52 Kairos-Gesellschaft für Germanistik Fukuoka Japan 2014 かいろす52号(Kairos 52) 目 次(Inhaltsverzeichnis) 【論文】 (Aufsätze) 「新メルジーネ」の語り手 ―ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』について― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 木 田 綾 子 ・・・・・・ 1 (Ayako KIDA) Holzschnitte und Jean Paul ・・・・・・・・・・・・・・ Norimi TSUNEYOSHI ・・・・・・ 14 (恒 吉 法 海) F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー ― 「富」と「時間」の理論を中心に― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 中 島 邦 雄 ・・・・・・ 29 (Kunio NAKASHIMA) 生成文法にのっとった名詞グループの依存関係文法 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 馬場崎 聡 美 ・・・・・・ 49 (Satomi BABASAKI) 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ ―52団体の解説― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 竹 岡 健 一 ・・・・・・ 61 (Ken-ichi TAKEOKA) ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 島 村 賢 一 ・・・・・・124 (Ken-ichi SHIMAMURA) 【研究ノート】 (Forschungsbericht) トーマス・マンとロシア文学 ―チェーホフをめぐって― ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 日 髙 雅 彦 ・・・・・・142 (Masahiko HIDAKA) □ 執筆者連絡先,会員名簿,会則,執筆要項,編集後記 ・・・・・・・・・・・・148 【翻訳】 (Übersetzung) ベルリン(八) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ エルンスト・ドロンケ(著) ・・・・・・ (59) 髙 木 文 夫(訳) (Fumio TAKAKI) 聖女エリーザベト(一) ・・・・・・・・・・・・ ノルベルト・オーラー(著) ・・・・・・ (41) 田 中 暁(訳) (Satoru TANAKA) 父 テーオドール・シュトルム ・・・・・・・・・・・・・・・・ ゲルトルート・シュトルム(著) ・・・・・・ ( 1 ) 田 淵 昌 太(訳) (Shôta TABUCHI) 「新メルジーネ」の語り手 ― ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』 について 1 ) ― 木 田 綾 子 序 ゲーテ『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』 (1829)にはヴィルヘルムやそ の息子フェーリクスに関する主筋とは別に,彼ら以外の人々に関する逸話や手紙 などの様々な資料が挿入され, 『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』 (1795/96) と比べると,ロマーン全体が複雑な構成をしている。これに関してトゥルンツは, ゲーテ全集ハンブルク版あとがきの「枠物語」と見出しを付けた冒頭で,ロマー ン全体と挿話との対立関係という問題について言及している。トゥルンツによる と,重要な社会の問題がロマーン全体で扱われ,挿話では個人の問題が扱われて いるという。ロマーン全体に散りばめられた挿話には,何かをなすには別の何か をあきらめざるを得ないことを知った人物らの,諦念に至る途上が描かれている 2 ) と彼は分析する。 本論も,いくつかの挿話を含む『遍歴時代』の体裁を枠物語と 捉える。 トゥルンツの言うように,確かに挿話で扱われているのは, 『遍歴時代』の主要 な登場人物が体験したこと,とりわけ男女間の問題である。結ばれない相手との 関係に苦悩し,諦念しながら新たな関係を模索するなど,類似したテーマも少な 3 ) くない。 彼らは挿話の外,つまりロマーンにおいてはヴィルヘルムも所属する 「塔の結社」の一員であり,社会の中で何らかの立場を築いている。第三巻六章に 収められた「新メルジーネ」もそうした挿話の一つである。 「新メルジーネ」は,女性に対する情熱と苦悩が描かれている点では他の挿話と 1) 『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』 (以下『遍歴時代』と略すこともある)からの引用は, 以下の版による。Goethe, Johann Wolfgang: Wilhelm Meisters Wanderjahre oder Die Entsagenden. In: ders.: Sämtliche Werke. Hrsg. von Gerhard Neumann, Bd.10. Frankfurt a. M. 1989. 引用の際は,引用 文末尾の括弧内に頁数のみを記す。 2) Vgl. Trunz, Erich: Kommentar zu Wilhelm Meisters Wanderjahre, Goethes Werke, HA, Bd. 8, S. 527ff. 3) ザイドリンは,こうした男女の関係を「間違ったパートナー」とし,この関係が『遍歴時代』 の特徴の一つと分析する。Vgl. Seidlin, Oskar: Coda. Ironische Kontrafaktur: Goethes Neue Melusine. In: O.S.: Von erwachendem Bewußtsein und von Sündenfall. Brentano, Schiller, Kleist, Goethe. Stuttgart 1979, S. 155-170. -1- 木 田 綾 子 変わりない。しかしながら,その描かれ方が他の挿話とは異なる。それは, 「新メ ルジーネ」にのみ語り手と聞き手の存在が明示されている点,語り手がそれを自 らの体験として語る点と関係する。この語り手は聞き手にとって馴染みのない存 在であり,物語る才能があるとされるが,これは, 『ドイツ避難民の談話』におけ る「メールヒェン」の語り手,『親和力』(1809)における「隣り同士の不可思議 な子どもたち ― ノヴェレ」の語り手の特徴に似通っている。これに加えて,語 られる場面の設定が丁寧に描かれている点も, 『遍歴時代』の他の挿話には見られ ない特徴である。そこには,伝統的な枠物語である『デカメロン』や『千夜一夜 物語』を思い起こさせる手法が踏襲され,物語が始まるのに適した環境が意図的 に整えられているのである。 本論は,「新メルジーネ」が,「メールヒェン」,「隣り同士の不可思議な子ども たち ― ノヴェレ」の一連の流れの延長線上にあると解釈し,こうした語り手に よって設けられた一つの挿話が作品全体に大きな力を及ぼし得る点を指摘する。 そして,それがゲーテのロマーンの特徴の一つであることを示し,この特徴にお いて重要な役割を果たすのが,挿話の語り手の存在であることを明らかにする。 1.見知らぬ存在の語り手 「新メルジーネ」が挿入されているのは,第三巻六章である。この位置は,レナ ルドーの長い日記が続いた五章の直後である。当時の紡績家内工業に関する詳細 が延々と報告されるこの日記は,ゲーテの友人マイヤーの記録を元にして書かれ たものであり,歴史的記述としても評価されている(878ff.) 。作品内でもヴィル ヘルムが高い関心を寄せて読みふけるだけに,興味深い内容であることに論者も 異論はないが,確かに,当時の機織りの状況説明が続くのをいささか退屈に思 う読者も少なくないだろう。しかし,ヴィルヘルムは違う。日記が途中までしか なく,続きがないことを告げられると, 「この中断を仕方なく受け入れ,団らんの 夕べは,陽気な談話をして楽しもうと心に決めざるを得なかった」 (631)のであ る。 日記の続きを読みたかったヴィルヘルムにとっても,レナルドーの報告に退屈 した読者にとっても,必要なのは「気晴らし」である。『ドイツ避難民の談話』に おいて各人が語るきっかけとなったのは,場の雰囲気が悪くなったために何らか 4 ) の「気晴らし」が必要とされたからだった。 時刻は夕方であり,これもまた物語 を聞くのに絶好の状況が準備されたと言えるであろう。というのも, 『オデュッセ 4) Goethe, Johann Wolfgang: Unterhaltungen deutscher Ausgewanderten. In: ders.: Sämtliche Werke. Hrsg. von Wilhelm Voßkamp und Herbert Jazmann, Bd. 9. Frankfurt a.M. 1992, S. 1009. -2- 「新メルジーネ」の語り手 イア』や『千夜一夜物語』,『デカメロン』など,物語が語られる時間は伝統的に 夜であるからだ。日が暮れて闇が訪れると,人々の不安は増す。これを取り除く 癒しの効果も物語には含まれる。語る目的はそれぞれでも,必要とされるのは聞 き手を楽しませる「気晴らし」である。 ここで登場するのが,「新メルジーネ」の語り手である理髪師だ。理髪師は夕 方,ヴィルヘルムたちのいる東屋にやってくる。実はこの理髪師は,第三巻一章 で少しだけ登場している。彼もヴィルヘルムが所属している「塔の結社」の一員 で,ヴィルヘルムたちが遍歴の途中でたどりついた城の中にいるメンバーの一人 である。ヴィルヘルムの髭をそる間一言も話さないことから,ヴィルヘルムは彼 のことを民話に出てくる幽霊の理髪師に例える。 レナルドーは,東屋にやってきたこの男を紹介する際,元は非常におしゃべり だったが,今は自己形成の一環として沈黙が強いられていることを説明し,理髪 師の才能を次のように保証する。 そこでこの男は,日常のことや偶然のことを言葉で表現する場合に限り,言 葉を断念しました。しかし,これがきっかけで,意図的に,賢明に,楽しく 人に働きかけるという,別の話し方の才能が開花したのです。つまり,物語 る才能です。(632) レナルドーは,理髪師という仕事にはわずらわしいおしゃべりが付き物だと言う。 確かに,おしゃべりの理髪師と言えば, 『千夜一夜物語』にも登場する。こちらは 自称「沈黙屋」だが,実際は,おしゃべりが酷いため嫌われている。 「新メルジー ネ」の語り手である理髪師は,一章で初めて登場した際にも民話の人物に喩えら れていた。彼は存在そのものが初めから,その沈黙ゆえに,どこか物語めいた雰 囲気に包まれているのである。 とは言え,塔の結社の一員である彼は『遍歴時代』の登場人物の中で特に浮い た存在というわけではない。言葉を断念して得た物語る才能にはつまり, 「一つを 得るために別の何かをあきらめざるを得ない」とトゥルンツが分析した, 『遍歴時 代』における諦念の概念が具現されていると言えるであろう。 この理髪師がヴィルヘルムたちのいる東屋へやってきた理由については何も説 明されていない。いずれにせよ,ヴィルヘルムにとって彼は未知の存在である。 物語る才能があり,語り手が聞き手にとって馴染みのない謎めいた存在であると いう設定は,『ドイツ避難民の談話』における「メールヒェン」の語り手, 『親和 力』における「ノヴェレ」の語り手と共通する。しかし,前者は男爵夫人一家の 外部から来た老司祭,後者は庭園を訪問したイギリス人という設定であり,存在 -3- 木 田 綾 子 そのものが謎めいているわけではない。物語る才能も第三者によって保証されて いるわけではなく,物語の収集家という説明がなされるのみだ。つまり, 「聞き手 にとって見知らぬ存在であること」,「物語る才能があること」という,これらの 語り手の特徴がより強調されたのが,「新メルジーネ」の語り手である。 この特徴も実は使い古されたものである。オデュッセウスは知謀に長け,饒舌 に物語る。オデュッセウスは島の客人であり,荒唐無稽な漂流譚が信用に足る内 容とは言い難いが,それでも「小暗い広間の中の一同は,魅せられた如く,声を 5 ) 発する者もなく,静まり返って聞きいっている」。 シャハラザードもその才能を 生かし,一晩ごとに殺されていた娘たちを救うために,王が続きを聞きたくなる ような話を毎晩語って聞かせ続ける。どちらも才能を生かし,それぞれの目的を 遂げる。 「新メルジーネ」の語り手は目的を遂げたかどうか分からない。物語を終えた後 の記述がないからだ。「メールヒェン」の場合も同様である。 『親和力』に挿入さ れた「ノヴェレ」の場合, 「気晴らし」どころか,聞き手である二人の女性を動揺 させた。使い古された手法を思い起こさせながらも,語り手の意図する結果が明 確に描かれていないか,もしくは『親和力』に挿入された「ノヴェレ」のように, 意図する結果とは異なる反応が描かれている点にゲーテの独自性が垣間見える。 「新メルジーネ」は,場面設定や語り手の特徴において「メールヒェン」や「ノ ヴェレ」に比べると,伝統的な手法を踏襲した部分が,より強調されているので ある。それは語られた内容にもつながる。「新メルジーネ」は,他の二つの挿話と 異なり,メルジーネ伝説を元にしたものと言えよう。二つの挿話と状況が類似し ながらも,聞き手にとって謎に包まれた存在の語り手が伝説を語ること,それも 自らの体験として語ること,この二点が他とは大きく異なる。 2.本当のようなメールヒェンとメールヒェンのような実話 『遍歴時代』に収められた挿話の形式は統一しておらず,登場人物が翻訳したも のを読む場合や,時おり読者に語りかけて顔を出す,いわゆる主筋の語り手の若 干の説明の後に挿入される場合もある。ヴィルヘルム以外の人物が主に描かれた ものを挿話として数えると,それらは全部で七編になる。一巻に収められている のは,「気のふれたさまよう狂女」,「裏切り者は誰か」, 「栗色の娘」 ,二巻に収め られた「五十歳の男」,三巻は「新メルジーネ」, 「危険な賭け」 , 「度を越すな」で ある。このうち登場人物が体験として語った例は三編あり,その一つが第三巻六 章に収められた「新メルジーネ」である。ただし,三編のうち一つは,レナルドー 5) ホメロス『オデュッセイア』下巻,松原千秋訳,岩波文庫,2007年(第15刷),11ページ。 -4- 「新メルジーネ」の語り手 がヴィルヘルムとの会話の中で語ったという設定の「栗色の娘」で,話の途中で レナルドーとヴィルヘルムの会話が挟まるなど,明確な枠が設けられているわけ ではない。もう一つは,聖クリストフという人物が,ある夕べに語った話として 全体の語り手の説明が加えられている「危険な賭け」である。ちなみに,聖クリ ストフが語った内容には髪を切る場面があり, 「新メルジーネ」を語った理髪師を 連想させる。この二編に対して「新メルジーネ」だけは,理髪師がヴィルヘルム たちを前にして語ったという設定で,全体の語り手が出てくることもないまま明 確な枠が設けられているのである。 レナルドーは,語り手である男の才能に関して次のように付け加えている。 特別な技術と巧みさで,この人は本当のようなメールヒェンとメールヒェン のような実話とを物語るすべを心得ているのです。そのため,舌が僕によっ て解き放たれると,頃合を見はからってたびたび僕たちを心から楽しませて くれます。(632 f.) 「本当のようなメールヒェンとメールヒェンのような実話とを物語るすべを心得て いる」理髪師は,自らの体験として物語を始める。お金にも女性にもだらしのな い語り手である男は,旅先で美しい女性と知り合う。女性はいくつかの条件を出 して男と恋人同士になる。男は,その条件の一つであった見てはいけないと言わ れていた小箱の中を覗いてしまい,愛した美しい女性が実は箱の中に住む小人の 姫だったことを知る。小人の姫は,どの条件も破ってしまう男をその度に許し, とうとう自分の住む世界へと連れて行く。しかし,小人の姫と結婚するという段 になって男は恐れをなし,最後は小人の国を逃げ出して元の世界に戻ることに成 功する。 「メルジーネ」という伝説の水の精がタイトルに入っているため,読者はメール ヒェンが語られるかもしれないという心構えはできているが,体験として語り始 められるため,とりあえず実際にあった出来事のような印象を受ける。ところが 語られる内容は,小人が出てきたり,お金がひとりでに増えたり,実際には起こ りそうもないことばかりで体験談とは思えない。このように体験として語られる 手法は,オデュッセウスが巨人やセイレーンに出会った冒険譚を語るところと類 似している。 『オデュッセイア』も,実際にはとても起こりそうにない出来事に は,体験を語るという枠が設けられている。そこには,本当らしさを演出するこ とへのこだわりが見て取れよう。『ドイツ避難民の談話』の中にも,このこだわり が感じられる箇所がある。 『談話』の主な語り手である老司祭が不思議な幽霊話を した後,皆はそれが本当の話だろうかと様々な疑念を口にする。それについて老 -5- 木 田 綾 子 司祭はこう答えた。 この話が面白いというのなら,それは本当の話に違いありません。作られた 6 ) 話としては,ほとんど得るところがないからです。 つまり,語り手が体験として語るという設定をすることには,実際に自分の身に は起こりそうもない,でっちあげられたような物語に興味を持たせ,面白くする ために本当らしさを演出するという目的があるのである。この設定がなければ, 「新メルジーネ」は,それまで教育や社会などさまざまな問題が扱われていた『遍 歴時代』の中で浮いてしまい,いきなり挿入されたメールヒェンに,読者は興醒 めしかねない。この設定があるからこそ, 「新メルジーネ」は違和感なく『遍歴時 代』に収まることができるのである。 体験として一人称で語る効果については,『詩と真実』の中でも述べられてい る。それは,「新」が付くゲーテのもう一つのメールヒェン「新パリス」を「私」 が語って聞かせる場面にある。 私がメールヒェンを語ると,この少年や私に懇ろな友人たちはとても喜んだ。 とりわけ,彼らは私が一人称で話すことを好んだ。そんな不思議なことが遊 び仲間である私の身に起こりえたというのが,彼らには大変な喜びだったの である。〔中略〕私が彼らをうまく騙せたというよりもむしろ,彼ら自身が自 分を騙さなければならなかった。〔中略〕この衝動(作り話を芸術的に表現す ること;論者注)を正確に考察してみると,そこには,詩人自ら本当と思えな いことをそれらしく表現し,創作者である自分にとってどこか真実と思えるこ 7 ) とを,現実と認めるよう誰にでも要求するあの尊大さが見て取れるだろう。 「新パリス」の場合,語り手と聞き手が友人関係であるため,聞き手の友人たち は話の舞台となった身近な場所に行き,本当の話かどうか検証する。 「新メルジー ネ」の場合は語り手と聞き手は親しい関係にないため,メールヒェンか実話かど うかの検証のしようがない。聞いた話をどう受け止めるかは聞き手次第である。 本当だろうかと疑念を抱きながらも,本当のことだと思い込んだ方が,聞き手に とっても心地よい。「新パリス」を語り終えた後は,この問題に関して再び次のよ うな分析がなされる。 6) Goethe: Unterhaltungen deutscher Ausgewanderten. a. a. O., S. 1027. 7) Goethe, Johann Wolfgang: Dichtung und Wahrheit aus meinem Leben. In: ders.: Sämtliche Werke. Hrsg. von Klaus-Detlef Müller, Bd. 14. Frankfurt a. M. 1986, S. 58. -6- 「新メルジーネ」の語り手 私は状況をあまり変えないよう注意し,物語を同じ内容にすることによって, 8 ) 聞き手の心でこの作り話が真実となるように変えたのである。 『若きヴェルターの悩み』でも,ヴェルターは子どもたちにメールヒェンを語る 際,前と少しでも話が変わっていると抗議されるため,話の中身を変更しないよ う努める場面がある。「第一印象は受け入れやすいし,いくら荒唐無稽な話でも, 9 ) 人はそういうものだと思い込むものだ」からだ。 物語る才能のある語り手のこうした努力と,聞き手の希望とが重なり,作り話 は聞き手にとっての「真実」となり得る。つまり, 「本当のようなメールヒェンと メールヒェンのような実話」という表現は,聞き手によってどちらにも受け取る ことが可能である。もしかすると,語り手は「本当のようなメールヒェン」を言 葉巧みに語り,聞き手はそれを都合の良いように「メールヒェンのような実話」 と受け取るのかもしれない。 こうした聞き手の受取り方次第となる表現は, 『ドイツ避難民の談話』における 「メールヒェン」の語られる直前,『親和力』におけるノヴェレの語られた直後に もある。語り手である老司祭は「メールヒェン」を語る前に, 「このメールヒェン を聞けば,あなた方は何も思い起こさず,全てを思い起こすことになるはずで 10) す」 と言う。 「何も思い起こさず」は,物語の中に没頭して現実を忘れること, 「全てを思い起こす」は,物語を聞くことによってフランス革命後の混乱した不安 定な現実に引き戻されること,とするなら,語られた内容は,聞き手の現実と関 係がないことでもあり,関係があることでもあるということになる。つまり,こ れは聞き手側の問題であり,同じ話でも聞き手の捉え方次第では,正反対の印象 にもなり得るだろう。『親和力』では,大尉の過去を知っていたシャルロッテが, 「ノヴェレ」を聞いた後で激しく動揺する様子についてこう説明される。 この出来事は,大尉と近所の女性との間に実際に起きたことだった。全てが イギリス人の語った通りというわけではないが,ただ個々の部分において大 げさに描かれていたり,脚色されたりしていただけで,主要な特徴において は歪曲されていなかった。人の口から口へと伝わってから,後に精神と良き 趣味にあふれている語り手の空想を経ると,この手の話には,こうしたこと がよく起きる。つまるところ,ほとんどの場合,全てが元のままで,何一つ 8) Ebd., S. 74. 9) Goethe, Johann Wolfgang: Die Leiden des jungen Werthers(Fassung B, 1787). In: ders.: Sämtliche Werke. Hrsg. von Waltraud Wiethölter, Bd. 8. Frankfurt a. M. 1994, S. 105. 10) Goethe: Unterhaltungen deutscher Ausgewanderten. a. a. O., S. 1081. -7- 木 田 綾 子 11) 元のままではない。 語り手と聞き手の相互の作用が働き,伝わるのは「何一つ元のままではない」 。一 方で,人の口から口へと伝えられ,語り手の空想を経ながらも「全てが元のまま」 伝わっていくものもある。それを示しているのが,理髪師の語る「新メルジーネ」 である。 3.メルジーネ不在の「新メルジーネ」 『詩と真実』には,ゲーテが若いころ友人たちの前で「新メルジーネ」を読んで 聞かせた際の様子が書かれている。その時友人たちは好奇心を掻き立てられて満 足し,この話は成功を収めたようだ。しかし,ゲーテはこの物語が印刷されるとき のことを考え,同じ効果は得られないかもしれないという不安をこう記している。 将来このメールヒェンの印刷されたものを読み,それがこのような効果を生 み出すことができるかを万一疑うとするなら,人間というものは本来,相手 を目の前にするときのみ,力を発揮するのだということを考えてもらいたい。 書くことは言葉の乱用であり,一人で静かに本を読むことは談話の悲しい代 12) 用物なのである。 印刷物の読者には,理髪師の語りを読む前に「新メルジーネ」というタイトル が目に入る。教育や産業など,社会的問題も扱われる『遍歴時代』を読んできた 読者にも,これから語られる内容がメルジーネ伝説,つまり中世からある「水の 女」の伝説に関係する,メールヒェンめいた話であると予測できる。しかしなが ら, 「新メルジーネ」と題された物語の中に,メルジーネという言葉は一度も出て こない。美しい女性は登場するが,彼女はメルジーネと呼ばれるわけでも,半人 半魚の姿で登場するわけでもなく,小人の御姫様だ。男性は彼女をののしるとき, ニクセ,すなわち水の精と吐き捨てるが,ここでもメルジーネという語は使われ ない。ゲーテは中世の民衆本に親しみ,友人たちに語って聞かせたときはまだそ の民衆本の内容を語っていたようだが,『遍歴時代』の「新メルジーネ」の内容 は,民衆本からそれている。出来事の一つ一つは伝説を踏襲しているものの,例 えば見てはいけないというタブーが犯されるのは,中世の伝説では結婚後のこと だが, 「新メルジーネ」ではタブーを犯した後に結婚するなど,伝説はゲーテに 11) Goethe, Johann Wolfgang: Die Wahlverwandtschaften. In: ders.: Sämtliche Werke. Hrsg. von Waltraud Wiethölter, Bd. 8. Frankfurt a. M. 1994, S. 479. 12) Goethe: Dichtung und Wahrheit aus meinem Leben. a. a. O., S. 486. -8- 「新メルジーネ」の語り手 13) よって脚色され,パロディー化されている。 このようなことは,先に挙げた『親 和力』の引用箇所にあるように, 「人の口から口へと伝わってから,後に精神と良 き趣味にあふれている語り手の空想を経ると」よく起きるということだろう。 実際, 「水の女」の姿も変遷する。半人半鳥から半人半魚となり,中世のメル ジーネ伝説では人間となるが,土曜日のみ半人半蛇の姿である。時代によって伝 説は変更されているのだ。但し,メルジーネの姿がどうであろうと,ゲーテはそ れを問題にしているわけではない。似たようなテーマを扱ったバラード『漁夫』 について,ゲーテは次のように述べている。 このバラードには,単に水の感じ,つまり,夏に我々を水浴へと誘う,あの 優美なものが表現されているにすぎない。それ以上のものは何もないのだ。 14) それなのに,どうしてそれが絵になるものか。 ここでも,ゲーテは「水の女」の具体的な姿形を問題にしていない。ゲーテが表 したのは,水の中へと人を誘う,水の優美な様子だ。水の世界へと誘い込む優美 なもの,それこそが,メルジーネ伝説の中で一貫して語られる「誘惑」というテー マである。描かれているのは,誘惑する存在,そして誘惑されるものが抱く情熱 であり,人間の感情に関わることだ。『談話』で語る老司祭が集めていた話が扱う ものも,人間の様々な感情だった。これは,人間の本性と言い換えることもでき るだろう。これこそが,いつの時代であっても人間が関心を抱き,変更されるこ となく語り伝えられるテーマなのである。メルジーネとは,ときにそうした人間 の本性にささやきかける,得体のしれない不可思議な誘惑を表すものだったので はないか。伝説がパロディー化されることによって,どこが変化し,何が伝えら れ続けるのかが強調されるからだ。 では,なぜこれが『遍歴時代』というロマーンの中に組み込まれたのか。誘惑 とそれによる情熱は, 『遍歴時代』のテーマの一つでもある。特に挿話のほとんど に,これが描かれている。登場人物は情熱による何らかの苦難を経験し,後に結社 の一員となっている。 「新メルジーネ」は,テーマとしてはここから外れていない。 ところが, 「新メルジーネ」は情熱の描かれ方が,他の挿話とは全く趣が異な る。『遍歴時代』に収められている挿話のほとんどには,先述のように,何らかの 13) Vgl. Seidlin, a. a. O., S. 162f. Otto, Beate: Johann Wolfgang von Goethe: Die Neue Melusine. In: Unterwasser-Literatur. Von Wasserfrauen und Wassermännern. Würzburg 2001, S. 72-78. 小黒康正 『水の女 ― トポスへの船路 ― 』九州大学出版会,2012年。 14) Eckermann, Johann Peter: Gespräche mit Goethe. In: ders.: Goethe Sämtliche Werke. Hrsg. von Chridtoph Michel, Bd. 12(39). Frankfurt a. M. 1999, S. 67. -9- 木 田 綾 子 情熱と諦念が描かれている。社会との折り合いという,若干退屈に思われるテー マを与えられる読者にとっても,挿話の中で描かれる情熱は「気晴らし」にもな り,新鮮な気持ちで再び諦念や社会のテーマに取り組むことができる。「新メル ジーネ」も,その点は例外ではない。しかしながら,その情熱の描かれ方が他の 挿話と大きく異なるのである。他の挿話の人物たちについては,情熱に迷い,葛 藤する様が描かれているのに対し, 「新メルジーネ」の男は,情熱を抑制すること なく,女性の出す条件を守るわけでもなく,情熱の赴くままに行動し,最後は逃 げ出してしまう。そこにかえって教訓を見出すこともできないわけではないが, 生きるための何らかの指針は見出し難い。「新メルジーネ」は,他の挿話で描かれ る情熱の深刻さに幾分距離を置いているようにも見えるのだ。 「新メルジーネ」が 挿入されることによって,それまで真面目に扱われてきたテーマも,まるで茶化 され相対化されてしまったかのように,価値基準に揺れが生じてしまうのである。 ただし,深刻さが欠如しているような印象を与えながらも, 「新メルジーネ」で 描かれている誘惑や情熱は決して明るいものではない。むしろ闇に引き込まれる ような不気味さがある。それを象徴するのが小箱の存在である。男は小箱の秘密 を暴いたがために小人の世界に縛り付けられ,その呪縛から逃れられない。この 小箱は,本編で何度も登場する,フェーリクスが洞窟で発見した小箱を連想させ る。箱の中の秘密が暴かれる「新メルジーネ」と秘密のままに終わる主筋,男が 小人の国から帰還するところは,川に落ちたフェーリクスが生き返る最後の場面 を思わせる。 ロマーンの向く方向とはまるで違うところを向いている挿話は,それまでロマー ンで作り上げられてきた世界観を根底から覆す。『談話』における「メールヒェ ン」も『親和力』における「ノヴェレ」もそうした機能を持っていた。しかしな がら,全体の三分の一を占める前者と,ロマーンの中に一つだけ挿入された後者 とは共に,作品の中で十分に存在を主張している。これらと比べると「新メルジー ネ」は,長大な『遍歴時代』の中で他の挿話に紛れてひっそり置かれているよう にも見えよう。例えば「五十歳の男」など, 「新メルジーネ」よりもページ数も多 く,目立つ挿話は他にもある。 加えて「新メルジーネ」そのものの分かりにくさは,まるで小箱の秘密のよう である。この秘密に気が付けば, 『遍歴時代』もまた,一つの世界観や価値観,思 想を押し付けるものではないことが明白となる。一つの指針と思えたものが,他 の箇所では通用しないことが判明しても戸惑う必要はない。ゲーテはロホリッツ へ宛てた手紙の中で『遍歴時代』という作品そのものを人生に例え,人生を「複 合的な全体」と表した。 -10- 「新メルジーネ」の語り手 しかし,このような小さな本は人生そのものと似ています。複合的な全体に おいては,必然もあれば偶然もあり,先行するものもあれば後から加わるも のもあり,成功することもあれば失敗することもあり,このようにして作品 は一種の無限性を帯び,こうした無限性は,悟性的,理性的な言葉で捉えて 15) 表現することが,完全にはできないのです。 複合的な全体である作品は,様々な矛盾を抱えるが故に,言語化しがたい「一 種の無限性」を帯びる。ゲーテが若い頃から温めていた「新メルジーネ」は,そ れだけで一つの小さな独立した作品に成り得るし,実際そのようにも読まれてき た。しかしながら,この小さな挿話が『遍歴時代』という長大なロマーンの中に 組み込まれることによって,ロマーンの作品世界は無限の広がりを見せる。これ を生み出すのが,聞き手にとって見知らぬ存在という設定の語り手だったのであ る。 15) Goethe, Johann Wolfgang: Die letzten Jahre. In: ders.: Sämtliche Werke. Hrsg. von Horst Fleig, Bd. . Frankfurt a. M. 1993, S. 199. 11(38) -11- 木 田 綾 子 Der Erzähler der Novelle Die neue Melusine In Goethes Wilhelm Meisters Wanderjahre Ayako KIDA Die neue Melusine ist eine der Novellen, die in den Roman Wilhelm Meisters Wanderjahre eingeschoben sind. Die neue Melusine unterscheidet sich aber von den übrigen Novellen. So treten etwa Erzähler und Zuhörer deutlich in Erscheinung. Des weiteren schildert der Erzähler, ein Barbier, eine Begebenheit, die er selbst erlebt hat. Als Lenardo ihn Wilhelm vorstellt, erklärt er, dass der Barbier „die Gabe des Erzählens“ habe. Lenardo sagt weiter: „Mit besonderer Kunst und Geschicklichkeit weiß er wahrhafte Märchen und märchenhafte Geschichten zu erzählen, wodurch er oft zur schicklichen Stunde uns gar sehr ergötzt, wenn ihm die Zunge durch mich gelöst wird.“(632f.) Der Barbier beginnt die Geschichte als eine ‚wahrhafte‘ zu erzählen, aber Wilhelm, der diesen Mann nicht gut kennt, kann nicht beurteilen, ob die Geschichte wahr ist oder nicht. Wegen des Titels Die neue Melusine zweifeln die Zuhörer daran, dass die Geschichte ein Märchen sein könnte. Trotz des Titels kommt das Wort Melusine jedoch in der Geschichte niemals vor. Die Handlung orientiert sich zwar an der Legende der Melusine, aber die kleine Prinzessin lebt weder im Wasser noch ist sie eine Meerjungfrau. Die Legende wird von Goethe bearbeitet und parodiert. Über das Gedicht Der Fischer, dessen Thema ähnlich ist, äußert sich Goethe wie folgt: „Es ist ja in dieser Ballade bloß das Gefühl des Wassers ausgedrückt, das Anmutige, was uns im Sommer lockt, uns zu baden; weiter liegt nichts darin, und wie läßt sich das malen!“ Auch hier hält Goethe die konkrete Figur einer Meerjungfrau nicht für wichtig. Es ist nur das Anmutige des Wassers, das uns lockt, das er dargestellt hat. Das Thema der Ballade ist also die Verlockung, deren Personifikation die Melusine ist. Verlockung ist ebenso ein Thema von den Wanderjahren, vor allem im Großteil der Novellen. Die handelnden Personen erfahren meistens eine schwierige Situation, ausgelöst durch Verlockung und Leidenschaft, danach werden sie Mitglieder der Turmgesellschaft. Die neue Melusine hat eine ganz andere Form, aber das Thema ist ähnlich. Auch sie handelt von einer Figur, die ‚verlockend‘ ist und ihre Gefühle, Ihre Leidenschaft und ihr Charakter werden beschrieben. Jedoch was in der neuen Melusine dargestellt wird, sind Leidenschaften einer ganz anderen Art, als etwa in Wilhelm Meisters Wanderjahre. Zwar werden in der neuen -12- 「新メルジーネ」の語り手 Melusine auch Leidenschaften beschrieben. Aber Die neue Melusine scheint von der extremen Leidenschaft in den anderen Novellen Abstand zu nehmen. In der neuen Melusine werden die in dem ganzen Roman vertreten Ansichten und Weltanschauungen konterkariert, als ob die Geschichte sein eigentlich ernstes Thema (z.B. Entsagung oder wie man in der Welt leben kann) lächerlich machen wollen würde. Die neue Melusine ist an sich ein selbstständiges Werk, aber dadurch dass es in den Roman Wanderjahre eingearbeitet worden ist, erweitert es die Weltanschauung des Romans. Diese Wirkung wird durch den Erzähler erzielt, der für die Zuhörer ein Fremder ist. Er repräsentiert somit eine Alternative zu der bestehenden Weltsicht und verhindert, dass allein diese als absolute Wahrheit des Romans bestehen bleibt. i ) Eckermann, Johann Peter: Gespräche mit Goethe. In: Goethe Sämtliche Werke. Hrsg. von Christoph Michel, Bd. 12 (39). Frankfurt a. M. 1999, S. 67. -13- Norimi TSUNEYOSHI Holzschnitte und Jean Paul Norimi TSUNEYOSHI Nachdem fast alle Romane Jean Pauls bereits ins Japanische übersetzt und erläutert sind, möchte ich diesmal die illustrierten Erzählungen Leben Fibels, des Verfassers der Bienrodischen Fibel (1811) und Das Kampaner Tal (1797) vorstellen. Veranlasst wurde ich dazu von den Worten Lewis Carrolls in Alice‘s Adventures in Wonderland: «‚And what is the use of a book,‘ thought Alice ‚without pictures or conversation?‘» (Project Gutenberg). Der Inhalt von Leben Fibels ist leicht erzählt. Die Hauptfigur Fibel sieht sich irrtümlich als großen Schriftsteller, kann aber er nur ein ABC-Buch (eine Fibel) publizieren und führt im hohen Alter ein bescheidenes Leben. Der Inhalt Des Kampaner Tals, besonders sein scherzhafter Anhang Erklärung der Holzschnitte unter den zehen Geboten des Katechismus war mir lange ein Rätsel, obwohl mir Kommerells 1 ) Kommentar zum Kampaner Tal einleuchtete: „Der Mensch besteht aus zwei Teilen, aus Spaß und Ernst, – und seine Glückseligkeit besteht daher aus höhern und aus niedern Freuden. Er gleicht dem zweiköpfigen Adler der Fabel, der mit dem einen nidergebückten Kopfe verzehrt, indes er mit dem andern umherblickt und wacht“ (Zitiert nach Hanser-Ausgabe Bd.4, S.563). Nachdem ich dieses Jahr die beiden Erzählungen ins Japanische übersetzt hatte, konnte ich einen besseren Zugang zu ihrem Inhalt und zu Jean Pauls Technik der Erzeugung grotesk lächerlicher Situationen finden. Dennoch bleibt seine Prosa schwierig wie auch Eduard Berend bemerkt: „Nach Form wie nach Inhalt sind seine Schriften nichts weniger als leicht lesbar [...] Kurz, den Stoßseufzer seines Verehrers, Fr. Th. Vischer, es sei eine Pferdearbeit, Jean Paul zu lesen, werden viele nachgeseufzt haben.“ 2 ) Die Beschäftigung mit Jean Paul erfordert also einige Geduld. Den ernsthaften Teil des Kampaner Tals, in dem der Begriff der Unsterblichkeit der Seele diskutiert, werde ich hier nicht behandeln. Wie erwähnt waren die Illustrationen der beiden Erzählungen Anlass, mich mit Leben Fibels und Erklärung der Holzschnitte unter den zehen Geboten des Katechismus, 1 ) Kommerell, Max: Jean Paul. Ffm: Vittorio Klostermann, 1966. S. 168. 2 ) Berend, Eduard: „Jean Paul der Meistgelesene Schriftsteller seiner Zeit?“ In: Jean Paul. Hrsg. von Uwe Schweikert. (Wege der Forschung.) Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1974. S. 156. -14- Holzschnitte und Jean Paul (im Folgenden: Holzschnitte) näher zu beschäftigen. Was Form und Inhalt angeht, haben beide Werke viele Gemeinsamkeiten, auf die ich zunächst eingehen möchte. Hinsichtlich der Form muss die Rahmen (Meta)-Struktur berücksichtigt werden, denn Jean Paul behauptet, er hätte die Werke aufgrund einer Informationsquelle verfasst. Was den Inhalt angeht, lässt sich sagen, dass er unter dem Schein der Ernsthaftigkeit das kleinlich Gleichgültige beschreibt. Von der Form her betrachtet, vernichtet Jean Paul den Begriff des originellen Genies, wie die Inspiration. Bedenkt man aber die Gründe, warum er unter dem Schein der Ernsthaftigkeit schreibt, lässt sich sein bewusst-unbewusstes Beharren auf dem Urteil der Nachwelt leicht erkennen. Dies mag als parodierte Bejahung des originellen Genies gesehen werden. Bei Leben Fibels gelangt Jean Paul an eine 40-bändige von Pelz zusammengefasste Papiersammlung zu Fibels Leben. Der schlaue und begabte Pelz veranlasst Fibel, sein ABC-Buch dem Landesfürsten zu widmen, um so seine Verbreitung zu fördern. Danach gründet er die sogenannte Fibelei, eine biografische Akademie vom lebenden Fibel. Diese Lebensbeschreibung hatten die „Marodeurs“ zerschnitten, aber Jean Paul ließ die Dorfjungen „die im Dorf zerstreueten Quellen“ (Bd.6, S.376) einfangen. Zu dieser Quellensuche heißt es: „Welche mir die Knaben-Knappschaft täglich einbrachte, daß ich also sofort anfangen und nach den eingebrachten papiernen Verkröpfungen gut das Kapitel benennen konnte; so ist z. B. schon das dritte Haubenmuster-Kapitel benannt und das vierte Leibchen-Muster“ (Bd.6, S.376). Später sucht der Autor nach weiteren verlorenen Papieren suchen und findet einen Teil am namenlosen Ort (auf der Toilette) eines Honoratiors (Bd.6, S.524). In den Holzschnitten behauptet Jean Paul, die Grundlage seiner Erzählung sei eine Federzeichnung, die er in der Weimarer Bibliothek gefunden habe. Diese Zeichnung erkläre die Bedeutung der Holzschnitte von den Zehn Geboten. Die Holzschnitte erzählten die Geschichte eines Mannes namens Krönlein, der dank seiner gierigen Frau in Sachsen eine Karriere vom Salzrevisor zum Bettmeister macht. Die Abbildungen seien in Wirklichkeit spiegelverkehrte Buchstaben, wie man sie von Kupferplatten kenne: „Als ich zu Hause die Federzeichnung vor mich nahm und ein gewöhnliches Brennglas und einen Rasierspiegel dazu, um sie damit durchzulesen: so konnt’ ich, eh’ ich nur bis auf den Magen herabgelesen, schon wissen, daß ich über die Figur meine Gedanken in Druck äußern würde. Hier ist ein schlechtes Inventar des Funds: ich hatte den Formschneider der 10 Holzschnitte für die 10 Gebote vor mir – er hieß Lorenz Krönlein – er war Salzrevisor im Sachsenland – die 10 Schnitte stellten nichts aus der biblischen Geschichte vor – sondern alles aus seiner eignen – sie haben -15- Norimi TSUNEYOSHI eine ganz neue Erklärung nötig – diese erteilt sein Riß – seine gezeichnete Person zerfället er in 10 Gesichtslängen und Holzschnitte – für jedes Gebot eine Länge ... Genug zum Imbiß. Das ist aber ein geringer etwaniger Konspektus des Küchenzettels, den ich auf den folgenden Blättern meinen Deutschen vorzusetzen denke, samt Küchenpräsenten“ (Bd.4, S.635f.). Eine solche Rahmen-Struktur ist typisch für Jean Paul. Im Hesperus behauptet er, die Quellen zu dieser Erzählung hätte ihm ein Spitz als Hundposttag überbracht und er hätte diese nur kopiert. Und im Titan meint er, das Werk basiere auf Informationen, die ihm „das Gesandten-Corpo posttäglich in festen Düten schickt“ (Bd.3, S.61). Wäre der Hund eine Parodie von Pegasus, würde diese Meta-Struktur eindeutig den Begriff von der Inspiration eines Autors im geschlossenen Zimmer vernichten. Diese Grundform hängt aber mit dem Jean Pauls Gefühl vom hohen Menschen zusammen, der alle irdischen Tätigkeiten als gleichgültig ansieht. Zu diesem Begriff heißt es: „Sondern den mein’ ich, der zum größern oder geringem Grade aller dieser Vorzüge noch etwas setzt, was die Erde so selten hat – die Erhebung über die Erde, das Gefühl der Geringfügigkeit alles irdischen Tuns und der Unförmlichkeit zwischen unserem Herzen und unserem Orte, das über das verwirrende Gebüsch und den ekelhaften Köder unsers Fußbodens aufgerichtete Angesicht, den Wunsch des Todes und den Blick über die Wolken“ (Bd.1, S.221). Liest man seine Beteuerungen in den Holzschnitten, dass er die 70ste Physiognomie von den 85 Physiognomien des Kirschkerns im Dresdner Zwinger als Gesicht von Krönlein wiedergefunden haben will, so überkommt einem ein Gefühl der Geringfügigkeit alles irdischen Tuns. Das humorvolle Geschwätz setzt die Gleichgültigkeit aller irdischen Tätigkeit voraus. Aber ist dem Autor alles irdische Tun wirklich gleichgültig? Abgesehen von den ernsthaften Erörterungen zur Seelenunsterblichkeit im Kampaner Tal, gibt es auch in diesem spaßhaften Werk einige Stellen, die den ernsthaften Kern Jean Pauls ahnen lassen. Sie beziehen sich auf das Urteil der Nachwelt. 3 ) Im Folgenden möchte ich auf ein paar Stellen aus dem Leben Fibels hinweisen: 1. „Was die Nachwelt schon daraus schließen kann, daß sie abends alles bereit hinstellte, was man am Morgen brauchte und genoß, Wasser, Milch, Bier und mehr“ (Bd.6, S.462). 2. „Vertrauend auf die gerechtere Nachwelt, welche die Karten und Masken abzieht“ (Bd.6, S.487). 3. „Wer nur gelesen, daß unbedeutende Menschen schon dadurch auf die Nachwelt gekommen, daß sie den vorhandnen Buchstaben noch einige hinzuerfanden, -16- Holzschnitte und Jean Paul [...]“ (Bd.6, S.489). 4. „Traten nicht immer ein oder mehrere Studenten in Wittenberg dem großen Luther auf die Fersen nach und hielten ihre Schreibtafeln unter, um für die Nachwelt alles aufzufangen, was er fallen ließ?“ (Bd.6, S.516). 5. „Allmählich wurde Wochensaat für die Sonntags-Lese so dünn gesäet, daß zuletzt in den Sitzungen jedes Wiegenfest im Hause, allerlei Geräte und Lappen des Seligen für die Nachwelt spezifiziert wurden, falls diese nach Überbleibseln und Reliquien Nachfrage hielte“ (Bd.6, S.518). Im Folgenden erwähne ich ein paar Stellen aus den Holzschnitten. 1. „und er braucht, um der Nachwelt nicht einseitig abgeliefert zu werden, wenigstens 6 Kerne“ (Bd.4 S.633). 2. „gegen tausend Kenner, welche den Grund fordern können, warum er der Nachwelt auf einer ganzen Platte nichts Wichtigers vorführt als einen Kassierer“ (Bd.4, S.679). 3. „Krönlein ist nämlich wider alles Vermuten imstande, in eine solche ShakespeareGallery seines dramatischen Lebens, mit der er auf die Nachwelt kommen will, eine Szene aufzunehmen, worin er nichts Bessers vorschnitzt und vorzeigt als den Lautenisten samt Hammeln“ (Bd.4, S.692). 4. „so hielt’ ichs für Diebstahl, die zwei schönsten Ausschnitte aus Krönleins Leben der Nachwelt wegzuschneiden“ (Bd.4, S.699). 5. „Ihre Werke blieben ewig wie der kleine Katechismus; aber die Bilder Ihrer eroberten Provinz zogen, wie bei einem römischen Triumph, in die Nachwelt voran, und der Triumphator schloß, wie in Rom, den Zug und erschien erst anno 1797. Erst nach Abspielung des ganzen Stücks ruft das Parterre der Welt: Autor vor!“ (Bd.4, S.706). Ich hielte es für selbstverständlich, dass das Urteil der Nachwelt gegenüber Jean 3 ) Im buddhistischen Sinne bedeutet das Beharren auf dem Urteil der Nachwelt ein Verirren in der irdischen Welt. So meint Ryokan (1758-1831): „Wer schätzt den Staub des Ruhms?“ Allerdings bemerkt der moderne japanische Autor Natsume Sôseki (1867-1916): „Wer sich mit der Literatur beschäftigt, dem lohnt es sich nicht, wenn er auf die Nachwelt keine Einflüsse hat. Das bedeutet nicht, dass über ihn im Literatur-Lexikon einige Zeilen geschrieben werden. Sondern nur Bücher üben Einflüsse aus. Wenn man im eigentlichen Sinne auf eine Generation und dann auf die Nachwelt Einflüsse ausübt, dann wird man davon überzeugt sein, dass die Beschäftigung mit der Literatur keine Kurzweil ist, dass man selbst kein Individuum, sondern ein Teil des Geistes der ganzen Gesellschaft ist, dass die Literatur große Beziehungen mit der gesellschaftlichen Moral hat.“ (Die philosophische Grundlage der Literatur, 1907) -17- Norimi TSUNEYOSHI Paul und seinem Werke gerechter und nicht so gleichgültig wäre. Aber dann muss der Künstler Jean Paul die Kunst beherrschen, ein Werk geringfügigen Inhalts der Nachwelt zu überliefern. Hier zeigt sich Jean Paul als wahrer Meister dieser Kunst. Davon zeugen besonders Leben Fibels und Holzschnitte. Nähert man sich von diesem Standpunkt aus dem Werk, kann man die Kunst Jean Pauls genießen, ohne sich über den geringfügigen Inhalt zu ärgern. Ich möchte an dieser Stelle einige besonders gelungene Passagen vorstellen. Im Leben Fibels sind die Rezensionen zu dem Abc-Buch am interessantesten. Im Folgenden stelle ich zuerst die Kritik von Schulmeister Flegler, dann die von Jean Paul selbst und zuletzt die AntiKritik von Pelz vor. Alle drei äußern sich sehr pedantisch. Der Schulmeister vergleicht das naive AbcBuch mit den großen Meistern. Seine Bemerkung, er halte sich nicht an den Stoff, klingt seltsam, führt man sich die damalige Klassik und Romantik und zugleich die naiven Holzschnitte vor Augen: „Was die Zeichnung anlangt, so schiebt dieser kleine Guckkasten zwanzig Tierstücke und nur fünf Menschenstücke vor. Doch das sei; der Kunstkenner hält sich nicht an Stoff, sondern an Form, und ein guter Ochs ist Rezensenten lieber als ein schlechter Evangelist Lukas, darneben er steht. Aber leider müssen wir, wenn wir nicht ganz unsere niederländische Schule und niederländische Reise vergessen wollen, in diesem gemalten Viehstalle die Fragen aufwerfen: wo ist hier ein David Tenier (Vater und Sohn, jener 1649 gestorben, dieser 1674) – ein Potter – ein Stubb – ein Jacob Ruysdal (aus Haarlem, gestorben 1681) –? Freilich ein Lamm ist da, aber man vergleich’ es mit dem Nicolaus Berghem (aus Amsterdam, gestorben 1683); freilich ein Gaul ist da, aber man vergleich’ ihn mit einem Philipp Wouvermann (aus Haarlem, gestorben 1668)! Und so könnten wir die ganze herrliche Maler-Reihe durchgehen, aber immer vergeblich fragen: ist der und der da?“ (Bd.6, S.504). Es folgt eine Rezension, die von Jean Paul (einem angeblich großen Ästhetiker und Historiker) selbst stammen. Hier sind ein kurioses Beharren auf der Ziffer und ein dunkel Geschlechtliches charakterisch: „Wir kommen zum Ypsilon. Y y Ygel – Y y Yüdenkirschen. Des Ygels Haut voll Stachel ist, Nach Yüdenkirschen mich gelüst. -18- Holzschnitte und Jean Paul Der Jude und der Igel müssen sich hier ihren Anfang aus Griechenland holen, ein i grec. Mit dem Juden vornen, der den Beutel hält, ging er weit höflicher und orthographischer um. Überhaupt setzt den Verfasser das Ende mit den drei Auslands- Buchstaben x, y, z in solche Not, daß er damit, wie die Mathematiker mit x, y, z, gesuchte (ihm) unbekannte Größen bezeichnen könnte. Denn auch im Z gehts her, wie folgt: Z z Ziegenbock – Z z Zählbret. Die Ziege Käse giebt zwei Schock, 1 2 3 4 5 6 7 Das Zähl- Brethältder Ziegen-Bock. Die zweite Zeile enthält die letzten sieben Worte 4 ) des am Buch-Kreuz hängenden Verfassers; daher man bei einem, der im Ausmachen ist, den sogenannten Verstand so wenig erwartet als findet. Auch im ersten Gnomon will der Sinn fehlen, da ohne ZeitBestimmung eine Ziege ebensogut 100 Schock als ein halbes gibt. Lächelnd bemerkt Rezensent, daß Käse dreimal im Werklein vorkommt, hier und im Q (Quark-Käse). Aber ernsthaft rügt Rezensent die Unvorsichtigkeit, die zarte Jugend durch das Fusti und Sporco der Zweideutigkeiten, durch die pontinischen Sümpfe des sechsten Verbots zu ziehen, da man vor Kindern den alten Malern nachschlagen sollte, welche Adam und Eva sogar vor dem Falle mit Feigenblättern darstellen. Uns fällt noch einmal bei der Xantippe das Hochzeitkarmen oder der Trauschein zweier Tiere auf, welche ohnehin in keiner Kryptogamie (Geheim-Ehe) leben, sondern von welchen die eine eheliche Hälfte die andere in die Welt gesetzt, den sogenannten Sündenbock der Juden; – doch wollen wir hiemit nur vor Gefahr und Vergiftung der armen Kindheit zur Vorsicht warnen; denn wir lassen gerne zu, daß der Verfasser nicht sowohl absichtlich als unvorsichtig und ohne Willen mehr gegen als für die Kindheit geschrieben. – – . I. P. [Jean Paul]“ (Bd.6, S.508f.) 4 ) Sieben Letzte Worte (nach Wikipedia) 1. „Vater, vergib ihnen, denn sie wissen nicht, was sie tun.“ (Lk 23,34) 2. „Amen, ich sage dir: Heute noch wirst du mit mir im Paradies sein.“ (Lk 23,43) 3. „Frau, siehe, dein Sohn!“ und: „Siehe, deine Mutter!“ (Joh 19,26-27) 4. „Mein Gott, mein Gott, warum hast Du mich verlassen?“ (Mk 15,34 EU; Mt 27,46) 5. „Mich dürstet.“ (Joh 19,28) 6. „Es ist vollbracht.“ (Joh 19,30) 7. „Vater, in deine Hände lege ich meinen Geist.“ (Lk 23,46 EU) -19- Norimi TSUNEYOSHI Zuletzt soll die Anti-Kritik vom schlauen Pelz vorgestellt werden. Es ist eine absolute Antikritik, die alle Kritiken unter fast allen Umständen widerlegen könnte: „Akademist würde den Seligen zu beleidigen glauben, wenn er auf die Rezension nur antwortete – Solcher Anfälle ist ohnehin jeder Schriftsteller gewärtig – Die Zeit wird gewißlich richten – Auch muß jedes Buch sich selber verteidigen – Und ist denn irgendein Menschenwerk vollkommen? Wo aber plura nitent, ego non offendor – Ich würd’ es auch schon darum für verlorne Mühe halten, dem Herrn Gegner zu antworten, weil zwar wohl in Kirchen-Geschichten Beispiele vorhanden sind, daß Märterer ihre heidnischen Scharfrichter bekehret haben, aber keines in der Gelehrtenhistorie zu finden ist, daß ein Autor seinen Kunstrichter durch Antikritik herumgebracht hätte – Noch mehr ist dies der Fall, wenn, wie hier, Neid und Alter einstimmig miteinander in ein Horn auf der Stirne blasen, das sie für eine Famas Trompete ansehen“ (Bd.6, S.510). Im Leben Fibels meint der alte Fibel: „Gott und Vieh sei immer gut, aber der Mensch nicht“ (Bd.6, S.537). Dazu bemerkt Max Kommerell: „Der alte Fibel lebt in dieser Demut [...] Unio mystica ist Jean Pauls letztes Wort.“ 5 ) Andere wie Timothy J. Chamberlain zweifeln an der Mystik des alten Fibels: „Er scheint ein anderer geworden zu sein und behauptet er sei der eitle Fibel nicht mehr, [...] Näher betrachtet, erweist sich diese Veränderung aber als oberflächlich.“ 6 ) Und Josef Fürnkäs meint: „Kann der Komet nach Schweikert als Selbstparodie der Kunst verstanden werden, so gilt es analog dazu, den Fibel als Selbstparodie der Literatur und satirische Reflexion auf ihren ontologischen und institutionen Sinn zu erkennen.“ 7 ) Die Szene mit den bunten Glaskugeln im Obstwäldlein des alten Fibels empfinde ich zwar als geschmacklos, aber vielleicht ist es eine Parodie der Einsiedelei: „Überall, wo die Sonne anglänzen konnte, hatte er ordentlich mit dem kindischen Wohlgefallen eines Greis-Kindes bunte Glaskugeln auf Stäbe gesteckt oder in Bäumchen gehangen, und in dieses Farbenklavier von Silberblicken, Goldblicken, Juwelenblicken blickte er unbeschreiblich vergnügt hinein. Ich gab ihm ungemein recht, es waren verglasete Tulpenbeete, diese bunten Sonnenkugeln, welche mit mehr als zehn Farbenfeuern das Grün ansteckten – ja manche 5 ) Kommerell, Max: Jean Paul. Ffm: Vittorio Klostermann, 1966. S. 386. Vgl.auch S.293: „und vor dem [Göttlichen] der Abstand des größten vom kleinsten Menschen zum nichts zusammenschwindet.“ 6 ) Chamberlain, Timothy J.:Alphabet und Erzählung in der Clavis Fichtiana und im Leben Fibels. Jahrbuch der Jean Paul Gesellschaft. 1989. S. 91. 7 ) Fürnkäs, Josepf: „Aufklärung und Alphabetisierung. Jean Pauls Leben Fibels.“ Jahrbuch der Jean Paul Gesellschaft. 1986. S. 66 -20- Holzschnitte und Jean Paul rote taten in den Zweigen, als wären sie reife Äpfel-Fruchtstücke“ (Bd.6, S.539). Jean Paul selbst betont: „Ich gab ihm ungemein recht.“ Zur Frage, ob wir es hier wirklich mit einer Parodie zu tun haben, meint Ralf Simon: „Die Glasperlen, die in den empfindsamen Gärten des Hesperus noch ganz authentisch in den Bäumen blinkten, rücken im Fibel nahe an den Kitsch heran. Und die blaue Farbe, die sich schließlich bis zur blauen Blume der Romantiker (Ⅵ 545) findet, deutet auf ein unentschiedenes Schwanken zwischen satirischem Zitat und in den Kitsch abdriftender Affirmation.“ 8 ) Da man in Japan jedoch traditionell an eine monochrome Welt gewöhnt ist, halte ich sogar die empfindsamen Gärten des Hesperus für geschmacklos und befremdlich: „Als in einem großen Eichenbaum des Gartens, in welchem bunte Glaskugeln statt der Früchte eingeimpfet waren, zwanzig rote Sonnen aus den Blättern funkelten –“ (Bd.1, S.1057) Was die Erklärungen der Holzschnitte angeht, so sind diejenigen, die die Tracht hinter der Kanzel im 3. Gebot erklären oder den Anblick hinter dem Zelt im 7. Gebot kommentierten, von einer gewissen Komik. Außer den pedantischen Erklärungen findet sich wieder ein kurioses Beharren auf der Ziffer. Im 7. Gebot meint der Autor, dass sich die Zahl der Figuren von Gebot zu Gebot allmählich verringere: „Ehe ich das siebente Gebot verlasse, weis’ ich noch flüchtig auf einen feinen Zug des Künstlers hin, den Tausend übersehen. Er war dem Artisten wichtig genug, um ihn durch die Verhüllung der ganzen Gellertschen und Zimmermannschen Unterredung mit Serenissimo zu erkaufen. So wie nämlich die Hiobsplagen unsers Revisors abnehmen, so merzet er auch die Akteurs auf den Platten aus. Von Gebot zu Gebot schwindet wie in einer Anglaise einer weg. Im ersten Gebot geht noch das volle Siebengestirn – im zweiten fährt die Kunst bloß mit Sechsen – im dritten mit Fünfen (denn der kleine Holzhacker ist der Symmetrie wegen ins fünfte überzurechnen) – im vierten mit einem Postzug – im fünften zählen wir mit dem Latus-Holzhacker ein dreistimmiges Chor – im sechsten Gebote agieret wie gewöhnlich eine Stimme weniger – das siebente kömmt wie ebenso gewöhnlich mit einem Solospieler und Konklavisten aus“ (Bd.4, S.681f.). Als Beispiel für pedantische Erklärungen soll eine Stelle von den Vorzügen der Frauen aus dem 10. Gebot dienen: „da die Weiber, nach Haller, den Hunger länger ertragen als wir, ferner sich schwerer, nach Plutarch, berauschen, nach Unzer älter werden, kahl gar nicht werden, die Seekrankheit nach De la Porte schwächer 8 ) Simon, Ralf: „Allegorie und Erzählstruktur in Jean Pauls Leben Fibels.