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33
2015
古ウイグル語行政命令文書に「みえない」ヤルリグ
…………………………………松井 太 読みの表象としての『ピンチャー・マーティン』
─ モ デル読者とモデル作者の観点から ─ …………………………………小野寺 進 カミュ『カルネ』第1分冊校訂の問題点
…………………………………奈蔵 正之
【論文】
日本語の右枝節点繰上げと削除分析
…………………………………木村 宣美 55
43
15
1
目 次
【論文】
フィヒテとシェリングにおける自然的宗教について
…………………………………諸岡道比古 1
新井白石の知識世界序説
…………………………………李 梁 23
﹁すべての宗教の核心を包含する真理﹂を求め︑宗教の本質や宗
た ち は︑ 多 種 多 様 な 諸 宗 教 を 合 理 的 に 理 解 し よ う と し︑ そ れ ら
なった︒特に︑宗教の多元性を認識した近世ヨーロッパの思想家
ること︑世界には様々な宗教が存在することに気がつくところと
等を通して︑近世ヨーロッパの人々は︑宗教の判断基準が複数あ
宗教改革や対抗宗教改革︑科学技術の発達や地理的視野の拡大
の教義が理神論と一致し得なかった限りにおいて拒絶的に批判﹂
示をできる限り理性宗教の意味に解釈しようと努力し︑・・・啓示
に対し︑人間の自然︵本性︶に基づく一つの
positiven Religionen
自然的宗教を考え対照させていた︒しかも︑
﹁積極的宗教の諸啓
し た も の﹂ と さ れ︑ 世 界 各 地 に 存 在 す る 多 様 な 積 極 的 宗 教
ものが区別された結果として︑歴史的なものは作為しすぎた堕落
のと理性的なものとを同一視し︑・・・自然的なものと歴史的な
フィヒテとシェリングにおける自然的宗教について
教の原型を探究し始めた︒このような思潮のもとで獲得された宗
る人間に共通な自然的宗教﹀の歪曲であり︑その歪曲は一部には
諸 岡 道 比 古
﹂と呼ばれる︒
教概念は一般に﹁自然的宗教 die natürliche Religion
自然的宗教は山川草木を神として崇拝対象にする地生え的な︑い
ものである﹂︑というような考え方まで登場することになった︒
die
﹂ と は 異 な る︒ 自 然 的 宗 教 は
わ ゆ る﹁ 自 然 宗 教 die Naturreligion
諸宗教の根底に普遍的に存在する宗教と考えられ︑啓蒙期には理
歴史的事実により︑大部分は司祭のねつ造によってもたらされた
している︒その結果︑﹁あらゆる積極的宗教は︑︿根源的であらゆ
(4)
レ ッ シ ン グ が 出 版 し た ラ イ マ ー ル ス の い わ ゆ る﹃ ヴ ォ ル フ ェ ン
こ の よ う な 思 潮 は ド イ ツ に お い て も 辿 る こ と が 可 能 で あ る︒
この思潮の淵源はチャーベリーのハーバートに端を発するイギリ
ビュッテル断篇﹄にその典型を見ることができる︒そこでは自然
性信仰︑理性宗教︑道徳的宗教などと呼ばれていたものである︒
(5)
(3)
ス理神論に求めることができる︒イギリス理神論は﹁自然的なも
1
(6)
(2)
(1)
在意義を認め︑その役割を承認しているからである︒
積極的宗教の存在を認めるのではなく︑積極的宗教そのものに存
的宗教を含む限りで︑あるいは自然的宗教と一致する限りでのみ︑
を見て取ることができる︒それは︑理神論におけるように︑自然
た自然的宗教と積極的宗教との関係とは異なる両者への関わり方
現するべきである︑としている︒ここには理神論で考えられてい
宗教の内在的真理﹂としてそれらに含まれている自然的宗教を実
これらの積極的宗教を介して︑いずれの日にか︑人類は﹁積極的
信仰する啓示に基づく積極的宗教を教育手段として人類に与え︑
るために︑ユダヤ教︑キリスト教︑イスラームといった唯一神を
偶像崇拝を生み出すところとなった︒そこで神は人類を再教育す
とができず︑自然的宗教を展開するどころか︑かえって多神教や
未発達であったため︑自らの発達段階に応じた神理解しか持つこ
一神を信じる自然的宗教が賦与されていたが︑人間の理性が未だ
認める見解を示している︒レッシングによれば︑人類には最初唯
を出版したレッシングは彼とは異なり︑積極的宗教にその意義を
の精神に呼応したものを見ることができる︒ライマールスの書物
には神の啓示は含まれていない︑とされるなど︑イギリス理神論
史的基盤は司祭のごまかしや詐欺以外の何ものでもないし︑聖書
的宗教が積極的宗教を批判する際の尺度にされ︑積極的宗教の歴
ングやシュライエルマッハーから見て取ることはできる︒
がらも人間の本性に基づく自然的宗教を主張する思潮を︑レッシ
を求める思潮とは異なるが︑積極的宗教そのものの意義を認めな
明らかとなる︒このように︑理神論が主張するような自然的宗教
教﹂という人間本性に内在する宗教の存在を主張していることが
積 極 的 宗 教 そ の も の の 存 在 意 義 を 認 め る と と も に︑
﹁人間性の宗
ここからは︑レッシングと同じように︑シュライエルマッハーも
宗教を考え︑その宗教が人間本性に内在している︑と主張する︒
て獲得させようとする︒そして人間性に対する根本直観に基づく
宙の個別的形式の一つと認め︑宇宙に対する直観を人間性におい
し︑宇宙に対する根本直観に基づく宗教を唱えるが︑人間性を宇
シュライエルマッハーはこのように積極的宗教こそ宗教であると
して受け入れ︑形成されたものにほかない︑と述べるからである︒
積極的宗教こそ宇宙からの生き生きとした働きかけを根本直観と
非難や憎悪の的であった積極的宗教にこそ宗教が宿っているし︑
あり︑生気を失ったひからびた宗教に過ぎない︒むしろその当時︑
は︑実際のところ︑それ自身では存在しない貧弱で惨めな理念で
て導き出されたものがいわゆる自然的宗教であるが︑自然的宗教
と考え︑人類にとって普遍的なものであるとする︒そのようにし
を特徴づけるものを︑個々の宗教から抽出し︑それを宗教の本質
宗教のなかに自らの宗教を求めるべきである︑と語る︒というの
宗教﹂を批判し︑宇宙に対する生き生きとした直観を持つ積極的
に受け継がれていく︒シュライエルマッハーは﹁いわゆる自然的
こうしたレッシングの考え方は︑例えばシュライエルマッハー
るかを見極めながら︑自然的宗教という視点から両者の宗教論を
限りでのみ認める思潮に属するか︑二系統の思潮のいずれに属す
か︑あるいは理神論のように積極的宗教を自然的宗教と一致する
宗教を求めながらも︑積極的宗教そのものを認める思潮に属する
本論ではフィヒテの宗教論とシェリングの宗教論とが︑自然的
(7)
も︑次のような事情があるからである︒宗教に共通なものや宗教
(8)
(9)
2 解明することにする︒
ならば︑理性宗教の上にそれぞれの信仰が築かれる場合に︑ユダ
ヤ教的宗教︑キリスト教的宗教等々が成立するのであって︑積極
違いもあり著者名が記載されることなく出版されたフィヒテ最初
自然的宗教とは積極的宗教に対する関係の仕方が同種のものであ
︶
カントに言わせれば︑積極的宗教は自然的宗教の﹁乗り物﹂︵ R.116
に過ぎない︒理神論で求められていた自然的宗教とカントの言う
的宗教は理性宗教に一致する限りで宗教と認められるのである︒
の著作﹃あらゆる啓示の批判の試み﹄は︑誤って︑カントの宗教
り︑理神論と同じ思潮のなかにカントは位置している︑と言うこ
一
論と見なされた︒カントの宗教論とは言うまでもなくその翌年に
とができる︒
カントが自らの宗教論を未だ公表していなかった時︑業者の手
出版される﹃単なる理性の限界内における宗教﹄のことである︒
︶
︑と述べるように︑カントにとっ
でなければならない﹂
︵ R.177
て純粋な理性宗教こそただ一つの宗教であり︑それは﹁誰もが自
場合でも︑
﹁聖典の学識ではなく︑純粋な理性宗教がその解釈者
は語る︒しかも︑それぞれの信仰が帰依している聖典を解釈する
むしろ多くの信仰が存在する︑とするのが適切である︑とカント
︶︒一般的にはユダヤ教︑キリ
の種類の信仰が存在する﹂
︵ R.117
スト教︑イスラームなど多くの宗教が存在する︑と言われるが︑
れによれば︑
﹁ただ一つの︵真の︶宗教が存在する︒しかし多く
﹃宗教論﹄のなかでカントは自然的宗教について述べている︒そ
に︑それもカントが記した﹁文字ではなく︑彼の精神﹂
︵
たが︑前年発表された論文﹁人間本性における根本悪について﹂
を読んでいないばかりか︑
﹃宗教論﹄第一篇として所収されはし
教について述べると言いながら︑フィヒテはカントの﹃宗教論﹄
︶宗教について
の冒頭で﹁実践理性の諸原理に基づいて﹂︵ V.15
述べることを明らかにする︒しかし︑実践理性の原理に基づく宗
然的宗教をどのように考えているのであろうか︒フィヒテは本書
カントの宗教論と取り違えられた﹃啓示批判﹄でフィヒテは自
(10)
(14)
︶
V.34Anm.
フィヒテは実践理性の原理に基づいて宗教一般を導出するため
に準拠して論を形成していく︒
︶ 宗教 のこ とで
らの理性によって確信することができる﹂︵ R.172
あって︑
﹁法則以外に︑つまり︿・・・私たちが純粋理性によっ
に︑まず有限な理性的存在者である人間の欲求能力に注目する︒
﹂︵ V.18
︶ を 求め︑感 性的衝 動 に 基 づ い て 行 動 す る︒ こ
angenehm
の際の行動基準は︑獲得される快適さが他の快適さと比べて︑よ
て・・・認める実践的原理﹀以外に︑何も含んでいない唯一の真
教義がこの理性概念の上にではなく︑事実の上に築かれていると
り大きくより多いか︑あるいはより持続的であるか︑はたまた確
人 間 は︑ 一 面 に お い て︑ 感 覚 に よ っ て 直 接 与 え ら れ る﹁ 快 適 さ
すると︑それは﹁キリスト教的宗教ではなく︑教会を基礎とした
実に手に入れることができるか︑というような快適さの総量を計
︶である︒この理性宗教こそカントの言う道徳
なる宗教﹂
︵ R.187
的宗教であり︑自然的宗教に他ならない︒例えば︑キリスト教の
(15)
を読んですらいない︒フィヒテは主にカントの﹃実践理性批判﹄
(13)
︶と呼ばれるだけである︒言い換える
キリスト教的信仰﹂
︵ R.182
3
(12)
(11)
︶ に 注 目 す る︒ という の も︑ 上 級 欲 求 能 力 に よ る 意 志
情 ﹂︵ V.26
規定は︑経験的自己意識に与えられる規定つまり感性的衝動によ
︶︑二つの側面を媒介するものとして﹁尊敬の感
すために﹂︵ V.25
ものを選び取る︒すると︑感性的衝動は︑外部から受ける快適さ
る意志規定に制限を加えることになり︑感性的衝動への抑圧にな
算する﹁算術 Rechenkunst
﹂
︵ V.21
︶である︒この算術により︑人
間は多様な快適なものを比較しつつ︑最も適切であると思われる
という直接的な感覚により受動的に規定されるばかりでなく︑間
るからである︒この抑圧は︑感性的側面から見れば︑快適さを得
︵
︶ で あ っ て︑ 法 則 への尊 敬 とな る︒ そ の 意 味 で︑ 法 則 に よ
V.26
︶
ば︑ 感 性 的 衝 動 に 規 定 さ れ た﹁ 自 己 自 身 を 恥 じ る こ と ﹂︵ V.26
で あ り︑﹁ 私 た ち の 高 次 の 精 神 的 自 然﹇ 本 性 ﹈ に 対 す る 尊 敬 ﹂
られないという意味で不快の感情となるが︑理性的側面から見れ
接的には︑自然法則である﹁悟性の諸法則に感性的衝動を適合﹂
︶させるかたちで規定する︑という自らの自発性によっても
︵ V.19
規定されることになる︒言うなれば︑人間は感性的衝動にもっぱ
ら支配されて行動するのではなく︑多様な快適なものを秩序づけ
﹂︵ V.20
︶を求めて行動する︑というこ
選択し︑自らの﹁幸せ Glück
とである︒この幸せを無条件に無制約的なものにまで拡大するこ
︶ と フ ィ ヒ テ は 呼 ぶ︒
り 抑 圧 さ れ た 感 情 を︑﹁ 尊敬の 感 情 ﹂︵ V.26
この感情において人間の感性的側面と理性的側面とが媒介される
に与え︑自らを規定する能力であって︑その欲求対象こそ﹁端的
るのに対し︑欲求対象そのものを自らの絶対的自発性により自ら
欲求能力とは︑下級欲求能力が感性的衝動の対象により規定され
行動するばかりでなく︑上級欲求能力によっても行動する︒上級
である限りで
法則つまり道徳法則に反しない適法的 gesetzmäßig
である
の幸福への衝動は認められるのであり︑合法則的 gesetzlich
幸福への衝動はすべて否定されるべきもの︑というわけではない︒
よって生じる︒しかしながら︑衝動を制限すると言うけれども︑
的衝動を制限する︑言うなれば︑幸福への衝動を制限することに
尊敬の感情は︑有限な理性的存在者である人間において︑感性
ことになる︒
﹂︵ V.24
︶に
に正しいものという理念 die Idee des schlechthin rechten
ほかならない︒言い換えれば︑
﹁理性は自己自身に︑・・・自らの
の理念﹂
︵ V.21
︶を得ることになる︒
とにより︑
﹁幸福 Glückseligkeit
こうした感性的衝動に基づく下級欲求能力により︑人間は意欲し
︶︑﹁ そ の 法 則 は︑それ
絶 対 的 自 発 性 に よ っ て 法 則 を 与 え ﹂︵ V.32
︶
︒ 言 い 換 え れ ば︑ 道 徳 法 則 に 一 致
することはできない﹂︵ V.38-9
が︑・・・有限性の諸制限を根絶することなしには︑決して達成
︶ で あ る︒ 最 高 善 を 実 現 す る に
実 現 さ れ る べ き﹁ 最 高 善﹂︵ V.39
は︑幸福への衝動を﹁道徳法則にますます一致させるべきである
﹁無限な正しさを伴った無限な幸福
unendliche
Glückseligkeit
mit
・・・つまり浄福
﹂︵
︶ は︑
﹁道徳
Seligkeit
V.38
unendlichem Rechte
︶であって︑
法則によって私たちに課せられた究極的目標﹂
︵ V.38
︶し︑
が法則であるが故に︑必然的にしかも無条件的に命令﹂︵ V.32
端的に正しいものの実現を要求する︑ということである︒ここに
意志規定に関する下級欲求能力と上級欲求能力との乖離︑すなわ
ち人間の感性的側面と理性的側面との乖離が明らかとなる︒
の現実的な行為 Handlung
とし
そこでフィヒテは﹁心情 Gemüth
ての意欲を生み出すために︑したがって︑経験的な規定を生み出
4 するという無限な正しさは︑有限な理性的存在者である人間が無
限に近づくべき理念であり︑有限性を無に帰することによっての
み到達しうるものである︒このために必要とされるのが︑カント
︶ で あ っ て︑ 神 の 学であ り︑神 学 に 過 ぎ な い︒ フ ィ ヒ テ に
︵ V.43
の語義からして私たちを結びつけるもの︑
よれば︑﹁宗教は religio
限な理性的存在者に与えられるには︑感性的衝動がしたがう自然
福つまり最高善を獲得しうることになるわけではない︒浄福が有
力が有限な理性的存在者に与えられているわけではないので︑浄
うるとしても︑無限な正しさに見合った幸福を生み出す物理的能
︶であ
フィヒテが言うところの﹁実践理性の第一の要請﹂︵ V.38
る︒霊魂の不死を要請することにより︑無限な正しさが想定され
と︑神の命令が道徳法則の命令であるならば︑有限な理性的存在
的に︑自らを自らの理性によって規定しなければならない︒する
ある︒あくまでも有限な理性的存在者は︑他律的にではなく自律
的存在者としての有限な理性的存在者にとってあるまじきことで
に︑神におもねたり神を恐れたりして意志を規定するのは︑道徳
︶︒言い換えれば︑神が意志規定に関係する場合に宗教が生
︵ V.49
じることになる︒しかし︑そうだからと言って︑宗教を持つため
︶ で あ り︑ 神 学 が
し か も よ り 強 く 言 え ば︑拘 束 するも の ﹂︵ V.43
実践的な拘束力を持つようになると︑神学は﹁直接宗教となる﹂
法則を道徳法則により支配する存在者︑つまり﹁道徳的必然性と︑
道徳法則に神の命令としての重みが加わるだけではあるが︑神が
︶︑つまり
が﹃実践理性批判﹄で要請した﹁霊魂の不死﹂
︵ P.140-2
︶存在者︑すなわ
絶対的で物理的な自由とが合一される﹂︵ V.40
ち神が要請されなければならない︒この想定をフィヒテ的に言う
実践的な影響を有限な理性的存在者へ与えることになる︒この場
者は道徳法則により意志規定を行うことになるとともに︑ただ︑
ならば︑
﹁実践理性の第二の要請﹂ということになる︒
応じた幸福を分配するために︑その存在者の﹁超感性界における
この神について︑例えば︑有限な理性的存在者に道徳性の程度に
フィヒテはこのように実践理性の原理から︑それも神の存在要
ことを踏まえれば︑氷解する︒
問が残る︒この疑問は︑神が実践理性の要請として導き出された
としても︑なぜ神の命令が道徳法則の命令であるのか︑という疑
合︑道徳法則の命令が神の命令であり︑意志規定が自律的である
︶ を す べ て 知 っ て い な け れ ば な ら な い の で︑
自由な決断﹂
︵ V.40
全知である︑あるいは﹁神においてのみ理性は感性的自然を支配
請から実践的拘束力を持った宗教を導出する︒しかし次に︑神が
このようにしてフィヒテは神の存在を道徳法則から導き出すが︑
するのであるから神はまったき正しさ﹇正義﹈でなければならな
道徳的立法者であるとしても︑そうした自分自身を有限な理性的
い﹂
︵
︶ に よ っ て な さ れ る か︑ あ
の超感性的なものという原理﹂︵ V.62
︶に対する宗教の
することから︑﹁類概念である宗教一般﹂︵ V.64
種概念が明示されることになる︒それは︑告知が﹁私たちのうち
存在者にどのように告知するか︑が問題となる︒この問題を解決
︶ な ど︑ 全 知︑ 全 能︑ 正 義︑ 永 遠 性 等 々 の 概 念 を 道 徳
V.40
︶ し 想 定 す る︒ 法 則 と の 関 係 か
法則との関係から﹁要請﹂
︵ V.41
ら 必 然 的 に 導 き 出 さ れ る こ う し た 想 定 を︑ フ ィ ヒ テ は﹁ 信 仰 ﹂
︶と名づけるが︑それは神についての知識を得ることに過
︵ V.41
ぎ な い︒ そ の 知 識 は﹁ 実 践 的 な 影 響 を 及 ぼ さ な い 死 ん だ 知 識 ﹂
5
るいは﹁私たちの外の超感性的なものという原理﹂︵ V.62
︶によって
﹂
Naturreligion, natürliche Religion
なされるかにより︑
﹁自然的宗教
︶と﹁啓示に基づく宗教 geoffenbarte Religion
﹂︵ V.63
︶とに
︵ V.63
宗教一般が種別化されることになるからである︒言い換えれば︑
︶で告知がなされるか︑﹁理性
﹁私たちの理性的本性の内﹂
︵ V.60
︶ で 告 知 が な さ れ る か︑ と い う こ と に よ り︑
的本性の外﹂
︵ V.60
宗教一般が自然的宗教と啓示に基づく宗教の二つに区別される︒
理性内の超感性的なものという原理は言うまでもなく純粋な実践
彼らは道徳法則に従って﹁そうした行動をするならば︑価値と功
とを獲得する﹂︵ V.86
︶ことを︑また﹁その
績 Werth und Verdienst
︶
価値に見合った幸福を期待することが権利づけられている﹂︵ V.86
﹂︵ V.86
︶
ことを知っているので︑﹁
﹇道徳﹈法則の最高執行者 Executer
である神から幸福が与えられることを期待するからである︒つま
り 彼 ら は 彼 ら の 善 き 行 為 を 認 識 す る 神 に 対 し て︑
﹁自らの賛嘆と
︶︑﹁崇敬と感謝の気持ちを何ら
崇敬とを示すことを望み﹂︵
V.86
︶ので
かの方法で満足させるためにだけ宗教を必要とする﹂
︵ V.94
けてしまう道徳的弱さを持った人々が︑その弱さを克服し道徳法
︑ということ
理 性 の こ と で あ り︑
﹁ 道 徳 法 則 が 現 に あ る Daseyn
︶ と い う こ と に な る︒ ま た 理 性 外 の 超
が・・・ 神 の 告 知 ﹂
︵ V.62
︶
自然的なものという原理とは﹁神秘的で超自然的な手段﹂︵ V.63
と一般的に考えられている啓示のことであり︑それによって告知
則による意志規定を容易にするには︑法則への尊敬を強めること︑
﹂
ある︒こうした人間には﹁純粋な理性宗教 reine Vernunftreligion
︶が存在することになる︒
︵ V.86
それに対し︑道徳法則に従おうとするものの︑感性的衝動に負
される場合である︒
る程度に応じて︑自然的宗教が細分されることになる︒それは︑
くとも︑影響されざるを得ない状況にあり︑それにより規定され
在者は︑感性的衝動によって意志を規定されざるを得ない︑少な
ら︑感性界の一部として自然法則の支配下にある有限な理性的存
的弱みを持った人々に法則遵守を促進することになる︒この意味
も尊敬する︑という表象が有用であり︑こうした神の表象が道徳
義務のために犠牲にすることを自分ばかりでなく︑聖なる存在者
でなく︑最高に完全な存在者も軽蔑する︑という表象や︑幸せを
︶以外にない︑とフィヒテは言う︒それには︑
に感じること﹂
︵ V.88
不道徳な行為を軽蔑するのは︑不完全な存在者である自分ばかり
を切実
Müssen
つねに道徳的に善き行為をしようとする人々と︑道徳法則に従お
で︑﹁真摯な意志を持つが完全な自由を持たなかった人々は︑道
となさねばならぬこと
Sollen
うという意志はあるが︑感性的衝動によりその意志が打ち負かさ
徳法則の権威に︿傾向性の強さに対抗し自由を確立する新しい要
つまり﹁なすべきこと
れてしまう人々がいるからである︒善き行為をしようと意欲し道
︶
︒その宗教
素﹀を付け加えるために︑宗教を必要とする﹂
︵ V.94
有限な理性的存在者にとって︑純粋な実践理性により神の告知
徳法則を遵守する人々は︑意志規定を容易にするために︑神を必
がなされる場合︑意志の他律という問題は生じない︒しかしなが
要とはしない︒彼らは自らの善き行為を神に認識して貰いたい︑
︵
﹂
が︑ 純 粋 な 理 性 宗 教 に 対 し︑﹁ 自 然 的 宗 教 die natürliche Religion
︶ に 他 な ら な い︑ とフィ ヒ テは 述 べ る︒ す る と︑ 宗 教 一 般
V.94
という意味でのみ︑神を仰ぎ見ても良いと考える︒というのは︑
6 教とに種別化され︑その上で︑自然的宗教が︑有限な理性的存在
示によりなされるかで︑宗教一般が自然的宗教と啓示に基づく宗
え︑神の告知が理性の内であるいは外で︑つまり理性あるいは啓
な存在様態における一般的な人間存在であると思われる︒それゆ
級の道徳的存在者こそ︑パウロの嘆きを引くまでもなく︑現実的
り︑第一級の道徳的存在者である︒自然的宗教を必要とする第二
限な理性的存在者の存在様態からすると︑むしろ特殊な状態であ
り︑そこに程度の差が生まれる︒純粋な理性宗教を持つ人々は有
とであるが︑道徳法則によって規定されるのは偶然的なことであ
志が規定されることは︑人間の本性の仕組みからして必然的なこ
は人ざまざまである︒つまり︑感性界において自然法則により意
感性的衝動が意志規定への影響を持たざるを得ないし︑その程度
ての人間は︑感性界の一部として自然法則の支配のもとにあり︑
知が純粋な実践理性によりなされても︑有限な理性的存在者とし
されるように思われる︒しかし︑そう考える必要はない︒神の告
が理性宗教︑自然的宗教そして啓示に基づく宗教と三つに種別化
と人間は赴くことになる︒
︶
︑自然的宗教の段階へ
啓示に基づく宗教の役目は終わり︵ V.101
る︑とフィヒテは述べる︒人間が道徳法則に気づくようになると︑
的存在者が道徳的存在者として自律的に意志を規定するようにな
則を意識し始め︑神が他律的に命令するのではなく︑有限な理性
ら︑・・・すべきではない︑と考えるようになり︑次第に道徳法
︶により︑神に対する驚嘆や畏敬を人間に引き起こすとと
︵ V.133
もに︑人間の構想力が︑こうした神がなすべきではないと言うな
間の内に・・・純粋な道徳性とそれを感性化して描出すること﹂
その告知が︑人間の感性に訴えることにより︑つまり﹁感性的人
﹂
︵ V.98
︶
の 主 な ら び に 人 間 の 主 と し て 自 ら の 偉 大 さ と 力 Macht
を示し︑その権威に基づいて使者が告知することになる︒そして
接 的 権 威 ﹂︵
フィヒテは︑神によって人間のもとに使わされた使者が﹁神の直
啓示に基づく宗教の基本である啓示を誰がするか︑ということを
的宗教ではなく︑啓示に基づく宗教が必要とされることになる︒
は︑法則をどのような程度であれ︑意識している人々が持つ自然
に対し︑こうした意志すら持たないほど道徳的に頽落した人間も
フィヒテは﹃啓示批判﹄において宗教一般を︑人間本性に内在
︶ に 基 づ い て 行 う︑ と す る︒ つ ま り 神 が﹁ 自 然
V.98
者における自由の確立度において︑細分化され︑自然的宗教の一
形態として理性宗教が成立する︑と考えることができる︒
存在する︒フィヒテによれば︑このような人間は﹁宗教によって
︶に基づ
あるいは外在する﹁超自然的なものという原理﹂︵ V.62
いて︑つまり理性と啓示とにより﹁自然的宗教﹂と﹁啓示に基づ
二
以外では道徳性へ連れ戻され得ないし︑感官による以外では宗教
間の道徳的存在様態︑詳しく言えば︑道徳法則を遵守する人間︑
程度の差こそあれ︑道徳法則に従おうという意志を持った人々
︶
︒道徳法則を意識すらしない人々に
に連れ戻され得ない﹂
︵ V.98
とって道徳法則による意志規定が可能であるようになるには︑ま
道徳法則を意識するも感性的衝動を優先する人間︑道徳法則を意
く宗教﹂とへ分類する︒その上で︑有限な理性的存在者である人
ず道徳法則の存在に気づかされることが必要である︒そのために
7
(16)
粋な理性宗教へと細分する分類を提示する︒人間の道徳的存在様
する思想を廃棄してしまっているのであろうか︒この点を次に見
﹇﹃啓示批判﹄﹈をずっと以前に廃棄した﹂︵ VA.270
︶
︑と述べてい
る︒果たしてフィヒテは﹃啓示批判﹄で展開した自然的宗教に関
識すらしない人間の三つの存在様態から︑自然的宗教をさらに純
態から︑宗教一般は理性宗教︑自然的宗教そして啓示に基づく宗
フィヒテは論文﹁神の世界統治﹂において︑﹁哲学は事実を説
ていくことにする︒
えることにより︑道徳法則の存在を気づかせることにあり︑啓示
教とに分類されたが︑啓示に基づく宗教の役割は人間の感性に訴
に基づく宗教は人間に自然的宗教を︑さらには純粋な理性宗教を
︶ために哲学者が存在する︑と言う︒つまり哲学者は神の
︵ G.178
世界統治を信じるように説教するのではなく︑﹁人間がいかにそ
︶であり︑﹁それらの事実その
明することができるだけ﹂
︵ G.178
ものをあらゆる理性的存在者の必然的な振る舞いから導き出す﹂
媒介することが目的である︒道徳法則を意識すらしない人間を自
然的宗教に導くことにより︑啓示に基づく宗教の役割は終わる︒
このように︑フィヒテは自然的宗教と啓示に基づく宗教との関係︑
︶を説明するのであ
の信仰へ到るのか︑という因果問題﹂
︵ G.179
る︒言い換えるならば︑フィヒテは神への信仰を人間の内に前提
言うなれば︑自然的宗教と積極的宗教との関係を考えている︒す
ると︑カントの宗教論と誤解された﹃啓示批判﹄は︑自然的宗教
ると︑自然科学の観点は︑自然法則に従って世界は生起する︑と
した上で︑人間が神の世界支配を信じている︑ということを理性
︶と見なしたカントは︑理神
教を自然的宗教の﹁乗り物﹂
︵ R.116
論系統の思潮に属していたが︑
﹃啓示批判﹄におけるフィヒテは︑
みる﹁常識的な見方﹂︵
に関して言えば︑カント的な考え方ではなく︑むしろ︑積極的宗
積極的宗教の存在意義を認めるとともに︑積極的宗教を介して自
的 存 在 者 の 必 然 的 な 振 る 舞 い か ら 事 実 と し て 導 出 し よ う と す る︒
然的宗教の実現を主張する思潮に属している︑といえる︒
︶ で あ り︑
性的世界は﹁それ自身において完結した世界﹂
︵ G.179
そのうちで生じる現象は自然法則によって規定されているので︑
教を自然的宗教実現のための教育手段と考えたレッシング的な考
宗教一般の分類や自然的宗教に関するこうした考え方をフィヒ
それら現象を手掛かりにこの世界の理性的創始者としての神を求
え方をしている︑ということができる︒言い換えれば︑積極的宗
テは﹃啓示批判﹄以降も持ち続けるのであろうか︒フィヒテが共
め︑推論により感性的世界を超越することは許されないし︑また
を自然科学の
そのためにフィヒテはまず︑感性的世界 Sinnenwelt
観点と超越論的観点とから眺める場合分けを提示する︒それによ
同編集する雑誌に投稿されたフォルベルクの論文に対し︑その内
をする英知的存在であって︑自分自身で自らに道
動 absolut thätig
徳的目的を定立する理性的存在者である︑とみる見方である︒こ
︶である︒この見方からすれば︑感
G.179
容に疑義を持ったフィヒテがフォルベルクのそれとともに掲載し
︶は︑自然法則か
不可能である︒一方︑﹁超越論的観点﹂
︵ G.179
ら人間が自由であり︑あらゆる感性的なものを超越して絶対的活
発する無神論論争において︑例えば︑﹃無神論という告訴に対す
た論文﹁神の世界統治への私たちの信仰の根拠について﹂に端を
(17)
る哲学雑誌編集者の法的弁明書﹄のなかで﹁私は私の最初の著書
(18)
8 ︶︒
確信が︑・・・信仰である﹂
︵ G.182
超越論的観点から感性的世界を見ると︑この世界は人間が自ら
の道徳的目的を実現するという﹁私たちの道徳的使命についての
超感性的世界である︒この世界において人間は道徳的使命を感じ︑
︶
︒自らの素質に基づいて明らかとな
私たちに開かれる﹂︵ A.204
る世界は︑自然法則から自由で︑あらゆる感性的なものを超えた
の本質の内にあるあの﹇根源的﹈素質によって全く新しい世界が
︶からである︒この内なる声︑つまり﹁良心が直接
A.204
き る の で あ る︒ ま た︑ 内 な る 声 が﹁ 意 志 の 唯 一 普 遍 的 な 規 定 ﹂
︶である﹁浄福﹂︵ A.206
︶を人間は理性的
の完全な解放﹂︵ A.206
存在者として内なる声にしたがうことによって獲得することがで
︶ことになる︒
も︑人間は﹁休らいと内的な平和を得る﹂︵ A.204
言い換えれば︑﹁理性の絶対的自己充足と︑あらゆる依存性から
︶に従うよう
命じる︑消しがたい間違いのない内なる声﹂
︵ A.205
努力することによって︑たとえ︑その結果が充足されないとして
渡る﹂︵
るが故にのみ︑なさねばならない︑という声が根絶しがたく響き
︶という意識を持ち︑行動することになる︒それは︑﹁人
︵ A.204
間の心情の内に︑あることが義務であり・・・︑それが責務であ
﹁ 義 務 は︑ そ れ が 責 務 で あ る が 故 に の み︑ な さ ね ば な ら な い ﹂
定立した道徳的目的を実現する世界であり︑感性的﹁世界は︑私
が理解可能な理性法則に従って感性
たち自らの内的行動
Handeln
︶︒つまり感性的世界は﹁私た
化された姿に他ならない﹂
︵
G.184
︶であって︑それが﹁すべ
ちの義務が感性化されたもの﹂
︵ G.185
︶︑ということになる︒言
ての現象の究極的内容である﹂
︵ G.185
う な れ ば︑ 感 性 的 世 界 は﹁ 道 徳 的 世 界 秩 序 の 結 果 と 見 ら れ る 限
り︑・・・感性的世界で明示﹇啓示﹈されるものこそ私たちの義
︶
︒このように述べるフィヒテにとって︑﹁道徳
務である﹂
︵ G.185
的世界秩序は私たちが想定する神的なものであり︑真の信仰は正
によって構成される﹂︵ G.185
︶︒さらに言うな
しき所行 Rechtthun
らば︑義務が命じ︑人間がなす正しき行為により﹁生き生きと働
︶︒このように超越論的
く道徳的秩序は︑神ですらある﹂︵ G.186
観点から見れば︑
﹁道徳的世界秩序が存在していること︑この秩
序のなかであらゆる理性的個人はその特定の位置を指示されてい
︶ で あ り︑ そ の 声 で 自 ら が 超 感 性 的 な も の の 秩 序 に し た
︵ A.206
がっている︑ということを確信できるのである︒したがって︑人
への信仰に依拠し︑自らの義務すべてをあの秩序の命令とし︑そ
︶からして︑
﹁信仰は直接与えられたもののもと
ること﹂
︵ G.187
︶︑とフィヒテは述
に留まり︑確固として存立している﹂︵ G.187
べ︑理性的存在者の必然的振る舞いから︑事実としての信仰を導
れのあらゆる結果を善きものにすなわち浄福にするものと見なし︑
喜 ん で こ の 秩 序 に し た が う こ と は 絶 対 的 に 必 然 的 な こ と で あ り︑
間が﹁道徳的世界のこの秩序やこの超感性的な・・・神的なもの
き出すのである︒
フィヒテ自身︑
﹁評判の悪い論文﹂と呼ぶ論文﹁神の世界統治﹂
︶ということになる︒言うな
宗教の本質的なものである﹂︵ A.208
れ ば︑﹁ 私 た ち の 内 の 超 感 性 的 な も の の 反 映 が 感 性 的 世 界 で あ
を敷衍して︑
﹃無神論という告訴に対する公衆への訴え﹄におい
ても同じことを述べている︒かい摘まんで言えばこういうことで
り︑・・・この超感性的なものこそあらゆる現象の根底にある真
(19)
ある︒感性的にして理性的存在者である人間にとって︑﹁私たち
9
(19)
の 自 体 Ansich
で あ る︒ 私 た ち の 信 仰 は 現 象 で は な く 現 象 の 超 感
性的根拠を目指す︒私の道徳的使命と︑それの意識と結びついた
も の と が︑ 私 に 与 え ら れ る 唯 一 の 直 接 的 に 確 実 な も の で あ る ﹂
で あ り︑﹁ 自 然 的 宗 教 や キ リ ス ト 教 と 合 致 し た 正 統 な 神 信 仰 ﹂
︶ではない︒むしろフィヒテが説く宗教こそ﹁ただ一つ
︵ VA.263
︶ で あ る︒ 本 来 ﹁ キ リ ス ト 教 は 哲 学 体 系 で
の真の宗教﹂︵ VA.257
はない︒キリスト教は人間の思弁ではなく︑・・・それゆえキリ
的な意味での幸福が含まれるか否か︑において違いが生まれる︒
大きく異なるからである︒これに伴い浄福の意味も︑浄福に感性
した上で﹁神の世界支配﹂を導出する場合とでは神の位置づけが
が 可 能 で あ る た め に 神 を 想 定 す る 場 合 と︑﹁ 神 へ の 信 仰 を 前 提 ﹂
批判﹄における神と︑無神論論争期の神には違いがある︒最高善
する︒神を道徳的心術から提示する点では同じであるが︑﹃啓示
らかにし︑
﹃啓示批判﹄における神と︑ある意味で同じ神を提示
いる道徳的心術に基づいて︑神や神の世界統治に対する信仰を明
の領域に立ち﹂︑﹁生に対して何も新しいことを言うことができな
両者には大きな違いがある︒それは︑哲学が﹁
﹇生とは﹈全く別
︶︑ と い う こ と で あ る︒ キ リ ス ト
の 内 で 生 き 活 動 す る ﹂︵ A.223-4
教も哲学もともに神の内で生きることを目的としているとしても︑
てである︒・・・理性的精神の他の持ち主である私たちはこの神
︶︒
いて・・・キリスト教は私たちの哲学と同じ目的を持つ﹂︵ A.224
それは︑﹁超感性的な神が私たちの哲学にとって全てのうちの全
べきでないとするならば︑なお残りの十分の一の説明の部分にお
キリスト教の十分の九が無意味な絶対的なものとして廃棄される
スト教は学問体系のように語ったり表現したりできない︒しかし︑
﹃啓示批判﹄における浄福には含まれるが︑無神論論争期には浄
い︑それどころか︑道具として決して生を形成することができな
︶
︒このようにしてフィヒテは︑神への信仰を人間の内に前
︵ A.210
提する︒つまり︑人間の本性の内に根源的素質として与えられて
福が理性の絶対的自己充足とされ含まれることはない︒
このような神を考えるフィヒテは自然的宗教についてどのよう
に考えているのであろうか︒フィヒテを無神論者と訴えたキリス
︶からである︒哲学は﹁神の概念あるいは理念を把握
い﹂
︵ RA.344
︶であり︑特に﹁宗教についての哲学は宗教
するだけ﹂︵ RA.348
︶︒
の教義ではなく︑・・・宗教の教義の理論に過ぎない﹂︵ RA.345
であるが︑・・・私たちの
﹁キリスト教は生の知恵 Lebensweisheit
哲学は生の知恵の理論であり︑生の知恵の代わりであるべきでは
ト教に対し︑彼らが信じる﹁神は感性的世界において幸せと不幸
︶神であり︑いわばその神は﹁妄想の産物
A.218
︶であ
理性によって定立された﹁ただ一つの真の宗教﹂︵ VA.257
︶
の 宗 教 も 多 く の 神 も 存 在 せ ず︑ 唯 一 の 神 の み が 存 在 ﹂
︵ RA.348
するだけである︒フィヒテがここで述べる宗教は︑彼にとって︑
︶
︒
﹁ 宗 教 哲 学 は 宗 教 で は ない ﹂
︵ RA.351
︶
︒ 哲 学のな
ない ﹂
︵ RA.349
かでは﹁宗教と神への信仰が理性によって定立され︑・・・多く
(22)
︶に過ぎず︑﹁強大な存在者から幸
A.219
︶ことにより作り出されたものにすぎない︒それは︑
﹃法的
︵ A.226
︶
弁明書﹄の言葉で言えば︑
﹁キリスト教の歪曲や誹謗﹂︵ VA.257
︶に他ならない︑と述べる︒このよう
福を期待する体系﹂
︵ A.219
なキリスト教は﹁イエスの宗教が幸福主義によって改造される﹂
﹂
︵
︶であって︑彼らのキリスト教は﹁盲目的
Hirngespinnste
A.219
崇拝であり偶像崇拝﹂
︵
せを分配する﹂
︵
(21)
(20)
10 ︶︒ け れ ど も 哲 学 者 は 哲 学 者 で あ
把握するに過ぎない﹂
︵ RA.348
るだけでなく︑生きた人間でもある︒生きた人間は思弁すること
が 考 え る 宗 教 で あ る︒
﹁ 哲 学 者 は 神 を 持 た ず︑・・・ そ の 概 念 を
り︑人間本性に内在する自然的宗教に他ならない︒それは哲学者
も︑フィヒテを無神論者と非難する﹁現実のキリスト教﹂ではな
意しなければならないことは︑ここで考えられているキリスト教
かりが告知の差異あるいは哲学と宗教の差異という点で違いは見
ト教を対置させる点で成り立つ︒宗教一般の種差を導き出す手掛
られるが︑両宗教を種差としている点では変わりはない︒ただ注
なしに自らの生についての認識をうることはできないが︑﹁生を
認識することなしに︑生きることはできる﹂︵
︶
く︑
﹁自然的宗教やキリスト教と合致した正統な神信仰﹂
︵ VA.263
である︑とフィヒテが考える﹁理想のキリスト教﹂であることで
ある︒フィヒテが考えるキリスト教との関係であれ︑積極的宗教
︶︒﹁キリス
RA.343
︶そのものであり︑哲学しない人間は
ト教は生の知恵﹂
︵ RA.349
生の知恵の理論を持たないが︑生の知恵であるキリスト教を持つ
と自然的宗教との関係はどのように考えられていくのであろうか︒
彼の思索をさらに︑辿ることにする︒
ことで神の内の生を生きることができる︒
このように述べるフィヒテとって︑
﹃啓示批判﹄で示された積極
的宗教の役割︑つまり不道徳な人間を自然的宗教へと導く︑とい
える︒しかし道徳的心術から導き出される自然的宗教は︑哲学が
おいて﹃啓示批判﹄の自然的宗教に関する理論は破棄されたと言
生の中に存在する宗教の教義の理論であることになる︒この点に
在する宗教となる︒一方︑理性によって定立された自然的宗教は
への導きあるいはまた宗教論﹄で鮮明となる︒そこで︑浄福なる
化を見せるようになる︒この点は彼の宗教論である﹃浄福なる生
してきたフィヒテは︑道徳と宗教との関係の仕方にも考え方の変
世界統治への信仰を道徳的心術に基づいて導き出す立場へと変化
道徳的心術に基づいて神を要請する立場から︑神を前提し神の
三
﹁道徳的で宗教的な心術を人間の内に次第に形成・・・するために︑
と宗教︑積極的宗教と自然的宗教との関係を明らかにすることに
う役割は変化し︑キリスト教は人間が生きる生そのものの中に存
︶際︑
人間をいかに形成しなければならないか︑を示す﹂
︵ RA.345
神の中で生きる知識を指し示すものである︒というのは︑哲学は
生を導くものについてフィヒテの語るところを聞きながら︑道徳
ていない生き方は浄福へ到る前段階にすぎず︑この段階から浄福
する︒
︶︑ そ の 知 識
醒 す る こ と に よ っ て た だ 生 の 認 識 を 教 え ﹂︵ RA.345
が自然的宗教であるからである︒その意味では役割は逆転し︑生
なる生への道筋をフィヒテは示すことになる︒そこでまずフィヒ
﹁生を形成することはできないが︑生の真に超感性的な動機を覚
を生きることを教えるものになり︑キリスト教へ橋渡しするもの
﹁真実の生
﹃浄福なる生への導き﹄は浄福への道案内書であり︑浄福へ到っ
と言うことができるであろう︒
﹃啓示批判﹄でなされた宗教一般
︶ か ら 考 察 し︑
テ は︑ 生 を﹁ 真 理 の 観 点 と 仮 象 の 観 点 ﹂︵ AW.402
﹂ と﹁ 仮 象 の 生 das Scheinleben
﹂
das wahrhaftige Leben
の分類︑自然的宗教と啓示に基づく宗教は︑自然的宗教とキリス
11
(23)
︵ AW.410
︶とに区別する︒というのも︑人間は誰しも自分は﹁生
︶と思って︑人それぞれが安らかで満ち足り
きている﹂
︵ AW.401
いた︑ということになる︒
では︑生きているように見えるのではなく︑真実の生を生きる
彼らは最初に彼らの目に入り︑気に入り︑彼らの欲望を満たすか
感官に現れるものに︑この世界の中に︑幸福を求めることになる︒
へ沈んでいる﹂︵ AW.401
︶からである︒生きて
存在 das Nichtseyn
いる︑と思っている人間は︑とりあえず感官が直接出会うものや
によれば︑実際には生きていないで︑﹁死んでいる︑すなわち非
り︑死んでいるし︑非存在に沈んでいる︒ここではもちろん人間
によれば︑このような生き方は生きているように見えるだけであ
の中に生きる人間の生であり︑今見てきたことである︒フィヒテ
︶ことである︒フィヒテの言葉の後
界を愛そうとする﹂︵ AW.406
半部﹁世界の中を生き︑世界を愛する﹂仮象の生は︑欲望の連鎖
︶ と フ ィ ヒ テ は 言 う︒ つ ま り﹁ 真 実
のとの一致にある﹂︵ AW.410
の生は神の中を生き︑神を愛し︑仮象の生は世界の中を生き︑世
とは︑どの様なことであろうか︒それは﹁永遠にして不変なるも
に見える対象に情熱を傾け︑対象を愛し︑自らのものにしようと
を︑ 常 に 求 め て い る︒ と こ ろ が︑
た 状 態 を︑ 幸 福 Glückseligkeit
自分では生きて幸福を求めている︑と思ったとしても︑フィヒテ
努力する︒しかしながら︑こうした努力をする人間が︑幸福であ
︶ に す ぎ な い︒
よ っ て 支 持 さ れ︑ 担 わ れ て い る も の ﹂︵ AW.402
﹁真実の生が何らかの方法で仮象の生に入り込み︑混合している﹂
︶︒ 仮 象 の 生 は﹁ 生 と 死︑ 存 在 と 非 存 在 と が 混 合 ﹂
る ﹂︵
AW.402
︶ し た も の で あ り︑
﹁ 何 ら か の 方 法 で︑ 真 実 の 存 在 に
︵ AW.404
︶
︒﹁ 存 在 と 生 の み が あ る だ け で あ
粋 な 非 存 在 も な い ﹂︵ AW.404
いうことである︒とはいえ︑フィヒテによれば︑
﹁純粋な死も純
︶が問題にされているのではない︒真実
の﹁生理的死﹂︵ AW.432
の生の立場からすれば︑仮象の生を生きる人間は死んでいる︑と
るか︑と一度自己を顧み反省すると︑﹁自らの心情の最も奥底か
︶
︑そうではない︑という声が響き渡る︒けれども︑
ら﹂
︵ AW.408
欲望の連鎖の中に生きる人間は︑境遇さえ変わればより良くなる
