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東京陵水102号 - 株式会社MPO

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東 京 陵 水 2015年(平成27年)1月15日発行 第102号
あけましておめでとうございます
目 次
1面 年頭所感
(守谷支部長)
1面〜5面 二十七年・二十六年総会
5面〜9面 記念講演要旨
9面〜 面 「こんにちは」
面〜 面 主張
面〜 面 趣味「俳句」
「川柳」
面〜 面 OB会クラブ活動
面〜 面 ゴルフ談義
面〜 面 同好会
面〜 面 つどい
面 会費納入者一覧
面 広告・奥付
22 21 19 18
に全面協力すべく総力を結集し
度いと考えている。
有り来りの国内でのグローバ
ル人材育成計画では特徴が無く、
生き残りは難しいと考え突出度
日 本 一 を 目 指 さ ね ば な ら な い。
実践英会話力養成は必須事項と
して、幸いにも滋賀大学経済学
部は国立経済学部としては唯一
の情報学科を有し「英会話力+
ITプログラミング力」に特化
できるのではないかと期待して
いる。その他種々のプランがあ
るものと想定される。東京陵水
会会員各位には国際感覚を持っ
た海外勤務経験者が多数在籍さ
れ、以上の様な問題に適切に対
応できる人材が多数居られる筈
である。どうか母校のグローバ
ル人材育成計画に是非参加いた
だいて、ご助言、ご指導を賜り
度いと願っている。
有志の会員諸氏のご一報を事
務 局 迄、 是 非 お 届 け 頂 き 度 く、
ご依頼申し上げます。
平成二十七年度支部総会の概要について
のものである」と言い「二〇二
〇年までに日本の大学一〇校を
一〇〇以内に入れる」との目標
を掲げている。以上のスーパー
グローバル大学プランとは別に
文部科学省は生き残り校選別と
特化戦略後押しとして「グロー
バル人材育成推進事業」を進め、
二〇一二〜一六年特別支援四十
二大学(国公私立)を選定して、
年間一大学当たり二億六〇〇〇
万円の補助金の支給を計画して
いる。
滋 賀 大 学 経 済 学 部 と し て は、
この案に参画して敗者復活する
より道は無いと思われる。
未だ殆どの大学が構想提示に
留まっているし、海外展開構想
も今からと言う、現在が絶好の
機会である。陵水会はこの応募
24 23 21 19 18 17
●開催日時 平成二十七年七月 ● 記 念 講 演 『 高 齢 化 社 会 に お
四日(土)午後五時~
ける信託活用方法について
●会 場 上野精養軒(台東区 (仮題)
』
上 野 公 園 四 ― 五 八 ) 前 回 と 講師 鯖田豊則氏(東京国際大
同様の開催場所となります。
学商学部教授 大 回)
―1―
賀 正
15 14
16 15 13
目指してスーパーグローバル
( S G U ) 大 学 の 選 定 を 行 い、
二〇一四年九月二十六日、三十
七大学が決定した。残念ながら
陵水会 東京支部長 守 谷 貞 夫
滋賀大は選から外れてしまった。
あけましておめでとうござい 程よろしくお願い申し上げます。 有 力 国 立 大 学 で は 一 橋、 神 戸、
ます。
さて、近年地方国立大学を取 横浜国大が不採択となった。ト
昨 年 母 校 は 九 十 周 年 を 迎 え、 り巻く環境は年々厳しさを増し ップ型十三校、グローバル化け
陵水会会員諸兄には物心再面に ており、母校に於いても例外で ん引型二十四校で年間各々四・
て大変お世話になりました。衷 はあり得ずOBとして大変行く 二億円、一・七億円の補助金が
心より感謝致しております。今 末を心配している所です。文部 一〇年間支給されることとなっ
年も陵水会の諸活動にご協力の 科学省は大学のグローバル化を た。グローバル化は大学改革の
最重要課題で採択されればグロ
ーバル化戦略で国のお墨付きを
得た事となり、以後一〇年間S
GU採択校を名乗れるメリット
は計り知れない。
その分選に漏れた場合の痛手
も大きい。これら背景には毎年
発表される世界の大学ランキン
グ(THE)で日本の大学順位
は予想外に低く一〇〇位以内は
東大(二三)京大(五二)二校
のみで二〇〇位以内では東工大
(一二五)東北大(一四四)阪大
(一五〇)のみである事がある。
安倍首相は「大学力は国力そ
27
平成27年 元旦
陵水会東京支部役員一同
今回は東京国際大学で教鞭を
執っておられる我が同期の鯖田
さんにお願いすることにいたし
ました。同氏は大学卒業後、信
託銀行、証券会社に勤務、信託
業務のプロとして金融業界の最
前 線 で 活 躍 さ れ ま し た。
「高齢
化社会」といわれて久しい日本
において、個人財産の管理方法
として十分に受け入れられてい
るとは言えない「信託」につい
てその特徴・活用方法等につき
ご紹介いただきます。また滋賀
県にも「近江信託」という会社
があったことなど信託普及の歴
史にも触れていただく予定です。
当番幹事挨拶と
活動状況について
今回は昭和五十四年卒業の大
学二十七回が当番幹事を務めさ
せていただきます。前回に引き
続き盛会となるよう精いっぱい
努めてまいりますので宜しくお
願い致します。
大学卒業後三十五年、学生時
代に面識のなかった人、卒業後
初 め て 再 会 す る 人 等 が い る 中、
まずは同期会を結成すべく昨年
四月に十二名が日本橋に集まり
初顔合わせ、活動を開始致しま
した。不安いっぱいの船出でし
たが、前回支部総会の直前準備
のお手伝い、
総会二次会の運営、
総会終了後の大学二十六回の先
輩からの書面による引継ぎを通
じてようやくまとまりと盛り上
が りを実感することができまし
た。続いて記念講演の講師選定
に着手、大学OB、滋賀県ゆか
りの方等数人の候補者の中から
前述の我が同期鯖田氏にお願い
することに致しました。その他
懇親会のプログラム、役割分担
等順次具体化しつつ本番に向け
漸次準備に取り掛かっておりま
す。現状十四名程度がメンバー
として定着しつつあり今後本番
までに一名でも二名でも増やし
ていきたいと考えております。
支部総会につきましては土曜
日開催が定着し、参加者もここ
数年二〇〇名を超える規模とな
り、会員交流の場として大きな
役割を果たすようになってまい
りました。一方で三十~五〇歳
の若手・中堅会員の参加がまだ
まだ十分とは言えず今後の課題
であるとの認識を持っておりま
す。我々当番幹事としましても
今までにもまして幅広い年代層
の皆様にご参加いただき、陵水
会活動への関心を高めていただ
けるような幹事活動を展開して
まいりたいと思います。具体的
には若手・中堅幹事への声掛け
を通じて同期(ヨコ)の皆様へ
の情宣・勧誘を強化するととも
に、従来以上にゼミ、部活動の
先 輩・ 後 輩 へ の 声 掛 け( タ テ )
を実施してまいります。
四月には総会のご案内状(出
欠の返信ハガキ同封)をお届け
する予定でございます。会員の
皆様方におかれましては、会社
関係、部活動、ゼミ等懐かしい
お仲間とも連絡を取り合って頂
き一人でも多くの会員の皆様に
ご参加いただきますようお願い
申し上げます。
岩崎博之(大 )記
進化する総会内容 (二十六年度)参加者
二〇〇名以上の恒常化と華やかな新企画
真も初の試みとして参加者の足
を止めていた。
会は、定刻五時、第一部司会・
小梶清司幹事長(大 )の開会
宣言により幕を開け、グリーク
ラブOBメンバーの学歌斉唱が
荘重に会場内に流れた。
冒 頭 の 守 谷 貞 夫 支 部 長( 大
)の挨拶が述べられた
「総会が年々盛会になってい
ると感じられ非常に嬉しく思う。
去年の創立九〇周年記念の募金
活動では東京支部のノルマ五〇
〇万円のところ一千万の御協力
を得た。募金実績が全体で四千
八百万円であり、その五分の一
以上を当支部が占め、大学に貢
献できた。深くご協力に感謝す
る。今日の乾杯のウィスキーは
戸田理事長のお力添えでサント
リーから一九九八年物五十四度
の樽買いをしたものであり、美
味しく飲み楽しんで欲しい。
母校は九年後に創立一〇〇周
年を控えている。日本経済新聞
では長崎大学の関係者が同大学
一〇〇周年の事を記事にしてい
る。そこでは記念行事をかなり
前から後援会などが準備を進め、
盛りたてて一〇〇周年記念行事
が 成 功 し た と 述 べ ら れ て い た。
当大学も今から準備しておく必
要がある。七月九日にこの件に
” 見よ漫々と♪
♪”
―2―
27
朝からの梅雨空が、午後にな 〇という多くにのぼり、担当幹
って回復の兆しを見せた七月五 事各位の努力はもとより、支部
日( 土 )、 午 後 五 時 か ら、 平 成 会員挙げての協力が実を結んだ
二十六年度「陵水会東京支部総 と言える。
会・懇親会」が上野精養軒で開
本年幹事の、開催ポリシーと
催された。
して全面に打ち出した「お・も・
今年も、開催を待ちわびた会 て・な・し」の象徴として、ス
員諸氏の出足は早く、受付開始 テージ下手に備えられた野点傘
の午後四時前から多数の参加者 と毛氈椅子の鮮やかな朱色は一
が來会し、本年幹事担当の大学 廉目をひいた。
二十六回諸氏が応対に追われた。 会場後方にパネル掲示された
本年も、総会参加会員数は二二 「 高 商 か ら 大 学 へ の 歩 み 」 の 写
“ 乾杯 ” 戸田理事長
12
18
ついて母校で第一回の会合が開 改革の新たな課題を突き付けら み……京都花街に学ぶマネジメ
かれる。準備万端疎漏のないよ れ て い る。
「 滋 賀 大 学 の 改 革 」 ント」のテーマによる講演であ
うに努力するが、特に若い会員 は経済学部の改革でしかない。 った。西尾教授は滋賀大へ社会
には成功に力を貸して戴きた
陵水会から多額の寄付を戴い 人入学され大学四十六回卒業の
い。
」
たり陵水人材バンク推進など大 陵水人とのことで、先生のハン
来賓ご挨拶は、大学経済学部 きな支援を受けている。大学と ナリした京言葉と軽妙かつ示唆
長・ 小 倉 明 浩 教 授 か ら 戴 い た。 してこれらの支援を活かしなが に富んだお話で会場を魅了した
同教授は大学三十一回卒の陵水 ら実践力と教養を身に付けた学 (講演要旨は別ページ掲載)。
人であるとのこと。その人柄と 生を育てていくことを教育改革
休憩中に行われた先生著作本
ともに会員に親しみを覚えさせ の 柱 と し て 議 論 を 展 開 し て い の 頒 布 と サ イ ン 会 は 列 を な し、
た。
る。
」
著作本はたちまち完売となる程
「滋賀大学経済学部三十一回
第一部総会は、議長指名を受 であった。
卒業であり、先輩の前で挨拶す けた鈴木重成氏(大 )の議事
るので緊張している。経済学部 進行により、第一号議案「平成
のゼミは中嶌太一先生であった。 二十五年度活動報告ならびに収
現在世界経済論を専攻している。 支決算報告、監査報告」が小梶
滋賀大学の「小倉」といえば誰 幹 事 長 と 脇 阪 守 事 務 局 長( 大
もが小倉栄一郎先生に関係づけ
)から行われ、岡田憲治監事
て く れ る が、 血 縁 関 係 は な い。( 大 ) の 監 査 報 告 の あ と 満 場
現在アベノミクスの下で日本経 一致の拍手で承認された。
済を再び浮揚させ世界をリード
続いて第二号議案「平成二十
するような政策努力をしている 六 年 度 活 動 方 針 並 び に 収 支 予
中で、国立大学の大学力はどう 算」
、
第三号議案
「役員等の改選」 第三部懇親会は、司会を当番
なんだと経済界や政治の側から の 審 議 に 入 り、 脇 阪 事 務 局 長、 幹 事 の 近 守 彦 義 氏( 大 )、 戸
厳しく問われている。国立大学 小梶幹事長からの説明があった 田有香氏(大 )が務めた。陵
は改革しなければいけないとい 後 満 場 一 致 の 拍 手 で 承 認 さ れ、 水会理事長・戸田一雄氏の発声
う状況に置かれている。改革加 新しい役員として、上林好一氏 で、「 九 十 周 年 特 製 ウ ィ ス キ ー
速期間というので今年から三年 ( 大 ) が 支 部 役 員 と し て 副 幹 〝陵水〟」のグラスを高々と揚げ
の間で改革することを求められ 事長、本部役員として評議員に ての乾杯でスタート。例年どお
ている。滋賀大学は人材育成に 選出された。
り、盛り沢山の料理とアルコー
かけては日本の経済に多大な貢
第二部は恒例の記念講演。今 ルに乗って旧交を温め合う会話
献を果たしてきた面がある。し 年は京都女子大学の西尾久美子 が飛び交い、会場は一気に盛り
かし今日の状況の中で滋賀大学 教授による「おもてなしの仕組 上がりをみせた。
21
18
26
7
55
26
アトラクションとして、まず った。
陵水詩吟同好会(岳精流新陵教
恒例の「琵琶湖周航の歌」
「彦
場)のメンバーと神翠流煌弘会 根高商校歌」合唱は、相変わら
会長・小谷野煌弘氏による詩吟 ず元気な先輩会員の飛び入り登
と剣舞が披露され、その迫力が 壇もあり、往時を偲ぶ若き歌声
満場を沸かせた。続く新会員と が会場内に流れた。盛り上がり
して参加の五名のフレッシュメ の 締 め く く り は 恒 例 の エ ー ル。
ンバーの紹介は、いつもながら ヨット部高田大樹君(大 )の
会場内に和やかな雰囲気を醸し 美声が会場内に響き、これに和
出していた。中で、大 の湯浅 し た 拍 手 が 場 内 を ど よ も し た。
信介君と大 の平良友枝さんと 会は盛況のうちに午後八時過ぎ
の新婚カップルの紹介は、昨年 中締めを迎えた。
昨年から採り入れられた、別
室での二次会懇親会も、年齢の
差を超えての和気藹藹の会話が
行き交い、来年の再会を約しな
がら散会となった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
平成二十五年度収支報告
○財産目録(単位円・以下同じ)
現金
一〇、二四六
普通預金 一、
一二二、〇七一
に引き続いて二組目でもあり会 郵便預金
八四三、四八〇
場は大いに沸いた。
定期預金
一、
〇六〇、〇〇〇
二十六年度当番幹事各位の紹 貯蔵品
六〇、〇〇〇
介には、一年間のご苦労への温 合計 三、
〇九五、七九七
かい拍手が惜しみなく送られて ○貸借対照表
おり、引き続いての、二十七年 【借方】
度当番幹事諸氏の紹介と決意表 現金預金 一、
九七五、七九七
明へは激励の絶大なる拍手が送 基本金引当金一、
〇六〇、
〇〇〇
ら れ た。 オ リ ン ピ ッ ク な ら ぬ、 貯蔵品
六〇、〇〇〇
当番幹事のリレー場面は来年総 合計 三、
〇九五、七九七
会の成功を予感させるものであ
※貯蔵品は創立九〇周年洋酒
わが青春に悔なし
57
50
朗々と詩吟会
49
―3―
【貸方】
前受金
六七五、
〇〇〇
基本金
一、
〇六〇、
〇〇〇
繰越金 一、
三六〇、
七九七
合計 三、
〇九五、
七九七
※前受金は翌年度の年会費受入
○収支計算書
【支出の部】
総会費
一、
七八四、
〇九九
運営費(※)
九七、
三三〇
印刷費 三二一、
四五五
通信費
四二二、
五〇三
広報活動費(※) 六二、
六一七
編集費
一〇〇、
〇〇〇
事務用品費 六四八
交通費(※)
