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エストニア

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エ
ス
ト
ニ
ア
1
出版元
エストニア共和国外務省
原文提供
Arne Ader、Viivi Luik、正木 亜希子 Akiko Masaki、Eesti Instituut
文章構成
Inga Põldma
翻訳
正木 亜希子 Akiko Masaki
編集
倉橋 亮介 Ryosuke Kurahashi、正木 亜希子 Akiko Masaki
デザイン・レイアウト
Enno Piir
コメント提供・協力
林 知充 Tomomi Hayashi、川畑 さやか Sayaka Kawabata
写真
Arne Ader、Kaido Haagen、Margit Kurvits、Meelis Lokk、Toomas Tuul、
Toomas Volmer、Scanpix Baltics
2004年
2
民族衣装で自転車に乗るキヒヌ島の女性
北の国より
私たちの国エストニアはエストニア語で
「エースティ」
(Eesti)
と呼ばれています。
首都はタリン
(Tallinn)
で、北ヨーロッパのバルト海沿いに位置し、
フィンランド、
スウェーデン、
ラトヴィアとロシアに隣接して
います。
エストニアは位置的な理由によって、文化的にも経済的にも利点を得てきました。
日本の皆さん
には、
ソ連から独立したバルト3国の1つの国としか知られていないかもしれませんが、現在エストニア
は、
オープンでリベラルな国を築き上げ、発達した情報社会の国としてヨーロッパでは知られています。
さらにエストニアの音楽、
モダンダンス、
アニメーションなどの文
2004年5月にはEUに加盟しました。
化活動でも世界から評価を集めています。近年エストニアの魅力は海外の人々の目を惹きつけ、観光リ
ゾート地として人気を得てきています。
それでは、
日本の皆さんに私たちの国エストニアの興味深い情報を簡単に紹介したいと思います。
国土は45,227km 2で、日本の九州と
エストニアには1,500以上もの島と
同じぐらいの車でどこでも行ける程小さな
1,000以上もの湖があり、
さらに国土の半
国です。人口は約140万人です。国土がほ
分が森に覆われています。
ぼ同じ大きさのオランダと比べると、人口は
国 土 は ほ ぼ 平 坦 で 、1番 高 い 大 きな
その10分の1です。
卵山と呼ばれる「スール・ムナマギ」
( Suur
エストニアは海の国で、海岸の長さは約
Munamägi)でも高さ318mです。
3,800kmもあり、陸の国境線の約6倍に
エストニアは自然の豊かな国で、
ヘラジカ、
あたります。
イノシシ、
クマ、
オオヤマネコがエストニアに
公用語はエストニア語で、エストニア語
生息している主な哺乳類です。
はフィンランド語とハンガリー語を含むフィ
夏至の日の日照時間は19時間、冬至の
ノ・ウゴル語族に属し、
インド・ヨーロッパ語
日は逆に6時間しかありません。
5月上旬か
族のロシア語、
ラトヴィア語、
リトアニア語な
ら7月下旬にかけて
「白夜」
と呼ばれ、深夜で
どとは言語的に遠い関係にあります。
も真っ暗になることはありません。
宗教は主にルター派プロテスタントです。
1番寒さの厳しい2月の気温は -3.5℃∼
中世におけるドイツ支配の影響で現在でも
-7℃、日の1番長い6月は16℃∼20℃
キリスト教ルター派の教会が社会的に重要
になりますが、
エストニアの気候は北海道と
な役割を果たしています。
そう変わりません。
3
エストニアのあゆみ
古代(紀元前8千年∼13世紀)
1万1千年前頃からエストニアに人が定住し
始めたとされています。
そして紀元前3千年過ぎ
にエストニアの東部からフィノ・ウゴル族が移住
して、先住民と共に生活をし始めました。森の木
を切る時は森の神に許しを請い、熊を狩る前に
は熊の魂に祈りを捧げながら、船乗り、養蜂家、
狩人、漁師や農民などが自然と一緒に平和に暮
らしていました。
国会議事堂の脇に建つ
「のっぽのヘルマン」
塔
ドイツ・デンマーク時代(1227年∼1558年)
12世紀のバルト地域ではドイツのチュートン
騎士団が権力を振るっていました。
13世紀の初
古き良きスウェーデン時代(1558年∼1710年)
め
(1227年)
にはドイツとデンマークからの十
1558年からデンマーク、スウェーデン、
字軍によってエストニアのキリスト教化が進めら
ロ シア、ポ ー ランド 各 国 の 間 で 領 土 を めぐ
れました。
この十字軍の征服後の14世紀にはエ
る 闘 争 が 繰り広 げられエストニアは 戦 場と
ストニア各地に教会や要塞が建ち、街が建設さ
化 し まし た 。そ して こ の リ ヴ ォニ ア 戦 争 で
れて封建的社会が確立されました。
この頃のバル
スウェー デ ン が 勝 利 を 得 て 、18世 紀 の 初
ト地域はハンザ同盟の影響下にあって、
タリンを
め ま で 支 配 し まし た 。この スウェー デ ン 支
含めいくつもの町がハンザ同盟に加盟していま
