012 SFC−SWP 2015− 研究会優秀論文 ヒ ズメット運動における宗教の役割 ∼ 教育活動が学生に与える影響をもとに∼ 2015年度 秋学期 AUTUMN 楠 原 亜 貴 環境情報学部 4年 奥田 敦 研究会 慶應義塾大学湘南藤沢学会 平成 27 年度 卒業論文 ヒズメット運動における宗教の役割 ~教育活動が学生に与える影響をもとに~ 慶應義塾大学 環境情報学部 4 年 指導教員 奥田敦教授 学籍番号71142946 氏名 楠原亜貴 目次 序章…………………………………………………………………………………………………………….3 第 1 節 研究背景………………………………………………………………………………………….3 第 2 節 先行研究………………………………………………………………………………………….3 第 1 章 ヒズメット運動…………………………………………………………………………………….5 第 1 節 トルコにおける政教分離とイスラーム運動………………………………………………….5 第 2 節 フェトフッラー・ギュレン…………………………………………………………………….12 第 3 節 ヒズメット運動の広がり……………………………………………………………………….12 第 2 章 ヒズメット運動と政治との軋轢………………………………………………………………….13 第 1 節 ヒズメット運動が唱える「宗教と政治の関わり」………………………………………....13 第 2 節 ヒズメット運動と公正発展党………………………………………………………………….14 第 3 節 公正発展党との亀裂…………………………………………………………………………....15 第 3 章 ヒズメット運動における教育活動……………………………………………………………….24 第 1 節 ヒズメット運動における教育活動の位置づけ……………………………………………….24 第 2 節 ギュレンの教育観……………………………………………………………………………….24 第 3 節 トルコ国内の教育活動………………………………………………………………………….26 第 1 項 ファティヒ・コレッジ校…………………………………………………………………….26 第 2 項 ファーティヒ大学…………………………………………………………………………….27 第 3 項 学習塾………………………………………………………………………………………….27 第 4 節 トルコ国外の教育活動………………………………………………………………………….27 第 1 項 サラーフッディーン・インターナショナル校…………………………………………….28 第 2 項 カリスマ・バンサ校………………………………………………………………………….29 第 5 節 教育支援………………………………………………………………………………………….29 第 4 章 Akademisit gelişim Derneği 組合………………………………………………………………30 第 1 節 Akademist Gelişim Derneği とは……………………………………………………………30 第 2 節 組合へ通う女子大学生たち……………………………………………………………………32 第 5 章 ヒズメット運動における「個人」「社会」「信仰」……………………………………………36 第 1 節 「個人」と「家族」……………………………………………………………………….......36 第 2 節 「組織」と「信仰」……………………………………………………………………………36 第 3 節 「個人」「社会」「信仰」の関係性……………………………………………………………36 あとがき………………………………………………………………………………………………………38 参考文献………………………………………………………………………………………………………40 付記…………………………………………………………………………………………………………....41 謝辞……………………………………………………………………………………………………………42 2 序章 トルコで 60 年代頃に生まれたヒズメット運動と呼ばれるイスラームを基盤とする市民運動が現在、ト ルコ国内だけでなく世界各国から注目を集める大きな勢力となっている。ヒズメット(hizmet)とは、アラ ビヤ語の「」ﺥخِﺩدْﻡمَﺓةを起源とするトルコ語で、「奉仕」を意味する。ヒズメット運動は教育活動、宗教間対 話活動とメディア活動の 3 本の柱を軸に展開されている。1 つの柱である教育活動では、国内外に数多く の学校が建設された。また私立塾や支援組合なども数多く存在し、学生への惜しみない援助が行われて いる。このようなヒズメット運動の教育活動は学生に対してどのような影響を与えているのであろうか。 本研究では文献調査、フィールドワークを通じて、ヒズメット運動が与える学生への影響を個人のレベ ルで検証をした。 第 1 節 研究背景 2013 年 3 月 4 日から 8 日の 5 日間、奥田敦研究会の特別研究プロジェクトであるアラブ世界訪問プロ ジェクトの研修でトルコを訪れた。NPO 法人日本トルコ文化交流会の協力により、ヒズメット運動の主 要な団体や学校を見学させていただいた。訪れた団体の建物はどれも立派で、また迎えてくれる人々も 生き生きとしており、私たちをとても手厚く歓迎してくれた。また、彼らの話からヒズメット運動がト ルコ国内で大きな勢力となっていることを知った。これらの事実にとても驚かされた。トルコは建国時 から政教分離を掲げており、イスラームは社会に表立っていないと考えていたからだ。政府は圧力をか け、公的な場所からイスラームを消してきたが、国民の心からは消すことができなかった。そのような イスラームの教えの深さにも同時に驚かされた。この経験を通して、トルコへの興味が一層強くなり、 半年後の 2013 年 10 月から、トルコ最大の都市イスタンブルへ、トルコ語習得のために約 1 年間留学し た。 留学中の 2014 年 3 月から、ヒズメット運動が運営する女子大学生の支援組合へ通うようになった。そ こでは組合の周辺に住む女子大学生のために、生活全般にわたる様々な支援が行われていた。彼女たち と共に時間を過ごすことで、女子大学生にとって、組合は大きな存在であると感じた。また、筆者自身 の留学生活にも、精神的な面も含めて、大きな影響を与えた。これらの経験から、ヒズメット運動が個 人の生活や生き方に与える影響を考えてみたいと思うようになった。 第 2 節 先行研究 本論文の第 1 章にあたるイスラーム運動の歴史的変遷を調べる際、新井政美の『イスラムと近代化』、 『トルコ近現代史』の 2 冊を参考にした。特に『イスラムと近代化』では、ヒズメット運動の全体像や 活動の詳細もまとめられている。全体像を掴むことの難しいヒズメット運動ではあるが、研究を進める 上での参考資料として活用した。 ヒズメット運動の精神的指導者であるギュレン師に関しては日本トルコ文化交流会監修の『Hizmet Movement 平和を目指すグローバルな社会運動: 「ヒズメット運動」と現代イスラム思想家ギュレン』を 参考にした。この書籍には、ギュレン師の言葉が多く掲載されており、ヒズメット運動の賛同者たちが 活動を通して、目指すものを検証する際に活用した。 3 日本における、ヒズメット運動そのものに関する先行研究では、学校の数などの数値的記録や教育シ ステムについての記録を見ることができる1。これらの書籍や論文では詳細なデータが記録されており、 本研究を進める際にも大きな助けとなった。しかし、研究対象を私立学校や大学でなく、学生への支援 組合としている研究は 2014 年発行『イスラーム地域研究ジャーナル Vol.6』における阿久津正幸の論文 以外は見出すことができなかった。しかし、阿久津論文での支援組合への言及は、その組織の紹介にと どまっている。したがって、ヒズメット運動が支援組合を通じて個々人の生活に与えている影響につい て言及している研究は筆者が調べた限りでは存在しない。 そこで本研究では、支援組合へ通う学生へのインタビューを通じて、学生個々人への影響を明らかに する。社会との向き合い方や信仰のあり方を個人のレベルで考察することによって、ヒズメット運動の 影響に対する新たな視座が得られるであろう。学生に与える影響をもとに、ヒズメット運動における宗 教の役割を考察していく。 1 例えば、新井政美編『イスラムと近代化:共和国トルコの苦闘』、2013 年、阿久津正幸「非イスラーム世界における hizmet: -ムスリム社会の構築とイスラームの伝統的価値観-」、2013 年が挙げられる。 4 第 1 章 ヒズメット運動 第 1 節 トルコにおける政教分離とイスラーム運動 トルコ略史 1299 年 オスマン帝国が成立 1453 年 コンスタンティノープルを占領 1720 年頃 西欧文明を取り入れる融和政策 1839 年~1876 年 タンズィマート 1876 年 ミドハト憲法発布 1878 年 ミドハト憲法停止 1908 年 青年トルコ革命 1918 年 第一次世界大戦でオスマン帝国敗退 1919 年~1922 年 祖国解放戦争 1922 年 カリフ制の廃止 1923 年 トルコ共和国成立 1926 年 新民法、新刑法発布 1954 年 民主党政権 1960 年 軍による 60 年クーデタ 1961 年 共和党が再び第一党に、公正党との連立政権へ 1962 年 連立政権崩壊 1965 年 公正党政権 1980 年 軍による 80 年クーデタ 1983 年 民政移管、母国党政権 1996 年 2 月 28 日キャンペーン 2002 年 公正発展党政権へ 筆者作成 西洋が世界に台頭する中で、トルコも西洋の衝撃を受けていた。1839 年にムスタファ・レシト・パシ ャ2がタンズィマート3をはじめ、西洋化が進んでいく。 同年 11 月にギュルハーネ勅令が発布され、生命や名誉、財産の保障、賄賂の禁止などを具体的に規定 した刑法が公布された。1858 年にはフランス刑法を下敷きとした新たな刑法が発布された。しかしその 刑法はタアズィール4を改良、強化するためのものとして位置づけられていたのであり、決してイスラー 2 1800 年~1858 年。オスマン帝国の政治家。1837 年には外務大臣に任命され、タンズィマートを推進する。 ギュルハーネ勅令から始まり、1876 年の第一次立憲制成立までの時期に行われた一連の西欧化改革運動。 4 イスラーム刑法の一部であり、矯正を目的とした裁判官による裁量刑。 (http://www.linca.info/alladin/dic.php?id=19605&cur=0)より 3 5 ムを否定するものではなかった。新商法も同様に作られたが、しかし、民法は人々の生活に根付くもの だとして他国の模倣では定められないとの見解から、イスラーム法に基づく初の成文法とされる民法典 が公布されることとなった。 「このように、少なくとも改革を実行する立場の高官たちの目には、イスラ ムは、時代の変化に柔軟に適応できていたのである。(中略)新刑法の制定が、オスマンの意識の中では、 あくまでイスラムの枠の中でなされていたと言い換えることができるだろう(新井[2013:55])。」新刑法、 新商法が制定されたことによって、旧来のイスラーム法の無効が宣言されたわけではなかったのである (新井[2013:56])。 1860 年代後半には、新オスマン人と呼ばれる若い知識人が現れた。彼らは新聞という新たな媒体に自 らの意見を公表し始めた。しかし、アーリー・パシャ5によって敵対視された結果、彼らは活動の場をヨ ーロッパへと移した。彼らは新聞の中で、「反政府運動」、「専制批判」、「立憲制要求」を主張した(新井 [2013:62])。その考えは次第に受け入れられ、1876 年には初の憲法典であるミドハト憲法が発布され、 オスマン帝国は立憲政治を行うことになる。「彼ら6のイスラムに対する信頼は揺るぎないように見える (新井[2013:62])」とされる。彼らはフランス法の翻訳による立法作業を批判し、イスラーム法の優位を 主張した。この時期には、政府と新オスマン人との間に考え方の違いはあるが、両者ともイスラームの 優位性に信頼をおいている点では同じ地平に立っていると新井は指摘する。 「政府はイスラム法の解釈を 「広げて」、フランス法をイスラムの中に取り込もうとしたのだが、「新オスマン人」は解釈を「掘り下 げて」、西洋との交渉が緊密化した現状を、あくまでも従来のイスラム法の運用で解決しようと考えた(新 井[2013:64])。」 そして新オスマン人の考えは、青年トルコ人7と呼ばれる者たちへと受け継がれていった。ミドハト憲 法は露土戦争の敗北を理由にアブドゥルハミト 2 世8によって停止された。当時は専制政治が行われてい た。このことに青年トルコ人たちは反発し、1908 年青年トルコ革命を成功させた。憲法は復活し、アブ ドゥルハミト 2 世は廃位となった。青年トルコ人の中の重要な人物として、ズィヤー・ギョカルプ9が挙 げられる。彼はイスラームと近代性とが決して矛盾はしないと主張した(新井[2013:67])。また、イスラ ーム法の社会的法源は社会の変化に応じて変化すべきであると考えを持っていた。シャリーアを再活性 化させるために、それと生活との接点を見出すことが必要であり、そのためにこそ社会的法源を確立せ ねばならないのだと説いている(新井[2013:69])。ギョカルプは、「トルコ語」と「トルコ文化」とを基軸 にトルコ・ナショナリズムの体系化に努め、イスラームがトルコ・アイデンティティの要素であること も主張していた(新井[2013:70])。 ギョカルプや青年トルコ人は世俗主義者であったと考えられることが多いが、上記からも分かるよう に、決して世俗主義者ではなかった。 「彼らは進歩的であったにはちがいないが、世俗主義者ではなかっ た(新井[2013:73])。」彼らが世俗主義であるといわれる理由として、「イスラーム」と「世俗主義」の二 つの「対極性」が挙げられる。革命によって、専制時代に優遇されていたウラマーや養成学校の生徒が 権益を失うなどさまざまな不平、不満が、革命 8 か月で爆発し、1909 年 4 月にイスタンブルで反乱がお 1815 年~71 年。1846 年以降数度にわたって外務大臣を務める。レシト・パシャの死後は、ファト・パシャとともに太 宰相職をほぼ独占した。 6 ここでは、新オスマン人を指す。 7 ミドハト憲法による統治の復活を目指して運動した活動家たち。 8 1842 年~1918 年。オスマン帝国第 34 代皇帝。 5 9 1876 年~1924 年。トルコ・ナショナリストであり、社会学者。 6 きた。反乱にはウラマーや養成学校の生徒も参加したため、 「反動としてのイスラム勢力(新井[2013:73])」 のイメージを植え付けたと言われている。そして自動的に「青年トルコ人」のメンバーが「進歩的な世 俗主義者(新井[2013:73])」であるという観念ができあがる。青年トルコ人は「イスラーム支持者」であ り、「世俗主義者」でもあった。 また、この時代には欧化主義といわれる人々も現れた。「彼らはオスマンの完全な西洋化を主張した。 イスラムの現状に対する、ほとんど憎悪ともとれるほどの敵愾心が見える表現もあったが、決してイス ラムを否定するわけではなかった。 「現在の」イスラムを忌み嫌っており、イスラムが輝きを取り戻す世 界を見据えていた。この青年トルコ人と欧化主義者の両者は、 「西洋」が進歩の先端にいると認めていた 点、同化することが大切だと思っていた点は共通していた。そしてまた西洋はイスラーム世界文明の周 縁に位置づけられるべきである存在であるという意識も共通していた。西洋化した社会に、進歩を追求 するイスラム教徒の指導者としてカリフが存在することが、自明視されてあった(新井[2013:81,82])。」 共和国以前のトルコでは、 「世俗主義」はいまだ確立していなかったと言える。イスラームを基盤とし た生活は続いており、彼らも決してイスラームを否定したわけではなかった。しかし、時代の流れによ り、国の存続のため「西洋化」を余儀なくされ、 「イスラーム」との共存の道を模索していた時代だと読 み取れる。 1914 年、第一次世界大戦が勃発し、オスマン帝国も参戦することとなった。1918 年には敗退し、欧 米の列強がオスマン帝国の分割統治を行おうとした。この分割統治を阻止し、現在のトルコ共和国建国 に尽力したのが、ケマル・アタトゥルク10である。彼は 1919 年から 1922 年に渡り、祖国解放戦争を指 揮し、列強を追い払った。そして、1923 年に現在のトルコ共和国が建国された。ケマル・アタトゥルク は大統領に就任し、国を作っていった。1922 年にはカリフ制の廃止、宗教知識人養成のための学校を閉 鎖、シャリーアに基づく裁判を行う法廷を廃止した。