学術情報流通の最近の動向 土屋俊 (千葉大学) 2007 年 3 月 20 日段階最終版 (この改訂版は、『現代の図書館』Vol.42 No.1、日本図書館協会、2004 年 9 月、pp.3-30 に発表された内容について、その段 階での事実に関する若干の修正を加えて 2007 年 3 月に改訂したものであり、最初の発表以降に展開した局面を反映させた内 容的修正は含まれていない。また、頁づけは最初発表のものとはずれている。) 目次 1 2 3 「シリアルズ・クライシス」と電子ジャーナル 1.1 学術雑誌刊行の商業化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3 3 1.2 1.3 1.4 北米の「シリアルズ・クライシス」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4 5 6 1.5 1.6 「コンソーシアム」形成による大学図書館の対応 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1.7 1.8 エルゼビア社の攻勢と国立大学図書館の対応 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 「電子ジャーナル」化の展開 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 日本の「失われた 10 年間」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 国立大学図書館方式の正しさ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 印刷物から電子的流通へ 2.1 情報流通の物流依存性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2.2 2.3 2.4 「電子ジャーナル」とは何か:その影響 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2.5 2.6 2.7 電子ジャーナルの費用負担および支払い方法 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2.8 学術情報の恒久保存 7 7 7 8 9 9 10 学術情報流通の粒度 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11 学術情報流通経路の構成要素 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11 12 12 学術情報の利用の定量化 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 14 電子ジャーナルと大学図書館サービス . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 15 新たな学術情報流通への模索 3.1 3.2 3.3 3.4 4 日本の「シリアルズ・クライシス」 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 16 SPARC 運動とその変質 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 17 オープン・アクセス . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20 恒久保存あるいはアーカイブ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22 機関リポジトリ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 23 まとめ 25 はじめに 学術情報流通 (scholarly communication) の最近の動向は、世界的な規模で考えるならば、21 世紀においてこれ から普遍的かつ急速に展開しようとしている社会の知識化と電子化との流れのなかに位置づけられる。それは同 1 時、20 世紀後半に展開した学術情報流通の商業的活動への依存という傾向とその帰結としての学術雑誌のタイト ルあたり価格の上昇と時期が一致している。このように相互に区別されるべき二つの現象が同時に進行し、局面に よっては、その区別をつけることすら困難であるなどのことがあり、さらに、予想外に多くの種類の関与者を巻き 込むことによって、その経済規模にかかわらず、学術研究・技術開発にかかわる諸分野における重要な問題になっ ていることは明白である。この意味で現在、すなわちおそらく 21 世紀の最初の 10 年間は、学術情報流通の大変 貌の時代であるということが可能であろう。 この世界的な展開を背景としつつも、日本における学術情報流通の状況はさらに複雑である。すなわち、1990 年代から科学技術基本計画、大学院重点化などの科学技術政策、高等教育政策が展開し、さらに行財政改革の一 環として政府系の (国立) 研究機関の独立行政法人化、国立大学等の国立大学法人化等、さらに学術会議改革など が進むことによって、学術情報流通の過程の両端に位置し、生産者であるとともに消費者である研究者とその共 同体を維持してきた学術研究の制度的枠組みが大きく変更されようとしている。それに加えて、日本において問 題をさらに複雑なものとしている最大の要因のひとつは、日本における制度化された学術活動が、19 世紀後半以 降の近代化が西洋文明の摂取を基本とするものであったために、近代の西洋文明とその基幹となった科学技術そ のものの発達を担った先進諸国における学術研究活動の展開、たとえば学会活動のあり方について明確な差異が 生じているということである。 学術情報とは、学術研究活動のために必要とされる情報と、そのような活動の成果であ (り、学術活動の一環と しての教育研究活動によって利用され) る情報の総体である。この定義からわかるように、学術活動は、情報を入 力として情報を出力とする人間の活動の一形態である。しかし、学術情報は、学術の世界の内部で還流するだけ でなく、学術研究の成果が、教育、(知識・技術) 移転などのさまざまな形で社会に還元されるゆえにさらに重要 な意味を持つ。この意味で、学術情報の流通構造は、情報流通の社会的基盤の変化を直接的に受けることは容易 に想像がつく。すなわち、社会の知識化と電子化、そして、日本の場合には、上述の学術・科学技術政策およびそ れ以外の政治的、経済的状況変化の影響は当然受けざるを得ない。 またこのことは、西洋において古来、学術の進歩すなわち新しい知識の産出が「巨人の肩の上」にのみ可能で あると言われつづけてきたことからも理解できる。そのことが本当にそうであるかどうかはべつにして、われわ れがその確信を根拠として、学術研究と学術情報にかかわる社会制度をつくり、かつ正当化してきたこと自体は 事実である。そのような社会制度のなかには、研究者が構成する「学協会」が含まれるのは当然であり、さらに、 大学と大学図書館、研究補助金とその資金提供団体、学術にかかわる出版と仲介をする営利・非営利の団体が含ま れる。また場合によれば、学術研究活動を推進あるいは規制する国の政府という存在も考慮せざるを得ない。これ らの参与者が織り成す情報流通の循環が学術情報流通である。もちろん、社会制度は歴史と社会・文化によって 大きく変化する。したがって、真の意味で学術情報流通の状況を正しく理解しようとするならば、この時代にお けるこれらの諸制度の全貌をとらえる必要がある。 たしかに学術情報流通は、現代社会における情報流通のごく一部を占めるにすぎないものであるかもしれない。 すなわち、経済規模としては、定量化は困難であるにせよ、行政目的の情報流通、政治目的の情報流通、商業目 的の情報流通、マスコミュニケーション (報道的情報流通)、(スポーツにかかわるものを含めて) エンターテイン メントにかかわる情報流通などのほうがはるかに膨大な量の情報を膨大な費用をかけて流通させている。しかし、 現代という時代が、科学技術と知識一般による技術革新・制度改革を基調として運営されているという状況を考 えるならば、科学・技術・医療 (Science, technology and medicine: STM) にかかわる情報の流通について、どの ような考え方をとるかということは、現代社会全体にとっても重要な決定を含むと考えざるを得ない。 このように本稿の本来の課題はあまりに大きいので、本稿においては、20 世紀後半の学術情報流通の変化を特 徴づけるいくつかの現象に限定して考察し、将来を展望するときに参考とする必要がある背景を復習してから、最 近の顕著な話題にしぼって考察することにしたい。すなわち、まず、学術情報流通の中心となった学術雑誌刊行と 大学等研究機関におけるその導入状況が、雑誌価格の高騰によって特徴づけられ、「危機」と呼ばれるようになっ た状況をごく大雑把に「シリアルズ・クライシス」と呼ぶこととして、それを世界全体の観点と日本の観点から概 観する。また、その危機が進行するなかで、社会の情報流通インフラがいわゆる「インターネット的」な仕組み になっていく状況を横目で見る。これらの状況を背景としつつ、学術情報流通の電子化が展開することになった。 その展開を、学術雑誌の「電子ジャーナル化」という観点から特徴づけ、日本の大学図書館がその展開にどのよう 2 に対応したかを略述する。この過程で、価格高騰問題と電子化の問題とが交錯する。この二つの問題の独立性と 相互関連との両方を考察することが必要であると思われる。ここまでは背景の復習である。 21 世紀に至り、雑誌価格の異常な高騰自体にある程度の変化が起きつつも、本質的に値上がりそのものがなく なったわけではない。一方、電子化の側面においては、おそらくほとんど議論の余地のない形で学術情報コミュニ ケーションがインターネットを媒介とする配布・普及という形態をとるようになったことは否定できない。その端 的な象徴がこの「電子ジャーナル化」である。しかし、興味深いことは、たんなる電子ジャーナル化と思われる現 象は、情報流通一般にとって、そしてまたとくに学術情報流通にとって、重要な意義を有していることを自覚し なければならない。かつてマクルーハンは、まだ 1960 年代にメディア技術が社会構造を変革することを指摘した が、ある意味ではその帰結はおそらくマクルーハン自身の自覚よりも深いものであるのかもしれない。電子ジャー ナル以前の学術情報流通においては、「物流依存の情報流通」あるいは「情報流通の物流依存性」というべきもの が、他の出版分野においてと同様に支配的であったが、この特徴が電子ジャーナル化によって大幅に変化したの である。すなわち、人間の活動である以上、(電話線、無線、構内 LAN 配線など) なんらかの物質的インフラスト ラクチャの存在は措定せざるを得ないものの、情報の流通に関して、「物」の移動への依存がすくなくとも日常的 感覚としては異常なまでに希薄になったということである。この点をとくに図書館機能との関係から概観する。 これらの個別的状況 (「シリアルズ・クライシス」) と全般的状況 (「物流依存性」の希薄化) のなかで、とりわ け大学図書館の将来を考えるときには、電子ジャーナル化の意義と課題を考えておく必要があり、さらに、その延 長上に、20 世紀後半における学術情報流通のパラダイムを否定する可能性をもつ最近のいくつかの展開について、 「オープン・アクセス」と「アーカイブ」という問題について「機関レポジトリ」という話題を中心に検討する。 「シリアルズ・クライシス」と電子ジャーナル 1 1950 年代から商業出版社が重要な役割をはたすことになったのちに、1970 年代後半から北米を中心に「学術雑 誌」の価格高騰という問題が生じ、1980 年代後半には「シリアルズ・クライシス」(Serials Crisis) と名付けられ るに至った状況が存在した。さらに日本においては、1990 年代には価格高騰が進行するなかで大学図書館の「外 国雑誌」購入タイトル数が半減するという状況、すなわち日本版「シリアルズ・クライシス」と言うべき状況が 出来した。これらについてまず概観してみよう。 1.1 学術雑誌刊行の商業化 かつては、大学や大学の学科同士の交換や学会の会員への配布が頒布の主要な形態であった学術雑誌は、20 世 紀における学術研究、とくに、科学・技術・医療の諸分野における研究の量的増大とともに、20 世紀後半に至って 商業的流通に依存することになった。いくつかの商業的流通とは、受け取った複製物 (コピー) の対価を購読者が 支払うことによって、情報流通のための費用が賄われ、かつ、その過程で流通の担い手に利益が発生するような 流通形態である。もちろん、学術情報の商業的流通は 20 世紀後半に限定された現象ではない。たとえば、しばし ば学術情報流通の原点として言及される Philosophical Transactions of The Royal Society や Journal des Savants の初期の刊行は商業的なものであったし、19 世紀以来 The Lancet のように今でも商業的に刊行されている雑誌 は数多く存在する。さらに、教科書や専門書は、出版という複製の頒布を商業的に行なうことによって流通して いたし、現在でもそれが普通である。しかし、20 世紀後半において、とくにアメリカと当時のソビエト連邦を中 心として国家的な規模での学術研究振興が図られることによって、膨大な数の論文が生み出され、かつ、投稿と 頒布の両面について国際的な流通が必要となり、国際的ビジネスとして学術出版という産業が成立したとされて いる。実際、学術出版に 1960 年代以来従事していたある出版社の社長が、1960 年代はほおっておいても会社がど んどん大きくなって利益が増えるいい時代であったと回顧したのを筆者は最近聞く機会があった。 この商業的流通は、購読者が支払う対価によって支えられるものであるので、商品としての学術雑誌の売買に よって定義される市場が形成されると考えることもできる。そのとき、商品としての学術雑誌は「タイトル」と 呼ばれる単位によって特徴づけられる。タイトルとは、その分野における刊行価値を評価して学術論文を刊行す 3 る際にその評価のための基準を適用する研究者集団 (すなわち、編集委員会、editor あるいは editorial board) と 密接に関連づけられた、刊行論文の集約を同定する名称のことである。通常の雑誌の場合との差異は、このよう に編集過程において商業的成功以外の価値評価が加えられていることにある。学術雑誌はタイトルを単位として 複製され頒布されていた。その複製頒布は、週ごと、月ごと、4 半期ごとなどに行なわれ、「巻 (volume)」、「号 (number, issue)」などの名称が統合の単位を与えられ、継続的に刊行されることが特徴であった。