における異人種間混淆の問題 - 高知大学学術情報リポジトリ

における異人種間混淆の問題
藤吉
清次郎
(人文学部人間文化学科言語表象論コース)
キーワード
異人種間混淆,人種問題,怪物的存在
序
年に発表された
の短編
れまでの批評解釈については,この作品が
に関するこ
世紀イタリアのパドヴァを舞台としており
当時の
アメリカ社会を意識したと思われるような描写もないことから, 世紀中葉のアメリカという文脈
において捉えられることが少なかった.しかしながら,作品のヒロインである
によって新たな種の誕生を目指す彼女の父親
と,さらに,
が種の交配
によって生み出された存在であるこ
とベアトリーチェの関係を言い表すのに,アレクサンダー大王に送られた
インド人女性への言及がなされていることを考慮に入れると,ホーソーンが当時アメリカ社会を揺
るがしていた人種問題,ことに異人種間の交わり(
)を意識していたのではないかと思
われる
本稿では
という作品を人種的な観点から検証し
作品の内包する曖昧
高知大学学術研究報告
第
巻 (
年) 人文科学編
性,そして作品結末部におけるベアトリーチェの死の意味を考察してみたい.その際,異人種間混
淆の問題を扱っていると思われる
や
にも考察を加
えたい。
.異種混淆の庭
イタリア南部から大学で勉強するためにパドヴァにやってきた若者ジョヴァンニは,下宿する屋
敷から見えるラパチーニ博士の庭の異様さに気づく. そこに生える灌木はどれも豊麗な花を咲か
せているが,特に庭の中央にある大理石の泉水のそばの壮麗な灌木は紫色の宝石のような光沢と鮮
やかな色を帯びている.しかし,その大理石のそばの灌木は,手入れをする博士が口と鼻をマスク
で覆っても近づけないほどの危険な毒を有している. その灌木に向かって,ラパチーニ博士の娘
ベアトリーチェは親しげに,
とつぶやく.このように,ベアトリーチェの存在はまさにこの猛毒の植物に
よって暗示的に説明されているので,まずは,この植物の様相を検討してみよう. 語り手は植物
の不自然さについて,次のように述べている.
ここではラパチーニ博士が創り上げたその植物の
人工性
奇形性
が強調されており それ
は 様々な植物の種の姦淫 ,つまり植物の異種交配が行われた結果であるとされている. その植
物に 姉妹
と呼びかけているベアトリーチェは不道徳な植物と同じく,自然の法則,神の掟に反
する異種混淆の
な存在であることが仄めかされている.
このようなベアトリーチェの存在を考える上で,
が持ち出すアレクサンダー大王に
纏わる逸話は注目に値する ラパチーニ博士のライバルであるバッリオーニという大学教授は,ベ
アトリーチェに好意を抱くジョヴァンニに対して,この若者が置かれている状況───この若者が
ベアトリーチェの伴侶としてラパチーニ博士の実験の対象となっている───を説明するのにイン
ドの王様が贈り物としてアレクサンダー大王に送った美しいインド人女性の話を持ち出す
バッリ
オーニは大王が一目惚れしてしまった美しいインド人女性の秘密について,次のように述べる
における異人種間混淆の問題(藤吉)
もちろん,アレクサンダー大王への贈り物として送られた有毒なインド人の美女がベアトリー
はアレクサンダー大王の物語
チェのことを指していることは明らかである.
