日本史

№1
産業革命
○時期 イギリス 1760 年代〜1830 年代
フランス 1830 年代〜
アメリカ 1860 年代〜
○内容 ・道具 → 機械化
・水力 → 蒸気力(1782 年発明)
・工場で労働者が分業
・木炭 → 石炭による製鉄
・綿工業(紡績、織布) ※インドから綿を輸入
→
・船 → 鉄道(リヴァプール ←マンチェスター)
○結果 ・都市の発達
・環境問題(水、大気汚染)
・生産力の向上
※原料、販売市場、海外進出
№2
○イギリスとアジア
三 角 貿 易(18C〜19C)
イギリス
茶
綿布
インド
列強のアジア進出
中国
毛織物→アヘン
1840 年までに 40 万箱輸入
1840〜1842 年 ア ヘ ン 戦 争
清朝:アヘン禁止令 ⇒2 万箱を没収、焼却
英政府:兵士派遣
英議会:派遣反対 = 271:262 …9 票差で兵士派遣決定 → 2 万人の兵士を派遣
(3/4 以上がインド傭兵)
1842 年 南 京 条 約
・多額の賠償金(約 2100 万$)
あもい
にんぽう
・開港(広州、厦門、福州、寧波、上海)
・自由貿易
・香港島の割譲
↓
1843 年 追 加 条 約
(不平等条約)
・治外法権の承認(開港場のみ)
・関税協定制の承認(自由権なし、低率関税)
・最恵国待遇の承認
№3 アジア民衆の反乱
○太 平 天 国 の 乱:1851 年〜1864 年 100 万人が参加
洪秀全(上帝会[キリスト教]開祖)が指揮
原因:1842 年 物価高騰 & 重税(賠償金支払いなど)
↓
貧農が参加
英・仏が介入
ア ロ ー 号 事 件
↓
英国船(海賊船?)
第2次アヘン戦争
12 名の中国人を逮捕
↓清の敗北
1858 年 天 津 条 約
・賠償金(600 万両) …両(テール):銀の単位
・旅行、キリスト教、長江航行の自由
・10 港の開港
・洋薬(アヘン)の輸入を黙認
・北京に大使駐在を承認
清が抵抗 → 英・仏が天津、北京を攻撃
↓
離宮:円明園を焼く
1860 年 北 京 条 約
・天津(中国中心の港)を開港
…刑 16 港の開港
・賠償金(800 万両)
・九竜半島の割譲
日本の開国に影響
1857 年〜1859 年 セ ポ イ の 反 乱
セポイ…傭兵(イギリス兵の 90%がインド人)
原因:牛や豚の油を塗った弾薬筒を使用させる
植民地支配に対する反発
↓
皇帝・士候・手工業者・農民が参加
↓
イギリスが鎮圧
↓
・ムガール朝の滅亡(皇帝をビルマに追放)
・英国は教訓を受ける
・反英の民族運動の出発(ガンディー:無抵抗主義) ・東インド会社の解散
・直接統治→完全な植民地化
(1858 年)
(インド省、インド大臣の設置)
№4
日本の開国
○幕府の対応
1842 年 薪 水 給 与 令
外国船に対し、燃料と食料を与える
※外 国 船 打 払 令 ( 1 8 2 5 年 )の緩和策
1844 年 オランダ国王の開国勧告を拒否
1846 年 ビッドル(米)が浦賀に来航
司令長官
(公式使節)
日本の港を寄港地・中継地として利用したい
捕鯨業(北半球で盛ん)
1830〜1850 年代
脂→オイルランプ、潤滑油
対清貿易
清
生糸・茶
米(カリフォルニア:メキシコ戦争で獲得)
綿布
○ペリーの来航
司令長官
1853 年 6 月 3 日 浦賀 (4艘[1150 人]内2艘は蒸気船)
↓
6 月 9 日 久里浜に上陸:国書を受理→日本は来年に回答
↓
6 月 12 日 退去
1854 年 1 月 16 日 再来日(江戸沖)(7艘[1775 人])
↓
2 月 10 日 神奈川沖に上陸(300 人)
1854 年 3 月 3 日 日 米 和 親 条 約
・燃料、食料の供給
・難破船の救助
・下田、箱館の開港(領事駐在を許可)
不平等条約
・最恵国待遇(日本がアメリカに片務的に)
(英・露・蘭とも締結)
1855 年 2 月 7 日 日 露 和 親 条 約
樺太・千島の国境(択捉-得撫間に国境線)
両国雑居
1875 年 交換条約
千島全土→日本
樺太→ロシア
1951 年 サ ン フ ラ ン シ ス コ 平 和 条 約
千島列島の放棄
№5
通商条約の締結
○ハリスの来日(1856 年)
老中堀田正睦との交渉
孝明天皇の勅許…不許可
↓
英仏の脅威をアヘン戦争で強調
堀田正睦とハリスの対話
唐国は、18 年前、英国と戦争相起候。終には戦争より百万人の人名を唐国にては失い候。唐国
の港々は、残らず英国にのっとられ、南京をものっとられ候。唐国は、償として、小判にすれば 500
万枚、英国に渡し候。
今また英吉利・仏蘭西一致いたし、唐国へ戦争をしかけ申候。只今の所にては、行末、いかが相
成るや、はかりがたく候。
船も筒もなき私と、条約とり結び候はば、御国の誉を落とすことなし。1人と条約を結ぶのと、
品川おきへ 50 艘の軍船ひきつれてきたものと条約を結ぶのとは、格別の相違に候。
1858 年 6 月 19 日 日 米 修 好 通 商 条 約
・神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港
・関 税 自 主 権の放棄
・治 外 法 権の承認
・自由貿易
→ 資本主義市場化
№6
幕府・諸藩の対応
○安 部 正 弘(老中)
・朝廷に報告、夷狄は撃て…尊 皇 攘 夷
夷狄撃攘
中華思想
反幕思想
日本の鎖国政策を合理化
・大名・旗本の意見を聴取 → 発言力の強化
○国防力の強化
・講 武 所 (1854 年:軍隊)・洋 学 所 (1855 年:学校)
・長 崎 海 軍 伝 習 所
(機関・航海・法)→ オランダが援助
※勝海舟(奉行)
○大砲の鋳造:反射炉(鋼鉄・精鋼)
№7
井伊直弼の登場
○将軍維嗣問題
13 代将軍 家定(病弱)
一橋派 対 南紀派
慶喜
慶福
(水戸藩) (和歌山藩)
○井 伊 直 弼(彦根藩)
譜代大名
1858 年 4 月 23 日 大老
1858 年 6 月 19 日 条約の締結
1858 年 4 月 25 日 14 代将軍 家茂
1858 年〜1859 年 安 政 の 大 獄(井伊直弼)
・60名以上を厳罰、死刑(公家・大名・幕臣・志士など)
・水戸藩を処分(大名を隠居・謹慎)
1860 年 3 月 3 日 桜 田 門 外 の 変
・井伊直弼の暗殺(←水戸の浪士)
№8
貿易の開始
○輸出入
1859 年 7 月 1 日 貿易の開始