配 下 で エ ストニ ア 語 教 育 に 力 が 注 が れ 、
と呼ばれていた
した。その当時レヴァル( Reval)
1632年にはエストニアで最初の大学がタルト
タリンは、
1248年にハンザ都市としての特権
ゥに設立されました。私たちはこの時代を
「古き
を得て、数世紀に渡って北欧の重要な商業都市
良きスウェーデン時代」
と呼んでいます。
として栄えました。
16世紀前半までのドイツの
影響で、
ルター派的な文化が今でもエストニアに
ロシア帝国時代(1710年∼1917年)
根強く残っています。
18世 紀 初 頭 、大 北 方 戦 争が 終 結した後 、
エストニアはロシアの占領 下に入りました。
エストニアはピョートル大帝が長い間渇望し
ていたヨ ー ロッパ の 窓 口 になったわけです
が、それでもドイツ貴族は領地支配を、タリン
はハンザ 都 市としての特 権を維 持しました。
一方、
17世紀から18世紀にかけて、
ヨーロッ
パ中に啓蒙運動の風が吹き荒れていました。
それはエストニアも例外ではありませんでした。
19世 紀 には 民 族 意 識 が 高 まり、知 識 階 級
が 台 頭してくると1862年 にクロイツヴァ
による国民叙事詩「カレ
ルド
(F. R. Kreutzwald)
1869
ヴィポエグ」
( Kalevipoeg)が出版され、
年には歌の祭典が開かれました。
この時代に創
設された国立劇場は何度か改築されましたが、
今でも同じ場所にあって
「エストニア」
という愛称
で親しまれています。
カタリーナ通り
4
エストニアの独立(1918年∼1939年)
1918年2月24日、
エストニアは共和国とし
て独立を宣言しました。
これは初めロシア革命の
混乱に乗じた一方的なものでしたので、
1918
年から1920年までの間、真の独立のために戦
わなければなりませんでした。
これがエストニア
自由戦争です。
この戦争はエストニアの勝利に終
わり、
1920年2月、
ソヴィエト政府との間でタ
ルトゥ平和条約が結ばれ、
ソヴィエトは無期限で
エストニアの独立と主権を承認しました。
こうし
てエストニアは独立を国際的にも勝ち取ったの
ブラックヘッドのギルドの扉
です。
タリンも徐々にハンザ都市時代を思い出さ
せるほどに賑わいを取り戻しました。
ところが、
1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書によ
って、
2国間で新たな国境が引かれ、エストニア
はソヴィエトに組み込まれました。約20年間
続いた最初の共和国時代は終わりを告げたので
す。
そして日本は1919年3月6日エストニア共
和国を事実上承認したのです。
旧ソヴィエト連邦時代(1940年∼1991年)
1940年に始まったソヴィエト支配の間、エ
ストニアは一時的(1941年∼1944年)
にナ
チス・ドイツの一部になりました。
しかし1944
年に第2次世界大戦が終焉を迎えると、
エストニ
アは3年続いたナチス・ドイツの占領から再度ソ
ヴィエトに併合されることになりました。多くの
エストニア人や地主であったバルト・ドイツ人な
どは国外に逃亡し、
ある人は逮捕され、
またある
市議会薬局前
人はシベリアに抑留されました。
このようにして
エストニアは人口の大部分を失い、残った人々は
ロシアの異なった文化、習慣を受け入れなけれ
ばならなくなりました。
エストニアの独立回復(1991年∼)
1988年、
タリンの歌の原で行われた集会は、
バルト3国の独立運動が「歌の革命」
と呼ばれる
きっかけとなりました。
この後、
1990年の議会
選挙で独立派が勝利し、
1991年の国民投票
によって大多数の独立支持が確認されました。
これと平行してソ連との独立回復交渉が行われ、
1991年8月20日、ついにエストニアは独立
回復を宣言しました。エストニアでは1939年
の独ソ不可侵条約締結と同時に結ばれたソ連へ
のバルト3国併合に関する協定を否定し、現在
でもエストニアの独立記念日は1918年2月24
日としています。
そして日本は1991年10月10
日、
エストニアとの国交を正常化しました。
ラエコヤ広場
5
エストニアの文化
過去と現在の掛け橋
えていたエストニア人は、長い間自然を信仰して
小さな国エストニアは何世紀にも渡り、
ドイツ、
きました。
月、星、太陽、水、風、土などに魂が宿っ
デンマーク、
スウェーデン、
ポーランドやロシアの
ていると信じ、人間もその内の1つであると考え
国々による支配を経験し、
そしてこれらの国々か
ました。そのため、キリスト教徒の領主とは違う
らの影響に敏感に対応してきました。
このさまざ
自分たちの聖域を持っていたのです。
この聖域は
まな文化の交わりによって、大きな地域から小さ
多くの場合オークの森にあって、
そこで相談をし、
な地域まで各地方ごとに独自の文化が根付くこ
祈り、踊り、死者を葬りました。
また、食べ物を貢
とになりました。特に南エストニアにあるセト地
物として自然の神に献上し、豊作を願い、
それに
域( Setomaa )の独特な伝統文化は他の地域に
感謝する習慣もありました。
このような自然崇拝
比べて際立った違いを見せています。このセト
