『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 赤毛連盟 ―『シャーロック・ホームズの冒険』より― コナン・ドイル 大久保ゆう訳 ●初出・英国『ストランド』誌一八九一年八月号 [表記について] ●ルビは「(ルビ)」の形式で処理した。 ●本文中、(※1∼43)は訳注を示す。 横浜コミュニケーション障害研究会 -1- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 友人シャーロック・ホームズ を、昨年の秋、とある日に訪ね たことがあった。すると、ホーム ズは初老の紳士と話し込んで いた。でっぷりとし、赤ら顔の 紳士で、頭髪が燃えるように 赤かったのを覚えている。私 は仕事の邪魔をしたと思い、 詫びを入れてお暇しようとした。 だがホームズは不意に私を部 横浜コミュニケーション障害研究会 -2- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 屋に引きずり込み、私の背後 にある扉を閉めたのである。 「いや、実にいいタイミングだ、 ワトソンくん。」ホームズの声は、 親しみに満ちていた。 「……君は、仕事をしているの ではないのか?」 「そうだ。それもとびきり重要な 仕事ときている。」 「では、私は奥で待つとする 横浜コミュニケーション障害研究会 -3- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) か。」 「まぁ、待ちたまえ。この紳士 は……ウィルソンさん、長年、 僕のパートナーでして。僕はこ れまで数々の事件を見事解 決してきましたが、その時には いつも、彼が助手を務めてい ます。あなたの場合にも、彼が 大いに役に立つことは間違い ありません。」 横浜コミュニケーション障害研究会 -4- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) でっぷりとした紳士は軽く腰 を上げただけで、申し訳程度 の会釈をしつつも、脂肪のた るみに囲まれた小さな目で、 私を疑わしげに見るのであっ た。 「さぁ、かけたまえ。」とホーム ズはソファをすすめた。自らも アーム・ チ ェ ア 安楽椅子に戻ると、両手の指 先をつきあわせた。さぁどうし 横浜コミュニケーション障害研究会 -5- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ようか、というときにするホーム ズの癖であった。「そうだね、 ワトソンくん。君の好みは、僕 の嗜好と同じだ。我々は毎日、 決まって退屈に一日を過ごし ているが、これを一掃する奇 怪な出来事へ傾倒している。 わかるんだ、いかにも好きだと 言わんがごとく、熱心に僕の 事件を記録しているから。しか 横浜コミュニケーション障害研究会 -6- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) し、少し言わせてもらうが、記 録では、僕のささやかな冒険 の多くが幾分、色を付けられ ているね。」 「君の事件の数々、とてつもな く面白かったよ。」と、私は 様々な事件のことを考えた。 「僕のいつぞやの発言、覚え ているだろうね? そう、メア リ・サザランド嬢の初歩的な事 横浜コミュニケーション障害研究会 -7- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 件(※1)に出向く前の、あの 発言のことだ。不思議な事件 や、偶然の一致。我々がそれ を求めるなら、我々は現実の 中を探しにゆかねばならぬ。 現実というのは、どんな想像 力をも凌駕するのだから……」 「私が、遠慮なく疑問を呈させ ていただいたはずだがね。」 ドクター 「ふん、でも博士、最後には僕 横浜コミュニケーション障害研究会 -8- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の意見に賛同しなければなら なくなる。さもなくば、どこまで も君の目の前に事実、事実、 事実、と積み重ね続けるまで だ。君の論拠が事実という証 拠の前に崩壊して、僕が正し いと認めるまでね。 ところで、ここにいらっしゃる ジェイベス・ウィルソン氏が今 朝、訳ありで僕を訪ねていらし 横浜コミュニケーション障害研究会 -9- 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) たのだが、そのお話によると、 この事件は近頃の中でも頭ひ とつ抜きんでたものになりそう だ。いつも言うように、不思議 きわまりなく、独創的な事件と いうものはとかく巨大な犯罪に は現れてこない。むしろ小さな 犯罪の中に姿を現す。また時 折、一体犯罪が行われたのか どうか、それすら判然としない 横浜コミュニケーション障害研究会 - 10 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ようなところにも現れる。うかが った限りでは、目下の事件が 犯罪として扱える、とは明言で きない。しかし今回の成り行き は、多くの事件と比べても、異 端だと言える。 恐縮ですがウィルソンさん、 もう一度お話を聞かせてくださ いませんか。といいますのも、 友人であるワトソン博士が初め 横浜コミュニケーション障害研究会 - 11 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の辺りを聞いてませんし、事件 が事件ですから、事細かな部 分まで貴方の口からできるだ けうかがっておきたいと思うか らです。いつもなら、事件の成 り行きをほんの少し聞くだけで いいんです。僕の記憶の中か ら、似たような何千もの事件の 例を引き出し、捜査を正しい 方向へ導けます。しかし本件 横浜コミュニケーション障害研究会 - 12 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の場合、僕の見たところでも、 比較材料のない事件と言わざ るをえません。」 恰幅のよい依頼人はいくぶ ん誇らしげに胸を張った。汚 れてしわくちゃになった新聞を、 厚地のコートの内ポケットから 取りだした。ひざの上で広げ、 しわを伸ばしている。首をさし のべ、広告欄に目を落とした。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 13 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 私は男の挙動を観察し、わが パートナーのやり方にならって、 男の服装や態度から何者であ るかを読みとろうとつとめた。 しかしながら、観察しても何 も見えてこなかった。どこをどう しても、ごく一般的な英国商人 である。でっぷり太っていて、 もったいぶった鈍重な動作。 シェパド・ ややだぶついた灰色の弁慶 横浜コミュニケーション障害研究会 - 14 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) チ ェッ ク 格子のズボン、くたびれた感じ の黒いフロックコート(※2)を 着て、コートの前ボタンを外し ドラッブ ていた。あわい褐色のベストか らは太い真鍮製のアルバート 型時計鎖(※3)が垂れ下がっ ていて、先には四角く穴のあ いた金属の小片が装飾品とし てついていた。すり切れたシ ルクハットと、しわだらけのビロ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 15 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ード(※4)の襟が付いたくす んだ褐色のオーバーが、そば にある椅子の上に置かれてあ った。そうして観察しても、結 局わかるのは、男の燃えるよう に赤い髪と、ひどくくやしげで 不満そうな表情だけだった。 けい シャーロック・ホームズの炯 がん 眼に、私のしようとしたことは 見抜かれていたようだ。私の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 16 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 疑問に満ちた一瞥に気づくと、 笑いながらかぶりを振るので あった。「いや何、わからない ね。この方が過去、手先を使う 仕事にしばらく従事していらっ しゃったこと。嗅ぎ煙草を愛用 していらっしゃること。フリーメ イソン(※5)の一員でいらっし ゃること。中国にもいらっしゃ ったこと。近頃、相当な量の書 横浜コミュニケーション障害研究会 - 17 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) きものをなさったこと……これ だけははっきりとわかるのだが、 後はまったくわからない。」 ジェイベス・ウィルソン氏は椅 子からすっくと立ち上がり、新 聞を片方の人差し指で押さえ たまま、目をわがパートナーの 方へ向けた。 「え……ど、どうやって、どのよ うにしてそのことをご存じなん 横浜コミュニケーション障害研究会 - 18 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ですか、ホームズさん。」ウィル ソン氏は驚きのあまり、言葉を 口に出す。「その……ああ、ほ ら、私が手先を使う仕事をして いたことを? ずばり間違いあ りませんよ。わしは船大工から たたき上げたんですから。」 「手ですよ、貴方のね。貴方の 右手、左手より一回り大きいで しょう? 右手を使って仕事を 横浜コミュニケーション障害研究会 - 19 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) していらしたんですから、その 結果、その部分の筋肉が発達 してしまったのです。」 「ほぉぉ、なるほど。なら、嗅ぎ 煙草……フリーメイソンである ことは?」 「どうやって見抜いたのか、そ れは詳しく申さないことにして おきましょう。貴方のように賢 い人には無礼に当たりますか 横浜コミュニケーション障害研究会 - 20 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ら。それに……とりわけ、貴方 はフリーメイソンの厳格な規律 に背いて、身分を表す円弧と コンパスのブローチをつけて いらっしゃいますし。」 「あ、本当ですな。うっかりして ました。しかし、書きものに関 しては……」 「右の袖口に五インチ(※6) ほどのてかりがあります。左も 横浜コミュニケーション障害研究会 - 21 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) しかりで、ちょうど机に当たる ひじのあたりですね。つるつる して変色した部分があれば、 これは書きもの以外に何で説 明づけましょう?」 「ふむ、では中国のことは?」 いれずみ 「魚の刺青が、右手首のすぐ 上に彫ってあります。これは中 国へ行かなければ彫れないも のです。僕はこれでも、刺青 横浜コミュニケーション障害研究会 - 22 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の絵柄についてささやかな研 究をしたことがありまして、その 方面には論文を書いて寄稿し たこともありますよ。このほのか なピンク色の魚鱗、中国の極 めて独特な特徴です。それに 今、中国の硬貨を時計鎖から 下げていらっしゃる。これで理 由は明らかでしょう?」 ジェイベス・ウィルソン氏は大 横浜コミュニケーション障害研究会 - 23 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 笑いし、「いやはや、こんなの 初めてだ!」と言った。「わし は初め、あんたが何かうまい 方法でも使ったのかと思っとっ た。だが、結局は何でもないこ となんですな。」 「覚えておこう、ワトソン。」ホー ムズは私の方を向いた。 「細々と説明するのは損だ、と ね。『未知なるものはすべて偉 横浜コミュニケーション障害研究会 - 24 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 大なりと思われる。』……僕の 評判もあまり大したものでもな いが、あまり正直にしゃべって いると、やがては地に落ちてし まうよ。ところでウィルソンさん、 広告は見つけられました か?」 「ええ、見つけましたとも。」ウィ ルスン氏は太く赤い指を中ほ どの欄に下ろした。「これです。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 25 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) これが事の始まりだったので す。自分自身でご覧になって 下さい、ホームズさん。」 私は新聞を受け取り、次のよ うに読み上げた。 