購読者は、そ のタイトルを単位として学術雑誌を購入し、出版社はタイトルを単位として販売し、タイトルこそが値付けを担 う単位である。 このようにして、タイトルごとの需要と供給などを考えれば、それぞれのタイトルの価格が市場の仕組みによっ て決定されると考えることができそうに思われるが、話はそう簡単ではない。なぜならば、雑誌が媒体として運 ぶ情報は、高ければ買わないとか、安ければ買うというような価値づけを得ることができにくいものだからであ る。価値づけの背後には、それぞれのタイトルと密接に関連づけられた編集者・評価者 (の集団) が存在し、需給 関係とは無関係に価値づけを行なっており、それへの信頼ゆえに個々のタイトルは存立している。研究者はどうし ても必要な価値ある情報であれば、なんとしてでも入手しようとするであろう。そのような意味で通常の価格決 定の市場メカニズムが機能しにくい商品であることは不可避的である。 1.2 北米の「シリアルズ・クライシス」 しかしこのためにか、出版者側としても、市場のメカニズムに整合的な販売促進のマーケッティッングを行なう ことなしに、刊行費用を購読部数で割ってタイトルの単価を算出するという方式を無自覚にとることになってい た。しかし、論文の生産量が増大すると、一定の (比率ではなく) 絶対量の情報を流通させることが必要であるの で、論文数、ページ数の絶対量は増大し、刊行費用が増大することになり、そのとき購読部数が増えなければ、そ のタイトルの単価は上昇せざるを得ない。そのような上昇があれば、そのタイトルを購読できない人や機関がで てくるのは当然であり、購読部数が減少するだろう。すると、そのままでは、タイトルの単価を刊行費用を購読部 数に割ることによって算出するかぎり、発生する情報の量の増大の率以上に上昇せざるを得ないことになる。そし て、そのことはさらに購読を中止 (キャンセル) する人や機関が増えることを意味し、それがただちに単価の上昇 につながるという破滅的構造を持つことになる。この結果、1970 年代にはほとんど当然と考えられていた学術雑 誌の個人購読は 1990 年代に至るまでの間に急激に減少することになり、(Nature や Science のようなマガジン的要 素を含むものを除く) 学術雑誌の大半は機関が予約購読するという形態が通常のものとなっていく。これは、機関 購読価格を一層上昇させる結果をもたらし、北米を中心として大学と大学図書館の予算状況を直撃することになっ た。とくに 1980 年代のレーガン共和党政権は、小さい政府論に立ち連邦政府からの補助金を大幅に削減し、その 影響は当然教育セクターに顕著にあらわれることになった。この中で、北米の大学図書館は資金をなんとか確保 することによって、購読することができるタイトルが減少しないように努力を行ない、また、(カタログ・データ ベースの共有、図書館間貸借 (ILL) などの) 図書館間協力を推進し、対応に努めざるを得ないという状況になった。 北米の大学図書館におけるこの状況は、 「シリアルズ・クライシス」(Serials Crisis) として知られ、1980 年代末 から 1990 年代にかけてアメリカの研究図書館を中心に議論が行なわれるようになった。注意しておきたいことは、 この時期こそ、次第にパソコンが普及し、インターネット (ARPANET あるいは NSFNET 等) の利用が漸次普及 しつつあったときなのであるが、以上の記述からも明白なように、そのような電子化、ネットワーク化とは無縁 のところで「シリアルズ・クライシス」が進んでいったということである。この 1980 年代という時期は、学術出 版社におけるさまざまな業界再編成がもっぱら合併・買収という形で進み、寡占現象が観察されるようになった 時期であった。すでに指摘したような価格決定メカニズムの特殊性を別にしても、寡占は消費者側から価格コン トロール力を取り上げるものであるので、価格の高騰に寄与し得るものであると分析され、とりわけ、被買収社 が刊行していた雑誌の価格が買収側にあわせる形で急激に上げられたなどの逸話的事実があったために、価格高 騰の最大の責任は商業出版者の行動様式にあると結論づけられ、その認識のもとに大学図書館・研究図書館の対 応方策が検討されることになった。 今から振り返って見るならば、北米の研究図書館が四苦八苦していたこの時期は、日本の大学図書館にとって は発展期であったということができる。すなわち、図 1 からもわかるように、統計が存在する限り、1950 年代以 4 来、日本の大学図書館が各年度について購読しているタイトル数は一貫して増加しており、1986 年に学術情報セ ンター (NACSIS、現在の国立情報学研究所 (NII)) が設置され、大学図書館の総合目録の構築が開始されたり、国 公私立大学図書館協力委員会が国立大学、公立大学、私立大学のそれぞれの図書館ごとの協会、協議会組織が連 携する枠組みが生まれるなどの動きが見られた上昇期であった。産業空洞化を中心的現象とする北米の経済状況 に比べて、日本の全般的経済状況は良好であり、大学における外国雑誌購入の支出の増大もそれほど気にはなら なかった。日本における洋書輸入業者が海外原価に比べ法外ともいえる価格を設定して販売していたことは事実 であるが、大学図書館も予算執行の決定権を実質的にもっていた大学の教員・研究者は、もっぱらそのことによ る容易な取り引き、情報の導入という側面を評価してか、そのような商取引を是認していたように思われる。し たがって、この同じ時期における北米の「シリアルズ・クライシス」はまさに対岸の火災であった。 1.3 日本の「シリアルズ・クライシス」 しかし、そのような上昇基調は、1980 年代末をもって終わっていた。すなわち、図 1 が示すように各年度ごと に大学図書館が購読しているタイトル数は次第に減少しはじめたのである。ここで注意すべき点は、このグラフ をもとになる集計が最初に行なわれ公表されたのが 1999 年だということである。つまり、この減少の事実はそれ が進行していた 1990 年代には明白な事実とはなっていなかった。もちろん、大学図書館がその事実に気づいてい なかったというわけではない。価格の上昇は明白であり、各館において、予算の制約によって購入できないタイ トルが少しずつ生じていることは気づかれていた。また、その事実は、図書館間相互貸借による文献複写サービ スの依頼件数が増大することによって傍証されていた。しかし、各館における漸減がこのような全国的規模で半 5 減するという 10 年間の現象に帰結するということはまったく観察も予想もされていなかった。このような帰結が 生じることになったメカニズムは、今から考えてみればある意味で明白である (ただし、まだ実証されてはいない ので、あくまで仮説として以下では述べる)。すなわち、各館が予算の制約からタイトルをキャンセルしようとす るとき、重要と思われるタイトルがキャンセルされにくく、図書館間相互貸借による文献複写サービスに頼れば、 そしてまた「レア・ジャーナル」の収集を政策の目的として特別に予算が配分されている「外国雑誌センター館」 がその本来の機能を担っているならば、それほど利用されないをキャンセルしてもあまり実害はないだろうと判 断されやすいはずである。したがって、収集の多様性を支えていたはずの、それほど利用はされないが自分の大 学の研究の特徴から購読していたというようなタイトルからキャンセルされていったと考えられる。実際、購読 の継続かキャンセルかは、図書館によってではなく、学部、学科、講座、教員単位で相互に独立に (つまり調整な しに) 行なわれることが通例であったために、図書館は事の成行きを傍観するしかなく、結局、各館が共通して同 一のタイトルを購読することになり、全国的にみたとき重複した予約購読が増大することになったと考えられる。 このことから、図 1 において支出額が一貫して増大しながらも全国的にはタイトル数が大幅に減少したことが 説明できるであろう。また、実際、「大学図書館実態調査」における外国雑誌の予約購読数を単純に加算した数に はあまり変化が見られないことは、この仮説をある程度裏付ける証拠であろう。これがわが国における日本版「シ リアルズ・クライシス」の実態である。 このような観察から、北米版「シリアルズ・クライシス」と日本版「シリアルズ・クライシス」を比較してみ ると、その共通の原因として雑誌価格の高騰を指摘することはできるとしても、日本においては、大学における 学術情報基盤充実・維持のための意思決定システムの不在、つまり図書館がそのシステムを構築する主体であり 得なかったことがその性格を決定し、また、この「クライシス」の出来に気づくことすらなかったことが特徴的 であることを指摘できる。1990 年代における日本の学術情報政策は、「電子化」の方向に引き寄せられていたが、 このことが全体としての学術情報政策への目配りをおろそかにさせたのかもしれない。さらに、経済の全体的な 不調傾向のなかで財政の緊縮がもとめられつつも、科学技術振興政策分野は、1997 年からの「科学技術基本計画」 に代表されるように例外的に予算配分が増加する方向にあり、研究者の学術情報に関する危機感は十分な表現を とらなかったと考えられる。もちろん、増加した予算は、もっぱら競争的資金に展開される傾向にあり、したがっ て、研究の直接経費 (もとと人) の増大は顕著であったが、基盤となる学術情報の流通へ予算を振り向けることは あり得なかった。 1.4 「電子ジャーナル」化の展開 この段階で、電子ジャーナルの時代が始まった。電子ジャーナルの定義は 1990 年代の後半では依然として揺れ ていた。すなわち、それが論文内容が電子的に提供されるものをすべて指すのか、インターネットを経由して提 供されるものに限定すべきか、さらにインターネットを経由して提供されるものに限定すべきであるかは不分明 であった。あるいは、また、すでに印刷体 (「冊子体」と呼ぶ習慣もあるが、印刷 (print) と電子 (electronic) を対 比する用語法が一般的になってきている) として刊行される学術雑誌の論文内容を電子的に提供するものを指すの か、電子的な提供のみを標榜して創設されたタイトルを指すのかも不分明であった。 にもかかわらず、もっぱらアメリカにおけるクリントン・ゴア政権の成立に帰せられるべき全世界的なインター ネット・インフラの整備によって、インターネットを経由して出版者が管理するサーバから既存の印刷体の学術 雑誌に掲載されている論文内容を提供するという形態をもって「電子ジャーナル」と呼ぶことが今では (つまり、 ほんの 5 年ほどのうちに) 定着してきている。 これらの電子ジャーナル化はもっぱら商業出版社によって先導されたということができる。そのなかでも代表 的なものはエルゼビア・サイエンス社である。同社は、すでに 1990 年代前半にミシガン大学等と共同で、おりか ら整備が先行していた大学の学内ネットワークを利用した電子配信の実験プロジェクトを行ない、もっぱら印刷 体雑誌をスキャンして画像として配信する方式を試していたが、1990 年代後半になってインターネット環境が整 備されるとすでにデータベースサービスで実績のあった Lexis-Nexis のサーバなどによってインターネット経由の 配信に移行することになる。この動向に注目した各社、そして、出版事業を営む各学協会が一斉にその刊行雑誌 の電子ジャーナル化に取り組むことになったのは、時代が 21 世紀へ変わろうとする時期であった。 6 1.5 「コンソーシアム」形成による大学図書館の対応 図書館側の対応も、北米を中心にこの時期に本格化する。たとえば、上述のエルゼビア・サイエンス社の実験プ ロジェクトは、北米の図書館に対して一貫した方針に基づいて資金提供を行なってきた Andrew・Mellon 財団の 資金に基づくものであるが、その基本的発想は、継続刊行物の保存のためのスペースの節約を目的として電子化を 行なおうというものであった。そのような限定的かつ現実的な目的設定から、学術情報流通の全般にわたる変化に 至るまでに要した時間はきわめてわずかだったといえる。とくに、電子的な形で学術情報が導入されるようになる ということは、次節で述べるような事情によって、個々の図書館の対応を越える部分があるので、1980 年代に形 成されていたさまざまな図書館間協力の形態のひとつとしてのコンソーシアム (consortium) による対応がひとつ の傾向となった。図書館コンソーシアムは、たとえば、スペースの限界を克服するための保存図書館の共同運用、 高額図書の分担購入、カタログの電子化・図書館自動化のための大型計算機の共同運用などを目的としてきたが、 その自然な延長上に上述の「シリアルズ・クライシス」を前提とした学術雑誌電子化への対応があったといえる。 実際、出版者側で電子ジャーナルへの舵取りが行なわれたと考えられるのは 1998 年前後であるが、同じ時期に それまでに萌芽的に形成されていた数十の図書館コンソーシアムが共同して、 「コンソーシアムのコンソーシアム」 (Consortium of consortia) というべきものを形成し、1998 年にはきわめて緩い紐帯をを要求するものではあった が、国際組織として International Coalition of Library Consortia(ICOLC、国際図書館コンソーシアム連合) を、 OhioLINK、 NERL、NELINET、CDL などの北米のさまざまな形態のコンソーシアムを中心として形成するこ とになる。この連合は、現在でも年 2 回の会合とメーリングリストを中心とする活動が中心となる比較的オープ ンな組織であるが、2004 年からヨーロッパにおける活動とも調整をつけつつ、出版者に対する重要な影響力を行 使するようになっている。とくに、1998 年の創設に前後して承認され、公開された The Statement of Current Perspective and Preferred Practices for the Selection and Purchase of Electronic Information(電子的情報の選択 と購入に関する現状認識と望ましい実施方法) は、それ以来の改訂を経て、重要な指針として活用されている。 1.6 日本の「失われた 10 年間」 1990 年代、世界的にはこのような形で図書館側からの主体的な取組みが展開しはじめていたところであったが、 日本においてはその展開はきわめて散発的であったといわざるを得ない。実際、国立大学図書館協議会 (当時) の 東京地区・関東地区の図書館は共同で 1999 年 1 月に電子ジャーナルに関するシンポジウムを開催したが、出版者 側 (日本支社) の説明もごく紹介的なものに終始せざるを得なく、また、図書館から参加した聴衆も情報に枯渇し ているという様子が明白であった。 もちろん、この時期に日本の大学図書館が、その電子化について手を拱いていたわけではない。