,水の上を行くサタンとその力に ついて(教義と聖約61:4,19参照),また忠実な者に授け られる神の力について(第1,6節参照)証をするように戒 歴史的に見ても,その当時では多くの収量は望めなかった であろうし,地から生み出される産物の種類も限られてい たことであろう。そしてこの状態を主はいみじくも,地に 143 下されたのろい,あるいは祝福の欠如と言われているので について次のように説明している。 「川を下っていたこの3 ある。わたしたちが十分な根拠をもって言えることは,こ の歴史の初期においては,水の流れも洪水も水の危険も現 日の間に,兄弟たちの中で何らかの不和と悪感情とが生じ ており, 互いに釈明して和解することが必要とされていた。 在ほど大きくはなく,ましてや主がわたしたちに約束され たものほど大きいことは決してなかったということであ また,カヌーで川を下る旅も遅々として進んでいないこと が分かった。それで,印刷機を購入する任務を帯びていた る。古代の水夫たちは,当時海が比較的安全だということ をよく知っていたために,各地の海を横断した。……しか シドニー・ギルバートとウィリアム・W・フェルプス,な らびに急いでカートランドに帰るように命じられていた預 し,今日ではそのような船を利用する旅行法は,最も危険 言者ジョセフとシドニー・リグドン,オリバー・カウドリ 性の高いものと考えられている。さらにわたしたちは,水 の上の危険が増大して,人々は水を恐れ,あえて海にこぎ は,カヌーよりももっと効率的に旅を進める方法を見つけ る必要に迫られていた。マクイルウェインズ・ベンドで行 出して行くのは,勇敢な者,そして海上を旅行せざるを得 ない者だけという状態を目にしている。ミズーリ川,ミシ われた夜の話し合いの大部分はこれらの問題に費やされ た。その結果,兄弟たちは互いに和解し,急いで帰らなけ シッピ川について言えば,両河川の上で,またその周辺で ればならなかった者たちは,翌朝陸路でセントルイスに向 大きな災害が年々起きている。この大河の氾濫により,ほ ぼ毎年のように何億ドルという被害が出ている。また,洪 けて出発した。また,残りの人々は引き続いて川を下って 行った。 」(『教会概史』1:262−263) 水が地を洗い尽くす度に多くの生命が失われているし,さ あらし らに見た目は静かなこの流れの上に嵐 が起こることもあ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ り,それによる被害もある。こうした水に関する主の言葉 僚たちは,シンシナティで悪しき者たちに警告を与えるよ は,すでに成就している。また,それは今も続いている。 主は,海がその境を越えて荒れ狂い,波はうなりを上げて う命じられたのか 「この啓示が与えられた当時,シンシナティはほんの小 吹き荒れると言われているが,それだけではなく,戦争, 特に近年よく耳にする潜水艦を用いた海戦による水上の大 さな村にすぎなかったが,インディペンデンスのような西 部のほかの町と同様,法を破ったために大きな都市から逃 いなる破壊も含めて考えなければならない。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1: げざるを得なくなった人々が数多く集まっていた。当時の 辺境の町ではどこも,かなり悪事がはびこっていたのであ 224。創世3:17−19;エテル7:23−25;9:16,28;黙示 る。シンシナティでの使命を果たした二人の兄弟〔預言者 16:1−6;アルマ45:16;教義と聖約59:3,16−19参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフとシドニー・リグドン〕は,再びカートランドヘ 戻る旅を続けることになった。」(スミス『教会歴史と近代 教義と聖約61:7 シドニー・ギルバートとウィリア ム・W・フェルプスの「用向きと使命」とは何であったか の啓示』1:225) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ こんにち はんらん この二人は印刷機を購入して,それをミズーリへ輸送す 教義と聖約61:30−32 教義と聖約61:37−39 なぜ預言者ジョセフとその同 「あなたがたの思いがけない ることになっていた。ウィリアム・W・フェルプスは教会 のために印刷の仕事をすることになっており(教義と聖約 ときに,人の子は来るからである」 キリストが来られる正確な時はだれも知らない。預言者 55:4;57:11参照),またシドニー・ギルバートは購入の ための教会の代理人に指名されていた(教義と聖約57:6 ジョセフ・スミスは次のように述べている。「イエス・キ リストは御自分がおいでになる正確な時をだれにも明らか 参照) 。 にされなかった。聖典を読んでみるとよい。主が来られる ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約61:20−28 「主なるわたしは昨日はあな 正確な時を記した箇所はどこにも見つけられないであろ う。それゆえ,それに類することを言う人は皆,偽りの教 たがたのことを怒った」 B・H・ロバーツ長老は,主がこのように言われた理由 師なのである。」(『教会歴史』6:254) 144 「あなたがたは祝福されている。 あなたがたが述べた証は…… 記録されているからである」 第62章 わたしたちの罪が隠される(赦される)のは,王国に属す 歴史的背景 る自分以外の人の救いと祝福のために奉仕の働きをしたか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年8月,預言者ジョセフとその一行はミズーリから らである。原則的に言えば,キリストに仕える人に与えら の れるこの特別な報いは,福音を宣べ伝えて人を王国に導く 帰る途中,逆にミズーリへ向かう途中の数人の長老たちと 出会った。ジョセフ・スミスはこう記録している。 「〔8月〕 人々にも等しく与えられる。キリストに仕える人は救いと いう報いを受け,また必然的に,その過程で自分自身の罪 13日,シオンの地へ向かっていた数人の長老たちに出会 から救い出されるのである(教義と聖約4:1−4) 。」(Doc- い,喜びのあいさつを交わした。彼らはまさに,聖徒たち にもたらされた信仰のために戦っている人たちである。彼 trinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』3: 279) らとあいさつを交わした後にこの啓示を受けた〔教義と聖 約62章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:205)預 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 言者ジョセフの歴史ではこの長老たちがだれであったのか スミスとショダールは次のように指摘している。「この 分からないが,レイノルズ・カフーンは,ハイラム・スミ ス,ジョン・マードック,ハービー・ホイットロック,お 啓示の中には,天使たちは長老たちの証を記した記録を細 かく調べており,そうした証を喜んでいる,と言われてい よ び デ ビ ッ ド ・ ホ イ ッ ト マ ー の 4人 の 名 を 挙 げ て い る (Journal History『日誌』1831年8月31日付け参照)。 る。このことから,地上における奉仕の働きは,幕のこち ら側だけでなく,向こう側にまで効果を及ぼすということ 証は天で記録される が明らかである。真理を忠実に証する長老は,たとえ自分 の言葉に耳を貸す人が少ししかいなくても,それによって 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約62:1 じである 教義と聖約62:3 主は誘惑に陥る者を救う方法を御存 非常に大きな影響を及ぼすことになる。」(Commentary 『注解』p.371) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「この『助ける』という語の意味は, 『困窮している人あ るいは苦しんでいる人を助ける』または『救出する』とい うことである。ありがたいことに,救い主は『誘惑を受け 教義と聖約62:4 「集会を開き」 教義と聖約58:61−63を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る者』が罪を犯すことがないように助けてくださる。また たとえ罪を犯しても,悔い改めれば助けてくださるのであ 教義と聖約62:6 主はどの約束について言われたのか 教義と聖約35:24;39:13;49:25;52:42を参照す る。」(ラドロー,Companion『必携』1:330) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約62:2−3 教義と聖約62:7−8 ゆる 「あなたがたの罪は赦 されてい 主はなぜここで馬か,らばに乗 る」 効果的な伝道活動というものは,改宗者だけでなく宣教 ることについて触れられたのか このときジョン・マードックはひどい病気にかかってい 使徒ヤコブはこう書いている。 師にも贖いの効果を及ぼす。 「かように罪人を迷いの道から引きもどす人は,そのたま たため,何らかの助けがなければシオンへの旅を続けるの は不可能な状態にあった。この啓示が与えられた後で,4 しいを死から救い出し,かつ,多くの罪をおおうものであ 人の宣教師(ジョン・マードックと,デビッド・ホイット る。」(ヤコブの手紙5:20)この教えについて,ブルー ス・R・マッコンキー長老は次のように述べている。「過 マー,ハービー・ホイットロック,ハイラム・スミス)は 手持ちの金を出し合って,ジョン・マードックのために馬 ちを犯している兄弟を悔い改めさせることにより,わたし たちはその人だけでなく,自分をも救っているのである。 を購入した。それによって宣教師たちは旅を続けることが できたのである。 あがな 145 「今は警告の時であり,多くの言葉 を費やす時ではないからである」 第63章 たちにこれと同じ原則を教えようとしていた。「わたした 歴史的背景 ちは,シオンの建設が始まり,それが確立される前に,ど ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年8月27日,ジョセフ・スミスとその一行は,シオ のような経験をするように求められるのか知らない。した がって,神に近い生活をし,いつでも神のすべての戒めに ンへの1回目の旅からオハイオ州カートランドへ戻り,シ オンの中心の場所が明らかにされたとの知らせをもたらし 厳格に従うことが大いに必要とされる。そうすれば,良心 を持って,神と人に対する罪を犯さずに済むのである。」 た。「主が新エルサレムの町の建てられる場所を明確に啓 (Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・ 示されたとの知らせが教会員の間に広まると,当然のこと ながら皆喜びに包まれ,多くの教会員は,そこで受け継ぎ スミスの教え』p.32) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を得るために自分がしなければならないの事柄を知りたい と願った。主は,シオンは日の栄えの律法によって築かれ 教義と聖約63:7−12 しるしは信仰によるとはどうい うことか。また,信仰を持たずにしるしを求めるのはどう るのであるから,シオンへ行く者は皆その律法に従わなけ して罪であるのか ればならない,という指示を繰り返し与えてこられた。ま た信仰の弱い者や,戒めを守ることに不熱心な者は,悔い この箇所には,信仰と行いと,そして信仰に伴う奇跡的 な力,すなわちしるしの三者の関係について,きわめて重 改めないかぎり,その地に迎え入れられることはない,と 警告された。『聴きなさい,人々よ。心を開き,遠くから 要なことが述べられている。 信仰あるいは力が強められていく過程は,いわば試しの 耳を傾けなさい。主の民と自称するあなたがたは,聴きな 過程である。主はある原則を定めておられる。その原則に 従順に従うならば,祝福と力がもたらされる。しかし,そ さい。主の言葉と,あなたがたに関する主の思いを聞きな さい。』以上が,この啓示の導入の言葉である。」(Church の約束を確かめるためには,まず信頼あるいは信仰を基と History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』 1:229) して行動してみなければならない。そうして初めて,その 原則が確かなものであるという確信が生まれる。信仰と信 預言者ジョセフ・スミスは,この当時の聖徒たちの関心 頼とをもって行動して初めてもたらされるのである。それ ゆえ,ヤコブは次のように教えている。「信仰も,それと の深さと熱狂ぶりについて次のように記している。「教会 のこの幼年期に,何らかの点でわたしたちの救いにかかわ 同様に行いを伴わなければ,それだけでは死んだものであ っているあらゆる事柄について,主の言葉を頂きたいとい う切なる願いがあった。また,シオンの地は今考えられて る。」(ヤコブの手紙2:17)モロナイも同じ原則を教えた。 この原則が真実であり,かつ力をもたらすものであるとい いる最も重要なこの世的な関心事であったので,わたしは, 聖徒の集合と,土地の購入と,そのほかの事柄についても う強い証は,最初から得られるのではなく,それに従える ようになって初めて望むことができるのである。モロナイ っと知るために主に尋ねた。そして次の啓示を受けた〔教 は次のように説明している。「信仰とは待ち望んでいなが 義と聖約63章〕。」(History of the Church『教会歴史』1: 207) らまだ見ていないものである……信仰が試されてからでな ければ,証〔確信〕は得られないからである。」(エテル 注 解 12:6) もし人が信仰を基として喜んで行動するならば,主は福 あかし ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 音のあらゆる原則について確固たる証明を与えてくださる 教義と聖約63:1−6 は,聴きなさい」 であろう。「什 分の一を納める前に,それが真実の原則で あるということを納得しなければ気が済まない」と言う人 「主の民と自称するあなたがた じゅうぶん 主がこの啓示の中で聖徒たちに教えておられることは, 聖徒たちはシオンに住むためには義にかなった民とならな もいるだろう。だが,主の方法はこれとはまったく反対の 方法である。主はこう言っておられる。「まず信仰をもっ ければならないということである(教義と聖約58,59, て行い,什分の一を納めなさい。そうすれば,それが真の 原則であるという証明を授けよう。」救い主は,この地上 97,101,103,105章参照) 。主はこの啓示を告げるに当た り,戒めは軽々しく受け止めてはならず,無視したり,そ で教えと導いておられたとき,この関係について絶えず強 れに背いたりする者は必ず罰を受けることを厳かに勧告さ れた。初期の聖徒たちの多くがシオンの建設には熱心に参 調しておられた。「神のみこころを行おうと思う者であれ ば,だれでも,……この教が……分かるであろう。 」(ヨハ 加したいと願っていたものの,神が啓示された律法に従順 でなかったという点を考えると,この勧告はなくてはなら ネ7:17) この過程が理解できれば,なぜしるしを求めることが罪 ないものであった。預言者ジョセフ・スミスもまた,聖徒 になるのかは容易に理解できよう。信じるための条件とし 146 第63章 て,神の力を具体的な形で自分の目で見たいというのは, そうさせてしまったのだと弁明をした。 信仰が深められるのに必要な過程を踏まずに,抜け道をす るようなものである。そのような人は,代価を支払わずに しかしわたしは言った。『それは状況がどうのこうのと か,ドアに鍵がかけられたとかそういう問題ではないし, 証拠を求め,また姦淫の罪を犯す者と同じように,責任を 受け入れようとはせず結果だけを求める。このゆえに,し 誘惑でもない。君はその本屋に入る前にある思いを抱いて いた。もしそうした行為について一度も考えたことがなか るしを求めるのは邪悪で不義な時代であると言われるので ある。 ったのであれば,宣教師である君を堕落させてしまうよう な状況は生まれてこなかったはずだね。行いの前には必ず 預言者ジョセフ・スミスはこの原則について次のように それに至る思いがあるんですよ。 』」(“Cleanliness Is Next to 教えている。 「王国の奥義の鍵の一つをあなたに与えよう。 それは永遠の原則であり,神とともに永遠に存在してきた Godliness” Instructor「清さは敬神に次ぐ」『インストラク ター』1965年3月,p.86) 原則である。もしだれか立ち上がって他人を攻撃し,教会 の欠点を探そうとしたり,また自分は正しいがほかの人々 教義と聖約42:23−24の「注解」では,この問題につい てさらに詳しく説明している。 は道から外れていると言ったりする人がいるなら,その人 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は,背教に通じる道をかなり進んでいると判断すべきであ る。そしてそのような人は,もし悔い改めないなら,神が 教義と聖約63:17 う意味か 生きてましますように確かに,背教に陥るであろう。この 原則は,イエスが教えられた原則と同様に正しい。イエス ブルース・R・マッコンキー長老は,硫黄について次の ように解説している。「非常に溶解度が高く,またきわめ は,しるしを求める者は邪悪な人間であると言われた。こ て可燃性の強い鉱物であり,青い炎を上げて燃え,鼻につ の原則は天の柱と同様に,永遠で,揺らぐことなく,確固 としたものである。それゆえ,しるしを求める人を見たら, く異臭を放つ……。 燃える硫黄というのは,預言者にとっては,罰の定めを その人は不義な人であると考えてよい。」(『預言者ジョセ フ・スミスの教え』pp.156−157) 受けた者が受ける永遠の苦痛の象徴として非常に適切なも のであった。したがって聖典には,邪悪な者たちは『火と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:16 「情欲を抱いて女を見る者は」 硫黄とで苦しめられる』(黙示14:9−11;19:20;20: 10),あるいはまた,『彼らの苦痛は,炎がとこしえに立ち かんいん かぎ 「火と硫黄の燃える」とはどうい 思いは常に行動に先行して存在する。それをデビッド・ 上って消えることのない,火と硫黄の池のようである』(2 O・マッケイ大管長は次のように説明している。「何年も 前のこと,わたしがヨーロッパ伝道部の部長をしていたと ニーファイ9:16;アルマ12:17)と書かれている。この 恐ろしい『火と硫黄の池』の燃え盛る光景は,『永遠の苦 き,ある青年がわたしのもとを訪れ,間違った罪深い行為 をしたことを告白した。彼はちょうど閉店間際に本屋にい しみ』(2ニーファイ9:19,26;28:23;『モルモン書』 ヤコブ6:10;アルマ14:14;教義と聖約76:36)を象徴 て,ドアに鍵をかけられたので,たまたまそうなってしま するものであった。そこへ行くよう定められる人々は,第 ったのだと言い,自分が犯した罪について,周囲の状況が 二の死を受けることになるのである。」(Mormon Doctrine 『モルモンの教義』pp.280−281) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ へんぼう 教義と聖約63:20−21,49−51 地球の変貌 「地球は『変貌』と呼ばれる二つの変化を経験すること になる。 1.福千年の初めに,地球は現在の星の栄えの状態から 月の栄えの状態に変えられる。そのときには義人だけが地 上に存在することになる。 2.その1千年が終わった後,地球は日の栄えの状態にな り,その光栄にふさわしい忠実な者たちだけがそこで永遠 の 受 け 継 ぎ に あ ず か る 。」( コ ー ワ ン , Doctrine and Covenants『教義と聖約』p.101。教義と聖約77章;88: 17−20,25−26;101:24−25;130:4−11参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:24−31 シオンの土地をどのようにし て手に入れるか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,シオン の土地は購入することになっていたと説明している。「こ の事実は初期の教会員には教えられていた。教会員は隣人 たちの反抗心をあおってはならないと警告された。隣人の ジョセフ・スミスは,信仰こそ神の力へ至る鍵であると教えた 多くが教会員に対してきわめて苦々しい感情を抱いていた 147 からである。主は,土地の取得に当たっては血を流しては 由が述べられている。彼は高慢であったため勧告を受け入 ならないと言われた。シオンに集合する特権にあずかった 人々は,急いでシオンに上って行くことなく,徐々に集合 れなかったからである。しかし,シドニー・リグドンにも う一度機会が与えられた。彼の二度目の努力は認められ, することになった。この勧告が出された理由は明らかであ る。事をせいた場合,混乱と不満足な状態と疫病をもたら 受け入れられた。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.384) し,ひいてはさらに敵の心の中に驚きと恐れとを与え,い っそう大きな反感を引き起こすからである。サタンは教会 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:61−64 「すべての人は,わたしの名 員を滅ぼしたいと切望し,怒って,教会員同士,またミズ をどのように口にするか気をつけなさい」 ーリ州の先住者との間で争いを起こさせようと画策したの である。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:232) 主の御名をみだりに口にすることは,ほとんどの場合, 冒 としか考えられない。ジェームズ・E・タルメージ長 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:34 聖徒たちもまたほとんど逃れるこ 老は, 主の名をみだりに口にするということの定義を広げ, 次のようなことも含まれると述べた。 とができない み な 「1.わたしたちは俗的な話の中で神の名をみだりに口に 預言者ジョセフ・スミスは「人の子の降臨について説明 し,さらに,邪悪な人々は苦しみを受けるが,聖徒たちは しているかもしれない。 2.偽りの誓いを立てたり,自分で交わした聖約や約束 あらゆる裁きから逃れることができるというのは,誤った 考え方であると言った。この世にある人は皆苦しみを受け をないがしろにするのも,神の名をみだりに口にすること になる。 るのであり, 『義人もほとんど逃れられない』からである。 3.権能もないのに神の名によって語ろうとするのも, それでも, 聖徒たちの中には逃れることのできる者も多い。 義なる者は信仰によって生きるからである。とはいうもの 神の名を冒 的に軽々しく口にすることに当たる。 4.そして,神の戒めから故意に目を背けて行動するの の,義人の中でも肉体の弱さのゆえに,病気や疫病などの えじきになる者は多い。しかし,それでも彼らは神の王国 も,神の名を冒 することになる。わたしたちは,神の名 を我が身に引き受けているからである。」(Conference には救われるのである。こう見てくると,だれだれが病気 や死のえじきになったのは過ちを犯したからだなどと言う Report『大会報告』1931年10月,p.53) 神聖なものの適切な取り扱いについては,教義と聖約 ぼうとく のは,冒 的であることが分かる。人は皆,死を味わわな 88:121の「注解」にも述べられている。 ければならないのである。また救い主も『人をさばくな。 自分がさばかれないためである』と言われた。」(『教会歴 史』4:11) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:50−51 「高齢の人々は死ぬ。しか し,彼らは地の中に眠ることはなく」 この箇所は福千年の状態について述べている。教義と聖 約43:32;45:57−58;101:24−34;3ニーファイ28: 8;イザヤ65章を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:54 とめがいる」 「賢いおとめたちの中に愚かなお 『教義と聖約』には, 『新約聖書』のたとえの中に見られ る語句や考え方がよく出てくる(例えば,教義と聖約40: 2;45:36−37,56−57;60:13;86:1−7の「注解」を 参照) 。この箇所もその一例である。 「愚かなおとめ」とい うのは,たとえの中に出てくる,ランプに十分な油を用意 していなかった5人の思慮の浅いおとめを指している(マ タイ25:1−13参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約63:55−56 シドニー・リグドンの書いた ものは主に受け入れられなかった 「シドニー・リグドンは啓示(教義と聖約58:50)によ り,シオンの地の詳細を書くように指示されていた。とこ ろが彼の最初の働きは神に受け入れられなかった。その理 148 ジェームズ・E・タルメージはすべての人に,不敬なことを遠 ざけるよう教えた 「あなたがたには,すべての人を 赦すことが求められる」 第64章 のような人々は,当然の帰結として,死に至る罪を犯すこ ゆる 歴史的背景 とになる。このような人には悔い改めも赦しもなく,いか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「預言者は妨害を受けたために,また仕事を進める静か なる種類の救いにあずかる希望もない。サタンの子である 彼らは,滅びの子なのである。」(Mormon Doctrine『モル な場所を必要としていたので,1831年9月12日,ハイラム のジョン・ジョンソンの家に移った。そこはオハイオ州ポ モンの教義』p.737。アルマ5:41−42;マタイ12:31− 32;ヘブル10:26−27;1ヨハネ5:16−17参照) ーテージ郡で,カートランドの南東約30マイル(約48キ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ロ)の所であった。移転してから10月の初めまで,預言者 は空いている時間のほとんどを『聖書』の翻訳に費やした。 教義と聖約64:8 「昔のわたしの弟子たちは,互いに 機をうかがい合い」 この翻訳の仕事は,主の命に従って霊感,すなわち啓示に より『聖書』を改訂することを目的としたもので,1830年 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この出 来事を次のように説明している。「主が地上で人々を教え 6月に開始された(D.H.C.『教会歴史記録』1:215)。この 導いておられたとき,弟子たちは互いに陥れようとして, 改訂に当たり,シドニー・リグドンが続けて書き役を務め た。カートランドから移る前の日,預言者は現在教義と聖 心の中で赦し合おうとしなかったことがあった。主はその ときのことを言われたのである。ペテロが,兄弟を幾度赦 約第64章として知られる重要な啓示を受けた。この啓示に は教会員を導くための知識や勧告,警告がふんだんに盛り したらよいのでしょうかと思わず主に尋ねたのには,この ような背景があったのである。『七たびまでですか』と問 込まれている。」(スミス,Church History and Modern Reve- うペテロに,主は『わたしは七たびまでとは言わない。七 たびを七十倍するまでにしなさい』(マタイ18:21−22) lation『教会歴史と近代の啓示』1:234−235) と答えられた。昔の弟子たちがそのために苦しみと懲らし 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約64:1−2 「あなたがたが世に打ち勝つよ うに」 スミスとショダールは次のように書いている。「ヨハネ めを招いたように,わたしたちも,もし心の中に赦しの気 持ちを持たなければ,同じように苦しみと主からの懲らし めを受けることだろう。」(『教会歴史と近代の啓示』1: 235) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ はその第一の手紙の中で,『すべて神から生まれた者は, 世に勝つ』 (5:4)そして, 『世に勝つ者はだれか。イエス 教義と聖約64:9−11 「あなたがたには,すべての人 を赦すことが求められる」 を神の子と信じる者ではないか』 (5節)と言っている。わ たしたちが世の習わしや習慣に従いたいと思っているかぎ マリオン・D・ハンクス長老は,総大会の席上,人を赦 すことの大切さについて次のように語っている。 「ある り,神の戒めは重荷でしかないが,わたしたちがそうした 人はこう書いている。『愛の出し惜しみはキリストの精神 思いを克服し,この世の風潮に染まらずにいるならば,神 の戒めを守るのは難しいことではなくなる。そしてわたし の否定であり,わたしたちがキリストを知らなかった証拠 であり,そしてキリストがわたしたちのためにしてくださ たちはほんとうにイエスを神の御子であると信じるなら, 世のものに関心を示さなくなる。世に関心を示すことは神 ったことは無駄だったということである。それはつまり, キリストがわたしたちの心に何も残さなかったということ に背くことだからである。以上がヨハネがここで言いたか であり,またわたしたちが一度としてそば近くに行くこと ったことである。この啓示の中で主は,御自分の愛弟子の 言葉を引用して,礼拝においても,生活においても,そし なく,世の人々に対するキリストの愛から何の感化も受け なかったということである。 』…… て娯楽においても世の習わしに従ってはならない,と教会 の長老たちに言っておられる。この点に関してある人々は わたしたちは自分の心を踏みにじられたとき,それに対 してどう応じるだろうか。また,誤解されたとき,不当で つまずいていたのである。」(Commentary『注解』p.389) 冷酷な扱いを受けたとき,あるいは礼儀に背くことをされ たとき,気に障ることを言われたり,身に覚えのないこと まな で し ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約64:7 人はどのようにして死に至る罪を犯 で非難されたりしたときはどうだろうか。無視されたとき, すか ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明して 愛する人から傷つけられたとき,好意を無にされたとき, わたしたちはそれにどう応じるだろうか。わたしたちは憤 いる。「福音の光と真理に背を向ける人,サタンに自分自 身をゆだねる人,サタンの目的を支持してそれに加担する ったり,恨みを抱いたり,根に持ったりするだろうか。そ れとも,できることなら問題を解決し,赦し,自分を重荷 人,そしてこうした行いによってサタンの子となる人。そ から解放したいと願うだろうか。 149 そのようなときにわたしたちがどう対応するかによっ ンドに主の名のために一つの宮を建てるように命じられ て,現世で,また永遠の未来において,わたしたちがどの ような生涯を送るようになるかが決まるであろう。…… た。神殿ほどの建物となれば,建設にはかなりの年月を要 する。長老たちも力を尽くして働いたが,この宮の奉献式 しかし,自分が受けた悪事を喜んで赦せるかどうかによ は1836年3月27日まで待たなければならなかった。この宮 って決まるのは,永遠の救いだけではない。この世におけ る喜びや満足,また真の自由もそれにかかっているのであ に主が姿を現され,またエライアス,モーセ,エリヤが現 れてそれぞれの神権時代と権能の鍵を授けたのは,1836年 る。キリストはわたしたちに,ほかの頬も向けなさい,2 マイル歩きなさい,下着を取ろうとする者には上着も与え 4月3日のことである。そのとき,ほかに何人の使者が訪れ たかは分からない。しかし,すべての鍵と権能が授けられ なさいと命じられたが, それは威張り散らす人や粗暴な人, あるいは盗人のためを第一に考えて出された命令だったの なければならなかったことは,はっきりしている。その中 のあるものは,これらの使者の訪れる神殿が建てられる前 だろうか。それとも,憤りや怒りのために今にも倒れそう に,必要があって授けられたが,主の名のために建てられ になるほどの重荷を背負って苦しんでいる人を救うための み こと ば 御言葉だったのだろうか。 た宮でこの種の鍵が明らかにされたのは,神の計画による のである。聖徒たちはカートランドの地に一つのとりでを パウロはローマ人に,何ものも『わたしたちの主キリス ト・イエスにおける神の愛から,わたしたちを引き離すこ 保持するように命じられたが,この啓示が与えられたのは 1831年9月11日である。主の宮は1836年3月に奉献され,翌 とはできないのである』(ローマ8:39)と書き送ってい 4月にこれらの聖なる鍵が授けられた。この輝かしい出来 る。 わたしはこれが真実であると確信している。そしてその 事の後,教会員はシオンの地へ自由に移住することを許さ れた。実際に,数か月後には背教が起こり,多くの人が教 ことを証したい。しかしながら,わたしたちはキリストの 精神から自分自身を引き離すことができるということも, 会から離れて去った。 信仰のうちに踏みとどまった人々も, この地から逃れていく必要に迫られていた。それでも,カ やはり真実なのである。…… ートランドにおける御業が成し遂げられ,定められた時が ほお あかし み わざ み たま これはすべての罪について言えることである。ねたみ, 過ぎ去るまでは,主の御 霊 の影響力が優勢であった。」 傲慢,不義な支配などは,それらの罪に染まる人の魂を腐 (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の ごうまん らす。これはほかの人を赦すことができない人にも当ては まる。たとえほかの人に恨みや憎しみを抱くのが当然と思 啓示』1:237) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ える場合でも,そこから生じる結果を考えれば,それらの 教義と聖約64:22 悪感情に伴う損失を償うことはだれにもできない。好まし くない思いがもたらす不快な感情を感じることのできる人 か なら,それが及ぼす害毒も理解できる。 ブリガム・ヤング大管長は,攻撃の意図のない相手に攻 て用いられている。一般にそれらの比喩的表現は,各部位 の目的や機能に基づいている。例えば,目は光を感じる器 撃する人は愚かな人であり,攻撃の意図のある人に攻撃す る人もまた愚かな人であると言ったという記録が残ってい 官であり,善悪を識別する力の象徴として用いられている (マタイ5:29;6:22−23;教義と聖約27:2参照)。また, る。その中でヤング大管長は,がらがら蛇にかまれたとき 音を捕らえる耳は,心を向けて聞くこと,すなわち従順の に,2通りの行動がとれることを説明している。ある人は ふく しゅう 怒りと不安と復 讐 心でその生き物を追いかけて殺そうと 象徴となっている(申命32:1;黙示2:7;教義と聖約 33:1;43:1参照)。 する。別の人は大急ぎで毒を吸い出そうとする。もし後者 のようにすれば,生き残るであろう。しかし,前者のよう しかし「人の心」すなわち心臓は,人間のすべての器官 主が人の心を求められるのはなぜ 聖典の様々な箇所で,人体の各部位が象徴的な表現とし ひ であれば,殺す前に自分が死んでしまうかもしれない。」 (Conference Report『大会報告』1973年10月,pp.15−16) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約64:18−21 主が5年の間「カートランド の地に一つのとりでを保持」することを望まれたのはなぜ か ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この質 問に次のように答えている。「この神権時代初の神殿が建 てられるのはその地であった。そして,この神殿において かぎ 回復に不可欠の鍵が明らかにされることになっていた。す べての民がミズーリのシオンに移住したならば,神殿建設 は敵の手によって妨害されたであろう。……昔の預言者た ちが持っていた神権の鍵の回復は,教会の発展に必要不可 欠であった。主は御自身が訪れる場として,またこれらの 権能の鍵を携えた使者を遣わすための場として,カートラ 150 カートランド神殿,回復の神殿 ゆ 第64章 の中で最も深遠な象徴として用いられている。ある学者は, と呼んで,次のように言われた。 〔教義と聖約64:23−25〕 『聖書』の中で心臓は人間の「最深奥の中心部」と考えら れ,以下の3つの重要点を代表するものであると述べてい 油断なくよく祈ることによってのみ,時のしるしを正し く解釈し,主の再臨が切迫していることを感知することが る。 1.肉体的な生命と力の中心。心臓が強くなれば,体全 できる。油断している者や悪を行う者にとって,主の再臨 は,盗人が夜来るように,予期しない突然のことであるに 体が強められる。 2.人間の理性面と感情面の中心。心臓は「心」と同一 違いない。しかし,主の再臨の前に現れるしるしについて, 何の知識もなくわたしたちは放置されているわけではな 視される。すなわち愛や憎しみの宿る所であり,思想と知 い。」(『基督イエス』p.889) 識の中枢である。また理解,思考,判断の働きもする。そ して喜び,苦しみ,悪い思い,不満,不安,絶望,恐れ, 教義と聖約45:6の「注解」には,主が今から再臨の日 までを「今日」と呼ばれる理由が説明されている。 敬虔の念を感じる感情面の中枢部でもある。 3.道徳的生活の中心。心臓には霊的成長の数多くの段 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約64:34−36 「背く者はエフライムの血統 階が表れる。そこはキリストが住む所ともなれば,サタン に属さない」 の巣窟ともなる。また,たくましくもなれば,衰弱するこ ともあり得る。そして良い宝とも,悪い宝ともなり得るの 直系の子孫の象徴である血統が,不従順という霊的な特 性に左右されるという主の言葉は,奇異に感じられるかも である。「心臓は思い,言葉,行いに表れるすべてのあら ゆる善と悪を作り出す所であり,それらが流れ出てくる源 しれない。人間はエフライムの血統に属する者とそうでな い者との,どちらかしかないのだろうか。答えは否である。 である。……また,それは一個の人間の中心であり,生命 御自分の子供たちをその霊的特質によって判断される主 の根源でもある。 」 (ウンガー,Bible Dictionary, s.v. “heart” 『聖書辞典』「心」p.462参照) は,そのような分け方をなさらない。パウロはこの原則を 昔の聖徒たちに教えた。当時のユダヤ人は,自分たちが割 心臓が持つ深遠な象徴的意味を理解すると,主がなぜ 「人の心」を求められるのかもさらによく分かってくる。 礼を受けた聖約の民であることを大いに誇っていた。割礼 は聖約のしるしだったのである。しかしパウロは,割礼を 主は教義と聖約64:34で,この基本的な要件に加えて, 「進んで行う精神」を挙げておられる。 受けた者といえども,律法を破ればその「割礼は無割礼と なってしまう」(ローマ2:25)と指摘した。別の言い方を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ すれば,人は罪悪を犯せば真のイスラエル人でなくなると 教義と聖約64:23 「什 分の一を納める者は,主の来 臨の時に焼かれないであろう」 いうことである。パウロはこの論究を次のように締めくく じゅう ぶん キリスト ラドガー・クラウソン長老は,この約束がどのように成 就するかを次のように説明している。 「これはどういう意味であろうか。什分の一を納めなけ れば,主は火の玉を天から送って人を焼き殺してしまうの であろうか。いや,主はそのようなことはなさらない。主 は本来の原則に従って物事を処理される。したがってその 意味はこうである。什分の一を納めず主が述べられた命令 を無視する者からは,主の御霊が去ってしまう。すなわち, 義務を怠った状態が続くと,神権の権威がその人から失わ くらやみ れてしまうのである。そして次第次第に,また確実に暗闇 へと落ち,(次に注意してほしい)悪人の中に自らの姿を 見いだす。什分の一を守らない人の行き着く所はそういう 所である。そして破滅の日が訪れ,焼かれる日が訪れると, その人は悪人の中にいて焼き滅ぼされるのである。これに 対して律法に従った人々は,義人の中にいて守られるであ ろう。天におられる神が,義人を保護し守ることを約束さ れたからである。あなたがたに申し上げたい。悪人が焼か れ,滅ぼされる日が来る。そのとき,わたしたちはどこに いるであろうか。悪人の中にいるであろうか,それとも義 人の中にであろうか。 」(『大会報告』1913年10月,p.59) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ きょう 教義と聖約64:23−25 「見よ,今,……今日と呼ば れる」 「主の再臨の日は非常に近いので,それまでの期間は 『今日』と呼ばれる。1831年,主は再臨までの日を『今日』 神権はエフライムの家の管理の職である 151 っている。「というのは,外見上のユダヤ人がユダヤ人で 立たなければならない。したがって,まずエフライムが集 はなく,また,外見上の肉における割礼が割礼でもない。 かえって,隠れたユダヤ人がユダヤ人であり,また,文 められ,イスラエルの残りの部族がシオンに集められる時 のために,エフライムが福音と神権の力により道を備えな 字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって,そのほま れは人からではなく,神からくるのである。」(ローマ2: ければならなかった。すでに教会に加入した者の大多数が エフライム人である。他の部族の血を引く人,しかもマナ 28−29) ニーファイもこの原則を理解していた。彼は次のように セの部族でもない人がいるとすればそれは例外である。… … 教えている。「それは,見よ,あなたがたに言うが,異邦 今日神権を保有しているのは,エフライムである。主が 人であっても悔い改める者は皆,主の聖約の民となり,ユ ダヤ人であっても悔い改めない者は皆,捨てられるからで 聖約を交わし,永遠の福音を余す所なく明らかにされたの は,エフライムに対してであった。現在神殿を建設し,生 ある。悔い改めてイスラエルの聖者である御子を信じる者 でなければ,主はだれとも聖約されないからである。」(2 きている者と死者のために儀式を行っているのは,エフラ イムである。『行方の知れない部族』がイザヤやエレミヤ ニーファイ30:2) を通して与えられた約束を成就してシオンに来る時が来 エフライムはヤコブの手から生得権を受け(創世48: 5−22参照),主はこれをヨセフの長子と見なされた(歴代 る。それはきわめてすばらしい光景であり,驚くべきこと であろう。しかし,彼らはイスラエルの『長子』である兄 上5:1;エレミヤ31:9参照)。ジョセフ・フィールディン グ・スミス大管長は,その理由を次のように説明してい 弟のエフライムから至上の祝福を受けなければならない。」 (『救いの教義』3:226) る。 「この神権時代にエフライムは,啓示によって与えられ かしら たイスラエルの生得権を行使して,自らの地位である頭に エフライムのこの使命を理解すれば,主が「背く者はエ フライムの血統に属さない」(教義と聖約64:36)と言わ れた理由が分かる。 「神の王国が進み行きますように。 それによって,天の王国が来て」 歴史的背景 第65章 られると宣言した。この民はその時の到来を待ち望み,そ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の日を来らせるために努力していた。…… わたしは自分を,ダニエルが主の言葉によって述べた王 「ハイラムで何度か重要な大会が開かれ,あの忘れられ ない第76章の示現が記録されたことをはじめ,13の啓示が 国を打ち建てる器の一人であると考えている。そこでわた しは, 全世界に大改革を起こす基を据えたいと思っている。 下された。またここは,預言者とシドニー・リグドンが命 ……この王国を転じ行かせるのは,銃や剣ではない。それ をねらわれた所でもある。信仰を拒んで敵に回ったエズ ラ・ブースが暴徒を扇動したのであった。この啓示は明ら はすべての国民に,福音に従うことを求める真理の力であ る。」(『教会歴史』6:364−365) かに,その後の仕事や経験に備えて彼らを強めるためのも のであった。」(スミス,ショダール共著,Commentary ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約65:2 「神の王国」と人手によらずに切り 『注解』p.397) 出された石はどのような関係にあるか 預言者ジョセフ・スミスは,この章が一つの祈りである ことを次のように述べている。「10月上旬に,わたしは啓 ハロルド・B・リー長老は,神の王国と,ダニエルが夢 で見た石(ダニエル2:44−45参照)との関係について次 示を通して次の祈りを受けた。〔教義と聖約65章〕 」(History of the Church『教会歴史』1:218) のように述べている。 「神の王国とは何かと尋ねる人がいるかもしれない。わ 注 解 たしたちには,これに対する答えも与えられている。主は かぎ 『神の王国の鍵は地上の人にゆだねられており』と答えら ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れた。神の王国の鍵がある所には,イエス・キリストの教 教義と聖約65:1−6 神の王国の確立 預言者ジョセフ・スミスは,神の王国の確立のために自 会が存在する。この教会こそダニエルの夢の解き明かしの 中に語られている, 人手によらずに切り出された石であり, 分が果たすべき役割について次のように説明している。 それは転がり進んでかの像を打ち砕き,全地に満ちるまで 転がり行くのである(教義と聖約65章参照) 。 「昔の預言者たちは,終わりの時に天の神は決して滅び ることもほかの民に渡されることもない一つの王国を建て 152 預言者ジョセフ・スミスは,神の王国を次のように定義 第65章 している。 ご じゅんせつ 葉を用いる場合があることを明確にしておられる。1832年 『神の王国は五 旬 節の日まで地上に存在せず,ヨハネは ゆる 罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを説かなかったと に主は教会の長老たちに語りかけた次の言葉の中で,その ことに注意を向けさせられた。〔教義と聖約65:1−6〕 する人々がいる。しかしわたしは,神の王国はアダムの時 こんにち 代から今日に至るまで地上に存在していると主の名によっ これはかつての祈りであったし,現代においてもそうで ある。民の祈りのために定められたものである。言葉を唱 て言明する。地上に義人がいて,神が言葉を与え,神の名 によって教え導く力と権威を与えられたときには,また福 えるだけのものでもなければ,口先だけのものでもない。 天の王国の到来に地を備えるために,神の王国が地に転が 音の儀式を執行し,神の神権の下に管理する力と権威を神 り行くようにと祈るために定められたものなのである。主 より与えられた僕,すなわち神の祭司がいる所には,神の 王国がある。……神が命令を与えられる預言者,祭司ある の祈りの中の『御国がきますように。みこころが天に行わ れるとおり,地にも行われますように』という言葉は取り いは義人のいる所に神の王国はあり,神の啓示のない所に 神の王国はない。』(Teachings of the Prophet Joseph Smith 消されたわけではない。わたしたちは天の王国が来るよう に祈り,地をそのときに備えさせるために努力している。 しもべ 『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.271−272) み くに すでに地上に確立されている神の王国は,国々の中でこの 別の言い方をすれば, 『神の王国のない所には何もない』 ということになる。」(Conference Report『大会報告』1953 世的な統治を行うことを意図するものではない。また既存 のいかなる政体を転覆しようとするものでもない。天の王 年10月,p.26) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 国が降りて来て,一人の王を頭に頂いて地上に確立される ようになる前に,人々に正しい原則を教え,真の統治原理 教義と聖約65:6 に従順な生活をするよう働きかけるという方法を除けば, 神の王国と天の王国 かしら ジェームズ・E・タルメージ長老はこの二つの言葉の違 いをこう説明している。「『神の王国』という表現は,『キ 神の王国は地上の政治に関する事柄について支配権の行使 を主張はしない。しかし,主が来られるときには,主が支 リストの教会』という言葉と同じ意味に用いられている。 しかし主は他との区別を示す意味で『天の王国』という言 配し,統治される。なぜなら,それは主の正当な権利だか らである。 」(『大会報告』1916年4月,pp.128−129) キリストはこの地上において王国を支える力を使徒たちに与えられたが,それと同じ力をこの時代にも授けられた 153 「あなたは清いが,完全に清いわけ ではない」 歴史的背景 教義と聖約66:10 第66章 性的な罪悪はどれほど重大か 汚れた思いと不道徳な行いの関係について,スペンサ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年10月に,預言者ジョセフ・スミスはオハイオで幾 ー・W・キンボール大管長は次のように述べている。 「望むこと,欲すること,これらが肉欲に通じるのであ つかの大会を開いた。11日にはハイラムのジョン・ジョン ソン宅で大会が開かれ,「昔の集会の進め方」に関して教 る。したがって,次々と連鎖的に悪いことを想起するよう な思いを浮かべることは,それだけですでに罪を犯したこ えが与えられた。また21日にはカートランドで大会が開か とになる。ある思いがまかれ,それが肉欲として発芽すれ れ,論争が起こり,預言者はそれを解決するように求めら れた。25日のオレンジにおける大会には多くの会衆とあわ ば,結局は極悪な行為,姦淫を刈り入れることになる。… … せて,「12人の大祭司,17人の長老,4人の祭司,3人の教 師,4人の執事が」集った(History of the Church『教会歴 ……同様に姦淫も姦淫だけを考えた結果の行動ではない はずである。それはまず思いの退廃から始まる。実際に罪 史』1:219)。この大会において,ウィリアム・E・マク を犯す前に,その人の心の中には多くの罪深い思いが次々 レリンは自分に関する主の御心を知りたいと願った。それ で預言者が主に尋ね,授けられたのが,教義と聖約第66章 とわいてくるものである。 まさに, 人は心に抱く思いのとおりに行動するのである。 である。 もしその人が長い間思い続けるなら,窃盗であれ,道徳的 な罪であれ,あるいは自殺であれ,ついにはその思いのと 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約66:1−13 この啓示を与えられたとき,ウ ィリアム・E・マクレリンの霊的な状態はどうであったか 後に背教したとはいえ,この時点のウィリアム・E・マ おりに実行してしまうのである。これらのことから分かる ように,不幸を防ぐ時期は,その思いがはっきりした形を 取る前である。種のうちに防いでしまえば芽は出ない。 この地上に住むあらゆる生物のうち,人間だけが自分の クレリンは忠実な教会員であった。しかし,3節と10節に は彼が幾つか問題を抱えていたことが示されている。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,マクレ リン兄弟について次のように語っている。「主は彼の悔い 改めと善を行いたいとの心からの願いに対し,彼は清めら れたと宣言された。しかしそれには『完全に清いわけでは ゆる ない』との留保が付いていた。彼は赦されはしたが,明ら かにその思いの中に,完全な悔い改めによって自分自身を 清くしていない部分を幾つか持ったままでいたのである。 主は彼の心の中を御存じであった。そして彼は,出て行っ て『地方から地方へ,町から町へ,すなわちそれが宣言さ の れていないそれらの周りの地域で』福音を宣べ伝えるよう に命じられた。また,今はまだシオンの地へ上って行かな いように指示され,さらに,財産よりも主の業のことをも っと考えるように戒められた。彼はこの伝道に,預言者の 弟サミュエル・H・スミスを伴うように言われた。これは ウィリアム・E・マクレリンにとってすばらしい啓示であ った。そして,偉大な祝福となり,信仰を守り通すよう動 機づけを与えるものとなるはずであった。主の啓示によれ ば,彼には絶えず性的な罪の誘惑が付きまとっていた。彼 かんいん は姦淫の罪を犯したと責められてはいないが,彼自身の弱 さのゆえに,そのような点で危険があると告げられたので ある。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と 近代の啓示』1:244−245) 思いという種が,行いとなって芽を出す 154 思いのパターンを変え,自分の行く末を切り開くことがで きるのである。 」(『赦しの奇跡』pp.121−122) 「主なるわたしは,あなたがたの前 にあるこれらの戒めが真実である という証をあなたがたに与える」 第67章 歴史的背景 けではなかった。少なくともある一人の人物は,その言葉 遣いに疑いを持っていた。それがウィリアム・E・マクレ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ リンである。ある啓示の中で,その疑いに対する答えが与 1831年7月,ウィリアム・W・フェルプスは,教会の出 版物を出すために,ジャクソン郡で印刷の仕事を始めるよ えられた〔教義と聖約67:5−8〕。 預言者の言葉によると,『思慮分別よりも学識に勝ると うに命じられた。そして,オリバー・カウドリはそれを助 ける責任を与えられた(教義と聖約57:11−14参照)。ウ いうマクレリンが,主の最も小さな啓示をまねて自分で戒 めを書こうとした。』〔History of the Church『教会歴史』 ィリアム・W・フェルプスが先に出発し,オリバー・カウ 1:226〕マクレリンは合衆国の5つの州で教壇に立ち,い ドリは印刷機を購入するための資金を調達してから,合流 することになっていた。現金を持って西部の辺境を一人で ささかの成功を収めた, 相当の知識を備えた人物であった。 啓示を書くという彼の試みは惨めな失敗に終わった。ジョ 旅することは危険であり,ジョン・ホイットマーは,オリ バー・カウドリがその資金と啓示の手書き原稿とを安全に セフ・スミスは次のように書いている。『主の名によって い ふ 書くという責任は畏怖すべきものであった。長老たちをは 運ぶのを助けるために,彼に同行するよう命じられた(教 じめ,その場にいたすべての人は,人がイエス・キリスト の言葉をまねるという無駄な試みを目撃した。そして,完 義と聖約69:1−2参照)。 「オリバー・カウドリとジョン・ホイットマーがジャク 全な福音に対する信仰と,わたしを媒介にして主が教会に ソン郡へたつ準備を整えたとき,預言者ジョセフは,ハイ ラムのジョンソン家で長老たちの大会を開いて,彼らに与 与えられる戒めと啓示が真実であるという信仰を新たにし たのであった。そして長老たちは,世の人々にこの真理を えられた責任に関する重要な事柄について討議することを 証したいと進んで申し出てくれた。 』(『教会歴史』1:226) この大会が終わってから,ジョセフは啓示を整理した。 決めた。その討議項目の中で最も重要なのは,1年以上に わたって発刊準備と整理をしてきた啓示の出版についてで あった。 その大会の初日の1831年11月1日に,主は『戒めの書』 (Book of Commandments)のはしがきとして一般に知られ ている啓示を与えて,啓示を公にすることを承認された そしてウィリアム・W・フェルプスが印刷できるように, オリバー・カウドリとジョン・ホイットマーが,それをイ ンディペンデンスへと運んだ。」(バレット,Joseph Smith 『ジョセフ・スミス』pp.200−202) (教義と聖約1章)。その目的は,その書の全体に対する導 入とすることにあった。主はこの啓示の中で全世界の人々 しもべ に,悔い改めのメッセージと,御自分の僕 であるジョセ フ・スミス・シニアを通して人類の救いのための福音が回 復されたという事実を宣言された。 『それゆえ,主の声は, 聞こうとするすべての人が聞けるように地の果てにまで及 ぶ。……これらの戒めを調べなさい。これらは真実であり, 確かであって,これらの中にある預言と約束はすべて成就 するからである。 』(教義と聖約1:11,37) この大会において,長老たちは65の啓示を『戒めの書』 と名付けて,1万部印刷することを決定した。オリバー・ カウドリが主のはしがきを朗読した後,幾人かの兄弟が立 ってそれが真実であることと,預言者ジョセフを通して与 あかし えられたすべての啓示が真実であることを証した。次に預 言者が主の戒めに対する心からの感謝を表明した。彼は教 『戒めの書』の初版本 会を導くために自分に授けられた啓示が,神の霊感による ものであることに少しの疑いも持っていなかった。…… この大会に出席した全員が啓示を完全に承認していたわ 155 であり,換言すれば『光の父』 (ヤコブの手紙1:17)なの 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ である。 」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.278) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約67:3,14 教義と聖約67:10−13 どのような祝福を得られなかっ 「あなたがたはわたしを見 たか スミスとショダールは, このときに逃した祝福について, て,わたしがいることを知るであろう」 回復された福音が説くすばらしい真理の一つに,天は閉 次のように書いている。「そこに集った長老たち,あるい はその中の何人かは,待ち望んでいた祝福を逃してしまっ じられておらず,神は今なお人に語りかけ,御 心 を明ら かにされるという教えがある。この教えが持つすばらしい た。どのような祝福であったかは書かれていないが,それ 一面は,神が特定の条件を満たす人々に,確かに御自身を 示されるという点である。聖典には,昔の多くの預言者が は『戒めの書』に関する特別な示しであったかもしれない あんしゅ し(4節) ,預言者の按手後の奇跡的な現れであったかもし み こころ 神にまみえたことが記録されている。またこの神権時代を れない(14節)。しかしそれが何であったにせよ,人々は 自分が望んでいたものを受けることができなかったのであ 開いたのは,神とキリストが聖なる森でジョセフ・スミス に姿を現されたあの示現である。しかし,教義と聖約第67 る。その理由がここに書かれている。彼らは信仰に欠け, 章も含めて,幾つかの箇所では,このすばらしい特権は預 言者たちだけでなく,個人の義に関して求められる代価を その結果,恐れに支配されていたのである。」(Commentary『注解』p.405) 喜んで払う人にも与えられると教えられている(教義と聖 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約67:5−8 主のチャレンジ 約50:45−46;88:68−69;93:1;130:3参照)。預言者 ジョセフ・スミスは次のように教えている。 このとき,長老たちの中に啓示の言葉遣いに疑いを持つ 者がいた。彼らは誤字や文法上の間違い,癖を調べ,それ 「人がキリストを信じ,自分の罪を悔い改め,罪の赦し のためのバプテスマを受けて,〔按手によって〕最初の慰 をもってジョセフ・スミスの記録が彼自身の創作によるも め主である聖霊を受けたなら,次に神の前にへりくだり, のであると考えたのである。そして,これらの啓示がほん とうに主から与えられたものであるならば,そのような間 飢え渇くように義を求めさせ,神の言葉一言一言によって 生活させなさい。そうすれば主は間もなくその人に,息子 違いや癖はあり得ないはずだと判断した。そこで主は彼ら に,啓示を書いてみるようにとのチャレンジを与えられた よ,あなたは昇栄するであろう,と言われるであろう。主 によって完全に試され,どんな困難にあっても主に仕える のである。オーソン・F・ホイットニー長老は次のように と決心していることが明らかになったとき,その人は自分 述べている。 「こうして,彼らの中でも最も賢いと自認し,かなりの の召しと選びが確かなものとされたことを知るであろう。 あかし そうすると,聖ヨハネの証にあるように,その人は主が聖 学識を持つ一人の男が,このチャレンジを受けて,実際に 啓示を書こうと試みた。しかしそれは完全な失敗に終わっ 徒に約束された別の慰め主を受ける特権を得る。これは聖 ヨハネの証の第14章12節から27節に記録されているとおり た。彼は多くの言葉を費やしはしたものの,その中に神聖 である。…… さて,この別の慰め主とはどなたであろうか。それは主 な霊感はなかった。そして自らの敗北を認めざるを得なか ったのである。 ゆる イエス・キリスト御自身にほかならない。これが全体の総 物事の中に命の息吹を入れるのはたやすいことではな い。肉体を造ることは人間にもできるが,霊を造るのは神 括となるものである。この最後の慰め主を受ける人は,イ エス・キリスト御自身の訪れ,もしくは顕現を受ける。さ にしかできない。 」(Conference Report『大会報告』1917年4 月,p.42) らには御父の顕現をも受けるであろう。そして御父と御子 の臨在のもとに天の示現は開かれ,主が顔と顔を合わせて ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ その人にお教えになる。したがってその人は,神の王国の 教義と聖約67:6 『戒めの書』とは何か 『戒めの書』とは出版を予定されていた啓示をまとめた 奥義に関して完全な知識を得ることができるのである。昔 の聖徒たちが栄光あふれる示現を受けたときの状態は,そ ものに付けられた最初の書名である。ジャクソン郡で暴徒 によって印刷機とほとんどの印刷物が損なわれたとき,預 のようであった。イザヤやエゼキエル,パトモス島でのヨ ハネ,3つの天界における聖パウロ,それに長子の教会の 言者はそれまでの間に与えられた啓示も追加増補すること に決めた。その増補版が『教義と聖約の書』 (Book of Doctrine and Covenants)と呼ばれるものである(本資料の序 総集いと交わりを持ったすべての聖徒たちがそうである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・ スミスの教え』pp.150−151) 文を参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この特権はたやすく得られるものではない。個人の生活 の中で高い水準の義と献身を体現できるようになるまで, 教義と聖約67:9 神が姿を現されることはない。しかし,人間は一歩一歩そ の水準に近づいていくことができるのである。預言者ジョ 「光の父」とはどういう意味か 『新約聖書』のヤコブ1:17にも出てくるこの表現につい て,ブルース・R・マッコンキー長老は次のように書いて いる。 「『神は光であって, 神には少しの暗いところもない。 』 (1ヨハネ1:5)すなわち,神は光の具現者,創造者,根源 156 セフ・スミスは,どうしたらその成長の道を歩むことがで きるかについて,次のように述べている。 「わたしたちは,神が人間を教育するに値する者として, また天から人間に授けられた光に従順かつ勤勉に従うその のものと同様に独立してその本性を保っているとすれば, 度合いに応じ,能力を高めることのできる存在として創造 されたと考えている。また,人間は完成に近づけば近づく それは生まれついたままの肉体の状態にあることになる。 今この地球は一時的に腐朽性を帯びた星の栄えの状態にあ ほど視野が開け,喜びは大きくなる。そしてついには人生 の悪に打ち勝ち,あらゆる罪への思いを断ち切るようにな る。概して言えば,今この地上に生を受けている人々は, 肉のことを思い,肉欲にふけり,その心がきわめて悪い状 る。そして,昔の人と同じように,その信仰は高まり,造 り主の力と栄光に包まれてともに住むことのできる状態と 態にある。つまりこれらの言葉はすべて『肉体の思い』の 同義語として用い得るのである。〔教義と聖約〕第29章35 なる。しかしこの状態は,人が瞬時に達することのできな 節には,神の戒めは『自然のものでも,現世のものでもな いものである。神の特質,正義,公平さ,不変性を理解で きる段階にその思いが到達するまで,ある程度神の王国の く,肉欲のものでも,官能的なものでもない』と書かれて いる。また第67章10節では,人が神にまみえることに関し 管理と律法により教えを受けなければならない。」(『預言 者ジョセフ・スミスの教え』p.51) て,『肉の思いや,生まれながらの心ではなく,霊の心で 見るであろう』と教えられている。この世ではほとんどの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 場合,『肉体の思い』は『霊の心』の反意語または反対語 教義と聖約67:10,12 の心」とは何か と考えることができる。 」(Companion『必携』2:187) 「肉の思い」「生まれながら ラドローは次のように説明している。「何であれ,周囲 聖文は救いを得させる神の御心, 思い,言葉,声,力である 第68章 歴史的背景 彼は大西洋を越え,イギリス,ドイツを経て,コンスタン チノーブル,カイロ,アレキサンドリアを歴訪し,最後に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,第68章 聖なる町に到着した。1841年10月24日,彼はオリブ山に登 り,祈りをささげて,パレスチナをユダヤ人の集合のため の啓示が与えられたいきさつを次のように説明している。 に奉献した。」(スミス,ショダール共著,Commentary 「1831年11月1日から12日の間に開かれた大会の終了時に, オーソン・ハイド,ルーク・ジョンソン,ライマン・E・ ジョンソン,ウィリアム・E・マクレリンの4人の長老が 預言者のもとに来て,彼ら自身について,また彼らの務め み こころ について主の御 心 を知りたいと申し出た。そこで預言者 が主に尋ねて受けた啓示が教義と聖約第68章である。確か に主はその知恵により,教会の会員の受ける準備の程度に 従 っ て ,『 教 え に 教 え , 訓 戒 に 訓 戒 を 加 え 』 ら れ る 。」 (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の 啓示』1:257−258) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約68:1 オーソン・ハイドの召しは,遠大な 結果をもたらすものであった 「この聖句の預言は文字どおりに成就した。オーソン・ ハイドは『民から民へ,地方から地方へ』福音を宣言した。 1832年,彼はサミュエル・H・スミスとともに,ニューヨ ーク,マサチューセッツ,メイン,ロード・アイランドの 諸州を徒歩で合計3,200キロに及ぶ旅をした。1835年に使 徒に聖任され,1837年にはイギリスへの伝道に出た。そし て1840年にはエルサレムへの伝道に派遣されたのである。 オーソン・ハイドはエルサレムをユダヤ人の帰還のために奉献 した 157 『注解』p.409) したがって判断の責任は彼らからわたしたちに完全に移 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約68:3−5 しもべ 聖文とは何か み されたことになる。」(When Are the Writings or Sermons of Church Leaders Entitled to the Claim of Scripture?『教会の指 聖文とは,神の僕を通して明らかにされる神の思いと御 導者の著作や説教はいつ聖文になるのか』セミナリー・イ 心である。ペテロは,「預言は決して人間の意志から出た ものではなく,人々が聖霊に感じ,神によって語ったもの ンスティテュート職員への講演,1954年7月7日,p.7) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ だからである」(2ペテロ1:21)と宣言している。このよ うな聖文は,永遠の真理という貴重な宝石として,標準聖 教義と聖約68:10 しるしは信仰に伴って与えられる 人々はよく,しるしを見たがったり,見えない世界から 典の中に収められている。しかし,標準聖典だけが聖文な のではない。この点について,ジョセフ・フィールディン の声を聞きたがったりすることがある。教会員の中にも, その霊的成長のどこかの段階において,これと同じ望みを グ・スミス大管長は次のように教えている。 持つ人がいるかもしれない。また,このような体験が自分 「兄弟の一人が今日会衆の前に立ち,主の霊感がその人 の上にあれば,その幹部は主が語らせようとすることを語 たちの証を非常に強くし,まだ信仰を持っていない人々に イエス・キリストの福音が真実であると信じさせることが る。それはこれらの記録に書かれたどの部分にも劣らず聖 文である。けれどもわたしたちはこれらの記録を標準聖典 できる,と心から信じている人も少しはいる。このように 考える人々は,一般に,信仰を表すまでしるしは与えられ と呼んでいる。わたしたちはもちろん霊感を受けることの ないということを心に留めなければならない。このような できる兄弟たちの導きに頼っている。 教会のために啓示を与える権利を持つ人は一時期に教会 ことを考えたり口にしたりすることは,真の信仰の成長の 妨げであり,悪の徴候だからである(マタイ12:39参照; の中に一人だけである。それは大管長である。しかしこれ はこの教会の他の会員が主の言葉を語ることができないと 教義と聖約63:7−12の「注解」も参照) 。しるしは信仰の 必然的な結果であり,義にかなった行いの確認として与え いう意味ではない。第68章の啓示に示されているとおりで られるものである。しるしは信仰の後に来るものであり, ある。ただこの書に記されているこれらの啓示と同じよう に与えられる啓示は, 教会の管理役員を通して与えられる。 人間と力の源とをつなぎ合わせる信仰がなければ,何の奇 跡も起こらない(マルコ16:17;エテル12:12参照)。実 それでも総大会,ステーク大会あるいは他の場所で他の僕 たちが,主の語らせる言葉を語れば,その言葉も他の神権 際,神の力の外見的な表れはそれ自体,信仰と義が神に認 められたという確認なのである。 時代の預言者の書いたものや言葉と同様,主の言葉であ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。」( 『救いの教義』1:179) ハロルド・B・リー大管長は,聖文を次のように定義し 教義と聖約68:15−21 アロンの直系の子孫が副監督 なしに監督として働くようになるのは,どのような状況の ている。「中央幹部の話すことはすべて霊感によるとか, 彼らが語ったり書いたりすることはことごとく聖霊により ときか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この定 動かされてそうしたものであると考えてはならない。皆さ んに心に留めておいていただきたいことがある。いかなる めは教会の管理監督の職にのみ適用されるものであるとい うことを,次のように述べている。「これはアロン神権を 役職にあろうと,もしだれかが教会の標準聖典の教えを超 管理する者だけを指しているのであってワードの監督のこ えた著述や発言をした場合,その人が預言者,聖見者,啓 示者でないかぎり──唯一の例外に注目していただきたい とではない。 さらにこのような人は大管長会から指名され, 大管長会の手により油を注がれ聖任されなければならな ──直ちに『それはその人の個人的な考えです』と言うこ とができる。またその人が標準聖典の教えと相反すること い。この職にあって管理する権利を確立するのは,大管長 会に与えられる啓示によるのであって,祝福師から与えら を語った場合(「標準」聖典と呼ばれるのは,人のあらゆ れる啓示によるのではない。このような子孫が分からない る教えを判断する標準となるからだと思うが),皆さんは 同じ方法によって,その人の役職が何であるかにかかわり ときは,大管長会が選ぶ大祭司が管理監督の職に就き,副 監督とともに働くことができる。 」(『救いの教義』3:84) なく,それが誤りであることが分かるのである。」(The Place of the Living Prophet, Seer, and Revelator『生ける預言 「この教会の管理監督の職は,アロンが受けていた職と 同じものである。……またそれはバプテスマのヨハネに授 者,聖見者,啓示者の地位』セミナリー・インスティテュ けられた職でもある。バプテスマのヨハネが1829年5月15 ート職員への講演,1964年7月8日,p.14) J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,一つのき 日に,アロン神権を回復するためにジョセフ・スミスとオ リバー・カウドリのもとへ遣わされたのは,この権威と働 わめて重要な疑問に関連して次のように語っている。 「彼らの言葉が『聖霊に感じて』語られたものかどうか きの鍵を持っていたからである。この管理の職に対して正 当な権利を有する人は今のところ見つかっていない。恐ら は,どのようにして知ることができるのだろうか。 わたしはこの質問について少し考えてみた。わたしなり く今は教会の中にはいないものと思われる。しかし,『ア ロンの子孫の中の長子』である者がいることが啓示によっ の結論は,話し手が『聖霊に感じて』いると言えるのは, て示されれば,その人はこの管理権を生得権として授けら わたしたち自身も『聖霊に感じて』いるときだけである, ということである。 れているので,『油注ぎ』と教会においてその職に就く権 利とを『要求する』ことができる。」(Church History and こころ きょう 158 あかし かぎ 第68章 Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:259) うなことが起こり得るとわたしが信じるのは,次のような ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 罪を犯した監督は大管長会に 理由からである。いろいろな逆風が吹きつける中で,彼ら は自分で意識している以上に大きく,自分の家庭で培われ よる審理を受けるのか 「教会の管理監督の罪は,その人が所属するステークの た生活の海流の影響を受けていたからであろうと思う。後 日,彼らが自分の家庭の中に父母の家庭と同じ雰囲気を再 高等評議会ではなく,大管長会によって審理される。なぜ なら,管理監督は……この職においていかなるワードやス び作りたいと思ったとき,きっと両親の生活に意義を与え た信仰に立ち返ることであろう。 テークの管理下にも置かれていないからである。管理監督 もちろんのこと,正しい両親なら必ず子供を引き止めて の審理に関するこの定めは,一般のワードの監督には適用 されない。彼らはステーク会長会の管理下にある。 」(スミ おくことができるという保証はないし,できる限りのこと をしないならば,子供は遠のいていくであろう。子供にも ス『教会歴史と近代の啓示』1:259−260) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 選択の自由が与えられている。 だがもし, わたしたちが親として子供たちに影響を与え, 教義と聖約68:22−24 教義と聖約68:25−26,31 両親は子供に福音を教 『狭くて細い道』へ心を向けさせなかったなら,そのとき えなければならない ハロルド・B・リー長老は次のように述べている。「主 には,悪と誘惑の波風が子孫を道から連れ去るに違いな い。 は,両親が子供の信仰をはぐくむ際に役立つ5つの指針を 与えてくださった。主の言葉によれば,まず第1に,子供 『子をその行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老 いても,それを離れることがない。』(箴言22:6)わたし が責任を持てる年齢である8歳に達したらバプテスマを受 たちの知っていることは何かといえば,子供に良い影響を けられるようにすること,第2に,子供に祈りを教えるこ と,第3に,主の前を正しく歩むように教えること,第4に 及ぼそうと努める正しい両親は終わりの日に罪のない者と され,全員とはいわないまでも,子供たちの大半を救いに 安息日を守って聖なる日とするように教えること,そして 5番目に,教会でも,個人の生活においても怠惰とならな 導くことができるだろうということである。」(『大会報告』 1974年10月,p.160) いように教えることである。 この教えに従って,子供たちを教えた両親は,家族の信 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約68:27 子供の責任能力 仰が篤くなるという報いを刈り取ってきた。そして,子供 たちは困難な試しに耐えてきたし,またこれから遭遇する 試しにも耐えることだろう。」(Conference Report『大会報 告』1952年10月,p.17) 子供を教えるという親の義務に関連して,N・エルド 教義と聖約29:46−50の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約68:29 安息日の遵守 教義と聖約59:9−13の「注解」を参照する。 ン・タナー副管長は,両親にとって祝福となる興味深い副 産物を挙げている。「従順,すなわち法律を尊び守ること や神を信じて戒めに従うことを教わった子供は,成長する に従って自分の両親を敬うようになり,両親の誇りとなっ て,自分の問題を立派に解決し,人生にいっそうの成功と 幸せを見いだし,現代の悩みの種となっている数々の問題 の解決に大きく貢献することであろう。子供たちが将来, 指導者となりその責任を通じて世の中に平安と義をもたら せるように,今,従順によってその用意をさせることが, 両親の責任である。 」(『大会報告』1970年4月,p.65) 両親が義にかなった導きを与えても,子供がそれに従お うとしない場合がある。しかし,親の教えに不従順な子供 に働きかけ続ける両親には,望みが残されている。スペン サー・W・キンボール大管長は次のように話し,約束して いる。 「善良な家庭の子供たちが反抗したり,道を踏み誤った り,罪を犯したり,挙げ句の果てには神と争ったりするの を,わたしはしばしば目にしてきた。海流を起こそう,模 範になって教えようと自分の最善を尽くしてきた両親にと って,それは大きな悲しみである。しかし,よくあること だが,その子供たちの多くが,迷いの年月を過ごした後に, 心を和らげ,失っていたものを悟り,悔い改めて自分の周 囲の人々の霊的な面に大きな貢献をするのである。このよ 両親は子供に福音を教えなければならない 159 教義と聖約68:30 働く者の価値と本分 りの効用について次のように話している。 主は,他人の働きに依存して生活する怠惰な者を厳しく とがめられる(教義と聖約42:42;56:17;60:13;75: 「イエス・キリストの言葉をもって皆さんにお勧めする。 『あなたがたは誘惑に陥らないように,常に目を覚まして 29参照)。怠惰に根ざす問題が現代社会に広がっている一 つの原因は,金銭や物を施すだけで,それに対する労働を いて祈らなければならない。サタンはあなたがたを小麦の ようにふるいにかけることを願っているからである。』(3 求めようとしない,国家による大規模な福祉制度である。 デビッド・B・ヘイト長老は,この悪に対して次のような ニーファイ18:18) 朝夕熱心に天父の導きを求めるならば,いかなる誘惑を 警告を発している。 も遠ざける力が与えられるであろう。ヒーバー・J・グラ 「福祉政策と呼ばれるこの怪物は人々に何をもたらした であろうか。福祉を受けるようになってからすでに2世代 ント大管長は,教会の若人に次のような約束を与えてい る。 から3世代を経過しようとしている。そして,現在数百万 の人々が政府の厄介になって生活するようになり,子供た 『わたしは,御霊の導きを求めて日に2度,真心から神に 祈りをささげる若人についてはほとんど心配していない。 ちは労働の価値と尊さを知らずに成長している。政府は, いやまったく憂える必要はないと思っている。誘惑が来て 教会福祉プログラムが阻止しようとしていることを,逆に 奨励してきたのである。…… も,霊感によってそれを克服する力があると確信している からである。御霊の導きを求めて主に祈りをささげるとき だからといって,教会員は全員政府の失業手当のもたら す弊害に背を向けているというわけではない。わたしたち に,わたしたちの周囲に防護壁が築かれるのである。そし み たま て熱心に真心から主の御霊の導きを求めるときに,それが の中にも,政府から無償で援助を受けている人が実際にい 与えられるということを,わたしは皆さんにはっきりと申 る。これは取りも直さず,教会福祉の原則をもっと認識す る必要があることを示している。キンボール大管長は次の し上げる。』(Gospel Standards『福音の標準』p.26)」(『大 会報告』1977年10月,p.46) ように述べている。『肉体や情緒面の能力がありながら, 自分自身あるいは家族の福祉を図る責任を第三者に転嫁し ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約68:33 「わたしの民の判士」 ようとする者は,決してほんとうの末日聖徒ではない。』 (Ensign『エンサイン』1978年5月号,p.79)」(『大会報告』 「イスラエルの一般判士とは,ワードの監督であり,そ の職務は群れを見守ることである。監督には自分を助けて 1978年10月,p.86) くれる者として,アロン神権者がいる。またふさわしさを 主が定められた福祉プログラムは,能力に応じた働きを 求めるものであり,労働の原則と自尊心を再確認してい 備え,ワードにおいて教師や祭司の代わりに働くように召 すこともできるすべてのメルキゼデク神権者がいる。」(ス る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ミス『教会歴史と近代の啓示』1:261) 教義と聖約68:33 「祈るべきときに主の前に祈りを することを守らない者」 エズラ・タフト・ベンソン長老は特に若人に向けて,祈 歴史記録を保存するように との指示 歴史的背景 第69章 と望んでいたという。そこで彼は長老たちの意を受けて, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 大会が終わった翌日に当たる11月3日に,主に尋ね,啓示 を受けた。この啓示もほかの戒めとともに印刷に付すよう ジョセフ・スミスは,オハイオ州ハイラムにいた1831年 の11月にこの啓示を受けた。ジョセフ・フィールディン に命じられたが,大会後これについて討議がなされ,付録 として一冊の中に組み入れられることになった。この啓示 グ・スミス大管長は次のように述べている。「預言者ジョ が現在の第133章である。…… セフは11月の大会が終わると,11月15日かそれ以前に予定 されていたオリバー・カウドリの〔ミズーリに向けての〕 預言者ジョセフが自分に与えられた啓示のすべてを『戒 めの書』 (The Book of Commandments)の中に組み入れたと 出発のときまでに,啓示を整理する仕事を急いで進めた。 の 預言者の記録によると,当時,世の人々に福音を宣べ伝え 考えるのは間違いである。『戒めの書』のために選ばれた 啓示は,そこに含まれている教えが教会員にとって何らか ることや集合について,長老たちが多くのことを知りたい の価値を持つと預言者が判断したものだけである。『戒め 160 第69章 の書』の中には入れられなかったが,教会がまだ保有して ている。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴史 いる啓示も存在するのである。わたしたちが信じて当然と いう啓示の幾つかは外された。それは,預言者が霊感によ と近代の啓示』1:249) ジョン・ホイッマーについては,教義と聖約第15,26, って不必要と判断したためであり,また出版したり,不信 仰な世の人々に発表したりするには不適切な内容だったた 30,47章を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ めでもある。 印刷のための準備は間もなく終わったが,11月1日から 教義と聖約69:8 ように役立つか 教会の記録は後の世代の人々にどの 12日にかけて預言者はこの仕事にかなりの時間を費やし 1849年にオーソン・プラット長老は次のように書いてい た。またその間に4度の特別大会が開かれている。しかし, 啓示はその月の15日にはオリバー・カウドリと彼の連れに る。「もしすべての長老がこれまでの19年間に神の慈しみ, 知恵,力について見聞きし,感じたことをすべて忠実に記 渡せるまでに準備が整った。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:248−249) 録していたなら,教会は非常に重要で有益な情報を含む何 千巻もの本を所蔵することができたであろう。この教会に この一連の出来事と啓示が受け入れられたことについ は奇跡的な癒しを受けた人がどれほど数多くいることだろ いつく いや て,預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。 「『戒めと啓示の書』(Book of Commandments and Revela- うか。しかしだれもそれらの出来事を記録していない。こ れでよいのだろうか。神の力の奇跡的な現れを忘れ去って tions)はわたしの祈りをもって全能の神の業のために献納 されることになっていた。わたしはこのことを行った後に しまってよいのだろうか。実際に見聞きした人だけのもの にしてしまってよいのだろうか。……わたしたちは記録を 主に尋ね,次のような啓示を受けた〔教義と聖約69章〕。」 つけなければならない。その理由は,イエスがそう命じら (History of the Church『教会歴史』1:234) 注 解 れたからである。また,記録はわたしたち自身と,後に続 く子孫たちにも益をもたらし,放っておけば失われてしま ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ う数多くの重要な情報を,教会の全体的な歴史記録にもた らしていくからである。」(Millennial Star『ミレニアルス 教義と聖約69:1−2 ジョン・ホイットマーがオリバ ー・カウドリに同行してミズーリへ行くように命じられた ター』1849年5月15日,p.152) これから後に起こる出来事,非常に重要な出来事につい のはなぜか て考えれば,聖徒が個人の歴史や日記をつけるように繰り 教会の敵の中には,オリバー・カウドリが信用できない 人物であったことの証明としてこの聖句を用いようとする 返し勧告されている理由がさらによく理解できるであろ う。ジャクソン郡への帰還とその地における神殿の建設, 者がいる。しかし,B・H・ロバーツ長老はその背景を次 のように説明している。「カートランドからインディペン 十部族が北の地から戻って来ること,アダム・オンダイ・ アーマンでの会議,神の王国の確立,ハルマゲドンの戦い, デンス,すなわちシオンへの道は人家がまばらなうえ,開 栄光に満ちたキリストの再臨,これらの出来事を目撃した 拓地のある西側は常に無法者の巣であったからである。し たがって一人で,しかも大金を持ってこのような所を旅す 聖徒たちが直接の体験に基づいて書く記録を,後の世代の 人々がどれほど大切にするか考えてみようではないか。ス るのはまったく危険極まりないことであった。そこでオリ バー・カウドリのために,またお金と神聖な品物を安全に ペンサー・W・キンボール大管長は価値ある日記のつけ方 について,以下のような提案をしている。 運ぶために,忠実で信頼の置ける同僚が一緒に行くのは賢 「個人の日記には,どのように問題に立ち向かったかを 明なことであった。そこで任命されたのがジョン・ホイッ トマーである。」(Comprehensive History『教会概史』1: 記録するとよい。子孫にとってこのような経験は無意味だ などと考えないでいただきたい。働いた経験,人々とのつ 268脚注) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ きあい,これをして良かった,あれをして悪かったという のも良いと思う。…… 教義と聖約69:3−8 教会歴史家ジョン・ホイットマー 長年にわたって教会歴史家の任を務めたジョセフ・フィ あなたがたの日記もすべて, 昔も今も変わらない問題と, それにどう対処したかを子孫に伝えるものとなるのであ ールディング・スミス大管長は,ジョン・ホイットマーが る。 受けていた責任について,次のように説明している。「彼 は,教会に関して見聞きしたものの中から重要な事柄を, 日記には,格好よく飾り立てた架空の完璧な姿ではなく ありのままの自分を書きなさい。良い所を極彩色にして, すべて記録しなければならなかった。また,オリバー・カ ウドリをはじめほかの長老たちからも助言を受けることに 悪い所を削除したいと思う気持ちはだれにでもある。また 逆に,悪い所を強調してしまう危険性もある。わたし個人 なっていた。管理人の職についての報告書をシオンへ運ぶ は,自分のことでも他人のことでも,生活の醜い面をせん ようにとも書かれている。主はそれに続けて,『シオンの 地はこれらのものを受け取って行う中心地であり,場所だ さくする人をあまり尊敬できない。あくまでも真理を語る べきであって,否定的なことを強調すべきではない。霊的 からである』と言われた。そしてジョン・ホイットマーは, 『もっと容易に情報を得るために,場所から場所へ,また な経験に満ちた長い人生も,一つの醜悪な話で台なしにな ってしまうことがある。人生の大半を分別をもって過ごし 教会から教会へと巡って何度も旅をしなさい』と命じられ てきた人の一つの忌まわしい現実になぜ執着するのであろ かんぺき 161 うか。 良い伝記作家は,感情に頼らず,良識に頼る。的外れな ざんしん ことははき捨てて,もっともなこと,斬新なこと,興味あ ることを探すのである。…… あなたの日記はあなたの伝記である。したがって丁寧に 記録しなさい。あなたという人間は一人しかいない。した がってほかのいかなる人の人生の記録より,もっと貴重で すばらしいあなたなりの経験や出来事が書けるはずであ る。あちらこちらに才気にたけた言葉や信仰の話があるだ ろう。あなたは正直に,人の目から見た自分ではないほん とうの自分を記録しなさい。まだ記憶が新鮮で詳しいこと を覚えているうちに日記に書き留めなさい。 日記を書くということは,優れた特質を備えた個人個人 が自分の文学を作り上げることである。したがってだれも がつつましい生活の中でも立派な人間になることができる のである。 苦難を乗り越えたこと,挫折から立ち直ったこと,八方 ふさがりの中でも進歩を続けたこと,目的を完遂した喜び, これらを記した一生の記録を残すこと以上に,子供や孫の ためにしてやれることがあるだろうか。 ありさま 書くことの中には日常の変哲もない出来事や有様もあろ うが,将来子供たちが引用して語るような味わいある文章 もあって然るべきである。 教会の若人に申し上げる。日記帳を用意して生涯の記録 日記をつけることは,末日に下された厳粛な戒めである を書き留めていただきたい。天使たちはあなたの永遠にわ な出来事を記録しなかった人をとがめられたことを,忘れ たってその記録から引用することもあり得るのである。今 日から始めて,生活のあれこれや心に深く考えていること, てはならない。」(“The Angels May Quote from It” New Era 「永世にわたる記録」『ニューエラ』1975年10月号,pp.4− 達成したことや成功,失敗,交際および印象に残ったこと, あかし そして自分の証を,そこにつづりなさい。救い主が,大切 5) 第70章 主の管理人 歴史的背景 とジョン・ホイットマーは,啓示の一部の原稿を印刷のた めにオハイオからミズーリへ運ぶ仕事を与えられた。これ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1832年の11月1日から12日にかけて,オハイオ州ハイラ らの準備に加えて,主はジョセフ・スミスに,啓示の出版 に際して, ある人々に特別な任務を与えるように言われた。 ムで4度開かれた大会の一つにおいて,兄弟たちは啓示が 神から与えられたものであり,世に向けて公表すべきもの その人々は『戒めの書』の販売によって得た利益を物質上 の必要を満たすために用い,また自らの管理の職に関する で あ る こ と を 証 し た 。 主 は 『 戒 め の 書 』( Book of 報告書を差し出して,啓示についての「管理人」になるよ うに命じられた。 あかし Commandments)として出版されることになっていた啓示 に加えてさらに「はしがき」(現在の教義と聖約1章)と 「付録」(現在の教義と聖約133章)を与え,彼らの決議を 承認したことを確認された。 そしてこれを成し遂げるための働きが開始された。ウィ リアム・W・フェルプスは印刷機と活字を入手し,ミズー リ州インディペンデンスに設置した。オリバー・カウドリ 162 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約70:3 か 「管理人となる」とはどういうこと 管理権と所有権は別のものである。前者は,所有者に報 第70章 告する責任を帯びて管理する権利である。基本原則は主の 次の言葉の中に説かれている。「主なるわたしは天を広げ, また地を築いた。 これらはまことにわたしの手の業である。 そして,その中にある万物はわたしのものである。……見 よ,すべてこれらの財産はわたしのものである。……そし て,それらの財産がわたしのものであるならば,あなたが たは管理人である。 」(教義と聖約104:14,55−56) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約70:5−7 管理の職は霊的な必要と物質的 な必要の両方にかかわるものである 印刷すべき啓示の管理人に任じられた兄弟たちは,利潤 の中から生計費を受け取るように命じられた。奉献の律法 (教義と聖約42章参照)は霊的な必要だけでなく,物質的 な必要も含むものであった。 ジェームズ・E・タルメージ長老は,奉献の律法の霊的 側面について次のように述べている。 「物質上の事における一致の制度は,現代当教会にすで に啓示されているところであって,このような制度は一般 にエノクの制度または共同制度と言われていて奉献の律法 に基いている。すでに述べたように,末日の教会の初期に おいて教会の民はこの律法を完全に守る能力のないことを じゅう ぶん 示したので,その結果『什 分 の一』という小さい方の律 法が与えられた。しかし,聖徒らは自分らの資産の10分の 1をささげるのみならず,あらゆる持物と全能力とを彼ら 一致の精神は奉献の律法に必要不可欠の条件である の神のお役に立つためにささげる日の来ることを確信して 事している教会の長老のために使われた。そしてこれらの 待っている。その日には何人もこれはわが物それは汝の物 と言うことなく,すべての物は主の物となりまた彼らの物 人々は,可能であれば受けたものを返済することになって なんじ となるに違いない。 このような期待をするに当って,彼らは個人の無責任を 奨励しつつましい人々をぎせいにして生活することを望む 口実を怠け者に与える共産主義のぼんやりした夢に耽るこ となく,むしろ神の承認を受けられるような約束の社会組 織の中で,万人が自己の管理に託された才能を以て望むま まに行う自由を完全に楽しむ管理人になるに違いないこと いた。しかし,できない場合は,忠実な労働によって,監 督に対する負債の支払いをしなければならなかった(教義 と聖約72:11以下) 。」(Conference Report『大会報告』1942 年10月,p.56) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約70:14 物質面での平等 「平等」という言葉を辞典で見ると,偏りがなく,すべ を冷静に信頼して期待する。しかし,彼らの管理人たる務 てが一様で等しいことという意味が書かれている。 しかし, 主が福音の中で用いておられる平等という言葉には,その めの説明が必ず後に要求されるということを確に知って期 待するのである。 」(『信仰箇条の研究』pp.575−576) ような定義は当てはまらない。ジョセフ・フィールディン グ・スミス大管長は次のように説明している。「『平等』と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約70:7−9 主の倉に納めるべき余剰とは何 は,すべての人が同じ量の食物を受けるという意味ではな か J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は次のように 説明している。 「管理人は割り当てられた配当が,家族に標準の生活を させる以上のものであると判断すれば,既述のように監督 に返却するということを,もう一度確認しておきたい。こ の余剰と,前に出てきた残余とは,監督の倉に納められる (教義と聖約51:13参照)。倉の物資は,前に述べたよう に,配当を作り出すことに使われ,貧しい者(教義と聖約 78:3),やもめや孤児(教義と聖約83:6),また伝道に従 い。それぞれに必要に応じた分を受けるのが平等である。 例えば,人は仕事の性質によってではなく,家族が何人い るかに応じた分を受けるのである。それは次のようにして 与えられる。『食物と,衣服と,受け継ぎと,家と,土地 のために,これを与える。主なるわたしが彼らを配置する どのような状況の下にあっても,また彼らを送り出すどの 場 所 に あ っ て も そ う で あ る 。』〔 教 義 と 聖 約 70: 16〕」 (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の 啓示』1:268−269) 教義と聖約51:3の「注解」には,平等の概念が説明さ れている。 163 「もしだれかがあなたがたに 反対して声を上げるならば」 第71章 の 歴史的背景 たちによって宣べ伝えられ始めたころは,受肉(1コリン ト2:7;1テモテ3:16),復活(1コリント15:51),教会 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示が与えられたのは1831年12月1日であるが,当 への異邦人の集合(コロサイ1:26−27)などの教義は奥 義であった。この神権時代においても,集合,神殿とシオ 時の教会はあら探しをする者や背教者たちの攻撃を受けて も,それに公に反論する手段を持っていなかった。不信者 ンの町の建設などの教義は,約束の聖なる御霊によって説 たちの偽りに抗して,喜んで耳を傾ける人々に正しい情報 かれるまでは,やはり奥義である。今や預言者ジョセフと シドニー・リグドンは,しばらく教会員と世の人々の中に を伝える必要があった。 エズラ・ブースは以前にメソジスト教会の牧師をしてい 出て行って,これらをはじめとする真理を宣言することに なったのである(教義と聖約71:2−3参照)。」(スミス, たが,癒しを目の当たりにして教会に加入した。しかし彼 は後に背教し,教会を攻撃する9通の手紙を書いた。オハ ショダール共著『注解』pp.422−423) 「奥義とは,神の啓示によらなければ知ることのできな イオ州ラベンナの『オハイオスター』(Ohio Star)に発表 されたそれらの手紙は,非常に批判的なもので,預言者ジ い真理,すなわち神聖な秘密である。……この時代におい いや ま ョセフ・スミスが次のような記録を残しているほどであ ては,神権の回復,死者のための業,教会の回復などに関 する偉大な真理は『奥義』である。それらは啓示によらな る。「〔それらの手紙の中に見られる〕偏見,偽り,主の業 を覆そうとする無益な企ては,それ自体が彼〔ブース〕の ければ悟ることができないからである。 」(スミス,ショダ ール共著『注解』p.141) 弱点,よこしま,愚かしさをさらけ出し,世の人々のひん しゅくを買う恥辱の記念碑となっている。」(History of the ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Church『教会歴史』1:217)ブースは最初の背教者ではな 教義と聖約71:7−11 福音の伝道における論争 ブルース・R・マッコンキー長老は,教会の業における いが,最初に反モルモン文書を書いて発表した教会員であ る。 一般的な論争の結果を次のように説明している。「論争は きわめて特異な場合を除いて,救いのメッセージを世の サタンが反対勢力を結集する一方で,教会は1831年11月 1日に大会を開いた。この大会において,酷評家や背教者 の攻撃から聖徒を守り,強めるために,ジョセフ・スミス を通して与えられた啓示を印刷し公にすることが決定され た。啓示の出版の決定がなされると,ジョセフ・スミスと シドニー・リグドンは聖文の翻訳の仕事に再び取りかかっ た。一方,エズラ・ブースによる扇動がきわめて激しくな ったため,主は12月1日に,ジョセフとシドニーに,翻訳 の仕事を一時離れ,力と言葉とをもって世の人々に福音を 宣言するように命じられた。彼らは急いでオハイオ州カー トランドへ出発した。スミスとショダールはこう述べてい る。「邪悪な人々の攻撃は無視するのが賢明である場合も あるが,時には恐れることなく力を尽くしてそれに立ち向 かうことも必要とされる。」(Commentary『注解』p.423。 『教会歴史』1:238−239参照) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み たま 教義と聖約71:1 御霊により奥義を説き明かす 「預言者はこの当時までに,直接与えられた啓示や熱心 な聖典の研究を通して,偉大で輝かしい真理を数多く学ん でいた。世の人々にとって,これらの真理の多くは『奥義』 であった。しかし,それを明らかにする時が来たのである。 一度明らかにされ,覆いを取り去られれば,もはや奥義で はない。キリストの福音がペテロやパウロなど当時の弟子 164 ブルース・R・マッコンキー長老は無益な論争を避けるように 警告している 第72章 人々に伝えたり,教会員に何かの教えや見解を受け入れる ように説得したりする公式の方法としては認められない。 ほとんどの場合,論争は,その当事者や同調者を以前から 友も幾人かできた。 」(Church History and Modern Revelation 『教会歴史と近代の啓示』1:269) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の見解に,より強く固執させる結果しかもたらさない。」 (Mormon Doctorine『モルモンの教義』p.186) 教義と聖約71:10 「もしだれかがあなたがたに反対 して声を上げるならば」 エズラ・ブースが反モルモンの手紙を公表するとかなり の動揺が生じたが,主は教会の長老たちに,論争をすべき ハロルド・B・リー大管長は次のように説明している。 「主が言わんとしておられることは,わたしたちが戒めを ではないが,その文書の中の偽りと欺瞞をはっきりと論ば 守り続けるならば,敵を引き受けてくださるということで くするように命じられた。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この啓 ある。だから,いと高き神の聖徒たちは,これらのことが 起こったら,預言されているから必ず起こるのであるが, 示を受けた人々が用いた方法を次のように説明している。 しもべ 「普通なら主は,僕たちに議論や論争を避け,福音の基本 そのときには,ただ次のように言うのである。 み わざ み て 『主の御業に刃向かう者は栄えることがない。主の御手 的な原則を力強く説くように言われるはずである。しかし になるこの御業のすべての栄光と威厳は,教会やその指導 当時は,こうした行動が必要なときであった。主の御霊が 兄弟たちに,出て行って,敵を言い伏せるように指示し, 者の名を辱めようとする人々が忘れ去られ,その企てがつ いえたのちも,末長く覚えられる。 』 彼らはすぐさまそれに従った。そして敵は彼らが誤ってい るとは実証できなかったので,その大胆な攻撃に度肝を抜 わたしたちはそうした出来事を見るとき,ほんとうに残 念に思うのである。」(Conference Report『大会報告』1973 かれてしまったのである。このことで迫害は大幅に減少し, 年10月,p.167) ぎ まん 監督の義務 第72章 歴史的背景 この世に関する事柄と管理の職を監督するために,監督の 職が必要であることを啓示された。そしてエドワード・パ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ートリッジ監督が召され,その召しに伴う義務を果たすた エドワード・パートリッジは,1831年2月4日に,オハイ オ州カートランドで,この神権時代における教会初の監督 めに,彼はシオンへ遣わされた。1831年12月4日,預言者 とシドニー・リグドンが敵を論ばくしながら務めを果たし に召された(教義と聖約41章参照)。1831年11月,主は次 の啓示を下された。「この後,主がふさわしいと思うとき ていたころのことであるが,長老たちの集まりがあり,主 は彼らに非常に大切な啓示を下された。カートランド地区 に,教会のためにほかの監督たちが任命されて,最初の監 で働くもう一人の監督を召すことが必要であると主が言明 されたのである。この監督の一つの大切な義務は,カート 督と同じように仕えることになる。」(教義と聖約68:14) 預言者ジョセフ・スミスは次のように記録している。 ランドおよびオハイオ州のほかの地区に住む人々に関する 「1831年12月4日に,『数人の長老と会員が,自分の務めを 知るために,また教会の教えについてさらに教化を受ける 管理の職を監督することである。そして彼は『この世にお いても永遠にわたっても……管理の職について報告するこ ために集まっていた。』そしてしばらくわたしたちの物質 的および霊的福祉について語り合った後,わたしは次のよ とを求め』られた。 」(Church History and Modern Revelation 『教会歴史と近代の啓示』1:269) うな啓示を受けた。〔教義と聖約72章〕」(History of the ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Church『教会歴史』1:239) 第72章の最初の8節が与えられると,すぐにニューエ 教義と聖約72:3−4 「この世において忠実で賢い者」 この箇所では次の教義が明確にされている。すなわち, ル・K・ホイットニーの聖任が行われた。残りの部分はそ の後に与えられたものである。 来世でどのような位と報いを得るかは,各人がどれほどし しょく ざい っかりと福音に従い,罪を克服するために贖 罪 の力を求 注 解 め,この世における祝福に関して管理の職に伴う責任を負 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ うかにかかっているのである。 ある人にとってはなかなか理解し難いたとえの中で,救 教義と聖約72:3,5 長老は各自の管理の職について 報告をしなければならない い主は,主人をだまして将来に備えた家令の抜け目のなさ について語られたことがある(ルカ16:1−8参照)。救い 「教会が組織されたごく初期のころ,主は教会にあって 主はこう言われた。 「この世の子らはその時代に対しては, 165 光の子らよりも利口である。……もしあなたがたが不正の 富について忠実でなかったら,だれが真の富を任せるだろ うか。」(ルカ16:8,11)ジェームズ・E・タルメージ長 老は,イエスが説かれた教訓と,それが地上における管理 の職とどのように関係するかについて,次のように書いて いる。 キリ なたがたは神と富とに兼ね仕えることはできない。 』」(『基 スト 督イエス』pp.532−534) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約72:9−23 責任 啓示によって与えられた監督の この章では,おもに奉献の律法に関連した監督の責任の 「主の目的は,この世の金作りに精出している人々の注 意,用心深さあるいは熱意と,霊的な富を得るために努力 ことが述べられている。しかし,ワードの管理やワードの アロン神権の管理など,これまでほかの責任や義務につい していると公言している人々の気合いの入っていないやり てもすでに概説されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 方とを対照して見せることであった。名利を追い求める 人々は, 将来のために備えることをおろそかにしない上に, 教義と聖約72:13 カートランドのニューエル・K・ しばしば罪深いまでの熱心さをもってたくさんの金品を蓄 積する。一方, 『光の子ら』 ,すなわち霊的な富の方がこの ホイットニー監督と,シオンのエドワード・パートリッジ 監督はどのような関係にあったか 世の財産よりもずっと勝っていると信じる人々は,これら パートリッジ監督は教会で最初に監督に召された人であ る。後にほかの人々が監督の職に召されるようになると, の人々よりも活気がなく,慎重さに欠け,賢明でない。 『不正の富』という言葉は,物質的な富もしくはこの世の 物と解してもよい。金やそれと同等の物は,『天の宝』よ りはるかに劣っているとはいえ,なお善を成就し,神の目 的を進める手段にすることはできる。主イエスは,『この 世の富』のあるうちにそれを用いて善いことをしなさい, いつか『この世の富』はなくなるが,それを用いて得た善 行だけはいつまでも残るに違いないからと教えられた。も しあの悪い家令が,家令の職にとどまる値打ちがないため 彼は現在の管理監督に相当する責任を負うことになった。 したがって,ニューエル・K・ホイットニーは,実際はパ ートリッジ監督の管理下にあったのである。「カートラン ドの監督は,シオンの監督に管理の職に関する報告書を 『渡す』ことになっていた。長期保管記録はシオンの地に 置かれていたのである。ニューエル・K・ホイットニーは この責任のために,監督として働くよう召された。彼はカ ートランドの主の倉を管理し,ぶどう園のこの場所におけ に,主人の家から追い出されたとき,以前に恩を着せてお いた人々の家に迎え入れられると望んでもよいならば,誠 る教会の基金を受け取り,前に命じられたように長老たち の報告を記録し,彼らの入り用を補わなければならなかっ 実に正しいことに専念した人々は,なおさら神の永遠の屋 た。彼らは返済するものを持っていれば,自分が受けるも のに対して返済しなければならなかった。受け取った基金 敷へ迎え入れられると確信してもよいのではないだろう か。以上がこのたとえの教訓の一部であると思われる。 は教会の益のために,『貧しい者と乏しい者のために』奉 称賛されたのは,あの家令の不正直な行為ではない。称 賛されたのは,彼の慎重さと先見の明であった。……この 話の教訓は,次のように総括することができるだろう。あ なたは将来も自分の友達を確保できるように自分の富を使 いなさい。勤勉でありなさい。あなたがこの世の富を使う ことのできる日は,すぐに過ぎ去ってしまうからである。 不正直な者や邪悪な者からも,教訓を得なさい。これらの 人々が,限られた未来のためだけにそれほど慎重に備えを するならば,永遠の未来を信じているあなたがたは,なお さら慎重に未来のために備えるべきではないか。もしあな たが,『不正の富』を用いるに当たって,知恵もなく慎重 さもなければ,もっと長く続く『永遠の富』がどうして任 されるだろうか。あなたが家令であるとして,任された他 人の富を適切に用いることができないなら大きな富をあな た自身のものとして与えられたときに,それを立派に取り 扱えるとどうして期待できようか。不正な家令や富を愛す る者を見習いなさい。といっても,これらの人々の不正直 やむさぼりや,高々この世だけしか持っていられない富を けちけちと蓄積することではなく,彼らの仕事に対する熱 情と先見と将来に対する備えを見習うのである。さらに, しもべ 富をあなたの主人としてはならない。それをいつも僕とし ておかなくてはならない。『どの僕でも,ふたりの主人に 兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し,あ るいは,一方に親しんで他方をうとんじるからである,あ 166 ニューエル・K・ホイットニーは監督の職に召された 献することになっていた。返済するものを持っていない者 され,そして受け継ぎのために,また賢い管理人かつ忠実 については,報告を記録し,それをシオンの監督に渡さな ければならない。『するとシオンの監督は,主が彼の手に な働き人として迎え入れられるために,すべてのことが満 たされるのである。そうでなければ,シオンの監督に受け ゆだねるものから負債の支払いをする』(教義と聖約72: 12−13)ように定められていたのである。 」(スミス『教会 入れられない。』 主は時の初めから,正しい記録が作成されるように骨を 歴史と近代の啓示』1:270) 1840年5月にエドワード・パートリッジがノーブーで亡 折ってこられた。この戒めは,1830年に教会に最初に与え られた戒めの一つでもある。主の言葉やほかの記録類に対 くなると,ニューエル・K・ホイットニーが管理監督とな する主の熱心な思いは, 数多くの啓示の中に見受けられる。 った。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ …… 教会のほかの地方からシオンへ行くすべての人は,自分 教義と聖約72:17 ほかの地域に転出する教会員に発 行する証明書にはどれほどの重要性があったか が完全な会員資格を備え,シオンにおいて従順な人々に約 束されている祝福を受けるにふさわしい者であることを示 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう す証明書を携行するように求められていた。」(『教会歴史 に述べている。「判士,すなわちカートランドの監督が発 行した証明書により,『すべての人は受け入れられる者と と近代の啓示』1:271) 第73章 『聖書』の改訂 宣べ伝え,親族の死者を贖い,教会の聖徒たちを完成させ 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ることである。これまでの歴史を通じて,教会は常に多く の時間や計画,資金を費やしてこの使命の達成に努めてき 1831年12月1日にしばらく伝道に出るように命じられた とき,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,『聖書』 の改訂を進めている最中であった。預言者ジョセフ・スミ スの記録には彼らの働きがもたらした結果について,次の ように書かれている。 「このときから1832年1月8日ないし10日まで,わたしと リグドン兄弟は,シェイラーズビル,ラベンナー,そのほ の あがな かの地で宣べ伝え続け,真理を説き,贖い主の大義を立証 し,報復の日がこの時代にあたかも夜の盗人のように来る ことを教えた。また数多くの者の心を捕らえ,まことの教 くらやみ 会を迫害させ,真実の光を拒ませた偏見,盲目,暗闇につ いても説いた。これによってわたしたちは,前述の背教者 エズラ・ブースがラベンナーの新聞『オハイオスター』 (Ohio Star)に中傷めいた手紙を記載したことによって生 じた騒ぎを大方鎮めることができた。1月10日にわたしは 次の啓示〔教義と聖約73章〕を受け,教会の長老たちに関 して,次回の大会が開かれるまでの主の御心を明らかにし た。 」(History of the Church『教会歴史』1:241) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約73:1−2 教会にとって伝道はなぜそれほ ど重要だろうか エズラ・タフト・ベンソン長老はこう語っている。「当 教会の使命は,積極的に世のすべての人々に王国の福音を 「聖文の中で最も偉大な書の一つ」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』p.478) 167 た。つまるところこの努力は,世の中の様々な問題を解決 文の正しい意味を回復することであった。ジョセフは1830 するための唯一の手段なのである。」(Conference Report 『大会報告』1978年4月,p.48) 年6月の記録に,モーセ書を授けられたとき, 「規則に規則 を加えられるように知識」を明らかにされたと述べている ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフとシドニーは何を翻訳して (『教会歴史』p.98)。モーセ書は主がモーセに授けられた 正確な記録であるが,長い年月の間に完全な元の姿が失わ いたのか 天使モロナイは1823年9月21日にジョセフ・スミスに現 れていたものであった。預言者ジョセフ・スミスは,シド ニー・リグドンと『新約聖書』の改訂に取り組んでいたと れたとき,『聖書』から幾つか言葉を引用したが,その言 きに次のように記録している。「わたしたちは,主がわた 葉遣いは欽定訳とはいささか趣を異にしていた(ジョセ フ・スミス−歴史1:36−41参照) 。後にジョセフは『モル したちに命じられた翻訳の業を行っていたときに,ヨハネ による福音書第5章29節に至り……これはわたしたちを驚 モン書』の翻訳に携わっていたときに,『聖書』から「分 かりやすくて大変貴い多くの部分」が取り去られているこ かせた。それが御霊によってわたしたちに与えられたから である。」(教義と聖約76:15,18)ジョセフ・スミスの とを知った(1ニーファイ13:25−29) 。また,バプテスマ 『聖書』の翻訳は霊的な仕事であった。後に彼はヘブライ のヨハネからバプテスマを受けた後で,ジョセフは自分の 心が開け,聖典の「真の意味と意図」が明らかにされるよ 語とドイツ語を学んだが,それらの知識を基にして聖文の 改定を行ったわけではない。 うになったことに気がついた(『教会歴史』p.43)。そして 『モルモン書』の翻訳を終えると, 『聖書』に目を向け始め ジョセフ・スミスは口述筆記によって『聖書』の全体に わたって変更,削除,追加を行ったが,すべての部分の改 教義と聖約73:3 たのである。 訳を完成させてはいない。彼は発表できる段階までにこの 「翻訳」というと,古代の文字で記された原書を用いて 行うものと考えるかもしれないが,ジョセフ・スミスのそ 仕事を成し遂げたとは考えていなかった。また,もっと長 生きしていれば,さらに多くの訂正をしていたものと思わ れは,学問的な解釈によってでなく,御霊の力によって聖 れる。 み たま 幼い子供たちは聖い者である 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示はジョセフ・スミスの『聖書』の改訂に関連し て与えられたものである。預言者ジョセフは早くも1831年 3月7日には,『新約聖書』の翻訳に取りかかるように告げ られた(教義と聖約45:60−61参照)。彼はこの時期のこ とについて次のように書いている。 「わたしは聖典の翻訳を再開し,1月25日に開かれること になっていた大会の直前まで熱心に働いた。この間に,わ たしはまた,コリント人への第一の手紙第7章14節の説明 として次の啓示を受けた〔教義と聖約74章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:242) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約74:1−7 幼い子供たち ここに書かれている「信者でない者」とは,イエス・キ リストの教会に加入していなかったユダヤ人を指してい る。彼らはまだ,男子の割礼を含む,モーセの律法の諸儀 式による生活をしていた。パウロは,幼い子供たちがキリ しょく ざい ストの贖 罪 によって聖められていることと,モーセの律 168 幼い子供たちは聖い者である 第74章 法に固執する人々が説いている割礼はもはや不要であるこ の意志に従って,当時としては一般的な道を選べば,その とを教えた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 子供たちはほとんどの場合,親が従っているユダヤ人の言 い伝えを心に留めるようになり(4節参照) ,その結果,キ 教義と聖約74:2 「割礼」に相当するギリシャ語「ペリトメー」は「丸く リストの福音を信じないようになる。このようにして,子 きよ 供たちは『聖くない者』すなわち当時はびこっていたユダ 切る」という意味である。それは啓示によって定められた もので,アブラハムの契約の子孫であることを示すしるし ヤ人の偽りの言い伝えに従う聖くない者となる。ユダヤ人 たちの言い伝えでは,子供は聖くない者であった(6節参 であった(ジョセフ・スミス訳創世17:3−7,11参照)。 照)。 割礼の律法の目的 ほかの聖句を見ると分かるが,割礼で最も大切なのは,割 礼を受けるという行為そのものではなく,それが象徴する パウロが主の教えではなく自分の考えとして,教会員 (信者)は相手がモーセの律法を捨てないかぎり,信者で ものである(申命10:16;30:6;エレミヤ4:4;エゼキ エル44:7;ローマ2:25−29参照)。 ない者とは結婚すべきでないとコリント人に書き送ったの は,このためである(5節参照) 。そうすれば,夫婦の間に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 生まれた子供がモーセの律法に定められた割礼を受ける必 教義と聖約74:4−6 初期の教会において幼い子供た ちの割礼が問題となったのはなぜか 要はなくなり,子供は聖くないというユダヤ人の誤った言 い伝えも徐々に消えていくであろうというのである。」 初期の教会においてこの問題が起こった背後事情を,ス ペリーは次のように説明している。「信者でない夫が自分 (Compendium『概要』p.328) 「怠けることもなく,あなたがたの 勢力を尽くして働くことである」 第75章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「1832年1月25日,オハイオ州ロレイン郡アマーストで, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約75:1 アルパでありオメガ 長老たちによる非常に重要な大会が開かれた。教会の歴史 記録には,この大会についてのごく簡潔な記述がある。数 この称号の意味については,教義と聖約38:1の「注解」 を参照する。 多くの事務が処理されたが,中で最も重要なのは,ジョセ み こころ フ・スミスが主の御 心 により,大神権の大管長として支 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約75:2−5 「出て行き……勢力を尽くして 持と聖任を受けたことである。」(スミス,Church History 働く」 and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:274) 預言者ジョセフ・スミスは次のように記録している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「ロレイン郡アマーストで開かれる大会に出席するために, 近所に住む長老たちとともに数日前に家を出て,ちょうど 教義と聖約75:5 「束」と「冠」は何を意味するか この箇所では忠実な者に与えられる報いを表すのに,2 よいころあいにアマーストに着いた。この大会では聖徒た 重の意味を持つ象徴が用いられている。昔は,穀物は手作 ちに一致の心がみなぎり,また王国を発展に導き,周囲の の 地に住む人々に福音を宣べ伝えるために,数多くの事務上 業で刈り取り,大きな束に縛り上げてから,打穀場に運ん だ。人や家畜が「多くの束を積まれ」(教義と聖約75:5) の手続きが取られた。長老たちは,今置かれている状況を 知りたいのだが,主の御心はどこにあるのか,どうしたら ているというのは,その人が豊かな収穫を得て,働きの実 を楽しむということである。 伝道活動については,付録の特別講座Aを参照する。 主に喜んでもらえるのか,わたしに伺いを立ててほしい様 「時折,福音を宣べ伝えるために出て行った長老たちが 子であった。なぜなら,だれもが道を外れ,だれ一人とし て善い業をなす者がいなかったからである。主に尋ねたと 戻って来て,自分はだれかを改宗する仲立ちになったかど うか分からないと報告することがある。しかし,もし彼ら ころ次の啓示を得た。〔教義と聖約75章〕」(History of the Church『教会歴史』1:242−243) が忠実なら,収穫は確かである。彼らがまいた種は,解任 された何年も後に芽を出し,大きく成長するであろう。」 (スミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.434) 忠実であれば倉に多くを蓄えるようになるという約束 は,「畑はすでに白くなり刈り入れを待っている」ことを 169 理解し,「勢力を尽くして鎌を入れる」人々に与えられた ると認められまたは有罪であると認められる。人が何ら知 ものである(教義と聖約4:4) 。 ブルース・R・マッコンキー長老は,冠を受けるという らないところの要求に服従しないからといって,この人に 有罪の宣告を与えることが神にできると信ずることは,わ 象徴について次のように書いている。「日の栄えの世界の れわれの持っているいる正しい神という考えと矛盾をす 最も高い天において昇栄を得る人は『冠』を授けられる。 世に対する勝利の象徴として,またイスラエルの永遠の家 る。それにもかかわらず,教会の律法は暗黒と無知の中に 罪を犯した人々の場合においてさえも刑罰を延ばしてはお において王や女王として統治することを意味するものとし て,文字どおりの冠を授けられることがあるかもしれない。 かないに違いない。しかし,贖いの計画がこのように愚な 人々に神の律法を学ぶ機会を与えるに違いないと信じるこ いずれにしても彼らは,常に『誉れと,栄光と,不死不滅 と,永遠の命を冠として与えられるであろう。』(教義と聖 とは理にかなっている。そしてまったく,彼らが神の律法 を学ぶやいなや服従が要求されるに違いなく,これに背け 約75:5)」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.173) ば刑の苦痛を与えられる。」(『信仰箇条の研究』pp.709− ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約75:6−8 「彼に与えた任務を取り消す」 710) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約58:32−33;124:49−51を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約75:24−28 福音を宣言するために召され た人々の家族を扶養する教会員の義務 教義と聖約75:10−11 慰め主を呼び,常に祈る あがな ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう スミスとショダールは,福音を効果的に教えるのに祈り が重要であることを次のように述べている。 に言っている。「この伝道の旅をするように召された兄弟 たちは,この世的な事柄においてはほとんどが貧しい人々 「彼らは,与えられた『啓示と戒めに従って』真理を宣 み べ伝えるように(4節)命じられた。彼らは啓示された御 であった。彼らにとって何の支えもないままに家族を残し て,主の業にいでたつのはつらいことであった。しかし, 言葉に厳密に従わなければならなかったが,それとても慰 人々の魂が危機に瀕し,福音を受け入れれば教会の力とな め主,すなわち神の聖なる御霊の助けなしにはできないこ とであった。長老たちは,ただ学ぶだけでは真理を宣べ伝 る人々がメッセージの訪れを待っていることを考えれば, この召しは絶対に必要なものであった。主はこの兄弟たち えることはできない。その力を与えてくれるのは御霊であ る。…… の家族の必要を考え,こう言われた。『世の人々に福音を 宣言するために召されて,世の人々のもとに遣わされる必 長老たちの中には宣べ伝えることだけに自分の信仰を注 要のある人々の家族を扶養する助けをすること……は,教 ぎ込む人がいる。以下は,この教会の会員でない人の言葉 であるが,ほとんどの末日聖徒が同意するであろう。 会員の義務である。』それで教会員は,これらの家族に適 当な所を与えて住まわせ,世話をするようにとの戒めを与 『祈りを伴わない宣教とは何であろうか。熱心な祈りに こたえて,神が心を備えさせ,舌に答えを与えてくださる えられ,『心を開』いてこの義務を引き受けるように勧告 されたのである。しかし,もしこの兄弟たちに自分と家族 まで,説教は壇上の空論,知的な作文,空疎な演説,人を 引きつける講話にすぎない。あるいは政治演説であるかも とを扶養する力があったなら,その責任は彼ら自身に求め られたであろう。」(Church History and Modern Revelation こと ば み たま しれない。真の宣教ができるのは,祈る人だけである。知 ひん 『教会歴史と近代の啓示』1:276−277) 的なものは何もうかがえず,説教術のルールもすべて無視 しながら,それでいて霊的な力強さを持つ説教が幾らでも ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約75:29 怠惰な者は教会の中でいるべき場 ある。どういう訳か,それは人々を感動させ,心を新たに する。神の祭壇の燃えている炭を唇に当てられた者は,ど 所を得られない フランクリン・D・リチャーズ長老は次のように教えて もりながら話す人かもしれない。 しかしそれを聞く人々は, いる。 「マッケイ大管長がこう言ったことがある。『働く特 彼が人を救おうとする情熱を持った炎の人であることをす ぐに悟るのである。』(アーサー・T・ピアソン,The Fun- 権は賜物であり,働く力は祝福であり,仕事を愛するのは 成功であることを認識しよう。』 damentals『原理』第9巻,p.67)」(Commentary『注解』 p.435) これは確かに真実である。しかし,昔と同じように今日 も,心得違いをしている多くの人は,自分には社会に養っ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ てもらう権利があると考えて,怠惰の哲学に陥っている。 教義と聖約75:19−22 い」 「あなたがたの足のちりを払 建設的な努力の上に成り立っている体制を破壊しようとす る人が多勢いる。 教義と聖約60:15−17の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主はこの神権時代においても,労働の永遠の原則を何度 も確認された。わたしたちは,怠惰な人は『悔い改めて自 教義と聖約75:22 宣教師を拒む人々よりも異教徒の 方が耐えやすいのはなぜか 分の行いを改めないかぎり』 (教義と聖約75:29) ,教会の 中でいるべき場所を得られず,『怠惰な者は働く者のパン ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように述べてい を食べてはならないし,その衣服も着てはならないからで る。「人間はその支配の下に生きるように要求されている 律法の光に照らして解釈する彼の行為に応じて,潔白であ ある』(教義と聖約42:42)と教えられている。」(Conference Report『大会報告』1969年10月,p.121) 170 たまもの こんにち 義を宣べ伝える者は神の御心を知らなければならない 怠惰の罪と労働の価値については,教義と聖約68:31の 栄光の階級の示現 歴史的背景 「注解」も参照する。 第76章 ろいろな啓示から,人の救いに関する多くの重要な事項が 『聖書』から取り去られたか,あるいはそれが編さんされ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスが『聖書』の改訂を始めてから, る前に失われたか, どちらかであることは明らかであった。 残された真理からおのずと明らかなように,もし神がすべ すでに1年以上がたっていた。そして1832年の1月から2月 の間に,彼は再びこの仕事に取りかかった。 ての人に肉体にあってなした行いに応じて報いを与えられ るとすれば,聖徒たちの永遠の住まいとされる『天』とい 聖文を熱心に研究することにより,『聖書』の記述に関 う言葉には,一つではなく複数の王国が含まれるに違いな する多くの疑問と問題が啓示を通して答えられた。ある質 問は天国についてのキリスト教界の信条にかかわるもので い。それで,『ヨハネによる福音書』を翻訳している最中 に,わたしとリグドン長老は次のような示現を見た〔教 あった。「わたしは〔オハイオ州〕アマーストの大会から 帰ると,聖典の翻訳を再開した。これまでに受けてきたい 義と聖約76章〕。」(History of the Church『教会歴史』1: 245) 171 フィロ・ディブル兄弟は,この啓示が与えられたときに 「わたしたちがかつて読んだいかなる書物の中のいかな その場にいた証人である。彼は次のような記録を残してい る。「『教義と聖約の書』(Book of Doctrine and Covenants) る啓示よりも多くの光を,多くの真理を,多くの原則を与 えてくれるものであると申し上げたい。この示現はわたし に記録されているその示現は,オハイオ州ハイラムの『ジ たちの今置かれている状況,すなわち,わたしたちはどこ ョンソン翁』宅で与えられ。ジョセフとシドニーが御霊に 包まれ,天が開かれるのを見たとき,その部屋にはほかに から来て,なぜここにおり,これからどこに行くのかとい うことに対する理解を容易にしてくれる。だれもがこの啓 も人がいた。多分12人だったと思うが,わたしもその時間 の3分の2ほど,そこにいた。わたしは栄光を目にし,力を 示を通して,将来の自分自身の地位や状態を知ることがで きる。なぜならすべての人は,自分がどういう律法の下に 感じたが,示現は見なかった。 記録に残されている事柄を彼らが見ていた間の様子を あり,この地上で従っている律法が後の世の自分自身の地 位を定めるということを知っているからである。彼らはそ (そのときに目の前に繰り広げられたことや話されたこと の律法で守られ,その律法に基づく祝福を受けるのであ で,記録に載っていないことが数多くあるので),必要に 応じて,できるかぎり詳細に述べよう。 る。」(Journal of Discourses『説教集』22:146−147) 教義と聖約第76章はよく「示現」と呼ばれるが,実際に ジョセフは時々, 『あれは何だろう』と言った。それは, 人が窓の外を見ながら話すような口調であり,部屋の中の は一連の示現が一つの啓示としてまとめられたものであ る。それは,御子の栄光の示現(20−24節),地上に投げ 者たちには見えないものを見ているような感じであった。 落とされたサタンと,彼に従って滅びの子と呼ばれる者が それから彼は,それまでに見たことや,そのときに見てい たことについて話した。するとシドニーが,『わたしにも 受ける苦痛についての示現(25−49節),日の栄えの栄光 を受け継ぎ,正しい者の復活のときに出て来る人々に関す 同じものが見える』と答えた。シドニーも『あれは何だろ う』と言ってから,自分が見たこと,現に目にしていたこ る示現(50−70節),月の栄えの栄光を受け継ぐ人々に関 する示現(71−80節),星の栄えの栄光を受け継ぐ人々に とを繰り返し話した。するとジョセフが『わたしにも同じ 関する示現(81−89節)から成っている。3種の栄光の違 ものが見える』と答えた。 このような言葉が,示現が終わるまで何度か短時間のう いについても述べられている。 ちにやりとりされたが,その間,ほかの者は一言も口を開 かなかった。ジョセフとシドニー以外に話をしたり,体を 注 解 動かしたりする者はだれもいなかった。わたしはそこに1 教義と聖約76:1−4 時間以上いたと思うが,この示現が閉じられるまで,だれ も身じろぎ一つしなかったように思う。 い」 『教義と聖約』のほかの多くの章がそうであるように, ジョセフは壮大な栄光の中にいたその間中,しっかりと また落ち着いて座っていたが,シドニーの方は疲れて顔色 この示現もイエス・キリストの力,栄光,尊厳の宣言によ み たま ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「主のほかに救い主はおられな も良くなく,ぐったりとしているようだった。ジョセフは それを見て,笑いながら,『シドニーは,わたしほど慣れ ていないから』と言った。」(Juvenile Instructor『ジュブナ イル・インストラクター』1872年5月,pp.303−304) 預言者ジョセフ・スミスは次のように記録している。 「主の王国の階級に関し,前述の示現〔76章〕を通して世 に放たれた光ほど聖徒にとって喜ばしいものはないだろ う。あらゆる律法,あらゆる戒め,あらゆる約束,あらゆ る真理,そして創世記から黙示録に至る,人の愚かな行い によって汚されることなく残っている純粋な聖句のうち, 人の行く末に影響を与えるあらゆる箇所は,この〔来世に 栄光の階級があるという〕理論が完全であることを示し, かの記録が永遠の世界の記録の書き写しであることを証明 こうまい するのである。高邁な理想,純粋な言葉,行動の機会,救 いを受け継ぐ者が主に告白し,そのひざをかがめることが できるように完成までの期間があること,忠実なことへの 報いと罪に対する罰,これらは狭量な人間の心をはるかに 超越したものであり,すべて正直な人々は『それは神から 来るものである』と叫ばざるを得ないのである。」(History of the Church『教会歴史』1:252−253) ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,この示現につい て次のように語っている。 172 ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは3種の栄光の示現を 見た 第76章 って始まっている。主は様々な永遠の報いに関する啓示を について「思いにふけ」っているときに,「主の御霊に捕 始めるに当たり,人を救う力は主のみにあり,「主の手を とどめる」者はなく(教義と聖約76:3),「人の不死不滅 らえられて,非常に高い山へ連れて行かれた。」(1ニーフ ァイ11:1)またジョセフ・F・スミス大管長が霊界に関 と永遠の命をもたらす」 (モーセ1:39)神の業はだれも止 めることができないということをわたしたちに思い起こさ するすばらしい示現を受けたのも,「聖文に思いをはせ… …深く考えていた」(教義と聖約138:1−3)ときであっ せておられる。これは実に的を射たことである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た。 めいそう デビッド・O・マッケイ大管長は瞑想の大切さを次のよ 教義と聖約76:5−10 うに教えている。「わたしたちは礼拝の一つの原則である 「わたしは……義をもって…… わたしに仕える者に誉れを与えるのを喜びとする」 この箇所には,聖典の中にある啓示や祝福の中でも特筆 瞑想の大切さに, ほとんど注意を向けていないように思う。 …… すべき約束がなされている。主は誤解の余地のない明確な おそ 言葉で,神を畏れ(敬い,尊び,従うこと)最後まで仕え 瞑想は,わたしたちが主のもとに行くためにくぐる最も ひそかで最も神聖な門の一つである。イエスはわたしたち るなら, 神はその人に喜んで誉れを下さると仰せになった。 その誉れには,次のようなものが含まれる。 1.大きな報い(教義と聖約76:6参照) に模範を示してくださった。イエスはバプテスマを受け, 『これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である』 こん にち (マタイ3:17)との御父の承認を受けるとすぐに,今 日 『誘惑の山』として知られている所へ行き,40日間断食を 2.永遠の栄光(6節参照) 3.昔から今に至る神の王国のすべての奥義(7節参照。 しながら,内省し,御父と交わり,崇高なる使命に伴う責 奥義の定義については教義と聖約6:7,11の「注解」 も参照) み こころ 4.王国におけるすべてのことに関する主の御 心 につい ての知識(7節参照) 5.永遠の驚異についての知識(8節参照) 任について深く考えられた。この霊的な交流はイエスにと って非常に大きな力となり,誘惑する者に次のように言う ことができたほどであった。 『サタンよ,退け。「主なるあ なたの神を拝し,ただ神にのみ仕えよ」と書いてある。』 (マタイ4:10)」(『大会報告』1967年4月,p.85) 6.多くの時代のことについての知識(8節参照) 7.大いなる知恵(9節参照) 8.世の人々は及びもつかない,天に達する理解(9節参 照) み たま 9.御霊と神の力による啓発(10節参照) この啓示の始めにこうしたすばらしい約束が挙げられて いるのは,意義深いことである。なぜなら,ジョセフ・ス ミスとシドニー・リグドンは,示されたすべてのことを記 録するのは許されていないと告げているからである (113−115節参照) 。それは,人が語ることを許されないも のであり,非常に輝かしいものであって,人間の言葉によ って知らせることができないものである (115−116節参 照)。しかし,救い主が明確に述べておられるように, 「神 の前に自らを清くする」人は,聖なる御霊の力によって 「〔 こ れ ら の こ と を 〕 見 る こ と が で き , 理 解 す る こ と 」 (116−117節)ができるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:15−19 に」 「思いにふけっていたとき 預言者とシドニー・リグドンは思いにふけっていたとき に,この啓示を与えられた。 永遠の命の言葉について深く考えることの大切さを,マ リオン・G・ロムニー副管長は次のように語っている。 「わたしは,聖典を読んでいて, 『モルモン書』によく出 てくる『深く考える』という言葉に心を動かされた。…… 『深く考える』とは,思うに,祈りの一つの形である。 少なくとも,多くの場合に主の御霊に近づく方法となる。」 (Conference Report『大会報告』1973年4月,p.117) 深く考えた直接の結果として与えられた偉大な啓示は, ほかに少なくとも二つある。ニーファイは,父親が見た夢 瞑想中のスペンサー・W・キンボール 173 あかし 教義と聖約76:20−24 目撃者の証 教義と聖約76:26 「ルシフェル」と「滅び」という言 預言者ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンの証は, 御父と御子の実在についての,現代におけるもう一つの証 葉にはどのような意味があるか である。二人は目で見ただけではなく,耳でも聞いた。そ 「ルシフェル」という名には,「光を持つ者」や「輝 く 者 」 の 意 が あ る 。「 滅 び 」 に は 「 敗 北 」 や 「 破 壊 」 して彼らの証はすべての人々への証としていまだに効力を 失っていない。スミスとショダールは「最後に」(22節) の意がある(ヤング,Concordance『用語索引』。「ル シ フ ェ ル 」「 滅 び 」 の 項 参 照 )。 ル シ フ ェ ル は 栄 光 あ という言葉について次のように説明している。「これは主 が復活し,栄光を受けている御方として実在しておられる る者の位から,完全な敗北と破壊の状態に転落した (黙示12:1−11;モーセ4:1−4)。「滅び」がサタン という事実についての最後の証である。最終的な証という の 呼 び 名 の 一 つ で あ る こ と を 知 れ ば ,「 滅 び の 子 」 と 意味ではない。この示現を与えられた時点における最後の 証ということである。 」(Commentary『注解』p.448) いう呼び名の意味をさらによく理解することができ る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:24 主はもろもろの世界を創造された ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:29 サタンはだれを自分の敵としている ブルース・R・マッコンキー長老は,創造主としてのイ か エスについて次のように述べている。「主の主権と力は, わたしたちが住むこの小さな地球という限界をはるかに超 この聖句では,サタンが聖徒たちに戦いを挑んでくるよ うになるということが警告されている(黙示12:17参照) 。 えた所まで及ぶものである。主は御父の下にあって,無数 の世界の創造主であられる(モーセ1:33) 。…… サタンは大きな力を持っているが,それにも限界がある。 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。 「3つの 聞く耳を持つ人は,この教義が次の聖句の中に説かれて いることを理解する〔教義と聖約76:20−24〕 。 独立した要素がある。神の御霊と人の霊,それに悪魔の霊 この聖句の簡潔な意味に加えて,わたしたちは預言者ジ である。すべての人は悪魔に抗する力を持っている。幕屋 を持つ者には,それを持たない者をしのぐ力があるのであ ョセフ・スミスによる説明も与えられている。彼はこの示 現全体を詩的な表現に言い換えているが,この箇所は次の る。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセ フ・スミスの教え』pp.189−190) ようになっている。…… 『わたしは天より証する大いなる声を聞いた, ジョージ・Q・キャノン副管長は,すべての人はサタン に抗する力を持っていると証している。「主なる神によっ 彼は救い主であり,神の独り子であると。 てわたしたちが地上へ送られたのは,これらのことについ すべての世界は彼により,彼の手を経て造られた。 広大なる天の中を動く万物も同じ。』」(Mormon Doctrine て経験を得,善悪の区別を知り,悪魔に対して心を閉ざす ことができるようになるためであった。……人によってこ 『モルモンの教義』pp.65−66) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の抵抗する力の強さに差があるのは事実である。しかし, やみ 疑いや闇,不信仰,意気消沈,怒り,憎しみ,ねたみ,敵 教義と聖約76:26 ルシフェルは神の天使であり,暁の 意,そねみに対して自分の心を閉ざす力は,すべての人に 子であった ジョージ・Q・キャノン副管長は,「暁の子」というサ 与えられている。神はこの力をすべての人に授けられた。 そしてわたしたちは,自分に欠けているものを神に願い求 タンの称号について,次のように語っている。「ある人々 はこの称号がサタンだけに適用されると考えているが,こ めることによって,さらに大きな力を得ることができるの である。もしそうでなければ,どうして悪の力に道を譲っ こにはそのように書かれていない〔訳注:英文では「暁の たことで責めを受けるのだろうか。 子」に不定冠詞が付けられている〕。数ある中の一人であ る。疑いを差し挟む余地はない。この天使が力ある者であ わたしたちは自分でどうすることもできない行動につい ては責めを受けない。しかし,わたしたちは悪の力を退け, ったことは疑いもない。わたしたちに与えられている記録 から明らかなように,サタンはかつて非常に高い位にあっ いさかいを避け,自己本位にならないようにすることがで きる。盗み心に負けないようにすることも,情欲に抗する て大いなる者と考えられ,自己の領域において非常に力あ る者であった。そのために,地球と救いの計画について話 こともできる。神はこれらに抵抗する力をわたしたちに与 えてくださった。わたしたちの心がそれらのものや疑いか し合いがあったとき,この地上に人を住まわせて贖うため ら解き放たれるようにするためである。したがって,サタ の計画を提案するほどに重要な存在であった。しかし,彼 の計画は受け入れられなかった。とはいえ,非常にもっと ンが来て誘惑しようとしたとき,わたしたちは次のように 答える特権がある。『サタンよ,下がれ,わたしとあなた もらしい計画であったので,ほかの者たちの心を強く引き つけ,そのために天の衆群の3分の1がその計画を受け入 とは何のかかわりもない。わたしは神に仕える身であり, これからも神に仕え続ける。あなたは自分のよしとするこ れ,進んで彼につき従ったのである〔モーセ4:1−4;教 とを行うがいい。わたしのところに来て誘惑しようとして 義と聖約29:36−37〕。さて,イエスとルシフェルの違い はこうである。すなわち,イエスは喜んで御父に従われた も無駄だ。あなたが来て,神の僕や神の業について邪悪な 考えを吹き込もうとしても,わたしはそれを聞くつもりは のである。」(Millennial Star『ミレニアルスター』1895年9 月5日,pp.563−564) ない。わたしはあなたに対して心を閉ざす。……』 心の中が闇で覆われれば,神の御霊が自分から退いたこ あがな 174 第76章 とを知る。わたしたちはその闇を追い払わなければならな しかし,瞬時にこのような状態になる人はいない。ジョ い。神の御霊に満たされれば,どのような状況にあっても, 喜び,平安,幸福感が心にあふれる。なぜなら,それは喜 セフ・フィールディング・スミス長老は,人が神と神の僕 を憎むようになるまでの道を次のように説明している。 しもべ びと幸福をもたらす霊だからである。」(Gospel Truth『福 音の真理』1:19−20) 「この心の変化は突然やって来るものではない。元をただ せば何かの罪であり,それが悔い改めのないままに心の中 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:31 滅びの子になるのは,どれほどま に潜行し,ついには聖霊も退き,その人は霊的な暗闇の中 に取り残される。罪は罪を生み,真理への愛が憎しみに変 で神の力を知り,それにあずかった人だろうか わるまで暗闇は深くなり,正しく真実な事柄をすべて滅ぼ 聖霊に対する罪を犯さなければ, 滅びの子にはならない。 たまもの したがって,その罪に至るには,まず聖霊の賜物を受けて そうとする邪悪な望みによって神への愛はかき消されてし ぼうとく まう。こうしてキリストが公然たる恥辱と最悪の冒 にさ いることが条件となる。メルビン・J・バラード長老は次 のように説明している。「聖霊にはほかのいかなる力も及 らされることになるのである。」(Instructor『インストラク ター』1935年10月,p.432) ばないほど強く,人々に真理を告げる権利と特権が与えら このような人々は自らをキリストの贖いの力の外に置く れている。したがって,聖霊がある人に何かを見せ,知ら せられると,その人はほかのいかなる方法によるよりもよ (ヘブル6:4−9;10:26−29;マタイ12:31−32参照)。 彼らはキリストの慈悲にあずかることができない。神の御 く理解することができる。その知識に対して罪を犯すのは, 最も偉大な光に対して罪を犯すことであり,結果的に最悪 霊を完全に失い,自分から悔い改めることができないから である。彼らの罪は「非常に憎むべきものであり,その罪 の罪を犯すことになるのである。」(『ミレニアルスター』 を犯した者は悔い改めることができない。これによってま 1932年8月11日,pp.499−500) ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,聖霊に対 ったく望みのない状況に置かれる。悔い改めるなら赦され るのだが,悔い改めることがないので,そのような人には する罪がなぜそれほどまでに重大な罪とされるのかについ て,さらに次のように説明している。「人の霊に語りかけ 赦しの力が及ばないのである。」(オーソン・F・ホイット ニー,Improvement Era『インプルーブメント・エラ』1920 る神の御霊は,天の使いが親しく接して伝えるよりも,は るかに効果的に真理を伝え,理解させる力を持っている。 年3月号,p.413) 「滅びの国すなわち暗黒の王国にはまったく光がなく, 聖霊の力によって真理は体のごく微小な組織にまで刻みつ サタンと,肉体を得られなかった霊たちが,肉体は得たが け ら れ , 決 し て 忘 れ 去 ら れ る こ と が な い。」(“The Sin Against the Holy Ghost” Instructor「聖霊に対する罪」 『イン 滅びの状態まで退歩した者たちと一緒に住むことであろ う。彼らは改心する力を失ってしまったのである。彼らは ストラクター』1935年10月,p.431) 預言者ジョセフ・スミスは,滅びの子となる人々につい 堕落してしまったので,悔い改める気持ちも力もなくして しま……うのである。 」(『赦しの奇跡』p.134) て次のように述べている。「赦されない罪を犯すのは,ど ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のような状態にある者だろうか。まず聖霊を受けており, 天がその人に開かれている。そして,神を知っていながら, 教義と聖約76:35 御父の独り子を「十字架につけて 公に辱め」るとはどういうことか 神に対して罪を犯す者である。聖霊に対する罪には,悔い 改めの余地がまったく残されていない。また赦されない罪 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように書いてい る。「赦されない罪とは,神の御子を自ら十字架につけて を犯す者は, 太陽を見ていてもそれが輝いていないと言い, 公に辱めることである(教義と聖約76:34−35。ヘブル 天が自分に開かれていてもイエス・キリストを否定する。 また,救いの計画の真理が明らかにされていてもそれを否 6:4−8)。この罪を犯す者は,福音を受け,聖霊からの啓 示によりキリストが神であることを完全に理解し,その上 定する。そしてそのときから,敵となるのである。末日聖 徒イエス・キリスト教会を去った背教者の多くが,このよ で『自らが聖められた新しくかつ永遠の聖約を拒み,それ を邪悪なものと呼ばわり,恵みの御霊に反したことを行う』 ゆる きよ うな道をたどった。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.358) (『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.128)のである。こ うしてその人は,主の死に同意することにより殺人の罪を スペンサー・W・キンボール大管長はこう書いている。 犯す。すなわち,真理についての完全な知識を持ちながら 「一般の人々がこの聖霊に対する罪を犯すことは明らかに 不可能であるということを知っておく必要がある。」(『赦 公然とそれに反抗し,神の御子であることを十分に知りな がらキリストを十字架につけた人々と同じような立場に自 しの奇跡』p.131) 預言者ジョセフ・スミスは,赦されない罪を犯した背教 らを置くのである。このようにして,キリストを十字架に つけて公に辱めるのである〔教義と聖約132:27〕。」(『モ 者についてこう言っている。「人は,この業の敵になり始 ルモンの教義』pp.816−817) めるや,わたしをつけねらい,殺そうとし,わたしの血を 求めてやまない。彼は悪魔の霊を受けている。それは命の このような人々がどの程度までサタンの霊に満たされる のかについて,チャールズ・W・ペンローズ長老はこう語 主を十字架につけた者が宿していたと同じ霊であり,聖霊 に対して罪を犯させるものである。」(『預言者ジョセフ・ っている。「サタンに従い,命をもたらす霊に反して,サ タンの霊すなわち滅亡の霊に満たされる者は,サタンのも スミスの教え』p.358) のとなる。殺意を心の中に入れた者は,もしこの世でじゃ 175 まになる者がいれば,神の御子でさえも喜んで殺すのであ あれ,白人であれ黒人であれ,いかなる人種であれ,また る。」(『大会報告』1911年10月,p.51) このような状態にある人の行動に関連して,「罪のない 罪人であろうがなかろうが,またその罪がいかに大きなも のであろうと,すべての人が復活する。肉体の復活は必ず 者の血を流す」という表現がよく出てくる。ジョセフ・フ 起こるのである。イエスは彼らのために死なれた。したが ィールディング・スミス大管長は,これは罪のない人を殺 すということだけでなく,神の言葉を滅ぼそうとしたり, って彼らは皆,イエスがなしたもうた贖 罪 を通して墓か ら贖わるれるのである。」(『ジュブナイル・インストラク キリストを公に辱めたりする行為も含まれると説いてい る。真理を知った後にイエス・キリストの僕に戦いを挑む ター』1900年2月号,p.123) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 者は,キリスト御自身に刃向かう者と見なされる。なぜな ら,主の僕に刃向かう者は,それと同じことを主に対して 教義と聖約76:40−43 「福音……はこれである」 「福音」という言葉の語源は,「良い知らせ」「喜びのお もしているのであり,主の血に対しても罪ありとされるか とずれ」などの意味を持つギリシャ語「エバンゲリオン」 らである。「聖典では,罪のない者の血を流すことはイエ ス・キリストの血を流すことに同意し,主を公に辱めるこ である(タイラー,Greek-English Lexicon『ギリシャ語− 英語辞典』p.257)。『新約聖書』に用いられている「福音 とであると言われている。」(スミス,Answers to Gospel Questions『福音の質疑応答』1:68) を宣べ伝える」「福音を証する」の意の動詞は「エバンゲ リツォ」であり,文字どおり「良い知らせを伝える,ある ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いは,喜びのおとずれをもたらす」という語義を持つ(同 教義と聖約76:37 第二の死とは何か ここに出ている「第二の死」という言葉は,復活した滅 上,p.256)。教義と聖約第76章には,福音すなわち喜びの おとずれとは何かについて,すなわち,自ら望む人はイエ びの子が受ける霊の死を指している。これについて,ブル ース・R・マッコンキー長老は次のように書いている。 ス・キリストの贖いの力によって救いを受けることができ るという教えについて,要約されている。 「霊の死とは,主の前から追い出されて,義と御霊につけ しょく ざい の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る事柄に関して死ぬことである。霊には,霊魂の消滅とか 霊体の破壊とかいう意味での死はない。むしろ,霊として, 教義と聖約76:44−49 じるのは無益である 滅びの子の行く末について論 あるいは復活した者として永遠に生きるのである。…… 最終的には,『死に至る罪』(教義と聖約64:7)を犯し 回復の初期に,滅びの子の行く末について教えようとし た人々がいるようである。預言者ジョセフ・スミスはそれ た者,すなわち滅びの子になると定められた者を除き,す に対して次のように答えている。「ヒューレット兄弟やほ べての人が霊の死から贖われる。ヨハネはこの教えについ て次のように述べている。『死も黄泉もその中にいる死人 かのすべての人に伝えていただきたい。悪魔や,その使い や,滅びの子もいつかは贖われるなどという教えを語るこ を出し……それから,死も黄泉も火の池に投げ込まれた。 この火の池が第二の死である。』(黙示20:12−15)主は末 とを,主は決してお許しになっていない。彼らの行く末に ついては,過去にも,現在にも,人に明らかにされていな 日においても,滅びの子は『第二の死が何らかの力を持つ 唯一の者であり』(教義と聖約76:37)と言われた。すな いし,将来も明らかにされることはないであろう。ただ, 滅びを受ける者にのみ明らかにされるのである。したがっ わち,彼らは復活後に何らかの力を受けるのである。」 て,この教義を説く人々は,それを主の御霊から受けては (『モルモンの教義』pp.757−758。教義と聖約63:17; 64:7の「注解」参照) いないのである。オリバー兄弟も,それは悪霊の教義であ るとはっきり述べている。したがって,わたしたちは,シ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:38−39 この世に生まれて滅びの子と オンにおいてはこの教義をこれ以上教えてはならないと命 じる。また,監督とその評議会がこの教義に関連して下し なった者は復活するか た,会員資格を問われることになるとの裁定を正当なもの ジョージ・Q・キャノン副管長は,よく行われる誤った 解釈を正すために,この聖句について次のような説明をし と認める。 」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.24) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている。「しかしながらこれらの節を,特にその前の部分 をよく読んでみれば,ここの表現では滅びの子でさえ復活 教義と聖約76:44 いうことか 滅びの子が永遠に治めるとはどう からは除かれていないことが分かる。ここの意図は,滅び スミスとショダールは,非常に深い意味を持つこの特殊 の子を,第二の死が何らかの力を持つ唯一の者であると明 確に示すことである。『小羊の勝利と栄光によって,死者 な表現について次のように説明している。「主は絶対的な 統治者であられる。主は統治される。人が罪に屈すること の復活により導き出されるからである。』この除外された 者たちは,第二の死が何らかの力を持つ唯一の者であり, に関連しては,『罪が支配する』という表現が用いられる ことがある。恵みについても,同じ表現法が用いられる 『主の激しい怒りによる苦しみを受けた後も,主の定めら れた時に贖われない唯一の者である。』 (ローマ5:21)。聖徒たちはキリストとともに治める。し かしここには,滅びの子たちが悪魔とその使いとともに, このことは,決して彼らが復活を受けないということを うじが死なず火が消えない所で永遠に治めると述べられて 意味しない。わたしたちの主であり救い主であるイエスは すべての人のために死なれたのであり,善人であれ悪人で いる。ルシフェルと御子の支配権を巡るる争いは,時の初 めからあった。人々はそのどちらかに従ってきた。聖徒た 176 第76章 ちは神の王国の民であり公職者である。これから後も変わ この大きな出来事に続き,主と,主に会うために取り上 ることはない。彼らはやがて自由の民として『治める』よ うになる。滅びの子たちは今も,そして将来も,ルシフェ げられた義人が地上に降って来た後,もう一つの復活が起 こる。これは少し遅れて起こるが,第一の復活の一部と考 ルの王国の民であり役人である。しかし,その王国は終局 的にはゲヘナの領域に限られるようになる。彼らはそこで えることができる。この復活で,主に会うために取り上げ られる資格はないが,よみがえって福千年の統治を享受す 悪魔の王国の法と規則の下に『治める』ようになる。その 実例は,人間の歴史における無知,迷信,専制政治,悪に る資格のある月の栄えの位に属する者が出てくる。」(『救 いの教義』2:272−273) 満ちた暗黒時代に数多く見られた。人間や邪悪な霊たちの この第一の復活は福千年に入っても続き,その千年間に 凶悪な思いが,福音の影響力による抑制もなく,猛威を奮 う場所を考えてみていただきたい。それが悪魔の王国であ 地上に生きて死ぬ,日の栄えの王国にふさわしいすべての 人も復活にあずかる。 り,滅びの子が治める所なのである。」(『注解』pp.454− 455) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:53 約束の聖なる御霊によって結び固 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ められるとはどういう意味か 教義と聖約76:48 められているか 滅びの子たちはそうなるように定 ブルース・R・マッコンキー長老は,約束の聖なる御霊 を次のように定義している。「約束の聖なる御霊とは,聖 「神によってあらかじめ選ばれていたという意味で,初 めから罪に定められていた人はいない。神が定められたの 徒たちに与えられると約束された聖なる御霊のことであ り,聖霊のことである。この称号は,聖霊の結び固めて認 は,神に背き,最後までそれを続けるならば不幸を招くと 可する権能と関連して用いられる。この権能が,人の義に いうことであり,神がだれかを最初からそのような宿命に 定めておられるということはない。議会は盗みを働く者に かなった行為に認可と承認を与えると,それらの行為は天 においても地上においても結ばれるのである。『すべての 投獄,殺人者に死刑などを定める場合があるが,それはだ れかが投獄や死刑に当たる罪を犯すようにあらかじめ定め 聖約や契約,きずな,義務,誓詞,誓言,履行,関係,交 際,期待』が,『死者の中からの復活の時も,その後も… たという意味ではない。滅びの子たちは自らの選びによっ てその道を進むのであって,決してあらかじめ定められた …効験や効能,効力』を持つには,約束の聖なる御霊によ る結び固めを受けなければならない。『この目的で結ばな 宿命の犠牲なのではない。」(スミス,ショダール共著『注 い契約はすべて,人が死ぬと終わるからである。』(教義と 解』p.455) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 聖約132:7) 結び固めるとは,認可もしくは承認することである。こ 教義と聖約76:50 「正しい者の復活」とは何か 復活は大きく二つに分けることができる。正しい者の復 のように, 約束の聖なる御霊により結び固められる行為は, 聖霊により認可される行為であり,主によって承認される 活と正しくない者の復活である。正しい者の復活にあずか 行為である。また義務を身に引き受けた人は,そのなした るのは,日の栄えの栄光か月の栄えの栄光を受ける者であ る。 事柄について御霊から義と認められる。しかしながら,契 約を交わす者は,義にかなう行いにより神の承認を受ける ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,正しい にふさわしい者でなければ,この認可,承認の結び固めを 受けることができない。彼らは,『御父が正しくかつ真実 者の復活について次のように書いている。 「近代に教会に与えられた啓示で主はこの栄光に満ちた な者すべてに注がれる約束の聖なる御霊により結び固めら 出来事についてさらに詳しく知らされた。このときに復活 の特権に浴する人々には少なくとも2種類の人々がある。 れている者である。 』(教義と聖約76:53)彼らが正しくか まず第1は,『とこしえにいつまでも神とそのキリストの前 に住む』人々である。そして第2に,日の栄えの王国の 人々だけでなく,月の栄えの王国に属する高潔な人々であ る。 キリストが来られるときに,『墓の中で眠っていた者た ちは,彼らの墓が開かれるので出て来る。そして,彼らも また,天の柱のただ中で主に会うために引き上げられる。 彼らはキリストのもの,初穂,キリストとともに最初に降 る者,地上や墓の中にいてキリストに会うために最初に引 き上げられる者である。これはすべて,神の天使が吹き鳴 らすラッパの音による。 』これらの者は,『神とキリストが 万民の審判者として住まわれる,天にその名が記されてい る』正しい人である。『これらは,自らの血を流すことに よってこの完全な贖罪を成し遂げられた,新しい聖約の仲 保者イエスを通じて完全な者とされた正しい人々である。』 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は正しい者の復活 について語った 177 つ真実な者であり,ふさわしい者でなければ,承認の結び mons Missionary Services of Melvin J. Ballard『メルビン・ジ 固めは与えられない。 」(『モルモンの教義』pp.361−362) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ョセフ・バラードの説教と伝道』p.251) 彼らの生活は律法に添ったものではないが,彼らは月の 教義と聖約76:54 栄えの王国を受け継ぐであろう。そのことについて,ジョ 長子の教会とは何か 「日の栄えの王国で昇栄を受ける者は,長子の教会の会 員である。すなわち主のすべての戒めを守る人である。… セフ・フィールディング・スミス大管長は次のように述べ ている。「またこの中には,律法なくして死に,したがっ … 主はわたしたちが主の宮で受けられる祝福を受け,万事 て主の戒めを破ったことに対して罰を受けない人々も含ま れている。彼らが死から贖われるという約束が次のような を克服することによって長子の教会の会員となることがで きるようにされた。このようにしてわたしたちは相続人と 言葉でなされている。『それから,異教の諸国民が贖われ る。そして,律法を知らなかった者は第一の復活にあずか なり,『祭司であり,王であり,御父の完全と御父の栄光 る。彼らはそれに堪えられるであろう。 』〔教義と聖約45: を受けた者であり』 ,全き昇栄を得て, 『とこしえにいつま でも神とそのキリストの前に住む』むのである。」(『救い 54〕これらの者も主の憐れみを受け,霊と体が分離しない 状態に再び結合し,不死不滅となる。しかし全き神の栄光 の教義』2:39−40) 背教者たちの中には,罪を犯し,教えに背きながら,こ を受けることはない。 」(『救いの教義』2:273) 「肉においてはイエスの証を受け入れなかった」(74節) の神聖な御名を受け,これらの条件をすべて満たしている と書かれているのは,現世で福音を聞きながらそれを拒ん と厚かましく冒 的な言葉を吐く者がいる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ だ人々のことである。もし彼らが「後に」 (74節) ,すなわ ち霊界で福音を受け入れるなら,月の栄えの王国に行くよ 教義と聖約76:72−74 霊界で福音を受け入れる人々 は月の栄えの王国を受け継ぐのか うになる。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は それをこう説明している。「現世では高潔で,また清らか この質問に対する答えは,「然り」である。この世で福 な徳高い生活をし,また福音を受け入れなかったものの霊 音を聞きながら受け入れなかった人々は,月の栄えの王国 を受ける。しかし現世ではこの機会に恵まれず,霊界で完 界で自分に与えられた範囲内で悔い改め,福音を受け入れ た人々は,月の栄えの王国へ行く。これらの人々の多くは 全に福音を受け入れた人々は,日の栄えの王国を受け継ぐ ことができるのである。 言い伝えとこの世への愛によって目をくらまされ,福音の すばらしさを理解することができなかったのである。」 み な しか この箇所は啓示全体との関係の中で考えるべきものであ あわ (『教会歴史と近代の啓示』1:287−288) り,ここだけを切り離して考えるべきではない。ジョセ フ・スミスはほかの啓示から次のことを学んだ。「すると, この世で福音を拒んでも来世で受け入れれば,日の栄え の栄光を受け継ぐことができると言う人がいるが,ブルー 主の声が次のようにわたしに聞こえた。『この福音を知ら ずに死んだ者で,もしとどまることを許されていたらそれ ス・R・マッコンキー長老は,そのような教えを信じるこ との愚かさについて次のように述べている。「死者の救い を受け入れたであろう者は皆,神の日の栄えの王国を受け 継ぐ者となる。』」(教義と聖約137:7)神はキリストの福 の教義により,人間には救いのチャンスが2度与えられる と信じている人々がいる。 音を受け入れる機会をすべての人に与えられる。そして日 わたしは今は故人となったある男の人を知っている。彼 の栄えの王国を受けるにふさわしい人々のことが,日の栄 えの王国の示現の中で述べられている(教義と聖約76: はこの教会の会員ではなかった。 罪に染まり切った老人で, この世的な生活を楽しんでいた。自分ではそれが楽しい生 50−70参照)。月の栄えの王国に関するこの部分には,律 法なしに世を去ったが霊界で福音を受け入れた人々も含 活だと思っていたのである。いつもたばこを口にくわえ, 酒臭い息をし,冒 的で卑わいな話をしていた。彼の人生 め,自らの証を述べるのに雄々しくなかった人々について にはし残したことがあまりにも多すぎた。 述べられている(79節参照)。月の栄えの栄光を受けるよ うになる,律法なしに世を去ったこれらの人々の中には, 彼の妻は教会員で,そのような状況の中で精いっぱい忠 実な信仰生活をしていた。ある日彼女が,『あなたはこの この世では律法を知らず,霊界でもそれを受け入れない, いわゆる異教の国々の多くの人が含まれる。しかし,彼ら 教会が真実だと知っているのに,どうしてバプテスマを受 けようとしないの』と言うと,彼はこう答えた。『もちろ は高潔な人々と見なされるのである(75節参照)。 ん教会が真実なことは分かっている。でも教会に入るため メルビン・J・バラード長老は,その違いを次のように 説明している。「さて,律法なしに世を去った者たち,す に生活を変えようとは思わない。今の生活の方がいいよ。 でもそのことで何も心配はしていないよ。わたしが死んだ なわち現世において忠実さと献身が足りないために異教を 奉じた者たちは,すべて彼らが受けるにふさわしいものを らすぐに,君はだれかを神殿にやって,わたしのために儀 式が行われるようにしてくれるだろう。それで結局は万事 受ける。これは,すべての者が最高の栄えに入ることを妨 げられるという意味ではない。だれでも悔い改めて条件を よくなるわけさ。 』 やがて彼は死に,妻の手配によって神殿の儀式が行われ 満たすならば日の栄えの栄光を得ることができる。 しかし, た。わたしたちは裁き主でもなければ,身代わりの儀式を 彼らのうちの多くの者は月の栄えの王国を受け継ぐにとど まるであろう。」(ブライアント・S・ヒンクレー,Ser- 否定もしない。しかし,それがほんとうに彼のためになる のだろうか。 178 第76章 救いを得るための2度目のチャンスというようなものは わたしたちの信じる宗教に生きること,すなわちわたした ない。この人生こそがわたしたちの試しの時なのである。 永遠への備えをするこの現世の生涯が終わると,次に来る ちが教えることを実践し,戒めを守ることなのである。そ して『困っている孤児や,やもめを見舞い,自らは世の汚 のは暗黒の夜であり,そこでは何の働きもできない。 この世で聖なる御言葉を信じて従う機会がなかった人に れに染ま』らず,『清く汚れのない信心』を生活の中に表 すことである(ヤコブの手紙1:27)。 対しては,救いを得る最初の機会が霊界で与えられる。機 会に恵まれさえすれば現世でも福音を受け入れる人なら イエスの証に雄々しくあるには,情欲を抑え,欲望を制 し,世俗的な悪い物事から離れていなければならない。そ ば,霊界で初めて御言葉を聞いても,そこで受け入れるで れは,わたしたちの手本であり,御父のすべての子供の中 あろう。死者の救いとは,救いを得るチャンスを霊界で初 めて授かる人々のために備えられたものである。 で最も雄々しい御方が行われたように,世に打ち勝つこと じゅう ぶん であり,道徳的に清くあり,什 分 の一や献金を納め,安 この啓示〔教義と聖約137:7−8〕に述べられているも の以外に,救いの約束は見当たらない。この世で福音を拒 息日を尊び,心を込めて祈ることであり,求められたなら ばすべてを犠牲にすることである。 み こと ば み,霊界でそれを受け入れた人々は,日の栄えの王国では なく,月の栄えの王国へ行くようになる。」(“The Seven Deadly Heresies” Speeches of the Year「7つの有害な異説」 『年度講話』1980年,未刊) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:79 イエスの証に雄々しくあるとはどうい イエスの証に雄々しくあるには,あらゆる点で主の側に 立たなければならない。主が選ばれるように選び,主が考 えられるように考え,主が信じたもうように信じることで ある。また,主が語られるように語り,主が行われるよう に行うことである。そして,キリストの思いを抱き,キリ ストが御父と一つであるように,わたしたちもキリストと う意味か ブルース・R・マッコンキー長老は1974年10月の総大会 一つにならなければならない。」(『大会報告』1974年10月, pp.45−46) において,雄々しくあるということを定義して次のように 述べた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:81−85 星の栄えの栄光を受け継ぐ者 「では,イエスの証に雄々しくあるとはどういう意味だ ろうか。 は一時的に地獄に落とされる ブルース・R・マッコンキー長老は,地獄と星の栄えの それは,勇敢で大胆であるということであり,世との戦 王国との関係について次のように述べている。 いに力と精力と能力をすべてつぎ込むことであり,信仰の まっと ために敢然と戦うことである。……義を全うするに当たっ 「霊界の中で,悪い霊がやがて訪れる復活の日を待つ場 所を地獄という。死と復活の間の期間,これら悪人の霊は て,雄々しくあるということはきわめて重要なことである。 そして,それはすなわち,完全な福音のすべての律法に従 外の暗闇,陰うつな黄泉の国,邪悪な霊たちを待ち受けて いるハーデース,すなわち地獄に投げ落とされる。彼らは 順に従うということである。 そこで,罰の定めを受けた者が受ける苦痛を味わう。永遠 イエスの証に雄々しくあるには,『キリストのもとに来 て,キリストによって完全に』なり,『神の御心に添わな の火の報いを受けてのたうちまわるのである。そこでは, 泣き悲しみ,歯ぎしりをする者の姿が見られるであろう。 いものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛す る』ようにしなければならない(モロナイ10:32) 。 そこでは,火の憤りのような神の激しい怒りが邪悪な者に 下るのである(アルマ40:11−14;教義と聖約76:103− イエスの証に雄々しくあるには,キリストとキリストが 106)。 もたらされた福音に対して揺るぎない確信を持たなければ ならない。すなわち,地上で行われている業が真実主の業 地獄にも終わりがある。ヨハネは将来の出来事を見た。 『死も黄泉もその中にいる死人を出し,そして,おのおの であることを知ることである。 しかしこれがすべてではない。雄々しくあるとは,信じ そのしわざに応じて,さばきを受けた。 』(黙示20:13)ヤ コブは,死と地獄が死人を出すとは,墓から肉体,地獄か ることや知ること以上でなければならない。つまりわたし たちは聞くだけの者ではなく,行う者とならなければなら ら霊が解き放されることであると説いた。『また,わたし が語ってきたこの死,すなわち霊の死もやがてその死を解 ない。雄々しいということは口先だけの奉仕とは違う。救 き放す。その霊の死とは地獄のことである。したがって, い主が神の御子であることをただ口に出して言うだけでは 不十分なのである。従順,実行,そして自分自身が義にか 死と地獄とはその死を解き放さなければならない。すなわ ち,地獄はそこに囚われている霊を解き放し,墓はそこに なった生活を送ること, これが雄々しいということである。 『わたしにむかって「主よ,主よ」と言う者が,みな天国 囚われている肉体を解き放して,人々の肉体と霊は互いに 回復される。 』(2ニーファイ9:10−12)これはダビデが次 にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御旨を行 の約束を与えられたこととも一致している。『あなたはわ う者だけが,はいるのである。 』(マタイ7:21) イエスの証に雄々しくあるには,『これからもキリスト たしを陰府に捨ておかれず……。』(詩篇16:10。使徒2: 27) を確固として信じ,完全な希望の輝きを持ち,神とすべて の人を愛して力強く進まなければならない。』そして, 『最 地獄で苦しみを味わった者の多くは,復活すると星の栄 えの王国へ移る。滅びの子としてのろいを受けた残りの者 後まで堪え忍ぶ』のである(2ニーファイ31:20) 。それは たちは,悪魔やその使いたちとともに無窮ののろいを受け み むね 179 るように定められるであろう。…… 音を説いているのではない。昇栄の救いを目指している。 だれが地獄に行くのであろうか。この質問に対する答え は,聖典の中に見られる。星の栄えの王国に行く者は地獄 わたしたちがイエス・キリストの福音を説いている目的 は,神権と教会の儀式の力によって人々を神の息子娘とし の深みを経て,また星の栄えの律法に従う結果として,そ の最終的な行く先へ旅をして行く。したがって,星の栄え て神のもとに帰らせ,御父の王国の全きを受けられるよう にすることにある。このためわたしたちは尽力しているの の律法に添った生活をする人々は地獄へ行くようになる。」 (『モルモンの教義』pp.349−350) である。 」(『救いの教義』2:177) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:116 「聖なる御霊の力によってのみ, 教義と聖約76:89−106 星の栄えの王国の栄光を受 け継ぐ人々に「人知ではとうてい計り知れない」栄光が授 目にし,理解することのできるものだからである」 預言者ジョセフ・スミスは次のように記録している。 けられるのはなぜか 星の栄えの王国を受け継ぐ者は皆,この栄光に対する代 「わたしたちは,アダムの時代以来書かれてきたすべての 事柄を読み,理解したとしても,将来における神と天使に 価を支払うようになる。その代価を支払った後に星の栄え 対する人間の関係について,ほとんど何も知ることができ の栄光を受け継ぐという事実は,御父の愛と憐れみをよく 物語っている。ジョン・A・ウイッツォー長老は次のよう ない。ほかの人の経験,すなわち彼らに与えられた啓示を 読んでも,わたしたちの状態や神との真の関係をほんとう に言っている。 「この書〔教義と聖約〕には,人に与えられる最も低い に理解することはできない。これらのことをほんとうに理 解するには,神の儀式を自分で受けなければならない。神 栄光でも人知で計り知れないほど輝かしいものであるとい の儀式はそのために定められたのである。5分間天に目を うことが明確に説かれている。最も悪い罪人でも最後の裁 きの時には,人間の理解を越えた栄光を受けるというこの 向けるなら,このことについてすべての事柄を読んで学ぶ よりも,多くのことを知ることができるであろう。」(『教 教義は,モルモニズムの基本的な教義である。その栄光は 非常に偉大であり,適切に表現することが不可能なほどで 会歴史』6:50) ある。より善い行いをすれば,それだけより輝かしい栄光 の場を授けられる。低い栄光の世界に住む者は,今のわた したちと同じように, より高い栄光の世界を望み焦がれる。 次の世の地獄とは,それと同じような気持ちを覚える場所 ではないかと思われる。 福音とはすばらしい愛のおとずれである。福音の根底に あるのは愛である。最も罪深い子供でも,その受ける報い がこの世の人の理解を越えると言われるほどに,深く愛さ れているのである。 」(Message of the Doctrine and Covenants 『教義と聖約のメッセージ』p.167) 真理を拒み,公然と神を汚す滅びの子だけが(教義と聖 約76:31参照),栄光の王国を拒まれるのである。星の栄 えの王国は人間の現在の理解を越える輝かしいものである が,より高い次元の栄光に比べたら,はるかに劣るもので ある。星の栄えの王国は,現世の試しの生涯をこの世的な 悪の中で過ごした者のために備えられたものである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:107 「わたしは勝利を得て,独りで… …酒ぶねを踏みました」 教義と聖約133:50の「注解」には,酒ぶねを踏むとい うことの意味が説明されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約76:111 れ」 「彼らはその行いに応じて裁か 「わたしたちは人々を月の栄えの世界に救おうとして福 180 神殿の完全な祝福は,すべてに打ち勝つ人々のために備えられ ている 第77章 黙示録に関する質疑応答 ば,神にかかわる永遠の事柄がすべて分かるのである。」 歴史的背景 (Journal of Discourses『説教集』8:200。教義と聖約88: ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「預言者は〔オハイオ州〕アマーストから帰った後に, 17−20,25−26;130:6−9参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 聖文の翻訳を再開した。そしてこの業に従事していた3月1 ひ ゆ 日ごろ,ヨハネが記した黙示録の中の比喩的な,また象徴 教義と聖約77:2−3 黙示録4:6に述べられている 「四つの生き物」というのは,ヨハネの記録したほかの生 的な記述について,幾つか疑問な点が出てきた。理解の及 き物あるいは獣と同じものを表しているのだろうか ばないところが多かったのである。そこで預言者は主に尋 ね,疑問に対する答えを受けた。」(Church History and ヨハネは四つの生き物が神の前にいて,神に「栄光とほ まれとを帰し,また,感謝をささげている」(黙示4:9) Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:291) 教義と聖約第77章は,ヨハネの黙示録に関する公式論文 光景を目にした。それぞれの領域において救いを受けたこ れらの生き物は,実際の生き物であったが,「永遠の幸い として,あるいはまた完全な注解書として与えられたわけ を享受する」 (教義と聖約77:3)ことになるはずの生き物 ではなく,むしろ理解のための鍵として,また末日聖徒へ の助けとして与えられたものである。したがって,聖徒に (人,獣,這うもの,鳥)の階級を象徴的に表しているの である。 とってこの章は特別な意味を持つ。 「黙示録は神聖な記録の中でも,非常に重要な書の一つ 1843年4月8日土曜日にノーブーで開かれた大会における 説教の中で,ジョセフ・スミスは,ヨハネの記述にある天 である。そして,主は明らかに,聖徒たちがこれに精通す で見た生き物について説明し,さらにヨハネの述べた生き 物と昔の預言者たちの語った生き物とを比較対照した。こ かぎ るよう望んでおられる。もしそうでなければ,なぜ『教義 と聖約』の中でこの黙示録が採り上げられているのだろう は の説明は,ペラティア・ブラウン長老が黙示録5:8を誤っ か。 しかしながら,この啓示は黙示録を完全な形で解釈した て解釈し,この四つの生き物は地上における神の王国の異 なった段階を表していると述べたために行われたものであ ものではない。『鍵』である。鍵が一つの家で占める場所 る。預言者ジョセフ・スミスは,主は「きわめて気高く, また栄光に満ちた重要なもの,すなわち神の王国の栄光と はきわめて小さい。しかし一度鍵が回されれば,宝を探す 者は自らの力でそれを見いだすであろう。…… 尊厳とを表すのに,野蛮な動物をその表象として」使うよ 主はこの章の中で,御自分の民に黙示録を開く鍵を与え ておられる。ちょうど,シャンポリオンがロゼッタ石の短 うなことはなさらない,と教えた。神は「上位のものを表 すためにそれよりも下位の表象を」使われるようなことは い碑文に隠された鍵によって,エジプトの象形文字の秘密 を明らかにすることができたように,『聖書』を研究する なさらないのである(Teachings of the Prophet Joseph Smith 『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.288−289)。 人も,この鍵の助けを得ながら黙示録を読み進めるならば, 解釈に混乱が生じた原因の一つは,「生き物」あるいは いっそう深い理解を得ることができるのである。」 (スミス, 「獣」という言葉が黙示録の中で二つの意味で用いられて ショダール共著,Commentary『注解』p.478) いる点にある。ジョセフはこの説教の中でその二つの用法 注 解 について触れている。ヨハネが天にいる実際の動物につい て述べた箇所では,「ゾーン」というギリシャ語が使われ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ている。これは翻訳すると「生き物」という意味である 教義と聖約77:1 ガラスの海のような地球 預言者ジョセフ・スミスによる歴史記録に記された次の (黙示4:6−9;5:6−14;6:1−7;7:11;14:3;15: 7;19:4参照)。一方,ヨハネが現世の堕落した王国,言 出来事を読むと,この節の意味がいっそう明確になる。 「夕食時に,わたしはそこに居合わせた家族と友人たちに, い換えればサタンの王国の象徴として「獣」という言葉を 使うときには,「野の獣」と訳されるギリシャ語の「セリ 地球が聖められ,ガラスの海のようになるとき,地球は一 オン」という語をあてている(黙示6:8;11:7;13:1− 18;14:9,11;15:2;16:2,10,13;17:1−18;19: きよ つの巨大なウリムとトンミムとなり,聖徒たちはその中を のぞき込んで,ありのままの自分を見ることができると言 った。」(History of the Church『教会歴史』5:279) ブリガム・ヤング大管長は,次のように述べている。 19−20;20:4,10参照)。このように,「生き物」と訳さ れている「ゾーン」という語は天で見た実際の動物を表し, 一方,「獣」と訳されている「セリオン」という語は象徴 「この地球は日の栄えの天体となる。すなわちガラスの海 のようになり,一つのウリムとトンミムのようになる。そ 的概念を表すときに使われている。預言者ジョセフは,こ の二つの語の意味を次のように説明している。 して何か知りたいことがあるとき,この地球をのぞき込め 「神は預言者たちに与えた示現の中で,獣を象徴として 181 使われたが,それは,堕落して,自らの選びによって腐敗 ことが分かる。だからこそ,預言者ジョセフは「黙示録は, し,野蛮になり,獣のようになった王国,すなわち邪悪な 世の堕落した王国を表すために使われたのである。 しかし, 神が書き記させた書物の中で最も簡明な書物の一つであ る」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.290)と言った 神は御自分の王国を表す象徴として,獣を使ったり,その のである。 ほかの野蛮な動物を使ったりされたことは一度もない。… … ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約77:5 神のパラダイスにいる24人の長老の 昔の預言者たちが語った示現や象徴と,ヨハネの黙示の 中で述べられている示現や象徴との間には大きな差異があ ことがヨハネに示されたのはなぜか ヨハネの時代も,聖徒たちにとっては大きな迫害と殉教 る。…… 預言者たちが言わんとした本来の意味と現在の翻訳との の時代であった(黙示6:9−11参照)。ヨハネが手紙を書 き送った教会の指導者たちも,大きな苦難のただ中にあっ 間には大きなずれがある。預言者たちは,獣あるいは獣た た。こうした過酷な環境の中で,彼らは自分たちに課せら ちを見たと言わず, 獣の象徴を見たと言っているのである。 ダニエルが見たのは,実際のくまやししではなく,くまや れた試練を信仰深く最後まで堪え忍ぶなら,やがて神のも とに救われて,「白い衣を身にまとい」その頭上に「冠」 ししの象徴であった。預言者たちが獣について語っている 箇所はすべて,『獣』ではなく,『象徴』と翻訳すべきであ (黙示4:4)を授けられるという確信を得たのである。ヨ ハネからこのメッセージを受けた人々は,どれほど大きな った。しかし,ヨハネが天で見た動物は,実際の獣である。 慰めを得たことであろう。また,どれほど力づけられたこ それは獣たちが実際に天に存在していることをヨハネに示 すものであって,地上に存在するものの象徴として示され とであろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ たものではなかった。…… ヨハネは,不思議な姿形をした様々な動物が天に存在し 教義と聖約77:6−7 されていたのだろうか ヨハネの見た巻き物はなぜ封印 ているのも目にした。 彼は天にいるすべての生き物を見た。 「『ヨハネが見た巻き物』は,世界の実際の歴史を示すも あらゆる動物や鳥や魚が実際に天にいて,神に栄光を帰し ている光景を見たのである。あなたがたはこれをどう証明 のであった。つまり,神がその目で自ら御覧になったもの であり,また記録の天使が書き記したものであった。そし するだろうか(黙示5:13参照)。…… 恐らくヨハネは何千種類もの生き物が天にいるのを見た て,7千年というのは,それぞれ黙示録の7つの封印に対応 して,母なる地球がこの世における使命を果たすまでの7 ものと思われる。これは,幾万幾千というこの地球のよう つの大いなる時代のことを表している。すなわち,その6 な天体から救われた生き物であって,現在のわたしたちに は想像もつかない変わった種類の動物もいた。こうしたも つの時代は働き,第7の時代には清めの期間として安息を 得るのである。この7つの時代の中には,人の住まいとし のがことごとく天にいたことが考えられるのである。この 聖句の真意は,ヨハネに天にあるものをすべて示すことに てのわたしたちの惑星の創造と準備の期間は含まれていな い。これは,地球の『現世の存在』,言い換えれば,永遠 あった。ヨハネは,神がその手によって造られたもの,す なわち獣や鳥や魚や人をことごとく救うことによって栄光 の時とは区別して考えるべき『時』に限定されている。」 (ホイットニー,Saturday Night Thoughts『土曜の夜の思い』 を受けておられることを知ったのである。そして,神はこ p.11) れから後も,それらを通して栄光をお受けになることであ ろう。 」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.289−291) ヨハネは封印という言葉を使っているが(黙示5:1−2 参照),これは,折り畳んだ書簡や文書に確実に封をする ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約77:2 聖徒たちには主が使われた獣やその ための少量のろうであり,指輪などに彫り込んだ印鑑を押 して印を付けるものであった。このようにして封じられて ほかの象徴の意味を理解する責任があるか いたために,その文書を開くためには,どうしてもその封 預言者ジョセフ・スミスはまた次のように言っている。 「わたしはこの点についてはっきりと申し上げる。すなわ 印を解かなければならなかった。地球のこれまでの歴史と 行く末について封印を解き,その内容を明らかにするのに ち,いかなる種類のものであれ,神がある象徴的なもの, 獣,形あるものを示現として授けられる場合,神は常にそ ふさわしい御方は,ただ一人しかおられない。それは,イ しょく エス・キリストである(黙示5:2−9参照) 。キリストの贖 ざい の示現の意味について啓示なり解釈なりを与える責任を負 罪があって初めて,地球が現世の状態で存続する期間に価 っておられる。そうでなければ,わたしたちはそれをどう 考えるかに関して責任を問われることはない。したがって, 値が出てくるのである。この地球が創造された目的を達す るための鍵を持っておられるのは,キリストだけである。 神がその事柄について啓示なり解釈なりを授けておられな いならば,その示現や象徴の意味を知らないために罰の定 キリストがおられるからこそ,救いの計画が成功するので あって,キリストなくしては,あらゆるものが無に帰し, めを受けるのではないだろうか,などと恐れる必要はまっ たくないのである。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 封印が解かれることもないのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ p.291) 教義と聖約77:8 しかし,聖典を入念に研究すれば,多くの場合,啓示の 象徴的な表現を理解するための鍵が主から授けられている は,人の命を救う力と,滅ぼす力を持っている ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 182 神のもとから遣わされた4人の天使 第77章 に説明している。 る。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.32) 「これらの天使というのは,麦と毒麦のたとえの中に出 み つか てくる御使いのことを指しているのではないかと思われる オーソン・プラット長老は,さらにこれに次のような説 明を付け加えている。 節がある(マタイ13:24−43;教義と聖約86:5参照)。降 って行って畑の刈り入れをしたいと主に願った御使いたち 「〔新エルサレムに〕神殿が建てられると,二つの神権 〔メルキゼデク神権とアロン神権〕による息子たちが…… は,収穫の終わりのときまで,すなわち世の終わりまで, 麦と毒麦がともに育つにままにしておくように言われた この神殿に参入する。……そして心の清い者たちは皆,主 の顔を拝するであろう。それは,主が栄光をもって天の雲 (マタイ13:38−39参照)。…… の中を来られる前のことである。主は神殿に突如来られる これらの天使には,地球の四隅を支配する権力が与えら れ,また地に住む人々に永遠の福音を伝える権威が授けら からである。そして主はモーセの息子たちとアロンの息子 たちを清めて,彼らがその神殿で主の目にかなうささげ物 れている。完全な福音を回復するために,主の前から遣わ された天使はただ一人だけではない。もろもろの鍵を持ち, をささげる備えをさせてくださる。これを行うときに,主 はその神殿の中で神権者の心だけでなく,体をも清めてく この世を訪れて,その鍵を回復した昔の預言者たちは皆, ださる。そして,彼らは身を変えられ,再新され,強めら この偉大な回復の業に関与しているのである。わたしたち はこの啓示から,諸天を閉じたり開いたりする権能,また れるであろう。こうして彼らは部分的に変えられる。しか し,不死不滅にではなく,神の力に満たされても堪えられ 生殺与奪の権も授けられている4人の天使がいることが分 かる。この天使たちは,現在その神聖な使命を帯びて,地 るように身体の器官が変えられるのである。その結果,彼 らはイエスの前に立ち,その神殿の中で主の顔を拝するこ 上でその働きを進めているのである。」(『教会歴史と近代 とができるのである。 の啓示』1:300−301) スーサ・ヤング・ゲイツは,ウィルフォード・ウッドラ これは彼らにとって,地上の国々の間でさらに奉仕の業 を進め,また,神が前代未聞の疫病,悪疫,地震などで邪 フ大管長がその説教の中で次のように語ったと報告してい る。「しかし今皆さんに申し上げたい。この天使たちはす 悪な国々を打ち,艱難と報いを下される時代に出て行くた めの備えとなる。また,神の僕たちは神の力で武装し,し でに天の門を出て,現在この民,この国民の上に立ってい る。また空中をはいかいし,裁きを下す時を待っている。 かも自分の額にあの結び固めの祝福の宣言を受ける必要も ある。それは,このような荒廃と悪疫のただ中に雄々しく まさに今日この日から裁きが下されるであろう。」(Young 立ち,打ち負かされることのないためである。黙示者ヨハ Women’s Journal『ヤング・ウーマンズ・ジャーナル』1894 年8月号,p.512。教義と聖約86:5の「注解」も参照す ネはこの場面を描写するに当たって,4人の天使が遣わさ れるのを見たと言っている。この天使たちは,天の四隅か る。) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ら吹きつける四方の風を引き止めようとしていた。また, もう一人の天使が東の方から上って来て,4人の天使に向 教義と聖約77:9 東の方から来て,神の僕 たちに印を かって叫び,次のように言った。『今,地を打ってはなら 押す天使とは,どういう天使か 地を支配する権威を与えられている4人の天使も,神の ない。しばらくの間待ちなさい。』『どれくらい待つのです か。』『わたしたちの神の僕たちがその額に印を押されるま 僕たちがその額に印を押されるまでは,地球に荒廃をもた らすことを止められている。預言者ジョセフ・スミスの教 で。』何のためだろうか。こうした荒廃や悪疫のただ中に あって雄々しく立ち,打ち負かされることのないように彼 えによれば,この印を押すということは「その頭上に祝福 らを備えるためである。その備えができ,主の神殿におい を結び固めること,すなわち永遠の聖約を授け,それによ ってその召しと選びを確かなものにするという意味であ てその肉体が更新され,聖霊に満たされて精錬の火の中で 金や銀のように清められたとき,そのときには地上の国々 きょう しもべ かんなん の前に立ち,邪悪な人々の上にやがて旋風のように速やか に下される裁きのただ中にあって,喜ばしい救いのおとず の れを宣べ伝える備えができるのである。」(『説教集』15: 365−366) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約77:11 か この14万4,000人とはだれのこと み わざ 「主が来られる前には,……国々の中で偉大な御業が行 われる。……十部族が現れ出て,この地に来る。神の僕た ち,言い換えればエフライムの子らからシオンのただ中に あって栄光の冠を受けるためである。そして大祭司たちが 10万2,000人ずつ,この十部族の各々からも,また散らさ れた部族からも選び出され,その額に印を押されて,聖任 されて,すべての国民,部族,国語の民および民族の中か ミズーリ州ジャクソン郡にある神殿用地 ら長子の教会の総集いに入ろうとする者をことごとく呼び 183 集める権威を授けられるのである。 」(オーソン・プラット すことによって,わたしたちはエライアスとはだれなのか 『説教集』16:325) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を知り,一見相矛盾するこれらの啓示が無理なく調和する ものであることを知ることができる。万物を回復したのは 教義と聖約77:12 キリストが「その力の下に置かれ だれであろうか。それは一人であったのだろうか。そうで なかったもの」とはだれのことか 教義と聖約76:31−38,43−44を参照する。 ないことは確かである。地上の人間に再び鍵と力を授け, それぞれの神権時代と栄光とをゆだねるために,多くの天 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約77:12 7人の天使がラッパを吹き鳴らす目 使が栄光の御座から遣わされたのである。少なくとも以下 の天使たちが地上を訪れている。モロナイ,バプテスマの 的は何か 昔,ラッパは,何かを布告したり発表したりするとき, ヨハネ,ペテロ,ヤコブ,ヨハネ,モーセ,エリヤ,エラ イアス,ガブリエル,ラファエル,ミカエル(教義と聖約 あるいは何かに注目させるときに使われた。黙示録第8章 13;110章;128:19−21参照)。以下の事柄は非常に明白 から第10章に登場するラッパを吹き鳴らす7人の天使は, 第7千年の開始(すなわち,第7の封印が解かれた後。黙示 である。すなわち,回復の重責を担ったのはただ一人の使 たまもの 者ではなく,それぞれの使者が特定の賜物を携えて天から 8:1参照)に当たって起こる出来事を告げる。その後,主 が栄光のうちに降臨されるのである。 来たのである。とすれば,エリヤが複数の人物を指してい ることが明らかになってくる。この表現は,この最後の神 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 権時代に地上の人々に鍵と力を授ける使命を帯びた使者た 教義と聖約77:14 の象徴か み ざ ヨハネが食べた小さな巻き物は何 ちの名や称号であると理解しておかなければならない。」 (『新約聖書教義注解』3:492) ブルース・R・マッコンキー長老は次のように言ってい る。「ヨハネは自分に与えられた神の言葉が書かれた巻き ヨハネは,「エライアス」という称号の下に,イスラエ ルの部族の集合を助けるという使命を果たしたのである。 物を食べたが,この行為は古代イスラエルの習慣や伝統と ヨハネはまた,ペテロ,ヤコブ,ヨハネとともに回復の天 合致していた。その行為は,ヨハネが命のパンを食し,麗 使の一人として地上を訪れた。それゆえ,ヨハネもまた しい神の言葉を口にし,キリストの言葉を味わっていた, 「東から上って来る天使」(教義と聖約77:9)に象徴され という意味であった。それはヨハネの口には蜜のように甘 かった。しかし,それを食べると腹が苦くなった。すなわ る複数の人物の一人に数えられるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ち,主の言葉を聞いても従わない人々に下される裁きと悪 教義と聖約77:15 疫を知って絶望し,心を悲しませたのである。『あなたの 御言葉はいかにわがあごに甘いことでしょう。蜜にまさっ か てわが口に甘いのです。 』(詩篇119:103)これは詩篇作者 の歓喜の叫びである。それに引き換え,反逆と不従順に対 が伝道活動に使うあるちらしを書いたことがある。預言者 はそのちらしの出版を承認した。このちらしの中で,プラ する罰はいかに苦いことであろうか。エゼキエルも同じよ うな経験をしている。エゼキエルはある巻き物を食べるよ ット長老は二人の証人の意味について次のように説明して いる。「ヨハネは黙示録第11章の中で,この同じ出来事 うに命じられて,口にしてみると,さながら蜜のような甘 〔ユダヤ人がイスラエルに集合した後にそこである大戦争〕 さであった。しかしそこに書かれている内容そのものは, 『悲しみと,嘆きと,災いの言葉』であった(エゼキエル に関してさらに詳細に記録している。ヨハネの教えによれ ば,エルサレムと神殿はユダヤ人によって再建されるが, 2:6−10;3:1−3)。」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』3:507) その後42か月にわたって異邦人がエルサレムを踏みにじ る。