横浜→イギリスを中心
※アメリカとは 1860 年に開始
輸出:生糸・茶
(原料)
→ 植民地型貿易
輸入:毛織物・綿布(製品)
○物価高騰
・輸出に伴う品不足のため
・金銀の国際比価の相違による金の海外流出のため
金 銀
日本 1:5 外国(金1→銀 15)→日本(金3)
外国 1:15 日本(金3)→外国(金3→銀 45)
貨 幣 改 鋳 → 金貨:金+すず → 貨幣価値の低下 → 物価高騰
銀貨:銀+すず
№9
○公 武 合 体…公武:朝廷と幕府
合体:幕政強化
公武合体と尊皇攘夷
◎和宮の降嫁
↳ 孝明天皇の妹(14 歳)→ 14 代将軍の夫人に:老中安藤信正と公家・岩倉具視が画策
条件:攘夷実行を幕府が約束(10 年以内)
1861 年 10 月 10 日 京都出発(中山道を経由)
11 月 15 日 挙式 ※1866 年家茂死去
1863 年 1 月 15 日 坂 下 門 外 の 変
老中安藤信正…重傷→失脚
水戸浪士が実行
◎久光(薩摩大名の父)の上京
1862 年 7 月 6 日 江戸へ
…幕府の改革を要求
・将 軍 後 見 職…慶喜を
・政 事 総 裁 職…松平慶永(越前)を
・安政の大獄の処罰を解除
1862 年 8 月 21 日 生 麦 事 件(帰途中):イギリス人 4 人を殺傷
↓
1863 年 薩 英 戦 争
№10
尊皇攘夷
○攘夷運動
1861 年〜62 年(文久年間)土佐・長州などの攘夷派が実権
○三 条 実 美
1862 年 家茂に攘夷実行を要求
↳ 上京させられた
5 月 10 日攘夷断行
○外人殺傷
1860 年 12 月 ヒュースケン殺傷(ハリスの通訳)
1861 年 5 月 イギリス公使館の焼討ち(水戸浪士)
1862 年 12 月 イギリス公使館の焼討ち(長州浪士)
№11
攘夷決行
○大名に命令
1863 年 5 月 10 日 攘 夷 断 行
↓
同日 下 関 事 件(長州藩が下関で外国船を砲撃)
○将軍家茂の上京
攘夷祈祷させられた
大和で天皇の祖先にも祈祷させられた
→4 月末に江戸へ
◎反幕派の挙兵
1863 年 8 月 天 誅 組 :五条代官所を襲撃
1863 年 10 月 生 野 の 乱 :但馬代官所を平野国臣らが襲撃
1864 年 3 月 天 狗 党 の 乱 :水戸藩の攘夷派 2000 人以上が都を目指す
→1500 名以上が途中で戦死
376 名が福島県敦賀市で処刑(死刑)
○8 ・ 1 8 政 変
1863 年 8 月 18 日 京都
薩摩・会津藩…公武合体
御所を占拠→攘夷派を追放(七卿の都落ち)→ 幕府が実権
○長州藩の敗北
1864 年 6 月 25 日 池 田 屋 事 件
新撰組→7 人を殺害
1864 年 8 月 5 日 禁 門 の 変
教とで3万戸が焼失 → 長州の敗北
1864 年 8 月 5 日 下 関 戦 争
英・仏・米・蘭が下関を攻撃
下関事件の報復 (2500 人が上陸) →奇 兵 隊(1864 年 6 月結成)が勇敢に戦う
↓
長州の敗北(講和:300 万ドルの賠償)
攘夷→開国・倒幕へ
1864 年 2 月〜12 月 第 一 次 長 州 征 伐
禁門の変の報復
幕府が大名に命令 → 21 藩 15 万人
↓
長州の敗北
・毛利氏の謝罪
・3家老・4参謀が切腹
№12
薩摩藩と長州藩
○長州藩 奇兵隊
高 杉 晋 作 ・ 木 戸 孝 允らが実権
○薩摩藩 西 郷 隆 盛 ・ 大 久 保 利 通らが実権
↓
開国路線へ
↓
1865 年 1 月 薩 長 同 盟
・坂本竜馬、中岡慎太郎が仲介
・倒幕を目標
・皇国(天皇中心)のために、新しい日本を…
1866 年 9 月 坂本竜馬が船 中 八 策を出版
①大政奉還(天皇中心)
②議会の設置(公論)
③官僚制(役所・役人)
④開国(国際条約の締結)
⇒近代国家の基本
⑤国内法(憲法の改定)
日本はこの通りに進んだ
⑥海軍の拡張
↓
⑦御親兵(都の治安維持)
1867 年 11 月 坂本竜馬暗殺
⑧金融・貨幣制度
№13
英仏の対日政策
○イギリス 兵庫の開港
↳ 1863 年 11 月に開くことになっていた(通商条約)
1865 年 10 月 5 日 条約の勅許(天皇が承諾)
1866 年 5 月 13 日 『 改 税 約 書 』に調印
↳ 関税率の改定(一律 5%)
※1911 年 関税自主権の回復
1867 年 12 月 7 日 兵庫の開港
№14
第二次長州征伐
1866 年 6 月 7 日 第 二 次 長 州 征 伐
幕府が命令 →石見・安芸・大島・小倉から 23 万人
1866 年 7 月 20 日 14 代将軍家茂死去
↓
和宮→未亡人・出家(1877 年死去)
8 月 21 日 幕府が休戦命令
↓
=失敗
○孝明天皇の死
病死説・毒殺説
↳ 岩倉具視に容疑
明治天皇の即位(14 歳)
12 月 5 日 15 代将軍 慶喜
№16
大政奉還
○フランスの援助:公使 ロッシュ
○内乱の危機
1866 年 5 月〜6 月 百姓一揆・打ちこわしの増加
1867 年 10 月 14 日 大 政 奉 還
・山内豊信が 15 代将軍に勧めた
・徳川家の存続
・
「公議政体」を目指す
・政権 幕府→天皇
倒幕派は大政奉還直前に
「倒幕の密勅」を天皇に発布させた
○大 乱 舞(1867 年 8 月〜12 月)
「ええじゃないか」踊り
伊勢神宮の御札が舞い降りた家は幸福になる
福島県が発端
№16
王政復古
1867 年 12 月 9 日 王 政 復 古
・薩摩,土佐藩が御所を占拠
・天皇名で「 王 政 復 古 の 大 号 令 」を発布
・幕府を廃止→幕府の滅亡
・三職(総裁・議定・参与)の設置
・慶喜の処遇について
↳ 『辞 官 納 地』…辞官=内大臣・納地=天領返上
1868 年 1 月〜1869 年 5 月 戊 辰 戦 争
1868 年 1 月 7 日 慶 喜 追 討 令
↓
朝敵 対 官軍
東征軍大総督 有栖川宮熾仁親王
参謀 西郷隆盛ら
○赤 報 隊 事 件
相楽総三ら→先鋒隊「年貢半減」をPR
↓
総督府:相楽らは下層民衆と密着しすぎ
偽官軍として処刑
↑
新政府:有利な情報、多額の借金
※1928 年 相楽総三に正五位贈位
№17
江戸無血開城
1868 年 江 戸 無 血 開 城
・西郷隆盛が勝海舟と会談(3 月 15 日)
・イギリスが圧力
・一揆を恐れた
条件:①軍艦と武器引き渡す
