<女>そして<母>であること:ゲルトルート・ コルマーの小説『ユダヤ人

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<女>そして<母>であること:ゲルトルート・
コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
関 口 なほ子
1 本論の問題設定
『ユダヤ人の母』
(Die jüdische Mutter)1)はベルリンのドイツ・ユダヤ人女性ゲルトルート・
コルマー(Gertrud Kolmar, 1894-1943)
,本名ゲルトルート・ケーテ・ホドチスナー(Käthe
Chodziesner)が,母親エリーゼ(Elise,旧姓 Schoenfließ, 1872-1930)の死後,1930 年 8 月
から 31 年 2 月にかけて執筆し,1965 年にケーゼル(Kösel)出版からようやく出された小
説である。コルマーは 19 世紀半ば祖父母の代から始まった同化の影響を受けたユダヤ人家
(Eine
庭で育ち,ユダヤ人とはいえ正統派ではない。そのためか出版時の作品名は『ある母』
Mutter)であり,オリジナルタイトルに付された定冠詞は不定冠詞に変えられ,宗教的・人
種的規定を伴う「ユダヤ人」という形容詞は除かれている。それはこの作品の中心人物であ
るユダヤ人女性が,コルマー自身も含めた特定のユダヤ人を暗示する可能性から生じるさ
まざまな誤解や曲解を危惧した,彼女の 10 歳下の妹ヒルデ・ヴェンツェル(Hilde Wenzel,
1905-1972)の意向を受けたものと推察される 2)。
しかもヒルデは,すでに亡き姉の抒情詩を評価し,出版を手がけていたフリードリヒ・ケ
ンプ(Friedrich Kemp)によって,
『ユダヤ人の母』の出版が話題にされた 1962 年当時,出
版自体を強く反対していたが,1963 年に西ドイツ放送でこの小説の抜粋が「迫害された女」
(Die Verfolgte)として発表されたのち,1964 年ヒルデによる二つの条件付きで,彼女の反
『ある母』というタイトルへの変更と,コルマーの古くから
対は取り消されることになる。
の学友エラ・ガイス(Ella Geiss)の承認を得るという条件で,
『ユダヤ人の母』は出版に至
るものの,出版社の意向で『あるユダヤ人の母』
(Eine jüdische Mutter)へとタイトルが変
更されたのはヒルデの死後,1978 年の第 2 版においてである 3)。
反ユダヤ主義の環境に身を置いていたコルマーが,1920 年代の歴史的,社会的な文脈の
なかで描いた『ユダヤ人の母』の概要は,以下の通りである。
主人公のユダヤ人女性,キリスト教徒の名前をもつマルタ・ヤダスゾーン(Martha
Jadassohn)は,大都市ベルリンで写真家(JM22)として働き,決して裕福ではないが社会
的に自立したシングルマザーである。マルタは職場やコミュニティーとの最小限のつながり
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<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
しかもたず,正統派ユダヤ人に特徴的な宗教的慣習もなく(JM109)
,改革派ユダヤ人に対
してはむしろ批判的である(JM58)
。夫フリードリヒ・ヴォルクの死後,マルタは都会のは
ずれの原始的な生活環境で,5 歳の娘ウルズラ(ウルザ)と暮らしている。マルタの日常,
とりわけ母子関係は,娘が正体不明者によって誘拐された瞬間から突如断絶する。死角と
なっている荒廃した不用品の捨て場所で,ウルザは 死の状態で発見される。発見者は警察
ではなく,母親自身である。娘の体には生臭い血痕と性的暴行の明白な痕跡が残されている
(JM45ff.)。心身のバランスを失ったマルタは,極度の精神疾患から回復の見込みのない我
が子を服毒死させる(第 1 章)
。子供の死後,復讐に駆られたマルタは亡夫の同僚アルベル
ト・レンケンスに,肉体関係と引き替えに,犯人捜索の協力を要請する(第 2 章)
。恋愛関
係に入った二人の関係は,一向に進 しないレンケンスの犯人捜しに対するマルタの不信と
焦燥によって,また男の気まぐれと女の過剰な情熱の不均衡によって破綻し,マルタは絶望
のはてに自ら命を絶つのである(第 3 章)
。
オリジナルタイトルが暗示する登場人物の特定性にせよ,タイトル変更によるその一般化
にせよ,1938 年にアウシュヴィッツで殺害されたとされるコルマーが,いかなる動機でこ
の小説を書いたのかが明らかにされていないため,読者に虚構と現実(例えばコルマーの自
伝的要素)の混同を招く可能性は否定できない。性犯罪とその被害,母親による我が子の殺
害,自死など多くの問題を孕む作品の設定が,すでに詩人として評価されていたコルマーの
名誉を何らかの形で毀損するかもしれない,という妹ヒルデの危惧も想像に難くない。その
なかには,二年の闘病の末,母エリーゼが癌で逝去した年に執筆が開始されたこの作品の動
機を,子供時代の母親に対する精神的反発や母娘関係の軋轢の解消にあるとする憶測も含ま
れる。改革派ユダヤ人に近く 4) ,社交的で小市民的な母への反発 5)が,「マルタ」という非
社交的で孤立した,実母とは対極的な女性像となって作品化された,という推測もされうる
からである。
いずれにしても,母と子,とりわけ母親における娘の存在と娘との関係は,この作品の中
心軸となっている。人間の不法かつ非道な性暴力をきっかけに,それまでの母子関係が崩壊
し,母親による子供の殺害から,
「母であること」を剥奪された女主人公が自分の「性」を
媒介して男と女の関係性の構築を求め,再び「母性」に回帰するまでの 藤のプロセスを扱
うこの作品には,多くのモチーフと問題設定が重層的に絡み合っている。
それは反ユダヤ主義的なドイツ人社会で,
「社会性」
と
「個
母親であるユダヤ人女性主人公の
人性」の
ドイツ人男性との性的関係をとおして展開される,
藤,
主人公の「女性性」と「ユ
ダヤ性」の連関,ワイマール期の社会現象である性犯罪 6)の作品への影響(性的倒錯者に
よる幼児誘拐と性的虐待)であり,これらはともに宗教間の対立と関連している。また犯罪
事件における「加害者」と「被害者」の問題,母親による「子殺し」における「母性」の意
味,選択された「自死」の問題等である。
確かに,主人公マルタの行動のすべてが,コルマー自身を直接的に指示または暗示すると
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
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いうわけではない。ここでは,
作品とコルマーの伝記との関連に焦点を当てる意図はないが,
コルマーの自伝とその作品への影響を考えるときに必ず言及される「堕胎」7)の問題は,コ
ルマーの文学上の重要なモチーフとなり,
『ユダヤ人の母』においても子供の殺害との連関で,
一見副次的ではあるが,
女主人公の行動を左右する重要な心理的要因として用いられている。
また 1870 年以降,
胎児を殺すことは悪として,
刑法 218 条(1871 年 5 月 15 日)で堕胎罪 8)
とされた人工中絶は,ワイマール期の文学作品に散見されるテーマであることから 9),中絶
行為を母親による子殺しの問題と関連づけて『ユダヤ人の母』を見ることは,宗教 ・ 生命倫
理上の問いや女の性に関わる諸問題に対するコルマーの応答として,また,コルマー自身の
過去への態度表明として取り上げることができるのではないだろうか。
この方向性でオリジナルタイトルが示す「ユダヤ人」
,
「母」,そして「女」の規定にこめ
られた意味を探ることが本稿の目的である。それは「子供」や「男」の存在とマルタとの関
「母」であり「女」であ
係性を抜きにしては考えられないことである。その点に留意して,
るマルタの行動を解釈しながら,
『ユダヤ人の母』の「母/女としての存在」の特異性につ
いて考察する。そこからは剥奪されてもなお,
失われることのない「母性」を死守する「女」
マルタの自己決定のゆらぎとありようが浮かび上がるのではないか,と想定している。
2 「マルタ」という女性について
マルタの夫フリードリヒ・ヴォルクはエンジニアでキリスト教徒である。彼はユダヤ人女
性の異国性,黒い瞳,打ち解けない雰囲気,冷たさに秘められた情熱に惹かれて,両親の反
。キリスト教徒との結婚を社会的
対と予想を裏切り,躊躇なくマルタと結婚する(JM15ff.)
に有利な同化の足がかりとして利用する「新しい」ユダヤ人女性とは異なり 10),マルタ自
(JM17)と
身は一世代前の義父のように,異宗婚(Mischehen)を「非難されるべき行為」
みなしている。つまり,体制的な社会通念を持ち合わせているにもかかわらず,「意思に反
して」このキリスト教徒の男を愛した(JM17)というマルタは,物語の当初から,非合理
的な情熱が勝る女性として特徴付けられている。
「教養ある,裕福な卸売商人」すなわち社会の成功者
他方,マルタの両親とは対比的に,
である「陽気な」義父は,東方ユダヤ人の系譜であるマルタを「古代の石像」
,旧約聖書『創
(Lea)に喩え,
「寡黙で愛想のない」「貧乏なユダヤ女」と
世記』中のヤコブの妻「レア」
11)
。フリードリヒによって「飢えた雌オオカミ」(娼婦を含意)
,子の殺
敵視する(JM16f.)
