久保 純一 - 法制史研究会ホームページ

第四部
迷える近現代
日の丸と君が代
久保
純一
はじめに
広島県立世羅高等学校の校長が1999年(平成11年)2月28日朝、卒業式におけ
る国旗・国歌の実施問題の処理を苦にして自殺した。
このことをきっかけに当時の小渕政権はにわかに「国旗・国歌法制化」に向けて準備を始め、
同年 8 月 13 日に「日の丸」を国旗とし、「君が代」を国歌と定める国旗・国歌法を公布、施行
した。この法制化に関しての小渕政権の考え方としては、「政府としては、これまで、国旗・
国歌については、長年の慣行により日の丸、君が代が国旗、国歌であるとの認識が確立し、
広く国民の間にも定着していると考えられることから、国旗、国歌を法律によって制度化す
る必要はないと考えてきたところ。しかしながら、21世紀を迎えるにあたって、諸外国
では国旗・国歌を法制化している国もあること、また成文法を旨とする我が国にあっては、
国旗・国歌についても成文法としてより明確に位置付ける時期に達したと考えられる。」と
いうものであった。
私自身、小学校から、入学式や卒業式には必ず日の丸が掲揚されており、君が代も斉唱
してきた記憶がある。日の丸、君が代が国旗、国歌であることに何の疑問も違和感も覚え
ておらず、むしろなぜ今になって法制化なのであろうかという思いにかられた。
日の丸、君が代の歴史を改めてみつめ、国旗、国歌の意義をさぐるとともに、今回の法制化に至るまでの
諸問題、また諸外国の状況をみていく上で、国旗・国歌法が意味することについて考え、論じていきたい。
第一章 日の丸の歴史
1
日本人の太陽観
日本の国旗は、「日の丸」「日章旗」などと呼ばれ、白地に赤い丸を配して太陽をかたどっ
たものである。
古くから農耕民族は、その生産に日照が絶対必要であることから太陽を神格化したが、
日本でも例外ではなかった。冬至や日食で弱まった太陽の力を復活する喜びを讃えた神話
は世界各地にあるが、その一つが「古事記」「日本書紀」に出てくる「天の岩戸」の話である。
ところが日本人の太陽信仰は、7 世紀頃、国家主義思想を生み出した。すなわち、聖徳太
子が 607 年の遣隋使に托した国書には、「日出ズル処ノ天子、書ヲ日没スル処ノ天子ニ致
ス」と書き、さらにこの「日出ズル処」は、いわゆる大化の改新頃から「日本」となり日本のこ
ととなる。中国では、日本のことを「倭」と呼び、日本人もこれにならったが、この「倭」と
いう字には小さいという軽蔑の意味があることを知り、これを嫌い「日本」という年号をつ
くりだしたのである。漢民族は、自ら中華と称し、周辺諸族未開の野蛮だとして、東夷、
西戎、南蛮、北狄とよんだ。この思想を中華思想というが、その東夷のなかの倭である日
本も、同じような大国主義的な思想をもったのである。こうした思想は、日本から見て太
陽の昇る東は洋々とした大海だが、太陽の沈む西には海をこえて中華の大国があり、また
西北には日本に文化、技術をもたらす先進国ではあるが、それ故に侵略の対象としてねら
う朝鮮があるという地理的、歴史的環境のなかから生み出されたのであろう。日本は中国
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の顔色をうかがいながらも地理的な遠さを利用して虚勢をはり、朝鮮に対しては、中国と
の交渉をバックに威圧しようとした。
国内的には、神話を利用して、天皇は太陽神=天照大御神だという話をつくりあげ、天
皇を「日の御子」とよぶようになった。
2
日の丸の根拠
日本で旗のデザインに太陽をかたどったのは、大宝律令が制定されて古代天皇制が完成
した 701(大宝元)年正月という。錦地に日月を金銀であらわし、長方形のものを棹の先か
らさげるようにした日幡、月幡で宮中の大極殿で用いられたが、後々長く宮中の儀式で使
われた。その後、平安時代末には扇に日の丸を描いた「日の丸紋」が用いられた。屋島の合
戦で那須与一が功名をはせた「扇落とし」の扇の的のデザインはこれであった。また、蒙古
襲来(元寇)の時、征夷大将軍として鎌倉にいた惟康親王がモンゴル軍退散を念じて、旭日
旗に「南無妙法蓮華経」の題目を日蓮に書かせたという伝説がある。南北朝の内乱では、建
武の新政に反逆した足利尊氏が、楠木正成を湊川で破って都へ攻め上がった時、光厳院の
院宣を奉ずるというかたちをとり、太陽をあらわした「錦の御旗」をたてていたという。ま
た、後醍醐天皇が使ったという日の丸が、大和国吉野の賀名生にながく伝えられていた。
朝鮮の権威が地に落ちた戦国時代には、太陽をあらわしたのぼりが戦国大名によって用
いられるようになる。上杉勢が、日の丸を用いた記録がある。伊達政宗勢は日の丸の指物
を用いた。
『川中島五度合戦次第・史籍集覧』には、「武家義信八百ばかり、悉く甲似て腰差
なども取り隠し、謙信勢の油断の処へ俄に取掛かり候ひて、謙信日の丸の旗を目にかけ急
にかかり入り候」という記述がある。武田信玄、上杉謙信のほかに小西行長らが使ったとい
う。このように太陽をあらわした旗は、権力の正当性を誇示するものであると同時に、め
でたいものとされていた。