七五、
九五〇
雑費
四一、
四六〇
次年度繰越金一、三六〇、
七九七
計 四、
二六六、
八五九
※運営費は役員幹事会への若手
補助、当番幹事・会議費用一
部補助。広報活動費はホ―ム
ページメンテナンス費・九〇
周年行事本部取材経費。交通
費は就職相談会へ若手派遣費
(本部折半)
【収入の部】
年会費収入 一、
三二六、
〇〇〇
総会会費収入一、三〇九、
〇〇〇
寄付金収入
九四、
〇〇〇
新聞広告収入 二二〇、
〇〇〇
本部活動助成金収入
一二七、
五〇〇
雑収入 三、三五二
前年度繰越金一、
一八七、
〇〇七
計 四、
二六六、八五九
※年会費納付者四四二人(前期
四六〇人)
。総会出席者数若
干増
○平成二十六年度収支予算書
【支出の部】
総会費
二、
一五〇、〇〇〇
運営費
一〇〇、〇〇〇
印刷費 四〇〇、〇〇〇
通信費
四五〇、〇〇〇
広報活動費
一〇〇、〇〇〇
編集費
一〇〇、〇〇〇
事務用品費 一〇、〇〇〇
交通費
二〇、〇〇〇
雑費
五〇、〇〇〇
次年度繰越金一、
三四八、
七九七
合計 四、
七二八、七九七
【収入の部】
年会費収入 一、
四五〇、〇〇〇
総会会費収入一、
四五〇、
〇〇〇
寄付金収入 一〇〇、〇〇〇
新聞広告収入 二四〇、〇〇〇
本部活動助成金収入
一二三、〇〇〇
雑収入
五、〇〇〇
前年度繰越金一、
三六〇、
七九七
合計 四、
七二八、七九七
※交通費は就活相談会への若手
OB派遣交通費の来期より本
部全額負担へ変更で減額。
私達の出会いと陵水会
二〇一四年の東京支部総会に
湯 浅 信 介(大 ) て 婚 約 報 告 の 場 を 設 け て 戴 き、
二〇一三年五月、私は同期の 守谷支部長をはじめ諸先輩方に
誘いで東京陵水会フェイスブッ 温かいお祝いの言葉を戴きまし
クの会に参加しました。錚々た たことは一生の思い出です。今
る諸先輩方と笑顔で話していて 後夫婦で人生を歩んでいく上で
印象に残ったのが妻となった友 の礎となりました。未熟者の二
枝でした。
人ですが力を合わせて頑張って
二〇一三年七月、東京支部総 いく所存です。今後ともよろし
会に初出席。多くの偉大な諸先 くお願い申し上げます。
輩方がおられ、私は完全に委縮
★ ★ ★
しておりましたが、支部主催の 陵水会総会に参加して
二次会、非公式の三次会と会を
高 野 直 樹(大 )
重ねるにつれ次第に楽しくお話
私が陵水会に参加した理由は、
が出来るようになりました。そ この大都会、東京に出てきたば
の場で彼女とは一言二言交わす かりで、少しでも力強い知り合
程度でしたが(彼女はそのこと いを増やしたかったからです。 結
を記憶していません)
、 諸 先 輩 果として学生時代に知り合えな
の応援やお酒の力もあり【?】
、 かった同級生や、多くの諸先輩
二〇一三年九月交際を始め二〇 方と知り合うことが出来ました。
一四年九月に入籍いたしまし
新入社員で右も左も判からな
た。
いまま三カ月が経過し、仕事や
将来の不安が日々増していった
時にこの陵水会総会に出席いた
しました。陵水会総会の場では、
そ う い っ た 新 入 社 員 の 悩 み を、
若手の諸先輩方に相談できまし
た。その結果、今後社内でどう
していけばいいのか、どういっ
た思いで仕事をこなして行けば
よいのかが見えてきました。
この東京では、多種多様な多
くの人々と出会えますが、やは
50
湯浅ご夫妻
62
相続税対策・申告、贈与税申告のご相談ならば
税理士法人ファースト会計事務所
法人税・所得税(確定申告)・相続税・贈与税
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松 澤 進 大学38回・平成2年卒
代表社員:公認会計士・税理士 ウインドサーフィン部第 6 代主将 会計士同好会昭和63年度会長
―4―
り同じ彦根の地で学びあった繋
がりは非常に大きいです。今後
ともこの繋がりを太くし、滋賀
大学卒業生として誇りを持っ
て、この日本の中心地で生きて
いきたいです。
★ ★ ★
総会に出席して
いう部分で異なってくると感じ 業部署に配属されてからも、何 人になりたてのこの時期に多く
ました。先輩のお言葉を聞いて か関わる業務などの時は私に期 の先輩方に話を伺ったことはと
から、日々の社会人生活に変化 待してくれたり、優しく教えて ても良い機会でした。総会時に
が 生 ま れ た と 実 感 し て い ま す。 下さることがあります。これも、 面識もない社会人として間もな
具体的に、私が会社の業務など 滋賀大学経済学部で勉学をしっ い私を受け入れてくださり、ア
を学んでいる時にも、会社のコ かりしたからこそ、このような ドバイスをしてくださった先輩
長い社会人生活の中で、この経
ストがかかっている。そのこと 社会人生活を送ることが出来て 方に感謝いたします。これから
を意識するようになり、自然と いると感じています。
岡 山 昌 輝(大 ) 大 学 生の時にはあまり感じる事
これら社会の厳しさや、彦根 験を初心に返るときにも思い出
緊張の中、大学と社会で多く の無かった、責任を持って積極 の地で滋賀大学で学んだことを すと思います。この機会で感じ
一方で、多くの方から新社会 のも、総会に参加しなかったら 学の卒業生が活躍している姿を
の経験をされた先輩方と御話を 的に学ぶ姿勢で働いています。 良かったと感じることが出来た たことを忘れず、社会で滋賀大
してみたく総会に参加させて戴
「おもてなしの仕組み……
京都花街に学ぶマネージメント」
(要約)
記念講演
きました。結果的に、多くの先 人として、滋賀大学の卒業生と 感じ取れなかった事です。社会 目指して行きます。
輩方と大学での話や社会の話な して頑張って社会で活躍して欲
しく感じたことを今でも覚えて
どをさせていただきとても良い しいと声を掛けられたことを嬉
経験になりました。
私が一番印象に残って居るの います。先輩方も、彦根の地で
は、先輩方から聞く社会の厳し 四年間学んだことが今の社会人
さでした。大学を卒業して、社 生活でも活かされていることが
会で多くの経験を積んだ先輩方 多々あるとおっしゃっていまし
からの御言葉は、身にしみるも た。その言葉を胸に今でも日々
のばかりでした。ある先輩から 生活しています。滋賀大学で学
社
「会人と大学生の違い』を聞か んでいてよかったと思ったこと
れました。私は、責任の重さが が、研修期間にありました。そ
大学生より重いものがあると応 れはマーケティングや簿記など、
えました。しかし、先輩の考え 大学時代に力を入れて学んでい
は少し異なるものでした。社会 たことが会社でも活用されてい
京都女子大 西 尾 久美子 教授
プロフィールをご紹介賜りま で三百五十年続く、京都花街(か
したように、私は一度普通の一 がい)をとりあげて経営の視点
般職OLとして、関西は某ガス で研究をさせていただきました。
会社というと一つしかない所で
今日は経営の視点だけではな
勤 務 を さ せ て い た だ き ま し た。 く、今話題になっております「お
それからもう一度学びたいとい もてなし」をちょっと解体する
う気持ちを、滋賀大学が応えて ようなお話をつなげさせていた
下さいました。社会人入試とい だきたいと思います。
大体、はなまち・花街はいく
人と大学生の違いは、お金を貰 ると紹介された時でした。講師 う仕組みをお持ちでして、一度
いところは、伝統産業が厳しい
と言われながら若手の人材を継
続的に育てていることです。
「おもてなし」、これ無形性で
すね、それから提供される時と
消 費 さ れ る 時 が 一 緒、 同 時 性。
サービスというのはモノのよう
に事前に形状比較をして、どん
なモノであるかということを予
期することが、お客様にとって
非常に難しい産業です。こうい
うところに、今は日本各地から
舞妓さんになりたいよ、といっ
てやって来る子がいます。ホー
ムページを見てやって来ますの
で、北は北海道、南は沖縄まで
出身者がいます。お家が困って
なる子は一人もいません。最近
の子たちは、組合のホームペー
ジを見て憧れてこの業界にやっ
て来ます。ですので、全く着物
も着られませんし、踊りのお稽
古もできません。そんな子達を
ど う い う ふ う に「 お も て な し 」
の人材に育てるのかということ
をご紹介します。
同時に育てるために秘訣にな
っている、現場で交わされる言
って勉強するか、お金を払って から、こんなこと知っている人 社会に出た人も広く学びの場に つ位あって、何人位いはるんで 葉を明らかにして、皆様方が実
勉強するかの違いでした。勉強 いるかと声を掛けられた時、自 加えましょうという仕組みに入 しょうか。事業規模を特定した 際のお仕事、お商売の中で後輩
するという姿は社会人になって 信を持って私は答えました。そ れ て い た だ い た お 蔭 で そ の 後、 いと思いまして、こちらをまず を育てていただくことの何らか
も変わらず、お金を貰って社会 れによってマーケティングの部 大学で、また大学院で学ばせて 最初に明らかにさせていただき のヒントにしていただければ有
人は勉強するという学ぶ姿勢と 署の方ともつながりができ、営 いただいて、こちらの地域産業 ます。それからこの業界の面白 難く存じます。
―5―
62
早速、京都の花街へと皆様を 定年がない、
そんなお仕事です。
ご案内したいと思います。軒を
このおもてなしの産業は分業
つらねたような小さなお家がな によって成り立っています。「お
らんでいるのが、この街の特徴 茶 屋 さ ん 」
、東京ではこの事業
でございます。四条の鴨川の橋 者がありませんので、東京生粋
の真ん中に立ってもらいますと、 の経営者の方はもしかしたらご
五つある街のうちの四つが、徒 存知ないかもしれません。この
歩二十分圏内に入ります。百軒 「 お 茶 屋 さ ん 」 は、 も て な し の
以上、この赤い提灯が下がって コーディネーターをしてはりま
いるようなお茶屋さんが集積し す。顧客の情報に基づいて、ど
て産業が繰り広げられています。 の芸妓さん、舞妓さんがいいの
ここで働いてはるのが芸妓さ か、どの料理屋さんでもてなし
たらいいのか、それを考えるコ
ーディネーター役をされている
事業者さんです。これが百軒以
上、
京都には現在もございます。
お茶屋さんの
「お座敷の場所」
は、限定されておりません。例
えば地方の金融機関、県名や府
名がついているような、そうい
う金融機関が海外の支店オープ
ンの時に舞妓さんをつれていっ
たはりします。舞妓さん二人と
お茶屋のお母さんを連れてシン
ガポール支店のオープン、その
地 の 名 士 が 全 部 や っ て き ま す。
写真を撮って新聞に広告してく
れます。ドバイの建設会社の支
店オープンに行ったという子も
おります。インドにまで出張す
る舞妓まで出てきました。経済
産業省のクールジャパンの仕事
で行ったそうです。信用のある
んと舞妓さんです。舞妓さんと
い う の は 概 ね 二 十 歳 以 下 で す。
中 学 卒 業 か、 高 校 卒 業 ぐ ら い、
若くて元気で素直な子達を迎え
入れて、一年位の教育準備期間
を経て、舞妓さんとしてデビュ
ーさせます。芸妓さんをやって
い る の は 二 十 歳 か 二 十 一 歳 位、
そのあと芸妓さんにならはると、
年齢に関係なくずっと現役です。
八十を出てはっても十分お仕事
をしていたはる人はぎょうさん
居やはります。芸妓さんたちは
お客様からのご紹介であれば世
界各国に行く、こういう形にな
っています。
そうすると芸歴の長い芸妓さ
ん も 必 要 だ し、 若 く て 元 気 で、
一泊三日でスイスに出張行って
きました、ということができる
ような十八歳とか十九歳の舞妓
さんも必要ということでチーム
を組み立てて、今では仕事をし
てはります。
現在三百人弱、京都には芸妓
さんと舞妓さんがいます。マク
ロ景気が崩壊しても、リーマン
ショックがあっても人数はほぼ
変わっておりません。私が最初
に研究を始めた時の東京の六花
街の芸者さんの数は現在半分以
下になっております。非常に厳
し い で す。「 お も て な し 」 と い
われる産業の中では、多分、京
都が世界中で独り立ち状況です。
宴会では立食とか客席のホテル
のパーティで、全員中国人、全
員ロシア人、こんな宴会に舞妓
さん達は平気で行っております。
こんな形で市場が広がっている
ので、人数がこの十数年変わっ
ていないという状況です。
若い妓を育てるのは大変やな
いかと。それに対応するのは「仕
組み」です。人材育成専門の事
業者がいるのです。これを京都
ではやかた(屋形 館
・ )と言い
ます。日本全国の共通語では置
屋といいます。
舞妓さんになりたいという子
も最近はインターンシップに受
け入れています。中二や中三の
夏休みにwebを見てやって来
る娘さんたちを一週間とか十日
体験に受け入れて、素養がある、
素直で元気や、という子は迎え
に来た保護者の面接もして引き
受けるのです。保護者面接しは
るのは秘密があります。最近の
若い子達、好きなことを見つけ
たら一生懸命気張らはりますが、
お父さんやお母さんが、うちの
子は好き嫌いが激しいから、何
時のテレビはつけてもらわない
といけない、スマホは必ず持た
せてもらう、というふうに要求
を一方的に、こればっかりして
ほしいと言わはることは、働く
のに向いていません。お客さん
の気持ちを汲み取ってみんなと
一緒にチームをしていかはるの
には、そういうことばっかり言
わはる親御さんのお嬢さんはち
ょっと受け入れられません、そ
んなことを確かめて今全国から
なりたいという人を引き受けて
いらっしゃる事業者が置屋さん
です。
経営者のことは、この業界で
は「 お か あ さ ん 」 と い い ま す。
芸妓さんは八十歳にならはって
も「 お ね え さ ん 」 と い い ま す。
皆様のようなお客さんが来はる
と、何歳であっても「おにいさ
ん」といいます。これはお客様
のプライバシーと顧客情報を守
るためです。お客様の名前を(普
通に)呼ぶと、どこで誰に会う
てはったという情報が全部抜け
てしまいますので、人に合わせ
て呼び方をちゃんとしていくん
です。
舞妓さんになりたいよと思っ
て置屋さんにやって来る、一年
位住み込みで言葉も教えてもら
います。学校が各街にあります
ので、踊りや日本舞踊で、流派
がいくつかありますので呼び方
が違います。それから茶道も必
須でございます。最近は、はや
く日本舞踊が習熟するようにと
いうことで鳴り物、リズム感を
持てるように太鼓とか鼓とかお
三味線なんかも十五や十六の子
に習わせます。一年位の基礎教
育期間を経て、日本舞踊のお師
匠さんの許可をもらうとデビュ
ーする。デビューしても、現場
には一日も行ったことがないの
でOJT(オン・ザ・ジョブ・
トレーニング)のメンターが付
き ま す。 こ れ が「 お ね え さ ん 」
―6―
と呼ばれる、名前を分けた芸妓
さんです。皆さんの中には、千
社 札( せ ん じ ゃ ふ だ )
・花名刺
をお持ちの方いらっしゃるかも
し れ ま せ ん。 小 さ な 札( ふ だ )
ですが、似た苗字、似た名前で