,復讐の女神「メガイラ」に喩えられた(JM20)
,
「妻/母」とし
害も厭わない「メデイア」
てのマルタのイメージもまた,父親と同様の負のイメージに転化していることがわかる。の
ちにマルタの恋人になるアルベルトも「娼婦」(JM144, 147, 148)
,
「吸血鬼」
(JM155)とい
う
(JM142),それが「ユダヤ女」
(JM144)であると
称で「もっとも恥じらいのない女」
断定している。
これらの男たちによる共通のマルタ像,すなわち,男の好奇心をそそる一方で,男に侮
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され,虐げられる女のイメージは,旧約聖書外典の「ユデト書」のユデト(Judith)などの
神話的形姿をとおして解釈された伝統的なイメージ 12)から派生した両極的な側面,
魅惑的で,
恐怖を喚起する魔性の力をもつ女性の「性的」側面を反映したものである 13)。だが,残酷
さを持ち合わせた性的な放縦さ,他者との親和性を欠いた気質上の苛烈さは,マルタの一定
のイメージづけに役立つとしても,その実像を特定するには至らないものである。
語り手が説明するフリードリヒの理解によれば,「皮膚のように」一体化しているという
マルタの奇妙な異質性は,異教徒の「血」や「ユダヤ性」と同義の「別の血」に由来するも
のである(JM19)
。またマルタ自身も,自分の貪欲な異性の身体への渇望や子供への極端な
(JM144)であるとしている。そこには「血」ということばが喚起
執着の根源を「私の血」
するイメージだけでは名付けようのないものがあり,それが意識的あるいは無意識的に,ユ
ダヤ人女性としてのマルタの自己像(自己規定)に影響を及ぼしていると考えられる。
「お前はこの女を屈従させはしない」という義父の息子への「警告」どおり,マルタには,
夫への従属意志も夫との共有意識もなく,彼女は子供との関係から,父親の存在を排除さえ
する。娘の洗礼 14)やキリスト教的な教育を断固拒否するマルタの論拠は,子供は自分だけ
のものである(JM20)という偏執的な所有意識にある。子供の母親への帰属の正当性を証
明するものとして,マルタの主張を強めるものは,父親の面影がない,母親に似た子供の容
姿である(JM21)15)。それを語り手は宗教間の対立に喩えて「父の光と母の闇が戦い,母の
(JM20)結果であると説明している。語り手の誘導は,子供の父フリードリ
闇が勝利した」
ヒがキリスト教徒の善,理性,合理的精神(光)を代弁し,それに対するユダヤ人マルタは
(闇)の異教徒シナゴークを想起させることにある。とはいえ,
激情に駆られた盲目(JM29)
キリスト教徒の立場からは洗礼が至当な儀礼であるように,ユダヤの法律ハラハー
(Halacha)
に従えば,子供の帰属をめぐるマルタの主張に,特別な意味は求められないことになる。ハ
ラハーによればユダヤ人の母親から生まれた子供は,
父親の宗教や出自に依存することなく,
ユダヤ人であると規定されているからである 16)。このような双方の主張に対して,語り手
があえて異教徒の母親に軍配を上げ,
「それは確かに彼女の子だった,ただ彼女だけのもの
だった」
(JM20)と注釈しているのは,それが,マルタというユダヤ人女性の家庭内の支配
権の獲得のみならず,男の「性」によって被抑圧的な立場に置かれた女の「性」の解放と母
権の優位 17)を主張しているからではないだろうか。
家父長主義的な社会構造において,被抑圧者層の構成員である女主人公が,キリスト教徒
(遺伝子)を受け継いだ娘,いわば自
男性を異教徒(異性)の魅力で籠絡し,自分の「血」
民族の子孫を獲得した,という解釈もなされるかもしれない。マルタは西ポーゼンの小さな
町から,ベルリンへ移住した東方ユダヤ人の系譜をひく最後の末裔であり(JM15),マルタ
の子供を除いてはこの家系を継ぐ者はいないからである。ただし,これらの推定上のマルタ
の思惑は,のちに娘の「性」と人権が第三者の「性」によって侵害されることで,打ち砕か
れるという運命の逆説を孕んでいる。
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また物語の社会的背景を考慮すると,家の内外で反ユダヤ主義の偏見にさらされ,孤立す
る一人の女性が初めて「我が子」
(mein Kind, JM77)をもち,
「ユダヤの血」をひくという
理由で,母親による子供の独占の正当性を要求するほどに,「母」としての存在を確保した
いのは,ユダヤ人とされる母親の分身として,娘に自身の自己同一性の獲得(自己同定)を
仮託しているためではないかと推察される。その意味で,娘ウルザは母親マルタの「鏡」と
しての機能をもつことになる。
キリスト教徒から見られた異教徒マルタの生来の性質を際立たせ,映し出すことになる
「光」の形象はのちに,マルタに自分の心の「闇」,ひいては「父の闇」との対決を迫る重要
な契機として描かれている。そこから,異質性や「別の血」ということばで説明されている
マルタの本性的部分の言い換えである「母の闇」は,「自分の子供」
(娘)をとおして,無意
識的に自分(の内側)を照らす唯一の光源を初めて手に入れたと考えられる。
この点についてのさらなる考察は,マルタの子殺しと自死の問題との関連で取り上げるこ
とにするが,子供の帰属を父親ではなく,母親にあるとする『ユダヤ人の母』において,
「夫
/父」は家と家族を支配する権力を一切もちえず,そのためマルタとフリードリヒの生活は
破綻し,「夫/父」であるはずのフリードリヒは家を離れ,渡米後あっけなく死亡するので
ある(JM21)。
3 子供の存在・関係(同一化される過程)
マルタにとって,フリードリヒは結婚後も性愛の対象であったが,マルタの懐妊と出産後,
を引き離す
「母
夫への愛欲は子供の独占欲に取って代わっている。マルタは娘から父親(異性)
親」であり,子供の父親の価値や権限さえも許容しない「女」として現れている。この時点
18)
ですでに「あたかも妻から捨てられた犠牲者」
であるかのように,フリードリヒは子供へ
の養育責任から除外されている。子供への責任を母親だけが担うという状況は,一方で母親
による子の殺害(第一部)
,ひいては最終部のマルタの自死の動機となり,母親としての責
任感(JM57)を強く意識づけるものとなっている。
だが興味深いのは,母親による子への責任や依存の度合いが高められるほどに,私的な生
活空間(家)への,第三者(父親を含む)の介入が,極力制限された母娘関係が実現する環
境を,マルタ自身が意図的に作りだしたという点である。社会・共同体・他者とのこのよう
な排他的な関わりにおいて,マルタの孤立状況を支えるものは「子供」
(同性の娘)の存在
のみとなり,「母」として自己の位置を確認し,母娘関係を構築することがマルタにとって
不可欠ということになる。
母と子(ないし胎児)の関係の定義については,胎児の位置づけにおける神学上,生命
倫理上,フェミニズムの論議にみられるように,「子供」を「独立的主体」,またはリベラリ
19)
ズムが強調する「自律的個人」
(主体)とみるか,あるいは,母親の「所有物」とみるか,
またその両方の「両価的存在」とみるかで見解が分かれるところである 20)。胎内を構成す
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る一部としての胎児は,子宮の所有者である女性に帰属し,女性が胎児の生命権さえも恣意
21)
「女の体は女のもの」
という,リベラリズムの
的に左右することができるという考えは,
権利概念に負うところのおおいフェミニズムの主張の論拠である。だが,例えば中絶の選択
において,胎児の一個体としての「生命権」や「人格」の尊重に重点が移行するとたちどこ
ろに,胎児は女性の「所有物」から,独立的な「権利主体」として浮上することになる 22)。
あるいはまた,子供は(特にウルザの死後においては),いわば母親が支配する所有物と
して,母親が特定の子供の像を作り上げる対象にもなりうるところであるが 23),マルタは
生前の娘に対して,一方的に「正答を強化する」ことで,特定の価値観を教え込む 24)強権
的で過干渉な母親というわけではない。感情の押しつけや自己主張の強要もなく,近代的な
生活形態とは遠い,外界から距離をとるような牧歌的な家庭環境が,母子関係における無意
識的な「心理的距離感における密着」を強めるものとなっている。
そこではむしろ,社会生活ではもっぱら,檻に閉じ込められた物言わぬ動物と向き合うマ
ルタが,「家」という娘との共生空間でようやく発話の機会を得て,子供との対話をとおし
て未知のものと出会い,既存の概念に新しい解釈の可能性を発見するのである(JM12)
。
子供は口伝えに音を聞き,その音からことばを覚え,経験的にことばの意味や概念(思
