悪について THE HEART OF MAN Ⅰ 人間 ----

悪について
THE HEART OF MAN
― Its Genius for Good and Evil ―
Erich Fromm
エーリッヒ・フロム
鈴 木 重 吉 訳
Ⅰ
人間 ----- 狼か羊か
2 ― 6
Ⅱ
【激情】の種々の形態
7 ― 15
Ⅲ
死を愛することと生を愛すること
16 ― 33
Ⅳ
個人のナルチシズムと社会のナルチシズム
34 ― 56
Ⅴ
近親相姦的きずな
57 ― 70
Ⅵ
自由、決定論、二者択一論
71 ― 97
1
Ⅰ
人間 ------ 狼か羊か
人間は羊だと信じている人は多い。一方、また人間は狼だと信じる者もある。
双方とも自分の立場に有利な論証を集めることができる。
人間は羊だという意見を出す人々は、
人間は容易に他人に左右されて、
たとえ自分に有害であっても言われた通りにするし、
指導者に従って破滅以外の何物でもない戦争に加わり、
強大な力の指示を得られさえするなら僧侶や王の過酷な脅迫から、
陰に陽に誘いかける人の甘い声に至るまで―
どんなつまらぬことでも信じたものだ、という事実を指摘しさえすれば十分であろう。
大多数の人々は、自分を動揺させるような脅迫や甘い声で語りかける人には、
進んで意志を曲げたり暗示を受けやすく、目を覚ましきっていない子供のようである。
実際、大衆の反対に耐えるほどの強い確信を持った人は通例ではなく異例であり、
数世紀後には賞賛されることはあっても、同時代の人々には、たいてい嘲笑されるのである。
人間は羊だというこの仮定の上にたって、宗教裁判所所長や独裁者たちは自らの方式を打ち立ててきたのである。
そしてそれ以上に、人間は羊であるが故に、
それに代わって決断を与えてやる指導者が必要だというこの信念そのものが、
たとえ悲劇的な義務ではあっても、人が求めるものを与えれば、
―人間から責任と自由の負担を取り去ってやれば、―
自分は道義的義務を果たしているのだという心からの確信を指導者たちに与えたことはよくあることである。
しかし多くの人間が羊なら、人間生活が羊の生活と全く違うのはなぜだろうか?
人間の歴史は血をもって書かれてきたし、絶え間ない暴力の歴史であり、
ほとんど決まったように人間の意志を曲げるために力が用いられてきた。
タアルトパシャは自らの力で数百万のアルメニア人を絶滅したのか?
ヒットラーは独りで幾百万のユダヤ人を撲滅したのか?スターリンは独りで数百万の政敵を根絶したのか?
この人達はひとりぽっちではなかった。
すなわち彼のために人を殺し、苦しめ、しかも率先して欣然とそうしてくれる数千の味方がいたのである。
人間が人間に対して行う非人道なしわざを、われわれはいたるところに見はしなかったか?
残酷な戦争に、殺人と強奪に、強者による弱者の摂取に、
虐げられ苦しむ人の吐息が聾の耳や無感覚な心にもたびたび聞こえてくる事実の中に。
こうした事実からホッブスのような思想家たちは、【人間は同胞に対し狼である】と結論するに至っている。
彼らは今日のわれわれの多くは、人間は生まれつき悪意に満ちて破壊的であり、
自分より強い殺人者を恐れるときだけ、好きな楽しみを控えるような殺人者だと臆断するようになっている。
だが双方の議論はともにわれわれを当惑させる。
2
スターリンやヒットラーのような残忍な殺人者、サディスト、さらにはそのような可能性を持っている者を、
われわれがよく知っていることは事実である。
だがこういう人達は一般的に見られるのではなく例外なのである。
あなたや私や一般の人々が羊の服を着た狼であり、これまで野獣のように振舞わずに控えていた抑制を
ひとたび捨てれば、われわれの【真の本性】
が現れると考えるべきであろうか?
この考えは論破しにくいけれども、人を全く納得させうるわけではない。
日常生活では、人々が報復を恐れずにふけりうる残忍な行為やサディズムの機会はおおい。
だが多くの人はそうはしない。事実、彼らは残忍な行為やサディズムに出会うと、
ある種の反撥感にかられて反応することが多い。
それではわれわれがここで取り扱っているこの当惑させるような矛盾に、別なもっと巧い説明の仕方があるだろうか?
簡単な答えとして少数の狼が多数の羊と一緒に住んでいるということだと考えるべきか?
狼は殺すことを欲し、羊は従うことを欲している。それで狼は羊に殺害させ、謀殺させ、絞殺させる。
羊は進んでするのではなく、追従しようとするから同意するのである。
そのときでさえ、殺人者はその理由が崇高であること、自由の脅威に対する防衛であること、
銃剣にかかった子供たちや、犯された女たちや名誉に対する復讐であることについての話を作り上げ、
大多数の羊に狼のような行動を取らせなければならない。
この解答は一見もっともらしく聞こえるが、やはり多くの疑問は残るのである。
その答えはいわば二種類の人種―狼族と羊族―があるということを暗に意味するのではないか?
さらに彼らの本性にそのようなものがないなら、暴力が神聖な義務として提示されても、
どうして羊は狼のように振舞うようにと、容易に説得されるのか?
狼と羊に関するわれわれの仮定は大分怪しくなってきそうである。
すなわち狼は人間性の本質を表しており、
多数の人々にそれが表れるより一層明白にあらわれるということは、結局正しいのであろうか。
あるいは、結局この二者択一自体が誤りなのであろうか?
人間は狼【でもあり】羊でもあるのだろうか―あるいは狼でも羊【でもない】のだろうか?
これらの問いに対する答えは今日きわめて重大である。
各国が【敵国】を絶滅させるために最も破壊的な力の行使を考え、自分自身がその全燔祭において
絶滅するかもしれぬ可能性があるのに、思いとどまる様子がない今日では。
人間の素質は先天的に破壊的傾向を持ち、
権力や暴力の使用の必要がそこに根ざしているとわれわれが確信するなら、
たとえ増大する野蛮化に抵抗しても、その抵抗は弱まる一方だろう。
われわれが【みな】狼なら、なぜ狼に逆らうのか?
人間は狼か羊かという疑問は、より広く一般的な面では、
欧米の神学および哲学の思想上のひとつの根源的問題、
すなわち人間は根源的に悪で堕落しているのか、それとも根源的に善で完全でありうるのか、
という疑問の特異化にすぎない。
3
【旧約聖書】では、人間は根源的に堕落しているという立場はとらない。
アダムとイブが神に【違背】したことは罪とは呼ばれない。
この違背が人間を堕落させたとは、どこにもほのめかされていない。
逆に、この違背は人間が自らの意識をもつこと、つまり人間の選択しうる能力の条件であり、煎じ詰めれば、
この最初の違背行為とは、自由に向かう人間の第一歩である。
この違背は主の御業であったとさえ思われる。
なぜなら予言者によれば、人間は楽園を追放された【からこそ】自己の歴史を作り、
人間的能力を発達させ、まだ個として目覚めなかった昔の調和に戻り、
十分発達した個人として、人間と自然との新たなる調和に到達しうるのである。
予言者たちのメシアに関する教えは、確かに人間は根源的に堕落しているのではなく、
主の恩寵による奇跡を待たずに救われうることをほのめかしている。
しかしそれは善に向かう可能性が当然勝利を収めるという意味ではない。
人間はひとたび悪事を働けば、益々悪事を重ねるようになる。
かくてファラオは悪事をしつづけたが故にその心は硬化し、それも変心も悔悟も不可能なほどに硬化した。
【旧約聖書】は少なくとも善行と同じぐらいの悪行の例をあげ、ダビデ王のような気高い人物でさえ、
悪行をした者のリストから除外されていない。
【旧約聖書】の見解は、人間には二つの能力
―善き能力と悪しき能力― があることと、人間は善と悪、祝福と呪い、生と死を選択せねばならぬことである。
主でさえこの選択には干渉しない。
主はその使徒である予言者を送り、善を実現させる基準を教え、悪を明らかにし、警告し異議を申し立て、
選択の助言をする。しかしこれがすむと、人間はそれぞれ善と悪のための二つの戦いと共に取り残され、
その決定は人間ひとりですることになる。
キリスト教の発展は別であった。キリスト教会の発達過程では、アダムの違背は罪と考えられた。
事実、それは重罪であり、そのためアダムは堕落し、彼の子孫も全て堕落したと考えられている。
それゆえ人間は自分の努力だけではこの堕落から逃れることができなかった。
主の恩寵による行い、つまり人間のために死んだキリストの出現によって、
はじめて人間の堕落を救い、キリストを信じる人々に救いの手をのべる事ができた。
しかし、原罪の意義についてはキリスト教団内で反対がなかったわけでは決してない。
パラギウスは、その教義を猛烈に抗議したが敗北した。教団内部のルネサンスのヒューマニストたちは、
直接攻撃や否定することはできなかったが、その教義を弱めようとしていた。
その間に、多くの異端者たちは激しい攻撃や否定を加えていた。
ルーテルは、どちらかといえば人間の先天的な悪と堕落について、さらにそれ以上過激な見解を持っていた。
しかし、ルネサンスと啓蒙主義の思想家たちは、それと正反対の方向に思い切って歩を進めた。
後者は、人間に内在する悪は全て環境の結果にすぎないから、人間は実際に選択する必要はないと主張した。
悪を生む環境を変えれば、人間に固有の善はほとんど自動的に現れてくる、と彼らは考えた。
4
この見解はマルクスとその後継者たちにも影響を与えたのである。
人間の善を信じることは、
ルネサンスと共に始まった驚くべき政治経済の発展により得られた人間の新たな自信の結果であった。
逆に第一次世界大戦に始まり、ヒットラーとスターリン、コヴェントリィと広島を経て、
全世界の滅亡を準備しつつある現在までの西欧の精神的破壊は、
再び悪に向かう人間の性向を強調する昔の状態を現出した。
この新たな強調は、人間に内在する悪の可能性を軽視しがちなことへの健全な解毒剤になった。
だがあまりにも多くの場合、時には彼らの立場を誤解したり歪曲することにより、
人間に寄せる信頼を失っていない人々を嘲笑する結果に立ち至ったのである。
人間に内在する悪の可能性を軽視していると、よく誤解を受ける者の一人として、
こういう感傷的楽天主義は私の考えにはムードとしてもあわないことを強調しておきたい。
精神分析者として長い臨床的経験を持つ人なら、人間に内在する破壊力を軽視することは非常に困難だろう。
分析者は重症患者の中に、この力が働くのを見て、
その力を阻止しそれを建設的方向へ向けることは、途方もなく難事だということを経験する。
同じように、第一次世界大戦のはじめから悪の爆発と破壊性を目撃してきた人なら、
人間の破壊性の持つ力や強さを直視しないわけにはいかないだろう。
今もなお現代人― 一般人ばかりでなく知性人も― を捕らえて離さない無力感の絶え間なき増大は、
戦争は人間性の持つ破壊的傾向の結果であるが故に不可避である、とする
敗北主義者の見解の合理化に寄与するような新たなる堕落と原罪説を受容させる危険が存在しているのである。
こういう見解は、その有する巧妙なリアリズムの立場から自慢できる場合も時にはあるが、
二つの根拠において非現実的である。
第一に、破壊力が強いことは、それが無敵であるとか優勢であるということを意味しない。
第二は、戦争が主として心理的な力の結果生ずるという前提に存在する。
社会現象や政治現象を理解するのに心理主義の誤謬を詳述する必要はほとんどない。
戦争とは政治・軍事・経済の指導者たちが、領土・天然資源・貿易上の利益を得るため、
あるいは外敵によって自国の安全に加えられる真実のないしは架空の脅威を防ぐため、
更には自国の名誉と国威を昂揚するために開戦を決定する結果なのである。
この人達は一般の人と異なるわけではない。
利己的で、他人のために自己の利益を捨てるようなことはほとんどなくても、残忍でも邪悪でもない。
日常生活ではおそらく害になるよりは善行をするこういった人達が、
多数の人々を支配し、最も破壊的な兵器を自由にしうる立場につくと、はかりしれぬ害毒を引き起こすことができる。
市民生活では彼らは競争相手を破ったかもしれないし、
今日の世界のような権力国家や独立国家 【独立とは主権国の行為を制限する道徳律の支配を受けないという意味である】
の中では彼らは人類を破滅させるかもしれない
【異常な権力をもつ普通の人間】は―悪鬼やサディストではない―人類にとって何よりも危険なのである。
しかし戦争をするためには武器が必要であるように、
数百万の人々に生命を賭け、また殺人者とならせるには憎悪、憤怒、破壊性、恐れの感情が必要である。
5
こういう感情は開戦の必要条件ではあるが、大砲や爆弾と同様に、それ自体では開戦の理由にならない。
おおくのオブザーバーは、核戦争はこの点で従来の戦争とは違うと解説してきた。
核装備されたミサイル ― 一発で幾十万の人々を殺戮するような― を発射する人は、
兵士が銃剣や機関銃を使ったときと同じ意味で、殺人の経験をすることはまずないだろう。
だが、核兵器を発射する行為は意識的には命令を忠実に守るにすぎなくとも、
このような行為を可能にするには、破壊衝動でないにしても、
生命への根強い無関心がそのパースナリティの深層にあるのではなかろうかという疑問は残る。
ここで三つの現象を選ぶことにしよう。これは私の見解では、人間のオリエンテーションの中で、
もっとも有害で危険な形態の基礎をなすものである。この三つのオリエンテーションが結合すると、
【衰退の症候群】
人間を破壊のための破壊へかりたてるもの
そして憎悪のための憎悪へかりたてるものを形成するようになる。
【衰退の症候群】に対立するものとして、
私は、【生長の症候群】を述べよう。これは、
生への愛
(死を愛好する心に対立するものとしての)
人間への愛
(ナルチシズムに対立するものとしての)
独立性
(共生的・近親相姦的固着に対立するものとしての)から成立している。
この二つの症候群のうちどちらか一方が十分発達しているのは、ごく少数の人々に限られている。
しかし人はそれぞれ自分の選択した方向、つまり
生の方向か死の方向、善の方向か悪の方向に進むことは否定しがたい。
6
Ⅱ
【激情】の種々の形態
この書では、おもに破壊性の悪性形態を扱うことになろうが、まず【激情】の別の形態をいくつか論じたいと思う。
詳細に検討するというのではなくて 、【激情】の病的な現れ方の度合いが少ないものを取り扱うということは、
その程度の強い破壊性の悪性な形態を理解するのに役立つかもしれぬと考えられるからである。
【激情】のさまざまなタイプ間の差異は、それぞれの無意識の動機間の差異に基づいている。
というのは行動についての無意識のダイナミックスを理解することのみが、
行動そのもの、行動の根源と経路およびそれが行われるときのエネルギーを、われわれに理解させうるからである。
もっとも正常であり病的でない【激情】の形態は【遊びの激情】
である。
【激情】が破壊に向かわず、憎悪や破壊性にも動機づけられず、
技量を示すために現れるような形態に、われわれは遊びの【激情】を見るのである。
その例は、未開種族の戦争ごっこから、禅宗徒の剣道にいたるまでたくさん見受けられる。
こういう戦いの勝負では、すべて殺すことが目的ではなく、たとえその結果、相手が死ぬようなことが合っても、
言ってみればそれは相手が(運が悪かった)ための過失なのである。
勿論、遊びの【激情】においても殺したい気持ちが全くないといえる場合は、
こういう勝負の理想的な型に当てはまるにすぎない。
実際には、無意識な攻撃性と破壊性がその勝負の明瞭な論理の背後に隠されていることを往々にして知るであろう。
しかしたとえそうであっても、
この型の【激情】の主な動機は、技量を示すことであって破壊性ではない。
遊びの【激情】よりはるかに実際的な意味をもつのは【反動的な激情】
である。
反動的【激情】というのは私の解釈では、
自分ないしは他人の生命、自由、対面、財産を守るために用いられる【激情】のことである。
それは恐れに根ざしているので、まさにその理由からおそらくもっとも起こる可能性の多い【激情】のタイプであろう。
その恐れは現実のことも、想像にとどまることもあるし、または意識していることも無意識であることもあろうけれど。
このタイプの【激情】は、死ではなく生に役立ち、目的とするところは防衛であって破壊ではない。
それは全く不合理な熱情から生まれるのではなく、ある程度は合理的な計算によるものである。
それゆえ、目的と手段の釣り合いが取れているということにもなる。
より高い精神的次元では、殺人は ―たとえ防御の場合であっても― 道義的には正しくないと論じられてきた。
しかしこう信じる人達もほとんど、生命を守る【激情】は破壊性そのものを目 指す【激情】とは異質のものだと認めている。
脅迫されているという感情とその結果生じる反動的【激情】は、
事実に基づくものではなくて、人間の精神の働きに基づいていることが非常に多い。
政治や宗教の指導者は自分の支持者たちに、敵が脅迫していると信じ込ませ、
そうして反動的な敵意を主観的反応に転化する。
7
そういうわけで戦争の正不正の区別は、
ローマン・カトリック教会ばかりでなく、資本主義や共産主義の政府が支持する場合、実に疑わしくなる。
防衛という名を借りない侵略戦争は、ほとんど例がない。
防衛を正しく主張したものは誰かという問題は、
一般に勝者によって決められたり、またはずっと後になってはじめて客観的に歴史家が決定することもある。
いかなる戦争も防衛の戦いを装うという傾向は、二つの事柄を示している。
先ず第一に国民の大多数に、少なくともほとんどの文明国では、自分たちの生命と自由を守るために
戦うのだと先ず確信させなければ、殺したり死んだりはさせられないということであり、
第二に、数百万の人々に自分は攻撃の危険にさらされており、それ故、
自己防衛につかせられるのだと思い込ませることは困難でないことを示している。
このように思い込むのは、たいていは
独立した理性と感情を欠き、大多数の人々が政治の指導者に情緒的に依存しているからである。
こういう依存心があれば、権力と説得で提示されるどのようなことでも真実と受け止められるものである。
脅威と称するものを信じ込むことの結果は、言うまでもなく実際の脅威と同じ結果なのである。
人々は脅威を受けていると【感じる】と、自分を守るために進んで殺したり破壊したりする。
偏執病患者の被害妄想にも同じ無意識のメカニズムを見るが、それは集団ではなく個人であることが違うだけである。
どちらの例も主観的に本人が危険を感じて、攻撃的な反応を示すのである。
1939 年ヒットラーは、自国民に攻撃を受けていると感じさせるために、そしてまたポーランドに対する理不尽な攻撃を
【正義の闘い】に正当化するために、ポーランド人と称する【実はヒットラー親衛隊員】一団を使って、
シレジア放送局を偽装攻撃しなければならなかった。
反動的【激情】のもうひとつの面は、【欲求不満】によって生ずる【激情】である。
願望や欲求が挫折するとき、動物や子供、成人が攻撃的に振舞うことがある。
こういう攻撃的行動は徒労に終わることが 多いが、
挫折した目的を【激情】により果たそうという試みがその本質となっている。
それが生のための攻撃であって、破壊のためのものではないことは明瞭である。
願望や欲望の挫折は今日までほとんどの社会で非常によく見られることであり、
暴力や攻撃が絶えず現出することは驚くにあたらない。欲求不満に由来する攻撃性と関連して
【ねたみ】と【嫉妬】から生まれる敵対行為がある。嫉妬もねたみも欲求不満の特別な種類である。
それは B が A の欲しいものを持っているとか、A が愛されたいと思っている人に、
B が愛されているというような ことが原因となっている。A が欲しがっていても所有できないものをもらうB に対して、
A の心中に憎悪や敵意がおこるねたみと嫉妬は欲求不満であって、
A は望むものを手にできないということばかりではなく、他の人がその代わりに手に入れるという事実によって強化される。
自分の過失ではないのに神に愛されないカインが、神の愛を受ける弟を殺す物語や、ヨセフとその兄たちの物語は、
嫉妬とねたみの古典版である。精神分析の文献は、この同じ現象に関しておおくの臨床的資料を提供している。
8
反動的【激情】に関係はあるが、病理学の方向に一歩進んでいる【激情】のタイプは【復讐】の【激情】である。
反動的【激情】においては、その目的は脅迫されている危害を避けることにあるので、
この【激情】は生きていくという生物学的機能に役立つものである。ところが
復讐の【激情】では、その危害はすでに与えられてしまっているので、その【激情】には防御の働きはない。
それは現実になされてしまったことを、魔法のように元へと戻すという非合理的な働きをもつ。
われわれは原始的集団または文明集団の中ばかりでなく、個人の中にも復讐の【激情を見出す。
この種の激情の非合理性を分析することにより、われわれの理解をさらに一歩前進させることができる。
復讐の原因は、集団または個人の持つその強さと生産性とに反比例する。
無能なものや不具者は自尊心が傷つけられたり砕かれると、その回復の手段として頼れるものはただひとつしかない。
つまり 眼には眼を というたとえのように復讐することだけである。
一方、生産的に生きている人にはそういう必要はほとんどない。
たとえ傷つけられ、侮辱され、損害を与えられても、生産的に暮らしている過程そのものが過去の傷を忘れさせる。
生み出す能力というものは、復讐の欲求より強いことがわかる。
この分析が正しいことは、個人および社会のスケールにおける経験的資料によって、容易に立証することができる。
精神分析の資料は、完全に独立して生きることができず、
復讐の欲求に生活のすべてを賭けるような神経症的な人よりも、
円熟した生産的な人は復讐の欲求を持つことが少ないことを示している。
精神病理学的にみて重症の人は、復讐はその人の生涯の主目的になるというが、
それは復讐することがなくなれば、自尊心はおろか、自分が自分であるという感じが崩壊しそうになるからである。
同様にわれわれの気づくことは、もっとも後進集団【経済的、文化的および情緒的諸面で】の中で、
復讐の気持ち【たとえば過去に起こった国家の敗北に対して】がもっとも強いと思われることである。
こういうわけで、工業国においては、中産下層階級はもっとも搾取されているため、復讐感情の焦点となることが多い。
ちょうど彼らが、民族主義的ならびに国家主義的感情の焦点でもあるのと同様に。
投射質問書によって、復讐感情の強さと経済・文化の貧困度との因果関係を立証することは容易であろう。
より困難なのは、おそらく未開社会での復讐を理解することであろう。
多くの未開社会は激しいしかも制度化されさえしている感情と復讐のパターンを持ち、
その成員に加えられた危害には、
集団全体が復讐する義務があると考えている。
ここでは二つの要因が決定的役割を演ずるであろう。
その第一は上に述べたものとほとんど同じである。
つまりその未開集団に浸透する復讐を、危害回復の必要手段とする精神的に貧困な雰囲気である。
第二はナルチシズムで、第四章で詳しく論じられる現象である。
未開集団に賦与されている強力なナルチシズムからみて、
自己の生き写しに対する侮辱は実に重大事であり、この侮辱が激しい敵意を起こすことは
至極当然であろうとだけ、ここではいっておこう。
9
復讐の【激情】に密接な関係があるのは、子供の生活によく起こる【信頼感の破綻】
が原因となる破壊性である。
ここでいう信頼感の破綻とはどのような意味か?
子供は善意と愛情と正義を信じて人生をはじめる。
赤子は母親の乳房と、寒いときにはすぐ暖かくしてくれ、病気のときにはすぐ慰めてくれる母親の態度を信頼している。
この信頼感は父母や祖父母や身近のすべての人を信頼する心でもあるのである。
神を信じる心と表現してもよい。大抵の人間では、この信頼感は幼いころに粉砕される。
子供は父親が大切なことに嘘を言っているのを聞いたり、父が臆病にも母を恐れ、母を喜ばせるために
自分【子供】を裏切る態度を示すのをよく見る。子供は両親の性交を目撃して、父親を野獣とみなすかもしれぬ。
又、子供が不幸であったり心を痛めているのに、自分のことを心配していると日ごろ口にしている
両親がどちらもそれに気づかなかったり、たとえ両親に申し出ても何の注意も払ってくれなかったりする。
両親の愛情と正義と正直を信じていた生まれながらの信頼感が粉砕される機会は数え切れないほど多い。
宗教的に育てられた子供の場合、この信頼感の喪失は時には直接神に向けられる。
子供は愛していた小鳥や友達や姉妹の死を体験して、善にして真なるものとしての神への信頼感を粉砕される。
しかし粉砕されるものが人間への信頼であれ、神への信頼であれ、たいした問題ではない。
破壊されるのは常に人生に対する信頼であり、人生を信じ、人生に信頼を置くことの可能性に対する信頼感である。
どんな子供でも数々の幻滅を経験すると言うのは勿論本当だろう。しかし重要なのは特定の失望の鋭さと激しさである。
この信頼感の破綻とい う最初のきわめて重大な体験は、幼年期に起こることが多い。
四∼六歳あるいは更にずっと早く、ほとんど記憶すらない人生の時期に。
最終的な信頼感の破綻は、ずっと後に起こることが多い。
すなわち信頼する友人や恋人、教師、さらには宗教や政治の指導者に裏切られることがそれである。
それは、唯一つの出来事のみによることは稀で、むしろたくさんの体験が積み重なって、
その人間の信頼感が粉砕されるのである。こういう体験に対する反動はさまざまである。
ある人は自分を失望させた人間に依存することをやめ、いっそう自己に頼るようになったり、
信頼できる新しい友人や教師や愛人を見出そうとする反動を示す。
こうした例は幼いころの失望に対する最も望ましい反動である。
他に多い例として、失望の結果、その人は懐疑的な状態のままで信頼を回復してくれる奇跡を待ち望み、
人々にそれを試み、また失望すると更に他人を試すとか、
信頼を取り戻すために強大な権威【教会とか政党とか指導者】の腕の中へ身を投入する。
往々にして彼は世俗的な目的 ―金、権力あるいは名声― を気狂いのように追及することによって、
人生に対する信頼を喪失したことへの絶望感を克服する。
【激情】に関連して重要な反動が更にもうひとつある。
裏切りと失望の傷痕を心の奥深くで味わった人は、人生を憎みはじめ得るということである。
信ずるに足る人や物がなく、善と正義に対する信頼感がすべておろかな妄想に終われば、
人生が神よりむしろ悪魔の支配を受けているように思われ、
この結果、人生は憎むべきものになり、もはや失望の苦悩に耐えがたくなる。
人生は悪で、人間は悪で、自分自身は悪だ、と誰にでも証明したくなる。
人生を信じ愛することに失望した人は、こうして世にすね世間を破壊する人に変わる。
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この破壊性は絶望感の一種であり、人生に対する失望感が人生を憎悪するという結果を導いたのである。
私の臨床的経験では、
こういう信頼感の喪失の根深い経験例は多く、人の一生の重要なライト・モティーフを作ることが多い。
社会生活にもこれは当てはまるのであって、
信頼する指導者が邪悪であるとか、無能であるとかが、判明したようなときである。
その反動がより大きな依存でなくても、冷笑主義や破壊性の型をとることは多い。
【激情】のこういう形態はすべて、現実的にせよ、更には少なくとも生に対する打撃ないしは失望の結果として、
裏返せばやはり生に寄与しているが、
次に述べるような 【代償の激情】
は、もっと病理的な形態をとる。
もっともこれは第三章で論じるネクロフィラスな傾向よりは激しくはないけれども。
代償の激情というものは、無力者におこる生産的行為への【代償】であると私は考えている。
ここで用いられる【無力】という言葉を理解するためには、いくつかの予備的な考察を加えなければならない。
人間は自分を規制する自然ならびに社会の対象ではあるが、
それと同時に彼は環境の対象に【のみ】止まっているわけではない。
彼はある種の制限はあるが、世界を変貌させ変革させる意思と能力と自由とを持っている。
ここで重要なのは、
意思と自由の範囲ではなくて、人間は絶対の受身には絶えられないという事実である。
彼はこの世に変貌され変革【される】ばかりでなく、
この世に自己の足跡を残し、変貌し変革しようという気持ちにかられている。
この事実の欲求は太古の洞窟壁画や、あらゆる芸術、仕事、性欲についての関心に表現されている。
こういう行為はすべて人間が目標に対して自己の意思を向け、
目標に到達するまで努力を続ける能力に根ざしているのである。
このように自分の力を使用する能力が【ポテンシィ】である。 性的能力はポテンシィのひとつの形態にすぎない。
もし弱さや無力などが理由で【行為】できなければ、つまり無力であれば彼は懊悩する。
この無力に起因する悩みは、人間の平衡状態が攪乱されたとき、
自分の行為する能力を回復しようと試みずに完全な無力の状態をそのまま受容することはできない。
という事実そのものに根ざしているのである。
しかし彼にはそれができるのか?またどんなふうにして?