すかね、名前の一文字か二文字
をおねえさんから貰ってつけま
すので、
祇園町さんやったら
「ま
めのすじ」とか、上六軒やった
ら北野の天神さんにならって
「 梅 の す じ 」 と か い う 形 で、 ど
の人が誰々のおねえさんですと
いうことを明示して現場に出す
仕組みになっています。
こうするとクレーム情報がお
ねえさんに集まって、本人の指
導に役立てられます。マーケテ
ィング的に考えると、名前がバ
ラバラの方が早うお客さんに覚
えてもらえますが、お客さんに
一日でも早う、長くうってもら
うため、名前覚えてもろうても
技能が未熟やったら次から呼ん
で も ら え ま せ ん。 そ う す る と、
でけへんかった情報をみんなで
共有して、できるように指導し
ていく方が、顧客満足度があが
る、これが代々使われる京都の
芸妓さん、舞妓さんの名前のつ
けかたです。
キャリアパスという形でどう
いうステップになっているのか
は、ポイントがあります。一番
下に書いてますキャリアの節
目、舞妓さん、デビューしはっ
たら一年間、新人と分かる仕組
みになっています。顔の横にピ
ラピラピラーと長いかんざしが
ついたるのは、一年目のサイン
です。口紅も下しか一年目はぬ
れません。
一 年 経 っ た ら、 お ね え さ ん、
名前分けた人が許可をしてお紅
をぬっていきます。三年経つと
ヘアースタイルが変わる、五年
経つと、訪問着という既婚女性
のフォーマルウェアの着用です、
左 の 肩 だ け に 柄 が ご ざ い ま す。
舞妓さんは一年目から三年目位
は両方の肩に柄がある着物を着
て、三年目位になると、左の肩
だけになって、四、五年目位に
なって黒紋付になると、ここは
紋だけになります。一式が多分
帯一〇〇万、着物一〇〇万でも
でけへんと思います。五年やら
している間に三パターン、毎月、
衣装を変えますので億近い投資
をして育てていくという、そう
いう業界でございます。ちなみ
に装束が変わってゆくと、やる
気が出るんです。若い子たちに
とっては、舞妓さんになれてう
れしい、
次は早く口紅ぬりたい、
次はええお衣裳着せてもらいた
い、 え え と こ に よ っ て 欲 し い、
という形でキャリアの節目によ
って求められる能力が変わって、
また気張っていこか、が見える
仕組みです。
気合いと根性で気張れ、と言
うてもそれは無理です。仕事の
機会をうまく使いながら、本人
の立ち位置が分かるように示す
ので、私たちが言うモチベーシ
ョン、内発的動機付けといいま
す、お金で釣れない、できたら
嬉しいという、気持ちのコント
ロールがうまくできる仕組みに
なっています。
今ちらっと言いましたが、高
度経済成長で女性も高学歴化し
ましたね。私が大学へ行ったと
き、一九九〇年代後半は三割位
が、多分、女性やったと思いま
すが、今は半数位が女性になっ
ています。女性が高学歴化して
います。中卒で親の商売を継ぐ
と い う 女 の 子 は い な く な っ た。
そこで芸妓の卵を日本全国から
受け入れないとやっていけない
ということが昭和五〇年代頃に、
もう行われています。
京都以外の人を受け入れてで
も、地域のことを分かって、ち
ゃんとスキルを身につけてくれ
はる、おもてなしのプロになっ
てくれはるんやったらええんや
ないか、ということで育ててい
ます。育てた子には、ちゃんと
場を与えています。こういう踊
りの会、例えば、祇園甲部(ぎ
お ん こ う ぶ ) の 都 踊 り で す と、
四月一日から一ケ月間、一日四
公演、十万人のお客さんがやっ
て来ます。世界各国の観光客が
やってきて、その前の舞台で踊
ったらやる気が出ますよね。い
つも小人数のお座敷だけではな
くて、たくさんの人に見てもら
うと若い子の気持ちもハレがし
ます。
実は、この踊りの会、興行成
績を上げ人を育てて、しかも学
校の仕組みです。収益は学校に
入る仕組みになっています。こ
れ、明治五年からやっておりま
す。人を育てながらあがった収
益でやっていく。これ、京都が
一番困ったのですね。天皇陛下
が、東京へちょっと行くと言わ
はって、そのことで京都の産業
がすごく衰退した時に殖産興業
という形で、いろいろ策をいた
だ き ま し た。 そ の 中 の 一 つ が、
京都で博覧会をしよう、という
ことで、時の京都府知事が音頭
をとって博覧会をしました。文
物を並べてもお客さん来てくれ
はらへんので、博覧会の余興・
エンターテイメントとして始ま
ったのが、都踊り、鴨川踊りで
す。一年やったら、ものすごう
うまいこといったので興行権を
自分たちで持って、ここで人を
ちゃんと育てて、お客さんに喜
んでもらいながらやったらいい、
と い う 仕 組 み を つ く り ま し た。
これを真似たのが、小林一三さ
ん、宝塚歌劇です。それをさら
に真似たのが、若い方はご存知
と思いますがAKB です。伝
統産業といいながらも続いてい
くフレームワークは、やっぱり
経営に反映してピンと来る、こ
んなものがございます。
ここで育てている子たちは大
事 な の は「 座 持 ち 」、 か わ い い
だけでは売れません。「座持ち」
が大切です。「座持ち」即ち「お
もてなし」をするということは、
頭をつかうということです。「一
年 間、 ほ ぼ 何 も 覚 え ら れ へ ん、
振り返ったら何があったんか思
い出せへんぐらい、毎日毎日そ
の 場 を 考 え て 必 死 で し た 」、 二
年目の舞妓さんに教えてもらい
ました。
必死な彼女たちを支える仕組
みが必要です。舞妓さんになる
ためには基礎技能を学校で習い
ます。置屋さんに所属してます
から、帰ってきたら復習したり、
足りんとこを事業者ですから自
48
―7―
分とこが負担して教えます。で
たものを現場で出します。現場
で出したら、
本人が失敗したら、
家 に 報 告 す る の は 基 本 で す が、
名前を分けたねえさん方に情報
がまわるようにフィードバック
がされます。一緒にいた、
直接、
名前を分けたねえさんがいれば、
その子に、あの子歩き方きたな
いから言うたりやとか言われま
す。 今 の 芸 妓 は ん、 舞 妓 は ん、
みんなスマートフォン持っては
ります。
具合の悪い情報は一日、
いい情報でも、街中三日でまわ
るといわれるぐらい。
お客の様子を汲み取って、無
形性、同時性ですから、必ず改
訂していくことが必要になりま
す。今日、お家へ帰って、今日
何言われたかということを報告
して、忘れても他から入ってき
たことを基に直していく。こう
いうチャート図のような流れを、
事業者全部が連携をとってやっ
ていくところがこの産業の強み
です。
「おもてなし」とは何か、
個人のスーパーな人を想像され
るかもしれませんが、それやっ
たら産業として成り立ちません。
大切なことは、デビューする
子に、見たり聞いたり、自分が
とれる一次情報をちゃんと汲み
取りなさいということを教える、
そ し て そ れ を 基 に 自 分 の 行 動、
提供する形のないサービスを組
み立てる、気配り、推測して行
動することです。これを徹底す
れば、仕来たりに応じた振る舞
いができるようになります。
時期に応じてどんなお客さん
が来てくれはるのか、どういう
お料理屋さんで、どんな料理が
で る の か、 京 都 の お 祭 り す ら、
やってきた子たちは知りません
ので、気配りしてそれを続ける
と、入ってきた外部の情報を解
釈して、
心配りができるという、
顧客満足度の高いサービスがで
きる人材になります。
こういう、人を育ててゆくこ
とができないと街が続いていけ
ない。何故かというと、お茶屋
さんにとってはお客さんにつな
がることが一番大事です。芸妓
さん、舞妓さんに不出来なこと
があったら、次に来てくれはる
ときにはちゃう子を段取りしま
す、 と 言 え な い と い け ま せ ん。
新人の子も一定水準必ずあげて
ゆく、こういう取引関係で「一
見さんお断り」が成り立ってい
ます。
会計の話が出てまいりました
が、大事なことは与信管理でご
ざいます。カード払いできませ
ん。請求書送ったら、それで振
込んでいただくこと。どんな客
が良いかと聞けば、請求書送っ
て、翌日振込のあるお客という、
お商売ではあたりまえのことを
言わはります。いつもすぐ翌月
振り込んでくれはるのに、今月
ないなーと思ったら、ちょっと
この会社さん、しんどいのちゃ
うかな、この業界全体がしんど
いのとちがうのかな、という取
引先を考えていくための情報が
入ってまいります。簡単な請求
書送って、すぐにお金が欲しい
けれども、そうではなくて与信
管理をしていって、限られたス
ペースですから、どんなお客さ
んに喜んでもらうのか、お払い
がよくてリピートしてくれる人
の要望を汲み取っています。
この業界は、お客さんの満足
度をアップするために競争と協
業をしながらやっていく、こん
なビジネスの仕組みになってい
ます。
若い人をどううまく育てては
るのかな、ということで、現場
で言うたはる言葉を拾い集めま
した。その中から、あなたも明
日から舞妓さんになれる、とい
う三つを、今日はご紹介してお
話を締めようと思います。
一点目は、何か人にしていた
だいたら「ありがとう」と言う
こと。但しその後に、してくれ
はった人の職位とかお名前とか
を言いなさい。芸妓さんやった
ら「おおきに、○○さんねえさ
ん 」、 料 理 屋 さ ん の お か あ さ ん
やったら「おおきに、おかあさ
ん」と言いなさい。そうすると
周囲の人の顔と名前を一生懸命
覚えようと思います。言われて
悪い気がする人は世界中どこに
もいやしません。で、人間関係
ができていきます。
二点目は、新人は失敗するも
んやから、何かあったらすぐに
謝 り な さ い「 す ん ま へ ん 」、 と
言いなさいと言われます。何回
も謝ったら、でけへんとこを認
めてるということが分かるさか
い に、 次 に ど う し た ら え え か、
教えてくれはると。これが現場
で舞妓さんたちには素直で徹底
します。芸妓さんになるような
子になったら、謝ってたらええ
ことあったか?と聞いたら、「え
えこと教えてくれはります。さ
らに数年やってたら、謝ったと
きにきちんと指導をしてくれる
先輩と、してくれへん先輩と分
かります。誰を見本に、これか
らやっていったらいいかも理解
で き ま す 」。 情 報 が 蓄 積 し て い
くと、謝ってええかげんなこと
言う人、ほったらかしにする人
経営再建コンサルタント協同組合
理 事 長
公認会計士 長井和男(大22回)
〒103–0028 東京都中央区八重洲 1 − 5 − 4 共同ビル
(八重洲口)
505
TEL 03−5255−3511 FAX 03−5255−3512
E-mail : [email protected]
―8―
は、尊敬されへんな、というこ
とも分かってくるということで
ございます。でもこれは最初に
謝らへんとわかりません。
最後は「おたのもうします」
、
ということです。プロフェッシ
ョナルとして必須です。目配り
して、気配りして、そして自分
が仮説的な行動をします。それ
に 対 し て お 客 さ ん が、 合( お )
うてるとか、違うとか評価くれ
はらへんと検証できないですよ
ね。踊りを舞うとき、何か芸事
をだすとき、宴会に呼んでもう
たとき、お辞儀をしたるときと
同時に「おたのもうします」と
いうふうに、評価をくださいと
いうつもりで頭を下げるそうで
す。そういう雰囲気はお客さん
につながりますので、楽しかっ
たねとか、あるいはワシは日本
舞踊のことはよう分からへんけ
ど新人の去年の方が、何か一生
懸命なことがあったねとか、ち
ょっとしたことでも評価情報を
もらわへんと自分が伸びていき もかまわない。わかってくれは
ません。それを誘導するような るのであれば「おもてなし」は
姿勢の言葉、この三つを陵水会 ノンバーバルコミュニケーショ
に実践していただきたいと思い ンですから、気持ちがいいとい
ます。
うことを受け取ってくださる方
人材育成というのは時間がか
かります。その間の、時間を稼 こ ん に ち は
いでいくためには質のいい人に
会員制になって定期的に来ても 飯塚 浩彦 氏 (大 回)
らうことが必要です。儲かった (いいづか ひろひこ)
らすぐやめるわという仕組みで 株式会社産業経済新聞社(産経
はないような収益の安定性をつ 新聞)常務取締役を、去る九月
一九日(金)大手町の東京本社
くる、そうするとリピートのお を訪問しお話を伺いました。多
客さんの喜んだはる顔、あ、ち くのお話しをいただきましたが、
ょ っ と 今 日 は( ま ず か っ た か 紙幅上少なからず割愛した部分
な?)ということも顔色ひとつ があることを了承下さい。
で分かって、よいサービスをさ ――本日はお忙しいところ、あ
がしていけるようになります。 りがとうございます。さっきか
そうしたお客さんに紹介をし ら少し関西言葉のイントネーシ
てもらう、そうすると広告宣伝 ョ ン が 懐 か し か っ た の で す が、
の費用が減りますよね。紹介者 ご出身は?
があるということは、信用、こ 飯塚 はい、兵庫県の旧揖保郡
れも与信なんですね。もし、新 です。龍野高校出身で、一年京
しいお客さんが来て、払(はろ) 都で浪人して、遅れて大学へ入
てくれはらへんかったら紹介者 りました。
が支払う、それぐらいの気持ち ――当時は何人位でしたか?
をもってお客さんに紹介します。 飯塚 当時はもう四〇〇人に近
その代りここでないと出来ない かったのではないかと思います。
サービスを必ず提供すると、提 ――学科もだいぶ増えていたん
供できるクオリティを保つ、そ じゃないですか?
れをして、それに応じたお客さ 飯塚 はい、私は管理科学科で
んをつくっていく。
す。多分、先輩方の頃にはなか
お客さんは日本人じゃなくて ったと思うんですけれども、経
29
なら世界中どこでもかまへんと、
こういう仕組みになっていま
す。質と競争力を保つためのキ
ーポイントということで、お話
をまとめさせていただきます。
済、 経 営 の ほ か、 管 理 科 学 科、
会計学科がありました。管理科
学というのはコンピュータとか
経営管理なんかもやると思うん
ですが、あまり勉強しなかった
のでよく分からないんです。電
子計算機総論とかがありました
ですね。そういうのが丁度ハシ
リの頃で面白いかなと思って入
ったんですけど、ついて行けま
せんでした。必須科目だけ押さ
えたら一応そこの卒業にしてく
れますので管理科学科卒業、と
いうことになっていますが何に
も分かりません(笑)。
―― 学 生 時 代 は ど う で し た か、
結構楽しく過ごされましたです
か?
飯 塚 僕 は 落 語 研 究 会 で し た。
僕らが一回生に入った時に入れ
替わりで卒業された先輩たちが
落語研究会の最後の方々だった
んです。誰も居らんようになっ
てしまい全く先輩なしでもう一
度、一から作り直しでした。先
輩方の時はクラブでしたが、僕
らは同好会へ格下げで、五人ほ
どで始めたんです。
―― い わ ゆ る 落 研( お ち け ん )
というものですね?