続く 1926 年にはスイス民法を基にした新民法、イ タリア刑法を基にした新刑法を発布した。このようにして、トルコ人の社会生活が西洋的な価値の基準 によって律せられることになった (新井[2001:201])。 新井政美は『トルコ近現代史』の中でケマル・アタトゥルクが行った改革と従来の改革との違いを説 明している。 「同じように西洋の法を基本にしながら、それをイスラーム法の枠内に位置づけようとしたタンズィ マート以来の立法改革との、本質的な差異は歴然であった。さらに従来の改革との決定的な違いは、一 世紀以上にわたる改革の中で一貫して存在してきた新と旧との二元性を、ケマルが一気に廃したという ことであった。この 100 年来、旧来の組織の外側に、新たな組織を付け加えることで改革は進められて きたのであった。「宗教」は「国家」に管理され、その影響力も形骸化されてきたが、「国家」の行う改 革は、形式的には「宗教」の承認を受けていたのであった。こうした点で、従来の改革は、オスマン帝 国の伝統から大きく外れたものとは言えなかったであろう。さらに、第二次立憲政の時代には、併置さ れていきた「新」と「旧」との総合すら試みられたと考えることができるのであった。しかし、ケマル は、旧来のものを一掃することに、いささかのためらいも見せなかった(新井[2001:201])。」 10 ムスタファ・ケマル。建国の父としてアタトゥルクの称号が与えられた。1881 年~1938 年。敗戦後抵抗運動を指揮し、 1923 年に共和国を宣言して第一代大統領に就任。以降一連の改革を断行した。 7 イスラームを社会から廃する改革はさらに続き、1925 年には、人々の宗教生活の拠り所であった神秘 主義教団の修行場や聖者廟が閉鎖された(新井[2001:202])。また同年にターバン、トルコ帽を禁止し、1928 年にはアラビヤ文字の禁止、ローマ字の採用を行い、1933 年にはアザーンのトルコ語化を行った。彼の 行った改革は政教分離を掲げ、社会からイスラ―ム色を消すものであった。 「西洋中心的な世界観を全面 的に受け入れて、 「近代化=世俗化」をめざしたが、同時に西洋文明そのものがトルコ民族の影響の下に 作り出されたものであると強調することによって、西洋化とナショナリズムとを「調和」させたのであ る(新井[2013:98])。」 ケマル・アタトゥルクの死後、イノニュが第 2 代大統領に就いた。彼は共和国成立後、長年、首相と して、アタトゥルクと共に歩んできた。1946 年 1 月、イノニュの下で共和人民党を分割する形で民主党 が結成され、一党支配体制が終焉したと言われている。しかし実際は、その半年ほど前から諸政党が結 成されていた。代表的なものとして、建国以来 20 年間抑えられてきたイスラームに対する思いを掲げる 国民発展党や青年トルコ人たちとのつながりが明らかに宣言された社会公正党が挙げられる。 これら二つのようにイスラームに基づく信念を公言する党の設立が認められることはアタトゥルクの 時代には考えられなかったことであり(新井[2013:112])、新たな時代に入った現れだと言える。そして彼 の時代には脱イスラーム化政策の融和が図られた。有権者となった国民の意に沿う必要があったからだ。 融和政策として、「導師、説教師養成学級」の再開の提案がなされた。「脱イスラム化の融和がつぎつぎ と打ち出されるのは、各政党が「イスラム」が票になることを理解し、これを政治的に利用しようとし たことに深く関わっている(新井[2013:113])。」しかし、1942 年には、宗教教育の重要性に関する議論が 議会でなされていた事実もある(新井[2013:113])。このことから、「イスラーム」が「票集め」に利用さ れただけではなかったことがわかる。 ケマリストとも呼ばれる国家エリートは「西洋化」を近代性の証と捉えたが、その考えは人口の大多 数をムスリムが占める一般国民には十分には浸透しなかった(幸加木[2011:34])。 1950~70 年代には、民主党政権が誕生した。54 年選挙で大勝利をおさめると、導師・説教師養成学 級再開、モスク建設、アザーンがアラビヤ語に戻されるなどの脱イスラーム化の融和政策が行われた。 これらの動きは「イスラムの復活(新井[2013:130])」と称される。民主党の勝利の背景には、サイード・ ヌルスィー率いるヌルジュたちの支持があった。サイード・ヌルスィー11は現代トルコのイスラーム運動 において、きわめて重要な人物である。クルド人であるが、彼の生まれたビトリス州は人口構成が多彩 であるため、彼自身も非常にオスマン的な性格をもつ。地元のマドラサで伝統的な学問をはじめ、優れ た学才を認められた彼は、その各地のマドラサやナクシュバンディー教団の修行場をめぐり歩く。宗教 教育と近代的科学教育とを合体させた教育機関の設立を目指し、新たな高等教育機関「光明学院」を建 設することを構想していた。彼の思考は『火山』誌12から読み取れることができる。ヌルスィーは自己の 構想を 9 条に分けて論述している。ここでは、新井政美の『イスラムと近代化』での説明を用いて内容 を簡単に紹介する13。 1 条 「新オスマン人」と同様、憲法とシャリーアとが矛盾しないような運用を求めていたようにとれる。 11 12 13 1873 年~1960 年。トルコの有名な思想家 Volkan 誌。1908 年青年トルコ革命への反革命の中核的存在となる組織、「ムスリム統一委員会」の機関紙。 『イスラムと近代化』p145~151 より抜粋し、まとめた。 8 2 条 「青年トルコ人」と同様、イスラム的知識と近代的知識とを融合させようとする。 3 条 学問の世界において専制を行う学者を批判、公論を重視。 4 条 分業という近代西洋的な方法を伝統的な教育機関に導入しようとするとともに、オスマンの進歩と 革新とを主導する人材を育てようとする。 5 条 モスクの説教師たちがイスラムの学問だけでなく、諸学に通じ、さらに雄弁でなければならない。 6 条 無知を克服するためには知識が必要だが、その知識を生み出す西洋が、同時に「外部の敵」でもあ るのだから、自分たちは近代的知識と並んでイスラムの信仰と知識とを身につけねばならない。 7 条 スルタンの宮殿に出入りするウラマーを、真に学問に通じた権威ある者だけに限り、そのことによ って宮殿を大学のようにすることを求めている。 8 条 イスラムを強調するあまり、帝国内の非ムスリムを恐れさせ、結果的に彼らを分離に追いやらない ような留意すべき。 9 条 クルド人に民族的一体性の獲得を訴えかけ、クルディスタンに宗教教育と科学教育とを両立させる 新たな教育機関の設立を望む。 このように、オスマンの一体性を重視しながらも、それを支える重要な構成要素としてのクルド人の 民族的覚醒にも寄与すべく、クルディスタンに宗教教育と科学教育とを両立させる新たな教育機関を設 立したいと願うのがヌルスィーなのだった(新井[2013:150,151])。 共和国が設立してからは「トルコ」を名乗る共和制、カリフ制の廃止と彼にとっては二重に失望させ られることとなった。 「クルドの大義」か「イスラムの大義」かは不明であるが、東南部アナトリアのク ルド系の人々が蜂起した。それに対し、アンカラ政府は、急速な世俗化政策とクルドに対する同化政策 とを同時並行に進めていくこととなる(新井[2013:152])。 ヌルスィーは流刑となり、厳しい監視の下で軟禁生活、ひたすら執筆活動に専心した。そして『光の 書 14』とよばれるクルアーンの解釈書を執筆した。彼はその後も逮捕、収監ののち、流刑となった。『光 の書』は支持者たちによって広まり、『光の書』(リサーレ・イ・ヌル)から信奉者たちは「ヌルジュ」 と呼ばれるようになる(新井[2013:153])。1956 年に『光の書』が法に接触しないと司法判断が下される と、アラビヤ語で書かれていた『光の書』はローマ字に転写のうえ出版、より多くの支持者を掘り起こ すこととなる(新井[2013:154])。ヌルスィーの死後も、ヌルジュは彼の意志を受け継ぎ活動を続けていく。 1960 年、民主党政権の「イスラムの復活」に反発した軍は 60 年クーデタで政権を倒した。給与生活 者、知識階層の多い都市部では歓喜の声によって迎えられたが、民主党 10 年の間に開発が進められ、収 入の増えた農村部は沈黙を守っていた。この農民の沈黙は、自由主義的色彩の濃い新憲法の採択に関す る 61 年 7 月の国民投票において 38.3%の反対票として現れた(新井[2013:158])。そして、60 年クーデタ で要人の裁判が行われ、メンデレス15のほか、元外相と元財務相とに死刑の判決、実行された。翌月の民 政移管のための選挙では、共和人民党は第一党となるが過半数はとれず、クーデタ後に逮捕された旧民 主党議員の復活を掲げた公正党が第二党になった。クーデタの指揮官だった元陸軍司令官ギョルセルを 大統領に、イノニュを首相とし、第二共和政の時代がはじまった(新井[2013:158])。しかし、民主党政権 誕生以前の国家主導による計画経済に傾きがちなイノニュに対し、公正党は自由経済を求めた。二つの 14 15 本書簡集は 20 冊であり、合計で 6 千ページとなっている。今までトルコで一番よく読まれてきた本の一つである。 アドナン・メンデレス、1899 年~1961 年。トルコの政治家。1950 年~1960 年の間、第 19~23 代首相を務める。 9 党は当然意見が合わず、62 年には連立政権が崩壊した(新井[2013:159])。65 年総選挙では公正党が第一 党、単独過半数を獲得し政権を握ることとなる。 1970 年にイスタンブル大学文学部歴史科教授のイブラヒム・カフェスオール16を中心に、同学科なら びにトルコ語トルコ文学科の教員たちによって「知識人の炉辺」がつくられた(新井[2013:171])。彼らは 共和国の世俗主義を肯定し、ただその「正しい」解釈を示そうとした。宗教の重要性を説きつつトルコ 民族としての誇りを強調しようとした。ズィヤー・ギョカルプが、トルコ民族の自覚を持ったムスリム としての西洋文明に対する主体的な参入の主張が、彼らにも影響を及ぼしている(新井[2013:174])。こう して「トルコ・イスラム総合論」が生れた。 1970 年代の政治経済は混乱していた。ギリシャとのキプロス戦争が勃発し、キプロス出兵による軍事 費が嵩み、また NATO 加盟国内の対立深刻化を嫌うアメリカからの非難を受け、トルコ経済は危機に陥 っていた。また経済だけでなく、政権も不安定であった。当時は失業者の増加、労働運動、学生運動、 左右両派による政治テロの急増、クルド人運動、クルド労働者党(PKK)の結成など様々なことが重な り社会は混乱をきわめていった。こうした混乱の中で、 「民主主義者」行動党が「共産主義者」、 「異民族」、 「異宗派」を標的に武装闘争をエスカレートさせていったのとは対照的に、エルバカン17の国民救済党は 建国の父アタトゥルクに対する「攻撃」の姿勢を、しだいに露わにしていった(新井[2013:176])。 「共和国の世俗主義により、イスラムを重視しようと思う人々は、まず現状を憂い、カリフを戴いた オスマン時代を懐かしむという心性を共有するようになっていた。否応なく、彼らは後ろを向いたので ある。だがヌルスィーとその追随者たちに顕著なように、彼らは同時に現代の科学技術を否定するつも りはまったくなく、むしろその最先端を吸収、利用しようと考えていた。(中略)世俗主義という、極端な 政策が緩和されれば、あるいはその解釈の仕方に変化が起これば、イスラム世界の中では依然として先 頭を走っているトルコ共和国の国民として、彼らは誇りをもって生きてゆけると思っていたはずなので ある(新井[2013:176])。」 エルバカンによるアタトゥルク批判が行われる中、政治・経済・社会などあらゆる分野の混乱を収拾 するべく、80 年 9 月 12 日に軍は 80 年クーデタをおこした。 クーデタ後、将軍たちの期待とは裏腹に、トゥルグット・オザル18率いる母国党が選挙に勝利した。彼 はクルド系であり、イスタンブル工科大学卒業後、政府の電源開発部に勤務したのち、アメリカに留学 し、トルコの経済政策の中枢に関わる国家計画機構でキャリアを積んでいた(新井[2013:181])。そして彼 はイスラーム派でもあった。ナクシュバンディーというトルコでもっとも大きな影響力をもつ神秘主義 教団に入っていた。教団は、人々の信心の結節点であると同時に情報交換の場でもあったので、中小資 本のビジネスマンたちにとって商談の場でもあった(新井[2013:183])。そしてしだいに高学歴の実業家の 間にも根を張り、利益を寄進、教団にも党にも財政的な基盤となっていった。 このころ世俗主義の新解釈が行われていた。世俗主義が宗教否定に短絡することを批判し、将来へ向 けたイスラームと社会との構想がなされた。それは新たに策定された憲法にも反映され、信仰と信教の 自由が明記され、宗教教育が義務化された。「この時代は 60 年間抑圧されてきたイスラム派、あるいは 国民の宗教心が、徐々に台頭する時代と見ることができるかもしれない(新井[2013:190])。」イスラーム 派はオザルの改革政治の波にのって、経済的にも力をつけていた。 16 17 18 1914 年~1984 年。 ネジメッティン・エルバカン、1926 年~2011 年。トルコの政治家。1996~1997 年の間、第 54 代首相を務めた。 1927 年~1993 年。1983 年~1989 年には第 45,46 代首相となり、1989 年~1993 年には第 8 代大統領に就く。 10 そしてヒズメット運動と呼ばれるイスラーム運動が大きく成長するのもこの時代である。ヒズメット 運動はフェトフッラー・ギュレンを精神的指導者とするイスラーム運動である。 オザルの改革政治は経済を活性化する一方、 「発展」に取り残された人々に対する対策は用意しておら ず、貧富の差は拡大、顕在化した(新井[2013:209])。そこへ貧者への救済策を用意したのがイスラーム政 党であった。エルバカンが 80 年クーデタで逮捕されたのち、国民救済党は繁栄党として再生していた。 そして大衆政党へ成長し、エルバカン本人も露骨なアタトゥルク批判を控えていた。オザルの急死後、 95 年末の選挙で、繁栄党が第一党となった。96 年、第三党と連立を組むことで、デミレル19が大統領と なり、イスラーム政党の指導者エルバカンが、第一党党首として首相になった。 「イスラム政党と、軍部 をはじめとする世俗派との、新たな抗争のはじまりでもあった(新井[2013:211])。」エルバカンは自らを アタトゥルク主義者であることを公言し、繁栄党が信教の自由を保障するという意味において、もっと も正しい世俗主義の擁護者であると宣言した。しかし、この宣言に対して、 「支持していた人たちは大き な失望と批判を買い、他方、世俗派からはあいかわらず疑惑の目をもって迎えられる転換であった (新井 [2013:212])。」96 年 2 月 28 日に、国家保安協議の月例会議が開かれた。世俗主義の遵守、宗教の国家管 理、神秘主義教団の禁止をあらためて強調し、反動主義者を国家のあらゆる法的・行政的手段で防ぐこ と、アタトゥルクに敵対する行為を断固取り締まることなどを決議した(新井[2013:213])。軍部は報道、 大学をはじめとするさまざまな方面に対して「反動分子」追放のキャンペーンを行い、繁栄党閉鎖へ向 けた「証拠資料」の作成も急がせた。こうした動きに促されるように、繁栄党と連立を組んでいた第三 党からは離党者があいつぎ、その結果、政権は六月末に崩壊した(新井[2013:213])。5 月には「世俗主義 原則に反する」繁栄党の解党を求める訴訟が起こされ、98 年 1 月には憲法裁判所によってその閉鎖が決 定された(新井[2013:213,214])。 繁栄党の閉鎖が決まり、エルバカンも政治活動を 5 年間禁止されていたが、すでに彼は党の閉鎖を予 期して、非党員である支持者に美徳党を設立させていた(新井[2013:217])。繁栄党閉鎖後には、同党所属 の議員たちが美徳党へ入党したから、両党の継続性は誰がみても明らかであった(新井[2013:217])。翌年 4 月に行われた総選挙では美徳党の得票率は 15.4 パーセントに留まり、第三党であった。この結果を受 け、党内では若返りを中心とする党の刷新を求める若手幹部の突き上げが激化した。その若手を代表す るのが、イスタンブル市長として手腕を発揮し、同時にイスラーム派らしい言動で世俗派を刺戟して逮 捕されたエルドアン 20 、および繁栄党時代に議員となっていたアブドゥッラ―・ギュル 21 だった(新井 [2013:218])。一方、世俗派は美徳党閉鎖に向けて口実を探していた。そして、99 年総選挙で当選した女 性議員がスカーフをしたまま議場に現れ、宣誓しようとしたことなどを理由に、2001 年 6 月、ついにこ れを非合法化した(新井[2013:218])。これを機に、イスラーム政党は分裂し、古参議員が七月に幸福党を 設立すると、若手は翌 8 月に公正発展党を組織した。