特 集 『MBIストーリー(1)』(1~10 期)

特 集
『MBIストーリー(1)』
(1~10 期)
MBIは永遠です
高羅 駿治 (第 1 期)
マッキンゼー社は 1984 年、「真の『国際人』ビジネスマンの育成」を目指し、日本企業(参加企業
約 25 社)のグローバル戦略を進めるための人材をそれぞれの企業の中に 30 名育成するため 10
年プログラムとして、Multinational Business Institute (MBI)を発足しました。
私はそのプログラムの第 1 期生として参加しました。第 1 期生は、プログラム全体を成功裡に収
めるための最初の実行トライアルということでもあった訳で、マッキンゼー側からもいろいろ配慮が
あったものと考えます。
お蔭さまで、我々研修生は、1984 年 8 月 27 日から 3 カ月間、会社の日常業務から離れ、なかな
か経験できない研修体験をすることができました。中でも、アメリカでの研修体験は、私にとり大変
有意義でした。
第二次世界大戦後のアメリカは、すべての分野で超大国ながら、ベトナム戦争では、初めて勝利
を飾ることができなかった事態に苦悩しており、ヨーロッパでは、東西に分割の時代ながら、初めて
の経済共同体作りを目指していました。
アメリカでは、ロサンジェルス、アトランタ、キアワ
(サウスカロライナ近郊のリゾート地)、チャールス
トン、ニューヨークの各都市を 4 週間廻り、多国籍企
業、弁護士事務所、金融機関、会計事務所、日本企
業などを訪問しました。特に印象的だったのは、ベト
ナム戦争反対を主張した黒人公民権運動の指導者、
ノーベル平和賞受賞者、牧師の子であった Martin
Luther King, Jr. を記念した Martin Luther King
Center を訪問したことでした。また、ユダヤ教会や美
術館など学習以外の見学も面白いものでした。
チャールストンで一日の研修を終えて
(1984 年 10 月 16 日)
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
Martin Luther King, Jr. 記念館の前で(1984 年 10 月 10 日)
ヨーロッパでは、ロンドン、プリマス(イギリス)、ブラッセル、デュッセルドルフ、パリ、ミラノ、ローマ
の各都市を約3週間廻り、各地で見聞しました。フランスではディジョンのワイナリー見学もありまし
た。
第1期の参加者は 15 名で、企業を代表するような面々が参加されました。しかしすでに 2 名が鬼
籍に入ってしまいました。コニカ(現コニカミノルタ)の上飯坂さんは 1 期のまとめ役でしたが、研修後、
残念ながら間もなくお亡くなりになりました。三菱自動車工業の園部さんは、その後社長に昇格され
ましたが、2003 年にお亡くなりになりました。
イギリスのプリマスで DCDB 社訪問 (1984 年 10 月 30 日)
[握手しているのが筆者、左:上飯坂さん、右:外村さん、外村さんの左:園部さん]
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
野村證券の外村さんは、常に 1 期生の中心的な存在で、人を引き付ける魅力があり、研修終了
後、帰国直前にロンドンの現地法人トップとしての人事が決まり、そのままローマからロンドンに直
行となりました。外村さんは、昨年(2015 年)、自分の現地での体験をまとめて、『野村證券 グロー
バルハウスの火種』と題した本を(株)きんざいから出版されました。証券業務の国際化を進めるた
めには、日本人役員報酬と現地スタッフの高額な報酬体系に大きな差があることを指摘し、同時に
その高額報酬が裏付けとなるべき本当の英語力のあることが、日本人役職者には必要、と述べて
います。
改めてMBI研修を振り返ってみると、研修中の体験は、私の人生の中で非常に大きな意味を持
っています。それは、自分の企業(横浜ゴム)の中だけでは知り得なかった貴重な知己を業界の壁
を越えて得たことです。特に、サラリーマン生活を終えたあとの長い年月の間、多くの友人との交際
は自然と家族ぐるみとなり、日常生活に節目と喜びをつけることとなりました。
MBI研修を終えて 30 年以上経ちますが、今でもMBI仲間・家族とのお付き合いは続いておりま
す。これは偏にMBI研修生の纏め役を快く引き受けてくださった菅野さんのご努力、お人柄のお蔭
であり、心から感謝いたしております
<2016.5.13 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
Unforgettable な思い出
野上 浩三 (第 1 期)
大前先生が語られた MBI の目的は「会社を背負って立つ役員と海外拠点長の育成」であった。
具体的には、当時日本企業は海外でつまらないミスで大きな損失を被っていたので、その現状を改
善することであった。
訪問した国はアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリアで、訪問先も一流であった。思い出に残る発見
の一つはヘッド・ハンター会社であった。これが、わが国の代表取締役社長とアメリカの CEO が全く
別物であることを知る契機ともなった。前者は権限が集中し過ぎており独裁化して取締役会を形骸
化させて統制力を失わせるが、後者は取締役会の統制力の下で能力本位の経営者の出現を可能
にする。わが国の企業が企業統治機能を発揮するには、代表取締役社長から CEO への変更が絶
対に必要であることを知った。
海外研修から帰ると、竹内先生の Unforgettable Experiences を書けという宿題が待っていた。
私は、TGV(新幹線)でブドーの産地ディジョンを訪問した日の失敗について書いた。その朝、「みん
な集まっていますよ!」という電話で起こされた。歯だけは磨こうと、慌ててチューブから歯磨き粉を
出して口に入れた。変な味がした。皮膚の炎症止めの塗り薬だった。前夜遅くシャンゼリゼ通りの屋
台へ、生ガキを食べに行った咎であった。ディジョンのレストランで出された白ワインのマグナム瓶
は、今は山小屋に鎮座しており、この日の出来事を思い出させてくれている。
同級生の最年少者は三七歳の伊藤福正氏であった。自説を滔々と主張するので最初は嫌な奴
だと思っていた。最終的には最も親しくなり、後に彼が新製品の製造・販売会社を設立した際には
出来る限りの応援をした。製品は完成し特許も得たが、営業力と資金力の不足から失敗に帰した。
今、彼とは音信不通である。過ぎたことは過ぎたこと。再会を願っている。
研修終了後直ちにニューヨーク事務所に所長として赴任した。アメリカは、日米間の鉄鋼や繊維
の貿易摩擦の真っただ中で、デトロイトでトヨタ車が労働者によってハンマーで叩き壊されるシーン
がテレビに映っていた。ある商社で、日本の週刊誌のヌード写真がデスクに広げられていたのが現
地女性に問題にされ、議会の聴聞会で取り上げられた。セクハラの重大性をこの時に知った。ブラ
ック・マンデーとプラザ合意にも遭遇した。怒涛のアメリカであったが、MBIのお蔭で無事に過ごせ
た。
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
1988 年にアメリカから帰って国際投資部長になった。会社は、プラザ合意後の急激な円高の結
果、海外投資で 1985~87 年で 1 兆円余りの為替損を被っていた。海外投資は国内の資産運用市
場の狭隘化を受けて開始されたのであるが、推進者に対する批判は厳しかった。
そんな中で 300 億ドルのドル建て資産の管理・運用を任せられた。ドルが 1 円変動すると円換算