の物語がパラレルな関係にあることを指摘した上で,インドの王様がラ
と
パチーニ博士,アレクサンダー大王がジョヴァンニ,美しいインド人女性がベアトリーチェに対応
)
. 事実,ジョヴァンニの容姿について
すると述べている(
顔立ちは整い,巻き毛の
なかに金髪をきらきら輝かせている,イタリア人というはむしろギリシャ人に近いその顔
(
)と語り手は述べており,ジョヴァンニが純粋な西洋人のイメージで描かれているこ
とがわかる. 一方,ベアトリーチェには, 東洋
のイメージが付与されている.たとえば,ジョ
ヴァンニがベアトリーチェに会うことで胸をときめかせている場面で,
と述べられている
このようにジョヴァンニは西洋人を,そしてベアトリーチェは東洋人
を意識して描かれていることがわかるが,この物語においてアレクサンダー大王の逸話はいかなる
意味を持つのか
よく知られているように,アレクサンダー大王は紀元前
年にアジア遠征を行ったが,この大
王に関して注目すべきは彼が東方を支配するひとつの手段として,部下たちにその地域の女性と結
婚することを奨励し実行した点である.大王自身アジア一の美女と言われた女性を妻としたので
あった.アレクサンダー大王の遠征は歴史上,最初の大規模な異人種混交を意味していたのである.
アレクサンダー大王のエピソードを導入するにあたり,ホーソーンが
年代のアメリカ社会にお
ける人種問題(先住民問題,黒人奴隷問題)を念頭においていたことは十分考えられる.とすれば,
も指摘するように,ベアトリーチェがジョヴァンニの人種的純潔を脅かす存在と捉
えることも十分妥当性をもつだろうと思われる
(
)
.
私はアレクサンダー大王のエピソードを考慮に入れて,ベアトリーチェが美しいインド人女性に
対応する存在であると述べたが,しかし,ベアトリーチェの人物造型において,何よりも留意すべ
き要素は彼女の
混血性
であろう.というのも,前掲の引用文で考察したように,彼女の混血の
可能性が彼女の姉妹とされる庭園の植物に対して用いられている
て示唆されているからである
その混血性の忌まわしさは,
という単語によっ
という単語や
の箇
所から容易に理解できる 物語においてジョヴァンニがベアトリーチェの魅力に惹かれながらも,
この美女に対してある種の嫌悪感・違和感を抱くのも彼女のこうした混血性にあると言えよう.
おそらくこのジョヴァンニの抱く違和感はホーソーン自身のそれを反映したものだと考えられる.
例えば,
年夏にマサチューセッツ州西部に旅行をしたときに出会った先住民の先祖を持つ宿屋
の馬丁について,ホーソーンは次のように記している.
高知大学学術研究報告
第
巻 (
年) 人文科学編
白人と先住民の間の混血児である宿の馬丁は,黄褐色の皮膚と先住民特有の眼光鋭い眼をしてい
この人物は白人の要素をたくさん持っているために文明人といった印象を与えるが,先住民の
る
奇妙な感じ (
野生の血が入っていることを思うと,より一層
)がするとホー
ソーンは述べている
もちろん,このようにホーソーンが混血の問題に関心を持った理由には,
しているように,
年代異人種交配(
が指摘
)が優れた結果をもたらすか,あるいは不毛なもの
か,という議論が盛んに行われたという時代背景が関係しているであろう(
は,
葉の著名な人種論者
)
世紀中
年に
という論文を発表し
て,白人と黒人の性的交わりがアメリカ文化の衰退とアメリカ人の退化と絶滅を招くだろうと繰り
返し警告した(
)
このように異種混淆が社会的な関心を呼んだ時代にあって,
をもってアメリカ市民と考えるホーソーンが異人種との交わりに対して否定的であったこと
において,この作家が庭園の植物と
は想像に難くないが,注目したいのは
な存在と捉えていることである. この作品では,
同様に,混血児ベアトリーチェを
このほかにベアトリーチェが自分のことを
と嘆いてみせ
る箇所や,またジョヴァンニがベアトリーチェの身体を
の結果である
と述べる箇所,さらに彼が彼女の毒に感染して
に
なったと述べる箇所がある. 物語においてホーソーンが
な
どの言葉をかなり意識的に使用していることがわかるが,この作家はこの言葉をいかなる意味で
使っているのであろうか.