党首にはレジェップ・タイイプ・エルドアンが就 任した(新井[2013:218])。 99 年総選挙で首相の座に就いたエジェヴィットが、政権担当能力を疑われるような感情的行動を取っ たことをきっかけとして、株式市場が暴落、政治の混乱もこれに続いていた(新井[2013:218])。その結果、 スレイマン・デミレル、1924~2015 年。1965 年~1993 年の期間に、第 30,31,32,39,41,43,49 代首相となる。1993 年~2000 年には第 9 代大統領を務める。 20 レジェップ・タイイプ・エルドアン、1954 年~。2003 年~2014 年の間、第 59~61 代首相を務め、2014 年~は第 12 代 大統領に就いている。 21 1950 年~。2002 年~2003 年に第 58 代首相に就き、2007 年~2014 年には第 11 代大統領に就いた。 19 11 2002 年 11 月に一年半も前倒しで行われた総選挙で、公正発展党が 34 パーセントを超える得票率によっ て圧倒的勝利を博し、単独で政権を担当するにいたった。公正発展党は、 「イスラーム体制」をめざす政 党ではないことを宣言し、自らを「保守的民主主義者」と規定した(新井[2013:218])。続く 2007 年、2011 年の各総選挙でもその地位を維持して、イスラーム派初の単独政権として二千年代のトルコの舵取りを 担う政権政党へと躍進した(新井[2013:225])。 第 2 節 フェトフッラー・ギュレン22 彼は 1941 年に東部アナトリアのエルズルム県のある村に、イマームの子としてうまれた。10 歳の時 には、クルアーンのすべての章を暗唱していた。エルズルム県はオスマン帝国が国境を接したロシア・ アルメニアとの地域紛争の舞台であり、独立戦争の激戦地の一つであったため、ムスリム社会とムスリ ムを守るためには国家の存在が必要不可欠であるとする国家主義的なナショナリズムも色濃く存在して おり、彼はトルコ・イスラム総合論を自然と受け入れていくこととなる(新井【2013:193】)。ギュレンは 各地のナクシュバンディー教団員を訪れた。また、青年層に『光の書』を広めていこうとしたヌルジュ の有力なひとりでもある。1960 年代の末、説教師を務める傍ら、カフェなどで人々への説法を行ってい た。そして学習所を開き、大学生向けに寄宿制の学生寮を運営する財団の設立、 「灯台」と名付けたサマ ーキャンプの開催を行っていた。1971 年に軍部によって逮捕され、7 か月間拘置されている。また、86 年に再度逮捕されている。これらの逮捕歴から活動の重心をメディアにおける言論活動へと移すことと なる。 ギュレンはヌルジュの一人であるとされているが、決して自らを「ヌルジュの一派」とは規定してい ない。それはヌルジュのもつクルド性にあると言われている。70 年代には PKK が結成されるなどクル ド人に対し、トルコ政府は敏感になっていた。したがって、ギュレンは自らをクルド性をもつヌルジュ とは規定しなかったと言われている。また彼は、政権を争う特定の政党を支持し、その見返りに勢力を 広げるという構図はもはや成り立たないことは明らかであるとし、政治とも距離を置く姿勢を貫いてい る。政教分離については、ギュレンは宗教の政治化によって、政治ではなく、宗教そのものが貶められ る懸念があるゆえにそれに反対していると記述23があり、宗教をこそ最上の価値とするがゆえに、宗教が 政治へ関与することが有害との考えを表明している(新井[2013:198])。 第 3 節 ヒズメット運動の広がり ヒズメット運動とは、フェトフッラー・ギュレンを精神的指導者としたイスラームを基盤とする市民 運動であり、ギュレン運動とも称される。ギュレンの教えに啓発された人々が平和的共生と文明間の協 力を目的とし、教育活動・対話活動・メディア活動の 3 つの活動を軸に展開している。対話と寛容を強 調する穏健な運動で、政治活動とは一線を画している。支持者たちは、教育機関、出版、雑誌、新聞、 テレビ、ラジオ、医療機関、金融機関などで幅広く活躍している(竹下[2012:54])。 22 23 トルコ語表記は「Fethullah Gülen」。フェトゥッラー・ギュレンと記されることもある。 新井[2013:198] 12 第 2 章 ヒズメット運動と政治との軋轢 第 1 節 ヒズメット運動が唱える「宗教と政治の関わり」 新井政美は『イスラムと近代化』の中で、ヒズメット運動と政治の関わりについて以下のように述べ ている。 「(ギュレンは)法で禁じられた宗教の政治利用について、その禁止に同意する考えを表明している。し かし、その理由は、それらの法を作った世俗派の権力とは大きく異なっていた。彼は、コーラン解釈の 観点から、宗教の政治化に反対するのである。 『コーランの価値枠組みの範疇においては、個人や社会等の相互関係を規定する政治や行政の意義は 二次元的なものと考えられる。(中略)無尽蔵の知恵の源泉であるコーランは、政治的言説レベルにおろす べきではないし、政治理論や国家形態等に関する書物とみられるべきでもない。聖典を政治の道具とみ なすような不敬は、人々が神々の深い恩寵に浴するのを妨げる(ギュレン 1、455-456 頁)』(中略) ギュレンは、宗教の政治化によって、政治ではなく、宗教そのものが貶められる懸念があるゆえにそ れに反対しているのである。(中略)こうしたギュレンのスタンスは、少なくとも言説上においては、イス ラムの重要性を述べながらも自らを「反動」の地位に押し込めることの多かった、アタトゥルク没後の 共和国におけるイスラム派や、ましてや半ば公然たるアタトゥルク批判をも厭わなかったエルバカンの イスラム主義とは異なっている。ギュレンはそうした先達たちを飛び越えて、イスラムを前提にその枠 組み内での改革を志向した青年トルコ人や、イスラム主義が「後ろ向き」の反世俗主義を意味しなかっ た時代のヌルスィーの立場に、より近いと言うことができるかもしれない(新井[2013:197~199])。」 「1970 年、80 年代の逮捕・拘留事件を通じて政治権力との関係を「学習」し、政治には直接的には関 与しない形で地歩を固めつつあったギュレンの社会的地位を、根本的に覆す出来事が 90 年代末に起きた。 99 年 6 月、ギュレンが「国家機関や官僚機構に信奉者を浸透させ、国家体制の変容を策す」という趣旨 の講演を行ったとするねつ造テープがテレビ放映されたのである。これを機に、ギュレンに対するネガ ティブキャンペーンが嵐のように吹き荒れた。(中略)すでに軍部の不満が増していることを察し、一市民 として幾人かの政治家に警告していたが真摯に対応されなかったと述べるギュレンは、結局 2 年後の 1999 年、病気療養で訪れていたアメリカにそのまま留まって、事実上、亡命という事態に追いやられた。 (中略)エルドアンやギュルをはじめとする政治家や、官僚、ジャーナリスト、研究者等さまざまな人々が ギュレンを訪れる姿が目撃された(新井[2013:219~221])。」 「ギュレン及びその運動は政治に関しては距離を置く姿勢をとっている。しかし、その運動が社会的 に無視できないほどに拡張し、それに比例して重要性も増してくると、その目的や構想を外部に向けて 説明すべきだという社会的な圧力も増してきた。2009 年 6 月、アメリカの有力なシンクタンクの招きに 応じて、在米のギュレン研究所幹部の一人がギュレン運動に関する講演を行なった。(中略)「非民主的な 13 政治介入や汚職、権力の濫用などがない民主的社会」の実現という、ギュレン運動と同じ目的をめざす 政党があれば、これを支持する可能性もあるが、(中略)ギュレン運動は特定の政党を支持するのではなく、 すべての政党と等距離を維持することが基本原則であると説明するのである。そして、この原則が守ら れている限りにおいて、ギュレン運動の価値観を認め、それに近い価値観をもつ政治家が運動に接近す る場合も拒否する考えはないと述べるのである。ただし、ギュレン運動内部で役職についている人物が 政治的な地位を求めることは危険であり、奨励されないとも述べている。(中略)講演者によれば、ギュレ ンの思想には誰もが共有できるものがあり、したがって潜在的にはすべてのトルコ国民を運動の一員と みなしうるのである。(中略)たしかにギュレン運動には明確なメンバーシップが存在せず、ギュレンの思 想や運動の価値を共有する人は誰も除外しないという考えは成り立つのである(新井[2013:221~222])。」 ヒズメット運動自身は政治とは一線を画していると主張しているが、政治へ影響を与えていることは 確かである。またヒズメット運動は自ら「積極的に」運動に関わることはしないとは明言をしているが、 政治と関わりを持つこと自体には曖昧な表現で濁していることが分かる。 第 2 節 ヒズメット運動と公正発展党 公正発展党は 2002 年総選挙で第一党となり、続く 2007 年、2011 年の各総選挙でもその地位を維持し て、イスラーム派初の単独政権として 2000 年代のトルコの舵取りを担う政権政党へと躍進した(新井 [2013:225])。また、この 2000 年代は、ギュレン系の学校で教育をうけた敬虔な人材が社会で重要な地位 に就くようになった時期でもある(新井[2013:204])。 公正発展党政権の第一期の課題は、2001 年に勃発した経済危機によってダメージを受けた経済の再建、 安定化であった。前政権が実施していた IMF 主導のインフレ抑制策を引き継ぐとともに、銀行の淘汰・ 再編および物価安定策等の金融改革によってインフレ率を抑制し、また国営企業のさらなる民営化、社 会保障制度の改革等の財政改革を実施した。経済を回復軌道に乗せることには成功し、こうした背景に、 2007 年総選挙では 46.7%の得票率で圧勝した(新井[2013:225])。経済の安定化という課題をクリアした 公正発展党は第二期に入り、共和国の長年の政治的・社会的懸案にとりくんでいくことになる(新井 [2013:226])。 「はじめに、大学構内における学生のスカーフ着用の禁止を撤廃する憲法改正案に着手した。 2008 年 2 月に、大学におけるスカーフ禁止撤廃に向けた憲法第 10 条および 42 条の改正案を国会に提出、 賛成多数で可決した。しかし、即座に野党の共和人民党と民主左派党とが無効を求めて憲法裁判所に提 訴、裁判所は憲法における改正不可および改正の提案不可条項に抵触するとして同年 6 月、改正案を無 効と宣告した。しかし、スカーフ解禁をめぐる試みも、2008 年の無効判決によって潰えたわけではなか った。2010 年に、スカーフを被ったギュル大統領夫人が公人として初めて大統領府主催の公式式典に出 席し、それを、臨席していた軍が黙認したことや、82 年憲法によって設置された高等教育機構(YÖK)の オズジャン長官が、大学におけるスカーフ着用の容認発言をするなど、公的領域におけるイスラーム的 表現の可視化を容認する雰囲気が徐々に広がっていった。こうした 2000 年代の変化を政策の形で示した のが、 「世俗主義を、民主主義の保障と社会的平和の基本原則として尊重」すると述べて結党した公正発 展党であり、そして教育事業やさまざまな社会活動を通じてそうした変化の媒体となったのが、ギュレ ン運動であったと言うことは可能だろうと思われる(新井[2013:227,228])。」 ヒズメット運動が広がるにつれ、ギュレン本人の言論活動は政治に影響を与えるようになってきた。 14 また、市民社会運動の立場から政治に影響を与える可能性を持つ、注目すべき活動として新井政美は「ア バント・プラットフォーム」を挙げる。 94 年に設立され、実質的にギュレン運動の広報活動を担う「ジャーナリスト・作家財団」と、この団 体が主催する、開催地の名を冠した「アバント・プラットフォーム」と呼ばれる会議とがそれである。 この会議は、イスタンブルとアンカラとの中間地点にあるボル県のアバントに、トルコ国内外の著名な ジャーナリストや研究者を集めて 98 年にはじめられた。そこでは、世俗主義や民主化、新憲法草案など、 トルコのきわめて重要かつデリケートな問題が話し合われ、会議終了後に公表される報告書の内容だけ ではなく、こうした会議が開催されること自体によっても、世俗派の神経を逆なでしてきた。じっさい に公正発展党の関係者もこの会議には参加しており、その後の同政党の政策動向に照らしても、アバン ト会議での議論が政治に一定の思想的影響を及ぼしていることは、ほぼ疑いがない。そして、ギュレン 自身が政治的関与を否定したとはいえ、政治・社会への影響力を有することが明らかでありながら、ギ ュレンもギュレン運動も、対外的な説明責任を果たさないまま不透明であり続けたから、彼らに対して はつねに疑惑と批判との目が向けられていることにも、また疑問の余地がない(新井[2013:207])。 また、「アバント・プラットフォーム」は 2000 年に入り、美徳党からの参加者が増加したことでも知 られている(中田[2001:26])。 2000 年代のギュレン運動は、「保護の見返りに支援」という関係にあると考えられる公正発展党政権 と、あたかも一体であるかに見られることが多い(新井[2013:234])。しかし、ギュレン運動が選挙におい て必ずしも公正発展党だけを支持したわけではないと思われる上、とくに 2009 年以降は、両者間の「連 携」に亀裂が入りはじめ、その亀裂が徐々に拡大していると報じられてもいる。トルコ国内における権 力掌握と維持とを優先し、自身の権力基盤を危険に冒してまで「イスラーム」を優先する気のない政治 家エルドアンと、 「イスラーム」を最重要視し、その活動をトルコ国外にも広げようとする知識人のギュ レンとの間にズレが生じるのは当然であろう。おそらく当初から、彼らはその目的も世界観も違ったは ずである(新井[2013:234~235])。 第 3 節 公正発展党との亀裂24 2013 年 10 月、ナビ・アヴジュ国民教育大臣は 2014 年 1 月 1 日から予備校開設への認可が下されな くなることを明らかにした。アヴジュ大臣がテレビ番組で明らかにした情報によると 2014‐2015 年度 から国民教育省のシステム内で「予備校」という名前の組織は無くなる。予備校は 6 月まで授業を行え るが、認可は 2014 年 1 月より更新されなくなる。私立学校になることを認められた予備校は、3 年の猶 予が与えられる。組織は「教育相談」の名目で、国民教育省に属することなく、商業的目的を持って運 営を行うことができると指摘した(『Radikal 紙』2013.10.8)。 フェトフッラー・ギュレン師は私塾に関する規制について強い反発を示した(『Milliyet 紙』2013.11.16)。 東京外国語大学による HP「日本語で読む中東メディア」プロジェクト ( http://www.el.tufs.ac.jp/tufsmedia/common/prmeis/fs/ )より関連記事を抜粋し、まとめた。日本語訳も上記 HP を参照 している。最終閲覧日 2016/1/20 24 15 この私塾閉鎖問題には権力闘争が繰り広げられているとの見解がある。 『Radikal 紙』の cuneyt ozdemir 記者は以下のようなコラムを載せている。 「閉じられた扉の後ろで権力闘争が繰り広げられている。挑発 や懲罰が様々なかたちで起きている。(中略)過去、もともと普通の条件においても互いに気に入らない 2 つの勢力が、同じ理想のために団結した。(中略)この 2 つの勢力、1 つは政党、もう 1 つは政党ほどよく 組織されているが政党を作ることを考えたことがないギュレン教団が、共に活動することに決定した。 選挙の結果、国の様々なポストにメンバーを置いた。法規を変えて自分たちの理想にあるトルコを作る ために始動した。最初の目標は、軍の「後見人」からの排除、トルコの EU 加盟、より民主的な憲法の 保持、法律において自分たちに従わせること、官僚の寡頭政治をなくすことだった。(中略)しかししばら くして、この力の共有で問題が出始めた。この問題の最も重要な原因は公正発展党と「教団」の目標ま たは世界観の矛盾から来ている。(中略)その日(2 月 7 日の国家情報機関の危機)までは「連合」は見解の 違いがあっても一つの形で存続していたが、国家情報機関の事務次官が説明のために召喚されたことを 公正発展党は、教団から公正発展党への、そしてさらにエルドアン首相のコトバによると、個人的に「彼 自身」への脅迫として認識した。すぐに行動が起こされなかったとはいえ、別離は広まった。(中略)公正 発展党は徐々に教団を国の中からつまみ出すことに取り掛かった。警察機関の中で危機に関わった人た ちが解雇された。司法には触れられず、各機関に誰が所属しているのか、一人一人確認が行われた。そ して最後に到達した場所がデルスハーネ25だった。疑いなく教団が教育に関して世界規模で成功を収めて いるとすれば、それは少なからずデルスハーネにおける成功のおかげだ。