赤毛連盟に告ぐ――米国ペ ンシルヴァニア州レバノン(※ 7)の故イズィーキア・ホプキン ズ氏の遺志に基づき、今、た だ名目上の尽力をするだけで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 26 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 週四ポンド支給される権利を 持つ連盟員に、欠員が生じた ことを通知する。赤髪にして心 身ともに健全な二十一歳以上 の男性は誰でも資格あり。月 曜日、十一時、フリート街(※ 8)、ポープス・コート七番地、 当連盟事務所内のダンカン・ ロスに直接申し込まれたし。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 27 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 私は、この奇怪極まる広告を 二度読み返した。 「……意味がさっぱりわから ん!」口をついて出たのは、こ んな叫びだった。 ホームズはくすくすと低い声 で笑い、椅子に座ったまま身 体を揺すった。これはホーム ズが上機嫌のときの癖である。 「これはこれは、少々常軌を逸 横浜コミュニケーション障害研究会 - 28 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) した話だ……ほぅ。」とホーム ズは呟く。「ではではウィルソ ンさん、早速取りかかりましょう か。貴方と家族のこと、そして 広告に従った結果、生活にど んな影響があったのかを教え てください。博士、君は新聞の 名前や日付を書き留めてくれ ないか。」 「一八九〇年四月二十七日、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 29 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) モーニング・クロニクル紙(※ 9)。丁度二ヶ月前だ。」 「うん、結構。ではウィルソンさ ん、どうぞ。」 「ええと、それは先ほどシャー ロック・ホームズさんに言ったと おりで……」ジェイベス・ウィル ソンは額の汗を拭い、話を続 シ テ ィ けた。「わしは中心区(※10) スクエア あたりのコバーグ広場で小さ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 30 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) な質屋業を営んでおります。と 言っても、手広くやっているわ けでもなく、近頃はどうもさっ ぱりで、一人でようやく暮らし ていけるという有様ですわ。昔 は店員を二人雇うことが出来 たんですが、今は一人しかご ざいません。本来なら払うのも 難しいところなんですが、本人 が見習いでいいからと他の半 横浜コミュニケーション障害研究会 - 31 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 分の給料で来てくれとるんで す。」 「その見上げた青年の名前 は?」シャーロック・ホームズ は尋ねた。 「名を、ヴィンセント・スポール ディングと言うんですが、青年 というほどじゃありません。あ れは年の見当がつかんので す。だが、店員としてはとても 横浜コミュニケーション障害研究会 - 32 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 利口なやつでさぁ、ホームズさ ん。他で働きゃあ今の倍は稼 げる腕があると、わしゃ踏んど るんです。まぁ、あれが満足し てるんだから、入れ知恵する 必要もありますまい。」 「確かに、その通りです。貴方 も運のいい人だ。相場以下で 従業員を雇っているとはね。 今のご時世、なかなかそううま 横浜コミュニケーション障害研究会 - 33 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) くはいかないものです。変わり ものという点では、その従業員 と広告、甲乙付けがたいと言 えますね。」 「いや、実は、あれには欠点も ありまして……」ウィルソン氏 は苦い顔をした。「あれほど写 真の世界につかりきった男は そこいらにおりますかな? あ れは見習い修業もせなならん 横浜コミュニケーション障害研究会 - 34 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) のに、カメラを持ち出して、ぱ ちぱちぱち、とやっては、ウサ ギが穴にはいるように地下室 へ潜り込んで、写真を現像し よるんです。それがあれの粗 なのですが、大まかに見りゃあ、 いい仕事をしとります。悪いや つでもありゃしません。」 「察するに、彼はまだ店にいる と?」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 35 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「ええ、そうですとも。あれと十 四になる娘っ子がおります。こ れが簡単なまかないと掃除を してくれとるんですわ。わしの 家はこれだけです。わしは男 やもめでして、家族もありませ ん。わしらは三人でひっそりと 暮らしているんですよ。たいし たこたぁできませんがね、一つ 屋根の下で夜露をしのぎ、借 横浜コミュニケーション障害研究会 - 36 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) りた金を返すくらいのことはし ております。 そこへこの広告ですよ。この 広告が面倒の始まりだったん でさぁ。スポールディング、あ れがちょうど八週間前、まさに この新聞を手に持って、二階 から降りてきて言うんですよ、 『ウィルソンの旦那、あっしも髪 が赤かったらなぁ。』って、そこ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 37 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) でわしは聞き返しましたよ。 『そいつはどうして?』って。 するとあれは言うんです。 『なぜって、ここに赤毛連盟の 欠員があるんですよ。ここに入 ればどんなやつでもちょっとし た金持ちになれるんですよ。 何でも、連盟の欠員を埋める 人間が足りないらしくて、遺産 管財人が宙に浮いた金をどう 横浜コミュニケーション障害研究会 - 38 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) していいか途方に暮れている らしいそうですぜ。あっしの髪 の色が変えられたら、連盟に 入って金をくすねてやったの に。』 だからわしは、『何、そいつぁ 一体何の話だ?』と聞いてや りましたよ。ほら、ホームズさん。 わしは職業柄、出不精なんで すよ。こっちから行くんじゃなく 横浜コミュニケーション障害研究会 - 39 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) て、向こうから来てくれますか らね。だから何週もドアマット をまたがないこともめずらしく ないんで。……そんなわけで、 世間のことにはてんで疎いも んで、ちょっとしたニュースで も聞くと、気になってしまって。 するとあれはね、『赤毛連盟 のことをご存じないんです か?』と、眼を丸くしやがるん 横浜コミュニケーション障害研究会 - 40 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ですよ。 『ないなぁ。』とわしが答えると、 『ふぅん、そいつは不思議だ。 旦那は空席にぴったりの資格 を持っているっていうのに。』 『それは、どんないいことなん だい?』とわしは詳細を聞こう としたんですわ。 『まぁ、たった一年に二百ポン ド(※11)ってところですが、仕 横浜コミュニケーション障害研究会 - 41 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 事はわずかなもんですから、 他の仕事の妨げにはなりませ んぜ。』 ってな訳でしてね、わしが耳 寄りな話だと思ったのも無理 ないことでしょう。ここ数年は商 売がうまくいってなかったもの で、一年に二百ものあぶく銭 がありゃあ、とてもありがたいで すから。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 42 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 『詳しく聞かせてくれない か?』とわしはとうとう本腰にな ってきました。 『ええ。』と、あれはそう言って、 あの広告をわしに見せるんで す。『旦那、ほらここに空席が あるでしょう、問い合わせ先だ って載ってますぜ。なんでも、 その連盟ってのは百万長者の 米国人、イズィーキア・ホプキ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 43 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ンズっていう変人が設立したら しくて、そいつ自身が赤毛だ ったもんだから、同じ赤毛の人 間に大きく共感するらしいん です。てなもんで、死んだとき に莫大な遺産を管財人に預 けて、その利子を使って、自 分と同じ色の髪を持つ男が楽 に暮らせるように金を分配して くれ、と死に遺したらしいんで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 44 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) す。話によると、給料の気前は いいくせして、することはほと んどないときたもんだ。』 わしはそこで少し不安になり ました。『だが……志願してく る赤毛の男など、世間には五 万とおるだろう?』 だがあれはこう言うんで。『旦 那が思うほど多くおりませんぜ。 ロンドン市民限定で、立派な 横浜コミュニケーション障害研究会 - 45 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 大人じゃなくちゃなりません。 何でもその米国人は若いとき ロンドンから身を立てたみたい で、この懐かしい街に何か恩 返しがしたいんだとさ。それに 赤毛といっても、薄いのや黒 っぽいのはダメで、本当にきら きら燃えるような赤毛じゃなく ちゃなりません。ほらほらウィ ルソンの旦那、申し込みたい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 46 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) んだったら、ちょこっとそこに 顔を出しゃいいんですが…… 旦那がたかが二、三百ポンド の金で出向かれることもない ですよね。』 そこまで言われてですね、 事実、わしゃこの通り髪はまっ たくすばらしいほどの赤い色 合いをしておりますので、この ことで競うなら今まであったど 横浜コミュニケーション障害研究会 - 47 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) んなやつにだって負ける気す らせんのですわ。ヴィンセント・ スポールディングは連盟のこと に詳しくて、役に立つかもしれ んので、その日は店を閉めて、 ついてくるように言いつけまし たよ。あれも今日一日が休み になるのを喜びましてね、わし らは仕事を切り上げて、広告 に示してある住所へと向かっ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 48 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) たんですわ。 あんな光景は願っても二度 と見られませんよ、ホームズさ ん。北から南から、東から西か ら、髪の毛の赤いという男がだ シ テ ィ れも彼も、広告を見て中心区 へてくてくと行進して行くんで さ。フリート街は窒息しそうな ほど赤毛の人並みであふれて いて、ポープス・コートはオレ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 49 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ンジ売りの手押し車のようでし た。ただ一つの広告が国中か らこんなにも大勢かき集めると は、想像もつかんことですよ。 わら色、レモン色、オレンジ色、 レンガ色、アイリッシュ・セッタ ー(※12)みたいな色、レバー 色、粘土色、ありとあらゆる色 合いの赤毛がおりました。