その間,二人の預言者が現れて,預言と力ある奇跡の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 業を続けて行うというのである。異邦人の軍隊は,この二 教義と聖約77:14 黙示者ヨハネと東の方から上って 来る天使は同一人物か 人の預言者が働きを進めている間は,エルサレムを完全に 破壊したり,滅ぼしたりすることはできないようである。 第9節では,東の方から上って来る天使はエライアスで あると言っている。一方,第14節では,ヨハネを指してエ しかし,3年半の攻防の後に,ついにこの二人の預言者を 滅ぼすことに成功し,町の大部分を荒廃させる。それから ライアスと言っている。また,聖典のほかの箇所では,エ 互いに贈り物を交換し合う。二人の預言者が死んだからで ライアスという名前は万物の回復に関連して出てくる。次 に挙げる聖句からは,複数の人物がエライアスという名で ある。二人の死体は墓に葬ることを許されず,3日半にわ たってエルサレムの通りにさらされる。その3日半の間, 呼ばれていることが分かる。ジョセフ・スミス訳マタイ 17:11−14;ジョセフ・スミス訳ヨハネ1:21−28;教義 多くの部族,国語の民,人々から成る異邦人の軍隊は,エ ルサレムの市中を巡り,ユダヤ人たちに略奪行為を働きな と聖約77:9,14(教義と聖約27:6−7;ルカ1:5−25; 。 スミス『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.157参照) がら,死体が通りにさらされている光景を目にする。しか し,3日半の後,突然命の息が神から出て二人に入り,二 ブルース・R・マッコンキー長老は,複数の人物がエラ 人はよみがえって,立ち上がると,二人を見ていた人々は イアスという名で呼ばれていると説明している。「だれに よって回復が行われたかという質問に対する答えを見いだ 非常な恐怖に襲われる。そのとき,天から声がして『ここ に上って来なさい』と言うのを聞く。そして二人は敵が見 184 ヨハネのいう二人の証人とはだれ 預言者ジョセフがまだ存命中,パーリー・P・プラット 上 げ る 中 を , 雲 に 乗 っ て 天 に 上 っ て い く の で あ る 。」 の二人の預言者が,教会の十二使徒評議会か大管長会の一 (Voice of Warning『警告の声』p.33) ブルース・R・マッコンキー長老は,この二人の預言者 員であることは間違いない。」(『新約聖書教義注解』3: 509) がだれであるかということについて,次のように言ってい る。「あのへりくだった人物ジョセフ・スミスに従う者で この二人の証人は「ユダヤ人に対して」立てられるので あって,必ずしもユダヤ人の中から起こるわけではない ある。天の主はジョセフ・スミスを通じて,この恵みに満 ちた最後の神権時代に完全な永遠の福音を回復された。こ (教義と聖約77:15参照)。 第78章 奉献──永遠の聖約 そう言えるのである。その一部をわたしは写し取った。そ 歴史的背景 して,主は『聖約の書』をまさに世に出そうとするに当た ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「1832年の初め,預言者とシドニー・リグドンは聖文の り,カートランドおよびその周辺地域における敵の迫害の 激しさのゆえに,幾つかの名前を変更することが賢明であ 改訂の仕事を続けていた。このとき預言者はまだ,ハイラ ムにあるジョン・ジョンソンの家に住んでいた。神権者で ると考えられたのである。その結果,ジョセフはボーラ ク・エールと呼ばれた。これはヘブライ語で,神があなた ある会員にこの大切な啓示が下されたのはこのときであ に祝福を賜るように,という意味である。ジョセフはまた る。彼らは約束されたシオン建設の基となる『共同制度』 すなわち『エノクの制度』の計画に関して指示を受けるた ガゼラムとも呼ばれた。これは,主からウリムとトンミム を頂いた人物という意味である。またジョセフはエノクと めに集まっていた。主は,神の御 心 ,すなわち日の栄え の律法に従うことによってのみシオンが築かれると啓示し も呼ばれている。シドニー・リグドンはバニーミーと呼ば れた。さらにまた,高額のドルを金庫に納めよという記載 ておられた。教会の会員は,新エルサレム,すなわちシオ のある啓示では,その単位がタラントに変更された。さら に , ニ ュ ー ヨ ー ク は ケ イ ン ハ ノ ッ ク に 変 更 さ れ た 。」 み こころ ンの町が築かれる場所について主が啓示を下されたとき, 喜びの声を上げた。しかしながらその熱意も,彼らを神の (Journal of Discourses『説教集』16:156) 御心に厳密に従う状態に至らしめることはできなかったの である。この啓示(78章)で主は,御心を大神権を持つす 1981年版の『教義と聖約』では,この変名は削除され た。もはやそうする必要がなくなったからである。 べての人に対する知恵の言葉として明らかにしておられ る。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約78:5−7 「地上のもの」においても「天 代の啓示』1:304−305) のもの」においても平等となる ジョセフ・スミスはこのころのことについて次のように 書いている。「3月20日以前,翻訳の仕事とは別に,次の4 「ここで教えられているのは,末日聖徒はこの地球に関 するものについては平等でなければならないという原則で つの啓示を受けた。 〔教義と聖約78−81章〕」(History of the Church『教会歴史』1:255) ある。日の栄えの世界では完全に平等である(教義と聖約 76:95)。しかし,もしこの地上で平等な生活というもの を実践していないとすれば,日の栄えの王国においてもそ 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の律法の下に生活する備えはできていないということにな る。」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』 教義と聖約78:1−9 か なぜ代わりの名が使用されたの p.480)しかし,共同制度における「平等」ということに ついては,主が特別な定義を与えておられる点に注目して この質問に関して,オーソン・プラット長老は次のよう おかなければならない(教義と聖約51:3参照。教義と聖 約51:3の「注解」も参照する)。 に答えている。「『教義と聖約の書』(Book of Doctrine and Covenants)の中ではエノクの律法と命名されてはいるが, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ これは言い換えれば,ジョセフ・スミス・シニアによって 与えられた律法である。しかし,エノクという言葉は最初 教義と聖約78:11 破ることのできない盟約 「わたしは新しくかつ永遠の聖約を,おおよそ法律的な の原稿にはなかった。ほかの名前もやはりなかった。印刷 する段階で加えられたこれらの名前は,啓示の原本にはな 契約を解釈するように解き明かしてみたいと思う。わたし はこう信じている。すなわち,御父は契約を通して恵みを かったものである。わたし自身がこの目でそれを見たから 受けるわたしたちに義務の履行を求めるだけでなく,御自 185 身もその義務を引き受けようとされた。またわたしは,祝 福を受ける基となるすべての条件に従わないかぎり,だれ 一人としてその祝福を完全に得ることはできないと信じて いる。そして,この聖約こそ福音の原則のすべてを包括す る深さを持つものであると考えている。 」(スティーブン・ L・リチャーズ,Conference Report『大会報告』1922年10 月,p.67) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約78:12 はどういう意味か サタンに引き渡されて打たれると 「サタンに引き渡されて打たれるとは,サタンの手に引 き渡されるということである。神権や義や清さなどすべて の守護の力を取り去られてサタンに引き渡されるというこ とである。そうなると,ルシフェルは何の妨げもなく,そ のような人を苦しめ,迫害し,悩ますことができる。サタ 教会では物質的な必要も霊的な必要もともに満たすよう強調し ている ンは妨げるものが取り除かれれば,この世においても来る べき世においても,燃える火と硫黄で象徴される名状し難 い苦しみをもたらすようになるであろう。それが地獄に落 ちを管理した原則と同じ原則に基づくものであった。すな わち,愛,奉仕,自立,奉献などの原則である。教会が他 と さ れ る 者 が 味 わ う 苦 し み で あ る。」( マ ッ コ ン キ ー , Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.108) のすべての造られたもの(組織や人々など)の上で自立す るようになるという約束は,福祉プログラムの実施によっ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ て部分的に成就するであろう。 教義と聖約78:10−12 「贖いの日」とはいつか 「サタンのもくろみは破壊することにある。前の位にあ マリオン・G・ロムニー副管長は次のように言ってい る。 るときに反抗して以来,サタンは人類に対し,力と強制に よって自分の計画を実行していこうと決心している。主の 「わたしは悲観論者になるつもりは毛頭ないし,将来一 体何が起きるのかを詳細に知っているわけでもない。知っ 計画を受け入れた者は皆,永遠に続き決して破られること ているのは預言者たちが予告したことだけである。 しかし, のない確固たる契約と聖約とによって,その道を選択した のである。主の聖約は常に,永遠に続くものとして,また はっきり申し上げて,わたしたちが自分の必要を自分たち で満たすことができるようにするために組織されたはずの 永遠の命にかかわるものとして定められている。兄弟たち は当然のことながら,もしこの聖約を破るようなことがあ 福祉プログラムは,然るべき姿で十分にその機能を果たし ているとは言えない。やがて,自分で生産したもので生活 ったら,悪い結果を引き起こすことになると警告されてい た。主はこう言われた。『サタンが彼らの心を真理からそ する日が来るであろう。 わたしたちは今,末日に住んでいる。エノクの時代から らそうとしているので, 彼らは目をくらまされた者となり, 現代に至るまでの大勢の預言者たちが語ってきた時代に, 彼らのために備えられている事柄を理解しないであろう。』 それゆえ,もしこの永遠の聖約を守らないようなことがあ わたしたちは生活している。わたしたちが住んでいるこの 時代は,主イエス・キリストの再臨に先立つ時代である。 れば,贖いの日までサタンに引き渡されて打たれることに なるのである。贖いの日とは,苦しみを受けた後,かつて わたしたちは『日の栄えの世界の下にある他のすべての造 られたもの』(教義と聖約78:14)から,自立するように 授けられていた祝福の回復が宣言され,再び祝福を授けら と教えられている。これが,わたしたちの今なすべきこと れるときのことである,と考える人もいるかもしれない。 しかしその考えは正しくない。贖いの日とは復活の日のこ である。 この福祉プログラムは,グラント大管長の時代に霊感に とである(教義と聖約88:16参照)。主がほかの機会に, そのような者は主のもとに来ることはないと言われたこと 基づいて始められたものである。その偉大な副管長であっ たJ・ルーベン・クラーク・ジュニアは,このプログラム あがな を心に留めておく必要がある。」(スミス,Church History を徹底的に検討し,教えた。その基本原則は,共同制度と and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:308) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ まったく同じものである。わたしたちがその原則に従って 生活できるようになるならば,共同制度に備えていること 教義と聖約78:14 教会員はどのようにして「他のす べての造られたものの上で自立する」ことができるように になる。兄弟たちは,救い主が来られるときに救い主を迎 えるために,人々にこの制度を受け入れる備えをさせなけ なるのか 奉献の律法は主によって取り下げられた。聖徒たちが, ればならないということを知っているはずである。 わたしは自分自身の経験から,そしてわたしがこれまで その律法に従おうとしなかったためである(教義と聖約 に受けた御霊による数多くの証から,これが主の業である 105:2−6,34参照)。1936年に,大管長会の指示の下に福 祉プログラムが導入された。これは共同制度の下の聖徒た ことを知っている。 これはわたしたちを備えるものである。 皆さんがこれまでに行った場所の中で最も神聖な所に思い 186 み たま あかし をはせるなら,わたしたちに最終的に求められているのは, されたことはないと思うが,恐らく『教会歴史』には掲載 神の王国を築き上げ,同胞を助けるために,持てるすべて のものをささげられるようになること,しかも喜んでそれ されることになろう。これは質疑応答の形で与えられてい る。第1の質問は,『純粋な言語で神の名は何というのか』 ができるようになることであると気づくであろう。このよ うにしてこそ,わたしたちはメシヤの来臨に備えることが というものである。その答えは『アーマン』である。『神 の御子の名は何というのか。』答えは,『子なるアーマン。 できるようになるのである。」(『大会報告』1975年4月, pp.165−166) 神に属するもののうちアーマンを除いて最も大いなる者』 である。 」(『説教集』2:342) 奉献の律法に関しては,付録の特別講座Lを参照する。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はさらに次 はらから ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約78:15 アダム・オンダイ・アーマン のように付け加えている。「わたしたちはまた,この啓示 の最後の節から,イエス・キリストが『子なるアーマン』 アダム・オンダイ・アーマンに関しては,教義と聖約第 116章と107:53−57の「注解」の中で詳しく説明されてい とも呼ばれていたことが分かる(教義と聖約95:17参照) 。 それゆえに,キリストの名がアダムの住んでいた場所の名 る。 前と関係があることが分かる。だからこそオーソン・プラ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かぎ 教義と聖約78:15−16 ミカエルと救いの鍵 「アダムはこの地球を治めるよう任じられた英知たちの 一人であった。アダムはミカエルであり,君であり,『日 ット長老は,この場所の名前を『神の谷』と解き明かして いるのである。」(『教会歴史と近代の啓示』1:310) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約78:21 長子の教会 の初めもなく命の終わりもない聖者の勧告と指示の下にお 「義のために献身して,より高度な昇栄の儀式を受ける ける救いの鍵』を持ち,この世に来て子孫の頭として立つ ように選ばれた神の子であった。この聖者とはイエス・キ 末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は,長子の教会の会 員となる。バプテスマは教会それ自体への門であるが,日 リストである。地上において,ミカエルはアダムとして知 られていた。前世で,彼は御父のほかの子供たちと同じよ の栄えの結婚は長子の教会の会員となるための,すなわち 忠実な聖徒のさらに中枢のの人々に加わるための門であ うに霊であった。」(スミス,Answwers to Gospel Questions 『福音の質疑応答』1:5−6) る。これらの人々が昇栄と御父の王国のすべてを受け継ぐ のである(教義と聖約76:54,67,71,94,102;77: ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 11;78:21;88:1−5;ヘブル12:13)。」(『モルモンの教 教義と聖約78:20 義』p.139) 教義と聖約76:54の「注解」では,長子の教会に関して かしら 子なるアーマン オーソン・プラット長老は次のように述べている。「こ の民に広く知られていない啓示が一つある。これまで出版 さらに詳しく説明されている。 主は忠実な僕たちに 祝福を授けられる 歴史的背景 第79章 カーターの日記』末日聖徒イエス・キリスト教会歴史部, pp.53−54,110−112,123−124参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示は,1832年3月にオハイオ州ハイラムで与えら れたものである。ジョセフ・スミスはこの啓示を受けた経 注 解 緯については何の説明も,序論も残してはいないが,ジェ み こころ レド・カーターは,自分に関する主の御 心 を伺ってほし 教義と聖約79:1−4 神権を尊び,主から託された責 任を引き受けることは,どれほど重要か いとジョセフ・スミスに依頼して,その結果与えられたも ジョン・テーラー大管長は次のように教えている。「わ たしたちの召される職がどのようなものであれ,その召し のであると説明している。東の地方へ伝道に出ることが主 の御心であると知ったジェレド・カーターは,オハイオ州 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を尊び,神に誉れを帰することは,わたしたち自身のため カートランドへ向けて出発した。ジェレド・カーターの兄 弟であるシメオン・カーターもこれに加わり,結局二人で である。……あえて申し上げたい。この神権は人の誉れの ためにあるのではなく,自分の昇栄のためだけにあるので 東へ向かった。ジェレド・カーターは日記の中に,6か月 もない。ほかの人を救う仲立ちとなるために与えられてい るものなのである。……長老のことを例にとってみよう。 と2日にわたり伝道活動に従事し,その間に79人を改宗し た,と記録している(Journal of Jared Carter『ジェレド・ 長老はなぜ救いの使者なのだろうか。長老は天の全権大使 187 だからである。長老は大いなるエホバから,地のもろもろ の国民にメッセージを携えて行く権能を受けているからで あり, 神が支えてくださると約束しておられるからである。 神はこれまでいつも忠実な長老たちを支えてくださった し,これからもいつも支えてくださることであろう。それ では,長老の側はどうであろうか。長老は,人々にイエ ゆる ス・キリストを信じ,自分の罪を悔い改め,罪を赦してい ただくためにバプテスマを受けることを勧めるように,ま たまもの た聖霊の賜物を約束するようにと戒めを受けている。この 求めに従う人は皆,この神聖な賜物を受ける。これは真実 だろうか。長老であるあなたがたはこれが真実だというこ とを知らないだろうか。ここに集まっている人々は,これ が真実であることを知らないだろうか。あなたがたは福音 に従ったとき,そして聖霊を受けるために頭に手を置かれ たとき,それを受けなかっただろうか。正直な人であれば, 聖霊を受けたはずである。また心に偽りがなく,誠実な人 であるなら,聖霊を受けたはずである。そして,あなたが たは,わたしが今申し上げていることが真実であるという 神権は,価値ある奉仕の業を通じて他の人に祝福をもたらす力 を授ける ことの証人である。では,それは何を証するのだろうか。 神がイスラエルの長老たちとともにおられることを証し, れる。主はその定められたときに,御自分に従う者,すな また神が生きておられることを証するのである。これは末 日聖徒にとって大きな証ではないだろうか。また,世の わち主の声に聞き従い,主の戒めを守った者をすべて主の 日の栄えの安息に連れて行かれる。 この安息は完全であり, 人々に対する証ではないだろうか。そのような言葉を携え て世に出て行く者とはだれだろうか。権能を持っている者 また栄光に満ちているものである。したがって,人がこの あかし 以外,そのような者は一人もいない。主から権能を受けて いる者を除いては,主はだれも認可したり,承認したりは されないからである。」(Journal of Discourses『説教集』 24:35−36) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約79:3 王国の律法に従って安息に入り,その祝福を享受できるよ うになるためには,前もって準備をしておく必要がある。」 (History of the Church『教会歴史』2:12) 教義と聖約75:5の「注解」には,束の象徴についての 説明がある。 忠実な者 「神はあらかじめその胸の内に時間や時期を定めておら 「あなたがたがこれまでに聞き, 確かに信じ,かつ真実であると 知っている事柄を告げ知らせなさい」 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1832年3月,ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは 『聖書』の翻訳にいそしんでいた。預言者ジョセフ・スミ 第80章 れていた(教義と聖約75:35−36参照)。こうして今や二 人は一組の宣教師として召され,福音を教えるために遣わ されることになった。 注 解 スは次のように簡単に記録している。「3月20日以前,翻訳 の仕事とは別に,次の4つの啓示を受けた。〔教義と聖約 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 78−81章〕」(History of the Church『教会歴史』1:255) 第80章は,伝道活動に関してスティーブン・バーネット ることがどれほど重要か オーソン・プラット長老は,伝道活動について次のよう とイーデン・スミスの二人に与えられたものである。すで に述べている。「わたしはこれまで何度か,幾つかの宣教 師のグループとともにこの地から国外に出かけた。 そして, に1832年1月25日にオハイオ州アマーストで開かれた教会 の大会の席上,二人は主から宣教師として働くように召さ 188 教義と聖約80:4 伝道活動のために個人的に準備をす その宣教師たちが嘆き悲しむ光景を目にし,互いに自分の 感情を打ち明け合うのを聞いてきた。彼らはこう言う。 『ああ,つまらないことに時間をかけずに,永遠の命に関 する原則についての知識を蓄えるために時間を使っておけ ばよかった。聖文を勉強しておけばよかった。もっと広範 囲にわたって教会の教義に精通しておけばよかった。わた したちを導くために天から啓示された数々の原則にもっと 通じておけばよかった。地に住む人々の前に立って,教会 の原則によって人々に啓発するために,もっと備えをして おくべきであった。 』」(Journal of Discourses『説教集』7: 76) クモラの丘の野外劇のときに福音を宣べ伝える姉妹 フレデリック・G・ウィリアムズ の召し 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1832年3月15日,預言者ジョセフ・スミスは,フレデリ ック・G・ウィリアムズを大管長会の副管長に召す啓示を 受けた。しかし,この啓示を記した二つの原稿によると, 第81章 史部にある『カートランドの啓示の書』であり,もう一つ は,復元末日聖徒イエス・キリスト教会の図書館にある。 そのどちらの原稿からもジェシー・ガウスの名前は消され ており,その上にフレデリック・G・ウィリアムズの名前 が書かれている。それ以来,出版されたこの啓示(教義と 聖約81章)はすべてフレデリック・G・ウィリアムズに与 この啓示は最初,フレデリック・G・ウィリアムズではな く,ジェシー・ガウスに対して与えられたことは明らかで えられたものとなっている。この啓示は,預言者ジョセ フ・スミスの副管長として召された者への指示,義務,お ある。 「最も初期の参考文献によると,ジェシー・ガウスは, よび約束された祝福を述べたものであるため,ジェシー・ ガウスの場合と同様,フレデリック・G・ウィリアムズに オハイオ州ピッツフィールド近くのハンコックと恐らくノ も当てはまるものであった。 ース・ユニオンにもあったと思われるシェーカー教徒の集 団の一員であった。彼の改宗とバプテスマについては教会 ジェシー・ガウスが聖任された後,教会内で指導的な役 割を担っていたのはごく短期間であった。1832年4月,彼 のどの記録にも書かれていないが,ある資料には,彼が 1830年後半に,レイノルズ・カフーンによって改宗したこ はジョセフ・スミスやニューエル・K・ホイットニー,ピ ーター・ホイットマー・ジュニアに同行して,ミズーリへ とが暗に述べられている。ジェシー・ガウスが大神権の大 の旅に出た。彼らは4月24日に到着し,26日からシオンの 管長会におけるジョセフ・スミスの副管長に召されたのは 1832年3月8日のことで,そのとき初めて彼の名前が現存す 聖徒たちとともに大会を開き始めた。4月30日月曜日に開 かれたリタラリー・ファームの集会の議事録には,ジェシ る教会記録に記された。 『カートランドの啓示の書』 (Kirtland Revelation Book)の覚え書きには次のように記されて ー・ガウスはジョセフ・スミスの副管長として記されてい る。…… いる。 カートランドへ戻るとすぐ,ジェシーはゼベディー・コ ルトリンとともに伝道に出るように召された。彼らは1832 『1832年3月8日,この日を選び,ジェシー・ガウス兄弟 とシドニー兄弟を大神権の大管長会の職務のわたしの副管 年8月1日に旅に出たが,19日になって,コルトリンは激し 長として聖任した。……』 1週間後,ジェシー・ガウスに関する啓示がジョセフ・ い頭痛のためカートランドへ戻る決心をした。二人は,お 互いのために祈った後に,別れた。ジェシー・ガウスは東 スミスに与えられ,ジョセフ・スミスはジェシーをその職 務に確認し,その職と召しに関する指示をさらに与えた。 への旅を続け,それ以来,教会の歴史から姿を消して二度 と戻らなかった。教会の内外に彼に関する記録はそれ以上 現存しているこの啓示の原稿は二つある。一つは当教会歴 何も見いだせないようである。 189 ジェシー・ガウスの出発後数か月たって,フレデリッ 1:334参照)。 ク・G・ウィリアムズが後任の副管長となり,大神権の大 管長会が再組織された。この再組織は教義と聖約第90章の これらの出来事は,必要性が高まるにつれて教会が成長 し,発展していったことを示している。アンソン・H・ラ 中で命じられているが,実際に再組織されたのは1833年3 ンド副管長はこう説明している。「教会が1830年4月6日に 月18日であった。」(ロバート・ウッドフォード “Jesse Gause, Counselor to the Prophet” BYU Studies「預言者の副管 組織されたとき,……神権のこの完全な組織を確立するこ とは不可能であった。ジョセフ・スミスとオリバー・カウ 長ジェシー・ガウス」『BYUの研究』1975年4月,pp.362− 364) ドリが使徒に召されて聖任されたものの,当時はまだ教会 が小さかったために,十二使徒も七十人も召すことができ 注 解 なかったのである。 御業が発展するには時間がかかったが, 主はすでにその件に関する啓示を与えておられた。そして ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ふさわしい時が来たとき,預言者ジョセフを大管長,シド 教義と聖約81:1 大管長会の設置 1831年11月,主は大管長会の組織に関する原則を啓示さ ニー・リグドンとフレデリック・G・ウィリアムズを副管 長として,大管長会が組織されたのである。後に十二使徒, れた。この原則は,新たに組織された十二使徒定員会が彼 らの職務に関する指示書を願い求めた1835年3月28日まで さらに七十人が選ばれた。最初はこれらの異なる定員会を 構成するだけの人数がいなかったので,メルキゼデク神権 は正式に発表されなかった。この求めに対して与えられた を持つ長老たちが管理した。しかしながら,主は主の教会 答えが,現在の教義と聖約第107章であり,これには,大 管長会に関して以前に与えられ,記録された事項も含まれ のための完全な組織を用意され,それを受け入れる準備が 整ったときに与えられたのである。」(『大会報告』1901年 ている(教義と聖約107:56−69,71−72,74−75,78− 87,89,91−92,99−100;『カートランドの啓示の書』 11月,p.75) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ソルトレーク・シティー,末日聖徒イエス・キリスト教会 教義と聖約81:2 記録保管所,pp.84−87参照) 預言者ジョセフ・スミスは1832年1月25日に大神権の大 ジョセフ・F・スミス大管長は,神権と神権の鍵の違い を次のように説明している。 管長として聖任されたが(History of the Church『教会歴 史』1:267参照),副管長を選んだのは1832年3月8日であ 「一般に言う神権は,神に代わって働くために人に与え られた権能である。いかなる職であれ,神権に聖任された った(『カートランドの啓示の書』p.10参照)。この啓示 すべての男性は,この委任された権能を有する。 は,そのときに召された副管長の一人であるジェシー・ガ ウスに与えられたが,1833年3月8日,ガウスの後任として しかし,この権能の下に果たされるすべての事柄は,適 切な時に,適切な場所で,正しく,秩序に従って行われな 大管長会に召されたフレデリック・G・ウィリアムズに適 用された(教義と聖約90章;『教会歴史』1:329−330参 ければならない。これらの働きを指示する権威が,神権の 鍵である。すべての鍵は一時にただ一人の人,すなわち預 照)。1833年3月18日は,この神権時代における最初の大管 長会が完全に組織され,聖任された日である( 『教会歴史』 言者であり,大管長である人だけが所有している。大管長 はこの権威のいかなる部分でもほかの人に委任することが み わざ かぎ 「大管長会に常に属する王国の鍵」 大管長会(1833年)。シドニー・リグドン,ジョセフ・スミス,フレデリック・G・ウィリアムズ 190 できる。その場合,その人がその部分の鍵を所有するので ジョセフ・スミスへの啓示の中で,主は,これらの鍵は ある。それで,神殿長,ステーク会長,ワード監督,伝道 部長,定員会会長はそれぞれ,その組織あるいは地域で行 『大神権の大管長会に常に属する』(教義と聖約81:2)と 言われた。…… われる働きの鍵を持っているのである。しかし,人の神権 は先に述べたような特別な任命によって増加するものでは さて,兄弟たち,わたしたちが特に肝に銘じておくべき ことが一つあると思う。それは,教会の大管長や大管長会, ない。なぜなら,伝道部を管理する七十人は,彼の指示の 下に働く七十人以上の神権を持つわけではないからであ あるいは大管長会や十二使徒会の統一見解は,聖徒を決し み こころ て間違った方向に導くことはないし,主の思いや御 心 と る。また,例えば,長老定員会会長は,その定員会のどの 矛盾する勧告を世に声明することもないということであ 会員よりも大きな神権を持つわけでもない。けれども,伝 道部あるいは定員会で行われる公式の働きを指示する権威 る。 個人としては道を外れたり,主が意図されるところとは を持っている。言い換えれば,その業のその部分の鍵を持 っているのである。これは神権のすべての職務について言 異なる見解や忠告を与えたりするかもしれない。しかし大 管長会の声明や,大管長会とともに王国の鍵を所有してい える。一般の権能と,その権能によって行われる働きを指 る人々の統一見解は,聖徒や世の人々を必ず主が望んでお 示することを注意深く区別しなければならない。」(“Distinction Between Keys of the Preisthood and Priesthood” られる道へ導くのである。…… わたしたちが大管長会に目を向けて,彼らの忠告や指示 Improvement Era「神権と神権の鍵の区別」『インプルーブ メント・エラ』1901年1月号,p.230) に従ったならば,わたしたちが教会として進むべき道を, この世のいかなる力も変えたり阻んだりすることはできな 王国の鍵は常に大管長会に属するという事実を,ジョセ い。また個人としてこの世では平安を得,来るべき世では あかし フ・フィールディング・スミス大管長は次のように説明し ている。 永遠の栄光を受け継ぐことができる。……この証を愛する 兄弟たちに申し上げる。」(Conference Report『大会報告』 「これらの鍵は長の職に伴う権利であり,地上における 主の業のすべてを管理し,指導する力と権能である。これ 1972年4月,pp.98−99) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を保持する者は,他の人々が神権をもって働く仕事を管理 し,監督する権威を持っている。わたしたちはだれでも神 教義と聖約81:6 「あなたは最後まで忠実であれば」 フレデリック・G・ウィリアムズに与えられたこの啓示 権を持つことができるが,その神権は鍵を持つ者から権能 は,ある点で祝福師の祝福に似ている。なぜなら,この中 と指示を与えられてはじめて行使できるのである。 この神権と神権の鍵は,ペテロとヤコブとヨハネ,また で彼が忠実であることを条件に与えられる特別な約束と祝 福が述べられ,彼がこの祝福を得るのに助けとなる具体的 モーセとエリヤ,その他の昔の預言者たちからジョセフ・ スミスとオリバー・カウドリに授けられた。そしてそれら な責任が課せられているからである。しかし1837年に,カ ートランドで背教が起こったとき,フレデリック・G・ウ は十二使徒評議会の会員に任命された各人に与えられてき ィリアムズは教会を去った。ファーウェストで開かれた長 た。しかしそれらは長の職に伴う権利であるため,地上で は教会の長である神の先任使徒だけが鍵を完全に行使でき 老たちの大会で,彼は大管長会の一員としての支持を拒否 され,1839年3月の大会で教会から破門された。しかし幸 るのである。 ここできわめて率直に,またはっきりと申し上げたい。 いなことに,約1年後,彼は総大会の間に姿を見せ,「〔ミ けんそん ゆる ズーリ州での〕行為について謙遜に赦しを求め,今後は神 わたしたちは聖なる神権を持っており,神の王国の鍵はこ の御心を行うとの決意を表明した。 」(『教会歴史』4:110) こにある。それらは末日聖徒イエス・キリスト教会にのみ ある。 その請願は受け入れられ,間もなく彼は再びバプテスマを 受けた。そして,1842年にノーブーでその生涯を閉じた。 「あなたがたがわたしの言うことを 行うとき,主なるわたしはそれに 対して義務を負う」 第82章 しもべ た主の僕たちに,人々の現世での利益を図るための組織を 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ スミスとショダールは,この啓示の背景を次のように説 明している。 「第78章に記された啓示の中で,救い主は大神権を持っ 設けるように命じられた。そして,預言者ジョセフとニュ ーエル・K・ホイットニー, シドニー・リグドンに対して, オハイオ州ハイラムからミズーリへ行き,その件について 『シオンにいる聖徒たちとともに会議の席に着きなさい』 と指示された。1832年4月1日,預言者は,ニューエル・ 191 K・ホイットニーとピーター・ホイットマー,ジェシー・ うに……罪から遠ざかりなさい。 』」(『注解』p.489) ガウスを伴って出発し,同じ日にウォレンでシドニー・リ グドンと合流した。背教者が言いふらした虚言のために, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ くらやみ 教義と聖約82:5 「暗闇が支配している」 カートランドの暴徒の動きが非常に激しかったので,預言 「ここで言う『暗闇』は,ヨハネ1:5に書かれているよ 者の一行は町の中を通り抜けることを避けた。数名の暴徒 がクリーブランドまでずっと跡を追って来たが,主の僕た うに, 神の啓示を受け入れない世界の状態を意味している。 それは霊的,また道徳的な過ちを指す。神からの啓示は光 ちの上には終始主の守りがあった。ルイスビルまで連れて 行ってくれた船長が一行を自分の船の中にかくまい,無料 をもたらすが,神の啓示を拒むと,悪魔は人の子らの中で 支配を広げるのである。 」 (スミス,ショダール共著『注解』 で食事を与えてくれた。一行は4月24日にミズーリ州イン ディペンデンスに到着し,聖徒たちの歓迎を受けた。 p.490) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 26日に教会の総会が召集され,預言者は大神権の大管 教義と聖約82:7 「罪を犯す者には以前の罪が戻るで 長として承認された。この職は,1832年1月25日にオハイ オ州アマーストで開かれた大会においてすでに預言者が聖 あろう」 ブリガム・ヤング大管長はこのように述べている。「救 任されていたものである。パートリッジ監督が教会を代表 して預言者に支持の挙手をした。 いの道を歩み続けるために毎日必要なのは,今救われるこ とであり,聖霊の影響力を今受けることである。天の求め このとき,シドニー・リグドンとエドワード・パート に従うことを拒む者には,以前に犯した罪がその頭に返っ リッジの間にあった誤解が解け, 一致と平安がみなぎった。 そこで主はこの啓示〔教義と聖約82章〕を与えられた。」 (Commentary『注解』pp.488−489) て来る。以前の義は離れ去り,もはやその人の義を証明す ることはない。しかし,もし義にかなった生活を続け,天 あんしゅ の要求に従い続けるならば,バプテスマと按手により,ま た主の戒めと天すなわち生ける神の預言者が求めるすべて 注 解 のことに従うことにより,常に救われるのである。こうし ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約82:1 どのような「僕たち」が赦されると て,今,来週,来年と引き続き救われ,神の日の栄えの王 国を受け継ぐ機会が訪れたときには,いつでもその備えが 言われているか この節は「シドニー・リグドンとエドワード・パートリ できているのである。」(Journal of Discourses『説教集』 8:124) ッジのことに言及したものである。最も地位の高い教会指 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 導者でさえも人間的弱点を持っている。パウロはペテロを 非難しなければならないかもしれない(ガラテヤ2:11− 教義と聖約82:10 「あなたがたがわたしの言うこと を行うとき……わたしはそれに対して義務を負う」 13参照)。しかし互いに赦し合うならば,神も彼らを赦さ れるのである。『偉大な人物も過ちを犯すというのは真実 この節は神の基本的な特性,すなわち神はその子供たち をどのように扱われるか,また神はなぜ信頼できるのかと である。しかし高潔な人は,自らの過ちを認めることによ っていっそう偉大となる。』(オーソン・スペンサー) 」(ス いうことを示している。ジェームズ・E・タルメージ長老 は次のように述べている。「神はわたしたちに期待すると ミス,ショダール共著『注解』p.489) 同じように,御自身も律法に対して責任を負われるという ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約82:2 主はなぜ多くの者がひどく罪を犯し ことを,わたしは『モルモニズム』から学んだ。神は律法 に従うことにおいて模範を示された。数十年前にこのよう たと言われたのか スミスとショダールは次のように述べている。「過ちを に言えば,異端とされたであろう。しかし神は次のように 語っておられる。『あなたがたがわたしの言うことを行う 犯したのは,シドニー・リグドンとエドワード・パートリ とき,主なるわたしはそれに対して義務を負う。しかし, ッジだけではなかった。すべての者が罪を犯し,ある者は ひどく罪を犯していた。 この啓示は詳細を述べていないが, あなたがたがわたしの言うことを行わないとき,あなたが たは何の約束も受けない。』(教義と聖約82:10)神は独断 教会歴史家たちが言及しているように,シオンの定住地は 急速に発展し,非常に豊かになったが,多くの聖徒たちは や気まぐれではなく,律法に従って行動されるのである。 」 (Conference Report『大会報告』1930年4月,p.96) 幹部の勧告に従わなかった。ある者は奉献の律法に従うこ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ とを拒み,自分自身のために財産を手に入れることを優先 しっ と どん よく し,嫉妬心や貪欲にとらわれ,義務を怠るようになった。 教義と聖約82:11−12 結ぶ必要があったのか 大祭司や長老の中には,シオンの支部を管理するように任 命された7人の会長,すなわちオリバー・カウドリ,ウィ ここに名前が挙がっている人々は,エノクの制度すなわ ち共同制度に属していた。教会の指導者として,彼らはほ リアム・W・フェルプス,ジョン・ホイットマー,シドニ ー・ギルバート,エドワード・パートリッジ,アイザッ かのすべての人々に奉献の律法をどのように守るか,その 模範を示す必要があったのである(教義と聖約78:9− ク・モーリーおよびジョン・コリルに従わず,自ら指揮を 14;82:20−21参照)。聖徒が破ることのできない「盟約」 執ろうとする者もいた。そこでこのような警告が与えられ こうべ たのである。『ひどい裁きがあなたがたの頭に下らないよ と「聖約」(教義と聖約78:11)は,奉献の律法に関する ものであった。彼らは主と厳粛な聖約を結ぶことにより, 192 なぜこれらの者は神と聖約を 第82章 その制度の律法と規則を守ることに同意しなければならな 令の重要性を次のように説明している。 かった。この誓詞と聖約を破った場合の罰は非常に厳しい ものであった(教義と聖約82:21;104:8−9参照)。 「わたしたちは日の栄えの王国に入るに先立って,心の 底から隣人を愛し,自分自身の利益と同様彼らの利益を求 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約82:13−14 シオンはどのようにその美し め,また彼らよりも自分を優先することなく,和合一致し て生活することを学ばなければならない。これはまったく さを増すことができるか この節は象徴的である。ハロルド・B・リー大管長は, 真実である。主はこのとき教会員に,日の栄えの律法に従 うことによって自らを備える計画と機会を与えられた。し その意味を次のように説明している。 かし彼らは失敗し,この奉献の律法を実行するという特権 「この聖句に使われている『シオン』という言葉は,疑 いなく教会のことを意味していた。当時,教会は設立され は延期されることとなった。それは彼らが自分と同様に隣 人を尊重することができなかったからである。」(Church たばかりで,これから発展しようとしている小さい団体に しかすぎなかった。しかし,やがて教会外の敵から冷酷な History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』 1:322) 仕打ちを受けた。…… ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この『シオン』という名称にふさわしくなるために,教 会は,黙示者ヨハネが義人の住む聖なる都が夫となる神の 教義と聖約82:21 小羊のために花嫁のように着飾っているのを示現で見て記 録しているように,自らを夫を迎えるために着飾る花嫁と と聖約78:12の「注解」に説明されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ して考えなければならない。この黙示録の中に描かれてい 教義と聖約82:22 る関係こそ,ちょうど,妻が夫のために美しい衣で着飾る ように,わたしたちが主に受け入れられる者となるため, になりなさい」と命じられているのはなぜか 「『不義の富を持つ者と友になりなさい』という主の命令 主が御自分の民に望んでおられる関係なのである。 神の民が,神の目から見て十分受け入れられるに値する は,正しく理解しないとひどい言葉のように思われる。 『不義の富』で友を得るというのは,兄弟たちが,不義を 者となって生活するための規範は,今,わたしが引用した 聖句に示されている。この民は,世の人々の前にその美し 行う人々とともに罪を犯したり, その悪計を受け入れたり, そのような人々と結婚したり,そのほかの方法で彼らの標 さを増し,内面的な麗しさを堅持しなければならない。世 準にまで自分を下げたりすることでは決してない。 それは, の人々は,その麗しさが神聖さに反映し,その神聖さから 生ずる固有の性質を反映するものであることを知るであろ 敵対する人々とも平和に過ごすように心がけるということ である。正義と徳の原則に照らして,できるかぎり彼らに う。義人と心の清い者が住むシオンは,今その境を広げ始 めなければならない。シオンのステークは強くされなけれ 親切にし,友好的に接するが,彼らとともに毒舌を語り, 酒を飲んで騒いだりしてはならないのである。もし偏見を ばならない。これはすべて,シオンが全世界に救いの計画 なくして彼らと交易し,親切な心を示すなら,彼らが苦し を推し進めるに当たって,ますます勤勉になることによっ て,立って輝きを増すためである。」(『大会報告』1973年4 みから逃れるのを助けることになるであろう。裁きは主に 任せなければならない。」(『教会歴史と近代の啓示』1: 月,pp.4−5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 323) 「不義の富」という言葉は,不正な家令のたとえ(ルカ 教義と聖約82:17−18 16:11参照)から引用されている。このたとえと,それが 「あなたがたは……財産を要 求する平等な権利がある」 教義と聖約51:3の「注解」に,これらの節への洞察が 「サタンに……打たれる」という語句については,教義 教会員が「不義の富を持つ者と友 現代の聖徒にとってどのような意味を持つかについては, 教義と聖約72:3−4の「注解」に説明されている。 示されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約82:19 るように努め」 「すべての者はその隣人の益を図 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この命 193 やもめと孤児に関する教会の律法 第83章 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,この啓示を受けた背景を次 のように述べている。 「あたかもおおかみの群れの中にいる子羊のように,残 忍極まりない暴徒のただ中に住む聖徒たちの救いのため に,わたしたちは27日に注目すべき議事を行った。兄弟た ちが相互の友愛のきずなと聖約によって,ゆくゆくは日の 栄えの王国にふさわしくないあらゆる障害から隔絶される ように,わたしは教会を組織する努力をした。 28日と29日,わたしはインディペンデンスの西方数マイ ルにあるカウのビッグブルー川上流に兄弟たちを訪ね,同 じ信仰,同じバプテスマにより一つに結ばれ,同じ主に支 えられた兄弟姉妹だけが味わえる喜びに満ちた歓迎を受け た。特にコールズビル支部の人々は,昔の聖徒たちがパウ ロに示したような喜びを示してくれた。神の民とともに喜 べるのはうれしいものである。30日,わたしはインディペ ンデンスへ戻り,再び兄弟たちと会議を開き,次の啓示を 受けた。〔教義と聖約83章〕」(History of the Church『教会 歴史』1:269) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約83:1−6 会の律法 やもめや孤児,子供に関する教 やもめや孤児は特別な問題を抱えているため,教会には 彼らを世話する特別な義務がある。主はそのことを明確に 親の管理の職は物心両面に及ぶものである 述べておられる。やもめは受け継ぎの地にとどまることが でき,成人になった子供には,主の倉にそれを要求する権 利があった。この指示は,奉献の律法にかかわるものであ いる(教義と聖約78:13−14参照)。 各人の社交面,情緒面,霊的面,肉体面,経済面におけ る(受け継ぎが与えられる方法に関しては,付録の特別講 座Lを参照する) 。 る安寧を維持する責任は,第1に本人,第2にその家族,第 主は,不幸な境遇にある聖徒たちに対する教会の責任を 3にその人が忠実な教会員であれば教会が負う。 肉体および情緒面で健康な末日聖徒は,自分と自分の家 示す一方で,家族のことは家族で面倒を見るという,家族 の基本的な責任にも触れておられる(教義と聖約83:2,4 族の安寧に関して,その責任を他人に譲り渡すことはでき ない。主の導きを受け,力を尽くすならば,物心両面で自 参照)。スペンサー・W・キンボール大管長は,自立の原 則について次のように述べている。 分と自分の家族を養うことができるはずである(1テモテ 「教会と教会の会員は,自立するよう主から戒められて 194 5:8参照)。」(Conference Report『大会報告』1977年10月, p.124) 第84章 神権の誓詞と聖約 歴史的背景 るエルサレムは時が来れば清められ,聖都となって,ユダ ヤ人の住まいとなるだろう。そのとき彼らは清められ,イ あがな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 当時カートランドにいた預言者ジョセフ・スミスは,教 エス・キリストを贖い主として受け入れていなければなら ない。 」(『救いの教義』3:64) 義と聖約第84章を受けたことについて次のように記してい る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:4 「新エルサレムの都は聖徒たちの集 「身の回りの雑事の整理がつくとすぐ,再び聖文の翻訳 合によって……建てなければならない」 に取りかかり,その仕事に夏のほとんどを費やした。7月 に 『 イ ブ ニ ン グ ・ ア ン ド ・ モ ー ニ ン グ ス タ ー 』( The 将来世界に起こる出来事に関する示現の中で,エノクは かんなん 福千年のすぐ前の時代に,地上に大いなる艱難があるのを Evening and Morning Star)の創刊号が発行され,聖徒たち は大いに喜んだ。 兄弟たちの小さな群れで始まった教会が, 見たが,その苦難の預言とともに「わたしは自分の民を守 ろう」 (モーセ7:61)という慰めとなる約束も受けた。天 これほど短い期間にこれほど大きく強く発展し,新聞を発 より下される義(天使や啓示による福音と教会の回復)と, 行できるまでになったことを思うと,実に喜ばしい。この 新聞には,啓示だけでなくほかの記事も掲載されており, けんそん 地から出る真理(『モルモン書』 )により守られるのである。 これら二つの出来事が相まって,義と真理が地を覆う(モ 謙遜になって真理を求める者を満足させ,啓発した。…… 9月の間に,長老たちが東部諸州における伝道から帰り, ーセ7:62参照)。そして光と真理が洪水のようにあふれ, その結果「聖なる都に地の四方からわたしの選民を集めよ 主のぶどう園においてそれぞれが果たした管理の職につい う。……そこはシオン,すなわち新エルサレムと呼ばれる であろう。 」(モーセ7:62) ての報告を始めた。そしてこの喜びの時節に皆がともにい るとき,わたしは主に伺いを立て,〔1832年〕9月22,23日 後の啓示の中で,主は聖徒たちが「シオンの地とそのス の両日に,神権に関する次の啓示を受けた〔教義と聖約84 章〕。」(History of the Church『教会歴史』1:273,286− テークに集合すること」について,「防御のためとなり, あらし また嵐 と激しい怒りが全地にありのままに注がれるとき 287) に,その避け所となるためである」(教義と聖約115:6) と述べておられる。さらに別の箇所では,シオンは「平和 注 解 の地,避け所の都,いと高き神の聖徒のための安全の地」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:2 シオンの山と新エルサレムの都はど (教義と聖約45:66)と述べられている。 聖典にはっきりと教えられているように,聖徒たちがシ こか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,福千年 オンとそのステークとに集合することは,末日の裁きの間 に神がその民を守られるための方法である。預言者ジョセ の間の世界の二つの首都について,次のように語ってい フもこの概念をきわめて明瞭に教えている。「わたしたち る。 「ジョセフ・スミスは『モルモン書』を翻訳していたと はシオンを築き上げることを第一の目標としなければなら ない。戦争が起こったら,シオンに逃げなければならない。 きに,アメリカがヨセフとその子孫に与えられたシオンの 地であって,この地にシオンの町,すなわち新エルサレム シオンの建設の業を速めるよう叫ぶ声がする。最近の啓示 には,全地をくまなく巡り歩く前に以上のようなことが起 が築かれることを知った。彼はまたパレスチナのエルサレ こると言われている。コレラ,戦争,火災,地震,疫病が ムが再建され聖い都となることも知った。シオンの地とパ レスチナにある二つの町は,福千年の間,神の王国の首都 地を襲ったように,それは来る。『日の老いたる者』が訪 れ,そして聖徒たちに裁きが下されるのである。……時は となる。 さて,準備が進められ,イスラエルが集合している間に, 近づいている。そのときには,シオンとステーク以外に平 和を見いだせる所はないであろう。」(Teachings of the 多くの民がシオンの地に来てこう言っている。『さあ,わ Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』 pp.160−161) きよ れわれは主の山に登り,ヤコブの神の家へ行こう。』末日 聖徒がこの預言を成就している。なぜならば,末日聖徒は 別の折に預言者ジョセフ・スミスはこう述べている。 全地の四隅から集められており,この山岳地帯の谷あいに 来て主の家に入っているからである。ここで彼らは回復さ 「シオンすなわち救いの地がなければ,わたしたちは倒れ るに違いない。太陽が暗くなり,月が血に変わり,もろも れた福音から主の道を学び,現在完成された神殿で祝福を 受けている。さらに今後それほど遠くない将来に,主はシ ろの星が天から落ち,地がかなたこなたに揺れ動くときが 近づいているからである。そのとき,もしもこのことが起 オンの町の建設を命じられるだろう。またパレスチナにあ こるならば,またもしもわたしたちが聖められておらず, 195 神が指定された地に,『聖書』に教えられている大きな愛 者もある。また,この聖句やそのほかで用いられている と信仰心をもって集合しなければ,わたしたちは倒れるに 違いない。わたしたちは立っていられないし,救いも得ら 『時代』は漠然とした期間を指すと言う者もある。救い主 は『邪悪で不義な時代はしるしを求める』と言われた。こ れない。なぜならば,神が異邦人の中から聖徒たちを集め の場合には年月の期間ではなく,悪の期間を指している。 られると,その後に荒廃と破壊が続くからである。そのと きは,神によって集められる心の清い者以外,だれもその 『時代』とは現代の神権時代の意味であると考えられる。」 (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の 滅びから逃れることができないのである。」(『預言者ジョ セフ・スミスの教え』p.71) 啓示』1:337) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ シオンはこの世,すなわち霊のバビロンとは正反対のも のである。したがって,福千年に備えるためには,バビロ 教義と聖約84:4 いるのか ンは滅ぼされなければならない。すべての人にこのように ここではどの神殿のことが言われて 主はシオン,すなわちミズーリ州ジャクソン郡の神殿に 告げられている。 「あなたがたはもろもろの国民の中から, すなわちバビロンから,霊のバビロンである悪の中から出 ついて語っておられる。主は後に聖徒たちがその神殿を建 てることを免除されたが,それは暴徒による妨害があった なさい。……突如として滅びが襲うことのないために,去 る者は振り返ってはならない。」(教義と聖約133:14−15) のと(教義と聖約124:49−51参照),当時の聖徒たちが戒 めを守らなかった(教義と聖約105:1−9参照)ためであ バビロンから逃れる者は,シオンとそのステークに集合す る。 るのである。 ブルース・R・マッコンキー長老はこのように述べてい しかしながら,神の聖なる町がミズーリ州ジャクソン郡 に建てられ,預言者たちが先見したように,神殿が神の栄 る。「イスラエルの集合とは,真理を受け入れ,贖い主を 再び正しく知り,良い羊飼いのまことの群れに戻ることで 光で満たされる日が来るであろう(3ニーファイ20:22; 21:23−25;エテル13:3−4,6−8参照)。 ある。」(Lima Peru Area Conference Report『ペルー・リマ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 地域大会報告』1977年,p.33) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:5 「雲がその上にとどまる」 「主は昔のイスラエルの民に,夜は光り輝く雲の柱とな 教義と聖約84:4 「この時代」とはどういう意味か この言葉がある者にとってつまずきの石となってきたこ って御自身を現された。 雲はカナンへの旅の間民を導いた。 雲は聖所の入り口に立ち,その中から神はモーセに語られ とに注目し,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長 た。また聖なる天幕が建てられたとき,雲がその聖所の上 は次のように記している。「『時代』の意味として様々な解 釈がなされてきた。100年と言う者もあれば,120年と言う にとどまり,そこに満ちた。雲は神の民への導きと守りの 目に見えるしるしであった。」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』p.497) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:6−31 挿入句 スミスとショダールによれば,第6節は「第31節まで続 く文の始まりであり, その間に書かれていることはすべて, 神権がどの系統を経てモーセとアロンに授けられたか,ま たこの時代にどのようにして回復されたかということにつ いて述べたものである。」(『注解』p.498)挿入句を取り除 くと,文はこのようになる。「そして,聖なる神権による モーセの息子たち……は,受け入れられるささげ物と犠牲 を主の家においてささげるであろう。」(教義と聖約84:6, 31) 文の途中に多数の節が挿入されることはきわめて珍し く,十分な注意を払う必要がある。次に挙げる質問には幾 つかの重要な問題点が提起されている。注意深く考えるな らば,重要な洞察を与えてくれるであろう。 1.「聖なる神権による」(6節)モーセとアロンの息子た ちの神権の系譜が,第6節から16節に記されている。 その系譜は,以下のようにアダムに始まりモーセに終 わる。 アダム アベル ⋮ 昔の預言者たちは新エルサレムを見た 196 エテロ モーセ 第84章 モーセの次に来るのはだれだろうか(32,34節参照)。 ち神の権威の系譜が,ここで主御自身の言葉でジョセフ・ 2.モーセの息子たちとアロンの息子たちの両方がこの約 かぎ 束にあずかる。それぞれどのような鍵を持つだろうか スミスに与えられている。モーセはこの権能をミデアン人 の祭司エテロから受けた。ミデアン人は,アブラハムの妻 (19−20,26−27節参照)。 3.なぜ昔のイスラエルは,神にまみえて主の安息に入る ケトラによるアブラハムの子孫である。それゆえパレスチ ナのイスラエル人の隣人であったミデアン人は,イスラエ という特権を与えられなかったのだろうか(21−24節 参照) 。 ル人と親族関係にあり,ヘブライ人でもあった。またアブ ラハムの子孫として,その忠誠を通してアブラハムの祝福 4.現代のイスラエルが祝福を失う恐れがあるのは,聖約 にあずかり(アブラハム2:9−11参照),モーセの時代ま を真剣に守らないためだろうか(47−48,54−59節参 照)。 ではミデアンの地で神権が授けられていた。」(スミス『教 会歴史と近代の啓示』1:338) 5.バプテスマのヨハネは,イエスが来られるときのため に,主の民を備える権威を与えられた(28節参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:19−22 「この大神権は……神の知識 キリストが来られるときのために民を備えるという点 の鍵を持つ」 で,ヨハネの時代と現代には何らかの関係があるだろ こんにち うか。もしあるとすれば,その関係は今日回復された 「神権の権能がなければ,人間が王国の奥義の知識,す なわち神の知識を得ることは不可能である」ということに 神権の聖約にどのような影響を与えているだろうか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 言及して,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は 次のように述べている。「俗世の学問や,科学,芸術,歴 教義と聖約84:6 史の研究は,こうしたきわめて重要な真理を人間に明らか エテロとはどういう人物か。また, どのようにして神権を受けたか 「アダムからモーセへと受け継がれたこの権能,すなわ にすることはない。天への扉の鍵を開け,神の王国の奥義 を人間に明らかにするのは聖なる神権である。この神聖な 権能こそ神の知識を知らしめるものである。神と神の王国 に関する事柄に関して,今日の世界がまったくの暗中模索 の状態にあるのは,少しも不思議ではない。わたしたちは また,これらの祝福の基づく律法に従った生活をしないか ぎり,これらの偉大な真理は教会員にさえ明らかにされな いということを銘記すべきである(教義と聖約130:20− 21)。」(『教会歴史と近代の啓示』1:338) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:23−27 昔のイスラエルにはメルキゼ デク神権はなかったのか ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明して いる。「イスラエルが民全体として,キリストの完全な永 遠の福音に含まれる律法に従って生活することができなか ったとき,主は『激しく怒って』主の完全な律法を彼らか ら取り去られた。 『彼らは心をかたくなに』した。そして, 『彼らは荒れ野にいる間神の安息に』入ろうとしなかった。 『この安息とは,主の完全な栄光のことである。それゆえ, 主は彼らの中からモーセを取り去り,また聖なる神権も取 り去った。 』(教義と聖約84:24−25)つまり,福音の儀式 を執行するメルキゼデク神権は,神権者から神権者へと神 権を継承することができなくなったという意味において, 彼らの中から取り去られたのである。神権の鍵がモーセと ともに取り去られたので,神権の儀式を行う場合には特別 な神の認可が必要となった。しかし,主は大神権の代わり に小神権を授け,完全な福音の代わりに準備の福音,すな わち肉にかかわる戒めの律法であるモーセの律法を与えて 『養育掛』とし,長期間の試練の後に完全な形のキリスト の律法に立ち返れるようにされた。福音には完全な形のも のと予備的なものとがあり,キリストの律法には完全なも のと部分的なものとがある。モーセの定めた制度は,エホ み こころ バの思いと御 心 の一部分を示す部分的な律法であり,厳 アロンを聖任するモーセ しい試験である。すなわち,メシヤが来て永遠の完全な福 197 音を回復して渡されるとき,求められる条件に従える人々 る。これ以上の大いなる,すなわち栄光ある同意がほかに はそれによってえり分けられるのである。」(Motal Messiah 『地上におけるメシヤ』pp.59−60) あるだろうか。…… 誓詞をもって誓うことは,人の口から出る言葉の中で最 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ も神聖であり,かつ最も拘束力のあるものである。御父が 教義と聖約84:28 バプテスマのヨハネは天使からど のような権能を受けたか メシヤに関連して,キリストと神権についての偉大な預言 の中で選んで用いさせたもうたのは,この種の言葉であっ ブルース・R・マッコンキー長老は,バプテスマのヨハ ネの権能について次のように説明している。 た。こう記されている。『主は誓いを立てて,み心を変え られることはない,「あなたはメルキゼデクの位にしたが 「しかしながら,ヨハネの訪れに関してわたしたちにと りわけ深く関係があるのは,彼が力と権能をもって来たこ って,とこしえに祭司である。 」』(詩篇110:4) このメシヤの預言についてパウロは,救い主が『変らな とである。ヨハネはまずその用向きを主から受けた。特別 い祭司の務を持ちつづけておられる』ために『朽ちること なメッセージを託され,神に承認された証人であった。神 に召されて遣わされ,神に代わって言葉を語り,バプテス のないいのちの力』をお受けになったと説明している(ヘ ブル7:24,16参照)。 マを執行した。ヨハネは正当な執行者であり,その言葉と 行いは地上においても天においても結ばれた。そして聴衆 ジョセフ・スミスは『この神権に聖任される者は,祭司 としての務めを続けて果たすことにより神の御子のように は,自らの救いをかけて彼の言葉を信じ,勧告に聞き従う なる』と語った。しかしこれには,忠実かつ誠実であれば, という義務を負ったのである。 ルカはこう記している。『神の言が荒野でザカリヤの子 という条件が伴う。 したがって神権に関して言えば,バプテスマをはじめそ ヨハネに臨んだ。 』(ルカ3:2)後にヨハネは次のように述 べている。『水でバプテスマを授けるようにと,わたしを のほかすべてのことについて,キリストは偉大な模範であ ると言える。さらに天父が,御子が神権を通してあらゆる おつかわしになったそのかたが,わたしに言われた。 』(ヨ ものを受け継ぐと誓いを立てられたように,主は誓詞をも ハネ1:33)だれがヨハネを遣わしたのかは不明であるが, 確かなことは,ヨハネが『まだ子供のときに〔すなわち8 って,その同じ神権の召しを尊ぶ者は父の持っておられる すべてを受ける,と誓っておられるのである。」(Confer- 歳のときに〕バプテスマを受け,また生後8日で神の天使 によってこの力〔アロン神権ではない〕,すなわち,ユダ ence Report『大会報告』1970年10月,pp.91−92) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ヤ人の王国を打ち倒し,主の民の前に主の道をまっすぐに 教義と聖約84:33 し,一切の権威をその手に与えられている主の来臨のため に彼らを備える力を持つように聖任されたのである。』(教 なるものとするか 「預言者ジョセフはよくこのような質問を受けた。『ジョ 義と聖約84:28) ヨハネがいつアロン神権を受けたかは分からないが,明 セフ兄弟,召しを尊んで大いなるものとするとはどういう ことですか。 』 らかにそれはバプテスマ後のふさわしい年齢のときであっ の た。またそれは,宣べ伝えて水でバプテスマを施すために, ジョセフは答えた。『召しを尊んで大いなるものとする とはどういうことか。それは召しを尊くかつ重要なものと ヨハネ自身も名前を挙げていない方により遣わされる前で して確立することであり,あらゆる人々の目から見て誉れ あった。 」(『地上におけるメシヤ』pp.384−385) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ある,称賛すべきものとすることであり,召しを拡大し, 強化することであり,その召しをもって天の光を他の人々 教義と聖約84:33−41 神権の誓詞と聖約 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,神権の の前に輝かすことである。では,人はどのようにして召し を尊んで大いなるものとするのか。簡単である。その召し 誓詞と聖約を次のように定義している。 に伴う務めを果たすことである。』」(トーマス・S・モン 「言うまでもないが,聖約とは少なくとも二人の当事者 の間で交わされる契約であり,同意である。福音の聖約に ソン,British Area Conference Report『英国地域大会報告』 1971年,p.145) ついて言えば,当事者は天におられる主と地上の人間とい うことになる。人間は神の戒めを守ることに同意し,主は 「『召しを尊んで大いなるものとする』という言葉は,神 せい さん いや 権会に出席する,聖餐式や病人の癒しの儀式を執行する, その度合いに応じて報いを与えると約束してくださる。福 教会の仕事をするといったこと以上の意味を持つように思 音はそれ自体,新しくかつ永遠の聖約であり,主が御自分 の民に与えられるすべての同意,約束,報いを含むもので われる。神権を受ける条件となっている事柄すべてに忠実 な人は恐らく一人もいないであろう。また,召しを尊んで ある。 したがって,メルキゼデク神権を受けるとき,わたした 大いなるものとするということは,仮にいたとしてもごく 限られた人のみがこの死すべき世で達成可能な完成を暗に ちは聖約によって受けるのである。すなわち,神権を受け, 神権における召しを尊び,神の口から出る一つ一つの言葉 示しているように思われる。肉体と霊の完全さもこれに含 ゆる まれているようである。 」(『赦しの奇跡』p.132) に従って生活することを,厳粛に約束するのである。主は これに対して,わたしたちが聖約を守るならば,父の持っ ておられるすべて,すなわち永遠の命を与えると約束され 198 どのようにして召しを尊んで大い 第84章 教義と聖約84:34 「モーセの息子たち,またアロン である。 」(ジョージ・Q・キャノン,Journal of Discourses 『説教集』26:191) の息子たちとなり」とはどういうことか 「今日だれがアロンの息子であり,レビの息子だろうか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ それは全能者の祝福により,権能ある者から神権の職に聖 任され,職務を果たす人である。このように聖任された者 教義と聖約84:54−57 書』……を思い起こし」 はモーセの息子,またアロンの息子となる,と記されてい る。」(『救いの教義』3:84) 『モルモン書』の編集と保存は,救い主とその預言者た ちにより代々注意深く見守られてきた。そのメッセージは 「『モーセの息子たち』『アロンの息子たち』とは,文字 地に住む人々にとって最も重要なものであり,その聖なる どおりの子孫だけを指すのではない。なぜなら忠実であっ て,これらの神権を得て,その召しを尊ぶすべての人は, 記録を軽んじることは由々しいことであると,エズラ・タ フト・ベンソン会長は説明している。 御霊により聖められて,モーセの息子たち,またアロンの 息子たちとなり,アブラハムの子孫となり,神の教会とな 「かつてある宣教師たちは,伝道の帰途,『モルモン書』 を軽々しく扱ったために,教義と聖約第84章にあるよう り,神の王国となり,神の選民となるからである(34節) 。 に,主の叱責を受けた。そうした行為の結果,彼らの心は パウロはこの考えを次のように述べている。『だから,信 仰による者こそアブラハムの子であることを,知るべきで 暗くなっていた。主が語っておられるように,『モルモン 書』を軽んじる行為は,全教会を,またシオンの子らをさ ある。』(ガラテヤ3:7)」(スミス,ショダール共著『注 解』p.504) え罪の宣告の下に置いたのである。続いて主は言っておら れる。『彼らが悔い改めて,新しい聖約,すなわち『モル ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ モン書』……を思い起こ〔す〕……まで,彼らは依然とし 教義と聖約84:41 「この世でも来るべき世でも,罪 の赦しを受けることはない」 てこの罪の宣告の下にある。』(教義と聖約84:54−57参 照)わたしたちは今なおその罪の宣告の下にとどまっては この節と第40節に用いられている「受け入れる」あるい は「受ける」という動詞は,単にメルキゼデク神権に聖任 いないだろうか。…… 結果がどのように出るかはわたしたちが『モルモン書』 されるということ以上の意味を含んでいると考えられる。 マリオン・G・ロムニー副管長は,この節について次の にどのように応じるかにかかっている。主は言っておられ る。『信仰をもってこれを受け入れ,義を行う者は,永遠 ように述べている。「これについてであるが,神権の召し の命の冠を受けるであろう。 を尊んで大いなるものとしない人が皆赦されない罪を犯し ているというのではない。しかし,バプテスマを受けるこ しかし,不信仰によって心をかたくなにし,これを拒む 者は,そのことによって自分の罪の宣告を招くであろう。 とや什 分 の一,知恵の言葉,その他の聖約をすでに交わ した神権者が,その後で聖約に従うことを拒むと,約束さ 主なる神がこれを語られたからである。』(教義と聖約 20:14−16) み たま じゅう ぶん れた永遠の命を失う危険を冒すということは考えられるこ 「悔い改めて……『モルモン しっせき しか 『モルモン書』は真実の書物だろうか。然り。 とである。 」( 『大会報告』1972年,4月,p.112) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ それはだれのための書物だろうか。わたしたちのための ものである。 教義と聖約84:42 「わたしは……わたしの天使たち に,あなたがたに対する務めを与えた」 その目的は何か。人々をキリストのもとに導くことであ る。 スミスとショダールは,この約束についてこう述べて それはどのようにして行われるだろうか。キリストにつ いる。「それゆえ,聖なる神権を持つ者が天使の守りを受 けるにふさわしく生活することは,何と大切なことであ いて証し,キリストの敵を明らかにする。 わたしたちは『モルモン書』をどのように使えるだろう ろうか。」(『注解』p.508。天使の見守りについては,教義 と聖約84:88;109:22;マタイ18:10;詩篇91:11を参 か。この書物について証し,これを使って教え,これを旗 として掲げ,伝え広める。 照。) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わたしたちはこのことを行ってきただろうか。まだまだ 十分ではない。 教義と聖約84:46 あかし 何の御霊が「すべての人を照らす」 永遠の結果は,この書物に対するわたしたちの態度にか のか 「同時に,わたしたちは神の御霊の快い影響力を受け, かっていると言えるだろうか。然り,祝福も罪の宣告もそ れにかかっている。末日聖徒はすべて,生涯この書物を学 正しいことを行うように促される。この力は御霊を拒まな いあらゆる人に働きかける。なぜならすべての人は,神の び続けるべきである。さもなければ,自らの魂を危険にさ らし,霊的かつ知的な一致をもたらすものをなおざりにし 御霊の一部を与えられて持っているからである。時にこれ ていることになる。 」(『大会報告』1975年4月,pp.96−97) を良心と呼んだり,ほかの名前で呼ぶこともあるが,男女 の別なく地上に生まれたすべての人が持っているのが神の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:63 「あなたがたはわたしの使徒…… 御霊である。神はこの御霊をすべての神の子供に与えてこ たまもの られた。もちろんそれは聖霊の賜物を享受することではな である」 十二使徒定員会は1835年まで組織されなかったが,主は い。聖霊の賜物は神の戒めに従う人にのみ与えられるから これらの兄弟たちを使徒と呼んでおられる。ジョセフ・フ 199 ィールディング・スミス長老は,この理由を次のように説 教義と聖約84:100 「もはや時はない」 明している。 「辞書によると,使徒とは,『キリストが福音を宣言する この句は黙示録の中にも用いられている(黙示10:6参 照)。ブルース・R・マッコンキー長老は,この句の意味 ために選ばれた12人の一人;ある国民を最初にキリスト教 を次のように説明している。「もはや時間の猶予はない。 化するキリスト教宣教師;一つの教義または主義の熱心な 唱道者』とある。 かといって,これは時そのものが終わり,永遠が始まると いうことではない。福千年はまだ先のことだからである。 使徒という言葉は,当教会においても辞書に定義されて いる意味で認められている。福音のメッセージを伝えるた そうではなく,教義と聖約88:110に示されているように, 『サタンは縛られ』 ,その結果,迫害に満ちた『時』が終わ めに遣わされた人々は,たとえその職務に聖任されていな くても,使徒と呼ばれてきた。…… りを告げる(もう時がない)ということである。 」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』3: この啓示は最初の人々が教会で使徒としての特別な召し 506) に聖任される2年4か月前に与えられたものであるが,彼ら はキリストの証人として,福音を宣べ伝えに出て行くよう ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:114 ニューヨーク,オールバニ,ボス に命じられた。したがって,主は彼らを使徒と呼ばれたの である。」(Improvement Era『インプルーブメント・エラ』 トン これらの都市については,別の預言者も証を残している。 1935年4月号,p.208) ウィルフォード・ウッドラフ長老は,1863年8月22日にユ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:64−73 「このようなしるしが伴う」 タ州ローガンで開かれた大会で説教し,出席した青少年に 向かって単刀直入に次のように言明した。「さて,若い皆 マルコ16:17−18の中で,救い主は新約時代の宣教師た ちに同様の約束をしておられる。 さん,ヤング大管長ならびに兄弟たちの訪問を受けて,皆 さんが今目にしているこの光景を忘れないでほしい。また, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ これらの預言者たちや使徒たちの教えと言葉を,彼らが死 教義と聖約84:80−85 主は宣教師を支えられる 「何千人という宣教師がこの約束を試みたが,主はその んでからではなく生きている間に,大事な宝として心に留 めておきなさい。いつかヤング大管長や兄弟たち,すなわ 召しに忠実であったすべての人に対してこの約束を守られ た。すずめが落ちるのさえ知っておられる御父は,御心に ち預言者たちと使徒たち,ベンソン兄弟やモーン兄弟は霊 界に行く。皆さんはこの訪問を決して忘れてはならない。 忠実に従う者が助けを求めるのをよもやお見捨てになるこ 皆さんは成人して父親や母親となる。そして,皆さんのお とはないであろう。伝道に出て身も心も弱くなった人や, 飢えた人もあったであろうが,それは明らかに,心を尽く 父さんやこれらの預言者,使徒たちが亡くなった後,『い み な と高き方』の御名のために,この東にあるローガン段丘に して主に仕えていなかったからであり,真理を宣べる必要 があったときに貴重な時間を浪費したからである。 」(スミ (段丘の方向を指しながら)建てられた栄光ある神殿の塔 ス『教会歴史と近代の啓示』1:344) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:87 どのようにして「世の人々を…… 責める」か 「(第87節に)述べられている『責める』というのは, 『有罪と定める』ということである。神の使者は言わば, 神の法廷での弁護士である。罪の世を『有罪と定め』,す べての人に『来るべき裁き』について警告することが彼ら の任務なのである。彼らが世に遣わされたのは,哲学的な 講義や倫理的な説教,美辞麗句を並べ立てた演説,おもし ろい逸話で世の人々を楽しませるためではない。彼らの任 務はただ一つ,すなわち人々に罪を認めさせ,そしてでき れば悔い改めと救いをもたらすことである。」(スミス,シ ョダール共著『注解』p.518) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約84:98−102 「新しい歌を歌う」 「この大いなる日に歌う新しい歌は,シオンの贖いとイ スラエルの回復についての歌である。今ではこの美しい言 葉(99−102節)に何人かが曲を付けているが,シオンが 贖われるときに歌われる歌に匹敵する曲はまだないと考え てよいだろう。」(スミス『教会歴史と近代の啓示』1: 345) 200 ウィルフォード・ウッドラフは,ニューヨーク,オールバニ, ボストンにおける将来の破壊について語った に上る特権にあずかる日が来るであろう。そして,神殿の バニが火で滅ぼされる前であった,と。そのとき,皆さん 塔の上に立ち,この美しい谷に何万人という末日聖徒の住 む町や村が満ちあふれた光景を一望したとき,皆さんはヤ はこの日の光景を思い出すであろう。この光景を心に留め て,忘れないでいただきたい。』ヤング大管長は続けてこ ング大管長とその一行の今日の訪れを思い起こすであろ う。そして,皆さんはこう言うであろう。あれはベンソン う言った。 『ウッドラフ兄弟が言ったことは,啓示であり, 成就されるであろう。』」(ランドウォール,Temples of the 兄弟やモーン兄弟が管理していた時代であった。ニューヨ ークが地震で破壊され,ボストンが高波に襲われ,オール Most High『いと高き方の宮』pp.97−98) 「箱を支えるために」手を伸べる者 第85章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 現在第85章として知られているのは,1832年11月27日に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約85:1 ミズーリに保管されている記録の重 ジョセフ・スミスがウィリアム・W・フェルプスに手紙と して書き送ったものである。手紙の前半には次のように書 要性 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,人が地 かれている。 上の記録によって裁きを受けることに注目し,次のように 「兄弟,わたしは心からそう思っています。先にお便り してからまだ日が浅いのですが,あなたにお伝えしたいこ 述べている。「それであるから,記録は詳細にわたって正 確でなければならない。…… とがたくさんあり,またこうしてお便りさせていただいて いる次第です。わたしの心に重くのしかかっている事柄に これら奉献をした会員の生活状態を記録することは,こ の制度に入ったとき交わさなければならなかった聖約の性 ついて少し述べたいと思います。 わたしも家族も元気です。 質上重要であった。…… 願わくはあなたとあなたのご家族,そして主の戒めとシオ ンの福利とわたしのような者の安否を尋ねてくださるすべ 忠実な会員の名前はすべて,彼らの管理の職や,信仰, 行いとあわせて記録されるはずであった。もし真心をもっ ての兄弟姉妹も,神から同様の祝福を賜りますように。わ たしはこの手紙を書きながら,あなたの心の中にこのよう てこの戒めに聞き従っていたならば,彼らはどんなに幸せ な民になっていたことだろう。なぜなら,もし主に忠実で な思いがあるのではないかと想像しております。『わが神 よ,あなたは偉大で力ある御方です。それゆえ,神の戒め あるなら,主は受け継ぎによってその人を守ると約束して おられたからである。会員の中にはつまずく者があり,シ を守るためにシオンに行こうとしている人々がどうなるか オンへ来る者の中には喜んで自分自身とその財産をシオン を,あなたの僕にお示しください。彼らはまだ監督の証書 により,奉献による受け継ぎを受けていません。監督は神 の福利のために奉献しない人があること,その結果,主が 聖徒と交わされた聖約の管理の職にあずかることができな が正当な方法で任命された人です。教会を,また教会のす べての務めを組織し,律するために与えられた律法に従っ いことを,主は知っておられた。そこで,シオンへ来る者 の中で,喜んで主の律法に従って受け継ぎと奉献を受け入 て召された人です。 』 れないすべての者は,忠実な者の中に数えられるべきでは ウィリアム兄弟,わたしは神の愛により,あなたを神の 人として絶対的に信頼しています。この信頼は天からの示 ないと命じられたのである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:348−349) 現によって得たものです。ですから,わたしは心に思って いることをあなたに打ち明け,質問にお答えするのです。」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約85:4,12 なぜある系図を書き残してはな しもべ (History of the Church『教会歴史』1:297−298) らなかったのか 手紙の本文は,ウィリアム・W・フェルプスが取り組ん でいた問題に答えるもので,主の言葉と考えられていた。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この啓 示について次のように記している。 現在第85章となっているこの手紙は,ブリガム・ヤング大 管長の指示の下に,オーソン・プラット長老により1876年 「この啓示の終わりの方の節には,覚えの書に載せられ ていない者はすべて,その日に受け継ぎを与えられないと 版の『教義と聖約』の中に編入された。 書かれている。彼らの持ち分は不信仰な者たちの中に定め られ,彼らはそこで泣きわめき歯ぎしりをするであろう。 『大神権を持つ者で,また小神権を持つ者や会員で,その 201 名前が律法の書に記されていない者,あるいは背教した者, 伴う霊と権能が彼の上にとどまり−それによって『神の家 または教会から絶たれた者は,その日に,いと高き方の聖 徒たちの中に受け継ぎを見いださないであろう。』(教義と を整えるためであり……聖徒たちの受け継ぎをくじによっ て手配するためである』,すなわちエドワード・パートリ 聖約85:11)これらの人々は,エズラの時代の民がバビロ ッジ監督が命じられていながら成し遂げられなかった仕事 ニア捕囚から戻った後に受けたと同じ扱いを受けると記さ れている。当時,主は預言者を通して次のように語られ を行うというものであった。…… しかしエドワード・パートリッジ監督が悔い改め,犠牲 た。 『これらの者は系譜に載った者たちのうちに自分の名を をささげ,苦しみを味わったことにより,『まぶしい稲妻 に撃たれる木のように,死の矢によって倒れるであろう』 尋ねたが見いだされなかったので,汚れた者として,祭司 の職から除かれた。 』(エズラ2:62) という恐ろしい裁きが緩和されたことは確かである。その 結果,彼の地位を埋めるために別の人,すなわち『神の家 こん にち 今日の教会員は,ここに書かれていることを戒めとし, を整え……聖徒たちの受け継ぎをくじによって手配する』 福音の原則に忠実に従うことによって自らを備え,また聖 約に忠実であるべきである。そうすればその日がやって来 ために,『一人の力ある強い者』を遣わす必要もなくなっ たと見なされたのであろう。こうして預言されていたすべ たとき,ここにいて御業を行っている教会員は,エズラの 時代のユダヤ人のようにはならず,覚えの書にその名前が ての出来事も打ち切られた。」(クラーク,Messages of the First Presidency『大管長会のメッセージ』4:112,115, 記されていることであろう。」(『教会歴史と近代の啓示』 117) 1:352) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「そこで,わたしたちが学んだのは次のようなことであ る。つまり,教会の監督であるエドワード・パートリッジ み わざ 教義と聖約85:7−8 れか 「一人の力ある強い者」とはだ は『聖徒たちの受け継ぎをくじによって手配するため』 『神から召されて任命された』人であった。ところでエド 神の家を整える「一人の力ある強い者」(教義と聖約 ワード・パートリッジは,1832年に『神の箱を支えるため 85:7),および「神の箱を支えるために手を伸べる」(8 節)人については,教会を去った多くの背教者たちが自ら に手を伸べると,まぶしい稲妻に撃たれる木のように,死 の矢によって倒れるであろう』と厳しく警告されたその人 の背教を正当化しようとして用いてきた。彼らは,教会の 大管長の多くが神の支持を失って拒否され,背教者である であろうか。然りである。当時の兄弟たちは経験も浅く, 教会は組織されてまだ間もなかった。また当時は,神権の 自分たちが本来の状態を回復するために神に召された「一 組織も今日のようには理解されていなかったし,神権組織 人の力ある強い者」であると主張している。そのような大 胆不敵な主張は,人間によって聖典がいかにゆがめられる を構成する兄弟たちもまだ知り合ったばかりであった。こ うした状況のせいで,彼らの中には預言者や教会の秩序に かを示している。1905年に発表された公式の声明書の中 で,大管長会(ジョセフ・F・スミス,ジョン・R・ウイ 度々背く者もあり,彼らがその義務を理解し,教会の役員 として相互に正しい人間関係を保つことができるようにな ンダー,アンソン・H・ランド)は,この啓示が与えられ た状況とこの二つの聖句が指している人について,次のよ るには,教育と時間と経験が必要であった。 パートリッジ監督は大変立派な人であり,主に愛され, うに述べている。 預言者から『敬虔の模範』『主の偉人の一人』と言われた 「まず第一に,この手紙全体と,その後すぐに啓示とし て認められた部分の主題は,ミズーリの教会の問題,すな 人であったにもかかわらず,時折預言者に対抗して立ち, 預言者が教会の任務を管理するのを正そうとした。すなわ わち聖徒たちのミズーリへの集合や,奉献と管理の職の律 法の下に受ける受け継ぎに関するものであった。預言者は ち『神の箱を支えるために手を伸べ』た兄弟たちの一人で あった。 」(『大管長会のメッセージ』4:113) 特に,監督からの命令や承認による受け継ぎを受け取らな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かった人々がどうなるのかという問題を採り上げたのであ る。…… 教義と聖約85:7 人々が今もなお「一人の力ある強い 者」であると主張するのはなぜか 1832年11月27日付けの,ウィリアム・W・フェルプスあ ての手紙から取られたこの啓示の言葉が記されたのは,こ 「現在ある人々は自分の教派を作り,その中のある者は 教義と聖約第85章を盾に取ろうとする。 しっ と しか けい けん のように不従順,嫉妬,高慢,不信仰,かたくなさが,シ 彼らは,教会はすでに道を外れ,指導者はもはや霊感 オンすなわちミズーリ州ジャクソン郡の兄弟たちの間に広 がり,そのすべてにパートリッジ監督がかかわっていた状 を受けておらず,主に関する事柄をあずかる『一人の力あ る強い者』が必要であると主張する。また確たる証拠もな 況の下でのことであった。神に召され聖徒たちに受け継ぎ の地を分配する任を受けた人,すなわちエドワード・パー しに,自分でその力ある者を名乗り出る。 」(マーク・E・ ピーターセン,Conference Report『大会報告』1974年4月, トリッジは,当時命令に背いて自らの義務を怠り,『神の 箱を支えるために手を伸べ』ていた。そこで,神の裁きが p.159) そのような人々は,この聖典が警告しているまさにその 差し迫っていることを警告され,次のように預言されたの 罪を犯すことになる。すなわち,自ら「神の箱を支える」 である。その預言は,別の『一人の力ある強い者』が代わ りに神から遣わされて,監督の職に就き──その高い職に 者となる(教義と聖約85:8の「注解」参照) 。 202 第85章 教義と聖約85:7 教会を導く啓示を受けたと主張する ものに不用意に近づいてしまった。彼は神の力を信じてい 人々について,その真偽を判断するにはどうすればよいか この重大な質問に対して,ブルース・R・マッコンキー なかった。神の箱が全能の神を象徴するものであることを 忘れて,神の箱が車から落ちると思ったのである。神とそ 長老は次のように答えている。 「教会の正式な地位に就くよう正式に任命され聖任され の王国を救うために,人がおこがましくも自分の力で何が できるというのであろうか。 た人はだれでも,自分の管轄下にある特定の組織やグルー プを導くために啓示の霊を受ける資格がある。預言者ジョ ウザは善意で,すなわち神の箱が車から転げ落ちないよ うにしようという意図で手を差し伸べたのであるが,彼の セフ・スミスはこのように述べている。『大管長会は教会 罪は神聖を冒して神の箱に触れたという事実にあった。神 を統轄し,教会に対する神の思いと御 心 は大管長会を通 じて啓示される。これは天の秩序であり,この神権の権能 の栄光の御座であり,目に見えない主の臨在を目に見える しるしとしたものである神の箱に触れることは,神聖な神 と特権である。また,この教会のどの役員も,教会におけ るその人の召しと義務に関するかぎり啓示を受ける特権が の権威を冒すものであった。『ウザは,神の王国が危ない ことを知って救いたいという思いから,人間的な見方から み こころ ある。』(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョ は善意であるが,実は汚れた心で神の王国の事柄に干渉し セフ・スミスの教え』p.111) 地上における主の業の長として認められた人を通して啓 ようとする人の象徴である。』(O・V・ガーラック)」(カ イル,デリッチ共著,Commentary『注解』第2巻:ヨシュ 示を与えるというこの制度は,曲げることのできないもの であり,受けたとされる啓示の真偽を判断する試金石とな ア,士師,ルツ,サムエル上下「サムエル記下」p.333) 主は現代の啓示の中でこの出来事を採り上げ,王国を守 る。主は預言者についてこう言われた。『彼が取り去られ るために主は人の助けを必要としないという原則を教えて るまで,あなたがたのために戒めと啓示を受けるよう任命 される者は彼のほかにだれもいない。……あなたがたへの おられる(教義と聖約85:8参照) 。しかし今日でも,神の 箱が倒れかかっているのではないかと危ぶみ,おこがまし 律法はこれである。すなわち,あなたがたの前にやって来 るだれかの教えを,あなたがたは啓示または戒めとして受 くもそれを安定させようと考えている人がいる。教会では 女性が公平に扱われていないと確信している人,公式に認 け入れてはならない。これをわたしがあなたがたに与える のは,あなたがたが欺かれることのないため,またそれら められていない祝福を授けようとする人,確立された教会 の教義を変えようとする人などがいる。このような人は, の教えがわたしから出ていないことをあなたがたが知るた 神の箱を支える者である。どんな善意があっても,主の計 めである。』(教義と聖約43:3−7。『救いの教義』1: 266− 270参 照 )」( Mormon Doctrine『 モ ル モ ン の 教 義 』 画に干渉することを正当化することはできない。デビッ ド・O・マッケイ大管長とジョン・テーラー大管長は,と pp.646−647) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ もに,この教訓を現代の聖徒に当てはめている。 「権能も与えられていないのに自己の責任の範囲を越え 教義と聖約85:8 「神の箱を支える」とはどういう意 味か この語句は,古代イスラエルのダビデ王の治世に起きた 出来事に由来している(サムエル下6:1−11参照)。奪わ れていた契約の箱がペリシテ人から返還された後,正式な 安置所へ運ぶ途中,車がでこぼこの道に差しかかり,契約 の箱が倒れそうになった。そのとき,ウザという男が箱を 支えようとして手を伸べ,その場で打たれた。一見すると この罰は厳しすぎるように思えるかもしれないが,神の箱 み ざ は神の臨在,神の御座,神の栄光,神の権威を象徴する有 形のものであった。そのことを思い起こすと,違った見方 をすることができる。最初にイスラエルの民に与えられた とき,神の箱は幕屋の至聖所に置かれ,祭司ですらそれに 近づくことは許されていなかった。キリストの象徴である 大祭司だけが近づくことができたが,それも個人的な罪の あがな 清めと贖いの儀式を行った後でなければならなかった。神 の神聖さは聖典の中にはっきりと教えられている。汚れた 者は神とともに住むことはできない(モーセ6:57参照)。 神の臨在は,焼き尽くす火のようである(ヘブル12:29参 照)。主の器を担う者は清くなければならない(教義と聖 約133:5参照)。 それが善意から出た行為であったとしても,ウザは非常 に厳しい条件の下でしか近づくことが許されていなかった デビッド・O・マッケイは,権能を持たずに「神の箱を支える」 人は霊的に死ぬと警告している 203 て,兄弟の働きを指示しようとするのは少し危険である。 ともかかわりを持っている。ところで,あらゆる事柄を神 皆さんは,ウザが手を伸べて契約の箱を支えた事件を覚え ておられると思う(歴代上13:7−10参照) 。ウザは,牛が に認め,またあらゆる事柄に神権を認める神の王国に結び つく一つの原則がある。この原則を行っていない人は悔い つまずいたときに手を伸ばして契約の象徴を支えたのであ ゆる り,赦されるべき行為のように思われる。今日のわたした 改めた方がよい。さもなければたちまち行き詰まってしま うであろう。わたしはこのことを主の名によって申し上げ ちから考えると,彼が受けた罰はあまりにも厳しいもので あったように思う。しかし,たとえそうであっても,この る。自分は賢いから,神権を管理し,上手に使うことがで きるなどと考えてはならない。あなたにそのようなことが 事件は人生の教訓をわたしたちに与えてくれる。わたした できるはずがないからである。神が管理し,規定し,指示 ちの周囲を見回してみると,権能も与えられていないのに 契約の箱を支えようとする人がいかに早く霊的に死んでい し,頭として立っておられなければならない。そして,す べての人は各自の務めを果たすのである。神の箱はとりわ るかということが分かる。そのような人の魂は苦々しい思 いを募らせ,その心は歪み,判断は誤り,気持ちが沈むよ け,啓示や神の王国の知識,律法を受けていない無資格者 によって支えられる必要はないのである。わたしたちは偉 うになる。自分の責任を怠りながら,その時間を他人のあ 大な業に携わっている。そして,わたしたちがなすべきこ ら探しをすることに費やしている人の状態は,何とも哀れ むべきである。」(マッケイ,Gospel Ideals『福音の理想』 とは,わたしたちの前に示されている務めに対して自らを 備えることであり,またすべての事柄について神と神の権 p.258) 「わたしたちは不従順の原則に関してお互いに多少なり 能,律法,神権を認めることである。 」(テーラー,Gospel Kingdom『福音の王国』p.166) 小麦と毒麦のたとえ かしら 第86章 貫しており,よくありそうな話であるので,多くの人々の 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日常の経験と照らし合わせることができる。 教えに対する反対が激しくなると,主なる教師は,受け 救い主は地上で御業を果たしておられたとき,人々を教 入れる準備のできていない者から教義を隠すために,多く えるためによくたとえを用いられた。あるとき,主はガリ ラヤの海岸におられた。ところが,人々があまりに近くま の救いに関する真理をたとえで話すことにされた。豚に真 珠を投げることは,主の目的ではなかった。 」(マッコンキ で押しかけて来たので,主は舟に乗られ,そこから人々に 説教された。そのときに,主が説かれたメッセージの一つ ー,Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注 解』1:283) が,小麦と毒麦のたとえである。後に,イエスは使徒と一 福音の真理に対して霊的に鋭敏な人は,たとえから美し く力強い原則を学び取る。しかし霊的な意識の低い人には, み わざ 緒のときに,彼らにそのたとえの意味を説明された(マタ イ13:24−30参照)。 マッコンキー長老が指摘しているように,「たとえは真理 1832年12月6日,ジョセフ・スミスは『新約聖書』の改 訂に携わっていたとき,小麦と毒麦のたとえについて「か を明らかにすることはめったになく,むしろ教義の意味を 覆い隠し,すでに啓発されて知識を授けられている者でな つて使徒たちに語られ,マタイによる福音書に記録されて いる解釈よりもさらに完全な解釈を与えられた。この啓示 ければ,そこに示されている重要な教えの意味を完全に理 解することはできない。その最も良い例が,小麦と毒麦の が下されたのは,今が収穫物が集められ,毒麦が焼かれる たとえである。イエスがこのたとえを最初に話されたとき, 終わりの時だからであろう。 」(スミス,Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:353) 使徒でさえその意味を理解することができなかった。彼ら はその解釈を尋ね,主は少なくともその一部分について説 注 解 明をされた。そしてたとえそのものと世の人々に語られた 解釈の両方に関して,主は末日に特別な啓示を与えられ, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人々はこのすばらしいたとえの完全な意味を心に深く悟る 教義と聖約86 たとえとは何か。なぜイエスはたとえを 用いられたのか ことができるようになったのである。」(『新約聖書教義注 解』1:283−284) 「たとえとは,霊的な真理を強調し,説明する短い話で ある。イエスが語られたたとえは,実際の出来事を扱った ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約86:1−7 小麦と毒麦のたとえ ものである。あるいは架空の話であったとしても,首尾一 イエスは最初に小麦と毒麦のたとえを語られたとき(マ 204 第86章 タイ13:24−30,36−43参照),たとえの中のほぼすべて る社会的な圧迫という形を取ることが多い。リーハイの夢 の点について解釈を与えられた。 1.種をまく者は,人の子(イエス)である。 の中に現れた「大きく広々とした建物」の中にいた人々は, 押し進んで来て,命の木の実を食べていた人たちをあざけ 2.畑は世界である。 み くに 3.良い種とは御 国 の子たち(イエスに従う者)であ った。そして,多くの者が恥ずかしく思い,道を外れた (1ニーファイ8:26−33参照)。 る。 4.毒麦とは悪い者の子たち(サタンの誘惑に従う者) 5.毒麦(教義と聖約86:3参照)は,邪悪な教義とそ れらを広める者を実によく象徴している。「伝統的に,毒 である。 麦はイネ科ドクムギ属の植物で,有芒毒麦の一種と見なさ 5.敵とは悪魔である。 6.収穫とは世の終わりのことである。 れてきた。穂の出る前は小麦によく似ており,現代のパレ スチナにも見られる。この雑草は苦味を持っており,その 7.刈る者とは,畑のものを刈り取るために遣わされた 御使いたちである。 実はもちろんのこと,粉となってパンの中に混ざったもの でさえ,少しでも食べるとめまいを起こし,しばしば強い 8.集められて焼かれる毒麦とは,裁きのときにえり分 吐剤として用いられる。 」(マッコンキー『新約聖書教義注 けられて火に投げ入れられる(罰を受ける)悪い者たちの ことである。 解』1:296) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 9.集められて倉に納められる麦とは,えり分けられて, 父の御国で輝きわたる義人たちのことである。 に指摘している。「毒麦は教会の中でも見いだされる。毒 麦は世界中から集められて焼かれるが,教会内の毒麦もま マタイによる福音書第13章の中で主が明らかにしておら た,集められて,火に投げ込まれるであろう〔教義と聖約 れない事柄は,以下のとおりである。 1.芽が生え出て実を結ぶ麦 112:23−26参照〕。救い主はまた,ニーファイの民に語ら あかし れたときに,このことについて証された。『その日,悔い 2.眠っている人々 3.収穫まで育つままにしておかれた麦と毒麦 改めてわたしの愛子のもとに来ない者を,わたしは自分の 民,イスラエルの家の中から絶とう。』〔3ニーファイ21: 4.毒麦を集めようとして,麦も一緒に抜くこと しかし,教義と聖約第86章には,これらの点について説 20〕」(『教会歴史と近代の啓示』1:354) 誤った教義や,また,教会の忠実な会員を装うサタンの しもべ 明があり,最初に挙げた事柄についてもより多くの説明が 僕は,忠実な人々を誘惑し,神の言葉,すなわちまかれた 加えられている。 1.畑はこの世である(2節参照) 。 良い種の成長を止め,腐らせてしまう。 6.荒れ野へ追いやられた教会(教義と聖約86:3参照) 2.使徒たちが種をまく者である(2節参照)。マタイに よる福音書でイエスは,種をまく者は御自身であると説明 とは,背教の時代を意味する。毒麦(教会内の悪)が成長 したその結果,背教が起こった。荒れ野は,教会と神権が された。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は, 地上から取り去られていた時期を表す(黙示12:12−17参 この二つの節が何ら矛盾するものではないことを示してい る。「『マタイによる福音書』の記事では,主が良い種をま 照)。 7.小麦の葉が柔らかいということについては,教義と く種まきであるが,『教義と聖約』では,使徒が種をまく 者となっている。ここに矛盾はない。なぜなら,キリスト 聖約86:6の中で,信仰の弱さ,すなわち日が浅いことで あると説明されている。この啓示は1832年12月に与えられ は救いの源であり,使徒はキリストより教えを受け,キリ たが,そのとき教会は設立後まだ3年とたっておらず,そ ストの下に全世界に福音を宣べ伝えるために,すなわち種 をまくために遣わされたからである。この種はキリストの の葉はまだ非常に「柔らか」であった。当時,多くの毒麦 はまだ見分けられる状態になく,将来毒麦になる者を組織 の ものであり,またキリストの命の下にまかれる。したがっ て,この啓示で語られている事柄も,たとえの中の記述も 真実だということになるのである。」(『教会歴史と近代の 啓示』1:353) 3.眠ることは初期の聖徒たちの死を意味している(教 義と聖約86:3参照)。 いん ぷ 4.敵はバビロン(3節参照),すなわち大淫婦である。 ほかの箇所では,大きな忌まわしい教会(1ニーファイ 13:4−8)と呼ばれている。バビロンはこの世の悪の象徴 である。したがって,この世における悪魔の力を表すもの と言ってよいであろう。バビロンにとどまる者とは,この 世の習慣に従い, 主の言葉を受け入れない者のことである。 教会に対するサタンの迫害は,預言者を殺したり,聖徒た ちを肉体的に虐待したりというような攻撃的な形を取るこ けんそん ともあるが,それよりも,謙遜にキリストに従う者に対す 主は小麦と毒麦を分けられる 205 から抜き取ろうとすることは,ひどく破壊的な結果をもた ウッドラフ大管長はソルトレーク神殿の奉献式でこれら らす恐れがあった。 8.マタイによる福音書に記されているように,刈る者 の天使について語った(Signs of the Times『時のしるし』 pp.112−113参照)。このときに同席していたジョセフ・フ み つか が神の御使いたち(教義と聖約86:5参照)を指している ィールディング・スミス大管長は, 次のように記している。 のは明らかである。また,御使いたちが1832年にその使命 を果たす許しが下りるのを待ち焦がれていたことも明白で 「1908年か1909年のある日,わたしは父の前に座っていた。 そのとき,わたしはウッドラフ大管長のこの話に注意を向 ある。 (教義と聖約86:5の「注解」に,許しが与えられた ときについて述べられている。) け,ソルトレーク神殿の奉献式のときから現在に至るまで の記録を読み返して,災害や戦争や疫病に関してどんなこ 9.収穫と毒麦を焼くこと(7節参照)について,預言 者ジョセフ・スミスは次のように説明している。「収穫と とが分かるか調べてみたいと言った。父もそれは良い考え だと言い,わたしは早速調べに取りかかった。新聞や雑誌 世の終わりは,まさしく末日における人類に言及したもの をめくりながら,わたしは一年一年,破壊や人々の間に起 である。……それゆえ,毒麦が集められて火で焼かれるよ うに,世の終わりにもそのとおりになるであろう。すなわ きた騒乱,災害の類をすべて書き留めていった。すると何 とも驚いたことに,その数は毎年増加しており,わたしが ち神の僕たちが出て行って,諸国民(祭司と民の両方)に 警告しても,彼らがその心をかたくなにして真理の光を拒 記録をつけるのをやめた後でも,依然として増加し続けて いた。わたしは大変驚き,隣人の一人にこの話をして注意 むときは──この者たちがまずサタンに渡されて打ちたた を促すと,彼は腹を立てんばかりにこう言った。『さあね かれ,ユダヤ人の場合のように,律法と証が閉ざされると くらやみ きは──彼らは暗闇の中に置き去りにされて,焼き滅ぼし え,今はいろいろなものを見つける便利なものがあるから ねえ。わたしは信じないね。』その隣人は教会員でもあっ の日に引き渡される。こうして自らの信条に縛られ,彼ら を縛る縄はその祭司によって強く縛られて,救い主の言葉 たのだが,これらの預言に対する信仰は持ち合わせていな いようであった。…… を成就するために備えられるのである。つまり,『人の子 皆さんにとって驚きだと思うが,わたしはこれを1934年 はその使たちをつかわし,つまずきとなるものと不法を行 う者とを,ことごとく御国からとり集めて,炉の火に投げ 1月20日付けの『〔リタラリー〕ダイジェスト』([Literary] Digest)から書き写した。 入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり,歯がみをし たりするであろう。』毒麦が束にされて焼き滅ぼしの日に 『ヨーロッパの記録を図表化した二人の科学者が,戦争 の指数が12世紀の2.678から,20世紀には1万3,735.98にま 備えられる一方で,小麦も集められて倉に入れる業が行わ で高くなっていることを発見した。 れ,焼き滅ぼしの日の後,義人たちは彼らの父の御国で太 陽のように輝きわたるのである。 」(Teachings of the Prophet 戦争は国家の文明化に伴って減少の傾向をたどるものな のだろうか。多くの哲学者はそう語ってきた。しかし今や, Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.101) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ハーバード大学の二人の社会学者が,この問題について冷 静かつ公平な目で科学的な調査を行い,その結果,将来戦 教義と聖約86:5 「刈り入れるために遣わされる…… 天使たちは……主に叫び求めている」 争はかつてないほど激しいものとなり,それを回避する方 法は明らかに奇跡によるほかにないと結論づけている。戦 1832年,主は預言者ジョセフ・スミスを通して,天使た 争は減少するどころか,国家が発展するにつれて,数にお ちは火で地球を清める準備として,地球へ行って毒麦を小 麦からより分ける許可を求めて叫んでいると明言された。 いても,激しさにおいても増大し,歴史が始まって以来, 最悪の戦争が今世紀に起きたのである。 61年後,ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,主はすで にこれらの滅びの天使を解き放し, 彼らは今や地上にあり, 言うまでもなく,この戦争は1914年から1918年にかけて 起きた戦争のことである。 間もなく起こる焼き尽くしに備えて,毒麦を小麦からより この二人の科学者は,ハーバード大学社会学部部長ピテ 分けている,と明言している。ウッドラフ大管長の言葉は 次のとおりである。「神は小麦と毒麦がともに刈り倒され ィリム・A・ソローキン教授と,ロシア帝国の陸軍中将で あったニコラス・N・ゴロビン氏である。二人はギリシャ ることのないように,長い間滅びの天使をとどめておかれ た。しかし今皆さんに申し上げたい。この天使たちはすで および西ローマ帝国時代以来2,400余年の間(紀元前500年 から紀元1925年まで)にヨーロッパで起きたすべての戦争 に天の門を出て,現在この民,この国民の上に立っている。 を調査した結果,この結論に達したのである。この期間に, また空中をはいかいし,裁きを下す時を待っている。まさ きょう に今日この日から裁きが下されるであろう。現在災害や苦 ギリシャ,ローマ,中央ヨーロッパ,ドイツ,イタリア, フランス,イギリス,スペイン,オランダ,およびロシア 難がこの世に増している。それはこのことを表している。 このことを覚え,これらの事柄をよく考えてみていただき で,902の戦争(小規模の戦闘ではない)が起きている。 それぞれの戦争は次の5つの視点から調べられた。戦争 たい。もし皆さんが自分の義務を果たし,またわたしが自 分の義務を果たすならば,わたしたちは守られるであろう。 の継続期間,戦闘力の規模,戦争による死傷者数,参加国 数,交戦国の全人口に対する戦闘員の割合。 そして苦難を経験しても,平和と安全の中に過ごせるであ この5つの「変数」から,各戦争に対する総合指数が算 ろう。 」(Young Woman’s Journal『ヤング・ウーマンズ・ジ ャーナル』5:512−513) 出され,共通の要素により合理的に表された。』 さて,以上が引用である。そのとき〔1936年〕,わたし 206 第86章 は次のようなことを述べた。 そう聞くと皆さんの中にはこのように思う方もおられる この研究から,これらの科学者は,戦争が最近ではヨー ロッパ中で増える傾向にあることを発見したと述べてい であろう。『それはちょっと違うのではありませんか。と いうのは, わたしは家族の中でただ一人の教会員ですから。 る。ヨーロッパの国々では,戦争が12世紀の2.678から20 世紀の最初の25年間の1万3,735.98に増大したことが分かっ どうして両親から神権を受けたと言えるのですか』と。 この聖句の中で主が語っておられるのは,神権の権威の たというのである。彼らの作成した表は世紀ごとに増加し ていることを示している。17世紀までは戦争は比較的少な 系譜ではなく,皆さんに受け継ぎとして与えられている神 権の権能を受けて行使する権利のことである。進んで聞い かったが,17世紀から18世紀にかけて増加し,19世紀には て信じるというこの態度は,先祖から受け継いだ賜物であ いったん静まった。 それでも中世に比べるとはるかに多く, 100倍以上もあった。 り,この賜物によって皆さんは真理を認め,受け入れるこ とができたのである。イエスはこの考えを次のように説明 『戦争は近い将来なくなるであろうというもっともらし い楽観論は,奇跡を信じる望み同様,何の根拠もない』と された。『わたしの羊はわたしの声に聞き従う。わたしは 彼らを知っており,彼らはわたしについて来る。 』(ヨハネ いうのが彼らの結論である。 10:27) たまもの そこでわたしは次のように預言した。 『もし預言が成就するとしたら,世界がかつて経験した この聞き従う精神は,神権の祝福にあずかるという継承 権を持っていることを表すものである。また,進んで信じ ことのない恐ろしい戦争が起きるであろう』(Progress of Man『人間の進歩』pp.402−404)と。 るという精神は, 宿命ではなく神の予任を表すものである。 主は啓示をこのように続けておられる。『なぜなら,あな ところで,ウッドラフ大管長の言葉とこのたとえについ たがたは肉による正当な相続人であり,神のうちにキリス て,少し述べてみたいと思う。 主はこれらの天使たちを遣わすのは収穫の最後の時であ トとともに世から隠されてきたからである。』(教義と聖約 86:9) り,収穫とは世の終わりのことであると言われた。そこで わたしたちはこのことを真剣に考えるべきである。しかも これは,神権の祝福にあずかる権利は血統を通じて受け 継ぐという意味である。付随的に祝福を伴うこの神権を授 天使たちは,今わたしが読んだように,自分たちを遣わし, その使命を果たさせてくれるよう主に向かって嘆願してい かるかどうかは,家族関係によるところが非常に大きいと いうことを理解していただきたいと思う。」(Conference るのである。1893年までは主はよしとは言われなかった Report『大会報告』1975年4月,p.103) が,今や主は天使たちを解き放された。ウッドラフ大管長 の啓示によれば,主は天使たちをその使命に遣わされたの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ である。 このことから何が分かるだろうか。今は終わりの時代で 光となり,救い主がイスラエルへの光となるか バートン長老はこの聖句に関して,きわめて重要な考察 あり,収穫の時であるということである。今は世の終わり を与えている。「この最後の節で,主はわたしたちに二つ と呼ばれる時なのである。」(『時のしるし』pp.116−121) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のことを思い起こさせておられる。一つは,わたしたちが 地上で果たすべき伝道の責任である。そして主が教えられ 教義と聖約86:9 いう意味か 「肉による正当な相続人」とはどう たもう一つの責任は,生者に救いのおとずれを伝える者に なるだけでなく,すでにこの世を去った先祖の救い手にも これは,神権に関する権利はイスラエルの家に属する者 なるということである。彼らはすでにこの世にないが,わ 教義と聖約86:11 どのようにして聖徒が異邦人への に与えられるという意味である。セオドア・M・バートン 長老はこう説明している。 たしたちが現在の祝福にあずかれるように道を備えてき た。わたしたちは彼らを通して神権を授けられたのである。 「わたしたちがよく誤解することに,神権は父母の血統 を通じて伝えられる,ということがある。主はそれをこの たとえ福音を聞くことができない時代や環境に生まれたと しても,神は彼らのために子孫の中から助け手を起こすと ような言葉で説明しておられる。『それゆえ,主は,先祖 の血統を通して神権が続いてきたあなたがたにこのように 約束された。わたしたちは,神が約束された救い手であり, 死者はわたしたちを通して神権のすべての祝福にあずかる 言う。』(教義と聖約86:8) のである。 」(『大会報告』1975年4月,p.105) 207 第87章 末日における戦争 Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:358−359) 歴史的背景 11年後,州内における国法の実施拒否と分離を巡るすべ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは次のように記している。「こ ての係争問題が静まったかに見えたとき,預言者ジョセ フ・スミスは再びこう述べている。「わたしは主なる神の の時期は,教会が荒れ野からの旅を開始して以来かつてな いほど,国内での紛争が顕著になりつつあった。また全世 名によって預言する。人の子の来臨前に多くの流血を引き 起こす難局の始まりは,サウスカロライナにある。それは 界の大都市ではコレラが猛威を振るい, 人々を恐れさせた。 恐らく奴隷問題によって起こるであろう。1832年12月25 華麗さと偉大さを欲しいままにしていた合衆国が分裂の危 ひん 機に瀕していたころ,インドでペストが発生した。〔11月 日,わたしがこの件について熱心に祈っていたとき,この ことをある声がわたしに告げた。 」(『教会歴史』5:324) に〕サウスカロライナの人々は議会を召集し,自州を自由 と独立の国家とする法案を通過させた。そして1833年1月 注 解 30日木曜日を『屈辱と祈りの日』と定め,全能の神が祝福 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を与えたまい,国の中に自由と幸福がよみがえるように懇 願した。 」「屈辱と祈りの日」の後,2月1日をもって合衆国 教義と聖約87:1 南北戦争がサウスカロライナから始 まるとジョセフ・スミスが預言したことは,なぜ注目に値 から分離するのがサウスカロライナのねらいであった。し かし,「ジャクソン大統領はこの反逆に対抗する宣言を出 するのか スミスとショダールは,1832年には,表面だけを見れ して鎮圧に十分な数の軍隊を動員し,この恐るべき重大な ば,サウスカロライナから戦争が始まることは考えられな かったことであると,次のように述べている。 危機を国家が脱することができるよう主に祝福を願った。 〔1832年の〕クリスマスの日に,わたしは次の啓示を受 けた。これは戦争についての預言〔教義と聖約87章〕であ る。」(History of the Church『教会歴史』1:301) 1830年代初期の政治的動乱期には,武力衝突が起こりそ 「当時〔1832年〕合衆国は非常に騒然としていた。関税 問題が大きな論争の的であった。ニューヨーク州は合衆国 憲法を承認する以前,保護関税を実施し,その政策は次第 に他の北部諸州の賛同を得ていた。他方,南部諸州では, うな雲行きであった。ジョセフ・フィールディング・スミ ス大管長は次のように述べている。「ある人々は,ジョセ フ・スミスが1832年に南北戦争を預言したことについて, 何ら注目に値しないと言って嘲笑している。別に預言的な 示現を受けなくても戦争について預言した人はほかにもい るというのである。連邦の分裂については,ダニエル・ウ エブスターとウィリアム・ロイド・ガリソンが1831年に予 見したと言われている。南部選出の上院および下院議員た ちが,連邦は盟約上の組織だから脱退する権利もあると主 張したため,1832年になって戦争の気運が高まってきたこ とはよく知られている。主がジョセフ・スミスにこの啓示 を下されたのはこうした事実があったからである。主の言 葉はこうである。『まことに,主は,間もなく起こる戦争 に関してこのように言う。それはサウスカロライナの反乱 で始まり, ついには多くの人の死と苦悩に終わるであろう。 戦争がこの地で始まってすべての国々のうえに押し寄せる 時が来る。』1832年,あるいは1831年においてさえも,北 部諸州と南部諸州の間に分裂が生じることが容易に予見で きたかもしれない。当時,すでに不平不満がうっ積し,サ ウスカロラナでは反逆の兆しが見えていたからである。し かしながら,主がジョセフ・スミスに啓示されたこと,す なわち戦争が間もなく始まり,やがてすべての国々のうえ に押し寄せる時が来るという詳細にまで及ぶ預言は,人間 の力を越えたものである。」(Church History and Modern 208 戦争に関する啓示の手書きの写し 第87章 生産物は2,3の原料品に限られ,それらを輸出する一方, 大いに努めたが,不換紙幣を発行せざるを得なくなった。 ほとんどすべての必要な製品を輸入に頼っていたため,自 由貿易を最も有利な政策と見なしていた。1824年,議会は 南軍単独の数値を欠くが,この戦争で合衆国全体が費やし た総費用は最終的に150億ドル以上にも達した。要するに, 保護関税法案を成立させた。数年後,英領西インド諸島に おけるアメリカの貿易活動を排除しようとする運動への報 合衆国は保持され回復されたが, 物質的, 精神的な苦しみと いう点での損失は計り知れないものがあった。この大規模 復手段として,グレートブリテンに対するより厳しい法案 が採択された。これに対して南部,特にサウスカロライナ な破壊により受けた心の傷は,今なお癒されていないもの がある。 」 (New Encyclopedia Britannica [1978], s.v. “Civil War, で激しい反対の声が上がった。サウスカロライナ州では U.S.”『ニュー・エンサイクロペディア・ブリタニカ〔1978〕』 1832年に市民の大会が開かれ,1828年および1832年に制定 された関税法は,サウスカロライナでは無効であると宣言 した。そしてさらに,もし議会がこの問題を解決しなけれ ば,彼らは関税法が1833年2月1日をもって廃止されたもの 「アメリカ南北戦争」ウォレン・W・ハスラー・ジュニア編) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約87:2 せたか 戦争はすべての国々のうえに押し寄 と見なすと決議した。北部の多くの人々は,当時武力に訴 1958年にジョセフ・L・ワースリン長老は,この預言が えても合衆国の法律を実施することに賛成し,大統領に武 力を行使する権限を与える法案が議会に提出された。こう どのように成就したかを,次のように述べている。 「預言者ジョセフはこの驚嘆すべき啓示を1832年に受け した政治的騒乱の間に,預言者ジョセフは国の状況につい て祈り,この啓示(教義と聖約130:12−13参照)を受けた た。南北戦争は1861年に起こり,デンマークとプロシャの 戦争は1864年に,イタリアとオーストリアは1865年と1866 のである。 年に,オーストリアとプロシャは1866年に,ロシアとトル 北部と南部の間にあったこれらすべての相違により,国 民は分裂する傾向にあったが,南北戦争を引き起こすおも コは1877年に,中国と日本は1894年から1895年にかけて, スペインとアメリカは1898年に,日本とロシアは1904年か な原因となったのは,奴隷問題と新しい領土の拡大と新し い州の設立,およびそれらの新しい州で奴隷制を認めるべ ら1905年にかけて,それぞれ戦争を行い,第一次世界大戦 は1914年から1918年にかけて起きた。次の戦争は比較的小 きか否かを巡る争いであった。…… 発端となったのはサウスカロライナであった。普通の考 さなものであったが, エチオピアとイタリアの間に起こり, エチオピアはイタリアに併合されて住民はその支配下に置 えからすれば,これはあり得ないことである。北部諸州が かれた。わたしは彼らが今では自由を取り戻したことを主 その数と財力に物を言わせて戦いを仕掛けるというのであ ればうなずけるのだが。合衆国の防衛のため武力を行使す に感謝している。その後,第二次世界大戦と朝鮮戦争が起 きた。〔1958年以降も多くの戦争が起こっている。東南ア る権限をアンドルー・ジャクソン大統領に与えるという法 案が議会に提出されたにもかかわらず,北部は手を出さな ジアでのベトナム戦争,アンゴラ戦争,聖地での6日戦争, しょくざい 〕 ヨム・キプール(贖 罪の日)戦争など。 かった。事の起こりはサウスカロライナである。1860年11 これらの国々,すなわちロシア,中国,朝鮮,シリア, 月10日に,合衆国上院から同州の議員を離脱,帰還させた ことが発端となり,次いで同年11月17日の州議会による州 イスラエル,エジプト,アラビア,レバノンはすべて,現 在,何らかの戦争にかかわっている。どのような結果にな 独立法案の通過へと発展,そしてついに1861年4月12日, ボーリガード将軍がサムター要塞へ攻撃を仕掛け,戦いの るのかわたしには分からないが,この啓示によれば,いつ かある地域で大戦争が起きることは確かであり,恐らくそ 火ぶたが切って落とされた。このように,戦いは預言者の の場所は今挙げたこれらの国々の中かその周辺,たぶんイ 預言どおり,北部諸州からではなくサウスカロライナから 始まったのである。 」(Commentary『注解』pp.533−535) スラエル周辺であろう。」(Conference Report『大会報告』 1958年10月,p.33) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約87:1 「間もなく起こる戦争〔は〕……つ ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,1942年に 行った講演で,南北戦争がなぜ世の終わりをもたらす戦争 いには多くの人の死と苦悩に終わるであろう」 サウスカロライナの反乱を発端とする戦争は,救い主が の始まりとなったかについて,次のように述べている。 「この大きな第二次世界大戦について,わたしたちは新聞 戻って来て平和を確立される日まで続く戦争の時代の幕開 や雑誌を通じて非常に多くのことを見聞している。前の話 けとなった。アメリカ南北戦争において,「個人的な武勇 と,また絶対数から言っても参戦人数の割合から見ても莫 の中で,わたしはこれを第二次世界大戦とは呼ばなかった と思う。これは第一次世界大戦である。1914年から1918年 大な死傷者数は,今もなお学者や軍事歴史家たちを驚かせ ている。標準3年間の兵役期間に基づいて算定すれば,約 に起きた戦争の続きにすぎないし,また第一次世界大戦で さえ,すべての始まりではない。これまでわたしは何度と 155万6,000人の兵士が北軍に従軍し,合計63万4,703人の死 なく,現在のこの戦争はキリストの再臨の前の最後の大き 傷者を出した(死者35万9,528人,負傷者27万5,175人)。南 軍には約80万0,000人が従軍し,約48万3,000人の死傷者を な戦争であると思いますかという質問を受け,その度にそ のとおりですと答えてきた。しかしそれは休戦がないとい 。 出した(死者約25万8,000人,負傷者約22万5,000人) 両軍の費やした戦費は言うまでもなく膨大なものであっ う意味ではなく,しばらくの間武器を置いてもまたすぐに 武器を取ることになるということである。そうならないこ た。両政府はともに,増税と公債募集によって戦費調達に とをわたしは望んでいるのだが,世界大戦は,1861年4月 209 に始まったのだとわたしは思う。いずれにしても,それは 続けてこのように言っておられる。『その後,戦争がすべ 世の終わりの序幕であった。…… わたしが読み上げた戦争についての章,すなわち教義と ての国々のうえに押し寄せる』と。言い換えれば,グレー トブリテンおよび上述の他の国々が援助を求めるときに世 聖約第87章の中で主が言われていることに基づいて,わた 界大戦となる。そして,実際にそれが現実となったのであ しは世の終わりの時の幕開けを,サウスカロライナの反乱 であると考える。いや,わたしがそう考えるというのは誤 る。」(Compendium『概説』pp.419−420) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこう述べ りである。主がそう述べておられる。この地で始まって, こ れ ら の こ と が 起 こ る と 記 さ れ て い る か ら で あ る 。」 ている。「南北戦争後,国々は,新しく開発されつつあっ た戦術と他国の脅威から,大いに不安を感じて,自国の防 (Signs of the Times『時のしるし』pp.138,140−141,149) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約87:3 南部諸州はグレートブリテンを呼ぶ 衛のために同盟や秘密条約を結んだ。世界大戦の勃発時に は,これらの同盟はかつてないほどの数になっていた。そ して,戦争中にさらに多くの同盟が結ばれ,地上のほとん この預言がどのように成就したかについて,ジェーム ズ・E・タルメージ長老は次のように説明している。「英 どすべての国が三国同盟か三国協商のいずれかに加わる結 果となった。1914年から1918年の世界大戦の間に,グレー 国政府と南部諸州の間に公然たる同盟は結ばれなかった が,英国政府は南部諸州を間接に援助し実質的に勇気づけ, トブリテンは民主主義の旗を擁護して諸国へ訴え,その訴 えは世界中に届いたのである。」(『教会歴史と近代の啓示』 またこれを重大な国際間の紛 擾をかもすほどに実行した。 1:361) 英国は南部連邦のために軍艦を何隻も英国の港で建造艤装 したが,その結果中立を侵したために,ゼネバ(ジュネー ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約87:4−5 主人に反抗して立つ「奴隷」と ブ)の仲裁裁判で,アラバマ事件の償金要求を落着させる ために1,550万ドルの償金を合衆国に支払った。また南部 はだれか この預言の冒頭では,奴隷問題を巡って起きた南北戦争 連邦は大英国とフランスに政府委員を派遣しようとした のことが述べられている。そこで多くの人が,教義と聖約 が,北軍の海軍士官たちはこれら政府委員が英国汽船に乗 船していたのを強制的に連れ去った。後に北部諸州はこの 87:4に述べられている奴隷は,北部に逃げ,北軍に入っ て以前の主人に対抗して戦った黒人のことだと考えてき 行為を明白なものと認めざるを得なかったが,一時は英国 ぼっ ぱつ との間に戦争勃発すべしと危ぶませた。」(『信仰箇条の研 た。その行動はこの預言の一部を成就しているが,ジョセ フ・L・ワースリン長老は,さらに成就することがあると 究』p.33) 述べている。「多くの場合,わたしたちがこれを特に南部 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約87:3 だれが他の国々に援助を求めるのか 諸州の奴隷に関することだと考えるのはもっともなことで ある。しかし,兄弟姉妹の皆さん,これは世界中の奴隷に 「それらはまた……他の国々を呼ぶ」という文の中の 「それら」がだれを指しているのかが不明瞭である。シド ついて述べているのだとわたしは思う。そしてとりわけロ シアやそのほかの諸国において国家から圧迫を受けている ふんじょう ニー・B・スペリーは,この問題を次のように説明してい る。「この節ではさらにもう一つの預言がなされているが, 人々のことであると思う。事実彼らは,ロシアや中国の政 治を牛耳る者の奴隷となり,神を礼拝し,イエス・キリス 言い回しが幾分複雑なため,たぶん見逃す読者もいること トが神の御子であることを知る権利と特権を奪われてい であろう。『南部諸州は他の国々,それも〔わたしの解釈 では「国々の一つとして」〕グレートブリテンと呼ばれて る。」(『大会報告』1958年10月,p.32) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いる国を呼び』とあって,そのすぐ後に次のような文が続 いている。『それらはまた他の国々から自らを守るために 教義と聖約87:5 はだれか 「地に残っている残りの者たち」と 他の国々を呼ぶ。 』『それら』というのはだれを指すのであ 聖典では,「残りの者」という言葉が一つの民を指す場 ろうか。それは南部諸州ではあり得ない。なぜなら南部諸 州は北部諸州とのみ戦っていたのである。『他の国々』と 合にはいつでも,イスラエルの家の子孫を指している。ニ ーファイ人とレーマン人の残りの者について救い主が特別 戦っていたのではないからである。さらに,この節ではす でに,南部諸州が他の国々を(援助を求めて)呼ぶと述べ な約束をされたために(3ニーファイ20:10,16;21:2, 4参照),多くの人は,この節はいつか立ち上がって,「異 られている。わたしには,南部諸州が援助を求めたグレー 邦人を悩ます」(教義と聖約87:5)レーマン人のことを述 トブリテンおよび他の国々,すなわちフランス,オランダ, ベルギーなどを指すと思われる。最後の引用文(『それら べていると考えてきた。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,教義と はまた』など)の明らかな意味は,わたしの解釈では次の ようになる。すなわち,南部諸州は援助を求めて他の国々 聖約87:5の預言について,これまでの歴史の中において はまだその一部しか成就されていないと見なし,レーマン を呼び,グレートブリテン,フランス,オランダ,ベルギ ーなどの国々はまた自国の防衛のために援助を求めて他の 人をただアメリカインディアンとだけ考えたり,預言が完 全に成就したと考えたりすることに対して警告を与えてい 国々を戦いに巻き込んでいくということである。わたした る。「アメリカ大陸の歴史にも,レーマン人が怒りのあま ちの多くは,実際にこの預言が文字どおりそのまま二つの 世界大戦という形で成就されたことを目にしてきた。主は り立ち上がって異邦人を悩ましたという証拠がある。この 戦いはまだ終わっていないかもしれない。アメリカ人がこ 210 第87章 の預言をアメリカインディアンに関するものであると考え してできない。なぜなら,神の僕たちは地上における主の ることは間違いであり,メキシコにも,中央アメリカ,南 アメリカにも何百万という『残りの者』がいることを忘れ 代理人だからである。」(Millennial Star『ミレニアルスタ ー』1864年6月4日,pp.361−362。教義と聖約101:81− てはならない。メキシコのインディアンたちが立ち上がり, ナポレオンが企てていた専制政治からの自由を獲得したの 95;136:34−36の「注解」参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は,南北戦争中のことであった。ナポレオンの野心は,こ の地の異邦人の間に王が立てられることはないという, 教義と聖約87:7 「サバオスの主」 「『サバオス』とは,『万軍』を意味するヘブライ語であ 『モルモン書』のヤコブの預言と相いれないものであった。 る。この語はイスラエルおよびほかの諸国の軍隊を指すこ メキシコおよびメキシコ以南の諸国の独立は,その地の 『残りの者』が立ち上がることによって勝ち取ったもので ともあれば,聖所で務めを果たす祭司,あるいは神の民全 般,さらには空の星や惑星を指すこともある。『万軍の主』 あった。しかし,この預言が完全に成就されたと考えては ならない。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:363) とは『全能の』主と同義である。わたしたちは祈るとき, わたしたちが語りかける御方は,天でも地上でも一切の権 ほかの箇所では,「残りの者」という言葉は,イスラエ 威を持っておられるということを忘れてはならない。主の ル人全般について用いられたり(1ニーファイ13:33参 照),ユダヤ人を指す場合もあれば(イザヤ37:31−32参 解釈によれば,この言葉は『最初の日の創造主,初めであ り終わりである』という意味である。 」(スミス,ショダー 照),特に末日聖徒を指す場合もある(教義と聖約52:2参 照)。したがって,教義と聖約87:5に述べられている残り ル共著,Commentary『注解』p.540) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の者は,レーマン人ではなく,イスラエルの家の人々を指 教義と聖約87:8 すと考えられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 言葉はどのような意味か ここで与えられている指示はキリストの弟子たちにあて 教義と聖約87:6 すべての国々は滅亡するのか み こと ば 「災いを予告する神の御言葉を簡単な説明で片付けてし たものであり,「荒廃をもたらす病気が地を覆う」 (教義と 聖約45:31)苦難の日に,彼らが守られることに関するも まうのはよくないと思うが,神の御言葉には,義人や義に かなった国家への確かな約束がたくさん載っている。わた のである。ハロルド・B・リー大管長はこのように約束し ている。 「自分の義務を果たしている真の神の僕は,『聖な したちはその重要さを悟るべきである。主はこの世の国々 る場所に立つように』という主の勧告に従うならば,守ら について言っておられる。主の御霊は主とその戒めを拒む 国々からほとんど取り去られ,結果的に,それらの国々は れるであろう。」(Stand Ye in Holy Places『聖なる場所に立 ちなさい』p.87) み たま 自らの力だけを頼りにし,次々に戦争を起こし,互いを手 早く破壊するためにありとあらゆる手段を手に入れようと 聖なる場所に立つようにという主の リー大管長はまた次のように記している。 「主は,この『聖なる場所』がどこにあるかを示された。 する。ところで,これらの悪を生み出しているのは主では 『悪人の中にいて,隣人に対して自分の剣を取らない者は ない。国々が自らこれらの苦難を招いているのであり,も し彼らが主なる神の律法と戒めを守らなければ,主が宣言 皆,安全のために必ずシオンに逃れて来なければならな い。』(教義と聖約45:68) された終末が訪れ,すべての国々はその最後を迎えること になる。 」(ジェームズ・E・タルメージ『大会報告』1923 シオンはどこにあるのだろうか。 主の代弁者である預言者たちは,様々な時期,すなわち 年10月,p.54) 神権時代に,様々な理由から聖徒たちの集合の地を指示し 福千年に先立つ裁きによって,地上の王国はすべて終わ りを迎える。そして神の王国が勝利を収め,平和と義の千 てきた。また,この神権時代に,主は特定の場所を指定し, 宣言を下された。『そして,ついに彼らのためにもう余地 年間の唯一の政治的権力となる(黙示11:15参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のない日が来る。そのとき,わたしが彼らに指定するほか の場所がある。シオンの幕のために,すなわちシオンを強 教義と聖約87:7 大な罪か めるために,それらはステークと呼ばれる。』(教義と聖約 101:21)…… 聖徒たちの血を流すことはいかに重 南北戦争以前に, 多くの教会員が残忍な暴徒に殺された。 しもべ 『シオン』という言葉には幾つかの意味がある。 ジョージ・Q・キャノン長老は,神の僕の命を奪うことが いかに重大なことであるかを,次のように説明している。 シオンの山と呼ばれる丘,あるいはその延長としてエル サレムの地を指すこともある。…… 「罪のない者の血を流すこと,すなわち,主の油を注がれ, 権能を授けられた僕を殺すことほど由々しい罪はない。そ エノクは, 『聖なる都』 (モーセ7:19) ,すなわち『エノ クの町』を指して,シオンという言葉を用いた。またシオ のような罪に対して主は,直ちに恐ろしい報復を与えられ ンの地は,あるときには西半球を指すものとして用いられ る。この恐ろしい罪を犯した国民で,主の報復から逃れら れた者はかつてない。主の怒りの電光により,常にそのよ ている。 しかし,シオンという語にはもう一つ最も重要な用法が うな邪悪な罪を犯す者は必ずその激しい怒りを受けて滅ぼ されている。神の僕の血を流すことは天の尊厳と創造主の ある。それによって神の教会はシオンと呼ばれている。そ れは主御自身の定義に従うと『心の清い者』(教義と聖約 権威に反する由々しい罪であり,その罰を免れることは決 97:21)という意味である。 211 人が主の戒めと,それに従う者に与えられた約束を学ぶ い』p.190) とき,どうすれば主が命じておられるように『聖なる場所 に』立つことができるか幾つかの明確な答えを得る。すな 聖なる場所とは,人が神の御霊と神の臨在を享受する所 である。各人は聖なる場所にしっかりと立ち,主が来て御 わち,主の聖なる目的に従って守りを受けて,シオンを構 成する『心の清い者』の中に数えられるようになる方法を 自身の権利を主張される日まで動いてはならない(つまず いたり,禁じられた道へそれたりしてはならない)と主は 理解できるようになるのである。」(『聖なる場所に立ちな さい』pp.22−23) 命じておられる。一人一人が「その日に堪える」(教義と 聖約45:57)ことができるよう,この恵まれた境遇を大切 リー大管長の教えから,「聖なる場所」は人がどこで生 にすべきである。 活するかということよりも,むしろ,どのように生活する かにかかわっていることが明らかである。もし神会を構成 はん りょ する聖霊を常に伴 侶 とするにふさわしい生活をするなら ば,その人はまさに聖なる場所に立っているのである。そ して,主の日が来る日まで,聖徒たちはその場所から動い てはならないのである。 シオンにふさわしい者になるという原則を神の子供たち に教えるうえで,最も大切な場所は家庭である。そこで, 両親には次のような勧告が与えられている。「家庭の夕べ で家族を教育しなさい。 神の戒めを守ることを教えなさい。 なぜなら,この時代にあって安心して生活するためには, 神の戒めを守る以外にないからである。このことを行うな くだ らば,全能の神の力が天から露のように降り,聖霊は家族 のもとにとどまられるであろう。これがわたしたちに与え られた指針である。そして御霊はわたしたちを主の聖なる 家へと導いてくれるであろう。」(『聖なる場所に立ちなさ 家庭は子供にシオンの原則を教えるのに最も重要な場所である 第88章 オリーブの葉 歴史的背景 節に付け加えられた(Kirtland Revelation Book『カートラ ンドの啓示の書』末日聖徒イエス・キリスト教会歴史部, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1832年12月27日,カートランドにおいて,預言者を含む pp.47−48参照)。 ウィリアム・W・フェルプスにあてた手紙の中で,預言 10人の大祭司が集まって大会が開かれた。シオンの建設と 者ジョセフ・スミスは,この啓示を「オリーブの葉」と呼 教会の長老の義務について主の御 心を伺うためであった。 その疑問は「預言されてきた危機の時代を考慮して」(ス び,「パラダイスの木から摘み取られたオリーブの葉,わ た し た ち へ の 主 の 平 和 の メ ッ セ ー ジ 」( History of the ミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.540)教会 はどう対処すべきかを知りたいという,彼らの切なる願い Church『教会歴史』1:316)であると言っている。オリー ブの木は平和の象徴としてよく知られており,また,この に発していたようである。 啓示には霊的な平安を得るうえで重要な事柄が数多く含ま れている。したがって,この啓示をオリーブの葉と呼ぶの み こころ 2日間続いたその大会で,預言者ジョセフはほかの9人の 兄弟たちに,天の恵みを受け,主の御心を知るにはどうし は当を得ている。 たらよいかについて教えを授けた。主が彼らの望みを喜ん でおられたことは,第88章の冒頭の箇所からはっきりと知 注 解 ることができる(教義と聖約88:2参照) 。そのため,主の み たま 御霊が彼らに注がれ,2日にわたる会期中に第88章の大部 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:2 「サバオスの主」 分(1−126節)が幾つかに分けて与えられた。残りの部分 は,1833年1月3日にジョセフ・スミスに与えられたもの で,後に,1835年版の『教義と聖約』において最初の126 212 この呼び名については,教義と聖約87:7の「注解」の 中で説明されている。 第88章 教義と聖約88:3−4 「他の慰め主」とは キー長老は,この聖句について次のように語っている。 この4つの節に書かれている約束は,大会に出席した以 下の10人に与えられたものである。ジョセフ・スミス・シ 「主は,この神権時代の特に選ばれた聖徒たちに与えられ きよ た啓示の中で,彼らの祈りの施しは,『聖められた者,す ニア,シドニー・リグドン,オーソン・ハイド,ジョセ フ・スミス・ジュニア,ハイラム・スミス,サミュエル・ なわち日の栄えの世界に住む者の名前の書に記録されてい る』(教義と聖約88:2)と言っておられる。すなわち,そ H・スミス,ニューエル・K・ホイットニー,フレデリッ ク・G・ウィリアムズ,エズラ・セア,ジョン・マードッ の人たちは『信仰によって勝利を得,御父が正しくかつ真 実な者すべてに注がれる約束の聖なる御霊により結び固め ク。これら10人は,別の慰め主を約束された。 られている』 (教義と聖約76:53)人々なのである。…… 預言者ジョセフ・スミスは次のにように説明している。 ご じゅんせつ 「二人の慰め主がおられる。一人は聖霊,すなわち五 旬 節 昔のエペソの兄弟たちと同じように,この聖徒たちは, 聖めを得る唯一の方法であるバプテスマと従順によって の日に与えられたと同じ御方で,信仰を得て,悔い改め, (3ニーファイ27:19−20),『みまえにきよく傷のない者と バプテスマを受けた聖徒ならだれでもこの聖霊を受けるこ なるようにと,天地の造られる前から』召され,選ばれて とができる。この第一の慰め主,すなわち聖霊は,知性そ いた(エペソ1:4−7)。それによって,彼らの名前は『聖 のものに働きかける以外に何の効力も有してはおられな い。聖霊は,人が理性を高め,理解の目を開き,知識を蓄 められた者……の名前の書に記録』 (教義と聖約88:2)さ れるのである。彼らは信仰と献身的な働き,また以前に交 えていくうえでより大きな力を発揮する。……しかし,肉 体に与える影響力で,人の目に見えるものは,その半分に わした条件付きの約束に従い,神に受け入れられたという 確証を受ける権利を手にしていたのである。彼らは,『永 も及ばないであろう。…… 遠の命』を受けるという確かな『約束』(教義と聖約88: ここで述べられている別の慰め主は,非常に興味深い存 在で,この慰め主について理解している人は今の世の中に 4)を受けた。永遠の命とは,父なる神,すなわち永遠の 御父が享受しておられるたぐいの生活を送ることである。 ほんのわずかしかいない。人がキリストを信じ,自分の罪 ゆる あん を悔い改め,罪の赦しのためのバプテスマを受けて,〔按 こうして彼らは,第二の慰め主を受けるように備えられる のである。 」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖 手によって〕最初の慰め主である聖霊を受けたなら,次に 神の前にへりくだり,飢え渇くように義を求めさせ,神の 書教義注解』3:338−339) このような約束だけがもたらす大きな平安こそ,オリー 言葉一言一言によって生活させなさい。そうすれば主は間 ブの葉の名にふさわしいものと言えよう。 しゅ もなくその人に,息子よ,あなたは昇栄するであろう,と 言われるであろう。主によって完全に試され,どんな困難 にあっても主に仕えると決心していることが明らかになっ たとき,その人は自分の召しと選びが確かなものとされた あかし ことを知るであろう。そうすると,聖ヨハネの証にあるよ うに,その人は主が聖徒に約束された別の慰め主を受ける 特権を得る。これは聖ヨハネの証の第14章12節から27節に 記録されているとおりである。 さて,この別の慰め主とはどなたであろうか。それは主 イエス・キリスト御自身にほかならない。これが全体の総 括となるものである。この最後の慰め主を受ける人は,イ エス・キリスト御自身の訪れ,もしくは顕現を受ける。さ らには御父の顕現をも受けるであろう。そして御父と御子 の臨在のもとに天の示現は開かれ,主が顔と顔を合わせて その人にお教えになる。したがってその人は,神の王国の 奥義に関して完全な知識を得ることができるのである。昔 の聖徒たちが栄光あふれる示現を受けたときの状態は,そ のようであった。イザヤやエゼキエル,パトモス島でのヨ ハネ,3つの天界における聖パウロ,それに長子の教会の 総集いと交わりを持ったすべての聖徒たちがそうである。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・ スミスの教え』pp.150−151) この啓示に出てくる「他の慰め主」(教義と聖約88:3) という言葉を読んで,それは第二の慰め主のことであると 考える人もいる。しかし,前後関係を見ると,この慰め主 は永遠の命について約束するものであるということがはっ きりと記されている(4節参照) 。ブルース・R・マッコン 平和の象徴であるオリーブの木 213 教義と聖約88:5 長子の教会 教義と聖約76:54の「注解」を参照する。 いた。啓示を通して与えられた神聖な言葉は,霊と体が人 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を成すと宣言している。したがって,この肉体は復活した 後も墓を越えて続くものであり,清く神聖に保たなければ 教義と聖約88:6−13 ならないということを,肝に銘じておかなければならな キリストの光とは何か ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,次のよ うに説明している。「キリストの光とはキリスト御自身で い。」(Conference Report『大会報告』1913年10月,p.117) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ はなく,体があるわけではない。わたしはこれがどんな物 質で構成されているのか知らない。しかし,これは広大な 教義と聖約88:17−20 ばならない」 空間を満たすために神の御前から発しており,もろもろの 世界を支配している。もろもろの世界を造るのもこの光で スミスとショダールは次のように記している。「日の栄 えの栄光に入るためには,死と復活を経なければならない ある。太陽や他の天体の光もこの光である。そして,この (14節)。地球もまた,日の栄えの人々の住む場所となるた み まえ 「地球は……聖められなけれ 光は草木に生命を与え,人の理解力を速め,上記の聖句に 挙げられているような様々な機能を果たしている。 めに,同様の過程を踏まなければならない(18−20節)。 …… この光は,『万物の中にあり,万物に命を与える光であ み ざ り,万物が治められる律法,すなわち御座に着き,永遠の この地球が滅亡するという考えを裏づける神の言葉は一 つもない。さて,啓示を通して明らかにされた重要な真理 懐にあり,万物のただ中におられる神の力である。 』 がある。それはこうである。地球は父なる神の臨在を受け すべての人に与えられ,すべての人を導くキリストの御 霊,すなわち真理の光に関するわたしたちの説明は以上の るにふさわしいものとなるために,すべての不義から聖め られ,日の栄えの栄光に備えられる。……地球が死の惑星 とおりである。この御霊により与えられる祝福を受けなけ れば,人の心は活気づけられないであろう。また同様に草 となってあてどもなく宇宙をさまようことはない。また, 地球が粉々に砕けて宇宙のちりとなり,この宇宙に四散す 木は育たず, もろもろの天体は軌道を運行しないであろう。 ることもない。地球はいずれ日の栄えの栄光によって光り なぜならこの啓示によれば, これら万物はこの真理の御霊, 真理の光によって支配されているからである。 輝く存在となり,復活した人々の住む所となるのである (20節)。」(『注解』p.543) 主は『世に来るすべての人』に真理の光,すなわちイエ ス・キリストの御霊の導きを与えられる。そこで,もし人 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:21−24 ふさわしい栄光を受けるため がこの御霊の声に耳を傾けるなら, その人は真理に導かれ, に律法に従う 真理に接するとそれが真理であることが分かり,それを受 け入れるであろう。わたしたちはこの具体例を何千何万と ジェームズ・E・タルメージ長老は,従順と祝福の関係 について,次のように説明している。「わたしたちがどの 目撃している。彼らは世が吹き込む偏見や伝統を越えて探 求するよう導かれ,探求したいという望みを示している。 ような祝福を受けるかは,地上でいかなる律法に従うかに よって決まる。わたしたちは報いも罰も同じような調子で けれども,人がキリストのもとに行くことを拒むなら, 主から不義な者と見なされ,罪の奴隷となる。わたしは, 話すが,この二つはいずれも,律法の働きを通してもたら されるものである。主は,偉大な真理について説明を加え 自分の宗教に満足しているので探求する気はないと言う人 て,王国と栄光の段階に関してすでに啓示されていた事柄 を見るにつけ,それはその人が与えられた真理の光に目を 向けていない証拠である,と考えている。というのは真理 に言及し,次のような趣旨のことを言われた。もしも人が 日の栄えの律法に従えないか,あるいは従わない,すなわ の光に目を向ける人なら自分の偽りの宗教に満足するはず はなく,真理を求めるはずだからである。 」(『救いの教義』 ち日の栄えの律法の要求するところに従って生活すること ができない,あるいは意識的に従わないならば,日の栄え 1:51−52) の王国から放逐されるときに自分だけ見逃してもらうこと ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:15 「霊と体が人を成す」 ができると考えてはならない。なぜならその王国の律法に 従えなかったのだから,そこに住むことはできないのであ ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように述べてい る。「肉体は人間という存在の重要な一部分であるという る。同じように月の栄えの律法に従えない,あるいは意識 的に従わない者が月の栄えの王国に自らの場所を見いだせ 教えは,末日聖徒が奉じる神学に特有のものである。辞典 ないのは道理である。また,さらに低い律法すなわち星の や百科事典を読んでみなさい。そうすれば,霊と体が人を 成すという神聖な永遠の真理を教えているのは,イエス・ 栄えの律法に従って生活することができなければ,その人 は栄光のない王国へ送られるであろう。わたしは,主の計 キリスト教会しかないということが分かるであろう。一般 に,魂という言葉は人間の霊的な部分を指す言葉であり, 画が一貫して秩序立ったものであることと,主の啓示がわ たしたちに与えられていることを心からうれしく思ってい 不朽性を備え,肉体が造られる前から存在し,肉体が朽ち た後も存在し続けると信じられている。しかし,それは人 る。」(『大会報告』1929年10月,p.69) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 間という存在のすべてを示す言葉ではない。一部を表して 教義と聖約88:25−26 いるにすぎない。それはいわゆる霊のことを指している。 人は皆,肉体という幕屋を受ける前は,霊として存在して えの律法に従うのだろうか 「火種となるものさえあれば,この地球と同じような数 214 地球はどのようにして日の栄 第88章 多くの世界を焼き尽くすに十分な量の可燃性の物質と熱と 理と光を受け,ついに……栄光を受け」る(教義と聖約 が存在する。しかし地球については,ここでは,『それを 生かす力に堪える』(26節)と書かれている。地球はその 93:28)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 火に堪え,精錬する者の火をかいくぐってきた金や,燃え 盛る炉から出された美しい焼き物のように,聖められ復活 教義と聖約88:28 日の栄えの霊とは何か ブルース・R・マッコンキー長老は,日の栄えの体と日 した状態で炎の中から出てくる。こうして清められた地球 は,復活して日の栄えの栄光を受ける人々の住む所となる。 の栄えの霊の関係について,次のように定義している。 「福音の要求するところに完全に従った人々の肉体は日の 彼らはかつて地上で受けていたと同じ体を与えられ,日の 栄えの状態にまで高められ, 同時に日の栄えの霊を受ける。 栄えの栄光によって生かされる(28節)。人は皆相応の栄 光を受け,それによって生かされるのである(29−31節) 。 そして復活のとき,すなわち『肉の体であったその同じ体』 (すなわち,再新された体,御霊により聖められた体,日 〔地球は〕その創造の目的を達する。どのような物か, どのような人かを問わず,この世に存在する目的に忠実に の栄えの体)を再び受けるとき, 『日の栄えの霊を持つ者』 は日の栄えの栄光によって生かされ,日の栄えの王国にお 従っている被造物は,日の栄えの律法に従っていると言え るのではないだろうか。逆に,創造の目的に反した行いを したり,神の御心に反して自分の体を用いたりするのは, い て 受 け 継 ぎ を 得 る の で あ る ( 教 義 と 聖 約 88: 28)。」 (Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.118) L・トム・ペリー長老は,そのような日の栄えの世界を 律法を破ることなのである。」(スミス,ショダール共著 『注解』p.545) 受け継ぐにふさわしい要因は現世での生活ぶりの中にはっ きり出てくると,次のように述べている。「神の王国の民 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ であるかのように生活しようと努める者と,人の定めた標 教義と聖約88:27 うに違うのか 「霊体」と「霊的な体」はどのよ 準によって生きようとする者との間には確かに明らかな違 いがある。人がより高い標準に従って生きようと決意する ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,総大会 の席上,この二つの違いを次のように説明している。 とき,その容貌や行動,人と接する態度,隣人と神に対す る奉仕の仕方にはそれと分かる変化,目に見える違いがあ 「現代における盲人を手引きする盲目の教師たちは,霊 的な体がどのようなものかについて非常に誤った考え方を る。聖典には,主の律法に帰依した人々の生活に劇的な変 化のあったことが,数多く記されている。」(『大会報告』 している。彼らが自分たちの教えの根拠にしているのは, 1979年4月,p.16) 人間の体は霊の体によみがえり,肉と血とは神の王国を継 ぐことができないというパウロの言葉である。彼らの頭に は,死からよみがえった体が肉と骨とから成り,血ではな く霊によって生かされるということなど思い浮かびもしな いのである。パウロが言った霊の体とは霊体のことを指し ているのではない。彼らはこの点において間違いを犯して いる。つまり,霊的な体と,霊だけの体とを混同している のである。…… わたしたちの体は復活後は,霊によって生かされるよう になる。それは実体を有する聖めれらた体であり,なおか つ,肉と骨とから成る体である。しかし血は流れていない。 血ではなく,永遠に朽ちることのない霊によって生かされ る体となり,不死不滅となって決して死ぬことがない。」 (『大会報告』1917年4月,pp.62−63) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:28 人は復活のとき,どのような体を もって出て来るのか 預言者ジョセフ・スミスは,人は皆復活のとき,現世で 得ていたその同じ体を得ると,次のように教えている。 「一つの人体組織が,この世においてであれ後の世におい てであれ,ほかの人体組織に混入するという原則は存在し ない。……わたしたちの体,すなわちわたしたちの体の根 源となるものがほかの体に混入すると考える人があるなら ば,それは誤りである。」(『教会歴史』5:339。アルマ 11:43−44;40:23−25;1コリント15:35−54参照)人 は自分がどのような水準の律法に従ったかにより,それに ふさわしい栄光の体によみがえる。戒めを守る人は,「真 L・トム・ペリー長老は,人が改心したかどうかは生活の中に 現れると語った 215 教義と聖約88:32−35 「取り残されている者」とは ち個人個人の証は,福音の学究と理解という基礎の上に成 だれか 第32−35節は,栄光を受ける資格のない者,すなわち滅 り立つもので,この証は,わたしたちを己を捨てて奉仕す る生活へと導くものだからである。そしてその証の最も清 びの子に関するものである(教義と聖約76:26−31の「注 められた状態というのが,主の大いなる名に栄光を加えた 解」参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いという理由から福音の諸原則に従って生活しているの だ,という崇高な思いを抱いたときなのである。」(“Cast 教義と聖約88:36 れている」 Your Burden upon the Lord” New Era「重荷を主にゆだねな さい」 『ニューエラ』1977年1月号,p.4) 「すべての王国には律法が与えら 「わたしたちは,どの空間も何らかの『王国』に属し, それぞれの王国は律法によって統治されているとここで告 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:40−50 神はすべてのことを悟ってお げられている。また,その律法はそれぞれの王国の状態に られる ふさわしいものである。中には普遍的な律法もある。引力 の法則や,『心をつくし,精神をつくし,思いをつくし, ジョセフ・F・スミス大管長の時代に第一副管長を務め たチャールズ・W・ペンローズ長老は,次のように述べて 力をつくして,主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛する ようにあなたの隣り人を愛せよ』といった,道徳に関する いる。 「一つの体を有し,同時に2か所以上の空間には存在 し得ない御方が,どうして民の様々な祈りを聞き,ダビデ 重大な律法などがその例である。効力の及ぶ範囲が限られ の言葉にあるような理解の仕方ができるのかと,ひどく考 た律法もある。それらの律法は,その状況によって様々に 異なる。わたしたちは,王国という言葉から,宇宙に浮か え込んでしまう人がいる。ダビデはこのように言っている。 『わたしの舌に一言もないのに,主よ,あなたはことごと ぶ惑星や天体のことを考える。『すべてのことを悟ってお り,万物は彼の前に』(41節)あると言われる神は,すべ くそれを知られます。……わたしが天にのぼっても,あな よ み たはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても,あ てを治める力を有しておられる。神は,定められた時にこ なたはそこにおられます。わたしがあけぼのの翼をかって れらすべての王国を訪れられるのである。」(スミス,ショ ダール共著『注解』pp.548−549) 海のはてに住んでも,あなたのみ手はその所でわたしを導 き,あなたの右のみ手はわたしをささえられます。』(詩篇 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:37−39 正しい理由に基づいて律法に 139:4,8−10)こうした言い回しは幾分比喩的ではある が,一つの重大な真理が含まれていることも確かである。 従うことの大切さ つまり,神は,そのみもとから発して広大な宇宙に満ちる ロバート・L・シンプソン長老は次のように語ってい る。「わたしたちは様々な理由から正しいことを行う。単 御霊の力を通して,いつどこにでも存在することがおでき になるのである。また,神はその力によって万物を目にし, に,悪いことをして罰を受けたくないからという理由で, 正しいことをする人もいる。だが,わたしたちが,何か罰 認識することがおできになるのである。それは,『高価な 真珠』の中で,神御自身がエノクとモーセに語っておられ を恐れて正しいことをする場合,わたしは,その根拠はき わめて不安定なのではなかろうかと思う。『わたしは,正 るとおりである。モーセとエノクは二人とも,それぞれ上 げられて,ある程度まで神と同じ視野に立って物を見,数 しいことを行うようにずっと教えられてきたから,正しい え切れないほどの神の創造物を目にすることができたので ことをするんです』と言う人もいるかもしれない。だが, そのような理由づけも,他人の話の上に,人の証の上に成 あった。人がこの世界の微粒子や,この世界のような幾百 万の世界を数えることができたとしても,それは神が創造 り立っているのであって,わたしには,それよりもっと成 熟する必要があるように思える。わたしが思うのは,わた されたものの数の始めにも至らないと,エノクは感嘆の声 を上げている。それに対して主は,『わたしの目はそれら したちは,他人の証に頼るのではなく,自分自身の証を持 を貫くこともできる』(モーセ7:36)と答えておられる。 つ必要があるということである。『ただわたしの両親を喜 ばせたいから,正しいことをしたいんです』と言う人がい 神はその御霊の力によって,すべてを目にし,悟り,理解 することがおできになる。そして,すべての被造物を見守 るのも聞いている。わたしたちは皆,自分の両親を喜ばせ たいという希望は持つべきであるけれども,その理由だけ り,憐れみを施されるのである。」(『大会報告』1915年10 月,pp.37−38) ひ ゆ あわ では,永遠を通じてずっとわたしたちを支え切ることがで 『モルモン書』や『教義と聖約』の聖文では,人間の時 きないのではないかと思う。ただ主の戒めに従順でいたい から,正しいことをしているんだ,と言う人がいるのも聞 と神の時は同じではないことが示されている(アルマ40: 8;教義と聖約38:1;130:4−7参照)。 いていよう。これはこれで,きわめて高い,貴い目的であ る。もちろんこれには,その従順が個人的な確信を伴わな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:51−61 このたとえは何を意味してい い盲目的な従順ではないという条件が付く。わたしにとっ るか モーセは示現の中で,救い主がこの地球と同じような世 て最もふさわしいと思われる理由は,天父に栄光を加えた いということである。わたしたちがどのような動機から行 界を数多く創造し,そこにも人々が住んでいるのを見た 動を起こそうと,わたしは,最終的には,個人個人の証を もってこれを補足する必要があると考えている。わたした (モーセ1:27−29参照)。これらの世界に住む人々は皆, 神の息子,娘であり,神の目から見て大切な存在である。 216 第88章 救い主は,そのすべてに対して責任があり,時と時期に応 教義と聖約88:62−65 じて彼らのもとを訪れられるのである。オーソン・プラッ ト長老は,次のように説いている。「主は,自ら教えたい 正しい祈り方,また主に聞き届けていただくための祈り 方について,スミスとショダールは次のように述べてい 正しい祈りとは と思われた事柄をわたしたちがよく理解できるように,こ れらの王国について説き明かそうとされた。そして,わた る。 「主の助けがどうしても必要になったときに,ご都合主 したちの限られた理解力を補うために,主はたとえを用い しもべ られた。……『主がある僕のところから別の僕のところへ 義的な祈りをする人があまりにも多い。しかし,主はこう した人々に近づかれることはないであろう。また,彼らの 行くという意味が分からない』と言う人がいる。これを理 願いを聴くのを遅くされるであろう(教義と聖約101:7− 解するために,話をこの地球に戻して考えてみよう。わた したちは,いつの日か主がわたしたちのもとを訪れて,お 8参照)。…… 神の王国にあって祈りほどすばらしいしきたりはない。 よそ千年の間わたしたちとともにいてくださるのを心待ち にしてはいないだろうか。そのとおりである。そのときわ 預言者ジョセフほどこの祈りに精通した人はかつてなかっ た。世の多くの人々は,祈りとは,神から何かをもらうた たしたちは主の顔の輝きによって喜びを得るであろう。主 めの手段にすぎないと考えている。 それもほとんどの場合, はわたしたちの中にいて,わたしたちの王となられる。そ して,王の王,主の主として統治されるのである。主はシ 物質的なものを願い求めるための手段としか考えていない のである。その祝福が与えられれば,祈りはこたえられた オンに一つの御座を設け,またエルサレムの神殿にもう一 つの御座を設けられる。主のそばには,かつて主がエルサ と言い,与えられなければ,神は祈りを聞いてくださらな かったと言う。ある人はこう言っている。『そのような考 レムで教え導かれたときにともに働いた12人の弟子がいる え方があまりにも愚かで,事の表面しか見ていないもので であろう。彼らは主と同じ食卓で飲食をされる。そして, シオン,すなわち心の清い者と呼ばれるにふさわしい,こ あることは歴然としている。祈りはそのような教えを越え た奥の深いものである。人が魂の奥底から神に語りかけ, の地上のすべての人々は,地が休息する千年の間,主の顔 を仰いで喜びを得るのである。その後はどうなるのだろう 神がそれに対して御言葉を発すると表現することもできよ う。したがって,祈りとは,人が成し得る最も深遠ですば か。主はこの地球を離れられる。何のためにそうされるの だろう。別の目的を果たされるためである。地球のほかに らしい行為であり,その中に全宇宙が集約されると言って も過言ではない。……』 み こと ば も創造された世界が数々あって,そこにも地球に住む人々 『あなたがたがわたしの名によって父に求めるもの…… と同じようにすばらしい神の息子たちや娘たちがいる。そ の人たちもまた主の訪れを受けて,主の顔を仰いで喜びを は何でも……』これが神に受け入れられる祈りである。主 の名によって祈るとは,主に属する者,主に受け入れられ 得ることであろう。このように,主は時と時期に応じて, 王国から王国,一つの世界から別の世界へと巡って,それ た者として願い求めるということである。また,御霊の勧 めに従って祈るということでもある。あなたにとって『必 らから選び出されたシオン,すなわち心の清い人々がみも 要なもの』であれば,神はその祈りに耳を傾け,与えてく とで喜びにあずかれるようにされるのである。 ところで,もう一つ理解しておいていただきたいことが ださるのである(64節参照)。町の物乞いの惰性的な訴え と,自分の息子の友人からの頼みとでは大きな違いがある。 ある。このような時期は永遠には続かないということであ る。これはさらに偉大な事柄の準備にすぎないのである。 後者の場合であれば,息子からの頼みと同じ気持ちで聞く であろう。したがって,その人は自分にとって良いものを それは何だろうか。やがて定められた本分を果たし,現世 与えられる。ホール監督は,それについて実によく的を射 の状態の時を終わると,それぞれの世界とそこに住むふさ わしい人々はともに日の栄えの状態となり,栄光を授けら たことを述べている。 『神が求め,また見ておられるのは,どのくらい多く祈 れるのである。それ以後,聖められ栄光を受けた人々と神 との間を隔てる幕は永遠に取り除かれる。そして,もはや るかということでもなければ,いかに美しい言葉で祈るか ということでもない。また,祈る時間や祈る声の美しさで 主は一つの世界から別の世界に移り行く必要がなくなる。 彼らは皆,主のもとにいるからである。」(Journal of Dis- もないし,論理性,秩序正しく整っていることでもない。 まして,書物に定められたとおりの祈りなどではない。 courses『説教集』17:331−332) たとえ求めるものを与えてくださらない場合でも,神は ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:63−83 平和のメッセージ わたしたちの福利に心をかけておられる。祈り求めた結果, よからぬものを受けたとしたら,それは自分自身に非があ この啓示はまさしく,救い主から末日聖徒に与えられた 平和のメッセージ,すなわち「オリーブの葉」である。こ るからである。」(『注解』pp.551−552) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の中で主は,人が主に受け入れられ,末日の裁きを逃れる 教義と聖約88:67−68 のに必要な福音の原則を明らかにしておられる(教義と聖 約88:84−116参照)。主は,第117節から126節の中でも, ような祝福が約束されているか イスラエルの家に属するすべての人は,自分たちの王に 若干の補足をしながら,これと同様のことを繰り返し述べ ておられる。 まみえ,その臨在にあずかる権利を持つ。これは自らを聖 めようとする人に与えられている特別な約束である。神に 自分自身を聖める人にはどの まみえることができるという約束は,『教義と聖約』に何 217 か所か出てくる。しかし,汚れた者は神とともに住むこと はできない。したがって,神にまみえ,神のもとに戻るた めには,聖められなければならない。 「『聖め』という言葉については,『あなたがたの思いが すぐにも必ず起こること──預言 国内にあること,国外にあること──自国の政治,外国 の政治 戦争と諸国民の混乱,地上にある裁き──時のしるし。 ひたすら神に向いたものとなるように』 と述べられている。 主が人の救いのために働いていたときに考えておられたの これによって主の日が近いことを知ることができる。 国々と王国に関する知識──自然地理学,政治地理学, は,御父の栄光のことだけであった。主の道を歩み,いつ いかなるときも『あなたに誉れがありますように』と心か 言語など 主は,わたしたちがこれらの事柄についても学ぶ必要が ら言える状態こそ,聖められた状態であり,聖徒と呼ばれ るにふさわしい状態なのである。 」(スミス,ショダール共 あると考えておられる(教義と聖約88:80引用)。神は, すべての僕が医師や教授になるように求めたり,あるいは 著『注解』p.552) 上記の各分野において深い学識を身に付けなければならな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:69 笑うのは悪いことか いと言っておられるわけではない。世の人々に対する神の 使者としての召しを立派に果たすために,必要な知識を身 教義と聖約88:121の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に付けておくようにと望んでおられるのである。」(Priesthood and Church Government『神権と教会政体』pp.55−56) 教義と聖約88:76 断食と祈りをどのように続けるか 教義と聖約88:77−78には,聖徒が互いに王国の教義を 「これは奉仕の業への備えとしてぜひとも必要なもので ある。主の教えによると,自己犠牲と神との交わりを通し 熱心に教え合うならば,ほかの事柄についてもさらに完全 な教えを受けることができると記されている。 て霊性と信仰を強められた人でなければ,打ち勝つことの ない邪悪な霊が存在する。したがって,主の僕にとって断 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:87−91 末日になぜ天変地異が起こる 食と祈りは非常に重要なものである。主の僕たちの断食と のか 祈りによって,アルマは話すことができるようになり,手 足を強められた(モーサヤ27:22−23)。また,ニーファ この啓示が与えられてから1年ほどして,聖徒たちはミ ズーリ州ジャクソン郡を追われた。 主はこのとき預言者に, イ人も断食と祈りを通して,『ますます謙遜になり,ます ますキリストを信じる信仰を確固としたものにした』(ヒ 聖徒が苦難に見舞われたのは,「彼らの背きのゆえ」 (教義 と聖約101:2)であると告げられた。 けん そん ラマン3:35)のであった。 末日になぜ多くの厳しい裁きが世に下されるのか,その 断食はいつの時代にも,悲しみと嘆きのしるしとして行 われてきた。心に悲しみがあれば,食欲は普段よりもなく 理由をジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次の ように説明している。 なる。国中が惨禍に見舞われた場合や,あるいは罪を犯し た人が自分自身の状況を自覚した場合に,それを真剣に受 「災難,苦難,惨禍,不況……を人類に被らせることは 主の御心ではない。人類が神の戒めを破り,義の道を歩も け止める人であれば,食べることも含めて,心を楽しませ る一切のことを控えるようになるのは,きわめて自然であ うとしないので,主は上記のような災いが人類を襲うのを 許されるのである。…… る。しかし,長老たちは嘆きのしるしとしてだけでなく, 主は喜んで,人類に地のすべてを与えると今の時代に宣 喜びのしるしとしても断食をするように求められている。 これも当然と言えば当然のことである。心に喜びが満ちて 言された。 事実主は人類がそれを活用することを喜ばれる。 人類を導くために主が与えられた律法に人が耳を傾け,従 いれば,長い間,食べることも忘れてしまうからである。 御霊が注がれた長時間の集会に出席した経験のある人な いさえすれば,主は豊かに人類を祝福されるのである。と ころが人は主に反抗し,進んで律法を守ることによって祝 ら,それが分かる。主は民に,断食していることを人にひ 福を得ようとしないし,主が豊かに与えようとしておられ けらかしてはならないと警告しておられる。『あなたがた は断食をする時には,自分の頭に油を塗り,顔を洗いなさ る地の産物を受けようともしない。逆に心が狭く近視眼的 どんよく で,貪欲かつ利己的な人類は主よりもよく物事を知ってい い。』(マタイ6:16−18)」(スミス,ショダール共著『注 解』pp.554−555) ると考える。そのため,別の道をたどることになり,主の 祝福が取り上げられ,代わりに災難,破壊,疫病に見舞わ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れ,暴動が起こることになった。非難を受けるべきは人類 教義と聖約88:77−80 の重要性 この世的な事柄に関する知識 である。 ……主〔は〕地の民から御霊〔キリストの御霊〕を取り ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように述べてい る。「長老たちは,神学だけでなく,次のような分野にも 上げると宣言された……。主は民が不義を行っているので この御霊を取り去られた。主の御霊が取り上げられると疫 関心を向けなければならない。 天のこと──天文学 病やその他流血,戦争などここに挙げたすべての災いが起 こるのである。」(『救いの教義』3:25−26) 地のこと──耕作に関するすべての事柄 地の下のこと──鉱物学,地質学など かつてあったこと──歴史全般 218 第88章 教義と聖約88:91 「必ず人々は気落ちする。恐れが すべての人に及ぶからである」 主は以前に与えられた啓示の中で,「備えていれば恐れ 著『注解』p.560) 1843年4月に開かれた大会の説教の中で,預言者ジョセ フ・スミスはこのしるしについて, 次のように語っている。 ることはない」(教義と聖約38:30)と言っておられる。 「戦争と戦争のうわさがあり,上は天に,下は地にしるし しかし,世の人々は,十分な備えもしないまま主の裁きを が現れる。太陽は暗くなり,月は血に変わり,地震が方々 受けることになるであろう。罪はノアの時代のようにはび こり,人々には言い訳をする余地がない。悔い改めるよう にあり,海はその境を越えて打ち上げる。それから天に人 の子の大いなるしるしが現れる。しかし,世の人々はどう にとの警告が発せられたのに,耳を傾けようとしなかった するであろうか。彼らは,あれは惑星だ,いや,すい星だ からである。世の人々は主の裁きが公正で,言い訳も逃げ 隠れすることもできないことを知り,ひどい恐怖に襲われ などと言う。しかし,人の子はその人の子の来臨のしるし のように来られる。あたかも朝の光が東から射すように。」 ることであろう。ニーファイ人も同じような警告と裁きを 受けたことが,モルモン書第1−6章に記されている。 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.286−287) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:94 教義と聖約88:92−110 主の天使が吹き鳴らすラッ パの音の意味するものは何か 行いの母」を縛る 花婿の訪れに備えるようにとの警告があった後,ラッパ 教義と聖約77:12の「注解」を参照する。 「地の毒麦」である「忌まわしい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を吹き鳴らす7人の天使の最初の者が,「あの大きな教会, すなわち……忌まわしい行いの母」は縛り上げられたと宣 教義と聖約88:93 言する。この「教会」は,「悪魔の教会」であり,しばし 人の子の来臨のしるし 「〔教義と聖約88:92に述べられている〕これらの使者が 証を述べ終わるとすぐに,太陽に似た一つの大いなるしる ば「大きな忌まわしい教会」と呼ばれている。すなわち, 人々をキリストとその福音から引き離し,王国における救 しが天に現れて, 世界中の人々がそれを目にするであろう。 主はそれを『人の子のしるし』(マタイ24:30)と呼んで いを得させまいとする人々を指す場合に用いられる表現で ある。 「地の毒麦」であるこの「教会」の滅亡については, おられる。…… かしら そのしるしが現れるとき,神はその時代の教会の頭であ 教義と聖約86:1−7の「注解」に採り上げられている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ って預言者,聖見者,啓示者として働く人に,その意味を 教義と聖約88:95−98 明らかにし,また彼を通じて御自身の民と世の人々にその 意味を知らしめられるであろう。 」(スミス,ショダール共 れ,日の栄えの復活が起こるに先立って,「天に静けさが ある」 キリストが栄光をもって来ら 天使が「長くかつ高く」(教義と聖約88:94)ラッパを 吹き鳴らした後,「半時間,天に静けさがある。」(95節) オーソン・プラット長老は次のように言っている。「ここ で言われている半時間が,わたしたちの計算で言う30分な のか,あるいは主の計算に基づく半時間なのか,わたした ちには分からない。 聖典の中で言われる時間という言葉は, かなり長い期間を指すのに用いられている。例えば,わた したち末日聖徒は,11時,すなわち第11の時期に住んでい ると言われている。 天に静けさがある半時間という時間は, 人間がそれに対して持つ概念とは異なり,かなり長い時間 を指しているのではないかと思われる。 〔主にとっての1日 は人の1,000年に相当するという,主の時の計算方法にそ のまま従うならば,この『半時間』とは約21年になる。〕 天に静けさがあるこの期間,すべてのものが完全な静寂に 包まれる。この半時間の間は,天使も空を飛ばない。ラッ パの音もしない。天上でも一切音がしない。しかし,この 大いなる静寂の直後,あたかも巻き物が開かれるように, 天の幕が開かれるのである。壁にかけた地図を見慣れてい る生徒たちは,それには巻き上げるためのローラーが付い ていて,使いたいときにはローラーを回して地図を引き下 ろすのを思い浮べるかもしれない。それと同じように天の 幕が開かれて,人々は日の栄えの人々が雲の中に現れるの ま を目の当たりにするのである。主の顔が現れ,生きている 人々は身を変えられて空中に上げられる。墓にいる聖徒は 「神の天使が吹き鳴らすラッパの音」(教義と聖約88:98) 出て来て,身を変えられた人々とともに空中に上げられ, 219 そのときに姿を現す日の栄えの人々のただ中に立つ。これ が主の来臨のときの最初の実と呼ばれる人々である。」 (『説教集』16:328) 教義と聖約88:102 「なお汚れたままの者」とはだれ か 滅びの子も復活はするが(アルマ11:41;2ニーファイ このとき,日の栄えを受ける人々の復活が起こる(教義 9:22;1コリント15:22参照),それはすべてほかの人々 と聖約88:28の「注解」参照)。主の来臨のときに日の栄 えの律法に従って生活している人々は,身を変えられて空 が復活した後に起こる。星の栄えにあずかる者と同様,彼 らは復活するまで地獄で苦しみ続けなければならない。彼 中に上げられ,主やすでに復活していた人々にまみえるの である。この人々は,その身が変わり聖められはするが, らは復活した後,再び地獄に落とされる(教義と聖約76: 31−39,43−49参照)。 この時点では不死不滅の状態にはなっていない。彼らの体 は,「地球〔が〕更新されて楽園の栄光を受ける」 (信仰箇 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:103−106 主の業は勝利を収める 条1:10)主の福千年の統治の間この地球に住めるように 地球が創造される以前からサタンは,神とその子供たち 備えられる。この出来事の後,彼らは地上に戻り,死すべ き人として生活するのである。 に対して戦いを挑んできた。 サタンは神の計画を滅ぼして, 自ら神の王国と栄光を奪い取ろうと画策してきた(イザヤ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:99 「キリストの来臨の時にキリスト 14:12−13;教義と聖約29:36;76:28−29;モーセ4: 1−4参照)。しかし,サタンがその目的を達することは決 のものとなる者たちの贖い」とは何か。「獄において彼ら してできない。サタンに従う者たちを含め,神の創造物は の分を受けた者」とはだれか この聖句は,月の栄えの復活に関するものである。日の すべて,最後には神の主権を認め,神に従うようになるの である。サタンの王国は倒れ,神とキリストの王国は勝利 栄えの復活に続いて,「主と,主に会うために取り上げら れた者が地上に下った後,もう一つの復活が起こる。これ を得る。 「神の小羊は……御独りで酒ぶねを……踏まれた」(教義 は少し遅れて起こるが,第一の復活の一部と考えることが と聖約88:106)という聖句については,教義と聖約133: できる。この復活で,主に会うために取り上げられる資格 はないが,よみがえって福千年に住まう資格のある月の栄 46−51の「注解」の中で説明されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ えの定めに属する者が出てくる。…… 第一の復活にあずかる権利を持つ人々で,また別の部類 教義と聖約88:107 聖徒は神の栄光をもって満たさ れ,「小羊と等しい者とされる」 の人々がいる。彼らは,完全な福音を受け入れることを拒 神の息子や娘は,その両親に似た者となる可能性を備え み,長子の教会の会員ではないが,高潔な生活を送った 人々である。 ている。 パーリー・P・プラット長老は次のように語っている。 あがな またこの中には,律法なくして死に,したがって主の戒 めを破ったことに対して罰を受けない人々も含まれてい 「死人の中からよみがえり,日の栄えの栄光に満たされて 完全な者となる人はすべて,肉体的にも,知的にも,属性 る。」(『救いの教義』p.273) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ においても,また力においても,すべての面で天の両親に 似た者となる。 教義と聖約88:100−101 星の栄えにあずかる者の 神の子供として,神の属性を宿して生まれてきた人間に 復活 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう とって,神という根源,目標,頂点に到達するためには, 少しずつ自らを進歩成長させ,高めていく以外に道はな に述べている。「偽りを言う者,魔術を行う者,姦淫を行 う者,偽りを好みこれを言う者はこのときに復活しない。 い。」(Key to the Science of Theology『神学への鍵』p.20) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 彼らは千年の間地獄に投げ落とされ,そこでもし可能で 教義と聖約88:108−110 あれば,苦しむことによって罪の代価を支払うまで,神 の怒りを受けることになる。」(『救いの教義』2:273− される ここでは,最後にはすべてのことが明らかにされるとい 274) 彼らは,地獄で自分自身の罪の代価を支払い,正義の要 う真理が述べられている。「すべてのものはわたしととも にある。わたしはそれらすべてを知っているからである」 かん いん かぎ すべてのことが明らかに 求を満たした後,地獄から引き出されて復活する(教義と (モーセ1:6)と語られた神は,すべてのことを明らかに 聖約76:103−106参照)。彼らは福千年の間地上に住むこ とはできない。「その間,自分の罪のため苦悩のうちに, する力を持っておられる。自分たちの行いは隠しおおせる から罪に問われることはないと考えて,人に隠れて邪悪な すなわち心を痛めながら過ごすのである。…… この苦難は洗い清め浄化するための手段であって,これ 行いをしてきた人々は,やがてその望みを絶たれる。神の ラッパが鳴り響いて,地上での出来事が千年ずつの各期 により邪悪な者もイエス・キリストの贖いを受けて不死不 滅となることができる。彼らの霊と体は再び結合し,星の に分けて明らかにされ,すべてのこと,すなわち人の心の 思いと志までが覆いをはがれ,人々に知らされる。ある 栄えの王国に住むことになる。しかしこの復活は世が終わ 人々にとって,これは恐るべきことである。しかし,自分 る時まで行なわれない。 」(『救いの教義』2:274) の身を聖く保って奉仕の業に働き,ひそかに人々のために 愛と思いやりを示し,犠牲を払った人々にとっては,大い 220 第88章 なる喜びの時となる。そのとき,すべての人は神が公正な 御方であることを知る。神とその僕が正しいことが証明さ れる。そしてすべての人が,神とその民はひたすら全人類 の福利を願っているということを知るのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:110 サタンは福千年の間縛られる 教義と聖約43:31の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:111−115 いには打ち負かされる サタンと彼に従う者はつ オーソン・プラット長老は,福千年が終わり,ゴグとマ ゴグの戦いが始まるときに,「民の中に甚だしい分離があ る」と言い,さらにこう続けている。「そのとき,聖徒の 数は,かつてなかったほどにおびただしいものとなろう。 そして,今のわたしたちと同じように,地の四隅から一か 所に集められる。…… サタンもまたその軍勢を集める。……サタンとその軍勢 は,聖徒とその町に攻め寄せ,彼らを取り囲む。サタンの 軍勢はきわめて勢力が強く,四方から聖徒を攻め寄せるこ とができるほどである。やがてサタンは聖徒たちの陣営を 取り囲む。この最後の大きな戦いの中でサタンは有利な形 勢,軍勢の大きさから判断して,自分が勝利を得て地球を 支配し,我が物にできると信じて疑わない。サタンは神の 計画の全容を完全に理解していないのである。」(『説教集』 18:346) サタンの軍勢に加わる者は,「レーマン人のように,何 も分からずに反逆するのでもなければ,信仰がないままに 堕落していくわけでもない。 彼らは故意に天の律法を破り, 罪を犯すのである。そうした人々に対してサタンは強大な カートランドにおける預言者の塾 かった。預言者が彼らに教え始めたのは,彼らが与えられ ている大いなる業を遂行できるよう備えるにはどう生きれ 勢力を振るい,彼らを呼び集めて,聖徒とその町に立ち向 ばよいか,ということであった。 」(『注解』p.567に引用) 1833年8月には,パーリー・P・プラットを教師として, かわせる。しかし,結局は天から火が下って,彼らはこと ごとく焼き滅ぼされる。 」(『説教集』16:322) ミズーリ州インディペンデンスにおいて「シオンの塾」が 組織された(教義と聖約97:3−5の「注解」参照) 。また, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:117−141 「あなたがた自らを組織 後に聖徒がユタに移住したとき,ブリガム・ヤングはこの しなさい」 なら 初期の塾に倣って,長老の塾を設けた。 スミスとショダールは次のように述べている。教義と聖 主が定められた預言者の塾は,1833年2月に組織された (教義と聖約86:127参照)。預言者,使徒,およびそのほ 約第88章の後の方の部分には,「預言者の塾の中ではどの ように振る舞うべきか,その規律が明らかにされている。 かの長老たちは,「最良の書物から知恵の言葉を……研究 によって,また信仰によって」(118節)互いに教え合うこ この塾は,教会の奉仕の業に召されたすべての人々のため とになった。この塾に参加した人々は,異国の言葉を語る など,「主の御霊の現れを幾度も受けた。」(スミス,ショ ダール共著『注解』p.567) ブリガム・ヤング大管長は次のように述べた。「預言者 の塾の参加者は初めはわずかであったが,預言者はその 人々に教義を教え始めた。昔の預言者たちが語ったように, の 彼らが世に出て行ってすべての民に福音を宣べ伝え,地の 四隅から選民を集めることができるよう,彼らに備えをさ せるためである。これは長老たちに神の言葉と教えを伝え る備えをさせるものであって,この世における日常の生活, 個人的な生活を営むのに必要な教えを授ける場ではなかっ た。商人であれ,農夫であれ,機械工であれ,あるいは金 融業者であれ,そのようなことについては何も教えられな になるようにとの目的で開設された(127節)。この塾内の すべての事柄に関する秩序と法式に注意してみよう。この 塾は神の家となり,それにふさわしく尊ぶべきものであっ た。」(『注解』p.567)ここに記された秩序と法式は,特に 預言者の塾に与えられたものであるが,その多くはきわめ て普遍的なものである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:121 「あなたがたのすべての軽々しい 話……軽薄……をやめなさい」 「人の心を明るくする笑いは神の認めるところであり, 適度な笑いは健全で,人を啓発する。おおむね人生で体験 することには,『泣くに時があり,笑うに時があ〔る。〕』 (伝道3:4)…… しかし,主の業に携わる者は,『あなたがたの無益な思 221 いと過度の笑いを遠くに捨ててしまいなさい』(教義と聖 けられている神聖な召しと,永遠の真理を正しく理解する 約88:69)と命じられている。たまに気晴らしに笑うのは よいとしても,普段は『永遠の厳粛さ』(教義と聖約43: ことの必要性とについて,次のように述べている。 「神に関する事柄は非常に重要であり,時間と経験を積 34)に心を向けるべきである。安息日には過度な笑いを控 えるようはっきりと言われている(教義と聖約59:15)。 み重ね,細心さと謹厳さをもって物事を考える人しかこれ を見いだすことはできない。霊を救おうと思う者は,至高 預言者の塾においても,長老たちは礼拝し,学ぶときには, 『すべての高笑い』をやめるようにと命じられていた(教 の諸天の高みを極め,また底知れぬ暗黒の淵と永遠の真理 の広大さを探って目を注ぎ, 神と交わらなければならない。 義と聖約88:121)。聖 餐 会をはじめ神聖な集会において 人間の限られた想像力に比べ,神の思いの何と高貴なこと は,必ずこの慎みを保つように求められている。」(マッコ ンキー『モルモンの教義』p.432) か。人を粗末にするのは愚か者だけである。 わたしたちの思い,大会,会議,集会,個人的な話,公 時と場をわきまえた笑いは罪ではない。それでも節度を 保つことが必要である。ブリガム・ヤング大管長は次のよ 的な場での話の中には,何と価値のない,ふまじめなもの があったことか。創世の前から神の御心に従って召され選 うに語っている。「わたしは楽しくしているのが好きだ。 ばれた者の高潔な人格としてはあまりに不似合いな,粗野 心が喜びに満ちているのはよいものである。ただし,その 喜びや楽しさがまったく意味のないものであるとしたら, で品がなく,野卑で,卑屈なものがあったことか。」(『預 言者ジョセフ・スミスの教え』p.137) わたしはむしろ厳粛な態度をとっていたいと思う。 命と死,忠実と背教,崇高と滑稽の差は紙一重である。 預言者ジョセフは長老たちに,「まじめに義にかなって 主の前を歩み」「軽薄さを捨て」るように教えた(『預言者 …… ジョセフ・スミスの教え』p.326)。 せい さん 空しい高笑いをしてはならない。 」(『説教集』9:290) ジョセフ・F・スミス大管長は,思慮に欠けたささいな きんげん ふち ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約88:124−126 肉体と霊の健康に関する 言動が不適切な行為にまで発展し,主の御霊を失わせるこ とになる危険性について警告している。「主はわたしたち 一般的な定め 「この段落の教えはすべて,注目に値するものである。 に,高笑い,軽薄さ,ふまじめな態度を遠ざけて,節度あ る民となり,神の王国に関する事柄について深く考えるよ 知恵の言葉の中に含めてもよいものである。怠惰を罪とし, 清潔にすべきことを説き教え,あら探し悪の一つとして挙 うに命じられた。それはわたしたちが,福音の輝かしい真 げている。また, 『必要以上に長く眠るのをやめ』,早寝早 理を理解するためにすべての点で備えられ,来るべき祝福 に準備を整えることができるようにするためである。…… 起きを励行し,『あなたがたの体と精神が活気づけられる ように』と定められている。しかし,このすばらしい定め わたしは聖徒たちにも娯楽が必要であると信じている。 しかし,それは適切な種類のものでなければならない。主 は破られることが非常に多い。夜間照明や遅くまで上映す る映画館が夜を昼に変え,人々から自然な睡眠のいくばく がわたしたちに,しかめっ面をし,信心ぶった見せかけを かを奪い,同時に肉体的,また精神的な活力の一部を奪っ するように望んでおられるとは思えない。わたしが考える に,主はわたしたちに明るくはつらつとした表情でいるよ ている。 がい とう 『外套のように』愛をまとうことという最後の戒めに注 うに望んでおられるのである。しかし,粗野で見苦しい態 度を常として,世の人々を楽しませるむなしく愚かなこと 意してみよう。小さな布切れではない。大きな覆いをかぶ るのである。なぜならば,慈愛は『完全と平和のきずな』 を追い求めるようには望んでおられない。それとは反対に, だからである。慈愛すなわち兄弟愛は,人を完全と平和に 主はわたしたちの適切な永遠の幸いを願って戒めを与えて こられたのである。 」(『大会報告』1916年10月,p.70) 導く。常に祈らなければならない。主が来られるときまで 忠実でいるためには,ぜひとも祈りが必要である。 」(スミ 預言者ジョセフ・スミスは,聖徒たちが主の民として授 知恵の言葉 ス,ショダール共著『注解』p.565) 第89章 歴史的背景 る。「わたしはその場に居合わせたわけではないが,だれ よりも知恵の言葉が与えられたときの事情をよく理解して ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いると思う。最初,預言者の塾は,預言者ジョセフの家の ブリガム・ヤング大管長は,知恵の言葉として知られる 啓示が与えられたいきさつについて,次のように語ってい 台所の上にある小さな部屋で開かれていた。この家はホイ ットニー監督所有のもので,15平方フィート(約4.5平方 222 第89章 メートル)の店に隣接していた。台所はこの店の裏にあり, ろう。主は憐れみ深い御方である。律法として定める前に 恐らく10×14フィート(約3×4.2メートル)ほどの広さ で,幾つかの部屋と食糧貯蔵室が付いていた。この台所の 克服の機会を与えられたのである。この知恵の言葉は,後 にこの壇上から,ブリガム・ヤング大管長により啓示であ 2階が,預言者が啓示を受け,兄弟たちに訓告を与える部 屋である。兄弟たちは11×14フィート(約3.3×4.2メート り,主の戒めであると宣言された〔Discourses of Brigham Ypung『ブリガム・ヤング説教集』pp.183−184参照〕。」 ル)ほどしかない小さな部屋で開かれる塾に出席しようと, はるばる数百マイルも旅をしてやって来た。そして,朝食 (ジョセフ・F・スミス,Conference Report『大会報告』 1913年10月,p.14) の後でこの部屋に集まったとき,彼らはまずたばこに火を ヒーバー・J・グラント大管長は,知恵の言葉が正式に つけた。そして,たばこの煙の中で王国の偉大な事柄を語 り合ったのである。また,部屋中至る所につばきを吐いた。 戒めになったことを強調し,これに従順でない人々に次の ように警告した。「主が末日聖徒を励ましてくださる日は パイプのたばこがなくなるや,今度はかみたばこである。 このような状態だから, 預言者が講義をしに部屋に入ると, 過ぎ去った。主は,御霊はいつでも人を励ますわけではな い,と言っておられる。」(Gospel Standards『福音の標準』 み たま 部屋の中が煙でかすんでいることがしばしばであった。こ pp.55−56)知恵の言葉を授けられた時点ですでに教会員 のことと,彼の妻が床が非常に汚れていつも掃除をしなけ ればならないと不平をこぼしたことから,預言者はこの件 になっていた人々は,生活をそれにふさわしいものに変え るための時間を主から与えられたが,現在は,聖徒と呼ば について思い巡らし,長老たちがたばこを吸うことに関し て,主に伺いを立てた。その結果下されたのが知恵の言葉 れることを望む人は皆,この戒めを守るように求められて いる。 として知られる啓示である。皆さんはそれがどのようなも ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のであるかを知っているし,読みたいときはいつでも読む ことができる。」(Journal of Discourses『説教集』12:158) 教義と聖約89:2 知恵の言葉は人の「現世の救いに関 み こころ する」神の御 心をどのように示しているか 注 解 完全な喜びを確かなものとするのに必要な霊的賜物を天 父から授かるには,主が与えてくださる現世の救いの約束 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:2 知恵の言葉は,現在では戒めとなっ を求めることができるように,思いも体も清める努力をし なければならない。知恵の言葉を守る者に与えられる現世 ているか における恵みとしては,健康,活力,体力,持久力の増進 知恵の言葉の啓示が与えられたのは1833年2月27日であ るが,それが一人一人の教会員に受け入れられるまでには がある( 『説教集』12:156のブリガム・ヤングの約束を参 照)。さらに次のようなことも挙げられる。純潔の喪失な 経緯があった。啓示が与えられてから約18年後の1851年9 月9日,大祝福師ジョン・スミスは聖徒たちに,知恵の言 どの肉欲の罪へ導く誘惑に抗するさらに強い力(グラント 『福音の標準』p.55参照),有害なものに金銭を浪費せず貯 葉に関して一つの話をした。彼の話の後でブリガム・ヤン 蓄をすること(『福音の標準』pp.50−52),肉体を冒す グ大管長が立ち上がり,総大会に集った会衆に向けて,す べての末日聖徒は,茶,コーヒー,たばこ,ウイスキー, 様々な病気に対する抵抗力の増進。 しかし,知恵の言葉を守る人に与えられる祝福が物質的 また「知恵の言葉に挙げられたすべてのもの」を口にしな いと正式に聖約を立てるようにとの提案をした(“Minutes なものと肉体的なものだけであると考えるのは,知恵にか なってもいないし,正しくもない。ジョセフ・フィールデ of the General Conference” Millennial Star「総大会議事録」 ィング・スミス大管長は次のように述べている。「人の子 『ミレニアルスター』1852年2月1日,p.35)。この提議は満 場一致で受け入れられ,以後全教会員に対して拘束力を持 たまもの らの現世における救いは,非常に重要なことである。しか し悲しむべきことに,宗教を説く多くの教師がこれを軽視 つものとなった。 