だが、江戸時代へかけて、朝日がめでたいことのシンボルとされるが、とくに権力の正
当性を誇示するために使われなかった。それが復活するのは、幕末である。
3
船印から国旗へ
江戸時代になり、徳川幕府は、1639(寛永 16)年 7 月、ポルトガル船の来航を禁止して鎖
国を完成させた。その頃「日の丸」は、相次ぐ海賊や難破をよそおった海難を防ぐために幕
府によって 1673(寛文 13)年に発令された「城米回漕令条」により、官船である御城米積船の
船印に用いられていた。以下に示せば、次の通りである。
御米城船印之儀、布にてなりとも、木綿にてなりとも、白四半に大なる朱の丸を付け
其脇に面々苗字名これを書き付け、出船より江戸着まで立て置き候様、之を申付け
らる可く候
ところが、1853(嘉永 6)年のペリー来航を機に「日の丸」は、対外的な日本国の存在証明
となっていくのである。日本は、ペリー来航をはじめとする門戸開放を迫る列強諸国の圧
力に抗しきれなくなり約 218 年間続いた鎖国を終わらすこととなる。
幕府は、対外交渉のため、薩摩藩主島津斉彬の提言で、厳禁していた大船建造を解禁し
ただちに大船建造を実行するが、同時に日本国を証明する船印を決めることが急がれた。
従来の国内船航路ならば、持ち主の家紋でよかったのだが、やがて外国に出向くことを考
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えていて、その必要性を感じていたのであろう。
「日の丸」を日本国総船印に提言したのは島津斉彬である。斉彬は、鹿児島城内から桜島
の左肩に昇る朝日をみて感激し、「日の丸」に決めたといわれる。しかし、この提言に幕府
はなかなか許可をださなかった。これは、「日の丸」が御城米積船の船印に使われていたこ
と、幕府としては、徳川の「中黒」の旗印を用いたかったことがあったからである。しかし
斉彬は、「昇平丸」と命名した大型船に「日の丸」を掲げ、品川へ入港し、幕府に献上し、当
時老中首座であった阿部正弘に「日の丸」を認めさせたのである。そして幕府は、「日の丸」
を日本国総船印とすることを決定し、「大船製造に付きては、異国船に紛れざる様、日本の
総船印は、白地日之丸幟相用い候ふ様」と布告において指令し、1858(安政 5)年 7 月、「日
の丸」を船印とする旨を修好条約を結んだ列強各国に通達した。この時、「日の丸」は国際的
に初めて認知されたのである。また、1859(安政 6)年触書書では「御国総標は白地日の丸の
旗」と文言を改めている。幕府の意識が国旗の概念に近づいたのである。
1860(万延元)年 1 月、咸臨丸がアメリカのポーハタン号の護衛艦として品川を出航した。
咸臨丸は、海外に向けて航海した日の丸掲揚船第1号で、最初の太平洋横断日本汽船であ
り、行く先々で日の丸を掲げた。一方、国内でも、列強諸国と安政の修好条約が次々に結
ばれた前後から、各国の使節団が日本国内を通行するという事態が生じ始め、やがて領事
館や公使館が建設され、その邸内に各国の国旗があげられた。このことに幕府は、反対し
たが、「公使館内は、各国の国権の及ぶところである。」という万国公法(国際法)の規定に
納得させられた。「日の丸」は、船上だけでなく国内の対外的な要所に日本国を強調するた
めに掲揚されたのである。徳川幕府が「日の丸」を日本の総船印と決めてからわずか 10 年
たらずで、列強諸国でも、国内でも、日本の国印であることが認められたのである。
4
戦争と日の丸
幕末におこった戊辰戦争は、薩長ら明治新政府軍は、菊花をかたどった「錦の御旗」とと
もに「日の丸」を掲げ、また、一方で幕府側の海軍や上野の彰義隊、東北列藩同盟に加わっ
た庄内藩や松山藩、京都から転戦してきた新撰組も「日の丸」を掲げて戦うという「日の丸」
対「日の丸」という戦争であった。つまり、両側ともこの「日の丸」を掲げたところに、幕末
日本における正統意識があったのであろう。かつて権力の正当性を誇示するために利用さ
れた「日の丸」の性格が大内乱にあたって復活したのである。
戊辰戦争に勝利した明治新政府軍は、1868(明治元)年に今の内閣にあたる太政官を設置
し、1870(明治 3)年 2 月の『太政官布告第五七号』で、「郵船商船規則別冊之通御定ニ相成
候条、此段相達候」と題し、「御国旗に寸法別紙之通に候事」として、別に「御国旗の寸法」
についても公布した。また、同 6 年には『太政官布告第三五五号』により、陸軍で「日の
丸」を使用し、11 月には『太政官布告第六五一号』では、「海軍御旗章国旗章並諸国旗章」
も定め海軍でも使用することになった。ただ、まだここでは、明治政府の役人達は徳川幕
府の閣僚達と同様、日本総船印すなわち国旗と考えていて、武家出身の官僚達のほとんど
は、統一的な国家意識がまだ希薄だったのであり、「日の丸」は、決して明治政府のシンボ
ルではなかった。明治政府のシンボルすなわち天皇制権力のシンボルとなるのは明治時代
中期からである。
明治政府は、1872(明治 5)年 2 月、一般は祝祭日に、また開港場では常時、国旗を掲げ