②慶喜を備前藩に預ける
③城内居住の家臣は向島で謹慎
などの条件が行われれば徳川氏存続は寛大に処置する
彰義隊(3000 人)は抵抗
↓
5 月 15 日 敗北
大村益次郎が攻撃
○徳川氏存続
・徳川慶喜…謹慎処分(水戸→駿府(駿河の役所に居住))
明治 35 年 公爵 (1913 年死去)
○東北戦争…33 藩が抵抗(庄内・長岡・仙台・盛岡・米沢・会津)
↓
1868 年 8 月 23 日(M1) 奥 羽 越 列 藩 同 盟
会津藩は最後まで抵抗
↳ 陸奥・出羽・越後
8 月 23 日〜9 月 22 日(1 ヶ月間)
↓敗北
5000 人が篭城
○五 稜 郭 の 戦 い
処罰:責任者の処刑
榎本武揚…2500 人で蝦夷地箱館の五稜郭に篭城
減封(23 万石→3 万石)
←黒田清盛(5000 人)が攻撃
移封(会津→斗南藩)
↓
1869 年 5 月 18 日 降伏
○戊辰の役の死者
※官軍 12 万人動員
新政府軍 3556 人
旧幕府軍 4707 人
合計 8263 人
№18
新政の基本方針
1868 年 3 月 14 日(M1) 五 箇 条 の 誓 文
天皇が神に誓う
・万機公論
・開国和親 etc
1868 年 3 月 15 日(M1) 五 榜 の 掲 示
庶民に対して新政府の本音
・五倫の道(五倫=儒教(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友))
・強訴・浮浪の禁止(一揆など)
・キリスト教は邪教だ(禁止)
・藩から出ることの禁止
※江戸時代の政策とあまり変わっていなかった
1868 年 4 月(M1) 『 政 体 書 』の公布
管制=中央の政治組織
・太政官をおく →・権力集中を狙う
・特色 三権分立(議政・行政・刑法)
№19
○新政のPR
1868 年 7 月 江戸→東京
9 月 明治に改元
新政のPR
※『一世一元の制』…天皇に一つの元号
諡号に元号をつける
近代天皇制で国民を統合
○天皇のPR・行革
1868 年 9 月 京都から江戸へ 2500 人の行列
12 月 京都に戻る
1869 年 3 月 再び京都へ
・孝子節婦の褒賞
・70 歳以上の老人の褒賞
1 万人以上に 1 万両以上(全体で 20 万両)
・11 月に東京の市民に賜酒(2 樽)
『天盃頂戴』と市民が騒ぐ
№20
集権体勢の成立
1869 年(M2) 版 籍 奉 還
・土地と人民を天皇に返還
1 月 4藩主(薩摩・長州・土佐・肥前)が申し出る
6 月 天皇が許可
・274 家が奉還
・家禄として藩の石高の 1/10 を保障
・大名から知藩事に呼称の変更
1869 年(M2) 華 族 制
1884 年 改正
旧大名,公家,士族
爵位(公・候・伯・子・男)
(家柄華族)
(勲功華族)
1871 年(M4) 廃 藩 置 県
2 月 薩長土 3 藩から兵を集める →護親兵
7 月 廃藩(261 藩を廃止)
・3 府 302 県(→11 月に 3 府 72 県)
・府知事,県令を任命(知藩事→罷免(東京に移住))
中央の官僚から
結果:幕藩体制の終了 & 中央集権化の完成
新政府の改革に対し長州藩
などが反対の動きを見せ始
め、民衆も明治維新が期待
はずれだったことから、農
民一揆を起こし始めたそこ
で新政府は中央集権体制を
強化するために、藩制およ
び知藩事制を廃止した。
№21
徴兵制
1872 年 12 月(M5) 徴 兵 告 諭
・兵役=血税
1873 年 1 月(M6) 徴 兵 令
∘ 20 歳以上:常備兵(現役・予備役) ,後備兵
∘ 免役規定
・身体状況
・役人,上級学校
1889 年(M22) 改正
・戸主,長男
国民皆兵
・代人料 270 円を納める者
∘ 徴兵忌避
・徴兵養子…養子に出る
こせきかいざん
・戸籍改竄…戸籍上の年齢や性を変える
しんたいきざん
・身体毀傷…自ら体を傷つけ障害を持たせる
・逃亡
○血税一揆…徴兵令に反抗
1873 年(M6)5 月 美 作 一 揆
死刑 15 名 ,徴兵 64 名 ,罰金 26916 名
1873 年(M6)6 月 会 見 一 揆
・徴兵 255 名
・罰金 11906 名(24,817 円) ←現在の数億円に相当
№22
統帥権の独立
1878 年(M11) 参 謀 本 部 の 設 置
・政府(太政官,内閣)に無関係
・天皇に直属(天皇=大元帥)
新政府は徴兵令の公布とともに広島・
名古屋に鎮台を設置した。さらに明治
11 年に参謀本部を置いて軍は政府か
ら独立し、天皇に直属することになっ
た。これを統帥権の独立と言い、のち
に軍部が独走するもととなった。
1878 年(M11) 竹 橋 事 件
・近衛兵,砲兵など 300 人が反乱
結果:60 名が銃殺
↓
1882 年(M15) 軍 人 勅 諭(天皇から)
・軍人の政治的関与の禁止
・天皇への絶対服従(忠節,礼儀,武勇,信義,質素)
№23
警察制度
№24
四民平等
1871 年(M4) 邏卒→巡査
東京に 3000 人
1873 年(M6) 内 務 省 の 設 置
警察と地方政治を扱う
1869 年(M2) 華族(公家大名)・士族(武士)・平民(農工商者)
1870 年(M3) 平民に苗字を許可
1871 年(M4) 切捨御免の廃止
・通婚の自由
・職業の自由
封建的身分制度の廃止
1871 年(M4)8 月 28 日 身 分 解 放 令
・えた,非人の符号の廃止
・身分,職業も平民と同様
※差別は温存(特権は否定)
M4〜M6 え た 解 放 一 揆
・西日本 11 県
・破壊と放火
№25
○秩
秩禄処分
禄…家禄と秩序(制度)のこと
○賞典禄…戊辰戦争の功績に与えられた禄
歳出の 30%にも及ぶ財政負担
1876 年(M9) 『禄制』を廃止
↓
代わりに『金禄公債証書』を支給
○償還のしくみ
・31 万人に 1 億 7 千万円
政府
証書
・2/3 は華族に
回収
・六年後に抽選で償還し、30 年後に終了
現金+利子
○秩禄処分の結果
・下級武士→没落
(わずかな公債で商売をはじめた→失敗)
↓
武士の商法
士 族 授 産…開墾・帰農の奨励や生業資金の貸付
屯田兵(北海道に開拓に行った武士)
・上級武士
公債を投資して経済的な安定→資本家
№26
地租改正
○目的 財政の安定を目指す
※収穫の 50%の米・現物を年貢として納めていた
→豊凶に大きく左右される