そのひとつの方法は、力を持った人や集団に屈服し同一化することである。
他人の生命にこのように象徴的に関与することにより、人間は行動の幻想を持つのであるが、
実際には彼は行動する人々に屈服してその一部となるに過ぎないのである。
もうひとつの方法で、この意味からみて非常に興味深いものは、人間の持つ破壊力である。
生を創造するということは、さいころがカップからほうりだされるように、
投げ出された被創造物としての立場を超越することである。
しかし生を破壊することもまた、それを超越して完全な受身の耐えがたい苦しみを逃れることを意味する。
生を想像するには、無力者にはないある特性が必要である。
生を破壊するにはただひとつの特性、 ― 力の使用が必要なだけである。
11
無力者はピストルかナイフか強い腕力があれば、他人や自らの生を破壊して生を超越することができる。
彼はこうして【自分に対し、否定的態度をとる生に復讐する】
代償の【激情】は正に無力に根ざし、無力の代償をしようとする【激情】である。
創造するこのできない人は破壊したいと願う。創造したり破壊したりすることによって、
人は単なる被創造物としての役割を超越する。
カミュがカリギュラに
【俺は生きる。俺は殺す。破壊者の力を狂喜して使う。それにくらべれば創造者の力はほんの子供の遊びだ】
と言わせて、この思想を簡潔に表現した。
これは無力者の【激情】であり、自分が明らかに人間であることを示す力を、
積極的に生活の中で表現できない人々の【激情】である。
人間とは物体であることを超越するものなのだから、この人達は人間なるが故にこそ破壊の欲求があるのだ。
代償の【激情】と密接に関連しているのは、動物と人間を問わず、生あるものを完全に支配したいという衝動である。
この衝動がサディズムの本質である。
サディズムの場合、私が【自由からの逃走】で指摘したように、他人に苦痛を与えたいという願望がその本質ではない。
われわれが観察できるさまざまな形のサディズムはすべてひとつの主要な衝動へ還元できる。
すなわち他人を完全に支配し、彼を自分の意思のままになる無力なものとし、
彼の神となり、彼を自分の望みどおりに従わせることがそれである。
彼を屈服させ、奴隷とするのはこの目的を達する手段であり最も極限の目標は彼を苦しませることである。
なぜなら
他人が身を守ることができず、苦しみを受けるよう強制すること以上の大きな支配力はないからである。
他人あるいは他の動物を完全に支配する喜びは、サディズムの衝動の本質以外の何者でもない。
この考えを明確にするもうひとつの方法は、
サディズムの目標は人間を物体に、生物を無生物に変えることであるといえばよい。
なぜなら完全絶対の統御によって、生物は生の本質である自由を失うからである。
個人や集団において、破壊的かつ加虐的な暴力が激しく非常に多いことを十分に経験しさえすれば、
代償の【激情】は、何か外面的なもの、罪悪の影響や悪習などの結果でないことが理解できるだろう。
それは人間に内在して、生の願望と同じくらい激しく強い力なのである。
それは無力であることに対する生の反逆とみられるものであるからこそ、実に強力なのである。
人間は人間であり物体ではなく、もし生を創造できなければ破壊せずにおれないから、
破壊的で加虐的な【激情】の可能性を持つのである。
数千の無力な人々が、人間が野獣に食われたり、お互いに殺しあったりするのを見て、
最大の喜びを味わったローマのコロシアムは、サディズムの大きな遺跡である。
こういう考察から更に次のようなことが考えられる。
代償の【激情】は生活のない無力な人生の結果であり、必然の結果である。
それは罰への恐れから抑制することができるし、あらゆる種類の見世物や娯楽によってそらすことができるだろう。
しかしそれはそのままポテンシィとして残り、抑制力が弱まるときは常に現出してくる。
12
代償的破壊性を治療する唯一の方法は、人間の内部に存在する創造のポテンシィ【潜在力】
つまり彼の人間的な力を生産的に利用しうる能力を発達させることである。
人間が無力でなくなってはじめて、人間は破壊者やサディストでなくなり、人間が生に興味を持ちうる状態だけが、
人間の過去から現在にいたる歴史を辱めたその種の衝動を無くすことができる。
代償の【激情】は、反動的【激情】のように生に寄与しない。
それは生に対する病理学的な代償であり、生の無力と空虚さを表している。しかしながらそれは、
生を全く否定しつつも、やはり人間が無力者ではなく、生きる欲求を持つことを立証しているのである。
最後にもうひとつどうしても述べなければならぬ【激情】の型がある。
【原初的な血の渇き】である。
これは無力者の【激情】ではなく野生とまだ完全に切り離されていない状態の人間の血の渇きである。
これは前向きに、一人前の人間になることを恐れるがために、生を超越する方法として、
殺すことに熱狂するのである。(後述する、一つの選択である。)
前個性的な存在状態へ退行することによって、更には動物のように成り下がり、
理性の重荷から開放されることによって、生に対する解答を求める人の場合、
(血)は生の本質となり、他の何者にも勝る強くて独自なものとなるのである。
殺しは最も原初的な水準で、非常な興奮となり大きな自己確認となる。
逆に殺されることは、殺すことに対する論理的な二者択一にすぎない。
これが原初的な意味での生の均衡なのである。
すなわちできるだけ多く殺すことであり、そして一人の生がこうして血に飽くとき、
その人は殺される用意ができたことになる。
この意味において、殺すことは本質的には死を愛好することではない。
最も深い退行の水準で、生を確認し超越することなのである。
われわれは個々の人々の中にこの血に対する渇望を認めることができる。
時には幻想や夢のうちに、あるいはまた時には重症の精神病や殺人の中に。
正常な社会的抑制が除去されてしまう戦時中 ―国家間の戦いであれ、内戦であれ、内乱であれ―
少数の人達のうちにそれを認めることができる。
殺すこと(殺されること)が生を左右する両極である原初的な社会にそれが認められる。
アズテック人の人身御供のような現象や、モンテネグロやコルシカのような場所で行われた仇討、
あるいは【旧約聖書】の主への献物としての血の役割に、われわれはこれを認めることができる。
殺すことの喜びを最も明快に述べているものに、G・フロベールの短編(聖ジュリアン伝)がある。
フロベールが述べるのは、生まれた時、大征服者で偉大な聖人になると予言された一人の男のことである。
彼は普通の子供として成長するが、やがてある日、殺すことの興奮を発見する。
教会で礼拝が行われるとき、彼は何度も小さなハツカネズミが壁の穴からちょこちょこ走り出てくるのを見た。
彼は腹がたち、それを取り除こうと決心した。そこで、扉を締め切り、祭壇の階段に菓子屑をまき、
彼は鞭を手にして穴の前に立った。長い間待っていると、小さな赤い鼻先が覗き、やがてネズミは全身をあらわした。
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ジュリアンは軽く一鞭打ち下すと、早身動きしなくなったネズミの小さな体をまえに呆然と立っていた。
血が一滴、床石を汚している。彼は慌てて袖でそれを拭き、ネズミを戸外に投げ捨て、誰にも一切語らなかった。
その後、小鳥を絞め殺したとき、その身悶える小鳥に、彼の心臓は高鳴り、残忍な激しい興 奮の喜びに満たされた。
血を見ることに狂おしい喜びを知った彼は、動物を殺すことにとりつかれるようになった。
彼に殺されなかったような、強くて敏捷な動物は何一ついなかった。
流血は、一切の生を超越する最上の自己確認の方法であった。
何年もの間、彼が熱中し興奮したものは唯ひとつ、動物を殺すことであった。
彼が夜、帰宅するときは血と泥にまみれ、野獣のにおいを放っていた。
彼は野獣に似てきた。彼はほとんど動物に変貌する目標に到達するところまできたが、
人間である限り、それは不可能なことだった。そして遂には父や母を殺 すようになろうと告げる声が聞こえてきた。
仰天した彼は城から逃げ出し、動物殺しを止め、その代わりに人も恐れる有名な軍隊の指揮官となった。
立派な戦功をたて、その恩賞として彼は絶世の美しい可憐な姫を娶った。
そして軍人生活をやめ、妃と非常に幸せな生活を送ってはいたが、彼は退屈で気が滅入ってくるのだった。
ある日再び狩をはじめたところ、不思議な力が彼の射撃を全然駄目にした。
【すると、彼がこれまで撃ち殺した動物がすべて現れて、彼の周りにぎっしりと輪を作った。
臀をついて座ったのもある。すっくりと立ち上がったものもある。
ジュリアンはその真中に立ち止まったまま、恐怖にすくんで、少しの身動きもできなかった。】
彼は妃のいる館に戻ることにした。
その間に年老いた両親が彼の館に着いていて、彼女は自分のベッドを両親に提供していた。
彼は両親を、妻とその恋人であると誤解して両親を撃ち殺してしまった。
彼が退行の極限に達したとき、大きな転換が、起こったのである。
実際彼は聖人となり、その生涯を貧しい者と病める者に捧げて、
遂には、らい病患者を抱擁して暖めてやるほどになったのである。
【ジュリアンは、自分を天国へ連れて行く主なるイエスと向かい合ったまま、青い空へと昇天していった。】
フロベールは、この物語で血の渇望の本質を描いている。
その渇望は最も原初的な形態で生に陶酔する状態である。
それゆえ人は、生とのつながりにおいて最も原初的な水準に到達すると、最高の発達段階、
つまり自らの人間性によって生を確認する段階へ復帰することができる。
この殺すことの渇望が、先に述べたように死を愛好するものと同じでないことを知るのは重要である。
これについては第三章で詳述するが。
血は生の本質として体験される。
他のものの血を流すことは、母なる大地に必要な肥料を与えることである。
【血を流すことが宇宙の機能を続ける条件として必要だというアズテックの信仰や、カインとアベルの物語と比較してみるといい。】
たとえ自分の血が流されようとも、その人は大地を豊かにし、大地と合一するのである。
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退行のこの段階では、血は精液と同義であり、大地は母なる女性と同義である。
精液対卵子は、男性対女性の極性を表現するものであり、この極性とは男性が大地から十分抜け出して、
女性が彼の欲望と愛情の対象となる点に到達したときはじめて中心となるところのものである。
流血の結果は死である。精液を流す結果は誕生である。しかし前者の目標は、後者のそれと同様、
動物的な存在の水準をほとんど出ないとしても、生を確認することである。
殺人者は完全に生まれ出るなら、そして大地との絆を投げ捨てるなら、
自分のナルチシズムを克服しうるなら、愛する者となることができる。
だが否定できないことは、もし彼が以上のことをなしえなければ、彼のナルチシズムと原初的な固着は、
血に渇えた者と死を愛好する者との区別が見分け難くなるほどの、
死の道とほとんど変わりない生き方へと彼を陥れるであろうということである。
聖書において、主がイブをアダムの伴侶とする物語は、この新しい働きを示している。
15
Ⅲ
死を愛することと生を愛すること
前章では直接ないしは間接に生の目的に役立つ(または役立つように見える)が故に、
多少ともまだ良性のものと考えられるような【激情】と攻撃性の形態につき論及した。この章と次の諸章では、
生に【対抗して】向けられ重症の精神病の核心となり、真の悪の本質とも云うべき性向に言及しよう。
問題となる三種類のオリエンテーションは、
ネクロフィリア【バイオフィリア】、ナルチシズムおよび母に対する共生的固着である。
三つとも、病的とは全く考えられそうにない、
ほとんど心配の必要のない良性の形態のものが含まれていることを知っている。
しかしながら、ここで重点をおくのは三つのオリエンテーションの悪性の形態のものであり、
これらのものは、最も危険な形態では集合し、遂には
【衰退の症候群】を形成する。
すなわち、この症候群は悪の真髄を表しており、病理学的に重症であると同時に、
最も悪性の破壊性と残忍性の根源でもある。
ネクロフィリアの問題の核心を、最もよく紹介しているものとしては、
1936 年スペインの哲学者ウナムーノの短い声明がある。
時はスペイン市民戦争の初めミラン・アストレイ将軍が、
当時ウナムーノが学長であったサラマンカ大学で演説したときのことである。
将軍の好むモットーは【死よ万歳!】であり、彼の信奉者の一人が講堂の後方からそう叫んだ。
将軍の演説が終了すると、ウナムーノは立ち上がって次のように言った。
【ただいま私はネクロフィラスな意味の死よ万歳!という絶叫を聞きました。
そして私といえば、他人には理解できない怒りを起こす痛烈な逆説に生涯を捧げてきた者ですが、
ここで申し上げねばならぬことは今の奇怪な逆説には反撥を覚えるということです。
ミラン・アストレイ将軍は不具者です。大声でそう言う事ができます。彼は傷病兵です。セルヴァンテスもそうでした。
不幸にも現在、スペインでは不具者が多すぎます。神の加護がなければその数は更に増えていくでしょう。
ミラン・アストレイ将軍が大衆心理学の方法をここで述べられようなどと考えると胸が痛みます。
セルヴァンテスの精神的偉大さを欠如した不具者は、自分の周囲の人々を不具にすることに救済を求めがちです。】
これを聞いてもはやミラン・アストレイは自分を制御することができなかった。
【知力よ、くたばれ!】彼は絶叫した【死よ万歳】。ファランヘ党員の間から、それを支持する猛烈な叫び声が起こった。
しかしウナムーノはつづけた。「ここは知性の殿堂です。そして私はここの高僧です。聖域を潰やすのはあなたです。
あなたは有り余る野蛮な力をお持ちだ。だから勝利は獲得できるでしょう。
しかし納得させることはできません。納得させるためには説得が必要だからです。
そして説得するためには、あなたに欠けているものがあります。
戦いにおける理性と正義がそれです。あなたにスペインのことを考えるよう、
お勧めしても無駄だと考えます。これまでです。」
16
【死よ万歳!】という叫びのネクロフィラスな特徴を述べることにより、
ウナムーノは悪の問題の核心に触れたと言えるのだ。
心理的にも道義的にも人間と人間の間には、死を愛する者と生を愛する者の間、
つまりネクロフィラスな人間とバイオフィラスな人間の間におけると同様根本的な差異はないのである。
といっても、つまり人が完全にネクロフィラスであるとか、でなければ、完全にバイオフィラスであるとかいう意味ではない。
死にすべてを捧げる者もいるが、それは狂人である。
逆に生を完きまでに愛する人もあるが、
それは人間の到達しうる最高目標を達成したものと、われわれには思われるのである。
多くの人の場合は、バイオフィリアとネクロフィリアの傾向が同時に存在するけれども、その混在の程度が違うにすぎない。
ここで大切なことは、生命現象一般として、人間の行動を決定付けるのはどちらかの傾向がより強いかということであって、
二つのオリエンテーションの一つが完全に存在するとか、存在しないとかいうことではないのである。
文字面からは【ネクロフィリア】とは【死を愛好する】という意味である。
【バイオフィリア】
が生を愛好することを意味するように。
この用語は一般的には性的倒錯、つまり【女】の屍体を性交のために所有したいという欲望、
または屍体と面と向かい合っていたいという病的欲望をあらわすのに使用されている。
しかしよくあるように、性的倒錯は、
何ら性的な形をとらないで見出されるオリエンテーションが、一層明白な姿を借りて現れたものにすぎない。
ウナムーノが将軍の演説に対し【ネクロフィラス】という語を用いたとき、この事実を明白に見てとったのである。
彼の意味したことは、将軍が性的倒錯に取り付かれているのではなくて、生を憎み、死を愛好したということであった。
奇妙なことに、一般的なオリエンテーションとしてのネクロフィリアは、
精神分析の文献でこれまで述べられたことはなかった。
もっともフロイトの【死の本能】と同様に【肛門加虐性格】には関連あるが。
こういう関連は後述することになろうが、今のところはネクロフィラスな人間について述べていきたいと思う。
ネクロフィラスなオリエンテーションを持つ人は、生きていないすべてのもの、
つまり死んでいるすべてのもの、屍体、腐敗、排泄物、汚物に魅せられ幻惑されている人である。
ネクロフィラスの患者とは、病気や埋葬や死について語ることが好きな人々である。
彼らは死について語るときに活き活きとする。ネクロフィラスな純粋タイプの明瞭な例はヒットラーである。
彼は破壊に魅惑され、死の臭いは彼にとって心地よかった。
彼が勝利を博している間は、自分が敵とみなしたもののみを破壊しようとしているかに見えたが、
末期の【神々の黄昏】の頃は、全面的・絶対的【破壊】、ドイツ民族の破壊や衛星諸国の人々の
破壊、更には自分自身の破壊を見つめることに、最大の満足があったことを示している。
第一次世界大戦のある報告によれば、確たる証拠はないがありそうな話として、
ヒットラーが恍惚として腐乱死体を凝視したまま、立ち去ることを肯んじないのを、ある兵士は見たという。
ネクロフィラスな人間は、過去に住んで未来には住まない。彼らの感情は本質的には感傷である。すなわち
彼らは昨日まで持っていた感情、あるいは持っていたかに信じている感情の記憶を心に抱いてる。
17
彼らは【法と秩序】の冷淡な信奉者である。彼らに価値のあるものは、
われわれの一般生活に関連をもつ価値とは正反対のものである。すなわち生ではなくて、
死が彼らを興奮させ満足させる。
ネクロフィラスな人の特徴は、力に対するその人の姿勢である。
シモーヌ・ウェイユの定義によれば、力とは人間を屍体に変貌させる能力であるという。
性欲が生を創造しうるように、力は生を破壊しうる。
人間の力にはすべて、煎じ詰めると殺人への物理的な力がその根底にある。
私がある人を殺さず、その自由を奪うだけであったとしよう。
またある人を降伏させるとか、その所有物を奪ったとしよう。
だが何をしようと、私のこれらの行為の背景には、殺しうる可能性を持つ力と、
殺すことに喜びを感ずる気持ちが必ず存在する。
死を愛好するものは必然的に力を愛好する。
彼には人間の最大の目的は、生を付与することではなく、生を破壊することであり、
力の使用は、環境により強制された一時的な行為ではなくて― それ自身生きる道なのである。
以上のことは、ネクロフィラスな人が何故に力に真に魅惑されるかという理由を説明している。
生を愛好する人にとっては、人間の基本的極性は、雌雄間の問題であるように、
死を愛好するものには別の非常に異なった極が存在する、
つまり殺す力を持つ人とこの力を欠如する人との間の極性がそれである。
彼にとっては二つの【性】があるだけである。
つまり、力強き者と無力な者、殺す人と殺される人。彼は殺す人を愛し、殺される人を軽蔑する。
【この殺人者を愛好する存在】が文字通り受け取られることは稀ではないのであって、
それは彼の性的魅力と幻想の対象となるのである。
そしてそれは既に述べた性的倒錯やネクロファギア【屍体を食べたいという欲望】、
すなわちネクロフィラスな人の夢によく見受けられる倒錯した欲望より激しくないというだけのことである。
ネクロフィラスな人達が、肉体的には何ら魅かれないにもかかわらず、相手の持つ力と破壊性に恐れおののき、
尊敬し、その結果、そうした力を持つ年長の男や女と性交するという夢の例を、数多く知っている。
ヒットラーやスターリンのような人が影響力を持つのは、
まさに彼らの持つ殺人に対する無制限な能力と、それに対し喜び勇む積極性にある。
この理由から、彼らは死を愛好する人々に愛されたのである。
それ以外の連中には、大衆は、彼らを恐れるか、彼らの恐ろしさを認識するよりはむしろ賞賛しようとしたり、
また別の人達はこうした指導者のネクロフィラスな素質に気付かず、彼らの中に建設者、救世主、良き父親を見たのである。
もしこのネクロフィラスな指導者たちが、建設者や保護者的態度を取らなかったと仮定したら、
彼らに魅せられた人々は、彼らの権力の獲得にそれほど援助を与えなかっただろうし、
また彼らに追放された人々は直ちに彼らを没落させてしまっただろう。
生が構成され機能することにより生長する特徴をもつのに対し、
ネクロフィラスの人は、生長しないものや機械的のものをすべて愛する。そしてまた、
18
有機体を無機体に変貌し、生きているものを物体であるかのように
機械的に接したいという欲望にかられる。あらゆる生命過程、感情、思考はすべて物体に変貌される。
経験よりは記憶が、存在よりは所有がここでは重要なのである。
ネクロフィラスな人は、それを所有する場合にのみ花とか人とかを、客体として関与しうるのである。
それ故、自身の所有物に対する脅威は、自身に対する脅威であり、もし所有できなくなれば外界と断絶することになる。
それ故、たとえ生を失うことにより所有するものが存在しなくなったとしても、
所有するものを失うよりは生を失う道を選ぶという、逆説的反応が見られる。
彼は支配を愛し、支配しようとして生を抹殺する。
彼が生を深く恐れるのは、生がそのもてる性質上、無秩序で統御しにくいからである。
ソロモンの裁判の物語はその典型である。子供の母たることを主張するあまり、
彼女は生きている子供を失うよりは、はっきりと二等分された、死児のほうを好む。
ネクロフィラスな人には、正義とは正しき分割を意味し、彼らは自分たちの正義のためには喜んで殺し、死ぬ。
【法と秩序】は彼らには偶像であり、 ― 法と秩序を脅かすものはすべて、
自らの至高の価値に対する悪魔の挑戦と受け取るのである。
ネクロフィラスな人は暗闇と夜に魅惑される。
神話と詩の世界では、彼は洞窟や大洋の深みにひかれたり、盲人として描かれる。
イプセンのペール・ギュントに登場する住人たちはその例で、
盲目で洞窟に住み、その唯一価値あるものは一種の自家醸造ないしは自家製のナルチシズム的なものである。
生から離れ生に敵対するものは、すべて彼らを魅惑する。
彼は子宮の暗闇、更には無生物的・動物的な存在の過去に戻ろうとする。
彼は本質的に過去を指向し、憎み恐れる未来には指向しない。これと関連して彼が切望するものに確実性がある。
しかし生は決して確実なものではなく、予測できず、統御できない。
生を統御しうるものとするためには、生は死に変貌されなければならない。
事実、死は生における唯一つの確かなものである。ネクロフィラスな性向は、通常人の夢に最も明瞭に現れる。
そういう夢には、殺害、流血、屍体、頭蓋骨、糞便が出てきたり、人間が機械に変身し、機械のような動作をしたりする。
しかしこの種の夢はネクロフィリアの傾向がない一般の人々にも見られることがよくある。
ただネクロフィラスな人の場合には、この種の夢は頻繁に起こり、時によっては反復する。
ネクロフィリアの程度が進んだ人は、その外見や身振りでそれと分ることが多い。
彼は冷淡で、皮膚は死人のように見え、悪臭をかいだかのような表情が浮かんでいることが多い。
【この表情はヒットラーの顔にはっきり表れていた】。彼らは一見秩序正しく、強迫観念にとりつかれ、衒学的である。
ネクロフィラスな人のこの一面は、アイヒマンの容貌によくあらわれている。
アイヒマンは官僚的な秩序と死に魅せられていた。彼が至高の価値とするものは、従順であり、
組織体がその本来の機能を正しく遂行することであった。彼は石炭を運搬するのと同様に、ユダヤ人を流刑した。
ユダヤ人が人間であるという考えは、彼の視野にはほとんど入らなかった。
それ故、彼がその犠牲者を憎んでいたか、いなかったかという問題は、見当違いな質問なのである。
19
しかしネクロフィラスな性格の実例は、審問者とかヒットラーのような人間の中にだけ見出せるものでは決してない。
殺す機会も力も持たない人々にみられるネクロフィリアは、
他の、そして表面だけ見れば、害のない方法で現れることが多い。
常に子供の病気、失敗、将来に対するくらい見通しに関心を持つ母親はその一例であろう。
そういう母親はそれと同時に良き変化には感動せず、子供の喜びには無反応で、
子供の内部に育ってくる新しいものには何一つ気付かないのである。
彼女の夢には、病気や死や屍体や流血が出てくることがあるかもしれない。
彼女は表面上子供を傷つけることはないが、徐々に子供の生の喜びと生長に対する信頼感を窒息させ、
遂には自分自身のネクロフィラスなオリエンテーションを自分の子供に感染させるのである。
ネクロフィラスなオリエンテーションは、繰り返し反対方向の性向と衝突し、遂には特殊な平衡が保たれる。
ネクロフィラスな性格のこのタイプの顕著な一例は、C・G・ユングの場合であった。
彼の死後出版された自伝において、このことは十分に立証されるのである。
彼の夢にはほとんど常に屍体、流血、殺人が現れた。
現実生活における彼のネクロフィラスな方向を典型的に示すものとして、次のような例がある。
ボーリンゲンでユングの家が建築されていた時、フランス兵の屍体が発見された。
これは百五十年前、ナポレオンがスイスに侵入した当時溺死した兵士であった。
ユングはその屍体の写真をとって壁にかけた。
またそれを埋葬し、軍隊式儀礼に従いその墓の上で三発空砲を撃った。
この行為は一見奇妙に映るが、表面上はほかに何の意味もないと思われる。
だがそれは、意図された重要な行為よりも明白に、深層心理を表現しているおおくの瑣細な行為のひとつなのである。
フロイト自身、その何年も前に、ユングの死のオリエンテーションに気付いていた。
フロイトとユングが合衆国へ向かって旅行したとき、
ユングはハンブルグ郊外の湿地帯で発見された保存のよく行き届いた屍体のことを熱心に話した。
フロイトはこの種の話を嫌ってユングに、君は無意識に自分(フロイト)に敵対する死の願望で
満たされているために、屍体のことを熱心に話すのだと言った。
ユングは憤然とこのことを否定したが、数年後フロイトと決別した頃、彼は次のような夢を見た。
彼は自分が(黒人と一緒に)ジークフリートを殺さなければならないと感じた。
かれはライフルを持って出かけ、ジークフリートが山頂に現れたとき彼を殺した。
それから彼は自分の犯罪が見つかるかもしれないという恐怖にかられ、おびえていることを知った。
しかし幸いにも豪雨があって、その犯罪の痕跡はすべて洗い流された。
その夢を理解できねば自殺しかねないと考えた。しばらく考えて彼は次のような【了解】に達した。
ジークフリートを殺すことは自己に内在する英雄を殺し、自らの卑下をあらわすことに通じていると。
ジークムントからジークフリートへ少し変わっただけで、夢の解釈を天職とする人としてなおかつ、
この夢の意味を自己から隠蔽しておくことが十分可能だったのである。
いかにしてこのような強い抑圧が可能であるかを自問すれば、
その答えは、この夢が彼のネクロフィラスなオリエンテーションを示しているということである。
そしてこのオリエンテーションが非常に強く抑圧されていたため、
20
ユングはこの夢の意味に気付く余裕がなかったのである。
ユングが過去に執着を持ち、ほとんど現在と未来には惹かれなかったこと、石は彼が大好きな物であり、
子供の頃、彼は神が大きな糞を教会に落としてそれを破壊するという幻想を持ったという話を考えるとき、
それはまさに的を得ている。ヒットラーに対する彼の共感や民族理論は、
彼が死を愛好する人々と姻戚関係にあったことの別な表現と考えられる。
しかしながら、ユングは不思議なほど想像力豊かな人であった。
そしてこの想像力はネクロフィリアとまさに対立するものである。
ユングはその破壊力と自己の願望と治癒能力とを平衡に保つことにより、そしてまた、
過去、死、破壊への興味を、輝かしい思索の主題とすることにより、内心の葛藤を解決したのである。
ネクロフィリアのオリエンテーションに関するこれまでの説明から、以上述べた特徴は【すべて】
ネクロフィラスな人に必然的に見受けられるものである。という印象を与えたかもしれない。
殺害の願望、力の崇拝、死と汚物とサディズムに対する執着、【秩序】によって生物を無生物に変貌したい願望、
というような種々の特徴がすべて同じ基本的なオリエンテーションの一部分であるということは正しい。
だが個人に関する限り、こうしたそれぞれの性向に対する強さは、かなりの差異がある。
ここで述べたような特徴のうち、どれひとつをとっても、ある人は他の人よりそれが明瞭であることがあるし、
その上、その人のバイオフィラスな面と比較してネクロフィラスな程度や、
また究極的にはネクロフィラスな自らの性向に気付き、それを合理化する程度にかなりの個人差があるのである。
しかしネクロフィラス・タイプの概念は、決してさまざまな異質の行動の抽象化でもないし、要約でもない。
ネクロフィリアは基本的なオリエンテーションを構成する。すなわちそれは生と正反対の人生に対するひとつの解答であり、
人生のオリエンテーションの中で、最も病的で危険なものである。それは真の性的倒錯である。
すなわち生きてはいるが、生ではなく死を、生長ではなく破壊を愛するのである。
ネクロフィラスな人は、自己の感じを合えて表現すれば、
【死よ万歳!】と叫ぶときに彼の生のモットーを端的にあらわしているのである。
ネクロフィリアのオリエンテーションの反対はバイオフィリアであり、
その本質は死を愛するものとは対照的に生を愛することである。
ネクロフィリアのように、バイオフィリアは単一の傾斜で構成されているのではなく、
トータルなオリエンテーション、つまり存在の全様式を表している。
それは人間の肉体的過程、情緒、思想や身振りの中に表されてくる。
すなわちバイオフィラスなオリエンテーションは、それ自体トータルな人間的なものとして現れる。
このオリエンテーションの最も基本的形態は、生物すべての生きんとする傾向の中に表現されている。
【死の本能】に関するフロイトの仮説とは反対に、バイオフィリアとは生きるために、その存在を維持するために、
あらゆる生物に内在する特質であるとする、おおくの生物学者や哲学者の仮説に私は同意する。
スピノザが述べたように、【あらあゆるものはそれ自身である限り、自らの存在を固執するよう努力する】
彼はこの努力をまさにものそのものの本質であるといった。
われわれはこの生きようとする傾向を、周囲のあらゆる生き物に観察することができる。
石の間を潜り抜け光をもとめていきんとする草に、死を免れようと最後まで戦う動物に、
自らの生命を保つためには、いかなることも辞さない人間に。
21
生を保ち死と戦う傾向は、バイオフィラスなオリエンテーションの最も基本的な形態であり、
すべての生きているものに共通である。
しかし生を【保持】し、死と【戦う】という傾向のみでは、それは生への衝動の一面を表すにすぎない。
より積極的な別の一面がある。すなわち生きているものは統合し合一する傾向をもち、それは異なる反対の存在と結合し、
組織的に生長しようとする。合一と統合的な生長はすべての生命過程の特徴であり、
それは細胞ばかりではなく感情と思考においてもいえるのである。
この傾向の最も基本的現象は、無性細胞の結合から動物や人間の性的結合にいたる、
細胞間ないしは有機体間の結合である。
後者の場合、性的結合は雌雄の極相互の誘引力に基づいている。
雌雄の極性は、人類の性の基礎となる結合しようとする欲求の中心をなす。
まさにこの理由から、自然は人間をして両極の結合において、最も激しい喜びを与えたものと思われる。
生物学的にはこの結合の結果、正常の場合新しい存在が創造される。
生のサイクルは合一、生誕、生長のサイクルである。
ちょうど死のサイクルが生長の停止、分散、衰退のサイクルであるのと同じように。
しかしながら【生物学的】には、生に寄与する性本能といえども、
【心理学的】には必ずしもバイオフィリアを表すものとはいえない。
大抵の強い情緒は性本能によりひきつけられたり、性本能と混合している。
虚栄、富や冒険に対する欲望、そして死への誘惑でさえ、何らかの意味で性本能に口銭を払っているといえる。
どうしてそんなことが起こるのか考えてみる必要があるだろう。
性本能がいかなる種類の強い欲望によっても、生と矛盾するような欲望によってさえも
動かされるような融通自在なものであるのは、自然の摂理かとさえ考えたくなる。
しかし何はともあれ、性的欲望と破壊性が交じり合っている事実は、ほとんど疑う余地がない。
フロイトは、この混在、特に死の本能と生の本能との交わりを言及するにあたり、
サディズムとマゾヒズムの中に生ずると考えた。
サディズム、マゾヒズム、ネクロファギア【屍食症】コプロファギア【糞食症】は倒錯であるが、
それは性行動の普通の基準から逸脱しているという理由からではなく、ひとつの基本的な倒錯、
すなわち生と死との混在を意味するからという理由に他ならない。
清め【生】を汚濁【死】から切り離す多くの祭りは、この倒錯を避けることの重要性を意味している。
バイオフィリアの完全な現れ方は、生産的オリエンテーションに見出される。
深く生を愛する人は、あらゆるところに見られる生と生長の過程に惹きつけられる。
彼は停滞するよりも組み立てようとする。彼は常に驚異の目を開き、
古いものに確証を見出しそれに安住するよりは、何か新しいものを発見しようとする。
確かさよりは冒険に満ちた生き方をしたいと考える。
彼の生に接する在り方は、機械的というよりは機能的であり、部分よりは全体を、総和よりは構造を見る。
彼が形成し、影響をしたいと思うのは、愛情、理性、自らの範によってであって、
力でもなく、ものを寸断したり、官僚的態度で人間を物体のごとく支配することによってでもない。
彼は単純な興奮よりは、生命と生命現象すべてに喜びを見出す。
22
【バイオフィリアの倫理】は、それ自身善と悪の原理を持つ。
善は生に寄与するものすべてであり、悪は死に寄与するものすべてである。
善は生を尊ぶことであり、生、生長、展開を促進するすべてのものをいう。
悪は生を窒息させ、矮小にし、寸断するすべてである。喜びは美徳であり、悲しみは罪である。
聖書がヘブライ人の原罪にふれて、述べていることは、バイオフィリアの倫理観に立脚している。
【あなたがすべてのものに豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えないので】申命記、28 章 47
バイオフィラスな意識は、悪を無理に差し控え、善を成すのではない。
それはフロイトが述べているような、
厳格な工場監督―美徳のためには自らに逆らってもサディズム的になる―ともいえる超自我ではない。
バイオフィラスな意識は、生と喜びに惹きつけられる事が動機となっていて、
その道徳的努力は自己の生を愛する面を強化することにある。
この理由からバイオフィラスな人は、自己嫌悪と結局は悲しみの一面にすぎないような悔恨と罪に停滞せず、
敏捷に生をみつめ善を行おうと企てる。
スピノザの【エチカ】は生を愛する道徳の非常によい例である。
【喜びは直接的には悪ではなく善である。これに反して悲しみは直接的に悪である】
さらにそれと同じ意味において
【自由の人は、何についてよりも死について思惟することが最も少ない。
彼の智慧は死についての省察ではなくして、生についての省察である。】
生への愛はヒューマニズムの哲学のさまざまな説明の基礎となっている。
各種の概念形式をとりながらも、これらの哲学はスピノザのそれと同質である。
正気の人は生を愛し、悲しみは罪であり、喜びは美徳であり、人生の目的は生きているものに魅惑され、
死した機械的なるもののすべてから自分を切り離すことである。という原理をこれらの哲学は表明している。
私はネクロフィラスなオリエンテーションと、バイオフィラスなオリエンテーションとを純粋な形で描写しようと努めた。
こういう純粋な形は勿論稀である。純粋なネクロフィリアは狂気であり、純粋なバイオフィリアは聖者のものである。
たいていの人々はネクロフィラスなオリエンテーションと、バイオフィラスなオリエンテーションとの特殊な混合であり、
ここで大切なのはこの二つの傾斜のうち、どちらが優勢であるかということである。
ネクロフィラスなオリエンテーションが優位を占める人々は次第に自己に内在する
バイオフィラスな側面を殺していくであろう。
一般に彼らは自分の死を愛好するオリエンテーションに気付かず、自分の心を硬化させて、
自らの死への愛好を、経験に則した論理的かつ合理的反応であるかの如く考え行動する。
一方、生を愛好することがまだ優勢な人々では、自分が【死の影の谷】に近いことに気付き愕然として、
このショックは彼らを生へと覚醒させるかもしれない。
そうしたわけで、ある人の中でネクロフィラスな傾向がどれほど強いかということばかりでなく、
その人がどの程度それを意識しているかを理解することが大切である。
自分が実際には死の国に住んでいるのに、生の国に住んでいると信じている人は、
引き返す機会がなく、したがって生を取り戻す見込みはないのである。
23
ネクロフィラスなオリエンテーションと、バイオフィラスなオリエンテーションとについて述べたが、
その概念が、フロイトの生の本能【エロス】と死の本能についての概念と、
どのように関連するかの疑問が残る。その類似性は容易に理解できよう。
フロイトが人間の内部にこの二つの衝動が二重に機能するのではないかと示唆したことは、
彼が第一次世界大戦の影響下において破壊的衝動力を痛感したことによっている。
生に向かおうとする努力と死に向かおうとする努力は、生命そのものに内在するという仮説を樹立するため、
性本能は自我本能【両者とも生存に寄与し、それ故生命の目的である】に対立するという、
これまでの理論を修正したのである。
【快感原則を超えて】でフロイトは【反復強迫】と彼がよぶ系統発生的に古い原則があるという見解を表明した。
【反復強迫】は以前の状態を取り戻し、究極的には有機的状態をもとの無機的状態に戻すという作用をする。
フロイトは言う。考えられないような昔、想像を絶した方法で、もし生命が無生物から発生したということが本当なら、
われわれの仮説では、或る本能がその時存在し始めたに違いなく、
その目的はもう一度生を破棄して、無機状態を再現することだった。
この本能の中にわれわれの仮説にある、自己破壊の衝動を認めうるなら、
その衝動はいかなる生命の過程の中にも必ず存在する【死】の本能の表微であるとみなすことができる。
死の本能は実際の観察では他人に向かって外に向けられるか、自分自身に向かって内側に向けられ、
また時にはサディズム的ならびにマゾヒズム的倒錯にみられるように、性本能と共存している場合がある。
死の本能の対極として生の本能がある。
死の本能【フロイト自身はそう呼ばなかったが、精神分析の文献では、タナトスと呼ぶことがある】が
分離と非統合の機能を持つのに対して、
エロスとは有機体相互間や、有機体内の細胞を結合、統合、合一する機能である。
それ故、個体の生活はこれら二つの基本的な本能、
すなわち【有機的な物質を結合して大きな統一体にしようとするエロスの働き】とエロスが成し遂げようとするそのものを、
もとへ戻そうとする死の本能の働きとのまさに戦いの場なのである。
フロイト自身は躊躇しつつこの新しい理論を提出したのである。これは驚くにあたらない。
というのはそれ自体ほとんど立証されていない、単なる推測の域を出ない反復強迫という仮説に基づいているからである。
事実この二重機能説に賛成する議論はどれひとつとして、
豊富な資料に基づいた反対意見に対する答えとは思われない。
ほとんどの生物は異常な忍耐強さで生きるための血みどろな戦いをすると思われるし、
自滅するものは例外に過ぎないのである。その上、破壊性は個人間で非常に差異があり、
その違いは死の本能の外向と内向という表面的な差異だけのものでは決してない。
他人を破壊することに予想外に強い情熱を感ずる人も見られるが、大多数の人はそうした激しい破壊性は示さない。
しかしながら、他人に対するこのより程度の少ない破壊性は、
より程度の大きい自己破壊、マゾヒズム、病気などと対応するものではなかった。
フロイトの理論への反論を考えてみると、O・フェニケルのようなその他の点では正統の分析家の多くが、
フロイトの死の本能に関する理論を承認することを拒否したり、あるいは条件づき、
ないしは大きな制限つきで承認していることは、驚 くにあたらない。
24
私はフロイトの理論は次のような方向に発展するだろうと思っている。すなわち、
エロスと破壊性との間ならびに生への愛好と死への愛好との間に見られる矛盾は、
実際、人間に内在する最も基本的な矛盾であるとするような方向である。
しかしながらこの二重機能とは、死の本能が最終的勝利を獲得するまで、お互いに休みなく
戦いつづける生物学的に固有な二つの本能に関する二重機能説ではなく、生を維持せんとする原始的・基本的傾向と、
人間がこの目標を見失ったとき生ずる生の否定との間に見られる二重性である。
この立場から【死の本能】は、エロスが生長しなければ、その分だけ生長しエロスにとって代わる悪性現象である。
死の本能は精神病理学に属するもので、フロイトの見解のように正常な生物学では取り扱えない。
こうして生の本能は人間の一時的潜勢力を構成し、死の本能は二次的潜勢力を構成する。
一時的潜勢力とは、種子が湿度や温度など適当な条件が与えられたときはじめて
生育するのと同じように、生に適当な条件が与えられれば発展する。
適当な条件がなければ、ネクロフィラスな傾向があらわれてその人を支配するようになる。
フロイトは、死の本能が非常に強いと、一般に自殺を容認する傾向があるという反論に気を使って次のように述べている。
【有機体は自己流に死ぬことを願望する。それ故、生物体は自己の目標に急がせる。― 一種の短絡によって―手助けをする
出来事(実際には危機)に対して非常に激しく戦う、という逆説的な状況が起こってくる】
ネクロフィリアの原因となる条件は何か?
フロイトの理論からすれば、生の本能と死の本能の強さは【それぞれ】一定であるということ、
そして死の本能については外向か内向かという二者択一が存在するにすぎないことを予期せねばならない。
それ故、環境的要因は死の本能の強さではなく、その指向性を説明しうるにすぎない。
一方、ここに提示されている仮説によれば、必然的に次のような質問が出てくるだろう。
すなわち一般にネクロフィラスなオリエンテーションと、
バイオフィラスなオリエンテーションの発展にいかなる要因が作用するか、
そしてもっと明確に言えば、
特定の個人または集団における死を愛好するオリエンテーションの、大小の強度にはいかなる要因が作用するのか?