考)を識別する力を身につけていくが,5 歳の娘ウルザには犬とネズミを差異化する必要が
なく,感覚的な印象でネズミを「とても小さな犬」
(JM12)と捉えている。
「役に立たない
偏見」(JM79)のせいで,大人には忌避対象の生き物も,子供の多様な感覚知覚と自由な連
想によって,身近な愛着のある小動物に変えられる。社会通念や社会的規範に縛られた日常
のことばではなく,大人とは異なる五官をとおして得られた豊かな感性と新鮮なことばの創
(eine Wilde, JM21)として知覚されていたマルタの失
造力は,寡黙で閉鎖的な「野生の女」
われた感受性を刺激し覚醒させ,補填する役割を担っている。それはマルタ自身に自分の位
置価値(自己の位置づけ)を確認させるものであり,それをつうじて自分の「声」の聴許が
期待されていると思われる。
そのためマルタは形式的な常套句,他人の中途半端な同情や慰めの言葉,気晴らしの会話
を拒絶する。たとえそれらが日常生活の労苦や心情の重荷を軽減するために使われるとして
も,他者との子供に関する苦しみの分有や共有は,自分の手から子供の実体そのものを奪っ
ていくと考えられている(JM59)
。そのような妄執にマルタがとらわれるのは,とりわけ子
供が性犯罪事件(JM48)に遭遇してからである。マルタは搬送先の病院で子供に付き添い
ながら,自分にこう言い聞かせている。
「不幸な母親のなかには,慰められ ・・・ 気晴らしをのぞむひともいる ・・・ というのはわ
かる。私はちがう ・・・」
。
「このことについて誰とも話すことはできない。私はひとりき
りでいなければいけない。私はこれをひとりで担わなければいけない ・・・ このことぜん
ぶを ・・・ 私のために」
(JM62)
。
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精神的な支えを必要とする緊急の場合においてさえ,他者を拒絶するこの思考傾向は,被
害者である子供(と親である自分)の恥部を世間にさらけ出すような性犯罪被害の過酷さゆ
えに,沈黙を強いる自縛の枷となり,そのうえ「よき母親の役割」を自分に課さねばいられ
ぬほどの過重な「責任論」へと発展している 25) 。このような責任感が生じる端緒は,生物
学的観点から見られた妊娠に対する見解にみられる。『中絶の歴史』によれば,「妊娠は女性
と胎児の共生」であるため,女性は自らの身体の一部を胎児に提供し,「その生命責任を引
26)
き受けなければならない」
。
マルタの考えにあるのは,一方でこのような潜在的な母子の共生観である。
「あの子の母
親である」ゆえに「自分」が,子供の保護責任(自己責任)とその遂行義務(自己決定)を
負わなければならないというものである。だがその所有意識と義務感も,子供が母親による
制御不能状態に陥ると空転し,マルタもまた「母」としての自己の確証という意味での自己
。
同一性を見失うのである(JM38)
その際マルタは自分の娘に起こった忌まわしい犯行について,なぜ「私の娘」に起こらね
ばならなかったのかと,絶望の淵で再三「神(創造主)の正義」を問い,神へ助けを求め,
突然,神の不在を宣言することで理不尽な状況に拮抗する(JM49)。マルタの両目がそのと
き「布で覆われ」
(JM52)
,エクレティアに対置されたシナゴーグのように 27)(信仰の)
「光」
が完全に失われ,その結果として,母による子の殺害が導入されている。つまり,無実な子
供への第三者による暴力という不条理に対する,母親の反抗が異教徒ゆえの迷妄状態に由来
するものとして描かれるのである。
たしかにマルタは語り手によって「狂人」
(JM32)と名指され,彼女の一連の行動は,宗
教的観点から,一見神を喪失した母親の衝動をみたすかのように描かれている。マルタ自身
も,子供が遭遇した事件への親の責任を自覚しているが,
(これらの延長線上で起こった)
子の殺害を,保護者の加害責任として問題にするだけでは十分ではない。子供への性的暴力
が起こらざるを得ない社会的・心理的文脈や心理的・身体的支配を容認する家父長制の社会
構造のなかで,マルタの行動を捉え直す必要がある。
では性的暴力と精神障害を被った子供や女性に対して,社会はどういう目を向けるのか。
20 年代の反ユダヤ主義的な環境で 28),被抑圧者への迫害を容認する社会の構成員は,被害
者とその家族の苦しみに対して,いかなる意識で,どのような態度を示すのか。社会は被害
を受けた子供の母親に非があるとするだろうか,性的暴行被害の対象に選ばれたのは,劣等
民族への憎悪のためとし,子供がユダヤ人の母親を持ち,父親不在の家庭環境にあることが,
性犯罪被害の理由に持ち出されるだろうか,そのような偏った故なき見方は,ユダヤ人女性
に対する伝統的なイメージからも考えられることである。
マルタの思考と行動には,
(ユダヤ人)女性に対する社会の評価体系に対するコルマーの
「子供への犯罪」という見出しで新聞に,
批判があるのではないだろうか。ウルザの性被害は,
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<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
,被害の実情
被害者「ウルズラ・ヴォルク」の名前と短い概要が掲載されるだけで(JM53)
や被害者の心情には触れられず,やがて実体の伴わない名前だけが先行し,それが性的暴行
を受けた子供の名前として,世間の
話に上ることになるからである。
またウルザの場合のように,重度の障害を負った後,社会的自立の見込みは少ない。ウル
ザは正常な感覚と言語能力を失い,
「悪夢」
(トラウマ)に魘され,まるで「野生の獣」のよ
うに泣き,呻き,喘ぎ,不安と恐怖に怯え,
「人格」破綻の状態にあるからである(JM66)
。
「狂人」と「野獣」に喩えられている時点で,母娘の共鳴・共振関係が強
母と娘がともに,
「自分のために」
調されるが,完全に閉じられた娘の内面に接近することができない母親が,
子供の苦しみを引き受けるとはいかなる意味をもつのだろうか。
4 子の殺害の動機
匿名の犯行によって人格を破壊された娘を,生の苦しみから解放するかのように母親は,
ひとつの行動―子供の殺害―を実行する。子供の意図的な絶命の決定は,親の責任(JM57)
の取り方として選ばれた安楽死の選択のようでもある。
29)
「医学的な安楽死・尊厳死が実際上法的に許容されているオランダ」
では,
「患者の自発
的要求」に安楽死の本来的な前提が置かれている。安楽死の正当性が主張される一般的な理
由に,人間(患者)の「尊厳の損失」が挙げられ,その場合,安楽死の要請者は,患者自身
が前提とされている。意思表示のできない「重度障害を持つ新生児」では,「障害に治癒の
「医師が両親との相
見込みがなく,人間的尊厳のない人生」を送らなければならない場合,
談の上で,治療の不履行または停止が容認でき」,安楽死は「外部とのコミュニケーション
をとる能力の有無や医療への依存度,苦痛の度合い,寿命などから総合的に判断する問題」
と定義されている 30)。
治療方針や治癒の見込みについて十分な情報も被害者家族を支援する医療体制もない状況
下で,言葉を失い,恐怖におびえる子供の,母親を拒絶する反応そのものが,皮肉にも唯一
の「本人の意志をはかる根拠となる言動」31)とみなされるとき,マルタは子供のこの拒絶
反応を心的外傷によるパニックと直感し,犯行時の恐怖感覚から娘を救うために「意図的な
絶命」32)を選択したとも考えられる。だが子供の命運を偶然性にゆだね,第三者による発覚
の可能性をどこかで期待しながら,子供に致死量の薬を含ませるマルタの行動には,神義論
に挑む大胆さの裏に,
「何か」に強いられているかのような焦燥感がみられる。
我が子の毒殺を実行する場面に先立ち,マルタの脳裏に浮上した記憶は,マルタの殺害行
為の諸動機を知る手がかりとして注目に値する。それは母親による我が子の殺害に関連する
二つの話題である。その一つは,
私生児を堕胎したとされるある婦人についての話題であり,
それを耳にした 19 歳当時のマルタの回想である(JM68)
。そこで想起されていたのは,法
的に認知されていない私生児は産まれない方がよいという,一面的な社会通念を植え付ける
ような父親の発言である。これはマルタに,中絶が慣習的に許容されうる矛盾として意識化
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
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される瞬間でもある。
ユダヤ法や伝統的なカトリック神学の解釈にみられるように,胎児を人とみなさないと
いう前提に拠って,中絶は殺人にはあたらないとしながらも,中絶という「原理的な悪」33)
