赤毛連盟 - ReSET.JP

『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
赤毛連盟
―『シャーロック・ホームズの冒険』より―
コナン・ドイル
大久保ゆう訳
●初出・英国『ストランド』誌一八九一年八月号
[表記について]
●ルビは「(ルビ)」の形式で処理した。
●本文中、(※1∼43)は訳注を示す。
横浜コミュニケーション障害研究会
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
友人シャーロック・ホームズ
を、昨年の秋、とある日に訪ね
たことがあった。すると、ホーム
ズは初老の紳士と話し込んで
いた。でっぷりとし、赤ら顔の
紳士で、頭髪が燃えるように
赤かったのを覚えている。私
は仕事の邪魔をしたと思い、
詫びを入れてお暇しようとした。
だがホームズは不意に私を部
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
屋に引きずり込み、私の背後
にある扉を閉めたのである。
「いや、実にいいタイミングだ、
ワトソンくん。」ホームズの声は、
親しみに満ちていた。
「……君は、仕事をしているの
ではないのか?」
「そうだ。それもとびきり重要な
仕事ときている。」
「では、私は奥で待つとする
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
か。」
「まぁ、待ちたまえ。この紳士
は……ウィルソンさん、長年、
僕のパートナーでして。僕はこ
れまで数々の事件を見事解
決してきましたが、その時には
いつも、彼が助手を務めてい
ます。あなたの場合にも、彼が
大いに役に立つことは間違い
ありません。」
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
でっぷりとした紳士は軽く腰
を上げただけで、申し訳程度
の会釈をしつつも、脂肪のた
るみに囲まれた小さな目で、
私を疑わしげに見るのであっ
た。
「さぁ、かけたまえ。」とホーム
ズはソファをすすめた。自らも
アーム・ チ ェ ア
安楽椅子に戻ると、両手の指
先をつきあわせた。さぁどうし
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ようか、というときにするホーム
ズの癖であった。「そうだね、
ワトソンくん。君の好みは、僕
の嗜好と同じだ。我々は毎日、
決まって退屈に一日を過ごし
ているが、これを一掃する奇
怪な出来事へ傾倒している。
わかるんだ、いかにも好きだと
言わんがごとく、熱心に僕の
事件を記録しているから。しか
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
し、少し言わせてもらうが、記
録では、僕のささやかな冒険
の多くが幾分、色を付けられ
ているね。」
「君の事件の数々、とてつもな
く面白かったよ。」と、私は
様々な事件のことを考えた。
「僕のいつぞやの発言、覚え
ているだろうね? そう、メア
リ・サザランド嬢の初歩的な事
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
件(※1)に出向く前の、あの
発言のことだ。不思議な事件
や、偶然の一致。我々がそれ
を求めるなら、我々は現実の
中を探しにゆかねばならぬ。
現実というのは、どんな想像
力をも凌駕するのだから……」
「私が、遠慮なく疑問を呈させ
ていただいたはずだがね。」
ドクター
「ふん、でも博士、最後には僕
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の意見に賛同しなければなら
なくなる。さもなくば、どこまで
も君の目の前に事実、事実、
事実、と積み重ね続けるまで
だ。君の論拠が事実という証
拠の前に崩壊して、僕が正し
いと認めるまでね。
ところで、ここにいらっしゃる
ジェイベス・ウィルソン氏が今
朝、訳ありで僕を訪ねていらし
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
たのだが、そのお話によると、
この事件は近頃の中でも頭ひ
とつ抜きんでたものになりそう
だ。いつも言うように、不思議
きわまりなく、独創的な事件と
いうものはとかく巨大な犯罪に
は現れてこない。むしろ小さな
犯罪の中に姿を現す。また時
折、一体犯罪が行われたのか
どうか、それすら判然としない
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ようなところにも現れる。うかが
った限りでは、目下の事件が
犯罪として扱える、とは明言で
きない。しかし今回の成り行き
は、多くの事件と比べても、異
端だと言える。
恐縮ですがウィルソンさん、
もう一度お話を聞かせてくださ
いませんか。といいますのも、
友人であるワトソン博士が初め
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の辺りを聞いてませんし、事件
が事件ですから、事細かな部
分まで貴方の口からできるだ
けうかがっておきたいと思うか
らです。いつもなら、事件の成
り行きをほんの少し聞くだけで
いいんです。僕の記憶の中か
ら、似たような何千もの事件の
例を引き出し、捜査を正しい
方向へ導けます。しかし本件
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の場合、僕の見たところでも、
比較材料のない事件と言わざ
るをえません。」
恰幅のよい依頼人はいくぶ
ん誇らしげに胸を張った。汚
れてしわくちゃになった新聞を、
厚地のコートの内ポケットから
取りだした。ひざの上で広げ、
しわを伸ばしている。首をさし
のべ、広告欄に目を落とした。
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
私は男の挙動を観察し、わが
パートナーのやり方にならって、
男の服装や態度から何者であ
るかを読みとろうとつとめた。
しかしながら、観察しても何
も見えてこなかった。どこをどう
しても、ごく一般的な英国商人
である。でっぷり太っていて、
もったいぶった鈍重な動作。
シェパド・
ややだぶついた灰色の弁慶
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
チ ェッ ク
格子のズボン、くたびれた感じ
の黒いフロックコート(※2)を
着て、コートの前ボタンを外し
ドラッブ
ていた。あわい褐色のベストか
らは太い真鍮製のアルバート
型時計鎖(※3)が垂れ下がっ
ていて、先には四角く穴のあ
いた金属の小片が装飾品とし
てついていた。すり切れたシ
ルクハットと、しわだらけのビロ
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ード(※4)の襟が付いたくす
んだ褐色のオーバーが、そば
にある椅子の上に置かれてあ
った。そうして観察しても、結
局わかるのは、男の燃えるよう
に赤い髪と、ひどくくやしげで
不満そうな表情だけだった。
けい
シャーロック・ホームズの炯
がん
眼に、私のしようとしたことは
見抜かれていたようだ。私の
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
疑問に満ちた一瞥に気づくと、
笑いながらかぶりを振るので
あった。「いや何、わからない
ね。この方が過去、手先を使う
仕事にしばらく従事していらっ
しゃったこと。嗅ぎ煙草を愛用
していらっしゃること。フリーメ
イソン(※5)の一員でいらっし
ゃること。中国にもいらっしゃ
ったこと。近頃、相当な量の書
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
きものをなさったこと……これ
だけははっきりとわかるのだが、
後はまったくわからない。」
ジェイベス・ウィルソン氏は椅
子からすっくと立ち上がり、新
聞を片方の人差し指で押さえ
たまま、目をわがパートナーの
方へ向けた。
「え……ど、どうやって、どのよ
うにしてそのことをご存じなん
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ですか、ホームズさん。」ウィル
ソン氏は驚きのあまり、言葉を
口に出す。「その……ああ、ほ
ら、私が手先を使う仕事をして
いたことを? ずばり間違いあ
りませんよ。わしは船大工から
たたき上げたんですから。」
「手ですよ、貴方のね。貴方の
右手、左手より一回り大きいで
しょう? 右手を使って仕事を
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
していらしたんですから、その
結果、その部分の筋肉が発達
してしまったのです。」
「ほぉぉ、なるほど。なら、嗅ぎ
煙草……フリーメイソンである
ことは?」
「どうやって見抜いたのか、そ
れは詳しく申さないことにして
おきましょう。貴方のように賢
い人には無礼に当たりますか
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『赤毛連盟』
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ら。それに……とりわけ、貴方
はフリーメイソンの厳格な規律
に背いて、身分を表す円弧と
コンパスのブローチをつけて
いらっしゃいますし。」
「あ、本当ですな。うっかりして
ました。しかし、書きものに関
しては……」
「右の袖口に五インチ(※6)
ほどのてかりがあります。左も
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
しかりで、ちょうど机に当たる
ひじのあたりですね。つるつる
して変色した部分があれば、
これは書きもの以外に何で説
明づけましょう?」
「ふむ、では中国のことは?」
いれずみ
「魚の刺青が、右手首のすぐ
上に彫ってあります。これは中
国へ行かなければ彫れないも
のです。僕はこれでも、刺青
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の絵柄についてささやかな研
究をしたことがありまして、その
方面には論文を書いて寄稿し
たこともありますよ。このほのか
なピンク色の魚鱗、中国の極
めて独特な特徴です。それに
今、中国の硬貨を時計鎖から
下げていらっしゃる。これで理
由は明らかでしょう?」
ジェイベス・ウィルソン氏は大
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
笑いし、「いやはや、こんなの
初めてだ!」と言った。「わし
は初め、あんたが何かうまい
方法でも使ったのかと思っとっ
た。だが、結局は何でもないこ
となんですな。」
「覚えておこう、ワトソン。」ホー
ムズは私の方を向いた。
「細々と説明するのは損だ、と
ね。『未知なるものはすべて偉
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
大なりと思われる。』……僕の
評判もあまり大したものでもな
いが、あまり正直にしゃべって
いると、やがては地に落ちてし
まうよ。ところでウィルソンさん、
広告は見つけられました
か?」
「ええ、見つけましたとも。」ウィ
ルスン氏は太く赤い指を中ほ
どの欄に下ろした。「これです。
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
これが事の始まりだったので
す。自分自身でご覧になって
下さい、ホームズさん。」
私は新聞を受け取り、次のよ
うに読み上げた。
赤毛連盟に告ぐ――米国ペ
ンシルヴァニア州レバノン(※
7)の故イズィーキア・ホプキン
ズ氏の遺志に基づき、今、た
だ名目上の尽力をするだけで
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
週四ポンド支給される権利を
持つ連盟員に、欠員が生じた
ことを通知する。赤髪にして心
身ともに健全な二十一歳以上
の男性は誰でも資格あり。月
曜日、十一時、フリート街(※
8)、ポープス・コート七番地、
当連盟事務所内のダンカン・
ロスに直接申し込まれたし。
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
私は、この奇怪極まる広告を
二度読み返した。
「……意味がさっぱりわから
ん!」口をついて出たのは、こ
んな叫びだった。
ホームズはくすくすと低い声
で笑い、椅子に座ったまま身
体を揺すった。これはホーム
ズが上機嫌のときの癖である。
「これはこれは、少々常軌を逸
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
した話だ……ほぅ。」とホーム
ズは呟く。「ではではウィルソ
ンさん、早速取りかかりましょう
か。貴方と家族のこと、そして
広告に従った結果、生活にど
んな影響があったのかを教え
てください。博士、君は新聞の
名前や日付を書き留めてくれ
ないか。」
「一八九〇年四月二十七日、
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(アーサー・コナン・ドイル)
モーニング・クロニクル紙(※
9)。丁度二ヶ月前だ。」
「うん、結構。ではウィルソンさ
ん、どうぞ。」
「ええと、それは先ほどシャー
ロック・ホームズさんに言ったと
おりで……」ジェイベス・ウィル
ソンは額の汗を拭い、話を続
シ
テ
ィ
けた。「わしは中心区(※10)
スクエア
あたりのコバーグ広場で小さ
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
な質屋業を営んでおります。と