であろう︑と考え︑欲望充足に邁進するが︑欲望が完全に満たさ
れることは決してない︒そこで︑
﹁人間は幸福に達しうるものでは
なく︑・・・空しきものを追いかけるように運命づけられている﹂
︶とか︑あるいは︑この地上での生の満足を断念するべ
︵ AW.409
きである︑という結論に達する︒そして﹁伝統によって・・・墓
来れば︑前半部﹁神の中を生き云々﹂の意味が提示されることに
︶︑ と い う こ と で あ る︒ す る と︑ 仮 象 の 生 を 支 持 し 担 っ
︵ AW.402
ている真実の生そのものを仮象の生から分離し取り出すことが出
︶彼らは幸福を設定する︒しかし墓に入る
の向こうに﹂
︵ AW.409
ことでも浄福を得ることはできない︒それは︑フィヒテが提示す
なる︒
︶である︒この存在はその人間が属する生の段階に応じ
︵ AW.403
て様々な形態において現象する︒例えば︑感性的人間にはまさに
フ ィ ヒ テ に よ れ ば︑﹁ 存 在 と 生 と は 一 つ で あ り︑ 同 じ も の ﹂
る﹁真実の生﹂を彼らが生きていないからであり︑欲望の連鎖の
中で﹁生きている﹂と思っていたのはひたすら﹁仮象の生﹂を生
きていただけであって︑真の意味での生を生きていなかったから
に他ならない︒フィヒテに言わせれば︑このような人間は死んで
12 外的感官の対象として現象するが︑﹁本来の真の存在は︑生成す
︶︒﹁あらゆる生において現存在するのは︑つねに絶
い﹂︵ AW.443
以外のいかなるものも﹁存在することも現存在することもできな
︶ こ と も で き る︒ 言 う な れ ば︑
そ し て 自 ら を 外 化 す る ﹂︵
AW.449
︑直接すなわち
神は﹁自ら存在することにおいて im Vonsichseyn
︶だけである︒簡単に言えば︑
対的で神的存在の現存在﹂
︵ AW.444
神は﹁自らのうちに隠れて存在するばかりではなく︑現存在もし︑
るものでも発生するものでも非存在から出現するものでもない﹂
︵
︶ し︑
﹁ 今 あ る よ う に 永 遠 の 昔 か ら あ り︑ 永 遠 に 変 化 す
AW.438
︶
︒ し か も こ の 存 在 は︑﹁ 自 己 自 身 か ら
ることはない﹂
︵
AW.439
自 己 自 身 に 基 づ い て aus sich selbst
自己自身によっ
von sich selbst
﹇ 存 在 す る ﹈ 存 在 ﹂︵ AW.439
︶ で あ っ て︑﹁ 端
て durch sich selbst
的に一であり︑・・・自分自身の内で完成し完結した︑その上絶
る︒しかもフィヒテによれば︑﹁神以外に真に現存在するものは
︶︑ と い う
直 接 的 な 生 と 生 成 に お い て 現 存 在 で も あ る ﹂︵ AW.452
ことである︒この点において神の存在と現存在とは完全に一致す
︶ 考 え ら れ る も の で あ る︒
対的に不変な一様性として﹂
︵ AW.439
したがって﹁この存在の内部において︑いかなる新しいものも生
知
︶
︒ こ の よ う に 述 べ る フ ィ ヒ テ は 真 の 存 在 に︑ 存 在 の 絶
︵ AW.439
対的独立性︑絶対的自立性︑絶対的同一性を︑また真の存在が端
︶ で あ る︒ し た が っ て︑
﹁私た
に 神 の 現 存 在 そ の も の ﹂︵
AW.448
に
ち が 知 で あ る 限 り に お い て︑ 私 た ち 自 身︑ 最 深 の 性 根 Wurzel
だけ﹂︵ AW.448
︶であり︑﹁この知は端的にかつ直接的
Wissen
じはしないし︑いかなる形成もいかなる変化変遷もありえない﹂
的に一なるものであることを認める︒言い換えれば︑フィヒテの
︶に他な
AW.452
︶
︒しかし人間
て・・・ 神 を 直 接 見︑ 持 ち︑ 所 有 す る ﹂︵ AW.418
は理性的存在者ではあるものの︑有限な理性的存在者であり︑制
︶
︑ と い う こ と に な る︒ こ の
お い て 神 の 現 存 在 で あ る ﹂︵ AW.448
こ と に 基 づ い て︑ 理 性 的 存 在 者 は﹁ 自 ら の 精 神 的 な 目 で も っ
言う真の存在とは﹁絶対的存在︑すなわち神﹂︵
らない︒
絶対的存在は﹁自己のうちに閉じこもり︑隠れ埋没する存在﹂
約を持った存在者である︒この有限性から︑生の発展の五段階が
生は神の中を生きることになる︒
生じ︑仮象の生を生きることにもなる︒逆に言えば︑真実の生は
︶であるからである︒
存在は﹁存在の意識︑つまり表象﹂︵ AW.440
例えば︑壁がある︑ということは︑壁そのものではなく︑壁とい
あるが︑私たち人間の眼には神ではなく︑むしろ事物︑肉体等々
︶ で あ る が︑ こ の 存 在 の 現 存 在 Daseyn
が絶対的存在を
︵ AW.439
︶ す る こ と に な る︒ と い う の も︑ こ の 現
﹁表明し開示﹂
︵ AW.439
が あ る︑ つ ま り 壁 そ の
う 自 立 し た 存 在 の 外 的 特 徴 で あ る 像 Bild
ものの直接的で外的な現存在がある︑ということである︒この意
が現存在するもののように見えている︒それは︑人間の意識や思
と見ているからである︒意識されたものや思惟されたものは真に
惟のうちに︑意識されたものや思惟されたものが現存在している︑
ところで︑知である限りにおいて神の現存在である私たちでは
神の中に存在し︑先の前半部﹁神の中を生き云々﹂通り︑真実の
味 で 現 存 在 が 存 在 を 表 明 し 開 示 す る︒ 絶 対 的 存 在︑ つ ま り 神 は
﹁自分自身によってのみ存在することができるように︑自分自身
︶︒ し か し︑ 神
に よ っ て の み 現 存 在 す る こ と も で き る ﹂︵ AW.443
13
﹂︵ AW.418
︶と現実の知覚との
能にする﹁純粋思惟 reines Denken
矛盾が現れ︑単なる現象を現存在していると見ているからに他な
現存在しているものではない︒言い換えれば︑神を見ることを可
︶であって︑
﹁精神世界の法則を最高のもの︑第一のもの﹂
︵ AW.468
︶ものであり︑理性的人間の生き方である︒世界に関す
︵ AW.466
る 第 三 の 見 解 は︑﹁ 真 な る 高 次 の 道 徳 性 の 立 場 に 基 づ く も の ﹂
ちの体系における秩序と平等な権利の法則として把握する﹂
︶ で あ り︑﹁ 神 が・・・ そ の 現 実 的 で 真 の 直 接 的 生 に お
AW.470
︶ 段 階 で あ っ て︑
﹁私たち自
い て 私 た ち の 中 に 現 れ る ﹂︵ AW.471
︶ 段 階 で あ る︒ 世 界 に つ
身がこの神の直接的生である﹂︵ AW.471
︵
四 段 階 で あ る 世 界 に 関 す る 見 解 は﹁ 宗 教 の 立 場 に 基 づ く も の ﹂
︶ と 考 え る 立 場 で あ る︒ こ の 立 場 は 先 の 二 つ の 立 場 と 異
︵ AW.469
なり︑フィヒテによれば︑初めて浄福へ到りうるものである︒第
が問題にな
ら な い︒ 知 に お い て 対 象 を 捉 え る 時︑ 対 象 の 何 Was
り︑対象の何とその特徴を把握する︒ところが︑現存在するもの
と代理の
Bilde
としての人間は自分自身をとらえる場合︑意識において自己自身
を直接把握するのではなく︑自己自身を﹁ただ像
に お い て 把 握 ﹂︵ AW.453
︶ す る だ け で あ る︒
も の Repräsentanten
この特徴付けによって︑それ自体において生ける生であった現存
das vorhanden
︶で
いての最後の第五段階は﹁学の立場に基づくもの﹂︵ AW.472
あり︑この立場は﹁宗教にとって絶対的事実にすぎないものを発
在するものが︑
﹁概念により固定的で現にある存在
﹂
︵ AW.454
︶になる︒この﹁現にある存在﹂こそ私たちが世
Seyn
界と呼ぶものである︒つまり神的生である生きた生が﹁固定的で
︶である︒
生論的に説明するもの﹂︵ AW.472
第二の立場も第三の立場もともに法則を最高のものとする点に
活動領域である感性的世界において超感性的世界を作り出すも
︶ に す ぎ な い︒ そ れ に 対 し︑ 第 三 の
おける秩序の法則﹂︵ AW.524
立場の法則は﹁まったく新たな真に超感性的世界を創造し︑その
おいて共通しているが︑第二の立場の法則は﹁単に感性的世界に
︶へと変化させられ︑私たちの見る世界と
死せる存在﹂
︵
AW.454
︶ を 纏 わ さ れ る︒ こ の 意 味 で︑﹁ 概 念 が 本
い う﹁ 形 態 ﹂
︵ AW.454
︶である︑と言える︒生きた生を固定
来の世界創造者﹂
︵ AW.454
化 す る こ と に よ り︑
﹁概念における生の必然的現象として﹂
︶
︑私たちには事物や肉体が現存在しているように見える
︵ AW.454
わけである︒その上で︑本来現象に過ぎないこれら事物や肉体等︑
現存在していると見なされるものを捉える捉え方によって生が五
り︑
﹁外部感官に現れるものを世界および実際に現存するものと
これら五段階の第一段階は世界を捉える最初の最低な方法であ
の道徳的状態は﹁理性的存在者たちの体系における秩序と平等な
福へ到らないのであろうか︒フィヒテの目から見れば︑第二段階
あり問題にならないが︑法則を立てる第二の段階は何が問題で浄
︶であり︑浄福へ到ることが出来るし︑浄福になり
の﹂︵ AW.524
得る︑とフィヒテは述べる︒第一段階は仮象の生を生きるだけで
見 な し︑ ま た 最 高 の も の 真 な る も の そ し て 持 続 す る も の と 見 な
︶ を 根 本 に お く も の で あ り︑ 善 き 状 態 に あ
権利の法則﹂︵ AW.466
ると思える︒しかし︑この立場における人間は﹁その存在の最深
つの段階に分かれることになる︒
︶方法である︒これは先に見た仮象の生を生きる感
す﹂
︵ AW.466
性的人間の生き方である︒第二段階は﹁世界を︑理性的存在者た
14 の性根において自らが法則﹂
︵ AW.500
︶であり︑このような人間
にとって︑
﹁この法則は・・・自らを支持し︑自分以外の何もの
も必要としない︑つまりそのような﹇自分以外の﹈ものを受け入
︶に他ならない︒このよう
れることの出来ない存在﹂
︵ AW.500-1
な人間はこの法則に従うか否かの二者択一を迫られる︒法則に従
えば︑人間は自分に対する非難すべきものを何も持たないが︑法
則であれ︑それらに従おうとすることはすべて︑自己への計らい
を前提しており︑﹁自ら何かであろうと欲する限り︑神は人間に
︶へと到るに
AW.518
︶︒とりもなおさず︑それは仮象の生を生き
到来しない﹂
︵ AW.518
ることである︒計らいをする﹁︿自己の現存在によって規定され
た低次の生﹀にまったく対立する高次の生﹂
︵
︶ の で あ る か ら︑ ま ず
わち真の存在の制限にすぎない﹂︵ AW.523
︶るような生き方をしなけ
は︑﹁神の意志が内的に生じ﹂
︵ AW.522
ればならない︒そのためには︑﹁自らの存在すべてが非存在すな
に︑この段階の人間は﹁自分を軽蔑せざるをえないようにならな
﹂
︵ AW.518
︶
自己への計らいを否定し︑
﹁自己無化 Selbstvernichtung
がなされなければならない︒この自己無化の達成が高次の道徳性
則に従わなければ︑自分を軽蔑しなければならなくなる︒要する
︶だけになる︒しかもそれ以上の何も
いことを欲する﹂
︵ AW.503
のも欲せず︑必要としなくなり︑完全に自分自身に依存すること
の立場を獲得することになる︒言い換えれば︑高次の道徳性の立
︶
︒
時︑・・・ 人 間 は 唯 一 真 な る 神 的 存 在・・・ に 与 る ﹂︵ AW.524
すなわち﹁自らの意志すべてと自らの目的すべてを放棄し︑純粋
︶し︑真実の生を生きるべきとする︒
︵ AW.518
﹁人間が最高の自由により自らの自由と自立性を破棄する
︶へ従わせることにより︑﹁神の中に沈潜﹂
世界の法則﹂︵ AW.469
場を主張するフィヒテは︑自分自身を無にし︑自分自身を﹁精神
になってしまう︒フィヒテの言葉を借りれば︑まさに﹁君自身が
︶ということに
君の神であり︑救い主であり︑救済者﹂︵ AW.504
なる︒自ら神となることにより︑第二段階における人間は当然の
ことながら︑
﹁感性的果報
を与えてくれる恣意的な存在
Wohlseyn
︶ を 見 捨 て る が︑ 同 時 に
者・・・ 作 り 上 げ ら れ た 神 ﹂
︵ AW.505
﹁真の神﹂をも退けてしまう︒ある意味で神となった彼らは︑神
の意志に従うか否かにも無関心となり︑﹁神の意志が内的に生じ
に自己を無にするや否や︑・・・人間は自らに固有な使命を把握
し︑・・・自分の高次の本性つまり自分の中の神的なものにした
︶生きることになる︒こうした高次の道徳性の
がって﹂︵ AW.532
立場は︑フィヒテにとって︑宗教の立場でもある︒高次の道徳に
︶ 生 き 方 を す る こ と に な る︒ 彼 ら は︑﹁ 純 粋 に か
ない﹂
︵ AW.522
︶︑ 無 に
つ 全 体 的 に︑ ま た 性 根 ま で 自 分 自 身 を 無 に し ﹂︵ AW.518
︶第三段
することによって﹁神の意志が内的に生じる﹂︵ AW.522
階の道徳的生き方とは真逆の生き方をし︑まさに仮象の生を生き
︶つまり
よってであれ︑直接﹁宗教によって捉えられる﹂
︵ AW.473
︶ 違 い は あ る︒ し か し 真 の 宗 教 は
照的で観察的である﹂︵ AW.473
︶ こ と に よ っ て で あ れ︑ 獲 得 さ
﹁ 神 か ら 霊 感 を 受 け る ﹂︵ AW.525
れる宗教の立場は︑道徳が実践的で活動的であるのに対し︑﹁観
るのである︒
第一︑第二の生き方に対し︑第三︑第四の生き方は浄福を得ら
れるし︑神を愛し︑神の中に生きる生き方である︒フィヒテによ
れば︑欲望であれ︑カントの道徳法則であれ︑ストア主義者の法
15
で活動していないことになるし︑また神との合一の意識は偽りの
︶を持たせるとともに︑その活動が外部に現れ
う意識﹂
︵ AW.473
出ざるをえない︒もし外部に現れ出ないならば︑神が人間のうち
﹁神が私たちの中に生き︑働き︑その業を実現しつつある︑とい
フィヒテは神の存在を中心に考えるようになっている︒﹁真の神
へ の 導 き ﹄ に お い て は 道 徳 を 宗 教 化 し て い る︑ と 言 え る ほ ど︑
術に基づいて神を要請したように宗教を道徳化していたが︑神の
︶自己の計
フィヒテは﹁人間が最高の自由によって﹂︵ AW.524
らいを止め︑自己を無化することによって︑生に関する見方を転
であり︑宗教と高次の道徳との対立を考えてはいない︒
︶︑ と フ ィ ヒ テ は 述 べ る︒ ま た﹁ キ リ ス ト 教
と 高 め る ﹂︵ AW.419
は︑・・・不変な神的存在者の内にある私たち自身と世界とに関
︶
﹁イエス・キリストにおける不思議で超自然的な源泉﹂︵ AW.420
に基づいてキリスト教は﹁あらゆる人間を例外なしに神の認識へ
︶︑言うなれば︑
系的な道とは別の道で人間にもたらす﹂︵ AW.419
存在を前提し論を組み立てた無神論論争期を経て︑﹃浄福なる生
ものであるからである︒したがって︑神の中に生きる︑という点
︶が︑
と真の宗教は純粋な思惟によってのみ把握される﹂︵ AW.418
﹁キリスト教は・・・﹇神の﹈認識の最も深い要素と諸根拠とを体
︶になることにより︑浄福を
換し︑
﹁道徳的宗教的人間﹂
︵ AW.535
この世において獲得できる︑としている︒つまり︑高次の道徳と
において︑フィヒテが述べる高次の道徳性と宗教とは一致するの
宗教とが一致した世界がこの世において出現し︑神の中に生きる
︶︑ と も 述
す る 唯 一 真 の 見 方 と︑ ま っ た く 同 一 で あ る ﹂︵ AW.412
べ︑今見てきた浄福への導きについての見方とキリスト教の見方
人間は浄福な状態になるのである︒しかも﹁神が全面的に現れ出
︶
て︑まさに神のみが生き支配し︑・・・神が偏在する﹂︵ AW.536
ために︑道徳的宗教的人間同士は相互に自らの行為を﹁自らのう
︶ と 認 め︑ 自 ら の う ち に お け る
ちにおける神の現れ﹂
︵ AW.536
︶ と 理 解 し︑ 来 た る べ き 完
﹁真の存在への自らの分与﹂
︵ AW.535
全な神的世界の実現を待つのである︒こうして︑フィヒテにとっ
ては︑この世つまり﹁地上において現実に﹂︵
とが同じであるとする︒ここでのキリスト教はフィヒテを無神論
者と訴えたそれではもちろんない︒彼は﹁ヨハネのみを真のキリ
︶ と 言 う よ う に︑ い わ ゆ る 現
スト教の教師と承認する﹂︵ AW.476
実のキリスト教そのものではなく︑彼の見方と一致する意味での
キリスト教を︑言うなれば︑彼にとっての理想のキリスト教を思
い描いている︒それに対し︑フィヒテが思惟によって導き出す真
宗教はそれぞれ︑実践的と観照的︑精神世界の法則と霊感など特
宗教と自然的宗教との関係をどう見ていたのであろうか︒道徳と
このように浄福への導きを語るフィヒテは道徳と宗教︑積極的
として認められ︑キリスト教も自然的宗教も同じく神の中で生き
普遍的宗教ではない︒積極的宗教としてのキリスト教はそれ自体
的宗教からその本質として抽出された︑諸宗教の根底に存在する
在する自然的宗教に他ならない︒しかし︑この自然的宗教は積極
の宗教は哲学者が考えた宗教であり︑理性に基づく人間本性に内
徴的違いはあるが︑神の中で生きることを目的とする点で高次の
る こ と を 教 え る も の と さ れ て い る︒ た だ ︑
﹃啓示批判﹄において
︶神的世界
AW.536
道徳と宗教とは一致している︒
﹃啓示批判﹄においては道徳的心
が実現されることになるのである︒
(24)
16 い︒
﹃啓示批判﹄でなされた宗教分類は人間本性に内在あるいは
のように︑キリスト教を自然的宗教への道案内役とすることはな
宗教一般を﹁学問的宗教と非学問的宗教﹂とに分類する︒そして
対して︑シェリングは啓蒙期以来のこうした分類法とは異なり︑
︶つまり理性と啓
外在する﹁超自然的なものという原理﹂︵ V.101
示に基づいてなされ︑宗教一般を自然的宗教と啓示に基づく宗教
とに種別化した︒それは﹃浄福なる生への導き﹄においても今見
非学問的宗教のもとに︑学問によっては生み出されない宗教の二
︶と啓示
つ の 種︑ 神 話 に よ っ て 生 じ る﹁ 神 話 の 宗 教 ﹂
︵ O.13-186
の 種 別 化 は﹃ 啓 示 批 判 ﹄ で は 神 の 告 知 を め ぐ っ て で あ っ た が︑
︶
︑つまり非学問的宗教に属す
自由な哲学的認識の宗教﹂︵ O.13-192
︶とを配置する︒
によって生じる﹁啓示に基づく宗教﹂︵ O.13-192
学問的宗教の下には︑﹁直接的には理性的認識とは同一ではない︑
﹃浄福なる生への導き﹄では哲学と宗教の相違としてなされ︑こ
教としてキリスト教の存在をそのものとして認めるとともに︑自
神を前提する立場との違いと言って良いと思われるが︑積極的宗
・・・根源的に神にしっかりと結びつけられている﹂︵
︶か
宗 教 的 原 理︑ つ ま り 神 を 定 立 す る 根 源 的 な 原 理 ﹂︵ O.13-191
ら説明する︒この原理により人間は﹁あらゆる思惟や知以前に︑
と道徳を宗教化する立場との違い︑あるいは神を要請する立場と
然的宗教とキリスト教とを対比して考える点において︑フィヒテ
︶によって︑神とのこの直接的な根
が︑﹁最初の人間﹂︵ O.13-382
源的関係が破棄されてしまう︒そこでこの自然な宗教的原理は神
︶ つ ま り 神 話 の 宗 教 で あ る︒ 神 話 の 宗 教 は 人 間 の 本 性
O.13-186
生 じ る も の で あ り︑﹁ 人 間の意 識 そ の も の の 異 常 な 状 態 ﹂︵
能であるのと同じ意味で︑自然なことだからである︒こうした意
O.13-
本論ではシェリングがフィヒテとは袂を分かち︑彼独自の哲学を
神話の宗教は最初の人間による︑神との根源的関係の破棄から
述べる︒
︶ で あ り︑ 神 話
に お い て﹁ 自 然 に 生 み 出 さ れ る 宗 教 ﹂︵ O.13-189
︶ で あ る︑ と シ ェ リ ン グ は
の 宗 教 こ そ﹁ 自 然 的 宗 教 ﹂︵ O.13-189
︵
生 さ せ る︒ こ う し て 生 じ る も の が﹁ 神 話 に お い て 生 じ る 宗 教 ﹂
︶
O.13-191
は理神論系統ではなく︑積極的宗教をそのものとして認め︑自然
との関係を回復しようとして自らの意識のなかに修復の過程を発
は異なる思潮に属することが明らかになったが︑一時期フィヒテ
理神論系統の自然的宗教を探究する思潮とはフィヒテの宗教論
四
的宗教も考える思潮に属している︑と言うことができる︒
の点では異なっている︒こうした差異は︑宗教を道徳化する立場
︶
る二つの宗教を媒介するものとしての﹁哲学的宗教﹂︵ O.13-193
を定立する︒この分類をシェリングは﹁人間のなかにある自然な
たように自然的宗教とキリスト教との対比として残っている︒そ
(28)
作り上げた後期哲学における自然的宗教について検討することに
リングの宗教論はどちらの系統に属する自然的宗教であろうか︒
が自分の弟子と考えたほど︑フィヒテ哲学の注釈者であったシェ
(25)
︶である︒それにもかかわらず︑神話の宗教が人間の意識に
185
とって﹁自然的﹂過程であるのは︑病気の治癒が身体の自然的機
する︒
(26)
フィヒテによる自然的宗教と啓示に基づく宗教との二分類法に
17
(27)
︶
︒偽りの宗教における構成要素の配置
なっていない﹂
︵ O.13-182
を啓示によって正せば︑真の宗教が生み出されるということにな
教と偽りの宗教との本来的原理あるいは構成要素は本来的には異
真理︑と言われるが︑歪曲を正せば真理になるように︑﹁真の宗
まったく含んでいない︑というわけではない︒誤謬は歪曲された
い う こ と に な る︒ し か し 偽 り の 宗 教 と い っ て も 宗 教 的 な も の を
係から言えば︑偽りの神々であり︑神話の宗教は偽りの宗教︑と
である︒真の神に取って代わった神話の神々は︑真と偽という関
回復がなされるわけではない︒というのは以下の事情があるから
が明らかにされるとは言え︑啓示に基づく宗教のみによって関係
にする啓示に基づく宗教が必要となる︒啓示により真の神の意志
︶ で あ る 啓 示 に よ っ て︑ 神 の 意 志
の特別な認識の源泉﹂
︵ O.14-6
が露わにされなければならない︒そのために︑神の意志を明らか
がなされなければならないからでもある︒和解するには︑﹁独自
︶からである︒また︑人間は神の意志を無視し
はない﹂
︵ O.14-56
て神との根源的関係を破棄したのであるから︑神の意志との和解
て代わった神々であり︑
﹁神の姿で存在しているが︑﹇真の﹈神で
過程で定立された神々は人間と根源的関係を結んだ真の神に取っ
神との関係は真に回復されたわけではない︒というのも︑神話の
味で神話の宗教が神と人間との根源的関係を修復したとしても︑
上がシェリングの提示する宗教分類である︒
︶ が で き る よ う に な り︑ 人 類 を 一
識 し 崇 拝 す る こ と ﹂︵
O.14-332
︶ を 持 つ︒ 以
つ に 結 び つ け る﹁ 全 人 類 に 共 通 の 宗 教 ﹂︵ O.13-524
ない宗教である︒哲学的宗教により︑人間は﹁精神の中に神を認
宗教は現実に存在するものではなく︑人類が実現しなければなら
釈するのが啓示の哲学である︒この哲学によって示された哲学的
︶と解釈して
ト教を︑神話をも含んだ﹁世界史的現象﹂︵ O.14-78
いくのである︒このように神話の宗教と啓示に基づく宗教とを解
れ︑キリストとして神の意志を伝える︑というように見︑キリス
︶であっ
を し て い た の は 他 な ら ぬ﹁ 先 在 の キ リ ス ト ﹂︵ O.14-152
て︑先在のキリストが自らを無にし︑神の姿を捨て人間の姿で現
わった神々である︒しかしながら︑そうした神々において神の姿
は︑ 神 の 姿 を し て い る が︑ 真 の 神 で は な い︒ 真 の 神 に 取 っ て 代
のである︒言い換えれば︑こういうことである︒真の神との根源
︶において描き出されることになる︒それは︑言う
史﹂︵ O.14-30
なれば︑神話の宗教とキリスト教とを連続するものと見ていくも
︶
︑つまりシェリングの言う自然
歴史的関係において﹂︵ O.13-193
的宗教に始まり超自然的宗教であるキリスト教に到る﹁高次の歴
である︒哲学的宗教は神話の宗教と啓示に基づく宗教との﹁真の
それら二つの宗教の意味を明らかにする学問的宗教が哲学的宗教
宗教が︑啓示に基づく宗教である︒このような関係にある非学問
の構成要素の配置を変更することで真の宗教を生み出そうとする
神の意志と人間の意志との和解を啓示によって行い︑自然的宗教
︶ さ せ て い る︒ そ れ に 対 し︑ あ ら ゆ る 宗 教 の 根 底 に あ
︵ O.13-189
という名称を︑神話の宗教こそ自然的宗教として﹁神話へ返還﹂
徳的宗教など合理的宗教という意味で用いられてきた自然的宗教
このように見てくると︑シェリングの場合︑従来理性宗教や道
的関係を破棄し︑堕落した人間の意識の中に生じた︑神話の神々
る︒言い換えれば︑神話の宗教つまり自然的宗教を前提した上で︑
的宗教に対して︑神話の宗教と啓示に基づく宗教とを媒介して︑
18 しての自然的宗教を考えていないのは同じである︒フィヒテは啓
の自然的宗教ではない︒この点ではフィヒテも諸宗教の抽出物と
両宗教に通底するものとして描き出したのであり︑従来の意味で
た上で︑両宗教が持つ意味合いを明らかにすることから︑それら
で言えば︑神話の宗教や啓示に基づく宗教をそのものとして認め
通な要素として抽出したのではなく︑それら諸宗教を︑彼の言葉
できる︒確かにシェリングは︑哲学的宗教を歴史的諸宗教から共
宗教という名称を哲学的宗教に対して用いている︑ということが
る真の宗教︑人類に共通な実現すべき宗教という意味での自然的
教を求める思潮を形成している︑と言うことができる︒
本質としての自然的宗教を求める理神論とは異なった︑自然的宗
として認めた上で︑自然的宗教を考えており︑諸宗教に共通する
の宗教論もシェリングの宗教論もともに︑積極的宗教をそのもの
な考え方からは外れていく︒この点は除いたとしても︑フィヒテ
一視する考えへと進んでいったと言うことができ︑レッシング的
内役にする役割を放棄し︑むしろある意味で︑宗教と道徳とを同
う点は変化していない︒ただ︑積極的宗教を自然的宗教への道案
教であれ︑そのものとして認めながら︑自然的宗教を考えるとい
教の存在を︑たとえそれがフィヒテにとっての理想的なキリスト
註
蒙期以来の宗教二分法を採用しているが︑﹃啓示批判﹄において
は啓示に基づく宗教の役割を認めた上で︑啓示に基づく宗教から
自然的宗教への移行を考えている︒カントのように歴史的宗教か
ら歴史的付加物を取り去ることで自然的宗教を考えるのではなく︑
啓示に基づく宗教そのものを認めた上で︑自然的宗教を考える点
において︑フィヒテもシェリングもともに︑啓示に基づく宗教を
人類の教育手段として認め︑それらによって自然的宗教を実現し
⑵
ebenda.
⑴ “ Die Autonomie des Denkens, der konstruktive Rationalismus und der
”,
pantheistische Monismus nach ihrem Zusammenhang im 17. Jahrhundert
S.247, in:Wilhelm Dilthey Gesammelte Schriften II,Vandenhoeck & Ruprecht,
Göttingen, 1969.
の場合︑啓示に基づく宗教の役割を認めるといってもキリスト教
⑶
ようというレッシング的な自然的宗教観を持っている︒フィヒテ
を念頭に置いてる︑という視野の狭さはあるが︑カントの宗教論
“ Die Geschichte der neueren Philosophie
” , S.288,
Wilhelm Windelbandt,
Breitkopf & Härtel, Leipzig, 1922.
と間違われたフィヒテの宗教論は︑自然的宗教という点から見る
と︑むしろカントとは対立し︑シェリングに近い自然的宗教観を
示していた︑と言うことができる︒またフィヒテの場合︑無神論
⑸
W. Windelbandt, ibid., S.296.
W. Windelbandt, ibid., S.539.
⑷ die positiven Religionen
の訳語には既成宗教︑実定的宗教︑実証的宗教
などがあるが︑﹁現にある﹂
︑
﹁歴史的な﹂︑﹁啓示による﹂等々の意味を
含めるために︑適切とは思わないが︑とりあえず﹁積極的﹂宗教と訳
しておく︒
ける宗教の道徳化から道徳の宗教化へと︑神を要請することから
⑹
論争期から﹃浄福なる生への導き﹄へかけて︑﹃啓示批判﹄にお
神を前提する立場への変更が見られるが︑その場合でもキリスト
19
⑺
“ Die vornehmsten Wahrheiten der
W. Windelbandt, ibid., S.542-3. vgl.,
natürlichen Religion in zehn Abhandlungen auf eine begreifliche Art erkläret
” , Bey Johann Carl Bohn,
und gerettet von Hermann Samuel Reimarus
Hamburg, 1766.
⑻ G.E.Lessing,
“ Über die Entstehung der geoffenbarten Religion
” , S.22, in:
G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd. III, Deutscher Artemis & Winkler
“ Die Erziehung des Menschengeschlechts
”“
, Das
Verlag, München, 1995. vgl.,
” , in: G.E.Lessing Werke in drei Bänden, Bd. III,
Christentum der Vernunft
なお︑レッシングにおける
Deutscher Taschenbuch Verlag, München, 2003.
積極的宗教と自然的宗教との関係についての詳細は︑拙稿﹁レッシン
グとシェリングにおける自然的宗教について﹂︑弘前大学人文学部﹃人
文社会論叢﹄
︵人文科学篇︶
︑第二十九号︑二○一三年を参照されたい︒
“ Über die Religion -Reden an die Gebildeten unter ihren
⑼ F. Schleiermacher,
” , S.132, Felix Meiner Verlag, Hamburg, 1970.
なお︑シュライエ
Verächtern
ルマッハーにおける積極的宗教と自然的宗教との関係についての詳細
は︑拙稿﹁シュライエルマッハーとシェリングにおける自然的宗教に
ついて﹂
︑弘前大学人文学部﹃人文社会論叢﹄︵人文科学篇︶︑第三十一
号︑二○一四年を参照されたい︒
“ Versuch einer Kritik aller Offenbarung
” , in: Fichtes Werke, Bd. V,
⑽ J.G.Fichte,
以下ではフィヒテ自身が呼んでい
Walter de Gruyter & Co., Berlin, 1971.
﹄と略称する︒引用略号は ︒
るように﹃啓示批判 Offenbarungskritik
V
⑾
“
” , S.154-5, in:
“ Geschichte der
K.Fischer,
Fichtes
Leben, Werke und Lehre
” , Bd. VI, Carl Winter’s Universitätsbuchhandlung,
neuern Philosophie
Heidelberg, 1914.
⑿ I.Kant,
“ Die Religion innerhalb der Grenzen der bloßen Vernunft
” , Felix
以下では﹃宗教論﹄と略称する︒引用略
Meiner Verlag, Hamburg, 1966.
号は ︒
R
⒀ 論文﹁人間本性における根本悪について﹂は一七九二年四月に︑﹃啓示
の 批 判 ﹄ は 同 年 の 復 活 祭︵ 四 月 ︶ に 出 版 さ れ て い る︒ vgl., K.Fischer,
“ Immanuel Kant und seine Lehre
” , S.98, in:
“ Geschichte der
ibid., S.154, und
” , Bd. IV, Carl Winter’s Universitätsbuchhandlung,
neuern Philosophie
註 を参照︒
Heidelberg, 1928.
15
⒁
“
” , Felix Meiner Verlag, Hamburg,
I.Kant,
Die
Kritik
der praktischen Vernunft
引用略号は ︒
P
1967,
⒂ こうした理由から︑フィヒテはカントが﹃宗教論﹄で展開した自由な
に関する考え方に触れていない︒そのため︑フィ
恣意 die freie Willkür
ヒテが宗教一般を導出しようとして︑意志の分析に着手し︑カントの
︶︒と
不十分性に言及することは仕方がないと思われる︵ V.32, 34Anm.
いうのも︑﹃実践理性批判﹄の眼目は﹁純粋実践理性が存在すること﹂
︶ を 示 す こ と に あ り︑ 恣 意 の 分 析 が な さ れ て い な い か ら で あ る︒
︵ P.3
﹃宗教論﹄でその分析がなされてはいるが︑しかしながら︑選択の自由
は悪しき格律
に関する両者の見解は異なる︒カントの die freie Willkür
を採用してしまっている意志であり︑善悪の選択をする自由を持って
は い な い︒ そ れ は 悪 し き 状 態 か ら 善 な る 状 態 へ の 転 換 を︑ す な わ ち
﹂︵ R.51
︶を決断する自由に
﹁心術の革命 die Revolution in der Gesinnung
は善悪ではなく︑欲望に関
すぎない︒それに対し︑フィヒテの Willkür
す る 選 択 の 自 由 を 持 っ た 意 志 で あ る︒ こ の 点 の 詳 細 に つ い て は 拙 著
﹃人間における悪 │ カントとシェリングとをめぐって│﹄︑東北大学出
版会刊︑二○○一年︑特に第一章を参照されたい︒
⒄
“
J.G.Fichte,
Ueber
den
Grund
unseres
Glaubens an eine göttliche
”
,
in:
Fichtes
Werke,
Bd.
V, Walter de Gruyter & Co., Berlin,
Weltregierung
引用略号は﹁神の世界統治﹂
︑ ︒
G
1971.
﹁・・・わたしの肉には︑善が住んでいない
⒃﹃ローマ人への手紙﹄ 7-18
ことを知っています︒善をなそうという意志はありますが︑それを実
行 で き な い か ら で す ﹂︵ 所 収﹃ 聖 書 │ 新 共 同 訳 │ ﹄︑ 日 本 聖 書 協 会 刊︑
一九八七年︶︒
⒅
“
J.G.Fichte,
Der
Herausgeber
des
philosophischen
Journals gerichtliche
” , in: Fichtes Werke,
Verantwortungsschriften gegen die Anklage des Atheismus
引用略号は﹃法的弁明書﹄︑
Bd. V, Walter de Gruyter & Co., Berlin, 1971.
︒
VA
⒆ J.G.Fichte,
“ J.G.Fichte’s Appellation an das Publicum über die atheistischen
” , S.203, in: Fichtes Werke, Bd. V, Walter de Gruyter & Co.,
Aeusserungen
引 用 略 号 は﹃ 公 衆 へ の 訴 え ﹄︑ ︒
A な お︑ 同 全 集 目 次 で 示
Berlin, 1971.
されている略称の日本語訳を本書の名称とした︒
⒇ シェリングは﹃近世哲学史﹄や﹃啓示の哲学﹄において︑フィヒテは
20 ︵ ︶を 洞 察 し た フ ィ ヒ テ は︑ 次 に︑
﹁不変なものを構成すると同時に
37
可変的なものを構成すること﹂
︵ ︶
32︑ 言う な れ ば︑ 絶 対者 に お け る 絶
対的統一性と不可分性︑ならびにその統一性からの分離可能性という
二重の構成を発生的に明らかにしようとする︒それは︑一つには﹁自
︶︑﹁永遠に自己と等しい
己から自己に基づき自己によって存在し﹂
︵ 80
もの﹂
︵ ︶
78で あ る 絶 対 者 が︑ 概 念 に よ っ て は 把 握 不 可 能 で あ る こ と︑
を確立することである︒また一つには︑概念を前提せざるを得ない者
にとって︑それは私たちのであれ︑どんなもののであれ︑あらゆる意
と写像されるもの Abgebildete
との
識にとって︑言い換えれば︑像 Bild
関係︵ ︶
68に立たざるを得ないものにおいては︑絶対者はそのものとし
て で は な く 現 象 と し て 現 れ ざ る を 得 な い︑ と い う こ と を 確 立 す る こ と
である︒絶対者を規定した根源的概念も概念ではないか︑と思われる
が︑根源的概念は絶対者と一体であり︑この概念は自立的なものとし
て否定されている︒この否定により︑概念把握の可能性が否定される
とともに︑絶対者が把握不可能なものとされる︒概念把握されない絶
で 説 明 を し て い く が︑
対 者 に つ い て︑ フ ィ ヒ テ は 光 あ る い は 生 Leben
︶こ とに よ り︑ 人 間 の 洞 察 の
その﹁光が二重の表出と実存を持つ﹂
︵ 77
内に客観的なものを持つことになる︒つまり絶対者に由来する分離の
原理によって︑現象としての多様なものが生じることをフィヒテは説
明していくことになる︒そこには人間的自我と絶対者との関係が問題
として浮かび上がってくる︒このように見てくると︑この知識学にお
いて︑概念認識をすることはできないにせよ︑絶対者を前提した上で︑
フィヒテは自我について論を進めていると言うことはできる︒
“
” , S.347, in: Fichtes Werke,
J.G.Fichte,
Rückerinnerugen,
Antworten,
Fragen
引用略号は RA
︒
Bd. V, Walter de Gruyter & Co., Berlin, 1971.
息子編集版の Fichtes Werke
は So ist Philosophie über die Religion nicht die
Religionslehre, .....Sinnes treten; sie[Philosophie] ist allein die Theorie
︵哲学は宗教的感官の理論にすぎない︶と中性二格 desselben
で
desselben
を受けるが︑ J.G.Fichte-Gesamtausgabe der Bayerischen Akade前文の Sinn
版では So ist Philosophie....., sondern nur die Theorie
mie der Wissenschaften
と さ れ︑ 宗 教 の 教 義 を 受 け て い る︒ 息 子 編 集 版 の
der Religionslehre
を derselben
と読み替えて Religionslehre
を受けることにする︒
desselben
J.G.Fichte,
“ Die Anweisung zum seligen Leben oder auch die Religionslehre
”,
引用略号は
in: Fichtes Werke, Bd. V, Walter de Gruyter & Co., Berlin, 1971.
︒
﹃浄福なる生への導き﹄︑ AW
21
彼の初期哲学において︑人間的自我としての絶対的自我を考え︑それ
を 唯 一 の 実 体 と し て い た に も か か わ ら ず︑ 後 期 哲 学 に お い て は 唯 一 実
在的なものである絶対者つまり神に絶対的自我を結びつけて考えるの
は︑どうしてなのか︑と疑問を提出している︒これにはシェリングに
とって無理からぬ事情がある︒というのは︑フィヒテは﹃全知識学の
基礎﹄を刊行した後も︑全精力を傾け知識学の講義を継続していたに
もかかわらず︑それらの知識学講義は生前公刊されることがなかった
からである︒公刊されたものは︑例えば﹃人間の使命﹄︑﹃現代の根本
特徴﹄
︑
﹃浄福なる生への導き﹄などいわゆる通俗哲学書だけであった︒
絶 対 者 と の 関 係 で 知 識 学 に つ い て 論 じ た﹃ 一 八 ○ 四 年 知 識 学 第 二 回 講
“ Die Wissenschaftslehre, Zweiter Vortrage im Jahre 1804
”,
義 ﹄
︵ J.G.Fichte,
︶をシェリングが聴講していたら事情は変わっ
Felix Meiner Verlag, 1986
たかもしれない︒しかしながら︑フィヒテとシェリングの手紙の交流
で す ら 一 八 ○ 二 年 初 頭 に は 終 わ っ て い る の で︑ こ の よ う に 仮 定 す る こ
とはできない︒簡単にその内容を見ておくことにする︒
﹃一八〇四年知識学第二回講義﹄における目的は︑﹁あらゆる多様な
ものを絶対的な統一へ還元すること﹂
︵ ︶7で あ り︑ 逆 に 言 う な ら ば︑
﹁一つの原理から二つの世界﹇感性界と超感性界﹈を現実的にしかも概
念的に導出すること﹂
︵ ︶
20である︒この講義においてフィヒテはカン
ト批判から出発し︑最初の問題意識である感性界と超感性界との統一
を成し遂げようとする︒フィヒテはまず存在と思惟との関係を考察す
ることから︑存在と思惟の一面性を超えた﹁両者の絶対的統一と不可
の原理のうち﹂
︵ 10
︶に絶対者を求める︒しかもこ
分性 Unabtrennbarkeit
の原理﹂
︵ ︶
の原理は現象から見れば︑
﹁両者の分離 Disjunktion
10でもあ
り︑フィヒテはそれをいかなる客観も持たない﹁純粋知︑知それ自身﹂
とは絶対的にしかもそれ自
︵ ︶
10と名付ける︒つまり﹁絶対者 Absolute
でも思惟 Denken
でもなく﹂
︵ 17
︶︑それらへの分離
体において存在 Sein
の 可 能 性 を 含 ん だ 両 者 の 絶 対 的 統 一︵
︶︑ と い う こ と に な る︒ 絶 対
者 は 存 在 と 思 惟 と に 分 離 す る と 同 時 に︑ さ ら に 感 性 界 と 叡 知 界 と そ の
共通の根とへ分裂することになる︒フィヒテは︑カントが感性界と超
感性界とを統一するようなものがなければならないと言うだけとは異
なり︑
﹁存在と思惟の二重性から︑必要不可欠なそれの紐帯としての絶
︶を最高の事実的明証として定立する︒
対者﹂
︵ 29
﹁あらゆる変化を超え︑変化から分離されない主観性=客観性を超え︑
さらになお︑不変で自己自身に等しいものとしての知がそれだけで存
立している﹂
︵ ︶
32こ と︑ つ ま り 絶 対 者 の 存 立 das reine Fürsichbestehen
A
D.S.