を犯した者に,法的責任を問う社会規範がある。生命の源に対する諸宗派間の異なる学問的
見地とは別のところで,社会の倫理観には「どのような子供を産み,育てたのかを重視する
評価体系」34)が関わっている。
もう一つのマルタの回想は,未亡人の母親による 20 歳の同性愛者の息子を殺害した事件
である(JM67)
。この新聞報道を巡り,加害者である母親の行為を「非人間的」とし,その
息子を「被害者」とみなすフリードリヒに対して,マルタは母親の同性愛に対する「憎悪」
に理解を示し,性的偏執のない健全な者(被害者)の怒りに同調する(JM67)
。
このような心理には 8,9 歳時のマルタ自身の「おぞましい」体験(JM50)が深く関与し
ていると推測される。語り手によって伝えられた露出狂の男との当時のマルタの遭遇は,秘
匿されるべき心の傷として,恐怖だけでなくその後のマルタに性倒錯者への潜在的な憎悪を
堆積させることになる。それらの精神的な過重に一見埋もれた名付けようのない感覚こそが
35)
「記憶の事後作用」
として,
マルタの身体に刻印されている性倒錯者に対する「戦慄」となっ
て表出するものであり,娘ウルザに心身の外傷を負わせた犯人への憎悪と重ねられるのであ
る。そしてその憎しみには,被害者となった事実と状況への嫌悪と憤怒の複合的な感情へと
波及すると考えられる。
「性的に無知な子供」の場合,
「子供時代の印象は(・・・)思春期になって性生活の意味を
理解するに及んで,その記憶が外傷的な作用を発揮」36) するというが,「心的外傷の記憶」
を形成する性的虐待の体験が後遺症となり,子供の健全な心身の発達を阻害する可能性は高
い。マルタ自身の過去の性にかかわる心理的な傷が,苦痛に歪められる娘の表情から,
「記
憶の事後作用」として暴行の瞬間の記憶を敏感に読み取らせるとき,同時にマルタは説明不
能な非合理的なもの,すなわち,娘の異質性を感得する。唯一の庇護者であるはずの母親が,
子供の拒絶反応によって,異質なものとして知覚された証として,母娘相互の依存関係の破
綻を決定づけるとき,まるで我が子の異質性に呼応するかのように,母親の「顔」はかつて,
「石のニオベ」のように完全な「石」と化すのである(JM70・
義父が形容した「古代の石像」
88)。この石化現象(JM32)は,無神論の表象として,何かがこわばり,凝固し,凍り付く
ような感覚に刺激されて,マルタの本来的な異質性(JM38)を表出させたと考えられる。
性暴力によって持続的な苦痛や障害を負わされた娘に対する,起こりうる社会的偏見と無
理解への憎しみと怒りは,このようにして依存関係に絡め取られた母親自身の嫌悪や憎悪の
感情をも呼び起こすことになる。マルタは子供と一体化していたわけではないが,ユダヤ人
の無力な女児が犯人の性暴力の対象に選ばれ,不用品として遺棄された(JM45)という事
実は,母親自身の体験として,正体不明の男性によるユダヤ人女性の陵辱として受け止めら
れている。性被害者に向けられる憎しみにまでおよぶ身内の複雑な感情と,歴史的に培われ
24
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
37)
たユダヤ人特有の「自己嫌悪」
が,母親による子供の殺害の動機に潜在している可能性は
否定できない。
マルタの場合,子供への依存と愛着の度合いが強いだけに,自分の行動や思考の誘因とな
る心理的な傷への後ろめたさや社会状況への憤怒によって複合的に形成された感情が,母親
38)
としての「本来のアイデンティティーを過小評価する」
自己否定の表現となって表れてい
ると考えられる。その中には子供の殺害の罪を,
自責として個人に帰する強い傾向があるが,
それはレッシングのいうような,
「罪の自覚」を「集団的な罪の意識」として理解する傾向
39)
のある「ユダヤ人のモラル」
とは異なる考え方があるように思われる。子供の殺害の報い
を自死によってのみ罰するマルタの行動の選択がそれを証明しているが,
「自分のために」
(他性)
一人で「苦しみ」を引き受けるには,
自己への愛着と憎悪が交錯する自己の「異質性」
を何らかの方法で,別の次元へと転回することが,心理的な傷(あるいはトラウマ)からの
再起には不可避である。この視点から,子供の殺害とマルタの自死の問題にアプローチして
みる。
5 「幻想的な死」の導入について
「誰にも支援されず,自分のことは自分で決める」40)
安楽な死という生の選択において,
ことが「生きる価値」として意味づけられるとすれば,この選択の前提はウルザには当ては
まらない。むしろ『ユダヤ人の母』では,子供の「自己決定」や人格破綻した子供の「生き
る価値」に先行して,自己決定不能な子供の人生をコントロールする母親の判断と実践が問
題にされる。
子供を死へ誘うことになるマルタの行動は,論理的な説明なしに,娘との日常を回想し,
その断片的な記憶を一つ一つたぐり寄せながら,外的状況(進行過程)の一行程として進め
られている。このときのマルタは「流木のように」(wie treibendes Holz, JM162f.)状況に身
を委ねているので,その時々の彼女の明確な感情は判然としない。それが人間の判断の危う
さと,母親自身の精神状況を危機にさらすことになる自己決定自体の危険性をも浮き彫りに
する。
外界から完全に孤立した状況下で,病室という第三者の介在しない密室空間で,母親によ
る子供の「意図的な絶命」は行われている。その際,前章で指摘したように,相互に異質な
存在となったマルタが子供に接近するために,子供の気をひく自然な仕草で,高価な「巨
大なゴムボール」が子供の眼前にかざされる。子供の視界に入った思い出の玩具は,その中
に神秘的な生物の像を覗かせ,光り輝く彩りをかつて子供の顔に映し出したものであった
(JM70)。
「見上げると,黒いきらきらする光,色とりどりのおもちゃへの喜びが,子供の顔に輝
く光の反照(Abglanz)
」を与え,
「この世ならぬ静かなほほえみ(ein stilles, himmlisches
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
25
(JM162)
。
Lächeln)を映し出した」
マルタの実像を映す機能をもつウルザの「ほほえみ」は,いまや「この世ならぬ甘い」
「狂人」
(JM70)のそれに変貌している。事件前の子供の無邪気な「ほほえみ」を再び蘇らせるため
の「球」
(Kugel, JM70)を,
「理想的な宇宙」
「天上の完全性」
「神の絶対的遍在と全能の象徴」
というイメージシンボルと重ねると,この球体の玩具には,恐怖に歪められた人間の「顔」
なき「顔」41)に「存在の完全性」を投影する効果が期待されている 42)。
「光」
(天上)への回帰を求め,実体の
肉体と精神の過剰な重みに縛られたウルザの魂が,
ない「美しい奇跡」
(JM70)を掴もうとその両手が差し出され空転するつかの間,苦しみが
留保されるその瞬間に,マルタは子供に毒を含ませ,永遠の眠りを与えている。あたかも子
供のまなざしに,カフカの『掟の門前』のように 43),現世では獲得することが拒まれてい
る輝き(Abglanz)を擬似的に焼き付け,その道行きを祝福するかのように,静かな死が導
入されるのである。娘の最期に「苦しみ」と引きかえられた「存在の完全性」をもたらすか
のような幻想性の空間の創出が,現実の過酷な状況に導入されることによって,マルタは娘
に映し出された自己像に,架空の神秘性を纏わせているように思われる。
「萎れた花のような姿で」
(JM47)
死の状態にあったウルザは,マルタによって「暗い
(JM43)として「黄色いバラ>メロディ<(Melody)
」
(JM29・63)と名付
芳香を放つ歌」
けられていたが,それは娘の死後(殺害後)も変わらず,マルタにとって子供の存在が,い
かに意識化されていたのか窺い知る手がかりとなっている。犯行の二日前の元気な子供の姿
を回想する場面では,
「ヒキガエル」
(Kröte)44)
「つぼみ」
「未開の花」
愛くるしい子供の裸体が,
に喩えられ,語り手の視点は母親マルタのそれに移行し,マルタの意識を通して,犯人の視
「胸」
「腹」
「太もも」「陰部」へ移行しながら,
覚が写し出される。娘の上半身から下半身へ,
マルタの意識の中でなぞられていくのは,
記憶されていた子供のふくよかな肉の感触である。
やがて「女」に変容するはずの幼子の無垢なからだが,異物によって侵害されたことへの,
母親としての自責と後悔(JM57)を,そして「非世界」に「追放され」出口を見失う母と
,
「女」としての憎悪が彿き起こる場面である。
娘に対して(JM52)
このような感覚と感情の混濁のなかで,
「黄色いバラ,>メロディ<」という形象は,マ