がエストニアの文化を構成してきたのです。現在
地域にはロシア文化の影響が色濃く残り、その
のエストニアの文化、
習慣、言葉にも、
キリスト教
独自性を今日まで維持しています。同じく南エ
文化と融合しながら自然崇拝の伝統と深く関係
ストニアのムルギ地方( Mulgimaa )にある伝
しているものが少なくありません。
統料理はエストニアでよく知られています。例
えばムルギ風キャベツの酢漬け「ムルギカプサ
人生における行事
ス」
( Mulgikapsas )やデザートとして食べられ
エストニア人の先祖は、
1年ごとの時の流れと
などがその代表です。他の地方
る
「カマ」
(Kama)
共に人生も大きな1つの時の流れとして考えて
に目を移すと、
ロシア人や、
私たちフィノ・ウゴル語
きました。
1年が季節ごとに変化していくように、
族の祖先がエストニアへ移住する拠点となった東
人の人生も変化していきます。
その変化の過程で、
周辺にも独
エストニアのペイプシ湖(Peipsi järv)
いくつかの重要な通過点があります。
自性が見られます。
の誕生と結婚と死です。子供は名前を授かると
人
同時に1人の人間として認められ、
これを祝い
森と聖域
ます。
そして人生でもっとも大切な結婚という通
私たちの祖先、
つまり、時にはバルト・ドイツ人
過点を迎えます。結婚式の衣装には、
こまやかで
の下で、時にはロシア貴族の下で小作人として仕
上品な素材と複雑なデザインが使われ、職人の
エストニアの農家
6
獄の門が開き神秘的なことが起こると信じら
れているからです。クリスマスはもちろん12
月25日ですが、キリスト教化する前のクリス
マス休みは12月21日の「セント・トーマスの
1月6日の「3人
日」
( Toomapäev )に始まって、
の王の日」
( Kolmekuningapäev )に終わりまし
た。家にはクリスマス・ツリーが飾られ、クリス
マス料理が用意され、クリスマス・イヴには特
別なビールが食卓に並びます。そして脱穀部屋
にはもう1つのテーブルが先祖のために用意
現代の結婚風景
され、先祖が食事に参加できるようにしていま
した。
「クリスマス・イヴに7回食事をした者は
技術と魂によって手の込んだ模様や飾りが編み
翌年に7人分の力を得る」
とも言われていまし
込まれます。結婚式は秋の終わりから冬の間、
た。一方、新年には親戚や友達を訪れ、その年
穀物が1年で1番豊富にあり、農作業が比較的
の幸運を祈り、楽しむ伝統があります。そして
少ない時期に行われます。多くの場合結婚式は
1月6日の「3人の王の日」に食卓からは料理が
4、5日間続き、結婚式の最後にキャベツスー
消え、
クリスマス休みの終わりを告げるために糸
それは式が終
プ(Kapsasupp)が振舞われると、
車が回されました。
こうしてエストニア人は家族
了することを意味します。家の外の壁を叩いて大
と一緒にクリスマスを過ごします。
きな音を出し、終了を知らせるときもあります。
し
6月24日のヤーニパエヴ( Jaanipäev )に
かし式があまりにも盛り上がって誰も気が付か
は夏 至の日のお祭りがあります。特に前日の
ない場合は、花嫁が糸車を部屋の中央で回し、終
にはさまざまな行事が行
23日
(Jaanilaupäev)
わりを知らせる習慣もあります。
われます。例えば、
ビールが醸造され、白樺の若
木の枝でハタキが作られ、ハタキを使って体の
1年における行事
血行をよくしながらサウナに入ります。
この日の
1年ごとの 時 の 流 れで 重 要 な 通 過 点
最も大切なイベントは焚き火をすることです。
そ
となるのはクリスマス( Jõulud )とヤーニパエ
してその大きなかがり火の周りで、歌をうたった
ヴ( Jaanipäev )です。クリスマスの時期を境に
り、踊ったり、
力比べをしたり、食事をしたりしま
日が長くなり、夏至の日を境にまた日が短くな
す。その他にも面白い習慣があって、シダの花を
ります。冬 至と夏 至は昔から盛 大に祝われて
森へ探しに行ったりします。
シダの花はとても神
きました。それは神聖な日の前夜に天国と地
秘的な花だとされていて、
ヤーニパエヴの前日の
クリスマス時の旧市庁舎前
7
23日にだけつぼみをつけると考えられています。
音楽
このシダの花を見つけ出すのは容易ではありま
エストニアの音楽の伝統は、アルヴォ・ペル
せんが、シダの花を見つけた者には富と幸福が
やエルキ=スヴェン・トゥール
(Erkiト
(Arvo Pärt)
与えられ、鳥と動物の言葉を含める、
さまざまな
Sven Tüür)などの有名な作曲家を世界に送り出
言語が話せるようになると言われています。
さら
しました。
この様なエストニア人作曲家の世界的
に23日には、先祖の魂が自分の家に帰ることを
な活躍は、
優れた指揮者、
歌手、
合唱団に帰してい
許されるばかりではなく、
自分の好きなところへ
ることは言うまでもありません。
指揮者のネーメ・
旅することも許されると思われています。
クリス
、
エリ・クラス
(Eri Klas)
、
ヤルヴィ
(Neeme Järvi)
とヤーニパエヴ(Jaanipäev)は現
マス
(Jõulud)