﹃ ヨ ハ ネ に よ る 福 音 書 ﹄ が フ ィ ヒ テ 自 ら の 哲 学 と 一 致 し て い る こ と を
﹃浄福なる生への導き﹄第六講において詳述している︒これについては
拙稿﹁フィヒテとシェリングのヨハネ解釈をめぐって﹂︑弘前大学人文
学部﹃人文社会論叢﹄
︵人文科学篇︶︑第二十四号︑二○一○年を参照
されたい︒
フィヒテがラインホールトに宛てた一七九五年七月二日の手紙を参照︒
vgl., J.G.Fichte, J.G.Fichte-Gesamtausgabe der Bayerischen Akademie der
Wissenschaften, III-2, Friedrich Frommann Verlag, Stuttgart-Bard Cannstatt,
1970, S.347.
シ ェ リ ン グ 自 身﹃ 近 世 哲 学 史 ﹄︵ F.W.J.Schelling,
“ Zur Geschichte der
” , S.407, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt,
neueren Philosophie
︶において︑自らの哲学を消極的哲学と積極的哲学との二期に分
1976.
類し︑それぞれ前期・後期哲学にしている︒シェリング哲学の分類法
については︑前掲拙著第三章一三一~一三三頁を参照されたい︒
シ ェ リ ン グ の 宗 教 論 に つ い て は 前 掲 拙 稿﹁ レ ッ シ ン グ と シ ェ リ ン グ に
おける自然的宗教について﹂
︑
﹁シュライエルマッハーとシェリングに
お け る 自 然 的 宗 教 に つ い て ﹂ を 参 照 さ れ た い︒ そ れ ら の 論 文 に お い て
シェリングの宗教論を自然的宗教から見て論じたので︑本論では簡潔
にその要約のみを示すことにする︒
“ Philosophie der Offenbarung
” , S.193, Erster Band und
F.W.J.Schelling,
引用頁
Zweiter Band, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, Darmstadt, 1983.
は息子編集の全集版による︒引用略号は ︒
O二巻にわたるため︑第一
︶
︑︵ O.14-000
︶と表示する︒
巻︑第二巻をそれぞれ︵ O.13-000
なお︑引用文中の﹇ ﹈の中はすべて筆者の補いであり︑︿ ﹀は文章
を明確にするために筆者が適宜加えたものである︒
22 新井白石の知識世界序説
はじめに
李
梁
量質とも天下随一と言ってよい 2。とりわけ際立ったのは、いわ
ゆる鎖国時代の最中でも、彼は自ら西学に親しみ、『采覧異言』、
に 活 か し、 近 世 後 半 期 に お い て は 儒 学 諸 流 派 の み な ら ず、 国 学
述べたように、白石は﹁学は和漢洋を兼ね、その学問を現実政治
)を
し、内外から高い名声を得たものは、新井白石( 1657–1725
措いてほかはまずいない。白石研究の第一人者だった宮崎道生が
を通じてみれば、どれも一種の時代を超越する開放性、真理概念
政策の実行に凄腕をふるっていた。要するに、白石の生涯の作為
政 か ら 幕 府 の 最 高 レ ベ ル の 政 治 に 直 接 参 与 し、 数 々 の 政 策 提 言、
講として君側に仕えながら、政治的幕僚(儒官)として、地方藩
『西洋紀聞』などといった西学の専門書を著わし、事実上、蘭学、
者・蘭学者にも多大の刺戟影響をあたえ、さらに近代に入って以
の普遍性(例えば、彼の西学と西教への態度、史料④参照)
、並
江戸時代(
後も学界に引き続き影響を及ぼしている点で、近世の学者思想家
びに合理主義の精神(例えば、彼の鬼神論、とりわけ史論、史料
新井白石は博学多才であり、生涯にわたる著述は、 300
余種に上がるが、
余種であり、殆ど今泉定介が編集、校
大半散逸された。現存するのは 160
年)に所収されている。
訂『新井白石全集』(東京:吉川半七、 1905–1907
洋学の開山とみなされるべき存在である。他方では、また長年侍
中、新井白石に匹敵する人物はいないと言ってよいであろう 1﹂。
①②③参照)を表し、当時の日本のみならず、東アジア全域にお
)を通じて、一介の儒者として政治に参与
1603–1868
あえてその驥尾に附して少々敷衍すると、儒学者としては、白石
年 月
63
3 、序
23
の学識は同時代の殆どすべての学問領域に及び、かつその著述も
宮崎道生『新井白石の史学と地理学』、吉川弘文館、昭和
論、頁 。1
1
2
いても、彼におよぶものはまずいないと言ってよい。
一、先行研究と本文の狙い
Kate Wildmab Nakai, Shogunal Politics: Arai Hakuseki and the
( 邦 訳 は、
Premises of Tokugawa Rule, Harvard Univertiy press, 1988
平石直昭、小島康敬、黑住真ほか訳『新井白石の政治戦略:儒学
年)。そのほか、
一良學術論著自選集』、首都師範大學出版社、
1995
に
新井白石の自叙伝『折たく柴の記』も、それぞれ Joyce Ackroyd
年)、周一良﹁新井白石論﹂(『周
と史論』、東京大學出版會、 2001
)や本居宣長( 1730–1801
)な
は、白石は、萩生徂徠( 1666–1728
どの、いわば近世思想史の本流に必ずしも入っているとは言えな
ところが、その歴史的存在の大きさに照らしてみれば、今日で
い。それだけに、白石研究もまた、内外の研究者から重大かつ持
( University of Tokyo Press,
よる英訳版 Told Round a Brushwood Fire
)および周一良による中国語訳注版『折焚柴記』(北京大學
1979
続 し た 関 心 を 惹 起 し た と も 必 ず し も 言 え な い よ う で あ る。 た だ
し、こういった問題は、本論の主旨と直接に関連しないため、こ
崎道生を挙げるべきであろう。彼による一連の研究は、殆ど白石
さて、管見の限り、今日でも、白石研究の第一人者は、まず宮
論でもなく、和漢洋にわたる白石の知識世界が如何に構築された
論の狙いは、新たな史料の突破でも、白石の思想とその時代の贅
言えなくとも、新たな重大な発見がさほど望めないであろう。本
年)がある。
出版社、 1998
目下では、新井白石関係の史料がもはや蒐集し尽くされたとは
の多岐にわたる学問分野と思想とを網羅しており、すぐれて示唆
か、言い換えれば、白石の知的生い立ちを多角的に辿りながら、
こでは、あえてその因果論の討究を避けたい 3。
に富んでいる 4。そして、日本以外の研究としては、量的にはそ
検討を重ねようとするものである。なお、これと同時に、いわゆ
る思想的連鎖という視点より、白石という存在をほぼ同時代の東
れほど多くはないが、次の代表的な数点を挙げるべきであろう。
Ulrich Kemper, Arai Hakuseki und seine Geschichtauffassung: ein
アジアの社会と思想的状況において比較検討を重ねて、十六世紀
以降、﹁西学﹂に触発され再構築された近世東アジアの新知識体
系の系列研究に、日本的ケースを加えようと企図するものでもあ
る 5。
西 力 東 漸 に よ る 東 ア ジ ア の 社 会 と 文 化 の 変 容 に 関 す る 研 究 は、 ま さ に
枚挙に暇がない。こうした東西文化交流史、比較文化、比較思想といっ
た視角からの既往研究に比べ、ここ十数年来、一種の新しい研究視角ま
たは方法論が際立っているように思われる。すなわち、それは、十六世
紀以降、カトリック系諸修道会の宣教活動に伴い、従来の伝統的知識体
系︱たとえば、朱子学的な思惟世界とその方法論︱が大きく変容を来し、
代わりに、一種の新しい地域的、またはローカルな知識体系が東アジア
5
beitrag zur historiographie japan in der Tokugawa-zeit, Wiesbaden, 1967
(
『新井白石とその史観 徳: 川時代日本歴史編纂学への一つ貢献』)、
荻生徂徠が『政談』において、殆ど白石を罵倒するほど激しく非難の
矢を射たり、山片蟠桃も『夢の代』において、白石のことを嘲笑したり
していたことはよく知られるように、そもそも最初から近世本流の思想
家の系列に白石が置かれていないであろう。村井淳志『勘定奉行荻原重
)
秀の生涯︱新井白石が嫉妬した天才経済官僚』(集英社新書、 2007/2012
も、近年におけるそういった下馬評の延長線上にある論考のひとつだと
思われる。
宮崎道生による白石研究は、文末に附してある参考文献要覧を参照さ
れるべし。
3
4
24 展 開 さ れ た 儒 学、 た と え ば 山 鹿 素 行( 1622–1685
)
、熊沢蕃山
)、 山 崎 闇 斎( 1619–1682
)
、 中 江 藤 樹( 1608–1648
)、
1619–1691
(
)、荻生徂徠などは古学または陽明学の立場
伊藤仁斎( 1627–1705
を唱え、いわば御用の学となりつつある林家と違う理論的傾向を
二、江戸前、中期の社会と学問状況
)年 月
)が京都伏見
慶 長 八 年( 1603
2 、 徳 川 家 康( 1542–1616
城で御陽成天皇より﹁征夷大将軍﹂の宣下を受け、江戸に幕府を
打ち出して、一時相当の盛況ぶりをみせていたのである。そこで、
代 の 将 軍、 大 名 は、 徳 川 幕 藩 体 制 を 補 強 す る た め、 一 連 の 制 度
これと同時に、幕府は、更に昌平黌を官立の昌平坂学問所に改
年)に、かの﹁寛政異
教学を強化するため、つい寛政二年( 1790
学の禁﹂を頒布するに至ったのである 6。
幕府では、朱子学の正統性を維持し、封建的身分秩序社会とその
)、十五代
開き、徳川幕藩体制を樹立してから、慶応三年( 1868
(例えば﹁禁中並公家諸法度﹂
、
﹁武家諸法度﹂、﹁参勤交代制﹂及
年間を江戸時代と称する。江
将軍徳川慶喜が大政奉還までの 265
戸幕府開府早々、
﹁篤学の士﹂と言われた徳川家康をはじめ、歴
び 厳 し い 身 分 制 度 ) の 制 定 の ほ か、 ま た 積 極 的 に 文 教 制 度 の 整
せ、正学講窮致し、人才取立て候様相心掛け申すべく候事。
︻徳川禁令考︼
江戸時代を通じ開設された各種の藩校はのべ 255
ほどに及んでいる。そ
の 中 に は 近 代 の 各 官、 私 立 高 等 中 学 校 の 淵 源 を な す も の が 少 な く な い。
蔵 並 省 自、 實 方 壽 義 共 著『 近 世 社 会 の 政 治 と 経 済 』、 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房、
年、 127
頁。
1995
ジンザイ
旨申し談じ、急度門人共異学相禁じ、猶又、自門に限らず他門に申し合わ
キット
られ、柴野彦介、岡田清助儀も、右御用仰付られ候事に候得ば、能々此の
ヨクヨク
﹁寛政異学の禁﹂の全文は以下の通り。
学派維持の儀に付申達
林大学頭之朱学の儀は、慶長以来御代々御信用の御事にて、巳に其の方
の家代々、右学風維持の事仰付け置かれ候得ば、油断無く正学相励み、門
人共取立て申すべき筈に候。然る処、近来世上種々新規の説をなし、異学
流行、風俗を破り候類これ有り。全く正学衰微の故に候哉、甚だ相済まざ
る事にて候。其の方の門人共の内にも、右体の学術純正ならざるもの、折
節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此の度、聖堂御取締り厳重に仰付
校 7を開設し、弟子らに文武両道を兼修させたりしていた。また
の姿勢をみせ、とくに寛政期前後より先を争うように、各種の藩
を入れた。そうした気風のもと、各地の大名も相次いで文教重視
)など
め、寛政異学の禁令の起草者である柴野栗山( 1736–1807
林家以外の朱子学者を抜擢し、旗本弟子、陪臣、浪人の教育に力
1583–
備、 儒 学 と り わ け 朱 子 学 の 奨 励 を は か っ た。 還 俗 し た 朱 子 学 者
だ っ た 藤 原 惺 窩(
) と そ の 弟 子 格 の 林 羅 山(
1561–1619
)を擢用したのはその一例である。とくに林家の当主が、後
1657
)の元禄四
に代々幕府の儒官を務め、五代将軍綱吉( 1646–1709
年 ) に 至 っ て、 聖 堂( 孔 子 廟 ) を 上 野 か ら 湯 島 に 遷 っ
年( 1691
た際、林家の私塾も一転して幕府附属の教育機関である昌平黌に
変身し、遂に体制教学の中心となったほどである。
他方では、幕府はまた各地の大名に命じて、応仁以降、度重な
る戦乱により散逸された古書を蒐集して保存をはかると同時に、
『貞観政要』
、
『群書治要』
、
『吾妻鏡』といった政治支配に役立つ
漢籍や和書の復刻刊行を着手させた。こうして時代の変化と学問
の普及につれ、江戸中期に至って、林家の朱子学に対抗する形で
という特定な地域空間において形成されたとみるのは、それである。例
えば、李天綱﹁十六、十七世紀東亜知識体系︱徐光啓『海防迂説』与陸
年
若漢的関係﹂
(黄愛平、黄興濤編『西学与清代文化』、中華書局、 2008
~ 277
頁)は、そうした代表的観点のひとつである。
所収、 265
25
6
7
今典故、慨然有以天下自任之志、而身際清明、得施其所薀蓄、聲
讀國史、其有可疑焉者、則或驗之人情、或參之漢史、故其論著、
)のように、『大日本史』の編纂
1628–1700
)の
事業を手掛け、加賀藩五代目の藩主の前田綱紀( 1643–1724
ように、遍く天下の群書を尊経閣に蒐集し、新井白石をして﹁加
大有裨於後學(幼いより和漢古今の典故に力を入れ、慨然として
水戸藩主の徳川光圀(
賀は天下の書府﹂と感嘆させたほどである。そのほかに、各種の
天下を自ら任じる志を有し、しかも潔白清廉にして、其の薀蓄を
周知のように、白石は、三十歳の時、幸運にも木下順庵( 1621–
著が大いに後学を裨益せしめるところがある)﹂
、という。
いはこれを中国の史籍に参酌したりしている。その故に、その論
し、その疑うところがあれば、則ち或いは人情に照らしたり、或
(人傑)である。(中略)先生が博覧多識の力を以て、国史を精読
施 す こ と が で き、 名 声 を 広 く 朝 野 に 広 が り、 真 に 千 載 に 一 遇 の
播於朝野、真可謂千載一遇矣。
(中略)先生以博覽多識之力、精
私立学校も漸次現れ、その中で最も象徴的なのは、大阪の懐徳堂
年 創 立 ) で あ る。 懐 徳 堂 で は、 程 朱 の 学 を 本 と
(享保 年
9 、 1724
)
、山片蟠桃( 1748–
し、兼ねて陸王を講じ、富永仲基( 1715–1746
)といった町人思想家を輩出させ、いわば徳川中期以降、文
1821
教隆盛ぶりの象徴とも見なされた 8。
三、新井白石、その人と学
年)年である。『白石新井先
林羅山が逝去された明暦三年( 1603
生伝』9によれば、白石は、生まれながら﹁天質崎嶷、穎悟夙成、
懈、通経史百家 ﹂とされる。そして、家庭においては、﹁忍耐﹂
されている。白石は、貧しい下級武士の出身とはいえ、
﹁苦学不
恰も何かが暗示されたように、新井白石が生まれたのは、丁度
三歲時能書大字(優れた資質と理解力をもち、三歳の時、既に大
をモットーとする﹁古武士﹂のような父 正済についで、高い教
)の門下生となる迄、殆ど独学である。彼の自叙伝『折りた
1698
く柴の記』の中で、その家庭的雰囲気と苦学ぶりがつぶさに追記
きな字を書くことができる)
﹂といい、また﹁自少肆力於倭漢古
管見の限りでは、江戸時代の儒学、つまり朱子学の日本社会における
影響問題について、より前の世代の学者、例えば尾藤正英とその後の世
代の学者、例えば渡辺浩、黒住真の間でかなり違うニュアンスを匂わせ
ているようである。前者は儒学=朱子学が徳川体制の正統な教学思想と
みなし、後者はそれをただ一種の﹁ハイカラーな教養﹂とみて、少数の
公 家 貴 族 や 上 層 武 士 の 階 層 に の み 好 ま れ、 実 際、 江 戸 社 会 に は そ れ ほ ど
思想的影響がなかったとみている。それぞれ、尾藤の『日本封建思想史
)
、
『江戸時代とはなにか』(岩波書店、 1992
)、渡
研究』
(青木書店、 1961
年、 増 補 新 装 版、
辺 浩『 近 世 日 本 社 会 と 宋 学 』
( 東 京 大 学 出 版 会、 1985
年)
、
『 日 本 政 治 思 想 史﹇ 十 七 ~ 十 九 世 紀 ﹈』 東 京 大 学 出 版 会、 2010
2010
年)
、黒住真『複数性の日本思想』
(ぺりかん社、 2006
)などを参照。
『白石先生遺文』
、前記『新井白石全集』第 巻
5。
8
9
よ
しゅう
わが
して、これらの事をも我にをし給ひたりき ﹂というふうに、幼
あね・いもうとによみをしへ給ひ、囲棋・象棊なども堪能におは
くかき給ひしのみにあらず、代々の集、または物語の類など、我
よ
﹁我母にておはせし人は、ものよ
養を積んだ母 千代については、
10
囲気とも決して無縁ではなかろう。
い時から聡明怜悧な神童ぶりを顕した白石も、こうした家庭的雰
11
同前
新 井 白 石 著、 松 村 明 校 注『 折 り た く 柴 の 記 』( 岩 波 文 庫 版、 1999
年 )、
頁;周一良訳注『折焚柴記』
(不僅長于書法、也傳習和歌之道、教我的姐
55
頁。
妹讀曆代敕撰和歌和物語之類、也善下圍棋、象棋、並且教給我﹂)、 40
11 10
26 がてその嘲を解く文一篇作りたけり。これ又、我文作れる事の始
我詩作れる事の始也。ある人の其詩を評じける事あるを聞て、や
の年の十一月の比、冬景即事を七言律詩に賦しなしたり。これ、
のいとまあるおり々には、文章・詩賦の類をも学びしほどに、そ
る。文学の拙くして、書義を解する事の難きにくるしみて、学び
よりて誦じ習ひたれば、後におもふに、ひがことのみぞ多かりけ
句読を授けし師にあるにもあらず、みづから韻会・字彙等の書に
を 誦 じ 習 ひ、 そ の の ち ま た 五 経 を も 誦 じ 習 ひ た れ ど、 こ れ ら 皆
がて小学の書を日夜に誦じ習ひて、業すでに畢わりぬれば、四書
の『翁問答』を読んではじめて儒学(﹁聖人の道﹂)に志し、﹁や
幼少期のことはさておき、白石は、十七歳の時、偶々中江藤樹
べきなのは、中に仏教類の『宋文憲公護法録』および養生飲食類
『皇明詩選』、『文苑英華』抄、『宋文鑑』抄、そしてとくに注目す
『中論』、集部類に六朝詩、李白詩、古文抄録、佳句抄録、陳子龍
に『韓詩外伝』、『大戴礼記』、
『孔叢子』
、『十一家注孫子』、徐幹
抄録書目からもその一端を知ることができる 。例えば、経子類
らく日本に科挙制がないのも幸いなこと)。これは残存する彼の
るが、しかしその読書の範囲は普通の儒者よりはるかに広い(恐
るであろう 。一般的にみて、白石は、むろん一介の儒学者であ
んの実家も結構の蔵書があり、それも存分に利用したと推測でき
)の息子のような方がいて、書物の貸
豪商川村瑞賢( 1617–1699
し借りが存分に行われたと考えられる。また結婚後、白石の奥さ
ら借りるか自ら抄録するほか術がなかった。幸いに、学友の中に
おきな も ん ど う
、というように、その学問の世界に踏み入った経緯をつぶさ
也 ﹂
の『燕閑清賞』(明人高濂の『遵生八箋』の一部分)などもある。
ところが、すぐれた史論や史眼を以て知られる白石は、どうい
ころ
に描かれている。
ここで言及された『韻会』とは、元の熊忠が著わした『古今韻
アジアの歴史地理への関心度の高さを現していると見てとれる 。
ただ明の陳侃『使琉球録』
、馬歓『瀛涯勝覧』があることは、彼の
う訳か、その抄録書目に史部の典籍だけが意外にも見当たらない。
年著わした 14
巻の字書で
して、
『字彙』とは、明の梅膺祚が 1615
年、 1716
年)も編集体裁上、殆
55
どそれを踏襲しているという 。
すでに触れたように、白石は、三十才の時、木門に入るまで殆
ど独学であり、また下級武士の出のうえ、二回も浪人の厳しい生
活を強いられたために、勉学に必要とされる書籍は知人や学友か
16
) は、 か つ
1527–1608
な お、 抄 録 書 目 に、 明 代 で か な り 広 く 読 ま れ て い る 類 書『 図 書
巻)の一巻もある。著者の章潢(
編』( 127
14
16 15
13
あり、後の『康熙字典』
(康熙
巻( 1257
年 刊 ) を 指 す 韻 書 で あ る。『 四 庫 提 要・ 経
会 挙 要 』 30
部・小学類』に﹁援引浩博、足資考証﹂という評語がみえる。そ
15
14
たとえば、白石には次のような﹁読書 詞﹂ が あ り、 そ の読 書 観、つ ま
り 学 問 観 の 一 端 を 知 る こ と が で き て 興 味 深 い。﹁ 貧 家 読 書 子、 常 苦 少 蔵
書、 富 家 読 書 子、 常 苦 多 蔵 書、 貧 富 二 家 子、 少 長 讀 一 書、 所 見 還 浅 深、
( 中 略 ) 読 書 行 之 始、 故 要 博 渉 書、 君 子 百 行 者、 不 愧 所 読 書、 読 書 能 若
此、始為能読書、為告読書人、尚其能読書﹂(﹁白石先生遺文拾遺﹂『新井
頁。
白石全集』第五、 73
前出宮崎道生『新井白石の研究』附録﹁新井白石関係文献総目﹂をみよ。
同注 。
13
27
12
前掲『折りたく柴の記』
、 70
~ 71
頁、周一良訳『折焚柴記』
、 48
頁。
周一良﹁新井白石︱中日文化交流的身体行者﹂、前出『周一良學術論著
頁。
自選集』 583
13 12
中国名は利瑪竇、号は西泰、又の
マテオ・リッチ( Matteo Ricci,
て白鹿洞書院の山長の時、南昌滞在中の高名なイエズス会宣教師
よう 。
を主とし、子集並びに小学の知識を副とするものであったと言え
『図書編』に﹁日本国図﹂も収録され、西学からの影響は随所に
中国から伝来された漢詩、漢文のことを指し、今日学界で通用す
日本において、いわゆる漢学とは、まず漢文学、つまり漢土の
から と
みられる類書である 。さらに、白石の学問観、ないし世界観を
四、新井白石の漢学知識
考察するうえで興味深いのは、次の三種の漢籍の抄録である。
または Chinese Studies
に対置する中国語訳の概念術語
る Sinology
ではない。それはともかくとして、ちなみに、日本の漢文学は非
)とも親しく交遊し、リッチを白鹿
号は清泰、西江、 1552–1610
洞 書 院 に 招 い て 西 学 を 説 い た こ と す ら あ る と い う 人 物 で あ る。
18
チをはじめとするカトリック関係の書籍がすべて禁書扱いされ、
の重視度がわかる)である。当時、鎖国の最中で、マテオ・リッ
)の『通雅』二巻と『物理小識』
(字は密之、号は曼公、 1611–1671
十巻(全十二巻の中で十巻を抄録したこと自体、白石のこの書物
良、平安朝に至って、漢文学が律令制官人の必須の教養とされて
れ、それらは、いわば漢文学の嚆矢となったのである。更に、奈
が で き る。 当 時、 大 陸 か ら 古 典 詩 文 や 小 学 な ど の 書 籍 が 伝 来 さ
るだろう。なお、白石は、
﹁考拠精核﹂(『四庫提要・子部・雑家
いたが、室町時代後期より戦国時代に突入し、戦乱が絶えず、漢
)などの留宋僧、帰化僧の活躍、推進もあって五
元( 1226–1286
山禅林の漢詩文をはじめ、漢文学がまた一時の隆盛ぶりをみせて
常に長い歴史を有する。最も古きは、紀元四、五世紀に遡ること
厳重に取り締まる対象となっていたのは、周知のことである。こ
類』
)とされる『通雅』
、様々の自然現象を原理的に探る『物理小
文 学 も 次 第 に 衰 退 の 一 途 を 辿 る よ う に な っ た。 漸 く 江 戸 時 代 に
から白石の識見の高さ、並びに度胸の凄さが窺い知ることができ
識』をこよなく愛読し、その実証的、合理的(科学的)な学風の
たと言えよう。江戸時代の儒学、とりわけ朱子学が基本的に上述
なってはじめて状況が一変し、新たな漢文学ブームが沸き起こっ
)
、後の六代目将軍家宣の侍講として
府藩主徳川綱豊( 1662–1712
進講した内容を総合してみれば、彼の漢学知識は、いわば、経史
尤も新井白石が質量とも江戸時代における代表的漢詩人の一人であっ
たということを忘れてはいけない。これについて、新井白石編『停雲集』
(二巻二冊、享保 年
3 刊)と『木門十四家詩選』(三巻三冊)(いずれも板
巻別集 16
巻、
『新井白石全集』、佐野正己他編
倉勝明編『甘雨亭叢書』 40
巻、汲古書院、 1983
年)、一海知義、池澤一郎(日
『詞華集日本漢詩』全 11
(研文出版、 2001
年)、紫陽会『新井白石『陶
本漢詩人選集 )5『新井白石』
年)を参照すべし。
情詩集』の研究』(汲古書院、平成 24
18
要するに、白石の独学時代、木門入門後の学問研鑽、そして甲
確立に大いに役立ったものだと考えられる。
ういう時勢の中、あえてリッチの書籍を抄録するという行為自体
いた。十三世紀から十五世紀にかけて、東福寺開山の円爾( 1202–
)
、建長寺開山の蘭渓道隆( 1213–1278
)
、円覚寺開山の無学祖
1280
そ れ は つ ま り、 マ テ オ・ リ ッ チ の『 万 国 集 説 』 一 巻、 方 以 智
17
マテオ・リッチと章潢の関係について、夏伯嘉﹁利瑪竇與章潢﹂(田浩
編『 文 化 與 歴 史 的 追 索 : 余 英 時 教 授 八 秩 壽 慶 論 文 集 』、 臺 北 市、 聯 經、
年)に詳しい。
2009
17
28 深い造詣をもっているのみならず、アジアないし世界の天文、地
を入れ、またしばしば主君より貴重書物の下賜を受けたりした白
)は、いずれも濃厚な五山文学
その弟子格の林羅山( 1583–1657
の匂いを漂わせていたのは、周知の如くである 。
理、医学など、いわば科学技術の面にも強い関心を寄せ、相当深
の五山漢文学の土台の上で新たに生まれたといってよい。江戸初
そうした意味で、本稿でいう漢学とは、主として儒学、又は朱
い理解と造詣とを有するからである。白石が学問の世界において
石は、その知識構造が明らかにそうした経学の枠には収まりきれ
子学の宇宙論、ないし方法論を内包する膨大な知識体系としての
も、政治の場においても、常に見せていた開放的かつ合理主義的
)、並びに
期、禅僧から還俗された儒学者の藤原惺窩( 1561–1619
﹁経学﹂と言い換えてもよい。そして、房徳隣が整理したように、
な精神も、そうした広い教養と知識と無関係ではないであろう。
歴史の中で、膨大な知識体系として確立されるようになった。そ
いう知識内容を内包する経学は、政治権力の庇護もあって、長い
『易』
、
『春秋』
)
、あるいは﹁六芸﹂(礼、楽、射、御、書、数)と
いった歴史的教訓や支配原理に役立つ史籍を珍重していた。なお
た は『 通 鑑 綱 目 』、『 通 鑑 続 篇 』、
『春秋四伝』
( 三 伝、 胡 氏 ) と
大抵『周礼』、『書経』、『四書』
、『詩経』など制度論的な経書、ま
むろん、現実には白石は侍講として君主政治を補佐するため、
ない、とみてよいであろう。彼は、倭漢古典籍または出土文物に
孔 子 が 修 訂 し た と い わ れ た﹁ 六 経 ﹂(『 詩 』、『 書 』、『 礼 』、『 楽 』、
つ目は、義理の探求であ
白 石 は、 主 君( 甲 府 藩 主 徳 川 綱 豊 つ ま り 後 の 六 代 目 将 軍 徳 川 家
必須の補助的学科、例えば、言語文字学、文献学、歴史学、天文
宣)から厚い信頼を受け、延べ十九年の長きにわたって講義出仕
あるとはいえ、その基本的構造は、案外、簡単明瞭である。それ
問と技能のこと。総じていえば、経学の知識体系は膨大で複雑で
譜』
、
『読史余論』
、
『古史通』および『古史通或問』などのように、
ある。一方、白石が主君のリクエストに応じて、たとえば『藩翰
ンとして直接間接的に幕府の最高政治に親しく参与していたので
系の上で近世史に当たる。
『古史通』などが古代史、『読史余論』
伊 豆 公 夫 の 言 葉 を 借 り て 言 う な ら ば、
『藩翰譜』は白石の史書体
は、つまり、
﹁内聖外王﹂である。経学の知識全般は、そういう
地理学、数学などである。
を全うし、事実上、単なる一介の侍講でなく、将軍の高級ブレー
ること、現代の哲学、倫理学に相当する。
こには、三つの層面が含まれている。
つ目は、経書理解に
19
つ目は、経書に言及された各種の学
2
1
す ぐ れ た 史 眼 ま た は 史 観 を も つ 歴 史 書 を 次 々 と も の に し て い た。
3
﹁内聖﹂と﹁外王﹂という二つの側面に凝縮され、表象されてい
ると言ってよい 。
4
ところで、かつて御書物御用として各地の和漢書籍の蒐集に力
が織豊時代に至るまでの武家政権の興廃を述べた中世史、そして
『 折 り た く 柴 の 記 』 が 現 代 史 に あ た る 。 い わ ば、 最 も 白 石 の 合
頁。
204
理主義的精神を顕に示したのは、その歴史研究、とりわけ古代史
伊豆公夫『新井白石』、
29
21
20
これについて、最新の研究成果を取り入れつつ、簡明にして要を得た
のは、小島毅監修、島尾新編『東アジアのなかの五山文化』(東アジア海
年)に詳しい。
域に漕ぎだす 、東京大学出版会、 2014
房徳隣﹁西学東漸与経学的終結﹂
(朱誠如、王天有主編『明清論叢』第
年 月
二輯所収、紫禁城出版社、 2001
3 )参照。
21
19
20
わらないのは、誠に残念としか言いようがない 。
の研究においてである。その意味で、大著『史疑』が散逸して伝
る『采覧異言』のほかに、宮崎道生の研究 によれば、さらに散
白石の西学関係の著書は前述した『西洋紀聞』
、世界地理に関す
えよう。第二に、その合理主義的認識は、比較言語学、比較文献
彼に遅れて登場した本居宣長や平田篤胤等よりも優れていると言
極めようとしている。神の世界に人間的な理解を持ち込んだのは、
そのまま額面通り受け取らず、取捨分析してどれが史実なのか見
批判的精神をもつことである。たとえば、記紀などの古代史料を
の幾つかを取りあげることができる 。まず史料に対する合理的、
ここで、詳論を避けたいが、彼の方法論上の特徴としては、次
称しても決して過言ではない。
があるという事実からみて、彼が日本蘭学、または洋学の開山と
門的著書である。それに、白石がかつてオランダ語を学んだこと
白石晩年の著作であり、オランダの人文地理に関する体系的な専
ある。注目すべきなのは、
『阿蘭紀事』、
『阿蘭陀考』がいずれも
『西洋図説』、『西学考略』
(堤朝風﹁白石先生著述書目﹂)なども
門 』、『 西 洋 人 物 集 』、『 西 学 年 略 雑 著 遺 考 』( 新 井 家﹁ 先 祖 書 ﹂)、
逸 し た 類 似 の 著 書『 阿 蘭 紀 事 』、『 阿 蘭 陀 考 』、 お よ び『 西 学 推
26
学的分析に立脚していること、第三に、比較史的、世界史的方法
22
識に努めようとしていた。こうした方法論は、彼の西学研究、た
中国、朝鮮の史籍と日本古代史資料と比較して、正しい史実の認
を持ち込んだことである。
『魏志』、『後漢書』、『三国史記』など
励行の鎖国時代において、これほど体系的な西学知識を有するこ
識が今日の人文社会科学の範囲を出ないと言えるが、しかし禁教
さて、『西洋紀聞』と『采覧異言』からみれば、白石の西学知
だとされている。確かに、杉田らの『解体新書』
(安 永 年
3 、 1774
年刊行)は日本史上初の本格的な西学訳書だったと言える 。だ
『西洋紀聞』の記録によれば、日本に潜入したイタリア人カト
3
4
述べてみたい 。
が、鎖国時代における西洋理解の制限があったにもかかわらず、
間が計れることに大いに感服したという。だが、前述したように、
る。以下、先人の研究を踏まえながら、その大要をかいつまんで
がないとはいえ、広く自然科学の多くの領域に及んでいたのであ
学知識は、実はこれに限らず、また彼の人文地理知識ほど体系性
とも、又極めて異例であると言わねばならない。とくに白石の西
24
史料 参照。
前出周一良、伊豆公夫などの研究を参照。
史料 、 、 参照
ち な み に、 周 知 の よ う に、
『 解 体 新 書 』 の 原 書 は、もともと独語だが、
杉田らがオランダ語版から漢文に訳出されたのである。多くの訳詞、例
え ば、 軟 骨、 神 経、 門 脈、 膵 臓 な ど に 漢 文 の 対 応詞がなく、杉田らの独
創によるものである。
)を尋
リック宣教師シドッチ( Giovanni Battista Sidotti, 1668–1714
問した時、白石は、シドッチが太陽の位置と自身の影によって時
.天文学暦学
27
詳細は参考文献 、 、 の関係論述を参照する。
同前。
27 26
1
3
7
2
1
25
)が蘭学の開山
歴史教科書では、通常、杉田玄白( 1733–1817
五、新井白石の西学とそのルーツ
とえば『西洋紀聞』などにおいても、同様に活かされている 。
23
1
25 24 23 22
30 実は、白石のそういった領域の薀蓄は、早く梅文鼎( 1633–1721
)
の『 暦 学 疑 問 』
、 遊 子 六『 天 経 或 問 』、 あ る い は 方 以 智( 1611–
)の『物理小識』などすぐれて西学の影響を受けた著書から
1671
得ていたのである。こういった経緯は『西洋紀聞』、『采覧異言』、
および『日記』に断片的に言及され示されている。
の外科しかいない時代、白石の医学の理解も自ずとかなり限られ
ており、彼の著書に幾つかの西洋薬品名の記録が見られるほどで
ある。
すでに多くの指摘があったように、白石の西学知識とその理解
抄 』 お よ び『 外 国 通 信 事 略 』 に 付 録 し た﹁ 外 国 お 土 産 ﹂ に お い
﹁企及ぶべしとも覚えず﹂と素直に兜を脱いだ。その著書『錦芥
天文学知識と同じく、白石がこの領域においても、シドッチに
の漢訳西学書を読んだ可能性も否定できない。これは、今後、彼
以外に、白石がその特別の地位を活かして、鎖国時代、禁書扱い
述した方密之、梅文鼎および徐光啓などの西学影響を受けた著書
ろん事実であり、基本的に間違ってはいない。しかしながら、前
びオランダ商館長への複数回の質問が決定的である。これは、む
は、主にイタリア人宣教師シドッチへの数回にわたる尋問、およ
て、雨水の長短、膀眼鏡、コンパス以外、また磁石、潮汐の干満
の著書、および同時代人の著書、書簡などを綿密に点検して掘り
.物理学
ないし火縄銃に関する細かい記述があると認められる。
め、長崎から江戸に来たオランダ商館長と面会し、動植物などの
た。 彼 は、 自 分 の 特 殊 な 地 位 を 活 か し て、 幾 度 も 将 軍 謁 見 の た
白石は生涯にわたって旺盛な知識欲や知的好奇心をもってい
)、 八 代 目 将 軍 の 侍 講 と な っ た 室 鳩 巣( 1658–1734
)、
( 1668–1755
れ た あ る 種 の 知 の ネ ッ ト ワ ー ク ︱ 例 え ば、 木 下 同 門 の 雨 森 芳 州
とつルートは、木門の同門を含めた広い交遊関係を通して構築さ
下げるべき課題でもある。なお、詳しい記録が乏しいが、もうひ
.生物学
問題について、オランダ人に教えを聞いたり、また朝鮮および琉
へ の 信 頼 と 繋 が っ た と 考 え ら れ る。 次 男 の 宜 卿 が 病 に 伏 し た 時
命をとりとめた。この経験は、恐らく後にある程度彼の西洋医薬
イエズス会をはじめとするカトリック諸修道会による東アジア諸
探求にある。言い直せば、いわゆる大航海時代の到来とともに、
世 紀 末 か ら 18
世 紀 半 ば 迄 の、
近 年、 筆 者 の 関 心 が 主 と し て 16
広義的な明清交替期における東西文化の往還運動の歴史的意義の
六、終わりに代えて
)など︱を活用したと考
および家宣の侍医桂川甫筑( 1661–1747
えられる。これも、今後、さらに掘り下げるべき問題である。
球からの使節に対しても、同じく様々な質問をしたりして、絶え
ず多くの新しい知識を得ることができたわけである。
に、オランダ商館長とともに江戸にやってきたオランダ人の外科
国の布教活動は、当地固有の伝統的な知識体系︱知識構造・価値
.医学
医に病状をみてもらったのはその一例であろう。むろん、漢方医
観・認識論︱の動揺をもたらし、日本の国学、神道学、中国清代
白石が幼少期に天然痘に罹り、西洋の薬の服用によって漸く一
が圧倒的な地位を誇り、せいぜい細々と受け継がれている南蛮流
31
2
3
4
の考証学、東アジア三国の実学のように、従来の枠組で捉えきれ
ない新しい学知とその方法論の発生を誘発し、また相当一部の知
識人に対外観、又は世界観の変容をもたらしたと思われる。しか
し、そういった歴史的事象をいかに史実の裏付けをもって浮き彫
)、新井白
1575–1632
りにし、丁寧に説明していくべきか、と問われるだろう。その答
えを求めるため、筆者は、それぞれ徐光啓(
)および洪大容( 1731–1783
)という時代の前後あ
石( 1657–1725
るものの、ほぼ同時代の東アジアを代表するというべき知識人を
取り上げ、いわゆる西学という新知識によって、いかに彼らの伝
統的な知識観、自然観ないし対外観の変化を来したのかを検証し
『新井白石』、岩波書店、
35
年。
1976
(大日本思想全集 )
。
會、 1933
6
.東京大學史料編纂所編纂 大日本古記録『新井白石日記』上下、岩
波書店、昭和二十八年。
.家永三郎ほか編日本思想大系
二次資料
.宮崎道生『新井白石の研究』増訂版、吉川弘文館、 1969
年。
.宮崎道生『新井白石の現代的考察』
、吉川弘文館、 1985
年。
.宮崎道生『新井白石の史学と地理学』、吉川弘文館、 1988
年。
.宮崎道生『新井白石の時代と世界』
、吉川弘文館、 1975
年。
. ナ カ イ 著 平 石 直 昭、 小 島 康 敬、 黒 住 真 訳『 新 井 白 石
. ケ イ ト・
;
の政治戦略:儒学と史論』
、東京大学出版会、 2001
年。
本稿では、新井白石を取りあげ、主として彼の漢学と西学を中
.栗田元次『新井白石の文治政治』
、石崎書店、 1952
年。
.宮崎道生『新井白石の洋学と海外知識』、吉川弘文館、 1973
年。
心に、その知識世界の一端を垣間見ることにしただけである。白
更 に 読 み 込 み、 分 析、 整 理 し て い か な け れ ば な ら な い。 こ れ ら
は、今後の課題として更に追求していきたいと思う。
主な参考文献
一次史料
.今泉定介編輯、校訂『新井白石全集』 1–巻
、
5 、明治三十八年(非売品)
国書刊行会新版、 1977
年。
.桑原武雄編(日本の思想 )
『新井白石集』筑摩書房、 1970
年。
13
.新井白石、室鳩巣著『新井白石集・室鳩巣集』、大日本思想全集刊行
W
。
1979
.宮崎道生『新井白石の人物と政治』
、吉川弘文館、
ん社、 2010
年。
.黄俊傑主編『東亜儒学:経典与詮釈的辯正』、華東師範大学出版社、
.黄俊傑著、藤井倫明訳『東アジアの儒学:経典とその解釈』、ぺりか
.伊豆公夫『新井白石』
、白揚社、昭和十三年。
.一海知義、池澤一郎『日本漢詩人選集 新井白石』
、研文出版、 2001
。
5
.紫陽会編『新井白石﹁陶情詩集﹂の研究』、汲古書院、平成 24
年。
。
1977
.勝田勝年『新井白石の歴史學』
、厚生閣、 1939
年。
.杉浦明平﹇ほか﹈訳『新井白石・本居宣長』
(改装版)河出書房新社、
石の知識世界の全体像を描くには、江戸時代第一級とも言われる
6
彼の詩文を含め、和漢洋にわたるその膨大な知識を集めた全集を
7
ようと企図したわけである。
4
5
1
2
3
4
5
8
9
14 13 12 11 10
年。
2012
. 黄 俊 傑 主 編『 東 亜 文 化 交 流 中 的 儒 学 経 典 与 理 念 : 互 動、 転 化 与 融
15
合』、華東師範大学出版社、 2012
年。
.黄俊傑主編『東亜朱子学的詮釈与発展』、華東師範大学出版社、 2012
年。
16
17
1
2
3
32 年。
1997
.井上克人、黄俊傑、陶徳民編(日本学研究叢書 )『
9 朱子学と近世・
近代の東アジア』
、国立台湾大学出版中心、 2012
年。
.岩崎允胤『日本近世思想史序説』上下、新日本出版社、
︱
. 渡 辺 浩『 近 世 日 本 社 会 と 宋 学 』( 増 補 新 装 版 )、 東 京 大 学 出 版 会、
年。
2010
.
『日本政治思想史 十七~十九世紀』
、東京大学出版会、 2010
年。
.伊東貴之『思想としての中国近世』、東京大学出版会、 2005
年。
年。
1996
『宋学の形成と展開』
、創文社、
年。
1999
.小島毅『中国近世における礼の言説』東京大学出版会、
.