ルタの記憶の中の生の肉体から,色彩と芳香が抽出され,五官を刺激しながら,揺れ動き,
響き渡る残像の混合として,さまざまな観念連合を呼び起こす 45)。我が子を「黄色いバラ,
>メロディ<」に置換するマルタのこの意識上の操作は,性犯罪被害の残忍さや殺害事実の
。事件後,
「狂人」に変貌し
醜悪さを一見浄化する感覚上の形象化にすぎない(JM43・47)
た娘の「ほほえみ」を,神秘的生物が映し出された球体に吸収し,その残像を現前化する行
為は,次章で取り上げる「写真」の中に固定された二次元の「ほほえみ」ではなく,「ほほ
えみ」を三次元の球体のイメージのまま,自由に浮遊させるというものである。そうするこ
とで,娘の「魂」に「居場所」を与えたのではないか。架空の神秘性を纏わせるとは,この
26
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
ような母親の願望が含まれると思われる。
マルタによるウルザの殺害行為は,相互共振関係にある母娘の本来的な「異質性」(なら
びにマルタの自己憎悪)を一旦留保して,母と娘の断絶に一つの区切りをつけるものとなっ
ている。これは,これまで家父長主義の価値観や評価体系に抵抗しながら,自主独立の母娘
関係を求めていたマルタが,自らパターナリズム的な思考に絡め取られていたことの証であ
るともとれ,不法行為を敢行する母権の力と母親の責任の重さを示している。だがそれだけ
46)
ではなく,子供の安楽な死への誘いは「利己的な動機」
によるものであるとしても,マル
タによる独自の鎮魂,換言すれば,マルタが生き続けるための先取りされた「喪」の行為で
あるように思われる。
6 -1 母と娘の関係
ここまでを整理すると,強調すべきは子供の死(殺害)が,
「鏡」であるはずの娘と母親
の二者関係からなる家母長的な世界の破綻を招来するにもかかわらず,それが選択された自
己決定上の積極的な意味であり,さらにそのような行動の決定が,選択の余地のない強制的
な内的要因と外的状況によってなされたということである。人間の行動を左右し規定するこ
とになる,このような相反・相補的な側面は,子供の殺害に顕著に表れている。子供の死の
影響は,それによって主人公の「母性」が一旦後退し,その代替として,母性が形を変えた
「女の性」がクローズアップされていく転換点になっている。
新たな「行動源」として,
子供の死後,マルタのさらなる行動のベクトルは,貪欲な彼女の復讐欲に駆られて,娘を
暴行した犯人捜査の協力者を獲得することに集約されていく。その際,マルタの行動はあく
までも,娘ウルザ「のため」
(JM136)という仮託(口実)に規定されてはいるが,協力者
を得た後,マルタの身体は「金のバラ」
(JM135)に喩えられ,子供のシンボルであった「黄
色いバラ」が性愛によるマルタの身体性の変容とともに新たな生命力を得て,女性性の覚醒
と展開が全面に押し出されている。
次の転換点(協力者である恋人との別離と自死)にマルタが直面するまで,詳述すれば,
マルタが物語の終局で「鏡」のなかの自分自身に無名の「未知の女」
(JM171)を認め,子
供の存在を客観視するときまで,この目には見えない母と娘の関係性の呪縛が,子供の死後
もマルタの意識下に潜在していたことが読み取れる。
以下にマルタの行動の転換点に注目して,マルタの行動心理を探り,殺害後の一連の行動
の特性を解明するために,子供の殺害の場面(第 1 章)と子供の「写真」をめぐるマルタの
回想場面(第 3 章)を関連づけて考察してみる。子供の死後、マルタによって封印されてい
た娘の「写真」は,のちにマルタの罪を暴く重要な役割を担うことになるからである。
マルタが盲目の闇の状態から出て,しだいに子供の殺害を自分の「罪」として意識化する
プロセスには,複数のモチーフの連なりが指摘できる。それを媒介するものの一つがマルタ
によって撮影された生前の子供の「写真」である。マルタは何気なくその封印をとき,「陽
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
27
気で,活発な」娘の「ほほえみ」を見ることになるのだが,
「彼女は恐れていた,この絹目の写真が彼女の記憶の中に,忍び込んでくることを,
意地悪く,企みに満ちて,気づかれずに,いつも彼女のなかに生きていたこの苦しめら
れた哀れな子供を追いやってしまうのではないかと」
(JM161)
。
(暴行後の)子供の記憶,とりわけ脳障害によって正常な認知機能を失い,異音を発する
「怪物」「狂人」に変貌した衝撃と憎しみは,時間の忘却作用を免れることなくマルタの自己
嫌悪を際だたせるとともに,自己愛への更なる渇望を覚醒させている。苦しめられた子供は
いわば母親自身であり,彼女の自己に対する過小評価に対しては,母親自らが捨象した娘と
の「不完全な関係性」の補填と代替が不可欠であると感じられているのである。自分以外の
(JM79)とする過
人間に子供を奪われるという恐れと不安もまた,喪失対象を「私の 子供」
剰な母親の自己所有意識から理解される。この自己意識が閉塞的な責任感(JM62)をうみ,
子供の死後もなお,マルタをその苦しみの記憶に固執させているのである。
マルタにとって致命的なことは,
「娘」
の存在と
「母」としての自己同一視の混同があるため,
,仮想敵である犯人でしかありえないとい
子殺しの実行犯は(自分であるにもかかわらず)
う思考の錯誤と混乱に支配されていることである。つまりそこには子供の苦しみを忘却させ
ることなく,自分の罪を留保する自己防衛反応が作動していると考えられる。
その背景には,警察(国家権力)
(JM42)
,弁護士(司法)への無益な協力要請があり
(JM111ff.),自分の未来の運勢を試すかのような女占星術師を訪問する場面(JM95)
,犯人
の手がかりを得るために,性倒錯者の集う店に通う場面が語られている。性犯罪者に対する
マルタの死刑要求に対して,性犯罪は量刑が軽く,死罪には当たらないという弁護士は死
。被害者の侵害された権利の回復に焦点を当てるのではなく,
刑反対論に与する(JM116ff.)
加害者の更正を目指す方向に論点が向けられる裁判の原則は,司法の限界に挑み,裁きの根
源的な原理に依拠するマルタの復讐欲をさらに掻き立てる原因となるのである。それにもか
かわらず,
「なぜ彼女はそれ(写真 : 引用者による補足)を闇の中に閉じ込めておいたのか,悪い
もののように。今光の下に引き出したのか」。「彼女は聖遺物のように,奇跡を行う聖像
のように,その写真を見て,触れて,欠乏に悩む飢えた魂をいやした」
(JM161)
。
ここに使われている「光」の形象によって,子供の写真が意に反してマルタの秘密(罪)
を暴き,盲目(狂人・石)状態からマルタを解放するかのような効力をもつ「聖遺物」とし
て意識されている。だが,健康な状態をうつした子供の写真が「悪いもののように」感じら
れるということは,重度の障害をおった子供への母親の負い目と我が子が変貌した醜悪さに
28
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
拮抗するための自己卑下の感情が再び作用していると推測される。そのような複雑な感情の
縺れ(
藤)から個人的なレベルでの脱却を図るには,犯人の存在の陰に隠匿された母親の
罪の自覚をとおして,自分の醜悪さを突きつけられることへの心理上の恐れに対峙する何ら
かの行為が問題になってくる。そのためには,単に個人の内省や思考上の自問自答に終始す
るのではなく,母子関係の外側に位置する第三者の視点の導入が必要となるのである。
その間接的かつ重要な契機となるのが,ある夜会でマルタが偶然知り合ったフランス人の
。彼女は 18 歳のときに,
元踊り子マリー・フェーラントの「告白」である(JM153f.)
自分のキャ
リアとファンのために,非合法的になされた堕胎を「殺人」と公言する。この告白に対する
マルタの特別な反応は示されず,逃げるようにその場を離れたマルタの行動自体が,彼女の
意識下に封印されてきた殺害の記憶を揺さぶり,再生させることになるのだが,その直接的
な媒体こそが,宗教的媒体と等価であるかのように見なされた前掲の子供の写真なのである。
6-2 無名の生の証としての死
だが,マルタに罪の「告白」を直接的に誘導するのは,「二人の間にはいつも子供の死体
があった」(JM186)と,子供に執着し続けていることを非難する恋人レンケンスの発言で
ある。別れの理由に持ち出されたこの発言は,子供を死なせた罪の意識とその状況に追い詰
めた犯人への復讐欲,さらに母性を捨象して,女としての自己の存在を意識化することがで
きずにいたマルタの本質的な部分を浮かび上がらせている。これに対して,マルタが取った
行動は恋人の面前で,聖別視された子供の形見の写真を破棄して,自分の罪を告白するとい
うものである(JM186f.)