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ることを通達した。その祝祭日とは、太陰暦への改暦に伴って決められた「天長節、紀元節」
など、天皇制と国家神道の祭典であった。「日の丸」は、普段は掲げることは禁止されたが、
天皇巡幸などの時には持ち出された。1876(明治 9)年東北巡幸の時のかぞえ歌には、
四つとせ、世のよい様に開花して
門には日の丸を立て、これ巡幸えー
とある。おそらく役人が作りはやらせた歌だろうが、戊辰戦争の際に賊軍の地であっただ
けに、とくにこのような歌まで使って天皇のありがたさを強調したかったのであろう。ま
さに天皇を讃えるものとなっていくのである。
1889(明治 22)年、大日本帝国憲法発布ごろから、「日の丸」は何につけても持ち出される
ようになり、天皇制権力としての役割と機能を発揮し始める。日清、日露戦争の時には戦
意高揚の役割を担い、
軍国主義、
国家主義または侵略主義の象徴としての役割をかわされ、
日中戦争と太平洋戦争になると、ますますそれが大きくなる。こうしたことの背景には、
1908(明治 41)年 10 月、日露戦争後の動揺のなかで、忠君、愛国、政治、教育の体制を構
築する目的で、天皇の名において発令された『戊辰詔書』により、「日の丸」が学校や地域
で国民統合のシンボルとして重要な位置付けをされ、天皇制国家への忠誠と国威の発揚を
もとめる役割を果たしたこと。つまり、「日の丸」を掲げる行動が、大日本帝国の臣民とし
ての意識づくりをしたことがあるからであろう。
日本侵略軍の進むところには、必ずその先頭には「日の丸」が立っており、その下では多く
の血が流れた。そのため、中国をはじめとするアジア各地域では、「日の丸」を悪魔のシン
ボルのように恐れ、憎んだのである。
第二章
1
君が代の歴史
古今和歌集にある君が代の元歌
1869(明治 2)年、横浜の外国人居留地の警護にあたっていたイギリスの歩兵隊の軍楽隊
に薩摩藩士達が、日本の軍楽隊をつくるため軍楽を学んでいた。そのうち、イギリス軍楽
隊長フェントンは、日本に国歌がないことを知り、国歌を決めて作曲しようと言い出した。
薩摩藩の練習生達は、このことを砲兵隊長の大山巌につたえ、大山は野津鎮雄、大迫喜右
衛門、河村純義らと相談するうちに、幼少の頃から愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」の文
句の中から、「君が代・・・」の部分を取り出したのだという。
この元歌は、日本最古の勅撰和歌集『古今和歌集』の巻七、賀に歌の「読み人知らず」の
わがきみはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで
とある。この歌は『新撰和歌集』、『和漢朗詠集』などにもおさめられ、宮内庁所蔵の、
1228(安貞 2)年の奥付のある『和漢朗詠集』には、「わがきみは」の部分が「きみがよは」と
して登場する。
この歌は、もともと 40 の賀、50 の賀、60 の賀(還暦)、70 の賀(古稀)という長寿を祝い、
長寿を祈る歌であった。だから、「わがきみ」も「きみがよ」の「きみ」も賀をうける人のこと
であって、ことさら天皇を指したものではなかった。
長寿を祝う、めでたい歌として「君が代」は、人々に喜ばれ、酒宴の最後、千秋楽の納め
の唄ともなっていたようであり、神事や仏事など様々に活用されてきた。平安時代には民
衆の歌として朗詠され、鎌倉、室町時代には白拍子などが歌唱し、室町時代の南都興福寺
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延年舞や謡曲『老松』にも取り入れられた。江戸時代になると、神楽歌、俚謡、琴歌、地
唄、浄瑠璃、常盤津、長唄、琵琶歌、船歌、盆踊歌、祭礼歌から乞食の門付唄にまで使わ
れ、仮名草子、浮世草子、読本にも利用され、俳諧の付け合せにもしばしば用いられたと
いう。「君が代」は、祝い歌として広く知られ、長寿を祝うという年の賀の歌から、さらに
広い意味での祝賀の歌のなり、次第に民衆のなかに溶け込んでいったのである。
2
軍楽曲として誕生した君が代
先にも述べたように、「君が代」の誕生は、イギリス軍楽隊長フェントンが、日本に国歌
がないことを知ることに始まる。大山巌らが薩摩琵琶歌「蓬莱山」の文句の中から持ち出し
てきた「君が代は・・・」という詩にフェントンは、日本的旋法を考慮しながら作曲したのであ
る。
薩摩藩軍楽隊は、1870(明治 3)年に、薩摩、長州、土佐藩の3藩に対する明治天皇によ
る天覧調練とよばれた閲兵式が行われた際、このフェントン作曲の「君が代」を「天皇に対し
奉る礼式曲」として演奏した。薩摩藩軍楽隊は、1871(明治4)年に海軍軍楽隊となり、「君
が代」は日本海軍の儀礼曲としての軍楽曲とされたのである。この当時、欧米諸国では、外
国の軍艦が入港してきた時には、国歌を演奏する習わしがあり、日本もこれに習い「君が代」
をつくったのである。つまり、「君が代」は儀式用の奉迎曲として誕生したのである。