言っても、手広くやっているわ
けでもなく、近頃はどうもさっ
ぱりで、一人でようやく暮らし
ていけるという有様ですわ。昔
は店員を二人雇うことが出来
たんですが、今は一人しかご
ざいません。本来なら払うのも
難しいところなんですが、本人
が見習いでいいからと他の半
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
分の給料で来てくれとるんで
す。」
「その見上げた青年の名前
は?」シャーロック・ホームズ
は尋ねた。
「名を、ヴィンセント・スポール
ディングと言うんですが、青年
というほどじゃありません。あ
れは年の見当がつかんので
す。だが、店員としてはとても
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
利口なやつでさぁ、ホームズさ
ん。他で働きゃあ今の倍は稼
げる腕があると、わしゃ踏んど
るんです。まぁ、あれが満足し
てるんだから、入れ知恵する
必要もありますまい。」
「確かに、その通りです。貴方
も運のいい人だ。相場以下で
従業員を雇っているとはね。
今のご時世、なかなかそううま
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
くはいかないものです。変わり
ものという点では、その従業員
と広告、甲乙付けがたいと言
えますね。」
「いや、実は、あれには欠点も
ありまして……」ウィルソン氏
は苦い顔をした。「あれほど写
真の世界につかりきった男は
そこいらにおりますかな? あ
れは見習い修業もせなならん
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
のに、カメラを持ち出して、ぱ
ちぱちぱち、とやっては、ウサ
ギが穴にはいるように地下室
へ潜り込んで、写真を現像し
よるんです。それがあれの粗
なのですが、大まかに見りゃあ、
いい仕事をしとります。悪いや
つでもありゃしません。」
「察するに、彼はまだ店にいる
と?」
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「ええ、そうですとも。あれと十
四になる娘っ子がおります。こ
れが簡単なまかないと掃除を
してくれとるんですわ。わしの
家はこれだけです。わしは男
やもめでして、家族もありませ
ん。わしらは三人でひっそりと
暮らしているんですよ。たいし
たこたぁできませんがね、一つ
屋根の下で夜露をしのぎ、借
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
りた金を返すくらいのことはし
ております。
そこへこの広告ですよ。この
広告が面倒の始まりだったん
でさぁ。スポールディング、あ
れがちょうど八週間前、まさに
この新聞を手に持って、二階
から降りてきて言うんですよ、
『ウィルソンの旦那、あっしも髪
が赤かったらなぁ。』って、そこ
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
でわしは聞き返しましたよ。
『そいつはどうして?』って。
するとあれは言うんです。
『なぜって、ここに赤毛連盟の
欠員があるんですよ。ここに入
ればどんなやつでもちょっとし
た金持ちになれるんですよ。
何でも、連盟の欠員を埋める
人間が足りないらしくて、遺産
管財人が宙に浮いた金をどう
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
していいか途方に暮れている
らしいそうですぜ。あっしの髪
の色が変えられたら、連盟に
入って金をくすねてやったの
に。』
だからわしは、『何、そいつぁ
一体何の話だ?』と聞いてや
りましたよ。ほら、ホームズさん。
わしは職業柄、出不精なんで
すよ。こっちから行くんじゃなく
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- 39 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
て、向こうから来てくれますか
らね。だから何週もドアマット
をまたがないこともめずらしく
ないんで。……そんなわけで、
世間のことにはてんで疎いも
んで、ちょっとしたニュースで
も聞くと、気になってしまって。
するとあれはね、『赤毛連盟
のことをご存じないんです
か?』と、眼を丸くしやがるん
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ですよ。
『ないなぁ。』とわしが答えると、
『ふぅん、そいつは不思議だ。
旦那は空席にぴったりの資格
を持っているっていうのに。』
『それは、どんないいことなん
だい?』とわしは詳細を聞こう
としたんですわ。
『まぁ、たった一年に二百ポン
ド(※11)ってところですが、仕
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- 41 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
事はわずかなもんですから、
他の仕事の妨げにはなりませ
んぜ。』
ってな訳でしてね、わしが耳
寄りな話だと思ったのも無理
ないことでしょう。ここ数年は商
売がうまくいってなかったもの
で、一年に二百ものあぶく銭
がありゃあ、とてもありがたいで
すから。
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- 42 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
『詳しく聞かせてくれない
か?』とわしはとうとう本腰にな
ってきました。
『ええ。』と、あれはそう言って、
あの広告をわしに見せるんで
す。『旦那、ほらここに空席が
あるでしょう、問い合わせ先だ
って載ってますぜ。なんでも、
その連盟ってのは百万長者の
米国人、イズィーキア・ホプキ
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- 43 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ンズっていう変人が設立したら
しくて、そいつ自身が赤毛だ
ったもんだから、同じ赤毛の人
間に大きく共感するらしいん
です。てなもんで、死んだとき
に莫大な遺産を管財人に預
けて、その利子を使って、自
分と同じ色の髪を持つ男が楽
に暮らせるように金を分配して
くれ、と死に遺したらしいんで
横浜コミュニケーション障害研究会
- 44 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
す。話によると、給料の気前は
いいくせして、することはほと
んどないときたもんだ。』
わしはそこで少し不安になり
ました。『だが……志願してく
る赤毛の男など、世間には五
万とおるだろう?』
だがあれはこう言うんで。『旦
那が思うほど多くおりませんぜ。
ロンドン市民限定で、立派な
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- 45 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
大人じゃなくちゃなりません。
何でもその米国人は若いとき
ロンドンから身を立てたみたい
で、この懐かしい街に何か恩
返しがしたいんだとさ。それに
赤毛といっても、薄いのや黒
っぽいのはダメで、本当にきら
きら燃えるような赤毛じゃなく
ちゃなりません。ほらほらウィ
ルソンの旦那、申し込みたい
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- 46 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
んだったら、ちょこっとそこに
顔を出しゃいいんですが……
旦那がたかが二、三百ポンド
の金で出向かれることもない
ですよね。』
そこまで言われてですね、
事実、わしゃこの通り髪はまっ
たくすばらしいほどの赤い色
合いをしておりますので、この
ことで競うなら今まであったど
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- 47 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
んなやつにだって負ける気す
らせんのですわ。ヴィンセント・
スポールディングは連盟のこと
に詳しくて、役に立つかもしれ
んので、その日は店を閉めて、
ついてくるように言いつけまし
たよ。あれも今日一日が休み
になるのを喜びましてね、わし
らは仕事を切り上げて、広告
に示してある住所へと向かっ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 48 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
たんですわ。
あんな光景は願っても二度
と見られませんよ、ホームズさ
ん。北から南から、東から西か
ら、髪の毛の赤いという男がだ
シ
テ
ィ
れも彼も、広告を見て中心区
へてくてくと行進して行くんで
さ。フリート街は窒息しそうな
ほど赤毛の人並みであふれて
いて、ポープス・コートはオレ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 49 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ンジ売りの手押し車のようでし
た。ただ一つの広告が国中か
らこんなにも大勢かき集めると
は、想像もつかんことですよ。
わら色、レモン色、オレンジ色、
レンガ色、アイリッシュ・セッタ
ー(※12)みたいな色、レバー
色、粘土色、ありとあらゆる色
合いの赤毛がおりました。だ
がスポールディングの言ったと
横浜コミュニケーション障害研究会
- 50 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ほむら
おり、本当に鮮やかな 炎 色は
おらんのです。こんなに多くの
人が順番を待って並んでいる
のを見ると、もう選ばれるわけ
がないとあきらめていたので
すが、スポールディングが聞き
入れないので同じように並ん
でいました。そのときどうしたか
おぼつかんのですが、あれは
わしを押したり引っ張ったりし
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- 51 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
て、人混みを抜けるまでいろ
んなものに当たりながら、事務
所に続く階段の前まで連れて
ったんですわ。そこには、希望
を持って階段を上る人の列と、
意気消沈して降りてくる人の
列、その二つの人の流れがあ
ってねぇ、わしらは何とかして
列に無理矢理割り込み、つい
に事務所の中に入ったんです
横浜コミュニケーション障害研究会
- 52 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
……」
「それは何とも面白い経験を
なされました。」ホームズは言
った。ちょうど依頼人が話を中
断し、嗅ぎ煙草を多めにつか
んで、記憶を新たにしようとし
ているところだった。
「惹かれる話です。どうぞ、そ
のまま続けてください。」
「その事務所は二脚の木の椅
横浜コミュニケーション障害研究会
- 53 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
子と松材の机の他には何もな
く、その後ろにわしよりも赤い
髪の小男が腰を下ろしていま
した。そいつは人が入ってくる
と、志願者それぞれに二言、
三言かつぶやいて、何とか粗
らくいん
を見つけては、不適の烙印を
押しつけとるのです。これでは
資格を得るのはやはり、簡単
とは言えそうにありませんでし
横浜コミュニケーション障害研究会
- 54 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
た。ところが、わしらの番が回
ってきたとき、小男は他のやつ
よりひどく好意的な目をわしに
向けたんですわ。わしらが入
ると、秘密の話をしようと扉を
閉めたのです。
『ジェイベス・ウィルソンと申さ
れます。』と、まごついていた
わしを、スポールディングは横
から口添えをしてくれました。
横浜コミュニケーション障害研究会
- 55 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
『連盟の欠員を補いたいと希
望されています。』
相手はあれの言葉を聞くと、
こう答えたんです。『まさに適
任だ。この方なら全ての条件
を満たしている。こんなにも燃
えさかるような赤は……見たこ
とがない。』って、それから、そ
の男は一歩後ずさり、首を傾
げて、こっちが恥ずかしくなる
横浜コミュニケーション障害研究会
- 56 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ほど髪をじっくり見るのです。
すると突然、つかつかと歩い
てきて、両手を硬く握りしめて
ですね、合格おめでとうと熱烈
に言うんですよ。
それからその相手はですね、
『ここで躊躇しては、申し訳が
立ちません。』と何やら言い出
しましてね、『見え透いたこと
でも、確かめるまで念には念
横浜コミュニケーション障害研究会
- 57 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
を入れて……失礼します。』と
……! 男はわしの髪を両手