だ がスポールディングの言ったと 横浜コミュニケーション障害研究会 - 50 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ほむら おり、本当に鮮やかな 炎 色は おらんのです。こんなに多くの 人が順番を待って並んでいる のを見ると、もう選ばれるわけ がないとあきらめていたので すが、スポールディングが聞き 入れないので同じように並ん でいました。そのときどうしたか おぼつかんのですが、あれは わしを押したり引っ張ったりし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 51 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) て、人混みを抜けるまでいろ んなものに当たりながら、事務 所に続く階段の前まで連れて ったんですわ。そこには、希望 を持って階段を上る人の列と、 意気消沈して降りてくる人の 列、その二つの人の流れがあ ってねぇ、わしらは何とかして 列に無理矢理割り込み、つい に事務所の中に入ったんです 横浜コミュニケーション障害研究会 - 52 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ……」 「それは何とも面白い経験を なされました。」ホームズは言 った。ちょうど依頼人が話を中 断し、嗅ぎ煙草を多めにつか んで、記憶を新たにしようとし ているところだった。 「惹かれる話です。どうぞ、そ のまま続けてください。」 「その事務所は二脚の木の椅 横浜コミュニケーション障害研究会 - 53 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 子と松材の机の他には何もな く、その後ろにわしよりも赤い 髪の小男が腰を下ろしていま した。そいつは人が入ってくる と、志願者それぞれに二言、 三言かつぶやいて、何とか粗 らくいん を見つけては、不適の烙印を 押しつけとるのです。これでは 資格を得るのはやはり、簡単 とは言えそうにありませんでし 横浜コミュニケーション障害研究会 - 54 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) た。ところが、わしらの番が回 ってきたとき、小男は他のやつ よりひどく好意的な目をわしに 向けたんですわ。わしらが入 ると、秘密の話をしようと扉を 閉めたのです。 『ジェイベス・ウィルソンと申さ れます。』と、まごついていた わしを、スポールディングは横 から口添えをしてくれました。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 55 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 『連盟の欠員を補いたいと希 望されています。』 相手はあれの言葉を聞くと、 こう答えたんです。『まさに適 任だ。この方なら全ての条件 を満たしている。こんなにも燃 えさかるような赤は……見たこ とがない。』って、それから、そ の男は一歩後ずさり、首を傾 げて、こっちが恥ずかしくなる 横浜コミュニケーション障害研究会 - 56 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ほど髪をじっくり見るのです。 すると突然、つかつかと歩い てきて、両手を硬く握りしめて ですね、合格おめでとうと熱烈 に言うんですよ。 それからその相手はですね、 『ここで躊躇しては、申し訳が 立ちません。』と何やら言い出 しましてね、『見え透いたこと でも、確かめるまで念には念 横浜コミュニケーション障害研究会 - 57 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) を入れて……失礼します。』と ……! 男はわしの髪を両手 でつかんで、ぎゅう、と引っ張 りおったんですわ。わしは思 わず、あっ、と叫んでしまいま したよ。すると男はですね、 『ん、涙が出ましたね。』とか言 って手を離したんですよ。『こ れで問題ないわけですな。だ が、我々は気を付けなければ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 58 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ならんのです。今まで、かつら で二度、染色で一度騙された ことがあるんです。靴の縫糸 用のロウ、そういったものを使 った話もあるくらいで、人間の 浅ましさにはあきれるばかりで す。』と弁解めいた言葉を言い ながら男は窓の所へてくてくと 行って、大きな声で、合格者 は決まったぞ、のようなことを 横浜コミュニケーション障害研究会 - 59 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 怒鳴ったんですわ。そうしたら、 がっかりした人たちのため息と かざわめきとかが下から聞こえ てきて、人並みはぞろぞろっと 散らばっていってですね、赤 毛の人間といやぁ、わしとその 審査員みたいなやつだけにな っちまったんですよ。 そこで男は改めて、『私の名 は、ダンカン・ロスと申しま 横浜コミュニケーション障害研究会 - 60 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) す。』と名乗ったわけでして。 それから、こう言ったんです。 『我々の気高い慈善者はわた したちに基金を遺してくれまし たが、私もその恩給を受けて いる者の一人です。ウィルソン さん、貴方、配偶者はおありで すか? 家族はおありです か?』 そんなふうに聞かれたもんで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 61 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) すから、わしは、どちらもいな い、と答えたんですよ。 すると男の顔がみるみる変 わっていくんですわ。 『ああ、困った。』って深刻そう な顔をしてですね、『実に深刻 な問題だ。とても残念です。い やね、この基金というのは赤 毛の一族を繁栄させ、種の保 存をしていくことが目的なので 横浜コミュニケーション障害研究会 - 62 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) す。残念なことに……貴方が 独身だとはね……』 こんな言葉を聞いてですね、 わしもがっかりしちまいました よ、ホームズさん。やっぱり、 そうやすやすと連盟員になん てなれるわけないってね。でも、 でもですよ、男はしばらく考え てから、まぁいいでしょう、って 言ったんですよ。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 63 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 男はそれからこう言うんです。 『他の人なら、この点は致命的 になりかねないのですが、この ような素晴らしい髪を持った方 のこと。ここは妥協して規則を 曲げなければなりませんね。 では、いつ頃からこちらの仕 事につけるのでしょうか?』 そこで、わしはこう言ったん です。『……はぁ、ちょっと都 横浜コミュニケーション障害研究会 - 64 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 合が悪いのです。店の方も ……ありますもので。』 するとですね、ヴィンセント・ スポールディングが出てきてこ う言ったんですわ。『え、ウィル ソンの旦那、そんなこと気にす るこたぁありませんよ。店の面 倒はあっしにだって出来ます から。』 ですから、わしは次にこう聞 横浜コミュニケーション障害研究会 - 65 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) きました。『勤務時間というの は、どのくらいのもんなんです かね?』 『十時から二時までです。』 ところで、ホームズさん、質 屋業ってのは大抵夕方が中 心でさぁ、忙しいっていっても 給料日前の木曜と金曜の夕 方くらいなもんです。ですから、 朝にちょっと稼ぎがあるだなん 横浜コミュニケーション障害研究会 - 66 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) て願ってもないことだし、その 上、うちの店員はよくやってく れますからね、店をまかしてお いても大丈夫ってわけです。 『それは好都合です。』って言 いまして、次にこう聞いたんで す。『で、給料の方は?』 『週給で、四ポンドです。』 『それなら、仕事の方は?』 『ほんの名ばかりのことです 横浜コミュニケーション障害研究会 - 67 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) よ。』 『いやだから、その名ばかりの 仕事というのは?』 『ああそうでしたね、時間内は 事務所……いやせめてこの建 物の中にいてもらわなければ なりません。もし持ち場を離れ ましたら、貴方は永久にその 資格を剥奪されることになりま すぞ。遺言状にもその点はは 横浜コミュニケーション障害研究会 - 68 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) っきりと明文化されています。 勤務時間中に一歩でも外に お出でになられたのなら、そこ で即、資格剥奪ということにな ります。』 『一日四時間なんでしょう? 外に出ようなんて滅相もな い。』 と言ったらですね、ダンカン・ ロスさんはびしっと言ってのけ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 69 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) るんです。『いかなる理由も許 しませんぞ。病気でも、用事が あったも、また他のどんな理由 であってもいけません。ここに 必ずいてください、さもないと 首ですぞ。』 『それで、仕事といいますのは ……?』 『大英百科事典(エンサイクロ ペディア・ブリタニカ)を書き写 横浜コミュニケーション障害研究会 - 70 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) すのです。第一巻はそこの本 が 棚にあります。インクと鵞 ペン、 それに吸い取り紙は自前でお 願いしたいのですが、机と椅 子は用意してあります。明日 から……よろしいでしょう か?』 と言いますから、わしは『承 知しました。』と答えたんです。 そうすると、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 71 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 『では、今日の所はさようなら、 ジェイベス・ウィルソンさん。あ なたが幸運にもこの得難き地 位につかれましたことを、謹ん でもう一度お祝い申し上げま す。』と、男はわしを部屋の外 へ送り出しましてね、わしもあ れをつれて店へ引き返したん ですよ。ですがね、帰ってから も、何を言って、何をしてよい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 72 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) のやらさっぱりわからなくなり まして……それほどわしは自 分の幸運に酔いしれてたんで さぁ。 で、一日中そのことばかりを 考えていたんですがね、日が 暮れるとその酔いもさめてしま ったんですわ。というのも、わ しは……これはみんな詐欺か 悪ふざけにちがいない、目的 横浜コミュニケーション障害研究会 - 73 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) はよくわからんが、きっとそうに ちがいない、と考えるようにな ったんです。だいたい、どこの どいつがそんな遺言を書いて、 大英百科事典を書き写す、そ んなつまらない仕事にこんな 金を払うんでしょうか。信じら れないんですよ。ヴィンセント・ スポールディングはね、わしを 乗り気にしようとはやし立てる 横浜コミュニケーション障害研究会 - 74 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) んですが、もう寝る時分になる と考えるのをやめにしました。 でも……朝になると、まぁとに かく一度行ってみるくらいはし てみようと、そう決心しましてね、 インクの小瓶と鵞ペン、フール スキャップ判(※13)の紙を七 枚買って、ポープス・コートへ 出向いたんです。 