はホーソーン文学における
という言葉について,次のように述べてい
る
ピフィスターによれば, 怪物性 とは男性の目からみた女性の曖昧性を表すメタファーである.
それは性的な魅力があるが故にいかがわしい存在である女性に対する男性のアンビヴァレントな感
情を暗示している.怪物としての女性のメタファーは,女性に課せられた性的役割分担の厳格さを
露呈しているのである
実際,
の中で
という男性が,女権拡張主義者
に向かって
と述べる場面があり,
という言葉が女性性を否定する強い女性に使われている
ことがわかる
確かに,ジェンダーという観点からホーソーンの
という単語の使用を考察するピフィ
における異人種間混淆の問題(藤吉)
スターの見解は的確であり,説得力をもつ. しかし,さきに挙げた,
に
挿入されたアレクサンダー大王の逸話に見られる異人種間混淆の問題はピフィスターの解釈では十
分な説明がつかないように思われる
いは 異人種間混淆
したがって,ベアトリーチェの
怪物的
は
人種
ある
の観点からの検証も必要であろう
実はホーソーンは晩年の未完の作品
対して
怪物性
の中で,異種混淆で生まれた存在に
という言葉を使用している
主人公が
を帯びていると述べられている.このような異人種間混淆にまつわる
という言葉については,
という有名な戦争紀行文が思い
出される ホーソーンは南北戦争の激化に伴い,南部から逃れてきた黒人奴隷の一群を観察し,次
のように述べている
ホーソーンはメイフラワー号がピューリタンを運んだあと,奴隷船となって黒人奴隷の運搬に使
われたという噂話に思いを巡らし,ピューリタンの子供たちとヴァージニアのアフリカ人たちとが
メイフラワー号
という同一の
子宮
から産み出されたと言っている.戦争紀行文の中で語る
メイフラワー号のイメージは,アメリカ国家の起源の曖昧性,つまりアメリカ国家の 白 と 黒
の
怪物的な (
)混交性を表している.ホーソーンはこのエッセイにおいて,まさし
くアメリカ社会がその内部に抱えてきた
怪物性
ところで,ホーソーンは上記のような,混血と
を描き出していると言えるのである
怪物性
にまつわるイメージをどこで得たので
あろうか.この点, 世紀,ニューイングランドにおいて危険な思想の持ち主としてピューリタン
という女性に注目したい. とい
社会から追放され,非業の死を遂げた
という言葉が使われ
うのも,この女性の出産した子どもに関連して
ており,さらにホーソーンが
の
の人物を創造するに際し,アン・
ハッチンソンを強く意識していたと思われるからである.作品の中で危険な自由思想の持ち主ヘス
ターが
という娘がいなければ,ハッチンソンのような人生を歩んだであろうと繰り返し述べ
られていることから判断すると,ホーソーンがこの女性に関する最もよく知られた著書,すなわち
によるアンチノミニアンの論争の記録に
版された本を読んでいたと推察される
ハッチンソンと彼女の追従者である
て,次のように述べている
が序文をつけて
年に出
ウェルドは,その恐ろしい思想故に教会から追放された
が
を出産したというエピソードについ
高知大学学術研究報告
ハッチンソンやダイアーが
怪物
第
巻 (
年) 人文科学編
を産み出したのは,神の教えに反する
な思想を
抱いた故であるという. 大串尚代が指摘するように,ハッチンソンをモデルとして書かれたヘス
ターが犯した 姦通
が,共同体が認める結婚によって許された者以外と交わるという罪をおかす
ものに与えられる罪名であるとするならば
罪を犯すことに他ならない(大串
いう
白
が悪魔という
黒
異端
とは許された教義以外の思想と交わるという
)
. ピューリタン社会において, 異端
とはピューリタンと
に染まるということになろう. (後に論じるように,異端の罪を
怪物
犯したヘスターが出産したパールは間違いなく
彼の怪物に纏わるメタファーの背後には 白
と
黒
的存在である ) 話をウェルドに戻せば,
の混淆への恐怖感情があり,ホーソーンは
そのことを鋭く見抜き,前掲の戦争紀行文に応用したのではないか.