フェントンの作曲した「君が代」は、フェントン自身、日本語をほとんど知らず、歌詞の
意味もよく理解しないで作曲したせいか、歌詞とメロディーが合っていない洋風の曲だっ
た。このため、当時の日本人には人気がなく、あまり歓迎されないことを理由に、1876(明
治 9)年 11 月 3 日の演奏を最後に廃止された。
1880(明治 13)年、海軍軍楽隊隊長中村祐庸は、廃止されたフェントン作曲の「君が代」に
かわる軍楽曲の作曲の宮内省式部寮に依頼した。依頼に応じた式部寮雅楽課は、中村をは
じめ、陸軍軍楽隊西元義豊、一等伶人の林広守、海軍軍楽隊の傭い音楽教師のドイツ人エ
ッケルトの 4 人を改訂委員に任命したのである。そして、若手伶人である林広守の長男の
林広季と奥好義が作曲し、林広守手を入れ、エッケルトが洋風和声を付して四声体、軍楽
風に編曲したものに、さらに林広守らが多少改めて完成したといわれる。現在、小、中学校
で使われている教科書には、「君が代」の作者として林広守の名が明示されているが、実は
本当の作曲者は、保育唱歌として「君が代」を作曲した奥好義であり、上司である林広守が
これを横取りし、自らが作曲したものとして発表したのである。
ともかく、一度廃止の憂き目にあった「君が代」が、明治政府の下の日本海軍の手で改訂
され、演奏されたものが、現在歌われている「君が代」である。
3
国歌扱いとなる君が代
1878(明治 11)年に宮内省が、1882(明治 15)に文部省が国歌の作成、制定に乗り出したが、
国歌を政府がつくり、強引に国民に歌わせる方法に慎重な姿勢を示し、これを中止した。
文部省の国歌制定計画と同じ頃、「君が代」はやや姿をかえて、小学校唱歌として登場し、
明治政府の教育制度の整備により、徐々に「君が代」の扱いは統一されたものになってくる。
教育制度の主だったものは次のようなものである。
1886(明治 19)年 3 月 2 日
小学校令公布 中学校令公布
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1888(明治 21)年 2 月 3 日
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文部省、「紀元節歌」を学校唱歌として選定送付、紀元節、
天長節に祝賀式典を行うよう命令。天皇崇拝を普及。
1889(明治 22)年 12 月
文部省、全国の高等小学校に「御真影」(明治天皇、皇后の写
真)を下付。この保管のため、奉安殿・奉安庫を設置。
登下校の際には必ず最敬礼。
そして、1890(明治 23)年 10 月 30 日の教育勅語発布を機に学校で国歌扱いとなる。
明治政府は、1891(明治 24)年 6 月 17 日、文部省令で「小学校祝日大祭日儀式規定」制定
し、儀式と唱歌を直接に結び付け、同年 12 月 29 日付で文部省の普通学務局長名で「儀式
の際、唱歌用に供して差し支えないもの」として 13 曲を挙げて通牒を発した。そこでは、
「我大君」、「君が代」以下があげられていて、これが文部省が「君が代」に関わった始まりと
されている。ただ、これら 13 曲の唱歌はあくまで暫定的なものであり、文部省は、1893
年(明治 26)年 8 月 12 日に、新たに「祝日大祭日唱歌」として、「君が代」、「勅語奉答」、「1
月一日」、「元始祭」、「紀元節」、「神嘗祭」、「天長節」、「新嘗祭」の 8 曲が選定され、公布
された。ここで、「君が代」は「古歌・林広守作曲」としてトップにあげられていた。明治政
府は、これを普及するため、学校特に義務教育の小学校を選び、文部省は「君が代」を、ま
ず祝日大祭日唱歌として公式に取り上げ、1900(明治 33)年に小学校令が全面改訂されたの
に伴い、制定された「小学校令施行規則」で祝日大祭日に、「君が代」を合唱することを義務
づけたのである。
その後、日清、日露戦争を機に「君が代」は国歌として次第に定着するようになる。それ
までは「君が代」をむやみに歌ってはいけなかったが、戦争気分の中で歌うことが流行した
らしい。そして満州事変の頃から、学校でも「君が代斉唱」が「国歌斉唱」に変わり、さらに
日中戦争、太平洋戦争が進展していく中で、「国歌斉唱」として「君が代」が盛んに歌われる
ようになったのである。
「君が代」は、もともとは「あなた」を意味する「君」が天皇崇拝のおしつけのなかで「天皇」
ということにされ、法律的には何の根拠もなく、軍国的な戦争気分のなかで、次第に国歌
として国民意識のなかに定着し、やがて国民生活において、慣習法化されるようになった
のである。
第三章 法制化への道
1
GHQにおける「日の丸」掲揚禁止から復権へ
日本は 1945(昭和 20)年 8 月 15 日、
第2次世界大戦に敗北して連合国軍最高司令部(GHQ)
に占領された。そのため、同年 10 月から翌年4月 22 日までの一時、国旗「日の丸」の掲揚
が禁止され、国歌である「君が代」の斉唱も表立ってはできなくなった。それまで日本民族
の政治的シンボルであった国旗、国歌を失ったのである。1946(昭和 21)年 1 月 1 日に、天