“ Jahrbuch der Jean Paul Gesellschaft. 1991/92. S. 240 -21- Norimi TSUNEYOSHI bekommen, länger nach Agrippa im Wasser oben schwimmen, seltner nach Plinius von Löwen angefallen und nach allen Erfahrungen immer die Erstgebornen und bessere Krankenwärter sind [...]“ (Bd.4, S.698). Monika Schmitz Emans vergleicht die Holzschnitt-Kommentare Jean Pauls mit den Interpretationen Lavaters und Lichtenbergs (1995): „Lavater glaubt an eine prinzipielle Übersetzbarkeit der (von ihm mit der Bild-Sprache einfach identifizierten) DingSprache ins Wort. ‚Bedeutung‘ ist für ihn ja etwas Identisches und grundsätzlich Feststellbares. Tatsächlich erschließen aber seine Text-Kommentare nicht ‚die‘ Bedeutung der Bilder; sie lesen uneingestanden etwas in sie hinein – und zwar gemäß dem Eigen-Sinn der Lavaterschen Sprache. Lichtenberg weiß um die Verwandlung, der das ‚Bedeutete‘ durch Übersetzung in eine andere ‚Sprache‘ unterliegt. Daß er selbst eine ‚Interpretation‘ liefert und keine einfache Decodierung, verschweigt er nicht. Er versucht, den Eigen-Sinn der bildeschreibenden Sprache dadurch zu steuern, daß er ihn als solchen zu erkennen gibt – etwa durch Selbstthematisierung und durch erkennbar literarisch-rhetorische Sprechweisen. Die ‚Aussage‘ des Bildes mag in Worten nicht erschöpfend wiederzugeben sein, aber sie ist wichtig als Orientierungsmaßstab einer sach-gerechten Interpretation. Jean Paul parodiert das Prinzip einer solchen Interpretation, wobei er es, wie gezeigt, indirekt doch bekräftigt. Die Sprache macht sich hier in offenkundiger Weise zur Herrin der Bilder, die sie kommentiert. Dabei aber wird dem Leser gerade bewußt, daß auch sie ‚grund‘- und ‚bodenlos‘ sein kann.“ 9 ) Im Jahre 2013 kommentierte Monika Schmitz Emans den Sachverhalt noch einfacher: „Eines ist Jean Paul an den Holzschnitten offenbar wichtiger gewesen, als es auf den ersten Blick scheinen könnte – und zwar deshalb, weil diese eine Eigenschaft gerade nicht besitzen, die Hogarths Bildfolgen prägt: Sie sind nicht konsekutiv; sie erzählen an sich keine Geschichte.“ 10) Das Auftreten des Autors am Schluss der Erzählung ist beiden Werken gemeinsam. Im Leben Fibels spricht Jean Paul mit dem alten Fibel und verabschiedet sich von ihm. In den Holzschnitten träumt der Autor, Krönlein wäre sein Ururgroßvater. Beide Werke hinterlassen den Eindruck, der Autor hätte eine andere Identität, obwohl er anscheinend behauptet, dass sowohl Fibel als auch Krönlein sein Ich seien. Fibel und Krönlein 9 ) Schmitz-Emans, Monika: „Die Sprache der Bilder als Anlaß des Schreibens.“ Jahrbuch der Jean Paul Gesellschaft. 1995. S. 149. 10) Schmitz-Emans, Monika & Benda, Wolfram (Hg.): Jean Paul und die Bilder. Würzburg: Königshausen & Neumann, 2013. S. 42. -22- Holzschnitte und Jean Paul verkörpern eine Seite des Autors, der auf die Nachwelt vertraut. In Fibels Leben heißt es: „Er antwortete: »Exzellentes Genie – Literator – Man of Genius – homme de lettres – autor clariss ... « Da ich vermutete, der Greis ziele auf mich: so wollt’ ich abwehren; er ließ sich aber nicht halten, denn er hatte sich selber gemeint. »Wie, gesagt,« (fuhr er fort) »für alles dieses und für mehrere prächtige Titel, die ich alle deshalb auswendig gelernt, hab’ ich mich zwar sonst gehalten, als ich noch jener verblendete eitle Fibel war, der das gedachte, fast mittelmäßige Abcbuch gemacht und drucken lassen.« ... “ (Bd.6, S.533f.). Und in den Holzschnitten lesen wir: „Er ließ sich weiter heraus über die Absicht, weswegen er mir im Weingeist erschienen sei, nämlich bloß um mich zu benachrichtigen, daß ich vielleicht aus einem geheimen Zuge seinen von Schmutz und Kirchenstühlen überbauten Leichenstein hervorgezogen und im Pantheon des Nachruhms aufgestellt, weil er mein Verwandter, und zwar mein Urur etc. großvater von mütterlicher Seite wäre, und aus den Wittenberger Kirchenbüchern könnt’ ich mir den Stammbaum extrahieren lassen. – Ich wollte den Spiritus-Schwimmer unterbrechen; aber der Wassermann fuhr fort: »er versehe sich besonders von seinem Urur etc. enkel, daß solcher die 12te Holzplatte mit besonderem Feuer vertiere und illuminiere, denn diese hab’ er stets am meisten geliebt, am längsten befeilt: und das bloß darum, weil die Platte die Feier seines 34sten Geburtstages, der in den Frühlingsanfang traf, mit der Pantomime des Buchsbaums darstelle. Ja im Turmknopf der Höfer MichaelisKirche sei ein scharfer, nie gebrauchter Stempel dieser Platte statt einer alten Münze niedergelegt und aufgebahrt, aus dem ein Urur etc. enkel tausend Sachen schöpfen könnte, die der Welt zu geben wären.« – Aber hier zerfloß mein Urur etc. großvater phosphoreszierend in seinem Weingeist – als wenn er lebte – und entzündete den rektifizierten Spiritus mit seinem sublimierten, und die ganze Flasche brannte lichterloh ... “ (Bd.4, S.706f.). Im Folgenden möchte ich die eigentlichen Bedeutungen der Holzschnitte erläutern, da die christlichen 10 Gebote für buddhistische Japaner nicht selbstverständlich zu verstehen sind. Ohne Verständnis des eigentlichen Sinnes des Katechismus bleibt die Parodie uninteressant. Die 10 Gebote zitiere ich aus dem Abc-Buch. Dazu erwähne ich die Bemerkungen Jean Pauls und zitiere Bibelstellen von der folgenden Internetseite: (http://bibel-online.net/buch/luther_1912). -23- Norimi TSUNEYOSHI Die heiligen zehen Gebote Gottes Das 1. Gebot Ich bin der HERR dein GOtt, du solt nicht andere Götter neben mir haben. Jean Paul „Der bisherigen alten [Erklärung], [...] welche den Bischof in partibus zu Aaron, Krönlein zu Mosi, birnbäumene Tafeln zu steinernen und das Lamm zu einem Kalbe aus Ohrringen macht.“ (Bd.4, S.644) Luther-Bibel (1912) „Und der HERR sprach zu Mose: Komm herauf zu mir auf den Berg und bleib daselbst, daß ich dir gebe steinerne Tafeln und Gesetze und Gebote, die ich geschrieben habe, die du sie lehren sollst.“ (2. Mose - Kapitel 24-12) „Aaron sprach zu ihnen: Reißt ab die goldenen Ohrenringe an den Ohren eurer Weiber, eurer Söhne und eurer Töchter und bringet sie zu mir. Da riß alles Volk seine goldenen Ohrenringe von ihren Ohren, und brachten sie zu Aaron. Und er nahm sie von ihren Händen und entwarf’s mit einem Griffel und machte ein gegossenes Kalb. Und sie sprachen: Das sind deine Götter, Israel, die dich aus Ägyptenland geführt haben!“ (2. Mose - Kapitel 32-2,4) Das 2. Gebot Du solt den Namen des HErrn deines GOttes nicht vergeblich führen, denn der HErr wird den nicht unschuldig halten, der Seinen Namen vergeblich führet. Jean Paul „auf dem zweiten aus dem nächtlichen Überfall eine gerichtliche Steinigung [...]“ (Bd.4 S.649) Luther-Bibel (1912) „Und der HERR redete mit Mose und sprach: Führe den Flucher hinaus vor das Lager und laß alle, die es gehört haben, ihre Hände auf sein Haupt legen und laß ihn die ganze Gemeinde steinigen.“ (3. Mose - Kapitel 24-13,14) Das 3. Gebot Gedenke des Sabbaths, daß du ihn heiligest. Es gibt keine klare Erwähnung des Sabbaths; der Holzschnitt stellt möglicherweise -24- Holzschnitte und Jean Paul eine Kirche am Sonntag dar. Jean Pauls arme Leute leben nur den Sonntag erwartend: „Da der strenge Herzog, wie England und Schweiz, alles sonntägliche Nähen und Stricken untersagte [...]“ (Bd.6., S.1028 Der Komet) Das 4. Gebot Du solt deinen Vater und deine Mutter ehren, auf daß du lange lebest im Lande, das dir der HERR dein GOTT geben wird. Jean Paul „Ich schlage mich hier nicht lange mit meinen Vorgängern herum, welche den da unten liegenden Herkules, nämlich den Lautenisten, für den bezechten Erzvater Noah, das gebückte Männchen Krönlein für den satirischen Ham (bevor dieser und sein ganzer Erb- und Weltteil in den Färbkessel und in die Rußhütte geworfen wurden) und den Landstand und die Silberdienerin, der jener in der kalten Nacht einen Nacht- und Bischofsmantel der Liebe umwirft, für Sem und Japhet genommen haben.“ (Bd.4, S.656) Luther-Bibel (1912) „Und da er von dem Wein trank, ward er trunken und lag in der Hütte aufgedeckt. Da nun Ham, Kanaans Vater, sah seines Vaters Blöße, sagte er’s seinen beiden Brüdern draußen. Da nahmen Sem und Japheth ein Kleid und legten es auf ihrer beider Schultern und gingen rücklings hinzu und deckten des Vaters Blöße zu; und ihr Angesicht war abgewandt, daß sie ihres Vater Blöße nicht sahen. Als nun Noah erwachte von seinem Wein und erfuhr, was ihm sein jüngster Sohn getan hatte, sprach er: Verflucht sei Kanaan und sei ein Knecht aller Knechte unter seinen Brüdern!“ (1. Mose - Kapitel 9- 21,25) Das 5. Gebot Du solt nicht tödten Jean Paul „Was soll ich aber von stumpfen Auslegern denken, die niemals Krönleins Nabel überlesen haben und die aus Einfalt den schönen Revisor mit der langen Tastatur zum Kain und den häßlichen Altisten zum Abel ummünzen?“ (Bd.4, S.661) Luther-Bibel (1912) „Da redete Kain mit seinem Bruder Abel. Und es begab sich, da sie auf dem Felde -25- Norimi TSUNEYOSHI waren, erhob sich Kain wider seinen Bruder Abel und schlug ihn tot.“ (1. Mose - Kapitel 4-8) Das 6. Gebot Du solt nicht ehebrechen. Jean Paul „Alle, die ich nachgelesen oder als Kind auf der Schulbank gehöret habe, geben den Nachtmusikanten auf dem welschen Dach für den Psalmisten David aus und die badende Bittstellerin für die Bathseba.“ (Bd.4, S.668) Luther-Bibel (1912) „Und es begab sich, daß David um den Abend aufstand von seinem Lager und ging auf dem Dach des Königshauses und sah vom Dach ein Weib sich waschen; und das Weib war sehr schöner Gestalt. Und David sandte hin und ließ nach dem Weibe fragen, und man sagte: Ist das nicht Bath-Seba, die Tochter Eliams, das Weib des Urias, des Hethiters? Und David sandte Boten hin und ließ sie holen. Und da sie zu ihm hineinkam, schlief er bei ihr. Sie aber reinigte sich von ihrer Unreinigkeit und kehrte wieder zu ihrem Hause.“ (2. Samuel - Kapitel 11 -2,4) (Jean Paul verwendet oft die Anekdote von Urias Brief, mit dem David den Briefträger Uria an die gefährlichste Front des Kriegs schicken lässt: „seine Empfehlschreiben wurden Uriasbriefe“ (Bd.1, S.518; vgl. Bd.1, S977; Bd2, S.130; Bd.6, S.714) Das 7. Gebot Du solt nicht stehlen. Luther-Bibel (1912) „Da antwortete Achan Josua und sprach: Wahrlich, ich habe mich versündigt an dem HERRN, dem Gott Israels. Also und also habe ich getan: ich sah unter dem Raub einen köstlichen babylonischen Mantel und zweihundert Silberlinge und eine goldene Stange, fünfzig Lot am Gewicht; des gelüstete mich, und ich nahm es. Und siehe es ist verscharrt in die Erde in meiner Hütte und das Silber darunter.“ (Josua - Kapitel 7-20,21) Das 8. Gebot Du solt nicht falsche Zeugniß geben wider deinen Nächsten. -26- Holzschnitte und Jean Paul „Susanna ist eine Gestalt aus dem 13., dem apokryphen Kapitel des alttestamentlichen Buches Daniel. Demnach war sie die Ehefrau eines in Babylon – dem heutigen Han-alMahawil – im Exil lebenden Juden und von großer Schönheit. Als sie im Garten baden wollte, wurden zwei Männer zudringlich, aber die Keusche erwehrte sich der Verehrer. Aus Rache bezichtigten sie Susanna der Unzucht mit einem jungen Mann, sie wurde zum Tod verurteilt. Daniel aber überführte die Lügner, diese wurden daraufhin gesteinigt, Susanna blieb am Leben.“ (http://www.heiligenlexikon.de/BiographienS/Susanna_die_Keusche.htm) Das 9. Gebot Du solt nicht begehren deines Nächsten Haus. Luther-Bibel (1912) „Jakob aber nahm Stäbe von grünen Pappelbäumen, Haseln und Kastanien und schälte weiße Streifen daran, daß an den Stäben das Weiß bloß ward, und legte die Stäbe, die er geschält hatte, in die Tränkrinnen vor die Herden, die kommen mußten, zu trinken, daß sie da empfangen sollten, wenn sie zu trinken kämen. Also empfingen die Herden über den Stäben und brachten Sprenklinge, Gefleckte und Bunte. Da schied Jakob die Lämmer und richtete die Herde mit dem Angesicht gegen die Gefleckten und Schwarzen in der Herde Labans und machte sich eine eigene Herde, die tat er nicht zu der Herde Labans. Wenn aber der Lauf der Frühling-Herde war, legte er die Stäbe in die Rinnen vor die Augen der Herde, daß sie über den Stäben empfingen; aber in der Spätlinge Lauf legte er sie nicht hinein. Also wurden die Spätlinge des Laban, aber die Frühlinge des Jakob. Daher ward der Mann über die Maßen reich, daß er viele Schafe, Mägde und Knechte, Kamele und Esel hatte.“ (1. Mose - Kapitel 30-37,43) (Diese Stelle ist für mich reichlich dunkel. Wird in der Bibel der Wettbewerb unter den Menschen überhaupt bestritten?) Das 10. Gebot Du solt dich nicht lassen gelüsten deines Nächsten Weibs, noch seines Knechts, noch seiner Magd, noch seines Ochsen, noch seines Esels, noch alles was dein Nächster hat. -27- Norimi TSUNEYOSHI Jean Paul „wieder die Ausleger haben die dritte gehabt, nämlich gegenwärtiger Bettmeister oder (nach der Fraischdörferschen Hypothese) gegenwärtiger Serenissimus sei der keusche Joseph, und die Bettfrau sei Potiphars Frau... “ (Bd.4, S.698) Luther-Bibel (1912) „Es begab sich eines Tages, daß Joseph in das Haus ging, sein Geschäft zu tun, und war kein Mensch vom Gesinde des Hauses dabei. Und sie erwischte ihn bei seinem Kleid und sprach: Schlafe bei mir! Aber er ließ das Kleid in ihrer Hand und floh und lief zum Hause hinaus. Da sie nun sah, daß er sein Kleid in ihrer Hand ließ und hinaus entfloh, rief sie das Gesinde im Hause und sprach zu ihnen: Sehet, er hat uns den hebräischen Mann hereingebracht, daß er seinen Mutwillen mit uns treibe. Er kam zu mir herein und wollte bei mir schlafen; ich rief aber mit lauter Stimme. Und da er hörte, daß ich ein Geschrei machte und rief, da ließ er sein Kleid bei mir und lief hinaus.“ (1. Mose - Kapitel 39; Josef in Potifars Haus) Zuletzt zeige ich ein Beispiel für die Verschiedenheit zwischen Bild und Bedeutung. In Japan wird die Blutgruppe 0 „oh“ genannt, in Deutschland dagegen „null“. Das absichtliche Lachen Jean Pauls üben wir Japaner unabsichtlich aus. (Diese Arbeit wurde erstmals im Jahre 2005 auf Japanisch als Erläuterung der Übersetzung der Erzählungen von Jean Paul veröffentlicht.) -28- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー ―「富」と「時間」の理論を中心に ― 中 島 邦 雄 序 本論はフリードリヒ・ゲオルク・ユンガーのエッセイ『技術の完成』を,その 中に展開される富と時間の理論を考察することによって,エコロジーの観点から 論じることをめざすものである。しかしそれに先立って F・G・ユンガーの文学 活動全体におけるこのエッセイの位置づけと,エコロジーの観点からの受容史を 簡単に述べ,続いてエッセイを「組織化」という観点から要約する。そしてエコ ロジー論を述べる準備として,エッセイに見られる機械のイメージを,歯車とボ イラーについて考察しておきたい。 1.F・G・ユンガー文学における『技術の完成』の位置づけと受容史 フリードリヒ・ゲオルク・ユンガーには作家として二つの顔がある。ひとつは 1934年の『詩集』や第2次大戦後に発表された幾つもの短編小説の作者という詩 人・小説家としての顔,もうひとつは政治的・思想的エッセイストとしての顔で ある。エッセイストとしての顔は途中で変化する。兄エルンストとともに「新し いナショナリズム」を提唱し,一時はナチスにも共感する国粋主義者として文壇 に登場するが,1930年以降ナチスに幻滅し,1934年の詩「罌粟」 (Der Mohn)で ナチス批判をして以降,民主主義,共産主義,ファシズムなどの政体に関係なく 西洋的技術文明全体を批判する保守的な懐疑主義者となるのである。この懐疑論 者に変化した後の最初のエッセイが,本論で取り扱う『技術の完成』 (Die Perfektion der Technik)である。このエッセイには1939年に執筆されたものの戦乱のために 1 ) 1946年にやっと完全な形で出版されたという経緯がある。 擬古典的な詩や地方を描いた F・G・ユンガーの小説の静謐な世界と彼の政治 的・思想的なエッセイとの間には大きな隔たりがあるようにも見えるが,そこに 共通する基盤を想定する批評家もいる。R・ハイヤーは,近代化していく F・G・ ユンガーの故郷ニーダーザクセンの風景と,広大な戦場に打ち捨てられ,廃物と 化した機械と肉体の破片の散乱する第一次世界大戦に出征した体験にそれを求め 2 ) ている。 『技術の完成』は題名からも分かるように技術論であって,1939年の執筆当時に -29- 中 島 邦 雄 は F・G・ユンガーは特にエコロジーを意識してはいなかったように思われる。し かし,近代技術の発達は同時に自然環境の変化や破壊を引き起こし,両者は一体 となっていることから,このエッセイはドイツのエコロジー運動の発達に関して 複雑な影響を与えた。複雑なというのは,戦後のドイツでは F・G・ユンガーの 初期の国粋主義者としての政治的姿勢が影響し,左翼に属する環境運動からは彼 の作品を読むことは現在に至るまでタブー視されてきているからである。 1946年に『技術の完成』が発表されたときは一時的に注目を浴びたが,作者の 3 ) 主張に反論する統一戦線をつくるという結果になった。 その後1970年以降,環境 運動が活発になるにつれて再び注目を浴びるようになり,例えば CDU 出身で1972 年の緑の党設立者の一人となったが後に脱退し,ÖDP(Ökologisch-Demokratische Partei,環境民主党)を立ち上げた H・グルールなど保守主義的なエコロジストが このエッセイを絶賛した。1986年のチェルノブイリ事故の後つくられた「核戦争 に反対する母たちの運動」(Mütterbewegung gegen den Atomkrieg)の代表者 C・ v・ヴェルルホフや, 『原子力帝国』を著した R・ユンク等の著書には,F・G・ユ ンガーの名前は出てこないが,その思想と重なる部分もあり,実際には読まれて 4 ) いることが考えられる。 このようなことが生じたのも,このエッセイの中には保 守・左翼を問わずエコロジーと技術論の要となる広汎な論点が, 「武器庫」として 1)『技術の完成』は1939年に『技術の幻想』 (Illusionen der Technik)という題名で初稿が完成し, 兄エルンストをはじめとする仲間内でその写しが読まれた。1940年に組版ができたが,政治的 な理由で印刷は差し止められた。その後,初稿に手を加えた第2稿による印刷が行われたが, 1942年7月,英国軍によるハンブルク爆撃により第2稿は消失した。この頃アメリカ合衆国で は第2稿による手刷りの印刷が行われていた。ハンブルクで印刷された本はその後クロスター マン社の手に渡り,組版を作り直して3000部印刷されたが,これも1943年に英軍の空襲にあっ てほぼ消失した。1946年に再度クロスターマン社より,現在の題名で,はじめて初版が出版さ れた。なお,1949年の版からは付録「世界戦争」が加えられている。2010年に出版された『技 術の完成』の「あとがき」を参照:Vgl. Andreas Geyer, Nachwort. In : Friedrich Georg Jünger: Die Perfektion der Technik. Klostermann, Frankfurt a. M. 2010. S. 372 f. 2) Ralf Heyer: „Die Maschine ist kein glücksspendender Gott.“ Fortschrittsskeptizismus und ökologische Visionen im Werk von Friedrich Georg Jünger. ibidem, Stuttgart 2000. S. 143. 3) Ralf Heyer: a. a. O., S. 114 f. 4) Herbert Gruhl ついては Ralf Heyer: a. a. O., S. 127f. 参照。Claudia von Werlhof については Ralf Heyer: a. a. O., S. 132 ff. 参照。Robert Jungk については Ralf Heyer: a. a. O., S. 125ff. 参照。なおユ ンクの Der Atom-Staat には翻訳がある:『原子力帝国』山口祐弘訳,社会思想社(現代教養文 庫) ,1989年。 『技術の完成』の後書きによれば,他にも社会学者のブロイアー(Stefan Breuer)が『技術の 完成』を賞賛している。またドイツでよく読まれてきた『時代遅れの人間』(Günther Anders: Die Antiquiertheit des Menschen in 2 Bänden. Verlag C. H. Beck, München, Bd.1. 1956 u. Bd. 2. 1980. 邦訳は吉田隆嘉訳で叢書・ウニベルシタスより出ている)は,F・G・ユンガーの名前こそ出て こないが, 『技術の完成』の思想をふまえていると考えられる。Vgl, Andreas Geyer: Nachwort. a. a. O., S. 384 f. -30- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー 蓄えられているからであろう。その論点とは, 「原子力国家への闘争概念にも似た 技術的独裁の予言,西側の産業文明とそのいわゆる帝国主義的な使命感への嫌悪, 有機的に育った共同体での,かつてあれほど調和的だった生活についての郷愁を そそる追憶,科学研究と技術的な思考への懐疑,そして反技術的に考えられ,母 5 ) 権制的に築かれた社会によるこれらの関係の破砕(Brechung)」 などである。 2.『技術の完成』における「組織化」 それでは, 『技術の完成』とはどのようなエッセイであろうか。『技術の完成』 という題名からは一見,科学技術を賛美しているかのような印象を与えるが,最 初は『技術の幻想』 (Illusionen der Technik)と題されていたことからも分かるよう に,逆に,西洋的科学技術文明に対する根本的な懐疑の書であると言ってもよい。 では,題名となった「技術の完成」とはどういう状態であろうか。作者自身は 具体的に述べていないが,今井敦氏の述べるように, 「世界のあらゆるものが組み 込まれ,合理的,合目的的にそれぞれの機能のみを果たすよう細部まで正確に構 築された,自然と人間を収奪するシステムの完璧化であり,人間もろとも地球全 6 ) 体を消耗し,滅亡させる最終状況のこと」 であると考えられる。ハイデッガーと 同様 F・G・ユンガーもまた,自然科学は自然への純粋な好奇心からそれ自体の ために行われ,付随的に技術がその成果を応用するという一般的な見解に異を唱 7 ) えている。 まず自然を人間のために利用しようとする人間中心主義的な意図が あって自然観察や実験が行われるのであり,したがって初めから技術への応用が 目指されているのである。この自然の利用は産業の発達とともに次第に搾取とい う様相を帯びてくる。科学の応用の積み重ねの中で次々と生み出される機械装置 は時間とともに進化し,自動化して複雑となり,他の機械装置と組み合わせられ, 一体となって巨大な「機械機構」 (Apparatur)を形成する。地球全体がいわば,全 ての機械が結合して作動する一つ工場の観を呈してくるのである。 これだけならば SF 小説にもよくありそうな話だが,しかし彼はそれと並行し て進行する人間,特に労働者の組織化も想定し,次のような比喩を用いてその様 子を説明する。 5) Ralf Heyer: a. a. O., S. 118. 6) 今井敦「 革命的ナシ ョ ナリズムから技術批判へ ― F・G・ ユンガ ー の技術論(1)― 」 Germanistik Kyoto 13,日本独文学会京都支部,2012年,10ページ。 7) ハイデッガーの1962年の講演を死後編集した「伝承された言語と技術的な言語」のなかでは, 「自然科学が技術の基礎なのではなく,現代技術の方が現代科学を支える根本動向なのである」 とされ,さらに「現代技術の際限のない支配がなにものにも制止できなくなっている」と述べ られている。マルティン・ハイデッガー『技術への問い』関口浩訳,平凡社(平凡社ライブラ リー) ,2013年,187ページ以下。 -31- 中 島 邦 雄 われわれが,ある巨大な自動制御装置を,例えばディーゼルエンジンを装備 した3万トンの船を,思い浮かべてみると,船のメカニズムと機能的な関係 をもったひとつの組織の支配下に乗員が置かれていることが分かるだろう。 そしてこの組織はこのメカニズムの規模,配置,技術装備によって規定され ている。機械装置と人間の労働組織とのこのような一致はいたるところで見 8 ) 出されるものである〔後略〕。(23) こうして機械を円滑に動かすために組織化された労働は,やがて人間の機械へ の隷属をもたらすことになる。「人間は自分の動き,注意力,思考を自動機械 (Automat)の方に向けるよう強いられる。機械と結びついた人間の仕事は機械的 なものになり,機械的に,寸分違わぬ形で繰り返される。 」 (39)組織化は,さら に国家体制にも及ぶ。「技術者の権力志向は,国家もまた自分に従属させ,国家組 織を技術的な組織(Organisation)に代えることを目指している。 」 (97)そのため 法律の条文も作業マニュアルのようなものに置き換えられていき,一方で生産力 を最大にするという「機械機構」の目標に応じて動員が行われ,労働者の流動化 が加速する。こうして最終的には「世界は機械であり,人間は自動機械である」 (173)という状況にいたる。 ところで,こうした機械と人間の組織化は F・G・ユンガーの考えでは,民主 主義であれ共産主義であれ,またファシズムであれ国家体制に関係なく進行する 9 ) ものであり, いずれにしても,「技術の完成」の実現が近づく頃には,完成どこ ろか最終的な破局が避けられないものとなる。そのきっかけとなるのは,原子力 発電所事故のような地球規模の大事故か,あるいは大国同士の科学的な兵器を用 いた世界戦争である。 以上, 「組織化」の観点からエッセイを要約したが,ホラー的で,非現実的にも 見えるかもしれない。しかし,エッセイの中には作者の人文主義的教養をうかが わせるさまざまなテーマが論じられており,それが難解であると同時に実に面白 10) いことをここで言い添えておきたい。 8) 『技術の完成』からの引用は,次の書による:Friedrich Georg Jünger: Die Perfektion der Technik. Klostermann, Frankfurt a. M. 2010. 出典ページ数のみを引用の最後に括弧を付けて示した。訳出 にあたっては「F・G・ユンガー研究会」による未発表の翻訳文をベースにした。 9) 国家であるなしにかかわらず,このようにしてまとまった技術的社会組織を,F・G・ユン ガ ー は『 機械と所有 』(Maschine und Eigentum) のなかで「 技術的集合体 」(das technische Kollektiv) (235)と呼んでいる。『技術の完成』の3年後の1949年に書かれたエッセイ『機械と 所有』は『技術の完成』の続編であり,1953年以降は『技術の完成』の第2部として,一冊の 本にまとめられている。 10) エッセイ全体の論点の要約については次の書を参照。Vgl. Ralf Heyer: a. a. O., S. 143-146. -32- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー それでは,機械と人間の「組織化」の理論を説明するために,F・G・ユンガー は文学的にどのような形象を用いているのであろうか。というのも,彼は自分の 考えを理論的に述べるというよりも,比喩や象徴の力を利用して説得性をもたせ るという語り方をしているからである。ここでは「歯車」と「パイプおよびボイ ラー」について,その様子を見ていきたい。なお両者は,このエッセイの論理展 開において互いに矛盾する様相を象徴しており,エッセイの論理構造の破綻を示 していると取れなくもない。 3.歯車 エッセイでは,人も機械も取り込んだ地球規模の「組織化」は,破局にいたる まで進行するばかりで止めることも中止することもできない宿命的な道筋として 描かれている。F・G・ユンガーは,その仮借なさを象徴する形象として,機械の 原点である車および歯車のイメージを活用している。伝導車,減摩擦車から始ま り羽車や歯車装置をへて活版高速輪転機にいたるさまざまな機械装置の仕組みを 時代を追って解説したあとで,車の原理を時間のイメージに重ねて,作者は次の ように問うている。 そこでここで問わなければならないが,車を見ないですむところがどこにあ るだろうか? 輪を描き,回転し,運動を繰り返しながら車はどこででも技 術的な進歩に付き従っている。すべての時計が由来する時間のなかで生じた この運動は ― そもそも時計とは歯車装置であるから ― 増大し,広がり,関 連性を獲得し,人間生活や人間の仕事にますます介入してくる。これらの関 連性を意識したとき,動揺せずに車を眺めることができる人がいるだろうか, 背筋が冷たくなる感じに襲われない者がいるだろうか ― もしその人が,車 が死んだ時間のシンボルであることを認め,車と人間との関係を検討するな らば。(57) 歯車からなる最初の簡単な機械は,やがて「機械機構」を構成する,歯車を応 用した自動装置へと進化していくが,F・G・ユンガーの頭の中にはこの古風な歯 11) 車装置が固定観念となって根付いているようにみえる。 「車と歯車装置のない自 動機械(Automatismus)を想像することは不可能である。なぜなら反復の機械的 11) F・G・ユンガーの機械や機械的なものに対する嫌悪は,彼の執筆活動の発端であった国粋主 義的な時代にすでに表現されている。ナショナリスト宣言ともいえる『ナショナリズムの行進』 のなかで,彼は自分が否定し闘争する対象として,生の「機械的(mechanistisch)」把握や「機 械的」思考を挙げている。今井敦,上掲書,4-5ページ。 -33- 中 島 邦 雄 均一さは車によって産み出されるのであるが,車とは常に同時に時間の車であり, 時計でもあるからである。」 (57f.)こうしたイメージのうち,車のなかでも「踏み 車」(Tretrad)― 周りに踏み板を取り付け,それを踏んで水をくみ上げる水車な ど ― と,車の象徴する「死んだ時間」は,エッセイのその後の叙述の中でも何 度も登場する。例えば,機械に取り込まれ組織化されていく労働者は「機械的に 動く踏み車(Tretmühle)に放り込まれた囚人」(69)と呼ばれる。また,技術的 組織の内部にあってその秩序原理自体を問うことのできない技術者たちの「機能 的思考」については, 「死んだ時間の中で現象の継起を追い,切り分けていくばか りである」 (90)と批判している。そして,全般的な「組織化」から人間が解放さ れるためには「機械的な(mechanisch)時間・空間概念の支配を再び打ち破らね ばならない。技術は巨大な踏み車であることが認識されねばならない」と述べて いる。 4.パイプおよびボイラー このように歯車装置を用いて「死んだ時間」の流れる機械の物質性を強調しな がら,一方で F・G・ユンガーは,その機械にアニムズム的な生命を吹き込むよ うな描写をおこなう。機械は,人間の都合に合わせて自然力を制御し,自然を「強 制的に克服」(74)するのであるが,こうして自然と闘う姿を描くことによって, 逆に機械自身も生命力を持った生き物のように見えてしまう。 自然力をせき立てて機能させることのない機械というものは,考えることが できない。自然力はせき立てられて作用し,その作用を得させる原理におい ては強制と策略が結び付けられている。その作用とは,機械が要求する運動 であり,歯車,ボルト,シリンダー,プリズムなど機械の運動を合目的的に 制御する諸要素の組み合わせによってもたらされる運動である。ここでは常 に対立が生み出され,機械の眼目とは,その仕事が抵抗を克服するよう整え られ,設計されているということである。(74) 機械は,歯車以外にもボルトなどいくつかの装置が組み合わされているが,こ こではそれらが一体となって自然力をせき立て,策略を用いて強制する。本来人 間がやるはずのことを機械が行っている。というよりも「組織化」の進むなかで は人と機械は一体となっていると言った方が事態をうまく表しているだろう。特 に近代的な機械設備の現場は,根源的な自然力の奔騰をそれに負けない力で封じ 込める点で,「あたかも巨大な鍛冶場の中にいるような印象」 (122)を与える。 -34- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー そこ(鍛冶場,筆者)では飽くことなく,そして労働にある種の熱狂性,過 激性を帯びさせるような憤怒を抱えながら作業が進められている。火炎は大 きくなり,膨れあがり,増殖し,拡大する。灼熱した物体が流れとなって, そこかしこにほとばしる。そこはキュクロープス達が働く仕事場だ。工業的 な景観は,なにか火山のようなものを含んでいて,我々はその景観の中に, 火山の噴火時やその後に見られる現象のことごとくを,すなわち溶岩,灰, 噴気孔,煙,ガス,炎に照らされた夜の雲,そして果てしなく広がる荒廃を 目にする。目的に叶うよう周到に考え出され,単調な作業工程を自動的にこ なす機械の中を,猛烈なパワーの根源的諸力がはち切れんばかりに満たして ゆき,パイプやボイラー,車,導管,炉の中を漂流し,機械装置という牢獄, 全ての牢獄同様に囚人の脱走を防ぐために鉄と格子で覆われている牢獄の中 を疾走する。(122f.) 工場は「機械的なものと根源的なものとの相互作用が最も顕著な場所,技術の 進歩が最も進んでいる場所」(127)の一つである。機械はここでは,歯車からな る「単調な作業工程を自動的にこなす機械」であるだけでなく,さらに石油化学 工場や重工業設備に見られるように「パイプやボイラー」が組み合わされたもの になっている。そのなかを「根源的諸力」(elementare Kräfte)が満たし,猛烈な 勢いで漂流している。これは生命の源である血流の言い換えに他ならないだろう。 つまり根源的な自然力が血液となって機械の体を巡り,機械は生命を賦活され, 生きて活動を始めるのである。時計のような反復する単一さを特徴とする「自動 機械」と根源的な自然力とは比喩において対立するはずであるが,ここでは機械 と自然力は融合して一つの生命体となる。 とはいえ,F・G・ユンガー自身は続く段落で「自動装置は常に人間の存在を前 提としている。もしそうでなければ自動装置は生命のない装置ではなく,内に自 らの意志を宿す悪魔ということになるからだ。」 (123)と述べ,機械が賦活するこ とを否定している。しかし,描写のアニミズム的手法が見事であればあるほど, 作者の意図を裏切って,あるいはもくろみ通りに,機械は一層不気味な生き物の 観を呈してくる。 技術が完成段階に近づくにつれて訪れる破局の可能性として挙げられている大 事故については,F・G・ユンガーはそれを「根源的力」による復讐ととらえ,次 のように描いている。 事故が発生するのは,人間が人間機械(Homme machine)としての役割から 逸脱した場合,すなわち自分が制御している因果的メカニズムに歩調を合わ -35- 中 島 邦 雄 せることなく行動し,不注意や疲労,居眠り,機械的でないものに関わるな どによって,因果的メカニズムから自立しようとしているような場合である。 これこそが,抑圧されてきた根源的力がどっと湧き出して自らを解き放つ瞬 間,根源的力が報復行為を行い,技術労働者をその機械もろとも破壊する瞬 間なのである。(125) ここでは機械のメカニズムではなく,根源的な自然力のみが最後の3行で擬人 化されており,したがって上述の鍛冶場のような機械と自然力が一体となるメタ ファーとは厳密には一致していない。しかしそれでも,引用した二つの文章は, いずれもアニミズム的な擬人化を通してイメージ的に連動しており,それによっ て具体的には描かれていないにもかかわらず,後の方の引用における事故のすさ まじさが暗示されることになる。巨大な機械設備をめぐる太いパイプのなかを漂 流する根源的な自然力がついに圧力の極限に達し,その瞬間に血管が破れるよう に大爆発が起こり,人と機械の組織された施設も,場合によっては周りの環境も すべて吹っ飛ぶのである。 ところで,F・G・ユンガーは歯車装置に象徴される機械的な因果性に従って社 会がひたすら「技術の完成」へと向かっていくことを確実で不可避なことと想定 しているが,果たしてその通りなのだろうか。F・G・ユンガーの用いるメタファー の適切さの度合いを見ると怪しいのではないか。というのも,上に述べたように 「パイプおよびボイラー」のメタファーの用い方に齟齬が見受けられるだけでな く,もう一つ重要な点は,世界に広がる機械機構を構成する個々の機械について 彼がイメージしているのは,どれほど複雑になっても基本的には歯車装置だから である。 歯車装置で生じる一連の出来事は因果的な法則に従う厳しい決定論の世界を示 している。しかしこの古典的な物理学的世界観は,極微の世界とはいえハイゼン ベルクの不確定性原理により確率の問題へと置き代わった。エッセイのなかで F・ G・ユンガーは当時のこうした物理学や化学,生物学の動向を紹介しているにも かかわらず,技術化されていく社会の行き先を象徴するメタファーとしては,相 変わらず古い,決定論の原理を表す歯車装置を用いているのである。 晩年には彼も目にしたはずのトランジスターラジオや近年のパソコンなどには, 歯車装置に代わって集積回路が用いられている。それらの機械を解体しても部分 的・補助的にしか歯車は出てこないだろう。F・G・ユンガーが考えるように,歯 車装置を出発点として複雑化し巨大化していく形で単線的に「機械機構」が発展 し,それによって社会が覆いつくされるようなことは,今後もないのではないか。 彼は自分の主張を裏付けるのに,イメージのもつ象徴的な力を押し広げすぎたの -36- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー だといえよう。 しかし,それでも彼の未来予測のいくつかは部分的にはあたっていると思われ る。例えば, 「パイプおよびボイラー」の比喩と結びつく「根源的力」による復讐 としての事故というイメージは,改めて日本人の環境意識を呼び覚ました最近の 原子力発電所の事故を鮮明に思いおこさせる。 5.「富」の理論 それでは,これからエコロジーの観点から『技術の完成』を見ていきたいが, そのためにまず F・G・ユンガーの考える「富」の理論を考察しておきたい。 エッセイのなかには一見全体とは異質な,宙に浮いたような章がある。第三章 である。しかしそこで展開される「富」の理論は,F・G・ユンガーのエコロジー の根本を規定している。 F・G・ユンガーによれば,富(der Reichtum)には,存在としての富と所有と しての富がある。 私が富を存在として把握する場合には,おそらく私は,たくさんの物を所有 しているから豊かなのではない。むしろすべての所有は豊かであるという私 の存在に依存している。そうすると富とは,人のところにやってきたり,人 から離れていくものではなく,それは生まれたときから与えられていて,意 志や努力にはほとんど左右されないものである。これは根源的な富であり, 自由の過剰であって,その過剰さはある種の人間にあってはほのかに輝いて いる。富と自由とは互いに離れがたく結びついており,その緊密さゆえに, 私があらゆる種類の富を富に内在する自由さの度合いに応じて見積もること ができるほどである。この意味において富は貧しさと同一の可能性があり, つまり,豊かな存在とは何も所有しないこと,所有物のないことと結びつく。 乞食を王と呼んだとき,ホメロスはまさにこのことを考えていた。そして, 私の存在に応じて私に割り当てられているこの富のみが,私がまったく自由 に使うことができ,また完全に享受することのできる富である。 (19) 「存在としての富」とは,ホメロスの神話に遡る富であり,金銭的な所有物をも たなくても豊かさに変わりない,ほのかに輝き出るような富である。それに対し て「所有としての富」とは,私たちが一般に考える富,すなわち経済的・金銭的 所有物によって決まる富であり,非所有であれば,つまり所有物がなければ,経 済的な貧困としての貧乏ということになる。したがって「貧しさが非所有である ところでは,非所有が豊かな存在と合致するところにおいて,貧しさは富と同一 -37- 中 島 邦 雄 でありうる。」つまり,経済的に貧しくても,気持ちや心はあふれんばかりに豊か であるという場合も考えられるということになる。その場合重要な特徴は「自由」 であるかどうかであって, 「富と自由とは互いに離れがたく結びついて」いるので ある。 それでは経済的な貧富に関係のない豊かな状態とは,具体的にどのようなもの であろうか。第三章で F・G・ユンガーがあげているのは,例えば王位のような 位階である。 しるし 富の本当の徴は,それがナイル川のように過剰を贈与することである。それ は人間における王侯的なあり方であって,このあり方のなかには金脈が広がっ ている。飲食するためにだけ生まれてきた人たち,単なる消費者からは富が 創造されることは決してない。(20) こうした富の理論に従えば,富が自由と強く結びついている点で,また物質的 豊かさとは関係しない点で「余暇」もまた,存在としての富に分類することがで きよう。別の文脈でではあるが,F・G・ユンガーは余暇を自由と結びつけて次の ように述べている。 余暇と自由な活動という状況は誰にでも開かれているわけでなく,前もって 与えられているわけでもない。〔中略〕仕事から解放された人間は,それだけ ではまだ余暇を楽しむようになれず,自分の時間を自由な活動へと振り向け る能力を獲得することもない。余暇とは単なる無為ではない,つまり否定的 に規定され得るような状態ではない。余暇とはゆったりとした,芸術的で, 精神的な生活を前提とする。そういった生活によって余暇は実りあるものと なり,意味と品位を獲得するのである。(14) F・G・ユンガーは余暇を楽しむには教養が必要であるとし,一方失業者は失業 保険で生活が保障されていても「この(余暇を有意義に利用する,筆者)能力を もたない」(15)と述べて,貴族主義的な見解を披露しているが,いずれにしても 原則的には,余暇を楽しむことは「存在としての富」の享受と考えることができ る。そこでは「所有としての富」,つまり経済的豊かさは本質的に関係ない。自由 な時間を歓びとして,つまり豊かな時間と感じて過ごすのに, 「樽の前で小躍りす る」 (15)ディオゲネスのように財産はいらない。歓びは豊かさの過剰として余暇 の時間のなかから溢れ出すのである。 さて,こうして富を時間に変換することができた。時間において存在としての -38- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー 富は,余暇という形で現れる。それでは時間は, 『技術の完成』のなかでどのよう にとらえられているのであろうか。 6.時間論 エッセイの第 10 章は,ニュートンとカントをふまえた F・G・ユンガー独特の 時間論となっている。 F・G・ユンガーは時間が実在するか否かについて,時間を,絶対的な世界時間 として存在する実体とみなすニュートンの説と,時間は事物を理解・把握する純 粋な直観形式として人間にアプリオリに備わった観念であるとするカントの説を 比較して,ニュートンの方に軍配を上げている。つまり時間は実体であると考え ている。その上で,修辞的な疑問文の形をとりながらも,今度はニュートンとも カントとも異なり,時間は複数存在すると結論付けている。 二つの,幾つかの,無限に多くの時間が存在可能ではないだろうか。時間が 事物に内在し,しかもそれは事物の性質が時間に影響を及ぼすような形で, あるいは時間の性質が事物に影響を及ぼすような形で,さらには両者が同時 に影響を及ぶような形でそうであるとき,そのときには無限に多くの時間が 存在しなければならないのではないか。事物の諸関係のほかに測定によって 量的にだけでなく,その性質によって質的にも区別されるような,時間の諸 関係というものも存在しなければならないのではないか。 (48) このように述べる準備として F・G・ユンガーは,近代物理学の発見した空間 (引用文では「事物」)と時間が融合した時空の考えや,リーマンの非ユークリッ ド幾何学で想定される,空間が無数に存在するという説に言及している。また, さらに上述の引用文の後では,そもそも時間の単位を決める基準となる地球の自 転やクォーツ時計の原理となる反復において,その自転や反復の一回一回が果た して完全に同一の時間といえるのか,それらを均質な時間として分割し計算する ことがそもそも可能なのかと問うている。 ここでその答えを出す力は筆者にはないが,それにしても,もともと難解なエッ セイのなかで,読者の理解度をさらに試すこのような議論を,F・G・ユンガーは なぜするのだろうか。その理由はこのエッセイの根底に一貫して想定されている 二つの時間,すなわち「死んだ時間」と「生きた時間」を単なる比喩ではなく, 人間の実存にかかわるリアルな存在,つまり実体として基礎付けておきたかった からであろう。 「死んだ時間」については,先述した人間と機械の組織化に関する引用文のなか -39- 中 島 邦 雄 にも登場している。歯車に象徴される,機械装置における反復運動によって示さ れる時間である。その「死んだ時間」に人間も巻きこまれ,技術的に洗練された 監視のなかでもはやその時間から逃げ出すことはできない。 測定可能で正確に反復しうる時間のみが,認識論の理論家や科学者,そし て技術者の携わるものとなる。この時間のために,またこの時間の中へと彼 らは自分のタイムスイッチ,自分の自動機械を組み立てる。そしてこの死ん だ時間を用いては様々なことを行うことができる。例えば測定の助けを借り て時間を思うがままに分割することができる。または時間に時間を継ぎ足す こともできる。丁度一つ一つの鎖からベルトを作ったり,一つ一つの部分か ら,歯車に沿って動く鎖を作るように。また,時間を任意に寸断したり切り 刻むこともできるが,こんなことが生きた時間のなかではほぼ不可能なのは, その時間のなかに生活する有機的なもの,たとえば種子,花,植物,動物, 人間,有機的思考などの場合と同じである。技術はそれゆえ単位あたりの時 間で働くのである。そして,技術において個々の部品の設計者がいるのと同 様に,単位時間を捜査する計算係,時間調査の役人がいて,死んだ時間が合 理的に利用されるよう監視している。(中略)つまり,こうしたことすべて が,生きた時間のなかで成長する有機体が,機械的な時間思考,すなわち死 んだ時間に従属させられてゆく諸々の方法なのである。 (54) この諸々の方法を通じて, 「機械的な時間思考」は次第に支配力を強め,社会全 体に広がっていく。それはとりもなおさず技術が完成に向かって前進していくこ とを意味するが,それでは,この「死んだ時間」に対立する「生きた時間」とは どのような時間なのだろうか。 技術の世界が主題であるこのエッセイでは,言及されるのはもっぱら「死んだ 時間」であるが, 「生きた時間」についても上の引用文で明らかにされている。そ れは有機的なもの,たとえば「種子,花,植物,動物,人間」に流れる時間であ り,さらに「有機的思考」のおこなわれる時間である。第10章の時間論のなかで, 時間が,カントの考えるように観念ではなく事物に内在する実体である証拠とし て挙げている例も,生きた時間に属するだろう。例えば「すべての成長と開花と 成熟,すべての老化と衰えと枯死」(47)や「おびただしい単語,語結合,文およ びことわざによって表現しているすべての民族の言語」 (47)などである。人間に 関していえばそれは「人生の時間」に他ならない。「死んだ時間」との対比で, 「生 きた時間」であるそれは次のように述べられる。 「人生の時間ではどのような瞬間 も決してほかの瞬間と同じではないが,そのような人生の時間における浮き沈み -40- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー に関与することなく,人間が生きている時間とともに,またその時間の傍らで, それにかまうことなく死んだ時間は経過してゆくのである。 」 (52) いずれにしても「生きた時間」には,人間・動植物だけでなく思考や言語など 12) 文化的な活動もふくめて広く考えられている。 このことからも,先に述べた余 暇もまた文化活動の一つとして「生きた時間」に数え入れることができよう。自 由な時間をひたすら空虚に感じて「死んだ時間」にしてしまうか,それとも小躍 りして精神的な活動に没頭するかは人によるが。 7.『技術の完成』のエコロジー こうして『技術の完成』の背後にあって,このエッセイの論理を組み立ててい る対立する二つの意味のつながりを見てとることができる。一つは「所有として の富」とつながる「死んだ時間」の世界を表している。そこでは人間の幸せを計 るものとしては経済的な豊かさが唯一の指標であり,人はその指標を信じて物質 的な富を求める。そのための方法が,ただ量的に加算されていくだけの周期運動 を繰り返す歯車装置を基本とした自動機械による資源の合理的な搾取であり,こ の技術による収奪によって「機械機構」で生産されたさまざまなものが,食品も ふくめて商標のついた工業製品として消費され,こうして高まっていく大量生産 と大量消費が豊かさの証となるのである。そのために科学は発達し,絶え間ない 技術の進歩が行われる。しかしそれはまた,人も機械も巻きこむ,国家体制も含 めたはてしない「組織化」への道を進むことを意味する。技術論をテーマとする このエッセイでは,主にこちらの世界が描写されている。 それに対してもう一つの意味関連は,「存在としての富」を生む「生きた時間」 の世界である。F・G・ユンガーは上述の「生きた時間」としてあげた例を,「存 在としての富」である豊かさの徴としても並べている。 豊かさとか充溢というものは,それに気づいたとき,朗らかな気分にしてく れる。それは豊穣の徴である。芽を出し,葉をつけ,つぼみを結び,花を咲 かせ,実をつけ,熟すさまを見ていると,我々自身が清々しい生き生きした 気分になる。人間の精神と体は,男と女は,惜しみなく与える力を持ってい る。(26f.) ところで,経済活動の原点である需要とは欠乏の意識にほかならず,その需要 12) die Lebenszeit(54)を「生きた時間」,die tote Zeit(54)を「死んだ時間」と訳した。Lebenszeit は,普通「生涯,寿命」と訳されるが,ここに述べたように F・G・ユンガーは Lebenszeit を, 人間に限らず,すべての有機体および有機体の精神活動をひたして流れる時間と考えている。 -41- 中 島 邦 雄 が新たな需要を産むことによって技術的な組織は拡大していくが,それは同時に 欠乏の新たな生産であり,拡大である。したがって組織化された社会を F・G・ユ ンガーは「欠乏組織」 (Mangel-Organisation)(24)と呼んでいる。「死んだ時間」 の世界がこの「欠乏組織」の特徴であるのに対して, 「生きた時間」の世界はそれ とは逆の様相を呈している。つまり現実離れしたともいえる過剰,充溢がその特 徴となっているのである。動植物など有機体についてそれがいえるだけでなく, 余暇についても同じ特徴付けがなされている。余暇にも限られた時間があるはず だが,余暇を楽しむ人にとってそれは無限の時間である。 余暇を持つ人というのは,無限の時間をも有していて,実際に何かをするか 休んでいるかにかかわらず,たっぷり時間を持って生きている人のことであ る。(55) 前面に描かれる,人間も機械も巻きこむ技術的な「組織化」の様相がどんなに 陰惨であっても,基本的な枠組みとして背景にはこうした「生きた時間」と「死 んだ時間」の対立の構図がある。「組織化」の様相は,それとは逆の光り輝く充溢 の世界によって補足され,対照され,両者が互いに作用し合う。それによって, 「生きた時間」と「死んだ時間」はそれぞれの対極としての重さを神話的なまでに 深めていくのである。しかしエッセイに表立って描かれるのは地球規模の「技術 の完成」への道のりである。 技術者にとって大地(地球)とは,知的で人工的な計画の対象である。地球 は力学的な運動に従う死んだ球体,すなわち人間が機械操縦士としての視線 で地球を理解し,力学的な運動を研究することによって意のままに働かせる ことができる球体なのである。技術者はこの球体を情け容赦なく自らの権力 志向に従わせ,自然の力を,隷属と労働を強いられるメカニズムの中に無理 矢理押し込める。根源的な自然と,人間の知性と意志によって操作される機 械機構とはぶつかり合う。その結果は征服という行為であり,それによって 自然の力が徴用されることになるのだ。根源的諸力の自由な戯れには,強引 に終止符が打たれる。(121) とはいえ,根源的諸力は, 「技術の完成」も間近いころになると,技師の不注意 による事故や世界戦争という形で「隷属と労働」を断ち切り,こうしてエネルギー の大爆発が生じ,復讐が成就する。F・G・ユンガーが「パイプおよびボイラー」 を用いて描いたイメージの通りである。そのとき「生きた時間」は長い間抑圧さ -42- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー れた果てに,有機物の成長や自然言語,人生といった優しい姿をかなぐり捨てて, 根源的諸力という,荒々しくも恐ろしい原始の姿に戻る。その力がパイプの内部 を猛烈な速度でめぐり,機械機構はまるで奇怪な生き物のように悲鳴を上げるの である。 このエッセイは技術論をテーマとしているために,当然それと対になってはい るのだが,本来のエコロジーの対象である自然それ自体については述べられるこ とは少ない。しかも F・G・ユンガーには,特にエコロジーを論じているという 意識はないように思われる。しかしその代わりに「エコノミー」という概念を用 いて,私たちにとってのエコロジーを表明している箇所がある。この章の最後に それを紹介したい。 彼の考えではエコノミーとは「家庭の経済原則」であり「家計のやりくり」で ある。さらにまた,ここでエコノミーとエコロジーが重なるが, 「人間がこの地上 に住まうこと」である。経営者はこの「家計のやりくりの秩序」に従わねばなら ないが,それに従わなければ乱脈経営となる。自然を収奪する技術機構はそうし た経営を行っているが,そこでは「とても単純な原則」が忘れられている。 その原則をわれわれは思い出す必要がある。植物を植えつけ,育て,栽培す る人間,または動物の世話をする人間は,彼の保護に委ねられているものた ちの成長に心を配るときだけ,この仕事を首尾よく行うことができる。彼が 世話をし,ふやす人である場合にのみ,彼の活動は効果的に継続されるので ある。彼は必要以上に森の樹木を伐採したり,家畜を殺したりしてはならな い。彼は一面的で乱暴なやり方で自分の利益や得をはかってはならない。な ぜならここには深くてかなり親密な相互性があるからだ。大地は,大地を利 用し浪費するだけの人間に耐えられない。それでたちどころに人間に対して 協力を拒むのだ。(35f.) F・G・ユンガーのエコロジーは,H・D・ソローに発するディープ・エコロジー 13) とは異なる立場に立っている。 ディープ・エコロジーが人間と自然を截然と区 別し,神聖で美しいとされる自然の王国に人間が立ち入ることを固く禁じるのに 対して,F・G・ユンガーは自然を管理し,保護するという形での人間の自然への 介入を前提とした,人間中心主義的な立場に立っている。ただし,その人間中心 主義は「死んだ時間」を計測する悟性に導かれたものではなく, 「生きた時間」を 13) H・D・ソローについては拙論を参照:中島邦雄: 「環境文学の系譜 ― H. D. ソロー,H. パー シェ,石牟礼道子 ―(1)」「かいろす」第45号,2007年,66–93ページ。 -43- 中 島 邦 雄 共有する自然への共感に基づくものであって,この点で彼のエコロジーは,第一 次世界大戦前後に活躍し,植民地化におけるアフリカの自然破壊に抗議したエコ 14) ロジスト,ハンス・パーシェと共通の基盤に立っている。 8.エコロジーと時間論 F・G・ユンガーの時間論にはその先輩と後輩がいる。Th・マンとミヒャエル・ エンデである。 『魔の山』のなかで Th・マンが語り手によるエッセイの形でも,また小説の筋 のなかでも時間を扱っているのは有名である。造船技師である主人公はサナトリ ウムでひどい風邪をひく。看護婦に勧められて体温計を買い,体温を計るために, 15) 口に入れて7分間を計測する。 実際にはうっかり7分目を取り逃がしてしまう が,ここに登場するのは,どの部分も同質の時間に分解することのできる,ニュー トン的な時間であり,「死んだ時間」であって,「生きた時間」の中に生活する主 人公にとっては限りなく退屈な時間である。一方物語自体は,サナトリウムでの 作者の体験の密度に応じて長くなったり,短くなったりし,まさに「生きた時間」 を表現している。 『魔の山』に提示される時間論は複雑ではあるが,基本的には F・G・ユンガーの時間論の図式を示しているといえよう。 1973年に発表された M・エンデの『モモ』は,南ドイツのある町の物語で,人々 の人生の「生きた時間」を盗む「灰色の紳士たち」と,それと戦って人々を守る 少女「モモ」の物語である。時間泥棒をビジネスとする紳士たちは,盗んだ時間 16) の凝縮した小さな灰色の葉巻をいつも口にくわえて吸っている。 ここにはまさ に F・G・ユンガーの論じる「組織化」された世界による「生きた時間」の収奪 が,メルヘンとして描かれている。盗まれた「生きた時間」は圧縮されて葉巻と なるが,そのときにはすでに「死んだ時間」に変わっている。しかしこの灰色の 棒は,ニコチン中毒の紳士たちにとって,存在するための必需品なのである。 これら3つの作品には次第に人々の意識にのぼってきたエコロジーの歴史が反 映されている。エコロジー運動は20世紀に入って青年運動とともに,人々の意識 にのぼりはじめるが,Th・マンの世代にとってはまだまだ身近な問題とはいえな 14) ハンス・パーシェについては拙論を参照:中島邦雄: 「ハンス・パーシェの『アフリカ人ルカ ンガ・ムカラのドイツ奥地への調査旅行』― エコロジーとナチズム ― 」 「九州ドイツ文学」第 18号,2004年,93–108ページ。中島邦雄: 「環境文学の系譜 ― H. D. ソロー,H. パーシェ,石 」 「かいろす」第46号,2008年,51–67ページ。 牟礼道子 ―(2) 15) Thomas Mann: Gesammelte Werke in 13 Bänden. S. Fischer Verlag, Frankfurt a. M. 1974, Bd. 3. S. 235 ff. 16) Michael Ende: MOMO oder Die seltsame Geschichte von den Zeit-Dieben und von dem Kind, das den Menschen die gestohlene Zeit zurückbrachte. K. Thiemanns Verlag, Stuttgart 1973. S. 59 f. -44- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー かった。たんにロマン主義的な自然賛美ではなく,自然が有限であり一端破壊さ れると取り戻せないという意識の確立がエコロジーの一つの標とするならば,Th・ マンにはまだそれがなかった。第一世界大戦直後の1919年,宅地造成による自然 破壊についてのインタビューに,彼は「牧歌というのはいつだって自分が退却す 17) る隠れ家を見つける」 ことができると述べている。 『魔の山』の主人公がいつも手にしている本が『海洋蒸気船』であることからも 分かるように,物語の設定される第一次大戦前にはヨーロッパには産業資本主義 が栄え,植民地獲得をめぐって帝国主義が緊迫した様相をみせていた。同時にそ れにともなって,本国でも植民地でも自然の収奪がかなり進展していた。しかし, インタビューへの Th・マンの答えが示しているように,一般にはまだ自然環境に ついての危機意識は薄かったといえる。 その後,第二次大戦にいたるまで,産業は対立する異なる政治体制のもとでも さらに発展を遂げた。その状況を『技術の完成』は地球規模の技術的な「組織化」 として捉えたのである。しかしエッセイの中心的なテーマはあくまでも文明であっ て,自然および自然に根付いた伝統的や社会や文化についてはその対比で参照さ れるにとどまっている。 第二次大戦の後,1970年代以降になるとドイツ環境運動の高まりのなかで『モ モ』が著される。しかしこの作品では技術的文明と自然および地方文化との対の うち,後者の方が表に出ることになる。すなわち,自然に囲まれて人々の暮らす 町が舞台として設定され,一方「生きた時間」を盗む「灰色の紳士たち」はどこ からともなく,よそからやって来る。この地理的構造のなかで,自然と文化を体 現するモモが主人公として中心に据えられ,そこから自然収奪をビジネス化して 無機質となった技術的産業組織が風刺され,批判されているのである。こうした 文学的な流れの中間に『技術の完成』は位置している。 F・G・ユンガーのエッセイが暗黙のうちに読まれながらも,政治的なエコロ ジー運動からは閉め出されている背景には,国粋主義者としての作者の出自だけ でなく,このエッセイが本質的に文学作品であることも作用しているのではない か。思想を現実化し実効あるものにするためには政治化が不可欠である。しかし, そのときにはしばしばイデオロギー的な要素が入り込んでしまう。R・ハイヤー が述べたように,確かに『技術の完成』にはエコロジーのさまざまなテーマが「武 18) 器庫」として蓄えられてはいるが, しかしそれを切り離し,政治に利用できる イデオロギーとして取り出すには,個々のテーマの全体への有機的関連が濃厚す 17) FRAGE UND ANTWORT, Interviews mit Thomas Mann 1909-1955. Hrsg. v. Volkmar Hansen u. Gert Heine, Albrecht Knaus, Hamburg 1983. S. 144. 18) 注5)参照。 -45- 中 島 邦 雄 ぎるのである。 『技術の完成』のこうした文学作品としての特質について F・スラ ニッツは次のように述べている。 彼の作品は,言葉の中に,そして言葉とともにある独自の思考によって刻印 されている。その思考は生きた経験に基づいているが,しかしそれ以上に, ギリシア神話であれ,古典および近代哲学であれ,あるいは自然科学や精神 科学,法学の理論であれ,過去に考えられた思考もまたふくんでおり,それ 19) らを批判し,思考をさらに押し進めていくのである。 彼のエッセイでは,自分の「生きた体験」に基づく思考だけでなく,幅広い分 野の思想や理論も一緒に考えられ,批判され,発展させられている。それはすべ て,エッセイを統括する作者の責任のもとに,作者独自の構想に沿って行われ, したがってエッセイで論じられるカントやニュートンの理論がアカデミックな哲 学に沿っているかどうかは,問題とはならない。言葉の良い意味でも悪い意味で も,ここでは文学作品が重要であり,学問的理論の扱いの正否についての責任は, その各々の学問自体の伝統ではなく, 「生きた体験」を裏付け,補強する作者の有 20) 機的な構想の側にあるのである。 この意味において F・G・ユンガーの理論を環 境運動のために政治的に利用することは,そうした有機性を破壊することにつな がり,なかなか難しいと思われる。しかしそれでも『技術の完成』は「技術批判 と自然保護論争の右翼から左翼への移行のための『ミッシング・リンク』とし 21) て」 ,今後も作用し続け,その独自の文学性が理解され評価されることを通じて, 政治的な環境運動の理論のなかにも徐々に受容されていくのではないだろうか。 付記:本論は,研究分担者として参加した科学研究費補助金,基盤研究(C) ,研究課題名 19) Fred Slanitz: Wirtschaft, Technik, Mythos. Friedrich Georg Jünger nachdenken. Ergon Verlag, Würzburg 2000. S. 9. 20) これは作品内に取り入れた学問理論の解釈がいくら間違っていてもいいということではなく, むしろそれらのアカデミックな解釈からのずれに,取り入れた作品全体の構想との関連におい て,作家の個性がどのように読み取れるかが問題となるという意味である。桐原隆弘氏はこの 観点からカントの決定論とそれを受容した F・G・ユンガーの決定論の違いを考察し,次のよ うに述べている。 「ユンガーはカントをどちらかといえば機械論者として単純化するが,目的論 の扱いはユンガーが見るほど単純なものではない。そのことは有機体の自己組織能力・自己産 出能力を見れば明らかだ。ユンガーはこの論点には触れることはなかったが,しかし科学技術 文明の批判という別の角度から,彼は部分要素に還元することのできない生命現象の本質に迫ろ うとしている。 」桐原隆弘「目的論と技術的合理性 ― F・G・ユンガー『技術の完成』における カント解釈を手がかりとして ― 」 「下関市立大学論集」第57巻第3号,2014年,90ページ。 21) Andreas Geyer: a. a. O., S. 386. -46- F・G・ユンガーの『技術の完成』とエコロジー 「F・G・ユンガー技術哲学の現代的意義に関する学際的比較研究」 (課題番号 24520024) による研究成果の一部である。 -47- 中 島 邦 雄 F. G. Jüngers Theorie über Reichtum und Zeit in seinem Essay „Die Perfektion der Technik“ Kunio NAKASHIMA Das 1946 verfasste Essay stellt die Zukunft der Erde als „technisches Kollektiv“ dar, dem der Mensch als Arbeiter in der mechanischen „Apparatur“ sklavisch unterworfen ist. Darin wird auf die rationale und gründliche Ausbeutung der natürlichen Ressourcen hingewiesen. Dieser Determinismus wird in Metaphern wie „(Zahn) räder“, „Uhr“ und „Röhre“ dargestellt. Jüngers positive Auffassung von Reichtum „als Sein“ wird als gegensätzlicher Begriff zum Terminus „tote Zeit“ im „technischen Kollektiv“ sehr wirkungsvoll behandelt. -48- 生成文法にのっとった名詞グループの 依存関係文法 馬場崎 聡 美 0.はじめに 本論では,動詞の結合価と名詞の結合価の関連性についての諸説を検討する。 名詞グループとは,名詞とそれに従属する成分から成る句を指す。名詞グループ の中核となる名詞は,義務的付加語(Adjunkte)と任意的付加語(Attribute)を 支配する。名詞グループを文に書き換えるテストを行うことにより,この二つの 特徴を明確にしたい。付加語とは名詞を修飾する成分を指す。付加語の種類分け 1 ) は,以下のとおりである。 付加語の種類 • 付加語的用法の形容詞,副詞,代名詞,数詞,分詞 • 名詞(同格の名詞,2格名詞,前置詞を伴う名詞) • zu 不定詞,関係文,接続詞に導かれる副文 名詞が支配する構成要素について,まず上で述べた義務的付加語と任意的付加語 を見分けるためには,名詞グループを文に書き換える方法がある。この書き換え テスト(Prädikationstest)においては,①任意的付加語(名詞が支配しない。話 し手が付随的に付け加えるので,省いても文法規則に違反しない)と②義務的付 加語(名詞が支配する。文法的に正しい文を作るため,また意味上でも必要不可 欠の成分となる)の区別がある。名詞グループの量的結合価において空位の数は さまざまであり,過去における研究では,0価から3価までが論じられてきた。 名詞グループには,名詞的核と冠詞類,所有代名詞,焦点化詞(度数詞)と並 んで文肢構成部が単独,または句として含まれている。この文肢構成部の別名が 付加語である。一つもしくは複数の付加語が名詞核の意味に予め組み込まれてい 2 ) るならば,義務的要素となる。もしそうでなければ,随意的な要素となる。 