政府が現在すべてのシステム を変更し、デルスハーネを閉鎖することを議題にする中、教団がこれほどまでに声を上げていることも、 これに結び付けることができる。(中略)公正発展党―教団間の関係をみるときに、時々危機的状況の進展 について、世論が非常に遅れて情報を得ていることを我々は知っている。つまり両者とも全く別のこと で争っているのに、外から見るとあなたたちが全く違うことを話しているのが分かる。現在、双方の間 にある矛盾による危機がすぐそこまで迫っている状況にあることが分かる。」実際にこの私塾閉鎖問題を 契機に、公正発展党とヒズメット運動の間で様々な軋轢が露呈していく。 ヒズメット運動のメディア活動を担っている新聞社、ザマン紙では私塾閉鎖問題に対して、以下のよ うに批判している(『Zaman 紙』2013.11.21)。 「政府がデルスハーネに関する是正のために依拠する理由には説得力がないことは明らかだ。(中略) 歴史上、現代ほど国家による教育への圧迫を受け酷い目に合った時代はない。(中略)大学教育は必須であ る。一般に、トルコの教育水準が高くないことは周知の事実である。カリキュラムは基本的に、学生に 社会への準備をさせ、豊かな人格を育み、高いモラル・道徳を備えるようにはなっていない。学校の授 業だけでは大学入試を突破するのは不可能である。学生は、追加の補習を受けるなど、更なる努力が必 要である。この点で、デルスハーネは補習や、模試を提供してくれる。高所得者だけでなく、中所得・ 低所得層がデルスハーネに関心を寄せているならば、その理由は以上の通りである。つまり、受験を成 功させているのは、「学校」ではなく「デルスハーネ」なのである。(中略)この問題は、トルコ東・南東 部とも密接に関わってくる。クルド・アラブ系子弟は、他のトルコの子弟よりも二重の困難を背負って いる。上記の困難に加え、母語がトルコ語でないために、学習内容の理解や表現において困難と向き合 うのである。デルスハーネは当該地域の子弟にとって必須なのである。」 2013 年 12 月 2 日、 「デルスハーネ閉鎖」法案の作成は終わりを告げた(『Milliyet 紙』2013.12.2)。法 25 トルコ語表記は「dershane」。私塾を指す。 16 案は以下の通りである。「1 月からデルスハーネの新たな申請は受け付けない。現在のデルスハーネの活 動は、2014 年の 6 月まで継続できる。2013 年の夏に私学に変更できたデルスハーネは、2014~2015 教 育年度に「コレジュ(外国語で授業を行う高校)」として運営を始めることになる。政府はデルスハーネか ら変更となる私学に対しては学生一人あたり 2,500 リラの教育支援を行い、学生を確保するだろう。私 学に変更できないデルスハーネには 4 年が猶予される。こうしたデルスハーネは 4 年間で「通信制の高 校」として運営を始めなければならず、登録した学生に 20 時間は教室で、20 時間は教室以外で授業を 行う。また、変更を望まないデルスハーネは国民教育省が買い取る。無料の市民教育センターに変更さ れ、ここで学校の補習が行われる。デルスハーネの講師は、公務員試験を受けずに面接によって国民教 育省のシステムに統合される。(抜粋)」 2013 年 12 月、デルスハーネ私塾閉鎖問題をめぐって公正発展党で続く緊張は、ある衝撃的な離党と ともに新たな段階に移った。タイイプ・エルドアン首相と親しいことで知られる国民的サッカー選手、 ハ-カン・シュキュル、イスタンブル県選出議員が政権政策に対し批判を行い、公正発展党から離党し た(『Hurriyet 紙』2013.12.16)。ハーカン議員は以下のように語った。 「デルスハーネ問題で始まったプ ロセスにおいて呈された意味のない態度は、かなりの数の良心的な人々を傷つけた。以前はいくつかの 決定で、反発が示されるや、それらを再考するという柔軟さを示していたエルドアン首相が、今回の問 題に関しては、あらゆる強硬な説得、叱責、要請に耳を貸さないことに私は理解ができない。(中略)デル スハーネを閉鎖するという弾圧、そこに帰属する者たちが国家の役職から外されるような弾圧、そして わが党幹部によって非道徳であるとのレッテルが貼られ、こうした弾圧に屈している人々も、この国の 国民なのです。」そして、ギュレン師への中傷に関しては以下のように述べた。「この国民と人道のため にのみ尽くしているこの運動の、何百万もの善意の一つとしてのヒズメット運動にそして尊師に対する 敵対的な態度を、そして根拠のない中傷を、そしてすべての侮辱を私が一身に受けます。(中略)師の下を 何回も訪問し、様々な会合に、(トルコ語)オリンピックに加わり、良い時はヒズメット運動に称賛を浴び せた人々が突然黙ってしまったことは、非常に驚くべきことです。」この記事から、公正発展党内部でも 混乱が生じていることが分かる。 2013 年 12 月 17 日、トルコに衝撃的なニュースが流れた。イスタンブル共和国検察により「不正収賄 捜査」と名付けられた強制捜査が開始された。この強制捜査を契機に、事態は日々急展開を見せた。 「ト ルコを揺さぶった 12 日間、ダイジェスト」と題して、『Radikal 紙』は以下のように報じた。(抜粋) 12 月 17 日(火) ムアンメル・ギュレル内相の息子のバルシュ・ギュレル、ザフェル・チャーラヤン経済相の息子のサー リフ・カアン・チャーラヤン、エルドアン・バイラクタル環境都市開発相の息子アブドゥッラー・オウ ズ・バイラクタル、ハルク銀行のスレイマン・アルスラン頭取、実業家のアリ・アーオールとルザ・ゼ ッラーブ(サッラーフ)、ファーティフ区のムスタファ・デミル区長。3つに捜査が同時に行われている ことが判明した。また、情報によると、この捜査を指揮しているのは、かつてエルゲネコン捜査を担当 したゼケリヤ・オズ検事だというものだ。 12 月 18 日(水) 新聞紙上では重要な疑惑が取りざたされた。それによると、ルザ・サッラーフは、4人の閣僚との付き 17 合いを深め、賄賂をつかってブラックマネーの浄化や金(きん)の闇取引のような犯罪を行っていた。 ザフェル・チャーラヤン経済相は、送金の 0.3、0.4%を賄賂として受け取り、サッラーフが官僚機構にじ ゃまされるのをムアンメル・ギュレル内相に渡した賄賂により解決した、というのも噂のひとつだ。EU 担当エゲメン・バウシュ大臣も、サッラーフのために便宜を図り賄賂を受けたったとの噂も流れた。こ の日の最大の話題は(内相の息子である)バルシュ・ギュレルの家での家宅捜査のものとされる映像だ った。そこには、紙幣カウンターや、多数の金庫、金庫からでてきた外貨やトルコリラが映っていた。 もうひとつは、ハルク銀行のアルスラン頭取の家にあった靴の箱からでてきた 450 万ドルだった。12 月 18 日の騒動はこれにとどまらない。この日の深夜、反攻が行われ、強制捜査を指揮していた者を含む5 人の警察支部長が解任された。そして、猛スピードで、次の人事が発表された。捜査には、2人の検事 が追加任命された。この任命と解任により、 「強制捜査が妨害されている」との主張が生まれた。この日 の深夜には、(政府に近いとされる)『サバフ紙』のコラムニスト・ナズル・ウルジャクが、この新聞を 追われた。 12 月 19 日(木) 多くの区の警察署で警官の解任が続き、イスタンブル警察のヒュセイン・チャプクン署長がアンカラに 異動になったことが発表された。チャプクンにかわり、アクサライ県知事のセラミ・アルトゥノクが任 命された。拘束されていた一部の者は、裁判所に出廷した。 12 月 20 日(金) 木曜日に出廷した最初のグループのうち8名が(裁判所決定により)逮捕された。異動は、その他の組 織にも飛び火した。MASAK のファールク・エリエイオール副会長が解任された。 12 月 21 日(土) 閣僚の息子であるバルシュ・ギュレル、サーリフ・カアン・チャーラヤン、実業家ルザ・サッラーフ、 ハルク銀行スレイマン・アスラン頭取が逮捕された。捜査により、合計 26 人が刑務所に送られた。バイ ラクタル都市開発相の息子、実業家アーオール、ファーティフ区長を含む多くの容疑者が釈放された。 「司 法捜査員通達」が変更された。これによると、司法捜査は検事のかわりに、警察署長や県知事が行うこ とになった。これには、法曹界が猛反発し、差し止め訴訟が提訴された。 12 月 22 日(日) 警察署が報道陣をショットアウトした。担当記者に対し、警察内にある「メディアルーム」を空けるよ う、求められている。 12 月 23 日(月) トルコ弁護士連合は「司法捜査員通達」の差し止めのため、行政裁判所に提訴した。イスタンブル諜報 担当局長が、捜査をもらし容疑者に情報提供した疑いで検事による事情聴取に呼ばれた。警察は、局長 の事情聴取を、 「その必要性が明らかでない」として、許可しなかった。この日のうちに、アンカラで密 輸・組織犯罪対策担当局に務める警部正が、車の中で死亡しているのが見つかった。家族によると、自 18 殺はありえないという。 12 月 24 日(火) アブドゥッラー・ギュル大統領は、強制捜査に関し、 「なんらかの不正や過ちがあるのなら、それを覆う ことはできないし、してはいけない」との発表を行った。エルドアン首相は、ギュレン師の発表に言及 し、 「彼のいう「呪い」とは、一体なんだ。誰を呪うのだ。なんなら、誰を呪うのかいってもらいたいも のだ。名前を出せばいい」と述べた。 12 月 25 日(水) 閣僚の辞任が相次いだ。まず、ムアンメル・ギュレル、続いて、ザフェル・チャーラヤンが辞任した。 続いて、エルドアン・バイラクタル。バイラクタルは NTV の番組で、首相も辞任すべきだといった。こ の日のうちに、TMK ムアンメル・アッカシュ検事による大捜査の第二陣が行われることが判明した。逮 捕者リストは 41 人にのぼり、エルドアン首相の息子のビラル・エルドアンも事情聴取に呼ばれることが 明らかになった。しかし、警官は、この逮捕の命令に従わなかった。アッカシュ検事は、ヒュセイン・ アヴニ・ムトゥル・イスタンブル県知事、サラミ・アルトゥノク・イスタンブル警察署長、捜査部隊に 対し、捜査を開始した。 12 月 26 日(木) ムアンメル・アッカシュ検事が担当から外された。夕刻、 「捜査の実施を妨害された」との発表を行った。 その直後に、トゥラン・チョラックカドゥ主席検事が、アッカシュ検事を批判し攻撃する発表を行った。 その後、裁判官・検察官高等委員会(HSYK)が、 「多数決により」厳しい政府批判の発表を行い、 「司法捜 査員通達」を憲法違反だと主張した。エルドアン首相は、パキスタン外遊からの帰路、飛行機のなかで 記者らに対し、第二陣捜査で、息子を介して自分が標的にされていると主張した。 12 月 27 日(金) 身元不明な人物が、警察の財務担当局のコンピュータに侵入したとの発表が行われた。捜査がはじまっ た。ムアンメル・アッカシュ検事が 2 年にわたって担当してきた収賄・賄賂捜査は、共和国検事である イドリス・クルトゥ、イルファン・フィダン、フズリ・アイドードゥ、イスマイル・ウチャルに引き継 がれた。行政裁判所第 10 法廷は、司法危機の原因となっていた「司法捜査員通達」の施行を停止した。 タクスィム対話組織の呼びかけで、不正疑惑への抗議のためにタクスィム広場で行われたデモに対し警 察が介入し、多くのけが人や逮捕者がでた。 12 月 28 日(土) イスタンブル警察で、また異動があった。広報渉外担当局のズルキュフ・アトゥルガン支局長が解任さ れた。アトゥルガンは、局長付きになる一方、その職には、セイラン・デミル特別警護担当局長が抜擢 された。 イスタンブルとアンカラで警察が行った収賄捜査は、ソーシャルメディアに衝撃を与えた。SNS 上で 19 は、捜査の理由は政府と教団の間の緊張であるという見解がなされている。しかし、フェトフッラー・ ギュレン教団の幹部の一人ヒュセイン・ギュレルジュ氏は捜査に教団が関係しているという主張を否定 し、 「ヒズメット運動に目を向けさせ、本来のターゲットから目をそらさせようとする意図がある」とツ イッタ―で発言をした(『Milliyet 紙』2013.12.17)。 新聞関係者や市民団体代表と会見したエルドアン首相は、この一連の「12 月 17 日捜査」、ギュレン教 団との対立や(軍関係者の)再審問題について、語った。会合に参加したフィクレト・ビラ氏はコラムを掲 載した(『Milliyet 紙』2014.1.5)。「エルドアン首相と政府関係者は、このプロセスを、国内外の諸勢力 が協力して行ったひとつのクーデタ計画だとしている。 「間違いを行った者がいるなら、それは司法プロ セスで明らかになる」と述べる一方で、このプロセスが単に不正捜査ではなく、異なる目的をもってい ると強調した。(抜粋)」また、会合の中でエルドアン首相はフェトフッラー・ギュレン師から「和平の求 め」ととれる直筆のサイン入りの手紙を受け取ったと明らかにすると同時に、返事に窮すと述べた (『Milliyet 紙』2014.1.5)。 フェトフッラー・ギュレン師がギュル大統領へ宛てた書簡の内容は、同師の発言などを掲載している Herkul.org ウェブサイト上で公開された(『Hurriyet 紙』2014.1.5)。書簡には、教団関係者が誹謗・中 傷の標的とされていることに対して深い悲しみを抱いていると述べられている。また、自身は国の法律 の枠組みで進められる国事に指示を出したり、干渉したり、役人をある部署に送り込んだりすることは 絶対にないと述べ、ヒズメット運動と収賄捜査との関係を否定した。また同サイトには、常々支持者に 対し、 「どうか、今の事件の動きに関わるのはやめよう。信仰を深め、奉仕が続いていくことに注意を払 おう」と発言したと、掲載されている(『Hurriyet 紙』2014.1.5)。 2014 年 1 月 6 日、HSYK(裁判官・検察高等委員会)第 3 法廷が「大規模収賄」捜査を行っていた共和 国主席副検事のゼケリヤ・オズ氏に取調べを行うことを決定し、HSYK 第 1 法廷は急遽オズ検事をバク ルキョイ裁判所に異動させた(『Hurriyet 紙』2014.1.7)。アンカラ警察署では、350 名が異動を命じられ た(『Zaman 紙』2014.1.7)。『Milliyet 紙』のカドレリ・グルセル記者はコラムの中で、これら動きに対 し、以下のように批判している。「深刻な不正と収賄の疑惑が投げ込まれているこの戦闘の場において、 この進行をとめるために、司法の独立性を完全になくし司法を機能停止にしてしまうことさえ考えてい る現政権は、過去において軍に対し彼らを支持してくれた人々に対し、いま、この行動の正当性を説明 し、説得できないでいる。『Milliyet 紙』2014.1.9)。」 2014 年 1 月 10 日、インターネットに対して重要な制限を設ける法案が、トルコ大国民議会(TBMM) に提出された。この法案によると、インターネット・サイトは、ただちに閉鎖されうることになる。さ らに、その権限は司法ではなく、テレコミュニケーションの通信庁長官に与えられる(『Radikal 紙』2014.1. 10)。そして、1 月 13 日の夜、Youtube が、一部のインターネット回線において裁判所の決定により閉鎖 された。このアクセス禁止は翌日の朝方には解除された。動画サイトなどで広まったある動画のために 下された決定であった。それが何であるかは明らかにされていない(『Hurriyet 紙』2014.1.14)。 2014 年1月 30 日には、収賄の担当局員を含む 809 人の警官が配置替えとなった。収賄捜査開始以来、 警官の配置転換はアンカラ、イスタンブル、ガーズィアンテップ、イズミルで続き、トルコ全土で約 6,000 人を上回っている(『Zaman 紙』2014.1.30)。 同年 2 月 3 日、フェトゥッラー・ギュレンの弁護士、ヌルラフ・アルバイラク氏は、エルドアン首相 が行った複数回の演説が、国際条約やトルコ共和国憲法、法律によって保障されている依頼人の人権を 20 侵害したとして、慰謝料 10 万 TL を要求する裁判を開いた(『Radikal 紙』2014.2.3)。イスタンブルで開 かれたトルコ・アラブ知識人フォーラムでは、新聞記者財団(GYV)のムスタファ・イェシル理事長は昨今 の問題に関する一部所見を参加者らと共有した(『Zaman 紙』2014.2.18)。 イェシル理事長は奉仕活動に対して昨今行われた中傷に言及し、この問題でギュレン師が、 「奉仕活動 に個別的な思惑や見返りは存在しえない。コーランとスンナに依拠し、これに倣う事は我々が最も肝要 とするところだ」と強調したことを伝えた。同理事長はギュレン師が、 「コーラン、スンナの枠組みを外 れるだけでなく、法及び人間性を以てしても取り繕えないような言説が断じてあなた方を煽り立てるこ とのないように願います。将来、彼らがこういった言説で恥じるようになろうとも、皆さんは彼らに対 し門戸を永久に閉じてはなりません。絶縁するかのような無慈悲な言葉や発言を口にすることは絶対に 避けなさい。