でつかんで、ぎゅう、と引っ張
りおったんですわ。わしは思
わず、あっ、と叫んでしまいま
したよ。すると男はですね、
『ん、涙が出ましたね。』とか言
って手を離したんですよ。『こ
れで問題ないわけですな。だ
が、我々は気を付けなければ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 58 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ならんのです。今まで、かつら
で二度、染色で一度騙された
ことがあるんです。靴の縫糸
用のロウ、そういったものを使
った話もあるくらいで、人間の
浅ましさにはあきれるばかりで
す。』と弁解めいた言葉を言い
ながら男は窓の所へてくてくと
行って、大きな声で、合格者
は決まったぞ、のようなことを
横浜コミュニケーション障害研究会
- 59 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
怒鳴ったんですわ。そうしたら、
がっかりした人たちのため息と
かざわめきとかが下から聞こえ
てきて、人並みはぞろぞろっと
散らばっていってですね、赤
毛の人間といやぁ、わしとその
審査員みたいなやつだけにな
っちまったんですよ。
そこで男は改めて、『私の名
は、ダンカン・ロスと申しま
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- 60 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
す。』と名乗ったわけでして。
それから、こう言ったんです。
『我々の気高い慈善者はわた
したちに基金を遺してくれまし
たが、私もその恩給を受けて
いる者の一人です。ウィルソン
さん、貴方、配偶者はおありで
すか? 家族はおありです
か?』
そんなふうに聞かれたもんで
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- 61 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
すから、わしは、どちらもいな
い、と答えたんですよ。
すると男の顔がみるみる変
わっていくんですわ。
『ああ、困った。』って深刻そう
な顔をしてですね、『実に深刻
な問題だ。とても残念です。い
やね、この基金というのは赤
毛の一族を繁栄させ、種の保
存をしていくことが目的なので
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- 62 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
す。残念なことに……貴方が
独身だとはね……』
こんな言葉を聞いてですね、
わしもがっかりしちまいました
よ、ホームズさん。やっぱり、
そうやすやすと連盟員になん
てなれるわけないってね。でも、
でもですよ、男はしばらく考え
てから、まぁいいでしょう、って
言ったんですよ。
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- 63 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
男はそれからこう言うんです。
『他の人なら、この点は致命的
になりかねないのですが、この
ような素晴らしい髪を持った方
のこと。ここは妥協して規則を
曲げなければなりませんね。
では、いつ頃からこちらの仕
事につけるのでしょうか?』
そこで、わしはこう言ったん
です。『……はぁ、ちょっと都
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- 64 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
合が悪いのです。店の方も
……ありますもので。』
するとですね、ヴィンセント・
スポールディングが出てきてこ
う言ったんですわ。『え、ウィル
ソンの旦那、そんなこと気にす
るこたぁありませんよ。店の面
倒はあっしにだって出来ます
から。』
ですから、わしは次にこう聞
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- 65 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
きました。『勤務時間というの
は、どのくらいのもんなんです
かね?』
『十時から二時までです。』
ところで、ホームズさん、質
屋業ってのは大抵夕方が中
心でさぁ、忙しいっていっても
給料日前の木曜と金曜の夕
方くらいなもんです。ですから、
朝にちょっと稼ぎがあるだなん
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- 66 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
て願ってもないことだし、その
上、うちの店員はよくやってく
れますからね、店をまかしてお
いても大丈夫ってわけです。
『それは好都合です。』って言
いまして、次にこう聞いたんで
す。『で、給料の方は?』
『週給で、四ポンドです。』
『それなら、仕事の方は?』
『ほんの名ばかりのことです
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- 67 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
よ。』
『いやだから、その名ばかりの
仕事というのは?』
『ああそうでしたね、時間内は
事務所……いやせめてこの建
物の中にいてもらわなければ
なりません。もし持ち場を離れ
ましたら、貴方は永久にその
資格を剥奪されることになりま
すぞ。遺言状にもその点はは
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- 68 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
っきりと明文化されています。
勤務時間中に一歩でも外に
お出でになられたのなら、そこ
で即、資格剥奪ということにな
ります。』
『一日四時間なんでしょう?
外に出ようなんて滅相もな
い。』
と言ったらですね、ダンカン・
ロスさんはびしっと言ってのけ
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- 69 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
るんです。『いかなる理由も許
しませんぞ。病気でも、用事が
あったも、また他のどんな理由
であってもいけません。ここに
必ずいてください、さもないと
首ですぞ。』
『それで、仕事といいますのは
……?』
『大英百科事典(エンサイクロ
ペディア・ブリタニカ)を書き写
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- 70 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
すのです。第一巻はそこの本
が
棚にあります。インクと鵞 ペン、
それに吸い取り紙は自前でお
願いしたいのですが、机と椅
子は用意してあります。明日
から……よろしいでしょう
か?』
と言いますから、わしは『承
知しました。』と答えたんです。
そうすると、
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- 71 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
『では、今日の所はさようなら、
ジェイベス・ウィルソンさん。あ
なたが幸運にもこの得難き地
位につかれましたことを、謹ん
でもう一度お祝い申し上げま
す。』と、男はわしを部屋の外
へ送り出しましてね、わしもあ
れをつれて店へ引き返したん
ですよ。ですがね、帰ってから
も、何を言って、何をしてよい
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- 72 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
のやらさっぱりわからなくなり
まして……それほどわしは自
分の幸運に酔いしれてたんで
さぁ。
で、一日中そのことばかりを
考えていたんですがね、日が
暮れるとその酔いもさめてしま
ったんですわ。というのも、わ
しは……これはみんな詐欺か
悪ふざけにちがいない、目的
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- 73 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
はよくわからんが、きっとそうに
ちがいない、と考えるようにな
ったんです。だいたい、どこの
どいつがそんな遺言を書いて、
大英百科事典を書き写す、そ
んなつまらない仕事にこんな
金を払うんでしょうか。信じら
れないんですよ。ヴィンセント・
スポールディングはね、わしを
乗り気にしようとはやし立てる
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- 74 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
んですが、もう寝る時分になる
と考えるのをやめにしました。
でも……朝になると、まぁとに
かく一度行ってみるくらいはし
てみようと、そう決心しましてね、
インクの小瓶と鵞ペン、フール
スキャップ判(※13)の紙を七
枚買って、ポープス・コートへ
出向いたんです。
え、驚きましたし、喜びもしま
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- 75 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
した。まったく話の通りだった
んですからね。机が私専用に
置いてあって、ダンカン・ロスさ
んがわしがちゃんと仕事に取
りかかるか、見届けに来てい
たんです。ロスさんはわしにA
のところから書かせ始めると、
部屋を出ていったんですが、
ときどきちゃんとやってるかを
見に来ていました。二時にな
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- 76 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ると、もう帰っていいってことに
なってですね、わしの仕事ぶ
りをえらく褒めてくれましてね、
そうしてわしが部屋から出ると、
事務所のドアに鍵をかけてし
まいました。
来る日も来る日も仕事をした
んです。で、ホームズさん、土
曜日になるとロスさんがやって
来て、一週間分の給料として
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- 77 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ソヴリン金貨(※11)を四枚く
れたんです。次の週も、その
次の週も同じでした。毎日十
時にそこへ行って、午後二時
にそこを出ます。次第にダン
カン・ロスさんは朝に一度しか
来ないようになって、そのうち
さっぱり顔を見せないようにな
ってしまいました。でも、もちろ
んわしはその部屋を一歩も出
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- 78 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ませんでしたよ。いつ来るかも
しれませんから。それにこんな
によくてですね、わしにぴった
りな仕事をそうやすやすと手
放す気にはなれないってもん
です。
そんなこんなで八週間が過
ぎました。わしは……Abbots,
Archery, Armour,
Architecture, Attica(※14)
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- 79 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
……と写していってですね、も
うちょっとやりゃぁ、そろそろB
のところにも取りかかれるかな、
と思っていたんです。フールス
キャップの代金も相当かさん
できてましたからね。わしの書
いたものも、棚一段、満杯にな
ろうとしていたんですよ。です
がね、……急に、仕事がふい
に……なってしまったんで
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- 80 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
す。」
「ふいに?」
「そうですとも。それもつい今
朝のことですよ。いつものよう
にね、十時に仕事へ向かった
んです。でも、扉が閉まって開
かんのですわ。すると、扉のパ
ネルの真ん中あたりに、小さな
びょう
四角いボール紙が 鋲 で止め
てあったんです。それがこれ
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- 81 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ですよ。ご自分でご覧になっ
てください。」
ウィルソン氏は一片の白いボ
ール紙を差し出した。メモ帳く
らいの大きさだった。そこには