飯塚 はい、彦根は名古屋と京
都の間ということで、名古屋は
関西弁ではない。で、愛知県と
岐阜県出身の同級生は江戸落語
をやって、僕と京都と近江八幡
出身の三人が上方落語をやりま
した。喋り方が全然違うんです
ね。こういうのをちょっとやっ
ていたら、今度は大学祭の実行
委員会に誰か出て来いというこ
と に な っ た。 こ れ が 面 白 く て、
結局落語研究会はほったらかし
て大学祭の実行委員ばかりやっ
ていました。これは面白かった
で す。 桂 枝 雀 さ ん を 呼 ん だ り、
桂米朝さんを呼んだり…。大学
のあの講堂へですね。二回生の
時に枝雀さんを呼んで、三回生
の時に米朝さんだったと思いま
す。枝雀さんが全盛期で、四回
生 の 時 に も う 一 回 呼 び ま し た。
本当に面白かったです。そんな
ことから、こういうことが大好
―9―
きになってしまいました。
れにも出ました。児玉清さんが ね
「 飯 塚 君、 君 は 和 歌 山 支 局 へ 行 任しても買うお金がありません。
――それは楽しいですね。交渉 司会で、
「アタックチャンス!」 飯塚 ええ、面白かったですよ。 ってもらう」と言われたんです。 すると、先輩が救いの手を差し
をやる訳でしょう、タレントと とやるやつです。番組がスター そ ん な こ と し て 遊 ん で ま し た。「 え っ? い や 僕 は 兵 庫 サ ン ケ 伸べてくれました。当時、給料
の
トしてまだ一、二年目だったと その流れの中で、本当はテレビ イ受けたんですけど…」と言っ が十一万円くらいでした。六万
飯塚 そうです。大阪の桂米朝 思います。
局へ行きたかったんです。それ た ら、「 表 向 き は 地 域 会 社 採 用 円余りのキャノンAE― とい
事務所へ行って交渉しましたね。 ――あれはしかし相当知識がな でテレビ局をいろいろ受けたん の形にしているけど、産経新聞 うカメラを先輩が「これ、オレ
学 生 で す か ら ソ コ 頼 み ま す わ、 いと…
ですけど、今から考えるとなか 社という採用を今はやっていな が 立 て 替 え て 買 う て や る か ら、
とか泣き言を言って安くしても 飯塚 はい、予選会があってク なか厳しかった、入れてもらえ いのでそういう格好にしている 三 ケ 月 間 二 万 円 ず つ オ レ に 払
らったり、近江商人の〝士魂商 イズの質問に答えるんです。二 なかったんですよ。その時に同 だけ。配属はコッチで決めるか え」という訳ですよ。ありがた
才〟で…。本当に面白かったで 十問の設問があって十四問以上 じマスコミやからと、新聞社も ら」と言われて…。大阪本社で かったです。ただし、そんな甘
す。
そのイベント好きが高じて、 答えないと予選を通過できない 受 け た ん で す。 産 経 新 聞 社 も。 同期七人が内定をもらってその い言葉には裏がありました。「そ
TV出演にもいろいろチャレン んです。
なかなか難しいんです。 ここも変な会社なんですよ。
場で誓約書にハン押していると の代わり二万円払うとシンドイ
ジしました。
十五問解けて本番出してもらっ
き に、「 兵 庫 サ ン ケ イ へ 入 っ て やろから、お前はこれからココ
――TV出演をしたんですか? た ん で す。 と こ ろ が 本 番 で は、
姫路に帰れると思ったのに和歌 に住め」と…。会社の宿直室で
飯塚 はい、当時は「プロポー おっちょこちょいですからボタ
山へ配属になるんやったらちょ すわ。新聞社ですから、毎日誰
ズ大作戦」や「パンチ デート」 ン を 押 し ま く っ た ん で す。 私、
っと考えさせて下さい」と保留 か交代で泊まり勤務をしていま
といった視聴者参加番組が花盛 緑色のパネルだったんですけど、
して彦根に帰りました。一週間 す。そこに泊まれという訳です。
りでした。ご存知かどうか分か 最初の一問目を正解して、二問
ほどして産経新聞の人事から下 ボストンバッグひとつ持って和
り ま せ ん け ど、
「 ラ ブ・ ア タ ッ 目を誰かにとられて、三問目ま
宿へ電話があって「一生和歌山 歌山へ行ったんですけど、その
ク!」
という番組がありました。 た正解して、ボードのパネルは
におれと言うのと違うから、印 日 か ら そ こ へ 住 み 込 み で す わ
上岡龍太郎さんが司会です。か 緑・緑・緑…。 のうち、最初
鑑 持 っ て 出 て 来 い 」 と 言 わ れ、(笑)。今だったらブラック企業
ぐや姫の女の子の下で男どもが、 に三枚が全部緑になって、内心 ――いやいやいや…
大阪へ出て行ってハン押したの ですよ。狭い宿直室にベッドが
第一部では木を切ったり早食い 「 こ れ で も う ヨ ー ロ ッ パ へ 行 け 飯塚 地域会社に分けていまし が運の尽きです。そういうわけ 二つあって、本来の泊り勤務の
競争したりして一番になったら、 るな」
と思っていたんです(笑)。 てね、兵庫サンケイ新聞社、神 で、どうしても新聞記者になり 先輩と、それから毎日同宿です。
か ぐ や 姫 に ア タ ッ ク す る 権 利、 ところが、
途中で二回お手付き。 戸サンケイ新聞社、京都サンケ たかった訳ではないんです。
ボ ク は こ う い う 性 格 で す か ら、
チャンスがあるんです。第二部 当時は一度立つと三問ご辛抱だ イ新聞社とか地域ごとに分けて ――そうすると、まず第一歩は まあエエわと思って、風呂だけ
はまた違うメンバーでやる訳で ったんです。二回立ったから六 いるんです。兵庫サンケイは姫 和歌山支局で?
銭湯へ行って、宿直室で寝泊ま
すけど、歌ったり自己PRをし 問答えられない、全部で九問も 路なんですよ。ちょうどエエわ、 飯 塚 は い、 和 歌 山 支 局 で す、 りしていました。支局員は八日
たりするんです。それに出まし 答えたんですが、二問間違えた コレ受けよ、長男やし、実家で やってみると面白いんですよね、 に一度くらい宿直勤務をするん
た。滋賀大では初めての出演で おかげで終わってみたらビリで 田んぼしながら記者できるし… こ の 仕 事。 今 で も そ う で す が、 です。みんな新人の僕をかわい
した。関西テレビの「恋のトリ すわ。緑のパネルは三枚しか残 (笑)。で、受けたら、運良くか 最初は警察を担当します。いわ がってくれました。毎朝、朝食
プルチャンス」
にも出ましたね。 ってない(笑)
。
悪くかしらないけれど通っちゃ ゆるサツ回りです。みんなカメ は近くの喫茶店にモーニングセ
「 パ ネ ル ク イ ズ ア タ ッ ク 」 あ ――しかし楽しい学生生活です って…。人事部に呼び出されて ラも自前なんですが、四月に着 ットの出前を頼むんです。その
DE
25
25
1
― 10 ―
時に、いつもおごってもらえる
ん で す よ。
「 朝 食 代 が 浮 く し、
こ れ は エ エ な 」 と 内 心 思 っ て、
三ケ月が過ぎてもしばらく住ん
でいました。そしたらしまいに
先輩たちが「お前、いつまでコ
コにおるねん? 早よ出て行け
ー」って追い出されてしまいま
した。十一月になっていました
(笑)
。
――じゅうぶんカメラ代はでま
したね
飯塚 はい。それに、良かった
のはやっぱり厳しい先輩がいて、
警察関係の夜回り取材を毎日さ
せられたことでした。和歌山に
届く新聞の締切時間は夜十一時
半頃なんです。それまでに起き
た事件や事故のニュースはでき
る限り入れるようにします。夜
になったら宿直勤務の支局員は
支局で待機して、定時になった
ら警察へ電話を入れて、事件や
事故が起きていないか取材をし
ています。何もなければ、ゆっ
くりテレビを見たりしているの
ですが、僕も一緒にテレビなん
か 見 て い た ら、
「何してんねん
お前!こんなとこに居っても仕
事にならんやろ。外回って来ん
かい!」と毎日支局から追い出
されました。締め切り時間の夜
十一時半頃までは、支局には帰
れないんですよ。自分が寝ると
ころは支局なのに…(笑)。
――和歌山の後、支局もいろい
ろ回られて?
飯塚 和歌山が三年半、その後
大阪本社の社会部へ行きました。
そ こ で 大 阪 府 警 と か 大 阪 府 庁、
大阪空港とかを担当しながら十
年ほどいました。その後京都支
局のデスク(次長)で、また大
阪社会部のデスクに戻り、一九
九九年に広島支局長に行ったん
です。ここで一年やって、また
大阪へ戻って秘書室へ行かされ
たんです、大阪本社代表の専務
の秘書を二年やりました。その
当時の大阪代表だった方が前の
社 長 で し た。
「お前もいっぺん
東京勤務をせなアカンぞ」と言
わ れ、
「社会部は大阪で十年も
やって、事件・事故の取材は十
分させてもらったから他のとこ
ろをさせて貰いたいですね、政
治部とか面白そうですね。ただ
外信部、国際取材ですね、これ
は勘弁して下さい、英語できま
せんし」と勝手なことを言って
い た ら、
「お前が英語ができな
いのはよく分かったよ、この二
年間で」と笑われ、フタ開けた
ら経済部へ放り込まれたんです
よ。
「 お 前、 経 済 学 部 や っ た や
ろ?」って…。で、経済部のデ
スクですわ。京都支局や大阪社 能。学生時代彦根でもっと勉強
会部でデスクをやって若い記者 し て お く べ き で し た( 笑 )。 現
に「 ど ん な 記 事 書 い て ん ね ん、 場 の 記 者 か ら、「 竹 中 金 融 大 臣
ボケ!」とか偉そうにやってた がこんなことを言ってます」「オ
んですが、経済部に来たら要領 ッ、それは一面に入れたらエエ
を得ません。全然分かりません、 ん か?」「 い や、 一 面 は 要 ら な
経済部のデスクの感覚が…。
い と 思 い ま す よ 」「 そ れ じ ゃ 二
――ウーン
面 か、 三 面 か?」「 い や、 経 済
飯塚 当時、竹中平蔵さんが金 面の三段見出しくらいでええん
融 担 当 大 臣 を や っ て い ま し た、 と ち が い ま す か 」「 あ ー そ う か
小泉政権だったんですね。経済 …」と現場の記者との珍問答で
部のデスクは、現場から送って す。情けない話です。経済部に
は 五 人 の デ ス ク が い ま し た が、
素人の僕が一番古株でした。そ
の古株のデスクがこんな調子で
したから、僕が当番の時は他の
デ ス ク は 帰 ら れ へ ん の で す わ、
どんな紙面を作るのか心配で…
(笑)。周りのみんなに助けても
ら い な が ら 経 済 部 の デ ス ク を、
なんとか二年やることができま
した。その後、大阪に戻って社
会部長です。社会部長の時に一
番大きかったのは尼崎のJR福
知山線脱線事故ですね。福知山
線で脱線事故という一報を聞い
ても、イメージがわかなかった。
と こ ろ が、 ど こ か の テ レ ビ で、
ヘリコプターからの現場映像が
出て、大騒ぎになった。夕刊の
作 業 を し て い た ん で す が、「 こ
りゃアカン」ということになり、
号 外 づ く り に 切 り 替 え ま し た。
くる記事をチェックするんです
が、その前に午後三時頃になっ
たら、出先の記者に朝刊用の出
稿の予定を尋ねるんです。財務
省や金融庁、日銀、証券、流通
などの現場の担当記者に「きょ
うは何かあるかー?」って。ま
だミクロ経済の方は何とか理解
できそうですが、マクロ経済の
方は全然わかりません。国際経
済とか、GDPとかドル高円安
とか…。社会部出身には理解不
あとは大騒ぎ…。それから、大
阪の編集局長をやっていた時に
起きたのが東日本大震災でした。
大阪からも記者やカメラマンを
現地へ向かわせ、東京本社の支
援をしていたんですけれど、そ
のさなかに社長から「異動の内
示をするから東京本社に出てこ
い」と言われ、震災一週間後の
三月十八日に東京に出て行った
んです。街の電灯が消え、コン
ビニの棚もガラガラ、何もなか
ったですわ。で、社長室へ入る
と社長から言われたのは四月一
日付で東京本社の編集局長。「え
っ? こ ん な 時 期 に や り ま っ
か?」と思わず言ってしまいま
した。その社長は僕が大阪で秘
書をやってた時の大阪代表でし
た。「この時期だからやるんだ。
四月一日からお前、こっちで勤
務や!」と…。みんな東電福島
原発事故での放射能を気にして
関西へ逃げようというような人
も多かったころです。この時期
に東京? エラいことになった
なーというのが実感でした。で、
東 京 の 編 集 局 長 を 二 年 や っ て、
去年の六月の役員改選にあわせ
て編集・論説担当ということに
なりました。正直に言って、僕
は 大 阪 の 社 会 部 育 ち で す か ら、
政 治 や 外 交 と い っ た 難 し い 話、
― 11 ―
専門的な話はよく分かりません。
担当者には「任せるわ、結果責
任はオレが取るから思い切って
やれ」って言うてます(笑)
。
――若い頃からずーっとこの報
道関係で、一番苦労されるとい
うのは何ですか?