日本でも近年活躍しているアヌ・タリ
(Anu Tali)
在まで残っている代表的な伝統行事です。
は世界の舞台で成功を収めています。
エストニア
の代表的な合唱団といえばエストニア・フィルハ
歌の祭典
ーモニー室内合唱団ですが、
この合唱団の創設
エストニアでは民間伝承が民謡の形をとって
ら
者で指揮者のトヌ・カリュステ
(Tõnu Kaljuste)
多く残りましたから、歌うことが自国の文化を表
がこの合唱団を率いてオーストラリア、
日本、
カナ
現する手段になりました。合唱が民族運動で大
ダ、アメリカの国々に遠征し、エストニアの音楽
きな役割をつとめ、
1869年に最初の歌の祭典
を世界中に紹介し続けています。
エストニアへい
が開かれました。その後この祭典は文化的にも
らっしゃった時、
エストニアの指揮者や合唱団が
政治的にも重要な行事になりました。最終的に
日本で公演する時は是非、
コンサートへ行ってみ
歌の祭典がエストニア人の結束と民族意識を育
て下さい。
むきっかけとなり、私たちは歌うことで独立を唱
え、
1991年8月20日に、
「歌の革命」
によって
夢を実現させました。今でも5年に1度タリンの
歌の原にエストニア全土、
そして海外から多くの
エストニア人が集い、
歌の祭典が催されます。
歌の原
8
セト地域の歌う女性
エストニアの民謡
大人も楽しいアニメーション
エストニアの文化を構成する重要な要素の1
エストニアの現代文化に着目してみると、手
つは民間伝承です。多くの民間伝承は民謡の形
描きアニメーションと人形をつかったパペット・
をとって今に残りました。
エストニアの民謡はエ
アニメーションが注目を集めています。
エストニ
ストニア民間伝承を知るための宝庫なのです。民
アのアニメーションは型にはまっていません。理
間伝承に基づいた民謡の起源は300年前に遡
性的であると同時に不合理だったり、子どもっ
ります。自分の先祖を思う気持ちが昔の民謡に
ぽく表現しながら内容は大人びていたり、シリ
なればなるほど強く描写されています。歌によっ
アスなものを喜劇的に見せたり、一見反対に思
てパフォーマンスの形態がそれぞれ違います。
あ
えることを上手に組み合わせて作るというのが
る歌では足を踏み鳴らし、
ある歌ではみんなで輪
主流です。
この様なエストニアのアニメーション
になって回り、
ソロもあり、合唱もあります。
この
は、種々の国際映画祭で賞を受賞しています。特
やキ
ような民謡は現在でもセト地域(Setomaa)
に風刺漫画家としてキャリアを積んだプリート・
で聞くことができます。
ヒヌ島
(Kihnu)
はエストニアのアニメーショ
パルン
(Priit Pärn)
ン監督として世界的に良く知られています。彼の
映画は予期できないパラドックスと皮肉が満載
されています。そして抽象的な彼の絵と花火の
ように連発されるアイディアに富んだ内容は観
バグパイプを弾く女性
9
衆の目をくぎ付けにします。代表作として「エイ
ネムルル」
(Eine Murul:芝生の上での食事)、
「ホ
(Hotell E:ホテルヨーロッパ)、
「1895」
な
テルE」
どが有名です。パルン作品の他にも、
「エストニ
ア・アニメーション・スタジオ」
(Eesti Joonisfilm)
の製作映画がエストニアで人気を得ています。
パ
ペット・アニメーションでは、
リホ・ウントゥ
(Riho
Unt )の3部 作と、ラオ・ ヘイドゥメッツ( Rao
Heidmets)の「パパ・カルロの劇場」
(Papa Carlo
Teater)がエストニアのパペット・アニメーション
界での代表的な作品といえるでしょう。
エストニア語とは?
エストニアで話されているエストニア語をご存
知ですか?過去にソヴィエトの一部であったこと
から私たちがロシア語を話していると思っていら
っしゃいませんか?または他のバルトの国で話
されているラトヴィア語やリトアニア語と同じだ
ろうと考えていらっしゃいませんか?エストニア
語は日本語と同じくらいインド・ヨーロッパ語族
の言語とかけ離れているのです。
エストニア語は
フィンランド語とハンガリー語と同じ家族のフィ
ノ・ウゴル語族に属し、
フィンランド語がエスト
ニア語に最も近い言語と言えるでしょう。
エスト
タリン旧市街祭り
ニアは歴史的に色々な国々に支配されてきまし
たから、
エストニア語を話すことがエストニア人
の証しになったのかもしれません。
だからこそエ
ストニア人は外国語にとても敏感に対応しなが
らも、エストニア語を誇りに思ってきました。で
「日本人から見た同僚としてのエストニア人」
友人達と建築設計事務所を営んでいます。私にとって一番身
近なエストニア人は事務所の同僚です。彼らは予め物事を
計画だてるのがどうも苦手のようです。
しかし責任感はある
ので簡単には諦めず、締め切り近くになってから、重い腰を
上げてばたばたと何とかやり遂げます。彼らもそれは充分判
すから外国の方が、片言でも、
こんな小さな私た
ちの国の言葉を話すと、困惑しつつ心の底から
嬉しくなってしまいます。エストニアにいらした
時は是非、お店などで「テレ!」
( Tere!:こんにち
を使って
は!)
や
「アイタ!」
(Aitäh!:ありがとう!)