この重要な質問に対して、私は完全な解答を持っていない。この問題をさらに研究することは 、
私の意見では重要なことであるが、にもかかわらず私は自分の精神分析の臨床経験と、集団行動の
観察分析とから到達した解釈を、思いきって幾つか述べてみよう。
子供の場合、生の愛好の発達に最も必要な条件は、その子供が生を愛好する人々と共に在るということである。
生を愛好するということは、死を愛好することと同じように伝染しやすい。
それは言葉や説明を加えなくても、生を愛好すべきであると説教しなくても、コミュニケートする。
思想よりも身振りで、言葉よりも声の調子でそれは表現される。
自分の生活を組み立てるための明確な主義や規則よりも、
個人や集団の雰囲気全体の中にそれを察知することができる。
生を愛好する傾向の発達に特に必要な条件の中から、私は次のものをあげよう。
幼児期に常に他の人達の暖かい愛情に触れる事、自由であること、脅威のないこと、
説教よりは実例によって内的な調和と強さを導く原理を教え込むこと、【生きる技術の指導】、
25
他人に激励され、それに反応すること、本当に楽しい生活の方法。
これらと正反対の条件はネクロフィリアの傾向を発達させる。
すなわち、死を愛好する人々の間に育つこと、激励の欠如、激しい驚きと人生を紋切型にし、
糞面白くなくする諸条件、端的にかつ人間的関係により決定されない機械的な秩序など。
バイオフィラスな傾向の発達に役立つ【社会的】条件は、
個人の発達に関して今まで述べてきた傾向を促進する条件と全く同一のものであるのことは明らかである。
しかしながら、次に述べることはこうした考察の結論というよりは手始めに過ぎないとしても、
社会的条件について考察の一助となるであろう。先ず述べねばならない最も明瞭な要因は、
経済的・心理的にみた【豊かさ】対【乏しさ】の状態の要因であろう。
人間のエネルギーのほとん どが、攻撃に対する自己の生命の防衛あるいは飢餓の防止に用いられる限り、
生への愛好は妨げられ、ネクロフィラスな傾向が助長される。
バイオフィラスな傾向の発達を促すもうひとつの重要な社会的条件は、【不正】を無くすことにある。
こうは言ってもすべての人が全く同じものを所有しなければ、
それが不正であるとみなされるような貯蔵的な概念にここで触れているのではない。
私が言及しているのは或る社会的階級が他の階級を食い物にして、豊かで教養のある生活を
営み得ないような条件をその階級に課す社会的状態、換言すれば、
ひとつの社会的階級が同じ基本的な生活経験を、他の階級と共有するのを拒否するような社会的状況である。
煎じ詰めれば私の言わんとする不正とは、人間が自己の目的のためではなく、
他人の目的を達するために利用されるような社会的状況を指すのである。
最後にバイオフィリアの発達を促す重要な条件は自由である。
しかし、政治的束縛【からの自由】は十分条件ではない。生への愛好が発展すれば【への】自由がなければならない。
例えば創造することへの自由、構成することへの自由、驚異の目をみはり、冒険することへの自由が。
こういう自由は、個人が奴隷とならず、機械の正確な歯車ではなくて、積極的かつ責任を持つことが必要である。
要するに生に対する愛好は、品位ある生活の基本的な物質条件が脅かされないという意味の【保障】と、
誰一人として他人の目的を果す手段となりえないという意味の【正義】と、
人はそれぞれ積極的に社会の責任ある一員となる可能性を持つという意味の【自由】が存在する社会で、
最も発達するのである。最後のこの点はことに重要である。
保障と正義が存在する社会でさえも、個人の創造的な自己活動が促進されないならば、
生を愛好する傾向を助成しないかもしれない。人間が奴隷ではないということだけでは十分でない。すなわち、
社会的条件がオートマトン【自動人形】の存在を助長すれば、
その結果は生を愛好することではなくて、死を愛好することになろう。
この最後の点については、さらに詳しく核時代におけるネクロフィリアの問題を
取り扱うページで、ことに社会の官僚機構の問題と関連して述べることにする。
バイオフィリアとネクロフィリアの概念が、
フロイトの生の本能と死の本能と関連はするが差異があることを示そうとしてきた。それらはまた、
彼の初期のリビドー理論の一部をなすもうひとつの重要な概念【肛門リビドー】と【肛門性格】にも関連をもつ。
フロイトは 1909 年【性格と肛門愛】で、彼の最も基礎的な発見のひとつを発表した。
26
彼は次のように書いている。
私がこれから述べようとしている人々は、次の三つの特徴を規則正しく結合しているので注目に値する。
それはそれぞれ【規則的】【倹約】【強情】の三つである。
この三つの語は実際には小集団や相互関連をもつ一連の性格特性に網羅されている。
規則的とういうことには、小さな義務を果たす良心的な態度や、信頼に値するという意味のほかに、
肉体的に清潔であるという観念も含まれている。
その反対は自堕落とか投げやりということであろう。倹約は貧欲の誇張された形にみられ、
強情はかんしゃくや復讐と容易に結合する反抗にまで発展する。後の二つの素質
倹約と強情 は最初の規則的との関連よりはその相互関連がずっと大きく、
この二つはまた、このコンプレックス全体に、より恒常的に存在する要素でもある。
しかし三つともある点では同類であることは否定できないように私には思われる。
フロイトはつづけて
【この性格特性(つまり規則的、倹約、強情)は、以前に肛門性感を持った者に顕著である場合が多いが、
肛門性感の昇華『無意識の性的エネルギーが芸術的・宗教的活動など社会的価値あることに置き換えされること』の
最初に必ず現れてくる結果とみなされている】と述べている。フロイトとその後の精神分析家たちは、
倹約の別の形態は排泄物にではなく、金、汚物、財産さらには不用物の所有に関連することを示し、
さらに肛門性格は、サディズムと破壊性の特徴を示すことが多いことも指摘した。
精神分析の研究は、フロイトの発見の正しいことを多くの臨床例を通して証明してきた。
しかしながら肛門性格ないしは私の表現で言う貯蔵性格という現象の理論的解釈には、意見の相違が存在している。
フロイトのリビドー理論『性欲、性衝動による精神現象の解釈』によれば、
肛門リビドーとその昇華に働くエネルギーは、性感帯『ここでは肛門』に関連し、
排泄躾のなかにおこる個人的体験と合一した体質的要因のため、
この肛門リビドーが、それらの人々では普通人の場合よりも強いままで残存すると考えた。
私はフロイトの見解とは異なるが、それは性的リビドーの部分的衝動とみなされる肛門リビドーは、
肛門性格を発達させるダイナミックな基礎だとする十分な証拠がないからである。
私自身の研究経験によれば、肛門性格は排泄物を非常に好み、それに親しみを持つ
― それはすべて生のないものに対する強い一般的な親近感の一部である ― 人達に現れると考えるようになった。
排泄物は既に不用なものであり、最後に肉体と分離するものである。肛門性格は排泄物に非常に惹かれるが、
それと同じように生産と消費の手段としてでなく、単なる所有のために汚物、不用物、財産のような、
生には不用なすべてのものに魅惑されるのである。
こうした生きていないものに魅惑される傾向の発達する原因に関しては、なお多くの研究が必要である。
体質的な要因とは別に、両親の性格、ことに母親の性格が重要な原因であると考えるのには一理がある。
それは厳しくトイレの躾をし、子供の排泄過程に必要以上の関心を持つ母親は、
強い肛門性格、つまり生のない物に強い興味を持つ女性であり、
その子供にも同じ性向の影響を与えるであろう。
それと同時に、彼女は生の喜びを欠き、刺激に反応せず、無感覚になるであろう。
彼女の不安は往々にしてその子供に対し生への恐れを起こさせ、生きていないものへ惹きつける働きをもつ。
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換言すれば、肛門性格を形成するようになるものは、肛門リビドーに影響を与えるトイレの躾ではなくて、
生を恐れあるいは憎悪する気持ちから排泄過程に関心を向け、
多くの別の方法で子供の持つエネルギーを所有欲と貯蔵癖に変形する母親の性格にある。
フロイトの言う意味の肛門性格と、
これまで述べたネクロフィラスな性格が、非常に似ていることは、この説明から容易に理解できる。
事実この二つは生のないもの、死んだものに対する関心と親近感において同質である。
ただ類似の程度が異なっているだけである。
フロイトの言う肛門性格 ―良性の形態― という性格構造の悪性形態が、ネクロフィラスな性格であると私は考える。
このことが意味するものは、肛門性格とネクロフィラスな性格との間には明確な限界線はないということと、
この二つのうちどちらかを取り扱っているのかは決定しがたいことが多いということである。
ネクロフィラスな特性の概念を考える場合、リビドー理論に基づくフロイトの肛門性格と、
そこから死の本能という概念の生じた彼の純生物学的な考察とが結合している。
同じ関連は、フロイトの【性器的性格】の概念と生の本能の概念、
及びにバイオフィラスな性格と生の本能との間にも存在する。
これはフロイトの初期と後期の理論との間にあるギャップの橋渡しをする第一歩であり、
この仕事のすすむことが、今後の研究に待たれている。
さてネクロフィラスな【社会的】条件へ話を戻すと、次のような質問が起こってくる。
ネクロフィリアと現代産業社会の精神との間には、いかなる関係が存在するのか?
更に核戦争の原因と関連して、ネクロフィリアと生への無関心とはどういう意味を持つのか?
現代の戦争の動因となる【すべて】の面をここでは取り扱わずに
―そういう面は核戦争と同じように過去の戦争にも数多く見られたのであるが―
核戦争にかかわる【ひとつ】の実に重大な心理的問題を私は取り上げることにしよう。
これまでの戦争を合理化してきたものが何であろうと
―攻撃に対する防御か、経済的利益か、解放か栄光かそれとも生きる道の確保か―
こういう合理化は、核戦争では当てはまらないのである。防御も利益も解放も栄光も何もあったものではない。
最も【よくて】せいぜい自国の人口の半ばが、数時間とたたぬうちに灰燼に帰し、文化の中心はすべて破壊され、
生き残ったものが死者を羨むような、野蛮で獣的な生活が残るだけである。
私は、われわれを説得するために行われる次のような説を容認しがたい。
すなわち、6000 万のアメリカ人がたとえ突然滅亡するようなことがあっても、
それはわれわれアメリカの文明に深い被害を与えないだろう、とか、
核戦争が勃発してしまえば、お互いが人類の全滅を防ぐようなルールを作って戦争を行うであろう、
という合理的な考えが、敵国の中にも存続するであろう、ということである。
こういう自体にもかかわらず、これ以上抗議も大きくならず、核戦争の準備が続行されているのはなぜだろうか?
子供や孫を持つ人々が、何故大挙して立ち上がり抗議しないのか。
その理由をどのように理解すべきなのか。生きる目標がたくさん存在し、また存在するようにみえる人々が、
あらゆるものの破壊をまじめに考えているのは何故だろうか。
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説明はたくさんできる。さしあたって、次のことを抜きにしてはどれひとつとして満足な返答にはならないだろう。
すなわち【それらの人々は生を愛さないが故に、全面的破壊を恐れないのだ】とか
【彼らは生に無関心だ】からとか、更には
【多くの人は死に魅せられている】からという説明を抜きにしては。
ひとつの重要な解答は大多数の人は
大抵は意識はしないけれども
自己の個人的な生活を非常に心配しているという事実にあるように思われる。
すなわち、立身出世しようとする日常の戦いと、失敗しはしないかという不断の恐れが、
永続的な不安状態とストレス的状況をつくりあげ、
そのため一般の人々は自己と世界の存在に対する脅威を忘れているのである。
この仮説は、一般に人々は生を愛好し、死を恐れ、更には現代文明は過去のいかなる文明よりも
多くの刺激と慰安を与えているという憶測と、全く矛盾するかにみえる。
しかしそうだとするとわれわれは次のように尋ねなければならない。
すなわちわれわれの慰安や刺激は、喜びや生への愛好とは全く異なるものなのか? と。
この質問に答えるためには、私は生への愛と死への愛のオリエンテーションについて、
これまで行った分析に言及しなければならない。
生は構成されゆく生長であり、その性質そのものによって、厳格な統制や予測に従うことがない。
生の領域では、愛情や刺激や実際に在る生命力のみによって影響を与えることができる。
生は個々の現われとしてのみ、すなわち鳥や花や個々の人間においてのみ、経験されうるのである。
【集ったもの】としての生とか、抽象化された生は存在しない。
現在われわれが生に接する態度は、次第に機械的となりつつある。
われわれの主な目的は物を製造することであり、そして物を偶像視する過程において、
われわれは自己を商品に変形する。人々は員数として扱われる。
ここで問題になるのは、彼らの待遇がよく、手当てがよいかどうかということではない。
【物もまたよい待遇を受けることができる】 問題は、人々が物であるか、生命を持つものであるかということである。
ある人々は、機械装置を生命をもつものよりも愛する。人間に接する態度は知的・抽象的である。
物体としての人々、すなわちその人達の共有財産、大衆行動の統計的法則に関心を持ち、
生きた個人に対しては関心を持たない。こうしたことがすべて集まって、官僚主義的な方法の働きを増加している。
生産のための巨大なセンター、巨大都市、巨大国家においては、ひとびとはまるで物体のように支配されている。
人々とその支配者は物に変貌し、彼らは物の法則に従う。しかし人間は決して物ではないし、物になれば破滅する。
したがってそうなってしまう前に、自暴自棄となりあらゆる生を殺したいと願望する。
官僚主義的機構をもち中央集権的な産業主義においては、人々が大量に、
しかもそれが予測可能で手前味噌な方向に消費するような趣味作りが行われる。
彼らの知性や性格は、独創的で冒険的なものよりも、平凡で無難なものを選択するテストが絶えず行われ、
そのため規格化されるようになる。
事実、ヨーロッパや北アメリカの官僚的な産業主義文明は、新しいタイプの人間を創造した。
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すなわちそれは
【オーガニゼーション・マン】組織人間
【オートマトン・マン】自動機械的人間
【ホモ・コンシューメン】消費的人間 といえるものであり、更には【ホモ・メカニカス】機械的人間でもある。
それは機械的なものすべてに強く心を惹かれ、
生きているものに反撥する傾向をもつ機械部品のような人間という意味である。
人間の持つ生物学的・生理学的な構造は機械的人間をしてもなお、
性的欲望を持ち、女を求めるという強い性衝動を彼に与えていることは事実である。
しかし機械的人間の女に対する興味が漸減しつつあることは間違いない。
【ニューヨーカー】の風刺漫画に、このことを実に面白く指摘したものがあった。
女店員がある商標の香水を若い婦人に売ろうとして、こういっているのである。
【新しいスポーツ・カーのような匂いです】
事実男性の行動を観察すれば、今日、この漫画は気のきいた冗談以上の意味を持つことを認めるだろう。
スポーツ・カー、テレビ、ラジオのセット、宇宙旅行のほうが、女や恋や自然や食物よりも興味があり、
生よりも生のない機械的なものを取り扱うことに刺激される男性が、実に多いことは明らかである。
機械的人間は、大量破壊の可能性に肝を冷やし心を痛めるよりも、
数千マイル離れたところへ、数分以内で幾百万の人々を殺しうる装置に、
より誇りを感じ魅惑されている、と考えても決してこじつけではない。
【機械的人間】もまた性と酒を楽しむ。しかしこうした楽しみは、すべて機械的で生のないものの枠内で求められる。
押せば、幸福と愛情と快楽が出てくるボタンがあるに違いないと彼は期待する。
「多くの人たちは精神分析医がそのボタンのある場所を教えてくれるのではないかという幻想を抱いて訪れる」
彼は車をみるような眼で女を見る。彼はどのボタンを押せばよいか知っている。
彼は女に【レース】させうる自らの力を楽しみ、常に自分は冷たい傍観者でいる。
【機械的人間】は生に参与し、それに反応するよりは、機械の取り扱いにますます興味を持つようになる。
それ故、機械的なものに魅せられて生に無関心となり、遂には死と全面的な破壊に惹かれるようになるのである。
殺すということが、われわれの娯楽に果たしている働きを考えてみるがいい。
映画も連載漫画も新聞も、破壊とサディズムと残忍で満ち溢れており、それが面白くて仕方ないのである。
何百万という人々は平凡で快適な生活を送っている。
そして彼らには殺人であろうと、オートレースで命を落とすような事故であろうと、殺すことを見たり読んだりする以上に、
彼らを興奮させるものは何もないのだ。
これは死に対する魅惑が既に根深いものになっている微候ではないのか?
それとも【興奮して死にそうだ】とか、
あれやこれやを【死ぬほどやってみたい】とか、
【生かすわ「それは私を殺す」】という表現を考えてみるといい。
また、自動車事故の発生率にみられる生への無関心を考えてみるとよい。
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端的に言えば、知性化、定量化、抽象化、官僚化、具象化などの現代の産業社会の特徴といえるものは、
物体でなく人間に適用された場合、生の原理ではなく力学の原理となるのである。
こういう制度の中に住む人々は生には冷淡になり、死に惹きつけられさえする。
彼らはこのことに気付いていない。彼らは興奮の武者震いを生の喜びと取り違え、
所有し、使用しうるものが多いときは心ゆくまで生きていると誤解して生活している。
核戦争に対する抗議の欠如、全面破壊また半破壊のバランス・シートに関する【原子科学者】たちの議論は、
われわれが既に【死の影の谷】に深く入り込んでしまったことを示している。
こういうネクロフィラスなオリエンテーションは、
それぞれの政治構造とは無関係に、すべての現代産業社会に存在する。
ソビエトの国家資本主義が会社資本主義とこの点で共通して有するものは、
この両制度を区別する特色よりも重要である。
二つの制度共に官僚主義的・機械主義的な処理方法において共通であり、全面的な破壊をその意図としている。
生に対するネクロフィラスな蔑視と、スピードや機械的なものをすべて賞賛する傾向とが
姻戚関係にあることは、ここ数十年間の間にはじめて明らかにされたことである。
にもかかわらず、1909 年の昔、【未来派宣言】でマリネッティがこのことを簡潔に表現している。
Ⅰ.
われわれは危険を愛し、エネルギッシュで勇敢であることを歌う。
Ⅱ.
われわれの詩の原理は、勇気、大胆、反逆をモットーとする。
Ⅲ.
在来の文学の栄光は謙虚な不動性、恍惚感と眠りであった。
われわれは攻撃的な運動、熱に浮かされた不眠、
クィック・ステップ、とんぼ返り、平手打ち、殴り合いを讃えよう。
Ⅳ.
われわれは、世界の栄光は、ひとつの新しい美、すなわち速度の美によって豊かにされたと宣言する。
爆発的な息を吐く蛇にも似た太い管で飾られた自動車、
霰弾に乗って駆るかのように咆哮する自動車は【サモトラケのニーケ】よりも美しい。
Ⅴ.
われわれは軌道の上に自らを投げた地球を貫く軸を持った舵綸を握る人を歌う。
Ⅵ.
詩人は熱狂と光彩と浪費に熱中すべきである。その根源的要素たる熱狂的な情熱をかきたてるために。
Ⅶ.
争い以上に美しいものはない。攻撃なしには傑作は生まれない。
詩と歌は未知の人間に屈服させるための、激しい突撃でなければならぬ。
Ⅷ.
われわれは世紀の突端をなす岬の上にたっている。
不可能なるものの神秘の門を破らねばならぬとき、なぜ後を振り向かねばならぬか?
時間と空間は昨日既に死んだ。われわれは永遠にして普遍なる速力を創造した。
故にもはやわれわれは絶対の中に生きている。
Ⅸ.
われわれは戦争
それはこの世の唯一の健康の泉だ
軍国主義、愛国心、アナーキストの破壊力、殺すことの美的趣向、女性蔑視を讃えよう。
Ⅹ.
われわれは博物館、図書館を破壊し、道徳主義、フェミニズム、一切の便宜的、
功利的卑劣と闘おう。
31
ⅩⅠ.
われわれは労働、快楽、さては反抗によって刺激された大群衆を、
近代の首府における革命の多色多音な波動を、電気のどぎつい月の下にある
兵器廟や造船所の振動を、煙を吐く蛇を飲み込む貧楚なる停車場を、
黒鉛の束によって雲にまで連なる工場を、体操家のように日に輝く河の凶暴な刃物を
飛び越えている橋梁を、水平線を嗅いで行く冒険的な郵船を、長い筒で緊められた
鋼鉄製の巨大な馬に似てレールの上を跳躍する大きな胸をした機関車を、
プロペラの唸りが翼のはばたき、熱狂興奮した群集の喝采にも似て
滑走飛揚する飛行機の歌を歌う。
マリネッティの技術と産業に対するネクロフィラスな解釈と、ウォルト・ホイットマンの詩にみられる強い
バイオフィラスな解釈とを比較することは興味深い。
【ブルックリン渡船場を過ぎりて】の終わりで彼は次のように謳っている。
何者よりも霊的であり得ぬ存在よ、拡大せよ。
何者もより永続的であり得ぬ物象よ、その立場を守れよ。
おまえは待っていた、おまえは常に待っている、
物言い得ぬ美しい使われ者よ!牧師たちよ!
栄えよ町々よ!
おまえの船荷とおまえの装いを現せ、豊かにも満ち足りた河よ、
私たちは遂におまえを自由な感覚で受け入れ、これからは飽くことを知るまい。
最早おまえは私たちをたぶらかし得まい、私たちに抵抗することが出来まい。
私たちはおまえを役立てる、しかしおまえを放棄しない
私たちはとことはにおまえを心の中に移し植える。
私たちはおまえを計量しはしない
私たちはおまえを愛する
おまえの中にもまた完全さが備わっているのだ、
おまえは永遠に対しておまえの役目の準備をする、
大なり、小なり、おまえは魂に対しておまえの役目を準備する。
また【大道の歌】
song of the open road の終わりで、
我が子よ! 私はおまえに私の手を与える!
金よりは少し貴い私の愛をおまえに与える!
説教や法令の代わりに私はおまえに私自身を与える!
おまえもおまえ自身を私にくれないか、しかしていっしょに旅に出ないか、
生きている限りお互いにしっかり信頼しながら。
32
ホイットマンの次の詩以上に、ネクロフィリアの正反対を最も強く表現しているものはない。
【さあ行こう! おお生きていることよ、常に生きていることよ! 屍を残して行こう】
マリネッティの産業に対して示す態度と、ホイットマンのそれとを比べれば、こういった産業生産は、
生の原理と決して矛盾するものではないことが明らかになる。
問題は、生の原理が機械化の原理に従属するかどうか、
あるいはまた生の原理が支配的な原理かどうかということである。
明らかに今までのところ、
産業化した世界はここに提示されている問題に対して、回答を見出していないのである。
すなわち、今日のわれわれの生活を支配する官僚主義的産業主義に対して、
人道主義的産業主義を創造するということは、どうすれば可能であるかという問題を。
33
Ⅳ 個人のナルチシズムと社会のナルチシズム
フロイトの発見のうち、最も実り豊かで大きな影響を与えたもののひとつは、ナルチシズムの概念である。
フロイト自身も、これを自分の最も重要な発見のひとつと数え、精神病【ナルチシズム神経症】、
恋愛、去勢恐怖、嫉妬、サディズムのような明確な現象を理解するためや、
被圧迫階級が支配者に支配されやすい傾向のような大衆現象を理解するために用いたのである。
私はこの章でも引き続きフロイトの思想を辿りつつ、ナルチシズムがナショナリズムや民族的憎悪に果たす
役割を理解するため、更に、それが破壊性と戦争に対して果たす心理的動因を検討したいと思う。
ナルチシズムの概念は、ユングやアドラーの著作ではほとんど注意されなかったし、
またホルナイの著作では更に少ないという事実についてついでに触れておこう。
フロイト正統派の理論と治療においてさえ、
ナルチシズムの概念は幼児や精神病患者のナルチシズムに限定されて使用されてきたにすぎない。
この事実、すなわち、その概念の成果が十分に評価されなかったのは、
おそらく、フロイトが自分の概念をリビドー理論の枠内へ無理に押し込んだためであろう。
フロイトは、精神分裂病をリビドー理論によって理解しようとして彼の考察を始めた。
分裂病患者は対象と何らリビドー関係を持つとは考えられないので【現実においても、幻想においても】
フロイトは次第に次のような疑問を持つようになった。
【分裂病の場合、外的対象から退行したリビドーはどうなるのか?】彼は次のように考えた。
【外的世界から引 き戻されたリビドーは自我に向けられ、かくてナルチシズムと呼びうる態度が生まれてくる】
フロイトは、リビドーはあたかも【大貯蔵所】に貯蔵されるように自我の中に貯えられ、
それから対象に向かって拡大してゆくが、しかしまた簡単にその対象から引き戻されて自我へ戻る。と考えた。
1922 年フロイトはこの意見を変更し、【リビドーの大貯蔵所として、イドの概念を考えねばならない】
と述べているが、以前の見解を全く放棄したとは思われないのである。しかしながら、リビドーが元来自我に起原をもつか、
イド【精神の深奥にある本能的エネルギーの源泉、フロイトのつくった概念である】に
起原をもつかという理論的考察は、その概念の規定そのものにはそれほど本質的な問題ではない。
人間の幼児期初期における原初状態は、まだ外界と何ら関与しないナルチシズムの状態【一時的ナルチシズム】にあり、
ついで正常の発育では、子供は外界とのリビドー関係の範囲とその強さを増大させていくが、
多くの例において【その最も激しい場合は狂気である】彼は対象よりそのリビドーを自分のエゴへ引き戻そうとする
【二次的ナルチシズム】という基本的な考えを、フロイトは一度も変更しなかった。
しかし正常な発育においても、人間にはある程度は、生涯を通じてナルチシズム的状態が残存している。
正常な人におけるナルチシズムの発達とは何を指すか?
フロイトはこの発達の主要な方向を概観し、次のように述べている。以下はその要約である。
子宮内の胎児は、未だ絶対的ナルチシズムの状態で生きている。【生まれ出ることによって】とフロイトは言う。
【われわれは絶対的・自己充足的ナルチシズムから前進して、変化する外的世界を認識し、対象を発見するようになる】
かくて幼児が自分でない存在の一部として対象を認識しうるには、数ヶ月もかかる。
34
子供のナルチシズムは多くの挫折をうけ、外的世界とその法則への知識を漸次深めて、
必然的に人間は生来のナルチシズムを他体愛に発展させる。しかし、とフロイトは言う。
【人間は自己のリビドーの外的対象を発見した後でも、ある程度はナルチシズムの状態が残存する】
フロイトによれば、
事実、個人の生長とは絶対的ナルチシズムから客観的な理性と【他体愛】へと進化する能力と定義できる。
しかしながらこの能力は或る制限付きで言えることである。
【正常】の【成熟】した人は、自分のナルチシズムが完全に消滅してしまわずに、
社会的に容認できる程度まで減少している人のことなのである。
フロイトの観察は、日常の経験によって確認できる。大抵の人には、
近づき難くかつ完全に抹殺しようとしてもなかなか抹殺しにくい、ナルチシズムの芯が残っていると思われる。
フロイトの術語に十分なじんでいない人々には、より具体的にこの現象を述べなければ、
ナルチシズムの事実とその力についての明確な知識を掴むことが出来ないであろう。
私はこれからそれを試みることにしよう。とは言え、それを行う前に、この用語について少し明らかにしておきたいと思う。
ナルチシズムに関するフロイトの見解は、彼の性的リビドーの概念に基づいている。
既述したように、この機械論的なリビドーの概念は、
ナルチシズムの概念を発達させるよりは後退させることが明らかとなっている。
それを結実させうる可能性は【性】衝動のエネルギーにかえて、
心的エネルギーという概念を使用すれば、その可能性がはるかに大きいと私は信じている。
ユングがこの概念を使用し、フロイトの初期の考えの中には、
性的なものを除外したリビドーの概念が、いくらか認められたことすらある。
しかしこの性的でない心的エネルギーは、フロイトのリビドーとは異なるが、
それはリビドーのようにひとつの【エネルギー】の概念である。
またそれは表出されるときだけ見え、或る強さとある方向を持つ心的な力を指している。
このエネルギーは、個々の人間を外的世界との関係ばかりでなく、
それ自身の内部において結合し、融合し、統合する。生の衝動は別として、性本能【リビドー】のエネルギーは、
人間の行為の唯一の重要な原動力であるとするフロイト初期の見解に賛成しない人でさえも、
そしてそれに代わるに心的エネルギーなる一般概念を適用する人でも、
独断的な多くの人が信じているほどその差異は大きくはないのである。
精神分析と呼びうるものの理論や治療を基礎付ける基本点は、人間行動に関する【ダイナミック】な概念である。
すなわち、大きな負荷を持つ力は行動の原因となり、
行動はこれら諸力を理解してはじめて予測されうるという仮説なのである。
人間行動に関するこのダイナミックな概念が、フロイトの体系の中心である。
機械論的・唯物論的哲学によろうと、人道主義的リアリズムによろうと、
いかにしてこれらの力が理論的に考えられたかということは重要な問題となる。
しかしそれは、人間行動のダイナミックな解釈の中心をなす議論にとっては、二次的な問題ではあるが。
35
ナルチシズムの記述を始めるにあたり、二つの極端な実例を上げよう。
それは新生児の一時的ナルチシズムと狂人のナルチシズムである。この赤子はまだ外界とつながりを持たない
【フロイトの表現では、彼のリビドーはまだ外的対象に
カセクシス「精神的エネルギーが特定の観念とか記憶とか思考とか行動に蓄積」されることしていない】
言い方を変えれば、外的世界は赤子には存在していないし、私と私でないものを区別できないような状態である。
赤子は外界に関心を持っていないといってもよい。赤子にとって唯一の実在は赤子自身であり、
つまり赤子の体、暑さ・寒さに対する肉体的感覚、渇き、睡眠と肉体的接触に対する欲求である。
狂人は赤子と本質的には違いのない状態にある。
しかし赤子にとっては、外界は現実として【まだ現れていない】のに、
狂人にとってそれは現実では【なくなってしまった】のである。
例えば幻覚の場合、感覚は外的事件を記録する機能を喪失し
外的事象に対する感覚的反応という範疇で主観的経験を記録する。
偏執病の妄想では、同じメカニズムが作用する。例えば主観的な情緒である恐怖や疑惑は、
偏執病患者には、他人が自分に何かをたくらんでいると信じ込むことにより客観化される。
これが神経症患者と正に相違するところで、後者は絶えず憎まれ、迫害されているなどと恐れているが、
それでも自分が【恐れている】ことを知っているのである。偏執病者ではこの恐れは事実に変形してしまう。
正気と狂気との境界線にあるナルチシズムの特殊な例は、権力が異常に大きくなった人に見出される。
エジプトのファラオ、ローマのカエサル、ボルジア家の人々、ヒットラー、スターリン、トルヒリョ・モリナ
などにはある共通の特徴がある。彼らは絶対的権力を獲得した。
彼らの言葉は生と死をふくめて、あらゆる事象の究極の断定である。
自己の願望を遂行する彼らの能力には限度がないように見える。
彼らは神である。病気と年齢と死には勝てないけれど、彼らが人生の問題に解決策を求めようとするのは、
人間存在の限界を必死に超越しようと試みるからである。
自分の色欲や権力には限界がないと自惚れて、数え切れないほどの女と寝たり、無数の人々を殺したり、
【月を我が物とし】【不可能なものを手に入れよう】として、至るところに城を作る。
人間でないふりをして人生の問題を解こうとしても、それは狂気の沙汰である。
それは悩める人の生涯に生じやすい狂気である。神になろうとすればするほど、
人間から疎遠になり、そしてこの疎遠感によって彼はますます胆を冷やして、あらゆる人が彼の敵に見え、
その結果生じる恐怖に耐えるために彼は自己の権力、非情、ナルチシズムを増大しなければならない。
このカエサルの狂気は、次のようなひとつの要因がなければ、明らかな狂気以外の何物でもないといえるであろう。
その要因とは、カエサルは自己の権力によって、現実をナルチシズム的な幻想にまで歪曲したということである。
彼はすべての人に自分は神であり、もっとも強く、もっとも賢い人間であると無理に同意を強いた。
それ故、彼自身の誇大妄想は彼には合理的な感情のように映る。一方、多くの人は彼を憎み、彼を倒し、
彼を殺そうとしている。それ故、彼の病的な猜疑心には、現実的な根拠がある。その結果、
彼は現実と断絶していると感じない。そのため不安定であるが、多少とも正気を維持できるのである。
カミュはその戯曲【カリギュラ】でこの権力の狂気を、実に正確に描いた。
36
精神病は絶対的ナルチシズムの状態であり、外的現実と全く断絶し、そして自分自身を現実に対する代償とする。
彼は全く自己のことで満たされ、自分自身に対して己が神であり、世界そのものとなる。
フロイトがはじめて精神病の性質に対するダイナミックな理解への道を開拓した洞察は、正にこれなのである。
しかしながら精神病をよく知らない人々には、
神経症ないし【正常】な人に見かけるナルチシズムを述べることは必要であろう。
ナルチシズムの最も基本的な例のひとつは、普通の人々の自分自身の肉体に対する態度に表れている。
大抵の人は自分の体や顔や姿が好きで、別のより美しい他人と代わりたくないかと尋ねられると、
それに対し、実にきっぱりとノーと言う。更にいえることは、大抵の人々は、
他人の排泄物にははっきりと嫌悪の情を持つのに、自分のそれをみたり、臭いをかぐことを
ほとんど気にしない、【実際、好むものもいる】という事実である。
ここには審美的ないしは、他の判断が何ら入っていないことは全く明瞭である。
自分自身の肉体と関係があると心地よいことが、他人の肉体と関係があると不快になるのである。
今度はナルチシズムの別なもう少し珍しい例を取り扱ってみよう。
ある人が医院に電話をかけて診察の約束を求める。
医者は今週は無理だから、翌週のこれこれの日ではどうかと答える。
患者はもっと早く診て欲しいと言い張り、急ぐ理由も言わずに、
自分は医院から 5 分しか離れていないところに住んでいると言う。
医者が自分のところへあなたが来るのに時間がかからなくとも、
私の時間の問題は解決しないと返答しても、患者にはわかったような気配がない。
彼はもっと早く診てくれるのが当然だといわんばかりに、医者に主張しつづける。
もしその医者が精神病医であったなら、これは既に重要な診断をしたことになるだろう。
すなわち、その人間が相当なナルチシズムの人、つまり重症患者であることを。
その患者は医者の立場が、自分のそれとは別であるということを理解できない。
患者の視野にあるものはすべて、
医者に会いたい自分の願望と自分が行くのに時間がかからないという事実だけなのである。
自分とは別の予定と用事を持つ別個な人間としての医者は存在しないのである。
患者の論理は、自分が行くのが容易なら、医者が診断してくれるのも容易だということなのだ。
医者の最初の説明に答えて、患者が「ああ先生、勿論ですとも、馬鹿なことを申し上げてすいません」と
答えるなら、患者に対する診断も少しは変わってきただろう。
この場合もまた、自分と医者の立場を区別できないナルチシズムの人には違いないが、
最初の患者に比べてその症状は、重症ではない。注意されると自分の立場に対する現実を理解することができ、
すぐにそれに対応することができるのである。この二人目の患者は、自分の失敗に一度気付くと、まごつくだろうが、
最初の患者は全然まごつかないだろう。
彼にはこんな簡単なことがわからない鈍感な医者を、いくら酷評してもし足りない気がするであろう。
自分に反応のない女に恋するナルチシズムの人にも、同じような現象が容易に見られる。
彼には女が自分を愛していないとは、とても信じることができないのである。
37
彼は次のような理屈をつける。「僕がこんなに愛しているのに、僕を愛さないなんていうことがあろうか」とか
「彼女もまた僕を愛さなかったなら、僕がこれほど彼女を愛せないはずだ」と。
そして女が応じないのを次のように合理化する。
「彼女は無意識に僕を愛しているんだ。彼女自身の愛情が烈しいのを恐れているのだ。
僕を試して、僕を苦しめたいのだ」というふうに。前者の場合のようにここでも重要な点は、
ナルチシズムの人は他人の現実が自分の現実とは違うことが認識できないのである。
一見非常に違うけれど、しかし共にナルチシズム的な二つの現象を眺めることにしよう。
ある女性は毎日鏡の前で顔や紙を整えるのに、何時間もの時間を費やす。
それは単に虚栄心が強いということだけではない。その女性は自分の体と美貌にとりつかれ、
自分の体が彼女の知っている唯一の重要な現実なのである。彼女は傷心のあまり死んでいくニンフ、
エコーの愛を退ける美青年ナルシサスにみられるギリシャ神話の話に一番似ているだろう。
ネメシスの女神は罰として湖に映る自分の姿に恋させる。そして彼は自分の姿を讃えながら湖に落ちて死ぬ。
このような自己愛は呪いであり、極端な場合は自己破滅に陥ることを、このギリシャ神話は示している。
またヒポコンドリーにかかっているある婦人がいる。「そして何年立っても同じ状態なのだが」
彼女もまた、美しくなりたい為ではないが、病気を恐れて絶えず自分の体に心を奪われている。
積極的にしろ、消極的にしろ、自己の影像を求めるのには、勿論それなりの理由が存在するのである。
しかしここでは、それについて触れる必要はない。重要なことはこの二つの現象の背後には、
自己に対するナルチシズム的な先入観があり、外的世界にはほとんど関心が示されていないことである。
私が明らかにしようとするのは、真の自己に対する愛は他人に対する愛と異ならないということ、
利己的でナルチスティックな意味の自己愛は他人をも自分をも愛さない人々の中に見出されるということである。
【道徳的ヒポコンドリー症】は、本質的に差異がない。
ここでその人は病気になり死ぬことを恐れるのではなく、罪のあることを恐れている。
こういう人はたえず自分が間違って罪を犯していないかとか、
知らず知らずのうちに罪を容認してはいないかということに心をとられている。
外部から彼を見ると、非常に良心的かつ道徳的で、他人に気を使っているように見えるが、
事実こういう人は自分自身、自分の良心、他人の自分に対する批評などに関心を持っているのである。
肉体的・精神的ヒポコンドリー症に存在するナルチシズムは、不馴れな人には比較的見分けにくいが、
虚栄心の強い人のナルチシズムと同じである。
K・アブラハムがネガティブ・ナルチシズムという名で分類したこの種のナルチシズムは、
特にうつ状態で現れ、物足りなさ、非現実的及び自虐的な感情を特徴とする。
より軽い形では、日常の生活においてナルチスティックなオリエンテーションを見ることができる。
有名な冗談に、それがうまく表現されている。
ある作家が友人と会って長時間自分のことをしゃべった後で言う。
「僕のことをずいぶん長く話し込んでしまったね。今度は君のことを話そうや。ところで僕の最近書いた本をどう思う?」
この男は自分のことに気を取られ、自己の反響として以外には、他人にほとんど注意を払わない人間の典型である。
人助けをしたり、親切に振舞うことがたまにあっても、自分自身がそうする姿を見るのが好きだから、それをするのである。
彼のエネルギーは、今援助している人の立場にたって事を運ぶのではなくて、自己賞賛のために使われるのである。
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ナルチスティックな人は、どうして見分けられるのか?