の資産価値が 300 億円変動するという、今考えても恐ろしくなる任務であった。新たな問題は、ドル
安トラウマに陥った役員からドルの目減りを避けるためのヘッジを大幅に増やせと強硬に命じられ
たことであった。ヘッジは損失リスクを伴うこと、アメリカの実力から判断して1㌦=125 円は適正水
準でありヘッジは不要である、と私は強く抵抗した。結局は大幅に増やすことになったが、ヘッジを
増やし終えた途端にドルが強くなり始めた。今度は別の上位の役員からヘッジ外しを命じられた。
ヘッジとヘッジ外しにはドルの売買を大量に必要とするので、自ずと為替市場における会社のド
ルの売買量が急増した。その上、この買い戻しをキッカケにドルが 150 円台まで急騰した。当時日
米間で内密に交わされていた1㌦=130 円を上限とする合意に反することになった。
けんせき
一連のヘッジ行為が大蔵省によって「投機」と見なされた。会社が譴責を受け、国際投資部長の
私は窓際に追いやられた。
MBI の研修のお蔭で激務を信念を持って成功裡に遂行し得たが、大前先生の期待に応えること
が出来なかったのが残念でならない。
アメリカ LA でシナゴーグ見学(1984 年 10 月 2 日)
シミュレーション発表で優秀賞をチームで受賞
卒業式で賞状授与(1984 年 11 月 22 日)
<2016.5.13 記>
☆ ☆ ☆
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MBIの思い出―「日本型経営スタイル」 vs 「欧米型経営スタイル」
大島 祥一 (第 1 期)
我々第 1 期がスタートしたのが 80 年代前半(1984 年 8 月)で、正に日本が高度成長期を迎え、
世界が注目し始めた時期だったと思います。マッキンゼーとしても、日本企業が世界でそのプレゼ
ンスを増す為にこの企画は大いに役立ち、このタイミングでスタートするのがベストと考えたと思い
ます。でも我々は第 1 回でマッキンゼーとしても初めての試みであり、金に糸目をつけず随分思い
切った内容のコースだったと思いますが、参加したメンバーも夫々一家言を持った曲者で、色々無
理難題を言って困らせたのではないかと思います。
当時の思い出の一つが、最初にアメリカに渡った時、幾つかのチームに別れ現地の経済人に日
本に関するプレゼンをやった事でした。時恰も日本が破竹の勢いで世界に出て行った時期で、現地
の皆さんも熱心に聞いて頂きました。我々のプレゼンは、日本経済の強さの秘密は何かと云う事を
我々なりに分析し、欧米との比較を試みたものでした。大きなポイントは、短期の株主利益を優先す
る欧米式経営スタイルとは異なり、日本の企業体質が終身雇用や年功序列をベースとした長期的
利益に重点を置くスタイルで、この差が日本と欧米との差ではないかと大見得を切った事を覚えて
おります。
アメリカで企業訪問でのラウンド・テーブル会議(1984 年 10 月)(筆者:右から 3 人目)
今にして思えば企業も国も全てが成長している時期だからこその日本型経営スタイルだったのだ
と思います。当時の現地の皆さんはもう少し冷静で、日本型スタイルに興味はあっても自分達に導
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
入出来るものとは思っていなかったようですが。逆に我々はこのコースで米国式経営手法や分析手
法をいろいろ勉強させて頂き随分刺激を受けました。更にいろんな分野の人の話が聞け、ある種自
信を持った形で新しい仕事に進んで行けたと思います。
私はコース終了後、程なくロンドンで証券業務に就くことになり、このコースでの経験や勉強がい
ろいろ役に立ちました。80 年代半ばのロンドン・シティでの日本のプレゼンスは絶大で、そこのけそ
このけ日本が通るといった調子で闊歩していたように思います。1987 年のブラックマンデーも経験
し、世界が経済的にも政治的にも激動の時期を迎えるなか、4 年程勤務した後、平成前夜の日本に
帰ってみると、日本は正にバブルの頂点にあり不動産・為替・証券全てが儲けの種と化し、日本全
体が熱病に浮かされている状態でした。
あれから 30 年弱、日本の雇用形態も企業と株主との関係も大きく変化しました。日本的経営形
態は色々な時代の変遷の中で変化し、様々な手直しはあるものの、日本的なものを残しつつ世界
の潮流に上手く適合しょうとしているのではないかと明るい希望を持っております。現役の皆さんは
自信を持って堂々と世界に打って出て下さい。
イギリスのプリマスで DCDB 社訪問 (1984 年 10 月 30 日)
[筆者:左から二人目]
<2016.7.8 記>
☆ ☆ ☆
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キアワでの炊事当番
外村 仁 (第 1 期)
1982 年の秋、7 年ぶりにニューヨーク勤務から帰国。海外営業本部の部長を務めていた。折しも
中東の産油国の保有するオイルマネーが急激に増加し、これを日本の株式や債券にどう取り込む
かが焦点であった。
1984 年の夏、海外業務管掌の田淵義久副社長(当時)から「今年から始まるマッキンゼーの研修
に一番バッターとして参加するように」と突然の指示を受けた。これには驚いた。藪から棒である。
「9 月末の海外拠点長会議の準備もありますから・・・」と逃げを打ってみたが全く相手にされない。
研修に参加することが瞬時に決まってしまった。
さあ、大変である。研修開始までに時間もない。呆気にとられている部下にやりかけの仕事を丸
投げして、8 月末の開講式に駆け付けた。
1 期の研修生は 15 人。生保、銀行の人もいるが、メーカーが断然多いようだ。私より年長者が 5
名、若い人が 5 名程度である。何しろついこの前まで朝から夜遅くまで仕事ばっかりしていた人間が、
急に学生時代に戻って勉強と言われてもなかなか調子が出ないまま研修がスタートした。
ここで白状しなければならない。私は研修生として不良落第生であった。若いころ会社からコロン
ビア大のMBAコースに派遣されたこともあり、また同じようなことをやるのかという驕りもあったし、
また今まで忙しかったので少しゆっくりしてこいという会社の親心と勝手に決めつけて研修に身が入
らなかった。更に一期生ということでマッキンゼー側の扱いも優しく、講義室のロビーの冷蔵庫には
アルコール系飲料もあり、自由に飲んで良いという。早速昼休みにビールに手を伸ばし午後の講義
は半分夢うつつ。今思えば冷や汗ものであった。マッキンゼーの皆さんにはさぞご迷惑であったと
思う。随分前のことだがこの機会にお詫び申し上げたい。
とは言え、15 人の仲間との交流はとても楽しかった。入社以来社内の付き合いが主であった私
にとって、年代も異なる異業種の人たちと過ごす日々は新鮮な体験であった。研修が進むに連れ、
私は何となく仲間の宴会係のような役回りになっていた。
日本でのプログラムが終わり、9 月末から海外研修が始まった。ロサンジェルスを皮切りに米国
での研修となったが、サウスカロライナ州のキアワアイランドという保養地で数日過す機会に恵まれ
た。午前中勉強、午後は自由行動でゴルフなどまさに天国であったが、日本料理店がないのが唯
一の欠点。あらかじめロス滞在時に仲間と相談して「おにぎり作戦」の準備をした。米や海苔、梅干
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
し、醤油などを買い込み、炊飯器は米国仕様のものを東芝からの研修生の石黒さんに頼んで入手
し、キアワに持ち込んだ。
キアワでは夜になると、私の部屋に集まっておにぎりパーティ―である。米をとぐ人、おにぎりを