みて下さい。
っているのですが、議論になると断言はせず、結論はとりあ
えず先送りになります。
それは他人の意見を尊重するためで
はなく、
自分の意見には自信はあるが初めからは手の内は見
せないからではないかと思われます。支配されることの多か
った歴史の中で培われた、
したたかで我慢強い国民性なの
でしょう。
そういう私もぎりぎりになってやるタチなので、
そ
のペースに巻き込まれることにも慣れて、
すでに微笑ましい
日常風景です。
10
エストニアのアニメーション
「ロッテ」
エストニア料理
エストニアはバルト海に面していますから
魚も豊富です。特にニシン( Heeringas )、ウナ
小さな国エストニアにも独特の食習慣があり
そしてカレイやヒラメが多く獲ら
ギ
(Angerjas)、
ます。また料理の中には近隣国の影響がみられ
れます。伝統的には、
ニシンの小魚( Kilu)をレタ
るものもあります。私たちの国は北ヨーロッパに
ス、輪切りのゆで卵、
よく熟したトマトと一緒に黒
ある国ですので、冬は長く、暗く、気温は氷点下に
パンにのせて食べます。
なることもあります。
このような北の国特有の厳
魚に加えて乳製品も良く食べられています。
しい気候は、
シチューや肉のロースト、
こってりし
乳製品は種類も豊富で、皆さんが良く食べてい
たスープ、
そして
「ハプカプサス」
(Hapukapsas)
るチーズ、
ヨーグルトや牛乳の他に、発酵度の違
と呼ばれているキャベツの酢漬けなど、
カロリー
コ
うサワーミルクの1種「ケーフィル」
( Keefir )、
の比較的高い料理を私たちの食卓にもたらしま
テージチーズの1種「コフピーム」
( Kohupiim)、
した。その一方で、短い夏には森や庭先で採れ
など
サワークリームの
「ハプコール」
(Hapukoor)
るきのこ類、ジャガイモ、いちご、
ラズベリー、ブ
が人気です。食べ方としては、夏に良く冷やした
ルーベリー、そして白樺の木の樹液で作ったジ
ケーフィルをエストニア風黄な粉「カマ」
(Kama)
ュース
( Kasemahl)などの新鮮で軽い食事が好
と混ぜて飲んだり、
コフピームをお菓子・ケーキ
まれます。エストニアの伝統的なこってりとした
類に使ったりしています。
ハプコールはあらゆる
料理は控えめに、低脂肪の乳製品、野菜や果物
エストニア料理に添えられます。
を多く取るという傾向が最近の都市家庭で見ら
お菓子類では、
黄な粉風味チョコレート
「カマ・
れます。
アーモンドで
チョコレート」
( Kamašokolaad)、
エストニアの祭日、特にクリスマスを伝統料理
もあるの
作る砂糖菓子「マジパン」
(Martsipan)
とともに祝うという習慣は今でも残っていて、た
で、
是非、食べてみて下さい。
くさんの料理が食卓を飾ります。豚肉の塩漬け、
ガチョウや豚のロースト、オーブンで焼いたジャ
ガイモ、
キャベツの酢漬け、血のソーセージ「ヴェ
「黒パン」
リ・ヴォルスト」
( Verivorst)はクリスマスの食卓
エストニアで欠かせない主食に黒パンがあります。初めて
に欠かすことが出来ません。
食べる日本人には不思議な味に感じるかもしれません。私も
初めは苦手でしたが何度も食べるうちに、
なんとこれがエス
トニア料理、特に豚肉料理に良く合い、病みつきになりまし
た。黒パンの持つ独特の風味がエストニア料理を引き立たせ
てくれます。みなさんも是非、一回の印象で決めてしまわず
何度も試して、黒パンの深い味わいを堪能してみて下さい。
エストニアの豊富な魚類
11
エンドラ湿原
ルケ公園
自然は季節と共に
るのはエストニアの他にフィンランドだけです。
「ツバメは暖かい風を呼ぶ」
という諺がエストニ
3月のある日、
庭にムクドリの声が、
そして牧場
アにあります。
これはエストニアの春を表現して
にひばりのさえずりが響くとき、エストニアに黄
いるのです。エストニアの国鳥であるツバメは、
色いタンポポと青いスミレが開花を告げます。
こ
4月の終わりから5月にわたり他の種類の鳥た
うして待ちに待った春が始まり、私たちはこの春
ちと時期を同じくして冬の旅から戻ってきます。
の到来に感動するのです。
5月は特にエストニアの西部と西の島々でバー
4月の雪解けとともにエストニアの自然は動き
ドウオッチングに最適な時期です。スールヴァ
出します。私たちの国土の半分近くを占める森林
の海岸では、
1日50万羽以上
イン
(Suur Väin)
では比較的ゆっくりと雪解けが進みますが、海や
もの野鴨が観測されたことがあります。
1998
川、湖では氷が融け水かさが増します。
しかしこ
年5月25日に1日で190種の鳥が観測され、
の急激な水位の変化によって国土が被害を受け
これによりヨーロッパの野鳥観測記録を更新し
ることはありません。
これはエストニア各地にあ
ました。
る湿原が巨大なスポンジとなって雪解け水を吸
エストニアの6月は白夜の月です。他の北欧の
収するのです。
北欧でこれだけの湿地帯が見られ
国々と同じように、夏至の前夜は夜が1番短く、
12
国鳥のツバメ
国花のヤグルマ草
エストニアの秋
深夜になっても完全に暗くなることはなく、再び
わいます。それは泳ぐためだけではなく、冬の
明るさが戻ってきます。
この6月の夜には薄明か
間不足していた太陽の光を浴びるためでもあ
りの中、霧のかかった湿原から鳴り響くヨタカの
ります。バルト海沿いに目を戻すと、エストニ
声や、森の小道を照らしているツチボタルの緑の
アには1500以上もの島があります。お隣の
光、
そしてナイチンゲールの歌の競演を聞くこと
ラトヴィアには島が1つもないこともあって、
が出来ます。
これをちょっと自慢に思っているのが正直なと
夏至の日の到来後、
イチゴと花の季節のピーク
ころでしょう。海沿いの景色は地域によって異
を迎えます。
エストニアの自然は冬と一転して色
と呼ばれる切
なりますが、オンティカ( Ontika )