︱
年
2011
月)
1-2
.季刊『日本思想史』
、 46
号、ぺりかん社、 1995
年 12
月。
.佐々木力﹁江戸のピュタゴラス主義│新井白石から佐久間象山まで│﹂
上・下『思想』第一〇四一 二
- 号(
史料(すべて前掲『新井白石全集』に拠る)
あやまり
①佐久間洞厳 宛 享保九年(一七二四)一~二月
水戸に出来候本朝史などは、定て国史の訛を御正し候事とこそ
頼もしく存候に、水戸史館衆と往来し候て見候へば、むかしの事
は、日本紀、続日本紀等に打任せられ候体に候。それにては中々
本朝の実事はふつとすまぬ事と、僻見に候やらむ、老朽などは存
じ候。
本朝にこそ書もすくなく候へども、後漢書以来、異朝の書に本
げんぶん の
あやまり
朝の事しるし候事共、いかにも〳〵実事多く候。それをばこなた
に不吟味にて、かく異朝の書の懸聞之訛と申しやぶり、又は、三
を も、 右 の 如 く に や ぶ り す て 候。 本 朝 国 史〳〵 と の み 申 す 事 に
韓は四百余年本朝の外藩にて、それに見へ候事にもよき見合せ候
謝辞
老朽史疑、せめて日本紀に見へ候時代迄の事済候ても、よほど実
かくのごとき
古の時を以て古の事を論じ候はでは参らぬ事に候。去年やらむも
ゆきちがひある事に候。古を論じ候には、我身を古に置き候て、
候。拠今験古候事は、事にはより候へども、如此の事は、大きに
いまによりいにしへをしらべ
②佐久間洞厳 宛 享保九年(一七二四)春
今度、史疑の神代系記の中には、あらあらそれらの事にも及び
外になく候。
候。まづは本朝の始末、大かた夢中に夢を説き候やうの事に候。
科 研 費 23520093
お よ び 国 文 学 研 究 資 料 館 日
本 研 究 は、 JSPS
本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築事業の一環で
郭南燕)共同研究プロ
録の心得にはなるべく候歟と存候へども、成否は天に任し候より
ある﹁日本と西洋との相互認識に関する総合書物学的研究:キリ
シタン文学の発展と継承﹂
(研究代表
年度│平成 29
年度)の助成を受けたものです。
ジェクト(平成 26
な お、 本 稿 は、 国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー( 京 都 ) 共 同 研 究 班
『
﹁心身 身/ 心﹂と﹁環境﹂の哲学 │ 東アジアの伝統的概念の再検討
年 月
とその普遍化の試みとして』
(研究代表 伊東貴之)平成 26
5
日)にて口頭発表したレジュメを加筆して成したものである。
10
あやまり
これなきよし
水戸の衆へ、魏志に候倭国の国名はいかにとたづね候へば、伝聞
の訛と見へ候て一所も存寄無之由に候き。老拙見候ては、しれ候
はぬは五六ヶ国も候か。不残たしかに当時も候所々に候。此魏志
33
18
20 19
26 25 24 23 22 21
事も尤らしき事はなき事に候。地名などは、種々むかし人のかた
日本紀などは、はるかに後にこしらへたて候事故に、大かた一
里数戸数迄もたしかにて、けく こなたの今日が伝聞の訛にて、
かくのごとき
魏志は実録に候。如此の所が古学の益ある事にて、第一の要に候。
は、其時に彼国の使往来候て、見聞の及び候所をしるし候故に、
れしと見へ候。仮初にも西南地方になきものに候を以ても、弥以
雨の時にたゝき出され候を、国史には降り候と心得候てしるし置
にかち得候て、かの軍仗を掘り埋め、又は塚などにし候が、急雷
て、度々の軍も候を、俗に神軍とは申伝たるに候。其軍有之候時
の往来通路たしかに有たると見へ候。太古の時に彼国のものども
こ
いくさ
し
せき ど
ぐんぢゃう
じんわう
よりどころ
いよいよ
いよいよ
入犯し候はいふに及ばず、東奥、常陸、又は越後の地に盤拠し候
ばんきょ
はし申伝候事共をしるしたて候故に、地理にたがひ候事共候。某
て粛慎の楛矢、石砮、孔子の御覧及ばれ候ものと存じ候へば、弥
ことゆえ
史疑の作はこれらのための物に候。すでに天武天皇の、旧事紀は
生の物に候。
もつとも
いつはり多く候とて、御改候はんとの詔候処に、崩御にて其書功
成り候はぬに付て、古事記は勅撰にて、旧事とはよほどゆきちが
神 武 を 以 て 本 朝 人 王 の 始 と し、 国 史 に 見 へ 候 所 を 拠 と し 候 て
これあり
ほう
ひ〳〵し候て、いかにも実録と見へ候共多々有之候。殊に、異国
たいざん
も、わづかに周の末世にあたり候。あなたにては、其よりさきに
ぞんぜられ
の史、三韓の国史に引合せ候に、ひたと合ひ候ものに候。此書な
殷、夏、猶それよりさきに三皇五帝、いかほども候て、泰山に封
うち
どを、世にはなにもなきやうに心得候事、よく不学之事やと被存
禅の君七十二代の中、管仲聞及ばれ候十代、孔子はそれより少し
多く聞思及ばれ候と、史記封禅書にも候へば、異邦にても、太古
ぜん
候事に候。
かたじけなくぞんじたてまつり
きき
の事は聖賢もしろしめされぬ事いくらも候と見へ候。
これを以て見候へば、神武より以前の日本の代、いかほども神
ぬて
しらへ候ものにて、神代以来、さやうのもの此国に用ひ候とは見
いだ
③佐久間洞厳 宛 発信年月未詳
せきぞく
石 鏃 三 ツ、 さ て 〳〵 め づ ら し く 忝 奉 存 候。 此 物 の 事 は 本 朝
まかりなり
代 に て 聞 も 及 ば ぬ 候 べ く 候。 其 証 に は、 国 史 に 見 へ 候 所 に、 能
くだされ
の国史にも二所か三所見へ候。某方にも、鹿島の浦、出羽由利郡、
ず
登、近江、遠江、其外の国々よりも、地中より鐸をほり出し、高
す
能登珠洲郡より出候と、此たび被下候と、合せて十に罷成候。南
さ三尺、径一尺のものいくらも候。これはとかく人の細工にてこ
つかはすべく
部 に 居 候 親 類 共 よ り も、 南 部 の も の を 可 遣 候 と 申 約 し 候。 又 々
つかまつるべく
可 仕 候。
へず候。聞も及ばぬ神代に、それらの道具入りたる世こそ候事と
にふはん
せき ど
此物、俗間に申す神軍の矢の根にて候。きはめてふるきものに
ご
見へ候ひつらめ。況や神代と申す世もよく吟味し候はゞ、二三百
け
候。すなはち、書経に候砮、孔子家語、国語などに候石砮にて、
年も遠き代のやうに書なされ候事と見へ候、実は周末、秦の始に
ど
粛慎国のものに候。すでに国史にも、粛慎国のもの佐渡に入犯し
まつかつこく
畢竟、皇統をたて候はんとて、それよりさきの事は申消し候て、
ひつきゃう
相当るべく候。
つぼのひ
候事も候。蝦夷地より入犯の事も候。次に、壺碑に靺鞨国への道
程も見へ候。靺鞨は古粛慎の地にて候。天平の頃迄も、本邦より
34 これあるべく
たぐひ
神代とまぎらかし候と見へ候。しからば、神社などの類の本縁、
し ら れ ぬ 事 い く ら も 可 有 之 候 を、 見 候 事 の や う に き は め 候 は ん
よりどころ
は、君子のあるまじき事、疑は疑を伝ふる聖言に大きにたかひ候
べ く 候。 た ゞ 少 も 拠 の た し か に 候 事 を 以 て き は め た も の と、 愚
存は存寄候迄に候。以上
④『西洋紀聞』
くわだて
イ、凡そ、其人博聞強記にして、彼方多学の人と聞えて、天文・
地理の事に至ては、企及ぶべしとも覚えず。
か
ロ、其教法を説くに至ては、一言の道にちかき所もあらず。智愚
たちまちに地を易へて、二人の言を聞くに似たり、こゝに知り
ぬ、彼方の学のごときは、たゞ其形と器とに精しき事を。所謂
ソ
形而下なるもののみを知りて、形而上なるものはいまだあづか
り聞かず。
ハ、前代の御時に、某申せし事もあれば、今此事をしるす事凡三
巻。初には、此事の始末をしるして、長崎奉行所より注進せし
大略をうつして附す。中には、其人のいひし海外諸国の事共を
しるす。終には、某問ひしに、答へし事共の大要をしるす(西
ずきゃう
りん ね ほうおう
洋紀聞 上巻)
。
くわんぢゃう
ニ、今エイズスが法をきくに、造像あり、受戒あり、灌頂あり、
誦経あり、念珠あり、天堂地獄・輪廻報応の説ある事、仏氏の
みん き
言に相似ずといふ事なく、其浅陋の甚しきに至りては、同日の
論とはなすべからず。明季の人、其国の滅びし故を論ぜしに、
天主の教法、其一つに居れり(西洋紀聞 下巻)。
35
弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』の刊行及び編集要項
平成23年 1 月19日教授会承認
平成26年 5 月21日最終改正 この要項は,弘前大学人文学部紀要『人文社会論叢』(以下「紀要」という。)の刊行及び編集に
関して定めるものである。
1 紀要は,弘前大学人文学部(以下「本学部」という。)で行われた研究の成果を公表することを
目的に刊行する。
2 発行は原則として,各年度の 8 月及び 2 月の年 2 回とする。
3 原稿の著者には,原則として,本学部の常勤教員が含まれていなければならない。
4 掲載順序など編集に関することは,すべて研究推進・評価委員会が決定する。
5 紀要本体の表紙,裏表紙,目次,奥付,別刷りの表紙,研究活動報告については,様式を研究
推進・評価委員会が決定する。また,これらの内容を研究推進・評価委員会が変更することがある。
6 投稿者は,研究推進・評価委員会が告知する「原稿募集のお知らせ」に記された執筆要領に従っ
て原稿を作成し,投稿しなければならない。
「原稿募集のお知らせ」の細目は研究推進・評価委
員会が決定する。
7 論文等の校正は著者が行い, 3 校までとし,誤字及び脱字の修正に留める。
8 別刷りを希望する場合は,投稿の際に必要部数を申し出なければならない。なお,経費は著者
の負担とする。
9 紀要に掲載された論文等の著作権はその著者に帰属する。ただし,研究推進・評価委員会は,
掲載された論文等を電子データ化し,本学部ホームページ等で公開することができるものとする。
10 紀要本体及び別刷りに関して,この要項に定められていない事項については,著者が原稿を投
稿する前に研究推進・評価委員会に申し出て,協議すること。
附 記
この要項は,平成23年 1 月19日から実施する。
附 記
この要項は,平成23年 4 月20日から実施し,改正後の規定は,平成23年 4 月 1 日から適用する。
附 記
この要項は,平成24年 2 月22日から実施する。
附 記
この要項は,平成26年 5 月21日から実施する。
執筆者紹介
諸 岡 道比古(文化財論講座・宗教学)
李
梁(思想文芸講座・中国思想史)
木 村 宣 美(コミュニケーション講座/英語学)
奈 蔵 正 之(コミュニケーション講座/フランス文学・フランス研究)
小野寺
進(コミュニケーション講座/イギリス文学・文化)
松 井
太(国際社会講座・内陸アジア史)
編集委員 (五十音順)
◎委員長
足 達 薫
飯 島 裕 胤
大 倉 邦 夫
奥 野 浩 子
河 合 正 雄
須 藤 弘 敏
福 田 進 治
松 井 太
◎保 田 宗 良
李 梁
渡 辺 麻里子
人文社会論叢(人文科学篇) 第
三十三号
二〇一五年二月二十八日
編 集 研究推進・評価委員会
発 行 弘前大学人文学部
- 弘前市文京町一番地
http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/
印 刷 やまと印刷株式会社
- 弘前市神田四 ―四 ―五
036
8560
036
8061
日本語の右枝節点繰上げと削除分析*
木 村 宣 美
0. はじめに
日本語には,次の(1)に示されているように,右枝節点繰上げ(right node raising: RNR)構文(以
降,RNR 構文)がある。
(1) John-ga
Mary-ni, sosite Bill-ga
John-NOM Mary-to and
Susan-ni kisusita
Bill-NOM Susan-to kissed
ʻJohn(kissed)Mary, and Bill kissed Susan.ʼ(Sohn 1999: 367)
(1)は,動詞 kisusita ʻkissedʼ が等位項に共通に生じている RNR 構文である。このような日本語の
RNR 構文に対して,Saito(1987)は RNR 構文の共通要素(RNR 要素)の右方移動に基づく分析,
Sohn(1999)はかき混ぜ(scrambling)による顕在的移動(overt movement)が適用された記号列に音声
形式(phonetic form : PF)部門での削除が適用されるとする移動と削除に基づく分析,Mukai(2003)
は構成素性(constituency)を考慮しない記号列削除(string deletion)に基づく分析,Kato(2003, 2006)
は等位構造に特有な構文であることを捉えるために AND Copy を提案し,素性[+ focus]を仮定す
る 焦 点 化 移 動(focus movement)に 基 づ く 分 析,Sato(2010)は Williams(1997)の 等 位 構 造 削 除
(coordinate ellipsis: CE)と 従属部削除(dependent ellipsis: DE)に基づく分析,Abe and Nakao(2010)
は記号列空虚移動(string vacuous movement)に基づく分析を提案している。1 日本語の RNR 構文の
*本稿は,日本中部言語学会第 57 回定例研究会
(平成 23 年 12 月 17 日
静岡県立大学)での研究発表「日本語の逆
行等位構造縮約」の内容の一部に,加筆修正を施したものである。なお,本研究は,平成 22 年度−平成 24 年度
日本学術振興会科学研究費補助金(基盤研究(C)研究課題『句構造の非対称性・線形化と構造的依存関係に関す
る理論的・実証的研究』
(課題番号 22520487))及び平成 26 年度日本学術振興会科学研究費助成事業(学術研究助
成基金助成金)
(基盤研究(C)研究課題『右方移動現象の分析に基づく併合と感覚運動体系における線形化のメカ
ニズムの解明』
(課題番号 26370557))に基づく研究成果の一部である。
1 (1)
の逆行等位構造縮約(backward
conjunction reduction: BCR)構文(以降,BCR 構文)に対する分析として,空
所化(gapping)に基づく分析(空所化分析:Kato(2003, 2006), Sato(2010))と右枝節点繰上げ(RNR)に基づく分析
(RNR 分析:Saito(1987), Sohn(1999), Mukai(2003), Abe and Nakao(2012))が提案されている。この点に関して,
特に議論することなく,本稿では BCR 構文は RNR 構文であると仮定する。RNR 構文であるとする Neijt(1979)
の分析に基づく議論に関しては,木村(2012a)を参照のこと。
1 分析には,Saito(1987)の RNR 要素の右方移動に基づく分析を除き,概略,等位項内に共通に生じて
い る RNR 要 素 以 外 の 要 素, す な わ ち, 残 余 要 素(remnants)に 顕 在 的 な 焦 点 移 動(overt focus
movement︶,すなわち,残余要素の左方移動が適用される構文であるかどうかに関して違いがある。
Sohn(1999︶, Kato(2003, 2006)
, Abe and Nakao(2012)は,残余要素の左方への顕在的焦点移動を仮
定しているが,Mukai(2003)
, Sato(2010)は仮定していない。本稿の目的は,日本語の RNR 構文は
残余要素に顕在的な焦点移動,すなわち,残余要素の左方移動が適用される構文ではないことを示
すことにある。
1. 日本語の右枝節点繰上げに対する先行研究
1.1. 左方移動と PF 削除分析 : Sohn(1999)
Sohn(1999: 368-369)は,空所化とは異なる特性(2)に基づき,日本語と朝鮮語の BCR 構文は空
所化構文ではなく RNR 構文であると論じている。
(2)
Right Node Raising in Korean and Japanese(Sohn 1999: 369):
1)RNR is not allowed in the constructions other than coordination
2)There is no limit on the number of remnants
3)Postposition stranding is allowed in RNR
4)Unlike in Gapping, RNR doesnʼt obey the clause-mate condition and the distance between
remnants can be very far; however, RNR still obeys island constraints
5)
The gap appears in the first conjunct in the RNR
Sohn(1999)によれば,日本語や朝鮮語の RNR は空所化とは異なり,1)等位構造以外の構文では許
されない,2 2)残余要素の数に制限はない,3)後置詞の残留(postposition stranding)が許される,4)
2 Kato
(2003, 2006)は,英語の RNR は,
(i)に示されているように,等位構造やそれ以外の構造でも許されるこ
とがあるが,日本語では,(ii)で示されているように,等位構造を導く随意的な sosite ʻandʼ に限られ,それ以外
の接続詞 sikasi ʻbutʼ, aruiwa ʻorʼ, atode ʻafterʼ, toki ʻwhenʼ では認可されないことを指摘している。この特性を捉える
ため,Kato(2003, 2006)では,AND Copy が提案されている。Sato(2010)は,Williams(1997)の[X, X]P → XP
and XP という形式の二価の語彙項目の投射(the projection of a bivalent lexical item)や等位構造削除(CE)を仮定す
ることで,等位構造に特有の現象であるということを捉えようとしている。
(i) a. I am confident of a successful outing at the track and dependent on a successful outing at the track.
b. John interviewed people who like potatoes and people who dislike potatoes.
c. John was standing on a new table, or on an old table.
(ii)a.*John-ga
hon-o
keredomo Mary-ga
hana-o
katta
John-NOM
book-ACC(bought)but
Mary-NOM flower-ACC bought
ʻJohn(bought)
books, but Mary bought flowers.ʼ(Kato 2006: 2)
b.*John-ga zassi-o 0v
atode/node, Mary-mo hon-o
katta
John-NOM magazine-ACC after/because Mary-also book-ACC bought
ʻAfter/Because(bought)a magazine, Mary also bought a book.ʼ(Sato 2010: 313)
2
節仲間制約(clause-mate condition)に従う必要はなく,3 残余要素は主節と従属節に生じることが許
されるが,島の制約(island conditions, cf. Ross 1967)に従う,5)空所は左側の等位項にある。4
1.2. 記号列削除(String Deletion : SD)分析 : Mukai(2003)
Mukai(2003)は,削除の適用の対象となる記号列が構成素である必要のない,論理形式(PF)部
門での同一性(identity)に基づく記号列削除(SD)分析,すなわち,RNR 構文の分析として,移動
を仮定しない分析を提案している。5
Mukai(2003)は,RNR 構文は構成素性(constituency)に従わない SD によって導かれ,移動が適用
されて導かれるのではないとの分析を提案している。移動が関与しているのであれば,島の条件効
果(island condition effects)が観察されるはずであるが,
(3)に示されているように,島の条件効果
が見られないからである。
3
Sohn(1999: 369)は,
(i)に基づき,空所化に課せられる節仲間制約が課されないことを指摘している。
(i)a. Tom-un
phicca-lul, kuliko Jo-nun ayskrim-ul
Tom-TOP pizza-ACC and
ku ay-ka
cohahanta-ko mitnunta
Jo-TOP icecream-ACC the boy-NOM like-COMP
ʻTom, pizza and Jo believes that the boy likes ice creamʼ(Sohn 1999: 369)
b. Tom-un
phicca-lul i ku ay-ka t i cohahanta-ko mitnunta kuliko Jo-nun ayakrim-ul j
Tom-TOP pizza-ACC i the boy ti like-COMP
ku ay-ka t j
the boy t j
believe
cohahanta-ko
like-COMP
mitnunta
believe
and
Jo-TOP ice cream-ACC j
believe
(i)では,「Tom はその少年がピザが好きだと信じ,Jo はその少年がアイスクリームが好きだと信じている。」と
いう同一の節内の要素ではない Tom とピザが残余要素であり,節仲間制約に従っていない。なお,(i)には,節
仲間制約に従った「その少年が Tom はピザが好きだと信じ,そしてその少年が Jo がアイスクリームが好きだと
信じている。
」という解釈も存在する。
4
Sato(2010: 318)は,後置詞の省略(postposition-drop)に基づき,Saito(1987)の移動分析の不備を指摘してい
る。Abe and Hoshi(1997)が指摘しているように,日本語では後置詞 nituite ʻaboutʼ の省略が許される。
(i)John-ga
John-NON
Bill, (sosite) Mary-ga
Bill
and
Mary-NOM
Susan-nituite
Susan-about
hanasita
talked
ʻJohn(talked about)
Bill, and Mary talked about Susan.(Abe and Hoshi 1997:111)
RNR は,通常は,構成素に適用されるので,nituite と hanasita は非構成素であり,RNR の適用を受けることはな
いという主張である。再分析(reanalysis)のメカニズムに基づき,(i)を扱うことはできても,(ii)を扱うことは
できない。再分析は付加詞と動詞には適用されないからである。
(ii)John-ga
kono riyuu-(de)
(sosite)
,
Mary-ga
John-NOM that reason-for
and
ano
Mary-NOM that
riyuu-de
kubininatta.
reason-for was-fired
ʻJohn(was fired)
(for)
this reason,(and)
Mary was fired for that reason.ʼ(Abe and Hoshi 1997:112)
(ii)の付加詞 riyuu(de)の de と動詞 kubininatta が,再分析されることはない。この現象は,移動分析ではなく削
除分析を支持する現象であるように思われる。なお,RNR 要素が非構成素であっても許される場合に関しては,
Abbott(1976)や Kimura(1985)を参照のこと。
5
Mukai(2003)は,日本語の RNR 構文を verbless conjunction と呼んでいる。
3 (3) Mike-ga
Mike-NOM
raion-ni,
Tom-ga
lion-DAT
Tom-NOM
[NP kuma-ni
bear-DAT
osowareta
otoko]
-o
tasuketa
was:being:attacked
man-ACC saved
ʻMike saved the man who was being attacked by a lion, and Tom saved the man who was being
attacked by a bear.ʼ(Mukai 2003: 210)
(3)の左側の等位項には,Mike-ga と raion-ni が残余している。仮に,残余要素 raion-ni が移動操作
の適用を受けているとするならば,抜き出し(extraction)操作に対する島(islands)である複合名詞
句(complex NPs)の[NP raion-ni osowareta otoko]からの抜き出しは許されず,非文法的となるはずで
あるが,実際は,文法的であるとの判断が示されている。これは,Mukai(2003)によれば,移動が
関わっていないことを示す証拠である。
(3)の派生に移動が関与しておらず,osowareta otoko-o
tasuketa という構成素をなしていない記号列が削除されるというのが,Mukai(2003)の SD に基づ
く分析である。
Mukai(2003: 211)は,SD に課される唯一の構造条件(structural condition)は,削除される記号列
が連続(continuous)し,動詞を含まなければならないという条件のみであると主張する。6 この点
を,次の(4)を例にとり,考えてみることにする。
(4) a. * Tom-ga
keeki-o,
Mike-ga
Mary-ni
tyokoreeto-o
ageta
Tom-NOM cake-ACC Mike-NOM Mary-DAT chocolate-ACC gave
ʻ Tom gave a cake to Mary, and Mike gave a chocolate to Mary.ʼ
b. Tom-NOM Mary-DAT cake-ACC gave, Mike-NOM Mary-DAT chocolate-ACC gave
Mukai(2003)によれば,
(4a)の非文法性は,削除されている記号列が連続していないことに起因す
る。すなわち,
(4b)に示されているように,
(4a)では,Mary-DAT と gave の不連続な記号列が削除
されている。この結果として,
(4a)が非文法的となっている。7
6
An(2007)も,i)
RNR 構文の削除される要素は線形的に隣接(linearly adjacent)していなければならず,ある要
素がその間に介在することは許されない,ii)等位項の右側にある要素が削除されることを指摘している。 Mukai
(2003)や An(2007)で指摘されている単一の最後の構成素の削除が必要であること,不連続な要素の削除が認め
られないこと,動詞が含まれなければならないことは,RNR に課される右端制約(right edge restriction: RER)から
導き出される特性である。右端制約(RER)に関しては,McCloskey(1986), Erteschik-Shir(1987), Oehrle(1991),
Wilder(1999)
, Sabbagh(2003, 2007), Abels(2004), Bošković(2004), Ince(2009), 木村(2011b, 2012a)を参照のこと。
7 (4)の目的語名詞句
keeki-o/tyokoreeto-o に左方移動が適用され,削除される記号列が連続するようになると,
右端制約(RER)が満たされ,(i)に示されているように,文法的となる。
(i)a. Tom-ga
keeki-o,
Mike-ga
tyokoreeto-o
Mary-ni
ageta
Tom-NOM cake-ACC Mike-NOM chocolate-ACC Mary-DAT gave
ʻ Tom gave a cake to Mary, and Mike gave a chocolate to Mary.ʼ
b. Tom-NOM cake-ACC Mary-DAT gave, Mike-NOM chocolate-ACC Mary-DAT gave
4
Mukai(2003: 222)では,RNR 構文の特性として,1)非構成素が RNR 要素として生じる,2)下接
の条件の効果が観察されない,3)
PF 同一性条件が要求されることを指摘し,構成素性に基づかな
い記号列削除(SD)分析が提案されている。
1.3. 記号列空虚移動(String-Vacuous Movement: SVM)分析 : Abe and Nakao(2012)
顕在的統語移動(overt syntactic movement)では,通常,語順(word order)が変わるが,語順の変
わらない記号列空虚移動(SVM)がある。この SVMに基づくRNR 構文の分析を,Abe and Nakao(2012)
は提案している。SVM とは,概略,
(5)に示されている移動のことである。
(5) a
ta
β
γ
(5)に示されているように,t α の位置から a の位置への移動において,記号列の語順が変わること
はない。このような移動は,
(6a, b)の文法性で示されているように,主語位置に WH 疑問詞が生じ,
主語と助動詞の倒置(subject-auxiliary inversion)が起こらない場合に仮定されている移動である。
(6) a. Who left?
b. *Who did leave?
(6a)は文法的であるが,
(6b)は非文法的である。これは,主語位置に WH 疑問詞がある場合に,
主語と助動詞の倒置が起こらないことを示している。一般的には,WH 語は節(CP)の指定辞にあ
ると仮定されているので,
(6a)でも,WH 語 who の CP 指定辞への WH 移動が適用されるが,語順
に変更が生じることはない。この移動が SVM である。
Abe and Nakao(2012)は,日本語の RNR 構文に対する SVM に基づく分析 8 を提案し,RNR 残余
要素は,基本的には島の条件に従うが,島の効果が観察されない場合は,残余要素が島の左端(left
edge)にある場合,すなわち,焦点(focus)移動が記号列空虚(string-vacuous)の場合であるとの分
析を提案している。他方,Mukai(2003)とは異なり,RNR 残余要素が島の左端にない時,また,
残余要素が付加詞である時には島の条件効果が表れると主張する。この点を,(7a, b)を例にとり,
考えてみることにする。
(i)が文法的なのは,目的語名詞句の左方移動により,Mary-DAT と gave という連続する記号列が削除されてい
るからである。
8
Abe and Nakao(2012)は,RNR に対して,残余要素が焦点移動され,最初の等位項での Tʼ 削除(Tʼ-deletion)が
適用されるとする分析を提案する Abe and Hoshi(1997)の空所化分析を仮定している。
5 (7) a. * John-wa
kuma-ni, sosite Mary-wa
John-TOP bear-by and
minna-ni
raion-ni Bill-ga
osowareta koto-o
Mary-TOP lion-by Bill-NOM attacked
fact-ACC
itta
everyone-DAT told
ʻJohn _ by a bear, and Mary told everyone that Bill was attacked by a lion.ʼ
b. * John-wa
munoosa-no
tameni, sosite Mary-wa
John-TOP incompetent-GEN because and
tameni kubi-ninatta hito-o
because be-fired
mudan kekkin-no
Mary-TOP absence-without-notice-GEN
nagusameta
person-ACC comforted
ʻJohn _ because of his incompetence, and Mary comforted a person who was fired because of
his absence without notice.ʼ(Abe and Nakao 2012: 4)
(7a)の RNR 残余要素 kuma-ni は島の左端になく,(7b)の残余要素 munoosa-no tameni は付加詞であ
り,(7a, b)では島の条件効果が観察されるとの判断が Abe and Nakao(2012)で示されている。
Abe and Nakao(2012)によれば,Mukai(2003)が島の条件効果が観察されないと分析した(3)は,
残余要素が島の左端にあり,焦点移動が記号列空虚である場合であるということになる。RNR 構
文で島の条件効果が観察されないのは,RNR の残余要素が項(argument)であるか,それとも,島
の左端にある時であるというのが Abe and Nakao(2012)の分析である。島の条件効果が観察されな
い場合の(8a)と観察される場合の(8b)に対する SVM に基づく分析を簡単に概観することにする。
(8) a.[=(3)]Mike-ga
raion-ni, Tom-ga [NP kuma-ni
osowareta
otoko]
-o
tasuketa
Mike-NOM lion-DAT Tom-NOM bear-DAT was:being:attacked man-ACC saved
b.[=(7)]
*John-wa
kuma-ni, sosite Mary-wa raion-ni Bill-ga
John-TOP bear-by and
minna-ni
osowareta koto-o
Mary-TOP lion-by Bill-NOM attacked
fact-ACC
itta
everyone-DAT told
Abe and Nakao(2012)によれば,
(8a)は焦点移動が残余要素 raion-ni/kuma-ni に適用され,島の左端
に SVM がなされている。この移動は,非顕在的移動(covert movement)である。他方,
(8b)は SVM
ではない。Kuna-ni/raion-ni と述語 osowareta の間に主語 Bill-ga が介在しているからである。これは
顕在的移動(overt movement)であり,島の条件効果が生じ,(8b)は非文法的となる。
6
2. 日本語の右枝節点繰上げと削除分析
本節では,日本語の RNR 構文の諸特性を適切に捉えるために,全域的 RNR 構文の in-situ 削除分
析を簡単に概観する。
(9) 全域的 RNR 構文の in-situ 削除分析(Kimura 1985, 1986, 木村 2011a, b, 2012a, b)
:
RNR 要素は,一番右側の等位項内にある。
木村(2011a, b, 2012a, b)は,
(9)に示されているように,全域的 RNR 構文の共通項である RNR 要
素は一番右側の等位項内にあり,それ以外の等位項(non-final conjunct(s)
)の RNR 要素に対応する
要素には削除が適用されるとする分析を提案している。9 本稿では,Mukai(2003)と同様に,日本
語の RNR 構文は,
(10)に示されているように,逆行削除(backward deletion)の適用で導かれると
仮定している。
(10)Backward deletion in the non-final conjunct(s)
(cf. Mukai 2003)
日本語の RNR 構文は,一番右側の等位項以外での逆行削除の適用で導かれる。
本稿の分析が正しいとすると,英語と日本語において,RNR 構文の派生過程が同一であることに
なる。すなわち,英語であれ日本語であれ,移動(movement)ではなく削除(deletion)が適用されて
導かれることになる。日本語の RNR 構文が移動ではなく削除が適用されて導かれることを第 3 節
で概観する。10
3. RNR 構文と残余要素の左方移動
3.1. 島の条件効果と文法性に関する判断の違い
日本語の RNR 構文の派生に関しては,第1節で概観したように,残余要素(remnants)が左方に
顕在的に移動されるとする分析が提案されている。例えば,Sohn(1999: 380)では,RNR 構文は,
等位項内の残余要素と対応する要素が顕在的にかき混ぜ(scrambling)の適用の後に,同一性のもと
に音声形式部門(PF)での削除の適用がなされて導かれるとの分析が提案されている。
(11)[ =(1)]John-ga Mary-ni, sosite Bill-ga Susan-ni kisusita
]
]sosite[IP Bill-ga[
]
]
(12)[IP John-ga[
1 IP Mary-ni[
2 IP t1 t2 kisusita]
3 IP Susan-ni[
4 IP t3 t4 kisusita]
9
RNR の削除分析に対しては,Neijt 1979, George 1980, Wexler and Culicover 1980, Banfield 1981, Hartmann 2000,
Bošković 2004, Ha 2006a, b, Chalcraft 2006, Ince 2009, An 2009, Barros and Vicente 2011 を参照のこと。
10
Abe and Nakao(2012)は,RNR 構文が全域的(across-the-board: ATB)規則適用に基づき導かれるとする Ross
(1967)の分析を擁護する Sabbagh(2007)の ATB 移動分析に基づく分析を仮定している。
7 (12)の表示は,焦点化された句が多重に顕在的移動,すなわち,かき混ぜの適用を受けて,顕在
的統語論(overt syntax)において得られる表示である。この表示が音声形式部門(PF)において,左
側の等位項で削除が適用され導かれるのが(11)である。顕在的移動が RNR 構文に関与していると
する証拠に,島の条件(island conditions)効果が観察されることが指摘されている。
(13)a.?? John-i
phiano-lul, kuliko Bill-i
John-NOM piano-ACC and
sasil-ul
kitha-lul
Mary-ka
cal
chintanun
Bill-NOM guitar-ACC Mary-NOM well play
anta
fact-ACC know
ʻJohn, piano and Bill knows the fact that Mary plays guitar very well.ʼ
b.?? Tom-i
phicca-lul, kuliko Jo-ka
Tom-NOM pizza-ACC and
ayskrim-ul
ku ai-ka
cohahanum-ci
Jo-NOM icecream-ACC the boy-NOM like-Q
alko sipehanta
want to know
ʻTom, pizza and Jo wants to know whether the boy likes ice creamʼ
c.?? John-i
chayk-ul,
kuliko Mary-ka
John-NOM book-ACC and
inhyeng-ul san tuy-ey pap-ul
Mary-NOM doll-ACC buy after
mekessta
meal-ACC had
ʻJohn, a book and Mary had a meal after she bought a doll.ʼ(Sohn 1999: 369)
(13a)は内容節(content clauses)
,
(13b)は WH 節(WH-islands)
,
(13c)は付加節(adjunct clauses)から
の残余要素の抜き出し(extraction)がなされており,Sohn(1999)の判断によれば,島の条件に違反
し,非文法的である。
Abe and Nakao(2012)は,RNR 残余要素が島の左端にない時,また,残余要素が付加詞である時
に,島の条件効果が表れるとする分析を提案している。
(14)
[=(7)
]a. * John-wa
kuma-ni, sosite Mary-wa
John-TOP bear-by and
minna-ni
raion-ni Bill-ga
osowareta koto-o
Mary-TOP lion-by Bill-NOM attacked
fact-ACC
itta
everyone-DAT told
b. * John-wa
munoosa-no
tameni, sosite Mary-wa
John-TOP incompetent-GEN because and
tameni
kubi-ninatta hito-o
because be-fired
8
mudan kekkin-no
Mary-TOP absence-without-notice-GEN
nagusameta
person-ACC comforted
(14a)の残余要素 kuma-ni は島の左端になく,
(14b)の残余要素 munoosa-no tameni は付加詞である。
RNR 構文の残余要素が項でもなく,島の左端にもないので,(14)は非文法的であるとの分析が提
案されている。
Sohn(1999)や Abe and Nakao(2012)とは異なり,Neijt(1979)や Mukai(2003)や Sato(2010)では,
(15)や(16)に基づき,島の条件効果が観察されないことが指摘されている。
(15)a. 等位構造制約(CSC)
*Alfonse cooked the beans and the rice and Harry cooked the potatoes and the rice.
b. 文主語制約(SSC)
That Alfonse cooked the rice and that Harry ate the rice is fantastic.
c. 複合名詞句制約(CNPC)
Alfonse discussed the question of which rice we would eat and Mary discussed the question of
which beans we would eat.
(16)[=(3)]Mike-ga
raion-ni,
Tom-ga [NP kuma-ni
osowareta
otoko]-o
tasuketa
Mike-NOM lion-DAT Tom-NOM bear-DAT was:being:attacked man-ACC saved
Neijt(1979)は,
(15)のデータに基づき,CSC を除き,英語の RNR では島の条件効果が観察されない
ことを指摘している。同様に,Mukai(2003)は,
(16)に基づき,日本語の RNR でも島の条件効果が
観察されないことを指摘している。
Mukai(2003: 215-216)は,更に,RNR 構文には左方移動が関与し,島の条件,すなわち,下接の
条件(subjacency)に違反することにより,文法性が低下するとする分析を批判している。この点
を,(17a, b)を例にとり,考えてみることにする。11
(17)a. Mike-ga
raion-ni,
Tom-ga [NP[IP pro kuma-ni
Mike-NOM lion-DAT Tom-NOM
osowareta] otoko]-o
tasuketa.
bear-DAT was attacked man-ACC saved
ʻMike saved the man who was being attacked by a lion, and Tom saved the man who was being
attacked by a bear.ʼ(Mukai 2003: 215)
b. Tom-ga
Lakers-ni,
Mike-ga
Nets-ni
Bulls-ga
katu
to
omotteita.
Tom-NOM Lakers-DAT Mike-NOM Nets-DAT Bulls-NOM defeat COMP thought
ʻTom thought that Bulls would defeat Lakers, and Mike thought Bulls would defeat Nets.ʼ
(Mukai 2003: 216)
11
Sato(2010: 319)は,Mukai(2003)の指摘する(17)の観点から,Abe and Hoshi(1997)の左方移動に基づく分析
を批判し,等位構造省略(CE)と従属部省略(DE)に基づく分析が優れていることを論じている。
9 (17a)の残余要素 raion-niは統語上の島を構成する関係詞節(relative clauses)を含む複合名詞句(complex
noun phrases)内にあるが,
(17b)の Lakers-ni は統語上の島の中にはない。RNR 構文の残余要素に左
方移動が適用されているとするならば,統語上の移動に課される下接の条件に基づき,文法性の違
いが観察されることが期待される。すなわち,下接の条件に違反する(17a)は非文法的で,違反し
ない(17b)は文法的であることが期待される。しかしながら,Mukai(2003)によれば,調査結果は
期待される数値と大きくかけ離れている。
(17a)を文法的と判断する被検者は 43 名中 37 名で,
(17a)を非文法的で(17b)を文法的であると判断した被検者は 1 人もいなかったことが報告されて
いる。
3.2. 格標識や後置詞の脱落
島の条件効果があるとの主張に対して,移動に課される島の条件以外の要因で文法性が低くなっ
ていると,Kato(2006: 51)は主張する。この点を,次の(18)を例にとり,考えてみることにする。
(18)a.?? Harry-ga
imiron,
sosite Alfonse-ga
Harry-NOM semantics and
toogoron-o
kenkyuusiteiru
Alfonse-NOM syntax-ACC is studying
genngogakusya-ni atta
linguist-DAT
met
ʻHarry met a linguist who studies demantics and Alfonse syntax.ʼ(Abe and Hoshi 1997: 115)
b. ? Harry-ga
imiron-o,
sosite Alfonse-ga
Harry-NOM semantics-ACC and
toogoron-o
kenkyuusiteiru
Alfonse-NOM syntax-ACC is studying
genngogakusya-ni atta
linguist-DAT
met(Kato 2006: 51)
(18a)は,Abe and Hoshi(1997)で文法性が低いと判断され,この文法性の低さは移動に課される島
の条件効果であるとされている。この主張に対して,Kato(2006)は,
(18a)の文法性の低さは島の
条件効果に因るのではなく,imiron ʻsemanticsʼ において格標識(case-markers)や後置詞が脱落してい
ることに因るとの分析が示されている。例えば,(18b)のように,格標識 / 後置詞 -o が付加される
ことで,文法性の向上が見られるとの主張がなされている。静岡県立大学の坪本篤朗氏(個人談話)
から,格標識の脱落は,くだけた口語的スピーチ(colloquial Japanese Speech)で見られることが多
く,文末に不変化詞(particles)の助詞 -yo や -zo 等が付加され,
(19)のように,カジュアルな意味
合いが込められると,
(18a)の文法性でさえ上がるとのご指摘をいただいた。
10
(19)Harry-ga
imiron,
sosite Alfonse-ga
Harry-NOM semantics and
toogoron-o
kenkyuusiteiru
Alfonse-NOM syntax-ACC is studying
genngogakusya-ni atta-yo/zo.
linguist-DAT
met-PARTICLE
格標識や後置詞の脱落が文法性の低下を招いているとするならば,RNR 構文の派生に左方移動が
関与し,島の条件への違反の結果として,文法性が低くなっているとは言えないことになる。
3.3. 左枝条件効果
RNR 構文に左枝条件(left branch condition: LBC)の効果が観察されないということは,RNR 構文
の残余要素に左方移動(leftward mevement)が関与していないことを示す証拠となる。Sato(2010:
322-323)では,Kim(1997)の統語的移動と PF 削除に基づく分析で説明することのできない現象と
して,RNR 構文に左枝条件(LBC)の効果が観察されないことが指摘されている。
(20)a. Nina-wa
Ana-no
(sosite)Lydia-wa
Nina-TOP Ana-GEN
and
Tomo-no
kuruma-o untensita.
Lydia-TOP Tomo-GEN car-ACC drove
ʻNina(drove)
Anaʼs(car)
and Lydia drove Tomoʼs car.ʼ
b. * Tomo-no i
Lydia-wa
Tomo-GEN Lydia-TOP
ti
kuruma-o untensita.
car-ACC
drove(An 2007:145-146)
左方移動に基づく分析では,
(20a)は,より大きな名詞句 Ana-no/Tomo-no kuruma-oから Ana-no/Tomono が抜き出されることにより導かれることになる。しかしながら,この移動は,
(20b)で示されている
ように,LBCに違反し,許されないはずであるが,
(20a)は,実際は文法的である。
(20a)において
LBC の効果が見られないということは,RNR 構文に残余要素の左方移動が関与していないという
ことを示している。12
12
Abe and Nakao(2012)の記号列空虚移動(SVM)分析では,(20a)が文法的であるのは,この移動は非顕在的な
SVM であり,(20b)が非文法的であるのは,顕在的移動が適用されている結果であると分析することになる。
Abe and Nakao(2012)が提案する SVM に基づく非顕在的移動と顕在的移動の観点での左枝条件効果が関わる現
象に対する分析を,島の条件効果が関わる現象との比較のもとで検討してみると,SVM を仮定することで,
Mukai(2003)が指摘する島の条件効果が存在しないことに対して説明を与えることができたのと同様な形で,左
枝条件効果が観察されないことに対して説明を与えることができないように思われる。
11 4. まとめ
日本語の RNR 構文の分析として,等位項内に共通に生じている RNR 要素以外の要素,すなわち,
残余要素(remnants)に顕在的な焦点移動(overt focus movement),すなわち,残余要素の左方移動が
適用されるという分析が提案されている。RNR 構文の残余要素の左方移動に基づく分析に Sohn
(1999)
, Kato(2003, 2006)
, Abe and Nakao(2012)がある。本稿では,i)島の条件効果に関する文法性
の判断に違いがあり,下接の条件効果が観察されないこと,ii)格標識や後置詞の脱落による文法
性の低下は島の条件とは異なる要因による可能性があること,iii)左枝効果から属格名詞句が左方
移動されることがないことに基づき,日本語の RNR 構文は,残余要素に顕在的な焦点移動,すな
わち,残余要素の左方移動が適用されて導かれる構文ではないことを論じた。
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13 カミュ『カルネ』第 1 分冊校訂の問題点
奈 蔵 正 之
物語 ─ 自分が正しいとは言い張らない男。自分について他人が抱く
考えのほうが好ましいのだ。男は死ぬ。ひとりで,おのれの真実につ
いて意識しつづけながら ─ こうした慰めのむなしさ。
(カミュ,
『カルネ』
)1
1 .はじめに
1935 年から早すぎる死の直前の 1959 年末にかけて,カミュは 9 冊におよぶノートに,さまざま
な事柄を書きとめていた。カミュ自身はこれらのノートを「カイエ Cahiers」と呼んでいたが,死
後になって出版された時に編集者が「カルネ Carnets」という書籍名を採用したので 2,本論文でも
この資料を『カルネ』と表記することにする。
『カルネ』はノート 3 冊ごとにまとめられて 3 巻本となり,1962 年に第 1 巻,65 年に第 2 巻,そ
してずいぶんと時間が空いて 89 年に第 3 巻が,他のカミュ作品と同様,ガリマール社から出版さ
れた。だが,1960 年代に出版され,長くカミュ研究の底本となってきた 2 巻のプレイヤッド版カ
ミュ作品集には,『カルネ』は当然ながら収録されていなかった。2000 年代になって新たに 4 巻本
のプレイヤッド版『カミュ全集』
(以下,
「新 PL 版」と略称)が編纂・出版されたのに際し,今度
は 2 つの部分にまとめられて,
『カルネ』の前半が『全集』第 2 巻に,後半が第 4 巻に収められる
ことになったのである 3。
PLII, p.814. (引用文献の略号については,本論文の末尾を参照のこと)
なお,本論文におけるカミュのテクストおよび PL 版注解の訳は,すべて筆者による拙訳である。
2 版元のガリマール社が,プレイヤッド旧版には収められなかったカミュのテクストや各種の資料を「カイエ・
アルベール・カミュ」シリーズと銘打って出版することにしていたため,それとの混同を避けるために,『カ
ルネ』というタイトルが選ばれた。
3『カルネ』旧版は以下のように編集されている。
1 :1935年 5 月〜1942年 2 月(第 1 ノート〜第 3 ノート)
2 :1942年 1 – 2 月〜1951年 3 月(第 4 ノート〜第 6 ノート)
3 :1942年 3 月〜1959年12月(第 7 ノート〜第 9 ノート)
これに対して新 PL 版では,第 1 巻から第 4 巻までを編年体に編纂するという方針から,次のようにまとめら
れて収録されている。
1
15 『カルネ』はただの日記ではなく,記された内容は一様ではない。身辺些事,情景描写,知的考察,
内的省察,小説などの作品のアイデアや具体的な構想,作品に利用することを想定した一節,長期
旅行に際しての旅日記など,多岐にわたっている。生涯にわたって書き綴られたにもかかわらず合
計でわずか 9 冊ということでも想像がつくとおり,日々こまめに記されたわけではなく,たて続け
に書かれた断章もあれば 4, 1 〜 2 ヶ月何も書きとめられていない,という場合もある。カミュに
とって『カルネ』に断章を綴るということは,自らの内的な世界に没入し何かを生み出すきっかけ
を作るという,特別な行為であったらしく,特に若い頃のノートではその傾向が強い。そのために,
規則的に記されることがなかったのであろう。
作品には現れていない作家の生の声が書きとめられているがゆえに,また作品のプランや下書き
に近いものが散見されるがゆえに(ただし,作品によって,数多くの関連する断章がある場合もあ
れば,そういった記述がほとんど見いだせない場合もあり,これまた一様ではない)
,カミュの死
後に出版されて以来,
『カルネ』はカミュ研究において重要な基礎資料となっている。『カルネ』の
記述について言及しない研究はほとんど見当たらないと述べても過言ではない。
ところが,旧版の『カルネ』の第 1 分冊(1935 年 5 月〜37 年 8 月)において 5,いくつかの断章の
並びが実際の時間的順序とは異なるのではないかという疑念が以前から指摘されていた6。そこで新
PL 版では, 3 つの断章を旧版とは異なる位置において印刷するという方策が取られたのである。
だが,新 PL 版における修正が正確であると無批判に認めることには,実は大きな疑問がある。ま
た,新 PL 版の編者は見落としているが,本来あるべき所にはないのではないかという疑念が残る
断章が他にも存在している。
問題となっているいくつかの断章は,身辺雑記や些細な省察のたぐいではなく,生前は未完に終
わったものの事実上のカミュの処女小説である『幸福な死』La Mort heureuse の初期の構想に深く
関わっている重要な資料である。それゆえ,カミュが小説家を目指してどのように自己形成をして
いったかというテーマにも大きく関連してくるのである。
本論文は,『カルネ』第 1 分冊の各断章の精査を行い,また,自伝的事実や状況証拠を照らし合
わせることで,新 PL 版における修正を批判的に検討しつつ,かねてから疑念が生じている断章の
あるべき位置を特定することを目的としている。それは,初期のカミュにおける文学的自己形成を
跡づける上で,ないがしろにできない研究の基盤となるはずである。
第 2 巻:1935年 5 月〜1948年12月(第 1 ノート〜第 4 ノートの途中まで)
第 4 巻:1949年 1 月〜1959年12月(第 4 ノート途中〜第 9 ノート)
4 『カルネ』における一まとまりの記述のことを,本論文では「断章」と呼ぶことにする。
5
6
以下, 1 冊目のノートのことを「第 1 分冊」と表記することにする。
第 2 分冊以降では,そのような疑念は生じていない。
16
2.