教会の神聖な儀式を執行するための推薦状を望む人は, している。ほんとうは,現世の救いは,多くの人が考えて いるよりもはるかに強い影響力を霊的な救いに及ぼすので 監督やステーク会長との個人面接において,ふさわしさ, すなわち,主の戒めに対する従順さを確認される。知恵の ある。物質的すなわち肉体的な事柄と霊的な事柄との間に 明確な境界線を引くことは難しい。主はいまだかつて現世 言葉を守ることも,そのふさわしさを示す不可欠の要件で にかかわる戒めを与えたことはないと言っておられる。人 ある。事実,どの末日聖徒にとってもこの戒めに対する従 順さは,ふさわしさを測る一つの尺度であり,知恵の言葉 間にとっては,これらの戒めのあるものは現世にかかわる ものと思えるかもしれないが,主にとっては霊のものであ は戒めとして受け入れられているのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。なぜならそれは皆,人間の霊の幸福,永遠の幸福に関 係するものだからである。」(Church History and Modern 教義と聖約89:2 主はなぜ「戒めや強制としてではな Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:383)知恵の言葉 く」と言われたのか 「これが命令や禁制としてではなく,知恵の言葉として を守り, 「神の宮」 (1コリント3:16)を清く保つ人は,世 の誘惑と戦うときに聖霊の励ましを受けることができるの 与えられた理由は明らかである。すなわち当時,もしもこ の知恵の言葉が命令として与えられたならば,これら有害 である。 福音を学ぶ者ならだれでもはっきりと理解するはずであ なものを常用していた人々は罪に定められてしまったであ るが,戒めは従順を求め,不従順は御霊の喪失を招き,霊 223 の健康の喪失は肉体の健康の喪失よりもはるかに重大な結 ばこ会社はうら若い女性に紳士のたばこに火をつけさせる 果をもたらす。この点について,スティーブン・L・リチ ャーズ長老は次のように述べている。「神の律法はすべて, 場面を映画の中に登場させた。その次は,たばこを持った り,それに火をつけたりする女性の手が広告に出てきた。 本質的に霊にかかわる律法である。肉にかかわる戒めとい そして1,2年してすぐに,彼らは厚かましくもスクリーン うものはない。それは現代の啓示から知ることができよう (教義と聖約29:34−35参照)。戒めがたとえわたしたちの や広告板に,たばこを吸う女性を登場させたのである。… … 肉体や現世の事柄に関係していても,それはすべて本質的 に霊にかかわるものである。知恵の言葉は霊的な律法であ 世の親たちはこの誘惑のとりこになるが,後に自分の子 供たちがどうしようもないたばこ狂になると,それを嘆く る。この律法は確かに有害な物質の使用のことを採り上げ, また肉体上の健康を得る方法について規定している。しか ようになる。 」(『大会報告』1949年10月,pp.185−186) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しながら,この律法を守ることにより得られる最大の利点 教義と聖約89:5 は,信仰が深まり,霊的な力と知恵が増し加えられるとこ ろにある。同様に,この律法に背いたときに生じる最も悲 ような結果を生むか 「地球上を,特にアメリカを,酒魔が牛耳っている。泥 劇的かつ有害な影響は,霊にかかわるものである。信仰が 損なわれ,霊的成長を阻まれるという霊に加えられる害と 酔すれば理性を失い,分別をなくし,判断力や物を見る目 は鈍くなってしまう。こうして千鳥足で破滅へと向かうの 比較すれば,肉体上の害は取るに足りないものであろう。 である。 そこで申し上げるが,すべての戒めは霊的成長にかかわり を持つのである。申し上げるが,すべての戒めは霊にかか 飲酒は家庭を狂わせる。飲酒とともに貧困が訪れ,病気 や疫病が襲う。飲酒は貞潔をどこかへ押しやり,正直や取 わる原則を含んでいるのである。」(『大会報告』1949年4 月,p.141) り引き上の公正な態度も失わせてしまう。飲酒は真理を退 け,良心をおぼれさせる。飲酒は悪のボディーガードであ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ り,それに触れるすべての者にのろいをもたらすのであ 教義と聖約89:3 めか る。 かつて世界は戦争によって大きな苦しみを受けた。しか 知恵の言葉はすべての人が守れる戒 ぶどう酒や強い飲み物の飲用はどの 知恵の言葉を守れるかどうかは,その人の望みにかかっ ている。だれでもその意志があれば守ることができる。そ し飲酒は,それ以上の嘆きと悲しみ,心の傷,家庭の崩壊, 犯罪,死者をもたらし続けている。 」(J・ルーベン・クラ して,それを守ることにより,祝福としてさらに力を授け ーク・ジュニア『大会報告』1942年10月,p.8。キンボー られ,さらに容易に守れるようになるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ル『赦しの奇跡』pp.60−61参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:4 陰謀を企てる人々の心にある「悪と もくろみ」は現在どのような形で表れているか 教義と聖約89:5−6 昔聖餐に用いられていたぶどう酒 はどのような種類のものか 「今日,邪悪な人々の悪ともくろみは,至る所にその姿 を見せている。それはたばこ,茶,コーヒー,酒,ビール, 主は聖徒たちに,聖餐のために「ぶどう酒も強い飲み物」 も買ってはならない,「あなたがたの中で新たに造ったも ぶどう酒の広告に見ることができる。また,調理済み食品 ののほかは,何も飲んではならない」と言われた(教義と の広告にも見ることができる。何十年か前にこの状態が非 常に深刻になり,政府で問題が審議され,議会はそれまで 聖約27:3−4)。スミスとショダールはこの聖句について 次のように説明している。「聖餐会で『純粋なぶどう液』 に生じていた悪弊を抑制する法案を可決した。これらの純 食料法は非常に有益な結果をもたらしているが,法の網の を使用することは許可されていた。しかし,『純粋なぶど う液』とは,発酵して品質が低下していない純粋なぶどう こん にち ゆる せいさん 目をかいくぐる道は今なお存在するのである。」(スミス の液でなければ,一体何であろうか。ヘブライ語とギリシ 『教会歴史と近代の啓示』1:384) この啓示の中で,主は「終わりの時に陰謀を企てる人々」 ャ語の13もの言葉が, 『聖書』の中では『ぶどう酒(Wine)』 という単語で表現されている。純粋なぶどう液や飲む前に の「悪ともくろみ」について警告を与えられた。デビッ ド・O・マッケイ大管長は,自分が生きてきた時代にこれ 水で割る必要があるぶどうの濃縮液もあれば(箴言9:2, 5参照),没薬や催眠薬やアヘンのような薬物を加えて酔い らの悪が次第に勢力を広げてきたことについて,次のよう やすく強くしたぶどう酒もあった(箴言23:30;イザヤ に語っている。「わたしは今世紀の20年代と30年代に,そ の〔啓示の〕意義深さを強く感じた。たばこ会社が女性に 5:22参照)。『知恵』が友人たちを招いて自由に飲むよう に勧める,水や牛乳で希釈した純粋なぶどう液や(箴言 喫煙を勧めるために用いた方法を思い出してみていただき たい。 9:2,5参照),『ジャム』または『ゼリー』と考えられる 『久しくたくわえたぶどう酒』もある(イザヤ25:6参照) 。 彼らが自分たちの計画をいかに狡猾に展開してきたかを 思い出していただきたい。彼らがまず初めに言ったのは, 『純粋なぶどう液』は酔うことのない無害な液体である。」 (Commentary『注解』p.572) こうかつ たばこは体重を減らすということだった。そして,『甘い 多くの聖書学者は以下のような論旨をもって,この見解 物より,たばこを口に』というスローガンを打ち出した。 後には,映画好きの人たちが気づいたことであるが,た を支持している。蜜とも呼ばれるこの濃厚な液は,普通は 発酵していない。発酵していたとしてもその程度は微々た 224 第89章 るものである。これを水で薄めたものは「混ぜ合わせた酒」 1966年12月,p.464) と呼ばれ,味もよく,飲み物として用いられた。聖餐に用 いられたのは大体この種のぶどう酒である(スミス,Dic- 喫煙は体に有害であるだけでなく,霊的な面での影響も ある。律法を知っている教会員の場合は,特にこのことが tionary of the Bible『聖書辞典』pp.746−747;カイル,デリ ッチ共著『注解』第5巻:詩篇 “Paslms 75: 10, 11”「詩篇 言える。ジョージ・アルバート・スミス長老はこう述べて いる。「わたしの判断では,人によってはささいなことと 75: 10, 11」 p.341; 第 6巻 : 箴 言 , 伝 道 の 書 , 雅 歌 “Proverbs”「箴言」p.198,“Proverb of Solomon”「ソロモン 考えるこの喫煙の習慣が,霊的な生活を破壊し,御父の御 霊の導きや善良な人々との交わりを失わせ,親が自分の子 。 の箴言」p.122も参照) 供から軽んじられ非難される原因となっている。にもかか ぶどう酒の説明に用いられるヘブライ語が,発酵作用を 表していると信じる学者もいる。というのは,その言葉が わらず,悪魔は人に,それはささいなことだと言うであろ う。」(『大会報告』1918年4月,p.40) 「濁った」あるいは「泡立つ」という意味に訳されている からである。しかし,この泡立ちは「ぶどう液が圧搾場か ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:8 「たばこは……打ち身とあらゆる病 ら大きなおけに泡を立てて流れ込むときの様子として特 気の家畜に利く薬草であり」 有」のものであり,人間が圧搾場で踏みつけることによっ て泡立った液が出てくるという古代のぶどう酒製造法を考 アルコールと同様に,たばこにも病気の動物に効くある 種の薬効がある。熟練した人が使えば,たばこの湿布は家 えると,これは発酵作用というよりも,濁りによるものと 解する方が妥当である。(ファローズ,Bible Encyclopedia, 畜の打撲や切り傷の治療に役立つ。 アルコールとたばこは, 主が定められた場所と目的に従って用いるべきである。 s.v. “wine”『聖書百科事典』「ぶどう酒」の項) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:7 体を洗うために用いる強い飲み物 教義と聖約89:9 「熱い飲み物」とは何か この言葉に関する初期の兄弟たちの説明を見てみよう。 アルコールは,傷口を消毒するのに非常に役立つ薬品で ある。すなわち,けがをした部位の洗浄に用いるとき,そ 預言者の兄ハイラム・スミスはこう述べている。「『熱い飲 み物は体や腹のためにならない』という聖句についてであ の本来の役目を果たすのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るが,多くの人はこの意味が判然としないままでいる。茶 のことなのか,コーヒーのことなのか,それともほかのも 教義と聖約89:8 のなのかということである。わたしは,茶とコーヒーのこ たばこは体のためにならない ある末日聖徒の医師は,たばこが人間に及ぼす生理学的 な影響について次のように述べている。 とであると申し上げる。 」(“The Word of Wisdom” Times and Seasons「知恵の言葉」『タイムズ・アンド・シーズンズ』 「医学的にも心理学的にも,たばこの有害性を示す証拠 が,これまで何度も提示されている。それに加えて最近で 1842年6月1日,p.800) 預言者ジョセフ・スミスもこれについて質問されたと は,喫煙と肺癌の因果関係も明らかになってきた。たばこ き,次のように答えている。「主は知恵の言葉の啓示の中 に関しては,興味深く,注目に値する発見が次々となされ ている。E・A・マーフィーとJ・F・マスタードの研究 で『熱い飲み物』としか言っておられないとして,茶やコ ーヒーの飲用を正当化している人がいるのを知っている。 によれば,喫煙を長く続けている人はたばこを吸わない人 よりも,放射線の影響に耐える力が弱く,さらに喫煙は血 主が言われた『熱い飲み物』とは,茶とコーヒーのことを 指しているのである。」(ウイッツォー,Word of Wisdom がん 液を作る骨髄の機能にも悪影響を及ぼすということであ 『知恵の言葉』pp.85−86) る。A・J・シェーファーは,たばこを吸う母親とそうで ない母親とを比較し,早産の率が前者に高く,早産で産ま ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:9 コーラは知恵の言葉によって禁じら れた子供の死亡率も同様であることを指摘している。A・ R・リンデスミスとA・I・ストラウスによると,一般的 れているのか コーラのように,習慣性を持つ薬物やカフェインを含む に,たばこを吸わない人は喫煙者よりも,『堅実で,信頼 でき,仕事熱心で,夫婦関係も安定して』おり,統計的に ソフトドリンク(アルコール分を含まない清涼飲料)はど うなのだろうか。知恵の言葉には特にソフトドリンクは挙 見ても夫婦間の問題が少ないことを示す裏づけが数多くあ げられていないが,教会の指導者による公式声明には,次 るという。 こうして,『たばこは体のために……ならず』という主 のように述べられている。「コーラの飲用に関しては,教 会として決して公式に立場を表明してこなかった。 しかし, の言葉が確かであることを,純粋に科学的な見地から立証 する事実が次から次へと明らかにされつつある。ニコチン 教会の指導者たちは,習慣性となる有害な薬品を含むいか きょう なる飲料も使用しないよう勧告してきたし,今日特にそれ を大量に摂取すると神経系統に影響を及ぼし,ひどいけい を強く勧告するものである。肉体に有害な成分を含むいか れんを引き起こすこともあり得る。また喫煙する人は,血 液中の酸素量が少なくなることによって,実際にいる地点 なる飲料も避ける方がよい。」(Priesthood Bulletin『神権会 報』1972年2月,pp.4−5) よりも1,500メートル高い所で活動するのと同じ状態にな る。」(W・ディーン・ベルナップ “Tabaco and the Spirit of Man” Instructor「たばこと人の精神」『インスタラクター』 225 教義と聖約89:10−11 知恵の言葉にはなぜもっとは の生長期と収穫期にしか食べてはならないと主張する人が っきりした指示が書かれていないのか 主はコカイン,LSD,ハッシシ,マリファナなど,有害 いる。この言葉の真意はそうではない。食べるのに不適切 なものであれば,1年のうちのどの時期かに関係なく,そ な薬物の使用を禁ずる啓示を与えてはおられないが,ジョ の季節を外れているということである。りんごを例に採れ セフ・フィールディング・スミス大管長はその理由を次の ように述べている。「そのような啓示は不要である。知恵 ば,良い実は収穫を待つばかりであるが,木から落ちて, 傷がついたり,腐ったりしたものはその季節を外れている の言葉は基本を説いた律法である。知恵の言葉はわたした ちに道を示し,食べ物や飲み物について,体に良いか悪い のである。 」(スミス『教会歴史と近代の啓示』1:385) ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように説明してい かという点に関して十分な指示を与えている。もし主の御 霊の助けを得て,ここに書かれていることを真剣な気持ち る。「果物と野菜について述べた『それぞれの季節』とい う言葉は,実に様々な推測を生んでいる。それは,現代科 で読むならば,これ以上の勧告は必要ではない。…… 学によっても明らかにされている新鮮な食物のすばらしさ 戒めを守る人には霊感と主の御霊の導きが約束されてい る。それによってわたしたちは,体のために良い物と悪い を示しているのであって,季節が外れているとはいえ,適 切な方法で保存された果物や野菜の利用を禁止するもので 物とを区別した詳細なリストを主から示されなくても,自 分でその判断ができるのである。そして,これを忠実に守 はない。 」(Evidences and Reconciliations『証言と和解』3: 157) ることによって,主の約束が果たされることを知るように 現在では,保存技術のおかげで,「季節の」食べ物のほ なる。」(Improvement Era『インプルーブメント・エラ』 1956年2月号,pp.78−79) とんどが年間を通して食べられるようになっている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:10 健康に良いすべての草は,人間が 教義と聖約89:11 草や果物は「思慮分別と感謝をも って」用いなければならないのはなぜか 用いるために神が定められたものである すべてのことについて戒めを受ける必要はない。この啓 「草」とは,滋養になり人間の健康のためになる野菜や 植物のことである。教義と聖約89:5−9には,人間のため 示の中で主から与えられた指針に従えば,その食生活にお いて何をどれほど食べるのがよいか,知恵にかなった判断 に良くないものについて警告が書かれているが,10−17節 には健康維持のために用いるべきものが挙げられている。 をするのに不足はない。 「ほかの啓示では(59章),『思慮分別をもって,度を越 これらは,神が「人間の体質,体力,利用」(10節)のた さず,貪欲に取ることなく使うように』とある。人類家族 めに定められたものである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のほとんどが抱えている問題は,主の勧告を心に留めずに 食べ過ぎてしまうことである。健康に良い食物の利用に関 教義と聖約89:11 「それぞれの季節」という言葉に はどのような意味があるか する主の勧告を心に留めるならば,病気にかかる人の数は 減り,寿命が延びることであろう。 」(スミス『教会歴史と 「この聖句の意味が分からずに混乱し,穀物と果物はそ 約束を伴う原則 226 どんよく 近代の啓示』1:385) 第89章 教義と聖約89:12 肉は控えめに用いる いは聖徒と呼ばれ得るすべての聖徒の中の弱い者および最 「知恵の言葉は菜食主義の制度ではない。肉を用いるの が許されているのははっきりしている〔教義と聖約42: も弱い者の能力に適するもの』であると述べられている。 2.病気への抵抗力を含めて,体が丈夫になることは,賢 18〕。当然,卵や牛乳,チーズなど,肉よりも腐敗などの 問題が発生しにくい動物性食品も含まれることになる。具 明な生活を送る結果として得られるものである。3.明晰 な思考力は,健康な肉体がもたらす賜物である。4.霊的 体的に明記されていないという理由だけで,これらの食品 を除外する必要はない。それらを除外することになれば, な力は,自分の欲求を制し,正常な生活をし,神を仰ぎ見 て生活するすべての人に与えられる。」(Program of the ほかの食料品もほとんど口にできなくなる。」(ウィッツォ Church『教会のプログラム』pp.39−40) ー『証言と和解』3:156−157) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:18 「数々の戒めに従順に歩む」 教義と聖約89:13 「冬季や寒いときや飢 饉 のときの ほか,これらを用いないこと」 ブリガム・ヤング大管長の時代に十二使徒定員会会員で あったエズラ・T・ベンソン長老は,知恵の言葉に関する き きん この聖句を読んで,肉を夏に食べてはいけないのかと思 通常の解釈を拡大して,次のように述べている。「知恵の う人もいるであろう。肉は非常に脂肪分などが多い食物で あり,熱とエネルギーを与えてくれる。しかし,夏には冬 言葉の啓示について初めて聞いたとき,わたしたちの多く は,それは茶やコーヒーを飲むことだけに適用されるもの ほど熱やエネルギーを必要としない。知恵の言葉が啓示さ れた当時, 肉の保存技術はまだまだ原始的なものであった。 だろうと考えた。しかし知恵の言葉は茶やコーヒー,たば こ,ウイスキーだけにとどまらず,この民を堕落させるた 腐った肉を口にすれば命取りになることもある。それでも, めにもくろまれたすべての罪悪にも及ぶものなのである。 冬は夏に比べれば腐敗しにくい。今では進んだ冷凍技術に よって,肉を凍らせ,どの季節でも食べることができる。 知恵の言葉には,みだらな行い,あらゆる種類の不節制, またこの世の人々の間に広く見られる罪悪や忌まわしい行 肉食に関して大切なのは「控えめ」にすることである(教 義と聖約89:12)。 為をやめることなども含まれる。厳密に言えば,それは神 の戒めを守り,神の口から出る一つ一つの言葉に従って生 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:14−17 「すべての穀物は人間と獣が きることなのである。 」(『説教集』2:358) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 用いるように……定められている」 教義と聖約89:19 最も重要視されているものとして,小麦,米,とうもろ こしがあるが,穀類には実に様々な種類がある。ほかにも, 科学上の発明や発見の多くは,預言者ジョセフ・スミス に福音が回復されて以来人類に注がれてきた新しい光と知 大麦,きび,もろこし,からす麦,ライ麦などがある。 人間は世界中の至る所で穀類を食料にしているが,家畜 識に帰し得るものである。しかし,末日聖徒も関係するは るかに大切な知識がある。リグランド・リチャーズ長老は の飼料としてもよく用いられている。穀類は人間の食物と 次のように問いかけている。「神は生きておられ,イエス しても,動物のえさとしても欠くことのできないものであ る。 はキリストである。神の王国は地上に再建された。また, 神は御自分が与えたすべての戒めに対して報いを約束して ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約89:18−21 知恵の言葉に従うのはなぜ大 おられる。主なる神は,わたしたちが神から命じられたこ との一部だけでなくすべてを成し遂げることを証明できる 切か ように,わたしたちのためにこの地球を創造された。わた 教義と聖約89:3には,この啓示は「約束を伴う原則」 として与えられたものであると述べられている。この「原 したちがこの世で探し求めるべき知識の宝として,これら の知識以上に価値あるものがほかにあるであろうか。」 「知恵と,知識の大いなる宝」 則」とは,従順,すなわちこれらの言葉を「覚えて守り」 (敬い,心に留め,忘れない)かつ「行う」ということで (『大会報告』1961年4月,p.46) ジョージ・アルバート・スミス大管長は,知識の大いな ある。 この約束が意味するのは,肉体的なことよりも,霊的な る宝が与えられるという約束が文字どおりに成就したこと を次のように指摘した。 「1944年2月号の『インプルーブメ ことである。肉体の健康に関して約束されている祝福は, ント・エラ』に,合衆国各州の人口に対する科学者の出生 より霊的に重要な事柄を達成するための仲立ちにすぎない (教義と聖約76:5−10参照)。どのような祝福を受けるに 比率を比較した表が載せられました。まさかと思われるか もしれないが,低い所から順々に見ていくと,上から2番 しても,神の律法への従順という条件を満たさなければな らない(教義と聖約130:20−21参照)。悪を企てる罪深い 目にマサチューセッツ州の名が出てくる。ユタ州はその上 である。ユタ州は,マサチューセッツ州に20パーセントの 人々だけが,わたしたちに知恵の言葉を破らせ,忠実な者 差をつけ,人口との比率において,ほかのいかなる州より への神の約束を受けさせまいとするのである。 ジョン・A・ウイッツォー長老は,約束された祝福を次 も多くの科学者を輩出している。これは偶然ではない。主 の戒めを守った結果として,神の約束が成就されたのであ のように分類している。「知恵の言葉を守ることに対する 報いは4つに分けられる。1.自制心が強められる。これに る。」(『大会報告』1945年10月,pp.21−22) ついては第3節に,知恵の言葉は『現在聖徒である,ある 227 教義と聖約89:21 「主なるわたしは彼らに一つの約 覚え,数々の戒めに従順に歩むすべての聖徒たち』を過ぎ 束を与える」 J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,この約束 越していくであろう。またこれらの約束を享受する資格の まっと あるすべての者は,人生を全うし,永遠にあって最高の昇 の意味を次のように説明した。「これは,知恵の言葉を守 れば死を味わわないことが保証されると言っているのでは 栄を受けるに必要なすべての経験と知識を得る。そしてこ れらすべての者は,自分の務めを終えるまで生き長らえ, ないし,そういう意味でもない。なぜなら,永遠の計画に おいて死は誕生と同格のものだからである。これは永遠の その報いとして神がみもとにお呼びになるまで地上にとど まるのである。」(『大会報告』1940年10月,pp.17−18) 定めである〔1コリント15:22;2ニーファイ9:6参照〕。 知恵の言葉がもたらす最大の祝福は,それを守る人が主 しかし,その昔に堕落したエジプト人をその悪のゆえに悩 ましたように〔出エジプト12:23,29参照〕,不義な人々 の前に清い器とされるということにある。主はそのような 人に輝かしいすべての祝福をこの世においても,来るべき の罪を罰するために滅びの天使が訪れるのは事実である。 しかし滅びの天使は,『これらの言葉を守って行うことを 世においても授けてくださるのである。 第90章 神 託 教義と聖約90:4−5 歴史的背景 神託とは何か 神託とは,主から与えられる啓示である。したがって, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,知恵の言葉として知られる 「神託を受け入れる」ということには,啓示の力を得ると み こころ いう意味のほかに,主の御 心 を明らかにする預言者を受 啓示を受けてから約1週間後,再び主と交わり,教義と聖 約第90章として知られる啓示を受けた。ただし,この啓示 け入れるという意味もある。教会全体のために啓示,すな わち神託を受ける権能を持っているのは大管長だけであ が与えられた理由については一切説明されていない。この る。主はかつて,オリバー・カウドリにこの原則を教えて しもべ 次のように言われた。「わたしの僕ジョセフ・スミス・ジ 啓示について,ジョセフ・フィールディング・スミス大管 長は次のように言っている。「これは最も重要な事柄を含 ュニアのほかに,だれもこの教会で戒めと啓示を受けるた んでいる啓示の一つであり,この神からのメッセージにも あるように,兄弟たちの祈りを通して下されたものである めに任命される者はいない。彼はモーセのように戒めと啓 示を受けるからである。」(教義と聖約28:2)ジョセフ・ と思われる。この啓示は,預言者の罪が預言者自身の嘆願 ゆる どおりに赦されたという記述で始まっている。赦された理 スミスの後に預言者の職を受け継いだ人々は,その職にあ る間王国の鍵を行使する権威を受け,時に応じて啓示を受 由として『あなたの祈りとあなたの兄弟たちの祈りがわた けながら教会を導いてきた。 しの耳に達したので』とある。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:387) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に記している。「この主の言葉によって,神託はジョセ 注 解 フ・スミスを通して教会に与えられるという主御自身が言 われたことが成就した。預言者は亡くなる数か月前に,主 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の命によりノーブーに十二使徒を呼び集め,自分に託され 教義と聖約90:1−5 「王国の鍵」とは何か イエスはこの地上で御業に携わっておられたときに,ペ ていたすべての鍵と権能を彼らに授けるようにとの御言葉 が下されたと告げた。それによって,主の業に対する責任 テロとヤコブとヨハネの3人に「王国の鍵」(教義と聖約 90:2−3)を授けられた。そしてこの鍵には「地上でつな は彼らの肩にもかかることになった。こうして,教会を治 める神聖な権威は十二使徒に授与されたが,預言者が生き ぐことは,天でもつながれ,……地上で解くことは天でも ている間は12人のうちのだれもその権威を行使することは できなかった。そして,ジョセフ・スミスの死後,教会を かぎ 解」く力があると言われた(マタイ16:19参照) 。 末日聖徒は,この世においても永遠にわたっても神と聖 み こと ば 管理し,整える権利,また神権と教会の権能の鍵を行使す 約を交わしている。神権には,その聖約を義にかなって結 び固め,永遠に続くものとする権能がある。永遠の結婚, る権利は,後継者となったブリガム・ヤング大管長に引き 継がれた。彼はジョセフ・スミスから受けた聖任の権能と バプテスマ,聖霊の授与,神殿の聖約はすべて,神権と呼 ばれる神の権能によって結び固められる(教義と聖約81: 兄弟たちをはじめとする教会員の支持とにより,最高の権 能を与えられたのである。」(『教会歴史と近代の啓示』1: 2の「注解」参照)。 388−389) 228 第90章 ー・リグドンとフレデリック・G・ウィリアムズは,鍵を 持つ預言者ジョセフ・スミスから聖任を受けた。この二人 がジョセフ・スミスから権能を受けたことを考えれば,彼 らは厳密な意味ではジョセフ・スミスと同等ではなかった ということになる。ジョン・A・ウイッツォー長老は次の ように述べている。「大管長が上位にあったことに変わり はなかった。……副管長は大管長の権能を有さず,大管長 の指示と承認なしに教会の諸事を進めることはできないの である。大管長の職と権能については,これだけ言えば十 分である。 」(Joseph Smith『ジョセフ・スミス』p.303) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約90:8−9 末日に福音はまず異邦人に,そ の れからユダヤ人に宣べ伝えられる 「福音は……時の中間の神権時代には,まずユダヤ人に 伝えられたが,彼らがそれを拒んだので,異邦人に伝えら れた〔使徒11:18;13:46参照〕。主は最後の神権時代に は,先のものは後になり,後のものは先になると約束され た。したがってこの神権時代には,福音は異邦人に明らか にされ,宣べ伝えられてから,その後ユダヤ人に伝えられ ることになっている。」(スミス『教会歴史と近代の啓示』 1:390) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約90:10−11 「すべての人が自分の言葉… …で完全な福音を聞くであろう」 こんにち 今日の宣教師の多くは,福音を効果的に説くために新た な言語を学ばなければならない。すべての人は,福音を説 くように「聖任される者たちを通じて……自分の言語で」 (教義と聖約90:11)福音を聞くようになると,主が言わ れているからである。宣教師たちがごく短い期間に,福音 を教え,理解させるに十分なまでに言語を習得しているの ジョセフ・スミスはこの神権時代のもろもろの鍵を持っている ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約90:6−7 副管長はどのような点で大管長と は,末日の大いなる奇跡の一つである。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,このす ばらしい事実についてこのように述べている。「福音がす べての国民,部族,国語の民に宣べ伝えられるようにする ために,主は長老たちに,言語を学び,良い書物に親しみ, 同等か この聖句の中で主は,シドニー・リグドンとフレデリッ 人々が自国の言葉で福音を聞けるように備えることを命じ られた。これは,預言者の塾の重要な課題の一つであった。 ク・G・ウィリアムズは,ジョセフ・スミスとともに神権 外国に伝道に出た長老たちが異言の賜物を授かり,きわめ て短い期間に外国語を習得していることは,実に驚くべき の鍵を保有すると言われた。主の言葉どおり,二人はその 後間もなく任命を受けた。預言者は次のように記している。 「リグドン長老は,1833年3月8日に与えられた啓示により フレデリック・G・ウィリアムズ兄弟と彼自身が召されて たまもの 事実である。しかし,このような例だけではない。ほかに も,宣教師たちが自国語で語った言葉をほかの人が原地語 ごじゅん せつ として理解したという記録例が数多くある。五旬節の日に いた職,すなわちジョセフ・スミス・ジュニア兄弟ととも に王国の鍵を等しく保有する大神権の大管長の職に聖任を 示された異言の賜物に類似した例である。そのときペテロ は,五旬節を祝うためにあらゆる国々からエルサレムに来 受けたい旨を申し出た。そこでわたしはシドニー兄弟とフ ていた人々を前にして話をした。外国の伝道地で働いた長 み たま 老たちは,任地の人々の言葉を話せたのは御霊の助けがあ レデリック兄弟の頭に手を置き,最後の神権時代の鍵をわ たしとともに保有するように,また大神権の大管長会にお ったからで,それは自分自身の能力をはるかに超えたもの いてわたしを補佐するように彼らを聖任した。」(History of the Church『教会歴史』1:334) であると証することができる。そのような長老が至る所に いる。 」(『教会歴史と近代の啓示』1:390) 補佐する者は,自分の長から命じられたことは,長自身 近年この預言の成就が,より直接的な形で見られるよう になり始めている。世の人々に教えを伝えるために派遣さ が行うかのようにすべて行うことができる。しかし,長か ら独立した立場で,単独に行動する権限はない。シドニ れる宣教師のほとんどすべてがアメリカ合衆国出身者とい 229 う状態が,何世代にもわたって続いてきた。彼らは任地の 教義と聖約90:25−27 言語を学び,その言葉で人々に福音を教えたが,やはり外 国人であることに変わりはなかった。ところが今日では, ばならないのだろうか 「主は,僕たちに対して,特に預言者の父に対して,家 聖徒は家族を少なくしなけれ 数多くの宣教師が母国で,母国語を使って人々に福音を宣 族の人数を少なくするように警告された。彼らのために教 べ伝えるように召されている。このような宣教師たちは, 同じ文化や伝統を共有する人々に伝道するわけであるか 会から提供された財産が,好意に付け込もうとするつまら ない人々のために使い果たされてしまうことのないように ら,「自分の言葉」(教義と聖約90:11)でより効果的に 人々に福音を宣べ伝えることができるのである。 するためである(25節)。ここで主は,彼らに家族の人数 を少なくするようにと言われたが,これは自分自身の子供 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約90:12−18 大管長会への勧告 の数を制限せよ,という意味ではない。当時兄弟たちが無 償で受け入れ,衣食住を提供していた来訪者や寄留者のこ 大管長会に向けられたこの聖句は,教会の管理定員会に とである。彼らには,兄弟たちの好意に付け込む嫌いがあ 対して幾つかの重要な務めを課している。 1.奉仕の務めと大管長の職を続ける(教義と聖約90:12 った。兄弟たちがこの問題に注意を払っていたならば,彼 らは妨げを受けることなく主の業を遂行できていた。」(ス 参照) 。 2.ジョセフ・スミスの翻訳の業を終わる(13節参照) 。 ペリー,Compendium『概要』p.462) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 3.預言者の塾を管理する(13節参照) 。 教義と聖約90:28−31 4.啓示を受け,それを明らかにする(14節参照) 。 5.書を読み,研究し,言語を学ぶ(15節参照) 。 「ビエナ・ジャックスは,預言者に親切を尽くし,彼が 困っているときにはその必要を満たし,また長老たちに援 6.評議会を管理し,教会のすべての事柄を整える(16節 参照) 。 助を与えていた。シオンの聖徒たちとともに集合できるよ う,彼女に金銭的な援助を与えるようにとの啓示が与えら 7.高慢と罪を悔い改める(17節参照) 。 れた。 」(スミス『教会歴史と近代の啓示』1:391) 8.自分の家を整える(18節参照) 。 教会指導者は,個人的なことや家族の問題だけでなく, 「1833年4月30日,カートランドの塾で大祭司の大会が開 かれ,それまでの数か月間集会所として借りていた家の家 いろいろな責任に気を配るように求められている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 賃を捻出する方法が講じられた。ジョン・P・グリーンが パークマン郡の教会の支部を管理するよう任命された。ま 教義と聖約90:17 「すべてあなたがたの慢心と高慢 た,ビエナ・ジャックス姉妹のシオンへの出立は,安全を について訓戒を受けるようにしなさい」 これは,すべての教会員にとって価値のある勧告である 期するため,ウィリアム・ホバートとその一行の準備が整 うまで,待つべきことが決定された。」(『教会歴史と近代 が,特に背教したシドニー・リグドンとフレデリック・ G・ウィリアムズにとって意義のあるものである。この二 の啓示』1:403−404) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人は,高慢になって,預言者を裁き,教会を離れた。 教義と聖約90:32−35 ジョセフ・スミスは,主がふ さわしいと思われるときに「シオンも管理する」者となる ビエナ・ジャックスへの指示 「〔大管長会は〕大管長会の管轄権がカートランドと東部 のみならず,ジャクソン郡と西部地域にも及ぶことを,シ オンの聖徒たちに知らせる必要があった(32節)。これに よって大管長会は,教会の一致を維持する機関となるよう に定められたのである。 初期の教会は,使徒たちの死後分裂し,数多くの分派に 分かれ,それぞれに指導者を立てた。最終的にはローマ教 会とギリシャ正教会の二大派閥が誕生し,ローマの司教と コンスタンチノープルの主教が各々主権を主張し合った。 末日聖徒イエス・キリスト教会も西と東に分裂し,さらに 幾つかの小さな派に分かれる恐れがあった。しかし,そう ならなかったのは啓示によって大管長会が組織されたから であった。大管長会は教会の一致の象徴であり,一致を保 つきずなでもある。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注解』pp.582−583) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約90:34−37 シオンに対する警告 スミスとショダールは次のように記している。第90章 すべての人が自分の言葉……で完全な福音を聞くであろう 230 は,「シオンに対する警告と約束で締めくくられている。 当時シオンの兄弟たちは皆が皆忠実に神の戒めを守ってい 第91章 たわけではなかった。彼らの中には預言者ジョセフの職と 教義と聖約90:36−37 影響力をねたみ,教会の実務をつかさどる彼の権能を否定 する者もあった。第35節には,そのうちの一部の人々のこ でシオンを懲らしめられる メルビン・J・バラード長老は,シオンが勝利を得て清 とが採り上げられている。1833年1月14日に,オーソン・ ハイドとハイラム・スミスは教会のために,監督会および くなるという主の約束について,次のように語っている。 「この種の約束は,懲らしめの必要性を含意している。懲 シオンの聖徒たちに1通の手紙を書き送った。その中でシ ドニー・ギルバートは,ある手紙の中で『光の源から出た らしめを受け,悪い点を直し,悔い改めの状態に至らなけ ればならないのである。思うに,わたしたちが喜んで主に もの』とは思われない『低劣で愚かしく,筋の通らない当 従わないかぎり,主はその業を完遂させることも,目的を てこすり』を書いたと評され,ウィリアム・W・フェルプ しっ スも,重要かつ責任ある地位にありながら軽率すぎると叱 達成することもおできにならない。わたしたちが喜んで主 の役に立とうとしないかぎり,主は決してこの民を用いら 責を受けている。さらに,シオンの聖徒たちも奉献に関す る神の律法を守っていなかった。そこで主は,シオンと論 れることはない。しかし,主はわたしたちを正す手段を持 ち,わたしたちを懲らしめる手段を持ち,時に応じてそれ じ合い,その強い者たちを説きつけ,『シオンが勝利を得 を行使されるのである。今日わたしたちの前進を阻むもの て〔主の〕前に清くなるまで』懲らしめを与えると警告さ れた。そして,『シオンがその場所から移されることはな はただ一つしかない。それは,自分の方が賢いと考えて, 神がこの民の指導者として立てられた人々の勧告に従おう い』と約束されたのである。 」(『注解』p.583) としないことである。 」(『大会報告』1921年10月,p.100) せき 聖書外典 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,第90章の啓示が与えられた 主は,シオンが勝利を得るま 第91章 デト書,エステル書残篇,ソロモンの智恵,シラクの子イ エスの知恵または集会の書,バラク書,エレミヤの書簡, 三童子の歌を含むダニエル書への追加,スザンナ,ベルと 竜,マナセの祈り,マカビー第一書,第二書。…… 翌日の1833年3月9日に,カートランドでこの啓示を受け た。当時,ジョセフ・スミスは『聖書』の改訂に取り組ん これらの外典は,ヘブライ語の『聖書』には一度も組み 込まれたことはなかったが,(初期の使徒たちが用いた) でいた(教義と聖約90:13参照)。彼が改訂を加えていた 『聖書』にはいわゆる聖書外典が含まれていた。この聖書 ギリシャ語訳の七十人訳聖書と,ラテン語のウルガタ聖書 には含まれていた。ウルガタ聖書の翻訳をしたヒエロニム 外典も改訂すべきか否かについてのジョセフの問いに対し スは, この聖書外典もあわせて翻訳するように求められた。 て,主は第91章として知られている啓示を与えられた (History of the Church『教会歴史』1:331−332参照)。 しかし,彼はそれを『人生の手本,作法の教え』として読 むのはよいが,『教義を確立する』ために用いるべきもの 注 解 ではないと決めたと言われている。ルターのドイツ語訳聖 書では,外典を一括して(エスドラス第一書と第二書を除 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いて),『旧約聖書』の最後に組み入れ,『旧約聖書外典: 教義と聖約91:1 聖書外典とは何か ブルース・R・マッコンキー長老は,聖書外典について これらは聖書に等しいと考えるべき書ではないが,有益で あり,読むのに良い書』という表題が付けられた。 以下のように説明し,なぜ末日聖徒がこれを聖典として受 け入れないかを明らかにしている。 聖書外典は1611年版欽定訳聖書には含まれていたが, 1629年に一部の英語『聖書』から姿を消し始め,19世紀の 「学者や聖書研究家は, 『旧約聖書』に関連すると思える 初頭以後はほとんどすべてのプロテスタントの『聖書』か ら除外されてしまった。1816年に設立されたアメリカ聖書 記録で,その信頼性に疑わしい点があるものを,『旧約聖 書外典』と呼んで区別している。聖書外典として指定され 協会は,発行する『聖書』の中に聖書外典を印刷したこと ている書は必ずしも一致していないが,次の各書が現在一 般に挙げられている。エスドラス第一書,第二書(エスド はなかった。英国や外国の協会でも1827年以後,ある一部 のものを除くすべての『聖書』から取り去られた。 ラス第三書,第四書と呼ばれることがある。『ドウェー聖 これらの点を考えると,預言者ジョセフ・スミスが使命 を開始したときもまだ,聖書外典の価値について激論が交 書』(Douay Bible)ではエズラ記をエスドラス第一書,ネ ヘミヤ記をエスドラス第二書としている),トビト書,ユ わされていたことは明らかである。したがって,啓示の霊 231 により欽定訳聖書の改訂に従事していた1833年に,預言者 入れられたものである。まことに,わたしはあなたに言う。 ジョセフ・スミスは,聖書外典の妥当性について主に伺う 必要があることを感じたのである。主の答えから明らかな 聖書外典を翻訳することは必要ではない。それゆえ,それ を読む者は, 御霊が真理を明らかにするので理解しなさい。 ように,聖書外典は元来神の霊感によって書かれた書物で あったが,後になって改ざんや改変がなされたために,真 御霊に照らされる者は,それから益を得るであろう。また, 御霊によって受けない者は,益を得られない。それゆえ, の意味が分からなくなるほどに本来の姿が歪曲されてしま ったのである。 それを翻訳することは必要ではない。』(教義と聖約91章) 聖書外典を学んでその真の意味を理解するには,まず本 聖書外典について,主は次のように言っておられる。 『その中には真実なことが多く載せられており,それは大 部分正確に翻訳されている。しかし,その中には真実でな いことも多く載せられている。それは人の手によって書き 人が福音に関して背景となる豊富な知識を持ち,教会の標 準聖典をよく理解し,それに加えて御霊の導きを得ること が 必 要 で あ る 。」( Mormon Doctrine『 モ ル モ ン の 教 義 』 pp.41−42) 「あなたは…… 活発な一員でなければならない」 第92章 歴史的背景 ス・R・マッコンキー長老は,この二つの違いについて次 のように説いている。 「この神権時代の初期の聖徒たちは, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 奉献の律法を実施するために,共同制度という法的組織を 1832年4月26日に下された啓示(82章)の中で「主は, 預言者ジョセフ,オリバー・カウドリ,マーティン・ハリ 設けた。そしてそれを通して,奉献されたものを受け取り, その代わりに管理の職を与え,また,余剰分の財産を納め ス,シドニー・リグドン,ニューエル・K・ホイットニー そのほか数名(11節)に,エノクの制度の下に俗世にかか る倉の管理をした。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』 p.813) わる事業をすべて統合するように指示された。この啓示 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (92章)の中で,その組織の兄弟たちは,フレデリック・ G・ウィリアムズを入会させるように命じられた。彼は王 かぎ 教義と聖約92:2 ばならない」 「あなたは……活発な一員でなけれ 国の鍵を持つという点でジョセフ・スミスならびにシドニ ー・リグドンに等しいと主が言明された人である(90: 第1節の中で主は,共同制度の会員たちに,フレデリッ ク・G・ウィリアムズを会員として受け入れるように命じ 6)。」(Commentary『注解』pp.586−587) ておられる。そして第2節では, 「この制度における活発な 注 解 一員」 (教義と聖約92:2)であるようにと,ウィリアムズ に勧告が与えられている。活発な会員とは,自分が属する ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約92:1 奉献の律法と共同制度の違いは何か 団体や運動の目標や原則を促すために熱心に働く人のこと である。エノクの制度のおもな目的は,教会員が「日の栄 奉献の律法とは,人が主に自分の時間と才能と財産をさ えの世界の下にある他のすべての造られたものの上で自立 する」 (教義と聖約78:14)ことであった。 さげることを定めた律法である。共同制度は,その奉献の 律法を実施するために設けられた組織であった。ブルー 232 「真理とは…… 物事についての知識である」 第93章 を持つからである。さて,兄弟姉妹の中に,この世の物事 歴史的背景 に対すると同じように,これが神の業であるということを ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1833年の春は,聖徒たちにとって喜びの時であったが, ほんとうに知ることも確信することもないまま何年もの間 生活し,証を持たずに過ごしてきた人がいるとしたら,そ 同時に苦しみの時でもあった。主は預言者の塾において, 神にかかわる知識と権威に関して多くの事柄を啓示され, れはその人自身の落ち度である。教えを知らずに神の御 こころ 心を行うことはできないからである。」(Conference Report 聖徒たちはカートランドにシオンのステークを建設する備 み 『大会報告』1910年4月,pp.29−30) えをした。 4月6日,ミズーリ州ジャクソン郡のシオンにおいて,教 ブルース・R・マッコンキー長老は,神の顔を拝すると いう約束はこの世において果たされると述べている。 会の組織を記念する特別大会が開かれた。「時は早春,若 葉や花はパラダイスのきらめきのように,人の心に活気と 「わたしたちには,心を清くして生活すれば,罪と悲し みに満ちたこの世にいる間にも,神の顔を拝することので 喜びを与えてくれた。この日は末日の王国に関する事柄に きる力がある。また,それはわたしたちの特権である。 ついて,互いに教え合い,気持ちよく過ごした。救い主が 人間に永遠の命を与えるために身を横たえられたのは,今 これは,死すべきこの世で得ることのできる最高の祝福 である。人を偏り見ることのない神より,神の王国にいる からちょうど1,800年前のことであり,最後の神権時代に 備えるために教会が荒れ野から出て来てからわずかに3年 あらゆる忠実な人々に与えられる祝福なのである。」(『大 会報告』1977年10月,p.52;Ensign『エンサイン』1977年 である。聖徒たちが喜んだのは至極当然である。 」(History 11月号,p.34) スペンサー・W・キンボール大管長は,神にまみえると of the Church『教会歴史』1:337) しかし,1833年4月,暴徒たちはミズーリ州の聖徒を迫 いう約束について次のように証を述べている。「そのよう 害するために集まった。カートランドでもインディペンデ ンスでも,数人の教会員が背教し,かつて兄弟と呼んでい な姿からわたしが学んだことは,祈りの心があり,義を渇 望し,罪を捨て,神の戒めに従順である人には,主はます た人々に背いていた。そして,ジョセフ・スミスはといえ ます豊かに光を注がれ,ついには天の幕を貫いて人知の及 ばないことを知る力を授けられるということである。そし ば,ミズーリとオハイオの教会の間にあった分裂の恐れに 苦慮していた。 てこのように高潔な人には,主の顔を拝し主の実在を知る 1833年5月6日,預言者は,教義と聖約第93章の啓示を受 けた。それは聖徒たちに慰めと,福音の幾つかの点につい という,金銭では買うことのできない約束が与えられてい る。」(“Give the Lord Your Loyalty”「主に忠誠を尽くしな て教えを授けるものであった。 さい」 『エンサイン』1980年3月号,p.4) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 注 解 教義と聖約93:2 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:1 罪を捨てる者への約束 イエスはなぜ世の光と呼ばれるのか 教義と聖約88:6−13の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 忠実な神の子供たちは皆,やがて,神にまみえるという ま 約束が成就するのを目の当たりにする。しかし,「それは 教義と聖約93:6−18 「ヨハネの記録」とは何か イエスはヨハネという名の二人の人物と親しく働きを共 神自身の時に,神自身の方法で,神自身の思いに従って起 にされた。バプテスマのヨハネと使徒ヨハネである。二人 こる。」(教義と聖約88:68)それでも神の子供たちは,神 が生きておられることを知るのを,肉にあって神にまみえ とも神の御子について記録を残したが, 『新約聖書』には, 使徒ヨハネの証だけが載せられている。ここに挙げられて るまで待つには及ばない。実際に神にまみえるはるか以前 あかし に,証を得ることができるのである。 いる記録は, 「聖霊が鳩の形をとって彼〔イエス〕の上に」 くだ 降られる場に居合わせたバプテスマのヨハネの記した記録 フランシス・M・ライマン長老は,この特権は代価を払 うすべての聖徒に与えられるものであると,次のように述 べている。 である(教義と聖約93:15。ヨハネ1:19,32,34参照)。 オーソン・プラット長老は次のように述べている。「や がて出て来るのは, この大陸の昔の民の記録だけではない。 「末日聖徒は皆,この証を得る資格がある。もしまだそ れを受けていない人がいるとすれば……それはその人自身 東半球にいた人々の記録も出て来るのである。神の小羊に バプテスマを施したヨハネの記録もやがて明らかにされ に問題があるのであって,主の落ち度ではない。信仰と悔 ゆる あんしゅ い改め,罪の赦しのために水に沈めるバプテスマ,按手に る。わたしたちは『教義と聖約』〔教義と聖約93:18〕の 中で,ヨハネの完全な記録が末日聖徒に明らかにされると よる聖霊の付与を通して,すべての人はその証を得る資格 告げられている。」(Journal of Discourses『説教集』16: 233 58) る。」(『大会報告』1972年10月,p.53) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:9−10 救い主は御父の指示の下に,こ そのような目標は,自分にはとても達成できそうもない と思う人は, 「恵みに恵み」 (教義と聖約93:12)という言 の地球をはじめとする数多くの世界を創造された 葉を思い出すべきである。イエスは初めから完全であられ 第93章の啓示が教えているように,この地球をはじめと する数々の世界は,御父が直接にではなく,御父の指示の たのではなく,恵みに恵みを加えられてその状態に到達さ れたのである。「恵み」を表すギリシャ語の「カリス」と 下に主イエス・キリストが創造された。この教えは『新約 聖書』のヨハネの記録の内容と一致している。ヨハネは いう語は,基本的には「美しさ,愛らしさ,かわいらしさ」 の意であるが,キリスト教徒は「親切,愛にあふれた優し 「言」について次のように述べている。「すべてのものは, これによってできた。できたもののうち,一つとしてこれ さ,恵み」などの,特別な意味で用いていた。したがって, 次のように言うことができる。神の恵みとは「神の愛にあ によらないものはなかった。 」(ヨハネ1:3。10節参照)ヘ ふれた優しさであり,神は聖なる力を人に及ぼしながら, ブル人への手紙には,神は,「万物の相続者」イエス・キ リストによって「もろもろの世界を造られた」と書かれて これをもって彼らの心をキリストに向けさせ,またクリス チャンとしての信仰,知識,思いを守り,強め,さらには いる(ヘブル1:2)。イエスは「無数の世界」の創造主で ある。ただし,それは人間にとっては数え切れないもので キリスト教徒に求められる諸徳の実践を促されるのであ る。」(サヤー,Greek-English Lexicon『ギリシャ語─英語 あるが,神はその数を御存じである。 辞典』pp.665−666) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:11−17 イエスは「最初から完全は受 要約すると,「恵み」とは,人を完成に導く神の賜物と 力のことである。したがって,イエスやほかのすべての人 けず,恵みに恵みを加えられた」 ロレンゾ・スノー大管長は,神の御子の完全さについて が恵みに恵み,賜物に賜物を加えられて完全な者になると は,簡単に言えば,御父の力をすべて授けられるに至るま こう述べている。「いたいけな幼子としてかいばおけの中 で,従順を通して,少しずつ力を増し加えられていくとい に寝かされていたときのイエスは,御自分が神の御子であ り,かつて地球を創造したということをまったく御存じな うことなのである。 主はモロナイにこれと同じ原則を教え,さらに,神の恵 かった。ヘロデの布告が出されたときも,それについて何 も知らず,まだ御自身を救う力も持っておられなかった。 み(神の賜物と力)は十分である,すなわち,求められて いることを果たすのに必要な力は十分に与えられていると イエスの父と母はその布告がもたらす結果から幼子を守る 付け加えられた。「もし人がわたしのもとに来るならば, ために,エジプトへ連れて逃れるしかなかった。やがてイ エスは成長し,大人になられたが,その間に御自分が何者 わたしは彼らに各々の弱さを示そう。わたしは人を謙遜に するために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだる であるのか,また何のために地上に来たのかを啓示を通し て学ばれた。そしてこの世に来る前に持っていた栄光と力 すべての者に対して,わたしの恵みは十分である。もし彼 らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そ とを知らされたのである。」(『大会報告』1901年4月,p.3) イエスは恵みと真理,栄光,力において完全な状態に至 のとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。 」(エテル 12:27) たま もの けんそん るまで成長された。ヨハネは,イエスが「御父の完全な栄 この力や賜物を受けるには,神の御心に従い,戒めに従 光を」(教義と聖約93:16)受けられるのを見た。第17節 には,「彼は天においても地においても,一切の権威を受 順でなければならない。自分の努力だけで完全になれる人 はいない。人間の力を超えるさらに大いなる賜物,すなわ けられた。そして,御父の栄光は彼とともにあった」と書 かれている。さらに第19節と20節には,救い主の模範に従 ち力の賜物が必要である。わたしたちはモロナイの記録を 通して,自ら努力することによっていかに神の恵みにあず う人はだれでも,「完全」を受ける状態に成長できるとい かり,恵みに恵みを加えられて,一歩一歩完成に至るかを うことが示されている。 エズラ・タフト・ベンソン会長はこの教えについて,ま 理解することができる(モロナイ10:32−33参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ たこれが聖徒やすべての人に対してどのような意味を持つ かについて,次のように語っている。「父なる神はイエ 教義と聖約93:19−20 礼拝とは何か,また,人はど のように主を礼拝すべきか ス・キリストに,他のすべての名に勝る名を与えられた。 ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように書いてい そのため,ついにはすべてのひざがかがみ,すべての口が, イエスがキリストであると告白するのである。キリストは る。「礼拝という言葉の由来をたずねるならばその答えが 心に浮かぶ。すなわち,この言葉は『価値のある』という 道であり,真理であり,光である。キリストによらなけれ ば,いかなる人も天父のもとに帰ることはできないのであ 意味を表すweorthと『有様または状態』という意味を表す scipeの二つのアングロ・サクソン語から直接出て来たも る。キリストは御子なる神であり,すべての徳を完全に備 えておられる。したがって,真の偉大さを計る唯一の尺度 のであって,その中に『価値あること』という意味を含ん でいる。人が為し得る礼拝は,その人が尊び敬う対称の特 は,その人がどれほどキリストに似た人になっているかで 性を表す価値をその人が理解する力によって定まる。礼拝 ある。キリストに最も似た人が最も偉大な人であり,キリ ストを最も愛する人がキリストに最も似た人になるのであ に対する人間の能力は人間が神を理解する尺度である。」 (『信仰箇条の研究』p.521) 234 ありさま 第93章 人間は神聖な存在に対する自己の感情を示すために礼拝 それは家族の単位を完成させることであり,父母を敬う する。神が真理と恵みに満ちておられることに敬意を払い, 神のようになりたいと願う人は,戒めを守ることによって ことであり,心を尽くして妻を愛し,他のものに固執しな いことである。主を礼拝することは未亡人の家族を困って 神を礼拝する。ブルース・R・マッコンキー長老は次のよ うに説明している。 いるときに訪問し,さらにわたしたち自身を世の汚れから 守ることである。 「主を礼拝することは主に従うことであり,主の面を見 ることであり,教義を信じることであり,主の思いを推し それは福祉の業を行うことであり,病める人々に癒しの 儀式を行うことであり,伝道に行くことであり,ホームテ 計ることである。 ィーチングに行き,また家庭の夕べを開くことである。 それは主の道を歩むことであり,キリストがなされたよ うにバプテスマを受けることであり,神の言われた王国の 主を礼拝することは福音を学び,光と真実とを蓄え,神 の王国の物事をわたしたちの心で考え,それらをわたした 福音を説くことであり,主が行われたように病める者を勇 気づけ,死者を復活させることである。 ちの生活の一部にすることである。 それは誠心誠意祈ることであり,聖霊の力によって説教 主を礼拝することは,最初に我々の生命に主の王国のも いや することであり,感謝と賛美の歌を歌うことである。 のを入れることであり,神の口から出る一つ一つの言葉で 生き,我々の心をキリストとキリストによりもたらされる 主を礼拝することは働くことであり,熱心に善いことに 携わり,神のなせることに従事することであり,そして仲 救いに合わせることである。 それは主が光にあるように光の中を歩むことであり,主 間を愛し,奉仕することである。 それは飢えた人々に食を与えることであり,着る物のな の望まれるままに,また主がなされるであろうように物事 い者に服を与えることであり,悲しむ人を慰めることであ をなすことである。そして,主のごとくなることである。 主を礼拝することは聖霊とともに歩むことであり,肉欲 り,人々を奮い立たせ,弱いひざを強くすることである。 主を礼拝することは,真実と正義のために勇敢に立つこ を超越することであり,情欲を抑えることであり,そして (イエスのように)世に勝つことである。 とであり,わたしたちの良い影響を地域社会,文化,教育, 政治の分野に及ぼし,そしてこの世(地上)における神の じゅう ぶん それは什 分 の一を払い,ささげ物をすることであり, わたしたちに保護を託されたものを保護するときに賢い執 目的をさらに促進させる主の律法や主義を支持することで ある。 事の役目を果たすことであり,わたしたちの才能と富とを 主を礼拝することは,元気を出し,勇気を持ち,勇敢で もって真理を広め,主の王国を築くことである。 主を礼拝することは神殿で結婚することであり,子供を あり,神より与えられた罪の意識を持つ勇気を持つことで あり,そして信仰を持つことである。 持つことであり,子供に福音を伝えることであり,そして 彼らを光明と真理の中で育てることである。 それは1万を1万倍することである。それは神の戒めを守 ることである。それはすべての福音のすべての律法に生き 人は救い主に従うことによって,神の完全な栄光に近づくことができる 235 ることである。」(『大会報告』1971年10月,pp.168−169) に表されているように思う。『わたしに聖徒たちを祝福で ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ きることがあるとすれば,それはただ一つ,彼らに物事を あるがままに見る目を与えることだと思う。』(『説教集』 教義と聖約93:23 人は初めに神とともにいた 教義と聖約29:30−33から分かるように,主が「初め」 という言葉を使われたのは,生身の人間には,万物が永遠 の存在であることを完全に理解できないからにすぎない。 p.513)興味深いのは,『あるとおりの物事』という言葉が 聖典の言葉だということである。聖典には真理について, 『現在あるとおりの,過去にあったとおりの,また未来に 「初め」という言葉は,人間が神の霊の子供として創造さ れたときのことを指しているのかもしれないし,地球が死 あるとおりの,物事についての知識である』(教義と聖約 93:24)と記されている。 『モルモン書』のヤコブもまた, すべき存在になったときのことを指しているのかもしれな い。 『御霊は真実を語り……現在のことをありのままに示し, 未来のこともまた,ありのままに述べられる』(ヤコブ4: 預言者ジョセフ・スミスは,人の英知の部分は常に存在 13)と語っている。 していたと教えている。「人の霊は創造されたものではな い。それは永遠の過去から存在し続け,これからも永遠に 永遠についての理解が深まれば, それだけわたしたちは, 携わっている主の業が死の幕のかなたでもまったく同様に 存在し続ける。創造されたものは永遠の存在ではあり得な い。地球や水などは永遠の昔から元素として存在してきた 行われている崇高で遠大な業であることを明確に理解する のである。 」(“The Things of Eternity-Stand We in Jeopardy?” ものである。 」(『教会歴史』3:387) 「永遠の事柄」 『エンサイン』1977年1月号,p.3) 人はすべて,霊においては神の息子,娘であり,その意 味では始まりがある。しかし,人を造り上げている元素は ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:29 なぜ「英知」という言葉が使われ 永遠である。水や地球,その他の元素は,地上では結合し たものとして存在するが,かつては単元的な存在であっ ているか ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように書いてい た。 る。「末日聖徒が用いている『英知』という言葉には大き 「預言者ジョセフが語っているように,創造されたもの は永遠の存在ではあり得ない。しかし,神の恵みとイエ く分けて二つの意味がある。二つとも辞書に出ている意味 であるが,主要な意味ではない。最初は,知識を集めてそ (スミス, ス・キリストの贖いによって永遠の存在になる。」 Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓 れを救いの計画に即して用いる人は,優れた知性の持ち主 である。その人の持っているものが英知である。……第2 示』2:221) は,……霊界にいる一人の人,または複数の人を指す。わ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み たま 教義と聖約93:24−25 永遠の真理は御霊によって明 たしたちは英知という言葉を,人間に対して用いるのと同 じような意味で用いる。」(Evidences and Reconciliations らかにされる ニール・A・マックスウェル長老は,永遠の真理につい 『証言と和解』3:74。アブラハム3:22−23参照) 英知という概念については,ほとんど知らされていない て次のように語っている。 「人はやがて永遠の存在になると信じている人にとって のが実情である。ジョセフ・フィールディング・スミス大 管長は次のように述べている。「末日聖徒の文筆家の中で は,そのような疑問について,また同じく永遠のものにな 英知がいかなるものかについて説明しようと努力してきた っていくそのような原則について深く考えるのは,自然な ことであり,賢明なことでもある。1833年に与えられた, 人がいるが,それは無駄なことである。このことについて は,主が断片的に啓示された以上のことは与えられていな 真理とは『現在あるとおりの,過去にあったとおりの,ま た未来にあるとおりの,物事についての知識』(教義と聖 いのである。しかしわたしたちは,英知と呼ばれるものが 常に存在してきたことを知っている。それは人間を構成す 約93:24)であるという定義は,次の聖句と関連がある。 る永遠の部分であり,創造されたものでも造られたもので あがな 『御霊は真実を語り,偽りを言われることがない。したが って,御霊は現在のことをありのままに示し,未来のこと もない。この英知に霊が結合して,霊的な個体すなわち人 を成すのである。 」(Progress of Man『人間の進歩』p.11) もまた,ありのままに述べられる。……これらのことはわ たしたちの救いのために,わたしたちに分かりやすく示さ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:30 絶対的な真理は独立しており,御 れているのである。』(『モルモン書』ヤコブ4:13)『あり 霊なくしては理解できない のまま』という強い表現に注意していただきたい。イエ ス・キリストの福音と末日聖徒イエス・キリスト教会は, スペンサー・W・キンボール大管長は,絶対的な真理に ついて,また真理を理解するうえで御霊がどのような役割 真理というものを『現在あるとおり』また『未来にあると おり』のものと分かりやすく説明している。」(『エンサイ を果たすかについて,次のように語っている。「地球は丸 い。40億の民全員が地球は平らであると考えているとした ン』1974年10月号,p.71) スペンサー・W・キンボール大管長は次のように述べて ら,彼らは皆間違っている。地球が丸いということは絶対 的な真理だからである。 仮に全員が反論を唱えたとしても, いる。「このように,永遠にかかわる事柄を心に留めて生 地球は丸いという真理を変えることはできない。…… 活するならば,わたしたちはもっと適切な決断を下せるで あろう。その理由は,ブリガム・ヤング大管長の次の言葉 わたしたちはこのような絶対的な真理を,御霊によって 教えられ,知ることができる。これらの真理は霊の世界で 236 第93章 は『独立』したものであり,経験と理性によって確認でき れない。繰り返すが,これは単なる考え方の問題ではない。 るとしても,霊によって見いだす必要があるのである(教 義と聖約93:30参照)。偉大な預言者ヤコブは, 『御霊は真 絶対的な真理である。これはすべての人に当てはまる真理 である。 実を語り,偽りを言われることがない。したがって,御霊 は現在のことをありのままに示し,未来のこともまた,あ 聡明な人ならば自分の希望する学問をすることができる と思う。深い思索と努力さえすれば,どの分野であっても りのままに述べられる』(『モルモン書』ヤコブ4:13)と 教えている。わたしたちは人生について,また自分が何者 知識を得ることができる。高等学校の卒業証書を手にする ためには小学校に入学してから12年かかり,大学の卒業学 であるかということについて学ぶ必要がある。…… 位を得るには普通さらに4年を要する。立派な医師になる 神は人を造り,生命を与えて,地上に置かれた。これは 事実である。だれもこの事実を誤りであると反証すること にはそれからまだ25年近くもかかる。それなのに,法則に 従って実際に生活してみなくて,どうしてもっと深遠な霊 はできない。頭脳明晰な人々が幾人集まってほかの考えを 唱えようとも,神が人を造り,生命を与えて,地上に置か 性を身に付けられるというのであろうか。あなたは,神の 律法の一つも守っておらずに,宗教対談を行っている人を れたという事実は変わらないのである。キリストは御父の 見かけたことがあると思う。 神の律法に従おうともせずに, 子供たちのために備えをした後,人生の計画を立ててくだ さった。この完全な計画により,人は目的を達成し,自己 世の人々に対して人生を説こうとしているのである。何と 愚かしいことであろうか。」(“Absolute Truth”「絶対的な真 を克服して完全な者となることができるのである。このき わめて大切な真理は,人の考えによるものではない。かり 理」『エンサイン』1978年9月号,pp.3−5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に人の考えだとしたら,その考えには優劣を付けることが 教義と聖約93:33 できるであろう。しかし,わたしは自分の考えとしてこれ らのことを申し上げているのではない。今お伝えしている り」 人間は霊(神の子供)と肉体(人の子供)から成る二重 のは,絶対的な神の真理なのである。 いつの日かあなたにも分かる時が来るであろう。そのと 性を備えた存在である。すなわち,霊と肉が一つになった 存在なのである(教義と聖約88:15参照。教義と聖約88: きあなたは,長い間引き延ばし,時間を無駄に過ごした自 分を責めることであろう。これは万が一といったような仮 15の「注解」も参照)。霊と肉体は死によって一時的に分 離するが,復活によって再び一つとなり二度と分離しなく 定の問題ではない。必ずその時はやって来るのである。 そうめい 「人は霊である。元素は永遠であ なる。復活は「満ちみちる喜び」への道を備えるのである ある分野で経験があるから別の分野でもわけなくその道 の専門家になれるかというと,そうではない。宗教に関し (教義と聖約93:33)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ て言えば,専門的知識はその人の義から,また啓示からも たらされる。主は,預言者ジョセフ・スミスに,『すべて 教義と聖約93:35 「その元素は神の幕屋である」 肉体とその中に宿る生命は,神から与えられた賜物であ の真理は,神がそれを置かれた領域において独立』(教義 り,神聖なものである。この聖句のほかにも,肉体を宮に と聖約93:30)していると教えられた。地球の構造につい て多くの真理を発見した地質学者でも,家族の永遠性につ たとえている箇所は幾つかある(1コリント3:16−17参 照)。わたしたちは,自分の肉体をどう扱ったかによって いて神がわたしたちに与えておられる真理には気がつかな いかもしれない。 も裁かれるのである。預言者ジョセフ・スミスはこう説明 している。「わたしたちがこの地上に来たのは,肉体を得 人はただ頭で考えただけで,神や神の道を見いだせるも て,それを日の栄えの王国において神の前に清い状態で示 のではない。自分が探求している王国を支配している法則 に従う必要がある。このことだけでもはっきりと理解いた すためである。肉体を持つということに,偉大な幸福の原 則があるのである。 」(Teachings of the Prophet Joseph Smith だけるとしたら,確かな土台を築くことができたと言える であろう。鉛管工になろうと思えば,その仕事に関連のあ 『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.181) 悪魔は肉体が与えられないことで人間をねたみ,肉体を る法則を研究する必要がある。圧力やひずみ,変形,パイ プが凍る温度,蒸気や熱湯を調節する原理,膨脹率,収縮 邪悪なことに用いさせようと躍起になっている。一方,主 は知恵の言葉をはじめとする勧告を与え,体に良い物と悪 などについて知らなければならない。ところで,鉛管に関 い物,また主から与えられた宮を良い状態に保つ方法など する知識が豊富にあっても,子供の教育や人々との交際で はまったくだめだということがあるかもしれない。また簿 について教えておられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 記には詳しいが,電気のことはさっぱり分からないという こともあれば,食料品の売買には通じているが,橋を架け 教義と聖約93:36−37 「神の栄光は英知である」 ジョン・A・ウイッツォー長老は,聖典の中では「英知」 る知識は皆無だということもあるであろう。 という言葉の用法が世の中の一般的な用法とは異なってい 水素爆弾に関しては権威者であっても,銀行業務には無 知のこともあるであろうし,名の知れた神学者でありなが ることを,次のように説明している。 「預言者ジョセフ・スミスに明らかにされた数多くの偉 ら,そのうえ,時計の製造も上手にできるという人はいな いであろう。また相対性理論を唱えた人でも,すべての法 大な真理の中で,『神の栄光は英知である』という真理以 上に教会員から愛されたものはない。『英知』という言葉 則・原理を造られた創造主については無知であったかもし は,一般の話の中で使われた場合,学習における迅速さや 237 頭脳の機敏さを意味する。しかし,福音におけるその意味 に向けているように思える。そして多くの者が,司法官に はさらに深遠である。理知的な人は知識を求め,人類のた めに主の計画と調和させてそれを使う。このことはよく引 反抗している。一般の組織でも宗教組織でも,政治組織で も,権威を敬う気持ちは低下しているように思われる。不 用される啓示の中で言われている。全文を読んでみよう。 道徳,幻覚剤乱用,また道徳的,精神的退廃は目を覆うば 『神の栄光は英知である。言い換えれば,光と真理である。 』 人が光に従うとき,彼らの知識は常に正しく用いられるの かりであり,世の中は混乱している。しかしこの時代に, 主はいつの時代にも変わることのない主のプログラムを再 である。 そこで英知は,『知恵』というもう一つの呼び方で呼ば び示されたのである。それは健全な生活,真の家庭生活, 信頼の上に築かれた家族を世に取り戻す約束を与えてい れるようになる。数学用語で言えば,『知識』プラス『知 識の正しい使用』イコール『英知または知恵』である。こ る。この計画は,家庭の父親を家族の長としての正しい地 位に引き戻し,母親を職場や社交場から家庭に戻し,そし の意味において,英知は人生を成功させるための目標であ て子供をたわいない遊びだけの生活から引き戻すものであ る。知識はそのような英知を得る一つの手段である。知識 の使用も同じく重要である。なぜなら,知識に生命と方向 る。両親が家庭で,すばらしい活動を交えながら子供たち を教える家庭の夕べのプログラムを行いさえすれば,それ 性を与えるからである。……限られた知識を持ち,熱心に 祈りの気持ちで律法を守る人の方が,幅広く福音を学びな らの悪を阻止することができるのである。」(『エンサイン』 1975年1月号,pp.3−4) がらも日常生活の中で福音の要求に従えない人よりも,さ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ らに高い英知すなわち知恵に到達することがしばしばあ かぎ る。律法に対する従順が,英知をもたらす鍵 である。」 教義と聖約93:41−50 フレデリック・G・ウィリアムズ, シドニー・リグドン, (『大会報告』1938年4月,p.50) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:38−39 預言者ジョセフ・スミスの3人は,親としてまじめに果た すべき責任を十分に果たしていなかった。主は一人一人に 人は霊として誕生したとき 順番に,きわめて個人的な事柄に関し,その怠惰の重大さ も,また肉体を持つ者として誕生したときも,ともに罪が なかった を指摘された。カートランドの監督ニューエル・K・ホイ ットニーでさえも,家族が「家庭でもっと勤勉に家庭のこ ブルース・R・マッコンキー長老はこう説明している。 「キリスト教界の信条で定義されているような原罪などと とに携わ」るようにしなければならないと言われるほどで あった(教義と聖約93:50) 。 しょく ざい いうものは存在しない。このような概念は贖 罪 の効力を 否定するものである。現代の啓示は,『人の霊は皆,初め に罪がなかった』と告げている。その意味は,霊は純粋な 教義と聖約93:41−50に関して,スペンサー・W・キン ボール大管長は次のように語っている。 罪のない状態で前世の生活を始めたということである。 『そして,神が人を堕落から贖ったので,人々は,幼児の 状態で,再び神の前に罪のない者となった。 』(教義と聖約 93:38)その意味は,すべての子供たちは贖罪のおかげで 現世の生活を純粋な罪のない状態で始めるということであ る。啓示も次のように告げている。『神の御子は最初のと こうべ がを贖われ,それによって両親の罪がその子供たちの頭に 帰することはあり得ない。彼らは世の初めから罪がない。』 (モーセ6:54) 」(『エンサイン』1977年4月号,p.4) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約93:39−40 光と真理を取り去ろうとする サタンに立ち向かうにはどうすればよいか スペンサー・W・キンボール大管長は,サタンの影響力 に立ち向かうのに最も大切なのは家庭であると述べてい る。 「1833年に主は預言者を通してこう警告された。『そし て,あの邪悪な者が来て,人の子らから,不従順によって, また先祖の言い伝えによって,光と真理を取り去る。』(教 義と聖約93:39) そして,次のような問題解決の方法を示された。『しか し,わたしはあなたがたに,あなたがたの子供たちを光と 真理の中で育てるようにと命じた。 』(教義と聖約93:40) こんにち 今日の世情はあまりにも世俗的であり,不法が横行して いる。立派な家庭の若者も反抗心のはけ口を破壊的な行為 238 両親には子供を教え,訓練するという管理の職がある 「近代に主はこのように言っておられる。 『主なるわたし さらに,主は次のように言っておられる。『わたしは一 はシオンに住む者を喜んでいない。彼らの中に怠惰な者た ちがいるからである。そして,彼らの子供たちも悪事をす 人に言うことをすべての者に言う。あの邪悪な者があなた がたの中で力を持ち,あなたがたの場所からあなたがたを るようになり』(教義と聖約68:31)と。わたしたちは, ただ自分の虚栄心を満足させるために子供を育てるのでは 退けることのないように,常に祈りなさい。』(教義と聖約 93:49) ない。わたしたちの務めは,子供たちが将来王となり,女 王となり,主の祭司となり,女祭司となれるようにするこ わたしたちが親として子供を教えなかったことを主から とがめられるとしたら,どんなに悲しいことだろうか。子 とである。 供が誕生すると,両親には実に大きな責任が課せられる。 フレデリック・G・ウィリアムズに対して主は次のよう に言われた。 『あなたは引き続きこの罪の宣告の下にある。 衣食住はもちろん,愛すること,優しくしつけること,教 え,訓練することが求められるのである。 あなたは……あなたの子供たちに光と真理を教えてこな かった。そのために,あの邪悪な者は今なおあなたを支配 無論,中には,両親が訓練し,教育したにもかかわらず 不従順な子供も多少はいる。しかし,大半の子供は親のそ する力を持っている。あなたが苦難を受けてきた原因はこ のような指導にこたえるものである。聖典には,『子をそ れである。 』(教義と聖約93:41−42) 次に,主はシドニー・リグドンに次のように命じておら の行くべき道に従って教えよ,そうすれば年老いても,そ れを離れることがない』 (箴言22:6)と記されている。仮 れる。『まことに,わたしの僕シドニー・リグドンに言う。 子供たちに関する幾つかの事柄について戒めを守っていな に道から離れることがあったとしても,正しく育てていれ ば,将来恐らく帰って来るであろう。 」(“Train Up a Child” しもべ いことがある。それゆえ,まずあなたの家を整えなさい。』 「子供の教育」 『エンサイン』1978年4月号,pp.4−5) (教義と聖約93:44) 第94章 御業を進めるための家 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1833年3月23日に,シオンのステークを築く土地をカー ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約94:1−2 カートランドにおけるステーク トランドに購入する委員会を組織するために,評議会が召 集された。そして,設立された委員会によって,広大な農 の町として,主はどのような型を示されたか カートランドの「シオンのステークの町」の建設は, 場が何か所か購入された。その一つに,前の所有者にちな 「わたしの家から始めて」(教義と聖約94:1)と主は言わ んで,ピーター・フレンチ農場と呼ばれていた所があった。 そこを購入したのは,れんがを造るのにうってつけの採石 れた。すなわち,最初に神殿の敷地を定め,町の残りの部 分はそれを基にして建設するようにと定められたのであ 場と施設が備わっていたからである(History of the Church 『教会歴史』1:335−336,346参照)。後に,カートランド る。1833年の春,ジョセフ・スミスは,「シオンの町」を 築くのための基本計画として,「シオンの中心」の下図を 神殿がこの農場の一画に建てられた。 教会は,この農場を購入するや,町造りのための調査を 描いた(ベレット『回復された教会』pp.96−98参照)。イ ンディペンデンスの教会に送られた図面によると,約1マ 開始した。周辺諸州から聖徒たちが集合し,カートランド イル平方(約1.6キロ平方)の用地の中心に神殿を建てる の教会は約1,500人を擁するまでになった。この啓示は第 93章と日を同じくして,1833年5月6日に与えられたもので ことになっていた(教義と聖約57:1−3の「注解」 。『回復 された教会』p.91−92参照)。 ある。主は聖徒たちに,「あなたがたはこのカートランド の地で,わたしの家から始めて,シオンのステークの町の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約94:3−12 王国の業を進めるための家の建 始まりと基を据えて準備する仕事を開始しなければならな 設に関する指示 い」という指示を与えられた(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』p.600。教義と聖約93章の「歴史的背 カートランドには,二つの特別な建物が建てられること になっていた。一つは,大管長会が会合を開くための建物, 景」参照)。 そしてもう一つは教会出版物を印刷するためのものであっ た。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この 二つの建物の目的について,次のように説明している。 239 「大管長会が用いるための建物の敷地が定められた。啓 教義と聖約94:13−17 主によって任じられた建築委 示を受け,教会の発展につながるすべての事柄を正しく処 理するために用いる建物であった。……その建物は,神権 員会の働き ハイラム・スミスと,レイノルズ・カフーン,ジェレ の定めに従って,その土台からすべて主に奉献しなければ ならなかった。大管長会が教会業務の管理に専念できる場 ド・カーターが,委員会として召され,カートランドに建 設する建物の完成を監督することになった。主は,この を必要としていたことは明らかである。それは,聖なる場 でなくてはならず,何であろうと清くないものがそこに入 人々がそれぞれの責任を果たせるように,神殿用地の近く に土地をお与えになった。そして,大管長会のための建物 るのを許してはならなかった。建設に当たる人々がこのこ と印刷所の建設は,「それに関してわたしがあなたがたに とをよく心に思うならば,主がその建物に来られるはずで あった。 命じるまで建ててはならない」(教義と聖約94:16)と命 じられた。カートランド神殿の建設は,教会の活力と財力 この建物の南にあたる第二の敷地は,もう一つの建物を 建設するために奉献すべき区画であった。その建物は,教 のすべてを必要とした。そして,ようやくそれを完成した ときには,カートランドにいた忠実な聖徒たちは,そこか 会のための印刷業務を行い,預言者が断続的に長い月日を らミズーリへ力づくで追われる破目になった。その結果, かけて翻訳してきた聖文を出版するためである。……この 建物もまた主の業のために奉献し,特に印刷の仕事のため 前に述べた二つの建物は完成しなかった。 に用いられることになっていた。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:404) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約94:8−9 ような備えをすべきか 主の宮に参入するためにはどの 主は,ここで述べられている大管長会の家のような聖な る建物において,ふさわしい状態でそこに入る人々に御自 み たま 身の栄光を現される。しかし,主の御霊は汚れた所にとど まることはできない。汚れたまま主の宮に参入する者があ れば, 「主の御霊は深く悲し」み, 「天は退き去」る(教義 と聖約121:37) 。したがって,主の宮に参入する者はすべ て,罪からの清めを受けなければならない。この原則は, この啓示の中に挙げられている二つの建物に関連して与え られたものであるが,これは,後に建設されたカートラン ド神殿についても言えることであり,現代の神殿について も共通して言えることである。神殿推薦状の目的の一つは, 神殿に参入する人がその資格を有していると保証すること である。そうすることによって,主の宮は汚されることな く,主の御霊があふれるごとく豊かに注がれるようになる のである。 監督は会員が神殿に参入するにふさわしいか否かを判断する鍵 を持っている 「真昼に暗闇の中を歩いている」 歴史的背景 第95章 心に守ろうとする気運が見られなかった。これについて, 預言者ジョセフ・スミスは次のように記している。この啓 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 神の栄光を現すための神殿を建てるようにという戒めが 示が与えられたとき,「主の宮を建てるための様々な準備 が進められていた。」しかし,「教会は貧しく」,作業は 最初に与えられたのは,1832年12月のことであった(教義 と聖約88:119参照)。ところが,1833年6月になっても, 遅々として進まなかった(History of the Church『教会歴 史』1:349−350)。 聖徒たちの間には,主から与えられたこの大切な戒めを熱 240 1833年6月1日,ハイラム・スミス,レイノルズ・カフー 第95章 ン,ジェレド・カーターから成る神殿委員会は,全教会員 には彼らを懲らしめることもある。しかし,わたしがそう に向けて1通の手紙を送り,物心両面にわたって神殿建設 を援助するように促した。この日,預言者ジョセフ・スミ するのは,燃える炎のような神の力を,自分の内と外にみ なぎらせた生き方をしてほしいと思うからである。それが スは,教義と聖約第95章のこの啓示を受けた。主はこの中 で,神殿を建てるようにという戒めを無視し続けた聖徒た わたしの気持ちであり,願いである。」(Journal of Discourses『説教集』8:62) ちを厳しく叱責しておられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約95:3 聖徒たちの犯した「非常に重い罪」 注 解 とは何か ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約95:1−2 愛する者たちを懲らしめるとは 教義と聖約第95章のこの後の箇所から明らかなように, 聖徒たちが神殿を建てるのを怠ったことは重大なことであ どういうことか アルマは息子のコリアントンに,「罰がなければ,人は った。それは,伝道活動の進展をも妨げた。長老たちが主 の「ぶどう園で最後に刈り込みをする備え」 (4節)をする 悔い改めをすることができなかった」(アルマ42:16)と ことができなかった。また,忠実な人々のために主が取っ 教えている。もしだれかがある人を,最も崇高な意味にお いて愛しているとしたら,その人は相手のこの世における ておかれた力を「高い所から」 (8節)授かることもできな かった。 幸福のみならず,永遠の幸せについても深く思い計るに違 いない。そして,背きに対してそれ相応の罰を与えるのは, ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に説明している。「カートランド神殿は,使徒たち(当時 愛に基づく行為であるということに気づくであろう。罰が はまだ召されていなかった)と教会の長老たちが彼らのた なければ,悔い改めの心を起こすことはないからである。 スペンサー・W・キンボール大管長は神権指導者に対し, めに主が備えてくださっていたエンダウメントを受けるの に必要であった。長老たちは,教会が組織されて以来福音 律法に背いた人の扱い方について次のような勧告を与えて いる。 を宣べ伝え,悔い改めを叫んできた。そして多くの偉大な 人々がそれを聞き,真理を受け入れてきた。それでも,こ 「わたしたちは,面接する指導者が律法に背いた人に個 人的な同情を寄せ,その家族に愛を感じるあまり,その人 の神殿が建てられ,福音をさらに十分に宣べ伝えてその儀 かぎ 式を執行するのに必要な鍵 と権能がここで回復されるま が当然受けなければならない罰を差し控える傾向が非常に で,長老たちは,主が彼らに授けようとしておられる力と 強いことを懸念している。 はくだつ 律法に背いた人が当然正会員資格を剥奪されるか,破門 権能を持って出て行くことはできなかったのである。」 (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の されるかしなければならないときに,赦されて何の罰も受 しか けないことがあまりにも多い。また,破門されて然るべき 啓示』1:406) 聖徒への懲らしめは主が意図されたとおりの効果をもた 罪人が正会員資格の剥奪で終わっていることも非常に多 らした。「神殿の建設を怠っていたことに対して叱責を受 い。…… あなたがたは預言者アルマの言った言葉を覚えているだ けてから4日後,兄弟たちは寄付金の集まるのを待たず, 神殿の建設に着手した。改宗して間もないジョージ・A・ ろうか。『ところで,罰がなければ,人は悔い改めをする ことができなかった。 』(アルマ42:16) スミス長老が,神殿建設用の最初の石材を引いて来た。ま たハイラム・スミスとレイノルズ・カフーンは,壁面を建 このことについてしばらく考えていただきたい。あなた てるため溝掘りを始め,それらを自力で終えた。 」(スミス がたはこの点に気がついていただろうか。ほんとうの完全 な悔い改めをしないと,赦されることはあり得ない。しか 『教会歴史と近代の啓示』1:407) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しっせき ゆる の も罰のないところに悔い改めはないのである。これは確か に永遠の原則である。…… 教義と聖約95:4 いう意味か ぶどう園で刈り込みをするとはどう 神の律法を破った人があなたがたのところへ来たとき は,以上のことを覚えていただきたい。 「ぶどう園とは刈り入れに関連した象徴であり,この世, すなわち地球とそこに住むすべての人を表すのによく用い 不相応な同情に道を譲ることは簡単である。しかし罪を られる。時としてぶどう園(この世の人々)では木が駄目 犯した人は苦しまなければならない。これは絶対に必要な ことである。そしてそう要求するのは監督ではなく,人間 になり,良い実をたわわに実らせるためには,刈り込みを しなければならない場合がある。刈り込みには,良い部分 が生まれながらに持っている固有の性質がそうさせるので ある。」(Conference Report『大会報告』1975年4月,p.116) と悪い部分を分ける作業がある。それには,邪悪な人々の 中から義人を選び分けるか,あるいは,邪悪な人々を完全 しもべ 人を従順へ導き,そこから必然的に生じる幸福と喜びに に滅ぼす,という手立てが考えられる。主がその僕(宣教 あずからせるためには,懲らしめに頼らざるを得ない場合 がよくある。主は, 「愛する者たちを懲らしめる」 (教義と 師)にぶどう園の刈り込みをさせるのは,大体前者の意味 においてである。ただし,刈り込みが完了しても,なおか 聖約95:1)と言っておられる。ブリガム・ヤング大管長 もまた次のように言っている。「多くの兄弟たちの目には, つ悪い実をならせ続けるぶどうの木は焼き払われることに なると主は警告しておられる。これこそまさしく,イエ わたしが厳しい人間のように映っているかもしれない。時 ス・キリストが力と大いなる栄光のうちに再臨されるとき 241 に起こる,邪悪な人々の焼き尽くしのことである。 」(ラド ためである(教義と聖約121:34−40参照) 。 ロー,Companion『必携』2:318) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約95:4 主の比類のない業とは 教義と聖約95:7 「聖会」とは何か スペンサー・W・キンボール大管長は,聖会の大切さに カートランド神殿の目的の一つは,主の使徒,すなわち 忠実な僕たちにぶどう園で働くための備えをさせることで ついて次のように述べている。「聖会はイスラエルの時代 より聖徒たちの間でよく知られていた。その種類もいろい あった。これは,末日における主の「比類のない業」(教 義と聖約95:4)を進めるのに役立つことであった。スミ ろあるが,一般には,神殿の奉献,あるいは新しい大管長 会を支持するために開かれる特別な集会,またはロレン スとショダールは次のように述べている。「この表現は預 言者イザヤから出たものである(イザヤ28:21) 。これは, ゾ・スノー大管長に与えられた什 分 の一に関する啓示の ようにある啓示を支持するために召集される神権者の集ま 神が御自身の民の背教のゆえに彼らと戦われるということ りを指してきた。…… を指している。『わたしはサマリヤとその偶像に行ったよ うに,エルサレムとその偶像に行わぬであろうか。』(イザ ジョセフ・スミスとブリガム・ヤングは,神権の各職を 代表する人々を含む全会衆からまず支持を受けた。ブリガ ヤ10:11)これは,自分たちの背教の状態が『異なったも のである』ことに気づかなかったユダヤ人に当てられたも ム・ヤングが支持を受けたのは1846年3月27日であり,そ のときは評議会によって『イスラエルの陣営全体を管理す のである。しかし主はこの神権時代において,驚くべき救 る長に全会一致で選ばれた。』(B・H・ロバーツ,A いの計画を明らかにし,神と近しい関係にあるとうそぶく 背教した教会に戦いを挑み,同様の比類のない業を行うと Comprehensive History of the Church『教会概史』3:52)次 いで支持を受け,ホサナの歓呼があった。 言われた。主は,御自分の使者たちがその比類のない戦い に備え,高い所から力を授かるために必要な宮を聖徒たち ハロルド・B・リー大管長に至るまで,歴代の大管長は いずれも聖会において教会の神権者による支持を受けてき が建設するのを待ち望んでおられたのである(8節)。聖徒 た。リー大管長が支持を受けたのは1972年10月6日であ たちの怠慢に対して主が叱責を加えられたのは当然のこと と言えよう。 」(Commentary『注解』p.603) る。」(『大会報告』1974年4月,pp.64−65)リー大管長の 死後,キンボール大管長が聖会において,預言者,聖見者, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約95:5−6 主に選ばれず,受け入れてもらえ 啓示者として支持された。 『聖書』には,昔も聖会が開かれていたことを示す例が ない神権者がいるのはなぜか 幾つか述べられている(レビ23:36;民数29:35;申命 ぶどう園の働き手として召されることと,その務めを忠 実に果たすこととはまったく別である。主に選ばれて,神 16:8;歴代下7:9;ネヘミヤ8:18;イザヤ1:10−14; エゼキエル45:17;46:11参照)。この種の会は聖なる集 の王国において昇栄を受けるのは,召しを忠実に果たした 者だけである。召されはしたものの選ばれなかった人は, いであり,そこに出席するのは,神権者と,神の戒めを守 って世に染まらないように努めている人々である。 「非常に重い罪を犯した。すなわち,彼らは真昼に暗闇の 中を歩いている」(教義と聖約95:6)のである。それは, 主は,教義と聖約第88章70節の中で,聖会を開くように と長老たちに命じておられる。この聖会の目的は,長老た 彼らが自分を取り囲む回復された福音の光に応じなかった ちが世の人々に引き続き福音を宣べ伝えることができるよ くら やみ じゅう ぶん うに霊的に備えをさせることにあった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約95:8−9 ダウメントとは何か 「高い所から力」を授けるエン エンダウメントとは,贈り物である。末日聖徒にとって, エンダウメントとは通常,神に奉献された神殿の中で与え られる特別な知識や神権の祝福を意味する。しかし,ここ で述べられているエンダウメントは,ノーブーや現代の神 殿で授けられてきたものとは異なり,また,神権者たちが 「エンダウメントの一部の儀式を行っていた。しかし完全 なエンダウメントの儀式は,神殿が完成するまで待たなけ ればならなかった。」(ブルース・R・マッコンキー“A New Commandment: Save Thyself and Thy Kindred!” Ensign 「新しい戒め」『エンサイン』1976年8月号,p.10)この神 権時代における最初の完全なエンダウメントは,1842年5 月4日にジョセフ・スミスによって与えられたものである。 カートランドで授けられたエンダウメントは,神権者の この世はぶどう園にたとえられる 242 洗足の儀式のほか, 洗い清めと油注ぎを含むものであった。 み たま 主は御霊も注がれた。すなわち,霊的な力を授けられたの である。そして多くの人々が,約束されたエンダウメント 明し,次のように述べている。「この建物は,当時教会の の一要素である啓示を受けた(『教会歴史』2:308−310参 照)。 指導者や会員に知らされていたのとは別の,さらに偉大な 目的のために建てられることになっていた。エンダウメン ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ トの真の目的と本質が明らかにされる時はまだ来ていなか った。1833年の時点では,長老たちは主が彼らに授けると 教義と聖約95:10 預言者の塾における争い 「非常に重い罪」(教義と聖約95:10),すなわち神殿を 建設するようにとの戒めに対する不従順に加えて(教義と 宣言された啓示を完全に理解する備えはまだできていなか ったのである。それ以外の会員はなおさらであった。教会 聖約95:3の「注解」参照),主はもう一つの重大な罪,す 員に下された厳しい叱責は,その効果を表し,兄弟たちは なわち預言者の塾における争いも指摘された。塾が開かれ る以前に,主は一部の人々に「すべての軽々しい話,すべ ほかの建物の必要なことは差し置いて,一丸となって主の 宮の建設に取り組み始めた。」(『教会歴史と近代の啓示』 ての高笑い,すべてのみだらな欲望,すべての高慢と軽薄 さ,すべての邪悪な行いをやめなさい」(教義と聖約88: 1:406−407) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 121参照)という啓示を与えておられた。それにもかかわ 教義と聖約95:17 子なるアーマン,アルパス,オメ らず,預言者の塾に集っていた人々は,主の前に二つ目の 「非常に重い罪」を犯したのである(教義と聖約95:10)。 ガスとはどういう意味か アーマンについては,教義と聖約78:20の「注解」の中 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に説明されている。アルパス,オメガスには,アルパ,オ メガという別の呼び方もある(教義と聖約38:1の「注解」 教義と聖約95:11−17 「その家を建てなさい」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,啓示を 参照) 。 通して明らかにされたカートランド神殿の建設の目的を説 第96章 ステークを強くする 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ カートランドに土地を購入してしばらくすると,教義と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約96:1 「シオンを強くするためにわたしが 聖約第94−95章にあるように,主はその地に大管長会用の 建物,印刷所,神殿をそれぞれ建設する準備に取りかかる 設けたこのステークを強くすることは,わたしにとって必 要である」 よう命じられた。そこで,カートランド評議会が召集され, 天幕を張る場合,天幕をしっかりと固定するために地面 フレンチ農場の区割りと利用法について話し合った。しか し,だれを監督者にするかで折り合いがつかず,最終的に に杭を打ち込む。杭を深く打ち込めば打ち込むほど,天幕 をしっかりと固定することができる。主はこの啓示の中で, 主の判断を仰ぐことになった(History of the Church『教会 歴史』1:352。教義と聖約94章の「歴史的背景」参照) 。 シオンを一つの大きな天幕にたとえておられる。杭(訳 注:英語でstake)すなわちステークは,シオンの力であ 「彼らも土地を知恵をもって区割りするという件(96章) くい り,強くなければならない。 について話し合ったが,主はこれらのことに関して彼らに 勧告を与えられた。シオンのステークは強くなければなら ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に記している。「『シオンのステーク』という表現は,イザ ない。貧しい人は世話を受けなければならない。ニューエ ル・K・ホイットニー監督は,町の建設や主の名のために ヤの言葉から取ったものである。『定めの祭の町シオンを 見よ。あなたの目は平和なすまい,移されることのない幕 建てる神殿用地を区割りする責任を受けた。ジョン・ジョ 屋エルサレムを見る。その杭〔stakes〕はとこしえに抜か ンソンは,人の子らに主の言葉を伝える助けをするために 責任を与えられ,共同制度に入ることを許された。 」(スミ れず,その綱は,ひとすじも断たれることはない。 』(イザ ヤ33:20)さらにイザヤはこう言っている。『あなたの天 ス,Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代 の啓示』1:407) 幕の場所を広くし,あなたのすまいの幕を張りひろげ,惜 しむことなく,あなたの綱を長くし,あなたの杭〔stakes〕 を強固にせよ。』(イザヤ54:2)イザヤは,モーセの時代 に荒れ野の中を持ち運び,設営された幕屋を念頭に置きな がら,シオンを天幕もしくは幕屋という言葉で表現してい 243 る。綱とは結束用のロープであり,天幕もしくは幕屋から, 教義と聖約96:5 地面に打ち込んである杭に張り渡されていた。主はシオン が打ち建てられるべきことと,シオンの周囲に杭すなわち に和らげる目的をもって,わたしの言葉が人の子らの中に 出て行くこと」 ステークを打ち,シオンをしっかり支えるようにすべきこ ひ ゆ とを言われたのである。この比喩的表現は歳月の流れとと 福音の影響力に対しては,妨害を企てる者もあれば,時 には,邪悪な人々の敵対行為もある。しかし,多くの人は もに忘れ去られたが,その重要性と美しさは,今も少しも 変わっていない。シオン,新エルサレム,すなわちシオン 福音そのものが持つ力や,すでに福音を受け入れた人々の 模範を通して良い影響を受けるものである。この影響力は, の町が建つと言われている場所を,シオンのステークと呼 さらにシオンのステークを確立する原動力ともなり,それ ぶのは誤りである。シオンは幕屋であり,シオンのステー クとは,シオンを支える杭である。したがって,シオンを ぞれの地の人々により豊かな祝福をもたらすようになる。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように勧告してい ステークと言うことはできない。幕屋を杭と呼ぶことと同 様,シオンをステークと呼ぶのは不適切である。」(『教会 る。「シオンを築きなさい。神があなたを置かれたその国 に,シオンを建てなさい。あなたをその市民とし,家族と 歴史と近代の啓示』1:321−322) 友を与えられた,その地にシオンを築きなさい。シオンは ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約96:4−5 「わたしの言葉が人の子らの中に 南米のこの地にある。この地のシオンに住む聖徒たちは, み わざ これらの諸国によい影響を及ぼすのである。神は,御業の 出て行くこと,これがわたしの最も必要としていることで ある」 発 展 を 促 す 政 策 を 進 め る 国 を 祝 福 さ れ る で あ ろ う 。」 (“Come: Let Israel Build Zion” Ensign「シオンの建設」『エ 主の言葉を世の人々に知らしめるために(教義と聖約 「人の子らの心をあなたがたのため ンサイン』1977年5月号,p.118) 94:5参照),聖文の準備と,それを出版するための建物の 建設準備が主の指示に従って進められた(教義と聖約94: 10参照)。聖典を出版することは,シオンを確立するため の備えの一環として非常に重要なことであった。 「彼らに対して,イエスはキリストであり,また神の御 あかし 子,御父の独り子であられるという不滅の証を立てるため に,すべての標準聖典が整理され,まとめられる時がいつ の日か訪れるであろう。救いの教義が全人類の手の届く所 になければならない。 ただし手に持つだけではだめである。 それぞれの頭と心の中に入れなければならないのである。」 (ボイド・K・パッカー,Teach the Scriptures『聖文を教え る』〔教会教育部宗教教育者の講演〕1977年10月14日, p.6) シオンは,主の幕屋とそれを固定する杭にたとえられる 「心の清い者, これこそシオンである」 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1833年7月20日,ジャクソン郡の聖徒たちに対して初め 第97章 ンにおける塾」に関する問いに答えるものであった。この 手紙には,同じ年の8月2日に与えられた教義と聖約第97章 と,シオンの民に対する主の警告を載せた第98章がしたた められていた。この啓示の中で主は,シオンに住む民に戒 て公然たる暴力が加えられた。ウィリアム・W・フェルプ めを固く守るように,という警告を与え,さもなければ, ス所有の印刷機が破壊され,多くの聖徒が家を追われた。 「ひどい苦難,疫病,悪疫,剣,報復,焼き尽くす火」(教 また,ミズーリ州インディペンデンスでは,エドワード・ 義と聖約97:26)に見舞われることになると言われた。そ パートリッジとチャールズ・アレンが町の広場で体にター れでも聖徒が完全に悔い改めなかったために,その年の11 ルを塗られ,その上に鳥の羽を付けられた。このような事 月初めに,主の言葉どおりの災いが聖徒を襲ったのである 件をまだ知らなかった預言者は,1833年8月6日付けで,ミ ズーリの教会指導者に1通の手紙を送った。それは, 「シオ (History of the Church『教会歴史』1:309−393,400参 照)。 244 第97章 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約97:1−2 った者 シオンの地の,心からへりくだ この聖句の中で主は,「心からへりくだり,知恵を得て 真理を見いだそうと熱心に努めている」(教義と聖約97: 1)人々を褒め,祝福を与えると約束された。多くの聖徒 が主の命に従わず,結果的には放逐されるに至ったが,主 はここで,シオンの真の民と呼べる人々もいたことを指摘 しておられる。不幸にも,一部の人々の悪事が問題を引き 起こし,義人に余波を及ぼし,彼らを苦しめることも時に はあった。これは昔のイスラエルにおいても数多く見られ たことであった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約97:3−5 「シオンにおける塾」とは何か。 また,この塾はどのような状態にあったか 1833年の夏,パーリー・P・プラットを教師とし,シオ ンで「長老の塾」が開かれた。この塾のおもな目的は,来 るべき冬に兄弟たちが宣教師として出て行くための備えを させることであった。プラット長老は次のように記してい る。「〔1833年の〕夏の終わりと秋を,わたしはあちこちの 長老の塾の記念碑 教会で働き,集会を開き,病人を見舞い,苦しんでいる者 を慰め,勧告を与えることなどに,自分の時間のほとんど を費やした。長老の塾も組織され,わたしはそれを管理す 人は斧で何かを切る場合,あらかじめ斧を振り下ろす箇所 ひ ゆ にまず斧の刃先を当ててみるものである。そこで,比喩的 る責任に召された。この塾には約60人の参加者がいて,週 に1度教えを求めて集まった。集会場所は,戸外,高い木 な言い方をすれば,自分の根元に斧が置かれているのに気 の下,人里離れた荒れ野の中など様々であった。そこでわ づいた木は,何とか切り倒されまいとして,良い実をなら せるために生き方を変えようという気持ちになるかもしれ たしたちは,祈りをささげ,福音を説き,預言をし,聖な み たま たまもの 大いなる祝福が注がれ, る御霊の賜物を行使したのである。 ない。しかし,聖徒たちはこの啓示が与えられたにもかか わらず,良き実すなわち良き働きをせず,悔い改めようと 多くの偉大な驚くべき事柄が明らかにされ,教えられた。 わたしは主から大いなる知恵を賜り,長老たちを前途に待 しなかった。一方暴徒たちは最初の一撃を加えるためにジ ャクソン郡に集結しつつあった。 ち受ける崇高な御業に備えさせるために,教え,啓発し, 慰め,励ますことができた。そしてわたし自身も大いに啓 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み わざ 発され,強められた。わたしはこの塾に出席するために, 教義と聖約97:8−9 犠牲の原則とは何か。また,そ の原則を完全に踏み行うにはどうすればよいか 徒歩で旅をしなければならなかった。時にははだしで約6 マイル(約10キロ)も歩かなければならないこともあっ 教義と聖約58:2−4の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た。週に1度これを行い,ほかにも週に5,6か所の支部を 訪れては,福音を説いて回った。 」(Autobiography of Parley 教義と聖約97:10−12 什 分の一とは何か じゅう ぶん P. Pratt『パーリー・P・プラットの自叙伝』pp.93−94) 主は,聖徒の守るべき什分の一とは,「毎年彼らの得る 全利益の10分の1」 (教義と聖約119:4)であると定められ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ おの 教義と聖約97:6−7 「斧は木の根元に置かれている」 た。主はこの正式な定義を与えるに先立ち,教義と聖約第 97章の中で,シオンにおいて神殿を建設するために払う犠 教義と聖約97:7で主は,主の民であるシオンを,果樹 園の木々になぞらえておられる(マタイ3:10参照) 。人は 牲は, 「主なるわたしが彼らの手に求める什分の一」(教義 木のようなものであり,その実,すなわちその働きによっ と聖約97:12)であると宣言し,什分の一と犠牲とを同列 に論じておられる。当時は,それが什分の一の教えであっ て見分けられる(マタイ7:16−20参照) 。良い木には良い 実がなり,悪い木には悪い実がなる。「土地をふさがない た。しかし,今日では什分の一とは,1年間に得た収入の 完全な10分の1であると教えられている。 ように」 (『モルモン書』ヤコブ5:66) ,悪い木を果樹園か ら取り払ってしまわなければならない。主は,「良い実を 結ばない木はことごとく切り倒されて」(教義と聖約97: 7)と言っておられる。 「斧は木の根元に置かれている」(7 節)という聖句は,実に鮮明なイメージを与える。普通, こん にち 「厳密に言って,什分の一の一部などという言葉はない。 什分の一は10パーセントである。もし10パーセントを納め ていなければ,ただ教会の什分の一基金に寄付をしている にすぎないのである。ともあれ,このような寄付をする 人々のことを『什分の一の一部納入者』という呼び方をす 245 るのは不適切である。」(Mormon Doctrine『モルモンの教 る。そして,そこに入って来る心の清い者は皆,神を見る 義』pp.798−799) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ であろう」 (16節)と約束しておられる。 ヘンリー・D・テーラー長老は,教会の大管長の責任に 教義と聖約97:13−14 神殿は「教える場所」である ついて次のように述べている。「一般的な言い方をすれば, ジョン・A・ウイッツォー長老は,エンダウメントの教 育的な役割に関して,次のように述べている。「例えば, これはわたしたちすべてに関係する事柄である。罪を悔い 改めない者は神殿に参入できない。主御自身が,清くない 神殿活動は霊的な事柄に関する知識や力を保ち続けるため のすばらしい機会を与えてくれる。……聖なる神殿におい 者によって汚された神殿にはとどまらないと宣言しておら れるからである(教義と聖約97:15−19参照)。キンボー ては,わたしたちの前にすばらしい永遠の展望が開かれ, また,無限の過去から永遠の行く末に至る時の流れを見, ル大管長は,神殿とその中で行われる儀式が神聖に保たれ るようにする責任を,直接,主に対して負っている。わた 永遠の命のドラマが繰り広げられる。そして,自分が宇宙, しは,キンボール大管長がこの管理の職を厳粛に受け止め また神の目的の中においてどのような位置を占めているか をより明確に理解し,自分がどこに属しているかをさらに ておられることをはっきりと知っている。」(“I Have a Question” Ensign「質疑応答」『エンサイン』1976年2月号, よく知り,日常の務めの軽重をよく見極め,整理できるよ うになり,つまらないことで悩んだり,神から与えられた p.34) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ より偉大な事柄への洞察をなくしたりすることがなくな 教義と聖約97:18 シオンの行く末 る。」(Conference Report『大会報告』1922年4月,pp.97− 98) 主はここで,シオンは「栄え,自らを広げ,非常に栄光 に満ちた,きわめて大いなる,そして甚だ恐ろしいものと 主は,神殿とは聖徒たちが「彼らの務めを理解すること において,理論において,原則において,教義において… なるであろう」(教義と聖約97:18)と言っておられる。 預言者ジョセフ・スミスは,シオンの地理的な位置につ …神の王国に関するすべてのことにおいて,彼らが完全に いて次のように語っている。「御存じのように,シオンに なるため」(教義と聖約97:14)の場である,と言ってお られる。この点において,神殿は確かに「すべての人を教 関して今多くの論議がされている。それはどこなのか,こ の神権時代の集合の地はどこなのか,などである。わたし える場所」 (13節)であると言えよう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ が今お話ししようとしているのはそのことである。このこ とについては,預言者たちが語り,記してきた。しかしわ 教義と聖約97:15−17 主に召された指導者たちは神 たしは今日それよりももっと広い範囲に及ぶ宣言をした 殿の神聖さをどのようにして維持することができるか 神殿は,清く聖なる場所である。したがって,神殿に参 い。預言者たちが述べてきたシオンとは,南北アメリカを 含む全アメリカであり,彼らが,主の山があり,しかもそ 入する者はふさわしくなければならない。そこで,神殿推 薦状のための面接が毎年行われ, ふさわしさが判断される。 の山が地の中心に位置すると語ったシオンとは,このアメ リカであることを宣言する。長老たちは『聖書』の中の古 聖徒は,「それ〔神殿〕が汚されないように,何であろう と清くないものがそこに入るのを」許してはならない(教 い預言を調べてみれば,それが分かるであろう。」(『教会 歴史』6:318−319) 義と聖約97:15)という主の命を受けている。聖徒がこの ブリガム・ヤングは次のように言っている。「このアメ 条件を満たすならば,主は「わたしはそこに来るからであ リカ大陸こそ将来シオンとなる地である。これは,預言者 たちによって語られてきたことである。いずれエルサレム は再建され,集合場所となって,ユダの部族がそこに集合 するであろう。しかし,シオンの地とは,このアメリカ大 陸である。 」(Journal of Discourses『説教集』5:4) シオンは恐ろしいものとなる,と記されているが,これ は基本的には,シオンは恐れを引き起こすという意味であ る。聖典には多くの箇所に,シオンの栄光は悪人の心に恐 れを引き起こすと記されている(教義と聖約45:70; 105:31参照。付録の特別講座Bも参照する)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約97:21 「シオンを喜ばせなさい。心の清 い者,これこそシオンである」 シオンとは,場所だけでなく,状態を指す言葉でもある。 主は,シオンにふさわしい者とは「心の清い者」(教義と 聖約97:21)であると言っておられる。ハイラム・スミス は,シオンとは「永遠の聖約に耳を傾ける正直で心の清い 者」と述べている(『教会歴史』6:320)。 主の宮は教えの家である 246 第98章 教義と聖約97:22−28 「報復は神を敬わない者のう ごとく燃えないように,まず自分自身を,次いでシオンに えに旋風のように速やかに及ぶ」 シオン,すなわち心の清い者には,大いなる驚くべき祝 住む人々を清めるようにしなさい。 悔い改めよ,悔い改めよ。これはシオンに対する主の言 福が約束されている(教義と聖約97:21参照) 。主はまた, この章の中で主の言葉に注意を払おうとしない悪人には, 葉である。奇妙に思われるかもしれないが,これは真実で ある。人類は,自分たちの罪悪がすべて暴露され,過去の 罰と破滅を下すと言っておられる。しかし,シオンといえ ども,義にかなった業を行わなければそれを免れることは 人格が再び戻り,心の中に大切にしまい込まれていたもの が衆目にさらされるまで,自らの正しさを主張するもので できない。教会員もシオンの民としてふさわしい生活をし ある。わたしはあなたに申し上げたい。(そして,わたし なければ,約束された祝福を求めることはできないのであ る。預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。 はあなたに申し上げることを,すべての人に申し上げる。) シオンが倒れないように,また主が激しく怒って,シオン 「すべての事柄について,主の目から見て受け入れられ るように,シオンが自らを清めないならば,主は別の民を に住む者は主の安息に入れないと誓いを立てられることの ないように,神の警告の声に耳を傾けなさい。」(Teach- 求められるであろう。なぜならば,主の業はイスラエルが ings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミス 集合するまで続き,主の声を聞こうとしない者は主の怒り を買うからである。あなたに申し上げる。主の怒りが炎の の教え』pp.18−19) 「戦争を放棄して, 平和を宣言しなさい」 第98章 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 教義と聖約98:1−3 「すべてのことについて感謝し に記している。「ミズーリで聖徒たちが暴徒の襲撃を受け た日から17日後〔1833年8月6日〕,預言者は一つの啓示を なさい。……すべてのことは,あなたがたの益のために… …ともに働く」 受けた。聖徒たちの祈りが天に達し,聖徒たちは苦難に耐 ふくしゅう え,敵に復 讐することのないようにとの主の勧告である。 この第1節から3節までの聖句は,当時の一部の聖徒たち の信仰を試すものとなったに違いない。この啓示が与えら オリバー・カウドリが特別な任務を帯びてインディペンデ ンスをたったのは7月23日を過ぎたころであった。したが れる1か月前から,聖徒らは暴徒たちの公然たる暴虐行為 に悩まされていたからである。1833年7月20日,暴徒はイ って,もしも彼がこの啓示を受けた8月6日以前にカートラ ンディペンデンスの裁判所に集結し,ミズーリにおける教 ンドに到着していたとすれば,距離や交通機関から考えて まったくの奇跡と言うよりほかない。彼がいつ到着したか 会の指導者たちをその場に呼び出し,彼らにジャクソン郡 を立ち退く準備をするようにと迫った。そこで,教会の指 について,わたしたちは知らされていない。しかし,預言 者はジャクソン郡で容易ならざる事態が起こっていたこと 導者たちは,その要求について検討するために3か月の猶 予を与えてほしいと願った。しかし,それが聞き入れられ を知っていたのである。当然のことながら,教会員はいき なかったので,せめて10日間の猶予をと求めた。ところが り立っていた。そして敵に対して当然何らかの復讐をすべ きだという思いが彼らの心を支配していた。主がこの啓示 暴徒はそれも拒み,15分だけ待ってやると答えたのであ る。長老たちがそうした訳の分からない不当な要求に応じ を下されたのはそのためである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1:432) ようとしないのが分かると,暴徒たちは『イブニング・ア ンド・モーニング・スター』(Evening and Morning Star) 当時の事柄ついて,預言者は次のように記している。 の事務所を即刻破壊することにした。そして,ウィリア 「かつては合衆国にとって,徳と独立の時であったこの7月 も,今ミズーリでは野蛮で残虐な行為と暴徒が支配する月 ム・W・フェルプスの印刷所と住まいと,シドニー・ギル バートの経営する店が見るも無残に破壊されたのである となっている。」(History of the Church『教会歴史』1: 372。教義と聖約97章の「歴史的背景」参照) (教義と聖約57:8−9参照)。バレットは,暴徒たちはそれ だけでは飽き足りなかったと,次のように書いている。 「暴徒たちは,おもだった長老たちを探し求めて,聖徒 たちの家に押し入った。男も女も子供たちも,何が起こっ たのか訳も分からず四散した。ついにパートリッジ監督と 247 チャールズ・アレンを捕らえた暴徒たちは,二人を半マイ 中にあるときに,主の子らのために主の手がそこにある, ル(約800メートル)ほど離れた町の広場まで引きずって 行き,そこで,『モルモン書』を否定するか,それともジ と信じる信仰を持つことは並たいていのことではない。し かし主は,すべてのことは義人の益のために働くと,聖典 ャクソン郡を立ち退くか,いずれかを選ぶようにと迫った。 のほかの箇所でも繰り返し約束しておられる(教義と聖約 しかし, 二人はそのいずれも受け入れようとはしなかった。 パートリッジ監督に発言の機会が与えられた。…… 90:24;100:15;申命6:24;ローマ8:28参照)。 「人の悪巧みも,主の手にかかれば,いずれ神の民を益 しかし,彼の話は群衆の騒ぎでかき消されてしまった。 彼らの多くは口々に,『神様に助けてもらったらどうだ! するものに転じ,神に栄光を帰するようになる。神は,最 終的には御自身の子供たちのためになるようにすべてのこ それにおまえらはありがたいイエスとやらも信じているん じゃないのか!』と叫んだ。暴徒たちはパートリッジとア とを治めておられる。わたしたちは,その実例を末日聖徒 の歴史の中に見ることができる。 」(スミス,ショダール共 レンの衣服をはぎ,真珠灰と肉も溶かすほどの強い酸を混 著,Commentary『注解』p.616) 「地獄の入り口が大口を開けてあなたを飲み込もうと」 ぜたタールを彼らの体中に塗りたくり,挙げ句の果てに, まくら 枕に詰まっていた羽毛を付けたのである。しかし,二人は (教義と聖約122:7)するほどの試練と逆境の中にあって その屈辱に対し,彼らのなすがままにさせ,じっと我慢し た。すると,二人の態度に,暴徒たちは自ら恥じ入るとと も,聖徒たちは,ヨブのように,何事があろうと神を信じ る信仰を持ち続けることができる。ヨブは,1日にしてす もに,憐れみの情を起こし,何も言わずに二人を去らせた。 べての財産を失い,家の倒壊で子供たちまでもなくした。 …… 1833年7月23日には,500人の男たちが赤旗をひらめか この知らせを聞いたヨブは,次のように答えている。「主 み な が与え,主が取られたのだ。主の御 名 はほむべきかな。」 むち せ,手に手に銃やナイフ,鞭,こん棒などを振りかざしな がら,インディペンデンスになだれ込んできた。彼らは誓 (ヨブ1:21)ヨブの体中にはれものができたとき,彼の妻 は彼に神をのろうように言った。しかしそれに対するヨブ いとのろいの言葉を吐き,捕らえた者たちを50回から500 の答えは,「われわれは神から幸をうけるのだから,災を 回むちでたたきのめすと脅しながら,教会のおもだった長 老たちを探し求めた。聖徒の育てた穀物は,暴徒たちの黒 も,うけるべきではないか」 (ヨブ2:10)というものであ った。ヨブはまた,次のようにも言っている。「彼はわた 人奴隷によって荒らされた。そして暴徒たちは,『ジャク ソン郡からモルモンを一人残らず追い払ってやる! おと しを殺すであろう。……しかしなおわたしはわたしの道を 彼の前に守り抜こう。」(ヨブ13:15)この信仰と決意こ なしく出て行けば何もしないが,そうでなければ力づくで そ,迫害のただ中にあってジャクソン郡の聖徒たちに神が も追い出すぞ。もし言うことを聞かなければ,鞭で男たち を打ち殺してやる。子供たちにも容赦はしない。子供も女 お求めになったものであった(教義と聖約101:4−5;122 章の「注解」参照)。 も容赦はしない』と脅しながら,聖徒の家々を破壊した。 エドワード・パートリッジ,ウィリアム・W・フェルプ ス,アイザック・モーリー,A・シドニー・ギルバート, ジョン・ホイットマー,ジョン・コリルの6人は,兄弟た ちの命を救うために,必要であれば,鞭で打たれることも 殺されることも覚悟のうえで,自ら進んで人質となった。 このような気高い行いによって,彼らの名前は教会の記録 の中に永遠に書き留められることになろう。しかし,この 気高い愛の精神にも無感覚な暴徒たちは,彼ら6人をあざ けり,モルモンがジャクソン郡からの立ち退きに同意しな いかぎり,女子供も含めてすべての者を鞭で打ちすえてや ると,荒々しいのろいの言葉を浴びせたのである。『ジャ クソン郡を去るか,死を選ぶか』,それが彼らの要求であ った。」(Joseph Smith『ジョセフ・スミス』pp.251−252, 255−256) 主が「いつも喜び,すべてのことについて感謝しなさい」 と言い,さらに「あなたがたを苦しめたすべてのことは, あなたがたの益のために……ともに働く」(教義と聖約 98:1,3)と告げられたのは,聖徒らがまさにこのような 状況に置かれていたときのことであった。これは,主に対 して大いなる信仰を示すようにとの主の呼びかけであっ た。食物にこと欠かず,実りも豊かで,平和なときに,神 に感謝をささげるのは,比較的たやすいことである。しか くらやみ し,迫害を受け,逆境にあるとき,また荒涼とした暗闇の 248 マーク・E・ピーターセン長老は,教会員が憲法を守ることの 必要性を強調した 第98章 教義と聖約98:4−8 主から与えられた合憲的な法律 自身の教会を設けることがおできになったのである。主は に従う義務 主は立法者であられる。したがって聖徒たちに,「国の その手をもって,憲法制定のための備えを進められた。も ちろん福音の回復も,主の業であった。それぞれが,より 合憲的な法律」(教義と聖約98:6)に従うようにと命じて おられる。自由もまた神から与えられるが,その自由を守 大きな全体を構成する一要素であり,末日にかかわる神の 計画のために定められたものであった。 るのは国の法律である。ただし,「これ以上のもの,ある いはこれ以下のものは何であろうと,悪から来るのであ アメリカには宗教の自由を妨げる国教会が起こることは なくなった。そしてジョセフ・スミスと彼に従う人々を含 る。」(7節)合衆国憲法の制定は,神の計画の中で非常に めたこの国の人々は,各々の良心に従い,神を礼拝する特 重要な位置を占めていた。それについて,マーク・E・ピ ーターセン長老は次のように述べている。 権を与えられたのである。神の民の常であるが,末日聖徒 み も迫害に悩まされた。しかしこの憲法によって,主の御 「カートランド神殿の奉献に際し,預言者ジョセフはそ の重大な責任を果たせるようにと主に導きを求めた。それ 心どおり,この末日に主の業を再び設けるための自由が保 証されたのである。これは,神がそのように備えられたか に対し,主は預言者に奉献の祈りを授けられた。その祈り らである。 は,人の言葉ではなく,啓示,すなわち神の言葉であった。 主はその中で,預言者に次のように祈ることを指示された。 教会は長年にわたって,憲法は霊感により定められたも のである,と主張し続けてきた。しかし,それがなぜ霊感 『わたしたちの先祖によって立派に気高く守られた原則, すなわちわたしたちの国の憲法がとこしえに確立されます により与えられたのか,また全能者が何を意図して霊感を 与えられたのかを理解している人が,一体どれほどいるだ こころ ように。』(教義と聖約109:54)これは,非常に重要なこ ろうか。 とである。 ここで再び,ニーファイ人への主の言葉を思い起こして わたしたちはその根元的な理由を忘れてはならない。つ み こと ば まり,福音を回復するのに適切な場を整え,聖なる御言葉 みよう。主は,末日にアメリカ大陸に設けられるこの偉大 な異邦人の国家について語った中で,『彼らがこの地に定 を世界中に宣べ伝えるために,神は憲法を与えられたので ある。 住し,父の力によって自由な民とされ……ることは,父の 知恵にかなうことである』と言われた(3ニーファイ21: これが,救い主の再臨に備えるうえで不可欠な備えの一 つであったことを,わたしたちは常に心に留めておくべき の 4)。 である。 」(Great Prologue『大いなる序章』pp.74−75,78) この憲法がなければ,主が望んでおられたような政府は 存在し得なかったであろう。主は御自身が『この目的のた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ めに……この国の憲法を制定する賢人たちを立てて,彼ら の手によってその憲法を制定し』(教義と聖約101:80), 援するように努めなければならない」 合衆国憲法は神の霊感により与えられたものであるが, 政府を確立されたのである。それはまさしく神の業であっ 法を運用するのは人間であり,義にかなった真実の原則の た。それは,自由な状態を確立するための,もう一つのス テップであった。そのような状態があれば,福音を回復し, 中に人間の過ちが入り込むことも間々ある。「邪悪な者が 治めるとき,民は嘆き悲しむ。」(教義と聖約98:9)した 信仰を持つ異邦人を通してほかのすべての国々に福音を広 めることができたからである。 がって,国民は憲法にかなった法律を擁護するほかに,選 択の機会が与えられるときには,能力の限りを尽くして法 主がニーファイを通してはっきりと述べておられるよう 律を執行する「正直な人々と賢明な人々」(10節)を選び 教義と聖約98:9−12 「善良な人々と賢明な人々を支 に,また前に引用した,復活後にニーファイ人に自ら下さ れた宣言の中で明確に述べておられるように,これはアブ 出さなければならない。 大管長会は次のように勧告している。 ラハムに与えた約束を果たすという神の計画の中で非常に 大切な一つのステップとなるものであった。神はアブラハ 「社会を守るために制定された法律は,愛にかなって公 正に執行されないかぎり,何の価値もない。正直でない人 ムに,福音の宣教によって彼の散らされた子孫を回復する と約束しておられたのである(1ニーファイ22:7−11;3 間が重要な地位に就くと,法が正しく執行されなくなる。 『邪悪な者が治めるとき,民は嘆き悲しむ』と主は言っ ニーファイ21:4参照)。主の羊は,主の声を知っているで ておられる。いずれの地域社会,政党,宗教団体にあって あろう。 これが合衆国の存在する目的である。 も,賢明な人,善良な人,愛国心に燃える人を見いだすべ きである。決してそれと反対の人を選んではならない。 ジョセフ・スミスは次のように述べた。『合衆国憲法は 輝かしい旗である。これは神の知恵によって設けられてい 人の益となる法律が義にかなって執行されないならば, 市民生活の土台が崩壊し,無政府状態がはびこり,衰亡と る天の軍旗である。 』(Teachings of the Prophet Joseph Smith 滅亡がその後にやって来る。」(大管長会〔アンソニー・ 『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.147) 彼はまたこうも述べている。『わたしは地上における合 W・アイビンズによる引用〕Conference Report『大会報 告』1928年10月,p.16) 衆国憲法の熱烈な支持者である。 』(同上,p.326) その憲法により,宗教,言論,出版,集会の自由が保証 自分たちを代表する政治家を選ぶに当たって,わたした ちは一市民として自ら徳高く,信頼される者とならなけれ された。そして主はこの憲法の下で福音を回復し,再び御 ばならない。善良で義にかなった人々を政治上の指導者に 249 選ぶだけでは不十分である。まず国民一人一人が神聖な真 ることによって,その相手を救いに導くことができる場合 の原則に従う必要がある。平和と幸福を守る最良の方策は, 国民一人一人が義にかなった生活をすることである。した が数多くある。キリストの愛は,それを実践する人に必ず すばらしい結果をもたらす。憎しみと復讐が心に悪魔の刻 がってシオンを打ち建てるためには,聖徒がすべての悪を 印を残すのに対して,キリストの愛は,人を強め,美しく 捨てなければならない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ し,神に近づける。 戦いの律法。イスラエルがその歴史の中で,戦争と無縁 教義と聖約98:14 か どうすれば人は敵を恐れなくなる でいられた時代はほとんどない。しかし,神の律法はイス ラエルの兵事に関して多くの制限を設けていた。20歳以上 福音があってはじめて人は心に平安を得,確信をもって 生きることができるようになる。ジョセフ・F・スミス大 で,武器を持ち運べる男はすべて,兵役に就く義務があっ た(民数1:3)。ただし,神殿の務めに従事していた祭司 管長は次のように述べている。 とレビ人は,除外されていた(民数1:47) 。また,家を建 「わたしたちは危険な時代に生きているとよく言われる。 確かにわたしたちは危険な時代にいる。しかし,わたしは ててまだそれをささげていない者,ぶどう畑を作ってまだ その実を食していない者,婚約して,まだその女をめとっ その恐怖の苦しみは感じない。わたしには恐怖がない。わ たしは恐怖に見舞われないような生活をするつもりであ ていない者も同じく除外された(申命20:5−7)。新婚の 男も1年間は兵役を免除された(申命24:5)。そのほか, る。わたしは可能ならば,世の危険から免れることができ 恐れて気後れする者は,『兄弟たちの心が彼の心のように るよう,神の戒めと,わたしに対する導きとして啓示され た律法に従って生活するつもりである。わたしが自分の義 くじける』恐れがあるために,兵役に就くことを差し止め られた(申命20:8) 。多くの国々で軍事を優先させる傾向 務を果たし,神と交流を持ち,兄弟たちと交際できる状態 であって,世の人々の前に汚れなく,しみもなく,神の律 が支配的であった時代に,イスラエルではこのように多く の制限が設けられ,神殿活動や継続中の仕事,農耕,およ 法に対する罪もなく立つことができるならば,何が起ころ び家庭の幸福が,より重要視されていたのである。 うと,一切かまわない。もしわたしがこのような思いと行 いを保ち続けることができるならば,わたしにはいつでも イスラエルは,和平の申し出が拒否されるまでは,いか なる都市または国家をも相手に戦争してはならないと命じ 用意ができていることになる。したがって,何も心配はな い。わたしは困難や,恐怖をまったく感じないであろう。 」 られていた(申命20:10;申命2:26−29)。戦争が避けら れなくなった場合でも,イスラエル人は,敵地の果物の木 (『福音の教義』p.87) を切り倒してはならないと命じられていた(申命20:19)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約98:16−48 逆境のときに聖徒を治める律 不必要な破壊行為は固く禁じられていたのである。 これらの事柄と,アルマ40:10−25に記されているニー 法 ジャクソン郡での暴徒の無法な暴虐(教義と聖約98: ファイ人に対する指示とを比較してみるとよい。」(『注解』 pp.623−624) 1−3の「注解」参照)に対して,聖徒たちが復讐心を持っ たとしても不思議はなかった。しかし,そのようなことは, デビッド・O・マッケイ大管長は,信仰ある人々が戦争 に加わるのを許される情況について,一つの重大な見解を 聖徒に求められている信心とは相いれないものである。こ 明らかにしている。 こで主は,迫害に際しキリスト教徒として従うべき律法を 明らかにしておられる。すなわち,報復の律法(23節−32 「しかしながら,忠実なクリスチャンが戦争に加わるこ とを認められる場合が二つある。ここで『加わる』という 節),戦いの律法(33節−38節),赦しの律法(39節−48 節)である。 言葉を使っていることに注意してほしい。『始める』とは じゅう りん 言っていない。第一に,人の選択の自由を蹂 躙 し,奪う これらの律法について,スミスとショダールは次のよう 行為に対して,第二に,国家への忠誠心から,この二つが に説き明かしている。 「報復の律法。主がここで述べておられるこの律法は, 認められる理由である。このほかにもう一つあるかもしれ ない。つまり,無慈悲な強国から不当な圧迫を受けている 福音の『同害復讐法』とも言えるものである。 世の中が今のような状態であるかぎり,何の悪も受けず 弱国を守るということである。 これらの理由の中で最大のものは,言うまでもなく,人 に生活するというのは不可能である。自分に害が加えられ の自由の擁護である。人から選択の自由を奪う行為は,天 た場合にどのようにすべきかというのは,キリスト教徒に とって非常に大切な問題である。世の人々は『仕返しして においてさえもあつれきを生む原因となった。…… このように, 人間の永遠の進歩は選択の権利に内在する。 当然だ』と言うが,主は『赦しなさい』と教えておられる。 それに対して世の人々は『そんなばかげた話があるか。何 そうであるからこそ,主は戦争という代価を払ってまでも それを守ろうとされるのである。法の範囲内での思想の自 のために法律や裁判所や刑務所があるのか!』と声高に叫 ぶ。キリストはわたしたちに,もっとひどい敵といえども 由,選択の自由,行動の自由がなければ,人間の進歩はあ り得ない。…… ゆる 結局は,キリスト御自身が救おうとされた神の子の一人で 国家の最大の義務は,国民の生命,財産,権利を擁護す あり,過ちを犯した兄弟に対すると同じ態度で臨まなけれ ばならないと教えている。悪に対してキリストの愛で報い ることである。したがって国家が国内における不法から国 民を守る義務があるのであれば,国外からの侵略に対して 250 第98章 も,侵略者が個人であれ国家であれ,同様に国家が国民を 守 る 義 務 が あ る の で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1942年 4月 , pp.72−73) スミスとショダールはまた,赦しの律法について次のよ うに述べている。 「赦しの律法。第23−32節の中で,聖徒たちは,迫害を 堪え忍び,復讐してはならないと教えられている。ここで は,さらに一歩進めて,相手が自らの悪行を悔い改めるな らば,その人を赦すように,またたとえ悔い改めない場合 にもその人を赦すべきであるとして回数も教えられている (43節)。ただし,その人が引き続き害を加え,それを悔い 改めない場合には,その件を主の前に差し出す。万が一悔 い改めないとも限らないからである。その結果,その人が 罪を悔い改めるならば,その人は神の赦しを受けることが できる(44−45節)。ただし,それでも悔い改めない場合 は,すべて主の手にゆだねるように命じられている。 〔7の70倍というのは〕実際には無限にという意味であ る。主の時代に,律法学者たちは,隣人を3度以上赦す必 要はないと説いていた。この件についてイエスに答えを求 めたペテロは,3度を7度にすれば,ユダヤ教の教師の定め た規則を寛容なものに改善することができるのではない か,と提案した。しかし,主はそれに対して, 『7の70倍赦 すべきである』と答えられたのである。…… 福音はわたしたちに,心にだれかに対する恨みがあれば それを捨てなければならない,と教えている。そして,敵 対する人を含むすべての人に対して善い行いをするよう に,と説いている。そうすることにより,心に太陽の光を あふれるばかりに持つ人だけが感じる喜びを味わえるので ある。」(『注解』pp.625−626。教義と聖約64:9−10の 「注解」参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約98:16−18 「ユダヤ人の心を預言者たち に」向ける 1976年5月,エズラ・タフト・ベンソン長老はカナダに エフライムの家と一緒になるユダの家について語ったエズラ・ タフト・ベンソン長老 さんにメッセージを伝えようとするのを押しつけと思うこ とがないようにと願っている。わたしたちは皆さんの出席 を心から歓迎している。わたしたちは,十字を飾ることも しなければ,皆さんから献金を集めるつもりもない。わた したちは,すばらしい伝統と独自性に対する皆さんの確固 たる思いに心からの敬意を表したい。わたしたちは,ほか のキリスト教会とは異なる方法で皆さんと接したいと考え おいて,多くのユダヤ人を含む聴衆を前に,次のように語 ている。なぜなら,わたしたちは回復された聖約をイスラ エルの全家に伝えているからである。 った。 「ヤコブは,ユダに与えた祝福の中で『ユダは,ししの デビッド・ベングリオンが述べたように,わたしたちは ユダヤ人について理解しているつもりである。なぜなら, 子。……あなたは……上って来る』(創世49:9)と言って いる。わたしたちはユダをこの約束に目覚めさせるために, わたしたち自身も同じくイスラエルの家に属する者だから 正当な権能を持つ使者として来ている。わたしたちはユダ に,その遺産を放棄するようにとは言わない。父,母,家 族から離れるようにとも言わない。わたしたちが携えて来 たメッセージは,ユダがまだ知らないものである。それは, 生ける水の源からわき出る水を飲むように,ということで ある。 わたしたちの預言者ジョセフ・スミスは主から,『ユダ ヤ人の心を預言者たちに,また預言者たちの心をユダヤ人 に向けるように』(教義と聖約98:17)という戒めを与え られた。この教会では現在,わたしたちに門戸を解放して くれているすべての国々および民のもとへ使者を送り出し ている。わたしたちは,146年にわたってヨセフの子孫を 呼び集めてきた。ユダに属する皆さんが,わたしたちが皆 である。わたしたちは皆さんの兄弟のヨセフである。『ユ ダの家はイスラエルの家と一緒にな』る(エレミヤ3:18) という神の約束が成就する日を,わたしたちは心から待ち 望んでいる。 」(“A Message to Judah from Joseph” Ensign「ヨ セフからユダへのメッセージ」『エンサイン』1976年12月 号,p.72) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約98:38 範例とは 範例とは,手本,模範,見本として例示するものを言 う。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約98:38 「見よ,これは……すべての民に 対する一つの範例である」 過去数十年にわたり,教会は比較的平穏な状況の下にそ 251 の歩みを進めてきた。教会設立当初のころのひどい迫害は 一つの民として迫害を受けるかもしれないと,次のように あかし ほとんど見られなくなっている。しかし,聖典にはこうし た状態がいつまでも続くものではないと記されている。幾 証している。 「しかし,未来の光景はすべてがすべて甘美で明るく, つかの聖句は,サタンとその軍勢が聖徒に対して戦いを挑 んでくるということを告げている(ダニエル7:21−22; かつ平安なものではない。わたしたちがいまだかつて経験 していなかったことが,想像もつかないような悪と危険と 黙示13:7;1ニーファイ14:13参照)。 ブリガム・ヤング大管長は,今わたしたちが浴している 荒廃の中で展開されていく。…… 行く手は暗く,また恐怖に満ちている。これからも殉教 ような平和な時は,一時的な休息期間にすぎないと述べて は続き,カーセージのドアは再び罪なき者を閉じ込めるで いる。「いずれわたしたちは,地のもろもろの国民が隊伍 を整えてこの民に向かって来る時を目にする。その日は預 あろう。この世の試練と悪が完全に過ぎ去るとは約束され ていないからである。」(『大会報告』1980年4月,pp.99− 言の成就として必ずやって来る。すでに始まりつつある戦 いについて見てみよう。ジョセフ・スミスも,『モルモン 100) これは,今日の聖徒も,教義と聖約第98章の報復,戦 書』の金版を受け取る前に,つらく容赦のない戦いを挑ま い,赦しのそれぞれの律法をよく心に留め,敵意に満ちた れた。以来今日に至るまで,邪悪な者たちは時々後方に撤 退しているが,それは力を蓄え,どのようにして神の王国 世に対してよく対処し,平安を保たなければならないとい うことである。救い主は別の折に次のように言われた。 たい ご こんにち を攻撃したらよいかを探るためにほかならない。」(Dis「これらのことをあなたがたに話したのは,わたしにあっ courses of Brigham Young『 ブ リ ガ ム ・ ヤ ン グ 説 教 集 』 て平安を得るためである。あなたがたは,この世ではなや みがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世 p.111) ブルース・R・マッコンキー長老は,末日聖徒は今後も に勝っている。」(ヨハネ16:33) ジョン・マードックに与えられた 主の言葉 第99章 家から拒まれるであろう。」(教義と聖約99:4) 「この福音を拒んだのはどのような人か。それは無関心 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,1832年8月24日にオハイオ な人々,すなわち努力して福音を学ぼうとしなかった人, 自分から主の前にへりくだろうとせず,福音について主に 州ハイラムで,教義と聖約第99章を主から受けた。 証を願い求めなかった人,また高慢,富,地位など何らか 「この啓示は,ジョン・マードック長老を東部諸州の伝 道に差し向けるものである。彼はオリバー・カウドリたち の理由によって目をくらまされ,この業に心を向けなかっ た人々である。彼らはこの教会の会員ではなく,地の国々 がレーマン人に伝道するために初めて西部へ旅をした折, カートランドで福音を受け入れた者の一人である。彼はシ の間で簡潔な福音が純粋なままに宣べ伝えられたときに従 おうとしなかった人々である。……いずれこの時代の人々 ドニー・リグドン,エドワード・パートリッジ,アイザッ に厳しい裁きが下されるであろう。彼らがこれらの事柄に 心を向けようとしないからである。すなわち,聖典に記さ ク・モーリー,ライマン・ワイト,その他の人々とともに, そのときに伝道に召された。彼は教会の要職を数多く歴任 の こんにち み こと ば れた主の言葉と今日の神の僕に与えられた御言葉を無視し し,忠実に義務を果たした人である。 」(スミス,ショダー ル共著,Commentary『注解』p.629) た結果,この世の人々は,裁きと災害に見舞われるであろ う。」(ジョージ・Q・キャノン,Journal of Discourses『説 注 解 教集』20:248) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約99:4 教義と聖約99:1−4 主の僕 の証 を受け入れることに 関して,神の子供たちに課せられた責任 教義と聖約24:15;60:15−17の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 福音を聞いた人は皆, それを受け入れなければならない。 さもなければ,人はその結果を甘んじて受けることになる。 教義と聖約99:5,8 真理を知っている者の責任 主が天の雲に乗って再臨されるときは裁きの時で,人々 主の僕を受け入れるということは,主を受け入れることで は羊(義人)とやぎ(不義な人)とに分けられる。この裁 あり,主の僕を拒めば,主御自身から拒まれることになる。 主はこう言っておられる。「あなたを拒む者は,父とその きの時まで,地上には賢いおとめの中に愚かなおとめが存 在する。すなわち義人の群れの中に悪人が存在するのであ しもべ 252 あかし 足を洗い清めるのは何の象徴か る者からは多く求められ,いっそう大いなる光に対して罪 を犯す者は, いっそう大きな罪の宣告を受けるからである」 (教義と聖約82:3)と聖典には記されている。 「イエス・キリストの福音に心から帰依した人は,自然 にまた熱心にその真理をほかの人々と分かち合いたいと思 うようになるものである。主は聖徒たちに,キリストの再 臨前に起こる差し迫った滅亡について警告を受けた者はほ かの人々に警告する責任があると命じられた。伝道活動は この神権時代にあって,真の教会の際立った特徴の一つで ある。 」(ラドロー,Companion『必携』2:183) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約99:6−7 人はまず家族に対する義務を果た さなければならない 1831年4月30日,ジョン・マードック長老の妻は双子を 出産すると,そのまま息を引き取った。同じ日に,エマ・ スミスも双子を出産したが, こちらでは双子が亡くなった。 二人の乳飲み児を抱えて途方に暮れたジョン・マードック は,エマの心痛を知り,その双子をエマに育ててもらうこ とにした。 しかし,マードック兄弟にはほかにも幾人かの子供がい た。そこで主は彼に,子供たちの養育について見通しがつ くまで,伝道に出るのを見合わせるよう命じられた。 東部諸州に最初に召された宣教師の一人,ジョン・マードック 19世紀には,「優しく」を意味するkindlyという言葉は, 親切な行いをするということ以上の意味があった。すなわ る。しかし,「そのときに,義人と悪人の完全な分離があ る。」(教義と聖約63:54)そして,邪悪な人々の悪しき行 ち,「然るべきふさわしい方法で……適正に」,また「自然 いは,すべて白日の下にさらされる。一方,正しい人々は 引き続き主の福音を宣べ伝えるのである。「多く与えられ しか な気持ちで」「相手に喜んでもらえる方法で」何かをする という意味があった。 ジョセフ・スミスとシドニー・ リグドンを慰める主の言葉 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「ミズーリの敵が教会を襲撃しようと無法者たちを集め 第100章 って伝道の旅を続けていた。伝道の業に携わっているとき の彼には,特にその確信の程を強く感じさせるものがあっ た。彼は1833年10月11日付けの日記の最後にこう記してい る。「心の中に非常に良い気持ちを感じている。主はわた したちとともにおられる。ただ家族のことが気にかかる。」 ていたとき,主は預言者ジョセフに,伝道に出て福音のメ の ッセージを宣べるように霊感を下された。……ジョセフは (History of the Church『教会歴史』1:419脚注)10月12日, 敵のことをまったく心にかけなかった。彼の召しは世の あかし 人々に証をすることである。そして彼は,まさに澄みわた ニューヨーク州ペリスバーグに到着した一行は,そこで主 から教義と聖約第100章に収められている啓示を与えられ った青空のように,信仰と希望に胸をふくらませながら, カナダまで伝道の旅を続けたのである。 」(スミス,ショダ た。 ール共著,Commentary『注解』p.630) 注 解 預言者ジョセフ・スミスは,聞く耳を持つ人々にも,ま た神を信じていない人々にも教えを説きながら,確信をも ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約100:1 主がジョセフとシドニーを「友」 253 と呼ばれたことの重要性 主から「友」と呼ばれれば,だれでも心に安らぎを感じ る。友という言葉は,その人と神との関係のすばらしさを はっきりと示している。主の友は,主御自身についても, 主の道についても知っているからである。主は,「わたし の父から聞いたことを皆」(ヨハネ15:15)その人たちに 知らせる,と言っておられる。救い主はその友のために御 自分の命をささげられた(ヨハネ15:13参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約100:1 「あなたがたの家族は……わたし の手の内にあり」 家族を残して伝道に出たジョセフ・スミスとシドニー・ リグドンが,家族のことを気にするのは至極当然のことで あった。主はこの聖句の中で,いずれの家族も主の手の中 あん ど にあり,以後も主が彼らを守ると語って,二人を安堵させ た。 主の用向きを持つ者は,家族のことを心配して,自分の 働きの妨げとするべきではない。家族の幸福を主に祈り, 守りが与えられるという確信をもって主の業を推し進めれ ばよいのである。アマサ・M・ライマン長老は次のように 述べている。「世の人々に警告を与えるために出て行く 人々は,家族が貧しい状態にあることで悩んだり,迷った りしてはならない。……憂いの種がなければ,精神を伝道 警告の声は義人を呼び集める に集中させ,ほかのことには目をくれずに済む。『それで も家に残してきた妻や子供のことを忘れることができな 導きを受けることができる(1ニーファイ4:6参照) 。神に い』と言う人がいるかもしれない。何も忘れる必要はない。 かかわる事柄は神聖であり, また深遠かつ重要であるため, み たま 「注意して,御霊の促しによって語るようにしなければな わたしは年中妻や子供のことを思い出していた。だが,悲 しんだり,彼らが飢え死にしているのではないかなどと心 らない」 (教義と聖約63:64)。だからといって,人は,神 にかかわる事柄を語ることをためらったり,口をつぐんで 配したことはなかった。……家族を残して伝道に出ている 者はただ,主の前にひざまずいて,『神様,遠く離れた地 しまうようなことがあってはならない。「多く与えられる 者からは多く求められ」(教義と聖約82:3)るのである。 の家族を祝福してください』と祈りをささげ,後は自分の 務めに励めばよいのである。 」(Journal of Discourses『説教 この責任の重大さについて,ウィルフォード・ウッドラフ 集』10:181−182) 大管長は次のように語っている。「わたしはパウロが言っ たように,『福音を宣べ伝えないなら,わたしはわざわい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約100:3−5 大管長,伝道の門戸を開く である』(1コリント9:16)と言いたい。使徒,大祭司, 七十人,長老のいずれであっても,世の人々に命と救いの 1833年,ジョセフとシドニーは,人々を救うためにカナ ダへの伝道に出発した(教義と聖約100:4参照)。その二 言葉を宣べ伝えるように召されているかぎり,もしもその 人に主は,彼らが声を上げて主が「心の中に入れる思い」 ことを行わなかったならば,神の裁きがわたしたちに下る であろう。なぜと思われる方もいよう。それにお答えしよ を語るならば(5節),伝道に「効果的な門」 (3節)を開く と約束された。そして,主はその約束を果たされた。この う。イエス・キリストの福音の神権時代が与えられた理由 は,今も昔も変わらずただ一つである。すなわち,人類を 二人によって,カナダでの献身的な伝道が始まり,やがて 多くの人々が改宗した。この約2年後,パーリー・P・プ 救うために与えられたのである。 」(『説教集』22:204) ラットがこの門戸をくぐり,後の大管長となるジョン・テ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約100:9−11 ジョセフ・スミスの代弁者, ーラーに福音を宣べ伝えることになるのである。ジョセフ やシドニーのように自らを主の手にゆだねるときに,人は シドニー・リグドン モーセの時代のアロン(出エジプト4:16参照)のよう 必ず成功を収めることができる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に,シドニー・リグドンは,預言者ジョセフ・スミスの代 たまもの 弁人に召された。聖典に通じ,雄弁に語るという賜物を与 教義と聖約100:6−8 必要なときに,何を語るべきか が分かるようになった人にはどのような責任が伴うか えられたシドニーは,「力強く証する力」(教義と聖約 主の代理人は,聖霊に感じたときに,厳粛な心で語らな 100:10)を授けるとの約束を主から受けた。シドニー・ リグドンがよくこの務めを果たしたことについて,ジョー ければならない(教義と聖約68:4;100:7参照) 。主に忠 実な人は,御霊とともに歩むことにより,身を守るための ジ・Q・キャノン副管長は次のように語っている。「シド ニー・リグドンを知る人々は,神がどれほど彼に霊感をお 254 与えになったか,また彼が非常に雄弁に神の言葉を人々に 教義と聖約100:13−17 宣べ伝えたかを知っている。彼は,預言者の存命中,また 短期間ではあったが彼の死後も,代弁者として神の手の中 しめを受けるが,贖われるであろう」 カナダに出立する直前にオリバー・カウドリは預言者 にあって力強くその務めを果たした。そんなことは大した ことではない,と言う人がいるかもしれない。しかし,こ に,シオンの敵が教会を破壊しようとしていると伝えた。 そこで預言者は,オーソン・ハイドとジョン・グールドを れは救い主が誕生するおよそ1,700年以上も前に預言され ていたことであり,同じくイエスの誕生から600年以上前, カートランドからミズーリ州のジャクソン郡に送り,「不 遇な状況下にある聖徒たちへの助言」(『教会歴史』1: すなわちこのことが成就する約2,400年も前にリーハイが 407)を伝えてもらうことにした。この二人の旅は大変な 語っていたことなのである(2ニーファイ3:18参照)。そ しもべ してこのことは,神の力により,神の僕ジョセフを通して ものになることが予想された。末日聖徒に反目する暴徒た ちの住む付近を通らなければならかったからである。しか 翻訳されていた」 (『説教集』25:126) 教義と聖約100:11の大切な点は,シドニーはジョセ し主は,二人が戒めを守るならば,必ず彼らとともにおら れると確約されたのである。 あがな 「シオンはしばしの間懲ら フ・スミスの代弁者となり,預言者はシドニーにとって ジョセフはまた,シオンの将来について,主から一つの 「啓示者」となる,と明言しているところである。それに よって,リグドン兄弟は,「地上における〔神の〕王国の 約束を受けた。それは,シオンは少しの間懲らしめを受け るが,必ず贖われるというものであった。そうした懲らし ことに関するすべてのことが確かであるのを知る」 (11節) ことができるはずであった。シドニーは預言者ジョセフ・ めの時期は,主に正しく仕える人々を清めるためにあらか じめ定められていた手段であった。シオンを築く栄誉にあ スミスの死後,彼の代弁者を務めたことを一つの根拠とし ずかるためには,まず主に正しく仕えなければならないか て,自分は教会の守護者であると主張した。しかし,彼の 召しの範囲には教会を導くことは含まれていなかった。 らである。 聖徒たちは 「受け継ぎの地から追い出され」 第101章 歴史的背景 たと同じ祝福を与えられた。その祝福の中には子孫に約束 の地が与えられるという約束があった。すなわち,ヨセフ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,1833年12月16日,オハイオ の子孫は,アメリカの地でその受け継ぎを授かることにな っていたのである(創世49:1−2,22−26;申命33:13− 州カートランドでこの啓示を受けた。ちょうどそのころ, 17;リチャーズ『奇 しきみわざ』7章,pp.54−57;3ニー ミズーリ州の聖徒たちはジャクソン郡を追われ,クレイ郡 に身を寄せていた。ジャクソン郡で暴徒の襲撃を受けて家 ファイ15:12−13;20:10,14参照)。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この受 を壊され,財産を奪われた聖徒たちは,ひどい苦難のただ 中にあった(History of the Church『教会歴史』1:426− け継ぎの権利について次のように解説している。「福音を 受け入れる者は一人残らずイスラエルの家に属する者とな 438,458−464参照)。 る。換言すれば,選ばれた家系の一員となる。約束を与え この啓示に先立って,主は聖徒たちに,主の戒めを守り, み こころ 主の御 心 を行うように命じられ,もしそのようにしなけ られたイサク,ヤコブを通してアブラハムの子孫となるの である。この教会の会員になる人の大多数は,ヨセフの息 れば,ひどい苦難,疫病,悪疫,剣,報復,焼き尽くす火 に見舞われることになる,と警告された(教義と聖約97: 子エフライムを通じてアブラハムの文字どおりの子孫であ る。アブラハム及びイスラエルの文字どおりの子孫でない 26参照)。そして,教義と聖約第101章の中で主は,聖徒た 人々は,子孫にならなければならない。その方法は,バプ テスマと確認を受けて,木に接がれ,相続人として一切の ちがなぜシオンを追われたかを説明しておられる。 権利と特権を受ける資格を得ることである。」(『救いの教 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:1,6 く なぜミズーリ州は聖徒の受け継 ぎの地と呼ばれたのか 昔,主はヤコブの息子ヨセフに,祖父アブラハムに授け 義』3:220−221) ヨセフの子孫である現代の主の教会の会員は,ヨセフの 子孫に約束された祝福を受け継ぐ者である(アブラハム 2:9−10;教義と聖約86:8−9参照)。だからこそ,ヨセ フの子孫に約束された地において,末日の主の教会の会員 255 が,ミズーリ州の「中心の場所」(教義と聖約57:3)をは け,自らふさわしい者であることを証明しなければならな じめとする多くの祝福を受け継ぐと,主は約束されたので ある(教義と聖約38:17−20;52:1−5,42;57:1−5参 い。ハロルド・B・リー大管長は次のように語っている。 「わたしたちの中には,胸が張り裂けるほどの試しを受 照)。 ける者がいる。わたしは,胸を裂かれるような思いを抱い ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:1−3 主の宝石とはだれか たまま死んでいった人の話をこれまでに幾度となく耳にし てきた。『胸が張り裂ける』などというのは単なる詩的表 教義と聖約60:4の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 現にすぎないと思っていたが,人間はほんとうにそのよう な経験をするのだということをわたしは学んだ。わたし自 教義と聖約101:2−6 れたか 聖徒はなぜシオンから追い出さ 身それに近い経験をしたからである。わたしは自分自身の 問題について考え始めたときに,使徒パウロがイエスにつ 預言者ジョセフ・スミスが記録しているように,主はこ いて語った言葉を思い出した。『彼は御子であられたにも の質問に対して部分的にしか答えておられない。 「確かに主はシオンがこのように苦しみを受けるように かかわらず,さまざまの苦しみによって従順を学び,そし て,全き者とされたので,彼に従順であるすべての人に対 されたが,御霊はシオンが日の栄えの冠を受ける権利を取 り去られたなどとは告げていない。ただし,不従順の道を して,永遠の救いの源とな〔られた〕 。』(ヘブル5:8−9) 人生の試練を恐れてはならない。山上での誘惑の際の, 歩み,新しい聖約を捨てた者は例外となるであろう。時が またゲツセマネの園やカルバリの十字架上における主御自 来れば,そのような者たちは,彼らの行いによって明らか にされるであろう。わたしは今までに与えられた戒めから 身の経験から分かるように,人生で最も過酷な試練に見舞 われているときに,皆さんは想像以上に神に近づくことが 考えて,シオンはいずれ苦難を受けることになる,と常々 かんなん 思っていた。しかし,ここであなたがたに,多くの艱難の ある。聖典にはこう記されている。『そして,御 使たちが みもとにきて仕えた。』(マタイ4:11)試練のただ中にあ 後に祝福は来るという言葉を思い起こしていただきたい。 るとき,皆さんにもこうしたことが起こり得るのである。」 み たま み つかい わたしはこれをはじめとするほかの言葉,また最近受けた あがな 啓示から,いずれ主の定められたときにシオンは贖われる (Munich Germany Area Conference『ドイツ・ミュンヘン地 域大会報告』1973年,p.114) ということを知っている。シオンの清め,艱難,苦難がど のくらい続くかは分からない。主はそれについては何も示 主がその子らを懲らしめられる理由について,聖典には 以下のように記されている。 しておられない。そしてこの件について尋ねると,主の声 1.懲らしめは清めの一過程である(教義と聖約90:36参 はわたしにこうお告げになる。『安らかにしていて,わた しが神であることを知りなさい。わたしの名のために苦し 照)。 ゆる 2.懲らしめは罪の赦しをもたらす(教義と聖約95:1参 みを負う者は皆, わたしとともにこの世を治める者となる。 また,わたしのために命を捨てる者は,再びそれを見いだ 照)。 3.懲らしめは従順を教える(教義と聖約105:6参照)。 すであろう。 』 さて,わたしには分からないことが二つある。そして, 4.懲らしめは主の民を純金のように精錬する(ヨブ23: 10参照)。 主はそのことをわたしに示してはくださらない。それは何 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ か主御自身の内にある,ある賢明な目的のためであると思 われる。その分からないことは次の二つである。第1に, 教義と聖約101:6−8 神はなぜその子供たちの祈りを 聴くのを遅くされるのだろうか 神はなぜシオンがこれほどひどい苦難を受けるままにして おかれるのか,またこのひどい苦難をもたらした大きな悲 聖典に記されているように,人が順境のときに直面する 大きな問題の一つは, 神に対して無関心になることである。 しみの原因は何か。第2に,主はどのような手段をもって, 人はあらゆるよいものを与えてくださる創造主を忘れるこ 永遠の喜びの歌とともに,シオンにその受け継ぎを再びお 与えになるのか,ということである。兄弟たち,神はこれ とが非常に多い。ところが,一度問題が起きると人は再び あわ 神を思い出し,苦難の中で神に立ち返って憐れみと助けを ら二つのことをいまだわたしの前に明らかにされず,黙し ておられる。しかし,全能の神の不興を招いた理由の一部 請い願う。しかし,そのようなとき神はなかなか願いを聞 き届けてはくださらず,助けも与えてはくださらない。か 分は明白である。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith つてミズーリ州で聖徒たちがこの過ちを犯していたこと 『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.34) 聖徒がジャクソン郡から放逐され,シオンの建設が遅れ は,聖典により明らかである。彼らは世の腐敗に負け,神 の聖なる戒めを破り,神と交わした聖約を固く守ろうとし た理由を,主はすべて明らかにされたわけではないが,少 なくとも聖徒間に見られた幾つかの問題について部分的に なかった。そのために,聖徒が苦難に見舞われたとき,主 は彼らを助けようとされなかったのである。聖約を破り, 説明しておられる(教義と聖約105:2−4,6参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 罪を犯して受け継ぎを汚しながら, 主の約束を求める者を, 主は決して助けてはくださらない(教義と聖約84:54− 教義と聖約101:4−5 59;モーサヤ11:24;21:15;ヒラマン4:11−13;12: 主はなぜ聖徒が懲らしめを受け るままにされるのか 昇栄を願う者はすべて,あらゆる事柄について試しを受 256 1−6;士師10:13−14;イザヤ26:16参照)。 第101章 が築かれる,と主は定められた(モーセ7:60−62参照)。 この責任はエフライムの部族に与えられており,いかなる 悪の手も彼らを押しとどめることはできない。 また,末日聖徒がそのための備えをするに当たって,主 は彼らを助け,敵から守ると約束しておられる。聖徒はた とえ大きな問題にぶつかり,苦しむことがあっても,主が 一切の権威を持っておられ,自分たちを救ってくださると いうことを思い起こさなくてはならない。主は決して主の 民が打ち倒されるのを見過ごしにされることはない。「安 らかにしていて,わたしが神であることを知りなさい」 (教義と聖約101:16)と主は勧告しておられる。主の業を くじき,主の目的を打ち破るものは何もないのである(1 ニーファイ22:15−17;2ニーファイ30:10;教義と聖約 35:14参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:12,45−47 人は何を象徴しているか 見張り台の上の見張り 昔のイスラエルは,町の周りに城壁を巡らし,城壁の要 所要所に見張り台を建て,敵の不意打ちを受けないように, 男たちを雇ってその上で昼夜見張りをさせた。見張り人と して雇われながらその務めを果たさなかった者は,その罰 として殺されることもあった。見張りを怠れば,住民の命 が奪われることにもなりかねなかったからである。見張る という概念を表すギリシャ語のうち,『新約聖書』にいち ばんよく使われている言葉には,「怠惰や不注意のために アブラハムのように試みられる ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:9−12 「憤りの剣」とは何か 剣は,戦いのために用いる鋭利な凶器である。そのため, 力を表す言葉として使われるようになった。主は,聖徒た ちを憐れみ,彼らに敵対する人々に「憤りの剣」,すなわ ち主の力を下すと言われたとき,上述のような意味でこの 言葉を用いられたのである。ジョセフ・フィールディン ひ ゆ グ・スミス大管長は,この比喩が用いられた理由について 次のように説明している。「苦しみには罰の意味があり, 突然災難に見舞われないよう,常に目を覚まし,注意を払 い,警戒する」という意味がある。 こんにち 今日の教会員には,神の御心を伝える生ける預言者が与 えられているので,敵の存在や,その動きをはっきりと知 ることができる。預言者たちは世の邪悪な人々に向かい, 悔い改めなければ滅ぼされることを警告するとともに,シ オンとその民を守るように, 救い主から召しを受けている。 しもべ このような理由で,主は,今日主の権能を受けた僕を見張 り台の上の見張り人と呼んでおられるのである(イザヤ 62:6;エゼキエル33:2−9参照)。 聖徒たちはそれに耐えなければならなかった。それという のも,彼らがなかなか主の言葉を聞こうとしなかったから 第12節の「わたしのイスラエル」とは,福音の聖約に入 り,それを守ることによって,アブラハム,イサク,ヤコ である。とはいえ,聖徒に敵対する人々の行動は正当化で ブの約束を受け継ぐ者となった人々を指している(アブラ ハム2:9−11;ローマ9:6−8参照)。 きるものではなかった。そこで主は,主の民に代わって憤 りの剣を彼らに下す,と約束されたのである〔教義と聖約 101:11−12参照〕。この憤りの剣は,聖徒がミズーリ州を 追われた直後から聖徒に敵対する人々に下され始め,その 後時に応じて,この国をはじめほかの国々にも下されてき た。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近 代の啓示』1:460) 教義と聖約101:11に「限りなく」とあるが,これは主 の憤りは容赦なく,激しく燃え盛るということを意味して いる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:10−16 主はどのようにその民を助 けられるか 主の再臨に備えてイスラエルが集められ,新エルサレム ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:17−20 「シオンがその場所から移 されることはない」 聖徒がジャクソン郡から放逐されたことについて,ジェ ームズ・E・タルメージ長老は次のように述べている。 「されば,末日聖徒の信仰はかくのごとくであり,当教会 の教えはかくのごとくである。しかしながら,シオン建設 の計画はまだ完成されていない。聖徒たちは,永遠のゆず りとして彼らに約束された地を直ちに所有することを許さ れなかった。主が昔のイスラエル人にカナンを彼らのゆず りの地となすべしと約束したもうた時と,彼らがその地を 所有するに至った時との間に永い年月が経過したと同じよ うに,そしてこの約束が成就するために民は永い間苦しん 257 もろの国を獲,荒れすたれた町々をも住民で満たす』(イ ザヤ54:3)というイザヤの預言が成就する。神が彼らを 訪れて裁きを下されるからである。そのとき,地を所有す る者は地上にいない。こうして地は,日の栄えの律法を守 る聖徒たちで満たされ,彼らは,天の定めに従って各々の 管理の職を与えられるのである。」(Deseret Evening News 『 デ ゼ レ ト ・ イ ブ ニ ン グ ・ ニ ュ ー ズ 』 1875年 10月 2日 , p.265) 地が荒れ廃れるという約束が合衆国の初期の時代にすべ て果たされなかったとする考えに,疑義を挟む人がいる。 それに対してスペンサー・W・キンボール大管長は,悪人 に下される主の罰は,悔い改めをしない今日の世の人にも 及ぶ,と語っている。さらにキンボール大管長は,レビ 見張り台の上の見張り人とは,教会の指導者である 26:33の「あなたがたの町々は荒れ地となる」という警告 に触れ,「そこには困難と非常に深刻な出来事がある。し かしそれは起こり得る」と語っている(Conference Report たまもの で悲しい準備をしたように,民が偉大な賜物を受けるため きよ にまたこれに関連する数々の責任を与えられるために今聖 められている間は,この末日において神の目的は実現され ずに置かれている。その間に,心の正しい者たちはロッキ ー山中の平原に集っている。そしてこの所に,山々の頂に, 『大会報告』1977年4月,p.6)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:20−22 どういう意味か 「聖なる場所に立ち」とは ハロルド・B・リー長老は, 「聖なる場所に立ち」 (教義 もろもろの小山よりも高く数々の神殿が建てられ万国の民 はこの地域に流れ込んで来ている。しかし,シオンはやが と聖約101:22)とは,シオン,すなわち心の清い人々の ただ中に立つということであると語った。 て選定された敷地の上に建てられて『シオンがその場所か ら移されることはない。』また心の清き者たちは『永遠の 「近ごろ,次のように尋ねる人が多い。 『安全な場所はど こにあるのだろうか。 』 喜びの歌を歌いながら』帰り来り『シオンの荒れた所を築 これに対して主は次のように語られた。〔教義と聖約 き上げる』のである。 」(『信仰箇条の研究』p.465) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 45:32〕 そして主は,この『聖なる場所』がどこにあるかを示さ 教義と聖約101:18 「シオンの荒れた所を築き上げ る」とは,どういう意味か れた。 〔教義と聖約45:68〕 シオンはどこにあるのだろうか。 「荒れた所」とは,整地されておらず,人の住んでいな い地という意味である。 オーソン・ハイド長老は,「シオンの荒れた所」 (教義と 主の代弁者である預言者たちは,様々な時期,すなわち 神権時代に,様々な理由から聖徒たちの集合の地を指示し てきた。また,この神権時代に,主は特定の場所を指定し, 聖約101:18)について,次のように語っている。 「聖典に は,終わりの時には主の民が出で行き,シオンの荒れた所 宣言を下された。 〔教義と聖約101:21〕 こうして主は,神に任じられた指導者たちの手に,集合 を築き上げる,と記されている。しかし,『シオンの荒れ の業を指揮する責任を託された。願わくは全世界の聖徒と 真理を求める人々が,神に召された預言者,指導者の言葉 た所』と呼ばれるには,まず地が荒れなければならない。 そうして初めて,その地を築き上げるために聖徒の手が必 に耳を傾けるように。そして,大衆の支持を得て政治的な 要とされるようになるのである。」(Journal of Discourses 『説教集』10:376) 勢力をわがものにしようとする扇動政治家に,耳を貸さな いように。 神の裁きによりミズーリの町々が荒れ果てた後,聖徒た ちは再びミズーリに戻り,かつて教会の初期の時代に聖徒 『シオン』という言葉には幾つかの意味がある。…… しかし,神の教会を指してシオンと言うのが,最も意義 たちが住まいと定めていた地を所有するであろう,とオー ある使い方である。そして神の教会は,主が言われたよう ソン・プラット長老は説いている。「そしてその秩序は存 続し,その中心地からジャクソン郡,またミズーリの西部 に『心の清い者』(教義と聖約97:21)が集まる所なので ある。 やカンザスの東部など,この民が住む所へ,さらにこの大 いなる町から,右に左に,東西南北へ,遠くの地まであま 人が主の戒めと,それに従う者に与えられた約束を学ぶ とき,どうすれば主が命じておられるように『聖なる場所 ねく広がっていく。そして民は皆,すべての管理の職にお に』立つことができるか幾つかの明確な答えを得る。〔マ ラキ3:10;教義と聖約59:9;イザヤ58:9,7;教義と聖 いて律法を踏み行うように求められ,永続的な一致の精神 が生まれるようになる。この一致は広がり続け,さらに大 いなるものとなって,ついには異邦人の荒れ廃れた町々に 聖徒が住むようになる。こうして,『あなたの子孫はもろ 258 約89:18,21〕 人が神の戒めを学ぶとき,大切なことはどこに住むかで はなく,心が清いか否かであることが明確にされるよう 第101章 である。 」(『大会報告』1968年10月,pp.61−62) 教義と聖約101:26−34 福千年はどのような状態か ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 福千年,すなわちキリストが自ら地上を統治される千年 の期間には,以下の5つの特徴がある。 教義と聖約101:23−25 主の再臨に伴い,どのよう なしるしが現れるか 主の再臨に伴い,以下の3つのしるしが現れる。 1.「すべての肉なるものの敵意が……なくなる」(教義 と聖約101:26)。オーソン・プラット長老は次のように語 1.主が再臨されるとき,「すべての肉なるものがとも に〔主〕を見る」(教義と聖約101:23)。オーソン・プラ っている。「そのとき,野の獣およびあらゆる肉なるもの の敵意はなくなり,ある獣がほかの弱い獣をえじきにして ット長老は次のように言っている。「神の御子は,大いな むさぼり食うようなことはもはやない。これは海の魚にし る力と栄光とをもって再臨される。それは,パレスチナの ような地上のごく限られた地域で起こることでもなけれ ても空の鳥にしても同じである。この変化は,イエスが来 られるときにあらゆる生き物のうえに生じる。これは不死 ば,ごく一部の人しか目撃しないようなことでもない。そ れは,すべての人が目にする出来事であり,すべての肉な 不滅への変化ではないが,獣や鳥,魚からどう猛な性質を 除くに十分な変化である。……野の猛獣や毒蛇はすべて性 るものが主の栄光を見るのである。主が再び御 姿 を現さ 質が穏やかになり,幼い子供でさえそれらを導いたり,一 れるときには,そのとき地上に生を受けている者だけでな く,すでに死んだ者も含めてすべての者が,その目で主を 緒に遊んだりすることができる。主のすべての聖なる山に おいて他を傷つけたり滅ぼしたりするものはまったくな 目撃することになる。 」(『説教集』18:170) 2.「すべての朽ちるものが焼き尽くされる」 (教義と聖 く,あらゆるものが,ある程度その最初に創造された状態 に戻るのである。 」(『説教集』20:18) み すがた 約101:24)。これについてマッコンキー長老は次のように 2.「人が求めるものは何でも与えられる」(教義と聖約 説明している。「福千年の到来に当たり,地(主のぶどう 園)は焼かれる。すべての朽ちるものが焼き尽くされ(教 101:27)。人は時として,求めるべきではないものを求め て祈る。しかし,福千年にはそのようなことはない。人は 義と聖約101:24) ,高ぶる者と悪を行う者はすべて,わら のように焼かれる(マラキ4:1;教義と聖約29:9;64: 正しいことのみを願い,求めるものはすべて天の御父に聞 き届けられる。 23−25;133:63−64)。罪人は滅ぼされ(イザヤ13:9− 14),義人と悪人がはっきりと分けられるであろう(教義 聖約101:28)。人を誘惑するサタンの力がどのように制限 と聖約63:54)。その日に堪え得るのは,楽園すなわち月 されるかについては,教義と聖約43:31の「注解」を参照 の栄えの世界に住むに値する者だけである。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.494) する。 4.地上から死が消え去る(教義と聖約101:29−31参 3.「万物が新しく」なる(教義と聖約101:25。教義と 聖約29:23−24)。パーリー・P・プラット長老は,この 照)。福千年の間,肉体の活力や健康が徐々に衰えて命が 絶えるという意味での死は,地の義人の中から姿を消す。 ことについて次のように述べている。「聖なる記録を残し 人が非常に年を取るまで生き,死という変化の時期に達す た人々は,新しい天と新しい地のことを約束している。言 い換えれば,ちょうど復活と同じように,地球もその組織 ると,「一瞬のうちに」死すべき状態から不死不滅に変わ って,「引き上げられる。そして,彼の安息は栄光あるも が変化し,清められ,浄化され,高められ,栄光化される のである。このことにより,肉体的な欠陥や悪はすべて消 のとなる」(31節)。「信仰を保っている者」(教義と聖約 63:50)の霊と肉体は分離しない。すなわち,霊は霊界に え去る。」(Key to the Science of Theology『神学への鍵 』 行き,肉体は地の中に伏して復活を待つという分離がない p.61) この,万物が新しくなるというのは,福千年が終わって のである。定められたときに,死すべき状態から復活した 不死不滅の状態に変わるのである。 地球が日の栄えの状態となる「新しい天と新しい地」(黙 示21:1)が生じることとは別である。 このように人の体の状態が変わることについて,ジョセ フ・フィールディング・スミス長老は次のように述べてい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:25 地球は火によってどのように焼か る。「キリストが来られるとき,地上にいる聖徒たちは, その身に変化がもたらされ,キリストに会うために取り上 れるのだろうか げられる。これはそのときに死すべき状態で生きている人 太陽の輝きを象徴とする,日の栄えに属する者の栄光は 非常に強烈であり(教義と聖約76:70参照),もしその栄 たちが変えられて,復活を経験するということを意味して いるのではない。なぜなら,死すべき人は千年間が過ぎる 光が地球に及べば, 地球は焼き尽くされてしまうであろう。 火による地球の清めは,救い主の再臨に伴うものである まで,地上にとどまらなければならないからである。しか し,地上にとどまるすべての人に変化がもたらされる。彼 かぎ 3.「サタンはだれをも誘惑する力を持たない」(教義と (教義と聖約5:19;マッコンキー,Doctrinal New Testa- らは年老いるまで死に屈伏することのないように,身に変 ment Commentary『新約聖書教義注解』3:368−369;教義 と聖約133:40−49の「注解」参照)。救い主が栄光をもっ 化を受けるのである。人々は100歳になると死に,突然不 死不滅の状態に変えられる。この千年の間墓は作られず, て来られるとき,その栄光に耐えられるように身を変えら れていない者は,実際火によって滅ぼされるであろう。 ……死すべき状態から不死不滅の状態への安らかな変化と いう形で死が訪れる。」(Way to Perfection『完成への道』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ pp.298−299,311) 259 聖典や預言者たちの記録によると,福千年の間は,月の はなく,霊が肉体を支配するのである。霊が肉体を離れる 栄えの義の水準で生活する人々も地上に住むが,最終的に はすべての人に福音を受け入れる機会が与えられる(イザ と,肉体は生命を失う。しかし,霊は肉体を離れてもまっ たく変わることはない。 」(『説教集』3:108) ヤ11:9;ハバクク2:14;エレミヤ31:34参照)。そして, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 福音を受け入れない者は,地上から一掃される(イザヤ 65:20参照)。 教義と聖約101:39−42 「地の塩」 イエスはパレスチナで,弟子たちに向かってこう言われ 福千年では「百歳まで生きる罪人はのろわれる」(欽定 訳イザヤ65:20)と,イザヤは説いている。また,ゼカリ た。「あなたがたは,地の塩である。もし塩のききめがな くなったら,何によって〔地は〕その味が取りもどされよ ヤの教えるところによれば,そのとき主を礼拝するために エルサレムに来ようとしない地の諸族は,主の裁きを受け, うか。」(マタイ5:13)神の真理を信じることなく,それ に従うこともしない人々は, それをほかの人々に教えたり, ついには地上から滅ぼされる(ゼカリヤ14:16−19;スミ 証したりすることができない。 ス『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.268−269参照)。 このように,イザヤやゼカリヤの言葉と,教義と聖約 塩は,生命の維持に欠くことのできないものである。人 類は長年にわたって塩を防腐剤として,調味料の一つとし 101:30−31;63:50−51の主の言葉を対比してみると, 福千年の初めのころには義人と悪人の状態に差があること て,また宗教上の供え物として利用してきた(レビ2:13 参照)。塩はその塩辛さや独特の風味を失ったら何の役に が分かる。エラスタス・スノー長老は次のように述べてい も立たない。一度は信じて福音を受け入れながら,罪や怠 る。福千年では,「主にあって成長する子供たちは死を味 わうことがない。すなわち,彼らは地の中で眠ることはな 惰のゆえに信仰を失った人についても,同じことが言え る。 く,一瞬のうちに身を変えられて取り上げられ,栄光ある 安息に入る。 」(『説教集』7:355−356) カーロス・E・エイシー長老は,塩とその味のたとえに ついて次のように説明している。 5.「主が来るその日に,主はすべてのことを明らかに 「主は御自分を代表する人々を称して『人の味』と言わ あかし する。」(教義と聖約101:32)福千年が来ると,アダムの 時代からその時に至る,忠実かつ従順な主の教会の会員と れました。悔い改めてバプテスマの水に入り,清められて, 主の名と大義を身に受けた人々をそのように呼ばれたので ともに,救い主が自ら働かれる。忠実な人々に与えられる 祝福とは一体どのようなものであろうか。例えば,創世記 す。また,聖約に基づいて神権を行使する人々を指して, そう言われました。すなわちわたしたちを指して『人の味』 の第1章から10章には,およそ2千年にわたる歴史が収めら と言われたのです。 れている。この地球に関する失われた知識は驚くべき量で ある。しかし,福千年になると,今まで失われたすべての ある世界的に有名な科学者の言葉によれば,塩は古くな っても味が変わらないということです。不純物が混ざった 知識,あるいはそれ以上のものが回復されるのである。し たがって,キリストが聖徒たちのただ中にいて,すべての 場合にのみ,塩は塩気を失ってしまうのです。同様に,神 権の力も年とともに効力を失うことはありませんが,不純 事柄が明らかにされるその日を,聖徒たちが待ち望んでき たのは,無理のないことである。 な条件が加味されたときに,その効力は失われてしまいま す。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 若者でも年配者でも,いったんポルノグラフィーに洗脳 教義と聖約101:35−38 「あなたがたは忍耐するこ とによって自分の霊を保つために……求めなさい。そうす されると, 『人の味』を失ってしまいます。 神権者が偽りや神を汚す言葉を語る場合も同じです。 れば,あなたがたは永遠の命を得るであろう」 第35−38節の中で主は聖徒たちに向かい,この死すべき また,世に迎合して不道徳な行為に走ったり,麻薬やたば こ,アルコール,あるいはそのほか体に有害な物質を口に 世のmk するようなことがあれば,やはり人の味は失われてしまう や楽しみよりも永遠の命を求めることにもっと心を向け るように命じておられる。また,ジャクソン郡で命を失っ のです。 不純な思いを抱いて心を汚し,偽りを語って口を汚し, た(いくばくかの)人々や,その後の迫害で命を落とすで あろう人々(ユタを目指した平原の旅で約6,000人が死ん 悪事に走って自己の持てる力を誤用する人は,『人の味』 を失い,品格を落とすことになるのです。ベニヤミン王は だ)も,恐れる必要はないと言っておられる。忠実な人々 民に,『自分自身や自分の思い,言葉,行いに注意を払わ は,栄えある復活にあずかり,神とともに永遠に住まう祝 福を受けるのである。 ず,神の戒めを守ら』ない(モーサヤ4:30)ということ のないようにと警告しています。 死によって人の道徳的な特質が変わるわけではないこと を,ヒーバー・C・キンボール副管長は次のように述べて わたしは,特に若人の皆さんに『人の味』を守るための 簡単な原則をご紹介したいと思います。それは,『汚れた いる。「これまでにも何度も話したように,霊は肉体と分 離しても,その道徳的な面また知的な面においては何ら変 ことを考えてはならない。真実でないことを語ってはなら ない。正しくないことを行なってはならない』(マルク 化がない。いつも神に忠実で善い業を行った人は,その体 ス・アウレリウス “The Meditations of Marcus Aurelius” をちりの中に横たえると,その霊は霊界に行ってもそのま まの状態である。肉体が霊を支配するのではない。そうで The Harvard Classics「自省録」『ハーバード古典文学』チ ャールズ・W・エリオット編,p.211)ということです。」 260 第101章 (『大会報告』1980年4月,pp.60−61) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ った。主はブリガム・ヤングに向かい,「シオンは,わた このたとえは何を表したも しがふさわしいと思うときに贖われるであろう」(教義と 聖約136:18)と言われた。かつて聖徒たちがシオンの地 のか シドニー・B・スペリーは,『教義と聖約』に関する著 における受け継ぎをもう一度得ようとしたころに比べれ ば,ずっとその時に近いとはいえ,シオン(ミズーリ州に 書の中で,このたとえを次のように説明している。 「このたとえは,このように解釈できるのではないだろ 建てられる新エルサレム)が贖われるのはまだ先のことで ある。 うか。つまり,身分の高い人とは主であり,果樹園の特別 シオンが贖われる時については,教義と聖約58:44; 教義と聖約101:44−64 に良い土地とはミズーリ州のシオンである。そして,オリ ーブの木とは,シオンにおける聖徒たちの居住地である。 105:15,37に記されている。教義と聖約第101章のたとえ と,イザヤ5:1−7,およびマタイ21:33−46とを比較し また僕とは末日聖徒,見張り人は教会指導者である。シオ ンを築いている間に彼らは互いに意見が合わなくなり, てみるとよい。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1831年8月3日にすでに奉献されていた場所に見張り台,す 教義と聖約101:67−75 なわち神殿を建てなかった。もし指示どおりに神殿が建て られていたら,そこは聖徒たちにとって霊的な意味での避 の指示 シオンの確立に関して,主は,二つの大切な事柄,すな け所となったことであろう。主の見張り人たちはそこから 啓示によって,敵の動向を事前に察知できたはずだからで わち,指定された場所への聖徒の集合とシオンの土地の購 入について述べておられる。また第68節と72節の中では, ある。そうすれば敵の襲撃を受けても,聖徒の命は救われ 急いではならないと警告しておられる。シオンの確立に努 ていたであろうし,無駄な労力を費やさずに済んだであろ う。 めた最初のときに問題が生じた一つの原因は,多くの聖徒 が十分な準備もせずにシオンに集まって来たことにある。 しかし,ミズーリの聖徒たちは,怠惰になり,油断して, 眠り込んでいた。そこへ敵が襲来し,あのような迫害を受 当時,聖徒たちは明らかに思い違いをしていた。つまり, 主が聖徒たちの面倒を見てくださるのであって,聖徒たち けることになったのである。主の民は四散し,彼らのそれ までの働きは水泡に帰した。そこで,全能の神はその民を に自力でシオンを建てさせようとしておられるのではな い,と思い込んでいたのである。こうした考え方は,シオ 激しく叱 責 されたが,すでに学んだように神の僕の一人 ンの設立当初に主が与えられた勧告とは相反するものであ (55節)であるジョセフ・スミス(教義と聖約103:21)を 呼びたまい, 『〔神の〕家の勇士』 (103:22)を集め,主の った。主は言われた。「集合の業はあわてることのないよ うにし,また逃げるようにして行うことのないようにしな しっ せき シオンに関するさらに多く 土地とすべての所有物を救うようにと命じられた。 そこで,預言者と名高いシオンの陣営の兄弟たちは, さい。 」(教義と聖約58:56)主は再度次のように警告して おられる。「さて見よ,主の聖徒たちに関する主なるあな 1834年,このたとえの言葉を成就するためにミズーリに行 たがたの神の思いは,彼らがシオンの地に集まることであ った。彼らの出発前に,シオンの贖いに関するもう一つの 啓示が与えられた(103:21−28参照)。すなわち,力によ る。しかし,混乱が起こって疫病をもたらすことのないた めに,急いではならない。」(教義と聖約63:24)しかし, ってではなく,金銭を払ってミズーリの土地を購入するよ うに指示を受けた。また,もし敵が襲って来るようなこと 聖徒たちはこの主の勧告を軽視した。その結果は歴史が示 すとおりである。 があれば,神は彼らをのろうと言われたのである。結局こ 付録の特別講座Bにもシオンについて採り上げられてい のときは,シオンは贖われなかったが,遠からず贖われる ことであろう。確かに,主がそれを望まれるときに,シオ る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ン は 必 ず 贖 わ れ る の で あ る 。」( Compendium『 概 要 』 pp.521−522) 教義と聖約101:69−71 ゆだねる ジョセフ・スミスは, 「わたしの家の勇士」 (教義と聖約 103:22)を呼び集めるようにという主の指示に従って, 教義と聖約105:28−32の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ シオンを贖うためにシオンの陣営を組織した。しかし,主 教義と聖約101:75 の民は主が自分たちを遣わされる理由も,シオンの贖いに 関する主の御心も,十分に理解していなかった。結局シオ ら,シオンはすでに贖われていた 1833年12月に与えられた教義と聖約第101章の啓示の中 ンは贖われなかった。このたとえの中で,僕がその土地は いつ所有できるようになるか尋ねたのに対し,主は「わた で,主はその民に約束を与え,聖徒と自称する彼らが主の 勧告に従いさえすれば,地を贖い,シオンを確立するに十 しが望むときである」 (教義と聖約101:60)と答えておら 分なものを受け,「もう二度と倒されること」はないと宣 れる。 またさらに読み進むと, 「多くの日の後」(62節)すべて 言された(教義と聖約101:75)。また,1834年6月,聖徒 たちが背いてさえいなければ,シオンはすでに贖われてい のことが成し遂げられる,つまり,シオンが贖われるまで には長い期間かかることが示されている。シオンの贖いは, たであろうと主は言われた(教義と聖約105:1−10参照) 。 シオンの確立が遅れ,聖徒たちが完全な祝福を受けられず 聖徒がミズーリやノーブーから放逐された後も起こらなか にいるのは,主のせいではない。主の民に対する主の約束 主の民は,結果を主の手に 聖徒が主の声に聞き従っていた 261 がいかに早く成就し, 主の祝福がいかに多く注がれるかは, 月,p.93) 彼らがどれほど喜んで主の勧告に従い,また預言者を通じ て主が求めておられることを実行するかにかかっている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主の目的を達し,シオンを贖うという主の業を速めるう 教義と聖約101:80 「この目的のために,わたしは… …賢人たちを立てて,彼らの手によって」 えで,聖徒の努力がどれほど成果を上げるかについて,ス ペンサー・W・キンボール大管長は次のように述べてい 神によって立てられたこの「賢人たち」の幾人かについ て,ブリガム・ヤング大管長は次のように述べている。 る。 「統計によると,会員数が100万に達するまでに117年 「わたしたちはこう信じている。主は,御業を起こされ るときに,すなわち,定められた時節が到来するときに, (1830−1947)かかったのが,200万に達するのには16年 (1947−1963),300万には9年(1963−1972)となってお 聖徒たちが合憲的法律の保護と平等な権利の下に安らかに 生活できるよう,良心の自由が十分に認められる国を作る み わざ り,この分で行くと400万には4,5年で到達するであろう。 ために着々と備えをしておられたのである。このことから, あとは推して知るべしである。 これは何を意味するのであろうか。すなわち,教会員が 独立戦争に参加した人々は,イギリス本国政府と国教会か ら自由を勝ち取るために,全能の神により霊感され導かれ 所属のワードで真の伝道を行なうならば,改宗者の数は天 文学的な数にまで増加し,主がこの地上に再び戻られる再 ていたことが分かる。この大義のために,大英帝国の仕打 ちに断固抵抗するよう霊感を受けたのは,アダムズ,ジェ 臨の時さえも早めることになるのである。」(『大会報告』 ファーソン,フランクリン,ワシントン,およびそのほか 1976年10月,p.4) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の多くの人々である。そして恐らくは,こうした行動が, 神の目的を貫き,より大きな自由の原則の下に新政府を樹 教義と聖約101:76−79 のために制定されたのか 合衆国憲法はすべての人々 立し,宗教の自由を保証する民主主義政府の基礎を築いた のであろう。 政府が目指すおもな目的の一つは,人の「固有で不可譲 その試練の時代に大きな影響力を持っていたこの立派な の権利」(教義と聖約134:5)を擁護することである。聖 典にはまたこう記されている。「良心の自由な行使,財産 人々に霊感を与えていたのは,主の御霊であった。彼らは 主の声により霊感を受けて戦いに臨み, 会議で知恵を絞り, の所有権と管理,および生命の保護……。」(教義と聖約 134:2)しかし,シオンの聖徒たちは,これらすべての権 勇気と不屈の精神と忍耐とをもって野営し,さらには,当 時だけでなくその後の世代のためにも賢明な善い基準を設 利を否定された。合衆国憲法は,個人が神から与えられた け,採用し,自主独立の政府を打ち立てたのである。」 権利を否定された場合,救済を願う権利を保証している。 (Discourses of Brigham Young『ブリガム・ヤング説教集』 pp.359−360) 主は聖徒たちに対し,官憲の手で「補償と譲り戻し」(教 義と聖約101:76)をしてもらうよう強く勧められた。 この偉大な文書がいかにすべての人々を益するかについ て,チャールズ・W・ペンローズ副管長は次のように説明 している。 「第101章の中で,主は合衆国憲法について述べ られた。この憲法は主が立てられた賢人たちによって,あ る目的のために起草されたと,主は述べておられる。その 目的とは何か。それは,この国の民に限らず,『すべての 肉なるもの』の権利と特権を守ることである。この偉大な 文書の掲げる原則は諸国に広がり, やがて全地に行き渡り, 暗闇や黒雲の中にも,あたかも太陽の光のごとく確実にさ し込んでいくだろう。 」(『大会報告』1917年4月,p.20) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約101:80 自身である 合衆国憲法を制定されたのは神御 「わたしはこの国の憲法を制定する賢人たちを立てて」 という主の言葉を読むと,もしも合衆国憲法が『教義と聖 約』に組み込まれていたとしたらどうだろう,と考えさせ られる。この聖句から考えるに,わたしたちにとって合衆 み こと ば 国憲法は主の言葉である。神は彼らに,御言葉を通してで はなく,御心を示し,御霊を通して働きかけるという形で 霊感を与え,人間の統治に関するこの偉大な文書の起草作 業を導かれた。しかし,たとえそうであっても,それによ って,この憲法が人の手によって成ったとは言えない。」 (J・ルーベン・クラーク・ジュニア『大会報告』1935年4 262 「わたしは……賢人たちを立てて,彼らの手によって」 聖徒が救済を訴えることが た。預言者ジョセフ・スミスは,ジャクソン郡の聖徒にあ なぜそれほど大切であったか 主はルカ18:1−8で,執拗に求め続けて裁判官に嘆願を 教義と聖約101:81−95 てた手紙の中で次のように述べている。「シオンのあなた がたの土地を売らなくても生計を立てる手段が得られるの 聞き入れてもらったやもめのたとえを繰り返された。主は そのたとえを聖徒たちの立場になぞらえておられる。彼ら であれば,その土地を売ることは主の御心ではない。あな たがたが信奉してきた大義を守り抜くために……あらゆる はまず判事に訴え,それがだめなら知事,さらには大統領 に嘆願することになっていた。