作る人、近所のスーパーで飲み物や紙製の食器を買ってくる人など何回もやっているうちに自然に
役割が決まっていった。なかでも印象深いのは、調理から後片づけまで手伝ってくれた三菱自動車
の園部さんである。彼は後に社長に就任するが、惜しくも若くして病に斃れてしまった。ニコニコしな
がら水仕事をしている姿が思い出される。
キアワでのおにぎりパーティー(1984 年 10 月 14 日)
私の研修の想い出はおにぎりパーティ―に象徴されるようなオフタイムの仲間との交流が中心で
ある。海外研修の終盤、ミラノに滞在中、私は東京からの深夜の電話で取締役候補に選任され、野
村ロンドンの社長を発令されたことを知らされた。研修を中止してすぐロンドンへ向かうことになった
が、急遽仲間が送別会を開いてくれた。とても嬉しかった。研修を通じて素晴らしい仲間に出合えた
ことを心から感謝している。
樹齢 400-500 年の Angel Oak Tree を眺める仲間たち@キアワ
<2016.5.17 記>
☆ ☆ ☆
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追憶のMBI研修旅行
髙木 茂雄 (第 2 期)
「MBI Crossroads」の育ての親、MBI事務局の菅野さんからメールで「MBI研修当時の写真と、
2 期生としての思い出などを Crossroads に一筆お願いします」とのご連絡で、遥か 32 年前にもな
るMBI研修旅行の思い出を辿りつつ、追憶の一文を試みる次第です。
当時の私は満 52 歳で 2 期生の中では最年長、光陰矢の如しであっという間に現在は 84 歳の高
齢者、認知症の世代と相成りました。
幸いに自宅にあるアルバムは年代別に揃っており、
1984 年版、1985 年版よりMBI研修関連を抜き取り、
東京研修を 1985 年 1 月 17 日に終え、1 月 19 日
に成田空港出発時のスナップや、ロサンゼルス・サ
ンタモニカでのスナップ、3 月の東京でのMBI卒業式
の全員の写真など見ているうちに当時の記憶を辿る
と、いろいろな思い出が蘇ってきました。
海外研修出発@成田空港(1985 年 1 月 19 日)
MBI第 2 期生は、18 名中(残念ながら 4 名は故人となられましたが)14 名はそれぞれの生活を
エンジョイされています。我々同期生は 2~3 年毎に同期会を開催し、お互いの元気さを確認し合い
ながら、公私共々の情報交換を行っております。3 カ月間も寝食を共に過ごした仲間は素晴らしい
ご縁となり、お互いに気心もわかり、生涯のベスト・フレンドとなりました。松岡さんや成田さんとも相
談して、今秋か来春には同期会を開催しようと話し合っています。
さて、MBI研修を今から振り返ってみると、以下のようなことが特に印象に残っています。

当時の時代背景はまだ高度成長期であり、国際化への最先端情報は正にMBI研修でした。
その後 30 年経過した現在の世界は、1980 年代とは雲泥の差で、歴史は凄まじい勢いで空転
し、大変化を起こしています。異常気象現象、政治、経済、社会も混沌としており、不透明な時
代に突入しています。

ものづくりが主体のメーカー出身者にとって研修内容は、当時は刺激的で新しい国際化の潮流
に開眼させられたものでした。特に、マッキンゼー社の世界に網を張り、最先端の情報・知識・
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
知力でノウハウを構築するコンサルティング会社の力には驚きとともに、強いインパクトを与え
られました。

研修中、自己の語学力の低さを嘆いたものですが、ホテルの部屋で、夜毎に翌日のケース・ス
タディの準備に辞書片手に悪戦苦闘したことや、海外ではその合間をぬって各地での観光やミ
ュージカル、オペラ、コンサート、ゴルフ・プレーなど、オフ・タイムも素晴らしいスケジュールで、
大変エンジョイできたことなどが思い出されます。それらのことは、いまだに脳裏に焼き付いて
います。

英国スコットランドでは、現地工場見学後、BBC記者よりインタビューを申し込まれ、図々しく引
き受け、3~4 名でホテルで対応しました。それが翌日のラジオ(BBC地方版)で放送されまし
たが、BBC記者が、日本の実業団がスコットランド投資のため現地調査に訪れていると勘違い
したらしいことが分かりました。
このように研修旅行中には、いろいろハプニングもありましたが、今ではいい思い出として残って
おります。
さて、レベルの高い「MBI Crossroads」も随分長く続いたものですね。MBI同窓会はいよいよ
2019 年に幕を閉じる由、マッキンゼー社とMBI同窓会幹事、同期諸兄、菅野さんに感謝する次第
です。MBI同窓会は異色の高度な同窓会です。
サンタモニカの海岸にて(1985 年 1 月)
MBI第 2 期卒業式@東京(1985 年 3 月 8 日)
<2016.8.10 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
なかなか抜けだせない英語の苦手意識
鴨志田 元孝 (第 3 期)
私の英語の苦手意識は高校時代からである。しかし苦手を理由に逃げることもできない場面に
遭遇するのが人生というものらしい。1970-71 年、会社よりカリフォルニア工大に留学する機会を与
えられた。教授から学び、吸収できるのは実験結果を基に教授と議論し、論文に纏めるときしか無
い。悩みは言葉の壁であった。なにせ教授の冗談を理解するのに 3 日かかる始末である。人生で
初めての海外体験だったので、今から思えば弥次喜多道中であり、またニューヨークで嫌な体験も
した。帰路の機中で、「やっと終わった。もう二度と来たくない」と思ったものである。
それなのに 1985 年に事業部長より英国の半導体子会社赴任の打診があった。「会社の命令で
あれば、行かざるを得ませんが、気乗りはしません」と答えておいた。適任者も多いので、どうせ私
には当たらないだろうと軽く考えていた節もある。ところがその適任者達が全て断ったため、困った
事業部長は肝心の「気乗りしない」を忘れ、私の言質を捉えて「行けと言われたら行ってもよいと答
えたのは君だけだ」と、受けざるを得ない環境にしてしまった。「赴任前に MBI で教育を受けよ」とは、
私の実力を心配した当時の取締役の温情であった。
MBI では遠山顕先生の講義を受けた。knock-knock joke の宿題が出て、東芝アメリカのテネシ
ー工場長になられた同期の池田宏氏が、私の苗字を使って
"Knock-knock."
"Who's there?"
"Kamoshida."
"Kamoshida who?"
"Come on, sit down!"
なる傑作1を作り出したのもこの時である。私にもそのような才覚があれば苦労しないのにと思った
が、残念ながら私にはその才は無い。この joke は以降、遠山先生の MBI 教材になったと後年の参
加者から聞いた。
実 は 本 稿 提 出 時 点 で は こ の knock-knock joke を 解 説 風 に 書 い て い た が 、 菅 野 様 か ら
「knock-knock joke は遠山先生流に書き直した方がよい」とのコメントと共に、フォーマットに沿った
文章案を頂き、親切にも、念のため遠山先生に確認して下さった。旧稿の「Come in を Come on に」
という微修正の上、菅野様のコメント通りで良いとのことであったが、その遠山先生の返事がまた先
1
Joke と私信はいずれも池田氏、遠山先生、菅野様から許可を得て掲載
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
生らしい。
「ノックノック、懐かしい!