皇は「人間宣言」をおこない、同年 11 月 3 日に「日本国憲法」が公布され、翌年 5 月 3 日に
施行された。このことから、現人神であった天皇の権威はなくなり、「日の丸」も「君が代」
も国民のなかで戦争の思い出づよいものとして毛嫌いされていた。しかし、朝鮮戦争が始
まった 1950(昭和 25)年 10 月 17 日に文部省が国旗掲揚と「君が代」斉唱を各学校に通達し
たことを機に、「日の丸」、「君が代」は、政治的シンボルとして蘇ってくるのである。なぜ
文部省は、こういう通達をしたのであろうか。それは、アメリカ極東軍事戦略の大転換や、
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再起をはかろうとする日本独占資本の動きと大きく関わってくる。つまり、アメリカの予
期に反して、中国革命が進展し中華人民共和国が成立すると、自国の防衛を考え、日本列
島が太平洋側における最前線となるとみて、日本の非軍事化を中止して日本を「反共の砦」
の基地として、確保しようとした。このため、日本の旧勢力の復活を謀り、その反面で革
新勢力を弾圧したのである。1949(昭和 24)年 7∼8 月には、下山、三鷹、松川の怪事件が
おこり、レッドパージが始まった。そして、1950(昭和 25)年 6 月には、共産党を半ば非合
法状態におしこめて、朝鮮戦争が開始された。8 月になると、警察予備軍の名で軍隊が復
活し、10 月になると、文部省の国旗掲揚と「君が代」斉唱の通達が行われたのである。
1951(昭和 26)年 9 月、サンフランシスコ講和会議が開かれ、日本は中国やソ連を除外し
た連合国と片面講和をし、同時に日米安保条約を締結した。日本の領土であった沖縄や小
笠原は、アメリカの直接的な支配化におかれていたが、日本政府は、完全に独立したと大々
的に宣伝した。「日の丸」「君が代」は、そのための小道具となった。祝日には、「日の丸」を
立てることが強制されるところも出てきたし、「君が代」は毎日の NHK の放送終了時に流
され、大相撲の千秋楽の取り組み終了後、優勝力士に天皇賜杯が授与されるとあって、表
彰式に先立って斉唱することになった。多くの観衆は、直立して歌わされることになった
のである。
「日の丸」、「君が代」が国旗、国歌として復活してくる要因としては、特に教育現場であ
る。学校に対する文部省の強制ということがある。1950(昭和 25)年の文部省による通達以
降、
入学式や卒業式に「日の丸」を掲揚し、「君が代」を斉唱する学校が次第に増えていった。
その背景には、文部省が全国的な勤務評定実施の 1958(昭和 33)年以降の官報告示による
『学習指導要領』のなかで、「学校行事等」について「国民の祝日などにおいて儀式などを行
う場合には、児童に対してこれらの祝日などの意義を理解させるとともに、国旗を掲揚し、
君が代を斉唱させることがのぞましい」と書いたこと、つまり、学習指導要領に法的拘束力
を持たせることにより、教育内容の国家基準制を強め、戦前を思わせるような教育行政の
復活を成し遂げたことがあったからである。
そして、「日の丸」、「君が代」は、国民体育大会やオリンピックなど、スポーツを通して
普及させられていった。なかでも、1964(昭和 39)年の東京オリンピックにおいて、優勝の
際、「国旗」掲揚とともに演奏される「君が代」に、多くの人々が感激したのである。この時、
市川昆監督が記録映画を製作したが、これに対して、オリンピック担当国務相だった河野
一郎が作品に、天皇の姿や「日の丸」掲揚、「君が代」演奏の場面が少なかったのを理由に、
非難する事件がおこった。オリンピックが「日の丸」「君が代」を国旗国歌として定着させる
にはもってこいの場所だと考えていたのであろう。
田中角栄首相が 1974(昭和 49)年 3 月 14 日の参院予算委員会で、「日の丸」、「君が代」を
国旗、国歌として制定する考えを明らかにし、奥野誠売文相も、国旗の掲揚、国歌の斉唱
を学習指導要領で義務づける方針を示唆した。しかし、国民世論がまだ成熟していないこ
とを察し、あきらめた。ついで自民党は、昭和天皇在位 60 年を迎えた 1985(昭和 60)年、
「国旗掲揚並びに国歌斉唱の徹底」を都道府県に通達した。そして、1989(平成元)年に、掲
揚、斉唱に反対するものは処分するという義務化を打ち出したのである。
2 強制と抵抗の狭間で起きた事件
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先にも述べたように、文部省は学習指導要領に法的拘束力をもたせ、そのことを背景に
教育の現場である学校に対し、「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を強制していった。それに対
し、「日の丸」、「君が代」は戦争のシンボルであり、学校教育において、「日の丸」、「君が代」
を強制することは、戦時中と何も変わらないとして反対し、抵抗する学校教師が処分され
ていく事件が多々起こった。そこには、国旗・国歌の意義を考えていく上で、多くの重要な