一方では、文 部省 (当時) によって 10 億円規模の「先導的電子図書館プロジェクト」が学術審議会の提言を基礎として展開し、 奈良先端科学技術大学院大学附属図書館をはじめとして、国立 6 大学の附属図書館においてもっぱら資料のディ ジタイゼージョン (科学技術論文を画像イメージとして蓄積し、研究プロセスから「紙」を追放する「ペーパーレ ス図書館」や貴重資料を中心に画像イメージを蓄積し利用の容易化を図るなど) とするプロジェクトが展開するこ とになった。また、二次情報データベースを中心として、コンソーシアム形態の共同購入・共同利用を九州地区 国立大学図書館が実験するなどのが試みられていた。さらに、CD-ROM 配布・学内ネットワーク利用の形態が、 Chemical Abstract などやはり二次情報データベースを中心に普及しつつあった。しかし同時に、まさにこの時期 に進行しつつあったインターネット化の状況を反映する努力は、いまから考えるならば、OPAC 化の展開が遅れ るなど必ずしも一般的ではなかったといえる。そして、ここで繰り返して述べるならば、この時期に日本版「シ リアルズ・クライシス」はひたひたと進行していたのである。 1.7 エルゼビア社の攻勢と国立大学図書館の対応 このような状況のなかで、1999 年にはいってからエルゼビア・サイエンス社は、同社の電子ジャーナル・プラッ トフォームの普及を図るために SD21 という 1999 年から 2001 年までの 3 年間の電子ジャーナル無料提供プログ 7 ラムを日本の一部の国立大学図書館に提案した。国立大学図書館側は、一部ではなく全部の国立大学図書館側に 提案することを要望しつつ、基本的には現在の用語を使えば「購読規模維持」に相当する条件をもつこの提案を 受け入れ、約 3 分の 2 の大学がこのプログラムに参加した。しかしこの条件は相応に厳しいものであり翌年には、 その半分以上の大学が条件を満たすことなくプログラムを離脱することになった。 加えて同社は、2000 年から、雑誌価格について、ドル建て、ギルダー建て (現在は、ユーロ建て)、円建ての 3 種の価格を設定し、日本国内における購入については円建て価格を適用するという方針を明らかにした。これに 対して、日本の大学図書館界は強く反発した。私立大学図書館は、医学図書館、薬学図書館とともに、このエル ゼビア・サイエンス社の方針は、並行輸入などによって消費者が合理的な行動をとることを阻害することになる として、公正取引委員会への申告を行なった。他方、国立大学図書館は、さまざまな議論を重ねたのち、同社に 対して不満がある旨の書簡を有志館長の署名で送付することとしたが、それに対して、先方から必要な議論を行 なう準備があるとの回答を得て、急遽、国立大学図書館協議会内に「電子ジャーナル・タスクフォース」と称す る臨時的組織を構成して、2000 年 10 月にエルゼビア・サイエンス社副社長 Rorand Dietz ほかを招き、日本の国 立大学の状況を伝え、SD21 プログラムが終了した翌年の 2002 年からの契約において ScienceDirect を導入するこ とを可能とする方向で協議を行なった。 この協議は、日本の大学における学術情報流通への関与の形態として、いくつかの点で画期的なものであったと いえる。権限上はかなり限定されたものであったが、国立大学という年間 100 億円以上の外国雑誌を購読してい る集団を代表して、海外出版者に対して直接に意思表明したのはおそらく始めてのことであったであろう。また、 そのような集団を代表して協議することによって、その集団がある意味で海外で一般にコンソーシアムと呼ばれ ているものに匹敵することを明確に自覚することになった。さらに、その協議においては、大学側の事情を説明 するとともに、電子的な学術情報流通への移行への自覚的移行を表明し、それに伴なう危惧と解決に関する共同 行動を提唱した。そのもっとも顕著なものは、電子的媒体の安定性、恒久性に関わるものであり、いわゆるアーカ イブの設置への協力を出版者側に求めたが、これは、近年に至ってようやく世界的な問題として認知されること になったことを考えるならば、その先駆的な位置づけを否定できない。このようにして、私立大学図書館として は原則論に基づき躊躇するところがあったにせよ、2000 年秋、大学図書館が学術情報流通とその改善に主体的に 関与するという状況が生まれたのである。 国立大学図書館による協議・交渉はさらにその相手を主要な出版者 4 社に拡大して行ない、2002 年の契約から は、(交渉を行なった) 各出版者は、国立大学図書館の「コンソーシアム」との全体的合意を前提として各図書館と 予約購読契約を行なうことが通例となった。価格、利用条件に関する個別の合意は別として、なかでも特筆すべ き合意としては、エルゼビア・サイエンス社との間で 2002 年から 2004 年にかけて、 「クロスアクセス・サブコン ソーシアム」と呼ぶことができる枠組みを実現したことである。これは、前年度までの購読金額の維持を前提に してではあるが、その維持を行なった図書館は相互に、自館が予約していない雑誌タイトルの電子体ジャーナル を利用できるとするものである。この枠組みによって、40 館以上の国立大学図書館が当時のエルゼビア・サイエ ンス社刊行タイトル約 1400 のうちの 3 分の 2 以上を利用できるようになった。また、John Wiley and Sons 社と は、国立大学全体の前年度の支払額の 50% を保証できれば、すべてのタイトルへのアクセスを認める旨の合意を 得ることができた。さらに、Blackwell 社、Springer 社とは、各大学がその規模に応じて定額を支払えば、やはり 全部のタイトルへのアクセスの権利を得ることができることになったために、国立大学の大半以上において、こ れらの主要な商業的専門雑誌社のほとんどすべてのタイトルを利用できることとなり、また、日本版「シリアル ズ・クライシス」の最大の問題であったわが国における利用可能な学術情報の急減という減少に歯止めをかける ことができたのであろうと思われる。 1.8 国立大学図書館方式の正しさ このような契約方式に対しては、それを”Big Deal”と名付けて批判する北米の図書館関係者は多い。その批判の 根拠は、第一に、図書館は自分のキャンパスで必要なタイトルを精選して購読する努力を行なうべきであり、その ような選別、判断なしにすべてのタイトルを導入するということは、図書館から学術情報流通の主体としての位置 を奪うというものである。第二には、そのような関係を出版者と持つということによって、たんに主体的な位置を 8 失なうというだけでなく、実際にタイトルごとにキャンセルしたりするという微調整能力を放棄することになり、 キャンパス全体を「オール・オア・ナッシング」のきわめて不安定な状態に置くことになるという理由である。 この批判はある程度妥当するところがあるものの、すくなくとも日本における各大学の状況を見る限り、かなら ずしも的確なものであるとはいえない。実際、刊行タイトルのすべてにアクセスすることができるようになった状 況では、それまで予約購読されいなかったタイトルへのアクセスが、(タイトル単位で考えるか、論文単位で考え るかの問題はあるが、直観的には) 予約購読していたタイトルへのアクセスと同程度に発生するというデータが、 さまざまな規模の大学でさまざまな出版者について一様に観察されている。その結果、より多くの利用が発生し て、その結果 (この尺度の真の意味の検討は今後の課題としても、一応「論文単価」に相当するとも考えられる) 支 払い総額をダウンロード回数で割った数値は一気に減少しており、現在の段階では、(大学ごとのばらつき大きい ものの) かなりの大学で、ILL の論文あたり平均単価に匹敵するまでになっている。この意味で、学術情報の入手 可能性を研究環境の問題として理解するならば、この種の”Big Deal”には十分な利点があると言わざるを得ない。 このような展開は、文部科学省による一定の理解と施策によって支援された側面がある。同省は、中央官庁とし て 2001 年 1 月に文部省と科学技術庁を母体として生またが、そのような組織の変化のなかで、科学技術・学術審 議会のもとにワーキング・グループを設置してわが国の学術コミュニケーション全般について議論を行ない、文 部科学省などの行政機関およびその独立行政法人等、大学、国立国会図書館などの役割分担を強調した報告 (「学 術情報の流通基盤の充実について (審議のまとめ) 平成 14 年 3 月 12 日」、通称「根岸レポート」) を行なった。 それを受けて 2002 年度からは国立大学に電子ジャーナル導入経費を配分することとして、金額的には全体とし て 4 億に満たない額ではあったが、政府が電子ジャーナルへの関心を示し予算措置を行なったことは、国立大学図 書館にとって、出版者との交渉という局面においても、また、学内における予算構造の変革という観点からも重 要な意義をもっていたといえる。2003 年には私立大学に対しても、私学助成の枠組みのなかでも電子ジャーナル 導入に対する補助金が配分されることが可能となり、また、私立大学図書館協会とは別の枠組みを構築して、私 立大学が相互に連携したコンソーシアム (PULC) の形成も 2003 年には始まるようになった。さらに、医学図書館 協会、薬学図書館協会などを中心とするコンソーシアム形成も、当初の代理店主導とも見える姿を脱しつつある ようにもみえる。 このようにして、1990 年代に進行したわが国における学術情報流通の危機に対しては、電子ジャーナル化に対 応する大学図書館のコンソーシアム形成を中心とする取組みによって、一定程度の歯止めがかかったと判断して よい。しかし、雑誌の価格は依然として当然のように値上りし、また、電子ジャーナル化が意味するところはか ならずしもすべての関係者に十分に理解されているとは言い難い。より本格的な考察と、それにもとづく取組み が必要となっているといえる。 印刷物から電子的流通へ 2 2.1 情報流通の物流依存性 前節の歴史的素描を整理して、印刷体雑誌と電子ジャーナルとの対比を明確にしておこう。 従来、主として学術論文を掲載し、学術雑誌と呼ばれてきた「雑誌」は、原則として雑誌ごとに編集委員会等が 定める一定の形式に従って編集、印刷された学術論文を刊行周期ごとに製本し、それを郵送、貨物便などの物流 手段を介して、その雑誌を予約購読する読者個人または図書館に届けるという形で頒布されてきた。また、その 雑誌を直接予約購読しないが、実際には掲載された論文の内容を読みたいと思う研究者、学生は、自分が所属す る機関 (大学、研究所等) の図書館、図書室に到着した雑誌を手にとって読み、必要があればその複製を作製して きた。そのような図書館、図書室は、到着した雑誌を研究者、学生が読みやすいように配架し、到着の案内を出 し、さらに、各号を合冊して一巻とするという意味での製本などを行なって、恒久的保存を行ない、将来の関心 に備えるとともに、人類の知的遺産の継承の一端を担うと考えられていた。学術情報の頒布、保存における図書 館の役割は、1980 年代のシリアルズ・クライシスを経て、個人購読中心から機関購読中心への移行が明白となっ て、さらに重要なものとなった。 9 従来の学術情報の伝達は、印刷冊子という物理的形態をもつ物品の流通の仕組みに依存していたということが できる。このことを「物流依存の情報流通」あるいは「情報流通の物流依存性」と呼ぶことにしよう。そのよう な物流依存性に由来するさまざまな要素が、学術情報の流通の全体的仕組みに大きな影響を与えていた。たとえ ば、「タイトル」「巻」「号」「ページ (頁)」などが、学術情報の粒度として一般的であったこと、ページが増える ことは、その印刷冊子としての雑誌の値上がりに直結すると考えられたこと、また同様に、印刷冊子としての雑 誌の頒布部数が減少することは、頒布 (印刷・製本・配布) にかかわる費用を分担すべき者が減少することを意味 し、その結果、単価が上昇するという論理を受入れざるを得なかったこと、情報の保存とはなによりも印刷冊子 の物理的存続の確保を意味したこと、情報の内容に対してその内容を生み出した者がもつ権利は、物流にのって 頒布される印刷冊子を作るための複製の権利として第一義的に理解されたことなどを想起するならば、学術情報 の生産、流通、保存・継承、価格決定メカニズム、権利処理の全般にわたって物流依存性が支配していたことが 理解できるであろう。 2.2 「電子ジャーナル」とは何か:その影響 さて、前節においては現段階の「電子ジャーナル」(electronic journal, online journal) について既存雑誌の論文 コンテンツのインターネットによる配布という点だけを指摘して議論したが、ここで、その標準的な頒布形態を 整理しておこう。すなわち、 1) 論文内容は、いくつかのほぼ標準化された文書フォーマット (SGML, XML, HTML, PDF, プレインテクス トなど) のうちのひとつまたは複数によって記述される。 2) 論文内容の記述は、使用されるフォーマットごとの性質によって、ひとつまたは複数の電子的ないし磁気的 ファイルを媒体として行なわれる。 3) 論文内容を記述したファイルは、出版社等によって管理され、世界の 1ヶ所または数ヶ所に設けられ、イン ターネットに接続された計算機上に置かれる。 4) それらの計算機は、その計算機に置かれたどのようなファイルをどのような条件でダウンロードできるかに 関する権限をあらかじめ定義された者からのインターネットを経由した (通常 HTTP によって記述される) 要求に対して、その条件に従ってファイルを多くの場合ウェブ・サービスの形態をとってインターネットを 経由して転送する。 5) ファイルを受け取ったものは、そのファイルを自分の計算機上に一時的に蓄積し、そのファイルを記述する 言語を解釈できるソフトウェアによって、論文内容を閲覧できるように画面上等に再現し、必要に応じて、 プリントアウトや電子的、磁気的保存を行なう。 このような形態の頒布が普及したことは、学術情報流通の物流依存性に大きな変化を生じさせ、したがって、い わばその流通においてどちらかといえば川下に立つ図書館にとっても大きな変化が生じることになった。その変 化の重要な項目は以下のようなものである。 1. 学術情報の粒度の変化 2. 図書館からみた学術情報提供元と提供先の変化 3. 「雑誌価格」と「雑誌予約購読」という概念の変化 4. 「雑誌論文を読む」という概念とそれともなう利用者サービスの変化 5. 「雑誌の保存」の概念と実践の変化 10 2.3 学術情報流通の粒度 印刷体雑誌という運搬・輸送を要するものの場合には、輸送可能な大きさ、重さなどが制約になる。このこと は、書籍、雑誌と言われているものの物理的なサイズを制約していると考えられ、掲載論文のページ数が多くな れば、1 回に輸送する論文ページ数を増やすのではなく、一定期間に刊行する巻・号を増やすことによって対応す るのが通例である。しかし、電子的な頒布においては、このようなことを考える必要はない。