鮮やかな面を見せます。
トウモロコシ畑ではエス
り立った絶壁はエストニアの自然のシンボル
が咲きま
トニアの国花「ルッキリッル」
(Rukkilill)
として有名です。オンティカの断崖は石灰岩で
す。
もしたくさんの種類の植物が見たければ、森
できていて、海面からの高さは55メートルに
の草原に行くことをお勧めします。
ある植物学者
も達します。このオンティカの断崖を含むラヘ
はそこで1平方kmあたり74種もの植物(エス
マー( Lahemaa )地域の海岸風景は、エストニ
トニアの植物の約5%)
を発見し、
これは世界的
アで発 行されているテレフォンカードや絵 葉
な記録になっています。
書にもデザインされています。バルト海岸沿い
7月と8月には、水温が18℃ぐらいになる
には他にもマッツァル( Matsalu )の森やルフヌ
とエストニア人はこぞって海や川、湖に繰り出
の砂丘などの見所があります。
島(Ruhnu)
します。エストニアは北と西がバルト海に面し、
8月も終わりに近づくと秋の兆しがちらほらと
東の国境にはヨーロッパで4番目に大きいペ
見えてきます。
この兆しはまずエストニアの沼地
がロシアとの間に横たわっ
イプシ湖
(Peipsi järv)
ではっきり見ることが出来ます。
それは湿原全体
ています。夏になるとビーチは多くの人々で賑
の自然の色合いが変わり始めるからです。
そして
13
オテパーの雪景色
9月の終わり頃、
白樺の木の葉が金色になり、楓
の葉とポプラ科のアスペンの葉が赤みを帯びる
と本格的な秋が始まるのです。寒い10月の夜
には白い霜が降り、それは色鮮やかな秋をさら
に静かで鋭敏な印象にしてくれます。私たちはこ
の秋の夕暮れに、この上ないほどの感銘をうけ
ます。
ある日突然、雪の季節がやって来ます。初めの
うちは積もることなく融けてしまいますが、いく
つもの降雪を経て木の葉はすべて散り、景色は
徐々に雪の白さを増していきます。
この過程がエ
ストニアの11月です。雪が降り、
それが融け、
ま
アトリ科のウソ鳥
た雪が降る。
11月は白と黒の月と言っても良い
かもしれません。
しかし、まれに空が赤く輝くこ
とがあるので、冠の様に輝く裸の木々をその赤
い光の中で見ると、異様な威厳を感じるかもし
れません。
12月には雪が積もり、熊は冬眠し、越冬のた
めに鳥たちは遥か遠く南の地に移ります。
エスト
ニアの冬は約3ヶ月間続き、私たちもゆったりと
生活します。
自然は白い雪に埋まり、汚れの一点
も見せません。湿地帯は凍りつき、
その上に雪が
積もるので、夏に行くことが出来ない湿原地帯
をスキーで探検することも出来ます。時には小さ
な鹿が現れることもあります。町から離れた森の
奥深くにはエストニアの白い自然の静けさがあ
るのです。
モミの木の雪化粧
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エストニアを訪れる前に
日本円はエストニアの銀行でエストニア
クローンに両替することができるので、現金
エストニアを訪れるにあたって、予防接種
を持ってきても大丈夫です。
は必要ありませんが、日本で海外旅行保険
クレジットカードはスーパー、
デパート、
薬
には入っておいた方がいいでしょう。
局、
みやげ屋などで幅広く使うことができま
旅行中の服装は季節によってもちろん異
すが、時々パスポートの提示を求められるこ
なりますが、
エストニアの冬はたいてい日中
ともあります。
でも氷点下をちょっと下回ります。夏でも夜
お店はたいてい、平日9時∼19時、週末
は少し冷えますから、ジャケットを1枚持っ
は15時頃まで開いています。大きいデパー
ていると便利です。
また年間を通して海風が
トでは21時頃まで、旧市街周辺では24時
強いので、
風を通さないものが役に立ちます。
間営業のお店もあります。
日本の携帯電話は一般的に使うことがで
大きな町ではたいてい英語が通じます。
きません。GSM用の携帯電話をお持ちの方
エストニア人は自分の文化や言葉を大変
は空港や港、街角のキヨスクでGSMのチッ
大切に思っているため、エストニアの歴史、
プ入りスターターキッドを買えばすぐにでも
文化、言葉を少しでも知っているととても喜
エストニア中で使えます。
ばれます。
エストニアの電圧は220ボルトで、
ヨー
紹介を受けた時、
エストニアでは握手をす
ロッパスタンダードのコンセントです。
るのが一般的です。人の家に招待された時
市 内 観 光 地 図は各 地の観 光 案 内 所で
は花やワインを持って行くのが普通です。
手に入れることができます。
タリンの観光案
エストニア人は一見冷たくて、話したがら
内所は旧市街の中心、旧市庁舎広場近くの
ない人の様に見えるかもしれませんが、本当
ニグリステ通りとクラセッパ通りの角にあ
は恥ずかしがり屋なだけなので、心配しない
ります。
で道に迷った時は声をかけてください。
カタリーナ通り
ヴィル通り
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エストニア巡り
風 見がタリンの町を1530年から守ってい
ます。下町の主な教会としては、ニグリステ教
タリン TALLINN
会(Niguliste kirik:聖ニコラス)、
オレヴィステ教
首都タリンの旧市街は主に2つの部分に分か
れます。山の手に囲まれ、旧市街の周りには町
、
プハヴァイム教会
(Pühavaimu
会
(Oleviste kirik)
kirik:聖 霊 教 会 )などがあります。オレヴィス
の防御のために築かれた濠が現在、緑の公園に
テ 教 会 は 完 成 時 、北ヨ ー ロッパで 最 高 の 高
なっています。旧市街から離れ、
3km海に沿って
さ159m を誇ったゴシック様 式の尖 塔をも
東に行くとカドリオルグ公園(Kadrioru park)、
ち、夏 には 展 望 台 にも登ることが できます。