。これは一見意外な行為であるが,単に男に縋る捨てられた女の執
「聖遺物」として美化された記憶のなかの子供の死の実像にマ
着を表しているのではなく,
ルタが踏み込む行為として注目される。
この告白を語り手は「懺悔」の欲求によるもの(JM187)と説明しているが,これは「共に」
「真実」を分かち合う対象(Mitwisser, JM188)を求める切実な行為である。
,
罪を「知るもの」
マルタはこの罪の告白の前に,
レンケンス宅を訪問し,
「ユダヤ人」はゲルマン人の「真の敵」
,
「ユダヤ人の傲慢さ」等のことばで,ユダヤ人を敵視し,人種的偏見を
る内容のナチ・プ
ロパガンダ雑誌 ,,Hugin-Deutsche Wehr-Blätter für völkisches Denken を偶然見つけている。
そこから,ドイツ的な宗教教育を受けてきたレンケンスもまた,無意識に同様のユダヤ人観
を植え付けられていると推察される。
「ユダヤ人の傲慢さ」という文言に触れたマルタの反応は,ユダヤ人は傲慢ではないが,
そうあることは許されているはずである,という合理的なものである(JM182)。その思考
の実践的な挑戦として,あるいは「傲慢さ」の証として,マルタは恋人に「真実」を告白し,
殺害行為が生起せざるをえなかった状況の共有と他者による承認を望んだと考えられる。他
方,レンケンスはマルタの「懺悔」自体を,いわば「罪」の共有と見なして拒絶する。マル
タの心情吐露の意図が,レンケンスには「傲慢な」ユダヤ女の,一方的な共犯関係への巻き
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
29
込みであると見なされたためである。
かつて外界を一方的に遮断していたマルタの,他者への接近行動は,一面ではキリスト教
徒の男性を性的に利用することで父権制社会への抵抗の試みとして,また別の視点から見る
と,自分の身体というテリトリーに第三者を侵入させることで,自分のからだの重みを体感
し,心理的な傷から回復するための積極的な行為として重視されるが,男の一方的な拒絶は,
子供の殺害の背景や母親が犯した行為の真実そのものが,一番身近な関係をもつ他者との事
実の共有さえなされないままに,マルタの心の闇に埋もれていかざるをえないという過酷な
現実の挫折を示している。つまり,人種間の共感や和解,異質な他性への双方向的な理解は
ありえず,責任遂行者(母親・犯人)に対する「裁き」は母子関係の個人的な解体と修正に
よってのみ乗り越えられねばならないという,閉鎖的な事態に陥らざるを得ないのである。
それゆえ,「自分のためには何ものこされていない」という意識(JM189)に「深淵」
(孤
「無」の感覚のなかでマルタが求めてい
立と絶望)に突き落とされたとき,自然と対峙し,
たものが,自分以外の他者であることが初めて明らかにされる。その対象の「ために」自ら
行動するという目的意識とその実感を得て初めて,マルタの存在意義は確認されていたこと
になる。そのため対象の喪失感から生じたマルタの虚無感は,その後の彼女の行動意欲と目
的を奪い,「女」そして「母」として自分を過小評価する感情に圧倒されてしまうのである
(JM190)。
「私たちが自分自身を破滅させるとき,ここにいるこの敵も,私たちをただ殺すだけ
だろう。私たちは強く,勇敢であらねばならない,再び沈み,耐え ・・・。ただ再び自分
たちのなかに入らなければならない。そこでは,誰一人として私たちを迫害できない」
(JM182)
。
一見,出口のない破滅思考ともとれる前掲引用には,迫害され続けてきた民族の一人とし
ての自覚と自己の「異質性」への「恐れ」にあらたに向き合う覚悟が表明されている。絶望
感や迫害状況から
い上がるために,敢えて異なる困難な状況に踏み込む生き方の選択が,
マルタの矜恃であるとするなら,子供の殺害と自死の選択すらも,彼女の独自の「ユダヤ性」
の強調として見なされる。
マルタの身体感覚は「女」から「母親」に戻っている。語り手はシュ
自死を決行するとき,
プレー川に入水するマルタの腕に「子供」
(の幻影)を出現させ,子供の個体性(主体性)
をあえて強調する。母親の「うなじに回された小さな手」,「すがりつき体をすり寄せる」子
供の「心臓の鼓動」を,幻想ではなく実体を伴った導き手のように描いている。しだいに重
さを増す子供は,クリストフォロスが背負った幼児キリストを連想させ,母親と犯人の「罪」
を背負って犠牲になった子供が復権し,マルタに贖罪を迫るようである。
語りの表層においては,自ら殺害した子供の形姿をとおして,神の正義として贖罪行為の
30
正当性が示されているものの,それは宗教的強化の意図によるのではなく,マルタの子供と
の一体感覚を強調するものとして理解される。マルタは水底に沈みゆきながら,
「闇の中」
で子供の「日に焼けた小さな顔」が眠りに入り,そのまぶたが閉じられるのをみたとき,す
なわち,マルタ自身の忘我(死にゆく)の瞬間に,再び子供との共生を確信しているように
みえるからである。
無名の死を選んだ「その母親」にとって,娘の存在は人格をもつ他者であるかのように現
れているが,そもそも子供の存在は,コルマーにはあらかじめ失われていたもの,マルタに
は再び獲得することが不可能な逆説的な存在であることから,
「女」の止揚され得ない「欠乏」
と「渇望」が,マルタの「母であること」への主張と代替不可能な存在との,実現不可能な
一体化願望の表出として描かれている。それは母子関係において,ことばが生まれる以前の
母胎内での邂逅(JM20)を暗示しているようである。
「自分のために」苦しみを担うことが,マルタ自身のためであるとはいえ,それがマルタ
の現実的な救済をも意味することになるのかどうかは不明のままである。だが「イスラエル
は大地の砂のようなもの。みなが足でそれを踏みつぶす。だが,砂はあらゆる者をこえて生
きのびる」(JM182)と言われている。
「女」と「母」に対する父権制社会の固定観念と過大
な要求,異教徒に対する敵愾心や暴力に対して,マルタは「女」であり「母」であることに
よって自己を堅持し,子供の存在の有無にかかわらず,
「母であること」の意識の固持によっ
て自己の存在意義を強固なものにしている。異性の身体への過剰な情熱,それに反比例した
マルタの性向の両極性とマルタ自身のトラウマ体験との因果関係は暗示されるにとどめられ
ているが,マルタの社会生活環境や人的接触による体験の蓄積が,マルタの人格形成と行動
に影響を与えていると考えられる。
そのときどきのマルタの内的・外的変容は
「個人の自律性」
の有無に関わる問題というよりも,
むしろ状況に依存している 47)。だがそれにもかかわらず,
マルタ自身にも説明不能な非合理的な特性やそこから派生する行動は,総じて「ユダヤ女の
血」という個人の遺伝的形質,あるいは民族性の象徴,あるいは粉砕されてもなお残る「砂
粒」として概念化されている。
生き続けることはマルタには許されなかったが,自分のトラウマや不条理な体験を積極
「書き」
「語る」という行為によって,自己変容の可能性を模索し,
「犠牲者」
的に意味づけ,
から「生存者」へ自己を捉え直すこと 48)が求められている。そのような願いと意図を持って,
コルマーはこの『ユダヤ人の母』に自己変容の可能性を
けたのではないだろうか。
テキスト
Gertrud Kolmar: Die jüdische Mutter Mit einem Nachwort von Esther Dischereit, Suhrkamp Verlag,
Frankfurt am Main 2003
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
31
注
1) Die jüdische Mutter からの本文中の引用ならびに関連・該当箇所に際して,作品名を JM と略
記し,頁数を示した。
  2) Gudrun Jäger: Ger trud Kolmar Publikations- und Rezeptionsgeschichte, Campus Verlag,
Frankfurt/New York 1998, S.242. Gertrud Kolmar: Briefe, hrsg. von Johanna Woltmann,
Wallstein, Göttingen 2014, Zeittafel, S.297-302.
  3) Ebenda, S.145, 153, 155ff.
  4) Gudr un Jäger: Ger tr ud Kolmar – eine deutsche Jüdin Zwischen Selbstaufgabe und
Selbstverteidigung, S. 229-250. In: Gegenbilder und Vorurteil Aspekte des Judentums im Werke
deutschsprachiger Schriftstellerinnen, hrsg. von Renate Heuer, Ralph-Rainer Wuthenow, Campus
Verlag, Frankfurt am Main/New York 1995, S. 229-250. Hier 242.   5) Gertrud Kolmar 1894-1943, Marbacher Magagin 63 / 1993. Bearbeitet von Johanna Woltmann,
S.20-23.