え、驚きましたし、喜びもしま 横浜コミュニケーション障害研究会 - 75 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) した。まったく話の通りだった んですからね。机が私専用に 置いてあって、ダンカン・ロスさ んがわしがちゃんと仕事に取 りかかるか、見届けに来てい たんです。ロスさんはわしにA のところから書かせ始めると、 部屋を出ていったんですが、 ときどきちゃんとやってるかを 見に来ていました。二時にな 横浜コミュニケーション障害研究会 - 76 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ると、もう帰っていいってことに なってですね、わしの仕事ぶ りをえらく褒めてくれましてね、 そうしてわしが部屋から出ると、 事務所のドアに鍵をかけてし まいました。 来る日も来る日も仕事をした んです。で、ホームズさん、土 曜日になるとロスさんがやって 来て、一週間分の給料として 横浜コミュニケーション障害研究会 - 77 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ソヴリン金貨(※11)を四枚く れたんです。次の週も、その 次の週も同じでした。毎日十 時にそこへ行って、午後二時 にそこを出ます。次第にダン カン・ロスさんは朝に一度しか 来ないようになって、そのうち さっぱり顔を見せないようにな ってしまいました。でも、もちろ んわしはその部屋を一歩も出 横浜コミュニケーション障害研究会 - 78 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ませんでしたよ。いつ来るかも しれませんから。それにこんな によくてですね、わしにぴった りな仕事をそうやすやすと手 放す気にはなれないってもん です。 そんなこんなで八週間が過 ぎました。わしは……Abbots, Archery, Armour, Architecture, Attica(※14) 横浜コミュニケーション障害研究会 - 79 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ……と写していってですね、も うちょっとやりゃぁ、そろそろB のところにも取りかかれるかな、 と思っていたんです。フールス キャップの代金も相当かさん できてましたからね。わしの書 いたものも、棚一段、満杯にな ろうとしていたんですよ。です がね、……急に、仕事がふい に……なってしまったんで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 80 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) す。」 「ふいに?」 「そうですとも。それもつい今 朝のことですよ。いつものよう にね、十時に仕事へ向かった んです。でも、扉が閉まって開 かんのですわ。すると、扉のパ ネルの真ん中あたりに、小さな びょう 四角いボール紙が 鋲 で止め てあったんです。それがこれ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 81 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ですよ。ご自分でご覧になっ てください。」 ウィルソン氏は一片の白いボ ール紙を差し出した。メモ帳く らいの大きさだった。そこには こう書かれていた。 赤毛連盟は解散する。 一八九〇年十月九日 シャーロック・ホームズと私は その素っ気ない声明文と、そ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 82 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の向こうにいる残念そうな顔の 男を比べ見た。我々の思考回 路は緊急停止した。事件があ まりにも滑稽であったからだ。 我々二人はこらえきれず、大 きく笑い崩れてしまった。 「どこが、何が面白いんです か!」と依頼者は叫んだ。赤 い髪の生え際まで紅潮してい た。「わしを笑うしか能がない 横浜コミュニケーション障害研究会 - 83 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) なら、どこかよそへ行きます ぞ。」 「いや、いや。」ホームズは半 ば腰を浮かした依頼者を制し、 椅子に押し戻した。「こんな事 件を、みすみす世間のやつら に放っておけますか。すがす がしいくらいに特異な事件で す。しかし、失礼しますが…… 幾分、面白い点があるのも確 横浜コミュニケーション障害研究会 - 84 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) かです。願わくは……扉にあ ったカードを発見して、貴方は どう行動されたのかお聞かせ 願えないでしょうか。」 「そりゃあホームズさん、仰天 しましたよ。何をしていいやら わかりませんでした。とりあえ ず同じ建物の事務所という事 務所を尋ね回ったんですがね、 どうも誰も知らんようなのです。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 85 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 最後に一階にすんでいる管理 人の所へ行きました。その人 は会計士なんですけどね、赤 毛連盟はどうなったんだ、て 聞いてもそんな団体、聞いた こともないって言うんですよ。 じゃあ、ダンカン・ロスって男 は知ってるか、と聞いたら、そ んな名前、初耳だ、って答え たんですわ。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 86 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ですからね、『そんなことな いだろう、ほら、四号室の紳士 だよ。』って言ったんです。 『え、赤毛の方ですか?』 『そうそう。』 すると、管理人はうーん、とう なるんですよ。『その紳士の名 前はウィリアム・モリスといいま して、事務弁護士(※15)なん ですよ。あの部屋は、新しい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 87 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 部屋を借りるまでの仮事務所 なんです。つい先日引っ越し ましたね。』 『どこに行けば、彼に会えるん ですかね?』 『なら、新しい事務所に行くと いい。住所は聞いていますか ら。……ええと、キング・エドワ セント ード街ですから、聖 ポール大 聖堂(※16)の近くですね。』 横浜コミュニケーション障害研究会 - 88 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) わしは向かいましたよ、ホー ムズさん。でも、その住所には 膝当ての製造工場があるだけ で、ウィリアム・モリスもダンカ ン・ロスも、誰一人として知っち ゃいませんでした。」 「それからどうなさいました か?」とホームズは先を促した。 スク ェア 「サックス・コバーグ広場の家 へ帰りました。うちのあれに相 横浜コミュニケーション障害研究会 - 89 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 談してみたんですけどね、手 の打ちようがないって。ただ、 待っていれば手紙でも届きま すよ、旦那、ってそれだけ言う んです。でもね、わしは…… 心の収まりがつかんのですよ、 ホームズさん。こんな……仕 事がふいになろうっていうとき に、手をこまねいてなんかおら れんのです。だから……だか 横浜コミュニケーション障害研究会 - 90 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) らですよ、あんたが困った人 の相談にちゃんと乗ってくれる、 ちゃんと手助けしてくれる、っ ていう人だと聞いていたからで すね、わしは一目散にやって きたわけなんですよ。」 「たいへん賢明なことです。」 ホームズはウィルソン氏にそう 答えた。「貴方の事件は、常 識の域を超えた事件……喜 横浜コミュニケーション障害研究会 - 91 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) んで調査しましょう。話から察 するに、見かけによらず、たい へんゆゆしき問題となりそうで す。」 ジェイベス・ウィルソン氏は熱 くなり、「ゆゆしき……ああもち ろん! わしの、わしの大事な 四ポンドが!」 ホームズはウィルソン氏の態 度にたいして、こう意見する。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 92 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「貴方個人として、その異常な 連盟に不満を抱く、それは筋 違いというものです。僕なら逆 に、ざっと三十ポンドは得をし た。Aの項、全ての記事を詳 細な知識として手に入れただ けでも充分なのに……と、そう 理解しますね。連盟からは、 失ったものより得たものの方が 多いはずです。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 93 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「そうかもしれませんが、ホー ムズさん。わしはやつらを見つ けだしたいんですよ。何者で、 どうしてわしにあんないたずら を……もし、もしいたずらとし たらですよ、その目的が知りた いんです。まぁ、いたずらにし ちゃあ金を使いすぎですがね。 わしに三十二ポンドも使ってる んですから。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 94 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「そういう点は、骨折って明ら かにしてあげますよ。しかしそ の前にウィルソンさん、二、三 お尋ねしたいことがあります。 最初に広告を見せに来た、そ の店員、いつ頃から働いてい ますか?」 「一ヶ月くらい前ですな。」 「して、どのように?」 「求人広告を出したら、やって 横浜コミュニケーション障害研究会 - 95 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 来たんです。」 「来たのは彼一人?」 「いいや、十二人くらいおりま した。」 「ではなぜ彼を?」 「使えそうで、それに給料は安 くても構わないって言ったもん ですから。」 「つまり、半額だったわけです ね。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 96 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「ええ。」 「ヴィンセント・スポールディン ふうさい グの風采は?」 「小柄ですが、身体は頑丈で、 機敏で、三十は越しているの にヒゲもありません。額に、酸 やけ ど あざ で火傷した白い痣みたいなの があります。」 ホームズは椅子から身を乗り 出した。どうやら心が高揚して 横浜コミュニケーション障害研究会 - 97 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) いるようだ。「そんなことだろう と思った。」ホームズはそのま まウィルソン氏に尋ねた。「そ の男の両耳、イヤリングの穴が あることに気が付きませんでし たか?」 「ええ、ありましたとも。あれは 言うには、若い頃、ジプシー (※17)にあけてもらったと か。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 98 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「ははん!」とホームズは言い、 再び物思いに沈むのであった。 「そいつはまだ店にいます ね。」 「ええ、いるでしょうね。さっき 店に残してきましたから。」 「貴方の留守中も、きちんと仕 事に精を出しているのです か?」 「はい、文句の付けようもない 横浜コミュニケーション障害研究会 - 99 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ほどに。それに、朝はすること なんてありゃしませんし。」 「よくわかりました。ウィルソンさ ん、一両日中には意見をお知 らせしましょう。今日は土曜日、 ですから月曜までには解決で きることと思います。」 こうして、我々は訪問客を部 屋から送り出した。 「さて、ワトソン。」