したがって、原理 的には、同時に刊行する論文の数は決められていないことになる。そうなると、巻・号というような単位の意味 が失われる可能性が出てくることは十分に考えられる。もちろん、査読のサイクルなど別の要因から公開するタ イミングが決定されることがあり得るが、それでも、電子ジャーナルプラットフォームにおいて、印刷体刊行に 先行した論文リリースが流行している現在、随時発表することが、先取権が意味をもつ分野においてはとくに著 者にも読者にも望まれていると考えることができるであろう。 さらに、現在、比較的大手以上の規模の出版者は、数タイトルから千数百タイトルに及ぶ「電子ジャーナル」を 自社・自学会のサーバ等に「搭載」し、さらに、過去に刊行した論文のコンテンツも同様の方式で閲覧可能として いる。このことは、参照のための座標としてのタイトル・巻・号・ページという単位からの離脱を可能とするもの であり、かつ、XML のような今後優勢となると考えられる文書フォーマットにおいては、印刷したときの 1 頁分 という概念があまり意味をもたないことを考えるならば、論文そのものを参照の単位とする方式が、一層標準化さ れることが期待される。この状況においては、 「タイトル」 「巻」 「号」 「ページ (頁)」というような伝統的粒度単位 は (まだ生き長らえているものの) いずれ「論文データベース」というような考え方のなかに消えていく可能性も あるだろう。各種調査では、以前として利用者は、印刷体に依拠した論文表示を好んでいるが、音声や映像などを 活用した論文プレゼンテーション手法が普及すれば、そのような参照方式がいつまで意味をもつかは不明である。 このようにして、査読という品質保証システムの単位である編集委員会によって特徴づけられる専門領域と密 接に結びついたタイトルという概念は生き残るにしても、それ以外の中間的粒度単位が消えていく可能性はきわ めて大きい (もちろん、残存する可能性がないわけではない)。しかし、いずれにせよ、タイトルごとに巻・号の 順番を追って配架するという習慣が失われることは確実である。しかも、さらに反省して、タイトル・巻・号とい う単位ごとにその内部的均質性が実現していたかを考えるならば、そのような専門的斉一性そのものについて疑 問を呈することができる。すなわち、実際電子ジャーナル化された雑誌の論文に対する利用のパターンを、サー バに残されたログから検討 (竹内比呂也,土屋俊,尾城孝一「電子雑誌に掲載された論文へのアクセス状況−ログ データに基づく予備的分析−」 『第 51 回日本図書館情報学会研究大会発表要綱』p.21-24(2003.10.25) を参照) す るかぎり、ひとつの号に掲載されることになった複数の論文のダウンロードのパターンは千差万別である。つま り、号というひとつのまとまりとされる論文群への関心が一様ではないことがわかる。直観的にも、これまでで すら、ひとつの号に掲載されたすべての論文を読むというはほとんどなかったことからも確証されるであろう。こ れは、タイトルという概念がそもそもなんらかの均質、一様な専門領域によって定義されているということ自体 が神話であった可能性を含意しており、むしろ、論文データベースとして広い範囲を利用者に提供する環境が選ば れることがあるかもしれないことを示唆している。 2.4 学術情報流通経路の構成要素 これまで、出版者から読者に論文コンテンツが届くまでの経路は、物流がもつ歴史的遺制ゆえに複雑なもので あり、かつ、そのためにエージェントや取次書店というような存在の余地を残していた。しかし、インターネット によって、出版者のサーバから読者に直接コンテンツが到達する「電子ジャーナル」の状況では、そのような中 間的媒介者が介入する余地そのものがほとんど不可能となっている。 すなわち、これまで図書館から見た場合には、学術情報をもってくる目に見える主体は、その印刷物を運んで くる人であり、その運搬を仲介、実施する業者であり、そのような印刷物の入手の対価として支払いが行なわれて いたという直観があった。実際に契約の行為としても、その契約相手は、日本における「代理店」「取次業者」と 呼ばれる中間的媒介者であったのであり、実際に出版を行なう出版者は、いわばその背後に隠されていた。しか し、電子ジャーナルという媒体にとっては、そのような媒介者の役割はきわめて不明確であると言わざるを得な 11 い。前節でも述べたように、現在、大学図書館が、電子ジャーナルの利用条件、価格をめぐって交渉しなければ ならない相手は、すでに版元、出版者になってきており、現在の時点においては、これらの伝統的媒介者の役割は まだ皆無ではないものの、そこで決められた条件・価格に従ってインボイス、集金を代行するのが「代理店」「取 次業者」であるという認識が一般化しつつある。 概念的な変更を迫られているのは、提供元の側だけでなく、提供先の側でもある。これまで、大学図書館は、印 刷体雑誌を取次業者がもってくると、その到着をその雑誌の購読に対して予算を出している学部・学科・講座に 通知するという作業をしていた。つまり、形式的には、とくに国立大学の場合には、外国雑誌は図書館が一括して 契約することがほぼ定着しつつあったが、それは名ばかりで、実際の物流の実態においては、図書館は取次業者 と講座との仲介を行なっていたにすぎない。もちろん、重複調整が進むなどして、図書館への集中配架が行なわ れていた大学においては、物流の仲介者にすぎなかったという表現は不適切であるが、予算をどこが出している かが決定的な事実であったことは確実である。しかし、電子ジャーナルの場合、サイトライセンスが普通のもの となった現在の段階では、学術情報の提供先は各講座あるいは予算上の単位ではなく、つねに大学全体となった。 大学というサイトに敷設されたネットワーク上のどの計算機、端末からでも利用することができるという意味で のサイトライセンスは、雑誌が担う情報へのアクセスを一気に容易にしただけではなく、図書館が学術情報を仲 介して提供する相手を一気に拡大してしまったのである。 2.5 電子ジャーナルの費用負担および支払い方法 もちろんこのことは、予算提供と情報提供のミスマッチを生む。各雑誌が提供する情報に対する対価を大学の 特定の一部が負担しつつも、大学全体がその情報を利用できるということは、予算を負担しないで利用している 大学構成員 (すくなくとも、教員) はいわゆるフリーライダーであることになり、不平等であるという不満が生じ 得ることになる。ここで、旧来の予算提供と情報提供とがマッチするモデルは、基本的には物流への依存から可 能であったことを確認しておかなけばならない。そのような物流依存性が希薄化し、かつ、学内ならば誰でもど こでも先端的あるいは古典的な学術情報が利用できる環境ができたことが著しい学術研究環境の改善であること を考えるならば、物流モデルへの回帰ではなく、予算準備の方式の変革でなければならないことは明らかである。 さらにこのとき、1990 年代の日本版「シリアルズ・クライシス」の原因のひとつとして講座単位の予算執行意思 決定システムがあることを勘案するならば、大学図書館が大学全体の学術情報拡充施策のための予算を一元的に 確保、運用することの必要性は明らかであろう。 2.6 電子ジャーナルと大学図書館サービス このようにして、話題はふたたび、前節の話題の中心であった雑誌価格の問題に回帰する。雑誌という形態によ る学術情報の流通において電子ジャーナル化が展開することは、「雑誌の価格」という概念にもまた影響を与えて いる。これまで、「この雑誌は 1 年 1200 ドルだ」というとき、たとえば月刊であれば、12 冊の号のひとつひとつ は 100 ドルだと理解することができた。しかし、電子ジャーナルの場合、その雑誌の論文を読む人が 1 年に 1 回 だけ自分の書いた論文をダウンロードして読むならば、それは、まさにその一人の人のためだけに 1200 ドル払っ ていることになり、他方、その雑誌のさまざまな論文に 100 人の学生が平均 12 論文を読むとすれば、一人あたり 1 ドルで論文を読んでいることになると言えるかもしれない。より一般的に言うならば、これまでは、「論文を読 む」という行為と「あるタイトルの雑誌を予約購読する」という行為との間の関係がきわめて間接的であったの に対して、サーバにアクセスしたりファイルをダウンロードしたりするという行為は、論文を読むという行為そ のものであるともいえるので、それらを考慮にいれた価格に合理性を求める考え方が成立する。となると、一方 では、「沢山読む人々は沢山支払うべき」という理屈が唱えられても不思議ではない。この場合には、たとえばダ ウンロード回数に論文単価を乗じた金額が雑誌の価格となるというようなモデル (しばしば、”pay-per-view(閲覧 あたり支払い)”と呼ばれる課金方式がそれである) が考えられる。 しかし、そのような価格決定方式を導入するためには、論文単価に合理的根拠が必要であり、また、そのような 方式が学術情報流通の促進につながることの保証がなければならない。たとえば、映画のレンタルビデオの場合、 12 その単価はレンタル店が購入したテープを何人の人が借り出すかによって決まるであろう。安くすれば多くの人 が借り出しに関心を持つことは当然である。現在のテープの場合には再生機にかけるたびに劣化して視聴に耐え なくことがあるので上限はあるが、貸し出し価格によって利用者の数を増やすことができる。しかし、学術情報 の場合には、そのようなメカニズムが簡単に機能しないことを前節でも指摘した。教室でしかじかの論文を次週 の授業までに読んでくるように指示されれば、なにがなんでも読むしかないのであり、そのような利用が大学と しての支払い総額に反映するとすると、せっかく学内のどこでもダウンロード、プリントアウトできるようになっ た電子ジャーナル掲載の論文を読めと指示しにくくなってしまうであろう。一般に、学生がより多くの論文を読む ことは教育上よいことであるので、それを抑制するような価格決定方式を大学は採用すべきではないと思われる。 しかし、印刷体雑誌と電子ジャーナルとの契約上の違いは明白であるので、なんらかの調整をしなければなな い。現在の主流は、 「印刷体に電子体を追加 (Print Plus) から電子体に印刷体を追加 (Electronic Plus) へ」という 重要な転換を前提として、既存の予約購読方式を専従者換算人数 (FTE, Full Time Equivalent) によってやや保守 的に拡張し、可能性に対するある意味での従量制課金を実施するというものである。まず、印刷体から電子体へ の移行という観点から、学術情報が印刷された複数の頁を綴じた物への対価としての価格を、学術情報そのもの の提供に対する対価としての価格という概念に変更することが行なわれつつある。そのうえで印刷体を依然とし て必要とすると考える場合には、大幅に割引いた価格が設定されるようになっている。しかし、予約購読する図 書館が属する組織の規模が異なることは、2 つの意味で反映すべきであると考えられている。第一に、大規模な大 学はこれまで同一タイトルを複数部数購読してきたが、これが一気に 1 部分の支払いとなると出版者としては耐 えられない。第二に、大規模な大学はその分だけ利用する度合が多いと思われるので、それを反映させることが 公平である。この第二の理由はある意味での利用可能性に基づく従量制課金であるとも見える。しかし、これら の価格モデルに加えて、すでに指摘したようにタイトルごとの予約購読から論文データベースの利用権取得とい うことの実質化の方向で、(当該出版者が刊行するすべての雑誌タイトルへのアクセスの可能性を含むという意味 で) これまでに予約購読してこなかったタイトルの利用の対価を支払うことによって、その大学の学術情報環境は 著しく良好なものとなることがわかっている。この結果は、これまで印刷体雑誌の購読に支払ってきた金額より 若干多い金額でその増額に見合うより多くの学術情報への接近が実現することになるであろう。 しかし、実際問題として、これからどのような価格モデルがもっとも妥当であるのか、いや、価格モデルという ことを言っていては、研究成果の総量の自然増 (natural growth) による値上りは不可避の論理を提供してしまう ので、なんらかの抜本的改革は必要なのか、これらの問題に関する解答はまだでていない。本稿においては、こ れは次節の課題となる。 このようにして、「電子ジャーナル」の登場は、学術情報流通の行動科学と経済学にまったく新しい局面をもた らしている。したがって、学術情報の提供サービスという点でも当然大きな変化が生じざるを得ない。すでに述 べたように、図書館が取次業者と講座の取次をしている限りは、学術情報サービスといっても、せいぜい二次情 報データベースの利用講習程度しか考えられず、日本の大学の場合にはカウンターにおけるレファレンス業務も、 所在の問い合わせに答えることがでほぼ十分である。 それ以外には、前節でも触れた図書館間貸借による文献複写サービスの窓口となる業務がある程度であろう (た だし、その業務量は受付の多い館では 1 係を要するほどのものである)。しかし、電子ジャーナル化にともなって、 その性格は大きく変化した。印刷体の時代には、研究者は自分の研究室・講座で購入している雑誌タイトルを利 用できれば満足していた。しかし、上述のような方式で電子的学術情報環境の充実が図られるならば、その豊か な環境から最大限の情報を入手する方法について研究者自身が習熟することが必要になる。その支援を行なうこ とが、重要な図書館のサービスとなることは間違いない。研究者が関心をもつどのような情報が、どの雑誌のど の号の論文内容として刊行されたかをタイムリーに伝えること、利用できる雑誌を分野別、出版者別などで一覧 可能としたり、それらとウェブ上にある別種の情報資源と連携して利用可能とすることなど、さらに、印刷体との 連携を図ることなどは基本的なサービスの要素を構成することであろう。 一般にナビゲーションと呼ばれるようになったこのようなサービスは、図書館側のより積極的、能動的な態度 を要求するものである。少なくとも利用者の観点からみるならば、自分が必要とする情報が入手できればよいの であり、それがどのような形態で提供されるかということは二の次である。電子的に提供されるのか、それとも、 キャンパス内のどこかに印刷物が存在するのか、あるいは、国内の他大学にあるのか、海外のサービスに頼る必要 13 があるのか、これらの状況と情報入手に必要なコストを勘案して、研究者・学生が情報探索する行動を支援する のが、図書館の責務となるのであり、その意味で学術情報流通の圧倒的な電子化を事実として認めるならば、こ れらの情報オブジェクトを全体として管理することがその前提として必要となる。 2.7 学術情報の利用の定量化 出版者の立場からみたとき、これまで、刊行している雑誌がどの程度に利用されているのかということを知るこ とはほとんど不可能であった。