これほど辛辣な文章、言葉、表現を向けられようと、いつ彼らがあなた方の元を頼ること があれば、門戸を閉じてはならないことを肝に銘じなさい」と声明を発したことを伝えた(『Zaman 紙』 2014.2.18)。 2 月 24 日、トルコ中で Youtube にアップされた録音テープが話題となった。このテープには、12 月 17 日の収賄捜査の際の、エルドアン首相と息子の間の会話を録音したものとされている。この録音によ れば、首相が、息子に対し、事業家から賄賂としてもらい 5 か所の屋敷で保管している金銭を家から出 し、金銭を実業家らのところにもっていくよう求めたとされている(『Cumhuriyet 紙』2014.2.25)。 これら混乱の発端と言われる私塾閉鎖問題に関しては、3 月にデルスハーネ法が成立し、2019 年まで に正規学校化されることが決定された。デルスハーネを私立学校に変更する法案が、反対票 22 に対して 226 の賛成票で成立した(『Milliyet 紙』2014.3.2)。 3 月 30 日の統一地方選を控えた 3 月 20 日、Twitter へのアクセスが TIB(テレコミュニケーション通 信庁)により、一連の判決とイスタンブル県共和国主席検事が昨日行った申請に基づき全て阻止された (『Milliyet 紙』2014.3.21)。何千万もの人々が他の SNS からこの判決に反発を示す一方で、法律家たち も集団訴訟を起こす呼びかけを行った。アメリカ及び EU からも強い批判を受けた。国境なき記者団の Delpine Halgand 氏は、「この進展は、トルコが報道の自由から危険な形で遠ざかってしまったことを 証明してしまった」と述べた(『Milliyet 紙』2014.3.21)。27 日には Youtube が閉鎖された。シリアに対 する軍事攻撃の可能性をめぐる安全保障部門の政府高官による会議の模様が同サイトに投稿されたこと による。ここ数週間、ソーシャルメディアにはトルコ政府や与党関係者の行動に関する匿名の投稿が相 次ぎ、その中にはエルドアン首相の汚職関与をほのめかす内容も含まれていた26。 2014 年 3 月 30 日に行われた統一地方選挙はエルドアン率いる公正発展党の勝利に終わった。公正発 展党はトルコ全土で 44 パーセント以上を得票し、イスタンブルとアンカラでは、有力候補を立てて臨ん だライバルに市長の座を奪われることはなかった。 6 月 27 日、イスタンブル広域市当局の警官隊は、シシリ・ブュクデレ通り沿いのドウシュ・ハン地区 にあるギュレン系デルスハーネの看板の撤去作業を行った(『Radikal 紙』2014.6.28)。また、7 月 11 日、 ボル市役所はギュレンに近いとされる幼稚園と予備校、私立高校に属する学校 2 校を無許可で、計画に 反しているとして閉鎖した。ボル市長で公正発展党のアラアディン・ユルマズ氏は無許可の建物を調査 しなければならなかっただけで、教団に対する攻撃ではないと述べた(『Hurriyet 紙』2014.7.12)。この 26 ロイター通信(2014.3.28)より http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/27/turkey_n_5046614.html 21 ような政府からヒズメット運動への圧力ともみられる出来事は続いていた。 2014 年 8 月 10 日の大統領選挙の結果は、エルドアンが 51.79%の票を獲得し、勝利した。 収賄事件があった 12 月 17 日から約一年となる 2014 年 12 月 14 日、トルコでは新しい強制捜査のニ ュースが流れていた。警察は大勢の機動隊を引き連れて、イェニボスナ地区にあるザマン紙の本社に強 制捜査に踏み切った。エクレム・ドゥマンル編集長については逮捕が決定されたことが明らかになった。 サマンヨルテレビで放送されている一部のドラマ制作者らも早朝、逮捕された(『Radikal 紙』2014.12.14)。 この事件に対し、Radikal 紙のムラット・イェトキン記者は「ザマン紙への強制捜査は公正発展党の分 岐点となる」というコラムの中で、報道の自由の侵害だと批判している。 「今回の事件には「報道の自由」もかかわる面もあるし、公正発展党への影響という面もある。ギュ レン派の身に起こったことは、ほかの人へも教訓だ。2015 年には、それぞれの主張にではなく、指導者、 すなわちエルドアンへの従属度が物差しとなるだろう。(中略) 実際、今、ドゥルマン氏は、見る限り、新聞記者としての活動からではなく、アナドル通信社の記事 によれば「アルカイダとのつながりを指摘される過激イスラム主義グループに対し、偽の証拠をねつ造 した罪」で問われようとしている。それゆえ、一部の知識人は、悩みに悩んで、目の前にあることは報 道の自由に対する明らかな侵害であることを見ないことにし、受け入れられなくなってしまった。 しかし事態は深刻だ。報道の自由に対しネガティブな影響を及ぼすいかなる行動も、それが誰による ものであろうと、誰に対するものであろうと、どのような外見でおこなわれようと、間違いであり、反 対しなくてはいけないのだ。 ザマン紙とサマンヨル TV への強制捜査と逮捕劇に反対することは、彼らの思想や信仰、やってきたこ とを肯定することではない。守ろうとしているのは報道の自由だ。(中略) 強制捜査には二つの目的があるように思われる。1 つは、昨年、当時の首相で今は大統領であるタイイ プ・レジェップ・エルドアンを、閣僚たちを、官僚を、党員を、その家族とともに、大きな不正のネッ トワークの目標にした 12 月 17 日~25 日の捜査に対し、人々の目の前で、その仕返し、復讐をするとい う側面だ。 2 つめは、1 周年目にあたり、メディアや世論を、ほかの問題で騒がせ、もっと大きな問題を与えて、 改めて不正疑惑についてあれこれ書きたてることを防ぐこと。(中略) 公正発展党に、その結成以来、大きな貢献をし、支持してきたギュレン教団に対し、その粛清が行わ れた。これは、公正発展党のなかでその存在を維持したい別の「教団」へ、グループへ対する明らかな 警告だ。祈りの言葉と共ににじり寄ってきたギュレン派の身にこれが起こったなら、ほかの人々に何が 起こるかは、明々白々だ。つまり、2015 年の総選挙後に公正発展党の議員でいたいなら、その主義主張 にではなく、指導者、すなわち、エルドアンにどれだけ忠誠か、がその尺度となっていることを示して いる。こうした、分岐点にいるといえるだろう(『Radikal 紙』2014.12.15)。」 ヨーロッパからもこの捜査に対する批判が高まっている。EU と欧州議会から次々に警告が来ている。 欧州議会近隣政策・拡大交渉委員のヨハネス・ハーン氏は、事態を「非合法」であるとした。欧州議会 グループの代表のハームス氏は、 「エルドアンは贈収賄の嫌疑をもみ消すために新聞記者を投獄している」 と述べた(『Zaman 紙』2014.12.16)。一方、エルドアン大統領は「我々は EU の奴隷ではない。我々は、 自分たちの方向性は自分たちで決め、自分たちで道筋を立てる」と切り返した(『Milliyet 紙』2014.12. 18)。 22 12 月 19 日、解放されたエクレム・ドゥマンル総編集長は、ザマン新聞社入口で同僚にカーネーショ ンを贈られ、熱烈に迎え入れられた。ドゥマンル編集長は、 「説明できないようなことは全くない、司法 機関で検察官や裁判官の前で。罪を犯し、この国を裏切った者が、へたり込むのだ。(中略)無実の人々に 対し、思いもよらぬ告発をおこなう、憎悪と嫌悪を抱いて恥ずべき罪を覆い隠そうと行った攻撃を全世 界が見た。しかしまた君たちの英雄的行為も見た。いかに別れ、迎え入れるか、君たちはこれを全世界 に見せたのだ」と話した(『Hurriyet 紙』2014.12.20)。 2015 年 6 月 8 日のトルコ総選挙では、公正発展党の議席は 2002 年の政権獲得以来、初めて過半数を 割った。選挙後の連立協議が不調に終わったことに伴い、同年 11 月 1 日に再選挙が行われた。結果は、 公正発展党が議席の過半数を獲得して圧勝した27(『日本経済新聞』2015.11.3)。エルドアン大統領をはじ め、公正発展党とヒズメット運動の間にはいまだに緊張が続いている。 27 日本経済新聞 HP より( http://www.nikkei.com/article/DGXKZO93579250T01C15A1EA1000/ ) 23 第 3 章 ヒズメット運動における教育活動 ギュレンは、人々を貧困から救うも、狂信派から遠ざけるのも教育であるとし、イスラーム道徳と同 様に、近代的な科学知識を身に着ける教育の必要性を説いている(竹下[2012:53])。1997 年まで約 200 の 高校、約 80 の大学予備コース、7 つの大学を設立した。ヒズメット運動によって開かれた学校は、トル コでは約 300 校、世界では 1,000 校を超えるとされる28。ギュレン系学校で教育をうけた敬虔な人材が 社会で重要な地位に就くようになった時期こそが 2000 年代であり、ヒズメット運動が活発化した時代で もある。そしてグローバル化の時代を迎え、運動はトルコ国外へと広がっている。 第 1 節 ヒズメット運動における教育活動の位置づけ ヒズメット運動における教育活動の位置づけについて、 「ギュレン運動がもっとも力を注いだのは教育 活動である(新井[2013:203])。」とされる。ヒズメット運動において教育活動の役割が大きいことが分か る。 第 2 節 ギュレンの教育観 ギュレンの教育観は以下のようにまとめられる29。 1、「正しい選択は、健全な精神を持ち理に適った思考をする能力があるかにかかっている。科学と知識 は精神を照らし発達させるものだ。ゆえに科学と知識を奪われ正しい判断に到達することのできな い精神は、常に欺瞞にさらされ惑わされがちとなる。」 2、「我々は学び、教え、他者を元気づけることによって初めて、真に人間になるのである。無知で学ぶ 意欲のない者を心から人間であるとみなすことは難しい。他者に模範を示すために自己を刷新し改 めない学識者が、真に人間かというのも疑わしい。知識と科学を通じて獲得した地位と功績は、他 の手段で獲得したものよりも高い価値があり、永続的なものである。」 3、「学び教えることが重要であることを前提に、何を学び、教えられるべきか、そしていつ、いかにそ れをすべきかを決めなくてはならない。知識それ自体に価値があるとはいえ、学ぶことの目的は、 知識を人生の指針とし人として向上する道筋を照らすことである。したがって、いかなる知識も学 習者に相応しくなければ重荷となるし、崇高な目的を目指さない科学は欺瞞となる。」 4、「科学技術は人間の幸福を保障し、我々が真の人間性を獲得することに役立つ限りにおいて有益であ る。もし人類を害するように開発された場合は、我々の道を阻む悪魔となる。」 5、「無知は最も悪い友であり、知識は最も誠実な仲間である。」 このように、真の人間性を獲得するためには、科学と知識が必要である。また、科学と知識は人間に とって常に有益なものとはいえない。重要なのは、それらを扱う人間の倫理性なのである。 また、若者の育成に関する見解は次のようにまとめられる30。 28 29 30 『Hizmet Movement』p50 『Hizmet Movement』p35 より抜粋 『Hizmet Movement』p36~38 より抜粋 24 1、「未来の保証を得たい人は、子供たちの教育に無関心でいることはできない。家族、学校、社会、そ してマスメディアは、望ましい結果を確保するために一致協力すべきである。学校はカリキュラム、 教師の学問的標準および道徳的規範、そして物理的条件の点で可能な限り完璧でなくてはならない。 家族は子どもを養育するために必要な温もりと環境を提供しなくてはならない。」 2、「師について学んだことがなく、正しい教育を受けたことがない教育者たちは、まるで目の不自由な 者が他者の行く道を松明で照らそうとしているかのようだ。」 3、「子供のいたずらや軽率さは彼らが育った環境に起因する。機能不全に陥った家庭が徐々に子どもの 精神に影響を及ぼし、やがては社会にも波及する。」 4、「学校では、よいマナーは他の科目と同様に重要であると考えられるべきである。そうでなくては、 子どもたちが健全な性格に育つだろうか。教育は教えることとは別物である。大抵の人は教師にな れるが、教育者になれる人は限られている。」 5、「我々の人間性はその感情の純度に正比例する。悪い感情に溺れ、魂がエゴイズムに感化されている 人々は人間のように見えても、本当に人間かは疑わしい。」 6、「肉体を鍛えることはほとんど誰にでもできるが、心や感情を鍛錬できる人は稀である。前者の訓練 は強靭な肉体を作るが、後者の鍛錬は気高い人間を生み出す。」 若者の育成に家庭と教育者の関係が深いことが分かる。子どもの精神の形成は育った環境に起因する として、家庭は子どもに必要な温もりと環境を用意するべきである。また、教育者は単なる知識の伝授 ではなく、知識をいかに活用していくかなどの道徳的規範や倫理性を教えなければいけない。 また、以下の記述からギュレンの教育観を読み取ることができるので紹介しておく。 「我々の三大敵は無知、貧困、そして内的分裂である。この三大敵と闘い得るのは、知識、労働‐資本、 そして統合である。無知が最も深刻な問題であるので、我々は教育によって対抗しなくてはならない。 教育は常にわが国に奉仕する最も重要な道筋であり続けた。グローバル村で暮らしている現在、これが 人類に奉仕し他の諸文明との対話を確立するための最善の方法である。しかしながら、何よりもまず、 教育は人格を高めるための奉仕である。我々は教育を通じて学び、完全になるためにここへ送られたか らである。ベディウッザマン(ヌルスィー)は「古い状態では不可能だ。新しい状態か、あるいは絶滅かだ」 と述べ、解決策と未来に注意を促した。また、 「論争の的となっている話題をキリスト教徒の精神的指導 者たちと議論するべきではない」と述べながら、他宗教の信徒たちとの対話を開始した。 「わたしの一方 の足は中心にあり、もう一方の足はコンパスのように 72 の領域にある」と語ったルーミーのように、彼 はすべての一神教信徒を包摂する広大な円を描いた。さらに、暴力の日々が終わったことを暗示しなが ら、 「文明化された人々が収める勝利は、説得を通じてなされる」と述べ、ゆえに、対話、説得、証拠に 基づく会話は、宗教に奉仕しようとする我々のような人々にとって不可欠なのだと指摘している。その 上、 「将来、人類は知識と科学に向かい、論理と言葉が影響力を持つようになる」と述べ、知識と言葉(の 習得)を奨励した。ついには、政治および政治への直接的関与から手を引き、この時代と将来における真 の宗教的奉仕、そして国家への奉仕の基本路線を定めたのである。 このような諸原則を踏まえて、わたしは人々に教育を通じてとりわけ国家に、そして人類全般に奉仕 するように勧めた。学校を開設することで、人々を教育し育成する国家を支援するよう呼びかけたので ある。無知は教育によって、貧困は労働および資本の所持によって、内的分裂と分離主義は結束、対話、 25 そして寛容によって打倒される。しかしながら、人間の生涯におけるあらゆる問題は、結局のところ人 間自身にかかっている。ゆえに教育は、我々の社会・政治制度が麻痺するか、あるいは極めて正確に機 能するかに関わらず、最も有効な手段なのである31。」 ギュレン師が教育を重要視しているのが読み取れる。貧困や内的分裂の問題も、結局はすべて人間自 身にかかっているとし、その人間を育成する教育が最も重要であり、有効な手段であると述べている。 第 3 節 トルコ国内の教育活動 ヒズメット運動の教育活動には 4 つの段階32があると佐々木良昭著『これから 50 年、世界はトルコを 中心に回る』の中で記述されている。まず、第 1 の段階は「家の時期」である。ギュレンの活動の中心 は、彼の教えに賛同した若者たちであり、他の若者たちにギュレンの教えを紹介し、賛同者を増やすこ とが主な役割だった。次に、第 2 の段階「寄宿舎の時代」である。イスラム系寄宿舎の校長をしていた 時代。ギュレンの教えに賛同する学生たちが増えてきたので、学生たちが宿泊する場所として、より大 きな学生寮が必要になってきた。ギュレンはそれを賛同者の寄付によって実現している。次に、第 3 の 段階「学校・塾の時代」である。ギュレンは教育の大切さを訴えた。その教えに賛同する若者たちの中 には、高等教育を受けたいのだが、貧しさのため断念せざるを得ない者がいた。ギュレンはそんな若者 たちのために学生寮や簡易宿泊所の建設を呼び掛け、その願いを実現させた。さらに信奉者を動かして、 低所得者層の子どもたちを中心に大学進学を目指す学生をサポートするコースを用意することに成功す る。今でもギュレンの奉仕に共鳴する人々が奨学金の財源を用意し、毎年何千人という学生がその恩恵 をこうむっている。最後に、第 4 の段階「学校建設の時代」である。