○内容 ・土地に関する封建的統制を撤廃
・1 8 7 2 年 ( M 5 ) 地 券 の 発 行
・ひとつの田畑に一枚ずつ発行
・面積、所有者、地価、位置を調査(M6〜17)
・地価の3%を所有者から現金徴収
○影響 ・政府→安定した地租収入(歳入の安定)
・地主→米価の高騰で利益を得た(M10 年代前半 インフレ)
・自作農(家族経営農家)
→地価が高いせいで大きな負担
→小作人に没落→小作人の拡大(30%→40%以上)
・小作人→変化なし(江戸時代と変わらず)
日本社会の貧しさの原因
国内市場の狭さの原因
華族
↓
地租改正反対一揆
M9 茨城・東海大一揆
M10 3%→2.5%に減租
№27
○金融制度
1871 年(M4)
1872 年(M5)
1876 年(M9)
殖産興業
新 貨 条 例
・円,銭,厘の単位を使用
国 立 銀 行 条 例
・条例によって設立されたのは株式組織による民間銀行
・兌換券を発行
紙幣,金貨と交換(金本位制)
・目的:紙幣価値を高める
・紙幣発行の条件:紙幣発行高の 2/3 の金の準備が必要
M5〜M9 の間に第一国立銀行以下4行だけ設置
↓
改 正 (国 立 銀 行 条 例 )
・兌換を停止 → 自由発行(不換紙幣の発行)
・公債の抵当に
・M9〜M12 の間に 153 行が設立
・目的:金の流出,輸入超過
※ 鳥取…第 82・65 国立銀行・ 島根…第 79・53 国立銀行
○官営工業
・軍事…陸軍工廠
・模範工場…富岡(製糸),品川(硝子),深川(セメント),千住(毛)
・役所…工部省,内務省→鉱山と鉄道のために多額の税金を使用
・政商の出現…政府の保護で独占的利益を受ける
○農業
駒場農学校 (M7)指導者の育成
三田育種場 (M7)種・苗の育成(作物)
洋式の農具の導入・改良
○北海道開拓
1869 年(M2) 開拓使の設置(役所)
黒田清隆(次官→長官)
〜M15 まで 10 ヵ年計画で 2000 万円の投資
札幌農学校(M8)
外人(主に米人)が指導 →東京外語専門学校を設立し勉強
クラーク…M9 から 1 年間滞在 生物学専門
キリスト教倫理も教える
※アイヌ差別
アイヌ…東北と北海道に分布
固有の習慣を廃止(=同化政策)…アイヌ語(→日本語)・入れ墨・耳輪
居住地の制限→狩猟から農耕…樺太住民を札幌に 800 人
M 3 0 旧 土 人 保 護 法 (→1998 年 アイヌ保護法)
○通信・交通
・鉄道(M5)…新橋-横浜間 29km(53 分)[イギリスの協力]
狭軌(106.68cm=3ft6in) ・M35 山陰線(境-御来屋)
軍事的ねらい
・通信(M2)
・郵便(M4)
・電話(M10)
№28
幕末の洋学研究
自然科学,兵学,天文,物理,化学,地理
英・仏・独などの語学
蕃書調所
洋学所(→開成所→東大)
○欧米文明の発見
・福 沢 諭 吉
『西洋事情』…西洋の理念(目標)や考え方
『学問のすすめ』…実学を奨励し、個人の幸福や国家の繁栄は学問によって生まれる
ことを説明
『文明論之概略』…[一身独立一国独立]:個人の自主独立と国家の独立のためには西洋
文明の取入れが必要
にしあまね
・西 周
『万国公法』を紹介(1866 年):社会科学(法律・経済)
国際法
・加 藤 弘 之
『真政大意』(1870 年)…天賦人権[ルソー]の思想
『人権新説』(1882 年)
№29
啓蒙思想
※啓…開く,蒙…野蛮 →文明化
○明 六 社 ( 1873 年 M6)
10 名余りが設立(西周・加藤弘之・福沢諭吉・中村正直・津田真道・森有礼)
『自由之理』翻訳
社長
『明六雑誌』を発行
演説会を月 2 回(植木枝盛:演説会に感銘)
№30
○国教化(=祭政一致)
→信教の自由に反する
神道の国教化
○神道 …神社の信仰
民族宗教・多神教
1868 年 3 月 神 仏 分 離 令
今までは神仏習合が行われていた(平安時代からの伝統)
神社内に寺院を→神宮寺
廃仏毀釈…寺院や仏像の破壊の風潮
1870 年[M3] 大 教 宣 布
大教…神道→習合の意味
同教化の宣言・政府が PR
○神社制度
神社に上下関係を設ける(当時約 18 万社)
・官社 官幣社[中央]
国弊社[地方]
・諸社−府県の神社
・郷社−村単位の神社
・伊勢神宮−中心
○国教化の目的…天皇制の強化
№31
仏教
○島 地 黙 雷…信教の自由を主張し神道の国境化に反対
※浄土真宗(親鸞)
善人よりも悪人を救うのが阿弥陀仏の本願 [悪人:修行ができない人]
浄土宗の庶民化
№32
1869 年(M2)
1873 年(M6)
№33
1872 年(M5)
キリスト教
長 崎 浦 上 信 徒 事 件
3416 名の隠れキリシタンが公然化し弾圧された事件
21 の藩に分けて改宗を迫った(鳥取:161 名)
↓
664 名が死,1022 名が改宗
外国が抗議
↓
キリスト教布教の許可
教育の普及
『学制』の公布
小学校 下等 4 年,高等 4 年
小学校 53760 校
中学校
256 校
大学校
8校
○『実学』を学ぶ
実学:読・書・算
江戸時代は漢学(漢学↔実学)
○国民皆学
『邑に不学の戸なく、家に不学の人がいないように』
○大きな負担
授業料 50 銭(今の数千円)
校舎などは村で負担
就学率 50%(男:30%,女:20%)
※M33 4 年の義務制
M40 6 年の義務制
№34
学校の建設・維持,教師の給料はすべて
市町村の負担とされたから。米一升約七
銭の時代に、小学校児童一人あたり一ヶ
月最高 50 銭の授業料を払わされた。
高等教育の普及
○公立学校
M10 東京大学創立
M22 京都大学創立
・師範学校…小学校の教員養成
・高等師範学校…男:広島,東京
女:奈良,お茶の水 M20 年代設立
○私立学校
1868 年(M1)
1875 年(M8)
慶 應 義 塾…福 沢 諭 吉が開校
蘭語塾(1958 年創立)が改名
同 志 社…新 島 襄が創立
1880 年(M13)
明治大学・法政大学・専修大学
法律・経済から出発
1882 年(M15) 東 京 専 門 学 校
後に早稲田大学
大 隈 重 信が創立
№35
文明開化
○生活・風俗の近代化
衣:背広,靴,洋傘,帽子
食:西洋料理,ビール
住:西洋建築,椅子,テーブル
他:乗合馬車,人力車,自転車,ガス灯
○太陽暦の採用
1872 年(M5)12 月 3 日
1873 年(M6)1 月 1 日