容易にそれとわかるタイプがひとつある。それは自己満足のあらゆる兆候があらわれているような人である。
彼がつまらぬちょっとした言葉を喋るとき、
自分ではさも重大なことを話しているように思っていることが、われわれによく分ることがある。
一般に彼は他人の言葉を聞いていないし、本当の関心を示さない。
「彼が如才ないと、ことさら質問したり、関心を示してこの事実を隠そうとする」
いかなる批評に対しても過敏であることからも、ナルチスティックな人だということがわかる。
この過敏さはどんな批評の正しさをも否定し、また、いかりや抑うつを伴った反応としてあらわれる。
ナルチスティックなオリエンテーションは、内気と謙遜の態度の背後に隠されている可能性が多い。
事実、自己礼賛の対象として、
謙虚な態度を示すというナルチスティックなオリエンテーションを、人に見かけることは稀ではない。
ナルチシズムがどのように現れようと、外界に対して真の反応を欠如することは、ナルチシズムのあらゆる形に共通である。
己惚れの強いナルチスティックな人と、自己評価の低い人とを区別するのは難しいことがある。
後者は賛美と賞賛を欲することが多い。その理由は他人に関心を持たないからではなく、自己疑惑と自己評価が低いためである。
その判別が必ずしも容易でないものがもうひとつある。
それはナルチシズムとエゴチズムの区分である。強度のナルチシズムは現実を十分に経験する能力がないことを意味する。
強度のエゴチズムは他人に対して関心、愛情または共感をほとんど持たないことを意味するが、
主観的過程の過大評価を必ずしも意味するものではない。
言い換えると、極端なエゴチストは必ずしも極端なナルチスティックというわけではない。すなわち、
自己中心的であることは必ずしも、客観的真実に対して盲目ではないのである。
時には、ナルチスティックな人は、顔の表情でそれとわかることがある。或る人にはきざっぽく、
別の人には幸福そうで信じやすい、子供っぽくさえ見えるような印象を与える微笑や、紅潮の見られることが多い。
往々にしてナルチシズムは、ことにその極端な例では、
聖者に近い微笑とも、または狂人に近い微笑ともとれるような特殊な眼の輝きとなって現れる。
非常にナルチスティックな人は絶え間なく喋ることが多く、時には食事時もそれをやり、
そのため自分は食べることを忘れ、他の人々も待たせることになる。
仲間の食べ物は、自分の【自我】よりその重要性が低いのである。
ナルチスティックな人は、必ずしも【全体としての自己】をそのナルチシズムの対象におくのではない。
しばしば自分のパースナリティの一部分に、ナルチシズムをカセクシスする。
例えば自分の名誉、知力、勇気、機智、美貌、「髪や鼻というような局所にしぼることさえある」など。
時にはそのナルチシズムは心配性で危険をとり越し苦労するような、普通自慢にならないような性質にまで及んでいる。
彼は彼の部分と同一視されるようになる。彼とは誰かと問えば、
彼とは彼の頭脳、彼の名声、彼の富、彼の性器、彼の良心、等々であるということにまさしくなるだろう。
さまざまな宗教の偶像は全て、人間のさまざまな一面を表している。
ナルチスティックな人の場合、そのナルチシズムの対象となるものは、
彼にとって彼自身を構成するこれら部分的な一面のどれでもよいのである。
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自分がその所有物で代表されているような人は、威厳を犯すものは我慢できても、
自分の所有物に対する脅威は、自分の生命を脅かすものとなる。
ところで一方、自分がその知性で代表される人にとっては、何か馬鹿なことを言ってしまったという事実は
非常に彼を苦しめ、その結果ひどく憂鬱な気分に陥りやすい。
しかしながら、ナルチシズムの程度が強くなればなるほど、ナルチスティックな人は失敗の事実を認めたり、
他人の正当な批判を受け入れられなくなる。他人の侮辱的行為に憤慨するか、
相手は無分別で無教育等々のため正当な判断ができないのだと感じるにすぎない
(これと関連して、頭はよいがナルチスティックなひとりの人のことを私は思い出す。
その人は自分の受けたロール・シャッハ・テストの結果について、
自分が心に描く自己の理想像に程遠い事を知ったとき、このテストをした心理学者は気の毒な人だ。
きっと偏執病に違いない。と言った。)
さて、ナルチシズム現象を複雑にしている別の要因について言及せねばならない。
ナルチスティックな人が自己像を自分のナルチスティックな愛着の対象としているのと同様に、
彼は自分の関連のある全てのものに同じ愛着を示す。
【自分】の概念、【自分】の知識、【自分】の家、更に【自分の興味範囲】にある人々もまた、
彼のナルチスティックな愛着の対象となる。フロイトが指摘したように、
最もよく見られるものは、自分の子供に対するナルチスティックな愛着であろう。
多くの親は、自分の子供は他人の子供に比べてひじょうに美しく、聡明である等々と信じている。
子供が幼ければ幼いほど、このナルチスティックな偏見はますます強くなる。
両親の愛、特に幼児に対する母親の愛は、かなりの程度、自己拡大としての幼児への愛である。
男と女の大人の愛にもまた、このナルチスティックな性質を帯びるものが多い。
女を愛する男は、彼女が一旦彼のものとなると自分のナルチシズムを彼女に転移する。
彼は彼女に付与しえた性質のせいで、彼女を賞賛したり崇拝したりする。
すなわち彼女が自分の一部であるという正にその理由で、彼女は驚くべき素質の持ち主となるのである。
この種の男はまた自分の持ち物は何でもすばらしいと思うことが多く、それらに【恋する】のである。
ナルチシズムは、その強度において多くの人の場合、性的欲求や生存欲求にも匹敵しうる熱情である。
事実、その両者よりも強いことが立証される場合がたくさんある。
それほど強くない普通の人の場合でも、殆ど破壊し難くさえ見えるナルチスティックな核が残っている。
そういうわけで性と生存と同じように、ナルチスティックな熱情もまた、
ある種の重要な【生物学的機能】を有するのではないかと考えられるかもしれない。
一旦この疑問を起こすと、その回答は簡単である。
それぞれの個人は自己の肉体的欲求、関心、欲望に大きなエネルギーが負荷されなければ、
どうして生きつづけてゆくことができるのか?生物学的に生を保持するという見地から見て、
人は他の何人よりもはるかに高い重要性を自分に付与しなければならない。
もしそうでなければ、他人から自己を守り、自己の存在のために働き、自分の生存のために戦い、
他人の主張に対抗して自己の主張を貫くエネルギーと関心を、一体どこから彼は手に入れるのだろうか?
40
ナルチシズムがなければ彼は聖人になれるかも知れない。― だが聖人は生存率が高いか?
精神的な見地から見て、一番望まれること、すなわち
ナルチシズムの欠如ということは、逆に生存という世俗的見地からみて実に危険であろう。
目的論的にいえば、自然は人間が生存のため必要なことをなしうるために、
多量のナルチシズムを与えずにおかなかったといいうるのである。
自然は人間に、動物のような発達した才能を与えなかったからこそ、このことは特に正しいのである。
動物ではその固有の本能は、努力する必要があるかないかと考えたり、決定したりする必要がないような
形態をとって生存のために働くので、そういった意味で生存の【問題意識】を持つことがない。
これに反して、人間の場合、本能という装置はその本来の能力を殆ど失っている。
それ故、ナルチシズムは非常に必要な生物学的機能の役割を果たすようになるのである。
しかしながら、ナルチシズムが重要な生物学的機能を果たすことを一旦認めると、また別の問題が生まれてくる。
極端なナルチシズムは人をして他人に対して冷淡にし、
また他人との協調が必要なとき自己の欲求を二の次にできなくなるように働くのではいか?
ナルチシズムは人を非社会的に、そして事実、これが極端になると狂気にするのではないか?
ひじょうにその程度の強い個人のナルチシズムが全ての社会生活にとって強い障害となることは疑う余地がない。
しかしもしそうとしても、ナルチシズムは生存の原理と【葛藤】しなければならぬと考えられる。
というのは個々の人間は集団の中に自己を組み込むことによって、はじめて生存しうるからであり、
唯ひとりぽッちでは自然の脅威から身を守りえないだろうし、
集団の中においてのみはじめて成しうる多くの仕事をも遂行できないであろう。
このようにしてわれわれは、ナルチシズムが生存にとって必要であり、
それと同時に生存にとって脅威でもあるという逆説的な結果に到達する。
この逆説を解決するには二つの方向がある。
ひとつは量的に【最大の】ナルチシズムよりはむしろ質的に【最適の】ナルチシズムの方が生存に役立つということである。
つまり生物学的に必要な程度のナルチシズムは、社会的強調と両立しうる程度のナルチシズムに還元されるのである。
もうひとつの事実は、個人のナルチシズムは集団のナルチシズムに変形され、
個人の代わりに血族、国家、宗教、人種などがナルチスティックな熱情の対象となるということである。
こうしてナルチスティックなエネルギーは個人の生存のためよりは、集団の生存のために用いられるよう保存されていく。
集団ナルチシズムとその社会的機能の問題を取り扱う前に、【ナルチシズムの病理学】を論じようと思う。
ナルチスティックな愛着が最も危険な形になって現れるのは、合理的判断を歪めるということである。
ナルチスティックな愛着の対象は、客観的な価値判断に基づくのではなく、
それが私または私のものであるが故に価値がある。(善い、美しい、賢いなど)と考えられる。
ナルチスティックな価値判断は、偏見に基づくが故に歪んでいる。
一般には、この偏見は何らかの形で合理化され、
この合理化はその人の知性と詭弁の程度によって、多少なりとも誤魔化されやすいのである。
41
酔っ払いのナルチシズムの場合、その歪みは一般に明瞭に見られる。
われわれにうつるのは皮相的で当然のことを喋っているにすぎないのに、
当人は驚くほど興味深い話をしているような態度や語調で喋る。
本人は陶酔した【世界一】の主観的感情を持つが、実際は自画自賛の状態にあるといえる。
といってもナルチスティックな傾向の強い人の言葉が、常にうるさいということばかりではない。
才能があり聡明であれば、面白いアイデアを考え出すだろうし、
彼がそのアイデアを高く評価してるとすれば、その判断は全く間違いとはいえないだろう。
しかしナルチスティックな人は自分の作り出したものを、どうしても高く評価しがちであり、
そのものの本質は、この評価とは大分ずれがあるのである。
(ネガティブ・ナルチシズムの場合は、全くその正反対である。こういう人は自分のものを
全て過小評価しがちで、その判断には同じように偏見が入る)
自己のナルチスティックな判断の歪みに気付いていれば、
それから生ずる結果はそれほど悪くはならなかっただろう。
自分のナルチスティックな偏見にユーモラスな態度をとっただろうし― また取りうることができた。
しかしこうした場合は珍しいのである。
一般にこれらの人は、偏見がなく、自分の判断は客観的で真実だと確信している。
そのため思考したり判断したりする能力を非常に歪めるという結果になる。
なぜなら、この種の能力は自分や自己のものばかりに関与していると鈍化されてくるからである。
それと同じように、ナルチスティックな人の判断は自分以外の他人や、自分のものでないものに対しても偏見を持つ。
異質の私でない世界は劣等で、危険で、不道徳である。
それ故ナルチスティックな人は最後には非常に歪められた人間になってしまう。
彼と彼のものを過大評価する。外界のものには全て過小評価する。
理性と客観性が大きく損なわれることは明らかである。
ナルチシズムのより一層危険な病理学的要素としては、
ナルチスティックにカセクシスした立場の批判に対する情緒的反応にそれをみることができる。
正常の場合、自分の言動が批判されても、その批判が公平で悪意がなければ腹を立てない。
ところがナルチスティックな人は、自分が批判されると非常に立腹する。
自分のナルチスティックな性質のため、その批判が正しいと想像もできず、悪意ある攻撃だととりがちである。
ナルチスティックな人は世界と関係を持たず、その結果ひとりぽッちで、
そのため物事に驚きやすいということを念頭に入れると、はじめて彼の怒りの激しさはよく理解できるのである。
彼のナルチスティックな己惚れによって代償されるのは、正にこの孤独感と恐怖である。
彼即ち世界であれば、彼を驚かしうる外界は存在しない。彼即ち物であれば、彼は孤独ではない。
それ故彼のナルチシズムが傷つくと、彼は自分の全存在が脅迫されているように感ずる。
彼の驚愕と己惚れから身を守る物が脅かされると、それに対する恐怖が出現し、やがてははげしい憤りとなって現れる。
この憤りは、その脅威を減らしうる適当な何物もないために、一層はげしい。
その批評する人か自分を破壊するほかには、その人のナルチスティックな安全を守るものはないのである。
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傷つけられたナルチシズムのために生じた激怒に代わりうるものが唯一つある。
それは【抑うつ】である。ナルチスティックな人は、慢心によって自分は自分である意味を獲得する。
外界は彼にとっては問題ではなく、彼はその力に降伏することはない。
なぜなら彼は世界そのものであり、全知全能だと感じうる状態になりえたからである。
ひとたび彼のナルチシズムが傷つけられ
―例えば彼を批評する者に対して、彼の立場が主観的あるいは客観的に弱くなるような場合に―
理由はともあれ、立腹することができなければ、彼はうつ状態になる。彼は世界に関与せず、また関心を示さない。
即ち彼は何物でも何人でもない、というのは、彼は外界との関与における中心として自我を発展させていないからだ。
彼のナルチシズムがひどく傷つけられ、もはや維持できなくなれば、
彼の自我は崩壊し、この崩壊の主観的反射が抑うつの感情となる。
憂鬱症を訴える要因は、私の意見では既に死んだ素晴らしい【私】のナルチスティックな影像のためであり、
そのために抑うつされた人は憂鬱を訴えるのである。
ナルチスティックな人が必死にこういう傷を避けようとするのは、
彼のナルチシズムの傷により生じる抑うつ状態を、彼が恐れるからに他ならない。
これを克服する方法はいくつかある。ひとつは外部からの批評や失敗が、
なんらナルチスティックな状態に作用しないようにナルチシズムを増大させることである。
言い換えれば、ナルチシズムの強さが脅威を防ぐために増加する。このことは勿論、精神的にはより重症となり、
精神病になってまでも抑うつの脅威から身を守ろうとすることを意味している。
しかしながら他人には一層危険だが、その人自身にはより満足のいく、
ナルチシズムに対する脅威を解決する方法がもうひとつある。その方法は、
現実をある程度まで自分のナルチスティックな自己像と一致するよう変形を企てることである。
この一例としては、自分が【永久運動器】を ―その過程でちょっとした発見をしたにすぎないのに― 発明したと信じている
ナルチスティックな発明家の場合がそうである。
より重要な解決法は誰か他人の同意を獲得すること、そしてできれば、何百万という人の同意を得ることにある。
前者は【二者の愚考】
(ある種の結婚や友情はこれが基礎となっている。)であるが、
後者は何百万という人の喝采と賛同を得て、自己に潜在する精神病の発生を防ごうとする公人がそれである。
後者の例として最もよく知られているのは、ヒットラーである。
ここには、何百万という人に自分の描いた姿を信じさせたり、【第三帝国】の黄金時代についての
誇大な幻想をまじめに持たせ、彼の部下たちには自己の正義を立証させたような仕方で、
現実を変形することに万一成功していなかったなら、
彼はおそらく精神病者という診断を下されていたと思われる最も重症のナルチストであった。
彼は失脚後自殺せずにはおれなかった、それはもし自殺しなければ、
彼のナルチスティックな影像の崩壊に直面して、それに耐えうることができなかったであろうから。
自分のナルチシズムに適合するように世界を変形して、
そのナルチシズムを治療した誇大妄想狂の指導者は史上ほかにも存在する。
彼らは正気の声が与える脅威に耐えきれず、一切の批判者を破壊しようとせずにはいられないのである。
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カリギュラ、ネロからスターリン、ヒットラーにいたるまで、彼らが自分たちの信者を発見し、
現実を自己のナルチシズムに適合するよう変貌し、一切の批判を破壊することに必死になったのは、
正にそれが狂気になるのを防ぐためであった、ということがわかる。
逆説的にはこういう指導者の狂気の要素が、彼らを成功させることにもなっている。
その要素が彼らに確実さと、一般の人々に強く印象づけた疑惑から開放することにもなるのである。
言うまでもなく、世界を変形させ自己の思想と妄想を他人たちに共有させたいという欲求は、
精神病であろうとなかろうと、一般の人にはない才能と資質とを必要とする。
ナルチシズムの病理学を論じる場合、
二種類のナルチシズム 【良性型】と【悪性型】 を区別することが大切である。
良性の場合ナルチシズムの対象は、その人の努力の結果なのである。
そういうわけで、例えばその人は一人の大工として、一人の科学者として、あるいは一人の農夫としての
自分の仕事にナルチスティックな誇りを持つであろう。
彼のナルチシズムの対象は自分で努力せねばならぬものであるから、
【自己】の仕事や【自己】の業績に対する排他的な関心と、
仕事そのものの持つ過程や取り扱う素材への関心とは、たえず平衡を保っている。
このようにして良性型のナルチシズムのダイナミックスは、自己を抑制するのである。
仕事を推進するエネルギーは大部分ナルチスティックな性質のものであるが、
仕事自体が現実と関係を持つことを必要とするため、たえずナルチシズムを抑制しその限界内に踏みとどまらせている。
このメカニズムは、非常に多くのナルチシズム的な傾向を有する人が、
同時に高度の想像力を持つ理由を説明しているだろう。
悪性型のナルチシズムの場合、その対象となるものは、その人の行為や制作した物ではなくて、
彼が【所有する】ものである。例えばその肉体、容貌、健康、富などがそれである。
この種の悪性のナルチシズムは、先に述べた良性型に存在する中和的性質を欠いている。
もし私が私の成就するもののためでなく、私の【持っている】もののために【偉大】なのであれば、
誰に対しても、何に対しても関係を持つ必要はなくなり、何の努力も要らなくなる。
自分の偉大な姿を維持しようとして、私は次第に現実から遠ざかり、
私のナルチシズムによりふくれゆく自我が、私の空虚な想像の産物であることが暴露されないように
うまく身を守るため、ナルチシズムを更に充実しなければならなくなる。
こうして悪性のナルチシズムは自己制限を加えず、その結果世間嫌いになるばかりでなく、
素朴な唯我論的なものになってしまう。
何かを成就したことのある人は、他人が同様なことを同じ方法で成し遂げた事実を認めずにはおれない。
例え自己のナルチシズムのため、自分が成就したものが他人のそれより優れていると思い込み得たとしても。
何物をも成就したことのない人には、他人の仕事を評価することは難しく、
それ故次第にナルチスティックな栄光の中へと自らを孤立せざるを得なくなるのである。
これまでは個人のナルチシズムのダイナミックスについて、その現象、その生物学的機能、
及びその病理学を述べてきた。以上のことから
【社会のナルチシズム】現象と、それが暴力や戦争の原点として果たす役割へと当然理解を進めなければならぬ。
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次の議論の中心点は、個人のナルチシズムを集団のそれへと変貌する現象である。
先ず個人のナルチシズムの生物学的機能と平行する集団ナルチシズムの社会学的機能の観察から始めることにしよう。
生き長らえようとする組織集団では、集団がその成員からナルチスティックなエネルギーを与えられることが大切である。
集団の生存にはある程度、その成員が集団の意義を自分の生命と同程度か、
またはより大切であると考え、更に他集団と較べ自分たちの集団が正しいか、
優秀であるとさえ信じている事実に基づいている。
集団にこの種のナルチシズムのカセクシスがなければ、その集団に寄与し、或いは
そのために大きな犠牲を払うことすらある必要なエネルギーは、非常に減少したことであろう。
集団ナルチシズムのダイナミックスには、個人のナルチシズムに関連して既述したと同じような現象が見られる。
ここでもまた良性型と悪性型のナルチシズムを区別することができる。
集団ナルチシズムが何かを達成しようとすれば、既述したのと同じ弁証法的過程が生まれてくる。
何か創造的なものを成就しようとする要求そのものが、その集団をして、
唯我論の閉鎖サークルを離れ、その集団が達成しようとする対象に関心を持つことを必要ならしめる。
【集団の求めるものが征服であれば、真に生産的な努力により生ずるすぐれた効果は勿論失われよう】
反対に、集団ナルチシズムが現状のままの集団、
その栄光、過去の業績、その成員の肉体的なものを対象とするならば、先に考えた傾向は発達せず、
ナルチスティックなオリエンテーションはそれに由来する危険は、徐々に増大するだろう。
勿論実際にはこの二つの要素は混在することが多いのである。
これまで言及していない集団ナルチシズムの社会学的機能がもうひとつある。
その構成成員の多くに満足を与えないような社会は、成員に存在する不満を除去するために、
悪性型のナルチスティックな満足感を彼らに与えなければならない。
経済的・文化的に貧困な人々にとっては、
その集団に帰属するために生まれるナルチスティックな誇りこそが、
唯一のそしてそれは非常に効果的なことが多い、満足感なのである。
人生が面白くなくまた興味を持ちうる期待がないからこそ、
彼らには強いナルチシズムが発達してくるのである。
最近におけるこの現象のよき例は、ヒットラーのドイツに見られたし、
現在のアメリカ南部に見られる人種問題のナルチシズムにもそれがみられる。
両者とも人種的優越感の核は中産下層階級であったし、現代でもそのことは同じである。
この後進階級は アメリカ南部でもドイツでも、経済的にも文化的にも 被搾取階級であるが
その状況を変化しうるような現実的希望は全くないのに
【彼らは社会の老化形態、退化形態の遺物であるために】唯一の満足しかもち得ないのである。
即ちわれわれは世界で最優秀の種族であり、劣等種族と考えられる他の種族よりは優秀であるという
慢心から生まれた自己像である。こういう後進集団の成員は次のように感じている。
【私は貧乏で教養はなくとも、世界で一番立派な集団に属しているから重要な存在である。つまり私は白人なのだ】とか
【私は(ユダヤ人ではなく)アーリア人だ】と。
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集団ナルチシズムは、個人のナルチシズムより発見することが難しい。
仮にある人が他人に
【私と(私の家族)は世界で一番素晴らしい人間です。私たちだけが清潔で聡明で優秀で、その上上品です。
他の人はみな不潔で馬鹿で不正直で責任感がありません】といえば、
大抵の人々はその人を無神経で、バランスの崩れた人だとか、または気狂いだとさえ思うだろう。
然るに狂信的な演説家が、【私】と【私の家族】を国家【或いは民族、宗教、政党等】に代えて、
大衆にその優越性を語れば、その人は国家愛と神への愛などのために多くの人によって賞賛され敬愛される。
しかし他国民や他宗教は、自分たちが軽蔑されているという明白な理由から、この種の演説には激怒するのが普通である。
しかし友好集団の中では、各個人のナルチシズムはおもねられ、
幾百万の人々がそれに同意しているという事実から、その演説が一見正当のように見えるのである。
【多くの人達が正当であると考えることは、
全部ではないにしても殆どの人から同意されているということであり、
多くの人達にとって正当であることは、理性とは何の関係もなく世論と関係をもっている。】
統一体としての集団が、存在を保持してゆくために集団ナルチシズムを必要とする限り、
ますますそれはナルチシズム的傾向を助長し、自分たちは特に秀でているという資質を彼らに付与するのである。
ナルチスティックな傾向が集団に広まる方法は、歴史を通じてその構造と大きさにさまざまなものがある。
即ち未開種族や未開血族の場合は、数百人の成員を含むに過ぎないから、
そこでは個人はまだ個としての自覚を持たず、
まだ分離し難い原始的な結合によって血縁グループと結びついている。
このようにして、血族に含まれるナルチシズムは、その成員が情緒的に未だ
その所属する血族以外では存在しないという事実によって強化されるのである。
人間の発展には、たえず増大する社会化の方向が見られる。
即ち同じ血縁を持つ小集団は、共通の言語、共通の社会秩序、共通の信仰をもったより大きな集団に抱合されていく。
比較的大きな集団が、ナルチシズムの病理学的性質が少ないということは必ずしもあたっていない。
先に述べたような【白人】や【アーリア人】といった種類の集団ナルチシズムは、
個人の強烈なナルチシズムの場合と同じように悪性である。
だが一般には、より大きな集団を形成しようとする社会化過程においては、
血の結合以外に多くの多民族や異民族の人々と協力する必要があり、
それは集団内のナルチスティックな傾向と逆向きの作用をする。
同じことは個人の良性型のナルチシズムにおいても述べたが、それは集団の場合にも当てはまるのである。
すなわち集団【国民、国家、宗教】が物的・知的・芸術的な分野で何か価値のあるものを成就することを
ナルチスティックな誇りの対象としているかぎり、これらの分野における仕事の過程そのものが、
ナルチスティックな傾向を弱化するように作用するのである。
ローマン・カソリック教会の歴史は、大集団内におけるナルチシズムとその逆作用する力が、特殊混合した一例といえよう。
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カソリック教会内のナルチシズムと逆向きの要素は、
何よりも人間の普遍性と普遍的宗教の概念であって、これはもはや特定の種族や国民の宗教ではない。
第二に、主という考えと、偶像の否定からくる自己卑下の考えがある。
主の存在は人間は主になりえず、誰も全知全能ではあり得ないという意味を含んでいる。
このようにして、人間のナルチスティックな自己の偶像化には一定の限界がある。
しかしそれと同時に教会そのものには、強いナルチシズムが育っていた。すなわち、
教会は救済をうける唯一の機会をもつところ、法王はキリストの代理人であると考えられ、
彼らはこの比類ない制度の成員であるという強度のナルチシズムを育成することができた。
同じことが主についても起こった。主の全知全能が人間の自己卑下を生んだけれど、
往々にして個人は自己を主と同一視し、
この同一視の過程において異常なほど強いナルチシズムを発達させたのである。
ナルチスティックな働きとそうでないものとの間に見られるこの曖昧さは、他の大宗教全てに起こっている。
例えば仏教、ユダヤ教、イスラム教、プロテスタントなどである。
私がカソリックの宗教をあげたのは、それが周知の例であるばかりでなく、
ローマン・カソリック教は主としてヒューマニズムと、
歴史的にみてそれと同時期【
15,6 世紀】に発生した強烈な狂信的、宗教的ナルチシズムとの両者に、
その基礎を持っているからである。
教会内及び教会外のヒューマニストたちは、キリスト教の根源であるヒューマニズムの名において説教した。
ニコラウス・クサヌスは万人のための宗教的寛容を説教した。【信仰の安らぎについて】
フィチーノは愛があらゆる創造の根源的な力であると教えた【愛について】
エラスムスはお互いの寛容と、教会の民主化を唱えた。
非国教徒トーマス・モアは、普遍救済説と人間の団結という主義のため死んだ。
ニコラウスとエラスムスの教えをもとにポステルは、地球の平和と世界の団結を説いた。
ピコ・デラ・ミランドラの教えに忠実なシキュロは、
人間の尊厳と理性の美徳、自己完成の能力を情熱的に説いた。
これらの人々は、キリスト教的ヒューマニズムの土壌から生長した多くの人達と共に、
普遍と友愛と尊厳と理性の名において語った。彼らは寛容と平和のために闘ったのである。
狂信的努力、すなわちルーテル派と教会派の勢力が彼らと対立した。
ヒューマニストたちは破局を避けようと努めたが、結局はこの二つの狂信者たちが勝利を収めた。
あの悲惨な 30 年戦争で絶頂に達した宗教的迫害と宗教戦争の惨状は、
ヒューマニズムの発展には打撃となった。そしてその打撃からヨーロッパは未だ回復していないのである。
【それから300 年後、社会主義ヒューマニズムを破壊したスターリニズムを考えるとき、その類似を考えずにいられない】
16,7 世紀の宗教的憎悪を振り返ってみると、はっきりとその不合理が読み取れる。両者とも、
主及び愛の名において説教したが、一般原則を比較してみると、その差異は二次的な重要性しかもっていない。
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しかも彼らはお互いに憎悪し、
それぞれがヒューマニティは自分たちの宗教的信仰の中にのみ存在すると確信したのである。
自分の立場を過大評価するという本質ならびに、自己と異なる全てのものに対する憎悪はナルチシズムの通例である。
【われわれ】は賞賛すべきものであり、【彼ら】は卑しむものである。
【われわれ】は善であり、【彼ら】は悪である。
自己の教義に対する批判は全て邪悪で、我慢できない攻撃であり、他人の立場を批判することは、
彼らにとっては真実へ引き戻そうとする善意の試みなのである。
ルネサンス以後、
集団ナルチシズムとヒューマニズムという矛盾する二大勢力がそれぞれ独自の方法で発達してきた。
不幸にも集団ナルチシズムの発達が、ヒューマニズムのそれよりはるかに優勢であった。
中世末期とルネサンス時代、ヨーロッパには政治的ならびに宗教的ヒューマニズムが出現するかに見えたが、
その期待は裏切られたのである。新しい形態の集団ナルチシズムが出現し、それからの数百年を支配した。
この集団ナルチシズムはさまざまな形態で現れた。
またそれはカトリック対プロテスタント、ドイツ人対フランス人、黒人対白人、ユダヤ人対ヨーロッパ人、
資本家対共産主義者と、その中身はさまざまであるが、心理的には同じような
ナルチシズム現象ならびにそれに由来する狂信主義と破壊性がそれに関与しているのである。
組合支部や小宗団、学閥等のような小集団に現れる無害な集団ナルチシズムは他にも例が多い。
この場合のナルチシズムの程度はそれより大きい集団の場合より小さくはないが、
そのナルチシズムは関係する集団に作用する力が弱いという理由によって、危険は少ないのである。
それ故害を及ぼす力も弱いのである。
集団ナルチシズムが成長した間に、その相手のヒューマニズムもまた発展した。
18,9 世紀にはスピノザ、ライプニッツ、ルソー、ヘルダー、カントよりゲーテ、マルクスに至る。
人類はひとつであり、個々の人間は自己の内部に全人類を担っており、
自らの特権を生来の優越性にあるとするような特権階級は存在しない、という思想が発達した。
第一次世界大戦はヒューマニズムへの強い打撃であった。そして集団ナルチシズムの愚行が次第に増大していった。
すなわち第一次世界大戦の交戦国全てにおいて、民族的ヒステリー現象、ヒットラーの人種主義、
スターリン一派の偶像崇拝、マホメット教とヒンズー教の狂信、西欧の狂信的反共産主義などがそれである。
こういう集団ナルチシズムがさまざまに現れることにより、世界は全面破壊の深淵にさらされてしまったのである。
このヒューマニズムへの脅威に対する反応として、
ヒューマニズムの再興が現代の全ての諸国家と代表的なイデオロギー諸派の間に認められる。
すなわちカトリックとプロテスタントの神学者の間や社会主義・反社会主義哲学者の間に、急進的ヒューマニストたちが
存在している。全面破壊への危機とネオ・ヒューマニズムの考え、更に新しいコミュニケーションの方法により、
全人類の間に創造された絆が、集団ナルチシズムの影響を阻止するだけ果たして強いものであるかどうかは、
人類の運命を決定する大きな問題であろう。
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集団ナルチシズムがますます強くなっていくことは、
―宗教的なものから民族的、人種的、党派的なナルチシズムへと移行するにすぎないが―本当に驚くべき現象である。
その理由は何よりも先ず、先に述べたルネサンス以来のヒューマニストの勢力が発展したからである。
更には、ナルチシズムを浸蝕する科学的思考の進化のせいである。
科学的方法は客観性とリアリズムを必要とし、
世界をあるがままにみて、自己の欲求や恐怖によって歪曲されないことを要求する。
また事実に対し謙虚であり、全知全能の希望を捨てることを要求する。
批判的考察、実験、証明の必要、更には疑問をもつ態度など、これらは科学的探究に特有のものであって、
正にナルチスティックなオリエンテーションとは正反対の思考方法である。
疑いもなく科学的思考方法は現代のネオ・ヒューマニズムの発達に影響を与えた。
そして今日の優れた自然科学者たちが、殆どヒューマニストであるのは決して偶然ではない。
しかし西欧の大多数の人々は、専門学校や大学で科学的方法を【学んだ】けれど、
科学的方法や批判的思考に殆ど影響されなかった。
自然科学分野の専門家でさえも、その多くは【技術家】にとどまっていて、【科学的態度】を身に付けなかった。
殆どの人には、彼らが教わった科学的方法は、たいした意味をもたなかったのである。
高等教育は個人のナルチシズムならびに集団のナルチシズムをある程度緩和し、
是正する傾向をもったといってよいが、また【教育を受けた】人々の殆どが、
現代の集団ナルチシズムに現れる民族的、人種的、政治的運動への熱狂的参加を阻止し得なかった。
反対に科学はナルチシズムの新しい対象 ―【技術】を想像したように思われる。
その昔、夢想だにしなかった事物の世界の創造者であり、ラジオ、テレビ、原子力、宇宙旅行の発見者であり、
そしてまた地球全体を破壊する力の所有者でさえあるという人間のナルチスティックな誇りは、
ナルチスティックな自己慢心の新たなる対象となったのである。
現代史におけるナルチシズムの発達の全ての問題の研究を通して、フロイトの言葉が思い出されるのである。
それはコペルニクスとダーウィンとフロイト自身が、宇宙における人間独自の役割と、
基本的で不可逆的な実在としての自己の意識への信念の土台を崩壊させることによって、
人間のナルチシズムに深い傷を与えたという事実である。
しかし人間のナルチシズムはこのように傷を受けたが、考えられるほど大きな痛手ではなかった。
人間は他の対象に自分のナルチシズムを移そうとしたのである。
すなわち国民、民族、政治的信条、技術等々に。
【集団ナルチシズムの病理学】からみて、最も明瞭でよく見受けられる兆候は、
個人のナルチシズムの場合におけるように客観性と合理的判断に欠くことである。
黒人に対する下層階級の白人の判断、ユダヤ人に関するナチの評価を考えるとき、
これらが歪曲された性質のものであることは容易に判別できるだろう。
真実のかけらが寄り集まっているが、かくして形成された全体は虚偽と虚構を構成するようになる。
ナルチスティックな自己讃美に基づく政治行動は、その客観性の欠如のために悲惨な結果に終わることが多い。
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二十世紀の前半に民族的ナルチシズムの結果と考えられる特筆すべき事例二つを、われわれは目の当りに見てきた。
第一次世界大戦の大分前まで、フランス陸軍には重砲や機関銃はそれほど必要ではないという主張が、
フランスの正式の戦略方針であったし、また事実フランス軍人はフランス人特有の勇気と攻撃精神を
持っているので、敵を破るには銃剣で十分であると思われていた。
しかし現実には幾十万のフランス軍人はドイツ軍の機関銃で薙倒され、ドイツ軍の戦略的誤算と、
後に立ち上がったアメリカ軍の援助によって、わずかに敗北を免れたにすぎないのであった。
第二次世界大戦でドイツは同じような間違いを犯した。
個人的ナルチシズムの非常に強かったヒットラーは、幾百万のドイツ人の集団ナルチシズムの
発達を刺激したが、それはドイツの力を過信したばかりでなく、
合衆国の力と、ロシアの冬をも過小評価する結果となったのである。
もう一人のナルチスティックな将軍ナポレオンと同じように、
小賢しくはあったがヒットラーは客観的に現実を眺めることができなかった、なぜなら勝利を収め支配したい願望が、
自己の軍事力や気候的な条件に関する現実よりも、彼には強く作用したからである。
集団のナルチシズムには個人のナルチシズムと同じように、満足感が必要である。
この満足感は、ある面では、自己の集団が優秀で、
それ以外の集団は全部劣等であるという共通のイデオロギーによってあれわれてくる。
宗教集団の場合はこの満足感は
私の集団は神を信じる唯一のものであるという仮定により、簡単に与えられるのである。
したがって私の神は唯一の真実な神であるから、
他の集団は全部誤って入信させられた不信人者の集まりなのである。
しかし自分の優越性を証明するための神にふれなくとも、
集団ナルチシズムは非宗教的なレベルでも同じような結論に到達することができる。
合衆国の一部や南アフリカの黒人に対する白人の優越性についてのナルチスティックな確信よりみて、
自己集団の優越感あるいは他集団の劣等視という感覚には、制限がないことを示している。とは言え、
ある集団におけるこのようなナルチスティックな自画像への満足感には、ある程度の現実的確証が必要である。
アラバマ州や南アフリカの白人が社会的・経済的・政治的な差別待遇によって、
黒人に対してその優越感を示唆する限り、彼らのナルチスティックな信念はある程度の現実的要素を持ち、
かくて全てのナルチスティックな思考体系を支えるようになる。
同じことはナチの場合にも言えるのであって、そこでは全ユダヤ人を殺害することが、
アーリア人の優越性を示す証拠として非常に重要であった。
【サディストにとって人を殺しうるという事実は、その殺人者の優位を証明することになる】
しかしナルチスティックな自己慢心におちいった集団が、
ナルチスティックな満足の対象となるに足るほど無力な弱者を利用することが、不可能であることを知ると、
その集団ナルチシズムは軍事力によって容易にその弱者を征服しようと行動する。
すなわちこれが 1914 年以前に、汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の歩んだ道であった。
どちらの場合も、それぞれの国民は他の全ての国民に優る【選民】という役割を付与されていたため、
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彼らの優越性を認めようとしない他国民を、攻撃することを正当化し得たのである。
私が言いたいのは、第一次世界大戦の原因そのものが、
汎ゲルマン主義と汎スラブ主義というナルチシズムにあるということではなくて、
彼らの狂信が確かに戦争を勃発させた一要因であったということである。しかしそれ以上に、
戦争が一旦勃発してしまうと、それぞれの政府は戦争を勝利に導くために必要な、
心理的条件としての民族的ナルチシズムを鼓舞しようとする。
集団ナルチシズムが傷つけられると、個人のナルチシズムで述べたような怒りの反応が生ずる。
集団ナルチシズムの象徴がけなされると、往々にして狂気に近い怒りが発生する例は、歴史上多いのである。
国旗に対する不敬行為、自分の神や皇帝や指導者に対する侮辱、敗戦や領土の喪失 などが、
はげしい集団の復讐心を呼び起こし、それがまた新たな戦争の原因となったことが多い。
傷つけられたナルチシズムは、傷つけたものが潰滅し、
自己のナルチシズムに対する侮辱が償われてはじめて治癒できる。
個人と国家をとわず、復讐は傷つけられたナルチシズムと、
傷つけたものを抹殺して、その傷を【治癒しよう】とする欲求に基づくことが多いのである。
ナルチシズムの病理学的要因を最後にもうひとつ付け加えておこう。
ナルチスティックな傾向の強度な集団は、自己をそれと同一視しうる指導者を持ちたいと熱望する。
そしてその指導者は、自己のナルチシズムを彼に投影する集団によって尊敬を集める。
強力な指導者に服従する行為そのものにおいて―これは深層心理では共生ならびに同一視の行為である―
個人のナルチシズムはその指導者に転移されるのである。
指導者が偉大であればあるほど、それに追従するものもまた偉大となる。
個人的にみて特にナルチスティックな傾向の強いパースナリティは、こういった機能を果たすのにふさわしい。
自分の偉大さを確信し、何ら疑惑を持たない指導者のナルチシズムは、
正に彼に追随する人々のナルチシズムを惹き付けるのである。
半ば狂気に近い指導者は、その客観的判断の欠如、敗北の結果生じる怒り、
自己の全能像を維持する必要などが、来るべき没落の先駆となるような失敗の原因となるまでは、
最も成功を博した指導者になる例がかなり多いのである。
しかしナルチスティックな大衆の要求を満足させる才能をもつ、このような半精神病者は、いつも身近なところにいる。
以上、ナルチシズム現象、及びその病理学的・生物学的・社会学的な機能を論じてきた。
結論的にいって、ナルチシズムは良性型であり限界を超えなければ、
必要かつ価値あるオリエンテーションであるという結論に到達したかのようにみえる。
しかし、われわれの描写は不完全である。人間は生物的・社会的な生存に関与するばかりでなく
【価値】すなわち人間が人間であるという事実の持つ価値の発達にも関与しているのである。
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価値論から眺めれば、ナルチシズムが理性や愛とは相容れないものであることは明瞭となる。
このことを更に詳しく述べる必要は殆どなかろう。
ナルチシズムのオリエンテーションが有する性質そのものによって、その含有の度合いによって違いはあるが、
現実をありのままに、すなわち客観的に眺めることができなくなっている、換言すると、それは理性を制限するのである。
それがまた同じように愛をも制限するとはいえないのであって、特に次のフロイトの言葉を想起するときそのことが言える。
すなわち全ての愛は強いナルチスティックな構成要素をもち、
女性に恋する男は、彼女を自分のナルチシズムの対象としている。
したがって彼女は彼の部分となるがために彼女は素晴らしくて手に入れたい存在となる。
女性のほうでも男に対して同じ態度をとるとすれば、かくして【偉大なる恋愛】にお目にかかれるのである。
これは往々にして恋愛というよりは【痘痕もえくぼ】にすぎないのである。
二人ともナルチスティックな人間であり、相手に真の深い関心を払わず【他人には勿論のこと】、
神経過敏な疑い深い状態が続き、
二人とも各自が新鮮なナルチシズムの満足を与えてくれる新しい対象を求めがちである。
ナルチスティックな人にとって、相手はありのままのその人間でも、又、実在する人間でもなく、
ナルチスティックに慢心した自我の影として存在するにすぎない。
他方、病理的でない恋愛は相互のナルチシズムに基礎づけられてはいない。
それは互いに独立の存在であることを
体験する二人が、互いに心を開襟し、合一しあうことのできるような関係をいうのである。
愛を体験するためには、別離を体験せねばならない。
倫理的・精神的見地からナルチシズムの現象のもつ意義を考えるにおいて、
あらゆる偉大なヒューマニズムの宗教の根源的教義は、
次のひとつの言葉に要約できることを考えれば、非常に明瞭になるのである。すなわち
【自己のナルチシズムを克服することは人間の目的である】
おそらくこの原理が仏教以上に徹底して表現されているものはほかにないだろう。
仏陀の教義では、要するに人間は妄想から目覚めて自己の真実、
すなわち病気、老齢、死についての現実や、身分不相応な欲望は充足し得ないという事実を認識して、
はじめてその苦悩から自己を解放しうるということになる。仏陀の教義における【悟りを開いた人】とは、
自己のナルチシズムを克服し、完全に悟りの境地に達した人のことなのである。
この思想を別の形式で述べることもできよう。すなわち、
人間は破壊しがたい自我の妄想を取り去ることさえできれば、
そして又、あらゆる欲望の対象と共に自我から解脱することができさえすれば、
そのときこそ、その人の前には世界が開かれ、世界と完全に関係をもつことができるのである。
心理学的にはこの完全な悟りを得る過程は、
世界と関与することによって、自己のナルチシズムを置換することと同じなのである。
52
ユダヤ教及びキリスト教の伝統においても、
このことはやはりナルチシズムを克服しようとするさまざまの言葉で表現されている.