飯塚 まあ一言で言うのは難し
いですけど、新聞記者であるこ
とそのものが苦労なんですけど
ね。皆さんご存知ないと思いま
すけれど、実は夜中の三時に各
新聞社がその日の朝刊を交換し
てくるんですよ。締切が大体一
時半なんですね、夜中の…。一
時半に最終締切があって、その
日 の 仕 事 は と り あ え ず 終 わ り。
印刷を始めますね、その新聞の
刷り上がりを各社で交換するん
です。ウチの新聞、今日はこん
な新聞です、と。もう、締め切
り時間は過ぎていますので、そ
の時間からカンニングして記事
を載せようとしても無理。夜中
の三時の各紙交換からが大変な
んです。それぞれいろんなニュ
ースを載せてますが、特ダネを
ボーンと書かれていたりしたら、
「 抜 か れ た!」 と な る 訳 で す。
その担当記者は夜中の三時に叩
き起こされることになるんです。
例えば、僕だったら事件取材を
やっていたから、注目されてい
る大きな事件で「容疑者、きょ
うにも逮捕へ」というのを他紙
にドカンと書かれていたらアウ
トです。
「こんなん載ってるゾ」
と叩き起こされ、朝イチでその
記事の事実確認をしなければな
らないわけです。事実なら夕刊
に送らなあかん、今だったらイ
ンターネットのニュース用にも
っ と 早 く 送 ら な あ か ん か ら …。
こ れ は、 な か な か 辛 い で す よ。
記者クラブの中でいつも仲良く
している他紙の記者に抜かれて
それを追いかけるのも辛いです
けど、あした休みやと思って寝
たところを夜中三時に起こされ
て、それを追いかけなければな
らないのもつらいです。未明か
らクソーっと思いながら、手配
した車に乗りこんで、途中のコ
ンビニで、届いたばかりの他紙
を買って読みながら捜査員の家
へ 行 く ん で す。「 こ の 記 事、 ど
ないでっしゃろか?」って(笑)。
これが逆だったら、これほど面
白いことはない。自分がスクー
プした記事でライバル紙の記者
たちが朝から走り回っていると
思うと…。この面白さを一度味
わってしまうと、病み付きにな
ってしまうんですよ、記者はみ
んな。まぁ、ゲームみたいな感
覚でしょうか。また、特ダネ書
いた時は、別のしんどさもあり
ます。自信をもって特ダネを書
いているわけですが、発表があ
っ た わ け で は な い の で、 内 心、
不安もあるんですよ、間違って
いたらどうしようって…。この
スリルが面白いんでしょうかね、
この仕事は。こんなことしてい
るのは事件担当記者だけじゃな
いんです。政治部の記者は政治
家のところへ、経済部の記者は
企業の社長のところや経済官庁
の役人のところへ朝から走り回
っているんです。
――まあ色々あって席の暖たま
る時なんてないですね
飯塚 先日、朝日新聞の記者会
見ご覧になったどうか分かりま
せんけど、編集担当の役員が解
職になってましたよね。あの人
はうちの社では僕にあたるんで
すね、編集担当ですから。解職
はやむを得ない、明日は我が身
やなと思いながら、ネットで生
中継されていたあの記者会見を
見ていました。うちの記者連中
は中継を見ながら「突っ込みが
甘いぞ!」とか言ってましたけ
ど、僕は逆に、会見している編
集担当の立場で、今の答えはま
ずいなあ、なんて思いながら見
ちゃいましたね。
――なるほどねー
飯塚 朝日さんは、今回、慰安
婦 問 題 で の「 吉 田 証 言 」、 東 電
福 島 原 発 事 故 で の「 吉 田 調 書 」
という二つのことで謝罪するこ
とになりましたけど、両方とも
産経新聞が間違いを指摘したん
です。吉田証言については、朝
日さんは昭和五十七年にとりあ
げたんですね。済州島へ行って
暴力的・強制的に女性を大勢連
れ出して慰安婦にしたという吉
田清治なる人物の作り話を書い
た。それを産経が平成四年にな
って、女性を強制的に連れ去っ
て慰安婦にしたという事実は確
認 で き な い と 指 摘 し た ん で す。
千葉大学の教授だった秦郁彦さ
んが現地の調査をしたらそんな
話は一切出てこないし、まして
や二〇〇人も拉致してたら絶対
― 12 ―
掲載した十六本の記事を取り消
しましたね。しかし謝罪がなか
った、と言ってまた燃えあがっ
てしまった。そうこうしている
時に八月十八日に今度は、東電
の「吉田調書」について朝日新
聞が五月に掲載した記事は違う
よと産経が紙面で指摘したんで
す。朝日さんは五月に調書を独
占入手して、九割の所員が所長
命令に違反して逃げ出したとの
記 事 を ド ー ン と 書 い た。 一 瞬、
やられたぁ、
と思いましたよね。
けれど、関係者の取材をすると
どうも違う。にもかかわらず朝
日さんの記事が海外へ転電され
て、韓国のセウォル号事件の船
長と同じだという風に書かれた
りして貶められ、日本への信頼
は一体何だったんだというよう
な感じで広がってしまった。遅
ればせながら産経が「吉田調書」
を入手したのは七月末なんです
けど、何度読んでも朝日新聞の
書いた記事のようなことは書か
れていないんですよね。事実と
違うのじゃないか?吉田昌郎・
元福島第一原発所長が退避命令
を出して、それが言葉の行き違
いで所員が第二原発まで勝手に
行っちゃったけれど、それは所
長命令に違反して撤退した訳じ
ゃない。吉田所長も第二原発ま
で退避したことについて、それ
はそれでよかったと認めている
んですよね。そこで、産経は朝
日とは全く反対の記事を書いた
わけです。いったいどっちが正
しいんだということになりまし
た。すると間もなく読売新聞や
共同通信なども調書を入手した。
そして、産経と同じスタンスで
朝日さんの記事のようなことは
な か っ た と 書 い た ん で す よ ね。
それで、九月十一日の社長のお
詫び会見ということになったん
です。朝日新聞は僕も学生時代、
ずっととってました。クオリィ
ティペーパーといわれ、日本で
一番信頼できる新聞だと僕自身
も当時は思っていたんです。外
国でもおそらくそう思われてい
るのでしょう。だから、間違っ
た記事でも海外のメディアに転
電 さ れ る ん で す よ ね。「 吉 田 証
言」も「吉田調書」もたまたま
産経新聞が問題を指摘したんで
すけど、うちは朝日批判のため
に記事を書いているわけではな
いんですよね。あくまで「事実」
を 追 求 し て い こ う と。「 明 日 は
我が身」にならないようにしな
ければとつくづく思っています。
今回の問題で、メディアのあり
方とか危機管理のあり方とかを
いろいろ考えさせられました。
――今度の朝日の問題をみても、
おっしゃる通り報道の難しさと
いうか色々あるなと思いますね
飯塚 新聞社にはそれぞれ主張
があります。たとえば朝日さん
だったら反原発、それはそれで
僕はいいと思うんです。産経新
聞は、今、原発を止めたら日本
経済はダメージが大きいから世
界最強の安全策をとった上で原
発再稼働をやるべきだというの
がスタンスなんですけどね。ス
タンスはそれぞれがあっていい
と 思 う ん で す が、「 事 実 」 を そ
れに寄せようとするとやっぱり
無理が出ます。事実を捻じ曲げ
てしまってはダメです。事実は
事実として伝えなきゃならない
ということは、編集局の部長会
でも口を酸っぱくして言ってい
ます。
――報道の厳しさがそこらへん
にあるんですね。我々読者も紙
面を受けてアーと思ったりする
んですけど、そこから世論が形
成されるとしたら非常に大変で
すね
飯塚 大変です。朝日は我々以
上に海外への発信力があります
し、やっぱり日本国内のウエイ
トからいったら部数は読売が一
番といっても、朝日の方が信用、
信 頼 性 は 高 か っ た と 思 い ま す。
― 13 ―
僕が言うのも変な話なんですけ
ど、その朝日さんがああいうこ
とになったから、朝日新聞だけ
の問題じゃなくて、あの朝日で
すらこれやからということで新
聞の信頼そのものが揺らいでし
まうんじゃないかな、と非常に
懸念しています。そんなこと思
っているこの頃なんです。
――今日はお忙しいところ貴重
なお話をありがとうございまし
た。
「東京陵水」紙の
バックナンバーについて
本紙第百号で、その当時ま
でに保存していた「東京陵水」
バックナンバーにより百号ま
での経過を回顧した。その後
バックナンバーに相当の不足
があり、第一号の発行が何時
だったのかということも明確
に出来なかった。
そこで提供を呼びかけたと
ころ幸いにして創刊号が昨年
度提供され、本紙の誕生期日
が明確となった。
平成二十六年十一月に東京
支部髙木早苗氏(本 )によ
り数号のご提供をいただいた。
未だ確保されていない号は
・ ・ ・ ・ ・ ・
・ ・ ・ ・ ・ ・
号である。更なるご協力を願
いたい。
24
46 11
47
12
48
13
56
18
71
その島の中で語り継がれて日本
人を許してくれませんよね。と
ころが島中探してもそんな話を
だれも聞いたことがない。だか
らこういうのはあり得ない、
と。
それを雑誌「正論」と産経新聞
で指摘して、これはおかしいん
じゃないかと伝えたんですよね。
そこから議論がいろいろ出て来
て、どうなんだ?強制連行があ
ったのか、どうなのかというこ
とで、今に至っています。朝日
さんは、途中から強制連行とい
うことはあまり言わなくなって、
自由を束縛されていたんだから
強制性はあったんだとか、女性
の人権の問題だと話をすり替え
ようとしているところもありま
したね。それでいろんなところ
で批判を浴びていました。今年
の八月五日、六日に紙面で特集
を組んで検証記事を載せ、そこ
で「 吉 田 証 言 は 信 用 で き な い 」
という結論に至ったと、過去に
21 8
23 9
りもヨーロッパ中心世界の転換
大学という空間の変貌
であった。同じく歴史家のホブ
一橋大学名誉教授
ズボウムは、二〇世紀を「極端
伊豫谷 登士翁(大 ) な時代」と名付け、人類史上最
悪の二度の世界戦争を含めた大
量殺戮と未曾有の豊かさを実現
した「黄金の六十年代」の、表
面上は対照的な二つの出来事に
よって特徴づけられる時代であ
り、この二つの大きな出来事が
グローバル化といわれるその後
の世界を形作ったと言う。ここ
で言うグローバル化とは、たん
に国境を越える経済や政治ある
いは社会的な活動の拡大だけを
指すのではなく、人々の価値観
や規範、さらには知の枠組みの
転換を含んでいる。
あれからほぼ半世紀、大学も
大きな転換点を迎えている。グ
ローバリゼーションというさま
ざまな軸線がひかれる問題系の
出現によって、大学の存在を支
えてきた基盤が大きく変化して
きているからでもある。これま
でも大学は時代の要請に応じて
変貌を遂げてきた。いま大学に
求められているのはグローバル
化に対応した人材の育成であり、
さまざまなランキングが大学を
脅かしている。大学はグローバ
ル戦略で生き残るのか、それと
もローカル戦略かの選択に迫ら
一
どの世代にとっても彦根で過
ごした時期は忘れ難いであろう。
わたしが過ごした一九六〇年代
末から七十年代初めは時代の大
きな転換点であり、その後およ
そ半世紀近く、大学という場で
抱え込んできたテーマは、その
「転換」と向き合うことであっ
たように思う。高度経済成長が
終わりを迎え、個人主義が学生
の中にも浸透してきていた。戦
後体制と言われてきたものが揺
らいだ六十年代末が、日本だけ
でなく、世界的にも転換期であ
ったことは、
広く知られている。
しかし、いまだから言えること
であるが、それはたんにいわゆ
る戦後体制だけではなく、近代
と呼ばれた時代にとって大きな
転換であった。
われわれ世代がこぞって読ん
だ『歴史とは何か』という名著
のなかで、E.
H.
カーはこの時
期を有史以来の大きな変化の時
代であったと述べていた。カー
の頭にあったのは、いわゆる植
民地体制の崩壊あるいはアジア
/アフリカの覚醒であり、何よ
れているかのようでもある。し
かし近代が問い直されているい
ま、グローバルかローカルかと
いう問題の立て方そのものが間
違いなのである。
大学という空間、そこで研究
したり学んだりすること、すな
わち大学という制度の中での知
のあり方が劇的に変化している。
大学は、海外との競争に晒され
るが、企業と同じような収益や
効 率 で 計 り 得 る も の で は な く、
抱える課題は複雑かつ深刻であ
る。これは、少子化などによる
大学人口の減少や大学のいくつ
かが消滅するといった問題では
ない。いまは想像できないかも
しれないが、大学という制度や
形 す ら 無 く な る か も し れ な い、
そういった危機感を、大学とい
う場にいる多くの人たちは抱い
ている。
二
グローバリゼーションという
研究領域は、国家という境界の
なかで解決しえない課題に取り
組もうとしている。国境を越え
た 標 準 化 は、 経 済 だ け で な く、
法や政治、さらには家族制度を
含 め た 社 会 に ま で 及 ん で い る。
経済活動は言うに及ばず、各国
の国内の法は、人権や環境とい
った国際的なレジームに従わな
け れ ば な ら な い。 会 計 制 度 は、
国際会計基準の時代である。文
化や社会が直面する課題は、政
治や経済と絡まり、グローバル
化している。しかし、大学の制
度の多くは、総力戦といわれた
時代に専門分野に分化し、体系
化され、制度化されたものを引
き継いできた。すべての資源を
戦 争 へ と 動 員 す る 総 力 戦 期 に、
大学も国家的な要請にしたがっ
て、プロジェクト的な研究体制
を 整 備 し、 ま た 官 僚 や 技 術 者、
管理者などを育成する制度を作
り出した。各学部のなかの専門
分野は、そうした要請に応えた
ものであった。大学は、高度に
システム化した社会を政策的に
動かす知の体系を作り出してき
たのであり、暗黙のうちに前提
としてきたのは、ナショナルな
境界であり、関心であった。
しかしいま社会科学は、専門
分野の境界とともに、ナショナ
ルな境界あるいは枠組みそのも
のの融解に直面している。ナシ
ョナルなものとグローバルなも
のは、対立するのではなく、補
完的であり、グローバリゼーシ
ョンは、ナショナルな体制を利
用しながら、それを組みかえて
進行している。そのことに対応
するには、これまでの自然科学
と社会/人文科学といった分類、
経済学や法学といった個々の学
問分野を越えた研究体制、そし
て大学におけるカリキュラムが
必要であり、既存の学問分野を
組みかえなければならないであ
ろう。
これまでも新しい課題に無関
心であったわけではなく、さま
ざまな学問分野では、グローバ
ル化によって引き起こされてき
た諸課題に取り組んできた。大
学 の 教 育 に と っ て の 課 題 は、
個々の分野で一つひとつ丹念に
取り上げられてきた研究をワン
ストップで学びうるような制度
かもしれない。一時期流行した
学際的学部やいま群生しつつあ
る グ ロ ー バ ル を 冠 し た 学 部 は、
果たしてこうした課題に答え得
たのだろうか。これらは、もと
もと、従来の学問分野のたんな
る寄せ集めではなく、新たな課
題を担う領域として生まれ、長
期的な視野で構想することが求
められるはずである。さらに根
底にある課題としては、ナショ
ナルな分析単位を前提としてき
た学問、方法的なナショナリズ
ムを越える学的関心に挑むこと
であろう。
研究者の中には、こうした課
― 14 ―
19
題を抱え込んでいる人たちは多
い。海外で最先端の研究に取り
組んでいる日本人研究者も多い。
野心的なテーマに挑んでいる若
手の研究者も、次々と台頭して
きている。ただ、いまの日本の
大学という制度では、そうした
人たちを掬いとるような回路は、
残念ながら限られている。この
ままでは、メジャーリーグが日
本のプロ野球球団を二軍化して
きているように、日本のいわゆ
る有力大学は、アイビーリーグ
などの英米有力大学の予備校化
しつつあり、
さらにその裾野に、
これまで以上に序列化された大
学が取り残されることになる。
いま、大学の制度改革のキー
ワードは、グローバル人材の育
成である。グローバルあるいは
それに類する語を掲げる大学や
学 部 は ゆ う に 百 を 越 え て い る。
しかし流行としてのグローバル
人材の育成事業から、次代を担
い う る 人 材 が 育 つ で あ ろ う か。
経済学も、いまでは世界のどこ
においても同じマニュアル化さ
れたカリキュラムで教育される
ようになってきている。世界に