太 陰 暦 …365 日で 5 年に 2 回だけ 13 ヶ月
↓
太 陽 暦 …365 日で 4 年に 1 回だけ 366 日
今までの太陰暦から太陽暦にす
るとともに、五節句を廃止し三大
節という新しい祝日を設け、天皇
制の強化を図った。また、B.C.660
年を皇紀元年とした『皇紀』を定
めた。
・五節句を廃止→新しい祝日
五節句…1/7,3/3,5/5,7/7,9/9
新祝日…三大節(1/1,2/11,11/3) → 天皇制の強化を目的
・新しい祝日と共に明治政府は『皇紀』を定めた
1940 年(S15)皇紀 2600 年
↓
B.C.660 年 皇紀元年 神武天皇(初代)…橿原で即位
A.D.601 年 推古天皇
辛酉の年(大変化の起こる年)
1260 年=21 元=1 蔀 →601 年から 1260 年バック→B.C.660 年
№36
開国和親
○清との条約
1871 年(M4) 日 清 修 好 条 規(調印)
・対等で平等な条約
・裁判権(治外法権)と協定関税(関税自主権)を相互に承認
・1873 年(M6)に批准され発行
○岩 倉 遣 欧 使 節
1871 年(M4)11 月〜1873 年(M6)9 月
48 名(政府の中心的人物)が欧米を視察
目的:①条約改正
M5.改正ができる年(1858 年締結)
交渉はできなかった(失敗)
②欧米視察
制度,文物などあらゆるものを見学
留学生 58 名
・中江兆民(フランスの思想)
・金子堅太郎(憲法)
・女子 5 名(7〜13 歳)(津田梅子・大山捨松ら)
○征 韓 論
M6 視察に行かなかった人々が征韓(韓国征伐)を主張
西郷・板垣・江藤ら (征韓派)
木戸・大久保・伊藤らが反対 (内治派) → 征韓派の敗北 → 参議を辞職・反政府運動
№37
台湾出兵
1874 年 5 月〜12 月 台 湾 出 兵
・日本初の出兵(侵略)
・3600 名の出兵
○口実(経過)
1871 年(M4) 琉球島民が台湾で殺害された(54 名)
[宮古島島民が琉球本島に貢物しに行った帰りに漂流し台湾に漂着]
○理由
・琉球王国を日本の支配下におく
・征韓論を退けた大久保が専制政治への非難を外征によってそらそうとした
○結果
講和条約…①琉球島民は日本の属民であることの承認
②賠償金 70 万円(戦費 700 万円以上)の支払い:三菱財閥が発展
№38
朝鮮外交
1875 年(M8) 江 華 島 事 件
領海侵犯に対し、朝鮮が発砲 →
日本軍が上陸(35 名を殺害)
6 隻の軍艦と 800 名の兵で威圧
1876 年(M9) 江 華 条 約(日朝修好条規)
①朝鮮を独立国として承認(朝鮮は「自主の邦」)
②仁川・釜山・元山の開港
③治外法権・無関税・無期限
④外交使節の交換
№39
1854 年 日 露 和 親 条 約
・樺太…両国雑居
・千島…択捉-ウップル間から南を日本領
→ 非常なほどの不平等条約
『泥棒に扉を開くようなもの』
国境の確定
1875 年(M8) 樺 太 ・ 千 島 交 換 条 約
・樺太…ロシア領
・千島…全島が日本領
1876 年(M9) アメリカが小笠原諸島を日本領として確定
№40
清
朝貢関係
琉球処分
琉球王国
清国と琉球王国の朝貢関係を断ち切るための明
治政府の行動。M5 に琉球王国から琉球藩にした
後、M8 に清との国交断絶,日本の元号の使用,
鎮台の設置を要求した。しかし琉球が拒否しの
で、M12 に処分を断行した。その内容は琉球藩か
ら沖縄県として日本の行政下におき、尚泰を東京
に移住させた。
(冊封関係=華夷秩序)
1872 年(M5) 琉 球 王 国 → 琉 球 藩
国王尚泰を藩王とした
1875 年(M8) 琉球に要求
①清との国交断絶
②日本の元号(明治)の使用
③鎮台の設置
→ 琉球は拒否
1879 年(M12) 処分を断行
・松田道之が処分官として兵 400 名と景観 160 名で威圧
・沖縄県を設置→日本の行政下
・尚泰を東京に移住させ、20 万円(現在の数億円)の公債を与え侯爵に
↓
琉球と清は反対
↓
1880 年(M13) 分島案の提示 →日清戦争まで論議
№39
士族反乱
○士族反乱…封建的な反動
○原因
①新政への不満…四民平等,地租改正,廃刀令など
②秩禄処分…士族商法による没落
③征韓派の下野
○反乱事件
1874 年(M7)
1876 年(M9)
佐賀の反乱
・各地から 1 万人以上が参加
・首謀者:江藤新平
神 風 連 の 乱(熊本)
秋 月 の 乱(福岡)
萩 の 乱(山口)
1876 年(M9)の廃刀令に対する反対行動
数百人での反乱で数日で鎮圧
№40
西南戦争
1877 年(M10)2 月〜9 月 西 南 戦 争
○原因
新政への不満(地租改正,秩禄処分など)
きっかけ…1877 年(M10)2 月 火薬庫事件
西郷暗殺計画
廃刀令など武士の特権の喪失や
秩禄処分による下級武士を中心
とした経済困窮、さらに西郷など
征韓派の下野が原因
○経過(戦場)
1877 年(M10)2 月 15 日 出発
3 月 20 日 田原坂の戦い…敗北
4 月 15 日 熊本城責め…失敗
人吉,都城,宮崎でも敗北
8 月 15 日 和田峠で解散
9 月 1 日 城山に戻る
9 月 24 日 敗北(西郷の死)
○兵力と戦費
薩摩軍:約 4 万人 → 死傷 2 万人
処刑 2164 人
政府軍:約 6 万人 → 死傷 1.6 万人(死者は靖国神社に祀った)
戦費:4156 万円(一年間の予算と同じ)
M10 年代にインフレ[死の商人(三井,三菱など)が大きな利益]
○西郷伝説(&事実)
・生存説…人々の願望
西郷星(火星)に行って生きている
M24 のニコライ二世(ロシアの皇太子)来日のとき一緒に帰国する
・長男 寅太郎
M15 ドイツに留学(天皇から金一封)
M32 隆盛を免罪
M35 西郷家に侯爵の位が与えられる
・東京上野の銅像
和服姿で犬を連れた西郷像
M31 全国からの募金で高村光雲が作製(福沢諭吉が募金の先頭)
№41
民権運動の開始
○士族中心の運動
1874 年(M7)1 月 『 民 撰 議 院 設 立 建 白 書 』 の 提 出
M6 に征韓派の人々が M7 に行った
国会の設立を求める民権主義の運動
板垣退助,後藤象二郎,江藤新平,副島種臣ら
・要求の根拠
①「有司専制」を批判
②税を負担する人に発言権がある
・「政社」の結成