たしかに、「引用分析」(citation analysis) という手法が 1960 年代以来開発され、 とくに、Institute of Scientfic Information(ISI) 社はその結果を定量的にインパクト・ファクター (当該雑誌過去 2 年分掲載の論文へ引用数を掲載論文数で除した数値がその雑誌の当該年度のインパクト・ファクターである) とい う数値によって表現して、雑誌の評価の指標とした (ただし、「引用」とはこの場合、参考、参照した文献として 表示するという程度の意味であり、実際に論文のなかの表現の一部を再掲出するという意味ではない)。引用ある いは参照するということが、論文の知的寄与に関する相互関係を表現することを否定することはできないが、本 質的にはそれらは定性的関係というべきであり、その数を数えることによって雑誌の影響力を定量的に測定する ことができるということは検証されているわけではない。実際にどの程度読まれたのか (あるいは、どの程度情報 が使われたのか) という程度を測定することを被引用数によって測定することを正当化する理論的研究は存在しな い。これは、いうまでもなく、印刷体雑誌の物流と学術情報の流れとのミスマッチから生じている事態である。ま た、雑誌タイトルという粒度は、すでに述べたようにきわめて不安定な単位であり、その影響力を測ること自体 の意味は簡単に理解できるものではない。 これに対して、サーバから電子コンテンツが配信されるという形態においては、情報の流れ (論文購読) が、い わば媒体の流れ (ダウンロード) に即応し、かつ、論文というおそらく誰の目にも最小と考えられる単位がその流 れそのものの単位となる。さらに、その流れについて、すくなくともサーバの側では、どこから何をリクエストし て、それに応えられたかどうかを記録することができるようになっている。これは、一般に、「アクセス・ログ」 (access log) と呼ばれるものである。上述のように、サーバへのアクセスは、論文の「利用」のようにみえるので、 その測定は、論文利用行動の測定であり、それに基づく新たな価格決定メカニズムをすら可能となるかもしれな い。このような利用の測定は、これまで悉皆的に行なうことはほぼ不可能であった。他方で、物流依存モデルに おいては、ものがあったので、支払いの代償は手許に残っているようにも思われた。アクセスの権利を購入する とすると、手許にはすくなくともものは残らないことになるのである。 しかし、これらのアクセス統計の基礎は、いうまでもなく各クライエント・ソウトウェアからサーバに送られ る要求とその要求に対するサーバの応答状況 (ステータス) である。これらは HTTP(HyperText Transmission Protocol) によって定義されたコマンドとその動作結果のステータスコードとして理解される。しかし、そのプロ トコルは、ファイルの転送要求とその結果を中心としたものであり、実際に何が起きたかをそのデータから復元す るこことは単純ではない。たとえば、テキストに埋め込まれた記号が画像ファイルによって表わされていたとす ると、その記号をダウンロードするだけで 1 回のダウンロードとなってしまう。しかし、読んだ論文はあきらか に 1 つだけである。さらにインターネットの状況が複雑に関係する。ひとつの大きなファイルがいくつかに分け て転送された場合、それは何回のダウンロードとなるのであろうか。途中で途絶したときに再送が行なわれたな らば、2 回読んだことになるのであろうか。この種の問題はさらにいろいろ考えられる。 この意味で、アクセス統計は物流依存性の時代には不可能であった観察を可能にしたが、さりとて、この情報 は、ベンダー側のサーバ上においてのみ正確に取得可能であるので、考え方によっては企業秘密としてその営業 戦略等に利用されてもしかたないものである。しかしながら、図書館としては、この情報をそのように扱われて は、利用と価格について大学としての立場を主張することができなくなってしまう。また、その正確さや意味解釈 はまだ完全ではない。さらに、すでに述べたように、これらの情報は、価格モデルやサービス設計の基礎となる 貴重なものである。この種の情報をより正確にし、より信頼できるものにしていくことは、出版者と (大学側で契 約とサービスを担当する) 大学図書館とが共同してになうべき義務であるといわざるを得ない。このことは、図書 館側としても 1998 年に ICOLC の発足に際して公表した前掲「声明」においても、そののち 2 度の改訂において 絶えず強調している点である。 14 この要望を受けて、ベンダー側、図書館側が協力して COUNTER(Counting Online Usage of Neworked Electronic Resources) プロジェクトを開始している。このプロジェクトは、情報商品に関するアクセス統計の信頼性を向上 させ、ベンダーからみても利用者からみても利用可能な実践指針 (Code of Practice) を作成することを目的として 2002 年に発足した (詳細については、ピーター・シェパード (高木和子訳) 「COUNTER プロジェクト─オンラ イン利用統計の国際基準の設定」(『情報管理』Vol. 47 (2004) , No. 4, pp. 245-257 を参照のこと。このプロジェ クトには、ベンダーを中心として、図書館団体その他がスポンサーとして資金提供を行ない、現在 30 社以上の出 版者がその実践指針を遵守することを公式表明している。特にこの指針は、用語の定義からはじめており、本稿 で使用している「アクセス」というような実は不明確な概念についても、今後共通に理解に基づいて使用される ようになることが期待される。 2.8 学術情報の恒久保存 物流依存モデルにおける印刷体雑誌という形態は、流通の形態を規定するものであっただけでなく、学術的知識 という人類の知的遺産の保存の形態を規定するものでもある。こういうと大袈裟であるが、要するに、筆記また は印刷によって複製、頒布された雑誌冊子が汚損、逸失されないようにしておくことをもって保存することとい うことにしてきた。その結果、一定の数の複製物が世界中に頒布されていれば、火災、洪水、地震などの事故が いくつかの地域であったとしても、500 年後にも数部がどこかに残っており、そのリスト (目録) がつくられてい れば、人類全体としてはそこに収録された知的内容を保持しつづけたことになると考えてきた。この意味で、大 学図書館が、印刷体冊子を購入して管理することは、たんに利用の便に供するというだけではなく、人類の知的 遺産の保存にも貢献する営為であった。実際、日本の公共図書館の購入総額の 2 倍以上の金額を日本の大学図書 館は資料購入のために支出しているが、約半分は、いわゆる「外国雑誌」の予約購読のためのものである。 このような形で、物流モデルに依拠した知識の保存のシステムは、たしかに現在に至るまで一定程度機能してき た。すでに印刷技術以前の書写による複製の段階以来、文化によって保存の方法に相違はあるものの (たとえば、 図書館・文書館が発達しなかった日本では、思わぬところ (襖の下貼りなど) で保存が行なわれたりした)「もの」 の保存による知識の保存は機能しているのであり、また、法律による強制納本などは、それを制度化したもので あると考えることができる。もちろん、「保存」するといっても、絶対的な数字を示すことはできないが、相対的 には長期的な保存 (恒久保存) と比較的短期的な保存 (短期保存) とを、その目的に則して区別することができる。 すなわち、前者の恒久保存は、まさに人類の知的遺産としてどこかに存在するということを保証するものであ り、後者の短期保存は、知的営為としての学術研究の入力として依然として必要な範囲を利用可能としておくも のである。これまでの物流に依拠した知識保存の方式は、この区別を十分を反映したものになっていないという ことがいえる。その結果、短期保存から恒久保存に移行するタイミングが不明確であり、国としてのデポジット図 書館、地域的、館種的な共同保存図書館、各図書館などでの分業についても、かならずしも一貫した方向性が得 られていなかったように思われる。 大学図書館に限っても、この区別がかならずしもつけられていなかったことから、結局現在にいたるまで、利用 頻度の直観的区別にもとづいて保存場所を変えるという程度の対応しかとることができず、真の意味でのスペー ス節約を実現してこなかったと考えることができる。 論文コンテンツの電子化は、この状況を非常に見えやすいものにした。論文コンテンツは、一定の契約が維持 されるかぎり、出版者のサーバから取り寄せることが可能なはずである。したがって、印刷冊子を手許に置いて なくさないようにしておくこと、図書館に置いて散逸を防ぎつつ多数の閲覧に供することなどは不必要となった。 必要に応じて複製を作るという必要すらなく、プリントアウトして読みたいと思ったら、契約で許されるのが通例 であるので、(頒布目的でなければ) いくらでもプリントアウトできるし、同時に多数の人が閲覧することすら可 能である。 出版者がサーバに置かないものについても、JSTOR のようなプロジェクト (これについては、Shonfield, Roger C., JSTOR:a history, 2003, Princeton University Press に詳しい報告があり、それによれば、このプロジェクト が北米の研究図書館におけるスペース節約を主要な目的として開始されたことがよくわかる。JSTOR に対応する 日本の事業は、NACSIS-ELS であるが、これが「電子図書館 (ELS)」と名付けられてしまったことが日本におけ 15 る事情の理解を複雑にしていると考えられる) によって電子的に入手できるようになっていることが多い。このな かで、契約によって利用者が利用可能な状態にしておくことが、今述べた短期保存の役割である。しかし、もは や明白なこととして、この短期保存の役割のうち、「もの」、つまり電子体の場合にはファイルの保存をたんなる 契約仲介者である図書館が担う必要もなく、また、その能力はない。その義務を負い、その能力をもつのは、コン テンツ提供側、すなわち、著者および出版者なのである。 この結果大学図書館は、その利用可能性を確保するだけでよくなっており、したがって、短期保存のために印刷 体雑誌を保存することも不要となっている。これは、一言でいえば雑誌を捨てられるということであり、(とりわ け、理工医系図書館で占める比率が大きい雑誌書架のための) スペースの節約を可能にする。このスペース節約と 利用可能契約維持とが費用的観点からどのような差引勘定になるかはまだ不明であるが、これらの差引勘定につ いて真剣に考えることが可能になり、その責任が生じたことは事実である。 これに対して、長期保存については、その目的、役割は明確になっているがどのような仕組みによって行なう のかということはまだ不明確である。つまり、ともかくなんとかして「とっておかないといけない」のであり、か つ、複製頒布による物流システムの場合にはいわば摩耗による逸失を冗長性によってくい止めるという仕組みが一 定程度機能していたのに対して、(バックアップ用マシンを含めても) 非常に少数のサーバにのみ物理的ファイル が存在するという電子ジャーナル状況において、すべてが一瞬にして失われるという危険が増大したという直観 を否定することは不可能であり、かつその危険を完全に回避することが不可能であるという直観も否定できない。 もちろん、スタンフォード大学を中心に実験がすすめられている物流モデルにおける保存メカニズムのレプリ カを電子的流通の上に再現しようという LOCKSS プロジェクト (http://lockss.stanford.edu/) のような試みもあ るが、当然、電子流通モデルに固有の可能性を追求することも必要であることは明白である。このような試みのう ち、最もよく知られているプロジェクトは、オランダ国立博物館によるエルゼビアサイエンス社の ScienceDirect 上の雑誌を保存するものである (「オランダ国立図書館の電子情報保存事業」 『国立国会図書館月報』519 号、2004 年 6 月、pp.6-11 参照)。 日本においては、すでに前節で述べたように、国立大学図書館が海外出版者と価格を中心として交渉するなか で、この保存の問題を「アーカイブ」という表現を使って提起し、国内にファイルを持つことの必要性を主張し てきた。もちろん、この問題提起は、2000 年の段階におこなわれたものであり、以上に述べたような整理はまだ 行なわれていなかったために、短期保存と恒久保存の区別が十分についていなかったきらいがあり、その結果、出 版者との議論のなかでさまざまな混乱が生じたことは否めない。しかし、文部科学省の理解もあり、2002 年に国 立大学に対して電子ジャーナル導入経費を措置すると同時に、国立情報学研究所に保存蓄積のためのサーバを構 築することが認められ、まだ十分とはいえないまでも、大学図書館コンソーシアムからの要請に基づいて同研究 所はその NII-REO と呼ばれるシステムにいくつかの出版者の雑誌コンテンツを蓄積する事業を行なっている。し かし、そのようにして保存されているコンテンツの分量はきわめてわずかであり、また、日本において刊行され る電子ジャーナルについてはその短期的、恒久的保存についての議論が不十分であるなどして、今後の重要な課 題として残っているといわざるを得ない。 以上概観したように、電子ジャーナルの登場は、ただ紙が電子になったということ以上のインパクトをすくなく とも大学図書館に対してはもたらしているということができる。とりわけ、その経営思想が、物品の購買と管理 に基づいて構築されてきた大学図書館の伝統に対して、コンテンツ利用の許諾契約とその維持という新しい、そ して、今後の中心となることが明白な観点が登場したことの意義は大きい。しかし、この変化は、たんに図書館 だけを襲っているのではない。むしろ、「はじめに」の冒頭で示唆したように、学術情報流通の全体像の変更を迫 るものであるとすら言い得るだろう。次節においては、現在の段階におけるその胎動について紹介する。 3 新たな学術情報流通への模索 20 世紀の後半における学術情報流通の変貌は、 • 学術・科学研究の量的増大に起因する学術情報流通の商業化とその結果としてのシリアルズ・クライシス 16 • 電子計算機、ネットワーク技術の展開による社会の電子化を基礎とする学術雑誌の電子ジャーナル化 という 2 つの事態が複雑に絡み合うことことによって生じたと考えることができる。そして、この二つの事態は、 少なくとも個別にその程度を増大させていると観察することができる。つまり、シリアルズ・クライシスを特徴づ ける雑誌単価の上昇は、それが商業出版社によるものであっても、非営利の学会や大学出版会などによるもので あっても、依然として続いている。また、電子ジャーナル化は、一部に印刷体への郷愁を残しつつも、表現の多 様性や配布の迅速性・柔軟性などの学術情報流通にとって好ましい特長によって、一層の進展が予想されている。 