ホームズは 横浜コミュニケーション障害研究会 - 100 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 私に話しかけてきた。「この事 件に対する、君の見解は?」 「さっぱりだ。」私は率直に答 えた。「たいへん……謎めい た仕事だな。」 「概して、」とホームズは切り出 す。「奇想な事件ほど、解ける 謎は多い。ありふれて特徴の ない犯罪が、真に我々を悩ま せる。それはまさしく、ありふれ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 101 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) た顔が見分けにくいのと同じ だ。しかし、この事件に関して は迅速に動かねばなるまい。」 「これから、どうする?」 と私が尋ねると、ホームズは こう答えた。 「煙草を吸おう。ちょうどパイプ 三服分の問題だ。これから、 五十分間は話しかけないでく れたまえ。」ホームズは椅子に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 102 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 座ったまま身体を丸めた。足 を抱え込み、やせたひざを わしばな 鷲鼻の近くに持ってくる。目を つむって座る。黒いクレイ・パ イプ(※18)を怪鳥のくちばし のように口からつきだしたまま。 ホームズは眠りこけたのだ、と 思った。自らもうとうとしだした ときであった。ホームズは突然、 椅子から飛び起きた。どうやら 横浜コミュニケーション障害研究会 - 103 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 結論が出たようで、パイプをマ ントルピース(※19)の上に置 いた。 「今日の午後、聖(セント)ジェ イムズ・ホール(※20)でサラサ ーテ(※21)の演奏がある。」と ホームズは言い出した。「どう だろう、ワトソン。診察の方は 二、三時間休めるか?」 「今日は一日あいている。私 横浜コミュニケーション障害研究会 - 104 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の仕事は常に暇なのでな。」 「帽子をかぶって、来たまえ。 シ テ ィ 中心区を通って行くつもりだ から、途中で食事でも摂ろう。 見たところ、このプログラムに はドイツの曲が多い。イタリア やフランスのものより、ドイツの 方が僕の趣味に合う。ドイツの 曲は内省的だ。僕も今、内省 的になりたいから……さぁ、行 横浜コミュニケーション障害研究会 - 105 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) こうか。」 我々は地下鉄でオルダーズ ゲイト駅(※22)まで行った。し ばらく歩くと、サックス・コバー スクエア グ広場に着いた。今朝、我々 が聞いた奇妙な話の現場であ る。みすぼらしく、息の詰まる ような街で、すすけた煉瓦造り の二階建てがいくつも立って いた。その建物は小さな空き 横浜コミュニケーション障害研究会 - 106 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 地の四方を囲んでいた。空き 地には柵が張り巡らされ、中 には雑草のような芝生としお れた月桂樹の茂みがあった。 二種の植物は煙にまみれた 不快な空気の中、ひたむきに 生きようとしているようだ。角の 家に行くと、三つの金メッキし た球と、褐色の板に白で『ジェ イベス・ウィルソン』と書かれた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 107 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 看板があった。あの赤毛の依 頼人が商売をしている店だっ た。シャーロック・ホームズは その店先で足を止める。首を 傾げ、店の全景を見据えた。 眉は寄せられ、目の奥が光っ ているように見える。その後、 街をゆっくり歩き始めた。また 我々が入ってきた角へ向かっ たかと思うと、家々を鋭く見つ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 108 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) めながら引き返してくるのであ る。最後にはあの質屋の店先 に戻ってきた。ステッキで歩道 を力強く二、三回叩いてから、 店の戸口に近寄っていった。 ノックをする。すぐに扉が開け られて、頭の良さそうな男が出 てきた。ヒゲはなく、つるつるし ていた。男はお入りください、 と我々を招いた。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 109 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「どうも。」ホームズは多少の謝 罪を入れてから、「すまないが、 ここからストランド通り(※23) へはどのように出たらよいのだ ろうか。」 「三つ目の角を右、四つ目の 角を左だ。」店員は手短に答 えると、扉を閉めた。 「頭の切れる男だ、あいつ。」 戸口を離れ、我々は立ち去ろ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 110 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) うとしていた。ホームズは話を 続ける。「私見だが、やつは抜 け目のなさで、ロンドンでは四 番目だ。大胆さにおいては三 番目と言ってもいい。やつに ついて、僕は多少知っている んだよ。」 私は口を挟むことにした。「う む。ウィルソン氏が雇った店員 か。赤毛連盟の謎に、一枚か 横浜コミュニケーション障害研究会 - 111 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) んでいるにちがいない。君が あんな事を尋ねたのは、あい つの顔が見たかっただけなん だろう?」 「やつの顔など問題ではな い。」 「では何のために。」 「ズボンの膝だ。」 「で、どうだった。」 「予想通りだった。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 112 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「歩道を叩いた理由は?」 ドクター 「いいかい、博士。今は話す 時間ではなく、観察の時間な んだ。僕たちは敵地に乗り込 ス パ イ んだ密偵だ。サックス・コバー グ広場のことはあらかたわかっ た。さて、この裏側の街を探索 しよう。」 サックス・コバーグ広場を離 れ、角を曲がるとすぐその通り 横浜コミュニケーション障害研究会 - 113 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) はあった。コバーグ広場と比 べると、画の表裏ほどの差で あった。そこは、中心区の交 通を北と西へ導く大動脈の一 つである。車道には、行きと帰 りの馬車が長い車の流れを作 っていた。歩道では、急ぐ歩 行者の群が多く、真っ黒にな っている。信じがたいことだっ た。美しい店々や荘厳な事務 横浜コミュニケーション障害研究会 - 114 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 所が一列に並んでいる。これ が先ほどまでいた広場の背中 合わせになっている。すたれ 活気のなかった広場と裏通り なのだ。 「さてと。」ホームズは街角に 立ち、通りをざっと見渡してみ た。「ここの家々の配置を覚え ておきたい。僕の趣味でね、 ロンドンの正確な知識を頭に 横浜コミュニケーション障害研究会 - 115 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 入れておきたいんだ。ここはモ ーティマー商店、煙草屋、新 聞の小売店、シティ&サバー バン銀行コバーグ支店、菜食 料理店にマクファーレン馬車 製作会社の倉庫。で、ここから 別の区画か。さて、博士。僕た ちの仕事は終わった。今度は 気晴らしの時間だ。サンドウィ ッチとコーヒー一杯で一息つ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 116 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) こう。それからヴァイオリンの国 へ行くのだ。そこは甘美と繊 細さと調和のみがあふれてい る。そこへ行けば、赤毛の依 頼者に難題をふっかけられて 煩うこともなかろう。」 友人、つまりホームズは熱心 な音楽愛好家だった。また自 身も有能な演奏家であり、類 い希な作曲家でもあった。午 横浜コミュニケーション障害研究会 - 117 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 後はずっと劇場の一階特等席 に座っていた。大きな幸せに 浸り、音楽に合わせ、その長く 細い指を静かに揺り動かして いた。このときの静かな微笑や まどろんだまなざしは、容赦な いホームズ、鋭敏な機知でつ け狙うホームズ、猟犬のような はやて ホームズ、疾風の犯罪捜査官 ホームズのそれとは、似つか 横浜コミュニケーション障害研究会 - 118 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ぬものに思われたのだ。ホー ムズの非凡な性格の中では、 この二種の気質が交互に現れ るのではないか、と時に私は 思うことがある。ホームズの極 端な的確、機敏さは、時折ホ ームズの心を支配する詩的で 瞑想的な気分に対する反動 ではなかろうか。この気質の変 動が、ホームズを極端なけだ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 119 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) るさから飽くなき活力へと導く のだ。そして、私がよく知って いるよう幾日も立て続けに、肘 掛椅子にゆったりともたれかか りながら、即興曲を作ったり古 版本(※24)を読んだりしてい るときほど、ホームズが真に恐 るべきときはない。そして突然、 追求欲が湧き起こって、あの 見事な推理力が直感の高み 横浜コミュニケーション障害研究会 - 120 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) まで昇りつめ、ついにホーム うと ズのやり方に疎い者でも、まる で仙人か何かのような知識を 持っているのではないか、と不 審の目で見るのである。この セント 日の午後も聖 ジェイムズ・ホー ルで私は音楽に心酔している ホームズを見て、冒険の果て に捕らえられるべき犯人達に はやがて、凶事が舞い込むで 横浜コミュニケーション障害研究会 - 121 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) あろうと感じた。 「君は家へ帰りたいと思ってい る。そうだろう、博士。」ホール を出ると、ホームズは私の心 境を当ててみせた。 「ああ、その方がいい。」 「僕は少々時間を食う用事が ある。コバーグ広場の事件は 深刻だ。」 「どういうことだ?」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 122 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「大それた犯罪を企んでいる やつがいる。だが食い止める だけの時間はある。確信でき るだけの根拠もある。しかし、 今日は土曜日だ。事は錯綜 するだろう。今晩、君の手を借 りるかもしれない。」 「何時だ?」 「十時くらいで充分だろう。」 「では、十時にベイカー街 横浜コミュニケーション障害研究会 - 123 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) (※25)へ行こう。」 「頼む。あと博士、少々危険か もしれないから、君の軍用リヴ ォルバー(※26)をポケットに 忍ばせておいてくれたまえ。」 ホームズは手を振り、きびすを 返すと、たちまち群衆の中へ 消えていった。 私は、自分が周囲の人より 頭が悪いとは思っていない。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 124 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) だがシャーロック・ホームズと 接していると、いつも自らの愚 鈍さを感じ、憂鬱になるのだ。 