イーグルスの歌詞分析(ホテル・カリフォルニアから読み解く70年代)

The Extension Course
Scientific Analysis of the Lyrics of Pop Music
Instructor : Toshinobu FUKUYA
(Professor of Yamaguchi University)
The 3rd Session : "Hotel California"
5 / 28 2006
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」から読み解く70年代
対抗文化(counterculture)とは何か
第二次大戦は、戦後の各国にベビーブームを巻き起こし、加えて、高度成長をもたらした。
その二つの現象の必然的結果として、中産階級の子供が飛躍的に増加した。その中産階級
の子供たちが 1960 年代後半に 20 歳前後に成長したとき、彼らは経済活動において巨大市
場を形成し、一定の政治的発言力を持つに至った。そして、この若い世代が積極的に社会の
流れを先導して行こうとする動きがアメリカで発生した。彼らの運動は体制側の政治機構や
思想・文化を拒否することを大前提にしていたゆえに、彼らの創り出した文化は、対抗文化
(counterculture)と呼ばれた。
対抗文化は、ベトナム反戦運動に代表される政治的側面と、産業主義下での合理化社会
に反旗をひるがえした文化革命的側面を持っていた。その対抗文化を記述した代表的な書
が Charles A. Reich の The Greening of America である。Reich は、対抗文化の意識は、
「高度成長がもたらした豊かさ、技術、解放、理想といったあらゆる事象によってアメリカの若
者に用意されている人生の約束という力と、退屈な仕事からベトナム戦争や核の大殺戮の暗
い影に至るまでのすべてによって配置された、人生の約束に対する脅威の力との相互作用
によって芽生えた」1としている。組織、能率、成長などにしか価値観を見出さない競争社会と
なってしまったアメリカでは、新たな需要を生み出すために人々はさらなる大量の消費生活を
余儀なくされ、その消費生活を支えるための労働は激しさを増した。そうした社会環境のなか
から、人間性を疎外してまでの労働がもたらした豊かさが「いったい何の意味を持つのか」と
問いかけ、自身を国家から解放し、自然と共存しつつ人間性を回復しようとする意識が、白人
の中産階級の若いインテリ層を中心に芽生えた。従って、対抗文化の発信源は大学のキャン
パスであったとも言える。
ベトナム戦争に抗議する反戦デモ
対抗文化の若者たちが目指した意識革命は、人間の思考、社会、生活をすでに起こった
科学や技術の革命と調和させる運動であった。すなわち、対抗文化は、自然保護と産業技術
の融合を目指したのであり、自然回帰一辺倒ではなかった。この視点は、対抗文化を語る上
で決して見過ごされてはならない。全ての産業技術を拒否し自然第一主義を唱える「ディー
プ・エコロジー」(ラスタファリズムはその一例)とは一線を画する。現在、グローバル・スタンダ
ードになりつつある環境主義(=シャロー・エコロジー)は、半世紀前、対抗文化の若者たち
(多くはヒッピーと呼ばれる若者たち)が提唱した理想の延長線上に位置する。
もう一つ見過ごされてはならない視点は、対抗文化の意識は、確かに白人中産階層に芽
生えたものではあったが、黒人たちの長きに渡る人間性回復の営みに刺激されて発生したと
いう点である。対抗文化における最大にして最強の伝達媒体はロック・ミュージックであった
が、そのロックの原点は黒人の悲哀と過酷な生活を歌い綴ったブルースにある。またベトナ
ム反戦運動は、マーティン・ルーサー・キング牧師(非暴力主義運動を展開)やマルコムX(暴
力革命を標榜)などのカリスマ的指導者に先導された黒人公民権運動とも連動していた。す
なわち、1960 年代には、それまでタブーとされてきた黒人文化の受容が白人社会に起こった
のであった。文化人類学で言う「地位下降現象」(class degradation)がアメリカ史上初めて、
大規模に発生したのである。
Martin Luther King, Jr.