さら に,名詞グループを文に書き換えるテストを行う際に,チョムスキーの生成文法 にある文法的言語能力(grammatische Kompetenz)を援用して句構造の理解を深 1) 川口 洋(編著)『ドイツ語文法用語独和小辞典』同学社 , 2006年 , 11頁。 2) Gallmann, Peter: Der Satz. In: Wermke, Matthias / Kunkel-Razum, Kathrin / Scholze-Stubenrecht, Werner(Hg.) : Duden. Die Grammatik. 8. Aufl. Band 4. Mannheim / Zürich 2009, S. 800f. -49- 馬場崎 聡 美 めたい。 理論上は,名詞グループを拡張して長い句を作り出すことができる。名詞グルー プの長さや意味は状況によってそれぞれ異なる。任意的付加語を付け加えること に関しては,数の制限がない。それゆえに,意味の変化に富んださまざまな句を 作ることができる(eine Studentin → eine deutsche Studentin, die Jura in Bayern studiert)。これらの表現は,話し手の言語能力,厳密には文法的言語能力によっ て文法的に正しいのかどうか判断される。個々の話し手は母語の使用の際に,文 法的に正しい文を無限に作ることができ,また聞いて理解することができる。 1.句の法則について 1.1.書き換えテストの基準 まずは,義務的付加語と任意的付加語の区別が最も重要な点となる。ただしド イツでは,任意的付加語に対する見解が,過去の研究において一つある。それは 任意的付加語を叙述文に変形させる方法であり,名詞的核が主語となって文中に 現れる。 1 ) das Haus der Eltern → Das Haus gehört den Eltern. 2 ) Herr Schmidt, der Philosoph → Herr Schmidt ist der Philosoph. 義務的付加語を使って書き換えテストが可能になる場合は,次の三つの形態のい ずれかを取って文中に現れる。3 )定動詞(動詞が中性名詞の場合) ,4 )述語的補 足成分(形容詞から派生した中性名詞と中性名詞の場合) ,5 )従属格(2格)で ある。なお,述語的補足成分は1格の形であるが,主格補足成分(主語)の概念 と同一ではないために,依存関係文法では文中の位置によって区別を明確にする 必要がある。 3 ) die Aufdeckung des Diebstahls durch die Polizei → Die Polizei deckt den Diebstahl auf. 4a) die Krankheit des Ministers → Der Minister ist krank. 4b) die Vaterschaft des Studenten → Der Student ist Vater. 5 ) das Ziel der Frauenbewegung → Die Frauenbewegung hat ein Ziel. しかし,残念なことに書き換えテストがいつも有効だとは限らない。例えば,幾 つかの名詞+前置詞を伴う義務的付加語(Angst vor etw. / Aversionen gegen jmdn. / Differenzen mit jmdm, etc.)は,叙述文に書き換える事が出来ない様である。 -50- 生成文法にのっとった名詞グループの依存関係文法 一番良い方法は,名詞核の意味を探ることである。言い換えると,名詞の意味 によって名詞の周りに幾つの空位が設けられるかに注意する事である。それ故に, この問題では専門的に同音同形異義語の判別が対象となる事が多い。 Bewegung 1:「動き,機械などの作動,人の行動」0価 etw. in Bewegung bringen, in Bewegung sein Bewegung 2:「特定の政治的・社会的な運動」1価 eine literarische Bewegung, die Bewegungen der Modernisten 単に身体や物の動きを表す Bewegung 1は,義務的・任意的付加語がなくとも文中 で意味を成す。運動を起こすという意味で使われる Bewegung 2は,運動が起こる 分野を義務的付加語を使って詳しく述べるため,形容詞または2格目的語を追加 するのが常である。 1.2.基本的な句の構造 ここでは根本的に,統語部門と語彙が中心的な問題となる。この二つは全く違 う機能を有する。統語的機能とは,純粋な調節システムのことを指す。語彙とは, 一つの言語体系の中の単語の総体を表し,それらを特定の職業や個人に限って使 うことである。そして調節システムを使って,語彙を上手く組み立て,文や句を 構成する。この統語的機能の研究においては,一つの言語構造が基礎概念として 存在する。この基礎概念は構成素(Konstituente)と呼ばれる。この構成素は,一 つの単語から文までの全体的な統一を表す。この構成素は,統語的構造を持つ文 の上位概念である。その一番下には,単語が最小単位として置かれている。下の角 形括弧で指し示されているアルファベットは,構成素を描いたものである。例えば, A は B と C からできている。さらに,C は F と G から成るというわけである。 3 ) [ B[DE] C[ F[H I[K L] ] G]] A チョムスキーの生成文法は,句の法則(Phrasenprinzip)という理論を出発点とす る。句の法則については,単語は句となって初めて統語的に使用可能となると言 えよう。 ここで,依存関係文法に深く関わりがある,内部の義務的補足成分(interne 3) Linke, Angelika/Nussbaumer, Markus/Portmann, Paul R.: Studienbuch Linguistik. 5. Aufl. Tübingen. 2004, S. 127f. -51- 馬場崎 聡 美 Ergänzungen),外部の義務的補足成分(externe Ergänzungen)の二つについて解 4 ) 説する必要がある。 : Herausgabe einer Zeitschrift vom Wissenschaftler 6 ) Nominalisierung(名詞化) Prädikationstest(書き換えテスト): NP(名詞句)Der Wissenschaftler / VP(動詞句)gibt eine Zeitschrift heraus. 上の叙述文において,herausgeben という本動詞は二つの義務的補足成分(主語・ 4格目的語)を支配する。4格目的語は,動詞句を補足するゆえに, 「内部の義務 的補足成分」と呼ばれる。すなわち,動詞句の範囲内に含まれる補足成分という 意味である。これに反して,動詞句の枠の外で取り上げられる文法項は主語であ り, 「外部の義務的補足成分」と呼ばれる。主語はいわゆる受け身の役割を持ち, 他の品詞からの作用を受けないと機能しない。このように名詞句の依存関係文法 には,二種類の異なった概念が存在すると解釈できよう。例文6)の名詞化され ている,Herausgabe einer Zeitschrift vom Wissenschaftler の中核である Herausgabe は,下の書き換えテストの中で本動詞 herausgeben として動詞句内に配置されて いる。 Satz Nominalphrase Verbalphrase Verb gibt heraus Der Wissenschaftler Nominalphrase eine Zeitschrift 2.名詞が支配する構成要素について 2.1.名詞グループの由来となる命題 名詞グループは,前にも述べたように,文に書き換えることができる。この書 き換えは,名詞グループの意味的結合価をもとにテストを行うということである。 文法の制約と,それに加えて名詞グループには動詞があるという前提とを考察の 中心に据える。例えば下の名詞グループには,それぞれ付加語(下線部)が備わっ ており,これらを文に書き換えると,次のようになる。 4) Ebd., S. 130. -52- 生成文法にのっとった名詞グループの依存関係文法 7a) ein erschreckliches Geheul 恐ろしいほえ声 7b) Ein Geheul klingt erschrecklich. あるほえ声が恐ろしく鳴り響く。 8a) eine Braut mit einem schönen Gewand 美しい衣装を着ている花嫁 8b) Eine Braut trägt ein schönes Gewand. 花嫁が美しい衣装を着ている。 9a) das Auto des Studenten その大学生の車 9b) Der Student hat ein Auto. その大学生は車を一台持っている。 書き換えテストが可能なのは,名詞グループが凝縮された命題であるということ に起因している。そして,名詞グループはさまざまな構造の文に由来する。書き 換えテストの際に,gehören, sein, haben などの動詞を頻繁に使い,当てはめる場 合がある。しかし,これらの動詞が全ての状況に応じて書き換えテストの機能を 果たすことは不可能である。 2.2.名詞句の書き換えテスト 任意的付加語について 中核(被修飾語)である名詞は,主語となって文中に現れる。上の7a),8a)で は,それぞれの名詞 ein Geheul, eine Braut が7b),8b)の文中では主語となって現 れている。句の法則を使って言えば,中核の名詞が動詞句の枠外に出る。中核が 外部の義務的補足成分となり,ある対象物として述語によって規定される。この 場合,名詞グループの中核に付随する付加語は全て任意的と見なされ,結合価は 0価となる。修飾している付加語は,話し手が任意的に省いても聞き手に意味が 伝わる。そして統語論上では文法的であるとみなされる。ゆえに,ein Geheul と eine Braut はそれぞれ0価と見なされる。 ある普遍的な法則が,このような任意的付加語を伴う句構造に存在する。この 5 ) 法則は,いわゆる X’-Schema(X-Strich-Schema) という形で表現され,どの言語 にも一般的に通用する。 XP YP Y という中核を持つ句構造 ------------- Z という中核を持つ句構造 -------------------------- 5) Ebd., S. 131. -53- X’ ZP X 馬場崎 聡 美 統語的機能を有するあらゆる単語またはあらゆる X は,XP という句を構成す る。すべての XP という句構造は,中核 X(Kopf)を所有しており,この XP 構造 には,抽象的な依存関係構造樹が存在する。下の構造樹では,ZP と YP という二 つの別の句構造が XP を補足している。それぞれの中核は,句構造のタイプを示 す。それらのタイプとは厳密に言えば,名詞句・形容詞句・動詞句・前置詞句・ 副詞句などである。 話し手によって任意的付加語をいくつも並べて,長い名詞句を作ることができ る。例えば,Herausgabe einer Zeitschrift vom extrem ordentlichen Wissenschaftler, der stets Druckfehler korrigiert. という風に句を自由に付け加えることができる。 義務的付加語について 名詞が構成要素を支配する場合,文に書き換えてみると,中核である名詞は動 詞の位置に現れる。もしくは,主語以外の文成分となって述部に現れる。例文9b) では,das Auto という中核の名詞が4格目的語となって現れている。ここでは, 中核 das Auto が動詞句の中に入る。中核が内部の義務的補足成分となり,文の根 底にある概念を定義するという決定的機能を果たす。この動詞句の統語的機能に は,主語よりも重要な役割が与えられている。この場合は,9a)の中にある修飾語 の des Studenten が義務的付加語となり,das Auto の結合価は1価と数えられる。 2.3.2格を伴う名詞の名称 名詞グループの付加語は修飾語として使用される。2格名詞を伴う名詞グルー プは,意味論に基づいて,任意的付加語と義務的付加語に分かれる。すなわち, 修飾語としての2格には定まった統語的機能が無い。文の根底には,どのような 6 ) 内容があるのかを明確にする必要がある。以下の例は,Sommerfeldt と Schreiber が挙げる中核名詞の主な機能と名称である。 10) Täterbezeichnungen(Nomina agentis) 動作主と目標(目的語)との結びつきを表す。 例: (Er ist)Überbringer einer schlechten Nachricht. 11)Beziehungsbezeichnungen 人間と人間との関係を表す。 例: (Er ist)ein Freund meines Vaters. 6) Sommerfeldt, Karl-Ernst / Schreiber, Herbert: Wörterbuch zur Valenz und Distribution Deutscher Substantive. 3. Aufl. Tübingen. Max Niemeyer Verlag 1983, S. 14-8. -54- 生成文法にのっとった名詞グループの依存関係文法 12)Tätigkeitsbezeichnungen(Täter- und Zielbezeichnungen) 動作主と動作との概念的な結びつきを表す。 例:das Spiel des Jungen / das Geschrei der Kinder 13)Vorgangsbezeichnungen これらの名詞のほとんどが単に出来事の経過を表す。 例:der Beginn der Veranstaltung / das Wachsen der Bäume 14)Zustandsbezeichnungen(Ableitungen von Verben) 人・物のある状態を表す。 例:die Verzweiflung des Angeklagten(1価) der Aufenthalt des Generalsekretärs in der DDR(2価) 15)Eigenschaftsbezeichnungen 形容詞から派生した名詞なので,ある特徴を表す。これらの名詞の結合 価は形容詞のそれと同じである。 例:die Breite des Flusses / das Grün der Pflanzen これらの名称の分類だけでは,まだ説明が不十分だと思われる。中核となる名詞 と付加語の意味論上の関係には,さらに深く追究すべき点が幾つかある。 2.4.義務的付加語を支配する同音同形異義(Homonymie) 次に,die Ermordung Cäsars(シーザーの暗殺)という表現に考察を加える。こ れは Genitivus subiectivus(動作主としての2格),もしくは Genitivus obiectivus (動作の直接的対象となる2格)と受け止められる。これらの文法上の名称は,ラ テン語の文法が模範とされる。このような場合には,無論コンテクストが重要とな るのは言うまでもない。文に書き換えるテストを行うとすれば,次のようになる。 解釈① Jemand ermordet Cäsar. ある人物がシーザーを暗殺する。 解釈② Cäsar ermordet jemanden. シーザーがある人物を暗殺する。 両方の解釈では,中核の名詞 die Ermordung が動詞 ermordet になる。ゆえに,ど ちらも Cäsars という修飾語が義務的付加語となり,量的結合価は1価である。中 核の die Ermordung は動詞の派生語である。このようなケースにおいては,もち ろん修飾語は義務的付加語となり,名詞グループの必要な成分として数えられる。 同音同形異義については,必ずしも動詞の派生語が中心となるというわけでは ない。以下の二つの例では,意味によって動詞が全く違う可能性がある。 -55- 馬場崎 聡 美 16)Gerechtigkeit Gottes 神の義(属性としての正しさ) Gerechtigkeit = 文肢核 / Gottes = 付加語 ① Gott ist gegen alle gerecht(weil man in die Kirche geht?). 信仰を前提として神から与えられるものなのか。 Genitivus definitivus 定義の2格 . ② Die Menschen haben Gerechtigkeit(als Teil von Fleisch und Blut) すでに人間の血や肉となって内に存在する物なのか。 Genitivus partitivus 属性を表す2格 3.語彙論の観点から考察した名詞グループの結合価 ここでは,表示論(Onomasiologie)という理論を使い,書き換えテストを進め ていきたい。表示論は別名,名称論または名義論と呼ばれる。この理論の内容は, ある概念を表現する時に,様々な語が見つかる場合に,それらをどのように使用 するのかという意味研究を指す。この取り組み方は,私たちが類義語を調べる際 , 持っている」とドイツ語で言う時に,私達は haben, に,取る方法である。例えば 「 besitzen, innehaben, über etwas verfügen, gehören などの動詞に行き当たる。すで に述べた例文の中に,4b)Der Student hat ein Auto. というものがある。この例文 をさらに,類義語を使って表すとすれば,以下のようになる。 名詞化したもの:Das Auto des Studenten 9b) Der Student hat ein Auto. その大学生は車を一台持っている。 17)Der Student besitzt ein Auto. その大学生は車を所有している。 18)Das Auto gehört dem Studenten. この車はその大学生のものだ。 この場合,全てが同じ内容に見えるが,意味の重要性が異なると思われる。名詞 グループを,9b) ,17),18)に書き換えてテストを行う場合,外部と内部の義務的 補足成分の違いが出てくるからである。 三つの動詞は,同じ意味として捉えることができるが,どうしてこのように幾 つも似たような意味の動詞が存在するのか,というところに着眼点を置きたい。 まず,9b)haben と 17)besitzen であるが,この二つはグリムの『ドイツ語辞典』 (Das Deutsche Wörterbuch von Jacob und Wilhelm Grimm, 1998–2004)によれば,同 等の意味があるために取り替えて使うことができるということである。 haben: am meisten steht haben in der bedeutung zu eigen haben, im besitze haben[…] (a)eine sache oder eine person haben: der mann hat geld; er hat ein -56- 生成文法にのっとった名詞グループの依存関係文法 groszes haus in der residenz; der mann war arm, aber die frau hatte ein hübsches vermögen. 7 ) 8 ) besitzen: ein land, reich, gut, haus, grundstück besitzen; einnehmen / auch der volksmäszige sprachgebrauch schritt weiter und mischte die vorstellungen des besitzens und habens überhaupt, wie im romanischen das lat. tenere zu habere herabgezogen wurde. nicht selten dürfen wir darum die ausdrücke haben und besitzen wechseln: er hat oder besitzt ein schönes pferd, ein herliches landgut, ein ansehnliches vermögen. 9 ) gehören: vom verhältnis des eigentums, besonders auch des rechtsanspruches darauf[...] (d)überhaupt spricht es eigentlich weniger den besitz, als das rechtsverhältnis, den rechtsanspruch aus, entsprechend dem gerichtlichen gebrauch. 10) Das Auto des Studenten 9b)Der Student hat ein Auto. 17)Der Student besitzt ein Auto. 18)Das Auto gehört dem Studenten. Nominalkern 名詞核 Nominalkern Nominalkern das Auto das Auto das Auto Adjunkt 義務的付加語 des Studenten Adjunkt des Studenten Attribut 任意的付加語 des Studenten haben, besitzen は,要するに個人的な物の所有権を有するということであり,zu Eigen haben, einnehmen などの動詞に書き換えることができる。これらはもちろ ん動詞の正確な意味合いを表しており,占拠,占領という内容が付随している。 これに反して,18)gehören を検索する際に,個人が自由に処理できるものとい う意味が見当たらないと思われる。例えば,① Eigentum, ② Rechtsanspruch などの 単語を使って説明されている。この二つの単語は,ドイツ語では次のように解釈さ れている。① Eigentum: jmdm. Gehörendes. Sache, über die jmd. die Verfügungs- u. Nutzungsgewalt, die rechtliche(aber nicht unbedingt die tatsächliche)Herrschaft 11) hat. ② Rechtsanspruch: anspruch auf grund eines gesetzlichen rechts. 12) gehören は 7) Kompetenzzentrum für elektronische Erschließungs- und Publikationsverfahren in den Geisteswissenschaften an der Universität Trier in Verbindung mit der Berlin-Brandenburgischen Akademie der Wissenschaften Berlin: Das Deutsche Wörterbuch von Jacob und Wilhelm Grimm auf CD-ROM und im Internet(1998-2004), Online im WWW unter URL: dwb.uni-trier.de[13. 02. 2013] , s.v. „ haben 3)a “, S. 24. 8) Ebd., s.v. „besitzen 3) “, S. 3. 9) Ebd., s.v. „besitzen 5) “ , S. 4f. 10) Ebd., s.v. „gehören 9) d “, S. 18f. -57- 馬場崎 聡 美 時として,ある物に対する権利の主張,法律上の請求権を含意するということで ある。そしてまた,個人が借りている,または預かっている等の意味になり得る と言えよう。 例文 9b),17)は,車という物が「個人的な財産」という意味の根本に関わって いる。例文 18)は,レンタカーなどを借りている場合でも使われる動詞であるの で,個人の財産などとは違う可能性も出てくるのである。 4.おわりに これまでに述べた本論の主旨は,スイスの言語学者であるソシュールが提唱し たパラダイム(Paradigma)とシンタグマ(Syntagma)にも関係があると言えよ 13) う。 この重要な二分法は,全ての言語体系について適用することができる。パ ラダイムとは選択であり,シンタグマとは統合体を形成することである。この二 つはもちろん意味論に関係がある。意味論におけるパラダイムとは,さまざまな 語彙の選択と,それらの間に存在する意味の関連性を意味する。他方,意味論に おけるシンタグマとは,文を作る際にパラダイムにあるどの語彙が最も適切なの かという問題を取り扱うものである。最も条件に合ったものを選び出す際に選択 規則(制限)が作用する。例えば,haben, besitzen は最もありふれた言い回しだ が,verfügen über etwas という表現は「自分の気持ち次第で(好き勝手に)処理 する」といったように使用範囲が狭い。他には etwas zu eigen haben/machen「所 有する,わがものとする」などの洗練された言葉,いわゆる雅語があるが,日常 的な使用頻度は低く,さらに制限が加わる。さらに gehören の代わりとしては, jemandem zukommen「当然与えられる,帰属するのが当然である」jemandem zuteil werden「与えられる」があるが,gehören よりも厳しい制限が加えられる。類義 語が存在するということは,個々の単語に微妙な意味の差があるということであ り,それらの意味の差を正確に把握する必要がある。さらに深く言語を知るため に,統語論と意味論を同等に重要なベースとして取り扱う必要がある。 特に,言語能力(Kompetenz)と言語運用(Performanz)という区分はチョム スキーに由来する物であり,生成文法では大事な役割を果たす。詳しく言うと, 人間が言語能力を使って原則的にどのようなことができるのか,そして何を自由 11) Kunkel-Razum, Kathrin / Scholze-Stubenrecht, Werner / Wermke, Matthias(Hg.): Duden Deutsches Universalwörterbuch. 6. Aufl. Dudenverlag. Mannheim / Leipzig / Wien / Zürich 2006, S. 452 s.v. „Eigentum 1a)“. 12) Grimm(1998-2004)S.1 s.v. „Rechtsanspruch“. 13) Kortmann, Bernd: English Linguistics: Essentials Anglistik, Amerikanistik. Cornelsen Verlag. Berlin 2005, S. 192f. -58- 生成文法にのっとった名詞グループの依存関係文法 に処理できるのかというふうな内容である。チョムスキーの生成文法の中で,大 きな意義を示すのは,もちろん各言語間に共通する言語的普遍性(Universalien) 14) である 。全ての自然言語が持ち合わせている特徴である。私達は,言葉の意味 を理解するときに,まず言葉そのものの持つ意味と,世界知識に基づいて得る意 味の相互作用によって解釈を行う。母語使用者の持つ知識を使うことによって文 を作り出し,そして言葉の意味を理解するのである。 14) Herbst, Tomas/Stoll, Rita/Westermayr, Rudolf. Terminoligie der Sprachbeschreibung. Ein Lernwörterbuch für das Anglistikstudium. Düsseldorf. 1991, S. 256. Kortmann(2005)S. 21. -59- 馬場崎 聡 美 Nominale Valenz aufgrund von Generativer Grammatik Satomi BABASAKI Im Aufsatz geht es um verbale und nominale Valenztheorien, die geprüft werden, um Unterschiede oder Übereinstimmungen festzustellen. Die Nominalgruppe besteht aus dem nominalen Kern und obligatorischen Aktanten. Die obligatorischen Aktanten heißen „Adjunkte“, die vom nominalen Kern gefordert werden. Die Leerstellen des substantivischen Kerns werden von diesen sprachlichen Elementen besetzt. Die Nominalgruppe gilt als grammtisch korrekt, wenn alle Leerstellen gefüllt sind. Es gibt auch fakultative Aktanten, die nicht vom nominalen Kern abhängig sind. Wir sprechen hier von „Attributen“. Sommerfeldt und Schreiber meinen, dass auch solche fakultativen Aktanten manchmal von Semantik her obligatorisch sein können, sie können aber trotzdem eliminiert werden. In einem solchen Fall führt deren Eliminierung nicht zu einer ungrammatischen Phrase. Die beiden verstehen unter den Attributen die Aktualisierung einer anderen lexisch-semantischen Variante. Einige deutsche Sprachwissenschftler behandeln im Rahmen der Valenztheorie in erster Linie nur fakultative Aktanten. Hinzu kommt, dass jede Nominalgruppe auf einem Satz beruhen soll, deshalb lässt sich die Nominalgruppe in einen ganzen Satz umwandeln und mit der verbalen Valenz vergleichen – der sogenannte Prädikationstest. Deswegen sehe ich die Nominalgruppe als die Ableitung von Verbalphrasen an. Dazu ist Semantik der Verben auch nötig. Ich halte sie bei der Satzanalyse wichtig, weil alle Sätze von Bedeutungen der Verben abhängen. Bei der Generativen Grammatik von Chomsky betrachtet man eine Syntaxkomponente, die unsere Grammatikkompetenz vollständig umfasst. Sie ist, anders als die Lexikonkomponente, ein reines Regelsystem, mit dem die Wörter so gestaltet werden, dass die Einheit oder der Zusammenhang entsteht. Chomsky stellt ein Phrasenprinzip vor, und die Grundidee lautet, Wörter sind nicht als Wörter syntaktisch verwendungsfähig, sondern erst als Phrasen. Dann schließen zwei oder mehrere kleine Phrasen sich zu einer Einheit zusammen. Die grösste Konstituente ist der ganze Satz, und unter die Phrase fällt das einzelnes Wort als die kleinste Konstituente. Anhand der Grammatik der Phrasenstruktur unterscheide ich zwischen Adjunkten und Attributen. -60- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ ― 52団体の解説 ― 竹 岡 健 一 小論は,1945年以前のドイツにおける52のブッククラブについて,個別の解説 を試みたものである。具体的には,成立年,活動拠点,関連団体,会員数,活動 方法,思想傾向,読者層,ナチズムとのかかわりなどである。このうち,活動方 法については,会員資格(入会金,会費,購入義務) ,提供された図書の内容と装 丁,図書の選択方法,会員雑誌,その他の提供品目,伝統的な書籍販売との関係 などが含まれる。ただし,すべてのブッククラブについてこれらの項目が網羅的 に扱われているわけではなく,得られた情報の量に応じた記述となっているが, その多寡は各ブッククラブの重要性の差の現れでもある。 解説にあたり,52のブッククラブを大きく七つのグループに分け,それぞれの グループの中ではまず成立年順に,成立年が同じ場合にはアルファベット順に配 1 ) 列した。グループ分けは,先行文献における代表的な分類を考慮した上で , 「先 駆的ブッククラブ」, 「市民的な読者を持つブッククラブ」, 「特殊な読者を持つブッ ククラブ」,「宗教的ブッククラブ」,「保守的・国家主義的ブッククラブ」 , 「左翼 的労働者ブッククラブ」,「書籍業のブッククラブ」とした。なお,ブッククラブ によっては,複数のグループに該当する特色を持つものもあるが,そうした場合 は,最も重要な特色を優先して分類した。例えば,このことが最も顕著に表れて いるのは「プロテスタント図書同好会」であるが,宗教性よりも小売書籍販売と の協調という点を重視し, 「書籍業のブッククラブ」に分類した。また, 「カトリッ ク良書普及協会」と「アーダルベルト・シュティフター協会図書共同体」につい ては,ドイツ国外に設立されたものだが,ドイツにおけるブッククラブに関連す る先行文献で言及されていることを踏まえ,小論でも取り上げた。 その他,ブッククラブ全体の定義,歴史的発展,伝統的な書籍販売との違いな 2 ) どについては,別稿で詳しく扱っているので ,ここで改めて概括的な紹介をす ることは省略する。また,人名,書名,雑誌名,団体名等については,把握し得 た範囲で,初出にのみ原語をあげた。 1) Vgl. bes. Scholl 1994; Melis 2002; Melis 2012. 2) 拙論 2011年 ; 拙論 2014年10月刊行予定参照。 -61- 竹 岡 健 一 ブッククラブはわが国では普及しなかったため,馴染みが薄いが,小論を通じ て,欧米では概ね1920年代から急速に発展を遂げ,同時代の読書文化に大きな影 響を及ぼしたこの書籍販売形式に関する理解を深めて頂ければ幸いである。 1.先駆的ブッククラブ(Wegbreitende Buchgemeinschaften) (1) カトリック良書普及協会(Verein zur Verbreitung guter katholischer Bücher) 「カトリック良書普及協会」は,1828年に設立されたウィーンの「メキタル派」 (Mechitaristen)の書籍販売の支部として,1829年に設立されたもので,ブックク 3 ) ラブの「先駆者」 とみなされている。会員には,年間3グルデンの予約購読価格 で,およそ全紙20枚分(320ページ)の本が6冊提供された。協会の活動は,1849 年まで継続した。 (2)シュトゥットガルト文芸協会(Der Literarische Verein in Stuttgart) 「シュトゥットガルト文芸協会」は,1839年に設立され,学問的な形式を取った 4 ) 「最初のブッククラブ」 として際立っていた。 (3) ドイツ文学のための一般協会(Allgemeiner Verein für deutsche Literatur) 「ドイツ文学のための一般協会」は,1872年に,ベルリンに設立され, 「最も初 5 ) 期の有名なドイツのブッククラブ」 とみなされる。会費は年間30マルクで, 「傑 6 ) 出した,人気のある作家の筆になる七つの作品」 を提供することが約束された。 また,小売店と協力して活動したが,伝統的な書籍販売から激しく攻撃された。 (4)娯楽と知識の文庫(Bibliothek der Unterhaltung und des Wissens) 「娯楽と知識の文庫」は,1876年に,シュトゥットガルトのヘルマン・シェーン 7 ) ライン(Hermann Schönlein)のもとで設立され, 「最も古いブッククラブ」 との 指摘がなされている。 四週間毎に,256頁のクロース装の本が,最初は0,5マルクで,後に0,75マルクで 提供され,販売方法としては行商が大きなウエートを占めた。これは,雑誌,百 科事典,および比較的大部の専門書などの場合に1970年頃まで見られた出張訪問 販売とよく似た形式であるが,その後のブッククラブの発展にとって重要な意味 3) Henze 1987, S. 592. 4) Ebenda. 5) Schulz 1990, S. 60. 6) Zitiert nach Henze, 1987, S. 593. 7) Bigler 1975, S. 16. -62- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 8 ) を持ったとされる。 シェーンライン自身は,自らが1865年に刊行した娯楽と教育 のためのイラスト入り月刊誌『万人のための本』(Das Buch für alle)の販売にお いて,行商販売の十分な経験を積んでいた。 提供された本の 75 パーセントは広い意味での娯楽文学(小説・物語)であり, 歴史的な本や自然科学的な本はごくわずかであった。また,1892年に刊行された 広告では,ブッククラブの教育的な意図や個人が蔵書を持つ機会の提供といった, ブッククラブ全般に該当する目標設定にも触れられている。 私たちは,私たちのプログラムのこの革新でもって,これまで価格のため にそれが許されなかった沢山の本の愛好家に,教育と娯楽を同時に提供する 大変信頼のおける個人蔵書をつくる機会を保証し,ぜひとも支援したいと願っ 9 ) ています。 「娯楽と知識の文庫」は,1888年に「クレーナー兄弟出版社」 (Verlag der Brüder Kröner)に売却され,その一年後,クレーナーとシュペーマン(Spemann)によっ て共同で設立された「ドイツ出版団体連合」 (Union Deutsche Verlagsgesellschaft) へ移った。その後,第一次世界大戦を乗り越え,さらにナチス政権時代にも,政 治的なテーマを扱わなかったため,活動を妨げられることがなく,1934 年には, 23,000 部の部数を数えた。だが,会員数が増加しなかったため,経済的な理由か ら,1935年に「ヴォーバハ出版社」 (Vobach Verlag)に売られた。しかし,1937年 9月1日には, 「ドイツ出版団体連合」の初期の二人の職務外協力者ゲオルク・ フォン・ホルツブリンク(Georg von Holtzbrinck)とヴィルヘルム・シュレッサー (Wilhelm Schlösser)が,その年の初めに二人で設立した「ドイツ出版配送部」 (Deutsche Verlags-Expedition)のために買戻し,部数を毎月32,000部に高めた。こ の時期には,クロース装で,多色刷りのカバーのついた本は,価格が 1,55 マルク とな っ た。 さらに,1940 年には,「 ドイツ国民図書出版社 」(Verlag Deutsche Volksbücher GmbH)の多数の株を獲得することで,独自の図書出版社を備えるこ ともできた。だが,1944年には,戦争の影響で活動を中止した。 (5)愛書家協会(Verein der Bücherfreunde) 「愛書家協会」は, 「アルフレート・シャル出版書籍販売」 (Verlagsbuchhandlung Alfred Schall)によって,1891年にベルリンに設立され,三年後にはすでに12,000 8) Vgl. Oeltze 1977, S. 411. 9) Zitiert nach ebenda. -63- 竹 岡 健 一 10) 人の会員を獲得した。ドイツにおける「最初のブッククラブ」 ,「本来それとと 11) もにドイツにおけるブッククラブの歴史が始まる」 などと評される一方,ブッ ククラブの特色として「ライセンス版」の刊行を重視する立場からは, 「先駆者に 12) 過ぎない」 ともみなされている。年間8巻の本の直接の予約購読が義務づけら れ,会員価格で割安に購入できたが,選択の可能性はなかった。 労働者教育,ないしは国民教育の理念に基づく「愛書家協会」の計画の元には, 13) 「知識は力」,「本を国民に」(„Wissen ist Macht“, „Das Buch dem Volke“) という 原則があり,経済的側面のみならず,知識と教養にもはっきりと表れている社会 的乖離を橋渡ししようとした。 ドイツの読者を貸出図書館から自分の書棚に慣れさせること,とりわけま た信頼のおけるよい作品からなる自分の小さな蔵書をできるだけ安いコスト で備えることを可能にすること。古典作家の作品のみならず同時代の詩人と 作家の作品を知り,身の回りに置くことが,私たちの国民の ― 本を買うと いう「贅沢」が許される人たちだけでなく ― 「欲求」とならねばならない。 14) よい本は最良の友なのだ。 提供された本には,国民的古典作家の作品や同時代のドイツ文学の傑出した作 品のほか,実用的な著作も見られたが,プログラムは広がりや変化に乏しかった。 なお,このブッククラブへの申し込みは,「アルフレート・シャル出版書籍販売」 でも,一般の書籍販売でも可能だった。 (6)自然愛好家協会コスモス(Kosmos, Gesellschaft der Naturfreunde) 「自然愛好家協会コスモス」は,1904年,シュトゥットガルトの「フランク出版 15) 商店」 (Franckh‘sche Verlagshandlung)によって, 「自然科学的研究の急激な発展」 を顧慮して設立された。 (7)読書向上文庫(Emporlese-Bibliothek) 「読書向上文庫」は,1908 年に,ベルリンの「シェール出版社」 (Verlagshaus 10) Rüppel 1964, S. 2. 11) Strauß 1961, S. 264. Dazu vgl. auch Oeltze 1977, S. 414. 12) Vgl. DuMont 1961, S. 58. 13) Oeltze 1977, S. 414. 14) Zitiert nach ebenda. 15) Henze 1987, S. 593. -64- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ Scherl)の委託を受けて,フーゴー・シュトルム(Hugo Storm)が,ハイリヒ・ コンラート(Heinrich Conrad)という匿名で,労働者教育のために立てた計画で あり,会員は,年間12冊の本を入手し, 「最初は娯楽文学だが,その後には程度の 16) 高い作品が続く」 というものであった。だが,実現に向かわなかったため,彼 はそれを,1912 年7月 30 日に,ミュンヒェンの「ゲオルク・ミュラー出版社」 (Verlag Georg Müller ,後の「ランゲン=ミュラー出版社」 〔Langen-Müller Verlag〕) に提供し,ミュラーは 12,000 マルクで買い取った。しかし,結局,実現されるこ とはなかった。 こうしてアイデアに留まったものの,「読書向上文庫」は, 「国民教育の理念と 17) 調達可能な民衆本への要求が合流した」 点で重要であり,一つのブッククラブ として言及に値する。 2.市民的な読者を持つブッククラブ (Buchgemeinschaften mit bürgerlichem Lesepublikum) (1)愛書家国民連合(Volksverband der Bücherfreunde) 「愛書家国民連合」は,1919年1月6日,「ドイツ国民の広い層,特に苦労して 戦う中間層に,世界的なドイツ文学の最良の作品を,文学的にも製本技術的にも 18) 模範的な版で,安い値段で手に入るようにする」 ことを目的として,もっぱら 同連合の本の製造・販売に携わる「ヴェークヴァイザー出版社」 (Wegweiser Verlag GmbH)とともにベルリンに設立され,ワイマール共和国時代の最大規模のブッ ククラブへと発展した。会員数は1931年までにおよそ750,000人かそれ以上に達し た。主な設立者は,フランツ・グラーフ・フォン・マツシュカ博士(Dr. Franz Graf von Matuschka),アウグスト・ラッセン(August Lassen) ,およびハンス・オッ センバハ(Hans Ossenbach)であった。 第一次世界大戦終結後間もない1919年という時期は,新しい出版社の設立には 不向きだったと思われるかも知れない。だが,政治的混乱と国民の大部分の荒廃 した経済的状況は,必ずしも文化生活に損害を与えておらず,人々は空腹を抱え ているだけでなく,本にも飢えていた。ただ,多くの人々は,彼らを取り巻く混 沌と価値観の変化の中で,読むべき本がわからなかったのだ。 「愛書家国民連合」 は,設立の翌年,まさにそのような人々に呼びかけるべく,100ページを超える宣 伝冊子を,無料で大量に配布した。それは,マックス・ハルベ(Max Halbe),ヘ ルマン・ズーダーマン(Hermann Sudermann),テオドーア・カップシュタイン 16) Bigler 1975, S. 19. 17) Ebenda. 18) Zitiert nach Zickfeldt 1927, S. 59. -65- 竹 岡 健 一 (Theodor Kappstein),フリードリヒ・カイスラー(Friedrich Kayßler) ,オットー・ フラーケ(Otto Flake),ハンス・オッセンバハ等の文学作品と,アルベルト・ゼ ルゲル(Albert Soergel)の論考『ファウストと私たち』 (Faust und wir) ,および 国民教育というテーマに関する幾つかの論考を含んでおり,巻末には,連合の会 則と入会申込用紙,および宣伝冊子の送付先の連絡依頼が付されていた。冊子の 巻頭に置かれた綱領的論文では,「民族全体の自己責任」と「精神の宝物の民主 化」が話題にされ,次のように述べられた。 教養の社会化という大きな活動は,よい著作の普及とともに始まる。それ は,安くて,しかも美しく,外面的な特性も変化させながら刊行されるべき 19) 本の創造を,無条件に要求する。蔵書の所有の思想が断念されてはならない。 ここで力説されている,本の所有と,単なる廉価本ではない,装丁の面でも優 れた本に対する要請は,ワイマール共和国時代の多くのブッククラブに共通する ものである。 「愛書家国民連合」では,当初, 「義務の巻」,つまり購入が義務となる本だけを 刊行し,年間 14,4 マルクの予約購読料に対して,4巻の年間シリーズが,三か月 に1巻ずつ引き渡された。単純に計算すると1巻が3,6マルクとなるが,この価格 は,同じ価値を持つ本の小売書籍販売での値段よりも20-30パーセント安かった。 その後,会員からの要望を受けて,1920 年代中期より,「義務の巻」に追加して 「選択の巻」が,つまり会員が自由に選んで購入できる「選択シリーズ」が導入さ れた。また, 「選択の巻」については,各巻を10冊まで購入することができた。さ らに,1930年代からは, 「義務の巻」が廃止され,三か月毎に購入する巻を,会員 が連合のすべての作品から自由に選べるようになったが,その代わりに,会員は, 三か月毎に最低2,9マルク分の本を購入しなければならなかった。そのさい,自ら 本の選択を行わない会員には,連合が提案する巻が割り当てられた。 「選択の巻」 の刊行数は,おおよそ5,000部から10,000部だったが,必要な場合には急いで増刷 できるよう,組み版は数か月間残しておかれた。また,以上の本と並んで,会員 には, 『<愛書家国民連合>の季刊誌』(Vierteljahrsblätter des „V. d. B.“)や『愛書 家国民連合』(Volksverband der Bücherfreunde)といった宣伝冊子が無料で配布さ れた。さらに,本以外に,ファクシミリや署名入りのオリジナルのエッチング ( 『名版画』シリーズ),レコード,地球儀(16,5マルク)なども提供された。 本の選択は連合の会員から成る委員会によってなされ,主に実用書,科学的な 19) Werbebroschüre des Volksverbands der Bücherfreunde(1920), S. 2. Zitiert nach Scholl 1994, S. 62. -66- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 本,娯楽文学的な本,古典作家の本,旅行記といったジャンルが扱われたが,提 供される本の価格や装丁は様々であり,そこには,一般大衆から愛書家まで,購 読者の多様なニーズに応えようとする意図があった。そのことは,例えば1931年 から1932年にかけて刊行された本によく表れている。アクチュアルな意味を持つ 歴史学,国家学,社会学のテーマを扱った,クロース装で糸綴じの「ヴェークヴァ イザー図書」(Wegweiserbücher)390 冊は,0,4 マルクだった。それに対し,背革 装の「2,9マルク図書」(2,90RM-Bücher)は,「愛書家国民連合の文学的・書籍技 術的達成能力」を最もよく表すもので, 「世界の書籍市場全体において,芸術的に 20) もっと美しく,素材がもっと気高く,価格がもっと安い本はない」 とされた。こ のほかに,2巻の『百科事典』(36マルク)や『クラナッハ聖書』 (39マルク)と いった,非常に高価な本も提供された。 「愛書家国民連合」において,本を選択するさいに最も重要な基準とされたの は,その内容の中立性であった。例えば,1925年の宣伝冊子では,次のように言 われている。 設立時期から今日まで,愛書家国民連合は,党派を越え,あらゆる政治的・ 宗派的な考えの相違を越えて,ゲーテの意味での人間的なドイツ文化の精神 に奉仕し,ドイツ文化の再生を今日の時代の最も重要な課題の一つと認める 21) 人々を周囲に集めるという原則に忠実であり続けた。 22) このような中立性,すなわち「政治的・宗派的に偏りのない領域への後退」 は,政治的・経済的混乱の時代であったからこそ,多くの人々から受け入れられ た。「愛書家国民連合」は, 「汚れた政治」に「美」を, 「実験的な試み」に「伝統 的な価値」を, 「屈辱的なヴェルサイユ条約」に「ドイツ文学の世界的重要性」を, 23) 「仮綴じの日々の著作」に「綴じられた不朽の作品」を対置したのである。 だが, そうした態度に対しては,疑問も投げかけられた。例えば,プロテスタント系の ブッククラブからは, 「民族と結びついた宗教的な深さの代わりに美的な関心だけ が支配するところでは,本当の,真の国民教育は,この書籍活動の目的や結果と 24) なり得ない」(下線は原文に拠る) と批判され,また社会主義的なブッククラブ 20) [ANON]: Zwölf Jahre V. d. B. Im Zeichen Goethes. Jahrbuch 1931/1932. Berlin u. a.: Volksverband der Bücherfreunde, Wegweiser Verlag,[circa 1932], S. 60. Zitiert nach Melis 2002, S. 66f. : Was bietet der Volksverband der Bücherfreunde seinen vielen Hunderttausenden von 21) [ANON] Mitgliedern?[Werbebroschüre] [Berlin, circa 1925], S. 1. Zitiert nach ebenda, S. 67. 22) Scholl 1987, S. 48. 23) Vgl. Ebenda. -67- 竹 岡 健 一 25) からは,フランス国民への復讐心を煽る「軍事的雪辱戦プロパガンダ」 と揶揄 された。しかし,いずれにせよ,実際に提供された本に目を向けたとき,同連合 のプログラムの保守的な性格は否定しがたいようである。というのも,そこには, 国家に批判的な作家や社会主義的な作家の作品は見られず,概ね「保守的」 , 「市 民的」,ないしは「伝統的」な作家の作品に限定されているからである。具多的に は,ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe),フ リードリヒ・フォン・シラー(Friedrich von Schiller) ,ハインリヒ・フォン・クラ イスト(Heinrich von Kleist) ,ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare) といった古典作家,アーダルベルト・シュティフター(Adarbert Stifter)の『習作 集』 (Studien)とハンス・クリスティアン・アンデルセン(Hans Christian Andersen) の童話,ゾフィー・ヘヒシュテッター(Sophie Hoechstetter) ,ジグリット・ウン セット(Sigrid Undset) ,ヴォルフガング・ゲッツ(Wolfgang Goetz)といった同時 代作家の娯楽文学,エードゥアルト・フォン・ハルトマン(Eduard von Hartmann) の『道徳的意識の現象学』 (Phänomenologie des sittlichen Bewusstseins)やアレクサ ンダー・フォン・グライヒェン=ルスヴルム(Alexander von Gleichen-Rußwurm) の『諸民族の運命 : 舞台とその強制』 (Schicksale der Völker: der Schauplatz und sein Zwang)のような実用書,さらにはリヒャルト・ミュラー=フライエンフェルス (Richard Müller-Freienfels)の『日常の心 : すべての人のための心理学』 (Die Seele des Alltags: eine Psychologie für jedermann)やアルミン・T. ヴェーゲナー(Armin T. Wegener)の旅行記などである。こうした意味で, 「愛書家国民連合は,たとえ特 定の政治的党派の発案に基づいていないとしても, 〔中略〕ドイツ国家的なグルー 26) プに近かった」 とみなされているのである。ただし, 「愛書家国民連合」は,特 定の政党に奉仕したり,特定の文学的方向性に結びついたりすることはなく,ま さにそのことによって,ナチス時代にも活動が認められた。 「愛書家国民連合」は,後述する「ドイツ図書共同体」と同様,もっぱら「営利 的な」 (erwerbswirtschaftlich)企業であったが,両企業に共通する特色として,公 益に資する文化的共同体というイメージの喚起があげられる。両企業は,例えば, 公的な立場にある人物からの推薦の言葉を公表したり,「 ドイツ青年作家賞 」 (Jugendpreis deutscher Erzähler)を設立して文芸界の発展に貢献したり,公共図 書館や国境・外国図書館のために本を寄付したりして,公益性を世間に訴えた。 24) Beckmann: Volksverband der Bücherfreunde. In: Eckart. Blätter für evangelische Geisteskultur. 3 (1926/ 27)H. 4, S. 136f. Zitiert nach Scholl 1994, S. 65. : Der ‚Volksverband der Bücherfreunde‘ treibt Revanche-Propaganda! In: Der Bücherkreis. 1 25)[ANON] (1925)H. 5, S. 18. 26) DuMont 1961, S. 60. -68- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ また, 「予約購読者」,予約購読の「諸条件」,および「企業」を,それぞれ「会 員」,「規約」,「連合」と呼び換えることは,組織に非営利的な共同体のイメージ を付与し,ブッククラブへの会員の結びつきを強固なものとした。さらに,この ようなイメージ戦略と並んで,プレミア・システムを用いた宣伝も,会員数の増 加に効果的だった。つまり,会員による新会員の勧誘が奨励され,獲得した会員 数に応じた特典が提供されたのである。例えば,先にあげた地球儀は,販売され るだけでなく,4人の新会員獲得と引き換えに進呈される景品ともなっていた。 (2)ドイツ文学愛好家協会(Gesellschaft Deutscher Literaturfreunde) 「ドイツ文学愛好者協会」は,1922年以前にベルリンに設立され,ルードルフ・ バウムバハ(Rudolf Baumbach)の『偽りの金貨』 (Truggold) ,ハインリヒ・フェー デラー (Heinrich Federer)の『ならず者以上のならず者』 (Spitzbube über Spitzbube) , エジプト学者で作家のゲオルク・モーリッツ・エーバース(Georg Moritz Ebers) の『ホモー・スム(私は人間である)』 (Homo sum)といった作品や,雑誌『宝物 探索者』(Der Schatzgräber)などを提供した。 (3)図書同好会(Die Buchgemeinde) 「図書愛好会」は,1923年に, 「フィッシャー印刷社」 (Fischer-Druck-GmbH)に よって,ベルリンに設立され,1924年7月の通貨安定後に,世の中に姿を現した。 支配人はエリアス・フィッシャー博士(Dr. Elias Fischer)とアンナ・リューデケ (Anna Lüdeke)だったが,前者は印刷社の支配人であり,所有者でもあった。ま た,同印刷社は,『宣伝シュピーゲル』(Reklame-Spiegel),『スキー』(Der weisse Sport) , 『リュージュ』(Der deutsche Rodelsport)といった雑誌を刊行する出版社, 印刷所,製本所,および図書通信販売を包含していた。その後, 「図書同好会」は, 1926 年に,「レンネルト印刷所」(Buchdruckerei Rennert)のものとなり,その所 有者ハンス・レンネルト(Hans Rennert)とパウル・レンネルト(Paul Rennet) が支配人となった。 当初は,毎月の会費が2マルクで年間6冊の本が提供されたが,後に 1,75 マル クに引き下げられた。また,1929年9月からは,毎月の会費が3マルクで年間12 冊の本が提供される形式も追加された。さらに,年間図書と並んで,3マルクで 「選択シリーズ」から多くの本を無制限に購入できるようになり, 「義務の巻」と の交換も可能となったが,選択の幅は小さかった。本は,上質の紙に印刷され, 上品かつ念入りに製本され,革の背表紙と金の打ち出し模様を備え,高価な図書 シリーズの印象を与えた。(ただし,装丁については,実際には,質的・美的な観 27) 点からしてかなり貧弱であったとの見方もなされている。 ) -69- 竹 岡 健 一 主に娯楽文学的作品と通俗科学的実用書が提供されたが,作品の選択に統一性 は見られず,古典的なドイツ文学と外国文学を中心に,様々な文学時代のタイト ルが並存した。例えば,テオドーア・フォンターネ(Theodor Fontane) ,ヴィクト ル・ユゴー(Victor Hugo) ,マーク・トウェーン(Mark Twain) ,レフ・トルストイ (Leo Tolstoi) ,グスタフ・フライターク(Gustav Freytag) ,リカルダ・フーフ(Ricarda Huch) ,マクシム・ゴーリキー(Maxim Gorki) ,チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)のような作家である。また,雑誌『図書同好会 愛書家のための雑誌』 (Die Buchgemeinde. Zeitschrift für Bücherfreunde)が,無料で年間12冊配布された。 思想傾向は中立的であり, 「国民のすべてのグループを包括し,すべてのグルー プに奉仕する組織となり,党派の論争,宗教的対立,職業上の相違から離れて, 28) 私たちの民族のすべての精神的な力を結集する」 ことを目標とした。だが,全 体として文学的な評価の定まった売れ行きのよい作品を提供したという意味で, ターゲットとする会員層は,「国民のすべてのグループ」というよりも,むしろ 29) 「市民的な読者層」 であった。 (4)ドイツ国民文庫(Deutsche Volksbücherei) 「ドイツ国民文庫」は,1923年にベルリンに設立され,同地の「ペーター・J. エ スターガールト出版社」(Peter J. Oestergaard Verlag)と密接なつながりを持って いた。当初の宣伝では,申込み,会費の納入,および刊行物の引き渡しを一般の 書籍販売を通じて行うとの予告がなされたが,小売店の協力が得られず,実施さ れなかった。会費は毎月2マルクで,1924 年4月から,二か月毎に「義務の巻」 が提供され,その後,「選択の巻」も提供された。 「言葉と文書で啓蒙しつつ,教育しつつ,楽しませつつ影響を及ぼし,堅実な知 30) 識と芸術を国民の幅広いグループに運ぶことを自らの課題」 とする「ドイツ国 31) 民文庫」の重点は,教養市民的な読者のための「国民的・学問的著作」 に置か れた。具体的には,地誌学,民族学,自然科学,技術,スポーツ,身体文化など である。それらと並んで,より古い時代と同時代の娯楽文学も提供され,小説と 巨匠の作品は金の打ち出し模様のついた背革装で装丁されたが,これらは,実用 書に方向づけられたプログラムの中では例外をなしていた。提供された本の質を 27) Vgl. Scholl 1987, S. 51. 28) Die Buchgemeinde. Zeitschrift für Bücherfreunde. 1(1924/1925)H. 2,[2. Umschlagseite]. Zitiert nach Scholl 1994, S. 67. 29) Melis 2002, S. 84. 30) Satzungen der Deutschen Volksbücherei. In: Welt und Wissen. Unterhaltende und belehrende illustrierte Zeitschrift. 13(1924)H. 11,[o. S.] . Zitiert nach Melis 2012, S, 562. . Zitiert nach ebenda. 31) Werbeseiten in ebenda 14(1925)H. 8,[o. S.] -70- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 32) 保証する「名誉委員会と活動委員会」 のメンバーも,作家や文学研究者によっ てではなく,もっぱら他の職業の専門家によって占められていた。具体的には, 経済評議員,プロイセン主要農業委員会委員長,農業経済学教授,造園教育・研 究所所長,動物園園長,合唱協会会長,督学官,校長協会会長といった肩書を持 つ人々である。 「ドイツ国民文庫」で提供された本としては,例えば,ベルトルト・シトロフ 『自然民族の愛と結婚』(Berthold Schidlof: Liebe und Ehe bei den Naturvölkern),ラ インホルト・ゲルリンク『身体と美容の手入れ』 (Reinhold Gerling: Körper- und Schönheitspflege), 『ライン伝説集』 (Rheinisches Sagenbuch),エードゥアルト・メー リケ『物語集』 (Eduard Mörike: Erzählungen) ,フリードリヒ・テオドール・フィッ シャー『どなたかも』 (Friedrich Theodor Vischer: Auch Einer) ,ヨーゼフ・ヴィク ト ー ル・ フ ォ ン・ シ ェ ッ フ ェ ル『 エ ッ ケハルト 』 (Josepf Victor von Scheffel: Ekkehard)などがあげられる。また, 「外国の名作」シリーズには,チャールズ・ ディケンズ『互いの友』 (Charles Dickens: Unser gemeinsamer Bekannter) ,ポール・ フェヴァル『せむし』 (Paul Féval: Der Bucklige) ,グザヴィエ・ド・モンテパン『黄 金閣下』 (Xavier de Montepin: Seine Majestät das Geld)などが含まれていた。また, 33) 「文学的な価値の認められた手に汗にぎる娯楽小説」 (強調は原文に拠る) とし て, ハンス・ フリ ー ドリヒ『 運命の下の家 』 (Hans Friedrich: Das Haus unterm Schicksal) ,クララ・ズーダーマン『幸せを通り過ぎて』 (Clara Sudermann: Am Glück vorbei) ,パウル・ブルク『そこに故郷がある』 (Paul Burg: Da ist Heimat) ,ハンス・ ラント『国王の里子』 (Hans Land: Des Königs Pflegesohn) ,ハインツ・ヴェルテン 『愉快な王子』 (Heinz Welten: Der lustige Prinz) ,アルフレート・シロカウアー『領 主バイロン』 (Alfred Schirokauer: Lord Byron)などがあった。 雑誌『世界と知識 娯楽的・教訓的絵入り雑誌』 (Welt und Wissen. Unterhaltende und belehrende illustrierte Zeitschrift)も,提供された。この雑誌は, 「ドイツ国民文 庫」の純粋な会員雑誌ではなく,ペーター・J. エスターガールト出版社から 1912 年以来毎月刊行されていたものだったが,会員の教育を目的とする「ドイツ国民 文庫」の目標に合致した。というのも,それは, 「人間の知識の進歩のために戦う 専門の学者と,その職業活動と並行して教養を広め深めようと求めるすべての人々 の間の結合物」であり,「多数の複写,写真,信頼できるスケッチに支えられて, 毎月の号で,通俗的な論文,自然科学の研究領域の短い報告,地誌学と民俗学, 34) 文化史と技術,並びに職業と家庭に必要な示唆と助言を刊行した」 からである。 32) Scholl 1994, S. 67. 33) Zitiert nach Rosin 1926, S. 14. -71- 竹 岡 健 一 例えば,「細菌を恐れるべきか」(Soll man sich vor Bazillen fürchten?) , 「いかにし て読心術者となるか」(Wie man Gedankenleser werden kann) , 「オッフェンバハの ドイツ皮革博物館」 (Das Deutsche Ledermuseum in Offenbach) , 「アフリカ内地の人 口過剰」 (Übervölkerung in Innerafrika)といったテーマである。また,本と雑誌以 外に,会員には, 「ドイツ国民文庫」によって催されたスライド講演が50パーセン ト割引で提供され,現代風の講演,芸術の夕べ,本棚,傷害保険,死亡保険など も提供された。 (5)ドイツ図書共同体(Deutsche Buch-Gemeinschaft) 「ドイツ図書共同体」は,1924年4月12日に,有限会社としてベルリンに設立さ れた。設立にあたって資本を提供した印刷社「A. ザイデル合資会社」(A. Seydel & Co.)の所有者であるパウル・レオンハルト(Paul Leonhard)が支配人となり, 文学面での指導者は書籍販売業者フリードリヒ・ポッセケル(Friedrich Possekel) が務め,広報宣伝活動にはパウル・ゲツラフ(Paul Guetzlaff)が協力した。 「ドイツ図書共同体」は,世の中にアピールするために様々なアイデアを駆使し たが,会社名がすでにその一つであった。つまり, 「ドイツ」は「公的」な印象を 与え, 「図書」は「教養」,「文化」,「伝統」といったものを連想させ,「共同体」 は, 「団体」や「クラブ」や「連合」といった言葉以上に, 「連帯感」のイメージ を喚起した。これによって,自らを営利的な企業ではなく,国民が家庭に本を備 えることを支援する公的な団体であるかのように見せかけたことは,会員数の増 加に大きく結びついた。その結果,「ドイツ図書共同体」は 1929 年までにおよそ 400,000 人の会員を集め,1945 年以前のドイツにおいて, 「愛書家国民連合」に次 ぐ巨大ブッククラブとなった。 「ドイツ図書共同体」の発展に貢献したもう一つのアイデアは, 「義務の巻」の 廃止と会員資格の段階分けにあった。「義務の巻」をまったく設けず,本の選択を 一切会員に委ねることは,個々のタイトルの厳密な刊行数を前もって計算できな いため,経営上のリスクを高めたが,少なくとも一定期間に一定額の本を購入す る義務は残されていたし,継続的な本の販売の中で会員の嗜好を把握し,会員の 好みに合った本を提供することで補うことも可能であった。そしてなによりも, 自由な選択の可能性そのものが,会員獲得に有利に働いた。会員資格は,三か月 毎の会費と提供される本の冊数に応じて,三つに分けられていた。すなわち,グ ループ A は3,9マルクで1冊,グループ B は7,4マルクで2冊,グループ C は10,8 34) Peter J. Oestergaard: Welt und Wissen. In: Welt und Wissen. Unterhaltende und belehrende illustrierte Zeitschrift. 13(1924)H. 3,[o. S.] . Zitiert nach Melis 2002, S. 86. -72- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ マルクで3冊である。選択可能な本のタイトルは,1925年末に100冊,1928年末に 230冊,1933年中期には450冊であり,各巻の刊行数は,通常6,000-15,000部であっ た。さらに,これら三か月毎に購入される本以外にも,1,5マルクの安価なシリー ズ「小さな叢書・宝石箱」 (Kleinbuchreihe Schatulle)と,4マルクのシリーズ「テ ンペル・古典作家」(Tempel-Klassiker)が提供された。後者は,1925 年に年にラ イプツィヒの「テンペル出版社」(Tempel-Verlag)から権利を獲得したものであ り,著名なブックデザイナーであるエーミール・ルドルフ・ヴァイス(Emil Rudolf Weiss)によってデザインされたクロース装の本で,ドイツの古典やドイツ語訳の 外国語の古典が刊行された。 一般に,ブッククラブの本の購入が勧められる一つの根拠は,文学顧問会や名 誉委員会などによって十分な質を備えた本が選ばれ,読む価値が保証されたこと にあったが,ドイツ図書共同体では,とりわけハンス・W. フィッシャー(Hans W. Fischer) ,ユーリウス・バープ(Julius Bab) ,ハンス・マルティン・エルスター (Hanns Martin Elster)が文学顧問を務めた。これらの人物は,様々な一般的な文 学的定期刊行物への協力の中で, 「ドイツ図書共同体」の理念とプログラムを世の 中に知らせることができた。また,エルスナーは,ドイツ作家保護連盟とドイツ・ ペンクラブの会長として,大変多くの作家とのコンタクトを「ドイツ図書共同体」 のために利用することもできた。 これらの文学顧問によって選ばれた「ドイツ図書共同体」の本のプログラムは, 市民的な読者を主な対象としており,およそ7割が文学作品で,特定の世界観的 方向性を持たず,概ね確立された教養のカノンを範としていた。例えば,ドイツ 語圏の作家では,ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ,E. T. A. ホフマン(E. T. A. Hoffmann) ,フリードリヒ・ヘッベル(Friedrich Hebbel) ,テオドーア・シュ トルム(Theodor Storm) ,ヴィルヘルム・ハウフ(Wilhelm Hauff) ,テオドーア・ フォンターネ,ゴットフリート・ケラー(Gottfried Keller) ,グスタフ・フライター ク,ヴィルヘルム・ラーベ(Wilhelm Raabe) ,ゲルハルト・ハウプトマン(Gerhart Hauptmann) ,ヤーコプ・シャフナー(Jakob Schaffner) ,リカルダ・フーフ,ヘル マン・シュテーア(Hermann Stehr) ,トーマス・マン(Thomas Mann) ,ハインリ ヒ・マン(Heinrich Mann) ,カール・ハウプトマン(Carl Hauptmann) ,外国の作 家では,ハンス・クリスティアン・アンデルセン,チャールズ・ディケンズ,フョー ドル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(Fjodor Michailowitsch Dostojewski) , ギュスターヴ・フロベール(Gustave Flaubert) ,ロマン・ロラン(Romain Rolland) , イエンス・ペーター・ヤコブセン(Jens Peter Jacobsen) ,ジグリット・ウンセット などであった。このほか,オットー・フラーケ,ハンス・フランク(Hans Franck), ヘルベルト・オイレンベルク(Herbert Eulenberg)といった同時代の作家の作品 -73- 竹 岡 健 一 や,様々な分野の実用書と専門書,青少年向けの図書,旅行記,博物誌も提供さ れた。例えば, 『ワインの本』(Das Buch vom Wein), 『食道楽の本』 (Das Buch der Tafelfreuden),『不滅の響き 最も美しいオペラとオペレッタ』 (Unvergängliche Klänge. Die schönsten Opern und Operetten), 『カール・シュピッツヴェークのスケッ チ』(Zeichnungen von Chal Spitzweg)といったものである。また, 「ドイツ図書共 同体」は,ブッククラブとして初めて,一般の出版社との共同生産を行った。す なわち,1937 年に,マーガレット・ミッチェル(Margaret Mitchell)の『風とと もに去りぬ』 (Vom Winde verweht)を,ヘンリー・ゴーヴェルツ出版社(Verlag von Henry Goverts)と共同で刊行したのである。 「ドイツ図書共同体」は,「愛書家的関心を考慮する,あるいはまず美しい本に 35) 対する理解を目覚めさせる企業」 を自認しており,クロース装や背革装といっ た本の装丁も重視した。また,本以外に,カレンダー,地球儀,ブックカバー, レターセットと鉛筆,並びに割引の演劇チケットやツアー旅行なども提供した。 ただし, 「ドイツ図書共同体」の成功は,本を初めとする提供品にのみ基づくの でなく, 「愛書家国民連合」の項目でも触れたような,公益に資する団体のイメー ジを喚起する宣伝,プレミア・システムによる勧誘,および雑誌の提供などにも 基づいていた。このうち,宣伝に関しては,帝国内務省からの推薦を得て,国家 の支援を受けた事業であるかのような印象を喚起することに成功したことがよく 36) 知られている。 雑誌については, 初めは『 ツ ァ イト ゥ ングスブ ー フ 』(Das Zeitungsbuch)が,1926年の途中からは『読書の時間』(Die Lesestunde)が,二週 間毎に刊行されて,会員に無料で配布され,それによって,会員は本のプログラ ムを始めとする様々な情報を与えられた。例えば,会員数250,000人達成の記念号 となった1925年9月15日の『ツァイトゥングスブーフ』では,冒頭に伝統的な書 籍販売とブッククラブの関係を扱った論考と著名な作家や公的団体からの賛辞が 掲げられ,続いて,ヴィルヘルム・シェーファー(Wilhelm Schäfer) ,パウル・エ ルンスト(Paul Ernst) ,ブルーノ・フランク(Bruno Frank) ,ヘルベルト・オイレ ンベルク,ヴィルヘルム・フォン・ショルツ(Wilhelm von Scholz) ,ヴァルター・ フォン・モーロ(Walter von Molo) ,アドルフ・ケルシュ(Adolf Koelsch) ,アルフ レート・デープリーン(Alfred Döblin) ,アルフォンス・パケ(Alfons Paquet) ,フ リッツ・フォン・ウンルー(Fritz von Unruh) ,ハンス・マルティン・エルスター 37) などの小品が掲載されている。 雑誌の責任者は,1927年まではズィギスムント・ コーベルネ(Sigismund Koberne),その後はハインリヒ・ズィーマー(Heinrich 35) Scholl 1987, S. 50. 36) 詳細は,拙論 2014年10月刊行予定参照。 37) Vgl. Das Zeitungsbuch. 2(1925)Nr. 18, S. 13-27. -74- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ Siemer)であった。 1932年,世界恐慌の影響で「ドイツ図書共同体」が財政難に陥ったとき,法学・ 政治学博士で『フォス新聞』(Die Vossische Zeitung)の元経済ジャーナリストで あるフェリックス・グッゲンハイム(Felix Guggenheim)が支配人となった。グッ ゲンハイムは,ユダヤ人であったにもかかわらず,それほど妨害を受けることな く1938年まで活動したが,その後アメリカに亡命した。 「ドイツ図書共同体」は, ナチス時代も引き続き活動を認められたが,新会員の獲得は,会員を通じた勧誘 による方法しか認められず,出版指導部にナチスの地方議会会派の代理人が所属 することによって,事業が監視された。 (6)ドイツ図書コレクション(Der Deutsche Bücherschatz) 「ドイツ図書コレクション」は,サラリーマンの労働組合を母体として,1924年 にベルリンに設立された。 入会金は1マルク,毎月の会費は2マルクで,二か月毎に総クロース装の「義 務の巻」が引き渡された。また,一時期, 「義務の巻」の代わりに購入できる「交 換用の巻」も提供された。本の価格はまちまちであったが,全体としては年間の 会費に見合ったものとなっていた。会員雑誌『ドイツ図書コレクション』 (Deutscher Bücherschatz)も無料で配布された。 提供された本は,他の様々な出版社やブッククラブで刊行された本のライセン ス版であった。主な作家・作品は次のようなものであり,概ね市民的な傾向を持っ ていた。オットー・ルートヴィヒ『ハイテレタイ』 (Otto Ludwig: Heiterethei),ヴィ ルヘルム・ラーベ『飢餓牧師』 (Wilhelm Raabe: Hungerpastor) ,グスタフ・フライ ターク『借りと貸し』(Gustav Freytag: Soll und Haben),ヴァルター・フォン・ モーロ『全集』 (Walter von Molo: Gesammelte Werke) ,フリードリヒ・フレクサ『一 人の娘が幸運へと旅をする』(Friedrich Freksa: Ein Mädchen reist ins Glück),リオ ン・フォイヒトヴァンガー『陶器の神』(Lion Feuchtwanger: Der tönerne Gott), 『1929 年用 デューラー芸術文化日めくりカレンダー』(ein Dürer Abreißkalender für Kunst und Kultur für das Jahr 1929)。 「 ドイツ図書コレクシ ョ ン 」 は,「 ドイツ書籍販売業株式取引業者組合 」 (Börsenverein der Deutschen Buchhändler 以下, 「株式取引業者組合」と略記する) の機関誌『ベルゼンブラット』(Börsenblatt für den Deutschen Buchhandel)にお 38) いて,「小売業の新たな競争相手」として,活動方法が紹介された。 38) Vgl. Eccardus: Eine neue Konkurrenz des Sortimenters. In: Börsenblatt für den Deutschen Buchhandel. 92(1925)Nr. 116, S. 8245f. Zitiert nach Melis 2002, S. 116. -75- 竹 岡 健 一 (7)愛書家同盟(Der Bund der Bücherfreunde) 「愛書家同盟」については,1925年10月に,「株式取引業者組合」がシュテルク ラーデ(Sterkrade)の書籍印刷業者 W. シャラー(W. Scharrer)に送った書簡の中 39) で言及され,「愛書家国民連合」よりも会員数が少ないことが報告されている。 (8)ドイツ図書協会<ノイラント>(Deutsche Buchvereinigung >Neuland<) 「ドイツ図書協会<ノイラント>」は,1925 年以前にミュンヒェンに設立され た。 「ノイラント」とは, 「新開発地」, 「開墾地」, 「開拓地」といった意味である。 同協会の目的は成人教育の機会を提供することにあり,「バイエルン国民教育連 合」 (Bayrischer Volksbildungs-Verband)と連携して,学問的・文学的な講演,コ ンサート,その他の芸術的上演などが催されたが,図書の刊行もその活動の一つ であった。 私たちの本は,喜ばせ,心を高め,灰色の醒めた日々の生活を内面的幸福 の貴重な休息時間によって克服するべきである。私たちは,文学的に申し分 のないよい本にとって先駆者である。私たちは,才能ある若いタレントの開 拓者であり,振興者である。私たちは,教養のために戦うすべての人々の援 40) 助者である。(強調は原文に拠る) こうした観点から, 「ドイツ図書協会<ノイラント>」は,よい読み物を求める 人々のために,責任を持つ複数の人物の選択に基づいて,読む価値があると同時 に娯楽的な本を提供した。 会員は,年間14,8マルクまたは22,2マルクの会費を,三か月毎または半年毎に分 割して支払い,それに対して,年間4冊または6冊の背革装の本を受け取った。 具体例をあげると,1925年から翌年にかけて,ルートヴィヒ・ティーク『ヴィッ トーリア・アコロンボーナ』(Ludwig Tieck: Vittoria Accorombona) ,オットー・フ ライシュハウアー『フックスケール男爵と彼の牧師』 (Otto Fleischhauer: Baron Fuchskehl und sein Pfarrer), ル ー トヴ ィ ヒ・ アンツ ェ ングル ー バ ー『 面汚し 』 (Ludwig Anzengruber: Der Schandfleck),マリー・ケルシェンシュタイナー『神の 息吹』(Marie Kerschensteiner: Der Atem Gottes),ヨーゼフ・フォン・アイヒェン ドルフ『詩人とその仲間』 (Joseph von Eichendorff: Dichter und ihre Gesellen),アレ クセイ・K. トルストイ『白銀侯爵』(Alexei K. Tolstoi: Der silberne Fürst)などが 39) Vgl. Melis 2002, S. 79. 40) Zitiert nach Rosin 1926, S. 14f. -76- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 提供された。また, 「バイエルン国民教育連合」によって成人教育の機関誌として 刊行された隔月の雑誌『犂手』(Der Pflüger)も,無料で配布された。 宣伝への協力については,勧誘数に応じて背革装の本が提供されたが,3名に 対して1冊,6名に対して2冊,12名に対して4冊,18名に対して6冊であった。 また,本の提供に代えて,達成された本の値段の10パーセントの補償金を得るこ ともでき,本1冊について0,32マルクが支払われた。 (9)南ドイツ図書共同体(Süddeutsche Buchgemeinschaft) 「南ドイツ図書共同体」は,1925年,「国内外の新旧の作家の最良の,最も価値 溢れる作品を,きわめて安いが欠点のない装丁で」販売し, 「手ごろな値段で素晴 41) らしい家庭蔵書を獲得する機会を提供する」 ことを目的として,ドナウヴェル ト(Donauwörth)に設立された。社名の「南ドイツ」には,ベルリンを中心とす る北ドイツで多く設立されたブッククラブへの対抗意識が表れていた。 同じような響きの名を持つ多数の団体が,既に北ドイツから発して,その 活動を引き受けた。私たちは,南ドイツにおけるその種の最初の団体として, それらに,私たちの価値の高い引き渡しが事実上無敵であることを示すつも 42) りである。 先述の「ドイツ図書協会<ノイラント>」と「南ドイツ図書共同体」のいずれ が先に設立されたのかははっきりしないが, 「南ドイツにおけるその種の最初の団 体」という表現から,少なくとも1925年の時点で,後者には前者の存在が知られ ていなかったことが窺われる。 少なくとも320頁の背革装の本が年間10冊提供され,郵送料と雑費込みで1冊3,8 マルクだった。