通用する共通した言語や枠組み
は必要である。
しかし現状では、
各大学の特色は失われて、ミニ
チュア化するのではないか。
これなどはレッキとした川柳 愛妻を
ですね。私の入会している川柳 孫に取られて冬の床
句会では投句者を入れ、約一三 隙間から
〇名が三句ずつ投句します。四 不機嫌そうなドアチエン(隙
間)
〇〇句近い句から五〇~六〇句 白線から
出ないあなたが焦れったい
しか抜かれません(選者に選ば
れ る こ と )。 私 の レ ベ ル で は 全
(焦れる)
没などという憂き目に会う日も 汗臭い
ありますが、大いに楽しんでい 今日をお酒が拭ってる
ます。
真っ直ぐに
生きる曲がれば転びそう
どうか川柳をお楽しみくださ
い、呆け防止にもなりますよ。
(ビジョン)
人間の
○川柳作品
エゴに冷遇されるエコ
パソコン教室
羊羹を
幼児のような○が描け
味わいながら聞く小言
エロティック
(スイーツ)
九回の
白菜二つお尻見せ
ふる里の
二死満塁で立つ打席
(ドキドキ)
郷)
バッジのような吊るし柿(故
とりあえず
「か」で逃げて
ビールが夏の合言葉 ( 共通) 話題を煽るスポーツ紙
酸欠の
入れた分
財布に慈雨の年金日 ( 空気) よりなぜか出ていく財布
阪神に
(つじつま)
錠剤が
似ているような稀勢の里
スッと通らぬ歳となり
伝統校
(エリート)
(いよいよ)
校歌晩翠七五調 故人には
握手した
寂しかろうな家族葬 ( 扱う) 手のぬくもりに騙される
百までは
(油断)
友だちと
お惚気言える脳である
比べなければママが好き
私の俳句と彦根
渡 邊 貞 二(大
)
母校の経済学部創立九十周年
事業の一環として、昨年末、陵
水会が発行した「わが青春の彦
根」を読むと、そこにはそれぞ
れの同窓生の彦根での青春があ
った。
私は定年になってから俳句を
始めたが、余韻の深い文章を書
きたいという思いからで、それ
には世界一文字の少ない詩型で
ある俳句の勉強に限ると、少し
よこしまな心からである。
その源となる文学を志したの
は彦根の学生時代、詩人でもあ
った英語の杉本教授に師事を受
けて、文学サークルで小説の真
似事を書いていた。当時は滋賀
県の五個荘出身の外村繁氏の芥
川 賞 受 賞 が 仲 間 で 話 題 に な り、
滋賀県にも文学賞が出来、その
第一回受賞者が京大生の「朝鮮
海峡」という作品で、それに大
いに触発され志を昂ぶらされた
ものであった。
当時のサークル活動は、芹川
河畔の晒山にあった杉本教授宅。
先生の奥さんは、元ミス京城(ソ
― 15 ―
1
川柳を楽しもう
野 沢 修(短 )
川柳は、にやっとさせるよう
な皮肉で世相を切った俳句のよ
うなものと考えられているよう
です。
間違いではありませんが、
もっとお洒落で、じーんと胸に
響く五七五、十七音字の短詩で
す。NHK学園の通信講座で大
木俊秀氏は、川柳とはズバリ斬
る、ホロリ泣かせる、チクリ刺
す、ニンマリ笑う、ポンと膝打
つと言われていますが、そうい
うものでしょう。
川柳は自由に詠み、俳句のよ
うに季語や切れ字は要りません。
初心者でも気軽に詠めるのが川
柳です。俳句が主として「自然」
を詠むのに対して、川柳は「人
間」の哀歓」を普段使っている
口語で詠んでいきます。
私は毎週、新聞で俳句や短歌
の欄を楽しんでいますが、俳句
が川柳ぽくなった、また川柳が
俳句ぽくなった、つまり垣根が
無くなったと感じています。も
ともと同根の文芸ですから当た
り前ともいえます。よく例に挙
げられる俳句に
あさがおに釣瓶とられて
もらい水 (加賀千代女)
8
ウル)とかの綺麗な人で、泉鏡
花を愛読され、文学にも造詣の
深い人であった。
先生の宅には、
詩人である市内の寺院和尚や若
き新聞記者、それに母校の教授
や事務の方が多く来訪され、学
内でお目にかかるのとは別の顔
と接することが出来て、来訪者
の文学に対する論説にも感動さ
せられたものである。
また、彦根城の天守閣裏に茶
店があり、高校生のお嬢さんと
そのお姉さんがよく店を手伝い
に来ていて、私達とカルムをし
たりして仲良くなり、サークル
の会合にその座敷を貸してくれ
た。また、中央公園にあった市
の施設、
そこの初老の管理人は、
我々学生にはとても親切で、特
別に部屋を貸して呉れ、私たち
の活動にも参加することがあっ
た。借り賃は安くて管理人は親
切なので、ゼミのコンパ等にも
何度も利用したことがある。し
かし、七、八人のグループは仲
が良すぎ輪を広げることに余り
努力せず、後輩や他のメンバー
を加えての活動はそう多くなか
った。
メンバーのそれぞれが小品を
発表し互いに批判しあうことは
多かったが、それを世に問うこ
とはなかった。当然ながら私を
含めて将来、その道に進もうと
する人は誰もいなかった。考え
てみれば、このサークル文学に
名を借りた遊び仲間ではなかっ
たのかと振り返って思うことも
ある。しかし、この仲間の絆は
強く、卒業して六十年近くなっ
ても、鬼籍に入った仲間は別に
して、今でも深い交友を続けて
いる。
卒業後、職に就き上京、文学
とはほぼ縁のない職場、しかも
右も左も判らない東京生活、不
満に思う日も多かったが、自分
なりに一生懸命に働いた。杉本
教授からいかなる職場であろう
と文学の目は忘れないでくださ
い、との手紙に大きく励まされ
たものだ。
学生時代、大学での勉強より
も、小説に読み耽ることが多か
った。勿論、会社勤めになって
からもこれは続いた。年々の芥
川賞の作品やその候補作品も欠
かさず読んだ。お陰で最先端を
行く日本の小説が、どの辺の水
準にあるかも理解できたし、そ
れらの作品を批判する力もある
と自負していた。しかしそれは
何年も続かず、いつの間にか会
社人間になってしまい、結婚し
家庭を持つと、その傾向に拍車
がかかり文学から遠ざかってし
まった。その後ひたすら会社人
間で過ごし、あっという間に定
年。その十か月前から日記を書
き出したが、自分の文章の拙さ
を改めて思い知らされる。
杉本教授からの手紙や、俳句
をやっていた父の手紙は簡単明
瞭であった。余韻のある文章を
書きたいとの思いから八千代市
の俳句教室で勉強し、俳句の結
社に入門。その他色々な機会を
捉え俳句と格闘、結社では同人
にもなり、先ず先ずの俳句を作
れた。人の作品を添削指導する
ようになったが、文章を書くと
相変わらず、くどくどしたもの
しか書けず、歯痒さに忸怩たる
ものがある昨今、小説を読むの
も少なくなり、芥川賞作品を読
んでも以前の感動がなくなって
しまった。しかし文学への熱い
血だけは残っている。
俳句はどの師からも、カメラ
のシャッターのように一瞬の光
景のピンポイントを写生するも
のと教えられたが、私の俳句は、
故郷を離れ六十年近くなるとい
うのに、未だに郷心が抜け切っ
ていない。寧ろ江州弁を誇りに
思うのと同じく、滋賀のことを
詠むことに心を注いで、それを
自 分 の 特 徴 と 思 う こ と に し た。
これは俳句にとって邪道かも知
れぬが、それはそれで良いと考
えている。
しかし彦根のことを念頭に置
い て 詠 ん だ 句 は 多 く あ る の に、
これが彦根だと自慢出来る代表
句が一つもないのが残念である。
俳句を始めてから今までに作っ
た句の中から、自選致しました。
職を辞して、東京のベッドタ
ウンの八千代市の人達との付き
合いが多くなったが、彦根のこ
とを知らぬ人が多いのに淋しい
思いをしている。最近は彦根城
の こ と は 知 ら な く て も、「 彦 に
ゃん」のことを知っている人が
若い人に多いのに驚く。大学も
彦根の街も、大きく発展するこ
とを切望している。
薬袋の居間に古びて長閑しや
花の寺書院に古き資本論
ポシェットの歳時記軽し山笑ふ
父祖の地に残る田畑母子草
花筏離反の仲間振り向かず
レシートの膨らむ財布四月馬鹿
卒業や河口の水面荒びをり
花菜畑無人駅から無人駅
草を引き草の命を想ひけり
草笛や母の音色を出せぬまま
星涼し眠れば明日が来てしまふ
切捨てし枝を離れず蝸牛
一山を搾るが如く滴れり
望郷の夢を引きずる昼寝覚め
田 和 美
支配人 鎌
Kinnodai
株式会社 金乃台カントリークラブ
〒 300-1211 茨城県牛久市柏田町 3432
『今年も皆様のご来場をお待ちしております』
TEL 029-872-0182 FAX 029-872-3182
― 16 ―
速報の震源近し金魚玉
援・シニアローイング、 親 睦 を三
二〇一二年の戸田大会には関 回前田名誉会長を囲んで十四名
巣立鳥振り向くいとまなかりけり
本柱として活動しております。
東支部を中心に五十代、六十代 参加)」「世界マスターズ壮行会
比良山系没日飲み込む半夏生 《現役応援》
で三種目に優勝。二〇一三年の ( 二 〇 一 三、 八、 二 四 三 先 輩
広島忌一条消えぬ飛行雲
インカレを中心に関東地区で 愛知池大会では、関西、中部支 の参加壮行をインカレ遠征中の
紙魚の跡一文字読めぬ父の発句 の現役が参加するレースの応援 部とともに関東からも参加。二 現役二十三名を含め総勢三十六
古代蓮古墳の眠り未だ覚めず
と激励会が主な活動です。
〇一四年の館林大会では、関東 名で開催)」、ゴルフ大会(年一
今日の菊妻との刻の緩やかに
レース直前の激励会は、会場 支部若手クル―で初めてエイト 回)等親睦・情報・意見交換を
秋渇く空家の多き城下町
近くのお好み焼き屋をほぼ貸切 で出漕。又、関西支部が参加し 行っています。
青山や流離諾う鰯雲
で行うことが恒例になっており ていた朝日レガッタ(瀬田で開 《現役の活動》
枯れ果てて箍を緩めぬ蔦の蔓
ます。平日の夜ということで参 催)に、二〇一二年第六十五回
長年、関西ではトップクラス
佐和山の昔日偲ぶ冬の靄
加者は毎回十名程度ですが、関 記念大会での記念イベント、マ の 実 力 を 誇 っ て い た 漕 艇 部 も、 米国財団法人ジャパンエキス
落とし水夕日の湖に急ぎをり
東のOBが現役と接する機会と スターズエイト一〇〇〇m(五 五年ほど前に部員の減少からエ ポ・ファンデーションの主催に
放牧の牛と遊べるばったかな
し て も、 貴 重 な 会 で す。 ま た、 十才以上)に関東八名関西一名 イトも組めない危機的状況とな て、二〇一五年九月五日(土)
・
交響の風と地の声早稲育つ
現役就職活動支援の一環として で編成した陵水艇友会エイトで りましたが、OB・現役一体と 六 日( 日 )、 グ ラ ミ ー 賞 授 賞 会
漣や比叡をまたぐ天の川
関東地区出身者の会員勤務先企 優勝。朝日新聞の滋賀版に大き な っ た 部 員 勧 誘 活 動 を 展 開 し、 場の名門展示場でもあるロサン
縄文の古跡神さぶ良夜かな
業訪問や新人勧誘活動への支援 く掲載され北居会長の「琵琶湖 現在男女合わせ六十名を超える ゼルス・コンベンションセンタ
豆腐屋のラッパの湿り暮れ早し 物資供出なども取組んでいます。 は呼んでいる」で陵水艇友会の 所帯となり、実力も関西トップ ーで「JAPAN EXPO 母の亡き軒に夕日のつるし柿 《シニアローイング》
OBにも思い起こさせました。 に近づいています。九十周年を 二〇一五」を開催致します。
浮き沈むこともなりあい鳰
近年、特に力をいれているの
さらに、二〇一三年より六十 迎え、早朝に関西で優勝し五年
この度、この大きなイベント
米作辞めて生活の室の花
が、シニアボート愛好者を増や 代のダブルスカルでイタリアで 後の男子エイトインカレ優勝を を全面的に支援するべく、日本
電子辞書電池切れそな冬の夜半 すことです。五年ほど前から参 の世界マスターズへ出漕。RY 新たな目標としております。
サイドで「一般社団法人ジャパ
それぞれの貌に年輪日向ぼこ
加している横浜市民レガッタと O S U I は 世 界 に デ ビ ュ ー し、
ンエキスポ」を、四人のメンバ
来し方の友の顔顔川枯れる
いう三五〇mレースで、二〇一 「 力 漕 」 T シ ャ ツ が 現 地 で 大 変
ー(理事)で立ち上げ、大 回
水底に修行僧めく寒の鯉
〇年七月の大会で二種目優勝し な人気だったそうです。この他
卒の私 上林 好一(かんばやし
山間の水音風音梅探る
たことで、関東で滋賀大/陵水 に名古屋大学OB対抗戦、横浜
よしかず)も、四人の理事の一
寒林の鎮もりに人匂ひける
艇友会の名前が知られるように ボートマラソン(七㎞のタイム
人として加わることになりまし
なりました。この大会を機に二 レース)などにも参加し好成績
た。
十~三十代の若手も含めてボー を収めています。
東日本大震災復興、二〇二〇
陵水会クラブOB会東京発信
ト 愛 好 者 が 増 え て い ま す。 又、《親睦》
年東京オリンピック開催記念と
全国規模のシニアローイング大
月例会、年一回の支部総会を
して、JAPAN EXPOの
会にも、二〇一〇年城崎での大 中 心 に 活 動 し て い ま す が、「 陵
三十周年記念開催として銘打ち、
会から、関東からも参加してい 水ボートの九十年を語り飲む会
日本のおもてなしを「衣」「食」
ます。
( 二 〇 一 三、 四、 十 三 大 学 一
「住」「遊」に反映する事を狙っ
陵水艇友会関東支部
幹事・緒方 俊輔(大 )
陵水艇友会関東支部は二十六
年現在会員数一二三名にて現役応
29
90年を語り飲む
JAPAN EXPO
2015
(30th Anniversary)
ロサンゼルス開催のお知らせ
~ O・MO・TE・NA・SHI を
日本からアメリカへ
おもてなしの心を、今~
26
― 17 ―
日 本 の「 衣 」
「 食 」「 住 」「 遊 」 趣味などコンテンツの質・量と
をアピール
もに世界を席巻する日本の
二百五十五ブース・三ステー 「遊」。最新のサブカルチャーに
ジ(予定)を設置し、以下のゾ 触れて頂きながら、その根源に
ーンに分けて展示します。
ある伝統と歴史に裏打ちされた 東京陵水ゴルフ会 開催の内容
■「衣」ゾーン
日本ならではの遊びの文化に触 開催時期:年四回、(四月上旬・
ファッション&グッズのゾー れて戴くゾーンです。
六月中旬・九月下旬・十二月上
ンです。
日本発のファッション、
旬に開催)
グッズ、
コスプレからなどの「か 出展者様への支援
⑴ 開催場所:金乃台カントリ
わいい」から、着物に代表され
JAPAN EXPOの三十
ークラブ(カートなし)
る日本伝統の「和」の装いまで 年の実績から、海外進出、取引 ⑵ 順位決定:同ネットの場合、
を紹介するゾーンです。
先企業のマッチングを致します。 高年齢者→ローハンデの順と
■「食」ゾーン
また、渡航から出展に際し発生
する
ユネスコの無形文化遺産「和 する費用の二分の一を支援する ⑶ ハンディキャップ:十回ご
食」のゾーンです。和の食材・ 助成金のご紹介、渡航における
とにハンデ改定を実施、上限
果物・海産物などを使った寿司、 ツアー手配等、出展者様に安心
四十、八十歳以上+六、七十
そば、
うどん、
おにぎりなど日本 して出展頂けるようサポート致
五歳以上+三とする。
伝統のファストフードから、イ します。
ンスタント食品、和食とマッチ
この一年間も金乃台カントリ
する日本酒、焼酎、ウイスキー、 お問合せ・お申込みはこちら
ークラブで、好天の下、熱戦が
ビールなど日本の「おもてなし」 日本事務局「一般社団法人
繰り広げられました。各回の戦
の 味 が 堪 能 で き る ゾ ー ン で す。
ジャパンエキスポ」 績:優勝者はじめ飛賞も含めた
日本食フードコートを設け、実 東京都港区新橋五丁目七番一号 賞金獲得者名は下記の通りです。
際に召し上がって戴きます。
久松ビル三〇一号 ★第一〇〇回記念大会並びに記
■「住」ゾーン
TEL 〇三 ―六七〇六 ―四一八四
念パーティーを二〇一五年四
日本独自の「おもてなし」と FAX 〇三 ―六四五〇 ―一八二六
月十四日に開催致します
言う快適、心地よさを実感して
HP http://www.japanexpousa.jp
頂きます。エコにつながる竹や
E-mail [email protected] 第九十五回大会(大十回佐藤秀
紙 を 使 っ た 道 具 や 日 本 の 伝 統、(必ず「陵水会」と明記願います) 孝選手九年ぶり二回目の優勝)
そして最新の道具を実感して戴 大 回 上林 連絡先 携帯
平成二十五年十二月九日(月)
きます。
〇九〇 ―一七七六 ―八五四三 八組 三十一名
■「遊」ゾーン
成 績(賞金獲得者・卒年・ネ
E-mail
[email protected]
日本の漫画、アニメ、ゲーム、
上林好一(大 )記 ットスコア・ハンディキャップ
26
!!