対抗文化の中心と頂点
対抗文化の発信地は西海岸のサンフランシスコであった。当時の体制文化の中心であっ
た東海岸から、若者たちは体制に反旗をひるがえす行為の具象として、長髪に花を翳してサ
ンフランシスコになだれ込んだ。なかでもヘイト・アシュベリー地区は、フラワー・ムーブメント
のメッカとなった。このことを象徴するイベントが、1967 年の夏にゴールデンゲート・パークで
開催された最初の "be-in"(大規模集会くらいの意)であった。それゆえに、サンフランシスコ
に起こったこの年の夏のムーブメントを "the Summer of Love" と総称し、対抗文化のシンボ
ル的存在として扱われることも多い。
The Summer of Love in San Francisco
1969 年8月、対抗文化の若者たちの新しい意識とロック・ミュージックの強い絆をを強調し
たイベント、ウッドストック・フェスティバルが開催され、対抗文化はその頂点を迎える。このフ
ェスティバルは、あえて交通の不便な山奥に会場を設定し、そこに当時の技術の粋を凝らし
たPAシステムを持ち込んでの野外コンサートであった。自然と科学技術の融合という意味に
おいて、また、主催者が観衆の食料と水を確保し、「ともにあることの一体感」(togetherness)
を味わったという意味において、まさに対抗文化の具現であった。『タイム誌』は、「このフェス
ティバルが 1960 年代の若者の持つ特殊な文化がその力と訴えと強さを発揮した瞬間である
ことからみて、現代を代表する大きな政治的社会的出来事の一つに数えることも十分可能で
あろう」2と述べている。
このフェスティバルのもう一つの重要な側面は、50 万人にも上った観衆の数である。1960
年代の若者たちは、常に自分たちの人口統計学上に創り出した大きな膨らみを最大限に利
用しようとしてきた。自分たちがあらゆる世代より数で優ることを強みに、自分たちの主張をマ
ジョリティにまで押しあげようとしてきたのである。その姿勢は、対抗文化の生みの親的存在
でありながら、論理的純粋性を保つために大衆社会からの離脱を指向し、マイノリティに甘ん
じることをよしとした、1950 年代のビート・ジェネレーションとは対照的であった。対抗文化の
若者たちの数に頼る性向は、多数であることの有利性を生まれながらに肌で感じ取ってきた
ベビーブーマー世代の一種の習性であったと言えよう。ウッドストックは、対抗文化の若者た
ちが、自分たちの示した力と「愛と平和」のメッセージのなかで至福を味わった瞬間であり、対
抗文化がその頂点に達した瞬間であった。ゆえにこの時期に思春期から青年期にあった世
代をウッドストック世代と呼ぶ。
Jimi Hendrix in Woodstock
オルタモントの悲劇
ウッドストックの成功に自信を深めた対抗文化の若者たちは、自分たちの文化の担い手
が白人中産階級中心である現状を打破し、労働者階層の若者や黒人の若者も自分たちの文
化圏に誘いこもうとするイベントを企画するに至る。ウッドストックの余韻が覚めやらぬ 1969
年 12 月に開催されたオルタモント・ロック・フェスティバルの中心には、黒人音楽の要素をサ
ウンドのベースにし、白人貧困層からも絶対的な支持を得ていたローリング・ストーンズが据
えられた。そして、このフェスティバルの警備には、企画意図を象徴するかのごとく、国家警察
ではなく、主に白人労働者階層の若者たちで構成されていた暴走族、ヘルス・エンジェルスが
雇われた。実際、その年のロンドンはハイドパークでのストーンズの野外コンサートでは、エン
ジェルスが警備を勤め、彼らの統率力は評価を受けつつあった。しかし、そのエンジェルスた
ちが、対抗文化全体にとって大きな痛手となる事件を引き起こしてしまう。ストーンズの演奏
中に、エンジェルスのメンバーが聴衆の一人であった黒人の少年メレデス・ハンターを撲殺し
てしまったのである。ストーンズに銃を向けようとしたというのが表向きの理由とされているが、
事実は明らかにはされていない。黒人であるハンターが白人のガールフレンドを連れていた
ことがエンジェルスを刺激したという説もある。
この事件は、社会階層が接近した場合に、階層間の憎悪はより激しいかたちで生じるとい
う社会文化論的原則を再認識させるかのような事件となった。それは同時に、対抗文化が目
指した脱社会階層的一体感に対して、厳しい現実が突きつけられるかたちとなった。社会構
造や政治制度の変革よりも、まず人間の意識改革から始めようとした中産階級の若者たちの
夢は、文化や意識の問題を考えるよりも先に、現実の生活が荒んでいた労働社会層の若者
たちの不満を甘く見過ぎていたとも言えよう。
聴衆に暴力を振るうエンジェルスたち
70 年代における対抗文化の行方
60 年代対抗文化は、オルタモントの悲劇とともに跡形もなく消えてしまったのだろうか?