主はこう言われた。もしも 努力を払うべきである。」(『預言者ジョセフ・スミスの教 え』p.31) 聖徒の訴えが聞き入れられない場合,主は怒りをもって立 彼はさらに次のように言っている。「どんな苦難であれ ち上がり,聖徒を放逐した者たちに裁きを下す。なぜなら, すべての人々に「弁解の余地のないようにする」(教義と 受け入れなさい。主の目から見れば,あなたがたが金銭を 払って購入した受け継ぎの地であるシオンの地を手放すよ 聖約101:93)からである,と。ジョセフ・フィールディ ング・スミス大管長は,その理由について次のように述べ りは,死んだ方がましである。たとえ命を失ってでも受け 継ぎの地を手放さない者は皆,主が来られ,その地に立つ ている。 ときに,ヨブとともに,肉体にあって神を見るであろう。 しか 「聖徒たちも自分たちの抱えている問題を然るべき法廷 に持っていき,救済を求める必要があった。これは必要欠 したがって,わたしはこう忠告する。全力を尽くしてあな たがたの土地を保持し,あらゆる法的手段を使って敵から くべからざる手順であった。しかし,その結果,聖徒たち の市民権と信仰の自由が否定されたのである。この問題を の救済を求めなさい。また,平穏かつ安全にあなたがたの 受け継ぎの地に戻るために,日夜神に祈りなさい。そして, 担当した人々は言い逃れができない。後の南北戦争におい 裁判官があなたがたの訴えを聞き入れてくれないときは, て下された全能者の裁きには,十分な根拠があったのであ る。 知事に訴え,知事か聞き入れてくれないときは,大統領に 訴えなさい。大統領も,あらゆる法律も,人間の情も頼み 報復の律法は,全能者のほかの律法と同様,永遠に変わ ることがない律法である(教義と聖約6:33;2コリント にならないときには,神のもとへ行き,あの貧しいやもめ が不正な裁判官に行ったように,神が音を上げられるほど 9:6参照)。したがって,いずれ暴徒の脅威などに屈する ことのない公正な統治者の前で,清算の行われる日が必ず 執拗に求め続けるのである。そうすれば,神は必ずあなた がたの敵に裁きを下し,日夜神に叫び求める御自分の選民 訪れるに違いない。」(『教会歴史と近代の啓示』1:462, のために報復してくださるであろう。」(『預言者ジョセ 469) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ フ・スミスの教え』pp.35−36) 聖徒の受け継ぎの地として奉献された土地は,邪悪な暴 教義と聖約101:96−101 聖徒たちはジャクソン郡 の所有地を売却すべきではなかった 徒たちに汚され,焼かれ,略奪された。しかし,聖徒がそ の土地を売却し,暴徒らの汚すままにしたことは,主の前 主は聖徒たちに,「たとえわたしの民がそこに住むこと を許されなくても,〔ミズーリ州にある聖徒たちの所有地 の〕権利を主張」 (教義と聖約101:99)するよう命じられ 高等評議会の設置 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1834年2月17日,ジョセフ・スミスはこの神権時代初の に「非常に嘆かわしくかつ重い罪」(教義と聖約101:98) であった。 第102章 ためには祈りが欠かせないことを強調した。御霊に関する 事柄は御霊によって判断しなければならない。肉欲の心で 神にかかわる事柄を識別することはできないのである。議 事録は3回読まれ,今後キリストの教会の高等評議会の形 高等評議会を組織した。さらに翌2月18日,預言者は評議 会の組織に関する議事録を読み直し,訂正を加えた。19日 式および基準を成すものとして全会一致で採用され,受け 入れられた。またこの規定に添えて,この規定の中に欠落 には再び評議会が召集され,諸事を取り決めた後,評議会 に対して議事録の提示が行われた(History of the Church があることを大管長が発見した場合,それを補う特権が大 管長にあることが明示された。」(『教会歴史』2:31) 『教会歴史』2:31参照)。 預言者ジョセフ・スミスは評議会の席上,祈りの必要性 み たま について次のように述べている。「わたしは御霊を受ける 評議会の規定は,示現によりジョセフ・スミスに明らか にされたものであり,また昔の評議会の規定に倣ったもの である(教義と聖約102:4の「注解」参照)。そのため, 263 この評議会の議事録は教義と聖約第102章として組み入れ ると,エルサレム以外の評議会の大祭司もこの組織の様式 られた。 に倣ったということである。……それから,出席者全員が み こころ 現行の規定を神の御 心 と考えて,それに従いたいという 注 解 意向を表明した。」(Kirtland High Council Minute Book『カ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約102:2,9−10 最初の高等評議会の特別 ートランド高等評議会議事録』ソルトレーク・シティー, 末日聖徒イエス・キリスト教会歴史部,pp.29−32) な目的 メルキゼデク神権者のための特別な指示の中には,最初 2月19日,訂正を加えられた議事録が提示された。ジョ セフはこの日に,次のような記録を残している。「わたし の高等評議会と今日のステーク高等評議会との大きな違い たち全員が永遠の聖約のしるしとして,天に向けて手を挙 げると,主は御霊を注がれた。そこでわたしは,昔の規定 こんにち が明示されている。 「この神権時代における教会の最初の高等評議会は, と主の御心に従って評議会が組織されたことを宣言した。」 1834年2月17日にオハイオ州カートランドで組織された。 (『教会歴史』2:32−33) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この高等評議会は,今日シオンのステークで組織されてい る高等評議会とは幾分異なる。この啓示(教義と聖約102 章)の中で明らかにされている教会の裁判に関する事項は 教義と聖約102:6−7 教会の事務を行うには評議員の 過半数の出席が必要である 今日でも変わりはないが,当時は大管長会が高等評議会の 評議会の事務を行うに当たって十分な数の評議員を確保 会長会を構成していた。……(教義と聖約102:2参照)こ の高等評議会は広い地域を管轄し,ステークの境界にとら するために,今日の教会の方針では,ステーク会長会は所 定の指示に従って高等評議員代理を任命することができる われることはなかった。今日のように高等評議会が各ステ ーク内に組織されるようになったのは,ステーク会長会が ことになっている。また,教会の公式の方針では,高等評 議会法廷は,ステーク会長会と12人の高等評議員から構成 ステークという地域を管理するようになって以来のことで される。常任高等評議員の一人が法廷に出席できない場合 ある。……特に102章の9,10節に注意を払う必要がある。 …… は,高等評議員代理が代行することができる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ このことから,最初の高等評議会は教会全体を管轄する 権限を持っていたことが分かる。その後,ミズーリ州にも 教義と聖約102:12−22 の手続き 高等評議会法廷を開くため う一つの高等評議会が組織され,主のぶどう園の遠く離れ 高等評議会法廷を開くことは,ステーク高等評議会の大 た場所に住む聖徒たちの問題処理に当たった。やがて,今 日のようなステークが各地に組織され,ステーク会長会が 切な働きの一つであるため,正しい規定と手続きを踏むこ とが大切である。『教会指導総合手引き』には,教義と聖 任命されるようになると,各ステークごとに高等評議会が 任命されるようになった。」(Improvement Era『インプルー 約第102章に記された原則に基づいて,ステーク高等評議 会法廷を開くための手続きが説明されている。神権指導者 ブメント・エラ』1955年2月号,p.113) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は,手引きに明示された指針と手続きに従わなければなら ない。 教義と聖約102:4 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「天の律法」に従った高等評議会 の働き 高等評議会の組織された日, 預言者ジョセフ・スミスは, 教義と聖約102:18 原告と被告の権利 1840年に預言者ジョセフ・スミスは,原告と被告の権利 その日の集会の議事録にあるように,高等評議会の働きに ついてはすでに明らかにされていると宣言した。 について高等評議会に指示を与えた。彼は次のように記し ている。「原告,被告双方不在のまま,あるいは彼らに出 「ジョセフ兄弟は,示現によって明らかにされた昔の評 議会の規定を示すと語った。それはキリストの教会の高等 評議会を管理するための律法である。昔,教会の評議会は エルサレムにあった。評議会の会長であり,地上における かぎ 神の王国の鍵を持っていた使徒ペテロは,救い主の声によ りこの職に召され,教会員の声により承認された。……昔 の評議会においては,今日の教会法廷のように罪人を弁護 したり抗弁したりせず,立って意見を述べる評議員は,証 拠に基づき,主の御霊の教えのままに正確に語ることにな っていた。また,教会員の罪が明らかな場合でも,評議員 は決してその人をさげすんではならなかった。また,高等 評議会に告訴された人は,評議員の半数に対して申し開き をする権利があった。それは,その人の立場が会長の前に 公正に申し述べられ,真理と義に従った裁決が下されるよ うにするためである。……ジョセフ兄弟の語るところによ 264 高等評議会は各ステークに組織されている 第102章 廷する機会を一度も与えずに,高等評議会法廷を開いては ばならない。裁判記録の原本はすべて,この啓示に基づき, ならない。また,その一件が法廷にかけられる前に,一方 の言い分だけを聞くようなことがあってはならない。また, 大管長会事務局に送られることになっている。 はくだつ 教会法廷で正会員資格を剥奪された人や,破門された人 当人が不在の場合,あるいは当人の弁明の準備ができてい ないときに,高等評議会の面前でその人の人格を傷つける は,上級の法廷に上訴する権利がある。監督法廷の判決に 対しては高等評議会法廷に,また高等評議会法廷の判決に ようなことを言ってはならない。すなわち,その一件を担 当する高等評議員たちが,これから裁かれるいかなる人に 対しては大管長会に上訴することができる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 対しても偏見を抱かないようにするためである。」(『教会 教義と聖約102:30−32 歴史』4:154) 当事者が自分の意志で出廷しない場合は,入手した証拠 高等評議会,高等評議会とステーク会長会の関係 預言者ジョセフ・スミスの説明によれば,十二使徒定員 に基づいて裁判を進めてもよい。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 会とステーク高等評議会の権能と決定事項は次のとおりで ある。「常任高等評議会は,広く海外の教会に出て行き, 教義と聖約102:19−22 判決の手順と「判士」の責 そこで物事を処理する権能を有していない。これは十二使 任 十二使徒定員会とステーク 預言者ジョセフは教会初期の高等評議員の兄弟たちに対 徒会に属する権能だからである。常任高等評議会はシオン またはシオンのステークにおいてのみ組織されるであろ し,昔の評議会の厳格な規定,および判士もしくは判士の 顧問に任命された人の重大な義務について,こう教えた。 う。」(『教会歴史』2:220) 預言者はさらにこう述べている。「高等評議会は十二使 「心の清くない者が評議会で裁きを下すことなど決して 徒会や十二使徒会の決定に何ら関与しなかった。しかし, できない。人は往々にして偏見にとらわれ,自分の目の中 に梁があるのに気づかない。そのようなときには,正しい もし十二使徒会が誤りを犯すならば,啓示に従い,全教会 に対して権限を持つ中央評議会にのみ報告する責任を負っ 判断を下せない。 ところで,評議会の規定に関する問題に戻ることにしよ ていた。 」(『教会歴史』2:285) ステークすなわちシオンについて,預言者ジョセフはこ う。昔の評議会は,非常に厳格な作法に従って運営されて いた。すなわち,啓示によって主の声を聞くか,または御 う述べている。「高等評議会は,すべての霊的な事柄を執 り行うために組織された。」(『教会歴史』2:228)高等評 霊の導きによって評議会の決定が下されるまでは,私語を 議会の務めはステーク会長会を助けることであり,高等評 したり,また退屈そうな態度をしたり,退席したり,落ち 着きのない態度をとったりすることも許されなかった。し 議会はステーク会長会から指示されるままに割り当てを果 たす。 かし,今日ではそのようなことはない。昔は,一人が評議 会に残るなら,ほかの人も残って討議し,会長が自分の時 メルキゼデク神権に関する以下の記事の中では,高等評 議会の機能がもっと詳しく説明されている。 間を割けば,ほかの評議員もそれに倣ったものであった。 「高等評議員は,ステークの管理運営に関して重要な役 ところが今日の評議会では,一人が落ち着きをなくしてい るかと思えば,一人は居眠りをしている。祈りをささげて 割を負っている。たとえて言うならば,彼らは,ステーク 会長会の右腕となって働く人々である。彼らがステーク会 いる者もいればそうでない者もいる。また,評議会の討議 事項について考えている者もいれば,まったく別のことを 長会にとってどれほど重要な存在になるかは,どれほど忠 実に,効率よく,また喜んでその責任を果たすかにかかっ 考えている者もいる。 ている。また,ステークやワードの担当組織がどれほど発 わたしたちの行動は記録されている。そして将来それら が自分の目の前に置かれるのである。もし万一誤った判決 展するかもそれによって決まるのである。 高等評議員の職務と割り当ては広範囲に及び,その内容 を下し,仲間を傷つけるようなことがあれば,彼らはそこ でわたしたちをひどく非難することだろう。誤った判決の も様々である。教会のプログラムを遂行するに当たって, ステーク会長会が高等評議員を十分に活用するステークに 結果は恐ろしいものであり,わたしにはとても表現するこ とができない。兄弟の皆さん,どうか自問していただきた あっては,その責任を果たすために多くの時間を求められ ることになる。これまでの経験からして,高等評議員を広 い。この評議会のことを耳にしてから一体どのくらい祈ら 範囲にわたって活用するのが,ステーク会長会にとって賢 れただろうか。今あなたがたは評議会の席に座してあなた がたの兄弟を裁く備えができているだろうか。」(『教会歴 明であることが明らかである。なぜなら,ステーク内の主 の業が効率よく進むか否かは,大部分ステーク会長会がい 史』2:25−26。付録の特別講座I参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ かによく高等評議員を活用するかにかかっているからであ る。」(『インプルーブメント・エラ』1954年2月号,p.112) なら 教義と聖約102:26−27,33 教会法廷の記録と上訴 高等評議会法廷の裁判記録はすべて保管しておかなけれ 265 第103章 権能によるシオンの贖い 者ジョセフ・スミスにより開会の祈りがささげられた後, 歴史的背景 ミズーリから来た二人の兄弟が,ミズーリの兄弟姉妹たち ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1833年11月の第1週,ミズーリ州ジャクソン郡の聖徒た の状況を報告した。 「前の啓示(教義と聖約101:55−60)の中で,預言者が ちは家から追い出され,やむなくミズーリ川を渡ってクレ イ郡へ行き,そこでは少し親切な待遇を受けた。パーリ いつかシオンを『贖う』ためにシオンの地へ『わたしの家 の勇士』を率いて行くよう要請されることが啓示されてい ー・P・プラット長老は,続いて起こった出来事について る。この章の啓示はそれから4か月と12日後に与えられ, 次のように説明している。 「極貧の状態でクレイ郡へ避難した後,わたしは日雇い, 預言者は救援のために教会の勇士の召集を開始するよう指 示された。……シオンからやって来た使者は評議会に,追 大工,きこりなどの仕事をして生計を立てた。そして1834 年の冬,わたしの家で総大会が開かれ,略奪され家を追わ い散らされた聖徒たちは働いて,食糧と衣類を得て当座は しのぐことができるが,シオンの家から追い出されたため れた会員たちの救援と復帰のための対策を取ることをスミ に悲しみに沈んでおり,どのような手段でシオンが贖われ ス大管長ならびにカートランドの教会員に相談するため, 二人の長老をオハイオへ送るべきであると決議した。しか るのかを知りたいと熱心に願っていることを伝えた。評議 会が開かれる前に与えられたこの啓示〔教義と聖約103章〕 し,『だれがそのような大変な旅をすることを進んで志願 するだろう』というのが会議での問題であった。 は,まさにその質問への答えである。したがって使者が状 況を伝えたとき,預言者にはすでに答える用意ができてい ちゅうちょ 皆貧しく,悪天候のせいもあって,だれもが躊 躇した。 ようやくライマン・ワイトとわたしが名乗り出て,即座に 承認された。わたしにはこのとき,旅に出るための衣服も, くら あがな た。預言者は自らシオンへ行くつもりであること,そして 彼に伴って行く志願者を募ることを発表しようとしていた のである。評議会はこの提議を承認し,30人から40人が同 馬や馬に付ける鞍や馬具もなく,また持っていく金もなけ れば,始終病気で自分の世話も満足にできない妻に残して 行を志願,預言者ジョセフ・スミスがその救援隊の最高司 令官に選ばれた。」(スミス,ショダール共著,Commen- いく金も食糧もなかった。 tary『注解』pp.659−660) 4か月前,預言者ジョセフ・スミスは一つの啓示を受け このような状況の下で,わたしはなすすべを知らなかっ た。一切の物が略奪され,皆貧しかった。出発を遅らせる ていた(教義と聖約101:55−60参照) 。将来シオンを贖う ことはできなかったが,わたしはこの企てに戦りつを覚え た。ほとんど不可能としか思えなかったが,信じる者には ために聖徒たちを召集する必要が出てくるというものであ る。第103章はその召集を正式に認可する啓示である。 できないことはないのだ。 ……準備を整えたわたしたちは,2月1日,馬上の人とな 注 解 り,荒れ野を渡る1,000マイル(約1,600キロ)とも1,500マ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ イル(約2,400キロ)とも知れぬ旅に意気揚々と出たので ある。出発のとき,わたしたちのポケットには1セントの 教義と聖約103:1−4 許容されたか お金もなかった。 あらし わたしたちは毎日,晴れていようと嵐であろうと,また ジャクソン郡の聖徒たちが迫害されるままにしておかれ たことについて,主は二つの理由を挙げておられる。(1) 泥も雨も雪もかき分けて進み,公民としての用務を果たす 敵の罪悪の杯を満たし,その結果公正な裁きが彼らに対し とき以外は休むことがなかった。しかし,早春のある日無 事にカートランドに到着するまでの道中,必要なものがな て行われるようにするため(同様な例として,アルマ14: 11;60:13を参照する)と,(2)主の戒めを心に留めなか くて困るということがなかったばかりか,手もとには金が たくさんあった。ジョセフ・スミス大管長をはじめカート った聖徒たちを「しばしの間……懲らしめを受けるように する」 (教義と聖約103:4)ためである。1833年8月,暴徒 ランドの教会の人々はわたしたちを温かく歓迎し,聖徒だ による暴力が最初の頂点に達したとき,主は,シオンの民 が従順であるなら主の守護を受けるが,従順でなければ悪 けが理解し得る喜びを共にした。わたしたちが受けている 迫害のことは,どこへ行っても話題の中心であった。」 なぜ主はジャクソン郡の荒廃を さかずき 人のみならず彼らにも主の裁きが下されるであろうと警告 (Autobiography of Parley P.Pratt『パーリー・P・プラット の自叙伝』pp.107−109) しておられた(教義と聖約97:19−27参照)。たとえ暴徒 の行為がより大きな悪をはらんでいたとしても,聖徒たち 1834年2月24日,ジョセフ・スミスの家で高等評議会が 開かれ,プラット長老とワイト長老によってミズーリから は主が彼らに与えた「訓戒と戒めに完全には聞き従わなか った」(教義と聖約103:4)ので,主により懲らしめられ のメッセージが伝えられた。評議員たちが席に着き,預言 たのである。彼らはすでに「多く与えられる者からは多く 266 第103章 求められ」 (教義と聖約82:3)ると教えられていたのであ 『全地の喜びに』輝くであろう。そして,主の民が必要な った。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 準備を整えたなら,神の定められたときに主は神殿に来ら れ る の で あ る 。」( ス ミ ス , シ ョ ダ ー ル 共 著 『 注 解 』 教義と聖約103:5−10 主は,主の民が主の言葉に聞 き従うときに栄えさせ,そうでないときには迫害されるの pp.146−147) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこのよう を許される 教義と聖約103:5−10には次のように約束されている。 に教えている。「建設される新エルサレムの中心地はミズ ーリ州ジャクソン郡である。ジャクソン郡をユタや他の場 聖徒たちは忠実であるならば,その「時点から」(5節) 所で代えようとする意図もまったくない。」(『救いの教義』 「絶えず勝利を得る」 (7節)。しかし,もし聖約を守らなけ れば,敵に打ち負かされるであろう。 3:72) ブリガム・ヤング大管長は,シオンを築き上げるための ジョージ・Q・キャノン副管長はこの約束の履行につい て,大会説教の中で次のように論じている。「この約束, 帰還は行われるが,聖徒たち全員が戻るわけではないと述 しか べている。「わたしたちはジャクソン郡へ帰るのか? 然 すなわち一方では勝利と解放,他方では罰と不幸をもたら り。ではいつ? その道が開けたらすぐにでも。わたした すものだが,この約束が真実であることを忠実な者はだれ も疑うことはできない。末日聖徒は自らの経験を通して, ちみんなが行くのか? とんでもない! もちろんそうで はない。現在の会員をすべて収容するほどあの土地は広く これらの言葉が真実であることを十分に証明してきた。そ の言葉が完全に成就するのを目にしてきたのである。神の ない。」(Journal of Discourses『説教集』18:355)彼はま た,「一部の神権者が赴いてシオンを贖い,シオンの中心 戒めを守ることに忠実であったときに彼らは栄え,解放さ となるステークを建てる」と述べている(『説教集』11: れたが,不忠実であったときには大きな困難に遭った。邪 悪な人々が神の業に対して自分の選択の自由を行使する機 16)。 シオンの贖いについては,教義と聖約103:15−20を参 会を得ることは必要である。なぜなら,彼らにもわたした ちと同様に選択の自由があるからである。彼らには主の言 照する。また次の聖句も参照する。教義と聖約100:13; 101:17−18,43−62;105:1−6,9−15;136:18;3ニ 葉を打ち建てる助けをする特権もあり,また彼らの選択の 自由を行使して神の業に対抗することもできるのである。 ーファイ20:22;21:22−25。付録の特別講座Bには, 『教義と聖約』のみで教えられているシオンの概念につい 神の業を打ち倒すために力のかぎりあらゆることを行う特 てさらに詳しく説明されている。 権があり,罪の杯がいっぱいになるまでこれを行うことが 許されるのである。」(Conference Report『大会報告』1899 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 年10月,p.48) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ オンを贖う 教義と聖約103:15−20には,シオンは人間の力だけで 教義と聖約103:9−10 贖われるのではないことがはっきりと記されている。主は, 聖徒たちは地の塩,「人々の 教義と聖約103:15−20 主の民は主の力によってシ 救い手」とならなければならない 教義と聖約101:39−42の「注解」を参照する。 現代のシオンの贖いは昔のイスラエルのエジプトからの解 放に似ていると述べておられる(18−20節参照)。『聖書』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約103:11−14 聖徒たちはジャクソン郡に には,主が昼は雲の中で,夜は火の柱の中でイスラエルを 見守られたことが述べられている。オーソン・プラット長 シオンを築くため実際に戻るのだろうか 老は1873年,ジャクソン郡への帰還にも似たような現れが 第11節から14節で,主は,主の民を追い出された土地へ 戻し,「もう二度と倒されることのない」(教義と聖約 伴うであろうと教えている。 103:13)状態にされることを明らかにしておられる。し かん なん かしながら,この回復は「多くの艱難」(12節。教義と聖 約58:2−4;教義と聖約58:2−4の「注解」参照)の後に 初めて起こる。主は教義と聖約第103章の中で聖徒たちに 次のように警告しておられる。すなわち,たとえ彼らがシ オンの地へ戻ることができると約束されても,もし彼らが 罪悪により「その受け継ぎを汚す」ならば主の助けを失い, 「彼らは倒される」 (14節)であろう。この啓示が与えられ てから,多くの教会指導者は将来ミズーリ州ジャクソン郡 に帰ることについて話し合った。その中でオーソン・F・ ホイットニーは次のように述べた。「わたしたちの使命は ここ(ユタ)で終わるのであろうか。『モルモン』の民の 記念碑はユタ州であろうか。否である。……『モルモニズ ム』の記念碑はミズーリ州ジャクソン郡に建てられるであ ろう。そこに偉大な都が建設され,シオンが起こされて ミズーリ州ジャクソン郡のビックブルー・リバー 267 「シオンの町を築き上げるために主がその民を率いられ に書かれるときには−それは必ず書かれるが,歴史上最も るときには,主の臨在が目に見えることをわたしは期待す る。主の臨在とはその力の現れのことである。…… 驚嘆すべき前例無比の業績の一つとして未来の世代に示さ れるのである。」(『説教集』24:156−157) わたしたちはジャクソン郡へ帰る。この民のすべてがこ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れらの山々を離れるわけではなく,全員が一つの陣営に集 められるわけでもないが,わたしたちがジャクソン郡へ帰 教義と聖約103:16 イスラエルを導いたモーセのよう に聖徒たちを導く者はだれか るときには何千何万という人から成る大きな組織となって 前進する。神の栄光が昼は雲のように,夜は火の柱のよう だれが聖徒を導くのかという質問に対して,ジョン・ A・ウイッツォー長老は次のように答えている。 に陣営に影を投げかけ, 主の声はその軍の前に発せられる。 こうしたことがこの民の歴史にやがて起こるであろう。… 「この言葉については多くの論議があった。自分が『モ ーセのような者』であると主張する見当違いの者さえい …そして主の民は進んで行き,日の栄えの律法に従ってシ た。 オンを築き上げるのである。 これは地上のすべての国々に恐怖をもたらさないだろう しかし, 聖典中で述べられている意味はごく単純である。 現代の啓示の中では, 大管長がよくモーセにたとえられる。 か? この軍は世の軍隊ほど数は多くないにしても,国々 に恐怖を呼び起こしはしないだろうか? シオンの旗は恐 教会設立後間もなく,主はこのように言われた。『わたし しもべ の僕ジョセフ・スミス・ジュニアのほかに,だれもこの教 ろしいと主は言われた。 ……しかし主の臨在がそこにあり, 会で戒めと啓示を受けるために任命される者はいない。彼 主の声が聞かれ,主の天使たちが陣営の前を進むとき,地 球の隅々までそれが報道され,すべての民,特に悪人は恐 はモーセのように戒めと啓示を受けるからである。 』(教義 と聖約28:2)神権に関する偉大な啓示の中で,このこと 怖に襲われる。その日,神を敬わない者,高い地位にある 者,世の偉人たちのひざは震える。」(『説教集』15:364) がさらに具体的に述べられている。『大神権の職の大管長 の義務は,全教会を管理し,モーセのようであることであ この主の大いなる軍勢は世の軍隊のようなものではな る。』(教義と聖約107:91) い。力によってシオンの地を手に入れるのではなく,全能 の神の守護と導きの下に進み,購入によって正当な手段で 教会の中のモーセのような者とは大管長である。」(Evidences and Reconciliations『証言と和解』1:197) 彼らのものとなる土地を所有するのである(教義と聖約 105:28−32の「注解」参照)。預言者ジョセフ・スミス ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約103:19−20 なぜ主は現代のイスラエル は,「シオンに帰る聖徒たちを天の軍勢が守護する」のを に,主の天使を彼らの前に行かせ,主もまた行くと言われ 彼の書記が示現で見たと記している(History of the Church 『教会歴史』2:381)。 たのか 主は昔のイスラエルを「祭司の国……また聖なる民」 ジョセフ・F・スミス大管長は,ジャクソン郡への帰還 を目にしたその様子を次のように描写している。「神は民 (出エジプト19:6)とするよう望まれた。そして主の預言 者モーセに,主が「すべての民の目の前で,シナイ山に下 を導いてジャクソン郡へ帰らせるとき,それをどのように して行われるのだろうか。わたしたちの何人かが集められ, る」(出エジプト19:11)ために,民を備えるように言わ み すがた れた。神がシナイ山でモーセの前に御 姿を現されたとき, ジャクソン郡へ導かれる様子を描写させていただきたい。 民は神の力が現れるのを見て恐れた。彼らは主が直接彼ら わたしには20万から30万の人々がここ(ソルトレーク盆 地)へ来たときと同じように,家畜を日夜集め守り,左右 に話しかけられるのではなく,モーセが神と語り,神のメ ッセージを伝えてくれるよう頼んだ(出エジプト20:18− に群がる敵から自らと子供たちを守って,言い表せないほ どの苦難に耐えながら大平原を横切って行くのが見えるよ 21;申命5:22−31参照)。モーセは民を聖めようと努力し たが,民は,聖なる民になるためのより高度な律法に従っ うな気がする。ジャクソン郡への旅はソルトレークへ旅し て神に会う備えをしようとはしなかった。そこで,「肉の たときと同じように現実的な事柄である。これを忘れては ならない。たとえ彼らが『救いの手』で神の力によって導 戒めの律法」(教義と聖約84:27)が与えられ,主が直接 導かれるのではなく,主の天使により導かれるようになっ かれるにしても,これは参加する者にとってここから人々 を導くと同じように明白なことである。彼らはこの神の力 た(教義と聖約84:23−26;出エジプト23:20;ジョセ フ・スミス訳出エジプト34:1−2参照)。 きよ の現れには,耐えなければならない苦難が非常に多いと考 最後の神権時代には,このような状況は存在しない。末 えるであろう。そしてわたしたちを滅ぼそうとした者の手 からの以前の救出の栄光を見るのがわたしたちの責任であ 日聖徒には大神権が与えられ,神のもとに戻れるための律 法と儀式が与えられている(教義と聖約84:19−22; ったように,恐らく彼らの救出の栄光を見るのはその子ら に任せられることであろう。これは一つの見方であるが, 107:18−19参照)。清い民は,主が来られるときに主を受 け入れることができるように準備をするであろう(モーセ 実に現実的な見解である。では,鉄道はどうなるのかと尋 ねる人がいるかもしれない。しかし,鉄道で旅をしたので 7:62−64;教義と聖約35:20−21;100:16参照)。シオ ンを贖うために戻る人々は,日の栄えの律法を守り(教義 は,ふるいにかける過程が不十分だとわたしは思う。当事 と聖約105:5参照),それによって主の直接の導きを受け 者であるわたしたちは,神の力の現れを見逃し,ごく当た り前のことのように思いがちである。しかし,それが歴史 る準備をするのである。 オーソン・プラット長老は,聖なる民となる必要性につ 268 第103章 いてこう語っている。「わたしたちがジャクソン郡へ戻る 用いて,教会員に危害を加えるすべてのものから清めるこ ときは,力を伴って行く。主の律法と権威に対して何の配 どんよく 慮も尊敬も払わず,貪欲な汚れた人々の中に神は力を現さ とが必要となるかもしれない。シオンを贖う準備ができた とき,主はこのようなことを行うと約束された(マタイ れると思うか。否。神が末日聖徒の中に力を現されるのは, 教義について,また神から託されたすべての事柄について 13:41参照)。」(Church History and Modern Revelation『教 会歴史と近代の啓示』1:484) 一致があり,一致だけでなくさらにすべての事柄があたか も天に輝く太陽のように公明正大で,一点の汚れもないよ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約103:21−28,30−35 シオンの陣営の うに清らかであるゆえなのである。 」(『説教集』15:361) 召し ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約103:20 シオンは1834年に贖われること 主は教会の若者たちと中年の者たちを召して,シオンの 地に集まり, 「わたしの敵に報復しなければならない」 (教 はなかった 「やがてあなたがたは良い土地を所有するであろう」 (教 義と聖約103:25)と言われた。この一節は軍隊の召集を 表すように思える。なぜなら主は「だれもわたしのために 義と聖約103:20)と,1834年に主が宣言されたこの言葉 自分の命を捨てるのを恐れてはならない」(27節)と付け は,シオンがすぐにも贖われるという意味ではない。もっ と正確に言えば,シオンの贖いの時まで幾らかの時間的隔 加えておられるからである。後に「シオンの陣営」として 知られる軍隊はこのようにして始まったのである。 たりがあると考えられる。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,「やが 数人の者が,「シオンの陣営」のために人を召集し,基 金を集めるための旅に出るよう召された。彼らは500人集 て」という言葉の意味について,次のように説明している。 めるよう努力し,少なくとも100人以下であってはならな 「この宣言によると,シオンの贖いはすぐに行われるので はなく,将来に延期されるものと考えられる。さらにその いと命じられた。実際には,204人(および11人の女性と7 人の子供)が志願した。 日は,教会員たちが進んで聖約を守り,一致するまでやっ て来ないであろう。なぜなら,教会員がすべての戒めに完 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,「シオ ンの陣営」の組織について次のように述べている。「シオ 全に従うようになるまでは,この日の到来は不可能だから である。このことの実現のために,主が思い切った手段を ンの地から来た使者のパーリー・P・プラットとライマ ン・ワイトは,兄弟たちのいる地へ上って行く人々を集め アイオワ イリノイ モンテローゼ ノーブー 祖父アダムはエデンの園から追い出された後,アダム・オンダイ・ アーマンの谷に住んだ。ここで彼は犠牲をささげ,主の戒めに忠 実に従った。またこの谷で彼の正しい子孫による大会議が開かれた (教義と聖約107:53−56参照)。 カーセージ 隊 部 ス ミ ス ・ ム ラ アダム・オンダイ・アーマン ガラティン コールドウェル ファーウェスト ハウンズミル キャロル 204人 34年 デウィット リッチモンド 隊 ミス部 フ・ス ジョセ 陣 ンの シオ 18 営, 川 ミズーリ ピ ッ シ カンサス 約1万5,000人の聖徒, 1839年に避難 シ リバティー ハ ミ レイ クレイ イ クインシー デイビーズ インディペンデンス(1831−33) ミズーリ 迫害の地 1831−39 川 ーリ ミズ セントルイス ジェファーソン市 リルバーン・W・ボッグズ知事は,1837年10月27日, 州都ジェファーソン市で撲滅令発布。 ぼくめつ ミズーリ迫害時代の聖徒の動向(カーター・エルドレッド・グラント,I Saw Another Angle『わたしはもう一人の天使が飛ぶの を見た』より地図翻案,p.159) 269 るまで戻って来ることのないように命じられた。その隊は, な特徴があるのである。救いのためには神の力だけで十分 10人,20人,50人,100人ずつで組織され,最終的には500 人に達しなくてはならなかった。もし500人を得られなけ なのだが,神が力を現すかどうかは,人間の努力と従順に 直接左右されるのである。 れば,熱心に300人を求め,もし300人を得られなければ, 100人を求めなくてはならなかった。しかし少なくとも100 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 人を得るまでは,シオンの地へ上って行くことはできなか った。預言者ジョセフは彼らとともに行き,彼らの中にあ ものを,もし必要ならば命さえも犠牲にするように求めら れるのか って統轄することとなった。なぜなら『すべての勝利と栄 犠牲について話し合うために,教義と聖約58:2−4の 光は,あなたがたの熱心さと,忠実さと,信仰の祈りを通 してあなたがたにもたらされるのである』(36節)とある 「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ からである。パーリー・P・プラットは預言者ジョセフ・ スミスとともに行き,ライマン・ワイトはシドニー・リグ 教義と聖約103:27−28 教義と聖約103:31 だれの責任か なぜ主は主の民にあらゆる 主から望むものを得られないのは ドンと,ハイラム・スミスはフレデリック・G・ウィリア 人が主から望むものを得られないとき,その責任はその ムズと,オーソン・ハイドはオーソン・プラットとともに 行き,シオンの地から追放された兄弟たちを助けるための 人自身にある。主はこう言われた。「求めなさい。そうす れば,与えられるであろう。しかし,人はいつでもわたし この旅に出る志願者を募り,基金を集める使命を果たし た。」(『教会歴史と近代の啓示』1:485) の思うところを行うわけではない。 」(教義と聖約103:31) み こころ 人は主の御 心が何であるかを判断しなければならない。 一見この状況は矛盾しているように思える。シオンは神 主が求めておられるのは,各人が求める以前に罪から清め の力によって贖われなくてはならないと主は言われた。そ れなのに,シオンを贖うために,物理的な衝突さえ覚悟し, られることである(教義と聖約50:28−29参照)。また, 求める前に,自分の求めるものが正しいことを確信しなく また必要なら命を犠牲にして聖徒たちが力を尽くすように 主は求められた。しかし,実際にはこれは矛盾するもので てはならない(3ニーファイ18:20参照)。人は主の祝福が 注がれることを望む前に,まず悪に立ち向かい,主に従わ はない。神がその子供たちに働きかける方法にはこのよう なければならないのである(ヤコブの手紙4:7参照) 。 貧しい者のための教会の制度 第104章 1834年4月23日,預言者ジョセフ・スミスは教義と聖約 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第104章を受けた。その中心のテーマは,シオンのこの世 に関する福祉と貧しい者のための教会の制度に関する主の 1834年4月,シオンを贖い,聖徒たちに再び定住の地を 与えるために,カートランドの教会の人々は,ミズーリ州 指示である。「評議会に出席したのは,シドニー・リグド ン,フレデリック・G・ウィリアムズ,ニューエル・K・ インディペンデンスへ旅をする準備を整えた。当時,教会 ホイットニー,ジョン・ジョンソン,およびオリバー・カ ウドリ長老であった。彼らは一致して,ゼベディー・コル あがな は大きな財政難に陥っていた。カートランドとシオンの負 債を軽減するための基金を募るために,預言者は兄弟たち を遣わした(ニューヨークにいたオーソン・ハイドへの強 い嘆願が,1834年4月7日付けで送られている。 『教会歴史』 〔History of the Church〕2:48参照)。 1832年3月に与えられた啓示に従い,オハイオ州とミズ ーリ州のすべての末日聖徒の町では,一人の管理的指導者 トリン長老がジェイコブ・マイルズ兄弟を説得して,わた したちのために借りに行ったお金を手に入れるか,彼自身 がこの地にお金を持って来てくれるようにすることを主に 願った。さらに次の啓示を受けた〔教義と聖約104章〕。」 (『教会歴史』2:54) の下に,共同制度を実行しようとしていた(教義と聖約 78:3;バレット,Joseph Smith『ジョセフ・スミス』p.198 注 解 参照)。しかしカートランドでは,財政上の問題のために 共同制度を解体する方がよいとされた。そこで4月10日, 教義と聖約104:1−10 れた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 共同制度は聖約により設けら 共同制度の評議会が開かれ, 「〔カートランドの〕共同制度 主は共同制度について,教会を益し,「人々を救う」た は解体され,すべての人が自己の所有物に対して管理の職 を持つことで意見の一致を見た。 」(『教会歴史』2:49) め,キリストの再臨までに設けられるものであると説明さ れた(教義と聖約104:1参照)。共同制度に加わるすべて 270 第104章 の人には,「不変不易の約束」(2節)が与えられる。共同 かを尋ねた。 彼は不動産権利書を幾つか持っていたために, 制度に入るためには,奉献の律法を受け入れるという厳粛 な聖約を交わさなければならない。奉献の律法の原則につ 政府からその土地を譲り受けたのであった。弁護士はその 土地が抵当に入っていないことを保証してくれた。 いては,付録の特別講座Lに解説されている。奉献の律法 とは日の栄えの王国の律法であり,この制度に入る者は聖 『政府はこの土地をだれから手に入れたのかね。』わたし は尋ねた。『政府はこの土地の代償として何を支払ったの 約に拘束される。 この聖約に忠実ならば永遠の昇栄を受け, これを破るならば厳しい裁きを受ける。この律法を破った だろう。 』 わたしの心にパウロの勇気ある言葉が浮かんできた。 者が受ける厳しい結果について,主は教義と聖約78:11− 『地とそれに満ちている物とは,主のものだからである。』 12;82:21;101:3−10の中で説明しておられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (1コリント10:26) また,詩篇の作者はこう宣言した。『主のことばは清き 教義と聖約104:9 いうことか 「サタンから打たれる」とはどう 言葉である。地に設けた炉で練り,七たびきよめた銀のよ うである。 』(詩篇12:6) ブルース・R・マッコンキー長老はこのように記してい それからわたしはこう尋ねた。『その権利は神から与え る。「サタンから打たれるに任すというのは,サタンの手 に渡されることであり,神権や義,信仰のあらゆる守護の られたものではないかな。地球の造り主であり所有者であ る方からの……。その方は支払いを受けたかね。この土地 力が取り去られ,ルシフェルの思いのままに苦しめられ, とりこ 悩まされることである。一度サタンの虜となった人は,こ は君が買ったものかね,借りたものかね,それとももらっ たものかな。もらったものなら,だれからだろう。買った の世においても来るべき世においても,サタンの手かせと ものなら,幾らで買ったのかな。借りたのなら,きちんと のろいに捕らわれ,燃える火と硫黄に象徴される筆舌に尽 くし難い苦悩を味わうことになるのである。 地代を払っているかね。 』 わたしはこう続けた。『とにかく幾らだったんだい。こ この神権時代の初期に共同制度に関する聖約を破った者 は,『贖いの日までサタンに引き渡されて打たれるであろ の農場は何と引き変えに手に入れたのかな。』 『金だよ。 』 う』(教義と聖約78:12;82:20−21;104:9−10)と宣 告された。永遠の命に結び固められて,召しと選びを確か 『その金はどうやって手に入れた?』 『ぼくの苦痛と汗と労働と力によってさ。 』 なものとされながら,その後に重大な罪を犯した者に対し ても,同様の行く末が宣言される(肉体においても滅ぼさ れ る の で あ る )( 教 義 と 聖 約 131: 5; 132: 19− 26)。」 (Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.108) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約104:13−15 わたしはまた尋ねた。『じゃ聞くが,君に苦しみに耐え る強さ,働く力を与え,汗を流させているのは何だい。』 彼は食べ物だと言った。 『じゃ,その食べ物はどうしてできるのかな。』 『日光と空気,それに土と水だ。 』 主は地とその上にある万物 『じゃ,そうした要素を地上にもたらしたのはだれだ を造られたので,万物は主のものである 万物を造って備えられた主は,地を管理し,実りある所 ね。』 わたしは詩篇を引用した。『神よ,あなたは豊かな雨を とする管理の職を人に与えられた。地のものをどのように 使い,どのようにやり取りするかについて人々の間で協定 降らせて,疲れ衰えたあなたの嗣 業 の地を回復され〔ま した。 〕』(詩篇68:9) が結ばれていても,究極的には万物は主のものである。ス 『じゃ土地が君のものでないなら,君は,土地の所有者 ペンサー・W・キンボール長老は,友人と財産について話 し合ったことを次のように説明し,土地とその資源の所有 にどれだけの地代を払うかね。……』 わたしはこう続けた。『聖典のどこを開いても,神がこ 者について真理を明らかにしている。 「彼は草の生い茂った丘に向かって車を走らせた。太陽 の土地の権利を君に無条件で与えられたとは書いていな い。これは君のものじゃない。だから,自由に与えたり, が丘の向こうに沈もうとしている。彼は広大な自分の土地 を見渡しながら,北を指して言った。『向こうの方に林が もらったり,売ったり,奪い取ったり,利用したりするこ とはできないんだ。 見えるだろう。』夕暮れの中にその林が浮かんで見えた。 し ぎょう そういう聖句は見つからないが,詩篇にはこうある。 今度は東を指して言った。『湖が夕日に輝いているね。』 それも見えた。 「主を待ち望む者は国を継ぐからである。 」(詩篇37:9) わたしは,わたしたちの造り主が天上の会議でわたした 『今度は南,向こうに切り立ったがけがあるね。 』わたし たちは体の向きを変えながら遠くを見詰めた。そして彼は, ち全員に約束されたことを思い出す。「あそこに空間があ るので,わたしたちは降って行こう。そして,これらの材 西の方にある小屋やサイロ,家を一つ一つ説明した。『あ 料を取って,これらの者が住む地を造ろう。」(アブラハム の林,湖,それからあの崖,農場の建物,これに囲まれた 土地は全部ぼくのものなんだ。』彼は身振り手振りを交え, 3:24) こうなると,単に金を払えば権利が手に入れられるとい 得意そうに自慢した。『それから牧場の方に牛の群れが見 えるだろう。あれも全部ぼくのものさ。』 う こ と だ け で は 説 明 が つ か な く な る 。』」( Conference Report『大会報告』1968年4月,pp.73−74) そこでわたしは,そのような財産をだれから手に入れた 共同制度のこの原則と奉献の律法との関係を,J・ルー 271 ベン・クラーク・ジュニア副管長は次のように簡潔に述べ を持つ者が自ら進んで貢献し,強い者が弱い者とともに働 ている。 「共同制度についてのすべての啓示の基本原則は, わたしたちの所有物はすべて主のものであるということに き,ともに問題を解決するという意味である。」(『チャー チニューズ』1961年7月8日付け,p.15) ある。したがって,主はいつでも,わたしたちの所有物の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 一部もしくはすべてを求めることが可能である。なぜなら, それは主のものだからである。繰り返すが,これが基本原 教義と聖約104:17 っている」 則である。(教義と聖約104:14−17,54−57)」(Church News『チャーチニューズ』1945年9月1日付け,p.4) エズラ・タフト・ベンソン会長は,教義と聖約第104章 17節の正当性について,特に地球の人口が増加し続けるに スペンサー・W・キンボール大管長は,各人の管理の職 の範囲と目的について,次のように語っている。 当たって疑念を持つ人がいるが,それは間違っていると説 明している。 「地は満ちており,十分にあり余 「教会における管理とは,霊的面もしくは物的面におい 「人の教えはあなたに,世界の人口を制限すれば人類は て神より委託を受けることであり,これには責任が伴う。 万物は主のものであり,わたしたちは自分の体,心,家族, 平和で豊かな生活を送ることができると信じ込ませようと するだろう。これは悪魔の教義である。人数が少ないから 財産を管理しているにすぎないのである(教義と聖約 104:11−15参照)。忠実な管理人になるためには,正義に といって,平和は保証されない。それを保証するのは義で ある。カインがアベルを殺してアダムの家族の平和を阻害 基づいて治め,自己に属するものを世話し,貧しい人乏し したとき,この世の人間はほんの一握りにすぎなかった。 い人に目を向ける必要がある(教義と聖約104:15−18参 照)。 ところが,エノクの町は全体に平和であった。そして,民 が義にかなっていたので,その町は天に取り上げられた。 これらの原則は福祉活動の推進力である。わたしたちは 皆,これらの原則を学び,従い,そして教えなければなら 豊かな生活をもたらすために人口を制限することに関し て,主はそれが偽りであることを『教義と聖約』に述べて ない。指導者の皆さんは会員に,父親は家族に,これらの おられる。 原則を教えていただきたい。わたしたちはこれらの真理を 実践してこそ,理想のシオンへ近づくことができるのであ 『地は満ちており,十分にあり余っているからである。 まことに,わたしはすべてのものを備え,人の子らが自ら る。」(『大会報告』1977年10月,pp.124−125) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のために選択し行動する者となるようにした。』(教義と聖 約104:17)…… 教義と聖約104:15−16,18 き きん 「わたし自身の方法で 世界各地で起きている飢饉のおもな原因は,悪人が政府 行われなければならない」 マリオン・G・ロムニー副管長は,主がすべてのものの の機関を利用して,豊かな収穫を得るために必要な自由を 制約しているからである。 所有者であられることと,主の方法により貧しい聖徒を世 話するわたしたちの管理の職との関係について,次のよう 特に,世界的な産児制限により,霊の子供たちに肉体を 与えるという神の目的を損なおうと望む人々の多くは,飢 に説明している。「ここで主は,地球が御自分のものであ ることを宣言され,わたしたちが主から離れて独自に管理 饉を永続させている政府を支持する人とまさしく同じであ る。彼らは自分たちが支持する悪の結果を正そうとして, したり所有したりできないと述べておられる。貯蓄や債券 かえって悪を唱道しているのである。」(『大会報告』1969 の額がどれほど多くても,また所有する土地や財産がどれ ほどあっても,それらはすべてわたしたちのものではない。 年4月,p.12) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主のものである。さらに主は,わたしたちにすべての祝福 を授け,それらを管理する責任を与えると言われる。主の 教義と聖約104:19−46 「この制度の財産に関して」 スミスとショダールは次のように記している。「ここに 目的は聖徒たちを扶養することにある。しかも,主の方法 管理の職のための具体的な指示が与えられている。シドニ で行うように,主は求めておられる。その方法とは,持て る者が持たない者に与えることである。主はわたしたちを ー・リグドンはなめし皮工場の管理を任せられる(20節) 。 彼はかつて製革業で成功した経歴があり,この管理の職に 管理の職に任じるに当たって,わたしたちに選択の自由を 与えてくださっている。これらの祝福を受けていながら, 適任であった。優れた農夫であったマーティン・ハリスは, ある土地の管理を任される(24節)。また彼は,預言者の 貧しい人々に自分の持ち前を分かつことを拒むとき,その 指示の下に,出版業に携わるよう命じられた。オリバー・ 人はどこに行くのか,主はそれを告げておられる。」(『大 会報告』1979年4月,p.136) カウドリとフレデリック・G・ウィリアムズは印刷所の管 理を任せられる(30節)。ジョン・ジョンソンは不動産仲 ハロルド・B・リー大管長は,どのようにして「貧しい 者を高く」し,「富んでいる者を低くする」(教義と聖約 買人となる。ニューエル・K・ホイットニーは商店の任に 当たる(39節)。ジョセフ・スミスは神殿用地の管理を任 104:16)かを説明している。 「貧しい者を高くする,とい うのは『誇りと喜びをもって成功に導かれる』という意味 じられる(43節)。また彼は,彼の父を扶養しなくてはな らない(45節)。なぜなら主は,親の義務が子の世話をす である。わたしたちはそのような定義に従ってきたのであ ることであると同様,子の義務は親を扶養することである り,富んでいる者を低くするというのは,共産主義でもな く社会主義でもない。それは指導権を持つ者,技能や財産 と見なしておられるからである。」(Commentary『注解』 p.673) 272 第104章 なぜカートランドとシオン 義と聖約』がある。この中には,現代に生ける預言者ジョ の共同制度の提携は解体されたか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はこう説明 教義と聖約104:47−53 セフ・スミスを通して神から与えられた啓示が載ってい る。それはキリストの言葉であり,御自身こそがユダヤ人 している。「カートランドとジャクソン郡の距離はあまり に大きすぎて,あらゆる点で目的の一致を得ることが困難 のもとに生まれ,十字架につけられ,墓に横たえられ,死 の縄目を断って墓からよみがえった同じキリストであると であった。それぞれの制度がそれぞれの地に住んでいる兄 弟たちの名前により組織され,それぞれの名前により事業 宣言しておられるのである。……『教義と聖約』は神聖な 真理についてのもう一つの証である。したがって,わたし を行うこととなった。この分離と従来の制度の解体の一つ たちには3つの証があることになる。」(Journal of Discours- の理由は,一部の者の罪悪とむさぼりによるものである。 すべての財産は主のものであり,そうでなければ彼らの信 es『説教集』19:262) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 仰はむなしく,それゆえに彼らは主の管理人となることを 理解しなくてはならなかった。これらすべてのことは,地 教義と聖約104:60−70 るよう定められたか なぜ主は二つの金庫を設け 上に神の教会と王国を建て,主が地上に住むために来られ J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,金庫の目 るときのために人々に備えをさせる目的で行われるはずで あった。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴史 的およびこの原則が今日の教会でどのように取り入れられ ているかについて,次のように論じている。 と近代の啓示』1:489−490) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「さて,時が経過して,この制度が発展するにつれて, 主は倉のほかに,二つの施設を設けられた。一つは神聖な 教義と聖約104:58−59 こんにち なぜ主は,啓示を印刷する 金庫として知られ,そこには,『神聖なものから得る利益 ことを望む理由を明記されたのか 主は共同制度下の会員たちに,主の啓示を印刷するよう を,神聖かつ聖なる目的のために金庫に』保管するのであ った。はっきりしてはいないが,啓示の出版,『モルモン 命じ,その理由を明記された。啓示が与えられたのは「地 上にわたしの教会と王国を築き上げ,わたしが自分の民と 書』と『高価な真珠』の出版,あるいはほかの同様のもの から得られる余剰がこの金庫に納められることになってい ともに住むときに対して彼らを備えるためである」(教義 と聖約104:59)。ジョセフ・F・スミス大管長は, 『聖書』 たようである。そして,その管理は,ジョセフとそのほか の人々にゆだねられている(教義と聖約104:60−66参 と『モルモン書』がイエスがキリストであると証している 照)。 ことを語った後,こう付け加えた。「しかしこれだけで全 部であろうか。否。わたしたちにはもう一つの聖典,『教 主はまた『別の金庫』を設けられた。このもう一つの金 庫には,金銭による贈り物や,もともと奉献された剰余と あかし は区別される管理の改善によって得られた収入や,管理す ることによって得られた残余が納められた(教義と聖約 72:11参照)。 現在わたしたちには,『神聖な金庫』と『別の金庫』と いう二つの金庫の代わりに,教会の一般基金がある。 兄弟たちよ,このように,多くの重要な要素を踏まえて, 福祉計画が今の段階まで発達した。このため,共同制度の 広い意味での要素はもうすでに備えられているのである。」 (『大会報告』1942年10月,pp.56−58) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約104:71−77 神聖な基金はどのように管 理されることになっていたか 金庫の基金は共同制度に加入している会員の全員一致に よる承認によってのみ使用された。主の業には不義な支配 があってはならなかった。もし主の財産が正しく管理され るなら, 金庫にはついには多額のお金が入ることであろう。 そのような基金は,正しく用いられるならば,共同制度下 の全会員を祝福することになるのである。 ロレンゾ・スノー大管長はこう説明する。 「〔この基金は〕 最も切迫した緊急時に用いられる。火事や仕事上の失敗, 紛争などの災難が振りかかってきたとき,金庫係のもとに 行き,このように言うことができる。『わたしの管理の職 を助成していただくために,これこれの金額が必要です。 わたしは今までわたしの管理の職として与えられた仕事を 四大標準聖典はキリストについて証する 賢明に遂行してこなかったことがあるでしょうか。わたし 273 を信頼していただけませんか。わたしは今まで,任された 若い夫婦であれば,時にはクレジットによる購入を必要 基金を乱用したことがありますか。基金の無駄使いはあっ たでしょうか。もしそのようなことがなかったなら,わた とすることもあるだろう。しかし,ここで注意しておきた いことは,実際に必要とするもの以外は購入しないこと, しの管理の職の助成のために,さらには全体の利益にとっ そして負債はできるだけ早く返済することである。金銭的 て必要なこの事業の建て直しのために,基金を下さい。』 そうすれば与えられるであろう。その人のこれまでの行動 な余裕がないときに,利子による余計な重荷を負ってはな らない。 と努力により,信頼が置かれているからである。彼は自ら の内にある霊の光により,自分の才能を活用する権利があ 投資負債は,家族の生活を保証できる範囲に担保を制限 すべきである。投機的事業に手を出してはならない。投機 る。自分が置かれた状況を十分に理解し,自分に課せられ た義務に従って行動するのである。そのような人は賢く, には,人を酔わせる独特の雰囲気がある。人間の尽きるこ とのない物欲によって,多くの財産が失われてきた。過去 堅実な管理人と見なされ,彼にふさわしいと思われる程度 の人々の悲劇から学ぼうではないか。そして,ますます増 の基金が,彼の管理の職を補うものとして与えられる。」 (『説教集』20:370−371) え続ける商品を手に入れようと,飽くことを知らない物欲 の奴隷になって,時間や労力や健康を費やすことをやめよ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約104:78−80 「わたしは貸し主の心を和 うではないか。 キンボール大管長はこの問題について示唆に富んだ勧告 らげ」 を与えている。 かんなん 人は人生で大きな艱難に遭うと,それを自分自身の努力 で解決しようとすることが多い。そのような自立心は称賛 『主はわたしたちに過去の時代には見られない繁栄を与 えてくださった。わたしたちは豊富な資源を支配し,この に値するものではあるが,もう一つの原則を適用すること ができる。それは主により頼むことである。この優れた例 地上で生活を営んできた。しかし恐ろしいことに,多くの 人々は牛や羊,土地や建物,また富に満たされすぎて,偽 は息子アルマである。天使がアルマとモーサヤの4人の息 りの神であるそれらのものを崇拝し始め,それらのものに 子に現れたとき,息子アルマに向かって,自分が遣わされ しもべ たのは, 「主は,御自分の民の祈りと,御自分の僕であり, 支配されるようになってきた。わたしたちの信仰はもはや これ以上の物資に耐え切れずにいるのではないだろうか。 またあなたの父であるアルマの祈りを聞かれた」(モーサ ヤ27:14)からであると述べた。アルマの父は,反逆的な 人々は永遠の幸福を願って多くのお金,株,債券,有価証 券,土地,クレジットカード,家具,自動車,その他この 息子のことでひどく心を悩ませたが,篤い信仰心をもって 世の安易な生活を保証するもので身を固めるためほとんど 心から熱心に祈った。そして,神の力により頼むことによ り,問題を解決したのである。 の時間を費やしている。わたしたちの務めは,与えられた 豊富な資源を家族や定員会で用いて神の王国を築くことで 教義と聖約104:78−80の中で,主は同じ原則を教えて おられる。 債務はほとんど克服できないものに思われたが, あるという事実を見落としているのである。』(Ensign『エ ンサイン』1976年6月号,p.4) 指導者たちは「熱心さと謙遜と信仰の祈りによってこの祝 福を得る」ように命じられた(79節)。主は,彼らがその キンボール大管長の言葉に加えて,このことを証したい と思う。家族の理にかなった要望や必要以上に財産を蓄え けんそん ようにするなら,負債の貸し主の「心を和らげ」(80節) るという約束を果たしてくださるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約104:78,83 「あなたがたがすべての負 債を返済することである。……あなたがたはこの度に限っ ても,心の平安や幸福感が増すわけでは決してない。」 (『大会報告』1979年10月,p.120) フランクリン・D・リチャーズ長老は,負債を避けるた めの5つの原則を教えている。 て,束縛から解放されるであろう」 N・エルドン・タナー副管長は聖徒たちに,不必要な負 債を避けるよう指示を与えた。そのような困難に陥る人々 の多くは,経済的な管理の職に対して福音の優先順位を確 立していないのである。 「多くの場合,経済上の負債には2種類ある。すなわち, 消費によって生じる負債と投資あるいは業務上の負債であ る。消費によって生じる負債とは,日常生活で使用または 消費する品物をクレジットで購入することである。 例えば, 洋服や家庭用品,家具などを分割払いで買う場合がそうで ある。この負債は,将来の収入を担保にして借りたもので ある。これは非常な危険をはらんでいる。失業や思わぬ緊 急事態に遭遇すれば,返済が困難になる。そのうえ,分割 払いは最も費用のかさむ購入方法である。品物の価格に加 えて,高い利子と手数料を取られてしまう。 274 魅力的な家具の購入は楽しいが,末日聖徒は疫病を避けるよう に負債を避けなければならない 「負債を返済し,借金を避けるために,個人と家族が適 用できる幾つかの原則がある。 1.収入の範囲内で生活する。 2.短期および長期の予算を組む。 3.収入の一部を定期的に貯金する。 にとっても,家族にとっても,どんなに価値があることだ ろうか。 ヒーバー・J・グラント大管長は,次のように述べてい る。『人間の心の中に,あるいは家庭の中に,平安と満足 をもたらすものが一つあるとすれば,それは収入の範囲内 4.分割払いがどうしても必要な場合は,賢明に利用す る。例えば,家の購入や教育を受けるために必要な負債は で生活することである。反対に人々を苦しめ,落胆させる ものが一つあるとすれば,それは支払うことのできない借 許されるであろう。 金と債務である。』(Relief Society Magazine『扶助協会誌』 5.資金は税金を考慮し,計画を立てて維持,利用を図 る。 1932年5月号,p.302)わたしは自分の経験からこの言葉が 真 実 で あ る こ と を 証 す る 。」(『 大 会 報 告 』 1979年 4月 , 以上の基本原則に従うならば,わたしたちは必ず負債を 返済し,借金を避けることができるであろう。これは個人 p.56) 第105章 シオンの陣営への啓示 歴史的背景 預言者が述べた啓示によれば,500人集めるように努力 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しなければならなかった。若者と中年の者が含まれた。も し万一応じる者が少ない場合は,少なくとも100人集まる 1833年10月と11月,ミズーリ州ジャクソン郡の聖徒たち までは出発できなかった。ジョセフ・スミスとパーリー・ は暴徒により家を追われた。「1833年12月16日にジョセ フ・スミスに啓示が与えられ,教会員がジャクソン郡から P・プラットに導かれ,4組の長老が志願者を募ることに なり,ジョセフとパーリーはそれから2日以内に,志願者 追放された理由が明らかにされた(教義と聖約101:1−9 参照)。」(スミス,Essentials in Church History『教会歴史 や友人を求めて東へ旅に出た。必要な人数を確保するため に1か月間一生懸命任務を果たした結果,志願者は125人に 粋』p.142) 達した。」(ヤング,Here Is Brigham...『ブリガムがここに その啓示の中で聖徒たちは,「主の家の勇士を集めるよ う」たとえを通して指示された。「とどまるようにわたし ……』p.89) カートランドを出発する準備が整ったとき,一行は約 が命じた者たちを除くわたしの家の勇士全員,すなわちわ しもべ たしの戦士たち,わたしの家の勇士であるすべての僕たち 150人であった。この数は陣営がミズーリへ着くまでには 約200人に増加した(ロバーツ,Comprehensive History of の中の若者たちと中年の者たちを率いて行きなさい」と主 。 the Church『教会概史』1:358参照) シオンの陣営は1834年6月19日に,ミズーリ州フィッシ は言われた。「すぐにわたしの果樹園の地へ行き,果樹園 を取り戻しなさい。それはわたしのものだからだ。わたし ング川に到着した。2日後の「6月21日土曜日,レイ郡のス はそれを金で買ったのだ。」(スミス『教会歴史粋』p.143) 1834年2月に与えられた啓示の中で,ジョセフ・スミスに カウンス大佐と二人の指導者がジョセフを訪れ,彼の意図 を教えてくれるよう懇願してこう言った。「この人たちを このたとえが説明されている(教義と聖約103:21−34参 照)。 守っている全能者の力が存在することが分かります。」ス カウンス大佐は,預言者ジョセフを襲撃するために武装し それに従い,ジョセフ・スミスは1834年2月24日,カー た一隊を率いていたが,嵐のために退却せざるを得なかっ トランドで高等評議会を開いた。出席者全員の最大の関心 事は,どのようにしてシオンの聖徒たちを暴徒の手から救 たことを告白した。預言者は常に相手に深く印象づけずに はおかないその穏やかで威厳に満ちた態度で,苦難に遭っ い出すかということであった。その会合には約40人が出席 し,シオンからやって来たばかりのパーリー・P・プラッ ている友人たちを慰めるために来たのであり,だれも傷つ けたり危害を加えたりするつもりはないと答えた。それか トとライマン・ワイトの,聖徒たちを助けてほしいという ら預言者は困難な状況について彼が理解している範囲内で 嘆願に熱心に聞き入った。 あがな 「預言者が立ち,啓示に従ってシオンの贖いのためにシ 十分かつ公平に説明した。それを聞いて3人の使者は同情 し,支援を申し出,暴動を鎮めるためにあらゆる努力を払 オンへ行くことを述べると,皆静まり返った。彼は評議会 の支持を求め,全会一致で承認された。志願者を募ると, うことを宣言した。」(キャノン,Life of Joseph Smith『ジ ョセフ・スミスの生涯』p.180) 40人が挙手した。…… あらし 「陣営がジャクソン郡近郊に到着すると,ダンクリン知 275 事との間に交渉が開始され,追放された聖徒たちが彼らの 財産を取り戻せるよう十分な人数の民兵を召集するとの約 束の履行を求めた。知事はその要求が正当であることを認 めたが,そのような行動をとれば内乱を引き起こす恐れが あるとして,実行をあえて避けたのである。知事は委任さ れた権限により,兄弟たちにジャクソン郡の土地を売るよ う熱心に勧めたが,聖徒たちはそうすることはできなかっ た。そうすることは,ジャクソン郡が聖徒の受け継ぎの地 であり,神の民の集合の場所であり,またシオンの町が建 てられる所であるという啓示を拒むことであり,それとと もに,合衆国内のどこにでも適当と思われる所に家を建て て定住することができるという合衆国市民としての権利を 放棄することを意味したからである。 追放された聖徒たちが土地を取り戻せるよう民兵を召集 するという義務を,知事が果たそうとしなかったこと,ミ ミズーリ州のシオンの陣営の野営地跡 ズーリ州西部の住民が聖徒たちに対して強い偏見を持って おり, シオンの陣営の到着を知って興奮状態にあったこと, 陣営の兄弟たちも追放された兄弟たちも,知事の援助を受 注 解 けずに奪われた土地を取り戻し,またほかの土地を購入し て,なおかつ暴徒の暴力にかかわらず維持していくに十分 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約105:1−2 なぜシオンの贖いは延期された な資金と人員が東部の各支部からは得られないと判断した か こと,以上のことからシオンの陣営を解体し,シオンの贖 いについては将来の機会を待つことが必要であると,指導 ロレンゾ・スノー大管長は次のように教えている。「ジ ャクソン郡およびほかの地域の聖徒たちは,奉献の律法を 者たちは明確に悟った。そこで,6月24日,クレイ郡ラッ シュ・クリークの野営地で解散され,その旨の知らせが公 守ることを拒み,その結果,彼らの受け継ぎの地から追い かん ぺき 出された。そして,自らの義務の何たるかを完 璧に学び, 式にクレイ郡の指導者たちに伝えられた。」(ロバーツ『教 経験を通して従順の必要性を知り,かつ神の律法を守るよ 会概史』1:359) 確かに,(シオンの土地を取り戻すという)陣営の表面 うよく準備がなされるまでは戻ってはならないとされたの である。わたしたちは,奉献の律法への従順を示すまでは, 的な目的は達成されなかったが,これは決して無駄なこと ではなかった。十二使徒定員会を含む多くの初期の指導者 シオンの中心となるステークを築き上げるためにかの地に 戻る特権は与えられないであろう。 一つだけ確かなことは, が,炉の中の鉄のように鍛えられたのである。 デルバート・L・ステイプレー長老はこのように述べて この律法を尊ぶように心が備えられ,わたしたちが真理の きよ 実践を通して聖められて初めて,追放された土地へ戻るこ いる。 「シオンの陣営は1834年6月24日に解体された。その とを許されるということである。」(Journal of Discourses おかげで知識と経験が与えられ,後年,ノーブーからロッ キー山脈まで2万人以上の男女,子供たちが移住すること 『説教集』16:276。教義と聖約101:1−8;96:1の「注 解」参照) が可能になった。つまり,大規模な移住のために指導者が 備えられたのである。それはまた,将来の教会指導者のた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約105:4−5 何の原則に基づいてシオンは築 めの約1,000マイル(約1,600キロ)に及ぶ実験場となった。 かれるのか 『モルモン書』の三人の証人により十二使徒定員会が「探 し出された」とき,選ばれた者は全員シオンの陣営の隊員 ミズーリ州の聖徒たちは日の栄えの律法を守ることをせ ず,その結果,シオンを設ける資格を失った。自分の思い であったことからもこのことは裏づけられる。これらの 人々は主に命じられれば,あらゆるもの,命さえも犠牲に を制すること(内的勝利)ができなかったために神の完全 な力により頼むことから切り離され,敵対者からこの世の する意思があることを実証したのである。最初の七十人定 自由を得ること(外敵勝利)ができなくなったのである。 員会も同様に,シオンの陣営に加わり,預言者に従ってミ ズーリへ行った人々から構成された。」(“The Importance of 「心の清い者,これこそシオンである」(教義と聖約97: 21)と主が言われたとき,主が教えようとしておられたの Church History” Brigham Young University Speeches of the Year 「教会歴史の重要性」『ブリガム・ヤング大学年度講話』 は,このことである。 心が清くなったときに初めて,人は日の栄えの律法を受 1970年,p.3) け入れ,尊ぶことができるのである。ブルース・R・マッ コンキー長老によると,日の栄えの律法とは,「福音の律 法,キリストの律法であり,人に日の栄えの王国に入る資 格を与えるものである。なぜなら,人はこの律法により 『聖霊を受けて聖められ』 ,純粋で清く染みのない者となる 276 第105章 からである(3ニーファイ27:19−21参照)。」(Mormon 指しているように思われる。 Doctrine『モルモンの教義』p.117)マッコンキー長老はさ らに次のように述べている。「もし人がこの世で日の栄え ブリガム・ヤング大管長は,この力の賜物,すなわちエ ンダウメントにより聖徒たちが究極的に何ができるように の律法に従うなら,日の栄えの体と霊を得」,そして神と 同胞と一致して生活できるようになる( 『モルモンの教義』 なるかを,こう説明している。「エンダウメントとは,主 の宮においてあなたに必要なすべての儀式を受けることで p.115)。 ジョセフ・F・スミス長老は,日の栄えの律法に従って ある。それはこの世を去った後,番人として立っている天 かぎ 使たちの前を通り,彼らに聖なる神権に関する鍵の言葉と 生活することの重要性を説いている。「末日聖徒と名乗る しるしと記念を示して御父のもとに帰り,地と地獄を超越 人々は,主に受け入れられるシオンを築き,その働きの利 益と祝福にあずかるために,日の栄えの王国の律法に精通 して永遠の昇栄を得させるものである。」(Discourses of Brigham Young『ブリガム・ヤング説教集』p.416) し,それに従い,天の要求にこたえ,主の言葉に耳を傾け なければならない。なぜならそれは,この神権時代にこの シオンを築こうとする兄弟たちは,その管理の職に備え るために,なぜエンダウメントを受ける必要があるのだろ 世から召された人々に与えられる働きだからである。召さ うか。それは,預言者ジョセフ・スミスが教えたように, れたわたしたちは,忠実であるかぎりはこの業を行うよう に選ばれている。しかし,召されても忠実でないと分かれ 「エンダウメントは使徒たちが世の中へ伝道に出る備えを させるもの」(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言 ば,受け入れられない。これは教会全体について言うので はなく,教会員一人一人について言うのである。」(Con- 者ジョセフ・スミスの教え』p.274)だからである。 ジョセフ・フィールディング・スミス長老はさらに次の ference Report『大会報告』1880年4月,p.34。スミス『教 ように教えている。 会歴史と近代の啓示』2:3−4参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「神殿に参入すると,わたしたちは,主に仕え,主の戒 めを守り,自らを世の汚れに染めずに身を清く保つと,手 教義と聖約105:9−12 お待ちになるのだろうか 主はシオンの贖いをどれだけ を挙げて聖約する。その場で自分で行っていることを正し く認識するならば,エンダウメントはわたしたちの生涯を 主は人の選択の自由を尊び,また死すべき人間を通して み わざ 主の業を成し遂げられる。人々の悪や義が御業を遅らせた 通じての守りとなるであろう。それは,神殿に参入してい ない人には得られない守りである。 り進めたりするのはそのためである。教義と聖約第105章 わたしは父〔ジョセフ・F・スミス〕が,試しや誘惑に の中で,主はシオンの確立にはどのような準備が必要であ るかを次のように述べておられる。 遭うとき,主の宮で交わした約束すなわち聖約のことを考 えると言ったのを聞いたことがある。そして父は守られた。 1.指導者が備えられる(9−10節参照) 。 2.聖徒たちは主が求めておられることをもっと十分に教 ……これらの儀式はこの守りを与えるためにもある。これ らの儀式を尊ぶならば,わたしたちはこの世においては救 えられなくてはならない(10節参照)。 いを得,次の世においては昇栄を受けるであろう。わたし 3.聖徒たちは経験を積まなくてはならない(10節参照)。 だれでも行いによらなくては,神の事柄を知ることは はこの守りが与えられることを知っている。自らの義務を 覚える大勢の人々と同様,わたしもそれを実感しているか できない(ヨハネ7:17参照) 。 4.聖徒たちは自分に課せられた義務をもっと完全に知ら らである。 」(Utah Genealogical and Historical Magazine『ユ タ系図歴史機関誌』21:103) なければならない(教義と聖約105:10参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 5.聖徒たちは高い所から力を授けられなければならない (11節参照) 。 教義と聖約105:11−12,18,33 カートランドで こんにち 与えられたエンダウメントと今日ふさわしい会員に与えら 6.聖徒たちは忠実であり,最後まで堪え忍ばなければな らない(12節参照) 。 れるエンダウメントは同じものか カートランド神殿はエンダウメントの完全な儀式を行う J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,福祉制度 の原則は共同制度から「あまりかけ離れていない」こと, 神殿ではなかった。完全な儀式はその後建てられた神殿で 行われた。カートランド神殿では,死者のためのバプテス さらに聖徒たちはそれに「兄弟愛」を加え,「困っている マの儀式さえも求められなかった。主が求められたのは, 者に必要なものを与える」ようにしなければならない,と 教えている(Church News『チャーチニューズ』1951年8月 主の王国を築き上げること以外に何も行われない神聖な場 所である。神権の鍵もまだ回復されていなかった。教会の 。 8日付け,p.15) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 最初の長老たちが「わたしの家において……高い所から授 けられるエンダウメントを受ける」(教義と聖約105:33) 教義と聖約105:11−12 ようにという指示は,これらの鍵と,主の御霊が豊かに注 エンダウメントとは何か み たま エンダウメントとは贈り物のことである。神が神の子供 たまもの たちに与えられる賜物は多い (恵みと賜物の関係について, がれることと,カートランド神殿の奉献に伴う数々の現れ を指すのである。 教義と聖約93:11−17の「注解」を参照する)。教義と聖 約105:12で用いられている「エンダウメント」という言 カートランド神殿の奉献時に聖徒たちに注がれた御霊 ご じゅん せつ は,新約の時代,五 旬 節の日に使徒たちに注がれた御霊 葉は,やはりエンダウメントと呼ばれている神殿の儀式を (使徒2章参照)と同じものである。その力のエンダウメン 277 トが, 「エルサレムのわたしの使徒たちのように」(教義と を受け入れてくださるならば,皆さんは教会員として,こ 聖約95:9)末日の長老たちに約束されていた。 「当時必要 とされたものと同じエンダウメントが与えられた」と,ジ れらのことを実行に移すその用意が自らに整っていること を知るであろう。 」(『大会報告』1979年4月,p.114) ョセフ・フィールディング・スミス大管長は記している。 主の代弁者によるこのような勧告は,聖徒たち一人一人 「これは後に啓示されたエンダウメントほど完全ではなか った。 」(『救いの教義』2:223) を,頭の中ですでに理解していることを実行に移すように 駆り立てるであろう。主はより多くを「知る」者を必要と カートランド神殿で行われたのはエンダウメントの準備 段階の儀式で,今日神殿でふさわしい会員に与えられてい しておられるのではない。むしろより多くを「行う」,し かも今すぐに行う者を求めておられるのである。 るエンダウメントは当時与えられていなかった。しかしな がら,そのときに聖徒たちに授けられた力により,神の王 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約105:24 悪人に対して裁きを求めることは 国はあらゆる敵を打ち砕くことが可能になり,またさらに 正しいとされるだろうか 別の神権の儀式の鍵がこのカートランド神殿で授けられた のである。 サマリヤ人の村が主を歓迎しようとしなかったとき,ヤ コブとヨハネは言った。「主よ,いかがでしょう。彼らを ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約105:13 シオンが確立されるまでの「しば 焼き払ってしまうように,天から火をよび求めましょう か。」(ルカ9:54)不義な迫害や試練に遭うとき,義人に しの間」はどれだけ続くか はそのような特権を与えられるのが当然であるように思 ほとんどの人は恐らく「しばしの間」 (教義と聖約105: 13)として,150年以上の期間を考えることはないであろ う。しかしイエスは,ヤコブとヨハネに勧めたもうたよう に,迫害されたミズーリ州の聖徒たちに対して,そのよう う。しかし,主の観点から見ると,それは短い期間である。 この150年間,教会は主が要求する条件を満たすことに成 な裁きの「力ある業」 (教義と聖約105:24)を慎むよう指 示された。救い主は,天父が「さばきのことはすべて,子 功を収めてきた(教義と聖約105:9−12の「注解」参照) 。 にゆだねられた」 (ヨハネ5:22)ことを,教会員であるな スペンサー・W・キンボール大管長は,教会は今や霊的成 長という点で大きな飛躍を遂げるべき状態にあると教えて しを問わず世界中のすべての人が思い起こすように繰り返 ふく しゅう し求められた。そしてパウロが語った「自分で復 讐 をし いる。1979年4月の総大会の閉会に当たり,大管長は次の ように語った。 ないで……なぜなら,『主が言われる。復讐はわたしのす ることである。わたし自身が報復する』と書いてあるから 「さて,兄弟姉妹の皆さん,教会はすでに成長と円熟の である」(ローマ12:19)との言葉を心に留めるように言 域に突入し,わたしたちがさらに前進を遂げるために最後 の準備をする時に来ている。このような印象をわたしはど われたのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ うしてもぬぐい去ることができない。これまでに数々の事 項が決定されてきた。またほかにも懸案事項が残されてい 教義と聖約105:28−32 「わたしの思いは……これ らの土地を購入……することである」 るが, それもやがて組織的に明確にされていくことだろう。 しかし,わたしたちが一つの民として前進を遂げるために ミズーリ州ジャクソン郡における迫害の混乱の中で,主 は聖徒たちに新しいチャレンジを与えられた。ジョセフ・ 必要な基本的決定は,教会員一人一人が行わなければなら フィールディング・スミス大管長は,そのチャレンジの内 ない。教会の歩みはわたしたち各個人の歩みにかかってい るのである。 容と与えられた理由について次のように説明している。 「聖徒たちは引き続き,ジャクソン郡およびその周辺の わたしたちは平坦地で十分に休んだ。これからは,より 高い地点に向かって前進しようではないか。家庭でも,ワ 郡の土地を購入するように命じられた。なぜなら,これら み こころ の土地を購入し,主に奉献することは主の御 心 だからで ードでも,隣近所でも,他の人々に不承不承手を差し伸べ ある。もし聖徒たちが引き続き土地を購入している状態の るような態度は今後終わりにしようではないか。個人とし て,また全体として前進するために,これまで時には忘れ ときに敵が襲うならば, イスラエルの軍が所有地を占領し, 敵の見張り台を崩すことは正当であると認められる。しか ることがあった基本原則に,今こそ心を集中しなければな らない。 しまず主の軍勢をきわめて大いなるものとなし,『その旗 がすべての国民にとって恐ろしいものとなる』ようにしな 教会員の努力は見かけは小さくても,それを結集すれば, ければならない。 かつてなく教会を前進させる大きな力となることだろう。 …… この戒めの大意はこうである。聖徒たちはジャクソン郡 および周辺に所有する土地の証書を手に入れるべきである 兄弟姉妹,わたしたちはこのような一見小さいことを行 う用意があるだろうか。もちろんあると,わたしは思う。 が,贖いの時は教会が非常に大きくなるまで長く待たなけ ればならない。機が熟して初めて,主が来て戦われるので わたしは, 主の教会は今や霊性の飛躍の直前にあると思う。 わたしたち一人一人の霊的成長こそが,王国が目に見えて ある。明らかにそれは,この世のもろもろの王国が,『シ オンの王国は,まことに我らの神とそのキリストの王国で 大きく成長する鍵である。教会は,数年前にはできなかっ ある。だから,その律法に従おう』(教義と聖約105:32) たことを今や行う用意を整えている。そしてわたしたちに もまた,教会員としてその用意がある。わたしのこの勧告 と認めざるを得なくなるときである。ほかの聖句によると, シオンが神の王国であることを諸国が認めるのは,贖い主 278 が諸国の王としての地位に就かれてからのように思われ る。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近 代の啓示』2:5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約105:34 奉献の律法の廃止 教義と聖約105:34に述べられているシオンの律法とは, 奉献の律法と共同制度のことである。J・ルーベン・クラ ーク・ジュニア副管長は,なぜ主がこの律法を廃止された かについて,また「シオンの贖いの後に」(34節)という 表現の意味について,次のように説明している。 「聖徒は散らされ,時には野の獣のように狩り出された。 財産は持ち去られ,組織は崩壊し,精神的にも霊的にも痛 手を受けた。悪事ではなく不信仰のゆえに,聖徒の頭に主 の非難が下され,『シオン』とともにすべての計画と目的 が崩壊した。このような状況の下にある聖徒に,主はフィ ッシング川で偉大な啓示を与え,次のように命じられた。 『わたしがシオンとその律法に関して与えたそれらの戒 めは,シオンの贖いの後に実行し, 果たすようにしなさい。 』 (105:34) この宣言が出されてから,主は預言者ジョセフ・スミス に与えた啓示の中で,事実上二度と共同制度に言及されな かった。これは興味深いことである。主の民は機会を与え られたにもかかわらず,失敗したのである。そこで,ミズ ーリ州シオンで与えられた啓示(1839年7月8日,119章) じゅう ぶん ミズーリ州ラッシュクリーク。シオンの陣営でコレラが蔓延し た場所 の中で,主は聖徒に什 分 の一の律法を与えられた。この 律法は現在でも実施されており,効力を有している。…… こうして,シオンの共同制度を確立するために与えられ た律法は,シオンが贖われた後に『実行し,果たすように しなさい』と指示されたのである。ここで主が『シオン』 という言葉を用いながら『贖い』と言われる場合は,ミズ 「あなたがたは 光の子となるために」 ーリの聖徒が復興することを意味している。しかし,これ はまだ成就していない。」(“The United Order and Law of Consecration As Set Out in the Revelations of the Lord”「主の 啓示に現された共同制度と奉献の律法」『チャーチニュー ズ』1945年9月15日付け,p.9) 第106章 預言者の訪問の結果,ウォレン・A・カウドリはついに教 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 会に改宗した。そして,預言者とほかの教会員たちの努力 により,フリーダムに支部が開設され,ウォレン・A・カ 1834年初頭,教会の支部を訪問していた預言者ジョセ フ・スミスは,ニューヨーク州フリーダムに立ち寄った。 ウドリがその支部を管理するように召された。 その年の秋,預言者はとても忙しく,特に11月は多忙を ここで彼はオリバーの兄のウォレン・A・カウドリ(カウ 極めた。彼はこう記している。「月末を迎え,長老たちが ドリ家には8人の子供がおり,ウォレンは長男,オリバー は末っ子であった)のもてなしを受けた。預言者は,ウォ 到着し始めて,長老たちのための塾を開く準備をする必要 があった。彼らがこの冬の間,神に関する偉大な事柄につ レンの家に滞在し,「そこで肉体的にも霊的にも,わたし たちに必要な,また受けるにふさわしいすべての祝福にあ いてさらに完全に教えを受けるためである。」(『教会歴史』 2:169)預言者はカートランドから離れた支部の霊的指導 ずかった」 (History of the Church『教会歴史』2:42)と記 と訓練の必要性を感じ,塾のための準備を続けた。11月25 している。 宗教の問題について文通を続けてきたオリバーの影響と 日,彼は教義と聖約第106章に書かれている啓示を受けた。 279 たちは備えられ,それを喜んで心待ちにしている。パウロ 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約106:3 だからである」 は聖徒たちにこう記している。再臨を心待ちにしている 「兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから, 「働き人が報酬を受けるのは当然 その日が,盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはな いであろう。 」(1テサロニケ5:4−5。1ペテロ3:10参照) ウォレン・A・カウドリの責任はフリーダムの町に限定 「腰に帯を締め」(教義と聖約106:5)るというのは,教 義と聖約36:8の「注解」に説明されているように,準備 されず,「周りの地域」(教義と聖約106:1),さらに「隣 接する郡」 (2節)にも及んだ。フリーダムはニューヨーク をするという意味の慣用句である。準備をした者,言い換 州カタローガス郡にあり,同じ郡にあるペリーズバーグや パーマースビルにも聖徒たちがいた。すぐ西隣のチャタウ えれば光の子らにとっては,主の来臨は不意を襲う驚くべ き出来事とはならないのである。 ルア郡には,ウエストフィールドやビラノバに聖徒たちが 在往し,フリーダムの北西にあるリビングストン郡には, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約106:8 「もし彼が続けて忠実な証人であ ジェネスやエイボン,リボニアに住んでいた。リボニアは, ……るならば」 末日の業が始まったニューヨーク州マンチェスターから約 24キロ離れていた。したがって,ニューヨーク州の西部全 残念ながら,ウォレン・A・カウドリは忠実な証人のま まではなかった。その後,彼はオハイオ州カートランドへ 域にわたる小さな町々に,聖徒が住んでいたことになる。 ウォレン・A・カウドリの任地の広さとこの任務に費や 移り,印刷の仕事に就き,後に『メッセンジャー・アン ド・アドボケート』(Messenger and Advocate)誌の編集長 す時間のゆえに,主は彼にすべての必要なものを与えるこ となった。1837年の背教で,ウォレン・パリシュ,ジョ とを約束された。なぜなら「働き人が報酬を受けるのは当 然だからである。 」(3節) ン・F・ボイントン,レオナルド・リッチ,ルーク・ジョ ンソン,スティーブン・バーネットなどのカートランドの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約106:4−5 偉大な再臨に伴う出来事は,ど 反逆分子と親しくなったウォレン・A・カウドリは,預言 者に背いて,教会から去って行った。 のように襲って来るか 世の人々は主の突然の来臨に驚くであろう。他方,聖徒 第107章 神権定員会の組織 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1835年2月14日,『モルモン書』の三人の証人がジョセ ないことも告白したいと感じている。また,わたしたちは 軽率で無分別であり,多くの事柄で誤りを犯してきた。こ ゆる れらすべての事柄について,わたしたちは天の御父の赦し を求めた。またわたしたちは,大管長会を悲しませたり, フ・スミスの指示の下に,現代の神権時代における最初の 十二使徒定員会を選んだ。その後すぐ開かれた十二使徒の 気持ちを傷つけたりしたことについて,彼らの赦しも求め るものである。わたしたちの別れる時が近づいている。こ 集会で,オーソン・ハイド長老とウィリアム・E・マクレ の次いつ会えるか,それは神のみが御存じである。そこで リン長老が書記を務め,次のように記している。 「今晩〔1835年3月12日〕十二使徒が集まり,預言者ジョ わたしたちは,わたしたちが預言者,聖見者として認めて いる人に尋ねた方がよいと感じた。そうすれば,彼はわた セフ・スミス・ジュニアにより評議会が開かれた。預言者 は,東部諸州から大西洋岸にかけての最初の伝道を行い, したちのために神に尋ね,啓示を受けてくれるであろう。 そして,(その啓示が変わらないかぎり)わたしたちは離 各支部で大会を開いて会員の福祉に必要なあらゆる事柄を れ離れになっていても,その啓示に頼ることができる。そ うすれば,わたしたちの心は慰められるであろう。しかし, 調整することを提議した。 十二使徒が5月4日にカートランドを出発することが提議 わたしたちのふさわしさは,自らこのことをお願いできる され,全員に支持された。…… きょう 今日〔1835年3月28日〕の午後,十二使徒会は会議を行 ほどではない。そこでわたしたちは心を合わせて,天の父 なる神に,これからのわたしたちの務めに関する神の思い い,全員が信仰を公言する機会を設けた。わたしたちはこ と御 心 の啓示,すなわち大いなる啓示を,聖見者を通し てわたしたちに与えてくださるようにお願いした。 啓示は, れまでのことを振り返ってみて満足するとともに,本来意 識すべきほどに自分たちの召しの重要性をまだ認識してい 280 み こころ わたしたちの心を広げ,苦難の中でわたしたちを慰め,暗 第107章 黒の力の真っただ中で希望の光を投げかけてくれるからで 10−13)としてアロンとその息子たちに授けられた(出エ ある。」(『教会歴史』2:209−210) 預言者ジョセフは主に尋ね,1835年3月28日,オハイオ ジプト28,29,30章;レビ1:11;3:2;13:2;民数18 章)。それはまた,30歳から50歳までのレビの全家に授け 州カートランドでこの章の最初の58節まで(1833年12月18 日にジョセフ・スミスが父に与えた祝福の一部である53− られた(民数3,4章)。そこでその神権はアロン神権また はレビ神権と呼ばれ,二つの名称は同じ意味である(教義 55節を除く)の啓示を受けた。この啓示の中の残りの部分 は,別の折に啓示されたものである(History of the Church と聖約107:1,6,10)。 アロンとその息子たちはアロン神権の『鍵』を持ち,こ 『教会歴史』2:210脚注;スミス,Teachings of the Prophet のレビの位の権威と権能を十分に行使した。その働きの多 Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.38−39 参照)。 くは, 現代の神権時代の監督や祭司の働きに類似していた。 聖任を受けたそのほかのレビ人は完全なアロン神権を持っ 注 解 ており(ヘブル7:5),犠牲を供える儀式に関与したが, アロンの務めの鍵を持ってはいなかった。その働きの多く ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は,現代の神権時代の教師や執事の働きに類似していた 教義と聖約107:1 もし預言者ジョセフが「すべての 神権はメルキゼデク神権である」と教えたのなら,なぜ二 (民数3,4章;歴代下29章;マラキ3:3;教義と聖約13 章;『救いの教義』3:93−102)。」(Mormon Doctrine『モ つの神権があるのか 多くの人は, 「すべての神権はメルキゼデク神権である」 ルモンの教義』pp.9−10) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.180)という預言者 教義と聖約107:5 神権はそのいかなる職より重要で の言葉をよく知っており,この言葉が教義と聖約第107章 の冒頭の一節とどのように一致するのか疑問に思ってい ある ブルース・R・マッコンキー長老は次のように記してい る。しかし文脈全体の中で預言者の言葉を注意深く読めば, 何ら矛盾がないことが分かる。すべての神権はメルキゼデ る。 「神権はそのいかなる職より重要である。いかなる職も, ク神権であるという言葉は,旧約の歴史に関する次のよう な質問の答えであった。「モーセが死んだとき,メルキゼ 神権に対して何かの力や威厳,権能を付加することはない。 すべての職の権利,特権,恵み,力は神権に由来する。こ デク神権は取り去られたのか,との質問に対する答え。す の原則を図式化すると,円を扇形に区分する図表となる。 べての神権はメルキゼデク神権である。しかし,それには 異なった部分もしくは階級がある。モーセが神と顔と顔を 神権は円であり,扇形に区分された部分が神権の召し,す なわち神権の職である。円内の一つの扇形の中で働く者は 合わせて語ることを可能にした部分は取り去られたが,天 使の働きをもたらした部分は残った。すべての預言者はメ だれでも,円全体の権能を持っていなければならない。最 初に神権を持たなければ,だれもその神権の職に就くこと ルキゼデク神権を持っており,神御自身により聖任された はできないのである。 のである。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.180− 181) 神権がふさわしい個人に『授けられ』,その後神権の職 に『聖任される』のはこのためである。また,神権や教会 預言者ジョセフ・スミスはまた次のように教えている。 「二つの神権があるが,メルキゼデク神権は,アロン神 のすべての職が神権に『付随する』と特別に定められてい るのはこのためである。すなわち,それらは神権から生じ, 権すなわちレビ神権を包含する最高位のものであり,神権 神権を補い,重要性において神権に劣るものである(教義 に関する最高の権能と,世のすべての時代における地上の かぎ 最後の子孫に至るまでの神の王国の鍵を有し,それを通し と聖約84:29−30;107:5)。以上のことから,メルキゼ デク神権を持つことは,その神権のどの職に就くことより てすべての知識,教義,救いの計画,およびあらゆる重要 な事柄が天から啓示される。」(『教会歴史』4:207。教義 も重要なのである。…… さらに,メルキゼデク神権の中で,ある職から他の職へ と聖約107:14参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『昇進する』ことはない。どの長老も使徒や大管長と同等 の神権を持っているのであり,ただ後者の職にある者は王 教義と聖約107:1 アロン神権とレビ神権は同じもの 国の中でより大きな管理の務めを持っているのである。と ブルース・R・マッコンキー長老は,この問いに次のよ いうことは,メルキゼデク神権を持つ者はだれでも,王国 の鍵を持つ者により任命された働きを,いかなるものでも か うに答えている。 「主が最初に肉につける戒めの律法,すなわち備えの福 果 た す こ と が で き る の で あ る 。」(『 モ ル モ ン の 教 義 』 pp.595−596) 音をイスラエルに授け,やがて再び完全な福音を享受でき ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る将来の時に備えて訓練を施されたとき,必然的に,より 低い段階の律法を執行するためにより低い段階の神権が授 教義と聖約107:8−12 の重要性 けられたのである(ヘブル7:12;ジョセフ・スミス訳出 エジプト34:1−2)。この小神権(教義と聖約85:11)は, メルキゼデク神権の大管長会を通して主は御心を人に明 らかにされる,と預言者ジョセフ・スミスは教えている。 代々長く続く永遠の神権(出エジプト40:15;民数25: 「メルキゼデクの大神権は神の御子の神権にほかならな メルキゼデク神権の大管長会 281 い……この神権に属する特定の儀式があり,それにより特 (Ensign『エンサイン』1975年6月号,p.3) 定の結果が生じる。そして大管長と副管長,すなわち大管 長会が教会を管理し,教会に対する神の思いと御心が大管 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 長会を通して啓示される。これが天の秩序であり,この神 は,どのような偉大な祝福を得ることができるか 権の権威と特権である。 」(『教会歴史』2:477) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「現代の啓示〔教義と聖約107:18−19〕の中で述べられ ているように,神の御子の位の大神権には,聖なる天使の 教義と聖約107:15−17 アロンの直系の子孫は教会 の管理監督となる権利を持つ 働きを個人的に目にする権威だけでなく,父なる神の顔を み たま 拝する権威もある。また神の御霊と天使の力と現れを通し 教義と聖約68:15−21の「注解」の中で,この教義が説 明されている。 て,来るべき世に父なる神のもとに戻る準備を行い,絶え ず神から親しい交通を受け,日の栄えの王国の栄光を冠と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ して受け,永遠の世界において神権を持つすべての人々と 教義と聖約107:18 メルキゼデク神権は「教会のすべ ての霊的な祝福の鍵を持つ」 親しく交わりながら永遠に召しを果たすことができるよう になるのである。」(オーソン・プラット,Journal of Dis- メルキゼデク神権の働きにより,主の子供たちは最終的 に永遠の命を得る。 courses『説教集』18:363。教義と聖約76:50−70;84: 19−22;ヘブル12:22−24参照) スペンサー・W・キンボール大管長は,メルキゼデク神 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:18−19 忠実なメルキゼデク神権者 権の祝福について,教会員に次のように述べている。「そ れは,主が人々を通して人を救われるための手段である。 教義と聖約107:22 るのか 大管長はどの団体によって選ばれ この神権の力なくして人は救われない。この力によっての み人は, 『教会のすべての霊的な祝福の鍵を』持ち, 『天の ハロルド・B・リー大管長は,総大会の集会で次のよう に語った。 「大管長会と十二使徒会の会員は全員定期的に, 王国の奥義を受ける特権を持ち,天が彼らに開かれ』(教 皆さんが今日行ったように,『預言者,聖見者,啓示者』 義と聖約107:18−19参照),新しい永遠の結婚聖約に入 り,妻子と永遠のきずなで結ばれ,永遠に子孫の族長とな として支持を受ける。これは,選ばれて聖任された使徒の だれもが,啓示から引用すれば,『この団体〔十二使徒定 り,主のすべての祝福を受けることができるのである。」 員会全体と解釈されている〕によって選ばれ,その職に指 名され,聖任され,また教会員の信頼と信仰と祈りによっ て支持された』(教義と聖約107:22)場合には,教会を管 理することができ,またその場合,管理するのはその団体 の先任の会員すなわち会長であるという意味である。」 (Conference Report『大会報告』1970年4月,p.123) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:20 アロン神権の鍵 教義と聖約第13章の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:22−26 大管長会定員会,十二使徒 定員会および七十人第一定員会は権能において同等か スミスとショダールは次のように説明している。「同等 の権能を有する2つあるいは3つの定員会が同時に存在する ことは決してあり得ない。それゆえ,十二使徒が大管長会 と同等の権能を持つ定員会を構成し,七十人が十二使徒会 と同等の権能を持つ定員会を構成すると啓示に述べられて いるのは,死亡そのほかの理由で最高位の定員会が存在し なくなったときに,この同等の権能を持つことができると 理解すべきである。大管長の死により大管長会が解散され ると, 十二使徒会が教会の管理定員会または評議会となり, 大管長会を再び組織する一切の権威を持ち,その後再び教 会の2番目の定員会の地位に戻るのである。同様に七十人 会も,最初の二つの定員会が存在しないという条件の下で のみ同等の権能を発揮するようになる。七十人についての この規定はもちろん,七十人第一定員会に関するものであ る。」(Commentary『注解』p.700) 神権はふさわしい男性に授けられる 282 第107章 教義と聖約107:23 十二使徒はどのようにして特別な に頻繁に寄せられていることを考慮すると,主がなぜ七十 証人となるか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,十二使 人第一定員会を設立するように指示されたのかが明白とな る。大管長会と十二使徒定員会が最近そのような決定を下 徒について次のように述べている。 「この12人は,キリストの特別な証人として働く権能を したことは,使徒行伝の中でルカが記している挿話と類似 しており,歴史的に興味深い。エルサレムで外国語すなわ 与えられており,その責任を負っている。彼らはこの重要 な使命を果たすために霊感と必要な聖霊の導きを受けるこ ちギリシャ語を使うユダヤ人が,自分たちのやもめらがお ろそかにされており,ヘブライ語を使うユダヤ人たちのよ とができる。 うに世話されていないと苦情を申し立てた。使徒たちがこ たまもの すべての人は神権の権能と聖霊の賜物により,キリスト の証人になることができる。実際教会の長老はすべてそう の苦情を聞いて,次のような重大なことが起こった。〔使 徒6:2−4〕 ならなければならないが,しかし証人の召しの性質におい て,教会の他の長老とは異なる特別な召しが12人の特別な すなわち十二使徒は,福音を教えるという重要な任務を 差し置いて,やもめたちの世話をし,彼らの食卓のことに 証人に与えられている。この12人は福音がすべての国民, 携わるのは理にかなったことではない,と会衆に語った。 部族,国語の民に伝えられるように道を切り開くための完 全な権能,鍵,神権を与えられている。他の者は彼らの指 十二使徒がすべての人に福音を教えるという任務に引き続 き専念できるように,これらの世話をするふさわしい人々 示の下に行くのであり,彼らに従う。この伝道の業は12人 の手中にあり,彼らは大管長会の指示の下に教会の諸業務 がほかにいた。細事について援助する人々を召すという決 議の結果はこうであった。〔使徒6:7〕…… をすべて推進し,福音をすべての人々に宣べ伝える。」 1978年12月,大管長会と十二使徒定員会は,教会の多く (『救いの教義』3:131) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の部門の細かい管理事項に十二使徒が時間を費やすことは み 望ましくないという類似した決定を行った。十二使徒が御 教義と聖約107:27−32 一致の重要性 ロレンゾ・スノー大管長は,教会を指導する評議会内の 業の総合的な指示に全精力を投じ,『教義と聖約』に指示 されているように,『教会を築き上げ,すべての国々にお 一致についてこう述べている。「ここにわたしの副管長が います。わたしたちは一つです。わたしたちは一致してお いて教会の諸事をすべて整える』 (教義と聖約107:33)こ とができるように,これらの細事を監督する役割を果たす り……わたしたちの前にいる12人の人々は十二使徒です。 人として7人の七十人第一定員会会長を指名したのである。 御存じの方も多いことでしょう。……わたしたちは一致団 結しており,口論したり中傷し合ったりすることはありま 近い将来,すべての国民に福音を宣べ伝えることに関し て,過去から現代に至るどの神権時代にも見られなかった せん。心も霊も一つになって,助けの必要な所へ出かけて 行きます。何のためにでしょうか。自分が金持ちになるた 偉大な発展が見られることをわたしは確信している。この 決議により,わたしたちは将来,今を振り返って,ルカが めではありません。人々の益のためにわたしたちが何をす 記したのと同じように『こうして神の言は,ますますひろ ることができるかを知るためです。そのために,絶えず働 いているのです。毎週集い,人々のために何ができるかを ま〔った〕』(使徒6:7)と記すことが必ずできるようにな るであろう。 」(“All Are Alike unto God” Speeches of the Year 話し合っています。 」(『大会報告』1900年10月,p.5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「 神 に と っ て 万 人 は 平 等 で あ る 」『 年 度 講 話 』 1979年 , pp.34−35) 教義と聖約107:32 指導的立場にある定員会の一つの わざ の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 決議が不義になされた可能性のある場合どうするか もし教会の指導的立場にある定員会の一つの決議が不義 教義と聖約107:36−37 おける高等評議会 常任高等評議会とシオンに になされたと思われる場合,その問題は「複数の定員会の 総会」(教義と聖約107:32)の前に提出できる。これは大 「この啓示が与えられたとき,教会には二つの常任高等 評議会があった。一つは1834年2月17日にカートランドで 管長会,十二使徒定員会,および七十人第一定員会より成 る会議である。これらの団体は「教会の霊にかかわる権能 組織され,もう一つは同年7月3日にクレイ郡で組織され た。」(スミス,ショダール共著『注解』p.702) を持つ者たち」(32節)であり,これらの定員会の一つの しかしながら,カートランド高等評議会が独自の存在で 決議について訴えることができるのはこの総会に対してだ けである。 あったことを,ジョン・テーラー大管長は次のように説明 している。「オハイオ州カートランドにおいて,多くの偉 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:33−34,38 十二使徒会と七十人会 大な事柄が預言者ジョセフ・スミスを通して明らかにされ た。カートランドには高等評議会を管理する大管長会があ の職務にはどのような関連があるか った。またミズーリには別の高等評議会があり,当時組織 十二使徒定員会も七十人第一定員会も福音を世に伝えな ければならないが,ハワード・W・ハンター長老が概説し されていた高等評議会はこの二つだけであった。すでに述 べたように,カートランドの高等評議会はジョセフ・スミ ているように,両者にはそれぞれの異なった義務がある。 「教会が急速に発展し,指導と管理を行うことならびに スとその副管長によって管理されていた。そのためきわめ て特異なことが幾つかあった。評議会において審議される すべての国民を教え導くことについての要請が十二使徒会 いかなる原則に関するいかなる事柄であろうと,それを解 283 決することができない場合は,大管長会が主に尋ねて,評 イスラエルからは,ラケルの長子ヨセフへ伝えられた。… 議会が把握し切れない事柄について啓示を受けるべきであ ると述べられている。 」(『説教集』19:241) …そこで生得権と族長の神権は,ヨセフの子孫に受け継が れた。なぜ兄のマナセではなくエフライムを通して受け継 ミズーリの高等評議会が組織された後,預言者はこのよ がれたのかは不明であるが,主にはそれなりの理由がある うに語った。「もしわたしが今取り去られるとしたら,わ たしは主がわたしの前に置かれた,そしてわたしが主に望 ことは確かであろう。当時から現在に至るまで,この生得 権はエフライムの子孫に帰属してきたのである〔歴代上 んだ偉大な業を成し遂げたのである。すなわち,組織され た高等評議会を通して,シオンを築き上げて地上に真理を 5:1−2;エレミヤ31:9;教義と聖約133:30−34〕。 現代の時満ちる神権時代に,主はこのイスラエルの生得 確立するに当たり,あらゆる重要な機会に主の御心が人々 に知れわたるよう,わたしの義務を果たしたのである。」 権が預言者の父ジョセフ・スミスに属することを明らかに され,彼が現代の神権時代において最初に聖任された祝福 (『教会歴史』2:124) 師となった。彼の死後,その職と神権は預言者の兄である 「これはシオンにおける高等評議会の重要性を示してい る」と,スミスとショダールは記している。なぜなら教会 ハイラム・スミスに授けられた。生存している兄弟の中で 最年長だったからである。」(Improvement Era『インプルー の組織が中央集権化する危険がなく,シオンの各ステーク に高等評議会のひながたが置かれたからである。「各ステ ブメント・エラ』1956年11月号,pp.789,852) 今日では昔のように族長制度が教会組織を決定すること ークの常任高等評議会はステーク会長会により管理され, はないが,日の栄えの王国では「族長制度が統治制度とな その管轄権は所属のステークに限られている。」(『注解』 p.703。ステーク高等評議会と教会常任高等評議会の関係 る。」(マッコンキー『モルモンの教義』p.559) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ については,教義と聖約102:30−32の「注解」を参照す る。) 教義と聖約107:53−57 ンでの大会議 アダム・オンダイ・アーマ スペリーは次のように述べている。 「(ミズーリ州)シオ かつて開かれた会議の中で最大のものは,アダムが彼の ンの高等評議会は,教会の諸事に関して,シオンのステー クにおける12人の評議会(高等評議会)と同等の権能を持 義にかなった子孫を呼んで開いた会議である(教義と聖約 107:53−57参照)。救い主の再臨に先立っていつか同じよ つ定員会を構成する,と主は指示しておられる(37節)。 こんにち そこで今日では,シオンのいずれのステークの高等評議会 うな会議がアダム・オンダイ・アーマンの谷で開かれる (教義と聖約78,116章参照) 。 も,ほかのステークの高等評議会と同様に重要であり,い ずれのステーク高等評議会の権能と権威も,その管轄ステ ー ク 地 域 内 に 限 ら れ て い る 。」( Compendium『 概 説 』 教義と聖約第107章53節から55節は,1833年12月18日に ジョセフ・スミス・ジュニアによって彼の父に与えられた p.565) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:39 福音の教導者とは何か 預言者ジョセフ・スミスはこのように述べている。「福 音の教導者は族長であり,ヨセフの血族すなわちアブラハ ムの子孫の最年長者である。地上にキリストの教会が設け られている所ならどこにでも,ヤコブが息子たちに族長の 祝福を与えたように〔創世48章;49:1−27〕 ,聖徒たちの 子孫の利益のために祝福師が置かれるべきである。」(『教 会歴史』3:381) 祝福師は,管轄ステーク内に住む聖徒,またはステーク 祝福師のいないステークの会員に祝福師の祝福を授けるた めに,各ステークにおいて聖任される。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:39−52 族長の神権 族長の神権は父から息子へと聖任によって伝えられる。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,今日直系 子孫が持つ権利について次のように説明している。 「この啓示〔教義と聖約107章〕の中で,族長の神権なら びに時の初め以来の子孫に関して, ある知識が啓示された。 この神権に関して主は次のように述べておられる〔教義と 聖約107:39−43〕。…… 生得権は,アブラハムからイサクへ,そしてイサクから さらにイスラエルと名付けられたヤコブへと伝えられた。 284 ジョン・スミス,初期の祝福師 第107章 祝福である(スミス『預言者ジョセフ・スミスの教え』 に大別できる。 pp.38−39参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第1に,監督は聖徒たちから奉献される財物を受理し, 彼らに各自の受け継ぎを指定する(教義と聖約42:31− 教義と聖約107:58−63 れる 管理役員は定員会から選ば 34,71−73;51:13;58:35;72:2−6;78章;82章; 85:1参照)。 ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように述べてい る。「神は啓示の言葉をもって『これら二つの神権におけ 第2に,監督は判士となり,教会における各会員の立場 と,彼らの要求があれば物的な必要とを判断する(教義と るそれぞれの職に聖任された者たちの中から』〔教義と聖 聖約42:80−82;58:17−18;72:17;107:72参照)。 約107:21〕管理役員たちを立てる備えをなしたもうた。 すべて神の業の特色である秩序の主原則に従って,主は神 第3に,監督は物心両面において貧しい人々の必要を満 たす救助者となる(教義と聖約38:35;42:33−35,39, 権を持つ者がその各々の召しに属する各種の任務を学んで これを遂行するためさらによく助けとなるように定員会を 71;70:7−8参照)。 第4に,監督は教会の代理人として,大管長会を通じて 組織せよと命じたもうた。」(『信仰箇条の研究』pp.281− 主から指定された俗事の業務を行う(教義と聖約51:13− 282) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 14;84:112−113;107:68,71−72参照)。 教会が発展し,聖徒たちが経験を積むに従って,主は, 教義と聖約107:64−67,91 大管長に従わなくてはならない 管理監督の責任と,各地すなわちワードの監督の責任とを 区別された。今日皆さんは,神権関係の各種手引きにより, 王国のすべての者は, 「末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長は,地上にお ワード監督には4つの大きな責任が託されていることを知 ける神の神権の長である。……神の王国に属する他のすべ ての者は彼の指示に従わなくてはならない。大管長だけが っている。教会の管理監督会にのみ与えられている業務, および正式な奉献の律法の執行が中断されたのに伴い効力 教 会 全 体 に 関 す る 啓 示 を 受 け る 権 利 を 有 し て い る 。」 (When Thou Art Converted, Strengthen Thy Brethren『あなた を有さなくなった事項を除いて,今日の監督も,教会初期 に規定された同じ役割を基本的に負っているのである。さ が立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい』 1975年メルキゼデク神権定員会個人学習ガイド,p.110) らに監督は,青少年に対する責任と,ワードの管理大祭司 としての責任も担っている。監督の責任はそれぞれいずれ ジョン・テーラー長老は,大管長の権能について次のよ も重要であるが,中でも貧しい人々の世話をすることに勝 うに述べている。「大管長はすべての祝福師,会長および 評議会を管理する。この会長の職は家系ではなく,召しと る も の は な い の で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1979年 10月 , p.137) 先任順によるものである。」(Times and Seasons『タイム ズ・アンド・シーズンズ』1845年6月1日,p.922。教義と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:72,74 監督が「イスラエルの判士」 聖約107:91−92参照) と呼ばれるのはなぜか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:68−75 監督の義務は何か スペンサー・W・キンボール大管長は,カウンセラーの 役割と監督の仕事との関係について末日聖徒の精神衛生指 監督は,主の民の管理人すなわち牧者として,崇高で聖 なる召しを受けている。 マリオン・G・ロムニー副管長は, 導員のグループに話をした折に,特に判士としての監督の 役割について次のように教えた。 監督の義務について次のように述べている。 「当時の啓示に照らしてみると,この職に伴う責任は4つ あん しゅ 「監督として召され按手聖任されると,彼はイスラエル の判士となり,数多くの決断を下す責任を持つようになる。 しかも,それらの決断が,彼の管理する人々の生活や進歩 成長に多大の影響を及ぼすのである。監督は会員の霊にか かわる活動を管理し,彼らに成長の機会を与えてその達成 度を評価する。また,特定の祝福や特権を受ける資格があ るかどうか判断する。監督はこの世のすべての神殿に通じ る鍵を握っている。それは,神殿結婚を経由して永遠の命 へと至る扉を会員のために開く鍵である。…… 『わが道は,あながたの道とは異なっている』と,主は 言われる。監督は必ずしもすべての分野の教育を受けてい る必要はない。なぜなら,すべての知識の源と接する権利 を持っているからである。啓示は預言者だけでなく,すべ てのふさわしい義人に与えられるものであり,人は各々の 管轄する範囲内で神から導きを受ける権利を授けられてい るからである。…… 創造主に心を向ける監督は,この知識と知恵の無限の貯 アダム・オンダイ・アーマン 蔵庫からそれを引き出すことができる。」(New Era『ニュ 285 ーエラ』1978年9月号,pp.16−17) 教義と聖約107:85−90 定員会会長の義務 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ デビッド・O・マッケイ長老は,神権定員会の会長には 次のような責任があると教えている。「定員会の会長たち 教義と聖約107:76 だれが大管長会の一員を裁くこと ができるか よ。教義と聖約第107章に述べられているとおり,あなた 「監督はイスラエルの一般判士であり,会員は監督の管 轄に服している。大管長会の一人に対する告発があった場 の定員会の会員と会合を開くことがあなたの義務であると 主は述べておられる。あなたが執事定員会の会長であるな 合は,その事件は管理監督と大祭司の評議会とが審理す る。」(スミス,Church History and Modern Revelation『教会 ら,12人の執事と会合し,彼らを管理し,助言を与え,彼 らに義務を教えなくてはならない。全世界の執事たちよ! 歴史と近代の啓示』2:21) 管理監督の法廷の召喚について,ジョン・A・ウイッツ その召しにこたえよ。アロン神権の会長の職を持つ監督た ちよ,義務を果たしなさい。この活動に携わる若者を指導 ォー長老は次のように説明している。「管理監督の法廷は, していただきたい。彼らは怠けてはいないだろうか。不活 管理監督,二人の副監督,およびこの目的のために特別に 選ばれた12人の大祭司から構成される。この法廷は臨時の 発ではないだろうか。もしそうなら,怠惰な者は不活発に 陥り, その結果ワード定員会の運営に支障を来すであろう。 ものであり,大管長会の一員を犯罪または職務怠慢のかど で審理する必要がある場合は,ここが最終判決の場とな 評議会として活発でないならば,定員会として教会の評議 会の地位に就くことがないよう留意しなくてはならない。 る。」(Priesthood and Church Government『神権と教会政体』 このことは,教師,祭司,長老,七十人,大祭司ほかすべ p.212) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ てについても言えることである。」(『大会報告』1909年10 月,p.92) 教義と聖約107:77−84 教会法廷 主は会員の益のため,また主の王国の益を守るために, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:91−92 聖徒は大管長,すなわち神 教会内に司法制度を設けた。スミスとショダールは,その の民のために神のすべての賜物を持っている者に従わなく 幾つかの規定を次のように述べている。「末日聖徒はどう してもやむを得ない場合以外は,訴訟を起こさないように てはならない 教義と聖約21:4−7の「注解」,および特別講座Fに, 教えられている。教会には完全な司法制度があり,会員は いわゆる法的手続きのための費用と不便を被る必要はな 生ける預言者の重要性が説かれている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ い。アロン神権の教師は平和を作り出す人である。教師は 教義と聖約107:93−97 友として聖徒の家を訪れ,会員相互間の紛争の原因を,大 抵最初の段階で取り除くことができる。けれどももしもそ 預言者ジョセフ・スミスは,七十人に与えられた責任を 次のように説明している。 れで解決しない場合は,監督の法廷にかけられ,証拠や証 言が審理される。また,ステークの高等評議会に持ち込む 「2月28日,評議会が開かれ,シオンの陣営としてわたし と行動を共にした人々の中から七十人となる人を選ぶこと こともできる。証拠や証言の検討の後に,大管長会が再審 を命じる場合を除いて,ステークでの判決は最終的なもの になった。……こうして,わたしが受けた示現と啓示に基 づいて,最初の七十人定員会が組織された。七十人は巡回 となる。必要と考えられる場合,監督の法廷は,アロン神 定員会を構成し,十二使徒によって召される所にどこへで 権のみを持つ会員を破門に,またメルキゼデク神権を持つ はくだつ 高等評議会は, 者を正会員資格の剥奪にすることができる。 も出て行くのである。 」(『教会歴史』2:201−202) 「もし最初の七十人が選ばれ,さらに多くの働き手が必 い ず れ の 会 員 を も 破 門 す る こ と が で き る 。」(『 注 解 』 p.710) 要ならば,最初の七十人の7人の会長は,ほかの七十人を 召して,聖任し,ぶどう園で働くように送り出す。必要に ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,さらに 応じて70の7倍を選び,その結果14万4,000人が任命されて 七十人とその務め 次のように説明している。「教会には幾つかの評議会があ る。巡回高等評議会は全世界を管轄する。ステークの高等 務めに携わることになるのである。 」(『教会歴史』2:221) 七十人第一定員会はジョセフ・スミスにより組織された 評議会はステーク内での司法管轄権を持っている。大管長 会は上訴評議会となることがあり,その判決は最終的なも が,ユタ州への移住後は,定員会としての機能を果たさな かった。西部への植民の後,各ステークに七十人定員会が のとなる。教会は,大管長から改宗したばかりの会員に至 組織されたが,中央のレベルでは,七十人最高評議会,す るまで,いずれの教会員も役員も,『神の正義と律法から 免れる』ことがないよう組織されている。かつて管理監督 なわち7人の七十人だけが会長であった。 スペンサー・W・キンボール大管長の時代になって初め 会が管理する特別法廷すなわち評議会が数回召集されたこ とがある。預言者ジョセフ・スミスは,シオンの陣営から て,七十人第一定員会が活発に機能する定員会として再び 組織された。まだ定数に達していたわけではないが,1975 戻った後シルベスター・スミス長老により訴えられ,この 評議会で審理された。オリバー・カウドリ,デビッド・ホ 年10月の大会でこの実行が開始された。その大会でキンボ ール大管長は次のように述べている。「七十人第一定員会 イットマー,フレデリック・G・ウィリアムズたちも,こ が徐々に組織される予定である。この定員会には将来70人 の法廷で審理された。」(『教会歴史と近代の啓示』2:21。 教義と聖約102章の「注解」;本書特別講座I参照) の会員が召され,7人から成る会長会が管理することにな る。」(『大会報告』1975年10月,p.4) 286 1年後の1976年10月の大会で,キンボール大管長はさら ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に次の実行に移った。 「今日わたしたちは,さらに4人の七十人第一定員会会員 教義と聖約107:99−100 ての者の責任は何か の支持をお願いする予定である。 この結果第一定員会会員は総勢39人となり,定員会の事 ヘンリー・D・モイル副管長は,神権の職に就く兄弟た ちに,義務を果たし,神のすべての律法に従って生活する 務事項を決定するうえで必要な過半数を超えた。 この異動によって,啓示された3つの定員会(大管長会, よう全力を尽くす義務があることを明言した。「天におけ る御父はわたしたちが神権の地位を辞退する方を喜ばれる 十二使徒定員会,七十人第一定員会)が主が啓示されたと に違いない。そのような行為は教会内では褒められること おりに設置されたことになる。以上の定員会は,現在教会 に課せられている多岐にわたる任務を効果的に処理し,御 ではないが,少しでも義務を怠ることに比べれば,まだ望 い けい ましいと思われる。わたしたちが畏敬の念をもって主の業 業の急速な進展への対応を可能にするものである。そして ひいては,主が再びこの地上を訪れ,主の教会と王国を直 に献身し,そのように専念するとき,たとえ少しといえど も主の戒めを破る特権はわたしたちにはないのである。主 接管理される日に向かって備えをなすものとなるであろ は,わたしたちがこの地上で神の律法にできるかぎり完全 う。」(『大会報告』1976年10月,p.10) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に従って生活することを望んでおられ,またわたしたち自 身もそう望んでいる。わたしたちのすべきことすべきでな 教義と聖約107:98 備された一般指導者 いことに関して,天の御父の御心に反してその理由を正当 化し,口実を作り上げることは決して許されないのであ 3つの管理定員会に加えて主が準 教会の発展に伴う管理上の必要に応じて,主はこの啓示 神権の召しを受けるすべ る。」(『大会報告』1961年10月,pp.43−44) の中で,3つの管理定員会に加えて一般の教会指導者を召 すよう定められた。そのような指導者とは,過去には十二 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約107:100 怠惰な者は「その職にいるにふ 使徒定員会補助があり(1941年から1976年),十二使徒会 地区代表がある。これらの職に召された者は,十二使徒定 さわしい者と見なされない」とはどのような意味か 自分の義務を果たさず,果たすべく聖任された神権の責 員会の指示の下で主の王国の管理上の務めが与えられた (ハロルド・B・リー『大会報告』1967年10月,pp.101, 任を怠る者は,神の前に立つにふさわしい義人の中には数 えられない(詩篇1:1−5;24:3−4;マラキ3:1−2;ル 104−105。スペンサー・W・キンボール『大会報告』1976 カ21:36;アルマ12:12−15;教義と聖約45:32参照)。 年10月,p.10参照)。 第108章 従順は祝福をもたらす 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約108:1 ライマン・シャーマンの罪は赦さ 1835年2月28日に七十人第一定員会が組織されたとき, その会員の多くは,1834年にミズーリ州で苦難の中にあっ れた た聖徒たちを救出するために出かけて行ったシオンの陣営 から選ばれた。シオンの陣営の遠征でその忠誠と信仰が証 なぜ第1節がライマン・シャーマンにとって特別重要な のかを,スミスとショーダールは次のように説明してい 明されたライマン・シャーマンが,七十人第一定員会の7 人の会長の一人として召された。 る。 「この一節と次の二つの段落から,ライマン・シャーマ 1835年のクリスマスの翌日,預言者ジョセフ・スミスは ンが信仰を最大限に試される精神的苦悩を経験していたこ 日記にこう記している。「ライマン・シャーマンがやって 来て,わたしを通して主の言葉を聞きたいと願い出て,こ とが明らかである。それは信仰を続けるか否かという問題 であった。彼が疑いを克服し,信仰を続ける決心をしたこ う言った。『わたしはこれまであなたにわたしの気持ちや 願いをお伝えしてきて,わたしの務めを明らかにする啓示 とは明らかである。彼は主の声に逆らって罪を犯し,恐ら くそのために兄弟たちの間で信頼を失っていたのであろ を 受 け て く だ さ る 約 束 を し て い た だ い た か ら で す。』」 う。このように考えて苦しんでいたとき,心の中に御霊の (History of the Church『教会歴史』3:345) み たま しもべ ささやく声が聞こえ,預言者を訪ね,主の僕を通して神の 言葉を求めるよう促されたのである。まず最初に得た確信 287 ゆる は,『あなたの罪は赦されている』であった。何と大きな 慰めであろうか! 預言者は,ライマン・シャーマンが経 験していた精神的苦悩や現在の状況について,何も知らな かった。にもかかわらず,その苦悩する心に平安を取り戻 すために,まさしく必要な言葉を語ったのである。しかも この言葉は,神権の権能を有する者から語られた。決して 口先だけの無意味な言葉ではなかった。」(Commentary 『注解』p.713) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約108:3 「誓い」の重要性 「主がわたしたちに求めておられることは,ただ人生の 律法に厳密に従うことである」とブリガム・ヤング大管長 は教えている。「主が主の民に求められる犠牲とは,ただ 聖なる神殿で神聖な誓言が交わされる 神と交わした聖約に厳密に従うことであり,誠心誠意主に 仕えることである。 」(Journal of Discourses『説教集』18: 22日金曜日……定刻に塾の開かれる部屋に集まったが, 学習を進める代わりに,昨晩聖なる油注ぎの儀式に同席し 246) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た際に起こった栄えある光景について,互いに語り合うこ 聖会とは何か とに時間を費やした。…… 夕刻わたしたちは同じ場所に,〔油注ぎと祝福の〕儀式 教義と聖約95:7の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を受けることになっていた十二使徒評議会および七十人会 長会とともに集った。カートランドとシオンの高等評議会 教義と聖約108:4 主がライマン・シャーマンに待つ ように命じられた「聖会」とは何か の会員も出席した。 教義と聖約108:4 第108章の啓示が与えられたのは,カートランド神殿の 開会を宣言した後,会長会が油を聖別した。…… その 後十二使徒が七十人会長会に油を注ぎ,祝福し,兄弟たち 完成が間近に迫っていたころであった。1836年1月13日か ら奉献式のすぐ後まで,カートランド神殿で数々の集会が に油を注ぐ力と権能を彼らの頭に結び固めた。」(『教会歴 史』2:379,381−383) 開かれ,御霊が豊かに注がれる出来事があった。多くの聖 徒たちが啓示を受け,天の方々を目にした。これらの集会 ライマン・シャーマンおよび七十人会長会の兄弟たちが はいずれも,聖会と呼ばれるのにふさわしいものである。 油注ぎと祝福を受けたこの集会は,偉大な霊の力が現れた ご じゅん せつ 会であり,「五 旬 節の日」に似た経験であった。これは, 預言者ジョセフ・スミスは日記の中で,1月21日と22日 の集会での出来事を次のように記している。 後に福音を宣べ伝えに行く彼らにとって大きな原動力にな ったのである。 「21日木曜日……わたしは,薄暗いろうそくの光の中, 神殿の西側の部屋で会長会と集いを持った。聖なる油をわ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約108:7 各教会員はすべての行いにより兄 たしたちの頭に注ぐ儀式にあずかるためである。また,二 つのカートランドとシオンの評議会が隣接する部屋に集ま 弟たちを強める努力をしなければならない の こうべ り,わたしたちが儀式を受けている間,祈りをささげて待 現世の苦悩は言うに及ばず,主の王国を築く聖徒たちの 努力に対するサタンの攻撃によっても,困難と失意の時が っていた。…… わたしとともに儀式を受けた兄弟たちの多くが栄光ある やって来る。多くの聖徒は重荷の下でつまずき,くじける であろうが,だれでも兄弟たちの助けと励ましから恩恵を 示現も見た。天使はわたしだけでなく彼らをも教え導き, 至高者の力がわたしたちのうえにとどまった。宮は神の栄 受けることができる。可能な限りのあらゆる方法で兄弟た 光に満たされ,わたしたちは『神と御子に,ホサナ』と叫 ちを励まし強めるようライマン・シャーマンに与えられた 助言は,すべての主の僕に当てはまるのである(教義と聖 んだ。…… 約81:5;伝道4:9−10参照)。 288 カートランド神殿の奉献の祈り 歴史的背景 第109章 とき,預言の霊が聖徒たちに注がれ,また会衆の中の多く の者は,炎の舌のようなものが何人かのうえにとどまるの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ スミスとショダールは,カートランド神殿の奉献の意義 を見た。また天使を見た者もいた。『これは数日間続き, 驚くべき預言の霊を伴っていた。すべての人が霊感を受け について説明し,奉献に伴う重要な出来事を幾つか紹介し ている。 て預言し,何日もまた何週にもわたって家々を訪れては, パンとぶどう液の儀式を施し,互いに祝福を宣言し合った。 「1836年3月27日に行われたカートランドにおける神殿の その様子を見た人々は,終わりの時がほんとうに来て,主 奉献は,教会歴史に残る記念すべき出来事であった。その 建物は主から与えられた啓示(教義と聖約88:119;95: の御霊がすべての生ける者に注がれたと思ったことであろ う。』(同上,p.105。History of the Church『教会歴史』2: 8−9参照)に従って建てられた。当時,聖徒たちは少数で 貧しく,求められた献金(6万ドルから7万ドル)に応じる 427参照)このとき,超自然的な現象に気づいたのは聖徒 だけではなかった。ジョージ・A・スミス長老が立ち上が ために,多大の犠牲を払わなければならなかった。タリッ って預言し始めたとき,突風のような音が聞こえてきた。 ジは次のように述べている。『兄弟たちが割り当てられた 仕事を果たして建築に従事する間,姉妹たちは賄いや縫い すべての会衆が立ち上がり,多くの人が異言を語り,預言 し始めた。付近の人々は(神殿の中で異様な音がするのを 物を積極的に引き受け,生活を可能なかぎり切り詰めて, 大切な目的のために1セントでも多く差し出そうとした。』 聞き,また神殿の上に火の柱のような明るい光がとどまっ ているのを目にして)一斉に駆けつけた。そして,その光 聖徒たちの努力は,1833年7月23日に神殿の隅石が据えら 景を見てびっくりした。このような状態は集会が終わる午 後 11時 ご ろ ま で 続 い た (『 教 会 歴 史 』 2: 428参 照 )。」 れてから,奉献が終わる日まで続いた。 1833年6月1日に与えられた啓示の中で,主はこの宮を建 (Commentary『注解』pp.720−721) てる特別な目的を明らかにされた。『わたしは,一つの家 を建てるようにという戒めをあなたがたに与えた。わたし 奉献式は,シドニー・リグドンが詩篇第96篇と第24篇を 読んで始められた。賛美歌を数曲歌った後,リグドン副管 はこの家の中で,わたしが選んだ者たちに高い所から力を 長がマタイ18:18−20を引用し,神権の結び固めの力につ いて話をした。次に様々な神権定員会が教会員に提示され, 授けようと考えている。』(教義と聖約95:8)それはまさ み たま ご じゅん せつ に,教会員が聖なる御 霊の炎の中で五 旬 節のバプテスマ 支持の挙手が行われた。それから預言者ジョセフにより奉 (使徒2章参照)を受ける場所であった。聖別され奉献され た特別な宮が必要となり,この宮に関する神の戒めが聖徒 献の祈りがささげられた。驚いたことに,ジョセフ・スミ スは心にわき上がるままに祈るのでなく,前もって啓示に に与えられたのは,このためである。 奉献の日が来た。喜びと感謝に満たされた人々が早くか より与えられていた祈りの言葉を読んだ。こうして,奉献 の祈りの様式が定められたのである。(『教会歴史』2:420 ら集まった。そして期待どおりの集会となった。主の臨在 参照) がはっきりと示され,真の聖徒の心には,これまで携わっ み じん てきた業の本質について微塵の疑いも残っていなかった。 注 解 ヒーバー・C・キンボールによれば,奉献の儀式の間に一 人の天使が現れ,ジョセフ・スミス・シニアとフレデリッ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しもべ 教義と聖約109:1−5 「僕たちはあなたが命じられた ク・G・ウィリアムズのそばに座ったので,二人は間近に とおりに行いました」 天使を見ることができた。その天使は背が高く白髪で,ひ とみは黒く,くるぶし近くまである長い衣を着て,足には ジョージ・Q・キャノン副管長は,カートランド神殿が 聖徒たちの最大限の自己犠牲によって建設されたと記して 履き物を履いていた。ヒーバー・C・キンボールは次のよ うに述べている。『あの天使は,奉献された建物を嘉納す いる。 「神殿の建設には,3年近くかかった。その間,聖徒 たちは財産をささげ,労力を提供して,天使や聖者を迎え る使者として遣わされたのである。』(ホイットニー,Life るにふさわしい宮を建てるために,中断することなく工事 を続けた。預言者ジョセフは神殿の完成をきわめて重視し of Heber C. Kimball『ヒーバー・C・キンボールの生涯』 p.103)その数日後に聖会が開かれ……そこで数々の祝福 かんなん ていた。特に,ミズーリ州における艱難により,シオンの が与えられた。ヒーバー・C・キンボールはさらに次のよ うに述べている。『これらのことが起こっている間に,預 中心のステークに主の宮がすぐには建たないことが明らか になって以来,その見方を強くしていた。」(Life of Jpseph 言者ジョセフとオリバー・カウドリ,それに何人かの人が, まな で し わたしたちの中に愛弟子ヨハネがいるのを見た。』(同上, Smith『ジョセフ・スミスの生涯』p.204) 主はこの宮を受け入れられた(教義と聖約109:4参照)。 p.104)4月6日,その日の集会は夜遅くまで続いた。この そのことは,奉献に伴う様々な現れと,その後間もなく起 289 こった教義と聖約第110章に記録された栄光ある示現とが 証明している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約109:7−14 学びの家 ッセージに備えさせる(54−58参照) 。 13.シオンのステークがさらに設けられ,集合が円滑に運 ぶ(59節参照)。( ス ペ リ ー ,Compendium『概要』 pp.593−596より翻案) 預言者の塾に与えられた啓示の中で,主は長老たちに, 自らを組織して祈りと断食と学びのための家を建てるよう ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ けいけん 教義と聖約109:21 主の宮において敬虔さを示すには に命じられた(教義と聖約88:117−120参照)。第6節から 9節は,当時与えられた啓示の引用である。 ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように説明し ている。「最も礼儀正しい振る舞い,すなわち大きな笑い ジョン・A・ウイッツォー長老は,学びのための家を建 てることの歴史的意義について次のように説明している。 声や不必要な会話,あらゆる種類の不適切な行為,悪い思 いなどによって損なわれていない振る舞いは,主の聖所に 「カートランド神殿の時代までわたしたちの歴史をさかの ぼってみると,胸の躍るような気持ちになる。夜になると, 人々は農場や牧場や店を離れて,カートランド神殿の最上 おける敬虔さに不可欠である。そして,主の神殿について 言 わ れ た こ と は , 集 会 所 に も 当 て は ま る の で あ る 。」 (Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.652) ジョセフ・F・スミス大管長も次のように述べている。 階に集まる。そこには幾つもの教室があって,言語,数学, 歴史,地理など,様々な分野の学問を学ぶことができた。 「礼拝の家において真の紳士らしく振る舞うには,自己を こんにち 実にわたしたちの民はそこで,今日成人教育と呼ばれてい 尊ぶことが必要である。自己を尊ぶ人は神の業のために奉 るものを始めていたのである。大人は学ぶことができない, 学ぶのは若い者だけだ,というのが当時の考えであった。 献された家に行って,ささやいたり,うわさ話や雑談をし たりもしない。むしろ,自己を抑え,話し手に絶えず注意 しかしその後,世の中の考えはまったく変わってしまった。 今日では,男性も女性も,年を取ったからといって学べな を払い,話し手の言葉に心を集中させて,自己の利益とな るよう話し手の考えを把握する義務がある。」(『福音の教 いということは決してない。知識を得る力は,この世を去 義』p.323) るその日まで,わたしたちとともにある。教会におけるわ たしたちの先祖は,なぜかそのことを理解していたのであ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約109:22−23 力を帯び,天使たちに守ら る。」(Conference Report『大会報告』1949年4月,p.149) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れる ブリガム・ヤング大管長は次のように述べている。「主 教義と聖約109:10−60 はわたしたちとともにおられる。 御自身がおられなくても, 啓示の中で与えられた約束 預言者ジョセフ・スミスは,すでに様々な啓示の中で約 束された以下の祝福を聖徒たちが受けられるよう,主に懇 天使たちがわたしたちを取り囲んでいて,主は,人の子ら が個人として,国民として行うことをすべて知っておられ 願した。 1.神の栄光がその民とカートランド神殿のうえにとどま る。主を信頼するすべての人に準備ができれば,主の使い や天使により,また終わりの時に回復された聖なる御霊と る(教義と聖約109:12−13参照) 。 2.神殿で礼拝する人々が適切な教えを受ける(14節参 神権の力により,完全で絶対的な救いをもたらそうとして おられる。人々の備えができるまで,わたしたちは準備の 照)。 業を積極的に推し進め,それと同時に,忍耐することによ まった 3.人々が主にあって「成長し」,聖霊の全 きを受ける (15節)。 って自分の霊を保つようにしなければならない。」(Journal of Discourses『説教集』11:14) 4.神の宮がその目的をすべて果たし,汚れたものが入る ことを許さない(16−20節参照。これは教義と聖約 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約109:25−31 いかなる武器も役に立たず, いかなる悪の結社も神の民に打ち勝たない 88:119−120の言い換えである) 。 5.聖徒が背いたとき,速やかに主のもとへ立ち返る(21 節参照) 。 聖徒は将来,反対と迫害に直面するであろう(教義と聖 約98:38の「注解」参照)。そのとき,この霊感あふれる 6.主の僕たちが力を帯びて出て行き,天使たちに守られ て,福音を地の果てまで広める(22−23節参照) 。 奉献の祈りから慰めを得るであろう。なぜなら,預言者ジ ョセフ・スミスが教えているように,サタンはあらゆる力 7.戦いを挑むすべての敵の手から主の民が守られ,永遠 を結集して神の王国を止めようとするが,決して成功しな に確立される(24−33節参照)。 ゆる 。 8.民の罪が赦される(34節参照) いからである。「いかなる汚れた者の手も,この御業の発 展を止めることはできません。迫害は威を振るい,暴徒は 9.五旬節の日のように,もろもろの力が民にもたらされ る(35−37参照)。 連合し,軍隊が集合し,中傷の風が吹き荒れるかもしれま せん。しかし,神の真理は大胆かつ気高く,悠然と出で立 10.神の僕が聖約の力を持ち,その証を世界中に宣べ伝え る(38−44参照)。 ち,あらゆる大陸を貫き,あらゆる地方に至り,あらゆる 国々に広まり,あらゆる者の耳に達し,神の目的は成し遂 11.神の僕たちは悪人の災いと約束された裁きから救い出 げられるでしょう。こうして,大いなるエホバは,御業は される(45−49参照)。 あわ 12.主が地の国民を憐れみ,彼らの心を和らげて福音のメ 成ったと告げられることでしょう。 」(『教会歴史』4:540) あかし 290 の み わざ 第109章 教義と聖約109:30 「雹」とは何か を参照する) 。 教義と聖約29:16;エゼキエル38:22;黙示16:21参 照。 それ以前に主は預言者ジョセフに,必要であれば合衆国 大統領にまで救済を求めるように命じ,政府がその嘆願に ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 耳を傾けなければ主はその国を悩ます(教義と聖約101: 89。85−88節参照)と警告された。実際にこの嘆願は行わ 教義と聖約109:47−53 この祈りに応じて主の怒り が合衆国に下されたか 預言者ジョセフ・スミスは奉献の祈りの中で,ミズーリ れたが,満足のいく措置は何ら取られなかった。このため, ジョン・テーラー大管長は次のように預言している。「福 州において迫害を受けてきた聖徒たちのことを思い起こし 音は,世の人々が知らない多くの事柄を明らかにしてくれ てくださるように嘆願した。また,暴徒たちを憐れんで, 悔い改めに導かれるように願った(教義と聖約109:50参 る。兄弟同士の大きな争い〔南北戦争〕に先立ってこの国 に起こる恐ろしい出来事について,わたしは知っていた。 照)。しかし預言者は,もし彼らが悔い改めなければ,主 の力が現れて,苦難を引き起こした罪深い人々に主の怒り 今では過去の事実となり,すでに多くの人に語ってきたこ とである。それは何か。わたしたちが住んでいる国は,現 と憤りが下されるようにと求めている。 代において最も自由で啓発された気高い政府を擁し,国民 預言者ジョセフ・スミスはこのほかに少なくとも2度, ミズーリが聖徒に対する暴徒の行為を黙認したために大き を天にまで高める数々の特権に恵まれているが,もしそれ らを無視して尊重せず,足の下に踏みつけ,わたしたちを な裁きを受けると預言した。1843年ノーブーにおいて,預 言者ジョセフはミズーリの罪悪を明らかにし,こう言った。 治めるべき自由という神聖な原則を放棄するならば,それ まで受けた啓発に等しい罰が下される。そのことを知って 「彼らはわたしたちを迫害したように迫害されるであろう。 いるだろうか。わたしは知っている。確かに知っている。 しかしそれは『モルモン』によってではなく,別の力によ る。彼らは苦難をなめ,最もつらい経験を味わうであろう。 この国の前途には,さらにたくさんの大きな苦難が待ち受 けている。しかし,わたしが手を差し伸べて,それらをも しかしそれは『モルモン』からでなく,彼らよりも大いな る源からもたらされる。神が彼らをのろわれるのである。 」 たらすことをするだろうか。それは神に禁じられている。 末日聖徒である皆さんが,この種の目的を達成するために (『教会歴史』6:95) アレキサンダー・ドニファン将軍は,ミズーリ州におけ 力を振るうだろうか。それも神に禁じられている。わたし たちがこうした事柄を知ることは避けられない。しかしこ る聖徒の数少ない味方の一人であった。預言者ジョセフは れらの事柄をあらかじめ知っていても,わたしたちは主の ドニファン将軍に次のように語った。「神の怒りはジャク ソン郡に迫っています。神の民はジャクソン郡から追放さ 代理人としてその成就を助長することはないのである。」 (『説教集』22:141−142) れました。あなたはやがてそこが火と剣に見舞われる日が 来るのを,生きて目にするでしょう。万軍の主は滅びのほ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約109:54−58 終わりの時にアメリカから うきをもって掃かれるでしょう。野や畑や家は破壊され, 地の国々に福音が伝えられる 残された煙突だけがその破壊のさまを伝えるでしょう。」 (ロバーツ,Comprehensive History of The Churh『教会概史』 ジョージ・Q・キャノン副管長は次のように述べてい る。「神は特別な目的のために,このアメリカという国と 1:538) 南北戦争の間に, これらの預言は驚くべき方法で成就し, 政府を興された。その目的とは,シオンをこの地に築くこ と,すべての国々の民が世の中の暗黒と恐るべき罪悪から ミズーリ一帯は恐ろしい破壊の舞台となった(ミズーリの 逃れて,賛美の歌を歌い,感謝の声を上げながらここに来 苦難に関する詳細は,ロバーツ『教会概史』1:539−559 ること,そして地に住む者に災いと裁きが及ぶとき,聖な る場所に立ち,神の戒めを守って安全に生活できるように することである。長老たちはこのメッセージを世の国々の 虐げられた人々に,すなわち暗黒の中で苦悩し,何ら解放 への道を見いだせずにいる人々にもたらす。何と輝かしい メッセージだろうか。このおとずれに耳を傾けるのは,虐 げられた人だけではない。高い役職にある人や指導する立 場にある人も耳を傾け, この特別な民に注目するであろう。 主の民は実に驚くべき業を行い,世界中を巡ってあらゆる 国々から聞く耳を持つ人を探し出し,彼らが受け継いでき た伝統とともに,わたしたちがシオンと呼ぶこの地へ連れ て来るであろう。そしてわたしたちはこの地において,神 の御霊の力により,一つの民に統合されるのである。」 (『大会報告』1900年10月,p.68) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約109:60 なぜ末日聖徒が異邦人か カートランド神殿を奉献するジョセフ・スミス ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,次のよう 291 に説明している。「わたしたちが異邦人に属するというこ 教義と聖約109:72 神の王国とは何か とも覚えよう。これは,末日聖徒が異邦人の国民を通して 祝福にあずかっているということを意味している。ブリガ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ム・ヤング大管長は……ジョセフ・スミスが純粋なエフラ イムであると言った。これは真実である。しかしジョセ フ・スミスは異邦人の血統の出でもある。教会の大部分の 会員もそうである。わたしたちは自分の系図を誇りとし, 教義と聖約第65章およびダニエル第2章を参照する。 教義と聖約109:74 山々が崩されるのはいつか パーリー・P・プラット長老は次のように記している。 「イエス・キリストの栄光に満ちた再臨と関連して,地球 の形状,気候,土壌,産物が変化し,政治的,道徳的,霊 祝福師があなたはエフライムに属すると宣言したことを喜 的な面での統治が変わる。 んでもよいが,同時に異邦人を軽蔑しないようにしなけれ ばならない。なぜなら,わたしたちは異邦人にも属してい 山々は崩され,谷は高くなり,沼地や湿地は干されて乾 いた地となり,焼けつくような砂漠や極寒の両極地帯は再 るからである。もしそうでなければ,聖典の言葉は成就し ないだろう〔1ニーファイ15:13−14;エテル12:22〕。」 生され,温暖で実り豊かな地になるであろう。」(Key to かぎ the Science of Theology『神学の鍵 』p.132。教義と聖約 133:19−25参照) (『完成への道』p.107) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約109:61−67 教義と聖約109:75−76 「ユダの子ら」と「ヤコブ 義人が雲の中に引き上げら の残りの者」 預言者ジョセフ・スミスは次のように記している。 「『モ れるのはいつか 教義と聖約88:95−98の「注解」を参照する。 ルモン書』を読むと,西部に住むインディアンの諸部族が ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ エジプトに売られたヨセフの子孫であることや,アメリカ の地が彼らにとって約束の地であることが分かる。それば 教義と聖約109:79−80 てわたしたちを助けて」 かりでなく,イスラエルのすべての部族が,新しい聖約の 要求に応じる異邦人とともに,この地に来ることも分かる 「この世に神の神殿を建てることは,王子インマヌエル ようさい に従う人々がサタンの主張する領土に要塞を築くことであ のである。しかし,ユダの部族は昔のエルサレムに帰るで あろう〔教義と聖約133:8,13,35参照〕。詩篇第102篇で る。したがって,神の民が神殿を建てると,サタンは激怒 する。カートランドの神殿は,ノーブーの神殿と同じよう ダビデが歌ったシオンはアメリカの地に築かれ,『主にあ に,神聖な目的のために使われていた。しかし,どちらの がなわれた者は帰ってきて,その頭に,とこしえの喜びを いただき,歌うたいつつ,シオンに来る。』(イザヤ35: 神殿も放棄されてしまった。聖徒たちは神殿の中で高い所 からの力を授かり,それによってすべての敵の攻撃から教 10)そして,満ちあふれる災いから逃れる。それらの災い はその地を過ぎ越すからである。しかし,ユダはエルサレ 会を守り抜くことができた。神殿で受ける聖なる御霊によ るバプテスマによって,教会は,迫害や追放や背教があっ ムで救いを得るであろう。ヨエル2:32;イザヤ26:20− たにもかかわらず,霊的な力を増し,再生をもたらす原動 21;エレミヤ31:12;詩篇1:5;エゼキエル34:11−13を あかし 参照していただきたい。 これらの聖句が証しているように, 力として世に影響を及ぼすようになった。五旬節の日に受 けた力がなかったなら,初期の教会は迫害によって滅ぼさ 良い羊飼いである主は御自身の羊を尋ね出し,雲と暗闇の 日に散らされたすべての国々から彼らをシオンへ,そして れていたであろう。それと同じように,もし神殿が建てら れず,その儀式を通して確立される神との交わりがなかっ エルサレムへと導かれる。ほかにも数多くの聖句がこのこ たなら,末日の教会はミズーリとイリノイでの迫害に耐え とを証している。 」(『教会歴史』1:315) ヤコブの家の残りの者については,教義と聖約87:5の られなかったであろう。 」 (スミス,ショダール共著『注解』 pp.722−723) くらやみ 「注解」を参照する。 292 「あなたの御霊の力によっ 第110章 鍵をもたらす御使いたち 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1836年4月,カートランド神殿を奉献する準備をしなが ら,聖徒は胸を躍らせていた。「祈りの家,断食の家,信 仰の家,学びの家,栄光の家,秩序の家,神の家」(教義 と聖約88:119)が完成し,主は聖徒の払った犠牲を喜ば れた。宮が奉献されたとき,主はそれを受け入れて「高い 所から力を」授けられた(教義と聖約105:11。History of the Church『教会歴史』2:427−433;教義と聖約105: 11−12,18,33の「注解」参照)。 「カートランド神殿の奉献後,ほとんど毎日のようにこ の建物で評議会や霊的な集会が開かれた。1936年4月3日の 日曜日は,教会歴史の中で最も画期的な出来事が起こった 日である。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴 史と近代の啓示』2:46) 預言者ジョセフ・スミスは,カートランド神殿の奉献か ら1週間後の1936年4月3日の出来事について次のように記 している。「主の宮で開かれた集会に出席し,会衆を着席 させる際に他の教会役員〔大管長会と定員会会長〕を助け, その後教壇からの説教に耳を傾けた。トーマス・B・マー シュとデビッド・W・パッテンが午前の集会で,約1,000 人の聴衆に話をした。 」その後のことが教義と聖約第110章 の前文に記されている。「午後,わたしは,この日に聖卓 ばんさん ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは教壇の手すりの上に 立たれた主にまみえた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約110:7 カートランド神殿の建設における 聖徒の犠牲と,救い主の訪れとは,どのような関係がある か 預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「無 かぎ 窮の命の王国の鍵を得ようとする人は,すべてのものを犠 牲にしなければならない。」(Teachings of the Prophet Joseph での務めを果たす特権を与えられた十二使徒から主の晩餐 を受けた後,副管長たちを手伝って,それを教会員に配っ Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.322)フランク た。わたしは兄弟たちのためにこの務めをなし終えた後, オリバー・カウドリとともに教壇に退いて,幕を下ろし, リン・D・リチャーズ長老は,神殿建設における聖徒の犠 牲とその結果との関係について,次のように述べている。 身をかがめて厳粛に無言の祈りをささげた。そして,祈り 「聖徒たちは神殿建設のためにできる限りのことを行い, 出て行ってあちこちで仕事を見つけて働き,その賃金で必 を終えて立ち上がると,わたしたち二人に次の示現が開か れた。」(『教会歴史』2:434−435)この日に受けた示現と 訪れは,教義と聖約第110章に記録されている。 要な資材を購入した。神殿は,聖徒が持てるものをすべて ささげることによって,またできることをすべて行ったと きに,完成したのである。主がその働きを受け入れてくだ 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約110:1−3 栄光を受けられたキリストを描 ちょくゆ 写する際に,なぜ直喩が使われたのか 栄光を受けられた救い主を正確かつ完全に描写すること は,不可能である。しかし,言葉に表せない霊的な事柄を, 人に理解できる事柄にたとえることにより,主の栄光と容 いん ゆ 姿を読者に感じさせることはできる。それぞれの隠喩と直 喩は,個々の文脈の中で,救い主の栄光に対する読者の想 像をかき立てる。預言者ジョセフの表現に使われている言 葉は,ダニエル(ダニエル9:4−8参照)や黙示者ヨハネ (黙示1:13−17参照)の記したものとよく似ている。 さったことを知ったとき,聖徒の喜びはどれほどであった だろうか。主は神殿の手すりに立たれ,預言者ジョセフと オリバーに語りかけて二人の務めを明らかにされた。そし の て,福音がそこから出て行き,全地の国民に宣べ伝えられ ることが知らされた。」(Conference Report『大会報告』 1898年4月,p.17) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約110:7−10 外国にまで広がるカートラン ド神殿の「名声」とは何か カートランド神殿の造りは,聖徒にできる最高のもので あった。神殿の建設において聖徒が個人として,また民と して払った犠牲は,伝説となって残っている。多くの女性 は陶磁器をささげた。それらの陶磁器は粉々に砕かれ,神 293 の宮に色彩と光沢を出すためにしっくいに混ぜて塗られ 教義と聖約110:11 た。しかしながら,神殿の「名声」(教義と聖約110:10) について語られたとき,主が意図しておられたのは,神殿 るか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう の造りでも,聖徒の犠牲でもなかった。天からの御使いが に記している。「これらの部族が北の地にいるのか,いな 言葉に尽くせない栄光を伴って現れ,重要な救いの鍵と権 威を回復したとき,この世的な事柄はすべて影を潜めてし いのか,わたしには何も言えない。以前にも話したように, み こころ 彼らは『行方が知れない』のであり,主の御 心 にかなう まったからである。 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は次のように ときまで発見されないであろう。わたしがそれについて知 っていることは,主が明らかにされたことだけである。主 述べている。「1836年4月3日に〔カートランド神殿で〕起 こった出来事は,全地に宣べ伝えられた。何千,何万,何 が宣言されたように,彼らは北からやって来るであろう。 また,これら行方の知れない民は,現在集められている散 十万という人々が,このときに起こったことにより祝福を 乱したイスラエルとは別の民である。主がそのように明言 受けてきた。末日聖徒イエス・キリスト教会に属する大勢 の人々だけでなく,その何千倍もの教会外の人々が,この し,定義されたのである。」(Signs of the Times『時のしる し』p.186。教義と聖約133:26−34の「注解」も参照) ときもたらされて全地に伝えられた祝福にあずかった。彼 らは自分で気づかないかもしれないが,〔例えば,エリヤ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約110:12 アブラハムの福音の神権時代をゆ の霊による〕影響を受け,多くの人がすばらしい業を成し だねたエライアスとはだれのことか。そのエライアスは何 遂げた。すべてはこの日に起こったことと,この預言〔教 義と聖約110:7−10〕の成就に起因するのである。」(『大 を回復したか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 会報告』1936年4月,p.73) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に答えている。 「ルカの記録によれば,天使ガブリエルがザカリヤのも 教義と聖約110:11 とを訪れて, 彼の妻に男の子が生まれるであろうと告げた。 み つか 集合の鍵は,地上における神の王 行方の知れない十部族はどこにい 国にとってきわめて重要である 終わりの時におけるイスラエルの集合は,あらゆる時代 またガブリエルはマリヤにも現れて,主なる救い主の誕生 を告げ知らせた。 を通じて最も偉大な業である。事実,預言者ジョセフ・ス ミスは, その集合が王国の重大な責務であると述べている。 ガブリエルはノアである……〔『預言者ジョセフ・スミ スの教え』p.157参照〕。 「義人アベルの時代から,終わりの時におけるイスラエル 次に,1830年8月に預言者ジョセフ・スミスに与えられ の救いについて語りながら,わたしたちのために記録に証 を残した最後の人に至るまでの預言者たちが記したすべて た啓示から,ザカリヤのもとに来てバプテスマのヨハネの 誕生を告げたのは,エライアスであったことが分かる〔教 の事柄は,それが集合の業にあることを直接に示すもので ある。 」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.83) 義と聖約27:6−7参照〕。…… このエライアスは,アブラハムの神権時代の鍵を持ち, このために,ブルース・R・マッコンキー長老が説明し ているように,モーセは鍵をもって帰って来たのである。 1836年4月3日にカートランド神殿で預言者ジョセフ・スミ スとオリバー・カウドリの前に現れて,アブラハムの神権 あかし 「イスラエルの偉大な立法者モーセは,救い主によく似 た生涯を送り,イスラエルの民をエジプトでの奴隷の境遇 から解放して約束の地へと導いた預言者である。また1836 時 代 の 鍵 を 回 復 し た エ ラ イ ア ス と 同 じ 人 物 で あ る 。」 (Answers to Gospel Questions『福音の質疑応答』3:139− 140) 年4月3日に,カートランド神殿でジョセフ・スミスとオリ バー・カウドリに現れ,(1)『地の四方からのイスラエル スミス大管長は教義と聖約128:20−21を引用した後, ガブリエルとエライアスという称号が同一人物を表すと指 の集合』と,(2)『北の地からの十部族の導き』(教義と聖 摘している。「これらの聖句から分かるように,ノアはガ 約110:11)の鍵を授けた。 そのとき以来,散乱したエフライムと他の部族が,力と ブリエルであり,エライアスという呼び名で預言者ジョセ フ・スミスのもとを訪れ,主がアブラハムと最後の世代に 栄光を増し加えながら,あたかもエジプトの束縛から逃れ るかのようにアメリカの山々に向かって集合してきた。し 至るまでの彼の子孫とに聖約を交わされた神権時代の鍵を 回復したのである。 」(『福音の質疑応答』3:140) かし,現在では世界各国に存在するシオンのステークに ブルース・R・マッコンキー長老は,エライアスが地上 人々が集合している。イスラエルの集合は実際に起こって いる。やがて行方の知れない十部族が戻って来るとき,彼 に回復したものについて次のように説明している。 「では,アブラハムの福音とは何か。明らかにそれは, らは末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長の下に集まっ てくるであろう。なぜならば,この教会の大管長は,この アブラハムに与えられた任務であり,使命であり,エンダ ウメントと力であり,救いのメッセージであった。……ま 偉大な業を指示し,管理する鍵を有しているからである。」 (ブルース・R・マッコンキー , Ensign『エンサイン』 た,この世でもこの世の外でも子孫が続くという神聖な約 束であった。…… 1980年4月号,p.22) このようにアブラハムの福音は,日の栄えの結婚の一つ を成すものであった。……前世の霊のうちの選ばれた者た ちに血統を与える福音もしくは権威であり,完全な日の栄 294 第110章 えの律法に従う人々に永遠の家庭を提供する福音であっ ちはシオンの山の救い手として立つようになるであろう。 た。この権能と権威こそが,エライアスの回復したもので あり,その結果として,後のすべての世代の義人は,昔の しかしどのようにすればシオンの山の救い手となるのだ ろうか。神殿を建て,バプテスマフォントを築き,すでに アブラハムと同様に,永久にその子孫が続くという祝福を 確かなものとしたのである(教義と聖約132章参照)。」 世を去ったすべての先祖のために,バプテスマ,確認,洗 い清め,油注ぎ,聖任,結び固めなどのすべての儀式を受 あがな (Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.219−220) このような祝福が回復されたので,散乱したイスラエル けることを通して,彼らを贖い,彼らが第一の復活に出で 来り,栄光の座に昇れるようにするのである。ここに先祖 に救いの原則を教える道が開かれた。しかし,その直後に の心を子供たちに結び,子供たちを先祖に結ぶ鎖があり, エリヤの力強い結び固めの力が授けられなければ,主の計 画は無に帰していたであろう。なぜなら,エリヤの力がな それがエリヤの使命を全うするのである。わたしが神に申 し上げるのは,今この神殿が完成したことと,わたしたち ければ,イスラエルは救いの原則をこの世から永遠にわた って所有できないからである。 がそこへ参入し,御業を遂行し,時間を活用し,地上にい る間に結び固めを有効なものとすることである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約110:13−14 エリヤの訪れ まっと み わざ 地が打たれ,崩壊が世界にもたらされる前に,死者に救 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,1936年 いと贖いをもたらし,また生ける親族を集めて彼らにも救 いを得させようとするならば,聖徒たちに時間の余裕はな 4月3日に成就したマラキの預言の重要性について,次のよ うに説明している。 いのである。 」(『教会歴史』6:183−184) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「エーデルシャイムは,その著書『神殿』(The Temple) こん にち 教義と聖約110:16 「これによって……知ることがで の中で次のように述べている。『今日に至るまでユダヤ人 すぎ こし の家庭では例外なく,過越の祭のある部分〔すなわち3杯 きる」 主は天使たちの証により,エリヤの訪れが遠くないこと 目を飲むとき〕に差しかかると,戸を開けて,預言者エリ ヤがメシヤの先駆者として入って来ることができるように を明らかにされた。モロナイがジョセフ・スミスのもとを 最初に訪れたとき,預言された約束を『聖書』から幾つか している。その間,彼らは,すべての異邦の国々が滅亡す ることを預言した適切な聖句を読んでいる。主イエスが御 引用し,それらが「まさに成就しようとしている」(ジョ セフ・スミス−歴史1:40。36−45節も参照)と語った。 自身の晩餐を定めるに当たって,裁きの象徴ではなく,深 エリヤは,自らの訪れがマラキの預言の成就であるだけで い愛の象徴を「3杯目」の杯と結びつけられたことは驚く べき偶然の一致である。 』 なく,大いなる恐るべき日が「戸口まで近づいている」 (ジョセフ・スミス−マタイ1:39)しるしであるというこ 1836年4月3日に,過越の祭を祝っていたユダヤ人はエリ ヤが入ってこれるように戸を開いていたということをわた とも証した。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は総大会の しは聞いた。実はこの同じ日にエリヤは確かに入ることは 説教の中で,エリヤの使命について次のように語ってい 入ったのであった。ただユダヤ人とともに過越の祭を祝う み な ために彼らの家に入ったのではなく,主の御名のために建 る。 「130年前にエリヤが現れたとき,主の大いなる恐るべき てられ,主に受け入れられたカートランドの主の宮に現れ たのであった。そしてそこで,まさにユダヤ人が家に集ま 日が間近であったとすれば,今日わたしたちは,ちょうど 1世紀その日に近づいたことになる。しかし,ある人々は って求めていたことを成就する鍵をもたらした。」(『救い こう言うであろう。『いや,エリヤ,あなたは間違ってい の教義』2:91−92) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。もう130年たった。わたしたちの暮らし向きは以前よ りも良くなっていないだろうか。様々な発見や発明,知識, 教義と聖約110:16 エリヤの使命により,各々の末日 聖徒に与えられた急務は何か 知恵を御覧なさい。あなたは確かに間違っていた。』彼ら の行いから判断すると,実に多くの人々が,この世界は終 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。 「『聖 書』はこう語っている。『主の大いなる恐るべき日が来る 局を迎えるまで現在の状態のまま数百万年存続すると考 え,語っているようである。彼らと話してみるとよい,そ 前に,わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。彼 して世の知識人である彼らの話を聞いてみるとよい。『昔 は父の心をその子供たちに向けさせ,子供たちの心をその 父に向けさせる。これはわたしが来て,のろいをもってこ よりも災害が増えたというあなたの考えは間違いだ。地震 の数が多いわけではない。地球はいつの時代にも揺れてい の国を撃つことのないようにするためである。』〔マラキ 4:5−6〕 た。ただ現代には,わたしたちの先祖が得られなかった情 報を集める設備があるのだ。時のしるしではない。昔も今 さかずき きょう さてここで使われている『向けさせる』という言葉は, も変わらない。』そして彼らは,主が思いやりをもって与 『結ぶ』あるいは『結び固める』と置き換えるべきである。 しかしながら,この大切な使命の目的は何だろうか。また えてくださる警告を聞こうとしない。こうして,聖典の預 言が成就するのである。ペテロはそのような言葉が語られ その目的はどのようにしたら達成されるのだろうか。やが てその鍵が渡され,エリヤの霊が注がれ,福音が確立され, るであろうと述べ,人々に警告を与えた。…… わたしたちは,主が警告として与えてくださったことを 神の聖徒たちは集められ,シオンが築き上げられ,聖徒た すべて忘れて,あるいはまったく気に留めないで,眠り続 295 けるのであろうか。わたしは皆さんに申し上げる。『目を はなくなった。これは全世界を破壊から救う原則である。 さましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられる のか,あなたがたには,分からないからである。 』(マタイ 死者はエリヤにより回復された権能によって,福音の祝 福,すなわちバプテスマ,確認,聖任,その他高度の祝福 24:42)」(『大会報告』1966年4月,p.15) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を身代わりの儀式によって主の神殿で結び固められる。こ れらの鍵の回復によって主の業は,イエス・キリストが栄 教義と聖約110:16 うな意義があるか エリヤのもたらした鍵にはどのよ 光の中に降臨される前に,全面的に進められている。 ペテロ,ヤコブ,ヨハネが彼らの神権時代に受けたこれ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,エリヤ らの結び固めの鍵は,福音のすべての儀式を有効にする鍵 によって教会に回復された結び固めの力がなぜ大切なのか を,次のように説明している。 である。中でも特に生きている者と死者の両方のために神 殿で行われる業と深いかかわりがある。この鍵は人が日の 「この回復の本質は何だろうか。それはすべてのものを 地上においても天においても結ぶために,この神権時代の 栄えの王国に入り,神の息子,相続人として冠を受ける備 えをさせる権能である。 人々に神権の結び固めの力を与えることである。この回復 この鍵は夫婦をこの世だけではなく永遠に結び固める力 により,ジョセフ・スミスは生きている人と死者の両方の 救いに不可欠なすべての儀式を神の神殿で執行する権能を を持っている。また子らを両親に結び固める力と,養子縁 組の鍵を持っている。これによって家族関係は永遠に継続 得た。 エリヤが与えたこの神権の力により,夫婦は永遠に結び する。この権能は主の大いなる恐るべき日が来たときに従 順な者をのろいから救う力である。この鍵によって子らの 固められるか,結婚をすることができる。また子供たちは 心は先祖に向けられている。」(『救いの教義』2:110− 永遠に両親に結び固められる。このようにして家族のきず なは永遠に続くものとなり,死が家族を隔ててしまうこと 111) 第111章 最も大いなる宝 歴史的背景 かつ傑出した長老であり,ノーブーでは預言者の弟である ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ドン・カーロス・スミスとともに『タイムズ・アンド・シ ーズンズ』 (Times and Seasons)の編集と発行に携わったエ この啓示が与えられたときの歴史的背景を学ぶと,啓示 そのものに対する理解が大いに深まる。短くて重要性に割 ビニーザ・ロビンソンによると,事のいきさつはこうであ る。ある日カートランドにバージェスという名の兄弟がや 合乏しいとほかの人々が考える啓示が,あらゆる時代の聖 って来て,マサチューセッツ州セーレムのある家の天井裏 徒にとって霊的に深い意味を持つ教えになるのである。 カートランド神殿は1836年3月に完成して奉献されたが, に,故人となったある未亡人の残した大金が隠されており, それを知っているのは自分しかいない,と語った。そこで カートランドの聖徒と教会自体は貧困と重い負債にあえい でいた。さらに(ミズーリ州)シオンにおける様々な問題 兄弟たちはバージェスの話を信用して,できればその金を 手に入れたいと思い,セーレムへ旅立った。しかし,ロビ が,教会の霊的,物質的な源に重い負担をかけていた。教 ンソンによれば,セーレムで兄弟たちに会ったバージェス 会が設立されてからやっと6年になったばかりであった。7 月の下旬に,ジョセフ・スミス,シドニー・リグドン,オ は,もう時がたってしまって町の様子が一変し,どの家か 見当がつかない,と言い, 『すぐに立ち去ってしまった。 』」 リバー・カウドリ,ハイラム・スミスは,カートランドを 後にしてマサチューセッツ州セーレムへ旅立った。そして (Comprehensive History of the Church『教会概史』1:411) セーレムで1軒の家を借り,公衆の前で説教をし,戸別訪 注 解 問をして福音を教えた。彼らがセーレムに滞在していると きに,教義と聖約第111章が与えられた(History of the ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ Church『教会歴史』2:464−465参照)。 預言者ジョセフ・スミスは『教会歴史』の中で,ニュー な行為にもかかわらず……不快には思わない」 預言者ジョセフ・スミスはウィリアム・バージェスの提 イングランドとセーレムに旅立った理由を明らかにしてい 案に従って,セーレムに隠された宝を探しに行ったが,そ の行為は明らかに純粋な動機に基づき,聖徒と教会に対す ない。しかし,ブリガム・H・ロバーツ長老は,当時の状 況を次のように説明している。「長い間教会にあって忠実 296 教義と聖約111:1−6 「わたしは,あなたがたの愚か る愛に促されたものであった。もし幸運に恵まれてお金が 第111章 手に入れば,教会は十分な資金を得て負債を返済し,カー さるように熱心に祈ってから1枚を引いた。すると『セー トランドとシオンで苦しんでいる聖徒を助けることができ るのである。指導者である長老たちは,その旅で個人的な レム』とあった。2度続けて同じ結果が出たので,早急に わたしの務めを片づけて,セーレムへ行こうと決心した。 利益を得ようなどとは少しも考えていなかった。このため 主は,「あなたがたの愚かな行為にもかかわらず,あなた 大会でもわたしの行くことが支持され,神が『効果的な門』 〔教義と聖約100:3〕を開かれるよう,聖徒たちがわたし がたがこの旅をしてきたことを不快には思わない」(教義 と聖約111:1)と言われたのである。 のために祈ってくれると約束した。」(Journal of Erastus Snow『エラスタス・スノーの日記〔1841−47〕』末日聖徒 彼らの愚かさは,その3年ほど前にジョセフ・スミスが イエス・キリスト教会歴史部所有,pp.3−5) 教会の負債について主から勧告を受けていたことにあった (教義と聖約104:78−80とその「注解」参照)。そのとき 後の日記によれば,スノー兄弟はセーレムに着いてから 1843年4月11日にノーブーへ帰るまでに,100人以上の人に 教会員は,もし自らへりくだり,熱心と信仰の祈りによっ て負債から解放されることを求めるならば,主がそのため バプテスマを施した。例えば,スノー長老の日記の27ペー ジには,1842年5月28日現在のセーレム支部の会員数が90 の手段を与えると告げられていた。ところが重い負債に苦 人であると記されている。 しむ教会の指導者たちは,主からの助けを求めずに,自分 の力で財政的な問題を解決しようとした。そこで主は,負 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 債を償う力を与えることと,憐れみをもってシオンを扱う ことを,彼らに思い起こさせようとされたのである(教義 れを治める力」が与えられるのはいつか スペリーはこの聖句がまだ完全には成就していないと説 と聖約111:5−6参照)。 明している。「時が来れば,全能の主は『あなたがた』の 指導者たちの努力は立派であり,動機は純粋で義にかな っていたので,主の怒りを招くことはなかった。しかし, 手にセーレムの町を与えて,長老たちは町を治める力を持 つようになり,『彼ら』,恐らくその町の人々は,『あなた 問題を解決する際に主に頼らなかったので,この失敗は愚 かな行為であった。 がたの心に秘めた事柄』を知ることがないであろう。それ ばかりでなく,金銀など,セーレムの富も兄弟たちのもの 主は預言者ジョセフがセーレムに行くことを許された。 そこには彼らが求めていたものより,王国にとってもっと になるであろう。この節は明らかに,将来起こることの預 言であり,主の王国が地上に設立され,もろもろの町や都 大きな価値のある宝があったからである。セーレムには, 市や国が神権を持つ兄弟たちの指示の下に治められる日を 福音を受け入れる人が大勢いることを主は御存じであっ た。セーレムの人々の改宗は,主の業に大きく貢献するこ 待ち望むものである。その日が来ると,教会の長老たちは あわ 教義と聖約111:4 聖徒にセーレムの町が渡され,「こ とになる。それらの新会員が聖徒たちと力を結集して,シ オンのために惜しみなく献身したからである。 啓示の中で告げられた宝は得られた。エラスタス・スノ ーは次のように記録している。「わたしはこのとき〔1841 年7月6日〕まで,この地で夏を過ごして秋の終わりにはノ ーブーの自宅へ帰るつもりでいた。去年の11月に旅立つと き,ジョセフ・スミス大管長からそう助言されていたから である。ところが,東部のマサチューセッツ州セーレムに いたハイラム・スミスと〔ウィリアム〕ローがフィラデル フィアを通って故郷に帰る途中立ち寄って,わたしに助言 し,秋にノーブーへ帰らずに,今すぐウィンチェスター兄 弟と一緒にマサチューセッツ州セーレムへ行き,あの町に 王国を築くように努めなければならないと告げた。 二人は, 1836年にセーレムの人々について与えられた啓示の写しを 置いていった。主はその啓示の中で,時が来れば主の王国 に集められる人々がそこには大勢いると述べておられ,二 人は主の言われた時が来たと考えていたのである。わたし は秋にノーブーへ帰るのを待ちわびていたし,セーレムへ 行けば,西部にあるわずかな財産を置いていくことになる み こころ と考えたが,主の御 心 を喜んで行いたいと思った。そこ で主の御心を知るために熱心に祈ったところ,セーレムへ み たま 行くようにという主の御霊のささやきが頻繁にあった。わ たしはまた,ユダの空席を埋めるためにくじを引いた使徒 たちのことを思い出した。『ノーブー』と書いた紙と『セ ーレム』と書いた紙を用意し,行くべき場所を示してくだ セーレムの系図について語るB・H・ロバーツ 297 しっせき 堂々とセーレムを支配し,その富も所有するであろう。こ 少しの間,人の弱さが現れると,主はその過ちを叱責され, この意味は,富が個人の欲求のためでなく,義の目的のた 僕たちの目を本来求めるべき真の宝,すなわち生者と死者 の救いに向けることによって,神の力と知恵を現されたの めに使われるということである。」(Compendium『概説』 pp.609−610) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ しもべ 教義と聖約111:8 神は御霊の力を通して僕 を導かれ る 何かを決めるときに導きを求める主の義にかなった僕 は,自分の霊に与えられる平安と確信とを感じて,自分の 行いが主の御心にかなっていることを確認できる。御霊に 敏感になることにより,主の民は生活の中で絶えず主の導 である。」(Comprehensive History of the Curch『教会概史』 1:412) 預言者ジョセフ・スミスはセーレムの住民と特別な関係 にあったので,この章の9節は彼にとって非常に重要な意 味を持っていた。スミスとショダールは次のように指摘し ている。「歴史というものは恐らく,福音の原則に対する 十分な理解に次いで,宣教師が携えて行ける最も有用な知 識であろう。しかし,『昔の住民』とは,特に預言者ジョ きを受けることができる(アルマ58:11;教義と聖約6: 22−23;8:2−3参照)。さらにこの節から分かるように, セフの先祖を指しているのである。この啓示は,マサチュ ーセッツ州エセックス郡の中心地セーレムで与えられた。 平和をもたらす御霊の力に従う人は,主が自分にどこへ行 エセックス郡は,スミス家の先祖で最初にアメリカに渡っ て来たロバート・スミスが定住した場所である。そこには くように望んでおられるかを知ることができるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約111:9 ことか セーレムの昔の住民とは,だれの B・H・ロバーツ長老は次のように説明している。セー レムの昔の住民について調べるようにという主の指示は, あがな 「系図を調べて,そこに住んでいた過去の人々を贖うとい う観点から与えられたことは疑いない。そして,この旅で 使徒への主の言葉 歴史的背景 アメリカに渡った開拓移民の住居が数多くあり,彼らの子 孫が教会に加わっていた。郡の中心地であるセーレムには, 郡内のすべての町の記録が保管されており,スミス家の記 録もほかの記録に混じってそこにあった。『昔の住民』に 関する調査に系図が含まれていたことは明らかである。そ れは,後に示される死者の救いという目的のためであっ た。」(Commentary『注解』p.729) 第112章 「宣教師たちが英国で最初の説教を行った1837年7月23日, 主は預言者ジョセフ・スミスに,当時使徒の評議会の会長 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示を受ける前に預言者ジョセフ・スミスが日記に であったトーマス・B・マーシュにあてた啓示を下され た。マーシュ長老はこの啓示の中で,評議会の兄弟たちを 書いたことによれば,当時のカートランドは不一致と対立 と背教に覆われていた。投機が原因となって,教会の財務 教え,彼らに福音を宣言するという職務と責任を指摘する よう指示された。責任を捨て,投機に浮き身をやつす使徒 機関であるカートランド安全協会が倒産した。そのような がいたのである。……1837年に先立つ数年間は,合衆国全 土で無謀な投機が行われた時期であった。ヒーバー・C・ 問題について多くの人々が,さらには何人かの教会の指導 者までが,預言者を非難した。預言者ジョセフは次のよう キンボール長老が指摘しているように,この投機ブームが に記している。「このような状況にあって,全員出席する ように期待された十二使徒定員会の会合(十二使徒の中の カートランドを直撃し,何人かの兄弟たちは自分の使命を 忘れ,大金を借りて投機に没頭した。やがて巨万の富とい 何人かはしばらく会を欠席していた)の数週間前,神は教 う妄想が夢と消えたとき,彼らは経済的にすっかり行き詰 まり,今度は預言者ジョセフ・スミスを非難し始めた。ト 会の救いのために何か新たな手段を講じる必要があること を啓示された。そして1837年6月1日ごろ,十二使徒の一人 ーマス・B・マーシュへのこの啓示は幹部の兄弟たちへの であるヒーバー・C・キンボールが,預言と啓示の霊によ あん しゅ り,また祈りと按手により英国における伝道の管理をし, 警告であり,彼らをイエス・キリストの使徒としての職務 に帰らせようとするものであった。」(Church History and 末日におけるキリストの教会の外国伝道の最初の道を開く よう,大管長会により任命された。 」(History of the Church Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』2:71。『教会 歴史』2:498−499参照) 『教会歴史』2:489) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,教義と 聖約第112章を受けたときの状況を次のように記している。 298 最初の12節は,トーマス・B・マーシュ個人に慰めと勧 告と訓戒を与えるものである。残りの節は,彼が十二使徒 に与えなければならない指示である。 第112章 ス・B・マーシュの人並み外れた弁舌の才能を示す出来事 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は何ら知られていない。これもまた,背教のために完全に は成就しなかった約束の例である。 教義と聖約112:1 トーマス・B・マーシュの兄弟た ちとは,だれのことか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1835年2月14日,この神権時代における最初の十二使徒 に大切か 教会のいかなる役職においても,謙遜さは成功するため けんそん 教義と聖約112:10 教会の役職において謙遜さがいか 定員会が組織された。その会員は,全世界に対する救い主 の特別な証人となるために選ばれた。よりどころとなる先 の必要条件である。ハロルド・B・リー長老は次のような 例がなかったので,十二使徒の先任順位は年齢によって決 められた。最年長のトーマス・B・マーシュ長老が定員会 実例を挙げている。「何年か前のステーク大会で,一人の あかし 若人が高い役職に召された。わたしたちは彼に証をしてく の会長となり,ほかの人に対する責任を負った。それ以後 は,聖任の日によって先任順位が決められている。 れるように頼んでおいた。ところが,召しを受け入れたこ とについて謙遜な証をしてくれるだろうという期待とは裏 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 腹に,彼は説教壇に立つや,身ぶり手ぶりよろしく高慢な 教義と聖約112:6 にしなさい」 「あなたの住まいが知られるよう 態度で説教をしたのである。集会が終わり,歩いて家に帰 る途中,一人の高等評議員が彼の名前を挙げ,こうささや 「1832年,トーマス・B・マーシュはミズーリ州ビッグ ブルー川にある約12ヘクタールの土地を相続し,そこに住 いた。『彼は今日 壇上で,孤独でしたね。』」(Conference Report『大会報告』1960年10月,p.17) み心地のよい丸太小屋を建てた。聖徒がジャクソン郡から きょう トーマス・B・マーシュ会長が最終的に背教したのは, 追放されたとき,そのほとんどはクレイ郡に避難場所を求 めたが,マーシュはラファイエット郡に逃れた。しかし 高慢が原因であった。彼の破門について考えると,主が聖 徒たちに謙遜であるようにと勧告されたことが強く心に迫 1834年に,彼もクレイ郡に移った。そしてカートランドに 長期間滞在してから,クレイ郡フィッシング川の自宅に戻 ってくる。「高慢がトーマス・B・マーシュの弱さであっ た。もし彼が謙遜であったら,倒れなかったであろう。彼 った。1836年,マーシュはファーウェストに家を建て, は初めに,自分の妻が関与した取るに足りない問題で,高 等評議会と大管長会の義にかなった裁決に逆らい,ついに 1837年7月に再びカートランドを訪れていた。マーシュが 使命を遂行するためには,シオンにおいて彼の住まいを知 らせることと,その住まいを移転しないことが不可欠であ ったのである。」(スミス,ショダール共著,Commentary 『注解』p.733) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約112:7 トーマス・B・マーシュは「多く は教会に反逆する者になってしまった。 」(スミス,ショダ ール共著『注解』p.733) 謙遜であるようにという訓戒は,すべての末日聖徒が真 剣に考えるべきことである。高慢は,恐らくほかのいかな る過ちにも増して,神と交わる力を人から奪うであろう。 み て なぜなら,人が進んで神に心を向け,神が御手をもって導 の国」に伝道したか この啓示が与えられてから4日後に,預言者ジョセフ・ いてくださるのは,その人が謙遜なときだけだからであ る。 スミスはシドニー・リグドンとトーマス・B・マーシュを 連れて,教会員を訪問するためにカナダへ出発した(『教 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約112:11−12 十二使徒のために祈り,訓 会歴史』2:502参照)。 戒を与える責任 救い主がトーマス・B・マーシュのために,多くの国民 に証を述べる機会をほかに用意しておられたことは,この スミスとショダールは,訓戒と祈りが結びついたときの 力に注目して,次のように述べている。 節から明らかである。しかし,後にトーマス・B・マーシ ュが背教して教会を去ったため,この約束は実現しなかっ 「主は十二使徒評議会の会長に,評議員のために祈り続 け,彼らを『厳しく』訓戒するように指示された。祈りの た(教義と聖約112:10の「注解」参照) 。 伴わない訓戒は,何の成果ももたらさない。評議員が誘惑 に屈したので,主は彼らが困苦を受けたときに,各々の心 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約112:8−9 トーマス・B・マーシュは力強 を探ると約束された。もし評議員が心をかたくなにしなけ いや い話し手であったか トーマス・B・マーシュ会長は,力強い話し手になる能 れば,彼らは教化されて癒されるのである。 投機熱に浮かされていたオーソン・ハイドは,自分の過 力を持っていた。教義と聖約第112章が啓示される1年以上 ちを進んで認め,赦しを願った。パーリー・P・プラット も一度は悪感情に支配されて敵対心を抱いたが,後に次の 前の1836年,「彼は追放された聖徒のために決議案を採択 する委員会の一員となり,リバティーの町で開かれた会合 ゆる ように述べている。『わたしは涙を流しながら,ジョセ に出席した。その席で聖徒の受けた迫害について話したと ころ,あまりに感動的な話であったため,アチンソン将軍 フ・スミス兄弟のところへ行って,打ち砕かれた心と悔い る霊をもって自分の犯した過ちを告白した。ジョセフ兄弟 をはじめとする出席者は涙を流した。」(スミス,ショダー ル共著『注解』p.733) は快くわたしを赦し,わたしのために祈り,祝福を授けて くれた。』そのほかの人々は悔い改めなかった。ルーク・ この啓示から1年余り後の背教までの間には,トーマ S・ジョンソン,ライマン・E・ジョンソン,ジョン・ 299 F・ボイントンは,1837年9月3日に教会から正会員資格を 教会の使徒とそのほかの評議員に伝えようとされたのは, 剥奪された。この啓示が与えられてから,まだ1か月半も たっていなかった。 」(『注解』p.734) 主が預言者を見捨てたことがなく,最後まで彼とともにお られるということであった。」(『教会歴史と近代の啓示』 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 2:72−73) 教義と聖約112:14 か 十字架を負うとは,どういう意味 第2の意味は, 『教義と聖約』の幾つかの節に由来してい る。それらの節で主がジョセフ・スミスについて語られた 教義と聖約23:6の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ことは,教会の大管長,預言者としてのジョセフ・スミス の役職に関する声明になっている。したがってそれらの声 教義と聖約112:15 のだろうか ジョセフ・スミスは常に鍵を持つ 明は,大管長としての職を継承するすべての人に適用され るのである(教義と聖約21:1−7参照)。王国の鍵は教会 はく だつ かぎ 預言者ジョセフ・スミスは与えられた鍵を常に持つとい の大管長に与えられており,救い主が来られるまでそれら う主の約束には,3つの重要な意味がある。第1の意味につ いて,ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次の は決して大管長から取り去られることはないのである。 しかしながら「ジョセフ・スミスは,神の御子の再臨に ように説明している。「この啓示が与えられたとき,十二 使徒評議会の中には,預言者ジョセフ・スミスに公然と反 備える時満ちる神権時代の長として召された。」(スミス, Answers to Gospel Questions『福音の質疑応答』4:175)し 抗し,悪感情をあらわにしている人々がいた。そこで主は, たがって, 預言者ジョセフ・スミスは王国の鍵だけでなく, 預言者ジョセフ・スミスがこの神権時代の鍵を持つ人であ り,主が来られるまでその鍵をジョセフが持ち続けるとい この神権時代の鍵も所有し,しかもそれらを決して取り去 られないのである。ブリガム・ヤング大管長は次のように う事実を,彼らの心に刻みつけようとされたのである。以 前の啓示の中では(教義と聖約43:4−7参照),もろもろ 述べている。「神権の鍵は地上に神の王国を築き上げるた めにジョセフにゆだねられ,この世から永遠にわたって彼 の鍵はジョセフ・スミスの手の中にあることと,もしも彼 から取り去られることはないであろう。」(Discourses of が背いて鍵を失うならば,それは別の者に与えられること を明らかにされた。当時のジョセフ・スミスはまだ試練を Brigham Young『ブリガム・ヤング説教集』p.138)この説 明が,トーマス・B・マーシュ会長に与えられた主の言葉 受けていなかったし,艱難や苦難による証明を受けていな かったからである。しかし1837年7月には,あらゆる苦難 の第3の意味である。 かいなん と艱難の中で高潔さを示していたので,主はジョセフ・ス ミスから鍵が取り去られないと宣言されたのである。主が 1837年に組織された十二使徒定員会。左からヒーバー・C・キンボール,ブリガム・ヤング,トーマス・B・マーシュ,オーソ ン・ハイド,ウィリアム・E・マクレリン,デビッド・W・パッテン,パーリー・P・プラット,ジョン・F・ボイントン,ルー ク・S・ジョンソン,ウィリアム・B・スミス,ライマン・E・ジョンソン,オーソン・プラット 300 第112章 ジョセフとハイラム,シド めに,厳しい裁きを受けた。しかしこの預言の言葉は,次 ニーが行けない場所へ十二使徒が行くのはなぜか ジョセフとハイラム,シドニーに関する第17節の記述 教義と聖約112:17−19 の兄弟たちの証にあるように,将来の教会員をも指してい たのである。 は,啓示が与えられた当時に組織されていた大管長会を指 している。大管長会が最初に組織されたとき,ジェシー・ ブリガム・ヤング大管長は次のように警告した。「もし 末日聖徒がこの世のものを追うのをやめ,心を改めて,御 ガウスとシドニー・リグドンが預言者ジョセフ・スミスの 副管長に召された。ジェシー・ガウスの背教後(教義と聖 父から与えられた業を行わなければ,彼らは不足の部分が しもべ 明らかになり,彼らも一掃されて,ふつつかな僕と見なさ 約81章の「歴史的背景」参照),1833年に大管長会が再組 れるであろう。」(Journal of Discourses『説教集』18:262) 織され,フレデリック・G・ウィリアムズが第二副管長に なった。さらに1837年11月7日,ミズーリ州ファーウェス ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に指摘している。「もしも教会の会員が戒めを忠実に守る トで開かれた大会において,ハイラム・スミスがフレデリ ック・G・ウィリアムズの後任として召された(『教会歴 ならば,もろもろの国民が罰せられている間,これらすべ てのことは差し控えられるであろう。もしも戒めを守らな 史』2:522−523参照)。 ければ,すでに警告されているように,わたしたちは世の み わざ 十二使徒会は大管長会の指示どおり,御業を全世界に推 し進めなければならない。管理定員会がすべてのことを行 人 々 と 同 様 に , 主 の 正 義 の 怒 り を 受 け る で あ ろ う 。」 (Progress of Man『人間の進歩』p.486) うのは不可能だからである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ウィルフォード・ウッドラフ大管長は次のように強調し ている。「シオンがその場所から移されることはないであ 教義と聖約112:20 大管長会はどのような面で十二使 ろう。主はシオンの強い者たちを喜ばれる。もしシオンが 徒会の助言者か ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 罪を犯すならば,主の前に清くなるまで,主はシオンを懲 らしめられるであろう。 に説明している。「大管長会は十二使徒会の助言者である と,主は言われた。その意味は,大管長会の助言や指示な 人の子の再臨までに皆さんやわたしがどれほどの悲しみ に出会うか,わたしは話すつもりはない。それは,わたし しに十二使徒会は出て行くべきでないということである。」 (『教会歴史と近代の啓示』2:73) たちの行いによって決まるのである。」