【旧約聖書】によれば【汝自身のごとく汝の隣人を愛せ】と。
ここで意味しているのは、人は少なくとも自分の隣人を自身と同じくらい大切にするようになるまで、
自己のナルチシズムを克服せよということである。しかし旧約聖書ではこれを更に一歩すすめて
【異邦人】に対する愛を求めている。
【汝は異邦人の心を知っている。なぜなら汝はエジプトの地では異邦人であったから】
異邦人とは正に私の血族、家族、国民に属さない人であり、
異邦人は、自己がナルチスティックに愛着を持つ集団の一員ではない。
彼は人間以外の何物でもない。ヘルマン・コーヘンがいみじくも指摘しているように、
われわれは異邦人の内に人間を発見する。異邦人に対する愛においては、ナルチスティックな愛は消滅する。
というのは、それは彼の実存そのものにおいて、さらには彼と自分の差異において、
別の人間としての彼を愛するという意味であって、彼が私に似ているから愛するのではない。
新約聖書でいう【汝の敵を愛せよ】という言葉は、この同じ考えを更に鋭く表現している。
異邦人が汝にとって完全に人間的存在となれば、もはや敵というものはない。
汝が完全に人間的になったからである。
異邦人や敵を愛することは、ナルチシズムが克服され【私が汝】であって、はじめて可能である。
予言者の教えの中心的問題である偶像崇拝に対する戦いは、同時にナルチシズムに対する戦いでもある。
偶像崇拝の場合は、人間の能力の一部が絶対化され偶像化される。
それ故人間は疎外された形で自己を崇拝する。
彼が心酔するその偶像は、彼のナルチスティックな熱情の対象となり、
それに反して神という考えはナルチシズムの否定となる。
それは人間ではなく神だけが全知全能の存在だからである。しかし定義し難く、
表現不可能な神に関する概念は、偶像崇拝とナルチシズムに対する否定ではあったが、
神はやがて再び偶像となり、人間はナルチスティックに神と自己とを同一視し、
こうして神の概念の元来の働きと全く矛盾して、宗教は集団ナルチシズムの形であらわれるようになった。
人間の完成は、
彼が個人のナルチシズムならびに集団のナルチシズムから完全に脱却することによって成就される。
心理学的にこのように表現される精神成長のこの目標は、本質的には人類の偉大な精神的指導者が
宗教的、精神的な言葉をもって、これまで表現してきたものと同じである。
概念は異なっても、さまざまな概念について言及される内容と経験は同じなのである。
われわれは、最も破壊的な軍備の発達を招来した人間の知的発達と、あらゆる病的な徴候をもち、
顕著なナルチシズム的状態に停滞している人間の心的・情的な発達とが、大きなずれを持つ歴史的時代に生きている。
この矛盾の結果現れやすい破局を避けるために、いかなる事をすればよいのか?
53
あらゆる宗教的教義にもかかわらず、
予測不能な未来において、人間がこれまで進め得なかった前進をすることは、果たして可能なのか?
フロイトが考えたように、人間は自己の【ナルチスティックな芯】を克服することが不可能なほど、
ナルチシズムは人間に深く浸透しているのか?それでは人間が人間として完成するまでに、
ナルチスティックな狂気によって人間が破壊されるのを、防ぎうる希望はあるのだろうか?
こういう質問に答えられるものは誰もいない。ただ人間だけが、
その破局を避けうる助けとなる最善の可能性が何であるかを検討できるということだけである。
最も容易な方法と思えるものから始めてみよう。
個々の人間のナルチスティックなエネルギーを減らさなくとも、【対象】は変えることができる。
もし【人類】が、人間家族が、ひとつの国やひとつの民族、ひとつの政治制度の代わりに、
集団ナルチシズムの対象となれば、多くのことが遂行できるかもしれない。
もし個人が最初に世界市民として、自分を経験することができるなら、そして人類とその業績に誇りを持つことができるなら、
人間のナルチシズムは対立する要 素というより、人類へとその対象の方向を変更するであろう。
全ての国の教育制度が、それぞれの国の業績ではなく、人類全体の業績を強調することができれば、
より自覚的・感動的状況が人間であるという誇りによって生まれるであろう。
ギリシャの詩人が、アンティゴネーをして謳わしめた【人間より素晴らしいものは何もない】という感情が、
万人の共有する経験となりうれば、確かに一歩大きく前進したことになるであろう。
更にもうひとつの要素を加えなければならない。
つまりあらゆる良性のナルチシズムの特徴となるものは、ひとつの業績に関係したものであるということである。
ひとつの集団や階級や宗教に代わるに、全人類はあらゆる人々に、
人間であることの誇りを感じさせるような仕事を完成しようとしなければならない。
全ての人間に共通な仕事は眼前にある。
すなわち病気や飢餓に対する共同の戦い、世界の全国民に現代のコミュニケーションの手段により、
知識と芸術を普及する共同の戦いなど。
政治及び宗教のイデオロギーは全く違っていても、こうした共同作業に参加しないでいいような種類の人間はない。
なぜなら、今世紀の偉大な業績は、
人間の不平等ならびに人間による人間の搾取の必要性や正当性に関する自然と神の摂理への信仰が、
回復不能なまでに崩壊されたということである。
ルネサンスのヒューマニズム、ブルジョワ革命、ロシア革命、中国革命、植民地革命などは全てひとつの共通な思想
―人間の平等にその基礎をおいている。
例えこれらの革命の中には、それぞれの関係する制度内で人間の平等を犯すようなことがあったとしても、
歴史上の事実は万人が平等であるという考え、
すなわち人間の自由と尊厳についての思想が世界を征服したという事実を示し、さらにまた、
人間がついこの間まで文明の歴史を支配していた概念に戻りうる可能性は、考えられないということを示している。
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良性のナルチシズムの対象としての人類、ならびに人類によって達成された業績のイメージとしては、
国際連合のような超国家的組織が脳裏に浮かぶのである。それは、
それ自身の象徴、休日、祭日さえも作り始めることができたのである。そこでは国の祭日ではなく
【人間の日】が一年の最高の休日となりうるだろう。しかしこういう発展は、
多数のそして遂には世界の諸国民が心を合わせ、政治的現実のみでなく心情的現実においても、
人類の主権のために、一国の主権を喜んで犠牲にできる限りにおいて、はじめて成就しうるものであることは明瞭である。
国際連合が強化され、集団間の闘争が理性的かつ平和的に解決されることが、
人間愛とそれにより生ずる共通の仕事が集団ナルチシズムの対象となるための必要条件である。
こういう試みに対するさらに特殊な方法として、私は 2,3 の提案をしたいと思う。
すなわち歴史の教科書は【世界史】の教科書として書き直すべきである。
その中では、それぞれの国民生活の多くの部分は、事実を歪曲されないようにする。
それはちょうど世界地図が、どの国にとっても同一のもので、自分の国を拡大して描くことができないのと同じように。
さらに人類の発展に対する誇りを養い、人間愛とそれにより達成された仕事が、
さまざまな異なる集団によって遂行された仕事の最終的に統合されたものであるということが
分かるような映画が作られるとよい。
ナルチシズムの対象が、このように単一のグループから全人類とその業績へと変化すれば、先に指摘したように、
民族的ナルチシズムないしはイデオロギーのナルチシズムの危険を本当に防ぎうるであろう。
しかしこれだけでは十分ではない。もしわれわれが自分たちの政治と宗教の理想
献身と同胞愛を掲げる社会主義者の理想であれ、キリスト教徒の理想であれ
に忠実であれば、
各個人のナルチシズムの程度を減少せしめうるのである。
このために何世代もかかるだろうが、全ての人間は人間の尊厳を失わぬ
生活的・物質的条件を創造しうる可能性を持つが故に、
過去よりも現在のほうがその可能性が強いといえる。技術の発達により、
一集団が他の集団を奴隷としたり、食い物にしたりする必要はなくなるだろう。
戦争は経済的にみて合理的であるとすることは、既に古ぼけている。
人間は半動物的な状態から、はじめて完全に人間的な状態へと脱出できるだろうし、
従って自分の物質的ならびに文化的貧困を代償するための、ナルチスティックな満足を必要としないであろう。
こういう新しい条件を基盤にして、ナルチシズムを克服しようとする人間の試みは、
科学とヒューマニズムの二方向から強化されるのである。既に述べてきたように、
われわれは教育における重点を、先ず第一に技術的な方向から科学的なそれへと変更しなければならない。
すなわち批判精神、客観性、現実への直視、さらには拘束力を持たず、
いずれの思想集団にも妥当性をもつ真なる概念を発達させる方向へ。
もし文明国において、若人たちの基本的態度として科学的な方向付けを生み出すことができれば、
ナルチシズムに対する戦いは大きな効果をもつであろう。
同じ方向に向かわせる第二の要因としては、ヒューマニズムの哲学と人類学を教えることである。
55
あらゆる哲学的・宗教的差異がなくなることを、われわれは期待できない。
自分が【正統である】と主張するひとつの体系を樹立することは、ナルチスティックな退行を生む源泉になるのだから、
われわれは決してこれを求めてはならない。しかし現在ある差異は全て許容するとしても、
共通のヒューマニズムの信条と体験は存在する。
その信条とは、個人はそれぞれの内に全人間性を担っているということ、
つまり知性や才能や身長や肌色のような不可避な違いはあっても、
【人間の条件】は万人にとって同一であるということである。
この人間愛的な経験は、人間的なもので自己にとり異質のものはひとつもないということ、
【私はすなわちあなたである】こと、人は同じ人間存在の諸要素を共有するが故に、他人を理解しうると感ずるところにある。
この人間愛的経験は、われわれが自分の確知し得る領域を拡 大してはじめて可能なのである。
我々自身の確知することは、一般にわれわれの所属する社会が、われわれに知らしめる範囲に限定されている。
このような状態に適合しないような種類の人間経験は抑圧される。
従ってわれわれの意識は主として、われわれ自身の社会と文化を表すが、
われわれの無意識は各個に内在する普遍的人間を表している。
自らを確知する力を拡大し、意識を超えて社会的無意識の領域を解明することは、
人間が自己の内面で人間愛の全てを体験することを可能とするだろう。
すなわち彼は罪人でも聖人でもあり、子供でも成人でもあり、狂気でも正気でもあり、
過去の人間でも未来の人間でもあること彼は自己の内部に人間がこれまで在ったところのものと、
将来なるであろうところのものを担っていることを体験するであろう。
ヒューマニズムを代表すると主張する、全ての宗教的・政治的・哲学的体系により約束される
現代のヒューマニズムの伝統の真の復興は、今日存在する最も重要な【ニュー・フロンティア】の方向
―完全な人間的存在への人間の発展―
へ向かって、大きく進歩することであると私は信じている。
こういう考えを述べても、私はルネサンスのヒューマニストたちが信じたように、
教えること【だけ】がヒューマニズムを実現する決定的手段となりうるといっているのではない。
こういう教えは全て、本質的な社会的、経済的及び政治的条件が変化してはじめて効果をもつであろう。
すなわちそれは官僚的産業主義から、人間主義的 社会主義的産業主義への変化であり、
中央集権から地方分権へ、組織的人間から責任感を持ち共同参加する市民へ、
国家主権への従属から人類とその選んだ機関への従属へ、
【持てる】国民が【持たざる】国民と協力して、後者の経済制度を樹立する共同の努力へ、
世界の非武装化と埋蔵資源の建設的仕事への利用への変化である。
世界の非武装化は別の理由からも必要である。
それはもし一部の人達が、他陣営による全滅を恐れながら生きており、
さらに残りのものは両陣営からの破壊を恐れているならば、
その時には実際に集団ナルチシズムを減少させることができない。
人は自分と自分の子供たちが生き続け、
翌年と云わず更に来る年も来る年も生活することを期待できる風土の中でのみ、人間らしくなりうるのである。
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Ⅴ 近親相姦的きずな
これまでの各章では二つのオリエンテーション ―ネクロフィリアとナルチシズム― に関して述べてきたが、
それらは強度になると生と生長を阻害して、闘争や破壊、死を助長する働きをするのである。
この章では第三のオリエンテーションを取り上げることにしよう。
それは近親相姦的共生で、悪性型では先に述べた二つのオリエンテーションと同じような結果を招来する。
ここでフロイトの理論の中心となる母親への近親相姦的固着の概念から始めることにしよう。
フロイトはこの概念が、自己の科学体系の基礎をなすひとつであると信じた。
そして私は母親への固着に関するフロイトの発見は、実際人間の科学のうちで、
その影響が最も大きいもののひとつであると信じている。
しかしこの領域でも前の場合と同じように、フロイトはその発見とそれによる結果を、
リビドー理論から解釈したために限定されたものになっている。
フロイトの観察したことは、幼児期の母親に対する愛着
― 一般人には滅多に完全に克服されない愛着―には巨大なエネルギーが内包されていることである。
そのため、男女関係における男性的能力が損なわれること、すなわちその独立性は弱化し、
彼の意識的目標と抑圧された近親相姦的愛着との葛藤が、
さまざまな神経症的葛藤と病 的徴候となって現れる事実を観察した。
母親に対する愛着の背後に存在する力は、幼児期には母親に対する性的欲求となり、父親を性的競争者として
憎悪する性器的リビドーの力である、とフロイトは信じた。
しかしこの競争者の力が自分より強いため、幼児は自己の近親相姦的欲求を抑圧し、
自分を父親の命令や禁止と同一視する。だが無意識の内に、その抑圧された近親相姦的願望は、
例えより病的な場合においてのみ激しくあれわれるとしても、長く尾をひいて残るのである。
幼児期の少女に関しては、1931 年フロイトは、その母親への愛着を持つ期間をそれまで過小評価していたことを認めた。
しばしばそれは【性の芽生えのはるかなる長い時期に含まれている。
これらの事実から女性の前エディプス期は、これまで想像してきたよりも重大であることが分かる】
そしてフロイトは続けて言う、
【エディプス・コンプレックスが神経症の中核であるという、それまでの通念は引き込めなくてはならないと思われる】
しかしながら彼は言葉を加えて、この訂正が認め難い人はそうする必要はない。なぜなら、
その人はエディプス・コンプレックスを拡大解釈して、子供のその両親に対する関係の全てを含むとするか、
でなければ【女性はネガティブ・コンプレックスの優勢な第一期に到達した後、はじめて正常なエディプス状態に到達する】
と述べることもできるからである。更にフロイトは言葉を続けて、次のように結論する。
【幼児期の少女の生長にみられるこの前エディプス期より洞察できる事実は、
ちょうどギリシャ文明の背後にミノス・ミケーネ文明が発見されたことの影響と匹敵するほど、
われわれに驚嘆すべきことである】
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その最後にフロイトは、断定するというよりは湾曲に、母親への愛着は生長の原初期には両性に共通であり、
ちょうど前ヘレネス文化の母家長制の特徴と比較できると述べている。
しかし彼はこの考察をこれ以上追及しなかった。
先ず第一に、やや逆説的にそれを結論づけ、エディプス的な母親への愛情期、すなわち前エディプス期は、
男より女の場合にはるかに明瞭に存在する、としている。
第二に、少女のこの前エディプス期をリビドー理論だけから彼は解釈している。
十分に母乳を与えられなかった多くの女性の不平は
「原始民族におけるように長期間母乳を与えられた子供を分析すれば、多分、同じ不平には遭遇しなかっただろう」
という疑問を彼に懐かせた事実に注目するとき、彼は自己のリビドー理論を超越しかかっていたのである。
しかし彼の解決はただ【それほど幼児のリビドーの欲望は大きいのである】と述べているにすぎない。
男の子や女の子の母親に対する前エディプス的愛着は、男児の母親へのエディプス的愛着とは質的に異なり、
私の経験では、男の幼児の性器に対する近親相姦的欲望が第二次的であるのに比較して、
はるかに重要な現象であると思う。
男児や女児の前エディプス的な母親への愛着は、進化過程の中心現象のひとつであり、
神経症や精神病の主原因のひとつであると私は考える。
リビドーが表出すると述べるよりは、リビドーという語を用いようと用いまいと、
男児の性器への欲望と全く異質なものであると述べたほうがよいだろう。
前性器的意味からみるとこの【近親相姦的】衝動は、
男女共に最も基本的な熱情のひとつであり、それには人間の防衛本能、
自己のナルチシズムの充足、責任、自由、意識性に随伴する負担から逃れようとする渇望、
無条件の愛への希求などが含まれる。
こういう欲求が一般には幼児に内在することは事実であり、母親がそれを充足させてくれるのである。
もしそうでなければ、その幼児は生存不可能であろう。
幼児は無力で、頼れるものは何もなく、自分の力だけでは求め得ない愛情や世話を必要とする。
この役割を果たすものが母親でなければ、
H・S・サリヴァンの言う母親の役割を代行しうる別の【母親代わりの人】がそれであり、
それは祖母や伯母であることが多い。しかし幼児が母親代わりの人を欲求するという更に明確な事実は、
幼児だけが無力で確実性を求めているのではなく、
大人も多くの点でそれに劣らず無力であるという事実を不明確にしている。
実際、大人は働き、与えられた仕事を遂行することができる。
しかし大人は、人生の危険と負担について、幼児以上の自覚を持っている。
彼は自分では制御しえない自然と社会の力、
つまり予測できない事故、不可避な病気や死についての事実を知っている。
そうした状況下においては、確実性と防御と愛情を与えてくれる力を、
狂気のごとく希望することよりも、より自然なことが人間にありえようか?
この願望は母親を求める心の【反復】というだけのものでなく、幼児をして母親の愛を求めしめるその同じ条件が、
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次元は異なっても存在しつづけるために生じるのである。
万一、人間が ―男も女も― その生涯を通じて
【母なるもの】を見つけることができれば、その生涯は負担と悲劇から解放されることになろう。
人がこれほど容赦なくこの【幻影】を求めて駆り立てられるということは、驚くに足りるだろう。
だが失われた楽園はなかなか発見できないこともまた、人間はかなり明瞭に知っている。
確実なるものは何もなく、負担の多い生活を宣告されていること、頼れるものは自分の力しかないこと、
完全に自分の力を発達させることのみが少しでも力強さと勇気を与えてくれることを知っている。
こうして人は生まれた瞬間から、二つの傾向より挟撃されている。
そのひとつは明るいところへ出ようとする傾向であり、もうひとつは子宮の暗闇へ退行しようとする傾向である。
つまり冒険を求めようとする傾向と確実性を求めようとする傾向、
負担を背中に独立を求める傾向、と保護や依存を求める傾向との二つの板挟みになっている。
発生学的には、母親は保護と確実性を保証する力の最初の化身である。
しかし決して彼女だけが唯一のものではない、子供が生長すると、一人の人間としての母は、家族や血族や、
同じ血を分け同じ土地に生まれた全ての人々によって置換され、補充されることが多い。
更にその集団の大きさが増加するにつれて、
その民族や国民、宗教と政党がその【母親たち】つまり保護と愛情の保証人となる。
より原初的な傾向をもった人々では、自然そのもの、大地と海が【母】の大きな分身となる。
母の役割が実際の母から家族、血族、国民、民族へと移行することは、個人のナルチシズムが
集団のナルチシズムへと移行することに関し、既に述べたのと同様な利点を持っている。
先ず第一に、一般に母親は子供より先に死ぬことが多いので、不滅の母性というイメージが必要となる。
更に一人の人間としての母にのみすがっていると孤独になり、別な母を持つ他の人々と離れるようになる。
しかしながら血族全体、国民、民族、宗教または神が共通の【母】となりうれば、
その場合には母親崇拝は個人を超えて、同じ母なる偶像を崇拝する全部の人々と彼を結びつけ、
かくて誰一人として自己の母を偶像視することに当惑を覚える必要がなくなるのである。
その集団に共通の【母】を賛美することは、全ての心を結合し、一切の嫉妬を排除する。
多くの偉大な母なるものへの崇拝、マリアへの崇拝、民族主義や愛国主義の崇拝などは、
この崇拝の強烈であることを証明している。経験論的にみて母親への強い固着を持った人々と、
国家、民族、土地及び血と異常なほど強固に結合した人々との間には、
密接な相関関係があることは容易に判るのである。
ここで注目すべき面白い事実は、シチリアのマフィア結社 女性はそれから除外され
[ちなみに女性に危害は加えられない]男のみにより固く団結した秘密結社が
そのメンバーから【ママ】なる通称で呼ばれている事実である。
母親との結びつきにおける性的要因の果たす役割に関して、ここで一言付け加える必要がある。
フロイトにとっては、性的要因は幼児期の子供が母親にひきつけられるときの決定的要素であった。
フロイトは二つの事実をいっしょにしてこの結論に到達した。
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すなわち幼児が母親にひきつけられる事実と、幼児がその当初から性器を熱心に求めるという事実の二つである。
フロイトは第一の事実を第二の事実によって説明した。
多くの場合、幼児期の男の子が母親に性的欲求をもち、幼児期の少女が父親に対して動揺であることは疑いない。
しかし両親の誘惑の影響が、この近親相姦の衝動を惹起する非常に重要な原因であるという事実
【この事実はフロイトは最初考えていたが、次いでそれを否定、フェレンツィが再び取り上げたものである】
とは全く別に、性的欲望は母親に対する固着の原因ではなくて【結果】である。
更に、大人の夢によく現れる近親相姦に関する性的欲求においては、
しばしばその性的欲求がより深層へと退行するのを防御する手段であることが確認できるのであって、
雄としての性欲を強く押し出すことにより、
その男は母親や子宮に戻りたいという自己の欲望から、自らを防衛するのである。
同じ問題の他の一面は、母親に対する娘の近親相姦的固着である。
男の子の場合には、ここで使用されている広義の【母】に対する固着は、
それに関係するいかなる性的要因とも一致するが、女の子場合はそうではない。
彼女の性的愛着は父親に対して向けられる反面、ここでいう近親相姦的固着は母親へ向けられるであろう。
この深い溝は、母親に対する最深層の近親相姦的結合さえもが、
性的刺激を全く伴うことなしに成立しうることを一層明白にしている。
男の場合にみられると同じような、強度で母親と近親相姦的絆をもつ女性の例は、臨床上たくさん経験できるのである。
母親に対する近親相姦的絆は、母親の愛と保護を希求するばかりでなく、母を恐れる気持ちを意味していることが多い。
この恐れは何よりも先ず、力と独立性についてのその人独自の意味を弱化する依存症そのものの結果である。
それはまた深い退行に際して現れる性向そのものの持つ恐れ、
すなわち、乳飲み子になることや、母親の子宮へ引き返すことへの恐れでもありうる。
これらの恐れそのものが、母親を危険な人食い人種や、一切を破壊してやまない怪物に変貌させるのである。
しかしながら付言せねばならないことは、
この種の多くの恐れは、本来その人の退行的幻想の結果現れるものではなくて、現実にその母親が、
人食い人種のような、また吸血鬼のような、あるいはネクロフィラスな人であるという事実がその原因なのである。
こういう母親の息子や娘が母親との絆を断ち切らずに生長すれば、
母親に喰われ、破壊されるという強度の恐怖から逃れるすべがない。
この場合、人を狂気近くまで追い込む恐怖を治療しうる唯一の方法は、母親との絆を断ち切るその人の能力である。
しかしこうした関係から生じる恐れは、
また同時に何故人が【へその緒】のような絆を切り取ることが難しいのかという理由でもあるのである。
そして人がこの依存状態に捕らえられている限り、その人自身の独立と自由と責任とは弱化するのである。
これまで私はフロイトが近親相姦的衝動の中核と考えた、
性的絆とは区別される母親への非合理的な依存心、ならびに恐れの性質を概括しようとした。
しかしこれまで述べてきた他の現象と同じように、
近親相姦的コンプレックスの中にある【退行度】ともいうべきこの問題には、別の一面がある。
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ここでもまた、事実ひじょうに良性で殆ど病的なものとはいえないような良性型の【母親固着】と
私が【近親相姦的共生】とよぶ悪性形態の近親相姦的固着とを区別できるのである。
良性型においてよく見受ける、母親固着のひとつの形態がある。
こういう男性にとっては、自分を慰め、愛し、賞賛してくれる女性が必要である。
母親のように保護し、養い、世話をしてくれる女性を必要とするのだ。
この種の愛情を獲得し損ねると、彼らは軽い不安感と抑うつ状態に陥りやすい。
母親固着がこのように弱い場合には、その男性の性的ポテンシィや感受性のポテンシィ、
更にはその独立性やその誠実性が傷つくということはない。たいての男性にはこういった固着の要素と、
女性のなかに母性的なものを見つけたい欲望が残存していると推測してもよいだろう。
とは言え、この絆の強さが大きくなると、
性的ないしは情緒的なある種の葛藤や、症候が一般に見受けられるのである。
これよりはるかに重大で、神経症的な近親相姦的固着の第二段階というべきものがある。
【ここで段階を区別するのは、簡潔に示すために便利な方法であるからにすぎない。
実際には三つの段階が在るわけではない。近親相姦的固着の最も無害な型から、
最も悪性な型へと連続的な存在があるのである。ここで述べる段階の分け方はその典型であって、
この問題について更に詳しい議論を展開しようとすれば、
それぞれの段階は少なくとも更に数個の小段階に分割することができるだろう】
母親固着のこの段階では、その人は既に自分の独立性を発展しそこねている。
あまり重症でない形態では、それは常に母親らしく振舞いかしずいて、殆ど何の要求も持たない女性、
つまり無条件で頼れる人を必要とするような固着である。
更に重症の形態を呈する場合には、たとえばひじょうに母に似た人を妻に選ぶ男性がいる。
彼は妻であり母でもあるこの女性の目のとどかぬことは
何もする権利を持たぬ囚人のように、妻が立腹しはしないかとたえず彼女を恐れている。
彼はおそらく無意識的には反逆し、罪悪感に襲われ、そして一層従順に服従するだろう。
その反逆は姦通、うつ的状態、発作的な怒り、精神身体疾患、全身の組織障害となって現れる。
またこの男は自分が男性であるかどうかを真剣に疑い、
あるいは性的不能や同性愛のような、性的錯乱を招くようになる。
不安と反逆が支配する以上の記述とは異なり、
母親固着が誘惑理論からみた男性ナルチシズムの態度と混在している場合がある。
この種の男性はしばしば、その幼児期において母が父よりも自分のほうを愛し、
自分は母親に賞賛されているが、反対に父親には軽蔑されていると感じたような人である。
こういう男性は、自分は父親より優れているとか、さらには
どんな男性よりも優れているとすら感ずるような強度のナルチシズムを持っている。
このナルチスティックな確信は、自分の偉大さの証明には全く何もする必要もないと考えさせるようになる。
その偉大さは母親との絆の上に構成されている。
61
その結果、この種の男性にとっては、
自己の価値観は全て自分を無条件かつ無制限に賞賛する女性関係と結合している。
彼らの最大の恐れは、自分の選択した女性の賞賛を獲得できないかもしれないということである。
なぜならそういう失敗は、自己のナルチスティックな自己評価の基礎を脅かしかねないからである。
しかし彼らは女性を恐れはするが、前の場合に較べてこの恐れはそれほど明瞭ではない。
というのは、以上のようなことはやさしい心の男性だという印象を与える、
自己のナルチスティックで誘惑的態度により支配されているからである。
しかしこの場合、強度の母性固着の別のタイプにみられると同じように、
母性像以外のいかなる男女に対しても、愛情、関心、忠誠を感じることは犯罪である。
母は独占的な誠実を要求するが故に、仕事を含めて他の何事にも、あるいは何人にも【関心を抱いて】は
ならないのである。往々にしてこの種の男性は、何事に対しても一寸とした関心を抱いても罪の意識を持つか、
さもなければ誰に対しても忠実でありえない【反逆者】タイプになるのである。
それは母親に叛くことができないがためである。
次にあげるのは母親固着の特徴を示す 2,3 の夢の例である。
1.【男の夢】
男が一人で浜辺にいる。年配の女性がやってきて彼に微笑みかける。
彼女は胸を開いて自分の乳を飲んでもよいという。
2.【男の夢】
腕力の強い女性に彼はつかまり、深い谷の上に突き出され、
彼は落ちて死んでいく。
3.【女の夢】
彼女が男と会っている。その時妖婆が現れて彼女は肝をつぶす。男が銃をとって妖婆を殺す。
彼女[夢を見ている当人]は発見されるの恐れて走って逃げ、自分についてくるよう男をさしまねく。
こうした夢は、殆ど説明を必要としない。
第一の要素は、母親に抱きしめてもらいたいという願望である。
第二のものは絶対的に強い母親に殺される恐れである。
第三のものは、女は男に恋をすれば母親[妖婆]に殺され、
母親の死のみが自分を自由にするだろうという夢である。
しかし一方、父親に対する固着はどうだろうか?
