ドイツのIT戦略について 国際社会経済研究所 草桶 左信 1. はじめに (1

ドイツのIT戦略について
国際社会経済研究所
草桶 左信
1. はじめに
(1) 本年3月10日、ヨーロッパ最大のITのメッセであるCEBITの会場にお
いて、ドイツのガブリエル連邦副首相兼経済・エネルギー大臣ら3閣僚は、現
大連立政権下でのIT戦略の指針となる「デジタル・アジェンダ」の策定作業
にとりかかり、本年夏の閣議決定を目指すとした上で、このアジェンダに盛り
込む7つの主要な行動領域を発表した1。
(2) これに先立つ2月24日、経済・エネルギー省(以下、経済省と略記する。)の
ツィプリース政務次官は、『2013年デジタル産業モニタリング・レポート
(Monitoring-Report Digitale Wirtschaft 2013 )
』
(以下、モニタリング・レ
ポートと略記する。
)を発表した2。このレポートは、ドイツ政府のIT産業の現
状、位置づけや政策の進捗に関する報告文書である。また、ドイツ政府は、同
じくIT政策の考え方を示す文書として、既に「デジタル・ドイツ2015
(Digital Germany 2015)
」3を有している。これは、欧州委員会が2010年に
決定した「ヨーロッパのデジタル・アジェンダ」4とともに、現時点でのドイツ
のIT振興の基本政策文書となっている。
(3) ここでは、
「デジタル・アジェンダ」に盛り込まれるべき主要項目と既存の「デ
ジタル・ドイツ2015」及びモニタリング・レポート等の内容を紹介しつつ、
日本のIT戦略との比較を探ること等を試みることにする。
2. 「デジタル・ドイツ2015」の概要
(1) この方針は、基本的な認識として、以下をあげ、これらを方針策定の背景
ないし根拠と位置付けている。
① ICTは、ドイツが引き続き高度技術の立地国として繁栄するために決定
的な役割を担う。ICTは全産業の生産性の鍵である。
② ICTは、付加価値ベースで、ドイツの伝統的な重要産業である機械製造
業や自動車製造業を上回っている。雇用面でも、2009年で84.6万
人と機械製造業に次ぐ規模である。
③ ICTの潜在力をドイツの成長や雇用に活用する必要がある。例えば、エ
1
ドイツ連邦経済エネルギー省のホームページ
(www.bmwi.de/DE/Themen/digitale-welt,did=628524.html)を参照。
2 この文書は、上記ホームページより、ダウンロードすることができる。
3 www.bmwi.de/EN/Topics/Technology/ict-strategy,did=384960.html
4 欧州委員会のホームページを参照。http://ec.europa.eu/digital-agenda/
ネルギー、運輸、健康保健、教育、余暇、旅行、行政といった伝統的な分
野でICTによるネットワーキングは新しい機会を提供すると期待され
る。ただし、同時に新しい課題、特に、データ保護への取組を忘れてはな
らない。
(2) その上で、以下に取り組むとしている。
① 経済活動の全局面で、ICTの活用を通じて、ドイツ企業の競争力
を強化する。
② 将来の課題に応えるため、ICTに係るインフラやネットワークを
拡大する。
③ ユーザーの個人的な権利を保護する。
④ ICTにおけるR&Dの促進とその成果の迅速な商業化を図る。
⑤ ICT活用に関する学校教育や職業教育、生涯教育を強化する。
⑥ 環境、気候変動対策、健康保健、社会的モビリティ、行政や市民の
生活水準の向上などの社会的課題の解決のためのICTの活用を
推進する。
(3) そして、この戦略の実施に当たり、ドイツ政府は、以下に留意するとして
いる。
① インターネットやICTが社会政策的意味を有することに留意し、
インターネット政策や政府の担うべき役割に関してステークホル
ダーと対話を行う。その結果を規制の枠組みに反映させる。
② 欧州委員会が策定した「ヨーロッパのデジタル・アジェンダ」と連
動させる。
③ ドイツの競争力の更なる強化に努める。