80 年代に入ってからは、ギュレン に共感した企業家や教育者によってトルコ国内に 100 を超える優良な私立学校が設立された。中でも評 価が高いのがギュレン系の大学進学塾だ。そこには学生寮が用意され、専任教師の監督下で寮生がとも に生活しながら学ぶという体制が整っている。部屋代や食費が払えない学生たちが対象で、学費や本の 他に生活に必要な金品まで支給される。 以上の 4 つの段階を踏み、教育活動は展開されてきた。1997 年までに約 200 の高校、約 80 の大学予 備コース、7 つの大学を設立してトルコ全土に広がる教育ネットワークを構築している(新井[2013:203])。 また、学校および教育施設の推定数は大きく異なっており、トルコでは約 300 校、世界では 1,000 校を 超えるとされる33。 第 1 項 ファティヒ・コレッジ ヒズメット系の学校や組合団体が実際にどのような教育を行っているのだろうか。各事例から見てい く。 まずは国内にあるヒズメット系の私立学校、ファティヒ・コレッジ(イスタンブル・マルテペ地区)34 を 事例として挙げる。理科(自然科学)系や英語(外国語)教育を重視し、なおかつそれらの高い教育実績を誇 る。教育実績を達成するための取り組みとして 5 つの点が挙げられている。まず 1 つ目に、教員側の能 力向上に対するプログラムを実施している点である。各専門科目に応じて、教員は 2 週間ごとに教育技 31 32 33 34 『TÜRK OKULLARI』p45~49 『これから 50 年、世界はトルコを中心に回る』より抜粋し、まとめた。 『Hizmet Movement』p50 『イスラーム地域研究ジャーナル Vol.6』p23~p25 より抜粋し、まとめた。 26 術向上に関する実践的会議が開催されている。2 つ目に、家庭(両親)を積極的に取り込む点である。学級 担当制を採用しており、担当教員はクラス(12 名)の全科目成績を常時チェックしている。また生徒全員 を対象とした定期的な家庭訪問が行われている。交流行事を設け、保護者を学校に呼ぶ機会を増やす。3 つ目に、イスラームの伝統文化や倫理・道徳教育を重視している点である。4 つ目に、児童・生徒の圧倒 的多数が寮生活を送っている点である。寮生活における学習環境そのものが、児童・生徒とその親たち に高い支持を受けている。寮ではボランティア家庭教師役がいる。理解できない科目は家庭教師にいつ でも相談可能となっている。5 つ目に、奨学金制度が充実している点である。2 割程度の児童・生徒は学 費の全額免除措置を受けている。卒業後も、学費返還の義務は課されていない。しかし、大学生時代に 家庭教師役を積極的に担い、社会に出てからは寄付という形で貢献してくれるか、自らの子どもをヒズ メット校に通学させることになるだろうという戦略がある。 第 2 項 ファーティヒ大学 次に、トルコ国内にあるファーティヒ大学を事例として挙げたい。英語による教育、PC スキルや科学 的知識など、現代社会において必須とみなされる知識の習得に重点が置かれた(新井[2013:204])。敬虔な 教員の熱心な教育姿勢が学生を感化する側面は、つねに指摘されるところだが、必ずしも宗教的知識の 獲得に偏ったプログラムを組まないというプラグマティックな教育方針となっている(新井[2013:204])。 第 3 項 学習塾 ヒズメット運動では学習塾の運営にも力を入れている。ヒズメット系の学習塾はトルコ各地にヒズメ ット系の学習塾が存在する。名称は各地によって異なるため、全体の把握は難しい。優秀な学生を集め る一つの仕組みでもあり、学習塾出身から海外の大学へ留学する学生も多い。ヒズメット運動の教育活 動において重要な教育機関であるが、国内では私立学習塾閉鎖問題が起こっている。2015 年 9 月 1 日に 国内のすべての私立学習塾の閉鎖が命じられた。 しかし、憲法裁判所で学習塾閉鎖法案が否認される。 2015 年 9 月 1 日以降も存続できることが決定された。今後どのような展開になるのかは不明である。 第 4 節 トルコ国外の教育活動 現在、ヒズメット運動の教育活動は国内に留まらず、国外でも展開されている。 ソビエト連邦崩壊後、ギュレン師は以下のような言葉を述べている。 「過去のこれらの国々からアナトリア地方へ、メヴラーナー、ユヌス・エムレ、アフメット・エセビの ような偉大な人物がやって来た。彼らの子孫へ、彼らへの借りを返すために愛情をもって彼らのもとへ 行かなければならない35。」 「トルコ系の共和国への借りを返すために、それらの国々へと行き、学校を開きなさい36。」 この言葉に従うように、中央アジアでの学校建設が始まる。 1990 年 1 月 11 日、トルコの企業家たちの中の教育奉仕者 11 人がキルギスへ訪問、良い印象を抱いた。 1990 年 3 月 28 日には、37 人の教育奉仕者がアゼルバイジャンから始まり、トルコ系共和国へ訪問、彼 35 36 『TÜRK OKULLARI』p31 『TÜRK OKULLARI』p32 27 らも良い印象を抱いた。1991 年 9 月、中央アジアのトルコ系共和国への学校開設への交渉にアゼルバイ ジャンが一番早く反応した。当時、アゼルバイジャンの 100 人以上の学生はトルコ留学のため観光ビザ を取得していた。しかし、観光ビザでは長期間はトルコで学ぶことができない。また、彼らはモスクワ のトルコ大使館まで行き、ビザを取る必要があった。これらの問題に対し、アゼルバイジャンの権威者 は、 「トルコへ学生を連れていけないのであれば、ここへ来て学校を開いてください。」と言った37。これ がトルコの私立学校の開設の始まりであり、アゼルバイジャン北部グダに初の学校が開設された。 国外におけるギュレン系の学校は、九十一年のソ連崩壊を契機とし、まずは中央アジアのトルコ系諸 国やコーカサス、そして旧オスマン領のバルカン諸国、さらにムスリム諸国に限らず 100 ヵ国を超える 国々へと広がった(新井[2013:204])。 国外での教育活動において、学校建設以外の重要なプロジェクトとしてトルコ語オリンピックが挙げ られる。トルコ語オリンピックは世界各国のトルコ語学習者が自身のトルコ語を披露し、競い合う場で ある。審査は、学生の母国語を考慮して分けられたグループごとに行われる。部門としては、スピーチ・ ライティング・文法・歌・詩・声質(母国語での歌唱審査)・音読・文化・プレゼンテーション・特殊能力・ 絵画・民族舞踊・試験部門 1(トルコ国外で学ぶ外国大学の学生対象)・試験部門 2(トルコ国内で学ぶ外国 人学生対象)・自国紹介ブースの 15 部門に分かれる。トルコ語オリンピックの 3 つの目的38として以下の 3 点が掲げられている。 1、コミュニケーションの時代において、異文化間の相互交流や異なる文化を持つ人々の相互理解を強 化すること 2、世界中の様々な地においてトルコ語を学ぶ学生が、国際トルコ語オリンピックによって、トルコを 訪れ、現地でトルコ人と触れ合うこと 3、トルコ語によって出会った学生が帰国してから、文化大使のように国家間の愛と平和と友情の基盤 となること トルコ語オリンピックを通じて、トルコとトルコ語学習者の母国とを繋いでいく次世代を育成するこ とが目的となっている。2014 年度には第 12 回を迎え、約 160 ヵ国から学生が参加した。トルコ国内で も有名な大きな祭典となっている。 第 1 項 サラーフッディーン・インターナショナル校 国外でのヒズメット系の学校の事例として、まずエジプトのカイロにあるサラーフッディーン・イン ターナショナル校を挙げる39。 2009 年に開校したアラブ地域で初めてのヒズメット校である。幼稚園からから中学まで併設されてお り、900 名近い児童・生徒が在学している。学校の創立ち運営に寄付は受け付けておらず、学費面のみ で運営されており裕福な階層の子弟のみが通える学校ではあるが、人気は高い。基本的に教育言語は正 則アラビヤ語である。本校の特徴として、児童・生徒の倫理・道徳教育が挙げられる。宗教行事は強制 しておらず、礼拝空間は設けてあるが、児童・生徒の自主性に任せられている。教員の 8 割がエジプト 人で、残り 2 割がトルコ人である。エジプト人教員にはヒズメットの精神を理解してもらうため、研修 37 38 39 『TÜRK OKULLARI』p33 トルコ文化センターからの提供資料より 『イスラーム地域研究ジャーナル Vol.6』p25~p26 より抜粋し、まとめた。 28 の機会が定期的に設けられている。トルコ本国への研修旅行も実施しており、多くのヒズメット校を見 学し、教育実践の場だけでなく、教育方針全般の理解を深めてもらうようにしている。 第 2 項 カリスマ・バンサ校 次にインドネシアのバンテン州にあるカリスマ・バンサ校を挙げる40。 2006 年に創立されたヒズメット校である。初等教育、前期・後期中等教育段階までで、児童・生徒の 数は 500 名に達している。大半はムスリムで、次いでキリスト教徒が多く、その他仏教徒なども在学し ている。裕福な家庭をターゲットとした学費が設定されている。本校には寮が設備されており、高校生 では 6 割が利用している。教員の 7 割はインドネシア人で、トルコ人教員は 10 名程が勤務している。地 域の文化と宗教的な伝統を守りつつ、西欧的で自由な知識をも対象とした、バランスのとれた教育を目 指している。 第 5 節 教育支援 ヒズメット運動の教育活動には、私立学校や大学のような教育機関の他に、教育支援を行う団体組合 がある。団体組合は一般に、Akademi(Islamic Studies Institute)と呼ばれ、トルコ各地に存在している。 1 つの事例として、アカデミ(イスタンブル・ウスキュダル地区)41が挙げられる。一般の教育を対象とし た私立学校ではない。宗教諸学を扱う高等教育機関、いわば現代版のマドラサである。ギュレンの見解 や著作が掲載される雑誌『Hira ヒラー』の本部事務所があり、ギュレンの著作の校正・校訂や出版活動 を行っている、イスラームの宗教を専門とする高等学術・教育センターである。ギュレンに教えを受け た「五階 beşinci kat」出身の人達によって、インターネットを通じた一般からの質問に回答を行ったり、 成人を対象としてコーラン勉強会なども開催されたりするように、イスラームに関する知識の提供や学 習の場として、広く一般に開かれた場所という側面も併せもっている。 宗教学を専門に学ぶ学生たちが、世界各国からここに集まっており、学習のための環境とともに、住 居や食事が提供され、ギュレンに教えを受けた人たちによる支援を受けている。インターネットが利用 できる環境が整った、コーランやハディース学、法学といった各種の書物が整然と並んだ図書館が存在 する。 「国籍にかかわらず、このアカデミで学んだ、イスラームの伝統的知識とともにヒズメットの精神 (イスラームの価値観に基づいて人々と社会に奉仕すること)をもった宗教的知識人が世界各国に派遣さ れて、さまざまヒズメットの活動に従事する者たちを精神的に支えていく(阿久津[2014:28])。」とされる。 40 41 『イスラーム地域研究ジャーナル Vol.6』p26~p27 より抜粋し、まとめた。 『イスラーム地域研究ジャーナル Vol.6』p28~p29 より抜粋し、まとめた。 29 第 4 章 Akademist Gelişim Derneği 組合 ここでは、Akademist Gelişim Derneği(イスタンブル・メジディエキョイ地区)を事例として挙げたい。 第 1 節 Akademist Gelişim Derneği とは Akademist Gelişim Derneği は女子大学生のための支援を行う組合である。開設されたのは 3 年半 前であり、新しい団体組合である。基本的に管理者は 2 名、食事や掃除など身の回りのサポートするス タッフ 1 名が働いており、小規模な組合団体である。一般に開かれた場所であり、誰でも参加すること が可能である。施設はオープンキッチンがある広間、自習室、礼拝室、休憩室、講義室の 5 部屋で構成 されている。具体的な活動は、学生へ住居の紹介、施設内での食事の提供、インターネットが利用でき る環境、多種多様な講座・教室の運営、課外活動の運営、宗教行事のプログラムの運営など多岐に渡る。 Akademist Gelişim Derneği の活動の詳細をまとめる。 学生が紹介される住居は組合が一括して借りており、地方出身の 5~6 名程の女子学生が集まって住ん でいる。ヒズメット運動の賛同者からの寄付により、学生たちは安い金額で住むことができている。家 では大学院生などの中心的役割を担う者が決まっており、その方の下、共同生活を送っている。食事当 番・掃除当番・門限などルールが決められている。週に 1 回など定期的に勉強会や会議が行われる。彼 女たちは定期的に何名かが他の家に引っ越し、ルームメイトが入れ替わっている。 食事は Akademist Gelişim Derneği の施設内で提供されている。基本的には常に用意されており、好 きな時に食べることができる。お腹がすいた時にご飯が用意されていない場合でも、スタッフに言えば すぐに作ってくれる。自分で作ることも可能である。冷蔵庫の中に入っている食材も自由に飲食可能と なっている。また、施設内ではインターネットが完備されている。これらの支援は、金銭的に余裕のな い学生たちに対する奨学金のようなものである。 施設では、様々な講座が開講されている。クルアーン教室、絵画教室、英語教室、バイオリン教室な ど多岐に渡る。どの教室も短期間で開講され、講師や学生も流動的である。講師は外部から呼ぶことも あれば、学生の中から務めるものもいる。料金は基本的には無料だが、一部は有料となっている。学生 は興味のある講座を自由に選択し、学ぶことができる。教室に通うためにアカデミを訪れ、その後も定 期的にアカデミの活動に参加する学生もいる。また、学生同士が交流する場となっている。 2015 年春開講の教室は以下の通りであった。 ・写真教室 3/28(土)10:00~12:00 開講 期間:6 週間 ・絵画教室 3/16(月)18:00~20:00 開講 期間:5 週間 ・舞台・ドラマ教室 3/14(土) 15:00~18:00 開講 期間:3 か月 ・話し方講座 3/12(木)・13(金) 18:00~20:00 開講 期間:3 週間 ・アラビヤ語教室 3/12(木) 18:00~20:00 開講 期間:3 か月 ・オスマン語教室 3/14(土) 13:00~15:00 開講 期間:3 か月 ・アラビヤ語書道基礎講座 3/16(月) 18:00~20:00 開講 期間:4 か月 大学生への支援を行う組合であるが、次世代である高校生にも接触している。近い将来、大学生にな る高校生へ組合の紹介を行っている。また組合には、高校生へボランティアの家庭教師の役割を担う大 30 学生がいる。彼女たちは約 2~3 名の生徒を受け持っている。勉学やクルアーンを教えたり、共に遊びに 出かけたりするなど生活全般をサポートしている。 Akademist Gelişim Derneği では、課外活動も活発である。ピクニック・ボスポラス海峡クルーズや 地方都市への旅行など、月に約 1 回程度開催される。この活動も誰でも参加可能となっている。多い時 は 100 名程集まることもある。トルコ人だけでなく、留学生も多く参加しており親交を深める場にもな っている。食事をして、歌い踊り、またバレーボールをするなど社交の場となっている。 ギュレン師や著名な学識者の言葉を基にした講演会も定期的に運営している。規模は様々である。メ ジディエキョイ地区だけでなく、より広範な地区を対象に 200 名程の大ホールで行われる講演会もあれ ば、Akademist Gelişim Derneği の施設内で一定期間に毎週開かれる小規模な講演会もある。講演の内 容は難しく、トルコ人でも分からなかったという人も少なくなかった。講演を聞くだけではなく、自身 でより深く学び進める必要がある。 宗教行事の際には必ずプログラムが開催される。2014 年のラマダーンでは、トルコ人学生を対象にし たものと留学生を対象にしたプログラムが運営されていた。 トルコ人向けのプログラムでは、それぞれ別の家に分かれて住んでいた学生たちは寮に一同に会した。 参加人数は 60~70 名ほどであった。皆で揃って、サウムを行い、日中にはクルアーンの勉強会が開かれ る。就寝時間や起床時間が決まっており、時間割に沿って行動する。 外国人留学生向けのプログラムでも同様に、インターネット完備の寮に一同に集まった。対象は母国 のトルコ系学校を卒業した後、大学進学のため語学学校に通う奨学生であったが、いくつか例外はある ようであった。参加人数は 50 名ほどであった。国籍はインドネシア、ボスニアヘルチェゴビナ、モンゴ ル、中国、ナイジェリアなど様々だった。寮ではサフルとイフタールを提供している。共にサウムを行 い、日中はそれぞれ語学学校に通う。