カドリオルグ宮殿(Kadrioru loss)、
さらに行くと
プハヴァイム 教 会 の 大 時 計 はタリンで1番
歌の原( Lauluväljak )、ピリタ修道院跡( Pirita
由 緒のあるものです。歴 史 的に古いものとし
klooster)などがあり、旧市街から西側にバスで
ては、市議会薬局( Raeapteek )なども挙げら
20分程行ったところにはロッカルマーレの野
れます。この 薬 局は15世 紀 頃 からサイア通
などもあり
外博物館(Eesti Vabaõhumuuseum)
で営業を続けています。その他の
り
(Saiakang)
ます。
見所としては、ハンザ同盟の町としてタリンが
山の手(トーンペア地区)
栄えた時に成立したギルド(同業者組合)の会
山の手はトーンペアの丘の上に位 置し、ト
、
現在武器博物館にも
館、
「3人姉妹」
(Kolm Õde)
ーム大 聖 堂( Toomkirik )、ロシア正 教のアレ
なっている15世紀の終わりに築かれた砲塔「キ
クサンドル・ネフスキー聖堂(Aleksander Nevski
ーク・イン・デ・キョク」
( Kiek-in-de-kök)、港から
katedraal)や国会議事堂(Riigikogu)があり、す
旧市街への入り口脇にある砲塔「ふとっちょマル
ばらしいタリンの眺めが一望できます。国会議事
ガレータ」
(Paks Margareeta)
などがあります。
堂の脇にはのっぽのヘルマン塔
(Pikk Hermann)
がエストニアの国旗を掲げて建っています。
下町
で
下町の中心はラエコヤ広場
(Raekoja plats)
す。この広 場の見 所は北ヨーロッパに14世
紀 後 半 から唯 一 残るゴシック様 式 の旧 市 庁
舎( Raekoda )です。旧市庁舎の塔のてっぺんに
はトーマスおじさん
(Vana Toomas)
と呼ばれる
トーマスおじいさん
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タリン旧市街
ラヘマー国立公園 LAHEMAA
代に、単なる要塞の町から芸術的な砦の町へと
エストニアの北東部、
ここラヘマー国立公園は、
変貌を遂げ、北ヨーロッパの最も美しい町の1つ
50種近くの動物、
200種以上もの鳥、
20種近
として栄えました。
しかしながら第2次世界大戦
くの魚が生息している国立自然公園です。
4千年
によってこの美しい砦の町の大部分が消え去っ
前からの人の定住が確認された場所ですが、公
てしまいました。
園内には森や海岸、湿原や人間に手を付けられ
ていない地域までも含まれています。
さらに、考
古学的にも楽しめる公園で、歴史的建築物も保
存されています。
ナルヴァ城
タルトゥ TARTU
エストニアで1番エストニアらしい町、
それが
タルトゥです。エストニア第2の都市で、歴史的
文献に登場する2番目に古いバルトの町です。
ラヘマーのパルムセ領
1632年にスウェーデン王グスタフ2世によっ
て大学が設立されると文教都市として栄えてき
ナルヴァ NARVA
ました。
「 知性」の象徴でもある大学が町のシン
タリンから東へ210km、
サンクト・ペテルブル
ボルになっています。町の中心に18世紀にでき
グとは140kmの距離にあるナルヴァの町はエ
があ
た古典様式のラエコヤ広場(Raekoja plats)
ストニアで3番目に大きい、
ロシアとの国境にあ
り、市庁舎の前からエマユギ川( Emajõgi )の
る町です。地理的拠点としてのナルヴァをめぐっ
方へむかってなだらかに下っています。
13世紀
て、
ヨーロッパの勢力争いが幾度となく繰り返さ
と14世紀の聖ヨハネ教
の大聖堂( Toomkirik )
れ、要塞の町として、
また国際貿易の町として歴
は一見の価値があるでしょう。
「文
会(Jaanikirik)
史的な役割を果たしてきました。初め、
ナルヴァ
化の揺りかご」
とも呼ばれているこの町は歌の祭
の要塞は13世紀にデーン人よって建てられまし
典の生まれた地でもあり、
1869年に最初の歌
た。そして16世紀と17世紀のスウェーデン時
の祭典がここタルトゥで開かれました。
タルトゥ大学
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クロスカントリーマラソン
オテパー OTEPÄÄ
エストニアの冬の首都オテパーは森と湖の
保養地です。オリンピックで金メダルを取った
エストニアのクロスカントリーに挑 戦するの
も良いかもしれません。町はずれには「聖なる
があり、
その美しさを画家や詩人
湖」
(Pühajärv)
が作品に取り上げています。
セトのお祭り
セトマー SETOMAA
エストニアの南東の端にあって、独特で異なる
湖から見たヴィリヤンディ城
文化を保持してきた地域がここセトマーです。
セ
トの人々もフィンノ・ウゴル族の仲間ですが、言
ヴィリヤンディ VILJANDI
葉の文化もエストニアでよく知られているものと
7世紀にも渡るハンザ都市としての歴史を持
異なります。セトマーは民謡の宝庫で、セトレー
つ川沿いの小さな町です。チュートン騎士団が
と呼ばれる民謡が全国的にも有名
ロ
(Seto leelo)
築いた砦の廃墟が川の小高い土手の上にあり、
です。
そこから見下ろす眺めは何ともいえません。廃墟
の近くには公園や吊り橋があって楽しく散歩で
きます。
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サーレマー島と他の島々 SAAREMAA
エストニア最大の島はサーレマー島( Saare-
maa )で、次にヒーウマー島( Hiiumaa )、ムフ
島( Muhu )と続きます。エストニアの 島々で
は風車とカダカス( Kadakas:西洋ネズ)の木
々
(お酒のジンの味付け用に使われている)が
多く、