実際この種の固着が男にも女にも存在することは疑いなく、女性の場合には、時に性的欲望の混在していることがある。
だが父親への固着は母親、家族、血、大地という順序の固着よりは、深くはないと思われる。
勿論特殊な場合には、父親自身が母性像にもなりうるけれど、正常の場合、父親の機能は母親のそれとは異なる。
母親固着の人にとって、永久的欲望の一部をなす保護されたいという感情を与えるものは、
生まれて数年、幼児を保育してきた彼の母親である。幼児の生活は母親に全く依存する。
それ故、彼女は生を与えることも、生を奪うこともできる。母なるものは生を与える人でもあれば、
同時に生の破壊者にもなりうるし、愛される者でもあり、恐れられるものでもありうる。一方、
父親の役割はそれとは異なっている。
彼は人為的な法と秩序、社会的ルールや義務を代表し、罪や報酬を与える人である。
彼の愛は条件付きで、要求されたことを為すことにより獲得できるのである。
この理由により父親と結びつく人は、父親の意思通りに行えば容易にその愛を獲得することができるが、
62
しかし完全かつ無条件な愛につきものの陶酔的感情や、確実性や、保護は、
父親結合の人間の経験では殆ど見られないのである。父親中心の人には深い退行を見ることも珍しいが、
この退行に関しては、母親固着と関連づけながら、これから述べることにしよう。
たとえば神話学におけるインド教の女神カリの二重の役割と、夢に現れる母親の象徴としての虎、ライオン、妖婦に注意するとよい。
母親中心と父親中心の文化と宗教の間に見られる構造の差異に少しふれておこう。
南ヨーロッパやラテン・アメリカのカトリック教会と、北ヨーロッパ及び北米の新教国はそのよい例である。
心理学的な差異はマックス・ウェーバーのプロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神と自由からの逃走で取り扱われている。
最深層の母親固着は【近親相姦的共生】の段階である。【共生】とはどういう意味か?
さまざまな程度の共生があるが、それらはひとつの要素において共通である。
すなわち共生関係で結びついている人は、その【奇主】の重要な部分となっているということである。
彼はその人なくしては生きていけない。そしてその関係が脅かされると、彼は極度に不安を感じたり怯えたりする
【精神分裂病に近い患者の場合、その関係が分離すると、突如として分裂的崩壊が起こる】
ここで述べているその人なしでは生きていけないということは、
その奇主にあたる人と常に肉体的にも一緒でなければならぬという意味では決してない。
すなわち稀にしかあわなくても、その奇主が死んでいてもいいのである。
【この場合、その共生はある文化では祖先崇拝という形態をとって制度化されることもある】
その結合は、本質的には感情的・幻想的なものである。共生関係で結合している人にとって、
彼は相手と一体であり、彼女の一部であり、彼女と混合しているような気がするのである。
共生の形態が極端になればなるほど、二人の人が分離した ものであることをはっきり認識することが難しくなる。
更に重症の場合には、共生関係で結びつく人がその奇主に【依存している】と説明すること自体が誤りである理由を、
この分離感の欠如はまた説明しているのである。
【依存】とは二人の間に明確な区分があり、一人が相手に依存していることを予想している。
共生的な関係の場合、共生的人間が自己の奇主よりも優れていると感ずることもあれば、
劣っていると感ずることもあり、更に平等だと感ずる場合もあろう。しかし彼らは常に分離し難い存在なのである。
実際には、この共生的結合は母親とその胎児との結合を想像すれば最もよい。
胎児と母親は二つであるが、それでいてひとつである。
二人の関係人物が、相互に共生的に結びついていることがよく見られるが、それも決して珍しくないのである。
この症例は【二者の愚行】といわれるもので、二人の共存組織が彼らの現実を構成するが故に、
二人とも気付かずに【愚行】を犯すのである。
極端に退行した形態では、無意識の欲望は実際には子宮へ戻ろうとする欲望である。
往々にしてこのような願望は海で溺死したいという願望【または恐れ】とか、
大地に呑まれてしまうという恐怖のような抽象的形態をとって表現される。
それは完全に個としての存在を喪失し、再び自然と合一したいという欲望である。
その結果、この深い退行的欲望は生の願望と葛藤するようになってくる。
子宮の中に存在することは、生を離れて存在することである。
63
私が述べようとしてきたことは、母親との絆は、母の愛に対する願望も、母の破壊性に対する恐れも、
共に、フロイトが性的欲求に基づくとかんがえた【エディプス的絆】よりもはるかに強度で、
かつ根源的なものであるということである。
しかしながら、われわれの意識的知覚と無意識的現実とが 矛盾するところから生ずるひとつの問題がある。
もしある人が母親に対する性的欲求を記憶したり想像したりするとなれば、抵抗という困難に遭遇する。
しかし、自己の性的欲求の性質を当人が確知する以上、当人の意識がそれに気付くのを嫌うのは、欲望の対象だけである。
このことは、ここで述べている強制的固着、すなわち幼児のように愛され、独立性を喪失し、再度乳房を吸い、
母の子宮に入りたいという願望とは全然異なるものである。
これらは全て【愛】【依存】あるいは【性的固着】という言葉をもってしても、
決してその全てを表現し尽くしえないような欲望である。
これらの全ての言葉は、その背後に存在する経験の力に比較すれば影が薄い。
【母親への恐れ】についても同じことが言える。
われわれは誰でも、人を恐れるとは何を意味するかを知っている。
彼はわれわれを叱責し、侮辱し、罰するかもしれない。
われわれはこういう経験を経て、多少とも勇気をもってそれに対決したのである。
しかしライオンが待つ檻に押し込められ、蛇がいっぱいいる穴に投げ込まれたら、
われわれは一体どんな気持ちになるのか知っているのか。
恐ろしい無能の宣告をわれわれが受けたら、それを身に受ける恐怖を表現できるだろうか。
しかし母親に対する【恐れ】を構成するものは、まさにこういった体験なのである。
ここでわれわれが用いる言葉は、無意識的経験にまで達することは非常に困難なため、
人々は自分が何について話しているのかを実際には確知しないで、
自己の依存とか恐れについて述べていることがよくあるのである。
真の経験を叙述するにふさわしい言葉は、夢の中の言語とか神話学や宗教の象徴である。
私が海でおぼれている夢【恐怖と至福の混合した感情を伴う】を見るとか、
私を食い殺そうとするライオンから逃れようとしている夢をみれば、
その時には、実際には私が体験したことに対応する言語でもって夢をみているのである。
勿論われわれが日常で使う言語は、自分でそれと認識するような経験と対応している。
もしわれわれが自己の内的真実に迫ろうとすれば、
日頃使用する言語を忘れて、忘れられている象徴的言語でもって考えるよう努力しなければならない。
近親相姦的固着の病理は、明らかに退行段階のものである。
最も良性の症例では、多少なりとも女性に依存しすぎるとか、
女性恐怖のきらいがあるとかのほかは、それほど口にするような病理はまずない。
退行の程度が深くなるにつれて、その依存や恐れはともに強度になる。最も原初的な段階では、
依存と恐れの両者が正気の生活と葛藤するようにまでなる。
退行の深さに左右される別の病理学的要素が存在する。
64
近親相姦的オリエンテーションはまた、ナルチシズムの場合と同じように、理性や客観性と葛藤する。
もし私が【へその緒】を切断することに失敗し、そして確実性と保護の偶像を強く崇拝しようとすれば、
その偶像は神聖なものとなってくる。それは批判すべきものではないのだ。
もし【母親】が間違いを犯しえないものならば、その人が【母親】と衝突し【母親】に非難されている場合、
どうして別の人を客観的に判断することができようか?判断力を損ねるこの種の形態は、固着の対象が母親ではなくて、
家族や国家や民族である場合には、はるかに曖昧になってくる。これらの固着は美徳と考えられているから、
強力な民族的または宗教的固着からは、偏見や歪曲を伴った判断が生じやすい。
なぜならそれらの判断は同じ固着を
他の全ての人が共有しているからという理由で、真実であると思い込まれているのである。
理性の歪曲についで、近親相姦的固着の第二の重要な病理学的特徴は、
完全な人間的存在として他人を体験することがないということである。
同じ血や土地を共有する人々だけが人間と感ぜられ、【異邦人】は野蛮人である。その結果、私もまた自己にとっては
【異邦人】であるにすぎず、その理由は、同じ血で結合した集団により共有される
具体的形態でしか、ヒューマニティを経験し得ないからである。
近親相姦的固着は、退行の程度に従って、それだけ愛する能力を傷つけたり、破壊したりする。
近親相姦的固着の第三の病理学的特長としてみられるものは、独立性や誠実との葛藤である。
母や種族に結びついている人は、自分自身であること、自己の信念を持つこと、身を委ねることに自由ではない。
彼は世界に対して胸襟を開くことも、またそれを抱擁することもできない。
すなわち常に民族的・国家的・宗教的な母親固着という牢獄につながれている。
人間は近親相姦的固着の全ての形態から自分自身を解放するにつれて、
ただ生まれたにすぎぬものから前進し、自分自身となる自由をそれだけもつのである。
近親相姦的固着は、一般に以上のように認識されないでいるか、
あるいはまた一見理性的に見えるような方法により合理化されている。
自分の母親に強固に結合している人は、その近親相姦的絆をさまざまな形で合理化する。
すなわち、母に仕えるのは私の義務であるとか、母は私に多くのことをしてくれたし、
私の生活は母のおかげであるとか、母はずいぶん苦労してきたとか、母は実に素晴らしい人だというふうに。
固着の対象が母親個人ではなくて国家であったとしても、その合理化の過程は同様である。
この合理化の中心には、人は全て国家に忠節をつくす義務があるとか、国家は実に驚嘆すべきものであるとか、
素晴らしいとか云うような概念が存在する。
要約すれば次のようになる。母なる人やそれと等価値のもの 血縁や家族や種族 に結合したいという傾斜は、
全ての男女に内在している。それは反対の傾斜 誕生し、前進し、生長する傾斜とたえず葛藤する。
正常な発育の場合には、生長の傾向が勝利を得る。
重症の病理学的ケースでは共生的結合に向かう退行的傾向が勝利を占め、
その結果、その人は多かれ少なかれ完全に無能化する。
いかなる子供にも近親相姦的衝動が発見されるというフロイトの概念は完全に正しい。
65
しかしこの概念のもつ意味はフロイトの仮説以上のものがある。
近親相姦的願望は、根本的には性的欲求の結果ではなく、
人間に内在する最も基本的な性向のひとつを構成しているのである。
すなわち自分の出所と縁を切りたくないという願望、自由であることの恐れ、自らを無力化し、
何らかの独立性を放棄している対象によって、破壊されはしないかという恐れがそれである。
さてここで、以上の三つの傾向をお互いに関連付け比較しよう。
その現れ方が重症でない場合は、ネクロフィリアとナルチシズムの近親相姦的固着が、
それぞれ全く異なり、ある人はこのオリエンテーションの中の一つだけを持ち、残りのものはもっていないことが多い。
また悪性でなく良性型の場合には、
三つのオリエンテーションのうちどれひとつとして理性と愛情を大きく無力化することはなく、
また強い破壊性を示すということもない。【この一例としてフランクリン・D・ローズヴェルトをあげたい。
彼は適度な母親固着とナルチシズムをもち、非常にバイオフィラスな人物であった。それと対照をなすのはヒットラーで、
彼は殆ど完全に近いネクロフィラスで、ナルチスティックで、近親相姦的な人物であった】
しかし三つのオリエンテーションは悪性になればなるほど、それらはひとつに集中してくる。
何よりも先ず、近親相姦的固着とナルチシズムとの間には密接な類似がある。
個々の人間が、母親の子宮あるいは乳房から完全に分離しないうちは、
自由に人々と関係を持ったり、また愛情の面でも自由になり得ない。
彼と彼の母親【一体なので】が、彼のナルチシズムの対象である。
個人のナルチシズムが集団のナルチシズムと混合していることが、非常にはっきりとわかるのである。
あらゆる国家的・民族的・宗教的ならびに政治的狂信の強度と、その非合理性を説明するものは、
まさにこの特殊な混合なのである。
近親相姦的共生とナルチシズムは、原初的形態では、共にネクロフィリアによって結合されている。
子宮と過去へ戻ろうとする渇望は、また同時に死と破壊に対する渇望でもある。
この三つのオリエンテーションの最も端的な形態が混合すると、それは
【衰退の症候群】と私が提唱したその症候群なのである。この症候群の人は実際に悪である。
なぜなら彼は、生と生長に逆らって、死と無力の熱烈な賛美者であるからである。
【衰退の症候群】にかかった人として、その最もよい例はかのヒットラーである。
既に指摘したように、彼は死と破壊に対し深い愛着をもっていた。彼は極めてナルチスティックな人間で、
【自分特有】の願望と思考のみが唯一の真実であった。つまるところ、彼は近親相姦的な人物であったのである。
彼の母親との関係がどうであったにせよ、彼の近親相姦的な性格は、
同じ血を分けた民族や国民に対する狂信的な熱愛となって、主として表現されていった。
彼は血が汚されるのを防ぐことにより、ゲルマン民族を救いうるという考えにとりつかれていた。
【我が闘争】の中で彼が言っているように、まずその血を梅毒から守ること、
ついでユダヤ人に汚されぬようにすることであった。
ナルチシズムと死と近親相姦の混合は、ヒットラーのような男を、人類と生命の敵に作り上げたのである。
この三つの特徴が奏でる協奏曲は【屋根裏部屋の狐】の中で、リチャード・ヒューズがひじょうに鮮やかに述べている。
66
結局、ヒットラーの内なる一元論的な【われ】はどうして性の全行為に偽りなしに屈服しえたのだろうか?
その行為の本質そのものは【他者】の承認に通ずるのに、彼は宇宙の独自の感覚中枢であり、
その感覚の中に過去ならびに現在包含されている唯一の正統な
【意思】の化身だったという彼の確信は、傷つかないことを指摘すべきか?
なぜならこれが言うまでもなく、
彼の超越的な内なる【力】 ―ヒットラーは唯ひとり存在した―
の原理的なものであったからである。
【われは存在し、われに並ぶものは誰一人存在せず】
宇宙には彼以外に何人も存在せず、事物のみが存在した。
かくて、彼にとっては【人称】代名詞に含まれるもの全てに対し、情緒的意味内容を全く欠いていた。
そのためにヒットラーの壮大にして制約のない構造力と想像力が残ったのである。
つまりこの建築家が政治家に方向がえしたのはまた極めて自然なことであった。
なぜなら彼は取り扱うべき新しい事物に、何ら現実的区別を見 なかったからだ。
これらの【人間ども】は、単に彼を模倣する【もの】にすぎなかったのであり、
他の道具や石と同じ意味しか持たなかった。全て道具には把手がある ― これは耳に相当する。
それに石を愛したり、憎んだり、同情したり、【または真実を告げたり】するなんてばかげている。
ヒットラーのそれは、パースナリティの稀な病的状態だった。
全く陰影をもたない自我だった。稀で病的状態だというのは、正常でない場合、
そのような自我は別の形で臨床的には常に完成した大人の知性の中に残存するものだからである。
【新生児の場合は正常であり、やがて幼児になってもそれが残ってゆくものだから】
ヒットラーの成人期の【われ】はこのようにして、より大きな、しかし未分化の構造へと発達したが、それは悪性の生長と同じである。
さいなまれ、気の狂いかけた存在はベッドの上でのたうった。
【リエンチの夜】
オペラがすんでからのリンツ河畔のフラインベルク座でのあの夜こそ、彼の少年時代の転機となった夜であった。
その時にこそ、彼ははじめてひとり自らの内なる全能を確認した夜だったからである。
暗闇の中でこの高みに上ることを強いられて、彼にはそこで一瞬のうち に一切の地上の王国の存在を示されたのではなかったか?
そしてそこにおいて古代の福音の問題に直面し、彼の全存在は全体的承認となってしまったのではなかったか?
見守る11 月の星の下、この高い山の上で、彼は永遠の契約を交わさなかっただろうか?
だが今や彼にはリエンチのように波頭に乗っているように思われた今、
そしてその抗い難い波はその高まる力を持って彼をベルリンへと押しやったのだが、
その波頭はうねりだし、うねっては砕けて、彼を巻き込み、とどろく緑色の水の中へと深く彼をひきずりおろした。
夢中でベッドの上でのたうちながら、彼は激しくあえいだ。
彼は溺れかけていたのだ【それこそいつもヒットラーが何よりも恐れていたことなのだ】溺死?
そして、それはずっと昔、少年の頃リンツにあるダニューブの橋の上で揺れ動いていた自殺寸前のある瞬間。
とにかくこの憂鬱な少年はこの遠い昔の日のことを飛び越え、全てはそれ以来夢となった。
それから今やこの騒音は、彼の夢見る溺れる耳の中で歌われる力強いダニューブの流れだった。
彼を取り巻く緑の水の中にあって、死人の顔がひとつ彼のほうへ向かって漂ってきた。
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彼自身の少しむくんだそして眼をパッチリと開いた死人の顔、それは母の顔、
白い枕に寝かされているのをみたのが最後の、閉じることのない眼を持った死んだ母親の顔であった。
彼を愛しながら死んだ、真っ青なむなしい顔。しかし今、その顔が幾重にも重なって、水の中で彼の周りを取り巻いていた。
そうだ、彼の母はこの水であった。そしてその水が彼を溺れさせるのだ。そのとき彼はあがくのをやめた。
彼は生まれたときの姿勢にかえって、両膝を顎まで引き寄せて溺れるままにまかせた。そうしてヒットラーは眠りについた。
この短い一節には【衰退の症候群】の諸要素が、偉大な作家ならでは描きえないように集約されている。
ヒットラーのナルチシズム、彼の溺死したい欲望、水は彼の母親である。
そして死への希求は、死んだ彼の母親の顔によって象徴されていることで分かるのである。
子宮への退行は、生まれながらの姿勢をとり、両膝を顎へ引き寄せたその姿勢に象徴化されている。
ヒットラーは【衰退の症候群】の極端な一例にすぎない。
暴力、憎悪、人種差別、更にはナルチスティックな民族主義で腹を肥やす人は沢山いるが、
彼らはこの症候群に罹っているのである。彼らは暴力、戦争、更には破壊の指導者か【真の信奉者】である。
彼らの中で最も平衡を失った重症の者だけが、彼らの真の目的を明瞭に表現し、
あるいは意識的にそれに気付いてさえいるのである。
彼らは愛国心、義務、名誉のようなもので自分のオリエンテーションを合理化しようとする。
しかし国家間の戦争や、市民戦争の際にみられるように、正常な市民生活の形態が一旦破壊されてしまうと、
これらの人々には自分の奥深く存在する欲望を抑圧する必要がもはや失われる。
彼らは憎悪の凱歌をあげ、生気を取り戻し、自身のエネルギーを死に役立つ時点において解放するであろう。
実際、戦争と暴力の雰囲気は【衰退の症候群】をもった人が、その本来の姿を取り戻したときの状況である。
多分、この症候群によって動機付けられる者は、少数にすぎないであろう。
しかし彼らも、そういう動機を持たない人々も同じように、真の動因に気づいていないという事実そのものは、
彼らを闘争、葛藤、冷たい戦争、暑い戦争に際して、憎悪という伝染病を撒き散らす危険な保菌者とするのである。
それ故、彼らの正体を識別することが重要である。すなわち死を愛し、独立を恐れ、
その属するグループの要求のみが真実であるとする人間だと、認識する必要がある。
らい患者を隔離するように、彼らを肉体的に隔離する必要はない。
正常な人々が、この種の病理的影響に対してある程度の免疫性を獲得するためには、彼らが不具者であることや、
そのまことしやかな合理化の背後に隠されている悪性の衝動を理解することだけで十分だろう。
このためには勿論ひとつのことを学ぶ必要がある。
すなわち人間だけが罹りうる病気、生が終わらぬうちに生を否定する病気を患う人々の、
見かけだけの合理化と、真実の言葉とを取り違えずに見抜きうるよう学ぶ必要がある。
投射質問書を使ってネクロフィリア、重症のナルチシズム及び近親相姦的共生に罹った人々の影響の範囲を
発見できるような実験研究計画を私は提案する。こういう質問書は、合衆国人民の各層の代表者に使用することができよう。
このようにすれば【衰退の症候群】の範囲ばかりでなく、社会的・経済的地位・教育・宗教更には
出身地のような、他の要因との関係をも発見することが可能となろう。
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このようにネクロフィリア、ナルチシズム及び近親相姦的固着を分析してみると、
フロイトの理論と関連付けてここに提示されている見解を論及する必要に迫られる。
しかしこの書の内容からして、それが簡単ならざるを得ないことを、あらかじめ了承して頂きたい。
フロイトの考えは、リビドーの発達段階の悪化的図式を基礎にしたものである。
すなわちそれは、ナルチシズムから
口唇受容期、口唇攻撃期、肛門加虐愛更に男根的オリエンテーション、性器的オリエンテーションとなる。
フロイトによれば、精神的疾患の最も重症例はリビドー発達の初期段階への固着
【または初期段階への退行】が原因となって起こるものであった。
その結果、例えば口唇受容期へ退行することは、肛門加虐愛期へ退行するよりも、
更に重症であると考えられ る。しかしながら私の経験では、この一般原理は臨床的観察からは認められないのである。
口唇受容期のオリエンテーションは、それ自体では肛門期のオリエンテーションよりも生に近いものである。
それ故一般にいって、肛門期のオリエンテーションは、サディズムと攻撃性の要素を抱含するが故に、
口唇期のそれよりも重症の病理現象といえよう。更に、口唇攻撃期のオリエンテーションは、
口唇受容期のそれよりも重症の病理と考えられるだろう。
その結果、フロイトの体系とはほぼ正反対の結論に到達する。
最も軽症型は口唇受容期のオリエンテーションと関係を持ち、口唇攻撃期のオリエンテーションから、
肛門加虐愛期のオリエンテーションへとより重症なものがそれに続くのである。
発生学的には口唇受容期、口唇攻撃期、肛門加虐愛期の順序であるというフロイトの所見が
正しいとしても、早期の段階の固着は、より重症であるという彼の見解には、反対しなければならない。
しかしながら、より早期のオリエンテーションがより病理的な表出の基礎であるという進化的仮説では、
この問題は解決できないと私は考えている。
私の考えでは、各オリエンテーションは一般に成熟した性格構造、
つまり高度の生産性と結合する場合には良性型であるが、
その反対に、強度のナルチシズムや近親相姦的共生とも結合しうるのである。
この場合には、口唇受容期のオリエンテーションは、極度の依存症と悪性の病理症状を呈するであろう。
ネクロフィラスな性格と比較すれば、殆ど正常ともいえる肛門期性格についても同じことが当てはまる。
それ故リビドー発達のさまざまな段階の区別によらずに、
各オリエンテーション【口唇受容期、口唇攻撃期等】内部で決定しうる退行度にしたがい、
病理症状を決定するよう提案したい。
更に留意しなければならぬことは、われわれが取り扱うものは、
フロイトがそれぞれの性感帯に根ざすとするオリエンテーションばかりでなく、
同化の各様式とある種の類縁性を持つ個人と関連する諸形態
【愛、サディズム、マゾヒズムのようなもの】も含まれているということだ。
かくて、口唇受容期のオリエンテーションと近親相姦のオリエンテーション、
肛門期のオリエンテーションと破壊性のそれとの間には類縁性がある。
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本書で私が取り扱うものは、同化の様式よりはむしろ類縁様式に関するオリエンテーション
【ナルチシズム、ネクロフィリア、近親相姦のオリエンテーション[社会化の様式]】である。
だがオリエンテーションの二つの様式の間には相関関係がある。
ネクロフィリアと肛門期オリエンテーションとの類縁性については、この相関関係は、
既に本書である程度詳しく述べたところである。その類縁性は
バイオフィリアと【性器的性格】との間に、近親相姦的固着と口唇期性格との間にも存在している。
以上述べてきた三つのオリエンテーションは、
退行の種々の段階において生じうることを私は明らかにしようとしてきた。
各オリエンテーションの退行が深ければ深いほど、この三つはますます集合する傾向をもつ。
極端な退行状態においては、私の言う【衰退の症候群】なるものを形成する。
その反対に成熟の最適条件に到達した人の場合にも三つのオリエンテーションは集中するようになる。
ネクロフィリアの反対はバイオフィリアであり、
ナルチシズムの反対は愛であり、近親相姦的共生の反対は独立と自由である。
このような三傾向の症候を、
私は【生長の症候群】と呼ぶ。次図はこの考えを模式的に示したものである。
前進の段階
退行の段階
正常
バイオフィリア
ネクロフィリア
隣人と異邦人への愛
ナルチシズム
肛門性格
生長の
衰退の
症候群
症候群
独立
自由
近親相姦共生
母固着
70
Ⅵ 自由、決定論、二者択一論
これまで破壊性と激情の経験論的諸問題についていくつか論じてきたのであるが、
さて、第一章ではほぐれなかった糸を取り上げる用意が、以前よりはできたと思われる。
ではその問題に帰ることにしよう。
人間は善なのか?それとも悪なのか?
人間は自由なのか?あるいは環境により決定づけられるのか?
またはこの二者択一も間違っていて、人間はこれでもあれでもないのか それともこれでもあり、またあれでもあるのか?
これらの質問に答えるためには、
更にもうひとつの別の問題から論議をはじめるほうが、われわれの目的に役立つであろう。
人間の本性について果たして理解が可能であるか、そしてもし可能なら、それはいかに定義づけうるのか?
人間の本質を述べうるかどうかの問題については、相矛盾する二つの見解がすぐに発見できる。
すなわち人間の【本質】というようなものはないとする立場の人があり、
この見解は、人類学的相対論により支持され、
人間は人間を型どった文化的パターンの所産にすぎないと主張するのである。
他方、既述してきたような破壊性に関する経験論的議論は、フロイトをはじめとする多数の人々により支持され、
人間の本性というものは存在するという見 地に立脚している。
事実、全ての力動心理学はこの前提に基づいているのである。
人間の本性について満足できる定義を見出すことが難しいのは、次のようなジレンマのためである。
もしある【実体】を人間の本質を構成するものとして仮定すると、
人間がこの地球上に出現したそもそもの当初から、
人間には根本的な変化がなかったとする非進化的・非歴史的立場に陥らざるを得ない。
こういう見解は、人間の出現した当初の未開の先祖たちと、
過去四千年から六千年の歴史に現れるようになった文明人との間には、
大きな相違が見られるという事実とは明らかに一致しないのである。
マルクスはとりわけこのジレンマに悩まされた。
彼は人間の本質について述べているが、1844 年の経済学・哲学草稿では、この表現を取りやめ、不具でない人間に関し述べているが、
これは不具化されうる人間の本性という概念を前提としている【資本論】の第三巻では、マルクスはまだ人間性という概念を使用しており、
疎外されない仕事のことを【人間性に最も相応しい条件下にあり、かつ人間性にとり最も価値ある】条件下の仕事のひとつだという。
他方、マルクスは人間が歴史的過程において自己創造することを強調し、
ある個所では人間の本質は彼らの住む【社会全体の調和】以外の何ものでもないというようになった。
マルクスが人間の本性という概念を棄てず、同時に非歴史的・非進化的概念に屈服することを肯じなかった事は明瞭である。
マルクスはこのジレンマを解決できなかった。それ故、人間の本性の概念について定義づけることはできず、
この問題に関する発言はやや曖昧で矛盾あるものにとどまったのである。
71
一方、進化的概念を容認し、人間は常に変化しているという立場に立つと、
人間の本性とか本質といわれるものは、中身として何が残されるかが問題となってくる。
このジレンマは人間は政治的動物である【アリストテレス】とか、人間は約束する動物である【ニーチェ】とか、
更には人間は予測と想像により製作する動物である【マルクス】というような、
人間とは何かの定義をもってしても未解決なのである。すなわちこれらの定義は、
人間の本質的素質を表しえても、人間の本質には何ら触れ得ないのである。
このジレンマは人間の本質を、先天的な素質または実体としてではなく
【人間存在に内在する矛盾】として定義することによってはじめて解決しうると私は信じている。
この矛盾は次の二つの事実の中に見出される。すなわち
1. 人間は動物の一種である、しかし本能的装置の面からみると、
他の全ての動物のそれと比較して不完全であり、物質的欲求を充足する方法を考え、
言語と道具を発達させなければ、生きていく上に十分な保証とはなり得ない。
2. 人間もまた他の諸動物と同じように、直接的かつ実用的な目標を獲得するために思考過程を経るのであって、
そのための知能を所有している。しかし人間には動物にはない別の精神的素質がある。
彼は自己を、自らの過去及び未来を、すなわち自らの死や自らの弱小、無力に気づいている。
彼はまた他人を他人として 友人、敵、異邦人として意識している。
人間ははじめて【生を生そのものとして意識し】うるが故に、他の全ての生を超越する。
人間は自然の中に存在し、自然の命令や出来事に左右されるが、
それでいて動物をして自然の一部とならしめる無意識性を欠くが故に、自然を超越する。
人間は自然の捕虜でありながら思考することにおいては自由である、という驚くべき葛藤に直面する。
自然の一部でありながらしかも、いわば自然の気まぐれごときのものであり、
あれでもなくこれでもないという葛藤に遭遇する。
人間が自らを意識することは、人間をして独りぽっちで孤独で物に怯える世界の中の異邦人としたのである。
私が、これまで述べてきた矛盾は、人間は肉体でも魂でもあり、天使でも動物でもあり、
お互いに葛藤する二つの世界に属するという古典的見解と本質的には同じである。
私が指摘したいことは、この葛藤を人間の本質、
すなわちそのために人間は人間なのであると見做すだけでは十分でない。
それ以上に人間の内に内在するこの葛藤そのものが【解決を迫っている】と認識することが必要である。
この葛藤に関する記述からひとつの問題が直ちに生じてくる。
すなわち、人間は自己存在に内在するこの驚きに打ち勝つためにどうすればよいか?
人間は孤独の苦しみから解放され、世界に馴化し、合一感への調和を見出すにはどうすればよいのか?