④ ドイツ政府自身の高度で効率的なIT化はドイツのITの将来作
りの基礎となる。連邦政府のIT化は、連邦情報技術コミッショナ
ーの議長の下、全省庁のCIO会議と連邦ITマネージメントグル
ープが合同して、そのかじ取りを行う。
⑤ この戦略は、政策決定者、産業界、学界の緊密な連携の下に実施す
る。関係省庁がそれぞれの任務に基づき参加し、経済省が実施全般
のコーディネーターをつとめる。「国家ITサミット」が今後の戦
略実行の上で引き続き重要な役割を担う。
3. モニタリング・レポートの内容
(1) モニタリング・レポートは、次のとおり、3つの部分に分かれている。第一に、
ICT分野での世界の主要15か国の強み弱みを様々な指標用いて数値化し、
15か国の中でのドイツの位置づけを示している。第二に、ドイツ経済・産業
におけるICTの意義や寄与を数値的に分析し、その重要性を強調している。
そして、第三に、2013年版のいわば特集として、ICTが労働・雇用の形
態等に与える影響を分析する専門家ワークショップの結果を紹介している。
(2) ICTにおける世界の主要15か国を「総合(パフォーマンス、能力)
」の面で
順位づけるとともに、それの構成要素である「市場」「インフラ」「利活用」に
ついて、それぞれ個別に順位づけを行っている。その結果、ドイツは最重要指
標である「パフォーマンス、能力」に関し、49ポイントという評価であり、
昨年の6位から順位を一つ上げて5位になったと分析している、
「市場」、
「イン
フラ」
、
「利活用」については、それぞれ、6位、6位、8位と位置付けている。
総合評価でのドイツより上位にある国は、第一位の米国(79ポイント)に、
韓国(56)
、日本(55)
、英国(54)が続いている。
(3) ドイツ経済・産業におけるICTの意義(すべて2013年の指標)について
は、積極面として、
① ICTはドイツの付加価値生産の4.7%を担い、産業としては、機械製
造業(4.4%)や自動車製造業(4.3%)を上回って首位の座にある。
② ICTの売上高は2280億ユーロで、これは自動車製造業(3690億
ユーロ)に次ぐ。
③ ICTにおける雇用は約90万人であり、これは機械製造業よりは少ない
が、自動車製造業や化学・医薬品製造業よりも多い。
④ 設備投資の面でもICTは182億ユーロでドイツの設備投資全体の4.
5%を占め、自動車や化学・医薬品を上回り、首位である。
⑤ ICTは他産業の生産性の向上にも大きく寄与しており、1995年以降
のドイツの労働生産性の伸び(1.5%)の23%がICT機器への投資
によりもたらされた。特に、機械製造業や対企業サービス業の生産性の伸
びに対するICTの寄与は大きく、それぞれ47%、68%となっている。
⑥ ICTは開業率及びイノベーションへの投資比率の高さでも際立ってい
る。ただし、後者について、ICT関連サービス分野では投資比率は上昇
しているが、ICT関連機器製造分野では低下している。
⑦ しかしながら、輸出においては、ICTはドイツ全体の平均以下のパフォ
ーマンスしかあげていない。絶対額においても伸び率においても、ドイツ
の輸出の強さに特筆するような貢献はしていないと酷評されている。ドイ
ツのデジタル産業の成功のためには、競争力のある製品・サービスの創出
(特に、クラウド・コンピューティングをはじめとする成長分野)、重点
的な国家支援、何にもまして企業の海外市場を制するとの意気込みが重要
な条件となる。
⑧ ICTのインフラ整備を引き続き、長期的、戦略的に進めていく必要があ
る。
⑨ ITCの成功のためにはITCの新しい応用や技術に対する信頼が重要
であるところ、NSA事件は利用者のそうした信頼を大きく揺らがせた。
このため、政府は、利用者のデータ保護やサイバーセキュリティへの信頼
回復に取り組む必要がある。
(4) ICTが雇用や労働に関して提供する様々な機会や可能性の活用と、勤労者の
ニーズの双方に配慮した法的な環境を作り上げていく必要がある。
(5) なお、2014年3月5日には、ドイツ政府にICT分野での政策立案に関し