その結果、印刷体雑誌を買わない大学図書館がすこしずつではあるがあらわれており、学術情報流通の主流が電 子ジャーナルに移行することについてはほとんど疑う余地はない。 したがって、現在のわれわれの課題は、この二つの独立しているが絡まり合った事態に対処する整合的な枠組 みを考案することである。問題はここで枠組みというときに、そこに関与する人々や組織 (ステークホルダー) が きわめて多岐にわたり、かつ、それらの利害は微妙に一致し、微妙に相違するという点である。そこに関与する 人々・組織の種類には、たとえば、以下のようなものがある。 • 研究者 (大学教員、研究専門職、研究支援スタッフ等) • 学会、協会 • 研究機関 (大学、国立研究機関、企業内研究組織等) • 大学図書館・専門図書館・国立図書館 • 出版社 • アグリゲータ、データベース業者 • 予約代理業者、取次業者、文献提供業者 • 研究資金提供者 (国、非営利法人、個人、営利企業等) 現在の状況をひと言で述べるならば、新たな学術情報流通を求めてさまざまな立場からさまざまな模索が展開 している状況であるといえる。本来であれば、これらの関与者の背景を検討しつつ将来を展望しなけばならない が、本稿では以下で、兆候的な動きのいくつかを紹介することで、今後へ展望する際の手がかりを提供すること としたい。その兆候的な動きとは、前節の最後で言及した恒久保存の問題への対応の試み、雑誌価格高騰に対す る図書館的取組みとしての ARL による SPARC の出発とその変質、それに絡む問題提起としての「オープンアク セス」の問題、さらに学術情報流通の構造全体を見直すためのひとつの考え方としての「機関リポジトリ」とい う発想である。これらのいずれの、それぞれひとつだけで現在の直面する問題を解決できるようには思われない が、そのいずれも、どれだけの効果を生むことができるかを事前に評価できる性質のものではなく、コストの問 題はあるにせよ、何らかの形で取り組むだけの価値のある考え方であると思われる。 3.1 SPARC 運動とその変質 1990 年代に雑誌価格の問題について議論を主導したのは、北米の研究図書館の団体である Association of Research Libraries(ARL) である。この団体が中心となったことは、それほど不自然なことではない。なぜならば、20 世 紀後半の科学研究の爆発的増加を支えた人的な集中はこれらの大学、すなわち、北米大陸の研究大学 (research university) によって担われたといって過言ではないからである。科学研究のビッグサイエンス化、とりわけ政府 資金の果たす役割の増大がみられたといっても、すべての人的研究資源を国が直接に雇用することは不可能であ り、かつ、それらの資源の再生産を大学に担う以上は、大学への資金投下によって科学研究の推進を図らざるを得 ない。また、第二次世界大戦後の冷戦構造からアメリカ合衆国を中心とする人的フローの定着し、北米の大学が 17 世界規模の人材市場を対象とした高等教育・研究機関となったという事情もあり、したがって、北米の研究大学こ そが、世界の科学研究の推進の主体となったのである。 となると、そのような大学のなかで研究者の必要な資料を収集することを任務とする研究図書館が学術的な情報 流通の主要なステークホルダーとなったことは自然であった。価格の高騰に実態に対して、この団体は 1980 年代後 半に調査を進め、(現在ではイェール大学図書館の副館長を務め、また、ICOLC の創設メンバーでありかつ現在でも 推進役である) アン・オカーソン (Ann Okerson) が中心となって 1989 年に報告書をまとめた (OF MAKING MANY BOOKS THERE IS NO END:Report on Serial Pricesfor the ASSOCIATION OF RESEARCH LIBRARIES. HTML 版を http://www.library.yale.edu/ okerson/making/にて入手可能)。その骨子は、1970 年ニクソン・ショッ ク以降の経済状況を背景として価格高騰の実態を解明しつつ、その原因を (1) タイトル増加、(2) タイトルごとの 分量の増加、(3) 経費がかかる分野における業績の増加 (ビッグ・サイエンス化)、(4) 国際的商業出版社の役割の 増大、(5) 変動相場制の 5 つに特定し、そこから、 1. ARL がシリアルズ・クライシスに対してなんらかの行動をとること 2. ARL が提唱して、商業出版社から非営利団体に科学研究成果流通の主体を移すこと 3. ARL が提唱して、アメリカの大学における過度の出版圧力を低減させるような制度変革を大学経営者に行 なわせること という提案を行なっている。このうち第 3 点は、のちに 2001 年の ARL と AAU(アメリカ大学連合) が策定したテ ンピ原則 (http://www.arl.org/scomm/tempe.html) に集約されることになるものであり、図書館の活動というよ りは、大学経営全体を考慮する必要がある側面である。また、第 1 点は、この問題に関する研究活動、組織体制、 情報教宣活動の必要を説くものである。したがって、より積極的な関与は第 2 点の分野において行なわれなけれ ばならなかった。この結果、直接的な帰結と言うべきであるかは難しいところであるが、商業出版社中心の学術 情報流通をなんらの別の方向に展開することを目指す方針がとられることになったと考えられる。 ただし注意しておくべきことは、この報告書においては、かならずしも商業出版社の活動そのものを「悪玉」視 しているのではないことである。学術情報流通市場の本来の性格から考えて、市場における「需要」には限界が あること、それゆえに自然に独占の方向に移行しがちであることについては、経済学者からの助言もあって認識 したうえで、だからこそ商業的な市場原則を適用しないことが妥当であると説いている。本来の学術情報流通の 形態は、「贈与の円環」であり、商業的仲介者が介入すること自体が不健全であるという考え方が研究者の間、そ して、図書館側にも存在する。商業出版社を必要としたのは、ビッグ・サイエンス化による学術情報流通市場の 変貌であり、その逆ではないことについての認識は正当であろう。 もうひとつ注意しておく点は、この報告書が出され、それをめぐってさまざまな議論が起きたこの 1990 年前後 という時期において、彼らあるいはわれわれはまだ World Wide Web の世界とその可能性を知らなかったという ことである。HTML の最初の定義が公表されたのが 1989 年であり、最初のグラフィカル・ユーザ・インターフェ イスである Mosaic が公表されたのは 1993 年のことである。したがって、ウェブ出版の可能性そのものについて は、Xanadu のような理念的なものや、Macintosh 上の HyperCard のようなツールでしか知り得ぬ時代であった。 しかしこれらの認識は、最終的に ARL の判断として、1998 年に SPARC(the Scholarly Publishing and Academic Resources Coalition) を独立した会員制組織として設立することになる。その目的は、基本的には、非営利的な学 術情報流通の実現可能性を示しつつ、その効果として商業出版社の刊行する雑誌の価格の抑制を期待するもので あった。あわせて、そのような方向への意思決定を行なうための研究者への情報提供・啓発活動を図書館が推進す ることを支援することを目的としていた。特に前者の活動は「出版パートナーシップ」と名付けられて、非営利 に出版事業を営む学会の活動と連携し、低簾かつ高品質のタイトルの創出、あるいは、電子化を推進することを 標榜し、たとえば、エルゼビア社刊行の高額な Tetrahedron Letters に対抗する雑誌 (Organic Letters) をアメリ カ化学会 (ACS) が刊行することを支援し、短期間でインパクト・ファクターで上回らせることに成功したり、生 物系雑誌の電子化プラットフォーム BioOne を構築し、持続可能なコスト回収モデルを実現したりするなどの活 動を行なった。図書館側は、これらの活動の開始のハードルを低くするために、会費のほかに SPARC がパート ナーと認めた雑誌を優先的に予約購読することを約束 (pledge) する制度を導入するなどの対応を行なった。 18 このような活動は、上述のような一定の成果をあげることによって図書館の関心を高めることに成功したといっ てよいであろう。しかし、同時にまさにこの時期に、電子ジャーナル化が急速に展開しようとしていたこと、そし て、まさにこの時期の運動であったにもかかわらず SPARC 運動は、電子ジャーナル化がもつさまざまな可能性 と困難との認識をその活動内容に反映させることができなかったのではないかと考えられる。実際、北米の研究 図書館の関心は、眼前の電子ジャーナル化に当面の対応をさまざまに迫られる状況にあった。その最大の現れは、 すでに第 1 節に述べたコンソーシアム形成による費用対効果の最大化を目指す (OhioLink や NERL のような) さ まざまな試みである。もちろん、コンソーシアム形成は、あくまで購買者という立場にとどまった限りでの図書館 の活動であるので、学術情報流通の体制そのものの変革に繋がることはないが、そのような観点から電子ジャー ナル状況にアプローチするかぎり、電子ジャーナル化によって学術情報流通の体制そのものの変革を実現するとい う観点が生じにくいことは明らかである。 日本においては、2001 年の夏、SPARC から (海外 ILL をめぐって共同の作業を行なっていた ARL のメアリ・ ジャクソンの示唆によって) 国立大学図書館協議会にこの運動への参画の検討を依頼するメールが届いたことに よって議論が起こることになった。国立大学図書館協議会としては、すでに電子ジャーナルに関して主要海外出 版社と直接の交渉を開始しており、将来的な価格上昇の抑制をコンソーシアム交渉には期待し得ないことを認識 していたために、より直接的な抑制に繋がる方向性として SPARC と歩調を合せることを決定し、また、おりか ら第 1 節で言及した根岸レポートのとりまとめの時期とも一致したことによって文部科学省への働きかけも行な うこととした。 この結果、2003 年から国立情報学研究所に SPARC Japan と呼ぶに相応しい事業の幅をもった「国際学術情報 流通推進事業」が予算措置されることになり、SPARC 特に電子化ということを中心にして、日本の学会誌が国際 的学術情報流通市場において高額商業誌に代わる代替的な機能を果たせるようになることを目的として、学会お よび図書館との連携を基盤とする事業を開始した。この事業においては、すでに実績のある物理系、生物系、数 学系、化学系、工学系、人文系の学会誌を中心として支援を行ない、印刷体の販売や科学研究費補助金に過度に 依存しない経営モデルの構築を目指して作業が進んでいる。 しかしながら、この日本における取り組みは、北米あるいは、その直接の指導で 2002 年から開始されたヨーロッ パにおける取り組みとは異なる環境での展開となることを余儀なくされている。第一に、すでに再三指摘してきた ように日本の学術研究そのものが、その入力となる情報を海外から摂取する傾向をもっており (これが、1980 年 代後半からの海外から「基礎研究ただ乗り論」という批判を招き、それへの対応が科学技術基本計画第 1 期にお ける基礎研究の重視に繋った)、学会サービスが国内会員へのサービスに重点を置く伝統を持っている。したがっ て、海外からの投稿を増やし、その国際的ステータスを上げるということについては、いわば名誉のみがインセン ティブになり得るということがある。また、第二に、日本の学会は日本の大学図書館に機関購読という形の販売 をすることが少なく、また、日本の大学図書館は日本の学会を購読するという習慣がなかった。さらに、第三に、 図書館にとって、学会はあくまで研究者による研究者のための研究者の団体であったのである。 この第三の側面は、もちろん北米、ヨーロッパの大学図書館にも存在する要素であるが、第一の点、第二の点と 結びつくことによって、まず、学会と図書館が同じテーブルで学術情報流通を論じるということの意義を確認する ことから始めざるを得ないという現状に至ることになる。また、日本がそのスタートを 2003 年としたことによっ て、1998 年の状況という SPARC にとっての前提がすでに崩壊している。それは、電子ジャーナル市場が 1998 年 にはまだ萌芽的であり、Organic Letters の例にみるように印刷体を基礎とする事業が成り立ち得たのに対して、 もはや、電子ジャーナル市場が成熟しつつあり、かつ、論文本数、売上高をベースとしては 30 電子ジャーナル市 場においては、すでに 70 になってしまっている以上、ただ電子ジャーナル化するだけではなんの効果も上げられ ないことが判明しているということである。 さらに、日本の学会誌刊行がすでに大幅に公的な資金 (とくに、科学研究費補助金研究成果公開促進費と、とく に電子化については JST による J-STAGE についた政府予算) に依存しているために、さらに新たな政府予算を取 ることがほとんど不可能であることを前提しなければならない。 したがって、SPARC をめぐる日本の状況は、皮肉な意味で SPARC が、2003 年後半以降、その本来のミッショ ンを実現するために、「出版パートナーシップ」から「オープン・アクセス」に舵取りをしなかればならなかった ことを象徴しているのかもしれない。あるいはまた、2003 年から本格的に立ち上がったヨーロッパの SPARC が、 19 その発足にあたって、購読の約束 (pledge) のシステムを拒否して出発し、そのあと後述のベルリン宣言を経て、政 府資金および EU 資金をあてにしたオープン・アクセスに傾斜していることもまた象徴的である。 3.2 オープン・アクセス 「オープン・アクセス」とは、科学的研究成果が可能なかぎり広く利用可能となるべきであり、とりわけ、経済 的な理由によって必要な情報の利用が制限されるべきではないという原則である。この原則そのものは自明であ るが、現在このことを強調する脈絡は多様であり、その多様さに応じた複雑な意味づけがなされることが多い。情 報の私物化 (appropriation) が問題になってきた背景には、たとえば、ソフトウェアに権利に関する議論や映画、 音楽、ゲームなどの (デジタル) コンテンツの著作権に関する議論が存在する。特に、マイクロソフト社はその両 方の側面で重要な悪役であり、前者においては「オープン・ソース」運動との関連で、後者においては、さまざま な情報生産企業の買収との関連で語られる。これらの議論は、主として北米において、ディジタル・ミレニアム の著作権法改正を視野に入れつつ開始されたので、その議論はただちに学術情報流通の分野にまで波及すること になった。