3 日に 1 回程度の頻度で、ヒズメット運動に賛同するトルコ人家庭 を訪れ、イフタールを共に行う。これはトルコの一般家庭を訪れ、トルコの文化を学ぶ機会となる。ま た、トルコ人も外国人と触れ合う機会ができ、双方にとって国際交流の役割を果たしている。 以上のような活動の目標は人間性の形成であると考えられる。開講されている講座では、談笑が絶え ず、雰囲気はとても穏やかであった。いずれの講座も短期間の設定となっている。専門的な知識を身に 着けることが目的ではなく、様々な体験を通じて、豊かな人間性を形成することが目的であると考えら れる。講座の他に、野外活動も活発に行われている。そこでは、みんなで協力し合うことによって、物 事が遂行されていく。彼女たちは野外行事に参加することで、周りの人と協力することの大切さを学ぶ ことができる。このように、Akademısit Gelişm Derneği 組合は人間性を形成する場となっていた。 管理者が定期的に女子大学生と個人面談をしている様子も見られた。様々な大学から学年も違う大学 生が集まるが、縦の繋がりと横の繋がりが個人レベルでとても強かった。また個々人の繋がりの強さと 共に、ヒズメット運動の特徴の一つである「緩やかで目に見えないネットワーク42(阿久津[2013:16]) 」 も見られた。 ヒズメット運動では多様な奉仕の形が存在することも特徴の一つである。寄付という形はもちろん、 高校生や後輩へのボランティア家庭教師役など大学生ができる奉仕の形もある。このような多様な奉仕 42 ヒズメットの個別の活動を統括する、厳格な指揮系統などはなく、ましてそれが特定の教義として明記されているわけ ではない。より根源的で、規範的な宗教上の教えによって触発され、互いに善行を競い合う、 「ネットワーク」である。阿 久津[2013:16] 31 があることにより、より包括的で生活に密着した活動が成り立っているといえる。 また、Akademısit Gelişm Derneği 組合に限らず、教育を重視しているヒズメット運動では、学生へ の奨学金や物質的な支援を惜しむことをしない。留学生の卒業の祝賀会で、支援者がお祝いのスピーチ をしている時の学生たちの熱狂と尊敬の眼差しは印象深いものであった。彼らも将来、ヒズメット運動 を担っていくのだろうと感じた。 ヒズメット運動の内部は奉仕の循環も上手く機能しており、個々人も運動へ参加することで自身の生 活をより豊かなものにしていた。 第 2 節 組合へ通う女子大学生たち 以上の留学時の経験を踏まえて、2015 年 9 月 10 日~9 月 17 日の期間でトルコ共和国イスタンブル市 メジディエキョイ地区 Akademist Gelişim Derneği 組合でフィールドワークを行った。 今回の調査では、この組合に通う女子大学生 10 名へのインタビューを実施した。使用言語はトルコ語 で、質問項目は以下である。 ①支援団体へ通う頻度、団体の運営に関わっているのか否か。 ②通うようになったきっかけは何か。 ③通う前と後の生活の変化はあったのか。 ④ヒズメット運動のイメージ、また通う前と後での変化。 ⑤大学卒業後、運動にはどのように関わっていくのか。 ⑥家族は組合へ通っていることをどのように思っているか、または通う後の変化はあったか。 ⑦昔の友人とは連絡は続いているのか、友人は彼女たちが Akademist Gelişim Derneği 組合へ通うこ とに対してどのような反応を示したのか。 インタビューは Akademist Gelişim Derneği 組合、喫茶店や彼女たちの家で実施した。一人につき 30 分から 1 時間ほど話を聞くことができた。 10 人の女子大学生がインタビューに協力してくれた。彼女たちのヒズメット運動との関わりなどにつ いてまとめておく。 ・A さん(21 才、I 大学 4 年生) イスタンブルから船で 2 時間ほどの距離に位置するブルサ出身。高校生の時にヒズメット系の塾に通 っており、大学入学時からヒズメットが管理するアパートに住んでいた。その家に住んでいたことから、 Akademist Gelişim Derneği 組合の存在を知り、通うようになった。明るく社交的な性格で、Akademist Gelişim Derneği 組合でも多くの活動に関わっている。親は A さんが Akademist Gelişim Derneği 組合 に通う事をあまり良く思っていない。大学の休み期間のたびに家に帰ってくるように親から言われるよ うだが、彼女はイスタンブルでの生活を好んでいる。 ・B さん(21 才、I 大学 4 年生) 実家から大学へ通っている。大学の友人の紹介で Akademist Gelişim Derneği 組合の存在を知る。家 からは少し離れているが、大学が近くにあるので週 1~2 回ほどの頻度で通っている。Akademist Gelişim Derneği 組合に行く前も、ヒズメット運動に対して良い印象を抱いていた。通うようになってからは、 32 運動に対する信用やイスラームへの信仰をより強めることができたと話してくれた。ヒズメット運動に 賛同しており、今後も最後まで参加したいと思っていると述べた。 ・C さん(21 才、I 大学 4 年生) 実家から大学へ通っている。Akademist Gelişim Derneği 組合には A さんの紹介で通うようになった。 週 1~2 回の頻度で通っている。C さんが Akademist Gelişim Derneği 組合に通うことに、兄弟はあまり 良く思っていない。 ・D さん(21 才、I 大学 4 年生) トルコ中央部の地方出身だが、ヒズメットが管理するアパートではなく、公立の寮に住んでいる。 Akademist Gelişim Derneği 組合は友人の紹介で知ったという。Akademist Gelişim Derneği 組合に通 う頻度は 3 か月に 1 回くらいである。イベントがある時のみ参加している。彼女が住む寮でも様々なプ ログラムが運営されており、そちらの活動が忙しい。姉はヒズメット運動に対してあまり良く思ってい ない。卒業後は故郷へ帰り、看護師として働く予定である。彼女の故郷ではヒズメット運動が盛んでは ないので、今後はヒズメット運動と関わることはないだろうと話してくれた。 ・E さん(21 才、I 大学 4 年生) 実家から大学へ通っている。大学の友人の紹介で Akademist Gelişim Derneği 組合の存在を知り、週 2 回ほど通うようになった。Akademist Gelişim Derneği 組合へ通う前は、ヒズメット運動に対してあま り良い印象を抱いていなかった。規範が多く、人々を厳しく取り締まっている印象を持っていた。しか し、Akademist Gelişim Derneği 組合で働く人々と関わることで、印象が変わり、今では高尚な運動で あると考えるようになった。もともと友人はあまりいなかったが、Akademist Gelişim Derneği 組合に 通うことで、たくさんの友人ができたと話している。 ・F さん(20 才、B 大学 3 年生) トルコ中央の山間部の出身で、ヒズメットが管理するアパートに住む。Akademist Gelişim Derneği 組合は大学の友人の紹介で通うようになった。大学入学時は、私立の寮に住んでいたが、ヒズメット系 の家へと引っ越した。 「寮には二度と戻りたくない。」と話しており、 「ヒズメット系の家に住んでいる女 の子たちはみんな親切で快適に過ごすことができている。」とも話していた。とても面倒見の良い性格で、 高校生の家庭教師もボランティアで引き受けていた。Akademist Gelişim Derneği 組合に通うことで、 精神的に成長することができたと述べていた。しかし、将来は法律関係の仕事に就きたいことから、ヒ ズメット運動に参加することは難しいだろうと述べていた。 ・G さん(21 才、M 大学 4 年生) 黒海沿岸出身。ヒズメット系の家に住んでいたことから、Akademist Gelişim Derneği 組合の存在を 知り、通うようになる。Akademist Gelişim Derneği 組合をとても好んでおり、週 3~4 回の頻度で通っ ていた。しかし、親がヒズメット運動と関わることを反対しており、現在は公立の寮へと引っ越した。 Akademist Gelişim Derneği 組合は寮からも大学からも遠くなってしまったので、以前の様に頻繁には 33 通えなくなってしまった。ヒズメット運動から奨学金をもらって大学へ通っている。 ・H さん(20 才、I 大学 3 年生) トルコ中央部出身。以前はヒズメット系の家に住んでいた。家に住んでいたことから、Akademist Gelişim Derneği 組合の存在を知った。現在はヒズメット系の家を出て友人とルームシェアをして住んで いる。Akademist Gelişim Derneği 組合に通う頻度は月に 1 回程度で、イベントがある時のみ訪れてい る。 ・I さん(20 才、I 大学 3 年生) トルコの東部地方出身。H さんと同様、大学入学時はヒズメット系の家に住んでいた。現在は H さん と共にルームシェアをして住んでいる。I さんも月 1 回程度で Akademist Gelişim Derneği 組合に通っ ている。Akademist Gelişim Derneği 組合では、オスマン語の学習などを通じて、社会生活が向上した と述べた。親の反応も良いとのことだった。 ・J さん(20 才、B 大学 2 年生) トルコのエーゲ海地方出身で、公立の寮に住んでいる。Akademist Gelişim Derneği 組合は友人の紹 介で知った。Akademist Gelişim Derneği 組合へは月 1 回程度でイベントがある時のみ通っている。し かし、ヒズメット系の家に住む友人がいるので、友人の家にはよく遊びに行くとのことだった。 支援団体へ通う頻度に関して、週に 3~4 回通っている人が 2 人、週に 1~2 回通っている人が 4 人、あ との 4 人は月に一回など、イベントがある時のみ行くとのことであった。 通うようになったきっかけに関しては、友人の紹介という回答をしたのが 6 人であった。あとの 4 人 はヒズメットが管理するアパートに住んでいたことで組合の存在を知り、通うようになったとのことだ った。 生活の変化に関する質問に対して、ほぼ全員が「社会生活の向上」と答えていた。具体的な回答とし ては、 「他の大学に通う友人もでき、輪を広げることができた。」、 「様々なプログラムに通うことにより、 社会的生活を送ることができている。」、「オスマン語を学ぶことができた。」や「外国の友人も作ること ができた。」などが挙げられる。一部の学生は「イスラームの理解や信仰」についての言及をしていた。 具体的な回答として、 「セミナーや講演会も開かれている。そこで人生における意味を教わった。イスラ ームについての理解も深まった。」、 「ヒズメット運動の人と共に過ごすことで、人を好きになることを学 んだ。信用や信仰をより強いものにすることができた。」や「イスラームだけでなく人間としてあるべき 姿を教えている。素敵な人々と知り合う事ができた。一人のムスリムとして、また人間としても、とて も成長することができた。通い始めてから知識人として成長できたと考えている。」などが挙げられる。 ヒズメット運動のイメージに関しての回答は、すべてが肯定的であった。 「人間にとって有益な運動」、 「人生の意味を示す運動」や「人を大切にし、育てる運動」などの意見があった。10 人のうち E さんだ けは、組合に通う前にはヒズメット運動に対して良くないイメージを持っていた。しかし、通うように なってからイメージが変わり、今では「高尚な運動の中に入れて嬉しい」と語っていた。 ヒズメット運動と今後どのように関わっていくかという質問に対しては、 「何らかの形で運動に関わっ 34 ていきたい」と答えた人は 5 人、「運動とは関わらないだろう」と答えた人は 3 人、「わからない」と答 えた人は 2 人であった。 「何らかの形で関わっていきたい」と回答した E さんは、 「将来は看護師になるため、仕事として関わ ることは難しいかもしれない。しかし、講演会へ参加するなどして運動には参加し続けたいと思ってい る。」と語る人もいた。また G さんは、「私はヒズメット運動の奨学金をもらって大学に通うことができ ている。なので、私にしてもらったことを次の世代の学生に返したい。奨学金を運動に払うことでお返 しができたらと考えている。」と回答した。 「運動とは関わらないだろう」と回答した人の中には、 「将来は看護師になるため関わる予定はない。」 と答える人もいた。また、D さんは、 「大学卒業後は故郷へ帰る予定だ。そこでは運動が活発ではない。」 と述べている。F さんは、「法学部で学んでいるので、将来はヒズメット運動に関わることは難しいだろ う。」と回答した。 また、家族の反応に関する質問に対して、G さんは「ヒズメット運動に対する弾圧が始まる以前は、 両親は良く思っていたが、今は変わった。前はヒズメットが経営する家で暮らしていたが、親の反対に より公立の寮に引っ越すことになった。」と答えていた。他にも 5 名の学生が「ヒズメット運動に関する 悪いニュースが流れる以前は家族は私が組合へ通うことに賛成していたが、今は良く思っていない。」と いった回答した。 35 第 5 章 ヒズメット運動における「個人」「社会」「信仰」 第 1 節 「個人」と「家族」 第 3 章のインタビュー結果から、Akademısit Gelişm Derneği 組合に通う前の女子大学生の生活基盤 は「家族」であった。トルコにおいて「家族」の繋がりはとても強い。彼女たちにとって最も大きな存 在が家族という「社会」だったのである。しかし、大学進学のためイスタンブルに上京して、家族と離 れて暮らすことになった彼女たちには日々の生活基盤であった家族という「社会」はもはや存在しない。 その代わりに、新たに Akademısit Gelişm Derneği 組合という「社会」の中で生きることになった。家 族という「社会」から、Akademısit Gelişm Derneği 組合という「社会」へと生活基盤を移すことで、 彼女たちに変化が起こっている。その変化は「社会生活」と「信仰」の 2 つの面からみることができる。 第 2 節 「組織」と「信仰」 Akademısit Gelişm Derneği 組合では、前述の通り、ギュレン師や著名な学識者の言葉を基に、講演 会の定期的な運営や、宗教行事のプログラムの運営などが行われている。組合の活動内容はイスラーム の教えを基に運営されている。この「組織」は「信仰」とどのような関係を有しているのだろうか。 インタビュー結果から、Akademist Gelişim Derneği 組合へ通うことにより、 「社会的生活の向上」と 「信仰」の 2 つの面で女子大学生の生活は変化している。 「社会的生活の向上」に関しては、まず多くの人と関わる機会が増えるという変化がみられる。 Akademist Gelişim Derneği 組合へ通うことにより、他の大学の友人と知り会うことができるとの回答 があった。また、ヒズメット運動は国外にも広がっている運動であり、Akademist Gelişim Derneği 組 合でも留学生との交流の場が設けられている。活動に参加することは、彼女たちにとって外国との接点 にもなっている。 次に、新たな知識を増やすことができたという変化がみられる。インタビュー中にも、 「オスマン語を 学ぶことができた。」という回答があった。オスマン語に限らず、絵画教室や英会話教室などを通じて自 身のスキル向上に繋がっていた。 さらに、 「信仰」という面では、インタビュー結果から、自身の生き方について考えるようになったと いう変化がみられる。ある友人は、ヒズメット運動の印象について「人生の意味を示す運動」という回 答をした。彼女は、日常においても「善い生き方」について考え、話していた。講演会のあとには、み んなで講演の内容を共有し、理解を深めていた。 インタビューの中で「信仰」について言及している学生は、いずれも組合へ足繁く通う学生であった。 Akademist Gelişim Derneği 組合という「組織」と彼女たちの「信仰」が深く繋がっていることが分か る。 第 3 節 「個人」「社会」「信仰」の関係性 批判的な報道がされる以前は、ヒズメット運動に対して良い印象を抱いていた家族がほとんどであっ た。しかし、昨今のヒズメット運動への政治的弾圧により、国内外で運動についての批判的な報道が数 多く流されている。そのような報道を見聞きした家族は運動に対し批判的な立場となり、娘が支援組合 36 へ通うことに対しても悪い反応を示すようになった。家族からの反対により、支援組合へ通うことが困 難となるケースもあることが分かった。政治とは関係のない場所で生まれた運動ではあるが、勢力を強 めるにつれ政治と関わりを持つようになってしまった。