1874 年(M7)4 月 10 日 『立志社』を設立(高知)
1875 年(M8)2 月 22 日 『愛国社』を設立(大阪)
日本初の全国組織
○政府の対応
1875 年(M8)1 月 『 大 阪 会 議 』
大久保(政府側)と板垣,木戸が会議をし、政府は立憲政府の方向をとること
に合意(伊藤博文,井上が仲介)
↓
・板垣と木戸が参議に復帰(板垣:3/12 に復帰後 10/28 に再辞職)
・天皇から詔勅を出させた
1875 年(M8)4 月 『漸 次 立 憲 政 体 樹 立 の 詔』の公布
・三つの役所(機関)の設立…三権分立を目指す
元 老 院(立法) 〜M23 まで
大 審 院(司法) 〜S22 まで[現在の最高裁判所にあたる]
地 方 官 会 議(立法・下院)〜M14 まで
№42
政府の言論統制
1875 年(M8)6 月 28 日
『讒 謗 律』の制定
名誉毀損罪
批判対象
天皇
皇族
禁獄
3年
2.5 年
罰金
1000 円
700 円
官吏
2年
500 円
1875 年(M8)6 月 28 日 『新 聞 紙 条 例』の制定
新聞による批判
天皇
成法
禁獄
3年
2.5 年
罰金
1000 円
700 円
新聞の発行処分
華族
1.5 年
300 円
裁判所
2年
500 円
1785 年(M8) 114 件の弾圧
1876 年(M9) 86 件の弾圧
1877 年(M10) 47 件の弾圧
1876 年(M9)2 月 15 日 植木枝盛の弾圧
・2 ヶ月の禁獄
・
『猿人政府』…思像の自由を人間は持っている。しかし法律によって不可能にな
り、猿人となる。つまり天皇も法律により猿人となる。
№43
民権運動の展開
1877 年(M10)6 月 『立志社』建白
・政府への要求
・国会開設,地租軽減(地主のため),関税自主権の条約改正(商工業者のため)
1878 年(M11) 『愛国社』の再建
・地主,商工業者が参加
・以後、重要な役割を果たす
№44
民権運動の高揚
1880 年(M13)3 月 『愛国社』第四回大会
・
『国会期成同盟』に改称
・決議:①天皇に請願
87,000 人の署名→4 月 17 日に却下(請願という制度がない)
②憲法草案
M13〜15 にかけて 50 以上もの草案…私擬憲法
③政党の結成
1881 年(M14) 植木枝盛:
『東 洋 大 日 本 国 国 憲 按』
①人民主権の立場
②一院制の民選議会
全 220 条(うち 34 条が人権に関するもの)
③徹底した人権保障
④連邦制…地方自治
※請願…1874〜81 年
合計 130 件以上、319,300 人の署名
1880 年(M13) ピークとなり 85 件
№45
明治 14 年の政変
○北 海 道 開 拓 史 官 有 物 払 下 げ 事 件
10 カ年計画(M2〜M13)の終了による官有物(鉄道,会社,鉱山,土地など)の処分
計画に 1400 万円の投資
→黒田清隆が五代友厚に払い下げようとした:39 万円無利息 30 年賦(時価 300 万円以
上する物)
→世論,民権派が汚職だとして反対:「有司専制」の政治として攻撃され、政府は
危機に陥った
○政府分裂
大隈重信:即時国会開設(英国流議会制度の導入)
対立
伊藤博文:漸進論(尚早派)
1881 年(M14)10 月 12 日 政変
①払下げ中止
②大隈派を政府から追放
③『国会開設の勅諭』の発布 →M23 年期に開設の約束
勅諭に異例なこと:『国安を害するものは国典をもってす』
(反政府運動に危機感があった)
№46
政党の結成
1881 年(M14)10 月 「 自 由 党 」 の 結 成
・板垣退助が党首の急進主義
・自由、人権を主張(フランス流民主主義)
・地主、豪農、商工業者に支持される
1882 年(M15)4 月 「 立 憲 改 進 党 」 の 結 成
・大隈重信が党首
・斬新的立憲主義を主張(イギリス流議会制度)
・都市の実業家、知識人に支持される
№47
松方財政
1881 年(M14)10 月 松 方 正 義 が 大 蔵 卿 に 就 任
・理由 M10 年代にインフレ(貨幣価値の下落)
西南戦争などによる不換紙幣の大量発行
・改革内容 ①増税:地方税や物品税(酒、煙草など)の拡大
②紙幣整理:緊縮財政
③官営工場の払下げ
④日本銀行の設立(1882 年(M15)6 月 27 日)
:唯一の発券銀行で 1885 年から兌換券を発行
・影響 デフレ(物価下落)
①地主制の発展:自小作の没落→地主の規模拡大
②資本の集中:中小企業の倒産
自由民権運動への影響
地主、豪農、商工業者が運動から撤退
№48
自由民権運動の激化
○原因 ・デフレの影響
物価下落→(米、生糸など)農村に大きな影響
借金、減税の要求
・政府の弾圧
1880 年(M13) 「集会条例」の制定 :政社の支部同士の連絡禁止
1882 年(M15) 政社の支部設立禁止 :演説会の警官立会い
・政府の懐柔策
1882 年(M15)11 月 11 日〜1883 年(M16)6 月 22 日
自由党(板垣、後藤)が洋行、外遊(三井財閥から出資)
自由党と改進党の対立
○事件 1882 年(M15)12 月 福 島 事 件
道路工事不参加者への人夫賃徴収策や地方税の増税(約 2.5 倍)などをめぐって県
会議長河野の率いる自由党と県令三島が対立した。しかし農民たちが大衆運を起
こしたのをきっかけに、河野ら自由党員が政府転覆を企てたとして 58 名を逮捕し
た事件。
1884 年(M17)9 月 23 日 加 波 山 事 件
栃木県令も兼ねていた三島が栃木に県庁を建て、10 月に落成式を行おうとした。
栃木などの自由党員 16 名がそれに参加する予定の大臣を暗殺しようとした事件。
政治犯でなく強盗犯として 7 名を死刑、7 名を無期懲役とした。この事件を結果とし
て 10 月 29 日に自由党が解答した。
1884 年(M17)10 月 30 日 秩 父 事 件
大井憲太郎の中止勧告を無視して蜂起した。困民党や借金党に集まった困窮農
民は、借金の 40 年賦返済、減税、学校休業などを要求し、高利貸・警察署・郡役所を襲
撃した。11 月 2 日、大宮郷に一万人が集まり郡役所を占拠し、革命本部とし、自由自
治元年とした。また、警察に対抗するため武装した。山県内相を主とした軍隊、憲兵、