こう書かれていた。
赤毛連盟は解散する。
一八九〇年十月九日
シャーロック・ホームズと私は
その素っ気ない声明文と、そ
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- 82 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の向こうにいる残念そうな顔の
男を比べ見た。我々の思考回
路は緊急停止した。事件があ
まりにも滑稽であったからだ。
我々二人はこらえきれず、大
きく笑い崩れてしまった。
「どこが、何が面白いんです
か!」と依頼者は叫んだ。赤
い髪の生え際まで紅潮してい
た。「わしを笑うしか能がない
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- 83 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
なら、どこかよそへ行きます
ぞ。」
「いや、いや。」ホームズは半
ば腰を浮かした依頼者を制し、
椅子に押し戻した。「こんな事
件を、みすみす世間のやつら
に放っておけますか。すがす
がしいくらいに特異な事件で
す。しかし、失礼しますが……
幾分、面白い点があるのも確
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- 84 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
かです。願わくは……扉にあ
ったカードを発見して、貴方は
どう行動されたのかお聞かせ
願えないでしょうか。」
「そりゃあホームズさん、仰天
しましたよ。何をしていいやら
わかりませんでした。とりあえ
ず同じ建物の事務所という事
務所を尋ね回ったんですがね、
どうも誰も知らんようなのです。
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- 85 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
最後に一階にすんでいる管理
人の所へ行きました。その人
は会計士なんですけどね、赤
毛連盟はどうなったんだ、て
聞いてもそんな団体、聞いた
こともないって言うんですよ。
じゃあ、ダンカン・ロスって男
は知ってるか、と聞いたら、そ
んな名前、初耳だ、って答え
たんですわ。
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- 86 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ですからね、『そんなことな
いだろう、ほら、四号室の紳士
だよ。』って言ったんです。
『え、赤毛の方ですか?』
『そうそう。』
すると、管理人はうーん、とう
なるんですよ。『その紳士の名
前はウィリアム・モリスといいま
して、事務弁護士(※15)なん
ですよ。あの部屋は、新しい
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- 87 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
部屋を借りるまでの仮事務所
なんです。つい先日引っ越し
ましたね。』
『どこに行けば、彼に会えるん
ですかね?』
『なら、新しい事務所に行くと
いい。住所は聞いていますか
ら。……ええと、キング・エドワ
セント
ード街ですから、聖 ポール大
聖堂(※16)の近くですね。』
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- 88 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
わしは向かいましたよ、ホー
ムズさん。でも、その住所には
膝当ての製造工場があるだけ
で、ウィリアム・モリスもダンカ
ン・ロスも、誰一人として知っち
ゃいませんでした。」
「それからどうなさいました
か?」とホームズは先を促した。
スク ェア
「サックス・コバーグ広場の家
へ帰りました。うちのあれに相
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- 89 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
談してみたんですけどね、手
の打ちようがないって。ただ、
待っていれば手紙でも届きま
すよ、旦那、ってそれだけ言う
んです。でもね、わしは……
心の収まりがつかんのですよ、
ホームズさん。こんな……仕
事がふいになろうっていうとき
に、手をこまねいてなんかおら
れんのです。だから……だか
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- 90 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
らですよ、あんたが困った人
の相談にちゃんと乗ってくれる、
ちゃんと手助けしてくれる、っ
ていう人だと聞いていたからで
すね、わしは一目散にやって
きたわけなんですよ。」
「たいへん賢明なことです。」
ホームズはウィルソン氏にそう
答えた。「貴方の事件は、常
識の域を超えた事件……喜
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- 91 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
んで調査しましょう。話から察
するに、見かけによらず、たい
へんゆゆしき問題となりそうで
す。」
ジェイベス・ウィルソン氏は熱
くなり、「ゆゆしき……ああもち
ろん! わしの、わしの大事な
四ポンドが!」
ホームズはウィルソン氏の態
度にたいして、こう意見する。
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- 92 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「貴方個人として、その異常な
連盟に不満を抱く、それは筋
違いというものです。僕なら逆
に、ざっと三十ポンドは得をし
た。Aの項、全ての記事を詳
細な知識として手に入れただ
けでも充分なのに……と、そう
理解しますね。連盟からは、
失ったものより得たものの方が
多いはずです。」
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- 93 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「そうかもしれませんが、ホー
ムズさん。わしはやつらを見つ
けだしたいんですよ。何者で、
どうしてわしにあんないたずら
を……もし、もしいたずらとし
たらですよ、その目的が知りた
いんです。まぁ、いたずらにし
ちゃあ金を使いすぎですがね。
わしに三十二ポンドも使ってる
んですから。」
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- 94 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「そういう点は、骨折って明ら
かにしてあげますよ。しかしそ
の前にウィルソンさん、二、三
お尋ねしたいことがあります。
最初に広告を見せに来た、そ
の店員、いつ頃から働いてい
ますか?」
「一ヶ月くらい前ですな。」
「して、どのように?」
「求人広告を出したら、やって
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- 95 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
来たんです。」
「来たのは彼一人?」
「いいや、十二人くらいおりま
した。」
「ではなぜ彼を?」
「使えそうで、それに給料は安
くても構わないって言ったもん
ですから。」
「つまり、半額だったわけです
ね。」
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- 96 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「ええ。」
「ヴィンセント・スポールディン
ふうさい
グの風采は?」
「小柄ですが、身体は頑丈で、
機敏で、三十は越しているの
にヒゲもありません。額に、酸
やけ ど
あざ
で火傷した白い痣みたいなの
があります。」
ホームズは椅子から身を乗り
出した。どうやら心が高揚して
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- 97 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
いるようだ。「そんなことだろう
と思った。」ホームズはそのま
まウィルソン氏に尋ねた。「そ
の男の両耳、イヤリングの穴が
あることに気が付きませんでし
たか?」
「ええ、ありましたとも。あれは
言うには、若い頃、ジプシー
(※17)にあけてもらったと
か。」
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- 98 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「ははん!」とホームズは言い、
再び物思いに沈むのであった。
「そいつはまだ店にいます
ね。」
「ええ、いるでしょうね。さっき
店に残してきましたから。」
「貴方の留守中も、きちんと仕
事に精を出しているのです
か?」
「はい、文句の付けようもない
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- 99 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ほどに。それに、朝はすること
なんてありゃしませんし。」
「よくわかりました。ウィルソンさ
ん、一両日中には意見をお知
らせしましょう。今日は土曜日、
ですから月曜までには解決で
きることと思います。」
こうして、我々は訪問客を部
屋から送り出した。
「さて、ワトソン。」ホームズは
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- 100 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
私に話しかけてきた。「この事
件に対する、君の見解は?」
「さっぱりだ。」私は率直に答
えた。「たいへん……謎めい
た仕事だな。」
「概して、」とホームズは切り出
す。「奇想な事件ほど、解ける
謎は多い。ありふれて特徴の
ない犯罪が、真に我々を悩ま
せる。それはまさしく、ありふれ
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- 101 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
た顔が見分けにくいのと同じ
だ。しかし、この事件に関して
は迅速に動かねばなるまい。」
「これから、どうする?」
と私が尋ねると、ホームズは
こう答えた。
「煙草を吸おう。ちょうどパイプ
三服分の問題だ。これから、
五十分間は話しかけないでく
れたまえ。」ホームズは椅子に
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- 102 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
座ったまま身体を丸めた。足
を抱え込み、やせたひざを
わしばな
鷲鼻の近くに持ってくる。目を
つむって座る。黒いクレイ・パ
イプ(※18)を怪鳥のくちばし
のように口からつきだしたまま。
ホームズは眠りこけたのだ、と
思った。自らもうとうとしだした
ときであった。ホームズは突然、
椅子から飛び起きた。どうやら
横浜コミュニケーション障害研究会
- 103 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
結論が出たようで、パイプをマ
ントルピース(※19)の上に置
いた。
「今日の午後、聖(セント)ジェ
イムズ・ホール(※20)でサラサ
ーテ(※21)の演奏がある。」と
ホームズは言い出した。「どう
だろう、ワトソン。診察の方は
二、三時間休めるか?」
「今日は一日あいている。私
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- 104 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の仕事は常に暇なのでな。」
「帽子をかぶって、来たまえ。
シ テ ィ
中心区を通って行くつもりだ
から、途中で食事でも摂ろう。
見たところ、このプログラムに
はドイツの曲が多い。イタリア
やフランスのものより、ドイツの
方が僕の趣味に合う。ドイツの
曲は内省的だ。僕も今、内省
的になりたいから……さぁ、行
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- 105 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
こうか。」
我々は地下鉄でオルダーズ
ゲイト駅(※22)まで行った。し
ばらく歩くと、サックス・コバー
スクエア
グ広場に着いた。今朝、我々
が聞いた奇妙な話の現場であ
る。みすぼらしく、息の詰まる
ような街で、すすけた煉瓦造り
の二階建てがいくつも立って
いた。その建物は小さな空き