あれはいい味が鴨志田されていましたね。
あそこまで池田ら文句なしです。
KEN」* (2016 年 7 月 3、4 日 菅野様からの私信*) (*前頁脚注参照)
遠山先生はご健在である。
奈良橋陽子先生の授業の時、初対面の挨拶を先生相手に教壇でロールプレイする羽目になった。
最初に「相手の目を見て握手をせよ。それも力強く」とのことである。当時の先生はまだ 30 代、妙齢
の美人で、そのような女性の手を握ってもよいのだろうかと躊躇し、手が出せなかった。しかしそれ
ではロールプレイは進まない。形だけ触れるくらいなら許されるだろうと、そっと手を出したら、「それ
ではだめ!こうするの」とグッと握られてしまった。こちらはびっくりして硬直し、汗も噴き出すし、ホウ
ホウの体で退散しようと教壇を降りかけたら、「まだまだ! 帰ってはだめ!」と引き戻されて再プレ
イ。もちろんこの間、同期の諸氏は大喜びで爆笑、爆笑だった記憶がある。皆、若かった。
奈良橋先生、竹内先生(中央)も参加された
東京での打ち上げパーティー(1985 年 5 月 30 日)
在英時代も言葉の壁に悩まされた。しかし今思うと英語以外でも、MBI アトランタでの人事の講義
などは後日、大変参考になった。一方講義で聞いた記憶は無いが、赴任中は Japan Bashing の最
中でもあり、その対応に苦慮することが多かった。産業振興に貢献した地元企業の表彰パーティー
に招待された時、洗濯機を作る家電メーカーだったと記憶するが、その受賞者が日本非難のスピー
チを始めた。黙っていれば認めたことになる。私を招待してくれた両側の席の人たちが、私をチラチ
ラと見て気遣ってくれているのが判った。祝賀会でもあるし、荒立てずそのスピーチの間だけそっと
席を外そうかと逡巡しているうちに結局時間だけ過ぎた。どうすべきだったのだろうと今でも思い出
しては考えることがある。その他の色々な苦労話は竹内弘高先生と石倉洋子先生の共著『異質の
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
マネジメント』(ダイヤモンド社、1994 年)にも、4 か所にわたって取り上げて頂いた。時の流れの浄
化で、当時の苦労は懐かしい思い出に変わっている。
ホームパーティー@マッキンゼーアトランタ事務所長ジェームス・バルーン氏邸
(1985 年 6 月 14 日)
帰任後は NEC-AT&T 共同開発プロジェクトも担当したため、AT&T 側との会議や食事の機会も
多くなった。スピーチは相変わらず苦手で重荷だったが、責任者なので逃げるわけにもいかず、MBI
流にグラスをチンチンと鳴らして、下手な英語を聞いて頂いたものである。Intel とのベンチマーク交
流もあった。この頃が乏しいながらも私の英会話力のピークだった。
フランス首相公邸訪問(1985 年 7 月 13 日)
そのような時代から既に 25 年以上経過し、英会話の頻度も格段に減ったため、英語に対する苦
手意識は完全に元に戻ってしまった。努力もしていないので、とっさの場合に単語が出てこない。皮
肉なものでそうなっても、まだ時折英語を要求される事態に陥る。現在非常勤講師として英語、日本
語と隔年ごとに毎年 7 コマの講義を担当しているが、英語での講義の年は「Native ではないので」
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
と断ると、アジアからの留学生達に「私達も同じですから」と励まされている。自分の講義を録音し、
次回の参考にしつつ、ここでも自転車操業である。
最近は町内会の持ち回り班長の役目で、フィリピン人宅にも集金に回らねばならない。「チョウナ
イカイヒ? ワカリマセーン」と言われ、英語で町内会の説明をしていると、昔の異文化体験を思い
出す。日赤の社資や地元の神社の講金の説明にも四苦八苦である。
今もって英語の苦手意識から抜け出せないが、何とかやっていけるのも、MBI での教育が基礎に
なっていると感謝している。心の拠り所でもあった MBI の同窓会も終わると聞くと寂しくなる。これま
での菅野様のご努力には深甚な感謝の意を表したい。幸い我々の同期会は幹事の努力のお陰で
続いており、そこでは異業種の経験豊富な多士済々(例えば新田氏・坂上氏 e-Crossroads No. 5
の「同期近況」参照)から、時宜を得た貴重な話を聞くことができる。MBI が我々に残してくれた貴重
な財産なので、こちらの会は継続を強く希望している。
<謝辞>
本稿を纏めるに当たり、遠山顕先生、池田宏氏、菅野妙子様にはそれぞれ掲載のご了承を頂く
と共に、コメントや修正作業等で大変お世話になりました。特に knock-knock joke の表記に関して
は、遠山先生より 30 年前と同様、微に入り細にわたる暖かいご指導を頂きました。ここに記し厚く御
礼申し上げます。
<2016.7.6 記>
☆ ☆ ☆
17
e-Crossroads (No. 6, August 2016)
MBIに参加して―米語と英語の違いに痛感
赤松 秀樹 (第 4 期)
担当の業務でいずれはニューヨークの前任者との交代を覚悟していた時に、思いがけず MBI 第
4 期研修(1985 年 8 月 26 日~11 月 22 日)への参加の機会を得ました。
業種・年齢・経歴の全く異なる 19 人のメンバーの一人として、今から思えば夢のような充実した研
修を受けることが出来ました。大前先生、竹内先生をはじめとする錚々たる講師陣、多彩で充実し
た講義内容、テーブルマナーやワインテースティング、そして毎夜の仲間たちとの語らい、何れも新
鮮で刺激的でした。それでも中には知識や経験の不足であまり理解できないものもあり、ついコック
リしていると後ろの席の団長・副団長からポカンと一発食らうことも。
そしていよいよ海外研修。最初のロスアンゼルスでの研修中の突然のハッピーバースデーの
声!これがアメリカのやり方か、とハッピーサプライズでした。
「アメリカのビジネス・エグゼクティブの体験をさせる」とのことで、盛り沢山の企業訪問やケース・
スタディー、現地のエグゼクティブたちの自宅でのパーティー等々、改めてスケジュールを振り返っ
てみるとその充実ぶりには驚かされます。尤も当時の私のキャパシティーでは消化不良のものも多
く、大半が忘却の彼方で、一番印象に残るのが「エグゼクティブたちのバケーションの過ごし方を学
ぶ」との触れ込みで過ごした KIAWAH(キアワ)での 3 日間でした。
キアワでエグゼクティブたちのヴァケーションを楽しむ(1985 年 10 月 12 日)
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
そして、ニューヨークのワールドトレードセンター106 階「Windows on the World」でのウェルカム
レセプション。ここはその後の NY 駐在中にも何度か MBI の人たちを迎えて食事をしましたが、残念
ながら 9・11 であっけなく崩れ落ちてゆく映像は衝撃的でした。
ヨーロッパでもさらに充実した研修を重ね、最後にたどりついたロンドンでのショッキングな出来事
は、影の内閣の外相 Denis Healey 氏のレクチャーが殆ど理解できなかったことでした。それまで
様々な国で英語のレクチャーを聴いてそれなりに自信を持ち始めていただけにショックでしたが、他
のメンバーも同様だったようで、ロンドン駐在経験のあるメンバー(内村さん)の recap で一同何が話
されていたのかやっと理解した次第。英語と米語の違いを痛感したのも一つの経験でした。
ロンドンの最終日の打ち上げ会の席上、折角のこのグループの付き合いを長く続けるために会
の名前を付けようということになり、鈴木さんの提案で「マービック会」になりました。それから 30 年
以上、毎年数度の飲み会やアウティングで懇親を深め、今年はメンバーの斉藤さんの旭日大綬章
のお祝いを計画しているところです。
これは最新の写真です。ペルーのオリャンタイタンボ駅(2016 年 3 月)
<2016.7.14 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
MBI研修の凄さ
川内 清隆 (第 4 期)
私は 6 年間の米国駐在を終え日本に戻り、1985 年、日本経済はバブル期の中で、営業部長とし
てリコーの世界販売網を構築すべく月二回以上のペースで世界を飛び回っていました。