本の文学的価値は,選択を行う委員会によって保証された。また, 本のほかに, 「ニュルンベルク生命保険会社」 (Nürnberger Lebensversicherungs anstalt)の災害保険も無料で提供された。この保険は,死亡や不具を伴う災害に対 して500マルクの保険金を保証するもので,会員のみならず,その配偶者にも適用 された。 (10)愛好家サークル(Der Freunde Kreis) 「愛好家サークル」は, 「ロタール・ヨアヒム出版社」 (Lothar Joachim Verlag)に 41) Vierseitiges Werbeheft der Süddeutschen Buchgemeinschaft[o. T.],[o. O. 1925] (Sächsisches Staatsarchiv Leipzig, Bv 351, ohne Paginierung,[S. 2] ). Zitiert nach Melis 2012, S. 562. 42) Ebenda. Zitiert nach Melis 2002, S. 87f. -77- 竹 岡 健 一 よって,1926年以前にライプツィヒに設立され,通常の小売店で固定した価格で 販売される自社のクロース装の叢書「歓び」 (Die Freude)を会員に割引価格で販 売した。具体的には,2,4マルクに代えて2マルク,3,6マルクに代えて3マルク, 4,8マルクに代えて4マルク,18マルクに代えて15マルクであった。元々比較的安 いタイトルをさらに値引きして購入する可能性が提供されたのである。また,毎 月少なくとも1巻の購入が義務であったが,より多くの巻を購入する場合には, さらに割引きされた。 内容的には,売れ行きが保証されるタイトルを幅広くカバーしていた。例えば, ヴィルヘルム・ブッシュ(Wilhelm Busch),ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドル フ,ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ,ハインリヒ・ハイネ(Heinrich Heine),ゴットフリート・エフライム・レッシング(Gottfried Ephraim Lessing), フリードリヒ・フォン・シラー,ウィリアム・シェークスピア,テオドーア・シュ トルム,ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)といった作家の作品である。 (11) ドイツ・ブッククラブ(Der Deutsche Buch-Club) 「ドイツ・ブッククラブ」は,1927 年,印刷業者パウル・ハルトゥング(Paul Hartung) ,書籍販売業者クルト・ザウケ(Kurt Saucke) ,およびエルンスト・ハ ウスヴェーデル(Ernst Hauswedell)によって,有限会社としてハンブルクに設 立された。支配人には,ザウケ,ハウスヴェーデル,およびズィークフリート・ ブヘナウ(Siegfried Buchenau)が就いた。 「ドイツ・ブッククラブ」は,1926年に設立されたアメリカの二つのブッククラ ブを活動の模範としていた。その一つは「今月の本クラブ」(Book-of-the-MonthClub)であり,ここからは,一流の出版社の新刊書から審査委員会を通じて毎月1 冊の本を選定するという方法を取り入れた。もう一つは, 「文芸協会」 (the Literary Guild)であり,ここからは,一般の書籍販売で公刊される前に本を印刷する権利 を買う方法と,本を安価に提供する方法を取り入れた。「文芸協会」の本は,店頭 価格の半額であった。ただし,この二つのアメリカの企業は,その成立の少なか らぬ部分を,ドイツのブッククラブに負っていた。 私たちの知るところ,現代のブッククラブは,図書団体を持つ戦後のドイ ツで生じ,そして,事業家が,雑誌の予約注文と通信販売の方法が組み合わ され,現代のブックマーケットに適用され得ると考えたとき,アメリカにやっ 43) て来たのだ。 こうして,「ドイツ・ブッククラブ」は,ドイツの出版社の多数の新刊書から, -78- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 読書委員会と名誉委員会を通じて,会員のために価値のある本を「今月の本」 (Das Buch des Monats)として選定し,提供した。しかも,会員はそれを,伝統的な書 籍販売の小売店の顧客よりも早く手に入れることができた。また, 「ドイツ・ブッ ククラブ」が一流の出版社と協力していたため,質の良い本が提供され,そして なによりも,本の価格が安かった。 このクラブは,出版社によって固定された店頭価格(およびそれとともに 小売店)よりも低い値をつけることを意図していた。このことは,すでに1927 年12月に,最初の予約購入図書が刊行された際に示された。クヌート・ハム スンの『放浪者たち』は,書籍販売では10マルクだったが,ドイツ・ブック 44) クラブではこれをたった6マルクで提供した。 こうした活動方法は,伝統的な書籍販売の注意を喚起せずにはいなかった。 パンフレットと新聞での,この企業の書籍販売方法に関する報告は,書籍 販売に大きな不安を引き起こした。それは,売れ行きのよい本を今月の本と 45) してドイツ・ブッククラブの購読者に特価で提供する試みとみなされた。 しかし, 「ドイツ・ブッククラブ」が様々な規則の遵守を約束したため,1927年 12月3日の討論で,差し当たり軋轢は解消した。だが,それによってこの企業が 大きな成功へ向かうことはなかった。最初の事業年以後,もはや1,500人以上の会 員は獲得されず,1929年にはハルトゥングが事業への関与を取りやめ,ザウケも 脱退した。1930年には出版社の報告のフォーマットと内容,および会員に対する 本の提供が縮小された。なお,本以外に,会員雑誌『ドイツ・ブッククラブの予 約購読者のための報告』 (Mitteilungen für die Abonnenten des Deutschen Buch-Clubs) も提供されていた。 「ドイツ・ブッククラブ」では,当初からもっぱら裕福な会員の獲得が努力された。 文学的関心があり,それによって書籍販売に慣れた,要求の高い層にアピー ルがなされた。この時代にしては高い<文化予算>が前提とされた。三か月 43) John A. Tebbel: History of Book Publishing in the United States. Vol. 3. The Golden Age between Two Wars. 1920-1940. R. R. Bowker. New York/ London 1978, S. 206. Zitiert nach Scholl 1994, S. 100. 44) Sarkowski 1981, S. B611. 45) [ANON]: Der Deutsche Buch-Club. In: Börsenblatt für den Deutschen Buchhandel. 94(1927)Nr. 285, S. 1430. Zitiert nach Melis 2002, S. 81. -79- 竹 岡 健 一 毎の支払いは,いずれにせよ18マルクで,他のブッククラブが会員から要求 する額の約5倍だった。ただし,その代わりに,他のすべてのブッククラブ がその会員に三か月毎に1冊の本の購入しか義務づけなかったのに対し,ド 46) イツ・ブッククラブは3冊の本を提供した。 しかし,結局,財力のある読者層をターゲットとするやり方は成功せず,すで に1927年,「ドイツ・ブッククラブ」の魅力について,次のように評された。 結びつきへの刺激は,単に便利さと,このクラブに所属するという一種の 47) 俗物根性へのある種のアピールにしかなかった。 ナチスの政権獲得後,1935年には,ハウスヴェーデルは, 「ドイツ・ブッククラ ブ」という会社名を断念するよう強制された。そのため,同年10月11日に,商業 裁判により, 「エルンスト・ハウスヴェーデル博士株式会社」 (Dr. Ernst Hauswedell & Co.)に改名された。最終的には,1941年,戦争による紙の不足が, 「今月の本」 を消滅させた。 (12) 図書コレクション(Der Bücherschatz) 「図書コレクション」は,1933年以前にベルリンに設立され,予め決められた特 定の本の購入を会員に義務づけたが,そのプログラムは「愛書家国民連合」と同 48) じように「ごく一般的にまとめられ」 ていた。 (13) 図書陳列台(Der Büchertisch) 「図書陳列台」は, 「デュル・ウント・ヴェーバー出版社」(Dürr und Weber Verlag)によって,1933 年以前にライプツィヒに設立され,通常の小売店で固定 した価格で販売される自社の本を会員に割引価格で販売した。 三か月毎に,0,3マルクの郵送料込みで3マルクを支払い,それに対して,同出 版社の「小部屋文庫」 (Zellenbücherei)が,毎月1冊送付された。したがって,1 冊の価格は1マルクときわめて安かった。同文庫は,およそ100のタイトルを含み, 通常約100頁で,簡素な厚紙装丁で提供された。内容的には,主に様々な学問分野 の実用書や手引書,地域研究から成っていた。例えば, 『ドイツ文学史一時間』 46) Sarkowski: 1987, S. 15. 47) Gerhard Menz: Zur Wirtschaftslage. In: Börsenblatt für den Deutschen Buchhandel. 94(1927)Nr. 291, S. 1453ff, hier S. 1454. Zitiert nach Melis 2002, S. 83. 48) Zickfeldt 1927, S. 63. -80- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ (Deutsche Literaturgeschichte in einer Stunde) , 『世界文学一時間』 (Weltliteratur in einer Stunde) , 『ゲーテ<ファウスト>入門』 (Einführung in Goethes Faust) , 『投資と利 用』 (Kapitalsanlage und Verwendung) , 『芸術史概論』 (Abriß der Kunstgeschichte) , 『オ カルティズム』 (Okkultismus) , 『ドイツの婚姻法』 (Deutsches Eherecht)などである。 3.特 殊な読者を持つブッククラブ(Buchgemeinschaften mit speziellen Zielgruppen) (1)ロマン主義同好会(Romantische Gemeinde) 「ロマン主義同好会」は,ライプツィヒの「エッダ出版社」 (Edda Verlag)の社 長ヴェルネク=ブリュッゲマン(Werneck-Brüggemann)によって,1925年に設立 された。 「恥ずべき利己主義と,人間の中にある神的なものに対するきわめて冷酷 49) な無関心という毒気から,ドイツ人の民族の魂を救う」 ことを目的とし,政治 とは一切かかわりを持たなかった。会員数については,会員雑誌第1号の序文で, 50) 「数か月で差し当たり1,500人の同志が獲得された」 と報告されている以外は不明 だが,規模は小さかったと推察される。会費や購入の義務はなかった。 「青い花」(Die blaue Blume)というロマン主義の作品シリーズが,1冊4マル 51) クで提供された。本は, 「ロマン主義の美の理念に適った立派な装丁」 で,平均 300-400ページの分量であった。内容的には,文学ではノヴァーリス(Novalis), E. T. A. ホフマン,ルートヴィヒ・ティーク,ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドル フ,アーダルベルト・フォン・シャミッソー(Adalbert von Chamisso) ,アヒム・ フ ォ ン・ アルニム(Achim von Arnim), クレメンス・ ブレンタ ー ノ(Clemens Brentano) ,アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(August Wilhelm Schlegel), ヴィルヘルム・ハウフ,フリードリヒ・デ・ラ・モット・フケー(Friedrich de la Motte Fouqué),ジャン・パウル(Jean Paul),ハインリヒ・フォン・クライスト, ルートヴィヒ・ウーラント(Ludwig Uhland),グリム兄弟(Brüder Grimm),ニ コラウス・レーナウ(Nicolaus Lenau),ゴットフリート・ケラー,ヨーゼフ・ヴィ クトール・フォン・シェッフェル,エードゥアルト・メーリケ,アーダルベルト・ シュティフター,テオドーア・シュトルムなど,絵画ではフィリップ・オットー・ ルンゲ(Philipp Otto Runge),アードリアン・ルートヴィヒ・リヒター(Adrian Ludwig Richter),アルフレート・レーテル(Alfred Rethel) ,カール・シュピッツ ヴェーク(Carl Spitzweg) ,モーリッツ・フォン・シュヴィント(Moritz von Schwind) , 49) Fritz Werneck: Aufruf zum Beitritt. In: Die blaue Blume. Zeitschrift der Romantischen Gemeinde zur Pflege der Romantik. 1(1925)H. 1, S.4f., hier S. 4. 50) Fritz Werneck: Zum Geleit. In: Die blaue Blume. Zeitschrift der Romantischen Gemeinde zur Pflege der Romantik, a. a. O., S. 1-3., hier S. 2. 51) Fritz Werneck: Aufruf zum Beitritt. In: Ebenda, S. 4. -81- 竹 岡 健 一 音楽ではルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven),カー ル・マリーア・フォン・ヴェーバー(Carl Maria von Weber) ,フランツ・シューベ ルト(Franz Schubert),ローベルト・シューマン(Robert Schumann) ,ペーター・ コルネリウス(Peter Cornelius),リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner)な どが取り上げられた。ロマン主義の文学,絵画,音楽などに関する記事が掲載さ れた雑誌『青い花 ロマン主義の育成のためのロマン主義同好会の雑誌』 (Die blaue Blume. Zeitschrift der Romantischen Gemeinde zur Pflege der Romantik)も,送料込み 2マルクで会員に提供されたが,5巻しか刊行されなかった。 そのほか,「常に生活とのかかわりの中でロマン主義精神が育成される」べく, 52) 地方グループで, 「ロマン主義の夕べ」 が開催された。また,1926年1月1日か 53) ら, 「ロマン主義同好会の自救行為」 として,会員の親族のための葬祭料が導入 された。希望者は,年に2回,1マルクを葬祭料金庫に支払うよう求められたが, 利率が有利に設定されており,会員が死亡した際,遺族に 500 マルクが支払われ 54) た。こうした取り組みには,「浮世離れ」(Weltfremdheit) というロマン主義の イメージを正す意図があった。 (2)フォス書店<牧神文庫>(>Pan-Bücherei< der Vossischen Buchhandlung) 「フォス書店<牧神文庫>」は,ベルリンの「フォス書店」 (Vossische Buchhandlung) によって,1927年以前に設立されたが,規模は小さかった。会員には,特定の数 の本を,予約購読により,低価格で購入することが義務づけられた。ギリシャ神 話に由来する名称が表している通り,もっぱら狩猟と自然に関する本を出版した。 (3)国民劇場・出版販売協会(Volksbühnen-Verlags- und Vertriebsgesellschaft) 「国民劇場・出版販売協会」は,1927年以前にベルリンに設立され, 「価値のあ る安い本を提供することで,資力の乏しい国民層を振興することを本質的な目 55) 的」 として,あらゆる種類の印刷物と演劇作品の出版・販売を行った。とりわ け,期限を設けない分割払いシステムが,購買力の乏しい消費者に加入の可能性 を与えた。通常の小売店では4,2マルクで購入されるクロース装の演劇作品が,会 員には3マルクで直接販売された。演劇に関心を持つ個人だけでなく,演劇同好 会も会員の主要部分を成していた。 52) Ebenda. 53) Ebenda. 54) Ebenda. 55) Zitiert nach Zickfeldt 1927, S. 68. -82- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ (4)ア ー ダルベルト・ シ ュ テ ィ フタ ー 協会図書共同体(Buchgemeinschaft der Adalbert-Stifter-Gesellschaft) 「アーダルベルト・シュティフター協会図書共同体」は,1928年以前に,当時の チェコスロヴァキアの町エーガーに設立された。ズデーテン地方(当時のチェコ スロヴァキアのドイツ人居住区)におけるドイツ思想の普及に尽力したが,規模 は小さかったと思われる。会員は特定の「義務の巻」を購入せねばならず,自由 な選択の可能性はなかった。 4.宗教的ブッククラブ(Religiöse Buchgemeinschaften) (1)ボン図書同好会(Bonner Buchgemeinde) 「ボン図書同好会」は,ボンのミュンスター教会で働いていた主席司祭ヨハン・ ヒンゼンカムプ(Johann Hinsenkamp)と,1884年に設立され,本の販売も行って いた「ボロモイス協会」(Borromäusverein)のフリッツ・ティルマン教授(Prof. Fritz Tillmann)によって,1925年1月20日に設立された。会員数は,1927年まで に約53,000人に達した。 入会金はなく,年間9マルクの会費で,3冊の本が引き渡された。会費は後に 9,9マルクに引き上げられたが,分割払いも可能であった。また当初,提供される 本は基本的に同好会の出版社で製造される「義務の巻」であった。この他に,1926 年と1927年には,6,3マルクの『フィオレッティ(小さい花) 』 (Fioretti)のような 高価な特別版も刊行されたが,あまり売れなかった。その後,1928年より,他の 出版社からの借用によって「選択の巻」が導入されたが,それは会員のためとい うよりは,むしろカトリック系の出版社への配慮からであった。他の出版社の本 を借用した「選択の巻」には特別な装丁はなされなかったが,ボン図書同好会独 自の本については,よい装丁に大きな価値が置かれ,もっぱら総クロース装であっ た。1928 年 か ら は 会 員 雑 誌『 図 書 同 好 会 ボ ン 図 書 同 好 会 の 季 刊 誌 』 (Die Buchgemeinde. Vierteljahresschrift der Bonner Buchgemeinde)も,年に4冊無料で提 供された。 総じて,宗教的なブッククラブの責任者らは,世界観的に中立的なブッククラ ブから際立ち,それに対する対案を提供しようとしたが,「ボン図書同好会」で も, 「愛書家国民連合」や「ドイツ図書共同体」のようなブッククラブの世俗的な 方向性からはっきりと距離がとられ,それらのブッククラブの作品と対極をなす カトリックの文学が前面に置かれた。同好会の生みの親であるティルマン教授は, 設立の動機を次のように説明した。 それは,既存の非カトリック的な八つのブッククラブに対する反対運動で -83- 竹 岡 健 一 なければならない。カトリックの立場からはその図書が拒否される愛書家国 民連合は,絶えず増加中である。カトリックの会員は,少なく見積もっても 56) 80,000人である。ここで抵抗することを,ボロモイス協会は義務とみなす。 また,それと同時に,「ボン図書同好会」は,世俗的なブッククラブだけでな く,プロテスタント系の「ヴォルフラム同盟家庭文庫」に対抗して,カトリック 系の文学を安く販売し,インフレと経済危機でダメージを受けたカトリック系の 書籍販売に新しい読者をもたらすことも意図していた。そうした意味で, 「ボン図 書同好会」は最初の本格的なカトリック系のブッククラブであった。 カトリック教徒は,ボン図書同好会から,生きいきとした源からのように, 理性,信条,心のための糧を得る。彼は,同好会によって徐々に,知識,宗 教の深み,人間の文化の領域に導かれる。同好会の理念が満たされるのは, それが,精神的に関心を持つすべての人々の一致した意志に担われて,その 見地から,真のカトリック文化の最高の観念を奉仕しつつ満たすことができ 57) るときのみである。 とはいえ,主に教養あるカトリック教徒を対象としたプログラムには, 「宗教的 な本」だけでなく,教訓的・娯楽的な「非宗教的な本」も含まれていた。提供さ れた本の具体的なタイトルとしては,次のようなものがあげられる。まず, 「宗教 的な本」としては,2巻の『新約聖書』 (Das Neue Testament in zwei Bänden),ヨー ゼフ・ショイバー『教会と宗教改革 16・17世紀におけるカトリック生活の繁栄』 (Joseph Scheuber: Kirche und Reformation. Aufblühendes katholisches Leben im 16. und 17. Jahrhundert),ジョン・ヘンリー・ニューマン『損と得』 (John Henry Newman: Verlust und Gewinn) ,ヨーゼフ・キューネル『神の日々から 教会暦に倣う宗教 的考察』 (Josef Kühnel: Von den Tagen des Gottes. Religiöse Betrachtungen im Anschluß an das Kirchenjahr)などである。次に, 「非宗教的な本」としては,ヨーゼフ・ホ プマン『宇宙学 今日の天文学の研究方法と成果』(Josef Hopmann: Weltallkunde. Arbeitsweise und Ergebnisse der heutigen Astronomie),アントン・ショット『フス時 代』 (Anton Schott: Hussenzeit),アードルフ・ゲーニウス『地理学ハンドブック 56) Der katholische Buchhandel Deutschlands. Seine Geschichte bis zum Jahre 1967. Hrsg. von der Vereinigung des katholischen Buchhandels. Vereinigung des katholischen Buchhandels. Vereinigung des katholischen Buchhandels e. V. Frankfurt am Main 1967, S. 126. Zitiert nach Melis 2002, S. 95. 57) Dr. H. Wolff: Die Buchgemeinde als Idee. In: Die Buchgemeinde. Vierteljahresschrift der Bonner Buchgemeinde. 1(1928)H. 2, S. 29. -84- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 地図20枚付き』 (Adolf Genius: Geographisches Handbuch mit 20 Karten)などである。 (2)カトリック図書同好会(Katholische Buchgemeinde) 「カトリック図書同好会」は,カトリック教会の支援の下,1925年秋にボンに設 立され,成立後七か月で43,000人の会員を集めた。 (3)聖ヨセフ図書協会(Sankt Josephs Bücherbruderschaft) 「聖ヨセフ図書協会」は,1925年以前にローゼンハイムに設立され,少なくとも 180,000人の会員がいた。年間に4冊の「義務の巻」を購入しなければならず,選 択権は認められなかった。純粋に宗教的なブッククラブであり,もっぱら宗教的 な本が提供された。 (4)キリスト教図書愛好家同盟(Bund der Freunde christlicher Bücher ) 「キリスト教図書愛好家同盟」は,1926年に設立された。 (5)ハイネ同盟(Heine-Bund) 「ハイネ同盟」は,1926年に, 「世界出版社」(Welt-Verlag)の一部門として,ベ ルリンに設立された。「世界出版社」は,1911年に設立され,もっぱらユダヤ的並 びにシオニズム的な文学を販売していたが,1921年以来,ジャーナリストで翻訳 家のアーロン・エリアスベルク(Ahron Eliasberg,本名 Z. ホルム〔Z. Holm〕)が 所有しており,ブッククラブも,彼によって,出版社のための新たな市場を作る 目的で提案された。したがって, 「ハイネ同盟」で提供された本は,本来は「世界 出版社」がより高い値段で小売店を通じて販売していたものだった。会員数の詳 細は不明だが,かなり小規模なブッククラブだったと推察される。 年間の会費は14マルクで,4巻の年間シリーズが提供された。会費は,3,75マ ルクの4回の分割払いで納入することも可能であった。固定した「義務の巻」の システムは時ともに緩められ,最初は追加の「選択の巻」が提供され,1930年か らは, 「年間シリーズ」, 「交換用の巻」, 「選択の巻」から自由に選べるようになっ た。1933 年までの活動期間に,全部で 24 冊の本が出版されたが,上記のように, それらは「世界出版社」の本でもあったため,ブッククラブ独自の装丁は施され ず,奥付だけが変えられた。また,会員雑誌『ハイネ同盟の雑誌』 (Blätter des Heine-Bundes)も刊行され,組織の指導部と会員を結びつける役割を果たすと同 時に,文学的・伝記的な文章や,ブッククラブの活動と本のプログラムに関する 情報を提供した。しかし,1928年の4月と10月の2回しか刊行されておらず,それ は,このブッククラブが商売上の大きな成功を収めなかったことの証しでもある。 -85- 竹 岡 健 一 58) 「ユダヤ人の精神性を比類なく体現した」 ハイネの名を冠する「ハイネ同盟」 は,単なる宗教的施設ではなく,ユダヤ人の生活と風習が伝えられるべき文化的 施設と考えらえており,次のような目標を,ベルリンの教区ラビ,ユダヤ人教員 団体の全国連合,ユダヤ人婦人同盟といった名声あるユダヤ人の個人や団体と共 有していた。 本は,読者にユダヤ文化の意味を近づけねばならない。同時に,作品の読 書を通じて,読者に,ポジティヴなユダヤ人意識を発展させる可能性が与え られねばならない。ハイネ同盟は,ユダヤ人の文化価値の仲介と現代の文学 的潮流の顧慮の間に統合を打ち立てることによって,この意図を実現する。 同盟は,その会員に主として同時代の作家の文学的価値の高い作品を提供す るが,そこでは,ユダヤ人の歴史の一部が扱われているか,成し遂げられた 業績に基づいて,ユダヤ人及びドイツ人の精神的・文化的生活の無視されな 59) い歴史と現代のユダヤ人が中心となっている。 こうして,「ハイネ同盟」は,その本のプログラムを通じて, 「ユダヤ的共同体 の生活と創作活動を,知識,娯楽,および喜びの源として,ユダヤ教の人々に近 60) づけ」 ようとし,主に次のような作品を提供した。ミリアム・アリ『エルサレ ムの小さな娘』(Myriam Harry: Das kleine Mädchen von Jerusalem)とエメ・パリ エール『未知なる聖所』(Aime Palliere: Das unbekannte Heiligtum)のフランス語 からの翻訳, ザロモン・ ポリヤコフ『 サバタイ・ ツヴ ィ』(Salomon Poljakoff: Sabbatai Zewi)のロシア語からの翻訳,ジョゼフ・オパトシュ『森の少年』 (Jpseph Opatoschu: Ein Waldjunge)のイディッシュ語からの翻訳,それにドイツ語の作品 として,マルクス・エーレンプライス『東洋と西洋の間の国 ある現代ユダヤ人 の ス ペ イ ン 旅 行 』(Marcus Ehrenpreis: Das Land zwischen Orient und Okzident. Spanische Reise eines modernen Juden),J. エルボーゲン編『ユダヤ史上の人物と時』 : Gestalten und Momente aus der jüdischen Geschichte) (J. Elbogen〔Hg.〕 ) ,アルノル ト・ツヴァイク『ドイツの舞台のユダヤ人』 (Arnold Zweig: Juden auf der deutschen Bühne) 。 なお,「世界出版社」の自己理解は断固としてユダヤ的で反同化的であったが, : Diverse Mitglieder. In: Blätter des Heine-Bundes. 1(1928)Nr. 2, S. 6. Zitiert nach Melis 58) [ANON.] 2002, S. 100. 59) Kraus: Der Heine-Bund. 1997, S. 68. Zitiert nach ebenda. 60) Werner Bab: Eine jüdische Büchergemeinde. In: Allgemeines Jüdisches Familienblatt. Wochenblatt für die gesamten Interessen des Judentums. 7(1926)Nr. 36, S. 5. Zitiert nach ebenda, S. 99. -86- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 必ずしもシオニズム的ではなく,ドイツの文化領域内部での自律的なユダヤ文化 に貢献しようとした。このことは,「ハイネ同盟」にも該当する。 ナチスの政権掌握後,エリアスベルクは,1933年6月1日にドイツを離れ,パ レスチナへ移住した。これによって,世界出版社と「ハイネ同盟」の活動は終わ り,1936年11月には,最終的に商業登記簿から抹消された。 (6)シオニズム図書同盟(Zionistischer Bücherbund) 「シオニズム図書同盟」は,ベルリンの「ユダヤ出版社」(Jüdischer Verlag)に よって,1929年に設立されたが,3冊の本を出版した後,活動は中止された。 シオニズムの運動においては, 「ドイツ語でのシオニズム的な文学出版の領域で 61) の停滞と,シオニズム的な本への関心の明らかな欠如」 が嘆かれていた。それ ゆえ,シオニズムのブッククラブを組織するというユダヤ出版社の提案 ― それ はルーマニアとオーストリアのシオニズム団体の提案にも基づいていたが ― は, 「シオニズム機構」(Zionistische Exekutive)によって,肯定的に受けとめられた。 すぐに成功するというごく楽天的な思い違いはしていませんが,私たちは, 一つの試みを歓迎すべきものと, ― そしてもしそれが長く続けば ― 成功 を約束するものとみなしています。したがって,機構は,提案されたシオニ ズム図書同盟をあなた方が設立することに同意し,この企業に道徳的な支え 62) を与えるつもりです。 シオニズム機構は,組織と財政の点でブッククラブに関わることはなかったが, 文学委員会に発言権を持っていたと思われる。というのも,それは,ユダヤ出版 社の社長ジグムント・カツネルソン(Siegmund Kaznelson) ,法学博士で,シオニ ズムの著名な出版人であり,1919年12月からはユダヤ出版社によって刊行された 『ユダヤ展望』 (Jüdische Rundschau)の主任編集者を務めたローベルト・ヴェル シュ(Robert Welsch),およびシオニズム機構の代表者マックス・マイアー(Max Meyer)から成っていたからである。 「シオニズム図書同盟」は,ユダヤ的国家運動とシオニズムのイデオロギーの本 と,国家ユダヤ思想の作品を出版することを目的とした。社長のヴェルシュは, 刊行される本の内容について,次のように述べている。 61) Brief des Zentralbüros der Zionistischen Exekutive(London)an den Jüdischen Verlag vom 13. 2. 1929. Zitiert nach Scholl 1994, S. 96. 62) Ebenda. Zitiert nach ebenda, S. 96f. -87- 竹 岡 健 一 私たちのプログラムは,シオニズムのイデオロギーに関する本,国家主義 的ユダヤ思想家の著作(最近五十年の,つまりヘブライ語からの沢山の翻訳 など),シオニズムの歴史とユダヤ人の国家運動の叙述などを,幅広く包括す るべきである。狭い意味での本来の宣伝的著作は当然除外される。これに対 し,シオニズム図書同盟は,党派政治的中立性は保ち,その図書シリーズに 様々な観点の作家の作品をもたらすが,アクチュアルなシオニズムの日々の 63) 政治はもたらさない。 党派的中立性と日々の政治の断念は,シオニズムの陣営が多数の方向性やグルー プに分かれており,部分的には敵対してもいたため,特に重要だった。その意味 で,本の選択は,それほど容易ではなかった。すべてのグループが,それぞれの イデオロギーとそれぞれの仇敵を持っていたからである。 「シオニズム図書同盟」が失敗した原因は,シオニズム組織の協力の不足にも求 められるが,1929年から1930年にかけて, 「ユダヤ機関」 (Jewish Agency)の設立 や, 「嘆きの壁事件」とその後のイギリスとの見解の相違など,シオニズム運動に とってアクチュアルな大きな外交問題がもたらされたため,シオニズムの歴史と 取り組むことが時間の浪費と考えられたことにも求められる。なお, 「シオニズム 図書同盟」では,本の装丁はほとんど重視されなかった。 (7)プロテスタント家庭文庫(Evangelische Heimbücherei) 「プロテスタント家庭文庫」は,1931 年に設立され,成立後すぐに,10 名の名 誉 委 員 会 を 提 示 し た が, そ の う ち 9 人 は プ ロ テ ス タ ン ト の「 管 区 総 監 督 」 (Generalsuperintendent)であった。財政状況が芳しくなく,一年後に倒産した。 (8)プロテスタント愛書家出版社(Verlag evangelischer Bücherfreunde) 「プロテスタント愛書家出版社」は,1931年に設立されたと思われる。 5.保守的・国家主義的ブッククラブ (Konservative und nationalistische Buchgemeinschaften) (1)ドイツ家庭文庫(Deutsche Hausbücherei) 「 ド イ ツ 家 庭 文 庫 」 は,1916 年, ハ ン ブ ル ク で,「 ド イ ツ 民 族 家 庭 文 庫 」 (Deutschnationale Hausbücherei)として設立されたが,同じ „deutschnational“ と いう語が用いられた政党 Deutschnationale Volkspartei(一般に「ドイツ国家人民 63) Ebenda. Zitiert nach ebenda, S. 98. -88- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 党」と訳されることが多い)との区別を明確にするため,1923年1月に名称の変 更がなされた。「ドイツ家庭文庫」の母体は,保守的商業職員労働組合である「ド イツ民族商業補助者連合」 (Der Deutschnationale Handelsgehilfen-Verband)の出版 部門をなす「ハンザ同盟出版社」(Hanseatische Verlagsnastalt AG)であった。そ のため,その幹部の一人であるエーミール・シュナイダー(Emil Schneider)が同 文庫の経営を引き受けたが,その他にも, 「ドイツ民族商業補助者連合」会長のハ ンス・ ベヒリ ー(Hans Bechly) と政治委員のマ ッ クス・ ハ ー バ ー マン(Max Habermann),保守革命の思想家ヴィルヘルム・シュターペル(Wilhelm Stapel), 反ユダヤ主義的な郷土運動の代表者アードルフ・バルテルス(Adolf Baltels),海 洋小説と戦争賛美で知られるゴルヒ・フォック(Gorch Fock)などが,設立に大 きな役割を果たした。当時, 「ハンザ同盟出版社」は経済的に安定した基盤の上に 立っており,独自の印刷所と製本所も備えていた。その上, 「ドイツ民族商業補助 者連合」の150,000人を超える会員のうち一定数が「ドイツ家庭文庫」の会員とな ることが期待された。会員資格は,その後,労働組合を越えて,関心のあるすべ ての人々に開かれ,会員数は,1933年までにおよそ40,000人に達した。 「ドイツ家庭文庫」は,他の出版社から譲り受けたライセンス出版を含む予約購 読を実施し,以後のブッククラブの特徴的な活動方法を構築した点で,しばしば 64) 「ブッククラブ的な原理で活動する最初の企業」 と見なされている。会費と提供 された本の冊数は時期によって異なるが,通貨改革によって経済が安定した1924 年の時点では,月2マルクの会費に対して,購入義務のある本が年間6冊提供さ れ,一部は「選択シリーズ」との交換も可能であった。提供品の重点は,郷土文 学と戦争文学を中心とする文学であり,1927 年に「ゲオルク・ミュラー出版社」 (Georg-Müller-Verlags-AG)を,1932年に「アルベルト・ランゲン出版社」 (Albert Langen Verlag)を吸収合併することで,提供可能なタイトルが大幅に増強された。 また,会員雑誌も無料で提供された。1923年から1927年までは『ハンザ同盟の書 物の使者』 (Der hansische Bücherbote,月刊),1928 年は『家庭文庫の使者』(Der Hausbücher-Bote,月刊),1929年から1941年までは『かまどの火』 (Herdfeuer,月 刊,1932年より隔月)である。 「ドイツ家庭文庫」の文学的・政治的路線は,1900年以後,民族主義,反ユダヤ 主義,反共産主義を重視する保守的改革プログラムの重要な組織的代表者であっ た「ドイツ民族商業補助者連合」のそれと一致しており,単なる本の定期購読施 設に留まらず,この保守的改革プログラムの一角を担わねばならなかった。つま り,同文庫は,自由主義的な文壇に対抗する前線となり,本を通して,職員層を 64) DuMont 1961, S. 59. Dazu vgl. auch Scholl 1987, S. 47; Brohm 1999, S. 232. -89- 竹 岡 健 一 中心とするドイツ国民に,保守的な意味での政治的・文化的な影響を及ぼさねば ならなかったのである。この点,『ドイツ民族商業補助者のためのの 1918 年の年 鑑』(Jahrbuch 1918 für Deutschnationale Handlungsgehilfen)では , 次のように述べ られている。 ドイツ家庭文庫は,私たちの一定数の会員の家に良い本をもたらせばその 課題は満たされたと思うような事業ではありません。私たちはむしろそれを 越えて,当文庫を,その効果がまだまったく評価されていないドイツ民族的 な思想の普及のための手段と考えています。すべての文庫は,どんな小さな 65) ものでも,人間の集団全体の思考に影響を及ぼすのです。 このように会員の世界観を形成するという「ドイツ家庭文庫」の目標は,提供 された本の著者,例えばアードルフ・バルテルス,ヴィルヘルム・シュターペル, パウル・エルンスト,ハンス・フリードリヒ・ブルンク(Hans Friedrich Blunck), フリードリヒ・グリーゼ(Friedrich Griese),ハンス・グリム(Hans Grimm),エ ルヴィーン・グイード・コルベンハイヤー(Erwin Guido Kolbenheier) ,ヴィルヘ ルム・シェーファー,ハインツ・シュテグヴァイト(Heinz Steguweit) ,ヴィル・ フ ェ スパ ー(Will Vesper), ヨ ー ゼフ・ マグヌス・ ヴ ェ ー ナ ー(Josef Magnus Wehner)などにもはっきりと表れていた。 一方,そうした保守的な思想の普及と並んで,「ドイツ家庭文庫」においては, 本に満たされた戸棚が発する「教養市民的なアウラ」も重視された。すなわち, 本は, 「プロレタリア化の不安を追い払うための呪物」として,職員層が「新中間 66) 層」 として教養市民の遺産を相続することの目印として役立たねばならなかっ たのである。この意味で,同文庫では,書物の装丁にも重きが置かれた。 「ドイツ 家庭文庫」の本の装丁はいわば制服であり,すべての巻が,同じフォーマットで, 総クロース装で刊行され,連番が付された。「愛書家国民連合」や「ドイツ図書共 同体」の台頭とともに,会員から背革装の希望が出されたが,指導部は,総クロー 67) ス装は「ドイツ精神の証明」 であるとして,強く抵抗した。ようやく 1927 年に なって,背革装の版も提供されるようになったが,指導部はその後も,会員に対 68) して「本物の素材の長持ちする総クロース装」 の意義を説き続けた。 65) Zitiert nach Hiller[um 1968], S. 9. 66) Garke-Rothbart 2008, S. 11. 67) [ANON]: Brief an ein neues Hausbücherei-Mitglied! In: Herdfeuer. 15(1940)Nr. 1, S. 31f., hier S. 32. : Die Deutsche Hausbücherei. In: Herdfeuer. 10(1935)Nr. 3. Diese Seite hat keine 68) [ANON] Seitenangabe und folgt auf die Seite 591. -90- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 「ドイツ家庭文庫」は,その活動を通じて,ワイマール共和国時代における政治 的右傾化とナチスの台頭に影響を及ぼしたと言える。だが,母体である「ドイツ 民族商業補助者連合」は,ナチス政権の成立後,1933年5月に「ドイツ労働戦線」 (Deutsche Arbeitsfront)に吸収され,1934 年には完全に解体されてしまった。た だし,その下部組織であった「ハンザ同盟出版社」は, 「ドイツ労働戦線」内部に 形成された新保守主義的な出版コンツェルンの看板企業としてその後も活動を継 続し, 「ドイツ家庭文庫」もまた,その枠内で活動を続けることができたが,当然 ながら, 『かまどの火』の記事や新会員勧誘のプレミアなどには,ナチズムや戦争 の賛美が頻繁に登場するようになった。第二次世界大戦勃発後は,戦況の悪化に よる紙の不足に伴って徐々に活動が縮小し, 『かまどの火』の刊行も,1942年まで しか確認されない。 (2)「ドイツ文化共同体」(Deutsche Kulturgemeinschaft) 「ドイツ文化共同体」は,「ドイツ国立劇場」(Deutsche Nationalbühne)の創設 を目標として,1923 年以前に,ベルリンに設立された。団体名に「ドイツ文化」 を謳い,ドイツ文学の発展にも貢献しようとした。 年間の会費は1マルクで,年間5冊の「選択シリーズ」の中から2冊を選んで 購入しなければならなかった。ライセンス版とともに,他の出版社が書店を通じ て販売している本も提供されたが,その際,本来の目的が「ドイツ国立劇場」の 創設にあり,本の生産・販売はそのための手段に過ぎないことを表明することで, 一般の書籍販売業との対立を回避しようと努めた。 「ドイツ文化共同体」では, 「真のドイツ人気質」 (Wahres Deutschtum)と「ド イツ家庭文庫」 (Deutsche Hausbücherei)という二つの著作シリーズが刊行され た。前者の例としては,『ドイツ文化著作集』(全3冊)(Eine Sammlung deutschkultureller Schriften H. 1-3)があり,第1号は「ビスマルク」 (Bismarck) ,第2号 は「 演劇文化 」(Theaterkultur), 第3号はリヒ ャ ルト・ エルスナ ー の『 将軍 』 (Richard Elsner: Der General)であった。後者については,エルンスト・モーリッ ツ・アルントの『ライン川 ドイツの川にして,ドイツの国境にあらず』(Ernst Moritz Arndt: Der Rhein, Deutschlands Strom, aber nicht Deutschlands Grenze)しか刊 行されなかった。 (3)祖 国文化会の<文化会文庫>(>Kulturdienstbücherei< des Vaterländischen Kulturdienstes) 「祖国文化会の<文化会文庫>」は,1925年7月にベルリンに設立され,鉄兜団 (Stahlhelm) ,人狼(Werwolf),青年ドイツ騎士団(Jungdeutscher Orden) ,ヴァ -91- 竹 岡 健 一 イキング(Wiking),ドイツ同盟(Deutschbund),青年の国同盟(Junglandbund) といった愛国主義的な団体と結びつきを持っていた。 年会費は,個人会員が1マルク,法人が少なくとも20マルクで,4冊の「義務 の巻」が引き渡された。また, 「選択の巻」も利用でき,様々なタイトルの本が用 意されていた。本の選定は,13人の人物から成る「文学委員会」 (Literaturausschuß) によってなされた。 (4)民族ドイツ図書同好会(Volksdeutsche Buchgemeinde) 「民族ドイツ図書同好会」は,1908 年から「民族出版社団体」 (Vereinigung völkischer Verleger) の 支 配 人 を 務 め て い た ヘ ル マ ン・ ケ ラ ー マ ン(Hermann Kellermann)が所有する「アレクサンダー・ドゥンカー出版社」 (Alexander Dunker Verlag)によって,1926年にワイマールで設立された。 毎年4冊の「義務の巻」が刊行され,総クロース装で各3マルクだった。それ と並んで,国家的方向性の出版社の在庫から, 「選択の巻」も提供された。郵送料 は会員負担だったが,その代わり,本は小売書籍販売よりも25-33パーセント安 かった。 69) ワイマール共和国における「最も重要な民族主義的ブッククラブ」 であり, 「国 民文化」(Nationalkultur)の思想が前面に出された。 今日貧しくなった愛国主義的な人々が,彼らに好感の持てる衣装に包まれ たよい精神的糧を提供する美しく安い本を必要としているので,特定の,国 民教育に特に価値のある作品の大規模な売れ行きを保証することによって,会 員のための有利な購入価格を可能にする。読書の素材は,ドイツの作家の新 しい作品と並んで,価値溢れる古いドイツの文学的な民族財産をもたらし,な 70) によりも,深められた,民族性に根差した教養と世界観に奉仕すべきである。 具体的には,1926-1927年にかけての「義務の巻」として,ヴィリバルト・ア レクシス『イーゼグリム』(Willibald Alexis: Isegrimm),オットー・ハウザー『ゲ ルマン人の信仰』 (Otto Hauser: Germanischer Glaube),『エッダ』(沢山の星図つ き)(Die Edda, mit vielen Sternkarten),およびエーゴン・フォン・カップヘア (Egon von Kapherr)の小説があげられる。「選択の巻」には,アードルフ・バル 69) Justus H. Ulbricht: >Von deutscher Art und Kunst< - Völkische Verlagsaktivitäten in Weimar. In: Ein Verlag braucht eine große Stadt. Verlage in Weimar. Hrsg. vom Förderkreis Pavillon e. V.(Jahresgabe 1995)Förderkreis Pavillon e. V. Weimar 1995, S. 26-32, hier S. 29. Zitiert nach Melis 2012, S. 567. 70) Zitiert nach Scholl 1994, S. 90. -92- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ テルス『人種と民族性』(Adolf Bartels: Rasse und Volkstum) ,マリー・ディールス 『国内のフランス人』(Marie Diers: Franzosen im Land) ,エルンスト・ハウク『故 郷の宗教』 (Ernst Hauck: Heimatreligion),オットー・ハウザー『ユダヤ教の歴史』 (Otto Hauser: Geschichte des Judentums),エーバーハルト・ケーニヒ『もし老フ リッツが知っていたら』(Eberhard König: Wenn der alte Fritz gewußt hätte) ,ハイン リヒ・ロツキイ『人間とその本』(Heinrich Lhotzky: Der Mensch und sein Buch), ユーリウス・ラングベーン『教育者としてのレンブラント』(Julius Langbehn: Rembrandt als Erzieher),ハウプトマン・トレープスト『兵士の血』(Hauptmann Tröbst: Soldatenblut)などが含まれていた。また,こうしたドイツ民族的な文化の 重視は,出版社の余剰金の利用の理念にも反映し,中央の仲介諸経費の調達後に 余った資金は,愛国主義的な文化目的に役立てられ,その使途は,招聘された愛 国主義的な同盟と団体によって決定された。 「民族ドイツ図書同好会」の会員獲得には,「よいドイツの本の真の友の選ばれ 71) たグループ」のための「精神的共同体」 であるというエリート的な態度表明も 貢献した。宣伝に貢献した会員には,本などのプレミアが提供された。 (5)国民図書協会(Volksbuchgesellschaft) 「 国 民 図 書 協 会 」, 別 名「 ド イ ツ 図 書・ 文 化 愛 好 会 」(Deutsche Buch- und Kulturgemeinde)は,1928 年,ザーレ河畔ヴァイセンフェルス(Weißenfels a. d. S.)に設立され,マルティン・カレノフスキー(Martin Kallenowsky)の指揮の下, 民族主義的な青年運動の団体「シュヴァルツホイザー同好会」(Schwarzhäuser Ring)によって運営された。「シュヴァルツホイザー同好会」は,詩人ヴィルヘル ム・コツデ(Wilhelm Kotzde)によって設立された「鷲と鷹同盟」 (Bund der Adler und Falken)から分離して,カール・ディートリヒ(Karl Dietrich)によって率い られた団体であり,展覧会や朗読会といった催しと並んで,本の刊行を行っていた。 1930年の宣伝パンフレットで, 「国民図書協会は,もっぱらドイツ民族に奉仕す るつもりであり,決して純粋な利益ブッククラブと同等に扱われるつもりはな 72) い」 と述べられているように,活動の重点は,文化的側面よりも民族主義的な 側面に置かれ,1933年までに100を超えるタイトルが選択に供された。 (6)褐色図書同好会(Der Braune Buch-Ring) 「褐色図書同好会」は,ナチスに近い「時代史出版社」(Zeitgeschichte Verlag) 71) Justus H. Ulbricht: a. a. O. Zitiert nach Scholl 1994, S. 91. 72) Prospekt der Volksbuchgesellschaft von 1930, S. 1. Zitiert nach ebenda. -93- 竹 岡 健 一 によって,1932年にベルリンに設立され,1933年から出版を開始した。同出版社 は,1920年にヴィルヘルム・アンデルマン(Willhelm Andermann)によって設立 されたものである。 保守的・国家的なブッククラブは,総じて,ナチスの思想が一般的なものとな り,スムーズな政権交代と報復主義的でファッショ的な文化政策の確立が可能と なることに貢献したが, 「褐色図書同好会は」,明確にナチス政権を支持した点で, 他のブッククラブと一線を画しており,そのことは, 「ナチス」を意味する「褐色 の」という形容詞が名称に充てられたことにも表れている。すなわち, 「褐色図書 同好会」は, 「本の中に,ナチスの世界観を深め,新しい生の感情を強める最高の 最も価値溢れる手段を見る,思想的に近い男女の共同体でなければならない。<褐 色図書同好会>の指導部は,本を,ドイツ的思考の敵に対する戦いの効果的な手 段と考える。それゆえ,それは,非ドイツ的な作家の前線に,ついにドイツ的な 信条を持つ作家の前線を対置することを,自らのきわめて偉大で,きわめて美し 73) い課題とみなす。」 また,1933年から会員に無料で提供された月刊の会員雑誌『褐 色の騎士』(Der braune Reiter)第1号でも,会員への報告において, 「出版社の伝 統と<褐色図書同好会>の枠内で発言する作家の名が,<褐色図書同好会>のナ 74) チス的信条を保証する」 と述べられた。この号に記事が掲載されたバルドゥア・ フォン・シーラハ(Baldur von Schirach),エルンスト・グラーフ・ツー・レヴェ ントロウ(Ernst Graf zu Reventlow),ハンス・グレゴール(Hans Gregor) ,エル ンスト・フォン・ザロモン(Ernst von Salomon),トーア・ゴーテ(Thor Goote), フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー(Friedrich Georg Jünger),カール・アロイ ス・シェンツィンガー(Karl Aloys Schenzinger)といった人物も, 「褐色図書同好 75) 会」のナチス的傾向を証明していると言えよう。 ただし,同同好会で提供され た作品の中には,パウル・ブロック(Paul Brock),レナーテ・ゲデッケ(Renate Goedecke),エーリヒ・カルシース(Erich Karschies) ,エーゴン・ヘルムート・ ラケッテ(Egon Helmut Rakette),アルノルト・ロート(Arnold Roth) ,パウル・ ゼールホフ(Paul Seelhoff)といった作家らの,おおよそ無名の小説も含まれてい た。 「褐色図書同好会」でも,本の装丁は重視された。また,本の販売には,伝統的 な書籍販売も関与した。 73) Der Braune Buch-Ring. Werbebroschüre.(1933)S. 1. Zitiert nach ebenda, S. 91f. 74) K. A. Schenzinger: Mitteilungen an die Mitglieder des „Braunen Buch-Rings“. In: Der braune Reiter. 1(1933)H. 1/2, S.27. 75) Vgl. Der braune Reiter. 1(1933)H. 1/2. -94- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 6.左翼的労働者ブッククラブ(Linke Arbeiterbuchgemeinschaften) (1)グーテンベルク図書協会(Büchergilde Gutenberg) 「グーテンベルク図書協会」は,1924年8月29日, 「ドイツ書籍印刷業者教育連 合」 (Bildungsverband der deutschen Buchdrucker)の成人教育団体によってライプ ツィヒに設立され,1926年3月にベルリンへ移転した。会員数は,1933年までに およそ85,000人となり,社会主義的な労働者ブッククラブの中では最大となった。 同協会の設立に本質的な貢献をなし,初代支配人となったのは,教育連合会長の ブルーノ・ドレスラー(Bruno Dreßler)であった。また,企画顧問は,当初,社 会民主主義と労働組合の機関誌のための執筆者と編集者を長年務めた教養ある印 刷業者エルンスト・プレクツァング(Ernst Preczang)が務め,その後を,ヨハネ ス・シェーンヘア(Johannes Schönherr)とエーリヒ・クナウフ(Erich Knauf)が 引き継いだ。 「グーテンベルク図書協会」のシステムは,0,75マルクを払って入会した上,毎 月1マルクの会費で,三か月毎に1冊の本が提供されるというものだった。だが, すでに1926年の第四の四半期には,「義務の巻」が廃止され, 「選択シリーズ」が 導入された。また,1925 年 10 月1日に設立された「ブックマイスター出版社」 (Buchmeister-Verlag)と結びつくことによって,同協会の本は,より高い値段で 非会員にも販売された。1933年までに148-170タイトルが刊行され,総刊行数は 200-250万部であった。 同協会では,社会の現実を反映し,社会主義的な労働者文化のために道ならし をする労働者文学の確立が前面に出された。そのことは,ドレスラーの1928年の 次のような言葉にもよく表れている。 だが,人間はパンだけで生きるのではない。人間は精神的欲求も持ってい る。そして,ここ20-30年間の労働者運動を概観できる人は,この欲求がど のように発展したかも知っている。グーテンベルク図書協会は,その存在を, 専門技術的検討と並んで,この認識に負っている。1924年8月29日にライプ ツィヒのフォルクスハウスで,ドイツ書籍印刷業者教育連合の代表者会議の 一致した決議でそれが誕生したとき初めて,労働者大会が私的な利益の探求 や資本主義的な利益獲得の努力に影響を受けることなく,書籍の生産に,と りわけそれらの精神的本質からして労働者階級に近く,またはなんらかの仕 方で労働者にとって重要な生産に介入するために,手をあげたのだ。これが, グーテンベルク図書協会の目的であり目標であった。つまり,文学の領域で, 労働と労働者の生に完全に正当化された故郷の権利を獲得し,手引きとして, 76) 労働者の精神的な欲求のある程度の満足として認められることである。 -95- 竹 岡 健 一 こうした意味で, 「グーテンベルク図書協会」において,協同組合の原理に則っ て,支払われた会費がすべて本の刊行と会員雑誌の普及に充てられ,それによっ てすべての会員が利益を得たことや,単なる本の割引購入組織でなく,本来の意 味での「共同体」であろうとし,事業所やボランティアの援助者であるその職員 と会員との間の接触を重視したことは,とりわけ市民的,営利的なブッククラブ との大きな違いである。 だが,もちろん,創立三十周年の記念誌において次のように述べられている通 り,より広範囲な影響を及ぼすことも意図されていた。 それはドイツの労働組合の文化的な意志の活動であったが , 自分自身への 高い要求が , 最初からそれを , すべての階級の教養を求める人々もまた教養の ある人々も席を見出せ , 信頼のおける文学的な世話を受けられる読者共同体 77) へと規定した。 しかし他方で,同じ記念誌で次のように述べられているように,それは決して 大衆化と同義ではなかった。 協会,その協力者,およびその友人たちの教育的意図は,個々人の「内的 人格」を最良の能力で活性化し,育て,人間が大集団をなす単調で捉えどこ ろのない大衆の中で己を見失わないようにすることを目指す。この意味で, 当協会は,大衆化に反対の影響を及ぼす精神的な力である。それは,巨大な 78) 送付センターではなく,感覚と趣味が育まれる読書共同体であり続ける。 「グーテンベルク図書協会」の主な作家としては,ルートヴィヒ・アンツェング ルーバー,マックス・バルテル(Max Barthel),オスカー・マリア・グラーフ (Oscar Maria Graf),ヴィセンテ・ブラスコ・イバニェス(Vicente Blasco Ibáñez), マックス・クレッツァー(Max Kretzer),ヨハネス・シェーンヘア,アップトン・ シンクレア(Upton Sinclair),シンクレア・ルイス(Sinclair Lewis),ジャック・ ロンドン(Jack London),マルティン・アンデルセン・ネクセ(Martin Anderson 76) Bruno Dreßler.: Büchergilde Gutenberg. In: Die wirtschaftlichen Unternehmungen der Arbeiterbewegung. Ein Blick in die Gemeinwirtschaft. Hrsg. vom Bezirksausschuß des Allgemeinen Deutschen Gewerkschaftsbundes. Verlagsgesellschaft des Allgemeinen Deutschen Gewierkschaftsbundes. Berlin 1928, S. 113-117, hier S. 113f. Zitiert nach Melis 2002, S. 111. 77) Zitiert nach Hiller[um 1968], S. 11f. 78) Zitiert nach Strauß 1961, S. 265. -96- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ Nexö),エルンスト・プレクツァング,ブルーノ・トラーヴェン(Bruno Traven), マーク・トウェーン,アルノルト・ツヴァイクなどがいた。したがって,そこに は,社会主義的小説(シンクレア,ネクセ)と並んで,恋愛小説(ロンドン,ト ラーヴェン)も見られた。とりわけトラーヴェンは,1927年まで原稿審査委員だっ たプレクツァングによって見いだされた作家であり,『死の船』(Das Totenschiff) などの成功によって, 「グーテンベルク図書協会」の発展に貢献した。その他,同 時代の作家の旅行記や,自然,芸術,社会に関する実用書,およびヨハン・ヴォ ルフガング・フォン・ゲーテ,フリードリヒ・フォン・シラー,フョードル・ミ ハイロヴィチ・ドストエフスキー,エーミール・ゾラ(Émil Zola)などの世界的 な古典も提供された。また,1929年からは,クナウフの原稿審査の下で,ソヴィ エトの文学と歴史の出版が強化された。 印刷業者連合の団体だけに,印刷技術に多くの価値が置かれ,出版プログラム に劣らず本の装丁も「グーテンベルク図書協会」の成功の重要な一因をなしたが, かといって,決して専門的な特徴は帯びなかった。会員には,雑誌『図書協会』 (Die Büchergilde)が無料で配布されたが,それは,誌上での意見交換を通じて, 出版社指導部と会員との間に密接なつながりを作り出すことに貢献した。 つまり,私たちは,グーテンベルク図書協会の会員が何かを通知したい, またはその他に何かを言いたいとき,この場で協会または作家に話をするた めに発言することを,非常に望ましいと考えている。私たちは,緩い結びつ きであるつもりはなく,人生を向上させるための重要な文化領域を獲得しよ うとする連帯した共同体でありたいのだ。〔中略〕例えば,様々な会員から, 図書共同体のある本の最も印象深い箇所を,あるいはその本の読者への影響 79) についても何かを聞くことは,大変興味深いだろう。 「グーテンベルク図書協会」は,イデオロギー的にナチスと相容れず,1933年5 月9日に解体され, 「ドイツ労働戦線」に併合された。ドレスラーは,同年スイス に亡命し, 「亡命協会」(Exilgilde)を設立して活動を続け,1945 年までに会員数 100,000人に達した。また,1938年までは,チェコスロヴァキアとオーストリアに も独立した「グーテンベルク図書協会」があった。 (2)ブックサークル(Der Bücherkreis) 「ブックサークル」は,「社会主義教育活動全国委員会」(Reichisausschuß für 79) Vgl. Die Büchergilde. 1(1925)Nr. 1, S. 3. -97- 竹 岡 健 一 sozialistische Bildungsarbeit)または社会民主党(SPD)の出版社「J. H. W. ディー ツ」(J. H. W. Dietz)の発案により,1924年10月,ベルリンに設立された。1933年 までの最大会員数は,約50,000人に達した。 入会金はなく,会員は,毎月1マルクの会費を払い,年間4冊の本を受け取っ た。本は,1927年からは四半期ごとに2冊から1冊を,1929年から1932年までは 3冊から1冊を選ぶことができた。また,毎月の会費は,1932年から0,9マルクに 引き下げられた。1933年初めまでに,全部で約70タイトルの本が100万部以上販売 された。本とは別に,雑誌『ブックサークル』(Der Bücherkreis)も当初は毎月, 1930年からは三か月毎に,無料で引き渡された。 業務の執行に責任を持ち,組織を外部に対して代表する「指導的委員会」は, 「社会主義教育活動全国委員会」委員で国会議員のアルトゥール・クリスピーン (Artur Crispien), 「大ベルリン地区社会民主党教育委員会」 (Bildungsausschuß der SPD für Groß-Berlin)秘書アルベルト・ホルリッツ(Albert Horlitz) ,社会民主党 婦人雑誌『 婦人世界 』(Frauenwelt) 編集者リヒ ャ ルト・ ロ ー マン(Richard Lohmann)から成り,ローマンは,1930年に, 「コンツェントラツィオーン株式会 社」 (Konzentration-AG)の支配人アードルフ・ルップレヒト(Adolf Rupprecht) と交替した。また,文学に関する助言者としては , 特にアルノー・ホルツ(Alno Holz)とマルティン・アンデルセン・ネクセがあげられる。 「ブックサークル」は,出来る限りドイツと世界の社会主義的な詩人に発言さ せ,労働者階級に影響を及ぼし,新しい才能を目覚まし,新しい読者を作り,そ うして社会主義的書籍販売全体がより広い土台と見込みのある立場を得るのを助 けようとした。例えば,アルトゥール・クリスピーンは,次のような階級闘争的 立場を表明していた。 階級意識を目覚めさせられた労働者は,資本主義が与えるのとは違った精 神的糧を要求する。〔中略〕社会民主主義的な運動は,自らのために独自の豊 かな文学を創造する。〔中略〕戦うプロレタリアートは,これらの芸術を,彼 80) を抑圧する者に対する効果的な武器に変える。 81) しかし他方で,雑誌においては, 「ブックサークルは政治的組織ではない」 と され,アクチュアルな政治的問題は扱われなかった。本の刊行においても,社会 80) Vgl. Christa Schwarz: Die Stellung der sowjetischen Belletristik im deutschen Verlagsschaffen 19171963. In: Beiträge zur Geschichte des Buchwesens, Bd. 4, Leipzig 1969, S. 7-161, Anm. 258. Zitiert nach Scholl 1994, S. 78. 81) Der Bücherkreis. 1(1925)H. 9, S. 18. -98- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 主義的な文学の普及と同時に, 「私たちの時代の創造的な人々にとって持続的な価 82) 値を持つ作品を会員の間に普及させる」 ことも目的とされ,むしろ文学に重点 が置かれ,その結果,本のプログラムは市民的なブッククラブのそれとさほど変 わらないものとなった。 「ブックサークル」の1924年から1928年にかけての本の企画を担当したのは,印 刷業者フリードリヒ・ヴェンデル(Friedrich Wendel)であった。ヴェンデルは, 1907 年に社会民主党に入ったが,第一次世界大戦中にスパルタクス団員となり, その後「ドイツ共産主義労働者党」(KAPD)の設立にかかわり,共産主義の労働 者新聞で編集者を務め,1922年に再び社会民主党に戻ったという経歴を持つ人物 であった。彼は,任期中に25冊の本を企画編集し,それらを,600,000冊をやや上 回るほど販売した。その成功によって, 「ブックサークル」は,すでに1926年,6 人の有給のスタッフ,360 の支払い所,1,023 の支払い所支部を持ち,外国にも大 変多くの会員がいた。ヴェンデルは文学と通俗科学の本の刊行を重視し,そのこ とが社会主義的プログラムの欠如として左翼社会主義者から批判を受けたが,そ れでも,提供された本の中には,パウル・ツェヒ(Paul Zech) ,フリードリヒ・ ヴォルフ(Friedrich Wolf),マクシム・ゴーリキーといった左翼的な作家の作品 や,労働者運動の歴史に関するものが見られた。 1929年, 「ドイツ共産党」(KPD)と「ドイツ共産主義労働者党」の元指導的メ ンバーであるカール・シュレーダー(Karl Schröder)がヴェンデルの跡を継いだ。 左翼社会主義者であるシュレーダーの下では, 「ブックサークル」の本の企画は統 一的な左翼的なプロフィールを得,フランツ・ユング(Franz Jung)やアダム・ シャル(Adam Scharr),アルベルト・ズィグリスト(Albert Sigrist:アレクサン ダー・シュヴァープ〔Alexander Schwab〕のペンネーム)の作品などが刊行され た。中でも重要なのは,1930 年に刊行されたズィグリストの『建築の本』(Das Buch vom Bauen)であり,現代建築およびそれに類したテーマのマルクス主義的 分析であった。 こうした毎月の本とは別に, 「ブックサークル」では,タイポグラファーおよび カリグラファーとして著名なヤン・チヒョルト(Jan Tschichold)の装丁による前 衛的な本や,ブロンズの彫像や絵も購入できた。これらの追加の提供品も,本の 83) プログラムと同様に,キッチュと「真の念入りな芸術」 を区別し,市民的伝統 から解放されたプロレタリア文化を確立するという目的を持った教育政策的措置 とみなされる。 82) Der Bücherkreis. 2(1926)H. 19, S. 122f., hier S. 122. 83) Kunst und Arbeit. In: Der Bücherkreis. 1(1925)H. 15, S. 56. -99- 竹 岡 健 一 「ブックサークル」では,社会主義的書籍販売と党新聞の事業所が支払い所・販 売所となった。社会主義的に方向づけられていない書籍販売は販路から除外され たものの,この方法は,1945年以後に発達した「現代的ブッククラブ」の先取り 84) であった。 また,このように政治的組織を拠りどころとする度合いが大きい分, 「ブックサークル」は,「グーテンベルク図書協会」と比べて社会主義的な方向性 も鮮明であった。それは,労働者運動の文化的・文学的関心のためのブッククラブ であり,会員も社会民主党の幹部や社会民主主義的な労働組合の幹部,および労働 者に限られた。また,利益はすべて,本の生産または会費の軽減に利用された。 すでに1925年初め,ヴェンデルの下で, 「ブックサークル」と「グーテンベルク 図書協会」の提携が話題とされたが,後者はこれを拒否した。ただし,両者はそ の後も友好的協力関係にあり,例えば,シュレーダーは前者の催しに弁士として 登場し,幾人かの作家は,その作品を両出版社で刊行し,互いに書評で肯定的に 評価し合った。他方, 「ブックサークル」は,1933年,国会議事堂炎上の直後,ベ ルリンの事務所がナチス突撃隊に占拠されて,出版社の書類を破棄され,その後, 「ドイツ労働戦線」に併合された。 なお,商標は版画家で画家のカール・シュルピヒ(Karl Schulpig)によってデ ザインされた「ブックサークルの中にいる男性」 (Mann im Bücherkreis)であり, その後,「J. H. W. ディーツ出版社」のポケットブックの商標として使われた。 (3) ウ ラニア出版協会・ウラニア自由教育研究所(Urania-Verlags-Gesellschaft・ Urania Freie Bildungsinstitut) 「ウラニア出版協会・ウラニア自由教育研究所」は,大テューリンゲン(GroßThüringen)の社会民主党指導部の財政的支援により,1924年秋,イエナに設立さ れた。会員数は,雑誌の刊行部数から,約4万人であったと推測される。 年間4冊の本と12冊の月刊誌が提供された。本と雑誌を含めた三か月毎の会費 は,最初は,本が仮綴じの場合1,25マルク,綴じられた版の場合1,8マルクだった が,後にそれぞれ1,6マルクと2,25マルクに値上げされた。また,総クロース装の 版も提供され,その場合の三か月毎の会費は3マルクであった。 提供された本は,すべてが自らの出版社から刊行されたのではなく,他の出版社 から受け継がれたものも多くあった。特にドレスデンの「プロレタリア自由思想家 出版社」 (Verlagsanstalt proletarische Freidenker),ライプツィヒの「自由思想家出 版社」 (Freidenkerverlag),ベルリンの「自由思想家出版協会」 (Verlagsgesellschaft Freidenker)があげられる。これらの出版社は,1931年に「ウラニア出版協会」に 84) Vgl. Strauß 1974, S. 282, 284. -100- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 吸収され,そのさい,名称が「ウラニア自由思想家出版社」 (Urania-Freidenker Verlag GmbH)に変更された。 他のブッククラブとの最も大きな違いは,雑誌『ウラニア = 自然知識と社会学 のための月刊誌』(Urania-Monatsheften für Naturerkenntnis und Gesellschaftslehre, 以下『ウラニア』と略記する)の刊行を主たる業務とし,三か月毎の本の刊行が むしろ雑誌の付録と見なされた点にあった。新たなブッククラブ設立の意図につ いて,『ウラニア』第1号の「緒言」では,次のように述べられた。 イラストの豊富な月刊誌『ウラニア』は,一方で発達理論的な基本的立場 から,わかりやすく興味を惹くやり方で,自然の本性と生成について,特に 自然に対する私たち人間の立場について報告する。他方で,先史と文化史, 地理学と民族学,経済と技術,生物学と心理学から,人間の共同体の共同生 活を制御している,また将来制御するべき法則が推論される。だが, 『ウラニ ア』の読者は,社会学的教育を受けた目で世界を遍歴するべきである。傑出 した自由思想家についての論文は,自由な人間の世界観へと向かい,そうし た人間のために,同時代の詩人の作品からの見本も宣伝を行うべきである。 付録の『身体』(Der Leib)では,身体文化と健康な生き方が特別な取扱いを 85) 見出す。 こうして, 『ウラニア』では,通俗科学的なやり方で,自然科学と人文科学の知 識の仲介が行われたが,政治教育も決して疎かにされることはなかった。この点, 雑誌の二年目の序文では,次のように言われた。 私たちの大衆教育活動の目下の目的は,階級闘争を実行できるようにする 86) ために,プロレタリアートを精神的に目覚めさせることである。 実際, 「ウラニア出版協会・ウラニア自由教育研究所」の作家は,社会民主主義 的・自由思想家的運動に属しており,特に重要なのは,同協会・研究所会長であ るユーリウス・シャクセル(Julius Schaxel)と社会民主主義的ゲルマニストで教 育学者のアンナ・ズィームセン(Anna Siemsen)であった。全部で89のタイトル があったが,最初に刊行された本として,ユーリウス・シャクセルの『生の科学 の発展』(Die Entwicklung der Wissenschaft vom Leben)のほか,エードゥアルト・ : Zum Geleit! In: Urania-Monatsheften für Naturerkenntnis und Gesellschaftslehre. 1 85) [ANON] (1924/25)H. 1,[S. 1]. 86) Zitiert nach Vetter: Geistige Erweckung des Proletariats. 1986, S. 777. Zitiert nach Melis 2002, S. 122. -101- 竹 岡 健 一 エルケス『神はいかに創造されたのか』 (Eduard Erkes: Wie Gott erschaffen wurde), ゲオルク・エンゲルベルト・グラーフ『石油と石油政策』 (Georg Engelbert Graf: Erdöl und Erdöl-Politik),オットー・フェリックス・カーニッツ『社会の中の子供』 (Otto Felix Kanitz: Das Kind in der Gesellschaft)があげられる。本以外に,講演も 不定期に開催され,1926年と1927年にはカレンダーも刊行された。 (4)万人のためのウニヴェルズム文庫(Universum-Bücherei für Alle) 「万人のためのウニヴェルズム文庫」は,共産党, 「国際労働者協会」 (Internaionale Arbeiter-Hilfe),および「新ドイツ出版社」(Neue Deutsche Verlag)の協力によ り,1926年10月にベルリンに設立された。その際,中心的な役割を果たしたのは, 共産党中央委員会委員であり, 「赤いフーゲンベルク」(der „rote Hugenberg“)の 異名を持つ左翼の有力新聞発行者であり,国際労働者協会の発案者でもあったヴィ リ・ミュンツェンベルク(Willi Münzenberg)であった。会員数は,1932年までに 約40,000人に達した。 入会金0.3マルク,会費は月1,1マルクで,三か月毎に1冊の本が提供された。出 版プログラムは,初めから「三か月毎の巻」と「選択の巻」で構成された。この うち, 「三か月毎の巻」はブッククラブの自前の本だったが,「選択の巻」には, 「新ドイツ出版社」, 「マーリク出版社」(Malikverlag), 「キーペンホイアー出版社」 (Kiepenheuer-Verlag),「ローヴォルト出版社」(Rowohltverlag),および「エーリ ヒ・ライス出版社」 (Erich Reiss-Verlag)などの本が借用された。1933年春までに, 総数115-149のタイトルとカレンダーが提供され,1932年だけで20万冊が販売さ れた。文学顧問には,マクシム・ゴーリキー,ケーテ・コルヴィッツ(Käthe Kollwitz),エゴーン・エルヴィーン・キッシュ(Egon Erwin Kisch) ,ジョージ・ グロス(George Grosz),ヨハネス・R. ベッヒャー(Johannes R. Becher) ,アップ トン・シンクレアのような人物がいた。 提供された本の内容は概ね社会主義的に方向づけられており,とりわけソヴィ エトの作家を出版し,ドイツの読者に紹介することと,若い作家に出版の可能性 を提供することが重視された。具体的には,①ハインリヒ・ハイネ,スタンダー ル(Stendhal),エーミール・ゾラ,オノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac) の よ う な 人 文 主 義 的 な 世 界 文 学 の 作 品, ② コ ン ス タ ン チ ン・ フ ェ ー ジ ン (Konstantin Fedin), ボ リ ス・ ア ン ド レ ー ヴ ィ チ・ ピ リ ニ ャ ー ク(Boris Andrejewitsch Pilnjak),セルゲイ・トレチャコフ(Sergej Tretjakow)などの新し いソヴィエト文学と,ソヴィエトに関する旅行記や写真帳,③エゴーン・エルヴィー ン・キッシュ,ヨハネス・R. ベッヒャー,アンナ・ゼーガース(Anna Sehgers),ク ルト・クレーバー(Kurt Kläber)といったドイツのプロレタリア的・革命的文学, -102- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ ④クルト・トゥホルスキー(Kurt Tucholsky),ヴァルター・メーリング(Walter Mehring),アルフォンス・ゴルトシュミット(Alfons Goldschmidt)といった市民 的・進歩的な作家の作品,⑤カール・マルクス(Karl Marx),ウラジミール・レー ニン(Wladimir Lenin),ローザ・ルクセンブルク(Rosa Luxemburg) ,フランツ・ メーリング(Franz Mehring)などの歴史的・理論的著作,といったものである。 会員にとってとりわけ魅力的だったのは,ゾラとトゥホルスキーの作品であっ た。例えば,後者の『ドイツ,世界に冠たるドイツ』 (Deutschland, Deutschland über alles)は, 「新ドイツ出版社」では総クロース装で5マルクだったが,会員には2 マルクで提供された。また,同書に見られるように, 「万人のためのウニヴェルズ ム文庫」では,本の装丁も重視された。 会員には,毎月1冊の雑誌が無料で配布された。タイトルは三度変わっており, 1926年末までは『あれこれ』(Dies und Das),1927-28年は『万人のための雑誌』 (Blätter für Alle),1929 - 33 年は『万人のためのマガジン』 (Magazin für Alle)で あった。これらの雑誌は,教養雑誌と娯楽雑誌の特徴を備え,自由な書籍販売を 通じても売られ,また共産主義的日刊紙『夕方の世界』 (Welt am Abend)の付録 としても引き渡された。そのため,発行部数が260,000部と高く,書籍市場で重要 な地位を占めたが,そこには,ミュンツェンベルク=コンツェルンの財政的支援 があった。 雑誌と同様に大きな影響を及ぼしたのは,「ウニヴェルズム祭」(UniversumFeste)であり,1928年から毎年ベルリンで開催され,その頂点は,20,000人以上 の来場者を迎えた1931年であった。この催しでは, 「万人のためのウニヴェルズム 文庫」の作品の朗読と上演と並んで,音楽,大市,ダンス,並びに福引が提供さ れ,知名度の高まりと会員数の増加に役立った。その他に, 「交通事故とスポーツ 事故の保険」(就業不能または死亡の場合に 5,000 マルクまで支払われる)が無料 で提供された。また,新会員4名の勧誘に対して, 「選択の巻」から1冊が進呈さ れた。 「万人のためのウニヴェルズム文庫」は,1933 年3月,ナチスによって禁止さ れ,以後は,バーゼルから活動が継続された。 (5)国民図書同好会(Volks-Buch-Gemeinde) 「国民図書同好会」は,アルトゥール・ヴォルフ(Arthur Wolf)によって,1926 年春,ライプツィヒに設立された。ヴォルフは自由思想家運動の出身であり,1923 年に出版社であり書店でもある「ディ・ヴェルフェ」 (Die Wölfe)を設立し,1923 年以後のプロレタリア作家の様々な作品と並んで,彼によって刊行された雑誌『家 庭の時間 芸術,文学,および詩のためのプロレタリアの演壇』 (Heimstunden. -103- 竹 岡 健 一 Proletarische Tribühne für Kunst, Literatur und Dichtung)を販売していた。同出版社 の最初の刊行物であるこの雑誌の目的は, 「職業につく民衆の女性と若者に,苦し みに満ちた昼間の労働の後で,夕方自分の家で娯楽と刺激と教訓を与えること。 そして,残念ながらいたるところで普及している安く底の浅い低俗な小説文学が 87) 労働者の家に入るのを防ぐこと」であった。 また,ブルーノ・フォーゲル(Bluno Vogel) ,エルンスト・プレクツァング,マックス・バルテル,ゲリト・エンゲル ケ(Gerrit Engelke),エルンスト・トラー(Ernst Toller) ,オスカー・マリア・グ ラーフ,ヘルミュニア・ツア・ミューレン(Hermynia Zur Mühlen) ,クルト・ク レーバーといった左翼的な作家の本を主な刊行物としながらも,アクチュアルな 問題とはかかわらない詩集や散文も提供した。出版社は当初は成功したようだが, 1926年に財政難に陥った。本は少しのタイトルしか刊行されず,雑誌も1925年と 1927年に名称変更を行ったが,うまく行かなかった。 しかし,こうした状況下でも,ヴォルフはなお活動的であり,左翼的な出版社 協会を設立し,雑誌『文化大観 左翼的文学のための書誌新聞』(Kulturschau. Bibliographischer Anzeiger für die linksgerichtete Literatur)を刊行したが,それは,彼 がすでに出版した本のうち2冊の編集者として大逆罪に問われていて,訴訟のた めの費用を捻出する必要があったためだと考えられている。そして,彼にブック クラブを設立させたのも,国民教育という意図と同時に,特に経済的な理由であっ 88) たと見られている。 こうして,1926 年,本の販売増を意図して,ブッククラブ の設立が告知されたが,それは,「会員に『義務の巻』を押しつけず,すでに150 冊の本からの ― またこれに絶えず新たなものが加わる ― 自由な選択を提供し, 89) しかも他のブッククラブより安い,唯一の左翼的方向のブッククラブ」 であった。 本は三か月毎に1冊提供され,料金着払いで受け取られた。会費は三段階に分 けられ,背革装は1,6マルク,絹麻装は2,5マルク,装クロース装または半クロース 装は3,6マルクであった。