「波及する」とはいっても、科学技術情報、ソフトウェア、デジタルコンテンツはそれを巡る市場の性 質が大幅に異なるものであり、単純に「オープンは善である」という原則を掲げることはできない。 学術情報情報におけるオープンなアクセスに関する議論のもっとも重要な起点のひとつは、優れた学術雑誌編 集者でもあった認知科学者のハーナッド (Stevan Harnad) によって提起された一般に「転覆計画」(Subversive Proposal) と知られている提案であり、、それをめぐって 1994 年に展開した議論である (これは、当時 ARL に所 属していたオカーソンによって編集され、『岐路に立つ学術雑誌』(Scholarly Journals at the Crossroads) として 出版された。現在、http:// www.arl.org/scomm/subversive/で入手できる)。 ハーナッドは、ひと言でいえば、出版社不要論を展開したといえる。すなわち、学術情報とは、品質保証と頒布 のための手段であり、品質保証は学者のピアレビュー (同輩査読) によって実現され、頒布対象は実際には学者コ ミュニティにすぎないという意味で秘教的 (esoteric) な情報であるので、学者が自分たちで管理運営できる対象で あり、それを実現すればすべての問題が解決するというものであった。とくに、技術決定論的論点として、もはや (といっても、時代を感じさせるが) 匿名 FTP サーバがあれば、ほとんどただで配る (あるいは、自由に取りに来 てもらう) ことができるのだから、頒布のために介入を許した出版社の存在は不要であるという論旨である。この 転覆計画は、すでに明らかなように現在では未遂の段階であり、むしろ、巨大プラットフォームを提供できる商業 出版社の優位性が強まりつつあるようにすら見える。しかし、ある意味でこの論争には、現在われわれが考慮すべ き論点のほとんどが現われているといってよい。ただし、重要な注意点は、この段階ですでに、ハーナッド自身が 管理する CogPrints というプレプリントサーバや Psycholoquy というオンライン雑誌を刊行し、ロスアラモス国 立研究所所属の物理学者であった Ginsparg が管理する (現在は、arXive.org としてコーネル大学図書館の蔵書の 一部となっている) プレプリントサーバなどがすでに存在し、それぞれの分野において権威を確立していたという ことである。したがって、この段階ですでに学術情報流通においてオープン・アクセスが可能であることは実証 されており、問題は、それが十分な規模で安定的に機能し得るかということであったということである。つまり、 オープン・アクセスの提唱だけではなんの説得力も生まないということはこの段階で明らかであったのであろう。 しかし、21 世紀を迎えて、上述したようなアメリカの情報私物化の事情などを背景として、 「オープン・アクセス」 の提唱が相次ぐことになった。その代表的なものは、金融家のジョージ・ソロスが資金提供を行なっている「開かれた社 会協会」(Open Society Institute, OSI) が先導して 2001 年 12 月にブタペストで行なった会議の成果として出された 「ブタペスト・オープン・アクセス・イニシャティブ」(http://www.soros.org/openaccess/index.shtml)、北米の学会、 大学、図書館関係者による 2003 年 6 月の「オープンな出版に関するベセスダ声明」(http://www.earlham.edu/ pe- ters/fos/bethesda.htm)、ヨーロッパの図書館関係者が集まって 2003 年 10 月におこなった会議から出た「自然科学 および人文科学における知識へのオープン・アクセスに関するベルリン宣言」(http://www.zim.mpg.de/openaccess- berlin/berlindeclaration.html) などである。さらにこれらは、資金提供団体からの支援も受けることになる (典型 的なものには、イギリスのウェルカム財団による「科学出版: オープン・アクセス出版を支持するウェルカム財団 の立場表明」(http://www.wellcome.ac.uk/en/1/awtvispolpub.html) がある)。 20 資金提供団体がこの問題に興味を持つことはある意味で自然であるが、その意味は重要である。なぜならば、 オープン・アクセスは最初に定義したように、できるだけ多くの人が経済的不安なく重要な情報を利用できるよ うになっていることが最大の特徴であるが、利用する人の経済的格差を利用可能性に反映させないためには、そ れを可能にする仕組みを支える経済的な枠組みを考える必要がある。より具体的には、学術情報流通の基幹とし ての学術雑誌頒布の対価としての予約購読費 (subscription) は、経済格差を利用可能性に反映する仕組みにほかな らない (つまり、金がない機関は予約できない) ゆえに、オープン・アクセスの理念は予約購読という仕組みを否 定せざるを得ない。しかしそうなると、オープン・アクセスによる情報提供を行なうことを可能にするためには、 大学・研究機関や研究者共同体にとっては外部の資金に依存するか、研究者自身が情報流通を研究の直接経費と して全額負担するかのにいずれか、またはその混合ということになる。このことは資金提供団体にとっては、研 究資金とは別途の情報流通資金を用意するか、研究資金の一部を情報流通のために使うということを認めないけ ればならいということを意味する。しかし、営利団体が研究の成果を活用する (たとえば、創薬する、新製品をつ くる) のためには、研究成果を学術的成果として万人の目に晒す必要はなく、クラシファイド・リサーチとして扱 うことを要求すればよい。非営利団体としてそれが不可能であるという場合にも、発表機会に一定の制限をつけ る、口頭発表のみを求めるなどの方法によって研究成果を自由に発表するという学問にとってはかなり自明の前 提に制約を置かざるを得ない。また、研究者が得た資金の一部を研究成果の発表のための経費とすることを認め るとしても、おそらく同様の制約をつけざるを得ないであろう。さりとて、情報流通のための別途資金を提供す ることは、すでに資金を使い切っているとすれば不可能である。さらに、いずれの場合においても、研究資金の 全体を考えたときには、研究の直接経費の減少を意味すると考えられることであろう。したがって、資金提供団 体としては、まさにファンディング・ポリシーの問題に関わるものとして取り組まざるを得なことになるのであ る。たびたび述べたように現代では、政府は最大の研究資金提供者である。したがって、政府としてもその問題を 検討する必要はあり、北米においても、イギリスにおいてもすでに検討が開始され一定の成果を得つつある (イギ リスについては http://www.publications.parliament.uk/pa/cm200304/cmselect/ cmsctech/399/39902.htm を、 アメリカについては、http://www.dcprinciples.org/ statement.htm を参照のこと)。 しかし、オープン・アクセスを維持するために政府資金を考えることは事態をさらに複雑にする。なぜならば、 第一に政府資金の源泉は国民の税金だからである。国民の税金を特定の目的のために使用するためには、それが、 国民の一部ではなく全体の利益になる使い方であることを説明しなければならない (もちろん、たんに所得再分配 するという言い方も可能であろうが、研究者の所得は比較的高めであるのが普通である)。とりわけ、雑誌を刊行 し続けることがそのような性格をもつことを説得しなければならないが、雑誌論文掲載が最終的には個人の給与 に反映することになる採用・昇任における重要な要素であることが知られている以上、研究者の利益とは無関係 であることを立証することは困難である。また、第二に、国民の税金である以上は、その国の国民のために使う ことが前提となる。しかし、イギリスのように出版業界全体として国際的に優位のところであっても学術情報流 通出版ではどちらかといえば、アメリカ、オランダのほうが優位にあるので、イギリスの政府はアメリカの雑誌 を維持するためにイギリスの国民の税金を使うという構図になる。これも説得し難い構図であろう。現在、とく に北米において「公的資金によっておこなわれた研究の成果は国民全体に還元すべきである」という議論が強ま りつつあり、これは、関係者からも、PubMed が無料化されたことによって利用実績が急増した事実を証拠とし て支持を得ている。もちろんこの脈絡においても、費用負担の問題が雲散霧消したわけではないことを理解して おくべきであろう。 ここで、以上のように大きな図式を考えるのではなく、単純化して図書館または大学という購入側が払う (予約 購読モデル) のか、それとも、研究者という (究極の) 提供側が払う (”Author Pays”(著者支払い) モデル) のかと いう問題であると考えてみよう。研究者たちは大学内の図書館への予算配分についてその意味を十分に理解してい るかは別として、そもそも、雑誌の刊行を可能するために、採択された論文については投稿料 (ページ・チャージ) を支払わなければならないとしたときいったい支払うであろうか。金額的には、現在、もっとも先進的と考えら れいる Public Library of Science で 1500 米ドル、商業出版社がページ・チャージだけでやろうとすると最低 3000 米ドルと言われている。最近、オープン・アクセスの要素を若干とりこんだ Proceedings of National Academy of Scinece で昨年調査したところ (www.pnas.org/cgi/doi/10.1073/ pnas.0307315101) によれば、オープン・アクセ スの理念に賛意を表するものは調査対象の半分であるにもかかわらず、500 米ドルまでならば払うとしたものが 21 80 米ドル以上払う覚悟ができている研究者はほとんどいないということになるであろう。 しかも、このようなオープン・アクセス形態の情報流通が、かつてハーナッドが企図したように学術情報流通に おいて出版者の存在を不要とするわけではない。出版者特に商業出版者は、たんに収入の入口の向きを図書館か ら研究者に変えるだけでよいのであり、コストの直接の負担者は変わっても学術情報流通の構造そのものが変わ るわけではない。研究者も図書館も大学に属するのだから、大学が支払えばよいという意見はあり得る。しかし、 その意見を実際に適用するときには、当然、論文を書く研究者がどのくらいいて、どの程度の論文を書き、それ を書くためにはどのくらい蔵書が必要であるか、そもそも大学院生についてそれをどの程度と見積るべきかなど の個別大学の事情が介入してくるであろう。したがって、大学経営者がこれまで図書館に振り向けていた予算を オープン・アクセス支援のために使用するという決定を行なったときに、最も反対するのはおそらく研究者自身 になるであろう。 日本の事情はさらに複雑である。日本では、すでに述べたように科学研究費補助金の枠組みのなかで (印刷体の) 学術雑誌の刊行助成がすでに行なわれている。ある意味で、政府の金、すなわち税金はすでに投下されているの である。したがって、それをさらに増やせという議論は大変しにくい。特に、電子ジャーナル化についてもすで に、J-STAGE という形で予算が使用されていることを考えると、説得力ある議論を組み立てることは容易ではな いであろう。学会雑誌の出版の健全性、維持可能性の観点からいえば、このような政府からの補助金への依存は望 ましいとは言いにくい。特に、これらの補助金が、その総枠、配分ともにその年ごとのさまざまな状況によって 変化し得るという不安定な要素は悩ましい。また、”Author Pays”モデルを採用したとすると、かなりの金額が海 外の出版者に支払われることになることは目に見えているし、すでに海外学会への投稿数は十分に多い。さらに、 これらの補助金配分の方法は公平にやろうとすればするほど、既得権の構造をもたらすことが知られているので、 有望な新規分野への補助を得ることは難しいであろうが、それではまさに電子ジャーナルの特質を生かしきって いないことになるであろう。 現在展開しているオープン・アクセスにかかわる議論は、たとえば、読者は Nature 誌に掲載されている論争 (www.nature.com/nature/focus/accessdebate/ ) などからよく理解することができるので、上述がそのほんの一 部 (しかし、重要な一部) にすぎないことを知ることになるであろう。いずれにせよ、オープン・アクセスの理念 は自明である以上、費用の負担をどのように考えるかという本質的に定量的問題であるにもかかわらず、論争の 多くが誰が負担すべきかという定性的問題としての扱いをしているように思われ、この問題の解決のためにより 定量的なアプローチと調査研究が必要となっている。そもそも、なんらかの形でオープン・アクセスの形態をとっ た学術情報流通が行なわれるようになると、現在よりも学術情報流通にかける総費用が減少するという議論はま だ行なうことができない。たしかに、出版者の営利企業活動としてともかく可能な業種を、社会的費用として解 決するという提案に説得力をもたせることは十分に困難である。 3.3 恒久保存あるいはアーカイブ オープン・アクセスの問題にくらべれば、これからの恒久保存をどのようにやっていくべきであるかというこ とについては、時間のスパンが長いだけに冷静に考えることができるであろう。前節で述べた短期保存について の考え方はすでに十分に整理されていると考えることができるが、恒久保存については、まだ考えるべき問題が 多い。とくに重要になることは、恒久保存を行なおうという点について、国内的、国際的合意ができたとしても、 それを実現する技術的な側面についてこれからの研究課題が残るという点である。 電子的資源一般の恒久保存の問題はとりあえず忘れ、学術情報の恒久保存を考えたときには、すでに、学術雑誌 がピアレビューという形での品質保証システムを確立していることは幸いである。もちろんピアレビューという 仕組み自体に内在するさまざまな問題 (たとえば、新しいものが抑圧されやすいなど) はあるが、学術雑誌に掲載 するに値すると判断された論文は恒久的に保存する価値があると判断された論文である考えてよいであろう。そ れらは保存しておこうではないか。それだけのことである。 当然なんらかの制度が必要であろうが、それだけの手間をかけて品質保証をしている研究者、学会、出版者が 保存はしたくないと考えているとは考えられない。したがって、どのようなものであれ、ともかくなんらかの制 度ができさえすればよいということになる。たとえば、ある種の強制納本的な制度であってもいいし、どうせ提 22 供するのが当然であるので、申し出制ににしてもかまわないであろう。