その時期にリコーの三人目として MBI 第 4 期プログラムの研修を受けることになりました。
グローバル化の動きは事務機の海外戦略の展開については既に実体験をしていましたが、MBI
学長大前研一氏の世界戦略思考を享受したことで、現在も躍進している二兆円企業リコーの米国、
欧州、アジアの世界戦略プラットホーム作りに大きく貢献できました。
また竹内弘高氏の、「意味ある情報を掴め、自分の尺度を持て、そして自己革新をせよ」という、
戦略ビジネスマンとしての座右の銘を手にすることが出来ました。
そして野中郁次郎氏からはあらゆる現場でのカオスの中から暗黙知を形式知化させる経営変革
を学び取り、PDCA サイクル(PDCA cycle、plan-do-check-act cycle)を回し、それを大きなコマの
動きとする行動をせよという現場哲学を学び、丸一ケ月間の日本研修を終え、米国、欧州の二ケ月
間の実践研修となりました。
多士済々の講師陣と参加者
(東京での打ち上げパーティ、1985 年 9 月 26 日)
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
米国研修で「ゼロベースでの事業のための演習」として行く先を決め、Wall Street 街の地図を片
手に大手銀行に飛び込み、お金を借りたり、大手不動産屋さんでオフィスを借りたりという、胸がド
キドキするような交渉術を学んだことは、国際ビジネスマンとして一生涯自信に繋がるものとなりま
した。
そのようなことから MBI 終了後の三年目にして、実際にアントレプレナーとして世界の工場として
台頭した中国の企業集団と組み、ベンチャー企業オーロラ電卓社を設立し、運を味方にして 13 年
間で年商百億円企業を築き上げました。そして現在、神保町の特許事務所の特許コンサルタント業
務、早稲田発ベンチャー企業の顧問、長女の防水事業企業、長男の映画製作企業の会長をして、
「ご破算で願いましては」という原点にたっての経営哲学をモットーに現役で生き抜いています。
MBI 終了後も 4 期の「マービック会」は続いている
仁科会長紹介の豊科カントリークラブでのゴルフ会(1997 年 5 月 31 日)
<2016.5.6 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
MBIのときを振り返れば
前田 輝夫 (第 5 期)
MBI第 5 期の始業式は 1985 年 12 月 9 日だった。30 年以上昔である。”Japan as No. 1” とも
てはやされた余韻にまだ浸り、一方、バブル経済の兆しが忍び寄っていたが、世の中は日本がもっ
と発展することを信じて疑っていなかった。
19 社代表の多士済々が階段教室にしおらしく座り、盛りだくさんの講義や演習のさなか、隣の席
で野村證券の町田さんが絶えず会社四季報の数字を追っていたのを覚えている。
大前学長の日米欧3極の Triad 論、3極の中身と濃淡はすっかり変わってしまったが、その考え
方は今でも生かせよう。その中で今の日本の立ち位置はどうなるのか。
みんな真面目に勉強しました @マッキンゼー東京の階段教室
年明けて1月にアメリカに渡った。レーガン大統領の時代、レーガノミクスが定着しつつあったが、
金融資本はまだ覇権を握っておらず、またメディアもマネーの支配から独立していた。そして中産階
級が社会の中心だった。招待されたどの家庭でも、昔ながらの豊かさとホスピタリティがあった。
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
グループに分かれて米人家庭にご招待@LA
休日には乗馬を。左手前はマッキンゼーNY
の Barbara さん@Amelia Island(フロリダ州)
「5 期はヨーロッパでの後半がいいですよ。後で美味しいものが食べられるから」と実質MBI司令
長官の菅野さんに言われていた。ヨーロッパはまだ鉄のカーテンの西側だけのECの時代である。
そして 2 月にロンドンに入る。厳寒のNYを乗り切った副団長の大塚製薬の小室さんが、そこでアク
アスキュータムの暖かそうな高級オーバーコートを買って、こちらもホッとする。そのあと香港の勤務
地に戻って着る機会があったのだろうか。デュッセルドルフでは労使協調の果てしない議論にいささ
か疲れた後、パリに移動して一息入れる。どこも明るく開放的な中にも自ずと秩序があり、東京もこ
うでなきゃと思う。パリからバスに乗ってランス(Reins)のシャンペン工場を訪問。積雪を踏みしめ醸
造所を見学。いささか酔いしれた歓待の場で、パリ勤務の経験もある日本債券信用銀行の須藤さ
んにフランス語で挨拶をお願いしたが、ご当人の謙譲の美徳に負け、あわてて計画変更。
シャンペンの醸造所を見学@Reins, France
その後、ローマ、チューリッヒと回って、全員 19 名、頭も腹も一杯にして、すでに暖かくなっていた
東京に戻る。1986 年 3 月 12 日だった。 そして、3 月 14 日に無事MBIを卒業。世界の大勢の関係
者に大変お世話になりました。
<2016.7.27 記>
☆ ☆ ☆
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
MBI第6期研修を振り返って
渡辺 直彦 (第 6 期)
【日程】 1986 年 4 月 21 日から 7 月 25 日の約 3 カ月間
【参加企業】 日本企業 16 社
【行程】
4 月 21 日~5 月 29 日 東京
5 月 31 日~6 月 10 日 ロスアンジェルス・カリフォルニア周辺
6 月 10 日~6 月 17 日 アトランタ・アメリアアイランド
6 月 17 日~6 月 20 日 クリーブランド
6 月 20 日~6 月 26 日 ニューヨーク
6 月 26 日~7 月 7 日
ロンドン
7 月 7 日~7 月 11 日
デュッセルドルフ
7 月 11 日~7 月 17 日 ミラノ、ヴェニスかフィレンツェ、ストレーサ、トリノ
7 月 17 日~7 月 22 日 パリ
7 月 22 日~7 月 25 日 東京
【感想】
あの研修からちょうど今年で 30 年が経ったのかと、感慨ひとしお、の感が強くいたします。
大前さんの、企業内にグローバル人材を育成する、との研修のご趣旨に自分自身が沿うたかど
うか甚だ疑問ではありますが、今にして思いますと 16 社から派遣された皆さんと厳しくも楽しく有意
義な 3 カ月間を過ごせたことが極めて喜ばしく、いわば「夢のなかの奇跡」のように思い起こされま
す。これも偏にマッキンゼー社の講師・スタッフの方々のお蔭であり感謝に堪えません。
感想として以下3点を申し上げます。
1、綿密且つ周到に準備されたプログラムは素晴らしいものでありました
贅沢で盛り沢山なプログラムは座学としての最新の経営戦略論やケース・スタディの講義等は当
然のこととしても、更にその上に「グローバル人材」に必須の『教養(リベラルアーツ)』としての美術・
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
音楽等にも気を配り、コンサート鑑賞・観劇・有名美術館観覧などを要領よく盛り込み、海外での文
化教養の涵養に資する面をも教育して下さったことに感動します。また銀行融資やテナント賃貸交
渉等もカリキュラムに入っていて、今にして思いますに、こうした課程は現在喧しく叫ばれるグロー
バル人材教育の考え方を先取りし、既に実践していたことに思い至ります。その先見力、想像力、
洞察力に頭の下がる思いがします。
2、有能で世界に冠たる講師陣は受講生の知的興奮を喚起し「良き師とはかくあるべし」との思いを
痛感させて下さいました
大前さん、横山さんの懇切丁寧で刺激的なオリエンテーション、野中さん、竹内さん、石倉さんな
ど錚々たる講師の皆さんの白熱の講義、そして遠山さん、奈良橋さん等の入念な英会話力アップ訓
練、等々は求められる最高・最強水準の内容でありました。また欧米での研修においても企業訪問
の他に、各国のマッキンゼー社の熟達したコンサルタントの方々が自国の経済事情・企業情報等を
提供して下さるなど、極めて有意義で実り多い時間を過ごせました。こうした恵まれた環境で勉学に
励むことが出来たのは誠に幸運でありました。
MBI卒業式の日@MBIラウンジ(1986 年 7 月 25 日)
3、異業種の方々と長期間親密に生活と勉学を共にし啓発し合う経験は誠に貴重でした