また,提供されたタイトルの中から自由な選択をするこ とが保証され,そこには他の出版社の本も含まれていた。 国民図書同好会は,ドイツのブッククラブすべての中で,選択の可能性が 最も大きい。現在有効な選択リストでは,300 冊の本が完全に自由に選択で 90) き,継続的に新しいものも追加される。 87) Zitiert nach Schütte: „Die Wölfe“, S. 7(Ohne Beleg). Zitiert nach Scholl 1994, S. 87. 88) Vgl. Scholl 1994, S. 87. 89) Heimstunden. Proletarische Tribühne für Kunst, Literatur und Dichtung.(1926)H. 2, S. 96. Zitiert nach ebenda, S. 88. -104- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ しかしながら, 「すべての文化的人間は,アルコールや悪しき楽しみに無駄にお 金を使わず,自己の家庭文庫へのこの安価な道を行き,持続的な価値を持つ精神 91) 的な財産という宝物を自らの家に集めなければならない」 というヴォルフの要 求は,共鳴を見出さなかった。 にもかかわらず,彼は, 「国民図書同好会」設立の二か月後,ブッククラブを想 起させるもう一つの企業,つまり「教養と娯楽のための国民文庫」 (Volksbücherei für Bildung und Unterhaltung)の設立も告知し,1926 年刊行の最初で唯一の巻は, 物語と様々なテーマの論考と,様々な芸術的付録を含んでいた。 だが,ブッククラブの計画は失敗に終わり,出版社の財政を健全化することは できなかった。「国民図書同好会」の活動は間もなく停止され,1927年中頃には, ヴォルフは書店での本の販売に専念した。 (6) マルクス主義図書協会(Marxistische Büchergemeinde) 1927年10月,ベルリンの「ラウプ出版書籍販売」 (Laubschen Verlagsbuchhandlung) から,月2回刊行の雑誌『階級闘争』(Der Klassenkampf)が,社会民主党内部に おける抵抗雑誌として刊行された。編集者であるマックス・アドラー(Max Adler), クルト・ローゼンフェルト(Kurt Rosenfeld),マックス・ザイデヴィッツ(Max Seydewitz),ハインリヒ・シュトレーベル(Heinrich Ströbel)らは,保守的なブ リューニング政権に対する社会民主党の容認政策に反対しており,自らを同党内 部の左翼と理解していた。そして,これらの人々によって,同じ月に,ベルリン で「マルクス主義図書協会」が設立された。だが, 「ラウプ出版書籍販売」の社長 オットー・ブラス(Otto Brass)は,同協会のために自らの出版社を使わせること は拒否した。そのため, 「マルクス主義図書協会出版社」 (Verlag der marxistischen Büchergemeinde GmbH)が設立され,ザイデヴィッツの妻ルート(Ruth)が社長 を務めた。 最初の本が刊行されたのは1930年末で,三か月毎に,3マルクの会費で「レッ ドブック」 (Rote Bücher)が1冊引き渡されたが,全部で5冊しか刊行されなかっ た。各巻の刊行部数は3,000部であったが,会員数が少なかったため,4,75マルク の価格で,一般の書籍販売を経て非会員にも提供された。それどころか,1932年 冬には,会員も非会員も三つの巻をそれぞれ2マルクで購入し得るとの告知がな された。本の内容は,下記のように,概ね政治的なものだった。本以外に,上記 : Eine Preisfrage! In: Heimstunden. Proletarische Tribühne für Kunst, Literatur und 90) [ANON] Dichtung. Sonderheft(1927),[Heftrückeninnenseite] . Zitiert nach Melis 2002, S. 117. 91) Heimstunden. Proletarische Tribühne für Kunst, Literatur und Dichtung.(1926)H. 2, S. 96. Zitiert nach Scholl 1994, S. 88. -105- 竹 岡 健 一 の雑誌『階級闘争』も提供されたが,それは, 「政治的な日々の問題をマルクス主 義的な観点から考察し,それによって,民主主義的な共和国の内部においても, プロレタリアートの解放の闘いは,プロレタリアートの利益をきわめて熱心に代 表することにおいてのみ遂行され得るという認識が深まることに貢献しようとす 92) る」 (強調は原文に拠る) ものだった。 社会民主党当局にとって,「マルクス主義図書協会」の設立と「レッドブック」 の刊行は,反抗的な会員を規律に服させる上で好都合だった。というのも,党の 考えでは,同図書協会は党内部の特殊組織であるが,そうしたものは, 「党の利害 とは一致せず,党を汚す行動とみなされねばならなかった」からである。 「それゆ え,党委員会は,党の内部または党と並んでの自律した組織設立への一切の特別 93) 行動と努力の中止を要求した。」 しかし,ザイデヴィッツは,「マルクス主義図 書協会」のための活動の停止も, 「レッドブック」と週刊新聞『戦いの合図』 (Das Kampfsignal)の刊行の中止も拒否し,1931年9月29日に,党から除名された。 このように,社会民主党当局は,表面上は「マルクス主義図書協会」の組織上 の特殊性を問題にしたが,実際には,その批判は「そこで刊行された出版物に向 94) けられていた。」 というのも,すべての本は,単に当時の政治的状況との批判的 対決であるのみならず,社会民主主義の議会会派および党組織との根本的な政治 的相違を示していたからである。例えば,ブッククラブの第2巻『階級闘争にお ける組織 労働者階級の政治的組織の問題』 (Die Organisation im Klassenkampf. Das Problem der politischen Organisation der Arbeiterklasse)では,党の構造の内部におけ る変化の必要性が明確に述べられていた。1931年に刊行された第3巻『ソヴィエ ト=ロシアに対する私たちの立場 ロシア革命の教訓と展望』 (Unsere Stellung zu Sowjet-Rußland. Lehren und Perspektiven der Russischen Revolution)は,ソヴィエト に対する作家らの親近感を示しており,それは1918年以後の社会民主党の政策と 一致しなかった。1932年12月に刊行された『社会主義への途上で ハイデルベル クからエアフルトまでの社会民主主義的諸問題の批判 』 (Auf dem Weg zum Sozialismus. Kritik der sozialdemokratischen Probleme von Heidelberg bis Erfurt)も,既 にその書名において,党への批判の意図を示していた。さらに,このブッククラ ブで刊行された他の2巻も,多くの点で,公式な党の考えと一致しなかった。 92) Der Klassenkampf. 1(1927)H. 1, S. 1. 93) Beschluß des Parteiausschusses vom 14. 7. 1931. Zitiert nach Max Seydewitz: Es hat sich gelohnt, zu leben. Lebenserinnerung eines alten Arbeiterfunktionärs. Bd. 1: Erkenntnisse und Bekenntnisse. Dietz. Berlin 1976, S. 236. Zitiert nach Scholl 1994, S. 95. 94) Ruth Seydewitz: Alle Menschen haben Träume. Maine Zeit – Mein Leben. Buchverlag Der Morgen. Berlin. 3. Auflage.[o. J.] , S. 125. Zitiert nach Melis 2002, S. 124. -106- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ しかし,それでもやはり「マルクス主義図書協会」は社会民主党の陣営から生 じたものであり,後の党からの除名を別とすれば, 「ウラニア出版協会・ウラニア 自由教育研究所」の場合と同じように,社会民主党の教育政策との緊密な接触が 見られた。ただし,後者では教育的な問題が前面に置かれたのに対し, 「マルクス 主義図書協会」では政治的な輪郭づけと既存のものに対する境界づけがより重視 されたのであった。 私たちは,プロレタリアートの階級闘争のための道しるべを,何事も勇敢 に決然と述べる,揺り動かす実り豊かな批判を必要とする。仮借なく,幻想 を抱くことなく,真実が求められ,口にされ,過去の誤りが知らされ,現在 の課題が指示され,未来への道,権力獲得への道,社会主義への道が示され 95) ねばならない。 なお,「マルクス主義図書協会」の設立後間もなく,出版社名は, 「マルクス主 義図書協会出版社」から「自由出版協会」 (Freie Verlagsgesellschaft GmbH)に変 更されたようである。 (7)自由愛書家協会(Gilde freiheitlicher Bücherfreunde) 「自由愛書家協会」は,「ドイツ・アナルコ=サンジカリズム自由労働者連盟」 (die anarcho-syndikalistische Freie Arbeiter-Union Deutschlands〔FAUD〕 ) によ っ て,この政党に近い「アシイ出版社」(Asy-Verlag)の支援の下,1928年にベルリ 96) ンに設立された。「教養に飢えた労働者にとって,大きな犠牲を意味する」 本の 購入の負担を軽減しようとするこの企ては,しかし,大きな反響を呼ぶことはで きず,会員数は,最大でも1931年に1,200人に留まった。 会員資格は,他のブッククラブと比べるとかなり自由であり,会費も期間も厳 密に定められていなかった。具体的には,協会によって発行された分割払いの券 を決められた会員カードに貼れば会員になれ,その額が希望する本の価格に見合っ た額に達したときに,そのカードを協会の管理部か所轄の支払い窓口に送ればよ かった。特定の期間内に特定の額を払ったり,決まった数の本を購入したりする 義務はなく,分割払いを任意の長い期間に伸ばすことも自由であった。ただし, 経営上の理由から,1929年以降は,より厳密な会員資格が導入され,入会金が0,25 Was will die Marxistische Büchergemeinde? Programmatische Schrift der 95) [ANON]: Büchergemeinde, als Anhang in jedem bei ihr erschienenen Buch abgedruckt. Zitiert nach Melis 2002, S. 126. 96) Der Syndikalist. 10(1928)Nr. 3, Beil. S. 4. Zitiert nach Scholl 1994, S. 92. -107- 竹 岡 健 一 マルク,毎月の会費が1マルクと定められ,それに対して,年間に少なくとも3 冊の本が提供された。 「自由愛書家協会」では,著名な作家や版画家によって本の内容と装丁に関する 助言がなされ, エ ー リヒ・ ミ ュ ー ザムの『 レ ー ゾン=デタ 』(Erich Mühsam: Staatsraison)を始め,無政府主義的・反戦論的な作家の作品が刊行された。1929 年には,ミューザムのほか,ブルーノ・フォーゲル,マックス・ネットラウ(Max Nettlau),テーオドア・プリヴィエ(Theodor Plivier),フリッツ・エルター(Fritz Oerter) ,ローベルト・ライツェル(Robert Reitzel),ルードルフ・ロッカー (Rudolf 97) Rocker)が, 「私たちの作家」と呼ばれている。 また, 「アシイ出版社」およびそ の他の出版社の本も提供され, 「サンジカリスト出版社」 (Der Syndikalist)の作品 は,会員に半額で提供された。 会員には,1929 年3月から刊行された会員誌『熟慮と決起』(Besinnung und Aufbruch)が毎月無料で配布されたが,それは,失業した会員にも引き続き無料 で引き渡された。 私たちの協会の三か月毎の本を1冊手に入れた会員は,万一失業しても, 協会誌『熟慮と決起』を,会長から無料で送られる。私たちは,失業した会 員が困難な時期を越えて私たちのブッククラブに忠実であり続け,懐具合が 98) よくなったときには,再び慣れた義務を守ってくれると信じる。 こうした配慮は,すでにこの時期,ドイツに3,000,000人の失業者がいたことに よるものであろうが,そこには,利潤を追求する企業との相違がよく表れている。 すべての人間の自由と平等のために戦う我々は,何らかの資本を所有し, 利益を得るために本を市場に投じる<出版社>ではない。我々はみな所有し ない者であり,我々の誰も,自由な著作と本の刊行で利益を得るつもりはな く,そうすべきでもない。作品はただ,自由な思想の普及,頭を澄ませるこ と,心の調子を高めることだけに役立つ。当協会は,無関係に読者へ向かい, 読者をめがけて盲目に出版する出版社ではなく,逆に,社会主義的な共同体 の一部である。つまり,少ない財力を毎月の定期的な会費でまとめ,それに よって,安くて価値のある本を手に入れ,そうしたものをいたるところで提 99) 供し,普及できるようにする人々の同盟である。(強調は原文に拠る) 97) Vgl. Besinnung und Aufbruch. 1(1929)Nr. 3, S. 8f. : Mitteilungen der Geschäftsleitung. In: Besinnung und Aufbruch. 2(1930)Nr. 3, S. 48. 98) [ANON] Zitiert nach Melis 2002, S. 120. -108- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 「自由愛書家協会」では,会員は地方グループを形成し,会員によって選ばれた 地方管理部が,宣伝,会費の会計,全国管理部との交渉,作品の配布などを行っ た。本以外にも,文学と芸術に関する講演,演劇,映画,コンサートなどの催し 100) を通じて「自由な芸術と文化の更新に対する関心を啓発する」 ことが試みられ た。また,1-5名の新会員勧誘に対して,同協会の様々な本が進呈された。 7.書籍業のブッククラブ(Buchgemeinschaften des Buchhandels) (1)ドイツ巨匠同盟(Der Deutsche Meister Bund) 「ドイツ巨匠同盟」は,1920年, 「ドイツ巨匠出版社」 (Deutsch-Meister-Verlag) と共にミュンヒェンに設立され,もっぱら同出版社の本を販売した。 入会金は0,1マルクで,年会費は,初め2,6マルクだったが,1925年夏から3,2マ ルクに引き上げられた。会員は,通常の小売書籍販売を経て非会員にも販売され ている「ドイツ巨匠出版社」の本を25-30パーセントの割引価格で購入すること ができた。ただし,背革装の版は例外で,20-60マルクの値段であり,2マルク の値引きしか保証されなかった。 「ドイツ巨匠出版社」の本はもっぱら比較的古い文学の再版であり,アヒム・ フォン・アルニム,クレメンス・ブレンターノ,アーデルベルト・フォン・シャ ミッソー,ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ,ヴィルヘルム・ハウフ,ゲオ ルク・ビューヒナー(Georg Büchner),アネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルス ホフ(Annette von Droste-Hülshoff),ルイーゼ・フォン・フランソワ(Louise von François) ,フリードリヒ・ゲルシュテッカー(Friedrich Gerstäcker),ヨハン・ ヴォルフガング・フォン・ゲーテ,フリードリヒ・ヘッベル,ハインリヒ・フォ ン・クライスト,アーダルベルト・シュティフター,テオドーア・シュトルムと いったドイツ文学の名作が刊行されたが,そこには, 「ドイツ民族の精神と心の統 101) 一」 を成し遂げるという意図があった。本の装丁は,半クロース装と背革装だっ た。また,会員誌『巨匠 ドイツ巨匠同盟月刊誌』 (Die Meister. Monatsschrift des Deutschen Meister Bundes)が無料で提供されたが,それは, 「可能な限り多くの量 と多様なパースペクティヴで,過去の時代と現代の偉大なドイツ文学全体のイメー 102) ジを見本で示そうとする」 ものであった。 103) 「ドイツ巨匠同盟」を「国民教育的で,良風美俗を促進する企業」 とみなす 99) [ANON]: Gildenfreunde. In: Besinnung und Aufbruch. 1(1929)Nr. 1, S. 3. 100) Besinnung und Aufbruch. 1(1929)Nr. 4, S. 15. : Satzungen des Deutsche-Meister-Bundes E. V. (Sitz München). In: Die Meister. 101) [ANON] Monatsschrift des Deutschen Meister Bundes. 8(1927)Nr. 8,[o. S.] . Zitiert nach Melis 2002, S. 146. 102) Zitiert nach Rosin 1926, S. 13. -109- 竹 岡 健 一 トーマス・マンの言葉が宣伝に用いられたり,分割払いなどの好都合な支払い方 法が提供されたりした。また,宣伝に貢献した会員には,2名の新会員勧誘に対 して店頭価格2マルクの本が,同じく3名に対して3マルクの本,4名に対して 4マルクの本が提供された。しかし,それでも十分な会員数を達成することがで きず,経費の理由から,会員誌の刊行は1927年12月に中止された。 「ドイツ巨匠同盟」の特色は小売店との協力にあり,獲得した会員を小売店に導 いた。また,自らの本を,より高い値段でではあるが,伝統的な書籍販売を経て 非会員に販売し,それによって,ブッククラブの出現によって失われた顧客を小 売店に取り戻すことに貢献しようとした。しかし,小売店に過剰な業務を強いた ことや,他の出版社の協力が得られなかったことにより,十分な成果は達成され なかった。 (2)図書同盟(Bücher-Bund) 「図書同盟」は,ダッハウの「一角獣出版社」 (Einhorn Verlag)の所有者ヴァル ター・ブルームトゥリット=ヴァイヒャルト(Walter Blumtritt-Weichardt)によっ て,同出版社の予約購読として,1924 年に設立された。会費は年間9マルクで, 半クロース装の3冊の「義務の巻」と,月刊の雑誌『本の虫』 (Der Bücherwurm) が提供された。さらに,「選択の巻」も,1冊 2,7 マルクで,追加で提供された。 「義務の巻」は,後に廃止された。会員数は,設立二年目に数千人であった。 会員に対して本の内容を保証する選択委員会には,ブルームトゥリット=ヴァ イヒャルトの他に,ミュンヒェン大学歴史学教授カール・アレクサンダー・フォ ン・ミュラー(Karl Alexander von Müller),帝国芸術管理者エドウィン・レーツ ロープ博士(Dr. Edwin Redslob),作家ヴィルヘルム・シェーファー,ゲーテ国立 博物館長ハンス・ヴァール博士(Dr. Hans Wahl)といった人々が属していた。提 供された本の内容は,概ね教養市民的なものだったようである。 それは,連携によって,糧としての本を民族全体から奪い返そうとするド イツの教養層の自衛行為であった。というのも,私たちの文化とそのすべて の価値は,それどころか最良の意味での民族としての私たちの存在は,この 104) よきドイツの教養層とともに高まったり落ちぶれたりするからである。 「図書同盟」の特殊性は小売店との協力にあり,会員は通常小売店で申し込み, 103) Zitiert nach einer Werbeanzeige. In: Eckart. Blätter für evangelische Geisteskultur. 1(1925)H. 5, [Heftrückeninnenseite]. Zitiert nach Melis 2002, S. 147. 104) Ein Willkommen. In: Der Bücherwurm. 9(1924)H. 1, S. 1. -110- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 会費を払い,本を取り寄せた。「図書同盟」は,1926年には「図書購買共同体」と 合併した。 (3)プロテスタント図書同好会(Evangelische Buchgemeinde) 「プロテスタント図書同好会」は,「南アメリカにおける福音伝道と大衆伝道の ためのドイツ協会出版社」 (Verlag der Deutschen Vereinigung für Evangelisation und Volksmission in Südamerika)の支配人であったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ブ レポール(Friedrich Wilhelm Brepohl)によって,当初は「プロテスタント図書共 同体」(Evangelische Buchgemeinschaft)として,1924年春,ベルリンに設立され た。初めは, 「ドイツ良書普及本部」(Zentralstelle zur Verbreitung guter deutscher Literatur)と密接な結びつきを持っていたが,その後, 「ドイツのためのプロテス タント報道連合」 (Evangelische Preßverband für Deutschland)によって業務管理 がなされ,最終的に,1925年春,様々なプロテスタントの前衛部隊と地方連合の 法人会員から成る業務管理協会に委ねられた。書籍販売に関する責任は,法律上 ベルリンの「エッカルト出版社」 (Eckart-Verlag GmbH)が負っていたが,1926年 初めには, 「プロテスタント図書共同体」の事業所は,同出版社から分離され,後 者は書籍販売業者との交渉のみを行った。その後,1927年に, 「プロテスタント図 書同好会」への名称変更が行われた。 入会金は1マルクで,本の購入義務は,年間2冊,4冊,8冊の三つのグルー プに分けられていた。また,プレゼント用に追加で購入することもできた。本の 価格は,すべて3,6マルクだった。部分的には,他の出版社の本も,独自の装丁で 提供された。社名の変更後,内容的目標設定と会員規定の自由化が生じ,プロテ 105) スタント文学と並んで, 「すべての生の領域の価値ある著作」 が考慮され,カー ル・ネッツェル『ドストエフスキーにおける福音』 (Karl Nötzel: Das Evangelium in Dostojewski),アルフレート・フランクハオザー『内輪のグループの主人』 (Alfred Frankhauser: Der Herr der inneren Ringe),マティアス・クラウディウス『使者』 (Matthias Claudius: Der Bote),リカルダ・フーフ『マルティン・ルターのドイツ 語の著作』 (Ricarda Huch: Martin Luthers deutsche Schriften) ,アンナ・シーバー『昨 日と今日,私とあなたの物語』 (Anna Schieber: Geschichten von gestern und heute, von mir und dir)といった作品が刊行された。また, 「娯楽文学的,伝記的,芸術学的 内容の8巻の年間シリーズ」も毎年提供された。 会員には,当初,雑誌『エッカルト プロテスタント精神文化のための雑誌』 : Zum ersten Male. In: Mitteilungen der Evangelischen Buchgemeinde.(1927)Nr. 1, S. 1f., 105) [ANON] hier S. 2. Zitiert nach Melis 2002, S. 144. -111- 竹 岡 健 一 (Eckart. Blätter für evangelische Geisteskultur)が,1927 年からは同じく『プロテス タント図書同好会の報告』 (Mitteilungen der Evangelischen Buchgemeinde)が,無料 で配布された。また, 「ドイツ良書普及本部」および「ドイツのためのプロテスタ ント報道連合」と共同で,文学講習会も開催された。 本の販売はもっぱらプロテスタントの小売店を通じて展開され,会員との交渉 全体が,小売店を含めてなされた。その意味で,伝統的な小売店とその顧客を強 め,新たに台頭しつつあるブッククラブを弱めようとする販売組織であった。ま たこれに,宗教的理念に基づく動機が加わった。ブレポールは,1924年に綱領的 な文書を公表して, 「プロテスタント図書共同体」の課題と活動方法を紹介し,そ 106) の組織を, 「ドイツ全土における低俗文学の恐るべき蔓延」 に対する戦いの中で の小売店の支援として,また既存のカトリック系の書籍販売に対する対抗措置と して説明したが,同共同体を引き継いだ「プロテスタント図書同好会」もまた, 単なる割引本の販売施設ではなく,良書の普及とプロテスタント的著作の振興と いう義務を進んで自覚する組織であった。 『プロテスタント図書同好会の報告』が最後に刊行された1931年3月をもって活 107) 動が終了したとの見方がある一方,1933年まで活動が継続されたとの見方もある。 (4)ヴォルフラム同盟家庭文庫(Die Heimbücherei des Wolframbundes) 「ヴォルフラム同盟家庭文庫」は,1924年,ドルトムントに設立された。母体で ある「ヴォルフラム同盟」は,1921年に,カトリックの学生団体が,ドイツ文学 におけるカトリ ッ ク的志操の時代に見合っ た育成のために作っ た作業同盟 (Arbeitsbund)であった。 会費は,年間6マルクまたは12マルクで,3-6冊の本が提供されたが,もっ ぱら伝統的な書籍販売を通じて購入される本を販売し,価格は通常の小売店と同 じだった。本の安価な購入がなされないという点では,ブッククラブの条件の一 つを欠いていると見ることもできる。だが,伝統的な小売店とその顧客を強め, 新たに台頭しつつあるブッククラブを弱めようとする販売組織を自認する「ヴォ ルフラム同盟家庭文庫」は,本の価格自体は無条件に拘束力を持っているとみな 108) し,カトリック的著作の小売店を通じた普及に尽力したのであった。 その際,で きるだけ会員の好みに合った本を提供し,購入の強制感を与えないないために, 106) F. W. Brepohl: Die Deutsch-Evangelische Buchgemeinschaft. Ein Vorschlag zur Hebung der Verbreitung evangelischen Schrifttums. Zentralstelle zur Verbreitung guter deutscher Literatur. Neuhof, Kr. Teltow 1924, S, 3. Zitiert nach Melis 2002, S. 143. 107) Vgl. Melis 2002, S. 145. 108) Vgl. ebenda, S. 140. -112- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 年間シリーズの「義務の巻」が三つのグループに分けられた。つまり,①娯楽文 学,歴史,宗教,②娯楽文学のみ,③宗教作品のみ,である。また,ドルトムン トの「ヴォルフラム出版社」 (Wolfram Verlag)から,雑誌『犂』 (Der Pflug)が隔 月で刊行された。 「ヴォルフラム同盟家庭文庫」は,出版について,二人の指導的なカトリックの ジャーナリスト,つまりフリードリヒ・ムッカーマン神父(Friedrich Muckermann) とヨハネス・ムムバウアー主任司祭(Johannes Mumbauer)に支えられていた。ま た,ヴァルター・ホフマン(Walter Hofmann)のライプツィヒの「国民的図書館 本部」(Zentralstelle für volkstümliches Büchereiwesen)の協力も受けた。 だが, 「危険を孕んでいると感じられ,大地からキノコがぐんぐん育つように増 109) 殖するブッククラブへの反応として設立された」 にもかかわらず, 「ヴォルフラ ム同盟家庭文庫」は,世間に広くアピールすることはなかった。つまり,国民の 中に歩み入って戦うよりもむしろ外部への一切の宣伝を断念し,人から人への勧 110) 誘によって,「幾つかの価値のある本を,相応しい読者へと導こうとした。 」 こ の広範囲な販売の放棄は,同時代の他のブッククラブとの大きな違いであったが, 活動は成功せず,1928年に中止された。 111) (5) ドイツ図書購買共同体(Deutsche Buch-Einkaufs-Gemeinschaft) 「ドイツ図書購買共同体」は,ルッツ・クニーリング(Lutz Knieling)とヴァル ター・ショッテ(Walter Schotte)の提案と「株式取引業者組合」の支援を受けて, 出版業者オイゲン・ディーデリヒス(Eugen Diederichs)の名において召集された 18の出版社と小売店によって,そのための事業を行う「図書購買センター」 (BuchEinkaufs-Zentrale GmbH)とともに,1925 年9月1日にライプツィヒで設立され た。業務管理には,ショッテとディーデリヒスの他,国務省局長ハンス・マイデ ンバウアー(Hans Meydenbauer), 「書籍販売業協会」 (Buchhändlergilde)代表者 パウル・ニッチュマン(Paul Nitzschmann),出版業者フェリックス・マイナー (Felix Meiner) ,弁護士アードルフ・フォン・ベルク(Adolf von Berg)が責任を 負った。 「ドイツ図書購買共同体」では,参加した出版社の在庫の販売と新刊書の予約注 文が行われた。いずれの場合も,本がブッククラブ用に装丁を変えられることは 109) Scholl 1994, S. 82. 110) Zur Paderborner Tagung des Wolframbundes. In: Der Pflug. 4(1926/27)H. 4, S. 163. Dazu vgl. auch Heinz Raskop: Die Heimbücherei des Wolframbundes 1927/28. In: Der Pflug. 5(1927/28)H. 4, S. 181187. Beide Zitiert nach ebenda. 111) 「ドイツ図書購買共同体」については,拙論 2014年10月刊行予定も参照。 -113- 竹 岡 健 一 なく,価格は本来の店頭価格よりも50-60パーセントも安かった。会員になるた めには,小売店で,入会料1マルクと,毎月の会費1,8マルク,または三か月毎の 会費5,4マルクを支払わねばならなかった。また,一年間に少なくとも21,6マルク 分の本を購入せねばならなかった。一方,小売店は, 「ドイツ図書購買共同体」の 本の引き渡し所となるためには,5マルクを支払って, 「株式取引業者組合」か 「書籍販売業協会」の会員とならねばならなかった。その代わりに,定期的に宣伝 用の資料が提供され,本を通常より30パーセント安く仕入れることもできた。ま た,入会料と会費の徴収を行い,会費のうち30パーセントをリベートとして手に 入れ,会費の残り70パーセントと入会料を「図書購買センター」に送った。 「図書 購買センター」では,送られた会費が各会員の口座に管理された。提供する本の 選択は,会員雑誌の指導部と著名な公共図書館司書が共同で作業を行う文学委員 会の推薦に基づいて理事会で決定され,その情報は,会員雑誌『本の世界』 (Welt der Bücher)を通じて伝えられた。小売店は,馴染みの顧客から「ドイツ図書購買 共同体」のための会員を勧誘し,会員の注文を「図書購買センター」に伝え, 「図 書購買センター」は,会員の口座の残高に問題がなければ,注文を当該の出版社 に伝えた。本の送付は,それぞれの出版社の責任でなされた。 提供された本には,例えば次のようなものがあった。ユーリウス・フォーゲル / エルンスト・トラウマン『学生ゲーテ』 (Julius Vogel/ Ernst Traumann: Goethe als Student) ,ハインリヒ・フィンケ『フリードリヒ・シュレーゲルとドロテーア・ シュレーゲルの往復書簡 1818 - 20 年』(Heinrich Finke: Der Briefwechsel Friedrich und Dorothea Schlegels 1818-20),フリーダ・ポルト『金の竪琴』 (Frieda Port: Goldene Phorminx) ,ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ『若きウェルテルの悩み』 ( 初版のフ ァ クシミリ印刷 )(Johann Wolfgang von Goethe: Die Leiden des jungen Werthers〔Faksimiledruck der ersten Auflage〕),ヴァルター・ハリッヒ編『E. T. A. ホフマン 詩と著作』 (Hrsg. von Walther Harich: E. T. A. Hoffmann Dichtungen und Schriften),カスパール・ルートヴィヒ・メルクル『ホルデラウの農場主』 (Kaspar Ludwig Merkl: Der Gutsbesitzer von Holderau),ヘルマン・オルデンベルク『ブッダ の言葉』 (Hermann Oldenberg: Reden des Buddha),カール・シュトレッカー『ニー チェとストリントベリの往復書簡』(Karl Strecker: Briefwechsel zwischen Nietzsche und Strindberg) , エ ー バ ー ハルト・ ブ ー フナ ー『 超感覚的な事物 』(Eberhard Buchner: Von den übersinnlichen Dingen),フリードリヒ・レオンハルト・クローメ 『 世界史の統一体としての西洋 』(Friedrich Leonhard Crome: Das Abendland als weltgeschichtliche Einheit),ブランカ・グロッスィー『300年間のウィーンの喜劇歌 曲』 (Blanka Glossy: Wiener Komödienlieder aus drei Jahrhunderten) ,ヤーコプ・ブ ルクハルト『ハインリ・フォン・ガイミュラーとの往復書簡』 (Jacob Burckhardt: -114- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ Briefwechsel mit H. von Geymüller),ヴィルヘルム・フレンガー『ランスの仮面』 (Wilhelm Fraenger: Die Masken von Rheims) ,パウル・ショイリヒ『スケッチ』 (Paul Scheurich: Zeichnungen)。 このような「ドイツ図書購買共同体」のシステムは,一見,本の生産者,販売 者,受容者のすべてに利益をもたらす理想的な販売形式だと思われた。というの も,それは,提供する本に出版社の在庫を充てることで出版社の在庫を減らし, 小売店を引き渡し所とすることで小売店に新たな顧客をもたらし,本の購入者に は店頭価格の半額近い低価格の本を提供したからである。とりわけ,戦争と革命 とインフレによって損害を被った,年老いた教養ある本の購入者層が,再び伝統 的な書籍販売に回帰することが期待された。もちろん,他のブッククラブと同じ ように,会員による新会員の勧誘も奨励され,3名の勧誘毎にカタログ価格で2,5 マルクの本が進呈された。 ところが,予想に反して,このブッククラブの発展は滞った。そこには幾つか の要因があったが,最大の要因は,提供された本が魅力を欠いていたことだった。 というのも,提供される本は,新刊書以外は伝統的な書籍販売の在庫から選ばれ たが,それは端的に言えば「売れ残り」であり,本来なら反故にされるか,古書 店に譲られる本が,価格を引き下げて提供されたに過ぎないからである。出版社 に返品された本を販売業者が買い取り,自由な価格で販売する,いわゆる「新古 本」の販売と同じと考えてよいであろう。したがって,ここには,ブッククラブ に成功をもたらした二つの要因のうち一つが明らかに欠けていた。つまり, 「安い 本の提供」は見られるものの, 「読者の好みに合った内容の本の提供」は見られな かったのである。しかも,小売店にとっては,売れ行きの悪かった本の販売を再 度引き受けねばならない上,顧客に対して,当初の店頭価格とブッククラブの本 の価格の違いを十分に説明できないというジレンマもあった。その上,ブックク ラブの本の引き渡し所となることで増える雑務,例えば入会金や会費の徴収,本 の引き渡しや宣伝などに比べて,利益も少なかった。その結果, 「ドイツ図書購買 共同体」の試みには,本来必要な小売店からの協力が,期待したほど得られなかっ た。結局,1926年頃までに,引き渡し所となった小売店が400,会員はおよそ5,000 の個人と団体にとどまった。 こうした理由から事業が進捗しなかった上に,事業本部の財務管理の失敗も重 なり, 「ドイツ図書購買共同体」の経営はたちまち行き詰った。というのも,1926 年1月までに,資本金60,000マルクのうち35,000マルクが宣伝と雑費に支出される 一方,それに見合った収入は得られなかったからである。そこで,事業本部は, ダッハウのブッククラブ「図書同盟」からの合併の提案を受け入れて,財政のテ コ入れを行い,資本金を 80,000 マルクへと引き上げた。合併後,より活発な宣伝 -115- 竹 岡 健 一 活動が行われたが,その頂点は,1926年9月27日から10月5日まで行われた「図 書週間」 (Buchwoche)であった。この間,小売店は,新会員獲得に対して,300 マルクまでの報奨金を手に入れることができた。しかし,その際,引き渡し所に 「図書同盟」の本を非会員にも販売することが許されたことが,ドイツ書籍販売業 の販売規則に違反するとみなされ,他の小売店や「株式取引業者組合」から批判 を蒙った。そして,この宣伝措置そのものも,大きな成功を収めなかった。 こうして,1927年春,「ドイツ図書購買共同体」は解散が決定された。 (6)家庭図書同好会(Die Heimbuch-Gemeinde) 「家庭図書同好会」は,1927年に創刊された雑誌『世界の声』 (Weltstimmen)の 計画を補完するべく , シュトゥットガルトの「フランク出版社」 (Franck‘sche Verlagshandlung)によって設立された。 (7)大胆な投擲(Der kühne Wurf) 「大胆な投擲」は,1928 年,ベルリンの「クナウル出版社」 (Knaur Verlag)に よって設立され,15マルクの既刊本の普及版を,クロース装でかつ2,85マルクと いう安値で販売することによって , ブッククラブの本に対抗し得る,安価で装丁 のよい本を市場にもたらすことに成功し,読者の共感を得た。 本研究は JSPS 科研費 22520320, 25370361, および財団法人国際文化交流事業財団人物交 流派遣・招聘事業(2012年度派遣)の助成を受けたものです。 主要参考文献 ブッククラブの雑誌 Besinnung und Aufbruch. 1(1929)Nr. 1, 3-7. 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Osterwieck am Harz 1927. 拙論: 「 『ドイツ家庭文庫』について ― ワイマール共和国時代から第三帝国時代 における右翼商業職員への読書指導の一端」( 「かいろす」第 47 号,2009 年, 84-104ページ) 拙論:「ドイツにおける『ブッククラブの歴史と研究の観点』 」 ( 「かいろす」第49 号,2011年,33-65ページ) 拙論: 「ドイツ家庭文庫の雑誌の変遷と収録記事 ― 1923年1号から1941年4号ま で」 ( 「VERBA」第36号,2012年,85-130ページ) 拙論: 「『ドイツ家庭文庫』における本の装丁の重要性について」 ( 「人文学科論集」 第76号,2012年,53-75ページ) 拙論:「『ドイツ家庭文庫』における図書提供システムと『信念のきずな』のかか わりについて」(「九州ドイツ文学」第26号,2012年,27-55ページ) -119- 竹 岡 健 一 拙論:「ナチス時代の『ドイツ家庭文庫』の活動について」 ( 「かいろす」第50号, 2012年,57-96ページ) 拙論: 「ブッククラブと伝統的な書籍販売」 (「九州ドイツ文学」第28号,2014年10 月刊行予定,31-59ページ) -120- 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ Buchgemeinschaften in Deutschland vor 1945 — Kommentar zu 52 Organisationen — Ken-ichi TAKEOKA In dieser Abhandlung wird versucht, 52 Buchgemeinschaften in Deutschland vor 1945 einzeln zu kommentieren. Dabei werden Entstehungsjahr, Standort, verwandte Organisationen, Mitgliederzahl, Arbeitsweise, Tendenz, Leserschicht, Beziehung zum Nationalsozialismus usw. in Betracht gezogen. Zur Arbeitsweise gehören Mitgliedschaft (Aufnahmegebühr, Mitgliedsbeitrag, Kaufpflicht), Inhalt und Ausstattung angebotener Bücher, Auswahlweise der Bücher, Mitgliederzeitschrift, andere Vertriebsartikel, Beziehung zum traditionellen Buchhandel usw. Aber jeder Kommentar umfasst nicht immer alle diese Punkte. Die Ausführlichkeit des Kommentars hängt von der Informationsmenge ab, deren Unterschied wiederum ungefähr dem Unterschied der Wichtigkeit jeder Buchgemeinschaft entspricht. In diesem Kommentar werden 52 Buchgemeinschaften, nach den repräsentativen Einteilungen in der Sekundärliteratur, in sieben Gruppen geteilt. Wenn eine Buchgemeinschaft vielfältige Eigenschaften aufweist, wird sie nach ihrer wichtigsten Eigentümlichkeit gruppiert. Weiters werden in jeder Gruppe die Buchgemeinschaften erstens nach ihrem Entstehungsjahr, zweitens in alphabetischer Reihenfolge geordnet. Unten werden nur Name, Entstehungsjahr und Standort aller 52 Buchgemeinschaften angeführt. Buchgemeinschaften haben sich bei uns in Japan fast nicht verbreitet und sind relativ unbekannt. So ist zu erwarten, dass das Verständnis über diese Form des Buchhandels durch diese Abhandlung vertieft wird. Eine Handelsform, die sich in Europa und Amerika seit ca. 1920 rasch entwickelt und auf die zeitgenössische Lesekultur großen Einfluss ausgeübt hatte. Buchgemeinschaften in Deutschland vor 1945 (1) Wegbreitende Buchgemeinschaften 1 Verein zur Verbreitung guter katholischer Bücher 1828 Wien 2 Der Literarische Verein in Stuttgart 1839 Stuttgart 3 Allgemeiner Verein für deutsche Literatur 1872 Berlin 4 Bibliothek der Unterhaltung und des Wissens 1876 Stuttgart 5 Verein der Bücherfreunde 1891 Berlin -121- 竹 岡 健 一 6 Kosmos, Gesellschaft der Naturfreunde 1904 Stuttgart 7 Emporlese-Bibliothek 1908 Berlin (2) Buchgemeinschaften mit bürgerlichem Lesepublikum 1 Volksverband der Bücherfreunde 1919 2 Gesellschaft Deutscher Literaturfreunde vor 1922 Berlin Berlin 3 Die Buchgemeinde 1923 Berlin 4 Deutsche Volksbücherei 1923 Berlin 5 Deutsche Buch-Gemeinschaft 1924 Berlin 6 Der Deutsche Bücherschatz 1924 Berlin 7 Der Bund der Bücherfreunde vor 1925 unbestätigt 8 Deutsche Buchvereinigung >Neuland< vor 1925 München 9 Süddeutsche Buchgemeinschaft 1925 10 Der Freunde Kreis vor 1926 Leipzig 11 Der Deutsche Buch-Club 1927 12 Der Bücherschatz vor 1933 Berlin 13 Der Büchertisch vor 1933 Leipzig Donauwörth Hamburg (3) Buchgemeinschaften mit speziellen Zielgruppen 1 Romantische Gemeinde 1925 2 >Pan-Bücherei< der Vossischen Buchhandlung vor 1927 Berlin 3 Volksbühnen-Verlags- und Vertriebsgesellschaft vor 1927 Berlin 4 Buchgemeinschaft der Adalbert-Stifter-Gesellschaft vor 1928 Eger Leipzig (4) Religiöse Buchgemeinschaften 1 Bonner Buchgemeinde 1925 Bonn 2 Katholische Buchgemeinde 1925 Bonn 3 Sankt-Josephs-Bücherbruderschaft vor 1925 Rosenheim 4 Bund der Freunde christlicher Bücher 1926 unbestätigt 5 Heine-Bund 1926 Berlin 6 Zionistischer Bücherbund 1929 Berlin 7 Evangelische Heimbücherei 1931 unbestätigt 8 Verlag evangelischer Bücherfreunde 1931 unbestätigt (5) Konservative und nationalistische Buchgemeinschaften 1 Deutsche Hausbücherei 1916 2 Deutsche Kulturgemeinschaft vor 1923 Berlin -122- Hamburg 1945年以前のドイツにおけるブッククラブ 3 >Kulturdienstbücherei< des Vaterländischen Kulturdienstes 1925 Berlin 4 Volksdeutsche Buchgemeinde 1926 Weimar 5 Volksbuchgesellschaft 1928 Weißenfels a. d. S. 6 Der Braune Buch-Ring 1932 Berlin (6) Linke Arbeiterbuchgemeinschaften 1 Büchergilde Gutenberg 1924 Leipzig 2 Der Bücherkreis 1924 Berlin 3 Urania-Verlags-Gesellschaft・Urania Freie Bildungsinstitut 1924 Jena 4 Universum-Bücherei für Alle Berlin 1926 5 Volks-Buch-Gemeinde 1926 Leipzig 6 Marxistische Büchergemeinde 1927 Berlin 7 Gilde freiheitlicher Bücherfreunde 1928 Berlin 1920 München (7) Buchgemeinschaften des Buchhandels 1 Der Deutsche Meister Bund 2 Bücher-Bund 1924 Dachau 3 Evangelische Buchgemeinde 1924 Berlin 4 Die Heimbücherei des Wolframbundes 1924 Dortmund 5 Deutsche Buch-Einkaufs-Gemeinschaft 1925 Leipzig 6 Die Heimbuch-Gemeinde 1927 Stuttgart 7 Der Kühne Wurf 1928 Berlin -123- ドイツ文化の類型の一つとして 支配系普遍主義を観る可能性 1) 島 村 賢 一 1.普遍主義を問題にする理由 諸普遍を想定することは,個物を想定することと同列である。個物との関係に おいてなされる。そのときに個物よりも普遍を先行させるという姿勢をここで問 題にしている。 一方,普遍について,仏教論理学者ディグナーガなどによってそれは実在でな 2 ) いとする姿勢がある。 それと対比すれば,ここで問題とする普遍想定姿勢は何か 3 ) が有るとして,存在として,想定しているところの存在論に既にある。 既に様態 が局在化していることを自覚して進めよう。 4 ) さて,筆者は直近の研究論文 で,バハオーフェンが母権制論を提出したのを 受けてボイムラーはそれを支持した後に,自己の解釈でのニーチェ主義(女権を 尊重する男性主義)を併せ持った状態でナチスに入党したが,結局のところ,党 内のローゼンベルクの父権主義に屈してしまわざるを得なかったその過程の背後 にあったもの,そして今もそうありつづけるものについて論じたが,それの発展 的展開として,ドイツ固有の普遍主義志向の可能性を,ドイツ文化研究としてこ こで検討する。 西欧との対比でドイツ語圏では,最も大規模に普遍主義論を,そしてそれをド 1) 2012年12月2日に日本独文学会西日本支部研究発表会で発表した際の原稿に加筆修正を加え たものである。 2) 中村元: 『論理の構造』(上巻),東京,青土社,2000年,321ページ。 3) 『西洋の哲学・東洋の思想』(小坂国継著 講談社 2008年)も,東洋の「無」の思想と対比 して,西洋が「有(ὄν)」から始まる「有」の思想に既にあるとして,論を展開している。筆者 はその「有」の思想を,存在論そのものとして了解し得ると見ている。(ὄν は Ontologie の Onto の語源のギリシャ語であり,「存在するもの」という意味である。) また,ニーチェも「ギリシャ人の悲劇時代における哲学」におけるパルメニデス論で,その Ontologie が,既に存在する ― ニーチェに拠れば直観によってそうみなしているにすぎないと いうことなのだが ― もののその存在,実存についての学であることを,批判して論じている。 誤解されやすいが,存在についての学である存在論は,存在はあるのかという問いへの肯定 的答えを経て先へ進んでいるのである。 4) 拙稿: 「バハオーフェンの『母権制』への共感は父権的ナチス党員としてのボイムラーにおい てどう折り合わされたのか」,『かいろす』第51号,2013年,107-133ページ。 -124- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 イツのものとして展開したのは, (カトリックではあるが)20世紀のオトマール・ シュパンである。しかし,20世紀末になって,同じドイツ語圏から,それと対立 する西欧的な規定のもとでの普遍主義論がズィビュレ・テンニエスによって提出 5 ) され, そこでは,非西欧としてのドイツ語圏は普遍主義にない,とされている。 それで,ドイツ語圏で「普遍主義」Universalismus の意味が,初発から現代に至 るまでに,どのように推移しているのかを英仏の「普遍主義」universalism; universalisme という語の相と照らし合わせてトレースし,ドイツ文化普遍志向説判 断の妥当性強化を図る。 シュパン及びその普遍主義についての研究書自体は数多現出しているが,そこに ドイツ文化の志向の反映を見るという観点でのものを筆者は寡聞にして知らない。 なお,支配系というのは,平等系普遍主義ではない,不平等 / ヒエラルヒー系 ということである。 2.シュパンによる普遍主義への言及 シュパンが「普遍主義」に最初に言及したのは,1908年に刊行された,マルク ス基礎系経済学者 Schumpeter 著の Das Wesen und der Hauptinhalt der theoretischen 6 ) Nationalökonomie への1910年の書評 においてである。その後に,シュパンの1911 年の著 Die Haupttheorien der Volkswirtschftslehre(邦訳版タイトル『経済学説史』 ) 7 ) の中でも言及している。 しかし, 本格的な理論展開は Gesellschaftslehre 及び Kurzgefaßtes Syzstem der Gesellschaftslehre(共に1914年)からであると言える。さら にドイツ帝国が終焉した後の1920年に Vom Wesen des Volksums, 1921年に Der wahre Staat(邦訳旧版タイトル『真正国家論』ならびに新版タイトル『全体主義国家 8 ) 論 』),1928年の Gesellschaftsphilosophie(邦訳版タイトル『社会哲学』 ) ,と言及が 続く。ちなみに,シュパンは多作であり,第二次大戦後に公刊された全集は20巻 に上るものである。シュパンは,当初,第一次大戦前,既にそれまでに生まれて いた語である「普遍主義」Universalismus を,自分が歴史のうちに見定める一つ 5) Sibylle Tönnies: Der westliche Universalismus. Westdeutscher Verlag. Wiesbaden 2001.(改訂前初 版は1995年。 ) 6) Othmar Spann: Die mechanisch-mathematische Analogie in der Volkswissenschaftslehre. In: Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitik. Bd. 30. Verlag der H. Laupp’schen Buchhandlung. Tübingen 1910, S. 786-824. その雑誌掲載初版がその後に収められた Othmar Spann Gesamtausgabe. Bd.1 Akademische Druck- u. Verlagsanstalt. Graz 1974. において S. 326ff. 7) Othmar Spann: Die Haupttheorien der Volkswirtschftslehre. In: Othmar Spann Gesamtausgabe. Bd 2. Akademische Druck- u. Verlagsanstalt. Graz 1969, S. 37-41. 8) 異なるタイトルで二つの邦訳版が刊行された。これらのうち『真正国家論』は章華社から1934 年, 『全体主義国家論』は大都書房から1939年。 「全体主義国家論」と訳されたことのありうべき 妥当性と,それにもかかわらず後代へ及ぼしたネガティヴな影響については第七章で後述する。 -125- 島 村 賢 一 の傾向を表すために転用した,といえる。そのような用法の普遍主義という術語 にシュパンは,ドイツ帝国解体後,上記の Der wahre Staat(1921)において「動 的(kinetisch)な[Universalismus]」という表現を添えるようになり,それが表 9 ) すものを思想だとしている。 そのような表現[kintetisch]の背景にあるのはシュ パンにおける神政政治志向だといえる。また, 「平等者間[のみ / 島村]の平等」 , 10) 「精神的低度者の精神的高度者への従属」が構成原則だとしている。 つまり, (そ れまでの普遍主義が基本的に純宗教レベルだったのに対して)国政へ向けた政策 アッピールに変化している。 3. 「普遍主義」という語の英仏独各語での始まり シュパンの普遍主義の詳細に入る前に,ヨーロッパの中で,ラテン語の universalis という語からの派生形での「普遍主義」という語の始まりはいつなのかを推 定しておこう。 11) フランス語では1689年の書 に既に universalisme が現れている。英語では1710 12) 13) 年に,書のうちで universalism が用いられている。 ドイツ語では1723年の書 に Universalismus がある。(なお,17世紀に遡ると刊行書はラテン語中心になる。 ) 14) どれもその意味は宗教的,キリスト教的 であった。 まだ,ドイツ語圏独自の志向というものは出現していない。つまり,私のこの 論考で可能性を示そうとしているドイツ文化の普遍主義姿勢における普遍主義と いうのは,初発の意味での普遍主義とは違っている。 この,初発に普遍主義という語で意味しているものは,ユダヤ教のような民族 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 宗教ではない,キリスト教が相当する万民に開かれている宗教としての普遍宗教 ということだ。つまり,新約聖書の万民救済観 15) によっている。これは宗教とし 9) Othmar Spann: Der wahre Staat. Verlag von Gustav Fischer. Jena3 1931, S. 33.(初版は1921年。) 10) Ebda., S. 149. 11) Jacques-Bénigne Bossuet : Histoire des variations des églises protestantes. tome quatrieme. Chez la veuve de sebastien Marbre-Cramoisy. Paris 1689, S. 390. 12) The History of the Works of the Learned, Or, An Impartial account of books lately printed in All Parts of Europe. Vol.12. H. Rhodes. London 1710, S. 651. 13) Johann Georg Walch: Deutsche Acta eruditorum oder Geschichte der Gelehrten.(Fünfundachtzigster Teil). Bei Johann Friedrich Gleditschen seel. Sohn. Leipzig 1723, S. 151. 14) 東西教会分裂の後に西ヨーロッパ側に樹立されたカトリック教会の「カトリック」という名 前はギリシャ語で「普遍」を表す語である Καθολική に由来している。それゆえ,カトリック教 会とは普遍教会の謂いである。普遍教会に対しては否定的な意味で個別者限定妥当教会がある だろう。だから普遍とはカトリック教会の自己主張としての普遍(妥当)主義,を形成する概 念となっている。 15) 例えば,Betulius: Die Kirchengeschichte des Neuen Testamentes: bis auf gegenwärtige Zeit in XXVII Tabellen vorgestellt. Bei Johann Christoph Betulius. Stuttgart 1777, S. N. -126- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 ての格を高くする。というのは個人(や特定民族)の救済を約束するのは悪魔も することであるからである。 4.シュパンの普遍主義とテンニエスのそれの間の根本的な相違 大局的な確認をしておこう。要は,テンニエスが宗教性を排して人類普遍的な 価値としての水平関係(平等性)の主張を規準にしているため,差別支配性は出 現しないのに対し,シュパンはカトリックとして新約聖書中の(万民に向けて開 いたという意味で)大いなる普遍宗教性を保持しつつも,一方で,宗教が持つ道 徳的な意味での全体性をも,普遍主義の名のもとに込めている。その全体性は, ドイツ国家内部に普遍化されるものとして,ドイツ国民間の垂直関係(位階性) を思い描いている。このことで,テンニエスにおける普遍主義とは決定的な違い がある。これによって国家内成員に普遍的な,動員を主張している。 (その点では 三重,四重の普遍性がシュパンの側にはある。)こうしてテンニエスとシュパンの 4 4 4 4 間には,主に,絶対普遍的にポジティヴな価値の実現の主張なのか,一国家に普 遍的な,そのため実体としては相対的に普遍的な,動員の主張なのか,という違 いがある。 ドイツ語の Universalismus という語の言語学的出自(ラテン語の universalis「全 世界の」;「普遍の」)との間で,テンニエスの普遍主義には矛盾が生じないが,シュ パンの普遍主義は半分は矛盾する。つまり,こちらは,「民族内普遍主義」とか 「国家内普遍主義」と呼べるものだ。さらに付言しておくと,垂直の関係にある国 民の,国家に普遍的な動員によって,シュパンの普遍主義は「全体主義」Totalismus と親縁であると見られるのだが,特定国家としてのドイツが諸国家の中で諸国家 に普遍的なありようを成すというのではなく固有な存在として留まる,という意 味では(全体主義とは正反対の) 「地域中心主義」Partikularismus とも呼べると言 える。 シュパンは普遍主義という語を,各言語内に限定されたレベルの普遍性へ,つ まり相対的普遍性へ充てて転用している。 さて,テンニエスもシュパンも共に,研究者として言説を発するときは, 「普遍 性を請求できる,普遍性を語る言説,としての学」の持つ普遍主義にもちろんあ る。そして,テンニエスにはシュパンの普遍主義が無く,一方,テンニエスにの みさらに別の普遍主義があり,それは,平等を普遍価値とすることで始まってい る。しかし,この平等というモラルが普遍価値だとする普遍主義は,倫理として 妥当であるとする者が多いとしても,少なくともシュパン一人はそのように見な いので,学的言説として普遍性を持っていない。図式にしておこう。 -127- 島 村 賢 一 シュパン テンニエス 「不平等=普遍視の[あるいは不平等下で 「平等=普遍」視の人類的普遍主義 の普遍動員に依拠した]」国内普遍主義 自己の学的普遍主義を共に主張(だが両者間に普遍性は成立していない) しかし,テンニエスの平等主義は,わたしのこのドイツ文化普遍主義視の可能 性の研究のきっかけであるフェミニズムの領域へ特に引きのばして相対化して捉 えると,イロコイ族における両性間の平等性や,フェミニズムの祖といえるメア リー・ウルストンクラーフトによって『女性の権利の擁護』 (1792年)で語られる 平等観ほどには,徹していないということは考慮しておかなくてはならない。そ して,シュパンの側ではフェミニズムはどうかというと,男性と女性の間に,平 16) 等化不能の,権利の違いがあるとしていて, 男女間についても垂直的な見方があ り,当然ながら男性上位での意味である。 5.シュパンとテンニエスによるそれぞれの「普遍主義」の,ドイツにおける様相 ― それは結局同じ見方に帰着するが ― についての記述 テンニエスが彼女の意味での普遍主義がドイツにないとしている個所がある。 17) 次の二つ である。 (1) 普遍主義の基本理解のためにはここで既に(テンニエスの意味での)普遍主 義の対極, [不平等 -/ 島村]有機的ロマン主義の見方を語ることが不可避だ。 後者の見方はドイツでとても成功し,そのため,[平等 -/ 島村]合理主義的 な見方を完全にその伝統から遠ざけてしまい,対極像としてさえももはや認 識させないことがしばしばであるというありさまだからである。ドイツの読 者はロマン主義のはらむ, [平等 -/ 島村]合理主義の見方を解体させる働き, を自覚した時にやっと,合理主義の姿を把握できるのである。 (2) ロマン主義は定言命法およびその他の命法を始末することに成功した。啓蒙 にとって最高の課題と見えたものは,人間の「一般法」die allgemeinen Gesetze を見つけて守る[←ここにテンニエスの普遍主義を見ることができよう。/ 島村]ということであるが,この目標設定がロマン主義によって克服された。 16)Othmar Spann: Der wahre Staat, a.a.O., S. 46. 17) Sibylle Tönnies: a.a.O., S. 21. -128- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 一方,シュパンが自分の意味での普遍主義をドイツ固有だとしている個所が二 つある。そのうちの一つは Gesellschaftslehre(1914)の次の箇所である。 完成された普遍的体系を成すものとしてプラトン,アリストテレス,ストア 派の道徳論や国家理論,さらに中国の倫理学,孔子の国家論,それに老子が ある。これらの理論すべてに特徴的なのは,国家が契約によるものではなく, 道徳的な教育体であり,従って普遍主義的に把握される,ということであり, キリスト教の道徳論や共同体論も普遍主義的である。中世の理論も普遍主義 の基礎の上にあり,なかでもトマス・アキナスとダンテが取り上げられるべ きだ。近世において個人主義的自然法理論が支配的になる。 [それに抗して / 島村]まずカントの道徳哲学が,功利性 18) に対して完全に敵対的なものとし てあって,個人主義的な自然法理論の持つ倫理的基礎を打ち破る。シュライ アーマッハー,シェリング,ロマン主義者たち,アダム・ミュラー,シュレー 19) 20) ゲル,ノヴァーリス,ヘーゲル,クラウゼ ,バーダー ,いまだ若きフィヒ テ ― この最後の者については意見が分かれそうだが ― が,並びに,法学 上の歴史学派 21) が,再び偉大な普遍主義理論を形成した。これらは歴史上の ドイツ精神の最大の功績だ。それによって,ヨーロッパ文化の[反個人主義 22) での / 島村]新形成がなされたからだ。 つまり,普遍主義とはシュパンにとっては個人主義に対抗した道徳国家主義な のだ。プラトンの『国家論』を普遍主義的と見ているものと思われる。 もう一つは 1928 年の Handwörterbuch der Staatswissenschaften に所収のシュパン の論文 Universalismus 中の次の箇所である。 ドイツ精神にはことのほか,深く普遍主義的な了解が適合したのであり,そ のため普遍主義の再興がドイツ精神の歴史的営みとなった。ドイツ古典哲学 とは,フィヒテ,シェリング,バーダー,ヘーゲル,ロマン主義,のもとで 23) 真の普遍主義的考えが再び,制覇した結果のものだった。 18) シュパンにとって,功利主義と個人主義が親縁ということなのだ。 19) Karl Christian Friedrich Krause のことであり,Panentheismus(万有内在神論)という語を作っ て自説を主張した。 20) カトリックの哲学者である。 21) 純粋ローマ法によるドイツ,を支持のサヴィニーが歴史学派の筆頭だが,確かにサヴィニー は個人主義なのではなく,帝国君主制支持派だった。 22) Othmar Spann: Gesellschaftslehre. Verlag Quelle & Meyer. Leipzig 1914, S. 145. -129- 島 村 賢 一 6.シュパンの書での「普遍主義」についての詳細説明 [普遍主義側に該当するとしているように思われる事項に○囲み数字を付した。 ] (1) ドイツが君主制にあ っ た 1914 年のシ ュ パンの書 Kurzgefasstes System der Gesellschaftslehre において 普遍主義に抗するものとしての個人主義を批判して,それを「社会的な原子論」 Gesellschaftlicher Atomismus; 機械主義理論;「人格主義」Personalismus, だと呼 24) んでいる。 従って,①非原子論,②非機械主義理論,③非人格主義,を普遍主義 側としていると推定される。人格主義については,この記述箇所の直後にある④ 「超人格主義」Überpersonalismus との間の対立項として受け止めれば普遍主義側 にないものとして了解しやすい。個人を超えて出ることを④超越人格主義や⑤ 「間 25) 人格主義」Transpersonalismus は言っているのだとしている。 ⑥個人間の「連携」 26) Zusammenhang が先立つべきものであるのが普遍主義だとしている。 個人間のそ の連携が垂直的であることに注意しておくことが大事である。 (人間の始原状態において基づいているところの)「自然法」Naturrecht に人々 27) は個人主義の本質を認めることができるとしている。 従って,⑦非[個人主義的 / 島村]自然法を挙げられよう。自然法については別途後述するが,歴史上,自 然のうちに平等を見る自然法観と,不平等を見る自然法観が区別なく混在して混 乱した。テンニエスが[平等を見る / 島村]自然法観に立つ ― 平等を見ない自 然法をも自覚して顧慮してのことだが ― のは予測されることだが,シュパンに おいても,平等を見る自然観に重きが置かれている。ただ,それは彼が個人主義 に対抗して切り崩すためであり,その個人主義的自然法に彼は与してはいない。 [個人主義につながるものとして / 島村]民主主義国家は,倫理的性格でないと, 「合目的的な」zweckmäßig 性格のものであると,している。また,功利主義的性 28) 格だということである。 後述するように普遍主義が ⑧ 「目的論的」teleologisch で あるとしていること,に対比している。 23) Othmar Spann: Universalismus. In: Othmar Spann Gesamtausgabe. Bd. 8. Akademische Druck- u. Verlagsanstalt. Graz 1975, S. 146.(初出は In: Handwörterbuch der Staatswissenschaften. Bd. 8. Verlag von Gustav Fischer. Jena 1928.) 24) Othmar Spann: Kurzgefasstes System der Gesellschaftslehre. J. Guttentag, Verlagsbuchhandlung. Berlin 1914, S. 234. 25) Ebda., S. 245. 26) Ebda., S. 233. 27) Ebda., S. 234. 28) Ebda., S. 237. -130- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 ドイツの政治学者アルトゥジウスのほか,グロティウス,ホッブズ,ロック, スピノザ,フランス啓蒙主義者,プーフェンドルフなどの展開した,シュパンが 水平的と見ている自然法教義によって,国家理論が民主主義的な基礎の上に築か 29) れてしまったとしている。 大事なのは[個人主義の国家におけるような / 島村]単なる公安課題を果たす だけというのではなくて,⑨「福祉課題」Fürsorgeaufgabe や⑩「文化維持課題」 Kulturaufgabe がさらにどれほど発動されるか,そしてそれによって国家の中に普 30) 遍主義要素が現われるか,なのだとしている。 民主主義はアナキズムになるとし 31) ている。[君主国家下での民主主義による / 島村]国家活動への制限が⑪社会改 32) 革の要請と矛盾してしまうということが,明確であるとしている。 普遍主義は把 握するのが難しいが,難しさは外面的効率性と⑫精神的道義的本質性の間の必然 的な分離[の必要 / 島村]にあるとして,この分離には,⑬道徳的なものを利益 へ,⑧目的論的なもの(das Teleologische)を因果性へ,⑭精神をエネルギーへ, ⑮発展を機械へと,解消できると思ってしまうわれわれが馴染んだ思考形式が, まず矛盾するのだとしている。 普遍主義という語は⑯「社会主義」Sozialismus とか「社会性」Gesellschftlichkeit 33) という名称でもよいところのものだとしている。 普遍主義というのは個人の否定 34) ではないとしている。 個人の上に全体を置き,個人を全体の犠牲にするというよ 35) うなことは普遍主義の原子論的な把握であるとしている。 普遍主義の社会では個 36) 人間の精神的な関係が必要なのだとしている。 ⑰相互扶助や,相互的な目標到達 37) における協働,を通じて相互に役だち合うこと, としている。垂直関係でのもの だとわきまえておくことが必要だ。 普遍主義の中心思想は,⑱個人の精神的関係のなかに社会というものの源泉と 38) 本質を認識することにあるとしている。 人間相互間での⑲「触発の作用」schöpferische Wirkung が本質的なものだとして 39) い る。 人 間 社 会 が 基 づ く も の は 精 神 に よ る ⑳「 力 を 発 揮 さ せ る 触 発 」 29) Ebda. 30) Ebda., S. 238. 31) Ebda. 32) Ebda., S. 243. 33) Ebda., S. 245. 34) Ebda. 35) Ebda., S. 246. 36) Ebda., S. 247. 37) Ebda. 38) Ebda., S. 247. -131- 島 村 賢 一 40) Kräfteschöpfung だとしている。 それは,人間関係というものが包含している精 41) 神的「産婆行為」Geburtshilfe だとしている。 それは㉑精神的道徳的相互性であ り, (授業や学習におけるような)外面的な助けでは決してなく,ごく直截的な, ごく内的な引き出しそのものであり,感情や意志の反射的な噴射であり,喚起で あり,刺激であり,機械的な相互的なギヴ・アンド・テイクではなく,反響であ 42) るとしている。 これまでに能力や可能性としてあったものが現実となるとしてい 43) る。 現実としてあったものが高められた発展へと形成され,飛躍が迫りくるとし ている。 だが,人間社会が基づくのは愛ということではない,愛以外のネガティヴなも のも含まれるからだ,としている。 (2)帝政崩壊後の書 Der wahre Staat(1921),によると 44) 個人主義の根本原則が自由なら,普遍主義のそれは㉒正義だとしている。 普遍 主義見解で,自由とは精神的孤立の反対であり,生産的な共同体が求めることを, 45) 私がなすべきことを,なすことであるのだとしている。 普遍主義的には不平等のみが求められるが,それは全体の枠の中におさまった, 全体の内部の機能計画(機能体系)から帰着するような㉓有機的不平等であると 46) している。 ところで,個人主義に正義というものはないと,そこで可能なのは非概念であ 47) る報復的正義だけだと見ている。 (多様なものから成る)全体性が,個人主義側では,(一様なものから成る)疑 48) 似全体性になってしまうとしている。 49) 普遍主義的観念圏の一つが㉔ロマン主義だとしている。 そのロマン主義に寄せ 50) て㉕宗教的観念が言及されている。 同じようにして㉖民族思想が言及されてい 51) 52) る。 資本主義を経済的個人主義としている。 資本主義は唯名論から成立してい 39) Ebda. 40) Ebda., S. 248. 41) Ebda. 42) Ebda. 43) Ebda., S. 249. 44) Othmar Spann, Der wahre Staat, a.a.O., S. 38. 45) Ebda, S. 41. 46) Ebda, S. 47. 47) Ebda, S. 39. 48) Ebda, S. 43. 49) Ebda, S. 69. -132- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 53) るとしている。 この概念については別の章で後述する。 54) 最善の国家形態は㉗最善者が支配する国家形態だとしている 。 (最高統一性を得ようとする指導者が)一つの人格において,㉘「教会の管長」 55) Oberpriester にして国王にして将軍,というように統一されていること, が妥当 だとしている。これが,ローゼンベルクに神政政治的だと批判された点である。 7.「全体主義」との間の関係 日本では「全体主義」の語が初発に,誤解されたスペンサーの普遍主義の意味 で用いられたらしいこと,シュパンがナチスに入党していること,シュパンの Universalismus が日本ではときに邦訳書のタイトル内でも「全体主義」と訳され たこと,しかし Totalitarismus の意味での全体主義とシュパン普遍主義の間には, 共通性があるにしても同時に大きな違い[強い反ユダヤ主義]も,時代を経るに 連れて出現したこと,のためにこれらの間の関係を述べておこう。 イタリアで1919年から始まっていたファシズム運動に対して自由主義陣営から 批判的な意味合いを込めて1923年に,後の「全体主義」の意味のイタリア語 totalitarismo の創造のもとになる「全体主義的」の意味の形容詞 totalitario が “sistema 56) totalitario”(「全体主義的システム」の意)という表現のために創られた。 この全 体主義において「全体」とは地球全体ではなく,国家全体というレベルである。 それで,その,全体化あるいは普遍化される国家という点にシュパンの普遍主義 と接点がある。ドイツ語圏では Totalitarismus というドイツ語になって遅くとも 1928年には刊行書で出現している。しかし,シュパンは Totalitarismus も,この後 57) 触れる Totalismus も使わない。シュパンは Universalismus という名を使って論 じた内容とほぼ同じであるとして自分のほうが先駆者だと考えていたのかもしれ ない。 そうして,英語圏ではナチスの脅威から逃れたドイツ語圏系ユダヤ人ポパーに よって1945年に, 『開かれた社会とその敵』で,プラトンに全体主義 Totalitarianism 50) Ebda. 51) Ebda, S. 71. 52) Ebda, S. 79. 53) Ebda, S. 94. 54) Ebda, S. 226. 55) Ebda, S. 241. 56) その後に名詞形 totalitarismo がいつ刊行物上で生まれているかの確定が難しい。Barbèra 社刊 のイタリア語語源辞典 Dizionario etimologico italiano(1975)では,1948 年としてあるが,現代 において確かめられる限りではそんなに遅いことはなく,既に1925年には Guglielmo Ferrero 著 La rovina della civiltà antica. Athena. で現れている。 57) すぐに後述するが,Totalismus という語が歴史的に先行して存在している。 -133- 島 村 賢 一 が観てとられ,批判が展開されている。しかし,是非の判断の違いを別にすれば, ポパーによる両者(プラトンと全体主義)間の関係の扱い方は,シュパンがプラ トンに普遍主義の源を見るのとほぼ同じである。まだ全体主義と普遍主義の両者 間を区分するポイントは見えない。その後に,同じくユダヤ系のドイツ人ハンナ・ アーレントの英語の書『全体主義の起源』(The Origins of Totalitarianism) (1951 58) 年) では,Totalitarismus の意味での全体主義を説明するためにやはり批判的な姿 勢でこの語が使用されている。そうして,反ユダヤ主義が Totalitarismus の意味 での全体主義の源の一つだとされている。この解釈において初めて,シュパンの 普遍主義と全体主義の間の違いが顕著になるに到っている。 (しかし,反ユダヤ主 義のほとんどないイタリアや日本の全体主義=ファシズムをそのような規定では 説明できないという問題が一方で残るが。) これに対して,Totalitarismus に歴史的に先行している「全体主義」という語,ド イツ語では Totalismus, は例えば1816年の『イエナ一般文学新聞』136号の書評に既 にある。Gottlieb Philipp Christian Kaiser 著『聖書神学あるいはユダヤ主義とキリス ト教主義 ― 文法的及び歴史的な解釈法による,また,諸宗教の批判的比較的な普 59) 遍史[記述 / 島村]への率直な向きあいと普遍宗教への向き合いによる』 ,に対 する Palm という筆名での書評における次のような記述においてである: この著者が普遍主義と自分で呼んでいる自分の導きの星のもとで考えたこと がらは,簡単には規定できない。全体と一般,という両概念の間の不区分に 拠り,著者の原理は二重性を持つ。その二重性に拠って同じ正当性を持って [普遍主義と称するだけでなく / 島村]全体主義とも,彼のその原理は称する ことができる。というのは二つの基本原理から成っていて,うち一つは[全 体主義原理であり,/ 島村]宗教あるいは宗教性が孕む全体性(das Ganze), へと連関していて,もう一つは[普遍主義原理であり,/ 島村]すべての宗 教へ連関しているからである。私たちは比較によって,また,著者の若干の 60) 個別言述の助けを得て,両者を接続することを試みよう。 このように全体主義[ここでは自他が構成する全体,の優先]は,普遍主義[こ 58) Hannah Ahrendt:The Origins of Totalitarianism. Harcourt Brace & Co., inc. San Diego 1951. 59) Gottlieb Philipp Christian Kaiser: Die biblische Theologie oder Judaismus und Christianismus [nach der grammatisch-historischen Interpretationsmethode und nach einer freymüthigen Stellung in die kritisch-vergleichende Universalgeschichte der Religionen und in die universale Religion. Bei Johann Jakob Palm. Erlangen 1813. 60) Jenaische allgemeine Literatur-Zeitung. Dreizehnter Jahrgang. Bd. 3. Jena 1816, S. 173. -134- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 こでのそれは万民に開かれたという意味での普遍性ではなく,全ての宗教に連関 しているという意味での普遍性だが]と同様,初発には宗教的な用語だった。 Totalitarismus とは違って Totalismus は「政治的な,ファシズム - 全体主義」で はなかった。