確かにそれが定説になっている。「いろんなことが起こった 60 年代」に対して「何も起こらなか
った 70 年代」というクリシェイもまかり通っていたりする。このように、60 年代をいち早く 70 年
代から切り離して時代の区切りを強調することは、反体制運動を、かなり安全な過去のものと
して見れるという副次的効果を体制側にもたらした。本講座では、年代の区切りを文化現象
の区切りと一致させようとする企みに異を唱える。時代は流れていたのであり、決してその流
れが 1969 年 12 月でせき止められたわけではない。実際、対抗文化のバイブルと称される
The Greening of America も、対抗文化を描きとったニュー・シネマの先駆け Easy Rider も
1970 年に発表されているのである。
『イージー・ライダー』からのワンカット
Woodstck Census(『ウッドストック調査』:1979)と名づけられた書が存在する。この本は、
多くの新聞、雑誌、批評書などの対象となった当時の若者たちに、調査に対する回答という
かたちで発言の機会を与え、対抗文化を内部から解明しようとしている。その結果、外部から
見たとき誤解を受けていた幾つかの対抗文化の内面に有益な修正を加えることに成功してい
る。The Greening of America が対抗文化が「何であったか」を解明しようとしているのに対し
て、 Woodstock Census は対抗文化が「何でなかったか」を明示するかたちとなっている。
Woodstock Census の価値は、結果的にそうなったのだとしても、まさにその消去法展開にあ
ると言えよう。
ジェネレーション・ギャツプ
対抗文化に押しつけられたステレオタイプに対する Woodstock Census における修正の一
例を挙げてみる。この調査報告書では、当時強調された、親たちの世代と対抗文化の若者た
ちとの間にあった深い溝、すなわちジェネレーション・ギャップが、マスコミで騒がれたほどの
深さではなかったことが明らかにされている。 Woodstock Census の著者 Rex Weiner と
Deanne Stilman はジェネレーション・ギャツプに関する記述部の冒頭で、次のように述べてい
る。「対抗文化全体を説明するための新しいフロイド理論かなにかのように使用されたジェネ
レーション・ギャップという言葉は、皮肉にも、対抗文化の若者たちの思想を思春期の気まぐ
れ以外の何ものでもないとして退けるのに有効な言葉として作用してしまった」3。つまり、ジェ
ネレーション・ギャツプの強調は、対抗文化を一過性のものとして捉えることにより、従来の保
守的な価値観に経ち帰るのに都合がよかったのである。以下は、対抗文化の若者たちの親
に対する心情調査の結果4である。
% Who Agreed
% Who Disagreed
Completely
Completely
In the 60s
You can't trust anyone over 30.
14
26
My parents didn't understand me.
47
6
I was completely different from my parents
49
5
I like my parents.
41
30
これらの調査項目に答えた数字は、確かに若者たちと両親との間に溝は存在したことを証明
している。しかしその溝は、世間一般に認識されているほど深いものではなく、埋まらない溝
ではないことも同時に証明している。対抗文化の若者たちの怒りを表現するスローガンのごと
く扱われてきた「30 歳以上の人間を信用するな」というフレーズにしても、「そう思う」と答えた
回答者の倍近い回答者が「そうは思わない」と答えている。そして何より、41%もの学生が「両
親が好きだ」と答えており、「嫌いだ」と答えた者の数を上回っている。ビデオ・ドキュメント『ウ
ッドストック:愛と平和と音楽の三日間』には、ウッドストックへやってきたあるカップルの受け
たインタビューが記録されており、上記のデータを裏づける発言をしている。
対抗文化はいつ終わったか
Woodstock Census の結末部で Weiner と Stillman は、「対抗文化の終わりをいつ感じ
たか」5という質問を発している。これに対して、32%の人々が「就職、結婚、定住といった個人
生活にかえったとき」と答えている。二三例を挙げると、「1975 年、博士号をとって就職したと
き」、「1972 年の終わり、結婚したとき」、「1974 年、生まれた街に帰ってきたとき」等々である。
このように、1960 年代の終わりは、個人の時代観によって揺れているのである。ちなみに、
22%の人々が対抗文化の終わりを政治運動と結びつけて考えている。それでも、日常生活
や反体制運動などの外面から見れば、確かに 1970 年代のどこかで対抗文化は終わりを告げ
た感があったことは否定できない。
しかし一方で、個人の理想や内面の価値に関する質問に対しては、回答者の 14%が 60
年代はまだ終わっていなと答えている。これも例を挙げてみると、「個人的に言うと、60 年代
は私のなかで生きている。これから先もずっとそうだろう。私は 60 年代のいいところを自分の
ものにし、悪いところをすてさった」とある者は言い、「60 年代は、私のなかではまだ完全には
終わっていない。私の理想は 60 年代と変わっていない」とある者は言っている。また、70 年代
に入ってからの内面の変化については、回答者の 55%が「60 年代よりも自分自身の生活を
見つめるようになり、現実的になった」と答えている。これらの回答を踏まえた Weiner と
Stillman の結論は以下のように要約できる。
ウッドストック世代は、自分の周りに目をやるとき、一つの時代から一つの時代への移
り変わりを感じる。しかし自分の内部を見つめるとき、大事な物はそう変わっていない
Growing Out of the Sixties
60 年代は、若者たちが集うことで何かを成そうとした時代であった。しかし 70 年代は、対
抗文化の発信形態は集団から個人に移り、一人一人が 60 年代を内省し、70 年代の現実に
向き合おうとした。その行為の過程で、一度は崩壊しかけた理想の再構築に向かったのであ