問題がある。その問題について、事件をみていきながら考えていくことにする。
<「まわれ右」事件>
1970(昭和 45)年 3 月 16 日、群馬県前橋市。前橋市内の中学校は 16 日、一斉に卒業式
を行ったが、同市桂萱中(北爪三郎校長)で、式の最初の「君が代」斉唱のとき、卒業生の 3
年 1 組担任の小作貞隆教諭の「3 年 1 組はまわれ右」の号令で、48 人全生徒が後ろを向き、
君が代を歌わないという出来事があった。父兄や来賓はあっけにとられ、式後「造反教師を
なぜ放って置いたのか」「ふだんの教育はどうなっていたのか」と騒ぎになった。事件当時、
51 歳で定年まであとわずかだった小作教諭の「君が代」拒否の要因は戦争体験にあった。戦
時中小作教諭は 2 人の兵士の死に際に立ち会った時、瀕死の状態の兵のベットサイドで上
官が「君が代」を歌えと命令しているところを見て、死者に対しても「臣民」たれ、という押
し付けの装置としての「君が代」の象徴的役割を知り、同時に怖さを味わったのだという。
小作教諭はクラスの生徒たちに、詳しくこのことを話し、これの積み重ねが「まわれ右」事
件を起こしたのである。つまり、小作教諭は「君が代」を教師として子供たちに歌わせるこ
とが許されるのであろうかということにこだわったのである。この事件より、1 ヵ月後、
小作教諭は依頼退職を強いられ、職を失うことになる。
<ジャズ風「君が代」演奏事件>
1979(昭和 54)年 3 月 1 日、福岡県立若松高校の 78 年度卒業式が始まった。司会の「国歌
斉唱」の声にしたがって、ピアノ伴奏を担当した小弥信一郎教諭が「君が代」を弾いた。小弥
教諭は、左手で「君が代」のメロディーを、右手で修飾音を弾くというアレンジ伴奏を始め
た。「君が代」がジャズ風に編曲されていた。しかし、その場では混乱はなかった。なぜ小
弥教諭は「君が代」をアレンジしたのか。同高校では、前年度までは「君が代」はなかったが、
78 年度の卒業式には、職場の合意がないままに校長の判断で実施と決定してしまった。校
長の「国歌斉唱」導入の理由は、①学習指導要領、②世論調査で 77%「君が代」を国歌と認め
ている、③「君が代」の「君」は「あなた」の意味、④小中学校でも歌っており、生徒達にも違
和感はない、などであった。このことに異議申し立てをするためにアレンジ伴奏したのだ
という。この事件では、国会議員も動き出し、自民党の機関紙『自由新報』は「血迷った音
楽教師」などの見出しをつけて、小弥教諭にような存在を許すなと激しい調子で報じた。こ
の後、小弥教諭は、県教育委員会から分限免職処分を下されたのである。
<広島県立世羅高校校長自殺事件>
1999(平成 11)年、卒業式前日の 2 月 28 日の朝、文部省の指導によって、卒業式での「日
の丸」「君が代」の完全実施を求める県教育委員会が、県立の各高校校長に対して異例の職務
命令を出して圧力を加え、それに反対する広島県高教組(高校教師組合)側との「板挟み」状
態の結果、広島県立世羅高校の石川敏浩校長が自殺した。はたして石川校長を自殺に追い
つめた「板挟み」状態とは、いかなるものであったのだろうか。広島県では、県教委、管理
者と教師組合との「日の丸」、「君が代」問題混乱回避のため、3 項目の協定による「広島方式」、
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第四部
迷える近現代
簡単にいえば、「日の丸」は式場正面に掲揚せず、三脚で設置する、「君が代」は事実上持ち
込まないといった方式を実行していた。ところが、1997(平成 9)年 2 月に、教員の行った「日
の丸」を取り上げた授業が「差別を助長」するという部落解放同盟の批判を機に、たちまち広
島の公教育は歪んでいるとの批判が県全体に拡大し、文部省が「是正指導」に乗り出すこと
になる。広島県は部落解放同盟が伝統的に強く、とりわけ人権教育平和教育を重視してき
た高教組との関係は親密であり、「日の丸」「君が代」に対して、人権教育の視点から鋭い対
応をするのは当然であった。
文部省は、辰野裕一氏を県教育長として送り込んだ。辰野教育長は、1998(平成 10)年
12 月 17 日に県立学校長に対して、「日の丸」「君が代」の完全実施を求める職務命令を出し、
さらに卒業式を間近にした 1999(平成 11)年 2 月 23 日に口頭ではあったが、2 度目の職務
命令を出した。2 度の突然の職務命令により、各校長の間で動揺が広がった。これまで平
和、人権教育を柱にしてきた広島で、それを否定すると理解されていた「君が代」を斉唱す
ることは自己否定にもつながる。真摯な性格であれば、きつい指導である。定年間近の石
川校長はこうして死を選ぶことを決意したのであろう。
3 諸外国における国旗、国歌の状況
<アメリカ>
国旗について、初代大統領ワシントンは、「星は天を、赤は母国イギリスを、しかし、そ
こに白い線を横切らすことによって、イギリスからの断絶独立を、この旗は心としている」
と述べた。アメリカ国旗の紅白の13本の横線は、独立戦争で独立軍として戦った13の