『カルネ』分析表の解説
『カルネ』第 1 分冊の概要を具体的かつ簡潔に把握できるように,筆者は,本論文 18 ページから
22 ページにおける分析表を作成した。その参照のしかたについて述べておこう。
No.:
『カルネ』の各断章に通し番号を打ったもの。
カミュ関連の文献に掲載された実物の写真を見る限り,元のノートの断章と断章の間は行が開け
られているだけであり,特に切れ目を示す記号は用いられていない。
『カルネ』が単行本で発行さ
れた際に校訂者(ロジェ・キヨ)は,読者の便宜を考えたのか断章と断章の間にアステリスク(*)
を記すことにしたが,この形式は新 PL 版にそのまま引き継がれている。しかしこのままではどの
断章に言及しているのかわかりにくいため, 1 から始まる通し番号を付けることとした。これはあ
くまでも研究の便のために筆者が施したものであり,原書には存在しない。
PL 頁:『カルネ』第 1 分冊は新 PL 版の第 2 巻に収められており,当該断章がその何ページに印刷
されているかを示す。
日付:カミュは『カルネ』を日記とは位置づけていなかったため,各断章がいつ書かれたのかとい
う日付の記載は定期的ではない。日付とは言っても「何月」という簡便なものが多く,比較的まめ
に記されている期間もあれば,日付の記載がない断章がずっと続くという場合もある。
したがって,日付のない断章に関しては,その前後直近の日付を伴った断章を探し,その間の期
間に書かれたと推定することになる。だが後述するように,この想定方法が大きな問題をもたらす
結果となったのである。
行数:『カルネ』の各断章の分量は極めて不均一であり,わずか 1 行のものから原書で数ページに
わたるものもある。その分量を把握できるように,原書(新 PL 版)における行数を記した。
概要・備考:各断章の大まかな内容。
「はじめに」でも述べたように,それぞれの断章の性格も極
めて不均一である。
・内的なイメージや意識の移ろいを描いた「省察」。
・知的な思考を書きとめた「考察」
。実際に見聞きした事柄や,小説の一場面などを思い浮か
べて書きとめた「挿話」
。前者か後者かが判然としないこともある。
・心をとらえたシーンを書きとめた「情景」
。これはたいていの場合,情景からインスパイア
された心象風景へと移ろっていく。
・旅先での情景。旅行はカミュの感性を刺激し,あらたな考察や作品のヒントを生み出す契機
となることが多かった。そのため旅先での情景の描写は長いものとなることが多く,その情
17 景からさまざまな考察や内的省察が生み出されていく。
・作品のためのメモ。結果としてその一部や全体が作品に利用されることになったものではな
く,初めから作品を想定して,創作ノートのようにして記された断章。当然,カミュ研究に
おいては最も重要となるが,その数はあまり多くない。作品のテーマの「着想」,作品のプ
ランをメモした「構想」
,作品で用いるための描写や会話の「断片」などがある。
以上の分類はあくまでも便宜的なものであり,いずれにも分類できない断章や,複数の性格を併
せ持つ断章もあることは言うまでもない。
関連:各断章のうち,カミュの作品形成との関連がはっきりと認められるものに「○」を,さらに
文章が具体的に引用・利用されるなど,関連性が極めて密接なものに「◎」を施した。
位置:この時点に書かれたはずがない,つまり編纂上のミスによりあやまってその位置に置かれて
いると明らかに考えられる断章に「??」を,この時点で書かれた可能性がかなり低い断章に「?」
を付した。本論文の考察における重要なポイントである。なお断章 118 には「*」を付けてあるが,
これに付いては後述する。
CaNo:1962 年に出版された単行本『カルネⅠ』Carnets I における断章の並びに通し番号を打った
もの(以下,この版のことを「旧版」と記す)
。この後具体的に見るように,新 PL 版における断章
の並び(上記 No.)とは部分的に一致していない。
『カルネ』第 1 分冊断章の分析表
No.
1
PL 頁
日付
795–76 35 年 5 月
行数
概 要 ・ 備 考
関連 位置 CaNo
39
省察。母親への思い。小説の構想
1
2
796
5
ジャン・グルニエへの言及
2
3
796
5
省察。「経験」という言葉について
3
4
796–97
21
挿話。重い病気に罹った二人の女友達
4
5
797
6
情景。夏の嵐
5
6
797
1
一文。
6
7
797
11
省察。幸福と不幸
7
8
797–98
6
省察。友情について
8
9
798
20
挿話。クリスマスイヴにレストランで起きた殺人事件
→その後カミュテクストの中に何度も現れることになる重要な
エピソード
◎
9
10 798–800 36 年 1 月
66
長大な描写と省察。「世界」と自己。
→エッセイ「裏と表」にその大部分が用いられることになる, ◎
重要な断章
10
11
800
2
箴言。「イメージでしか物は考えられない。哲学者たらんと欲
すれば小説を書くべし」
11
12
800
18
7 項目 キーワードの一覧
12 前
No.
PL 頁
13
800–01
14
801
15
801
16
801– 2
17
802
日付
2 月 13日
3月
行数
概 要 ・ 備 考
18
35年の夏に過ごした,バレアレス諸島への旅に関する省察
→エッセイ集『裏と表』所収の「生きることへの愛」で利用さ
れる。
関連 位置 CaNo
18
上記断章13の旅で訪れた地名の一覧
16
4
省察
17
10
省察。他者との関わり
18
4
一日の情景
19
◎
15
18
802
1
一文。タイトルの例
20
19
802
13
グルニエへの言及。共産主義に関する考察
21
20
802
1
一文。死と演技(賭?)
22
21
803
11
情景。冬の港と太陽。および心象風景
23
19
情景。散策の描写と心象風景。
なお,単行本では「 5 月 16 日」という日付になっている。
22
803
23
803
7
省察。時の移ろいについて
25
24
804
3月
4
情景。空と雨と湾
26
804
3月
1
一文「僕の喜びに限りはない」
27
1
ラテン語の一文
28
43
アルジェ郊外の療養施設での出来事。会話
29
22
人物「M」とその自殺願望に関する小説的描写
→前半は『幸福な死』におけるザグルーの描写として用いられる
後半は,『シーシュポスの神話』における 1 エピソードと関連
3
省察。女性達の優しさ
31
6
省察。執筆活動への意欲
32
9
情景。暑さの始まり
33
25
26
804
27
804–05
28
805–06
29
806
30
31
3 月 16日
3月
3 月 31日
806
806
4月
?
◎
?
24
30
32
806
4
情景。港の暑さ
34
33
806
3
省察。感覚と世界
35
34
807
21
挿話。 1 )重傷を負った港湾労働者→『幸福な死』におけるエ
ピソード
2 )死んだ子猫を食べてしまう母猫→『裏と表』所収の「ウイ
とノンの間」で利用される。
35
807
2
港湾労働者の折れた脚
9
挿話。トラックの後を全速力で追いかける二人の若者
→『幸福な死』ついで『異邦人』におけるエピソードとして利
用される。
◎
36
37
36
807
37
808
5月
14
省察。「世界」と離れぬこと
39
808
5月
8
省察。「自己崇拝」への批判
40
39
808
5月
2
1 文。アルジェの女たちの美しさ
41
40
808–09
5月
16
省察。「演技」について
42
41
809
3
省察。神と自然
43
809
13
創作の計画。哲学著作(不条理性)と文学著作
44
43
809
2
マルローへの言及
45
44
809
3
省察。「生」について
46
45
810
3
省察。「不道徳者」
47
810
5
省察。絶望と希望
48
47
810
6
省察。知性について
48
810
12
小説の構想。「第二部」→『幸福な死』に関連
○
?? 12 後
49
810–11
19
パトリスという登場人物が「死刑囚」について語る言葉
小説の構想「第 3 部」→『幸福な死』に関連
○
??
38
42
46
5月
◎
38
49
13
19 No.
PL 頁
50
811
51
811–12
52
53
日付
行数
概 要 ・ 備 考
関連 位置 CaNo
7
小説に用いる素材。 6 つの物語 →『幸福な死』に関連
9
考察。ギリシアについて
50
812
8
考察。東洋と西洋
51
812
2
考察。プロテスタンティズムについて
52
11月
54
812
1月
(1937)
55
813
1月
56
813
57
813
2月
58
○
??
14
18
カリギュラに関する戯曲の構想と,終幕の台詞
(→ 実際の『カリギュラ』には用いられなかった
○
53
15
「世界を望む家」に関するエッセイの計画。キーセンテンスと台詞
→ いくつかが『幸福な死』II- 3 で使用される
○
54
55
2
「世界を望む家」が高台にあることへの言及→『幸福な死』II- 3
で使用
○
56
9
考察。「文明」について
57
7
劇団の巡回。オラン地方の情景。
58
3
省察。孤独について
59
59
814
60
814
1
一文「何者にも似まいという誘惑」
60
61
814
3
カスバでの省察と情景
61
62
814
2
省察。朝,太陽,骸骨
62
63
814
1
一文
63
64
814
3
登場人物「自分の正しさを明かそうとしない男」
64
12
執筆の計画
1 )廃墟に関するエッセイ 2 )
「魂の中の死」を再度取り上げる
3 )世界を望む家 4 )小説 5 )マルローについてのエッセイ
6 )論文
65
37 年 4 月
65
814–15
66
815
4
情景。異郷での太陽
66
67
815
3
情景。夕暮れの湾における世界
67
68
815
6
考察。心理学について
68
69
815
4
3 つの単文
69
4月
5月
13
『裏と表』の序文の草稿
→ 実際には用いられなかった
70
70
815–16
71
816
4
考察。執筆という行為について
71
72
816
4
ルターの引用
72
8
挿話。救いへの叫びを拒否する死刑囚
→ 初めて現れる死刑囚のモチーフだが,この時期に『異邦人』
を着想したという根拠にはならない。
73
73
816
5月
6月
74
816
2
哲学と哲学者
74
75
816–17
10
考察。「文明」対「文化」
75
76
817
2
マルクス主義対霊的なるもの
76
77
817
3
考察。「定め」について
77
78
817
8
考察。「地獄」について
78
79
817
4
考察。論理と非論理
79
80
817
1
一文。「不誠実」について
80
81
817
2
マルセルという人物の台詞
81
82
818
12
マルセルが語る,第一次大戦のシャルルロワの戦い
→『幸福な死』においてエマニュエルが語るエピソードに利用
される。
83
818
9
マルセルと,もう一人の人物の会話
83
84
818
5
マルセルの台詞。大食らいの孫について
84
85
818
5
情景。アルジェのマドレーヌ地区
85
20
7月
◎
82
No.
PL 頁
86
819
日付
行数
4
小説の案。「関わりを持たぬこと」
概 要 ・ 備 考
関連 位置 CaNo
86
87
819
2
情景。空に浮かぶ気球
87
88
819
1
情景。松の姿
88
89
819
6
ジッドとキリスト教
89
90
91
90
819
15
プラハのホテルでの,フロント係とのやり取り
→『幸福な死』第 2 部第 1 章の冒頭で用いられることになる。
◎
ただし,この時点ですでに小説の構想があったという確証はない。
91
820
3
列車の中で自分の手を見つめる人物
→『幸福な死』第 2 部第 2 章の冒頭とわずかな関わり
○
92
820
15
1936年の夏における,中央ヨーロッパの旅の旅程
→ 後半のメモは,エッセイ「魂の中の死」後半の描写の原型
と考えられる
○
5
イタリアの教会と絵画
93
1
一文。入党を前にした知識人
94
4
省察。男と女の感性の違い
95
93
??
92
94
821
95
821
96
821
3
挿話。あるカップル
96
97
821
7
挿話。列車での母子,およびカップル
97
98
821
37 年 7 月
4
着想。「演技者の小説」
98
99
821
37 年 7 月
6
「演技者」 会話の断片
99
100
822
37 年 7 月
6
考察。西洋文化と「行動」
100
101
822
7月
4
考察。飢えよりも渇きの方が厳しい
101
102
822
5
考察。チベットのヨガ行者
102
103
822
3
情景。町中の女たち。欲望
103
104
822
9
体験。パリの路上で発熱を覚える。アルプスでの療養について
104
105
823
6
省察。自己のあり方。執筆。
105
106
823
4
情景。パリの優しさと風物
106
107
823
1
1 単語「アルル」
107
15
情景。毎日の山歩き。風景や自然との対峙。
アンブランにおける療養中の日々に着想を得たものと思われる
が,il と言う三人称体を用い,小説的な表現になっている。作
品への利用を考えていたのかもしれない。
108
1
1 文「サヴォワの優しさ」
109
小説の構想。突如自らの人生に違和感を感じた男。 3 部構成
→『幸福な死』の構想へつながる萌芽と考えられる。
110
108
823
109
823
7月
8月
8月
37 年 8 月
110
824
37 年 8 月
10
111
824
37 年 8 月
15
112
824
113
824
114
825
115
825
1
37 年 8 月
5
6
37 年 8 月
17
「最終章? パリ - マルセイユ 地中海への南下」という 1 文に
続いて,夜の海で泳ぎ,「世界」との不思議な一体感を覚える
男の描写
→『幸福な死』第 2 部第 3 章の最終場面に使用
◎
1 文:「二人の登場人物。片方が自殺?」
小説の会話の場面
「演技者」という頭書き。「カトリーヌ」という名
小説の構想。「演技者」
→この構想はその後発展しなかった。
小説の構想
3 部構成。AとBの二つのストーリーが交替。第 3 部は現在形
で。
○
「自然な死」
「世界を望む家」
「性的な嫉妬」
「ギャルソン」など,
その後『幸福な死』に盛り込まれるキーワードが出現
111
112
113
114
115
21 No.
PL 頁
日付
行数
116
825
37 年 8 月
11
117
826
概 要 ・ 備 考
関連 位置 CaNo
考察。「政治的言説」の非人間性に対する批判
116
7
「第 1 章A 2 あるいはA 5 」 会話の下書き
小説の構想に関連するが,実際の『幸福な死』には用いられな
かった
○
18
小説の構想
冒頭に「三部構成」とあるが,実際には第 1 部の構想のみ
現在形を用いたAの系列と,過去形を用いたBの系列が交互に
現れる
○
117
118
826
119
826
6
小説の構想。Ⅰ〜Ⅲの三部構成だが,118のものと比べると簡素
○
119
120
827
5
小説のためのメモ。「性的な嫉妬」のモチーフ
○
120
121
827
2
小説のためのメモ。プラハ
○
121
122
827
2
1 文「スペイン人に哲学者がいない」
123
827
3
小説のためのメモ。『幸福な死』のテーマに関連
124
827
8
省察。 8 月中の療養について。創作への思い
124
125
827
1
モンテルランの引用
125
126
827
3
マルセイユについて
126
127
828
9月8日
6
情景。マルセイユのホテル
127
128
828
9月8日
水曜日
11
旅行での省察。モナコからジェノヴァを経てピサに至る。
128
129
828
2
ピサで見つけたイタリア語の落書き
129
19
旅の情景。ピサとフィレンツェ。両者の大聖堂前広場
130
130 828–29
37 年 8 月
8月
9月
9日
木曜日
*
118
122
○
123
131
829
1
一文「画家ゴッツォーリと旧約聖書」
131
132
829
5
考察。画家ジオットについて
132
133
829
2
フィレンツェの教会ごとに咲く花々
133
42
1 ページに及ぶ長大な断章
フィレンツェのサンティッシマ・アヌンツィアータを訪れた際
の情景描写と,それにインスパイアされたさまざまな省察。
134
7
キリスト教に関する考察
135
134 829–30
135
830
136
830
1
一文。サンマルコ教会の回廊
136
137
831
5
考察。かつてのシエナとフィレンツェの住民に関して
137
138
831
5
描写。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会にて
138
139
831
24
フィレンツェ郊外の町フィエゾーレを訪れた際に霊感にとらわ
れて行った省察。「世界」と「我」の関わりについて。
◎
→ 後に,エッセイ集『婚礼』に収められた「砂漠」で利用される。
139
140
832
3
一文。フィゾーレでの月桂樹の香り
140
141 832–34
22
9月
9 月 13日
9 月 15日
86
数ページにわたる長大かつ重要な断章。
フィエゾーレのサン・フランチェスコ修道院を訪れた際の情景
描写に始まり,それにインスパイアされた形で,自然と人間(自
己)の一体化という神秘的な体験に関する省察を綴り,自らの
「生」を振り返り,「幸福」に関する独特な考察へと至る。
→『幸福な死』の決定的な構想のきっかけとなり,この断章の
文章は同作に利用される。その後,エッセイ「砂漠」で再度活
用される。
◎
141
3 .謎の断章群
『カルネ』第 1 分冊編纂の問題点は,新 PL 版と旧版との断章の並びかたを比べることでまず浮か
び上がってくる。分析表の No. と CaNo とを比較すると,新 PL 版の 12 が旧版では断章 12 の前半で
あり(「12 前」とはそういう意味)
,新 PL 版の 13 は旧版の 15 に対応していて,以下,両者の版で通
し番号が 2 つずれたまま続く。これは何が原因なのであろうか?
表を追っていくと,次のような対応が見つかる。
新 PL 版・48 ─ 旧版・12後 新 PL 版・49 ─ 旧版・13
新 PL 版・50 ─ 旧版・14
つまり,旧版出版時には断章 12 だったものが前後に分割され,その後半および断章 13,14 が,
新 PL 版の断章 47(旧版では 49 にあたる)の直後に移動されているのである。これで通し番号のず
れは解消するはずだが, 1 つの断章が 2 つに分けられているから,新 PL 版の方が一つ増え,通し番
号のずれは差し引き 1 つとなる。だが,旧版の断章 54 と 55 が新 PL 版では断章 55 としてまとめられ
ているために断章数の相違は解消され,断章 56 以降は,新 PL 版と旧版で断章の通し番号が完全に
一致するようになるのである。
プレイヤッド版の編者は,なぜこのような修正を行ったのであろうか。まず旧版の断章 12 を前
後に分割したことだが,これは本来異なった 2 つの断章だったのに,旧版の編者が間に「*」を打
つことを怠ったかそれが落丁したか,どちらかと考えられる。両者は内容的にまったく異なってい
るうえに,前半(新 PL 版・断章 12)が旧版の p.23,後半(同 48)が p.24 と,ページをまたいでい
るからである。したがって,これは特に大きな問題とはならない。
重要なのは,新 PL 版において 3 つの断章の位置がまとめて移し替えられたことである。その理
由について,同版の注解には次のように記されている。
1936年の 1 月から 11 月の間の記述には,明らかに時間的順序のまちがいがある。それゆえ『カルネ』
の元の版における 24 ページから 26 ページの部分を移し替えねばならない。[中略] この部分は『幸
福な死』に関連しているのだが,元の版におけるように,それが 1 月の日付がある断章の直後に位置
するということは,理屈から言ってありえない。いくつかの文章がもっと後になって起きた事柄に関
連しているからである(たとえば「性的な嫉妬。ザルツブルク。プラハ」。これは 1936 年夏にカミュ
が行った中央ヨーロッパでの旅に関わっている)。したがってこの部分を,時間的順序から言って正
しい箇所,つまり 1936 年 11 月の記事の直前に置いたのである 7。
では,問題となっている 3 つの断章の内容を見てみよう。これらは,小説の構想のための一連の
メモであり,断章 48 は小説第 2 部のプランとなっている(なぜか第 1 部のプランはない)。時制を
7
PLII, pp.1384–85.
23 現在形にして現在の状況を綴るA群と,時制は過去形にして以前の事柄を物語るB群という, 2 つ
のエピソードを交互に展開させるという計画であったようだ。断章 49 は,おそらくその小説の主
人公である「パトリス」という人物が,ものを書くことを心に決め,その内容である死刑囚のエピ
ソードについて別の登場人物に語るという断片であり,続いて第 3 部の簡単なプランが記されてい
る。断章 50 は,小説の中に盛り込もうとカミュが考えた 6 つのエピソードの列挙となっている。
当然ながらこれらは後の『幸福な死』へとつながっていく萌芽であるが,この時点では「秘教の修
行にも似た幸福の探求」や「自然世界との一体化による幸福な死」という,
『幸福な死』の中心テー
マはまだ認められない(それらは,1937年 9 月以降の第 2 分冊において明確に出現する)。
以下の『カルネ』の断章の引用においては,すべて,【 】内の数字は断章の番号であり,元の
テクストにはない。ゴチック体と下線も原文にはなく,わかりやすくするために筆者が施したもの
である。また断章48〜50については,
( )内に旧版における番号も付してある。
【48】8 (旧12後半)
第2部
A.現在形で
B.過去形で
第 1 章A ─ 世界を望む家。紹介。
B ─ 彼は思い出す。リュシエンヌとの関係。
第 2 章A ─ 世界を望む家。彼の若さ。
B ─ リュシエンヌが自らの不実を語る。
第 3 章A ─ 世界を望む家。招待。
第 4 章B ─ 性的な嫉妬。ザルツブルク。プラハ。
第 4 章A ─ 世界を望む家。太陽(陽光)
。
第 5 章B ─ 逃亡(手紙)
。アルジェ。風邪を引き,病に倒れる。
第 5 章A ─ 星空を見上げる夜。カトリーヌ。
【49】9 (旧13)
パトリスは,自分が作った死刑囚についての物語を語る。
「僕には見えるんだよ,そいつがね。僕
の中にいるんだよ。そいつがひとこと語る度に,心がしめつけられる。そいつは生きていて,ぼくと
いっしょに息をするんだ。そいつが怯えると,僕も怯えるんだ」
「そして,そいつの心を折ろうとするもう一人の奴。奴が生きているのも見える。僕の中にいるん
だよ。死刑囚の心を弱めてやろうと,僕は毎日,その司祭の奴をそいつのもとにやるんだよ」10
PLII, p.810. CAI, p.24.
PLII, pp.810–11. CAI, pp.24–25.
10「パトリス」という名前は,
『幸福な死』の主人公「パトリス・メルソー」として採用されることになる。
また,作品の最後になって主人公が作家としての定めを自覚するというのは,プルーストの『失われた時を
求めて』からの影響を思わせる。
8
9
24
[中略]
第 3 部(すべて現在形で)
第 1 章 ─ パトリスは言う。「カトリーヌ,僕は今や,ものを書こうとしていることがわかるんだ。死
刑囚の物語だよ。書くという,僕のほんとうの役割に従うことにしたんだよ。」
第 2 章 ─ 世界を望む家から港の方へ下っていく,など。死と太陽の味わい。生きることへの愛。
【50】11 (旧14)
6 つの物語
華麗な賭けの物語 12。豪奢。
貧しい地区の物語。母親の死
世界を望む家の物語。
性的な嫉妬の物語。
死刑囚の物語。
太陽(陽光)の地へ向けて南下する物語 13。
特に重要なのは,断章 48 における「ザルツブルク。プラハ」という記述である。1936 年の 7 月
から 8 月にかけて,カミュと当時の妻シモーヌは,イブ・ブルジョワという友人とともに,オース
トリア,ドイツ,チェコを巡る旅に出かけた。その際にさまざまな町に立ち寄ったが,ザルツブル
クとプラハがその中に含まれるのである。当時アルジェに住んでいたカミュが,まったくの想像
で,はるか離れたオーストリアやチェコの都市を小説の舞台として思いついたということはまずあ
りえず,この部分は 1936 年夏の旅行に着想を得て記されたはずであり,したがって断章 48 および
それに深く関連する49,50の 3 つは,1936年 8 月以降に書かれたものだと判断するのが妥当である。
ところが旧版においては,これらは「1936年 1 月」の日付を持つ断章10と,「1936年 2 月13日」の
日付を伴った断章17の間に位置しており,そのままでは1936年の 1 〜 2 月にかけて記されたことに
なってしまう。これではまるでタイムパラドックスであり,従来から研究者たちを悩ませてきた
(気づかない研究者も実は多かった)
。そこで新PL版の編者は断章の位置の変更を行ったのである。
また,何度も繰り返される「世界を望む家」la Maison devant le Monde ということばにも注意し
たい。これは,アルジェの高台のシーディ・プライム通りにあった家屋のことで,カミュとその友
人たちはこの 2 階を借り受けて自分たちの「たまり場」として活用し,一種の共同生活を送ったの
11
12
13
PLII, p.811. CAI, pp.25–26.
原文は Jeu brillant. 他の断章やカミュ作品のモチーフ群の関連から言って jeu は「演技」としたいところだが,
フランス人のインフォーマント数名に確認した限りでは,brillant という形容詞と結びついた場合,jeu は「賭
け」の意味になるのが通常であるとのことである。
原文は Histoire de la descente vers le soleil であるが,「太陽へ向けて下る」では意味が通らない。1936 年の旅
の際,カミュは最後にイタリア半島を南下し(その際,精神的な蘇生の体験をした),さらに陽光にあふれた
地中海をわたって太陽の地アルジェリアへと戻った。この一行はその経験に着想を得たものであろう。それ
ゆえ「太陽(陽光)の地へ向けて南下する物語」と訳出した。
25 だった。その窓からは周囲の山々,アルジェの市街と湾,地中海が一望の下に見渡せたので,彼ら
はそこを「世界を望む家」と呼ぶことにしたのである。ここで過ごした日々は,カミュの青春時代
においてことのほか素晴らしい時間であったらしく,後の『幸福な死』における第 2 部第 3 章で,
その日々をあたたかく再現している。ところが,カミュたちがこの家を見つけたのは,ハーバート・
R・ロットマンによる浩瀚な評伝『アルベール・カミュ』によれば 1936 年の春(おそらく 3 月頃)
であり 14,36 年 2 月 13 日以前に記された断章に「世界を望む家」という記述が現れるのは明らかに
おかしい。やはり旧版における 3 つの断章の位置は正確とは言えないのである。
4
4
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4
だが,ここで生じる重大な疑問は,はたして移し替えた先の位置が妥当なものかどうか,であろ
う。分析表の 2 ページ目を見ればわかるように,1936 年に書かれた断章の日付は, 5 月(断章 44)
からいきなり 11 月(断章 51)に飛んでいる。しかも断章 44〜47 は極めて似た性格の文章であり,
同じ 5 月にほぼ連続して記されたと考えられる。つまり 1936 年 6 月から 10 月にあたる断章はすっ
ぽりと抜け落ちているのである。その理由については後にセクション 8 で考察するが,新 PL 版の
編者は,「 3 つの断章は 36 年 8 月以降に書かれたはず」ということを理由に,11 月の日付を持つ断
章 51 の直前においた。こうして旧版の断章 12 後〜14 は,新 PL 版では 48〜50 という断章になった
わけである。
しかしながら,「 8 月以降に書かれた」からと言って,11 月の断章の直前に置くことが,新 PL 版
編者の主張するように「正しい」ということになるだろうか? 11 月の断章の「後に」置こうが,
1937 年になってからの断章だと考えようが,要するに「断章 48〜50 より後に書かれたはずだ」と
いう断章より前に位置すれば論理的には問題がないはずである。旧版における位置が間違っている
のが確実だとはいえ,では新 PL 版における場所が正確かというと,その根拠はなんら存在しない
ではないか。謎の断章 48〜50 の本当の位置を確定するためには,より厳密な考察が必要となるは
ずである。
4 .旅程表の疑問
その解明に移る前に,新 PL 版の編者が見落としているもう 1 箇所の疑問について考察を行いた
い。それは,1936年夏の旅における旅程を詳細に記した,断章 92 についてである。
【92】15
リヨン
フォアアールベルク─ハレ
クーフシュタイン:チャペルと,雨にうたれ,イン川にそった原。孤独が錨を下ろす。
14
15
Herbert R. Lottman, Albert Camus, Widenfeld & Nicolson(London), 1979(以下,Lottman(英)と略す),p. 107.
および,マリアンヌ・ヴェロンによるその仏訳(Seuil, 1978. 以下,Lottman(仏)と略す),p. 121. なお,英
語版の原著と仏訳版とでは,注の記載に若干の異同が認められる。
PLII, p.820.
26
ザルツブルク:『イェーダーマン』。サンクト・ペーター教会の墓地。ミラベル宮殿の庭園とその見事
な成就。雨,フロックス─湖と山─高台を歩く。
リンツ:ダニューブ川と労働者街。医師。
ブトヴァイス:大通り。ゴチック様式の小さな修道院。孤独。
プラハ:最初の 4 日間。バロック様式の修道院。ユダヤ人墓地。バロック様式のいくつかの教会。料
理店に着く。空腹。金がない。死人。酢漬けのキュウリ。アコーデオンに腰を下ろした腕が不自由な男。
ドレスデン:絵画。
バウツェン:ゴチック様式の墓地。レンガ造りのアーチの中に咲いているゼラニウムとひまわり。
ブレスロー:霧。いくつかの教会と工場の煙突。この町に特有な悲劇的な様子。
シレジアの平原:非情で恩知らずな。─砂丘─ねっとりとした朝,粘りつく大地の上を鳥たちが飛ぶ。
オルミュッツ:モラヴィアの優しく,ゆったりとした平原。酸っぱいプラムの木々と,心を揺さぶる
遠景。
ブルノ:貧しい地区。
ウィーン ─文明─寄り集まった豪華さと,保護してくれる庭園の数々。内なる悲嘆が,この絹の襞
のあいだに隠れている。
分析表にあるとおり,断章 92 は, 7 月(1937 年)の日付がある断章 85 と,やはり 7 月の日付が付
いた断章 95 の間に位置している。したがって 1937 年 7 月に記されたことになるのだが,1936 年 7
〜 8 月における旅程を,わざわざ 1 年経ってから書きとめるものだろうか? さらに,単なる地名
の列挙ではなく,最近体験したばかりのような具体的な描写が続いているのである。
しかも断章 92 は明らかに,カミュが出版した最初の作品であるエッセイ集『裏と表』L’Envers et
l’endroit 所収の「魂の中の死」« La Mort dans lʼâme » と深い関わりがある。このエッセイは,36 年夏
の旅行の後半,プラハからオーストリアを経てイタリアに至る旅における体験と内的省察を題材と
して書かれているのだが,その中の描写は,この断章におけるメモを出発点としている可能性が極
めて高いのである。
プラハについてまだ覚えているのは,街角という街角で売られており指でつまんで食べる,あの酢漬
けのキュウリの匂いだった。ホテルの扉をまたいで外に出るやいなや,その鋭く突き刺すような匂い
のせいで僕の不安が呼び覚まされ,ふくれあがるのだった。そしてたぶん,アコーデオンのとあるメ
ロディーも覚えている。部屋の窓から下を見ると,目の見えない腕の不自由な男が,アコーデオンに
腰を下ろし,片方の尻と自由の利く方の手でそれを支えているのだった。16
それからすぐ,僕はプラハを発った。そして確かに,その後目にしたものに関心を持ったのだ。バウ
ツェンの小さなゴシック様式の墓で過ごしたあのような時間,そこに咲いていたゼラニウムのまばゆ
い赤,そして青い朝について,語ろうと思えば語れるだろう。シレジアの長々と続く,非情で恩知ら
16
PLI, p.58. 引用文が長大になりかねないので省いたが,断章92における「バロック様式の修道院」
「料理店」
「金
がない」
「死人」というトピックも,「魂の中の死」に明確に登場している。
27 ずな平野について,語れるだろう。僕は朝早くそこを通ったのだ。霧が立ちこめるねっとりとした
朝,粘りつく大地の上を,鳥たちが重々しく飛んで行った。優しく,ずっしりとしたモラヴィア,そ
の澄んだ遠景,酸っぱい実を付けたプラムの木々で縁取られたその道々も,気に入ったのだ。17
下線部は原文にはなく,筆者が補ったものであるが,断章 92 と完全な対応を示しており,92 のメ
モが元となってこれらの文章が書かれたと考えるのが自然であろう。ところが,
『裏と表』が出版
されたのは1937年 5 月10日であり,当然ながら
「魂の中の死」はそれより以前に執筆されたのであっ
て,それに利用されたメモが37年 7 月の時点に置かれるはずはないのである。
もし断章 92 が本当に 37 年 7 月に書かれたものならば,カミュはいったん完成させ出版まで行っ
た作品から,わざわざその一部分を抜き出して, 1 年前に行った旅の旅程表を記したということに
なる。そのようなおかしな作業がありうるだろうか? それよりも,断章 92 は実際には 36 年夏の
旅の後,「魂の中の死」の執筆よりも前に記されたのだが,断章 48〜50 と同様に本来あるべきでは
ない位置に印刷されていると考える方が,ずっと自然ではなかろうか 18。しかしながら新 PL 版の編
集者は断章 92 の持つ不自然には気が付かず,旧版と同じ位置に置いたままにしているのである。
位置に疑問が生じる断章としてはもう一つ,断章 22(旧版の 24)を挙げておく必要がある 19。これ
はある日の散策の描写と,その光景にインスパイアされた内的な省察が一体となっている文章だが,
旧版では「 5 月 16日」の日付が付いている。ところが,22 の前後には「 3 月」の日付を持つ断章が
いくつもあり,本来ここは 1936 年 3 月頃に書かれたものが置かれるはずなのである。実際には 5
月に書かれた断章がこの位置に移動してしまっているのだろうか,それとも,
「 3 月 Mars」という
単語を「 5 月 Mai」と旧版の編者が読み間違えたのであろうか? 20 客観的な決め手はないが 21,新
PL 版の編者は後者だと判断したのか,
「 5 月」を「 3 月」に改めている。ただし,これについては
特に注記がない。旧版をわざわざ改めたのだから,一言記しておいてしかるべきであろう。
5 .小説への道
断章 48〜50 が占めるべき本来の位置を検討する上で最も重要な点は,これらが,生前未完に終
わったカミュの処女小説
『幸福な死』
の初期の構想と深く関わっているということである。したがっ
て,
『幸福な死』のアイデアがいつごろ浮かび,そのプランが練られるようになったかを見極めれば,
この 3 断章が占めるべき位置が絞り込まれることなる。
カミュは創作に手を染めたごく若い頃から,自らの幼少年期の体験に基づいた自伝的な作品を手
17
18
19
20
21
PLI, p.60.
したがって,断章92は,断章51の直前に置くのが適当であると考えられる。
PLII, p.803. CAI, pp.30–31.
カミュは生前に『カルネ』をタイプ原稿にさせていたそうなので,タイプの打ち間違いかもしれない。
情景描写から言って春先のイメージが強く, 3 月の記事である可能性が高い。アルジェリアの 5 月は,もはや
初夏に属するからである。
28
がけたいと考えていた。その第 1 の果実が 1934 年 12 月 25 日の日付を持つ「貧しい地区の声」« Les
Voix du quartier pauvre » というエッセイであり,カミュはその手書き原稿を,おそらくはクリスマ
スプレゼントとして,結婚したばかりの妻シモーヌに捧げている。その後,
「貧しい地区の声」の
素材や文章の一部が,
『裏と表』所収のエッセイ「皮肉」に用いられることになる。
他方,カミュ研究の大家ジャクリーヌ・レヴィ= ヴァランシによれば,1934 年から 36 年にかけて
カミュは小説の試みに取り組んでおり,レヴィ= ヴァランシは主人公の名前を取ってその幻の作品
を『ルイ・ランジャール』Louis Raingeard と名付け 22,これがカミュの作家としての出発点であると
位置づけている。しかしながらレヴィ= ヴァランシが再構成してプレイヤッド新版に資料として収
めたその原稿は,ページ数にして 10 ページあまりに過ぎず,小説としての構成もほとんど認めら
れない,いわば下書きに過ぎない 23。これをカミュの「処女小説」と捉えるのには無理があるだろう。
また,
『ルイ・ランジャール』の原稿のかなりの部分が,「貧しい地区の声」のテクストの再利用か
らなっている。
『ルイ・ランジャール』の原稿を放棄した後,カミュは次の創作へ向けて逡巡していたと思われる。
他方で,1935 年の後半からカミュは素人劇団による演劇活動に熱心に取り組むようになり,そち
らに創造的エネルギーを取られたという事情もあっただろう。そして先にも見たように,1936 年
夏の旅の後,おそらくは 10,11 月頃から翌 37 年の 2 〜 3 月頃にかけて,『裏と表』に収められた 5
本のエッセイを書き上げたのだろう。
こうした時期の確定の根拠となるのが,37年 4 月の日付を持つ断章 65 である。
【65】24
4月
女たち ─ 自分たちの感性よりも考えの方を好む。
─ 廃墟についてのエッセイのために
乾燥をもたらす風 ─ サヘルに生えるオリーヴと同じくらいにむきだしになった老人。
1 )廃墟についてのエッセイ:廃墟を吹く風,あるいは陽光にさらされた死。
2)
「魂の中の死」を再び取り上げること─ 予感。
3 )世界に向かう家
4 )小説 ─ それに努力を傾けること。
5 )マルローについてのエッセイ
6 )論文 22「ランガール」Raingard と書かれている部分もあるが,おそらくカミュの誤記であろう。
「ランジャール」と
23
24
いう姓は珍しいものとはいえフランス人の間に認められるが,「ランガール」は確認できない。
PLI, pp.86–96. なお筆者は,カミュは 1935 年中に『ルイ・ランジャール』の執筆をあきらめたのではないか
と考えている。
PLII, pp.814–15.
29 「
「魂の中の死」を再び取り上げる」というからには,このエッセイはすでに書き上げられていて,
それをもう一度推敲する,ということであろう。
「廃墟についてのエッセイ」というのは,明らかに,
その後第二エッセイ集『婚礼』Noces(1939)に収められることになる「ジェミラの風」« Le Vent à
Djémila » を指している。
「世界に向かう家」については, 1 月の日付を持つ断章 55 によれば,それ
を題材としたエッセイが計画されていた 25。またマルローに関するエッセイもこの断章 65 で計画さ
れている。「世界に向かう家」とマルローについてのエッセイは結局書かれることがなかったが,
このように新しいエッセイの執筆予定が立てられているのは,「魂の中の死」以外の 4 本のエッセ
イもすでに書き上げられていることの証左となるはずである。
そして 4 )に記された「小説 roman」という単語に着目したい。実は,カミュが明確に roman と
いう単語を用いてそれに取り組むと記したのは,
『カルネ』においてはこの断章 65 が初めてなので
ある26。例外的に冒頭の断章 1 には小説のテーマやプランとおぼしき記載があるが 27,roman の語は用
いられていない。断章 11 には単語 roman が現れるが,それはカミュが考えた「イメージでしか物
は考えられない。哲学者たらんと欲すれば小説を書くべし」という箴言で用いられているものであ
り 28,具体的な創作計画とはなんら関わりがない。つまり断章 65 は,カミュが「小説」という単語
を明確に用いてその執筆意欲を記した最初の記事なのである。
一方,断章 2 からここまでを通覧するならば,小説の構想に関する記述が一切認められないこと
がわかる(問題となっている断章 48〜50 は当然省かれる)
。以上から,
『ルイ・ランジャール』の
計画を放棄したカミュは,しばらくの間は(おそらく 1 年以上)エッセイの執筆と演劇活動に打ち
込んでいて,具体的に小説の計画を立てることがなく,この 37 年 4 月に至って,改めて小説への
意欲をかき立てたのではないか,と結論づけることができるだろう。したがって,プレイヤッド版
の編者が考えたように断章 48〜50 を 1936 年 11 月の断章の直前に置くことは適切とは言いがたい。
明らかに,1937 年 4 月より後の時期に据えるべきなのである。
6 .模索の日々
続いて,65 以降の『カルネ』の断章から,小説の構想に関すると考えられるものを探し, 4 月に
考えた「小説を書く」という目標をカミュがどのように実現させようとしたかを検討していこう。
まず 6 月の日付を持つ断章 73 に「死刑囚のもとを司祭が訪れる」というエピソードがあり,これ
は後の『異邦人』の設定を想起させるが,当然ながらこの時点でカミュが『異邦人』を着想してい
25
26
27
28
PLII, p.813.
筆者は,カミュが書いたほぼすべてのテクストをスキャナで読み込み,OCR ソフトで処理して,カミュテク
ストのデジタルデータを作成してある。そのデータを用いて検索すれば,単語の使用頻度や使用状況はただ
ちに判明するわけである。
PLII, pp.795–76. これらは,『ルイ・ランジャール』に関連するものだと推定される。
« On ne pense que par image. Si tu veux être philosophe, écris des romans.» PLII, p.800.
30
たと考えることはできない。小説のための素材を漠然と考えてみた,という程度であろう 29。つい
でやはり 6 月に記されたと考えられる断章 82 は 30,マルセルという人物が,第一次世界大戦におけ
るマルヌの戦いで体験した凄惨な戦場のありさまについて語る場面である。これは若干修正を施さ
れただけで,後の『幸福な死』の第 1 部第 2 章 の素材として用いられた 31。しかしこれも,この時
期にカミュが『幸福な死』を具体的に構想していたという直接の証拠にはならない。やはり断章
73 同様,そのころ漠然と思いついたさまざまな小説としての素材の一つとして捉えるべきである。
7 月に入ると「
〈いかなる関わりも持たない〉
真の小説」という記述で始まる断章 86 が見つか
「プラハ。自分か
るが,これも具体的な構想には結びつかない32。それよりも断章90に着目したい33。
らの逃走」という表記の後に,プラハのホテルで部屋を頼む男とフロント係の対話が続くのであ
る。これはほぼそのまま,
『幸福な死』第 2 部第 1 章の冒頭で用いられることになる 34。また続く断
章 91 の「列車の中で自分の両手を見つめる男」についての短い描写も,第 2 部第 2 章の冒頭の文
「魂の中の死」でいったん取り上げた 1936 年夏のプラハ体験
章と関わりを持つ 35。この頃カミュは,
を,もう一度小説の素材としてはどうかと考えたのであろう。それを示唆するのが,「 4 .旅程表
の疑問」で取り上げた断章 92 がまさにこの直後に続いているという事実である。プラハを小説の
素材とすることを思いついたカミュは,その体験を生き生きと思い出そうと以前に書きとめた断章
92 に目をやり,それを切り抜いて90,91の直後に持ってきて貼り付けたのではなかろうか? 36
続いてカミュは,
「演技者 joueur についての小説」というテーマを思いつき,それについて断章
98 と 99 に記している 37。フランス語の jeu および joueur という単語は極めて多義的であって,joueur
は「演技者」とも「賭博者」とも訳すことができるのであり,これらの断章においても訳出の決め
手はない。とはいえ「演技」というテーマは『幸福な死』の中にわずかではあるが姿を見せるし,
戯曲『カリギュラ』と『誤解』においては中心的なテーマとして位置づけられることを指摘してお
きたい。
PLII, p.816. また,このエピソードは先に検討した断章 49 と 50 における「死刑囚の物語」を想起させる。で
は断章73は断章49の内容を再び取り上げたものであろうか? このあと明らかにするように,事実は逆であっ
て,まず断章 73 の時点でカミュは初めて小説の題材として「死刑囚」を着想し,それを断章 49・50 に盛り込
んでいったのである。
死刑囚のエピソードは,結局『幸福な死』に盛り込まれることなく,いわば手つかずのモチーフなった。そ
れをカミュは後年『異邦人』のために再び取り上げることになるのである。
29
PLII, p.818.