今回の件でも、ホームズが見 聞きしたことは、私も同じように 見聞きしている。それでもやは り、ホームズの言葉から察する に、ホームズは事件の経過全 体だけではなく、これから何が 起ころうとしているかも見抜い 横浜コミュニケーション障害研究会 - 125 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ているようだった。それに引き 替え、私と来たら事件の全容 がいまだ混沌として奇怪なま まだ。ケンジントン区(※27)の 自宅へ馬車で帰る途中、私は ずっと考えていた。百科事典 を筆写した赤毛の男の異常な 話。サックス・コバーグ広場へ の調査。ホームズが別れ際に 言った不吉な言葉に至るまで。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 126 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 今夜の探検は何を意味してい るのか。なぜ拳銃を持ってい かなければならないのか。どこ へ行って、何をするのか。ホー ムズの口振りでは、質屋のつ るつる顔の店員は手強い男ら しい。深い企みがあって動い ているらしい。私は謎のパズ ルを解きほぐそうとしたが、絶 望し、あきらめ、夜になって全 横浜コミュニケーション障害研究会 - 127 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 貌が明らかになるまでこの事 は放っておくことにした。 私がその夜、家を発ったの は九時十五分過ぎであった。 パ ー ク ハイド公園(※28)を抜け、オ ックスフォード街(※29)を通っ てベイカー街へ出た。玄関先 には二台のハンソム馬車 (※30)が止まっていて、私が 玄関を入ると上階から話し声 横浜コミュニケーション障害研究会 - 128 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) が聞こえた。部屋に入っていく と、ホームズは二人の男と熱 心に話をしていた。一人はか ねてからの知り合い、警視庁 (※31)のピーター・ジョーンズ だった。もう一人は背が高く、 細身で暗い顔のした男だった。 光沢のあるシルクハットを持っ て、嫌みたらしく上等のフロッ ク・コートを羽織っていた。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 129 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「さぁ! これで全員揃った。」 ホームズは皆に呼びかけた。 ピー・ジャケット(※32)のボタ ンを掛けながら、棚から丈夫な べん 狩猟鞭を持ち出した。「ワトソ スコットランドヤード ン、ロンドン 警 視 庁 のピータ ーくんは知っているね。こちら にいらっしゃるのはメリウェザ ーさんといって、今夜の冒険 に同伴してくれるのだそう 横浜コミュニケーション障害研究会 - 130 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) だ。」 「博士、また一緒に捜査するこ とになりましたな。」とジョーン ズはもったいぶった調子で言 う。「ここにおられる友人は狩 猟がとてもうまいから、追いつ めた後に、引っ捕らえるだけ の老犬がいればいいんです と。」 かり 「終わってみれば雁一羽、な 横浜コミュニケーション障害研究会 - 131 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) んてことにはなってほしくない ですな。」とメリウェザー氏はむ っつりと言う。 「なぁに、ホームズさんのことだ から大船に乗ったつもりで。」 ジョーンズは自分のことのよう に、横柄に言ったものだ。「こ の人にはちょっと独特の方法 があるんですよ。言って気を 悪くなさらないといいのですが、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 132 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) あえて言わせてもらいますよ。 少々理屈っぽくて空想に耽る ことが多い、けれども、彼は立 派な探偵であります。これまで も一、二度ばかりでなく、例え ばショルトォ殺人事件やアグラ われわれ 財宝事件でも、本職の警察よ りも真に迫った推理をなさった んですよ。」 「ほう、ジョーンズさん、あなた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 133 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) がそう言われるのなら、大丈夫 ですな。」新参者のメリウェザ ー氏が敬意をこめて言った。 「しかし……ブリッジ(※33)の 三番勝負ができなくて残念で すなぁ。土曜日の夜には毎週 欠かさないのに、しないなどと いうことは実に二十七年振りで して……」 「今にご覧あれ、」とシャーロッ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 134 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ク・ホームズは言う。「今夜は 今までとは違います。より高い 賭け金で勝負してもらうことに たか なります。心が昂ぶる勝負で す。メリウェザーさん、貴方の 賭け金は三万ポンド(※11)で す。とすると、ジョーンズ、君の 賭けは犯人逮捕ということにな るね。」 「ジョン・クレイは殺人犯で窃 横浜コミュニケーション障害研究会 - 135 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 盗、その上、貨幣偽造をして、 その金を自分で使ってやがる やつだ。若造だが、メリウェザ ーさん、やつはその道では右 に出るものがいないほどの悪 党で、……私はロンドンのどん な悪党よりも、こやつにこの手 錠を掛けてやりたいんです。こ の若造、ジョン・クレイは抜き ん出た男ですよ。祖父は王族 横浜コミュニケーション障害研究会 - 136 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 出の公爵(※34)で、こやつ自 身もイートン校(※35)からオッ クスフォード大学(※35)の出 です。やつは手先も器用、さら に狡猾とあって……密告があ って捕まえようとしても、いつ だって立ちまわった跡だけが 残っていて、やつそのものの 所在はどこへやらだ! スコッ トランド(※36)で押し込み強 横浜コミュニケーション障害研究会 - 137 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 盗をしたと思えば、次の週はコ ーンワル(※37)で孤児院の 設立資金とかぬかして金を騙 し集めていたりしやがる。長年、 やつを追っているんだが、ま だこの目で見た事がない。」 「今宵はなんと光栄なことか。 ジョン・クレイ先生を君たちに ご紹介できるのだから。彼とは ちょっとした関わり合いがある 横浜コミュニケーション障害研究会 - 138 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) が、君の意見に賛成だ。確か にこの道にかけては第一人者 である。さて、十時過ぎになり ました。出発の時間です。二 人は前のハンソム馬車に乗っ てください。ワトソンと僕は後ろ からついていきます。」 馬車に乗ると、シャーロック・ ホームズは堅く口を閉ざしてし まった。辻馬車のシートに深く 横浜コミュニケーション障害研究会 - 139 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 座り、この午後に聴いた旋律 を口ずさんでいた。迷路のよう な街並みはガス灯に照らされ ていた。そうして、我々はつい にファリントン街(※38)へ入っ た。 「もうすぐだ。」ホームズはよう やく口を開き、説明をする。 「あのメリウェザーという男は銀 行の重役だ。この事件に直接 横浜コミュニケーション障害研究会 - 140 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 利害関係がある。また、ジョー ンズくんがいてくれた方がい いと判断したんだ。彼は悪い 男ではない……本職では、全 くの無能だが。まぁ、取り柄も 一つくらいはあるな。殊に勇敢 さはブルドッグ(※39)のようで ある。粘り強さもロブスターの ようだ。捕まえたものを離さな いという点でね。さて、着いた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 141 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) か。前の二人も待っている。」 朝と同じくして、にぎやかな 大通りだった。我々が今朝、 出向いた通りだ。馬車を帰ら せ、我々はメリウェザー氏の案 内で狭い路地に入った。また 氏は通用門を開けてくれ、 我々はくぐった。中には短い 廊下があり、奥には頑丈な鉄 扉があった。また開けると、石 横浜コミュニケーション障害研究会 - 142 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ら せ ん 造りの螺旋階段が現れた。導 かれながらも降りていくと、終 わりに荘厳な第二の扉があっ た。メリウェザー氏は立ち止ま り、手提げランタン(※40)の灯 をともした。我々の案内を続け、 暗く土臭い階段を降りていっ た。すると、第三番目の扉が 見えた。開けると、地下室とも 穴蔵ともとれる大部屋に出た。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 143 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 部屋の四方には木箱や大箱 などが積み重ねられていた。 「上からの襲撃に対しては、心 配ないということか。」とホーム ズは述べた。ランタンを掲げ、 周りを注意深く見回した。 「下からだって……」とメリウェ ザー氏はそう言い、ステッキで 床に並んだ敷石を叩いたが、 「ん、何だ……空っぽみたい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 144 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) な音がする……!」顔を上げ、 驚きのあまり口に出したのだ。 「静粛にお願いします。」ホー ムズはたしなめた。「この我々 の探検、全て台なしになさる つもりですか? 貴方に親切 心というものがあるのなら、あ の箱の一つに座り、邪魔をし ないでくれませんか。」 メリウェザー氏はしょげ込み、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 145 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 木箱に腰を下ろした。気分を 害したような顔をしていた。ホ ームズは気にする様子もなか った。床にひざをつき、ランタ ンをかざした。敷石と敷石の 間を、拡大鏡で綿密に調べ始 めた。二、三秒で満足なもの が得られたのか、すっと立ち 上がった。拡大鏡をポケットに しまう。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 146 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「少なくとも、まだ一時間の余 裕はあります。」ホームズは皆 に語りかけた。「あの善良なる 質屋さんが熟睡するまでは、 やつらも身動きがとれない。だ が寝てしまえば、一分一秒を 争ってやってくる。仕事を手早 く済ませてしまえば、逃亡する 時間も長くなるからね。博士、 もう気がついているだろう? 横浜コミュニケーション障害研究会 - 147 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 僕らはロンドンの一流銀行、 シ テ ィ 中心区支店の地下室にいる。 メリウェザーさんは頭取なんだ。 ロンドンきっての大胆不敵な 悪党たち――彼らがこの地下 室をねらっている目的、説明 してくださいますね。」 フ ラン ス 「仏蘭西金貨のせいでしょ う。」頭取が小声で答えた。 「狙われるかもしれない、という 横浜コミュニケーション障害研究会 - 148 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 予感は今まで何度もしており ました。」 「仏蘭西金貨……?」 「そうです。