人間がこれらの問題に答えねばならぬことは、理論的なそれではなく
【生についての思想や理論に反映されてはいるけれど】自らの全存在、自らの感情や行動における解答である。
その解答はよりよい場合もあれば、より悪い場合もあろう、
72
しかし最悪の解答でさえも解答しないよりはましである。
あらゆる解答が満たすべき条件がひとつある。すなわち
それは人間が分離感に打ち勝って、結合感、合一感、所属感を獲得しうるようなものでなければならぬということである。
人間として生まれてきたという事実から、人間への設問に対して、人間が与えうる解答は非常に沢山ある。
私はそれをこれから簡単に述べようと思う。
これらの解答はどれひとつとして、それが人間の本質を構成するものではないということを、私は強調したい。
その本質を構成するものが問題であり、解答を必要とするものなのである。
人間存在のさまざまな形態は本質ではなくて、
それらの形態はそれ自身本質であるところの葛藤に対する解答なのである。
分離を超えて合一しようとする探求への最初の解答を、私は【退行的】解答とよぶ。
人間が合一感を見出そうとするとき、孤独と不安の恐怖から逃れて自由になりたいと考えるとき、
彼は自分の生まれ故郷自然、動物の生活、あるいは自分たちの祖先 へ戻ろうとしたり、
または自分を人間としているもの、自分を悩み多きものとする理性や自意識を除去したりする。
幾十万年の間、人間はまさにそのようなことを繰り返してきたらしい。
原始宗教の歴史はこの努力を証明しているし、重症精神病患者もそのことを立 証している。
形態こそ異なれ原始宗教と個人の心理過程には、共通の重症の病理現象が発見できる。
すなわち動物的存在への退行、前個人化状態への退行、特に人間らしきものを除去しようとする努力がみられる。
しかしながら以上の叙述はひとつの意味で限定づけなければならない。
過去へ退行する傾向を大多数の人が共有すると【大衆の愚行】という現象が現れ、
興論統一という事実そのものが、愚行を賢行に、虚構を真実にみせるようになる。
この共同の愚行に参加する各人は、完全な孤立感や違和感に欠けるので、
前向きの社会でなら経験するは ずの激しい不安感に襲われないですむ。
殆どの人にとっては、理性や真実というものは世論にすぎないということを記憶しておかねばならない。
他人の精神が自分のそれと違わないとき、人間は【発狂する】ことはないのである。
人間存在の問題と、人間たることの負担とを、退行的・原初的な形で解決しようとする方法に代わるものが、
【前進的解決法】つまり退行によらず、全ての人間的な力その内なるヒューマニティを完全に発達させることにより、
新しい調和を発見する方法である。
紀元前 1500 年から同 500 年の間に亘る人間の歴史上の極だった時期に、
前進的解決法は最初はラジカルな形態をとって出現した
【原初的な退行的宗教から、ヒューマニズム宗教への過渡期を形成する各種の形態の宗教がある】
すなわち、エジプトでは紀元前 1350 年頃イクンアトンの教義に、また、ヘブライ人の場合は同じ頃
モーゼの教義となって現れた。また紀元前五、六百年頃同じ思想がシナの老子、インドの仏陀、
ペルシャのツアラトゥストラによって、またイスラエルでは予言者により、ギリシャでは哲学者によって教示された。
人間の新しい目標、十分に人間らしくなることにより失われた調和を回復するという目標が、
各種の教義や象徴により表現されたのである。
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イクンアトンはその目標を太陽により象徴し、モーゼは歴史上の識られざる神をもって象徴とした。
老子はその目標をタオ【道】と呼び、仏陀はそれを涅槃として象徴し、またギリシャの哲学者たちは不動の原動者、
ペルシャ人はツアラトゥストラ、予言者たちは救世主の【世界の終末】として象徴した。これらの概念は
思考様式及び結局は生活慣習とそれら文化のもつ社会・経済・政治的構造によって大きく決定づけられた。
しかし新しい目標を表現するそれぞれの形態は、各種の歴史的環境に左右されはしたが、
その目標は本質的には同一であった。すなわち人間の存在の問題や、人生が提示する問題に正しき解答を与えることに
よって―人間が十分人間らしくなり、分離感のもつ恐怖を払いのけること― 解決することであった。
キリスト教とイスラム教が、それから500 年後と1000 年後にそれぞれ同じ思想をヨーロッパと地中海諸国に伝えたとき、
世界の大部分はその新しい神託を知ったのである。しかし人間はその教義を聞くと、直ちにそれを歪曲しはじめた。
すなわち自らを十分人間らしくすることなく、神と教義を【新たな目標:彼岸】の顕現として偶像化したのである。
かくてひとつの影像ないし言葉を、自己の経験による真実に代置した。だがそれと同時に、
何度となく繰り返し人間は真の目的へ復帰しようと努力しているのであり、
その努力は、宗教、異端の宗派、新しい哲学思想や政治哲学の中に現れたのである。
これらすべての新しい宗教や運動の思想概念はそれぞれ違いはあるが、人間の基本的な二者択一の考えは共通である。
人間は二つの可能性、すなわち前進するか、退行するかのいずれか一方しか選択できない。
原初的かつ病理的解決法へと後退するか、
ヒューマニティに向かって前進・発展させるかいずれか一方だけが可能なのである。
この二者択一に関する明確な説明はさまざまな形になって現れる。
すなわち光と影【ペルシャ】祝福と呪詛及び生と死【旧約聖書】の間の二者択一として、あるいはまた、
社会主義とバーバリズムの択一という、社会主義の公式化となって現れている。
同じような二者択一は、種々のヒューマニズム宗教に現れているばかりでなく、
精神的健康と病気の間に介在する基本的差異としても現れている。
いわゆる精神的に健康な人とは、その文化の一般原理に従っている。
古代チュートン民族の狂戦士【北欧伝説で、一度戦場に出れば狼のように吼え、熊のようになり、凶暴の限りをつくし、
その驚くべき力はいかなる武器も役立たなかったという】にとって【
健康】な人たちとは野獣のように行動できる人であったが、
その同じ人間は、現代では精神病者であろう。精神的体験のあらゆる原初的形態はネクロフィリア、極端なナルチシズム、
近親相姦的共生 ― 何らかの形でも退行的・原初的文化の中の正常ないしは理想的ともいえるものを構成しているが、
その理由は、現代では重症の精神病理と考えられる状態をあこがれる共通の衝動により結ばれているからである。
それが軽症の場合には、反対の力によって阻止されると、上に述べた原初的な力は抑圧されるが、
この抑圧の結果は【神経症】となるのである。
退行的文化と前進的文化との間に存在するオリエンテーションの本質的相違は、そのような事実に存在している。
すなわち原初的文化の中にある原初的傾向の人は孤独感に悩まされず、かえって共通の世論によって支持されるが、
前進的文化の中にいる同じ人には、ちょうどこれと正反対の事態が生じるという事実である。
彼は自分の精神がすべての人の精神と対立するが故に【発狂する】のである。
今日のような前進的文化の中においてさえも、相当強い退行的傾向をもつ人がかなりおり、
それは日常生活の中では抑圧されていて、戦争などのような特殊条件の下ではじめて出現するのである。
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われわれが取り上げた問題に関する以上の考察から明確化されたことを、ここに要約してみよう。
先ず第一に、人間の本性の問題に関しては、
人間の本質とか本性とかは善とか悪のように特定の【実体】ではなくて、
人間存在の条件そのものに根ざす【矛盾】であるという結論にわれわれは到達している。
この葛藤そのものは解決されなければならないし、根本的には退行的解決か前進的解決しかない。
人間の進歩に対する内的衝動のような形でしばしば出現するものが、新しい解決法のためのダイナミックスに他ならない。
人間が或る段階に到達すれば、
その段階で、更に新たな解決を求める仕事を否応なしに続けさせる新しい矛盾が出現する。
この過程は、彼が円熟した人間となり、世界と完全に合一するという最終目標に到達するまでは継続するのである。
貧欲と葛藤のなくなった【仏教で説くような】完全な【悟り】という最終目標に人間が到達しうるかどうか、
それともこのことは死後にしてはじめて可能なのかどうか【キリスト教の教義によれば】はここでは触れないことにする。
重要なことは、あらゆるヒューマニズム宗教と哲学の教えでは【彼岸】は同じものであり、
人間はたえずそれに近づき到達しうるという信念によって生きていることである
【それとは反対に解決を退行的な方法で求めると、人は完全な非人間化を捜し求めるという破目に立ち入り、
気狂い同然のものを求めざるを得ないこととなる】人間の本質が善でも悪でもなく、愛でも憎悪でもなく、
新しい解決 ― それがまた新しい矛盾を生むのだが ― の探求を要求するところの矛盾にあるとすれば、
その場合、人間は退行的か前進的かの何れかの方法でのみ、自己のジレンマに答えることができる。
現代史はこの事実への実例をたくさん示している。
幾百万のドイツ人が、ことに金と社会的地位に縁のない中流下層の人々が、
ヒットラーの指導により古代チュートン民族の【
狂戦士になる】ことを崇拝するようになった。
同じことがスターリン治下のロシア人にも起こったし、
南京【大虐殺】の日本人、アメリカ南部の暴徒のリンチの場合もそうであった。
一般大衆にとって原初的形態をとった経験は、常に現実的可能性を持つものであり、
それは出現しうるのである。しかし出現しうる二形態を区別する現実的可能性がある。
そのひとつは原初的衝動が非常に強烈で、その文明の文化的パターンと対立するために抑圧されたような場合である。
この場合には、戦争とか天変地異とか社会的分裂のような特殊な環境が、
抑圧された原初的衝動を噴出させるような水路を、容易に開きうるのである。
もうひとつの可能性として考えられるのは、個人ないしは集団の成員が生長において、
前進的段階に既に到達するか、または固定してしまっている場合である。
この場合、上記のような外的事件が起こっても、容易に原初的衝動への復帰をもたらすことはないだろう。
なぜならこのような衝動は、抑圧されているというよりは【置換】されているからである。
にもかかわらず、この場合でも原初的ポテンシャルが、完全に消滅してしまったわけでは決してない。
強制収容所に長期間抑留されているとか、体内のある種の化学過程のような異常環境下にあっては、
人の全神経的的構造は崩壊し、原初的な力が新たな力をもって噴出するかもしれない。勿論この両極の間には、
すなわち、原初的な抑圧された衝動と前 進的なオリエンテーションによる完全な置換との間には無数の変異がある。
その存在率は各人によって差異があり、
また退行の度合いに対する原初的なオリエンテーションの自覚の度合いも違いがあるであろう。
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退行によらず、前進的オリエンテーションの発達により、
原初的一面が全く除去され、退行的力を完全に喪失してしまった人々がいる一方、
前進的オリエンテーションを発達させる可能性を完全に喪失し、
選択の自由すらも この場合は前進のための選択
喪失してしまった人々が存在する。
或る社会の一般的風潮が、各個人の両面の発達に多いに影響をもつことは言うまでもない。
だが、ここにおいても各個人は、オリエンテーションの社会的パターンとは大いに異なることはあり得るのである。
既に指摘したように、現代社会には原初的なオリエンテーションをもった人が何百万人もおり、
彼らはキリスト教や啓蒙主義の信条を意識的に信奉しているが、その反面、裏では【狂戦士】であり、
ネクロフィラスな人間であり、彼らはバアル神【古代セム人の神、特にフェニキア人の主神で太陽神】や
アスタルテ【フェニキア人の崇拝した古代セム族の豊作と生殖の女神】の崇拝者である。
彼らは必ずしも葛藤を経験するとは限らないのである。なぜなら彼らの【考え】にある前進的な見方にはウエイトがなく、
人目に付かぬヴェールをかぶった形でのみ現れる、自己の原初的衝動に基づき【行動する】からである。
それと反対に、いつの時代にも、原初的文化の中で、前進的なオリエンテーションを発展させた人たちが存在した。
彼らは指導者となり、特定の状況下にあってその集団の大多数に光明を与え、
その社会全体が斬新的変革を遂げるための基礎を作ったのである。
これらの人たちが並外れた大きな存在であり、その教えが後世に伝わるとき、彼らは予言者とか主とかいわれた。
彼らが存在しなければ、人間は原初的状態の暗闇から前進しなかったであろう。
しかし仕事が進化し、人間は自然の未知なる力から徐々に解放され、自らの理性と客観性を発達させ、
猛獣や使役動物のような生き方を中止したからこそ、彼らは人間に影響を与えることができたのである。
集団について真なることは、個人についても真である。
いかなる人にも既述したような原初的な力が潜勢力として存在する。
完全な【悪】とか完全な【善】というだけでは、もはや選択は不可能である。
誰もが原初的オリエンテーションへ退行しうる一方、そのパースナリティを十分前向きに進展させることも可能である。
前者では、重症の精神病を患っているのだし、第二の場合はしぜんに病気が治癒したか、
完全な意識性と成熟した状態にその人が変貌したのである。この両者の発達が促進される条件を研究し、
更に良性の発達を促進し、悪性の発達を停止しうる方法を検討することは、精神医学、精神分析学ならびに
各種の精神科学の課題なのである。これらの方法に関し記述することは本書の範囲から逸脱しており、
それは精神分析学と精神医学の臨床文献の中に見出すことが できる。
しかし特殊な例は除外するとしても、個人や集団はそれぞれある時点において、
非常に不合理かつ破壊的なオリエンテーションに退行しうると共に、また逆に啓蒙的かつ
前進的なオリエンテーションへ向かって前進しうることを認識することが、今の問題にとっては重要である。
人間は善でも悪でもない。もし性善説を唯一の潜在するものとして信用すれば、
事実をばら色に曲解する破目に至るか、もしくは結局苦い幻滅を味わうことになろう。
もし性悪説を信用すれば、遂には皮肉屋となったり、
他人や自分に内在する、善に向かう多くの可能性に対し、盲目となるであろう。
現実的な見解は、真なる潜勢力を双方の可能性の中に見出し、それぞれの発達に適した条件を研究することにある。
76
以上の考察から、われわれは人間の【自由】という問題に到達するのである。
人間はいかなる瞬間においても善を選択する自由があるのか、
それとも自己の内的ならびに外的な力により決定されているがために、
こういった選択の自由はないのだろうか?
多くの書物が意思の自由の問題についてふれているが、これから何頁かにわたって述べる予備知識として、
次のウィリアム・ジェームスの言葉より適 切なものはないと私は思う。
【次のようなひとつの共通の意見が広まっている】と彼は書いている。
【その果汁は、何世代も前既に自由意志の論議から搾り取られたものであり、
新しい論客には誰もが聞き古した陳腐な議論をあたためる以外に方法がないというのだ。
しかしそれは根本的に過ちである。この問題よりも陳腐さの少ない主題を私は知らないし、
そしてその主題において若き天才が新たな大地を開拓するのにこれよりよき機会をもった主題をも知らない。
その機会とは、おそらく結論を強制されたり、同意を強いたりする機会ではなく、
両派の論争点は実際は何であるか、また運命とか自由意志とかいう意味には、
実際どういうことが含まれているのか等々に関して、われわれの認識を深めうるよりよき機会のことである】
この問題に関して、私が次に少し述べようとすることは、精神分析的経験が、自由の問題について新しい光明を投じ、
新しい局面をわれわれに開示してくれるという事実に基づいているのである。
自由を取り扱う在来の方法は、
経験的・心理的データを使用せず、一般的・抽象的言葉をもってこの問題を論じる傾向があった。
自由とは【選択の自由】という意味だとすれば、
問題は A とB とを選択する自由があるかどうかを問いかけることとなる。
決定論者は人間は
自然界の他のすべてのものと同じように
原因により決定づけられるから
われわれは自由ではないと主張してきた。
それは空中にある石が落ち【ない】自由をもたないのと全く同じように、人間は、人間にA かB かを選択することを決定づけ、
強制し、原因づける動因によって、A か B かを選択させられるというのである。
ここで使われている決定論という言葉は、
本書全体を通じてウィリアム・ジェームスや現代英米哲学が使っている【狭義の決定論】という意味で使用している。
この意味での決定論は、ヒュームやミルの著作に現れる理論とは区別しなければならない。
彼らのそれは【広義の決定論】と特に呼ばれることがあり、それによれば、
決定論と人間の自由を信じることは矛盾しないというのである。
私の立場はどちらかといえば【狭義】よりも【広義】に近い決定論ではあるが、それとも多少違いがある。
決定論に反対するものはその立場を主張して宗教的根拠にたち、
神は善と悪を選択する自由を人間に付与したそれゆえに、人間はその自由を持っていると主張する。
第二に、人間は自由である、さもなければ人間は自分の行為に対し責任を持ち得ないだろう、と主張する。
第三に主張することは、人間は自由であることを主観的に経験している。
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それ故自由への意識は自由の存在する証拠である、ということである。
この三つの主張は全部納得のいくものとは思えない。
第一の論は神を信じ、人間のための神の御業を知る必要がある。
第二のものは人間に罰を下しうるように、人間に責任を取らせたい願望から生まれたように思われる。
刑罰という考え方は、過去ならびに現在、殆どの社会制度の一部を構成するが、
大多数の【持たざる者】に対する少数の【持てる者】を保護する手段である【であると考えられる】
という事実に基づいており、それはまた権威者の処罰のための権力の象徴でもある。
処罰しようとすれば、それに対し責任を取れる何者かが必要になる。
この点でショウの言葉が想起される。【絞首刑は終わった
残るのは裁判だけだ】
選択の自由があるという意識がこの自由が存在する証拠であるという第三の主張は、
スピノザとライプニッツにより完全に覆された。
われわれは自己の欲求を知っているが、その動機には気付かないため自由への幻想を持つのだ、
とスピノザは指摘した。ライプニッツもまた、意思は一部無意識な性向により動機づけられることを指摘した。
実に驚くべきことであるが、スピノザやライプニッツ以降の議論は
われわれの選択は自由であるというおめでたい確信を持たせてはくれたが、殆ど次の事実を認識し得なかった。
すなわち選択の自由に関する問題は無意識的な力がわれわれを決定づけるということを考慮するのでなければ、
決して解決できないということである。しかしこういう特殊な反論は別にして、
意思の自由に関する論議は日常体験と矛盾するように思われる。
この立場は宗教的な道徳家、理想主義的哲学者により支持されようが、
はたまたマルクス主義的傾向をもつ実存主義者に支持されようが、
それはせいぜい高貴な仮定にすぎず、しかも個人に対しひどく不公平であるがために、
多分それほど高貴なものとは考えられそうにもないのである。
物質的・精神的に貧困の中で生長し、他人への愛情も関心も持ったことがなく、
長い間アルコール性癖に染まった飲酒習慣の体質を持ち、環境を抜け出せる可能性のない人が、
選択の自由を持っていると、われわれは実際に主張しうるだろうか?
この立場は事実に反していないか、それは血も涙もないものではないのか、
そして二十世紀流の言葉でいえば、
サルトルの哲学のように中産階級の個人主義と、自己中心の精神を反映する立場であり、
マックス・スティルネルの【唯一者とその所有】の現代版ではないのか?
反対の立場に立つ決定論は、
人間に選択の自由は【なく】その決定はどの時点でも、それ以前の内的・外的事件により原因づけられ、
決定づけられていると主張するのであり、一見、より現実的かつ合理的なように見える。
決定論を社会集団にあてはめようと、階級または個人に適用しようと、フロイト派やマルクス主義者の分析が、
いかに人間が決定因子である本能と社会的な力との戦いにおいて弱いものであるかを明らかにしはしなかったか?
母親への依存心を解き放ち得ない人間は行動と決断の能力を欠き、
病気になり次第に母親に代わるものに依存せざるを得なくなり、
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遂には取り返しのつかぬ状態になるということを、精神分析は明らかにはしなかったか?
また下層中流の階級がひとたび財産、文化、社会的機能を喪失すれば、
その成員は希望を失い、原初的な、ネクロフィラスな、ナルチスティックなオリエンテーションへと退行することを、
マルクス主義の分析は明らかにしてはいないか?
しかしマルクスもフロイトも、因果論的決定論の不可逆性を信じるか否かという意味では決定論者ではなかった。
二人とも既にはじまったコースでも変更しうるという可能性を信じていた。
二人ともいわば自己の背後で、【自らを動かす力に気付くようになる】そうして自由を再び獲得しうるようになる
―人間の能力に基づく変革の可能性を見通していた。二人とも ― マルクスに大きな影響を与えたスピノザのように
決定論者でもあれば、非決定論者でもあり、また決定論者でもなければ、非決定論者でもなかった。
二人とも人間は因果律により決定づけられるが、
覚醒と、正しい行為によって自由の領域を創造し拡大しうるという意見を提出した。
自由の最適条件を獲得し、必然の鉄鎖から脱出しうるのは、その人自身の責任である。
フロイトによれば無意識より目覚めること、
マルクスによれば社会的・経済的な諸力と階級の利益に目覚めることが開放の条件であり、
両者にとっては自覚に加わうるに、積極的な意思と闘争が解放の条件であった。
基本的には同じ立場を古典的仏教はとっている。人間は輪廻転生の輪につながれているが、自分の実存状態を知 り、
正しい行為の八段階を歩むことによってこの決定論から自己を解放することができる。
旧約聖書の立場も同じである。人間は祝福と呪い、生と死の何れかを選択せねばならぬ。
しかし生の選択にあまり躊躇すると、取り返しのつかぬようになってしまう。
確かにすべての精神分析者は、彼らの生涯を決定づけるかにみえる性向に気付き、
自由を再び取り戻そうと努め、その性向を逆転せしめ得た患者を観察してきた。
しかしこの経験をもつには精神分析者である必要はない。
同様の経験をわれわれのうち何人かは、自分自身や他の人々に対して持ったことがある。
即ち、【論者のいう】因果の鎖が断ち切られ、彼らは【奇跡的】とも思われる道をとったのである。
なぜならそれは、
彼らの過去の成果の基礎を形成してきたと考えられる、最も合理的期待と矛盾するが故に奇跡的なのである。
意思の自由に関する在来の論議は、スピノザとライプニッツの言う無意識的動機が、
正当な評価を与えられなかったという事実のためにいき悩んだとばかりいえない。
この論議が一見無意味にみえた責任は他にも理由がある。
次にそのいくつかの重要と考えられる誤謬をあげることにしよう。
その誤謬のひとつは、特定の個人の選択の自由よりは、【人間一般】の選択の自由を述べる傾向があるということにある。
一個人のそれではなく、人間一般の自由を語り始めるや否や、
それは抽象的な形式をとり問題を解決し難いものとすることを私は後で更に示そうと思う。
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このことは、人間には選択の自由を持つ人と、もたない人とがあるからに他ならない。
人間全体にあてはめれば、抽象的な形式をとるか、
カントやウィリアム・ジェイムズの言う意味での、単なる道徳的原理を取り扱うことになる。
自由に関する従来の議論において、もうひとつの困難は、
まるで人間が【一般に】善意の選択において、善を選択する自由を持つかのように、
善悪問題を取り扱いやすいということである。ことにプラトンからアクィナスに至る昔の哲学者たちにはその傾向が強い。
この見解は議論を非常に混乱させる。
というのは一般的な選択の問題に直面すると、殆どの人は【悪】ではなく【善】を選択する。
しかし【善】と【悪】の間の選択といったものは存在しないのであり、善と悪が正しく定義づけられると仮定すれば、
ただ善なるものへ向かう【手段】である具体的・特定的な行為と、
悪なるものへと向かう手段であるその反対の行為とが存在するにすぎない。
選択の問題におけるわれわれの道徳的葛藤は、
一般的な善悪の選択よりもむしろ、具体的な決定に迫られるような場合に生ずるのである。
この誤謬はオースチン・ファラーのような作家でさえ犯している。
この人の著作は自由に関するもののうちで、最も緻密で鋭い洞察と客観的分析を有するものだが、
彼は次のように述べている。【選択とは、定義づけると二者択一をすることである。或る二者択一が真正かつ心理的に
選択自由であるという事実は「人々がすでにそれを選択してきたという観察」によって支持されている。
その人々が時にはそれを選択し損ねたことがあるという事実は、選択不能であるということを示すものでは決してない】
在来の論議に存在する更にもうひとつの欠陥は、
選択の傾斜の程度にはふれることなく、むしろ選択の自由か選択の決定かを一般に取り扱っているという事実にある。
後に説明するように、自由対決定論の問題は、
実際には、各選択の傾斜とその有する強度との葛藤の問題なのである。
ライプニッツは【必然ではなく傾斜を】に関して述べた珍しい著者のひとりである。
最後に【責任】の概念の使用に際して混乱がみられ る。
【責任】という語は、罰すべき人間とか非難すべき人間とかを表すために殆ど用いられている。
即ちこの意味では、他人が私を非難しようが、あるいは自分が自分自身を非難しようが大きな差異はない。
もし私自身に罪があると思えば、私は自分を罰する。
もし他の人々が私に罪があると思えば、彼らは私を罰するだろう。
しかし責任には別の概念がある。これは処罰とか罪とかには全く関係がない。
この意味での責任は【私は私のしたことに気付いている】という意味にすぎない。
実際上、自分の行為が【道徳的な罪】ないしは【犯罪】として経験されるや否や、それは疎外されるようになる。
今や罰を加えられる必要のあるのは、それをした【私】ではなくて、
【その罪人】であり、【その悪い奴】なのであり、【他者】なのである。
そして、罪責感と自責の感情が、悲しみと自己嫌悪と生への嫌悪を生じさせる、ということについては言うまでもない。
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この点についてはハシディック派の偉大な指導者のひとり、ゲルのイサク・マイエルが見事に表現している。
自分がしてしまった悪事を反省する人は、誰でも自分が犯した罪の深さを考える。
そして人が考えるということは、そこに人が呪縛されるということ
それも魂全体でもって人は考えることに完全に呪縛されているために、
依然として、その人は悪に縛られているのである。そして彼はきっと元へは戻り得ないだろう。
なぜなら彼の精神はすさみ、心は腐敗し、悲しみの気分が彼を襲うからだ。
どうしたいのだ。あれこれ不潔なものをかき回しても、不潔さに変わりはない。
罪を犯そうが犯すまいが天国においてそれが何になろう。
こんなことをくよくよ考えている間に、私は天国の喜びを得るために真珠に糸を通すこともできたのだ。
だから次のように記されているのだ。【悪を去りて善を行え】と ― 悪からすっかり手を切り、くよくよと考えずに善を行えと。
おまえは悪を犯してしまったのか。それならば、正しきを行って平衡を保て。
旧約聖書の【ハター】という語は、一般には【罪】という意味に訳されているが、
これは実際は【道】に迷うとういう意味で、それは上と同じ精神である。
即ち【罪】や【罪人】という語が有する非難的な意味はそこには存在しない。
同じように【改悟】にあたるヘブライ語は【テシュパー】で、これは【神へ、自己へ、正しい道へ】戻るという意味であって、
自己を責めるという意味はない。こうしてタルムード教典では【戻ることの名人】悔い改めた罪人という表現が用いられ、
その人は罪を犯したことのない人々より優れていると説明する。
或る人が直面した二つの行為の進路を選択する自由を論じるにあたり、
先ず具体的・日常的な実例をもって話をはじめよう。
タバコを吸うかやめるかのひとつを選択する自由というような例をとろう。
タバコを吸うことが健康に害を与えるという報告を読んで、禁煙しようと結論に達した大のタバコ好きがいるとする。
彼は【やめようと決心】をした。この決心は決定ではない。それは希望の公式化にすぎない。
彼は禁煙を【決心した】が、翌日は実に気分が爽快だが、
翌々日は気分が非常に悪く、三日目には【非社交的】と思われたくないと考え、
その次の日にはタバコ白書の真偽を疑い、そしてやめる【決心】はしていたのに喫煙を続けてしまう。
この種の決定は思いつき、計画、幻想以外の何ものでもない。
すなわち真の選択がなされるまでは、ほとんどあるいは全く真実であるとはいえない。
タバコを自分の前におき【この】タバコを吸うか吸わないかを決定しなければならないとき、
この選択は真実になる。その人が喫煙しない自由をもつかもたぬかである。
ここでいくつかの問題が生じる。喫煙に関する健康白書をその人が信じないか、例え信じたとしても、
喫煙の嗜みを失うより二十年寿命が短くなってもよいと信じている場合もある。
この場合、一見選択に関する問題はないようにみえる。しかしそれは隠蔽されているにすぎない。
彼の意識にのぼる考えは、例えそれを試みても勝ち目はないという感じを合理化しているにすぎない。
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だから勝ち目のない闘いはやらないのだという口実を作るのである。
しかし選択の問題は意識的であろうとなかろうと、そのもつ性質は同じである。
それは理性の指示を受ける行為と、非合理的な熱情にうごかされる行為の何れかを選択するという問題である。
スピノザによれば自由は【中庸な考え】にもとづている。そしてこの考えは自らを確知し、現実を受容することを基盤とし、
それぞれ個人の心理的・精神的展開の充全な発達を保証する行為を決定づける。
スピノザによれば、人間の行為は熱情または理性によって動かされ、決定されるという。
そして熱情に支配されるときは、囚われの身となり、理性に支配されるときは自由なのである。
非合理的な熱情は、人間を圧倒して自己の真の利益とは 矛盾する行動を強いるのである。
その結果その人の力は弱体化され、破壊され、その人を苦しめるようになる。
選択の自由という問題は、等価値の二つの可能性の中の一つを選ぶ問題では【ない】のであり、
テニスをするかハイキングに行くか、友人を訪れるか自宅で読書をするかを選択するのではない。
決定論と非決定論の関与する選択の自由とは、
より悪しきものに対する【より良きもの】を選択する自由であり、
より良いかより悪いかは、常に人生の基本的な道徳問題に関連して理解される
前進か退行か、愛か憎悪か、 独立か依存かということである。
自由とは非合理性な熱情の内なる声に反抗して、理性、健康、幸福、良心の声に従う能力に他ならない。
この点に関してはわれわれはソクラテス、プラトン、ストア学者、カントなどの伝統的な見解に同意する。
私が強調しようとしていることは、
理性の命ずるところに従う自由は、更に検討できる心理学的問題でもあるということである。
さてこのタバコを吸うか吸わないかのいずれかを選択する問題、
あるいは別の言い方をすれば、自己の理性的な意思に従う【自由】をもっているかどうかの問題に直面している人の、
先の例に戻ることにしよう。自己の意思に従って行動できないだろうと、ほぼ確実に予言しうるような人を想像してみよう。
彼が母性愛と強く結合し、口唇受容期【吸う】のオリエンテーションを有し、
常に他人から何かを期待し、自己主張ができないため強度の慢性不安に陥っていると想定すれば、
喫煙は吸うことの自己欲求を満足させるものとなり、不安から身を守るものとなり、
タバコは彼にとり、強さと大人であることと活動性の象徴となる。
したがって以上の理由から彼はまさにタバコなしではすまされないのである。
彼がタバコを渇望するのは、彼の不安、彼の受容性等の結果であり、その渇望はその動機と同じくらい強いのである。
渇望があまり強くなると、何か激しい変革が彼の内なる力の均衡に起こらなければ、
その人間は自己の渇望を克服し得ないような場合がある。さもなければ、彼はあらゆる実際的目的のために、
自分がよりよいと認めたことを選択する自由をもたない人だということができる。
その反対は非常に円熟し、生産的であり、貧欲なところは少しもなく、
理性と自己の真の関心に逆らうような行為のできない人を想像しうるだろう。
彼もまた【自由】ではなかったろう。彼は喫煙する気持ちを感じないが故に、喫煙できなかったのである。
聖アウグスチヌスは、人間が罪を犯す自由を持たない至福の状態を述べている。
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選択の自由は【持つ】とか【持たぬ】とかいう形式的・抽象的能力ではなく、ひとりの人間の性格構造の働きである。
或る人は善を選択する自由を有しない。というのは、
彼らの性格構造は善なるものに従って行動する能力を喪失してしまっているがためである。
逆に或る人は悪を選択する能力を喪失してしまっている。
それは彼らの性格構造が悪への渇望を失っているという理由そのものによるのである。
この二つの極端な場合には、彼らの性格に存在する力の均衡が彼らに選択の余地を与えないので、
この両者の行動は既に決定されてしまっているといってよい。しかし大抵の場合には、
選択がなされ【うる】程度に均衡の取れた矛盾する傾向をもっている。したがって、
その行為は、その人の性格内で葛藤する傾向のもつそれぞれの力の結果として現れる。
【自由】の概念は、二つの異なる意味で使用しうることは既に明らかになったことと思う。
そのひとつは、自由とは、円熟し、完全に生長し、
生産的な人の持つ性格構造の一部ともいうべき態度ないしはオリエンテーションのことである。
この意味では、私は愛情深く、生産的で独立した人について語りうるように、
【自由】な人について述べることができる。事実、この意味での自由人は愛情深い、生産的な独立人【である】
この意味での自由とは、二つの可能な行為から特定の一つを選択することは何の関係もなく、
むしろその人の有する性格構造と関係がある。そしてこの意味では
【悪を選択する自由を持たぬ】人は完全に自由人である。
自由の第二の意味は、われわれがこれまで主として使ってきた意味、
つまり互いに正反対の二者の中のひとつを選択する能力である。しかしその二者択一とは、人生における
合理的関心と非合理的関心の間の選択、生長に対する停滞と死の選択を常に意味している。
この第二の意味で使用されるとき、最良の人と最悪の人は選択の自由がなく、
選択の自由の問題が存在するのは、矛盾する傾向が共存する一般の人なのである。
第二の意味で自由を述べる場合、惹起する問題は、矛盾する傾向を選択するこの自由は、
いかなる要因により左右されるのかということである。きわめて明瞭なことは、
最も重要な要因は矛盾する傾向の有するその強さ、
特にこれらの傾向の無意識な部分の有する強度にあるということである。
しかし非合理的傾向の方が例え強いとしても、いかなる要因が選択の自由の基準となるかと考えた場合、
悪しきことを捨て良きことを選択する場合の決定的要因は【意識すること】にあるのである。すなわち
1. 善ないしは悪を構成するものを意識すること
2. 具体的状況において、いずれの行動が望む目標に達するに相応しい手段であるかを意識し、
3. 外面に表出した願望の背後に存在する力を意識すること、
これは無意識の欲望を発見すると言う意味を持っている
4. いずれを選択できるかの現実的可能性を意識すること
5. 一つを選択した結果と、他を選択した結果とを意識すること
6. 意識するという事実は、行為への【意思】ならびに自分の熱情に逆行する行為から必然的に生ずる
欲求不満の苦痛に耐える準備を伴わなければ有効でない、という事実を意識すること。
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さて以上のさまざまな意識することの性質を検討することにしよう。
善や悪が何であるかを【意識すること】は、
これまでのほとんどの道徳体系において善ないし悪と呼ばれてきたものに関する理論的【知識】とは相違がある。
伝統的なるものに範をとりいれた愛、独立、勇気は善で、憎悪、屈服、臆病は悪であるとする知識は、
その知識が指導者や因習的教訓等を範とした受け売りの知識であり、
またこれらが権威づけられたものであるために正しいと信ずるようなものである限り、これにはほとんど意味はない。
意識するとは自己の学習するものを経験し、自分を実験し、他人を観察し、その結果、無責任な意見よりは確信を持ち、
かくて、その学習するものを自己のものとすることを意味する。
しかし一般的原理に基づき決定するだけでは不十分である。
意識することを超越し、自己の内的な力の均衡と、無意識な力を隠す合理化を自覚する必要がある。
ひとつ例をあげてみよう。
ある男がひとりの女性に惹かれ、彼女と性的交渉を持ちたいという強い欲望にかられるとしよう。
彼は自分がこの欲望を懐くのは、彼女があまりにも美しいか、理知的であるか、愛すべき存在であるか、
また逆に自分がひどく性的に飢えているか、愛情が欲しいか、ひどく寂しいか ― であると意識的に考える。
また彼女と関係しようとすれば、自分が二人の人生を破滅させるかもしれないし、
また彼女は驚き、身を防ぐ力強きものを捜し求め、
それゆえにますます彼を捉えて放さなくなるだろうことを、彼は意識しているのかもしれない。
こういうことをすべて知りつつ、なおかつ、彼は彼女と関係を持つ。
なぜか?彼は自分の欲望には気付いているが、その底に潜む力には気付かないからだ。
こういう力とは一体どういうものなのか?私はそれらの中の唯ひとつ
―それは非常に目立って現れる場合が多いけれども― 虚栄心とナルチシズムを取り上げてみよう。
彼が自己の魅力と価値の証としてこの女性を獲得する決心をしたとしても、
一般には彼はその真の動因には気付いていないであろう。
既述したような、あらゆることを合理化する過程にだまされ、
自分のことが自分では分からないために、その本当の動因によって行動していながら、
自分は他のもっと合理的動因によって行動しているという幻想を持っている。
意識することの次の段階は、自分の行為の【結果】を十分意識する段階である。
決意した瞬間に、彼の心は欲望と充足した合理化で満たされる。
しかしながら彼の決心は、その結果をはっきり見通しうれば、違ったものになっていたかもしれない。
例えば事が長びき、不誠実な関係であることが分かっていれば、
彼のナルチシズムは新しい女性を獲得することで満足できるのだから、
既に彼女には飽いてしまっているはずである。しかし罪悪感を抱きつつ、
彼女を実際に愛さなかったことを認めるのが恐ろしくて、彼は引き続いて偽りの約束をし、
そして自分との葛藤、 彼女との葛藤等々
のために麻痺化や弱化が生ずるのである。
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しかし心の内奥に潜む真の動因を意識し、しかもその結果を意識していてもなお、
正しい決定の傾向が増加するためには十分とはいえない。もうひとつの重要な意識が必要である。
それは真の選択がいつ行われるかを知り、択一しうる真の可能性は何かを意識する事である。
彼がすべての動機とその一切の結末を知って、この女性といっしょに寝ないという【決心をした】と仮定しよう。
さて、彼は何かのショーを見に彼女を連れて行き、その家へ送る前に【一緒に飲みにいこう】と提案する。
それは一見、全く無害であるかのように見える。一緒に一杯飲むことは何も悪いことではないだろう。
事実、力の均衡が既にそれほど微妙でなければ何も悪くはならないのだが、もしそのとき
【一緒に一杯飲む】結果がどうなるか気付いていれば、彼は彼女に提案しないかもしれない。
ロマンティックな雰囲気や、酒のために自分の意思が弱まり、彼女のアパートに立ち寄って飲み直すという、
次の段階に逆らい得なくなり、間違いなく彼女を口説くであろうということが見通せるだろうに、
完全に意識していれば、そういう順序がほとんど避けられないものであることを彼は予測できるだろうし、
その予測ができれば【一緒に一杯飲む】ことを躊躇することもできるだろう。
しかし彼の欲望は当然の成り行きを理解しにくくしているものだから、
まだそうできる可能性があるときに正しい選択をしないのである。
言い換えれば、真の選択というものは、彼が一杯飲みに彼女を誘った時
【おそらくはショーに誘った時】行われるのであって、彼女を口説きはじめるときではない。
この一連の決心の最終の時点では、彼はもはや自由ではない。
真の決定がまさにそのとき、その場で行われることを意識していたなら、
もっと早く彼は自由であり得たかもしれないのである。
人はより悪いものを捨て、より良いものを選択する自由を持っていないという見解に賛成する議論は、
一般に一連の出来事の
【最後】の決定に目をとられ、最初か二番目の決定を見失っているという事実にかなり原因するのである。
実際には、最終段階で決定することは、一般に選択の自由が失われてしまってからのことである。
その人が自分の熱情にまだそれほど深く捕捉されていない早い時点では、自由はまだそこに存在していたのだ。
多くの人が自己の生涯で失敗する理由の一つは、
彼らが理性に則って行動する自由をまだ有する時点そのものに気付かないからであり、
また決心するにはおそい時点になってはじめて、
その選択に気付くからに他ならないと、一般にいえるのである。
真の決定がいつ行われるかを見通す問題と密接に関連して、もうひとつの問題がある。
われわれの有する選択力は、実際生活と共にたえず変化する。
誤れる決定が続けば続くほど、われわれの心は硬化する。
正しい決定の回数が多ければ多いほど、われわれの心は柔軟になる。 というより、生気をもつようになる。
ここで問題にしている原則のよい例は、チェスのゲームである。
同程度の腕前を持つ二人がゲームを始める場合、
二人とも同じような勝つチャンスをもっている【白のほうに少し分があるが、ここではそれを無視するとしよう】
つまり、どちらも同じように勝つ自由をもっている。五手進行すると、情勢は既に変化している。
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どちらもまだ勝つことは【できる】が、妙手をうった A のほうにはるかに勝つチャンスが生まれている。
いわば A は相手の B よりも、勝つ自由をたくさんもっている。だが B にもまだ勝つ自由がある。
正着を続けて B の驚異的逆襲に合わない限り、A の勝つことはほぼ確実である。それはあくまで
【ほぼ】にすぎない。B はまだ勝つことが【できる】さらに手を進めると勝負は決定する。
B が上手な人なら、勝つ自由はもはやないことを認める。彼は事実上王手詰みにされる以前に、
既に負けたことを見通しうる。決定的要因を正確に分析できない下手な者だけが、
勝つ自由を失ってからもなお勝ちうると思い込んで勝負を続ける。
この幻想のために彼は土壇場まで勝負を続け、王手詰みにされるのである。
チェスに負けるのなら、結果はそれほど痛くはないだろう。
しかし軍の司令官が敗戦の潮時を見通す技量と客観性をもたないために、幾百万の人間が死ぬときには、
その結果は実に悲惨である。だが今世紀においてこういう悲惨な結果を二つも目撃した。
ひとつは 1917 年で、もうひとつは 1943 年である。どちらもドイツの将軍たちが勝つ自由を既に失ったことを理解せず、
愚かにも戦争をつづけて幾百万の生命を犠牲にした。
チェスのゲームから類推しうる意味は明瞭である。
自由はわれわれが【持つ】か【持たない】かという不変の属性ではない。
事実、【自由】とは、ひとつの言葉、ひとつの抽象的概念であって、【自由】という事実があるわけではない。
唯ひとつの真実があるだけである。つまり選択が行われる過程において、
自己を自由にするという行為が存在するだけである。
その過程でわれわれの選択能力の度合いは、それぞれの行為や実際生活に従って変化する。
自己の信念、自己の尊厳、自己の勇気、自己の確信が増大する各生活段階は、
また希望どおりの択一を行いうる自己の能力が増大する段階に対応するのであって、
遂には望ましい行為よりも望ましくない行為を選択することが、ますます困難になってくるのである。
また一方、屈服と臆病な行為はいずれも自己を弱化し、より屈従的行為を行う道に通じ、
遂には自由をも喪失してしまう。
もはや悪しき行為が行われ得ない極限状況と、正しき行為を行う自由を全く喪失した反対の極限状況との間には、
選択の自由に関する無数の段階が存在する。
実際生活では選択の自由の程度はそのときそのときによって差異がある。
善を選択する自由の度合いが大きければ、善を選択する努力は少なくてすむ。
その度合いが小さければ、大きな努力や他人の助けとか、好都合な環境が必要となってくる。
この現象を示す古典的な一例は、
聖書物語の中のヘブライ人の解放の要求に反応したファラオの物語である。
彼は自己と自国民の飢えに加わる苦しみが、次第に烈しくなっていくのを恐れている。
彼はヘブライ人を解放すると約束する。しかし差し迫った危険が遠のくと、
すぐ【彼の心は硬化】して、再びヘブライ人を自由にしまいと決心する。
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この心の硬化する過程がファラオの行為の中心点である。
正しいことの選択を拒否すればするほど、彼の心はますます硬化してゆく。
苦難がどれほど重なってもこの致命的な硬化は変わることなく発達し、遂には彼と彼の国民は破滅する。
彼は恐怖のみをもとにして決定を行ったので、その心は【変革】しなかったのである。
そして変革しないがために、その心はたえず硬化の度合いを加え、
遂には選択の自由が、彼には残らなかったのである。
ファラオの心が硬化する物語は、自分自身や他人の心の動きを眺めるとき、
毎日のように観察しうる事実を散文的に表現したものにすぎない。一例をあげよう。
八歳になる白人の少年が、黒人の女中の息子を友人にもっていた。
母親は自分の子が黒人の少年と遊ぶのを好まず、会うのをやめるように命令する。
その子はいやだと言う。すると母親は言うことを聞けばサーカスへ連れて行くと約束する。
子供は折れる。この自己背信と、買収されたことは少年に何らかの影響を与えた。
彼は恥ずかしく思い、その誠実さは傷つけられ、自信も喪失してしまった。
しかし取り返しのつかぬ事が起こったわけではなかった。
十年後彼はひとりの少女と愛しあい、灼熱の恋におちいる。彼らは二人を合一する深い人間的絆を感じている。
だが彼女は彼の家よりも下層の出身である。
男の両親はその婚約に立腹しそれを思いとどまらせようとする。
しかし彼の決心が強固なので、両親は六ヶ月間欧州旅行をして、
帰ってくるまでその婚約を表沙汰にするのを待ってくれさえすればよいと約束する。
彼はその申し出を受け入れる。意識的には彼はその旅行が自分の大きな勉強になり
そしてもちろん帰国しても、恋人への愛情は変わりはしないと信じている。
だが事態は反対である。彼は多くの女性と出会い、非常にもてはやされ、その虚栄心は満たされ、
次第に愛情も結婚する決意も弱くなってゆく。帰国に先立って、彼は婚約破棄の手紙を彼女に書く。
彼はいつその決心をしたのか?彼が考えているように、彼が最後の手紙を書いたその日ではなくて、
ヨーロッパへ行けという両親の申し出を承諾したその日である。無意識に、買収のため既に自分を売り渡していたのだ。
約束したこの破棄を果たさねばならない。と感じていた。
ヨーロッパでの彼の行動は破棄のための【理由】ではなくて、その行動を通して約束を遂行しようとする機制である。
ここにおいて、彼は再度自己を裏切り、
その結果自己への軽蔑【新たに獲得したものへの満足の影に隠された】と、内的弱小と自信喪失が増大する。
更にそれ以上、彼の生涯を辿る必要があろうか?