La Mort heureuse, PLI, pp.1110–11. これは若きカミュが知人などから実際に聞いた話に基づくエピソードであ
ろう。なお『幸福な死』においては,この話を語るのは主人公メルソーの友人エマニュエルになっている。
32 PLII, p.819.
33 PLII, p.819.
34 PLI, p.1138.
35 PLI, p.1147.
36『カルネ』のノートでページの差し替えが行われた理由については,後述のセクション 8 を参照。
37 ともに PLII,p.821.
30
31
31 1937 年 7 月末から 9 月半ばにかけてカミュは,友人たちとともに,持病の結核の療養もかねて,
フランスとイタリアへの長い旅行に出かける。最初に南仏のサヴォワに滞在し,ついで初めてパリ
を訪れた後,再び南仏へ下って山岳地帯のオート=アルプ県にある小さな町アンブランでしばらく
過ごす。最後に,別の友人たちと合流して,ピサとフィレンツェを巡ることになる。そして,アル
ジェにおける日常を離れてじっくりと自己省察を行う時間が取れたことと,旅先の光景からのさま
ざまな知的感覚的刺激とがあいまって,この旅行の間に,小説の構想がようやくカミュの中で形を
取ることになったのである。
8 月,アンブランでの滞在中に記された断章には,立て続けに作品の着想に関する記述が現れる。
まず断章 110 には,自らのそれまでの人生に違和感を覚えた男の物語について, 3 部構成で書こう
というアイデアが書きとめられる。これは,断章 98・99 における「演技者についての小説」を発
展させたものであろう。
【110】38
37 年 8 月
ある男が,ふつう考えられるよう形の人生(結婚,職業,など)を追い求めていたが,とつぜん,モー
ドのカタログをめくりながら,自分がそういう人生(モードのカタログの中で考えられるような人生)
とはどれほど無縁な人間なのかに気が付く。
第 1 部:それまでの男の人生
第 2 部:演技
第 3 部:妥協の放棄と,自然に囲まれての真実 旧プレイヤッド版の編者ロジェ・キヨがこの断章を「
『異邦人』の出発点」とあやまって位置づけ
「死刑囚のエピソード」同様,
『幸
たことに端を発し 39,しばらくのあいだそのような説が流布したが,
福な死』の構想や執筆より以前に『異邦人』の具体的な着想を求めることはできない。むしろ自然
の中で真実を求めるというテーマは,
『幸福な死』の方へとつながっていく。また,ここで小説を
3 部構成にするというアイデアが生まれていることは重要である。
『幸福な死』は最終的に二部構
成となったが,当初は三部構成として着想されていたからである。
続く断章 111 では,
「最終章? パリ マルセイユ 地中海への南下」という冒頭の 1 行に続き,
夜の海で一人泳ぐ男が,自然との合一という神秘的体験を覚える姿の描写が記されており 40,おそ
らくは小説の 1 場面として着想されたのであろう。そしてカミュはその後,この描写をわずかに書
き換えて,『幸福な死』第 2 部第 3 章の末尾で,主人公パトリス・メルソーとその女性の友人たち
が「世界を望む家」において,夜空を前にして自然との不思議な一体感に浸るシーンに用いること
38
39
40
PLII, p.824.
プレイヤッド旧版における『異邦人』の注解。PLT., p.1915.
PLII, p.824.
32
になる 41。
「夜が星々にあふれるこのとき,彼の(→彼らの)動きは空の黙り込んだ大きな顔に沿っ
て描かれるのであった ...」
断章 113 は「演技者」という表記に続いて主人公とおぼしき人物とカトリーヌという登場人物の
「カトリーヌ」は『幸福な死』の登場人物の一人であるが,この会話は
短い会話が記されている 42。
『幸福な死』
作品には利用されていない。114も「演技者」という表記を持ち小説の構想に関わるが 43,
には利用されなかった。
そして断章 115 において,ついに,
『幸福な死』となるべき小説の初期の構想がその全体像を現す。
3 部構成が明確に示され,現在形で叙述するA群と過去形で記されるB群の交替というアイデアが
生まれる。断章 110における「成功を求めるありきたりの人生には無縁だと自覚した男」というテー
マは削除され,代わりに,断章50で列挙された「 6 つの物語」のうち,
「太陽の地へ向けての南下」
「世界を望む家」
「性的な嫉妬」の 3 つがここで姿を見せる。また「貧しさ pauvreté」という単語も,
「貧しい地区の物語」との関連を思わせる。他方,その後『異邦人』における大きなテーマとなる「母
親の死」のアイデアがここで初めて記されていることも注目される。ただし,実際に執筆された『幸
福な死』においては,
「母親の死」のテーマは最終的に小さなエピソードに縮小する結果となる。
【115】44
37 年 8 月
小説のプラン。演技と人生を結びつけること
第1部
A─自分からの逃避
B─M . と貧しさ 45。
(すべて現在形で)Aの系列の章は,演技者を描く。Bの系列の章は,母親の死
までを描く。(マルグリットの死 ─ さまざま仕事:仲買,自動車の付属品,県庁,など)
最終章:太陽の地へ向けての南下と死(自殺 ─ 自然な死)
第2部
逆にする。Aは現在形で:喜びの再発見。世界を望む家。カトリーヌとの関係。
Bは過去形で。むきになる。性的な嫉妬。逃避。
第3部
すべて現在形で。愛と太陽。
「ちがう」とギャルソンが言う。46
この後の断章 117 には「第 1 部のA 2 あるいはA 5 」という表題の元に,小説のための描写らしき
文章が記されているが,これは実際の作品で用いられることがなかった。
PLI, p.1116.
PLII, p.824.
43 PLII, p.825.
44 PLII, p.825.
45「M.
」は主人公のイニシャルだと考えられる。『幸福な死』においては主人公の姓がメルソー Mersault となる。
46「ギャルソン」は『幸福な死』においてメルソーのあだ名として用いられる。
41
42
33 7 .断章 48〜50 の本当の位置
このように,
『カルネ』の断章を通じて小説の構想を巡るカミュの模索を検討していくと,重要
な謎となっている断章 48〜50 は,新 PL 版の編者が考えたような「1936 年夏以降 11 月までの間」で
はなく,実は小説について集中的な思索が行われた 1937 年の 8 月の時期に記されたのではないか,
という結論が浮かんでくる。これをはっきりと裏付けるのが,断章 118 であろう。
【118】47
37 年 8 月
プラン。 3 部構成。
第 1 部 A.現在形で
B.過去形で
第 1 章A ─ 外側から見たメルソー氏の一日。
B ─ パリにある貧しい地区 48。馬肉屋。パトリスとその家族。口の利けない男。祖母。
第 2 章A ─ 会話と逆説。グルニエ。映画
B ─ パトリスの病気。医師「この発作のピークは ...」
第 3 章A ─ 巡回劇団の一ヶ月。
B ─ 仕事(仲買,自動車の付属品,県庁)
第 4 章A ─ 大いなる愛の物語「一度もそれを感じたことがありませんの? ─ ありますよ,奥様。あ
なたを前にして」
拳銃のテーマ
B ─ 母親の死
第 5 章A ─ レエモンドとの出会い
ここでは断章 115 の「第 1 部」の部分がさらに拡充され,「馬肉屋,口の利けない男,祖母,主人
公の病気」といった自伝的要素が深まっている。リセ時代のカミュの恩師であった「グルニエ」の
名前まで登場し,35年の末以来カミュが打ち込んできた素人劇団の活動への言及もある。
しかし,大きな疑問となるのが,
「 3 部構成(3 parties)」と明示されているにもかかわらず第 1
部の構想しか記されていないことである。断章 110,115 と三部構成を発展させてきたのに,どう
して第 2 部第 3 部について書かれていないのか? しかも,直後の断章 119 には,次のようにまた
三部構成が示されているのである。
「第 1 部 A ─ 性的な嫉妬 B ─ 貧しい地区 ─ 母親」「第 2
部 A ─ 世界を望む家 ─ 星々 B ─ 横溢する生」
「第 3 部 A ─ 彼が愛さないカトリーヌ」49
そこで,断章 48 と 49 を振り返ってみよう。第 1 部を抜きに(
「 3 部構成」という表記も無しに)
4
4
4
4
4
4
444
4
いきなり第 2 部の構想が記され,続いて第 3 部について書きとめられている。これらを断章 118 の
PLII, p.826.
Quartier pauvre de Paris とあるが,都市名ではなく,「パリ通り」の意味ではなかろうか。旅行で訪れただけ
のパリを自伝的な題材の舞台とするのは不自然すぎるうえに,幼少年期のカミュが暮らした家はアルジェの
「リヨン通り」にあり,これをもじって「パリ通り」とした,という可能性があるからだ。
49 PLII, p.826.
47
48
34
4
4
44
4
4
4
4
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444
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4
4
4
4
4
4
4
直後に,というよりも断章 118 の一部として移動させて接続すれば, 3 部構成のプランがみごとに
完成するではないか。しかも118の第 1 部と48の第 2 部の書式を比べるなら,まったく同一であり,
この両者が続けて書き記されたと考えるのが自然なのである。 3 つの断章はまとめて移動されたで
あろうから,断章 50も118の後に置くのが適切だと考えられる。(分析表において断章 118 の「位置」
の部分に「*」の記号をつけておいたのは,このように,118 が特別な断章だからである)
以下に,原文を用いて断章 118,48,および 49 の末尾という順番で並べてみよう。この 3 者の継
続性が明確になるはずである。
118
Août 37.
Plan. 3 parties.
Ire partie : A au présent
B au passé.
Ch. A1 — Journée de M. Mersault vue par lʼextérieur.
Ch. B1 — Quartier pauvre de Paris. Boucherie chevaline. Patrice et sa famille. Le muet. La grand-mère.
Ch. A2 — Conversation et paradoxes. Grenier. Cinéma.
Ch. B2 — Maladie de Patrice. Le docteur. « Cette extrême pointe..»
Ch. A3 — Un mois de théâtre circulant.
Ch. B3 — Les métiers(courtage, accessoires automobiles, préfecture︶.
Ch. A4 — Lʼhistoire du grand amour : «Vous nʼavez plus jamais éprouvé ça ? — Si, madame, devant vous.»
Thème du revolver.
Ch. B4 — Mort de la mère.
Ch. A5 — Rencontre de Raymonde.
48
IIe Partie
A. au présent
B. au passé
Ch. A1 — La Maison devant le Monde. Présentation.
Ch. B1 — Il se souvenait. Liaison avec Lucienne.
Ch. A2 — Maison devant le Monde. Sa jeunesse.
Ch. B2 — Lucienne raconte ses infidélités.
Ch. A3 — Maison devant le Monde. Invitation.
Ch. B4 — Jalousie sexuelle. Salzbourg. Prague.
Ch. A4 — Maison devant le Monde. Le soleil.
Ch. B5 — La fuite(lettre︶. Alger. Prend froid, est malade.
Ch. A5 — Nuit devant les étoiles. Catherine.
35 1–49
[…]
IIIe Partie(tout au présent)
Chap. I. — Catherine, dit Patrice, je sais que maintenant je vais écrire. Histoire du condamné à mort.
Je suis rendu à ma véritable fonction qui est dʼécrire.
Chap. II. — Descente de la Maison devant le Monde au port, etc. Goût de la mort et du soleil. Amour
de vivre.
仮に断章 48〜50 が『カルネ』旧版におけるように 1936 年 1 〜 2 月に書かれたり,新 PL 版の編者
が考えたように 36 年の夏以降 11 月までのあいだに記されたりしたのであれば,カミュは小説の構
想についてまず第 2 部から始め,それから 1 年半あるいは半年以上経ってから第 1 部の着想を得た
ということになってしまう。そのような不自然なことがありうるだろうか?
あるいは逆に,1936 年に第 1 部から第 3 までまとめて記されていた構想のうち,第 1 部にあたる
部分だけが外されて断章 118 の部分に置かれた,ということがあるだろうか。セクション 6 で詳し
く見たように,カミュは 1937 年 8 月に入ってから小説の三部構成を着想し,それを次第に膨らま
せていったということ,および断章 118 には「37 年 8 月」という日付が明確に記されていること,
この 2 つの理由から,そうした逆の仮説も成り立ちはしない。
このように,断章 48〜50 は実際には 118 に続く形で書かれたにもかかわらず,なんらかの事情に
より 36 年 1 月〜 2 月の部分に移されてしまい,
『カルネ』旧版はそれに疑問を感じることなくその
まま印刷を行ったと考えられるのであり,その誤りを指摘した新 PL 版の編者も,綿密な考証を欠
いたがゆえに,本来のあるべき位置に戻すことができなかったのである。
8 .第 1 分冊における改竄の経緯
それでは,このような『カルネ』の旧版における編集ミスの原因はどのようなものであろうか?
むろん,編者のロジェ・キヨが意図的に行ったことでありえない。彼は,旧版『カルネ 1 』の冒頭
に次のように記している。
1935 年から 1953 年の間の分については,カミュはタイプ原稿を作らせるように気を配った。元の手
書きノートと(このタイプ原稿を)比べると,カミュは元のノートのものにほとんど手を加えなかっ
たということがわかる。50
つまり,第 1 分冊における改編はオリジナルの手書きノートの上で施されていたのであり,キヨは
タイプ原稿だけではなくそのオリジナルも参照したのだが,不注意にも改編の事実には気が付かな
かったということになる。一方,仮にタイプ原稿で改編されていたのならばカミュ以外の他人の手
50
CAI, p.7. したがってタイプ原稿が作られたのは第 7 分冊までであり,第 8 および最後の第 9 分冊は手書きノー
トしか残されていなかった。
36
になるものという可能性が生じるが,オリジナルのノートが作り替えられていたのだから,それは
カミュ自身が意図的に行ったものであると判断せざるを得ない。さらにそうした歪曲に沿ってタイ
プ原稿が作られても放置したのであるから,ノートの改竄についてのカミュの決意はかなり強固な
ものであったと推測される。
なぜカミュはこのような行為を行ったのであろうか? それを解き明かす糸口となるのが,分析
4444
4
4
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4
4
4
4
表の 2 ページ目を見ればわかるように,1936 年 6 月から 10 月までの間の断章が一つも残されてい
4
4
ないという事実である。本当にこの期間に何も書かれなかったのであろうか。この年の夏には中央
ヨーロッパの長い旅を行ったというのに,その旅の途上で何もノートに記さなかったというのはあ
まりに不自然ではなかろうか(分析表の後半にある通り,翌 1937 年夏の旅行に際しては極めて詳
細に旅先での情景や折りに触れての省察を詳しく書き込んでいるのである)
。事実は,この部分に
おいてこそカミュは最も大がかりなノートの改竄を行ったのではなかろうか。つまり, 7 〜 8 月の
44
4
4
4
4
4
44
4
4
4
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4
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4
4
4
4
4
4
4
旅における記述を中心に,36 年 6 月から 10 月にあたる部分の断章を丸ごと削除したという可能性
が極めて高いのである。
36 年 7 月初めにアルジェを発ったカミュ,妻シモーヌ,カミュの友人のイヴ・ブルジョワの 3 人
は,断章 92 の旅程表にあるように,リヨンを経由してオーストリアに入り,クーフシュタイン,
ベルヒステガーデンを経て, 7 月下旬にザルツブルクへと至る。この音楽の都でカミュは,衝撃的
な事件に遭遇するのだ。ある朝,局留めで送ってもらっていた郵便物を受け取りに郵便局に赴いた
ところ,妻シモーヌ宛の手紙があり,彼はそれを開封してしまった。送り主はある医師で,シモー
ヌに麻薬を提供してもよい旨が書かれており 51,さらに,その男とシモーヌが医師と患者を超えた
関係であることが読み取れたのである 52。
この出来事により,カミュとシモーヌの間には修復不可能な亀裂が入った。また,妻に裏切られ
たという衝撃は彼の内面に深く突き刺さり,この時に覚えた嫉妬と苦悩はトラウマとなって生涯カ
ミュにつきまとうことになるのである。それでもカミュは旅行を打ち切ることなく続けたのだが,
精神的に無理を重ねたためか,プラハでは極度の抑鬱状態に落ち込んでしまう。その時の暗鬱な心
象風景に基づいて後に書かれたのが,エッセイ「魂の中の死」である。
断章 115,48,50 と引き続いて「性的な嫉妬」というアイデアが現れるのは, 1 年の冷却期間を
おいてから,この時の衝撃を小説に描き出し昇華することで乗り越えようという意図に基づくもの
であろう。それゆえ,断章 48 に記された第 2 部の第 4 章Bの計画において「性的な嫉妬」が「ザ
ルツブルク,プラハ」という地名と結びつけられているのである。だがその後,小説の中心テーマ
は,題名そのものが物語っているように「幸福な死へと至る探求」へと発展していき,それに反比
例するように,「性的な嫉妬」のモチーフは縮小されて,
『幸福な死』第 1 部第 3 章における,メル
ソーの恋人マルトを巡る挿話に用いられるだけになってゆく。
51
シモーヌは麻薬の依存症であったらしい。カミュは結局,妻をそこから救い出すことができなかった。
52
ロットマン,pp.114–115(英),pp.128–129(仏)。
37 だが,ザルツブルク以降に書かれた『カルネ』第 1 分冊のノートには,この苦悩と嫉妬の思いが
生々しい形で書き込まれていたに違いない。また,ザルツブルク以前の旅での記述も,結果的にそ
うした苦悩を想起させるものとしてカミュの目に映じたことであろう。さらには,旅の前や後の記
述であっても,シモーヌに言及したり,シモーヌの名が記されていたりした断章は,読み返すのに
辛いものであったはずである。こうした事情から,後になってカミュは,第 1 分冊の 6 月から 10
月にあたるページを切り取って廃棄したのではなかろうか。最も近しい存在であった妻シモーヌ
Simone の名前が『カルネ』第 1 分冊の中に一箇所も見当たらないというのは,極めて示唆的な事
実であろう 53。
実は,
『カルネ』の手書きノートにあたることができたロットマンは,評伝『アルベール・カミュ』
において,早くも 1978〜79 年の時点で次のように指摘していたのである。しかしこの指摘に注目
をしたフランス人研究者は,筆者の知る限り一人もおらず,新 PL 版における『カルネ』の編者も,
ロットマンの評伝にはほとんど注意を払っていない。
(『カルネ』の)第 1 ノートの原稿は,切り抜かれたり,まとめられたり,あいだに別のページが挟
み込まれたりしている。おそらく内的にすぎる省察が含まれていて,それが自分のノートにはふさわ
しくないと,後になってカミュは判断したのであろう 54
断章 92 が本来あるべき位置から外されて別の場所に挿入・添付されてしまったのは, 6 月〜10
月分のページを切り取る作業のさなかだったのであろう。36 年の旅行に関する記述をすべて廃棄
しようとしたカミュは,断章 92 の旅程表だけは記録として残そうとして別扱いをしたのではなか
ろうか。
だが,翌 37 年の 8 月に記されたはずの断章 48〜50 までをどうしてカミュが移動させたのか,そ
れも 1936 年 1 〜 2 月の時点というとんでもない位置にしたのか,という点は非常に不可解である。
あやまってこの場所にはさみこんだのならば,タイプ原稿を作成させる際に訂正したはずであり,
この改竄も意図的なものと考えざるを得ない。
断章 48 と 50 に「性的な嫉妬」のテーマが現れているのが我慢できずいったんページをはがした
ものの,資料として残しておくべき重要な文章だと考え直して別の場所に貼り付けたのだろうか。
だがそうすると,やはり「性的な嫉妬」と書き込まれている断章 115 が手つかずのままであること
の説明が付かない。
あるいは,若きカミュには『幸福な死』の着想を得たのが実際よりも早い時点であると見せかけ
53
それどころか,『カルネ』の 9 冊のノートを通じて,妻を指すものとして Simone の名が現れるのはわずか 1
箇所,第 8 分冊において『最初の人間』の構想を記した断章の中でだけなのである(PLIV, p.1215)。
ただし,第 1 分冊の断章 27(PLII, pp.804–05.)において「一緒にいた若い娘」と記されているのは,シモー
ヌを指している可能性がある。これはアルジェの高台における療養所での話であり,実際にシモーヌは高台
にあるベン・アクルン病院というところで治療を受けていたからである。
54
第 7 章の注。p.689(英),pp.99.(仏)。
38
たいという背伸びをした願望があって,構想の一部を本来よりもずっと前の時点に移し替えたのだ
ろうか? 第 2 部が先に来るという矛盾が生じてしまうが,第 1 部のプランを記した断章 826 には
「37 年 8 月」という明確な日付があるからそちらを移動させるわけにはいかなかった,ということ
なのだろうか?
残念ながら,現時点ではこの疑問に答えるすべを見つけることができない。
残る疑問としてはもう一つ,断章 92,48〜50 以外にも本来の位置から移された断章はないのか,
という問題がある。その疑念が残るものとして,Mという人物の自殺願望について描写した断章
28 を挙げておきたい。
【28】55
M . 彼は毎晩その武器をテーブルの上に置くのだった。仕事を終え,書類を整理すると,その拳銃を
引き寄せ,それを額に押しつけ,こめかみでぐりぐりと回し,その鉄の冷たさで頬の熱を冷ますの
だった。そして長いことそのままでいるのだ。撃鉄に沿って指をすべらせ,安全装置をもてあそぶの
だった。それが終わるのは,世界が自分の周りで黙り込み,早くもまどろみを覚えながら,自分の存
在の全てが,冷たく塩からい鉄,死が飛び出してくるかもしれない銃身の感覚のうちに身を丸めてし
まってからのことだった。
[略]
このテクストは,若干の修正を施されただけで,『幸福な死』第 1 部第 4 章において,ロラン・ザ
グルーという脚の不自由な資産家が自らの自殺願望をメルソーに対して語るシーンに用いられるこ
とになる 56。だが,この断章28が位置しているのは 1936 年 3 月の時点にあたる場所であって,その
他の『幸福な死』に用いられることになるテクストが全て 1937 年 6 月以降であるのと比べると,
あまりに時間的にかけはなれている。また,36 年 3 月の時点でカミュが「M」で始まる名を(例
えば「メルソー」
)登場人物の名前として早くも思いついていたというのも,不自然ではなかろうか。
他にイニシャル「M」が現れるのは,先に検討した断章 115 だけなのである。以上から,この断章
28 にも,1937 年 8 月に他の『幸福な死』に関連する断章と一緒に記されたものがその後移し替え
られたのではないか,という可能性が生じるのである。
9 .断章の位置が持つ問題点
では,こうした『カルネ』第 1 分冊の改竄・改編は,カミュ研究においてどのような問題をもた
らしたのであろうか。第一には,1936 年 6 月〜10 月の部分の記述が失われたことにより,この間
におけるカミュの内的省察の流れが終えなくなってしまったということが挙げられよう。だが第二
の,そしてより重要な問題は,
『幸福な死』の着想の仮定を正確に終えなくなってしまい,研究に
混乱を引き起こした,という点である。
55
56
PLII, pp.805–06.
PLI, p.1131.
39 作家というのは,書くことを通じてしか作家としての自分を形成することができず,また,執筆
を重ねることによって自らを絶えず変容させていく,という存在である。とりわけ最初に完成させ
た作品というのは,作家にとって唯一無二の足跡であって,それを通してこそ作家としてのアイデ
ンティティーが形を取っていく。
『幸福な死』の出版を断念し,いわば公的にはこのテクストを葬っ
たとはいえ,その執筆体験はカミュにとってかけがえのないものであり,それがあったからこそ,
彼は後に傑作『異邦人』をものにすることができたのである。したがって『幸福な死』の生成過程
を綿密に,かつ正確に跡づけるというのは,作家カミュの自己形成の様相を解明するうえで根幹と
なる作業のはずである。
ところが,作家自身による『カルネ』の改竄に気が付かれないまま,旧版において断章 48〜50
が 36 年 2 月の時点に置かれてしまったために,
『幸福な死』の着想は実際の 37 年 8 月よりも 1 年半
も早いというあやまった解釈が研究者のあいだに流布してしまった。しかしそうした前提に立つ
と,この小説の構想において 1 年半の不思議な空白が生じるということになり,カミュの作家とし
ての自己形成を解明する研究が極めて難しくなってしまったのである。
例えば,
『幸福な死』の単行本に寄せた校訂者ジャン・サロッキの「『幸福な死』の生成」という
論考では,『カルネ』旧版の断章の位置を根拠に「このように『幸福な死』は 1936 年から 38 年にか
けて着想され構成されたのである 57」と言明され,多くの研究者を惑わす結果となった。
あるいは,松本陽正氏による『アルベール・カミュの遺稿 Le Premier Homme の研究』は,カミュ
の作品の全体像を通じて『最初の人間』の位置づけを浮き彫りにしていくという浩瀚かつ野心的な
著作であるが 58,次のような指摘にぶつかってしまう。「1936 年始めの『手帖』から『幸福な死』の
第二部を「現在形」と「過去形」との交錯によって,すすめようとしたことがわかる。[略]1937
年 8 月になると,第三部はすべて現在形にしたままで,第一部と第二部では各章をA(「現在形」),
B(
「過去形」
)に分け,AとBを交錯させた,かなり詳しい覚書が再び姿を現してくる。[略]こ
れらの覚書の日付が『裏と表』執筆時期と刊行直後の時期を示しているのは興味深いことのように
思われる 59」─ 残念ながら,このように『幸福な死』と『裏と表』の形成過程を重ね合わせること
はできないのである。
さらには,カミュにおける作家としての自己形成の過程を正面から論じきった,ジャクリーヌ・
レヴィ=ヴァランシによる畢生の大作『アルベール・カミュ,あるいは作家の誕生』について述べ
『カルネ』第 1 分冊にお
ておく必要があるかもしれない 60。このカミュ研究の大家をもってしても,
ける断章の並びに関する真相を把握することができなかった。そのため,
『ルイ・ランジャール』
を始めとする他の初期作品の綿密な分析に比べて,
『幸福な死』の形成過程についての論考にはあ
57
58
59
60
CAC1, p.8.
駿河台出版社,1999 年。
上掲書,p.68.
Albert Camus ou la naissance d’un romancier, Gallimard, 2006.
40
まり重きが置かれず,そのためか,やはり残念ながら,作家カミュの誕生における『幸福な死』の
意義を軽視する結果を招いてしまっているのである。
10.おわりに
新プレイヤッド版における『カルネ』第 1 分冊の修正は,このような混乱に終止符を打ち,作家
アルベール・カミュの研究における精度をより高めるための,またとない機会になるはずであった。
だが,新版の編者のうち『カルネ』の担当者は,最も問題となっている 3 つの断章をまったく場当
たり的に,何の明確な根拠もなく,不正確な位置に移し替えるだけで満足してしまったのである。
プレイヤッド版カミュ全集は,カミュ研究における底本である。そのプレイヤッド版において行
われた修正は,自動的に権威を持ち,正確な情報として固定されてしまいかねない。今後は「
『幸
福な死』の出発点は 36 年 11 月」と言った記述が研究書に散見するようになる恐れがある。誤りを
正したはずが,別の誤りを誘発してしまうのである。
新 PL 版における『カルネ』の編者が真相を見落とした原因は,
『カルネ』の手書き原稿をきちん
と精査することを怠ったからに違いない。ノートのページの切り貼りや移し替えなどは,しっかり
と原稿にあたれば自ずと把握できるものだからである。そして仮に手書き原稿をまったく参照・吟
味しなかったのならば,それは研究の底本を編纂する上で致命的な怠慢と言えよう。ことは『カル
ネ』の原稿に留まらない。プレイヤッド新版においては,注解では生原稿にしっかりあたっている
一方で,肝心の作品の本文については,改めて草稿類を検討することなく,以前の完本の原稿をそ
のまま採用したものがほとんどなのである。
研究者としては,たとえ底本といえども,いな底本であるからこそ,それに対して批判的な視線
を保ち続けなければならないのである。
【使用略号】
PLI : Albert Camus, Œuvres complètes, tome I(1935–1944︶, Gallimard, Bibliothèques de la Pléiade, 2006.
PLII : Ibid., tome II(1944–1948︶, 2006.
PLIV : Ibid., tome IV(1957–1959︶, 2008.
PLT : Albert Camus, Théâtre, récits, nouvelles, Gallimard, Bibliothèques de la Pléiade, 1974.(初版は1962)
CAC 1 : Cahiers Albert Camus 1, La Mort heureuse, Gallimard, 1971.
CaI : Carnets 1, mai 1935 - février 1942. Gallimard, 1962.
41 読みの表象としての『ピンチャー・マーティン』
─ モデル読者とモデル作者の観点から ─
小野寺 進
「モデル読者」と「モデル作者」とは何か?
ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)は小説世界を森に喩え、小説の解釈行為を森の中を歩く小径
と考え、虚構の書物を読むためにはどのような選択肢をとるのかを記号論の概念を援用して解説す
(model reader)と「モデル作者」
(model author)である。「モ
る 1。その概念の中心が「モデル読者」
デル読者」とは現実世界で実際に読書を経験する読者とは異なる。「経験的読者」
(empirical reader)
は自身の経験に照らし合わせて読むことで、テクストを自身の内面に取り込み、あるいはそのテク
ストを契機として別の人生を歩むこともあり得る。つまり個人個人で多様な読み方が生じるという
ことである。このことはまた、一つの物語テクストについて無数の読みが可能であることを開示し
ている。これに対し、
「テクストが共同作業者として想定し、創りだそうとする」2 のはエーコの言
うモデル読者である。このモデル読者は「遊びの同伴者」3 で、かつ遊びの規則に束縛された存在
でもある。
物語に関する文学理論の中でも、ヴォルフガング・イーザー(Wolfgang Iser)の「内包された読者」
(implied reader)はモデル読者の概念に近いため同定する研究者も多い。イーザーの内包された読
者とは、テクストによって想定されている読者で、内包された作者の価値観・文化的規範に合致す
るよう形成される現実の読者の第二の自我となる存在であると言える。イーザーは内包された読者
について次のように述べている。
He [implied reader] embodies all those predispositions necessary for a literary work to exercise its effect –
predispositions laid down, not by an empirical outside reality, but by the text itself. Consequently, the implied
reader as a concept has his roots firmly planted in the structure of the text; he is a construct and in no way to be
identified with any real reader. 4
1
2
3
4
Umberto Eco, Six Walks in The Fictional Woods.(1994; Cambridge: Harvard University Press, 2004︶.
“the text not only foresees as a collaborator but also to create,” Six Walks in The Fictional Woods, 9.
“someone eager to play such a game,” Six Walks in The Fictional Woods, 10.
Wolfgang Iser, The Act of Reading: A Theory of Aesthetic Response.(Baltimore: The Johns Hopkins University
Press, 1978︶, 34.
43 要するに、内包された読者は概念上の装置であり、「仮想の読者」なのである。
こうしたイーザーの概念装置に対し、エーコはテクスト解釈の課題を解決するにはこの仮想の読
者に肉体を与えることであると考える。そのためには読者に協力を明確に要求することになる。
In order to know how a story ends, it is usually enough to read it once. In contrast, to identity the model author
the text has to be read many times, and certain stories endlessly. Only when empirical readers have discovered
the model author, and have understood(or merely begun to understand)what it wanted from them, will they
become full-fledged model readers.5
物語を探求する散策は、個人の経験的読者がモデル作者を探すことから出発する。このモデル作
者とは、
「モデル読者をこの光学的反射劇に巻き込むために、さまざまな経験的作者を想定させ混
同させようとする声、もしくは戦略」6 なのである。パオラ・プリアッティ(Paola Pugliatti)はイー
ザーとエーコの違いについて、前者はテクストの意味決定の特権を読者に与えることで、後者はテ
クストと協同し、
「テクストと生まれ、テクストの解釈戦略の屋台骨」7 であるとする。
シーモア・チャットマン(Seymour Chatman)は物語のコミュニケーションを次のように図式化す
る 8。
Narrative text
Real author --→ Implied author →(Narrator)→(Naratee)→ Implied reader --→ Real reader
チャットマンの図式において、イーザーの内包された読者は物語テクストの中にあって現実の読者
に一番近い場所に位置し、現実の作者が想定する読者像を示している。これに対して、エーコのモ
デル読者は、モデル作者が想定する読者である。従って、モデル読者を読み解くにはモデル作者を
探し出す必要がある。なぜならこれは単に物語の構造を明らかにすることではなく、解釈領域まで
踏み込んだ概念となっているからである。エーコによれば、モデル作者はテクストそのものであ
り、
「読者を推論的散策へと誘う」存在なのである。
ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)は『想像の共同体』において、
「全知の読者」
(the
omniscient readers)という概念を用いて、18 世紀ヨーロッパに初めて開花した小説と新聞という二
5
Six Walks in The Fictional Woods, 27.
“the voice, or the strategy, which confounds the various presumed empirical authors, so that the model reader
canʼt help becoming enmeshed in such a catoptric trick.” Six Walks in The Fictional Woods, 20.
7 “he/she is born with it, being the sinews of its interpretive strategy.” Paola Pugliatti, “Readerʼs Stories
Revisited: An Introduction,” in Il letore: modelli, processsi ed effetti dell’interpretazione, special issue of VS, 52–53
(January-May, 1989︶, 5 –6.
8 Seymour Chatman, Story and Discourse: Narrative Structure in Fiction and Film(Ithaca: Cornell University Press,
1978︶, 151.
6
44
つの想像の様式の基本構造を考察した 9。全知の読者とは、読者だけが神のごとくすべて同時に眺め
ることができる存在で、
「著者が読者の頭の中に浮かび上がらせた想像世界」10 を示す存在である。
この考え方は、一見すると、著者が理想の読者像を築くイーザーが提唱する内包された読者の概念
と同じように見える。しかし、著者が読者の頭の中に浮かび上がらせた想像世界はお互いの協力の
もと築かれた共同体であり、
「読者を推論的散策へと誘う」ものとなっている。従って、アンダー
ソンの概念は、その解釈行為という点だけで言えば、エーコのモデル読者の概念に近いと言える。
例えば、ホセ・リサールは小説『ノリ・メ・タンヘレ』の冒頭において、「晩餐会は、アンロアゲ
通りにある家で催された。通りの番号を思い出せないので、地震で潰されてでもいないかぎり、今
でもわかるように描写しておこう。…」という表現から、読者をフィリピン人と想定しているとア
ンダーソンは指摘する 11。ある特定の年代の特定の月にマニラのまったく違う所に住むおたがい知
りもしなければ名も与えられない数百もの晩餐会のことを話しているにもかかわらず、その家を特
定できる理由を次のように述べている。
This casual progression of this house from the ʻinteriorʼ time of the novel to the ʻexteriorʼ time of the [Manila]
readerʼs everyday life gives a hypnotic confirmation of the solidity of a single community, embracing characters,
author and readers, moving onward through calendrical time.12
フィリピン人の心の中に想像の共同体を思い浮かばせるのである。経験的読者という存在は物語内
容についてすべてを周知している訳ではないので、その知識や知覚は自ずと制限されたものにな
る。これに対して、アンダーソンが提示する全知の読者の概念は、読者だけが、さながら神のごと
くすべて同時に眺めることができる。このことはまた、現実の作者が読者の頭の中に浮かび上がら
せた想像の世界の新しさを示すということである 13。つまり、作者が内包された読者を作り上げる
ことで、物語の解釈へと誘い込んでいくのである。エーコとの違いは、誘い込む主体が直接物語を
書いた作者と概念上のモデル作者にある。アンダーソンは作者の意図を内包された読者の中に放り
込み、経験的読者に作者が読ませたい内容を理解するように導くのに対して、エーコは現実の作者
とは異なる概念上の理想の作者であるモデル作者を措定し、モデル読者を作者の意図を含むテクス
ト言表を理論的に解読するよう導く存在として機能している。
このモデル作者を考える場合、先に示したチャットマンによる図式の左から 2 番目に位置する
ウェイン・ブース(Wayne C. Booth)が提唱する「内包された作者」
(implied author)が思い出される 14。
内包された作者とは、経験的読者が措定する理想の作者像であり、テクスト言表に内在する意図を
9
10
11
12
13
14
Benedict Anderson, Imagined Communities.(1983; London: Verso, 2006︶.
“imagined world conjured up by the author in his readersʼ minds,” Benedict Anderson, 26.
Benedict Anderson, 26–7.
Benedict Anderson, 27.
Benedict Anderson, 26.
Wayne C. Booth, The Rhetoric of Fiction.(1961; Chicago: The University of Chicago Press, 1983︶.
45 顕在化する主体で、現実の作者と異なる存在である。作品全体の意識を支配し、作品に具現化され
る規範の源であり、現実の作者よりも知性やモラルにおいて卓越した存在と言える 15。そういった
意味ではモデル作者と同じ存在であると考えてもよい。経験的読者から内包された作者へと経験的
作者から内包された読者への関係は、それぞれイデオロギーのベクトルが反対を指し示すだけで、
相互に連関し合うわけではないが、信頼性(reliability)に関しては、
「秘密の意思疎通」
(“a secret
communication”)が確立されているとの指摘もされている 16。従って、信頼できない語り手の場合、
内包された作者はテクストのメッセージを語り手(narrator)や聞き手(narratee)を飛び越えて内包
された読者に送ることになる。しかし、内包された読者の場合、作者が想定した読みの主体である
ので、作者の意図の顕在化が反映されることとなる。そのため、内包された作者が経験的作者と異
なる場合は、テクスト自体の意図が経験的読者に伝えられないため、内包された読者と経験的読者
は異なる存在になってしまう。これに対して、エーコのモデル作者とモデル読者は解釈の仮説を築
き上げるための共同作業を行うテクスト戦略になっている。テクスト共同作業においては、
「言表
行為の経験的主体の意図の顕在化が理解されるべきではなく、言表に潜在的に含まれる意図の顕在
化が理解されるべき」17 なのである。その意図とは経験的作者とは無関係に、モデル作者に帰属さ
せるはずの意図である。先の引用(注 5 )で示されたように、経験的読者がモデル作者を認識し、
それから求められているものを理解した時に、経験的読者はモデル読者となり得るのである。テク
ストの共同作業はこのモデル作者とモデル読者の間で繰り広げられる現象であり、読書という行為
においてのみ展開される存在なのである。それは私たち経験的読者が向かうべき読みの行為であ
り、テクストの解釈作業であると言っても過言ではない。この読書行為を、ウィリアム・ゴールディ
ング(William Golding)の『ピンチャー・マーティン』(Pincher Martin)を通して見ていくと共に、
この作品自体が経験的読者にモデル作者を捜させるテクストとなっていることを明らかにしたい。
『ピンチャー・マーティン』における「モデル読者」と「モデル作者」
『ピンチャー・マーティン』はゴールディングの 3 番目の作品で、読者は物語の主人公であるク
リストファー・ハドリー・マーティン(Christopher Hadley Martin)が生きていく様について読んで
いく。ところが、物語の最後の結末にたどり着くと、主人公クリスはすでに最初から死んでいたと
いう事実を読者は突きつけられる。時折一人称によって物語の語り手役を演じたクリスはブーツを
脱ぐ時間などないくらい即死だったのである。では、ブーツを脱ぐために奮闘し、自己の存在を主
張したクリスは本当に存在したのであろうか。物語は次のように始まる。
15
16
17
Shlomith Rimmon-Kenan, Narrative Fiction: Contemporary Poetics.(London: Methuen, 1983︶, 86–7.
“The implied author has established a secret communication with the implied reader.” Seymour Chatman,
233.
ウンベルト・エーコ、『物語における読者』篠原資明訳(青土社、1979)、99。
46
He was struggling in every direction, he was the centre of the writhing and kicking knot of his own body.
There was no up or down, no light and no air. He felt his mouth open of itself and the shrieked word burst out.18
(下線部は筆者)
物語の冒頭で、名前が明示されていない主人公が、物語世界外に存在する語り手によって外側から
焦点化され・語られる。これが第 3 センテンスの “felt” という知覚動詞によって、今度は彼が内側
から焦点化され・語られる。もちろん語るのは物語世界外の語り手ではあるが、
「感じていた」主
体はクリスであるので、実際はクリスが内面から描写されていることを示している。つまり、物語
における見る眼差し=焦点化が外側からクリスの内側へと移動するのである。
物語の複雑さは、こうした異質物語世界(heterodiegesis)の中に、等質物語世界(homodiegesis)
が展開されるところにある。最初のうちは自由間接言説(free indirect discourse)で描写され、語り
手が物語を語るが、物語はクリスの眼差しを通して眺めることになる。だが次第にクリスの知覚も
含め、物語世界外の語り手が語る物語世界に、語られる対象のクリス自身が「私」として自分の物
語を語る場面がかなりの頻度で登場する。
If Iʼd been below I might have got to a boat even. Or a raft. But it had to be my bloody watch. Blown off the
bloody bridge. She must have gone on perhaps to starboard if he got the order in time, sinking or turning over.
Theyʼll be there in the darkness somewhere where she sank asking each other if theyʼre down-hearted, knots and
stipples of heads in the water and oil and drifting stuff. When itʼs light I must find them, Christ I must find them.
Or theyʼll be picked up left to swell like a hammock, Christ! 19
通常ならば、三人称で展開される異質物語世界では、こうした発話は引用符で挟まれている。しか
し、ここでは語り手が語る言説の中に、自由直接言説(free direct discourse)という形でクリス自
身が「私」の物語として突如として現れ、物語世界外の語り手と物語の主人公クリスとの境界線が
曖昧な状態に置かれる(図 1 )
。
図1
異質物語世界
物語世界外の語り手=「彼」の物語
等質物語世界
クリス=「私」の物語
18
19
William Golding, Pincher Martin.(1956; London: Faber and Faber, 2013︶, 1.
Pincher Martin, 9.
47 物語はさらに複雑化する。物語世界外の語り手が「主人公クリス」ではなく、
「私」でもない、
クリスの精神=意識である「中心」を登場させ、クリスの眼球の内部から読者に物語を眺めさせる。
その「中心」は頭蓋骨の暗黒の中にあり、物語世界外の語り手が語るというよりは、クリス自身が
自分を三人称で他者を見るように見ている感じを醸し出している。
… There was at the centre of all the pictures and pains and voices a fact like a bar of steel, a thing - that which
was so nakedly the centre of everything that it could not even examine itself. In the darkness of the skull, it
existed, a darker dark, self-existent and indestructible.
“Shelter. Must have shelter.”
The centre began to work. It endured the needle to look sideways, put thoughts together. It concluded that it
must crawl this rather than that. It noted a dozen places and rejected them, searched ahead of the crawling body.
It lifted the luminous window under the arch, shifted the arch of skull from side to side like the slow shift of the
head of a caterpillar trying to reach a new leaf. 20
こうした人間の内に潜む声=神の声は、ゴールディングが処女作『蠅の王』(The Lord of the Flies)
から続けて用いているモティーフである。
『蠅の王』において、登場人物の一人であるサイモン
(Simon)が豚の頭から次のように自由直接言説で話しかけられる。
A gift for the beast. Might not the beast come for it? The head, he thought, appeared to agree with him. Run
away, said the head silently, go back to the others. It was a joke really – why should you bother? You were just
wrong, thatʼs all. A little headache, something you ate, perhaps. Go back, child, said the head silently.21
しかし、ここで “said the head silently” とあるように、豚の頭は実際語ってはおらず、サイモンに語
りかけたのは彼自身の頭の中で構築された声である。こうした声は人間の内に潜んでいる意識が他
者を通して顕現させようとするものである。
『ピンチャー・マーティン』の終盤の 12 章において、
「おれは昔から精神と、肉体と、二つに分
かれていた」22 とクリス自身が語るように、必死で生きようようともがくクリスは肉体と精神が別
個の存在であることを明らかにする。つまり、クリスを内部から語る主体たる内なる声が彼の精神
や意識を表象していると言える(図 2 )
。
20
21
22
Pincher Martin, 42–3.
William Golding, Lord of the Flies.(1954; London: Faber & Faber, 1988︶, 152.
“I was always two things, mind and body.” Pincher Martin, 187.