なものとして捉えていることがわか
以上の考察から,ホーソーンが異人種間混淆を
る. 次にホーソーンの他の作品の中で描かれている混血の問題をを確認してみよう.まず
を取り上げたい
というのも,この作品においてホーソーンが
とい
う,まさにベアトリーチェの人物造型を発展させたような女性を登場させ,混血の問題を前面に押
し出して描写しているからである
の舞台は興味深いことに
とそれと同じく,イタリアで
をある殺人事件に巻
ある.ミリアムは堕落する以前のアダムのような無垢な存在である
き込んでしまう 物語の要は,その事件を目撃した,ミリアムの友人で,アメリカから絵画の勉強
にやってきている
という純粋無垢なピューリタン娘が罪に染まったミリアムを友達として再
度受け入れるかという点にある ヒルダは結局,ミリアムを拒絶することになるが,その拒絶の背
景にミリアムの混血性の問題が絡んでいるように思われる
ミリアムについては,
との
記述があり,彼女の素性に関する噂話のひとつとして,この女性はアングロサクソンとラテンに加
えてユダヤ人の血が混じった混血児であり,ベアトリーチェと場合と同じく 彼女の容貌には何か
豊満な東洋的魅力がある (
)
とされている.また,
別の噂として,ミリアムが,
であり, 自分の血のなかに黒人の血
が一滴混じっている (
りすべてを放擲して故国を逃げてきたのだというものもある
)ことを知って,屈辱のあま
このように,物語を通してミリア
ムの混血性は一貫して強調されているのである
ヒルダがこの混血のミリアムに対して,次のように述べる場面がある.
における異人種間混淆の問題(藤吉)
ここで,ヒルダは,神様からもらった自分の汚れなき
女の意識は物語の中でたえず,自分の
無垢
純潔性
白いローブ
を強調しているように,彼
の保全に向けられている.ミリアムの人
物造型でもわかるように,人種的な要素に重きを置く物語にあって再三強調されているヒルダの
白
も人種的な観点から捉えるべきであろう.つまり,ヒルダの
期のアメリカの社会状況において見るならば,それは
白
をアンテベラム
としての純潔性を表していると考え
られる.従って あなたの発する磁力はわたしには強すぎますわ
というヒルダの言葉は,混血の
ミリアムを受け入れることにより,自らの人種的なアイデンティティが脅かされることの恐れを暗
示していると思われる.
においても混血の問題が描かれていることを
次に,ホーソーンの代表作
といえば,しばしばその曖昧さが注目されるが,しかしなが
確認してみたい
らホーソーンが唯一確信を持って描いた恐怖は, 異人種間雑婚
している
に
この点ヘスターの夫である
ブラック・マン
であったと
は指摘
と,パールの父親である
という言葉が使われていることに留意したい
の描写
森へ行く途中,パールがヘ
スターに向かって,ある話をしてほしいとせがむ場面がある
パールはヘスターに, ブラック・マン
作品のなかでは
し, 悪魔
ブラック・マン
について,さらなる説明を求める.
は通常,姦通の罪を犯したディムズデイル牧師の堕落性を表
という意味で解釈されることが多い. しかし黒人の皮膚の色と堕落・犯罪との結びつ
き,また黒人奴隷制問題で揺れた作品発表当時の時代背景を考えると,グロスマンが指摘するよう
に
ブラック・マン
イルと白人女性
は黒人をも暗示しているように思われる. パールは黒人男性
ディムズデ
ヘスターとの間の混血児ということになる. まさしく,忌まわしい
黒人
の
高知大学学術研究報告
第
巻 (
年) 人文科学編
血を引くパールに関して,その容貌(黒い瞳,黒髪)
,振る舞いの邪悪さが随所に強調され,母親
のヘスターすら,パールが何者かと訝しからざるを得ないのである. パールはその混血性にゆえ
にまさしく
怪物的
な存在なのである.