これだけの長い時間を 16 社もの異業種の方々が正に寝食を共にし互いに啓発し合いながら研
修に勤しむことは滅多にない経験であり、このお蔭で従来知り得なかった情報を交換し合うことが出
来ました。そして卒業後もいろいろな場面・機会で親しく付き合って相互友好関係の維持・保全に努
めてきました。従って、30 年の間に 3 人の仲間を失ったことは痛恨の極みであります。半年毎に開く
同期会ではご遺族に声を掛け連絡を取り合い関係維持に注力しています。皆さんとはこれからも大
事な仲間として遇し、親しい関係を続けて行く所存であります。
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
【これからのこと】
しかし、30 年を経て現在の世界を巡る情勢は当時ご教授いただいた状況からは激変しており、な
かなか簡単には解釈し切れない事態が出来し、見直しが求められている感がします。アジア・アフリ
カとの関係が極めて重要であるとの認識は従来の想定の範囲を超えている気がします。特に中国
を如何に考えるかは当面の急務の課題でしょう。受講生の皆さんが、所属する企業のなかでグロー
バルな視点をもって活躍するとともに、マッキンゼー社でも世界に羽ばたくネットワークを十二分に
活用した新たなグローバル人材教育を企画し、提言等がなされれば素晴らしいと考えます。
また宗教と文化の在り方を根本から考え直すことが望まれます。他者の思想・宗教や行動に対し
「社会や国家が寛容であることが最も大切である」との観点が世界で認知され、拡延されるよう切に
望みたいものです。
東芝府中工場見学(1986 年 5 月 22 日)
チームでシミュレーション発表(1986 年 5 月 28 日)
<2016.7.27 記>
☆ ☆ ☆
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「変わるものと変わらないもの」
片岡 晃 (第 7 期)
仕事で海外を旅していると、仕事の合間に、ちょっとした自由な時間ができることがよくある。そん
なとき、その土地で前から行ってみたかったところに足を延ばすことがある。1986年の秋、マッキン
ゼーのMBIコースでニューヨークを訪れた時もそんな機会があり、気にかかっていた場所を数か所
訪れた。
私たちMBI第7期生は紅葉が鮮やかなニューヨークのホテルに滞在し、研修で数日を過ごした。
その時の自由時間に私は行ってみたい場所が数か所あった。私たちが訪れた前年の85年9月に
はこの地のプラザホテルで5カ国蔵相が集まりプラザ合意がなされ、後のバブルの原因となってゆく。
この合意により日本は円高になり、今まで230円/$だった為替が、1年後には150円/$近くま
で上昇する。その当時は、この円高とバブルが日本にこれほど長い間デフレをもたらすとは誰も思
ってもいなかった。
私は一日自由時間があったので、プラザホテルとはどんなところかと興味本位で行ってみること
にした。セントラルパークに隣接したこのホテルのロビーでゆっくりしてから、もう一つの場所、ウォ
ルドルフアストリアホテルへと向かった。いずれも世界的に有名な名門ホテルである。私はこういう
どっしりしたホテルに入ると、なんだか気おくれしてしまい、落ち着かない。それでも気にかかってい
た場所に来られたという満足感からか、ティールームでお茶を飲みながらうとうとしてしまった。
アーサー・ヘイリーの小説に『ホテル』というのがあり、ホテルを舞台に金持ち、詐欺師など様々な
人たちが織りなす人生模様をクライマックスに向かって突き進んでゆく、何とも言えない面白い小説
だった。ホテルには実にさまざまな人たちが行き来する。私が訪問したプラザホテルやウォルドルフ
アストリアホテルにもさまざまな人たちが行き交っていた。金持ちや上流階級の人々だけでなく、そ
の他もろもろの人々がいたのだろう。私だってその他、有象無象の一人であった。自分の足で行き
たかった場所に行き、その雰囲気を味わうことができ満足感にひたってホテルを後にした。ただそれ
だけのことだったのだけれど、何かとても満足した。
その後、くたびれた足を引きずりながらニューヨークの街を歩き、最後に高いところから夕暮れの
街を見ようと、あるビルの展望台に登った。展望台からはハドソン川、イーストリバーなどが夕日の
中に赤く染まっていた。私はカメラを取り出し、夕暮れの一枚を写真に撮った。それがこの一枚であ
る。このビルは、今はもうない。9・11の事件で世界貿易センタービルは倒壊し、同じビルからこの
夕暮れを見ることはできない。
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今はもうない世界貿易センタービル(ニューヨーク)からの夕日(1986 年 10 月)
あれから30年の歳月が流れ、先ほど述べた名門ホテルはヒルトンからインドの大富豪やサウジ
の王族や中国の保険会社などの手に渡り、今では内部はコンドミニアムなどに改装され、ホテルの
部屋は半分以下になってしまった。往時の面影はもうない。
時はあらゆるものを変えてゆく。それでも時が過ぎても変わらないものがたくさんあると思いた
い。
MBIの研修で実に多くの何かを得られたような気がする。
アメリカでの企業訪問(LA)(1986 年 10 月)
ダラスでのカウボーイ・パーティ(1986 年 10 月 7 日)
<2016.6.29 記>
☆ ☆ ☆
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マッキンゼーMBI: 役にたったこと
中村 幸紀 (第 7 期)
「MBIストーリー」のお題が「MBIで特に印象的だったことなど」ですが、当時は受け身的な受講
であったため、「など」の方を採って、MBIその後の話の方にします。
私の 7 期は 1986 年 8 月からの受講なので、丁度 30 年経ち、当時のことは半ば記憶テストです。
MBIがどのように自分の仕事に直接的に役立ったかとなると、通常ではありえない体験をしたとか、
幅広く仲間を持つことができたなど、多少曖昧な表現の記憶ばかりが出てきます。今でもその繋が
りを楽しんでいますが、それだけかと言われそうなので、具体的な役立ち
話を拾います。
大前学長の話に、海外進出では「市松模様組織と突き抜け感のある人
材配置が鍵」というのがありました。4 年後に日産アメリカの開発センター
を作るときに、将来の規模拡大を考えていたので、組織構造や空きポスト
を残すことに効果がありました。当時困っていた同業のT社アメリカからも
相談を受けています。
講義中に描いた
大前学長の似顔絵
もう一つは、竹内先生の長寿企業の話。長続きする会社は、「本業に徹
する」「牛のよだれの如く」など分かり易い社是がある、というのと、世界一
古いのは宮大工の金剛組という話。その時は聞き流して、後にNHKの報
道特集で見た程度で、忘れていました。
竹内先生の似顔絵
その後、50 歳過ぎに一芸として木彫を始めました。趣味の域ですが、車の設計で得た立体感覚
も活かせるし、次第に左脳から右脳に負荷が切り替わる生活にもあっていました。
寺社や美術館にもよく行きましたが、昨春訪れた鎌倉建長寺で、偶然金剛組の展示があったの
です。西暦 578 年の飛鳥時代、聖徳太子の四天王寺建立に百済から金剛家初代当主重光以下の
工匠が招かれ、組を創立してから 50 代続くことや、五重塔の構造と荷重の見込み設計の説明を棟
梁から聞いて感心しました。話が合った棟梁に、埼玉にある関東加工所見学の紹介をもらいまし
た。
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今年に入り、神社仏閣の大きな受注が入ったとの連絡で、彫刻仲間と見に行きました。精密な板
取りと加工作業と、巨木を数年自然乾燥する大きな屋根裏部屋に驚き、若い大工が自分の仕事と
役割に誇りを持って働く、いわゆるマイスター流の職場に感心しました。中卒のたたき上げでも棟梁
になれるのは、機械工業の職場とは大違いでした。
ここまでは、企業訪問記の様で面白くない。加工していたお寺の梁は、断面が 20 ㎝x40 ㎝、長さ
10mの節のないきれいな木肌のヒバ材で、1 本 300 万円ほど。墨入れ線を見ると、端の 50 ㎝位は
どうやら使わない。聞いてみるとゴミで燃やしてしまうのだと。着払い宅急便で送ってもらう約束をし
て、待つこと 1 週間、端材と呼ぶには大型のものが届きました。10 人が半年分くらいの木彫りできる