48
図2
異質物語世界
物語世界外の語り手=「彼」の物語
等質物語世界
クリス(肉体)=「私」の物語
クリス(精神)
「中心」
(the centre)
ただここで語る精神上のクリスは、肉体上のクリスが語る一人称ではなく、三人称である。その一
方で、眼差しはクリスのままなのである。それはあたかも物語世界外の語り手がクリスの内部に入
り込んで語っているかのようである。上記で示した図 1 と図 2 は、語りの観点から物語の枠組みを
図式化したものであるが、眼差し=焦点化の観点のものとは異なる。眼差し=焦点化の観点からみ
ると、次のように図式化できる。
図3
外的焦点化
語り手=焦点化子、クリス=被焦点化子
内的焦点化
焦点化子=クリス
内的焦点化
焦点化子=中心
物語世界外においては、焦点化子は語り手にあり、主人公クリスを外側から見ている。語りが自
由直接言説や自由間接言説になると、焦点化子は物語世界内の主人公クリス自身に移り、内側から
物語を眺めることとなる。物語を内側から見ることで、クリスの苦闘を読者が自分の体験であるか
のように眺めるのである。さらにクリスの「中心」は頭蓋骨の奥深くの暗黒にあり、そこからクリ
ス自身のみならず、世界を眺め、時空を超えて過去の世界を読者に提示する。
物語が終盤に近づくと、
「中心」がまさに物語の中心に居座り、クリスの座を支配し、「中心」自
49 ら自由直接言説で読者に語りかける場面が連続する。次の引用は、
「中心」が直接話法で読者に語っ
たあと、自由間接言説と自由直接言説で読者に物語る場面である。
The centre cried out.
“Iʼm so alone! Christ! Iʼm so alone!”
Black. A familiar feeling, a heaviness round the heart, a reservoir which any moment might flood the eyes
now and for so long, strangers to weeping. Black, like the winter young body. The window was diversified only
by a perspective of lighted lamps on the top of the street lamp-posts. The centre was thinking – I am alone; so
alone! The reservoir overflowed, the lights all the way along to Carfax under Big Tom broke up, put out rainbow
wings. The centre felt the gulping of its throat, sent eyesight on ahead to cling desperately to the next light and
then the next – anything to fasten the attention away from the interior blackness.
Because of what I did I am an outsider and alone. 23(下線部は筆者)
「中心」の最初の一人称による叫びの後に、その三人称による内側からの眼差しがあり、そして自
由直接言説による一人称の叫び。再び三人称に戻り(しかし眼差しは内的)、クリスの精神(意識)
が語りの自我を帯び、一人称で読者に説明するのである。この一連の語りは、物語世界外の語り手
とクリスの関係を、クリスの内部だけで行っているのである(12 章-13 章)。それはまた、現世を
超越した形而上学的な意味を帯びてもいる。
最後の 14 章になると、物語は再び異質物語世界へと戻る。ただし、これは物語の最初に戻ると
いう意味ではなく、物語の語りの構造上という意味である。物語世界外の語り手は掃海艇がやって
くるところから話を進める。そこでは漂流屍体の回収に来た二人の士官、キャンベルとディヴィッ
ド、が仕事について会話をしている。そこで次のやりとりがなければ、物語は大西洋で船が難破し、
漂流して何とか生き延びようと奮闘努力したクリスが、残念ながら最終的に助からなかった物語と
なっていたに違いない。
“If youʼre worried about Martin – whether he suffered or not –“
They paused for a while. Beyond the drifter the sun sank like a burning ship, wet down, left nothing for a
reminder but clouds like smoke.
Mr. Campbell sighted.
“Aye,” he said, “I meant just that.”
“Then donʼt worry about him. You saw the body. He didnʼt even have time to kick off his seaboots.” 24
(下線部は筆者)
クリスの屍体について、
「作業用深長靴を脱ぎ捨てる時間もなかった」という最後の一文で、それま
23
24
Pincher Martin, 192–93.
Pincher Martin, 223–24.
50
でクリスの生き様を外側からと内側から眺めてきた読者は驚きを示さずにはいない。なぜなら、あ
れほど長靴を脱ぐことに苦労し、脱いだ後も、脱いだことを後悔していたクリスを知っているのだ
から。ここにきて、読者はこれまでの読書体験を覆され、もう一度物語の最初へ否応なしに引き戻
されることになる。そこで読者は物語の枠組みが次のようになっていることを知るのである(図 4 )
。
図 4 経験的作者(現実の作者)
モデル作者
異質物語世界(現実世界) 物語世界外の語り手
異質物語世界(煉獄)物語世界外の語り手=「かれ」の物語
等質物語世界(煉獄)
語り手クリス=「わたし」の物語
クリスの精神 「中心」の物語
わたしたち読者はこの物語の階層を理解して初めて、物語に仕組まれた構造の複雑さを知ること
になる。ここに至り、経験的読者はモデル作者を探す手がかりを得ることになる。最後の章が物語
における現実世界だとすると、クリスが「生」を求めて必死に格闘していた描写や彼の意識などは、
死後の世界(煉獄)と言えるだろう。ではモデル作者が読者に対して示そうとしたものは、苦悩す
るクリスの死までの物語なのか、それとも冥界における人間の生を示そうとしたのか、あるいは自
己の存在についての形而上学的な命題なのか。
『ピンチャー・マーティン』の解釈は「作業用深長靴を脱ぎ捨てる時間もなかった」という最後
の一文をめぐる問題に収斂されると考えてもよい。この物語の意味は巧妙な語りの技法にかかって
いるとか 25、マーティンとゴールディングの関係はゴールディングと読者との関係と同じであると
か 26、読者の想像力で築き上げたイメージ図式が覆され、読者の現実認識を揺るがすとか 27、あるい
25
26
27
“the full import of the book depends upon a most ingenious narrative device.” Frank Kermode, ʻWilliam
Golding,ʼ Puzzles and Epiphanies: Essays and Reviews 1958–1961.(London: Routledge & Kegan Paul,
1962︶, 207.
“… Martinʼs relationship to Golding is the same as Goldingʼs and the readerʼs relationship to a sphere beyond
and enveloping the reality in which writer and reader exist.” Philip Redpath, “The Fearful Sphere: Pincher
Martin and the Search for a Center” William Golding: A Structural Reading of his Fiction(London: Vision
Press, 1986), 157.
高橋了治、
「書き直された不在の物語─ Pincher Martin とテクストの探求─」
『東北』第 33 号(1999)、84。
51 はわれわれのこの物語の読書経験が読むということを深く考えさせる 28、といったように。
『ピンチャー・マーティン』の創作意図についてゴールディングは次のように述べている。
Christopher Hadley Martin had no belief in anything but the importance of his own life, no God. Because he
was created in the image of God he had a freedom of choice which he used to center the world on himself. He
did not believe in purgatory and therefore when he died it was not presented to him in overtly theological terms.
The greed for life which had been the mainspring of his nature forced him to refuse the selfless act of dying. He
continued to exist separately in a world composed of his own murderous nature. His drowned body lied rolling
in the Atlantic but the ravenous ego invents a rock for him to endure on. It is the memory of an aching tooth.
Ostensibly and rationally he is a survivor from a torpedoed destroyer: but deep down he knows the truth. He is
not fighting for bodily survival but for his continuing identity in face of what will smash it and sweep it away –
the black lightning, the compassion of God. For Christopher, the Christ-bearer, has become Pincher Martin who
is little but greed. Just to be Pincher is purgatory; to be Pincher for eternity is hell.29(下線部は筆者)
読者に読みの方向性を与えるように思える経験的作者のこの創作意図において、キリストの名を冠
した「クリストファー」が 貪欲な「ピンチャー」に成り下がるプロセスは生前と死後での語りの
階層を暗示するものである。また作中の度々登場するジャム瓶の中の人形の比喩もチャイニーズ
ボックスもすべて読者に物語の階層構造を認識させるものである。
しかしこうした経験的作者の意図も、クリスが「ピンチャー」でいることが一様でなく、煉獄か
ら地獄へとその境界を曖昧にしてしまうことや、長靴を脱いでしまったことを何度もつぶやく後悔
の念は物語の結末に至り物語内容時間を同定不能としてしまう。さらにはクリスの自己の存在証明
をするための食べるという行為も自己の姿を鏡に映し出す行為も無に帰してしまうのである。なぜ
ならクリスの漂流物語は現世において不在となるからである。
結末に至って振り出しに戻り、はじめから読み直すことを余儀なくさせる『ピンチャー・マーティ
ン』という物語テクストは、読書行為の有り様を表象していると言える。経験的読者は物語全体を
読み通すことで、テクストを読み返す必要に迫られる。その上で、テクスト言表の意図を理解する
ために、読者は言表の主体であるモデル作者を想定せざるを得なくなる。そしてモデル作者と共同
の解釈作業を行うことで、経験的読者はモデル読者になり得るのである。しかし、
『ピンチャー・
マーティン』という物語テクストを読む時、わたしたち読者は読みのパラドックスに陥る危険があ
る。なぜなら、この物語テクストが意図する言表は読むという行為を表象しているのだから。
28
29
“Our reading experience of this novel makes us reflect on reading in general.” Philippa Gregory, ʻAfterwordʼ,
Pincher Martin, 226.
Kermode, 207–8. これは1958年 3 月21日の The Radio Times に掲載されたものである。
52
参考文献
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Print.
Tiger, Virginia. William Golding: The Dark Fields of Discovery. London: Calder and Boyers, 1974. Print.
高橋了治、「書き直された不在の物語─ Pincher Martin とテクストの探求─」
『東北』第33号1999、67–86。Print.
53 古ウイグル語行政命令文書に「みえない」ヤルリグ
松 井 太
はじめに
西曆 13~14 世紀のモンゴル帝國時代においては,モンゴル皇帝(qaγan > P. qān ~ qā’ān)やモン
ゴル皇族・后妃さらには皇族以外の將相や宗教權力者が發した命令が,モンゴル支配地域の各地で
遵守すべき規範・法源として大きな權威を持っていた。これらの命令のうち,モンゴル皇帝(世祖
クビライ以降の大元ウルス皇帝を含む)が發したものはモンゴル語でジャルリク(ǰarliγ)あるい
はテュルク系諸語でヤルリグ(yarlïγ)すなわち「おおせ」と稱された。これは,その他の皇族・
將相らの命令をさすモンゴル語が等しく üge「ことば」とされたのとは對照的であり,唯一至上の
最高君主としてのモンゴル皇帝の命令が特別・絶大な權威を持っていたことを示す[杉山 1990, 1
=杉山 2004, 372–373]
。ただし,このような原則は,特にモンゴル帝國が分權化していく14 世紀後
半には,嚴格には遵守されなくなっていったとも考えられている。
そこで本稿では,モンゴル支配下ユーラシアの中央域に位置する東トルキスタン・トゥルファン
地域發現の古ウイグル語行政命令文書を題材として,この「おおせ」をさすテュルク語・ウイグル
語のヤルリグ(yarlïγ)が「みえない」ことから,逆説的にモンゴル皇帝に歸せられる「おおせ
(ǰarliγ ~ T. yarlïγ)
」の不可侵性と,それらの文書の歷史的背景について檢討するものである。
1.モンゴル時代の諸種文書の冒頭定式にみえるジャルリク・ヤルリグ
モンゴル語ジャルリク(ǰarliγ)
「おおせ」は,モンゴル皇帝が發した命令文書において皇帝の命
令の呼稱として用いられるだけでなく,皇帝以外のモンゴル皇族・將相・行政機關が發行者となる
文書の冒頭定式における權限附與文言(Intitulatio)においても,
「皇帝のおおせにより(qaγan-u
に
ǰarliγ-iyar)
」という文言で用いられた。同時代の漢文編纂史料や出土文書に頻見する「皇帝聖旨裏」
は,この漢語譯である。以下に,同時代のモンゴル語文書の用例を掲げておく。
①敦煌北區出土,14 世紀後半 ︵?︶ モンゴル語文書 B163: 46
qaγan-u ǰarlγ-iyar 2arka’širi-yin lingǰi-(b)[er] 3čautauš[i-yin noyad üge manu?]
1
「皇帝のおおせにより,アルカシリの令旨(lingǰi < Chin. 令旨)により,
[われら]招討司[の
55 ノヤンたちのことば(?)
]
」1
②敦煌
(?)
發現,14 世紀後半モンゴル語文書,京都・藤井有鄰館 No. 4
1
qaγan-u ǰarliγ-iyar 2sultanš-a si-ning ong-un 3ongvuu-yin noyad-ta 4buyanquli üi-uu si-ning ong-un
5
vuu-ui sun-g? günsi bič[i]g ögümü
「皇帝のおおせにより,スルタン = シャー(Sultanš-a < Sulṭān Šāh)西寧王の王府のノヤンたちへ。
ブヤンクリ威武西寧王の府尉(または傅尉)スン(?)= ギュンシが書状を送る」2
③内蒙古カラホト(Qara-Qota)出土モンゴル語文書 F9:W31b[吉田・チメドドルジ 2008, 72]
1
qaγan-u ǰarlγ-iyar 2qong tays-i-yin lingǰiber 3(I)šin-e luu sunggon vuu-yin noyad üge manu
「皇帝のおおせにより,皇太子(qong tayzi)の令旨(lingǰi)により,われら亦集乃路總管府の
ノヤンたちのことば」
④トゥルファン出土モンゴル語文書 MongHT 073[BT XVI, Nr. 73]
1
qan-u ǰarliγ-iyar 2bigtemür üge manu
「皇帝のおおせにより,われらビグ = テムルのことば」
以上,①②③は,その出土・發現地に鑑みて,大元ウルス支配下で發行されたことは確實である。
いずれも,文書冒頭の「皇帝のおおせにより(qaγan-u ǰarliγ-iyar)
」という定型文言により,自らの
依據する權威がモンゴル皇帝であることを示している。また④は,從來,14 世紀以降に中央アジ
アを支配したチャガタイ = ウルス(いわゆるチャガタイ = ハン國)發行文書とみなされているが,
その發行者ビグ = テムル自身は大元ウルス皇帝の權威を認めていた可能性が高い[cf. 杉山 1987,
47, 杉山 1990, 1=杉山 2004, 365, 394]
その一方で,チャガタイ=ウルスが發行したモンゴル語命令文書の冒頭定式の權限附與文言には,
モンゴル皇帝の命令に限定されるはずの「おおせ(ǰarliγ)
」の語を,チャガタイ家王族に對して用
いる例が 3點ある。
1
嘎日迪 2004, 411–412; 敖特根 2006 =敖特根 2010, IV。第 2 行冒頭の人名を,嘎日迪は Qaraǰaširi と判讀したが,
敖特根は Aratnaširi と改めて東方チャガタイ家出身の豫王アラトナシリ(阿剌忒納失里 < Aratnaširi < Skt.
Ratnaśrī)に同定した。しかし筆者は,2013 年 12 月に敦煌莫高窟研究院に保管される原文書を實見した結果,
本文のようにアルカシリ(Arka’širi ~ Arkaširi < Skt. Arkaśrī)と改め,敦煌に據った西寧王家の後裔として洪武
二十四年(1391)に明に來朝した「蒙古王子の阿魯哥失里」[cf. 杉山 1982 =杉山 2004, 272–274]に比定する
ことを提案する。また,嘎日迪・敖特根とも,このモンゴル王族を本文書の發行者とみなしている。しかし,
第 2 行の令旨(lingǰi)の後には語頭の B- 字の殘畫がわずかに確認でき,後掲③の用例と比較すれば -ber を推
補できる。また第 4–7 行の行頭が第 3 行の「招討司(> M. čautauš[i])」よりもさらに低く「降格」されている
ため,本文書は,この「招討司」の關係者により,その下級・下位の機關に宛てて發行されたものと考えら
2
れる。
「招討司」に後續する破損缺落部分は,やはり後掲③を參考にしてかりに補ったものである。
Franke 1965; Ligeti 1972, 235–236; 杉山 2004, 282. 文書の年代はスルタン = シャー西寧王の受封以降に限られ,
それは早くとも 1353 年より後のこととなる[杉山 1982 =杉山 2004, 272]。從來,本文書はトゥルファン地域
のトヨク(
「吐峪溝」
)出土と考えられてきたが,ハミ(哈密)に據る威武西寧王家の王府から敦煌の西寧王家に宛
てて發行されたものである以上,敦煌發現資料とみなされるべきである[松井 1997, n. 13; 松井 2008b, fn. 3]。
56
⑤トゥルファン出土,1338年モンゴル語文書 MongHT 074[BT XVI, Nr. 74]
1
yisüntemür-ün ǰrlγ-iyr 2temür satilmiš ekiten 3toγačin šügüsüčin üge 4manu
「イスン = テムルのおおせにより,われらテムル(と?)サティルミシュを頭とする會計官たち
(toγačin)
・糧食管理官たち(šügüsüčin)のことば」
⑥トゥルファン出土,1368年モンゴル語文書 MongHT 068[BT XVI, Nr. 68; cf. 松井 2008a, 18]
1
ilasqoǰa-yin ǰarlγ-iyar 2kedmen baγatur üge manu
「イルヤス = ホージャのおおせにより,われらケドメン = バアトルのことば」
⑦敦煌北區出土,14世紀後半,モンゴル語文書 B163:42[松井 2008b]
1
[ ](....)boladun ǰarlγ-iyar 2k[e](d)men baγatur üge [manu]
「……= ボラトのおおせにより,
[われら]ケドメン = バアトルのことば」
⑤のイスン = テムル(Yisüntemür)はチャガタイ = ウルス當主(r. 1338–1339)3,⑥のイルヤス = ホー
ジャ(Ilasqoǰa < P. Ilyās-Ḫwāǧa)もやはりチャガタイ = ウルス當主(r. 1363–1370)である。⑦の「……
= ボラト([....]-Bolad)
」は文書の破損缺落により判然としないが,その發令者ケドメン = バアトル
(Kedmen-Baγatur)は⑥の發令者と同一人物である。從って,⑥にみえるイルヤス = ホージャと同樣,
14 世紀初頭にチャガタイ = ウルスを再興したドゥア(Du’a, r. 1282–1307)の家系に連なるチャガタ
イ王族と考えられる[松井 2008b, 27]
。
さらに,チャガタイ = ウルスやフレグ = ウルス(いわゆるイルハン朝)が發行した行政文書の權
限附與文言では,このモンゴル語 .... ǰarliγ-iyar「~のおおせにより」をテュルク語化した .... yarlïγïn-dïn「~のおおせにより」という表現を,モンゴル皇帝以外の君主に用いる例が確認される。
⑧トゥルファン出土,西曆 1302 年(または 1290 年)ウイグル語文書 *U 9168 II[松井 2008a; cf.
VOHD 13, 22, #272]
ṭuu-a yrlγ-ïn-dïn 2[t](ü)män sözüm
1
「ドゥアのおおせにより,私テュメンのことば」
⑨西曆 1293年,ペルシア語文書[Soudavar 1992]
[Irīnǧī]n Durǧī yarlīġīndīn 2Šiktūr Aqbūqā Ṭaġāǧār sūzīndīn 3Aḥmad ṣāḥib dīwān sūzī
1
「[イリンチ]ン = ドルジのおおせにより,シクトゥル(Šiktūr < Šigtür)
・アク = ブカ(Aqbūqā
< T. Aq-Buqa)
・タガチャル(Ṭaġāǧār < Taγačar)のことば(sūz < T. söz)により,アフマド財務
長官のことば」
3
このイスン = テムルについて,杉山正明は同名の第 10 代モンゴル皇帝の泰定帝に比定する可能性を示唆する
が[杉山 1990, 1 =杉山 2004, 394]
,これをチャガタイ = ウルス當主とみなした L. V. Clark の説は鐵案である
[Clark 1975]。
57 ⑩アルダビール(Ardabīl)發現,西曆1305年ペルシア語文書[PUM, Urkunde V]
1
tawakkaltu ‘alā’llāh 2Ūlǧāytū sulṭān yarlīġīndīn 3Qutluġ Šāh sūzī
「神に歸依す。オルジェイトゥ= スルタンのおおせにより,クトルグ = シャーのことば(sūzī < T.
sözi)」
⑪アルダビール發現,西曆1305年ペルシア語文書[PUM, Urkunde VI]
bi-ism allāh al-raḥman al-raḥīm 2Ūlǧāytū sulṭān yarlīġīndīn 3Qutluġšāh Čūbān Būlād Ḥasan Sawinč
1
sūzīndīn 4Sa‘d al-Dīn sūzī
「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において。オルジェイトゥ= スルタンのおおせにより,クト
ルグ = シャー・チョバン(Čūbān < M. Čoban)
・ボラド(Būlād < M. Bolad)
・ハサン・セヴィンチ
(Sawinč < T. Sävinč)のことばにより,サアド = アッディーンのことば」
⑫アルダビール發現,西曆1321年ペルシア語文書[PUM, Urkunde VIII]
Abū Sa‘īd bahādur ḫān yarlīġīnd[ī]n 2Čūbān sūzī
1
「アブー= サイード = バアトル = カンのおおせにより,チョバンのことば」
⑬アルダビール發現,西曆1323年ペルシア語文書[PUM, Urkunde IX]
al-musta‘ān huwa’llāh ta‘ālā 2Abū Sa‘īd bahādur ḫān yarlīġīnd[ī]n 3Dimašq Ḫwāǧa sūzī
1
「至高なる神の庇護[により]
,アブー= サイード = バアトル = カンのおおせにより,ディマシュ
ク = ホージャのことば」
⑭アルダビール發現,西曆 1342年ペルシア語文書[PUM, Urkunde XIV]
1
bi-ism allāh al-raḥman al-raḥīm 2Sulṭān Sulaymān yarlīġīnd[ī]n 3Šayḫ Ḥasan Čūbānī sūzī
「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において。スルタン = スライマンのおおせにより,チョバン
家シャイフ = ハサンのことば」
⑧に言及されるドゥア(Ṭuu-a ~ Duu-a ~ Duwa ~ Duγa)は14 世紀にチャガタイ = ウルスを再興し
たドゥアその人である。この⑧文書は,ドゥアの在位時代に,チャガタイ = ウルスが東部天山地方
のウイグル王國領をいったん直接支配下においた時期があったことを示す[松井 2008a]
。
一方,⑨~⑭は,フレグ = ウルス支配下で發行されたペルシア語命令文書の冒頭の權限附與文言
である。アラビア語の定型句で始まる⑩⑪⑬⑭を含め,いずれもアラビア字表記のテュルク語 ....
yarlīġīndīn(< T. yarlïγ-ïn-dïn)
「~のおおせにより」という定型表現が,⑨ではイリンチン = ドルジ
([Irīnǧī]n Durǧī < M. Irinčin-Dorǰi)すなわちキカトゥ(M. Kiqatu ~ *Kiqa’atu ~ *Kiqaγatu > P. Kīḫātū, r.
1291–1295),⑩・⑪ではオルジェイトゥ(Ūlǧāytū < M. Ölǰeitü, r. 1304–1316)
,⑫・⑬ではアブー=
サイード(Abū Sa‘īd > M. Busayid, r. 1316–1335)ら歷代のフレグ = ウルス當主に用いられている。
⑭スライマン(Sulaymān, r. 1338–1353)はフレグの後裔で,チョバン朝の傀儡君主であるから,立
場上はフレグ = ウルス當主に準じるものである。
これまでに知られている限り,チャガタイ = ウルス・フレグ = ウルスとも,その當主自身が發行
58
した命令文書では,いずれも自らの命令を「ことば(M. üge)」と稱しており[BT XVI, Nrn. 70, 71,
72, 75, 76; Pelliot 1936; Mostaert / Cleaves 1952; Claeves 1953; Mostaert / Cleaves 1962; Ligeti 1972 ;
Tumurtogoo 2006; Tumurtogoo 2010]
,彼らがモンゴル皇帝の權威を承認していたことがうかがえる
[杉山 1990, 1 =杉山 2004, 393–394]
。これに鑑みれば,モンゴル皇帝ではなくチャガタイ = ウルス・
フレグ = ウルスの當主に M. ǰarliγ ~ T. yarlïγ「おおせ」の語を用いる上掲⑤~⑭の權限附與文言は,
唯一至上の存在としてのモンゴル皇帝の權威を侵犯するものとみなされ得る。
この點に關して,14 世紀初頭にチャガタイ = ウルス當主エセン = ブカ(Esen-Buqa, r. 1310–1318)
の使節と,大元ウルスの部將トガチ(Toγači > 脱火赤/脱忽赤)のあいだで起こった口論を傳える,
ペルシア語年代記『オルジェイトゥ史』の一節は重要である[TU, 224b8–11]
。
會談の際,
(エセン = ブカの)使臣たち(īlčiyān < īlčī < T.-M. elči)は「エセン = ブカ(Īsānbūqā
< Esen-Buqa)の “ おおせ(yarlīġ < T. yarlïγ︶” は然々である」と言った。トガチ(Ṭūġāčī‌ < M.
Toγači)はこれに聲を荒げて「黙れ ︵ḫamūš︶! “ おおせ ” とは皇帝(qān)からするものである。
王子たちの命令(farmān-i pisarān)は “ 令旨(līnkǧī < M. lingǰi < Chin. 令旨 ︶” すなわち “ 王子たち
の命令 ” と言うのだ」と言った。
(使臣の一人)タルテムル(Tāltīmūr)は「エセン = ブカは(チ
ンギス = カンの)子孫(ūrūġ‌< M. uruγ)であるから,我々にとっては皇帝と同じだ」と言った。
この一節からは,大元ウルスの將相が「おおせ(T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)」の語をモンゴル皇帝の命令
に限定して用いるべきことを嚴格に認識していたのに對して,チャガタイ = ウルスの臣僚は,自身
が直接に仕えるチャガタイ = ウルス當主の命令をしばしば「おおせ(T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)
」と稱して
いたという状況が推測される。これは,チャガタイ = ウルス當主に「おおせ」の語を用いる,上掲
⑤~⑧の諸例を傍證するものといえる[松井 2008a, 15; 松井 2008b, 27–28]
。
また上掲『オルジェイトゥ史』の著者カーシャーニー(Abū al-Qāsim Qāšānī)はフレグ = ウルス
宮廷に仕えた史家であるから[大塚 2014]
,フレグ = ウルスでも「おおせ(P. yarlīġ < T. yarlïγ ~ M.
ǰarliγ)
」がモンゴル皇帝の命令に限定される呼稱であることは熟知されていたはずである。しかし,
⑨~⑭の諸例は,フレグ = ウルスの將相・臣僚も,自身が直接に仕える君主の命令を「おおせ(P.
yarlīġ < T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)
」と稱することを忌避しなかったことを示す。さらに,フレグ = ウルス
當主の命令について ḥukm-i yarlīġ「おおせ(ヤルリグ)の命令;敕令」などと表現する例は,上掲
⑨~⑭を含むペルシア語行政文書や,
『集史』ほかフレグ = ウルスで編纂されたペルシア語史料に
も頻見する。
このようなフレグ=ウルス當主の命令にかかる yarlīġ < T. yarlïγ の語について,つとに杉山正明は,
必ずしもモンゴル皇帝の「おおせ,命令」と對等のものではなく,むしろ君主の命令を文書化した
「敕許状」と解すべき可能性を指摘した[杉山 1990, 1 =杉山 2004, 393]
。14 世紀のイエメンのラスー
ル朝で編纂されたいわゆる Rasūlid Hexaglot における對譯例(A. kitāba “writing, record” = P. mis̤ āl “royal
59 mandate” = T. yarlīġ (< yarlïγ))がこの杉山案の傍證となり得ることは,すでに拙稿で指摘した[松
井 2008a, 15; 松井 2008b, 27; cf. Golden 2000, 202]。また宮紀子も,フレグ = ウルスの後繼國家であ
るジャライル朝の君主シャイフ = ウヴァイス(Šayḫ Uways, r. 1356–1374)が 1358 年に發行したモン
かきもの
ゴル語・ペルシア語合璧文書にみえる M. ǰarliγ の語に對して,文脈上の理解に基づきつつ「文字」
の和譯をあてる
[宮 2014, 25–26]
。宮は注意しなかったが,この文書のモンゴル文第12–13行には「こ
4
4
」とい
の ǰarliγ の裏面(のペルシア文)に書いた定めにより(ene ǰarliγ-un kerü-dür bičigsen yosuγar)
う表現がみえるので[Herrmann / Doerfer 1975, 74]
,14 世紀後半のイラン方面では,モンゴル語
ǰarliγ が明らかに文書化された「敕許状,命令書,證書」として用いられたことを再確認できる。
ちなみに,14世紀末~15世紀以降のジョチ = ウルスとその後裔政權の發行したテュルク語行政命令
文書においても,文書化された「敕許状,命令書,證書」としてのヤルリグ(T. yarlïγ)の用例は,
4
4
4
4
4
4
4
「このヤルリグを把持している
例えば,
「朱印のあるヤルリグ(al nišanlïγ yarlïγ; al tamγalïγ yarlïγ)」,
4
4
」といった表現から確認される[e.g.,
(bu yarlïγnï tutup turγan)
」
,
「ヤルリグを見て(yarlïγ körüp)
Özyetgin 1996, 105, 106, 107, 114, 115, 116, 132; Özyetgin 2000, 172, 173]
。
しかしながら,上掲⑤~⑭の權限附與文言にみえる M. ǰarliγ ~ T. yarlïγ にまで,このような「(文
書化された)敕書,命令書」の語義を敷衍させることは難しい。例えば,⑥の發令者ケドメン = バ
アトルは,トゥルファン地域の主邑高昌に駐在していたチャガタイ = ウルスの代官と思われ,⑥文
書の内容はシングギング(Singging < Chin. 新興)つまり現在のセンギム(Sänggim)村に土地を有
していた人物の税役免除に關するものであった[松井 1998b, 33–34; 松井 2008a, 15–16; Matsui 2014a,
271–272]。このような地理的局所の案件について,文書の發行者が,逐一チャガタイ = ウルス當主
からの「文書化された敕許状(ǰarliγ)により」決裁を仰いでいたとは考えづらい。その點では,⑨
~⑭のフレグ = ウルス文書,さらには①~④の大元ウルス発令文書の諸例も同樣であり,必ずしも
皇帝やウルス當主からの文書化された命令に依據することを示すものではなく,あくまで文書發行
者が自身の依據する權威を明記するための定型的な表現にすぎない,と考えるべきであろう。
以上の諸點をまとめれば,モンゴル皇帝の命令に限定して M. ǰarliγ ~ T. yarlïγ の語を用いるという
體例・規範は,13 世紀末以降にチャガタイ = ウルス・フレグ = ウルスの臣僚が發行者となって「國
内向け」に作成した─上掲⑤~⑭のような─行政文書では,もはや嚴格には遵守されていな
かったとみなしてよいであろう。
2 .例外的冒頭書式をもつウイグル文供出命令文書
さて筆者は,トゥルファン盆地を中心とする東部天山地方出土の古ウイグル語世俗文書のなかで
も,物件(金錢,人的勞働力をも含む)の供出を命令する行政文書すなわち供出命令文書の歷史學
的研究を進めてきた。
目下,筆者が確認し得た限りでは,これらのウイグル文供出命令文書の總数は 99 件にのぼる。
これらは,書體,捺された公印の形態的特徵,いくつかの特徵的な書寫上の體例,さらには閏月記
60
載などにより,10~12 世紀の西ウイグル時代,13~14 世紀初頭のモンゴル帝國・大元ウルス支配
時代,さらに 14世紀以降のチャガタイ = ウルス支配時代へと,その屬する年代をおおよそ判定する
ことが可能である。ただし,その書式は全體としてほぼ共通しており,冒頭に⑴十二支獸紀年・月
日が記され,續いて⑵物件供出の理由・目的,⑶供出物件とその數量,⑷供出負擔者,が場合によっ
ては順序を變えつつ記され,末尾の⑸命令文言が記された上で,公印(官印)が押捺される[松井
1998a, 032; 松井 1998b, 11–13; 松井 2002, 94–100; 松井 2003, 55–57; Matsui 2009; 松井 2010, 33–35;
Matsui 2014b]。
ところで,冒頭の⑴十二支獸紀年・月日に先立って,例外的な記載を有するウイグル文供出命令
文書が,管見の限り 4 件存在する。以下,これら 4 件の文書について,文獻學的な校訂テキスト・
和譯と,最小限の語註を提示する。なお,筆者が現在準備しているウイグル文供出命令文書の包括
的な校訂テキスト資料集成では,この文書 4 件に對して,それぞれ B3・B4・D20・E2 という編號
を與えているので[cf. Matsui 2014b, 629–630]
,本稿でもその編號に從って引用する。いずれも草
書體ウイグル字で書かれており,また解説・語註の各處に示すような諸點からも,13~14 世紀の
モンゴル帝國時代に屬することは疑いない[cf. Matsui 2014b, 617–618, 620–622]
。
B1 + B2 + B3 + B4 SI 6544
いずれも「羊年」の紀年をもつ 4 件のウイグル文供出命令文書を連貼したものであり,1898 年の
ロシアの V. I. Roborovskij, D. A. Klemenc の高昌故城調査によって將來され,現在はロシア科學アカ
デミー・サンクトペテルブルク東方文獻研究所に所藏されている。なお,かつての所藏番號は SI.
Uig. 14 とされていた[cf. Tuguševa 2013, 135]
。
つとに筆者は,連貼された 4 件のうちの第一文書(USp 53.1= 後掲 B1)をとりあげつつ,これら
の 4 件がいずれも驛傳馬の一時供出によるクプチル税(qupčïr ~ P. qupčūr < M. qubčiri)の代納命令
であることを論證した[松井 1998a, 035–037]
。4 件全點を扱った校訂テキストはまず USp 53.1–4
として發表され,その後も多くの研究者により利用されている 4。最近では,李經緯・Tuguševa も
USp を微修正した校訂テキストを發表している[李經緯 1996, 198–203; Tuguševa 2013, 135–138]
。
しかしながら,その内容理解は,殘念ながらなお不十分である。ただし,Tuguševa 2013 は本文書
の寫眞複製を初めて公刊した點で有益である。
筆者の實見調査により古文書學的情報を整理すると,4 件はいずれも縱方向の漉き縞(5/cm)の
ある中質紙を用いており,紙寸はそれぞれ 14.5 ⊗ 22.0 cm (B1),15.0 ⊗ 19.0 cm (B2),14.5 ⊗ 18.0 cm
(B3),14.5 ⊗ 19.0 cm (B4),これらを連貼された状態で約 15.0 ⊗ 75.0 cm である。また,4 件のいずれ
?
にも同一の漢字の朱方印(9.0 ⊗ 9.0 cm)が捺されており,その印文は「高昌王/總管府/□□印」
4
E.g., Pelliot 1944, 156–157; Arat 1964, 36; Tixonov 1966, 102; ClarkIntro, 388–389, 441–443 (Nos. 105–108); Zieme
1980, 202; 田衞疆 1994, 33.
61 と判讀できる 5。
後述するように,この 4 件の紀年である「羊年」はおそらく同一であり,憲宗モンケ(Möngke)
九年(1259)己未に比定される[語註 B3r1 參照]。憲宗モンケは,その卽位元年(1251)に,天山
山脈北麓のウイグル王國の夏都ビシュバリク(Biš-Balïq > Chin. 別失八里~別十八里)に,ウイグ
ル王國領を含む中央アジア・トルキスタン地域に對するモンゴル統治機關として別失八里等處行尚
?
書省を設置していた[安部 1955, 49–57; 本田 1967, 89–91]
。本文書の朱印鑑にみえる「高昌王總管
府」とは,この別失八里等處行尚書省の屬下にあって,高昌王すなわちウイグル王の支配領域を擔
當した行政機關とみなせるであろう 6。
本稿で歷史學的な檢討の對象とする B3・B4 文書は,この連貼された 4 件のうちの後半の 2 件であ
るが,ここでは 4件まとめて筆者の實見調査に基づく校訂を提示しておく。
B1
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
qo(yn) yïl (yi)tinč (a)y
yägirmikä öngtün čärig-tin at alγalï klgüči
aḍay toγrïl-qa qošang-qa balïq-ta müngü
iki at-ta bačaγa trqan
yṳz-intä bolmïš taz
(b)ir at ulaγ birip iki
kün birip üč baqïr
kümüš qupčïr-qa
tutzun •
羊年第七月
二十日に。先鋒軍(東方軍?)
から馬を取りに來る
アタイ = トグリルとコシャング
への,城市で騎乘すべき
2 頭の馬のうち,バチャガ = タルカン
の百戸(内)のボルミシュ= タズが
1 頭の馬を供出して, 2
日間供出して, 3 錢の
銀のクプチル税に
換算せよ。
5
印文の解讀にあたっては赤木崇敏(大阪大學)氏のご教示を得た。ここに特記して謝意を示したい。
6
歷代のウイグル王=イドゥククト(ïduq qut > Chin. 亦都護,「聖なる天寵」の意)の事蹟を顯彰する『亦都護
高昌王世勲碑』には「仁宗皇帝,始稽故實,封爲高昌王,別以金印賜之。設王傅之官。王印行諸内郡,亦都
護之印則行諸畏吾而之境」という著名な一節があり[虞集『道園學古錄』巻 24;『元史』巻 122・巴而朮阿而
忒的斤(Barčuq-Art-Tegin)傳もおおむね同文]
,仁宗アユルバルワダ時代になってはじめて當時のウイグル王
ニグリン = テギン(Nigürin-Tegin > Chin. 紐林的斤)に「高昌王」號が與えられ,これに伴い「(高昌)王印」と「亦
都護之印」が倂用されるようになったとされる。『世勲碑』ウイグル譯文もこれを踏襲して「ブヤントゥ= カー
ン(Buyanḍu qaγan, 仁宗)には恩賜されて,“ 金印(altun tamγa)と高昌王(Kao-čang ong)の名を與えさせ,ま
さに以前のバルチュク = アルト = イドゥククト(Barčuq-Art ïduq-qut)の如くに,永遠にまでその一族たちに繼
承させ,新たに與えさせた高昌王の金印を外郡(yat taš il-lär)にて通行させる令旨(lingči)に用い,また別の
以前の金印を周圍のウイグル人たちの間(yaqïn-ta Uyγur ara)で用いよ ” とおおせになった(yarlïγ boldï)」とい
う[卡哈爾・劉迎勝 1984, 67]。『元史』巻 108・諸王表も高昌王の始封を仁宗延祐三年(1316)とする。ただし,
『元史』巻 24・仁宗本紀・至大四年(1311)五月甲辰条は「高昌王傅」の設置を傳えているから,少なくとも
この時點で「高昌王」號が與えられていたことになる。そして,本文書の朱印を「高昌王總管府」と讀んで
誤りないとすれば,すでに憲宗モンケ時代以前から,ウイグル王イドゥククトは漢語では「高昌王」と自稱・
雅稱することがあったと推測できる。前掲の『世勲碑』漢文に「故實を稽へて」というのは,このような事
情を反映しているのかもしれない。
62
qoyn yïl säkizinč ay yiti yngïqa
toqsïn-taqï yiti yïlqï ba(..)[ ]
käpäz alγalï barγučï yägänčük-kä turmïš-qa nampï-qa barγu iki at-ta
bačaγ-a tarqan yṳz-intä
bolmiš taz bir at ulaγ
birip üč baqïr kümüš
qupčïr-qa tutzun
羊年第八月初七日に。
トクシンにある 7 年分の ba(..)[...]
棉花を取りに行くイェゲンチュク
とトゥルミシュへの,ナムピ(南平)
へ行く 2 頭の馬のうち,
バチャガ = タルカンの百戸(内)の
ボルミシュ= タズが 1 頭の驛傳馬を
供出して, 3 錢の銀の
クプチル税に換算せよ。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
arïq bökä-ning
qoyn yïl onunč ay bir
ygrmikä bor sïqturγlï
kälgüči qulan ilči qra
ilči soγdu ilči
olar-qa balïq-ta müngü
altï at ulaγ-ta bačaγ-a
trqan yṳz-intä • bolmïš
taz bir at iki kün
birip üč baqïr kümüš
qupčïr-qa tutzun
アリク = ブケの。
羊年第十月十
一日に。ブドウ酒を壓搾させに
來るクラン使臣,カラ
ソグドゥ使臣
たちへの,城市で騎乘すべき
6 頭の驛傳馬のうち,バチャガ =
タルカンの百戸(内)のボルミシュ=
タズが 1 頭の馬を 2 日間
供出して, 3 錢の銀の
クプチル税に換算せよ。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
qorumčï oγul-nung
qoyn yïl birygrminč ay
bir otuz-qa bor-čï
sulγar-qa bor tarγlï
balïq-ta müngü bir
at ulaγ bačaγ-a trqan
yṳz-intä bolmïš taz
birip bir yarïm
baqïr kümüš qupčïr
-ïnga tutzun
コルムチ王子の。
羊年第十一月
二十一日に。ブドウ酒係の
スルガルへの,ブドウ酒を集めるために
城市で騎乘すべき 1 頭の
驛傳馬を,バチャガ = タルカン
の百戸(内)のボルミシュ= タズが
供出して,1.5
錢の銀のクプチル税
に換算せよ。
B2
1
2
3
4
5
6
7
8
9
B3
B4
語註
B1r2, öngtün čärig: öngtün は「前方;東方」であるから,öngtün čärig で「先鋒軍;東方軍」の意[USp,
90; Tuguševa 2013, 136]
。後掲語註 B3r1 で述べるように,本文書の「羊年」は憲宗モンケ九年(1259)
己未に比定される。當時,皇帝モンケは自ら南宋遠征に出馬して四川地方の最前線に至っており,
本文書が發行された陰曆七月二十日(西曆 8 月 10 日)から八日後の七月二十八日癸亥(西曆では 8
月 18日)に崩御する。本文書で,馬匹を調達するために使臣を派遣してきた öngtün čärig「先鋒軍;
東方軍」とは,この南宋遠征軍をさしていたのかもしれない。
B1r6–7, bačaγa trqan yṳz-intä bolmiš taz: 連貼された4 件のすべてにみえるこの記載はながらく誤
解されていたが[USp, 92; ClarkIntro, 388–389; 李經緯 1996, 200],すでに拙稿[松井 1998a, 035; 松
井 2002, 97, 103–104]で明らかにしたように,yṳz ~ yüz を「百,100」の原義から行政組織として
63 の「百戸」とみなし,その前は百戸長の人名,後續する人名は供出負担者と理解すべきである 7。た
だし,yüz の前後の人名の轉寫は,本稿の通り微修正する。人名 Bačaγa に後續する trqan ~ t(a)rqan ~
tarqan は突厥時代以來のテュルク語官稱號。供出負担者となる人名 Bolmïš に續く taz「禿」は,や
はり人名要素として頻出する。
B2r2, toqsïn: 麴氏高昌國・唐代の篤新に由來するオアシス都市で,
『元史』地理志の他古新,現
在のトクスン(Toqsun > Chin. 托克遜)に相當する[Matsui 2014a, 169, fn. 6]
。
B2r2-3, yiti yïlqï baγ[ï?] käpäz: 冒頭の yiti「7,七」と末尾の käpäz「棉花;棉」は明瞭である。續
く語を ili とする Radloff には從えず,字面からは yïlqï と讀める。諸先學はさらに後續の語を P’R=
bar「ある,在る」としているが,實際の字形はさらに長く,下端までの短い缺落部にも續いてい
たとみられるので,別語とみなさねばならない。
T. yïlqï には「~年分の」と「家畜;畜生」の兩義があり[ED, 925–926]
,Tuguševa は後者を採用
して本處を「 7 頭の馬(yïlqï)の束(baγ)の棉( xlopok [količestvom] v semʼ lošadinyx vʼjukov)
」と解
釋する。しかし,棉・棉花は一般的には重量單位の tang や batman で計量されるので,本處であえ
て yïlqï「家畜」により計量したとは想定しづらい。むしろ,本來は税として徵収されるべき棉花の
うち,滯納されたものが 7 年分(yiti yïlqï)殘っており,本文書はその徵収に關係していたのかもし
れない。
B2r4, nampï: 麴氏高昌國時代~唐代に,トゥルファンの南方に位置していたオアシス都市の名の
南平(GSR, 650a + 825a, *nậm-bi̯ wɒng)を「ウイグル字音」形式で音寫した地名。ウイグル文契約
文書 SUK Ad01 にみえる城市名アムビ(Ambï)も,語頭を N- 字とみて Nampï と改め,同地とみなす
べきである。モンゴル時代のウイグル語文書には,この Nampï の語頭の N- が L- に交替したラムピ
(Lampï)という異形も在證されており,これが現在のラムプ(Lampu > Chin. 拉木伯~讓布)とい
う集落名の直接の起源である[Matsui 2014a, 278–282]。本文書で便宜を供與されるイェゲンチュク
とトゥルミシュの 2 名は,高昌から最終目的地のトクシンに向かう際,その中間にあるナムピ/ラ
ムピで馬を交換したのであろう。
B3r1, arïq bökä: この Arïq-Bökä という人物が初代モンゴル皇帝チンギス = カン(Činggis-qan)の
末子トルイ(Tolui)の末子アリク = ブケ(Ariγ-Böke, d. 1266)に同定されることは,B3文書がこの
第 1 行のみを擡頭して敬意を表現していることからも確實である 8。
本文書でアリク = ブケが言及されるのは,當然,モンゴル帝國における彼の政治的地位を反映す
るものである。アリク = ブケが帝國の政治中樞にあったのは,長兄のモンケが第4 代皇帝(憲宗)と
して卽位した西曆 1251 年から,次兄のクビライ(Qubilai, r. 1260–1294)との帝位繼承戰爭に敗れる
7
8
Tuguševa が拙稿の指摘に気付かず,なお bačaγa taγ yṳz-intä bolmiš taγ「バチャガ山に面している畜群(tabuna
naxodjaščegosja na gore Bačag)」と誤讀しているのは遺憾である[Tugusheva 2013, 135–137]。
Radloff 以來の qačan-kökä,また最近の Tuguševa の qačïγ-kökä という轉寫[Tugusheva 2013, 136]は,いずれも
誤り。
64
中統五年(1264)陰曆七月まで,とみなすことができる。この間の「羊年」は憲宗モンケ九年(1259)
己未だけであり,ここに本 B3文書の年代は決定する。連貼されている B1・B2・B4 文書の「羊年」
も明らかに同年である[Matsui 2014b, 617–618]
。
この年の陰曆七月二十八日癸亥に憲宗モンケは崩御する。アリク = ブケは,太祖チンギスの末子
トルイのそのまた末子としてチンギス宗家の財産を相續する立場にあり,またモンケの南征に際し
てはモンゴル本土の留守を預かり,かつモンゴル本土でのモンケの葬儀をも主催して,第 5 代皇帝
の正統な候補者として最も有力であった。その正統性を軍事力で覆したのが,翌年中統元年(1260)
三月一日に卽位した第 5 代モンゴル皇帝の世祖クビライであった。
本 B3 文書の内容は,モンケ崩御の直後の憲宗九年(1259)陰曆十月十一日に,アリク = ブケの
權威を奉じる使臣が,トゥルファン地域でブドウ酒の製造(あるいは輸送)を擔當していたことを
示唆する[本稿第 3 節參照]
。周知のように,モンゴル時代,ウイグル王國領で生産されるブドウ
酒は,最高級品として珍重された[松井 1998b, 29]
。本文書で言及されるブドウ酒は,モンケの葬
儀への參列者,あるいはアリク = ブケ卽位のためのクリルタイへの參加者に提供されることが想定
されていたのかもしれない。
B3r3, sïqturγlï: 11 世紀の『テュルク語總覧(Dīwān Luġāt al-Turk)
』にも ol üzüm sïqturdï「彼はブ
ドウを壓搾させた」という表現がみえることからみて,本處も sïqturγ(a)lï < v. sïqtur- (caus.) < sïq-「
(ブ
ドウ酒を)壓搾させる;壓搾作業(製造)を手配する」とする Clauson の解釋に從う[ED, 807; cf.