の作品に見られる混血性への
以上,
恐怖・不安の問題を中心に考察してきたが,芸術家ホーソーンにとっては,異人種間混淆の問題は
創作意欲をかき立てられる重要な文学的テーマのひとつであったと考えられる.
結論 ──── ベアトリーチェの死の意味
という作品はベアトリーチェという混血の怪
これまで見てきたように,
物を巡る物語であり,彼女の
ることができる
毒
は彼女の人種的他者性,あるいは混血性のメタファーだと考え
最後に,その怪物的存在であるベアトリーチェの死の意味を考察するために,
作品の結末場面を検討したい
ベアトリーチェの不思議な魅力に惹かれていたジョヴァンニではあったが,自らの身体が彼女の
毒に感染していることを知ったこの若者は彼女を罵倒したうえで,彼女の毒を浄化すべく,バッリ
オーニ博士から手渡された解毒剤を彼女に差し出す. 彼女は死を覚悟してそれを飲み干す. 彼女
と言
は自分を毒女とした父親ラパチーニに対して
い,そしてジョヴァンニに向かっては
と述べ,死んでいく.ベアトリーチェの死を目の当たりにした
バッリオーニ博士は勝ち誇ったように,ラパチーニ博士に向かって,
と叫び,物語は閉じられる.
以上のような感傷的かつ教訓的な物語の結末において
語り手が
ベアトリーチェの毒ではな
く,ジョヴァンニ,ラパチーニやバッリオーニの三人の男たちの 道徳的な毒
こそを邪悪なもの
と捉え,彼らを批判していることは明らかであろう. つまり語り手は読者に娘の気持ちを理解で
きなかった 狂った科学者 の父親,彼女の少女のような
を信じられなかっ
た恋人,そして彼女の存在を認められなかった父親の職業上のライバルの道徳的資質を非難するよ
うに促しているようである. 確かに,
はそのような道徳的な観点から解
釈できる作品ではある. しかし,この作品は
と同様に,善悪に則った道徳な解
釈だけでは回収できない曖昧性をもつ物語でもある.ここで言えることはこの作品の曖昧性のひと
つが時代的文脈を考慮に入れると,異人種間雑婚の問題に起因している可能性が高いということで
ある.
これまで考察してきたように,混血児ベアトリーチェはジョヴァンニの人種的純潔を脅かす存在
であった. それ故にベアトリーチェという混血児が拒絶され,死を迎えるということは妥当な結
末だと言える.
は,
世紀アメリカ文学において白人作家は混血児の魅力と混血へ
の嫌悪との間のジレンマに陥り,しばしば混血児を死なせることによって問題を解決させたと指摘
しているが
,この指摘は
にも適用できるだろう. その意味で
という作品はまさしく
年代,アメリカ先住民問題や黒人奴隷問題で揺
れるアメリカ社会における人種言説の中で生み出されたものだと考えられるし,そしてこの作品は
アンテベラム期アメリカの異人種間雑婚の脅威に対する白人たちの不安を表明した物語だと解釈で
きるだろう そのような時代的な文脈を射程に入れれば
混血児ベアトリーチェの 毒(汚れた血)
を浄化しようとするジョヴァンニの行為は当時流布していた人種主義に基づく劣等人種の血の浄化
を目指したものだと考えることもできる
それは
の前年に発表された短
における異人種間混淆の問題(藤吉)
編
のなかで,妻の
れているように
赤いひと
の白い肌のうえの
赤いあざ
──よく知ら
とはアメリカ先住民のことを指すが, 赤いあざ
のその
らの劣等な血を暗示しているとも考えられる──を取り除こうとする科学者で夫の
行為と酷似しているのである. 以上のように考えると,
は彼
は
年代人種
問題で烈しく揺れ動くアメリカ社会において, ホーソーンを含む白人たちが抱いた異人間種混淆,
混血に対する内的葛藤を描いた作品だと言えるだろう
注
は物語の舞台になっているパドヴァについて,次のように述べている.