警官 800 名が出動した。その結果 4393 名が裁判を受け、7 名が死刑、296 名が重罪、
448 名が軽罪、2642 名が罰金となった。そのうち、死刑犯の一人、井上伝蔵は北海道
まで逃亡した。改名して 65 歳まで生きた。
№49
民権運動の再高揚
M19〜20
条約改正に反対して再び民権運動が盛んになった
井上馨外相が日本の裁判官に外人を採用して条約改正を行おうと
したことに対する抗議
M19〜20
大同団結運動
運動の中心は改進党の大隈重信と旧自由党の後藤正二郎
1887 年(M20)12 月 15 日 三 大 事 件 建 白 運 動
片岡健吉らが指導し、条約改正、言論の自由、地租軽減の 3 つを政府に要求した。このため
民権派が東京に集まった。これを三島警視総監が弾圧した。
1887 年(M20)12 月 25 日 「 保 安 条 約 」の制定
民権運動弾圧の法令。民権派の三大事件建白運動を弾圧するため内相の山県らが中心に
公布。秘密の結社、集会の禁止、内乱の陰謀、治安妨害の恐れのあるものを皇居外 3 里の地へ
追放した。これにより 570 名が追放された。
№50
国家制度の整備
1882 年(M15)3 月〜1883 年(M16)8 月 ヨーロッパ視察
伊藤博文らが君主権の強い強大な国家組織や憲法理論を学んで帰国したあと、直ちに
国会開設準備のための新しい国家制度の整備を始めた。
「皇 室 財 産」の設定
皇室の地位を経済的に強化することを目的とした岩倉具視らの主張によるもの。土地、
株券などを皇室の財産とする。山県が「皇室の基礎を永遠に」と主張した。軍事予算が国会
で否決された場合、不足分を皇室財産で補って軍拡を進めた。1945 年 GHQ の調査による
と、その時には時価 35 億円あった。
1884 年(M17) 「 華 族 令 」の公布
従来の華族に維新の功臣を加えて、皇室を中心とする特別の身分とした。宮内省が統制
を行った。結婚には許可を必要とし、学習院で学習し、華族会館で付き合わされた。家格や
勲功によって、公・候・伯・子・男の爵位を授け、「皇室の藩屏」とした。
1885 年(M18) 「内 閣 制 度 」の創設
権力が分散的な太政官制を廃止した。総理大臣と各省長官である国務大臣とが内閣を
組織するもので、複雑化する行政を集権的に統轄することを目的とした。初代内閣は、伊
藤が総理大臣になり、薩長両藩閥中心に組織された。
№51
軍備拡張
M10 年後半 朝鮮で日本と清が対立
陸軍を鎮台制から師団制に切り替え、国内の内乱に対応する軍隊から大規模作戦に対
応できる軍隊編成とした。M20 年には 6 師団あり、1930 年には 20 師団になった。
1889 年(M22)には徴兵制を全面的に改め、兵役免除や徴兵猶予を廃止した。17〜40 歳の
志願制になった。
№52
憲法草案作成
1884 年(M17)3 月 17 日 「 制 度 取 調 局 」の設置
こわし
井上 毅 を中心とし、金子堅太郎らとともに、政府顧問のドイツ人ロエスレルの援助を
得て、憲法草案の起草をはじめた。
1888 年(M21) 4 月 「 枢 密 院 」の設置
草案を枢密院で審議した。伊藤博文が議長となった。憲法草案の審議後は憲法により、
天皇の最高諮問機関とされた。
1889 年(M22) 2 月 11 日 憲法の公布
天皇が定める憲法(欽定憲法)として公布された。大日本国憲法、明治憲法とも呼ばれる。
№53
○天皇
明治憲法の特徴
天皇を統治権を総覧する神聖な元首と規定した。天皇は男子のみが継承できるとし、
官制の制定、文武官僚の任免、陸海軍の統帥、外交、緊急勅令制定などの権限(天皇大
権)を付与した。このことは天皇が憲法に基づく立憲君主
でありながら、絶対性を持つ主権者であることを意味した。
ほひつ
○内閣 行政府としての内閣は、統帥権以外の大権を行使する天皇に輔弼責任を負った。
○議会
立法府とされた帝国議会は、制限選挙で公選された議員からなる衆議院と、皇族・華
族および直人の議員からなる貴族院によって構成された。衆議院議員選挙では、直接
国税 15 円以上を納める満 25 歳以上の男子に被選挙権を与えた。議会には、政府提出
の予算案と政府及び議員提出の法律案の審議権などを認められた。
№54
民法の施行
1898 年(M31) 「 民 法 」の施行
1890 年に公布されたが、日本の家族制度に合わないなどと言う理由で施行が延期された。そ
のため民法は改めて編纂しなおされ、施行された。
《内容》
新しい民法では、家長である戸主の強力な権限を認め、長男が家名・家産・戸主権などの家督
を単独で相続し、男女は対等ではなかった。そのため、戸主は家族を扶養する義務を持つ反
面、私有財産は原則として戸主に帰属した。家族は婚姻・居住などで戸主に従い、選挙権も事
実上戸主に限定された。
№55
北海道
1886 年(M19) 北 海 道 に 道 庁 を 設 置
道議会の設置などは遅れたが、屯田兵の設置や囚人労働の利用、内地資本の導入などにより
開発が進んだ。囚人労働者は重罪犯がなり、道路建設などを行った。
1899 年(M32) 「 旧 土 人 保 護 法 」の制定
道庁の設置によって北海道で独自の文化を育ててきたアイヌ人は、自らの生活を支えてき
た狩猟・漁や山林伐採の権利を失った。法を制定させ、政府が与える土地に定住させ、アイヌ
語を廃止して日本人への同化を進めた。
№56
沖縄
○旧慣温存策
王国時代の身分・禄高制を認める支配層の懐柔策
↓
《県民運動》
共有山林の官有地化に反対する、謝花昇を中心とした運動。謝花昇は県最初の学士で県の農
業技師。この運動に失敗した後は、県会設置を求める県政刷新と、国会議員の選挙権を求め
る運動を進めるようになった。国政参加は 1912 年にようやく実現した。
№57
条約改正
1871 年(M4) 岩倉使節団 相手にされず
1876 年(M9) 外 務 卿 寺 島 宗 則
関税自主権について交渉し、関税を高くしようとした。アメリカが新条約調印に応じたが、
貿易の減退を恐れたイギリスやドイツが応じなかったため、失敗した。
1882 年(M15) 外 務 卿 井 上 馨
《欧化政策》
風俗・習慣などの西洋化を勧める政策。東京日比谷に建てた鹿鳴館での夜会・舞踏会などの
開催や、演劇・文学などの改良運動もその影響である。
《改正案》