った。トム・ウルフが 70 年代を "Me Decade"6 と呼んだことは、この意味において妥当性を持
つ。そして、年齢を重ねつつあったウッドストック世代の 70 年代における内省は、個の時代 70
年代を象徴するかのごとく、新しく台頭してきたシンガー・ソング・ライターたちによって代弁さ
れた。ニール・ヤング、ジェイムズ・テイラー、キャロル・キング、ジャクソン・ブラウン、ジョニ、ミ
ッチェルといったシンガーたちの曲は、60 年代初期のボブ・ディランやジョーン・バエズらの反
戦歌とは明らかに違っていた。70 年代のシンガー・ソング・ライターたちは、社会的メッセージ
を世に問うのではなく、赤裸々に自己の内面を吐露することで、時代と向き合おうとした。彼ら
は、自分という個に徹することで、逆説的に普遍性に辿り着こうとした。こうした 70 年代におけ
る 60 年代の内省作業は、"Growing Out of the Sixties"7 と呼ばれる。
Neil Young
Jackson Brown
Joni Mitchell
そしてホテル・カルフォルニアへ
Woodstock Census からも、70 年代のシンガー・ソング・ライターたちの歌声からも、60 年
代の対抗文化の発した沸き立つようなロマンティシズムが、70 年代に入って急速に色褪せた
わけではなかったことを読み取れる。イーグルスの代表曲「ホテル・カルフォルニア」(1976)は、
70 年代における対抗文化の行方を暗示とした曲として、真摯な研究の対象になってきた。
引用文献
1. Reich, Charles A. The Greening of America. New York: Bantam Books, 1970, p.23.
2. Time. August, 1969.
3. Weiner Rex, and Deanne Stillman. Woodstock Census. New York, The Viking P., 1979, p.66.
4. Ibid., p.121.
5. Ibid., the all references in this chapter are pp.135-140.
6. New York. August, 1976.
7. Gitlin, Todd. The Sixties. Tronto: Bantam Books, 1993, p.202.
Hotel California
Eagles
On a dark desert highway, cool wind in my hair
Warm smell of colitas rising up through the air
Up ahead in the distance, I saw a shimmering light
My head grew heavy and my sight grew dim
I had to stop for the night
There she stood in the doorway
I heard the mission bell
And I was thinking to myself:
"This could be heaven or this could be hell."
Then she lit up a candle and she showed me the way
There were voices down the corridor
I thought I heard them say:
"Welcome to the Hotel California
Such a lovely place, such a lovely face
Plenty of room at the Hotel California
Any time of year, you can find it here."
Her mind is Tiffany twisted
She got the Mercedes Benz
She got a lot of pretty, pretty boys that she calls friends
How they dance in the courtyard; sweet summer sweat
Some dance to remember; some dance to forget
So I called up the Captain:
"Please bring me my wine."
(He said,) "We haven't had that spirit here since 1969."
And still those voices are calling from far away
Wake you up in the middle of the night
Just to hear them say:
"Welcome to the Hotel California
Such a lovely place, such a lovely face
They livin' it up at the Hotel California
What a nice surprise, bring your alibis."
Mirrors on the ceiling, the pink champagne on ice
(And she said,) "We are all just prisoners here of our own device."
And in the master's chambers
They gathered for the feast
They stab it with their steely knives
But they just can't kill the beast
Last thing I remember
I was running for the door
I had to find the passage back to the place I was before
"Relax," said the night man
"We are programmed to receive
You can check out any time you like
But you can never leave."