ホーソーンが
の著作から,アレクサンダー大王に送られた美しい毒娘のエピ
ソードを学んだことはよく知られているが,ブラウンが医学を学んだイタリアのパドヴァという都
市はヨーロッパの都市のなかで,アラビアの科学や哲学の影響を感受した最初の都市のひとつであ
り,そこにたつ建物などは常に オリエンタル
の雰囲気を有するものであった.西洋と東洋の出
会う場所としてイタリアのパドヴァという都市が物語の舞台として選択されていることは意義深
い.
ホーソーンの作品に関しては,
を使用した.巻数,頁数は引用文に続けて括弧に入れて
示す.
ヤングは
と
述べている.
ピフィスターは
年代のホーソーンの小説における女性表象において
という言葉が極めて重要な意味を帯びていることを指摘している
(
は
述べている.
という論文の中で,
)
について次ように
高知大学学術研究報告
を
第
巻 (
年) 人文科学編
のロマンスと考えるリヴァインは,ホーソーンが
モンテ・
ベニの人種 を絶えまない血の混淆によって特徴づけるものとして提示することによって,ローマ
人の人種的純潔を信じるトーマス・ジェファーソンの人種観を暗に否定していると指摘している.
は異種混淆に対する白人の抱く恐怖を描くアレゴリーであ
リヴァインによれば,
る.
ミリアムの人物造型に関してもう少し踏み込んで検証してみよう
ミリアムを表すのにホー
ソーンはクレオパトラの彫像とグイド・レニのベアトリーチェ・チェンチの絵画を利用している
クレオパトラの彫像は
であるとされる.ここで使われている形容語はまさしく,ラパチーニ博士の庭の植物と酷
似していることがわかる.また,ベアトリーチェ・チェンチの絵画については,そのモチーフは父
親殺しと近親相姦であり,
世紀の芸術家に大きな影響を与えた肖像画として知られるが,この絵
画によって,ミリアムの引きずる過去にこのふたつの問題が関与していると暗示されている.
以後も,ホーソーンはベアトリーチェのような混血の魅惑的な女性
のヘスターについては
を創造し続けている.
との記述があり,ベア
トリーチェと同じく, 東洋的
情熱的
美しい
など形容詞が使われている.
のミリアムについては,先に述べたように彼女の混血性が大きな問題として取り扱われてい
る. このことから,ホーソーン文学がベアトリーチェ,ミリアム,ヘスターなどの混血児,ある
いは
東洋的な性質
──ここには
が提唱するような,秩序,理性をもつ男性として
の西洋に対するものとして,官能性,情熱をもつ女性としての東洋が使われていると思われる──
を持つ人物に大きく依存していることは明瞭であろう
の最大の恐怖を異種混淆であるとするグロスマンは
に掲載された神学者
年
月号の
による作品の書評を取りあげている
もちろん,教会関連の雑誌が牧師の姦通を扱ったホーソーンの小説を非難したことは容易に想像で
きるが,グロスマンはコックスのコメントの内容に着目する.
コックスによれば,ホーソーンの道徳的に邪悪な小説はそれを読む無防備な少女の純潔を 黒く
汚すのである
純白の乙女が黒く汚される恐怖とは奴隷制問題で揺れた時代背景を考慮に入れれ
ば,異人種間雑婚の脅威を意味するであろう
は
と述べ,
が,アメリカ政府がアメリカ先住民に対して採ったインディアン強制移住政策
を劇化したものであるとして,刺激的な分析を展開している.
における異人種間混淆の問題(藤吉)
大串尚代
ハイブリッド・ロマンス
東京
松柏社,
年.