CTD II, 55; Tugusheva 2013, 195]
。
B4r1, qorumčï oγul: T. oγul「息子(> P. ūġūl)」およびその派生語である T. oγlan「少年(> P. ūġlān)」
は,M. kö’ü(n) ~ ke’ü(n)「子,息子(> P. kā’ūn)
」と同じく,
「王子,諸王」の意で頻繁に用いられ
た[羽田 1925 =羽田 1958, 176, 179; TMEN II, Nrn. 502, 198; Boyle 1971, 286]。本處の Qorumčï も,
oγul 號を伴っており,また B3 文書のアリク = ブケと同樣に擡頭による敬意表現を加えられている
ことから,モンゴル王族だったことは確實である。
歷史状況からみて,この「コルムチ王子」は,第 2 代モンゴル皇帝オゴデイの第 6 子カダアン(Qadaʼan
~ Qadaγan > Chin. 合旦)の第 5 子コルムシ(Qorumši ~ Qurumši)に同定できると考えられる 9。第4
9
モンゴル人名 Qorumči の語末音の -či はしばしば -ši に交替したと考えられる。例えばムカリ(Muqali)の曾孫
で第 5 代ジャライル國王家當主となった「忽林池/忽林赤」のモンゴル語名は,漢字表記からは本處と同じ
く Qorumči と再構できるが,ペルシア語史料では Qūrumšī と記錄されている。また,『元史』巻 169 に立傳され
る賈シラ(Šira > Chin. 昔剌)の孫コルムチ(虎林赤 < Qorumči)は,同巻 9・世祖本紀・至元十四年(1277)
六月丁丑条では「忽林失(< *Qorumši)」と表記されている。この人名 Qorumči ~ *Qorumši > Chin. 忽林池/忽
林赤/虎林赤/忽林失 ~ P. Qūrumšī については,「ホラズム出身(者)」を意味する P. Ḫwārizmī からの借用・轉
訛とする Pelliot の提唱が,最近まで受入れられている[Pelliot 1938, 149–152; cf. Cleaves 1949, 433–435; Rybatzki
2006, 525–526]。しかしその論據は,結局のところ,
『元朝秘史』(§263, 11:50:05; 11:50:08)でホラズム出身の
ムスリム財務官僚マスウード = ベグ(Mas‘ūd Beg > 馬思中忽惕)の “ 姓 ” が中忽舌魯木石 > *Qurumši と漢字表記さ
れる點に盡きる。また Pelliot の想定する P. Ḫwārizmī > M. *Qorusmi という借用形式も在證されておらず,そこ
から *Qorumši ~ Qorumči という子音轉換を推定するのも飛躍がある。『元朝秘史』の中忽舌魯木石については,
『秘
65 代皇帝モンケは,自身の卽位に反對してクーデタを計畫したオゴデイ系・チャガタイ系王族に徹底
的な彈壓を加えたが,その際,オゴデイ系に屬しながらクーデタには參加しなかったカダアンは,
皇帝モンケの軍隊から1萬人隊を分與され,オゴデイの諸オルド・后妃の一部をも相續して,ビシュ
バリク地域に遊牧地を獲得した[Boyle 1958, 595; 村岡 1992, 43; 松田 1996, 48; cf. 安部 1955, 56–57;
『元史』巻 3・憲宗本紀,憲宗二年(1252)夏条]。そのカダアンの王子コルムシについての情報は
東西の編纂史料にほとんど記錄されていないが,本文書のコルムチ/コルムシがカダアンの子であ
り,父の牧地であるビシュバリクから天山を南に越えた高昌・トゥルファン地域に影響力を行使し
たという蓋然性は高い。その點でも,本文書における同定は重要である。
B4r4, tarγlï: Radloff 以來,T’RYXLY = tarïγ(a)lï と判讀され,v. tarï-「(作物を)作付けする;(土
地を)耕す,耕作する」に關連づけられている 10。しかし,先行する bor はあくまでも製品としての「ブ
ドウ酒」であって,
「ブドウの木」や「ブドウ園」ではないから,「耕す;栽培する」という解釋は
そぐわない。また,原文書を實見したところ,實際の字面も T’RXLY = tarγ(a)lï であって,これを
T’RYXLY = tarïγ(a)lï と解するのは苦しい。
古テュルク語の v. tar- には「解散する,分配する」の意があり[e.g., ED, 529],本處の文脈とも
必ずしも乖離しないが,Text B3 の使臣がブドウ酒製造に關係して言及されるのと比較すれば,本
B4 文書の使臣も「ブドウ酒を分配するため」にトゥルファン地域へ派遣されたとは考えづらい。
ここではあえて Radloff が新ウイグル語として収錄する v. tar-「一箇所に集める(auf einer Stelle
zusammendrängen, sammeln)
」
[VWTD III, 836]によって解釋しておく。
D20
U 5790 + *U 9261 (T III 66)
本文書は,第 3 次ドイツ = トゥルファン探檢隊により將來され,現在はベルリン科學アカデミー
(以下,BBAW)に所藏される。現存する U 5790 文書は上半部分のみの斷片である[VOHD 13,22
#270; 本稿 Fig. II, 1]
。しかし,R. R. Arat がベルリン留學(1928~1933 年)時に撮影した寫眞[本稿
Fig. II, 2]により,本來の状態を確認できる 11。*U 9261 という文書番號は,この破損した部分に
BBAW が與えたものである。
史』モンゴル語原本自體の誤記の可能性なども考慮すべきではなかろうか。人名 Qorumči ~ *Qorumši の語源
としては,モンゴル語 qorumǰi「減少,損」[Lessing, 967]か,または qurim「婚禮;宴會」[MKT, 686; Golden
2000, 291]に職掌を示す +či が接續した「宴會係(qurimči)」,テュルク語ならば qorum「砂礫,大岩」[ED,
660; CTD I, 303]に由來する「石匠(qorumči)」なども想定できよう。
10Radloff は tarïγlï と轉寫し,bor tarïγlï で「ブドウ(の木)の手入れをする者(der die Wein(stöcke) besorgt)
」と譯
した[USp, 91–92]。Clauson が本處を “a wine grower” と譯すのも,明らかに Radloff に從っている[ED, 532]。
Malov は接尾辭の -γlï を正しく副動詞 -γ(a)lï「‥‥するために」と修正したが,bor tarï- を「ブドウ園を耕作す
る(vozdelyvat’ vinogradnik)」と解釋する點は,基本的に Radloff と變わらない[USp, 231]。Clark もこれを踏
11
襲して “cultivate wine” と譯す[ClarkIntro, 443]
。
この Arat 撮影寫真資料の調査と發表を許可された Osman Fikri Sertkaya 教授のご好意に,この場を借りて深甚
の謝意を表す。
66
現存の U 5790 文書の紙寸は 9.0 ⊗ 8.6 cm なので,これをもとに推計した本來の文書の縱寸は16.5 cm
前後になる。
1
milik tämür oγul-nung
メリク = テムル王子の。
2
ït yïl onunč ay altï yangïqa
犬年第十月初(旬の)六日に。
3
uz-a b(o)r iltür siliba ilči
匠人にブドウ酒を運ぶシリバ使臣
4
-ning no̤kör yn-a yisüdär il(č)[i]
の侍從,およびイスデル使臣(へ)
5
yol aṣuq-luq birgü üč tayaq äḍ
旅行用食糧として與える 3 串の肉と
6
altï küri min-tä turpan-ta qanimdu
6 斗の麵粉のうち,トゥルファンのカニムドゥが
7
bir tayaq äḍ iki küri min
1 串の肉, 2 斗の麵粉を
8
büḍürüp b(i)[r](ṣü)[n]
調達して供出せよ。
語註
D20r1, milik tämür: 前半の人名要素 milik(~ melik ~ mälik ~ M. melig < P. malik)について Raschmann
は Tilik の可能性を指摘するが[VOHD 13,22 #270],その必要はない。アリク = ブケの末子メリク =
テムル(Melig-Temür ~ P. Malik-Tīmūr ~ Chin. 明里帖木兒~滅里鐵木兒,d. 1307)に同定すべきこと
は,
「息子」から轉じて「王子」を意味する oγul[上掲語註 B4r1 參照]が後續していることからも
明らかである。
世祖クビライは,アリク = ブケの没(1266)後,アルタイ方面にあったその牧地・牧民を末子の
メリク = テムルに相續させた。至元八年(1271)
,メリク = テムルは,カイドゥ勢力に對抗するため,
大元ウルス軍團とともに天山山中のアルマリクへ派遣された。至元十三年(1276)
,シレギ(Širegi
> 失烈吉)の亂の勃發でこのアルマリク駐屯軍團は崩壊し,その結果メリク = テムルはカイドゥ勢
力に合流して大元ウルス政權と敵對することとなった。その後,至元二十九年(1292)には一時的
に大元ウルスに來降したこともあったが,彼が最終的に大元ウルスに來降したのは,クビライ曾孫
のハイシャン(Haišan, のちの武宗,r. 1307–1311)がオゴデイ諸裔の平定のためにアルタイ以西に進
撃した大德十年(1306)のことである。メリク = テムルは安西王アーナンダ(Ānanda > 阿難答)に
伴われて,大德十一年(1307)正月庚午には大都宮廷に至る。その 3 日後(正月癸酉)に皇帝テム
ル(Temür, 成宗,r. 1294–1307)が崩御し,メリク = テムルはアーナンダの卽位を援助するが,ハ
イシャンの弟アユルバルワダ(Ayurbarwada, 仁宗,r. 1311–1320)の宮廷クーデタにより失敗し,
五月にアーナンダとともに上都で處刑された[松田 1983; 村岡 1985; 松田 1988; 杉山 1995]
。
從って,本文書第 2 行の紀年「犬年」は,1266~1307 年の 40 年間に求めることができるので,
至元十一年(1274)甲戌,至元二十三年(1286)丙戌,大德二年(1298)戊戌のいずれかとなる。
この點については,本稿第 3 節であらためて檢討する。
D20r2–4: この第 2–4 行の行頭下げ(
「降格」
)は,第 1 行冒頭のメリク = テムルに對する敬意表現
である。このような「降格」による敬意表現形式は,チャガタイ = ウルス支配時代のモンゴル語・
67 ウイグル語文書に特徵的なものであることは松川節によって指摘され[松川 1995, 112–115],それ
を承けて筆者はこれを「チャガタイ = ウルス式敬意表現」と呼んだ[松井 1998b, 8]。しかし,本
D20 文書は,メリク = テムル存命の 1306 年以前に年代比定され,チャガタイ = ウルスが東部天山地
域の支配を本格化する 1320 年代後半より最短でも 20 年前後は遡ることとなる。從って,このよう
な「降格」による敬意表現形式をチャガタイ = ウルス支配の指標とすることはできず,その由來や
また「チャガタイ = ウルス式敬意表現」という呼稱も再考しなければならない。
D20r3a, uz-a b(o)r iltür: uz-a は uz「匠人,工匠」に與格語尾 -a が後續したもの。「ブドウ酒(bor)
」
に後續する iltür は,v. ilt- ~ ilät-「運ぶ,もたらす」
[ED, 177]の中立形とみなす。
D20r3b, siliba: Syr. Ṣelībā ~ Ṣelīvāに由來するキリスト教人名Siliba ~ Selibaは,ベルリン舊藏のウイ
グル契 *U 9000 や,セミレチェ發現の東方キリスト教徒テュルク語墓誌銘にも在證される[Raschmann
2008, 129; Chwolson 1890, 134–135]
。
D20r4a, no̤kör: ~ nökör < M. nökör「侍從,從者,下僕;屬僚;仲間」
[Lessing, 593; TMEN I, Nr. 388]
。
モンゴル帝國時代におけるチンギス帝室の「御家人,郎黨」としての nökör(> P. nūkār)の歷史的
役割については,護雅夫の先驅的研究[護 1952a; 護 1952b]とそれを大きく發展させた志茂碩敏の
一連の研究成果に詳しい[志茂 1995; 志茂 2013]。しかし本文書では本來の普通名詞として理解す
べきであろう。BBAW 所藏の供出命令文書 U 5284 にも同樣の用例が確認できる[松井 2002, 108]
。
なお,
『元朝秘史』
・
『至元譯語』
・
『高昌館譯語』雜字では,いずれも「伴當」と漢譯される[石田 1934
=石田 1973, 175; Ligeti / Kara 1990, 265, Kara 1990, 314; Ligeti 1966, 185–186, 299]
。
D20r4b, yisüdär: ~ P. yīsūdar ~ Chin. 也速迭兒/也速答兒/也速帶兒 , etc. < M. yesüder「第 9 の」
。
頻出するモンゴル人名[Rybatzki 2006, 740]
。
D20r5a, yol aṣuq-luq: 同じ表現が,後述の「ヤリン文書」群に屬する Ch/U 7213v(松井 2003, Text
E = Matsui 2014b, E3)にもみえる。
D20r5b, tayaq: 第 5, 7 行の文脈からは,肉(äḍ)の計量單位として用いられたとみなせる。テュル
ク語では「支持,支えるもの」の他に「杖,棍棒,竿」などの意がある[ED, 568; TMEN II, Nr. 864]
。
本文書で供出された肉は,乾し肉・練り肉などを棍棒(tayaq)状にしたものか,あるいは細い棒
(tayaq)で串刺しの状態にしたものだったのかもしれない。
D20r6, qanimdu: 漢語「觀音奴」に由來する人名。
E2 *U 9234
ドイツ = トゥルファン探檢隊により將來された資料であるが,第二次世界大戰中に所在不明とな
り,現在はやはり R. R. Arat がベルリン留學中に撮影した寫眞により確認できる 12。 出土地番號は付
されておらず,Arat 自身は197/48という編號によって,その内容を簡單に紹介している[Arat 1964,
12
この寫真資料の調査と發表についても,Osman Fikri Sertkaya 教授のご好意で研究・發表を許された。重ねて深
謝する。
68
21, 36]
。*U 9234という文書番號は,現在 BBAW により與えられたものである。紙寸などの情報は不
明である。
本文書は,筆者がかつて校訂した「ヤリン文書」群[松井 2003]と共通の歷史的背景のもとで
作成されたものである。供出負擔者としてケルシン(Kärsin)とヤリン(Yalïn)という人物が共通
しており,また本文書末尾に捺された墨印 3 顆のうち,下の 2 顆は「ヤリン文書」群に共通して捺
されていた墨印のうち 2 つ(松井 2003の墨印 A・墨印 C)と同一だからである。
「ヤリン文書」群は,總體としては至治二年(1322)壬戌前後に年代比定され,またチャガタイ
= ウルスがトゥルファン地域を實効支配する西曆 1320 年代後半には及ばない[松井 2003, 53–55]
。
從って,本文書の「羊年」も延祐六年(1319)己未に比定される可能性が最も高い(ただし,干支
をひとまわり遡る大德十一年(1307)丁未の可能性もある)。
1
[
oγul?-n]ung
3
qoyn yïl čxšpt ay toquz yangïqa y(u)rḍ(?) qurγu ṭniyäl ilči
alγlï kälmiš üč küri čubaγan üč k(ü)[ri] üzüm üč küri
4
alïma talqan-i on iki qalča ṭušab [
2
5
6
7
1
]-ta munča\-ta/ lükčüng-
-kä tägir bir küri čubaγan bir küri [ ] quruγ üzüm
[bir k]üri alï(m)[a tal]qan-ï tört qalča ṭušab-ta kärsin yalïn olar
[
küri] čubaγan bilä bütürüp [bi]rzün
[……王子 ?]の。
2
羊年戒月(=第十二月)初九日に。宿營地(?)を整えるべきダニエル使臣が
3
受領しに來た 3 斗の棗,3 斗のブドウ,3 斗の
4
碎いた乾しリンゴ,12 角杯のシロップ‥‥のうち,これらのうち,リュクチュング
5
に(税として)至る(=賦課される?)1斗の棗,1 斗の乾しブドウ,
6
[1]斗の碎いた乾しリンゴ,4 角杯のシロップのうち,ケルシン・ヤリンたちが
7
[‥‥‥‥□斗の]棗を,すべて調達して供出せよ。
語註
E2r1, [.... oγul?-n]ung: 現存部分の字畫は -WNK と判讀できる。これを屬格語尾 [-n]ung と解釋し,
破損缺落部に oγul「王子,皇子」を推補するのは,前掲 B4・D20 文書第 1 行との比較に基づく。「王
子,皇子(oγul)」の他の推補の可能性としては,稱號ならば「王(ong < Chin.)
」
,
「公主(qunčuy
< Chin.)
」
,
「カトン,可敦,后妃(qatun)
」などの可能性がある。また B3 文書の Arïq-Bökä のよう
な個人名だけが書かれていたとすれば,テムル(Temür),クトルグ(Qutluγ)など,末音節に円唇
母音をもつ名詞を想定できる。
いずれにせよ,この第 1 行に書かれていたはずの人物は,第 2–4 行の行頭の「降格」による敬意
表現の對象とされているから[前掲語註 D20r2–4 參照],やはり B3・B4・D20 と同樣,モンゴル王
69 族,もしくはそれに準じる上級支配層に屬していたはずである。
E2r2a, y(u)rḍ(?) qurγu: 最初の語の字畫は虛心にみれば YYRD = yird であるが,適當な語彙を見
出せない。かりに「牧地;宿營地;テント」をさす yurt ~ y(u)rḍ = YWRD の -W- の筆致が十分でな
いものとみなし[TMEN IV, Nr. 1914]
,續く qurγu < v. qur- “to put something in order; to set in order, to
set up; to organize (a meeting)”[ED, 643]とあわせて「宿營地を整えるべき」と試譯した。その背景
としては,本文書の供出物件である棗(čubaγan)・乾しブドウ(quruγ üzüm)・乾しリンゴ(alïma
talqan-i)・シロップ(ṭušab)などが「宿營地(yurt)
」でモンゴル支配層が開く宴會・酒宴で用いられ
たものであり,
「宿營地を整える」作業にはこれらの食糧・飮料の準備・調達までが含まれていた,
という状況を推測できるかもしれない。
E2r2b, ṭniyäl: ~ ṭ(a)niyäl ~ ṭaniyäl ~ daniyäl「ダニエル」。Syr. d’nyl = dānī’el ~ dny’yl = dānīyel から
借用されたキリスト教人名である。
E2r4a, alïma talqan-i: alïma は alma「リンゴ」の異形とみる。後續の talqan は “crushed parched grain”
の意[ED, 496]であるから,alïma talqan-ï で「碎いた乾しリンゴ」とみなすことができるだろう。
文脈から,第 6行にも推補できる。
E2r4b, qalča: M. qalǰa “inkstand made of horn”[Lessing, 922]の借用語とみて,本處では「角杯」
と譯す。本處では,明らかに飮料としてのシロップ(ṭušab)の計量單位として用いられている。
その實態量については,BBAW 所藏の帳簿樣文書 Mainz 765 によっておおよその推計が可能であ
る。この文書には「モンゴル = バフシに 5 角杯のブドウ酒,1 斤の肉,1 斤の[麵粉を與えた。
]
‥‥ウラダイ使臣に番役で5角杯のブドウ酒,1 斤の麵粉,1[斤の]肉を與えた。アフマド使臣に,
5 角杯のブドウ酒,1 斤の麵粉,1 斤の肉を與えた(9mongol baxšï-qa biš qalča bor bir baḍman äḍ bir
baḍman m[in b] ……… 17uladay ilči-kä käṣig-tä 18biš qalča bor bir ba‹ḍ›man min bir äḍ b axmaṭ ilči-kä 19biš
qalča bor bir bamḍan min bir baḍman äḍ b)」という記載がみえる。ここでブドウ酒(bor)
・肉(äḍ ~
ät)麵粉(min)を與えられている3 名のうち,ウラダイ・アフマド(Axmaṭ < A.-P. Aḥmad)兩名は
「使臣(ilči)
」として言及されるから,明らかにモンゴル帝國の驛傳制度を利用する公權力者である。
引用部冒頭の「モンゴル = バフシ」も同樣であろう 13。すなわち,この帳簿は,驛傳制度の利用に關
する支出簿とみなされる[cf. VOHD 13,21, #203]。
モンゴル帝國の驛傳制度では,使臣1名が1日に支給される肉(U. ät ~ M. miqa)
・麵粉(U. min ~ M.
13
このモンゴル = バフシ Mongol-baxšï の解釋は問題をはらむ。周知のように,古ウイグル語の baxšï は Chin. 博士
からの借用語であり,トゥルファン出土ウイグル語文獻ではおおむね「師,師僧」の意で用いられるので,
本處でもモンゴル(Mongol < Mongγol)を人名とみて「モンゴル(という名の)師」と解するのが自然である。
ただし,フレグ = ウルスの文書行政制度を繼承するジャライル朝にみられるような,宮廷官房で「モンゴル語
諸命令文の書記(M. bičigči ~ P. bitikčī < T. bitigči)」として任命され,世襲の「師傅」として特殊な地位を占め
たウイグル系・モンゴル系のバフシ(baxšï > P. baḫšī)
[宮 2012, 45–51]のような存在を,トゥルファン地域を
支配したウイグル王家や近隣のモンゴル王族の家政機構にも措定できるかもしれない。ティムール朝におけ
る「ウイグル = バフシ」の存在[久保 2012]にも注意すべきであろう。
70
künesün)の量は各 1 斤(U.-M. batman)≒ 640 グラム,また酒(トゥルファン地域ではブドウ酒 bor
や蒸留酒 araqï ~ araki)の量は 1 升(U.-M. saba︶ ≒ 840 ㎖と規定されていた[松井 2004, 165–163]
。
Mainz 765 文書でモンゴル = バフシ・ウラダイ使臣・アフマド使臣に與えられた肉・麵粉の量は等
しく 1 斤(batman)であり,これはモンゴル帝國の驛傳制度の規定額と一致する。從って,やはり
彼らが等量で支給されている「5 角杯のブドウ酒(biš qalča bor)」も,驛傳制度の規定額である1 升
に相當するものと推定される。とすれば,液體計量單位としての qalča の容量は,1 升(= 840㎖︶ ÷
5= 168 ㎖,つまり約 170 ㎖と槪算できる。
ちなみに,この Mainz 765 支出簿では,バリクチ使臣(10Balïqčï-ilči)・サルガル使臣(17Salγarilči)
・鐵工たち(11tämir-či-lär)
,さらには某ベグの侍從(12no̤kär < Mong.
・ブカ使臣(17Buqa-ilči)
nökär ~ nökür)に,それぞれ「2.5角杯のブドウ酒(iki yarïm qalča bor)」を與えたことも記錄される。
これは,1 日あたりの規定量である5 角杯の半額に相當する。『永樂大典』
(巻19418, 葉 3a)所収の『經
世大典』・站赤には,至元二十一年(1284)四月の驛傳利用者の支給規定として「正使宿頓,支米
一升・麵一斤・羊肉一斤・酒一升・柴一束・油盬雜支鈔三分;經過減半」とあり,「宿頓」すなわ
ち驛站に宿泊する使臣に對して,
「經過」すなわち驛站を通過するだけの使臣への支給額は半額と
定められている。Mainz 765 文書で,5 角杯の半額「2.5 角杯のブドウ酒」を支給されている者も,
このように驛站を「經過」して行った者なのであろう。
なお,本 E2 文書では,供出すべき物件の總額が「3 斗の棗,3 斗のブドウ,3 斗の碎いた乾しリ
ンゴ,12 角杯のシロップ」とされ,そのうちリュクチュングへ納税される部分が「1 斗の棗,1 斗
の乾しブドウ,
[1]
斗の碎いた乾しリンゴ,4 角杯のシロップ」すなわち總額の1/3 とされる。シロッ
プの納入額「4 角杯」は,上にみたブドウ酒の使臣1 名の規定日額5 角杯と近似し,これもやはり使
臣への供應に關係する物件供出と推測することができる。
E2r4c, ṭušab: 前註にみた液體計量單位 qalča で計量されていることから,現代トルコ語の duşab
「ブドウその他の果物で作られるシロップ(üzüm veya başka meyveden yapılmış şurup)」
[Tietze, 664b]
と同じく,P. dūšāb “syrup of grapes or dates, anything upon which milk is poured”[Steingass, 544]の借
用語とみなす 14。本處の後續部分は破損缺落しているが,文脈からはそこにテキストがあったとは
考えらない。他の「ヤリン文書」の例[松井 2003, 53]と比較すれば,本文書も漢文佛典の紙背を
二次利用して作成したと推定され,その時點ですでに紙が破損していたのかもしれない。
E2r4-5, lükčüng-kä tägir: 地名リュクチュング(Lükčüng)は,唐代の柳中に由來し,現在のルク
チュン(Lukčun > 魯克沁)にあたる。モンゴル期の漢文史料では魯古塵あるいは呂中と音寫され
た例がある。
「ヤリン文書」に屬するウイグル文供出命令文書には,Ch/U 6757v + Ch/U6756v(= Matsui 2014b,
E11)には,本文書と同樣に,この「リュクチュングに至る(lükčüng-kä tägir)」という表現で供出
14
ちなみに Rasūlid Hexaglot には A. al-dibs “syrup, molasses, treacle esp. of grapes” = P. dūšāb = T. bekmez “syrups of
fruit juice” という對譯例がみえる[Golden 2000, 326]
。
71 物件を説明する例がみえる:3sač iḍgü y[iti] baḍ[man tämür-tä l](ükč)[üng]-kä (t)ägir iki [batman] 4[....]
tämür-tä「鐵鍋を製造するための 7 斤[の鐵のうち]リュクチュングに至る2 斤の‥‥鐵のうち」
。同
じく「ヤリン文書」に屬する Ch/U 6954v(=松井 2003, Text C = Matsui 2014b, E8)には,これと平
行する文脈で 4alïm-qa 5t(ä)gmiš üč baḍman käpäz-tä「税として至った3 斤の棉花のうち」と記される。
さらに,これらを折衷したより詳しい説明として,やはり「ヤリン文書」に屬する *U 9233(=
Matsui 2014b, E5)は,2mäl[i](k) bäg-kä birgü lükčüng alïm-ïnga tägmiš altï 3šïγ buγday「メリク = ベグに
供出すべき,リュチュングの税(alïm)として至った6 石の小麥」という。すなわち,これらの物件
は,いずれもリュクチュング地域の住民に税物として「至る(täg-)
」すなわち賦課されるもので
あると考えられるので,上掲の和譯でも,適宜に解釋を補っている。
E2r5, bir küri [ ] quruγ üzüm: ここでも,küri と quruγ の間の料紙は,文書作成時點ですでに破損
缺落していたと推測される。前掲語註 E2r4c 參照。
3 .「みえない」ヤルリグとその歷史的背景
前述のように,ウイグル文供出命令文書の記載は,年月日記載から始まるのが一般的である。し
かし,上掲の 4 件の冒頭は,この年月日記載に先立って,以下のような記載事項を有する點で例外
的といえる。
B3: 1Arïq Bökä-ning「アリク = ブケの。
」
B4: 1Qorumčï oγul-nung「コルムチ王子の。
」
D20: 1Milik Tämür oγul-nung「メリク = テムル王子の。」
E2: 1[.... oγul?-n]ung「
[‥‥王子?]の。
」
B3・B4・D20 は,いずれもモンゴル王族に言及する。また,テキストが破損缺落している E2 も,
モンゴル王族や上級支配層に屬する人物に言及していたことは確實である[語註 E2r1 參照]。
それでは,この例外的記載は,具體的に何のために記されたのであろうか。以下,既發表の
B3・B4 の用例に對する代表的な先學の解釋を檢討しておく。
まず Radloff は,B3・B4およびそれらと連貼された4 件を「領収證」と理解しつつ,冒頭の人名を,
「それに對して領収證が發行されたところの人物の名前(der Name der Person ...., für die die Quittung
ausgestellt wurde)」
,つまり「領収證」の受領者とみなした[USp, 92]
。しかしながら,驛傳馬の供
出によるクプチル税の代納命令という本文書の性格・機能からすれば,本文書の受領者は驛傳馬を
供出した「バチャガ = タルカンの百戸(内)のボルミシュ= タズ」であるから,Radloff の解釋は成
立しない。
また L. V. Clark は,これらの人名を「命令文書を發行した官吏の名(the name of the official who
issues the decree)
」と解釋した[ClarkIntro, 389]
。しかし,B3・B4 に捺された朱方印からは,本文
72
?
書は「高昌王總管府」により發行されたと考えられる。そもそも,モンゴル王族が自ら,トゥルファ
ン地域で古ウイグル語の行政命令文書を發行したということも考えづらい。
ここで問題の 4 文書の目的・機能についてみれば,B3 文書は使臣(ilči)
,B4 文書はブドウ酒係
(borčï),D20 文書は使臣・侍從(nökör)へ馬匹や食糧を提供して便宜を供與するものであり,E2文
書は使臣(ilči)が徵収していく各種の物件そのものを供出するものであった。これらの使臣・ブド
ウ酒係・侍從らは,おそらく,モンゴル王族・支配層によって派遣されたものであり,その際には
主君のモンゴル王族からのモンゴル語命令文書を發給されていたであろう。モンゴル皇帝以外のモ
ンゴル王族や貴族・行政官らが,自己の命令文書を持たせて使臣を派遣するということは,帝國の
東西でみられた事象である。本稿第 1 節に掲げたモンゴル語行政命令文書のうち,④⑤⑦などはそ
の實例であり,さらに原文書として現存する類例は他にも少なくない[Mostaert / Cleaves 1952;
Mostaert / Cleaves 1962; Weiers 1967 = BT XVI, Nr. 72, 75]。またモンゴル王族とその宮廷・政權の中
樞部から發行されたという點では,本稿第 1 節のペルシア語行政命令文書の諸例(⑨~⑭)も,こ
れらのモンゴル語文書と同樣の性格をもつといえる。
問題のウイグル文供出命令文書 B3・B4・D20・E2 で便宜を供與される使臣たちもこのようにし
て派遣されていたとすれば,彼らはトゥルファン地域に到着すると,持參しているモンゴル王族か
らの命令文書をトゥルファン現地の政廳に提示して指令を與え,それに對應するためにウイグル人
官吏がウイグル語で發行したのが文書 B3・B4・D20・E2である,と推測できる。
そして,本稿第 1 節に掲げたモンゴル語(①~⑦)
・ウイグル語(⑧)
・ペルシア語(⑨~⑭)行
政命令文書にみえる權限附與文言の諸例に鑑みれば,問題の文書 B3・B4・D20・E2 の冒頭の例外
的記載は,供出命令文書により便宜を供與される使臣らが依據するモンゴル上級權力・權威の所在
を示す權限附與文言に類するものと考えられる。すなわち,これらの記載は,本來はそれぞれ Arïq
Bökä-ning yarlïγ-ïndïn「アリク = ブケのおおせにより」(B3)
,Qorumčï oγul-nung yarlïγ-ïndïn「コルム
チ王子のおおせにより」
(B4)
,Milik Tämür oγul-nung yarlïγ-ïndïn「メリク = テムル王子のおおせに
より」
(D20),[...... oγul-n] ung yarlïγ-ïndïn「[‥‥王子]のおおせにより」(E2)などとされるべきも
のであったと推測できるのである。
しかし,現實には「おおせにより(yarlïγ-ïndïn)」という語句は記されていない。その理由につい
て,筆者は,さらに以下のように推定してみたい。B3・B4・D20・E2 文書を作成・發行したトゥ
ルファン地域のウイグル人官吏・政廳は,それらの供出命令文書がモンゴル王子・王族らの權威に
由來することを記すにあたり,
「おおせ(T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)」の語をモンゴル皇帝の命令に限定す
るという原則を遵守して,彼らモンゴル王族の命令を「おおせ(T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)」とは稱さなかっ
た。しかし,上級支配層としてのモンゴル王族の命令を,モンゴル語の「ことば(M. üge)
」に相
當するウイグル語・テュルク語「ことば(söz)
」と稱することは,彼らの命令を非モンゴル王族で
あるウイグル人官吏ら自身の命令と同列に置くことになり,やはり不敬とみなされかねない。その
ため,あえて王族の個人名の後に「おおせ(T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)」とも「ことば(M. üge ~ T. söz)
」
73 とも書かないことで,モンゴル皇帝と,それらのモンゴル王族との雙方に對して,敬意を示したの
であろう。
本稿第 1 節にみたように,13 世紀末以降には,大元ウルスの直接支配から實質的には離脱した
西方諸ウルスの臣僚たちは,自身の直接の主君の命令を「おおせ(T. yarlïγ ~ M. ǰarliγ)
」と稱する
ことを忌避しなかった。これと比較すれば,問題の B3・B4・D20・E2 文書を作成したウイグル人
官吏・政廳には,唯一至上の最高君主としてのモンゴル皇帝・大元ウルス皇帝の權威が,より強力
に認識されていたと考えることができる。
B3・B4 文書が發行された憲宗モンケ病没の直前・直後の時期においては,モンゴル皇帝は,な
お帝國全域に對して至上の權力を實質的に行使していた。また E2 文書が屬する「ヤリン文書」群
には,チャガタイ = ウルスの實効支配を示す特徵は確認されないので,1320 年代前半まではトゥル
ファン地域がより直接的には大元ウルスの支配下にあったことを示す[cf. 松井 2003, 53–55]。チャ
ガタイ = ウルス支配下で發行された⑤⑥⑦⑧が皇帝以外のモンゴル王族に「おおせ(T. yarlïγ)
」の
語を用いることと比較すれば,これを回避している E2文書は,その發行時點において,トゥルファ
ン地域における大元ウルス皇帝の權威・影響力がチャガタイ = ウルスのそれよりも優勢だったとい
う状況をあらためて示すものといえる。
モンゴル王族のメリク = テムルに「おおせ(T. yarlïγ)
」の語を用いないことからすれば,D20 文
書の「犬年」の時點においても,トゥルファン地域には大元ウルスの強力な支配が及んでいたはず
である。この「犬年」は,至元十一年(1274)甲戌・至元二十三年(1286)丙戌・大德二年(1298)
戊戌のいずれかであり,一方メリク = テムルは至元十三年(1276)のシレギの亂に伴いカイドゥ勢
力に合流する[語註 D20r1 參照]
。この點に鑑みれば,D20 文書の「犬年」は,メリク = テムルとトゥ
ルファン地域の雙方が大元ウルス支配下にあったことがほぼ確實な至元十一年(1274)甲戌に比定
するのが最も妥當である。
ただし,『集史(Ǧāmi‘ al-Tawārīḫ)
』が傳えるように,クビライ治世の末期のウイグル王國領は
大元ウルスとカイドゥ・ドゥア勢力に兩屬していたという[Boyle 1971, 286; 陳高華1982, 282; 杉山
1987=杉山 2004, 361; 松井 2008a, 20–22]
。實際に,メリク=テムルとその兄でやはりカイドゥ・ドゥ
ア勢力に屬していたヨブクル(Yobuqur ~ Yomuqur)は,時にはアルタイ方面の大元ウルス軍の前
線部隊と誼を通じたこともあり,その後ヨブクルは元貞二年(1296)に大元ウルスに來降している
[松田 1983, 34–35; 村岡 1999, 19–20]
。このような状況からすれば,至元二十三年(1286)丙戌・大
德二年(1298)戊戌のいずれかの時點で,カイドゥ・ドゥア勢力の側に屬するメリク = テムルが,
最高君主としての大元ウルス皇帝の權威下に服しているトゥルファン地域に,影響力を行使し得た
ということも,必ずしも不可能とはいえない[cf. Matsui 2014b, 620–621]。すなわち,本 D20 文書
の年代を最終的に決定することはできないことになる。それでも,メリク=テムルの存命時點では,
舊ウイグル王國領=ウイグリスタンにおける大元ウルス皇帝の權威の優位が確認できることは,モ
ンゴル時代における當該地域の歷史展開を考える上で重要である。
74
おわりに
本稿の内容は,以下のようにまとめられる。
モンゴル時代,
「おおせ(M. ǰarliγ ~ T. yarlïγ ~ P. yarlīġ)」の語を最高君主としてのモンゴル皇帝・
大元ウルス皇帝の命令に限定して用いるという文書行政上の規範・體例は,13 世紀末以降の西方
諸ウルスでは嚴格には守られなくなり,特にモンゴル王族以外の臣僚が發行した行政命令文書で
は,皇帝以外のモンゴル王族の命令をもしばしば「おおせ」と稱していた。これに對して,東トル
キスタン~トゥルファン地域のウイグル王國領で發行されたウイグル文供出命令文書には,例外的
な權限附與文言をもつものが 4 件あり,そこでは行政命令の直接の權威の所在としてのモンゴル王
族の命令をあえて「おおせ(T. yarlïγ)
」とも「ことば(T. söz)」とも稱さないことで,モンゴル皇帝・
大元ウルス皇帝の最高君主としての權威を侵犯することを回避しつつ,當該のモンゴル王族にも敬
意を表するという,異例の處理を行なっていた。つまり,ヤルリグ(T. yarlïγ)=「おおせ」の語
が文書に「みえない」ことが,逆説的に,ウイグル王國領におけるモンゴル皇帝の權威の唯一性・
不可侵性を示すものと考えられるのである。
また,これら 4 件のウイグル文供出命令文書は,チャガタイ = ウルスの東トルキスタン實効支配
を示す特徵がみられず,うち 3 點は確實に 13 世紀後半期,殘る 1 點も 1320 年代以前に屬する可能
性が高い。一方,上述のように,チャガタイ = ウルス發行文書ではしばしばチャガタイ家王族の命
令が「おおせ(M. ǰarliγ ~ T. yarlïγ)
」と稱される。これらを勘案すると,權限附與文言においてモ
ンゴル王族の命令を「おおせ(T. yarlïγ)
」とも「ことば(T. söz)」とも稱さない書式は,チャガタ
イ = ウルスの東トルキスタン實効支配が本格化する 1320 年代後半より以前に特徵的なものとして,
時代判定の有効な指標となり得るといえる。
以上の行論では推測に頼らざるを得ない部分も多く,また西方のペルシア語年代記資料・古文書
資料については,なお筆者の知見の及ばない點も多々ある。專家のご批正を乞うものである。
ところで,本稿で提示した供出命令文書のうち,B 3 ・D20 の 2 件は,アルタイ地域に據點を有
したアリク = ブケ・メリク = テムル父子が東トルキスタンのウイグル王國領にまで政治的な影響力
を行使していたことを示している。すでに指摘されているように,ビシュバリク出身のウイグル人
高僧の安藏(Antsang)は,アリク = ブケの命令によって『華嚴經』を漢語からウイグル語に飜譯し,
いわゆる「道佛論争」に際しても道教の虛妄をアリク = ブケに訴えている。また,クビライとアリ
ク = ブケの帝位繼承戰爭に際しては,アリク = ブケに投降をうながす使節として派遣されたが,成
功せずクビライのもとに歸還したと傳えられる[Oda 1985;『至元辨僞録』巻 3 (北京圖書館古籍珍
本叢刊 77, 書目文獻出版社,511)
;
『程雪樓集』巻 9 ・
「秦國文靖公神道碑」
]
。安藏らウイグル人佛
教徒がアリク = ブケの側近には少なくなかったことが推測できる。ただし,このような人脈がその
後のアリク=ブケ家とウイグル王國領との關係に與えた影響は未解明である15。また,モンゴル高原
15
ただし『集史』に記錄されたアリク = ブケの末子メリク = テムルの主要な將相には,ウイグル出身者は見受け
られない[松田 1988, 91–92]
。
75 史の立場からは,アルタイ西麓・南麓域と高昌・バルクル(Bars-Köl > Barkul > 巴里坤)など東部天
山地域との交通ネットワークが注目されている[村岡 2003, 45]
。本稿で扱ったウイグル文供出命
令文書の内容は,このようなモンゴル帝國政治史・交通史の視點からも再檢討していく必要がある。
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【付記】本稿は,JSPS 科研費 No. 26300023, No. 26580131, No. 26284112, 2014 年度 JFE21世紀財團・アジア歷史研
究助成(2014: 6)および東京外國語大學アジア・アフリカ言語文化研究所共同利用・共同研究課題「新出多
言語資料からみた敦煌の社會」による研究成果の一部である。また,本稿の内容の一部は,2011 年 7 月 16–17
日に開催された國際ワークショップ Comparative Research on Iranian-Islamic and Mongolian-Chinese Aspects of the
Ardabil Documents in the Ilkhanid-Mongol Period における報告に基づく。席上で有益なご教示を賜った諸氏に深
謝する。
Fig. I
B1 + B2 + B3 + B4 = SI 6544
[St. Petersburg Institute of Oriental Manuscripts, Russian Academy of Science]
Pa 36 (a-b)
SI Uig 14
Pa 36 (c-d)
SI Uig 14
Reproduced from Tuguševa 2013, 317
79 Fig. II
D20 = U 5790 + *U 9261 (T III 66) [BBAW]
1. U 5790 currently preserved in BBAW
(http://turfan.bbaw.de/dta/u/images/u5790seite1.jpg)
2. Photographic reproduction
taken by Reşid Rahmeti Arat
Depositum der BERLIN-BRANDENBURGISCHEN AKADEMIE DER WISSENSCHAFTEN
in der STAATSBIBLIOTHEK ZU BERLIN - Preussischer Kulturbesitz, Orientabteilung
[with the courtersy of Prof. Osman Fikri Sertkaya]
80
Fig. III
E2 = *U 9234
[Reproduced by the courtersy of Prof. Osman Fikri Sertkaya]
81 33
MOROOKA Michihiko ……… Über die natürliche Religion bei Fichte und Schelling
………………………… 1
LI Liang ……………………… On the World of Knowleges of Arai Hakuseki ………………………… 23
KIMURA Norimi ……………… Right Node Raising in Japanese: Deletion Analysis
………………………… 1
NAGURA Masayuki ………… La Révision fausse dans le primier cahier
des Carnets de Camus
………………………… 15
ONODERA Susumu ………… Pincher Martin as Representation of Reading:
From the Viewpoint of Model Reader and Model Author
43
………………………… MATSUI Dai …………………… Unwritten Yarlïγ in the Old Uigur Administrative Orders
55
…………………………