それに相応して,日本でも,Totalitarismus のもとにあるイタリア語 totalitario が出現した1923年よりも前から, 「全体主義」という語があった。専制 61) や道徳性としての,もっと広い意味でである。 例えば,ドイツ,イギリス系の倫理学者吉田静致著『道徳の根本儀』 (1917)で ある。この書では,ロシア革命の後の刊行であり,革命は民主主義であるとし, 62) 63) それを専制国家の全体主義と対立させ, その結果後者を相対的に擁護している。 しかし,この時の「全体主義」という語はどこから来ているのだろうか。1907年 に吉田はハーバート・スペンサーの「普汎主義」というものについて言及してい 64) る。その原語は吉田によれば universalism である。 しかし,この語をスペンサー は実際には自分の刊行書のどこでも使っていない。吉田がこの語でスペンサーの 姿勢を形容したのだとしても,スペンサーを形容しての使用であるならば,本来 は,生物から社会組織まで普遍の進化があるという意味に限定しての普汎主義と なるべきところである。しかし,吉田はここでもっと広範に,個人主義の対立概 念として,固定的な有機体社会,の意味へと転じさせて使っている。この「普汎 主義」という用語が十年の時を経て吉田において「全体主義」へと転じたのでは ないかと思われる。つまり,日本語の「全体主義」という語は初発に,基本的に スペンサーの universalism を誤解しての訳語だっただろう。 65) 後年1924年に,長与善郎の小説作品『竹沢先生といふ人』 でも道徳性の意味で 「全体主義」という語が使われているが,この吉田の用語法からの影響に拠ってい るだろう。 ところで,既に第六章で言及した1921年刊行のシュパンの書 Der wahre Staat は 直訳すれば『真正の国家』であるが,新訳版のほうのタイトルを訳者は『全体主 義国家論』としている。つまり,この訳者は当初の版 のタイトルを『真正国家論』 61) フ ァ シズム - 独裁では国民からの支持がある。 だから, フ ァ シズム - 独裁は全体主義 Totalitarismus と整合するが,専制は本来整合性がない。 62) 吉田静致著『道徳の根本儀 : 同圓異中心主義』 (大日本学術叢書8)大日本學術協會,1917年, 4ページで「 (国民と対比された)国家という全体」という表現が,その5ページで「専制的た る全体主義」という表現がある。 63) 従って,ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』における全体主義規定とは,ロシアの帝 政に全体主義を彼女は見ていないので,対立する用語法となっている。 64) 吉田静致『倫理学要義』,東京,宝文館,1907 ,268ページ。 65) 長与善郎『竹沢先生といふ人』(『現代日本文学全集』第28巻,東京,筑摩書房,1955年 に所 収) ,103ページ。 -135- 島 村 賢 一 としていた。しかし,邦訳書の新版をこのタイトル[『全体主義国家論』 ]で後に 1939年に出した。しかし,この新訳版の本文中で「全体主義」と訳されている語 はすべて Totalitarismus でも Totalismus でもなく,Universalismus なのである。訳 者がこのようなタイトルにしたのは本文中でのこの「全体主義」への意訳と並行 しているのだろう。上述のように吉田によって同じような措置が施されたと推測 される事例があり,そしてその時点までに全体主義という語のほうが普遍主義と 66) いう語よりも流布していた ので,当時は妥当性がなくもなかった。しかし,そ の後にネガティヴな全体主義の歴史を人類が経てきたため,区別がなされる必要 性が大きくなった今,この事のために,普遍主義と全体主義の間の区分が日本人 にとってはことのほか難しくなってしまっている。 先へ進もう。 シュパンはその著作でユダヤ人問題をほとんど扱っていないが,ユダヤ人排斥 67) を 1920 年に綱領で掲げているナチスに 1920 年代末に入党していた。 そうして, 1928年にローゼンベルクが創設していた反ユダヤ主義の「ドイツ文化のための戦 闘同盟」主催の講演『現代芸術の危機』Die Kulturkrise der Gegenwart を,翌 1929 年に,ミュンヘン大学で行っている。だが,シュパンは1931年にローゼンベルク との間の対立のため,その「ドイツ文化のための戦闘同盟」から,追い出された。 さらに,ナチスからは攻撃されて,逮捕されている。ナチスの世界観と,シュパ ンの発行していた雑誌 Ständisches Leben を中心としたサークルの世界観が違うの 68) で,ナチスが攻撃したということである。 ヒトラーからの理解も得られていな 69) い。 シュパンの信奉者はナチス政権の敵だと宣告され,ナチス公安機関の管理の 70) もとに置かれたということである。 シュパンの女性の弟子だった Ilse Roloff は, ナチスからのシュパンへの攻撃を防ぐために,シュパンとナチスの間には世界観 71) の違いはないとしたとしている。 国家と教会の間の[あるべき近接の / 島村]関 係についてなされていたシュパンの説明をしかし,ローゼンベルクからの批判に 対して彼女は守らなくてはならなかったと,その結果,シュパンがナチスの「人 66) 前年 1938 年に, 『 全体主義の原理 』( 白揚社刊 ) というタイトルでシ ュ パンの Kämpfende Wissenschaft(1934)のうちの部分訳が出版されていたことも影響していたものと思われる。 67) Klaus-Jörg Siegfried: Universalismus und Faschismus. Das Gesellschaftsbild Othmar Spanns. Europa Verlag. Wien 1974, S. 153. で確認できる。シュパンが入党したとする証拠資料の引用箇所 は253ページ。 68) Ebda., S. 194. 69) Ebda., S. 195. 70) Ebda. 71) Ilse Roloff: Adolf Hitlers „Mein Kampf“ im Lichte der Gesellschaftswissenschaft. Erneuerungs-Verl. Berlin 1934, S. 197. -136- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 種マテリアリズム Rassenmaterialismsus」を拒否しているということと,そのた めナチスとは重要な点で世界観を共有していないという本音を,彼女は認めてし 72) まわざるを得なかったとのことである。 シュパンの普遍主義とナチスの間の大きな違いはユダヤ人対策だった。シュパ ンがナチス入党したということは,ナチス綱領におけるユダヤ人国外追放までは 認めていることになるが,シュパンの著作にはドイツ国内ユダヤ民族絶滅化志向 はない。また,1934年に対ユダヤ人テロが始まってからは,普遍主義がナチスと 違うことを,シュパン側が訴えるようになったということである。シュパン側の プラントルがユダヤ人の, (排斥ではなく)ドイツ民族への統合を訴えたというこ 73) とである。そして,1935年に彼(プラントル)が逮捕された。 1936年5月の作成 で,国家公安局がシュパンのグループについてまとめた未刊行文書が,ウィーン 大学に保管されてあり, (Der Spannkreis.Gefahren und Auswirkungen.)彼らがナ チスから危険視されていたことがわかる。1938年になるとシュパンがナチスによっ て教授職を解かれ,逮捕された。シュパンは釈放後にも教職禁止措置を受けてい る。 その後の1941年10月になって初めて,アウシュヴィッツでユダヤ人のガス処理 が開始された。 このように,シュパンの普遍主義は民族主義の度合いが, ナチスの全体主義に おけるほどには強くなかった。 8.「普遍主義」のニュアンスの二面と,「自然法」観の関係 テンニエスもシュパンも共に,自然法と呼ばれるものに二つの系譜があるとし ている。妥当である。それらの系譜への両者の姿勢の相違を明らかにしておこう。 一つは平等の自然法である。テンニエスは,生じている両自然法間の曖昧さと それによる問題を排するために「啓蒙主義の革命的自然法」というような呼び方 74) をするべきだとしている。 妥当である。そのように呼んだ自然法,に即すること が彼女の与する,彼女の意味での普遍主義につながっている。 二つ目は神的(göttlich)な不平等の自然法である。彼女はそれが護教的(apolo 75) getisch)だとして批判している。 76) そして,ほとんど同じようにシュパンも自然法を二面から見てはいる。 個人主 72) Ebda. 73) Ebda. S. 204 74) Sibylle Tönnies:a. a. O., S. 17. 75) Ebda. -137- 島 村 賢 一 義的自然法と,それに時代的に先行するとともにそれの後にドイツで再び展開し たものとしての超個人主義的(überindividuell)且つ神的な自然法,との二面であ る。しかしながら,彼の場合はテンニエスとは違って,個人主義の自然法には与 しないで批判するのである。 9.シュパンの「普遍主義」という概念が持つ実念論へのつながり 第三章で述べたように「普遍主義」という語が17世紀末に出現する前から,シュ パンの意味での「普遍主義」として概念化できそうな動向がある。中世の普遍問 題(Universalienfrage)における論争の一方の陣営である実念論が,それである。 77) その実念論は,関連の術語が初発にラテン語から生まれたのが12世紀であるが, 発想はプラトンまで遡ることができ,また,ドイツに根深く伝統が続いている。 諸普遍が, (言語に依拠して生成するか否かに関わらず)リアルだとして,実体だ として,それを中心にして依拠する姿勢である。(因みに,筆者は近年著した論 78) 文 でドイツ語圏文化の実念論志向という仮説のもとに資料をまとめている。 ) 対する唯名論は,シュパンによれば,自分の普遍主義に対立させている個人主 義,を志向する。それで,Der wahre Staat(1921)では,資本主義をもたらした 「スコラ哲学の瓦解に始まる思想の激変」として,(前章で述べた個人主義的な / 79) 島村)自然法と同列のものとして,唯名論が言及されている。 ほかに,Gesellschaftslehre(1914)でも, 「いわゆる唯名論(それによると観念や 普遍とは唯の名前であり,実態はただ個物でしかないとされるが) ,それによって 80) の,中世の観念論の解体は啓蒙の自然法をもたらした。 」 となっている。 このとき,唯名論の対立概念としてある実念論という語をシュパンが使用して いればもっと明確に自説を叙述できたところだが,彼は使用していない。 シュパンは彼の著 Der Schöpfungsgang des Geistes(1928)では,唯名論と相同と している事項を列挙しているが,それらに対比されているものが実念論としての 相同性を持つ。 さらなる明示化のために下記に示そう。つまり,プラトン,アリストテレス, スコラ哲学,カント,ヘーゲルのうちに相同の基礎的な[実念論的 / 島村]了解 76) Othmar Spann: Die Haupttheorien der Volkswirtschaftslehre. In: Othmar Spann Gesamtausgabe. Akademische Druck- u. Verlagsanstalt. Graz 1969, S. 36.(初出は Brünn 1910.) 77) 実念論者という語を唯名論者と対比させて Godefridus de Sanct Victore がその著 Fons philosophiae で1176年頃使用している。 78) 拙稿「ドイツ語文化実念論性仮説例証資料集」 (「かいろす」第48号,2010年,55-91ページ。) 79) Othmar Spann: Der wahre Staat, a. a. O., S. 67. 80) Othmar Spann: Gesellschaftslehre, a. a. O., S. 47. -138- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 を見ながら,哲学のうちの典型系譜の一つをなしているとして,理想主義的志向 の,上方を目指す心ばえによるものであるとした後に続けて,シュパンは次のよ うに述べている。 ; 懐疑論(Skepsis) ; 快楽主義(Hedonismus) 古代人において詭弁学派(Sophistik) , ; 経験論 と呼ばれているものが,近代人においては,唯名論(Nominalismus) ; 相 対 主 義(Relativismus) ; 実 証 主 義(Positivismus) ; 不可知論 (Empirismus) ; 功利主義(Utilitarismus) (Agnostizismus) ,と呼ばれていて,総じて,哲学のうち の典型系譜の一つをなしているのであり,経験主義や物質主義の思考と,地に 81) はいつくばった心情によるものだ。 10.テンニエスの「平等=普遍」視の普遍主義と学的普遍主義と唯名論性(すな わち反実念論性) 彼女には「社会制度」を対象として学に携わっている限りでの普遍志向がある。 そして,平等を普遍視しての普遍主義がある。そのため,シュパンの普遍主義の ように反平等の反唯名論の立場で整合的であることができない。それで,自分を 基本的に唯名論者に分類しておきつつ,さらに加えて,限定的に実念論者として いる。 私たちは普遍論争において,諸普遍を,事物に先行してあるものとしてでは なく事物から事後的に(post res)抽象された,人間による思索の結果の構築 物として観る限りでは,おのれを唯名論者に組み込むだろう……が,その諸 4 4 4 4 4 4 82) 普遍を私たちはリアルなもの[←傍点強調は筆者] (Realia)として観る。 11.結論 ドイツが(シュパンの意味での)垂直性の普遍主義だとしうる可能性がとても 高いといえる。テンニエスもドイツ文化の様相の把握の仕方は同じである。しか し,価値づけの仕方が違っている。それは普遍という概念をどのような意味で用 いるかということと並行している。シュパンが(地球レベルでなく)国家レベル の普遍で,差別内包共同体成員に普遍の保護志向であるに対し,欧米派のテンニ エスは普遍主義と呼んで,非排他的に機会平等無差別適用でいて,解消されるべ きその結果としての大格差可能性という問題は劣後させる姿勢である。さらに言 81) Othmar Spann: Der Schöpfungsgang des Geistes. In: Othmar Spann Gesamtausgabe. Bd.10, Akademische Druck- u. Verlagsanstalt. Graz 1969, S. 6.(初出は Jena 1928年。) 82) Sibylle Tönnies: a.a.O., S. 36. なお,Realia はラテン語で「リアルなもの」の意。 -139- 島 村 賢 一 い換えると,機会平等を普遍に追求して結果的に救済されない者が出る無支配自 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 由放任主義よりも,不平等支配ではあるがその代わり全員普遍に最低限の保障は 4 4 するというのがシュパンの姿勢であり,ドイツ文化の志向であるようだ。つまり, 普通に(リベラルな自由派ではなく)民主派と呼ばれるスタンスに近い普遍観と いえる。 -140- ドイツ文化の類型の一つとして支配系普遍主義を観る可能性 Die Möglichkeit, den herrschaftlichen Universalismus als einen wesentlichen Aspekt der deutschen Kultur zu sehen Ken-ichi SHIMAMURA Als Forschungsbeitrag zur deutschen Kultur erläutert der Verfasser im vorliegenden Aufsatz die Möglichkeit, im herrschaftlichen Universalismus die deutsche Eigentümlichkeit festzustellen. Diese Arbeit folgt also in einem Sinne den Arbeiten von Othmar Spann und Sibylle Tönnies. Alfred Bäumler musste sich schließlich dem Patriarchismus von Rosenberg fügen, nachdem er zuvor „Das Mutterrecht“ von Bachofen befürwortet hatte und mit dem Nietzscheanismus in seinem Sinne (nämlich mit der Männlichkeit aufgrund des Respekts für die Rechte der Frauen) in die NaziPartei eingetreten war. Was dabei im Hintergrund war und jetzt noch ist, kann auch durch den Universalismus hauptsächlich im Sinne von Othmar Spann im Unterschied zu dem, der von Sibylle Tönnies behauptet worden war, verursacht worden sein. Im vorliegenden Beitrag beweist der Verfasser dazu hauptsächlich: Das Wort Universalismus gebrauchte man anfänglich im biblischen Sinne. Das Wort Universalismus gebrauchte Othmar Spann danach in seinem kinetischen Sinne. Der Universalismus im kinetischen Sinne ist dem Totalitarismus der Folgezeit sehr nah. Der größte Unterschied zwischen diesen beiden Begriffsverwendungen war die jeweilige Stellung zu den Juden in Deutschland. In Japan bleibt der Unterschied zwischen diesen zwei Begriffsverwendungen aus einigen Umständen unklar. Der Universalismus im kinetischen Sinne verbindet sich mit dem Realismus im Gegensatz zum Nominalismus. -141- 〔研究ノート〕トーマス・マンとロシア文学 ― チェーホフをめぐって ― 日 髙 雅 彦 1) はじめに トルストイ,ゴーゴリ,ツルゲーネフ, 3 ) トーマス・マンはロシア文学から多大 ゴンチャロフの影響を主に見て取った。 な影響を受けた。受容の根底にある種の マンとロシア文学の関係に焦点を絞った 敬愛の念があったという点で,一貫性が ものとして,フェノールはマンを新人文 あったといえよう。トーマス・マンとロ 主義と解釈し,マンの諸小説におけるド シア一般についての研究は,マン存命中 ストエフスキーの影響を詳細に論じた。 2 ) 4 ) のグロニツカの業績が先駆けであり, そ その後,ロシア文学全般にわたる大部な の中でグロニツカは,ロシアとロシア文 ホーフマンの研究が提出され, 一方バー 学についてのマンの態度を『ブデンブロー ヌルスは,チェーホフについての言及か ク 家 の 人 々』 , 『 ロシア文学アンソロ ら論を始めているもののドストエフス ジー』 , 『非政治的人間の考察』などから キーを重点的に扱った。 近年では,パ 抽出し,さらに文学のみならずロシア革 ブロワが,ドストエフスキーやトルスト 命に関するマンの見方についても『非政 イ,そしてチェーホフを中心に論じてい 治的人間の考察』を引用しつつ言及して る。 このようにマンとロシア文学につ いる。その後半部においてはマンの創作 いての研究は,つまるところドストエフ におけるロシア的要素を『魔の山』を中 スキーに最大の関心が向けられてきた。 5 ) 6 ) 7 ) 心に分析し,そこにドストエフスキー, 確かに,マンは19世紀のロシアリアリ 1 ) 本論は2014年1月第100回トーマス ・ マン研究会にて同タイトルで口頭発表したものを加筆 修正した。 2 ) Andre von Gronicka: Thomas Mann and Russia. In: The Germanic Review. New York 1945, Vol. 20, S. 105-137. 3) 最近では,トーマス・マンとロシアについて言及するものに山室信高「東方へのまなざし ― トーマス・マンとマックス・ヴェーバーのロシア像(前編) 」,一橋大学「人文・自然研究」 6号,2012年,211-240ページ,および同氏の「東方へのまなざし ― トーマス・マンとマッ クス・ヴェーバーのロシア像(後編) 」 ,一橋大学「人文・自然研究」7号,2013 年,347-387 ページがある。 4) Lilli Venohr: Thomas Manns Verhältnis zur russischen Literatur. Meisenheim 1959. 5) Alois Hofman: Thomas Mann und die Welt der russischen Literatur. Berlin 1967. 6) André Banuls: Thomas Mann und die russische Literarur. In: Beatrix Bludau / Eckhard Heftrich / Helmut Koopmann (Hrsg.): Thomas Mann 1875-1975. Vorträge in München-Zürich-Lübeck. Frankfurt a. M. 1977, S. 398-423. 7) Vgl. Nina Pavlova: Thomas Mann und die russische Literatur. In: Helmut Koopmann (Hrsg.): Thomas Mann Handbuch. Stuttgart 2001, S. 200-211. -142- 〔研究ノート〕トーマス・マンとロシア文学 ズム文学を規範として作家活動を始めて チェーホフ,ツルゲーネフを師として学 おり,ドストエフスキーについてのエッ び取ってきた短編小説こそ,私のジャン セイも遺している。 しかし,公開され 8 ) ルにほかならないと,心底では確信して ているマンの書簡のうち最初期のものと いました」 (ⅩⅢ, 137)と述べ,長編小説 い っ てよい 1898 年6月7日付知人コル という大がかりな形式は自分に扱えるも フィツ・ホルム 9 ) 宛書簡において,トー マス・マンはチェーホフの小説『決闘』 のではないと思い込んでいたと語る部分 に限られる。 を大変な関心を持って読んだことを報告 そこで本論では,主にマンの日記にお し,チェーホフの物語技法を高く評価し けるチェーホフについての言説を追うこ 10) だが,マンは作品において, とでマンとロシア文学とりわけチェーホ チェーホフの名を持ち出すことは少ない。 フ受容の経緯を明らかにしていきたい。 ている。 小説・エッセイの中で,マンがチェーホ フについて記述するのは, 『チェーホフ試 1.1920年代までの日記におけるチェーホフ 作品においてはトーマス・マンは前述 論』を除けば,『ゲーテとトルストイ』 (1921)において,トルストイがゴーリ のようにチェーホフについてあまり言及 キーとチェーホフとを伴って海辺を散歩 していないが,日記には,チェーホフの しているときの一瞬の描写であり(Ⅸ, 名が40箇所ほど見受けられ,チェーホフ 11) 143) ,また『ロシア文学アンソロジー』 への関心の高さは証明される。最も早い (1921) で は, 最 後 に 駆 け 込 む よ う に のは『魔の山』第一章を執筆中の1919年 チェーホフの『少年たち』を読者に推薦 し(Ⅹ, 602) , そ し て『 自 分 の こ と 』 4月25日付で,ソログーブ 12) とクプリー 13) ン を読んであまり得るものがなかった (1940)においては自身初の長編小説『ブ 後に「今からチェーホフの短編小説の芸 デンブローク家の人々』を執筆していた 術技法を見直そう」 と記している。但 当時を振り返り「 モ ー パ ッ サンとか, し,この時期の表記は Tschechoff も混在 14) 8) 『ドストエフスキー論 ― 但し控えめに』(1946)Thomas Mann: Dostojewski – mit Maßen. In: ders.: Gesammelte Werke in dreizehn Bänden. Hrsg. von Hans Bürgin und Peter de Mendelssohn. Bd. 9. Frankfurt a. M. 1974, S. 656-674. 本論では,マンの著作からの引用はこの版に拠る。本文中の 引用末尾に出典を(巻数,ページ数)と記す。 9) Korfiz Holm (1872-1942) ドイツの出版者,作家。 10) Vgl. Mann: BriefeⅠ 1889-1936. (Hrsg.) Erika Mann. Frankfurt a. M. 1961, S. 9.『決闘』は短編よ りむしろ中編に近い分量の作品である。 11) Mann: Russische Anthologie. In: Gesammelte Werke in dreizehn Bänden. Bd. 10. S. 590-603.「両国 は手と手を取り合って未来に向かって進むべきである」という末文。小黒康正『黙示録を夢み るとき』 ,鳥影社,2001年,164ページ以下参照。 12) Fyodor Sologub (1863-1927) ロシアの詩人,小説家。 13) Aleksandr Kuprin (1870-1938) ロシアの小説家。 14) Mann: Tagebücher 1918-1921. (Hrsg.) Peter de Mendelssohn. Frankfurt a. M. 1979, S. 212. -143- 日 髙 雅 彦 19) しており,マンの思考の中では,現在通 ることの可能性について考えた」 とあ 用している Tschechow に統一されてはい り, 『魔の山』の執筆にチェーホフ文学が な い。1919 年 4 月 26 日 付 の 日 記 で は 影響を与えたことが推測される。1920年 「ベッドの中で昨日チェーホフの犬物語を 1月11日付の日記から表記が Tschechow 15) 読み始め」 , 同日1919年4月26日には体 と現在通用するものに変わっている。 「私 調のすぐれない「カトヤにチェーホフの は,チェーホフの一つの優れた情熱物語 16) 20) 物語を読んで聞かせ」 て自分も楽しん 掌編を読んだ」 , 1920年9月24日「エリ だと記している。1919年4月27日付では, アスベルク チ ェ ー ホフ作品に不満を抱きつつも, の3冊をうれしく思う。多くのものを読 1919年4月28日「カトヤへ,とても良い, むつもり」 , 1920年9月28日「エリアス 絶望的で明朗なチェーホフの小説『農民 ベルクが送ってくれた新しいチェーホフ 17) 21) から手に入れたチェーホフ 22) 23) たち』を読み聞かせ」, ベルサイユ条約 本を私は読んだ 」 , 1920 年 9 月 30 日 調印前でミュンヘン市内でも銃声や砲声 「 (私は)チェーホフの憂うつな小説『わ が続く状況の1919年5月1日には依然と が人生』を読んでいる」 , 1920年10月1 して「カトヤへチェーホフのいくつかの 日「チェーホフを読んだ」 , 1920年10月 18) 24) 25) 物語を読ん」 でいる。1919 年5月2日 14日「私はここ数日チェーホフの幾つか 「晩にチェーホフ。 『名の日の祝い』がと のものを読んだ。新しい版で,最大級の ても良い。 『魔の山』にもロシア的-千年 賛辞をもって」 , そして1921年12月1日 至福説的-共産主義的なものを取り入れ 「チェーホフの愉快な戯曲, 『熊』 ,同じく 26) 15) Ebd., S. 213. 16) Ebd., S. 213. 17) Ebd., S. 215. 18) Ebd., S. 220. 19) Ebd., S. 223. 小黒康正『黙示録を夢みるとき』,175ページの注47参照。 20) Ebd., S. 364. 21) Alexander Eliasberg (1877-1924) 現在のべラルーシ(ミンスク)で生まれ,ドイツで活躍したロ シア文学史家。翻訳家。マンの友人。銀行家の息子で,モスクワで物理学と数学を学んだあと 1905 年にミュンヘンへ来た。彼は 1923 年までミュンヘンで暮らし,トルストイ,ドストエフス キー,ツルゲーネフ,ゴーゴリ,ゴーリキー,ショーレム,チェーホフ,プーシキン,メレシコ フスキー等の古典および現代ロシアの抒情詩と散文作品をドイツ語へ翻訳した。また,ユダヤ文 学の多くの作品をドイツ語に翻訳し,ユダヤ文学のアンソロジーを編集し,そしてロシア文学・ 芸術の歴史についての著作や『ロシア文学史』 (1921)を書いた。晩年バイエルンからの追放の 後に,ベルリンで零落して死んだ。画家パウル・エリアスベルクの父である。(Hrsg.) Walther Killy: Deutsche Biographische Enzyklopädie. München New Providence London Paris 1996, Bd. 3, S. 85参照。 22) Mann: Tagebücher 1918-1921. a. a. O., S. 467. 23) Ebd., S. 467. 24) Ebd., S. 467f. 25) Ebd., S. 468. 26) Ebd., S. 469. -144- 〔研究ノート〕トーマス・マンとロシア文学 27) 素晴らしい描写」 とある。このように, チェーホフに言及していた頃から実に30 第一次世界大戦後にチェーホフについて 年ぶりである。チェーホフの没後50年を のマンの言説が集中していることを考え 控えたこの頃からマンはチェーホフ作品 るならば,ロシアからドイツへ向かった に再び集中的に取り組む様子を見せる。 政治的革命の影響にマンも無関心ではい すなわち,自らの精神的な状態を心配し られなかったことが推察される。周知の ている最中1952年5月17日日記「引きこ ように1922年から1933年3月14日までの もって二三の政治的なものを読み,それ 日記は出版されておらず,1933年3月15 からチェーホフの小説を読んだ」 と述 日から1943年までの日記にチェーホフに 28) 31) 32) べ,1952 年 5 月 23 日 の 書 き 始 め は ついて記述はない。 米国にて『ファウ 「チェーホフの『退屈な話』 ,優れてい ストゥス博士』を執筆中で,体調が悪い る」 となり,1952 年6月1日はパリの 頃の 1944 年6月 16 日「ヨーゼフ博士と 様子を気にしつつ「晩にチェーホフの小 フォックススタジオにて,チェーホフ原 説」 と書き留め,スイス中部カンダー 29) 33) 34) 作の映画の試写会」 とあるが,これは シュテーク滞在中の1952年7月12日「再 映画である。 びチェーホフを読む」 , 1952年7月13日 35) 36) 「チェーホフの物語」 , 1952年7月14日 37) 2.晩年の日記におけるチェーホフ 「チェーホフの良い物語」 , その夜にも 38) 次にチェーホフの名が出るのは,晩年 「 チ ェ ー ホフ物語 」 , 1952 年7月 21 日 1952 年 5 月 13 日 の 日 記 に 記 載 さ れ た 「チェーホフの『わが人生』 」 , 1952年7 30) 「チェーホフの物語」 である。頻繁に 39) 40) 月 29 日「チェーホフの短編小説」 との 27) Ebd., S. 556. 28) 1922年3月24日付 Joseph Chapiro 宛書簡に,ベルリンでチェーホフ未亡人(1868-1959)と知 り合ったとの記述がある。Mann: Briefe Ⅱ . (Hrsg.) Thomas Sprecher, Hans R. Vaget und Colnelia Bernini. Frankfurt a. M. 2004, S. 433. 29) Mann: Tagebücher 1944-1.4.1946. (Hrsg.) Inge Jens. Frankfurt a. M. 1986, S. 66. 30) Mann: Tagebücher 1951-1952. (Hrsg.) Inge Jens. Frankfurt a. M. 1993, S. 213. 31) これらは『チェーホフ試論』に向けての準備と思われる。まず東ドイツの雑誌『意味と形 態』 (Sinn und Form. Berlin 6. Jg. Heft 5/6 1954)に掲載された。『トーマス ・ マン全集』,新潮 社,1971年,第9巻,732ページ参照。 32) Mann: Tagebücher 1951-1952. a. a. O., S. 215. 33) Ebd., S. 217. 34) Ebd., S. 221. 35) Ebd., S. 240. 36) Ebd., S. 240. 37) Ebd., S. 241. 38) Ebd., S. 241. 39) Ebd., S. 244. 40) Ebd., S. 248. -145- 日 髙 雅 彦 記述がある。これらの取り組みは,しば 月22日日記「ソファーの片隅でチェーホ らく後のエルレンバッハでの1954年3月 フをテーマにした書き出し数行」 を書 22日日記に記載されているように,ロシ き,同日「チェーホフの『女房ども』 。素 ア公使館から『ブデンブローク家の人々』 晴らしい」 と感嘆している。月が改ま のロシア語版を贈られたことなどもあっ り1954年7月4日日記「チェーホフエッ て「没後50年のチェーホフについて何か セイは前進しない」 と苦心するも,1954 41) 47) 48) 49) 書 く 」 と い う 決 意 表 明 に 結 び つ く。 年7月5日日記の一行目「午前中チェー 1954年6月11日日記「アウフバウ書店が ホフエッセイを書いた」 とある。1954 チェーホフについての数え切れない著作 年7月6日日記「 『チェーホフ』について 42) 50) 51) を(私に)送った」 ことを境にマンの さらに書いた」 と筆は進む。1954 年7 チェーホフ体験はより深まってゆく。二 月7日日記「『チェーホフ』について仕 日後の1954年6月13日日記「晩にチェー 事」 , 同日日記「チェーホフの短編小説 ホフの感動的な小説『六号病室』を読ん 『 農民たち 』 。 トルストイよりも悪くな 43) 52) 53) だ」, 1954年6月14日日記「チェーホフ 『チェーホ い」 , 1954年7月8日日記「 を読む。 彼について何かを言えるため フ』について仕事」 , 1954年7月9日日 44) 54) に」, 『詐欺師フェーリクス・クルルの 記「グリゴロービッチ宛のチェーホフの 告白』の校正に追われる中の1954年6月 手紙。 (略) 『チェーホフ』についての仕 45) 55) 15日日記「晩にチェーホフ」 , 1954年6 事。 (略)依然としてチェーホフの小説」 , 月 21 日日記「チェーホフ 30 歳頃の作品 1954年7月10日日記「 『チェーホフ』につ 46) 『退屈な話』の深い憂うつ」 , 1954年6 56) いて途切れながらも仕事」 とあり,こ 41) Mann: Tagebücher 1953-1955. (Hrsg.) Inge Jens. Frankfurt a. M. 1995, S. 198. 42) Ebd., S. 237. 43) Ebd., S. 239. 44) Ebd., S. 239. 45) Ebd., S. 239. 46) Ebd., S. 242f. 47) Ebd., S. 243. これが『チェーホフ試論』執筆の実質的端緒と思われる。 48) Ebd., S. 243. 49) Ebd., S. 244. チェーホフエッセイとは『チェーホフ試論』を指すのであろう。 50) Ebd., S. 244. 51) Ebd., S. 245.『チェーホフ』とは『チェーホフ試論』を指すのであろう。 52) Ebd., S. 245. 53) Ebd., S. 245. 54) Ebd., S. 245. 55) Ebd., S. 246. 56) Ebd., S. 246. なお,この数日後の1954年7月28日付 Friedrich H. Weber 宛書簡にチェーホフ についての記述がみられる。Mann: Briefe 1948-1955 und Nachlese. (Hrsg.) Erika Mann. Frankfurt a. M. 1965, S. 349. -146- 〔研究ノート〕トーマス・マンとロシア文学 の時期に『チェーホフ試論』の原稿が仕 上がったと思われる。そして,最晩年に は戯曲『ルターの結婚式』を構想してい たマンらしく,1955 年4月 25 日日記に 「チェーホフの戯曲『かもめ』と『三人姉 57) 妹』」 と記しているのが,日記では最後 のチェーホフについての記述となってい る。 57) Ebd., S. 340. -147- かいろす52号執筆者連絡先 (あいうえお順) 木 田 綾 子 九州大学人文科学研究院独文学研究室 島 村 賢 一 [email protected] 髙 木 文 夫 [email protected] 竹 岡 健 一 [email protected] 田 中 暁 [email protected] 田 淵 昌 太 香川大学非常勤講師 恒 吉 法 海 [email protected] 中 島 邦 雄 [email protected] 馬場崎 聡 美 九州大学人文科学研究院独文学研究室 日 髙 雅 彦 [email protected] -148- 会 員 名 簿 (2014年10月31日現在) (あいうえお順) 赤 尾 美 秀 (西 南 大) ○重 竹 芳 江 (佐 賀 大) 有 村 隆 広 (元 九 州 大) 島 浦 一 博 (九州国際大) 安 藤 秀 國 (愛 媛 大) 嶋 﨑 啓 (東 北 大) 飯 尾 高 明 (都 城 高 専) 嶋 﨑 順 子 池 田 紘 一 (元長崎外語大) ○嶋 田 洋一郎 (九 州 大) 石 川 栄 作 (徳 島 大) ○島 村 賢 一 (元久留米大) 伊 東 英 (岐 阜 大) シュタムプフル-ヨクラ,アンドレーア 稲 元 萠 (元 福 岡 大) 今 井 敦 (龍 谷 大) 髙 木 文 夫 (香 川 大) 梅 内 幸 信 (鹿 児 島 大) 髙 木 美枝子 (香川大非常勤) ○大 羽 武 (元 宮 崎 大) 瀧 田 恵 巳 (大 阪 大) 小 黒 康 正 (九 州 大) ○竹 岡 健 一 (鹿 児 島 大) 垣 本 知 子 (第一薬科大) 武 田 輝 章 (鹿児島女子短大) カスヤン,アンドレアス 田 中 暁 (広 島 大) (鹿 児 島 大) (九 州 大) 棚 瀬 明 彦 (元 九 州 大) 加 藤 丈 雄 (大 谷 大) 田 淵 昌 太 (香川大非常勤) 木 田 綾 子 (九 州 大 院) 続 訓 美 (第一薬科大) 栗 山 次 郎 (元九州工業大) 恒 吉 法 海 (元 九 州 大) 古 賀 正 之 (九共大非常勤) ○津 村 正 樹 (九 州 大) 小 粥 良 (山 口 大) ○中 島 邦 雄 (下関水産大) 近 藤 孝 夫 (同 学 社) 永 末 和 子 (元川崎医科大) 堺 雅 志 (福 岡 大) 西 嶋 義 憲 (金 沢 大) 坂 元 宏 志 (元久留米高専) 能 木 敬 次 (日本経済大) ○佐々木 博 康 (大 分 大) ○野 口 広 明 (九州産業大) 目 正 勝 (熊本商大非常勤) 野 村 英 昭 (吉備国際大) 佐 野 俊 夫 (九州産業大) 馬場崎 聡 美 (九 州 大 院) -149- 林 秀 彦 (九産大非常勤) 日 髙 雅 彦 (九 州 大 院) 平 川 要 (九州歯科大) ○福 元 圭 太 (九 州 大) 丸 井 一 郎 (愛 媛 大) 八 木 昭 臣 (熊本商科大) 矢 木 博 基 (熊本音楽短大) 安 岡 正 義 (大 分 大) 山 下 哲 雄 (九工大非常勤) 行 重 耕 平 (島 根 大) ○幹事 -150- かいろす会則(2013年12月改正) 1.「かいろす」の会事務局を九州大学大学院言語文化研究院に置く。 2.総会 年1回開く。 3.活動 1.研究発表会 2.会誌発行 3.合評会 4.会計 1.会費は年6,000円とする。ただし学生会員(学籍を有する者) , 非常勤のみのかた,および定年退職(退官)者は半額とする。 2.会計年度は,4月1日より翌年3月31日までとする。 5.幹事 ・幹事若干名(うち1名代表幹事,1名会計幹事)および地区幹事 若干名を置く。 ・任期は2年とし,再任を妨げない。 ・幹事は編集委員を兼ねる。 ・総会において次期の幹事を選出する。 会誌「かいろす」執筆要項 1.執筆申し込み締切り:毎年6月末日 2.原稿提出締切り :毎年8月末日 3.原 稿 枚 数 制 限 :原則としてなし 4.募 集 原 稿 種 類 :ゲルマニスティク・ヨーロッパ文化・国際交流などに 関連する論文(審査対象) ,評論,翻訳,書評,資料 など。 5.論 文 審 査 :論文に関しては編集委員ないし編集委員が依頼する会 員が査読を行い,編集委員会が採否を決定する。編集 委員会は改稿を求めることがある。 6.掲 載 料 金 :和 文・欧文・図版等にかかわらず「かいろす」誌1 ページ当たり1,000円とする。 7.和文論文には,しかるべきドイツ語圏等出身者による閲読を経た 400 字前後 の欧文レジュメを付けること。 8.執筆要項に関しては,日本独文学会西日本支部学会誌「西日本ドイツ文学」 のそれに準じること。 9.ワープロやパソコンで入力した原稿はデータを編集委員代表(fukumoto@flc. kyushu-u.ac.jp)にメールの添付書類(MS-Word)として送付すること。 -151- 編 集 後 記 ○かいろす52号をおとどけします。今回はなんと論文6篇,研究ノート1 篇,翻訳3篇の豪華ラインナップで,分厚い巻になりました。 ○2013年度の総会決定に従い,今号から脚注形式となりました。ただし『西 日本ドイツ文学』誌よりはやや大きめの活字ポイントを採用しておりま す。 ○このところ,若い世代の入会が続いています。今年も新入会員が3名, いずれも九州大学の院生です。 「かいろす」を存分に活用してください。 (K. F.) 2014年12月1日 印 刷 2014年12月1日 発 行 か い ろ す 第 52 号 編集・発行 〒819-0395 福岡市西区元岡744 九州大学大学院言語文化研究院気付 「かいろす」の会 印 刷 〒810-0012 福岡市中央区白金2-9-6 城 島 印 刷 ㈱ Tel 092-531-7102 -152- 父 テーオドール・シュトルム ( ) ゲルトルート・シュトルム 著 田 淵 昌 太 訳 した幾つもの懐しい家屋や、過ぎ去った日々の馥郁たる香りに ジ ャ ポ 包まれているロココ様式の庭園にも触れました。かつて曾祖父 を身にまとい、膝丈のズボンに、銀色に輝く留め金のついた靴 はじめに 詩人ベリース、すなわち男爵フォン・ミュンヒハウゼン氏の といったいでたちで、これらの庭園を散策していたのです。そ やそのまた先祖たちが、尖った胸元襞飾りのついた褐色の上着 慫慂により、わたくしは父の生涯を、若い世代の読者のために 木には、過ぎ去った世界を描いたノヴェレにおいて、父がもの れから古い楓の木。椋鳥たちが群れ集ってさえずっていたこの がたった人たちの名前が、すべて刻まれておりました。わたく むくどり ) 。執筆に際しては、父の残した「若 しは今でも、そこに記された名前の数々を、畏怖の念をもって ( 者たちのために書く者は、若者たちのために書いてはならない」 書き記すことにしました という言葉を座右の銘といたしました 思いおこします。あの楓は、今はもうありません。しかし「ホー ( を、かつて自分が体験したままに、また幾多の書簡や証言から ) 。わたくしは父の生涯 見聞したままに、簡潔直截に書いたのです。この小著が年若き ( ) 、父テーオドールが弟や妹たちとともに レ・ガッセ」小路の都市貴族の館― かつて先祖の一人が結婚 す。そして遠ざかりつつある十九世紀の生き証人として、ひっ 若き日々を過ごした屋敷― は、往時と変わらず現存していま する息子に贈り与え 読者たちに、ささやかな楽しみをお届けできたとすれば― こ 人として、また詩人としての父を正しく理解していただきた そりと佇んでいるのです。 れにまさる喜びはございません。 いがために、父の作品中に姿を現す範囲内で、わたくしどもの (1) 1 祖先についても、いささか筆を割きました。一家がともに過ご 4 3 2 田 淵 昌 太 ) ゲルトルート・シュトルム( 一九二二年七月 ファーレルにて( 第一章 ) てテーオドールの曾祖父フリードリヒ・ヴォルトゼンが、 「ホー ( ) 。 レ・ガッセ」小路の立派な屋敷とともに、建てさせたものであっ た テーオドール・シュトルムは、しばしば、「美しい青い瞳の」 曾祖父フリードリヒ・ヴォルトゼンを、厳格な人だったと語っ ている。なにしろフリードリヒは息子たちが三十歳になるまで を語るとき、 「美しい青い瞳の」という形容を欠かしたことがな ( ) 。通りに面したこの霊廟 墓を覆う灰色の石には、以前、 「永遠の波間に浮かぶヴォルトゼ た。ヴォルトゼン家の後裔の一女性を迎え入れるためである 二世も多くの人たちから愛された。だが父フリードリヒのよう が、テーオドール・シュトルムの祖父となる人物だ。ジーモン を経験し、多くの子宝を授かっている。その長男ジーモン二世 自家用聖書への書き込みを見ると、フリードリヒは三回の結婚 地元住民からの尊敬と愛着を一身に集めていたという ( 訓育しつづけたのだから。テーオドールは、この曾祖父のこと 【ヴォルトゼン家 ― 母方の祖父の家】 フーズムの聖ユルゲン修道院墓地にあるヴォルトゼン家の古 は、周囲を菩提樹の古木に囲まれている。かつて、この菩提樹 ン一門」という文言が刻まれていた な商才は持ちあわせていなかったため、欺かれることも少なく ( ) 。古い ) 。フリードリヒは、その有能な手腕と実直な人柄ゆえに、 ( ) 。 草花や人の目を楽しませるような灌木 13 下で、草創期の改革派の伝道者ヘルマン・タストが熱烈な演説 ( ) 。 い 6 8 い霊廟が開かれたのは、最近では、一九一〇年六月のことであっ ( ) 12 5 いた。秋になると菩提樹の黄金色の葉がテーオドール・シュト 声を地面の下で静かに眠っている人たちのもとにまで響かせて 夏には子どもたちが墓石の上で元気よく飛び跳ね、明るい笑い は、菩提樹からしたたる雫のもとでは繁茂しようもなかったが、 を行っ たのである た。祖父ジーモン二世の肖像画は、その両親および姉妹の肖像 ぼろげな印象は、細密画に描かれた祖父の姿に違わぬものであっ どんな顔立ちだったのかは憶えていない。だが、このときのお ― が、テーオドールの脳裏に残る祖父の唯一の記憶となった。 やならずやで喪ってしまう。生家の果樹園で見かけたときの姿 なかった。この祖父をテーオドール・シュトルムは三歳になる こ が ね いろ ルムの最後の憩いの場に降り注ぐ。テーオドールはそこで、自 画とともに、銀箔を施された円形牌に納められ、テーオドール たが 作の詩や小説において自ら永遠の生命を附与した先祖たちとと の生家の居間のソファーの上に掛けられていたのである。ジー メダイヨン ( ) 。この墓所は、かつ 14 もに眠っている。テーオドールの人生と愛情を分かちあった二 9 人の女性も、同じ場所に横たわっている (2) 7 11 10 父 テーオドール・シュトルム モン二世の死後、友人の一人がこう書いている。「ジーモンは、 ( ) このうえなく慈しみ深い夫であり、 最良の優しい父親であり、 シッフ・ブリュッケ またとない誠実な友であった。」 ( ) て抱きしめるお許しをいただきたかったのです。」 結婚後、 若い夫婦は、 フリ ー ドリヒ・ ヴ ォ ルトゼン邸の向かいにある、 らの家の造りとは違って、薄暗い客間も ペーゼル ( ) 、誰も足を踏み入れ 「ホーレ・ガッセ」小路の瀟洒な都市貴族の館に入った。昔なが なくなった小部屋もない建物だ。表の窓は明るい通りに面して ヨーアヒムはデュン・ビールの大規模な醸造所を所有しており、 ら フ リ ー ド リ ヒ・ ヴ ォ ル ト ゼ ン の 一 家 と 懇 意 に し て い た 果樹園の周囲には板塀を載せた石壁がめぐらされていたが、背 砂糖工場の建物が聳え 園を見渡すことができる。庭へと続く木戸を出ると、右手には おり、裏の窓からは緑なす草原や、庭や、その脇に広がる果樹 ( その目と鼻の先の港で積み荷を待っているハリヒの小さな船が、 の高い果樹は庭の石畳の上にまで枝を広げてきていた。庭から ( ) 、左手には小高く果樹園が横たわる。 ( ) 。テーオドール・シュトルムは、この小 ヨーアヒムの作った良質のビールを沖合の島々やハリヒ群島に ) 。 員ヨーアヒム・クリスティアーン・フェッダーゼンは、日頃か 船着場通りに面した古い切妻屋根の屋敷に住まう市参事会議 19 ことを、寛闊で藝術を解する人物にして貧しい人たちの味方で 柄な曾祖父ヨーアヒム・クリスティアーン・フェッダーゼンの 運んでいくのである 整然と縁どられたまっすぐな花壇の間を縫うように、貝殻を敷 る屋根を凌ぐ高さの楓の木蔭に、優美な園亭があった。黄楊で 小さな石段を上ると果樹園に出る。すぐ左手には、館の堂々た 婚生活を送ったことは、今日、我が家に残っている数多くの書 には、菩提樹の四阿屋があり、ジーモン二世の妹フリッツヒェ きつめた幅の広い遊歩道が延びていく。果樹園が尽きたところ あ ず まや 簡から窺い知られる。そして、このヨーアヒムの娘レンヒェン 色と、燃えるような真紅のカーネーションが咲いていた。そし この四阿屋のなかで読んで聞かせるのである ( ) 。花壇には、黄 ンが訪ねてくるといつも、レンヒェン夫人は自分たちの恋文を、 ン二世は旅先から「 遠縁の親類ヨ ー アヒム様 」 宛に ( ) 、 レン が、ジーモン・ヴォルトゼン二世の心を射止めたのだ。ジーモ つ げ あったと伝えている。ヨーアヒムが妻エルザベと満ち足りた結 21 ヒェン嬢を妻に迎えたい旨を書簡で申し伝え、色よい返事を得 18 た。承諾の手紙に対する返信のなかでジーモン二世は、 「神の摂 ローラ像がひっそりと佇んでいる。 てジャスミンの茂みに埋もれるようになって、木彫りの女神フ ている。「その女性に対して、私はこまやかな愛情を抱き、この うえない敬意を払っているのです。ですから最愛のレンヒェン さんを、今回の商用旅行から戻ったその日のうちに、花嫁とし テーオドール・シュトルムの作品は、ほぼすべて故郷の地に 【フーズムの町と近郊の風土】 理が私に伴侶を授けてくださった」喜びを、こと細かに書き綴っ 22 (3) 20 15 16 17 田 淵 昌 太 ロ ー ニカ 』 くらいなものである ( ) 。 シ ュ トルム文学の素材と 根ざしており― 異質な響きを奏でているのは、ノヴェレ『ヴェ う荒れ野のなかだった。町の南側にはマルシュと呼ばれる湿地 荒れ野が果てもなく広がっており、町を一歩出ると、そこはも 側には、テーオドール・シュトルムの子どものころには一面の ハ イ デ なったのは、少年時代の記憶、ヴォルトゼン家の祖母レンヒェ 草原が横たわり、その湿地帯を貫いて縦横に走る無数の水流が、 えもしない小さな町。軒を連ねているのは、古びた陰気な家並 「樹木のほとんど見当たらない海辺の平原に佇む、さして見映 郷の町から離れることがなかった。 してくれている。テーオドールの心は死を迎えるまで、この故 院』のなかで、自身の生まれ育ったフーズムの町を一筆書きに ある。テーオドール・シュトルムはノヴェレ『聖ユルゲン修道 ともに、フーズムとその近郊の散策におつきあい願いたいので それゆえ若き読者のみなさんには、これからしばらく、私と め尽されてばかりの空が覆いかぶさっている。空が青く澄みわ こうした景観のすべてを包み込むように、不思議な形の雲で埋 たちは海の上を舞い、嵐が迫ると内陸部の空に逃げ込んでくる。 えたかと思うと、千鳥の叫びが静寂を切り裂く。翼を広げた鷗 はにぎやかな歌声を空いっぱいに響かせ、田鳧の鳴き声が聞こ うに真っ白な仔羊たちが無邪気に跳ねまわっている。雲雀たち の牛の群れや羊たちの姿が見られ、親羊のまわりでは、雪のよ ― る。 樫の古木に取り囲まれた豪農の屋敷がぽつりぽつりと佇んでい 金鳳花の黄色の花で刺繡を施したように彩られる湿地草原には、 マ ル シ ュ みばかり。 これが私のふるさとである。 だが、 そんな町でも、 きんぽうげ たんぽぽ ンや幼少期の年上の友人レーナ・ヴィースが聞かせてくれたお 日の光を受けて銀蛇のごとく輝いていた。夏になると蒲公英や 私にとっては、いつでも心おきなく寛ぐことのできる場所なの たることは滅多にない。というのも、シュレースヴィヒ=ホル ぎん だ はなし、灰色の町フーズムの風土、古い年代記であった。 だ。人間にとって神聖な二種類の鳥も、私と同じ考えを抱いて シ ュ タイン地方は、「 太陽が顔をのぞかせることのほとんどな 4 4 4 4 4 た げり マ ル シ ュ ( ) 。だ 夏には、見渡すかぎり、長閑に草を食むさまざまな色 は くれているらしい。町の上を夏空たかく悠然と舞うこうのとり。 い、 永遠の湿り気に閉ざされた 」 土地柄であるからだ や な この鳥たちは、地表では人家の屋根に巣を架けている。そして が、この地に生を享けた者にとって湿地草原は、かつてテーオ 4 ドール・シュトルムがテーオドール・フォンターネに宛てて書 4 四月になると吹き寄せてくる最初の南風に乗って、毎年、必ず ( ) 。 25 場所には、緑豊かな庭園をいくつも備えた托鉢修道会士たちの フーズム市内の北寄りに、城館がある。はるか遠い昔、その いたように、「世界で最も魅力的な場所」なのである 26 4 帰ってくるつばめたち。町の住民は、今年もつばめがやってき ( ) てくれたよ、と喜びあうのだった。」 やや内陸部に引っ込んだところに位置する町だ。町の北側と東 フ ー ズムは、 フ ー ズマ ー・ アウという小さな川のほとりの、 24 (4) 23 父 テーオドール・シュトルム あらゆる恵みから見放された、畏敬の念を欠く味気ない時代だっ に持ち去られてしまう。テーオドールの幼少期は、藝術と美の み こと ば この小さな町にも押し寄せてきたとき― 修道士たちは逃げ出 修道院があった( ) 。 ― しかし、混じり気のない神の御言葉が しっかりしていたのである。マリーエン教会が保有していた文 だが実際には、爆破しなければ解体できないほど、壁や建物は も ( ) 、老朽化が進み倒壊の恐れがあるとして取り壊された。 ― た の だ。 か つ て 町 の 建 設 と 同 時 に 創 建 さ れ た マ リ ー エ ン 教 会 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン大公がこの修道院を取り壊 この修道院をフ ー ズムの町に寄贈する 化財や美術品は度重なる競売で叩き売りにされ、競売を免れた ( ( ) すしか手だてがなかった(一五二七年) 。デンマーク国王は、 し、その跡地に立派な城館を建てて、大公妃たちの寡婦住居と ) 。そして一五七七年、 したのである。ライオンの像があしらわれた石橋を通って堀を 出され、コペンハーゲンへと運ばれていく始末である。新築なっ ものも、いつしか散逸してしまった。聖母マリア像に到っては、 た教会に受け継がれたものといえば、洗礼盤と鐘しかない。と 教会の解体後五十年のときを経て、藝術を解する一デンマーク しかし、一七五〇年ごろには城館の建物は中央部分を残すのみ はいえ、もとの教会が取り壊されてから二十年後にようやく建 渡ると、七つの塔を備えた壮麗な建物の前に出る。建物の内部 となり、七つの塔も巨大な真ん中の塔の附け根部分のほかは、す てられた新しい教会は、美意識のかけらも感じられない代物だっ 人によって屋根裏部屋の埃まみれのがらくたのなかから見つけ べて取り払われてしまっていた。おまけに贅を凝らした内装・調 た は高価な調度・装飾で埋め尽されており、礼拝所には立派なパ 度はすべて失われ、残っているのは暖炉だけというありさまだっ イプ・オルガンと銀の祭壇がしつらえられていた。 た。初期の詩作品が収録された小さな本のなかで、テーオドール 修道院の礼拝堂で行われていた。聖ユルゲン修道院― かつて ス ピ ス ( ) は、もともと た。これらの肖像画は今ではコペンハーゲンにある。そのなか 働いた辛く厳しい人生を閉じるにあたっての、最後の憩いの場 お、この修道院は、多くのフーズム市民にとって、働きづめに 病院と終末期看護施設とを兼ねた施設であった。そして今日な ホ 「騎士・聖ユルゲンの館」と呼ばれていた ― ( ) 。フーズムに教会がなかった二十年間、礼拝は聖ユルゲン はこう述べている。 「フーズムの城館の、いわゆる騎士の間には、 私が子どもだったころにはまだ、昔の騎士や淑女の肖像画が隙間 に、じっと見つめると顔を紅潮させるという騎士の肖像画があっ ( ) 。 となっている もなく、ずらりと掛けられていた。たいていは等身大の絵であっ 33 32 た。子どものころの私たちはしばしば怖いもの見たさに、おっか ( ) デンマーク支配の時代に、これらの肖像画はコペンハーゲン なびっくり、この騎士の絵を眺めにいったものだった。 」 30 なくフーズムの町になだれこんできては、低い街路に溢れかえ 十九世紀初頭にはまだ、北海の海水が何物にも遮られること 34 (5) 31 28 29 27 田 淵 昌 太 るということがあ っ た。 そのため住民は特殊な設備を用いて、 「ホーレ・ガッセ」小路に住む市参事会議員ジーモン・ヴォル 【シュトルムの両親】 トゼン二世とその妻マクダレーナとの間に、長生した息子はい しゃく 嵐の引き起こす高潮から自分たちの身を守っていた。すなわち 玄関や窓のすぐ外側に杓り溝をつけ、高潮が迫りくると、そこ ある。しかしマクダレーナ、エルザベ、ルーツィエの三人娘は、 男児は皆、幼くして命を落としてしまったので ― なかった。 ( ) 。強い北西の風が高潮を引き に厚く頑丈な板を嵌め込んだのである。こうしてできた隙間に は、肥料や砂嚢が詰め込まれた ( ) 。一八一四年、ハイデルベルクで学業を すくすくと成長した ( 終えたばかりの若き法律家ヨーハン・カージミール・シュトル )と街路を触れ歩 く男がいた。しかし、水門を備えた堤防が建造されたことによ 起こしそうになると、「水だ、水が来るぞ」 ムがフーズムにやってくる。ヨーハン・カージミールの父親は、 しょうゆう り、一八五七年以降、嵐による高潮はもはや脅威ではなくなっ ( ) 。 何世代にもわた っ て、 父から子 でに「シュトルムの旦那」 へ、子から孫へと受け継がれてきた水車小屋である。後年、す 水車小屋を所有していた 木立と草原に囲まれたうら寂しい小邑ヴェスターミューレンで ― なにしろ港には、常時、 フーズムは重要な交易都市だった。 ハン・カージミールは、一日の仕事をやり終えた晩方に、この 十四世紀と十五世紀を通じて、さらには十六世紀の初頭まで、 四十隻から五十隻もの船が停泊していたのだから。北海とバル 少年時代の楽園のことを子どもたちに話して聞かせていた ) ( ) 。 次から次へと い出のひとこまひとこまに、はるばると遠いまなざしを向けな 心に浮かび上がってくる、幼き日々や楽しかった青春時代の思 ― を沈め、赤ワインのグラスを前にしていた。 ハン・カージミールは黒い紋織を張った古い肘掛椅子に深く身 42 41 がら。 。 年配のご婦人方 ( ) と呼ばれるようになっていたヨー ト海とを結ぶ通商は、すべてフーズムを経由しており、その繁 のちには成長した孫たちも話の輪に加わる。そんなときのヨー ( ) 。 栄ぶりはハンブルクでさえ羨むほどのものであった。だが、年 の船舶は接岸できなくなってしまった 月の経過とともに港には泥土が堆積してしまい、とうとう大型 40 たのである。 39 を歩く姿は、 鬼火のゆらめきを思わせた ( 子どもたちが上着のボタン穴に簡易角灯を取りつけて暗い街路 ハント・ラテルネ テーオドール・シュトルムの少年時代には、まだ街灯はなく、 37 は、とっぷりと日の暮れた冬の夕べには、角灯を持った女中に シュトルムは、ジーモン・ヴォルトゼン二世の家にも出入りし 社交上のつきあいから、若き法律家ヨーハン・カージミール・ ていた。たちまちヨーハン・カージミールは、美しく愛らしい 社交の集まりの場まで送ってもらい、またあとで迎えにきても も灯されていたものである。 ― らっていた。 裕福な家柄のご婦人の角灯には、蠟燭が二本 ラテルネ 38 (6) 36 35 父 テーオドール・シュトルム ルーツィエ・ヴォルトゼンに心奪われる。ルーツィエは愛くる 脳の持ち主たるルーツィエは、藝術と自然にもおおいに興味を ろだった。ことによるとナインティンゲールの奥方も、絶えず海 た堂々たる構えの家に迎え入れる。折しも薔薇の花の咲き匂うこ ル・シュトルムは、十八歳になったばかりの新妻を、広場に面し 一八一六年五月二十九日、若き弁護士ヨーハン・カージミー 【テーオドールの誕生】 抱いており、詩人エードゥアルト・メーリケは後年、このルー しい女性で、その青い瞳は独特の輝きを放っていた。明晰な頭 ツィエのことを、「澄んだ輝きを放つ何かを― こちらの愛情 のざわめきが聞こえるこの町に暫時、羽根を休め、若い新婚夫婦 広場を取り囲んで建っている古い階段破風の家屋のうちの一軒 このような女性だったのである。ヨーハン・カージミールは、 ていた ( ) 、弁護士としてフーズムの町に住みついた。テーオ が抱かれていた。それは九月十四日から十五日にかけての、真夜 はじめるころ― うら若い母親の腕のなかには、最初の男の子 の秋― 野を一面に赤く染めるヒースの花が、そろそろしぼみ の心に悩ましい愛のさえずりを響かせていたかもしれない。翌年 ( ) 。若きヨーハン・カージミールの花嫁となったのは、 を呼び醒まさせるような何かを備えているご婦人です」と語っ を購入し 中のことであった ― ( ) 。 「ホーレ・ガッセ」小路にあるヴォルトゼン家の屋敷は、すっ ( ドール・シュトルムは、このヨーハン・カージミールのことを オドール・ヴォルトゼン=シュトルム」と名づけられる とりわけ管財業務の取り扱いに秀でており― 後ろ暗 かり寂しくなってしまった。長女マクダレーナと次女エルザベ はるか遠くへと飛び去り、二度と戻ってはこなかった。 二人の娘は若者たちと連れだって、 50 ( ) 。だが若きヨーハン・カージミール・シュトルムの一 一八二〇年に、善良な祖父ジーモン・ヴォルトゼン二世が世 を去る 51 (7) ) 。この男児は洗礼に際して、 「ハンス・テー こう書いている。 「父には私利私欲がまるでなく、弁護士として も、彼女らの心の思うところに従っていったからである ( ) 。 いところのまったくない人でした。博学な法律家というわけで ) はあらゆる社会階層の人たちの、本当の味方だったのです。か ( 。父 つて島嶼部を旅したとき、私を背に負って船から陸へと下ろし 46 ( ) 喜ばしい巣のなかで、雛たちのさえずりは えて言うておる。実際に会ったことがない連中でもな。』」 ( ) 二度と聞かれなくなってしまったのだ。 49 てくれた船乗りの老人がこんなことを言いました。 『坊やの親父 45 さんのことはな、あんなにいいお人はいない、と誰もが口を揃 ており、国中で敬われ、そして重んじられておりました はありませんでしたが、状況を明快に把握する力量で名を馳せ も― 48 47 43 44 田 淵 昌 太 家が新町通り五六番地の家から、すっかり寂しくなった「ホー 一貫して、いかなる信仰も抱いておりません。ですから信仰と のを耳にした覚えはないのです。 [……]私は子どものころから、 空気は健全でした。宗教、つまりキリスト教が話題にのぼった ノイシュタット レ・ガッセ」小路の屋敷へと引っ越してきてくれたので、ヴォ ) ― いうものについて、成長するにつれて抱く懐疑とも無縁でした。 ( ルトゼン家の祖母レンヒェンには、世話を焼いてやったり、か わいがってやったりする相手ができた ( ) ただ時折、神による天地創造やこの世の終わりを信じると に再び幼い子どもたちの足音や、大はしゃぎする明るい笑い声 か信じないとかということに、なんだかんだと、ひどく重きを 。こうして階段や廊下 が響き渡るようになる。ヨーハン・カージミールは子宝に恵ま 置く人たちを見て、目をぱちくりさせるばかりだったのです。 」 ( ) 。 ヘレ ー ネと れ、次から次へと十一人の子どもを授かったものの、つつがな く成長したのは、 わずか四人に過ぎなか っ た を把握することなどできはしないとよく心得ておいでだ。私は のでしかないだろう。愛の神なら、私たちの貧弱な知性では神 いた。「もし神が存在するのなら、それはただ、愛の神というも 後年、テーオドールは自分の子どもたちに、よくこう語って いつも、こうした神への信仰に頼ることなく、― 羨望、憎悪、 ( うかわいがって、毎晩いっしょに寝ていたルーツィエも、咽頭 ツェツィーリエは若くして世を去り 。 ― 五歳違いの兄 ) 疾患のため六歳で夭折してしまったのだ ( は泣きながら草原へと駆け出していく。このときの心痛がテー 嫉妬といった― 自分の心に巣食う邪悪なるものすべてと戦お ( ) オドールに初めての詩を書かせることになった。しかし、残念 うとしてきた。そして善良な人間たらんと努めてきたのだよ。 」 そし て今、妹の天使のような髪にまとわりついているのは ( ) 死者の花環なのだ。 テ ー オド ー ルがこよなく愛したこのかわいい妹への追憶は、 何年もの時を経て、最も情愛ゆたかな詩のひとつである「ルー ( 祖母レンヒェンは幼少期のテーオドールにとって、かけがえ のない存在であった。なぜならテーオドールや、その弟妹たち を喜ばせたものはすべて、この母方の祖母に由来していたから ( ) 。 である。 レンヒ ェ ンは孫たちのためになら何でもしてくれた。 孫たちが遊びに必要とするものは、すべて取り揃えてくれた しかも、どんなに些細なことであれ、子どもなりの悩みごとで ) 。 心細くなったときには、いつも絶対に安全な避難場所となって ツィエ」に結実した 【人形芝居への熱中】 ながら、この詩は冒頭の子どもじみた二行しか残されていない。 ) 、テーオドールがたいそ 53 52 「私自身に関しては、厳しくしつけられたということはありま (8) 55 54 58 59 60 56 せんでした」とテーオドールは述懐している。 「しかし家庭内の 57 父 テーオドール・シュトルム ルが第三学年の生徒だったとき、人形芝居の道具一式をプレゼ くれさえしたのである。このヴォルトゼン家の祖母はテーオドー たものの、それでも若き伯爵夫人ゾフィーを演じた潑溂たる人形 だった 集に載っていた、ランツァウ伯爵なる人物の誕生日を祝う作品 最初に上演したのは、テニング出身のペーツェルという人の詩 ク ヴ ァ ル タ ントしてくれた。かつて作家シュトルム自身が、一夕、懐しそ には特に盛大な拍手が贈られた。伯爵夫人ゾフィーの人形が格別 ( ) 。厚紙で作った人形は手足を動かすことこそできなかっ うに昔のことを思いおこしつつ娘ゲルトル ー トに語り聞かせ、 いっせき やがてそのゲルトルートが書きとめた、この人形芝居劇場を贈 かわいらしく思われて、その姿に心奪われそうになったことを今 ( でも憶えているよ。自分の弟や妹のうち、私がいちばんかわい ) 。 「それからというもの、何年もの間、私は学校に行っていると がっていた今は亡き妹ルーツィエも、この上演を見てからという られたときの有頂天ぶりを、ここで見ておくことにしよう もの、 『愛らしい伯爵夫人ゾフィー』のことばかり口にしていた ものだ。 き以外のすべての時間を、この人形芝居劇場の監督・運営に費 ( ) 。オールフースの間借り先の老嬢は、紙で 私たちはヴィルヘルム・マイスターがやったような物騒な場 ( ) 、あの教養小説の若き主人公とは ( ) 。しかし、紙で作った色あざやかな虹 ヘクセン・プルファー 違って、雷鳴や稲妻の演出には、銅板と魔女除けの粉を用いて ( ) 。 ( ) 。人形を操作している私たちが観客の目に入 隣りあう二部屋を結ぶ扉を開け放って、そこに人形芝居の舞台を 気が私たちにはいちばんの魅力だった。観客が居るほうの部屋 らないように、全体にすっぽりと覆いを掛けてね。謎めいた雰囲 りの作品も見当たらない。私が隅から隅まで舐め尽すように読 てしまってね しかし私たちは、すぐに余所の土地の戯曲では飽き足りなくなっ ( ) 。かといって自分たちのおんぼろ小屋にぴった は、もっとも観客といっても、ほとんど近所の人や奉公人たちば 緞帳を上げたときの神秘的な印象が、ぐっと深まるからだ。 んでいたゲラートの牧歌劇はどれもこれも、あまりに古めかし 人形劇の舞台に架けた第二作は、 シラ ー の『 群盗 』 だ っ た。 えすも残念だった。 していない裏面が観客のほうに向いてしまったのは、かえすが が撚糸でみごとに吊り下げられたとき、撚糸がよじれて、彩色 67 かりだったけれども、ずっと真っ暗にしておいた。そのほうが、 置くことにした 大成功を収めたのだよ 面は上演しなかったものの さっさ』と歌ってくれたから、私は本当にうれしかった な裏声で『おいらは愉快な鳥刺しさ。よいさ、こりゃさ、ほい て、鉄線を取りつけるのを手伝ってくれた。この老嬢は上演に こしらえたものに過ぎなかったとはいえ、人形たちを切り抜い スの同級生二人だ したのだよ。助手を務めてくれたのは、クレープスとオールフー 65 際してはパパゲーノを担当して、人形を踊らせながら、きれい 66 62 当初、私たちは部屋の真ん中で上演していたけれども、やがて 63 ( ) 。だからオールフースとクレープスと私と 68 いように思われた 69 (9) 61 64 田 淵 昌 太 は、ひとりの老人を登場させた。この老人は、家を飛び出して 離された恋人たちを結びあわせる役割を担う。一方、クレープス を務めるのは道化だ。この道化が、頑固一徹な父親のせいで引き そして実際に、自ら台本を書いて持ち寄った。私の作品で主役 は決意したのだ、自分たちの手で劇作品を書くしかない、と。 その都度、 ブリキの大砲を打ち鳴らしたので、 祝祭の気分は、 して上演は拍手喝采を浴びながら滞りなく進行する。幕間には、 子を縫いつけ、男性役の人形の顔には口髭を描き込んだ。こう た。女の子の髪型ばかりしていると言われた人形たちの頭に帽 私はすでに練達の域に達している。私は自分の考えを押し通し さしたる興味も示さなかったのだからね。しかし演出において ている、 と言っ て、 ずんぐりむ っ くりの鈍重な人形たちには、 まくあい いった素行の悪い息子のことを、心底、気に病んでいる。老人は いやがうえにも高まったというわけだ。 息子を探す旅に出る。とある森のなかで老人は盗賊に襲われた。 だが、この盗賊こそ、老人の探し求めていた息子の成れの果ての こうして舞台装置や人形衣裳がひととおり充実してくると、 遣いを叩いては、リボンや人形の顔を買い集め、小さな人形一 私は新たに背景となる森の情景をあれこれと描き、節約した小 ( ) 。つまり、およそ思いつくかぎりの大道具・小道具をこ ( 10 ) く 次いで私は人形芝居劇場の外観を華やかに飾りたてることに意 だが、じきに私は、平べったい紙の人形では、もの足りなく 座の仲間をおおいに増やしてやったのだ 4 4 なってしまう。臨場感をもっと高めたくなったのだ。そこで薄 うと、街路の飾りつけ作業に、傍目も振らず没頭していた。こ 4 い亜麻布に綿を詰め込んで顔をつけた人形をいくつも自分で縫 んなふうに準備を進めていくうちに、だんだん、さながらヴィ 4 いあげ、母と、多少は針仕事もできるようになっていた妹ヘレー ルヘルム・マイスターの二の舞を演じるというふうになってき 4 姿であった。悔恨、絶望、宥和、そして― 涙に眩れる結末。 4 こういった自分たちで書いた劇の上演準備には、ひどく手間 を用いた。私たちは赤い布地でできた新しい緞帳を調達してき ( ) 。 たり、舞台を囲む枠に金紙で作った星を貼りつけたりした ( ) 。こうして盗賊は緑 てね かきわり の絹でこしらえた外套を着せてもらうことができたわけだ。し ネには、人形が着る服を縫ってもらった しらえることにばかり気を取られて、肝心の上演そのもののこ プ ロ セ ニ ア ム た悪魔どもが巣食う岩場の書割を描かねばならなかった。 がかかってね。私は、無数のわしみみずく、蝙蝠、赤い目をし かし、共同監督のクレープスに、すでにできあがった人形を見 とが、私たちの頭から、すっぽり抜け落ちてしまっていたのだ。 72 はた せて、その改良点を説明し、この発案をおおいに褒めてもらお 新たに改良を施した人形芝居劇場の一座は、いつしか、自分た ( ) 。クレープスはとい うと思っていたのに、私の期待は手ひどく肩透かしを食わされ ちの手に負えないほど大がかりなものになっていた。こうして、 わき め てしまった。だってクレープスは一瞥しただけで、どれもこれ 71 も同じ顔立ちで表情に乏しく、みんな女の子みたいな髪型をし 73 70 父 テーオドール・シュトルム ( ) すべての準備は水の泡と消え、私たちの人形芝居熱は、これで 大王ができあがり、盗賊の衣装のほうも、いかにもそれらしく さて、いよいよ開演である。カンペの作品を覚え込む余裕は、 なってくれた。 もはやない。 二、 三度、 読み返しただけで広間へと出ていく。 すっかり冷めてしまったのだよ。」 「それでどうなったかと言うと」と、父は話し続けた。「ほと いのだということを思いつくまでに、そう時間はかからなかっ 人形を操るのではなく、自分たちが役者となって演じればい 王は居丈高に尋ねる。大王は、しばし返答を待つ。盗賊は大王 レクサンドロスの前に連れてくる。『そのほう、何者だ』と、大 舞台に立つのはアレクサンドロス大王。二人の捕吏が盗賊をア ら幕の隙間から客席を窺っているうちに、とうとう幕が上がる。 広間は観客ではちきれんばかりになっていた。どぎまぎしなが た。そうこうするうちにオールフースはパン屋の老未亡人のと を、ぐっと睨みつける。だが、待てど暮らせど返事はない。そ てもいいと言ってくれたのだ とうとう王の詰問は立ち消えになってしまった。観客は、どっ れもそのはず、台詞を覚えていないのだから、無理もない。美 と笑いだす。そして幕を下ろさないことには、どうにも収拾が しく化粧を施した少年二人が向かいあわせに立ち、いつまで経っ とうとう芝居の上演日がやってきた。開演一時間前に私たち つかなくなってしまった。こうして幕の下りた舞台袖には、覆 ほどで、シーツでぴったり覆った枕屏風を使い、奇妙奇天烈な はオールフースの下宿部屋に集まり、出し物を何にするか話し いようもない捨て鉢な雰囲気がたちこめていたというわけ ても睨みあ っ ているばかり。 二人の額には汗が浮かんでくる。 あった。ところが誰も演目のことなど考えていなかった。あれ だ。」 舞台を組み立てる。 これは自分たちで独自に考案したものだ。 でもない、 これでもないと、 さんざん言い争っ ているうちに、 ( ) 運命のときは刻一刻と迫ってくる。すったもんだのすえ、つい だが、この舞台には出入口が片方しかなかった。 い たけだか ( ) 。私たちは喜び勇んで、一週間 ころへ引き移っていたのだが、この人が自宅の広間を上演に使っ うなことになってしまってね。 んど『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の引き写しのよ 74 にマケドニアのアレクサンドロス大王と盗賊との対話を演じる も」と父は述べた。「観客を飽きさせないために、自分がクラウ 「まずいことになっ たと、冷や汗でびっしょりになりながら ) かで決意したことを、 今でもは っ きり憶えている ディウスの『巨人ゴリアテ』を朗読しようと、切羽詰まったな ( ) 。たった 全部で三頁そこそこの長さしかない 今、幕を下ろしたばかりの、失敗に終わった長い上演準備の疲 。役者の衣装をどうする のかが、いちばんの問題となった。しかし顔に化粧をして、外 ( ことに決まった。これはカンペの少年文庫に入っていた作品で、 77 套と上着をあべこべに着てみると、なんとかアレクサンドロス 78 76 ( 11 ) 75 田 淵 昌 太 ( ) 。ともあれ、このことがあって以降、私はゲーテの長篇 ニッテルフェルスの詩行を朗読することで覆い隠そうとしたわ れを嘆きながら、私は自分の憐れむべき取り乱した心情を、ク がみこんでくれたのだ。テーオドールは、持ちきれないほどの がると、衣服をあれこれと詰め込んだ簞笥の引き出しの前にしゃ れる。母親はテーオドールを連れて家に入り、屋根裏部屋に上 けだ テーオドールは、日がな一日、年の市の屋台店の設営に熱中し 衣類を抱え、おおいに満足して庭に引き上げていく。こうして ( ) 小説の主人公と同じように、しかるべき準備もせずに芝居を演 じるような真似は二度とすまい、と固く心に誓ったのだった。 」 ていた。だが夜になって寝床に入ってみると、母親があれほど ルーツィエは善良な母親だった。だが祖母レンヒェンの溺愛 てきたとき、レンヒェンがそこで目にしたのは、死の恐怖に怯 一度、きちんと布団を掛けてやろうとテーオドールの部屋にやっ ろう。そうか、お母さんは、ぼくを殺すつもりなんだ!」 やが て祖母レンヒェンが「おやすみ」を言い、寒くないようにもう てきて仕方がなかった。 「これはいったい、どういうことなのだ 気前よく言うことを聞いてくれたことが、どうも不審に思われ ぶりには、やはり文句のひとつも言わずにはいられなかったに え、泣きじゃくる孫の姿であった。祖母は慌てて母親を呼んで ) ルーツィエから優しくしてもらったなどということは、何ひと ちがいない ) 。そんなふうだったから、かつて母 【母の思い出】( つ語っていないのである ルに落ち着きを取り戻させるのは並大抵のことではなかった。 くる。そして二人がかりでなだめにかかったのだが、テーオドー ぎ く ( なり叶えてくれたとき、テーオドールの子どもごころには、あ いち 一八二五年二月三日の夜から四日にかけての嵐が引き起こした、 近年では最も凄じい高潮は、テーオドール・シュトルムの心に初 上の家屋が地下室や納屋もろとも水浸しになっていたのである。 ろだと言われているが、実際には午後一時の段階ですでに百棟以 85 母親だ っ た。 その日、 母親は忙しそうにしていたの なく ― ( ) 。高潮が襲ってきたのは午後三時ご めての強烈な印象を残した が、とうとう我慢も限界に来た。すると母親は嫌な顔ひと つせず、すぐさま幼い息子の願いを十分すぎるほどに叶えてく ― で、テーオドール少年は自分の願いをずっと言いだせずにいた。 とに、 「衣装簞笥の引き出し」を取り仕切っていたのは祖母では 【高潮の記憶】 れこれと奇妙きわまりない疑懼が芽生えてきたのだった。テー とし で、砂糖梱包箱の板切れを使って年の市の屋台を組み立て ) 、 ― ( ( ) 。事実、後年、テーオドール・シュトルムは、母 ルーツィエがテーオドールの数ある願いのうちのひとつをすん 81 オドール― 当時、六歳ぐらいだっただろう― は自宅の庭 83 82 そこに織物や布地を並べようとしていた。しかし具合の悪いこ 84 ( 12 ) 80 79 父 テーオドール・シュトルム 像力ゆたかな八歳の少年の心に深い爪痕を残す。このとき目にし 原のどよめき、鷗の鋭い鳴き声。荒々しい自然が一丸となって想 るところを探さなければならなかった。嵐の咆哮、はるかな大海 住民たちは着の身着のままで逃げ出し、町の高台に寝泊まりでき や、対岸の水車を見せてやるためだった じのぼったのである。屋根の上から、目の前の海を行き交う船 四歳の従妹コンスタンツェ・エスマルヒを背に負い、屋根によ をしていることすらあった。そうして或る日、テーオドールは ていく。ときには屋根に上がり、煙突のまわりで追いかけっこ ( ) 。水面に低くたなび た自然の猛威のすべてを、後年、作家シュトルムはノヴェレ『管 く霧のように長々と横たわる対岸のノルト・シュトラント島で は、水車が回っていた 財人カルステン』および『白馬の騎手』に書きとどめている。 ( ) 。だが、活発な一方で、テーオドール 叔父や叔母たちが時折、漏らした言葉から察するに、幼いこ 詩をむさぼり読みながら、梨の木や林檎の木の、いちばん高い ピンドラーの怪奇小説に読みふけりながら、あるいはシラーの には沈思黙考する面もあった。暑い夏の日々には、カール・シュ ろの父は無茶なことを平気でしでかす腕白少年だ っ たらしい。 ( ) 。 枝に腰かけている、この腕白坊主の姿が見られたのである かつては年に一度、ゼーゲベルクの町からやってきた豪華な旅 行馬車が「ホーレ・ガッセ」小路の邸宅の前に止まったものだ。 マ ル シ ュ ( ) 。地元の男の子なら誰でもや る。こうしてコンスタンツェ・エスマルヒと従兄テーオドールの きた すべ ものだったと言われている 追いかけっこが、家のなかや庭先で繰り広げられるのであった。 ィ ン チ ( ) 。 当時、 屋根裏部屋の天井から ( ) 、友人たちを引き連れて三層構造の屋根裏部屋で遊んでい ウ る、 とい っ た具合であ っ た ば は、驢馬にまたがって木彫りの女神フローラ像の周囲にめぐら ( ) 。夏の数週間を、生まれ育った家で過ごそうというのであ るように、父も飛 び ( ) 。テーオドールの活発な遊びぶり 杖を使って湿地草原の水流を飛び渡る 92 そしてエルザベ伯母さんが、子どもたちを連れて馬車から下りて シュプリング・シュトック れでも飛び越えていたのである 父は、どんなに高い木にもよじ登り、どんなに幅の広い水の流 【コンスタンツェ・エスマルヒ】 90 ― 『樽のなかから生まれた話』に、詩人シュトル ス」がいた。 テーオドールの最も実直な遊び仲間の一人に「ぬすっとハン 【少年時代の友人たち】 以前はこの巻き上げ機を使って、砂糖の梱を吊り上げたり、吊 という渾名は、 「泥棒と兵隊」という遊びにおける抜群の貢献ゆ ムはこの友人の姿を書きとどめている 94 こり り下ろしたりしていたのである。少年たちは屋根裏部屋の最上 ( ) 。「 ぬす っ とハンス 」 層へ上って両手で太いロープを握りしめては、下の層へと降り は、まだ巻き上げ機のロープが垂れ下がったままになっていた。 93 ( 13 ) 91 術を身につけており、しかも、その腕前は惚れ惚れするほどの 86 された貝殻敷きの果樹園の遊歩道を歩きまわっていたかと思え 87 89 88 田 淵 昌 太 もあった。「おはなしを聞かせる」となると、ハンスは友人たち えに奉られたのである( ) 。またハンスは「おはなし」の名手で で食事をごちそうになっていたのである。土曜日の午後になると、 テン語学校で学んでおり、週に二度、テーオドールの両親のもと トシュテットで牧師をしていた ( ) 。オールフースはフーズムのラ を、腹を抱えて笑わせたり背筋が凍りつくほど恐がらせたりす せいようにわとこの暗緑色の生垣から顔をのぞかせている牧師館 オールフースとテーオドールは、しばしば連れだって荒れ野を踏 は、遠くからでもはっきり見えた。少年時代の喜びの数々が、古 ることができた い牧師館のなかや、樹木の豊かな庭、そして庭に隣接する牧師館 ( 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 らは不規則動詞の変化や気がかりになっていた悩みごとが消え らじろはこやなぎの喬木に登ることだけは禁じられていた。 ― の草原で繰り広げられていく。何をしても叱られなかったが、う やがてテ ー オド ー ルの頭か ( ) 、ハンスは粗末なベッドを置いた、ローム質の土がむき ― せあうのが至福のときとなる。 ) 。 ― こう ( ) 。 だから二人は見つからないように、こっそり登ったのである 【一族のつながり】 を載せ、樽の口には板きれを二、三枚、かぶせて。作業員たち 黄昏どき、二人は、この樽のなかに身を潛める。膝に簡易角灯 祝いも一段落して、うら寂しい日暮れどきが訪れると、年寄り ― フェッダーゼン家は一体となって、ひとつの大きな家門を成す ほ か 大 事 に さ れ て お り― フェッダーゼン家の曾祖母のところに集まって飲むことになっ 一 心 不 乱 に 聞 き 入 っ た。 日 曜 日 の 午 後 の コ ー ヒ ー は、 い つ も はなしを聞かせてくれるのである。 子どもたちは、 その話に、 たちが、その日、顔を見せている一門の子どもたちを前に、お 一族内の慶事は皆で、いっしょに祝っていた。やがて、お ヴ ォ ル ト ゼ ン 家、 シ ュ ト ル ム 家、 がヨーハン・カージミールのいる事務室に引きあげてきたとき、 テーオドールの両親の家では一族の絆というものが、ことの 彼らは樽のなかから漏れてくるつぶやき声のようなものの正体 ( ) 。 テーオドール・シュトルムの少年時代の遊び仲間ということで ていた ( ) 。もちろん子どもたちの同席も許されている。上品な は、この「ぬすっとハンス」のほかに、オールフースの名も知ら 初めて、合点がいったのである が何であるのか、説明できなかった。事務員に教えてもらって ハント・ラテルネ 4 だしになっている地下の暗い自室のことを忘れた 才は遺憾なく発揮され― そしてとうとう、梱包倉庫内の、事 たちの隠れ家を見つけ出すことにおいても、二人の創意工夫の たちの心は別乾坤を駆けめぐっていたのである。さらに、自分 失せ して、女中の甲高い声が二人を現実世界に引き戻すまで、少年 み越え、ハトシュテット村の古い牧師館をめざして歩いたものだ。 100 隠れ家に身を寄せあって腰を下ろし、メールヒェンを語り聞か ( ) 。テーオドールとハンスにとっては、秘密の 95 れている。オールフースの父親はフーズムの北にある小さな村ハ 99 102 ( 14 ) 96 務室からそう遠くないところにある空っぽの樽にたどりついた。 101 98 97 父 テーオドール・シュトルム 丸い磁器のカップからミルク・コーヒーを飲み、家伝の作りか ( ) い。レーナの妹がテーオドールの子守りをしてくれていた縁で、 も言うべきレーナ・ヴィースの存在にも触れずには済まされな テーオドールの幼少期における、さながらシェエラザードと 【レーナ・ヴィース】 子どもたちはフーズマー・アウのほとりにある庭のほうへ行っ レーナとの交流は始まった ( ) 。