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- 106 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
地の四方を囲んでいた。空き
地には柵が張り巡らされ、中
には雑草のような芝生としお
れた月桂樹の茂みがあった。
二種の植物は煙にまみれた
不快な空気の中、ひたむきに
生きようとしているようだ。角の
家に行くと、三つの金メッキし
た球と、褐色の板に白で『ジェ
イベス・ウィルソン』と書かれた
横浜コミュニケーション障害研究会
- 107 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
看板があった。あの赤毛の依
頼人が商売をしている店だっ
た。シャーロック・ホームズは
その店先で足を止める。首を
傾げ、店の全景を見据えた。
眉は寄せられ、目の奥が光っ
ているように見える。その後、
街をゆっくり歩き始めた。また
我々が入ってきた角へ向かっ
たかと思うと、家々を鋭く見つ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 108 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
めながら引き返してくるのであ
る。最後にはあの質屋の店先
に戻ってきた。ステッキで歩道
を力強く二、三回叩いてから、
店の戸口に近寄っていった。
ノックをする。すぐに扉が開け
られて、頭の良さそうな男が出
てきた。ヒゲはなく、つるつるし
ていた。男はお入りください、
と我々を招いた。
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- 109 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「どうも。」ホームズは多少の謝
罪を入れてから、「すまないが、
ここからストランド通り(※23)
へはどのように出たらよいのだ
ろうか。」
「三つ目の角を右、四つ目の
角を左だ。」店員は手短に答
えると、扉を閉めた。
「頭の切れる男だ、あいつ。」
戸口を離れ、我々は立ち去ろ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 110 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
うとしていた。ホームズは話を
続ける。「私見だが、やつは抜
け目のなさで、ロンドンでは四
番目だ。大胆さにおいては三
番目と言ってもいい。やつに
ついて、僕は多少知っている
んだよ。」
私は口を挟むことにした。「う
む。ウィルソン氏が雇った店員
か。赤毛連盟の謎に、一枚か
横浜コミュニケーション障害研究会
- 111 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
んでいるにちがいない。君が
あんな事を尋ねたのは、あい
つの顔が見たかっただけなん
だろう?」
「やつの顔など問題ではな
い。」
「では何のために。」
「ズボンの膝だ。」
「で、どうだった。」
「予想通りだった。」
横浜コミュニケーション障害研究会
- 112 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「歩道を叩いた理由は?」
ドクター
「いいかい、博士。今は話す
時間ではなく、観察の時間な
んだ。僕たちは敵地に乗り込
ス パ イ
んだ密偵だ。サックス・コバー
グ広場のことはあらかたわかっ
た。さて、この裏側の街を探索
しよう。」
サックス・コバーグ広場を離
れ、角を曲がるとすぐその通り
横浜コミュニケーション障害研究会
- 113 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
はあった。コバーグ広場と比
べると、画の表裏ほどの差で
あった。そこは、中心区の交
通を北と西へ導く大動脈の一
つである。車道には、行きと帰
りの馬車が長い車の流れを作
っていた。歩道では、急ぐ歩
行者の群が多く、真っ黒にな
っている。信じがたいことだっ
た。美しい店々や荘厳な事務
横浜コミュニケーション障害研究会
- 114 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
所が一列に並んでいる。これ
が先ほどまでいた広場の背中
合わせになっている。すたれ
活気のなかった広場と裏通り
なのだ。
「さてと。」ホームズは街角に
立ち、通りをざっと見渡してみ
た。「ここの家々の配置を覚え
ておきたい。僕の趣味でね、
ロンドンの正確な知識を頭に
横浜コミュニケーション障害研究会
- 115 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
入れておきたいんだ。ここはモ
ーティマー商店、煙草屋、新
聞の小売店、シティ&サバー
バン銀行コバーグ支店、菜食
料理店にマクファーレン馬車
製作会社の倉庫。で、ここから
別の区画か。さて、博士。僕た
ちの仕事は終わった。今度は
気晴らしの時間だ。サンドウィ
ッチとコーヒー一杯で一息つ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 116 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
こう。それからヴァイオリンの国
へ行くのだ。そこは甘美と繊
細さと調和のみがあふれてい
る。そこへ行けば、赤毛の依
頼者に難題をふっかけられて
煩うこともなかろう。」
友人、つまりホームズは熱心
な音楽愛好家だった。また自
身も有能な演奏家であり、類
い希な作曲家でもあった。午
横浜コミュニケーション障害研究会
- 117 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
後はずっと劇場の一階特等席
に座っていた。大きな幸せに
浸り、音楽に合わせ、その長く
細い指を静かに揺り動かして
いた。このときの静かな微笑や
まどろんだまなざしは、容赦な
いホームズ、鋭敏な機知でつ
け狙うホームズ、猟犬のような
はやて
ホームズ、疾風の犯罪捜査官
ホームズのそれとは、似つか
横浜コミュニケーション障害研究会
- 118 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ぬものに思われたのだ。ホー
ムズの非凡な性格の中では、
この二種の気質が交互に現れ
るのではないか、と時に私は
思うことがある。ホームズの極
端な的確、機敏さは、時折ホ
ームズの心を支配する詩的で
瞑想的な気分に対する反動
ではなかろうか。この気質の変
動が、ホームズを極端なけだ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 119 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
るさから飽くなき活力へと導く
のだ。そして、私がよく知って
いるよう幾日も立て続けに、肘
掛椅子にゆったりともたれかか
りながら、即興曲を作ったり古
版本(※24)を読んだりしてい
るときほど、ホームズが真に恐
るべきときはない。そして突然、
追求欲が湧き起こって、あの
見事な推理力が直感の高み
横浜コミュニケーション障害研究会
- 120 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
まで昇りつめ、ついにホーム
うと
ズのやり方に疎い者でも、まる
で仙人か何かのような知識を
持っているのではないか、と不
審の目で見るのである。この
セント
日の午後も聖 ジェイムズ・ホー
ルで私は音楽に心酔している
ホームズを見て、冒険の果て
に捕らえられるべき犯人達に
はやがて、凶事が舞い込むで
横浜コミュニケーション障害研究会
- 121 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
あろうと感じた。
「君は家へ帰りたいと思ってい
る。そうだろう、博士。」ホール
を出ると、ホームズは私の心
境を当ててみせた。
「ああ、その方がいい。」
「僕は少々時間を食う用事が
ある。コバーグ広場の事件は
深刻だ。」
「どういうことだ?」
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- 122 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「大それた犯罪を企んでいる
やつがいる。だが食い止める
だけの時間はある。確信でき
るだけの根拠もある。しかし、
今日は土曜日だ。事は錯綜
するだろう。今晩、君の手を借
りるかもしれない。」
「何時だ?」
「十時くらいで充分だろう。」
「では、十時にベイカー街
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- 123 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
(※25)へ行こう。」
「頼む。あと博士、少々危険か
もしれないから、君の軍用リヴ
ォルバー(※26)をポケットに
忍ばせておいてくれたまえ。」
ホームズは手を振り、きびすを
返すと、たちまち群衆の中へ
消えていった。
私は、自分が周囲の人より
頭が悪いとは思っていない。
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- 124 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
だがシャーロック・ホームズと
接していると、いつも自らの愚
鈍さを感じ、憂鬱になるのだ。
今回の件でも、ホームズが見
聞きしたことは、私も同じように
見聞きしている。それでもやは
り、ホームズの言葉から察する
に、ホームズは事件の経過全
体だけではなく、これから何が
起ころうとしているかも見抜い
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- 125 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ているようだった。それに引き
替え、私と来たら事件の全容
がいまだ混沌として奇怪なま
まだ。ケンジントン区(※27)の
自宅へ馬車で帰る途中、私は
ずっと考えていた。百科事典
を筆写した赤毛の男の異常な
話。サックス・コバーグ広場へ
の調査。ホームズが別れ際に
言った不吉な言葉に至るまで。
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- 126 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
今夜の探検は何を意味してい
るのか。なぜ拳銃を持ってい
かなければならないのか。どこ
へ行って、何をするのか。ホー
ムズの口振りでは、質屋のつ
るつる顔の店員は手強い男ら
しい。深い企みがあって動い
ているらしい。私は謎のパズ
ルを解きほぐそうとしたが、絶
望し、あきらめ、夜になって全
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- 127 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
貌が明らかになるまでこの事
は放っておくことにした。
私がその夜、家を発ったの
は九時十五分過ぎであった。
パ ー ク
ハイド公園(※28)を抜け、オ
ックスフォード街(※29)を通っ
てベイカー街へ出た。玄関先
には二台のハンソム馬車
(※30)が止まっていて、私が
玄関を入ると上階から話し声
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- 128 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
が聞こえた。部屋に入っていく
と、ホームズは二人の男と熱
心に話をしていた。一人はか
ねてからの知り合い、警視庁
(※31)のピーター・ジョーンズ
だった。もう一人は背が高く、
細身で暗い顔のした男だった。
光沢のあるシルクハットを持っ
て、嫌みたらしく上等のフロッ
ク・コートを羽織っていた。
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- 129 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「さぁ! これで全員揃った。」
ホームズは皆に呼びかけた。
ピー・ジャケット(※32)のボタ
ンを掛けながら、棚から丈夫な
べん
狩猟鞭を持ち出した。「ワトソ
スコットランドヤード
ン、ロンドン 警 視 庁 のピータ
ーくんは知っているね。こちら
にいらっしゃるのはメリウェザ
ーさんといって、今夜の冒険
に同伴してくれるのだそう
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- 130 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
だ。」
「博士、また一緒に捜査するこ
とになりましたな。」とジョーン
ズはもったいぶった調子で言
う。「ここにおられる友人は狩
猟がとてもうまいから、追いつ
めた後に、引っ捕らえるだけ
の老犬がいればいいんです
と。」
かり
「終わってみれば雁一羽、な
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- 131 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