州を表し、星の数は、現在の州の数を表している。国歌は、1812 年∼14 年の対英戦争の
時、フランシス=キ−がイギリリスの捕虜になった際、かなたにひらめく一本の星条旗が
翻ったのをみて感激し、愛国の情熱をこめて書いた詩に、当時アメリカで愛唱されていた
イギリスの歌「To Anacreon
in
Heaven」の曲がつけられたものである。
国旗=1942年、国旗に関する規則が下院で採択され、合衆国法典第 4 編第一章「旗」第 1
条「星条旗」と規定。
国歌=1931年、下院で法制化、合衆国法典第 36 編第 10 章「愛国的慣習」第 170 条「国歌」
と規定。
<イギリス>
イギリスは,はじめ、イングランド王国とスコットランド王国が合併して大ブリテン王
国となり、さらにアイルランドが合併されてアイルランド連合王国となった。国旗は、イ
ングランドの守護神セント・ジョ−ジの十字、スコットランドの守護神セント・アンドリ
ュ−のXの十字、アイルランドの守護神セント・パトリックのXの十字を重ねたものであ
る。1949 年にアイルランドが独立したが、デザインはそのままである。国歌は、女王を讃
えると同時に、3 番の歌詞に「May she defend our laws(女王よ、我々の法律を守り
たまえ)」とうたわれている様に女王の権限を制限している。
国旗、国歌に関する成文法はない。
<フランス>
フランスの国旗である自由、平等、博愛をしめす三色旗は、フランス革命初期に、元来
パリ市のシンボル・カラ−だった赤と青に、ルイ 16 世の王家をしめす白を加えたもので
日の丸と君が代(久保)
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第四部
迷える近現代
ある。つまり、革命と王家の和解のしるしであった。国歌は、革命の時に、クロ−ド・ジ
ョセフ・ル・リ−ル大尉が作詞、作曲した「ライン兵団のための軍歌」をマルセ−ユの義勇
兵達が歌いながらパリにはいったことから、「マルセ−ユ進軍歌」と呼ばれ、やがて「ラ・マ
ルセイエ−ズ」と呼ばれるようになったものである。
国旗、国歌とも憲法第 2 条に規定。
<イタリア>
イタリアの国旗は、フランス革命、ナポレオン時代にフランスの三色旗の影響によって
生まれた。1861 年イタリア王国が樹立されると、三色旗の中央にサルジニア王国サヴォイ
ア家の紋章である盾が描かれた。第二次世界大戦中、ファシストに反対するレジスタンス
は紋章のない三色旗を掲げ、ファシズムに手をかした王家を拒否し、戦後、この旗が国旗
となった。国歌としては、ファシスト政権下では党歌「ジオヴィネッツア」が国歌の様に歌
われていたが、戦後、「イタリアの兄弟よ」という新しいものにかえられた。
国旗=1947 年制定の憲法第 12 条に規定。
国歌=1946 年内閣通達で定め、翌年、制憲議会で申し合わせ。
<ドイツ>
1830 年代、憲法制定の運動の高まるなかで、人権抑圧に対する憤りを表す黒、自由を求
めてたぎる赤、理想と真理の輝く金色の三色旗が掲げられ、国旗とされていた。しかし、
1933 年にヒトラ−が政権を握ると、三色旗に代わってナチスのハ−ケンクロイツの党旗が、
国旗とされていた。第二次世界大戦後、当然この旗は、廃止され、もとの三色旗を国旗と
して復活させたのである。国歌としては、ナチス時代、ハイドンが作曲した「皇帝賛歌」と
ナチスの党歌の二重国歌となっていた。戦後、新国歌が制定されたが、国民の人気が得ら
れず、かつての国歌であった「皇帝賛歌」の歌詞に問題のある1,2 番を除いて、3 番のみ
が、「ドイツの祖国に権利と自由を」として歌われている。
国旗=1949 年制定の基本法(憲法)第 22 条に規定
国歌=西ドイツとして 1952 年、統一ドイツとして 1991 年、大統領・首相交換書籍で歌詞、
曲を規定。
各国における国旗、国歌の教育現場での扱い
<アメリカ>
「連邦政府として公立学校での国旗掲揚、国歌斉唱などについていっさい関与していない」
(連邦教育省)
<イギリス>
「国旗、国歌に関する法律がないから、政府には学校行事で国歌斉唱、国旗掲揚を指導する
権限はない。一般に入学式や卒業式で国旗掲揚、国歌斉唱をおこなわないのではないか。
国旗、国歌の由来を多くの学校で教えているが、教員には教える義務はない」(教育・雇用
省)
<フランス>
「国旗は学校を含むあらゆる公的施設で通常 1 本だけ揚げるのが慣例。祝日には内務その
つど知事を通じて 3 本揚げるよう指導する」(内務省)
「学校行事でも音楽の授業でも国歌を歌うことを強制することはない。音楽教師の自由意志
に任されている。通達もないし義務、罰則もない」(教育省)
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第四部
迷える近現代
<イタリア>
1986 年の首相令で学年の初日と最終日に学校の外に揚げることが定められた。罰則規定は
ない。入学式、卒業式そのものがないので、式での扱いは問題になりようがない。
<ドイツ>