てアドバイスを行う「青年デジタル企業家」審議会(Beirats “Junge Digitale
Wirtschaft”)の会合が現在の連立政権発足後としては初めて開催されている5。
ちなみに、この審議会は2013年1月に既に、11項目にわたる勧告6を行っ
ている。
4. 「デジタル・アジェンダ」策定計画
(1) 2014年3月10日、世界最大のITメッセであるCEBITの機会に、
経済大臣、内務大臣、運輸大臣(デジタル・インフラ担当)とITサミッ
ト(産業界、学界、連邦政府、地方政府関係者らで構成)の準備会合が開
かれ、これから策定にとりかかる「デジタル・アジェンダ」の活動領域が
示された7。
(2) この活動領域として、具体的に、以下の7項目が列挙されている。
① デジタル・インフラとブロードバンド整備
② デジタル産業
③ イノベーション国家
④ デジタル社会
⑤ 研究、教育、文化
⑥ 社会と産業界にとっての、セキュリティ、データ保護、信頼
⑦ デジタル・アジェンダのヨーロッパおよび世界との関わり
(3) 今後、経済省以下3省が主導して、本年8月の閣議決定を目指して、デジ
タル・アジェンダ策定作業に取り組むことになっている。
5. ドイツのIT戦略の特徴
5
ドイツ経済省のホームページを参照。
“Beirat.Junge.Digitale Wirtschaft@BMWi BJDW.Bericht.01/03 としてドイツ経済省の
ホームページにて参照可能。
7 www.bmwi.de/DE/Themen/digitale-welt,did=628524.html を参照。
6
(1) 乱立気味の政策文書
ドイツの現政権においては、大連立発足後日も浅いことから、これまで
のところ、我が国の「世界最先端IT国家創造宣言」のような最終的で単
一の政策文書は策定されていない。本年夏の閣議決定が目指されている「デ
ジタル・アジェンダ」の内容が注目される。それまでの間は、既に紹介し
た「デジタル・ドイツ2015」「モニタリング・レポート」、あるいは、
「青年デジタル企業家」審議会の勧告等を総合的に見ていく必要がある。
ICT分野では、我が国と同様、政策文書が乱立しているきらいがある。
「デジタル・アジェンダ」の策定によりこうした状態に終止符が打たれ、
政策がわかりやすく提示されることが期待される。
(2) 個別分野に踏み込むことが期待される「デジタル・アジェンダ」
既に発表されている上記の各文書を見る限り、ドイツのIT戦略は、こ
れまでのところ、我が国の「世界最先端IT国家創造宣言」と異なり、各
論(個別の産業への応用)にわたる詳細なものではない。これは、①既に、
欧州委員会として2010年にICT振興のための総合的な文書(”A
Digital Agenda for Europe”)が作成されていること、②昨年12月に大
連立政権内には、通信会社等の記録保存義務やネットワークの中立性を巡
って大きな議論があり、これが未だ終結していないことなどが関係してい
るのかも知れない。しかしながら、主要点として挙げられている事項を見
る限り、目指す方向は我が国の「宣言」と概ね一致しているといえる。ま
た、本年夏の「デジタル・アジェンダ」では、個別産業・分野への言及も
相当程度行われるものと見込まれる。
(3) 輸出競争力強化への強い関心
「デジタル・ドイツ2015」とモニタリング・レポートの双方を見る
と、ICT分野におけるドイツ企業の競争力の強化には大きな力点が置か
れており、とりわけ、輸出パフォーマンスの強化が重視されている8。モニ
タリング・レポートでは、Booz & Company 社のスタディを引用する形でド
イツのICT企業で世界に伍するグローバル・プレーヤーはSAP社しか
なく9米国の巨人と比べれば見劣りがすると述べられており、また、「外国
市場を制覇する(”auslaendische Maerkte zu erobern”)との企業の意
気込み」が重要である旨の記述があるほどである。
(4) 戦略策定における産業界、学界等との連携
ドイツのデジタル戦略の中で重要な機関と位置付けられている「青年デ
8