んてことにはなってほしくない
ですな。」とメリウェザー氏はむ
っつりと言う。
「なぁに、ホームズさんのことだ
から大船に乗ったつもりで。」
ジョーンズは自分のことのよう
に、横柄に言ったものだ。「こ
の人にはちょっと独特の方法
があるんですよ。言って気を
悪くなさらないといいのですが、
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- 132 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
あえて言わせてもらいますよ。
少々理屈っぽくて空想に耽る
ことが多い、けれども、彼は立
派な探偵であります。これまで
も一、二度ばかりでなく、例え
ばショルトォ殺人事件やアグラ
われわれ
財宝事件でも、本職の警察よ
りも真に迫った推理をなさった
んですよ。」
「ほう、ジョーンズさん、あなた
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- 133 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
がそう言われるのなら、大丈夫
ですな。」新参者のメリウェザ
ー氏が敬意をこめて言った。
「しかし……ブリッジ(※33)の
三番勝負ができなくて残念で
すなぁ。土曜日の夜には毎週
欠かさないのに、しないなどと
いうことは実に二十七年振りで
して……」
「今にご覧あれ、」とシャーロッ
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- 134 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ク・ホームズは言う。「今夜は
今までとは違います。より高い
賭け金で勝負してもらうことに
たか
なります。心が昂ぶる勝負で
す。メリウェザーさん、貴方の
賭け金は三万ポンド(※11)で
す。とすると、ジョーンズ、君の
賭けは犯人逮捕ということにな
るね。」
「ジョン・クレイは殺人犯で窃
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- 135 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
盗、その上、貨幣偽造をして、
その金を自分で使ってやがる
やつだ。若造だが、メリウェザ
ーさん、やつはその道では右
に出るものがいないほどの悪
党で、……私はロンドンのどん
な悪党よりも、こやつにこの手
錠を掛けてやりたいんです。こ
の若造、ジョン・クレイは抜き
ん出た男ですよ。祖父は王族
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- 136 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
出の公爵(※34)で、こやつ自
身もイートン校(※35)からオッ
クスフォード大学(※35)の出
です。やつは手先も器用、さら
に狡猾とあって……密告があ
って捕まえようとしても、いつ
だって立ちまわった跡だけが
残っていて、やつそのものの
所在はどこへやらだ! スコッ
トランド(※36)で押し込み強
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- 137 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
盗をしたと思えば、次の週はコ
ーンワル(※37)で孤児院の
設立資金とかぬかして金を騙
し集めていたりしやがる。長年、
やつを追っているんだが、ま
だこの目で見た事がない。」
「今宵はなんと光栄なことか。
ジョン・クレイ先生を君たちに
ご紹介できるのだから。彼とは
ちょっとした関わり合いがある
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- 138 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
が、君の意見に賛成だ。確か
にこの道にかけては第一人者
である。さて、十時過ぎになり
ました。出発の時間です。二
人は前のハンソム馬車に乗っ
てください。ワトソンと僕は後ろ
からついていきます。」
馬車に乗ると、シャーロック・
ホームズは堅く口を閉ざしてし
まった。辻馬車のシートに深く
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- 139 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
座り、この午後に聴いた旋律
を口ずさんでいた。迷路のよう
な街並みはガス灯に照らされ
ていた。そうして、我々はつい
にファリントン街(※38)へ入っ
た。
「もうすぐだ。」ホームズはよう
やく口を開き、説明をする。
「あのメリウェザーという男は銀
行の重役だ。この事件に直接
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- 140 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
利害関係がある。また、ジョー
ンズくんがいてくれた方がい
いと判断したんだ。彼は悪い
男ではない……本職では、全
くの無能だが。まぁ、取り柄も
一つくらいはあるな。殊に勇敢
さはブルドッグ(※39)のようで
ある。粘り強さもロブスターの
ようだ。捕まえたものを離さな
いという点でね。さて、着いた
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- 141 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
か。前の二人も待っている。」
朝と同じくして、にぎやかな
大通りだった。我々が今朝、
出向いた通りだ。馬車を帰ら
せ、我々はメリウェザー氏の案
内で狭い路地に入った。また
氏は通用門を開けてくれ、
我々はくぐった。中には短い
廊下があり、奥には頑丈な鉄
扉があった。また開けると、石
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- 142 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ら せ ん
造りの螺旋階段が現れた。導
かれながらも降りていくと、終
わりに荘厳な第二の扉があっ
た。メリウェザー氏は立ち止ま
り、手提げランタン(※40)の灯
をともした。我々の案内を続け、
暗く土臭い階段を降りていっ
た。すると、第三番目の扉が
見えた。開けると、地下室とも
穴蔵ともとれる大部屋に出た。
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- 143 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
部屋の四方には木箱や大箱
などが積み重ねられていた。
「上からの襲撃に対しては、心
配ないということか。」とホーム
ズは述べた。ランタンを掲げ、
周りを注意深く見回した。
「下からだって……」とメリウェ
ザー氏はそう言い、ステッキで
床に並んだ敷石を叩いたが、
「ん、何だ……空っぽみたい
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- 144 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
な音がする……!」顔を上げ、
驚きのあまり口に出したのだ。
「静粛にお願いします。」ホー
ムズはたしなめた。「この我々
の探検、全て台なしになさる
つもりですか? 貴方に親切
心というものがあるのなら、あ
の箱の一つに座り、邪魔をし
ないでくれませんか。」
メリウェザー氏はしょげ込み、
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- 145 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
木箱に腰を下ろした。気分を
害したような顔をしていた。ホ
ームズは気にする様子もなか
った。床にひざをつき、ランタ
ンをかざした。敷石と敷石の
間を、拡大鏡で綿密に調べ始
めた。二、三秒で満足なもの
が得られたのか、すっと立ち
上がった。拡大鏡をポケットに
しまう。
横浜コミュニケーション障害研究会
- 146 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「少なくとも、まだ一時間の余
裕はあります。」ホームズは皆
に語りかけた。「あの善良なる
質屋さんが熟睡するまでは、
やつらも身動きがとれない。だ
が寝てしまえば、一分一秒を
争ってやってくる。仕事を手早
く済ませてしまえば、逃亡する
時間も長くなるからね。博士、
もう気がついているだろう?
横浜コミュニケーション障害研究会
- 147 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
僕らはロンドンの一流銀行、
シ
テ
ィ
中心区支店の地下室にいる。
メリウェザーさんは頭取なんだ。
ロンドンきっての大胆不敵な
悪党たち――彼らがこの地下
室をねらっている目的、説明
してくださいますね。」
フ ラン ス
「仏蘭西金貨のせいでしょ
う。」頭取が小声で答えた。
「狙われるかもしれない、という
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- 148 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
予感は今まで何度もしており
ました。」
「仏蘭西金貨……?」
「そうです。わたくしどもは数ヶ
月前、資本強化をする必要が
ありまして、そのため、フランス
銀行から三万枚のナポレオン
金貨(※41)を借り入れたので
す。ところが、この金貨の封を
切る必要がなくなり、この地下
横浜コミュニケーション障害研究会
- 149 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
室に眠らせておいたのですが
……それが世間に知れ渡っ
てしまいまして。今、私が腰掛
けている木箱の中に、鉛の箔
で包まれたナポレオン金貨が
二千枚入っているんです。銀
行の一支店が保有するには、
あまりにも多すぎるものですか
ら……重役会でも問題になっ
ていたんですが。」
横浜コミュニケーション障害研究会
- 150 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「無理もありません。」ホームズ
は述べた。「では、今のうちに
僕らも手筈を整えておきましょ
う。一時間もしないうちに、事
件は大詰めを迎えるでしょう。
それまでの間は、メリウェザー
さん、このランタンに覆いをか
けなければなりません。」
「暗い中で座れと?」
「あいにくですがね。実は、ポ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 151 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ケットにカードを一組忍ばせて
置いたのですよ。二人一組に
なって、貴方の好きなブリッジ
を今夜も……と。しかし、敵の
準備がかなり進んでいますの
で、明かりを付けておくのは危
険です。ではまず第一に、僕
らの配置を決めておきましょう。
不敵なやつらです。袋小路に
追いつめても、油断すると痛
横浜コミュニケーション障害研究会
- 152 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
い目に遭います。僕はこの木
箱の影に隠れますので、貴方
はそちらへ身を隠してください。
それから、僕がやつらに明かり
を当てます。みなさんは直ち
に飛び出してください。万が
一、やつらが発砲でもしたら、
ワトソン、ためらわずやつらを
撃ってくれたまえ。」
私はリヴォルバーの撃鉄を
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- 153 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
起こした。身を隠している木箱
の上に据え置いた。ホームズ
はランタンの前に覆い板を差
し入れた。辺りは漆黒の闇に
包まれた。経験したことのない
完全なる闇。金属の焦げる匂
いがした。明かりはまだそこに
あるのだ。いざというときには
すぐに点けられる。我々には
安心感があった。が、私はとい
横浜コミュニケーション障害研究会
- 154 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
うと、神経が徐々に張りつめて
いったのだ。強い期待と不安。
不意に暗く静まった地下室。う
すら寒くじめじめした空気。胸
が締め付けられるような感覚
……
「退路はただ一つ。」ホームズ
はささやく。「建物の中を抜け、
サックス・コバーグ広場へ出る
道のみ。ジョーンズ、手配の通
横浜コミュニケーション障害研究会
- 155 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
りにしてくれたか?」
「表に警部一人、巡査二人を
見張りに。」
「出る穴は全て塞げた。あとは、
ただ静かに待っていよう。」
……なんと長かったことか!