の順で表示・以下同じ)
優 勝:佐藤 秀孝
(大 ) ㉔
準優勝:中西 三一
(大 ) ㉖
( 才)
三 位:田川 行雄
(大 ) ⑿
四 位:三井 照次
(大 ) ⒃
五 位:小口
(大 ) ⒇
晃
七 位:小梶 清司
(大 ) ⒁
十 位:井口 博民
(本 ) ㉜
十五位:岡本 和之
(大 ) ⒂
二十位:川崎 憲夫
(大 ) ⒀
二五位:蔵田 昭憲
(大 ) ㉒
BB賞:田村 寿夫
(大 ) ㉒
ベスグロ:田川
(大 )
ドラコン:名口・平本
ド ラ 短:畠山・宮武
ニアピン:小口 ・冨田・小梶・
奥村・金井・岡本・鶴見
12 17 17 18 21 18 14 10 9
5 10
81
90 87 83 80 76 72 71 71 70
70 69
9
82
第九十六回大会(大十回畠山選
手待望の初優勝)
平成二十六年四月三日(木)
八組 二十九名
2
― 18 ―
ております。
「おもてなし」の心を世界の価
値へ
日本には多くの魅力があるに
拘らず、その魅力をまだまだ十
分に世界に届けられていないと
言われています。そこで、日本
の伝統芸術・文化・技術から最
先 端 の テ ク ノ ロ ジ ー ま で、
「日
本」の良さを正しく理解いただ
くため、ロサンゼルスの本拠を
置く米国財団法人ジャパンエキ
スポ・ファンデーションが事業
主体となって、一九八〇年代よ
りJAPAN EXPO(ジャ
パンエキスポ)を開催して参り
ました。
今回は、世界で評価されてい
る「おもてなしの心」の紹介を
メインに据え、グローバルな時
代に生きる日本人としての誇り、
継承された伝統技、日本ならで
はの洗練された「衣食住(ライ
フスタイル)
」を世界的名門会
場から世界に広げたいと思って
お り ま す。
(二日間での来場者
数、五万人を見込んでいます。
)
海外進出のスタートの一歩と
して、是非陵水会の皆様の会社
や所属団体等で、この歴史・実
績のあるJAPAN EXPO
をご活用戴けましたら幸いです。
26
準優勝:川崎 憲夫
成 績
(大 ) ⒀
優 勝:畠山 義生
(大 ) ⒇ 三 位:吉田 久典
(大 ) ㉓
準優勝:小口
晃
(大 ) ⒇ 四 位:柴田 茂夫
(大 ) ㉖
三 位:山本 孝之
(大 ) ㉕
(大 ) ㉔ 五 位:鶴見 芳令
四 位:田川 行雄
七 位:畠山 義生
(大 ) ⑼
(大 ) ⒁
五 位:中西 三一
(大 ) ⒇ 十 位:西坂 徹雄
(大 ) ㉑
六 位:名口 幸夫
(大 ) ⑺ 十七位:平本 義則
(大 ) ⑷
十 位:平井 俊雄
(大 ) ⒆ 二十位:中西 三一
(大 ) ⒇
十六位:田村 寿夫
BB賞:山本
(大 ) ⒇
(大 ) ㉒
保
二十位:田中 俊男
(大 ) ㉘ ベスグロ:金井
(大 )
二十六位:中尾克也
(大 ) ㉑ ドラコン:丸居・平本
BB賞:山本
保
(大 ) ⒇ ド ラ 短:佐藤・平居
ベスグロ:名口
(大 )
ニアピン:井口
・柴田・古山・
ドラコン:小口・平本
中村嘉・田口
ド ラ 短:北澤・山本孝之
ニアピン:畠山・金井・高居
第九十八回大会(本二十一回井
口選手!最年長優勝記録更新
第九十七回大会(若手大二十三
六回目の優勝)
回田口選手初優勝)
平成二十四年九月九日(火)
平 成 二 十 六 年 六 月 十 一 日( 水 ) 七組 二十七名
成 績
優 勝:井口 博民
(本 ) ㉜
才 ヶ月
) ㉒
21
74
8
14
8 10 14
15
9 3 14
9 3 2
平成二十六年
― 19 ―
陵水散歩会
平成二十六年囲碁大会の実績 ●一月二十七日(月)
を以下の通りご報告します。 「東京大仏と荒川堰堤」コース
光が丘駅~光が丘公園~赤塚植
●平成二十六年六月二十一日
物園~東京大仏~板橋区立美術
(土)
館~笹目橋~荒川堰堤~浮間公
全国情報サービス産業厚生年 園~埼京線浮間船渡駅
金基金会館にて開催。
東京に大仏様とは、しらない
準優勝:田川 行雄
十一名参加。
人も多い。芽吹き未だしの植物
(大 ) ⑼
三 位:奥村 勇夫
(大 ) ㉙
園を抜けて、広々とした荒川堰
四 位:北澤勝太郎
(短 ) ⒁ 戦績
堤を早春の陽射しを浴びて、温
五 位:畠山 義生
(大 ) ⒁ 優 勝 鈴木 克治 八段(大 ) もりの中を気持ちよく歩く。参
七 位:中尾 克也
準優勝 中澤 龍彦 七段
(大 ) 加者九人。
(大 ) ㉑
八 位:小梶 清司
(大 ) ⒁ 三 位 刀祢館信雄五段(大 )
十五位:山本
保
(大 ) ⒇
●三月三日(月)
十八位:木戸
彪
(大 ) ㉛ ●平成二十六年十一月十五日 「羽根木梅園と彦根藩、松陰」
BB賞:守屋 貞夫
コース
(大 ) ㉑ (土)
ベスグロ:金井
(大 )
全国情報サービス産業厚生年 明大前駅~羽根木公園~豪徳寺
ドラコン:山本保・平本
金基金会館にて開催。
~世田谷代官屋敷~松陰神社~
ド ラ 短:畠山・若山
十三名参加。
最勝寺~茶沢通り~下北沢駅
ニアピン:井口・田川・中尾・
万延元年三月三日は井伊直弼
小梶・平本
戦績Aグループ
の命日。墓石で今日の因縁を思
【新規参加希望の皆様へ、
優 勝 鈴木 克治 八段
(大 ) う。
新規会員大歓迎!】 準優勝 神崎 栄次 五段
(大 ) 井伊家の世田谷領地管理の代
氏名・住所・☎番号・生年月 三 位 森本 忠徳 五段
(大 ) 官屋敷跡。思想の敵の吉田松陰
日・卒業回・所属ゼミ・部活・
は維新の元勲に守られ近くに眠
ハンディキャップを下記メール 戦績Bグループ
る。参加者六人。
毅 四段
アドレスにご連絡下さい。Xの 優 勝 新宮
(大 )
次にアンダーバーがあります。 準優勝 用田 政一 三段
(大 ) ●四月四日(金)
山本 保
三 位 坂田 忠彦 初段
(大 )「国立の桜と土方歳三」コース
[email protected]
山本 保(大 )記
鈴木克治(大 )記 国立駅~学園通り桜並木~一橋
12 16 15 18 15 10 5 15 9
98 85 84 81 80 80 80 79 79
4
87
七組 二十五名
成 績
優 勝:田口 良三
(大
23
66
15 5 16 9 10 15 2 13 17
89 85 82 77 76 72 72 71 70
14
83
88
15 15 10 12 12 14 5 9 9 14 10
99 97 87 86 80 78 78 77 77 74 74
14
85
大学~谷保天神~石田寺~日野 ●六月二十七日(金)
陣屋跡~大昌寺~八坂神社~宝 「東京北区を歩く」コース
泉寺~中央線日野駅
田端駅~田端高台通り~旧古河
学園通りの見事な桜並木に春 邸庭園~平塚神社~ゲーテ記念
の喜びを感ずる。石田寺の墓石 館~飛鳥山渋沢邸跡・渋沢資料
は土方姓ばかり。周囲の街も似 館…雨で予定短縮
たようなもの。日野陣屋は戸を
品種の多い花が次々と咲く美
締めつつあったが管理人の親切 しい古河邸庭園のバラ。ゲーテ
さに甘えて入館。参加者七人。 館はゲーテ一筋の堅さを持って
いる。
「詩と真実」が懐かしい。
●五月二十七日(火)
渋沢栄一の圧倒的な大きさが僅
「さきたま古墳公園と忍城」コース かな資料でも理解できる。
高崎線北鴻巣駅~円福寺~さき
館外は雨が激しい。今日はこ
たま緑道~彫刻の道~さきたま こまで。参加者五人。
古墳公園~水城公園~忍城跡~
高崎線行田駅
東京から他県遠征したのは久
しぶり。初夏の田園の緑道を楽
しみながら、頂きの高い円墳と
八つの前方後円墳がまとまって
目にする事のできる古墳公園に
着く。中でも稲荷山古墳から出
土の金文字象嵌の太刀はレプリ
カであったが素晴らしい。園内
の博物館に詳細な古墳の説明や
出土品が太刀と共に置かれてい
た。ここから行田の街をウォー
クして忍城跡に行く。水城公園
とは城の広大な堀の後を池にし
たもの。城見物の物知りおじさ
んが行田駅へ出るバスを教えて
くれた。参加者七人。
●十一月二十五~二十六日
「信州の鎌倉・塩田平」コース
上田駅~上田城~別所温泉駅~
常楽寺~別所神社~安楽寺~北
向観音~温泉宿(齋藤旅館)
中禅寺~塩野神社~龍光院~塩
田城址~前山寺~無言館~塩田
町駅~上田駅
一泊散歩会は数年振り。その
日前日までの好天がこの二日に
限って細かい冷たい雨が降って
は止みに見舞われた。紅葉ただ
中のこの地方、晴れていればと
思うが濡れて折り重なったわく
ら葉の、その香りに魅かれて山
道を歩くのもいいものだ。城に
は人が少なく、文化財を保有す
る寺々の上品なただずまいも気
― 20 ―
にいった。宿は主人が「温泉が
いいと泊客が言う」と自慢する
ほどのもの。折り重なる紅葉の
林の中にひっそりとコンクリ―
トむき出しの、収納された絵画
たちの悲しみを秘めて無言館が
あった。無言館からひたひたと
小雨の中、稲刈りが終わって株
だけが残った田園風景に目をや
りながら別所線の小さな駅をめ
ざした。参加者六人。
七月は雨、八月は夏休み、九
月、十月はそれぞれの都合があ
って開催できなかったのが残念
でした。いつも楽しく、珍しい
所にも出かけます。是非ご参加
して見て下さい。
さきにメールを頂ければ、開
催日、コースをご案内いたしま
す。
塩田平前山寺
[email protected]
林 史欣(大 )記
8
7
7
7
12
渋温泉一泊の旅
点在する外湯に宿から借りた鍵
で、文字通り源泉かけ流しの温
泉小屋をハシゴしたりして楽し
んだ。夕食は例年通り賑やかな
大宴会(後日、当夜と翌朝給仕
してくれた仲居から礼状が届い
た。 初 め て で あ る )、 夕 食 後 は
幹事部屋に集まって、健康問題
は話題にしないことにして(で
ないと、病気と薬の自慢話?に
花 が 咲 い て し ま う )、 天 下、 国
家に談論風発、夜も更けて各自
の部屋に散らばって行く。この
時間が大きな楽しみの一つにな
っている。
翌三十一日は、朝食後温泉街
の細い裏道を散策、温泉神社な
どに参拝して後、再び宿のマイ
クロバスで善光寺へ向かった。
境内はいつ行っても参拝者で
賑わっている。紅葉が見頃にな
っていて、各自自由に参拝する
ことにした。参拝後昼食は近く
の そ ば 屋 で 信 州 そ ば を 堪 能 し、
シャトルバスで長野駅に出て散
会した。
出席者は、石橋・市木・岡田・
中川・中西・樋上・久木・細井・
龍口に、大阪から近藤が参加し
てくれて計十名だった。常連だ
った青島が九月に他界。天田・
間宮が体調不良で不参加だった
のは、寂しく残念だった。
龍口秀夫(大 )記
大学十八回
(昭和四十五年卒)
同期会開催
5
大学十八回同期会を四月十三
日「彦根ビューホテル」にて開
催しました。彦根在住の同期五
名が実行委員になり、全国各地
にいる同期生に声をかけ卒業し
て初めて全体の同期会になりま
した。
桜満開の彦根に同期七十二名
が集りました。四十四年ぶりに
顔を合わす友に握手あり、ハグ
あり、それぞれの再会に感激し
ました。全員で集合写真を撮っ
た後、十名の物故者に対し黙祷
しました。一人一分宛の近況報
告 ス ピ ー チ に 聞 き 入 り ま し た。
東京支部からは十八名が参加し
ました(参加者は後記)。
当日夜の彦根の酒場では、い
くつかのグループが四十四年前
の彦根の話で盛り上がったよう
です。翌日は十三名のゴルフ愛
好者が、彦根カントリークラブ
でゴルフコンペを開き、前日に
引続き友好を深めました。次回
全体の同期会の開催を皆で盛り
上げようと決めたことと各地各
支部での陵水会、同期会に積極
的に参加しようと決めた事で同
期会は閉会しました。四十四年
の時間経過の重みを感じさせら
れる同期会でした。
東京支部での同期会にとどま
らず、他の支部に呼び掛けて全
体の同期会開催をやれないかと
の意見が実現した同期会でした。
彦根での全体同期会参加者は
以下のとおり(敬称略)。
市岡隆治 今津松雄 岡田憲治
影山哲也 岸田雅雄 北居和夫
栗原喜代次 小梶清司 澤田勉
新戸基次 杉野好宥 田中和男
谷口直樹 徳山秀雄 中村嘉秀
永田(佐野)央 西川清吾
前野悦夫
中村嘉秀(大 )記
― 21 ―
詩吟同好会
泉一泊旅行を実施した。温泉一
泊旅行は平成十四年に始まって
「 詩 吟 を 楽 し ん だ 後、 皆 で ビ 平成二十二年までは、山を歩い
ールでのどを潤しながらの食事 て 温 泉 に 一 泊 す る 旅 だ っ た が、
は最高だね」西野宏(大 )さ メンバーの「もう山歩きは無し
んは楽しそうに話し掛けて来た。 にしよう」との強い意見で、そ
「 自 分 は、 カ ラ オ ケ は 時 々 行 く の後は観光と温泉の旅になって
のだが、詩吟は今までやった事 いる。
が無かった。でも好いねえ、思
今 年 は 長 野 県 北 部 に 位 置 し、
いっきり声を出して体中がすっ 古い温泉街の風情が残っている
きりするよ。親戚の叔父さんが 渋温泉に一泊し、善光寺を参拝
詩吟をやっていて、その印象は する旅にした。
小さい頃から持っていたんだ。
」 十月三十日、長野駅十二時五
新宿駅前の教室には二年前八 十分着の長野新幹線「あさま五
名からスタートして、今は十三 一九号」で旅は始まった。昼食
名、鈴木重成(大 )先輩のご は各自駅弁を車内で済ますこと
指導で月三回の詩吟研修も毎回 にした。旅の情緒を楽しみ時間
大盛況である。教室では浦谷政 の節約になる。下車後十三時に
夫(大 )先輩がお世話をして 宿差し回しのマイクロバスに乗
頂き、滋賀大学がそのまま移動 車、途中中山晋平記念館(懐か
して来たようである。
しい聞き慣れたメロディーが流
全員の詩吟吟力は確実に向上 れていた。
)に立ち寄ってもらい、
し、来春には都大会に出場する 目的の渋温泉に向かった。約一
までに努力して来た。大学で詩 時間の田舎道を走るバスの旅は
吟部に在籍された柴田豊彦(大 川中島の古戦場で有名な千曲川
) さ ん の 吟 に し び れ な が ら、 を渡り、沿道は枝一杯に赤く色
新人は新人ながら大声をあげて 付きタワワに実ったリンゴ畑の
迫って行く。青春ここにあり。 続く風景が印象的だった。
宮野幸雄(大 )記
宿「さかえや」に着くと部屋
割の後、早速に有志は旅館の下
東京五陵会
駄に履き替えて、石畳の温泉街
をカランコロンと音を立てなが
秋の五陵会は、例年どおり温 ら散策したり、温泉街八か所に
18
16
新年会の開催
学生時代のことや近況などを語 ラドール・ドゥ・カグラ」にて
この会が設けられてから既に
り合いました。
開催しました。今年の新年会は 三十年あまりが経過したが、彦
翌日は青空のもと清水寺近く 初参加二名を加え過去最高の十 根の現役新聞会員が、毎年、会
にある大谷本廟の先生ご夫妻の 一名が集まりました。
場 を セ ッ テ ィ ン グ し て く れ る。
墓参りをした後、智積院で国宝
参加者は、星出潔(大 )岡 ネットでの会場設定であると聞
の長谷川等伯の障壁画と日本庭 田 憲 治( 大 ) 長 井 和 夫( 大 くから、我々の過去とは、まさ
園を見物し、昼食で京料理を共
)御旅屋尚文(大 )深田睦 に隔世の感がある。
にしました。二日間とも天候に 子(大 )上田信子(大 )久
今年の参加者は現役全員の八
恵まれ楽しい会となりました。 野 康 成( 大 ) 松 澤 進( 大 ) 名と、OB四名であった。例年
次回は平成二十七年十月二十 北 尾 聡 子( 大 ) 木 村 繁( 大 OBは十名程度出席するが、今
四日~二十五日に犬山市で開催
)笠浪真(大 )の皆様です。 年はOBの日程がうまくマッチ
することにして解散しました。
世界を駆け巡る久野さんから せず、残念ながら少人数であっ
西田廣彦(大 )記 近著「新卒から海外で働こう!」 た。しかし、OBの門野久義氏