(Millennial Star 『ミレニアルスター』1889年9月2日,p.547) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約112:23−24 教義と聖約112:30−32 時満ちる神権時代 艱難の日 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう こん にち 教義と聖約128:18の「注解」を参照する。 に記している。「この宣言は,今日のわたしたちにも重大 な思いを抱かせる。1837年に暗黒が世を覆ったのであれ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約112:33 長老たちは「この時代の人々の ば,今ではその暗黒がさらに深くなっているであろう。ま 血」からどのようにして逃れるか た当時が邪悪の日で,主が啓示の中で何度もその事実を証 されたのであれば,現在はさらに悪くなっているはずであ ジョン・テーラー大管長は,長老たちが「この時代の 人々の血」から逃れることについて,次のように説明して る。わたしたちは,『平和が地から取り去られ,悪魔が自 分の領域を支配する力を持つ時』 (教義と聖約1:35)が来 いる。 「わたしは……十二使徒,七十人,長老に話したいと思 ることを思い起こすように言われている。この日は確かに う。彼らが神から受けて宣べ伝えた言葉を,世の人々が受 来たのである。わたしたちは泣き嘆く日,地に住む者のう えに注がれる激しい怒りと報復の日を見てきたが,彼らは け入れても拒んでも,それに対する責任は宣べ伝えた人々 そうめい にはない。必要な勤勉さと忠実さを尽くし,素直で聡明に 悔い改めようとしない。わたしたちはこの日が旋風のよう に速やかに来るのを見てきたが,まだ最後を見ていない。 振る舞い,祈りと信仰を忘れず,主の使者として,また天 の神から受けた権能を身にまとった天の使いとして,国々 最終的に地があらゆる罪悪から清められるまで,さらに疫 病と流血と嘆きとがあるであろう。」(『教会歴史と近代の へ出て行くのは正しいことである。この権能は,聖なる神 権の権能,すなわち神の御子の位であり,メルキゼデクの 啓示』2:74) 位であり,無窮の命をもたらす力のことである。神は彼ら ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約112:24−26 「わたしの家にそれは始ま に……罪を悔い改めて罪の赦しのためにイエスの名によっ てバプテスマを受けるように,人々に呼びかける権能を授 り」 シオンの定義が明らかにされた啓示の中で,主は聖徒た けられた。そして神は彼らに,信じてバプテスマを受ける たまもの 人々に按手を施して,聖霊の賜物を授けるように告げられ ちに警告を与えて,シオンはもしも主の条件を満たすなら た。彼らが自分の務めをなし,義務を果たすと,彼らの衣 ば世に注がれる裁きを免れると言われた。しかし,シオン の民としてふさわしくなければ,何の約束も受けないとも はこの世の血から清められ,人々は天の御父なる神の手に ゆだねられる。すでに述べたように,福音を拒む人々が責 言われた(教義と聖約97:21−27参照)。聖徒たちはシオ ンを築くことを怠り,その律法に従って生活しなかったた 任を取らなければならないのは,わたしたちにではなく神 に対してだからである。 」(『説教集』24:289) の 301 第113章 イザヤ書の解釈 23:5−6;33:15−17参照)。これらの言葉は,キリスト 歴史的背景 がエッサイの息子ダビデ王の家系から出ることを指してい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1838年1月,預言者ジョセフ・スミスは,命をねらう敵 るのである(使徒2:30;13:22−23;ローマ1:3;ルカ 1:32参照)。 から逃れるためにカートランドを脱出した。そしてミズー リ州ファーウェストに向かって旅をし,3月14日にそこに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約113:3−6 イザヤの語った「芽」と「根」 着いた。ジョセフ・スミスがミズーリに到着した直後の出 はだれを指すか 来事が,彼の記録の中に記されている。 「〔1838年〕3月14日,ファーウェストに入ろうとしたと スペリーは「芽」と「根」について次のように記してい る。「筆者はこれまで次のように推測してきた。預言者は き,大勢の兄弟たちが出迎えてくれた。彼らは両手を広げ, その懐にわたしたちを受け入れてくれた。わたしたちは直 慎み深さから,自分の名前を直接挙げることを躊 躇 した が,この『芽』はジョセフ・スミスを指している。ジョセ ちにジョージ・W・ハリス兄弟の家に迎えられた。ハリス フが『キリストの手の中の一人の僕』となるように定めら 兄弟はわたしたちをこれ以上は親切にできないというほど 温かくもてなしてくれ,わたしたちは長く苦しい旅も忘れ れていたことに,疑問を挟む人はいないであろう。さらに, モロナイは末日の預言者ジョセフに,イザヤの偉大な示現 てしまうような満足感に浸った。兄弟たちはわたしたちが 必要としているものを与えてくれたため,わたしたちは実 の中で彼の果たす役割について説明したが,ジョセフ・ス ミスが『芽』すなわち『僕』であると仮定すれば,このモ に快適な生活を送ることができた。 ロナイの使命とぴったり一致するのである。『芽』すなわ ち『キリストの手の中の一人の僕』として,ジョセフ・ス 到着後2,3日して,弟のサミュエルが家族を連れてやっ て来た。 」(History of the Church『教会歴史』3:8−9) ちゅう ちょ しもべ ミスはイザヤの預言に当然当てはまっているし,モロナイ 預言者ジョセフの記録には,何の説明もなしに,イザヤ 書に関する質問の解答が記されている。だれが最初の質問 が彼にイザヤ第11章を引用して説明した理由も容易に理解 できる。 〔ジョセフ・スミス−歴史1:40参照〕 をしたのかは分からない。預言者が自分のために尋ねたの こうした論証にもかかわらず,わたしたちはジョセフ・ スミスが『芽』であることを示すより確かな証拠があるは かもしれない。最後の質問は,エライアス・ヒグビーから 出たものである。質問に対する答えは,主から直接与えら ずだという気持ちになる。わたしは,より確かな証拠があ れている。 第113章は,1876年版の『教義と聖約』に初めて収録さ ると信じている。それは教義と聖約113:5−6である。… … れた。 この説明を明快に評価するため,イザヤ11:10を見てみ よう。 〔引用〕 注 解 原文に近く翻訳すれば,次のようになるであろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約113:1−2 「エッサイの株」がキリストを 指すのはなぜか 「株」と翻訳されているヘブライ語の単語は, 「木が切り 倒された跡に残った切り株」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』p.738)を意味している。ラスムッセ ンは,イザヤ11:1がヘブライ詩であると指摘している。 「詩的な対を成すこの聖句を……逐語訳すると,次のよ うになる。 『エッサイの幹から一つの枝が出るであろう。 まことに,その根から生えた一つの若枝が実を結ぶで あろう。 』 エッサイの家系はダビデの時代から国王の家系であるの で,この『枝』はだれかということについて,疑問の余地 があるだろうか。 」(Introduction to the Old Testament『旧約 聖書の入門』2:45) 「枝」と「株」は,どちらもキリストである(エレミヤ 302 教義と聖約第113章により,イザヤ書の意味が明らかになる 『その日,エッサイの根が立って,もろもろの民の旗 である。 」(“The Problem of the ‘Rod’ and the ‘Root of Jesse’ 〔しるし,標識〕となり,もろもろの国びとは彼を尋ね求 め,彼の置かれる所〔避け所,住居〕に栄光がある。』 in Isaiah 11” Improvement Era「イザヤ第11章の『芽』と 『エッサイの根』に関する問題」『インプルーブメント・エ 明らかに『エッサイの根』とは,(主が説明されたよう に)エッサイとヨセフの子孫から出る一人の人である。さ ラ』1966年10月号,pp.869,914−915) 幾つかの聖句では.キリストが「ダビデの根」(欽定訳 らにこの人は,イザヤ11:11−16に説明されているよう に,イスラエルの残りの子孫の集合に関連して,重大な使 黙示5:5;22:16)として表されている。ブルース・R・ マッコンキー長老は次のように説明している。「この称号 命を果たすと思われる。わたしの考えを言えば,第1節の は,『ダビデの子』であるキリストが,ダビデよりも前か 『芽』と第10節の『エッサイの根』は同じ人物,すなわち ジョセフ・スミスである。教義と聖約113:4によれば, ら存在し,彼をしのぐ卓越した力を持ち,イスラエルの偉 大な王に王国と権威を授ける根,すなわち根源であること 『芽』は『キリストの手の中の一人の僕であって,幾分は エフライムの子孫,すなわちヨセフの家の子孫であるだけ を明らかにしている。」(Mormon Doctrine『モルモンの教 義』p.657。マタイ22:44−45参照) 教義と聖約第113章 でなく,幾分はエッサイの子孫でもあり,大きな力を授け で与えられたイザヤ11:10の説明は,キリストがダビデの られる者である。 』もしそうであるならば,第6節に注目し ていただきたい。この人物についてさらにはっきりと定義 根であるが,イザヤの語ったエッサイの根ではないことを 明示している。この結論には,二つの理由がある。第1に, されているようである。『それはエッサイの子孫であり, ヨセフの子孫でもあって,終わりの時に,旗となるために, 主は第2節でジョセフ・スミスを通して,キリストが「エ ッサイの株」であると言っておられる。「エッサイの根」 またわたしの民を集めるために,神権と王国の鍵とを正当 であるとは言われなかった。第2に,6節で指摘されている に所有する者である。』ジョセフ・スミス以外に,この表 現に適合する人物がいるだろうか(教義と聖約27:12− ように,エッサイの根は「終わりの時に」キリストの民を 集めるためにもろもろの鍵を授けられるキリストの僕であ 13;86:8−11;110:1−16;115:18−19参照)。ジョセ フ・スミスは血統によって神権とその鍵を正当に所有して る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いる。そして,1836年4月3日,カートランド神殿におい て,『わたしの民を集める』鍵がモーセからジョセフ・ス 教義と聖約113:9−10 イスラエルの集合 教義と聖約45:64−75;109:61−67;110:11の「注 ミスに授けられた事実を,だれ一人反駁する者はいないの 解」を参照する。 かぎ はんばく デビッド・W・パッテンに 与えられた啓示 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第114章 を与えなければならない。アーメン。』パッテン長老はこ の啓示に忠実に従い, この召しを果たすために事を運んだ。 しかしながら春の訪れを待たずして,彼の身の上にその伝 預言者ジョセフ・スミスは,1838年4月17日にミズーリ 道の本質を変えてしまうような出来事が起きることになっ 州ファーウェストで,デビッド・W・パッテンのためにこ の啓示を受けた(History of the Church『教会歴史』3:23 たのである。 」(スミス,Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』2:85) 参照)。パッテン長老は,最初に召された使徒の一人であ った。「彼はミズーリにしばらく住んでいた。そして,管 1838年10月,ミズーリにおける暴徒の迫害は,聖徒の財 産だけでなく命までも脅かした。ある暴徒の一団は3人を 理者として任命されていたデビッド・ホイットマー,ウィ 捕虜にし,彼らを殺すことを約束し,聖徒たちを焼き打ち にするために明朝やって来ると言った。預言者ジョセフ・ リアム・W・フェルプス,ジョン・ホイットマーの3人を 含む,不平を抱き預言者に反抗的な態度をとる幹部の兄弟 スミスはパッテン長老に,75人の志願者を率いて30人ない たちの中で,トーマス・B・マーシュとともに確固とした 影響力を維持していた人であった。主はパッテン長老に, し40人の暴徒と相対し,できれば血を流さずに暴徒を追い 返し,3人の捕虜を救い出すように指示した。この戦いで できるだけ早く事業を清算し,その商品を処分し,来年の の 春にほかの人々とともに全世界に福音を宣べ伝える伝道に パッテン長老は腹を撃たれ,その日の夜に死んだ。預言者 ジョセフは次のように述べている。「彼は十二使徒の一人 出かける準備をするように求められた。『まことに,主は であり,これまで生きてきたように神の人として死に,暴 このように言う。あなたがたの中にわたしの名を否定する 者がいれば,ほかの者を代わりに立てて,否定する者の職 徒が存在しない世界での栄えある復活を心から信じてい た。」(『教会歴史』3:171) 303 ィリアム・W・フェルプスが否認された。そして数日後に, 十二使徒のトーマス・B・マーシュとデビッド・W・パッ テンが選出され,預言者が到着するまで管理会として働く ことになった。オリバー・カウドリも彼の役職を取り上げ られた。ウィリアム・W・フェルプスとジョン・ホイット マーは,クリスチャンらしくない行為を改めなかったため に,ファーウェストの高等評議会により破門された。ジョ セフが到着する4日前のことであった。 ミズーリの聖徒たちのところへ向かう預言者にとって, これは悲しむべき事態であった。…… 1838年4月12日,オリバー・カウドリは重大な過ちを悔 い改めなかったために,ファーウェストの高等評議会によ り破門された。その翌日,同法廷において,デビッド・ホ デビッド・W・パッテンが致命傷を負ったミズーリ州クルック ト川 イットマーは知恵の言葉に対する不従順とクリスチャンら しくない行為を告発され,破門された。ルーク・S・ジョ 教義と聖約第114章は,ブリガム・ヤング大管長の指示 ンソン,ライマン・E・ジョンソン,ジョン・F・ボイン トンも同時期に破門され,それから一月足らずの内に,ウ を受けたオーソン・プラット長老により,1876年版の『教 義と聖約』に加えられた。 ィリアム・E・マクレリンも同じ運命をたどった〔以上は 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 練を共にし,天にかかわる栄光ある業にともに携わってき た人々との交わりが断たれたのである。しかし,彼らはも 教義と聖約114:1 十二使徒に与えられた使命は何か 十二使徒は,1839年4月26日にファーウェストを出発し はや木の生長を妨げる枯れ枝であり,刈り込む者にとって 切り落とさなければならない枝であった。」(Life of Joseph て英国へ向かうことになった。しかしパッテン長老はその 時を待たずに,1838年10月25日にクルックト川の戦いで殺 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ された(教義と聖約118章;『教会歴史』3:170−171, 教義と聖約114:2 336−339参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 主が言われたように,忠実でない人々の職はほかの人が 代わりに受ける。ブルース・R・マッコンキー長老は, 教義と聖約114:2 主の業を拒む人々 この啓示が与えられた月に,すなわち1838年4月に,教 会の指導的な立場にある兄弟たち数人が破門された。ジョ ージ・Q・キャノン副管長は,その年の最初の数か月間に 起きた出来事を次のように回想している。 「1838年1月にカートランドの暴徒から逃れたジョセフ・ スミスがミズーリへ急いでいるとき,ファーウェストでは 聖徒の総大会が2月5日に開かれ,地元の管理会を構成して いたデビッド・ホイットマー,ジョン・ホイットマー,ウ 皆十二使徒定員会の会員であった〕 。 ジョセフにとって,それは悲しい日であった。多くの試 Smith『ジョセフ・スミスの生涯』pp.237−238) 「職」は何を意味するか 「職」の意味を次のように説明している。 「教会において重 要な責任を伴う役職または地位,教会の重要な業務の運営 を管理する役職,これらはすべて監督の職である。……す なわち,監督によって管理運営される教会の諸事は,監督 かぎ の職である。また,王国の鍵を持ち,教会のすべての事柄 を管理する権限を与えられた十二使徒評議会の会員は,監 督の職として仕えているのである。」(Mormon Doctrine 『モルモンの教義』p.89) 「わたしの教会は,終わりの時に このように…… 呼ばれなければならない」 歴史的背景 第115章 与えられた。 1838年4月26日,預言者ジョセフ・スミスはミズーリ州 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ファーウェストでこの啓示を受け, 次のように記している。 この啓示は,第114章が記録されてから9日後に,教会の 役員と一般会員,特に大管長会と管理監督会を対象として 「その地を築き上げて主の宮を建てることについての神の み こころ 御 心 を 知 ら せ る 啓 示 。」( 教 義 と 聖 約 115章 の 前 書 き 。 304 第115章 History of the Church『教会歴史』3:23参照) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約115:1 大管長会 この大管長会が組織されるに至った過程は,教義と聖約 112:17−19の「注解」に説明されている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約115:1 シドニー・リグドンとハイラム・ スミス以外にも,ジョセフ・スミスの副管長がいたか 1837年9月3日,オハイオ州カートランドで大会が開か れ,オリバー・カウドリ,ジョセフ・スミス・シニア,ハ イラム・スミス,ジョン・スミスが副管長補佐として支持 された。 しかし,教義と聖約第115章の啓示が与えられたときは, ミズーリ州ファーウェストの風景 ジョセフ・スミス・シニアとジョン・スミスだけが副管長 補佐を務めていた(1838年4月26日)。ハイラム・スミスは 教会である。聖徒たちはイエス・キリストとともにこの教 大管長会のフレデリック・G・ウィリアムズに代わり,オ 会を所有するが, それは名称の中で見事に表現されている。 すなわち『末日聖徒イエス・キリスト教会』は『イエス・ リバー・カウドリは教会員の資格を失っていた(『教会歴 史』2:509;スミス,Essentials in Church History『教会歴 キリストの教会』であり,同時に『末日聖徒の教会』なの である。」(『教会歴史』3:23−24脚注。3ニーファイ27: 史粋』p.569参照)。 以上の人々のほかに,後年ノーブーで預言者ジョセフ・ スミスの副管長を務めたのは,ジョン・C・ベネット(シ ドニー・リグドンが病気のため短期間仕えた),ウィリア ム・ロー,アマサ・ライマンである(『教会歴史』4:255, 264,282−286,341参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約115:3−4 教会の正式名称 B・H・ロバーツ長老は,教会の名称の重要性について 7−8参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約115:5 教会はいかに国民のための旗にな るか 第二次世界大戦の初期のころに,ジョン・A・ウイッツ ォー長老は次のように記している。 「世に対するわたしたちの使命は何か。わたしは聖典を ひもといて答えを探し,古代と現代の両方の聖典の中でそ 次のように述べている。 の答えを見いだした。キリストの教会はいつの時代にも, 安全と平和と幸福を求めるすべての国民,すべての民,す 「この啓示の第3節および第4節を見ると,主が『末日聖 徒イエス・キリスト教会』という正式名称を教会に与えら べての人々が目を向ける旗でなければならない。 わたしたちの大きな使命は……全世界の旗となることで れたことが分かる。それ以前,教会は『キリストの教会』 ある。そしてこの旗に従うならば人生で何よりも望ましい 『イエス・キリストの教会』『神の教会』などと呼ばれ, 1834年5月にカートランドで開かれた長老たちの大会では, ものを得るであろうと,わたしたちは躊 躇 せずに申し上 げる。この峡谷に住む少数の民が,誤解されてしばしば迫 『末日聖徒の教会』という名称が与えられた(『教会歴史』 2:62−63参照)。しかしながら,これらすべての名称はこ 害に悩まされながらも,全人類を平和と幸福に導く旗にな るというのは,大胆な,実に大胆な宣言である。しかし, の啓示によって一掃された。しばしば『モルモン教会』 『キリストの教会』などと呼ばれるものの,その後この啓 それはほんとうのことである。わたしの語る言葉ではない。 示で与えられた正式名称が教会の真実の名称として認めら れるようになった。この名称が適確であることは自明であ る。この名称には組織における主イエス・キリストと使徒 たちとの関係が見事に表現されている。この教会は『イエ ス・キリストの教会』である。主の教会である。所有者は 主であり,主が組織された教会である。そして主の真理の 神聖な受託所なのである。教会は,主が人類に得させたい ちゅう ちょ 古代と現代の主の言葉なのである〔イザヤ62:10−12参 照〕。もし世の人々がこの旗を受け入れるなら,わたした ちが祈って待ち望んできたものが間もなくやって来るであ ろう。 ただし,教会自体はこの旗になることはできない。教会 は個々の会員によって構成されているから,教会をもろも ろの国民のための旗にするのは, 個々の会員の責任である。 と願うあらゆる霊にかかわる真理を宣言する主の道具であ わたしは生活の中で『旗』になる必要がある。人生にさら に大きな喜びを求める人々が従って来られる旗になれるよ り,また教え導く場であり,聖徒を完成へと導く所である。 このような観点から見れば教会は主のものであるが,同時 うに,わたしは正しく振る舞わなければならない。」(『大 会報告』1940年4月,p.35) に聖徒たちのものである。教会は世の宗教上の混乱や疑惑 から逃れる場所であり,原則と教義と義を教えてくれる所 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ である。信仰と徳に関する事柄に指針を与えてくれるのも 教義と聖約115:6 安全はどこにあるか 多くの末日聖徒は,故郷を離れてユタ州ソルトレーク・ 305 シティーやミズーリ州ジャクソン郡に移住すべきかどうか 教義と聖約115:7−16 思い悩んでいるが,この聖句はそのような聖徒に答えを与 かんなん えている。彼らはシオンが艱難のときの安全の地になると されなかったのはなぜか スミスとショダールは,この命令が履行されなかった理 聞いて,教会本部の近くに住んでいない会員が安全だろう かと真剣に考えている。ここで主が特に述べておられるよ 由を次のように説明している。 「当時ファーウェストにはおよそ150軒の家があり,店舗 うに,シオンとそのステークは防御のためとなり,嵐の避 け所となる。教会の指導者が繰り返し勧告してきたことで やホテル,それに立派な学校もあった。この町は緩やかに 波打つ大平原の真ん中に,まるで魔法のように現れた。近 あるが,この時代の聖徒たちは自分の国で地元の集会に集 隣の人々の偏狭さや気違いじみた言行がなければ,そこは い,そこがステークとなって,強力な霊的防御の場所とな るようにすべきである。ハロルド・B・リー長老が指摘し 砂漠と化さずに,今日では人口の密集地となって,様々な 大陸の富が流れ込んでいたであろう。 ているように,集合の指示は大管長会から出される。 「しかし集合場所に関する指示は,もう一つの啓示の中 1838年7月4日,神殿の隅石が据えられた。ある歴史家に よれば,500人以上の男が雇われて,縦120フィート(約36 あらし ファーウェストに神殿が建設 こんにち で主によって定められている。この啓示に皆さんの注意を メートル),横80フィート(約24メートル),深さ5フィー 喚起したいと思う。主は当時の聖徒たちに集合すべき場所 を指定してから,こう言われた。 ト(約1.5メートル)の穴を半日で掘り上げたという。し かし,迫害の嵐が猛威を振るったため,それ以上ほとんど 『そして,ついに彼らのためにもう余地のない日が来る。 そのとき,わたしが彼らに指定するほかの場所がある。』 工事は進まず,ファーウェストの聖徒たちは再び流浪の民 となった。 」(Commentary『注解』p.742) (教義と聖約101:21) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ このことから明らかなように,主は集合の業を指示する 責任を教会の指導者に与え,将来そのような集合を行う時 教義と聖約115:17−19 ファーウェストの建設 主は初期の啓示の中で聖徒たちに,慌てて集合しないよ と場所について,彼らに御心を示されるのである。大切な ことは,神のすべての約束と預言の成就に関連した恐ろし うに指示された(教義と聖約58:56;63:24;101:68参 照)。しかしこのときになって主は,速やかにファーウェ い出来事が起こる前に,すべての国々の聖徒たちが自らを 備え,集合の地に関する大管長からの指示を待ち望み,正 ストに集合するよう促しておられる。スミスとショダール は,この変更について考えられる理由を次のように指摘し しい権能を持つ者に主からそのような指示が与えられるま ている。「聖徒が大挙して集合し,数々のステークと町を で,気持ちを乱さないことである。」(Conference Report 『大会報告』1948年4月,p.55) もっと急いで建設すれば,企みを実行しようとする敵の力 は弱まるであろう。これは十分予想できることである。聖 シオンへの集合については,教義と聖約45:64−75; 101:20−22の「注解」でも採り上げている。 徒がこの点において義務を遂行しなかったことは,教義と 聖約117:1−6からうかがえる。 」(『注解』p.743) 大会議 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この章は預言者ジョセフ・スミスの記した歴史から取ら れ,ブリガム・ヤング大管長の指示を受けたオーソン・プ ラット長老により,1876年版の『教義と聖約』に収録され 第116章 ジ監督,エライアス・ヒグビー,シメオン・カーター,ア ランソン・リプレー,そのほか多くの人々を伴い,ファー ウェストをたった。目的は,北方の郡を訪れてシオンのス テークのために土地を調査し,用地を決め,土地の所有権 を獲得して,聖徒の集合を助けるためである。また,貧し い人々を助け,神の教会を鼓舞するためである。…… た。『教義と聖約』のほかの章の持つ意義から考えると, これは公式の啓示ではないが,明らかに神から直接与えら 19日土曜日。朝テントを畳むと,行進の隊形を作って進 み,ハニークリークとの合流点のネルソンズフェリー(ネ れたものである。したがって,収録する価値がある。預言 者ジョセフ・スミスは,1838年の記録の中で次のように記 ルソンの渡し場)でグランド川を渡った。グランド川は大 きく美しい川で,流れが急で,川底が深い。春の豊水期に している。 は,蒸気船か小型の船で渡れるだろう。ハニークリークの 「5月18日金曜日。わたしはシドニー・リグドン,トーマ ス・B・マーシュ,デビッド・W・パッテン,パートリッ 合流点は上陸に適していた。わたしたちは川上に向かって 進み,ほとんど森林の中を18マイルほど行くと,ライマ 306 ン・ワイト大佐の家に着いた。彼はタワーヒル(昔のニー ファイ人の祭壇か塔の遺跡があったので,わたしが付けた 名)のふもとに住んでいる。わたしたちはそこでキャンプ して安息日を過ごした。 その日の午後,わたしはリグドン副管長と書記のジョー ジ・W・ロビンソンを伴って,半マイルほど上流にあるワ イツフェリーへ行った。その近くで町を築く土地を選び, 所有権を獲得するためであった。そこは,デイビーズ郡60 郡区,27,28経線間地区,25,36,31,30区画で,兄弟た ちはそこを『スプリングヒル』と呼んだ。しかし,主はそ こを『アダム・オンダイ・アーマンと呼ばれた。アダムが その民を訪れるために来る場所,すなわち預言者ダニエル によって述べられたように日の老いたる者が座する場所だ からである。 』」(History of the Church『教会歴史』3:34− 35) 預言者ジョセフ・スミスは別の機会に,この地について 次のように記している。「アダム・オンダイ・アーマンは ミズーリ州デイビーズ郡を流れるグランド川の真北に位置 し,ファーウェストの北方約25マイル(約40キロ)の所に ある。その地点はちょうど高地になっており,合衆国広し といえどもこれほどさわやかな場所はほかにないというく らいの所である。また近くを流れる川や村々が一望の下に 見渡せ,実に美しい景観を呈している。」(『教会歴史』3: 39) 注 解 アダム・オンダイ・アーマンのスプリングヒル たちの主はそこで統治の権利を引き受けられる。神権者に 指示が与えられるだろう。政治の権力を持つ主は,そこに 集合した神権者の声により, 公的に統治者の職に就かれる。 この神権者の大会議は,今この地上にある忠実な人々だけ でなく,管理の権利を持つ古代の預言者と使徒から構成さ れる。そのほかの人たちもそこに出席するかもしれない。 しかしそれは出席するように召された場合の話である。な アダムが管理する会議の目的は何 ぜならこの会議は,この地球の行く末にかかわる最も重要 な事柄を扱う会議だからである。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,ダニエ 世の人たちは,この会合の開かれる時がいつであるか知 らない。教会の会員も大部分知らない。しかし,預言者ジ ル7:9−14で預言されているように,アダム・オンダイ・ アーマンで開かれる会議について次のように述べている。 ョセフ・スミスの言うように,これは栄光の雲に乗って来 られる救い主イエス・キリストの降臨に備えるものであ 「この大会議は,この世の人たちにとって最も重要なも のとなる。このとき,横領者であり,詐欺師であるルシフ る。世の人たちはこの日を知ることができない。またこの ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約116:1 か ェルより,正義の王イエス・キリストに権威の譲り渡しが 会議に出席するよう公的に召された人を除いて,聖徒たち も知ることができない。なぜなら,この会議は,夜の盗人 行われる。審判が定められ,鍵を持つすべての人は,要求 されるに従って報告し,それぞれの職を返すことだろう。 のように,だれにも知られないで,イエス・キリストの降 臨に先立って開かれるものであるからである。」(『完成へ アダムはこの審判を指揮し, この地球の鍵を持つ者として, 最高の指揮者であるイエス・キリストに報告する。わたし の道』p.228) かぎ ウィリアム・マークス,ニューエル・ K・ホイットニー,オリバー・グレイ ンジャーに与えられた啓示 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『教義と聖約』のこの章は,1838年7月8日にミズーリ州 第117章 ファーウェストで,預言者ジョセフ・スミスに与えられた 4つの啓示のうち,最初のものである。しかし, 『教義と聖 約』に掲載されている順序は,ジョセフ・スミスの記録に ある順序と少し異なっている。 307 「主は聖徒たちに,ともに集まってファーウェスト市を くださるのである。」(スミス,ショダール共著『注解』 早く建設するように命じられた(教義と聖約115:17参 照)。カートランドの陣営として知られる515人の人々がカ p.744) ウィリアム・マークスとニューエル・K・ホイットニー ートランドをたち,シオンへ向かったのは,1838年7月6日 は,カートランドの財産を売却せず,ミズーリへ行くよう のことであった。しかし途中で人々は四方八方に散り散り になってしまい,9月14日には260人に減っていた。このよ にという主の命令に従っていない,と主から指摘された。 第117章の4節と5節の意味から考えると,この財産の中に うにして陣営がアダム・オンダイ・アーマンに着いたの は,10月4日のことである。マークス,ホイットニー,グ は教会所有のものが含まれていた可能性がある。ニューエ ル・K・ホイットニーはカートランドの監督であったの レインジャーの3人はともにこの隊には加わらなかった。 〔グレインジャーはすでにファーウェストにいた。そして で,それらの財産を直接管理する職にあったであろう。い ずれにしても,二人は物事の相対的な価値を忘れたために, 彼は,カートランドにいるマークスとホイットニーにこの 主から厳しく叱責されたのである。ジョセフ・フィールデ 啓示を伝え,早くシオンの地に戻って来るように告げた。〕 ファーウェストにいたジョセフ・スミスにはだれがシオン ィング・スミス大管長は次のように述べている。「この二 人の兄弟が,1837年におけるカートランドでのすさまじい へ向けて出発し,だれがまだ残っているか,知る手段はま ったくなかったが,主は知っておられた。なぜならこの啓 投機熱や誘惑に負けてしまっていたことは明白である。こ のカートランドにおける異常事態は,教会の幹部である多 示の中で,主はウィリアム・マークスとニューエル・K・ くの兄弟たちを堕落の道へ至らしめた。しかしながら二人 ホイットニーをシオンへ呼び,カートランドの財産の清算 について指導するように命じておられるからである。」(ス はまだ信仰を失ってはいなかった。主がこの召しをお与え になったとき,彼らはそれに従ったのである。」(Church ミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.744) History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』 2:96) 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約117:1−6 カートランドの財産 教義と聖約117:6−7 神は地球とそれに属するすべて のものを治める権威を持っておられる 「カートランドには,聖徒個人の財産と教会所有の財産 があった。多くの聖徒たちは,この世の利益を犠牲にする 主と結ばれている人々は,究極的には栄えるであろう。 神は一切の権威を持っておられ,まっすぐに歩んで神の勧 ことをして,カートランドにとどまっていた。主はこのよ 告に従う人々のためにすべての事柄がともに働くようにし うな状態を罪と見なし(4節) ,悔い改めてカートランドの 財産を負債の償却に充てるように呼びかけられた(5節)。 てくださる(教義と聖約90:24参照) 。 ジョン・テーラー長老は次のように述べている。「わた 聖徒が主に仕えるために払う犠牲は何であれ,主が報いて しは,やがて起こる出来事や,わたしたちが取り組まなけ ればならない試練や災難や苦難について,大して心配して しっせき はいない。これらの事柄は神の手の中にあり,神は人類の 諸事を命じ,指示し,支配しておられるからである。ただ, アイオワ わたしたちが一つの民として行わなければならないのは, わたしたちの神を求め,神に従い,神と密接な関係を保ち, 神の導きを求め,またわたしたちが正しい道を歩めるよう ミズーリ み たま アダム・オンダイ・ アーマン ファーウェスト に導く神の祝福と聖なる御霊を求めることである。そうす れば,わたしたちの競う相手が何であろうと,まただれで あろうと問題ではない。神はその時々に力を与えてくださ ることだろう。」(Journal of Discourses『説教集』18:281) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約117:7 を見たか 末日聖徒は寂しい所に花が咲くの ミ ー ズ 「この約束は末日聖徒の歴史の中で奇跡的に成就した。 川 リ 末日聖徒がどこに住もうと,その地は祝福され,空気は湿 り気を帯び,天候はさらに穏やかになった。いわゆる『ア インディペンデンス カンサス ミズーリ メリカ大砂漠』は,もはや存在していない。その場所には 一つの内陸帝国があって,急速に増加する人口や工業の中 心地,活気に満ちた商業地などを擁している。この現代の 奇跡は,教会員が山岳地帯に定住することによって実現さ れたのである。」(スミス,ショダール共著『注解』p.745) 教会の中心地は,ミズーリ州のアダム・オンダイ・アーマンと ファーウェストであった 308 第117章 教義と聖約117:8 アダム・オンダイ・アーマン── 「月と太陽の原」ということになる。そのように呼ばれた アダムが住んでいた地 教義と聖約第116章の「注解」を参照する。 のは,そこで天体観測が行われたからであろう。』モーセ 書から分かるように,主は昔の人々に,もろもろの星に関 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ する偉大な知識を明らかにされた。アブラハムは啓示によ り,またウリムとトンミムを通して,天や支配する遊星, 教義と聖約117:8 「あなたがたが一滴のしずくにす ぎないものをむさぼって」とはどういう意味か カートランドを離れてシオンの聖徒たちに合流するよう すなわちもろもろの星に関する驚嘆すべき知識を与えられ た。また預言者ジョセフ・スミスは,メトセラがアダムを に命じられたときに,自分の財産にしがみついていた人々 はじめとする洪水以前のほかの預言者と同じように,もろ は最も愚かである。主がその民に注がれるに違いない祝福 と比較したら,一区画の土地は何とつまらないものだろう もろの星のことを知っていたことを明らかにしている。し たがって,わたしたちの宇宙のもろもろの星に関する重要 か。さらにまた,に従う人が主の知恵によって土地や必要 なものをすべて得られるように,主は助けを与えてくださ な情報がこの谷で伝えられたと考えるのは,道理にかなっ たことであろう。 」(『教会歴史と近代の啓示』2:97−98) らないだろうか(マルコ10:28−30参照)。スペンサー・ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ W・キンボール大管長は次のように教えている。 「ある知人が教会のある責任に召されることになった。 教義と聖約117:11 ニコライ派とは何か,主がニュー エル・K・ホイットニーをこの派と関連づけられたのはな しかし彼は事業が忙しくて主の業に携わる時間があまり取 れないので,その召しを受けることができないと考えた。 ぜか 多くの聖書学者は,新約の時代のニコライ派がニコラオ 彼は主に奉仕することよりも富を得ることを望んだのであ (使徒6:5参照)に従う人々であったと信じている。ニコ る。現在彼は大金持ちになっている。 最近わたしはおもしろいことを知った。ここに,時価 ラオは,食糧や物品の分配を管理するため,エルサレムの 教会で任命された7人のうちの一人である。初期の教会の 100万ドルの金塊を所有する人がいるとする。しかし実際 に彼は地球の薄い地殻に眠る金の埋蔵量の,270億分の1ほ 指導者の中には,彼が真の福音から背教して独自の教派, すなわちニコライ派を設立したと信じている人がいた どしか所有していないのである。これは人間の頭では想像 も及ばないほど微量である。一方,この地球を創造し支配 しておられる主はほかにも数多くの同じような地球を創造 (Interpreter‘s Dictionary of the Bible『聖書解釈辞典』3:548 参照) 。 ある聖書学者は,ニコライ派の信条について次のように された。それも『無数の世界』(モーセ1:33)をである。 そして神権の誓詞と聖約を受け入れた者は(教義と聖約 記している。「彼らは使徒15:20,29に明示されている教 会の定めに反し,偶像に供えたものを食べることや不品行 84:33−44),『わたしの父が持っておられるすべて』(38 節)を持つという主の約束を受けている。この偉大な約束 を行うことが律法にかなっていると信じていたようであ る。……迫害の時代において,すなわち偶像の供え物を食 を無視して,金やこの世の慰安を追い求めるのは,膨大な べるか否かがこれまで以上に,きわめて重大な忠実さの試 比率の誤りとしか言いようがない。そんなささいなもので 満足している人間を見るのは悲しいことであり,惨めで情 しになったとき,ニコライ派は,食べても大した問題では ないと盛んに説き勧めた。黙示2:13−14にあるとおりで けなくさえ思う。人間はもっとはるかに貴い存在のはずで ある。」(“The False Gods We Worship” Ensign「偽りの神々」 ある。これだけでもひどい悪事であったが,さらに悪いこ とがあった。彼らは偶像を祭る乱飲乱舞の酒宴に出席し, 『エンサイン』1976年6月号,p.5) そうした祭りの不品行を教会の集会に持ち込んだのであ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約117:8 「オラハ・シネハ」はどこか る。ここで忘れてならないのは,すべてのことが欲望を満 足させる手段としてだけでなく,預言的な色彩を誇る『教 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に記している。「オラハ・シネハの原,すなわちアダムが 義』に裏づけられた制度の一部として行われたことであ る。」(スミス,Dictionary of the Bible『聖書辞典』p.447) 住んでいた場所は,アダム・オンダイ・アーマンの一部, またはその近辺であったに違いない。オラハ・シネハとい ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように記して いる。現代のニコライ派とは「世の方法で生活しながら, う地名は,恐らくアダムの言語に由来するのであろう。こ 教会での立場を守ろうとしている会員のことである。…… の地名がアダムの付けた名であることは論を待たない。少 なくとも,十中八九正しい推測であると言える。シネハと この名称は,教会の記録に名を残すことを望みながら,福 音のために真心から自らをささげようとしない人を指すの は,アブラハム書によれば,太陽に付けられた名である (アブラハム3:13)。また,主が啓示の中でほんとうの名 に使われるようになった。」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』3:446) 称を隠そうとされたとき,カートランドを指すために使わ ニューエル・K・ホイットニーは監督として,カートラ れた名前である(教義と聖約82章)。ジャン・M・ショダ ール長老は,オラハ・シネハという名について次のように ンドにおける食糧や日用品の配給を管理していた。もし昔 のニコラオが同様の神聖な召しからこの世的な生活へ心を 述べている。『シネハは太陽を意味し,オラハは恐らく, 「月」を表す言葉オレアが変化したものであろう(アブラ 向けたのであれば,この関係はニューエル・K・ホイット ニーにも当てはまる。彼は同じことをしようとしていた。 ハム3:13)。もしそうであれば,オラハ・シネハの原は その態度は同じように叱責に値するものであった。監督と 309 しての彼の義務は,会員から奉献されたものを受け取り, ヤ4:30;アルマ12:14;教義と聖約137:9参照)。 彼らに管理の職を与えることであった。「俗世のむなしい ものに執着」 (ヒラマン12:4)して,不純な動機からカー ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ トランドにとどまったとすれば,昔のニコライ派と同様の 性癖を表していたのである。 への称賛 「オリバー・グレインジャーは信仰と実業の才を兼ね備 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約117:11 監督は「名前ではなく,行いでそ えた数少ない人物の一人である。彼はカートランドの陣営 を,教会が組織されて以来最も偉大な事業にまで発展させ, うしなさい」 その努力に対して神が祝福を授けてくださることを信じて J・ルーベン・クラーク・ジュニア長老は1951年,デビ ッド・O・マッケイ大管長の下で第二副管長に召された。 疑わなかった(History of the Church『教会歴史』3:96)。 預言者はカートランドから逃れるに当たってグレインジャ それ以前は,ジョージ・アルバート・スミス大管長の第一 副管長を務めていた。浅はかな人はこれを降格と思い,ク ーを事業の代理人に指名した。そして彼は立派にその義務 を果たし,実業家たちから称賛を受けた。1839年5月4日か ラーク副管長が気分を害するだろうと考えた。しかし,ク ら6日までクインシーで開かれた大会で,彼はカートラン ラーク副管長はそのような気持ちを少しも持たず,こう言 って聖徒たちに偉大な教訓を与えた。「主の業において問 ドに戻り,神殿と教会を預かるよう任命を受けた。これで この啓示の最後の節の意味が完全に明らかになる。彼の名 われるのは,どこで仕えるかではなく,どのように仕える かである。」(Conference Report『大会報告』1951年4月, は,その才能を主の業のためにささげた実業の人として, またその忠実な奉仕の人として長く記憶にとどめられるで p.154) あろう。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.746) 教会の役職だけでは,昇栄は保証されない。人々はどの ような役職にあったかではなく,どのように仕えたかによ 現在,オリバー・グレインジャーは教会初期のほかの指 導者ほど知られてはいないが,ほかでもない主がその名前 って裁かれるであろう。大切なのは,その人の思い,行い, 言葉,そして心の願いである(2ニーファイ9:14;モーサ を覚えていてくださったとすれば,それは十分な祝福であ ろう。 十二使徒会への啓示 教義と聖約117:12−15 オリバー・グレインジャー 第118章 決議1:背教者の空席を埋めるべき人に,ファーウェス 歴史的背景 トへ来るよう直ちに伝える。欠席している十二使徒にも伝 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示は,預言者ジョセフ・スミスが1838年7月8日に える。 決議2:トーマス・B・マーシュはウィルフォード・ウ ミズーリ州ファーウェストで受けた4つの啓示の一つであ り,「十二使徒会についてのあなたのをわたしたちにお示 ッドラフに,パーリー・P・プラットはオーソン・プラッ トに,ウィリアム・スミスは現在英国にいるウィラード・ しください」という願いに応じて与えられたものである リチャーズに,それぞれ伝達する。 マ ー シ ュ 会 長 が 『 エ ル ダ ー ズ ・ ジ ャ ー ナ ル 』( The (教義と聖約118章の前書き。History of the Church『教会歴 史』3:46)。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約118:1 「大会をすぐに開きなさい」 次に挙げるのは,「十二使徒会の集会の議事録」と題す Elders’ Journal)の次号を発行することが可決される。 リグドン副管長は,十二使徒がい主の業に従事する間, その家族のために行われる必需品の支給について幾つかの 勧告を与えた。また,改宗者が遅れることなく集合の地へ 移り,そこで神の律法を厳格に守れるように,十二使徒が 指示を与えるよう助言した。 」(『教会歴史』3:47) る預言者ジョセフ・スミスの記録である。 「1838年7月9日,ファーウェスト。1938年7月8日に与え この議事録には,会長のトーマス・B・マーシュと書記 のG・W・ロビンソンの署名がある。 られた啓示〔118章〕に従い,ファーウェストで十二使徒 の大会が開かれた。出席者:トーマス・B・マーシュ,デ 使徒と預言者は教会の土台であり(エペソ2:19−20), 主は十二使徒定員会が遅滞なくその機能を果たすように願 ビッド・W・パッテン,ブリガム・ヤング,パーリー・ っておられた。これは,主が管理定員会を重視しておられ P・プラット,ウィリアム・スミス。管理者:トーマス・ B・マーシュ。 たことを示すもう一つの証拠である。 310 第118章 教義と聖約118:2 トーマス・B・マーシュは何を発 殿の隅石を据えるように命じられている。これは成就しな 行するのか の 残りの十二使徒が出て行って福音を宣べ伝える間(教義 ければならない。ミズーリの住民は,『たとえジョセフ・ スミスを通して与えられたほかのすべての啓示が成就して と聖約118:3参照),トーマス・B・マーシュ会長は引き 続き『エルダーズ・ジャーナル』を発行することになった。 も,月日が定められているこの啓示が成就しなければ,そ のことを公言してやる』とあらゆる神々にかけて誓ってい これは,オハイオ州カートランドで果たしていた責任であ る。『エルダーズ・ジャーナル』は,1837年10月から1838 た。わたしの知るかぎり,大部分の教会員は,このような 状況下でその業を果たすのは不可能であり,実行しようと 年8月までの短期間発行された。 する気持ちだけで主は受け入れてくださる,と思ってい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約118:4−5 十二使徒は定められた日にファ た。」(ウィルフォード・ウッドラフ,Journal of Discourses 『説教集』13:159) ーウェストをたつことができたか 主は,およそ1年後の1839年4月26日に大会を開くように しかし十二使徒は,命じられた義務から逃れようとしな かった。 「1839年4月25日の夜,少数の使徒がわずかな人数 命じられたが,ミズーリの住民は明らかにそのことを知っ の忠実な兄弟,大祭司,長老,祭司を連れてファーウェス ていた。そして,十二使徒の活動を妨害してモルモニズム を排除することを決意した。啓示が与えられた日から指定 トに到着した。深夜を過ぎて間もない26日の早朝に,彼ら はファーウェストの神殿用地に集まって集会を開いた。」 された日までに,「教会全体がミズーリ州から追放され, 残っている人は末日聖徒であることが分かると,命をねら われた。十二使徒の場合は特にそうであった。啓示の中で (スミス,Church History and Modern Revelation『教会歴史 と近代の啓示』pp.196−197) ブリガム・ヤングが集会を管理した。書記のジョン・テ 指示されたように,神殿の隅石を据える時期が来たとき, 教会は知事の命令によってミズーリ州から追い出されてイ ーラーは次のように記している。 「それから評議会は,主の宮の建設地について話し合っ リノイ州にあった。ジョセフ・スミス,ハイラム・スミス, それにパーリー・P・プラットは,イエスについてののゆ た。以下の事柄を処理し,十二使徒の使命に関する賛美歌 の一部を歌った。 えに投獄されていた。この業を行う日が近づくにつれて, 『どうすればよいか』という疑問が起こってきた。啓示に 神殿建設の職人頭を務めるアルファス・カトラーが,主 の宮の土台を据えるように推薦され,啓示に従って,南東 よれば,十二使徒は4月26日にファーウェストに集って神 の角近くに大きな石を転がして据えた。 次の十二使徒が出席した。ブリガム・ヤング,ヒーバ ー・C・キンボール,オーソン・プラット,ジョン・E・ ページ,ジョン・テーラー。……堕落した人々の空席を埋 めるために,ウィルフォード・ウッドラフとジョージ・ A・スミスが聖任された。」(『教会歴史』3:336−338) 数人の使徒が祈りをささげた後,全員で「アダム・オン ダイ・アーマン」を歌い,使徒たちは出発した。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約118:6 これまでに十二使徒会から堕落し た者はだれか ウィリアム・E・マクレリン,ルーク・S・ジョンソン, ジョン・F・ボイントン,ライマン・E・ジョンソンの各 長老は,教会との不和に陥り,この時点で破門されていた。 彼らは1835年2月14日に召されたこの神権時代の最初の十 二使徒定員会の一員であった(『教会歴史』2:509;3: 31−32参照)。新たに召された使徒の一人ジョン・E・ペ ージも結局背教したが,残りの3人は信仰を守り,忠誠を 尽くした(教義と聖約118:6参照)。ジョン・テーラーと ウィルフォード・ウッドラフは,後に大管長になった。ジ ョン・テーラーは1838年12月19日にファーウェストで使徒 に聖任され,ウィルフォード・ウッドラフは1839年4月26 日にファーウェストで開かれた早朝の集会において使徒に 十二使徒はミズーリ州ファーウェストの神殿用地から伝道地へ 出発した 聖任された。 311 第119章 什分の一の律法 いる。 歴史的背景 「この『剰余』という言葉について少し考えてみよう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,1838年7月8日にミズーリ州 人とその財産に当てはめた場合,それはどういう意味だろ うか。剰余とは,何であれ定められた目的のために絶対に ファーウェストで,什 分 の一に関する啓示を受けた。こ の啓示は次の質問の答えとして与えられた。「おお,主よ, 不可欠な部分でなく,その目的のために必要な分を除いた 残りを意味する。人が第一に考え最も必要とする財産の使 あなたは什分の一として,あなたの民の財産のうちのどれ い道は, 自分と家族の衣食住を賄うことではないだろうか。 ほどをお求めになるか,あなたの僕 にお示しください。」 (教義と聖約119章の前書き。History of the Church『教会歴 これが,働いて収入を得るおもな理由であることは明らか である。この啓示が与えられるまで,すべての公共事業と 史』3:44) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 公共資金の調達は奉献によって行われてきたが,それは 『剰余の財産』ではなく,快適で必要最低限な糧を超えた に説明している。「主はかねてから教会に奉献の律法を授 ものではなかっただろうか。すでに明らかにされたことと けられ,会員,特に正式な会員に対してこの聖約に入り, 入った後は決してこれを破らないよう,また財産を奉献し その後の出来事に照らして見れば,ほかにどのような意味 が考えられるだろうか。1838年7月のファーウェストの状 て管理の職を受けるようにと命じておられた。なぜならこ れは日の栄えの律法だからである。しかしながら,聖約に 況を振り返るとき,ほかの見方ができるだろうか。 わたしが研究したかぎりでは,この啓示の中で使われて 入りながらこれを破った人は多く,そのため破った人は言 いる『剰余』という言葉について,今話した以外の定義を 見いだすことができなかった。当時の監督と民は,またこ じゅう ぶん しもべ うに及ばず,彼らの兄弟姉妹にまで恐ろしい罰と迫害が及 んだのである。このことがあって,この日の栄えの律法は あがな の啓示の最も有能な解釈者である預言者ジョセフ・スミス しばらくの間,すなわちシオンが贖われるときまで取り上 げられることとなった。当時ジョセフ・スミスとオリバ は,そのように理解し記録していたのである。」(Journal of Discourses『説教集』23:313) ー・カウドリは,負債がかさみ,またそれを返済する手段 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,今日の 聖徒が剰余の財産を求められていないことと,什分の一の もないという厳しい試練に立たされていたが,1834年11月 29日の厳粛なる祈りの中で,主から賜ったすべてのものの 義務が大切であることを次のように説明している。「さら 什分の一を貧しい者への施しのためにささげ,この律法を 子供にも,また孫にも守らせると約束している(『教会歴 に今日に近づくと,教会員は剰余の財産のすべてを教会に ささげることは求められなくなった。しかし,什分の一を 史』2:174−175)。しかしその律法を広く教会全体に行き わたらせる必要を感じた預言者は,導きを求めて主に祈っ 納めることが聖約によって要求されてきた。何が什分の一 なのかについて,実に多くの弁解と解釈が出ているのは驚 た 。 そ の 答 え が 〔 119章 の 〕 啓 示 と し て 与 え ら れ た 。」 くべきことである。聖典に記されているように,わたした はかり (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の 啓示』2:90−91) ちの測るその秤でわたしたちも量られる。もし主に対して 物惜しみするならば,主もわたしたちに同じようにされる 什分の一については以前の啓示の中ですでに触れられて いるが,この啓示は主によって廃された奉献の律法に代え であろう。言い換えれば,祝福を下さらないであろう。さ らにまた,わたしたちの中には,ほかの教会員と財産を共 て,新たな厳しい律法を確立したのである。「この啓示が 有することによって得をすると考えて,奉献の律法が施行 下される以前には,今日理解されているような什分の一の 律法は教会に与えられていなかった。前述の祈りと以前の されるのを心待ちにしている人がいる。いずれにしても, 什分の一の律法に従わない人には奉献の聖約に入る資格が 啓示(教義と聖約64:23;85:3;97:11)の中の『什分 の一』という言葉は,10分の1を意味するだけでなく,教 ないことは確かであり,シオンが確立されて地球が贖われ るとき,そのような人は自分が取り残されたことに気づく 会の基金への自由意志によるすべてのささげ物や寄付をも のである。 」(『教会歴史と近代の啓示』2:92) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ こんにち 意味していた。」(教義と聖約119章の前書き。スミス,シ ョダール共著,Commentary『注解』p.749参照) 教義と聖約119:2−3 什分の一の律法の目的は何か 注 解 什分の一の律法は,オーソン・F・ホイットニーが説明 しているように,しばらくの間の備えの律法である。「什 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約119:1 「剰余の財産」とは何か 分の一の律法は,一時,奉献の律法として知られるより高 い律法〔教義と聖約42:30−42〕に取って代わるものとし フランクリン・D・リチャーズ長老は次のように述べて て与えられた。奉献の律法とは,主の民をめ,『日の栄え 312 第119章 の世界で一つの場所を与えられる』 〔教義と聖約78:7〕こ とを目的としたものである。その目的のためには,利己心 どんよく や貪欲,高慢,ねたみ,貧困,そのほかそのような状況か ら発生すると思われるあらゆる悪弊を除去しなければなら ない。このようなものは,天の王国での存在を許されない からである。奉献の律法は平等とその結果生じる一致とを 確立するためのものであった。この律法にあってすべての 人は,その人に最も適した働きをなし,『その隣人の益を 図るように努め,また神の栄光にひたすら目を向けてすべ てのことをなす』〔教義と聖約82:19〕のである。……教 会設立直後,この律法に果敢に取り組もうとしたのが末日 聖徒である。 しかしながら当時の聖徒は経験不足であった。 心から一致して生活するというわけにはいかなかった。教 会内部における利己心,外部からの迫害,これらがこの律 法の完全な実施を妨げたのである。そこで主はこの律法を 民から取り去られた〔教義と聖約105章参照〕 。そして代わ りにより低い,守りやすい律法が与えられた。しかしこれ は,奉献の律法と同じように,より広大かつ輝かしい将来 を目指すものである。より低い律法である什分の一の律法 は,より高い律法に従って生活できるよう聖徒たちを高め る教師のような役割を果たし,奉献の律法が再び下された ときに,心からそれを受け入れることができるようにする ためのものである。什分の一の律法に従う人は奉献の律法 に従って生活するように備えられるのである。これに従わ ジョン・A・ウイッツォーは「什分の一」の意味について教え た ない人は備えられないであろう。要約すればこのとおりで あ る 。」( Conference Report『 大 会 報 告 』 1931年 4月 , pp.65−66) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約119:4 正直な什分の一とは何か 来の永遠の受け継ぎを決める際にも重大な影響を及ぼす。 メルビン・J・バラード長老は, 次のように勧告している。 「わたしたちは日の栄えの王国において,すなわち贖われ きよ ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように説明してい て聖められたこの地球において,受け継ぎを得たいと心か ら願っていないだろうか〔教義と聖約88:25−26;130:9 る。「什分の一とは,10分の1を意味している。それに満た ないものをささげる者は,什分の一を実際に納めていると 参照〕。受け継ぎを得るための条件は何であろうか。什分 の一の律法が受け継ぎの律法である。前者は後者に通じる は言えない。すなわち,末日の主の大義への貢献に劣る者 である。什分の一とは,収入,利益,あるいは生産物の10 道なのである。什分の一を納めない者は,日の栄えの地球 分の1を意味する。商人は商売で得た実収入の10分の1を納 において受け継ぎを得ることを期待できない。正直に什分 の一を納めてこそ,受け継ぎを得る権利と資格が備わるの め,農夫は農場経営で得た実収入の10分の1を納め,賃金 労働者やサラリーマンは労働で得た賃金や給料の10分の1 である。この律法やそのほかの必要条件を満たす以外に, 受け継ぎを確かなものにする方法はない。什分の一の律法 を納めるべきである。そして,残りの10分の9の中から, 生活費や税金などを支払い,貯蓄をするのである。収入か ら生活費,税金,そのほか類似の出費を差し引き,残額の 10分の1を納める者は,主の戒めに従っていない。そのよ うな方法を取る者の多くは,少しも什分の一を納めている ことにはならないであろう。この点について議論の余地は まったくない。什分の一は,わたしたちが得る全収入に基 づいてささげるべきである。仕事の性質上,特別な解釈が 必要な場合,什分の一を納める者はワードの父である監督 に相談すべきである。」(Evidences and Reconciliations『証 言と和解』2:86) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は,救いに不可欠な事柄の一つである。」(『大会報告』 1929年10月,p.51) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約119:7 什分の一はシオンのステークのた めの「一つの範例」であり,試しである 第119章の啓示により,什分の一の原則はシオンのすべ てのステークのための「一つの範例」として確立された (教義と聖約119:7。 『範例』の定義については教義と聖約 98:38の「注解」を参照する)。 ジョセフ・F・スミス大管長は,聖徒を試す手段として の什分の一の律法の価値について,次のようにしている。 什分の一の律法を守らない人々 「この原則(什分の一)によって,この教会の会員の忠実 さが計られる。この原則によって,神の王国を支持してい 不従順は現在受ける祝福に影響を及ぼすだけでなく,将 る人と反対している人が分かる。この原則によって,だれ み こころ の心が神の御 心 を行うことと神の戒めを守ることに向け 教義と聖約119:5−6 への警告 313 られており,だれがこの原則に反対し,シオンの祝福を拒 ちが忠実であるかそうでないかが分かるので,この原則は んでいるかが分かるであろう。この原則によってわたした 非常に大切である。 」(『福音の教義』p.218) 第120章 教会基金の配分 歴史的背景 産でもなければ,大管長会のものでもない。また管理監督 会のものでもなければ,地元の監督のものでもない。什分 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ じゅう ぶん 主はこの神権時代に什 分 の一の律法を確立されたとき の一は教会のものであり,教会のために用いられる。」(ク ラーク,Messages of the First Presidency『大管長会のメッ (教義と聖約119章参照),教会の什分の一を配分する責任 セージ』4:228−229) をだれが負うべきか説明された。1838年7月8日,主は預言 者ジョセフ・スミスに啓示を与えられた。「これは,前の J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,什分の一 の管理運営について次のように説明している。 第119章の啓示の中で述べられた什分の一として納められ た財産の配分について知らせるものである。」(教義と聖約 「大管長会の指示の下に,ほぼ年度始めに予算が作成さ れる。その中には,什分の一の支出計画がすべて含まれて 120章の前書き。History of the Church『教会歴史』3:44) いる。この予算は,教会基金の支出に対して責任のある管 理部で慎重に検討される。それから,什分の一支出管理評 注 解 議会に提出される。この評議会は,啓示で定められている ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約120:1 什分の一は教会内でどのように管 ように,大管長会,十二使徒評議会,管理監督会で構成さ れ,提出された予算を検討し,話し合い,個々の項目につ 理運営されるか 1911年4月,大管長会(ジョセフ・F・スミス,アンソ いて承認するか否かを決め,最終的な予算を決定する。 このようにして認可された予算は,実際の支出に備える ン・H・ランド,ジョン・H・スミス)は,受領した什分 ために支出委員会にゆだねられ,この委員会が什分の一の の一の配分について次のように説明している。「教会の歳 入について,それを利益と考えている人がいるかもしれな 支出に承認を与える。したがって,教会に納められた什分 の一は,すべて完全に確認されているのである。支出委員 い。末日聖徒は什分の一の教えを信じている。什分の一は 末日聖徒の信仰の原則である。この教えは『聖書』にもあ 会の承認や認可がないかぎり,什分の一からの支払いは一 切行われない。」(Conference Report『大会報告』1943年10 るように,遠く昔の族長の世にも守られていた(創世14: 月,p.12) 20;レビ27:30;マラキ3:8−10;ヘブル7:9参照)。当 教会においてこの教義が確立したのは1838年のことであ 什分の一を納める人は,その基金が主の王国の必要に応 じて正しく使われると信じている。教会のほかの基金への る。その納入法および支出法は神の権能を持つ者を通して 啓示され,以来教会の聖典の中に明らかにされてきた。こ れは中央幹部もともに守らなければならない教えである。 什分の一は大管長のものではない。大管長には什分の一を 要求したり集めたりする権利はない。各ステーク会長の監 督下にあるそれぞれのワードの監督がこれを受領するので ある。次に監督の下に集まった什分の一は管理監督会に送 られ,その管轄下に入る。管理監督会事務局にはその年に 納入されたすべての什分の一の完全な記録がある。したが って什分の一を納めた人は,事務局で自分の記録を見るこ とができる。そこには全収支の記録が詳細にわたって収め られている。これらの記録については,社会的にも仕事の 面でも正直かつ立派な人格者としてよく知られている人に よって構成される監査委員会が総大会において選出され, この監査委員会が記録を入念に監査し,年に1度報告をす るのである。監査員は中央幹部や指導者の中からは選ばれ ない。このようにして受領された基金は,大管長個人の財 314 什分の一は礼拝堂の建設にも使われる 献金は,前もって献金者に伝えられた具体的な主の業に当 ある。 てられる。例えば,福祉,伝道,建築などの基金がそうで 第121章 神権の制定 述べている。「これは人が書きつづった手紙の中で最も偉 歴史的背景 大な部類に属するものである。事実この手紙は,心のな人 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1838年10月27日,ミズーリ州知事のリルバーン・W・ボ が霊感を受けて書いたものであった。これは祈りと預言と, 啓示による主の答えである。このような手紙は,キリスト ッグズは,悪名高い撲滅令を発した。その一部は次のとお りである。「もしも公益のために必要であれば,モルモン の愛の精神に満たされた気高い人物でなければ書くことは できないであろう。 〔彼らの受けた苦しみを考えれば, 〕預 教徒を敵として取り扱い,撲滅するか,本州より追放しな 言者が苦悶のあまり主に救いを求めたのは当然であろう。 ければならない。」(History of the Church『教会歴史』3: 175)4日後にミズーリ州ファーウェストで,預言者ジョセ しかし,この心からの願いの中にも同胞に対する忍耐と愛 の精神が息づいているのである。」(Church History and フと数人の教会指導者がミズーリの住民に欺かれて逮捕さ れた。それから数週間,ジョセフ・スミスと兄弟たちは虐 Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』2:176) 第121,122,123章はこの手紙からの抜粋であり,ブリ 待され,侮辱され,インディペンデンスへ連行された。さ ガム・ヤング大管長の指示を受けたオーソン・プラット長 老により,1876年版の『教義と聖約』に収録された。これ ぼくめつ らにリッチモンドに移され,1838年11月30日にミズーリ州 リバティーの監獄に監禁された( 『教会歴史』3:188−189 参照)。有罪を立証するものは何もなかったが,ジョセフ たちは数か月間,監獄に閉じ込められていた。 預言者ジョセフ・スミスと兄弟たち(ハイラム・スミス, ライマン・ワイト,ケイレブ・ボールドウィン,アレクサ ンダー・マクレー,一時的にシドニー・リグドン)は,偽 く もん はらから ら3章を収めた『教義と聖約』は,1880年10月に教会の総 大会で聖典として支持された(手紙の全文については『教 会歴史』3:289−305参照)。 『タイムズ・アンド・シーズンズ』(Times and Seasons) に掲載された手紙に関する記事には,『教義と聖約』に収 められている原文が一部抜けている。復元末日聖徒イエ りの嫌疑で開かれる裁判を待つ間,ひどい苦しみを味わっ た。「彼らが獄に捕らわれている間に,多くの残忍な行為 ス・キリスト教会はその点を指摘して,『教義と聖約』の 真実性を疑っている。しかし,手紙の原文は当教会の記録 が行われた。毎日わずかな量のひどい食事が与えられ,主 の霊感によって,毒入りの食べ物から救われたことも時折 保管所にあり,『教義と聖約』の内容が正しいことを証明 している(Deseret Evening News『デゼレト・イブニング・ あった。しかし,全員が害を免れたわけではなかった。 ニューズ』1896年6月27日,p.4)。 〔アレクサンダー・マクレーはこう語っている。『空腹に耐 えられなくなるまでは,その食事を食べることができなか 注 解 った。』(ロバーツ,Comprehensive History of the Church 『教会概史』1:521)〕 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約121:1−5 預言者が「隠れ場」や「大幕」 監獄にはベッドがないので,堅い板と石の床にわらを敷 という言葉を使ったのはなぜか き,そこで休息を取って疲労を回復するしかなかった。わ ずかではあるが,外の人々と連絡を取ることが許されてい 「これらは『聖書』の著者が使った表現である。ダビデ は次のように述べている。『やみをおおいとして,自分の た。特に監禁されて最初の1か月間はそうであった。この 困難な時期に,ミズーリの迫害は最も激しさを増し,末日 まわりに置き,水を含んだ暗い濃き雲をその幕屋とされま した。 』(詩篇18:11)このときダビデは,暗い積乱雲をエ 聖徒は預言者である指導者を何よりも必要としていた。」 ホバが栄光の内に住まわれる幕屋,すなわち『大幕』と見 なしている。稲妻や風はエホバの使いである。預言者ジョ (ダイヤー,Refiner’s Fire『精錬する者の火』pp.275−276) ジョセフたちは時々,友人との面会や手紙のやり取りを セフ・スミスはこの詩的で雄大な象徴を用いることによっ 許された。1839年3月20日から25日にかけて,預言者ジョ セフは,捕らわれている者全員の署名の入った長い手紙を て,主が敵の手から聖徒を救うために御自身の力を現され るように嘆願しているのである。 」(スミス,ショダール共 書き取らせた(実際には2通の手紙であったが,2通目は1 通目の続きであると預言者は語った)。ジョセフ・フィー 著,Commentary『注解』p.753) ルディング・スミス大管長はこの手紙について次のように 315 教義と聖約121:7 神の計画の中に逆境や苦難がある るであろう。すべての苦しみは律法に背いた懲らしめとし ジェームズ・E・ファウスト長老は,人生における逆境 て与えられるものであるという誤った考えがあるが,わた したちはそのような誤った考えからもたらされる苦しみよ か が祝福をもたらすことについて,次のように述べている。 り逃れることができるであろう。…… 「ここに偉大な真理がある。苦痛,苦悶,人生の大きな試 みの中で,わたしたちは精錬する者の火を通り抜けるので わたしたちは次に挙げる主の約束から確信を得ることが できる。『艱難の中で忠実な者の受ける報いは,天の王国 ある。そして人生の中で意味もなく重要でないものはかす のように溶かされて,わたしたちの信仰は輝きのある完全 においてもっと大きい。 あなたがたは,この後に起こることに関するあなたがた な強いものとなるのである。このようにして人間の中に神 の姿が写し出されるのである。これは神を身近に知ろうと の神の計画と,多くの艱難の後に来る栄光を,今は肉体の 目で見ることができない。 する人々に要求される清めの代価の一部である。人は苦痛 のさなかにあるとき,いっそう神の羊飼いの小さなささや きに耳を傾けようとするものである。」(Conference Report 『大会報告』1979年4月号,p.77) 一部の人々は,苦難は神から下される罰であると誤って かんなん 信じているが,艱難の原因と艱難の目的との間には大きな 違いがある。「残念なことに,わたしたちの受ける大きな 苦難の幾つかは, わたしたち自身の愚かさや弱さのために, 多くの艱難の後に祝福は来る。』(教義と聖約58:2−4)」 (『大会報告』1969年10月,p.59) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約121:11−25 落ちる人の特徴は何か 活発な会員から背教者へと ジョージ・Q・キャノン長老は次のように教えている。 「聖徒たちは,真理と神の業について現在知っている人々 が,常にそのことを心に覚えて忠実でいられるなどと考え み たま あるいはわたしたち自身の軽率さや罪のためにもたらされ る。」(ファウスト『大会報告』1979年4月号,p.78)ほか るべきではない。律法に背いて聖なる御霊を失うならば, その瞬間から,神の業に関する知識が増すことはやみ,衰 の苦難は,死すべき肉体の弱さや堕落した性質に原因があ 退してしまう。そしてわずかな間に,信仰を否定するよう る。邪悪な人が選択の自由を誤用して選んだ方法に起因す る場合もある。さらには,神が邪悪な民に下される裁きに になる。彼らは,御業がかつて真実であったことや,長老 しもべ たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれな よって,疫病,地震,そのほかの艱難が起こる場合もあ る。 い。しかし,自ら境界を設けてこう言うであろう。『以前 は御業は真実であったし,長老たちは正しかった。しかし あらゆる時代の聖徒たちは逆境や苦難を受けてきたので あのときから,道を誤っている。』あのときとは,自分自 あるから,ここでの課題は,個人の受ける艱難の原因を探 ることではなく,この世の試練を主がどのような目的で使 身が何らかの行為に陥って神の御霊の導きを失い,それま み わざ われるかを明らかにすることである。ジョセフ・スミスが 投獄をはじめとして様々な不当な扱いを受けたことについ て,ブリガム・ヤング大管長は,預言者ジョセフは厳しい 艱難を見事に克服したので,38年の間に,それがなければ 千年かかってもできないほど完成に向かって進歩成長し た,と述べている(Journal of Discourses『説教集』2:7参 照)。 預言者自身も「わたしはパウロのように艱難を誇りと感 じています」(教義と聖約127:2)と述べている。救い主 の生涯は,苦難に耐えることの完全な模範である(教義と 聖約122:7−8参照)。ここに注目すべきである。救い主や 預言者ジョセフ・スミスを忍耐の模範とする人は,自分の 受けている苦難に耐える力と希望を得ることができるであ ろう。 マリオン・G・ロムニー長老は次のように述べている。 「わたしは……厳しい逆境と苦難の中で試しを受けている すべての方に申し上げたい。勇気を持ち,あなたの精神を 鼓舞し,信仰を強くしなさい,と。わたしたちは偉大な模 範イエス・キリストと回復の預言者ジョセフ・スミスか ら,言葉と行いの両方で非常に大きな教訓を与えられてい る。そしてそれらの教訓から,大きな慰めと希望を得るこ とができる。 わたしたちは理解と信仰と勇気と霊性をもって苦難に耐 えることができるならば,多くの点で強められ,慰められ 316 ジェームズ・E・ファウストは逆境のもたらす祝福について教 えた 第121章 でに授けられていた知識の増加が止まったときなのであ された部分の前に預言者が記したことは,『教義と聖約』 る。このような例は,枚挙にいとまがない。……分かり切 ったことであるが,律法に背いたのは本人であり,それに に掲載されていないが,聖霊の賜物に関する教えの導入と して興味深いものである。 よって主の御霊を失い,そのときに『神の教会が道を誤っ ている』と非難するのである。罪に問われるのは,その人 「神にかかわる事柄は非常に重要である。そしてそれを 見いだすためには,時間と経験,それに心から深く,真剣 自身である。 」(Millennial Star『ミレニアルスター』1863年 8月8日,pp.505−506) に思いを寄せることが必要である。おお,人よ。魂を救い に導きたいと思うならば,あなたの心はいと高き天にまで ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 高められ,さらには深い奈落の底をも探らなければならな 教義と聖約121:15−16 教会の敵は繁栄するか ヒーバー・J・グラント長老は次のように述べている。 い。そして永遠という果てしない広がりに思いを寄せ,神 との交わりを持たなければならないのだ。神の思いは,人 「わたしたちの敵は,この神の業をいささかもくじくこと がなかった。将来もそのようなことはない。わたしは十分 たまもの 間の心のはかない空想に比べれば,何と高貴で厳粛なこと か。人を価値がない者と考えるのは愚か者のみである。 に調べ,書物を読み,深く考え,そしてこう質問する。い わたしたちの霊性,大会,評議会,集会,私的および公 かなる権威者,権力者といえども,末日聖徒に対抗し得る 人がいるだろうか。ミズーリ州やイリノイ州の知事の誉れ 的な会話は,何と空虚でつまらないものであったことか。 創世の前から神のに従って召され選ばれた高貴な者にとっ と勇気をたたえる声はどこへ行ったのだろうか。末日聖徒 を抑圧するためにこのユタへ来た判事たちの名声はどこへ て,あまりに低俗で,内容に乏しく,粗雑で,卑劣であっ た。わたしたちは,もろもろの奥義のを所有するために召 消えうせたのだろうか。彼らをほめたたえる人々はどこに されている。それらの奥義は世の初めから今日までずっと いるのだろうか。そのような人々はいない。……この業に 攻撃を加え得た人はいるだろうか。彼らの力は今どうなっ 隠されてきた。すでにいくばくかを味わった人もいるが, こうべ その多くは幼子の頭に,すなわち弱々しく,無名で,さげ たのだろうか。彼らは太陽の前の露のように消え去ってし まった。わたしたち末日聖徒は恐れる必要はない。神は引 すまれた者のうえに天から注がれるのである。そこで,あ なたがた兄弟にお願いしたいことは,自分にはあなたがた き続きこの業を支えてくださる。権利を支えてくださる。 わたしたちが忠実で正しくあるならば,そして神がわたし のような価値がないと思い込んでいる人々を忍耐強く導 き,互いに戒め合って,老人も若者も,教師も生徒も,身 たちにされたこの福音にわたしたちがふさわしくあるなら 分の高い者も低い者も,富む者も貧しい者も,束縛された ば,世の中にわたしたちをくじき得るものはない。わたし たちは自分自身を除いてほかのいかなる人にも傷つけられ 者も自由な者も,男性も女性も,すべての人が改心するこ とである。また,いかなる場所にあっても,正直,まじめ, ることがないのである。 」(『大会報告』1909年4月,p.110) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 公平無私,厳粛,高潔,清純,柔和,実直といった冠を着 け,ついには,恨みや悪巧み,偽善などを捨てて,幼子の 教義と聖約121:21 ようになることである。 神は先祖の罪のために子孫を罰せ られるか ジョセフ・F・スミス大管長は次のように述べている。 「神を信じない者はもしできることなら自分の子供に神を 信じさせまいとするであろう。遊び女を買う人は清く正し こんにち さて,兄弟たちよ,これらのことを行い,熱心に祈り, 常に神を仰ぎ見て信仰をはぐくむならば,今受けている艱 難の後に,〔教義と聖約121:26−32〕。」(『教会歴史』3: 295−296) い子孫を育てないであろう。子供に死や破滅ではないにし ても病と不幸を伝え,それらはその子供に受け継がれ,さ らにその子供と3代,4代に受け継がれていく。子供がその 父親から受け継ぐのは非常に自然なことであり,もし父親 が破滅,罪,忌まわしい病気の種をまいたならば,子供は その実を刈り取るであろう。これは神の望んでおられるこ とではない。なぜならば神は,人々が罪を犯さず,自分の 罪の結果を子供に及ばさずに,神の戒めを守って罪と罪に 伴う結果から子供を逃れさせることを望んでおられるから である。けれども,人が主に耳を傾けず,自らを律法とし, 罪を犯すかぎり,自分の罪の結果を刈り取り,自動的にそ の実を子供に3代,4代と伝えるであろう。」(『福音の教義』 pp.385−386) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約121:26 預言者ジョセフが「聖霊の言い尽 くせない」を約束したときの前後関係 第121章とそれに続く2つの章は,預言者ジョセフ・スミ スがリバティーの監獄から書いた手紙の抜粋である。抜粋 リバティーの監獄に監禁されている間に,預言者ジョセフ・ス ミスを通して神からの光と励ましが与えられた 317 教義と聖約121:26−32 末日聖徒が享受している聖 説明している。「神権の職に聖任される人はすべて召され 霊の賜物は過去に与えられたことのないものか 聖霊の賜物は,世の初めからすべての忠実な聖徒に与え ていると,わたしは理解している。主は,だれもが主に仕 えるように願っておられるのである。」(『大会報告』1945 られてきた。第26節の意味は,過去の各神権時代に知られ 年10月,p.97) ていたもろもろの鍵,権威,原則が,すべてこの時満ちる 神権時代にまとめて授けられる,ということである。さら ブルース・R・マッコンキー長老は,この召しがすべて の教会員に及んでいる点を指摘している。 に,ハロルド・B・リー大管長が述べたように,啓示され た地上の王国の組織は,「過去のどの神権時代のそれより 「召されるとは,教会すなわち地上における神の王国の 一員になることである。それは聖徒たちとともに数えられ も完全なものである。 」(Stand Ye in Holy Places『聖なる場 所に立ちなさい』p.273。p.322も参照) ることである。福音を受け入れ,永遠の聖約を受けること である。 地上のシオンにおいて受け継ぎを得ることである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 再び生まれること,主イエス・キリストの息子または娘と 教義と聖約121:28 きか 天の神々の実体に関心を向けるべ なること,信仰の仲間に加わることである。永遠の命に至 る道に踏み出すことであり,永遠の栄光に望みを抱くこと ウィルフォード・ウッドラフ大管長はこの質問に対して 明確な勧告を与えている。「わたしはすべてのイスラエル である。またそれは,条件付きで永遠の命を約束されるこ とである。律法とその儀式に絶えず従うことを条件に,福 に申し上げたい。神がどのような御方か,アダムがどのよ 音のすべての祝福を受け継ぐ者になることである。 うな人か,キリストがどのような御方か,エホバがどのよ うな御方か, こういった疑問に心を悩ますのをやめなさい。 この総体的な枠内に,信頼と責任の伴う役職への個々の 召しがある。しかしこれらは,しばらくの間,特定の地位 これらのことはそのままにしておこう。なぜそのようなこ とで心を悩ますのか。神御自身が明らかにされたように, で主の用向きを受けて働くという割り当てにすぎない。召 しそのものは,福音の大義のためにあるのであり,使徒や 教義と聖約の第121章が成就するとき, 『すべての王位と主 預言者,あるいはイスラエルの偉大な勇者のためにあるの 権,公国と力』が示され,『唯一の神か,それとも多くの 神々がおられるか』そのことが人の子らに明らかにされる ではない。それは,王国のすべての会員のためにあるので ある。 」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教 であろう。なぜそのようなことに心を悩ますのか。神は神 であり,キリストはキリストであり,聖霊は聖霊である。 義注解』3:326) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ あなたにとってもわたしにとっても,これで十分である。 教義と聖約121:34−40 もっと知りたいと思う人は,神御自身がおられる場所に行 く時まで待ちなさい。」(『ミレニアルスター』1895年6月6 であろうか」 N・エルドン・タナー副管長の解説によれば,この聖句 日,pp.355−356) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ は神権を尊んで大いなるものとすることを怠っている人 や,神権を正しくない方法で行使する人を指している。 かぎ 教義と聖約121:33 だあるか 末日聖徒の頭に注がれる知識がま ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 「なぜ彼らは選ばれないの 「神権を尊んで大いなるものとするのを次第に怠るように なり,教会の活動から離れて行った人の例をわたしはたく さん知っている。 非常に活発であった男性が証をなくして, に教えている。「サタンは時の初めから,この業を滅ぼす ために,また教会が啓示を受けるのをとどめるために,手 主の御霊が離れ去ると,権能ある人々を批判するようにな り,やがて聖徒たちを迫害し,背教し,神に対して戦いを 下を通して働きかけてきた。主は教会員の進歩の度合いに 応じて,教会に絶えず知識と導きを与えてこられた。わた 挑むようになる。 」(『大会報告』1970年4月,p.52) タナー副管長は別の話の中で,信頼されることが選ばれ したちに受ける準備ができれば,偉大で重要な真理がさら るか否かに直接かかわってくると述べている。 に数多く啓示される。主の『前に忠実かつ熱心である者』 は,『少なからぬ戒めを,さらに時にかなった数々の啓示』 「わたしたちは,大方信頼できるというのでなく,どん なときでも信頼されるようでなければならない。大事に忠 (教義と聖約59:4)を与えられると,主は約束しておられ る。」(『教会歴史と近代の啓示』2:177) 実であるように,小事にも忠実であるようにしよう。かり にそれが2分半の話であれ,ホームティーチング,病人の スペンサー・W・キンボール大管長は,教会が絶えず啓 見舞い,あるいはステーク宣教師や専任宣教師としての召 示を受けることについて次のように証している。「これら の製本された神聖な記録で,『預言者たちは終わり』だと しであっても,信頼を受けてすべての務めを果たすことが できるだろうか。 する人々がいる。しかし,啓示は続き,時々刻々ともたら される啓示が教会の保管所やファイルに収められるという 次の聖句を心に留めていただきたい。『まことに,召さ れる者は多いが,選ばれる者は少ない。では,なぜ彼らは ことを,わたしたちはまた世に証する。」(『大会報告』 1977年4月号,p.115) 選ばれないのであろうか。 それは,彼らがあまりにもこの世のものに執着し,人の ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 誉れを得ることを望んでいるため……である。』(教義と聖 教義と聖約121:34 「召される者」とはだれか ジョセフ・フィールディング・スミス長老は次のように 約121:34−35)彼らは信頼できないのである。」(Ensign 『エンサイン』1974年4月号,p.5) あかし 318 第121章 教義と聖約121:34−35を注意深く分析すると,ある行 いと選ばれるか否かということの間に因果関係があること が分かる。 この鎖でつながれた原因と結果により,人々が召されて も選ばれない理由が明らかになる。 人の心が 1.この世のものに執着し, 2.人の誉れを得ることを望んでいると, 霊的成長を損なう次のような行為をする。 1.自分の罪を覆い隠そうとする。 2.自分の高慢,自分のうぬぼれた野望を満たそうとす る。 3.不義によって支配しようとする。 その結果, 1.天は退き去る。 2.主の御霊は深く悲しむ。 3.その人の力と権能は終わる。 人の心が 1.神にかかわるもののうえにあり, 2.神からの承認と誉れを得ることをのみ望むと, 霊的成長を促す次のような行為をする。 1.罪を悔い改める。 N・エルドン・タナー副管長は,召されても選ばれない人がい る理由を説明している けんそん 2.謙遜になる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 3.神の国を第一に求める。 4.キリストの愛をもって人と交わる。 教義と聖約121:39 その結果, 1.天は近づく ほとんどの人にとって権威や権能 を扱うのが難しいのはなぜか オーソン・F・ホイットニー長老は,権力の誤用につい て触れ,すべての人がこの誘惑に陥るわけではないと指摘 している。「役職にあるすべての人がその特権を乱用する 2.主の御霊がともにある。 3.その人の力と権能は増大する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わけではない。謙遜かつ忠実に神に仕える人は,決してそ のようなことをしない。この誘惑に屈するとき,それは主 教義と聖約121:38 ういう意味か に仕えるのをやめるときである。にもかかわらず,多くの むち 「とげのある鞭をけり」とは,ど 「とげのある鞭」とは,家畜を追うときに使われる先端 人々が誘惑に負けている。職務上の権限を不幸にも誤用し, あらゆる権力と特権を乱用して自己を満足させ,周囲の が鋭くとがった追い棒のことで,鉄製のとげが付いている ものもある。ハロルド・B・リー長老は,主がこのを使わ 人々を傷つけ困惑させるのである。そのような人を役職に 就けるのは危険である。誇り高ぶり,自分が偉大で重要な れたのは従順の原則を教えるためであると説明している。 「これらは恐らく,福音のとげのある鞭であろう。J・ 人物であるという思いを増長させていくからである。大き ルーベン・クラーク・ジュニア副管長が『束縛』と呼んだ ものではないだろうか。すなわち,知恵の言葉という束縛, 安息日を聖なる日として保つという束縛,トランプゲーム を禁じられるという束縛,福祉プログラムに従事するとき に感じる束縛などである。このような束縛は,まだまだた くさんある。一部の人々はこうした束縛に反抗して,いつ も福音の『とげのある鞭』をけっているようである。…… これらの人々はやがて『聖徒を迫害』し始め,ついには 『 神 と 戦 う 』 の で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1947年 10月 , pp.65−66) く膨らんだたくさんの風船のことを忘れてはならない。ピ ンの先で一突きすれば,破裂して永遠に滅びてしまうだろ う。ほんの小さな役職やわずかな権限であっても,それに 酔って責任にまったくふさわしくない状態になってしまう 人がいる。」(リッチ,Scrapbook of Mormon Literature『モ ルモン文学のスクラップブック』2:511−512) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約121:41−46 せるための指針 神権の力と影響力を増大さ ここで明らかにされた原則を義にかなって応用すれば, きよ 神権者は聖霊の聖めを通して,さらに大いなる力を授かる ことができる。ここではまた,それらの力を失う原因も明 らかにされている。(争い,不一致,反抗などによって) 聖霊の導きがなくなるのを感じるとき,その人は即座に, 319 自分が『不義な支配』をしていることに気づくであろう 活をして汚れた不潔な思いや行いを捨て去りましょう。わ (スミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.759参 照)。 たしたちのために定められた高い義の標準を低下させるよ うなものとは,かかわりを持たないようにしましょう。以 神権者が神権の権能の正しい行使について非常に重要な 試しを受けるのは,ヒュー・B・ブラウン副管長が述べて 下のことを行えば, 皆さんの乗った船は順風を受けて進み, 平安と喜びが辺りにあふれるのです。」(“President Kimball いるように,家庭内のくつろいだ関係においてである。 「父親の皆さんに今晩お話ししたいと思う。人に託された Speaks Out on Morality”「キンボール大管長道徳について語 る」『エンサイン』1980年11月号,pp.95,98) 神の力である神権を持ってそれを行使する際のふさわしさ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ というものは,その多くが家庭におけるわたしたちの行為 によって測られる。ほとんどの人は公の場で良い印象を与 教義と聖約121:45 「そうするときに,神の前におい てあなたの自信は増し……」 えることができるが,人の高潔さは『仕事後の』家庭で試 される。家庭というどちらかと言えば閉ざされた環境の中 ジェームズ・E・タルメージ長老は,かつてこのように 述べている。 「日の栄えの王国の最高の階級に入れるのは, で,真の人間性が現れ,知られるのである。役職や称号に そこで安らぎを感じられるような行いをしてきたときであ よって欠点が消し去られることはなく,徳が保証されるこ ともないであろう。 」(『大会報告』1962年4月,p.88) る。」(ヒュー・B・ブラウン “Seek to Know the Shepherd” Brigham Young University Speeches of the Year「羊飼いを知 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約121:45 「絶えず徳であなたの思いを飾る るように努めなさい」『ブリガム・ヤング大学年度講話』 1959年12月9日,p.5) ようにしなさい」 マリオン・G・ロムニー副管長は,さらに次のように述 すべての思いが徳によって飾られるならば,不道徳,不 どんよく 正直,貪欲などの罪はなくなるであろう。人の思いは人の べている。「清さと徳を約束されるという祝福以上に,わ たしが熱烈に願い求める祝福はほかにない。イエスは, 行いに直接影響するからである。 教会の指導者は,汚れた思いを抱くことのないように警 様々な徳に対する報いを具体的に述べておられるが,わた しが思うに,最大の報いを約束されているのは,『心の清 告している。なぜなら,そのような思いのもたらす結果は, 非常に深刻だからである。スペンサー・W・キンボール大 い人たち』であろう。なぜなら, 『彼らは神を見る』 (マタ イ5:8)からである。しかも,神を見るだけでなく,神の 管長は,道徳に関する基本的な声明の中で,昔の使徒や預 もとで安らぎを感じるのである。」(『大会報告』1979年4 言者たちが様々な道徳的過ちを非難したことを指摘し,さ らに次のように述べている。「性に関する罪には,結婚関 月,p.60) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 係以外で行われるあらゆる性関係, すなわちペッティング, たんでき 性倒錯,自慰,それに性に耽溺するあまりそれが思いや言 教義と聖約121:45−46 るか 慈愛と徳はどのように現れ 葉を支配してしまうことも含まれます。またあらゆる隠れ 教義と聖約第121章の最後の節は,崇高な言葉を含み, た罪,汚れた不潔な思いや行いもそうです。」 この声明の最後の部分で,キンボール大管長は聖徒たち この章の中心となるメッセージである。 それを理解すれば, すべての教会員が高められて,さらに高尚な考えを抱き, に,清さと徳とを守るように呼びかけている。 「わたしたちは集会がある度に,また各家庭での朝晩の さらに思いやりと愛を表し,さらに気高い無私の行いをす るようになるであろう。慈愛と徳を身に付けた人の受ける 祈りの度に,そして夜各々の寝室で皆さんのことを祈って 報いは,次のとおりである。 います。皆さんが清い生活を続けることができるように祈 っているのです。清い生活とは,頭のてっぺんから足のつ 1.神の前において自信が増す。 たま もの 2.神権の教義が聖なる賜物として授けられる。(ほかの ま先まですべて清い生活です。麻薬や酒,たばこ,盗み, わいせつな雑誌や映画など,わたしたちに押し寄せてくる 方法ではもたらされない。) はんりょ 3.神会の御一方を「伴侶」とすることにより,神権の管 この世の汚れたものからすべて遠ざかることです。皆さん はそのようなものに手を染める必要はありません。そのよ うなものに身を任せてはならないのです。 理の職を行使する際に,偉大な力と確固たる信頼を受 ける。 義にかなった教会員は,大いなる霊的な祝福を切望する 神の武具で身を固めましょう。欠かさず個人と家族の祈 りをし,また家族の礼拝に加わりましょう。安息日を聖く が,この結びのメッセージで主が約束されたことほど,忠 しもべ 実な僕に対する神の愛と信頼を如実に表すものはほかにな 過ごしましょう。知恵の言葉をよく守りましょう。家庭で の務めをみんなよく果たしましょう。そして特に,清い生 い。神権を持つ者は,この約束が完全に成就したと感じる まで,満足してはならないのである。 320 「これらのことはすべて, あなたに経験を与え」 歴史的背景 第122章 は,ほとんど例外なく,終わりまでジョセフに忠実であっ た。しかし,ノーブーで裏切った者が何人かいた。預言者 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスとその友人たちは,ミズーリ州 ジョセフの副管長の一人が, 激しい敵意を抱くようになり, ジョセフの命をつけねらった。もう一人の副管長もジョセ リバティーの薄汚れた監獄の中で5か月にわたって監禁さ れ,虐待され,栄養不良と聖徒たちからの別離とに悩まさ フに対する忠誠心を失った。かつての友の中にも,教会の 敵と手を結び,ジョセフを殺そうとする者がいた。しかし, れたが,この間の生活は,預言者ジョセフが苦しみ悩む聖 大半の教会員は最後まで忠実であった。 徒たちにあてた崇高な手紙の内容と著しい対照を成してい る。この手紙は,預言者ジョセフが5日以上にわたって記 裏切り者はその勢力によってジョセフを困苦に陥れ,ジ ョセフを『法廷と』の中に投じ,そして命を奪った。しか 録したもので,最後に書かれたのは1839年3月25日ごろと 思われる。これは教義と聖約第121,122,123章に収録さ しジョセフの声は,その働きを通じて今なお語り,敵にと っては荒々しいライオンのおたけびよりもはるかに恐ろし れている(教義と聖約121章の「歴史的背景」参照) 。 く,心をろうばいさせるものとなっている。ジョセフは死 注 解 んだからといって, 主から見捨てられたわけではなかった。 主の民はずっと忠実であり,主から祝福を受けてきたので ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約122:1 ジョセフ・スミスの名前はどの程 ある。 」(スミス,Church History and Modern Revelation『教 会歴史と近代の啓示』2:181) 度までされるか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約122:5−7 ジョセフ・スミスや現代の聖徒 教会と神の王国はこれまで発展を重ねて,今では全世界 に設立されつつある。 しかしどこに教会が設立されようと, たちが大きな苦難を受けるのはなぜか その影響力をサタンは阻止しようとする。ジョセフ・スミ スの名前と使命を中傷するために,これまで何千という オーソン・F・ホイットニー長老は,ジョセフ・スミス がリバティーの監獄に投獄されていたときのことについて 「反モルモン」のちらしやパンフレットが書かれている。 触れ,聖徒たちが預言者ジョセフの模範から何を学ぶこと また何十冊もの書物がジョセフ・スミスを公然と非難して いる。ジョセフはこれまで,詐欺師,山師,欺かれた若者, サタンの手下などと呼ばれてきた。しかし反対者からこう した注目を浴びることは,スペンサー・W・キンボール大 管長が言うように,預言の成就であるばかりでなく,ある 意味では好ましいしるしでもある。「もう一つ申し上げた いことは,わたしたちが敵である悪魔の攻撃の的になるこ とで進歩を遂げているということです。……主の民がこう した目に遭うのは世の初めからのことであって,わたした ちの時代も例外ではありません。」(Conference Report『大 会報告』1980年4月号,p.6)実際,ジョセフの名前はの的 となり,地獄の軍勢は宿敵に向かって激しい戦いを挑んで いるが,戦果は乏しいのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約122:3 背教者となった裏切り者はジョセ フ・スミスに戦いを挑んだが,勝利を収めることはできな かった 真の意味で預言者を知り,その人が預言者としての召し を果たしている光景を目にし,神の権威というがその人に かけられるのを見た人は,その預言者を愛し,支え,守り たいと願うようになる。裏切り者のは,忠実な者の手にか かれば,それがほんとうのものかどうかすぐに見分けられ てしまう。 「預言者ジョセフと個人的に親交を持った末日聖徒たち ジョセフ・スミス:「あなたはまだヨブのようではない」(教 義と聖約121:10) 321 ができるか,詳しく述べている。 教義と聖約122:8 「預言者が(ミズーリ州リバティーの)監獄に捕らわれ ていたのは,福音のためである。ジョセフは『悪魔……を 者であろうか」 預言者ジョセフは,リバティーの監獄に捕らわれる以前 「あなたは人の子よりも大いなる 支配し従えておられる』神を呼び求め,神はそれにこたえ て,ジョセフの苦しみは『つかの間』であると言われた。 から,敵の手によってひどく苦しめられてきた。実際,預 言者ジョセフは救い主から元気を出すようにと励ましを受 また『あなたはまだヨブのようではない。あなたの友人た ちは……あなたに対して言い争わず』と,主は言われた。 け,ジョセフの経験はすべて正確に理解されていると告げ られた。主御自身がそれ以上に大きな苦しみを体験してお 覚えていることと思うが,ヨブの友人たちは,ヨブが何か られたからである。この世のいかなる人も,偉大な末日の 間違ったことをしたに違いない,そうでなければそのよう な災難が降りかかるはずがないと言って,ヨブを説得しよ 預言者に向かってこのような慰めの言葉をかけることはで きなかったであろう。第8節の問いかけは,人をにしつつ うとした。しかし,ヨブは何も間違ったことをしていなか った。それは『ゆえなく』(ヨブ2:3)行われたことであ 慰めをもたらすものである。救い主の前に立って,自分は 多く求められすぎていると文句を言える人は一人もいな り,サタンがヨブを滅ぼそうとして行ったことなのである。 い。救い主は,人が考え得るあらゆる苦しみを受け,それ 神はジョセフに言われた。『たとえあなたはを経験するよ うに定められても,たとえ偽兄弟の難に遭っても,たとえ を克服されたのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 強盗の難に遭っても,たとえ陸上や海上の難に遭っても, ……また……たとえ寄せて来る大波があなたを巻き込もう 教義と聖約122:9 られていたか ジョセフ・スミスの死ぬ時は定め としても,たとえ暴風があなたの敵となっても,……たと ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう え地獄の入り口が大口を開けてあなたをのみ込もうとして も,息子よ,あなたはこのことを知りなさい。すなわち, に書いている。「限界は定められており,敵はそれを超え ることはできないと,主は言われた。ジョセフの命数は, これらのことはすべて,あなたに経験を与え,あなたの益 となるであろう。 』 主が知っておられるので,この世で艱難や迫害や憎悪に遭 っても,短くなることはない。だから,人のなし得ること ここに理由がある。わたしたちは進歩し,清められ,成 長し,教えを受け,前進するために,悲しみや不幸という を恐れてはならないのである。忠実であるかぎり,神はジ み こと ば ョセフとともに永遠におられるであろう。この御言葉の中 激しい波と闘うのである。そしてその大波を泳ぎ切ってか には,ジョセフの慰めとなる約束が含まれている。つまり, なたの岸辺に立ったときには,それだけ強く立派な人間に なるのである。」(Improvement Era『インプルーブメント・ 敵の与える苦痛や憎悪は,ジョセフの定められた生涯を短 くすることはないのである。この約束は,ジョセフが使命 エラ』1918年11月号,pp.5−6) を終えたとき殉教するということを示唆しているように思 われる。 」(『教会歴史と近代の啓示』2:182) かんなん 迫害に関する記録の収集── 緊急の義務 第123章 しもべ ように,御自分の敵を必ず罰し,主の僕たちに加えたあら 歴史的背景 ゆる悪事に見合うだけの十分な報いを与えられるのであ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約第123章は,ジョセフ・スミスがミズーリ州 る。罪に対する罰は,必ずしもこの世の生涯の間に下され るわけではない。その大部分は,将来の来るべき日までと リバティーの監獄の中で教会員にあてて書いた手紙の一部 である(教義と聖約121章の「歴史的背景」参照) 。 どめておかれるのが普通である。地上においても天におい ても,そのための記録がつづられるであろう。主は,あら 注 解 ゆる行為に関する情報と,ミズーリ州の人々によって教会 員たちに加えられた苦痛と虐待に関する情報とを集めるよ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ うに命じられた(教義と聖約123章) 。また,被害を受けた 教義と聖約123:1−6 集する目的は何か 聖徒への弾圧に関する文書を収 全財産,つまり聖徒たちの不動産はもちろんのこと,心身 ともに受けた被害も記録にとどめるよう言われた。この邪 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に書いている。「報復の律法は,その執行が遅いことがし 悪な行為や殺人に加担した人々の名前も集めて保存してお くことになった。また証拠を集めて整理するために,委員 ばしばある。しかし,確実に執行される。主は約束された 会が設置された。こうした情報は,教会が政府に向かって 322 第123 裁判を起こすとき,合衆国政府の前に提示され,きわめて …… 貴重な資料となるであろう。たとえそこで救済が行われな かったとしても,それらの証拠は,すべての人と物事を裁 時には,沈黙は言葉よりもはるかに雄弁である。しかし, この場合は,訴える者や迫害する者の悪事を白日の下にさ く永遠の法廷において,罪ある人々を追及する材料となる であろう。 らす必要があった。妻や子供たちには,真実をことごとく 知る権利があったからである。」(Commentary『注解』 この情報の収集は,ミズーリ州で行われた行為にのみ限 定されていたわけではなく,あらゆる時代を通じて真理に pp.764−765) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 敵対した人々の邪悪で虚偽に満ちた行為をことごとく含む 教義と聖約123:11−14 ものであった。雑誌の記事,百科事典の記述,あらゆる誹 ぼう 謗的な史実談,そのほかの著述,そして『この民に対して 行為を知ることによって,利益を受けるのはだれか 世界中の何百万という人々が,真理を知らない者に誘わ 行われた極悪な所業と非道かつ残忍な詐欺行為の全体のつ ながり』をことごとく収集して,世間に向かって公にし, れ,教えられて,いたく苦しんでいる。そのような者は, 私欲のために働いているだけだからである。教会に対して 政府の長官に訴えて『それらを暗い地獄のような状態のま 不正行為が行われた場合,何が真実かということを公正に まで明らかにする』のである。『それは,わたしたちの天 の御父にその隠れ場から出て来ていただくという約束を果 また明確に説明することが,ぜひとも必要になってくる。 世界中の多くの正直な人々が間違った情報を受けたため たすように求める権利を,わたしたちが十分かつ申し分な く主張するに先立って,天の御父からわたしたちに命じら に,真理を誤って伝え,神の王国について偽りの情報を流 している。したがって,教会の名に汚点を残さないように れている最後の努力である。さらにまた,それは,天の御 努めることは,聖徒たちにとって緊急の義務となる。すな 父がその強い腕の力を下される前に,全国民が弁解の余地 のないようにするためである。』」(Church History and Mod- わち, 心の清い人々が必要としている真理を伝えるために, 油断なく勇気をもって教会の名声を守り,誤った情報を修 ern Revelation『教会歴史と近代の啓示』2:182−183) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 正しなければならないのである。 教会員は悪を憎み,王国の発展を妨げようとする者に対 教義と聖約123:7−12 る目的 聖徒を誹謗する文書を収集す して,自分の責務の範囲内でできるかぎり対抗しなければ ならない。しかし同時に,教会の敵に対しても愛を示すよ 主は,誹謗的な著述や文書を収集することはぜひとも果 うに,主から勧告されている。スペンサー・W・キンボー ひ 聖徒に対して行われた不正 たすべき義務であると言われた。その理由について,スミ スとショダールは次のように述べている。「主は,聖徒た ル大管長は, 総大会の最後の説教の中で次のように訴えた。 「兄弟姉妹,教会を批判する人々のために祈ってください。 ちが敵から無実の罪で告発されて,ありもしない教義を信 じていると決めつけられていることを御存じであった。自 敵を愛してください。神に忠実に,狭くまっすぐな道をそ れずに歩んでください。言葉と行いにおいて知恵と良識あ 分たちが神の民であると主張している以上,聖徒らが自ら る判断とを用いてください。教会と教会員を窮地に追い込 を弁護することは,ある意味では神を弁護することであっ た。もしある主人の僕が無実の罪で訴えられているとした むことのないようにするためです。試練や難題が降りかか ってきても,慌てたりろうばいしたりすることのないよう ら,僕自身を弁護することは,主人をも弁護することであ る。というのは,僕の人格は,ある程度まで,その主人の にしましょう。この業は,人を御自身のもとに呼び寄せる ために神が地上に設置したもうた業であり,サタンが破滅 人格を反映しているからである。『主人のように,僕はな に導こうと躍起になっても,結局は不可能なものだからで る』…… 聖徒を教え導くために遣わされる天使たちは,そのよう す。」(Conference Report『大会報告』1980年4月,p.6) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ な告発が真実か偽りかを見分ける権能を授けられている。 教義と聖約123:15 つか 現在の記録は将来の世代の役に立 歳月が経過し,ミズーリ州で行われた冷酷な不正行為は, 数々の記録により,また神の聖徒たちの忍耐と義とにより 明るみに出されてきた。この件について,遅ればせながら ミズーリ州も遺憾の意を表明したことが,スペンサー・ W・キンボール大管長から教会員に伝えられた。 「前回の大会の後で,わたしたちは現ミズーリ州知事の クリストファー・S・ボンド氏から喜ばしいメッセージを 頂いた。138年前にリルバーン・W・ボッグズ知事が出し ぼくめつ た,モルモンをミズーリ州から放逐し,撲滅せよとの命令 を撤回することを知らせてきてくださった。ボンド知事は 『ノーブー・エクスポジター』(The Nauvoo Expositor)の建 物。ここで聖徒を誹謗する文書が印刷された こう書いている。 『わたしはここに全ミズーリ州民を代表し,リルバー ン・W・ボッグズ知事による1838年10月27日付けの政令第 323 44号に対してそれが不正なものであり,かつ不当な苦難を 人々に深い感謝の意を表するものである。 与える結果となったことに深い遺憾の念を表するとともに これを撤回するものであります。 』 現在ミズーリ州には,51市町村に5つのステークがあり, 約1万5,000人の教会員がいる。彼らが法を守る立派な市民 わたしたちはこのメッセージに対して,また現在,末日 聖徒イエス・キリスト教会の会員とミズーリの人々との間 であることにわたしたちは誇りを感じている。ボンド知事 に心から感謝したい。 」(スペンサー・W・キンボール『大 にある友好関係に対して,ボンド知事ならびにミズーリの 会報告』1976年10月,pp.4−5) 第124章 厳粛な宣言──神権制度の確立 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「1838年から翌年にかけての冬の間にミズーリ州から追 放された聖徒の大部分は,イリノイ州とアイオワ州に逃れ 教義と聖約124:1 た。そしてそのうちのほとんどが,ファーウェストから ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 200マイル(約320キロ)ほど離れたイリノイ州クインシー へ行き,そこで親切にまた温かく迎え入れられた。イリノ 教義と聖約124:2−6 ての国々に」 イ州のカーリン知事や議員や一般市民が競って援助を申し 出,聖徒たちに同情を寄せた。 主から与えられたこの命令が実行に移されたのは,1845 年のことであった。何人もの人々がこの宣言文の作成を手 このとき聖徒たちに援助の手を差し伸べた著名な市民の 中に,ニューヨーク州トレントン出身のダニエル・H・ウ 伝ったが,様々な事情のために完成には至らなかったよう で,十二使徒会によって発表されたのはかなり後になって 「地の弱い者たち」 教義と聖約1:19−20,23の「注解」を参照する。 「厳粛に宣言する……地のすべ ェルズとアイザック・ガランド博士がいた。ダニエル・ からである(History of the Church『教会歴史』6:80;7: H・ウェルズはかなり広大な土地を所有していたが,彼は それを細かい区画に分け,追放された聖徒たちに,事実上 320,558参照)。十二使徒定員会会長のエズラ・タフト・ ベンソン長老は全世界に向けたこの宣言の主旨を再確認し ほぼ言い値で提供してくれた。ガランド博士も自分の土地 を相応な価格で,またきわめて好意的な条件で譲ってくれ て次のように述べた。 きょう 「今日わたしは警告として,またとして教義をお話しし た。 たいと思う。しかも聖なる使徒職を有する者としてお話し 預言者は,1839年4月22日にクインシーに到着し,その2 日後に評議会を召集した。そこで決議が行われ,聖徒たち するつもりである。この職にある者の責任は,全世界にお いて,すべての民に向かって主の言葉を宣言することにあ の一部をシオン(コマース,すなわち後のノーブー)に派 遣し,また一部はイリノイ州コマースの近くのガランド博 る。十二使徒評議会の兄弟たちも皆,わたしと同じように, 世界に向かってこれらのことを宣言し,すべての人の前で 士の土地に定住させることになった。この場所は間もなく それを証する責任を負っている。 集合の中心地となり,地名もノーブーと変更された。1841 年にこの啓示が与えられたとき,この美しい町には約 主は,預言者ジョセフ・スミスが地上での務めを終えよ うとしているころ,彼に次のように命じられた。 3,000人が居住していた。市の憲章がすでに州議会によっ て承認されており,それによってノーブーは自治都市とし 『わたしの福音……について,直ちに厳粛に宣言するた めに,あなたは今召されている。……この宣言は,世界の ての行政権が与えられ,軍隊を組織したり大学を設置した りする権限も授けられた。神殿の建設も始まろうとしてい 四隅に至るまで,世のすべての王に,また……地のすべて の国々に発せられなければならない。』(教義と聖約124: た。散り散りになった聖徒たちも集合しつつあり,イリノ 2−3)ジョセフは,万人を真理の光のもとに来るように招 イ州における定住も急速に進んでいた。グレート・ブリテ ンでの伝道も大きな成功を収めていた。そのような状況の き,彼らの才能を用いて地上に神の王国を築き上げるよう にしなければならなかった。 中でこの啓示が与えられたのである。教会はつかの間の休 あらし 息を味わっていた。しかし,それは,嵐の前の静けさであ この神から与えられた指示に従って1845年4月6日,すな わち,預言者ジョセフ・スミスと兄ハイラムが,その血を った。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注解』 真実の宗教の殉教者たちの血と交えた後に,十二使徒評議 p.768) 会はその宣言を発表したのである。…… わたしは,この宣言の中で言われている偉大な真理を再 324 あかし 第124章 じ ぎ 確認し,新たに世に対して宣言することが,まことに時宜 にかなったことであると考えている。 すべての国々の統治者と民に対し, わたしたちは厳かに, 天の神が預言の成就として地上に末日の王国を設立された ことを再度宣言する。聖なる天使たちは,地上の人々と再 してわたしたちはそれを知っている。 神は完全な福音を,その賜物,祝福,儀式とともに啓示 された。──そしてわたしたちはそれを知っている。 神はわたしたちに,まず異邦人より始めて次にイスラエ び交流した。神は再び天から御自身を現し,また神の子供 ルの残りの者とユダヤ人とにそのことについて証を述べる ように命じられた。──そしてわたしたちはそれを知って たちの昇栄に必要なすべての神聖な儀式を執り行う力とと もに聖なる神権を地上に回復された。主の教会は,昔の いる。 神はまた言われた。もし彼らが悔い改めず,真理の知識 人々が享受したと同様の霊的な賜物とともに,現在人々の 中に再度確立されている。これはすべて,キリストの再臨 のもとに来ず……殺人,虚言,高慢,偽善売教,売春,秘 たまもの に備えるためである。主の大いなる恐るべき日は間近に迫 密の忌まわしい行いなどをやめなければ,彼らは,間もな く地から滅ぼされ,地獄へ投げ落とされるであろう,と。 っている。この大いなる出来事に備えるために,また差し 迫った裁きから逃れる手段として,霊感を受けた使者たち ──そしてわたしたちはそれを知っている。 神は言えり。……完全なる福音が証としてあらゆる国々 は,この証と警告とを携えて地上の国々を巡って来たし, 現在も巡っているのである。 に宣べ伝えられるとき,そのとき主は降臨し,主とともに 地上の国々は,いまだに罪深い,不義の道を歩み続けて いる。人はこれまで与えられてきた際限のない知識を,主 の意図されたように人の子らを祝福するためではなく,人 類を破滅に陥れるために使ってきた。2度にわたる世界大 ひょう ぼう 戦といい,恒久平和を標 榜 しながら達せられないむなし い努力といい,これはすべて,民が邪悪なために地上から 平和が取り去られたことを証明するものである。国々は罪 すべての聖徒らは1千年の間この地を統治せんと。──そ してわたしたちもそれを知っている。 神は言われた。これらの警告が下され,主の再臨のため に民の備えが整うまで,主が栄光のうちに来て,邪悪な者 を滅ぼし去られることはない,と。──そしてわたしたち はそれを知っている。 天地は過ぎ去っても,主の啓示された言葉は,一点一画 のうちに生き延びることはできず,崩壊を招くだけであろ といえども成就しないことはない。 したがって,わたしたちは重ねてすべての民に言う。悔 う。しかし神の王国は永遠に存続する。 けんそん しもべ したがって,わたしたちは,主の謙遜な僕として,国々 い改めなさい。罪の赦しを受けるためにイエス・キリスト の名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば,あな の指導者たちに向かい,神の前にへりくだって,神の霊感 と導きを求めるようお勧めする。また,統治者と民に対し たがたは聖霊を受け,真理を知り,イスラエルの家ととも ても,その邪悪な行いを悔い改めるよう勧めるものである。 に数えらるであろう。』(Messages of the First Presidency 『大管長会のメッセージ』1:263−264)」(Conference 主に心を向け,主の赦しを求め,へりくだって主の王国の もとに結束していただきたい。他に道はない。もしこのよ Report『大会報告』1975年10月,pp.46−49) このほかにも,教会自体や教会の持つメッセージ,使命 うに行うならば,あなたがたの罪は消され,平安がもたら され,そしてそれが持続するであろう。またキリストの再 に関する宣言文が折りに触れて発表されている。しかし, ゆる 臨に備えて,神の王国の一員となるであろう。しかし,も し悔い改めることを拒み,神の霊感の下に語る使者たちの 証を受け入れず,神の王国のもとに結束しなければ,邪悪 な人々に約束されたあの恐るべき裁きと災難があなたがた に下ることだろう。…… の 警告の声が広く宣べ伝えられるとき,それは必ず証を伴 う。1845年に主イエス・キリストの使徒たちによって発表 された偉大な宣言文の中にも,同じように証が述べられて 教会初期に発表されたこの宣言は,『教義と聖約』の啓示 の中で主の指示を最も具体的な形で表したものである(十 二使徒定員会による公式のメッセージの最近の例について は,『チャーチニューズ』〔Church News〕 1980年4月12日 。 付け,pp.3−4を参照する) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:7 地上における指導者はことごとく 「草のようで」ある 「主の僕たちは,王や統治者に向かって恐れずに福音を いる。現在の使徒であるわたしたちも,その宣言文をわた したちの証として新たに述べるものである。 宣言するよう励まされている。『彼らは草のようで』ある からである。 彼らの権力も栄光も一時的なものでしかない。 『こうして,わたしたちはわたしたちの生死にかかわり なく,奴隷と自由の身とにかかわりなく,宣言する。大い 福音こそ,人間の歴史の中でただ一つ永遠の要素を持つも なる神はこの時代に語られたと。そしてわたしたちはそれ のである。神権は永遠である。 」(スミス,ショダール共著 『注解』p.769) を知っている。 かぎ 神はわたしたちに聖なる神権と使徒職と神の王国の鍵と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:12−14 ロバート・B・トンプソン を授け,昔の聖なる預言者たちに約束されたようにあらゆ るものを回復された。──そしてわたしたちはそれを知っ は宣言文を書く助けをする ている。 神はアメリカの先住民族の記録とその起源について啓示 し,またその民族の行く末についても啓示された。──そ 1841年5月にロバート・B・トンプソンは,ノーブーで 『タイムズ・アンド・シーズンズ』(Times and Seasons)紙 の副編集長に指名され,1841年8月まで,この地位にあっ て働き,30歳で死んだ。したがって,この神の命を実行に 325 移すことはできなかった(『教会歴史』4:411−412参照)。 世の富も期待してはならず,ただ神から認めていただくだ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:15 「わたしの僕ハイラム・スミスは けであると伝えた。この手紙を受け取ってから,ベネット は教会に加入し,聖徒たちの中でもひときわ高い地位にま 幸いである」 で昇った。しかし,神の民との交流も長くは続かなかった。 ヒーバー・J・グラント大管長は次のように語った。 「いまだかつてこの教会に所属した人の中で,祝福師ハイ 1842年5月25日に教会の指導者たちから,もはや教会員と は認めないとの通告を受け取ったのである。彼の汚れた生 ラム・スミス以上に善を施したいという望みを持った人は いなかった。わたしはこの話をわたし自身の信仰深い母か 活がその原因であった。そしてその直後,教会から告訴さ れた。これを契機に,ベネットは教会に最も激しく敵対す ら聞いた。ノーブーで過ごした少女時代に知り得た人々の 中でも,比類のない誠実さ,神に対する献身度,そして神 る者の一人となった。ベネットの行う中傷,虚言,また破 れん ち 廉恥な攻撃は,偽証や暗殺をそそのかすことも含め,大衆 の預言者に対する忠誠度のどれ一つを取ってみても,ハイ の意見を扇動する手段となった。やがてそれは,あのカー ラム・スミスの右に出る者はいなかったと,母は称賛して いた。 」(『大会報告』1920年10月,p.84) セージの悲劇を引き起こすに至ったのである。 それでは,なぜ彼の名前が,ジョセフの忠実な助け手と ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:16−17 後に教会に激しく敵対する してこの啓示の中に登場するのであろうか。この疑問に, ジョン・テーラーは次のように答えている。『ジョン・ ことになるジョン・C・ベネットが,このとき主から褒め C・ベネットについてであるが,わたしは彼をよく知って られたのはなぜか スミスとショダールは,ジョン・C・ベネットの改宗と いた。かつては善良な人物であったが,姦淫の罪を犯し, そのために教会から絶たれてしまった。 』(『教会歴史』5: 最終的な背教の過程を要約し,主がベネットを褒められた 理由について次のように説明している。 81)啓示が与えられたとき,ベネットは善良な人物であっ た。しかし悪魔に打ち負かされ,肉欲の奴隷になってしま 「〔ジョン・C・ベネット〕は立派な教育を受け,豊かな ったのである。主はベネットのことをよく知っていたので, 賜物と才能に恵まれた人物であった。ベネットは医師であ じゅんしょう り,大学教授であり,准 将でもあった。1840年7月27日, 次のような警告を与えられた。『彼は勧告を受け入れるな らば,報いを失うことはないであろう。 』『彼は大いなる者 彼は教会のために何か働きたいと申し出た。預言者ジョセ フはこれに応じて,もしその気になったらコマースへ来る となるであろう。彼はこのことを行うならば,わたしのも のとなる。』ベネットは,彼の心の内をよく御存じの主か ようにと誘った。しかし同時に,真理や苦しむ聖徒のため ら言われた,この『……ならば』という警告に耳を貸さな に献身したからといって『この時代に』昇栄を受けること ができると期待してはならない,と警告した。また,この かったのである。 」(『注解』pp.770−771) 将来罪のある行いをするからといって,主は現在の祝福 は かん いん を手控えられることはない。主はダビデが将来バテシバと 罪を犯すようになるということを知っておられたが,彼が 忠実であるかぎり祝福を与えられ,その機会を奪うことは されなかった。主に従っているかぎり,祝福はもたらされ るのである。教会歴史を眺めてみると,最終的に教会の指 導者になり損ねるような人を,主はなぜ選ばれるのかと尋 ねてみたい気持ちになるかもしれない。しかし,少なくと も召しの時点では,そういう人々も忠実であったというこ とを忘れてはならない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教 義 と 聖 約 124: 22− 24, 56− 83, 119− 121 「旅人が……つくづくと考える」ことができるように「宿 泊するための家」を建てる 「啓示の霊により,聖徒たちは旅人を歓待するために立 派な宿泊施設を建てるように命じられた。良い宿泊施設が 整っているということは,旅行者を引きつける大きな要素 となる。この啓示は,世界中の旅行者が聖徒たちを尋ねて 知り合いになるよう主が望んでおられたことを立証するも のである。聖徒たちは外界から遮断された囲いの中に閉じ こもっていたわけではなかった。世の人々から隠さなけれ ばならないことは,何一つなかったのである。」(スミス, ショダール共著『注解』pp.772−773) 善の象徴ハイラム・スミス 326 第124章 会でどのような職にあるかは問題ではない。使徒であろう と,祝福師であろうと,あるいは大祭司やそのほかのどの ような職であろうと,完全な神権を受けるためには,主の 神殿に参入し,預言者ジョセフが語っているこれらの儀式 を受けなければならないのである。わたしたちは主の神殿 の外で完全な神権を得ることはできない。しかし,以前に それが行われた時があった。主は山頂で完全な神権を授け ることがおできになるからである。 モーセはそれを得たし, エリヤも同様であったことは間違いない。また主は,宮が 整えられていない貧困の時代には,山頂でそれを受けるこ とができる,と言われた。しかしながら,現在では主の宮に 参入しなければならない。主の宮に行かなければ,完全な 神権を受けることはできないのである。 」 (Elijah the Prophet ノーブーハウスの基礎の上に建てられた家 and His Misson『預言者エリヤとその使命』pp.45−46) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:29−36 プテスマ 教義と聖約124:25−27 「いと高き方が住めるよう に,わたしの名のために一つの家を建てなさい」 死者のための身代わりのバ この聖句は,近代の聖典の中で初めて死者のためのバプ ノーブー神殿の建設は,末日聖徒にとって主の宮を建て る,5回目の試みであった。最初はミズーリ州ジャクソン テスマに触れた箇所である。十二使徒定員会にあてた1840 年10月19日付けの手紙の中で,預言者ジョセフ・スミスは 郡,次にオハイオ州カートランド,それからミズーリ州の 次のように述べている。 「『死者のためのバプテスマ』の教義については,この手 ファーウェストとアダム・オンダイ・アーマン,そしてイリ ノイ州ノーブーであった。ノーブーの神殿以前に完成して いたのは,カートランド神殿だけであったが,その神殿も すでに汚されていた。ブリガム・ヤングは次のように説明 している。「聖徒たちは暴民政治を前にして,逃げ出さな ければならなかった。それから日々額に汗して働き,ミズ ーリ州に安住の地を見いだし,シオンとそのステークに神 殿の隅石を置いた。その後また,イリノイ州に逃れなけれ ばならなかった。ミズーリ州から生きて脱出できる可能性 紙以前にも耳にして,多少の疑問を心に抱いていることと 思います。この手紙の中で,あなたがたがぜひ知りたいと 思っている情報をすべて伝えることができるわけではあり ません。しかし, 『聖書』に典拠のない知識を別にすれば, これが確かに昔の教会において行われていた儀式であると 言えるでしょう。聖パウロは,死者の復活の教義を熱心に 説いて,次のように語っています。『そうでないとすれば, 死者のためにバプテスマを受ける人々は,なぜそれをする のある人々を救うためである。ミズーリ州では,使徒のデ はらから ビッド・W・パッテンと多くの同胞が殺され,ジョセフやハ のだろうか。 もし死者がまったくよみがえらないとすれば, なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか。』(1コ イラムやほかの多くの人々が忌まわしい監獄に幽閉され, リント15:29) わたしはシモアー・ブランソン兄弟の弔辞を述べる席 食事に人肉を出されることもあった。しかし,こうしたこ とがすべて起こる以前に,カートランドの神殿は邪悪な で,初めてこの教義を公にしました。そしてそれ以来,こ 人々の手に落ち,彼らによって,エルサレムの神殿のように 汚されていた。そのため,最終的には,御父と御子から見放 の件について教会で広く教えてきました。聖徒たちは,亡 くなった親族のためにバプテスマを受ける特権がありま されたのである。 」(Journal of Discourses『説教集』2:32) す。すなわち,福音を聞く機会さえ与えられていれば受け 入れたと思われる親族のために,そして獄にいる死者に伝 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:28 「完全な神権」とはどういう意味 か ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に記している。 「ジョセフ・スミスはこう言っている。……『神の完全 な神権を得るためには,イエス・キリストがそれを得られ たと同じ方法で得なければならない。すなわち,戒めをす べて守り,主の宮のすべての儀式に従ってそれを得るので 道するよう委任された者を通して霊の状態で福音を受け入 れた親族のために,バプテスマを行うのです。 これ以上詳しく述べなくても,この教義が首尾一貫して 理にかなっていることが,はっきりと理解できるでしょう。 これは,キリストの福音が一部の人々の想像以上に規模の 大きなものであることを示しています。しかし,儀式を執 行する場所が特に限定されているので,詳細にわたって書 く必要はないでしょう。また,わたしはいつでも喜んでわ ある。』(『教会歴史』5:424) このことを理解していただきたい。もし神の完全な神権 たしの知っている限りの情報を提供したいと思っています が,紙面の関係でそれもできそうにありません。」(『教会 を受けたいと望むなら,わたしたちは主の宮の完全な儀式 歴史』4:231) この啓示の説明によれば,死者のためのバプテスマの儀 を受け,主の戒めを守らなければならない。…… これを少し異なる観点から説明しよう。皆さんがこの教 式は,主から指定された場所でのみ行うことができるとな 327 っている。この儀式を神殿外で執行して受け入れられるの づいて救われなければならないからである。 は,特別な状況下にある場合だけである。ノーブー神殿が 完成する以前に,主はこの儀式をミシシッピ川で執行する 主に宮を建ててささげるのも,神が末の日にその民を集 められるのと目的は同じである。すなわち,儀式やエンダ ことを許可された。しかし,1841年10月に預言者ジョセフ ウメント,洗い清めや油注ぎなどのために,民を備えさせ は,神殿のバプテスマフォントが完成するまでもはや死者 のためのバプテスマは執行しないと発表した。そしてバプ るのである。主の宮の儀式の一つが,死者のためのバプテ スマである。神は世の基が据えられる前に,この儀式はそ テスマフォントは11月に完成し,バプテスマは21日に再開 された(教義と聖約124:27−30参照) 。 のために備えられた主の宮のバプテスマフォントの中で執 行しなければならない,と定められたのである。」(『教会 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:37−38 昔の神殿の儀式 歴史』5:423−424) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 教義と聖約124:40−44 宮を建てて,「わたしがそこ に言っている。「主の宮で行われる儀式の重要性について は,(124章)37節から39節に記されている。この聖句か で民に儀式を示すことができるようにしなさい」 教会の指導者たちに神殿について教えた後,預言者ジョ ら,モーセが荒れ野の中で持ち運びのできる移動式の神殿, すなわち一般に言う『幕屋』を建てるように命じられたこ セフ・スミスは,この儀式は霊的な思いを持つ者だけが完 全に理解でき,神殿の中でのみ教えられると述べた。「わ とが分かる。この幕屋は,少年サムエルが主の声を聞いた, たしがこの会議で話したことは霊的な事柄であって,霊的 あの神殿である(サムエル上1−3章参照)。後にソロモン の神殿が,この聖なる建物に取って代わった。『昔このよ な思いを持つ者のみが受け止めることのできるものであっ た。これらの人々に教えた事柄は,いずれ末の日のすべて うな建物の中で執り行われた儀式はどのようなものであっ たか』と,よく尋ねられる。主はその点について,前述の の聖徒に知らされるであろう。聖徒たちに受け入れる備え ができ,教えを授けるための適切な場所ができ次第,聖徒 聖句の中で説明しておられる。事実,昔のイスラエルには, の中の最も弱き者に至るまで授けられるはずである。した 現在あるような完全な儀式があったわけではないし,イス ラエルが受ける特権に浴した儀式は,全部とは言わないま がって,聖徒たちはこの神殿の建築に,また神がこれまで 命じられた, そして今後命じられるあらゆる建物の建築に, でも,その大部分がアロン神権に関するものであった(教 義と聖約84:21−26参照)。昔の人々は,神殿で死者の救 熱心に従事しよう。また,この会議で述べられたすべての ことが,常に啓示の原則に基づいていることを確信して, いのために働くこともなかった。 その業が開始されたのは, 最後まで柔和な心と信仰と不屈の精神とをもって,自分た 救い主が霊界を訪れて,獄の扉を開き,捕らわれていた霊 たちに福音が伝えられるようにされた後のことであった。」 ちの時が来るのを忍耐して待っていただきたい。」(『教会 歴史』5:2) (Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の 啓示』2:268) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:39−40 なぜ主の民は神殿を建てる よう命じられるのか 預言者ジョセフ・スミスは,神権の儀式が執り行われる 神聖な場所を用意するために神殿を建てることは永遠の計 画の一つである,と教えた。 「この世のいかなる時代においても,ユダヤ人,あるい は神の民を集合させる目的は何であろうか。…… そのおもな目的は,宮を建設して主にささげることであ る。主はそこで,宮の儀式と王国の栄光とを主の民に明ら かにし,救いの道を教えられるのである。なぜなら,主の 民が教えや儀式を受ける場合,その目的のために建てられ た場所,すなわち宮の中でなければ受けられない儀式や原 則があるからである。 これは世界が存在する前に天上の会議で計画されたこと であり,世のいかなる時代にあっても,神権に関する原則 と律法は,民の集合に基づかなければならないのである。 イエスはあらゆる手立てを尽くして民を集めようとされ た。しかし民は集合しようとしなかった。そこで主は民に のろいをかけられたのである。世の基が据えられる以前に, 人の救いのために天において定められた神権に関する儀式 は,改変されることはない。すべての人が,同じ原則に基 328 ノーブー神殿は,最後の神権時代において初めて儀式が執行さ れた神殿であった 第124章 教義と聖約124:45 「わたしの民が,わたしの声…… じられても,法律上の制限や物理的な力に妨げられて実行 に聞き従うならば」 神の啓示は神が選ばれた僕たちを通じてもたらされる。 することが不可能な場合,主はそれ以上その戒めを守るこ とを強要せずに,わたしたちのささげ物を受け入れてくだ 僕たちの言葉は,永遠の命に至る確かな道をはっきりと示 してくれる。この言葉に,とりわけ生ける預言者の言葉に さる。そして,主の民が主から求められて行う業を妨害す る人々に,憤りと怒りとを下されるのである。」(『大会報 耳を傾けなければ,無数の祝福を逃すことになる。ジョー ジ・Q・キャノン副管長は次のように説明している。「わ 告』1924年4月,pp.13−14) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ たしたちの神に敬意を示したいと思うならば,神の僕の声 教義と聖約124:84 に耳を傾け,敬虔な思いで僕に接し,助言や導きを求める こと以上に良い方法があるだろうか。わたしたちは神の僕 代わりに,自分の助言を確立しようと切望している」 しっせき アルモン・バビットは主から厳しい叱責を受けた。預言 がいと高き所から霊感を受けることができるよう,彼のた めに祈っている。皆さんは自分の祈りを信じているだろう 者ジョセフの権能を出し抜こうともくろみ,貪欲になった からである。主はそれを金の子牛を設けることにたとえら か。神が今もこれからも,僕に霊感を与えられると信じて れた。スミスとショダールが記録しているように,明らか いるだろうか。ぜひそうあってほしい。そして,その気持 ちを持つことによって,行いを改めるように導きを受けて に,アルモン・バビットの「第一の野望は,金もうけをす ることにあった。そして……彼は教会の指導者たちの助言 いただきたい。……わたしたちは一部の事柄についてだけ 導きを受けたいと言えるだろうか。教義などの問題につい に反して,聖徒たちにノーブーを去るように勧めていた。 恐らく土地をどこかよそへ売ることに関心を持っていたの て導きを受けるのは正しいと考えながら,そのほかの事柄, であろう。ともかく,聖徒がノーブーを去ったとき,彼は 例えばこの民の救いと守護のために大切で必要な事柄につ いては,導きを受けようとしないとしたらどうだろうか。 不動産代理業者の一人に指名された。可能なかぎり高値で 売却してもらえるよう,聖徒たちは自分の財産をこの不動 末日聖徒の皆さん,それはできない。この権能から離れて, それでもなお末日聖徒でいることはできないのである。そ 産業者たちの手にゆだねて行ったのである。彼がこの責任 をどのように果たしたかは,次のヒーバー・C・キンボー れは神の教会から自分自身を絶つことであり,皆さんが今 享受しているものはすべて,この権能を認めることに基づ ルの言葉から推測できる。『わたしの家は,1,700ドルで売 れた。その代金は,聖徒たちの集合の援助に使うつもりで くからである。」(『大会報告』1900年4月,p.13) いた。しかし,アルモン・W・バビットがそれを着服した ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のではないかと思う。』(『説教集』3:350)」(『注解』 p.784) けいけん 教義と聖約124:46−48 「もし彼らがわたしの声に 「彼はわたしが定めた助言……の どんよく ……聞き従おうとしなければ」 「一般に聖徒たちは,神殿を建てるために偉大な自己犠 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:87−90,97−102 ウィリアム・ 牲の精神をもって熱心に働いた。しかし,ノーブーでも, ローは主の言葉に従って,その結果,約束された祝福を受 背教の気運が多くの指導者の心を捕らえ始めた。ジャクソ ン郡やカートランドの場合と同じである。背教者たちは聖 けたか 「すばらしい機会がウィリアム・ローに与えられた。し 所と『聖書』にかかわるものをことごとく汚し,自分自身 と教会に『激しい怒り,憤り,および裁き』(48節)をも かし,彼はそれを無視して受け入れようとしなかった。も し神からここで命じられたことを忠実に行っていたら,約 たらした。そして,彼らが従順でなかったため,教会はま 束された祝福を受けていたであろう。しかし,彼が主に従 た毒麦と麦とをふるいに分ける作業をせざるを得なくなっ てしまった。 」(スミス,ショダール共著『注解』p.779) うことを拒んだとき,大管長会の一員として任命されたこ み たま とすら,彼を堕落から救うことはできなかった。神の御霊 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み わざ 教義と聖約124:49−55 敵が御業を妨害するとき を失ったウィリアム・ローは,教会にとって最も激しい敵 の一人となった。そして,背教者や迫害者が自分の周りに チャールズ・W・ペンローズ副管長は,聖徒たちが神の 戒めの遂行を妨害された場合どうなるかということについ 集まって来たので,そのような人々をまとめて自分の教会 を設立しようとした。」(スミス,ショダール共著『注解』 て,次のように説明している。「主の言葉によれば,いか p.785) なるものであれ,人の子らが主から戒めを与えられ,その 戒めを守ろうと熱心に努め,求められたことを行い,それ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:91−96 ハイラム・スミスに授けら でもなお敵の手によって,あるいは別の手段によって御業 の遂行を妨げられた場合,主はもはやそれを行うことを求 れた特別な権利は何か 預言者の父であるジョセフ・スミス・シニアは,この神 められない。 主はそのささげ物を受け入れられるのである。 権時代における最初の大祝福師であった。その跡を継いで これは過去においても同じであったし,未来においても同 じである。わたしたちはこれを忘れないようにしなければ 祝福師となったのが,息子のハイラムである。ハイラムは それに加えて,教会の第二の長老としての務めも果たした。 ならない。もし神が戒めを与え,わたしたちがそれに従わ ない場合,神はその戒めを取り消し,同時にその祝福も取 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,教義と聖約 124:94を引用してから,次のように述べている。 り消される。わたしたちが主からあることをするように命 「これはハイラム・スミスに与えられた特別な祝福であ 329 った。この祝福を受け入れることにより,ハイラムはかつ りに呼び集め,自分の姉妹のナンシーに向かってこう言っ てオリバー・カウドリの保持していた地位に就き,オリバ ーに授けられていたもろもろの鍵を受けた。主が神権や神 た。『あなたは心の中でこの御業を否定しています。もし まだ否定するなら,主はあなたに罰を与えると言っておら 権の鍵を天から現されたとき,オリバー・カウドリは常に れます。』また,もう一人の姉妹のサラにはこう言った。 ジョセフ・スミスとともに天の使者たちの前に立ち,この 権能をすべてともに受けた。 そのことを忘れてはならない。 『わたしたちは一度は死ななければなりません。わたしは これ以上待つよりも,今死ぬ方がいいのです。』そしてし ジョセフ・スミスが教会の『第一の』長老として,オリバ ー・カウドリが『第二の』長老として,二人はそれを共有 ばらく語った後,気を失って倒れてしまったが,また回復 した。翌日の晩,今度は父親を呼び寄せ,『もしわたしの したのである。こうして,証人に関する律法は完全に満た された。すべての神権時代の中で最も大いなる神権時代の ために泣くのをやめてくれたら,主はわたしを元気にして くださるでしょう』と言った。シドニー・リグドンは, 冒頭に,権能と鍵と管理の職とを持った二人の証人がいた 1842年8月20日の公の集会でこの神の力の現れについて述 からである。しかし,オリバー・カウドリが戒めに背いて このすばらしく気高い祝福を失ったとき,ハイラム・スミ べ,さらに加えて,預言者ジョセフと教会に忠誠を尽くす と力強く宣言した。このとき,ハイラム・スミスはシドニ スが主の啓示によって選ばれ,彼に代わってその地位に就 いた。そのとき,主は次のような言葉でハイラムを召して ー・リグドンに,啓示のことを思い出すよう勧告した。主 はその中で,彼がもしノーブーの市に引っ越して来て真理 おられる〔教義と聖約124:95−96〕 。 を擁護するならば,彼を癒すと約束された。そして,リグ こうして,主は約束に従ってハイラム・スミスに示現を 授け,この気高い地位にとどまるために必要な事柄を示さ ドンの健康状態の回復がこの啓示の成就であることを示さ れたのである(『教会歴史』5:121−123)。こうしたこと れた。そして,すべての鍵と権能がジョセフ・スミスによ ってハイラムに授けられた。これによって,ハイラム・ス にもかかわらず,リグドンは結局道をそれた。しかし,後 に教会に加入した息子のジョン・リグドンの言葉によれ ミスは, 『わたしの僕ジョセフと同様に』預言者,聖見者, ば,シドニー・リグドンは決して教会の敵にはならなかっ 啓示者として,また大管長として,弟とともに働くことが で き る よ う に な っ た の で あ る 。」( “Patriarch Hyrum G. たと言うことができる。」(『注解』pp.788−789。『教会歴 史』5:121−123も参照) Smith” Utah Genealogical and Historical Magazine「祝福師ハ イラム・G・スミス」『ユタ系図歴史機関誌』1932年4月 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:115−118 ロバート・D・フォスタ 号,pp.51−52) ーの愚かな行為と悪を行うこととは何か ハイラムの名前が「代々とこしえにいつまでも尊敬を込 めて覚えられる」 (教義と聖約124:96)との預言は,すで スペリーは次のように書いている。「残念なことに,フ ォスターも主の勧告をないがしろにした一人である。預言 に完全に成就している。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 者は折りに触れ,あらゆる手立てを尽くしてフォスターを 助けたが,結局彼は不誠実な人間と共謀して,いわれのな 教義と聖約124:103−110 に警告が与えられたのか い罪でジョセフ・スミスを訴えた。そのうえ預言者を殺害 する陰謀まで企てたのである。」(Compendium『概要』 なぜシドニー・リグドン スミスとショダールは,この警告の歴史的背景について p.664) 次のように説明している。 「シドニー・リグドンは,当時の人々が受けていた印象 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:124−126 「預言者」と「祝福師」 によれば,多かれ少なかれ,背教的な気運の影響下にあっ た。伝えられた話によれば,彼はリバティーの監獄で一緒 の関係 ハイラム・スミスは「祝福師」として任命され,ジョセ に捕らえられている同胞に向かい,主の苦しみは自分の受 フ・スミスは「教会のすべてを管理する管理長老」として けている苦しみに比べれば取るに足りないものだと語って いる。また,忠実な聖徒たちがノーブー神殿の完成のため 任命された。ハイラムの任命に関する言葉遣いが微妙なた め(教義と聖約124:124参照),一部の人は大祝福師の職 に必死になって頑張っているとき,何ら激励の言葉をかけ ていない。こうした性癖の結果,彼は健康が優れなかった。 が大管長の職よりも上であるという間違った解釈をしてい る。ジョセフとハイラムの死後,二人の弟であるウィリア ふさわしくないままを受けたコリント人のように(1コリ ム・スミスが大祝福師の職に召された。後年,この召しに ント11:30),『弱い者や病人』の一人になっていた。その ため,主は病気の原因を指摘し,もし彼が自分の職を果た よってウィリアムはブリガム・ヤングや十二使徒定員会の 会員以上の権能を持ったと主張する者が出た。十二使徒定 し,真の副管長として預言者ジョセフの傍らに立つならば, いや 彼を癒すと約束しておられるのである。 員会の会員であったジョン・テーラーは,1845年にその主 張に次のように答えている。 シドニー・リグドンは,この啓示を受けた数か月後にす ばらしい経験をした。彼の娘のエライザは病気で医師から 「『大神権の職の大管長の義務は,全教会を管理し,モー セのようであることである』 (教義と聖約107:91)と述べ 死の宣告を受けていた。彼女は死後しばらくたってから, られている。この聖句から,管理するよう神から任じられ ベッドの上に身を起こし,主から託されたメッセージを伝 えるために戻って来た,と言った。そして家族を自分の周 ているのは,祝福師ではなく大管長であることが明らかで ある。…… 330 第124章 大管長はすべての祝福師,教会内の長および評議会を管 理する。この管理の職は,血統よりも召しや位,先任順位 によるのものである。ヤコブとヨセフはイエスの弟であり 〔マタイ13:55参照〕,ヨハネはイエスのであった。しか し,もろもろの鍵は……ペテロに〔授けられ〕,ペテロが 全教会を管理した。ウィリアム兄弟は確かに十二使徒定員 会の会員であったが,兄の存命中も,その後も,定員会の 会長ではなかった。そして,もし祝福師に聖任されたとい うことで大管長になるとすれば,ジョセフに代わって,父 のジョセフ・スミスやハイラム・スミスが教会を管理する 大管長になっていたことであろう。 ウィリアム兄弟はこのことをよく理解している。もし一 部の人たちの愚かな行動がなければ,このような話をする 必要はなかったであろう。」(『タイムズ・アンド・シーズ ンズ』1845年6月1日,pp.921−922)この初期の段階で, ブリガム・ヤングは主から選ばれて,十二使徒定員会を管 理していたのである(教義と聖約124:127参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:127−30 十二使徒評議会 教義と聖約107:33−34,38,および教義と聖約107:23 の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:130 はだれもいない」 「彼の神権を彼から取り去る者 デビッド・W・パッテン長老は亡くなったが,神権を取 り去られることはなかった。これについて,ジョン・テー ラー大管長は次のように述べている。 「しかし,パッテン長老が亡くなっても,彼の神権に関 しては何の変化もなかった。彼は天においても,地上と同 様に神権を所有しているからである。…… ……もし神権がこの世でも永遠の世でも行使されるとし たら,またもし地上において組織されているような定員会 が天においても存在し,この神権が取り去られることなく 存続し続けるとしたら,わたしたちは地上において神権の ウィリアム・スミスは,ジョセフとハイラムの死後,大祝福師 に聖任された されている者が全員所属するのである。……各自の召しに あって働くことが,大祭司定員会の職務である。末日聖徒 イエス・キリスト教会の利益に無関心であってはならない し,人を救うことに無関心であってもならない。シオンの 様々なステークにおけるこの神権定員会に期待されている ことは, ステークのあらゆる福利に目を向けることである。 すなわち,義について教え,シオンのステークで管理の権 秩序を乱してはならないと思うであろう。神権の永続性に 能を持って働いている人々が,正しく正直で汚れのない謙 遜な人となって,召されている地位にふさわしい働きがで 関するこれらの原則を,わたしたちの中で神聖に保つ必要 が あ る よ う で あ る 。」( Gospel Kingdom『 福 音 の 王 国 』 きるように見守ることである。そうすればこの神権評議会 は力ある評議会となり,教会においてその影響力を発揮す p.185) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るのである。…… 教義と聖約124:131−132 高等評議会 教義と聖約第102章,および教義と聖約107:36−37の 「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:133−137 「大祭司の定員会」と 「長老の定員会」 ジョセフ・F・スミス大管長は,ステークにおける大祭 司定員会と長老定員会の地位と機能について次のように説 明している。 「シオンのステークには,それぞれ大祭司定員会と呼ば れる一つの組織がある。この定員会には教会のすべての大 祭司が所属する。すなわち,ステーク会長会,高等評議員, 監督,副監督,祝福師,そのほか教会の大祭司の職に聖任 長老の評議会すなわち定員会は,96人の長老によって構 成される。ステークごとに複数の長老の評議会,すなわち 定員会を組織することができる。この評議会の職務は,地 元で常任教導者として働き,教会やステークの管理役員の 召しにいつでも応じる準備をしておき,求められたらそれ がいかなる召しであろうとも,すなわち神殿の中で働くこ とであろうと,七十人とともに全世界へ出て行って……福 音を宣べ伝えることであろうと,その召しを責任を持って 果たすことである。」(『大会報告』1904年10月,pp.3−4。 特別講座Mも参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約124:138−142 七十人,管理監督会,小 神権 神権における職と定員会については,特別講座Mと教義 331 と聖約68:13−21;107:15−17,68−75,93−97の「注 ブリガム・ヤング大管長の死後,大管長会を再組織する 解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に当たって,ジョン・テーラー会長が挙手によって支持さ れた。「この支持の挙手は,まず定員会として行われ,各 教義と聖約124:143−145 で承認する」 定員会で承認された後に,様々な定員会の会長が一緒に支 持の挙手をし,その後,定員会と残りの人々が男女一緒に 「それらの名前を総大会 新しい大管長(大管長会の再組織)の支持を求める場合, 聖会の方式に従う。この方式は,1836年3月27日にカート 支持の挙手を行った。 」(ジョン・テーラー『説教集』22: 40。ロバーツ,Life of John Taylor『ジョン・テーラーの生 ランドにおいて初めて用いられた(『教会歴史』2:411, 涯』pp.339−341;J・ルーベン・クラーク・ジュニア 416−418参照。またオーソン・プラット『説教集』19: 118も参照)。聖会を運営する方法は,「遠く洪水の前の神 『大会報告』1951年4月,p.136も参照) 教会員は,教会の役員を支持または拒否する特権を行 権時代,すなわち洪水以前の族長たちが統治していた神権 時代に存在していた方式が,啓示によって」教会に与えら 使するに当たって,全会一致の原則に従っている(教義と 聖約26:2の「注解」参照)。 れたものである(オーソン・プラット『説教集』22:36) 。 アイオワの聖徒たちに 下された神の御心 歴史的背景 第125章 がっていた。その多くが末日聖徒であった。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 注 解 ミズーリ州から追放されたすべての聖徒が,イリノイ州 に安住の地を見いだしたわけではない。ノーブーからミシ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約125:1 啓示の扉を開いてくださるよう神 シッピ川を挟んだ対岸のアイオワ州に定住した人たちもい に願う た。そのような行動を指示するこの啓示は,アイオワ州に とどまるべきか,それともイリノイ州側に集合すべきか, この聖句は,預言者ジョセフ・スミスがさらに光と知識 を求めて主に嘆願した言葉である。啓示がもたらされる方 という問いかけに答える形で与えられた。聖徒たちにアイ オワ州への定住を最初に勧めた人物の中に,アイザック・ 式はこうである。すなわち,まず信仰をもってに祈り求め る。すると適切な訴えに応じて主からその答えが与えられ ガランド博士がいた。ノーブー市建設のための用地を売っ るのである。 「求めよ,そうすれば,与えられるであろう。 てくれた人である。ジョセフ・フィールディング・スミス 長老は次のように書いている。「ガランド氏は,デビッ 捜せ,そうすれば,見いだすであろう。門をたたけ,そう すれば,あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)主の教 ド・W・ロジャーズにあてた手紙の中で,聖徒たちはアイ オワに定住してはどうか,と提案している。当時アイオワ えによれば,暗闇の中にとどまる人がいるのは,求めてい ないか,それともいたずらに求めているかのどちらかが原 は準州であった。『殺人や強奪が指導者として最も称賛さ 因である。ヤコブは,「あなたがたは,求めないから得ら れないのだ」 (ヤコブの手紙4:2)と説明している。 くらやみ れる特徴であり,極悪人がしばしば最も高い役職に就いて いる』州にいるよりも,合衆国の司法の下で暴徒からの保 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 護を比較的受けやすい所にいる方がよいのではないか,と 考えたからである。ガランド氏はまた,アイオワ準州の知 教義と聖約125:2 いたか 事ロバート・ルーカスにも手紙を送った。ルーカス知事は 主は聖徒たちに,「わたしが……指定した場所に」集合 して,「将来起こることに」備えをするよう命じられた アイオワは永住の地と考えられて オハイオ州の『モルモン』の民についてよく知っていて, 彼らを立派な市民として高く評価していたからである。」 (教義と聖約125:2)。そうすると,1841年3月に与えられ (Essentials in Church History『教会歴史粋』p.220) 土地の購入は,ミズーリ州からの脱出と時を同じくして, たこの啓示には,1846年と1847年に行われた末日聖徒のロ ッキー山脈への脱出がほのめかされていたことになる。ア 1839年に行われた。教義と聖約第125章の啓示は1841年に 与えられたものである。当時,かなりの数の聖徒がすでに イオワは,イリノイ州で家を追われた人々の一時的な集合 地となったのである。 アイオワに定住しており,これはその人々に与えられた指 示である。アイオワ準州リー郡の人口は,聖徒たちの到着 前には2,839人であったが,1846年には1万2,860人に膨れ上 332 このような方法で聖徒たちに命名された最初の定住地の 一つが,アイオワ州リー郡ナッシュビルにあったゼラヘム ラである。 「この定住地は,1839年,ミシシッピ川の西約1 マイル(約1.6キロ),イリノイ州ノーブーの対岸のモント ローズ近郊の高台に聖徒たちが開いたものである。教会は すでにここでかなり広い土地を購入していた。1841年8月7 日にゼラヘムラで開かれた大会には,750人の教会員が代 表して出席したが,そのうち326人がゼラヘムラの住民で あった。しかし,聖徒たちがロッキー山脈を目指して出発 したとき,この町は消滅した。 」 (スミス,ショダール共著, Commentary『注解』p.796) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約125:4 アイオワ準州モントローズからミシシッピ川対岸のイリノイ州 ノーブーを望む 教義と聖約125:3 「ゼラヘムラ」という言葉の出典 ナッシュビルの町はどういう点で 重要であったか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に書いている。「対岸のアイオワ側に広い土地も購入され た。リー郡ナッシュビルの村に隣接する2万エーカー(約 8,000ヘクタール)の土地も購入した。ノーブーの対岸で は何か。またその町はどこにあったか ゼラヘムラという言葉の正確な意味は分かっていない。 はほかにも土地を購入した。ここで,聖徒たちが町を建設 し,その町をゼラヘムラと名付けるよう預言者は指示を出 この言葉の出典は,ゼデキヤが捕らわれてバビロンに連れ て行かれた時代に,エルサレムからアメリカ大陸に渡って した。聖徒たちがミズーリ州から追放されたとき,ここに はかなりの数の教会員が住んでいて,民の永住の地として 来た民について書かれた『モルモン書』の記録の中にある。 適切な場所であるように思われた。……末日聖徒がかなり の地域に広がっていき,国内の各地に組織を作っていくこ この民は指導者の名にちなんでゼラヘムラの民と呼ばれ, ゼラヘムラの地のゼラヘムラという町に住んでいた(オム とを考えていたと思われる。 」(『教会歴史粋』p.222) ナイ1:12−19参照)。 『モルモン書』の時代には,町に「最初にそこを所有し この計画は,預言者のおじであるジョン・スミス長老の 指示の下に,1839年10月5日にアイオワでステークが組織 た人の名を付ける」(アルマ8:7)ことが,ごく普通であ った。また,末日聖徒の間でも,自分たちの定住地の命名 された後に放棄された。それからしばらくたった1842年1 月6日には,このステーク自体も閉鎖されたが,スミス兄 に当たって『モルモン書』から名前を取ることが広く行わ 弟は引き続きアイオワの聖徒たちを管理していた。その数 れた。例えば,ユタ州には,ニーファイ,モロナイ,マン タイ,バウンティフルといった名前の町が存在する。 はユタへの大脱出まで,移民によって増え続けた(1981 Church Almanac『1981年教会年鑑』p.140参照) 。 ブリガム・ヤング── 主に愛された者 第126章 じ 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「1841年7月,ヨーロッパで伝道していた使徒たちがノー ブーに戻り始めた。使徒たちの帰還は,苦難の中にいる預 言者にとって大きな慰めであった。十二使徒の帰還直後, ぎ り,シオンにおける職務を遂行することが,時宜にかなっ ていたのである。」(キャノン,Life of Joseph Smith『ジョ セフ・スミスの生涯』p.374) ブリガム・ヤングは,もはや家族のもとを離れる必要は ないと言われたが,その後も短期間の伝道に何度か出かけ た。まず,ジョン・C・ベネットやほかの背教者たちが起 1841年8月16日にノーブーで開かれた特別大会において, こした中傷的な告訴を論破するために数々の州を巡り ジョセフはそこに集まった人々に向かい,使徒たちが大管 (1842年9月から1842年11月4日まで),次にノーブーハウス 長会に次ぐ立場に立たなければならない時が来たと述べ とノーブー神殿の基金を集めるために東部へ赴き(1843年 た。彼らは忠実であり,重荷と迫害に耐え,地の国々にお いて福音の勝利を宣言してきた。今や彼らが家庭にとどま 6月から1843年10月22日まで),さらにジョセフ・スミスの 名前を合衆国大統領選立候補者として合衆国国民の前に紹 333 介するために伝道に出た(1844年5月21日から1844年8月6 日まで)(ホイットニー,Life of Heber C.Kimball『ヒーバ ー・C・キンボールの生涯』pp.330−331,334−337,342 参照) 。 この啓示が与えられてから,ブリガム・ヤングは過去数 年間に比べ,はるかに多くの時間を家族とともに過ごすこ とができるようになった。それに加えて,かなりの時間を 預言者ジョセフ・スミスの身近で過ごせるようになった (ジョセフの生涯の最後の36か月のうち,28か月をともに 過ごした) 。 このことから明らかになると思うが,ブリガム・ヤング の将来と教会の将来とを知っておられた主は,ブリガムを ジョセフの近くに置き,ジョセフの死後教会を指導してい く際に知っておかなければならない教えを学ぶことができ るように配慮されたのである。主が預言者ジョセフ・スミ しもべ スを通じてこの従順な僕に,彼自身の家で話しかけられた ことは,まことにふさわしいことであった。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約126:1 学びと備えの時 主はブリガム・ヤングを召し,ノーブーにとどまって十 み わざ 二使徒定員会会長として御業を指揮するように言われた。 このような処置に深い知恵があったことは,後にブリガ ム・ヤングが主に選ばれてジョセフ・スミスの後継者とな ったときに明らかになる。預言者ジョセフは,ブリガム・ ヤングの生涯における力の源であった。ジョセフとともに ジョセフ・スミスの後継者ブリガム・ヤング いて彼から学ぶことができさえすれば,耐えることのでき ない苦難はなく, やり繰りのつかない不自由さもなかった。 に夏を過ごしたことはなかった。12年以上の間に,わたし 預言者とともに過ごした時間について,ブリガム・ヤング はかつて次のように語った。「預言者ジョセフとともに過 ごした日々は,わたしにとって,世界のすべての富よりも はるかに貴重なものであった。どれほど貧困にあえいでい ようと,またたとえ妻子を養うために食物を借りなくては が教会から受けた唯一のものといえば,また預言者ジョセ フからもらった唯一のものといえば,1842年に,ジョセフ 兄弟が兄弟たちから子豚をもらったときに分けてくれた半 頭分の肉だけである。それとてわたしの方から欲しがった わけではなかった。」(Journal of Discourses『説教集』4: ならなくなったとしても,わたしは,預言者ジョセフが伝 34) ブリガム・ヤングは教会員としての,また使徒としての えてくれることを学ぶ機会を逃そうなどとは決して思わな かった。」(ニブレー,Brigham Young『ブリガム・ヤング』 生涯を通じて,自分の利益を何ら考えずにひたすら与え続 けた。家族とともにあっても離れていても,自分の生活は p.28) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 自分で支え,彼の家族もだれからも援助を受けなかった。 教義と聖約126:2−3 が主に認められた ブリガム・ヤングの労苦と犠牲 ブリガム・ヤングは次のように語っている。「わたしは この教会に1832年の春に加入したが,バプテスマを受ける に先立ち,自費でカナダへ伝道に出かけた。わたしがバプ テスマを受けてから,ジョセフとハイラムの殉教による悲 の しみと苦難の日々に至るまで,旅をして福音を宣べ伝えず 334 そのうえ彼はどこへ出かけようとも,自分自身の労働によ って御業を財政的に助ける働きをしたのである(『説教集』 4:34−35参照)。 ブリガム・ヤングは,預言者ジョセフ・スミスが教えた 霊的な原則の生きた模範であった。「すべてのものを犠牲 にすることを求めない宗教には,命と救いに必要な信仰を 産み出す力はない。」(Lectures on Faith『信仰に関する講 話』6:7) ノーブー神殿と死者のための バプテスマ 第127章 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1840年8月10日,シーモア・ブランソンの葬儀における 力強い説教の中で,預言者ジョセフは死者のためのバプテ スマの教義を初めて紹介し, 集まった聖徒たちを驚かせた。 それ以来,このテーマは幹部の兄弟たちの説教に度々採り 上げられ,死者のためのバプテスマが近くのミシシッピ川 で執行された(Joseph Smith Letter Book, 6 November 1838-9 February 1843「ジョセフ・スミス書簡集−1838年11月6日 から1843年2月9日まで」ソルトレーク・シティー,末日聖 徒イエス・キリスト教会歴史部,pp.190−196参照。教義 と聖約124:29−36の「注解」も参照)。 1841年10月2日にノーブーで開かれた教会の総大会の記 録によれば,預言者ジョセフは,主の宮で執行できるよう になるまで,死者のためのバプテスマを中止することが主 み こころ の御 心であると宣言している(History of the Church『教会 歴史』4:426参照)。未完成のノーブー神殿において最初 に死者のためのバプテスマが行われたのは,1841年11月21 日日曜日であった( 『教会歴史』4:454参照)。 1842年夏には迫害がいよいよ激しくなったので,預言者 ジョセフ・スミスは自分の命を守るために,身を隠さなけ ればならなかった。この啓示は,彼がジョン・テーラーの 父親であるテーラー兄弟の家にかくまわれていたときに与 えられたものである。預言者ジョセフは啓示を受けると, 昔の預言者たちがしたように,手紙によって聖徒に指示を 与え,主の宮における死者のためのバプテスマの施し方を 明確に教えた。 預言者ジョセフがこの啓示と教義と聖約第128章の啓示 オーリン・ポーター・ロックウェルはボッグズ知事暗殺未遂の 罪で告訴された 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約127:1 ミスを迫害したのか 敵はなぜ理由もなくジョセフ・ス を聖徒たちに書き送る前に,何者かがミズーリ州のボッグ ズ前知事の殺害を企てて未遂に終わるという事件があっ ブリガム・ヤング大管長は次のように尋ねている。「な ぜジョセフは,土地から土地へ,町から町へ,州から州へ た。オーリン・ポーター・ロックウェルというモルモンが 即刻,容疑者として訴えられ,従犯としてジョセフ・スミ と追われて,最後には殺されてしまったのだろうか。それ スの名前が挙げられた。ミズーリ州の住民は直ちに行動を は,彼が御父と御子から啓示を受けたからであり,聖なる 天使たちから教え導かれたからであり,地上にいる主の子 起こし,イリノイ州のトーマス・カーリン知事に対し,こ の偽りの告訴の喚問のためにジョセフ・スミスをすぐにミ らに関する主の直接の御心を世の人々に向けて語ったから である。もう一度尋ねよう。なぜジョセフは迫害されたの ズーリ側へ引き渡すよう要請した。「これは,預言者をミ ズーリの暴徒のもとへ引き戻そうとする策略であった。こ だろうか。それは,きわめて理解しやすく,『聖書』と調 の策略には, イリノイ州のカーリン知事も一枚かんでいた。 和している真の宗教を全人類に明らかにしたからである。 その教えは救い主の時代のものとまったく同じである。こ それは後に〔イリノイ州〕スプリングフィールドで開かれ た法廷で明らかになった。……ジョセフは隠れ家から2通 の素朴で神々しい真理を人々に信じさせ,実践させるなら ば,昔の世界と同じようになるであろう。」(Journal of の手紙を書いた(教義と聖約127,128章)。これは教会に 対し啓示として与えられたものである。」(Church History Discourses『説教集』18:231) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』2:328) 教義と聖約127:1 「真っ黒な」偽り 預言者ジョセフ・スミスは生涯を通じて,数多くの罪状 で告発された。ジョセフに嫌疑をかけるということは,そ 335 れを偽の事実としてでっち上げることを意味していた。 据えられるはるか以前に,ジョセフ・スミスは,この世の 「モルモン」の預言者は,それほどまでに民衆に受け入れ られていなかったのである。ジョセフは法律を破ったこと 最後の神権時代に神の言葉を民にもたらし,また神の御子 かぎ の神権の完全な鍵と権能を受ける者となるよう,永遠の評 はなかった。(もし破っていたとすれば,法律の定めに従 議会において定められていた。……彼はこの最後の神権時 うことを拒まなかった。 )しかし,人々は裁判所に出廷し, 預言者ジョセフが不利になるような偽りの証言をした。そ 代を管理するよう,永遠の中で予任されていた。」(『説教 集』7:289−290)サタンの唯一の目的は神の業を妨害す して,法廷はそのような証言を証拠として採用しながら, 預言者ジョセフに有利な証言は聞こうともしなかった。さ ることであるから,預言者ジョセフ・スミスが試練と迫害 に苦しむ定めにあることは予見されていたのである。 らに,州の法務長官たちは,預言者側の証人の名前が分か ると教会にその証人の出廷を促し,逮捕しようとすること ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約127:4 なぜ聖徒たちはノーブー神殿を完 もあった。またその土地から追い出そうとしたり,法廷で 成するよう指示されたのか 証言できないように妨害したりする有様であった(『教会 歴史』3:211−213参照)。まことにサタンは,主に油注が 1842年,預言者ジョセフと聖徒たちは迫害の時代に入り つつあった。それは,聖徒たちにとって,使用できる見込 れた者を滅ぼそうとして,人々の心に怒りをたきつけたの であった。 みのない宮に対する作業を中止する十分な理由となるもの であった。実際,神殿に関する最後の仕事が完了したのは, あり さま ブリガム・ヤング大管長は,預言者ジョセフに向けられ 1846年にノーブーを立ち退く決定が下された後のことであ た法的な迫害について次のように述べている。「わたした ちの預言者ジョセフは,追跡され,追放され,逮捕され, った。しかしながら,あらゆる迫害の中で施された偉大な 祝福とエンダウメントは,その後に待ち受けていた苦難と 迫害された。しかしこの合衆国には,ジョセフを有罪とす るような法律は制定されていなかった。ジョセフはまった 死の歳月の間,民を支えるものになった。主の神殿が再び 奉献されるまで,31年間も待たなければならなかったから く法律を破っていなかったからである。それでもわたしの である。 知るかぎり,ジョセフは46回訴訟を起こされて,その度に 被告として立った。そして,ジョセフを追跡したり迫害し ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約127:6−7 死者のための業の記録:重要な たりする群衆や暴徒の先頭には,いつでも聖職者〔牧師か 説教者〕がいた。ジョセフとハイラムがカーセージの監獄 業の始まり この世が始まって以来,末日の聖徒に与えられたほどの で殺害されたとき,インディアンのように体を絵の具で塗 重要な責任をゆだねられた民はいない。 死者のための業は, った暴徒たちは,一人の牧師に率いられていた。」(『説教 集』14:199) すでに時の中間の聖徒たちによって始められていた(1コ リント15:29参照)。しかし,死者の救いの業の完成は, 「ジョセフ・スミスは,合計47回告発を受けたが,国法 に背いたかどで有罪が立証されたことは一度もなかった。 その大部分が末日聖徒に託されている。この聖句の中で, 主はこの業を遂行するに当たり,秩序立って確実な方法を ジョセフは反逆罪で告発を受けたが,それは人々の邪悪な 活動に加わろうとしなかったからである。」(ブリガム・ヤ 示された。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ング『説教集』10:111) 教義と聖約127:7 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約127:1 「わたしは代理人と書記たちに諸 が何でも天でつながれ」 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう 事を託しました」 預言者ジョセフが自分の命を守るために逃亡を余儀なく に述べている。「主の神殿で結ばれること,すなわち結び 固められることは,天においても結び固められる。これは されたとき,信頼できる親友たちに事務的な事柄をゆだね エリヤが回復した偉大な権能であり,その効力は,生者の ることが必要になった。そのような友人の一人に,オリバ ー・K・グレインジャーがいた。彼は,1838年1月にジョ ために行われる儀式にも,死者のために行われる儀式にも 及ぶ。預言者ジョセフが述べたように,生者のためのあら セフがカートランドへ逃れて以来,預言者ジョセフの財政 的な問題を処理してきた(教義と聖約117:12−15;『教 ゆる儀式は,完全な昇栄にあずかる資格を持つすべての死 者のためにも要求されるのである。」(Church History and 会歴史』3:164−165参照) 。 Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』2:329) ここでは代理人と書記の名前については何ら触れられて いないが,当時,預言者の事務所で書記として働いていた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約127:8 1842年の時点で回復されるべき のは,ウィリアム・W・フェルプス,ウィリアム・クレイ トン,ウィラード・リチャーズ,そしてジェームズ・スロ ものは何か 主はノーブー時代に,この世から永遠にわたる結婚に関 ーンであったことが分かっている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ する知識と鍵(教義と聖約132章参照)を授け,さらに神 聖な儀式やエンダウメント,死者のためのバプテスマ(教 教義と聖約127:2 義と聖約124−128章参照)などを行う施設として神殿を授 ジョセフ・スミスの予任には将来 の試練も含まれていた ブリガム・ヤング大管長はこう語っている。「地の基が 336 けられた。 「あなたがたが地上でつなぐこと 教義と聖約127:9 記録を整理しておくことはなぜ重 要か 神殿の記録保管所には,今の神権時代に神殿で儀式が施 されたすべての人々の名前と儀式の日付が記録されてい る。この重要なデータは,容易に再活用できるようコンピ ューターに保存されている。このような記録保存法は, 「すべての記録を整理して」(教義と聖約127:9)という主 かんぺき の要求を完璧に満たすものである。 死者のためのバプテスマ 第128章 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この啓示が与えられた当時の状況については,教義と聖 約第127章の「歴史的背景」で触れている。第128章も,同 じ状況の下で預言者ジョセフ・スミスが書いた2通目の手 紙である。死者のための業に関しては,付録の特別講座O でさらに詳しく論じられている。 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:2−4 もし儀式が正確に記録されなか った場合どうなるか ラドガー・クラウソン長老は,正確な神殿記録を作成す る神聖な義務について,次のように説明している。「教会 の初期には,死者のために行われたバプテスマの中に,適 切な証人がいなかったり,記録が取られていなかったりし たため,主から拒まれたものがあった。それらの儀式はや り直さなければならなかった。現在わたしたちの神殿では, この点に深い関心と注意を払っている。また,そのために 十分な助けを確保する必要がある。……ほんとうに偉大で 驚くべき業である。この業を少しもおろそかにできないの で,これらの儀式はすべて注意深く記録に残され,やがて 必要なときに取り出せるように神殿の記録保管所に整理保 存されているのである。これらの記録から,宮に入った 人々は裁かれるであろう。神殿の中で行われる儀式は,適 ラドガー・クラウソンは正確な記録を残すことの重要性を強調 した 切な証人と記録がなければ主から受け入れられることはな したちの心に刻まれている自分自身の行動の記録であり, いのである。」(Conference Report『大会報告』1900年4月, pp.43−44) わたしたちの体に記された従順と不従順の記録である。文 字どおりには,天で記されている忠実な者たちの名前と義 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:6−9 ヨハネの言葉は死者のための業 にかなった行いの記録である。」(Mormon Doctrine『モル とどのようなかかわりがあるか モンの教義』p.97) み わざ 記録の重要性から考えると,御業を成し遂げ,それを適 預言者ジョセフ・スミスはヨハネの言葉(黙示20:12) を引用し,教義と聖約128:7−9でこの聖句の解説をして 切に記録するという死者に対する約束を守ることは,末日 聖徒にとっていよいよ緊急の課題となってきている。「地 いる。主の神殿の中で行われる聖なる業の記録は,死者の 裁きに際して証拠となる。ブルース・R・マッコンキー長 上で」記録されることは「天で」記録され,「あなたがた 老は,聖文が裁きの基準になると述べてから,やがて開か ひ ゆ れる命の書について次のように解説している。比喩的には 「わたしたち自身の生活や存在そのものであり,またわた の死者が,数々の書物に基づき……裁かれる」(教義と聖 約128:8)からである。地上で行われたことが天において 結ばれるのは,神の神権の力によるのであり,この結び固 かぎ めの力が言葉を換えて言えば,「王国の鍵 」(教義と聖約 337 128:14)なのである。結び固めるというすべての行為は, グ・スミス大管長は次のように教えている。「もしエリヤ 神御自身の力と権能に基づいて行われる。そうでなければ, すべての努力,執行されたすべての儀式,人の心にある義 が来ていなければ,過去のすべての働きは何ら用をなさな くなると考えざるを得ない。なぜなら主はそのような状況 にかなったすべての志は,水泡に帰してしまうのである。 下では主の降臨に際して全地がことごとく荒れ廃れると言 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:12−13 死者のためのバプテスマの われたからである。したがってエリヤの使命は世にとって 非常に重要だったのである。大切なのは死者のためのバプ 儀式にはどのような象徴的な意味があるか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう テスマだけではない。両親の結び固めと,子供と両親の結 び固めも重要である。時の初めから終わりまでの『神権時 に教えている。「主は,わたしたちの神殿のバプテスマフ ォントを基礎すなわち地表の下に置かれた。これには象徴 代と鍵と力と栄光のすべての,ことごとくの,完全な和合 と結合』が成し遂げられなければならないからである。 的な意味がある。死者は墓の中に入っており,バプテスマ もしこの結び固めの力が地上になければ,主が降臨され を受けるわたしたちは死者のために働いているからであ る。さらに,バプテスマは死と復活の象徴であり,事実, るとき,至る所に混乱が見られ,無秩序が秩序に取って代 わるだろう。もちろんこのようなことはあり得ない。なぜ 罪の生活すなわち霊的な死から霊的な命の生活への復活で ある(教義と聖約29:41−45参照)。したがって,身代わ なら神の王国では万事が完全な律法によって統治され,制 御されているからである。 りによってこの儀式が施されたとき,死者は神のもとに戻 なぜ地球が荒れ廃れるということがあるのだろうか。死 ったものと考えられる。これは,生者に適用されるのと同 じ教義である。」(Church History and Modern Revelation『教 者のための業が行われて,父と子の間の結合の輪ができて いなければ,わたしたちは皆神の国に入ることを拒まれる 会歴史と近代の啓示』2:332) バプテスマフォントの象徴は,生者にも意味がある。パ だろう。また神の業全体がし,ことごとく荒れ廃れるだろ う。もちろんそのような状況になることはあり得ない。」 ウロは,人は肉につける(罪の多い)自分を葬らなければ (『救いの教義』2:113) ならないと教えた。すなわち,現在の自分を葬って新しい 人になるのである(ローマ6:1−7参照) 。この罪の「古き ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:18 「時満ちる神権時代」 人」(ローマ6:6)は,墓に似たものとして設けられたバ プテスマフォントの中に葬られ,新しく生まれた霊的な人 チャールズ・W・ペンローズ長老は次のように説明して いる。「この神権時代,すなわちあらゆる神権時代のうち 間が,肉体の誕生に似せて水に完全に沈められた状態から 最も壮大で偉大な神権時代には,キリストの内にあるすべ 出て来るのである(モーセ6:59−60参照。バプテスマの 象徴については, 『救いの教義』2:299−302を参照) 。 てのものが一つに集められる。シオンを築き上げるために, また主の足を置く場所を備えるために,主の民が様々な ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:14−18 死者のためのバプテスマは, 国々からシオンに集まって来るだけでなく,すでにこの世 を去っている大勢の人々も,主に率いられて主とともに集 なぜこれほど重要な福音の原則なのか 預言者ジョセフ・スミスは,3つの基本的な福音の原則 合するのである。しかも,集められるのは人だけではない。 過去の時代に明らかにされていた栄光に満ちた真理も,わ について次のように説明している。 たしたちの住む神権時代に世に出されるのである。また世 1.ある個人の亡くなった先祖の救いは,その人の「救 いにとって……不可欠」である。つまり,その人の生命は, の初めから隠されていたことも明らかにされるであろう。 主がそう約束されたからである。主の約束が果たされない 先祖の生命と深くかかわっているのである。なぜなら,そ の人は先祖なしには完全な者とされることはなく,先祖も ことは決してない。わたしたちの住むこの神権時代の特徴 は,全能者の目的が完全に達せられる偉大な御業にあるの またその人なしには完全な者とされることはないからであ である。」(『大会報告』1911年10月,pp.48−49。教義と聖 る(教義と聖約128:15) 。 2.死者のためのバプテスマは,「永遠の福音に属する 約27:5−13;124:41;128:19−24参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ すべての事項の中で最も栄光ある」(17節)ものである。 あわ 全知であられる天の御父の愛と憐れみをこれほど明確に表 教義と聖約128:19−23 喜びの詩 み たま 御霊に導かれるままに,預言者ジョセフは喜びに心を動 している教義は少ない。人間の教会は,死によって肉体と かされ,数節にわたって詩を書いた。シドニー・B・スペ 霊が分離された人々の救いのために何ら手を打てないでい るが,イエス・キリストの教会はこの栄光あふれる神の計 リーは19,22,23節を抜き出して,預言者ジョセフの手紙 のこの部分が聖歌のような性格を持っていることを示し 画を広く紹介している。ラドガー・クラウソン会長は次の ように言っている。「ああ,人を偏り見ることのない神の た。 公正と憐れみの美しさよ。生きている者の救いに必要なこ とは,亡くなった者の救いにも必要であることを忘れては さて,わたしたちの受けた福音について,何を聞くで しょうか。 ならない。 」(『大会報告』1931年10月,p.79) 喜びの声です。 3.死者のためのバプテスマは,地がのろいをもって打 たれるのを避ける助けとなる。ジョセフ・フィールディン 天からの憐れみの声, 地からの真理の声〔詩篇85:11;イザヤ29:3−4, 338 第128章 11−14;2ニーファイ27:6−29参照〕, る。「ここに登場する人々が皆,それぞれの神権時代を総 死者のための喜びのおとずれ, 生者と死者のための喜びの声, 合し,ジョセフ・スミスと交わりを持つことができたのは なぜだろうか。それは,ジョセフ・スミスが時満ちる神権 胸躍る大いなる喜びのおとずれ〔ルカ2:10参照〕 。 善の喜びのおとずれを伝え, 時代の先頭に立っていたからである。この神権時代は,か つて地上に存在していた様々な神権時代をすべて包含する シオンに向かって,「見よ,あなたの神が治めておら れる」 〔イザヤ52:7参照〕 ものである。また,永遠の世界にいる神々と永遠の時の流 れの中でその業を果たしている神権者たちが,今こそこれ と言う者の足は, らのものをことごとく回復する時であると宣言したので, 山の上にあって何と麗しいことか。 カルメルの露のように, 彼らは一緒になって様々な使命の鍵をジョセフに託した。 ジョセフが,それらの人々から受けた英知と助けとによっ 神の知識が彼らに下ることでしょう。 ………………………… て,完全な福音を伝えるのに,すなわち時満ちる神権時代 の幕を開けるのに十分にふさわしい者となるためである。 兄弟たちよ,わたしたちはこのような偉大な大義にお これこそ使徒パウロが言っているように『神は天にあるも いて前進しようではありませんか。 退かずに前に進んでください。 の地にあるものを,ことごとく,キリストにあって一つに 帰せしめようとされた』時代なのである。その結果,ジョ 兄弟たちよ,勇気を出してください。勝利に向かって 進み,進んでください。 セフはその地位にあって,これらすべての神権時代とそれ ぞれの時代に働いた人々に精通したのである。もしあなた 心を喜び楽しませ,大いに喜んでください。 がジョセフに,アダムがどのような容姿の人物であったか 地は声を放って歌いなさい。 死者は,王なるインマヌエルに向かって永遠の賛美の 尋ねたら,彼は即座に答えてくれたであろう。アダムの体 格や容姿など,アダムについて何でも教えてくれたであろ 歌を語り出しなさい。 王なるインマヌエルは,わたしたちが死者を獄からえ う。ペテロやヤコブやヨハネがどのような人物であったか 尋ねたならば,それにも答えてくれたであろう。なぜか。 るようにする方法を,世界が存在する前に定められまし た。 ジョセフは実際に彼らに会ったからである。」(Journal of Discourses『説教集』18:325−326) 獄にいる者たちは解放されるのです。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 山々は喜び呼ばわりなさい。 教義と聖約128:22 であるのはなぜか すべての谷よ,声高らかに叫びなさい。 すべての海と乾いた地よ,あなたがたの永遠の王の驚 預言者ジョセフ・スミスは,死者のための業を速やかに 進めなければならないと心を痛めていたが(教義と聖約 「このような偉大な大義」が急務 異を告げなさい。 128:1参照),そのような預言者は彼一人ではない。スペ 川よ,小川よ,せせらぎよ,喜びをもって流れ下りな さい。 ンサー・W・キンボール大管長も,同じような思いを現代 の聖徒たちに伝えている。 森と,野のすべての木々は,主をほめたたえなさい。 硬い岩よ,喜びの涙を流しなさい。 に大きな関心を寄せている。また,すべての人々に回復の 太陽と月と夜明けの星は,ともに歌いなさい。 良きおとずれを携えて行く宣教師を備え,福音を宣べ伝え 「以前にも申し上げたように,教会員の大半が伝道活動 の 神の子らは皆,喜び呼ばわりなさい〔ヨブ38:7参 照〕。 ようとの決意を新たにするよう,わたしたちは多くの国々 で訴えてきた。その訴えにも,多くの教会員が心を向けて 永遠の創造物は,とこしえにいつまでも神の御名をた たえなさい。 いる。さらにわたしは,生者への伝道と同様に,死者のた めの神殿活動も急ぐ必要があると感じている。なぜならば, み な 「さらにまた,わたしは申します。栄光と,救いと,誉 この二つは基本的に同じだからである。わたしは先日も中 央幹部の兄弟たちに話したが,死者のためのこの業のこと れと,不死不滅と,永遠の命と,また王国と公国と力をわ がいつもわたしの心を離れない。」(『大会報告』1978年4 たしたちの耳に宣言する天から聞こえる声は,何と栄えあ ることでしょう。 」(Compendium『概要』pp.681−683) 月,p.4) また別の大会でも,キンボール大管長はこの業をさらに ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:20−21 ジョセフ・スミスは過去の 早める必要があると語っている。 「次に,7つの神殿の新設が発表されましたが,これほど 神権時代の指導者たちをよく知っていたか の数の神殿が一時に建てられるのは,教会歴史始まって以 預言者ジョセフは,末日聖徒に祝福を注いでくださった いつく 神の慈しみをほめたたえた。そして,それらの祝福の鍵を 来のことです。 申し上げるまでもないことですが,この神殿建設は,教 この神権時代にもたらした過去の神権指導者の名を何人か 挙げている。ジョン・テーラー長老は,このような出来事 会員全員による熱心な系図探求によって支えられなければ なりません。 が起きた理由について話した後,次のように問いかけてい わたしたちはこの偉大な業の遂行が急務であると感じて 339 います。教会員の方々にこの義務を進んで引き受けてくだ さるよう強くお勧めいたしたいと思います。まず個人と家 族の歴史を作成し,要請を受けた場合に人名抄出プログラ ムに参加し,また4代の家族の記録を作成し,その後,す あがな でに他界した親族の贖いのために彼らの家族の系図探求を 進めていくという方法です。」(『大会報告』1980年4月, p.5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:23 預言者ジョセフは,救いの業にな ぜこれほどまでの喜びを表したのか オーソン・プラット長老は次のように宣言した。 「わたしたちは,生きている者を救うために喜んで世界 中を旅する。また死者を救うために喜んで神殿を建設し, 儀式を執行する。わたしたちは喜んで永遠の世界に入り, まだ慈悲の手の届かない所にいるすべての造られたものに 福音を宣べ伝える。わたしたちは人を救うために,この世 でも次の世でも喜んで働く。 ……時満ちる神権時代の大いなる日が到来したことを, 喜べ。生者よ,喜べ。死者よ,喜べ。天と地よ,喜べ。あ らゆる創造物よ,ホサナを叫べ。いと高き神に栄光あれ。 神は堕落した人の子らに,救いと栄光と誉れと不死不滅と 永遠の命とをもたらされたからである。アーメン。」(『説 教集』7:90−91) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約128:24 「レビの子ら」とはだれか。義を もってささげるささげ物とは何か 歴史的に見て,レビの子らにはアロンの子孫とモーセの 子孫が含まれ(出エジプト6:16,18,20参照),彼らは神 の宮の管理人であって,その聖なる儀式に関する責任を負 っていた(出エジプト25−28;民数8:24−26;10:21参 照)。現代のレビの子らとは, 「わたしの教会を築き上げる ために」主より召された者であって,「忠実であって,わ たしが語ったこれら二つの神権を得て,自分の召しを尊ん で大いなるものとする者」であり,「御霊によりめられて その体が更新される」者である(教義と聖約84:31−33) 。 また, 「備えの福音」 (教義と聖約84:26−27)と「神性の 力が現れる」 「大神権」 (教義と聖約84:19−21)とその儀 しもべ 式(神殿活動)とに責任を持つ者である。現代の主の僕た ちはこの聖なる義務を忠実に果たすならば,「モーセの息 子たち,またアロンの息子たちとなり,アブラハムの子孫 となり,神の教会となり,神の王国となり,神の選民とな る。」(教義と聖約84:34) 340 系図活動には,急務であることを告げる御霊がみなぎっている 義人の聖徒たちがこれらの聖なる儀式によって主に仕え るとき,彼らは生者にとっても死者にとってもシオンの山 の救い手となる。奉仕を通して差し出す犠牲は,義をもっ てささげる「ささげ物」の一部となり,これがモーセとア ロンの息子たちを含む「レビの子ら」がキリストの来臨に 先立って主にささげるささげ物となるのである。 末日聖徒ほど,このようなことを数多く行う機会に恵ま れた民はほかにいない。しかしながら,もし努力を怠るな らば,「自分自身の救いを危険にさらす」(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.193。p.356も参照)ことになるのである。死者は,生者 によって身代わりの儀式が施されないかぎり,救いに至る 儀式を受けることはできない。また生者も自分自身の救い のために,自分と先祖の家族とを結ばなければならないの である。預言者ジョセフ・スミスが,生者と死者の両方の ために備えられた,主の力強い救いの計画の知恵に喜びの 声を上げたとしても,何ら不思議はない。すべての末日聖 徒は,この業が急務であることを感じ取り,生涯をなげう って無私の奉仕にいそしまなければならない。 第129章 神からの導きを識別する鍵 とを現すようにお命じになるであろう。イエスのもとに来 歴史的背景 て,求めることもできる。イエスもすべてを御存じだから ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教会の初期の時代に,天使と霊と復活した人についての である。 」(『教会歴史』3:392) 論議がしきりに好奇心をあおっていた。ジョセフ・スミス はこの啓示を記録したころ,天使に会ったと主張する人の 注 解 訪問を受けた。預言者ジョセフは次のように述べている。 教義と聖約129:1−3 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ み わざ 「霊」と「天使」の違いは何か 「カートランドで一人の男の人がわたしのもとへやって来 て,天使を見たと話し,その天使の装いについて説明した。 神は御業を果たす際に,多くの使者を使われる。ある意 味では,それらがすべて天使だと言える。ジョージ・Q・ そこでわたしは,彼が見たのは天使ではなく,また天には そのような装いはないことを話した。すると,彼は腹を立 キャノン副管長は次のように説明している。「広い意味で 言えば,天の御父の使者として働く者はだれであろうと天 て,通りへ出て行き,天から下ってわたしを焼き尽くすよ 使である。それは,神かもしれないし,復活した人や正し う火に命じた。わたしは笑いながらこう言った。『あなた はバアルの預言者だ。あなたの神はあなたの言葉を聞きは い人の霊かもしれない。この言葉は昔の聖典の中で,その ような広い意味で使われていたのである。もっと限定され しまい。跳びはねて,自分の身を傷つけたらどうかね。』 すると彼はまた,天から下ってわたしの家を焼き尽くすよ た厳密な意味での天使とは,預言者ジョセフ・スミスが述 べているように,骨肉の体を持つ復活した人である。しか う火に命じた。」(History of the Church『教会歴史』5: し,忘れてならないことは,救い主の死以前に現れた天使 の中には,この分類に入る者は一人もいないということで 267−268) 教義と聖約第129章では,この世を去ってすでに復活し ある。それまで,だれ一人として復活していなかったから ている天使と,まだ霊のままでいる天使との違いが説明さ れている。また,「いかなる働きかけでもそれが神からの である。救い主が,眠っている者の初穂となられたのであ しもべ る。救い主御自身は,死すべき肉体を取られる前に,僕た ものかどうかを知る」 (9節)3つの鍵も教えられている。 ちにしばしば姿を現された。例えば,ヤレドの兄弟,アブ ラハム,モーセ,70人の長老たちをはじめとして,数多く かぎ 預言者ジョセフ・スミスはこの啓示が記録されるずっと 以前から,神からの使いと悪魔からの使いを見分ける鍵に の人が主の訪れを受けている。」(“Editorial Thought” Juve- ついて理解していたものと思われる。教会歴史の初期に, 預言者ジョセフはミカエルの助けを受けて,光の天使とな nile Instructor「社説」『ジュブナイル・インストラクター』 1891年1月15日,p.53) って現れた悪魔を暴いたことがある(教義と聖約128:20 参照)。この出来事について詳しいことは分からないし, 教義と聖約第129章で使われているように,「天使」とい う言葉は,骨肉の体を持つ復活した人と身を変えられた人 当時預言者ジョセフが3つの鍵について知ったのかどうか (「完全な者とされた正しい人々」)とに限定して使われる。 も不明である。しかし,ウィルフォード・ウッドラフの日 記には,彼は1839年にジョセフ・スミスから3つの鍵につ 霊というのは,まだこの世に生まれていない,すなわち肉 体を受けていない神の子供である。あるいは,死によって い て 学 ん だ こ と が 記 さ れ て い る ( Journal of Wilford Woodruff『ウィルフォード・ウッドラフの日記』第2巻, 肉体と霊が分かれた,すなわち肉体から離れた者である。 ジョセフ・スミスはノーブーで語った説教の中で, 「天使」 1839年6月27日〔末日聖徒イエス・キリスト教会歴史部〕 と「仕える霊」との相違を説明した。天使は「復活体また 参照)。 1839年7月2日に十二使徒たちに語った説教の中で,預言 は身を変えられた体を持ち,肉体を持つ霊たちを教え導 く。」一方,仕える霊は, 「肉体を持っていない霊であって, 者ジョセフは次のように教えている。「神の天使に翼はな い。霊を見たことがあると言う人もいるだろう。その霊は 肉体を持っていない霊たちを訪れて教え導く。イエス・キ リストは,(御自身の肉体が墓に横たえられている間に) 手を差し伸べた。しかし彼らはその手に触れなかった,と 教え導く霊となって,獄の霊たちを訪れ,御自身の大切な まっと 使命を果たされた。これを果たさなければ,御業を全うす 言う。これは偽りである。第一,神の計画に反している。 霊が現れるときには,必ず栄光のうちに現れる。一方,天 ることも,安息に入ることもできなかったからである。復 使には骨肉があり,わたしたちにはその栄光が見えない。 悪魔が光の天使として現れることもある。神にそれを暴い 活後,主は天使(復活した者)として弟子たちのもとに御 すがた 姿を現された。」(『教会歴史』4:425。1ペテロ3:18−20 てくださるよう願い求めなさい。もしそれが悪魔のもので あったら,その天使は逃げ去るであろう。もしそれが神の 参照) み ものであったら,神は御自身を現されるか,天使にそのこ 341 える霊かのどちらかであった。いずれにせよ,二人は天使 としての資格で働いたのである(ルカ9:28−33参照) 。創 世記に記録されている族長への訪れでは,恐らく身を変え られたエノクの民が天使として現れたのであろう(創世 21:17;22:11;32:1参照)。 高い権能を持つ天使には,特別な場合に,神御自身の代 わりを務める権限が与えられた。この天使たちは,神御自 身として現れ,そのように認識された。歴史にもあるよう に,地上の統治者から信任を受けた大使が行うことと同じ つかい である。出エジプト23:20−22に登場する『使』は,この ような天使の一人であった。また,パトモス島でヨハネに 教えを授けたのも同様の天使であり,神の御子の名と称号 を使っている(黙示1:1参照)。」(“Who and What Are the Angels?” Improvement Era「天使とはいかなる存在か」『イ ンプルーブメント・エラ』1912年8月号,p.950) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約129:4−7 握手をすることの意味は何か もし使者が復活した人で,握手をしたときにその肉体に 触れたという感触があれば,ここに挙げた預言者ジョセ フ・スミスの定義により,それは神からの天使ということ になる。しかし霊は握手をすることができない。握手ので きる骨肉の体を持っていないからである。