  6) Claudia Steinkämper:Die jüdische Mutter von Gertrud Kolmar im Kontext der LustmordLiteratur 1919-1932, S.121-142. In: Sand in den Schuhen Kommender Gertrud Kolmars Werk im
Dialog, hrsg. von Chryssoula Kambas und Marion Brandt, Wallstein, Göttingen 2012. Hania
Siebenpfeiffer: „Böse Lust“, Gewaltverbrechen in Diskursen der Weimarer Republik, Böhlau, Köln,
2005. Martin Lindner: Der Mythos >Lustmord<. In: Verbrechen – Justiz – Medien. Konstellationen
in Deutschland von 1900 bis zur Gegenwart, hrsg. von Joachim Linder und Claus– Michael Ort,
Niemeyer, Tübingen 1999, S. 273-305. Kerstin Brückweh: Mordlust Serienmorde, Gewalt und
Emotionen im 20. Jahrhundert, Campus Verlag, Frankfurt am Main 2006, S.19.
ワイマール時代の特徴的な文化的現象の一つとして,男性の暴力による女性の殺人をモチー
フにした作品(オットー・ディックス(Otto Dix, 1891-1969)やジョージ・グロス(George
Grosz, 1893-1959)の絵画,アルフレート・デブリーン(Alfred Döblin, 1878-1957)の長編小説『ベ
ルリン・アレクサンダー広場』(Berlin Alexanderplatz, 1929))等がある。また,性的欲動を
抑制できない人間の内面(病理学的,生物学的,心理的要因)が,フリッツ・ラング(Fritz
Lang, 1890-1976)の映画『M』(1931),ラーエル・ザンザラ(Rahel Sanzara, 1894-1936)の
小説『失われた子』(Das verlorene Kind, 1926)等で取り上げられている。これらすべてを
「快楽殺人」
(Lustmord)のカテゴリーに入れて扱うこと(Vgl.Hania Siebenpfeiffer, S.199-207)
は慎重を要する。『ユダヤ人の母』に登場する暴行犯は,性的倒錯者,幼児性愛者という推測
を女主人公と読者に許すだけで,依然として正体不明のままにおかれている。
  7) コルマーの中絶,自殺未遂についての時期や経緯については不明瞭な点が多いが,ディーター・
キューンは自殺未遂時期を 1914 年頃と推定している。おそらく不本意といわれるコルマー
の妊娠と当時タブー視されていたシングルマザーとしての生の選択の余地は考慮されず,中
絶の経験後,コルマーは心身のバランスを崩し,母親とともに転地療養する。その期間を経
て,1915 年以降,障害児の世話や養育に積極的に従事するに至る。キューンは,子供に傾け
たコルマーの情熱を「強いられた中絶後の補償行為と解釈(S.55)」している。そこから,コ
ルマーの中絶時期は 1915 年以前ではないかと推定している。Dieter Kühn: Gertrud Kolmar,
Leben und Werk, Zeit und Tod, S. Fischer 2008, S.52, S.54f. なおヴォルトマンはコルマーの中
絶を 1915 年,自殺未遂を 1916 年末としている(Johanna Woltmann: Gertrud Kolmar, Leben
32
und Werk, Suhrkamp taschenbuch, 1995, S.88. Gertrud Kolmar: Briefe, a.a.O., S.297)
。ヴォルト
マンはじめ主要な二次文献が,コルマーの自伝と作品との関連を前提にしている。キューン
はコルマーの中絶,自殺未遂についての証拠能力の高い文献はないとしているが,コルマー
の詩作品から彼女の自伝との関連付けを試みている。
  8) Geschichte der Abtreibung. Von der Antike bis zur Gegenwart, hrsg. von Robert Jütte, C.H.Beck,
München 1993, S.132.
  9) Irmgard Roebling: „Haarschnitt ist noch nicht Freiheit“: das Ringen um Bilder der Neuen Frau
in Texten von Autorinnen und Autoren der Weimarer Republik, in: Jahrbuch zur Literatur der
Weimarer Republik, Bd. 5, Röhrig, 1999/2000
(2000),S.13-76. 子 殺 し の モ チ ー フ を 明 確 に
扱ったテキストは珍しく,ワイマール共和国の女性作家は堕胎問題をつうじてこのモチー
フを扱ったといわれている(S.63)。その一例を挙げれば,ヴィキィ・バウム(Vicky Baum,
1888-1960),イルムガルト・コイン(Irmgard Keun, 1905-1982),イルゼ・ラングナー(Ilse
Langner, 1899-1987),男性作家ではフリードリヒ・ヴォルフ(Friedrich Wolf, 1888-1953)の
作品である。これらの作品における中絶・堕胎問題の扱いについての比較考察は,筆者の今
後の課題である。
10) Kirsten Heilsohn und Stefanie Schüler-Springorum(Hg.): Deutsche-Jüdische Geschichte als
Geschlechtergeschichte Studien zum 19. und 20. Jahrhundert, Wallstein, Göttingen 2006, S. 127.
「異宗婚をしたユダヤの女性たちは,彼らのパートナー選びにおいてより大きな独立をしてみ
せた。二人のユダヤ人同士の婚姻において通常みられる多くの規範に抵抗したのだ。彼らを
いくつかの点でユダヤの「新しい女性たち」に分類することができる。
」
11) マイケル・ファーバー『文学シンボル事典』植松靖夫訳 東洋書林 2005 年 40 頁。「オオカミ」
の項目。
12) Elvira Grözinger: Die schöne Jüdin Klischee, Mythen und Vorurteile über Juden in der Literatur,
Philo, Berlin/Wien 2003, S.7f.
新見宏「ユデト書」解説によると,「ユディトという名はユダヤ人の女という意味」であり,
「貞淑な寡婦」,「忠信なユダヤ人の象徴」,「前 2 世紀半ばのユダヤ教徒,とくにパリサイ派の
源流をなした人々の理想像」を表している。関根正雄編『旧約聖書外典』上 所収,講談社学
術文庫 2011 年 274 頁参照。
(筑
13) 若桑みどり『象徴としての女性像 ジェンダー史から見た家父長制社会における女性表象』
,「ユディト」における「両極対立性」とその意
摩書房 2004 年 409-457 頁,特に 423 頁)
味と象徴の役割について参照。「マルタのエロティックは,夫,恋人,彼女自身によっても,
彼女のユダヤ性へ還元されている。マルタの性的な自己像は < 美しいユダヤ女 > のパラディ
グマに対応する。女性性(Weiblichkeit)と生まれを結びつけるこの女性像のなかには,キ
リスト教社会におけるユダヤ的
藤や苦悩の状態が反映されている。」Monika Shafi: Gertrud
Kolmar eine Einführung in das Werk. Iudicium-Verlag, München 1995, S. 201. 14) 異宗婚では,女性のパートナーは少なくとも外見上は男の宗教に属すものと言われてい
る。Lexikon des Judentums, Chefredakteur John F. Oppenheimer, New York, Mitherausgeber
Emanuel Bin Gorion, Tel Aviv, E. G. Lowenthal, London/Berlin, Hanns G. Reissner, New York,
Bertelsmann Lexikon-Verlag, 2. Aflg.1970, S.513f. 15)「自分に似た存在」,とりわけ娘への母親の「自己愛の投影」によって,母親による娘の<支
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
33
配>が強化されるという見解がある。娘は母を映す鏡,自己愛投影の対象として,相互的関
係ではなくアイデンティティーの混同を招きやすいというものである。エリアシャフ,キャ
ロリーヌ/エニック,ナタリー『だから母と娘はむずかしい』 夏目幸子訳 白水社 2005 年
23-25 頁。 16) Elisabeth Hof fmann: Was unterscheidet diese Frau von anderen Frauen Weiblichkeit,
Jüdischsein und Gesellschaft in der Erzählung „Eine jüdische Mutter“, S.108f. In: Widerstehen
im Wort Studien zu den Dichtungen Gertrud Kolmars, hrsg. von Karin Lorenz-Lindemann,
Wallstein Verlag, Göttingen 1996. Marion Brandt: Gertrud Kolmar. In: Autorinnen der Weimarer
Republik, hrsg. von Walter Hähnders/Helga Karren Brock, Aisthesis, Bielefeld 2003, S.59-77.
Hier S.44. Enzyklopädie jüdischer Geschichte und Kultur Im Auftrag der Sächsischen Akademie
der Wissenschaften zu Leipzig, hrsg. v. Dan Diner, Band 2 Co-Ha, Metzler, Stuttgart 2012, S.516.
ユダヤ教の内部では,いかなるハラハーの権威もいかなる宗教的な潮流も異宗婚を是認しな
かった。保守的なユダヤ教のみならず,改革派の動きも異宗婚を拒否した。古典的なハラ
ハーによれば今日まで,非ユダヤ人女性の子供は非ユダヤ人として見なされる。
17) Widerstehen im Wort, a.a.O., S.108.