彼は得意の物理学の研究を止め、父親の仕事を手伝い、両親の友人である金持ちの令嬢と結婚し、
実業家とし成功して遂に政治の指導者となる。そして興論に反対することを恐れるあまり、
自己の良心の声に従って致命的ともいえる決定をするに至る。
彼の生涯は心の硬化する歴史である。ひとつの道徳的敗北は更に別の敗北を容易に導き、
遂には取り返しのつかないようになるのである。
八歳の時には自分の立場をはっきり決めて、買収されることを一応断ることができた。
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まだ自由であったのである。
そしておそらくは友人か、祖父か、先生が彼の窮地を知って手を貸してくれたかもしれなかったのだ。
十八歳の時には、既にその自由はより少なくなっていた。
それから彼の生活は、自由が順次減少してゆく過程であり、そして遂には人生という試合に負けてしまうようになるのである。
無節操で硬化した人間としてその生涯を終始したほとんどの人は、
ヒットラーやスターリンの部下のような場合でさえも、善人となりうるチャンスをもってその生をスタートしたのだ。
彼らの生涯を詳細に分析すれば、それぞれの各時点における心の硬化度はどの程度か、
そしてまた人間らしくあり得た最後のチャンスがいつ失われたのかが分かるかもしれない。
それとは全く逆の光景もまたみられるのであって、最初の勝利が次の勝利を容易にし、
遂には正しいものを選択するための努力は不要になる。
以上あげた例は、大抵の人が生きる技術に失敗するのは、
彼らが生まれつき悪であるとか、より良い生活を営む意思を持たないからではなくて、
彼らが覚醒することなく、いつ分かれ道に差し掛かり決定すべきかを見通し得ないからであるということを示している。
彼らは、人生がいつ彼らに設問するか、また自分が択一的解答をまだ所有しているかどうかに気付かないためである。
そして一歩一歩自分が道を間違えて【いる】ことを認めるのが次第に難しくなるが、
それは唯、彼らが当初に道を誤った曲がり角まで引き返さなければならないことを認め、
エネルギーと時間を浪費したという事実を肯定しなければならぬから、というのが唯一の理由であることが多い。
社会生活・政治的生活にも上記のことが適用できる。ヒットラーの勝利は必然的なものであったか?
ゲルマン民族は常に彼を打倒する自由をもっていたか?
1929 年ドイツ人をナチズムへと走らせる原因がここにあった。すなわち塗炭の苦しみにあえぎ、
サディズム的欲望にかられた中・下層階級が存在したが、このような心理状態は
1918 年から1923 年にわたり形成されていた。また 1929 年の不景気による大規模な失業や、
既に 1918 年、社会民主党の指導者に黙認されていた国家の軍事力の漸進的な膨張があった。
そして重工業の指導者には、反資本主義運動の発展の恐怖が重くのしかかり、
共産党の戦術は、社会民主党を主要な敵と想定し、豊かな才能をもちつつ半狂乱状態の機会主義的煽動者がいた。
また一方、強力な反ナチの労働党と労働組合は健在であり、反ナチの自由主義的中産階級も依然としてあり、
文化とヒューマニズムについてのドイツ的伝統も残っていた。
以上のようにどちらにも傾斜しうる要因はまだ平衡を保っていたから、
ナチズムの敗北は 1929 年にはまだ現実に可能であったのだ。
ヒットラーがライン地方を占領する以前にも、同じことが当てはまる。軍の指導者の中には、
彼に対して陰謀をたくらむ者があったし、その軍編成も弱体だった。
西欧の同盟諸国が強い行動に出れば、ヒットラーが失脚する可能性が強かったのである。
他方、ヒットラーが被占領国の民衆の敵愾心を、
気違いじみた残虐かつ野蛮な行為によって煽動しなかったらどんなことが起こっていただろう?
もし彼がモスクワやスターリングラードや、
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その他の占領地域から撤退するよう忠告した将軍たちに耳を貸していたら、どのようになっていたろうか?
彼にはまだ完全な敗北を避けうる自由が残っていたのではなかったか?
この最後の例から、選択する能力を大きく決定づける意識性の別の一面が表れてくる。
すなわち現実的可能性に立脚しない不可能な二者択一の意識性に
対するものとしての真なる二者択一の意識性である。
決定論の立場は、選択のあらゆる状況において【現実的】可能性は唯ひとつしか存在しないと主張する。
ヘーゲルによれば、自由人とはこの唯一の可能性すなわち必然性を意識した上で行動する人であり、
自由でない人にはそれに対し、盲目で、
従って自分が必然の執行者、すなわち理性の執行者であることを確知することなく行動を強いられる。
他方、非決定論の立場からは、選択の瞬間には多くの可能性が存在し、人はその中から選択する自由がある。
しかしながら【現実的可能性】は単に【ひとつ】ではなく、二つあるいはそれ以上のことさえある場合が多い。
しかし【無制限の】可能性の中から選択し放題であるというような、任意性のあるものでは決してない。
【現実の可能性】とは何を意味するのか?現実的可能性とは、
個人ないしは社会の中で相互作用する諸力のトータルな構造を考慮に入れつつ、実現し【うる】可能性のことである。
現実的可能性とは、人の願望や欲求に対応しているが、
現状では実現不可能な架空の可能性とは正反対のものである。
人間は一種の追跡可能な様式で組み立てられた諸力の集合体である。
この特殊な構成様式である【人間】は、各種の要因、
つまり環境状態【階級、社会、家族】と遺伝的・先天的条件の影響を受けている。
こういう先天的に付与された傾向を調べてみると、それが必ずしも
【結果】を決定づける【原因】ではないことを、われわれはこれまでのことから洞察しうるのである。
先天的に内向的な人は、非常に内気で、引っ込み思案で、消極的な決断力に乏しい人になるか、
それとも非常に直観力のすぐれたひと、例えば優れた詩人、心理学者、医者になるかのどちらかだろう。
しかしその人が無神経でおめでたい【手腕家】となる【現実的可能性】は全くないのである。
どちらの方向に向かうかは、彼を傾斜させるそれ以外の要因にかかっている。
同じ原理は先天的に付与されているかないしは幼時に獲得したサディズム的要素を有する人にも当てはまる。
すなわちこの場合には、サディストとなるか、自己のサディズムと闘い遂にはそれを克服することにより、
残酷な振る舞いを不可能ならしめ、かつ他人や自分に加えられる残虐性に対して
非常に敏感な強い精神的【抗体】を形成するかのいずれかであろう。
しかし彼はサディズムに【無関心な】人間とはなり得ないのである。
先天的な要因という立場から【現実的可能性】を、先にあげた喫煙家の例に適用してみると、
彼にはチェーン・スモーカーのままでいるか、一本のシガレットも吸わなくなるかの二つの現実的可能性が存在する。
シガレットをほんの二、三本喫煙する習慣をつけようという彼の考えは一種の幻想と化す。
先にあげた情事の例では、男は女を外に連れ出さないか、女と情事を持つかという二つの現実的可能性が存在する。
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彼女と一杯飲んで【しかも】情事を持たないでいられるという彼の想像上の可能性は、
彼と彼女のパースナリティに存在するいろいろな諸力を総合して考える時、非現実的なものであった。
ヒットラーは戦争に勝つ
ないしは少なくともあれほど悲惨な敗北をしなくてもいい現実的可能性を持っていた。
すなわち、もし征服した人民たちをあれほど無慈悲にしかも残酷に扱わなかったとしたら、
そしてまた戦略的退却を認めないほどナルチスティックでなかったとしたら等々。
しかし以上の択一のほかには、何ら現実的可能性は存在しなかったのである。
彼が考えているような希望、すなわち征服した人民たちに自己の破壊性を知らしめ、
【そして】退却せずに自己の虚栄心と貫禄を満足させ、
【そして】自己の野望によりあらゆる資本主義諸国家を威嚇し、
【そして】勝利を
握りうるだろうという希望は、すべて現実的可能性の範囲をはみ出たことであった。
これと同じことは現在の情勢にも当てはまる。
列強には核兵器が存在し、かくて醸出される相互間の恐怖と疑惑は戦争への気配を非常に強めている。
国家元首は偶像視され、外交政策には客観性と理性が欠如している。
他方、両陣営の多くの人民には、核兵器による破局を避けたい願いが存在している。
大国は彼らの狂気の振舞に、
他国をすべて巻き込むべきではないと主張する大国以外の人民たちの声がある。
平和的解決策により人類の幸福な未来へと道を開きうるような社会的・技術的要因が存在している。
これら二組のいずれにも傾斜しうる要因が存在する中で、
現在なお、人間に選択可能な二つの現実的可能性が存在しているのである。
すなわち、核兵器の競争と冷戦を中止して、平和への道を選択する可能性と、
現在の政策を継続し戦争を選択する可能性とである。例え一方が他方より可能性が強いとしても、
二つの可能性は真実である。まだ選択の自由は残っている。
しかしわれわれが軍拡競争【と】冷戦【と】偏執的憎悪とを推進しつつ、
【それと同時に】核破壊を避けうるような可能性は存在しないのである。
1962 年十月、決定の自由は既に失われたかに見えた。
気違いじみた死愛好者は除くとして、すべての人の意思に反して破局が起こるかに思われた。
しかしこの時人類は救われた。ひとつの緊張の緩和に続いて、折衝と妥協が可能になった。
現在 1964 年は人類が生か破滅かのいずれかを選択する自由をもつおそらく最後となるであろう。
一見、善意のように見えるが、
与えられた択一と、その結果を洞察できない表面的な協定をわれわれが乗り越えなければ、
われわれのもつ選択の自由は消滅してしまうだろう。
万一人類が自滅しても、それは人間の心情が根源的に邪悪であるからでなく、
現実的択一とその結果に目覚める能力がないからであろう。
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自由の可能性とは、われわれの選択しうる現実的可能性を認識すると共に
【非現実的な可能性】はどれであるかを認識することに正に存在する。
非現実的な可能性を構成するものは、現実に存在するが【個人的にも社会的にも】馴染みの薄い択一の決定という
不愉快な仕事を免れようとするわれわれの希望的な考えなのである。
非現実的な可能性は、勿論可能性というものでは全くない。それは空想的な夢である。
しかし不幸なことには、われわれの多くは【真】の択一に直面したり、
洞察や犠牲を必要とする選択に迫られると、追求しうる可能性が他にもあると考えがちであり、
こうしてわれわれには、
そうした非現実的な可能性なるものは存在しないということ、ならびにそれを捜し求めることは、
運命がそれ自身の決定を下すさいの背後にある煙幕であるという事実に対して、わざと目を蔽うということである。
可能性なきことが実現するだろうという妄想を抱いて生きるなら、
ひとたび自らに対して下されたその選択が予期せざる破局となって現れると、
人は驚き、かつ憤り、そして傷つくのである。
以上の意味で、彼が責めるべきは唯ひとつ、自らその論争に直面する勇気をもたず、
それを理解する理性を欠如していたことにあるにも拘らず、
自らを弁護して他人を責めるか、神に祈るという誤れる態度をとってしまうのである。
以上から、人間の行為はその人のパースナリティに作用する
【一般に無意識的な】諸力に根ざす性向に常に起因しているとわれわれは断定する。
もしこれら諸力がある一定の強度に達すると、
その強度のために人間を傾向づけるばかりか決定づけ ― それ故その人間は選択の自由がなくなる。
矛盾する性向がパースナリティの内部で効果的に作用する場合には、選択の自由が散在する。
この自由は実在する現実的可能性によって制限づけられる。
これらの現実的可能性はトータルな状況により【決定】される。
人間の自由は実在する現実的可能性のどちらかを選択する。
【二者択一する】かという可能性の中にある。
この意味において、自由は【必然を意識して行為する】ことではなく
【二者択一とその結果についての意識を基盤にして】行為することと定義づけることができる。
非決定論というものはない。
或る場合には決定論が存在し、或る場合には人間独自の現象、すなわち意識性に基づいた二者択一論が存在する。
換言すればあらゆる出来事には原因があるのである。
しかしその出来事に先行するさまざまな動因全体の中には、
次の出来事の原因となりうるいくつかの動因が存在するであろう。
これら原因となりうるものの中のどれが有効な原因となりうるかは、
正に決定せんとするその瞬間の、その人の意識性に左右される。
別の表現をもってすれば、原因のないものはないが、
あらゆるものが決定されているとは限らないのである。【ここでいう決定は狭義の意味である】
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これまで展開してきた決定論、非決定論、二者択一論の見解は、
その大筋はスピノザ、マルクス、フロイト三人の思想家の意思に従っている。
三人とも一般には【決定論者】といわれている。そう呼ばれるには十分理由があるのであり、
自らそう述べている最大の存在である。スピノザはこう書いた。
【精神の中には、絶対的意思、すなわち自由な意思は存在しない。むしろ精神はこのことまたはあのことを
意思するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、
更にまたこの後者もまた他の原因によって決定され 、このようにして無限に進む】
われわれは自己欺瞞によって自らの意思は自由であると主観的に経験をする。
これは正にカントならびに多くの他の哲学者が、われわれの意思が自由であるとした証明であった。
という事実をスピノザは次のように説明した。すなわち、
われわれは自己の欲望に気付いているが、その欲望の動因には気付いていない。
それ故われわれは自分の欲望の【自由】を信じている。
フロイトもまた、自己の決定論的立場を表明し、心的自由とその選択を信じる旨を述べ、
非決定論は
【全く非科学的であり、
精神生活をも支 配する決定論の主張の前には軍門に下るに違いない】といった。
マルクスもまた決定論者であると考えられる。政治的出来事は階級形成と階級闘争の結果であると説明し、
階級闘争は現存の生産力とその発展の結果であると説明することによって、歴史の【法則】をかれは発見した。
三人の思想家はみな、人間の自由を否定し、人間の背後で作用しつつ、人間を方向付けるばかりでなく、
そうせざるを得ないように人間を決定づける諸力の装置を、人間の中に想定しているように思われる。
この意味でマルクスは、最も純正なへーゲリアンであり、彼にとっては必然性に気付くことが最大の自由なのである。
スピノザ、マルクス、フロイトが、決定論者としての自己を想定するような表現を自分で行っているばかりでなく、
その弟子たちも、その多くは彼らを決定論者として理解していた。特にこのことはマルクスとフロイトに当てはまる。
【マルクス主義者】の多くは、歴史には不変の進路があるかのように、将来は過去によって決定され、
或る出来事は起こるべくして起こったのであると説明した。
フロイトの弟子たちも、その多くが同じような見解を主張した。彼らはフロイトの心理学は
先行する原因から結果を予測できるが故にこそ、科学的心理学であると主張している。
しかし以上のようにスピノザ、マルクス、フロイトを決定論者と解釈すれば、
この三人の思想家の哲学的な別の一面を全く見逃すことになろう。
【決定論者】スピノザの主著が、倫理学の本であるのは何故だろう。
マルクスの意図した主なることは社会主義革命であり、
フロイトの主目標が神経症に悩む精神的に病める人たちの治療にあったというのはなぜか?
この質問に対する答えは実に簡単である。
三人の思想家はみな、人間と社会は或る程度まで一方向に傾斜しようとする行動様式をもち、
時にその傾斜度が非決定的なものにすらなるうることがあることを洞察していた。
しかし同時に彼らは説明や解釈のみを事とする哲学者ではなく、変化し変革させようとする人々でもあった。
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スピノザにとっては、彼の倫理目的である人間の課題は、まさに決定を減じて自由への至適条件を獲得することである。
人間は自らを意識し、人間を盲目にし鎖につなぐ激情を、
人間としての真の関心に従って行動せしめる行為【積極的感情】に変革することにより、これを遂行することができる。
【熱情という感情は、われわれがそれを明晰に自覚し得たとたんに、熱情ではなくなる】
スピノザに従えば、自由とはわれわれに【付与される】ものではなく、われわれが或る種の条件付きで、
洞察と努力により獲得しうるものである。
われわれは、不屈の精神と意識性とを持ちうれば、選択のための択一を所有しうる。
自由の獲得は困難である、多くの人間が失敗するのはそのためである。
スピノザは【エチカ】の終わりで次のように述べたのである。
以上をもって私は、感情に対する精神の能力について、ならびに精神の自由について示そうと欲した全てのことを終えた。
これによって賢者はいかに多くのことを為しうるか、
また賢者は快楽のみ駆られる無知者よりもいかに優れているかが明らかになる。
すなわち無知者は外部の諸原因からさまざまな仕方で揺り動かされて、決して精神の真の満足を享有しないばかりでなく、
その上自己・神及び物をほとんど意識せず生活し、そして彼は働きを受けることを止めるや否や、
同時にまた存在することも止める。
これに反して賢者は賢者として見られる限り、
殆ど心を乱されることがなく、自己・神および物を或る永遠の必然性によって意識し、
決して存在することを止めず、常に精神の満足を共有して いる。
さてこれに到達するものとして私の示した道は、きわめて峻険であるように見えるけれども、なお発見されることはできる。
また実際、このように稀にしか見つからないものは困難のものであるに違いない。
何故ならもし幸福が手近かにあって、たいした苦労もなしに見つかるとしたら、
それが殆どすべての人から閉却去れているということが如何してあり得よう。
確かに、すべて高貴なものは稀であると共に困難である。
現代心理学の祖スピノザ、
人間を決定づける要因を認める彼が、にもかかわらず【エチカ】を書いているのである。
彼は、人間がいかにして呪縛から自由へ変革しうるかを明らかにしようと思った。
そして【倫理的】という彼の概念は、正に自由の獲得ということに他ならない。
この獲得は理性と中庸のとれた考えならびに意識することによって可能となるが、
それには多くの人々が意欲的である以上に、より大きな努力を持って望むことにより、はじめて可能となるのである。
スピノザの業績が個人の【救済】「救済とは意識することと努力によって、自由を獲得するという意味である」を
目指す論文であれば、マルクスの意図もまた個人の救済にある。
しかしスピノザは個人の非合理性を問題にしたが、マルクスはその概念を拡大する。
個人の非合理性は彼の住む社会の非合理性であり、
この非合理性そのものは、経済的及び社会的現実に内在する無計画と矛盾の結果であると彼は考える。
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マルクスの目標はスピノザのそれのように、自由で独立した人間であるが、
この自由の獲得のためには、人間は自分の背後で作用し自己を決定づける諸力に気づかなければならない。
解放は意識することと努力の結果である。
とくにマルクスは、労働階級が全人類を解放する歴史的代行者だと信じていたため、
階級意識と階級闘争は人間解放のための必要条件だと信じた。
スピノザと同じようにマルクスは、盲目のまま何ら努力もしなければ自由を喪失するであろうと述べているが、
その意味で彼は決定論者である。しかしスピノザと同じように彼は、解釈するにとどまらず、
変革を待望する人間である
それ故に彼の仕事はすべて、
意識すると共に努力によって自由になる方法を、人間に教え込もうとしたのである。
しばしば臆断されているように、マルクスは必然的に起こりうべき歴史上の出来事を予言するようなことは決してなかった。
彼は常に択一論者であった。
人間は自分の背後で作用する諸力に気付きうる【なら】、そして自己の自由を獲得するために
驚異的な努力をする【ならば】必然の鎖を断ち切ることができる。
今世紀の人間は【社会主義とバーバリズム】のいずれかひとつを選択する立場にあるというこの択一論を、
このように系統づけたのは、マルクスの最もよき理解者のひとりであるローザ・ルクセンブルグであった。
決定論者フロイトもまた変革を試みた人であった。
彼は神経症を健康に変え、イドの支配を自我の支配により置換しようとした。
人間が合理的行為をする自由を喪失する以外に、一体いかなる神経症があるというのか?
人間が自己の真の関心に従って振舞う能力以外に、いかなる精神的健康なるものが存在するというのか?
フロイトはスピノザやマルクスのように、人間はどれほど決定づけられているかを洞察していた。
しかしフロイトは、或る種の非合理的でかつそれ故に破壊的な形で行動を余儀なくされている状態は、
自意識と努力により変革しうることを確実に知っていた。それゆえ
彼の仕事は自己を意識させることによって、神経症を治療する方法を作り出そうとしたのであって、
彼の治療のモットーは【心理は汝を自由ならしめん】である。
いくつかの主要概念が、この三人の思想家に共通している。
1. 人間の行為は先行する原因に決定づけられるが、意識することと努力によって、
その原因の力から自らを解放することができる。
2. 理論と実践は不可分である。【救済】あるいは自由を獲得するためには、
正しい【理論】を確知すると共に所有しなければならない。
しかし行動し戦わねば確知することはできない。
理論と実践、解釈と変革が不可分のものであるということは、正にこの三人の思想家の偉大な発見である。
3. 人間は独立と自由のための闘いに敗北し【うる】ことがあるという意味で、
彼らは決定論者であるが、本質的には択一論者である。
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人間はある種の確知しうる可能性の中から選択しうること、
そしてこの択一から惹起するものはその人間にかかっているのであって、
人間が自らの自由を喪失しない限りはその人間次第であることを、彼らは教えたのである。
こうしてスピノザはすべての人間が救済を獲得しうるとは信じなかったし、
マルクスは社会主義が勝利を獲得するに【違いない】とは信じなかったし、
フロイトもあらゆる神経症が彼の方法で治療しうるとは信じなかった。
事実、三人とも懐疑主義者であると同時に強い信念の持ち主でもあった。
彼らにとって、自由とは必然性を意識して行為する以上のものであり、
自由とは、人間が悪に対抗して善を選択する大きなチャンスであり ― 意識性と努力に基づき、
現実的可能性の中から選択をするチャンスでもあった。
彼らの立場は決定論でもなく、また非決定論でもなかった。
それは現実的でかつ批判的なヒューマニズムであった。
例えばフロイトは、患者が処置料を支払うことによる経済的犠牲と、治療のためには非合理的妄想を行為に現さないことによって、
欲求不満の犠牲を払わせることが必要である、と強く考えた。
ここで述べている択一論の立場は、本質的には旧約聖書の立場である。主は心変わりにより人間の歴史に干渉することはない。
主は使徒や予言者に三重の使命を持たせて派遣する。すなわち人間に或る目標を示し、
人間に自己の選択した結果を示し、悪しき決定に抗議するという三重の使命を。
人間の選択は人間のすることで、誰も、神でさえも人間を【救う】ことはできない。
この原理を最も明確に表現したものはイスラエルの人たちが王をたててほしいといったときに、
サムエルに対していわれた主の言葉である
【今その声に聞き従いなさい。ただし深く彼らを戒めて、彼らを治める王のならわしを彼らに示さなければならない】
サムエルは民に東洋の独裁制に厳しき批判を与えた後に、民がなおも王を求めた時、主はサムエルにいわれた
【彼らの声に聞き従い、彼らのために王を立てよ】(サムエル前書 8.99.、22)
択一論を示す同様の趣旨は次の文に表れている。
(自分は、今日あなたの前に祝福と呪い、生と死を置いている。そうしてあなたは生を選んだのである)
人間は選択できる。主は人間を救うことはできない。主のなしうることは、基本的な二者択一すなわち、
生と死に人間を直面させ
生を選ぶように人間を激励することである。
この基本的立場はまた仏教にも見られる。
仏陀は人間を悩ませる原因は煩悩であることを知っていた。
彼は人間が煩悩と苦悩に取り付かれ、輪廻転生の鎖につながれたままであるか、
煩悩を振り払い、苦悩と転生を終えるかのいずれかを選択せしめるようにした。
人間はこの二つの現実的可能性から、そのひとつを選択できる、
それ以外には人間に役立つ可能性なるものは存在しないのである。
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われわれはこれまで人間の心情と、それが善や悪に走る傾向を検討してきた。
この書の第一章でいくつかの質問を提起したが、そのときよりも更に明確なる基盤に到達し得たのではなかろうか。
ここで、これまでの問題に対する解答を要約することは適切であると考える。
Ⅰ.
悪ということは特別に【人間的現象】である。悪とは人間以前の状態に退行し、特に人間的なるもの、
すなわち理性、愛、自由を排除しようとすることである。しかし悪は人間的であると同時に悲劇的である。
例え人間が最も原初的な経験形態へ退行しても、人間は人間であることを中止することはできない。
それ故に人間はひとつの解決法として、悪に満足することは決してできない。
動物は悪になり得ない。動物は生きるために根源的に必要な生来の衝動に従って行動する。
悪ということは、人間的なるものの領域を越えて、非人間的な領域へ移ろうとすることであるが、
人間は【神】になりえないと同様、動物的にもなりえないから、悪は非常に人間的なものなのである。
【悪はヒューマンなるものの重荷を逃れようとする悲劇的な試みにおいて、自己を見失うことである】
かくて悪のポテンシャルは悪に対するあらゆる可能性を想像せしめると共に、
それに基づく欲望と行動を起こさせ。
悪の妄想を育てる想像力を人間に付与するが故に、ますます増大してゆくのである。
ここで示されている善と悪についての概念は、本質的にはスピノザが示したものと同じである。
【そこで私は以下において、善とはわれわれがわれわれの形成する人間性の形
「スピノザは人間性のモデルともそれをよぶ」に、ますます近づく手段になることを、
われわれが確知するところのものであると解するであろう。
これに反して悪とはわれわれがその形に一致するようになるのに妨げとなることを、
われわれが確知するところのものであると解するであろう】
スピノザによれば、論理的には
【馬が人間に変化するなら、それは昆虫に変化した場合と同様に馬でなくなってしまう】
善はわれわれの存在をわれわれの本質へ限りなく近接させ、悪はその存在をたえず引き離すことなる。
注目すべきことは、善と悪の衝動という語は、聖書のヘブライ語では、イエツェル これは【想像する】という意味を持つ
Ⅱ.
悪の程度は、同時に退行の程度でもある。
最大の悪とは生に最も逆行しようとすること、
すなわち、死に対する愛、子宮、土壌、無機物へ戻ろうとする近親相姦的共生の努力であり、
その人間をして生の仇敵たらしめる。
― その理由は正に彼が自我の牢獄を離れることができないためである ―
ナルチシズム的な自己犠牲のことである。こういう生き方は【地獄】の中の生き方である。
Ⅲ.
退行の程度が減少するにつれて、悪もまた減少する。
それでも、愛の欠如、理性の欠如、関心の欠如、勇気の欠如が存在する。
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Ⅳ.
人間は退行する【と同時に】前進もする傾向がある。すなわち善にも悪にもなりうるということである。
この二つの傾向がある平衡を保つ間は、自覚を持ちかつ努力することが出来さえすれば、
彼は選択の自由を持つ。
自らの置かれたトータルな状況により規定されている二者択一の間の選択は自由である。
しかし二つの傾向のバランス失われるほどまでに、その心情の硬化する時は、
彼にはもはや選択の自由がなくなる。自由の喪失をもたらすような出来事が継起している中では、
一般にもはや人間が自由に選択しうるものではない。
最初の決定の時、自己のその決定が有する意味を自覚しているならば、
善をもたらすものの選択に自由でありえたであろう。
Ⅴ.
人は自己の行為に対し、自由に選択しうる限り、それについて責任を有する。
しかし責任とはひとつの倫理的な公準であり、
権力をもつ者が人生を罰そうとする欲望の合理化にすぎぬことが多い。
悪とは人間的なるものであり、退行のポテンシャルであり、ヒューマニティの喪失であるがためにこそ、
われわれすべての者の内部に存在する。われわれがそれを自覚すればするほど、
われわれは他人を裁く地位に立つことはできなくなる。
Ⅵ.
人の心情は硬化することがありうる。
それは非情になりうるが、非人間的になることは決してあり得ない。
それは常に依然として人の心情である。
われわれはすべて、人間として生まれてきたという事実、そしてそれ故に選択を行わねばならぬという、
決して終わることない仕事により決定づけられている。
われわれは目標と同時に手段を選択しなければならない。
われわれは誰か他人の救いに依存してはならず、
誤れる選択はわれわれをして自ら救済することを不可能にするという事実を、よく自覚しなければならない。
実際われわれは善を選択するためには、自覚しうるようにならなければならない。
しかし万一、われわれが他人の不幸に、他人の親しい眼差しに、小鳥の歌に、緑の草木に
感動する力を喪失してしまったならば、いかなる自覚をもってしても、われわれは救済されえないだろう。
もし人が生に無関心となれば、その人は善を選択しうる希望はもはやないのである。
全くこのような時には、その人の心はあまりにも硬化してしまっているがために、
その人の【生】は終わりを次げていることとなろう。
もしこのような事態が、全人類ないしはその最強の成員に起こるようなことになれば、
人類の生命はその最大の約束を果たすべきその瞬間に、まさに絶滅するであろう。
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