どこへ行っても見ることができるでしょう。
サーレマー島の都市クレッサーレには14世
紀に建てられたゴシック式の城( Kuressaare
Linnus )が聳え立っています。この堀で囲まれ
た城は保存状態が良く、迷路のような細い螺
旋階段など、お城の構造も良く分かるようにな
っています。城内には歴史、文化や自然の博物
パルヌの海辺のホテル
館もあって楽しめます。サーレマ―島中部には、
2500年ほど前100トンもの流れ星が落ちて
パルヌ PÄRNU
があります。
この
できた湖、
カーリ湖(Kaali järv)
夏の首都、夏のリゾート都市として知られていま
クレーターでできた湖 は 直 径110 m 、深さ
す。
タリンと他のヨーロッパの国々を結ぶバルト
カーリ湖は2500年の間私たちエ
22mです。
海沿いの中継地点で、人の行き来が多い場所で
ストニアの象徴でありつづけています。
サーレマ
す。夏のパルヌのビーチは観光客や地元の人や
ー島の西海岸には石灰岩の切り立った崖やヨー
らで埋め尽くされます。保養地として約160年
ロッパ中の海鳥が観察できる国立自然公園もあ
の歴史を誇り、エストニアの泥風呂も体験でき
ります。サーレマ―の南東、パルヌの南にあるキ
ます。
にはキヒヌ独自の方言が話され、
ヒヌ島(Kihnu)
キヒヌの女性は現在でもキヒヌの民族衣装を着
ハープサル HAAPSALU
て生活していますので、興味あれば訪れてみて
パルヌからバルト海沿いに北に上がるとハー
下さい。
プサルがあります。ハープサルも海辺の町で、新
鮮な空気と水、そして天然薬効成分を含む泥の
保養地として人気があります。主な見所は司教の
と近年修復されたゴシック
砦跡(Piiskopilinnus)
式の大聖堂です。
クレッサーレ城
ハープサルの高級サロン
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エストニア関連公式サイト集
www.mfa.ee/estonia
www.estonica.org
www.einst.ee
www.visitestonia.com
www.esto.info
www.culturepoint.ee
www.ibs.ee/ibs/history/brief
www.riik.ee/en
www.eas.ee
www.maaturism/ee
www.ecotourism.ee/eng
www.saared.ee/teejuht/english.html
www.rmk.ee
www.ee/www/Regions/Nature_Reserv_Areas/welcome.html
www.inyourpocket.com/estonia/tallinn/en
www.tallinn.ee/eng
www.tartu.ee
www.parnu.ee
www.tallinn-airport.ee
www.atlas.ibs.ee/index.cgi.en
www.ee/www/welcome.html
エストニア共和国外務省 エストニカ エストニア国立文化研究所 WELCOME TO ESTONIA
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UST-LUUGA ウストゥ・ルーガ
TALLINN タリン
Läänemeri
バ ルト 海
LOKSA ロクサ
MAARDU マールドゥ
PALDISKI パルディスキ
SAAREMAA サーレマー
RUHNU ルフヌ
SINDI PÄRNU シンディ
パルヌ
VILJANDI ヴィリヤンディ
PÕLTSAMAA プルツァマー
JÕGEVA ユゲヴァ
KALLASTE カッラステ
TARTU タルトゥ
LÄTI
www.estemb.or.jp/
VENEMAA
ロシア
ABJA-PALUOJA RÄPINA ELVA アビャ・パルオヤ
ラピナ
エルヴァ
KIHNU KARKSI-NUIA KILINGI-NÕMME キヒヌ
カルクシ・ヌイア
キリンギ・ヌンメ MÕISAKÜLA PÕLVA OTEPÄÄ プルヴァ
ムイサクラ
TÕRVA オテパー
RUHJA トゥルヴァ
STAICELE ルヒャ
スタイツェレ
ANTSLA VÕRU PETSERI VÄIKE-SALATSI VALKA VALGA アンツラ ヴル
ぺツェリ
ヴァイケ・サラツィ
SALATSI ALOJA ヴァルカ ヴァルガ
サラツィ
アロヤ
LIMBAŽI リンバジ
在日本エストニア大使館
tel.(03)
5412-7281
e-mail : [email protected]
OUDOVA オウドヴァ
rv
jä
v a ァ湖
hk ヴ
P i フク
ピ
Liivi laht
リガ 湾
LIHULA リフラ
Võrtsjärv
ヴルツ 湖
KURESSAARE クレッサーレ
TÜRI トゥリ
VÕHMA ヴフマ
SUURE-JAANI スーレ・ヤーニ
SLANTSÕ スランツ
v
jär
psi
P e i プシ湖
ペイ
MUHU ムフ
KIVIÕLI SILLAMÄE NARVA キヴィウリ PÜSSI JÕHVI シッラマエ ナルヴァ
プッシ ユフヴィ
MUSTVEE ムストゥヴェー
PAIDE パイデ
RAPLA ラプラ
NARVA-JÕESUU ナルヴァ・ユエスー
KOHTLA-JÄRVE コフトゥラ・ヤルべ
TAPA TAMSALU タパ
タムサル
VORMSI ヴォルムシ
HIIUMAA ヒウマー
KUNDA クンダ
RAKVERE ラクヴェレ
KEHRA ケフラ
KEILA SAUE ケイラ サウエ
HAAPSALU ハープサル
エストニア
Soome laht
フィンランド 湾
フィンランド
KÄRDLA カルドゥラ
ESTONIA
ラトヴィア VALMIERA ヴァルミエラ
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