霊にとって,自 分にない力を持っているふりをすることは欺くことであ ジョセフ・スミスは,天使や霊を見分ける3つの大いなる鍵を 教えた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約129:3 「完全な者とされた正しい人々の 霊」とはどういう意味か 死すべき人間で完全な生活を送っている者は一人もいな り,それをあえてする者は「正しい人」とは言えない。し たがって霊は,たとえ手を差し出されても決して動かない。 この方法によって,天使すなわち復活体を持つ使者と,神 から送られた正しい人の霊とを見分けることができるので ある。 い。しかし,福音に従って生活して,この世の生涯を終え ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約129:8−9 「光の天使としての悪魔」 る前に聖典に言われている「正しい人」となる人たちがい る。ところが,この世で正しい人であるというだけでは, 義人の霊たちが神の業を成し遂げようと決意していると 同様に,悪霊たちも御業を滅ぼそうと決意している。チャ 義人の霊となる十分な資格とはならない。「それだから… …あなたがたも完全な者となりなさい」 (マタイ5:48)と ールズ・W・ペンローズ副管長は次のように説明してい いうのが主の戒めである。すなわち,聖典で言っているの る。「これは堕落した天使たちであって,ユダが述べてい るように,背いて投げ落とされた者たちである。地上にお は,「新しい聖約の仲保者イエスを通じて完全な者とされ た正しい人々」(教義と聖約76:69)である。 ける彼らの頭はルシフェル,すなわちサタンである。この サタンは人を欺いて道からそらすために,これまで何度も ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約129:4 状態のいかんにかかわらず,天使 『光の天使』として姿を現した。また神の御子も誘惑した かしら は神の使者である が,モーセや預言者ジョセフ・スミスのときと同様失敗に 終わった(ルカ4:1−13;モーセ1:12−22;教義と聖約 チャールズ・W・ペンローズ副管長は次のように述べて いる。 128:20参照)。サタンは偉大な霊であり,『第一の位』に おいては神の天使であって, まだ肉体を受けていなかった。 「様々な任務と地位にある天使がいる。…… 天使は神の使者である。求められる仕事を果たす能力に それでも,霊としては『神の前で権威を持っていた』者で 応じて,まだ肉体を受けていない霊が選ばれて働くかもし れないし,骨肉の体から離れた霊や,身を変えられた人, あったが,やがて神に背いて『落とされ』てしまった(教 義と聖約76:25−28)。」(『インプルーブメント・エラ』 あるいは復活した人が働くかもしれない。いずれも神の代 1912年8月号,p.951) サタンは光を装って人々を欺こうと躍起になっている。 理であるが,その英知,権威,権能の段階は様々であって, 各自は上位の権能の指示の下に,それぞれの領域における この光は完全な者とされた正しい人の霊に伴うものであっ て,義人の霊は使者として自らの栄光をもって来る。「そ へんぼう 律法と秩序に従って行動する。モーセとともに変貌の山に 現れたエリヤは,身を変えられた人であった。またそのと きのモーセは,身を変えられた人か,それとも救い主に仕 342 れは,彼が現れることのできる唯一の方法だからである。 」 (教義と聖約129:6)義人は,悪魔とその堕落した使いの 暴き方を知っていなければならない。預言者ジョセフ・ス ミスはかつて次のように言った。「邪悪な霊には,彼らの 129:8)と教えている。悪魔は肉体を受けていない霊であ 限界,限度,律法があり,彼らはそれによって治められて いる。……また,神権者以外には制御できない力を悪霊が るから,この世の人に何の感触もない。この方法によって 義人の霊や神から送られた天使との識別ができるのであ 持っていることも明らかである。 」( 『教会歴史』4:576) 理由は知らされていないが, 預言者ジョセフ・スミスは, る。正しい人の霊は欺こうとしないが(教義と聖約129:7 参照) ,サタンの使いは欺こうとするであろう。 悪魔は握手を求められると「手を差し出す」(教義と聖約 第130章 教えに関する事項 教義と聖約130:3 歴史的背景 ヨハネ14:23の適切な解釈は何 か ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 問題になったこの聖句は,イエスが御父とともに人のと 「1843年4月2日に,預言者ジョセフはある集会に出席し た。この集会でオーソン・ハイドが説教をし,救い主の来 ころへ行ってともに住むと言われた部分を指している。預 ひ 言者ジョセフは,この言葉は文字どおりの事実であって比 臨に関して次のように言った。『救い主が御 姿を現される 喩的な表現ではないと説明した。御父と御子が人を訪れら れるというのは,約束なのである(Teachings of the Prophet み すがた ゆ とき,わたしたちは救い主に似た者となるであろう。主は 勇士として白い馬に乗って御姿を現される。そして,わた Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.149− したちも勇士と同じような気持ちで臨むことだろう。わた したちの神は勇士であられる。御父と御子がわたしたちの 151参照。教義と聖約88:3−4の「注解」も参照する) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 心の中に住まわれるのは,わたしたちの特権である。』 夕食のとき,預言者ジョセフはオーソン・ハイドに,こ 教義と聖約130:4−7 時の相対性 幾つかの聖句から考えると,人が地上で時間を認識する れらの言葉について話し,少し間違いを正したいと告げた。 方法は,宇宙全体にかかわる実際の時間の在り方とは異な オーソン・ハイドが,喜んで承ると答えたので,預言者ジ ョセフはこの聖句(1−17節)にある説明を,まず私的に, っていると推測できる。アルマ40:8によれば,神にあっ てはすべてが1日のようであり,時が計られるのは人に対 次に集会で行ったのである。」(スミス,ショダール共著, Commentary『注解』pp.812−813)その夜遅く,集会が終 してだけである。別の聖句には,すべてのことが主の目の 前にあると記されている(教義と聖約38:2;モーセ1:6 わった後で預言者ジョセフはさらに幾つかの質問に答え, 参照) 。第130章の4節から7節にも同じような考え方が表さ 教義と聖約130:18−23にある教えを付け加えた。 この章には,預言者ジョセフが啓示によって神から学ん れている。すなわち,過去,現在,未来は絶えず主の前に あり,時間は各自の住む惑星に関連して存在するのであ だ教えや教義上の真理に関する重要事項が記されている。 初期の聖徒たちが,預言者ジョセフのそばにいることを喜 る。 これらの啓示で述べられていることと対応して,物理学 びとしたのも,もっともなことであった。 の分野で時間や空間について語られ始めたのは,20世紀に 入ってからである。今世紀初頭,アルベルト・アインシュ 注 解 タインは相対性理論を提唱した。アインシュタインは,そ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約130:1 救い主が地上に戻られるとき,ど れまで物理学の世界で絶対視されてきた空間,重力,速度, 運動,時間といったものが,実はまったく独立しているも のような御姿でおいでになるか この聖句やほかの聖句(使徒1:11;教義と聖約45: のでなく,相互に関連し合っているという仮説を立てた。 そのため,この理論は相対性理論と呼ばれている。物理学 48−52;88:95参照)から明らかであるが,救い主はおい 者たちは現在,人の時間の認識は空間における相対的な位 でになるとき,最初に人々の中に現れたときと同じように 人の姿でおいでになる。しかし,このときの主の体は,復 置関係によってそれぞれに異なる,ということで合意して いる。 活して栄光を受けた骨肉の体である(教義と聖約133: 46−51の「注解」参照)。 さらにアインシュタインの理論によれば,物体がきわめ て高速度で運動すると(光速に近い速度。光速は秒速約30 万キロ),その物体における時間の経過は地上にある物体 のそれと比較して遅れる。運動中の物体にとって空間は伸 び縮みするものなのである。言い換えれば,時間と空間は 343 二つの独立したものではなく,相互に関連し合って存在し り,連続しているものの結果として認識しているのである。 ているのである。物理学者は,この現象を時空連続体と呼 んでいる。宇宙飛行士が光速に近い速度で宇宙空間を飛行 わたしたちは音律,音の高低,音の広がり,構成,主題, 和音,調子,対位などに探りを入れ,数多い認識の中から, している場合,その飛行士にはあらゆるものが普段とまっ 対象となるもの,すなわち音楽作品に対する概念をまとめ たく同じに見えたとしても,地上にいる人から見ると,飛 行士の時計も,心臓の鼓動も,新陳代謝も,すべての動き あげる。しかしわたしたちが探りを入れる以前から,その 対象は完全な形で存在していたのである。 が少しずつ遅くなっているように観察されるのである。ま たその飛行士は,地上にいる人たちよりも年の取り方が実 同じように,わたしたち一人一人の生涯は,今,主の前 に完全な形で存在しているのである。わたしたちは時間に 際に遅くなる。そのような考え方は人間の理解力が及ばな いために拒絶されやすいものであるが,アインシュタイン 盲目であるために,自分の生涯を連続したものの結果とし て探求する。しかし,主は空間と同じように時間を認識さ の理論は,人間が自らの限られた認知領域の犠牲者である れるため,わたしたちがこれからどうなるかではなく,現 ことを示しているのである。人間にとって現在とは,時空 連続体における相対的位置関係の産物なのである。 在あるがままのわたしたちを御覧になっている。主にとっ てわたしたちは時間のない存在なのである。わたしたち一 この理論に従うと,もしある人が光速に達すると,その 人にとってあらゆる空間は「ここ」と呼ぶことのできる点 人一人は,それぞれの真理や個性や肉体や好みや行動が統 合された存在として,絶えず主の前にあるのである。」 まで収縮し,またあらゆる時間は「今」と呼ぶことのでき (Continually before the Lord『絶えず主の前にある』教育理 る程度まで遅くなる。神について表現するとき,その属性 を表すのに光に関連した言葉を使う。神は光と栄光の御方 事長講演シリーズ,pp.5−6) アインシュタインの理論は単に理論でしかないが,それ である。相対性理論によれば,光の御方にとって,あらゆ み まえ る空間とあらゆる時間が御前に存在するのである。このよ でも現実を最も的確に説明するものとして繰り返し立証さ れてきている。神が広大な空間と永遠の時間を操作される うな考え方は受け入れ難いかもしれないが,ますます高度 方法については,特に詳細に啓示されているわけではない に複雑化した実験によって,アインシュタインが理論によ って説明した宇宙の相対性というものが実際に説明されつ が,これまで人間に与えられてきた知識は,現在物理学者 たちが空間と時間の相関について発見していることと矛盾 つあるのである。 ブリガム・ヤング大学芸術情報学部長のレイル・ウッド がない。神が空間や時間をどのように操作されるのかを明 確に述べることはできないが,現在の物理学から言えるの ベリーは,教会教育部の後援する講義で人の時間の認識と は,神が実に光の御方であるため,過去も現在も絶えず神 神の時間の認識について次のように語った。 「こうした証拠から明らかなように,神は……わたした の前にあるということである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ちが空間を認識するように時間を認識される。だからこそ, 『万物は彼の前にあり,万物は彼の周りにある。また,彼 教義と聖約130:5 この地球に仕える天使とはだれか。 またこの天使たちはどこから来るのか 教義と聖約129:1−4の「注解」を参照する。 は万物の上にあり,万物の中にあり,万物を貫いてあり, 万物の周りにある』(教義と聖約88:41)ということにな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るのである。時間は空間と同様,『たえず主の前にある』 教義と聖約130:6−8 のである。…… 現在のところわたしたちは,盲人が空間の中で物体を認 るか。またその場所はどのような状態か 天使たちは「神の前」(教義と聖約130:7)に住んでい 識するように,時間の中で音楽を認識している。つまり, 連続したものの結果として認識しているのである。盲人は る。いと高き御方の使者として,天使たちは神の子供たち の間で教え導く。聖典によれば,神と天使たちの住んでい 指を使っていろいろと探り,形態,手触り,輪郭,律動な る所は,一つの雄大な「ウリムとトンミム」(8節)であ どを感じ取る。そして,認識したことを心にとどめ,それ を慎重に加えていって,ついにはすべてを統合してその物 る。天使の光栄に必要なすべてのことは,過去も現在も未 来も,そこで天使たちに現されるのである。 体がどういうものかを決定する。しかしわたしたちはその ようなことはせずに,ある空間を占める物体を即座に認識 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約130:9 この地球とそこに住む人々は将来 する。それをただ見るだけで,ある程度までは『分かる。 』 どうなるか わたしたちは,認識を一つ一つ積み重ねていって結論を出 すという方法は取らない。事物をあるがままに認識し,そ ブリガム・ヤング大管長はこのように言っている。「地 球は日の栄えの状態になると,太陽のようになり,聖徒た れだけでほかの物体と区別することができるのである。 わたしたちが空間を認識するときと同じように,神は即 ちの住まいとして備えられ,御父と御子の前に戻される。 そして,もはや現在の地球のような光を放たない物体では 座に時間を認識されると思う。わたしたちにとって,時間 の認識は困難である。そのような高度の能力に欠けている なく,天空の星のように光と栄光に満ち,光輝く物体とな る。ヨハネは,日の栄えの状態になった地球をガラスの海 今,視力のない人が空間については盲目であるように,わ にたとえた。 」(Journal of Discourses『説教集』7:163) たしたちも時間について盲目である。わたしたちは音楽を 認識するときと同様の方法で,時間を認識している。つま また別の機会に次のように述べている。「この地球は清 められて聖なるものとなるとき,すなわち日の栄えの状態 344 神の天使たちはどこに住んでい 第130章 さんある。』〔ヨハネ14:2〕息子娘には父の住みたもう家 に出入りする権利がある。この権利は神殿に行くまで得ら かぎ れない。なぜだろうか。それはそこで入るための鍵となる 言葉を幾つか受け,聖約を交わさなければならないからで ある。家に入ろうとしても戸に錠がかかっていてあなたが 鍵を持っていなければ,どうして入ることができるだろう か。あなたは神殿で家に入るための鍵を得るのである。 ……しかし上に述べた鍵を道で見つけることはできな い。父の住まいに入るための鍵を落とすなどということは 決してないからである。鍵が与えられる所に行かなければ ならない。人はそれぞれ望むならその鍵を手に入れること ができる。しかし手に入れても,主の宮に入ったときに交 わした契約を守らなければ,取り上げられて鍵を失うこと になるかもしれない。 」(『救いの教義』2:38) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約130:12−13 難局の始まり サウスカロライナにおける 第87章は合衆国の北部と南部の間で戦争が起きることを 預言している。預言者ジョセフ・スミスは,この戦争が切 迫していることを,1832年のクリスマスの日に知った。そ れから11年後に書かれたこの聖句は,同じ災いについて告 げる2度目の預言である(教義と聖約87:1の「注解」参 時間はこの世に存在する 照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ になるとき,ガラスの海のようになる。そして人はそれを のぞき込むことによって,過去のことも現在のことも未来 教義と聖約130:14−17 のことも知ることができる。しかし,この特権にあずかれ るのは,日の栄えの状態になった者だけである。彼らが地 球をのぞき込むと, ちょうど鏡で顔を見るのと同じように, 知りたいと思ったことが示されるであろう。」(『説教集』 9:87) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約130:10 日の栄えの状態になった者は将来 どうなるか 天使たちは,「彼らの栄光のために」(教義と聖約130: 7)すべてのものを所有している状態にある。これは,神 についてもすべての昇栄した者についても同様である。日 の栄えの栄光を得る者は,自分の住んでいる王国よりも下 位の王国,すなわち「低位の王国」に関する知識も獲得す る(教義と聖約130:9)。また,10節で明らかにされてい るように,「白い石」の形のウリムとトンミムを一人一人 が受け取る。この石は「高位の王国に関すること」を自ら 知るための道具となる(10節)。人は初めからこのような 偉大な祝福を受ける備えができているのであるが,そのた めには神の戒めを守り,神の宮でエンダウメントを受けな ければならない。これについて,ジョセフ・フィールディ ング・スミス大管長は次のように説明している。 「神殿の儀式であるエンダウメントと結び固めは,息子 娘が住む日の栄えの王国で昇栄することに関係のある儀式 である。息子娘はどこか他の王国にいるのではない。彼ら は家に入ることができるし,家族に所属し,家庭に出入り することができる。『わたしの父の家には,すまいがたく イエス・キリストはいつ地 上に戻って来られるか 初期の弟子たちも,イエスが亡くなられる直前にイエス に同じ質問をした(マタイ24:3;ジョセフ・スミス−マ タイ1:4参照)。このときイエスは,天使たちでさえその 正確な時を知らないと言われた(マタイ24:36;ジョセ フ・スミス−マタイ1:40参照) 。しかし,弟子たちがその 偉大な出来事が近づいていることを知ることができるよう に,イエスはそれに先立つしるしを明らかにされた。 この末日においても,主は預言者ジョセフに同じような 答えを与え,再臨に先立つ特別なしるしについて告げられ た。預言者ジョセフ・スミスは次のように書いている。 「わたしはかつて,この件〔人の子の来臨の時〕につい て熱心に祈っていたとき,ある声がわたしにこう告げた。 『わたしの子ジョセフよ,もしあなたが85歳になるまで生 きるならば,あなたは人の子の顔を見るであろう。』これ については, 自分自身で結論を引き出すことを任せられた。 そこでわたしは非力を顧みず,もしわたしがその年齢まで 生き長らえたら主は御姿を現してくださる,と結論した。 ただし主が御姿を現してくださるのか,それともわたしが 主のおられる所へ行くのかは言えない。わたしは主なる神 の名によって預言する。これを書き留めていただきたい。 人の子はわたしが85歳になるまで天の雲のうちに来られる ことはない。…… ユダは戻り,エルサレムは再建されなければならない。 また神殿も再建される。 そして神殿の下から水がわき出て, いや 死海の水が癒される〔エゼキエル47:8−12参照〕。また都 の城壁と神殿を再建したり,そのほかいろいろなことを行 345 うのにある程度の時間が必要である。そしてこれらすべて 『大会報告』1937年10月,p.86) のことが,人の子がその御姿を現される前に起こらなけれ ばならないのである。戦争と戦争のうわさがあり,上は天 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に,下は地にしるしが現れる。太陽は暗くなり,月は血に 変わり,地震が方々にあり,海はその境を越えて打ち上げ となる律法は何か 従順は天の基本的な律法である。特定の律法に従順であ る〔教義と聖約29:14−20;34:9;45:31−42;88: 87−91参照〕。それから天に人の子の大いなるしるしが現 れば,特定の祝福がもたらされ,わたしたちはその積み重 ねによって最大の祝福に至るのである。マリオン・G・ロ れる。しかし,世の人々はどうするであろうか。彼らは, ムニー長老は次のように説明している。「繰り返し申し上 あれは惑星だ,いや,すい星だなどと言う。しかし,人の 子はその人の子の来臨のしるしのように来られる。あたか げる。昇栄の基礎としてわたしたちは完全な者となること が必要であるが,それは個人的な問題である。そのために も朝の光が東からさすように。」(History of the Church『教 会歴史』5:336−337。教義と聖約43:20−27参照) は,地上での生活に適用された日の栄えの律法を守ること が条件となる。知恵の言葉はそのような律法の一つである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ また純潔,什 分の一,安息日の遵守,祈り,正直,勤勉, 教義と聖約130:18−19 ともによみがえる」 「復活の時にわたしたちと 神と同胞を愛すること,忍耐,親切,慈愛,そのほかイエ ス・キリストの福音の原則と儀式はすべて,そのような律 「霊的および知的成長というものは,それが基づく律法 に従ったときにのみ可能となる。この結論は正しい。」ア 法の一部なのである。これらの律法を一つなりとも守ろう とする人は,その律法に基づく祝福を受ける。またすべて ルバート・E・ボウエン長老はさらに次のように続けてい の律法に従って生活しようと全精力を傾けて熱心に努力す る。「勤勉に働き,正しい原則を守り,心と霊とを鍛練す ることによってこの世ですばらしい人格を築き上げた人 る教会員は,その努力に応じた祝福を受けるのである。神 たまもの このような祝福である。 の最大の賜物である永遠の命とは, は,死後の世界でそれをいつまでも所有し,自らの栄光に することができる。この考えは少しも不合理でない。反対 すなわち,統計や平均に関係なく,また他人の考えや意見 や行いにかかわりなく,夜の後に朝が必ずやって来るよう に,怠惰や罪のためにこの世で自己の能力を十分に現さな かった人は,次の世界に入るときに,その程度に応じて不 に,福音に従った生活をした後に必ずもたらされるものな のである。」(『大会報告』1956年10月,pp.15−16。特別講 利な条件が付けられることであろう。」(Conference Report 座Gも参照) 教義と聖約130:20−21 じゅうぶん はらから 第131章 昇栄に至る鍵 歴史的背景 神からのすべての祝福の基 義と聖約131:1−4にある言葉をクレイトン兄弟に告げた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 翌朝1843年5月17日に,預言者ジョセフ・スミスはペテ ロの第二の手紙の第1章に基づいて説教をし,知識が増せ 1843年5月16日,預言者ジョセフ・スミスはウィリア ム・クレイトンを含む5人の兄弟とともにノーブーをたち, ば増すほど力が加えられることを示した。第5,6節はその 日の朝の集会で与えられたものである(『教会歴史』5: 約35キロ南東のイリノイ州レーマスに向かった。その晩, 392参照)。それから4日後,預言者ジョセフはノーブー神 ジョセフ・スミスとウィリアム・クレイトンは,ベニヤミ ン・F・ジョンソンの家に泊まった。眠りに就く前に,預 殿において,再び知識の力について,また召しと選びを確 かなものにするという教義について語った。 言者ジョセフはジョンソン兄弟姉妹に神権に関する教えを 幾らか授けた。その同じ夜,ジョセフはウィリアム・クレ 5月17日の夜,預言者ジョセフはメソジスト派の牧師の 説教を聞きに行った。そして説教の後,その内容に多少訂 イトンに向かい,彼のひざに手を置いてこう言った。「あ 正すべき箇所があることを指摘した。その指摘の一部が第 131章7,8節に記されている(『教会歴史』5:392−393参 なたの命はキリストとともに神の内に隠されています。ま ゆる たほかの多くの人々も同じです。赦されない罪を犯さない 照)。 かぎり,あなたが永遠の命を受け継ぐのを妨げるものはあ りません。なぜなら,あなたは神権の力によって結び固め 1843年5月16日と17日に預言者ジョセフが教えた3つの事 項は,その後一つの章にまとめられ,ブリガム・ヤング大 られ,そのために必要な段階を歩んでいるからです。」 管長の指示の下に作業をしていたオーソン・プラット長老 によって,1876年に『教義と聖約』に加えられた。 (History of the Church『教会歴史』5:391) そのほか個人的な意見を述べた後,預言者ジョセフは教 346 第131章 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約131:1 とは何か 日の栄えの王国における3種の階級 日の栄えの王国の3種の階級のうち,下位の二つの階級 にだれが住むかということについて,主はまだ啓示してお られない。したがって,この件に関する解説はすべて憶測 か空論である。しかし,日の栄えの王国の最高の階級すな わち昇栄に関しては,多くのことが啓示されている。それ は御父が,戒めを守る御自分の子供たちを住まわせようと 考えておられる場所だからである。主は教義と聖約76: 50−70の中で,日の栄えの王国の最高の階級に到達するた めの条件と資格について述べておられる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約131:2 とは何か 「結婚の新しくかつ永遠の聖約」 ジョージ・Q・キャノン長老は愛の永遠性について,ま た神権の力によりそのような愛を永遠に結びつける方法に ついて,次のように教えている。「わたしたちはこう信じ ている。男と女が夫婦として結ばれ,互いに愛し合うとき, 二人の心と思いは一つになる。またその愛は永遠に続き, 絶えることがない。死が二人を襲っても,愛は消えること も冷えることもなく,さらに輝きと光を増していっそう清 らかな炎となる。そして永遠に燃え続ける。またもしわた 永遠の結婚の儀式が行われる結び固めの部屋 したちに子孫がいれば,彼らもわたしたちとともにいて, 互いの交わりはわたしたちが心待ちにする天の大きな喜び かし,この世で神権の力と権能によって結婚し,それから の一つとなる。……神は永遠の神権を回復された。この神 も聖霊に対する罪を犯さない夫婦は,子孫が増え続け,日 の栄えにおいて子供をもうけるであろう。」(『教会歴史』 権によってきずなが結ばれ,清められ,全うされるのであ る。またわたしたちに終わりがないように,このきずなに 5:391。Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョ セフ・スミスの教え』pp.300−301も参照) も終わりがない。それが霊の本質だからである。夫婦は一 つとなり,その子供たちとともに住み,永遠に交わりを保 1916年6月30日,大管長会(ジョセフ・F・スミス,ア ンソン・H・ランド,チャールズ・W・ペンローズ)は次 つ。そして,すでに述べたように,これが天の最も大きな 喜びの一つとなるのである。わたしたちは大きな期待をも のように宣言した。「永遠の進歩と完成に至る段階が神の まっと ってその日を待ち望んでいる。」(Journal of Discourses『説 啓示によって知らされているが,その限りにおいて,わた したちは,復活して栄光の位に昇った者だけが霊の子らの 教集』14:320−321。教義と聖約22:1;132:13−18の 「注解」も参照) 親になれると理解すべきである。このように昇栄した者だ けが,永遠の命に定められた過程において成熟の域に達す 第2節の括弧の中に入っている説明文は,この章が『教 義と聖約』に加えられるとき,ブリガム・ヤング大管長の る。そして,永遠の世界において彼らに生まれる霊たちは, 指示によってオーソン・プラット長老が挿入したものであ 栄光の位に昇った両親が幾つかの段階すなわち位を経て昇 栄を得た,その同じ段階を当然の順序として踏むことにな る。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。」(クラーク,Messages of the First Presidency『大管長 会のメッセージ』5:34) 教義と聖約131:4 とか 永遠に増し加わるとはどういうこ スペンサー・W・キンボール大管長は,永遠増加の権利 新しい永遠の結婚の聖約に従い,終わりまで忠実に堪え にあずかれるかどうかは,各自がこの世で結婚の聖約をい かに守るかにかかっていると教えた。 忍ぶ人々は,永遠の親となる権利を獲得する。預言者ジョ セフ・スミスは,ウィリアム・クレイトンに1節から4節ま 「また,結婚しないで,主の天使として日の栄えの王国 で昇栄を得ることが望みだという男性もいる。彼には福音 での安らぎの言葉をかけたとき,次のように語った。「こ の試しの生涯において,聖なる神権の力と権能により永遠 が理解できていないのである。日の栄えの結婚の聖約を拒 の聖約に入り,永遠にわたって結婚の聖約を交わした夫婦 でなければ,彼らが死ぬと子孫の増加も止まるであろう。 すなわち,復活の後に子供を持つことはないのである。し む者は,一人として神の王国において昇栄を得ることはで きないからである。 『日の栄えの栄光には,3つの天,すなわち3つの階級が ある。 347 その最高の階級を得るためには,人はこの神権の位(す なければ,ある悪の力によって別の世界に閉じ込められて なわち,結婚の新しくかつ永遠の聖約)に入らなければな らない。 しまうからである。悪霊の方が,地上にいる多くの者より も多くの知識を持っており,力において勝っているのであ そうしなければ,その人はそれを得ることができない。 その人は他の階級に入ることはできるが,それは彼の王 る。このことから,わたしたちを助け,神にかかわる知識 をもたらす啓示が必要なのである。 」(『教会歴史』4:588) 国の終わりであって,その人は増し加えることができない のである。 』(教義と聖約131:1−4) 教義と聖約131:6で言われていることは,あらゆる知識 に当てはまる真理である。しかし,忘れてならないことは, そのような人は昇栄も,永遠に子孫をもうけることもで この聖句が第5節に関連して与えられたということである。 きないのである。 主は教義と聖約第132章で,さらに次のように言ってお 文脈から考えると,ここで言う知識は「いっそう確実な預 言の言葉」を指している(5節)。したがって,人はこの知 られる。 『だれもこの聖約を拒みながら,わたしの栄光に入るの 識がなければ救われないという意味になる。だからといっ て,この世にいる間に「いっそう確実な預言の言葉」を受 を許されることはあり得ないからである。』(教義と聖約 けなければならないというのではない。しかし,召しと選 132:4) 義や知性や教育の程度は,問題ではない。結婚の新しく びを確かなものとせずに,すなわち「いっそう確実な預言 の言葉」を受けずに,救われる(昇栄する)人はいないの かつ永遠の聖約に入らないかぎり,だれも最高の栄えに進 むことはできない。」(Ensign『エンサイン』1979年10月 である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 号,pp.5−6) 教義と聖約131:7 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約131:5 「いっそう確実な預言の言葉」と オーソン・プラット長老は次のように言っている。「こ の地球を形造る材料となった物質は,栄光に満ちた御方で は何か ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べてい ある主御自身を構成する物質と同じように永遠である。… …地球を形造るに当たって,この御方は何もないところか る。 「義のために全身全霊をささげ,『神の口から出る一つ一 らこの地球を形造られたのではなく,永遠の昔から存在し ていた材料を用いて形造られたのである。その材料には初 つの言葉に従って』 (教義と聖約84:44)生きる教会員は, めというものはなかった。また現在存在している物質のど その召しと選びを確かなものにする。すなわち,『いっそ う確実な預言の言葉』を受ける。つまり,彼らがまだこの の粒子一つをとっても終わりはない。現在も,過去のどの 時点ともまったく同じ数の粒子が存在し,その数は永遠に 世にいる間に,主から昇栄を結び固められるのである。ペ テロは聖徒たちに,召しと選びを確かなものにするために わたって変化しない。物質には初めがなかった。律法や法 則にも初めがなかったと言うことがあるが,これは別の問 必要な義の生活について簡潔に説明し,さらに,(変貌の 題である。永遠に存在していた律法もあったかもしれない 山でヤコブやヨハネとともにした経験について話してか ら)この3人がそのいっそう確実な預言の言葉を受けたと し,立法者によって設けられた律法や法則もあったかもし れない。しかし,地球は永遠の物質から形造られた。地球 語っている(2ペテロ1章) 。…… ぼうとく 主のにかなう者は,聖霊に対する冒 と罪のない者の血 は人の住まう場所として造られ,神はそこに御自分で形造 られたものを置かれたのである。 」(『説教集』19:286) を流すこととを除き,いかなる形の罪や冒 があってもそ ここでも,時間の相対性の問題(教義と聖約130:4−7 れを克服したうえで結び固められる。すなわち,昇栄が確 保され,召しと選びが確かなものにされるのである。なぜ の「注解」参照)と同じように,預言者の受けた啓示が現 代の物理学によって徐々に実証されつつある。19世紀前半 なら,彼らは神の律法に完全に従い,世に打ち勝ったから である。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.109− には,大部分の科学者が,物質というものは創造すること も消滅させることもできると考えていた。しかし現在の物 110。教義と聖約132:17,26および教義と聖約76:53の 「注解」も参照) 理学者は,物質とエネルギーとは同じものが単に姿を変え たものであって,物質をエネルギーに変えることもエネル ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ギーを物質に変えることもできるが,どちらも創造したり 教義と聖約131:6 知識はいかに重要か 預言者ジョセフ・スミスは次のように述べている。「人 消滅させたりすることはできない,という点で一致してい る。 へん ぼう は知識を得るよりも早くは救われない。なぜなら,知識が 348 すべての物質は永遠か 第132章 結婚──永遠の聖約 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスは,教義と聖約第132章の啓示 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約132:1−2 「あなたはわたしに尋ねたの が記録される2か月前の1843年3月に,ウィリアム・クレイ トンに永遠の結婚について話していた。また預言者ジョセ で」 「この導入の文章から,預言者ジョセフが結婚の問題に フが,早くも1831年の時点で新しくかつ永遠の聖約の一部 ついて熱心に祈っていたことが明らかである。何かで思い である多妻結婚に関する主の御 心 を知っていたことは明 らかである(History of the Church『教会歴史』5:xxix参 悩んで真理を知りたいと願ったときには,よくそうしてい たのである。ジョセフは,族長たちやダビデやソロモンが 照)。ジョセフはウィリアム・クレイトンの前で兄のハイ ラムとこの教義について話し合っていたが,そのときハイ ある面では現代の道徳基準から外れた行為をしていなが ら,なぜ主の恵みを得られたのか理解できなかった。その み こころ ラムがこう言った。「日の栄えの結婚についての啓示を書 ため主に光を求めて祈ったのである。B・H・ロバーツ長 いてくれたら,わたしがそれを持って行ってエマに読んで 聞かせよう。わたしはこれが真理であることを確信させる 老によれば(『教会歴史』5:29参照),これは1831年のこ とである。当時の預言者は『聖書』の改訂に従事しており, ことができると思う。そうすれば安心だろう。」(『教会歴 史』5:xxxii) ちょうど『旧約聖書』の族長たちの生涯について研究して いるところであった。そして,第1節に書かれているよう 預言者はこれに同意し,ウィリアム・クレイトンに紙を な祈りをささげるように心を動かされ,この章に記録され 持って来て筆記するように言った。ハイラムは,啓示を正 確に思い出すことができるようにウリムとトンミムを使う ている答えを受けたのである。しかし,そのときには答え を記録として残さなかった。」(スミス,ショダール共著 ようにしきりに勧めたが,ジョセフはその必要はないと答 えた。「なぜなら,彼はその啓示を最初から最後まで熟知 『注解』p.821) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ していたからである。」(『教会歴史』5:xxxii)口述が終 教義と聖約132:1 わると,ウィリアム・クレイトンはそれをゆっくりと読み 返し,ジョセフはそれで間違いないと言った。 「そばめ」という言葉は『旧約聖書』には度々出てくる 言葉であるが,ブルース・R・マッコンキー長老はこの言 ニューエル・K・ホイットニー監督はこの啓示が読み上 げられるのを聞き,その写しを取る許可を預言者ジョセ 葉を次のように定義している。「昔,そばめは第二夫人と 見なされていた。すなわち,当時広く行われていた階級制 フ・スミスに求めた。そして,預言者の同意が得られると, 翌日ジョセフ・C・キングズベリーを送り,写しを取らせ 度において,そばめと呼ばれない妻と同等の地位を与えら れなかった妻のことである。この神権時代において,多妻 た。キングズベリー兄弟とクレイトン兄弟は,その写しを 結婚の実施に関連してそばめというものは存在しなかっ 原文と1行ごとに照合し,間違いがないことを確認した。 この啓示は,1843年7月以前に与えられていたもので, た。妻の一部をそばめと呼ぶような階級制度自体が存在し ていなかったからである。」(Mormon Doctrine『モルモン このときに初めて記録された。しかし,1852年8月29日に オーソン・プラット長老がブリガム・ヤング大管長の指示 の教義』pp.154−155) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の下に発表するまで,公にされなかった。そして最終的に 教義と聖約132:3−6 は,1876年に『教義と聖約』に収められた。 スミスとショダールは次のように指摘している。 ば,あなたがたは罰の定めを受ける」 「一つの新しくかつ永遠の聖約」(教義と聖約132:4)と 「この啓示は二つに分けることができる。初めは第3節か ら第33節までで,日の栄えの結婚,すなわちこの世から永 は日の栄えの結婚の聖約のことである。スペンサー・W・ キンボール大管長は次のように簡潔に述べている。 遠にわたる結婚の原則がおもに採り上げられている。もう 「そばめ」とは何か 「もしその聖約に従わなけれ 「世の中で,この聖約を理解している人は比較的少ない。 一つは残りの節で,多妻結婚についてのものである。日の 栄えの結婚は今もその効力があるが,多妻結婚は1890年10 『一つの新しくかつ永遠の聖約』とは,聖なる神殿におい かぎ て正当な権威ある鍵を持ち正式に任命された指導者により 月6日の大会においてウッドラフ大管長の『宣言』が受諾 されたことにより中止された。」(Commentary『注解』 執り行われる結婚の儀式である。男性も女性もこの栄えあ る祝福を,この地上において得ることができる。」(スペン p.821。公式の宣言1の「歴史的背景」も参照) サー・W・キンボール,Ensign『エンサイン』1974年8月 号,p.5) この聖約を受けることの重要性は,以下の聖句で主が強 349 調しておられることから,感じ取れるであろう。 「この律法を示された者は皆,これに従わなければなら ない。 」(教義と聖約132:3) 「だれもこの聖約を拒みながら,わたしの栄光に入るの を許されることはあり得ないからである。」(4節) 「わたしから祝福を受けたいと思う者は皆……律法…… に従わなければならない。」(5節) 「この〔福音の〕完全な栄光を受ける者はその律法に従 わなければならない。 」(6節) 4節にわたって同じ教えが5回繰り返されているが,これ は主が聖徒たちの心にこの教義をいかに深く刻み込もうと しておられたかを示すものである。キンボール大管長は, 聖徒たちがこの戒めをどう捕らえるべきかについて,力強 く教えている(教義と聖約131:4の「注解」参照)。なぜ なら,この聖約を拒む人々は永遠増加の祝福を受け継ぐこ とができないので,永遠の進歩においてまことに罰の定め を受けるからである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約132:4 この世において結婚する機会のな い人は罰の定めを受けるのか スペンサー・W・キンボール大管長は,この世で結婚す る機会に恵まれないかもしれない人々に対して,次のよう に語っている。 「若者たちを外から眺めてみると,この本来の務めある いは希望を十分に達成していないのではないかと思われる 末日聖徒は結婚の新しくかつ永遠の聖約を守る 若い男女がいる。その中には伝道経験のある人もいれば, ス・R・マッコンキー長老はこの聖句に次のような注釈を 学業をひととおり終えた人もいる。けれども,彼らは最も 大切な結婚の時期を過ぎている。いわゆる適齢期が過ぎ, 加えている。 「聖霊は,聖なる御霊である。バプテスマのときに聖徒 魅力的で有能で望ましい人物でありながら孤独である。 わたしたちはそのような方にこのように申し上げる。皆 に約束される聖なる御霊,すなわち約束の聖なる御霊であ ご じゅん せつ る。この気高い称号は,五 旬 節の日のように約束された さんは御自分の家族や教会や社会のために働くことによっ て,世の中に多大の貢献をしている。主は皆さんを愛し, 聖なる御霊を受けることが,この世で授かる最大のである ことを表している。 教会も皆さんを愛していることを忘れてはならない。ただ, 聖霊の賜物とは,忠実さに応じて神会のこの御方を絶え たまもの はんりょ 女性の方にこのことを申し上げておこう。それは,わたし たちに男性の思いやりや愛情を支配することはできないと ず伴侶とする権利のことである。この賜物は,わたしたち が啓示を受け,清められるという約束とともに与えられる。 いうことである。しかし,皆さんがその目的を達成できる ようにお祈りしている。と同時に,わたしたちは皆さんに, そのためには,常に正直に,信仰深く,聖なる御霊を伴侶 とするにふさわしい生活をしなければならない。聖霊は汚 事永遠に関するかぎり,本人の力でどうにもならないこと れた宮にはお住みにならないからである(1コリント3: のために,豊かで貴重な永遠の祝福を取り上げられてしま うことはないとお約束する。主は決して約束を違えられる 16−17;6:19;モーサヤ2:37;ヒラマン4:24)。約束を 受けるのにも条件がある。わたしたちが約束を受けた後, ことはない。義人は皆,最終的にはその資格のある人に与 えられるすべてのものを受けるのである。つまり,自らの 戒めを守るならば,神会のこの御方を伴侶とすることがで きるのである。ほかに道はない。 過ちによって失うものがないからである。男性も女性も身 聖なる御霊に割り当てられ委任されている働きの一つ なりを整え,きちんとした服装をして,時勢に遅れないよ うに,また精神的,霊的,肉体的,とりわけ道徳的に好ま は,結び固めることであり,以下の表現はすべて同じこと を意味している。 しくあるように努めてほしい。そのようにすれば天の祝福 を授けるという主の約束を心から信頼できるはずである。」 (『エンサイン』19790年10月号,p.5) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 約束の聖なる御霊によって結び固められる。 御霊によって義とされる。 主により認可される。 「約束の聖なる御 霊 により結び固 聖霊によって承認される。 したがって,約束の聖なる御霊によって結び固められる められ」とはどういう意味か 聖なる御霊の役割に関する全般的な説明の中で,ブルー 行為は,御霊によって義とされ,主によって認可され,聖 霊によって承認されるのである。…… み たま 教義と聖約132:7 350 第132章 ジョセフ・スミスに啓示されたように,この件に関する 教義と聖約132:13−18 「もしある男がこの世にお 主の律法は次のとおりである。〔教義と聖約132:7〕 せいさん いや 例を挙げて言えば,バプテスマ,聖餐,病人への癒しの いて妻をめとるのに」 スペンサー・W・キンボール大管長は,教義と聖約 祝福,結婚,人が主と交わすあらゆる聖約,それに『契約, きずな,義務,誓詞,誓言,履行,関係,交際,期待』は, 132:13を引用した後に次のように語っている。 「何という決定的な恐るべき宣言であろうか。わたした それに伴う祝福を受けるにふさわしい人のために,ふさわ しい人によって義にかなって執行されなければならないの ちの存在は肉体の死によって終わるのではない,永遠に生 き永らえるのである。実に多くの家庭で営まれている楽し である。そうしなければ,何が行われようとも永遠にわた く幸せな結婚生活,家族の生活が,神の教えに従わないと って結び固める効力はないのである。 『慰め主はすべてのことを』知っておられるので(教義 いう理由で,また御言葉を理解しているにもかかわらず受 け入れないという理由で,死とともに終わってしまうとは, と聖約42:17),アナニヤとサッピラの悲しい結果からも 分かるように,『聖霊を欺いた』り,それによって不相応 何とも恐るべきことではないか。 義なる男性,女性は自 らの行いに応じてその受くべきところの報いを受けること な祝福や不当な祝福を受けることは不可能なのである(使 は主の言葉に明らかである。しかし,もし彼らが永遠の結 徒5:1−11)。したがって,『死者の中からの復活の時も, その後も,まったく効験や効能,効力がない』(教義と聖 婚という神の律法に従わないならば,一般にいう罰を受け ることはなくとも,多くの制限を受け,最高の栄えに進む 約132:7)ようにするためには,あらゆることを約束の聖 なる御霊によって結び固めなければならない。この規定は, ことはできない。彼らは,すべての律法と戒めを従順に守 しもべ った者に仕える僕となるのである。 すべて人を偏り見ることなく扱うための主の制度であり, み こと ば ふさわしい生活を送ったにもかかわらず,契約を結ばな すべての人にその人に見合うだけのものを,それ以上でも それ以下でもなく正確に与えるための主の制度なのであ かったこれらの人々について,主は引き続き述べておられ る。 る。」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義 注解』3:333−335。教義と聖約76:53;131:5の「注解」 『これらの天使たちはわたしの律法に従わなかったから である。それゆえ,彼らは増し加えられることがなく,永 も参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 遠にわたって,昇栄することなく,救われた状態にあって それぞれ独りのままでいることになる。それから後,彼ら 教義と聖約132:7 神権のすべての鍵を持っているの は神々ではなく,とこしえにいつまでも神の天使である。 』 はだれか ウィリアム・クリッチロー・ジュニア長老は,総大会の (教義と聖約132:17) 何と明確な言葉であろう。そしていかに拘束され,制限 説教で次のように述べた。「同時期にただ一人の人が,神 の王国に関するすべての神権の鍵を所有する特権にあずか されていることか。こうしてわたしたちは,この時,この 現世,この死すべき世は神にお会いする用意をする時期で る。末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長がその人であ あるという言葉の重みを新たに認識するのである。永遠を る。」(Conference Report『大会報告』1963年4月,p.32。教 義と聖約21:4−5の「注解」も参照)預言者はこの結び固 通じて,いわゆる独身生活を貫くことはいかに寂しくつま らないことであろうか。資格を得て,正当な権能の下に神 めの権能を,ほかの中央幹部や神殿職員など,ほかの人々 に委譲することができる。しかし鍵は常に預言者とともに 殿で幸福な永遠の結婚をし,喜びと幸福を増し加えつつ進 歩,成長して神の位にまで高められるというのに,果てし あり,いかなる人もこの鍵を自分のものとすることはでき もない別離孤独の状態に甘んじなければならないことは何 ない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ と悲しいことか。 永遠ということを,永続する幸福を,神にまみえ神とと 教義と聖約132:8−14 …残ることはない」 「世にあるすべてのものは… もに住まうという特権を,皆さんは自ら危うくしてはいな めいそう いだろうか。調査研究や瞑想の欠如のために,すなわち偏 「ここでは大切な真理が教えられている。すなわち,神 の律法を基とせずに,人の考えによって定められたこの世 見や誤解,知識の不足から,この大いなる祝福と特権を自 ら失ってはいないだろうか。また,自らを永久に別離孤独 の制度はすべて……存在しなくなる。人の手による政体は, で寂しく生き,他人に仕える者にしてはいないだろうか。 潮の引いた浜辺で子供が作った砂の城のように,必ず崩壊 する。人の手による宗教や教会も,死がのみ尽くしてしま 子供が死ぬときや,皆さんが世を去るとき,自分の子供を 見放し,みすみす孤児にしたいと思うだろうか。生涯に得 う。そして永遠の浜辺にはその跡すら残らない。神に認め られていない社会の風習や習慣も存続しない。一方,神の た最高の喜びすべてが, 『付け加えられ』,強められ,増し 加えられて永遠のものとされるというのに,ただ一人孤独 言葉に基づいた制度はすべて,永久に残るであろう。この なままで永遠の道を進みたいと思うだろうか。それともサ 教会も残る。家族も残る。神が創設者であられる組織はす べて永遠に存続する。」(スミス,ショダール共著『注解』 ドカイ人と同様に,この大いなる真理を無視し,退けたい きょう と思うであろうか。わたしは,皆さんが今日,これらのこ p.824) とを熟考しよく思い図って,幸福な結婚を永遠のものとす るのだと信じつつ歩みだすことを心から祈っている。皆さ ん,どうかこの呼びかけを無視しないでいただきたい。皆 351 さんの目を開いて見,耳を澄まして聞くことをやめないよ ための門である(教義と聖約131:1−4参照) 。バプテスマ うにとお願いする。 」(“Temples and Eternal Marriage”「神殿 と永遠の結婚」『エンサイン』1974年8月号,p.6) の後,救いを得るためには,神の戒めを守り,最後まで堪 え忍ぶことが必要である(2ニーファイ31:17−21参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ そして,日の栄えの結婚後,昇栄を得るためには,引き続 教義と聖約132:16 今,適切な権能の下で結婚するこ とが重要なのはなぜか き献身し,義を守ることが必要である。神殿で永遠の結婚 をした人々がはっきりと理解しているように,儀式そのも ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように記してい る。「復活の状態で,彼らはめとったり嫁いだりしないで のは,夫婦が約束されたすべての祝福を自らの忠実さに応 じて受けるための条件にすぎないのである。 あろう。それは現世でも永遠にわたっても有効な結婚の 『結び固め』を行う聖なる神権の権能の下に,夫婦の状態 召しと選びを確かなものにするというのは,日の栄えの 結婚に付加されるものであって,義の大義に揺るぎない完 に関するあらゆる問題が,そのときまでにすでに解決され 全な献身をした結果として与えられるものである。神殿で るに違いないからである。」(『基督イエス』p.630。マタイ 22:30;マルコ12:25参照) 結婚した人々は,神の戒めを守り,自分の身に引き受けた 結婚の聖約を守らないかぎり,いかなる状況にあっても昇 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約132:19−22 人はどのようにして満ちみ 栄を得ることはできない。」(『モルモンの教義』p.118) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ちた神の栄光を受けるか 教義と聖約132:19 『教義と聖約』の啓示の中には,昇栄に必要なあらゆる 律法が見いだされる。第132章には,昇栄の律法が示され ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明して いる。「文字どおりの意味で言えば,命の書すなわち小羊 ている。この昇栄とは日の栄えの結婚のことであって,永 遠の命に至るために必要なほかの段階,すなわち信仰,悔 の命の書は天において書かれる記録であり,忠実な者の名 前と彼らの義にかなった聖約と行いとが記録されているも い改め,バプテスマ,神権などの段階を完全に踏むことが のである(教義と聖約128:6−7;詩篇69:28;黙示3: その基になっている。 日の栄えの結婚に至る過程は,聖約を交わしその聖約を 5;21:27)。命の書は永遠の命を受け継ぐ人々の名前を載 せた書であり,永遠の命の書である(ダニエル12:1−4; 守る過程である。聖約とは二者間で取り交わされる契約で あって,両者がそれぞれの側の義務を完全に果たして初め ヘブル12:23;教義と聖約76:68;132:19)。また,『聖 められた者, すなわち日の栄えの世界に住む者の名前の書』 キリスト 「小羊の命の書」とは何か きよ てその契約は有効となる。契約は条件と約束で構成される。 (教義と聖約88:2)でもある。忠実な聖徒たちの名前は現 ある条件を満たせば,ある約束を受ける。第19節から22節 まではそのような聖句である。 世にいる間に命の書に記録される(ルカ10:20;ピリポ 4:3;Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセ 夫婦側の条件 約 束 フ・スミスの教え』p.9)。しかしその名前は邪悪な行いを すれば抹消される(黙示13:8;17:8;22:19)。」(『モル 1.主の言葉と律法に従っ て結婚する。 1.「王位,王国,公国, および力,主権,すべての モンの教義』p.97。「罪のない者の血」については,教義 と聖約132:27の「注解」の中で説明されている。 ) 高い所と深い所を受 け 継 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ぐ」(19節) 2.「天使たちと神々のそ 教義と聖約132:22−25 ういうことか 2.神権の鍵を持つ者によ って結婚する。 3.その結婚を約束の聖な る御霊によって結び固めら ばを通り過ぎ」昇栄に至る (19節) 。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように教えてい る。「永遠の命(昇栄)を得る者は,もろもろの永遠の命 3.永遠にわたって神々と なる(20節参照)。 をも得る。これはつまり,復活後にも永遠に増え,子孫が 4.「命の存続に至る」 (22 節) え海辺の砂を数えたとしても,彼らを数え尽くすことはで きない』という状態になる(教義と聖約131:1:4;132: れる。 4.聖約を守る。 「命の存続」と「死」はど 続き,数々の生命が続くということである。そしてその霊 の子孫は,『星のように数限りなく続く。すなわち,たと 19−25,55)。」(『モルモンの教義』p.238。教義と聖約 教会員の中には,神殿結婚をすれば聖約の必要条件を完 全に満たすと誤解している人がいる。しかし,神殿結婚は 131:4の「注解」も参照) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長はさらに次 聖約の最初の二つの条件を満たしているにすぎない。聖な る御霊が永遠の結婚の約束を二人に結び固めるまで聖約を のように説明している。「ここで述べられている『死』と いう言葉は,この永遠の結婚の聖約を拒む人をことごとく 守るためには,生涯にわたって義にかなった生活を送る決 意をする必要がある(教義と聖約132:7の「注解」参照) 。 断ち切るという意味である。したがって,そのような人に は昇栄する力も子孫を増やす力も与えられない。子孫と家 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように教えてい 族の組織とを否定されるということは,結局次の世におけ る。「バプテスマは日の栄えの王国に至る門であり,日の 栄えの結婚は,日の栄えの世界の最も高い天界に昇栄する る『死』,すなわち増加に終止符を打たれることに通じる のである。 」(Church History and Modern Revelation『教会歴 352 第132章 史と近代の啓示』2:360。『モルモンの教義』p.283も参 思議である。…… 照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ したがって26節で言及されている人々は,一度罪を犯し たが,すでに十分悔い改めて,罪の代償を進んで払おうと 教義と聖約132:26−27 神殿における結婚は人がど のような生活を送っても昇栄を保証してくれるのか している人々であると結論しなければならない。そうでな ゆる ければ昇栄の祝福は与えられない。赦しを得るには悔い改 この聖句の意味を曲げて,神殿で結婚すれば昇栄が保証 されると言う人が少なからずいる。そのような推論をする めが絶対に必要であり,罪を犯した人は清められなければ ならない。 」(『救いの教義』2:86−87) 人は,ペテロが指摘したように「無理な解釈をほどこして, 鍵になるのは,「約束の聖なる御霊により結び固められ 自分の滅亡を招いている」(2ペテロ3:16)のである。ハ ロルド・B・リー大管長の次の言葉によれば,神殿結婚に る」(教義と聖約132:26)という箇所である。この結び固 めというのは,召しと選びを確かなものにすることと関連 よって完全になることも,永遠に結び固められることも可 能であるが,儀式そのものには何の保証もない。 がある(教義と聖約76:53;131:5;132:7の「注解」参 照)。 「何とかして主の宮に参入して結婚することさえできれ 特に教義と聖約第132章26節の約束について,ブルー ば,自分は何をしようとも昇栄は保証されるという誤った 考えを持っている人がいる。彼らは教義と聖約第132章26 ス・R・マッコンキー長老は次のように言っている。 「召しと選びとを確かなものにすることは,日の栄えの 節を引用するのである。しかし,それは主が言おうとして おられたことではない。主が昇栄を保証されるのは,過ち 結婚の後に来るものであり,それから生じるものである。 男女を問わず,人は自分一人で永遠の命を受けることはで を犯してもそれを悔い改める人々である。」(“Cram for きない。なぜなら,永遠の命とは本質的に永遠に家族組織 Life’s Final Examination” Brigham Young University Speeches of the Year「人生の最後の試験に備えて学ぶ」 『ブリガム・ が存続することだからである。したがって,結婚に関する 啓示は同一の文の中で,(永遠の命が条件付きで約束され ヤング大学年度講話』1954年1月5日,p.7) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう る)日の栄えの結婚と(永遠の命が無条件で約束される) 召しと選びとを確かなものにすることの両方について述べ に解説している。 「教義と聖約132章26節は,聖典の中でも最も誤って使用 ているのである。またこの文の中には,永遠の命に結び固 められた後に罪(『殺人を犯して罪のない者の血を流すこ されている箇所である。主は,悔い改めの精神を持たない と』を除く)を犯す人々も昇栄を得ると書かれている。そ 人を昇栄させるとは, だれにも約束されたことはなかった。 この節の中で悔い改めという語は用いられていないが,実 こには『その後』という言葉が付いている。『その後』と いうのは,召しと選びが確かなものにされた後ということ 際には言外に述べられていることは間違いない。だれもが 26節について知っているのに,主が実質上この節に書かれ である〔教義と聖約132:19−20を引用〕 。 この啓示〔教義と聖約132:26〕は永遠の命を受ける基 ているのと同じことを語っておられるマタイ12:31−32に となる従順に関するものであるが,これは日の栄えの結婚 ついて読んだことも聞いたこともないように見えるのは不 と召しと選びを確かなものにすることの両方について語っ ている。『まことに,まことに,わたしはあなたがたに言 う。もしある男がわたしの言葉に従って妻をめとり,彼ら がわたしの定めたことに従って約束の聖なる御霊により結 び固められるならば』──つまり,二人が結婚しその召し と選びを確かなものにしたならば──『第一の復活に出て 来て,昇栄に入るであろう。』」(『新約聖書教義注解』3: 343−344) もし人が召しと選びを確かなものにし,その約束が約束 の聖なる御霊によって結び固められたとしても,それは罪 を犯しても罰を受けずに済むということではない。マッコ ンキー長老はさらにこう述べている。「もし召しと選びを 確かなものにされた人が,その後重大な罪を犯した場合ど うなるだろうか。例えば,背教して罪の生活を送ったとし たら,あるいは真理に敵対して神に反抗したとしたらどう なるだろうか。 人はバプテスマの前でも後でも,また召しと選びを確か なものにする前でも後でも罪を犯す。これはだれの目から 見ても明らかである。これまで罪のない人はただ一人しか 永遠の命を得るには,神殿で交わした聖約を守らなければなら ない いなかった。神御自身の御子,主イエスである。 だから主は現代において,回復された教会の設立を宣言 する啓示の中で次のように言われたのである。『しかし, 353 人が恵みから落ち,生ける神から離れることもあり得る。 教義と聖約132:27 「罪のない者の血」とは何か それゆえ,教会員は誘惑に陥らないように,用心して,常 に祈りなさい。まことに,聖められている人々でさえも用 聖典で使われている「罪のない者の血」という表現には, 通常の語法以上の特別な意味がある。究極的には,ブルー 心しなさい。 』(教義と聖約20:32−34) ス・R・マッコンキー長老が指摘しているように,唯一の アダムやエノクの時代から預言者や使徒たちは,そして あらゆる人は,罪から清められているかどうかにかかわり 真の罪のない者の血は救い主の血である。「罪のない者の 血とはキリストの血である。そして赦されることのない なく罪を犯す性癖があり,実際に罪を犯している。永遠の 示現を目にし,召しと選びを確かなものにする約束の聖な 『聖霊を汚す』罪を犯す人々は(マタイ12:31−32) ,それ によって『またもや神の御子を,自ら十字架につけて,さ る御霊によって結び固められた人も同じである。これらの 選ばれた人々は,永遠の命を受けるという確かな約束を受 らしものにする』のである(ヘブル6:6) 。言い換えれば, 彼らはキリストが神の御子であられるという完全な知識を けている。しかし,『清くない者は,決して父の王国に入 持ちながら,キリストを十字架につけてしまおうとする人 ること』(3ニーファイ27:19)も『神の前に住むこと』 (モーセ6:57)もできない。では,永遠の命に結び固めら たちである。 」(『新約聖書教義注解』3:345) ほかの聖句では,主の僕を殉教に追い込む者も,罪のな れた後に犯した罪はどうなるのだろうか。 明らかに,悔い改めの律法が適用される。人は光を受け い者の血を流していると教えられている(モーサヤ17: 10;教義と聖約135:4参照。教義と聖約76:35の「注解」 れば受けるほど,悔い改めの賜物を求めるものである。ま におけるジョセフ・フィールディング・スミス大管長の言 た,神聖な御 心 を守らないで,いかなる程度であれ『罪 の主』ルシフェルに従ってしまったときには,それだけ必 葉も参照)。言い換えれば,預言者に戦い挑む者は,実際 にはその預言者が仕えている御方に戦いを挑んでいるので 死に自分を罪から解き放そうと努力するものである。こう おそ して,日々刻々と悔い改めて主を求めるので,神を畏れる ある。以上のことから,いかなる種類の殺人もきわめて重 大な罪ではあるが,殺人を犯す者が皆「罪のない者の血」 人や義人の罪は絶えず赦されるのである。 を流しているわけではなく,滅びの子になるわけではな 実際のところ,召しと選びが確かなものにされるという 付随的な祝福は,それ自体罪を避ける励ましとなり,さら い。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ に罪を犯すことに対する防壁となる。聖別された聖徒たち は,偉大な祝福を得るために従順と試練の長い道を歩み, 教義と聖約132:29−33 「それゆえ,あなたがたは 行って,アブラハムの業を行いなさい」 み こころ それによって罪を避け義をはぐくむ生活様式を確立してき 主はこの部分で,預言者ジョセフの最初の疑問,すなわ た。したがって主は次のように言われたのである。『最初 に,わたしはあなたがたにハイラム・スミスを与えて,あ ちアブラハムやそのほか昔の族長たちが複数の妻を持ちな がら正しいと認められたのかどうかという点に答えておら なたがたへの祝福師とし,わたしの教会の結び固めの祝福, すなわち約束の聖なる御霊を持つ者とする。あなたがたは, れる(教義と聖約132:1参照)。主はまず,アブラハムは 主の約束と戒めを忠実に守ったので,現在では昇栄に入っ 誘惑の時があなたがたに及んでも倒れることのないよう あがな に,その約束の聖なる御霊により贖いの日まで結び固めら ていると言われた。同じ約束が現代の聖徒にも与えられて いる。主は現代の聖徒に「アブラハムの業を行いなさい」 れるのである。』(教義と聖約124:124) と命じておられる。これは多妻結婚を行うようにという戒 しかし,めったにないことでほとんど耳にしないとはい え,そのような人が離反して悔い改めの精神を失ったら, めではなく(多妻結婚の戒めは34節から37節にかけて与え られている),アブラハムと同じような信仰と義をもって 一体どうなるのだろうか。その答えは,数々の啓示や預言 者ジョセフ・スミスの教えの中で説明されている。すなわ 神の聖約と戒めを受け入れるようにという戒めである。ア ブラハムはすでに昇栄に到達しているので,わたしたちは ち,キリストの血はそのような人を清めないので,彼らは 自分の進歩の模範としてアブラハムを目標にすることがで 自分自身で罪の代価を支払わなければならない。もし殺人 かんいん や姦淫の罪を犯したら,この二つの罪は結び固めの約束を きるのである。スペンサー・W・キンボール大管長は次の ように言っている。 解除するものであるので,その人は約束されていた受け継 ぎを失うことになる。また,赦されない罪を犯した場合に 「アブラハムはあらゆる点で神に誠実であった。よく引 用されるのは,アブラハムが神に『すべての物の10分の1』 は,滅びの子になるのである。」(『新約聖書教義注解』3: をささげたことである。アブラハムが義にかなうことをす 342−343) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るのは,自分たちよりも簡単だったと思う人はいないだろ うか。心中,アブラハムには主の特別な力添えがあったか 教義と聖約132:26 か 悪魔に打たれるとはどういうこと ら,偉大な義人になれたのではないかと考えてはいないだ ろうか。それとも,もし神のことを第一にして生活したな 教義と聖約78:12の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ らば,だれでもアブラハムのようになれると,考えている だろうか。わたしは皆さんにしたい。その勇気のゆえに今 教義と聖約132:27 は『昇栄に入ってその王座に着いている』(教義と聖約 ぼうとく 「聖霊に対する冒 」とは何か 教義と聖約76:31,35,37−39の「注解」を参照する。 354 132:29)アブラハムのように,わたしたちもなれるので ある。その昇栄は,中央幹部あるいはステーク会長,定員 第132章 永遠の命を求める人は,すべてのことにおいてアブラハムのように主に従わなければならない 会会長や監督だけに与えられる祝福であろうか。そうでは ない。それは,自分の罪を捨て,聖霊の導きを得て生活し, を加えている。「アブラハムやイサクやヤコブについて言 えることは,サラやリベカやラケルについても言える。こ アブラハムの模範に従って自分を備えるすべての人に与え の妻たちは常に夫たちのそばにあり,夫たちとともにすべ られる祝福である。 教会がアブラハムのような誠実さや従順さを備え,啓示 てのことに忠実であった。男が一人で救いにあずかること はない。そして女も永遠に家族の単位を続けるのでなけれ を受け,信仰を持ち,奉仕を行うことさえできれば! ま た両親がアブラハムの求めた祝福を求めるならば,彼らは ば,永遠の完全にあずかることはない。救いは家族として 受けるものなのである。」(“Mothers in Israel and Daughters アブラハムが受けたような啓示と聖約と約束と永遠の報い 『ニ of Zion” New Era「イスラエルの母とシオンの娘たち」 を受けることができるであろう。 」( 『エンサイン』1975年6 月号,pp.6−7) ューエラ』1978年5月号,p.37) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約132:34,65 「サラはアブラハムにハガ 教義と聖約132:38−39 「彼らはわたしから受けな かったものを除いては,どのようなことについても罪を犯 ルを与えて」 さなかった」 この節を正しく理解するためには創世16:1−3を読むと よい。そこでは,サラが当時の慣習に従っていたことがほ ダビデの場合,この聖句は明らかウリヤの妻のバテシバ のことを指している。ダビデは主から許可を得ることなし のめかされている。サラは子供をもうけることができなか ったので,自分の仕え女を夫に与えて「彼女によって…… に,バテシバを自分の妻にしたからである。 ダビデの物語は悲劇的で,すべての神の子にとって教訓 子をもつこと」(2節)を願った。しかし,主から与えられ たこの啓示が明らかにしているように,ハガルを妻にする とする話である。ダビデは神の恵みの極致から邪悪の深み にまで落ちた人間の象徴である。彼は,現世で手に入れる ようにとのサラの勧めをアブラハムが受け入れたのは,神 ことができるものをすべて持っていたが,不注意と不従順 に命じられたからである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ によりそれをすべて失った。昇栄も,天の御父とともに永 遠に住む権利も失ったのである。ブルース・R・マッコン 教義と聖約132:37 「彼らは……昇栄に入り」 ブルース・R・マッコンキー長老はこの聖句に深い洞察 キー長老は,ダビデの罰を引き起こした特別な状況につい て次のように説明している。 355 「結び固めの力をもってしても,殺人を犯して罪のない 教義と聖約132:46 大管長は罪を赦すことができるか 者の血(この場合,キリストの血ではなく,不法にまた悪 意で殺された者の血)を流した者に永遠の命を結び固める 結果的に言えば,罪を赦すことができるのは神だけであ る。しかし,主の僕は霊感を受けて,神が罪を赦されたと ことはできない。これについて預言者ジョセフは次のよう 宣言することができる。監督やそのほかの神権指導者も, に言っている。『例えば,罪のない者の血を流す殺人者は 赦しを得られない。ダビデは,ウリヤを殺害したことで心 教会に代わって重大な罪に対する赦しをもたらす務めを負 っている。しかし,主の赦しは啓示によって神からのみも から涙を流して神のもとで悔い改めたいと願った。 しかし, 地獄を通じてしか悔い改めることができなかった。ただダ たらされるのである。 ブルース・R・マッコンキー長老は, この教義を次のように説明している。 ビデは,その霊が地獄に残されることはないという約束を 受けた。 「罪を赦さずにおくにせよ赦すにせよ,主からの啓示が 常に必要である。神は人の汚れを除き清めなければならな ダビデは王であったが,エリヤの霊と力を持っていたわ い御方であるから,神の権能を行使する人は,神から権能 けでも,完全な神権を持っていたわけでもなかった。ダビ デが受けた神権とダビデの王位と王国とは,末の日に取り と承認を受けなければならない。この承認は聖なる御霊か ら啓示によって与えられる。現代の神権時代において,主 上げられて,彼の血統から出るダビデという名の別の者に 与えられることになっている。』(『預言者ジョセフ・スミ が啓示によって,ある人の罪が赦されたと宣言しておられ る場面が多く見られる(教義と聖約60:7;61:2;62: スの教え』p.339)したがって,召しと選びを確かなもの 3;64:3)。したがって,もし主が啓示によって使徒たち にされたとしても,その後もし殺人を犯したら,約束はこ とごとく効果のないものとなり,その人は,星の栄えの王 に向かい,神権と呼ばれる主の権能を用いて主に代わって 行動し,罪を赦さずにおくように,あるいは赦すようにと 国に行くことになる(黙示21:8;教義と聖約76:103)。 なぜなら,永遠の命に結び固められたとき,それは予約だ 命じられたら,使徒たちはそのように行動するであろうし, その行為は実質的には主のなさることとなるのである。マ ったからである。結び固めの力は殺人者には及ばなかった タイ16:13−20;17:1−9;18:18を参照する。 のである。 」(『新約聖書教義注解』3:347) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ これと同じ使徒の権能は,真の教会に常に見られる。そ れゆえ主はジョセフ・スミスに次のように言われたのであ 教義と聖約132:41−44 姦淫の罪 スミスとショダールは次のように書いている。「預言者 る。『わたしはあなたに神権の鍵と力を授けており……あ なたが地上で赦す罪は,だれの罪でも永遠に天で赦され, はこの問題に関する祈りの中で,族長たちの家族関係が正 またあなたが地上で赦さずにおく罪は,だれの罪でも天で しいと認められた根拠について,主の教えを求めた。その 答えとして与えられたのが, ここにある姦淫の定義である。 そのまま残るのである。 』(教義と聖約132:45−46)」(『新 約聖書教義注解』1:857−858) この啓示に従えば,多妻結婚は実質的には姦淫ではない。 しかし,結婚の聖約に反する行為は姦淫の罪を犯すことで スペンサー・W・キンボール大管長は,罪の赦しを得る 過程で監督の果たす役割について次のように説明してい あって,その罰は滅びであり(41,52節),神御自身が裁 きを執行されるのである(54節)。」(『注解』p.833) る。「次のステップは監督を通して教会から赦しを得るこ とです。いかなる祭司,長老といえども,教会に代わって ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ このことを行う権能はありません。 主の計画は不変であり, 教義と聖約132:46 とができるか 神殿結婚の結び固めは破棄するこ 秩序立っています。ステーク内にいるすべての人には,主 の召しと聖任により『イスラエルの判士』に召された監督 教会員は,結び固めの力が結び固めを解く力でもあるこ とをはっきりと理解しなければならない。この力は,あら が与えられています。監督はこの世でのわたしたちの一番 の友達です。監督はわたしたちの持っている問題に耳を傾 かんいん ゆる神権時代におけると同様に,大管長が保有している け,それがどの程度深刻なものかを判断し,それからどの (マタイ16:19参照)。神殿結婚の結び固めとその取り消し を行う力について,ブルース・R・マッコンキー長老は次 ような悔い改めが必要か,最終的に赦しが得られるものな のかどうかを決定します。監督はこのことを,地上におけ のように記している。「適切に表現すれば,神殿離婚とい こんにち うようなものは存在しない。今日,離婚というのは国の法 る神の代理人として,また熟練した医師,心理学者,精神 科医として行います。もしも悔い改めが十分なものであれ 廷によって取り扱われる民事上の事柄である。しかし,神 ば,罰は与えられません。これは赦しと同じことです。監 殿において永遠の結婚をした人が民事上の離婚をした後, きわめて重大な状況に置かれてやむなしと認められた場 督には罪を放免する権能はまったくありません。しかし, 彼は重荷をともに負うことにより,罰を与えずに切迫した 合,大管長はそれにかかわる結び固めを取り消す力を持っ ている。大管長は地上においても天においても結んだり解 状態を和らげてあげるのです。そしてその人に,教会活動 を今までどおり続けるように言います。またこの場合,す いたりする鍵と力を保有しているのである(マタイ16: 19;教義と聖約132:46;『救いの教義』2:77)。」(『モル べ て の こ と は 内 密 に 保 た れ ま す。」( “President Kimball Speaks Out on Morality”「キンボール大管長道徳について語 モンの教義』pp.110−111) る」『エンサイン』1980年11月号,p.98) 356 教義と聖約132:49−50 ジョセフ・スミスに保証さ ム・ヤングである,と言い続けていたと伝えられている。 れた昇栄 預言者ジョセフ・スミスは,永遠の命を受けるという約 わたしは神と天使と人々の前で,ジョセフ・スミスがその 啓示を受けたことを証する。また,エマ・スミスが夫の存 束を受けた。自分の召しと選びを確かなものにしたからで ある。神は,御自分に従うすべての子供たちに同じ約束を 命中に何人かの女性を結婚の相手として与えたことを証す る。その中の何人かは,今日現在,この市に住んでいる。 しておられる。第50節では,預言者ジョセフがこの約束を 受けた理由が説明されている。ジョセフは喜んですべての この会衆の中に交じっているかもしれない。もし求められ れば,わたしの言葉が間違っていないことを証言してくれ ものを犠牲としてささげた。ジョセフは人に追われ,迫害 るはずである。しかし,何ということだろうか。ジョセ され,裁判所に告訴され,家族や愛する者たちと引き裂か あかし れたが,これはすべてジョセフの証に起因していた。すな フ・スミスがこのような慣行とはかかわりがなかったと主 張する出版物が,現在相次いで出されているそうである。 わち,天が閉じていないことと,神がその子供たちに語っ ておられることを証したからである。預言者ジョセフはこ ジョセフ・スミス自身がわたしたちの教会におけるあらゆ るエンダウメントを組織し,教会にそれを明らかにしたの の神権時代において,神の息子娘がどのように振る舞わな である。またジョセフは生きている間に,アロン神権とメ ければならないかを身をもって教え,偉大な模範を示した のである(教義と聖約131:5の「注解」参照) 。 ルキゼデク神権のすべての鍵を受けた。それらの鍵は,か つてこの世で所有し,かつ永遠にわたって所有している ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約132:51−56 エマは何にあずかってはな 人々の手から授けられたのである。 」(『説教集』23:131) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ らないと命じられたのか 教義と聖約132:59 主が預言者ジョセフに,彼の妻に与えるようにと命じら れたものが何であったかは,ここでもほかの箇所でも明ら ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べてい る。「レビ神権の職務へのアロンの召しは,主の業を行う かにされていない。しかし前後関係から判断して,イサク を犠牲にささげるように命じられたときにアブラハムが経 ために適切な執行者を選ぶ際の完璧な模範となっている。 その日以来,神権の義務を律法にかなって果たすことがで 験したような,特別な信仰の試練であったのではないかと 思われる。これ以上の推測は意味がない。記録が沈黙を保 きるかどうかは,その当事者である聖職者が『アロンの場 合のように,神の召しによって』(ヘブル5:4。教義と聖 っているからである。しかし,エマには主からさらに助言 約27:8;132:59)召されているかどうかによって決定さ が与えられた。その中には,「わたしの僕ジョセフに与え られた……者をすべて受け入れなさい」 (教義と聖約132: れている。すなわち,啓示と聖任によって,また主を真に 礼拝する者たち全体の承認によって召されなければならな 52)という戒め,主の声に従うようにという戒め(53節参 照),預言者ジョセフと結び合うようにという戒め(54節 いのである。 」(『モルモンの教義』p.9) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 参照),そしてジョセフの過ちを赦すようにという戒め 教義と聖約132:60−64 神権の律法 アロンはどのように召されたか かん ぺき (56節参照)が含まれる。また,これらの戒めを拒んでは ならないという警告と,二人を守るという約束も主から与 「ここでまた,一つの真理が繰り返されている。つまり, 神の律法と指示に従って,神の名によって行うことは,そ えられた。 常に預言者ジョセフ・スミスの身近で働いていたウィル れが何であれ,罪とされるはずがないのである。人間の作 った律法では犯罪と考えることでも,神の見地から見れば, フォード・ウッドラフ大管長は,ジョセフが多妻結婚を行 罪となるものもあるし,そうでないものもある。時には罪 っていた事実をエマが後年になって否定したことについ て,次のように語っている。「預言者の未亡人エマ・スミ のない御方がカルバリで亡くなられることもある。これは 罪のある者が裁判官や陪審員を務めたからである。 」(スミ スは,その死の瞬間まで,夫は族長たちの結婚制度とは何 のかかわりもないのであって,それを始めたのはブリガ ス,ショダール共著『注解』p.835) 『教義と聖約』に対する主の付録 歴史的背景 第133章 で開かれた。そのときまでに主から多くの啓示が与えられ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ていたが,この大会で承認されたおもな議題の一つは,そ れらの啓示を編集して出版することであった(教義と聖約 1831年11月1日,教会の特別大会がオハイオ州ハイラム 1章の「歴史的背景」参照)。編集された書物は『戒めの 357 書』(Book of Commandments)と呼ばれたが,わずかな部 聖典の教えに通じていなければ,主がこの章で語られた重 数を除き,ジャクソン郡の暴徒により焼き捨てられてしま った(教義と聖約98章の「歴史的背景」参照)。その後, 要な洞察を見落としてしまうであろう。そこでこの章の注 解は,鍵となる聖句の背景に焦点を当てて,裏に隠されて 引き続き啓示が与えられたので,オハイオ州で新たに編集 いる概念を読者が理解できるように助けるものとする。 と出版が行われ,出来上がった書物は『教義と聖約』と呼 ばれた。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:1,16 主はこの啓示をだれに向けて 預言者ジョセフ・スミスは,この大会で決議されたこと を次のように記録している。「この大会でオリバー・カウ 与えられたか この啓示は,教会の会員(教義と聖約133:1参照)と地 ドリ長老がインディペンデンスの地に戒めと啓示を携え, 印刷に付することが決定された。また彼の出発のときまで に住む人々(16節参照)に対して与えられた。同じ大会で 啓示された「はしがき」 (教義と聖約1:1−4参照)とこれ わたしがその啓示を取りまとめておくこととなった。でき らの節を比較する。 れば〔11月〕15日以前までということである。このとき, の 地に住む者に福音を宣べ伝えることと集合に関して,長老 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:2 主は突如神殿に来られたか たちが知りたいと望んでいたことがたくさんあった。まこ との光によって歩み,高い所から教えを受けるために, 第2節の動詞の時制から,1831年11月現在において,主 の訪れは将来の出来事であることが分かる。 1831年11月3日に,わたしは主に尋ね,次のような重要な オーソン・プラットは,主が御自分の神殿に来られるこ 啓示を受けた。これはそのとき以来,『教義と聖約』の書 に加えられ,付録と呼ばれた。〔教義と聖約133章〕」(His- とに関する質問に次のように答えている。「聖典には,終 わりの時に主なる神が神殿に来られるという神聖な真理が tory of the Church『教会歴史』1:229) ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように説明してい 記されている。……マラキ書の第3章には, 『あなたがたが 求める所の主は,たちまちその宮に来る』とある。これは る。「『付録〔教義と聖約133章〕 』は,はしがき〔教義と聖 メシヤの最初の降臨,すなわち肉体をもって御 姿 を現さ 約1章〕を補足するものである。この二つの章はともに, 『教義と聖約』の内容を凝縮した形で包み込んでいる。付 れた日を指すのではない。それは終わりの時と呼ばれる輝 かしい時代を意味するのであり,主はそのとき,主の聖な 録とは,書物の内容を拡大し,強調し,補充し,あるいは 詳説するために,筆者の考えを加えたものである。 」(Mes- る名により地上に建てられた宮,神殿を再び御自分のもの とされるであろう。 」(Journal of Discourses『説教集』14: sage of the Doctrine and Covenants『教義と聖約のメッセー 274) ジ』p.17) 信仰箇条第10節には,この啓示の中で主が明らかにされ スミスとショダールは,来臨に関する約束が2度以上に わたって成就すると指摘している。「この預言は部分的に た重要な主題が幾つか要約されている。 成就している。というのは,1836年にカートランド神殿に おいて,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリは主の訪 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れを受けて教え導かれたが,この預言にはさらに幅広い意 味があるからである。すなわち,主は疑いなく主の宮に来 教義と聖約133章 鍵となる概念の集約 られ, 『銀をふきわけて清める者のように座し』 ,イスラエ あらゆる聖句は,福音の概念が相互に依存しながら織り なす格子模様の一部である。主が聖文を記された目的は, ルの家を清め,主の民を教え導かれる。この訪れは,大い なる来臨とは別のものであり,はっきりと識別されるであ テーマごとに概念を集めることではなく,それらを神聖な 書物全体に散らして,あちらこちらで少しずつ教えること ろう。来臨のときには,主は『神を忘れるすべての国民』 に『裁きのためにのろいをもって』(2節),また『力と大 であった。したがって,そのように配列された聖文を熱心 いなる栄光とをもって……天の雲に乗って来』られるので に調べ,研究してこそ,完全な理解を得ることができるの である。聖典に自らを浸せば浸すほど,その中の言葉や概 ある(マタイ24:30)。この来臨は忠実な聖徒に祝福と恵 みをもたらすが,主が世の人々に最後の応報を与えるため 念に通じて,関連のある様々な教えを思い起こせるように なる。例えば,歩みを速める(教義と聖約133:8,16,37 に来られるとき,しるしが天に現れ(マタイ24:30;教義 と聖約88:93),すべての人がそれを見て,邪悪な人々に かぎ み すがた 参照)という言葉は末日聖徒によく知られているので,歩 は主の裁きが注がれるであろう。」(Commentary『注解』 みと聞いただけで,ほとんどの末日聖徒は即座にこの言葉 全体を思い浮かべる。 p.840) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 第133章には,そのようにほかの聖句を引き出す鍵とな る概念が数多く含まれている。またこの章は,一種の象徴 教義と聖約133:3 「聖なる腕を……現す」 腕は強さと力の象徴である。したがって,主が腕を現さ 的な表現を用いて書かれている。したがって,主が神殿に 来られること(教義と聖約133:2参照),バビロン(4−7, れるとは,世の人々の目の前に主の強さと力が現れること である(その一例として,出エジプト15:1−18を参照す 14節参照) ,10人のおとめのたとえ(10節参照) ,ロトの妻 る。教義と聖約15:2;35:8−10の「注解」も参照する)。 の話(15節参照),シオンの山に立たれる小羊(18節参 照),イエスがオリブ山に立たれるとき(20節参照)など, 358 第133章 教義と聖約133:3 「彼らの神の救いを見るであろう」 れて主とまみえる聖徒たちが清められていなければならな とは,どういう意味か 「神の救いを見るとは,全能者が主の民のためにもたら いことは明らかである。 集合 ブルース・R・マッコンキー長老は,1977年2月 す勝利や解放を,すべての人が見るという意味である〔イ ザヤ12:2;52:10参照〕。」(スペリー,Compendium『概 27日にペルーのリマで行った説教の中で,この神権時代に イスラエルの民をシオンに集める集合の霊について,次の 要』p.300) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ように説明している。 「イスラエルの集合によって,二つのことが成就する。 教義と聖約133:4 一つは, そうしてキリストを自分の羊飼いとして選んだ人, 「備えなさい,備えなさい」 聖典や生ける預言者たちの教えによれば,聖徒は自ら再 臨に備える場合,一つの民として,3つの大切な事柄につ バプテスマの水の中でキリストの名を受けた人,この世で は御霊を享受し,来るべき世では永遠の命を受け継ぎたい いて努力する必要がある。 備え ハロルド・B・リー長老は,再臨に備える3つの と願う人,そのような人々は,互いに強め合い,完全を目 指して助け合うために,集合する必要があるということで 段階を次のように説明している。 ある。 「この備えをするに当たって,まず人々は主の来臨を受 け入れるために,神と御子イエス・キリストの個性と属性 そして二つには,永遠に最高の救いを求める人々は,自 分のためにも,また機会さえあれば真心から受け入れてい を知らなければならない。…… どこのだれとも分からない人を迎えることができるだろ たはずでありながら福音を知らないまま死んでいったイス ラエルの先祖たちのためにも,主の家の祝福を受けられる うか。面識もない人と会う備えができるだろうか。どのよ 場所にいる必要があるということである。 うな人か分からないのに,その人を迎える備えができるだ ろうか。…… この神権時代の初期においては,このことが北米の山の 頂にある主の家の山への集合を意味したことは明らかであ 福千年の統治の初めに主を受け入れるために,準備すべ きことがもう一つあると思う。それは,世の救い主として る。そこだけが,互いに強め合うことのできる大勢の聖徒 たちが集まった場所であったからである。そこにだけ,昇 のイエスの神聖な使命を受け入れることである〔アルマ 11:37,40参照〕。…… 栄を受けるに必要な完全な儀式を行う至高者の神殿があっ たからである。 ……わたしたちは,福音を回復し,イエス・キリストの しかしながら,すべてのことを知っておられる御方,イ 教会を組織した預言者ジョセフ・スミスの神聖な使命を受 け入れなければならない。教会員一人一人が,福千年の統 スラエルを散らし,今再びその愛する民を集めておられる 御方の摂理によって,キリストの羊の群れが地の果てにま 治の備えをするために,ジョセフ・スミスの行った業は神 の業であるというを受け入れなければならない。……〔ヒ で広がる時代が今や来ている。教会はまだすべての国に建 てられてはいないが,人の子の再臨までに,必ずやあらゆ ーバー・C・キンボール長老が語ったように〕『男性も女 る国に教会が建てられるであろう。 性も,借りものの光では耐えられない時が来る。人はそれ ぞ れ 自 ら の 内 に あ る 光 で 導 か れ な け れ ば な ら な い。』」 『モルモン書』が告げるとおり,末の時代には, 『神の聖 徒』が『地の全面』に広く住み,『地の全面に散っている (Conference Report『大会報告』1956年10月,pp.61−62) きよ 聖め 道徳面で絶対に必要なことは,罪の宣告から解放 小羊の教会の聖徒たち,すなわち主の聖約の民』が『義と 神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装』するであ されることである。ブルース・R・マッコンキー長老は, ろう(1ニーファイ14:12−14参照)。 その方法について次のように説明している。 「聖められるとは,清くて,純粋で,染みがなくなるこ わたしたちは新しい時代にいる。末日聖徒イエス・キリ スト教会は急速に世界の教会となりつつある。聖徒たちの とである。また,世の血と罪から解き放され,新たに聖霊 み たま により生かされる者,すなわちその体が御霊の再生によっ 群れは今も,あるいは近い将来にも,どこに住もうと教会 員を支え助けるだけの力を備えるのである。必要な場所に て更新された者となることである。聖めは,福音の律法と 儀式に従って初めて達成される神聖な状態である。 そして, 神殿が建てられている。」(Ensign『エンサイン』1977年5 月号,p.117) 人が自らを清め,それによって日の栄えの王国における受 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ け継ぎを得るにふさわしくなるための制度と手段,それが 救いの計画である。 教義と聖約133:5,14 バビロン バビロンは旧約の時代に,大いなる邪悪とこの世の栄光 聖めは,福音の基本的な教義である(教義と聖約20: 31−34)。事実,信仰をもって悔い改め,バプテスマを受 に満ち,イスラエルを虜にした都市であり,国であった。 こうした歴史的事実があるので,バビロンは肉体的,霊的 けるように命じられている理由は,『聖霊を受けて聖めら な束縛の象徴となり,罪,邪悪,不信仰,悪行などの表象 れ』,染みのない状態でキリストの裁きの法廷に立てるよ うにすることである(3ニーファイ27:19−21)。」(Mor- となり, さらにこの世とこの世的な心を示す象徴となった。 キリストに従う者は,バビロンから出て,心の清き者であ mon Doctrine『モルモンの教義』p.675) 聖典では,清くない者は王国に住むことができないと教 るシオンに霊的に逃れるよう命じられている(教義と聖約 35:11;86:1−7の「注解」;特別講座B参照)。 とりこ えられている(モーセ6:57参照)ので,天に取り上げら 359 「それゆえに,あなたがたは行って,すべての国民を弟子とし……」(マタイ28:19) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:5 「主の器」は何を意味するか 沿岸の国々や中央ヨーロッパに住む多くの人々のことは含 まれていたのだろうか。 主は何を考えておられたのだろう。 昔のイスラエルが神殿で使用していた器は,ふさわしい それとも全世界に住むあらゆる人々,またその後何世紀に 神権者だけが取り扱うことができた。そのため「主の器を 担う者たちよ,清くありなさい」 (133:5)という言葉は, もわたってこの地上に来るよう定められた人すべてを指し ているのだろうか。これまでわたしたちは,この主の言葉, すべての神権者が保つべきふさわしさを意味する言葉とし て使われてきた。 またその意味するところを過小評価してきたのではないだ ろうか。福音を必要としている人が40億いる中で改宗者が ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 10万という現状に,わたしたちは満足できるだろうか。… … 教義と聖約133:6 聖会とは何か 教義と聖約95:7の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:8,16,37 主はどのような意味で, 主は『全世界』や『全地』『地のはて』 『あらゆる国語の 民』『あらゆる国民』『すべての人』『多くの国々』という 言葉を慎重に選んで使っておられることが分かる。 「すべての国民に呼びかけなさい」と言われたか 「すべての国民に呼びかけなさい」というこの言葉の意 だからこそこれらの言葉は重要な意味を持つのである。 確かに主の羊は,イスラエルで主を取り巻いた数千の人 味について,スペンサー・W・キンボール大管長は次のよ や毎日接した人だけではない。全世界の民族のことである。 うに述べている。 「わたしはあなたがたに尋ねたい。十二使徒を伴ってオ これは全世界の人々に向けて与えられた命令なのである。 わたしたちは今,自分にできるすべてのことをしている リブ山の頂に登り次に挙げる言葉を述べられた主は,一体 何を意図しておられたのであろうか。 だろうか。わたしたちは全世界に教えを宣べ伝えようとし ているが,現状に満足してはいないだろうか。わたしたち 『エルサレム,ユダヤとサマリヤの全土,さらに地のは は伝道を開始してからもう144年たつ。歩みを速めるため てまで,わたしの証人となるであろう。』(使徒1:8) これは主が天の国に帰られる前に語られた最後の言葉で の準備はできているだろうか。もっと大きなビジョンをも って進む備えができているだろうか。 ある。 『地のはてまで』とはどういう意味だろうか。そのとき 神がわたしたちと目的を同じくされる御方であることを 思い起こそうではないか。神は命令者である。計画を立て イエスは,使徒たちが知っていた地方はすでに踏破してお られ命令を与えられたのは神である。…… られた。これはユダヤの人々を指すのだろうか。それとも サマリヤの人々であろうか。はたまた近東の人々のことだ 兄弟たち,わたしは,とにかくわたしたちの能力のでき る限りのことを行ったならば,主は門戸を開く方法を示し ろうか。『地のはて』とはどこなのだろう。現在のアメリ カの人々のことだろうか。ギリシャ,イタリアなど地中海 てくださると思う。これはわたしの信仰である。…… 主はその心にかけておられるすべてのことをなし得る 360 第133章 と,わたしは信じている。 しかしわたしたちに入る準備ができていないのに,主が 門を開けてくださるとは思えない。もしわたしたちに入る 備えができていなければ,主はどうして鉄のカーテンや竹 のカーテン,その他の障害を打ち砕いてくださるだろう か。」(『エンサイン』1974年10月号,pp.4−5,7) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:8 イスラエルの血縁であるユダヤ人 が最後になるのはなぜか この世に降誕される神の御子を迎える部族になること は,イスラエルの十二部族の中で,ユダに与えられた特権 である。聖典の中で最も悲しむべき記録の一つは,大多数 のユダヤ人(ユダの家の者)が彼らの王を拒絶したことで ある。ユダヤ人は民族として,イスラエルの王を受け入れ ることができなかったので,福音は彼らから取り上げられ 個人の義がその人のランプに油を加える て異邦人に与えられた。しかし,救い主はすべてのイスラ エルを愛しておられるので,再臨の前に再び福音をユダの 教義と聖約133:11 キリストが来て福千年統治の到来 部族にもたらされるであろう(1ニーファイ13:42;エテ を告げられるのはいつか ブルース・R・マッコンキー長老は,キリストの再臨と ル13:12)。最初に主の来臨を受けたユダヤ人が,再び受 けるのであるが,今度は彼らが最後になるのである。 その時期に関する一連の質問に次のように答えている。 「質問:主が来られる時を知っている人が,現在います ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:10,19 「花婿は来る。……備えな か。または,これから現れますか。 さい」 教義と聖約第133章の10節は,10人のおとめのたとえ (マタイ25:1−13参照)に言及している。ジェームズ・ E・タルメージ長老は次のように述べている。「この物語 は,東洋の結婚の慣習に基づいており,主イエスの話を謹 んで聞いていた人たちはその慣習をよく知っていた。その 慣習,特に富裕階級で婚礼時にお祭り騒ぎする慣習は,過 解答:再臨の日や時間について知っている人はいない が,どの時代かについて知っている人はいる。 質問:その時代を知っているのは,だれですか。 解答:聖徒,光の子,時のしるしを読み取れる人,主の 言葉を蓄えて欺かれない人。 パウロがテサロニケ人に書き送ったように,『主の来臨』 は『妊婦に産みの苦しみが臨むように』起こる。また,世 去も現在も,東洋諸国においては普通のことである。まず の人々にとって,イエスは『盗人が夜くるように』,すな わち警告なしに突然来ることになるが,『光の子』にとっ 花婿が友人と一緒に行列を作って花嫁の家に迎えに行き, しん それから花婿の付添い(男),花嫁に付き添うおとめ,親 てはそうではない。なぜなら,光の子は再臨に関連した 『時期と場合』に気づいているからである(1テサロニケ 戚,友人などを含む大勢の出席者と一緒に新居へ花嫁を連 れて行く習わしである。心楽しい音楽の伴奏で婚礼の行列 4:13−18;5:1−7)。このように,聖徒は再臨の日を知 せき が進むにつれて,途中の便利な場所に集まって待っていた らないが,その時期に気づく。出産が迫ると妊婦が痛みを 感じるように,聖徒は時のしるしを読み取るのである。ど 小さな群れがそれに加わって行列の人数を増し,特に進ん で来る行列を迎えるために人々が一団となって出て来る道 ちらも, いつ起こるかを正確に予測することはできないが, 大体の時は分かるのである。」(Doctrinal New Testament 筋の終わり近くでは,大きな集団に膨れ上がった。婚礼の 式は,夕方から夜にかけて行われることになっていたので, 必然的に,用いられるたいまつや明かりが婚礼の場所に輝 キリスト きを与え,美しさを添えた。 」(『基督イエス』p.660) 上記のような婚礼の慣習では,花婿が到着するまで長い 時間待たされることがよくあった。花嫁に付き添うおとめ たちは,婚礼の一行が現れたときに道を照らすため,小さ なランプと予備の油を持っていた。 キンボール大管長の教えによれば,思慮深いおとめが持 Commentary『新約聖書教義注解』1:665−666。マタイ 24:36,42;教義と聖約45:39;49:7;77:6,12; 130:14−17も参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:12−13 集合の場所であるシオンと エルサレム 「福音に従った異邦人はシオンに集合し(12節) ,ユダの 家の者はエルサレムへ逃れるように命じられている(13 っていて思慮の浅いおとめが持っていなかった油は,個人 節)。これは,イザヤとミカが『律法はシオンから出,主 の言葉はエルサレムから出る』と預言した言葉と一致する。 の義を象徴するものである(教義と聖約45:56−57の「注 解」参照)。 主はこれら二つの中心地から,裁きを行われるからである。 エルサレムは再建されて聖なる都,ユダの首都となり,シ 次の聖句は,このたとえを主の再臨に結びつけている。 教義と聖約45:56−59;63:53−54。 オンはわたしたちの神の町,エフライムとその同胞の首都 はらから となる。そして,互いに調和した統治の座となり,主は両 方の都に住まれるであろう。」(スミス,ショダール共著 361 『注解』p.841) 照)。以上のことから考えると,この言葉の意味は明らか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:13 「主の家の山」という言葉は何を である。一度この世を捨てた人は,振り返ることはできな い。さもないと,バビロンを待ち受ける滅亡に巻き込まれ 意味するか てしまうのである。 ハロルド・B・リー大管長は,ミカ4:1に記されている 同じ言葉を参照して,次のように説明している。「ここで ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:17,36 「天のただ中で叫ぶ天使」 使われている『主の家の山』という表現は,義にかなった 民という定義と同じように,明らかに一つの場所を指して はだれか この言葉は,もう一つの大切な概念を含んでいる。この いる。」(“The Way to Eternal Life”「永遠の命への道」『エ ンサイン』1971年11月号,p.15) 節には,黙示14:6−7と同じような言葉が使われている。 教会の多くの注釈者は,黙示録のこの約束を天使モロナイ ほかの教会指導者たちも「主の家の山」について教えて による『モルモン書』の回復と結びつけている。しかし, いる。エラスタス・スノー長老は次のように語った。「『主 の家の山』,これは現代の用語からすれば特異な言葉であ ブルース・R・マッコンキー長老は,この約束はモロナイ だけに限定されないと述べている。「さて,実際の回復の るが,ダビデやその後数百年にわたる多くの預言者の時代 のイスラエルでは普通の表現であったために,恐らく預言 業に関して,この力ある業,すなわちこの末日のこの世に 住むすべての人に救いをもたらすこの業を行ったのはだれ 者によって使われたのであろう。すなわち,彼らはソロモ だろうか。だれが永遠の福音を回復しただろうか。その天 ンの神殿が建設されたモリヤ山を『主の家の山』と呼んで いた。モリヤはエルサレムの都にある丘で,ダビデが神殿 使は一人であろうか,それとも大勢であろうか。 その答えは明らかである。『モルモンの息子モロナイ, 用地に定め,息子のソロモンがそこに神殿を建てた。そし て,主の家の山と呼ばれるようになったのである。」(『説 すなわち今はすでに復活しているニーファイ人の預言者で ある。彼は「エフライムの木の記録」(教義と聖約27:5) 教集』16:202) の鍵を持っている。また彼の働きを通して, 「モルモン書」 ブルース・R・マッコンキー長老は,この言葉に複数の 意味があることを指摘している。 が再び世に出されたのであった。』その理由で『モルモン 書』には『完全な永遠の福音』(教義と聖約135:3)が記 「『主の家の山』とは神殿が建てられる山のことである。 〔イザヤ2:2−3を引用。ミカ4:1−2;2ニーファイ12: されており,それはこの世に住むすべての人にあてた神の 救いのメッセージであり,またこの福音のメッセージは主 2−3も参照〕 の証人たちによってすべての国民,部族,国語の民,民族 ほかの預言と同様,この偉大な預言も多方面にわたって 成就している。1.ソルトレーク・シティーやほかの山岳 に順次宣べ伝えられている。 しかし,そのほかにも天使たちが来なければならなかっ 地帯にある神殿はまさにその言葉のとおりに建てられ,す べての国の代表者がその中に流れ込み,神とその道につい た。すなわち,モーセやエライアス,エリヤ,ガブリエル, ラファエル,そのほか『それぞれの神権時代と権利,鍵, て学んでいる。……2.しかし,主の家がミズーリ州ジャ クソン郡の『新エルサレムの都』であるシオンの山に建て 誉れ,尊厳と栄光,神権の力について宣言し,またここに も少し,そこにも少しと,教えに教え,訓戒に訓戒を与え』 られるという日はまだ来ていない(教義と聖約84:2−4) 。 (教義と聖約128:21)た天使たちである。 み 栄えある神殿が建てられる日に,シオンの山自体が主の家 の山となる。3.ユダヤ人がエルサレムに逃れるときのそ こと ば の山は『主の家の山』である(教義と聖約133:13) 。つま り聖なる神殿が大いなる回復の時代の業の一部としてその とをもたらしたのである。また細かく分析してみると,完 全な永遠の福音は,人々が日の栄えの天で完全な救いを得 地に建てられるのである(エゼキエル37:24−28)。 るために必要なすべての真理と力からなる。」(『新約聖書 この二つの偉大な神殿が新旧両エルサレムに建てられる まで,イザヤが予見し,明記した,まさに福千年の時代の 教義注解』3:528−530) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 出来事として律法がシオンから出,主の言葉がエルサレム から出るということは起こらないのである。」(『モルモン 教義と聖約133:18 14万4,000人の人々はだれか 教義と聖約77:11の「注解」を参照する。 の教義』pp.517−518) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:14−15 「去る者は振り返ってはな 教義と聖約133:20−22 か らない」 アブラハムのおいのロトは,ソドムとゴモラに住んでい チャールズ・W・ペンローズ長老は,キリストは数回に わたって御姿を現されると説明している。すなわち,シオ た。そこは,この世の罪悪の象徴となったきわめて邪悪な 町である。ロトは家族を連れて町から逃れるように告げら ンに集合した聖徒たち,故国に帰還したユダヤ人,それに 世の残りの人々を訪れられるのである。 このようにして天使モロナイはメッセージ,すなわち御 言葉をもたらした。しかしほかの天使たちは鍵と神権と力 み すがた 主はどこに御 姿を現される れた。その途中,ロトの妻が後ろを振り返って(恐らくソ 「主は,最初に述べた人々にまず御姿を現される。そし ドムとゴモラに引き返そうとしたのであろう。ルカ17: 31−32参照),滅ぼされてしまった(創世19:15−26参 て主が彼らに御姿を現されたことについては,ほかの人々 には分からない。 主は主のために備えられた神殿に来られ, 362 第133章 主の忠実な民は主の顔を目にし,主の声を聞き,その栄光 ング・スター』1833年2月号,p.1) を見る。そして,シオンが発展して美を増し加え,主の王 国がその境を広げて確立されるように,彼らは主御自身の ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に述べて,終わりの時に関する聖徒の理解を助けている。 口からさらに数々の指示を受けるであろう。 主が次に姿を現されるのは,苦しみにあえぎ征服された 「しかし,地球が初めの状態に回復されるとすれば,この 大きな分離が起こったペレグの時代以前のように全地は再 も同然のユダヤ人に対してである。その運命の日,数か国 から成る敵の軍隊が都を破壊し,戦争の恐怖にエルサレム び一つとなるであろう。ヨーロッパ,アフリカ,それにオ ーストラリア,ニュージーランド,そのほか太平洋の島々 の人々が震えているとき,主はオリブ山にお立ちになる。 を含む海の島々は,初めの姿と同じように戻されて一つに 主が触れると,山は引き裂かれ,崩れる。天軍を従えてっ て来られる主は,異邦人の連合軍を打ち負かして滅ぼした つながるに違いない。 」(Answers to Gospel Questions『福音 の質疑応答』5:74) 後に,御自身を長い間民が待ち望んでいた力強い解放者, 征服者として礼拝する人々に御姿を現される。彼らの心は 大陸が一つであった時代について科学者たちは長年にわ たって考察してきたが,1950年代の後半まで,ほとんどの 愛と感謝,畏敬,賛美の念で満たされるが,解放者は彼ら 著名な科学者はその理論に懐疑的であった。やがて国際地 に十字架につけられたときのしるしを見せ,御自身が,彼 らがあしざまに言い,彼らの先祖が十字架につけたナザレ 球観測年が提唱され,世界中から様々な分野の科学者が集 まって,地球に関する研究を行った。その結果,科学者の のイエスであることを示される。こうして彼らの心から不 信の念が離れ,一部のイスラエル人を『かたくな』にして 見解に一大変化がもたらされた。『サイエンティフィッ ク・アメリカン』 (The Scientific American)から発行された いたものが取り除かれる。そして『罪と汚れとを清める一 大陸移動に関する本の序論で,ある科学者はこの一大変化 つの泉が,ダビデの家とエルサレムの住民とのために開か ゆる れる。』彼らは罪の赦しのためのバプテスマを受け,聖霊 について次のように記している。 「以前,ほとんどの科学者は,地球の形体が一定で大陸 の賜物を受けるであろう。またシオンの中に確立された神 の政府が,彼らの間にも設けられ,それはもはや永遠に打 は不動であると考えていた。しかし現在では,地球の表面 はゆっくりと変形するものとして,また大陸は密度の高い ち倒されることがないであろう。 主の大いなる無上の再臨はこれら二つの出来事の次に起 岩塊の『海』に浮かんだ『いかだ』のようなものとして捕 らえられている。大陸は衝突と結合を繰り返し,崩壊を繰 こるものである。しかし,死すべき肉体を持つ者の言葉で り返して様々な形に分かれ,恐らくその過程において,次 だれがそのことを語れようか。主が来臨され,神を畏れな ふくしゅう い者たちに復 讐 を遂げ,そして全地の王として君臨され 第に大きくなっていったのであろう。 この科学的な改革は,それ以前のものと同じように長い るときのその崇高かつ荘厳なさまを想像し,その思いに没 頭するとき,語る者の舌はもつれ,書く者のペンは手から 歴史を持つものであるが,実際に日の目を見始めたのは 1960年代の後半であった。そして1971年8月に開かれた地 落ちる。 」(“The Second Advent” Millennial Star「再臨」『ミ 球物理学者の世界会議で,わずか数年前には異説とされて レニアルスター』1859年9月10日,pp.582−583) ほかの啓示によれば,シオンの聖徒はキリストのおもだ いた大陸移動論が賛成多数で正説として支持されたのであ る。」(Continents Adrift『大陸移動』序論) った訪れを2度受ける。すなわち,そこに建てられた神殿 が嘉納されるときと,アダム・オンダイ・アーマンの地で 科学者は地が分かれた時期を,『聖書』の記述よりもは るか昔に置いているが,大陸が一つであったという説は広 評議会が開かれるときである(教義と聖約116:1の「注 く受け入れられている。『教義と聖約』のこの啓示は,将 解」参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 来いつの日か,大陸が再び一つになることを明らかにして いるのである。 教義と聖約133:23−24 再び大陸が一つになるか 創世記は,地球の初期の時代には大陸が一つであったこ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:26−34 イスラエルの行方の知れな とを示している。モーセの記録によれば,セムの5代目の 子孫は「彼の世に地が分れたから」(欽定訳創世10:25) い十部族について聖徒は何を知っているか ブルース・R・マッコンキー長老は,十部族の歴史と行 ペレグと名付けられた。ペレグはヘブライ語で「分離」を く末を次のようにまとめている。 意味する。多くの聖書学者は文化や政治的な分離と解釈し ているが,現代の預言者はこの言葉が文字どおりの意味で 「シャルマネセルはイスラエル王国を侵略したとき(紀 元前721年ごろ) ,王国に住む十部族を捕虜にしてアッシリ あると教えている。 教会初期の時代に,預言者ジョセフ・スミスの指示の下 ヤに連れ去った。十部族はそこから北方の地へ連れて行か れ,その後消息が絶えたので,行方の知れない部族と呼ば に出版された機関誌に,次のように記されている。「永遠 れるようになった(1ニーファイ22:4参照)。わたしたち の神はこう宣言された。大いなる深みが北の地方へ退き, ペレグの時代に地が分かれる以前のように,シオンの地と は北の地方に連れて行かれた十部族の一部が今どこで何を 。 しているのか,まったく知らない( 『概要』p.88) エルサレムの地が一つになる。終わりの日のとどろきに驚 嘆するのも不思議でない。」(“The Last Days” Evening and 聖書外典の著者エズラは,十部族がアッシリヤから脱出 したことを次のように記している。『これらはヨシア王の 『イブニング・アンド・モーニ Morning Star「終わりの時」 時代に捕えられ,その領土から連れ出された〔十の〕支族 い けい たまもの おそ 363 である。アッシリア王シャルマネセルがこれを捕虜として 老は次のように預言した。 連れて行き,河の向うへ移した。こうして彼等は異国に連 れて行かれた。しかし彼等は異邦人の群を離れ,かつて人 『この各部族は必ず来る。彼らは主にとって失われたの ではない。彼らはすでに預言されているように必ず連れ出 のやからが住んだことのない更に遠い地方へ行こうと相談 される。さればわたしはあなたがたに言う,主がすでに預 した。それは自分の国では守っていなかった律法をそこで 守るためであった。こうして彼等はエウフラテス河の狭い 言したもうたとおりにユダヤ人の記録すなわち『聖書』, およびニーファイ人の記録すなわち『モルモン書』と一つ 径を通って入って行った。その時至高者は彼等に対して奇 跡を行い,彼等が渡るまで河の流れを止められた。道程は にされる失われた十部族の記録を生きて読む人たちが現在 しか 世の中に住んでいる。然りこの場にもその中の幾らかがい その地方を通って一年半の遠さであった。その地域はアル ツァレトと呼ばれる。それから彼等はそこに終りの時まで るのである。また人間にとって失われたがなお再び見いだ される各部族がもたらす記録は,このアメリカ大陸で復活 住んでいた。そして今や再び帰り始めたのである。もう一 したキリストがニーファイ人に現れてから彼らを訪れたも 度至高者は彼等が渡る事ができるように河の流れを止めら れた。』(聖書外典第2エズラ書13:40−47,教文館『聖書 う た こ と を 語 る に 違 い な い 。』(『 信 仰 箇 条 の 研 究 』 pp.698−699) 」(『モルモンの教義』pp.455−458) 外典偽典5』pp.313−314) この点について,ジョージ・レイノルズ長老は次のよう 行方の知れない十部族にかかわるヨハネの役割について は,教義と聖約7:3−6の「注解」を参照する。 に記している。…… ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 『エズラが述べているように,捕囚の地メデアから厳寒 の北方の地へ1年半の長旅をする間に,背教したイスラエ 教義と聖約133:27 大いなる深みのただ中に設けられ る一つの大路とは何か ルの民が反抗し,主流派から離れて神を忘れ,次第に異邦 人の中に交じっていき,地のすべての国々に約束された子 この節の「大いなる深み」が大洋または水域を意味する ことは,旧約の預言者イザヤの言葉から証明できる(イザ 孫をもたらすパン種になった。これはまったくありそうも ヤ51:10;創世7:11参照)。 ないことだろうか。『モルモン書』の中には,同じイスラ エルの家から出た一家族が,わがままで,神の前に心をか 行方の知れない十部族がシオンに来るために,どのよう にして大いなる深みのただ中に大路が設けられるのかは, たくなにし,内部紛争や家族の不和を招いたことが記され ている。こうした実例は,大勢のイスラエルの民が北へ向 まだ主によって明らかにされていない。しかし,モーセが 紅海を渡った物語と比較すると興味深い。背後からパロの かって単調な旅を続ける間,そこで起こったであろう出来 軍勢に追われ,行く手を紅海に阻まれ,イスラエルの民は 事の縮図ではないだろうか。』(Are We of Israel『わたした ちはイスラエルの民』pp.10−11) 窮地に立った。そのとき,偉大な奇跡が起こった。深みの ただ中に大路が現れ,イスラエルの民は乾いた地を渡った 行方の知れない十部族も,主にとっては行方知れずでは ない。彼らの北方への旅では,預言者と霊感を受けた指導 のである(出エジプト14章;イザヤ11:15−16参照) 。 主がどのようにして十部族をシオンに連れて来られるか 者によって導かれた。彼らはモーセやリーハイのような人 物を擁し,啓示の霊によって導かれ,モーセの律法を守り, は明確にされていないが,主がそれを行われることは確か である。 何世代も前に主から与えられたと裁決をそのまま実施し, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ それから数百年たっても特異な民として存在していた。な ぜなら,復活した主はアメリカ大陸でニーファイ人を教え 教義と聖約133:35 られるか た後に,彼らを訪れて教え導かれたからである(3ニーフ ァイ16:1−4;17:4)。主は明らかに,エルサレムやアメ 教義と聖約45:48−53の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ リカ大陸で御自身に従う人々に教えられたのと同じ真理 教義と聖約133:46−51 を,同じ方法で教えられた。そして彼らは主の教えを記録 した。こうして,『聖書』や『モルモン書』に匹敵する聖 いのはなぜか 教義と聖約第133章の50節から52節に説明されているよ 典が作成されたのである(2ニーファイ29:12−14参照)。 やがて行方の知れない十部族は北の地方から戻り,エフ うに,主は裁きの酒ぶねを踏む御方である。この主の役割 と赤い衣の関係について,ラドローは次のように述べてい ライムの子孫のもとへ来て祝福を受けるであろう。この大 る。「昔,ある地方の人々は,醸造用の大たる(酒ぶね) いなる集合は,末日聖徒イエス・キリスト教会の大管長の 指示の下に行われるであろう。大管長が集合に関するもろ にぶどうを入れ,上から足で踏みつけてぶどう汁を絞り出 していた。当然,『酒ぶねを踏む者』の服は,ぶどうの汁 もろの鍵を所有しているからである。……鍵とは管理の権 限であり,指示を与える力である。この力によって,行方 がはね返ってすぐに汚れ,同じ色に染まっていく。終わり の日に救い主が降臨されるとき,その衣は『酒ぶねを踏む の知れない十部族は彼らの『預言者たち』とともに,また 彼らの聖典を携えて帰還し,『シオンにおいて……エフラ 者』の衣(教義と聖約133:48)のように赤く,『わたしは 独りで酒ぶねを踏み』 (教義と聖約133:50)と宣言する主 イムの子らの手により栄光を冠として与えられるであろ の声が聞こえるであろう。」(Companion『必携』1:678) う。』(教義と聖約133:26−35) 1916年10月の総大会で,ジェームズ・E・タルメージ長 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に述べている。「イザヤはこの大いなる日に,主が深紅の みち 364 ユダの部族はどのようにして聖め 再臨のときの主の装いが赤 第133章 衣を着て栄光のうちに来られ,不信仰な者に報復されると 教義と聖約133:54−55 説明している(イザヤ63:1−6)。それは,邪悪な者にと って嘆きの日であるが,主の戒めを守る者にとっては喜び だれが復活したか 「そのとき,キリストが死者の中からよみがえられただ の日である。これを単なる的な表現と考えてはならない。 さかずき わたしたちが生きていることが確かなように,『罪悪の杯 けでなく,キリスト以前に死んで,主とともによみがえる 特権を得た義人の男女も墓からよみがえった。わたしは, が満ちるときに』 (教義と聖約101:11)憤りの日は必ず来 るのである。 わたしたちは非常に多くの警告を受けてきた。 その復活がすべての人に及ぶものであったとは思わない。 復活できたのは,地上にいる間に神の王国のために何でも やがて福千年という大いなる日が来て, 悪が焼き尽くされ, 進んで行ったことを自ら証明し,神の目的を成就するため 平和と義が千年間地の全面にあるのである。」(Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代の啓示』1: に,財産や名誉,そして命さえも惜しまなかった人々だけ であろう。わたしはそう信じている。」(アンソン・H・ラ 191−192) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ンド『大会報告』1904年4月,p.6) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:49 教義と聖約133:56 神の光栄はいかに大いなるか 救い主が復活されたときに 聖徒たちの墓が開かれる 主は再臨されるとき,完全な栄光をもって来られる。 「主の前の栄光」が何を意味するかについては,人間の言 ジェームズ・E・タルメージ長老は,この偉大な出来事 について次のように述べている。「キリストが栄光を備え 葉をいかに駆使しても,人が理解できるように説明するこ とはできない。しかし聖典には,主の再臨のときに神の完 て来りたもうときに,多くの墓はその中から死人を出し, それまで眠っていた義人たちはまだ死なない多くの正しい 全な栄光が地とそこに住む人々に及ぼす影響について説明 者たちとともに取り上げられて主に会うに違いないという されている。 1.主の前に山々が崩れ落ちる(教義と聖約133:40, ことは,特にはっきり断言してある。〔1テサロニケ4: 14−16参照〕」(『信仰箇条の研究』p.509) 44;ミカ1:4参照)。 2.地上の水が沸き立つ(教義と聖約133:41参照) 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:57−60 世の人々が「弱い者」と見 3.すべての国民が主の前でおののく(教義と聖約133: 42参照) 。 なす人々を通して福音が宣べ伝えられる 教義と聖約1:17−20,23の「注解」を参照する。 4.太陽が隠れ,月がその光を失い,もろもろの星がその ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 座から落ちる(教義と聖約133:49参照)。 5.悪人は来臨の輝きによって,すなわち主の栄光の炎に 教義と聖約133:59 もろもろの国民を打つ 「〔もろもろの国民を打つという〕この表現は,ハバクク よって焼き尽くされる(マラキ4:1−3;2テサロニケ 2:8参照)。 3:12にも見られる。古代における脱穀は,脱穀場に広げ た穀物を踏みつけて行った。福音を携えた使者が国々の中 を進んでいく様子は,堅い床の上に置かれた麦穂の束を踏 みつけるようなものである。貴重な穀粒は注意深く集めら れ,わらはそのまま残されるのである。 」(スミス,ショダ ール共著『注解』p.186) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:63−74 「主の声に聞き従わない者」 はどのような報いを受けるか 邪悪な人々が自分の愚かさを知り,神の裁きが彼らに下 される日がやって来る。 モロナイの次の言葉は真実である。 「愚か者はあざけるが,後に嘆き悲しむ。 」(エテル12:26) 主は,不義な者が義人の受け継ぎに加わることをお許しに ならない(教義と聖約1:14;63:54;1ニーファイ14: 7;22:15−21;使徒3:22−23;ジョセフ・スミス−歴史 1:40参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:64 う意味か 「根も枝も残さない」とはどうい 「この言葉は次のことを意味している。イエス・キリス トの福音を拒む邪悪で冷淡な人は,家族の受け継ぎ,すな わち族長制度における血統を失い,根(先祖)も枝(子供 や子孫)も持てなくなる。そのような人は,復活した後に 日の栄えの王国に入る者とは認められず,それよりも劣る 栄光の雲のうちに再臨される 祝福に甘んじなければならない。 」(セオドア・M・バート 365 ン『大会報告』1967年10月,p.81) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約133:65−74 あるが,神はしばしばその業をあいまいにせずに明るみに 出そうとしておられる。主御自身がそう言っておられる (教義と聖約1:30参照)。キリスト教はローマからガリラ 教義と聖約133:65−74の内容と類似する聖句が,以下 に見られる。イザヤ8:16;50:2−3;2ニーファイ28: ヤへ広まったのではない。その逆である。また,現代の道 はパリからパルマイラではなく,パルマイラからパリに続 32;教義と聖約1:8−9;19:5;マタイ8:12。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いている。何かが今わたしたちの中にあるからといって, わたしたちがずっとその何かの中にいたということにはな 教義と聖約133:71 らない。毎日美術館や画廊のそばを車で通っていても,内 なぜ預言者が拒まれるか スペンサー・W・キンボール大管長は,人々が預言者を 拒む様々な理由について次のように述べている。 部については何も知ることができない。 預言者を個人的によく知っている人が預言者を拒む理由 「過去にこれら神の使者たちを追放しようとして様々な 口実が用いられた。出身地が名もない土地だからといって として挙げるのに,彼がだれそれの息子あるいは隣人だか らというのがある。預言者は人々の中から選ばれるのであ 拒まれたこともある。『ナザレから,なんのよいものが出 って,どこか別の惑星から送られてくるといった夢のよう ようか。 』(ヨハネ1:46)イエス御自身,『この人は大工の 子ではないか』(マタイ13:55)と言われたことがある。 な出来事ではない。…… 聖なる預言者たちが拒まれるのはもちろん民の心がかた 聖なる預言者を拒否するいちばん手っ取り早い方法は,た とえ偽りであっても何らかの手段を用いて,人物そのもの くななせいであるが,民はその社会によって形成されるの である。しかも,かたくなになるのが急なときでさえも, を抹殺して口を封じる口実を見つけることである。 過去に, それに気づかないことがある。例えば,わずか20年前に, 能弁でなく,口が重い預言者たちは,無力と評価された。 …… 現代社会のおびただしい堕胎数を予知できた人がはたして いただろうか。悪魔の退廃した教えはどれもそうだが,堕 預言者の声を聴く者が,初めは預言者を侮り,そのため に預言者を受け入れようとしないことがある。しかし,そ 胎は肉欲の心を喜ばせる。 預言者たちは肉欲の心に衝撃を与える手段を備えてい の結果としてますます預言者を侮るようになってしまって いることに驚かされる。預言者を拒む理由として,ほかに る。聖なる預言者は厳しく,『だから言ったでしょう』と 言えるように人々に熱心に説いているのだと,間違って受 これ以上のものが考えられるだろうか。世の煩いは実に多 け取られている。しかし,わたしの知るかぎり,預言者た く,善良この上ない人々までがこの世のことに心を遣いす ぎて真理の道から離れてゆく。…… ちは最も愛情豊かな人々である。彼らの愛が深く,誠実で あるために,人の気に入られようとするよりもむしろ主の 時に人々は,世の誉れや世事に心を向けすぎて,最も大 切な教えを学ぶことができずにいる。明らかな真理が,大 をはっきりと告げようとするのである。思いやりがあるが ゆえに,無情とも思えることを言えるのである。わたしは して重要ではない人間の哲学のせいで拒否されることがあ 預言者たちが名声を求めなかったことを心から感謝してい る。これも預言者を拒むもう一つの理由である。 拒絶する口実は様々であるが,そこには確かな原因があ る。」(『大会報告』1978年4月,pp.115−116) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ り,それを無視することはできない。世の事柄に対する執 着や世の誉れ,過分に望むこと,これらはすべて,他の 教義と聖約133:73 不義な者は外のに出て行く くら ブルース・R・マッコンキー長老は,地獄である外の暗 人々を率いようとする少数の説得力ある人々により感化を 闇について次のように述べている。「これらの霊の心は完 及ぼされて民の間に広がるものである。…… 聖なる預言者たちは世の間違ったすう勢に従うことを拒 全に暗闇で覆われており,良心は福音の光から完全に閉ざ されているので,彼らは救いの計画についてほとんど,あ んだばかりでなく,その誤りを指摘した。したがって, 人々が預言者たちに必ずしも無関心でいられなかったこと るいはまったく知らず,救いをもたらすキリストの恵みに より進歩成長しようという望みをまず抱いていない。地獄 もうなずける。こうして,自分の住む社会の悪弊を否定し たために人々から拒まれた預言者たちは多い。 は文字どおり外の暗闇であり,暗闇は光を憎み,真理を葬 り , 罪 悪 に ふ け る の で あ る 。」(『 モ ル モ ン の 教 義 』 民は実にたわいない口実で預言者を拒んでいる。物事を あいまいにせず筋を通そうとするときには苦難が付き物で 366 やみ pp.551−552) 第134章 この世の政府と法律 歴史的背景 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 預言者ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示の編集 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約134:1 「政府は人間のために神によって が終わり,それを『教義と聖約』の初版として出版するこ とを正式に承認するため,1935年8月17日にオハイオ州カ 設けられた」 政府という原則は主によって与えられたものであるが, ートランドで末日聖徒イエス・キリスト教会の総会が開か 主がすべての政府を設けられたわけではない。スミスとシ れた。神権定員会に続いて,会衆も全員一致でそれらの啓 示を受け入れた。「ウィリアム・W・フェルプス長老が立 ョダールは次のように述べている。「主は初めに,政府の 完全な形態をアダムに明らかにされた。これは『人間のた ち上がって,オリバー・カウドリによって作成された結婚 に関する所信を読み上げた。そして,編集された啓示と一 めに神によって設けられた。』しかしわたしたちは,すべ ての政府が,すなわち人間の定めた政府が『神によって設 緒にこれも出版されることが可決された。次にオリバー・ けられた』とは信じていない。もちろん主はすべての政府 カウドリが立ち上がって,『政府と法律全般に関する所信』 を読み,これも啓示の書に加えられることが可決された。 を支配する力は持っておられる。主がアダムとともに主の 政府を設立し,正しい原則を子孫に教えるように命じられ いずれの所信も,教会に与えられた啓示ではない。 」(スミ ス,Church History and Modern Revelation『教会歴史と近代 てから,人々がそれに背いて離れて行くまで,長い年月は かからなかった〔モーセ5:12−13参照〕 。 の啓示』2:30) このとき以来,統治権は人間によって不当に行使され, こんにち 政府に関する所信は,信条の声明として,また敵から聖 はん ばく 徒に加えられた非難に対する反 駁 として,『教義と聖約』 ごくわずかな例外を除き,今日まで地上の政府は人間の政 しもべ 府であった。そして啓示による主の導きと主の僕に授けら の初版に挿入された。 「『政府と法律全般に関する所信』が 出された理由は,ミズーリやそのほかの場所において,末 れる権能は無視されてきた。やがて,主が権威をもって降 臨し,人間の政府をすべて廃し,王の王,主の主として正 しんらつ 日聖徒が法律や秩序を乱していると,辛辣な敵から非難さ 当な座に着かれる日が来る。その日は間近である。」(『注 れていたからである。聖徒たちは,国の法律に背く独自の 法律を定めたと言われていた。」(『教会歴史と近代の啓示』 解』pp.852−853) なぜ主は悪い政府にも従うように求めておられるのかと 2:30−31) この所信の声明は,1835年に提議されて以来,『教義と 疑問に思う人がいるかもしれないが,悪い政府であっても 無政府状態よりはよいのである。1881年4月の大会で,エ 聖約』に収められてきた。それが読まれて採択されたとき, 「預言者ジョセフ・スミスと彼の第二副管長であるフレデ ラスタス・スノー長老はその理由を次のように説明してい る。「無政府状態は,いかなる政府も存在しない状態で, リック・G・ウィリアムズはカナダで伝道の旅を続けてい 秩序の反対であり,混乱の極致であり,自由奔放の結果で て,カートランドに帰ったのは大会1週間後の日曜日,8月 23日のことであった。総会においてこの政府に関する規約 あり,真の自由の反対である。使徒パウロの次の言葉は真 実である。『なぜなら,神によらない権威はなく,おおよ と,同じくオリバー・カウドリ作成による結婚についての 規約を『教義と聖約』の一部として出版することが採択さ そ存在している権威は,すべて神によって立てられたもの だからである。』(ローマ13:1)この言葉にだれでも最初 れたが,預言者はこの決定を了承し,実行に移すことが許 は驚く。ロシア皇帝〔ツァー〕のように一人の君主による 可された。 ここで注意しなければならないのは,議事録にも,また 独占,ヨーロッパ各地に見られた貴族階級による独占,あ るいは共和制の弱点や時には愚行などでさえ,無政府状態 この政府に関する規約の序文にも見られることであるが, この宣言は教会の役員の所信すなわち『見解』として受け に比べれば,はるかによいのである。この理由から,使徒 パウロが言っているように,『権威は,すべて神によって 入れられたものであって,啓示ではないということである。 立てられた』のであるが,それが民にとって常に最良の政 したがって教会の教義として啓示と同等の位置を占めるこ とはない。」(スミス,ショダール共著,Commentary『注 府とはかぎらないし,人々に必ずしも自由を与えるわけで もない。しかし,いかなる形の政府であれ,無政府状態よ 解』p.852) りはよいのである。なぜなら,政府というものは,人間の 性癖である欲望を抑制し,多かれ少なかれ,秩序を築いて 維持する傾向があるからである。一人による独占は,多く の人による独占よりもましである。一人の王による圧政は 我慢できても,暴徒による圧政は我慢できない。そこでは, 367 一人一人が欲するままに,自分の考えを最善のものとして 教義と聖約134:3 行動し,自分の思いを遂げるために権力を使う。これは最 悪の政府の状態である。」(Journal of Discourses『説教集』 者」 教会の多くの指導者は,教会員が正しい為政者を選ぶこ 「公平かつ公正に法律を施行する 22:151) との重要性について語ってきた。1928年1月に大管長会は, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約134:1 神は人々に,法律を制定し,施行 社会の立派な指導者を選んで支持するという聖徒の責任に 関して一つの声明を出した。その声明を10月の総大会で, する責任を負わせられる 預言者ジョセフ・スミスは,責任と裁きが個人と同様に アンソニー・W・アイビンズ副管長が引用している。「社 会を守るために制定される法律は,公平と正義とをもって 政府にも当てはまると述べている。「わたしたちは偉大な エホバの知恵と英知に疑いを持つ必要はない。エホバがす 施行されないかぎり何の価値もありません。また不正直な 人が行政上の役職を占めるならば,公平と正義を望むこと べての国民に裁きもしくは憐れみを与えられるのは,彼ら はできないでしょう。 の功徳,英知を得る手段,支配を受けている律法,正しい 情報を得るために与えられている手段,それに人類家族に 主はこのように言われました。『邪悪な者が治めるとき, 民は嘆き悲しむ。』(教義と聖約98:9)賢明な人,善良な 関する計り知れない主の計画に従ってそうされるのであ る。」(History of the Church『教会歴史』4:596) 人,愛国心のある人,そのような人物をあらゆる地域社会, 政党,宗派の中から見いだす必要があります。こうした特 あわ ジョン・テーラー大管長は,さらにこう述べている。 「すべての人があらゆる言葉と隠れた行いについて裁きを 受けるとすれば,公人の公的な行いが神と聖なる神権の前 質を備えていない人を選んではなりません。…… 国民に利益をもたらす法律が正しく施行されなければ, まんえん 文明の基盤は崩れ,無秩序が蔓延し,腐敗と崩壊がそれに で審理されないことがあろうか。 」(『説教集』20:42−43) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 続きます。 わたしたちは,全世界の末日聖徒イエス・キリスト教会 教義と聖約134:2 の会員に対し,神の律法を尊重し,国の法律を守り支持す 政府と人の選択の自由 十二使徒定員会のジョン・A・ウイッツォー長老は,人 の選択の自由を守る際に政府の機能が重要であると述べて るように訴えます。また,宗教,団体,人種,あるいは社 会的地位を問わず,全世界のあらゆる善良な方々に訴えま いる。「わたしたちは,政府が神によって設けられ(教義 と聖約134:1;58:21),個人の自由が必要である(134: す。大解放者リンカーンの言葉を実現するために,すなわ ち,いつまでもわたしたちの国が世の光となり,わたした 2)と信じている。選択の権利を人から奪う法律は,決し ちが誠実で法律を遵守し,神を畏れる国民になれるように, て承認してはならない。選択の自由は,人間の行いに関す る律法として根本的なものである。人には法律に従うか否 ともに手を携えて努力しようではありませんか。」(『大会 報告』1928年10月,p.16) かを自分で決め,その報いを受ける権利がある。これはす べての末日聖徒の考えの根本である。」(Message of the エズラ・タフト・ベンソン会長は,聖徒たちが政治にお ける見解や指導者の適否を判断できるように,4つの大切 Doctrine and Covenants『教義と聖約のメッセージ』p.154) デビッド・O・マッケイ長老は次のように語っている。 な指針を与えている。 けん そん 「わたしたちは謙遜で勇気のあるふさわしい指導者を求 おそ 「理想的な政府は,正義と社会福祉の実施,そして国民の めるだけでなく,次の4つの基準に照らして,国や地元の 繁栄の促進を目的にしている。」(Conference Report『大会 報告』1930年4月,p.80) 福利にかかわるあらゆる提案を吟味しなければならない。 第1に,その提案や政策,あるいは見解は,イエス・キ さらにマッケイ長老は,「財産を所有する権利が人間の 自由に不可欠であることを理解しなければならない」と述 リストの福音に照らして正しいであろうか。…… 第2に, 立憲政治に関する主の標準に照らして正しいであろうか。 べ,ユタ州出身の合衆国最高裁判所判事ジョージ・サザラ ……主の標準は,間違いのない指針である。 ンドの次の言葉を引用している。 「『それは,財産が保護さ れる権利ではなく,財産を所有し保護する権利である。財 第3に……神託を受ける者の勧告に照らして正しいであ ろうか。…… 産は本質的に権利というものを持たない。しかし,個々の 人間には,根拠のない妨害によって侵すべからざる3つの 第4に,それが採用された場合,人々の道徳や品性にど のような影響を与えるであろうか。」(Our Prophets and 大切な権利がある。すなわち,各自の生命を守る権利,自 Principles『わたしたちの預言者と原則』pp.69−70) 由を守る権利,そして財産を守る権利である。これらの権 利はきわめて密接な関係にあるため,根本的には一つの権 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約134:4,9 宗教と法律の関係 利と考えられる。生命を保障しても自由を奪うならば,人 間として生活する権利をすべて取り上げたことになる。た 人には自分の思うままに礼拝する自由がなければならな い。これは教会の明確な教えである。ヒーバー・J・グラ とえ自由を認めても,自由の象徴である財産を奪い取るな らば,人を隷属の状態に置くことになる。 』(ニューヨーク ント大管長は次のように述べている。 「預言者ジョセフ・スミスによって公表された基本的な 州弁護士会でのジョージ・サザランドの話より,1921年1 信仰箇条の一つに,こう記されている。 月21日)」(『大会報告』1962年10月,p.6) 『わたしたちは,自分の良心の命じるとおりに全能の神 を礼拝する特権があると主張し,またすべての人に同じ特 368 第134章 支えるのである。 」(『大会報告』1937年4月,p.28) 神から与えられた律法に従うことが,国の法律を破るこ とになる場合があるかもしれない。ジェームズ・E・タル メージ長老は次のように述べている。 「『神から啓示された言葉による要求と,俗世の律法によ って課せられた要求との間に衝突が起る場合に,教会の会 員はこの二つの権威の中のいずれに従う義務があるか』と いう意味の質問を, 度々教会や個々の教会員は受けている。 その答えにキリストの仰せになった言葉を取って用いても 差し支えなかろう。すなわち民の義務は,カイザルのもの はカイザルに返し神のものは神に返すことである。現在, 俗世の事柄に直接自ら権能を行使して統治する王を頂く地 公正で賢明な人を選ぶ 上権力としての天の王国は,まだ地球上に確立されていな 権を認める。彼らがどのように,どこで,何を礼拝しよう い。このようなものとしての教会の各支部およびその支部 を成している会員たちは,教会組織が存在している各政府 と,わたしたちはそれを妨げない。』 わたしたちは断固として主張するが,いかなる権利や権 力があっても,ほかの人を妨げることはできないのであ の領土内にあってその政府に従うべきものである。比較的 文化と自由の行われている今日,私人の礼拝と個人の信仰 に直接干渉が行われることを期待する理由はほとんどな る。」(『大会報告』1921年4月,p.203) ジョン・A・ウイッツォー長老によれば,預言者ジョセ い。あらゆる文明国では民に祈りの権利が与えられ,この 権利は正しくは人類共通の法律と呼んでもよいものによっ フ・スミスは次のように主張していた。「正しい政府はす て保証されている。心のまじめな人はその神と交わる道を 断ち切られることはない。このような自由な交通の径路に べての国民に対し,良心に従って行動する自由を保証しな ければならない。信仰や宗教の実践にかかわる事柄は,公 益のために定められた法律に反しないかぎり,妨害すべき ではない。また,宗教の影響力と公の政治とを混同しては よって,煩わしい法律からの救済と痛苦に対する補償とは 万国の民を支配する権力から求めることができよう。」 (『信仰箇条の研究』pp.554−555) ならない。 」(Joseph Smith『ジョセフ・スミス』p.215) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約134:5 「自分が住む地のそれぞれの政府 教義と聖約134:5−6 を支持し,支える義務を負う」 信仰箇条第12節には,次のようにうたわれている。「わ 「治安妨害や暴動は……似つか わしくなく」 N・エルドン・タナー副管長は,不当な法律にどう対処 するかという質問に関して次のように述べている。 たしたちは,王,大統領,統治者,長官に従うべきこと, 法律を守り,尊び,支えるべきことを信じる。」 「行政機関を通過した法令の合法性に,それが国の最高 法廷で立証された場合でさえも,疑いを挟む人々が大勢い デビッド・O・マッケイ大管長は次のように述べてい る。このような人々は,その法律を無視し,また法律に違 反することを意に介しないのである。 る。「信仰箇条第12節に使われている3つの言葉は,法律に 対する教会員の態度を表している。その言葉とは, 『守り, かつてエーブラハム・リンカーンは次のように述べた。 尊び,支える』である。第12節は『法律に服従するよう に』とは言われていない。従順は,単なる服従よりも高い 『人のためにならない法律があるならば,できるだけ速や かにそれを廃止すべきである。しかし,まだ効力を持つ間 次元の態度を意味する。なぜなら,従順は善意に根ざして は厳密に守るべきである。』 これは,法律の遵守に関する当教会の態度でもある。… いるが,服従は利己心や悪意にその源があるからである。 従順と服従はどちらも,自分の意思を抑制することを意味 するが,従順になるのは,そうする権利があるからであり, 服従するのは,そうせざるを得ないからである。 尊ぶとは,自分よりも相手を尊重する行いや態度を意味 する。これを事物に適用すると,大事に扱うということに なる。したがって,法律を尊ぶとは,法律を利己的な欲求 や楽しみよりも尊重すべきものと見なすことである。 支えるとは, 倒れないように支持するという意味である。 … 法律に対する無視,違反,あるいは自分勝手な解釈につ いては,何らの正当化も,言い訳もできない。…… いかなる国民も,それぞれに責任があり,住んでいる国 の法律の範囲内で行動しなければならないということを, 常に心に留めておく必要がある。」(『大会報告』1975年10 月,pp.126) ジョセフ・フィールディング・スミス大管長も,反乱や したがって,法律を支えるとは,その効力を弱めたり失わ せたりする言動を慎むことである。 暴動が聖徒に認められた方法ではないと教えている。「確 立された品位の秩序に背き,律法に対して従順でない教会 わたしたちはそうする権利があるから,法律を守る。 員は,いかなる人であろうとも良い状態にいるとして受け 入れられるものではない。律法に背きながら主とともに歩 社会における必要性とその効力のゆえに,法律を尊ぶ。 そして,法律に対する信頼を保つことによって,それを むことはできない。なぜなら主が次のように命じたもうた 369 からである。『それゆえ,治める権利を持つ者が治め,す p.63) べての敵をその足の下に従わせる……。 』(教義と聖約58: 22)そしてこのような日に主が来臨されるのである。」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (『大会報告』1971年4月,p.48) 教義と聖約134:9 政教分離 教会は,合衆国憲法に定められている政教分離の原則を この原則の唯一の例外は,主が預言者を通して,政府に 反対の立場をとるように指示された場合である。それ以外 支持する。大管長会(ジョセフ・F・スミス,ジョン・ R・ウインダー,アンソン・H・ランド)は,1907年に次 は,政府の確立された権威を認めるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ のような声明を発表した。 「末日聖徒イエス・キリスト教会は,政教分離の原則を 教義と聖約134:6−7 「人間の法律……天から与えら れた神の律法……人はその両方について造り主に対して責 支持する。教会は政治上の事柄に一切干渉せず,各会員は まったく自由に,また自主的に政治に関する義務を果たす 任を持つのである」 ことができる。…… ブリガム・ヤング大管長は次のように教えている。「主 はわたしたちのこの世での行いに対してわたしたちに責任 わたしたちは自ら信じる原則と方針から,以下のことを 宣言する。 を負わせられる。主はわたしたちの父祖アダムに対して, 自らの行いに責任を負わせられたが,わたしたちの置かれ 政治と宗教を完全に分離すること。 教会による政治支配を行わないこと。 ている立場から考えれば,わたしたちも同じ責任を負って 教会は行政に干渉しないこと。 いる。世の王たちは自らの王としての行いについて神に報 かしら 告しなければならないだろう。王は国の頭であり,統治者 国は教会の機能に干渉せず,信仰の自由を阻害しないこ と。 は領地の頭である。それと同じように,父親や夫は自らの 家を治める者であり,そのように行動をしなくてはならな 会員は政治上の事柄について,教会役員からの支配を受 けず完全に自由であること。 い。」(『教会歴史』4:309) 法律の前に,すべての教会が平等であること。 」(クラー ウィルフォード・ウッドラフ大管長はこう述べている。 「この国とすべての国の民は,大統領,王,皇帝,判事を ク,Messages of the First Presidency『大管長会のメッセー ジ』4:153) 含め,善人も悪人もすべての人が同じように,霊界へ行っ て神の法廷に立たなければならない。そして,現世で行っ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約134:10 「宗教団体は……その会員を処分 たことについて報告をしなければならない。」(Millennial する権利を持つ。ただし,その処分は会員としての資格と Star『ミレニアルスター』1890年11月24日,p.741) 統治者は,すべての人に自由意志の行使と神に対する責 身分に関してだけである」 ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように記してい 任の遂行とを認めるという自らの義務について,神に報告 しなければならない。ウィルフォード・ウッドラフ大管長 る。「教会のいかなる役職にある人も,教会に関する事柄 を越えたところで,その権限を行使することはできない。」 は,さらに次のように述べている。「神と交わる権利や特 権を国民に与えない王,皇帝,大統領は,御父御自身が授 (Priesthood and Church Government『神権と教会政体』p.62) 「教会は罪を犯した者に対し,会員資格を問うためにのみ けてくださったものを奪うのであるから,祝福を受けるこ 審理できる。それ以上の懲罰は,国の法廷にゆだねる。教 とはない。国民のこうした権利が奪われた場合,統治者は その責任を問われるのである。」(Deseret Weekly News『デ 会はその会員を,正会員資格もしくは破門に付すことがで きる。 」(『神権と教会政体』p.209) ゼ レ ト ・ ウ ィ ー ク リ ー ・ ニ ュ ー ズ 』 1890年 4月 19日 , p.561) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約134:11 「すべての人が自分自身……を… ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ …守ることは正当である」 教義と聖約134:8 「善良な法律に違反する者を処罰 することに進んでその力を使うべきである」 教義と聖約98:16−48の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジェームズ・E・タルメージ長老は次のように述べてい る。「さて主は,教会の会員が法に従って生活するように 教義と聖約134:12 ことは正しくない」 「奴隷に口出しをしたり……する 定められた。そして主は,教会に関する律法と,わたした 奴隷制度は悪であって人の基本的人権を侵す,というの ちがこの世の法律と呼ぶものの間に区別をつけておられる ものの,どちらにも従うように求めておられる。わたしに が教会の疑いのない立場である。しかし,預言者ジョセ フ・スミスは,奴隷制度が政府によって容認されている場 とってこの教会の兄弟を愛するということは……その兄弟 と正しい裁きとの間に割って入ることではない。この教会 合,既存の秩序を覆そうとするのは教会の取るべき立場で はない,と教えている。「長老たちの義務は次のとおりで には,主が憎むと言われた昔の秘密結社のような組織はな い。彼らは誓いによって結ばれ,互いの犯罪をかばい合い, ある。家に入って主人にあいさつをしたとき,主人から承 諾が得られれば,その家のすべての人に教えることができ 盗み,殺人,そのほかあらゆる汚れた行いを互いに正当化 る。しかし,承諾が得られなければ,奴隷や僕のところへ した。そのような組織はない。もしあるとすれば,それは 神のものではないのである。」(『大会報告』1920年10月, 行ってはならない。その責任はすべて主人の頭に帰すべき である。報いも同様である。そうすれば,その家の罪はも 370 こうべ はや長老の衣にはかかってこない。……主人から承諾が得 たちは,奴隷制の廃止を企む敵としてしばしば非難されて られた場合,長老はその家の家族,すなわち妻,子供たち, 使用人,奴隷を教えることができる。」(『教会歴史』2: いた。ミズーリ州は奴隷州として連邦軍に加わっていたの で,この疑惑はミズーリの民を激怒させた。教義と聖約 263) この声明は1834年に出されたが,当時のミズーリの聖徒 134:12は,聖徒に対する非難にこたえるものであった。 第135章 殉教者への賛辞 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 1844年6月25日,火曜日,ジョセフ・スミスとハイラ ーズの献身と意欲は,預言者ジョセフ・スミスの使命が真 実であることに対する確信と忠誠を証明して余りある。」 (スミス,ショダール共著,Commentary『注解』p.855。 『教会歴史』6:629−631および『賛美歌』16番「たたえ ム・スミスはイリノイ州の当局のもとに出頭し,反逆罪の かどで逮捕された。その日の朝,トーマス・フォード知事 よ,主の召したまいし」参照) は州兵を集めてこう語った。ジョセフとハイラムは「地域 社会の危険人物で,あらゆる有罪の申し立てがあったが, 注 解 それでも二人は法律の保護の下にいた。」(History of the 教義と聖約135:1 Church『教会歴史』6:563)ジョン・テーラーとウィラー ド・リチャーズは,ジョセフやハイラムとともにとどまる る必要があったか ハイラム・スミスの孫に当たるジョセフ・フィールディ ことを許され,彼らは二人の兄弟と一緒に監獄にいた。 26日,水曜日,フォード知事はジョセフ・スミスと会 ング・スミス大管長は,次のように説明している。 「預言者ジョセフ・スミスはハイラム・スミスに,預言 い,武装した暴徒は自分が集めたのではないことを言明し, 者自身とかつてオリバー・カウドリが持っていた神権のす かぎ べての鍵と権能とを授けた。主御自身もハイラム・スミス ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ハイラムは自らの血でを結び固め 囚人は間違いなく保護すると約束した(『教会歴史』6: 577−578参照)。 に,預言者,聖見者,啓示者,教会の大管長である弟のジ 27日,木曜日,フォード知事はノーブーへ行き,そこで 聖徒たちを厳しく非難する演説をし,州兵たちに剣を抜か ョセフとともにかつ十分な証人となるに必要な事柄をすべ とこ よ て啓示された。そして今も永世にもイエス・キリストの証 せて威嚇した。知事と州兵は,午後6時半ごろノーブーを たった。 人である弟ジョセフとともにこの神権時代の頭となるに必 要な事柄を啓示されたのである。 い かく かしら 知事と州兵がノーブーで聖徒たちを威嚇していたちょう このようにしてわたしたちは,ハイラム・スミスがジョ どその時刻に,預言者ジョセフと兄のハイラムはカーセー ジで殺された。午後5時ごろ,おもにカーセージ・グレー セフ・スミスとともに大管長になったことが分かる。これ は,もしもオリバー・カウドリが誉れある位から失墜しな という州兵から成る暴徒が,カーセージの監獄に押し寄せ て来た。ハイラム・スミスは顔を撃たれ,体にも数発の銃 かったならば,得ていた地位である。わたしは次のことを 固く信じている。もしオリバー・カウドリがジョセフ・ス 弾を受けて,「わたしは死ぬ」と叫びながら床に倒れた。 ミスとともに証人としての聖約と義務に忠実であり,その ジョン・テーラーも体に何発か銃弾を受け,ベッドの下に 転がり込んだ。ジョセフ・スミスは戸口の方から背中を撃 権威と地位を保ち続けていたならば,ハイラム・スミスで はなく彼が,ジョセフ・スミスとともにカーセージの監獄 たれ,外から胸を撃たれた。そして,窓から落ちて死んだ (『教会歴史』6:602−618参照)。 で殉教者となっていたであろうということである。 あかし 血を流すことによる証の結び固めは,預言者ジョセフ・ 十二使徒定員会会員のジョン・テーラーとウィラード・ スミス一人の死だけでは全うされなかった。ともにこの神 権時代の鍵を保持していたハイラム・スミスの死も必要だ リチャーズは,神の預言者の殉教の目撃者であり,それぞ れがこの事件について記述している。教義と聖約第135章 まっと ったのである。二人の殉教者は血によって証を結び固める に残されている記録は「ジョン・テーラー長老によって書 かれたものである。彼はイリノイ州カーセージでのこの悲 ことが必要であった。それは彼らに『誉れが与えられ,悪 人が罪に定められる』ためであった。」(『救いの教義』1: 劇の場にあって,愛する兄弟たちとともに命をささげよう とした。テーラー長老の傷は深く,体の中に入った弾丸は 208。教義と聖約136:39;ヘブル9:16−17参照) 一生そのままであった。彼と彼の同僚ウィラード・リチャ 371 た。 救い主の指示の下にイエス・キリストの教会を再び地上 に組織した。 シオンの真の意味とそれが末日に建設される場所,また シオンを統治する律法を明らかにした。 100以上の啓示を受け, 『教義と聖約』として出版した。 『聖書』の改訳を行って,失われた部分を回復し,誤っ た翻訳を正した。 聖徒の定住地を建設し,霊的な原則に加えて,社会制度 や都市計画,経済などの原則を教えた。 生者と死者のための神殿儀式に関する鍵と知識を回復し た。 モーセ,エライアス,エリヤから回復の鍵を受けた。 数万人の宣教師が携わり,全世界で数百万人の改宗者を 生むに至った伝道プログラムを開始した。 アブラハムの書き物の一部を含むエジプトのパピルスを 神の霊感によって翻訳した。 ジョセフ・スミスは,何世紀もの間失われ,あるいは汚 ジョセフ・スミス(左)と兄ハイラム(右)のデスマスク 教義と聖約135:2 ウィラード・リチャーズが傷を負 されてきた多くの福音の原則と概念を,啓示によって主か ら受けた。そして,次のことを行った。 人と神の関係を説明した。 わなかったのはなぜか 「リチャーズ博士が無事脱出できたのは,奇跡的であっ アロン神権とメルキゼデク神権の違いを説明した。 様々な神権の職とその義務,神権者を組織する方法を説 た。彼は大柄なうえ,弾丸が雨のように降り注ぐ中にいた が,左の耳たぶの下を弾丸がかすっただけで,あとは無傷 明した。 イエス・キリストの教会の正しい組織,名称,目的を教 であった。彼の脱出は,ジョセフの1年前の預言を文字ど えた。 おり成就するものであった。その預言は,周囲を弾丸がの ように飛び交う時が来て,友人が彼の右と左に倒れるのを 人は自らの救いのために努力する試しの時期としてこの 世にいることを教えた。 目にするが,彼のガーメントには穴一つ空かない,という ものであった。」(『教会歴史』6:619) 3つの栄光の階級に関する知識と,神のもとで再び生活 するために備えなければならない事柄を啓示によって受け ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た。 復活の本質と順序について説明した。 教義と聖約135:3 ジョセフ・スミスはイエス以外の だれよりも,人類の救いに尽くした 地上で儀式を受けられなかった人々のために身代わりに 一部の人々はこの大胆な声明を採り上げ,末日聖徒はキ リストよりもジョセフ・スミスを高く評価しているといっ よって執行される特定の儀式が,救いに不可欠であること を教えた。 て教会を非難した。しかしそのような批判家は事実を無視 している。末日聖徒は,預言者ジョセフ・スミスがイエ シオンの建設に関する原則,福千年における状態,神の 王国とそれを最終的に地上に確立する方法を説明した。 ス・キリストとその使命に対する理解を深めるために貢献 背教とその原因について新たな知識を教えた。 したので,彼に敬意を表するのである。 アダム,モーセ,イザヤ,アブラハム,ニーファイなど, 様々な預言の成就を指摘した。 エリヤの訪れを宣言し,彼の使命を説明した。 偉大な預言者や指導者について考えてみると,ジョセフ・ スミスがほかのだれよりも人類の救いに尽くしたというの は,正当な表現だろうか。答えは,完全に「はい」である。 結婚は本来永遠のものであり,家族単位は墓を越えて続 くことを教えた。 生ける預言者の役割を身をもって示した。 いや 預言者ジョセフ・スミスは,義や献身において彼らほど偉 大でないかもしれない。しかし,預言者ジョセフ以上に人 主の名と聖なる神権の権能によって病人を癒す原則を回 復した。 類の救いに尽くしたのは,イエスだけである。そのことは, イエスの指示の下でジョセフが行った以下の事柄が証明し 主の指示に従って神殿を建設し,生者と死者のための神 殿儀式を民に教えた。 ている。 『モルモン書』 『教義と聖約』ならびに『高価な真珠』に 収められている記録を世に出した。 ジョセフは御父と御子の属性について正しい概念を教え た。 神の力によって『モルモン書』を翻訳し,出版した。 アロン神権とメルキゼデク神権を回復する仲立ちになっ 372 教会員の義務と教会を統治する律法を明らかにした。 会員の同意の教義を教えた。 福音の計画におけるサタンの役割を説明した。 この世で欺かれないための主の原則を聖徒たちに教え た。 しょく ざい あわ キリストの贖 罪 の本質について,また正義と憐 れみの 原則に対する贖罪の関係について教えた。 せいさん 聖餐の聖約の意味を説明した。 たまもの 霊的な賜物と聖霊の役割を説明した。 神の王国における女性の役割を明らかにした。 神権の誓詞と聖約に関する啓示を受けた。 主の計画において伝道活動が不可欠であることを強調し た。 主から知恵の言葉を受けた。 じゅうぶん 什 分の一の律法,財産の奉献と管理の職の律法,犠牲 と従順の律法を教えた。 これらの業績はいずれも主の指示の下に達成されたので あって,究極的に,称賛はすべて主に帰すべきである。し かしジョセフ・スミスは,これらのことを行うために主か ら選ばれた器であった。だからこそ,「ジョセフ・スミス は,ただイエスは別として,この世に生を受けた他のいか なる人よりも,この世の人々の救いのために多くのことを 成し遂げた」と言えるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約135:3 『モルモン書』は完全な永遠の福 音をどのように載せているか 教義と聖約20:9の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約135:5 遺言者とは何か。死後に遺言が効 力を持つには,何が必要か 遺言者とは, 遺言や証を残してこの世を去った人である。 遺言はその人が死んだ後に有効となり,遺言者が生きてい 「彼らは……死後も離れることはなかった」(教義と聖約135: 3) しなかったであろう。死によって,彼らの証は正当なもの となったのである。 る間は法的に何の効力もない。福音においては,神の聖約 主はブリガム・ヤングに与えられた啓示の中で,預言者 に関する証を人々に残す人を意味する。預言者ジョセフ・ スミスの遺言とは,神がジョセフを通じて結び固めの力を ジョセフが自らの血をもって自分の証を確実なものとする ことは必要であったと述べておられる(教義と聖約136: 現されたということである。この力によって「すべての聖 約や契約,きずな,義務,誓詞,誓言,履行,関係,交際」 39参照)。ジョセフ・フィールディング・スミス長老は, この結び固めが後に証拠として採用されると説明してい が有効となり,永遠の世においても効力があると認められ る。「自らの血を流すことによって不信仰な世に証を結び る(教義と聖約132:7)。遺言者は,死によって自身の証 に真理の封印をするのである。一部の人が言うように,も 固めた。この証は裁きの座において,永遠の命の御言葉を 拒んだすべての人に対する証拠として採用されるであろ しジョセフとハイラムが詐欺師であったならば,自分自身 の証を血によって結び固めるために進んで死を選んだりは 『インプル う。」(“The Martyrs” Improvement Era「殉教者」 ーブメント・エラ』1944年6月号,p.365) シオンの陣営の組織 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ イリノイ州カーセージで預言者ジョセフ・スミスが殉教 み こと ば 第136章 すると,教会を導く責任は,十二使徒定員会に移った。定 員会の会長は,先任使徒のブリガム・ヤングであった。殉 教を引き起こした敵対者からの攻撃は,預言者ジョセフ・ スミスの死によって収まることはなかった。聖徒たちは再 373 び暴徒に襲われ,平和が破られ,命が脅かされた。そこで い,使徒の評議会の指示の下に百人隊長,五十人隊長,十 ブリガム・ヤングは,預言者ジョセフが最初に立てた計画 を実行に移し,ある程度平和な生活ができるロッキー山脈 人隊長を置くように命じられている。」(Commentary『注 解』p.857) へと聖徒を導くことにした。1846年2月,十二使徒会の指 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 示の下に,聖徒たちはイリノイ州ノーブーを出発し,ミシ シッピ川を渡ってアイオワに入った。そこから西に進んで 教義と聖約136:4−11 聖徒は聖約によって歩む スミスとショダールは次のように説明している。「新た アイオワを横断する途中,後から来る人々のために野営地 を築いた。1846−47年の冬は,ウィンタークォーターズ な安住の地へ向かって旅をするとき,聖徒が聖約によって かんなん 歩むことは,艱難の日々においてどんなに大切なことだろ (現在のネブラスカ州フローレンス)で過ごした。ウィン タークォーターズで野営中に,ブリガム・ヤングは主から う。さらに,できるかぎり自分で用家畜,衣服,食糧など を用意することも大切であった。旅は困難なものだからで 啓示を受けた。 ある。中には,準備ができるまで後に残らなければならな B・H・ロバーツ長老は,この啓示が与えられたときの 状況を次のように説明している。 「荒れ野への旅を続行し, い者もいた。部隊の責任者は,出発できる人と,もう少し 適当な日を待った方がよい人を決めなければならなかっ 合衆国から脱出するための準備は,重大な仕事であり,お ろそかにはされなかった。この問題は管理者たちの多くの た。残る人々は,作物を植えて収穫の時期が来るまで待つ ことになった。各々の部隊は,全員のために等しい割合の 評議会で討議され,2,3人の聖徒が集まると必ず話題の中 荷物を負わなければならなかった。また,豊かに持ってい 心になった。ブリガム・ヤングはこの問題について思い巡 らし,やがて考えが明確になると,1847年1月14日にウィ る人は,慈愛と信仰精神により,貧しい人と分かち合う必 要があった。部隊の中には,未亡人や孤児,『モルモン大 ンタークォーターズで,『西部に向かって旅をしているイ スラエルの陣営に関する主の言葉と』を発表するように備 隊』に参加した人の妻や家族もいた。これらのことを行う ならば,主から祝福が注がれて,彼らは大小の家畜の群れ えられた。」(Comprehensive History of the Church『教会概 を得,失った畑を取り戻すであろう。」(『注解』pp.858− 史』3:154−155) 859) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約136:18−27 シオンはわれる スミスとショダールは次のように述べている。「教会の 教義と聖約136:1−3 イスラエルの陣営はどのように 会員たちは,希望を失ってはいないにしても,落胆してい 組織されたか スミスとショダールは次のように書いている。「ノーブ た。シオンが贖われなかったからである。一部の聖徒にと って,ロッキー山脈のどことも知れない地へ旅をすること ーを追われた聖徒たちは最大の試練に見舞われた。敵の略 奪に遭ったために,何も持たず着のみ着のままで逃げて来 は,明らかに信仰の試しであった。その地域について聞く ことは,どれも落胆を誘うものばかりで,シオンの贖われ たからである。したがって,ロッキー山脈に向かう彼らの 旅を導く啓示がどうしても必要であった。主はこの苦難の る時ははるかかなたに遠のいてしまったように思えた。し かし,勇気を奮い起こさなければならない。主はシオンを さなかで,彼らをお見捨てになることはなく,ブリガム・ お忘れになることはなく,主がふさわしいと思われるとき ヤング会長に啓示を下されたのである。内容は旅に関する 指針と,戒めを守るようにとの訓戒であった。そして,全 にシオンは必ず贖われるからである。したがって,教会員 にとって賢明なことは, 与えられた勧告に従うことであり, 教会員が部隊を編成すること,また試練のただ中にあって み たま も主の御霊の導きを受けられるように戒めを忠実に守るこ 他人の犠牲のうえにあぐらをかくようなことはしないこと である。これを守らなければ,報いを失うであろう。主は とが要求された。また部隊の編成は,カートランドからミ イスラエルの子らを導かれたように聖徒を導き,古代と同 ズーリへ見事な行軍をしたシオンの陣営の編制に準じて行 じように現代の主の民を心にかけてくださるのである。一 人一人が他人の権利と財産を尊重し,全員が『賢い管理人』 あがな になるべきである。」(『注解』p.860。教義と聖約103: 15−20の「注解」も参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約136:22 エルに匹敵するか 古代のイスラエルは現代のイスラ アンソニー・W・アイビンズ副管長は,聖徒の西部への 脱出と古代イスラエルの出エジプトとを比較し,それぞれ の類似点と相違点について説明した。そして,聖徒の西部 への移住は当時の人々にとって,古代イスラエルの出エジ プトよりも,偉大な業績であったことを指摘している。 聖徒は隊を組んで平原を横断し,西部へ移住した 374 「現代のモーセ〔ブリガム・ヤング〕と彼に従う人々は, 隣人との和解の望みが絶たれたことを悟り,何にもじゃま 第136章 されずに自由に主を礼拝できる地を見つけることを決意し て,西部へ向かった。そして,歴史上類を見ない旅の末に, 現在教会本部がある盆地に安住の地を見いだしたのであ る。 モーセがイスラエルの民をエジプトの奴隷の境遇から導 き出し,清教徒が旧世界を後にしてプリマスロックに上陸 したのは,事実である。 このような偉大な出来事に人々を駆り立てた思いはそれ ぞれに共通しており,世の人々にとって重大な意味を持つ ものであったが,それぞれの民の置かれていた状況はまっ たく異なっていた。 古代のイスラエルは,過酷で屈辱的な束縛から逃れて, 先祖の地である故郷へ帰って行った。現代のイスラエルは, 先祖の地である故郷を離れて,文明人の住んだことのない 未知の世界に向かった。 イスラエルの民は単一民族から成り,目的を達成する際 に,先祖から受け継いだ伝統と宗教により感化された。末 音楽が開拓者の弱った心をよみがえらせた ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日聖徒は,伝統も習慣も言語も異なる様々な国民が集合し 教義と聖約136:31 すべてのことにおいて試みを受ける 教義と聖約101:4−5と第122章の「注解」を参照する。 た民であった。 古代のイスラエルは,目的地まで直線距離にして約400 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約136:34−36 末日聖徒を迫害したために キロの位置にいて,その途中には,すでに巨大な軍隊によ って踏破された地域が横たわっていた。『モルモン』の開 合衆国は苦難を受けたか 拓者は,ほとんど前人未踏の地を1,600キロ以上も旅をし た。 古代のイスラエルは,主の力の偉大な現れによって導か れ,天からのマナによって日々の糧を与えられた。『モル モン』の開拓者は,神への信仰によって歩み,日々の生活 に必要なものを自分の手で賄わなければならなかった。 目的地に着いたとき,古代のイスラエルが見たものは, B・H・ロバーツ長老は,教義と聖約136:34−36の成 就をその後の出来事の中に見ている。ロバーツ長老は3ニ ーファイ16:10を引用した後に,異邦人が福音を拒んだ場 合に何が起こるかを警告された救い主の言葉について,次 のように述べている。 「見よ,これが合衆国国民の行ったことである。すなわ ち,末日聖徒イエス・キリスト教会とその会員を国外に追 すでに町が築かれ,果樹園やぶどう園が広がり,大小の家 放したのである。そのため教会員は,わたしたちの先祖が 入植したソルトレーク盆地に,避難しなければならなかっ 畜が群れる光景であり,それらはすべて主が彼らの手に渡 されるものであった。現代のイスラエルが見たものは,荒 た。そこは合衆国ではなく,メキシコの領地であった。 よく聞いていただきたい。頻繁に引用される啓示ではな れ果てた砂漠であり,そこは果てしない労苦によって初め て贖われ,実り豊かな地となる場所であった。 いが,非常に重要な情報を伝えている。それは,ウィンタ わたしは以上のことから,この旅を歴史上比類のない業 ークォーターズで『ブリガム・ヤング会長を通して与えら み こころ れた主の言葉と御 心 』である。この中で,主は特に次の 績であるとする意見が正しいと思うのである。」(Conference Report『大会報告』1922年4月,pp.37−38) ように述べておられる。 〔教義と聖約136:34−36〕 当時の我が国は,このことをはじめそのほかの点で,犯 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約136:28 主が人々に歌い踊るように命じら した過ちを悔い改めていなかったと思う。なぜなら,この れたのはなぜか スミスとショダールは次のように述べている。「主は, 教会員が旅の途中で疲れ果てて落胆することを知っておら れたので,意気消沈した心を吹き飛ばす治療薬を与えられ た。すなわち,『歌と,音楽と,踊りと,賛美と感謝の祈 りをもって主をほめたたえなさい』 と命じられたのである。 聖徒たちはこの勧告に従い,夜になって野営の準備が整う 宣言が出された直後にメキシコとの戦争が起こり,少なく ともイリノイ州西部から召兵された軍隊一隊がほぼ全滅 し,しかもそれは,メキシコ戦争で合衆国が受けた唯一に 近い被害であったからである。さらに1861年から1865年に 恐ろしい戦争が続いた。思うに,神はこの戦争によって合 衆国を厳しく罰し,この国に降りかかる災いに関して預言 者ジョセフ・スミスが残した偉大な預言を成就されたので と,バイオリンを持った人がしばしばダンス音楽を奏でた ある。 」(『大会報告』1922年10月,pp.17−18) 南北戦争以来,合衆国は5つの大きな戦争に関係してき り,大好きな賛美歌の伴奏をしたり,皆に親しまれている 曲を弾いたりした。このようにして聖徒たちは元気を取り た。スペイン・アメリカ戦争,第一次および第二次世界大 戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争である。苦難をもたらしたの 戻したのである。 」(『注解』p.860) は戦争だけではなかった。不況,天災,そのほか様々な災 いが国民を苦しめた。預言の中で約束されているように, この国の民はこの地の神,すなわちイエス・キリストに仕 375 えなければ滅ぼし去られるのである(エテル2:10参照)。 成るキリストの教会を組織した。それは,教会の会員を整 しかし,過去と現在の罪に対して国全体での悔い改めが見 られないので,主はこの国の民を引き続き苦しめ,悔い改 えて,すべての者が信仰の一致に到達できるようにするた いや めである。ジョセフは人々を教え導き,病人を癒し,人の めに導こうとされるであろう。第136章42節で主が警告し ておられるように,聖徒たちは常に戒めを守るという義務 子らを愛した。しかし,主がかつてお立てになった預言者 しもべ たちと同じように,この預言者もまた,自らの血で主の僕 を負っているのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ としてのを結び固める必要があったようである。預言者ジ ョセフ・スミスの最後の言葉ほど感動的な一節は,世界の 教義と聖約136:38−40 「多くの者は彼の死のゆえ 歴史のどこを探しても見いだせないであろう。ジョセフは に驚いた」 ジョージ・アルバート・スミス長老は,殉教の必要性に 死が迫っていることを知り,自分の生涯の使命が果たされ たことを理解した。神のと祝福のを民に授け,御父から絶 ついて次のように述べている。「ジョセフ・スミスは主の 指示の下に,使徒,預言者,牧者,教師,祝福師などから えず祝福を受け,ついに自分の務めが終わったことを悟っ たのである。 」(『大会報告』1904年4月,p.63) 日の栄えの王国に関する示現 歴史的背景 第137章 にしない。しかしパウロが述べたように,わたしも言う。 『主のまぼろしと啓示について語ろう』と。」(History of the ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ カートランド神殿は,1836年1月にはほとんど完成した。 Church『教会歴史』2:379−380) この夜に,一つの偉大な啓示が与えられた。日の栄えの それから3月27日の奉献式までの間に,兄弟たちはそこで 何度か集会を開いた。1836年1月21日木曜日,ヘブライ語 王国の示現に加えて,預言者ジョセフ・スミスは,外国で 伝道している現在の十二使徒のただ中に救い主が立ってお の教室として使われていた3階の西側の部屋で,きわめて られるのを示現で見た。そして,日の栄えの王国における 十二使徒会と大管長会を見た。ほかの兄弟たちの多くも, 重要な集会が開かれた。預言者ジョセフ・スミスはその集 会について次のように記録している。 栄光ある示現を目にし,天使の教えと導きを受けた。また 「わたしは,薄暗いろうそくの光の中,神殿の西側の部 屋で大管長会と会った。聖なる油をわたしたちの頭に注ぐ 預言と啓示の霊が力強く注がれたときに,救い主の顔を拝 した者さえいた( 『教会歴史』2:381−382参照)。 儀式にあずかるためである。カートランドとシオンの評議 員も隣の部屋に集まり,わたしたちが儀式を執行する間, 現在教義と聖約第137章に収められている日の栄えの王 国の示現は,1976年まで四大標準聖典の中に入っていなか 祈りながら待機していた。わたしは左手に油を持ち,父の った。しかしその年の4月の総大会において,この示現と スミスがわたしの前に座った。そして大管長会の残りの者 がその周りを囲んだ。わたしたちは右手を天に向かって挙 死者の贖いに関する示現(教義と聖約138章)が全会一致 で教会の聖典として受け入れられた。これらの啓示は当初, あがな げ,イエス・キリストの名によってその油を祝福し,聖別 した。 『高価な真珠』の中に収められていたが,学習資料の付い た『教義と聖約』の新版を制作するに当たり,二つの啓示 わたしたちは年老いた父スミスの頭に手を置いて,天よ を教義と聖約第137章,第138章とすることに決まった。こ りの祝福を願った。 わたしは聖別された油を父の頭に注ぎ, 多くの祝福を結び固めた。次に大管長会全員が年輩の者か れは,大管長会と十二使徒定員会によって下された決定で ある(Church News『チャーチニューズ』1979年6月2日付 ら順に手を置き,祝福師となってわたしたちの頭に油を注 ぐはずの父に,その職にかかわるすべての義務とともに, け,p.3参照。 主からの導きのままにあらゆる祝福を宣言した。それから 注 解 大管長会が年輩の者から順に一人ずつ座り,父スミスから 油を注がれて祝福を受けた。次はわたしの番である。父は ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わたしの頭に油を注ぎ,モーセの祝福を結び固めた。モー セがその昔イスラエルを導いたように,末日において主の てであったか,わたしには分からない」とは,どういう意 味か 民を導くためである。さらにアブラハム,イサク,ヤコブ の祝福を結び固めた。大管長会全員がわたしの頭に手を置 使徒パウロは,自分が受けた啓示を述べるのに同じよう な表現を使っている(2コリント12:3参照)。主は人に啓 き,多くの預言と祝福を宣言した。今はその多くを明らか 示を授ける場合,聖霊の力を通して人の霊に語りかけられ 376 教義と聖約137:1 「体のままであったか,体を離れ 第137章 る(1コリント2:9−14参照)。 が内在するかを表している。」(Seek Ye Earnestly『熱心に 預言者ジョセフ・スミスは,啓示に関する大切な原則を 教えている。「神がその無限の知恵によって,わたしたち 求めなさい』p.275) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ が死すべき状態で,この地上にいる間にわたしたちに示す ことが妥当であると思われるものはすべて,抽象的に,わ 教義と聖約137:5−8 の救い たしたち人間の有するこの死すべき幕屋とはかかわりなく 知らされる。すなわち,まるで肉体を持たぬかのごとく, アルビン・スミスは,ジョセフ・スミス・シニアとルー シー・マック・スミスの長男であり,1798年2月11日に生 直接霊に啓示が与えられる。そしてこのわたしたちの霊を まれ,ジョセフ・スミス・ジュニアより7歳ほど年上であ 救う啓示は,肉体に救いを与える。神は,肉体すなわち幕 屋が永遠に分離することはないという観点から,わたした った。1823年11月17日,アルビンは25歳の誕生日を迎える 3か月前に他界した。彼の母親は次のように記録している。 ちにそれを示されるのである。」(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.355) ジョセフ・スミスの兄アルビン 「アルビンはそのような場合,ジョセフに示された記録 〔『モルモン書』の版〕に対して,家族のだれよりも強い熱 預言者ジョセフ・スミスは光栄の3つの階級に関する示 意と熱望を表しました。 」(スミス,History of Joseph Smith 現を記録したとき,次のように述べている。「神にかかわ み たま る事柄を目にし理解できるように,御霊の力によってわた 『ジョセフ・スミスの歴史』p.89) 預言者ジョセフ・スミスは,アルビンに対して深い愛と したちの目は開かれ,わたしたちの理解に光が注がれた。 」 (教義と聖約76:12)モーセは,自分の受けた偉大な示現 尊敬の念を抱いていた。そして彼は,バプテスマをはじめ とする神権の儀式が昇栄に不可欠であることを知ると,ア を記録する際に, 「肉体の目ではなく,霊の目で見た」(モ ルビンの永遠の幸福について不安になった。この啓示はジ ーセ1:11)と指摘している。さらに,自分が見た物事に ついて,「神の御霊によって見極めた」(モーセ1:28)と ョセフに喜びと慰めをもたらした。神の愛と憐れみによっ て,神のすべての子供に救いの機会が与えられることを知 語っている。エノクは,示現の中で「肉体の目に見えない ものも見た」 (モーセ6:36)と記録している。 ったからである。アルビンのように,この世で福音を聞い ていたら真心からそれを受け入れたであろう人々は,主が 預言者ジョセフ・スミスの最初の示現の記録について, オーソン・プラットは次のように述べている。「光が最初 備えてくださった方法により,永遠の世で完全な祝福を享 受できるのである(教義と聖約137:7参照) 。 にジョセフのうえに注がれたとき〔ジョセフ・スミス−歴 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ あわ 史1:16参照〕,特殊な感覚が彼の全身を貫き,即座に,周 囲の自然から心が離れ,ジョセフは天よりの示現に包まれ た 。」( ジ ェ ー ム ズ ・ B ・ ア レ ン “Eight Contemporary Accounts of Joseph Smith’s First Vision: What Do We Lean from Them?” Improvement Era「ジョセフ・スミスの最初の 示現に関する当時の8つの記録:それらから何が分かるか」 『インプルーブメント・エラ』1970年4月号,p.10)主から そのような啓示を受ける人は,御霊に包まれ,主の栄光に 満たされて,この世の事柄を忘れる状態になるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約137:2−3 「回転している炎」「輝く神の」 といった表現が使われるのはなぜか 預言者ジョセフ・スミスの教えによれば,神の属性は, 光や炎や栄光の特質を含む。最初の示現の記録の中で,ジ ョセフは 「筆紙に尽くし難い輝きと栄光を持つ二人の御方」 (ジョセフ・スミス−歴史1:17)と記している。また,次 のように教えている。「全能の神御自身は永遠の火の中に 住んでおられ,肉と血はそこに行くことができない。腐敗 するものはすべて, 火によって焼き尽くされるからである。 『わたしたちの神は,実に,焼きつくす火である。』〔ヘブ ル12:29〕……不死不滅の体は,永遠の炎の中に住む。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.367)ジョセフ・フ ィールディング・スミス大管長は,日の栄えの体は栄光と 力に満たされていると述べた。「神はエネルギーに満ちた 御方であるので,わたしたち死すべき体を持つ者は,主の 御霊に守られずに神の前に立つと,たちまち焼き尽くされ てしまう。これは,日の栄えの体にどれほどのエネルギー ジョセフ・スミス・シニアの長男アルビン・スミスは,弟のジ ョセフを支持した 377 教義と聖約137:5 ジョセフ・スミス・シニアとルー 教義と聖約137:10 「責任を負う年齢に達する前に死 シー・マック・スミスの救い 預言者ジョセフ・スミスは示現の中で,日の栄えの王国 ぬ子供たちが皆,天の日の栄えの王国に救われる」 に父と母がいるのを見た。両親はまだ来世に行っていない て,しばしば次のような質問が出される。 から,もちろんこれは,将来の出来事に関する示現である。 事実,預言者の父はこの示現が与えられた部屋に,ジョセ 質問:このような子供たちは無条件で救われるのでしょ うか。 フとともにいたのである(教義と聖約137章の「歴史的背 景」参照) 。 ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように答えて しか いる。「この質問に対する答えは断固然りである。イエス ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約137:7−9 すべての人は何に基づいて裁か はこのことを弟子たちに教えられた。モルモンはこのこと を何度も繰り返し述べている。多くの預言者がこのことを れるか 語っているし,救いの計画自体がそのことを告げている。 人の心の正しい願いが,将来を決めるである。神の律法 を受けた人であれば,それらの律法に従うことに,正しい もしそうでなければ,贖 罪 の適用範囲は無限でないこと になる。それでわたしたちが予期するとおり,ジョセフ・ 願いが現れる。律法を受けていない人であれば,現世か来 世のどちらかでその機会が訪れたとき,福音を受け入れる スミスの受けた日の栄えの王国に関する示現に次のような 言葉が見られる。『わたしはまた,責任を負う年齢に達す か否かに心の願いが現れる。いずれの場合も,心の願いに る前に死ぬ子供たちが皆,天の日の栄えの王国に救われる よって福音にどのように対処するかが決まり,これが裁き の公正な基盤になるのである。心が正しい人は,機会が与 のを見た。 』(教義と聖約137:10) これはすべての人種の子供を含むかという質問が時折出 えられたときに福音を受け入れ,それに従って生活し, 「神の日の栄えの王国を受け継ぐ者となる。」(教義と聖約 されるが,もちろん答えは然りである。啓示がすべての子 供たちと言えばそのとおりすべての子供たちである。人種, 137:7)死者の身代わりの儀式は,アルビンのように,こ 民族,言語による制約はまったくない。幼児は幼児であっ の世で福音の儀式を受ける機会のなかった人々のために神 殿で執行される。救いに至る道は,神のすべての子供のた て,彼らは皆キリストにあって生かされている。そしてキ リストの贖罪によって皆救われている。…… めに備えられているのである(アルマ41:3−15参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 子供たちは贖罪によって,罪がないので救われる。彼ら は神のもとから清い状態で地上に来る。そして,この世に いな 責任を負う年齢に達していない子供たちの状態につい しょく ざい あっても罪や汚れを負わない。したがって清い状態で創造 主のもとへ戻ることになる。自己の責任を負う年齢に達し た人は,悔い改めてバプテスマを受け,従順に従うことに よって清くならなければならない。他方,罪の責任を負う 能力のない者は決して霊的に堕落することはないので,霊 的な堕落から贖われる必要はない。幼い子供たちはキリス トにあって生かされていると言われる訳はここにある。… … 確かにこの教えは福音の教義の中で最も美しく心を満た すものである。また,預言者ジョセフ・スミスが神から導 きを与えられていたことを証明する貴重な証拠の一つであ る。当時キリスト教界の熱烈な説教者たちは,地獄への道 は幼子の骸骨で敷き詰められている,これは不注意な親が 子供にバプテスマを施すことを怠ったからである,と説教 壇から大声で説いていた。『モルモン書』と末日の啓示に 記録されたジョセフ・スミスの言葉は,『幼い子供たちは 救われる』という純粋な真理に涼風を吹き込むこととなっ た。清く罪のない子供についてを明らかにしたもうた神に, わたしたちは感謝すべきである。」(“The Salvation of Little Children” Ensign「幼い子供たちの救い」『エンサイン』 1977年4月号,pp.4,7) 質問:幼い子供たちは救われると言いますが,それは永 遠の命を得るという意味でしょうか。 マッコンキー長老は,「救い」と「永遠の命」という言 葉について次のように説明している。「永遠の命とは,日 「幼い子供たちは……キリストによって生きている」(モロナイ 8:12) 378 の栄えの世界の最高の天における生活であり,昇栄である。 また,神が営んでおられるたぐいの生活である。家族の単 位が永遠に継続することを永遠の命と呼ぶ。子供たちは日 めから終わりまですべてのことを知っておられ,わたした の栄えの王国において救われる。……救いとは永遠の命と いう意味である。この二つの言葉は同義語であって,まっ ち一人一人にとって必要な試練を与えられる。ジョセフ・ フィールディング・スミス大管長はかつてわたしに次のよ たく同じことを意味している。ジョセフ・スミスは言った。 『救いとはエホバが持っておられる栄光,権能,尊厳,力, うに言ったことがある。だれが幼時に取り上げられ,だれ がこの世にとどまってそれぞれに必要な試練を受けること 支配から成り,それ以外の何ものでもない。』(Lectures on Faith『信仰に関する講話』pp.63−67)わたしたちはこの になるか,主は知っておられ,前もってそのための整えを されることを,わたしたちは当然のこととして受け入れな 救いを昇栄と呼ぶ。事実救いは昇栄である。標準聖典のど ければならない,と。これは次のジョセフ・スミスの言葉 の聖句も皆昇栄を救いと呼んでいる。わたしはすべての聖 典の中で救いを昇栄以外のもの,昇栄以下のことを意味す と符合している。『主は幼い子供たちを大勢取り上げられ る。人の,現在のこの世の悲しみや諸悪に巻き込まれない るものとして使っている聖句を3つしか知らない。 」(「幼い 子供たちの救い」p.5) ようにするためである。彼らはこの世に住むにはあまりに も純粋で,美しいからである。』(『預言者ジョセフ・スミ ジョセフ・フィールディング・スミス大管長の次の言葉 スの教え』pp.196−197)責任を負う年齢に達した人は試 は,この原則に対する理解をさらに深めてくれる。 「主はこれらの子供たちに昇栄にかかわるすべての結び 練を受ける必要があるということは,万物の計画から明ら かである。わたしたちの問題はこの世を克服して,幼い子 固めの祝福を与えられる。 わたしたちの霊は生まれる前にすべて成熟していた。幼 供たちがすでに達している清く汚れない状態に到達するこ とである。 」(「幼い子供たちの救い」p.6) いときに死んだ子供の体は復活後,霊の完全な大きさにま 質問:責任を負う年齢に達する前に死んだ子供は,ほか で成長する。そして従順であれば,地上で大人になるまで 生き,祝福を受けた場合とまったく同じように,すべての の人々がこの世で試されるような方法で,試しを受けるの でしょうか。 祝福を受ける。 主は公正な御方であって,単に祝福を受けられる時が来 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,この質 問に次のように答えている。「分別のつく年齢に達しない る前に死んだからといって,祝福を受ける機会を取り上げ てしまうようなことはなされない。ただ幼いときに死んだ で死んだ幼子は誘惑を受けることはない。サタンが縛られ ていて誘惑できない福千年に生まれた子供は,『罪のない という理由だけで,幼子から来世で昇栄のすべての祝福を まま成長して救いを得るであろう。』」(『救いの教義』2: 受ける特権を取り上げるというのは,あまりにも不当であ る。…… 52。教義と聖約29:47;45:58参照) 質問:幼くして死んだ子供は,どのような状態で復活し 幼いときに死んだ子供はいかなる祝福をも差し控えられ ることがない。彼らは復活後霊の完全な大きさにまで成長 ますか。 ジョセフ・F・スミス大管長は,末日聖徒が信じている すると,地上にとどまっていれば受ける資格があったと思 ことを次のように説明している。「ジョセフ・スミスは, われるすべての祝福を受けることができる。」(『救いの教 義』2:50−51。モーサヤ15:25参照) 幼くして死んだ子供は子供として復活するという教義を教 え,子供を失った母親に向かって,『あなたは子供が復活 質問:なぜ天に取り上げられる子供と,この世にとどま る子供がいるのでしょうか。取り上げられる子供は,この の後に霊の完全な形に達するまでその子を育てる喜びと, 楽しみと満足を得るでしょう』と述べた。 世にとどまる子供よりも清いのでしょうか。 死より復活した後に,回復があり,成長と発達がある。 マッコンキー長老は,この質問に分かりやすい言葉で明 確に答えている。 わたしはこの真理が好きである。この真理はわたしに霊の 豊かな幸せと喜び,感謝の念を起こさせる。これらの原則 「すべての事柄はわたしたちの霊の父である神が治めて おられるので,わたしたちは安心していればよい。神は初 をわたしたちに啓示してくださった主に感謝している。」 (『福音の教義』p.436) 死者の贖いに関する示現 歴史的背景 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・F・スミス大管長は,亡くなる半年前から重 第138章 い病気にかかり,ほとんどの時間を自分の部屋で過ごすよ うになった。息子のジョセフ・フィールディング・スミス 長老は何日も一緒にいて,父親のために口述筆記をしたり, 雑用をしたり,車で外に連れ出したりした(スミス,ステ 379 ュアート共著,Life of Joseph Fielding Smith『ジョセフ・フ れる。ハロルド・B・リー長老は,そのような準備の必要 ィールディング・スミスの生涯』p.200参照)。ジョセフ・ F・スミス大管長は病気であったが,主と親しい交わりを 性について次のように述べている。 「数週間前,マッケイ大管長が十二使徒に興味深い経験 持っていた。そしてこの世を去る6週間前に,1918年10月 を話してくれました。わたしは昨日,その話を今朝の集会 の総大会で次のように語った。 「ほとんどの方は御存じかと思いますが,わたしはこの5 で紹介してもよいかどうか尋ねました。大管長の言葉によ れば,御霊のささやきにこたえるのはすばらしいことであ か月間,重い病気にかかっていました。そのためこの場に おいて,わたしの心の願いと感じていることをお話しする って,ささやきが与えられたときにそれを感じ取るのは, たまもの 一つの賜物であり,特権であるということでした。御霊の だけの時間を取るのは,不可能なようです。しかし,もし できるなら,それをするのがわたしの務めであると思いま ささやきは,責任に追われているときではなく,くつろい だ気持ちのときに与えられます。(この点に注意してくだ す。…… さい。)大管長は,管理監督会の一員を務めたジョン・ウ めいせき 肉体は幾らか弱っていても,わたしの心は明晰で,自分 自身の義務や末日聖徒の義務と責任をはっきりと理解して ェルズ副監督の経験を話しました。ウェルズ副監督の息子 は,エミグレーション峡谷の線路上で死亡しました。ジョ います。わたしが切に願うのは,主の業の進展と,全世界 の末日聖徒イエス・キリスト教会の会員の繁栄です。…… ン・ウェルズ兄弟は緻密な頭脳の持ち主で,現在使われて いる報告書の大半を作成した人です。彼の息子は,貨物列 ち みつ 今朝わたしは,胸の内にあることをすべてお話ししよう 車にひかれてしまいました。 ウェルズ姉妹は悲しみに沈み, とは思いません。 主が喜んで話させてくださる時が来たら, 今わたしの胸の内にある幾つかのことをお話しするつもり 葬儀までの3日間,嘆き続けました。さらに葬儀でも慰め いんうつ が得られず, ますます陰鬱な思いにとらわれていきました。 です。この5か月間,わたしは独りではありませんでした。 み たま 祈り,嘆願,信仰,決意などの御霊の中で生活し,絶えず 葬儀が終わって間もないある日のこと,ウェルズ姉妹はゆ ったりとベッドに横になっていました。まだ嘆き悲しむ気 主の御霊と交わってきました。」(Conference Report『大会 持ちは晴れませんでした。そのとき,息子が目の前に現れ 報告』1918年10月,p.2) 総大会の2週間後,ジョセフ・フィールディング・スミ てこう言ったのです。『お母さん,嘆かないでください, 泣かないでください。ぼくは大丈夫ですから。』そして, ス長老は父親が口述する示現を書き取った(スミス,ステ ュアート共著『ジョセフ・フィールディング・スミスの生 事故の経過を知らない母親に状況を説明しました。彼は機 関士に前進の合図を出し,いつものように貨物列車の手す 涯』p.201参照)。この記録は,副管長および十二使徒定員 りにつかまろうとしたのですが,何かの根につまずいて倒 会によって支持された後,『インプルーブメント・エラ』 (Improvement Era,1918年12月号,pp.166−170)に掲載さ れ,手すりをつかみ損ねて列車の下敷きになってしまった のです。これは明らかに事故でした。さて,よく聞いてく れた。 さらに1976年4月の総大会で,この示現は聖典として受 ださい。息子は,最初に父親に会おうとしましたが,無理 であることがすぐに分かりました。父親は自分の職に関す け入れられ, 『高価な真珠』の中に収められ,出版された。 そして1979年6月,大管長会は,この示現が教義と聖約第 る務めを果たすのに忙しくて,息子の呼びかけに応じられ なかったのです。それで,息子は母親のところに来たので 138章となることを発表した(教義と聖約137章の「歴史的 す。『ぼくは大丈夫だと,お父さんに伝えてください。そ 背景」参照)。 して,これ以上ぼくのことで悲しまないでください。』 大管長はこの話の大切な点を指摘しました。すなわち, 注 解 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 自分の部屋でくつろいだ気持ちでいるとき,わたしたちは このような導きを受けやすくなります。また,関心のある 教義と聖約138:1−11 聖文の言葉に思いをはせる: 事柄に関する最善の考えは,朝目を覚ました後,ゆったり 啓示を受けるためにしばしば必要とされる条件 預言者ニーファイは,父リーハイの霊感あふれる教えに した気分でその日の務めに思いをはせるときに与えられま す。そして,心に感じることは,あたかも声を聞いたかの ついて深く考えていたとき,ニーファイ第一書第11−14章 に記録されている偉大な示現を受けた。ジョセフ・スミス ように,いっそう明確になるのです。このようにして感じ ることは,正しいことです。もし何かで思い悩み,気持ち とシドニー・リグドンは,ヨハネによる福音書からの一節 が動転しているならば,霊感は来ません。わたしたちの心 について祈りの心で考えていたとき,教義と聖約第76章に 記されている驚くべき示現を受けた(教義と聖約76:15− を悩みから解放し,良心に責められることがなく,互いに 良い気持ちを抱いて生活するならば,受話器を取ったとき 19参照)。モロナイは『モルモン書』の読者に対する勧告 の中で,『モルモン書』が真実であるという個人の啓示を のようにはっきりと,主の御霊がわたしたちの霊に働きか けるでしょう。」(Prayer『祈り』〔セミナリー・インステ 受けるために,まずそれを読み,神の子らに対する神の憐 れみを思い起こし,心の中でこれらのことを深く考え,そ ィテュート職員への講演〕ブリガム・ヤング大学,1956年 7月6日,pp.14−16) あわ の後個人的なを求めて主に祈るように教えている(モロナ 聖典を読んで深く考えることにより,人の心は御霊にか イ10:3−5参照)。 啓示は,霊的に,また精神的に備えられた人にもたらさ かわる事柄を受けるように備えられる。そのような状態の 人は,高い所から教えを受けることができるのである。 380 第138章 約137:10の「注解」参照)。 総大会の神権部会において,スペンサー・W・キンボー ル大管長は,昇栄する大いなる可能性について次のように 述べている。 こ よい 「兄弟たち。今宵,この話を聴いておられる22万5,000人 の兄弟たち。わたしはあなたがたがすべて神々となり得る と考えている。宇宙には,まだまだ多くの空間がある。主 がその方法を知っておられることは,すでに明らかである。 主は,わたしたち22万5,000人全員のためにもろもろの世 界を造ってくださることであろう。恐らくわたしたちも, その業を助けることになるに違いない。 様々な可能性について,また栄光ある未来について考え ていただきたい。たった今生まれたばかりの子供でも,こ の栄光あふれる計画を受け継ぐことができるのである。そ の子供も成長し,やがて美しい女性に出会う。二人は聖な る神殿で結婚し,主のすべての戒めを守って生活し,自ら を清く保つ。二人は神の子となり,偉大な計画を推し進め る。天使の前を通り過ぎる。そこで待ち受けている諸天使 諸神の前を通り過ぎる。こうして二人は昇栄に達するので ある。」(『大会報告』1975年10月,p.120。アルマ13:10− 12も参照) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:14−17 前に知ることができるか 自分が昇栄することを死ぬ この世で完全の域に達していなくても,最終的に永遠の 管理監督会の一員を務めたジョン・ウェルズ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:7−10 ペテロの手紙 預言者ジョセフ・スミスの霊感訳では,熟考と黙想の結 果,1ペテロ3:18−20と1ペテロ4:6に変更が加えられて いる。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:11 「理解の目が開かれ」というスミ 命を得るという確信は得ることができる。