「学校行事で国旗掲揚、国歌斉唱の義務はない。拒否して罰せられることはない」(連邦内務
省)
おわりに
国旗、国歌は、19 世紀以後の近代になって生まれたものである。つまり、近代の国家は
「国民国家(ネイション・ステイト)」と呼ばれ、国境にくぎられた領域をもち、主権を備え
た国家で、その中に住む人々が国民的一体性の意義(国民的アイデンティティ−とかナショ
ナリズム)を共有している国家だと定義されている。国旗、国歌は、その近代国家の中で、
国民の意識統合、文化統合のシンボルとして、またその反面、他国民に対する対立、差別、
排除のシンボルとしてその役割を果たしてきたのである。
現在、国境を越えた人、モノ、カネ、情報の移動が日常化しているなかで、国旗、国歌の
あり方が問われている。ただ、諸外国が国旗、国歌を法制化しているのをみると、国際化の
進む現状において、各国とも自国のアイデンティティ−を維持しようとしていることが考
えられる。日本における法制化も、数々の事件に対する問題処理という意味を除けば、少
なからずとも、
このことを意識してのものであろう。
しかし、
そのために戦前を思わせる「日
の丸」、「君が代」の強制教育を行うことは、時代錯誤であり、誰しもが、国家が再び天皇制
国家を復活させようとしているのではないか、と考えてしまうのが自然であろう。だから
こそ、国家は、国旗、国歌による国民統合とその裏にある差別、排除の機能を最小限にし
ていく知恵と努力が必要なのではないだろうか。
はじめにでも述べたように、私は国旗は「日の丸」であり、国歌は「君が代」でることに何
の疑問も違和感もなかった。ただ、それは私自身、あまり国旗、国歌に興味がなかったこ
とがあったからである。今回の法制化は、私にとって国旗、国歌とは何であるかというこ
とを考えさせてくれる良い機会となった。「日の丸」、「君が代」の歴史を改めて振り返るこ
とで、今まで学校教育では学ばなかった深い部分を知ることができ、また、今まで私が「日
の丸」を単なるデザイン、「君が代」を単なるメロディ−として考えてなかったことに気付か
された。国旗,国歌の意義を知り、その上で「日の丸」、「君が代」を考えてみた時、それに
対する私の扱い方が変わったように思える。
ただ、
それは否定するということではなく、「日
の丸」,「君が代」は私達、戦争を知らない世代にとって二度と同じ過ちを繰り返さないため
の反省のシンボルとなるのではないか、というように思えたのである。
しかし、文部省の行ってきた学校教育への強制は、あまりにも理不尽で、日本国憲法が
保障している「思想及び良心の自由」に反していると思えた。強制のなかでは、必ず抵抗が
生まれる。ましてや、今の時代には時代錯誤で当然である。そもそも国旗、国歌とは、国
民の誰しもが快く思わなくてはならないものである。私のように認めている者もあれば、
反対する者もある。そのためにも強制という形をやめ、国旗,国歌の新しい意義を考える
必要性があるのではないだろうか。
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迷える近現代
参考資料
法律第百二十七号
国旗及び国歌に関する法律
(国旗)
第一条
国旗は、日章旗とする。
2 日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。
(国歌)
第二条 国歌は、君が代とする。
2 君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。
附則
(施行期日)
1
この法律は、公布の日から施行する。
(商船規則の廃止)
2
商船規則(明治三年太政官布告第五十七号)は、廃止する。
(日章旗の制式の特例)
3
日章旗の制式については、当分の間、別記第一の規定にかかわらず、寸法の割合につ
いて縦を横の十分の七とし、かつ、日章の中心の位置について旗の中心から旗竿側に
横の長さの百分の一偏した位置とすることができる。
参考文献
『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』 1985 年 歴史教育者協議会 地歴社
『日の丸・君が代 50 問 50 答』 1999 年 歴史教育者協議会 大月書店
『小中高校の教科書が教えない日の丸・君が代の歴史』 1999 年 板垣英憲 同文書院
『「日の丸」「君が代」「元号」考』 1997 年 佐藤文明 緑風出版
『だれのための「日の丸・君が代」?そのウソと押しつけ』 1999 年 広島県教職員組合協
議会 明石書店
『「日の丸・君が代」の話』 1999 年 松本健一 PHP 新書
『日の丸・君が代の戦後史』 2000 年 田中伸尚 岩波新書
『新聞集成 日の丸・君が代』 1989 年 監修=繁下和雄 大空社
『日本教育小史』 1987 年 山住正己 岩波新書
『世界の国歌』 1986 年 美山書房編 美山書房
『世界の国歌』 1988 年 森重民造 偕成社
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