モニタリング・レポートの9ページ参照。
同35ページ参照。Booz & Company 社のスタディを引用する形でグローバル・プレー
ヤーはSAP社のみであるとの趣旨の記述がある。
9
ジタル企業家」審議会は、2013年1月に多岐にわたる勧告を発表して
おり、これは今後のドイツ政府の政策に活かされていくものと考えられる。
また、今後の「デジタル・アジェンダ」策定に大きな役割を果たすと見込
まれる、「ITサミット(”IT Gipfel” )は、産業界、学界、連邦政府、
地方政府関係者らで構成されている。このように、ドイツにおいても、我
が国のいわゆるIT総合戦略本部と同様、産業界や学界などステークホル
ダーを巻き込んだプロセスでICT戦略が練られていく点は我が国と共通
している。
(5) データ保護や社会の信頼の重視
取り組むべき項目として、スノーデン事件を契機に国民のITへの信頼
が動揺していることを背景に、データ保護や社会の信頼確保が重視されて
いる。3月9日、CEBITを訪れたメルケル首相もこの点に言及してい
た10。
(6) 中小企業に対する支援の重視
中小企業のICT活用やデータ保護に対する支援も重要なテーマになっ
ている。この点は、2012年に経済省が発表した文書(経済省―デジタ
ル産業アクションプログラム11)にも詳しく取り上げられている。
(7) ビッグデータ利活用への期待
ビッグデータの利活用による新産業の振興は、現段階では明示的にはあ
げられていない。ただし、メルケル首相は、やはりCEBITの場で、ビ
ッグデータの利活用が持つポテンシャルに触れ、とりわけ、医療や省エネ
の面でのビッグデータ活用の意義に触れている12点は注目される。
(8) 我が国と重なる関心分野
地域経済振興や防災は明確には取り上げられてはおらず、この点は我が
国の「宣言」と異なる。他方、デジタル化、スマートネットワーキング活
用の重要分野として、ツィプリース次官は、教育、エネルギー、医療健康、
運輸、行政をあげており、これらは我が国の「宣言」の方向と一致してい
る。
6. おわりに
(1) CEBIT開催を報じるドイツのテレビ・ニュースでは、①ビッグデータ
やデータ保護に関するメルケル首相の発言、②グフォルクスワーゲン社の
10
たとえば、3月9日付南ドイツ新聞の報道を参照(www.sueddeutsche.de/)
。
“BMWi-Aktionsprogramm Digitale Wirtschaft”を参照。経済省のホームページからダウ
ンロードできる(www.bmwi.de/BMWi/Redaktion/PDF/Publikationen/)
。
12 上記記事を参照。
11
自動運転の車のシュミレーションが大きく取り上げられていた。これはI
CTに関するドイツの現在の関心事を象徴的に示すものであり、これから
夏にかけてドイツ政府が産業界等と連携しながら、
「デジタル・アジェンダ」
策定作業をどのように進めていくのか、その中で、ビッグデータの利活用
やデータ保護をどのように扱っていくのか、等大いに注目される。ドイツ
官民の問題意識を簡単に言えば、
「自動車や機械、医薬品などと比べ、ドイ
ツのICT産業は世界的に見て見劣りがする。この状態を是正するべく、
国をあげてICT産業の振興、輸出競争力の強化に取り組んでいかなくて
はならない。
」というものである。しかも、狭い意味のICTのみならず、
ICTの社会ソリューションへの応用も強く意識されている。その意味で、
競合関係にある我が国としても、ドイツの動きを注視していく必要がある。
(2) 他方、ビジネスチャンスが生まれる可能性もある。例えば、ビッグデータ
の様々な事業分野での活用がある。また、ドイツ政府の政策体系の中では、
中小企業の事業へのICTの活用への支援が重要なテーマになっている。
また、中小企業のデータ保護やサイバーセキュリティへの取組への支援も
同様に重視されている。機器やサービスの市場としてのドイツを占ってい
く上でも、官民の協力に基づく「デジタル・アジェンダ」策定など今後数
か月のドイツの動きには特に注意が必要であろう。