ブルース・R・ マッコンキー長老は次のように述べている。 「すべての忠実な聖徒,最後まで堪え忍ぶ人々は皆,こ の世を去るときに永遠の命を完全に保証されるのである。 み じん わたしたちの心にはごまかしや疑い,あいまいさは微塵 もない。この人生を誠実かつ忠実に送る者は,来るべき世 において道をそれることはないであろう。この世で聖約を あかし 守り,わたしたちの主に対する証を固く誠実に保ってこの 世の生涯を終える者は,永遠の命の受け継ぎを得てよみが えるであろう。 ス大管長の言葉は,何を意味するか 教義と聖約137:1の「注解」を参照する。 しかしながら,この人生を誠実かつ忠実に送り,主にあ って死ぬ者は,あらゆる点で完全となったので次の世に行 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ くというわけではない。完全な人はただ一人,神を父とす る主イエスだけであった。 教義と聖約138:12−17 に救われるか 大勢の人が日の栄えの王国 スミス大管長は示現の中で,「栄光ある復活の望みを確 固として持って死すべき世を去った」(14節)「非常に多く の正しい者の霊」(12節)を見た。彼らは,アダムの時代 からキリストが来られるまでに,地上に生を受けた,日の 栄えの王国を受け継ぐ者である。それ以降に地上で生活し た大勢の人や,まだ地上に来ていない数多くの人も,日の 栄えの王国を受け継ぐ者になる。地上に生を受けた人の総 数に比べると,日の栄えの栄光を獲得する人の割合は少な いかもしれないが,それでも日の栄えを受け継ぐ人は非常 に多いであろう。さらに,現世や霊界で忠実さを示してこ の王国に入る資格を得た人に加えて,責任を負う年齢に達 する前に世を去った子供たちが非常に大勢いる(教義と聖 しかし完全の域に近づいていた義人は大勢いる。信仰を 守り,律法に従い,永遠の命を必ず受け継ぐであろうとい う完全な保証を得てこの世を去った忠実な人々は非常に多 い。 これらの人々には,かの栄えある終わりの日に御父の王 国に属するすべてのものを授かるために,死後も行わなけ ればならないことがたくさんある。その日,偉大な王は彼 らに言うであろう。『わたしの父に祝福された人たちよ, さあ,世の初めからあなたがたのために用意されているを 受けつぎなさい。 』(マタイ25:34) ここで繰り返したい。正義の道を見定め,主の業は神の 認めたもう真理にかなうものであるという確かな証を得, 世の事柄を克服し,神の王国に属する事柄を第一として生 381 活する人,すなわちこれらすべてのことを行ってこの世を そのような状態に達した人々は,確かに満ちみちる喜び 去る神の聖徒たちは,たとえ世を去るときにまだ完全にな っていなくても,将来御父の王国において永遠の命を得る を受けるであろう。これこそ,スミス大管長が見たように, パラダイスで神の御子の訪れを待ちわびる人々が期待して であろう。 」(『大会報告』1976年10月,pp.158−159) いた報いなのである。神の御子は死の鎖を断ち切り,復活 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:15−19,50 肉体から離れた霊が束 をもたらし,神の王国において満ちみちる喜びを与えてく ださるのである。 縛の状態にいるのはなぜか。満ちみちる喜びを受けるには あがな 死からの贖いが不可欠なのはなぜか ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:27−37,57 霊界における伝道 預言者ジョセフ・スミスは,死すべき肉体の重要性につ いて次のように教えている。 ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,霊界における教 導の業について次のように述べている。「信仰をもってこ 「わたしたちがこの地上に来たのは,肉体を得て,日の の世を去った使徒,七十人,長老などは皆,幕のかなたへ 栄えの王国においてその肉体を清い状態で神の前に示すた めである。幸福の大原則にはこの肉体を得ることが含まれ 行くと直ちに教導の業に携わる。霊界で福音を宣べ伝える 者の数は,現世の1,000倍以上であろう。……彼らは幕の る。悪魔には肉体がない。そこに悪魔への罰がある。悪魔 は人の幕屋を受けることができるならば,喜ぶに違いない。 かなたで御業を行い,人手を必要としているので,そのよ うな人々を召すのである。」(Journal of Discourses『説教 悪魔は救い主によって追い出されたとき,豚の群れに入れ 集』22:334) るよう嘆願した。たとえ豚の体であろうと,肉体を持たな いよりはいいと考えたのである。 ジョセフ・F・スミス大管長は,メアリー・A・フリー ズの葬儀における説教で,次のように述べている。この神 肉体を持つすべての者は,肉体を持たない者を支配する 力を持つのである。 」(Teachings of the Prophet Joseph Smith 権時代に世を去った人々は,「彼らが従い,ここで宣べ伝 やみ えたと同じ福音を,霊界で闇にいる人々,この世を去る前 『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.181) の み わざ に知らなかった人々に宣べ伝えているとわたしは信じてい 肉体を持たない霊は,復活するまで満ちみちる喜びを得 ることができないので(教義と聖約93:33−34参照),肉 る。福音は彼らに宣べ伝えられなければならない。わたし まっと たちは彼らなくして全うされることがなく,彼らはわたし 体と霊が再び結合するのを待ちながら霊界にいる期間を束 縛の状態と考える。ブルース・R・マッコンキー長老はこ たちなしに全うされることはない。 こんにち さて,世の初めより今日に至るまで,福音の知識なくし う語っている。「昇栄を得ることは,満ちみちる喜びを享 てこの世を去ったこれら莫大な数の人々のうち,約半数は 受することにある。それは『主の喜び』(教義と聖約51: 19)に入ることである。……満ちみちる喜びは,復活して 女性であったことは推して知ることができる。だれが女性 に福音を宣べ伝えに行くのだろうか。福音の知識なくして 昇栄した人だけが味わうものである(教義と聖約93: 33) 。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.397) 死んだ女性の心にだれがイエス・キリストの証を携えて行 くのだろうか。わたしにとってそれは簡単なことである。 昇栄を得る人々には,永遠に霊の子孫をもうけるという 特権が与えられる(教義と聖約131:1−4;132:19−20) 。 生者と死者のために神の宮で業をなすよう任命され,聖任 され,それに召され,神権の権能によって同性を教え導く この永遠の増加は,復活して栄光を受けた肉体を得て初め ことを認められたこれらの善良な姉妹たちは,長老や預言 て可能になるのである。メルビン・J・バラード長老は次 のように教えている。 者たちが男性に宣べ伝えるのに対して,女性に福音を宣べ 伝え,教え導く権能と力を与えられるであろう。この世で 「無窮の増加を拒まれる人々は,神のようになることは できない。なぜなら,それはほかの特質とも関連して,神 わたしたちが経験する事柄は,神と来世につける事柄のひ ながたである。地上で行われる神の目的と,神の前と神の が神たるゆえんだからである。…… 王国で行われる神の目的との間には,多くの類似点がある。 神の戒めを守る男女はその義と忠実さにより,日の栄え の体をもって復活する。この体は,神の日の栄えの王国に この世で福音を宣べ伝える権能を受け,任命された者は, 次の世へ行って無為に過ごすわけではない。神の御子の神 おける崇高で大いなる永遠の栄光に入るにふさわしく備え られたもので,このような備えを通して,彼らは霊の子供 権のもとに地上で得た権利を引き続き行使して,真理の知 識なくして世を去った人々を教え導くのである。」(『福音 をもうけるのである。…… の教義』pp.440−441) 無窮の増加の力がわたしたちに与えられ,多くの年月を 経てわたしたちの子孫が成長して増える場合,やがて時が ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:31 「使者たちは,主の恵みの日を告 来ると,わたしたちがしてきたように,肉体を得てあらゆ る経験を積むために, 彼らにも地球が与えられるであろう。 げ知らせ,束縛されている囚われ人……に自由を宣言する ために出て行った」 ……そして,わたしたちは彼らに対して,父なる神がわた したちに対してとられたのと同じ立場に身を置くであろ この言葉はイザヤ書から出ている(イザヤ61:2参照)。 イエスは故郷の町ナザレで,この聖句を引用して御自身が う。したがって,これは神の息子や娘に与えられる最も栄 メシヤであると宣言された。ブルース・R・マッコンキー 光に満ちたすばらしい特権なのである。 」(Melvin J. Ballard 『メルビン・J・バラード』pp.211−212) 長老の説明によれば,イザヤ書の「主の恵みの年」とは, 「行われるべき特定の御業のために,万物の聖なる理法の 382 ばくだい とら 第138章 中で,明示され,認められ,定められ,受け入れられた適 切な時」を意味する。また,キリストが「捕われ人に放免 を告げ,縛られている者に解放を告げ」(イザヤ61:1)ら れるというイザヤの預言は,「投獄されているこの世の人 を救い出すことではなく,すでに世を去った死者のために 備えられた,自由と解放をもたらす業を指すのである。イ エスの使命は生きている人々に限られてはいなかった。主 は獄に捕らわれている霊にも,救いの喜びのおとずれであ る福音をもたらされた。『囚人が土ろうの中に集められる ように集められて,獄屋の中に閉ざされ』た人々は,『多 かぎ くの日を経て後』(イザヤ24:22)彼らを解き放す鍵を持 った御方の訪れを受けるのである。」(Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』1:161)スミス大 管長は示現の中で, 「主の恵みの年」を見たのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:32 ような状態にあるか 死者の身代わりの儀式が行われるバプテスマフォント 霊界で福音を受け入れた人はどの 真理を知ることなしに罪のあるまま死んだ人について 「これは主がエノク,イザヤ,その他の預言者を通じて地 のもろもろの国民に与えられた約束で,死者の贖われる時 は,教義と聖約137:7−9の「注解」を参照する。預言者 を拒んで罪のあるまま死んだ人については,教義と聖約 が来る,というものであった。子らの心が向きを変える, ということは神殿で代理の儀式をする,あるいは系図を準 76:72−74の「注解」を参照する。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 備するという形をとって表れる。 」(『救いの教義』2:143) 教義と聖約138:33−34,58−59 身代わりの儀式 だけで,霊界にいる人の救いが保証されるわけではない 信仰と悔い改めの原則は,霊界でも教えられている。こ の世を去った霊は,「肉においては人間として裁きを受け るが,霊においては神のように生きるための資格を得るう えで知っておく必要のある,福音のすべての原則」 (34節) を教えられる。そして,神の言葉に対する従順さと熱心さ に応じて裁かれるのである。この世で福音を受け入れる機 現世で福音の祝福にあずかれない人々の救いについての 約束が,前世において与えられた。キンボール大管長は前 世でのことを次のように述べている。「皆さんやわたしは, 神と約束を交わし,主なる神から命じられることは何でも 行うと聖約しました。 」(Church News『チャーチニューズ』 1975年1月18日付け,p.3)確かに聖徒たちは,死者の名前 を探求して彼らのために儀式を行うように命じられている のである(『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.356;教義 と聖約128:15参照)。 会がなかった人は,霊界で教えを受けたときに自分の意思 で悔い改めて神の律法に従うならば,その人のために地上 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ で行われる身代わりの儀式の恩恵にあずかることができ る。そうでなければ,身代わりの儀式には何の効力もな 来臨の時に全地がのろいをもって打たれて,ことごとく荒 教義と聖約138:48 死者の贖いが行われないと「主の い。 廃する」のはなぜか 教義と聖約128:14−18の「注解」を参照する。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に述べている。「人があらゆる点で祝福を受ける資格があ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:51 主は義にかなった聖徒たちに,復 るにもかかわらず現世で受けられなかった場合,儀式は死 後いつ行っても差し支えない。しかし祝福を受ける機会が 活の時に出て来る力を授けられた ふんだんにあるにもかかわらず拒んだ場合,あるいは,引 き延ばしたり信仰の不足から受けなかった場合,その人は 祝福を受ける資格がない。またこの人のための儀式が1週 間後に行われようと1千年後に行われようと,それは効力 を発揮しないだろう。救われるのは終わりまで堪え忍ぶ者 であると主は宣言された。機会があるのに死ぬまで祝福を 拒み,無視する者は祝福を受ける資格がない。」(『救いの スペンサー・W・キンボール大管長は,総大会の説教の 中で,復活の力に関するブリガム・ヤング大管長の教えを 引用して次のように述べている。 「この神権時代の2代目の大管長であったブリガム・ヤン グは,次のように語った。『主の民であるわたしたちは, 命と救い,昇栄のためのあらゆる儀式を授けられており, しかもそれを執行していると考える。しかしそうではない。 教義』2:166。教義と聖約76:72−74の「注解」も参照) わたしたちが授けられているのは,肉において執行するこ とのできるすべての儀式なのであって,次の世で執行され ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約138:47 「先祖に与えられた約束を子孫の なければならない儀式は与えられていないのである。それ にはどのようなものがあるか尋ねたいことと思う。その一 心に植える」とは何を意味するか ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,「先祖 に与えられた約束」について次のように説明している。 つを話したい。それは復活の儀式とそのである。』(『説教 集』15:137) わたしたちには復活の鍵があるだろうか。皆さんは,二 383 度と死なない体となって,この地上に戻って来ることがで 教義と聖約138:52 「その後も働きを続け」 きるだろうか。皆さんの両親,祖父母,先祖はどうだろう か。わたしは11歳のときに母を亡くし,20代の前半に父を 主はこのように言われた。「人の不死不滅と永遠の命を もたらすこと,これがわたしの業であり,わたしの栄光で 亡くした。わたしは今でも両親のことを非常に懐かしく思 っている。もしわたしに,世の救い主のように,復活させ ある。」(モーセ1:39)不死不滅と永遠の命を冠として受 ける者は,永遠の世界でもその業を続けるであろう。人の る力があったら,その力を使って両親をもっと生き長らえ させていたかもしれない。わたしはこれまで幾度となく依 目標は神のようになることであり,主は「わたしの業にも わたしの言葉にも,終わりがないのである」(モーセ1: 頼を受けて葬儀で話をしてきた。わたしのよく知っている 38)と言われた。主の「安息」に入るとは,神の完全な栄 人々もいれば,わたしの愛した人々もいた。またわたしの 祝福により,しばらく命を取り留めた人々もいた。しかし, 光に入ることを意味する(教義と聖約84:24参照)。そこ で世の煩いや悲しみから解放されて安らぎを得るのであ わたしたちは,数人の人をよみがえらせたイエス・キリス トのように死者をよみがえらせることのできる人を知らな る。しかしそれは,働きをやめるという意味ではない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ い。 教義と聖約138:53−56 その鍵は,『この現世というステージを終えて,再び肉 体を得た人々に与えられるであろう。……彼らは復活の鍵 導者たちは,最後の神権時代に来るようにとどめられてい た を持つ者により聖任を受けて,聖徒たちを復活させること であろう。それはあたかも,わたしたちがバプテスマを受 預言者アブラハムは,この世において神の王国の指導者 となるように前世で聖任された高潔で偉大な者の一人であ けた後,他の人々に罪の赦しを受けるためのバプテスマを ると告げられた(アブラハム3:22参照) 。ジョセフ・F・ 施す権能の鍵を受けるのと同じである。これがこの地上で 受けることのできない儀式の一つであり,このようなもの スミス大管長は, この神権時代の多くの選ばれた僕たちが, それらの霊たちの中にいるのを見た。彼らは主によって霊 はほかにも多くある。 』(『説教集』15:137) 」(『大会報告』 1977年4月号,p.69) 界にとどめられ,この世に来て末日の偉大な業の基を置く ために,そこで教えを受け,備えられた。預言者ジョセ ブリガム・ヤング大管長は,さらに次のように教えてい る。「復活の鍵を有し,すでにかの試練をくぐった人に, フ・スミスはかつて次のように言った。「世に住む人々を 教え導く召しを持つすべての者は,この世界が存在する前 わたしたちの肉体を復活させる業が託されるであろう。」 に,天上の会議でその目的のために聖任された。」(『預言 ゆる (『説教集』9:139) 宣 言 歴史的背景 末日の主の王国の偉大な指 しもべ 者ジョセフ・スミスの教え』p.365) 公式の宣言1 盛んに提出されたが,そのほとんどは議会を通過しなかっ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ た(ロバーツ,Comprehensive History of the Church『教会 概史』5:433−441,610−611参照)。 多妻結婚の実施を禁止する法律が最初に制定されたの 1874年,教会は1862年に成立した重婚禁止法の法的効力 は,オーソン・プラット長老によってその教義が正式に宣 言された1852年8月29日から数えて,およそ10年後のこと を問うために,実際の事例を採り上げて争うことに決めた。 そして,ユタ準州のジョージ・C・ベイツ最高法務長官と であった(教義と聖約132章の「歴史的背景」参照) 。ユタ 準州のスティーブン・ハーディング知事は,バーモントの ジョージ・Q・キャノンが,主としてこの件を担当した。 教会の指導者たちは,この法律が憲法で保証されている宗 ジャスティン・R・モーリルに働きかけて,議会に法案を 教の自由を侵害しているので,最高裁判所において違憲と いう判決が下されるものと確信していたのである。大管長 提出させることができた。この法案は,1862年7月8日にエ ーブラハム・リンカーン大統領の署名を得て,法律として 会から依頼を受けたジョージ・レイノルズは,自らテスト 成立した。1862年の重婚禁止法によれば,「多妻結婚は重 婚と定義され,そのような婚姻関係を結ぶ者には,500ド ケースになり,法律を犯したことを認めるために必要な証 拠を準備した。1879年5月5日,合衆国の最高裁判所は,レ ルの罰金と5年の禁固刑が科せられた。」(スミス,Essen- イノルズに有罪の判決を言い渡した。合衆国憲法修正第1 条により宗教の自由は保証されているが,宗教上の教義に tials in Church History『教会歴史粋』p.432)この法案を皮 切りに,それから25年間にいわゆる「反モルモン法案」が 384 基づいて不道徳や犯罪を行う権利は与えられていない,と 公式の宣言1 いうのが結論であった。 最高裁判所で1862年の重婚禁止法が合憲であると認めら れると,多妻結婚を行っている人々に対する迫害がいっそ う厳しくなった。1882年3月,合衆国議会はエドマンズ法 案を可決した。この法律により,多妻結婚を行う人は市民 はくだつ 権を剥奪され,いかなる公職に就くことも禁じられた(ス ミス『教会歴史粋』pp.482−483参照)。さらに5年後の 1887年3月,エドマンズ・タッカー法が議会を通過した。 これは,教会の法人組織としての権利を奪い,永代移住基 金を解体し,教会の資産を没収してユタ準州の公立学校の ために使い,また女性の選挙権を停止するという内容であ った。 このような苦難の最中,1887年7月25日にジョン・テー ラー大管長がユタ準州のケイズビルで死去し,ウィルフォ ード・ウッドラフが次の大管長になった。 宣言は1890年に出されたが,少なくともその1年前から, ウィルフォード・ウッドラフ大管長はエンダウメントハウ スでの多妻結婚を禁じていた(クラーク,Messages of the First Presidency『大管長会のメッセージ』3:193参照)。 しかし,この指示は公表されなかった。 多妻結婚を新たに行うことを禁じながら,それを教会の 敵対者に知らせないことについて,多くの教会員が疑問を 持った。ジョージ・Q・キャノン副管長は次のように説明 している。「ウィルフォード・ウッドラフ大管長や中央幹 公式の宣言により多妻結婚の実施は終わった 部の兄弟たちは,何百回となくその訴えを聞いてきた。わ しかし聖徒の中には,ウッドラフ大管長が圧力に屈伏し たし自身も,何らかの発表をするようにという訴えを幾度 も耳にしている。指導的立場にある兄弟の中に,このよう たとか,主は多妻結婚をやめるように啓示してはおられな いと言う者がいた。宣言の中には,多妻結婚をやめる理由 に言う人がいる。『多妻結婚の許可を与えるのをやめたの に,なぜそのことを聖徒のために役立てないのですか。な として特定の啓示が採り上げられていなかったので,その ぜ世間に公表できないのですか。教会の敵は,わたしたち ような批判が出たようである。それから1年後に,ユタ準 州のブリガム・シティーで四半期大会が開かれた。ウッド が隠れて多妻結婚を行い,不正直で,法律の網をくぐり抜 けていると主張しています。現在,複数の妻を持つ許可を ラフ大管長はその大会で,多妻結婚の実施をやめるに至っ たいきさつを明らかにした。 与えていないのであれば,なぜそれを公表して,教会のた めに役立てないのですか。』このような意見が繰り返し寄 「わたしは最近幾つかの啓示を,それもわたしにとって せられてくる。しかし,御霊はそうするように指示しては 非常に重要な啓示を受けました。そこで,主がわたしに言 われたことを皆さんにお話ししましょう。『宣言』と呼ば おられないようである。わたしたちは,この件について主 から指示が与えられるのを待っているのである。 」(Millen- れているものを思い出してください。主は啓示の中で,シ オンの多くの会員がこの宣言のために非常に心を痛めてい nial Star『ミレニアルスター』1890年11月24日,p.737) 1890年9月24日,ウィルフォード・ウッドラフ大管長は, るということを告げられました。また衡平法裁判所長官の 前で大管長会と使徒たちが証言をしたことに対しても彼ら み たま 「重大な事柄」について討議するために十二使徒定員会な らびに二人の副管長と会合を持った。ウッドラフ大管長は こうへい は苦しんでいるという。以前には何も特別には聞いていま 25日に次のように記している。「わたしは末日聖徒イエ せんでしたが,あの啓示を受けて以来,わたしはこれらの 事柄で大勢の人々が苦しんでいると聞きました。さて,主 ス・キリスト教会の大管長として,今教会を救うために必 要なことをしなければならない。合衆国政府は,一夫多妻, はわたしにある一つのことを行うように命じられました。 そこで先週の日曜日,わたしはブリガム・シティーでの大 すなわち族長時代の結婚制度を問題として末日聖徒を破滅 させる法を制定した。そこでわたしは主に祈り,主の促し 会でその命令を実行しました。今日この場で,わたしは同 きょう を感じたので,次の宣言を発するに至った。これは副管長 じことを行いたいと思います。主はわたしに,末日聖徒に 対して一つの質問をするように告げられました。また,主 ならびに十二使徒の支持を得ている。〔「宣言」(Manifesto) が続く〕 」(クラーク『大管長会のメッセージ』3:192) はわたしに,彼らがわたしの言うことに耳を傾け,提示さ れた質問に神の御霊と力によって答えるならば,彼らは皆 1890年10月4日から総大会が開かれ,3日目の10月6日に 十二使徒定員会会長のロレンゾ・スノーが,「宣言」を全 同じように答え,この件に関して同じように信じるであろ 会員に提示した。これは全会一致で受け入れられた。 うとも告げられました。 その質問とはこれです。すなわち,末日聖徒が取るべき 385 最も賢明な道はどちらであろうか。多妻結婚を禁じる国の た。ウッドラフ大管長の跡を継いだロレンゾ・スノー大管 法律と6千万の人々の反対があり,すべての神殿の没収と 損失,生者と死者のためのそこでのすべての儀式の中止, 長は,1900年1月8日,ついに次の声明を発表した。「教会 は,合衆国やほかのすべての国における一夫多妻の実施, 大管長会と十二使徒会と教会内の家族の長たちの投獄,な あるいは多妻結婚の挙式をきっぱりと断念した。したがっ らびに人々の個人財産の没収という代価を求められなが ら,多妻結婚を行う努力を続けることか。(これらすべて て,教会の会員や役員は,多妻結婚を実施したり,そのよ うな婚姻関係に入ったりするいかなる権限も持っていない によって,その行為はおのずと中止されるでしょう。)そ れとも,この原則を固く守ることによってこれまで行って のである。 」(『ミレニアルスター』1911年5月4日,p.275) そのほかにも,次のように主張して主の戒めに従おうと きたことを行い,苦しんだ後に,その行為をやめて法律に 従い,そうすることによって,預言者たちと使徒たちと父 しない人がいた。「宣言は社会との関係を良くするために 出されたもので,教会の指導者たちは隠れた所で多妻結婚 親たちを家に残して,彼らが人々を教え,教会の務めを果 を行い,その実施を支持している。」このような虚言を吐 たせるようにし,また神殿も聖徒たちの手に残して,彼ら が生者と死者のために福音の儀式に携われるようにするこ く異端者を黙らせるために,ロレンゾ・スノー大管長の後 継者,ジョセフ・F・スミス大管長は,総大会で次の声明 とか。 わたしたちがこの行為をやめなければまさに何が起こる を発表した。 「さてわたしは皆さんに,例外的な問題を提示しようと かを,主は示現と啓示によってわたしに示してくださいま 思う。わたしがこの問題を採り上げるのは,そうするのが した。もしわたしたちがそれをやめていなかったならば, ローガンのこの神殿でメリル兄弟やアドルフソン兄弟,ロ 適切であると強く感じるからである。皆さんに聞いていた だきたい言葉を正確に伝えられるように,またわたしの話 スケリー兄弟,リッシュマン兄弟,そのほかの人々は必要 とされなかったことでしょう。シオンの全地ですべての儀 が誤解されたり誤って引用されたりしないように,わたし は発表する内容を書き留めてきた。皆さんが正しい行いを 式が差し止められたに違いないからです。混乱がイスラエ することができるように総大会でこの声明を読むのであ ル全体に及び,多くの人が囚人となっていたことでしょう。 この苦難は全教会に及び,わたしたちはその行為をやめる る。 1890年9月24日にウッドラフ大管長により公式に宣言さ ように追い込まれていたことでしょう。さて,その質問と は,このような方法でそれをやめるか,それとも主がわた れ,1890年10月6日の教会の総大会において教会員により 支持された,国法に背く結婚の禁止をうたうウッドラフ大 したちに明らかにされた方法でやめて,わたしたちの預言 管長の発したいわゆる『宣言』に反して,多妻結婚が行わ 者たちと使徒たちと父親たちを自由な人として残し,また あがな 神殿を民の手に残して死者が贖われるようにするか,とい れているとの多数の報告があるため,末日聖徒イエス・キ リスト教会の大管長であるわたしジョセフ・F・スミス うことです。…… わたしは,もし何かを行わなければまさに何が起こるか を見ました。 わたしは長い間この気持ちを抱いてきました。 しかし,わたしはこう申し上げたいと思います。すなわち, もしも天の神がわたしの行ったことを行うようにわたしに 命じられなかったならば,わたしはすべての神殿を手放し, わたし自身監獄に入り,またほかのすべての人もそこへ行 かせたことでしょう。時が来て,それを行うように命じら れたとき,わたしにはそれはすべて明らかでした。そこで, わたしは主の前に行き,主が書くように告げられたことを 書き記したのです。そしてそれをジョージ・Q・キャノン 兄弟, ジョセフ・F・スミス兄弟という信仰堅固な兄弟と, 十二使徒会に提示しました。わたしは民をその正しいと信 じる道からそらせるくらいなら,旗を翻して敵と戦った方 がましだと思っています。これらの人々はわたしに同意し てくれました。そして1万人の末日聖徒もわたしに同意し てくれました。なぜでしょうか。それは,神の御霊とイエ ス・キリストの啓示により,そうするよう心が動かされた からです。 」(Discourses of Wilford Woodruff『ウィルフォー ド・ウッドラフの説教集』pp.214−216) 教会員の中には, 合衆国外で多妻結婚を続ける者がいた。 例えば,多くの会員がメキシコに移住し,そこなら多妻結 婚をやめる必要がないと考えた。また,合衆国外であれば 新たに多妻結婚を行うことができると合理化する者もい 386 ウィルフォード・ウッドラフは啓示によって主のを受けた後, 宣言を発表した は,そのような結婚が末日聖徒イエス・キリスト教会の承 これを確認した。今日教会内にあるいは教会外にも多妻結 認,同意,関知の下に挙行されていないことをここに確認 し,宣言する。わたしはここに,そのような結婚がすべて 婚を行う権能を持つ者は一人としていない。末日聖徒イエ ス・キリスト教会の男女で多妻結婚を行うことを認められ 禁止されており,教会のいかなる役員,会員といえどもそ のような結婚を挙行または執行するならば,その者は教会 た者は一人もいないのである。多妻結婚は認められていな い。わたしたちは,大会で教会の声明によって禁じられて に背いていると見なされ,当教会の規則と規範に従って扱 われ,破門されるであろうということを声明する。」(Con- いる不幸な状態,少なくとも民に不名誉をもたらす状態に 引き込もうともくろんでいるある人々の影響を受けないよ ference Report『大会報告』1904年4月,p.75) うに,全力を尽くして防いでいる。 」(『大会報告』1911年4 ジョセフ・F・スミス大管長は7年後に,教会の立場を 再度強調している。「ウッドラフ大管長,スノー大管長と 月,p.8) それ以来,教会のすべての大管長は,この見解を繰り返 同じくわたしと兄弟たちは以前の大会で,末日聖徒イエ ス・キリスト教会が多妻結婚をやめていることを宣言し, し述べ,多妻結婚の実施に反対するという教会の教義を宣 言してきたのである。 「教会の忠実な ふさわしい男性」 公式の宣言2 なわち,啓示が大管長に授けられ,同時に,その場にいる 歴史的背景 一人一人にも授けられたのである。 そこに集っていたのは, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ アダムの神権時代から時満ちる神権時代に至るまで,神 十二使徒評議会の10人と大管長会の3人であった。祈りの 結果キンボール大管長が答えを知り,わたしたち一人一人 の神権を持つことを許されなかった人々がいた。この方針 のよりどころとなる聖句は,アブラハム1:21−27である。 も,だれにも頼らずに直接与えられた個人の啓示によって それを知った。神権と主の宮の祝福を含む,福音とそれに 神権が与えられない完全な理由は,主によって隠されてき 関するあらゆる祝福と義務を,黒人を含む,すべての国々, 文化,人種に属する人々に与える時が来たのである。その み こころ たが,御 心 にかなうときに知らされるものと考えられて いる。 1978年6月1日,救い主はキンボール大管長に啓示を与え て,神権に関する制限をこの血統から解くことを告げられ た。ブルース・R・マッコンキー長老は,その啓示をもた らした特別な祈りについて次のように述べている。 「1978年の6月1日,大管長会と十二使徒会は,提議され た事柄と,それに含まれるすべての前提事項や原則につい て十分話し合った後,啓示を求めて主に嘆願した。キンボ ール大管長が偉大な信仰をもって熱烈な祈りをささげた。 これはまさに,人々の心を霊的に鼓舞する祈りであった。 み 『教義と聖約』に約束されているように,わたしたちが御 たま 霊の力によって祈るならば,祈りの答えを受け,『願い求 めるべきものはあなたがたに知らされる』(教義と聖約 50:30)のである。願い求めるものがキンボール大管長に 与えられた。キンボール大管長は御霊の力によって祈り, 大管長会と十二使徒会はこの問題に関して完全に一致し, 一つになっていた。 キンボール大管長が祈りを終えたとき,主は聖霊の力に よって啓示を授けられた。…… その際,熱烈な祈りと信仰のゆえに,また御心にかなう ときであったがゆえに,主は深き知恵によって大管長会と 十二使徒会のうえに,その場にいる者がだれ一人経験した ことのない驚くべき奇跡的な方法で,聖霊を注がれた。す すべてのふさわしい男性は神権を行使して祝福を与えることが できる 387 場で起こったことと,もたらされた言葉やメッセージにつ この啓示は1978年9月30日,キンボール大管長の指示を いて,一点の疑いもなかった。 大管長が啓示を受けると,教会統治の原則に従って発表 受けたN・エルドン・タナー副管長により,公式の宣言と して教会員に提示され,総大会において全会一致で支持さ されるが,その発表は大管長会の署名を得たうえで8日後 に行われた。しかしこの場合,啓示を受けたのは,それを れた(Conference Report『大会報告』1978年10月,p.22参 照)。 全教会員と全世界の人々に発表する人,すなわち地上にお ける神の代弁者として支持された大管長だけでなく,すで ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように説明し ている。「この啓示は,わたしたちの伝道活動と世の人々 に述べたようにその場にいた一人一人であった。全員が神 に福音を宣べ伝えるあらゆる業に影響を及ぼす。また,系 殿でそれを知ったのである。 わたしの考えでは, 主がそのような方法を取られたのは, 図の探求とすべての神殿の儀式に影響を与える。さらに, 霊界で行われていることにも影響する。なぜなら,霊界で この啓示がきわめて重大なものであり,手続きや管理の面 で教会の指示全体を一変させ,生者と死者に影響を与え, も福音が宣べ伝えられて,人々は救いと昇栄を受け継ぐ者 となるために,身代わりの儀式にあずかる備えをしている 世の中とのあらゆる関係に影響を及ぼすためであろう。さ の からである。これは,途方もなく重大な啓示である。」 らに言えば,それほど重要であったがために,主は,事の 次第をできる複数の証人を求められたのであろう。」(“All (「神の前では皆平等である」p.2) 神の子らは皆,神の手による業であるから,神はわたし Are Alike unto God” Symposium on the Book of Mormon「神の 前では皆平等である」 『「モルモン書」に関するシンポジウ たちに対して普遍的な愛を抱いておられる。そして,神権 を尊び,主の声に従うすべての人を祝福し,昇栄へと導い ム』p.2) てくださるのである。 警告の声 (A−1)はじめに 特別講座A 主が「ラッパの響き」や「警告の声」を象徴として使わ イエス・キリストの福音の旗が掲げられた時代には,必 しもべ ず権威ある主の僕が召されて,救いのメッセージを人々に れるとき,それは,悔い改めて,腹黒い悪人に対する防備 を固め,邪悪な敵との義の戦いに加わるようにという主の 伝え,警告の声を発した。それは,彼らが教える救いの原 あがな 則の中の喜びの声であり,贖い主に望みを置く家族の中に 呼びかけを意味する。要するに,現代の警告の声は,福音 の真理が回復されたことを示す明確なしるしを世の人々に 正直な人々を求める永遠の真理の声であり,メッセージを 与えるのである。『教義と聖約』のメッセージは,義人に 拒む人々に悲しみと裁きを告げる警告の声である。主は末 日において,あらゆる国民,部族,国語の民,民族に対し とってはヨベルの年を祝うものであるが,悪人にとっては 警告を告げる恐ろしいラッパの響きである。すなわち,栄 て神の警告のラッパを吹き鳴らすために,再び僕たちを召 された。教会に与えられた神聖な務めは明白であり,それ 光の王が降臨されるとき,悔い改めを引き延ばしている者 は即座に滅ぼされるという警告の声である。確かに,それ が達成されたとき,人の子らは言い逃れをすることができ なくなる。世の人々に警告の声を発することは,主の単な は義人にとって,福音に添った生活に伴うすばらしい祝福 と,平和の君の降臨が近いことを告げる喜びの声である。 る願いというより,実に神聖な戒めなのである。 しかし注意を怠る者にとっては,裁きと災いの声である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (A−2)警告の声とは何か そして,最後のラッパが高らかに陣営(この場合は世の中) に鳴り響く間に悔い改めなければ,彼らが霊的な苦悩を味 古代のイスラエルは,エジプトの奴隷という逆境を通し て成熟し,偉大なモーセを通して主から命の息を与えられ わって罰の定めを受けるだけでなく,神の裁きが全世界に 向かって放たれるであろう。 た。モーセがこの疑い深い信者の大集団を率いて荒れ野を いささか大胆な発言に思えるかもしれないが,教会 さまよう間,興味深い伝達手段が採用された。陣営全体に 聞こえるように,ラッパの音を響き渡らせたのである(レ 員であるわたしたちは,救いのメッセージを全世界の 人々に携えて行く責任が自分の肩にかかっていると自 ビ25:9参照)。このラッパの音は非常に大きく(出エジプ ト19:16参照),戦いや危険が迫っているとき(民数10: 覚すべきではないだろうか。 これは到底達成できそうもない責任だろうか。1980 9;エゼキエル33:3参照)と,ヨベルの年を祝うとき(レ 年の教会員総数は,全世界の人口の0.1パーセントを ビ25:9参照)の両方に使われ,イスラエルの民に行動を 起こすように呼びかける警報となった。 わずかに超えた程度である(Ensign『エンサイン』 1980年4月号,p.15参照)。言い換えれば,約1,000人に 388 特別講座A できるだろうか。 教義と聖約1:11−14 もし自分の家が火事になっ て,家族がそれを知らずに寝入っていたら,危険が迫 っていることを大至急伝えようと思わないだろうか。 この世に住む人々に下される大いなる霊的な災いは何 か。それに関するあなたの義務は何か。 教義と聖約1:17−18 回復が行われたおもな理由 は何か。ジョセフ・スミスはこの責任を託された唯一 の人だろうか。第18節の「ほかの者たち」とはだれの ことか。 教義と聖約1:34−35 主は「これらのことを進ん ですべての肉なるものに知らせようと思う」と言って おられる。これはどのような意味か。主が山の頂に現 れて,すべての人に直接警告されないのはなぜか。 教義と聖約1:37 警告の声を上げるようにという 戒めをまじめに受け入れるなら,何をすべきだろう か。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 宣教師は「警告の声」(教義と聖約1:4)を上げる 一人が教会員であるに過ぎないのである。しかし,こ こで忘れてならないことがある。それは,わたしたち の責任はすべての人を改宗することではなく,すべて の人に警告の声を及ぼし,救い主のメッセージを伝え て,選択する機会を与えることなのである。 最初は達成できそうもない責任だと感じるかもしれ ないが,これは『教義と聖約』に明示されているよう に,まさに主が聖徒たちに期待しておられることなの である。以下の聖句を読んで,質問の答えを紙に書き 出しなさい。 教義と聖約1:1−4 終わりの時に警告の声はだれ に伝えられるか。また,だれによってもたらされる か。 次の図は,この聖句に述べられている関係を表した ものである。この聖句はあなた自身にどのように適用 警めの声 (A−3)警告の声はだれに伝えられるか。それはなぜか 救い主が御自身を現すために栄光の雲の中を来られる前 に,「警告の声は,この終わりの時にわたしが選んだ弟子 たちの口を通して,すべての民に及ぶ。……それゆえ,主 の声は,聞こうとするすべての人が聞けるように地の果て にまで及ぶ。 ……主の声もその僕たちの声も聞こうとせず, 預言者たちや使徒たちの言葉も心に留めようとしない者た ちが,民の中から絶たれる日が来る。」(教義と聖約1:4, 11,14)主はさらに,力強い言葉を添えておられる。「主 なるわたしが語ったことはわたしが語ったのであって,わ たしは言い逃れをしない。たとえ天地が過ぎ去っても,わ たしの言葉は過ぎ去ることがなく,すべて成就する。わた し自身の声によろうと,わたしの僕たちの声によろうと, それは同じである。 」(教義と聖約1:38) 世の中は混乱し,すべての国の人々が何を求めるかも分 からずに地を巡り,その一方であらゆる悪の力が神の息子 とりこ や娘を陥れて虜にしている。主は御自分の子供たちに迫る 重大な危機を知っておられたので,主の権能を託された僕 を通して警告の声を送られた。エズラ・タフト・ベンソン 会長は総大会の説教の中で,同じ警告の声を上げている。 ベンソン会長は国々の指導者に対し,悪の道を捨てて天の 神の前にへりくだるように告げ,もし統治者とその民が悔 い改めなければ,邪悪な者がつむじ風を刈り取るように (ホセア8:7参照),恐ろしい裁きと災害が下ると警告し た。 「警告の声は,僕たちの口により,すべての人に伝えら 聖 徒 れている。この声が聞き入れられないときには,滅びの天 使たちがいよいよその数を増して出て行き,全能の神の懲 らしめがそれらの国々に下り,定められたとおり完全な終 局が訪れるであろう。へりくだり悔い改めて主に立ち返る のでなければ,あなたがたは戦争や荒廃など,言い尽くせ 世の人々 ないほどの苦悩を味わうことであろう。統治者とその民が 悔い改めて,その邪悪で不敬な道を歩むことをやめないか ぎり,先の大戦で味わった以上の恐ろしく,また際限のな 389 い破壊が必ず訪れる。神は侮られるような御方ではないか が門を開けてくださるとは思えない。また,わたした らである。神は,性的な不道徳の罪や秘密殺人結社や胎児 の殺害などを決してされない。また,神の聖なる戒めや僕 ちが入る準備をしていないのに主が障壁を取り除いて くださるはずもない。 のメッセージを無視する者も同様である。このような邪悪 に対しては,必ず大きな罰が下されるであろう。世の国々 わたしはこの門戸を開くために使徒たちを助ける人 が出て来ると思う。有能で信頼の置ける政治家が。し は罪のうちに生き延びることはできない。逃れる道は明ら かである。 天には神の不変の律法が厳として存在している。 かしそれは,わたしたちの準備が整ったときである。 」 (『エンサイン』1974年10月号,p.7) 人々や国々がこの律法に従うことを拒むとき,必ず罰が下 そのような準備の成否を決めるのはあなた自身であ される。彼らは滅ぼされるであろう。罪は罰を要求するか らである。 ることが理解できるだろうか。御業に献身して,主に 仕えるために備えたときに,主はわたしたちを用いら それは必ずを伴う。 警告の声が広く宣べ伝えられるとき, 1845年に主イエス・キリストの使徒たちによって発表され れる。それがどのような責任であるかは,だれにも分 からないのである。 の あかし み わざ た偉大な宣言文の中にも,同じように証 が述べられてい ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ る。」(Conference Report『大会報告』1975年10月,p.48) 世の人々は,ノアの時代以来,救いをもたらす福音の真 (A−4)いかなる汚れた者の手も,御業を止めることは できない 理がいっそう必要とされていることを理解していなかっ た。だからこそ,すべての民に回復のメッセージを携えて 終わりの時に神の王国が回復されることについては,古 代のほとんどすべての預言者が予見して記録したが,その 行くために,多くの働き人が召されているのである。スペ 中で最も注目に値するものの一つが,ダニエルによる記録 ンサー・W・キンボール大管長は,すべての国に警告の声 を響かせるうえで,わたしたちが現在また将来必要とする である。預言のあらましは次のとおりである。バビロンの 王ネブカデネザルは,世界で最も名高い都市の一つで堂々 ことについて,次のように述べている。「新しい伝道部が 設立され,教会は自由世界のほとんど全域を覆うようにな たる王座に着いていたが,あるとき夢を見た。王の前に像 が立っていて,その頭は金,胸と両腕は銀,腹は青銅,す った。また現在わたしたちは,いわゆる鉄のカーテンや竹 のカーテンの背後に住む天父の子供たちに福音を宣べ伝え ねは鉄,足の一部は鉄,一部は粘土であった。王が見てい ると,一つの石が人手によらずに山から切り出され,転が る日の来るのを心待ちにしている。わたしたちはその日の って来て像を撃ち,粉々に砕いた。砕かれた像はもみがら ために備えをする必要がある。その準備を急がなければな らない。 その日は, 予想以上に速やかに訪れることだろう。 」 のように,風に吹き払われてしまった。そして,神の教会 と王国の回復を表すこの石は,大きな山となって全地に満 (『大会報告』1979年4月,p.3) 神は,ほとんど不可能に思えるような業を成し遂げ ちたのである(ダニエル2:31−36参照)。 ダニエルの預言の成就は,教会の発展状況に関する報告 る力を持っておられる。キンボール大管長はこの点を に見ることができる。スペンサー・W・キンボール大管長 指摘し,主の僕に行動する備えができる前に主が行動 されるだろうか,と問いかけている。 は次のように発表している。 「統計によると,会員数が100 万に達するのに117年(1830−1947),200万に達するのに 「兄弟たち,わたしは,とにかくわたしたちの力で できる限りのことを行ったならば,主は門戸を開く方 16年(1947−1963),300万に達するのに9年(1963−1972) かかっている。」(『大会報告』1976年10月,p.4)そして, 法を示してくださると思う。これはわたしの信仰であ 400万に達するのに要したのは,わずか6年(1972−1978) る。 『主にとって不可能なことがありましょうか。』これ であった。 大いなる石が転がって,この世のもろもろの王国を撃っ は,サラが自分に男の子が生まれるであろうと言われ たのを聞いて笑ったとき,主が問われたことである。 て粉々に砕くのである。悪魔はこの預言と約束についてよ く知っている。すなわち,悪魔の支配が結局は回復の力を …… 主は,命じるからには必ずそれを成就される。 通して覆されることを承知しているのである。だから,全 力を尽くして神の業を妨げ,破ろうとするのである(教義 わたしたちは,イスラエルの子らが紅海を横切って と聖約3:3参照)。『教義と聖約』の教えによれば,サタン エジプトを脱出したことを知っている。 またわたしたちは,クロス王が川の流れを変えて, は人々をそそのかして,神の王国を破壊するために彼らの 力を使わせようとする。ニーファイは示現の中で,サタン 難攻不落のバビロンの町を攻略したことを知ってい る。 の王国が小羊の教会と戦うために多くの人々を集めるのを 見た(1ニーファイ14:13参照)。しかし,主は次のように リーハイが約束の地に到達したことも知っている。 宣言しておられる。「わたしは彼らがわたしの業を損なう また米国独立戦争があり,神の力によって勝利が与 えられたことも知っている。 のを許さない。まことに,わたしの知恵が悪魔のさに勝っ ていることを彼らに示そう。」(教義と聖約10:43)ニー 主はその心にかけたもうすべてのことを成し得る と,わたしは信じるものである。 ル・A・マックスウェル長老は,そのような戦いの中にい る聖徒たちに次のように警告している。 しかしわたしたちに入る準備ができていないのに主 「皆さんは教会員の中で,教会を去り,しかもその後で 390 特別講座A 教会に攻撃を加える人々を目にするかもしれません。彼ら 思う人は,ふさわしくなるように今すぐ準備をしなければ のことはそのままにしておきましょう。つかの間のこの世 の称賛を受けさせましょう。いずれは全能者の王座に深く ならない。主は次のように命じておられる。『わたしの教 会の長老たちを,遠くにいるもろもろの国民に,海の島々 頭を垂れ,イエスがキリストであり,この業が主の業であ ることを公言するようになるのですから。また,ダニエル に遣わしなさい。諸外国に遣わしなさい。まず異邦人へ, 次いでユダヤ人へと,すべての国民に呼びかけなさい。』 が見た小さな石が容赦なく転がり続けるとき,それを打ち 砕こうとねらっている者たちがいても,決して驚かないで (教義と聖約133:8) このように,全世界の長老たち,長老に聖任される年齢 ください(ダニエル2章参照) 。」(『大会報告』1980年10月, に達した教会の若い男性は,伝道に出ることをひたすら望 p.17) 警告の声は,沈黙することができない。預言者ジョセ み,その準備をする必要がある。現在,教会の若い男性で 専任宣教師として奉仕している人の数は,全体の約3分の1 フ・スミスはこう述べている。「いかなる汚れた者の手も, この御業の発展を止めることはできません。迫害は威を振 に過ぎない。3分の1では『すべての若い男性』とは言えな い。 るい,暴徒は連合し,軍隊が集合し,中傷の風が吹き荒れ また,このように尋ねる人がいるかもしれない。『すべ るかもしれません。しかし,神の真理は大胆かつ気高く, 悠然と出で立ち,あらゆる大陸を貫き,あらゆる地方に至 ての若い女性も伝道すべきですか。それに父親も母親も, しか 教会員はすべて伝道しなければなりませんか。』答えは然 り,あらゆる国々に広まり,あらゆる者の耳に達し,神の 目的は成し遂げられるでしょう。こうして,大いなるエホ りである。男性も女性も子供もすべて,すなわち若人も少 年少女も皆伝道すべきであると,主は答えておられる。こ バは,御業は成ったと告げられることでしょう。」(History れは……わたしたちの受けている福音が真実であることを of the Church『教会歴史』4:540) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 証する責任が,わたしたち一人一人にあるということであ しん せき る。すべての人に親戚や隣人,友人,職場の仲間がいる。 (A−5)警告の声を与えるのはだれか 神のラッパの響きは,すべての国民,部族,国語の民, わたしたちの責任は,模範と教えによって彼らに福音の真 理を伝えることである。 民族に伝えられて,次のように告げなければならない。 おそ み ざ 「神を畏れ,……御座に着いておられる神に栄光を帰しな 『警告を受けた人は皆,その隣人に警告しなければなら ない』(教義と聖約88:81)と,聖典にはすべての教会員 さい。神の裁きの時が来たからである。 」(教義と聖約88: に伝道する責任のあることがはっきりと述べられている。 104)教会の長老たちには警告の声を上げる責任が与えら れている(教義と聖約43:15,19−20,28参照)。 …… 教会が伝道活動を行う最大の理由は,福音を聞き,受け 主は教会員を警告を与える使者と見なしておられるの で,すべての会員は宣教師となり,主のラッパを高く掲げ 入れる機会を世の人々に与えることである。聖典には,福 音を教えることに関した戒めと約束,要求と報いが数多く て警告の声を発する責任がある。そうすることによって, 記されている。わたしがここでことさら戒めという言葉を (1)邪悪な人々は言い逃れができなくなり,(2)会員はこ の世の血と罪から自分自身を清め, (3)義人はあらゆる国 使ったのは,戒めという言葉が,わたしたちが逃れること のできない断固とした指示であるように思えるからであ から集められて救いの祝福にあずかり,迫り来る裁きから 逃れることができる。 る。わたしたち主の教会の会員は皆,伝道活動を行うだけ でなく,この世に住むすべての天父の子供たちに福音を伝 預言者エゼキエルは,塔の上に立って見守る者という概 えなければならない。これが戒めであることは明白であ 念を使って,福音を受け入れた人に伴う責任についての原 則を教えている(エゼキエル3:17−19参照)。『教義と聖 る。」(『エンサイン』1977年10月号,pp.3−4)だれも何ら かの方法で警告の声を上げるという責任から,逃れること 約』も,この責任が預言者だけに与えられたものではない ことを明確に教えている。主は教会の長老たちに次のよう ができないのである。 あなたはバプテスマのときに主と神聖な聖約を交わ に語られた。「見よ,わたしは,人々に証し警告するため にあなたがたを遣わした。警告を受けた人は皆,その隣人 した。その聖約の中には,「いつでも,どのようなこ とについても,どのような所にいても,死に至るまで に警告しなければならない。それゆえ,彼らは弁解の余地 も神の証人になる」 (モーサヤ18:9)という約束が含 がなく,彼らの罪は彼ら自身の頭にある。」(教義と聖約 88:81−82) まれている。この聖約を忠実に果たすことは,あなた にとってどのような意味があるだろうか。 主の教会では,警告のラッパを響かせて世の人々に警告 する責任はだれにあるのだろうか。スペンサー・W・キン 毎週日曜日にを受けるとき,あなたは何かを証明し ていることを神に宣言する(教義と聖約20:77,79参 ボール大管長は次のように述べている。「数年前,わたし 照)。何を証明しているのだろうか。またそれは伝道 は『教会員の若い男性はすべて伝道に出るべきでしょうか』 という質問を受けたことがある。そのとき,わたしは主の 活動に関してどのような意味を持っているだろうか。 キリストは全世界へ出て行くように命じておられ 言葉を引いて,『ふさわしい男性はすべて出るべきです』 と答えた。主は,すべてのふさわしい男性が伝道に出るよ (マタイ28:19−20参照),キンボール大管長はわたし たちに,この命令を文字どおり受け入れて実行するよ うに望んでおられる。したがって自分はふさわしくないと うにチャレンジしている。この業に進んで献身するな 391 らば,それを達成するときにあなたの果たす役割は, く,心として貫かれないものもない。」(教義と聖約1:2) 永遠の見地から深い意味を持つものとなるであろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ まだ答えが与えられていない唯一の質問は,各々の教会員 が自分自身で答えるものである。その質問とは,「わたし (A−6)まとめ 強大な力と,恐ろしい裁きと,輝かしい行く末を持った は仕える決意をしているか」,すなわち「わたしは神の口 から出る一つ一つの言葉によって生きる決意をしている 教会が,人手によらずに切り出されて,全地に満ちた。ま ことに神の王国が上げる警告の声はすべての人々に及び, か」である(教義と聖約98:11参照)。したがって,今こ そ決意をする時である。すでに決意をしているなら,それ 「目として見ないものはなく,耳として聞かないものはな を実行に移す時である。 特別講座B シオンの確立 (B−1)はじめに いをもたらす御業である。」(History of the Church『教会歴 預言者ジョセフ・スミスはシオンを確立することの重要 性を見通して,次のように述べている。「シオンを築き上 史』4:609−610) 『教義と聖約』の主要なテーマは,シオンの建設である。 げるということは,あらゆる時代の神の民が関心を示して きた大義である。預言者,祭司,王たちは特にこのテーマ 預言者ジョセフ・スミスによって述べられた栄光に満ちた 状態を確立することが,多くの啓示の中心になっている。 について語るのを喜びとした。彼らはわたしたちの時代を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 楽しみに待ち望んでいた。天からの喜びのおとずれに胸を 躍らせ,この時代を詩歌に歌い,文章に表し,また預言し (B−2)シオン:心の清い者 『教義と聖約』にあるシオンの定義は,すべての聖文の た。しかし彼らはそれを見ることもなく世を去った。わた したちは神から末日の栄光をもたらすように選ばれた,恵 中で最も単純明快なものである。「心の清い者,これこそ シオンである。」(教義と聖約97:21) まれた民である。この末日の栄光を目にし,それに加わり, 前進させるのはわたしたちの任務である。そのとき,神は スティーブン・L・リチャーズ副管長は,この基本的な 定義について次のように説明している。 天と地にあるすべてのものを集め, 一つとされるであろう。 「『シオン』と『世』の相違をいつも心に留めておくこと そのとき,預言者たちが語ったように,神の聖徒はもろも ろの国民,部族,民族,国語の民の中から一つに集められ, ほど,末日聖徒にとって有益なことはないと思う。どちら の言葉も様々な意味で使用されるので,幾らか混同されて ユダヤ人は一か所に集められ,邪悪な者も滅ぼされるため み たま に集められる。神の御霊は神の民のうえにとどまり,ほか いる。この二つの言葉には,地理的な意味,神学的な意味, また道徳的な意味がある。 の国民から取り上げられる。このようにして天と地にある 今日ここでわたしは,シオンを場所ではなく状態として すべてのものが,まさにキリストにあって一つとなるので ある。天上の神権者は地上の神権者と一致協力し,これら 捕らえ,世の状態と比べてみたいと思う。『主はこのよう に言う。まことに,シオンを喜ばせなさい。心の清い者, の偉大な目的を成就する。わたしたちが,神の王国を進展 させるという一つの大義の下に一致するとき,天上の神権 これこそシオンである。 』(教義と聖約97:21) シオンと世の境にはさくはない。しかしその境ははっき 者がそれを傍観していることはない。神の御霊は天から降 りしており,よじ登れない城壁以上のものがそこに横たわ り注ぎ,わたしたちの真っただ中にとどまる。至高者のも たらす祝福はわたしたちの幕屋に注がれ,わたしたちの名 っている。前者の概念,哲理,目的は,後者のものと完全に 異なっている。世の人々は,尊大で利己的であり,物質的, は後世へと引き継がれる。そしてわたしたちの子孫は立ち 上がって,わたしたちを祝福された者と呼ぶであろう。ま 懐疑的である。しかしシオンの民はで,世に追随すること がなく,しかも神の統治を喜んで認め,その摂理に従う。」 み わざ きょう だ生まれていない子孫たちは,わたしたちが御業の基を据 える際に歩んだ道,耐えた苦難,たゆまぬ熱意,そして克 (Conference Report『大会報告』1951年10月,pp.110−111) ブルース・R・マッコンキー長老は,同じようなシオン 服した数知れない厳しい試練について,特別な喜びをもっ の定義をまとめている。「シオンとは民のことである。シ て語ることだろう。その御業とは,わたしたちの子孫もや がて味わう栄光と祝福とをもたらした御業,すなわち神と オンは神の聖徒たちである。シオンはバプテスマを受けた 人々,聖霊を受けた人々,戒めを守る人々のことであり, 天使が過去の長きにわたり喜びをもって見守ってこられた 御業, 昔の族長や預言者たちの心を燃え立たせてきた御業, 義人たちのことである。言い換えれば,啓示が告げるよう に,『心の清い者,これこそシオンである。』(教義と聖約 そしての力を破壊し,地球を更新し,神の栄光と人類の救 97:21)」(Ensign『エンサイン』1977年5月号,p.117) 392 特別講座B 『教義と聖約』からの以下の参照聖句は,シオンの う。そしてシオンの民はやがて建てられる新エルサレムに 原則についてさらに深い洞察を与えるであろう。 教義と聖約82:19 シオンの目的を達成するのを助 合流するであろう(モーセ7:62−63参照)。」(『エンサイ ン』1977年5月号,pp.116−118) けるために,わたしたちに与えられた方法は何か。 教義と聖約97:10−19 シオンの民を築くのに神殿 そのほかにもシオンの共同社会が,神の聖約の民の間に 短期間設立された。キリストが昇天された後,使徒たちの が重要な役割を果たすのはなぜか。 教義と聖約124:54 心の清い者に約束されている 築いた群れは,エノクの民がしていたように,「心を一つ にし思いを一つにして……いっさいの物を共有にしてい ことは何か。 た。」(使徒4:32)モルモンは,救い主の訪れを受けたニ 教義と聖約97:21 「シオン」と「心の清い者」が 同等の概念であるとすれば,マタイ5:8;教義と聖約 ーファイ人が築き上げたシオンについて記している。この 民は「すべてのものを共有し,皆,互いに公正に振る舞っ 101:17−18などの聖句は,どのように言い換えるこ とができるだろうか。 た。」(3ニーファイ26:19。4ニーファイ1:1−2参照)エ ノクの民のように,これらのニーファイ人には,「民の心 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の中に宿っていた神の愛のために」まったく争いがなかっ (B−3)古代におけるシオンの共同社会の確立 シオンの原則に従って生活する人は,そのような原則が た(4ニーファイ1:15) 。 『教義と聖約』は,これら初期のシオンの民について興 個人の生活と社会とを治める共同体の設立を常に求める。 そのようにして築かれたシオンの民の原型は,エノクの町 味深い情報をさらに与えてくれる。エノクは「主にまみえ, 主とともに歩み,絶えず主の前に」(教義と聖約107:49) にある。ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述 あり,その民は救い主の「懐に」受け入れられた(教義と べている。 「シオンは民の間に幾度も築かれてきた。アダムの時代 聖約38:4。教義と聖約38:4の「注解」も参照)。そして エノクとその民は,末日のシオンが確立されるときに1千 から現在まで,主が御自身の民を持たれたとき,また主の 声を聞き,主の戒めを守る民があるとき,そして聖徒たち 年間,地上に戻されるであろう。この驚くべき約束が見ら れるのは,末日の聖典だけである(モーセ7:63−64;教 が真心から主に仕えたときに,必ずシオンは存在した。 聖典のシオンに関する最初の記述は,エノクとその町に 義と聖約45:12;84:100参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ついてである。卓越した信仰と力とを持つこの預言者は, (B−4)シオン:義人に約束された行く末 父祖アダムがまだこの世に生きていた時代の人である。そ の時代は悪事と罪悪の世,反逆と邪悪の世,戦いと荒廃の シオンの民の確立は,すべての神権時代において可能で あったわけではない。しかし,個々の聖徒は,義と心の清 世,水による地球の清めに向かいつつある時代であった。 しかし,エノクは忠実であった。彼は『主にまみえ』, さをはぐくむことを求めてきた。人間の罪悪は,シオンの 社会の建設を妨げるかもしれないが,個人や家族によるシ 人が人と語るように主と『顔と顔を』合わせて語った(モ オンの原則の実践を妨げることは決してできないのであ ーセ7:4)。……エノクは人々を改宗し,真理に従う信者 たちを集めたが,その民は皆信仰篤く,『主は来て,主の る。 エノクの息子メトセラは,シオンから離れて地上に残る 民とともに住まわれた。そして,彼らは義のうちに』住み, ように定められ,義を説く者となり,ノアの先祖となった (モーセ8:2−3参照)。メトセラの孫に当たるノアは「正 上からの恵みを豊かに受けた。『主はその民をシオンと呼 ばれた。彼らが心を一つにし,思いを一つにし,義のうち しい人」(モーセ8:27;創世6:9)であり,「信仰による に住んだからである。そして,彼らの中に貧しい者はいな かった。 』(モーセ7:18)…… 義を受け継ぐ者となった。」(ヘブル11:7)メルキゼデク は信仰の人であり,義を行った(ジョセフ・スミス訳創世 主が主の民をシオンと呼ばれてから,聖典には,エノク が『一つの町を建て,それは聖なる都,すなわちシオンと 14:26参照)。エノクの町の民はシオンの共同社会を求め て,それを得た(同上14:34参照)。アブラハムは「義に 呼ばれ』 ,また,シオンは『天に取り上げられ』 ,神は『御 自身の懐にそれを迎え入れられ』,『そのことから,「シオ 従う者」(アブラハム1:2)であり,エノクの時代を思い 起こすように命じられ(ジョセフ・スミス訳創世13:14参 ンは消えうせた」という言葉が広まった』と記されている 照),「ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでい (モーセ7:19,21,69)。 主の民が移され,天に取り上げられたのは,れんがやモ た」(ヘブル11:10)。族長や預言者たちは,個人の義を通 してシオンの祝福に関する約束を確かなものとしたのであ ルタルの家ではなく,石の壁でもなく,民であった。それ は地上の建物よりもずっと立派な住まいが天に用意してあ る(教義と聖約133:52−55参照)。この約束は,再臨に備 える時代に再び確認されている。 ったからである。また,これらの義にかなった聖徒たちが 「それゆえ,あなたがたはともに聴きなさい。わたしは 幕のかなたに去った後にも,改宗して義を願った人々が, 神によって造られ基礎の置かれたその町にあこがれ,『天 あなたがたに,まことにわたしの知恵を,すなわち,エノ はらから クとその同胞の神であるとあなたがたが言う者の知恵を示 の力によってシオンに連れ去られた。』(モーセ7:27) 天に取り上げられたそのシオンは,主が再びシオンを伴 してみせよう。エノクとその同胞は地から分けられて,わ たし自身のもとに受け入れられた。それは,義の日が来る って来られる福千年の時代にこの世に戻って来るであろ まで残しておかれる町である。その日はすべての聖なる 393 人々が捜し求めた日であるが,悪事と忌まわしい行いのゆ エノクは示現の中で将来の出来事を目にし,終わりの時 えに,彼らはその日を見いださなかった。彼らは自分たち が地上における寄留者であり,旅人であることを告白した に大きな艱難が起こって,地上に住む主の民を守るために ある手段が必要になることを知った。その手段とは,シオ が,その日を見いだして肉体にあってそれを見るであろう との約束を得た。 」(教義と聖約45:11−14) ンに選民を集めることである(モーセ7:61−62参照)。 『教義と聖約』によれば,真の「中心の場所」に加えて, ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (B−5)シオンの地理的な意味:避け所 シオンのステークも「防御のためとなり,また嵐と激しい 怒りが全地にありのままに注がれるときに,その避け所と 古代のエルサレムは,また特にその都の神殿のある場所 なる」 (教義と聖約115:6) 。預言者ジョセフ・スミスはこ は,シオン山と呼ばれてきた(サムエル下5:7−9;列王 上8:1;イザヤ29:7−8参照)。末日聖徒イエス・キリス の原則を次のように教えている。「救いの場であるシオン がなければ,わたしたちは滅びるに違いない。日が暗くな ト教会の会員は,自分たちの住む場所を指すのに「シオン」 という言葉をよく使った(『信仰箇条の研究』p.456参照)。 り,月が血と変わり,もろもろの星が天から落ち,地が揺 れ動く時が近づいているからである。そしてこのとき,こ かんなん あらし しかし, 『教義と聖約』の中でこの言葉が用いられる場合, れまでの信仰と『聖書』に対する愛を胸に満たして,清め その多くは,特定の民と心の清い状態を指すか,あるいは 末日におけるシオンの中心地,すなわちミズーリ州ジャク られ,神が定められた場所に集合しなければ,わたしたち は滅びるに違いない。耐えることも,救いを得ることもで ソン郡を指している。 シオンについてはほかの聖典の中でも預言されているが きないであろう。なぜなら,神は異邦人の中から聖徒を集 めて,その後に荒廃と滅亡を起こされるからである。集め (3ニーファイ21:22−25;エテル13:2−12;モーセ7: られた心の清い者を除き,だれ一人それから逃れることは 61−64参照),シオンの確立,シオンの律法と原則,シオ ンの場所に関する指示が見られるのは,『教義と聖約』だ できないのである。 」(『教会歴史』2:52) 預言者ジョセフは別の機会に,次のようなチャレンジと けである。預言者ジョセフ・スミスの教えによれば,新エ ルサレムは福千年に備えて建設される最初のシオンの共同 訓戒を与えている。 「わたしたちはシオンを築き上げることを第一の目標と 社会となる。そして「義の地であるため……『聖なる都』 と呼ばれ」(『教会歴史』2:254),ミズーリ州ジャクソン しなければならない。戦争が起こったら,シオンに逃げな ければならない。シオンの建設の業を速めるよう叫ぶ声が 郡インディペンデンスに建設される(教義と聖約45:66− する。最近の啓示には,全地をくまなく巡り歩く前に以上 67;57:1−3参照)。新エルサレムは「中心の場所」 (教義 と聖約57:3)と呼ばれる。すなわち,すべてのシオンを のようなことが起こると言われている。…… 時は近づいている。そのときには,シオンとステーク以 管理する中心の地,いわば首都である(ダイヤー,Refiner’s Fire『金をふきわける者の火』pp.99−104;『教会歴 外に平和を見いだせる所はないであろう。 わたしは,父親が息子の命をねらい,兄弟同士で殺し合 史』5:212参照)。さらに新エルサレムは,「シオンの山」 い,母親が娘を殺し,娘が母親の命をねらうのを見た。ま (教義と聖約84:2),または「主の山」(『教会歴史』6: 319)とも呼ばれる。新エルサレムにその基が置かれると, た,軍隊が軍隊と戦うのを見た。流血と荒廃と火を見た。 かつて人の子は,母親が娘に,娘が母親に敵対するであろ シオンの共同社会の建設が全世界に広がり,シオンのステ ークを通して,シオンの社会は備えられ,強められるであ うと言われた。これらの事柄は,すでに門口まで来ている。 そして,町から町へ神の聖徒たちに付いて回るであろう。 ろう(教義と聖約82:14;101:21;133:9参照)。シオン サタンは怒り狂うであろう。悪魔の霊は今やたけり狂って はまず南北アメリカで発展し(『教会歴史』6:318−319, 321参照) ,最終的には全地に満ちるのである(ブリガム・ いる。これらの事柄がいつ起こるか,わたしは知らない。 これらの事柄を知っているわたしは世の人々に平和を呼ぶ 。 ヤング,Journal of Discourses『説教集』9:138参照) べきだろうか。いや,できない。わたしは声を上げて,そ れらの出来事についてするだけである。いつまで豊作が続 き きん いて,飢饉が途絶えているのか,わたしには分からない。 いちじくの木の葉を見て,夏が近いことを悟りなさい。」 (『教会歴史』3:390−391) あかし 聖典の証によれば,救い主の再臨を間近に控えた時 代に,戦争や大地の変動,自然災害,裁き,惨事など が起こって,この世は引き裂かれる。そのときの混乱 があまりに大きいので,人々は気落ちするであろう (教義と聖約45:26参照) 。来るべき荒廃について読ん だとき,それらに直面せずに生きたいと願わなかった だろうか。もしそうなら,預言された約束の一面しか 理解していないことになる。主は,わたしたちに信仰 と希望を与える約束を何度も繰り返し交わしておられ ノアは「正しい人」(モーセ8:27)であった 394 るからである。 特別講座B 1ニーファイ22:15−17,19,22 義人は恐れるに に嘆願し始めたとしても,驚くには当たらないのである。 は及ばないのはなぜか。 2ニーファイ30:10 義を守る人々には何が起こる やがて主が祈りにこたえられ,シオンの基礎を据えること が許された。しかし,そこに集まった聖徒たちは,そのと か。 モーセ7:61 き(1831年8月)にシオンの町が建設されないということ をよく理解してはいなかった。主は『教義と聖約』の中で, 大いなる裁きにおいて,神はその民 にどのような約束を与えておられるか。 教義と聖約35:14 終わりの時に救われるという約 シオンについて予知しておられたことを明らかにしておら れる。「あなたがたは,この後に起こることに関するあな 束はどこにあるか。 たがたの神の計画と,多くの艱難の後に来る栄光を,今は 教義と聖約45:66 シオンを表すのに,どのような 言葉が使われているか。 肉体の目で見ることができない。 」(教義と聖約58:3) 主は聖徒たちにミズーリ州の定められた地に住むよう命 教義と聖約45:67−70 つの約束は何か。 じたとき,町の建設を始めること以外にも目的を持ってお られた。「多くの艱難の後に祝福は来る。それゆえ,あな シオンに与えられたもう一 ジャクソン郡だけ たがたが大いなる栄光を冠として与えられる日が来る。そ が,迫り来る艱難の避け所だろうか。 スティーブン・L・リチャーズ副管長が指摘してい 教義と聖約101:21;115:5−6 の時はまだ来ていないが,もう近い。わたしが前もってあ なたがたに告げるこのことを覚えておきなさい。そうすれ るように,シオンはおもに場所ではなく状態を指して いる。もちろんシオンと呼ばれる場所もある。しかし, ば,あなたがたはそれを心に留めて,来るべきものを受け ることができる。見よ,まことに,あなたがたに言う。わ そのように呼ばれるのは,シオンの民の現在または将 たしはあなたがたをこの理由で遣わしたのである。すなわ 来の集合地がそこにあるからである。すでに読んだよ うに,預言者ジョセフ・スミスはこう語った。「救い ち,あなたがたが従順であるため,またあなたがたの心が 来るべきことについて証を述べるように備えられるためで の場であるシオンがなければ,わたしたちは滅びるに 違いない。 」「わたしたちはシオンを築き上げることを ある。さらに,あなたがたが基を据えるという誉れと,ま た神のシオンが立つ地について証するという誉れを与えら 第一の目標としなければならない。 」(『教会歴史』2: 52) れるためである。 」(教義と聖約58:4−7) しかし,聖徒たちは重大な誤りを犯した。心の清い民を あなたはシオンに集合する準備ができているだろう 育てなくともシオンの町を建設できると考えたのである。 か。シオンを築き上げることを第一の目標としている だろうか。どこから始めて,どこへ行こうとしている そして,主から引き続き与えられた警告を無視し,暴徒に よってシオンの中心の場所から追い出されてしまった。 のだろうか。シオンの基本的な定義を思い起こせば, 答えは実に簡単である。 シオンは心の状態であるから, 1833年11月までに,聖徒は事実上ジャクソン郡から完全 に退去した。その後の4年間,ミズーリ州の3つの郡で試練 まずそこから始めなければならない。これは現代にお と苦難を受け,ついにはほかの州に追われてしまった いて最も急を要することである。なぜなら主が次のよ うに言われたからである。「報復は神を敬わない者の (『教会歴史』3:175参照)。啓示によると,これらのこと はすべて,民の過ちが招いた結果であった(教義と聖約 うえに旋風のように速やかに及ぶ。そして,だれがそ れを免れるであろうか。 」(教義と聖約97:22) 101:1−2;103:3−4参照)。 聖徒の中にはシオンの民としての資格を備えた人もいた 裁きの日を免れる者はだれか。これこそあなたが知 が,教会員全体としてはふさわしくなかった(教義と聖約 りたいことではないだろうか。主は答えを与えられた (教義と聖約97:25−28参照)。わたしたちがそれを理 105:1−2参照)。シオンを再び築くために必要なことは, 預言者の指示の下に民と教会を備えることであった。主は 解するのは,きわめて重要なことである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ シオンをうための条件,すなわち再び確立するための条件 あがな (教義と を明らかにし,「しばしの間シオンの贖いを待つ」 (B−6)基を据える 初期の聖徒たちは,1830年に出された『モルモン書』に 聖約105:9)と宣言された。これは「わたしの民がもっと 十分に教えを受け……もっと十分に知るため」であった より,またモーセ書に収められたエノクの記録により,終 (教義と聖約105:10)。さらに聖徒たちは「高い所から力 わりの時にシオンが再び確立されることを知った (例えば, 3ニーファイ21:22−28;エテル13:2−12;モーセ7: を授けられ」 (教義と聖約105:11) ,「人々の好意を得るこ とができ,ついにイスラエルの軍勢はきわめて大いなるも 61−62参照)。『モルモン書』の中には,末日にシオンの確 立を求める人々に与えられる祝福が約束されている(1ニ のとなる」(教義と聖約105:26)必要があった。最後に, 主は教会員に次のように指示された。「わたしの軍勢を… ーファイ13:37参照)。また,ジョセフ・スミスに授けら …わたしの前に聖なるものとしなさい。……そして,この れた初期の啓示の中で,人々は「シオンの大義を起こして 確立するように努めなさい」(教義と聖約6:6;11:6; 世のもろもろの王国が,『シオンの王国は,まことに我ら の神とそのキリストの王国である。だから,その律法に従 12:6)と命じられた。 したがって,預言者ジョセフとその民が,シオンを築く おう』と認めざるを得なくするためである。」(教義と聖約 105:31−32) 場所を知るために,またそれを築くと許可を得るために主 シオンの地が放棄されてからすでに1世紀半になるが, 395 教会は主から与えられた条件を満たすために努力を続けて を築き上げなさい。あなたをその市民とし,家族と友を与 いる。教会はより完全な状態で教えを授け,経験を積ませ て,主の民を備えている。そして聖徒たちは,主から求め えられた,その地にシオンを築き上げなさい。シオンは南 米のこの地にある。この地のシオンに住む聖徒たちは,こ られたように,その数を増しつつある神殿において力を授 けられている(教義と聖約105:10−11参照)。 れらの諸国に良い影響を及ぼすのである。また良い影響を 及ぼすべきである。 ブルース・R・マッコンキー長老は,シオンを確立する 3つの時期について次のように述べている。 神は御業の発展を促す政策を進める国を祝福されるであ ろう。 」(『エンサイン』1977年5月号,pp.116,118) 「末日におけるイスラエルの集合とシオンの確立は,3つ こん にち 以下に挙げる『教義と聖約』からの参照聖句は,今 の時期または段階に分けられる。第1期はすでに過去のこ とであり,わたしたちは今第2期にいる。そして第3期は, 日の教会の中にシオンを築くためにどのような備えを すべきか,わたしたちの理解を深めてくれる。 将来訪れる。…… 第1期は,最初の示現や1830年4月6日の王国の設立, 教義と聖約6:6(11:6;12:6) 主の戒めは何か。 1836年4月3日のモーセの訪れなどから,合衆国とカナダに 教義と聖約63:29−31 シオンに関する シオンの土地の入手につい おいて教会が確立されるまでの約125年間である。 第2期は,合衆国とカナダ以外の地域でシオンのステー て与えられた条件は何か。 教義と聖約82:14 シオンは一つの場所に限られる クの建設が始まった1950年代から,人の子が再臨されるま での時期である。その期間は知られていない。 だろうか。 教義と聖約109:59;115:6 第3期は,主の再臨から王国が完成して『水が海に満ち るように主を知る知識が世界に満ちる』 (2ニーファイ21: 9)までと,それからさらに福千年の終わりまでの1千年間 どこがシオンの地に なるか。それらの地にも及ぶ約束は何か。 教義と聖約124:36 業は何か。 シオンの地で行われる特別な である。」(“Come: Let Israel Build Zion”「来れ,イスラエ ルよシオンを築け」 『エンサイン』1977年5月号,p.115) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (B−7)末日のシオンの建設 現在世界中に設立されているシオンのステークは,シオ ンの町や国を築く備えをするうえで不可欠な要素である。 シオンを建設するための準備は,教会のプログラムの中 で引き続き行われているが,最も大切な要因は個人の備え マッコンキー長老はさらに次のように説明している。 である。スペンサー・W・キンボール大管長は,犠牲と献 「現在がそうだが──主はわたしたちに来るべきことの 基礎を据える責任を課しておられる。わたしたちには,人 身を通してシオンを築く備えをするというチャレンジにつ いて,その概要を説明している。 の子の再臨に対して民に備えをさせる責任が与えられてい る。わたしたちはすべての国民,部族,国語の民,民族に 「長年の間,わたしたちは,末日のシオンを築くことを 一つの大きな目的として働き,希望を持ち,この御業に励 福音をべるように召されている。聖なる都に再び栄光をも むように教えられてきた。そのシオンとは,愛と一致と平 たらす御方の再臨に備えて,シオンの基礎を置き,すべて のことを準備するように命じられている。…… 安のあるシオン,主の子供たちが一つとなっているシオン である。 シオンのステークも地の果てにまで組織されつつある。 ……シオンのステークはシオンの一部である。シオンの一 わたしたちの将来の状態と,わたしたちの努力のもたら す結果がどうなるかは,現在の福祉事業に対する自分の義 部を作らずに,シオンのステークを作ることはできない。 務を理解し,それを果たすときに,ビジョンとして心の中 シオンは心の清い者である。わたしたちはバプテスマと従 順とによって心の清さを得る。 にはっきりと浮かんでくるに違いない。このことは,教会 ステークは地理的な範囲を持つ。ステークの創立は聖都 の建設に似ている。地上のステークはどれも皆,その地域 に住むイスラエルの失われた羊たちの集合場所である。 ペルー人の集合の地は,ペルーのシオンのステーク,も しくは将来ステークとなる場所である。チリ人の集合の地 はチリ,ボリビア人の集合の地はボリビア,韓国人の集合 の地は韓国,東西南北,全世界を通じて集合の地はそのよ うな場所である。各国に散らされたイスラエルはキリスト の羊の群れに,各国に建てられるシオンのステークに呼び 集められている。…… すなわち,イスラエルは一人一人,一家族一家族,地上 の全地に築かれるシオンのステークに集められ,やがて全 地が福音の実によって祝福されるのである。 そのため,教会の指導者たちはこう勧告する。シオンを 築き上げなさい。神があなたを置かれたその国に,シオン 396 シオンの精神は無私の奉仕に見られる 特別講座B のすべての活動についても言える。…… 和を保って働くようにしなければならない。決意を一つに やがてこの〔力と贖いの〕日が来ることだろう。わたし たちはその日のために働いているのである。このことを考 し,行動に一致がなければならない。主は,『各人がそれ ぞれ自分の兄弟を自分自身のように』(教義と聖約38:24) えるときに, 皆さんは王国の大いなるき御業の内にあって, 自分の本分を尽くし,歩幅を広げ,歩みを速めなければと 尊ぶようにと聖徒たちに告げた後,大会に出席した教会員 に,互いに協力し合うようにという指示を与え,次のよう いう気持ちにならないだろうか。わたしはそのように感じ ている。わたしはこのことから,シオンを打ち建てる御業 な力強い言葉をもってその指示を結ばれた。 『見よ,わたしはあなたがたに,これを一つのたとえと において自分の本分を尽くそうとするときに,自分と家族 して告げた。これはまさにわたしのようである。わたしは に与えられる数多くの奉仕と犠牲の機会を心から喜んでい る。…… あなたがたに言う。一つとなりなさい。もしもあなたがた が一つでなければ,あなたがたはわたしのものではない。』 『もしも民が自分の義務を怠り,神から与えられた聖な る戒めに背を向け,富を追い求め,神の王国の利益をない (教義と聖約38:27)…… 第3に,わたしたちは祭壇を築いて,主によって求めら がしろにするならば,わたしたちはもっと長くこの地にい れるものは何でも犠牲としてささげなければならない。そ ることになるだろう。恐らく,わたしたちが予想している 期間よりもはるかに長くいることだろう。』(Journal of のためにはまず, 『打ち砕かれた心と悔いる霊』 (教義と聖 約59:8)をささげる必要がある。次いで,自分に託され Discourses『説教集』11:102) 不幸にもわたしたちは,シオンの価値をまったく受け入 た務めと召しに最善を尽くす。そして,自分の義務を理解 し,それを完全に果たす。最後に,指導者から要請された れようとしない世界に住んでいる。バビロンはいつの時代 とき,また御霊のささやきに促されたときに,自分の時間 にもシオンを理解しない。…… シオンは心の清い者の中にのみ築き上げられるのであっ と才能と財産を奉献する。わたしたちは,福祉制度のみな らず,教会においても,自分の持つあらゆる能力,あらゆ て,貪欲な目をもって駆け回る民とは無縁である。欲のな い,清い民のみがシオンに住む。外見の清い民ではなく, る義なる望み,あらゆる思慮に富んだ行動力を発揮するこ とができる。ボランティア,父親,ホームティーチャー, 心の清い民である。シオンはこの世に築かれるが,この世 からは築かれない。また,世俗の感に惑わされないし,物 監督,隣人,あるいは訪問教師,母親,主婦,友人,その いずれであっても自分のすべてをささげる機会は豊富にあ 質主義によって力を失うこともない。シオンは低い秩序に る。わたしたちは犠牲をささげるときに,犠牲が天の祝福 属するものではない。精神を高め,心を清くする,高い秩 序に属するものである。 をもたらすことを知る。そして最後に,それが決して犠牲 でないことを理解するのである。」(『大会報告』1978年4 『隣人の益を図るように努め,また神の栄光にひたすら 目を向けてすべてのことをなす』(教義と聖約82:19)人 月,pp.122−124) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ どんよく は皆,シオンである。わたしは,シオンは心の清い人々, (B−8)まとめ シオンのために働く人々によってのみ建てられると理解し ている。なぜならば,『シオンで働く者は,シオンのため 各自が心の清い者となるために努力することは,シオン の建設に不可欠の条件である。昔の預言者たちの例が示し に働くべきである。もしも金銭のために働くならば,滅び るであろう』(2ニーファイ26:31)とあるからである。」 ているように,シオンの民となり,シオンの社会を築くこ とは,不可能なことではない。末日聖徒イエス・キリスト (『大会報告』1978年4月,pp.119,121−122) 教会の一つの使命は,シオンの民を備え,シオンの社会を キンボール大管長は,個人の生活の一部とすべき特別な 事柄について,具体的な指示を与えている。 再び築くことである。これは,ミズーリ州ジャクソン郡に おける新エルサレムの建設に始まる。シオンの確立という 「心の中にこのビジョンを持つことは非常に大切である が,単にシオンを定義づけ,言葉で述べるだけでは,シオ この輝かしい使命を果たせるように,教会は聖徒に直接働 きかけて援助を与えている。聖徒たちは,預言者ジョセ ンを実現することはできない。教会員一人一人が日々絶え ず努力を重ねることによってのみ可能である。したがって, フ・スミスが勧告したように「シオンを築き上げることを 第一の目標」 (『教会歴史』3:390)とするならば,ジョセ どのように苦しくても,また犠牲を要求されても,わたし フに与えられたモロナイの次の預言が成就するのを目にす たちはそれを行わなければならない。『実行』,これはわた しの大好きな言葉である。再びシオンをもたらすために, るであろう。「完全なる福音が……すべての国民に権威を の 」 もって宣べ伝えられ,人々を福千年の統治に備えさせる。 (『教会歴史』4:537) わたしたちが行わなければならない3つの基本的な事柄が ブリガム・ヤング大管長の次の勧告は,聖徒をシオ ある。わたしたちはシオンのために働こうとするならば, これら3つの事柄を行うことを決意しなければならない。 ンの建設へと導く動機づけとなる。 ここで,その3つの基本事項を提案したい。 まず第1に,わたしたちは魂を迷わせ,心をさせ,思い 「わたしたちがシオンを造ろうという気持ちになれ ば,シオンを造ることができる。この業は各自の心の を暗くする自己本位な考え方を捨てるようにしなければな らない。…… 中から始まる。一家の主人が自分の家の中にシオンを 造ろうと望めば,その人はこの良い業を進めるうえで 第2に,わたしたちは完全な協力体制を敷き,互いに調 手本を示さなければならない。そのためには自分がシ 397 オンの精神を備えていなければ不可能である。家族を が小麦を生産したり,家を建ててそこに住むときと同 聖める業に着手する前に,まず自己を聖めなければな らない。そうすれば神はこの人が家族を聖めるのを助 じ原則で自由にできる。とうもろこし,小麦などを生 産するもととなる材料がなかったことは一度もなかっ けてくださる。 民がシオンを造ろうと心に決めさえすれば,地上に た。このいつも存在する材料を賢明に管理し,用いれ ば,いつでも神のシオンを地上に築くことができる。」 きよ シオンを造るのに神の手の業の中で不足するものは何 もない。神のシオンを地上に造るときも,わたしたち (Discourses of Brigham Young『ブリガム・ヤング説教 集』p.118) 特別講座C 個人の啓示を受ける (C−1)はじめに 『教義と聖約』の偉大な貢献の一つとして挙げられるの なってしまう。敵は他のだれよりもそのような人々を暗黒 と不信に導いて行くことだろう。 」(『福音の教義』p.7) は,個人の啓示を受ける過程について新たな理解が得られ たことである。だれでも人生の大切な問題やチャレンジに 啓示をもたらす様々な手段について知ること,すなわち 啓示を受けるためにどのように備え,求め,そして生活の 対処するために,自分の力を超えた助けを必要とすること がある。しかし,啓示の過程を経験していない人は,その 中でその祝福にあずかるかを知ることは,個人の霊的福利 に不可欠である。 ような援助がもたらされる方法について誤った期待を抱い ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ てしまう。神との交わりを持つようになるには,真心から の努力と経験が必要である。ジョセフ・F・スミス大管長 (C−2)啓示とは何か 主は神の子供たちと交わるときに様々な手段を使われる は,啓示について大切な勧告を与えている。 「しるしを求めるのは,邪悪で不義な時代の人々である。 が,聖典にはその実例が数多く記されている。マリオン・ G・ロムニー副管長は,啓示の過程を次のように説明して 教会に固く立つために,奇跡やしるし,示現を必要とする いる。 末日聖徒がいるなら,わたしに教えてほしい。そうすれば, 彼らが神の前に正しく立っておらず,滑りやすい道を歩い 「祈りは人が主に語りかける手段である。同様に,啓示 は神が人と交わられる手段である。神は様々な手段を用い ていることを示そう。わたしたちが真理に対して確信を得 るのは,奇跡的な現れによるのではなく,神の戒めと律法 て啓示を与えられる。例えば,神は自ら言葉をもってアダ ムの祈りにこたえられた。アダムとエバは,『エデンの園 に謙遜に,忠実に従うことによるのである。初めて伝道の の方向から彼らに語る主の声を聞いた。 』(モーセ5:4) 業に携わった少年のころ,わたしはよく外に出て行って, あかし 証が得られるよう何かすばらしいことを示してください, そのほかに,主が直接に御 姿 を現されることもある。 …… と主に願ったものだった。しかし主はわたしに特別なこと を示されなかった。むしろ,ここにも少し,そこにも少し 預言者ジョセフ・スミスは,御父と御子の訪れを受けた という証を残している。 〔ジョセフ・スミス−歴史1:16− と,教えに教え,訓戒に訓戒を加えて,といった方法でわ たしに真理を示してくださった。そしてわたしは全身で真 17参照〕 時々主は人と交わるために代理を遣わされる。例えば, 理を知り,疑いや恐れは完全に一掃された。そのために天 主は預言者ジョセフ・スミスに何回にもわたってモロナイ からいが遣わされたり,天使長のラッパで語りかけられた み たま りする必要はなかった。生ける神の御霊の静かな細い声の を遣わし,指示を与えられた(ジョセフ・スミス−歴史 1:28−59参照)。 ささやきによって,すべての人々に,彼らの心に残る真理 の知識を与えてくださることだろう。そうするときに人々 主は時々夢や示現,例えばダニエルの夢やニーファイの 示現などの手段によって人と交わりを持たれた。 けんそん み すがた は,神が今御存じのように真理を知り,キリストが行って エノスは,『再び主の声がわたしの心に聞こえて,次の おられるように御父のを行うようになることだろう。そう でなければ,幾ら驚嘆すべき現れがあっても,このことを ように言われた。「わたしはあなたの同胞を,わたしの戒 めを守る勤勉さに応じて訪れよう」』(エノス1:10)と言 成し遂げることはできないだろう。天の要求と地上の神の 王国に定められた秩序に謙遜に従う態度こそが,人を真理 っている。 わたしはこの種の啓示があることを証したい。なぜなら に定着させるのである。天使の訪れを受ける人がいるかも わたしはそれを経験したからである。 しれない。 あるいは示現や夢を見る人がいるかもしれない。 しかし,忠実で,心が清くなければ,容易に敵のえじきに ……わたしは,主の啓示がどのような方法によって下さ れるかよく知っているので,そのことについて証を述べた 398 はら から 特別講座C い。啓示は主御自身の言葉,自らの訪れ,主の使者,夢, 教義と聖約121:45−46 主と交わるために自らを 示現,または心に聞こえる主の声を通して下される。 しかし,ほとんどの場合,啓示は静かな細い声でわたし 備えるには,どのような条件を満たす必要があるか。 オリバー・カウドリは,『モルモン書』の翻訳を実 たちに下される。 」 (Conference Report『大会報告』1978年4 月,pp.75−76) 際に行うことを願い,そのための力を求めた(教義と 聖約8章参照) 。しかし,主と交わる過程における自分 『教義と聖約』によれば,この静かな細い声は,主が神 の子供たちに啓示を与えられるときに最も頻繁に使われる の責任を理解していなかったので,啓示を受けること ができなかった。オリバーの経験から,どのような教 手段である。「まことに見よ,あなたにってあなたの心の 訓が得られるか。 中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあな たの心に告げよう。さて見よ,これは啓示の霊である。」 教義と聖約9:6−7 啓示がもたらされることにつ いて,オリバーはどのような誤解をしていたか。 (教義と聖約8:2−3) ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように述べて いる。「この啓示は,御霊が霊に語られるということ,す なわち聖なる御霊がわたしたちの内にある霊に語りかけら れるということを示している。その方法は人知をもってし 教義と聖約9:8−9 主は選択の自由の原則をどの ように使うことを望んでおられるか。自分の意思を働 かせた後,どのような方法で答えが与えられるか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (C−3)啓示を求める ては不可解であるが,霊的な理解力を持つ者には分かりや すく明解である。知識や知性,真理,また神に関する確か 個人の啓示を受けるうえで,その人の態度や努力は非常 に大切な要素である。スペンサー・W・キンボール大管長 な知識がもたらされるのである。これはすべての人に適用 は,個人の選択の自由が重要であると教えている。「主は される。 」(New Era『ニューエラ』1980年6月号,p.49) 啓示の過程において聖霊の果たされ役割は,預言者ジョ 民に無理強いをなさらない。民は信仰がなければ啓示を受 けないであろう。民は自分の限りある思慮,判断に頼って セフ・スミスの次の言葉の中で明確にされている。「聖霊 は啓示者であられ,だれも啓示を受けずに聖霊を授かるこ 満足しているならば,当然,主は彼らを自らの選択に任せ られる。 」(『大会報告』1977年4月,p.114) とはない。 」(History of the Church『教会歴史』6:58) 最も頻繁に使われるこの啓示の手段について,『教 『教義と聖約』はよく知られている聖典のテーマ,すな わち啓示を求める方法について,繰り返し教えている。 義と聖約』はさらに次のことを教えている。 「あなたは求めれば,啓示の上に啓示を,知識の上に知 教義と聖約6:15,23 オリバー・カウドリは, 『モ ルモン書』の版が真実であるという証を願い求めた。 識を受けて,数々の奥義と平和をもたらす事柄,すなわち 喜びをもたらし永遠の命をもたらすものを知ることができ この節で主は,どのようにしてその証が与えられたか を思い起こすように言われた。主はなぜオリバーに語 るようになるであろう。 」(教義と聖約42:61) 「与えられると信じて,信仰をもって,わたしの名によ られたのだろうか。どのようにして主からの答えはも って父に求めなさい。そうすれば,あなたがたは人の子ら たらされたか。その答えには,どのような慰めが伴っ ていたか。 に必要なすべてのことを示す聖霊を受けるであろう。」 (教 義と聖約18:18。教義と聖約88:63−65も参照) 教義と聖約11:12 預言者ジョセフの兄ハイラム は,人を導かれる聖霊の力について教えを受けた。ど マリオン・G・ロムニー副管長は,個人の啓示を受ける 過程において,求めることが大切な要素であると説明して のような特質が,御霊の導きを表しているか。 いる。 教義と聖約11:13 これらの特質は,どのようにし てハイラムにもたらされたか。聖霊の導きには,どの 「わたしは最も大切な神との交流の手段について少しお 話ししたいと思う。まず最初に,人が神に語りかける祈り ような慰めや援助が伴うか。『教義と聖約』は数多く の例の中で,啓示を受けるために主と交わる方法を教 について,2番目に神が人に明らかにされる啓示について お話ししたい。…… えている。 教義と聖約19:28 しばしば特別な祝福を求める手段として祈りをささげる ことがある。しかしその中には感謝や賛美,礼拝,崇拝な マーティン・ハリスは,どのよ うな方法で主を呼び求めるように命じられたか。 どの気持ちを含まなければならない。…… 教義と聖約20:47 わたしたち教会員に常に与えら れるべき励ましは何か。 神が最も頻繁に繰り返し人に与えておられる戒めが祈り であることからも,祈りがいかに大切であるかが分かる。 教義と聖約23:6 わたしたちが「世の人々の前に」 すべきことは何か。 …… 祈りの目的は……『広大な空間を満たすために神の前か 教義と聖約68:28 主と交わるこの過程に関して, ら発している』(教義と聖約88:12)御霊,すなわち光と 両親は子供にどのような援助を与える責任があるか。 『教義と聖約』は,わたしたちに必要な準備につい 自分自身の調和を図ることである。その光の中にわたした ちに必要なすべての答えを必ず見いだせるに違いない。 て教えている。 教義と聖約121:36 祈りは扉を開け,わたしたちの生活の中にキリストを招 き入れるである。 「天の力」は,何の原則によ ってのみ運用されるか。 主は言われた。『見よ,わたしは戸の外に立って,た 399 たいている。 だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら, 備えを生活の一部にしなければならない。ボイド・K・パ わたしはその中にはいって彼と食を共にし,彼もまたわた しと食を共にするであろう。』(黙示3:20)」(『大会報告』 ッカー長老は,この備えに関する大切な指針を紹介してい る。 「知恵の言葉を守りなさい。 1978年4月,pp.73−75) スペンサー・W・キンボール大管長は,個人の祈りを改 善するために次のような指示を与えている。 聖典を読みなさい。 両親や教会の指導者に聞き従いなさい。 「わたしは賛美歌が好きだが,中でも『祈りは魂の』 (『賛美歌』83番)の歌詞を忘れることができない。祈り 良識で考えて霊感を受ける妨げとなるような場所や物か ら遠ざかるようにしなさい。 は,そのようにわたしたちが天父と話をする特権である。 この時満ちる神権時代の幕開けを告げるきっかけとなった 自分の霊的な力を伸ばしなさい。 霊の電波障害や混信を調整する技術を身に付けなさい。 のも,一つの,特別な祈りであった。一人の若者の口を通 偽りの答えに注意しなさい。 して語られた祈りの言葉から始まったのである。わたした ちが声に出して祈ることができない場合は,心と思いによ 聖霊から霊感を受けて導かれるようにしなさい。…… 信号電波には霊の信号電波があり,これは絶えず送信さ ってひそかに祈ることもよいが,祈りがあまりしばしば心 の祈りになることのないようにしていただきたい。 れている。したがって祈る方法と祈りの答えを聞く方法を 知り,霊の耳を澄ましてさえいれば,皆さんは晴れた空で ちゅう ちょ 祈りをささげるときに,家族とともに祈ることを躊 躇 あらし も嵐の空でも,戦火の中でも安全に飛ぶことができる。 しないでいただきたい。特に,朝晩の家族の祈り以外にも 必要なときは家族を集めていただきたい。必要が多くなれ 祈りはすでに最も一般的なものになっている。わたした ちはしばしば祈りについて,特に求めることについて教え ば,それだけ祈りも多く,熱心にしなければならない。 幼い子供たちは,両親の祈りを聞いて,天の御父に語り る。 しかし,答えを受けることについては,まだ十分に教え かける方法を学ぶものである。子供たちは,皆さんの祈り られていないと思う。これはきわめて私的なことであり, が胸を打つ誠実なものであることにやがて気づくであろ う。しかし,型にはまった祈りをそそくさとささげれば, 個人的なことであり,各人が自分で知るべきものである。 」 (『大会報告』1979年10月,pp.30−31) 子供たちはそのことも感じるであろう。 これは非常に難しいことだが,個人的なひそかな祈りで 個人の備えの基本は,清い器となり,御霊の導きを受け るにふさわしい者となることである。この条件については, ない場合,祈りは,祈りを聞いている人がどう思うかと考 ほかの聖典同様, 『教義と聖約』の中でも教えられている。 えるのではなく,柔和な気持ちで正直に神と心を交わすよ うに心がけた方がよいと思う。祈りを聞いている人が, 「絶えず徳であなたの思いを飾るようにしなさい。」(教 義と聖約121:45) 『アーメン』と言ったならば,それは彼らが賛成している こと,承認していることの証拠である。言うまでもなく, 「永遠の厳粛さを心にとどめなさい。」(教義と聖約43: 34) 祈りの状況も考慮する必要がある。これが,公の祈り,あ るいは家族の祈りだけでは十分ではない理由である。 心の思いは,啓示を受ける備えをするうえで最も大切な 要素である。マリオン・G・ロムニー副管長は,それが霊 時間や秘密を守ることなどに心を煩わす必要のない個人 的な事柄を受け入れる能力に及ぼす影響について,次のよ の祈りは,何か特別なことを祈る最も良い機会である。も しもこの特別な個人の祈りの中で,主から離れるようなこ うに述べている。 こん にち 「これまでもそうであったように,今日の世の中におい とがあれば,それは,幾つかの祝福がわたしたちから差し 控えられることを意味している。結局,祈るとき,わたし ても,いちばん大きな問題はそれぞれの心の中にある。す かっとう べての人は,心の葛藤に苦しんでいる。自分が心に抱く事 たちは全知全能の御父の前に請い願う者とならなければな 柄に思い悩むのである。しかしよく考えてみると,その原 らないのである。それならば,なぜわたしたちは,自分が 困っているとき,祝福を必要としているときに,自分の思 因は自分自身にあることが分かる。人の思いは行動となっ て表れるものである。その昔,賢者はこの偉大な真理を次 いや感情を抑えて主に祈るのをためらうのだろうか。わた したち末日聖徒は,頻繁に祈りができるようになりたいも のように言い表した。『ひととなりはその心に思うそのま まであるからだ。 』(欽定訳箴言23:7) のである。 肉欲から逃れ,自分自身が立派で気高い人格を築きたい 祈りの終わりに時間を取って祈りの答えに耳を傾けて も,また救い主が祈られたように,『しかし,わたしの思 と思い,子供たちにもそれを望むならば,心の中に真理と 正義の原則が根を下ろすように絶えずこの原則を心に留 いではなく,みこころが成るようにしてください』(ルカ 22:42)と常に祈っても,わたしたちにとって支障となる め,子供たちにもそれを教える必要がある。…… 兄弟姉妹の皆さん,世俗的な欲望を断ちたいと思いなが ものは何もないはずである。」(『大会報告』1979年10月, pp.4−5) ら,心の思いを御霊にかかわることで満たさないことは, わたしにとってまったく不合理としか言いようがない。」 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (C−4)啓示を受ける:個人の備え 個人の啓示を受けるには,霊的な感受性を強め,個人の 400 (『大会報告』1980年4月,pp.88−89) 特別講座C 啓示を受けたことが分かりますか。」ボイド・K・パッカ ー長老は次のように答えている。 「啓示というものはわたしたち一人一人が受けることの できるものであると教えられている。わたしが啓示に関し てよく尋ねられる質問に,こういうものがある。『啓示を 受けたかどうかはどうして分かるんですか。わたしはこの 問題について祈り,断食し,また祈り,さらに祈ってみま した。でもどうすべきかまだ分かりません。誤りを犯さな いためにも,霊感を受けたということは一体どうしたら分 かるのか教えてください。』 まず第1に,問題を携えて主のもとへ行き,あなたに代 わって決定をしてくださるよう主にお願いしていないだろ うか。自分で考えて,啓示について読み,熟考し,祈り, そして自分で決定を下しているであろうか。善悪をわきま えているのであるから,その観点から問題を判断し,決定 を下すことである。それから主に,その決定が正しいかど うかを尋ねるのである。主がオリバー・カウドリに,心の 中でよく考えるように言われたことを忘れないでほしい。 これだけはよく覚えておいてほしい。わたしたちが愚か にも監督や支部長や主のもとへ行き,わたしたちに代わっ て決定を下してくださるよう頼んだとしたら,そこには自 立心のかけらもないということである。皆さんがだれか他 「ひととなりはその心に思うそのままであるからだ」(欽定訳箴 言23:7) の人に代わって決定を下してもらうとしたら,それだけで どれほど貴重な時間を失うことか,考えてみてほしい。 もう一つのことをお話ししたいと思う。でも,この話を (C−5)啓示を受ける:霊的な交わりの認識 預言者ジョセフ・スミスは,自分で啓示を受けることの 重要性を強調している。「自分以外の人が味わった経験や 啓示を幾ら読んでも,それはわたしたち自身が置かれてい る状況や神とわたしたちとの関係について真の理解を与え てくれるものではない。このような事柄に関する知識は, 神がこの目的のために定められた律法を体現することによ ってのみ与えられるのである。」(History of the Church『教 会歴史』6:50) 預言者ジョセフは,さらにこう述べている。「神の御霊 誤解しないでほしい。よく若い人々の中で,ある物事につ いて誠心誠意,一生懸命祈ったのだからもう自分たちで決 定を下す必要はないと思っている人々がいる。例えば,あ る夫婦が家を建てるに必要なお金を持っていたと仮定しよ う。この夫婦は,どのような建築様式にするか,絶えず祈 っていた。しかし,恐らく主はこのようなことにはさほど 関心をお持ちではないのではないかと思われる。皆さんに もこのような経験はないであろうか。自分たちの建てたい ものを建てればよいのである。それは好みの問題である。 多くの点で,わたしたちは自分たちのしたいことができる について学び,それを理解することにより,啓示の原則を 実践できるようになる。 」(『教会歴史』3:381) のである。 ただ,主が非常に関心を持っておられることもある。ま 預言者や聖典の教えによれば,神からの言葉すなわち啓 ず家を建てるつもりなら,それにかかわる経費を正直に払 わなければならない。また建てる方としても立派な仕事を 示は,思いと心(教義と聖約8:2参照)に告げられ,御霊 は霊に語りかける。それにもかかわらず,多くの人々はそ の過程を理解せずに,何か五感に訴えるような方法でメッ セージがもたらされるのを待っている。ボイド・K・パッ カー長老は,御霊が語りかける方法を次のように述べてい る。 「わたしは,霊感が音声よりも感じとして来る方が多い ことを知るようになった。…… 主はわたしたちに勧め,導き,教え,警告するために, 心の中に清らかな英知を注ぐ道を備えられた。したがって, 皆さんは自分が知る必要のあることを今すぐにでも知るこ とができる。霊感を受けられるようになることである。」 しなければならない。そして晴れて入居の暁には,その中 で義にかなって生活しなければならない。こういうことこ そ大切なのである。 時折,自分たちのしたいことをしても,主は恐らくそれ を喜んで承認してくださるようなことに関してまでも,勧 告を求めに来る人々がいる。おかしなことであるが,そう いう人々は,自分たちが何かしたいと思ったそのことに心 のとがめを感じているのである。たとえそれが正しいこと でもそう感じるのである。主は御自分の与えられた自由に はきわめて寛大な御方である。わたしたちは善に従うよう になればなるほど霊的にも自立するようになり,自由も独 (『大会報告』1979年10月,pp.28−29) 立心も確固たるものとなってくる。主はこう言われた。 教会員はしばしば次のような質問をする。「どうすれば, 『もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら,あなた 401 がたは,ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を 「時には問題に苦しみながら,なかなか答えが得られな 知るであろう。そして真理は,あなたがたに自由を得させ るであろう。』(ヨハネ8:31−32)」(Ensign『エンサイン』 いこともあるであろう。何が間違っているのだろうか。 何も間違っていないのに答えが来ないのかもしれない。 1975年8月号,p.89) マリオン・G・ロムニー副管長は,霊的な自立という神 また反対に,正しいことを十分に行っていないのかもしれ ない。忘れてはならない。霊的な事柄は強制できないので 聖な原則を用いて自分の行いを再確認している。 「わたしは祈るとき,聖典の教えに従うように努めてい ある。 わたしたちは,『いいえ』という答えを受け入れようと る。問題に直面したら,まず祈りの気持ちをもっていろい しないがために,あれこれ悩むことがある。…… ろな解決策を頭の中で思い巡らす。そしてその中で最良の ものを選ぶ。次に,祈りによってその問題を主に差し出し, 難しい問題を心の奥にしまい,生活に立ち向かうように しなさい。そのことについて深く考え,ひそかに絶えず祈 正しい選択をしたいことを告げ,さらに自分が正しいと判 断した事柄を告げる。そして,もしわたしの判断が正しけ りなさい。 答えは稲妻のようにはやって来ないかもしれない。ここ れば,かつてオリバー・カウドリに約束されたように胸を に少し,あそこに少し,『教訓に教訓,規則に規則を加え』 内から燃やしてくださいとお願いする。自分の心の中に, (教義と聖約98:12)少しずつ霊感として与えられるかも 安らかな啓発された気持ちがわけば,主が正しいと教えて しれない。 おられるのである。もし心の思いが『鈍く』なるならば, 主は別の答えを求めておられるのである。そこでわたしは, 聖典を読んでいるときや,あるいは説教を聴いていると きに得られることもある。また時には,非常に大切なこと 再び同じ方法で別の答えを探す。 であれば直接に強い霊感によって与えられることもある。 最後にもう一度繰り返したい。わたしは,主が心に感じ させるという方法をもって祈りにこたえてくださるとき, そのささやき声は明らかであって間違えることがないはず である。 」(『大会報告』1979年10月,pp.29−30) それを知ることができる。 主の御霊によってもたらされる霊感と,霊感によらない 自分の祈りを評価する際に,次の質問が役立つであ ろう。 自己の望みや希望との区別をはっきり知ることができれ ば,わたしたちは決して過ちを犯すことはないであろう。 自分で努力をせずに,答えを求めていないだろう か。 わたしはこのことを証する。」(New Era『ニューエラ』 1975年10月号,p.35) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (C−6)啓示を受ける:「教訓に教訓」 教義と聖約の明確な教えによれば,ほとんどの場合,啓 劇的な方法や特別な方法で,天からメッセージがも たらされることを期待していないだろうか。 だれもが知っている良識や徳性の命じることを行わ ずに,答えを受けられるだろうか。 示は「教訓に教訓,規則に規則を加える」(教義と聖約 98:12)ようにして与えられ,霊的な進歩成長は一時にで はなく,徐々に達成される。わたしたちは「啓示の上に啓 示を」(教義と聖約42:61)受けるのである。中には,祈 りの答えが来るのを待ち切れない人がよくいる。その人は, 何の答えもなかったかのように思い込むかもしれない。あ るいは, 答えが自分の期待していたものと違っているので, 満足できないのかもしれない。現代の使徒ボイド・K・パ ッカー長老は,次のような助言を与えている。 「ステーク会長,支部長,監督,その他,わたしたち中 央幹部のところへも,勧告を求めて多くの人々がやって来 る。しかしそのほとんどは,彼らが混乱しているからでも, 善悪の区別がつかないからでもない。心の奥深い所に,自 分で悪いとは知りながらやってみたいことがあって,それ を認める決定をしてもらおうと思ってやって来るのであ る。 何か問題があれば,まず自分の心の中で考えてみてほし い。深く考え,分析し,熟考するのである。聖典を読んで ほしい。その問題について祈ってほしい。わたしは,重大 な決定は強制されるべきものではない,ということを経験 から知っている。 」(『エンサイン』1975年8月号,p.88) パッカー長老は,別の説教の中で次のように述べてい る。 402 主は戸の外に立って,たたいておられる 特別講座C 心から祈っているだろうか。 罪を毛布で覆い隠してはいないだろうか。優しい神に あわ 祈りの答えに耳を傾け,それを求めているだろう か。 憐れみを請うているだろうか。 あなたは祈りの答えを得ているだろうか。代価を払 適切な準備をしただろうか。 答えが与えられたことを主に感謝しているだろう わなければ答えは得られない。あなたは決まり切った 言葉を並べ立ててはいないだろうか。親しく主に語り か。 ほんとうに答えを求めているだろうか。 スペンサー・W・キンボール大管長は,これらの質 かけているだろううか。祈るべきときにいつも祈るよ うにしているだろうか。…… あなたはどのように耳を傾け,理解し,判断すれば 問に答える際に役立つ助言を与えている。次の助言を 注意深く研究し,自分が啓示を受けるために行う努力 よいか知っているだろうか。主はいつもたたいておら れる。主は決して戸をたたくのをおやめにならない。 に,どのように適用できるか考えなさい。 「たいていの人は時折,重大な決定をしなければな けれどもまた,わたしたちに強いることも決してなさ らない。 もしわたしたちが離れることがあるとすれば, らない事態に出会う。主はその決断をするときのため 離れたのはわたしたちの方であって,主ではない。祈 に道を備えてくださった。学校や職業の選択,住む場 所,結婚相手など,そのほか重大な問題があるとき, りの答えが得られないとしたら,自分の生活を調べて 原因を見つける必要がある。当然していなければなら わたしたちはその問題を解決するためにまず自分にで きることをすべて行う必要がある。わたしたちはオリ ないことをしていなかったり,してはならないことを していたりという場合があるものである。目や耳の働 バー・カウドリのように努力もしないで答えを求めて きを鈍らせているのである。…… いることがあまりにも多いのではないだろうか。主は オリバー・カウドリに次のように言っておられる。 わたしたちがその覆いを取り除いて素顔でへりくだ り,生活を清めて心から嘆願するならば,祈りはこた 〔教義と聖約9:7−9〕 主はわたしたちの祈りにこたえてくださる。これは えられる。…… わたしたちは確認の儀式を受けたとき,聖霊を受け 真実である。しかし,時々,わたしたちの方が敏感で ないために,いつ,どのようにして答えが与えられて るように命じられた。聖霊には,わたしたちを捜し出 いるか分からないことがある。ある人々は『壁に書き の同胞を,わたしの戒めを守る勤勉さに応じて訪れよ 記された文字』や天使の語る声,天からの声のみを求 める傾向がある。また,しばしば不合理なことを願い う。』(エノス1:10)自分の生活を研ぎ澄まされた清 いものとするなら,また努力して主との交わりを求め 求める。そこで,主はこのように言っておられる。 『これらのものを軽んじないようにしなさい。求めて るなら,わたしたちは聖霊の訪れを受け,聖霊を常に はんりょ 伴侶とし,それによって平安を得ることができるであ す義務はない。主はこう言われた。『わたしはあなた はならないものを求めないようにしなさい。』(教義と ろう。 聖約8:10) 信仰は行いを伴わなければならない。主に知識を授 感謝をしているだろうか。それともお願いをするば かりだろうか。あなたは道端のらい病人のようではな けてくださるように願っても無駄なように思えるかも しれないが,主は,わたしたちが知識を得たり積極的 いだろうか。彼らは憐れみを請うて癒されたが,寛大 な救い主に感謝をささげるために帰っては来なかっ に勉強したりできるように,また明確な考え方や教わ た。」(『ニューエラ』1978年3月号,pp.16−17) いや った事柄を覚えていられるように助けてくださる。し かし,スピード違反をしていたり,体に有害なものを ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (C−7)まとめ 摂取していながら,主の加護を求めるのは愚かなこと である。自分で何の努力もしないで物質的な事柄を求 個人の啓示を受けることは,この世での実際の過ちを避 けるために,すべての人が必要とすることである。神がそ められるはずがない。行いの伴わない信仰はむなしい ものだからである(ヤコブの手紙2:20参照)。 の子供たちと交わるときに使われる手段を知れば,そうし た交わりを持てるようになる。神にかかわる事柄は自分で まれにしか祈りをしていない人は,なぜもっと定期 知ることが大切である。預言者ジョセフ・スミスは次のよ 的に,またもっと頻繁に,そして熱心に祈らないのだ ろうか。それほど時間が惜しいのだろうか。それほど うに述べている。「聖典を調べなさい。書物として公にさ れている啓示を調べ,真理が明らかにされるよう御子イエ 人生は短いのだろうか。それほど信仰が弱いのだろう か。あなたはどのように祈っているだろうか。取税人 ス・キリストの名により天の御父に願い求めなさい。疑わ ずに主の栄光にひたすら目を向けてこれを行うならば,天 のようにだろうか。それとも尊大な役人のようにだろ の御父は聖なる御霊の力によってあなたにこたえられるで うか。…… あなたは個人でひそかに祈るとき,主の前に自分の あろう。あなたは他人の力ではなく,自分で知ることがで きる。そしてあなたは神の知識について人に頼らなくて済 すべてを明らかにしているだろうか。凝った洋服をま とって,自分の徳が見えにくいようにはしていないだ むようになるであろう。また,推測する必要もなくなるで あろう。 」(『教会歴史』1:282) ろうか。あなたは自分の良さばかり強調して,犯した 403 『教義と聖約』の貢献── イエス・キリストについての 理解を深める (D−1)はじめに 特別講座D 界と万物の創造主となられ,さらに数限りない世界の創造 すべての忠実な末日聖徒の目標は,永遠の命を得て神の 主ともなられたのである。 もとで生活することである。全人類はアダムによって堕落 し,罪と汚れに支配される者となったので,すべての人は わたしたちは,イエスが『旧約聖書』のエホバであられ ると信じている。父なる神はこの御方を通して,古代のす キリストのに頼り,救い主を通してのみ,神の最も大いな るである永遠の命にあずかることができるのである(教義 べての預言者たちと交わり,御自分の思いと望みを明らか にし,救いの計画を明らかにされたのである。 と聖約6:13;14:7参照)。『教義と聖約』は,そのことを キリストは古代の人々に福音を啓示された。アダムに始 する証人であり,救い主に関するわたしたちの理解を深め てくれる書物である。この聖典には,主の役割,神聖な属 まって現代に至るまで,各々の神権時代にそれを示された のである。福音の中に示されてきたすべてのものは,また 性,使命,栄光に満ちた再臨などが,すべて簡明に教えら れている。また,人とキリストの関係や,永遠の命を得る いかなる形にせよ福音に関連するすべてのものは,キリス トについて証を述べ,その神聖な使命を確認することを目 というわたしたちの責任についても説かれている。 的 と し て い る の で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1948年 10月 , ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (D−2)キリストなるイエスの永遠の役割 pp.23−24) 救い主は世の光であられる。救い主のこの特別な役割に 全能の神エロヒムは,かつて地上で生活した人や,これ から生を受けるすべての人の霊の御父であられる。神の霊 ついて,ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述 べている。 の子供たちは,実に数え切れないほどである。前世におけ るこの強大な群衆の中に,永遠の父なる神のような者が立 「主が世の光であられるという言葉には,少なくとも次 の3つの意味があり,それぞれが互いに関連し合っている。 たれた(アブラハム3:24参照) 。この御方は,エホバ,す 1.キリストの光を通して,主は宇宙を支配統制し,万 なわちわたしは有るという大いなる者の名で知られていた (教義と聖約29:1;39:1;109:34,42,56;110:3− 物に命を与えられる〔教義と聖約88:6−10参照〕 。 2.広大な宇宙を満たすこの光により,また忠実な者に 4;128:9;ジョセフ・スミス訳出エジプト3:13−15;出 エジプト6:3;詩篇83:18;イザヤ12:2;26:4;ヨハネ 対しては聖霊の力により,主は人々の『目を明らかに』し, 『理解を活気づけ』られる〔教義と聖約88:11〕 。 8:58;アブラハム2:8参照)。人類の救い主イエスとして 3.高潔で罪のない完全な生活を送ることにより,主は, あ 地上に来られたのは,この御方であった。『教義と聖約』 は,救い主の永遠の役割について明確な理解を与えてい 前世と現世, また復活後の栄光における完全な模範を示し, すべての人に『わたしに従いなさい』(2ニーファイ31: る。 エホバはエロヒムの霊の長子であられた(教義と聖約 10)と言うことがおできになる〔教義と聖約45:4参照〕 。」 マッコンキー長老は,さらに続けている。「キリストの 93:21参照)。その資格を備えておられたからである。そ 光についてのわたしたちの理解は限られている。有限の力 して御父が所有しておられるものをすべて受け継ぐ正当な 相続人となられた。このようにして,御父によって定めら や能力では,無限のものを理解することはできないからで ある。しかしわたしたちは,以下に挙げるような基本的な れた救いの計画を遂行する責任が,偉大なエホバに託され た。またこの計画によって,神の霊の子供たちは,従順を 原則については知っている。 1.それは神の前から発している広大な宇宙を満たす光 通して御子と共同の相続人になる機会を得たのである(ヒ である。したがってすべての場所に存在する〔教義と聖約 ュー・B・ブラウン,Conference Report『大会報告』1963 年10月,p.92参照)。 88:12参照〕。 2.それは神の力であり,万物が治められる律法である 救い主は万物の創造主であられる。『教義と聖約』はこ の原則を教えている(教義と聖約14:9;29:31;38:3; 〔教義と聖約88:13参照〕。 3.それは万物に命を与える神聖な力である。もし完全 45:1;76:24;93:10;95:7参照)。 救い主の前世での役割に関して,ブルース・R・マッコ に取り上げられるようなことがあれば,生命は滅びる〔教 義と聖約88:13参照〕。 ンキー長老は次のように述べている。 あかし 4.それは,世に生を受けたすべての人の目を明るくし, 「これはわたしたちが信じ,わたし自身が証することで あるが,イエス・キリストはわたしたちの天の父なる神エ 理解を活気づける〔教義と聖約84:46参照〕 。…… 5.それはすべての人を励ます(聖霊は証はするが,励 ロヒムの霊における長子であられる。イエスは前世で生活 する間に,至高の英知と,進歩と,従順とによって,神の まさない)。ただし,人々が真理と光に背いた場合は,励 ましがなくなる。すなわち,御霊が取り去られる〔教義と 段階にまで到達された。そして御父の指示の下に,この世 聖約88:7;93:9参照〕。 404 特別講座D 6.その声に聞き従う人々は,キリストのもとに来て福 たま もの 音を受け入れ,バプテスマを受け,聖霊の賜 物 を授かる (モロナイ7:12−18;教義と聖約84:43−53;88:7−13 参照)。」(Promised Messiah『約束されたメシヤ』pp.208− 209)マッコンキー長老が挙げている各々の原則は,すで に示したように,『教義と聖約』によって実証されている のである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (D−3)イエス・キリストの永遠の属性 救い主の生来の特質は,聖典全体にわたり,様々な属性 として示されている。これらの神聖な特質は,御父の思い と望みに完全に従うことにより,救い主の中に完成された ものである(教義と聖約93:11−17参照。救い主が御父の 属性を受けられた方法については,その「注解」を参照す る)。死すべき人間にとってこれらの属性を理解すること は,神への信仰を行いに示すうえできわめて重要である。 預言者ジョセフ・スミスは次のように説明している。「天 の神が人類に御自身の属性を知らしめた真の目的は,人が 神の属性の存在を知ることによって,神への信仰を行いに 示すようになり,信仰を行いに示すことによって永遠の命 を得られるようになることである。なぜなら,神の属性が あることを知らなければ,人は永遠の命を得るために神へ の信仰を実践することができないからである。」(Lectures on Faith『信仰に関する講話』4:2) 主は公正な御方であり,世を裁かれる 預言者ジョセフ・スミスが教えた主の属性の中には,知 あわ 識,信仰すなわち力,正義,裁き,憐れみ,真理などがあ る(『信仰に関する講話』4:41−43参照)。『教義と聖約』 はそれらの属性について証し,わたしたちの理解を深めて いる。 キリストは全能であられる。御父のに完全に従うことに しょくざい より,イエスは贖 罪を成し遂げ,御自身の言葉によれば, 「一切の権威を保持」された(教義と聖約19:3。教義と聖 救い主は全知であられる。一部の人々は,救い主と父な 約49:6;61:1参照)。『教義と聖約』はほかの標準聖典と 同じように,神会に一切の権威があると証している。この る神でさえもいまだに新たな知識を学んでいるという教え に固執してきた。この考えは,神はすべてのことを御存じ 宇宙に主の手をとどめる力は存在しないのである(教義と 聖約38:33参照)。『教義と聖約』の中には「力」という単 であられるという聖典の教えと矛盾する(教義と聖約38: 2;88:6,41;2ニーファイ2:24;9:20;モルモン8: 語が200回以上出てくるが,そのほとんどは神の力のこと 17;モロナイ7:22参照)。神がまだ学んでおられるという を,また主の民のためにそれが使われることを証してい る。 誤った概念について,ブルース・R・マッコンキー長老は 次のように述べている。 キリストは正義と裁きの源であられる。救い主を信じる 信仰がもたらす大きな慰めの一つは,いつの日かすべてが 「挙げ句の果てには,神は宇宙という大学に籍を置く学 生で,現在新たな真理と今まで知らなかった耳新しい知識 正されて正義が行われる,という知識である。人間には生 を学ぶために多忙な生活を送っているという,あきれて物 が言えなくなるような説を支持している人もいるのです。 何というさげすみでしょうか。全能の主なる神を刻んだ 像や動物,宇宙に漂う霊,真理を学び続けてはいるが決し てあらゆる真理を身に付けることのできない存在と同じに ぼうとく 扱うとは(2テモテ3:7参照)。これは冒 とも言うべき行 為です。 」(『大会報告』1980年10月,p.75) 神がお持ちの知識には,過去,現在,未来を見通して理 解することが含まれる(教義と聖約130:7参照)。預言者 ジョセフ・スミスが『モルモン書』を翻訳していたとき, マーティン・ハリスが116ページ分の原稿を紛失したが, この話は神の先見の力を示す良い例である(モルモン言 1:3−7;教義と聖約3,10章参照)。 まれつき,誤りを正し,勘定を清算し,従順には祝福,不 従順には罰という公正な報いを与えるように求める性質が 備わっている。主が『教義と聖約』の中で数え切れないほ ど証しておられるように,主は公正な神であられ,すべて の人は裁かれて,従順な行為には祝福を,悔い改めていな いすべての罪には罰を受けることになる(例えば,教義と 聖約3:4;10:28;39:16−18;82:4;84:102;107: 84;109:77参照)。 救い主は憐れみの御方であられる。神の恐ろしい力と, 裁きをもたらすという約束について知りながら,神の完全 な愛と憐れみについて無知である人は,恐怖や落胆に陥る であろう。『教義と聖約』には,悔い改める人に憐れみと しを約束する多くの聖句に加えて(例えば,教義と聖約 3:10;29:1;38:14;54:6;61:2;76:5;88:40参 405 しもべ 照),神の僕と民に対する深い憐れみと愛のこもった救い を知るならば,神に信頼を置く人々の胸には恐れは存 主の言葉が記されている。 「神の戒めを忠実かつ熱心に守りなさい。そうすれば, 在しないであろう。そのような人々の信仰は揺らぐこ とはないのである。 」(『信仰に関する講話』3:19) わたしはあなたをわたしの愛の腕の中に抱くであろう。」 (教義と聖約6:20) 同じ原則が救い主のすべての属性に当てはまる。わ 「息子たちよ,善を行うのを恐れてはならない。」(教義 たしたちは,神がすべてのことを御存じであると確信 しなければ,神の知らないことを尋ねているのではな と聖約6:33) 「小さい群れよ,恐れてはならない。」(教義と聖約6: いかという不安に襲われるであろう。また,神が寛容 で憐れみ深い御方であると信じられなければ,自分が 34) 「今から後,わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」(教義と ふさわしくない状態を痛感して救いの望みをたちまち 聖約84:77) 失ってしまうであろう。 この正しい理解を持つことは簡単なことに思えるの 「あなたがたを友と呼ぼう。」(教義と聖約93:45) 「わたしはまた,愛する者たちを懲らしめる。……わた で,多くの人は,神の属性を正しく理解するという条 件を自分は満たしていると思い込んでしまう。しかし, しはあなたがたを愛してきた。」(教義と聖約95:1) 救い主は真理であられる。この属性は,おもに『教義と わたしたちは,活発で献身的な末日聖徒の中でさえ, 神の性格や属性に関する理解が欠けていることを表す 聖約』の内容から理解することができる。すなわち,真理 は光であり(教義と聖約84:45;88:6−7参照),真理は 言葉をよく耳にする。以下に挙げる実例では,神の性 永遠であり(88:66参照),真理とは現在あるとおりの, 格や属性についてのどのような理解が欠けているだろ うか。 過去にあったとおりの,また未来にあるとおりの,物事に ついての知識である(教義と聖約93:24参照)。救い主が A:どうして神様は,こんなに太って見栄えのしない 体をわたしに下さったのかしら。おかげで,だれ 世の光であられ,キリストの光がこの世に来るすべての人 を照らすならば,そして真理が光であるならば,論理的に もデートに誘ってくれないわ。 考えて,救い主は真理の源であるだけでなく,その本質が B:集会が終わってから監督室に呼ばれて,伝道に出 ることを考えていますかと聞かれました。すべて 真理であるということになる。 ブルース・R・マッコンキー長老は次のように説明して の若い男性に伝道の義務があることは知っていま すが,女性もそうなのでしょうか。わたしは24歳 いる。「キリストは真理であられる。すなわちあらゆる真 理を完全に包含しておられる。『わたしは道であり,真理 で,まだ結婚していません。伝道に出たら,オー であり,命である。』(ヨハネ14:6。エテル4:12参照) ルドミスにならないでしょうか。監督さんは,祈 るように勧めてくださいました。でも,怖いので 『わたしは真理の御 霊 であり……。』(教義と聖約93:26) キリストは真理の擁護者であり,真理の啓示者であり,真 す。もし伝道に行くようにという答えが返ってき たらどうしましょう。わたしは行きたくないので み たま 理の唱道者であられる。キリストの言葉は真理であり,キ リストの業はすべてそれにかなっている。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.810。教義と聖約93:12−13, 16−20,28,36も参照) す。 C:わたしは妊娠していることに気づく前に,病院で もらった強い薬を飲んでしまいました。産科の先 すべての聖典は神の属性について証し,教えている。そ 生からは,その薬の影響で,知能障害のある子供 の生まれる確率が非常に高いと言われました。そ して『教義と聖約』もほかの標準聖典とともに,力強い証 の声を上げているのである。 して,堕胎するように強く勧められました。わた しはその勧めを聞いて不快感を覚えましたが,も 預言者ジョセフ・スミスの教えによれば,「神の性 格,完全さ,属性に関する正しい概念は」信仰を持つ しそのような子供を持つことになったらどうすれ うえで不可欠な要素である( 『信仰に関する講話』3: ばよいのでしょうか。 せい さん D:わたしは3年の間,聖餐を受けていません。以前 4)。さらにジョセフは,それが真実である理由を次の ように説明している。「神の性格に見られる数々の属 に道徳的な罪を犯したからです。 監督に告白して, 求められたことはすべてしました。でも,自分が 性を知ることは,命と救いを得る信仰を神ただ御一方 に向けるために欠かせないことである。なぜなら,人 汚れていてふさわしくないと感じるのです。いつ がもしも第一に神を神として,すなわち万物の創造主, になったら聖餐を受けられるのか,見当もつきま せん。 支え守る者として信じないならば,命と救いを得る信 仰を神ただ御一方に向けることはできないであろう。 E:わたし自身の深刻な問題を解決できずに悩んでい ます。もう1年近くも祈り続けて,主に答えを求 神の計画をくじく神よりも偉大な者が存在するので, わたしたちの神も異教の神と同じように約束を果たす ことはできないのではないかと恐れるからである。し かし,神は永遠から永遠まですべてを支配する神であ り,万物の創造主,万物を支え守る者であられること 406 めてきました。いまだに何の答えもありません。 主はわたしの祈りにこたえてくださらないのでし ょうか。 以上の実例は,神のいずれかの属性に対する信仰が 揺らいでいることを表している。このように言うと本 特別講座D 人は驚くかもしれないが,彼らは神の本質をある程度 す。またわたしに対して完全な愛を抱いておられ 疑っているのである。彼らの生活を変える神の力や, そのような状態が起こるのを許された神の知恵,愛, ます。ですから答えがないのは,関心がないため でも,解決法が分からないためでも,その力がな 寛容,赦し,関心などに疑問を抱いている。しかし, 救い主の属性を信じてそれに頼るならば,別の方法で いためでもありません。何か正しい理由があるに 違いないのです。わたしに必要なのは,信仰と悔 それぞれの問題に対処することができるであろう。 A:この世で受けている体は,肉体的な美しさを目的 い改めかもしれません。あるいは,主はもっと大 切なことを教えようとしておられるのかもしれま ゆる とするものではありません。救い主について学ん せん。わたしは失望せずに,忍耐強く待ちます。 で確信したのですが,主が問題にされるのは,内 面的な美しさです。もし外面的な美しさがわたし 主の御心にかなう時が来るまで。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ の救いに欠かせないものであるなら,主は別の体 を下さっていたでしょう。ですから,外見をでき (D−4)イエス・キリストの永遠の使命 キリストによってのみ,救いは可能になる。イエス・キ るだけ魅力的にするように努力はしますが,わた リストは神であられるので,死すべき体でありながら,ほ しのほんとうの願いは,霊的に美しくなることで す。 かのだれもが持ち得なかった権能と力を生まれながらに有 しておられた。また神の独り子であり,御父御自身の権能 B:正直に言えば,伝道に出たくありません。それに 女性であるわたしは,専任宣教師として働くよう と英知を受け継いでおられた。キリストは完全な御方であ ったので,全人類の罪を負い,悔い改めを条件に人々を罪 に求められていないかもしれません。でも,御 の苦しみから救うためにその苦悶を受けることがおできに 心を知る必要があります。わたしは神様を信頼し ています。もし伝道に出るようにという答えがあ なった。 イエスは霊における弟妹の罪を負う力を持っておられた れば,わたしにとってそれがいちばん良いことな のでしょう。また,出ないようにという答えがあ ばかりでなく,御自ら進んでそうされ,偉大な愛を示され た。イエスは贖罪と呼ばれる自発的な行為によってこのい れば,罪の意識を感じることなく,家にとどまる ことができます。わたしは神様に祈って,御心を を成し遂げ,全人類の罪を引き受けられた。救い主の激し い苦しみは,ゲツセマネの園に始まり,カルバリで終わっ 伺おうと思います。 た。ルカの記録によれば,ゲツセマネの園での苦しみがあ み こころ C:堕胎についての主の御心は明らかで,誤解の余地 がありません。わたしは胎内の尊い命を消し去る まりに激しかったため,「その汗が血のしたたりのように 地に落ちた。 」(ルカ22:44)多くの学者たちは,この聖句 つもりはありません。夫と一緒に断食して主に祈 り,妊娠期間中,すべてが順調にいくように願い を文字どおりの意味ではなく,として説明しようとしてき た。すなわち,イエスはひどく汗をかかれたが,実際に毛 求めます。わたしは夫が持っている神権による祝 穴から血を流されたわけではない,というのである。しか 福を受けます。もしこの赤ちゃんが障害を持って 生まれてくることが主の御心であるなら,それが わたしにとっても,家族にとっても,赤ちゃんに とっても,最善のことなのです。これがわたしの 信仰です。 D:キリストは罪の代価を支払うために,ゲツセマネ く もん の園と十字架の上で,計り知れない苦悶を受けら れました。わたしが犯したような重大な罪の代価 を払っていただくには,厳しい条件があります。 しかし,一生懸命に努力してその条件を満たして いるとすれば,わたしは自分自身を赦そうとしな いために,主から与えられる賜物を拒んでいるの ではないでしょうか。主の憐れみはわたしを清め て余りあるとキリスト御自身がおっしゃっている のに,どうしてその言葉を否定することができる でしょうか。 E:わたしは問題の答えを求めて,真心から熱心に祈 ってきました。まだ答えが与えられませんが,こ れには何らかの意味があります。神はわたしにつ いて,またこの問題にかかわるあらゆる状況につ いて御存じです。神は一切の権威を持っておられ るのですから,望むことは何でもおできになりま カール・ブロック作「キリストの埋葬」デンマークのフレデリ クスボル城所蔵,フレデリクスボル国立歴史博物館の許可を得 て掲載 407 し『教義と聖約』は,イエスが耐えられた途方もない苦し 与えられている名である。この名のほかには,人に救いを みを詳細に伝えて,学者たちのもっともらしい説明を論破 している(教義と聖約19:15−19;76:69参照)。 与えることのできる名は与えられていない。……それゆえ, 人々は自分が呼ばれる名を知らなければ,わたしの父の王 キリストは肉体と霊の双方において,神でなければ耐え 国に住む場所を得ることはできない。」(教義と聖約18: られない苦しみを受けられた。御自ら進んで杯を受けられ たのである。主がおられることによって神聖な場所となっ 21−25) キリストの名を信じて戒めを守る人々は,安息を見いだ た園で,イエスは「すべての人が悔い改めて自分のもとに 来ることができるように,主はすべての人の苦を引き受け すであろう(教義と聖約38:4参照) 。その安息は,神のも とにおける永遠の命である(教義と聖約45:3−5参照) 。 た。」(教義と聖約18:11)その苦痛の激しさについて,マ リオン・G・ロムニー副管長は次のように述べている。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (D−6)栄光の中のキリストの来臨 さかずき 「イエスはゲツセマネの園に入って行かれ,そこでひどく 1836年4月3日,カートランド神殿でジョセフ・スミスと 苦しまれた。もちろん十字架上でひどく苦しまれた。十字 架の刑によって死んだ人はほかにもいる。事実イエスが十 オリバー・カウドリの前にエリヤが現れて,マラキの預言 を成就した(マラキ4:5−6;教義と聖約110:13−16参 字架上で亡くなられたとき,その左右に十字架につけられ た者がいた。しかし,いかなる人も,また人間がたとえ束 照)。預言者エリヤは,「主の大いなる恐るべき日が近く, まさに戸口にあるのを」 (教義と聖約110:16)教会員に知 になっても,全人類を合わせても,贖い主がゲツセマネの らせるために来たと証した。あらゆる神権時代の聖徒たち 園で味わわれた苦しみには及ばない。」(『大会報告』1953 年10月,p.35) は,キリストが栄光をもって再臨し(教義と聖約34:7−8 参照),義人とともに千年間統治される日を待ちわびてき ロムニー長老はさらにこう語っている。「主が耐えると 約束し,実際に耐えてくださった苦しみは,全人類が受け た(教義と聖約29:11,17参照)。この神権時代に与えら れている特権は,主の来臨のために最後の準備をし,主と る苦しみを合わせたものに等しかった。」(『大会報告』 まみえるために神の王国を備えることである(教義と聖約 1969年10月,p.57) 『教義と聖約』が証しているように,イエスは贖罪を行 65:6参照)。しかし主の来臨に先立ち,教会員の中には, キリストが来臨を延ばされると言う者が現れ,彼らは結局 われるときに,万物の下に身を落とされた(教義と聖約 88:6;122:8参照)。すなわち,悔い改めを条件に,全人 備えをしないであろう(教義と聖約45:26参照)。すべて の人は,救い主が明日来られるかのように生活すべきであ 類に代わって地獄の苦しみを受けられたのである。そこま る(教義と聖約64:23参照)。なぜなら,備えている人は, で苦しまれたイエスにとって,理解できない罪や苦痛,苦 しみは一つとしてない。イエスは一人一人のあらゆる弱点 恐れる必要がないからである。 『教義と聖約』は,再臨に関する手引き書である。栄光 を知っておられ,人が自分自身を理解している以上に各個 人を理解しておられる。だからこそ,救い主は「誘惑を受 の中の再臨に先立つ裁き,再臨そのもの,救い主の福千年 の統治における状態,『教義と聖約』はこのような事柄に ける者たちを助ける方法」(教義と聖約62:1)を知ってお られるのである。 関する預言や約束,説明,新しい啓示に満ちている。この テーマについては,特別講座Hで詳しく学ぶ。 あがな ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (D−5)人とキリストの関係 キリストの贖罪を通して,救いは神のすべての息子娘に (D−7)まとめ 『教義と聖約』はキリストについて証している。わたし 及んでいる。各人に課せられた責任は,悔い改め,キリス トを信じ,最後まで忠実に堪え忍ぶことである(教義と聖 たちは『モルモン書』を「イエス・キリストについてのも う一つの証」と呼んでいるが,同じ妥当性をもって,『教 約20:29参照)。救い主の贖罪は,進んで福音に従う者に, 義と聖約』を「救い主についての証」と言うことができる その息子または娘となる資格を与えるのである(教義と聖 約39:4−6;11:30;25:1参照)。 であろう。『教義と聖約』が証していることによれば,救 い主は天の御父の長子であり,もろもろの世界を創造し, 福音に関するすべての戒めを守る人は,キリストがお持 ちの力と属性を身に受け,その息子または娘になることが 肉における神の独り子として地上に生まれ,誘惑を受け, 奇跡を行い,福音を宣言し,すべての人に御自身のもとに できる。そしてついには,神の恵みにより,神のすべての 来て悔い改め,救いに必要な福音の儀式を受けるように勧 力と属性を受け,「自らの血を流すことによってこの完全 な贖罪を成し遂げられた,新しい聖約の仲保者イエスを通 められた。 『教義と聖約』の中で救い主御自身が証されたことによ じて完全な者」(教義と聖約76:69)とされるのである。 『教義と聖約』はすべての人に対し,キリストの名を受 れば,主は全人類の苦痛を身に受けて,完全な贖罪を成し 遂げ,十字架につけられ,葬られ,霊たちの世界に行って, けるように命じている。それが救いをもたらす唯一の名で あるからである。「キリストの名を受け,まじめに真理を 非常に多くの義人の霊たちに永遠の福音と復活の教義を宣 言し,そこで使者を任命して,邪悪で不従順な霊たちを訪 語りなさい。悔い改めて,イエス・キリストであるわたし れて教えるように命じられた。 の名によってバプテスマを受け, 最後まで堪え忍ぶ者は皆, 救われるであろう。見よ,イエス・キリストとは,父から 『教義と聖約』の中の主の言葉によれば,キリストは死 後3日目によみがえり,アメリカ大陸のニーファイ人や10 408 部族を含む多くの人々に現れ,天に昇って栄光のうちに御 のわたしたちの知識を増してくれる偉大な源である。また, 父の右に座し,義なる聖徒たちとともに千年間統治するた めに再び地上を訪れると約束された。 イスラエルの聖者に関して数多くの新たな洞察を加えて, わたしたちの理解を深めてくれる。この書物は,末日聖徒 『教義と聖約』は,あらゆる面において救い主について 罪の克服と赦し が熱心に読んで研究すべき聖典である。 特別講座E (E−1)はじめに しょく ざい 個人の罪の結果に関して,贖 罪 のもたらす祝福は,悔 けられなくなって」 (ローマ3:23)いるのは,このためで ある。「主はほんのわずかでも,罪を見過ごしにされるこ い改めによる罪の赦しと,神の律法と戒めに従うことによ とはない」(アルマ45:16),すなわち罪を見落としたり, るめ,そして神のもとで永遠の命にあずかるという希望で ある。 大目に見たりはなさらないので,罪を正すために何らかの 方法が必要である。 代価が支払われなければならなかった。 この特別講座の目的は,『教義と聖約』が悔い改め,赦 きよ し,聖めに関して教えていることを,さらに深く理解する その代価の一部がイエスの受けられた苦しみであるが,そ の激しさたるや「すべての中で最も大いなる者である〔イ ことである。これらの3つの原則を理解して実生活に適用 することにより,わたしたちは永遠の命を得て,神のもと エス〕自身が,苦痛のためにおののき,あらゆる毛穴から 血を」(教義と聖約19:18)流されたほどであった。死す に住むことができるのである。 べき人間は,この代価を支払うことはできなかった。なぜ ゆる ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (E−2)悔い改めと罪のい なら,アミュレクが教えているように,「それは……無限 にして永遠の犠牲でなければならない」(アルマ34:10) 『教義と聖約』には,次のように記されている。「主なる わたしは,ほんのわずかでも罪を見過ごしにすることはな からである。 『教義と聖約』はこの点において,ほかの聖典の教えに いからである。」(教義と聖約1:31)しかし,で主に従う 新たな教えを加えている。人を救うのは,悔い改めそのも 人々には,罪とその悲劇的な影響を克服し,主に認められ る者となる方法が備えられている。 罪を克服する過程とは, のではない。人を救うのは,イエス・キリストの血である。 しかし悔い改めは,贖罪がその人の生活に適用されるため イエス・キリストの福音の第2の原則である悔い改めであ る。デビッド・O・マッケイ大管長は次のように述べてい の条件である。もし真心から正直に行いを改めるだけで自 分自身を救えるのであれば,人は自らの行いによって救わ る。「イエス・キリストの福音の原則と儀式は,人の成長 れることになる。聖典には,そのようなことがあり得ない と幸福と永遠の命とをもたらすうえでどれも意義のある大 切なものであるが,永遠に効力を持つ神聖な原則,すなわ と明確に教えられている。ニーファイが記しているように, わたしたちは「最善を尽くした後,神の恵みによって救わ ち悔い改めほど,人類の救いに欠くことのできないものは ない。これがなければ,だれも救いを得られない。これが れることを知っている……。」(2ニーファイ25:23)イエ スは法廷を心に描いて,御自身を「弁護者」あるとは「弁 なければ,だれも進歩できない。」(Gospel Ideals『福音の 理想』p.13) じる者」と呼んでおられる(教義と聖約45:3) 。だれかの 弁護をする場合,依頼人が無実であるという基盤に立って もし贖罪がなければ,悔い改めは何の効力も力も持たな それを引き受けるのが普通である。しかし,この場合は違 いであろう。救い主は苦しみを通して,全人類の罪の代価 を支払われた。それは,「人々が悔い改めることによって う。すべての人が罪を犯し,罪悪感を抱いているのである (ローマ3:23参照)。だれのためであれ,潔白であること 苦しみを受けることのない」(教義と聖約19:16)ためで ある。罪の代価を支払うのは,悔い改めそのものではない。 を基盤に弁護できる人がいるだろうか。「弁護者」は裁判 官の注意を人の完全さではなく,御自身の完全さに向けら もし贖いの犠牲がなかったとしたら,生活を改めるために れた。そして,贖いの犠牲において流された血について話 どんなに努力しようと,あるいはどんなに真剣に,またど んなに真心から努めようと,救いを得るには至らない。イ し,悔い改めた人を赦すように嘆願された。なぜなら,そ のような人はキリストの求める条件を満たし,キリストの エスを除けば,かつて地上に生を受けた人の中に,神のも とに帰るにふさわしい生活をした人は一人もいない。預言 兄弟となったからである(教義と聖約45:3−5参照)。 悔い改めは,わたしたちが前進するためにできる最 者ジョセフ・スミスがカートランド神殿の奉献の祈りの中 も大切なステップの一つであるが,あくまでそれは元 で触れているように,人は皆罪を犯しているからである (教義と聖約109:34参照)。すべての人が「神の栄光を受 の位置に戻るにすぎないことを忘れてはならない。悔 い改める前にいた位置を出発点と考えれば,次の図に あがな 409 あるように,悔い改めは確かに前進である。 罪 ように,主はこの律法の適用範囲を要約して次のように言 正義 悔い改め われた。「主なるわたしは,わたしが赦そうと思う者を赦 す。しかし,あなたがたには,すべての人を赦すことが求 められる。 」(教義と聖約64:10) 聖徒がジャクソン郡で激しい迫害に遭っていたとき,主 しかし見方を変えれば,悔い改めは道をそれた位置 に戻るにすぎないと言うことができる。これを図示す れば,次のようになる。 は報復の律法と赦しの律法を明らかにされた(教義と聖約 98章,およびその「注解」参照) 。 悔い改めの原則は,個人的な赦しを得るうえで非常 に重要なので,あなたはまず現在の自分の状態につい てよく考えてみる必要がある。あなたに悪いことをし 反抗と罪悪 た人に対して,憎しみや敵意を抱いていないだろうか。 そのような気持ちをどのように正当化しようとも,問 罪 正義 完成 悔い改め わたしたちは義に立ち返るまで昇栄に向かって進歩 題ではない。不法な侵害者を赦せなければ,主の言葉 にあるように,あなたはその人よりも大きな罪を犯し ているのである。マリオン・D・ハンクス長老は,次 のように述べている。 「神と人に対する愛の究極的な形は,赦しである。 することはできない。したがって悔い改めは,すべて もし傷つけられたら,あるいは誤解されたら,不正な の人にとって絶対に必要なものである。過ちを犯す前 の状態にまでわたしたちを戻してくれるのは,真の悔 扱いを受けたら,不親切にされたら,罪を犯されたら, わずかな言葉から悪く見られたら,偽りの非難を受け い改めしかない。キリストの贖罪が人の生活に及ぼす 効力は,悔い改めを条件としている(教義と聖約18: たら,愛する人々から無視されたら,申し出が拒絶さ れたら,皆さんはどうするだろうか。憤慨し,苦々し 12参照)。悔い改めることも,戒めを守ることもしな い人々は,必ず苦しみを受けるのである(教義と聖約 く思い,恨みを抱くだろうか。それとも,できるだけ 問題を解決し,相手を赦し,心の重荷から自分自身を 19:4参照)。『教義と聖約』の教えによれば,悔い改 解放するだろうか。 めを条件に罪が赦されるというこの重要な原則は,霊 界でも教えられている(教義と聖約138:19参照) 。こ そのような問題への対処の仕方により,この世と永 遠の世でどのような生活をするかが,大体決まるのか のような訳で各自の責任は,罪を捨てて主の戒めを守 ることにある。スペンサー・W・キンボール大管長は もしれない。様々な苦難を経験して信仰を磨き上げて きたわたしの友人が,ほんの数時間前にこう言った。 次のように述べている。「主イエス・キリストの大き な犠牲と,主がわたしたちのために受けられた苦しみ について考えるとき,もしわたしたちがそのことを自 分の力の及ぶかぎりはっきりと正しく認識しなけれ ば,わたしたちは主に対して恩知らずになってしまう であろう。主はわたしたちのために苦しみ,死なれた。 しかし,わたしたちが悔い改めなければ,わたしたち く もん のために受けられた苦悶も痛みも無意味なものになっ てしまう。 」(『赦しの奇跡』p.155) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (E−3)赦されるために赦す 救い主はこの世で務めを果たしておられるときに,訓戒 と模範により,赦しを得るには人を赦す必要があることを 教えられた(マタイ5:23−24;6:12,14−15;18:21− 35;ヨハネ8:1−11参照)。『教義と聖約』の大きな貢献の 一つは,この大切な原則を強調し,明確にすることにある。 救い主は誤解の余地のない明白な言葉で,進んで人を赦さ ないのは「悪」であり,「自分の兄弟の過ちを赦さない者 は,主の前に罪があるとされ,彼の中にもっと大きな罪が 残るからである」 (教義と聖約64:9)と指摘された。中に は,この原則はある程度の罪に対しては有効であるが,だ れかがきわめて重大な罪を犯した場合には当てはまらな い,と言う人がいるかもしれない。そのようなことのない 410 マリオン・D・ハンクスは,赦しが愛の究極的な形であると 語った 特別講座E 『昇栄に至るには,へりくだる心が必要です。』〔教義 と聖約29:2;61:2;136:33参照〕 わたしたちは赦すように求められている。わたしたちの 救いはそれにかかっているのである。…… ブリガム・ヤング大管長は,かつて次のように言ったと は以前よりもさらに親しい友人になった。」(メアロー・ J・ピュージ “The Inner Strength of a Leader” Instructor「指 導者の内面的な力」 『インストラクター』1965年,p.232) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (E−4)罪から清められる 伝えられている。『何もされないのに腹を立てるのは愚か 者だが,何かをされて腹を立てるのも,たいていは愚か者 汚れたものは神のもとに住むことはできない(モーセ 6:57;1ニーファイ10:21;アルマ7:21参照)。これは永 だ。』そして,次のような例を挙げて説明したそうである。 遠の律法である。そのためにパウロは次のように言った フ がらがら蛇にかまれたとき,二通りの対処の仕方がある。 ふく しゅう 一つは,怒りや恐れ,あるいは復 讐 心に駆られて蛇を追 である。「すべての人は罪を犯したため,神の栄光を受け られなくなっており……。」(ローマ3:23)しかし,悔い いかけ,殺すことである。もう一つは,大急ぎで傷口から 毒を吸い出すことである。後者に従えば,助かる見込みは 改めと人を赦すことを条件に,わたしたちの罪は赦され, 贖い主によってその代価が支払われる。聖典や預言者が繰 あるが,前者に従えば,その目的を遂げるまで生き延びる り返し証しているように,わたしたちはキリストの贖いの ことはできないであろう。」(“Even as Christ Forgive” New Era「キリストが赦されたように」『ニューエラ』1974年6 血によって罪を赦されるだけでなく,罪悪のあらゆる影響 から清められ,聖なる者,染みのない者となり,神のもと 月号,pp.4−5) 次に挙げるジョージ・アルバート・スミス大管長の体験 に帰れるようになる。この過程が「聖め」と呼ばれるもの である。 あかし 談には,傷つけた人と傷つけられた人の生活に,赦しがど 『教義と聖約』はほかの聖典とともに,聖めの祝福が必 のような影響を与えるかが示されている。 「ジョージ・アルバート・スミスは若いころ,ユタ州軍 要であることを教えている。主は次のように言われた。 「わたしの前に自らを聖めなさい。」(教義と聖約43:11) に所属していた。彼は優れた乗馬の技術とすばらしい馬を 持っていたので,アーセナル・ヒルでの突撃訓練で周囲の 「自らを聖めなさい。そうすれば,あなたがたは力を授け られ……るであろう。」(教義と聖約43:16)「それゆえ, 注目を集めた。そして仲間たちから,隊のある役職に立候 補するように強く勧められ,それを承諾した。ところがそ おお,わたしの民よ,備えなさい,備えなさい。自らを聖 めなさい。 」(教義と聖約133:4)この末日の聖典は,日の れから数週間のうちに,友人だとばかり思っていた男が, 栄えの栄光を享受して神のもとに住むためには,聖められ 偽りのうわさを広めた。スミスが不正な手段を使って勝と うとしているというのである。 なければならない,と教えているのである(教義と聖約 76:21;88:2,21参照)。ここで,次のような質問が出る そのうわさのせいもあって,スミス軍曹は兵隊たちから 十分な票を集めることができなかった。そのため,自分に かもしれない。「聖めとは何ですか。聖められるには,ど うすればよいのですか。 」 は資格があると感じていた昇進にあずかれなかった。かつ 聖めとは,罪から清められることである。ブルース・ て友人であった男から不当な扱いを受け,彼ははらわたが 煮えくり返る思いであった。 R・マッコンキー長老は,次のように説明している。「聖 められるということは,純粋で清く染みのない状態になる 彼は教会へ行き,不愉快な出来事を忘れようとしたが, せいさん 心の中は怒りに満ちていた。とても聖餐を受ける資格があ ということであり,また世の血と罪から自由になるという み たま ことであり,聖霊による新たな者となり,御霊の再生によ るとは思えなかった。静かに考えて祈った後,ジョージ・ って体が更新された者となることである。聖めは徳におい アルバート・スミス兄弟は,いつまでも立腹している自分 も悪いという結論に達した。 て非の打ち所のない状態に到達することであり,福音の律 法と儀式に従うことによってのみ得られる状態である。救 そこで彼は,憎しみという重荷から自分を解放すること にした。この重荷が,敵よりも自分の方を深く傷つけてい いの計画は,人が聖められ,日の栄えの王国を受け継ぐに ふさわしい者となるための方法と手段を提供してくれるも るように思えたのである。彼は通りを横切り,うわさを広 めた男の事務所にいきなり入って行った。ドアを開けると, のである。 」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.675) 真の末日聖徒の最大の望みの一つは,救い主にまみえる 相手の男は防備するかのように身構えた。てっきりけんか ことができるほど清くなり,最終的に,自分が父なる神の を吹っかけに来たと思ったのである。心の中では,友人に ひどい仕打ちをしたと感じていたからである。しかし,ジ もとで生活するということを知ることである。このような 大いなる祝福を得るにふさわしい清い者となるには,聖め ョージ・アルバート・スミスは争いに来たのではなかっ た。その声は穏やかで,赦しを求めるものであった。 の過程を踏む必要がある。『教義と聖約』にその過程が教 えられている。まず第1に,進んで悔い改め,イエス・キ 『兄弟,この数週間,あなたを憎んできたことを赦して リストの完全な福音を受け入れる(教義と聖約39:18; いただきたいのです。 』すると相手はこう言った。『スミス 兄弟,赦しを求める必要はありません。赦してもらわなけ 133:62参照)。次に,喜んで「神の口から出る一つ一つの 言葉に従って」(教義と聖約84:44)生活する。そして, ればならないのはわたしの方です。』ジョージ・アルバー ト・スミスの勇気と霊的な力によって,男の心が完全に和 神権者の責任を喜んで引き受けて同胞に仕え,神権の召し を尊んで大いなるものとする(教義と聖約84:33参照)。 らいだのである。彼は悪い行いを悔い改め,その後,二人 また,主がその子らを懲らしめて義に立ち返らせ(教義と はらから 411 感じ,それによって罪が赦されたことを知るでしょう。」 (Church News『チャーチニューズ』1972年9月2日付け, p.7) 現在すでに望みを失い,罪の荒れ野をさまよい,救い主 の光と愛の中に戻ることができるのだろうかと思っている 人々に対し,『教義と聖約』は神聖な証を述べて,立ち返 る道があることを明らかにしている。悔い改める人々には, 主の贖いの血を通して赦しと聖めという祝福がもたらされ ると約束されているのである。聖典の中で最も簡潔にして 深遠な聖句の一つが, 『教義と聖約』の中にある。それは, 義の業を行う人に与えられる二つの報いを約束した次の聖 句である。「すなわち,この世において平和を,また来る べき世において永遠の命を受ける……。 」(教義と聖約59: 23) 人は罪から清められて初めて,この人生でほんとうの平 安を得ることができる。慰め主の役割は,キリストのもと に来て主の血によって自らを聖める人々に,そのような平 安をもたらすことである。スペンサー・W・キンボール長 老は,この約束がすべての人に与えられるように願ってい る。 「黙示録に勝利を得る者は,『いのちの木の実を食べ』 (黙示2:7),『いのちの冠』 (黙示2:10)を受け, 『第二の 主の群れの羊は,神の小羊の血により洗われる 死によって滅ぼされることはない』 (黙示2:11)と書かれ ている。このような人は,『隠されているマナ』と『白い 石』と『新しい名』(黙示2:17)を与えられ,『諸国民を 聖約101:5参照),彼らの中から罪悪を払い去るように主 から懲らしめを受けたときには,へりくだって御霊に聞き 従い(教義と聖約101:5参照),聖徒の間にある罪悪を清 める(教義と聖約43:11参照)。これらの段階を踏む人は, 聖霊の力によって罪から清められる。『教義と聖約』によ れば,聖霊は聖め主であられるからである(教義と聖約 19:31;55:1;84:33参照)。 人は一度聖められると,罪悪感という重荷から解放され る。自分が赦されて清くなったと自覚できるのである。ブ リガム・ヤング大管長を補佐したダニエル・H・ウェルズ 支配する権威』(黙示2:26)を授けられる。彼は『白い 衣』を着せられ,その名前が消されることはない(黙示 3:5)。『勝利を得る者には,わたしと共にわたしの座につ かせよう。それはちょうど,わたしが勝利を得てわたしの み ざ 父と共にその御座についたのと同様である。』(黙示3:21) 克服する者に対する約束は何と輝かしく,また豊かなこと であろう。 『この白い衣を身にまとっている人々は,だれか』とヨ ハネはその示現で長老たちの一人から尋ねられ,その答え かん なん を受けた。『彼らは大きな患難をとおってきた人たちであ 副管長は,次のように述べている。「主による罪の赦しに 関して,最も大いなる証は,もろもろの悪い行いを捨てた って,その衣を小羊の血で洗い,それを白くしたのである。 それだから彼らは,神のの前におり,昼も夜もその聖所で という心からわき上がる知識である。人にはそれが分かる。 神に仕えているのである。』(黙示7:13−15) このような人々は必ずしも完全ではなかったと考えられ なぜなら神は,福音の条件を満たして悪を捨て去る人をす べて赦すと約束しておられるからである。悪を捨てる人に はそのことが分かる。たとえ赦しについてほかの証がない としても,これはその人が得られる最大の証なのである。」 (Journal of Discourses『説教集』15:89) ハロルド・B・リー大管長も,罪を真心から悔い改める 人々について次のように教えている。「過ちを克服するた めにできる限りのことをすべて行い,二度と同じ過ちを繰 り返さないと固く決意するとき,皆さんは良心の安らぎを 412 る。彼らは汚れた衣を身にまとい,数々の弱点も持ち合わ せていた。しかし,今やそれらを克服し,汚れた衣を小羊 の血で洗い清めたのである。彼らは約束されている祝福が 示すように,今では清く,罪のない状態にいるのである。」 (『赦しの奇跡』pp.364−365) この約束は,主によって明確に告げられている。「そし て,悔い改めて主の前に自らを聖める者には,永遠の命が 与えられる。 」(教義と聖約133:62) 「あたかもわたし自身の口から 出ているかのように」── 教会における預言者の役割 特別講座F (F−1)はじめに スペンサー・W・キンボール大管長は次のように述べて いる。「預言者は,祭司や牧師や長老以上の者でなければ ならない。彼の声は……神の声となるのである。」(Conference Report『大会報告』1970年4月,p.120) 天の御父は,神の子供たちが現世の様々な問題に独力で 取り組むようには,意図しておられなかった。また,彼ら が神からの助けと指示なしにサタンの影響力にさらされる ことも,考えておられなかった。世界が創造される前に, 神は最も忠実で霊的な能力に優れた息子たちを預言者,ま た啓示者として任じられた。そして,神の先見の明により, 神の王国と人類全体のためにそれぞれの才能を最も活用で きる時代と場所に生を受けるよう,一人一人の預言者に割 り当てを与えられた。 預言者は時の初めから,警告の声を上げ,未来を予見し, み こころ 神の御 心 と望みを明らかにするという神聖な義務を負っ 「あなたがたは……あたかもわたし自身の口から出ているかの ように,彼の言葉を受け入れなければならない。」(教義と聖約 21:5) ていた。そのため,神によって任じられたこれらの人々は, 預言者(前もって警告する者),聖見者(神の子供たちに (F−2)預言者に対する主の是認 『教義と聖約』は,生ける預言者を持つことや,教会に 影響を及ぼすあらゆる時代を見通す者),啓示者(神の御 心を明らかにする者)と呼ばれている。 教えを受けた民が預言者を受け入れないことがよくある (マタイ13:57参照)。エノクに対する一般的な反応は, 「この地に変わったことがある。野生の男が我々の中にや って来たのだ」(モーセ6:38)であった。ユダヤ人は, おける生ける預言者の立場について,多くの大切な事柄を 明らかにしている。中でも最も大切なのは,預言者に関す る主御自身の見解であり,それは『教義と聖約』の中に簡 潔かつ力強く教えられている。預言者の役割は,主の御心 と望みを民に告げることである。預言者がそうするとき, 「この人は大工の子ではないか」(マタイ13:55)と皮肉を 込めて尋ね,イエスの預言者としての権威に挑んだ。世俗 主がはっきりと教えておられるように,その言葉は主御自 身が語っておられるのと同じである。例えば,主は『教義 的な心を持つ人々には,神と交わったという主張があまり ごうまん にも傲慢に映ったので,彼らはそのメッセージを耳にする と聖約』の「はしがき」の中で,預言者たちや使徒たちの や直ちに拒んでしまったのである。ニール・A・マックス 言葉を心に留めようとしない者たちは絶たれると警告され た(教義と聖約1:14参照)。そして,「わたし自身の声に ウェル長老は次のように述べている。「毎日箱舟造りに精 を出すノアをテレビのニュースショーが取材したらどうな よろうと,わたしの僕たちの声によろうと,それは同じで ある」 (教義と聖約1:38)から,主の言葉はすべて成就す るかを想像すれば,お分かりいただけるでしょう。」(『大 会報告』1980年10月,p.17)しかし,預言者のメッセージ ると約束された。教会が組織された日に,主は教会員に対 しもべ が一般の人々からよく思われないという理由だけで,それ し,預言者の声に聞き従うように命じてこう言われた。 「あなたがたは……あたかもわたし自身の口から出ている が真理でないと決めつけることはできないのである。 主は『教義と聖約』の中で,生ける預言者の必要性と末 かのように,彼の言葉を受け入れなければならない。 」(教 義と聖約21:5) 日聖徒イエス・キリスト教会における生ける預言者の立場 について,何度も語っておられる。大背教に伴い,人々の 間にもはや預言者が送られなくなり,暗黒時代を経た結果, キリスト教界は,主の計画における預言者の役割を理解で きなくなってしまった。この失われた知識は,預言者ジョ セフ・スミスが召されることによって回復された。『教義 と聖約』は預言者に関する主の御心を再び確立し,すべて の国の義人に,預言者とその義務についての知識を明らか にしたのである。 では,主が是認されることは何か。預言者が主に代わっ て語るとき,それは主の目から見て,主御自身が語ってお られるのと同じである。主の言葉によれば,そのメッセー ジの効力に何ら違いはないのである。 以下の聖句には,預言者に関する救い主の御心が表 されている。各自の聖典中の聖句に印を付けて,質問 の答えを別紙に書き出しなさい。 教義と聖約1:11−14 世の人々はどのようにして 主の声を聞くか。もし人々が拒んだら,預言されたこ とはどうなるか。 413 主は権能を授けられた僕の言葉 総大会で,主の僕の口から聞くことである。主は,この勧 をどのように考えておられるか。 教義と聖約18:30−36 預言者を通して与えられた 教義と聖約1:38 告に聞き従おうとしない人は「民の中から絶たれる」(教 義と聖約1:14)と警告しておられる。第2に,預言者が書 啓示を読むとき,わたしたちはだれの言葉を読むのだ ろうか。 いたものを読むことである(教義と聖約52:9,36参照)。 その中には聖典だけでなく,大会の説教や,教会定期刊行 教義と聖約21:4−6 教会員が預言者の言葉を主の 口から出たものと考えて受け入れるなら,どのような 物の大管長会メッセージ,それに神権指導者に郵送されて ステークの聖徒たちに伝えられる『会報』なども含まれ 祝福が約束されるか。 る。 教義と聖約50:36;108:1 預言者の言葉に聞き従 う人にもたらされる,もう一つの祝福は何か。 預言者が権限外の事柄について話したといって批判の声 を上げる人や,主の御心を伝えていないといって預言者を 教義と聖約52:9 わたしたちにとって,使徒と預 言者の教えはどれほど大切か。 非難する人は,主の神聖な警告についてよく考える必要が ある(教義と聖約121:16−22参照)。 主からの信頼や恵みを失う原因 もし公に預言者に反抗した場合,あるいは浮ついた気持 になるものは何か。 あかし 教義と聖約58:8 主が預言者について証しておら 教義と聖約56:14 ちで勧告を軽んじたり,無関心でいたりした場合,主の僕 を拒絶した罪は重大である。「また,神託を受け入れるす れることは何か。 教義と聖約84:36 べての者に,それらが軽々しいものと見なされることのな いように,またそれによって彼らが罪の宣告の下に置かれ 預言者を受け入れる人は,だれ を受け入れているのか。 ……ることのないように,それらをどのように扱うか気を 教義と聖約90:5 この警告は教義と聖約21:6とど のような関連があるか。 つけさせなさい。 」(教義と聖約90:5) それでは,預言者と異なる見解を持つことは背教と見な 教義と聖約124:45−46 聖徒が「その場所から移 される」原因となるものは何か。 されるのだろうか。ジョージ・Q・キャノン長老は,この 質問に次のように答えている。「ある友人が知りたがって 教義と聖約133:70−71 世の人々が預言者の言葉 を拒むと,結果はどうなるか。 いたことであるが……教会員と教会の役員の間にはっきり とした意見の相違がある場合,……それは背教と考えられ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ るだろうか。わたしたちはこれに対して,そのような相違 (F−3)神託を受ける者:万事における神の代弁者 神がその子供たちのために立てられた計画の中で預言者 が背教であると見なされたことはない,と答える。なぜな ら,教会の幹部とはっきり意見を異にしていても,意見が の果たす大切な役割を理解している人は,これらの僕の力 や権威をおとしめることがサタンの大きな目的であると聞 異なるだけではまだ背教者ではないと考えられるからであ き べん る。しかし,意見の相違を公にし,議論や詭弁や特別な弁 いても,少しも驚かないであろう。教会の中にさえ,預言 解により,それを広めて分裂や争いを引き起こそうとし, 者は霊的な事柄に関してのみ指示を与えるものと信じてい る人がいる。末日聖徒が明確に理解すべきことは,地とそ 教会の幹部の行いや勧告に誤った光を当てようとするなら ば,その人を背教者でないと考えることはできない。なぜ れに満ちる万物がすべて主のものであり,預言者すなわち 地上における救い主の教会の大管長が,主から語るように なら,そのような行為こそが,わたしたちの理解している 背教だからである。さらに言えば,理解が欠けているため 指示されたことを何でも語るということである。 に教会の幹部とまったく異なる意見を持っている人は,そ ジョン・A・ウイッツォー長老は次のように記してい み たま る。「預言者の職に召された人は,主の御霊に感じるとき れに関してどのような行動を取るか,きわめて慎重に選ば なければならない。そうしないと,悪魔に利用されてたち はいつでも,預言者としての責任を負い,主の代弁者とし て語る。さらに,その神の言葉を解釈し,現状に当てはめ, 差し迫る悪に対して政治的,社会的,あるいは経済的な警 告を与えることができる。……このように霊感によって与 えられた見解は,末日の業が啓示によりもたらされ,現に 遂行されていると信じるすべての人を拘束するのである。」 (Evidences and Reconciliations『証言と和解』1:182) エズラ・タフト・ベンソン長老は次のように述べてい る。「福音に従って生活している人であれば心に感じてい ることと思うが,大管長会には末日聖徒の物心両面の福利 にかかわるすべての事柄について勧告を与える権利だけで なく,そうしなければならない天与の義務もあるのであ る。」(『大会報告』1950年10月,p.148) 霊感によって与えられたこの勧告は,少なくとも二つの 方法で教会員に伝えられる。第1に,半年ごとに開かれる 414 預言者は人々を決して間違った方向に導くことはない 特別講座F まち背教という邪念に取りつかれ,神に対して,あるいは ければならないことが一つある。それはこの教会の大管長 教会を管理するために神が地上に置かれた権威ある人々に 対して,戦いを挑むようになるであろう。」(Deseret News や大管長会,あるいは大管長会と十二使徒会の統一見解は 聖徒を決して間違った方向に導くことはないし,主の思い Weekly『デゼレト・ニューズ・ウィークリー』1869年11月 3日,p.457) と望みに矛盾する勧告を世界に発することもないというこ とである。 」(Ensign『エンサイン』1972年7月号,p.88) これら初期の啓示の中で教えられているように,主はそ の僕たちを信頼しておられるので,彼らが霊感を受けて語 J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は次のように 勧告している。「地上における神の代弁者として頭に立つ る言葉を御自身の言葉と見なしておられるのである。この 者の指示と勧告に従うならば,あなたは決して誤りを犯す 原則は,権威の神聖な付与と呼ばれることもあり,モーセ に与えられた主の言葉によって表される。「あたかもあな ことがないであろう。 」(『大会報告』1945年10月,p.166) エズラ・タフト・ベンソン長老もこのように証してい たが神であるかのように,水はあなたの命令に従うであろ う。」(モーセ1:25) る。「預言者に目を留めておきなさい。主は預言者がこの 教会を間違った方向に導くことをお許しにはならないであ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ろう。御霊を身近に感じる生活をしよう。そうすれば,あ (F−4)預言者に関する一般的な質問 神の預言者は,自分がまったく誤りのない人間で,自分 らゆる勧告を正しく吟味できるであろう。」(『大会報告』 1966年10月,p.123) の言葉と行いがすべて主の語られ行われることである,と は宣言していない。預言者は主の御心に従って行動すると 生ける預言者に愛と信頼を示し,主の選ばれた僕を進ん で支持するならば,偉大な祝福がもたらされる。その一つ きにのみ主の代弁者になるのである。歴代の大管長は,自 が,罪のしである(教義と聖約50:36;56:14;108:1参 分自身に弱さと不完全さがあることを何のためらいもなく 認めている。こうした事実と,主が僕たちを是認されたこ 照)。 預言者の言葉が聖典と考えられるのは,どのようなとき ととを考え合わせると,預言者の勧告にどのようにこたえ るべきかということについて,質問が出てくる。次に採り ですか。主は次のように言われた。「聖霊に感じるままに 語ることは,彼らにとっての範例である。何であろうと聖 上げるのは,よく聞かれる一般的な質問である。 預言者の言葉はすべて霊感によるものですか。預言者ジ 霊に感じて語ることは,聖文となり,主の心となり,主の 思いとなり,主の言葉となり,主の声となり,救いを得さ ョセフ・スミスはこの質問を受けたとき,次のように答え せる神の力となる。 」(教義と聖約68:3−4) た。「預言者は預言者として行動しているときだけ預言者 である。 」(History of the Church『教会歴史』5:265) J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は次のように 述べている。大管長会と十二使徒定員会は,預言者,聖見 ジョン・A・ウイッツォー長老は,預言者ジョセフ・ス ミスの言葉に解説を加えている。「この言葉は,教会役員 者,啓示者として支持されるが,「管理大祭司である教会 の大管長だけが,教会のための預言者,聖見者,啓示者と の行動や発言について公的な場合と,私的な場合とを明確 して支持され,会員に対して拘束力のある新しい啓示や訂 に区別している。この記録された声明の中で,預言者ジョ セフ・スミスは,教会の大管長および預言者として,彼自 正を加える啓示,聖文に権威ある解釈を施す啓示,あるい は教会の現存する教義を変更する啓示など,教会のための 身に特別な権利と義務,すなわち教会員を導き啓発するた め,主の霊感の下に権威をもって公式に語る権利と義務が 啓示を受ける権利を有するのである。また大管長は,唯一 まことの教会である末日聖徒イエス・キリスト教会の地上 あることを認めている。しかしまた,ほかの人々と同じよ でただ一人の神の代弁者である。神の思いと望みを主の民 うに,働いたり休んだり,仕事をしたり遊んだり,訪問し たり話し合ったり,自分の意見を述べたり相手の話を聞い に宣言できるのは,大管長だけである。世の中のほかのい かなる教会の役職にある人も,この崇高な権利と高貴な特 たり,一教会員として助言したり祝福を与えたりする権利 のあることも主張しているのである。」(『証言と和解』1: 権にあずかることはできない。」(Church News『チャーチ ニューズ』1954年7月31日付け,p.10) 182) ウイッツォー長老はさらに次のように述べている。「し さらにクラーク副管長は,預言者が聖霊に導かれている かどうかを判断する方法を次のように説明している。「わ かし,預言者の私的な見解は,彼と同等のもしくはそれ以 たしたちは自分自身が聖霊に感じている場合にかぎり,話 上の賜物や経験を備えていて,預言者の職に伴う権能を持 たない人の見解よりも重視される。…… 者が聖霊に感じて語っているかどうか判断することができ る。 ……重大な事柄に関する預言者の私的な考えや発言に は,敬意をもって注目すべきである。 」(『証言と和解』1: したがって,御霊に導かれた話を識別する責任は,話者 ではなく完全にわたしたち自身にあることになる。」(『チ 183−184) ャーチニューズ』1954年7月31日付け,p.9) 預言者が教会を間違った方向に導くことがありますか。 救い主は,御自分の教会の大管長が人々を背教に導くのを 預言者が預言者として語るときは, 「主がこう言われる」 と宣言しなければならないのですか。この質問に対する答 決して許されない。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう えは,「宣言しなくてもよい」である。J・ルーベン・ク ラーク・ジュニア副管長は次のように述べている。「主の に述べている。「今ここでぜひともはっきりさせておかな 預言者が『主はこう言われる』と宣言しなければ,その言 たまもの 415 葉を啓示として受け入れようとしない人々がいる。この基 えないこともあるかもしれない。あなたの政治上の見解や 準は誤っている。『教義と聖約』に含まれる近代の啓示の 多くがその言葉を使っているが,それが使われない啓示も 社会観と相いれないものもあるかもしれない。またあなた の社会生活を多少なりとも犠牲にしなければならないよう 多いからである。 」(『チャーチニューズ』1954年7月31日付 け,p.10) なメッセージかもしれない。しかし,これらのメッセージ を神の口から出た言葉として忍耐と信仰をもって従うなら 預言者の勧告に従うかどうかは,個人の選択の自由に任 されていないのですか。マリオン・G・ロムニー副管長は ば,次のような約束がある。『これらのことを行えば,地 獄の門もあなたがたに打ち勝つことはないからである。そ この質問に次のように答えている。 して,主なる神はあなたがたの前からの力を追い払い,ま 「彼は,うっそうと茂る木々に取り囲まれて,視界を遮 られている。そのとき,見晴らしのよい見張り台に立って た,あなたがたのためと,神の名の栄光のために天を震わ せるであろう。』(教義と聖約21:6)」(『大会報告』1970年 指示を与える人がいるとしたら,彼は選択の自由を用いて その指示に従おうとするのではないだろうか。わたしにと 10月,p.152) 永遠の命を得るは,生ける預言者に従い,預言者が主の って,教会の指導者はまさしく,シオンの塔の上の真実の 思いと望みを明らかにしたときにその勧告を守ることであ 見張り人である。彼らの勧告に従う人々は,森の中の人と 同じように自ら進んで,選択の自由を行使しているのであ る。ブルース・R・マッコンキー長老は次のように述べて いる。「わたしたちは,そして義を願うすべての人は,主 る。この教会は主イエス・キリストを頭とし,民を導くた めに主によって選任された人々を通して,主から絶えず指 と主の預言者を受け入れ,主の教えを聴き,その模範に従 うように努力しようではないか。聖典にこう記されている 示を受けている。わたしはこのことを事実として無条件で からである。『預言者の名のゆえに預言者を受け入れる者 受け入れている。またわたしは,主が御心をそれらの指導 者に明らかにされ,御霊を享受した彼らがわたしたちに勧 は,預言者の報いを……受けるであろう。』(マタイ10: 41)預言者の報いとは,神の王国における永遠の命のこと 告を与えていると固く信じている。…… すべての人はビジョンを持ち,勇気を持って,真理に対 である。 」(Promised Messiah『約束されたメシヤ』p.41) 次の話を読めば,「わたしはあの人が預言者である かしら して, また真理の業を導くために神の選ばれた人に対して, 忠誠を尽くすことができるのである。」(『大会報告』1942 年4月,p.20) ことを知っています」と宣言することの意味がもっと よく理解できるであろう。 わたしは断食証会の終わり近くに,その少女が立派 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (F−5)まとめ な証をするのを聞いた。目にいっぱい涙をため,心か ら,熱烈に証して言った。「スペンサー・W・キンボ 預言者は神の御心の啓示者,真理の教師,新たな真理の 啓示者である。シオンにおける聖徒の教会員としての資格 ール大管長が神のまことの預言者であることを,わた しは心の底から知っています。」少女が座ったとき, は,その大部分が,預言者の勧告に進んで聞き従うことに わたしは不思議に思った。 よってもたらされる。危険に満ちた時代の唯一の安全な道 について,ハロルド・B・リー大管長は次のように述べて わたしはこの少女と家族をよく知っていた。ここ数 年間,少女はデートのことで両親に公然と反抗してき いる。 「今は主を迎える最後の神権時代である。主が主の教会 た。まだ16歳になっていないが,ボーイフレンドがい ることを友達に自慢し,両親の前では打ち消している と世に対する業を終えられる前に,わたしたちは困難な時 ものの,時にはその少年と恋人同士のように振る舞う 期を切り抜けなければならない。まず主を迎える備えをさ せるために福音が回復された。これからサタンの力は強く こともあった。しかも,友達であるわたしの娘に話し たことによれば,いつも両親をだましていた。つまり, なるであろう。その徴候は至る所に現れている。教会の内 部でもそれは起こるであろう。タナー副管長が語ったよう 女友達の家へ遊びに行くとか,アルバイトをしている とか言って,ボーイフレンドに会っているのである。 に,『偽善者は信仰を公言する。だがその心の中は死人の 骨でいっぱいなのである』といった事態が起きるであろう。 スペンサー・W・キンボール大管長は,次のように 勧告している。「皆さんがいろいろな難しい問題や誘 教会員であることを公言しながら,主がこの教会を管理す 惑に陥るのを避けるために,わたしはまたここで次の るために立てられた指導者に従わないよう,陰で手引きを する人が出てくるであろう。 基準を提案する。16歳になるまで,どのような形のデ ートも一対一のつきあいもしないようにしよう。また さて,わたしたちにとって最も安全な道は,主が教会設 立の日に語られた言葉に従うことである。わたしたちは主 たとえ16歳になっても,どのような相手を選ぶか,ど の程度のつきあいをするかは慎重に判断しなければな が預言者を通じて下された言葉と戒めを心に留めなければ らない。さらに,若い兄弟たちは19歳になったら伝道 ならない。この言葉と戒めは,主の前を『完全にく歩み』 『忍耐と信仰を尽くして』 『あたかも〔主〕自身の口から出 に出るのであるから,あまり親しい交際は控えるよう にすべきである。」(『エンサイン』1980年11月号, ているかのように』受け入れるよう与えられたものだから である(教義と聖約21:4−5)。忍耐と信仰を必要とする p.96) その少女が「キンボール大管長が神の預言者である ものもあるだろう。教会の幹部からのメッセージを快く思 ことを,わたしは知っています」と証したので,わた 416 しは不思議に思った。 キンボール大管長は,さらにこう述べている。「偽 りを言う者は,わたしたちの社会から遠ざけられる。 不正直はどのようなものであれ,とがめられるべきで ある。 」(『大会報告』1975年4月,p.6) そして,キンボール大管長が大会説教でよく引用す る聖句を思い浮かべた。「わたしを主よ,主よ,と呼 びながら,なぜわたしの言うことを行わないのか。」 (ルカ6:46)預言者たちはこの聖句を次のように言い 換えて尋ねてはいないだろうか。「わたしを神の預言 その少女が「キンボール大管長が神の預言者である ことを,わたしは知っています」と証したので,わた 者と呼びながら,なぜわたしの勧告に従わないのか。 」 その日わたしは少女の証を聞いて,不思議に思っ しは不思議に思った。 た。 律法の本質と目的 (G−1)はじめに 特別講座G べている。「キリストは律法によって治め,また治められ 現世を特徴づける重要な点は,万物が律法によって支配 されていることである。 律法は宇宙に秩序と目的を与える。 ている。」(『モルモンの教義』p.432)例えば,聖典に記さ れているように,人々が神の言われたことを行うとき,神 また律法は,聖徒が進歩成長して幸福を得られるように道 を備える。したがって,聖徒は次のことを理解する必要が はそれに対して義務を負われる(教義と聖約82:10参照) 。 神は義の律法に完全に従う高潔な御方であるから,約束を ある。律法の本質,律法の源,真の律法を知る手段,律法 果たすという義務を負われるのである。また神は日の栄え を適用した結果すなわち神の律法に従うことによって得ら れるもの,神の子供たちが最大の祝福を得られるように, の御方であり,日の栄えの律法に従っておられる。「日の 栄えの王国の律法に従えない者は,日の栄えの栄光に堪え 律法に関連する行いについて主が勧告を与えられる方法。 『教義と聖約』は,恐らくほかのどの聖典よりも明確で られないからである。 」(教義と聖約88:22) ジョン・テーラー大管長は次のように述べている。「神 あって,聖徒が律法の本質や目的や効力について理解する が不変であられるように,神の律法も形式と応用のすべて 助けとなるであろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ において不変である。そして神御自身が律法の源であり, 律法を与える御方,律法を支持する御方であられることか (G−2)律法の永遠性 『教義と聖約』は次のように教えている。「すべての王国 ら,これらすべての律法は,あらゆる運用において,あら ゆる事物において, またあらゆる空間において永遠である。 には律法が与えられている。……その中に空間のない王国 神が律法を犯されることは考えられない。もしそのような はない。 」(教義と聖約88:36−37)このことから明らかな ように,広大な宇宙に存在する万物は,律法の影響下にあ ことをすれば,神は御自身の威厳や権威,原則,栄光,昇 栄,そして存在そのものをも危うくされるからである。」 るのである。万物は「一つの例外もなく」律法により制御 され,支配され,支えられている。律法に拘束されないも しょくざい (Mediation and Atonement『仲保と贖 罪』p.168) のや,偶然に左右されているものは何もない。「同じ原因 からは,常に一定不変の結果がもたらされる。」永遠の律 法の原則は,「永遠に変わらないのである。」(マッコンキ ー,Mormon Doctrine『モルモンの教義』p.433) 以上の教えが正しいことは,神の啓示によって,また人 類の科学的な観測によって実証されている。科学的な知識 が増大するにつれて,宇宙には秩序があって,万物は一貫 性のある調和の取れた律法により支配されていることが次 第に明らかにされてきた。原子の世界から広大無辺の宇宙 に至るまで,いずこにも普遍的な秩序と調和が存在してい るのである。 ブリガム・ヤング大管長は次のように教えている。「永 遠の中で,律法によって治められないものは存在しない。」 (Discourses of Brigham Young『ブリガム・ヤング説教集』 p.1)同様に,ブルース・R・マッコンキー長老はこう述 「わたしにはすべてのものが数えられている。それらはわたし のものであり,わたしはそれらを知っているからである。」(モ ーセ1:35) 417 教義と聖約88:36−39 神の律法の及ぶ範囲と影響力は どの程度か。あなたが義とされるためになすべきことは何 か。 果を心に描いて,次のように言ったのかもしれない。「御 子は……その力ある言葉をもって万物を保っておられる。」 (ヘブル1:3)だからこそ,人は導きを求めて主に頼るの 神はすべての律法と完全に調和して である。主は律法の源であるだけでなく,律法そのもので いるので,一切の権威を持っておられる。それでは,わた したちは神の律法に完全に従う能力を伸ばすためには,何 もあられる。 預言者ジョセフ・スミスも同じことを教えている。「も をする必要があるか。そうすることによって,どのような 祝福が得られるか。 ろもろの霊たちと栄光の中におられた神は,はるかに優れ た英知を持っておられたので,律法を定めて霊たちに御自 教義と聖約59:4 主は「少なからぬ戒め」を守ってシ オンにとどまる人々を祝福すると約束された。あなたにと 分のように進歩する特権を与えることをよしとされた。」 (Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・ 教義と聖約88:34 って神の戒めは祝福だろうか,それとも束縛だろうか。 スミスの教え』p.354) これらの聖句は,神の律法と戒めが祝福であることを理 解するのにどのように役立つだろうか。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (G−4)神が人類に律法を与えられる目的 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (G−3)キリストは立法者であられる この地球は,人が様々なことを学び,自らのふさわしさ を証明し,天の御父の特質をはぐくむために与えられる場 長子であるキリストは,御父の家族の中で卓越した御方 所である。前世において天の御父の子供たちは,昇栄され であられた。キリストは天父の指示の下にこの地球を創造 し(モーセ1:27−32参照),地球を治める神となる権能を た御父の偉大さ,完全さ,喜びなどを目にし,御父のよう になりたいと思った。そして御父も,子供たちが御自分の 与えられた。救い主は御父から授けられた力と権能を通し て行動することにより,この地球の諸事を制御し,指示し, ようになることを望んでおられた。 神の律法は厳格で揺るぎないものであるが,一つの具体 治めておられる。キリストは地球を治める神として,全人 的な目的のために啓示され,人類に与えられる。その目的 類の利益と成長のために,御父のに従って律法を定められ た。すなわち,キリストは立法者であられる(教義と聖約 とは,人に究極的な喜びをもたらすことである。預言者ジ ョセフ・スミスは次のように教えている。「宇宙の偉大な 38:22;64:13参照)。キリストはニーファイ人に向かっ て,「わたしは律法であり」 (3ニーファイ15:9)と教えら る御方は,人類家族全体を父親のような思いやりと親とし ての心遣いをもって見守ってくださる。」(『預言者ジョセ れた。これは,キリストが人類に与えられるすべての律法 フ・スミスの教え』p.218)「神は,御自身が意図された幸 を具現化し,その源になられるという意味である。キリス トは律法と戒めの源であられるだけでなく,宇宙全体のた 福と結びつかないような儀式を決して定められることはな く,また戒めを与えられることもない。また,神の律法と めに律法すなわち組織された力を定められる。『教義と聖 約』はこの教義を,ほかのどの標準聖典よりも明確に教え 儀式を受け入れる人々に最大の祝福と栄光をもたらさない ような儀式を定められることはなく,戒めを与えられるこ ている。主は弟子たちにこう宣言された。「わたしは道で あり,真理であり,命である。」(ヨハネ14:6)ほとんど ともない。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』pp.256− 257)ジョセフはさらに次のように述べている。「わたした の学者は,「命」が復活を意味すると決め込んでいるが, ちはある事柄が起こってからずっと後にならなければ理由 『教義と聖約』によれば,復活はその称号の意味の一部に すぎないのである。もっと深遠で包括的な意味において, が分からないかもしれないが,神が要求されることは何事 によらず正しい。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 イエスは「命」であられる。教義と聖約88:6−13を注意 深く研究すると,律法と光と命の源としてのキリストにつ p.256) 神がその子供たちに律法と戒めを与えられるのは,御自 いて,次のような洞察が得られる。 分のようになる唯一可能な手段を与えるためである。預言 キリストは,「広大な空間を満たすために神の前から発 している」 (12節)「キリストの光」(7節)と呼ばれるエネ 者ジョセフ・スミスは次のように教えている。 み こころ 「神は天から語って,人類家族に関する御 心 を宣言し, ルギーの無限の流れの源であられる。 キリストは,太陽や月,星,地球を満たす光であり,力 公正で聖なる律法を授け,人々の行いを規定し,まっすぐ な道へと導かれる。御心にかなうときに,彼らをみもとに であられる(7−10節参照) 。 引き上げて,御子と共同の相続人にするためである。…… このキリストの光は,「万物の中に」あるだけでなく, 「万物に命を与える」 (13節)源である。 神は人類家族にもろもろの律法を授けられた。その律法 はわたしたちが従うならば,神の安息に入る備えが十分に ともかく,神から放射されてイエス・キリストの名で呼 ばれるこのエネルギーは,「万物が治められる律法」(13 できるものである。わたしたちは,これこそ神が律法を授 けられる目的であると結論する。」(『預言者ジョセフ・ス 節)である。 言い換えれば,もしキリストの光が消滅するようなこと ミスの教え』pp.53−54) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ になれば,宇宙には律法も,秩序も,組織も,命も存在し なくなるであろう。そしてすべてのものが崩壊して,宇宙 こんとん は混沌とした状態になるであろう。パウロはこのような結 418 (G−5)律法の約束と結果は確実にもたらされる 『教義と聖約』の教えによれば,すべての祝福は律法に 基づき,ある祝福を得たいと望む人は,その祝福を約束す 特別講座G 「わたしは律法であ〔る。〕 」 (3ニーファイ15:9) る律法に従わなければならない。律法の規定と条件に従わ ない人は,それに伴う祝福にあずかる資格がない。この教 の方法は何か。 教義と聖約88:21−24 わたしたちが来世で受け継ぐ栄 えは,『教義と聖約』の中で何度も繰り返されている(教 義と聖約82:10;88:38−39;130:20−21;132:5参 光を決めるものは何か。 教義と聖約88:34−35 わたしたちはどのような手段に 照)。 よって聖められるか。わたしたちを聖めから遠ざけるもの 神は,律法に従わなければ御自分のもとへ来ることはで きない,と言われた。律法を受け入れてそれに従う人は, は何か。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 神を知り,神のようになって,永遠の命を得るであろう (教義と聖約132:11−12,21−25,32;ヨハネ17:3参 (G−6)律法にどのように応じるべきか 主はしばしばその民に,律法を学んで互いに教え合うよ 照)。人が聖められるのはただ律法に従うことによる。自 うに命じておられる。すべての人が教化されて,律法に従 分の選択の自由によって律法に従い,神の律法に治められ る人々は,それらの律法の働きを通して守られ,聖められ う者に約束されている祝福を受けられるようにするためで ある(教義と聖約42:12−13;93:53;107:99−100参 る。しかし神の律法に従わない人々は,律法を通して救い 主による聖めを受けることができないので,日の栄えの王 照)。主の弟子である人は,律法を受け入れて守るであろ う(教義と聖約41:5;42:2参照)。また,国の法律にも 国以外の王国を受け継がなければならない。人は自分の受 け継ぐ王国の律法を守る能力を備えていなければならない 従うであろう(教義と聖約58:21−22;98:4−7;134: 5−6参照)。 きよ のである(教義と聖約88:21−24,34−35参照)。 預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「幸 ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,律法に従った成 長と受け継ぎの原則について次のように述べている。「こ 福を得ることが,わたしたちの存在する目的である。幸福 は,そこに通じる道に従っていけば,最後に到達できるも の地球を創造し,その上に神の子供たちを置かれた天の神 は,彼らが昇栄して栄光の王国に救われるように,律法を のである。その道とは,徳,公正,忠実,聖さ,そして神 のすべての戒めを守ることである。」(『預言者ジョセフ・ 授けられた。すべての王国には律法が与えられており,全 スミスの教え』pp.255−256)ブリガム・ヤング大管長は, 宇宙の万物は律法によって治められているからである。何 であれ律法に従う人は,その律法によって守られ,その律 この教えを強調して次のように述べている。「主の律法を 愛し,主の戒めに従う人は,大いなる平安を得る。」(『ブ 法に約束された報いを受ける。すべての神の子供が最高の 律法に従い,不死不滅の人々のために備えられた最も高い リガム・ヤング説教集』p.223) 『教義と聖約』が教えているように,末日聖徒には義の 栄光にあずかることが,神の御心なのである。しかし,神 原則に従って生活するという特別な責任がある。末日聖徒 はすべての子供に,どの律法に従うかを自分で選ぶ選択の 自由を与えられた。」(Millennial Star『ミレニアルスター』 は,神があらゆる神権時代のと権威,知識を回復して一つ にされる時満ちる神権時代に生きているからである(教義 1886年12月20日,p.801) 次の図は,神から与えられた律法を守る人と拒む人にも と聖約27:12−13;128:18参照)。「人の永遠の救いに必 かぎ 要で,かつて天から地上の人間に下されたすべての鍵と力 たらされる結果を表している。 次の質問について考えなさい。 と権能が,この神権時代にすでに回復されている。 」(マッ コンキー『モルモンの教義』p.200)末日聖徒はこれらの 教義と聖約130:20;132:5 偉大な祝福にあずかる者であるが,主は「多く与えられる 神から祝福を受けるため の条件とは何か。 教義と聖約132:11−12,21−25 神の栄光を得る唯一 者からは多く求められ」 (教義と聖約82:3)ると教えられ た。 419 永遠の命 う に従 律法 り によ 律法 、守ら る され 支配 められ 聖 , れ が 属性 神の まれる く はぐ 知る 神を なる に よう ける を受 律法 神の律法が 与えられる 律法を 拒む 律法に 従わない 神から離れ, 何の約束も 受けない 神の属性が はぐくまれない 神を知らず 聖められない 従 っ た 法 律 に 応 じ て 、 低 い 栄 光 を 受 け る ジョージ・アルバート・スミス長老は,授けられた祝福 の結果として末日聖徒に課せられる責任について,次のよ んだ!」この言葉のうそは,永遠の原則を否定してい るところにある。すなわち,律法に従う者だけがその うに説明している。「わたしたちは,世の兄弟姉妹が裁か 律法に約束された祝福を受けるのである(教義と聖約 れるようにではなく,わたしたちに与えられているさらに 大きな特権に応じて裁かれるであろう。わたしたちは,主 130:20−21参照)。律法に対する不従順には,罰が科 せられる。この罰は,神の子供たちの心から成長を妨 の言葉を受け入れ,主の語られることを聞いた者の一人で あって,もしそれらを行うならば永遠の命を受け,行わな げるものを一掃するために,愛にあふれた御父によっ て定められたものである。このようにして清められた ければ,その結果として罪に定められるであろう。」(Conference Report『大会報告』1906年10月,p.47) 詩篇の作者は,「いかにわたしはあなたのおきてを 人は,自ら従うことのできる律法に応じて幸福を得る (教義と聖約88:21−24参照)。 神の言葉は律法であり,リーハイの夢の中の鉄の棒 愛することでしょう」(詩篇119:97)と記している。 あなたも同じ気持ちを感じているだろうか。それとも, のように(1ニーファイ8:4−35;11:25参照),暗黒 の世におけるいかりである。それにしっかりとすがる 神の律法に対して不愉快な気持ちを抱いているだろう ならば,不幸や災いから救われて,最も大いなるであ か。サタンが用いる最も効果的なうその一つに,神の 戒めは束縛や制限だというものである。サタンはこの る永遠の命を含め,すべての祝福を享受できる。イエ スは次のように教えておられる。「もしわたしの言葉 ように勧める。「もしほんとうに自由になりたければ, そんな束縛は断ち切るんだ。自由になれ! 独立する のうちにとどまっておるなら,あなたがたは,ほんと うにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろ 420 特別講座G う。そして真理は,あなたがたに自由を得させるであ なるのである。この世の法律と同じように,霊的な律 ろう。 」(ヨハネ8:31−32) 従順のもたらす自由について,ボイド・K・パッカ 法にも必ず罰が伴う。おもな違いは,法律はすぐに罰 をもたらすが,主は寛容であられるという点である。 ー長老は次のように述べている。「神は従順な行為を 強制によってお受けになることはない。。神がそれを 人々は法律に従うことを決して盲従とは呼ばない が,霊的な戒めに関しては,時々そう呼ぶことがあ お受けになるのは,人が自由意志をもってしたときだ けである。そのときには,主はあなたがたに自由をお る。 学生が授業料を納め,読書課題を読み,授業に出席 与えになるであろう。それはあなたがたが夢想だにし し,最終的に学位を取得するとき,それは盲従であろ なかった自由である。心に感じる自由,知る自由,行 う自由,存在する自由,少なく見積もっても,わたし うか。自分では卒業の基準をもっと低く考えているか もしれないが,卒業要綱の内容を完全に理解している たちが主にささげた分の千倍分もの自由が与えられる のである。…… か否かにかかわらず,学生は規定の条件にすべて従う ものである。 従順は選択の自由の鍵であり……自由への扉なので 『危険! 高電圧 近よるな』という標識を見て, ある。 