わたくしどもは数ヶ 月前、資本強化をする必要が ありまして、そのため、フランス 銀行から三万枚のナポレオン 金貨(※41)を借り入れたので す。ところが、この金貨の封を 切る必要がなくなり、この地下 横浜コミュニケーション障害研究会 - 149 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 室に眠らせておいたのですが ……それが世間に知れ渡っ てしまいまして。今、私が腰掛 けている木箱の中に、鉛の箔 で包まれたナポレオン金貨が 二千枚入っているんです。銀 行の一支店が保有するには、 あまりにも多すぎるものですか ら……重役会でも問題になっ ていたんですが。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 150 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「無理もありません。」ホームズ は述べた。「では、今のうちに 僕らも手筈を整えておきましょ う。一時間もしないうちに、事 件は大詰めを迎えるでしょう。 それまでの間は、メリウェザー さん、このランタンに覆いをか けなければなりません。」 「暗い中で座れと?」 「あいにくですがね。実は、ポ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 151 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ケットにカードを一組忍ばせて 置いたのですよ。二人一組に なって、貴方の好きなブリッジ を今夜も……と。しかし、敵の 準備がかなり進んでいますの で、明かりを付けておくのは危 険です。ではまず第一に、僕 らの配置を決めておきましょう。 不敵なやつらです。袋小路に 追いつめても、油断すると痛 横浜コミュニケーション障害研究会 - 152 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) い目に遭います。僕はこの木 箱の影に隠れますので、貴方 はそちらへ身を隠してください。 それから、僕がやつらに明かり を当てます。みなさんは直ち に飛び出してください。万が 一、やつらが発砲でもしたら、 ワトソン、ためらわずやつらを 撃ってくれたまえ。」 私はリヴォルバーの撃鉄を 横浜コミュニケーション障害研究会 - 153 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 起こした。身を隠している木箱 の上に据え置いた。ホームズ はランタンの前に覆い板を差 し入れた。辺りは漆黒の闇に 包まれた。経験したことのない 完全なる闇。金属の焦げる匂 いがした。明かりはまだそこに あるのだ。いざというときには すぐに点けられる。我々には 安心感があった。が、私はとい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 154 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) うと、神経が徐々に張りつめて いったのだ。強い期待と不安。 不意に暗く静まった地下室。う すら寒くじめじめした空気。胸 が締め付けられるような感覚 …… 「退路はただ一つ。」ホームズ はささやく。「建物の中を抜け、 サックス・コバーグ広場へ出る 道のみ。ジョーンズ、手配の通 横浜コミュニケーション障害研究会 - 155 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) りにしてくれたか?」 「表に警部一人、巡査二人を 見張りに。」 「出る穴は全て塞げた。あとは、 ただ静かに待っていよう。」 ……なんと長かったことか! 後でホームズと私のメモを比 べると、どうやら一時間と十五 分しかなかったらしい。私は夜 も明け、暁ばかりになっていた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 156 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) と思いこんでいたのに。私の 四肢は疲れのため、棒のよう になっていた。わずかな身動 きも差し控えていたのだ。神 経は過度に張りつめられてい た。聴力はとぎすまされていた。 皆の穏やかな息遣い。大柄な ジョーンズの深々と吸い込む 息。メリウェザー氏のため息め いた細い息遣い。私が身を潜 横浜コミュニケーション障害研究会 - 157 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) めている場所から、箱越しに 床が見えた。すると突然、一 条の閃光が目を貫いた。 初めは、敷石の上で黄色い 光が弾けただけだった。だが 光は次第にのび、黄色い光芒 となった。何の前触れもなく床 に亀裂が走った。そこから手 が現れた。女のように白い手 であった。手は光の届く狭い 横浜コミュニケーション障害研究会 - 158 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 範囲をまさぐった。一分、ある いはもっと経っただろうか。指 をもぞもぞさせていると思えば、 手がにゅっと出てきた。だがす ぐに引っ込んだ。残っている のは敷石の亀裂から漏れ出る、 黄色い光のみ。辺りは元のよう に闇である。 静寂はつかの間のものだっ た。物が張り裂かれる激しい 横浜コミュニケーション障害研究会 - 159 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 音。白く、大きな敷石がひっく り返されたのだ。ぽっかりと四 角い穴があいている。ランタン の光芒が漏れ出てくる。穴の 縁から、じわじわと顔が浮かび 上がってくるのだ。鼻筋が通っ ていて、若々しいことが次第に わかってくる。顔は辺りを鋭く 見、穴の両端に手を掛けた。 肩、腰までも姿を現す。片ひ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 160 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ざを縁によりかけて、軽々と穴 の上に上がった。続いて、男 は後に続く仲間を引き上げた。 男と同じく華奢で顔は青白い、 乱れた炎の赤毛を持つ男だっ た。 「……誰もいない。」先に上が った男がささやく。「たがね、 袋も持ってきただろうな。…… ん、何ィ! 飛び込め、アーチ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 161 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) しば ィ、飛び込むんだ、絞り首 だ!」 シャーロック・ホームズが飛 び出した。侵入者の襟首をす ばやくつかむ。もう一人は穴 の中へ飛び込んだが、服の引 き裂かれる音がした。ジョーン ズが服の裾をつかんだようだ。 リヴォルバーの銃身がきらめ いた。ホームズの狩猟鞭が男 横浜コミュニケーション障害研究会 - 162 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の手首に振り下ろされた。拳 銃が床の敷石に落ちた。がち ゃりと音がする。 「無駄だ、ジョン・クレイ。」ホー ムズの穏やかな声。「君に反 撃の余地はない。」 「どうやらそうらしい。」相手は 極めて冷静に答えた。「だが、 俺の仲間はうまく逃げおおせ たようだ。服の端だけを貴様 横浜コミュニケーション障害研究会 - 163 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の手みやげにしてな。」 「表には三人の警官が待ちか まえている。」ホームズは告げ た。 「おや、へぇ。貴様らにしては よくやったもんだ。お褒めの言 葉を掛けてやろう。」 「それをそっくり君に返そう。」 ホームズは答える。「君の赤毛 連盟、斬新で効果的だった。」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 164 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「お前もすぐ仲間に会わせて やるよ。」ジョーンズが横から 口を挟む。「あいつ、穴潜りに かけては俺よりもうまいようだ な。手を差し出せ、手錠をは めてやる。」 「貴の不潔な手で、俺に触れ てくれるな。」我々に包囲され た犯人は言葉を吐き捨てたが、 すぐに手錠をはめられた。「貴 横浜コミュニケーション障害研究会 - 165 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 様はしらんだろうが、俺の身体 には王家の血が流れているん だ。口を利くときには、そう、 『どうぞ』とか『恐縮ですが』と 言いたまえ。」 「わかった、わかった。」ジョー ンズは目をひんむき、くすくす 笑う。「それではまことに恐縮 ですが、上へおあがりください。 馬車をつかまえ、殿下を警察 横浜コミュニケーション障害研究会 - 166 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 署までご案内いたしましょう。」 「よろしい。」ジョン・クレイは落 ち着き払って言った。我々三 人に尊大な会釈をしたのち、 警官に身柄を確保され、静か に立ち去った。 我々は警官の後について地 下室を出た。そのとき、メリウェ ザー氏はこう言った。「ホーム ズさん、本当に、当銀行といた 横浜コミュニケーション障害研究会 - 167 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) しましてはどうお礼を申し上げ ていいかわかりません。事実、 あなたさまにこんなに大胆な 銀行強盗の計画を見破ってい ただき、なおかつ未然に防い でいただいたのですから。」 「僕には一つ二つ、借りがあっ たのですよ。ジョン・クレイに晴 らさねばならぬ借りが。」と、ホ ームズは返答する。「この事件 横浜コミュニケーション障害研究会 - 168 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) には少々金を使いました。そ れは銀行の方で払っていただ きましょう。しかし、それ以上の 物は必要ありません。様々な ものめずらしい体験。赤毛連 盟という突飛な話。それだけ で、報酬は充分なのです。」 「いいかい、ワトソン。」ホーム ズは朝早い頃、ベイカー街の 横浜コミュニケーション障害研究会 - 169 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 下宿でウィスキソーダを飲み ながら説明するのだった。「初 めからわかりきったことだった んだ。赤毛連盟の風変わりな 広告。百科事典を筆写させる。 この二つの目的は、あのひど く頭の悪い質屋の主人を、毎 日何時間か家を留守にさせる、 これしかない。……おかしな 手段だ。しかしこれ以上の案 横浜コミュニケーション障害研究会 - 170 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) は思いつかないだろう。考え たのは頭の切れるクレイのや つだ。共犯者の髪の色を見て 思いついたに相違ない。質屋 をおびき出すのに、一週間四 ポンド必要であったわけだが、 何千ポンドの賭けをしている んだ。そのくらい造作もない。 そうやって広告を出し、一人 は仮事務所を借りて、もう一人 横浜コミュニケーション障害研究会 - 171 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) は質屋にけしかけて応募させ る。二人して、毎朝確実に店 を留守にさせたんだ。僕は店 員が相場の半額で来ていると いう話をきいて、すぐにわかっ た。男にその立場を得なけれ ばならない強い動機があるの だ、と。」 「しかし、その動機はどのよう にしてだね……」 横浜コミュニケーション障害研究会 - 172 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 「その店に女でもいれば、つま らん色恋沙汰とでも疑っただ ろう。だが問題外だ。あの質屋 は小さい。あんな手の込んだ 準備をしたり、それだけの金を 出すほどではない。そうすると、 店の外にあるものに違いない。 では何だ。……ふと僕は思い だした。男は写真愛好家で、 事に触れては地下室に姿を 横浜コミュニケーション障害研究会 - 173 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 消している。地下室だ! これ でもつれた事件の糸口はほど けた。僕は不思議な店員の身 辺を探ってみた。すると相手 は、ロンドン一、冷静沈着で大 胆な悪党だったんだ。やつ、 ジョン・クレイが地下室で何か している。