量で、もし求めたら合計ウン 10 万円の価値と評価できました。寺社建築に使われないクスなどの素
材は別ですが、次に金剛組に寺社の仕事があるときに、続けて端材の支援が得られそうだと喜ん
でいます。
MBIで 30 年前に聞いた記憶と、更に偶然が重なったセレンディピティですが、個人的には、実効
のあるMBIだったと格上げしています。
MBI終了後、東京での懇談会にて(1987 年 1 月 9 日)
アメリカからバーバラさん(中央)も参加された
[左から:菅野さん、中村、バーバラさん、吉田さん(故人)、北村さん(故人)]
<2016.6.14 記>
☆ ☆ ☆
30
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MBI第8期に参加して:海外研修の思い出
倉田 信彦 (第 8 期)
私は当時(1986 年)35 歳での参加で、まさに若輩中の若輩、MBIでの皆さんの喧々諤々の議論
にはほとんど口を挟めなかった記憶があります。まだまだ、現場のサラリーマン感覚で、経営よりも、
海外での人材の雇用方法、事務所の確保の仕方など、実務面の習得に興味があり、実際、その後
の海外勤務に役に立ちました。
でも、やはり記憶に残るのは海外研修です。と言っても、第一はパームスプリングスでの気球に
乗ってゴルフ場の上空をゆっくりと移動したこと、ゴルファーが9番あたりで球を飛ばし、気球にうまく
当てたことです。
さらに、ヨーロッパでは、学生時代から大好きだった印象派の町、パリ郊外のバルビゾンに行きま
した。駅前にはなにもなく、自転車を借りて移動したことなど思い出します。バルビゾンでは、町の風
景画を購入し、今でも我が家の宝物です。
バルビソンで購入した風景画は今でも我が家の宝物
残念なことに、ほぼ最終の行程であったイタリア・ベニスでお腹をこわし、大事なディナーに参加
できなかったことは今でも悔やまれます。いやー、当日は雨も降って本当に寒かった。
すみません、MBIにせっかく参加させて頂いたのに、これでは当時派遣してくれた会社には申し
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
訳ない気持ちになりますね。でも、前述の講義や実践、それに休日、それぞれに仲間の皆様との思
い出が重なります。
現在でも、ずっとお付き合いをしていただいている諸先輩とお知り合いになれたこと、これこそが、
本当に財産だと思います。今後とも宜しくお願い致します。
第 8 期開講式(1986 年 12 月 8 日)
第 8 期卒業ランチ@エスカイヤクラブ(1987 年 3 月 13 日)
<2016.7.4 記>
☆ ☆ ☆
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―思い出すこと―
米澤 健一郎 (第 8 期)
MBI第 8 期に参加当時(1986.12~1987.3)、私は法務部長の職にありました。45 歳、今から考え
ると生意気盛り、ちょっと傲慢になっていたのでしょう。ある役員の指示に納得がいかないと反発し
ていたため、問題になっていたようです。人事担当役員が私のことを心配して、MBI研修に参加して
はどうか、と声をかけてくれました。私に非があるとは思っていなかったので「3 カ月も仕事を留守に
して研修にいく理由がありません!」と言いたかったのですが、冷静になってこの親切を黙って受け
ることにしました。そんな状況だったので、MBIに参加した当初は「心ならずも」と言うか、「止むを得
ず」と言う態度でした。
しかし、実際に日本での研修を受けているうちに、大前さんの読みの深さや竹内先生の名調子に
触れ、仕事から完全に離れて「学ぶ場」にいられることの幸せを改めて感じ始めました。アメリカ、ヨ
ーロッパでの 2 カ月間は、それぞれの土地を個性豊かな同期の仲間たちと大いに楽しんだ思い出
で一杯です。
ロンドンではバレンタインのチョコレートが法務部の女性たちから届いたので、研修の様子をちょ
っと自慢げに書き送りました。
『手紙とチョコレートをありがとう。London は 2℃~5℃くらいで平年より暖かいそうです。それでも
朝 Hyde Park をジョギングする時は寒さが身体を突き抜けます。米国・ヨーロッパでのマッキンゼー
研修は3種類から成っています。一つは教室での講義。経済論、金融論、労働関係論、文化論とい
ったところです。もう一つは、会社、工場、飛行場、教会等の見学とそこでの対話です。三つ目は自
由時間で、これがボーッとしていると何も起こらないので、自分で何かしようと思うのですが、慣れな
い土地にいますからなかなか大変です。いずれにしろ新しい知見を大いに楽しんでいます。(中略)
明日朝6時に起きて Dusseldorf へ出発します。ロンドンより寒そうなのでジョギングが出来ないかも
しれません。Dusseldorf から Paris、Milano での研修を経て、あと3週間ぐらいで東京に戻ります。
皆に会えるのを楽しみにしています。(略)』
納得のいかない状況でも勇気をもって飛び込んでいけば、素晴らしい経験が得られることを身に
しみて感じたMBI研修でした。その後も会社と大学の仕事でいくつか納得のいかない場面に遭遇し
ましたが、その都度この時のことを思い出して乗り越えたように思います。
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ロンドンでの自由時間―バース市のローマ風呂にて(1987 年 2 月)
最近の写真―マルタ島に旅行して(2016 年)
<2016.7.8 記>
☆ ☆ ☆
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MBI第 9 期に参加して~世の中は『方丈記』のごとく
林 喬 (第 9 期)
私はMBI第9期に参加した。研修期間は 1987 年 4 月 20 日から 7 月 24 日までであった。その1
年前に既にMBIへの参加を本部より知らされ、予定通りに参加した。この時期はバブル期ではない
が円が 1 ドル 135 円から 140 円の時代で、日本経済が元気な時代であった。日本企業 23 社から
24 名が参加しており、製造業主体であったが、金融・証券・保険業からの参加者もおり、年齢も 34
歳から 50 歳までのバラエテイーに富んだ楽しい研修であった。
先ず1カ月を超える国内研修があり、その後、アメリカ(ロスアンゼルス・サンディエゴ・ダラス・シ
カゴ・ニューヨーク)、ヨーロッパ(ストレーサ(イタリア)・パリ・デュッセルドルフ・ロンドン)での研修が
あり、日本に帰国後研修の総括があり一人の落伍者もなく無事研修を終了した。
日本での研修は大前研一先生の「トライアッド・パワー」の講義で始まった。大前先生は「現在、日
米間には500億ドルの貿易不均衡が存在するが、アメリカ企業の日本での生産・売上と日本企業
のアメリカでの生産・売上とを各々加えた日米間の経済活動はほとんど均衡している。現在、政府
間は物と物との交流のみをもって両国の経済の力関係を評価しようとしているが、企業の論理はと
っくにそれを越えて、資本を最も効率よく収益を上げられる地域乃至国に投資する方向に転じてい
る」との考え方を示された。
東京ではワイン・テイスティングのセッションもあった(1987 年 5 月 22 日)
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
また竹内弘高先生によるハーバード・ビジネス・スクール方式のケース・スタディーを繰り返し実
践することにより、経営の意思決定の選択の範囲の明確化と、それから導かれた意思決定の結果
の可能性について検討した。また先進国での会社経営に最低限必要なファイナンス・法律・問題解
決手法等を学んだ。さらに国際人としての常識として、人前でのスピーチ、外人とのネゴの方法、テ
ーブルマナーなどを学んだ。
海外研修は先ずアメリカで行われた。ロスアンゼルスではアメリカの文化・社会の理解、経営幹
部の雇用方法とその費用、商業銀行での企業融資の方法、不動産会社との用地買収交渉など、実
際に会社に出向き交渉を行い、その難しさを実体験した。サンディエゴではリラックス時間を取り、そ
の後ダラスへ向かった。
不動産会社フルール社見学(1987 年 6 月 5 日)
ダラスではアメリカン・エアライン、ペプシコの子会社へ出向いて経営幹部とアメリカ式企業経営