レーナ・ヴィースは、少年時代 て、貝殻を敷きつめた小径や、昔ながらの草花を植えた花壇と ムスカリ― オドールはフーズムの故事来歴について、このレーナから多く オドール少年は― かろうじて足元を明るく照らす程度の― ( ) 、まもなく白い漆喰壁に緑の鎧 窓をつけた、とんがり破風の倹しい家にたどりつく。玄関に足 ム・シュトラーセ」に入ると ( 小さな角灯をボタン穴に取りつけて、 「ホーレ・ガッセ」小路を ) 。 すぐ左に曲がり「 ランゲンハル ルに、祖父母や曾祖父母のこと、さらには、かつて自分の少女時 北へ向か っ て駆けていく 代を楽しく幸せにしてくれた人たち皆のことを、話して聞かせた。 ヴォルトゼン家の祖母レンヒェンはお気に入りの孫テーオドー 106 あの庭は 浮世を遠く 遠く離れた 別世界だった を聞かせてもらっている。とっぷりと日の暮れた冬の宵、テー のテーオドールにとって、またとない昔話の語り手だった。テー 105 かつて曾祖母の庭に咲いていた花たちよ ( ) 花壇の間で、はしゃぎまわるのだった。 たで焼いた素晴らしいケーキをたらふく食べさせてもらうと― 104 の四阿屋で、若き日の祖母は、最愛の人から送られた何通もの手 ― かつてこ やがて祖母と孫とは菩提樹の四阿屋に腰を下ろす。 糸 車 を 傍 ら に、 年 老 い た 父 親 は 煙 管 を く ゆ ら せ な が ら。 なで狹く暖かい居間に腰を落ち着けるのだ えかけられ― やがてレーナが牛の乳しぼりを終えたら、みん を踏み入れると、犬のペルレから歓迎のあいさつとばかりに吠 むくどり 4 4 4 4 4 4 4 あずまや 紙を読んだのだ。黄楊で縁どられた花壇には、真紅の撫子、ムス 箱 型 暖 炉の蓋の下では、焼き林檎がじゅうじゅうと音を立てて ( ( ) 。レーナの母親は カリ、過ぎ去りし日々の花たるせいよういばらが、ふくよかに香 いる なでしこ ― 深い追憶のなかから、 り、楓の梢では椋鳥がさえずっていた。 に、おはなしを聞かせてくれるのである ( ) 。やがて古い柱時計が ) 。そしてレーナはおもむろに、耳をそばだてている少年 108 ( ) 。静まりかえった夜の暗がりのなか、 らせると、テーオドールは真っ暗な街路を飛ぶように走り抜けて、 自分の家へと帰っていく 111 つ げ ― 孫は先祖たちの静謐な話し声 先祖たちの姿が浮かび上がる。 バイレーゲ・オーフェン に耳を傾け、すべてを純真な心のなかにしまいこんだ。そして 一様に刻んでいたチクタクという音を中断し、夜の十時を告げ知 107 ずっとあとになって、この懐しい顔ぶれを、テーオドールは自分 の作品のなかによみがえらせることになるのである。 110 109 ( 15 ) 103 田 淵 昌 太 ( ) 。 フリッツ・バッシュ(『桶屋のバッシュ親方』)が、ラテン語 てくれている の先生の鼻先に緑色のからすむぎと一本の蕎麦の茎とを突きつ ( ) 。 を半分に折り、片面にロバの絵を描いたもの― をかぶらされ は、打擲されたことはおろか、恥辱の帽子― 一枚のボール紙 人で、すっかりこの女丈夫のお気に入りとなったテーオドール みならず、野ばら、ほたるぶくろの青い花、赤や白のいらくさも の花が咲き誇る野中の道を歩いていく。道沿いには、さんざしの 虫網を壁の釘から取り下ろすのである。テーオドールはさんざし になると、じっとしていられなくなって、学校鞄の代わりに、捕 ― しかし荒れ野にヒースの花が咲き匂うころ ともあるらしい。 かぐわ 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 ) 。この男女共学の学校にテーオ ク ヴ ァ ル タ ちょうちゃく たことすら、一度もなかった 咲き乱れていた。と思うと、もうヒースの甘い香りが全身を包み 放つ野の花のなかに身を横たえた。あたりは蜜蜂の羽音に満ち、 4 4 4 4 4 4 ド ー ル は 九 歳 ま で 通 い、 そ し て 一 八 二 六 年、 ラ テ ン 語 学 校 の ― やがて木蔭に足を踏み入れると、芳しい香りを 込んでいる。 ― ほかには、物音ひ はるか上空では森雲雀が歌を奏でている。 ) 。 テ ー オド ー ル・ め込まれたガラスは汚れや埃にまみれてほとんど外光を通さな で掃き清められるのは週に一度だけ、おまけに、小さな窓に嵌 心ここにあらずというふうだったので、とうとう或る日、心配し した荒れ野からの誘惑に駆られていたのである。そして、いつも ヒースが咲き匂っている間中、テーオドールは何度となく、こう ま、何時間も、ぼんやりと夢想にふけっていた。町のすぐ外で もり ひ ば り 長 椅 子 が 並 ぶ な か に 粗 末 な 教 卓 が ぽ つ ん と 立 っ て い る。 とつ聞こえない。そんなふうに、テーオドールは寝そべったま か っ たので、 教室内はいつも薄暗か っ た た学校の先生が父ヨーハン・カージミールのもとを訪れ、息子さ ( フーズムのラテン語学校での日々について、ありのままに書い バイレーゲ・オーフェン 別にすると、飾りらしいものは一枚の地図しかない。教室が箒 ( かった。教室はどこも殺風景でみすぼらしく、座り心地の悪い どうやらテーオドールは、たいへんに折目正しい生徒だったこ いる 決まっていると悪態を吐くのも、実際にあった出来事に基いて つ からは、じゃがいもがたんまり収穫できそうですな」と言うに かぶ な ヴィース』でものがたったことはすべて、テーオドール自身が実 ( けたなら、先生は「こちらは蕪菜ですか。そちらの緑色のやつ 【学校時代】 四歳でテーオドールはアンベルク女史の基礎学校に入った ) 。 際に体験したことなのである。 度も何度も響いていた。 作家シ ュ トルムがノヴ ェ レ『 レ ー ナ・ 「おやすみ、気をつけて」と呼びかけるレーナの明るい声が、何 115 第三学年に転じる。当時、このラテン語学校には四学年しかな アンベルク女史は野太い声をした、どっしりと恰幅のいいご婦 116 シュトルムはノヴェレ『お抱え医師― 帰郷』のなかで、この 114 ( 16 ) 112 箱 型 暖 炉の側板に描かれた聖書物語のいろいろな場面の絵を 113 父 テーオドール・シュトルム んはどこかお悪いのですか、と尋ねる始末であった。そういうわ ― 背と四隅とに褐色の革をあしらっ な手帳に書きつけていた。 テーオドールは一八三三年にはもう、最初の数篇の詩を小さ たこの手帳は、今も遺品のなかにある。だが、そこに書き込ま けで、この年に限っては、荒れ野での夢想癖は収まったのであ ( ) 。 れた詩にはさしたる内容もなく、ほんの習作の域を出ないもの る ばかりに過ぎない。冒頭に記された詩は「エマに寄す」と題さ ― ( ) 。 どんなに強がって冗談を飛ばしてみても かわいがる花には こと欠かない 君なんか いなくても平気なんだ。 もし薔薇の花がなかったとしても 泣き言を並べもしない。 でも ぼくは 愚痴をこぼしはしない 癒されることはない。 この胸の痛みが ( ( ) 。 ( ) ) 。この詩は残念ながら、冒頭と末尾 123 そして おまえの墓の傍らでは ( ) 厳かに燃えあがるのだ 新たな輝きを帯び おまえの星は沈んだ だがユダの星は に始まる詩は、次のように結ばれていた。 おお ユダの末裔たちよ 父祖の蒙った汚辱を雪げ の一節以外は失われてしまっている マタティアス」を朗読した たせた。テーオドールも卒業を目前に控えた時期に、この弁論大 無理に 離れていこうとしているのだね では お別れだ! 君はぼくを避けるつもりなのだね 124 会に出場しなければならなくなり、自作の詩「ユダヤ人の解放者 隊が居並んで、弁士が入れ換わる際にはワルツを奏でて間を保 れている 学校生活における一大行事は「演説発表会」であった。市庁 プ リ ー マ ( ) 。第九学年の生徒たちは、手ずから案内状を 舎の広間で開かれるこの催しは、のちに「弁論大会」と呼ばれ るようになった ( ) 。広間と弁士が 119 立つ演壇には花環が飾られ、窓際には愛好家たちの編成した楽 あらゆる人たちが妻子づれで詰めかけたのだ 弟の晴れ舞台を見ようと、地元の名士から一般市民に到るまで、 一軒ごとに配ってまわる。そして弁論大会当日には、息子や兄 118 葬礼の松明が 122 121 120 ( 17 ) 117 田 淵 昌 太 今日はミーネを 明日はリーネを 【フーズムの住民たち】 ( ) 。 テーオドール・シュトルムは遺稿のなかで、子どものころ身 近にいた、いっぷう変わった住民たちのことを語っている 「我が町フーズムの日常は、私が子どものころには、さまざま いかない。 こうしたフーズムに暮らす変わり者のことも看過するわけには 移り気な薔薇の冠を な変わり者たちによって彩られていた。こうした風変わりな連 連れて 踊りにいくだけの話さ。 気まぐれお嬢さん 憶に彩りを添えてくれるのである。まず指を屈しなければなら り顔を出して、まるで愉快な道化たちのように、生真面目な追 ハンスヴルスト 中は今でも、私が別のことを思い出しているさなかにひょっこ 君はぼくを避けるつもりなのだね ないのは、ハンス・シュミットだ。このシュミットおじさんは、 無理に 離れていこうとしているのだね ひとむかし前には、かなりの資産家だった[らしい。だが、遊 興三昧の日々を送り、身代をきれいさっぱり無くしてしまった] では お別れだ! 誰か とびきりの冗談で ということだ ( ) 。かつて大金持ちだったころのシュミットおじ この胸の嘆きを 笑い飛ばしてくれ! さんは、大きな机のなかに手持ちの銀貨を円筒状に束ねて貯め 込んでいた。そして『さあ、おまえたち、存分にはしゃぎまわ るがいい』と一声、叫ぶや、机を揺り動かしては、ずっしり重 いターラー銀貨がぶつかりあってガチャガチャと音を立てるの フーズムにて 一八三三年七月十七日 婚約時代の手紙に目を通すと、このエマなる女性がいったい を聞いて悦に入っていたのだった。だが銀貨を湯水のように使 ( ) 。そして他 い果たし、一文なしになってしまったとき、シュミットさんは ちょっと頭が変になって労務救貧院に収容された ( ) 。このと ( ) 。 126 がり、出し抜けにガチャン、パリンという音が続けざまに家じゅ ( 18 ) 128 君の髪に飾ってあげるよ。 ( ) 125 誰なのかが分かる。エマは、テーオドールが親戚の家を訪れた 129 に何かおもしろいことはないかと思いを巡らせる。とある昼下 130 ときに知りあったフェーァ島出身の少女なのである きテーオドールはまだ十二歳の少年だった 127 父 テーオドール・シュトルム たためしがなかった。これは私が子どものころ、最も驚いた出 うに響き渡って、私は肝を潰した。そんな音は、ついぞ耳にし いた た悪趣味な教会堂の没趣味な塔のなかに吊るされるのを待って 幸いなことに徒労に終わった― 数十年の時を経て、新築なっ なく、 ヨ ー フム・ ピンゲルは鐘を引くほかなか っ たのだ っ た。 ビンゲル ( ) 。しかし、こんなふうに二つの鐘が仕舞いこまれていた 来事のひとつなのだが、ハンス・シュミットが我が家の玄関か せいで、ペーター・ルントゥムは鐘ではなく太鼓を鳴らすしか ( ) 。そうでもしな ら持ち出した箒で、 うちの表通りに面したガラス窓をすべて、 ん小さいもののことを指す。この鐘は引っぱって鳴らす仕組み 『ビンゲル』とは、つまり、教会の古い三つの鐘のうち、いちば ( ) 。 ヨーフム・ピンゲル になっていたのである いことには、もう一度、何かが銀貨のようにガチャガチャ鳴り いち 鐘 うち鳴らし お酒とお菓子に ほかにも聖霊降臨祭の年の市や聖ミカエル祭の年の市で太鼓 ありついた( ) を派手に打ち鳴らす『ペーター・ルントゥム』や、 『修道院』と と子どもたちが囃したてるのを、幼い私は耳にしたことがある。 ( ) 。酒はヨーフム・ピンゲルにとって確かにこの世の シュナップス らがいた この囃し歌にお酒(蒸留酒)が出てくるのは、謂れのないこと 壊されてしまう。[― 『テニングの町には塔がある 高くて おつむ 尖った塔がある フーズムの塔は雲隠れ お偉いさんの頭も雲 しい鐘を打ち鳴らすのが、 この二人の楽しみだ っ た。 しかし、 135 ではない 136 この教会は倒壊の危険があるとの理由から、一八〇七年に取り ( ) 。かつては、我が町の昔の教会堂にあった大きく美 られている鐘を鳴らさずにはいられない『ヨーフム・ピンゲル』 はり 呼ばれていた聖ユルゲン養老院の木組みの低い梁から吊り下げ とし に鮮烈な印象を残したのであった。 か起こり得ないような、突拍子もない一幕は、幼い日の私の心 ひとまく たのかもしれない。ともあれ、この、メールヒェンのなかでし 響くのを聞きたいという切実な願いを叶えることができなかっ あっという間に叩き割ってしまったのである 134 至福であったが、同時にまた命取りの元凶ともなったのだ。忘 隠れ』 り、その路地に沿った一帯には、新町通りの家々の裏屋・家畜 我々の住む『新町通り』の裏手に、一本の細い路地が延びてお た私は自宅の果樹園で遊んでいた。 果樹園の北西の隅からは、 れもしない、よく晴れた夏の昼下がりのこと、三歳ぐらいだっ ― ]三つあった美しい鐘のうち、大きいほうの二つは、 ある。 小屋・納屋が立ち並び、うずたかく積まれた堆肥の山も、ひと ノイシュタット ンハ ー ゲンの連中はこれらの鐘までをも略奪しようとしたが、 ( 19 ) 131 ( ) という戯れ歌が巷間に流布したのは、この折のことで 137 132 城館の庭園の囲壁ぞいに建てられた木造小屋に隠され― コペ 133 田 淵 昌 太 つ、 またひとつと居並んでいた。 その堆肥の山のあたりから、 ヴィート』と彼を呼ぶ若者の声が聞こえてきたときには。 り周囲を見まわしている ( ) 。殊に、『おおい、ホルテン・キー 叫び声ともはしゃぎ声ともつかない、子どもたちの歓声が聞こ ムを踏みつけて踊っているうちにやめられなくなり、とうとう された。それを見つけた子どもたちが木靴を履いたままヨーフ ピンゲルが堆肥の山の上で酔いつぶれて寝ていたのだ、と聞か そのときは分からなかった。夕方になって初めて、ヨーフム・ しかも、ことによると、ホルテン・キーヴィートとユルン・メー 代のフ ー ズムと切っ ても切れない縁で結ばれているのだから。 味気ないことだろう。私にとって、あの人たちは、古き佳き時 して私の記憶から消え失せてしまったとすれば、それはなんと どうか、私には分からない。だが、あの変わり者たちが突如と いった。果たしてあの人たちが世のなかの役に立っていたのか こうした風変わりな連中は、次第に私の人生から姿を消して 死なせてしまったというのである。こうして、この変わり者と ルビュデルのような人たちであっても― これは私の想像でし えてきていたのである。 しかし、 それが何の騒ぎだ っ たのか、 それに比べると『ホルテン・フィーテ』 (またの名を『ホルテ の縁は、私が幼いころに、早くも途切れてしまったのだった。 カージミールの考えに従って、リューベックのカタリーネウム 一八三五年の秋、テーオドール・シュトルムは父ヨーハン・ べてであったかもしれないのだ。」 ( ) かないのだが― 年老いた母親からすれば、その生きがいのす いち 場で週に三回、市が立つと マルクト・プラッツ ン・キーヴィート』)や『ユルン(ユルゲン) ・メールビュデル』 とのつきあいは長かった。広い広 学院の第八学年に入った。フリードリクセン校長が書いてくだ プ リ ー マ ちや、バターやチーズを籠に入れて担いでくる農婦や下働きの ( ) 。 者たちに混じって、この二人の姿が見られたものだ。そして買 きには、必ずと言っていいほど、穀物や藁を荷車で運ぶ農民た 140 さった素晴らしい成績証明書を携えて 141 ( 20 ) 139 い物をする町の住民たちが行き交うなかを、赤い髪に色白で真 ん丸な童顔の『ユルン・メールビュデル』が、がに股にだぶだ ぶのズボンを穿き、両手はポケットに突っ込んだまま、何か荷 ( ) 。一方で、相棒、 物運びの仕事でも転がっていないかと、まるで仔犬が駆けるよ うに、せかせか走りまわっているのである 何かお誂え向きの仕事はないかと、小さなあばた面で、ゆった は、その渾名にふさわしく、むしろ一箇所にじっとしたままで、 つまり同じく痩せっぽちで小柄な『ホルテン・キーヴィート』 138 父 テーオドール・シュトルム ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 注 ) Gertrud Storm: Mein Vater Theodor Storm. Carl Flemming und C.T. Wiskott AG. Berlin 1922. ) Börries Freiherr von Münchhausen. ドイツの作家・抒情詩人(一八七四年~一九四五年)。 ) 出 典未詳。 ) フ リードリヒ・ヴォルトゼン(テーオドール・シュトルムの母方の曾祖父)が息子ジーモン二世(テーオドール・シュトルムの母方の祖父)に。 ) Varel. ブレーメンの北西、ヴィルヘルムスハーフェンの南方に位置する町。ゲルトルートは一八九八年、兄カールと共同で、この地に家屋 を購入し、一九二三年まで住んでいた。 ) テ 、 ーオドール・シュトルムの四女(一八六五年五月四日~一九三六年四月二十六日)。ハンス(長男)、エルンスト(次男)、カール(三男) リースベト(長女) 、ルーツィエ(次女) 、エルザベ(三女)に次ぐ第七子。テーオドールと最初の妻コンスタンツェとの末子。第八子フリー デリーケは、二人目の妻ドロテーアとの間に授かった子どもである。 ) 各 章の小見出しは訳者が私に附したものである。原著には、こうした細かい区分はなく、第一章から第七章までの章立てがあるのみである。 ) シ ャルロッテ・アウグステ・ヘンリエッテ・シュトルム(旧姓エスマルヒ)のことを指すものと思われる(一八三四年~一九一〇年)。シャ ルロッテは、テーオドール・シュトルムの最初の妻であるコンスタンツェの実妹。テーオドールの末弟で医者のエーミール・ヴィルヘルム・ エルンスト・シュトルム(一八三三年~一八九七年)に嫁いだ。コンスタンツェとシャルロッテの二人(両名ともテーオドール・シュトルム の従妹)も、ヴォルトゼン家のジーモン二世とレンヒェンの夫婦を母方の祖父母とする。 ゲルトルートが「シュトルム」の伝記を「シュトルム家」ではなく「ヴォルトゼン家」のことから書き起こしているのは、きわめて象徴的 である。テーオドール・シュトルムが恵まれた少年時代を過ごすことができたのは、ひとえに母方の、フーズム市参事会議員を長く務めた名 流「ヴォルトゼン家」のおかげだったからである。 (父方はヴェスターミューレンという寒村で、先祖代々、水車小屋を守ってきたに過ぎな かった。 ) シュトルムにはドイツ北辺の地で生涯を過ごした作家という地味なイメージがつきまといがちであるが、その生まれ育った家は、フーズム においては上流階級の裕福な家柄に属し、テーオドールはヴォルトゼン家の「お坊ちゃん」として、何不自由なく育ったのである。母方のヴォ ルトゼン家がなければ、テーオドールに少年時代の(世俗的な意味での)輝かしい暮らしは、訪れなかったであろう。こうした名門の子弟と しての、いわば「文化的・藝術的・精神的」側面と、低地ドイツ語を話す市井の人々との交流というような日常生活に密着した「現実的」側 面との対比的様相は、シュトルムの生活と文学において、特に留意されるべき点である。 )「 一族の墓所― 『永遠の波間に浮かぶヴォルトゼン一門』という銘が彫り込まれている― に眠る祖先たちは、ヴォルトゼン家さらには シュトルム家の生活に組み込まれていた。子孫たちは、先祖の事跡を感謝の念をもって思いおこし、絶えず言葉を交わし回想することを通し て先祖の面影をいきいきと保ちつつ、いつの日か彼らの仲間入りをして永遠の眠りにつくことをはっきりと自覚していたのである。」( Beate ( GöhCharlotte Göhler: Ein Leben für die Graue Stadt. Verlag Heinrich Möller Söhne. Rendsburg 1987, S. ) 30 以下、この書物に言及する場合には、 )というように、著者名に頁数を添えて示すことにする。 ler, S. 30. である( Göhler, S. 30. )。 なお銘の文言は „Woldsen und sine Erben up ewige Tiden.“ ) Hermann Tast. フーズムの宗教改革者(一四九〇年~一五五一年)。ヴィッテンベルク大学にてマルティーン・ルターの指導のもと神学を修 ( 21 ) 5 4 3 2 1 6 8 7 9 10 田 淵 昌 太 めたのち、副牧師としてフーズムに戻る。一五一四年から、フーズムのマリーエン教会の聖職者。一五二二年、マリーエン教会にて初めてル ター派の教義を説いたものの、それが原因で教会から締め出される。布教の場所を失ったタストは、当時は墓地だった教会脇の菩提樹の木の 下で説教した。この様子については、ノヴェレ『聖ユルゲン修道院』( In St. Jürgen. 1867-1868 )でも触れられている( LL-1, S. 694. )。タストは 一五二七年に主任牧師としてマリーエン教会に復帰し、以降、亡くなるまでその地位にとどまった。 ( ) テ ーオドール・シュトルムの最初の妻コンスタンツェ(旧姓エスマルヒ)と後妻ドロテーア(旧姓イェンゼン)のこと。 ( )「 フリードリヒ・ヴォルトゼンは、自分と子孫のために聖ユルゲン修道院墓地に墓所を建てたのみならず、一七七〇年代には立派な住居兼商 家をホーレ・ガッセ三番地に建てて、長男ジーモン二世(一七五四年十二月二日~一八二〇年九月九日)に与えた。」( Göhler, S. 15. ) テーオドール・シュトルムの母方の曾祖父フリードリヒ・ヴォルトゼン(一七二五年~一八一一年)は、フーズム最後の豪商と呼ばれた人 物であった。このフリードリヒの息子がジーモン二世、ジーモン二世の三女がテーオドール・シュトルムの母親となるルーツィエである。 ( )「一門の最重要人物は、私の母方の曾祖父、すなわちフーズム市参事会議員フリードリヒ・ヴォルトゼンである。この曾祖父は、私がこの世 に生を享ける前に亡くなってしまっていた。フーズムの誇る最後の豪商で、何隻もの船舶を所有し、クリスマスには貧しい人たちのために牛 メダイヨン 一頭をまるごと屠らせて振る舞っていたという人物である。銀箔を施された円形牌に納められて、今では我が家の壁に掛け並べられている先 祖たちの細密画のなかに、頭に髪粉を振った曾祖父の姿もある。厳格そうな口元は、曾孫である私に受け継がれている。しかも、祖母と母と から聞かされていた優しそうな青い瞳をも、私はこの小さな細密画から窺い知ることができるように思われるのである。」 (回想記『幼き日々 のこと』 [ Aus der Jugendzeit. 1888 ] LL-4, S. 416. ) テーオドール・シュトルムの作品(および註釈)の引用は、左記の刊本(いわゆる「フランクフルト版全集」)から行う。以降、この四巻本 全集に言及する場合には、慣例に従い、編集者二名の頭文字を取って LL と略記し、( LL-4, S. 79. )というように、巻数に頁数を添えて示すこ とにする。 ( ( ( ( Theodor Storm: Sämtliche Werke in vier Bänden. Hrsg. von Karl Ernst Laage und Dieter Lohmeier. Deutscher Klassiker Verlag. Frankfurt am Main 1987-1988. ジ ャ ポ )「 白い上品な胸元襞飾りをあしらった黒い衣服に身を包んだ、豪商にして市参事会議員。そんなフリードリヒのことを、同時代の人々は、口 元には厳しい雰囲気を漂わせてはいるものの、厚い眉の下に優しそうな青い瞳を持った人物だ、と語り伝えていた。フリードリヒは毎年、クリ スマスがやってくると、町の貧しい人たちのために、牛をまるまる一頭、屠って振る舞っていたのである。 」 ( Göhler, S. 14. ) ) 出 典未詳。 ) ビ ール醸造所を営み、また市参事会の一員でもあるフェッダーゼン家は、テーオドール・シュトルムの母方の祖母マクダレーナ(一七六六 年八月三日生まれ。通称レンヒェン)の里である。レンヒェンは、ヨーアヒム・クリスティアーン・フェッダーゼン(一七四〇年十月十二日 ~一八〇一年一月二十一日)と妻エルザベ(旧姓トムゼン。一七四一年四月十六日~一八二九年三月四日)との間に生まれた。( Vgl. Göhler, S. ) 17. ) デ )とは、アルコール分2%未満の薄いビールのことである。中世においては、貧しい人々の手で自家醸造され、 ュン・ビール( Dünnbier 清浄な飲料水が確保できない場合、子どもが飲むことも珍しくはなかった。のちに家庭内に限らず、醸造所でも通常のビールを作ったあとの 大麦・小麦・ホップを再利用して作られるようになる。これは麦芽成分をほとんど含まない質の悪いビールであり、主に貧しい人々や無頼漢 の飲みものとなっていた。ただ、このゲルトルートの記述においては、単に「濃厚なビール」( Dickbier )に対する「軽めのビール」という意 ( 22 ) 12 11 13 14 16 15 17 父 テーオドール・シュトルム ( ( ( 23 ) ( ( ( ( ( ( ( ( ( 味であろう。 )「 昔からそうであったように、この町の上層階級は古くからここに住みついているヴォルトゼン家、フェッダーゼン家、イェンゼン家、ハン ゼン家、トムゼン家、ペーターゼン家から成っていた。これらの家門はフーズム市参事会の議席をほぼ独占しており、どの家も互いに親戚も しくは姻戚関係にあった。 」 ( Göhler, S. 12. ) ) 出 典未詳。フリードリヒ・ヴォルトゼンは息子ジーモン二世のために、ホーレ・ガッセ三番地に家を建ててやった(訳註( )参照)。 「家が新築されている間、愛すべき若者ジーモンは、商人としての修業のため、フランス各地の商業都市を巡り歩いていた。ジーモン二世 は、風光明媚な南欧のたたずまいに恍惚となった手紙を、何通も実家に書き送っている。そのころ足をとどめていた南仏ボルドーの散歩道で は、穏やかな夏の夜を公園のベンチで寝て過ごしたこともあったほどだ。ジーモン二世が灰色の海辺の町フーズムに戻ってきたとき、新築なっ た都市貴族の清楚な屋敷は、もう入居可能になっていた。」( Göhler, S. 16. ) )「 ] 湿地草原地方では、たいてい居間の隣にある、特別な行事のために用いられる部屋。」(ノヴェレ『白馬の騎手』[ Der Schimmelreiter. 1888 の末尾にシュトルム自身が附した語釈。 LL-3, S. 756. ) 「昔風の家屋における、だだっぴろい広間。たいてい家屋の裏手に位置し、床には石が敷き詰められている。ここで祝宴が張られたり、葬礼 が行われたりする。のちに、こうした目的で用いられる部屋は、建物の翼に設けられるようになった。」(一八八九年版の『著作集』に附され ていた、シュトルム自身の語釈。 LL-4, S. 700. [ Stellenkommentar ]) ) ヴ ォルトゼン家の家業は製糖業。 ) ゲ [ Im Sonnenschein. 1854 ]の登場人物と混同したのであろう) 「フレンツヒェン」 ( Fränzchen ) ルトルートは(おそらくノヴェレ『ひだまり』 と記しているが、ジーモン二世の妹は、正しくは「フリッツヒェン」( Fritzchen )である。 ) 一 八五六年八月、テーオドール・シュトルムは地方裁判所判事として(ポツダムから)ハイリゲンシュタットに移り住み、一八六四年三月 まで、この中部ドイツの閑静な田舎町で暮らした。ノヴェレ『ヴェローニカ』( Veronica. 1861 )は、ハイリゲンシュタットの町とその近郊とを 舞台としている。プロテスタントの風土になじんだ者の目からすれば、聖体行列などカトリックの文物が描写されているのも、この『ヴェロー ニカ』のもの珍しさのひとつなのであろう。 ) 。 )『 聖ユルゲン修道院』の冒頭部分( LL-1, S. 694. ) 出 典未詳。 ) 出 典未詳。 ) フ ランチェスコ会、ドミニコ会、カルメル会、アウグスティヌス会など、十三世紀に成立したカトリックの修道会。従前の、農村や山奥に 設置された大修道院における定住生活をやめ、托鉢行に従事しながら清貧な使徒的生活を送り、福音を述べ伝えた人たちの集まり。都市部を 中心に布教活動を行い、次々に新しい共同体を作りあげていった(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、二〇〇二年、〇四八頁参照)。 「托鉢修道会とは[中略]土地を持たない修道会で、清貧、純潔、服従を三大徳とし、十字軍によって東方からもたらされた華美な風潮に対 抗した教団であった。 」 (小田垣雅也『キリスト教の歴史』講談社、一九九八年、一〇一頁) ) マ (一五一七年)に端を発する一連の教会改革運動、およびその拡大を指すものと思われる(徳 ルティーン・ルターの「九十五か条の提題」 善義和『マルティン・ルター』岩波書店、二〇一二年、一〇八頁以下参照)。「デンマークでは国王と司祭が結んで教会改革に取り組み、司教 などの上位聖職者を追放して、国教会としてのルーテル教会を成立させた。」(同書一一二頁) 12 18 19 20 22 21 23 27 26 25 24 28 田 淵 昌 太 ( ( ( ( ( ( ( なお宗教改革者ヘルマン・タストがフーズムにラテン語学校を創設したのが、この一五二七年であった(宮内芳明『シュトルム』清水書院、 一九九二年、二一頁) 。訳註( )をも参照のこと。 ちなみに一五二七年は神聖ローマ帝国皇帝カール五世がローマに攻め込んでイタリアを手中に収めた年でもある(林健太郎『ドイツ史』山 川出版社、一九九三年[増補改訂版]一八五頁) 。 ) シュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方は独立した大公領として一七七三年以降デンマークに帰属していた。( Vgl. Regina Fasold: Theodor Storm. Verlag J. B. Metzler. Stuttgart / Weimar. 1997, S.) 3. 「シュトルムの読者はほとんど意識していないが、一八一七年、彼がフーズムで生まれたときにはデンマーク国民であった」(カルル・エル ンスト・ラーゲ『シュトルムの生涯と文学』田中宏幸・田中まり訳、芸林書房、一九九一年、一六頁)。 ) 出典未詳。 )「 もともと精神の支配者である教会と、地上の支配者である領主とは、一体となって、中世ヨーロッパの民衆を支配したのである。領主や 国王が、新しい村落を開墾したり、新たな植民をはかったりすることは、同時に、そこでのキリスト教化をともなっていた。領主や王の権力 の拡張は、同時にまた、教会や教皇の力の強化でもあった。」(小牧治・泉谷周三郎『ルター』清水書院、二〇〇四年、一七頁) ) この段落の、この部分までは、回想記『フーズムの昔と今』( Von heut’ und ehedem. 1874 )の、ゲルトルートによる部分的略述である( LL-4, 。この段落の、これ以降の記述は、 『聖ユルゲン修道院』冒頭の叙述( Vgl. LL-1, S. 694. )に基くものと思われる。 S. 210) f. ) Jürgen は Georgius の[低地]ドイツ語名。聖ゲオルギウスは、龍退治の伝説で有名なキリスト教の聖人。槍を片手に白馬にまたがり、民を 困らせ国土を荒廃させていた龍を退治した。民は、十字架の旗印のもと弱者に救いの手を差し伸べるゲオルギウスに感激して、国王ともども キリスト教に入信(改宗)した。 )「 十六世紀に建造された『聖ユルゲン修道院』は、身寄りのない老人に最後の落ち着いた居場所を提供していた。受け入れの条件は、本人 がフーズム市民として税金を負担してきていたか、あるいは、かつてフーズム市民として市税を納入してきた者の子孫であるか、の、どちら かだった。 」 ( Göhler, S. 38. ) )「 [ ……]すでに到るところで、玄関先や地下室の採光窓の前には、木製の防水壁が嵌め込まれ始めていた。そして防水壁の二重になった板 と板との間に厩肥が詰め込まれ、踏み固められるのである。厩肥は、もう何週間も前から、路傍のあちらこちらに盛り上げられていた。 」(ノ 10 ヴェレ『管財人カルステン』 [ Carsten Curator. 1877 ] LL-2, S. 512. ) この記述を参照すると、ゲルトルートの言う「窓」とは、採光のために地表と同じ高さに設けられた「地下室の窓」のことであろう( Vgl. 。 Göhler, S. 29) f. ( ) „Water, water!“ ( ) フーズムの港は、フーズマー・アウを河口から二キロメートルほど溯上した内陸部に外港( Außenhafen )が、そこからさらに一キロメート ルほど入り込んだところに内港( Binnenhafen )が位置する。シュトルムの作品にしばしば登場するのは内港のほうである。 ハント・ラテルネ )とは、直方体もしくは円筒状の(鋳鉄製)小型照明器具のこと。把手がついているため、手軽に持ち運びできる。 ( ) 簡易角灯( Handlaterne 内部で蠟燭や灯油を燃やして明かりを得た。直方体の角灯には、側面の三方に穴を開けガラスを張って明かりを放出させ、残る一方は塞いだ ままにして把手をつけている形態のものがある。こうした角灯なら、衣服のボタン穴に掛けることも可能であろう。把手側を自分のほうに向 けて取りつけていれば、蠟燭の熱で火傷をしたり服を焦がしたりする危険性も低いと思われるからである。 ( 24 ) 29 31 30 32 33 34 35 37 36 38 父 テーオドール・シュトルム 「太陽が沈むとフーズムの町は漆黒の闇に閉ざされる。明かりはというと、港に街灯がぽつんと一本、立っているだけだった。この照明があ るにも拘らず、岸壁から海に落ちる人が後を絶たなかった。」( Göhler, S. 40. ) ( )「 レンヒェンことマクダレーナ・フェッダーゼンとジーモン・ヴォルトゼン二世とは、幸福な結婚生活を送り、この愛情に満ちあふれた夫婦 からは、七人の子どもが生まれた。 [中略]だが、このヴォルトゼンの血筋は、度重なる運命の過酷な打撃を甘受せねばならなかった。四人の 男児が皆、幼いうちに命を落としてしまったのである。この四人の息子たちとともに、誉れ高いヴォルトゼンの家名は永遠に過去のものとなっ てしまった。ヴォルトゼンの姓は、大規模な高潮で一六三四年に海に没したパデラック村(フーズムの北方約三キロメートル)出身のヴォル ト・ノマーゼン( Woldt Nommersen )にまで溯ることができるのである。由緒ある都市貴族の家柄に襲いかかった、目を覆わんばかりの不幸 であった。三人の娘たち、マクダレーナ、エルザベ、ルーツィエが美しく成長したのが救いといえば救いであったが、三人ともいささか神経 衰弱の気味があった。 」 ( Göhler, S. 17. ) と記しているが、 Magdalena に改めた。後述の訳註( )をも参照のこと。 なお、ゲルトルートは母子ともに Magdalene ( ) ヴ )ハンス・シュトルム(一七三九年五月十日~一八二〇年 ェスターミューレンはレンツブルク近郊の村。水車小屋永借人( Erbpachtmüller 十一月二十七日)は七人の子どものうちの第三子(次男)ヨーハン・カージミール(一七九〇年四月二十六日生まれ)をレンツブルクの学校 に入れた。しかし、級友からのいじめに遭ったため、フーズムのラテン語学校に転校させる。この転入先の学校で、ヨーハン・カージミール は生涯の友となるヨーハン・フィーリプ・エルンスト・エスマルヒに出会った。 (後年、このエスマルヒの娘がテーオドール・シュトルムの妻 となる。 )フーズムのラテン語学校を出たあと、ヨーハン・カージミールはハイデルベルク大学とキール大学で三年間にわたり熱心に法律を学 び、多大なる成果を収めた。そして国家試験を受け、一八一四年、フーズム郡長官フォン・レヴェツォフの秘書官となるも、やがて弁護士に 53 転じ、一八一五年、フーズムの町に住みついたのである。( Vgl. Göhler, S. 11) f. ( ) „der olle Storm.“ ( ) 父 ヨーハン・カージミールの故郷ヴェスターミューレン村は、作家シュトルムの詩情の源泉ともなっていた。 ( ) こ ])に引かれた „In Wahrheit, Sie の文言の原拠は、① エーミール・クー宛シュトルム書簡(一八七三年八月十三日付[ Briefe. Bd.2., S. 67. (「本当に、あなたは素晴らしい、素敵なご両親をお持ちです habe prächtige, prächtige Eltern! Ihre Frau Mutter hat so was Klares, Leuchtendes!“ ね。ことに母堂は明敏にして快活でいらっしゃる」 )というメーリケの発言( Sie はテーオドール・シュトルムのこと。 habe は原文どおり) 、② 回想録『エードゥアルト・メーリケの思い出』 ( Meine Erinnerunge an Eduart Mörike. 1876 )に引かれた、同じくメーリケの „sie habe »so etwas ( LL-4, S. 487 )という発言( sie はシュトルムの母のこと、 er はメーリケ)、③『幼き日々 Klares, Leuchtendes, Liebe erweckendes«, meinte er“ のこと』 (一八八八年)に „Sie habe prächtige, prächtige Eltern; Ihre Frau Mutter hat so etwas Klares, Leuchtendes, Liebe erweckendes!と “ 記され たメーリケの発言( LL-4, S. 419. )という変遷をたどっている。(メーリケは一八七五年六月四日に亡くなった。) )を附け加えたらしい。本文中におけるゲルトルー どうやらテーオドールは、メーリケの発言に、後年、自分の言葉( „Liebe erweckendes“ トの „sie habe so etwas Klares, Leuchtendes ― Liebe Erweckendes!“という記載は、おそらく②に基いているのだろう。 なお、シュトルム書簡の引用は、次の刊本による。 Theodor Storm: Briefe. Hrsg. von Peter Goldammer. Aufbau Verlag. Berlin / Weimar 1984. 以下、この二巻本の書簡集に言及する場合には( Briefe. Bd.2., S. 67. )というように、巻数と頁数を示すことにする。 ( ) テ ーオドール・シュトルムの生家となるアム・マルクト九番地( Am Markt)9の家。 ( )「 国中で」というのは、この場合、ドイツ全土ではなくシュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方を、殊にフーズムとその近郊を指す。 ( 25 ) 39 40 43 42 41 45 44 田 淵 昌 太 ノイシュタット ( ) 一 )。末尾の船員の言葉は „Von sin Ole sprickt man ok Godes, 八七三年八月十三日付エーミール・クー宛シュトルム書簡( Briefe. Bd.2., S. 64. wenn man nich vör em steit.“ ( )「 一八一七年九月十四日から十五日にかけての深夜、激しい雷雨がフーズムの町を襲った。[中略]これが、私がこの世に生を享けた時間帯 である。だが教会戸籍簿と私の母とは、私の生まれたのが、十四日だったのか、それとも十五日だったのかで、いたく争った。母は― だっ てそのことをいちばんよく知っているのは、ほかならぬこの私なのですよ― 強硬に十四日だと言い張って譲らなかった。堅振礼の準備講義 のなかで慎み深さの説明をしようとして、コーヒーの席に招かれたら角砂糖を入れるのは五つまでにしておきなさい、などとのたまう監督教 区長のじいさんよりも、私は母の言うことが正しいのだろうと思っている。」(『幼き日々のこと』 LL-4, S. 425. ) だが結局、教会戸籍簿には十五日と記載された(訳註( )参照)。 ( )「 子どもはハンス・テーオドール・ヴォルトゼン=シュトルムと命名された。ハンスというのは粉ひき職人だった父方の祖父にちなんで、 テーオドールというのはその響きの優美さゆえに、つけられた名前だった。滅びつつあった都市貴族の家名を受け継いだヴォルトゼンの姓は、 母方の祖父母[=ジーモン二世とレンヒェン〔田淵註〕]によって、最初に生まれた男の子孫であるこの赤子に与えられ、本来のシュトルムと いう姓の前に置かれたのである。 ( ( ( ( テーオドールが生まれて一年後に、カージミールとルーツィエは、マルクト九番地の家から、いくぶん広めの新町通り五六番地の家に引っ 越した。 」 ( Göhler, S. 19) f. ) ホ ーレ・ガッセ小路の邸宅で暮らしていたヴォルトゼン家の三姉妹のうち、三女ルーツィエ(テーオドール・シュトルムの母)に続いて、 長女マクダレーナがフリードリヒシュタットの商人ニコラウス・ヤーコプ・シュトゥーアのもとに嫁ぐ。やがて次女エルザベも、三年にわた る婚約期間を経て、一八二一年、ゼーゲベルク市長エルンスト・エスマルヒ(テーオドール・シュトルムの父ヨーハン・カージミールの竹馬 の友)と結婚した。 ( Vgl. Göhler, S. 21. ) ) ヴ )の一節。 ィルヘルム・イェンゼン(一八三七年~一九一一年)の詩「むくどり」( Stare )「 娘が三人とも無事に片づいたのを、かろうじて見届けると、このうえない喜びに酔いしれて、優しかった父ジーモン・ヴォルトゼン二世は 一八二〇年九月九日、幽明境を異にした。まだ六十五歳だった。」( Göhler, S. 22. ) 「一八二〇年」に改めた。なお厳密にはジーモン・ヴォルトゼン二世が亡くなった時 ゲルトルートは没年を「一八二一年」と記していたが、 点では、次女エルザベはまだ嫁いではいないが(結婚式を挙げたのは一八二一年二月十四日[ Vgl. Göhler, S. 23. ])、すでに一八一八年に婚約 は成立していたため、娘たちの結婚が決まったのを「かろうじて見届ける」という記述になったのであろう。 ) つ まり、ヨーハン・カージミール・シュトルムは、妻ルーツィエの実家であるヴォルトゼン邸に引っ越してきたわけである(一八二一年の 夏) 。この同居の数か月前に(一八二一年二月) 、ヴォルトゼン家の三女エルザベも、エルンスト・エスマルヒに嫁いでホーレ・ガッセの家を 去っていたため( Vgl. Göhler, S. 23. ) 、レンヒェンはひとりで暮らしていたのだった。『幼き日々のこと』のなかで、テーオドールは、自分の子 守娘(レーナ・ヴィースの妹)に手を引かれてヴォルトゼン邸に移っていく様子を、懐しく思いおこしている( LL-4, S. 426) f.。この引っ越し のとき、すでにテーオドールには生まれたばかりの妹ヘレーネがいたので(一八二一年一月生まれ)、祖母レンヒェンは二人の孫に囲まれて過 ごすことができるようになったわけである。 ノイシュタット なおゲルトルートが「広場に面した家から」と勘違いして書いているのを「新町通り五六番地の家から」に改めた(訳註( )参照)。この ノイシュタット五六番地の家は引っ越すにあたって売却された(『幼き日々のこと』 LL-4, S. 426. )。 ( 26 ) 53 46 47 48 49 51 50 52 48 父 テーオドール・シュトルム ( ( ( ( ( ) フ ーズムの教会戸籍簿に記載されたテーオドール・シュトルムの弟妹は以下のごとくである。 一、ハンス・テーオドール・ヴォルトゼン=シュトルム。(一八一七年九月十五日生) [訳註( )参照] 二、ヘレーネ・ツェツィーリエ・クリスティアーネ。(一八二〇年一月十四日生) (一八二二年八月十三日生) 三、ルーツィア・ヨハンナ・ヘンリエッタ。 四、エルンスト・ヨーハン・カージミール(通称ヨハネス)。(一八二四年八月十五日生) (一八二六年九月二十三日生) 五、オットー・フリードリヒ・クリスティアン。 (一八二九年六月二十二日生) 六、ルーツィエ・ツェツィーリエ・マクダレーネ。 (一八三三年七月二十八日生) 七、エーミール・ヴィルヘルム・エルンスト。 「ルーツィエ・シュトルムはおそらく、死産も含めて、さらに四人ほどの子どもを出産している。しかしフーズムの教会戸籍簿に記載された 弁護士シュトルム夫妻の子どもは、右記七人ですべてである。死産児は一八二〇年代の半ば以降、フーズムの教会戸籍簿には記載されなくなっ たのである。 」 ( Göhler, S. 27. ) と -e の音は、さして重要視されていなかった。たとえば Sophie でも Sophia でも同じことだと思われていた。」 なお「名前の末尾にくる -a ( Göhler, S. 27. ) ) ヘ レーネの死去の顚末は不詳。 ツェツィーリエは一八五二年、二十三歳のときに、フーズムのシュトルム家に起居していたデンマークの軍事裁判所法務官フォン・エール シュテット男爵( Baron von Ørstedt )との間に子どもを授かってしまい、あわててこの男性と結婚したが( Vgl. Göhler, S. 140) 、 f. まもなく離婚。 「ツェツィーリエが離婚して、一歳そこそこの娘ブリギッタ・フォン・エールシュテットを連れ、両親の家に戻ってきた。精神に錯乱が見ら れた。ツェツィーリエと両親とは、この離婚という恥辱を甘んじて受け入れなければならなかった。」( Göhler, S. 161. ) 、やがて、精神が正常に帰すことは一 f. 一八五八年初頭にシュレースヴィヒの精神病院に入れられたツェツィーリエは( Vgl. Göhler, S. 185) 度たりともないままに、一八六三年、収容先の病院で没した( Vgl. Göhler, S. 218. )。 ) 一 八二九年没。 ) こ ])。この一節を、テーオドー f. Stellenkommentar の詩行は一八六二年十二月七日付の両親に宛てた書簡に記載されている( LL-1, S. 788[ ル・シュトルムは晩年になっても、なお記憶していたという( Vgl. Göhler, S. 32. )。 ) ルーツィエ 遊んでいる子どもたちの輪から離れて 小さな本を片手に 庭の塀際の長椅子に向かっていく 妹の姿が瞼に浮かんでくる。 あの子は 勉強はしんどいものだと知っていたのだろう。 特に利発でも はっとするような美人というわけでもなかったが あの子の ほの白い顔 ブロンドの髪が ぼくには いとおしかった。 ( 27 ) 53 54 56 55 57 47 田 淵 昌 太 茫漠たる過去の暗闇のなかから 妹のまなざしが ぼくを見つめている。 あの子とぼくとは 本当に仲のいい兄妹だった。 小さなベッドに 妹といっしょにもぐりこみ そして毎晩 頰寄せあって眠りに就いた。 あれは なんと素敵な時間であったことだろう! もはや戻り来ぬあの日々から 子どものころの安らぎが 今なお ぼくに吹き寄せてくる。 ( 28 ) だが 別れのときは訪れた。 ― 或る日 妹は病に斃れ 何週間も高熱にうなされる。 やがて 風がやさしく吹きそよぐ日の朝に にわとこの花が咲き乱れるなか 妹は魂の安らぐ場所へと帰っていった。 太陽はまばゆく輝いていた。 ぼくは野原へ駆け出していき あたりはばからず嗚咽した。 そして 泣くだけ泣いて 家に戻った。 あれから もう二十有余年の歳月が流れようとしている― ぼくの心は どれほど 妹を忘れ ほかのことにかまけてきたことか。 妹よ いったい どうして 今になっておまえのことが気になるのか。 おまえは ぼくの近くにいるのかい そして ぼくに会いたがっているのかい。 と よくそうしたように 子どものころ いっしょに遊んだいあ だ ぼくの頭をおまえの胸に かき抱いてくれるというのかい。 ( Lucie. 1852. LL-1, S. 30. ) ( ) 一 f.。途中の省略はゲルトルートによる。 八七三年八月十三日付エーミール・クー宛シュトルム書簡( Briefe. Bd.2., S. 67) 「信仰上の物事に関しても、テーオドール少年には、きわめて寛容な自由が与えられていた。父ヨーハン・カージミールは教会に行ったため しがない。母ルーツィエと祖母レンヒェンも、たまにしか行かない。そして誰もテーオドールを教会に行かせようとはしないのだった。テー オドール少年に宗教について話してくれる人は、誰一人としていなかった。無神論者だったレーナ・ユルゲンスは、なおのことそうである。 」 ( Göhler, S. 36. ) ( ) 出 典未詳。家庭内におけるテーオドール・シュトルムの談話か。 ( )「 祖母は私のためになら何でもしてくれました。そして私が遊びで必要とするものは、すべて取り揃えてくれたのです。」一八七三年八月十 三日付エーミール・クー宛シュトルム書簡( Briefe. Bd.2., S. 67. )。 ) 以 下の記述には、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』を念頭に置いていると見受けられる節が多々ある。ゲーテの描くヴィ ( 58 60 59 61 父 テーオドール・シュトルム ルヘルムも、子どものころ、クリスマス・プレゼントに人形芝居の道具一式を贈られてからというもの、人形芝居の魅力に取り憑かれ、ひい ては演劇の道に邁進していくことになった。 ( Goethe: Lehrjahre, S. 108. [ Erstes Buch, Zweites Kapitel ]) 『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』に言及する場合には、すべて左記の刊本に拠ることとし、引用箇所を示すときには、 „Goe以下、 と記したうえで、頁数および巻数・章数を示すことにする。 the: Lehrjahre“ [ Wis Goethe: Wilhelm Meisters Lehrjahre. In: Johann Wolfgang von Goethe. Werke in sechs Bänden. Insel Verlag. Frankfurt am Main / Leipzig. 11998. ] . senschaftliche Buchgesellschaft ( ) Carl Friedrich Krebs (一八一五年~一八九七年) 。フーズムのラテン語学校の生徒。一八六三年の秋から、キール大学に学び、のちにブレー トシュテットで弁護士を開業。 ( Vgl. LL-4, S. 949. [ Stellenkommentar ]) (一八一五年~一八八〇年)。フーズムの北方、約五キロメートルのところにあるハトシュテット村の牧師の Johann Matthias Peter Ohlhues 一人息子。テーオドール・シュトルムの同級生。フーズム市内に下宿して、フーズムのラテン語学校に通っていた。シュトルムのノヴェレ『水 ニ沈ム』 ( Aquis submersus. 1876 )に、その面影をとどめている。 ( )「 はパパゲーノのアリア パパゲーノ」はモーツァルトのオペラ『魔笛』の登場人物。 „Der Vogelfänger bin ich ja, stets lustig, heisa, hopsassa!“ (第一幕 第二場)の歌詞の一節( 『モーツァルト 魔笛』荒井秀直訳、音楽之友社、二〇一一年 、一三頁参照)。ただしゲルトルートの引用では となっている。 „Der Vogelfänger bin ich ja, hops, heisa lustig, hopsassa!“ ( ) 幼 い日のヴィルヘルム・マイスターも隣あわせの二部屋の間の扉を開け放ち、片方の部屋を観客席、もう片方の部屋を舞台裏とする上演形 態に接していた。両方の部屋を結ぶ扉のところに、人形芝居の舞台を設置したのである。 「 『 [……]あれは新築したての、がらんとした家でぼくが味わった最初の楽しい時間だったのですよ。あの瞬間のことは、今でも、ありあり と思い浮かべることができます。クリスマス・プレゼントをもらうところまでは、いつもの年と同じでしたが、そのあと隣の部屋に通じる扉 の前に座るように言われたとき、ちょっと不思議な気がしたことを、よく憶えています。おもむろに扉が開かれました。でも、それはいつも とは違って出入りするために開けられたのではありませんでした。驚いたことに、その出入口はきらびやかに飾りたてられていたのです。高 いところに舞台が設えられており、薄暗く謎めいた緞帳が下りていました。初めは離れて見守っていたのですが、透けて見えそうで見えない 緞帳の向こう側で、ぴかっと光ったり、がさごそと音をたてたりしているもの見たさに、ぼくたちの好奇心が高まってくると、椅子に座って、 おとなしく待っているよう、たしなめられたのでした。』」(母との会話のなかで幼少期を回想するヴィルヘルムの台詞) Goethe: Lehrjahre, S. ( Erstes Buch, Zweites Kapitel ) . 108. 「 『 [……]母はすぐに少尉さん[=人形芝居の指南役〔田淵註〕]に、息子の思いもかけぬ才能のことを話したんだ。すると少尉さんは、さっ そく最上階の、不断は空いている二部屋を使わせてもらう段取りをつけてくれ、片方に観客を入れることにして、もう片方の部屋は人形の使 プ ロ セ ニ ア ム い手がいる舞台裏とした。こうして、二つの部屋を結ぶ扉の開口部が、今回も舞台を囲む枠の役目を果たしたというわけだ。』」(ヴィルヘルム が自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 116. ( Erstes Buch, Fünftes Kapitel ) . ( ) テ )はフーズム( Husum )南方の町。ランツァウ伯爵は、ホルシュタイン地方のオルデンブルク近郊のプトロス( Putlos ) ニング( Tönning に領地を持っていたデンマーク軍将校オットー・フォン・ランツァウ(一六四八年~一六九八年)のことか( Vgl. LL-4, S. 731. [ Stellenkommen] ) 。ペーツェルについては未詳。 tar ( )「 『けれども、舞台も人形もこの作品向けに作られたこの第一作[=ダヴィデとゴリアテの人形劇〔田淵註〕]を、何回か演じてしまうと、ぼ ( 29 ) 62 63 64 65 66 田 淵 昌 太 や ( 30 ) くはもう、すっかり飽きてしまったのだよ。そこで祖父の蔵書のなかから『ドイツの芝居』やら、さまざまなイタリア歌劇のドイツ語訳やら を引っぱりだしてきては、それらに読みふけり、そしていつでも登場人物たちにざっと見当をつけただけで、それ以上の準備は何もせず、読 んだばかりの作品の上演に、すぐさま取りかかったというわけだ。そんなことだからサウル王の人形が黒いビロードの服を着たままでショー ミグレムやカトーやダリーウスを演じなければならない羽目にもなってね。それに実を言うと、作品全体を演じたわけではないんだよ。たい 50 ひかげのかずら ていは、刺殺沙汰の起きる第五幕だけしか演らなかったのさ。』」 (ヴィルヘルムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: ) . Lehrjahre, S. 117(f. Erstes Buch, Sechstes Kapitel 「 『 [……]自分の読んだすべての長篇小説、人から聞いたあらゆる話を劇に仕立てあげようというぼくの熱意を前にしては、どんなに劇にし まないた づらいような素材でさえも、俎の鯉だった。ぼくには、読んだり聞いたりしておもしろかったものは、舞台にかけられたら、さらに桁はずれの 大きな感動と興奮を呼びおこすにちがいない、という確信にも似た思いがあってね。それらすべてを自分の目の前で、舞台の上で、再現してみ たかったんだ。学校で世界史の授業があって、誰かが水際立った手段で刺殺されたり毒殺されたりするところに話がさしかかると、とりわけ丹 念にノートを取った。するとぼくの空想は提示部も展開部も飛び越えて、血沸き肉躍る第五幕へと一目散に駆けめぐるのだ。そうして実際に、 第五幕から第一幕へ向かって後ろ向きに筆を進めていった作品も、あるにはある。でも、どれひとつとして第一幕冒頭にまでたどりつきはしな かったがね。 』 」 (ヴィルヘルムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 123. ( Erstes Buch, Achtes Kapitel ) . 「 『君が何かを仕上げるのが不得手だということは、ぼくにはよく分かっているよ。いつだって半分も進まないうちに、倦み疲れてしまうの だから。ぼくらの人形芝居の監督をしていたときだって、人形の一座のために、いったい何回、新しい衣装を作り直してやったことか。舞台 や 装飾をいったい何回、新しく作り変えたことか。この悲劇を演ろうと言ったかと思うと、舌の根も乾かぬうちに、やっぱりあれにしようと言 いだす始末だ。そうして、すべてが絡みあいながら進行し、登場人物たちが刺殺しあう第五幕をせいぜい一回、演じるだけというのが関の山 ( Erstes Buch, Zehntes Kapitel ) . だったのだからね。 』 」 (友人ヴェルナーが少年時代のヴィルヘルムのことを評する台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 129. ( )「 ぼくは厚紙や絵具や普通の紙を使って、見事に夜を作りだすことができた。稲妻も、さも恐しそうなものを作ることができた。ただ、雷 鳴だけは、うまくいったためしがなかった[……] 」 ( Goethe: Lehrjahre, S. 118. [ Erstes Buch, Sechstes Kapitel ])というように、少年時代の ヴィルヘルム・マイスターは雷をうまく再現できなかったが、テーオドール・シュトルムは雷鳴の演出に成功したのである。 )とは、日陰蔓( Lycopodium clavatum )の胞子のこと。一名 Hexenmehl (魔女の食物)。この胞子はきわめて微 魔女除けの粉( Hexenpulver 細で、しかも油分を含むため、火に投ずるとぼっと燃えあがる。古くは天候不順や家畜の不可解な死など、魔女のしわざとしか考えられない 凶事への対抗策として、魔除けの呪文などとともに用いられた。ここでは、おそらく銅板の前で、この胞子に火をつけ、その発する音と光と を雷に見立てたのだろう。 せきしょう し 日陰蔓の胞子は石 松 子と呼ばれ、約 %の脂肪油を含み、花火の閃光剤としても用いられるという。(『世界大百科事典』第十八巻 平凡社 一九六八年、五二二頁) ( ) シラーの『群盗』の舞台は、ライプツィヒの町、ボヘミアの森林地帯、フランケン地方の城とその周辺である。いずれも、ことのほか郷土 に愛着を持つシュレースヴィヒ=ホルシュタイン地方の住民からすれば、「余所の土地」である。 ( ) Christian Fürchtegott Gellert. 啓蒙主義期のドイツの作家にして道徳哲学者(一七一五年~一七六九年)。啓蒙主義から疾風怒濤時代への移行 期に、ドイツで最もよく読まれた作家のひとり。ゴットシェトの弟子で、いわゆる「ブレーメン寄与派」の中心人物。 ( ) 人形芝居ではなく実際に人間が演じるためのものではあるが、ゲーテの描くヴィルヘルムも身近な女性たちに衣装づくりを手伝ってもらっ 67 68 69 70 父 テーオドール・シュトルム ( ( ( ( ていた。 「兜を作ったり、紙で作った羽根飾りをあしらったり、そのうえ盾や甲冑まで作ったのだよ。この仕事を手伝ってくれた針仕事のできる使用 人やお針子たちは、針を何本も折ってしまったほどなんだ。」(ヴィルヘルムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: ( Erstes Buch, Siebentes Kapitel ) Lehrjahre, S. 120. オープン・ステージ プロセニアム・ステージ ) 円 ない「開かれた舞台」に対し、舞台と客席とがはっきり区別された舞台を「額 縁 舞 台」 形劇場や野外ステージなど、舞台と客席とに境界が プ ロ セ ニ ア ム と呼ぶ。客席から見る舞台は、左右および上部を「舞台を囲む枠」で取り囲まれている。 ) ゲ ーテの描くヴィルヘルムも、人形芝居の一座を少しずつ発展させていく。 「ぼくは、小遣いを貯めては、新しいリボンや派手な飾りを買ったり、薄い絹地をもらってきたりして、人形劇団の衣装を少しずつ充実させ ていったんだ。 」 (ヴィルヘルムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 118. ( Erstes Buch, Sechstes Kapitel ) ) 少 、長 年時代に自宅で上演された人形芝居にすっかり魅了されたヴィルヘルムは(『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』第一巻 第二章) じてのち、青年時代の恋人マリアーネに、そのときの思い出を話して聞かせる(第二章~第八章)。ヴィルヘルム少年は空いた時間には人形を 操り、いろいろな台本をひとりで演じることに熱中していた。厚紙や絵具を駆使しては色々な舞台装置を自分で作り、人形には着せ替えのた めの服をこしらえてやり、リボンや飾りは小遣いを貯めて買い集めた(第六章)。このようにヴィルヘルム少年がゲーテの長篇小説のなかで 行ったのと同じようなことを、少年時代のテーオドール・シュトルムも繰り返すことになったのである。 )「 『こうして、ぼくの人形劇団は、どんなに大がかりな作品の上演にも堪えられるだけの衣装を備えるようになったんだ。そうなると今度は、 いよいよさまざまな作品が続々と舞台に架けられるのだろう、と考えるのが話の順序というものじゃないか。でも子どもに起こりがちなこと が、ぼくの身にも起きてしまった。子どもには、途方もない計画を立て念入りに準備をして、二、三回は試してさえみるが結局はすべて投げ 出してしまう、ということが、よくあるよね。この性癖を、ぼくは嘆かずにはいられない。何かを考案したり想像力を働かせたりするのが、 ぼくにはいちばんの楽しみなんだ。だから、あれやこれやの作品のなかに、ぼくの気を引く場面があると、性懲りもなく、すぐにその場面に 合った衣装を作らせてしまう。ところが、そんなことを繰り返しているうちに、ぼくの人形たちのもともとの衣装が、どこへ紛れ込んだのか 分からなくなって、本来の演目だったダヴィデとゴリアテの物語さえ、演じることができなくなってしまった。自分の空想力がはばたくに任 せ、いつまで経っても試したり準備したり、ぼくは中空に幾千の楼閣を築いているばかりで、ささやかな人形芝居劇場の土台を自分の手で破 壊してしまったことに、いっこうに気づいていなかったのだよ。』」 (ヴィルヘルムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goe) the: Lehrjahre, S. 118(f. Erstes Buch, Sechstes Kapitel ( ) 人 形芝居からいわば「卒業」したヴィルヘルム少年は、次に、実際に自分が役者になって劇を上演する計画を立てる。「『[……]ぼくはすぐ さま、隣の遊び仲間の家の部屋をいくつか使わせてもらうことにした。隣のおばさんが部屋を使わせてくれないかもしれない、なんてことは、 これっぽっちも考えなかった。 』 」 (ヴィルヘルムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 121(f. Erstes Buch, ) Siebentes Kapitel ( ) Joachim Heinrich Campe. 啓蒙主義の理想を身に浴びた、ドイツの作家・言語学者・教育者・出版者(一七四六年~一八一八年)。この、カン ペの „Kleine Kinderbibliothek“ (全十二巻)は一七七九年から一七八四年にかけてハンブルクで出版された。 ( ) ゲ ーテの描くヴィルヘルムとその友人たちも、芝居を上演するにあたって、台詞を暗記するのを忘れていた。 「 『そうこうするうちに日も傾いて、蠟燭に火が灯されたのさ。女中や子どもたちは席に着く。いよいよお芝居の始まりだ。役者も全員、衣 ( 31 ) 71 72 73 74 75 76 77 田 淵 昌 太 装に身を包んだ。だが、このときになって初めて、誰も台詞を覚えていないことに気がついたんだ。ぼくは自分の発案や工夫に夢中になるあ まり、そのことで頭がいっぱいになっていてね。当然、出演者全員が知っておくべき、どの場面で誰がどんな台詞を口にするのか、というこ との確認を、きれいさっぱり忘れていたのだ。上演準備の気ぜわしさのなか、台詞の暗記ということは、ほかの出演者たちの頭にもなかった。 [中略]こうして、ぼくは観客たちが腹を抱えて笑うなか、すごすごと引き下がるほかなかったわけさ。』」(ヴィルヘルムが自らの幼少期を回 想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 122. ( Erstes Buch, Siebentes Kapitel ) 『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』第四巻 第十七章でも、言及されている。 なお、このことについては、 ( ) Matthias Claudius. ドイツの詩人(一七四〇年~一八一五年)。シュトルムには、クラウディウスを起点としてドイツ詩の数々を自ら編纂し た詞花集『マティーアス・クラウディウス以降のドイツ詩人たち』 ( Hausbuch aus deutschen Dichtern seit Claudius. Hamburg 1870 )があり、そこ にクラウディウスの „Die Geschichte von Goliath und David“ も採録されている。 ( )「 クニッテルフェルス」は四個の強音節と任意の数の弱音節とを二行一対で組みあわせた詩の形態。二行ごとに末尾で押韻する。クラウディ ウスの『ゴリアテとダヴィデの話』では、ABABCCと脚韻を踏む六行からなる連が、七回にわたって繰り返されている。 ( )「 [……]初めての試みは失敗に終わった。でも観客はまだ残っていて、何かを見たいと思っている。ぼくたちも、まだ衣装を脱いではいな 『 い。そこで、ぼくは自分を鼓舞して、咄嗟にダヴィデとゴリアテを演じようと決断したんだ。その日、舞台に上がっていたうちの何人かは、 かつてぼくといっしょにダヴィデとゴリアテを人形芝居で演じた仲間だ。演じていない者も、皆、あの芝居を何度となく見てはいた。すぐに 配役が決められ、できるだけのことをやろう、と声を掛けあった。剽軽な少年がいて自分で顔に黒い髭を描き、もし演技が止まってしまった ハンスヴルスト ら自分が道化役になり茶番を演じて間を保たせるのだ、と言った。そんな髭面はダヴィデとゴリアテの話の深刻さにそぐわないような気もし たけれども、しぶしぶやらせておくことにした。でも、ぼくは、この穴があったら入りたいような状況を、なんとかして切り抜けられたら、 もう二度と、深く考えをめぐらせたうえでなければ、芝居を上演しようなどと決して思い立つまい、と固く心に決めたのだよ。』」(ヴィルヘル ( ( ( ( ムが自らの幼少期を回想して恋人マリアーネに語る台詞) Goethe: Lehrjahre, S. 122(f. Erstes Buch, Siebentes Kapitel ) ) こ ) 宛 シ ュ ト ル ム 書 簡 の 文 面 の、 ゲ ル ト ル ー ト に よ る 部 分 の一段の内容はすべて、一八八三年三月二十七日付パウル・ハイゼ( Paul Heyse 的略述。 ( Briefe. Bd.2., S. 274) f. )「 親子関係は冷ややかなものだった。 母ルーツィエは、家事と度重なる妊娠に追われていたこともあり、長男テーオドールを― 慈愛に満ちた善良な祖母とは反対に― 教育 家的な峻厳さをもって扱った。 時代に照らしあわせ、自分の子どもたちを完全に放りっぱなしにしていた。この法律家は、家庭 父ヨーハン・カージミールは、自らの少年 け ど と家族を心から愛していたが― それを気取られるのは照れくさかったのだ。テーオドールは、この父親から、おおっぴらな愛情表現を期待 することはできなかった。 」 ( Göhler, S. 30) f. )「 幼かったころ、両親と私との関係は冷ややかなものでした。私は両親から口づけされたことはおろか、抱きしめてもらった記憶すら、ない ]) のです。 」 (一八七三年八月十三日付エーミール・クー宛シュトルム書簡[ Briefe. Bd.2., S. 68. )「 蔗糖を欧州に輸入するための箱はアメリカ熱帯地方に産する丈夫な木材で作られていたため、しばしば、そのまま容れ物として使われた り、 他 の 木 製 品 や 小 型 の 家 具 に 再 加 工 さ れ た り し て い た。」( Hans Wagener: Erläuterungen und Dokumente. Theodor Storm. Der Schimmelreiter. ) Reclam. Stuttgart 1991, S. 33. ( 32 ) 78 79 80 81 82 83 84 父 テーオドール・シュトルム ( ) „Februarflut von 1825” (またの名を „Große Halligflut“ ) と 呼 ば れ る 高 潮 は 一 八 二 五 年 二 月 三 日 か ら 四 日 に か け て、 北 海 沿 岸 の ド イ ツ 全 土 に (のみならずデンマーク、オランダにも)甚大な被害を及ぼした。この十九世紀でも指折りの大規模な水害で、八百人以上の住民が命を落とし たと言われている。この高潮は一九六二年二月十六日から十七日にかけて三百十五人が犠牲になりハンブルクの町が水浸しになった大水害が 発生するまでは、北海沿岸からエルベ川流域を襲った最悪の高潮であった。 なお、ゲルトルートは「二月四日から五日にかけて」 と記していたが、 正しくは「 二月三日から四日にかけて 」 のようであるので改めた ( Vgl. Göhler, S. 29. ) 。 ( )『 海の彼方より』に「この身軽で花車な手足の少女にとっては、どんな木も高すぎるということはなく、どんな跳躍も無謀ではないのだっ た」という一節がある( Von jenseit des Meeres. 1863-1864. LL-1, S. 651. )。これはイェンニという少女についての描写であるが、多分にテーオ ドールの少年時代を髣髴とさせるところがある。 ( ) 飛 )とは、水流や溝を飛び越える際に用いられる長い杖のことである。水底にこの杖を突き刺し、そこを支点として向こ び杖( Springstock う側へと一気に飛び越える。杖の先端には小さな板が取りつけられているため、ぬかるんだ水底に突き刺しても、めりこんだり、抜けなくなっ たりすることがない。 (現在、オランダを中心に行われているスポーツ種目「フィーエルヤッペン」( Fierljeppen ) の 起 源 は、 こ こ に あ る の か フ ェ ネ もしれない。 )ノヴェレ『地主貴族の豪邸』 ( Auf dem Staatshof. 1858-59 )では、主人公マルクスが、この杖を用いて湿原牧草地の水流を飛び越 える様子が描かれている。 ( ) ホ ーレ・ガッセ三番地の屋敷の果樹園の片隅には、木彫りのフローラ像が置かれていた。 「言うことを聞かない驢馬にまたがって果樹園をうろついたのも、テーオドールにとっては忘れがたい思い出だ。驢馬が後足をばたつかせて テーオドールを茂みに振り落とすまで、飽きもせずに木彫りの女神フローラ像のまわりを、ぐるぐるまわっていたのだった。」( Göhler, S. 33. ) ( ) こ の、今はもう使われなくなったがらくたを詰め込んでいる屋根裏部屋はまた、テーオドール少年が過ぎ去った時間と向きあう場所でもあっ た。香辛料保存庫も兼ねていたため、屋根裏部屋には不思議な香りがたちこめ、テーオドール少年がもの思いにふける格好の空間となってい た。 ( Vgl. Göhler, S. 33. ) また『海の彼方より』に描かれたところからすると、テーオドールは「泥棒と兵隊」という遊びに興じていた際、この三層構造の屋根裏部 屋の最上層から外へ逃げ出したとたん、地面にまで墜落したことがあるらしい( LL-1, S. 657) f.。訳註( )をも参照。 ( ) ヘ レーネ・ツェツィーリア・ヴィルヘルミーネ・コンスタンツェ・エスマルヒ(一八二五年五月五日~一八六五年五月二十日)は、テーオ ドール・シュトルムの母方の伯母エルザベと、ゼーゲベルク市長エルンスト・エスマルヒの長女(第三子)である。エルザベはジーモン・ヴォ ルトゼン二世とレンヒェンの次女なので、テーオドールからすれば、コンスタンツェは母方の従妹に当たる。訳註( )参照。 ( ) ノ ルト・シュトラント島は、フーズムの沖合にある大きな島。 ( ) Karl Spindler. ドイツの小説家(一七九六年~一八五五年)。当初、法律家を志すもやがて断念、旅まわりの劇団に入って、ドイツのみならず 近隣諸国を流浪する。結婚後、劇団を離れ、文筆家として暮らしを立てるようになる。おびただしい数の長篇および短篇を残した。 「三巻本のカール・シュピンドラー長篇小説集を、シラーの戯曲集とともに自宅の屋根裏部屋の静寂のなかに持ち込んで、ひとり読みふけって いた。 」 ( Hartmut Vinçon: Theodor Storm. Rohwohl Taschenbuch Verlag. Reinbek bei Hamburg. 1991, S. 18. ) 『フーズムの昔と今』をも参照( LL-4, S. 215. ) 。 ( ) ゼ ーゲベルク市長エルンスト・エスマルヒに嫁したヴォルトゼン家の次女。テーオドール・シュトルムの母ルーツィエの次姉。 ( ) „Geschichten aus der Tonne“ ( 1844 ) 。この一段は、ゲルトルートによる、同作品冒頭部分の略述。 95 39 ( 33 ) 85 86 87 88 89 90 92 91 94 93 田 淵 昌 太 ( ) das Spiel „Räuber und Soldaten“ というのは、 『海の彼方より』の記述から判断するかぎり( LL-1, S. 652 ) 「かくれんぼ」と「鬼ごっこ」の ff.、 合いの子ようなものであるらしい。ただし、鬼は一人ではない。「兵隊」と「泥棒」の二組に分かれて、 「泥棒」の面々は逃げ、 「兵隊」の面々 が追いかけるのである。 「泥棒」の面々は飽くまでも捕まるまいとして、最後には「兵隊」たちと取っ組みあいになる。 ( )「 貧しい靴職人の利発な息子ハンスは、父親が亡くなってしまったせいで、見るも無残な境遇で少年時代を過ごさなければならなくなった。 それにも拘らず、この茶色の瞳を持つ正直な少年は、いつも快活に振る舞っていた。そしてレーナ・ヴィースと同じように、おはなしを聞か せるのがたいへん上手だったのである。 」 ( Göhler, S. 35. ) ( ) テーオドールの時間割には、語学関係では、一週間のうちに、ドイツ語(五時間)、ラテン語(六時間)、フランス語(二時間)、デンマーク 語(二時間)の授業があった。 ( ) Vgl. Göhler, S. 48. ( ) このハンスと呼ばれる少年の本名は Peter Muhl Erichsen である( Vgl. LL-4, S. 752. [ Stellenkommentar ])。 「出自の違いと同様に、このかけ離れた境遇の二人、テーオドールと友人ハンスには、対照的な将来が待っていた。テーオドール少年はフー ズムのラテン語学校の教室で授業を受けていたのだが、町の孤児たるハンスはラテン語学校に寝泊まりしていたに過ぎなかった。 ― 学校の 湿っぽい地下室の、不快な泥がむきだしの土間に置かれたベッドで。だが、あらゆる悲惨な状況にもめげずに、この気丈な少年は腕のいい船 大工になっていった。 」 ( Göhler, S. 36. ) ( Stadtwaisenkind )というのは、社会福祉事業における唯一の責任ある担い手としての市・町・村が面倒を見る必要がある なお「町の孤児」 みなしごのことである( Vgl. LL-4, S. 753. [ Stellenkommentar ])。訳註( )をも参照。 ( ) ゲルトルートは「事務員に教えてもらって初めて、合点がいったのである」と書いているが、シュトルムの原文には「老事務員もうまく説 明できなかった」とある( LL-4, S. 270. ) 。ゲルトルートは何か勘違いをしたのであろうか。ここまでが『樽のなかから生まれた話』冒頭部分の 略述である。 『海の彼方より』の冒頭部分に利用されている( LL-1, S. 652. )。だが、そこでも老事務員は、 なお、この一節は多少の脚色を施されたうえで、 樽から漏れ聞こえてくるささやき声が何であるのか、説明できていない。 ( ) フーズムの北方約五キロメートルのところにある村落( Vgl. Karl Ernst Laage: Unterwegs mit Theodor Storm. Westholsteinische Verlagsanstalt ) 。この村のことは『水ニ沈ム』で描かれている。牧師館の息子ペーター・オールフースは、テーオドール・シュト Boyens. Heide 2002, S. 52. ルムの少年時代の友人であった。ここでは「ハトシュタット」( Hadstadt )というゲルトルートの表記を「ハトシュテット」( Hattstedt ) に改 めた。なお訳註( )をも参照。 ( ) こうしたハトシュテット村での思い出は、 『水ニ沈ム』の執筆に生かされている。 ( ) 曾祖母とは、 エルザベ・ フ ェ ッ ダ ー ゼン( 旧姓トム ゼ ン ) の こ と。 テ ー オ ド ー ル か ら す れ ば、 母 方 の 祖 母 の 母 親 に あ た る。 そ の屋 敷 は シッフ・ブリュッケ 船着場通り一六番地にあった。なお訳註( )および訳註( )も参照のこと。午後のコーヒーの集まりについては、『地主貴族の豪邸』か ら、その雰囲気の一端を窺い知ることができる。 ) シュトルムの詩「女たちのリトルネル」 ( Frauen-Ritornelle. 1871-1875 )の第三連。 ( 女たちのリトルネル 62 16 18 8 ( 34 ) 95 96 97 98 99 100 102 101 103 父 テーオドール・シュトルム ぎんばい か 花ざかりの銀梅花― おまえの甘い果実を摘むのが楽しみだった。 花が落ち そして私は思い惑う自分の姿を目にしてしまう。 すぐに萎れてしまう三色ひるがお― 子どものころの自分の かわいらしい足跡を 私は おまえの垣根に探す。 だが 見つけることはできなかった。 妖怪変化も少なくなかった。実際に目にした者はいない。しかし、言い伝えによって、幽霊の存在は実感されていたのである。 『何か出そうな気配が立ちこめていた。川が海に注ぐあたりからは、《すすり泣く》声がする。城館では夜になると、茶色の髪の小柄な女が 姿を見せる。 』 [ 『レーナ・ヴィース』の一節〔田淵註〕 ] 夕暮れどきに、ひとりレーナ・ヴィースのもとを訪れるときには、いつもこうした妖怪変化どもすべてが、テーオドール少年の意識にのぼっ ていた。テーオドールは歩いてレーナのもとへ向かったのではない。小走りに、駆けていったのである。」( Göhler, S. 41. ) ( ) ラ )は、ヴァッサー・ライエ通り( Waaserreihe )の二本、北側を、ヴァッサー・ライエと ンゲンハルム・シュトラーセ( Langenharmstraße 並行して走る通りである(ヴァッサー・ライエのすぐ北側を並行して走るのはロ ー ゼン・ シ ュ トラ ー セ Rosenstraße )。 なおゲルトル ー トは と記しているが „Langenharmstraße“ に正した。 „Lange Harmstraße“ ( ) レ ーナは両親とともに、下層民の暮らす街区のみすぼらしい家に住んでいた。パン屋を営むかたわら、四、五頭の牛を飼って牛乳販売をも 手がけていた。 ( Vgl. Göhler, S. 34. ) 「レーナが搾りたての牛乳を、買いにきた子どもたちに売ってやっている間、『父さん』は雌牛たちに、今日の最後の飼い葉を投げ与えてや ( 35 ) ムスカリ― かつて曾祖母の庭に咲いていた花たちよ。 あの庭は 浮世を遠く 遠く離れた 別世界だった。 暗緑色の糸杉― 世界は こんなに楽しいのだよ。 だが やがて何もかも 忘却に飲み込まれてしまうことだろう。 f. ( LL-1, S. 90) ( ) こ ( Lena Wies. 1873 )の、ゲルトルートによる略述。 の一段は、ノヴェレ『レーナ・ヴィース』 ( ) こ れら二つの文は、もともと直前の段落の冒頭(つまり「ヴォルトゼン家の祖母レンヒェンはお気に入りの孫テーオドールに……」で始ま る文の前)に置かれていたが、田淵の判断でここに移した。 )「 民衆の心が迷信のとりこにな っ ているということは、 驚くに値しない。 把手の部分に予備の火を灯しておけるようにな っ ている大小の ハント・ラテルネ 簡易角灯の明かりが鬼火さながらにちろちろと揺れているほかは暗い闇に覆われている路地という路地は、それだけでもう、薄気味悪いのだった。 ( 105 104 106 107 108 田 淵 昌 太 り、 『母さん』はパン生地を捏ね桶のなかで丸めて、注意深く覆いをかけていた。ぼくはというと、先に居間に入っておくように言われてい た。あの、自分の生涯で最も美しい物語の数々を耳にした、狹いながらも心地よい空間に。」(『レーナ・ヴィース』 LL-4, S. 177. ) ( ) 箱 )とは、鋳鉄製の直方体の箱に二本の脚をつけた、いわば高床式のストーヴである。背面はタイル壁に密着しており、 型暖炉( Beilegeofen タイル壁の向こうは台所である。つまり、箱型暖炉は、台所にある暖炉と背中あわせに設置されており、内部は繋がっているのである。火加 減の調節などは台所側から行わなければならない。 (脚が二本しかないのも、背面でタイル壁にもたれているからである。)これは、居間と台 所が隣りあわせに並ぶドイツ北部の家屋構造ならではの設備である。箱型暖炉の三方の側板には、 『聖書』や『ギリシア神話』に材を取った場 面が、装飾として彫り込まれている。 (背後のタイル壁にも絵が施されている。)この暖房器具の用途は多様で、上面にある擬宝珠のような着 脱式の把手を懐炉として用いたり、小型の物干竿を上に載せて小さめの洗濯物を乾かしたり、天板の上に飲食物を載せて冷めないように蓋を しておいたりすることができる。すでに十七世紀には、フリースラント地方で広く用いられていたが、今日ではすっかり過去の遺物となって しまった。 ( Vgl. Hans Wagener: Erläuterungen und Dokumente. Theodor Storm. Der Schimmelreiter. Reclam. Stuttgart 1991, S. 26. ) ( )「 ユルゲンス一家は仕事を終えるとすぐに、皆で狹いながらも寛がれる部屋に座って、小さな客人といっしょに夕食を摂るのだった。食事の あとには、温かいワッフル、胡椒入りクッキー、焼き林檎などが出され、それらのなんともいえぬいい香りが部屋中に漂った。 そうして、やっとのことで、聡明なレーナがおはなしを聞かせてくれるのである! 低地ドイツ語で紡ぎ出されていくレーナの話は厳かで、 しかも重苦しい霧に閉ざされたように、くぐもっていた。 おはなしの中身は、白馬の騎手の伝説、レーナ自身の体験談、週刊新聞に載っていた記事など、実にさまざまであった。 この素朴ながらも才気に富んだ女性のなかに、民族の、廃れていきつつあった語りの伝統が息づいていた。こうした家庭でのおはなしの場 を通じて、世代から世代へと幾世紀にもわたり、伝説、メールヒェン、一族の歴史といったものが、子々孫々、脈々と受け継がれてきたので ある。 」 ( Göhler, S. 34. ) ( )「 最初の数年間は、いつも両親の馭者が迎えにきてくれていたが、長じてのちは、夜十時になると、テーオドール少年はひとりで家路をたど らなければならなくなった。 ― 裕福な市民の世界へと戻っていくために。」( Göhler, S. 35. ) なお、訳註( )をも参照のこと。 ( ) ゲ )と記しているが、テーオドール・シュトルム自身の表記により、アンベルク( Amberg ) に正し ルトルートはアンベルガー( Amberger た( 『幼き日々のこと』 LL-4, S. 427) f.。 「基礎学校」 ( Klippschule )とは、かつて市民階級の子弟が通った「市立高等小学校」( Bürgerschule )に入る前の幼児が行く、一種の私立幼 稚園( private Vorschule )である。 ( Vgl. LL-4, S. 931. [ Stellenkommentar ]) ( )「 というのも、殴ったり、教室の隅に立たせたり、侮辱の帽子をかぶらせたりするのが、この『どっしりと恰幅のいい、野太い声をしたご婦 ( Hartmut Vinçon: Theodor Storm. Rohwohl Taschenbuch Verlag. Reinbek bei Hamburg. 1991, S. 18. ) 人』の権威主義的な教育手法だったからである。 」 「教室の片隅には、生徒から恐れられていた恥辱の帽子が、いくつも置いてあった。それは一枚のボール紙を半分に折り曲げただけのものだ が、片面にロバの顔が大きく描かれているのである。良からぬことをしでかした生徒は、そのロバの絵をかぶって教室の隅か、あるいは、学 校の威信を著しく損なった場合には、通りに面した学校の表玄関先に立たされる羽目になった。」(『幼き日々のこと』 LL-4, S. 427. ) ( )は、 「のろま・とんま・愚か者」の謂である。 Esel もちろん「ロバ」 ( ) た は次のように記している。 だし Göhler バイレーゲ・オーフェン 「白い壁の教室には― その壁には地図が一枚、貼られているだけである― 座り心地の悪い長椅子、教卓、鉄製の箱 型 暖 炉と石炭入れ 8 ( 36 ) 109 110 111 112 113 114 父 テーオドール・シュトルム の木箱、シャベル、 「ポーカー」を別にすれば、これといった設備はなかった。クヴァルタ(第三学年)とテルティア(第四・五学年)の教室 は一階にあったのだが大きな窓を通して十分な光を得ることができたのに対し、ゼクンダ(第六・七学年)とプリーマ(第八・九学年)の部 屋は二階にありながらも窓が小さかったので薄暗かった。 講堂もしくは学校行事を開催するための講堂に類する建物はなかったが、校舎の南側上部の切妻のなかに監禁部屋はあったらしい。教室の 清掃は毎週土曜日に、用務員が箒で行っていた。 」 ( Göhler, S. 48. ) ( ) ノ ( Amtschirurgus ― Heimkehr. 1870-1871 )でシュトルムが描いているのは、主として、フーズムのラテン ヴェレ『お抱え医師― 帰郷』 語学校生が行った「弁論大会」のことである。シュトルムの学校生活が活写されているのは、むしろ『桶屋のバッシュ親方』のほうであろう。 ( ) ノ ( Bötjer Basch. 1885-1886 )に登場する少年時代のフリッツは、ろくにラテン語の勉強もしないくせに(「こ ヴェレ『桶屋のバッシュ親方』 の先生の豊かな学識は愚かな少年たちの頭上を素通りしていった」[ LL-3, S. 470. ])、ラテン語を教えてくれる老学究を小馬鹿にして、悪さを してばかりいた。とうとうラテン語の授業は休講となり、フリッツには罰が下されることになる。 