が メ ン バ ー に 贈 呈 さ れ ま し た。( 大 ) が 滋 賀 県 大 津 市 か ら、
これまでにも久野さん長井さん 会 計 事 務 所 勤 務 の 川 上 真 司 氏
東京陵水会計人会
から、著書を頂いています。御 ( 大 ) が 大 阪 か ら 参 加 し て く
旅屋さんの著書も多数あります。 れたのには、現役の励みになっ
東京陵水会計人会新年会を平
参加者から近況報告と共に貴 たようだ。
成二十六年一月七日、神楽坂「パ 重な話が聞け、今年も楽しく美
現役四回生の編集長篠島文子
味しい充実した新年会でした。
24
京橋で開く
恒例の陵水新聞OB会
26
隔年ごとに彦根と東京で開い
ている滋賀大経済学部陵水新聞
会の現役とOBとの会合を、今
年は東京・京橋の日本料理「婆
娑羅」で持った。
陵水新聞は発刊されたのが昭
和十二年であると聞くから、か
れこれ八十年の歴史を持つこと
になる。
さんから、最近の彦根での編集・
発行状況の説明などを受け、ま
た出席の会員から編集にあたっ
ての取り組みや抱負を語っても
らった。さすが陵水新聞会のメ
ンバーであるだけに、それぞれ
自己の意見を持ち、新聞編集に
持ち味を発揮していてくれてい
て、陵水新聞健在の思いがした。
ただ、現三回生の会員が在籍
していないのを聞き、淋しかっ
た。しかし二回生の次期編集長・
谷清隆君がすでに決められてい
て、二回生四名、一回生三名が
次年度以降を担ってくれるので
頼もしい。
また現編集長を含め、二名の
女性が活躍していてくれるのも
心強い限りである。我々の世代
には考えられなかったことであ
り、さすがアベノミクスの時代
であるかも。
OBからは大 の当時の編集
長・鈴木重成氏が出席し、孫子
のような現役生にアドバイスし
てくれていたのは微笑ましい光
景であった。
来年は、彦根で当会を持つこ
とを約して散会したが、現役が
OBになり新入会員が加わるこ
とによる、当会の永続性を期待
した次第である。
浦谷政夫(大 )記
7
7
― 22 ―
8
58
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29
38
18
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48 45
22
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有田ゼミ総会
故・有田正三教授のゼミの総
会「 有 田 会 」は、毎 年 一 泊 二 日
の日程で開催しています。五十
三回目の今年は、先生の生誕百
年記念の会として、先生ご夫妻
のお墓参りも兼ねて、平成二十
六年十一月十五日~十六日に京
都市のホテルルピノ京都堀川で
開催し二十八名が参加しまし
た。
「有田先生を語る」と題し
たパネルトークで先生と公私に
わたり関わりが深かった四名の
ゼミ生が、先生の思い出やエピ
ソードを報告し、皆で語り合い
ました。
トークの後、夕食を囲んで近
況など親交を深め、夜遅くまで
9
22
11
室
感
― 23 ―
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41 9
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1
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10
15
29
42 40
26
編 集
所
年会費・併せて寄付金をお振 雄( 大 )、 日 下 部 百 也 田 川 行 雄 利明 永田 修 西澤弘行 西村穂 木信彦(大 )、今田 淳 清塚 徳 中川和己 中島勝司 西坂徹雄 西 積 浜 筆 治 平 田 雅 章 宮 川 誠 西 野 忠 宏( 大 )、 岡 武 俊 雄 加 藤 り込みいただきありがとうござ
田広彦 乗富俊二 平瀬武明 藤江 村 上 等 山 崎 竹 夫 和 田 博 之( 大 篤 島津泰幸(大 )
、清水範之 能
いました。
忠正 藤本裕一郎 森本忠徳 山本
)
、岩谷克敏 上田 求 植田兼司 登英彦 林 雄彦(大 )
、西村龍哉
孝 之 吉 田 弘( 大 )、 石 垣 康 大 八 木 勉 河 原 正 喜 蔵 彰 竹 本 (大 )、久野康成 鈴木伸彦 永瀬
平成二十六年度年会費納入者
井 上 善 隆 臼 井 健 宇 野 宏 紀 小 進一 田中二郎 農守義文 角田健 敦 彦( 大 )
、 大 原 孝 明 小 川 伸 発行時期が押し迫ってくると
(十 一 月 末 現 在 ) 西 捷 冶 佐 藤 秀 孝 田 中 俊 男 坪 田 一 浜 野 信 裕 平 井 善 三 松 山 仁 岸 野 正 史 北 川 昌 樹 松 澤 進 溝
、石川公一 射場茂 渕 裕 久( 大 )、 加 代 雅 道 原 弘 慌てて原稿の整備をするのは毎
吉 林 登 喜 雄( 本 )、 山 口 武 美( 本 清六 中川寿一 中沢龍彦 中村寿 持田晴夫(大 )
、立木賢一 西山
)、石田定夫 小笠原滋 高木克幸 男 畠 山 義 生 服 部 全 孝 細 谷 孝 喜 今 井 良 治 上 田 文 雄 植 野 克 蒔田英一郎(大 )
号編集期の変わらない姿である。
(本 )、葛上宗一郎(本 )、井口博 三 井 照 次 山 田 進 山 本 啓 司( 大 美 粕渕伸夫 塩瀬和成 藤野義男 晴 雄 山 本 真 嗣( 大 )、 畑 瀬 英 樹
、山平優子(大 )
、足立 亮 当初二十ページで紙面を抑えよ
民 犬塚昌一 梅沢誠質 河添治男 )、天野正保 各務 健 川合久嗣 米 山 修 山 下 修 司 吉 田 富 美 男 (大 )
、北野敏彦 小林忠 福坂淳敏(大 )、牛嶋宏也(大 )
、 うとしたが、結局二十四ページ
竹 内 政 太 郎 豊 田 弘 毅 中 辻 喜 蔵 関 恵文 野一色公平 長谷村秀夫 脇坂 守(大 )
、弥田有
(本 )、寺本康郎 橋本 侃 箕浦 法 橋 正 虎 松 浦 紀 久 雄 松 本 隆 一 志 長井和男 能島伸夫 山代真佐 菅真里子 本田浩一(大 )
、青 三 山本理恵(大 )
、鈴木 裕 長 となり、掲載を見込んでいた記
正 山口昭夫(本 )、永木俊一 前 (大 )、稲邑明也 坂口松太郎 守 行 山田 忠 山脇一泰(大 )
、秋山 事を割愛することになった。母
川 彌 之 祐 松 本 義( 本 )、 岡 田 谷貞夫 田村寿夫 平居俊雄 堀内 木 市 次 郎 稲 波 信 一 大 矢 武 史 谷部祐一朗 湯浅信介(大 )
浩 加納淳司 相馬忠男 高木早苗 和 堀川幸夫 宮野幸雄(大 )、朝 公 文 信 太 郎 品 川 悦 夫 棚 橋 稔 直 登 岸 達 也 平 大 輔 森 本 慎
校への提言、他大学同窓会イン
、松江大輔(大 )、戸
西 澤 正 保 正 保 矢 田 佳 三( 本 比 奈 冬 男 池 田 喜 十 良 小 谷 兼 夫 玉置辰司 中岡浩三 野村勝良 平 一郎(大 )
、石田直斗 中里智孝 タビュー、彦根コンフィデンス
)、落合忠一(別 )、井上祐一 川 小林三郎 近藤達也 中村奎吾 納 本 義 則 深 谷 靖 純 堀 内 裕 堀 江 田友香(大 )
、秋山友 など。
本 茂 前 田 偉 量 渡 辺 貞 二( 大 堂 秀 樹 星 出 潔 村 井 邦 彦 吉 田 慎 一 松 井 善 嗣 松 田 治 久 若 林 平良友枝 松田慎祐(大 )
、大山 明 奥村淳一 河 歌 久米広知 中村早織 濱田英嗣
)、乾 哲彦 岡田 厳 柴田茂夫 久 典 若 山 忠( 大 )、 天 木 國 男 寛(大 )
し
か
し
読
み
ごたえのある総会
、片岡和也(大 )
、中村摩利
新宮 毅 水引芳雄
(大 )、神谷 誠 石 田 昭 郎 臼 井 和 宣 小 口 晃 加 江泰平 斎藤裕士 田中恒男 徳山 (大 )
、清水俊彦(短 )、北澤 記 念 講 演 や、
清水善和 中川弥次 増田茂樹 村 藤 博 善 北 村 徹 古 山 捷 二 郎 高 均 浜保晃夫 本田吉弘 松永美弘 那(大 )
「こんにちは」な
、石黒俊 勝太郎(短 )
、傘木良三 堀口 發
井永治(大 )、青山松太郎 今井常 橋 勝 彦 土 井 健 一 郎 中 村 弘 名 山崎 勉 湧川勝巳(大 )
ど は 若 干 の 縮 小 を 試 み な が ら、
、日高信次(短 )
、深瀬佳洋
清 粕 渕 健 三 北 川 享 酒 井 郁 郎 口幸夫 野村英樹 羽渕展世 古川 一 郎 岡 本 幸 博 香 山 隆 鴨 川 忠 (短 )
しっかりと掲載することに勤め
、森山哲臣(短 )
佐 々 次 郎 竹 内 鋭 二 谷 文 夫 寺 浩 司 丸 居 裕( 大 )、 穐 山 祥 夫 彦 川久保勉 楠田芳弘 田村弘昭 (短 )
田又三 箸方海三 樋上不二子 松 海 野 広 司 海 老 洋 大 澤 義 隆 奥 中尾佳史 永田雅則 福田康夫 安
た。気がかりな「大学」の行く
、池本荘司 ●寄付金提供者(卒年次略)
井 茂 松 岡 正 曜 安 江 郁 夫 山 中 村勇雄 木下英男 黒田悦司 鈴木 井喜重 山本哲治(大 )
英 一( 大 )、 青 島 弘 天 田 志 郎 勝 柘野茂樹 鶴見芳令 寺田芳雄 大 北 亨 大 村 雅 文 上 林 好 一 北 前田偉量・中西三一・川北直行・西 末を伊豫谷先生は論じておられ
飯 島 勲 井 上 明 郎 岡 田 和 義 神 富田博司 藤井駿治 細江謖夫 前 野 義 隆 長 誠 次 京 極 政 好 近 森 村穂積・公文信太郎・徳山均・岩崎 る。
谷 亨 龍 口 秀 夫 竹 内 伴 道 田 中 田 哲 顕 山 本 保 吉 田 勇 夫( 大 彦 義 重 田 博 高 瀬 豊 高 橋 達 博之・中野達也・武田吉史
「 俳 句 」 と「 川 柳 」 は 趣 味 の
)、尾関一平 木津勝治 木戸 彪 之 高見政史 田中照己 永田玲子 修二 中川郁三 中西三一 樋上泰
功 細井恭一 三井正勝(大 )、青 佐 藤 充 宏 嶋 多 優 寺 沢 優 浜 夏目忠彦 畑澤敏之 前川利彦 松 ※本紙一〇一号(平成 年 月号)の 豊かさが伝わってくる。学生時
、足立浩次 岩崎博 納入者名簿に洩れ、誤りがありまし 代の想いをそのままにOBの動
木 滋 今 宿 隆 弘 臼 井 靖 大 久 口栄治 渡辺雅利(大 )、池谷吉人 下浩一郎(大 )
保 義 雄 大 谷 毅 丈 夫 岡 田 亨 河 大原和夫 岡本和之 川崎憲夫 蔵 之 木 戸 博 文 小 松 利 央 柏 木 勝 た。お詫びし訂正いたします。
(事務局) き を「 ク ラ ブ O B 会 東 京 発 信 」
合正紀 川村和男 草生知治 小林 田 昭 憲 栗 林 昭 滋 野 輝 彦 柴 原 川嵜信二 神田憲樹 土田秀仁 溝 敬称は略させて頂きます。
、大野光宏 奥田慶一 ①お名前が漏れていた方:三木健蔵 として提供して貰った。一ペー
仁 実 齋 藤 高 康 高 橋 秀 治 田 中 良 昭 柘 治 三 豊 田 徳 司 中 根 昌 口信悟(大 )
・西村信
実 中村博一 橋本長夫 林謙治郎 孝 並河日出夫 西尾郁夫 山本節 加瀬秀樹 桑島英彰 西川元啓 古 ( 本 )・ 竹 内 鋭 二( 大 )
ジには画をよくする編集部員の
・森紀正(大 )
・上林好一
久 木 義 雄 藤 原 多 喜 雄 三 宅 義 男 夫(大 )、市岡隆治 岡田憲治 兼 川 愼 一 間 坂 裕 彦 宮 崎 吉 史 森 (大 )
知人に母校を描いて頂いた。
、浅見 徹 飯塚裕彦 大 高見政史(大 )。
(大 )、磯部一郎 宇治原嘉政 宇 松泰男 北居和夫 小倉好博 景山 徹(大 )
「」内が
野 進 浦 谷 政 夫 木 下 実 佐 野 哲也 栗原喜代次 小梶清司 田中 下雅司 緒方俊輔 小辻真一 酒井 ②お名前に誤りがあった方、
「税」の値上げで年度が明け、
・喜田
了 鈴 木 重 成 富 永 義 孝 西 野 宏 和 夫 千 葉 茂 徳 山 秀 雄 中 村 嘉 嘉 登 坂 根 徹 坂 野 友 之 中 野 達 誤り:天「大」野正保(大 )
、浅 峯「峰」幸(大 )
・上田文雄「男」 結果が予想されて投票率が戦後
東野和弘(大 )、池田辰彦 池田弘 秀 西 川 清 悟 林 良 孚 村 瀬 尚 文 也 村上昌也 吉本準一(大 )
孝 大島明美 小塩正長 尾本政二 (大 )、伊藤博邦 稲野辺敬義 井 野卓矢 磯野和也 大江康浩 武田 (大 )
最 低 に な っ た 選 挙 で 年 が 暮 れ、
小 森 清 美 瀧 川 雅 一 刀 祢 館 信 雄 上 博 之 岡 廣 司 小 野 孝 史 門 平 吉史 野村孝次郎 船橋伸夫 吉田 寄付金の欄:射「的」場茂喜
先々不安と狂騒を感じさせる。
、 岩 田 雄 一 並 川 淳 西 村 信 浜 崎 守 三 林 孝二郎 小山久照 坂野友之 竹森 繁 喜 和 田 昌 信( 大 )
(H)
史欣 松浦幸作 松岡健雄 安田一 二 郎 田 辺 徹 寺 井 与 利 雄 土 井 酒井康就 田邨弘樹 中井光治 斜
5
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39
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24
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5
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16
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2
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11 6
8 19
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18
3
4
17
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1
12
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ITシステム性能管理のエキスパート
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中部営業所ᴾᴾ ᴾᴾᴾ〒ᵒᵔᵎᵋᵎᵎᵎᵖᴾ 名古屋市中区栄ᵐᵋᵐᵋᵏᵕᴾ 名古屋情報センタービルᴾᴾᴾᵲᵣᵪ:ᵎᵓᵐᵋᵐᵐᵎᵋᵐᵗᵕᵕᵆ代ᵇᴾᴾᴾᵤᵟᵶ:ᵎᵓᵐᵋᵐᵐᵎᵋᵐᵗᵕᵖᴾ
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― 24 ―
8
「会報」原稿・情報ご送付先
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林 史欣(大 回)
〒164―0014
中野区南台2― ―
(TEL・FAXとも)
03(3381)4431
※編集室のメールアドレスは
14
[email protected]
(次号分〆切日十月末日)
発 行 所
〒236 ―0004
横浜市金沢区福浦1― ―9
陵水会東京支部 支部長 守谷貞夫
守谷輸送機工業㈱内
電話045(785)3716
印 刷 所
〒110 ―0015
東京都台東区東上野1― ―3
船舶印刷㈱
電話03(3831)4181
28
15
東京支部の
陵水会東京支部
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検索
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ryousuit/
[email protected]
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