関税を 3%から 11%に上げ、治外法権を 2 年後に撤廃する案を立てた。その条件に、外国人の
内地雑居、外国人裁判官の任用、法律の整備であった。
↓
法律顧問ボアソナード、農商務省谷干城、民権派が反対運動を開始した。そして 1887 年
(M20)7 月 26 日に辞職した。
1888 年(M21) 外 相 大 隈 重 信
井上案を、外人判事を大審院にのみ任用しようとした。これに山県が反対する上、井上まで
もが反対した。その反対運動の中、来島恒喜に襲撃され、大隈は重傷を負い、失脚した。
1890 年(M23) 外 相 青 木 周 蔵
治外法権撤廃をイギリスが認めた。ロシアの東アジアにおける南下政策への対応に苦慮し
ていたイギリスは、近代化をしつつあった日本がそのために役立つと判断したためであっ
た。
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1891 年(M24) 5 月 11 日 大津事件
ロシア皇太子を津田三蔵が切りつけた事件。青木が引責辞職したため、この交渉は中止さ
れ、失敗した。
1893 年(M26) 外 相 陸 奥 宗 光
1894 年(M27) 7 月 16 日 日 英 通 商 航 海 条 約
この条約により、日本は治外法権を回復することができた。
№58
壬午軍乱
1882 年(M15) 7 月 23 日 壬 午 軍 乱
日本進出に不満をもつ兵士や民衆は、閔妃一派に反対する国王の実父一派と結び、日本公使
館や政府高官を襲撃した事件。また、旧軍隊が新しい軍隊である別技軍と差別されたことも
原因であった。
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日本(1500 人)と清(3000 人)がソウルに出兵
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1882 年(M15) 8 月 30 日 「 済 物 浦 条 約 」の締結
日本は事件後、清の斡旋で挑戦に謝罪させるとともに、50 万円の賠償金と公使館守備兵駐屯
権を得た。
№59
甲申事変
1884 年(M17) 12 月 4 日 甲 申 事 変
朝鮮内部で、清を宗主国と考える事大党に対し、日本と結んで改革をはかろうとする独立党
が台頭してきた。清仏戦争で清が敗北したことを契機に、独立党は日本守備隊の支援を得て
クーデターを起こした。3 日後の 12 月 6 日に清国軍の来援により失敗に終わった。
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1885 年(M18) 1 月 9 日 「 灌 城 条 約 」の締結
清国に謝罪させた。また、賠償・公使館の再建を認めさせた。
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1885 年(M18) 4 月 18 日 「 天 津 条 約 」の締結
日本が全権伊藤博文を天津に派遣し、清国全権李鴻章と結んだ。日清両国軍の朝鮮からの撤
兵、派兵の際の事前相互通知などを内容とした。
№60
初期議会
1890 年(M23) 7 月 1 日 第一回衆議院選挙 → 野党:民党 170 名,与党:吏党 130 名
1890 年(M23) 11 月 25 日 山 県 有 朋 内 閣
山県は、国境である「主権線」だけでなく、朝鮮を取り込む「利益線」の防衛まで主張した。山
県は東アジアの国際情勢を背景に軍備拡張政策をとり、「政費節減・民力休養」を唱える民党と
衝突した。政府は民党の一部の妥協によって軍備拡張予算を成立させた。この妥協に応じたの
は立憲自由党の土佐派。このことに憤慨した中江兆民は、議会が「無欠虫の陳列場」になったと
批判して議員を辞職した。
1891 年(M24) 11 月 松 方 正 義 内 閣
第二議会での予算における民党の反対に対しては、1892 年(M25) 2 月 15 日に議会解散で応じ
た。第二回総選挙では政府の激しい干渉があったが、民党側の優位は崩れず 163 名で与党とな
った。
1892 年(M25) 第 二 次 伊 藤 博 文 内 閣 ( 元 勲 内 閣 )
第四議会で軍事費増額をめぐり民党と衝突したが、政府は、1983 年(M26)に政府と議会との
協力を求める詔勅の力で民党を妥協させた。しかし、改進党などが「対外硬」を主張して政府攻
撃を強めると、自由党も政府批判にまわった。
№61
日清戦争
1894 年(M27) 2 月 甲 午 農 民 戦 争
西学(キリスト教)に対抗する民間信仰(東学)の信者を中心とする反乱(東学党の乱)。反政府運
動と日本などの排斥運動が行われた。
1894 年(M27) 6 月 12 日 全 州 和 約
反乱軍が 5 月 13 日に全州を占領した。それに対し、政府は妥協した。
1894 年(M27) 6 月 2 日
朝鮮が清に出兵要求
6月 7日
6 月 12 日
7 月 25 日
7 月 29 日
8月 1日
9 月 16 日
9 月 17 日
11 月 21 日
1895 年(M27) 2 月
清は日本に朝鮮出兵の通知
日本軍が仁川に上陸
豊島沖海戦
成歓・牙山を占領
宣戦布告 天皇:「朝鮮の独立と東洋平和のため」
平壌を占領
※日清戦争における日本兵の死者
黄海海戦
戦死
1,417 名
遼東半島を占領
病死 11,894 名
威海衛を占領
変死
117 名
№62
下関条約
1895 年(M27) 3 月 20 日 李 鴻 章 と 伊 藤 ・陸 奥 が 交 渉 開 始
4 月 17 日 調 印
○内容 ・朝鮮半島の独立の認可
・賠償金約 3 億円の支払い (戦費 2 億円)
金貨によって受け取り金本位制の発展 & 賠償金によって軍拡の実行
・領土割譲
台湾・澎湖列島・遼東半島の割譲
(しかしロシア・フランス・ドイツの三 国 干 渉により遼東半島は返還。返還の変
わりに 4500 万円の賠償金を追加させた。これを屈辱とした国民は「臥薪嘗胆」の
スローガンのもとに再起を期した。)
№63
台湾占領
1895 年(M28) 5 月〜12 月 台湾占領:近衛師団を派遣
5 月 25 日 「台湾民主国」を建国宣言して占領に反抗
抗日武装闘争 → 5 ヶ月間で 17,000 人を処刑:1902 年までに 34,000 人を処刑