後でホームズと私のメモを比
べると、どうやら一時間と十五
分しかなかったらしい。私は夜
も明け、暁ばかりになっていた
横浜コミュニケーション障害研究会
- 156 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
と思いこんでいたのに。私の
四肢は疲れのため、棒のよう
になっていた。わずかな身動
きも差し控えていたのだ。神
経は過度に張りつめられてい
た。聴力はとぎすまされていた。
皆の穏やかな息遣い。大柄な
ジョーンズの深々と吸い込む
息。メリウェザー氏のため息め
いた細い息遣い。私が身を潜
横浜コミュニケーション障害研究会
- 157 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
めている場所から、箱越しに
床が見えた。すると突然、一
条の閃光が目を貫いた。
初めは、敷石の上で黄色い
光が弾けただけだった。だが
光は次第にのび、黄色い光芒
となった。何の前触れもなく床
に亀裂が走った。そこから手
が現れた。女のように白い手
であった。手は光の届く狭い
横浜コミュニケーション障害研究会
- 158 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
範囲をまさぐった。一分、ある
いはもっと経っただろうか。指
をもぞもぞさせていると思えば、
手がにゅっと出てきた。だがす
ぐに引っ込んだ。残っている
のは敷石の亀裂から漏れ出る、
黄色い光のみ。辺りは元のよう
に闇である。
静寂はつかの間のものだっ
た。物が張り裂かれる激しい
横浜コミュニケーション障害研究会
- 159 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
音。白く、大きな敷石がひっく
り返されたのだ。ぽっかりと四
角い穴があいている。ランタン
の光芒が漏れ出てくる。穴の
縁から、じわじわと顔が浮かび
上がってくるのだ。鼻筋が通っ
ていて、若々しいことが次第に
わかってくる。顔は辺りを鋭く
見、穴の両端に手を掛けた。
肩、腰までも姿を現す。片ひ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 160 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ざを縁によりかけて、軽々と穴
の上に上がった。続いて、男
は後に続く仲間を引き上げた。
男と同じく華奢で顔は青白い、
乱れた炎の赤毛を持つ男だっ
た。
「……誰もいない。」先に上が
った男がささやく。「たがね、
袋も持ってきただろうな。……
ん、何ィ! 飛び込め、アーチ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 161 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
しば
ィ、飛び込むんだ、絞り首
だ!」
シャーロック・ホームズが飛
び出した。侵入者の襟首をす
ばやくつかむ。もう一人は穴
の中へ飛び込んだが、服の引
き裂かれる音がした。ジョーン
ズが服の裾をつかんだようだ。
リヴォルバーの銃身がきらめ
いた。ホームズの狩猟鞭が男
横浜コミュニケーション障害研究会
- 162 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の手首に振り下ろされた。拳
銃が床の敷石に落ちた。がち
ゃりと音がする。
「無駄だ、ジョン・クレイ。」ホー
ムズの穏やかな声。「君に反
撃の余地はない。」
「どうやらそうらしい。」相手は
極めて冷静に答えた。「だが、
俺の仲間はうまく逃げおおせ
たようだ。服の端だけを貴様
横浜コミュニケーション障害研究会
- 163 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
の手みやげにしてな。」
「表には三人の警官が待ちか
まえている。」ホームズは告げ
た。
「おや、へぇ。貴様らにしては
よくやったもんだ。お褒めの言
葉を掛けてやろう。」
「それをそっくり君に返そう。」
ホームズは答える。「君の赤毛
連盟、斬新で効果的だった。」
横浜コミュニケーション障害研究会
- 164 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「お前もすぐ仲間に会わせて
やるよ。」ジョーンズが横から
口を挟む。「あいつ、穴潜りに
かけては俺よりもうまいようだ
な。手を差し出せ、手錠をは
めてやる。」
「貴の不潔な手で、俺に触れ
てくれるな。」我々に包囲され
た犯人は言葉を吐き捨てたが、
すぐに手錠をはめられた。「貴
横浜コミュニケーション障害研究会
- 165 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
様はしらんだろうが、俺の身体
には王家の血が流れているん
だ。口を利くときには、そう、
『どうぞ』とか『恐縮ですが』と
言いたまえ。」
「わかった、わかった。」ジョー
ンズは目をひんむき、くすくす
笑う。「それではまことに恐縮
ですが、上へおあがりください。
馬車をつかまえ、殿下を警察
横浜コミュニケーション障害研究会
- 166 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
署までご案内いたしましょう。」
「よろしい。」ジョン・クレイは落
ち着き払って言った。我々三
人に尊大な会釈をしたのち、
警官に身柄を確保され、静か
に立ち去った。
我々は警官の後について地
下室を出た。そのとき、メリウェ
ザー氏はこう言った。「ホーム
ズさん、本当に、当銀行といた
横浜コミュニケーション障害研究会
- 167 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
しましてはどうお礼を申し上げ
ていいかわかりません。事実、
あなたさまにこんなに大胆な
銀行強盗の計画を見破ってい
ただき、なおかつ未然に防い
でいただいたのですから。」
「僕には一つ二つ、借りがあっ
たのですよ。ジョン・クレイに晴
らさねばならぬ借りが。」と、ホ
ームズは返答する。「この事件
横浜コミュニケーション障害研究会
- 168 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
には少々金を使いました。そ
れは銀行の方で払っていただ
きましょう。しかし、それ以上の
物は必要ありません。様々な
ものめずらしい体験。赤毛連
盟という突飛な話。それだけ
で、報酬は充分なのです。」
「いいかい、ワトソン。」ホーム
ズは朝早い頃、ベイカー街の
横浜コミュニケーション障害研究会
- 169 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
下宿でウィスキソーダを飲み
ながら説明するのだった。「初
めからわかりきったことだった
んだ。赤毛連盟の風変わりな
広告。百科事典を筆写させる。
この二つの目的は、あのひど
く頭の悪い質屋の主人を、毎
日何時間か家を留守にさせる、
これしかない。……おかしな
手段だ。しかしこれ以上の案
横浜コミュニケーション障害研究会
- 170 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
は思いつかないだろう。考え
たのは頭の切れるクレイのや
つだ。共犯者の髪の色を見て
思いついたに相違ない。質屋
をおびき出すのに、一週間四
ポンド必要であったわけだが、
何千ポンドの賭けをしている
んだ。そのくらい造作もない。
そうやって広告を出し、一人
は仮事務所を借りて、もう一人
横浜コミュニケーション障害研究会
- 171 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
は質屋にけしかけて応募させ
る。二人して、毎朝確実に店
を留守にさせたんだ。僕は店
員が相場の半額で来ていると
いう話をきいて、すぐにわかっ
た。男にその立場を得なけれ
ばならない強い動機があるの
だ、と。」
「しかし、その動機はどのよう
にしてだね……」
横浜コミュニケーション障害研究会
- 172 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
「その店に女でもいれば、つま
らん色恋沙汰とでも疑っただ
ろう。だが問題外だ。あの質屋
は小さい。あんな手の込んだ
準備をしたり、それだけの金を
出すほどではない。そうすると、
店の外にあるものに違いない。
では何だ。……ふと僕は思い
だした。男は写真愛好家で、
事に触れては地下室に姿を
横浜コミュニケーション障害研究会
- 173 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
消している。地下室だ! これ
でもつれた事件の糸口はほど
けた。僕は不思議な店員の身
辺を探ってみた。すると相手
は、ロンドン一、冷静沈着で大
胆な悪党だったんだ。やつ、
ジョン・クレイが地下室で何か
している。何ヶ月も、一日何時
間も何かをしている。何が出
来るというのだ、と再び思案を
横浜コミュニケーション障害研究会
- 174 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
めぐらせた。僕は一つの結論
に行き着いた。やつは他の建
物に向かってトンネルを掘っ
ているのだ。
二人で現場に行ったとき、僕
はここまで推理していた。あの
とき、僕がステッキで歩道を叩
いて、君を驚かせただろう?
地下室からトンネルが店の前、
後ろ、どちらに掘り進められて
横浜コミュニケーション障害研究会
- 175 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
いるのか確かめたかったのだ。
次にベルを鳴らすと、ベルに
応え、望み通り店員が出てき
た。僕とやつは何度か小競り
合いをしたことがある。だが互
いに顔を合わせたことは一度
もない。だから顔なんて見なか
った。見たかったのはやつの
ひざ小僧だ。君も覚えている
だろう? やつのひざはすり切
横浜コミュニケーション障害研究会
- 176 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
れ、しわだらけで、汚れていた
ことを。何度も何度も穴を掘っ
ていた証拠だ。これで残る点
は、何のために掘っているの
か、のただ一つとなった。僕は
街角を回ってみて、理解した。
シティ&サバーバン銀行が我
が友人の質屋と背中合わせに
なっていると。これで事件は解
決したというもの。音楽会の後、
横浜コミュニケーション障害研究会
- 177 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
君は馬車で家へ帰った。しか
スコットランドヤード
し僕はロンドン 警 視 庁 に寄り、
次に銀行の頭取を訪ねたの
だ。その結果は君の見たとお
りだ。」
「だが……どうやって今日決
行されるとわかったんだ?」
「ふむ。それはやつらが連盟
の事務所を閉めたからだ。つ
まりそれがジェイベス・ウィルソ
横浜コミュニケーション障害研究会
- 178 -
『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
ン氏が店にいても邪魔になら
なくなったということだろう?