しかし重要な点は、その制度が国際的に 調和したものでなければならないということである。すなわち、日本で電子的に刊行された (つまり、掲載する雑 誌のサーバが日本にある) 論文のファイルを日本で複製物をつくって日本で保存しておくことは、当然あまり賢く ない。やはり、地質学的、地政学的条件が異なる地域で保存しておくべきであると考えられるであろう。 したがって、このようは国際的連携を確保するためには、国立図書館の性格を持つところが努力の主体となら ざるを得ないと考えられる。この意味で、北米で試みられているさまざまなプロジェクト (エルゼビアとイェール 大学、ワイリ・ブラックウェルとハーバード大学など) は、やはり実験的な意味の濃いものであると言わざるを得 ない。 しかし、そのような実験は技術的観点からはきわめて重要なものである。第一に一般にマイグレーション (mi- gration) 問題と呼ばれる問題が存在する。すなわち、すでにわれわれが過去半世紀で経験してきたように、電子 計算機という手段は日進月歩の進歩を遂げ、数年前の媒体からのその内容を読みとることがすぐに困難あるいは 不可能になってしまう。したがって、常に利用可能な状態においておくためには、それぞれの時代で利用可能な 機械のうえで利用可能にしておかなければならないということである。このことを現在の段階で保証することは、 将来の技術のすべてが予測できるはずもないことを考れば不可能であるが、どのように対応するべきかという方 向を考察、研究、決定することはさまざまな意味で計算機技術の開発を制約する指針となり得るであろう。した がって、このことの研究がまず重要であり、それは、物理的媒体のレベルから、文書構造表現方法のレベル、そし て文書を活用するためのソフトウェア技術までに至る各レベルについて整合的に研究されなければならない。 さらにまた、保存するということは、一貫性を保つということを意味するが、電子的媒体の場合には、印刷体の 場合には考えもしなかったような問題が発生する。すなわち、改竄の問題である。改竄の問題には、善意の改竄 と悪意の改竄の 2 つの問題があるが、後者は、いわゆるセキュリティを強化することによって防ぐことができる。 ところが、たとえば、論文がその発表後盗作であるが判明した場合、サーバを管理する出版者は、訴追されるこ とを恐れて、その論文をサーバから削除するであろう。そしてそのことによって、どのような盗作がなされたの かということを含めて、記録は残るにしても証拠は失われることになる。これらの問題は、制作段階では、バー ジョン管理の問題と共通するものであるが、解決のためになんらかの技術を要することは明らかである。これ以 外にも互換性と一貫性をめぐる技術的諸問題が山積しており、今後の迅速な研究が必要であろう。 3.4 機関リポジトリ これまでの状況は、もっぱら学術情報流通における生産者 (著者・出版者) と最終利用者の問題として述べられ てきた。そうすることが可能であったということは、仲介する位置にいる大学図書館が電子化された時代において 果すべき役割りを失うということを意味するのであろうか。解答はイエスでもありノーでもある。もちろん、従 来型の物流依存の機能のほとんどは失われていくであろう。かつては盛んに行われていた書籍というものがまだ 残存し、また、古いものが残っているという理由で図書館の存在が正当化されるとすると、それは寂しいかもし れない。電子化の時代に相応しい大学図書館の役割とは何であろうか。 コーネル大学図書館長 (University Librarian) のトマス (Sarah Thomas) は、同館における arXiv.org の活動と Project Euclid の活動とを、図書館の蔵書構築という概念の延長線上にあるものとして位置づけている。すなわ ち、これらのいわゆる born digital(生まれながらに電子的) な資源の生産、管理、提供が大学図書館の重要な役割 となると考えるのである。Ginsparg は、ロスアラモスからコーネルに移るにあたって、arXiv.org のコンテンツ が査読を経ていないことから、将来的に大学図書館の蔵書として不適格とされることを恐れたと伝えられている (トマス談) が、基本的な考え方としては、図書館そのものがその見識としてコンテンツを、これまでのように「買 う」だけではなく、生み出していくということである。あるいは別の観点から述べるならば、大学図書館は、大 学において学術情報流通のすべてにかかわることが求められているということもできる。この理念の実現形態が 「機関リポジトリ」(institutional repository) である。 機関リポジトリの理念は、SPARC が代替雑誌戦略から次第に退き、電子ジャーナルのもつ特性を活用しようと するなかで具体的な形で提案されることになった。他方で、その技術的背景は、アメリカではコーネル大学のラ ゴージ (Carl Lagoze) の FEDORA アーキテクチャによるコンソーシアムや、MIT/HP の DSpace のためのコン 23 ソーシアム、またイギリスの JISC/CIE における DLib プロジェクトのにひとつであった Eprints などによって 1990 年代に形成されていたものである。 SPARC の現状認識と提案は、2003 年 3 月に刊行された「機関リポジトリ擁護論: SPARC の立場表明」The Case for Institutional Repositories: A SPARC Position Paper, http://arl.cni.org/sparc/IR/ir.html) に述べられ いる。その骨子は、研究成果の量的増大は依然として続くものの電子ジャーナル化によって、コンテンツ提供が 容易となり、開放利用への需要が増大した結果、とくに図書館で従来型価格・市場モデルへの不満が強くなり、ま た、学術成果の「アーカイブ」に関する不安も高まっているので、今後、図書館は、SPARC 活動において情報教 宣だけでなく、自分で機関リポジトリを運営して、新しい学術出版モデルの創出に務め、他方、研究者は、学会よ りも所属機関を重視し、自分の業績をそこから発信することによって、機関すなわち、大学のの知名度と威信の 向上させるように考えるべきであるという内容である。この際、新しい学術出版モデルとは従来は、「垂直一元統 合」であった学術コミュニケーションの 4 機能 (登録、承認、認知、保存) を分散的に実施するものであるされて、 これを「機関リポジトリ型学術情報流通モデル」と称している。この考え方は、研究者自身が情報流通を担うので はなく、研究者が属する機関が情報流通を担うべきであり、その際の実施主体として図書館が現段階では最適であ るという主張であると考えることができる。この場合、機関リポジトリは、オープン・アクセスとすることによっ て新しい学術情報流通の根幹を担うことになるであろう。オープン・アクセスを支えるものとして大学という機 関が自ら乗り出すということはそれほど不自然ではない。しかし、それが現在の出版モデルに取って代わるため には、すべての機関がこの理念に従う必要があり、もちろんリポジトリーのコンソーシアムのような形態が考え られるにせよ、すべての先進国のすべての大学がなんらかの意味でこの理念に関与することを求めていると考え ざるを得ない。また、その費用負担について、大学内で十分に正当化できるか、とくに、研究大学でないときに どのようにすぐれた正当化でもそもそも受け入れられるかという点について当然の疑問が残る。 しかし、もちろんそのような連携を組織することはきわめて困難である。さらにまた、そのような機能を担う ことに負担を感じる大学図書館が、システム運用と権利処理を外注したならば、どこに図書館の主体性が残るか も疑問となる。この意味では、機関リポジトリによって学術情報流通を変革しようとするにしても別の観点が必 要となることがわかるであろう。 そのような観点を提供しているのは、かつて「転覆計画」を立てつつも結局は実現していないハーナッドであ る。同氏の現在の主張は、著者が自分の論文を自分のウェブサイトあるいは自分の機関の機関リポジトリにおい て、自由に閲覧することを許すようにすることが著者に本来的に許されるべきことであるという議論を根拠に、い わゆる自己アーカイブ (self-archive) の場所として機関リポジトリを位置づけるというものである。この場合には、 たとえば、上述の SPARC のモデルでいう承認・認知は既存の出版にまかせつつ、また、出版者がアーカイブす ることを否定するのでもなく、ただみずからアーカイブの一翼を担うということになる。もちろん、このような アーカイブも複製頒布の一部と考えるならば、著作権が出版者に譲渡されている以上許諾の対象となるものである が、出版者自身がどのように考えているかということを調査するイギリスノ Loughborough 大学の RoMEO プロ ジェクト (Rights (of) MEtadata for Open Access) によれば、約 60%がなんらかの自己アーカイブを認め、とく に約 3 分の 1 は、刊行されたあとも自分の最終版を自己アーカイブすることを認めているということである。こ れに 2004 年 6 月からエルゼビアも認めることになったので、ほとんどの出版者がこの形の自己アーカイブを認め るということになるであろう。この意味での機関リポジトリは、目標は野心的ではないが、恒久保存にとっても役 立ちつつ、著者の責任について当面の重要なハードルをクリアしたといってよいであろう。また、この自己アーカ イブが保有するコンテンツのメタデータを上手に集約して整理できれば、ほとんど目次・抄録に相当する内容を もつデータベースを構築することができる。DLF が調整して開発した OAI-MHP と呼ばれるメタデータ収集プロ トコルはそれを可能にする。 日本は、この機関リポジトリの分野においては、世界的には知られていないが、先駆的であり、かつ現在もっと も組織化されていると言ってよいであろう。すなわち、1990 年代に学術審議会 (当時) の提唱に従って展開した先 導的電子図書館プロジェクトは、「発信」という表現をキーワードとしていたが、基本的に自館保存資料の電子化 を行なっていたのであり、特に筑波大学においては、所属教員・研究者の研究業績コンテンツを掲載する機能を 「電子図書館」機能と呼んでいたのであるから、その先見性は現状を見るかぎり大変に惜しまれる。その記憶がほ とんど失われつつも (したがって、われわれは筑波大学電子図書館の企図と実践について世界に報告する義務があ 24 るであろう)、ほとんど 10 年後に国立情報学研究所を中心として形成されつつある機関リポジトリ実施の試みは、 OAI-MHP を利用したメタデータ収集と連携していることを考えるならば、わが国における研究成果の集約・保 存のインフラストラクチャとなる可能性を持っているということができる。とくに日本の人文社会系の成果発表 が学内刊行紀要に依存するところが大であり、かつ電子化が遅れていることを考えるならばさらにその機能に期 待するところは大きい。また、そのような機関リポジトリを運営する主体として、大学図書館の大学における役 割はこれまで以上に重要となることが確実である。 その意味では、上述の SPARC の文書が指摘している 4 つの注意点は重要な示唆をもっているといえる。すな わち、 1. 機関における明確な位置づけ 2. 学術資料への限定 3. 蓄積的かつ恒久的 4. オープンアクセスかつ相互運用可能 特に、上記の 3 と 4 は、原則論として重要であり、かつ、運用のためには、教員を中心として全学的に支持と支 援が不可欠であるので、図書館の学内マーケティングとして重要な要素となるであろう。また、2. によって、シ ステムにかかる費用などが予測可能となることが期待される。 以上のように、機関レポジトリは、ある時代ではすでに試みられた機能を集約したという側面があるものの、 「機 関」という単位で結合することによって、学術情報流通基盤の一角を担うことが期待されるであろう。 4 まとめ 本稿においては、1980 年代以降の学術コミュニケーションの場面における主要な展開を、世界的な動向を背景 として紹介しつつ、国内における 2001 年以降の展開を概観した。個々の問題については、すでにいくつかの記述、 説明が、印刷体としても電子体としても発表されているので、それぞれについて参照されたい。世界的規模の動 向は、(1) 学術コミュニケーションの商業化と (2) その電子化とによって特徴づけられる。どちらの側面について は、出版者としてのエルゼビアが重要な役割を果しているので、一見この 2 つの側面には共通の原因があるよう に考えがちであるが、そうではなく、この 2 つの側面はそれぞれ独自の学術的、経済的背景をもっていることを 明らかにした。 日本における学術情報流通に大きな責任をもつ大学図書館は、 この背景のなかで 2000 年以降いくつかの新し い試みを含めて、主体的に取り組むことになった。そのなかには、(1) 図書館コンソーシアム形成による海外雑誌 出版者との直接交渉、(2) 日本の大学における学術情報環境電子化への取り組み、(3) 学術コミュニケーションの 電子化が必要とするアーカイブ機能の提言と実現、(4) 海外研究図書館団体との連携による国際的学術情報流通体 制変革への取り組みと国立情報学研究所との協力によるその推進 (機関リポジトリーを含む) が含まれる。この過 程で、今後の学術情報流通の形態に関して真剣な検討が必要であることが認識され、国立大学図書館協会、私立 大学図書館協会などの大学図書館団体、さらにこれらの調整をはかる国公私立大学図書館協力委員会などにおい て、そしてさらに、大学図書館の活動をシステム面で支援してきた国立情報学研究所 (旧学術情報センター) とも 連携して、従来にもまして活発が議論と活動が展開しつつある。 すでに述べたように、客観的情勢は厳しく、かつ、将来における外的条件についての予測は非常に困難であり、 したがって、どのような方向でこれからの学術情報流通のあり方を構想すべきであるかということについては、常 に自信のなさ、おぼろげな不安がつきまとう。しかし、21 世紀の世界の知識社会化、その中での日本の科学技術 創造立国の方向性を考えるならば、このような変化に対して積極的かつ創造的に貢献することが日本の大学図書 館界の義務であると言わざるを得ない。そしてそのために、たしかに他にもさまざまな課題を抱えるとはいえ、日 本の図書館界全体の支援が必要であると感じられるところである。本稿がそのための理解の一助となったことを 期待する。と同時に、当面の電子ジャーナル化への対応は、電子化された学術情報流通のなかでの大学図書館の 25 役割が大きく変貌することを予感させており、そのことは、図書館そのものが電子化された社会において果す役 割の変貌に帰結する可能性を秘めているといえる。 26
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