何ヶ月も、一日何時 間も何かをしている。何が出 来るというのだ、と再び思案を 横浜コミュニケーション障害研究会 - 174 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) めぐらせた。僕は一つの結論 に行き着いた。やつは他の建 物に向かってトンネルを掘っ ているのだ。 二人で現場に行ったとき、僕 はここまで推理していた。あの とき、僕がステッキで歩道を叩 いて、君を驚かせただろう? 地下室からトンネルが店の前、 後ろ、どちらに掘り進められて 横浜コミュニケーション障害研究会 - 175 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) いるのか確かめたかったのだ。 次にベルを鳴らすと、ベルに 応え、望み通り店員が出てき た。僕とやつは何度か小競り 合いをしたことがある。だが互 いに顔を合わせたことは一度 もない。だから顔なんて見なか った。見たかったのはやつの ひざ小僧だ。君も覚えている だろう? やつのひざはすり切 横浜コミュニケーション障害研究会 - 176 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) れ、しわだらけで、汚れていた ことを。何度も何度も穴を掘っ ていた証拠だ。これで残る点 は、何のために掘っているの か、のただ一つとなった。僕は 街角を回ってみて、理解した。 シティ&サバーバン銀行が我 が友人の質屋と背中合わせに なっていると。これで事件は解 決したというもの。音楽会の後、 横浜コミュニケーション障害研究会 - 177 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 君は馬車で家へ帰った。しか スコットランドヤード し僕はロンドン 警 視 庁 に寄り、 次に銀行の頭取を訪ねたの だ。その結果は君の見たとお りだ。」 「だが……どうやって今日決 行されるとわかったんだ?」 「ふむ。それはやつらが連盟 の事務所を閉めたからだ。つ まりそれがジェイベス・ウィルソ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 178 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ン氏が店にいても邪魔になら なくなったということだろう? 言い換えれば、トンネルを完 成させたということだ。完成し た以上、すぐ計画を実行する 必要があった。トンネルが発 見されるやもしれない。金貨が 別の場所に移される可能性も ある。それに、土曜日が他の 日よりも都合がいい。逃げるの 横浜コミュニケーション障害研究会 - 179 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) に二日の猶予があるからね。 こうして僕は、今夜襲撃がある と見当をつけたのだ。」 「快刀乱麻を断つ見事な推理 だ。」私は心の底から感嘆した。 「長い長い鎖が、最初から最 後まで正しくつながったよ。」 アンニュイ 「おかげで、いい退屈しのぎ ができた。」ホームズはあくび をしながら答えた。「ああ…… 横浜コミュニケーション障害研究会 - 180 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) もうそいつがやって来たようだ。 平々凡々とした生活から逃れ ようと、四六時中もがいている。 これが僕の人生だ。こうしたさ さやかな事件があると、いくら か救われた気持ちになるのだ よ。」 「そうやって、君は赤毛だけで なく人々皆を救っている。」 私の発言に、ホームズは肩 横浜コミュニケーション障害研究会 - 181 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) をすくめた。「結果として、少し は役に立っているのかもしれ んな。『人などどうでもいい ――やったことがすべてだ。』 と、ギュスターヴ・フロウベール (※42)がジョルジュ・サンド (※43)に書き送っているよう に、ね。」 【訳注】 ※1 メアリ・サザーランド嬢の事件……次話 『花嫁の正体』のこと。これは当時ホームズ譚 横浜コミュニケーション障害研究会 - 182 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) を連載していたストランド・マガジンの編集者 が、何ヶ月分もたまっていた原稿の順番を取 り違えたため、まだ出ていない話を引き合い に出してしまった不思議な現象。 ※2 フロック・コート……十九世紀に男性が 着用したひざ丈のコート。 ※3 アルバート型時計鎖……ポケットに入れ て持ち歩く懐中時計についている鎖のこと。 服に留め、落ちないようにする。 ※4 ビロード……ベルベットとも言い、綿、絹 毛などを滑らかでつやがでるように織った生 地。 ※5 フリーメイソン……一七一七年、「自由・ 平等・博愛・兄弟愛・人類同胞主義」を掲げ 設立された秘密結社。相互扶助と友愛を目 的とし、現在まで世界中の財政界の人々が軒 横浜コミュニケーション障害研究会 - 183 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 並み会員になっている。 ※6 インチ……二・五四センチ、十二分の一 フィート。 ※7 米国ペンシルヴァニア州レバノン……ア メリカ合衆国北東に位置する都市。 ※8 フリート街……シティの商業地区。新聞 社、出版社、バーなどが多い。 ※9 モーニング・クロニクル紙……一七六九 年に創刊されたロンドンの日刊紙。作家チャ ールズ・ディケンズとその父親が発行していた。 ※10 シティ(中心区)……英国のロンドンの 旧市内一マイル(約一六〇九メートル)四方 の地区。金融商業の中心地。 ※11 金の単位……一九七一年までイギリス は今と違う通貨単位を使っていた。一二ペン ス(ペニィ)は一シリング、二〇シリングは一ポ 横浜コミュニケーション障害研究会 - 184 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ンド。硬貨についた名前として、クラウンは五 シリング銀貨、ソヴリンは一ポンド金貨。ギニィ は一・〇五ポンドに当たる。現在の貨幣感覚 でいうと、一ペニィ=一〇〇円 一シリング= 一二〇〇円 一ポンド=二万四〇〇〇円くら いである。 ※12 アイリッシュ・セッター……栗色や赤褐 色のセッター種(イギリス原産の毛の長い猟 犬)の犬。 ※13 フールスキャップ判……大判の筆記用 紙。英国と米国で大きさが違い、英国では、 約十七×十三・五インチ大(約四十三×三十 四センチ)。 ※14 Aの項の英語……順に、修道院長、ア ーチェリー、兵器製造者(火気係)、建築学、 アッティカ(古代ギリシャのアテネを中心とした 横浜コミュニケーション障害研究会 - 185 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 地方、「風の建物」という意。) ※15 事務弁護士……書類の作成や下級審 での弁護にあたる職業。 ※16 聖(セント)ポール大聖堂……クリストフ ァー・レン設計の大聖堂。英国国教会がロン ドン管区の大主教座を置く、シティでもっとも 古い教会のひとつ。高さ一一〇メートルもある。 一六六六年のロンドン大火後の一七一〇年 完成。 ※17 ジプシー……ヨーロッパ・アジアに散在 する放浪民族。音楽、舞踊、占いなどをして 生計を立て、各地を移り歩いている。 ※18 クレイ・パイプ……素焼きの粘土で作ら れたパイプ。吸い口が木やプラスティックのも のもある。 ※19 マントルピース……壁に作り付けた西 横浜コミュニケーション障害研究会 - 186 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 洋風の暖炉を囲む、飾り枠上部の棚。 ※20 聖(セント)ジェイムズ・ホール……ウェ ストミンスター(ロンドンの西地区ウェストエンド の中心、ロンドン三十三自治区のひとつ。国 会議事堂、バッキンガム宮殿、ウェストミンスタ ー寺院がある。)にあるコンサートホール。 ※21 パブロ・マルティン・メルトン・サラサー テ・イ・ナヴァスクエス……一八四四―一九〇 八年。スペインのヴァイオリニスト、作曲家。代 表作「ツィゴネル・ワイゼン」 ※22 オルダーズゲイト駅……シティ北部の 駅。ちなみにサックス・コバーグ広場は架空の 街である。 ※23 ストランド通り……ロンドンの繁華街。ホ ームズ譚掲載の『ストランド・マガジン』の由来 である街。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 187 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ※24 古版本……ひげ文字(ブラック・レタ ー)で印刷された本のことで、初期の印刷所 ではその文字がよく使われた。 ※25 ベイカー街……ホームズの下宿のある 場所。住所はベイカー街二二一b番地。ロン ドンの通りでウェストエンドを南北に走る。北 方はリージェント・パーク、南方はオックスフォ ード街と交差する。 ※26 リヴォルバー……自動式連発拳銃。銃 身の後ろにシリンダーという回転する弾倉が ついているごく一般的な拳銃。ワトスンがもっ ていたのは当時の陸軍が標準的に支給した 『アダムス.450』と思われる。 ※27 ケンジントン区……ロンドン西部の首都 特別区。文学者や芸術家が多く住む。 ※28 ハイド・パーク……ウェストミンスター区 横浜コミュニケーション障害研究会 - 188 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) の広い公園。馬や馬車も入ることが出来、上 流階級の人々が良く訪れた。 ※29 オックスフォード街……ロンドンを横に 伸びる長さ一マイル強の通り。 ※30 ハンソム馬車……御者席が後ろにつ いている一頭立て二人乗り二輪の辻馬車。 ※31 スコットランド・ヤード……ロンドン警視 庁(特にCID)の通称。特にその刑事捜査本 部をさす。一八二九年創立。最初の建物が、 スコットランド王離宮跡に建てられたことから その名を持つ。この時代、ヴィクトリア河岸に 庁舎があった。 ※32 ピー・ジャケット……または、ピー・コー ト。イギリス海軍が、船の甲板で見張りをする ときに用いたコートを起源とする、太股までの 丈のショートコート。風の向きによって、右前 横浜コミュニケーション障害研究会 - 189 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) にも左前にも着られるようにダブルブレストに なっている。 ※33 ブリッジ……日本でいうセブン・ブリッジ ではなく、コントラクト・ブリッジというカードゲ ームで、カードゲームの中では世界で最も競 技人口が多く、国際的な選手権大会が行わ れている。 ※34 公爵……貴族の最高位である身分。 ※35 学校……【イートン校】ロンドンの西方 にある都市、イートンにあるパブリックスクール (主に上流子弟対象の私立中・高等学校をさ す。必ずしも寄宿制ではない)。【オックスフォ ード大学】十二世紀創立の英国最古の大学。 中世以来英国の中心としてあらゆる分野の指 導者を輩出、三十九のカレッジ(学寮)から成 り立つ大学の集合体のような所である。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 190 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) ※36 スコットランド……英国グレートブリテン 島(本島)北部の地方。中心都市エジンバラ。 ※37 コーンワル……英国南西部の州。36 と 37 はイギリスの北の端、南の端である。 ※38 ファリントン街……シティの通り。 ※39 ブルドッグ……英国産の獰猛な顔つき をした犬。粘り強く頑強。 ※40 ランタン……手からさげるタイプの角型 ランプ。角灯とも言う。この話で使われている のは、ダークランタン(強盗提灯)といい、明か りの出る一カ所のみの側面に、覆いをかぶせ ることが出来る。 ※41 ナポレオン金貨……フランスの皇帝ナ ポレオンが作らせた二十フラン金貨。 ※42 ギュスターヴ・フロウベール……一八二 一―八〇年。文学における科学的方法を確 横浜コミュニケーション障害研究会 - 191 - 『赤毛連盟』 (アーサー・コナン・ドイル) 立したフランスの作家。写実主義・自然主義 小説の手本と仰がれた。著作に『ボヴァリー夫 人』『サランボー』など。 ※43 ジョルジュ・サンド……一八〇四―七 六年。フランスの女流作家で、フランス女流 文学史上最大の作家。著作に『コンシュエロ』 『魔の沼』『愛の妖精』など。『恋多き女』とサン ド自身は称される。 横浜コミュニケーション障害研究会 - 192 -
© Copyright 2024 Paperzz