について話し合い、法律事務所を訪問して労働組合問題について話し合った。ダラスでは、マッキン
ゼー・ダラスオフィスのディレクター、リー・ウォルトン家でのホームディナーに招待されたこともいい
思い出である。
マッキンゼー・ディレクター リー・ウォルトン家でのディナー
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
ダラスから大西洋に面したリゾート地、アメリア・アイランド(フロリダ州)に移る。ここではいくつか
のグループ(3~4人一組)に分かれ寝食を共にするリラックスタイムを満喫できた。
アメリア・アイランドでは菅野さんも友人と参加された(1987 年 6 月 14 日)
次のシカゴではアメリカの流通機構の実態分析があり、その後実際に卸売会社を訪問し、幹部と
面談した。ニューヨークでは、先ずマッキンゼー事務所でケース・スタディーとしてアメリカにある子
会社と日本の本社との間のコミュニケーションギャップと、双方の考え方の相違がおこる原因につい
て話しあった。その後投資銀行を訪問し、アメリカ・ヨーロッパ企業によるM&Aの実態と実際に担当
している専門家の話を聞いた。以上でアメリカセッションは終了し、ヨーロッパへ向かった。
ヨーロッパでは先ずイタリアに入った。自由時間が与えられ、グループに分かれ2泊3日の休暇を
楽しんだ。ローマでは全員でレストランに入り、飯村さんがピアノの演奏に合わせてカンツォーネを
披露していたことが記憶に残っている。
ローマのカラカラ浴場にて(1987 年 6 月 28 日)
その後ミラノ郊外のストレーサという景勝地、コモ湖に面したホテルで研修があった。先ずECの
紹介がありECの人口は3億人を超えアメリカより多く、1992 年までに経済統合を目指すと講師が
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e-Crossroads (No. 6, August 2016)
話していた。イタリアはインフレ率・失業率は低下してきており経済に復興の兆しが見えるが、国営
企業の非能率、赤字が問題であるとのこと。オリベッティーの工場を見学した。
次にフランスのパリに移った。ここではフランス経済の現況報告があり、国営企業が多く、航空
機・原子力・ミサイルなどの兵器産業・バイオ産業へ国家が優先投資を行い、優位に立っているとの
ことであった。パリでは昼の勉強も良かったが、夜のパリも美しく、一同大いに観光を楽しんだ。
フランスからドイツへ移る途中で、ドイツとスイスの国境の町ストラスブルグに寄った。次いでドイ
ツのデュッセルドルフに移った。先ずベネルックス3国の紹介があった。オランダは陸・海・空路の要
所、ベルギーは世界の会議場、ルクセンブルグは金融面でそれぞれ特徴を活かしている、との紹介
があった。西ドイツ(当時はまだドイツは東西に分かれていた)の説明があり、政治・経済ともに安定
しており、ECでNo.1の国であると自慢していた。また13年間駐在されておられたミノルタ・ヨーロッ
パ社長の宮林昭雄氏より、モノクローム社会(西ドイツ)とポリクローム社会(日本)の相違点につい
ての私見を聞かせて頂いた。この地でもケルンの大聖堂と周辺の観光を楽しんだ。
デュッセルドルフにて(1987 年 7 月 9 日)
海外の最後は、ロンドンでの研修であった。ECのイギリスの代表議員の一人の女性からECの
経済力の向上、ECと日本の間に存在する貿易不均衡問題、及びウィスキー、牛肉などの日本の関
税障壁についてコメントがあった。次にマッキンゼー・コンサルタントによるサッチャー首相の強力な
指導力による英国の多方面にわたる活性化について紹介があった。ロンドンでは研修の合間を見
て夜はピカデリー・サーカスへ出向いた。
ヨーロッパではイタリア・フランス・ドイツ・イギリスの話を聞き、我々メンバーの分析結果は、西ド
イツ > イギリス > フランス > イタリアの順で投資環境・投資の魅力度が高い、との結論が出
た。我々の研修の後、程無くして東西ドイツの統合がなされ、また直近でのイギリスのEU離脱と、
世界の動きは鴨長明の『方丈記』の「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」のごとく
変化してきている。
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ロンドンから東京に戻り、総括のチーム発表会があり、全ての研修は 1987 年 7 月 24 日に無事
終了した。
私はこの研修の7カ月後にアメリカのロスアンゼルスに赴任した。最初の数カ月は何人かの現地
の有力者より東芝問題に関するクレームの電話があったが、次第に収まった。さらにいくつかの問
題(特に人事問題)でMBIの研修が大いに役に立った。駐在中に大前先生より励ましの電話を頂き、
ハンティントンビーチの別荘にもお招き頂いた。また石倉先生には私の住んでいたアーバインの自
宅まで来て頂き、いろいろコメントを頂いた。
MBI研修後も、我々第 9 期のメンバーは有志が集まり旅行会を実行しているが、それは現在も続
いている。
東京での研修(1987 年 4 月 21 日)
[手前左から:筆者、飯村さん、右後:田辺さん]
Note: ここで使用した写真は、最後の写真を除き、田辺訓正さんが提供してくださいました。
この場をお借りして田辺さんに御礼申し上げます。
<2016.7.7 記>
☆ ☆ ☆
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MBI第 10 期の出来事:「ブラック・マンデー」のことなど
古田 千明 (第 10 期)
1987 年 10 月 19 日、ニューヨークダウが一日にして 23%も暴落した、あの「ブラック・マンデー」
に、我々10 期MBIメンバーは当のニューヨークで遭遇。ホテルのニュースで 500 ドル安のテロップ
が流れたときは目を疑いました。当時は勤務先の銀行の投資顧問子会社でファンドマネージャーの
職にあったこともあり、あわてて東京に連絡した記憶があります。ただ、MBI参加に際してファンドを
同僚に託した気楽さもあったのか、正直なところ、その時の印象はさほど強くはありません。当時 30
代半ばの小生としては、初めての米国であり、初めてのニューヨーク。むしろ、当地精通のN氏の先
導のもとで、ジャズクラブを梯子するなど、好奇心を満足させるべく、少しばかりの緊張感とともにニ
ューヨークの夜をさまよったことの方が思い出にあります。
ニューヨークにて(1987 年 10 月 23 日)
米国で最初に一行が訪れたのがロサンゼルス。その翌朝、いきなり強い地震に見舞われました。
ホテルのロビーには着のみ着のままの宿泊客が不安そうに屯するなかで、わがMBIメンバーはビ
シッとスーツを着て余裕で集合。さすがに鍛えられたMBI諸氏の感がありました。
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Death Valley にて(1987 年 9 月 28 日)
アメリア・アイランドにて(1987 年 10 月 13 日)
後半のヨーロッパはまずは順調に日程消化。同好の士とともに、相変わらず放課後の「現地実査」
に精を出しました。ただ、ひとつ残念な思い出は、世話係を仰せつかったロンドンで、小生の不注意
によりメンバーのS氏のトランクが盗難にあってしまったこと。S氏は笑って許してくれましたが、その
後不自由な旅行を余儀なくされたはず。帰国後あらためてお詫びに伺うつもりでいながらも、日々の
多忙にかまけている間に、病を得たS氏は鬼籍に入ってしまわれました。S氏の温容と、その使いこ
まれていかにも持ち主に馴染んだトランクの姿が、今でも心に浮かんできます。
プリマスゴルフ場(イギリス)にて(1987 年 11 月 1 日)
ブラック・マンデー以降 30 年を経過し、米国の株価はその時から 9 倍程度まで上昇。あらためて
それ以降の歳月の長さを感じます。ただ、当時の何人かのメンバーとはいまでも親しく付き合いを頂
いております。MBIで学んだ中味は完璧に忘れましたが、良い経験とともに良い友人を得たこと。
これが確かな財産として残っています。
<2016.7.19 記>
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