18) 田中泰子『母性愛という制度 子殺しと中絶のポリティクス』勁草書房 2008 年 48 頁。母親
による子殺しにおける父の存在をどう位置づけるかという文脈で「犠牲者」「加害者」とい
う表現が使われている。またこのような夫と妻の関係が「父親の子供への責任回避の抜け
道」を作るという見方が提示されている。山根純佳『産む産まないは女の権利か』勁草書房
2007 年 198-199 頁。
19) 岡野八代 『フェミニズムの政治学』みすず書房 2012 年 171-172 頁。
20) 山根純佳 前掲書 25-36 頁参照。
21) 山根純佳 前掲書 はしがき i 参考。
22) 山根純佳 前掲書 27-28 頁。
23) Gertrud Kolmar: Eine jüdische Mutter, Erzählung. Mit einem Nachwort von Bernd Balzer,
Ullstein, Frankfurt, Berlin, Wien, 1981. Nachwort, Die Wirklichkeit als Aufgabe, S.163-182. バル
ツァーは子供をシンボルとして理解し,バラ「メロディ」の形象は子供と作品のアイデンティ
ティを証明するものであるとしている(S.174)。
24) B. F. スキナー『自由と尊厳を超えて』山形浩生訳 春風社 2002 年(1971 年のリプリント)142,
143 頁。
」
25)「お前はそれを回避できたはずだ。回避できるすべを心得ていなければいけなかったはずだ。
「お前の責任だ」(『ユダヤ人の母』S.57)。このマルタの自答は,コミュニティーにおける協
力(信頼)関係の構築の欠落を示唆する場面でもある。
26) Geschichte der Abtreibung Von der Antike bis zur Gegenwart, hrsg. von Robert Jütte, a.a.O., S.14f.
27) Vgl. Ourania Siderei, Allegorie und Wahrheit in Die jüdische Mutter. In: Sand in den Schuhen
Kommender Gertrud Kolmars Werk im Dialog, a.a.O., S.153. ユダヤ教の寓喩的表現は,ユダヤ
「盲目性」という昔からの慣用
教に対する「神の罰と道徳的な荒廃の符牒として」用いられ,
的表現もそのひとつである。
28) Dieter Kühn: Gertrud Kolmar, Leben und Werk, Zeit und Tod, a.a.O., S.87f.
29) ロナルド・ドゥオーキン『ライフズ・ドミニオン 中絶と尊厳死そして個人の自由』水谷英夫・
34
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
小島妙子訳 信山社 1998 年 序文 ii.
30) この段落の引用箇所については,三井美奈『安楽死のできる国』新潮新書 新潮社 2003 年
114,133,125,128 頁を参照。
31) 三井美奈 前掲書 160 頁。
32) 同上。
33) ロナルド・ドゥオーキン 前掲書 57-58 頁,60-64 頁,68 頁。
34) 江原由美子 『自己決定とジェンダー』岩波書店 2012 年 251 頁。
35) 小此木啓吾 『フロイト思想のキーワード』講談社現代新書 2002 年 210 頁。
36) 小此木啓吾 前掲書 210 頁。
37) 1930 年代のユダヤ人の意識を知る手がかりとして挙げられる文献は,1933 年にナチに殺され
たテオドア・レッシング(Theodor Lessing, 1872-1933)の『ユダヤ人の自己嫌悪』(Jüdischer
Selbsthaß, 1930, Berlin, Jüdischer Verlag)である。「ユダヤ民族の心理において最も深い確
実な認識は,ユダヤの民がすべての民の中で世界事象の罪を唯一自分自身に求めた最初の,
ひょっとすると唯一の民であった,ということである(S.13)。」「ユダヤ人はなぜ愛されない
のか?」その答えは,
「罪があるから」である。これが古くからのユダヤの教えになっている。
「ユダヤの歴史には,約 3 千年をとおしてただ苦しみの歴史しかなかったという恐ろしい事実
も指摘できよう。」「神は愛する者を訓育する,
そのために罰としての苦しみの理解と共に,
「自
己嫌悪」という現象への発端が与えられたのである(S.14)」。
38) Lorenz, Dagmar C.G.: Jüdisches Selbstbewußtsein und die kritische Darstellung des
jüdischen Selbsthasses im Werk Ger tr ud Kolmars. In: Begegnung mit dem „Fremden “ ,
Grenzen-Traditionen-Vergleiche. Hrsg.von Eijiro Iwasaki. Bd.8, Sektion 14: Emigranten- und
Immigrantenliteratur. Hrsg. von Yoshinori Shichiji. Indicium Verlag, München 1991, S.128-138.
「ドイツ人社会で迫害や不利益に直面して,同化ユダヤ人は,出自やユダヤ共同体から距離を
置き,ユダヤ人として知覚されたくないという願望を抱くようになる。それは,多くの場合,
自分の本来のアイデンティティーを過小評価する心理的抑制を生むのである。多くの場合,
」
苦悩を伴うこの心理的反応が「自己嫌悪」である。
39) Theodor Lessing: Jüdischer Selbsthaß, a.a.O., S.13.「罪の自覚がユダヤの力強いモラルを作り
出している」。このモラルが「集団的な罪意識」(Kollektivschuld, „Widduj“)を形成してい
ると考えられる。
40) 江原由美子 前掲書 206 頁。
41) Birgit R. Erdle: Antlitz – Mord – Gesetz Figuren des Anderen bei Gertrud Kolmar und Emmanuel
Lévinas, Passagen Verlag, Wien 1994, S.111.
42) ゲルト・ハインツ=モーア『西洋シンボル事典―キリスト教美術の記号とイメージ』野村太郎・
小林頼子監訳 八坂書房 2003 年 44, 90, 91 頁。ガストン・バシュラール『空間の詩学』岩
村行雄訳 ちくま学芸文庫 2002 年 388-398 頁。Wörterbuch der Symbolik, Kröner, Stuttgart
1991, S.411.
43) コルマーはカフカや他の多くのユダヤ人と同様,罰があるところに,罪もあるにちがいない
という表象をもっていたと説明されている。Gert und Gundel Mattenklott: Berlin Transit eine
Stadt als Station, Rowohlt, Reinbek bei Hamburg, 1987, S.197.
44) Kröte は「悪魔・魔女の動物」ともいわれる。Wörterbuch der deutschen Volkskunde, begründet
<女>そして<母>であること:ゲルトルート・コルマーの小説『ユダヤ人の母』について
35
von Oswald A. Erich und Richard Beitl(Kröners Taschenausgabe ; Bd. 127)3. Aufl. / neu
bearb. von Richard Beitl unter Mitarb. von Klaus Beitl. Kröner, Stuttgart 1981, S.482),大人から
毒性があると注意されていたヒキガエル(Kröte)を,ウルザは「美しいもの」「茶色の大き
なカエル(Frosch)」とみなしている(JM, S.79)
。マルタはウルザの命日に,この言葉を回
想しながら,犯人の殺害を娘に決意している。
45) 黄色はもっとも強烈な,激しい,目障りな色,人を盲目にする色,嫉妬,ユダヤ人一般を表し,
肯定的にはしばしば黄金の代用として使われるという。参考:G. ハインツ = モーア 前掲書
141 頁。
46) 三井美奈 前掲書 160 頁。
47) B.F. スキナー 前掲書 101,102 頁。
48) スティーヴ・ジョセフ『トラウマ 成長と回復』北川知子訳
筑摩選書 筑摩書房 2013 年
186 頁参考。
参考文献
・Sander L.Gilman: Rasse, Sexualität und Seuche Stereotype aus der Innenwelt der westlichen
Kultur, Rowohlts Enzyklopädie 527, 1992
― Derselbe: Jüdischer Selbsthaß Antisemitismus und die verborgene Sprache der Juden, Jüdischer
Verlag, Frankfurt am Main 1993
・Anja Colwig: >Eine jüdische Mutter<. Zur literarischen Verarbeitung gängiger Frauenbilder und
politischer Diskussionen der 20er Jahre, in: Frauen und Nationalsozialismus. Historische und
kulturgeschichtliche Positionen, hrsg. von Ortrun Niethammer, Osnabrück 1996, S.71-82
― Dieselbe: Eine jüdische Mutter: Erzähltes Berlin, deutsches Judentum und Antisemitismus
in Gertrud Kolmars Roman. In: Lyrische Bildnisse, Beiträge zu Dichtung und Biographie von
Gertrud Kolmar, hrsg. von Chryssoula Kambas. Aisthesis Verlag, Bielefeld 1998, S.89-114
・Barbara Vinken: Die deutsche Mutter Der lange Schatten eines Mythos, Fischer Verlag, Frankfurt am
Main 2011
・斎藤 環『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』NHK ブックス 111 NHK
出版 2011 年
・ジェラール・ボネ『性倒錯』西尾彰泰/守谷てるみ訳 文庫クセジュ 954 白水社 2011 年
・スーザン・ブラウンミラー『レイプ・踏みにじられた意思』幾島幸子訳 勁草書房 2000 年
・ジェームズ・ギリガン『男が暴力をふるうのはなぜか』佐藤和夫訳 大月出版 2011 年
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