」(“Obedience” Brigham Young University Speeches of the Year「従順」『ブリガム・ヤング大学年度講話』 そこから離れるとき,それは盲従であろうか。それと も,危険に熟知している専門家の判断を信じての従順 1971年12月7日,pp.4,6) 救い主は,従順と真の自由の関係について教えてお であろうか。 飛行機の乗客が点灯したサインを見てベルトを締め られる(ヨハネ8:31−32参照)。この過程を表示すれ るとき,それは盲従であろうか。それとも,危険や事 ば,次のようになる。 故について自分より知識や経験の豊富な人を信頼して いるのであろうか。 もし主の言葉の中にとどまっているなら(従順) ↓ テーブルの上にいる幼い子供が,ほほえんでいる父 親の力強い腕の中に喜んで飛び降りるとき,それは盲 わたしたちは弟子となり ↓ 従であろうか。それとも,自分を愛し,必ず自分を受 け止めてくれる父親への完全な信頼であろうか。 真理を知り 病気で苦しむ人が医者の処方してくれた苦い薬を飲 ↓ 真理がわたしたちに自由を得させる むとき, また大切な体を外科医のメスにゆだねるとき, それは盲従であろうか。それとも,信頼しても大丈夫 自由を得る鍵は「真理」であり,真理を知る鍵は だと思った人を信じての従順であろうか。…… それでは,限られたビジョンと初歩的な知識,利己 「弟子となること」であり,弟子となる鍵は「従順」 的な願望,肉欲などを持つわたしたちが,愛にあふれ である。 この真理をし,求められているのは盲従だと言う た御父の導きを受け入れて従い,戒めを守るとき,そ れは盲従であろうか。御父はわたしたちをもうけて, 人々に対して,スペンサー・W・キンボール大管長は 次のように述べている。 わたしたちのために一つの世界を創造し,わたしたち を愛し,わたしたちのために建設的なプログラムを計 「従いなさい! 聴き従いなさい! 何と難しい要 画し,何のもくろみもなしに,御自分のすべての子供 求であろう! わたしたちはこんな話をよく耳にしま す。『何を着て,何を飲み,何を食べようと,だれか の『不死不滅と永遠の命をもたらす』ことを最大の喜 びと栄光にしておられるのである。」(『大会報告』 らも指図は受けないよ。日曜日に何をしようと,自分 で稼いだ金をどう使おうと,自分の勝手だし,人から 1954年10月,pp.51−53) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ とやかく言われる筋合いはないね。自分の思うままに するのさ。盲従などごめんだ。 』 (G−7)まとめ すべての聖典は,律法の価値とそれに従う者にもたらさ 盲従! 何と理解の乏しいことであろう。…… れる祝福について教えているが,特に『教義と聖約』は, 信仰や従順がすべて盲目的だと非難する人々は,自 分自身の弱さを覆い隠してはいないだろうか。聞き従 律法の本質と目的と源などを明らかにしている。終わりの 時に律法が世の中から激しく攻撃されることを知っておら えなかった自分の失敗を正当化するために,口実を探 しているのではないだろうか。 れた主は,律法のもたらす祝福を啓示された。主の教えに よれば, 神の子供たちは律法に従うことによって罪や弱さ, 人々は法律を守って所得税を納め,定められた期日 暗黒,絶望などから逃れ,すべての敵に打ち勝つ力と,心 までに財産税を完納するが,安息日の律法や什 分 の 一の納入をおろそかにしても,何かと理由を付けて自 にあらゆる正しい望みを抱く力とを得る。また,自分を引 き戻したり,縛りつけたりする障害から解放されるのであ 分を正当化してしまう。前者を怠れば,自由や資産を 拘束され,家や財産を失うことになるかもしれない。 る。こうして,束縛から逃れて自由になり,すべての戒め を守る能力を身に付けた神の従順な子供たちは,宇宙のも しかし,後者を怠れば,霊を損なう扉を開けることに ろもろの力を所有し,それらを自由に行使して,永遠に絶 じゅう ぶん 421 えることのない完全な喜びを得るのである。 特別講座H 終わりの時 (H−1)はじめに キリスト降誕のおよそ3千年前に,主は偉大な預言者エ ノクに,示現の中で,この世と人々の行く末を示された。 エノクは,時の中間における人の子の降臨と,十字架の刑, 栄光の中の復活を目にし,また「まことに世の終わりに至 るまですべてのことを」見た(モーセ7:67。モーセ7: 20−67も参照)。さらにエノクは示現の中で,地の面のひ どい悪事を見て,主に叫んで言った。「地はいつ安息を得 るのでしょうか。……あなたは再び地上に来られないので しょうか。 」(モーセ7:58−59)主は答えて言われた。 「わ たしが生きているように確かに,わたしは終わりの時に… …来て……地が安息を得る日が来る。」(モーセ7:60−61) 末日聖徒は今「終わりの時」(教義と聖約86:4)に生き ている。今は悪事と,災いと大いなる苦悩の時代であるが (モーセ7:60−61;教義と聖約1:17;ルカ21:25参照), それと同時に,主がこれまでのすべての時代の権威と祝福 を更新される回復の時代でもある(教義と聖約121:27− 31;128:18;モーセ7:62;使徒3:21参照)。この時代 に,主の業は勝利を収め,最終的に全地に満ちるであろう (教義と聖約84:97−102;ダニエル2:28−44;モーセ7: 62−65参照)。 この時代は,地球の歴史の6日目の終わりに当たる(教 義と聖約77:6−7,12;アブラハム3:4;2ペテロ3:8参 照)。現在は,地球の安息である偉大な福千年に先立つ 「土曜日の夕べ」である(マッコンキー,Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』3:485−486; スミス,Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョ 聖典は終わりの時に関する手引きである ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (H−2)聖典は終わりの時について権威ある情報を与え る セフ・スミスの教え』p.13参照)。主の再臨のために道を 終わりの時について勉強しようとする人は,第一の資料 備えるのは,この時代である。現代の聖徒たちは,福音の 原則に従い,時のしるしについて知る必要がある。そうす として聖典を使うべきである。謙遜な心で義を求めるなら ば,聖典は終わりの時の出来事と人々の従うべき道とを明 れば,この神権時代の試練や苦難に耐え,再臨のしるしを 見分け,主が来られるときに主の民として,主を受け入れ 確に告げてくれる。ハロルド・B・リー大管長は総大会の 説教の中で,他の資料を聖典よりも優先することの危険性 る備えができるであろう。『教義と聖約』は,終わりの時 について警告している。 に関する過去の預言を明らかにし,多くの新たな預言を付 け加えて,聖徒たちに主の再臨の時を認識させ,「その日 「わたしたちの間に,今襲来しつつある災害に関して不 正確な情報が流れているということである。そのような情 が,盗人のように〔彼ら〕を不意に襲う」(1テサロニケ 5:4)ことのないようにしている。また,主の再臨が近い 報の中には,まさに襲来しつつある恐怖から世の人々の目 を覚まさせることが必要であるとでも言うように,すでに ことを見分ける方法を教えているだけでなく,主が来られ るときに主を受け入れる備えをするために何をなすべきか 印刷出版に付されているものもある。しかし,そのうちの も明確にしている。 けんそん 多くは,その出所が定かでなく信頼できないものである。 ……もしわたしたちがこれまで聖典に明確に記されてい ることに精通していさえすれば,このような出版物は必要 ないということに気づいているだろうか。」(Conference 422 特別講座H Report『大会報告』1972年10月,p.128) 49:7参照)。しかし,時のしるしに注意し,主の預言者に リー長老は聖徒たちに,さらに次のように勧告してい る。 聞き従う人は,いつでも主を受け入れる備えができている であろう。 「あなたがたのガイドとして信頼すべき確実な預言の言 葉をお教えしたいと思う。 ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は次のよう に述べている。「これまで136年の間に,忠実な教会員に主 マタイによる福音書第24章,特に『高価な真珠』にある 霊感訳を読んでいただきたい(ジョセフ・スミス−マタイ の再臨が近いことを知らせる事柄が数多く起こっている。 福音が回復され,教会が完全な形で組織され,神権が人に 1参照)。 授けられた。世の初めからの代々の神権時代が明らかにさ 次に教義と聖約第45章を読んでいただきたい。ここで は,人ではなく主が,時のしるしについて述べておられ れ,その鍵と権能が教会に与えられた。イスラエルはシオ ンの地に集合を始めている。ユダヤ人はエルサレムに帰還 る。 さらに,教義と聖約第101章と第133章に目を向け,救い している。福音は万国の民に対するとして広く世界に宣べ 伝えられている。また,各地に神殿が建てられ,生者だけ 主の再臨に至るまでの出来事が順次記されている箇所を読 でなく死者のための儀式もその中で執り行われている。子 んでいただきたい。 最後に,教義と聖約第38章にあるように,邪悪な人々の 孫の心が先祖に向けられ,子孫はその先祖を探求している。 終わりの時に主がイスラエルと交わすと約束された聖約が うえに裁きが下るとき,戒めを守った人々に与えられる 数々の主の約束に視線を投じていただきたい。 明らかにされ,集合したイスラエルの民の多くが,その聖 約に入った。このように主の業はとどまるところを知らな ……これらの聖句こそ,あなたがたが関心を持たなけれ い。これらすべてが,主の再臨の近いことを示すしるしで かぎ の ばならない聖句なのであって,不確かな情報を集めて書い たものでもなければ,その目的に疑義が向けられるような ある。 」(『大会報告』1966年4月,pp.12−13) 主はなぜ再臨の正確な時を啓示されないのだろうか。 筋 合 い の も の で も な い 。」(『 大 会 報 告 』 1972年 10月 , p.128) 教義と聖約45:24−25,28,30 主の言葉によれば,異 邦人の時が満ちるまでユダヤ人は散乱したままに置かれ 『教義と聖約』は,終わりの時について多くの情報と預 言を告げている。『教義と聖約』やほかの聖典の教えに従 る。ユダヤ人が再び集められ始めることを示すために,主 はどのようなしるしを与えられただろうか。 うことにより,末日聖徒は将来の出来事について十分な知 識を得て,備えることができるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 教義と聖約45:36−38 いちじくの木のたとえにより, 主は何を言おうとされたか。 教義と聖約1:4,11−12;43:20 世の人々を主の再臨 (H−3)主の再臨に先立つしるし 主は聖典の中で,地の住民に現される多くのしるしにつ に備えさせるために,あなたは何ができるか。 すべての教会員が力を尽くして伝道活動を行ったら,主 いて教えておられる。それを見る人々が,力と栄光とをも の再臨にどのような影響を与えることができるだろうか。 って戻って来られる主の再臨を含め,終わりの時に起こる 大いなる出来事に備えられるようにするためである。しる スペンサー・W・キンボール大管長は次のように述べてい る。「教会員が所属のワードで真の伝道を行うならば,改 しについて学び,主の預言者を通して与えられる勧告に従 う人々は,この重大な時期のチャレンジに対処できるよう 宗者の数は天文学的な数にまで増加し,主がこの地上に再 び戻られる再臨の時さえも早めることになるのである。」 に備えられ,「主の大いなる日が来るのを……待ち望むで (『大会報告』1976年10月,p.4) あろう」(教義と聖約45:39。モーセ7:62も参照)。そし て,不意に襲われることはなく,主の再臨を心待ちにする ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (H−4)二つの分野のしるし であろう。 主の再臨のしるしは二つに大別できる。 (1)福音の回復 再臨のしるしは,王国の回復に関するものと,来るべき 災いに関するものに分けられるが,『教義と聖約』にはそ と全世界への進展に関するしるし, (2)悪の増大と世に下 される災いや裁きに関するしるし。これら二つの動きが, の両方の情報が豊富に記されている。 福音の回復と伝道 この神権時代は,「アダムの時代か 終わりの時に同時に起こるのである。スペンサー・W・キ ら現在に至るまでの……鍵と力と栄光のすべて〔が〕…… ンボール大管長は,「教会の発展は人類の邪悪な行為の増 大と平行している」と述べ,ブリガム・ヤング大管長の次 示される」 (教義と聖約128:18)時代である。回復は古代 において,主の再臨に先立つしるしと考えられていた(使 の言葉を引用している。「福音が地の国々に広まるのに比 例して,サタンの力も強くなるであろう。」(Church News 徒3:19−21;エペソ1:10;黙示14:6−7参照)。世の終 わりの前にある回復について,主はこう言われた。「福音 『チャーチニューズ』1979年6月30日付け,p.5) は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣 聖徒たちは『教義と聖約』やほかの聖典から教えを受け る機会があるので,時のしるしについて学び,絶えずそれ べ伝えられるであろう。」(マタイ24:14)1833年に主は, 人々に福音をゆだねるために天使を遣わしたと言明され らに注意して,主の来られる時を悟る必要がある(教義と 聖約68:11参照)。その正確な日時はだれも知らないし, た。その福音は,栄光に満ちた再臨の前に全世界に宣べ伝 えられるのである(教義と聖約133:36−40参照) 。 主が来られるときまで知らされないであろう(教義と聖約 ブルース・R・マッコンキー長老は,この回復の時代に 423 ついて次のように記している。「福千年の直前の期間は終 て語っておられる(教義と聖約1:13−16参照) 。世の人々 わりの時と名付けられている。これは,再臨を迎えるうえ で不可欠な事柄が行われる時であり,期間であり,時代で が主の教えを拒絶することが,地上の悪事や戦争,混乱な どの原因になっている。主は,このような悪のゆえに,世 ある。終わりの時は時満ちる神権時代であり,再臨のしる に住む人々の頭に裁きを下すと言われた(教義と聖約1: しが示される時期であり,『神が聖なる預言者たちの口を とおして,昔から預言しておられた万物更新の時』(使徒 13,15−16,35−36;29:14−21;45:26,31;63:33; 84:96−97;112:23−26参照)。 3:21)である。わたしたちが今生活しているのはそうい う時代であり,現在,大いなる更新(すなわち回復)の業 世の人々が自らの罪悪のために必然的に受ける災いを知 っておられた主は,預言者ジョセフ・スミスを召して,福 が進行しているのである。」(Mormon Doctrine『モルモン の教義』p.431) 音の鍵と権能と祝福を授けられた。福音の回復を通して, 多くの人が世から離れて裁きから守られるようにするため 預言者ジョセフ・スミスはカートランド神殿において, こうべ である(教義と聖約1:17−23参照)。福音のメッセージを 神の使者から神権の重要な鍵を託されたとき,それが一つ のしるしであり,「これによってあなたがたは,主の大い 心に留める人々は守られるが,それを拒む人々は恐ろしい 苦難と悲しみを味わう。これらの出来事はすべて,主の再 なる恐るべき日が近く,まさに戸口にあるのを知ることが できる」 (教義と聖約110:16)と告げられた。これらの鍵 臨が近いことを告げるしるしである(ジョセフ・スミス− マタイ1:22−23,27−36,41−43参照)。 が回復されることにより,人の子の再臨に備えるうえで不 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 可欠な業が行えるようになったのである。 主が指摘されたように,この神権時代は「夜中」(マタ (H−5)邪悪な人に約束された結果 以下の出来事は,福音の警告を拒絶した人々の間に起こ イ25:6)に主が降臨して地球の安息の到来を告げられる 前の「十一時」 (教義と聖約33:3。教義と聖約43:28−29 っていることである。 み たま 主の御霊を失う(教義と聖約63:32−34参照) 参照)であるから,「わたしが働き人をわたしのぶどう園 フ・フィールディング・スミス大管長は次のように述べて に呼び入れる最後の時である。」(教義と聖約33:3)この しもべ 最後の時に, 主の僕たちはすべての民に警告の声を及ぼし, いる。 「今や主は世から主の御霊を取り去られた。このことは 悔い改めて差し迫った再臨に備えるように呼びかけるので ある(教義と聖約1:1−5,11−12参照)。福音は現在,神 さほど理解しにくいことではないだろう。主が世から取り 去られた御霊とは,聖霊ではなく(彼らがこれを持つこと の王国という形で回復されている。この王国は転がり出で は決してなかったからである),聖典中でキリストの御霊 て全地に満ち,キリストが戻って来て,更新された楽園の 状態にある,地上に設けられる天の王国を統治されるので として語られている真理の光である。これは,世に来るす べての人に与えられるものである。このことについては教 ある(教義と聖約65:1−6;信仰箇条1:10参照) 。 再臨に備える業の一部として,『教義と聖約』が指摘し 義と聖約第84章に記されている。 世の悪のため,その御霊が取り去られた。そして,主の ているように,主は散乱したイスラエルの家を集められる であろう(教義と聖約110:11参照) 。主の来臨の前に,行 御霊が人を励まさなくなると,サタンの霊が働く。…… 悪魔はすでに自分の領域を支配し,主の御霊はすでに取 方の知れない十部族が戻り(教義と聖約110:11;133: り去られている。主が御霊を取り去ることを望まれるから 26−34参照),ユダヤ人が故国に集められ(教義と聖約 45:16−25,43−44参照),レーマン人が神の群れの中に ではなく,人類の悪のゆえに,主の御霊を取り去ることが 必要になるのである。 」(“The Predicted Judgments” Brigham 集められて「ばらのように花咲くであろう」(教義と聖約 49:24。教義と聖約3:18−20;2ニーファイ30:4−5参 『ブ Young University Speeches of the Year「予告された裁き」 リガム・ヤング大学年度講話』1967年5月21日,pp.5−6) 照)。また福音が宣べ伝えられて,イスラエルが集められ, ジョセ 地から平和が取り去られる(教義と聖約1:35参照) シオンは栄える(教義と聖約49:25参照)。新エルサレム の町がアメリカ大陸に建てられ, 「平和の地,避け所の都, 人々が主を拒んだために主の御霊が取り去られると,サタ ンの霊とその影響力が増大して,地上から平和が取り去ら いと高き神の聖徒のための安全の地」となり(教義と聖約 45:66。信仰箇条1:10参照),すべての国から義人が喜び れる。それが今日の世の状態である。ジョセフ・フィール ディング・スミス大管長は,「平和はすでに地から取り去 をもってシオンに集まる(教義と聖約45:66−71参照)。 られている」(「予告された裁き」p.6)と述べている。預 主は完全な祝福を聖徒に授けるため,新エルサレムの町に 大いなる神殿を建てさせ,そこに戻って来られる。そして 言者ジョセフ・スミスは,シオンとそのステークにいる人 を除きだれ一人平和を得られない時代が来ることを預言し 神殿は主の栄光で満たされる(教義と聖約36:8;42: 35−36;84:4−5参照)。 ている。「わたしは,父親が息子の命をねらい,兄弟同士 で殺し合い,母親が娘を殺し,娘が母親の命をねらうのを 悪の増大と,世に下される災いと裁き 古代の多くの預 言者がこの時代を先見し,ひどい悪事と混乱に満ちた状態 見た。また,軍隊が軍隊と戦うのを見た。流血と荒廃と火 を見た。かつて人の子は,母親が娘に,娘が母親に敵対す について預言している(1ニーファイ14:7−17;2ニーフ るであろうと言われた。これらの事柄は,すでに門口まで ァイ28:3−14,20−23;モルモン8:26−41参照)。『教義 と聖約』の「はしがき」の中で,主はこの時代の悪につい 来ている。そして,町から町へ神の聖徒たちに付いて回る であろう。サタンは怒り狂うであろう。悪魔の霊は今やた 424 こんにち 特別講座H けり狂っている。これらの事柄がいつ起こるか,わたしは 知らない。 」(History of the Church『教会歴史』3:391) 自然災害を通して,主は地の人々に悔い改めを呼びかけ られる 黙示者ヨハネが第6の封印(第6の千年期。教義と 聖約77:6−7参照)の出来事を見たとき,大規模な自然災 害が起こることが示された(黙示6:12−13参照)。『教義 と聖約』の中で具体的に啓示されているように,主は僕た み こと ば ちを通して御言葉を全世界に宣べ伝えるだけでなく,「雷 の声により,また稲妻の声により,また暴風雨の声により, ひょう おお あらし また地震と雹 を伴う大 嵐 の声により,またとあらゆる疫 病の声により」(教義と聖約43:25。20−27節参照)邪悪 な人々に悔い改めを叫ばれる。主は,これらの自然災害に 主の羊は主の右に集められる あかし よる証が僕たちの証に続くと警告された(教義と聖約88: 88−91参照。教義と聖約43:17−25;88:87−91の「注 解」も参照) 。 メルビン・J・バラード長老は次のように述べている。 「わたしは末日聖徒の注意と,もしわたしに力があれば, 教義と聖約101:10−11;103:1−3 主の裁きと怒りが下るのはいつか。 教義と聖約86:4−7 邪悪な人々に 王国の発展を阻止しようとす 全世界の人々の注意を,神が自然現象を通して語られると る世の人々に対して,主は裁きを下すことを差し控え ようらん られたが,それが揺籃期の教会にとって祝福となった いう事実に向けたいと思う。 わたしたちが目にするように, 恐ろしい被害をもたらす地震や海岸線をはるかに越えて打 のはなぜか。 教義と聖約87:6 ち上げる高波は,この時代の人々に悔い改めを呼びかける 神の警告の声である。主の僕たちの警告の声に心を留めた 強国はどのように征服されるか。 人がわずかしかいなかったからである。」(『大会報告』 1923年10月,p.31) ブリガム・ヤング大管長は,自然災害に関する啓示につ いて次のように述べている。「現在,人々の住む至る所で 災いが発生しているだろうか。それほどでもない。わたし たちが聞き,経験したすべてのことは,これから宣べられ る説教のほんの始まりにすぎない。長老たちの証がやみ, 福音が地を治める備えの段階で, 教義と聖約112:23−26 るか。 主の裁きはどこから始ま 教義と聖約35:13−14 世界中に広がる邪悪な人や 組織から妨害を受けても,謙遜な神の僕はその力に耐 えることができるのはなぜか。 教義と聖約86:4−7;88:94 主は小麦と毒麦のた とえの中で,まず小麦を集め,それから毒麦を束ねて 主が彼らに,『帰りなさい。今度はわたしが地上の民に説 畑を焼くと言われたが,これは何を意味するか。 教義と聖約115:6 終わりの時の裁きの中で,聖徒 教を宣べる』と言われるとき,あなたがたの知っているす べてのことは,火と剣,嵐,地震,雹,雨,雷と稲妻,さ はどこに「防御」や「避け所」を見いだすことができ るか。 らには恐るべき破壊を伴って宣べられる説教の単なる序文 としか呼ばれないだろう。この破壊は,列車が転覆すると 教義と聖約45:66−71 新エルサレムの町が聖徒の いった生易しいものではない。あなたがたは,現在人々に 「避け所」となり「安全の地」となるのは,そこにど のような状態があるからか。 憧憬の念で見られている巨大な都市が,住民もろとも土の 中に埋没するのを聞くであろう。また海の高波が海岸線を スペンサー・W・キンボール大管長は,10人のおと めのたとえに関する説明の中で,次のように述べてい はるか越えて打ち寄せ,大きな町をのみ込んでしまうであ き きん ろう。飢饉は国中に広がり,国は国に,王国は王国に,ま る。「真夜中のことである。花婿が来ようなどとはだ どうけい ほう き たわが国でもほかの国でも,州は州に敵対して蜂起するで あろう。 」(Journal of Discourses『説教集』8:123) 主が地の住民に何度も繰り返して警告してこられたよう に,彼らの罪悪が熟すると,主の激しい怒りが世に注がれ るであろう(1ニーファイ22:16−17;エテル2:8−10; 教義と聖約1:13;97:22−24;133:51参照)。 『教義と聖約』は,終わりの時と再臨に先立つ備え やみ れも思わなかった, まさしく最も闇の深い時であった。 かんなん 世は艱難に満ち,助けが必要とされている。しかし時 はとうに過ぎ去り, 望みはむなしいかのように思える。 キリストがおいでになるのはそれからのことである。」 (Faith Precedes the Miracle『奇跡に先駆ける信仰』 p.255) 来るべき艱難のときに,わたしたちは神に対する信 とについて学ぶ際に豊富な資料となる。以下の聖句を 仰を行動に移さなければならない状況に追い込まれる が,それはなぜだろうか。3ニーファイ1:4−21を読 読んで質問に答えなさい。 教義と聖約1:35−36 終わりの時にサタンはだれ んで考える。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を支配するか。 教義と聖約29:17,19,21;133:63−74 (H−6)主は御自分の民を守られる 主が邪 悪な人々に厳しい裁きを下されるのはなぜか。 終わりの時における主の教会は,厳しい迫害と恐ろしい 災いや裁きの時代に築き上げられるが,主は御自分の民を 425 守ると約束しておられる。苦難の中に聖徒をとどめて,繁 主は「備えていれば恐れることはない」(教義と聖約38: 栄しているときも困窮しているときも,常に主に忠実であ るかどうかを見るのは,現世における主の試しの一つであ 30)と言われた。必要な備えとは,悔い改め,福音を受け きよ 入れ,その教えに従って聖められることである(教義と聖 る。ブルース・R・マッコンキー長老は,主の民がしばし 約39:17−18参照)。この神権時代の初期の聖徒たちは, ば苦難を経験する理由を次のように説明している。 「聖徒であると罪人であるとを問わず,現世の試みには 忠実さに欠けていたために迫害を受けた(教義と聖約 101:6−8参照)。主が明言しておられるように,「清めら すべての人があう。しかも,福音を受け入れた人々の試み と試練は,世の人々に課せられるものよりはるかに大きい れていない者は, 〔再臨〕の日に堪えられない」 (教義と聖 約38:8)のである。聖徒たちは罪にかかり合うことのな ことが往々にしてある。アブラハムはその独り息子をいけ にえにするように求められた。またリーハイと家族は,所 いように警告されてきた(教義と聖約88:86参照)。 聖徒たちは, ミズーリで暴徒から多くの困苦を受けた後, 有の土地と富とを置いて荒れ野に入った。いつの時代の聖 主が語られる「すべての言葉に聞き従う」ならば,まさに 徒も,持ち物すべてを祭壇にささげるように命じられてき た。時には,自分の命さえも求められたのであった。…… その時点から敵に打ち勝ち始め,絶えず勝利を得ると約束 された(教義と聖約103:5−7) 。 主の民が追い立てられ,迫害されることが時折ある。ま た主は故意に,忠実な聖徒たちが肉体的また霊的な苦しみ これは今日でも同じである。個々人を取ってみれば例外 もあるかもしれないが,一般的に忠実な聖徒は敵から守ら を受けるに任せておられる。それはすべての事柄について れ,神が世の人々に下される裁きから守られるのである 彼らを試み,また死に至るまでも彼らが主との聖約を守る かどうかを見るためである。そしてこれに耐えた者は永遠 (教義と聖約97:21−26;133:4−7,14参照)。ジョセ フ・フィールディング・スミス長老は,1940年10月の総大 の命を受けるにふさわしい者なのである。 しかしわたしたちがこの世で出あう事柄は何であろう 会でこの原則を教えている。 「わたしたちには,イエス・キリストの福音に従うこと と,ほんの一瞬にすぎない。そしてもしわたしたちが誠実 により逃れる道が与えられている。では,わたしたちは実 であり,忠実であるならば,神はやがてわたしたちを高く 引き上げてくださるのである。わたしたちが失ったものや 際に逃れられるのであろうか。わたしは,末日聖徒の中に さえ主の律法を破っている人々がいるのを見るときに,恐 受けた苦しみはすべて,復活のときにわたしたちに償われ るであろう。 」(『大会報告』1976年10月,pp.158−160) れおののく。わたしは過去30年間,シオンのステークに悔 い改めを叫び,人々に主のもとに帰り,主の戒めを守り, じゅう ぶん 預言者ジョセフ・スミスは,聖徒であっても,末日に邪 安息日を守り,什 分 の一を正直に納め,主から命じられ 悪な人々の受けるすべての裁きから逃れられると期待すべ きではないと述べている。多くの義人が肉の弱さのゆえに たすべてのことを行い,神の口から出る一つ一つの言葉に 従って生活するよう求めてきた。 困難や苦難を味わい,それでも神の王国に救われるであろ う(『教会歴史』4:11参照)。聖徒たちはそのような試練 以上のことを行えば,わたしたちは災いを免れるであろ う。 を「ほとんど逃れられない」(教義と聖約63:34)が,主 が約束しておられるように,最終的には悪人を滅ぼす裁き わたしは以前述べたことを繰り返し述べたい。そのこと である筋から痛烈な非難のお言葉をちょうだいしたが,わ のただ中にあって,主により守られるのである(教義と聖 たしが語ったのはこうである。たとえこの国であっても, 約35:13−14;63:33−37;1ニーファイ22:13−17, 22−23参照)。聖徒は艱難を受けているときに,主の勧告 悔い改めて主の戒めを守ることをしなければ,わたしたち の逃れる地はなく,わたしたちが立つ確かな基はなく,災 を思い起こさなければならない。すなわち,来るべき時に 報いを受けることを信じて堪え忍ぶのである(教義と聖約 害や破壊,疫病,社会の害毒,さらには剣と戦いをもって 焼き尽くす火からも逃れる地はなくなるであろう。そのよ 54:10参照)。主は間もなく,主の民イスラエルを救うた うに,これらの啓示に記されているからである。 めに,地の邪悪な国民に怒りと憤りを注がれるであろう。 聖徒たちはそのときまで,主が勧告されたように,主が神 わたしは末日聖徒に,また合衆国の民に,そして全地の 民に悔い改めを叫ぶのはこのためである。わたしたちが心 であり,すべての肉なるものが主の手にあって支配されて いることを信じて,心安らかに待つのである(教義と聖約 を入れ替えて神の律法に従って生活し,主が下したもうた み な 戒めを守ることができるように,イエス・キリストの御名 101:10−16参照)。主は世の王国を裂き,「天の力を働か によりへりくだり祈るものである。アーメン。」(『大会報 せ」,聖徒を守られるのである(教義と聖約84:118− 119) 。 告』1940年10月,p.117) それから1年の後に真珠湾が攻撃されて,合衆国は第二 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (H−7)どのようにして災いと神の裁きを逃れるか 次世界大戦に突入した。 ウィルフォード・ウッドラフ大管長は,神権を尊ぶ者だ 主は,終わりの時に主の民を守ると約束された。次の質 問には教会員一人一人が答えられなければならない。「わ けが主の守りを受ける権利があると述べている。「今まさ に門口にあるこれらの災害や裁きから逃れることのできる たしはどうすれば,主によって守られる民に数えられるで 人々はいるだろうか。わたしは皆さんに申し上げる。この しょうか。 」この質問の答えは, 『教義と聖約』の中に明確 に記されている。それは,個人のふさわしさの問題である。 安全と保護を得られる人は,自分に与えられた神権を尊ぶ 神権者,ならびに神権の祝福を受けるにふさわしい生活を 426 特別講座H している姉妹たちだけである。そのほかの人はいかなる 18,54−57,70参照)。 人々であろうと, これらの裁きから逃れる権利を持たない。 裁きはまさに門口にある。この民でさえもそれを完全に避 5タラント与えられた僕と,2タラントしか与えられなか った僕とを比較すると,主人から受けた称賛と約束にどの けることはできないであろう。それらの裁きはソドムとゴ モラの裁きのように下されるであろう。そして神権者以外 ような違いがあるか。このことから,どのような結論が得 られるか(マタイ25:21,23参照)。 何人もその激しい裁きから守られる者はいないであろう。」 (Yourng Women’s Journal『ヤング・ウーマンズ・ジャーナ 主人はどのような点から,1タラントの僕を「悪い怠惰 な僕よ」と言ったのだろうか。その僕が受けた報いについ ル』1894年8月号,p.512) て,結論できることは何か(マタイ25:26参照) 。 イエスは亡くなられる前に,弟子たちから次のように尋 ねられた。「あなたがおいでになる時や,世の終わり,す 再臨に対するあなたの備えに,29節はどのように適用で きるか(教義と聖約82:3−4;107:99−100参照)。 なわち,世の終わりである悪人の滅亡には,どのようなし るしがありますか。 」(ジョセフ・スミス−マタイ1:4)こ 羊とやぎのたとえ(マタイ25:31−46参照) 「近東で 最も一般的で美しい光景の一つは,羊飼いが羊を放牧地へ れに答えて,主はオリブ山の説教として知られる教えを授 連れて行く様子である。羊飼いは羊がついて来るものと信 けられた。 この説教の最初の部分はマタイ第24章にあるが,『高価 頼し,羊の方は羊飼いが決してそばを離れないと信じてい る。」(マッキー,Bible Manners and Customs『聖書の風俗 な真珠』のジョセフ・スミス訳マタイ第24章(ジョセフ・ スミス−マタイ1章)にも見られる。多くの人は気づいて 習慣』p.33)それに対してやぎは,従順というより攻撃的 で,服従心より独立心が強く,羊のように羊飼いの保護に いないが,3つのたとえを含むマタイ第25章も,この説教 頼らない。 の一部である。その3つとは,10人のおとめのたとえ(マ タイ25:1−13参照),タラントのたとえ(マタイ25:14− 以上のことから,たとえの象徴に対する理解がどのよう に深まるだろうか。 30参照),そして羊とやぎのたとえである(マタイ25: 31−46参照)。言い換えれば,これらのたとえは,世の終 40節の教えは,マタイ2:17および教義と聖約1:10の教 えと,どのような関係があるか。 わりに関する弟子たちの質問への答えである。そのため, 備えのたとえとも呼ばれている。 キリストの再臨に対するあなた自身の備えに,3つのた とえのメッセージを当てはめなさい。救い主は,3つの大 自らを備えて将来に対する恐れをなくすにはどうすれば 切な特質を強調しておられる。すなわち,霊的な力と管理 よいか,知りたいと思わないだろうか。マタイ第25章を開 き,次の質問に答えながら,その中のたとえを注意深く研 の職,クリスチャンとしての奉仕である。主は「備えてい れば恐れることはない」 (教義と聖約38:30)と言われた。 「花 どのような方法で自らを備えれば,思慮深いおとめとなり (マタイ25:1−13参照),「良い忠実な僕」(マタイ25:23) 婿を迎えに出て行く」 (1節)のはいつか(マタイ24:42; となり, 主から次のように言われる羊になれるのだろうか。 教義と聖約45:56参照) 。 花婿とはだれのことか。婚宴は何を象徴しているか(黙 「わたしの父に祝福された人たちよ,さあ,世の初めから あなたがたのために用意されているを受けつぎなさい。」 示19:7−9;教義と聖約33:17;63:3;88:92参照)。 花婿はいつ来たか。これは,教義と聖約33:3の意味を (マタイ25:34) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ さらに深めていないだろうか。 (H−8)教会は自立しなければならない 究しなさい。 10人のおとめのたとえ(マタイ25:1−13参照) おとめは清さや忠実さ,ふさわしさの象徴である。おと めはだれを表しているか。世の人々は花婿を待っているだ 主は,教会は終わりの時の艱難の中で「日の栄えの世界 の下にある他のすべての造られたものの上で自立」(教義 ろうか。 このたとえの中で,油が重大な要素であることは明らか と聖約78:14)しなければならないと言われた。そのため になすべきことについて,ブルース・R・マッコンキー長 である。この油は何を象徴しているだろうか。言い換える と,思慮深いおとめが持っていて,思慮の浅いおとめが持 老は次のように説明している。 「福音をもたらす教会と同様,福音を受け入れた聖徒も, っていなかったものは何か(教義と聖約45:56−57参照) 。 この世のあらゆる権力に左右されることなく,主を畏れか どうすれば余分に油を「買う」ことができるか(教義と 聖約45:56−57の「注解」参照)。 しこみ,霊的にも物質的にも自らの救いを全うするように すべきである。 タラントのたとえ(マタイ25:14−30参照) 遠くの国 に旅に出た人は,だれを象徴しているだろうか。僕たちと しかし,艱難が間近に迫っていることを忘れてはならな い。…… はだれのことか。 おそ かんなん すでに地から平和は取り去られ,滅亡の天使が働き始め このたとえは,才能を伸ばす必要があることを教えるた めによく使われる。しかし,タラントは能力ではなくて金 ている。滅亡の天使の剣は,平和の君が来られて悪人を滅 ぼし,大いなる福千年の到来を告げられるときまで,さや である。僕の所有物ではなくて,預けられたものである。 言い換えれば,このたとえの教えは,重要な福音の原則と に納められないであろう。…… わたしたちは自分自身の健康を維持し,畑に種をまき, 関係している。それは何だろうか(教義と聖約104:17− 食糧を貯蔵し,日常生活の諸事を処理するために教育と訓 427 練を受けなければならない。物質的にも霊的にも,自分自 ある」 (ジョセフ・スミス−マタイ1:41)と言われた。す 身の救いを全 うできる人間は,自分以外にいないのであ る。 なわち,地は腐敗して暴虐で満ち,人の思いと企ては常に 邪悪で,人々は少しも神に頼ろうとせず,私利私欲ばかり まっと わたしたちは,家族の必要を満たすためにこの地上にい を追い求めるのである(モーセ8:21−22,28−30参照)。 る。妻は夫に,子供は両親に,年老いた両親は子供に,兄 しんせき 弟や親戚はそれぞれ互いに扶養を求める権利があるのであ 世の人々は堕落していくが, 神の聖徒はシオンを建設して, 世とその腐敗から離れるであろう(教義と聖約63:54;1 る。 教会の目的は聖徒の自活を促し,また必要に応じて食物 ニーファイ14:7参照) 。ブルース・R・マッコンキー長老 は次のように明言している。「人々が平和に暮らすように や衣服,その他の必需品を作る助けを与えることである。 これは,聖徒が施しというバビロンの悪に頼ることのない なれば福千年が来る,末日の予告された災いや約束された 破滅は何らかの方法で回避できる,これらはいずれも現代 ようにするためである。貧しい人々を助けるために,教会 における悲しむべき邪説である。」(『大会報告』1979年4 は農場を経営し,ぶどう畑を作り,酪農場や工場を経営す るなど,多くのことを行っている。いずれも,世の悪の力 月,pp.131−132) その代わりに,主は邪悪な人々に報復と破壊をもたらし, から自立するためである。 いつ末日の災害や苦難が,わたしたち個人のうえに,あ 聖徒に贖いと解放をもたらすことによって,福千年の扉を 開かれるのである(教義と聖約133:51−52参照) 。 るいは聖徒の群れのうえに注がれるか,わたしたちは知ら ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ない。それらはすべて,死すべき状態に伴う試練と経験の 一部である。しかし,主は故意に再臨の日時と,それに先 (H−10)人類へのキリストの訪れ 主は戻って来られるとき,幾つかの特定の集団に現れ, 立つ艱難の訪れる時をわたしたちに知らせることを控えて おられる。そして,主はわたしたちに,目を覚まし,常に それから大いなる力と威光と栄光をもって,すべての人に み すがた 御 姿 を現される(教義と聖約101:22−23;133:17−22 備えているようにとだけ告げておられるのである。 参照) 。預言者たちが特に記しているように,主は4度にわ わたしたちが最善を尽くして将来起こることに備えるな らば,主はわたしたちに必要なものを与えて助けてくださ たって御姿を現される。2度は聖徒に,1度はユダヤ人に, そして最後は世の人々に対する来臨である。 ると,わたしは確信している。 来るべき滅亡の日にすべての聖徒が救われるとは断言で 新エルサレムの町への訪れ 主は「突如神殿に来る」 (教義と聖約133:2)と預言されているが,この神殿はミ きない。しかし,ここで申し上げられるのは,主を愛し, ズーリ州ジャクソン郡にまだ建設されていない(教義と聖 主から命じられたすべてのことを行おうと努めている人々 以外に,安全や保護を約束される人はいないということで 約84:1−5;97:10,15−16参照)。チャールズ・W・ペ ンローズ長老が述べているように,主は最初に聖徒に御姿 ある。 」(『大会報告』1979年4月,pp.131−133) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を現される。「その訪れは,ほかの人々には分からない。 主は主のために備えられた神殿に来られ,主の忠実な民は (H−9)キリストの再臨の時の状態 主は十字架につけられる3日前にオリブ山で,再臨と世 の終わりに関する弟子たちの質問に答えられた。そして, 「人の子の来臨の時も,ちょうどノアの時代と同じようで あがな 主の顔を拝し,主の声を聞き,主の栄光を見る。彼らはシ オンの発展と美ならびに主の王国の拡大と確立について, 主御自身の口からさらに詳しい指示を受けるであろう。」 ( Millennial Star『 ミ レ ニ ア ル ス タ ー 』 1859年 9月 10日 , pp.582−583) アダム・オンダイ・アーマンへの訪れ 主は,ミズーリ 州デイビーズ郡のアダム・オンダイ・アーマンで開かれる 神権者の聖会において,聖徒に御姿を現される。この聖会 には,福音のすべての神権時代の鍵を保有した人々と,特 別に招かれた生者とが出席する。預言者ジョセフ・スミス は次のように述べている。「ダニエル書第7章には『日の老 いたる者』についての記述がある。日の老いたる者とはわ たしたち人類の最年長者,父祖アダムすなわちミカエルの ことである。彼は子孫を集めて会議を開き,子孫を人の子 の再臨に備えさせるであろう。彼〔アダム〕は人類家族の 父であり,全人類の霊を管理する。また鍵を付与されてい た者は皆この大会議において彼の前に立たなければならな い。」(『教会歴史』3:386−387。教義と聖約第116章参照) ジョセフ・フィールディング・スミス長老は次のように 記している。 ハルマゲドンの戦いは,エルサレムがその中心になる 428 「それほど遠くないうちに,この同じアダム・オンダ イ・アーマンの谷に,再び大祭司や正しい人々が集まるこ 特別講座H とだろう。この集会に,日の老いたる者,アダムは再び出 預言者が述べているように,彼らは嘆き,涙を流し,部族 席するだろう。このとき,ダニエルの見た示現が実現する だろう。日の老いた者が着席し,すべての神権時代の鍵を が各々別れて嘆き,その妻たちも別れて嘆く。しかし,感 謝すべきことに,彼らの嘆きは終わる。主が彼らの罪悪を 持った人々が彼の前に立ち,救いの鍵を持つ人類最初の祝 福師に,各自の職を渡すであろう。これは審判と備えの日 し,汚れを清めてくださるからである。そのときから,エ ルサレムは聖なる都となる。」(Voice of Warning『警告の である。…… この会議において,キリストは公的にこの地上で統治す 声』pp.32−33) 再臨:全世界への訪れ 主の再臨が近づくと,様々なし る主権を引き継がれる。そして,国と主権と天下の国々の るしが新しい時代を迎えるこの出来事を指し示すであろ 権威とは,いと高き方の聖徒たる民に与えられる。…… この大会議が開かれるまで,サタンは地上のすべての国 う。そして,最後に現れるしるしの一つが,人の子のしる しである(教義と聖約88:93;ジョセフ・スミス−マタイ を支配するが,この大会議が開かれるとき,王権は投げ捨 てられ,人の統治は終わりを告げる。……そしていと高き 1:36参照)。預言者ジョセフ・スミスは次のように述べて いる。「それから天に人の子の大いなるしるしが現れる。 方の聖徒に,統治権が与えられる。 しかし,世の人々はどうするであろうか。彼らは,あれは この会議は,夜の盗人のように,だれにも知られないで, イエス・キリストの降臨に先立って開かれるものであるか 惑星だ,いや,すい星だなどと言う。しかし,人の子はそ の人の子の来臨のしるしのように来られる。あたかも朝の らである。 」(『完成への道』pp.226−228。一部改訳) ロレンゾ・スノー大管長は,会議が開かれるときにジャ 光が東から射すように。」(『預言者ジョセフ・スミスの教 え』p.287) クソン郡に住んでいる人々について,次のように述べてい そのしるしの後,「半時間,天に静けさがある。その後 る。「このときまでに主イエスに会えなかったとしても, 皆さんはすぐに主とまみえ,飲食を共にし,握手をし,主 直ちに……天の幕が開かれて」(教義と聖約88:95)主が 栄光に満ちた御姿を現される。主の来臨の栄光と力があま が以前に来られたときと同じように,皆さんの家へ主をお 招きすることができるでしょう。」(Deseret News『デゼレ りにも大きいために,地は震え,太陽は恥じてその顔を隠 し,山々は溶けて崩れ落ち,海の水は沸き立つ(教義と聖 トニューズ』1901年6月15日,p.1) オリブ山への訪れ 救い主がユダヤ人に御姿を現される 約101:25;133:40−42,49参照)。そして,腐敗するも のはすべて,主の栄光の輝きによって焼き尽くされる(教 のは,エルサレムとその周辺が多くの国々によって包囲さ 義と聖約5:19;101:24−25参照)。主は赤い装いで来ら れたときである。長期にわたる犠牲の大きい戦争,すなわ ちハルマゲドンの戦いの終わりに,ユダヤ人は安全を求め れるが,これは偉大ないの犠牲と邪悪な人々に対する主の 裁きを象徴している(教義と聖約133:48−51参照) 。 てオリブ山へ逃れる。救い主はそこで御姿を現されるので ある(教義と聖約45:48−53;77:15;133:35;黙示 長らく待ち望んだその日に,主の民は忠実に堪え忍んで きたことに対する報いを受ける(教義と聖約54:10; 11:1−13;ゼカリヤ14:1−9参照)。 133:52−53参照)。生きている義人と日の栄えを受け継ぐ パーリー・P・プラット長老は,この訪れに関連した出 来事を次のように要約している。「ゼカリヤは第14章の中 死者は,主に会うために空中に上げられ,それぞれの行い に応じた報いを受ける。一方,邪悪な人々は滅ぼされて, で,大いなる戦いとエルサレムを攻撃する国々の敗北につ いて多くのことを記し,明快な言葉で,主の来臨がまさに 外の暗闇に投げ込まれる(教義と聖約88:96−97;101: 89−91参照)。これが「主の大いなる恐るべき日」(教義と 敵の滅びる時であると述べている。現実に,周囲の国々が 聖約110:14,16)である。 エルサレムを攻め,町の半ばを捕らえ,家をかすめ,女を 辱める。そのとき,見よ,待ち焦がれたメシヤが突如現れ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (H−11)まとめ て,エルサレムの少し東にあるオリブ山に立ち,国々と戦 ってユダヤ人を救われる。ゼカリヤの言葉によれば,オリ 主はいつの時代にもその民に,主の来臨の時に備えるよ うに勧告し,世の人々にも同じ警告を発して来られた。こ ブ山が東から西に二つに裂け,その山の半ばは北に,半ば は南に移り,ユダヤ人は敵から逃れるために突然できた巨 の備えは終わりの時の艱難に耐えるためだけでなく,主が 来られるときに主の臨在に堪えるためにも必要である。主 大な谷に向かって,ユダの王ウジヤの世に地震から逃げた が来られるとき,10人のおとめのたとえが成就し,「自分 ように逃げる。一方,主は来られて,すべての聖徒たちが ともにいる。それからユダヤ人は,長い間待ち望んできた の導き手として聖なる御霊を受け……た者……は……その 日に堪えるであろう。 」(教義と聖約45:57) メシヤ,すなわち常に期待していたように,彼らを救うた めに力をもって来られる御方を目にするのである。主は敵 ヒュー・B・ブラウン副管長は,1967年の総大会の神権 部会で,現代は若人が来るべき時代に備えなければならな を滅ぼし,混乱の極致でまさに征服されようとしているユ い時であると述べた。すなわち,問題に満ちた時代に対し ダヤ人を救われる。しかし,解放者の足もとに平伏して, 主が彼らのメシヤであることを知るとき,ユダヤ人はどん て,また神の力が打ち勝って最終的に主の王国に定められ た栄光をもたらす時代に対して,備える必要があるという なに驚くことだろう。手と足とわきにある傷跡に気づき, 尋ねて即座に,その御方が長い間拒み続けてきたユダヤ人 ことである。神権を持つ若人に与えられたブラウン副管長 の勧告は,この学習の結びにふさわしいものである。 の王,ナザレのイエスであられることを認めるのである。 「あらゆる時のしるし(これは前兆であり,地のあらゆ 429 る所で起きるものだが)の中で,最も重要なものは,神の そして,あなたがたの中の幾人かは,その戦いに加わる 王国であるイエス・キリストの教会がその勢力を拡大し, これから起きる事柄に対する備えをしていることであると であろう。また幾人かは最後の試しにあうであろう。その 時は来る。それも,わたしたちが考えているよりも早く… わたしは考えている。…… わたしは,次に述べることもある意味で時のしるしであ …。 兄弟たち,苦難や不穏な情勢,騒動や暴動の渦巻く世の ると申し上げたい。ここに数千人の若人がいる。わたしは あなたがた若人に申し上げる。今成長しつつあるあなたが 中のまっただ中にあって,世のほとんど大部分の人々に気 づかれないままに,父なる神が管理し,キリストなるイエ たは次代を担う人たちである。わたしたちは,あなたがた スが王である王国が設立されたことをあなたがたにお話し にたいまつを渡さなければならない。そしてあなたがたは, それを高く掲げる信仰を持っていなければならないのであ したい。その王国は大部分の人々に気づかれないまま転が り出して,権威と力をもって進み,あなたがたの幾人かが る。…… 今この声を聞いているすべての若人は今晩決心してほし 生きている間に敵を完全に阻止するであろう。…… すべての会員が自分の家を整え,生活を整えて,来るべ い。『わたしは清い生活をする。わたしは主に仕える。将 き事柄に備えていただきたい。そうすれば神はわたしたち 来の務めのためにできる備えをすべて行う。最後の戦いが あるときに備えをしていたいからである』と。 を祝福し,助けを与えてくださるであろう。 」(『大会報告』 1967年10月,pp.115−116) 教会を見守る イスラエルの判士 (I−1)はじめに 特別講座I 主は教会員の中から管理人を選び,王国の人々が永遠に 国を導くためにこれらの人々を置き,それぞれの管轄範囲 内で権能と責任を与えておられる。主は彼らにメルキゼデ 進歩成長できるように助ける責任を彼らに与えられる。ま た,教会員が罪悪から清められ,過ちを犯した者が義の道 ク神権を授けておられる。この神権は彼らに委任した主御 自身の力であり,権能である。主はこれら選ばれ,油を注 に立ち返れるように,主は裁きを行う責任もこれらの管理 がれた僕ちたちの行いを認め,認可しておられる。」(『赦 人に授けられる。本講座では,これらの指導者の具体的な 責任と彼らの働きの価値について学んでいく。『教義と聖 しの奇跡』p.335。一部改訳) キンボール長老は主の王国における法廷手続きに触れ 約』には,このイスラエルの判士が職務を果たせるように 彼らに主から与えられる様々なとが概説されている。また, て,さらにこう記している。「監督はその職に聖任される ことによって,自分のワードの人々に対して『イスラエル 召しを遂行するために主から与えられた指示も説明されて の判士』となるが,管轄外の人々についてはこの限りでな いる。本講座ではさらに,主の正義の律法や,教会司法制 度の機能と重要性についても学ぶ。主の業のこの面を推し い。ステーク会長はその職に任命されることによって,ス テーク内で自分が管理する人々に対する判士になる。同様 進める際に,『教義と聖約』はその方法を決める重要な手 引きである。なぜなら,『教義と聖約』に記されている指 に,支部長と伝道部長も同様の責任を持つ。もちろん,中 央幹部は教会全体を管轄しており,場合によっては自ら裁 示は,この神権時代の聖徒が抱えている具体的な必要と状 かなければならない義務がある。」(『赦しの奇跡』p.276。 況に永遠の原則を適用するうえで不可欠だからである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 一部改訳) 『教義と聖約』によれば,主の民の判士として審判の席 (I−2)神の王国における判士はだれか 主はその民を裁く責任を地元と中央の神権指導者にゆだ に着くことは,監督の最も重要な責任の一つである(教義 と聖約58:17−18;64:40;107:68,72,74−75参照)。 ねておられる(教義と聖約68:22;102:2,9−12,28− 32;107:33−34,91−92参照)。スペンサー・W・キンボ 監督以外の人にも,その人の管理の職の範囲内でこの責任 が与えられる(教義と聖約46:27;『赦しの奇跡』p.337 ール長老は,主の選ばれた指導者に与えられる責任につい 参照) 。 て次のように記している。「イエス・キリストの教会の諸 業務は,教会の大管長会と十二使徒が管理している。彼ら 神はすべての裁き主であり,自ら選んだ「裁きの座に着 く者」 (教義と聖約58:20)を治め,指示を与えられる。 を補佐する多くの中央幹部がおり,またステーク会長や伝 道部長,監督もこの一翼を担っている。このような人々は ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ たまもの かぎ (I−3)裁きに関連する賜物と鍵 羊の群れを見守る羊飼いである。主は地上における主の王 主が述べておられるように,「教会の監督,および教会 430 ゆる 特別講座I つの分野に分かれる。 (1)主の教会において特定の祝福や機会にあずかる資格 を吟味する。 (2)罪に対する適切な報いを決める。 各々の責任について詳しく検討すれば,イスラエルの判 士の管理の職に対する理解を深めることができるであろ う。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (I−4)祝福にあずかる資格を吟味する 『教義と聖約』によれば,主の教会に加わりたいと願う 者は,「打ち砕かれた心と悔いる霊」をもって進み出て, 定められた条件を満たしていることを「教会員の前に」証 明しなければならない(教義と聖約20:37)。志願者が条 件を満たしてバプテスマを受けられるかどうか判断するの は,主の判士の責任である。このように教会の判士は主か 監督はイスラエルの主の判士である を見守るように,また教会の長老となるように神が選んで み たま 聖任する人々には」 (教義と聖約46:27) ,神の御霊により 特別な賜物を与えられ,民の判士として神聖な責任を果た すときに助けを受ける。これは,すべての御霊の賜物を見 分け,それが神からのものかどうか識別するために与えら れるのである。監督たちは神を呼び求め,管理の職を正し く果たすために,啓示を通して導きを受けることができ る。 バプテスマのヨハネは,ジョセフ・スミスとオリバー・ カウドリのもとを訪れて二人にアロン神権を授けたとき, この神権は「悔い改めの福音の鍵」 (教義と聖約13:1)を 持つと宣言した。監督はワードにおけるアロン神権の会長 であるから(教義と聖約107:13−15参照) ,ワードの民の 悔い改めの鍵を握っている。自分の犯した罪を悔い改めた いと思う人は,監督から大きな助けを得ることができる。 監督はそのような問題を処理する主の代理人として,主か ら選ばれ,任命されているからである。監督のもとへ行く ことは,悔い改めようとするときに助けになるが,重大な 罪を犯した人は必ずこれをしなければならない。なぜなら, 重大な罪は適切な神権指導者に告白しなければ,赦されな いからである。監督は,だれよりも頻繁に悔い改めの鍵を 行使する神権指導者である。しかし,主から任命されたほ かの人々も,それぞれの権能の範囲でそれを行使すること ができる。スペンサー・W・キンボール長老は次のように 教えている。「すべての人が,あるいはすべての神権者が 罪人の罪の告白を聞く権限を与えられているわけではな い。主は秩序正しい,首尾一貫したプログラムを定められ た。教会のすべての会員は教会の管理役員に対して答えな ければならない責任がある。 ワードであれば監督に対して, 支部では支部長,ステークや伝道部ではそれぞれの長であ る。権能の段階のもっと上の方に行けば,大管長会と十二 使 徒 会 を 頭 と す る 中 央 幹 部 で あ る 。」(『 赦 し の 奇 跡 』 ゆる p.337。一部改訳)教会員が罪の赦しを得るための過程は, 次のとおりである。 すでに明らかにされているように,主の王国における判 ら権能を受けているので,福音の大いなる祝福,すなわち 神のもとへ帰る唯一の手段をすべての人に及ぼすことがで きる(教義と聖約18:22;84:74;ヨハネ3:5参照)。 また,主の王国の会員がほかの儀式を受ける場合,その 人の資格について判断するのも主の判士の責任である。こ の神権時代の初期には,教会のある地域から別の地域へ旅 する会員は監督から証明書を受け,それによって「忠実な 働き人」(教義と聖約72:17−18,25−26)として迎えら れる資格があることを示した。 教会の責任ある役職で働くように召される人は,その前 に監督から面接を受け,教会の標準に従って生活している かどうか吟味される必要がある。組織の長に召される場合 や,監督またはステーク会長によって管理される役職に召 される場合は,監督またはステーク会長から面接を受けた うえで,奉仕の機会が授けられる。 監督から推薦状を受けた人にだけ与えられるこの世で最 大の特権の一つは,神殿に参入してその祝福にあずかるこ とである。主は預言者ジョセフに警告を与えて,教会の指 導者には資格のない者を神殿に参入させない責任があると 言われた。 「何であろうと清くないものがそこに入るのを」 (教義と聖約97:15)許さないようにと,主は言われた。 「監督はその職に任命されると同時にワードの会員の判 士となる。彼は神殿への鍵を所持しており,ワードの人は この鍵によらなければだれも神殿に参入することができな い。」(『赦しの奇跡』p.336。一部改訳) 神権の儀式を執行するという特権は,それにかかわる神 権の鍵を所有している人により管理されている。監督はワ ードにおける鍵を,ステーク会長はステークにおける鍵を それぞれ有している。支部長,伝道部長なども同様である。 儀式を執行する人や,神殿推薦状を受ける人は,鍵を持つ 人から承認を受けなければならない。 したがって,主の王国に関する祝福と機会は,主が任命 された判士の管理の下にある。これらの祝福にあずかれる のは,「イスラエル人の判士」(教義と聖約107:72)から 認可を受けた者だけである。 士はそれぞれ,自分の管轄地域内の人々についてのみ権限 を持つ。この範囲内で判士として果たす責任は,大きく二 431 (I−5)罪に対する適切な報いを決める 監督やこれに類する立場にいる人々は罰を免除するとい スペンサー・W・キンボール長老は,罪のために悔い改 めと赦しを必要とする人々について,またそのような人と う意味で赦すことができる。あまり厳密に定義づけをしな いでわたしたちはこのことを赦しと呼ぶことがあるが,こ イスラエルの判士の関係について,次のように教えてい れは罪を『ぬぐい去る』とか赦罪という意味での赦しでは る。 「罪人が受けるべき赦しには2種類ある。主による赦し ない。しかしながら,罰を免除するとは,罪人は同じ過ち について再び裁きを受けないという意味であり,教会で活 と,当事者を管轄する管理役員によって主の教会を通して 与えられる赦しである。…… 発に活動し,教会員と交わりを持つことができるというこ とを意味する。罪の告白を受け,罰を免除するとき,監督 主は心から悔い改める人を赦される。しかし,主の赦し を得るには,罪人は十分に悔い,へりくだって主に心を開 は主を代表しているのである。彼は罪人の重荷を分かち, 罪人の負担と緊張を除去して,そして教会活動を続けて行 き,心の重荷を降ろさなければならない。主は心の中まで ってよいことを彼に保証するのである。しかし,罪を赦す 見通されるからである。同様に,教会からの赦しを得るに は,教会でその職に任命された人に心を開いて罪を打ち明 のは主御自身である。 」(『赦しの奇跡』p.342) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (I−6)主の律法を破った結果 けなければならない。 主の王国では多くの人に,律法とその適用に関する管理 赦しに関する教会の指導者の役割には二つの面がある。 (1)該当する罰を厳しく要求する。例えば,罪を犯した人 の職が与えられる。しかし,何人も主の律法を免れること に対する公的な措置として正会員たる資格をするのがよい か,それとも破門がよいかを決める。 (2)罪人に対する罰 はできない(教義と聖約20:80;107:84参照) 。すべての 教会員は律法の要求に従うべきであり,そうするときに約 の免除を決め,手を差し伸べる。赦しか教会としての懲戒 処分か,どちらの措置を取るにしても,すべての事実と, 束された祝福を受けるのである。ウィルフォード・ウッド ラフ大管長は,この原則を明確に説いている。「この教会 決定を下す人が得られる霊感に照らして行わなければなら の中に,過ちを犯して神の律法を破る者がいれば,その者 ない。したがって悔い改めをする罪人が管理役員に何もか も告白することが非常に重要になる。」(『赦しの奇跡』 の役職にかかわりなく,すなわち十二使徒であれ,大祭司 であれ,七十人であれ,長老であれ,ほかのいかなる役職 pp.335−336) 『教義と聖約』には,監督が「イスラエルの判士となり 者であろうとも, 時の推移に応じて審理を行う法廷があり, その者を裁く管理役員がいる。神の大義に背く者をなくし, ……戒めに背く者を裁く席に着く」(教義と聖約107:72) だれかがやったからという口実で破滅への道を歩む者を止 と教えられている。スペンサー・W・キンボール長老は, さらに次のように教えている。 めさせようではないか。あなたもわたしも,自分の悪い行 いについて,ほかの人がやっているからという言い訳はで 「監督は……事実と自分に与えられている識別力によっ て,罪の性質と表された悔い改めの程度からして,それが きないのである。罪を犯す者は,自分独りでそれを負わな ければならない。たとえわたしが正しい道からそれたとし 赦しに値するか否かを決める人である。彼はまた,非常に 重大な罪,悔い改めの程度が明らかに疑わしい場合,その ても,イエス・キリストの福音は,永遠の真理の原則一つ に至るまで滅びることなく, いつまでも存在するであろう。 罪が人々に知れわたり,及ぼした害悪の程度がひどい場合 罪を犯したことに対する言い訳などあり得ない。わたしは は,主が示された手続に従って教会法廷で事件を扱う必要 があると考えるかもしれない。これらの全責任は監督の双 だれの罪でもなく,自分自身の罪を負うであろう。すべて の人がそうなるのである。」(Millennial Star『ミレニアル 肩にかかっている。セミナリーの教師,インスティテュー トの指導者, 補助組織やその他の責任を受けている人々は, スター』1844年12月号,p.111) 神の律法に背く行為を選ぶ人には,次のいずれかの選択 困っている人々に賢明な勧告を与え,理解を示すことによ が残されている。 (1)悔い改めて,その結果,正義の要求 って力強い影響を及ぼすことができる。しかし,彼らには 教会としての権威も管轄権もないし,罰を免除することも を満たすキリストのにあずかる, (2)悔い改めず,その結 果,自ら苦しみ祝福を取り上げられて正義を満たす。前者 できない。ただ罪人を監督のもとへ行かせるだけである。 そして監督が罪の告白の程度を判断し,必要な場合には懲 を選べば永遠の命に導かれるが,後者を選べば,永遠に神 のもとから追放される(特別講座E参照) 。 しょく ざい 罰の程度を決めるのである。」(『赦しの奇跡』pp.337− 罪を犯した人が完全に悔い改めれば,キリストの贖 罪 338) 監督は罰を免除することはできるが,罪を軽減すること によって憐れみの律法が効力を及ぼし,その人は正義の律 法の要求するあらゆる罰を逃れることができる。しかし, はできない。キンボール長老はこの概念を明確にしてい る。 苦痛の伴わない悔い改めはない。罪を選んで苦痛を避けら れる人はいないのである。もし罰がなければ,悔い改めは 「教会での役職上,裁き人の資格を与えられ,それを求 められている教会役員は多い。しかし,これらの役職上の 不可能になるであろう(アルマ42:16参照)。それはそう として,人は悔い改めることによって赦され,過去の罪か 権限に基づいて罪を赦したり軽減したりすることは必ずし ら自由になれるのである(教義と聖約58:42−43;61: も認められているわけではない。地上でこれが認められて いる人はごく極少数である。 2;64:7参照)。 スペンサー・W・キンボール長老は,悔い改めない罪に 432 あわ 特別講座I 対する罰について次のように述べている。 告白を受ける人は,悔い改めが行われたことに関す 「正しい道からそれることはすべてゆゆしいことである。 一つ戒めを破る人は律法全体に対して罪があると聖典は述 る証人になるのである(教義と聖約6:28;2コリント 13:1参照)。 べている(ヤコブの手紙2:10)。とはいっても,主,指導 者,教会も見て見ぬふりをすることはできないが,それほ 戒めに背いた者は告白することにより,罪を隠して 偽りの生活をするつもりがないことを表す(教義と聖 どまで厳しい罰を受けなくて済む軽い罪もある。また,裁 きを行わないで黙認しておいたり,管理する指導者の検討 約121:37参照)。 告白を受ける人は,戒めに背いた者がその罪にかか に付さずに済ませたり,その罪人が教会員としてとどまる わる誘惑に打ち勝てるように,そして完全な赦しを受 ことに疑念を挟まず放っておいたりはとうていできない重 大な罪もある。 けるために必要な段階を踏めるように,助けることが できる。ロバート・L・シンプソン監督は次のように 罪に対する教会の罰の中に資格の剥奪がある。神殿に入 る資格を保留する,神権昇進,教会での責任やその他の教 述べている。 「以前に会ったことがなく,今後再び会うこともな 会における奉仕や活動の機会を保留するなどがある。この い人に自分の犯した重大な罪を語ることは,悔い改め ような資格剥奪の罰は,必ずしも厳しい基準で測る必要は ない罪ではあるが,その罪を犯した人が神の王国で指導的 た罪人にとって比較的容易である。また人の目に見え ない耳にひそかに語り,そこで目に見えない唇から赦 な立場に立ち,高度の祝福や栄誉を受けるのにふさわしく ない罪を犯した場合に適用される。これらのことはすべて しを受けることは,それ以上に容易である。しかし, このような場合,その人が,非常な努力を払って悔い 永遠の進歩の過程にあって進歩を遅らせるものであり,人 改めを完全なものにしようとし,また悲しみに再び陥 が自らその身に招いたものである。…… もしある人に……神殿参入の特権を受けるのにふさわし らないようにするその後の数か月間,その傍らにとど まる人がいるであろうか。 くない点があると思われれば,〔神権指導者〕はこの資格 を保留して罰とすることができる。当人が要求される標準 いかなる人も,一人でその丘に登る力をほとんど持 たない。それがいつも困難であることを考えていただ に達するまで,しばしの間とどめておかれる祝福はたくさ んある。資格の剥奪は教会における的な懲戒処分である。 きたい。助けが必要である。実際にわたしたちをひそ かに愛している人,またひそかに,しかも確かにわた ……もっと極端な場合には,罪人は正会員の資格を剥奪さ したちを助けるように神聖な委任を受けている人の助 れて,教会活動や集会に出席することを制限されたり,あ るいは破門によって完全に教会から切り離されたりする。」 けが。わたしはその言葉を再び強調する。ここに至っ て再び,サタンは,秘密はほとんど保たれないという はくだつ (『赦しの奇跡』p.336) 教会の指導者には,戒めに背いて悔い改めない人を神の 王国の律法に照らして処分し,会員資格や様々な特権を取 偽りのうわさを広めているからである。」(Conference Report『大会報告』1972年4月,pp.33) だれに告白すべきでしょうか。 スティーブン・ り上げる権限と責任がある。しかし,「財産や生命の権利 について人々を裁く権限や,彼らからこの世のものを取る L・リチャーズ副管長は次のように述べている。「言 うまでもなく,主の律法が破られたのだから,主に対 権限や,生命や身体を危険にさらす権限や,彼らに何らか の体罰を加える権限」 (教義と聖約134:10)はないのであ してである。そして苦しめた人に対してである。その 際,もし必要ならば相応の償いをしなければならない。 る。 そして次に,イスラエルの判士として主より任じられ 神の律法に背いた人の扱いについて,多くの質問が 出てくる。以下に挙げるのは,最も一般的な質問とそ た人,すなわち,罪を犯した人が生活し,王国の会員 権を有する教会の管理権を持つ主の代理人に対してで の回答である。 告白が悔い改めと赦しに欠かせないのはなぜです ある。……告白は監督にするのが教会の秩序である。」 (『大会報告』1954年4月,pp.11−12) か。 主は告白することを求めておられる(教義と聖 約19:20;58:42−43;61:2;モーサヤ26:29;1ヨ スペンサー・W・キンボール長老は,次のように記 している。「罪人の多くは,恥と自尊心から表立った ハネ1:9;箴言28:13参照)。赦しを求める人は告白 告白をしないでひそかに主に祈りをささげ,これが犯 することによって,主のに進んで従う気持ちを示すの である。 した罪の告白として十分なことであると自分で正当化 して,少なくとも一時的に良心を満足させている。 告白はへりくだった態度と,真心から赦しを願い求 める気持ちを表す。 「主はわたしたち人間の心,意向, 『だってわたしは天父に罪の告白をしたのだから,こ れで十分です』とそのような人は言うに違いない。し 悔い改めて生まれ変わる能力を御存じなので,わたし かしこれは前述の大きな罪の場合に当てはまらない。 たちの悔い改めが完全なものになるまで赦しを与える のを待っておられる。背罪者には『打ち砕かれた心と このような場合に罪人に平安をもたらすには二つの赦 しが必要である。 一つは該当する教会の管理役員から, 悔いる霊』 (教義と聖約59:8)を持ち,また進んでへ りくだり,主から求められていることは何でもしなけ もう一つは主御自身からである。」(『赦しの奇跡』 p.189) ればならない。」(『赦しの奇跡』p.189。聖句部変更) 433 告白しなければならないのは,どのような罪ですか。 ブルース・R・マッコンキー長老は,次のように記し ている。 「赦しを得るには,すべての罪を主に告白しなけれ ばならない。罪を犯した人は,全能の神に心を開き, み こころ 神の御 心に添った悲しみをもって自らの誤りを認め, 神の恵みを請い求める必要がある〔教義と聖約64: 7〕。 さらに,道徳上の恥ずべき行為を含む罪,すなわち 教会法廷を開いて会員の資格について審理すべき重大 な罪は,適切な神権指導者に告白しなければならな い。」(Mormon Doctrine『モルモンの教義』pp.292− 293) 告白の内容や明らかにされた個人に関する情報は, すべて内密にされる。 重大な罪を犯していながら進んで告白しない人はど うなりますか。 教義と聖約41:5;42:28,75− 77;50:8;64:12;モーサヤ27:35−36;モロナイ 6:7を読みなさい。 教会法廷にはどのような価値がありますか。 教会 法廷は,個々の会員の永遠にわたる霊的福利を促し, 教会の清さを高い水準に保つために開かれる(教義と 聖約64:12−13参照)。そして,罪を犯した人が罪か ら離れて,主とその教会の前に潔白な状態で立てるよ うに,道を備えるのである。法廷で審理を行う人々は, ロバート・L・シンプソンは,教会法廷が愛の法廷であると教 えた 妻子の虐待,窃盗,教会基金や他人の財産の誤用 または横領,そのほか道徳律に対する重大な背き 以下のいずれかに該当する場合は,教会法廷を必ず 裁かれる会員の霊的福利に関心を持っている。 開かなければならない。 ロバート・L・シンプソン長老は次のように語って いる。「やがてその会員は,問題を乗り越え,新たに 1.背罪者が殺人の罪を犯している。 2.背罪者がほかの教会員に対して著しい脅威となっ 見いだした自由の中で今までにない安らぎを得ること だろう。新たな重荷を負うことはなく,また昇栄への ている。 3.背罪が一般に広く知られている。 妨げとなっていたものは取り除かれる。不安と憂いに 満ちた心は平安に変わり,かつての偽善に支配された 4.背罪のあったとき,その背罪を犯した人が教会で 責任ある重要な役職に就いている。 感情は明らかな良心に変わる。 5.重大な過ちが繰り返し犯されている。 重大な罪のために法廷の審問が必要とされる場合, 審問は穏やかに,また思いやりをもって進められるこ 6.主の御霊がそのように導く。 会員がまったく教会に来ないという理由で,教会法 とを皆さんに約束申し上げる。教会の法廷制度は公正 である。……教会法廷は,教会員を正しい道に立ち返 廷を開く必要はない。ただし,ほかの会員を背教に導 く恐れのある場合や,書面で破門を要請してきた場合 らせることをただ一つの目的とした愛の法廷である。 はその限りでない。ほかの宗教団体に集っているとい 天父の王国には,自分の子供たちの進歩を阻もうとす る計画は一切ない。すべてわたしたちの進歩を助ける うことで,教会法廷を開いてはならない。ただし,背 教グループに関与している場合はその限りでない。 ために計画されており,わたしたちの進歩を妨げるも のはないのである。 」(“Cast Your Burden upon the Lord” (『扶助協会テキスト1979−80』p.43参照) 教会にはどのような法廷があって,それぞれどのよ Speeches of the Year「重荷を主にゆだねよ」『年度講 うな裁判権を持っていますか。 話』1974年,pp.57−58) 教会法廷は何のために開かれるのですか。 教会には次の3つの法廷がある。 1.監督の法廷(教義と聖約107:68−72参照) 以下の いずれかの行為があった場合,それについて審理する ために教会法廷を開くことができる。 2.ステーク高等評議会法廷(教義と聖約102:1−23 参照) 1.クリスチャンにあるまじき行為 2.教会の規則と規定に対する故意の背きおよび教会 3.大管長会の評議会すなわち法廷(教義と聖約 に対する公然たる反抗 3.背教者のグループへの加担 4.不貞,堕胎,同性愛,子供に対するわいせつ行為, 434 107:78−81;68:22−24参照) 監督の法廷は,監督と二人の副監督で構成され,ワ ードの全会員に対する原裁判権を有する。ステーク高 等評議会法廷は,ステーク会長会と高等評議員で構成 特別講座I され,ステークの全会員に対する原裁判権を引き受け 破門は教会に関する特権を何一つ残さない。破門さ ることができる。大管長会と十二使徒定員会は大管長 会法廷を構成し,教会のすべての会員に対する原裁判 れた人は(神権を保持していないので)神権会に出席 できない。聖餐にあずかったり,教会の責任を受けた 権を負うことができる。上訴は監督の法廷から高等評 議会法廷へ,さらに大管長会法廷へ行うことができる り,集会で祈りをささげたり,集会で話したりもでき ない。監督が特に決めた条件の下以外では什分の一を (教義と聖約102:27;107:78参照)。これらの法廷に は,正会員資格剥奪や破門を科する権限がある。ただ 納めることもできない。彼は『絶たれ』 『追い出され』 , 最後の裁きを受けるために主に引き渡されるのであ し,監督の法廷が破門にできるのは,メルキゼデク神 る。『生ける神のみ手のうちに落ちるのは,恐ろしい 権者以外の会員だけである。(『扶助協会テキスト 1979−80』p.44参照) こ と で あ る 。』( ヘ ブ ル 10: 31)」(『 赦 し の 奇 跡 』 pp.338−339。一部改訳) 教会法廷の判決には, どのようなものがありますか。 教会法廷の判決には次の4つがある。無罪,保護観察, 正会員資格を剥奪された人や破門された人が悔い改 めたら,どうなりますか。 キンボール長老は,正会 正会員資格剥奪,破門。 員資格を剥奪された人について次のように記してい 無罪とは,法廷が被告は無実であり何の罰も科さな いという判決を下すことを意味する。 る。「悔い改めの道を歩んでいる当人は通常の会員の 許されている事柄をすべて行うにふさわしいことを証 保護観察とは,監督またはほかの判士が,心から悔 い改めている人に目標と行うべき事柄を定めることを 明できるよう努力を続けなければならない。もしこの ような努力を続け,かつてこの罰を課せられた教会の 意味する。もしそれらの条件が満たされれば,それ以 法廷で,その努力が認められると,教会員としての資 上何も要求する必要はない。しかし保護観察中に真の 悔い改めが見られなければ,教会法廷を開いてさらに 格が回復され,過ちを犯した人は全面的に教会で活動 し,参加することが許されるのである。」(『赦しの奇 審理を行うことができる。 正会員資格剥奪を受けた人は,教会活動の祝福を失 跡』p.338) キンボール長老はさらに言葉を続けている。「破門 い,活動に参加することを認められない。集会に出席 することはできるが(神権会と教会役員の集会を除 された人が改めて会員となり教会の祝福を再び受ける ようになることは可能である。そのためには十分に悔 く),公の祈りや話をする資格はない。また,聖餐に い改めたうえでバプテスマを受けなければならない。 あずかること,神殿推薦状を受けること,教会の役職 に就くこと,いかなる方法であれ神権を行使すること 静かにささやきかけ,弁護し,警告を与え,勇気を与 えてくださる聖霊の助けを得られずに登る道は険し は,すべて拒否される。しかし,什 分 の一や献金を 納めることと,エンダウメントを受けていれば,神殿 く,起伏が多く,果てしなく困難である。彼が聖霊, 会員の資格,聖徒たちとの交わりを失う前に悔い改め のガーメントを引き続き着用することは許される。 ていればこれほどまでには困難でなかっただろう。か せい さん じゅう ぶん 破門とは,『教義と聖約』の中で「追い出される」 (教義と聖約41:5;42:21,23,26,28,37,75), つてこの道を戻るのに苦闘した人々が証明してくれる だろうが,戻るまでの時間は通常長い。非常に長い。 「絶たれる」 (教義と聖約1:14;50:8;56:10;85: 11;104:9;133:63),「抹消する」 (教義と聖約20: やっとの思いで教会に戻ることができた人は一様に次 のような忠告を与えている。まず悔い改めなさい。少 83)と記されている,会員に対して下される判決であ しでも免れる可能性があるのなら,破門を避けるよう る。聖典のこれらの言葉は破門を意味している。破門 について,スペンサー・W・キンボール長老は次のよ にしなさい。 」(『赦しの奇跡』p.339) 会員の間に苦情がある場合,その原因を除くために うに述べている。 「この非常に恐ろしい決定は個人を教会から完全に 国や教会の機関に訴えるべきでしょうか。 「教会の 会員は,自分たちの問題を教会の前に持ち出さないで 切り離してしまうことを意味している。破門された人 は教会の会員の籍を失い,それに付随するすべての祝 処理するように努めるべきである。神権ワードティー チャー〔ホームティーチャー〕は,争っている会員が 福をも失う。破門された人は教会に加入する前よりも 友好的な態度で和解できるように,可能なかぎり助力 悪い状態にいるのである。彼は聖霊,神権,エンダウ メント,結び固め,永遠の命を得るための特権と資格 しなければならない。このような最善の手段が効を奏 さないときに初めて,その問題を教会の管理役員の前 を失うのである。これは個人に起こり得る最も悲しい 事柄であろう。むしろ貧困や迫害や病気に苦しむ方が に持ち出して,審理と判決を仰ぐのである。 」(ウイッ ツォー,Priesthood and Church Government『神権と教 ましである。死ですらもこれより良いであろう。真の 会政体』pp.206−207) 末日聖徒であれば,教会から破門されることよりもは るかにひつぎの方を望むであろう。教会から断ち切ら 「教会法廷は,裁判所の出した判決を破棄するため に開かれることはない。また,民法に規定が定められ れた人が,もしこのわびしさ,むなしさ,敗北感を覚 えないとすれば,それは破門の意味を理解していない ている事柄に言及することもしない。ただし,悪事や 悪行が明らかに行われている場合は別である。そのよ ことの証拠である。 うな場合,国と教会の両方の法廷で罪に定められるで 435 あろう。 」(『神権と教会政体』p.206) さい。 教義と聖約42:78−93;1コリント6:1−8を読みな 特別講座J 欺きを避けるための鍵 (J−1)はじめに 較する) 。 前世で会議が開かれて以来,ルシフェルは「全人類もま た惨めな状態にしよう」 (2ニーファイ2:18)としてきた。 様々な御霊の賜物が,教義と聖約46:13−25に述べ られている。 彼は「人の選択の自由を損なおうとし」(モーセ4:3), 1.13節____________________________________ 「人々を欺き,惑わし,またまことに〔主の〕声を聴こう とりこ としないすべての者を……虜にする」(モーセ4:4)こと 2.14節____________________________________ 3.15節____________________________________ を求めた。ジョセフ・F・スミス大管長は,サタンの働き かけが継続していることを聖徒に警告している。「悪魔は 4.16節____________________________________ この地上で大きな力を持ち,あらゆる可能な手段を用いて 人々の心に混乱を生じさせ,真理を装った誤りや惑わしを 6.18節____________________________________ 7.19節____________________________________ 与えようとしている。わたしたちはこのことを忘れてはな 8.20節____________________________________ らない。サタンは模倣の技術にたけている。純粋な福音の の 真理がかつてなく豊かに世に宣べ伝えられている。それに 9.21節____________________________________ 10.22節____________________________________ つれて,サタンも偽りの教義という偽金を世にばらまいて いる。サタンの偽造通貨に気をつけなさい。これで買える 11.23節____________________________________ 12.24節____________________________________ ものは,落胆と,悲しみ,それに霊的な死以外の何ものも 13.25節____________________________________ 5.17節____________________________________ ないからである。サタンは『偽りの父』と呼ばれている。 サタンは長年邪悪な業を続けてきたことで技術を磨き,で これらの賜物を挙げる前に主が与えられた警告には,御 霊の賜物とその働きについて知ることの重要性が示されて きれば選民さえも欺こうとしている。」(『福音の教義』 p.362) いる。「欺かれないように気をつけなさい。そして,欺か れないために熱心に最善の賜物を求め,それらが何のため 欺きやごまかし,偽物を識別するためには,真実で偽り に与えられているのかを常に覚えておきなさい。」(教義と のないほんとうの現れを認識できるようになる必要があ る。救い主は終わりの時について次のように警告しておら 聖約46:8) 預言者ジョセフ・スミスの教えによれば,これらの賜物 れる。「それらの日には,偽キリストたちや偽預言者たち も起こって,大きなしるしと不思議を示し,できれば,聖 の現れは人々に誇示するためにあるのではなく,すでに信 まいしん 仰を持っていて神の王国の建設に邁進している人に祝福を 約による選民である真の選民をも惑わそうとするであろ う。」(ジョセフ・スミス−マタイ1:22)サタンの欺きを もたらすためにある(『教会歴史』5:27−29参照)。御霊 の賜物の特徴は,賜物を受けても直ちにその力が目に見え 避けられるようになるために必要な原則を理解することが るわけではないということである。預言者ジョセフ・スミ 大切である。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ スは次のように述べている。「ここでは幾つかの賜物のこ あんしゅ とが採り上げられている。しかし,按手を施す人はそれら (J−2)キリストの教会における御霊のと実 1839年12月,預言者ジョセフ・スミスは,聖徒の受けた のうちのどれを知ることができるであろうか。 知恵の言葉と知識の言葉はほかの賜物と同様によく見か 苦難の賠償を求めて合衆国の大統領と会見した。その席で ける。しかし,ある人がこれらの賜物を両方とも持ってい 預言者は,「この教会と世のほかの教会との違い」につい て尋ねられ,それに答えて言った。「そのほか重要な事柄 るとき,あるいは按手によってそれらを受けたとき,だれ にそれが分かるだろうか。また信仰の賜物を受けている人 はすべて聖霊の賜 物 の中にあります。」( History of the Church『教会歴史』4:42) もいる。そしてそれに気づかないということがある。さら いや に癒しの賜物あるいは奇跡を行う力を持っていながら,そ 『教義と聖約』の中に,御霊の賜物に関する聖句が最も れを知らないということもある。これらの賜物が働くよう 豊富に集められている箇所がある(教義と聖約46:13−25 参照。1コリント12:7−10およびモロナイ10:8−17と比 になるには,時と環境が必要である。」(『教会歴史』5: 29−30) み たま たま もの 436 特別講座J 主は聖徒たちに, 必要なときに御霊の賜物を受けるには, どのような備えをすればよいか告げておられる(教義と聖 約46:9参照)。 教義と聖約46:7,31−33 この啓示によれば,これら の賜物を得るために何をしなければならないか。 教義と聖約46:8−10,12 どのような動機からこれら の賜物を求めるべきだろうか。 教義と聖約11:12−14 欺きをテーマにしたこの章で, 簡単ではあるけれども,主がまがいものについて一つ一つ 説明しておられるからである。『あるものは人間から出て おり,またほかのものは悪霊から出ているからである。』 (教義と聖約46:7) これらまがいものの中には露骨で容易に識別できるもの があるが,真の御霊の現れと非常に似通っているものもあ る。その結果,人々は混乱し,欺かれてしまうのである。 かぎ ある鍵を持たなければ,本物か偽物かを識別することはで 御霊の賜物について語るのはなぜか。 ジョセフ・フィールディング・スミス長老は,聖なる御 きないのである。 」(『大会報告』1956年4月,p.70) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 霊の祝福を受けるにふさわしい人とそうでない人を比較対 照している。「わたしたちは神に近づけば近づくほど,神 (J−4)御霊の現れとまがいものとを識別する 預言者ジョセフ・スミスは,御霊の現れとまがいもの, の戒めを守るためによりいっそう努力し,啓示された神の 本物と偽物を識別する力を備えることの重要性を強調して をさらに深く知ろうとするようになる。そして,すでに読 んだ啓示の中で主が言われたように,様々な教えの風や, いる。「この大きな影響力を白日の下にさらし,人を滅ぼ す,魔性の,恐るべき姿を世の人々に明らかにするには, わたしたちを欺こうとして待ち構えている悪霊に惑わされ ることはなくなるのである。わたしたちは守られ,真理と まず霊を識別する力を持たなければならない。なぜなら, 人の子らにとって,神の御霊を受けていると思いながら実 誤りを理解して識別する力を備え,光の中を歩み,欺かれ は偽りの霊から影響を受けていたというときほど大きな痛 ることはないであろう。さて,引き延ばしをする人や忠実 でない人,万事において主の戒めを進んで守ろうとしない 手を受けるときはほかにないからである。今まで非常に多 くの人々がその恐るべき力を身に感じ,害を被ってきた。 人は,欺きに対してまったく無防備な状態にいる。なぜな ら,主の御霊が伴わないので,導きや指示を受けることも, 長い巡礼の旅,ざんげ,苦痛,そして災難と崩壊,これら はすべて偽りの霊に従う者に伴ってきたものである。民族 真理と義の道を示されることもないからである。そこで何 か正しくないものに出会っても,真理と誤りの違いを理解 間には大騒動が起き,王国は覆され,国は崩壊し,流血と と荒廃が偽りの霊に取りつかれた人々を覆ってきたのであ できないために,それを吸収してしまうことになる。皆さ る。」(『教会歴史』4:573) んにお話ししておきたい。この世の中には真理としてまか り通っている誤りがたくさんある。そこで,わたしたちは 『教義と聖約』には,簡潔で力強い原則が次のように説 かれている。「人を教化しないものは,神から出てはおら 皆,神を求めなければならない。預言者が述べているよう に,神に近づくのである。わたしたちが神に近づいて,神 ず,である。神から出ているものは光である。光を受け, 神のうちにいつもいる者は,さらに光を受ける。そして, の御 心 を行うようになれば,それだけ光を豊かに受け, その光はますます輝きを増してついには真昼となる。…… 欺かれる危険性が少なくなるのである。」(Conference Report『大会報告』1940年4月,pp.98−99) わたしがそれを語るのは,あなたがたが真理を知り,暗闇 をあなたがたの中から追い払うためである。」(教義と聖約 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (J−3)御霊によらない現れ 50:23−25) 霊的な賜物の現れは,神の民を教化するためにある。し マリオン・G・ロムニー長老は,『教義と聖約』を指針 かし,教会外にも超自然的な力の現れがあり,世の人々は として,様々な現れを識別する際に役立つ原則を教えてい る。 それが霊的な力であると主張する。マリオン・G・ロムニ ー長老は,霊的な賜物の原則について次のように教えてい 「『ある人には,種々の働きが神から出ているかどうかを 知ることが,聖霊によって許される。……また,ほかの人 る。 「これが鍵である。……御霊の賜物は聖霊の力により与 には,霊の識別が与えられる。』〔教義と聖約46:16,23〕 この啓示から明らかなように,超自然的な現象には聖霊の えられる。聖霊の賜物がなければ賜物の現れはない。…… このことから,聖霊の賜物を受けていない人が主の力に 力によらないものがある。実際のところ実におびただしい よって奇跡を行うことは不可能であると言える。 のである。この世はまがいものに満ちている。これは今に 限ったことではない。 さてわたしたちは,聖霊の賜物を受ける道が一つしかな ゆる いことを知っている。罪の赦しを受けるために水に沈めら ……聖徒たちは,主の前をまっすぐに歩むよう戒められ た。それも祈りと感謝をもってである。そうすれば,『邪 れるバプテスマ,ならびに聖霊の賜物を受けるための按手 という所定の儀式を受けることがその道である。」(『大会 悪な霊,あるいは悪霊の教義,または人間の戒めに打ち負 報告』1956年4月,p.72) み こころ くらやみ かされ』ることはない(教義と聖約46:7)。…… 以上挙げた引用の数々は,御霊の賜物に対抗する,まが ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (J−5)主の道を曲げる者 いものがあることを教えてくれるのみならず,そのまがい ものの源をも暗に示している。しかしながらわたしたちは, 初期のキリスト教会の会員は,群れの中でキリストの福 音を悪用する「おおかみ」(使徒20:29)に注意するよう この暗示のみを根拠としなければならないわけではない。 に警告された。ハロルド・B・リー大管長は,この警告が 437 れた考えに照らして読み,自分の考えた法則で解釈し,自 らが律法になろうとして,自分こそが自分の行為を裁く唯 一の裁き手であるとする人。このような人は,第一の人以 上に危険で無知な人である。 」(『福音の教義』p.359) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (J−6)真理と誤りを識別する鍵 サタンの業と戦うためには,教会内のそのような力を見 抜く必要がある。マリオン・G・ロムニー長老は,神の真 理とサタンの偽りを識別するための指針を紹介している。 「イエス・キリストの福音に付随すると称するものは何 であれ,次に挙げる4つの簡単な検査で識別できる。 1.それは人間の知恵によって考え出されたものだろう か。それとも天からの啓示によるものだろうか。もしも人 間の知恵によるものであれば,神からのものではない。… … 2.その教えは正しく明示されているだろうか。……イ エス・キリストの教えであると明示されていなければ,そ れは神のものではない。…… 3.……教えは正しく明示されていなければならないと 同時に,イエス・キリストの福音のほかの教えとも一致し ていなければならない。 4.……それは正しい教会の系統を通じて来ているだろ うか。 」(『大会報告』1960年10月,pp.76−77) ロムニー長老が挙げた4項目をさらに詳しく検討すれば, 偽りを避けようとしている人々の助けになるであろう。 それは神からのものか,人間からのものか。 『教義と 神権者は天の祝福をもたらす鍵を持っている 現代にも当てはまると述べている。 聖約』には次のような勧告がある。「しかし,あなたがた はすべてのことについて,惜しみなく与える神に願い求め 「わたしたちの中にも,おおかみのような者がいる。つ まり,当教会の会員であると言っておきながら,群れを荒 るように命じられている。また,あなたがたがまったく聖 い心をもって,わたしの前をまっすぐに歩み,あなたがた らしている者がいる,ということである。また会員の中に の救いの結末について考え,祈りと感謝をもってすべての ことを行いながら,御霊があなたがたにする事柄を行うよ きよ 様々な曲がったことを言っている者もいる。ここで言う 『曲がったこと』とは,教会のまだ信仰の浅い会員を,自 うにと,わたしは望んでいる。それは,あなたがたが邪悪 分の方に引っ張り込むために,故意に正しい原則から目を そらし,悪に固執することである。 な霊,あるいは悪霊の教義,または人間の戒めに打ち負か されないためである。あるものは人間から出ており,また また使徒パウロが言ったように,当時と同様,今日のわ たしたちにとっても不思議でならないことがある。それは ほかのものは悪霊から出ているからである。」(教義と聖約 46:7) こんにち 会員の中に,非常に早く,福音を教えてくれた人々から離 ロムニー長老は次のように指摘している。「多くの人々 れ,また,キリストの福音の真実の教えから離れて堕落し, 悪意悪計に満ちた慣習と儀式を行う背教の道を歩み出す はパウロの偉大な教義,すなわち神のことは神の力によっ て理解され,人のことは人の知恵によって理解されるとい 人々がいるということである。」(『大会報告』1972年10月, p.125。ガラテヤ1:6−12参照) う教えをよく知っている。『生まれながらの人は,神の御 霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだから ジョセフ・F・スミス大管長は,教会員であると主張し である。また,御霊によって判断されるべきであるから, ながら偽りの教義を説くことに専念する人々について,次 のように述べている。 彼はそれを理解することができない。』(1コリント2:14) わたしたちは決して世の学問に欺かれてはならない。人 「末日聖徒の中に,福音の真理と装って偽りの教義を説 く人々がいるが,彼らは二つのタイプに分けることができ 間の知恵に基を置く教義は,安全のために常に拒むように すべきである。」(『大会報告』1960年10月,p.77) る。また,実際にはこれ以外にない。 その主張や教えは,正しく明示されているだろうか。 キリストの代理であると主張する人がいたとしても,普通 第1は,完全に無知な人。怠惰のために英知を欠き,読 書や勉強によって自己の進歩を図ろうとあまり努力しない 人。不治の病すなわち怠惰に陥り,病んでいる人。 第2は,誇りが高く,うぬぼれの強い人。自分のうぬぼ 438 そのような主張には,何か特別な要素や例外,あるいは秘 密の部分があるものである。「重ねて,わたしはあなたが たに言う。だれか権能を持つ者によって聖任され,そして 特別講座J 「学界で巨人と言われる人でも霊的に小人と見なされる 人が多い。そのような人は,通常論理的にも虚弱である。 そして,神の業を滅ぼそうと,すぐに自ら破壊者の一員に 成り下がるのである。不節制,不敬,不道徳な人,破壊的 あかし で,その地位にいる値のない人の証 に気をつけなさい。」 (『大会報告』1974年4月,p.138) その主張や教えはキリストの福音と一致しているか。 あるメッセージが神のものであるとか,教会から承認され たものであるとか言われていても,定められた教義と一致 していなければ,偽りと見なすことができる。標準聖典と 生ける預言者からの指示は,福音の教えを見分けるための 物差しである。ジョセフ・フィールディング・スミス大管 長は,判断の基準として聖典を使うことの重要性を強調し 真理に関する主の基準 ている。「筆記されたものであると,口述されたものであ るとを問わず,わたしたちは主の啓示と矛盾するものを受 権能を持っていることと,教会の長たちによって正式に聖 け入れることはできない。わたしが語る言葉,あるいはい かなる教会員が教えることであっても,啓示と一致しない 任されたことが教会員に知られないかぎり,だれもわたし の福音を宣べ伝えるために出て行くこと,あるいはわたし の教会を築き上げることは許されない。 」(教義と聖約42: 11) ロムニー長老はこう尋ねている。「教会に知られていな い,何か秘密めいたものに権威づけられた教義を,どうし て受け入れることができるだろうか。主がこの上なくはっ きりと告げておられるように,人の権威は教会に定められ た系統を通してもたらされなければならず,大管長がその 系統の長なのである。 」(『大会報告』1960年10月,p.77) ハロルド・B・リー大管長は,教会の権能の系統に従わ ない人がいると警告している。 「わたしたちは,神権者の皆さんに申し上げたい。 『不思 議な』霊の現れを受けたと主張する人々が,ここかしこで 立ち上がり,いまだかつて教会の指導者が指示したことの ない方向へ教会員を導こうとしている。このように人々の 心に忍び入ろうとしているものに対し,雄々しく立ち上が り,排斥する努力を始めていただきたい。 わたしは申し上げる。教会員の中に,いとも簡単に欺か ことを受け入れる必要はないのである。このことをはっき りと理解していただきたい。わたしたちはいろいろな人々 の教えを測る物差し,あるいはとして四大標準聖典を受け 入れている。 」(『救いの教義』3:181) 教義上の問題について,聖典には様々な指針が記さ れている。教義と聖約49:15−22はその一例である。 ある教派は,キリストの福音のまことの教師であると 自称しながら,偽りの教義を教えていた。この啓示を 読み,そこに採り上げられている5つの誤った教義や 原則を書き出しなさい。 1.___________________ 2.___________________ 3.___________________ 4.___________________ 5.___________________ その主張や教えは,神が定められた系統を通じてもたら されたか。 末日に教会が組織されたとき,主は聖徒たち に,預言者と大管長の重要性を教えられた。「それゆえ, れる人々がいるということに,わたしは驚きを禁じ得ない。 このような人々は,人騒がせな話や夢や示現のうわさをま 彼がわたしの前を完全に聖く歩み,わたしの言葉と戒めを 受けるとき,あなたがた教会員は,彼があなたがたに与え き散らし, 恐らく個人の日記から取ってきたのであろうが, るそれらのすべてを心に留めなければならない。あなたが たは忍耐と信仰を尽くして,あたかもわたし自身の口から これまでの教会の指導者に与えられたと称する話を,適当 な教会の権威筋に確かめることもせずに広めている。 もしわたしたち教会員が,策略と偽りのうわさに満ちた けんそう この喧噪渦巻く時代にあって安全に導かれたいと願うのな ら,術策にたけた者たちのえじきになるのを防ぐために, 指導者に従い,主の御霊の導きを求めなければならない。 き べん ろう そのような者たちは,巧妙な詭弁を弄して注目を集めよう と画策し,己の意見や,時には悪意を含んだもくろみに追 従する人々を味方に引き入れようとしているのである。」 (『大会報告』1972年10月,p.126) 学問の分野で名高い人の中には,その名声のゆえに,宗 教に関する独自の見解をもてはやされている人がいる。ボ イド・K・パッカー長老は,王国の業を批判するこのよう な人に警告を与えている。 出ているかのように,彼の言葉を受け入れなければならな い。これらのことを行えば,地獄の門もあなたがたに打ち 勝つことはないからである。そして,主なる神はあなたが たの前から闇の力を追い払い,また,あなたがたのためと, 神の名の栄光のために天を震わせるであろう。」(教義と聖 約21:4−6) 新しい教義を主張する者は,主の王国に定められた系統 外でそうするのである。預言者ジョセフ・スミスは,主か ら与えられた管理の職の範囲を越えて働こうとする者につ いて,この神権時代の初期の聖徒たちに警告している。 「わたしは,いかなる教会員であっても,自分より高い権 能を持つ者のために指示を受けることは神の摂理に反する と申し上げたい。そのような指示に心を留めると不都合が 439 生じるであろう。もしも人が示現を受けたり,天の使者の は悪魔の正体について,何一つ知ることも理解することも 訪れを受けたりすることがあれば,それはその人個人のた めであり,個人に指示を与えるものである。なぜなら教会 できないのである。 」(『教会歴史』4:573−574) 次は,1913年に出された大管長会(ジョセフ・F・スミ の基本原則や制度,教義は王国の鍵に帰属するからであ る。」(『教会歴史』1:338) ス,アンソン・H・ランド,チャールズ・W・ペンローズ) の手紙で,偽りを主張し誤った教義を説く人々について述 ジョセフ・F・スミス大管長は,主が定められた秩序に 関する原則を犯す者について,次のように教えている。 べている。 「示現や夢,異言,預言,内なる声,そのほか通常と異 「人が何か別のよりどころを求めるとき,その人はサタン しもべ なった霊感の賜物が,教会ですでに受け入れられている啓 の誘惑の力の前に自らをさらし,次第に悪魔の僕となって しまう。また神権の祝福を得るための真の秩序を見失う。 示と一致しないとき,また任命された幹部の判断と調和し ないとき,末日聖徒は,いかにまことしやかなものであっ そして神の王国の庇護からはみ出し,危険にさらされるこ とになるのである。神権の秩序や系統とは無関係に,教会 ても,それが神からのものではないということを知ること ができるのである。また教会員が理解しなければならない について主から直接啓示を受けたと主張する人が現れた のは,教会に対して神から授けられる指示は,教会の頭を ら,その人を詐欺師と見なしてよい。」(Journal of Discourses『説教集』24:189−190) 通して来るということである。すべて忠実な会員は,自分 自身や家族,あるいは自分が召しのうえで管理している 教会が組織されてから数か月の間に,自分の管理の 職の範囲を越えて啓示を受けたと主張する人々が現れ 人々について個人的に聖なる御霊の霊感を受けることがで きる。しかしながら,いずれにしても教会の頭を通して下 た。彼らはジョセフ・スミスの権能を越えて,教会の された啓示と相反するものは,権威のあるもの,あるいは ための啓示を受けたと主張した。 そこで主は教会員に, 物事の正しい秩序を思い起こすように告げられた。 信頼できるものとは言えない。聖徒たちは,宗教的なこと に限らず,この世的な事柄においても神の導きを得ること 教義と聖約28:2,4−7 戒めと啓示を受けるため に任命された唯一の人はだれか。 ができる。しかしこの導きは他人を導く権利を与えるもの ではないし,ましてや教会の聖約や教義,規律,既知の事 教義と聖約43:3−6 現在の大管長が代わることに なった場合,その任命を行うのはだれか。 実,証明済みの真理,良識などに反するものであれば受け 入れることはできないのである。 ひ ご かしら 『教義と聖約』には,欺きを避けるための多くの鍵 神から啓示や示現を受けたとか,夢に見たとかもっとも が明らかにされている。以下の聖句には,これまで学 んできた原則が要約されている。 らしいことを言って仲間の教会員に投機をさせたり,一獲 千金をねらった株を買わせたりしてはならない。特に,そ 教義と聖約45:56−57 主の日に堪えられるのはど のような人々か。彼らが欺かれないのはなぜか。 れが承認を受けている地元や中央の教会指導者の指示に反 する場合はなおさらである。主の教会は『秩序の家』であ 教義と聖約52:14−19 「あなたがたが欺かれない る。したがって教会は,個人の賜物や個人に与えられた神 ために」与えられた規範とは何か(教義と聖約46: 8−27と比較する)。 の力の現れによって治められるものではない。然るべき大 会で教会員の支持を受けて,秩序と聖なる神権の力によっ 教義と聖約52:15 の要素は何か。 て治められるべきものなのである。 教会の歴史には,詐欺師や熱狂家らが啓示を受けたとま 教義と聖約52:17 ここで明らかにされている二つ けんそん 謙遜で忠実な人に期待されてい しか ことしやかに主張した例が数多く記されている。彼らはそ ることは何か。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ れを神の力の現れと信じ,人々にそれを受け入れるよう働 きかけていたが,どの場合も落胆,悲しみ,不幸という結 (J−7)まとめ 次の二つの引用文には,欺きを避けるための鍵がまとめ 末が待っていた。そして財政危機や,時には完全な破滅を 招いたのである。…… られている。 最初は預言者ジョセフ・スミスの言葉である。「様々な すでに確立された権威への不信感をあおり,真の科学の 原理や発見に相反する言動をとり,教会制度に対する神か 霊の特質やそれらを支配する律法, 知らせるためのしるし, らの直接の啓示から離れさせようとする勢力,人物には, これらのことに無知であると,大きな困難に出遭うことに なる。神に関する事柄を知るために神の御霊が必要である いかなるものであっても欺かれないようにしようではない か。聖霊の示しに矛盾はない。真理は常に調和の取れたも なら,また御霊という媒介を通してのみ悪霊の正体を暴け るなら,これは当然の結果であるが,神からの交通すなわ のである。神を敬う姿を装いながら,その実,中身は偽り である場合がよくある。主の召された人を通じてもたらさ ち啓示を受けて御霊の作用を示されないかぎり,人はこれ れる主の勧告は安心して従うことのできるものである。あ らの原則に対して永遠に無知な状態にとどまらなければな らない。……啓示についてどう考えようと……もしそれが なたがた末日聖徒がこの警告の言葉から学ぶことができる のはこの点である。 」(クラーク,Messages of the First Pres- なければ,わたしたちは神に関する事柄について,あるい idency『大管長会のメッセージ』4:284−286) 440 「研究によって,また信仰に よって学問を求めなさい」 (K−1)はじめに 預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「復 特別講座K 義と聖約88:77)「あなたがたは知恵の言葉を熱心に求め, 互いに教え合いなさい。最良の書物から知恵の言葉を探し 活のときに,ある者はよみがえって天使になり,ある者は 神になる。 」(Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者 求め, 研究によって,また信仰によって学問を求めなさい。」 (教義と聖約88:118)「研究して学び,すべての良い書物 ジョセフ・スミスの教え』p.312)福音を受け入れるすべ きよ ての人は,聖く気高い神の状態によみがえって,神のよう に通じ,またもろもろの言語と国語と民族に通じるように しなければならない。」(教義と聖約90:15)「歴史の知識 になることを,最大の望みとすべきである。それこそが現 と,国々の知識と,もろもろの王国の知識と,神と人の法 世における崇高で壮大な目標である。無論この目標に到達 するには,現世においても,また復活した後においても, の知識を早く得ることである。」(教義と聖約93:53)「各 人がそれぞれの義務を学び……。」(教義と聖約107:99) 最大限の努力を要する。その努力の中でも大切な要素の一 つが,救いにかかわる福音の原則を知ることであり,また, 「無知な者には……知恵を得させなさい。」(教義と聖約 136:32) その原則を実践することが神の王国に昇栄するうえで不可 教会の指導者は,知識を得ることの重要性と,それが人 欠であると悟ることである。預言者ジョセフ・スミスはこ う述べている。「知識の中に力がある。神がだれよりも偉 の進歩に及ぼす大きな影響について,絶えず教えてきた。 ブリガム・ヤング大管長は次のように述べている。「末日 大な力を備えておられるのは,それだけ深い知識を持って おられるからである。神は他のすべての者を従わせる方法 聖徒の奉じる宗教を少しなりとも理解すれば,知識を熱心 に求める気持ちに駆り立てられる。真理を目にし,耳にし, を御存じである。万人を支配する力を備えておられるので ある。」(History of the Church『教会歴史』5:340) 学び,理解することをこれほど熱望する民は,ほかに存在 しない。 」(Discourses of Brigham Young『ブリガム・ヤング 『教義と聖約』の中に何度も出てくるが,主は聖徒たち 説教集』p.247)さらにこのように述べている。「世の中の に,知識と理解と知恵を求めるように告げ,御自身の持つ それらの属性について語られた。主は,神の子供たちにと 書物と主の啓示の両方から,可能なかぎり高い教育を子供 に受けさせることは,啓示によって与えられた末日聖徒の って真理の知識を得ることがいかに大切であるか知ってお られた。なぜなら,義の原則を知らなければそれを実践で 義務である。 」(Journal of Discourses『説教集』17:45) 福音は,適切な教育を通して真理を吸収することに何の きず,神のようになることができないからである。 制約も設けていない。ヒュー・B・ブラウン副管長は教会 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (K−2)熱心に学問を求める 員に,「学問に対する飽くなき欲求をはぐくみなさい」 (Conference Report『大会報告』1968年4月,p.100)と勧告 『教義と聖約』から明らかなように,主はその民が十分 な教育を受けることを望んでおられる。「富を求めずに, している。 デビッド・O・マッケイ大管長は,人が知識を増し加え 知恵を求めなさい。 」(教義と聖約6:7;11:7)「あなたが ることのできる限りない領域について次のように述べてい たは互いに王国の教義を教え合わなければならない。」(教 る。「この教会は教育を支持している。この組織が目的と していることは実に, 人々の間に真理を広めることである。 教会員は,研究と信仰と祈りによって学問を得,徳高いこ と,好ましいこと,あるいは誉れあることや称賛に値する ことを求めるように勧告されている。これを求める過程に おいて,教会員は教理や信条という狭い制約に縛られず, 無限の領域に自由に入っていくのである。」(『大会報告』 1968年4月,p.93) 教会は教育の重要性を教えているだけでなく,教会員が 真理の知識を増すように,実に効果的な手段を提供してい る。この神権時代の初期に,主は聖徒たちに,互いに教え 合うよう,また彼らのために塾を組織するよう命じられた (教義と聖約55:4;88:78−79,118−19,127参照)。ノ ーブー市の憲章には,小学校から大学に至るまですべてを 網羅した教育制度が定められている(ベレット『回復され た教会』p.168参照)。開拓者は,後に合衆国の領土になっ 復活に関する確かな知識が,人生に自信と希望を与える た西部の地域に定住したとき,子供と大人のために学校を 441 設立し,宗教教育と一般教育とを行った。やがて聖徒でな ようになることであり,神はすべてのことを御存じである い人々が流入し,公立の学校ができるようになると,教会 は一般教育を強く支持する一方で,インスティテュートや ということが挙げられる(教義と聖約38:2;93:36− 37;2ニーファイ9:20;Lectures on Faith『信仰に関する セミナリーという宗教講座を開いた。現在教会には,教会 員の教育を推し進める世界的な教育制度がある。しかしこ 講話』7:16参照)。神が持っておられる知識を得るまで進 歩するのは,途方もないことに思えるかもしれないが,こ の制度は,国の行う学校教育に関する特典を侵害しないよ うに配慮されている。 れは可能である(教義と聖約50:24;76:55−56;3ニー ファイ27:27;マタイ5:48参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 真理はイエス・キリストの属性の一つである(特別 (K−3)知識は成長と救いに不可欠の条件である 預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「神 講座D参照) 。御父はキリストのことを,「恵みと真理 に満ちている独り子」 (モーセ6:52)と言っておられ は,英知においてほかの者より優れていたので,御自身が 霊たちと栄光のただ中にいることに気づき,律法を定めて る。救い主は御自分のことを,「わたしは真理の御霊 であり」(教義と聖約93:26)と言われた。わたした ほかの者も御自身のように進歩する特権にあずかれるよう ちが神のようになってその完全を受けるとすれば(教 にするのが当然であると考えられた。わたしたちは神との 関係から見ると,知識を増し加えていく状態に置かれてい 義と聖約93:20参照),最終的には完全な真理も受け なければならない。言い換えれば,神のようになるた る。神は律法を定める力を持っておられ,英知において劣 るわたしたちは,その律法に導かれて神とともに昇栄にあ めには,あらゆる知識を得なければならないのであ る。 ずかる。また,栄光に栄光を増し加えて,霊界にいる人々 み たま これはあまりにも大きすぎて達成できない,絶望的 を救うために必要なあらゆる知識,力,栄光,英知を身に 付けるのである。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 な仕事だろうか。もし落胆を感じるならば,思い起こ していただきたい。あらゆる霊的な進歩がそうである p.354) 知識は救いを得るために必要である。事実,人は神にか ように,これは一歩一歩達成していくものである。わ たしたちがこの目標に到達する可能性と手段につい かわる事柄についての知識を得るよりも早くは救われない のである(『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.217参照)。 て,預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。 「はしごを登るときは,いちばん下から始めて,一段 『教義と聖約』で, 「人が無知で救われることは不可能であ 一段登って行かなければならない。福音の原則もこれ る」(教義と聖約131:6)と教えられているが,わたした ちは知識を求める正しい優先順位を知らなければならな と同じである。最初から始めて,昇栄にかかわる原則 をすべて学び終えるまで続けて行かなければならな い。スペンサー・W・キンボール長老は次のように述べて いる。 い。しかし,あなたは幕のかなたに行っても長い時間 をかけて,それらを学び続けるだろう。この世ですべ 「正しい順序からすれば,第1は,神と神のプログラムに てのことを理解できるわけではない。救いと昇栄につ 関する知識であり,これは永遠の命への道である。第2は, この世の事柄に関する知識であり,これも非常に重要であ いて学ぶことは,幕のかなたでも続く大いなる仕事と なるであろう。」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 る。創造主御自身が正しい順序を示し,優先順位を定めら れたのである。 pp.347−348) 『教義と聖約』の以下の聖句は,わたしたちが完全 ……主が『人が無知で救われることは不可能である』と 言われたときの『無知』は,明らかに最初の知識,すなわ ち神の王国と神の義に関する知識の欠如を意味している。」 (Life’s Directions『人生の指標』pp.175,180) わたしたちは神の王国に関する知識を伸ばして,それら な知識に到達することについて教えている。 教義と聖約93:12−14,19−20 キリストはどのよ うにして完全を受けられたか。この過程はわたしたち にどのように当てはまるか。 教義と聖約98:12 完全な知識はどのようにしても の原則を十分に実践し,神に対する完全な献身を表すなら ば,永遠の命に結び固められたことを知る(教義と聖約 たらされるか。 教義と聖約50:40 131:5参照)地点にまで到達できる。預言者ジョセフ・ス について慰めが得られるだろうか。 ミスは次のように教えている。「神のおられる所へ行きた ければ,神のようにならなければならない。すなわち,神 教義と聖約130:18−19 この世ですべての知識を 学ぶことはできないが,現世で熱心に知識を得ること が保持しておられる原則をあなたも保持しなければならな いのである。なぜなら,神の方に心が向いていなければ, にはどのような利点があるか。 現世でどのくらいの知識を得られるか理解するため 神から遠ざかり, 悪魔の方へ向かうことになるからである。 この聖句からわたしたちの属性 に,預言者ジョセフの次の言葉について考えなさい。 ……わたしたちは神から離れているかぎり,悪魔のもとへ 落ちて行き,知識を失ってしまう。そして,知識なしには 「わたしたちは,神が人間を教育するに値する者とし て,また天から人間に授けられた光に従順かつ勤勉に 救われないのである。 」(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 pp.216−217) 従うその度合いに応じ,能力を高めることのできる存 在として創造されたと考えている。また,人間は完成 知識が救いに不可欠な一つの理由として,救いとは神の に近づけば近づくほど視野が開け, 喜びは大きくなる。 442 特別講座K そしてついには人生の悪に打ち勝ち,あらゆる罪への (教義と聖約93:53)に知識を得, 「任命されている職務を 思いを断ち切るようになる。そして,昔の人と同じよ うに,その信仰は高まり,造り主の力と栄光に包まれ まったく勤勉に遂行する」(教義と聖約107:99)ためにそ れぞれの義務を学ぶように命じられた。さらに預言者を通 てともに住むことのできる状態となる。しかしこの状 態は,人が瞬時に達することのできないものである。 して,聖徒たちが「優しさと純粋な知識」(教義と聖約 121:42)により義の力を行使すべきであると教えられた。 神の特質,正義,公平さ,不変性を理解できる段階に その思いが到達するまで,ある程度神の王国の管理と 偉大な知識を得,主とその子らに仕えるためにそれを使う 人は,幸いである。 律法により教えを受けなければならない。」(『預言者 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ジョセフ・スミスの教え』p.51) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (K−5)知識は力であり,悪魔に対抗する際に大きな助 けになる (K−4)救いをもたらす知識には,原則と実践が含まれ る 預言者ジョセフ・スミスは知識の欠如がもたらす結果を 指摘して,悪魔に打ち勝つときに真の知識が得られること 預言者ジョセフ・スミスの言葉によれば,わたしたちは を教えている。「人は知識を得るよりも早くは救われない。 成長の過程で知識を得るだけでなく,学んだ原則に従って 生活する能力も伸ばさなければならない。信仰,才能,技 なぜならば,知識を得なければ,ある悪の力によって別の 世界に閉じ込められてしまうからである。悪霊の方が,地 術を伸ばし,知識を正しく活用する力を身に付ける必要が ある。デビッド・O・マッケイ大管長は次のように教えて 上にいる多くの者よりも多くの知識を持っており,力にお いて勝っているのである。したがって,わたしたちを助け, いる。「一つは知識を得ることであり,もう一つはそれを 神にかかわる知識をもたらす啓示が必要なのである。」 応用することである。知恵とは知識の正しい応用であり, (『預言者ジョセフ・スミスの教え』p.217) 救い主は,真理の知識が人を自由にすると教えられた 教会が支持している真の教育とは,神のような高貴な特質 をはぐくむために知識を応用することである。」(『大会報 告』1968年4月,p.93) (ヨハネ8:31−32参照)。ブルース・R・マッコンキー長 老は,この自由について次のように述べている。「これは, 一つは心の中に情報を蓄えることであり,もう一つはそ の知識を効果的に使う技術を伸ばすことである。どちらも 偽りの教義のもたらす破滅の力からの自由,欲情や情欲か らの自由,罪の足かせからの自由,あらゆる悪や堕落の力, 必要であり,行いを伴わない頭だけの知識では不十分であ わたしたちを束縛し,すでに与えられた権利を奪おうとす る。物質的にも霊的にも何かを求める場合は,能力や技術 をはぐくむことが前提条件になる。「永遠の命」という言 るものからの自由を意味する。そして,昇栄した人々だけ が受ける,限りない完全な自由に到達するのである。」 葉は,神が送っておられるような生活を意味している。神 のように生活し,行動する能力を伸ばすとき,その人は永 (Doctrinal New Testament Commentary『新約聖書教義注解』 1:456−457) 教義と聖約50:25 遠の命にもあずかるのである。 主の指摘によれば,真理を知る 『教義と聖約』は「神の栄光は英知である」 (教義と聖約 93:36)と教えている。ジョセフ・F・スミス大管長は, ことによって得られる偉大な祝福は何か。 教義と聖約50:35 どうすれば御父から定められて 知識と英知の違いについて次のように述べている。「知識 と純粋な英知の間には相違がある。サタンは,わたしたち いないすべてのものに打ち勝つ力が得られるか。 教義と聖約88:77−78 教義と聖約93:12−14, よりもはるかに豊かな知識を持っているが,英知は持って 19−20によれば,わたしたちは恵みに恵みを加えられ いない。もし英知を持っていたら,サタンは真理と正義の 原則に従っていたであろう。知識があって,福音の原則を てすべてのものを受けるようになる。それでは,どう すれば神の恵みにあずかることができるか。 わたしたちと同じくらい理解し,聡明であるが,それにも かかわらず純粋な英知という必須の資格を欠いている人々 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (K−6)聖徒が求めるように命じられている知識 をわたしは知っている。彼は純粋な英知を受け入れ,それ に従おうとしない。純粋な英知は,知識だけでなく,その 神の王国に昇栄するための原則を知らなければ,救いを 得ることはできない。神の王国に関する事柄や主の正しい そうめい 知識を正しく用いる力を包含しているのである。」(『福音 原則を確立することは最優先すべきであるが,それだけで の教義』p.57) デビッド・O・マッケイ大管長はこう語っている。どん なく,聖徒は多くの分野で研究を重ね,知識を増すように 求められている(教義と聖約88:78−79参照)。スペンサ なに豊かな知識のある人でも「この知識とともに,同胞を 公正に扱い,徳高く正直な生活をするように促す魂の高潔 ー・W・キンボール長老はこの概念について次のように述 べている。 はらから さがなければ,真に教養ある人とは言えない。」(Instructor 「この世の知識は確かに大切であるが,人を救うことも, 『インストラクター』1961年8月号,p.253) 真の教育は,奉仕し,教化し,主の業を推進する偉大な 日の栄えの王国へ導くことも,世界を創造することも,人 を神の形に造ることもできない。しかし,わたしたちが正 能力を人に与える。そのような教育を受けた人は,主の王 国でも大いに価値がある。『教義と聖約』によれば,主は しい優先順位に従い,永遠の命へ至る道を見いだし,あら しもべ ゆる知識を自分の道具や僕として使えるようになれば,こ この神権時代の初期の聖徒たちに, 「シオンの救いのため」 の世の知識は大いに役立つものとなる。…… 443 霊的な訓練を最優先しなければならない理由がお分かり い。宗教上の真理は非常に大切であるが,有益な知識を求 であろうか。……霊的な知識がこの世において,また永遠 にわたって一般的な知識を完全なものにすることを御存じ めることについて,聖徒は何ら制限されてはいないのであ る。ブリガム・ヤング大管長は,聖徒たちに次のような勧 であろうか。しかし,霊的な基盤のない知識は,ミルクの 泡やつかの間の影のように消えていく。 告を与えた。 「子供たちに母国語の基礎を正しく教え込み,それから だまされてはならない。二つのうちのどちらかを選ぶの ではなく,優先順位の問題なのである。なぜなら,両方を 順に高度な学問へ進ませなさい。あらゆる分野の真実で有 益な学問を父親以上に習熟させなさい。国語がよく分かる 同時に学ぶ機会が与えられているからである。しかし皆さ ようになったら,他国語を学ばせ,他国の風俗,習慣,法 んは,高等学校の科目よりもセミナリーに,大学の学科よ りもインスティテュートに,人の書いた本の学習よりも聖 律,政治,文学を習熟させなさい。また,芸術や科学に関 するすべての真理と,それを現実の生活に適用する方法を 典の研究に,学校のクラブや同好会よりも教会の集いに, じゅう ぶん 学費の支払いよりも什 分 の一の納入に,自分の注意を向 学ばせなさい。地上にあること,地の中にあること,天に あることを学ばせなさい。」(『説教集』8:9) けているであろうか。 」(『人生の指標』pp.184,190) 優先順位を正しく守る人は,自分のためになる知識を望 ブリガム・ヤング大管長は,教育における優先順位につ いて次のように述べている。「教育には非常に多くの分野 むままにすべて得る力を主から授かる。「まず神の国と神 の義とを求めなさい。そうすれば,あなたが求める知識を がある。大学へ行って言語学を学ぶ人もいれば,法律を学 ぶ人,医学を学ぶ人,天文学を学ぶ人,そのほか様々な科 含む望ましきものは,すべて添えて与えられるであろう。 」 (『福音の教義』p.351) 学の分野について学ぶ人もいる。……しかし,わたしたち これまでに引用した聖句や中央幹部の言葉から明ら が最も好む学問は,イスラエルの長老に属している分野, すなわち神学である。すべての長老は学識の深い神学者に かなように,すべての教会員は生涯を通じて,あらゆ る分野で絶えず知識と真理を探求するように勧告され なり,この分野について,世のだれよりも理解を深めるべ きである。 」(『ブリガム・ヤング説教集』p.258) ている。この探求は,大学や専門学校,職業訓練など で行われるかもしれない。有意義な職業に就いて家族 主はこの神権時代の初期の聖徒たちに,主の業を効率よ く遂行し,自らの必要を満たす力を得るために,多種多様 を養うための準備となる教育は, とりわけ重要であり, 人生の中でも高い優先順位を占める。 の事柄を学ぶように指示された(教義と聖約88:78−79; しかし教会員の中には,一般的な教育の方が忙しく 90:15;93:53参照)。 預言者ジョセフ・スミスは「真理は『モルモニズム』で なると,霊的な教育をしばらくの間休まなければなら ないと感じる人がいる。インスティテュートの受講生 ある」と述べている(『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.139)。後にジョセフ・F・スミス大管長は,この言葉を の中には, 学校の勉強についていけないからと言って, クラスを欠席する生徒がいるかもしれない。ある卒業 次のように説明している。 生たちは,同級生からの圧力があると,聖典の勉強や, 「わたしたちは,どんな事柄に関するものでも,すべて の真理を信じる。世のすべての教派宗派は,わたしたちが 時には教会への出席までおろそかにしてしまうそうで ある。 受け入れている真理の原則を一つは持っている。わたした ちは,出所がどこであろうと,すべての真理を喜んで受け が十分に理解されていないことを示している。イエ 入れるものである。なぜなら真理はいつまでも存続するか ス・キリストは真理の御霊であり,あらゆる光と知識 らである。 」(『大会報告』1909年4月,p.7) 福音は聖徒に,宗教だけを学ぶようにとは限定していな の源である(教義と聖約88:11;93:26参照)。優先 順位を定めるときに真理の源をあえて無視するなら そのような決断は近視眼的であり,真理を得る過程 くらやみ ば,その人はどんなに知識を得ようとも,暗闇の中を 歩むであろう。霊的な知識を無視してこの世の知識を 得る人は,しばしば啓示よりも自分自身や人の教えを 信頼するようになる。預言者ヤコブはそのような状態 を警告して言った。「神の勧告に聞き従うならば,学 識のあるのはよいことである。」(2ニーファイ9:29) さらにヤコブはこう述べている。「自分に学識のある ことを誇る……者を主なる神はさげすまれる。」(2ニ ーファイ9:42)これは力強い言葉であり,教育にお ける優先順位を決めるとき,真剣に考えさせられる言 葉である。神の知識が必要であることと,自分の力で はそれが得られないことを進んで認めないかぎり,す み まえ この世の事柄の勉強は,霊的な事柄の勉強との釣り合いを取っ て行う 444 なわちヤコブが言うように「神の御前で自分を愚かな 者だと思って心底になるのでなければ,主は彼らのた めに門をお開けにはならない。そして,知者と賢者に 特別講座K かかわるもの……は,彼らからとこしえに隠されるの は研究と祈りによって学ぶことができる。このような学習 である。 」(2ニーファイ9:42−43) 『教義と聖約』ではこの概念が支持されており,両 は,原則を研究するために熱心に努力した後に,啓示がも たらされたときに成り立つ。啓示によって真理であること 者のバランスを取るように戒められている。「研究に よって,また信仰によって学問を求めなさい。」(教義 が確認され,知識が広がり,もろもろの関係と応用が明ら かにされるのである。あるいは,決定が正しくないことを と聖約88:118)聖徒たちは熱心に王国の教義を教え 合うとき,神の恵みに助けられて,世の中の学問を 知らされる場合もある。 預言者ジョセフ・スミスは次のように教えている。「神 「さらに完全に教えられる」(教義と聖約88:78)ので はすべての知恵と理解の源であり」 ,「真理と知恵を得る最 ある。 キンボール大管長が述べているように,わたしたち 良の方法は,書物にそれを求めるのでなく,祈りによって 神のもとへ行き,神から教えを授かることである。」(『預 に求められているのは,この世の知識と霊的な知識の どちらかを選ぶことではなく,正しい優先順位を守る 言者ジョセフ・スミスの教え』pp.55,191。教義と聖約 88:117−141の「注解」参照)主が何度も指摘しておられ ことなのである。 るように,自らへりくだって主の言葉に聞き従う人は,偉 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (K−7)知識と英知を得る過程 あらゆる特質や技術を身に付けるとき,知識を得ること は,少しずつ成長していく一過程となる。学習の最良の方 大な知識を与えられる(教義と聖約1:28;76:5−10; 89:18−19;93:28;136:32参照)。主に従順な人々は, 御霊からの導きを受けて理解し, これによって知識を得る。 彼らの「目を明らかに」し,「理解を活気づける」ものは, 法は,「教訓に教訓,規則に規則を加える」ことである 「キリストの光」である(教義と聖約88:11)。主はハイラ (教義と聖約98:12;128:21;2ニーファイ28:30;イザ ヤ28:10)。わたしたちは小さなものから大きなものへ, ム・スミスに次のように言われた。「わたしはあなたにわ たしの御霊を授けよう。わたしの御霊はあなたの思いを照 単純なものから複雑なものへ,そして乳から肉へと成長す る(教義と聖約19:22;50:40;1コリント3:2;ヘブル ら……すあろう。 」(教義と聖約11:13)しかし,学ぶ者が 懸命になって努力しなければ,悟りはもたらされない。聖 5:12−14参照)。預言者ジョセフ・スミスは次のように述 べている。「主はこの民を,子供を持つ優しい父親のよう 典には,「精励と従順によって」(教義と聖約130:19)英 知を受けるとある。「光と真理はあの悪しき者を捨てる。」 に扱っておられる。その民にふさわしい光と英知と知識を (教義と聖約93:37)光明と真理を求める者も,そうしな 主の方法で授けられるのである。」(『預言者ジョセフ・ス ミスの教え』p.305) ければならない。なぜなら「英知は英知に結びつき,知恵 は知恵を受け入れ,真理は真理を迎え入れ,徳は徳を愛し, 主は,理解を得ている人がそうでない人を教えるように 勧告された(教義と聖約88:77−79,118;43:8参照)。 光は光に結びつ」く(教義と聖約88:40)からである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ また,主の民が熱心な研究によって知識を得(教義と聖約 (K−8)まとめ 90:15;130:18−19参照),それを実践することによって 主の教えが真実であることを知るように告げられた(ヨハ 主が真理を求める義人の頭上に「天から知識を注ぐ」 (教義と聖約121:33)のを妨げるものは何もない。主はそ ネ7:17参照)。聖徒たちは『教義と聖約』の中で,「研究 によって,また信仰によって学問を求めなさい」(教義と の民に,ふさわしい状態で求めるならば(教義と聖約50: 29−30参照),「啓示の上に啓示を,知識の上に知識を受 聖約88:118)と命じられている。 け」(教義と聖約42:61)ると約束された。また教会の長 「研究によって,また信仰によって学問を求めなさい」 という主の言葉の意味を理解するには,オリバー・カウド 老たちは, 「高い所から教えを受けなければならない」(教 み こと ば 義と聖約43:16)と告げられた。主は確かに,御言葉に聞 リの場合を考えるとよいであろう。『モルモン書』が翻訳 されていたとき,オリバー・カウドリは翻訳することを願 き従う人々を啓示によって教え,導かれる。しかし,自分 の努力で得られることについては,啓示によって教えるこ って,主からその特権を与えられた。オリバーは翻訳を試 みたが,失敗に終わった。そこで主は大切な原則を教えら とはされない。啓示はわたしたちの熱心な努力を補い,高 めるものである(教義と聖約9:7−9;130:19−21参照) 。 れた。オリバーは翻訳しようとした金版の文字を理解する 神はその子供たちに,知識を得て自らを高め,真理を身に ために,それらを十分に研究し,結論を出し,そして主に 確認を求めるべきであった。もし彼の心が正しければ,心 付けて成長するように命じておられる。『教義と聖約』は このことをするとともに,最も有益な行いをするための正 の内に感じる気持ちにより,その決定が正しいかどうかを 確認できるのである。まさにこの過程を通し,すべての人 しい方法を教えているのである。 445 奉献と管理の職の律法 (L−1)はじめに 特別講座L を一つに」 (教義と聖約45:65)することが求められる。 こんにち 奉献と管理の職の律法は,福音に従った生活の最高の現 スペンサー・W・キンボール大管長は,今日,一致をは れである。多くの人々はこの律法を俗世にかかわる経済上 のプログラムとしか見ないが,実際には霊的な戒めでもあ ぐくむことの重要性を再度強調している(特別講座B; Conference Report『大会報告』1978年4月,p.123参照)。 る(教義と聖約29:35参照)。日の栄えの生活を送るため に個人に求められる様々な条件は,この聖なる古代の制度 シオンの社会のもう一つの特徴は,民が「すべてのもの を共有」することである(3ニーファイ26:19;4ニーファ を正しく実践する基盤でもある。それは,新エルサレムで イ1:3)。これは,奉献の律法の実施についての記述であ あるシオンを築く基であり,栄光に満ちたメシヤ統治のた めの備えである(特別講座B参照) 。 る(L−5参照)。 各々の聖徒は,犠牲という原則を通して奉献の律法を実 ジョージ・Q・キャノン副管長は,奉献の律法が再び実 施される必要性とそのときの状況について,次のような預 施できる。ブルース・R・マッコンキー長老は,犠牲と奉 献の関係について,またそれらを実践するという聖約の義 言的な言葉を残している。「エノクの制度としてわたした 務について,次のように説明している。 ちに示された事柄に従わなければならない時が来るに違い ない。そのときには,末日聖徒の中に富める者も貧しい者 「そこでわたしは,これから犠牲と奉献の原則について 少し説明しようと思う。これは,まことの聖徒たちが神と も見られず,富は誘惑ではなくなり,すべての人が自分を 愛するように隣人を愛し,すべての男女が自分のためだけ キリストの住んでおられる所に行って,幾世代も昔の忠実 な聖徒たちとともに受け継ぎを得るために従わなければな でなく全員のために働くようになる。その日は必ず来るに 違いない。したがって,そのためにわたしたちの心を備え らない原則である。…… 犠牲と奉献はからみ合っていて,どちらも切り離すこと るのである。兄弟の皆さん,富が増すにつれて,このよう のできないものである。奉献の律法とは,わたしたちが時 な制度を設ける必要性がますます高まっていると思う。わ たしたちは豊かになるにつれて,次第にぜいたくや浪費に 間や才能,金銭,財産を教会のためにささげることである。 しかもこれらのものは,この地上における主の御心を進め 身をゆだねるようになるからである。このような制度がほ んとうに必要とされている。神はにかなうときに,御心に るために用いられる。 犠牲の律法とは,わたしたちが所有しているすべてのも かなう方法で,主の僕 〔預言者〕御 心 に霊感を与えて, のを真理のために喜んで犠牲にすることである。すなわち, 民の中にこの制度を導入されるであろう。」(Journal of Discourses『説教集』15:207) わたしたちの身分や名声,名誉,称賛,評判,その他家屋, 土地,家族などすべてのもの,必要であれば命までも犠牲 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (L−2)奉献:日の栄えの律法 にすることである。 ジョセフ・スミスは次のように述べている。『すべての 『教義と聖約』によれば,この神権時代にシオンを建設 ものを犠牲にすることを求めない宗教には,命と救いに必 しようとする初期の試みは,背きと聖徒たちの次のような 行いのために失敗に終わった。聖典にこう記されている。 要な信仰を産み出す力はない。』(Lectures on Faith『信仰 に関する講話』6:7) 聖徒たちは「あらゆる悪に満ち……日の栄えの王国の律法 により求められている和合一致に従って結束していない。 わたしたちは常に奉献の律法をすべて守り,この地上に 主の王国を打ち建てるためにわたしたちの時間や才能,財 日の栄えの王国の律法の諸原則によらなければ,シオンを 産をすべてささげるように求められているわけではない。 築き上げることはできない。」(教義と聖約105:3−5)こ れらの原則はキリストの律法の一部であり,日の栄えの栄 犠牲として多くを求められる人はそういない。また目下の ところ,この啓示された宗教のゆえに殉教者を出すという 光に備えて人々をめることを目的としている(教義と聖約 88:20−21参照)。個人の義を高めることが,シオンの祝 ことはあまり考えられないことである。 しかしながら,わたしたちが日の栄えの救いを得るため 福にあずかり,定められたときに日の栄えの世界に入る方 法である。「心の清い者,これこそシオンである。」(教義 には,一度そうするように求められたときは,その律法に 完全に従うことができるようでなければならない,と聖典 と聖約97:21) に記されている。この中には,そうするように求められた 聖典には,シオンの原則に従って生活しようと努める 人々の特徴が,さらに幾つか記されている。一致が何より 範囲内でその律法を実践しなければならないということも 含まれている。…… も大切である。主はこう言われた。「もしもあなたがたが 一つでなければ,あなたがたはわたしのものではない。」 確かに主は,わたしたちが考えている以上のことを期待 しておられる。わたしたちは他の人々と異なる。神の聖徒 しもべ み こころ (教義と聖約38:27)シオンの民は,「心を一つにし,思い 446 であり,天からの啓示を受けている。多く与えられた者は 特別講座L 多く求められる。わたしたちは神の王国にかかわる事柄を (L−3)奉献の基本 人生の中で第一としなければならない。」(『大会報告』 1975年4月,pp.74−75) マリオン・G・ロムニー副管長は,奉献の律法の基本に ついて次のように説明している。「奉献の律法に関する基 今読んだ説教を基にして,自分自身を振り返り,内 省する必要がある。わたしたちは聖典から,救い主が 本原則ならびにこの律法が義とされる理由は,『万物は主 のものであるということである。したがって,主はわたし 来られる前にシオンが再び確立されなければならない ことを知っている。また,奉献の律法がシオンで実施 たちが所有するいかなる財産もすべてお求めになれる。す べて主のものだからである(教義と聖約104:14−17, されることも知っている。マッコンキー長老の説教に 54−57)。』(J・ルーベン・クラーク・ジュニア『大会報 は,どのような心構えが奉献の律法の基盤を築くかが 記されていた。以下の質問は,これまで読んだ中央幹 」(Ensign『エンサイン』1979年2月 告』1942年10月,p.55) 号,p.3) 部の言葉に関連したものである。それぞれについて, じっくり考えていただきたい。 この重要な原則は,『教義と聖約』の啓示の至る所で強 調されている。「わたしは地を豊かに造った。見よ,それ 1.あなたは家庭の中で一致の精神をはぐくんでいる はわたしの足台である。それゆえ,わたしは再びその上に だろうか。それとも妨げているだろうか。ワード や支部ではどうか。また,教会全体としてはどう 立とう。」(教義と聖約38:17)「地の富はわたしのもので あり,わたしがそれを与えるのである。しかし,あなたが だろうか。 み たま 2.聖霊の御霊と調和した生活を送り,王国における たは昔のニーファイ人のようにならないよう,高慢に気を つけなさい。」(教義と聖約38:39)「そして,あなたがた 思いと行いの一致に貢献しているだろうか。 の中のだれも,それは自分のものであると言ってはならな 3.奉献を態度で示しているだろうか。地上にシオン と教会を確立するために,あなたの持っているも い。それは,あるいはその一部といえども,彼のものと言 ってはならないからである。 」(教義と聖約104:70) のや今後与えられるものをすべてささげること が,生活の中で第一の関心事となっているだろう 資産が不当に分配されると,多くの苦難を引き起こす原 因になる。「人がほかの人以上のものを持つようには定め か。 4.次のように心から言い切る自信があるだろうか。 られていない。それゆえ,世は罪の状態にある。 」(教義と 聖約49:20) 「わたしは神のためにすべてのものを喜んでささ マリオン・G・ロムニー副管長は,奉献を行うために聖 げます。 」 これらの質問は,特に初期の聖徒たちの経験に照ら 徒に明らかにされたこれらの基本的原則と律法との関係に ついて,次のように述べている。 して考えられている。彼らはシオンの建設を熱望し, 自分たちにその資格があると思っていたが,失敗し 「預言者が『教会の律法』と定めたこの啓示〔教義と聖 約42章〕の中で,主は共同制度の本質を明らかにしておら た。 れる。共同制度は,人々の間の不平等をなくすために設け 教義と聖約101:1−8と教義と聖約105:1−6を読み なさい。そこには,聖徒がシオンの建設に失敗した理 られた主のプログラムである。そしてこの制度は,この地 と地に満ちるすべてのものは主のものであり,わたしたち 由が挙げられている。 1.________________(101:2) 2.________________(101:6) 3.________________(101:6) 4.________________(101:6) 5.________________(101:6) 6.________________(101:6) 7.________________(101:7) 8.________________(101:8) 9.________________(105:3) 10.________________(105:3) 11.________________(105:3) 12.________________(105:4) これらの問題は,現代の聖徒の中にも見られないだ ろうか。さらに端的に言って,あなた自身の生活の中 にこのような問題がないだろうか。もしあるなら,奉 献の律法に従って生活する力が妨げられるであろう。 シオンが「心の清い者」であるなら,シオンを建設す るためにまず取りかからなければならないのはどこだ ろうか。 「地と,それに満ちるもの……とは主のものである」(詩篇 24:1) 447 は主に対して責任を負う管理人としてこの世の資産を所有 監督は王以上の権限を持つことになるからである。 反対に, するという概念を基としている。 『主なるわたしは天を広げ,また地を築いた。……そし どれだけのものが必要かを各会員に要求させ,その要求に 従う義務を監督に負わせれば,シオンは混乱に陥り,監督 て,その中にある万物はわたしのものである。 万物はわたしのものであるから,わたしが意図している は奴隷のようになってしまう。実際には,監督と民との間 に力のバランス,すなわち均衡が必要である。そうすれば, のは聖徒たちに必要なものを与えることである。 しかしそれは,わたし自身の方法で行われなければなら 調和と幸福が保たれるであろう。 したがって,シオンの監督に財産を奉献し,それから ない。 』(教義と聖約104:14−16) 『受取分』を受ける者は,自分の要求が必要にかなってい 主の道には二つの基本原則がある。 (1)奉献と, (2)管 理の職である。 ることを監督に正しく示さなければならない。しかし両者 が合意に達しない場合,監督はその奉献の受領についてい 共同制度に加わるために,『破ることのできない聖約と 証書』とをもって人は自分のすべての財産を教会に奉献し かなる判断もせずに,12人の大祭司から成る評議会にその 問題を提出する。監督はこの評議会の一員ではないが,そ た。すなわち,自己の全財産を教会に譲渡したのである。」 のような問題は評議会にゆだねるべきである。」(History of (『大会報告』1977年4月,p.118) 万物の正当な所有者であられる主の承認が,義にかなっ the Church『教会歴史』1:364−365) 啓示の中では,「受取分」すなわち管理の職が「平等」 た生活の基準であり,それによって人は物質的な事柄を治 め,王国に必要な援助をするのである。 (教義と聖約51:3。教義と聖約70:14参照)であると表現 されているが,これはすべての人が同一のものを受けると ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ いう意味ではない。J・ルーベン・クラーク・ジュニア副 (L−4)管理の職の基本 管理の職を受ける かつてすべての所有物が教会にささ 管長は次のように説明している。「ある兄弟たちが間違う ところは,次のことである。兄弟たちの間の平等について げられたとき,各会員は管理の職を受けてその責任を果た せるように備えていた。ロムニー副管長は,その過程を次 は,いろいろな啓示の中に出てくるが,ほかの啓示にも言 及されているとはいえ,この平等が述べられているのは1 のように説明している。「そのように自己の財産を奉献し た者は,証書をもって教会から管理の責任を与えられた。 か所しかないとわたしは思う。ここで(教義と聖約51:3) 言っている平等が絶対的な意味での平等でないことは明白 この管理を委託された資産は,『この民に対して彼らの受 である。『各人の家族に応じて,また各人の事情と入り用 取分を,各人の家族に応じて,また各人の事情と入り用と 必要に応じて,平等に指定』(教義と聖約51:3)すること と必要に応じて』異なった平等なのである(教義と聖約 82:17;78:5−6参照)。明らかにこれは, 『寸分の違いも を目的としているため,奉献した財産より多く受ける者も 少なく受ける者もいる。 」(『大会報告』1977年4月,p.119) ない』平等ではない。『平等である』ということは,人を 取り巻く環境,家族数,必要としていることが変わるにつ 後の啓示でこの原則が再び述べられ,管理の職を受ける れて変わるからである。 」(『大会報告』1942年10月,p.55) 基本は正義にあることが強調された。主は次のように言わ れた。「正当であれば,それぞれ自分の入り用と必要に応 『教義と聖約』の中から,個人の管理の職を決定す るために与えられた指針を復習する。 じて財産を要求する平等な権利がある。 」(教義と聖約82: 17) 教義と聖約42:32−33 次の語句に注目する。「自 分自身と家族に足りる分」「困窮しているすべての人 ミズーリ州の聖徒たちがこのプログラムを実施し始めた が十分に供給を受け,彼らの入り用に応じて与えられ ころ,奉献した人に教会から分配される財産の量をだれが 決めるか,という質問が出た。それに対して預言者ジョセ る……。」義人は家族を養うに足りるだけのものを持 てないことについて心配するだろうか。 フ・スミスは次のような指針を与えている。 「財産の奉献に関して言えば,第一に,各人がどれだけ 教義と聖約48:6 主は家族の人数や年齢の違いを 考慮されるだろうか。 のものを所有しているかなどと,こまごましたリストを作 るのは正しくない。実際にはこうである。シオンの王国の 『教義と聖約』は,管理の職の原則を広範囲にわた って扱っている。 正当な相続人として認められるには,教会の律法に従って 教義と聖約42:32 主はだれに管理人になることを 監督に奉献しなければならない。これは強制ではない。た だし,奉献しないかぎり,その人は教会の記録上,主の前 求めておられるか。自分が受けた受取分は主のものと 考えるべきだろうか,それとも自分のものと考えるべ において認知されない。したがって詳細な項目を作成する ことについて言えば,どれだけのものを受けて,どれだけ きだろうか。 教義と聖約82:17 のものを監督のもとに残すかは,各々が自分で判断しなけ えられるか。 ればならないのである。わたしは,自分自身と家族の扶養 に必要なもの以外を奉献する人々について話している。 教義と聖約104:11 管理の職を受けるように期待 される聖徒はどのくらいいるか。 奉献は,当事者相互の同意の下に行われなければならな い。なぜなら,どれだけのものを所有するかを決める権限 管理の職とは,共有の財産ではなく,個人の財産である 奉献する人,すなわち管理人は,「受取分〔管理の職〕を を監督に与え,その判断に従う義務を会員に負わせれば, 保証する」 (教義と聖約51:4)証書を受けることになって 448 財産を管理する責任はだれに与 特別講座L いた。万物は主のものであると認められていたが,神から 用するために設けられた制度について説明している。 個人に受取分が委任されるのを表すのが管理の職であっ た。管理の職は所有権を示す証書とともに与えられるので, 「必要以上の財産が奉献された場合,本人に返されない 分は……教会の共有財産となり,その共有財産は貧しい教 各自は委任されたものに関する全責任と報告する義務とを 負っている。この証書は,たとえ主の管理人としてふさわ 会員を援助するために使われた。これが啓示の中で述べら れている財産の『残余』である(教義と聖約42:34−36参 しくないとされても,その人の管理の職を保護するもので ある(教義と聖約51:4参照)。管理の職は,たとえ管理人 照)。 管理人は割り当てられた受取分が,家族に標準の生活を がそれを結局は神のものであると考えていたとしても,法 させる以上のものであると判断すれば,前述のように監督 律上は個人の財産である。マリオン・G・ロムニー副管長 は,この奉献の教義の重要性について次のように述べてい に返却するということを,もう一度確認しておきたい。こ の剰余と,前に出てきた残余とは,監督の倉に納められた る。 「共同制度に参加した人々は絶対的な権利証書をもって (教義と聖約51:13)。倉の物質は,前に述べたように,受 取分を生み出すことに使われ,『貧しい者』(教義と聖約 各自の受取分あるいは相続財産,すなわち管理を委託され 78:3),『やもめと孤児』(教義と聖約83:6),また教導の た資産を所有し,自由に譲渡,維持,売却,また交換する ことができた。教会はすべての資産を所有していたわけで 業に従事している教会の長老のために使われた。そしてこ れらの人たちは,できるなら受けたものを返済するはずで はない。預言者ジョセフ・スミスが言っているように,共 同制度の下での生活は共同生活ではなかったからである。 あった。しかし,できない場合は,忠実な労働によって, 監督に対する負債を償わなければならなかった(教義と聖 共同制度の目的は,自己と家族の生計を各自の資産で賄 約72:11以下)。 うことにあった。 」 (『大会報告』1977年4月,p.119) 管理の職に関する報告 「主はすべての管理人の手より, さて……この制度が発展するにつれて,主は倉のほかに 二つの施設を設けられた。一つは神聖な金庫として知られ, 管理の職について報告することを求める。この世において 忠実で賢い者は,彼のために用意された父の住まいを受け そこには,『神聖なものから得る利益を,神聖かつ聖なる 目的のために』保管するのであった。はっきりしてはいな 継ぐのにふさわしいと見なされる。」(教義と聖約72:3− 4) いが,啓示や『モルモン書』 ,『高価な真珠』の出版,ある いはほかの同様のものから得られる剰余がこの金庫に納め スペンサー・W・キンボール大管長は,管理の職の意味 られることになっていたようである。そして,その管理は とその適用範囲を明らかにしている。「教会においては, 管理の職とは,霊的あるいは物的に神より委託を受けるこ ジョセフとほかの人々にゆだねられていた(教義と聖約 104:60−66参照)。 とであり,これには責任が伴う。万物は主のものであり, わたしたちは自分の体や心,家族,財産についての管理人 主はまた『別の金庫』を設けられた。この別の金庫には, 金銭による贈り物や,もともと奉献された残余とは区別さ なのである(教義と聖約104:11−15参照) 。忠実な管理人 れる管理の改善によって得られた収入や,管理することに とは,義にかなって治め,自己に属するものを世話し,貧 しい人や乏しい人に目を向ける人のことである(教義と聖 よって得られた剰余が納められるのであった(教義と聖約 72:11以下)。」(『大会報告』1942年10月,pp.56−57) 約 1 0 4 : 1 5 − 1 8 参 照 )。」(『 大 会 報 告 』 1 9 7 7 年 1 0 月 , pp.124−125) 「いっさいの物を共有にしていた」 聖典の中には「い っさいの物を共有にしていた」という記述があるが(使徒 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 4:32。使徒2:44;3ニーファイ26:19;4ニーファイ1:3 (L−5)奉献の律法の実施:共同制度 主は次のように命じられた。「倉の諸事を整え確立する 参照),これは古代に奉献の律法に従って生活していた 人々の特徴を表している。「共有」という言葉が一種の共 に当たって,わたしの民の組織があることが必要である。」 (教義と聖約78:3)「この制度にともに加わっているあな 産主義を意味すると推測する人もいるが,その解釈は誤り である。預言者ジョセフ・スミスは,一切の物を共有する たがたによって,すべてのことが行われることが必要であ る。」(教義と聖約78:8)この「制度」という言葉は,奉 ことの真の意味について明確に教えている。「わたしは教 壇に立って,使徒行伝の第2章について1時間近く教え,財 献と管理の職の律法を聖徒の間で実施するために設立され 産を共有することの愚かさを示そうとした。ノーブーでは, た聖約の社会,および組織を表している。地域や管轄に関 する境界は,ステークのそれと一致するように定められた すべての人が自分自身の〔財産〕を管理するのである。」 (『教会歴史』6:37−38) (教義と聖約104:47−49参照)。「共同制度」という言葉 は,聖約の制度すなわち社会(ステーク)に組織された聖 各々の管理の職は個人の財産と見なされ(L−4参照), 倉に奉献された残余や剰余は「全教会の共有財産」(教義 徒が,物質的および経済的な制度である奉献の律法を一致 と聖約82:18)となった。それらが「共有財産」と呼ばれ 協力して実践することを意味している。 残余と剰余:倉と金庫 J・ルーベン・クラーク・ジュ るのは,聖約により共同制度に加わったすべての会員が, 自分の管理の職を拡大する場合も含め,正当な「入り用」 ニア副管長は,律法の下で奉献される残余と剰余の違いを 次のように説明している。クラーク副管長はまた,『教義 と「必要」に応じて財産を要求できるからである(教義と 聖約82:17−18参照)。 と聖約』を引用して,これらが使われる目的とこれらを運 「平等」という言葉は,『教義と聖約』の啓示の中でよく 449 使われている。「現世のものについて,あなたがたは平等 る者であった(ジョセフ・スミス訳創世14:27,37参照)。 でなければならない。」(教義と聖約70:14)「あなたがた は地上のものにおいて平等でなければ,天のものを得るこ 新約の時代には,救い主の昇天後に奉献の律法が会員の間 に確立されていた。彼らは「心を一つにし思いを一つにし とにおいて平等にはなれないからである。」(教義と聖約 て,……いっさいの物を共有にしていた。」(使徒4:32)3 78:6)「この民に対して彼らの受取分を,各人の家族に応 じて,また各人の事情と入り用と必要に応じて,平等に指 番目の例は,復活された救い主の訪れを受けた民で,『モ ルモン書』の中に記されている。「彼らはすべてのものを 定しなさい。」(教義と聖約51:3)主は「平等」という言 葉を次のように定義しておられる。「あなたがたは平等で 共有し,皆,互いに公正に振る舞った。」(3ニーファイ 26:19。4ニーファイ1:3参照) なければならない。言い換えれば,あなたがたは自分の管 理の職に関する諸事を処理するために,その入り用が正当 1831年2月9日,「律法」(教義と聖約42:2)として知ら れる啓示の中で,最後の神権時代に奉献の律法が回復され であれば,それぞれ自分の入り用と必要に応じて財産を要 た。そしてこの律法を実施する間に,その原則や手段,組 求する平等な権利がある。」(教義と聖約82:17) 聖約の中にいるすべての教会員は,管理の職を実施する 織について多くの指示が啓示された。主は奉献の律法を定 めたときから明らかにしておられるが,当時の聖徒がそれ ために共有財産または物資に対して要求する平等の権利を 持っていた。このように権利や要求を互いに分かち合うこ を完全に実行するのは時期や状況から考えて難しかった。 み わざ しかし,彼らの努力は御業が将来頂点に達するときの基礎 とにより,すべての人が「等しく」(教義と聖約51:9)な を築くものとなるのである(教義と聖約58:4−7参照)。 った。言い換えれば,平等の立場に立った。だれの要求を 受け入れるかを判断する手順は,この制度に入っている全 J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,初期の実施 を妨げた障害を次のように要約している。「共同制度は理 員の承諾と一致により定められた(教義と聖約104:70− 71参照)。 論の上では3年3か月にわたって続いたが,人々の貪欲と利 己心のために中断され,主によって取り上げられた。」 どんよく 共同制度の管理者としての監督 監督は,奉献と管理の (“Testimony of Divine Origin of Welfare Plam” Church News 職の律法の監督者であり,管理者である。最初の奉献を受 け,管理の職を分配するのは監督である(教義と聖約42: 「福祉計画の神聖な起源」 『チャーチニューズ』1951年8月8 日付け,p.3) 31−33;51:3−5;58:34,55参照)。シオンの共同社会 において,監督は「受け継ぎの地」を定める(教義と聖約 聖徒たちは西部へ移住した後,1850年代と1870年代に 様々なプログラムを設定し,その多くに「共同制度」とい 48:6;57:15;85:1;124:21参照)。また,倉を管理す う名称を付けた。ブリガム・ヤング大管長は,数多くの一 る責任も果たす(教義と聖約42:34;51:13;72:9−10 参照)。監督の最も大切な義務の一つは,貧しい者(教義 時的なプログラムを促進したが,それらは奉献に関するほ とんどの基本原則に立脚していた。1882年に大管長会が聖 と聖約42:33−35,39;78:3;84:112参照)や父親のい ない子,やもめ,孤児(教義と聖約83:6参照)などの必 徒に与えた指示によれば,当時のプログラムにはたくさん の利点があったが,奉献の律法が完全に施行されるのは, 要を満たすことである。監督はイスラエルの判士として (教義と聖約107:74参照),制度の各会員から管理の職に まだ将来のことであった。ジョン・テーラー大管長とその 副管長は,奉献の律法の原則ついて説明し,さらに次のよ ついて報告を受ける。すなわち,定期的に決算と報告を求 うに記している。「これは,神の律法が完全に実施された めるのである(教義と聖約72:5−7参照)。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ときに,以上の幾つかの問題に関して物事がどのように運 ぶかを示す単なる概要にすぎない。世の中とわたしたちと (L−6) 原文削除。 の関係や,わたしたち自身の不完全さが,現時点でこの制 度を確立する妨げになっている。したがって,初期の時代 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ にジョセフが語ったように,いまだにそれを実施すること (L−7)奉献の歴史 「民が福音を受け入れ,それに添った生活をするときに ができないのである。」(クラーク,Messages of the First Presidency『大管長会のメッセージ』2:339) はいつも,主は共同制度を制定された。主がエノクの民の 間にこの制度を制定されたことが,次のように記録されて ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (L−8)奉献のための備え いる。 共同制度とそれに関連する律法は,シオン(新エルサレ あがな 『主はその地を祝福され,彼らは山々の上と高い所で祝 福されて,まことに栄えた。 ム)が贖 われるまで,完全には実施されないであろう。 J・ルーベン・クラーク・ジュニア副管長は,「シオンの 主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし, 思いを一つにし,義のうちに住んだからである。そして, 贖い」について誤解がないように,この言葉を次のように 定義している。「主が『シオン』という言葉を使われると 彼らの中に貧しい者はいなかった。』(モーセ7:17−18)」 (マリオン・G・ロムニー『大会報告』1977年4月,p.118) きの『贖い』という言葉は,ミズーリにおける民の復興を 意味している。しかし,これはまだ成就していない。」 聖典の記録によれば,エノクの時代の後にも多くの民が 奉献の律法を実施して成功している。メルキゼデクは,神 がエノクと交わされた聖約の位に従って,神の倉を管理す 450 (“The United Order and the Law of Consecration As Set Out in the Revelations of the Lord”「主の啓示に表された共同制度 と奉献の律法」『チャーチニューズ』1945年9月15日付け, 特別講座L p.9) pp.118,120−121) 現在の王国の業は,この偉大な出来事のために準備をす こんにち ることである。今日の教会で行われている福祉と備えに関 このプログラムに従うとき,聖徒たちは全世界にシオン を確立するのに必要な特質を伸ばし続けることだろう。ブ する暫定的なプログラムは,奉献の実施を予表している。 マリオン・G・ロムニー副管長は,奉献の原則の行使を一 ルース・R・マッコンキー長老は,これらの原則により教 会がどのようにシオンの贖いを実現するかについて,次の 種の訓練として説明している。 「わたしたちがこの福祉活動で行っていることは,共同 ように述べている。 「いと高き方の聖徒として,わたしたちは『日の栄えの 制度の下で要求される奉献と管理の職の律法を再び確立す 世界の下にある他のすべての造られたものの上で自立す るための準備であると確信してきた。わたしたちがこの活 あかし 動の目標を常に覚えるなら,この偉大な業に対する証を失 る』(教義と聖約78:14)よう努めなければならない。わ たしたちの望むことはただ,罪の束縛から解放され,暗黒 うことは決してないであろう。わたしたちが行っているこ とは新しいものではない。福音と同様に昔からあるもので の鎖を立ち切り,世の人々のうえに立ち,敬虔で高潔な生 活を送ることである。 ざん てい ある。…… けいけん わたしたちは常に主を信頼し,世から独り立ちしなけれ この啓示によると,共同制度はシオンが贖われた後に完 全に行われることになる(教義と聖約105:34参照)。した ばならない。自立しなければならない。神から授かった選 択の自由を用いて,経済的,物質的な問題を解決するよう がって,わたしたちがさらに完全な教えを受け,経験を重 じゅう ぶん ねている間は,什 分 の一,断食献金,福祉計画,倉,お にしなければならない。 わたしたちは自分自身の健康を維持し,畑に種をまき, よびその他の原則や活動など,現在教会で要求されている 食糧を貯蔵し,日常生活の諸事を処理するために教育と訓 ものの範囲内で,共同制度の原則に厳密に従った生活をし なければならないのである。わたしたちはこれらのプログ 練を受けなければならない。物質的にも霊的にも,自分自 まっと 身の救いを全 うできる人間は,自分以外にいないのであ ラムを通して,個人として共同制度の基本に従った生活を すべきである。 る。 わたしたちは,家族の必要を満たすためにこの地上にい 例えば,什分の一の律法は奉献と管理の職の原則を実施 するという大いなる機会をわたしたちに与えている。什分 る。妻は夫に,子供は両親に,年老いた両親は子供に,兄 しんせき 弟や親戚はそれぞれ互いに扶養を求める権利があるのであ の一の律法は共同制度が一時延期された4年後に制定され, る。 主は人々に『彼らの剰余の財産をすべて……監督の手にゆ だねる』よう求められた。その後,人々は『毎年彼らの得 教会の目的は聖徒の自活を促し,また必要に応じて食物 や衣服,その他の必需品を作る助けを与えることである。 る全利益の10分の1を納める』よう命じられた(教義と聖 約119:1,4)。この什分の一の律法は現在も有効であり, これは,聖徒が施しというバビロンの悪に頼ることのない ようにするためである。貧しい人々を助けるために,教会 管理の職に関しては共同制度の原則を最低の段階で実施し は農場を経営し,ぶどう畑を作り,酪農場や工場を経営す ているにすぎない。つまり,自分自身と家族の必要を満た すための財産を私有し管理する責任を人々に託しているの るなど,多くのことを行っている。いずれも,世の悪の力 か ら 自 立 す る た め で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1979年 4月 , である。クラーク副管長の言葉を……引用しよう。 『共同制度の下に蓄財された残余と剰余の代わりに,今 p.132) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 日わたしたちには断食献金,福祉基金,什分の一があり, (L−9)霊的な備えの必要性 それらはすべて貧しい人々の世話や教会の活動および事業 を行うために使用される。…… 教会のプログラムは将来のシオンに備えるための手段で あるが,その成功は個人の備えと実践の度合いにかかって わたしたちは,かつて共同制度の下に監督の倉を持ち, 倉には貧しい人々の必要と入り用を満たすために集めた物 いる。スペンサー・W・キンボール大管長は,律法の実施 に備えるために各自がしなければならないことについて, 資が保管されていた。現在,監督の倉は福祉計画の下に同 じ目的で利用されている。…… 次のように述べている。 「こうした結論に至る過程を具体化し,この業の根底を 現在わたしたちは,貧しい人々のために準備されたプロ 成す原則を明確にするため,わたしは,基本的な真理であ グラムを……福祉計画の下で教会全体にわたって行ってい る。 ると思う事柄についてお話ししたい。 はら から 第1に挙げられるのが,愛である。同胞に対するわたし このように,わたしたちは福祉計画を,共同制度の広範 なら な基本に倣 って実施しているのである。』(『大会報告』 たちの愛,さらに主に対するわたしたちの愛は,わたした ちがお互いと貧しい人,悩んでいる人に対してどのように 1942年10月,pp.57−58) 行動するかによって測られる。 わたしたちが什分の一と断食の原則を正しく守り,福祉 計画を十分に発展させ実施するとき,明らかに『共同制度 『わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える。に 愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あ の偉大な基本原則を実行するのはそれほど遠くない』ので ある(同,p.57)。ただ一つの限界があるとすれば,それ なたがたも互に愛し合いなさい。 互に愛し合うならば,それによって,あなたがたがわた は , 各 自 の 心 の 中 に あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1977年 4月 , しの弟子であることを,すべての者が認めるであろう。』 たがい 451 3にその人が忠実な教会員であれば教会が負う。 肉体および情緒面で健康な末日聖徒は,自分と自分の家 族の安寧に関して,その責任を他人に譲り渡すことはでき ない。主の霊感の下に,力を尽くすならば,霊的にも物的 にも自分と自分の家族を養うことができるはずである(1 テモテ5:8参照)。 第5は奉献である。これには犠牲が含まれる。奉献とは, 霊的面であれ物的面であれ,助けを必要としている人のた めに,また主の王国の建設のために,自分の時間と才能と 財産を提供することである。福祉活動における奉献には, 会員たちが生産事業で働くこと,デゼレト産業に材料を寄 付すること,専門的な技能を分かち合うこと,惜しみなく 断食献金を納めること,ワードおよび定員会の奉仕活動に 参加することがある。また,ホームティーチングや家庭訪 問でも時間を奉献する。わたしたちは自分自身をささげる とき,奉献しているのである。 第6は管理の職である。教会における管理の職とは,霊 的にも物的にも神より委託を受けることであり,これには 責任が伴う。万物は主のものであり,わたしたちは自分の 体や心,家族,財産の管理人なのである(教義と聖約 104:11−15参照)。忠実な管理人とは,義に基づいて治 め,自己に属するものを世話し,貧しい人や乏しい人に目 を向ける人のことである(教義と聖約104:15−18参照)。 これらの原則は福祉活動の推進力である。わたしたちは 皆,これらの原則を学び,これらに従い,そしてこれらを 教えなければならない。指導者の皆さんは会員に,父親は 家族に,これらの原則を教えていただきたい。わたしたち 奉献の律法の下では,法にかなった,財産を保証する証書が発 行された はこれらの原則を実践してこそ,シオンの理想に近づくこ とができるのである。 シオンとは,主の聖約の民に対して主が与えられた名で (ヨハネ13:34−35。モロナイ7:44−48;ルカ10:25− 37;14:12−14参照) 第2は奉仕である。奉仕とは,自己をむなしくし,助け の必要な人を助け,『自分の持ち物を貧しい者や乏しい者 に分け与え,飢えている者に食物を与えるなどして……あ あり,清い心を持ち,貧しい者や乏しい者,悩む者に絶え ず援助の手を差し伸べる人々のことである(教義と聖約 97:21参照)。 『主はその民をシオンと呼ばれた。彼らが心を一つにし, 思いを一つにし,義のうちに住んだからである。そして, らゆる苦難に耐えていた。……キリストを信じていたから である。 』(アルマ4:13) 彼らの中に貧しい者はいなかった。 』(モーセ7:18) この神権に基づく最高の社会は,愛と奉仕,労働,自立, 『父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは,困って 管理の職という教義を基としている。そしてこれらはすべ て,奉献の聖約の中に包含されるものである。」(『大会報 いる孤児や,やもめを見舞い,自らは世の汚れに染まずに, 身を清く保つことにほかならない。 』(ヤコブの手紙1:27) 第3は労働である。労働は,幸福と自尊心と繁栄を生む。 またあらゆることを成し遂げるための手段である。怠惰は この反意語である。わたしたちは働くように命じられてい る(創世3:19参照)。わたしたちの物質面,社交面,情緒 面,霊的面での安寧を施しによって得ようとすることは労 働によって物を得るよう命じられた神の戒めに反する。労 働は教会員の生活を貫く原則でなければならない(教義と 聖約42:42;75:29;68:30−32;56:17参照)。 第4は自立である。教会と教会の会員は,自立するよう 主から命じられている(教義と聖約78:13−14参照) 。 各人の社交面,情緒面,霊的面,肉体面,経済面におけ る安寧を維持する責任は,第1に本人,第2にその家族,第 452 告』1978年10月,pp.77−78) 一部の人々は,聖徒がミズーリへ行くときまでは奉 献の律法に従って生活する必要がないと考え,ぐずぐ ずしている。またある人々は,新エルサレムがまだ建 設されていないので,奉献の律法は原則さえも適用で きないと主張している。しかしロレンゾ・スノー大管 長は,唯一の障害になっているのは個人であると勧告 した。「さて,ここに共同制度の第一の原則の一つが ある。それはすべての人によって作られ,定められた 律法である。ミズーリの地へ行って受け継ぎを受ける という特権にあずかる者は,この律法に従うように求 められる。しかしわたしの考えでは,ミズーリの地へ 行く者だけでなく,あらゆる国の神の民にこの律法は 特別講座L 適用されるのである。神の民がいるところであればど 多くの人は剰余の財産を自分で利用したいと考え, こでも,共同制度の原則が適用されるのである。ただ し,民がその原則を受け入れ,それに従えばの話であ たまに剰余と見なされる牛がいても,それはたいてい, 人の帽子をけり上げるとか,目が見えないとかいう種 る。一部の人々は,ミズーリの地へ行く民だけが共同 制度を守るものと考えてきたが,それは正しくないと 類の牛であった。……また,たまに剰余と見なされる 馬がいても,けがや病気をしていた。 」(『説教集』2: わたしは信じている。福音を受けるとき,日の栄えの 律法を実施する場所がジャクソン郡に限られて,聖徒 306−307) ここで, ありのままの自分を評価していただきたい。 たちがその特権にあずかれないとしたら,実におかし あなたは主から求められたら,それが何であっても喜 なことになるであろう。 」(『説教集』19:343) ブリガム・ヤング大管長は,奉献の律法に従って生 んでささげ,行うだろうか。それとも,完全にはでき ない理由を述べて合理化するだろうか。 活するときに直面する問題について,幾分ユーモラス であるが,悲しむべき事実を述べている。奉献の律法 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (L−10)まとめ を聖徒に実施させようとした初期の時代に,次のよう ロレンゾ・スノー大管長は,奉献の業を推し進める際に な経験をしたのである。 「その啓示が……1838年に与えられたとき,わたし 個人の選択の自由が大切になることを強調している。「日 の栄えの栄光にかかわる事柄には,強制による働きはあり はその場にいたので,兄弟たちの気持ちを思い起こす ことができる。……わたしは兄弟たちから,教会を巡 得ない。わたしたちは,知と情とに働きかける主の御霊に 従って行動しなければならない。何かをするように強制さ るように求められた。ファーウェストで始まった神殿 れることはないが,御霊に従うならば,すばらしい祝福が の建設に加えて,聖徒たちが持っている剰余の財産を 調べるのが目的である。そこでわたしは国内の方々へ もたらされる。日の栄えの律法に従って生活するように強 制はされないが,わたしたちは自らの自由意志を使ってそ 出かけたが,出発する前にジョセフ兄弟に,『何が剰 余の財産かを判断するのはだれですか』と尋ねた。す のように生活しなければならない。そして,共同制度の原 則を実践するときには,それが何であれ,自分の意志で喜 ると彼は言った。 『会員自身に判断させなさい。……』 そこでわたしは,『では会員たちのところへ行き, んで行う必要がある。わたしたちの中には,什分の一の律 法が求めている以上のことを行って,共同制度の精神を実 剰余の財産について尋ねることにしましょう』と答え 践している人がいる。 」(『説教集』19:346) て,そのとおりにした。会員たちは指示されたことを 喜んで行うと言ったが, 剰余の財産について尋ねると, 共同制度に従って生活し,奉献と管理の職の律法を実践 したいと願っている人は,スペンサー・W・キンボール大 土地や家畜を持っている人のほとんどが次のように答 えるのである。『広い土地がありますが,息子がたく 管長の次の勧告を心に銘記すべきである。「わたしたちは, シオンの価値をまったく信じようとしない世界に住んでい さんいるんです。それぞれに80エーカーずつ持たせる る。バビロンはいつの時代にもシオンを理解しない。」 つもりですから,これは剰余の財産ではありません。 』 『それに娘が多いもので,一人に40エーカー以上はや (『大会報告』1978年4月,p.122) 「わたしたちが訓戒や教義に従い,福祉活動のプログラ れないと思います。』『分かりました。それでも200か ら300エーカーは残りますね。』『ええ。でも義理の弟 ムを実践するとき,わたしたちの労働によってシオンの確 立という祝福が得られる。」(『大会報告』1978年10月, がやって来るので,その面倒も見なければならないん p.114) です。それに妻のおいも来るんですが,ひどく貧しい ので,わたしの農地を譲ることになるでしょう。』次 マリオン・G・ロムニー副管長は,次のようにまとめて いる。「わたしたちが生きているのは末日である。エノク の家へ行くと,とても使い切れないほど広い土地と多 こっけい くの家畜を所有していて,滑稽な考えではあるが,ほ の時代から現代に至るまで,預言者たちが語ってきた時代 である。主イエス・キリストの再臨を間近に控えた時代で んとうのところを聞かせてくれた。自分たちはまだ若 いし,世に出たばかりだからと言い,さらにこう付け ある。わたしたちは『日の栄えの世界の下にある他のすべ ての造られたものの上で自立するため』(教義と聖約78: 加えるのである。 『わたしたちには子供がいませんが, 14)十分に備えて生活するように告げられている。これが 見通しは明るくて,たくさんの子供を持てると思うん です。もしそうなれば,一人に土地を80エーカーずつ わたしたちのなすべきことである。…… わたしたちがなすべき最後のことは,神の王国を築き上 分けてやります。剰余の財産はありませんよ。 』『牛は 何頭いますか。』 『かなりの数です。 『馬はどうですか。 』 』 げ,同胞を助けるために,自分が持っているすべてのもの を奉献できるようになることであり,進んで奉献すること 『たくさんいます。でも,これは全部わたしが蓄えた である。わたしたちはそうするとき,メシヤの来臨に対す んです。わたしが手に入れたものはすべてわたしが使 います。 』 る 備 え が で き る の で あ る 。」(『 大 会 報 告 』 1975年 4月 , pp.165−166) 453 神権と教会の統治 第1部 (M−1)はじめに 特別講座M ることだからである(教義と聖約130:20−21参照) 。要す この世にあっても永遠にあっても,人の知るかぎり最も るに神権とは,神のすべての息子と娘に必要な神の力であ 力のあるものは,聖なる神権である(N・エルドン・タナ ー,Conference Report『大会報告』1979年10月,p.61参照)。 り,この力により,人はい主の助けを借りて堕落した生活 から引き上げられ,永遠の御父のもとで汚れのないすばら これによって,地球は創造され,もろもろの惑星は宇宙で その軌道を保っている。しかし,人の心にさらに深い感動 しい生活を送ることができるようになるのである。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ を与える知識がある。それは,「メルキゼデク神権の力を かぎ (M−3)神権にかかわる権威と鍵 持つということは,『無窮の命』の力を持つ」ということ である(History of the Church『教会歴史』5:554)。地上 メルキゼデク神権を受けるということは,きわめて大き な責任である。これについて,ジョセフ・フィールディン における神の教会と王国のすべては,メルキゼデク神権の 権能によってその働きをなし,運営され,あらかじめ定め グ・スミス大管長は,次のように述べている。「神権を持 つということを決して軽々しく考えてはいけない。わたし られた神の行く末に向かって勝利のうちに進んで行くので たちは,主の力と権能を扱っているのである。それは,主 ある。 神権とは何か。そしてその目的は何か。神権を通して, が今日,諸天を開いて与えてくださったものであり,その 結果人類は再び,人が最初に地上に置かれたときと同様, 教会はどのように組織され,また運営されているのか。い かなる手段によって,主のが神権を通して教会員に明らか あらゆる祝福を受けることができるようになったのであ る。」(『大会報告』1971年10月,p.108) にされるのか。『教義と聖約』はこれらの様々な疑問に答 えているだけでなく,ある意味では,神から啓示された神 神権を授けられる人は,神の名によって働く力と権能を 受けるだけでなく,霊的な祝福のエンダウメント,すなわ 権の手引きと考えることもできる。本講座と特別講座Nで ち賜物をも受ける。かつてエドワード・パートリッジは, は,神権に関する教義とその聖約について研究するが,特 に次の3分野について研究を深める。それは,神権の意味, 主に召されてメルキゼデク神権を受けたとき,主から次の ように告げられた。「わたしは,わたしの僕シドニー・リ 神権組織,ならびに教会の統治と管理(これについては特 別講座Nで扱う)である。 グドンの手によって,あなたにわたしの手を置こう。そう すれば,あなたは,王国にかかわる平和をもたらす事柄を ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ あなたに教えるわたしの御霊,聖霊,すなわち慰め主を受 (M−2)神権とは何か 神の名に敬意を表すために,また主の名を過度に口にす けるであろう。」(教義と聖約36:2)この聖句について, ハロルド・B・リー長老は次のように語っている。「この るのを避けるために,神権の名称は「神の御子の位に従う 聖なる神権」からメルキゼデク神権に変えられた。「メル 聖句の持つ重要な意味を理解できるだろうか。人が権能を 持つ者の手によって聖任されるとき,その儀式は,主から こんにち たま もの キゼデクはそれほど偉大な大祭司であったからである。」 (教義と聖約107:2。1−4節も参照) では,神権とは何だろうか。メルキゼデク神権とは,神 しもべ が認可された僕に授けられる神御自身の力である。それに よって人は,神に代わって語り,行動できるようになる。 すなわち,神がその忠実な子供たちに効力と徳と祝福をも たらすために取っておかれた,あらゆる聖約,契約,誓言, 儀式,あるいは期待を実行に移し,また執り行うのである。 これは皆,この世においても来るべき世においても,聖な み たま る御霊によって聖徒たちの頭上に結び固められて初めて神 に認められるものとなる(教義と聖約132:6−7参照)。 救いのためにどれほどの祈りをささげようとも,神権の 権能を持つために油注がれ任命された者が神聖な儀式を執 行しなければ,それはむなしいものになってしまう。また, どれほどの希望を抱こうとも,神が認められた僕の声がな ければ,それも意味のないものとなってしまう。なぜなら 彼らの職務は,神の子供たちが昇栄に至る道を歩んで,永 遠に保証された祝福を受けられるように,主に代わって語 454 聖任とは神の権威の委譲である 特別講座M 権能を授けられた僕の手を通じて,ちょうど主御自身も御 切なときに,適切な場所で,正しく,秩序に従って行われ 手をその人の頭上に置いておられるかのように行われる。 これは,主の管轄統制下にある霊の賜物とエンダウメント なければならない。これらの働きを指示する権威が,神権 の鍵である。すべての鍵は一時にただ一人の人,すなわち を受けるためである。 」(Church News『チャーチニューズ』 1961年7月8日付け,p.5) 預言者であり,大管長である人だけが所有している。大管 長はこの権威のいかなる部分でも他の人に委任することが ふさわしい神権者であるということの意味について 考えてみよう。神権を授けられる人は御霊の賜物を豊 できる。その場合,その人がその部分の鍵を所有するので ある。それで,神殿長,ステーク会長,ワード監督,伝道 かに受け,権威をもって自分自身の生活と家族の生活 部長,定員会会長はそれぞれ,その組織あるいは地域で行 を治めることができるようになる。あなたはこの点を 理解しているだろうか。このことを深く考えていただ われる働きの鍵を持っているのである。しかし人の神権は 先に述べたような特別な任命によって,増加するものでは きたい。正義の衣を身にまとった神権者がほかの人の 頭に手を置き,儀式のために,召しのために,あるい ない。なぜなら,伝道部を管理する七十人は,彼の指示の 下に働く七十人以上の神権を持つわけではないからであ はその人の健康の回復のために,導きとなる祝福を宣 る。また,例えば,長老定員会会長は,その定員会のどの 言するとき,主の御霊が豊かに注がれてその行いが清 められ,祝福の本質が明らかにされるのである。 会員よりも大きな神権を持つわけでもない。けれども,伝 道部あるいは定員会で行われる公式の働きを指示する力を 世界中を旅したとしても,これ以上に誇り高く特異 な財産を見いだすことができるだろうか。魔術師のシ 持っている。言い換えると,その業のその部分の鍵を持っ ているのである。これは神権のすべての職務について言え モンは神権の価値を認め,ペテロに金を差し出して神 る。一般の権能と,その権能によって行われる働きを指揮 権を譲ってくれるように頼んだ。「わたしが手をおけ ばだれにでも聖霊が授けられるように,その力をわた することを注意深く区別しなければならない。」(『福音の 教義』p.132。一部改訳) しにも下さい。」(使徒8:19) 聖なる神権の神聖な権能を譲り受けるための条件は 王国を管理する鍵は,自動的に得られるわけではない。 神権がバプテスマのヨハネによって,またペテロ,ヤコブ, ただ一つ,福音の律法と儀式とにあくまでも従順であ ることである。したがって,人が一度その権能を利己 ヨハネによって,ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリ に回復されたとき,救いの福音にかかわるあらゆる儀式を 的な目的や不義な目的のために使うことを考えると, 執り行う権利がことごとく回復されたわけではなかった。 たちまち次のようになる。「主の御霊〔ふさわしい聖 任にかかわる御霊の賜物〕は深く悲しむ。そして,主 預言者ジョセフ・スミスが教導の業のために与えられた神 権の力を発揮するには,エライアス,モーセ,エリヤ,そ の御霊が取り去られると,その人の神権,すなわち権 能は終わりである。」(教義と聖約121:37)だれでも の他の訪れを受けて, 彼らの持つ鍵を受ける必要があった。 これらの鍵の回復がなかったら,主の業は失敗に終わり, 偽って神権を持つことはできない。人は欺けても,御 主の来臨の際に,地球は完全に荒廃したことであろう(教 霊を欺くことは決してできない(教義と聖約45:47参 照)。したがって,神権は「義の原則に従ってしか」 義と聖約2:1;128:17参照)。 神権の鍵には,授けられた神権の権威を行使する「権利」 (教義と聖約121:36)行使されないのである。 神権にかかわる本質的な特徴は,代理として働くという が常に含まれている。ある鍵は神権そのものに付随し,自 分の家族の中で,あるいは必要な場合にいつでも行使でき 原則にある。神権は神から委任された権能である。その権 るよう,神権者一人一人に与えられる。また,特別の召し 威がはるかかなたにまで及ぶためには,神権を持つ者がそ の職務に忠実でなければならないし,またその召しにかか や割り当てに関連して与えられる鍵もある。一般的に,神 権の鍵について語るときには,ある職や召しに特定して委 わる御霊を受けていなければならない。そのときに神の権 能を持つ僕は,神御自身がその場におられたら自ら行い, 任される鍵のことを指している。最初に述べた鍵は,厳密 に言えばこのような考え方は正しくないが,一般的な神権 また語られることを,神に代わって行い,また語るため, 神権者としてのその行動と言葉は正当なものと認められ, の権威の一部と考えられている。 管理の権利はメルキゼデク神権と密接な関係があり,メ 拘束力のあるものとなるのである。 ルキゼデク神権の一部である。メルキゼデク神権者は皆, 一般に言う神権の権能と,神権の鍵との違いを明確にす る必要がある。神権がふさわしい人に授けられると,その 自分の家族を義にかなって管理することができる。 しかし, 王国におけるほかの分野で管理するためには,神権の職に 人は権威という賜物を受ける。しかし,その権威を用いて 管理する範囲または領域は,その人の受ける鍵によって決 召されて奉仕する間,特定の鍵を委任されなければならな い。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,神権 められる。ジョセフ・F・スミス大管長は,次のように説 者に向けた最後の大会説教の中でこの点をはっきりと説明 明している。 「一般に言う神権は,人に与えられた神に代わって働く している。 「わたしはここで皆さんに,主がこの最後の福音の神権 権能である。いかなる職であれ,神権を授けられたすべて の男性は,この委任された権能を有する。 時代にわたしたちに授けられた神権と神権の鍵について, 少々お話ししたいと思う。 しかし,この権能の下に執行されるすべての事柄は,適 わたしたちは聖なるメルキゼデク神権を持っている。こ 455 れは,人の救いに必要なすべてのことを地上で行うために ある。世界の歴史には,権能を神から受けて神に代わって 神から人に委任された権威であり,権能である。 また,わたしたちは末日聖徒イエス・キリスト教会とい 行使していると主張しながら,不義の原則に基づいてそれ を悪用した例が,数多く見られる。 う地上の神の王国の鍵も所有している。 これらの鍵とは管理の権利であり,地上で主の業のすべ 預言者ジョセフ・スミスは,神権を正しく行使するため に必要な義の原則を幾つか挙げた後で,忠実にそれを守る てを治め,指導する力と権能である。これを所有する者は, 他の人々が神権をもって働く仕事を管理し,監督する力を 人に神から与えられる約束を明らかにした。「神権の教義 は天からの露のようにあなたの心に滴るであろう。 」(教義 備えている。わたしたちはだれでも神権を持つことができ と聖約121:45) るが,その神権は鍵を持つ者から権能と指示を与えられて 初めて行使できるのである。」(『大会報告』1972年4月, 神権の教義を理解するためには,約束の根拠となる 原則を完全に理解していなければならない。預言者ジ p.98) これらの鍵は,特に大管長の職に属するものである。ス ョセフ・スミスは,この教理を構成している様々な原 則を次のように明らかにした。 ミス大管長は,教会員がこれらの鍵を持つ人に常に目を向 1.「召される者は多いが,選ばれる者は少ない。」 ける必要があると強調したうえで,さらに次のように説教 を続けた。 (教義と聖約121:34)選ばれる資格について考え るときは,どうしたら選ばれる資格を失うかを考 「ここできわめて率直に,またはっきりと申し上げたい。 わたしたちは聖なる神権を持ち,神の王国の鍵はここにあ えると分かりやすい。主は教義と聖約121:34− 40で,なぜ選ばれる人が少ないのか,その理由を る。それは末日聖徒イエス・キリスト教会にだけある。 述べておられる。まず,不満な態度を持つことで, ジョセフ・スミスへの啓示の中で,主はこれらの鍵が 『大神権の大管長会に常に属する』(教義と聖約81:2)も その資格を失う。また,心がこの世のものに執着 し,この世の誉れを得ることをのみ望んでいると, のであり,『だれでもわたしの言葉を受け入れる者は,わ たしを受け入れるのである。そして,だれでもわたしを受 御霊を悲しませるような行動をとり,その結果神 権の権能を失うことになる。神権の権能がなけれ け入れる者は,わたしが遣わした者……すなわち大管長会 を受け入れる』(教義と聖約112:20)と言われた。」(『大 ば,主から選ばれることはできないのである。 聖任を受けた神権者は,自分が選ばれて永遠の 会報告』1972年4月,p.99) 命にあずかることができるかどうかを,自分自身 言い換えれば,一般的なものであれ特定のものであれ, 神権の鍵を持つ者は皆,生ける預言者の指示の下にその鍵 の思いと行動とによって決定する。選ばれる者の 中に入るかどうかは,自分が選ぶのである。拒ま を持つのである。預言者はいつでもそれらの鍵を制限する ことができるし,取り上げることもできる。 れるとすれば,それは自分の不従順の結果であ る。 神権者が自分の持っている鍵について理解することは非 2.不従順は御霊を悲しませ,不義な人から天は退き 常に重要である。メルキゼデク神権を授けられた人は,そ れによって自分自身と家族の福利や祝福のために神権を行 去る(教義と聖約121:37参照) 。御霊と神権の間 には何か関係があるだろうか。確かにある。教義 使する鍵を持つことになる。また,自分の家族を管理する 鍵を持つ。例えば,病人のように助けを必要としている人 と聖約36:2で読んだことを思い起こしていただ きたい。神権は「御霊」の賜物を伴うものであり, から求められた場合,神権を行使して祝福や慰めを与える 義の原則にのみ基づいて運用しなければならな ことができる。しかし,ワードでは監督が管理の鍵を持っ ているので,長老の職にある人でもバプテスマや確認の儀 い。したがって,不義な支配や強制を行えば,そ れは御霊に反することになり,その人は神権の権 式を行う場合には,管理者である監督か支部長の指示を受 けなければならない。管理の権能を持つ人は,そのような 能を失うのである(教義と聖約121:37−40参 照)。 神権の義務を果たすことができるようにほかの人に鍵を行 使させるのである。教会,定員会,家庭,そのほかいかな 3.神権の権能の鍵の一つは,人の心がこの世のもの に執着していないかどうかということである。 る組織であれ,管理するためには神権の鍵が必要であると 人の心がこの世のものに執着していないかどうかを いうことを明確にしておかなければならない。しかし,復 活の力の鍵のように,まだこの地上の人に授けられていな 見定めるために,次のような質問をしてみるとよい。 富を得たいという望みのために,自分の人生を使い果 い鍵もある。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ たした人はいないだろうか。学歴や学問的な業績にの み心を奪われて,教会活動をなおざりにしている学生 (M−4)神権の教義:神権の力を支配する原則 や教授はいないだろうか。市民活動や地域活動に没頭 いかなる鍵を授けられた場合であれ,神権の力に関する 『教義と聖約』の最も重要なメッセージは,神権の力を義 するあまり,定員会や家庭の責任を怠っている神権者 はいないだろうか。スポーツや趣味に取りつかれてし の原則によってのみ制御し運用するということである(教 義と聖約121:36参照)。神権に関するこの基本的な教義 まって,主の業のための時間がまったく取れない人は いないだろうか。 は,末日の啓示の中で最も重要な貢献をしたものの一つで 456 この主題は,次の詩にうたわれている。 特別講座M 王国を受け継いでそれを永遠に管理することができる 絶望に打ちひしがれて彼は立った。 とりこ 情熱の虜となって のである。さらにまた,義と真理を通して王国や支配 が強いられることなく,とこしえにいつまでも,流れ 人の誉れをのみ追い求めたからだ。 それが目標だったのに,生涯の大望だったのに 込むであろう。 これ以上に価値のある目標や,栄光に満ちた報いを 勝ち得たものはそれだけだった。 息子を失いようやく学んだ教訓は 思い描くことができるであろうか。以上を要約すれば 次のようになる。 天の力が人に与えられるのは 絶えず義にかなう生活を しているときだけという教え。 4.「いかなる力も影響力も,神権によって維持する ことはできない,あるいは維持すべきではない。」 「この権威と権能を持つ者は,以下の条件を満たす ことにより永遠の命を受け継ぐ者として選ばれるとい うのが,神権の教義である。その条件とは,正義の原 則により神権を行使すること,光の中を歩むこと,戒 めを守ること,自分の生活の中で神の王国にかかわる 事柄を第一に考え,この世的なものは後回しにするこ (教義と聖約121:41)ただ,説得と寛容と温厚と 柔和と偽りのない愛と優しさと純粋な知識によ と,そして神の栄光にひたすら目を向けて王国で仕え ることである。 り,またすべての人に対して慈愛を持ち,絶えず 徳で思いを飾ることによって維持するのである またこの教義によれば,たとえ神権の権利を持つ者 であっても,それを不義な目的のために用いたり,罪 (教義と聖約121:41−45参照)。 を犯したり,人生において御霊にかかわる事柄よりも 主と親しい関係を築くことは,完成に至るために欠 くことのできないものである。神の心の内にある愛を, この世の事柄の方に重きを置いたりするようになれ ば,その教義に伴う永遠の祝福を刈り取ることはでき 聖霊の賜物と力によって実際に感じ取ることができな ければならない。この愛は「キリストの純粋な愛」 ないのである。……『まことに,〔神権に〕召される 者は多いが,〔永遠の命に〕選ばれる者は少ない。』」 (モロナイ7:47)であって,神の賜物である。したが って,この世に生まれた人が生まれながらに持ってい るものではない。この愛を得るには,救い主に真心か ら従い,「この愛で満たされるように……熱意を込め て御父に」 (モロナイ7:48)祈る必要がある。この御 (“What Is the Doctrine of the Priesthood?” Improvement Era「神権の教義とは」『インプルーブメント・エラ』 1961年2月号,p.115) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (M−5)神権の区分 霊の賜物を適切に求めることにより,ペテロの言葉に もあるように,「神の性質にあずかる者」 (2ペテロ1: 聖なる神権の権能は,「二つの区分,すなわち大きな部 類がある。一つはメルキゼデク神権であり,他はアロン神 4)になれるのである。別の言い方をすれば,忠実に, 権……である。」(教義と聖約107:6) 絶えず,心からの祈りをささげ,義にかなった生活を することにより,神の恵みによって,神に似た者とな アロン神権が地元で組織される場合,次のようになる。 (1)執事定員会。12人の執事で構成され,その中の一人が るこの要素を生活の中に取り入れることができるので ある(教義と聖約84:33−38参照)。 定員会の会長として召されて全体を管理する。(2)教師定 員会。24人の教師で構成され,その中から召された会長が 5.義にかなった生活をするならば,神権の教義はそ 全体を指導する。 (3)祭司定員会。48人の祭司で構成され の人の心に露のように滴る。ここで語っている過 程は,ただ単に奉仕に関する神権の原則を理解す るが,祭司定員会の指導権はほかの二つの定員会とは異な る。この定員会では監督が会長を務める。監督は教会のユ るということではない。わたしたちが永遠の御父 に似た者となるように,神の特質を実際に身に付 ニットにおいて,アロン神権の会長も務める。監督の職は, アロン神権の中で最高位のものと考えられているが,それ けていくことまで含んでいるのである。 主は,教義と聖約121:45−46の中で約束をしてお はまた大神権に付属する職であり(教義と聖約84:29参 照),ステーク会長会と高等評議会の推薦を受け,大管長 られる。すなわち,すべての人に対する愛と徳高い思 会の承認を受けたふさわしい大祭司が召される職である いで心を満たすならば,自分は神の御心を行っている ということを知って自分の信頼が強まるであろう。そ (Teachings of the Prophet Joseph Smith『預言者ジョセフ・ ス ミ ス の 教 え 』 p.112; ウ イ ッ ツ ォ ー , Priesthood and うすると,神権の教義がその人の心に滴り,その人は 他の人々の福利と祝福に関心を注ぐようになる。つま 。 Church Government『神権と教会政体』p.240参照) これら小神権の定員会は,教会に奉仕をし,定員会会員 り,「自分が人からしてほしいと思うことをすべての に神権による奉仕の原則を教えて,メルキゼデク神権の責 人に行うため,生涯にわたって」神権を行使するよう になる(ジョン・テーラー,Journal of Discourses『説 任と祝福に備えさせるのである。 聖徒たちはよくメルキゼデク神権やアロン神権と言う 教集』10:57)。その結果,聖霊が常に導き手となり, 伴侶となる。また,聖霊の助けを受けて約束された権 が,ここで理解すべき大切なことは,神権はすべてメルキ ゼデク神権であってアロン神権はそれに付属するというこ 利を主張できるようになる。すなわち,領土あるいは とである。「したがって,教会を全体として見れば,厳密 457 にはそれを一つの神権と呼ぶことができる。」(『預言者ジ らゆる鍵と権威と儀式を執り行う権限を持っている場合, ョセフ・スミスの教え』p.112)一般的に言って,アロン神 権の機能と権威とは,次のようなことである。 (1)天使と その人が王国の鍵を持ち,大神権の大管長,言い換えれば 教会の大管長となることは,神の命令なのである(ハロル の交わりを含む,天使の働きの鍵を持つこと(教義と聖約 ド・B・リー,Priesthood『神権』セミナリー・インステ 第13章参照),(2)悔い改めとバプテスマと,モーセから 信仰の薄いイスラエルに与えられた肉の戒めの律法という ィテュート職員への講演,1958年7月17日参照)。まさに定 義どおり,管理の鍵はメルキゼデク神権に含まれているの 備えの福音の鍵を持つこと(教義と聖約84:26−27参照) , (3)定員会の会員同士の交流を深め,神権の奉仕に関する である。神のこの力がなければ,王国の進展は悪魔の勢力 に阻まれていたことだろう。 すべての事柄に備え,それによってメルキゼデク神権の誓 詞と聖約を受ける準備をすること(ジョセフ・フィールデ ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ (M−6)神権の定員会 。 ィング・スミス『大会報告』1970年10月,p.92参照) 様々な神権の職についてはどの聖典にも言及されている この説明に,マリオン・G・ロムニー副管長は次のよう な見方を加えている。「一般的に,偉大で高潔な人物は, が,神権定員会とその機能に関しては,『教義と聖約』の 中でのみその輪郭が明らかにされている。ジョン・A・ウ アロン神権の年代に偉大な者となる基礎をすでに築き,気 高い少年時代を過ごしている。」(『大会報告』1978年4月, イッツォー長老は,定員会を次のように定義している。 「同一の神権の職を持つ男性で構成される特定のグループ p.59) で,教会の神権者にゆだねられた業をいっそう効果的に推 オーソン・プラット長老は,アロン神権の機能を次のよ うに要約している。「アロンの神権は大神権に付随するも し進めるために組織される。 」(『神権と教会政体』p.134) 監督は地元のアロン神権定員会の諸事を統括し,各定員 のであり,外形的な儀式を執行する権威を持つ。すなわち, ゆる ばんさん 罪の赦しのためのバプテスマの儀式,主の晩餐の聖餐の儀 会会員が相互に訓練に励むことができるよう導きを与え, ワード会員の物質的な事柄に関するすべてのことを指導す 式,そのほかこの世につける事柄で神の民の利益となるも る。 の,などである。いろいろな特権の中でこの小神権に対し て許されている事柄に,天から遣わされる聖なる天使と交 ステーク会長は地元におけるメルキゼデク神権の管理役 員であって,ステークのあらゆる霊的な必要に関して主の わりを持つというものがある。」(『説教集』18:363−364) メルキゼデク神権は強大な権威であり,この権威により 業の指導に当たる。 教会で定員会が組織される目的は少なくとも二つある。 天の神は宇宙を統制し,人のあらゆる必要に合わせて諸事 第1の目的は,全地に主の王国を確立して広めるという業 を行われるのである。その広範な権威の中に人の救いと昇 栄に関するそのほかのあらゆる権威と職,儀式,原則が含 を達成するために,神権者の団体を効
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