支援組合へ通う学生は政治とは関係なく活動を しているが、彼女たちも政治的な影響を間接的に受けていることが分かった。 また、支援組合へ低い頻度で通う学生と高い頻度で通う学生では、受ける影響が変わってくるという ことが分かった。支援組合へ低い頻度で通うグループでは、 「社会生活の向上」という点における生活の 変化が、他方、高い頻度で通うグループでは、 「社会生活の向上」と「イスラームの理解や信仰」という 2 点における生活の変化がそれぞれのインタビューから明らかになった。すべての学生に共通している影 響は「社会生活の向上」であるが、 「信仰」について言及したのは高い頻度で通う学生たちだけであった。 このことから、支援組合の「社会」との関係が深化するにつれて、彼女たちの「信仰」も深化している のが分かる。 彼女たちは最小の社会である「家族」から、女子大学生の社会である「Akademist Gelişim Derneği 組合」へ生活基盤を移すことにより、自身の社会をより広いものへと変化させている。その結果が「社 会的生活の向上」へと繋がっているのではないか。また、支援組合へ通う頻度が高い学生は、講演会や 教室への参加を通じて、ヒズメット運動で働く人たちと多くの時間を過ごしている。そのような環境は 彼女たちの「信仰」にも影響を与えている。 「個人」の生活基盤となる「社会」が変化することに伴い「信 仰」も深化していると考えられる。 今後の生き方に関して、B さんが「yaşatmak için yaşamak(生かすために生きる)」という言葉を述 べた。人々の助けになりたいという彼女たちの想いが込められている。彼女たちにとってのヒズメット(奉 仕)運動を表す印象深い一言であった。彼女たちは支援組合という「社会」を通して「信仰」を深め、人 生の意味を学んでいる。Akademist Gelişim Derneği 組合は、彼女たちの成長過程における一つの段階 の役割を担っている。今後彼女たちがヒズメット運動に継続的に参加するか否かは分からないが、彼女 たちの人生に影響を与えていることは確かである。この組合での学びを 1 つのステージとして、彼女た ちは今後の人生の階段を上っていくのではないか。また、その学びにイスラームが深く関わっているこ とから、ヒズメット運動における宗教の役割は参加者個々人の人間性の形成であり、ヒズメット運動の 担い手の育成となっている。 37 あとがき 私はこの Akademist Gelişim Derneği 組合に 2014 年 3 月から 9 月までの約 7 か月間通っていた。き っかけはトルコの友人の紹介であった。「クルアーンの教室に行きたい。」と話した私に、友人は Akademist Gelişim Derneği 組合で働くメルヴェさんを紹介してくれた。後日、Akademist Gelişim Derneği 組合に伺い、メルヴェさんと会うことができた。お互いの自己紹介が終わると、メルヴェさん は、「どこに住んでいるのか、家賃はいくらか、もし困っているのなら家を紹介することができる。」な どの生活に関する質問をした。その頃は、寮での問題があり精神的にとても疲弊していた時だった。な ので、メルヴェさんからの優しい問いかけがとても嬉しかった。帰りがけにも、 「いつでも歓迎するから 好きな時に来てね。」と言ってくれた。それからは語学学校帰りに毎日のように通うようになった。また、 週 1 回のクルアーン教室、絵画教室に通い始めた。自然とトルコ人の女子学生とも仲良くなり、彼女た ちと過ごす時間が多くなった。Akademist Gelişim Derneği 組合に通う女子大学生は皆フレンドリーで 親切であった。個人差はあるものの、この温かさや人懐っこさは皆に共通して言えることであった。 Akademist Gelişim Derneği 組合に通う前は、語学学校と寮の行き来の毎日であった。語学学校と寮 でももちろん友人はいたが、トルコ人ではなく、留学生などの外国人の友人の割合の方が大きかった。 学校が終わってから寮に帰り一人で時間を過ごすことも少なからずあった。Akademist Gelişim Derneği 組合に通うようになってからは、空いた時間には施設に立ち寄るようになった。Akademist Gelişim Derneği 組合に行けば、誰かしら友人がいるという安心感も生まれた。 また、様々な大学に通う学生や出身地の異なる学生と出会えたことも自身の行動範囲を広げることに 繋がった。彼女たちの地方にある実家を訪問するなど、一人では訪れることがなかったであろう場所に も行くことができた。友人の輪を広げ、より豊かな社会生活が送れるようになったことは生活の大きな 変化であった。私は Akademist Gelişim Derneği 組合を通じて、トルコの社会や文化を学ぶことができ たと感じている。 2015 年 9 月に実施したフィールドワークでのインタビューで驚いたことがあった。質問項目の中に「活 動の運営に関わっているのか否か。」という問いを入れた。留学中に、彼女たちがボランティアで高校生 への家庭教師を務めている姿を見ていた。また、ヒズメット運動が借りている無人のアパートを定期的 に掃除しているのを知っていたからだ。彼女たちは多少なりとも運営に関わっているのだと思っていた。 しかし、この問いに「はい。」と答える人は一人もいなかった。みんな揃って「いいえ。」と答えた。 「で も、あなたが管理人と一緒にみんなをまとめている姿を見ていたよ。あれは運営に関わってはいなかっ たの?」と聞くと、「時々はしているけど、大した事じゃないよ。」と答えるだけであった。しかし、私 から見たら決して時々ではなく、いつも Akademist Gelişim Derneği 組合のために働いているように見 えた。この回答を聞いた時、彼女たちにとって奉仕は日常であるのだと感じた。彼女たちは決して見返 りを求めることなく、他人への奉仕を惜しむことはしない。といっても自分を犠牲にしているといった 印象は全く抱かなかった。人を助けることが義務ではなく、自身の喜びのようであった。 また、彼女たちは他人への奉仕をすると同時に、自分自身が困っている時や助けてほしい時はすぐに 周りの人へ声を掛けていた。「なぜできないのか、自分がどんな境遇に置かれているのか。」をきちんと 38 説明していた。時には言い訳のように聞こえる事柄でも彼女たちは必死に訴えていた。この光景は私に はとても新鮮であった。 高校時代、友人に「亜貴は人には迷惑はかけないけど、その代り何もしてくれないよね。」と言われた ことがある。そんな私と彼女たちは正反対のように感じた。私は「できない自分が悪いのであって、助 けを求めるのは恥ずかしいし、何を言っても無駄だ。」と思っていた。また、 「言い訳するのは格好悪い。」 とも考えていた。彼女たちと接することで、そのような考えが私の人づきあいにおける欠点なのだと気 づいた。自分を分かってもらう努力をしなければ、相手は分かるはずがないのである。 「全部自分が悪い」 と考えることは楽だけれど、とても独りよがりで寂しいものだと学んだ。生きていく上で誰かと助け合 うことは必要であり、彼女たちと共有した時間はとても楽しかった。 インタビューの中で、ある友人が「Akademist Gelişim Derneği 組合に通うようになってから、人を 好きになることを学んだ。」と話してくれた。この言葉に私はとても共感できる。外国人であり、異教徒 でもある私を、この Akademist Gelişim Derneği 組合ではいつも温かく迎えてくれた。私は元来、社交 的な性格ではなく、昔から人見知りが激しかった。しかし、トルコ、とりわけ Akademist Gelişim Derneği 組合で出会った友人とは会った瞬間から打ち解けることができ、昔からの友人のように落ち着くことが できた。 「人を好きになること」には、まず「自分を好きになること」が必要であると思う。Akademist Gelişim Derneği 組合の友人たちは、弱い私でも、どんな私でも受け入れてくれるだろうという安心感があった からこそ、自分を見つめなおすことができたのだと思う。 イスラームでは、 「誰かを愛する場合、アッラーのために愛すること43」(『サヒーフ・ムスリム』)とい う教えがある。彼女たちにとって、人を愛すること自体が信仰なのだ。アッラーのために愛するからこ そ、見返りを求めることなく純粋に、人々を愛することができるのだろう。 私が Akademist Gelişim Derneği 組合に通ったのはたった七か月であった。短い期間ではあったが、 私はそこで出会った彼女たちのことが大好きである。 43 奥田敦教授の授業「イスラームとイスラーム圏」第 14 回(2016.1.16)レジュメより 39 参考文献 日本語書籍 新井政美編『イスラムと近代化:共和国トルコの苦闘』、講談社選書メチェ、2013 年。 新井政美『トルコ近現代史:イスラム国家から国民国家へ』、みすず書房、2011 年。 M.F.ギュレン著『日本人のために:預言者ムハンマドを語る』上・下巻、樋口めぐみ訳、K&K プレス、 2002 年。 M.F.ギュレン著『イスラームの信仰の元で』樋口めぐみ訳、The Light, Inc. and Işık Yayınları、2006 年。 日本貿易振興機構(ジェトロ)編『トルコビジネス』、日刊工業新聞社、2010 年。 日本トルコ文化交流会(nittoKAI)監修『Hizmet Movement:平和を目指すグローバルな社会運動:「ヒズ メット運動」と現代イスラム思想家ギュレン』、2014 年。 佐々木良昭『これから 50 年、世界はトルコを中心に回る:トルコ大躍進7つの理由』、プレジデント社、 2012 年。 『イスラーム地域研究ジャーナル Vol.6』、早稲田大学イスラーム地域研究機構編、2014 年 3 月 31 日発 行。 鈴木董『オスマン帝国:イスラム世界の「柔らかい専制」』、講談社現代新書、1992 年。 坂本勉『トルコ民族の世界史』、慶應義塾大学出版、2006 年。 サイドヌルシー『やすらぎへの道:光の書簡集』、The Light 出版、2004 年。 渋沢幸子 他 著『トルコとは何か:別冊環 14』、藤原書店、2008 年。 宮下陽子『現代トルコにおける政治的変遷と政党 1938~2011:政治エリートの実証分析の視点から』、学 術出版会、2012 年。 日本語論文 竹下修子「ギュレン・ムーブメントに関する一考察:-ネットワークの視点から-」、『愛知学院大学文学 部紀要第 42 号』、2012 年。 幸加木文「Islamic political identity in Turkey」M.Hakan Yavuz、『書評と紹介』、2003 年。 幸加木文「トルコにおけるフェトゥッラー・ギュレンとその運動の位置づけ」、『現代世界の動向とイス ラーム』、2011 年。 中田考「トルコの「市民社会」思想運動とフェトフッラー・ギュレン」、『中東研究 2001 年 3 月号』。 阿久津正幸「非イスラーム世界における hizmet:-ムスリム社会の構築とイスラームの伝統的価値観-」、 2013 年 トルコ語書籍 AYSAL AYTAÇ『Yurt Dışındaki TÜRK OKULLARI Sulh Adacıkları』、KAYNAK 出版、2010 年。 40 ウェブサイト 「日本語で読む中東メディア」プロジェクト 東京外国語大学 ( http://www.el.tufs.ac.jp/tufsmedia/common/prmeis/fs/ )(最終閲覧日 2016.1.20) Herkul ( http://www.herkul.org/ )(最終閲覧日 2016.1.20) トルコ新聞社 Zaman 紙 HP ( http://www.zaman.com.tr/haber ) (最終閲覧日 2016.1.20) トルコ新聞社 Milliyet 紙 HP ( http://www.milliyet.com.tr/ ) (最終閲覧日 2016.1.20) トルコ新聞社 Radikal 紙 HP ( http://www.radikal.com.tr/ ) (最終閲覧日 2016.1.20) トルコ新聞社 Hürriyet 紙 HP ( http://www.hurriyet.com.tr/ ) (最終閲覧日 2016.1.20) 日本経済新聞 2015 年 11 月の選挙結果に関して ( http://www.nikkei.com/article/DGXKZO93579250T01C15A1EA1000/ )(参照日 2015.12.29) ロイター通信 収賄事件に関連して ( http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/27/turkey_n_5046614.html )(参照日 2015.12.29) その他 奥田敦教授による授業「イスラームとイスラーム圏」第 14 回(2016.1.16)レジュメ トルコ語オリンピックに関する資料、トルコ文化センターから提供(2014.12.18) 付記 本研究は NPO 法人日本トルコ育英会、ならびに慶應義塾大学湘南藤沢学会研究助成基金からご支援をい ただきました。 41 謝辞 本研究を進めるにあたり、たくさんの方々からご協力をいただきました。この場をお借りして、心か ら感謝申し上げます。 特に、総合政策学部教授の奥田敦先生には深く御礼申し上げます。入学したばかりの 1 年生の時から アラビヤ語などの授業でご指導いただきました。2 年生の春学期からは奥田研究会Ⅰ・Ⅱに所属し、個人 研究のみならず、研究会の全体活動などでも大変お世話になりました。ご迷惑ばかりをお掛けした学生 ではありましたが、奥田先生は最後まで辛抱強く、惜しみのないご指導をしてくださいました。ただ漠 然とトルコについて研究したい、という私を今日まで導いてくださったのは奥田先生でした。また大学 生活の日常において、個人研究や全体研究を通じて、公私ともに多くの事を学ばせていただきました。 紙上ではお伝えしきれませんが、本当にありがとうございました。 また、NPO 法人日本トルコ文化交流会にもお世話になりました。日本トルコ育英会の奨学金により、 2013 年 10 月から 2014 年 9 月までの約 11 カ月間イスタンブルへ留学をすることができました。また、 留学中も日本トルコ文化交流会の方々から紹介していただいた多くの方からの温かいご支援のお陰で、 有意義な留学生活を送ることができました。帰国後も、本研究へ助言とご支援をいただきました。 日本在住のトルコの方々にもお世話になりました。トルコ語文献を読み解くにあたって、苦労してい た私にご指導くださったトルコ文化センターの講師の方々や、協力してくれた友人たちに感謝いたしま す。 そして、本研究の核となる 2015 年 9 月のフィールドワークは、慶應義塾大学湘南藤沢学会の研究助成 基金により実施することができました。インタビュー調査に快く応えてくれた友人とインタビュー内容 に助言していただいたトルコの先生にも御礼申し上げます。 また、研究会の先輩方、同期や後輩の皆さんにもお世話になりました。優しく導いてくださる先輩方、 頼りになる同期や私よりもしっかりしている後輩の皆さんと共に活動をすることができ、多くの気づき を得ることができました。 Akademist Gelişim Derneği 組合にもお世話になりました。いきなり訪問した私でも温かく迎えてく れて、様々なプログラムへ声を掛けていただきました。あとがきで記した通り、私の留学生活には欠か せない場所でした。 そして、トルコ留学中に出会った友人たちに御礼申し上げます。自分で決めたこととはいえ、海外へ 一人で行くのはとても不安でした。実際に、現地で嫌なことや悲しいことも多くあり、悔しい思いもた くさんしました。しかし、どんな時でもそばで支えてくれる人がいました。トルコ人に限らず、日本人 や外国人の友人の助けがありました。留学中で一番泣いたのは、帰国する飛行機に乗る時でした。出会 ったみなさまに心より感謝しています。 最後に、いつも陰ながら見守り、応援してくれる家族に感謝申し上げます。 すべての方々の上に平安がありますように。ささやかではありますが、祈りとともに本論文の終わり とします。 2016 年 1 月 21 日 楠原 亜貴 42 ヒズメット運動における宗教の役割 ∼教育活動が学生に与える影響をもとに∼ 2016年 3 月 3 1日 初版発行 著者 楠原亜貴 監修 奥田 敦 発行 慶應義塾大学 湘南藤沢学会 〒252-0816 神奈川県藤沢市遠藤5322 TEL:0466-49-3437 Printed in Japan 印刷・製本 ワキプリントピア SFC-SWP 2015-012 本論文は研究会において優秀と認められ、 出版されたものです。 ■
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