言い換えれば、トンネルを完
成させたということだ。完成し
た以上、すぐ計画を実行する
必要があった。トンネルが発
見されるやもしれない。金貨が
別の場所に移される可能性も
ある。それに、土曜日が他の
日よりも都合がいい。逃げるの
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『赤毛連盟』
(アーサー・コナン・ドイル)
に二日の猶予があるからね。
こうして僕は、今夜襲撃がある
と見当をつけたのだ。」
「快刀乱麻を断つ見事な推理
だ。」私は心の底から感嘆した。
「長い長い鎖が、最初から最
後まで正しくつながったよ。」
アンニュイ
「おかげで、いい退屈しのぎ
ができた。」ホームズはあくび
をしながら答えた。「ああ……
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(アーサー・コナン・ドイル)
もうそいつがやって来たようだ。
平々凡々とした生活から逃れ
ようと、四六時中もがいている。
これが僕の人生だ。こうしたさ
さやかな事件があると、いくら
か救われた気持ちになるのだ
よ。」
「そうやって、君は赤毛だけで
なく人々皆を救っている。」
私の発言に、ホームズは肩
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(アーサー・コナン・ドイル)
をすくめた。「結果として、少し
は役に立っているのかもしれ
んな。『人などどうでもいい
――やったことがすべてだ。』
と、ギュスターヴ・フロウベール
(※42)がジョルジュ・サンド
(※43)に書き送っているよう
に、ね。」
【訳注】
※1 メアリ・サザーランド嬢の事件……次話
『花嫁の正体』のこと。これは当時ホームズ譚
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を連載していたストランド・マガジンの編集者
が、何ヶ月分もたまっていた原稿の順番を取
り違えたため、まだ出ていない話を引き合い
に出してしまった不思議な現象。
※2 フロック・コート……十九世紀に男性が
着用したひざ丈のコート。
※3 アルバート型時計鎖……ポケットに入れ
て持ち歩く懐中時計についている鎖のこと。
服に留め、落ちないようにする。
※4 ビロード……ベルベットとも言い、綿、絹
毛などを滑らかでつやがでるように織った生
地。
※5 フリーメイソン……一七一七年、「自由・
平等・博愛・兄弟愛・人類同胞主義」を掲げ
設立された秘密結社。相互扶助と友愛を目
的とし、現在まで世界中の財政界の人々が軒
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並み会員になっている。
※6 インチ……二・五四センチ、十二分の一
フィート。
※7 米国ペンシルヴァニア州レバノン……ア
メリカ合衆国北東に位置する都市。
※8 フリート街……シティの商業地区。新聞
社、出版社、バーなどが多い。
※9 モーニング・クロニクル紙……一七六九
年に創刊されたロンドンの日刊紙。作家チャ
ールズ・ディケンズとその父親が発行していた。
※10 シティ(中心区)……英国のロンドンの
旧市内一マイル(約一六〇九メートル)四方
の地区。金融商業の中心地。
※11 金の単位……一九七一年までイギリス
は今と違う通貨単位を使っていた。一二ペン
ス(ペニィ)は一シリング、二〇シリングは一ポ
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ンド。硬貨についた名前として、クラウンは五
シリング銀貨、ソヴリンは一ポンド金貨。ギニィ
は一・〇五ポンドに当たる。現在の貨幣感覚
でいうと、一ペニィ=一〇〇円 一シリング=
一二〇〇円 一ポンド=二万四〇〇〇円くら
いである。
※12 アイリッシュ・セッター……栗色や赤褐
色のセッター種(イギリス原産の毛の長い猟
犬)の犬。
※13 フールスキャップ判……大判の筆記用
紙。英国と米国で大きさが違い、英国では、
約十七×十三・五インチ大(約四十三×三十
四センチ)。
※14 Aの項の英語……順に、修道院長、ア
ーチェリー、兵器製造者(火気係)、建築学、
アッティカ(古代ギリシャのアテネを中心とした
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地方、「風の建物」という意。)
※15 事務弁護士……書類の作成や下級審
での弁護にあたる職業。
※16 聖(セント)ポール大聖堂……クリストフ
ァー・レン設計の大聖堂。英国国教会がロン
ドン管区の大主教座を置く、シティでもっとも
古い教会のひとつ。高さ一一〇メートルもある。
一六六六年のロンドン大火後の一七一〇年
完成。
※17 ジプシー……ヨーロッパ・アジアに散在
する放浪民族。音楽、舞踊、占いなどをして
生計を立て、各地を移り歩いている。
※18 クレイ・パイプ……素焼きの粘土で作ら
れたパイプ。吸い口が木やプラスティックのも
のもある。
※19 マントルピース……壁に作り付けた西
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洋風の暖炉を囲む、飾り枠上部の棚。
※20 聖(セント)ジェイムズ・ホール……ウェ
ストミンスター(ロンドンの西地区ウェストエンド
の中心、ロンドン三十三自治区のひとつ。国
会議事堂、バッキンガム宮殿、ウェストミンスタ
ー寺院がある。)にあるコンサートホール。
※21 パブロ・マルティン・メルトン・サラサー
テ・イ・ナヴァスクエス……一八四四―一九〇
八年。スペインのヴァイオリニスト、作曲家。代
表作「ツィゴネル・ワイゼン」
※22 オルダーズゲイト駅……シティ北部の
駅。ちなみにサックス・コバーグ広場は架空の
街である。
※23 ストランド通り……ロンドンの繁華街。ホ
ームズ譚掲載の『ストランド・マガジン』の由来
である街。
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※24 古版本……ひげ文字(ブラック・レタ
ー)で印刷された本のことで、初期の印刷所
ではその文字がよく使われた。
※25 ベイカー街……ホームズの下宿のある
場所。住所はベイカー街二二一b番地。ロン
ドンの通りでウェストエンドを南北に走る。北
方はリージェント・パーク、南方はオックスフォ
ード街と交差する。
※26 リヴォルバー……自動式連発拳銃。銃
身の後ろにシリンダーという回転する弾倉が
ついているごく一般的な拳銃。ワトスンがもっ
ていたのは当時の陸軍が標準的に支給した
『アダムス.450』と思われる。
※27 ケンジントン区……ロンドン西部の首都
特別区。文学者や芸術家が多く住む。
※28 ハイド・パーク……ウェストミンスター区
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の広い公園。馬や馬車も入ることが出来、上
流階級の人々が良く訪れた。
※29 オックスフォード街……ロンドンを横に
伸びる長さ一マイル強の通り。
※30 ハンソム馬車……御者席が後ろにつ
いている一頭立て二人乗り二輪の辻馬車。
※31 スコットランド・ヤード……ロンドン警視
庁(特にCID)の通称。特にその刑事捜査本
部をさす。一八二九年創立。最初の建物が、
スコットランド王離宮跡に建てられたことから
その名を持つ。この時代、ヴィクトリア河岸に
庁舎があった。
※32 ピー・ジャケット……または、ピー・コー
ト。イギリス海軍が、船の甲板で見張りをする
ときに用いたコートを起源とする、太股までの
丈のショートコート。風の向きによって、右前
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にも左前にも着られるようにダブルブレストに
なっている。
※33 ブリッジ……日本でいうセブン・ブリッジ
ではなく、コントラクト・ブリッジというカードゲ
ームで、カードゲームの中では世界で最も競
技人口が多く、国際的な選手権大会が行わ
れている。
※34 公爵……貴族の最高位である身分。
※35 学校……【イートン校】ロンドンの西方
にある都市、イートンにあるパブリックスクール
(主に上流子弟対象の私立中・高等学校をさ
す。必ずしも寄宿制ではない)。【オックスフォ
ード大学】十二世紀創立の英国最古の大学。
中世以来英国の中心としてあらゆる分野の指
導者を輩出、三十九のカレッジ(学寮)から成
り立つ大学の集合体のような所である。
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(アーサー・コナン・ドイル)
※36 スコットランド……英国グレートブリテン
島(本島)北部の地方。中心都市エジンバラ。
※37 コーンワル……英国南西部の州。36 と
37 はイギリスの北の端、南の端である。
※38 ファリントン街……シティの通り。
※39 ブルドッグ……英国産の獰猛な顔つき
をした犬。粘り強く頑強。
※40 ランタン……手からさげるタイプの角型
ランプ。角灯とも言う。この話で使われている
のは、ダークランタン(強盗提灯)といい、明か
りの出る一カ所のみの側面に、覆いをかぶせ
ることが出来る。
※41 ナポレオン金貨……フランスの皇帝ナ
ポレオンが作らせた二十フラン金貨。
※42 ギュスターヴ・フロウベール……一八二
一―八〇年。文学における科学的方法を確
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(アーサー・コナン・ドイル)
立したフランスの作家。写実主義・自然主義
小説の手本と仰がれた。著作に『ボヴァリー夫
人』『サランボー』など。
※43 ジョルジュ・サンド……一八〇四―七
六年。フランスの女流作家で、フランス女流
文学史上最大の作家。著作に『コンシュエロ』
『魔の沼』『愛の妖精』など。『恋多き女』とサン
ド自身は称される。
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