「 『フリッツ』とダーニエル親方は、これまでは非の打ちどころのなかった最愛の息子に語りかけた。『どうして、おまえと友人たちはあの学 者先生に、あんなことをしたのだ。あの先生から教わることも、たくさんあるだろうに。』 だが、フリッツは冷ややかな笑みを浮かべて、ゆっくりと首を横に振った。『教わるだって? ― 父さん、それは無理な話だよ』 『何だって? 無理とは、どういうことだ。訳を言ってみなさい。』 『だって、父さん』― こう言いながら、フリッツ少年は両手をズボンのポケットに突っ込んだ― 『あいつ、ラテン語のこと以外は、か らきし駄目だもの。 』 『おいおい何を言うのだ。誰かに聞かれていなければいいのだがな。』 親方は慌てて息子の口を手で塞いだ。 というのも二人は菜園の垣根に 沿って歩いており、目と鼻の先では仕立屋が収穫したばかりのじゃがいもを山のように積み上げているところだったからである。 『父さん、からす麦の緑色の茎と、蕎麦の茎とを、あのラテン語じいさんの鼻先に突きつけ フリッツは父の手を振りほどくと、こう言った。 かぶ な てごらんよ。兎の仔を三羽、賭けてもいいな。あいつは、 《こちらは蕪菜ですか。そちらの緑色のやつからは、じゃがいもがたんまり収穫でき そうですな》って言うに決まっているよ。 」 ( LL-3, S. 471) f. ( ) Göhler の伝えるところでは、次のようなことも珍しくはなかったらしい。 「フーズムのラテン語学校の教室では、欠席がばれるのは、たいてい二、三日後だった。このことを知っていたテーオドールとペーターは、 いつか午前中の時間をもっと楽しく過ごしてやろうと画策していた。ある日、二人は、テーオドールの弟ヨハネスを連れて、町の外に広がる フ ェ ネ 湿原牧草地に繰り出していく。そこではヨハネスの馬が草を食んでいた。この馬は、父ヨーハン・カージミールが、動物と自然景観とに並は ずれた関心を抱いている次男に与えたものである。ペーター・オールフースと、テーオドール、ヨハネスのシュトルム兄弟とは、この馬にま たがろうとする。平穏な食事の時間を妨げられて機嫌を損ねた馬は、一目散に駆け出して、少年たちを手荒く振り落とした。三人が、かすり 傷ひとつなく立ちあがると、馬は素知らぬ顔つきで草を食べている。それでも、このずる休み三人組は授業に戻ろうとはせず、荒れ野を散策 して英気を養ったり、いろいろな遊びに興じて充実した時間を過ごしたりしたのである。すると数日後、学校の先生が両親のもとを訪れて、 お子さんたちはご病気でしょうか、と尋ねたのだった。 この、三百年の伝統を誇り、校長、副校長、教頭、教員、助教員の五人からなる教授陣を揃えた四学年制のラテン語学校では、ものごとは きわめて穏便に行われるのである。 」 ( Göhler, S. 48. ) ( 37 ) 115 116 117 田 淵 昌 太 レトリーク ( )「 は十七世紀以降、ラテン語学校の授業における確固たる一要素となった。朗読の練習というのは、修辞学の一分野であるからだ。 Redeactus 当初、演説発表会は頻繁に催されたが、フーズムでは十九世紀初頭以降は、年度末の秋にのみ、行われた。 Redeactus は、フーズムでは『演 説発表会』 ( Redefeierlichkeit )と呼ばれ、散文や詩行の朗読を通して、最上級生たちが教育目標を達成したことを示す機会だったのである。会 場が市庁舎の広間に移されたのは(フーズムでは一七七五年)、教会を除くと広い空間はここしかなかったという理由からだけではなく、こう した卒業試験の一種に世間一般の関心が集まったからでもあった。」( LL-4, S. 671. [ Stellenkommentar ]) というのは、通常は、領主の誕生日、学校創設記念日、歴史上の重大な出来事があった日などに行われる学校行事のことで なお Redeactus ある。その際、選抜された生徒や上級生たちが、ドイツ語(もしくは外国語)で散文あるいは韻文の朗読を行っていた。 ( )「 毎年、町が盛大に活気づくとき、それは、この『演説発表会』の日であった。あのころは、まだ、朝食では自宅の食卓を囲むが昼食はハンブ ルクに足を延ばして、などということのできる時代ではなかった。それゆえ、住めば都、何であれ地元にあるものが、我々の口に合ったのである。 ふるさとのものに、ちょっと手を加えて風味を良くすると、それを最後の一滴に到るまで、とことん味わい尽したものだった。 ― 演説発表会当 日には、名士の邸宅からも一般市民の住居からも、猫の仔一匹、いなくなってしまう。そのありさまは、かのハーメルンのねずみ取り男でさえ、 これほどまでに家を空っぽにしてしまうことはできなかったのではないかと思わせられるほどである。 」 ( 『お抱え医師― 帰郷』 LL-4, S. 164. ) このように「弁論大会」は、学校のみならずフーズムの町全体にとっての祝祭となっていた。しかも聖ミカエル祭にあわせて挙行されてい たのである。 ( Ebd., S. 166. ) ( ) セ レウコス朝シリアが紀元前二世紀にパレスティナ南部を自国に併合して以降、ギリシア文化がパレスティナの地に浸透し、ユダヤ文化は 厳しく弾圧されるようになった。紀元前一六七年、こうした状況に対して蜂起したのが、モディン(イェルサレム北西の町)に住むマカベア 家のマタティアスである。その死後、息子のユダが反対運動を継続した(マカバイ戦争)。その結果、ユダヤの民は、わずか数十年の間では ( ( ( ( ( ( ( あったが、独立した王国を手に入れることができたのである。( Vgl. LL-4, S. 672. [ Stellenkommentar ]) )「 読者諸賢にとって不幸なことに、この詩は失われてしまい、私の記憶力を以ってしても、欠落部分を再現することは不可能となっている。」 ( 『お抱え医師― 帰郷』 LL-4, S. 166. ) ) LL-4, S. 166. ) LL-4, S. 167. ) An Emma. ( 1833 ) . LL-1, S. 131 f. ) ゲ の記述および LL-1 の註釈に従って一八三三年七月十七日に改めた。また、踊り ルトルートは一八三三年七月七日と記しているが、 Göhler にいく相手をゲルトルートは「スティーネ」 ( Stine )と「ミーネ」( Miene )にしているが、これも LL 版に従い、 「ミーネ」( Miene )と「リー )に改めた( Vgl. LL-1, S. 131. ) 。ゲルトルートは連を区切らずに引用していたが、ここでは LL-1 の体裁に従って詩連を区切った。 ネ」 ( Line ) エ )近郊のシャハト( Schacht )出身の徴税役人デトレフ・ニコラウス・キュール( Detlef Nicolaus Kühl )の マは、レンツブルク( Rendsburg 娘。一八二〇年八月八日、フェーァ島に生まれる。 ( Vgl. Göhler, S. 37. ) )「 大学生になったばかりのぼくが― まだ二十歳だったころの話だよ― 一八三七年の聖ミカエル祭の休暇に帰省したとき、ちょうど妹のヘ レーネを訪ねてきた友人があった。これが当時十七歳のフェーァ島のエマ・キュールだ。たいへん愛らしく、知的な女性でね。数年前に、この二 人を引きあわせたのは、実はぼくなんだ。つまりエマとは、ぼくのほうが先に知りあいになっていたのだよ。十二歳ぐらいのときだったと思うけ れども、ぼくはフェーァ島に住むヴォルトゼン家のおばのもとで何日か過ごしたことがあった。そこへ、まだほんの少女に過ぎなかったエマが毎 ( 38 ) 118 119 120 121 125 124 123 122 126 127 父 テーオドール・シュトルム ( ( ( ( ( ( 日のように顔を出していてね。いっしょに遊んだり出かけたりするうちに、ぼくたちはお互いのことが好きになってしまったんだ。台所の扉の陰 で、こっそり唇を重ねたのを、今でもはっきりと憶えているよ。二人とも、まだ子どもだったというのにね。 」 (一八四四年六月十一日付コンスタ ンツェ・エスマルヒ宛シュトルム書簡[ Briefe. Bd.1., S. 66] ) (テーオドールとコンスタンツェが結婚したのは一八四六年九月十五日である。 ) f.。 「この美しい少女との交友を絶やさないために、テーオドール少年はすぐ下の妹ヘレーネをエマと仲良しにさせた。同年代のふたりの少女の 友情は長く続き、その結果、子どもたちは、ときどき会う機会があったのである。」( Göhler, S. 37. ) なお、テーオドールとエマとは、一八三七年の秋に、短期間ながらも結婚の約束を取り交わしていた時期があったと言われている( Vgl. LL[ Stellenkommentar ] ) 。前述のコンスタンツェ宛書簡によると、テーオドールからの「正式な求婚」は「十月三日の午前中」であっ 1, S. 900. た。だが彼は同じ日の午後には「もう、事のなりゆきを激しく後悔していた。」 そして「自分はまだ若すぎるから」という理由で、婚約破棄 を決意するのである。 ( Briefe. Bd.1., S. 67 ) )『 幼き日々のこと』という自伝的文章のこと。ゲルトルートが本書を執筆した当時は「遺稿」だったかもしれないが、現在では全集に収録さ れており( LL-4 ) 、手軽に読むことができる。 ) ゲ 版により補った( Vgl. LL-4, S. 433. )。[括弧でくくった部分]がそれである。 ルトルートの記述に欠けている文言を LL )「 人口の大部分を構成していたのは、手工業者、日雇い労働者、下男下女といった、いわゆる『小市民』であった。自らの境遇のゆえに食べ ていくことすら不可能な極貧の人々は、労務救貧院で暮らしていた。こうした人たちは、ただ養われているだけではなく、手仕事に従事せね ばならなかった。たとえば箒や籠というような実用品を作っていたのである。」( Göhler, S. 13. ) ) ゲ (激昂して)と記しているが、 LL 版によってによって hastig (せかせかと)に改めた。( Vgl. LL-4, S. 434. ) ルトルートは heftig ) 低 は、新高ドイツ語では klingeln 。したがって Jochum Pingel は「鐘つきヨーフム」ほどの意。なお、この人物名は従 地ドイツ語の pingeln 来 Jasum Pingel で通ってきていたが、これは父テーオドールの原稿を公刊したゲルトルートの読み間違いであり、正しくは Jochum であると いう。 ( Vgl. LL-4, S. 935. [ Stellenkommentar ] ) ) フ ーズムの南南西にあるテニングの町の広場に立つ、美しい塔を備えた聖ラウレンティウス教会の由来は、十二世紀にまで溯ることができ る。この塔は十八世紀初頭に建設された。一方、 「フーズムのマルクト・プラッツにある、十五世紀に建てられたゴシック様式のマリーエン教 会は、重大な構造上の欠陥があるとして、一八〇七年から一八〇八年にかけて取り壊され、その代わりに一八二九年から一八三三年にかけて )の手になる古典主義的な教会堂が新たに建てられた。この新しい建物は、テーオドール・シュトルムの気に入らな ハンゼン( C. F. Hansen かった。 」 ( LL-4, S. 694. [ Stellenkommentar ] ) 「古き時代は去ってしまった。かつて私がまだこの世に生を受ける前、町の建設と同時に建てられた教会は、幸いなことに、さっさと取り壊 されたため、生き恥を曝さずに済んだ。以前の森厳なる堂宇が聳えていた場所には、今では、二列に並んだ四角形の窓と胡椒の缶のような塔 を持つ、見るに堪えない黄色の兎小屋が立っている。入口の上には、よぼよぼの牧師が書いた格言詩が掲げられており、これは趣き深い詩情 に真正面から反逆する挑発行為の生きた見本となっている。」(『フーズムの昔と今』 LL-4, S. 210. ) 取り壊されたかつてのフーズムの教会の塔も、テニングのそれに似て(海からの強風に抗するため)、すらりと背の高いものであったという ( LL-4, S. 704. [ Stellenkommentar ] ) 。 『聖ユルゲン修道院』では、昔は船乗りがフーズムの教会の高い塔を目印にして、海を行き来していた様 子が語られている。 「 『低い?』と老人は不意に大きな声を出した。『あの塔は何世紀もの間、何海里もの沖合をゆく船にとっては、大切な目印 となっていたのじゃよ。 』 」 ( LL-1, S. 718. ) ( 39 ) 128 130 129 132 131 133 田 淵 昌 太 ( ( ( ( ( ( ( ( 」 校長 V.フリードリクセン(署名) ) ゲ 版により補った( Vgl. LL-4, S. 434. )。[括弧でくくった部分]がそれである。 ルトルートの記述に欠けている文言を LL ) お そらく、教会の三つの鐘のうち、いちばん小さいものが聖ユルゲン養老院の梁に掛けられていたということなのだろう。 ) „Jochum Pingel / Treckt de Bingel / För en Kringel / Un en Snaps!“ ( LL-4, S. 434) f. ) ゲ ( Volksfest )という記載を LL 版により「囃し言葉」( Volksvers )に改めた( Vgl. LL-4, S. 435. )。 ルトルートの「民間の祭」 ) メ )は、 Mehlbeutel の低地ドイツ語形で、亜麻布の袋に入れて茹でて作る、小麦粉の大きな団子のこと( Vgl. LL ールビュデル( Mehlbüdel [ Stellenkommentar ] ) 。色白で丸顔のユルンの愛称として似つかわしい。 4, S. 935. ) Kiwiet は Kiebitz の低地ドイツ語形で、 「田鳧」のこと( Vgl. LL-4, S. 935. [ Stellenkommentar ])。田鳧は鳩くらいの大きさの、田畑で餌をあ さる渡り鳥で、警戒心が強いため、見晴らしのいい広い場所にしか下りてこない。地上では昂然と胸を反らせて周囲を警戒しながら、餌をつ いばむ。この鳥の地上での姿勢が、ホルテンの立居振舞に一脈、通ずるところがあったのだろう。 ) こ ff. こまでの引用は『幼き日々のこと』第十三章の全文。( LL-4, S. 433 ) )「 フーズムのテーオドール・ヴォルトゼン=シュトルム君と、ハトシュテットのペーター・オールフース君とは、勉学の総仕上げのために リューベックのラテン語学校に通うことを望んでおり、出立に先立って私のもとに成績証明書を書いてほしいと申し出てきました。 それゆえ私は、両君が当校に通っていた間、その勤勉さと素行の良さとで私をおおいに満足させてくれましたことを、ここに証明いたしま す。また両君の今後の学習の進展につきましても、単に輝かしい希望を抱いているのみならず、両君ならきっと、私のこの期待を裏切らない と予感していることを、申し添えるものです。 両君には、生まれつき、良い資質が備わっております。そのうえ熱心に取り組んできたおかげで、通常の学習科目、特に古典諸語において、 素晴らしい習熟度を誇っております。願わくは、両君が従前同様の努力を怠らず、さらなる健全な生活態度を堅持することで、貴校の先生方 の恩顧をかたじけなくするに、まさに相応しい人間であると身をもって示しませんことを。両君は、私どもの学校では、それがきちんとでき ていたのでございますから。 フーズムにて 一八三五年九月三十日 ( 40 ) 138 137 136 135 134 139 141 140 聖女エリーザベト(一) 開化の時代 ノルベルト・オーラー 著 田 中 暁 訳 地を開墾し耕作することによって互いにつながっていた。十二 世紀から十三世紀にかけてヨ ー ロ ッ パは拡大した。 ドイツ人、 ネーデルラント人、ヴァロン人、ロートリンゲン人による東方 入植は、ヨーロッパにおける推進力と吸引力が典型的に現われ 不利な労働条件、強化された税の圧力のために、人々は故郷か テューリンゲンのエリーザベトの生涯とその時代に関する史 ら出てよりよい生活条件の約束された国へと移住するようになっ たものとみなされる。人口過密(これは相対的なものである)、 になる。この生涯には混乱の時代の矛盾と多面性が反映してい 料に目をとおすと、そのイメージはきわめて色彩ゆたかなもの る。先行する時代に達成されていた法的、経済的、社会的、宗 トヴィヒ公爵夫人は、農民、手工業者、修道士、騎士を自分の た。中央ヨーロッパの東部および南東部の支配者たち、たとえ 国を拡充し守るために西方からハンガリーないしシュレージエ ばエリーザベトの父王アンドレーアス二世やおばのひとりヘー 古い部族にとらわれることなく、領邦国家がいくつも生まれ ンへ呼びよせた。このようにして東ヨーロッパおよび南東ヨー 教的革新が重なり、緊張へとたかまったが、それをエリーザベ たが、それらは厳格な管理機関を有し、関係者がきびしい批判 トは多くの同時代の人々とともに耐え忍んだ。 をうける客観的な財政運営をしている。このような新しい領邦 ロッパの大部分がヨーロッパ文化に向かって開かれたのである。 軍である。はじめはただイェルサレムへの巡礼者を保護するも ヨーロッパの拡張運動がもっともはっきり現われるのは十字 のひとつがテューリンゲン方伯の支配領域であった。 内陸へむかっての移住や入植がすすみ、カロリング王朝時代 以降孤立状態となっていた入植地帯は、それまで遊んでいた土 ( 41 ) 田 中 暁 のとして考えられたのであったが、やがて聖地における支配権 ような同じ階級の人々の批判を招くこともあった。 当事者の抗議を誘発するだけでなく、方伯夫人エリーザベトの と地中海地域のイスラム教を撃退しようとする一連の企てをお 十字軍は、ヨーロッパが自分たちの共通点を意識し、ビザンツ をはずれてしまう なかったということは、このことの典型的徴候と解してよいで 期に二十世紀にいたるまで猛威をふるった伝染病の犠牲になら エリーザベトの三人の子供がみな成年に達し、ひとりも乳幼児 ら十四世紀の間に人口は少なくとも二倍になったと推定される。 あった。西ヨーロッパおよび中央ヨーロッパ諸国では十世紀か ヨーロッパ拡張のもっとも重要な前提は人口の著しい増加で 確立のためと目的が変わり、エリーザベトの生まれる数年前(一 二〇四年)にはキリスト教のビザンツ征服のためと正規の目的 (1) こなった。エリーザベトの父は不首尾におわった十字軍のひと 。十一、十二世紀さらに十三世紀において つに参加し、また夫は聖地への途上で死んだ。父は失敗し、夫 あろう。 農業収益の増大と人口の著しい増加とはたがいに関連してい は死んだ― 、聖女の近しい親族は、プロテスタントの観点か らすれば今日のわれわれには混乱とみえる運動の促進者であり よって税収が増加した。税金は十字軍騎士の装備にも役立った。 の高い生産力が前提となる。農業用地の拡大と農業の集約化に スタといった他の拡張の試みは費用がかかるものであり、社会 東方入植や十字軍、そしてハンザ同盟やスペインのレコンキ 三世紀になされた道路や橋の建設は、人間が大規模に移動し物 ロッパの風景を決定することになったのである。十二および十 盛期にまでさかのぼるが、これが二十世紀にいたるまでのヨー 周辺の農業地帯が法的に分離され機能的に分類されたのは中世 の町への都市法の付与のことを伝えている。このように都市と げなくてはならない― 都市の建設と計画的拡充のこと、既存 る。人々は商業とりわけ手工業にたずさわるために農作業から 通常は十字軍の経済的負担は下層階級に押しつけられた。エリー 品がさかんに交換されたことの徴である。この時代、分業から 解放された。十二および十三世紀、史料は― この関連におい ザベトの夫君については、 誰からも搾取しないですむように、 なる交換経済の急速な成長が、都市とその周辺地域というミク 当事者であったのである。イスラム教徒と異なり、キリスト教 この支出を自分で引き受けようとしたと言われている。普通そ ロコスモスにおいても、また地中海ないし北海、バルト海域と てエリーザベトが滞在したアイゼナハとマールブルクの名もあ のような配慮がなされることはなかった。むしろ貴族や騎士は いうマクロコスモスにおいてもみとめられる。 徒には巡礼の義務があるわけではない。聖地に政治的軍事的支 ぜいたくな生活スタイルの資金とするための新たな収入を臣下 配権を打ちたてるという信仰に束縛される必要はさらにない。 の負担で手に入れるのが普通であった。彼らはそうすることで ( 42 ) 聖女エリーザベト(一) 時に― 家族と一緒にいて養っ てもらうことのできない貧者、 の次男坊たちが都市に押し寄せただけでなく、― とくに困窮 どおり死に絶えていたことだろう。健康で労働意欲のある農家 周辺地域から絶えず人口の流入がなかったならば、都市は文字 都市では何世紀にもわたって地方の村落より死亡率が高かった。 い小路に密集して住みつき、衛生事情も不十分であるがゆえに、 なかった。子供たちが陽に当たることもほとんどないような狭 都市が周辺地域に対して吸引力をもったのは創設期だけでは が多かった。 民や被保護民が調達させられた資金によってまかなわれること 三七年に落成した。教会や貴族の費用のかかる建造物は、隷属 であらたに建てられ、エリーザベトが亡くなった数年後の一二 はバンベルク大聖堂がロマネスクからゴシックへの過渡的様式 エリーザベトのおじにあたるバンベルクのエクベルトのもとで にとらえられて、 大聖堂や修道院付属教会を建築し拡充した。 と比べても遜色ないほどのものであった。高位聖職者も建築熱 を君主の居所へと改修した。それは華麗さと規模において王宮 人々が気づいて、それをはっきりと口に出し、するどい非難の キリスト教の規範と日常生活の現実との間のもろもろの矛盾に その前の数世紀もこれと同じ状況であ っ た。 新しいことは、 障害者、病人、老人もまた都市へやって来たので、そこには社 ザベトの奇蹟譚はたしかに地方の村落での強い連帯感を反映し 会問題が集中的に生じた。一二三〇年代に記録されているエリー ているが、しかし二世代以上にわたる大家族はほとんど出てこ である。騎士ないし貴婦人の理想はあるが、現実はそれとはまっ 形で表現し、人々の大移動によって急速に広まったということ たく異なるという矛盾にも気づいた。若い貴族の男性には夫婦 ない。十人から二十人で構成される一族であれば労働すること のできない障害者がひとりいても「切り抜ける」ことができる して美しい女性を世話しようとしたのであるが、ルートヴィヒ かもしれない。 三、 四人の小さな家族ではそれがむずかしい。 は「愛するエリーザベトのために」そのような話を断ったので 間の貞節は要求されなかったということは、エリーザベトの夫 級がいかに裕福だ っ たかは、 市門や教区教会を見ればわかる。 ある。マクデブルクのメヒトヒルトという女性が城の婦人たち 君に関するのちの報告からわかる。夫君の従者は当然のことと 教区教会はウルムやフライブルクでは司教座教会と張り合うほ らかに富が支配している。自信をふかめて登場してきた市民階 どであった。それに比肩するほどの堂々たる建物が貴族によっ のふしだらな生活をはげしく非難しているのは誇張かもしれな 「役立たずの穀つぶし」を都市へ追いやろうとする。都市はあき て造られた。ヘルマン方伯と息ルートヴィヒはヴァルトブルク (1) 第四回十字軍はイェルサレムに向かわず、キリスト教圏ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占拠した。 ( 43 ) 田 中 暁 性もない求婚という理想によって遮られてはならないというこ める恋愛歌人(ミンネゼンガー)の実現されず実現される可能 い。しかしこれは、貴族社会の生活の現実に対する視線が、悩 やいなや、教会内にするどい緊張が生じざるを得なかった。 ト教の規範と日々の生活との調和が可能であることを証明する や、そして個々人がその個人としての生活ぶりにおいてキリス ― 生活と規範の乖離に耐えられなくなる そのひとりであった。 もおり、エリーザベトの聴罪司祭マールブルクのコンラートも 十二世紀にイタリアやフランスで栄えた大学で学者たちが苦 とを明らかにしている。それは非難にとどまらない。新しかっ 心したのは、信仰と理性、キリスト教の教義とキリスト教以前 たのは福音書へのラディカルな意識である。エリーザベトのよ うな個人も、アッシジのフランチェスコとその弟子たちのよう 心ぶかい心の持ち主は、そこに信仰に対する裏切りではないに の思想をどのように調停するかという問題であった。素朴で信 しても小事へのこだわりを見た。信心ぶかい信頼の念と厳格な な団体も、新約聖書を全生涯を拘束する規範として認知したの 国王と聖職者との間にははじめ調和があったが、やがて崩壊 である。 した。神に塗油をほどこされた国王の呪いや教皇による廃位と 宗教運動のメンバーである。その運動は世俗の商売にかかわっ 方針をもった研究調査とが使徒の生活において結合可能だとい ている裕福な教会への反動として十一世紀末に起こった。既存 うことは、エリーザベトの時代に設立されたドミニコ会やフラ な権利を要求した。彼の政治的軍事的行動は他の支配者のそれ の教会施設の外で使徒を範として生きていこうとする人びとが 追放は深刻な危機を招来した。それはいわゆる叙任権闘争で教 と変わるところはない。ベネディクト会修道士とシトー会修道 男女を問わずこの運動を支えていた。この運動から枝分かれし ンチェスコ会といった托鉢修道会が証明している。彼らはある 士は使徒として貧困に生きるという理想を義務とするにあたり たもののなかには、異端へと道を踏みはずしたり教会から追放 皇側が外見上勝利したことで解消されてはいなかった。エリー 特別なやり方をして、個々の修道士が財産をもつことは拒否し ザベトが生きた当時の教皇イノツェンツ三世は皇帝のもつよう たが、集団としては絢爛たる建物や典礼用具において未曾有の された派もある。 フルトのドミニコ会修道士アポルダのディートリヒは聖エリー 記録が非常によく残っているが、その生涯において十三世紀の リンゲンのエリーザベトであった。彼女の短い生涯については にしたがって生活をおくろうと努める人たちのひとりがテュー 現にある修道院の外にあって「世俗のシスター」として福音 裕福ぶりを見せつけた。同じく信用するに足りなかったのは教 ザベトの生涯を叙述するなかで次のように回想している。世紀 会を公式に代表する人々の大部分であった。十三世紀末にエァ はじめには司教や司祭のなかに「 何人かの公正で完全な人々」 ( 44 ) 聖女エリーザベト(一) を分かちあった。周囲の反対を押し切ってみずからが出向いて してまた軽蔑された未亡人として、軽蔑されている人々の生活 みずから貧困をもとめる生活をおくる決心をした。君主夫人と 者の生活を知っていた。宮廷のしきたりにとらわれることなく、 ている。最高級の貴族の家柄の出身であるエリーザベトは権力 歴史の本質をなすいくつかの線が焦点を合わせるように交差し 的軍事的作戦におけると同様であった。 て成果をあげられないままであったが、それは他の多くの政治 の妨げにはならなかった。アンドレーアス二世はこの点におい をねらい、ギリシアとハンガリーの同君連合実現をめざすこと していた。このことはエリーザベトの父君がビザンツの皇帝位 とくにブルガリアが両国の間にあってクッションの役割をはた シアは脅威ではなか っ た。 ビザンツも恐れるに足らなか っ た。 強い立場を保持した。ハンガリーは一〇五四年の教会大分裂以 わらずビザンツ教会は十三世紀に入ってもハンガリーにおいて ち列聖される)は国を西欧文化に向けて開いた。それにもかか 年にシュテファンと命名され〈王在位九九七― 一〇三八〉、の ローマ色の濃いキリスト教を受け入れて、ヴァイク(九七三 弱者を助けた。こうして彼女は当時の人々や後世の人々が見習 う手本となったのである。 エリーザベトの故郷 ― ドイツ皇帝一族との縁 来、東西教会の接合点になっていた。 リヒ二世の妹ギーゼラと結婚していた― ハンガリーがドイツ 戚関係が― シュテファンはバイエルン公でのちの皇帝ハイン エリーザベトは一二〇七年サロスパタク王城で生まれた。こ の地は北ハンガリー、ティサ川支流ボドログの北の浅瀬のほと 帝国の東方の隣国のなかで最初に王国に昇格されるにあたり大 り、ガリーツィエンへとつうじる古い軍用道路沿いにある。今 日のハンガリー、スロヴァキア、ウクライナの三国が交わると いにものを言った。 ヴィーンの市門まで、北スロヴァキアから南のベルグラートの よぶ範囲はジ ー ベンビ ュ ルゲンの王都からブルゲンラントの ニア、ユーゴスラビアのかなりの部分にわたっていた。そのお たしかに西欧の王女たち(そしてその廷臣たち)とともに国内 ジャール人の地位を強化して、国を西欧の思潮に向けて開いた。 れ を 補 完 し た。 結 婚 は 力 関 係 に お い て ヨ ー ロ ッ パ に お け る マ ンド、イタリア、バルカン半島の支配者一族との婚姻関係がこ ツとの結びつきは重要であったが、ドイツ、フランス、ポーラ ハンガリーの支配者は意識的に結婚政策を実践した。ビザン ころから遠くない。父君アンドレーアス二世の王国はカルパチ 市壁にいたり、十二世紀から十三世紀への転換期以降ヨーロッ ア盆地全体、さらに今日のチェコスロバキア、ロシア、ルーマ パの大国となった。内戦によって疲弊した隣国ポーランドとロ ( 45 ) 田 中 暁 メラーニエン公、イストリーエン辺境伯、アクヴィレーヤ総大 有力な君主のひとりであ っ た。 ゲルトル ー トの兄弟姉妹には、 およびダルマーティエン公としてドイツ帝国南東部のもっとも ト六世はアンデヒス伯、イストリーエン辺境伯、メラーニエン ある王妃ゲルトルートを挙げよう。ゲルトルートの父ベルトル いかに幅広く結びついたかを示す例としてエリーザベトの母で 家や芸術家が国に入ってきた。ハンガリー王家がヨーロッパと 道士がとりわけフランスから)、騎士や農民、学者や歌手、建築 だに西欧から司祭や修道士(プレモントレ会会員とシトー会修 上部に到達しただけかもしれない。しかし何世紀かを経るあい に入ってきた思想は、さしあたりせいぜいハンガリー社会の最 に、というのも彼らを人間とはとても呼べないのだから」、その い、あるいはむしろこの美しい国を「人間の姿をしたばけもの 顔をしていて目がくぼんでいる、その運命を非難せざるを得な 野蛮な民族、風習と言語が粗野で洗練されていない、みにくい デンの園に住んでいる人々のことはまったく別様に描いている。 と描写している。神の楽園に喩えてさえいる。ところがこのエ のゆえに気品があり田畑のゆたかな実りのゆえに裕福である 」 を知った。のちに彼はこの国を「本来そなわっている愛らしさ 大な歴史神学者は一一四七年、第二回十字軍の途上ハンガリー が有無を言わせぬほどの率直さではっきり示している。この偉 こし、それを強めることにもなることをフライジング司教オトー つながるものではないこと、むしろ指導者層にも偏見を呼びお 撲殺をともなった。そのような旅がかならずしも偏見の打破に ばけものに引き渡した神の寛容さに驚くべきか。こうオトーは 司教、フランス王妃、シュレージエン公妃がいた。さらにキチ 述べている。十字軍の時代にあってはこのような発言は異常な ンゲンのメヒトヒルト女子修道院長、バムベルクのエクベルト 司教がいた。この二人はのちに姪エリーザベトの人生に介入し 響力をもった侯の一族に入った。養父へルマン一世方伯はドイ エリーザベトは一二一一年、ドイツ帝国のもっとも高貴で影 方伯領と方伯 かれたということは驚くにはあたらない。 ものではなかった。それゆえエリーザベトを見て悪口がささや てくる。 ハンガリー人の大多数が西欧人を知ったが、良い面はほとん ど見えなかった。海路で聖地へ行くことができず行くつもりも ない者は陸路ドナウ沿いに下った。騎士の軍隊の多くはそうし た。その供には聖職者、ばくち打ち、従軍酒保の女たち、のら くら者、人生の落伍者がいた。軍の一行は指定された道をはず れた。通過して行く彼らには規律がなく意思疎通も困難だった れないこと、平穏をたもつこと、略奪しないことを約束させら ので、 何度もはげしい衝突が起き、 それは略奪、 強奪、 殺人、 ( 46 ) 聖女エリーザベト(一) されたまま死んだ。夫君はマインツとの争いののち、統治を始 たことは、 せまい地域で地所と権利を集中したことであ っ た。 かけて成長し地歩を固めつつあった領邦君主にあって新しかっ ス伯などの他の諸侯も同様であった。十二世紀から十三世紀に を確立した。これはエリーザベトの母方の実家であるアンデヒ き、修道院を設立し、町を興し、権利を獲得して、領邦支配権 に最高位の帝国直属貴族にのぼりつめた。森を開墾し、城を築 王を範として宮内官職を設置することになった。のちにエリー 半世紀に帝国諸侯の列に加えられるにいたった。新しい位階は の近くにいたおかげで、ルードヴィング家は十二世紀最後の四 ング家はドイツ中部において優勢な一族となった。王に仕え王 ことに成功した。皇帝フリードリヒ一世の側にあってルードヴィ 力を手に入れ、それによって公と同じく王に直属の身分となる るルートヴィヒ一世は世襲の方伯の称号とともに伯をこえる権 エリーザベトが亡くなる百年前、彼女の夫君の曽祖父にあた めた当初二年間は破門の身であった。 ただしエリーザベトが嫁いだルードヴィング家(方伯の名は一 ザベトがコインに描かれたとき、笏と帝国宝珠といった王の支 方伯ははじめ目だたぬ存在であったが、ほんの数世代のうち ツ中部における最有力の領邦君主であった。 族の長の名前にちなむ)が支配したのは、およそ一つのまとまっ 配権を象徴するものを身につけているのは故なきことではない 二四六 ― 一二四七)のは、この一族が一時的にさらに高位につ た領地などというものではなかった。ザーレ川からラーン川ま いたということを意味した。ルードヴィング家はそれ以前、ルー で、ゲッティンゲンからシュマルカルデンまでのびる方伯領は、 地所を大きく分散していることは挑発とみなされかねなかっ のである。ハインリヒ・ラスペが(対立)国王に選ばれた(一 た。 時間をかければ、 権力をめぐる争いは交換、 結婚、 相続、 トヴィヒ四世とエリーザベト夫妻のときに権力と名声の頂点に 継ぎのあたった絨毯のように他の権利や支配権が混在していた。 売買、簒奪、征服によって排除、除去ないし吸収され得たであ 達していた。 権を構築ないし強化しようとした。世俗の事柄をめぐる戦いに 敵」もやはりまたヘッセンとテューリンゲンにおいて領地支配 管区についてはそうであった。このテューリンゲン方伯の「宿 マン一世の周辺にハインリヒ・フォン・フェルデケとヴォルフ アイゼナハの彼の宮廷において歌合戦が催されたという。ヘル 世を愉しむ騎士の生活の場に仕立てた。伝説の語るところでは 豪華な写本の完成を促し、自分の宮廷を宮廷文化の中心地、現 あった。エリーザベトの義父もパトロンとして歴史に名を残す。 支配者の徳目には芸術促進における気前のよさと寛容さとが ろう。さしあたっては地所の分散はさまざまな政治上軍事上の おいて聖職者は宗教上の武器をすばやく手にとった。エリーザ 混乱を引き起こさざるを得なかった。とりわけマインツ大司教 ベトの一族に対しても同様である。エリーザベトの義父は破門 ( 47 ) 田 中 暁 ラム・フォン・エシェンバハがしばらく滞在していたことは歴 なしていて、そこでは狭い空間での生活を余儀なくされた。部 呼べるものではなかった。城は概して要塞であり統治の中心を た。ところで城の住人の大部分の日常生活はとうてい牧歌的と ナーテ」と呼ばれた。牛や羊や犬がいたので生活は不快なもの 史的に証明されている。ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲ となった。しかしこのような不快さは、奉公人やよそ者が引き ルヴァイデが方伯の宮廷で、遠くハンガリーからやって来た少 芸術保護者はヘルマンの本質の一面でしかない。他の一面は 起こす騒動に比べれば楽に我慢できた。ヴァルター・フォン・ 屋には窓はほとんどなかった。暖房できるのはごくまれであっ その厚顔無恥ぶりである。 当時の何人もの諸侯と同じように、 デァ・フォーゲルヴァイデはテューリンゲン宮廷のことを「一 たので暖炉(カミーン)という語から暖炉のある部屋は「ケメ 彼は自分の利益を守るにあたって裏切りや契約違反を恐れはし 群の人々が出てゆくと、別の一群が入ってきた、昼も夜もなく」 女エリーザベトと語りあったということもあり得ることなので なかった。十二世紀から十三世紀への転換期のドイツ王位をめ ある。 ぐる闘いのなかで、ヘルマンは四度ほど味方する陣営を変えた。 農家の住居にくらべればテューリンゲンの城の住環境は君主に と回想している。たしかに悪態をつく厩番や興奮した騎士の声 ふさわしいものであったといってよいだろう。部屋は居間、台 のほうが恋愛歌人の歌よりも頻繁に聞かれた。このように不都 争があった。戦争の意味するところは、人間が打ち殺され苦し 所、寝室に分かれていた。雨と床の湿気に対する防護がなされ 一度はヴェルフェン家につき、その後ふたたびシュタウフェン められ力ずくで抑えつけられ身代金目当てに捕えられることで ていた。食糧が備蓄され食べ物は多様であり、日々貧困と戦う 合なことは多々あったのだが、それでも汚くて一部屋しかない あり、 村や町や修道院が略奪され焼き払われることであ っ た。 ことはなかった。エリーザベトは旅に出ていない間は、結婚生 家についた。 そのためテ ュ ー リンゲンは何度も戦場とな っ た。 さらに、暴徒と化した兵たちによって家畜が殺され追われ、食 エリーザベトがテューリンゲンにやってきた一二一一年にも戦 料や種の蓄えが徴発され取り上げられることであった。飢餓と 活の大部分を城で過ごしたと思われる。クロイツブルクで第一 に放縦ともなる浮かれ気分の祝祭であり、ヘルマン一世はこれ とに関しては、彼は父よりも原理原則を守ったとはいえ、父に れて亡くなった父君の遺産をついだ。自分の利益を追求するこ 一二一七年ルートヴィヒ四世は十七歳で、精神の闇につつま 子を、ヴァルトブルクで第二、第三子を出産した。 を好んだ。彼の宮廷は騎士の作法に則って生きている社会階層 このような緊急時ときわだった対照をなしていたのが、とき はいわないまでも食糧不足がその予測される結果であった。 に属していて、これはおそらく全人口の一パーセントほどであっ ( 48 ) 聖女エリーザベト(一) 空気が支配していたことは、彼の十年ばかりの統治時代の終わ た。ルートヴィヒ四世のもと方伯の宮廷を以前よりも真面目な 母は一二二一年自身が支援していたシトー会女子修道院に入っ ては心をひらいていた。これは母親の教育のたまものであった。 おとらずきびしく打算的であった。当時の宗教上の運動に対し ることに対して前もって五千マルク(およそ銀一一七〇キログ はその上、計画している十字軍にルートヴィヒが参加してくれ 服できるかもしれない土地すべてを与えられた。フリードリヒ さらにラウジッツ辺境伯領と、プロイセンで場合によっては征 はフリードリヒからマイセン辺境伯領を封土として与えられた。 が後継ぎのないまま死んだ場合のことを考えて、ルートヴィヒ ことを妨げることはなか っ た。 まだ成年に達していない甥 (3 ) るころにはアイゼナハで恋愛(ミンネ)歌の披露に代わって受 く一二一九年マインツの大司教と妥協するにいたり、ルートヴィ 立った。第一子が生まれたとの知らせがルートヴィヒに届いた 得ない状況にあり、そのさい城や王城、都市が拠点として役に をもつことはできなかった。彼らは移動しながら統治せざるを ハンガリーやドイツの王たちと同じく、方伯は定まった首都 ラム)を支払うことを約束せねばならなかった。 難劇が上演されていたことを見ても明らかであろう。 ルートヴィヒはヘッセンやテューリンゲンでは方伯の支配権 ヒは破門を解かれた。マインツとの不和は一二二〇年代にくす のは、ちょうどマールブルクの教会で(おそらくは裁判の)会 を拡大することはできないと認識していたと思われる。ともか のなかに近くのマイン に対して兵を進め、不意打ちをくらった相手ばかりか味方をも 発を受けたわけでもないのにオーダー河畔のレーブスの町と城 隣接するマイセン辺境伯領への干渉をくり返した。敵方から挑 ― ルートヴィヒは政治および軍事活動の重点を東方に転じた。 ツの地所から来た巡礼はほんのわずかしかいなかったのである。 ということは、貴族がもっている私闘の権利を制限しなければ や集団( 農民、 女性、 修道士 ) を守らなくてはならなか っ た。 求を貫徹しようとするとき、彼らは武器をもつ権利のない人々 を忘れさせていた。力をつけつつある領邦君主が領邦支配の要 前に終わったばかりの戦争は、平和と正義にたいする尊敬の念 時代にあってはとりわけ秩序を保つことであった。ほんの数年 合を主宰しているときであった。統治するということは、この (2 ) ぶりつづけていたが、エリーザベトの死後顕著となる。マール おどろかせた。フリードリヒ二世への忠誠心がシュタウフェン ブルクの彼女の墓に押し寄せた巡礼 家に対してねばり強く交渉して領邦政治上の目的のために戦う (2) エリーザベトの墓所で、埋葬の翌日四十年ものあいだ精神を病んでいたひとりの修道士が快癒した。彼女の墓所は奇蹟を求める巡礼者たち の聖地となった。墓所の上に教会が建てられた。エリーザベト教会である。 (3) 姉ユッタの息ハインリヒ。 ( 49 ) 田 中 暁 ならないということであった。ルートヴィヒは領土の平和を乱 す輩には、それが同じ貴族の身分のものであっても有罪の判決 てきたので、史料のなかに分散して述べられていることが見逃 最近では幼年時代の歴史もしっかりと社会史家の視界に入っ 異国の王女 た背景には、人間の生命の価値についての時代を特徴づける新 をくだして首をはねさせた。殺人に対して流血刑が再導入され しい考え方があった。裕福なものが犯罪をおかして刑罰を科せ であると史料にはある。この長い授乳期は今日のわれわれには されなくなるだろう。エリーザベトは四歳にして将来の夫君の 奇異に見える。母による授乳、あるいは貴族にあっては乳母に 家に入った。まだ「母の胸から栄養をとるのを常とする」年齢 正義と平和の保持は支配者に経済上政治上の利益をもたらし よる授乳も稀ではなか っ たが、 その授乳期を長くとることは、 られても、罰金を払って償うことができるという優遇措置をう た。高次の裁判権は支配者に税を徴収する権限を与えた。科さ けることはもはや許されなかった。 れた罰金の三分の一が裁判官のものになったのである。農民や エリーザベトの嫁入り支度には揺り籠とたらい― ともに身 危険にさらされた生後の数年間を子供が生き残る可能性を高め 分にふさわしく銀製であった― もふくまれていたという。当 た。このことは今日でも第三世界の国々にはあてはまることで 多種多様な領地で構成されていたが、それらをたばねる多くの 時、少なくとも上流貴族の家では子供たちは時としてすでに自 商人、修道院や都市にあたえた庇護が支配の中核をなし、関税 かすがいがあった。すなわちミニステリアーレが配されている 分のベッドをもっていたと思われる。簡単な身体の手入れのた ある。 城、大きな城としての機能を持つ都市、裁判所、フォークタイ、 めには特別な器具があったことが知られている。これも使われ や税金の収入を増し領土を強化した。ルートヴィヒが二十七歳 自前の役人と官房をもつ官庁、定期的収入などである。のちに で聖地をめざす十字軍へと旅立ったとき支配していた方伯領は、 ルートヴィヒの宮廷付き司祭は誇らかに、伯、騎士、ミニステ たかも知れない。 にいたるまで特別なことではなかった。いつの時代にあっても 幼くして異国の宮廷に入ることは、貴族の世界では二十世紀 れた。婚姻がはじまったことを象徴的に確定するのである。 ドイツ到着後、エリーザベトは将来の夫君のベッドに寝かさ リアーレ、助任司祭、司祭、医者と、方伯につき従ったものた ちの名を挙げている。秩序をたもち管理のゆきとどいた経済力 のある国は大規模の動員を可能にした。それはひとつの軍隊に も似ていたといわれる。 ( 50 ) 聖女エリーザベト(一) の一部がエリーザベトについて来た。 「移植」のショックはこう れたお供の者たちもいた。この関係のある者たちとともに故郷 で磨き落とされていった。もちろん故郷ハンガリーから付けら いたが、それは遊びや子供たちがいっしょに教育を受けるなか とをよく知るように要求された。言葉も歴史的背景も異なって ザベトは幼少時にすでに自分が将来活動することになる国のこ 国家間に密な関係が生じるときには犠牲が必要とされた。エリー られたことだろう。 める君主にはふさわしくないのだよ」というような言葉が発せ ザベトや、おまえのしていることは侍女のすることで、国を治 衝突することもあった。そのようなときにはかならず、 「エリー 常軌を逸し身分にふさわしくないと見える点がいくつかあり、 たはずだ。しかしエリーザベトの振舞いには、義母から見れば ベトにとって、時に言われるように意地の悪い義母ではなかっ 方伯夫人ゾフィーは、養女であり将来義理の娘となるエリーザ 生涯をつうじて彼女に仕えた侍女たちの証言によると― そ して和らげられたことであろう。 のうちのひとりテューリンゲンのミニステリアーレの子女であ テューリンゲンの宮廷にいる子供たちは、今日でもなお子供 たちが楽しんでいる遊びに興じた。とび跳ねたり、輪になって てあつかわなくてはならない。この発言の記録は列聖の手続き るグーダは五歳のとき四歳のエリーザベトに付けられた― エ をするさいに証拠として提出されたものだからである。また有 リーザベトはすでに幼いころ並はずれた贖罪と敬虔の苦行をお だ無邪気にいっしょに遊んでいたと推論してよいであろう。別 名になった多くの人々で、後年になって身についた資質が幼少 踊ったり、簡単な罰金遊びをしたりした。お供の者たちの話で の社会においても、階層や言語による垣根により分け隔てられ 時に投影されることは過去にもあったし現在でもある。しかし こなうことで傑出していた。もちろんこのような発言は用心し るという意識を子供たちがもつのはもっと年齢が上になってか それにもかかわらず、この発言は真実の核となる部分を有して は、エリーザベトは貧しい子供がより多く勝つように気を配っ らのことであることが観察されている。ある侍女の発言による たという。こうしたことから、さまざまな階層の子供たちがま と、エリーザベトはのちになって病気の子供たちをなぐさめよ 考えられることである。とりわけ考慮されるべきは、子供や若 いる可能性がある。異国に連れてこられた子供が、陰口や憎悪 者の熱狂できるという才能が「発現しそうに」なっていたこと に対して祈りや教会や聖人に保護をもとめるというのは十分に エリーザベトは養母から方伯夫人の地位につく準備となる教 である。一二二一年には地域の枠をこえた少年十字軍が、一二 うとガラスや粘土でできた環や動物を買ったという。十三世紀 育を受けたであろう。その指導の内容は、宗教教育、社交上の 前半にすでに玩具の市があったことになる。 礼儀作法の手ほどき、 宮廷文化の儀式に慣れることであ っ た。 ( 51 ) 田 中 暁 三七年にはいま一度テューリンゲン地域の少年十字軍が起こっ 子供のひとりを生まれる前から聖職者にすると誓ったのであり、 ザベトとルートヴィヒもそのようにした。ふたりは自分たちの したがって当然のことながら子供の自由な意思決定など悠長に た。両親はこれをなすすべもなく見送るほかなかった。 一般的に結婚はふたりの人間の愛情を固めるものではなく、 待ってはいなかった。 族の一族と結婚した。婚約はときにまた政治的理由から解消さ マリーアはそれぞれポーランド、ロシア、ブルガリアの上流貴 はビザンツ皇帝の娘と、 弟妹のコロ ー マン、 アンドレ ー アス、 めに結婚した。長兄、のちのベラ四世王(一二三五 ― 一二七〇) エリーザベトと同じように彼女の兄弟姉妹も王家の利益のた 理由から教会の承認が得られなかった。 グネスとフランスのフィリップ・アウグスト王との結婚はこの 由で離婚することも稀ではなかった。エリーザベトのおばのア 結婚が実現したあとに、たとえば血縁関係が近すぎるなどの理 れに関して社会は男性に対して女性よりも寛大であった。また た。愛情は婚姻以外のところで捜し見つけるものであった。そ 的達成のためだけに結ばれた同盟であることもしばしばであっ 貴族の結婚 れた。エリーザベトの父はなんらはばかるところもなくそのと 二つの家族の結束を確かめるものだったので、結婚が純粋に目 きどきの政治的目的のために子供たちの結婚の約束を反故にし テューリンゲン方伯とハンガリー王女との婚姻の取り決めは の謀議にかかわったとの嫌疑をかけられた。そのためエクベル おそらく一二〇八年になされていた。この年エリーザベトのお トはハンガリー王宮にいる妹ゲルトルートのところへ逃げ込ん た。婚約した二人のうち片方が結婚にいたるまでに死ぬことも珍 教会は数世紀前から同意婚の原則確立に尽力し、そうするこ だ。兄妹は一族の、すなわち帝国南東部とアドリア海域北部に しくはなかった。伝承によるとエリーザベトは、はじめルート とで婦人の地位を高めていた。婦人はもはや単なる交渉の道具 強い影響力をもつアンデヒス・メラン家の権力を高める方策に じにあたるバンベルクの司教エクベルトは、フィリップ王殺害 として意のままに扱われる対象ではなかった。しかし婦人たち ついて協議したと思われる。その後一二一一年、テューリンゲ ヴィヒの一二一六年に亡くなった兄と婚約していたという。 が結婚の祭壇の前に立ってもなお婚約を解消できるという可能 ンの使節がハンガリーに向けて旅立った。先になされていた取 り決めにもとづきエリーザベトを迎えにいくのである。テュー 性を利用したのはごく稀であった。子供は親の意志に従わなけ (4 )は理解されたのであり、エリー ればならなかった。結婚相手を選ぶにさいしても例外ではない。 ともかくこのように第四戒 ( 52 ) 聖女エリーザベト(一) 王ではなく王妃ゲルトルートであった。ゲルトルートは娘に十 リンゲンとの交渉で中心的役割をはたしたのはアンドレーアス ルートヴィヒとの結婚が実現するように懸命に協力したのは確 涯のこの段階でそのような希望は論外である。エリーザベトが トはむしろ処女のままでいたいと思っていたと書いている。生 うはどうであったか。その死後彼女の聴罪司祭は、エリーザベ 食器類、絹製の布地― これはビザンツとの交易、あるいは中 な結婚であった。当時の人々の目を引き、― 貴族階級にかぎ 歳、エリーザベトは十四歳であった。史料によればこれは幸福 かである。一二二一年ふたりは結婚した。ルートヴィヒ二十一 0 分な嫁入り支度を与えられるよう心をくだいた。両親にとって 国との大陸間遠距離交易をも示唆するものである― 高価な衣 0 ステータスを象徴するものだからである。金製銀製の装飾品と 服と装身具、さらには銀貨と銀の延べ棒千マルク(二三四キロ)。 らず、中世にかぎらず― およそあたりまえの結婚とはかけは して誠実を守る― ルートヴィヒの誠実さは尋常ではなかった なれたものであった。ふかい愛情をいだき信頼しあい互いに対 と繰り返し強調されている― そして情熱的に、いや激しく愛 テューリンゲン宮廷ではこの嫁資はおおいに歓迎され、それゆ 二年後、エリーザベトの母が殺害された。その権勢欲と国内 しあったこの結婚は七年もたたぬうちに終わることになる。 え使節団はすばらしい歓待をうけた。 に入った異国人とくに同郷のドイツ人の便宜をはかったことが もあるだろうという意見もあった。ルートヴィヒとエリーザベ テューリンゲンの政治的野心からみれば、もっといい「縁組」 がめぐらされた。 支度金は思っ たより少ないと思われていた。 能にもとづいて任せられた家政、高位の客人の接待と宿泊に関 備をする時間はあまりなかった。奉公人の選抜と指導、妃の権 立った。エリーザベトには方拍夫人としての責務にそなえて準 結婚したことでエリーザベトはテューリンゲン宮廷の頂点に 方伯夫人エリーザベト 非難された。あるいは娘に豪勢な嫁入り支度をさせたこともハ ンガリ ー 貴族の怒りをか っ たかもしれない。 王妃殺害の結果、 方伯の宮廷へさらに持参金を送るという予定があるいはとりや めになったかもしれない。いずれにせよここで、王女をハンガ トはその間に互いを知り、互いの良さがわかっていた。ルート する社交上の義務等、方伯夫人としての責務はさまざまにあっ リーへ送り返すほうが得策ではないかということについて考え ヴィヒは婚約者エリーザベトの味方だった。エリーザベトのほ (4) モーセの十戒の第四に「あなたの父母を敬え」とある。 ( 53 ) 田 中 暁 な宿での宿泊、全体として危険きわまりない衛生事情であった。 途中の風や悪天候、整っていない道路、テントや虱のいる不潔 できるだけ夫君の旅に同行した。ハンガリーまでの旅はそのう エリーザベトが種々の新たな責務をこなしていくことを容易 旅の苦難を耐え抜いたとみえることからして、エリーザベトは ちで最長のものだったであろう。六年間に三人の子を身ごもっ ならしめたのは、次の三つの事情であったと考えられる。ルー 乗馬にすぐれ、丈夫な体質だったにちがいない。エリーザベト た。史料からは、今日ならたいていの人々がのびのびと青春を トヴィヒが妻の個性を十分に理解していたこと、エリーザベト の例は当然のことながら、当時の権力者にとって統治するとい たという背景も考えると、 このような旅の苦労が察せられる。 の義母が結婚の年に身を引いて修道院に入ったこと、そして結 うことはきわめて大きな肉体的負担をともなうものであったと 謳歌することのできる年齢で高位の職を引き受けた若き方伯夫 婚二年目にして子供を得たことである。子供が産まれないこと いうことを示している。早くに消耗してしまい若年にして死亡 人の心の広さを読み取ることができる。 は当時は大変な恥辱であった。第一子がすでに「王位」継承者 ルートヴィヒが― 政治、行政、司法上の任務により― し であったことは宮廷でのエリーザベトの立場を強くしたであろ ばしば不在であったため、方伯夫人はみずから多くの決断を下 した支配者も少なくない。長生きは期待できないということは、 ヘルマンの生まれた年に若い夫婦はハンガリーのエリーザベト さなければならなかった。エリーザベトの時代、社会には女性 多くの男性が社会構造のなかで高位を占めるということとの引 の故郷へ旅をした。テューリンゲンとハンガリー間は直線距離に に大幅な自由を与える用意ができていた。エリーザベトはその う。早くに母親になることは異例なことではなかった。それは して千キロであるが、道程としてはゆうに千五百キロはあったで 自由を「通常とは異なる独特の生き方」をするために利用した き換えに支払わなければならない代償であった。 あろう。原生林におおわれた道のない山地、橋もかかっておらず 彼女のおばの一人シュレージエンのヘートヴィヒと比較してみ 十九世紀にいたるまで名だたる悪路であった旅路を行くには、当 と、実際目にした人々は証言している。 ればわかる。彼女は十三歳十三週で母になった。 時馬で行くにしても一日に平均して三十キロもすすめばよいほう だったであろう。そういうわけでエリーザベトとルートヴィヒ は、途中数日にわたる休息はとらず毎晩別の宿泊所に泊まったと エリ ー ザベトは夫君と長く別れることは望まなか っ たので、 しても、ハンガリーまで少なくとも五十日を要したのである。 ( 54 ) 聖女エリーザベト(一) ことと受けとめた。侍女のひとりは次のようなルートヴィヒの理 解と忍耐を際立たせる場面を記録にとらせている。エリーザベト ルートヴィヒはかなりの包容力のある人であったにちがいない。 ている。 のちにな っ て伝記作者がはじめて書いたのではない。 ベトが通常ではないほどに互いに愛しあっていたことを強調し 彼女と親しくしていた人々がすでに、ルートヴィヒとエリーザ エリーザベトの死後まもなく審問をうけた方伯夫人の侍女や 伸ばして」いたのだと書いている写本がひとつだけある。この時 せいではなかったのだ。ルートヴィヒは「彼の足を奥方のほうへ していた。しかしルートヴィヒが起こされたのは侍女の不手際の なぜそういうことになったかすぐに見抜いたので、だまって我慢 ルートヴィヒの足の指をつかんでしまった。だがルートヴィヒは ントルートがエリーザベトを起こそうとした。ところが彼女は つまんで起こしてもらっていた。ある夜、信頼あつき侍女イーゼ 仲むつまじき夫妻 冷静に利害を見てとった。当時の宗教運動には心をひらいて向 は夜も祈りをささげるのを日課としていたので、侍女に足の指を きあった。 結婚と性はエリーザベトによって― カタリ派などの当時の 代はたしかにおおらかであった。しかしこのような細かな描写 異端とは異なり― 明確に肯定されたのであるが、それを証明 は、のちに書写にたずさわった人々の考えでは列聖の書類に記さ したことは、結婚してからもふたりが互いに「兄」 「妹」と呼び するのは、いま見た場面だけではなく、またエリーザベトが三 エリーザベトとルートヴィヒはいっしょに教育を受けた。した あっていたことに現われている。このことはふたりの関係がパー 人の子供をもうけたことだけでもない。それはとりわけエリー がって結婚するずっと前から互いを知っていたことになる。これ トナーとしてのものであったことを示唆しているが、それを証明 ザベトが聴罪司祭にむかって約束した服従の誓いからルートヴィ は決してあたりまえのことではない。方伯の宮廷で無邪気に成長 する観察がまだほかにもある。エリーザベトは昼も夜もできるだ れるものの枠を越えるものだったであろう。 け夫君のそばにいようとした。食事のときも夫君の横に座ろうと ヒの結婚の諸権利を明確にはずしたことから明らかとなる 。 (5 ) したが、宮廷社会はそれをけしからぬとは言わないまでも異例の v. der Phillips-Universität Marburg in Verbindung mit dem Hessischen Landsamt für geschichtliche Landeskunde. Sigmaringen, 1981. S.50. (5) 二二六年春、エリーザベトはマールブルクのコンラートを聴罪司祭に定め、ルートヴィヒ四世同席のもと誓願をおこなった。その内容は、 一 ルートヴィヒの諸権利が許す範囲でコンラートへの服従を誓うということと、夫より長く生きた場合に貞操を守ることを誓うというものであっ た。 Werner, M.: Die heilige Elisabeth und Konrad von Marburg. In: Sankt Elisabeth. Fürstin, Dienerin Heilige. Aufsätze, Dokumentation, Katalog. Hg. ( 55 ) 田 中 暁 エリーザベトはおしゃれをした。自分のことで不快な思いをさ れている。ルートヴィヒがもうすぐ旅から帰ってくると思うと が君主にふさわしい服装をすることを受け入れたことにも現わ た。結婚と性を積極的に肯定したということは、エリーザベト ザベトの誓願は夫が死亡した場合にのみあてはまるものであっ が生まれたあとそのような誓いをたてた。それに対してエリー えばエリーザベトのおばヘートヴィヒとその夫は六番目の子供 性的関係をもたないということで、他の夫婦は合意した。たと 後の一定期間あるいは数年のちに、ともに生活する残りの期間 ヒひとりを強く愛していることを示している。この時代、結婚 二つ目の誓願は、肉体を嫌悪しているのではなく、ルートヴィ 「夫より長生きしたときは、生涯寡婦として貞操を守る」という の子を聖職につかせると決める。女の子であれば、将来アルテ た。エリーザベトは三人目の子を身ごもっていた。ふたりはこ で祝福を願い、みずからの運命を修道士と修道女の祈りに委ね に平和と平穏を回復したことである。そうして領内の各修道院 れたこと、自分が― 休まず行動して― 強い指導力でこの国 起させたのは、父の時代には私闘や戦争、敵意や争いで国が荒 イツブルクに領邦議会を招集する。この地でルートヴィヒが想 配下地域の問題を整理し、ヴェラ河畔、アイゼナハ近くのクロ 年春、ルートヴィヒは出発に備えてもろもろの準備をする。支 は偶然夫君の衣服に十字を見つけ気を失って倒れた。一二二七 に帰還する可能性はきわめて低かったのである。エリーザベト るべく妻に知らせないでおこうと思った。十字軍参加者が無事 いた。ルートヴィヒはこの条件を無視した。つらい知らせをな 召集された大部隊の集合地はアイゼナハの南シュマルカルデ ンベルクのプレモントレ修道会で神に仕えさせるのである。 せて夫君に「罪をおかす機会を与えたく」なかったのだ。夫に は夫婦仲むつまじく自分ひとりを愛してほしかった。そうすれ ばふたりは「同様に、婚姻法を聖なるものとしたキリストから とができず、日々つきしたがって行程をすすんだ。だが、つい 加者はこの地より出発する。エリーザベトは夫君から離れるこ ンと定められた。洗礼者ヨハネの祝日六月二十四日に十字軍参 はるか近代にいたるまでたいていの結婚がそうであったよう 永遠の生という褒美を期待することができる」のだ。 に、エリーザベトの結婚生活もほんの数年後に死によって解消 に愛しあうふたりが別れねばならないときがやってくる。 て誓約し、くり返し延引されてきた十字軍である。エリーザベ 別離の歌を人々が歌っているのを聞いたという。 マールブルクへの途上でドイツ語による方伯夫人の涙ながらの 一二三三年のある婦人の報告によると、彼女はその年のはじめ この別れは当時の人々 に強い印象をあたえた。 というのも、 した。一二二四年ルートヴィヒは十字軍参加のための十字を受 トの時代、教会法の専門家のあいだで夫は妻の事前の承諾なし けとっていた。フリードリヒ二世がアーヘンでの戴冠にさいし に十字軍参加を誓約することが許されるかどうかが議論されて ( 56 ) 聖女エリーザベト(一) 八月三日ルートヴィヒは皇帝フリードリヒ二世とアプリア地 かに超える数であった。巡礼者たちは南国の気候、食事、生活 もの巡礼者が集まっていた。これはフリードリヒの期待をはる のだから、なおさらである。ブリンディジにはその間に何千人 分以上をイタリアの七月の暑熱のなかで進まねばならなかった は一日の旅程としては多い。とくにアルプスを越え、道程の半 ヴァルター・フォン・デァ・フォーゲルヴァイデもそのなかに 騎士歌人として名高いヴォルフラム・フォン・エシェンバハや ン方伯は多くの芸術家を城に集め、 彼らのパトロンとな っ た。 る。城が築かれたのは十一世紀、十三世紀はじめの城主ヘルマ 史上重要な数々の出来事の舞台であったことは周知のことであ アイゼナハ、その郊外の丘にたつヴァルトブルクがドイツ文化 ドイツ中央部に広がるテューリンゲンの森にいだかれる小都 るよう最小限の訳注をつけた。 に慣れていなかった。おそろしい伝染病が発生した。食糧不足 十六世紀にはルタ ー が城に滞在し、 聖書翻訳に取り組んだ。 いた。こうして「ヴァルトブルクの歌合戦」の伝説が生まれた。 方トロイアで合流する。軍勢は一日に四十キロを進んだ。これ のため一層ひどくなり、その犠牲者は多数にのぼった。以前に ゲーテはヴァイマルで国政に参加し多忙をきわめるなか、何度 もドイツの軍勢の相当数が南イタリアの灼熱の八月の暑さのな か城を訪れている。城からフォン・シュタイン夫人に宛て連日 十九世紀、対ナポレオン解放戦争に参加した学生を中心に結 かで同じように命を落としていた。皇帝も方伯も伝染病に感染 成されたブルシェンシャフト(学友会)は、一八一七年十月十 した。方伯の場合は重篤で、聖体拝領とイェルサレム総大司教 た。ルートヴィヒは九月十一日に死去した。おごそかな死者ミ 七日から十八日にかけてヴ ァ ルトブルクで一大祝祭を催した。 から授けられた終油の秘蹟により死の準備をせねばならなかっ サの後、遺体は高価な丈夫な布にくるまれ、とりあえずオトラ この世紀には城の修復工事がおこなわれ、そのさい描かれたモー 手紙を書き送ったほか、城のスケッチも残している。 ントに埋葬された。そうして彼の臣下たちは十字軍のため聖地 となった。高貴の身分でありながら宮廷の華美をきらい、貧者・ の名門貴族の出身で、ヘルマン方伯の息ルートヴィヒ四世の妃 さて、本稿の主人公である聖女エリーザベトは、ハンガリー てくれる。 かかわる出来事を題材としていて、訪れる人々の目を楽しませ リツ・フォン・シュヴィントのフレスコ画はヴァルトブルクに をめざして出発していった。 【解題】 ここに訳出したのは、 Ohler, Norbert: Elisabeth von Thüringen. Fürstin im Dienst der Niedrigsten. 3. Aufl. Göttingen/ Zürich ) 1997 の最初の三分の一ほどの部分であ Muster-Schmidt Verlag る。原著には注は付されていないが、翻訳には理解の助けとな ( ( 57 ) 田 中 暁 病人の救済に身を捧げた。夫君の死後、城を追われたエリーザ ベトはマールブルクに施療院を建ててみずからの理想を追求し たが、一二三一年、二十四年間の短い生涯を閉じる。死後ロー 今回訳出した部分は、四歳にして故郷ハンガリーからテュー マ教皇により列聖された。 リンゲン宮廷に移されてより、ルートヴィヒ四世との結婚を経 て、十字軍に参加した夫君の死にいたるまでのエリーザベトの 前半生をあつかっている。幼少時からの異国での生活、当時と してはめずらしい相思相愛の結婚生活、君主夫人としての責務 等、彼女の生涯を語りながら、同時に中世の城、政治情勢、宮 廷内の生活、 結婚事情、 十字軍等、 当時の歴史、 社会、 風習、 『中 著者ノルベルト・オーラ― 氏は中世史の専門家であり、 文化を紹介している。 訳出にあたり、広島大学大学院総合科学研究科准教授ハンス 世の旅』、『中世の死』、」『巡礼の文化史』等の著作がある。 =ミヒァエル・シュラルプ氏にお世話になった。厚く御礼申し 上げる。 ( 58 ) ベルリン(八) 七 政治党派 新聞は、政権の歴史が教えているように、今日の政権下で特 エルンスト・ドロンケ 著 髙 木 文 夫 訳 もめげず、ドイツのジャーナリズムが明らかに大衆へ影響を与 えてからというもの、多様な党派は以前よりも首尾一貫してこ の活動範囲に没頭している。国家権力も余儀なくこの手段の力 を理解し、以前のように専制政治を単に武器による暴力や大衆 力がジャーナリズムをごろつきだとして扱うことを常とし、嘲 支配を教育機関をとおして正当化しなければならない。国家権 の非難に根拠づける代わりに、今は大衆が覚醒して関わるので、 かわらず、独立した立場を獲得し、世論において一つの力を代 り、軽視して、単なる「理論」として見下す時期もそれほど遠 別な躍進を遂げた。ジャーナリズムは暴力支配の監督下にもか 弁することに成功した。ジャーナリズムの意義はこの点で明ら くはない。 人々 はジ ャ ー ナリズムを教 養の狙撃兵と見なし、 ビルドゥング ユ かである。その力は二重の力である。すなわち、暴力に対抗し プロイセンのある大臣は、非常に機知に富んで、哲学での尿意 イ て公共の意思の機関紙であろうとするそれと、繰り返し世論を 急迫の排出腔と名付けた。さらに当時すでに御用ジャーナリズ ナ リードし、蒙を啓くそれである。後者に関わっては、ジャーナ ムもできあがる途上だったが、フォン・アルニム氏は世論に対 カ リズムは様々な党派が自己の意図や傾向を大衆に明らかにする し、貴族的見解を正当化することを潔しとしなかった。前任者 ・ 手段にもなっている。大衆は常に主義主張で決定的な影響を与 は警察のスパイの小さな記事で世論に繰り返し喧伝していた。 ン えられるが、それは専制政治の様々な様式の成立が該当するよ しかし、目下のところ政府が言う意味で完璧な訂正ジャーナリ ア うに大衆が黙してそれに組み込まれるか、あるいはその主義主 ティラユール 張の意図を認識し、破壊することによっている。どんな障害に ( 59 ) 髙 木 文 夫 から補助金を受けたサクラで始めることにしよう。 をもっと詳しく見るが、まずは御用ジャーナリズム、暴力支配 傷し、嫌疑をかけねばならなかった。我々は国家の多様な党派 国家権力の賢明な処置について、世論を啓蒙し、他の見解を中 ズムが設立されたが、それは優れた国家体制について、そして ん知るだろう。しかし、御用ジャーナリズムは州議会決定にお 分」の代表が絶対主義の本質において何も変えないことをたぶ 通しかけて不必要だと見なすこともあり得るだろうし、社会「身 というわけではなかろう。というのは国王は資金源の代表を夜 御用ジャーナリズムは窮地を脱するのだろうか。これは不可能 り抜け、もちろん神学において、昨日拒否し今日見捨てたこと の指導原理で国家権力はすべての論理的帰結と障害をうまくす すでに見たように、神学は国家権力の指導原理である。神学上 ジャーナリズムも神学によって自力で切り抜けることができる それほど不可能というわけではない。しかし、そうなると御用 なければならない事柄は、国家権力の神学上の意味によっては、 どう正当化するつもりなのだろうか。我々がもう一度繰り返さ ナリズムは、 こんな堕落を国王自らが決定するのだとしたら、 いて州の希望を有害だとしなければならなかった。御用ジャー と正反対のことを明日行うかどうかは誰も知り得ない。このと だろう。御用ジャーナリズムはそのような場合につねに備えて 御用ジ ャ ー ナリズムは政府が揺れるとき独特な立場をとる。 き御用ジャーナリズムは非常に困難な状態に置かれる。ジャー ドアを開けさせておくか、あるいは独特な大胆さで脱出し、大 いなければならない。それ故通常御用ジャーナリズムは背後の 道商人に対するように荒れ狂ったり、卑怯な行いで敵対者を唖 ナリズムは昨日叱責しなければならなかったことをどう正当化 どのように承認できるというのだろうか。御用ジャーナリズム せねばならないのか、昨日国家権力によって非難された事実を は今日しばしば何かに、国父のような政府に平凡な嫌疑をかけ 然とさせようとする。 鳥勲章の歴史を思い出すつもりは全くないし、他の領域の「些 般新聞』が実際に誕生する前の四年半の間に「無」とされた白 に当然のように驚嘆させられる。ここで我々は『プロイセン一 日後には政府は躊躇いを克服し、明るみに出されたひねくれ者 前を毎号載せなければならないほど仕事を与えられることはな は違って、その地位には就かなかった。彼は編集部で自分の名 者のツィンクアイゼンは任命されたときに想像されていたのと るかつての『プロイセン国家新聞』に関わった。しかし、編集 を放棄し、読者を見かけ上実直な方法で意のままにしようとす がジャーナリズムとともに行われた。最初の試みは公式の名称 大衆を鈍感な人間に「教育」する政府決定以来、多様な試み ることだとして撥ね付けるような羽目に陥る。なぜなら政府は 細」な出来事も見過ごすつもりもない。しかし、国王が有名な ためら 嫌疑を抱いて姿を現すことは敢えてしないからだ。しかし、八 州議会決定にもかかわらず憲法を与えるとすればどうだろうか。 ( 60 ) ベルリン(八) き名声を手に入れた。買収された『ケルン新聞』のサクラの一 であり、ツィンクアイゼン博士もこうして上流階級でしかるべ ける人間だけがこの地位に就くことができるということが自明 ルツは自分の責任で印刷するように命じた。まったく個性に欠 この記事を受け入れることをきっぱりと拒否したが、執行人シュ 知るものは誰もいなかった。 「責任」編集者ツィンクアイゼンは 高い記事が編集部に持ち込まれたが、編集部では著者の名前を のようにして執行人シュルツによるヘルヴェークに対する悪名 け入れられるもの、新聞から遠ざけられるものを決定した。こ 彼は国王周囲の敬虔主義者だった。彼は全くの独断で新聞に受 か っ た。 本来編集部を率いていたのは執行人シ ュ ルツ首席で、 できるようにするつもりだと述べていたからだ。だからヘルメ 約期限まで編集部を続け、後を引き継ぐ人物をしかるべく待遇 いたヘルメス氏は、自分はいずれにせよまだ三ヶ月間有効な契 きことを凝視した。というのは密かに計画について知らされて ているのを見た。事務所にいた人々は期待にあふれて来たるべ れた朝、ヘルメス氏は他の男性、ルソー氏が編集部の椅子に座っ が期待できると言う原則に基づいたからである。それ故ある晴 目で見て、国家権力に身を投じる一人の男に可能なことすべて ― くか、叩きのめさなければならないと思っていた。というのは た。しかし、シュルツ首席はそれより先にヘルメス氏を取り除 再び余計ものとなって、契約期間終了後遠ざけられることとなっ 実の短い修正を除いて、気品高く沈黙を守った。ヘルメス氏は 氏は編集部の椅子を居心地悪そうにあちこち動かして、おずお ス氏が入ってきたとき期待にあふれた静寂があったし、ルソー ピ エ テ ィ ス ト 人を国家当局自身が嘲笑と不信で見ていることはヘルメス氏の 世論で何も成果が上がらないと見て、もう一人の協力者を編集 ずと横を向いた。ちょうどヘルメス氏が帽子を取ってルソー氏 すでに述べたように、国家権力自身は自らの国民を不信の 身に生じる処置から来ている。国家権力はこれまでの方法では 部に割り当て、空虚な自由理論を指示するためのもっと自由で に向かって歩こうとしたとき、シュルツ首席が契約終了までの 旨の本省からの命令書を持って現れた。ヘルメス氏は命令書を 大きな活動余地を容認することを決定した。この目的のために 受け取り、これ以上「束縛」と何の関わりを持たないことは幸 俸給を支給した上で、ヘルメス博士の編集部の職務を解任する な役立たずだとして、ヘルメス氏は少し前に公然と「検閲の現 ン新聞』のことを『ライン新聞』に対抗する最も望まれた平板 状」のせいで『ケルン新聞』から身を引いたと述べた後、今『プ が自らの件を意識してどのように支持者と契約し、必要で無く ― これは確かに国家権力 せだと言って、事務所を立ち去った。 『ケルン新聞』の元編集者の一人が選び出されたが、彼は『ケル ロイセン一般新聞』編集部を引き受けた。ここで彼は「ロマン なれば、ドアの外へ放り出すかという教訓に満ちた好例である。 的自由」に関する唯一の記事を書いた。国家権力はまた突然考 えを変えて、官僚は世論との原理闘争に関わろうとし、再び事 ( 61 ) 髙 木 文 夫 た。このことを手短に報告して、我々はルソー氏ではなく、そ この任用によって最終的な叙階を受けた分だけ広い関心を引い の手から枢密顧問官ルソ ー 氏の手に移っ た。 この男の前歴は、 それ故変身させられた『プロイセン一般新聞』はヘルメス氏 が出版されようとしたとき、予約金をだまし取られた人たちは な歌のアンソロジーの予約者を集めさせた。しかし、この歌集 えた。コブレンツでは、あるギムナジウムの教師を通して敬虔 しばらくの間ライン州の諸都市を歩き回り、熱弁家の印象を与 や安全ではなかったので、ルソー氏はエルバーフェルトへ行き、 せる。彼のフランクフルト滞在は最終的には彼にとってはもは のように、信仰は上層指導部ではすべての「事由」を埋め合わ れを己にふさわしいと見なす、上層の国家指導部を視野に入れ この不幸なギムナジウムの教師にすがった。ルソー氏はそれか ― る。ジャン・バプチスト・ルソーは以前フランクフルト・アム・ な「奇襲攻撃」を二つかけた。まず劇団員に一冊につき四ター マインで枢密顧問官ベルリとともに『フランクフルト自由都市 ラーの『詩集』を予約させた。申し込みリストはルソー氏の二 らかなり長い間さまよった後ベルリンという港に達した。彼は 大臣の推薦を受けて最善の見通しを開いたにもかかわらず、目 人の子供が持って回り、一人は見事に泣き、もう一人は見事に ここで週刊文芸新聞の認可を得、その新聞が国家によって助成 的を達することはなかった。当時フォン・ナーグラー氏に仕え お世辞が言えた。それからルソー氏は舞台の構成員に彼の新聞 新聞』の編集者だった。いわゆる豊穣な縁を発見して輝かしい ていたグスタフ・コンプトが、 「ベルリンで以前の行状や状態を がかなりな支援を必要として、この件がじゅうぶんな正当性を 状態になったとき、彼は周辺の温泉地を歩き回り、最後はフラ 調べ始めて、ルソー氏が不利な光を浴び過ぎたので、プロイセ 持っていることに気付かせ、一年間の予約で予約者を支援する されるだろうと思い、信頼できる印刷屋も見つけた。編集者と ン政府は自らを恥じるか、あるいはそのような人物と関わりを 気にさせたのである。その後十四日たって、この新聞は破産し、 新聞は主として演劇でかつかつに暮らしていた。しかし、それ 持つことを怪しげなことだと思った。フォン・ナーグラー氏は ルソー氏は『プロイセン一般新聞』の編集部に入り、上層指導 ンクフルト滞在が彼にとって危険になるような状況に落ち込ん ヘッセン選帝侯・枢密顧問官殿の前歴を知らなかったことを謝 部の意図通りに仕事をした。何故なら結局のところではほんの にもかかわらずたち行かなくなりかけたとき、ルソー氏は大き ― 見るところ、現在のプロイセン政 罪した」と説明している。 僅かなことさえせず、公式な情報源からの重要でない事実につ だ。ルソー氏は一八三一年当時にはすでに『プロイセン国家新 府はそのような人物のことはほんの僅かでも恥じていないよう 聞』編集部に応募していた。しかし、ベルリンではナーグラー だ。この事情説明では、ルソー氏が「信仰の人」であり、周知 ( 62 ) ベルリン(八) したことにたぶん彼ら自身が後で驚いただろう。 『プロイセン一 彼らの意見に従えば、これを通して世論に対しかなりの譲歩を 層指導部はもう一つ試みた、あるいは手短な助走を行った― 武器で対峙することも敢えてしなかった。しかし、それでも上 なままで、ほんの少しだけでも世論の理論と原則に従って同じ 文芸欄で演劇に手を出しただけだ。新聞自体はまったく無意味 いてはささやかな修正記事しか伝えなかったからである。彼は 最近息せき切って走った後は再び完全に良好な状態にある。 されているように思われる。しかし、 『プロイセン一般新聞』は には危険にも上層指導部の記憶に呼び戻そうとしたことが暗示 に沿って上層指導部を判断していないこと、そして必要なとき 般社会新聞」に論駁する政治的思考』はヴィットマン氏が期待 な意図から自分の意見を開陳した最後だった。最近の冊子『「一 ヒスベルクのヤコービに論駁した憲法問題の冊子が、このよう から後退したがためだったのだろう。ヴィットマン氏がケーニ 元大臣たちの元で、他に二人の人物が御用ジャーナリズムに、 般新聞』は再度空虚さに、無に戻った。これはシュルツ首席が 層指導部の元へ彼がやって来たかどうかは、たとえベルリンで ロホウの失脚後、彼は長い間、ロホウの言う意味で、アルニム いるとき、彼は過激派に反対する叫び声で目立つことになった。 立たせることもある人間だった。ケルン大司教の件が扱われて あるいは少なくともその意を汲んで仕事をしていたが、彼らは こっそりと編集部事務所に放り投げた記事のことだ。後に著者 敬虔なる保護があったとしても、確証を持って伝えることはで 警察大臣に反対する立場をとり、 『ドイツ一般新聞』並びに(か はアウグスト・ヴィットマンという紳士だと言うことが分かっ きない。確かなことは、ヴィットマン氏がルソー氏よりも用心 つての )『 ブレ ー メン新聞 』 の記事はかなり長い間若干のセン 今は二人とも活動停止中である。一方のヨエル・ヤコービは『ユ 深かったということだ。期限を決めずに『プロイセン一般新聞』 セーションを引き起こした。後になってこのような煽動は止ん ダヤ人の嘆き』や多様な改宗者物語で知られていたが、ロホウ 編集部員に任命される代わりに、彼はペンを政府に用立てるこ だとのことだったが、その理由は彼の振るまいがまずかったか、 た。ヴィットマンはスイスの予言者フリードリヒ・ローマーの とで永続的な職を求めた。この職のおかげで彼は六百ターラー あるいは報酬が結局のところ結果をもたらさないことを洞察し 弟子で、支持者であり、スイスでローマーと一緒にまったく教 の収入を与えられ、司書リストに登録された。ヴィットマン氏 たかであった。もう一人は同様にロホウの官庁で仕事をしてい の役所では特に重要な新聞記事や、さらに何か劣悪なことを目 はその間特に活動的だったわけではない。二三記事を載せた後 た、さしたることのない文芸愛好家で、かつて外務省の新聞編 訓あふれる冒険生活を送っていた。推薦状を得たベルリンの上 た。たぶんすでに述べたように、官僚が世論と闘うという考え 『プロイセン一般新聞』は彼のペンによるものは何も載せなかっ ( 63 ) 髙 木 文 夫 の紳士は現在ブルジョワジーの利害を代弁するリベラル派政党 T・ミュッゲ博士に宛てた手紙を入手して、握りつぶした。こ はマンハイムのある新聞の編集部から同紙のベルリン通信員、 様々な都市へ旅行したと言われている。当時諸紙は、この紳士 集部で、リベラル派のベルリン通信員の名前を引き出すために、 ようとしていた。 ベルヒト氏が報酬を受けていたかどうかは、 義を代弁することになっていて、あらゆる影響を排し、自立し この新聞は、趣意書の序文によれば、いわゆる理性的な保守主 ― がどのようにベルリンで思い至ったかは我々には分からない。 しかし、ラインラント人の政治「教育」を施すことに、この男 プロイセン宛ての手紙で耳目を集めた。彼は幸運にもベルリン ン政府の憲法問題で注目を浴びようとしたが、官職を無心する 授だったフーバー氏は当時すでに様々な保守的冊子でプロイセ 教授がその守護神とともに問題になる。以前マールブルクの教 最近御用ジャーナリズムは多様な情報源を得た。まずフーバー 警察のサクラであり、自由ジャーナリズムの中傷者であること ばそうであったとしても、ベルヒト氏は原則に従って無条件に トに彼が取り替えるとは信じてはならなかったからだ。よしん ランクフルトの安定した地位を新聞という不安定なプロジェク かった。いずれにせよ、憶測は彼に反していた。というのはフ かし、彼は報酬を受けていないことを率直に否定することもな 彼が口にした原則が真実であったとしたら、どうでも良い。し いずれにせよベルヒト氏は敬虔な人々を常に傍らに置いた。 で活動している。 に招聘され、マールブルクと同じように学生たちには不評を買 授が招聘され、ベルリンでは当地の保守派の人々、特に省参事 れた。編集者にはフランクフルト・アム・マインのベルヒト教 シェ・ベオバハター(ライン地方の観察者)』の名前で戦場に現 た。ついにケルンで王室の統治理念の主要な代弁者が『ライニ ジャーナリズムから、友人や支持者からさえも顧みられなかっ 特 別 な 注 目 を 集 め る こ と も な く、 退 屈 な 保 守 的 長 口 舌 は 他 の バー氏自身は混乱し過ぎ、理解不能な頭脳の持ち主だったので、 彼の守護神は決して特別に公の場に出たわけではなかった。フー らかに同紙の傾向に従わない他紙の表現をすべて捕え、中傷す で『ベオバハター』紙はその出自にふさわしい。その目的は明 点はリベラルなジャーナリズムを中傷することにあり、この点 正当な根拠を持って登場できるかのようだ。彼が言うことの要 求していることである。まるで警察が確信していることに対し、 ずリベラルなジャーナリズムが彼の判断に立ち入るべきだと要 まりなかった。その際一つだけ奇妙なのは、ベルヒト氏が絶え に警察制度の盲目的な支持者にのみ期待できるだけで退屈きわ の自由等々についての彼の発言に注意を向けなくても良い。常 を表明した。現在の国家体制の法的状態を証明する議論、新聞 ヤ ヌ ス い、ジャーナリズムで保守的な行動を知らしめ始めた。その間 官アイラーの友人や支持者が支えた。ベルヒト教授の妻はフラ ヤ ヌ ス ンクフルトで教育機関を所有していて、 教授も関与していた。 ( 64 ) ベルリン(八) る こ と に あ る。 ベ ル ヒ ト 氏 は こ れ に 関 連 し ジ ャ ー ナ リ ズ ム の アジヤン・プロボカトーア 挑 発 分 子の職務を果たしている― 一般の人々 は『 観察者 (ベオバハター)』というよりも的確にスパイと呼んでいた。ベ 目を御用ジャーナリズムからリベラルなジャーナリズムに転 ― 準のみが与えられている。 ター』は面白おかしい姿を見せており、その後を追うことはい て 仕 返 し た の で あ る。 全 体 的 に 見 て『 ラ イ ニ シ ェ・ ベ オ バ ハ セコセした嫌がらせをし、あらゆる側面から軽蔑して踏みつけ 応する注釈を伴うように配慮している。同時に彼はこうしてコ カルな」方向に光を当てられ、 「扇動的」で「危険な」傾向に相 した、 いわゆる上品で礼儀正しい統治と関わりを持っ ている。 初にこの党派が法治国家と呼び、暴力支配の代わりとしようよ るべきである。本来のリベラルな立憲派リベラリズムはまず最 ムに属していても、本来のリベラル派とラジカル派は区別され 今の国家という地平に立つ限りで、双方とも政治的リベラリズ れていることを目にしている。しかし、この党派においては現 を代弁するものであり、我々はこれがリベラルな日刊紙にも現 上に述べたように、そもそも政治的リベラリズムは財産所有 じよう。 つも骨折り甲斐がある。いずれにせよ、この戦場で今日の国家 これまでこのような上品で礼儀正しい専制政治は法治国家でも ルリン、ケーニヒスベルク等々の通信員は新聞の上記の「ラジ 体制を支持する人々がどのように冒険的に武器をつかんで、敵 財産所有に役立たせるに過ぎないこと、そして財産所有による 普遍的な人権でもないこと、 むしろ立憲的な自由が身分代表、 支配の自由は絶対主義の暴力支配よりももっと邪悪な専制政治 に対し「認識」を紛糾させるのかを見るのは気をそそられ、教 はこれ以上ないほどの大言壮語を、これ以上ないほどの馬鹿馬 えられるところが多い。空虚な警察体制の看板の下で、道化者 鹿しいホラを、あるいは嘲りのことばや中傷的表現を撒き散ら であることを見て来た。真の法概念が欠如していることを我々 憲法問題においてリベラリズムはいわゆる庶民代表の、いわ はリベラリズムが戦っている時目標達成の手段において明るみ ゆる権利を一八一五年五月十五日の国王の言葉を引き合いに出 しながら歩き回っているが、まるで盲従する者を真に受けさせ そもそも御用ジャーナリズムは非常に注目に値する。という すことで証明している。いわゆる民衆代表の「法概念」のこの ― に出たのを見ている。 のは様々な変わりやすい試みが、政府を大衆の認識から救おう ような解釈は控え目に、きわめて無思慮に言われている。リベ る演技が八百長を行う手をしっかりとのぞき込んではいけない と試みているさまを御用ジ ャ ー ナリズムが表しているからだ。 ラリズムが法治国家であるならば、それは自身を通して正当化 ような手品であるかのようだ。 それ故これ以上に個々の新聞や定期的な試みが考慮されること レヒト はなく、上層指導部自身を判断せねばならないような内的な基 ( 65 ) 髙 木 文 夫 念を完全に知らないふりをするかである。 自由な人間の権利、 レヒト されるだろう。しかし、国王の言葉は他の党派言葉と同じよう が統治となった。暴力は自由な人間の権利を我が物とし、懐に は自由の進展だとして歓迎される。教会の信仰の地平にある古 も少なからず明らかである。教会改革運動はリベラリズムから リベラリズムにおける法概念の混乱は政治や宗教の観点から レヒト 逓減されていない生活の楽しみは国家では不可能である。国家 レヒト に決定することはできない。 後者はこのときから権利であり、 しまい込んだ。それ故自由な人間にその権利が反映させられな い制約は撤去され、同じ地平に新しい、より良いとは言えない ― 低限の権限さえも有していない。 フォルク は統治の代弁者であり、 国家において暴力は唯一の法である。 レヒト 前者は不 当である。自由な人間から権利を奪い、国家の囲いに 「民衆」の利害にも、国家にも暴力に対抗してリベラリズムは最 い限り、すなわち国家と私有財産が廃棄されない限り、誰も暴 制約が設定される。教会内部に形成される運動に何が期待でき むさぼ ウンレヒト 押し込めることで、法として暴力が宣言され、それに応じて様々 力に対し権利を語る権利を有しない。国家においては暴力だけ るだろうか。いつも自由な人間を宗教の一定の制約に押し込め な身分が貪る身分と養う身分へと放り込まれたのである。暴力 が法であり、それは国家の成立全体および全本質が証明すると るとはどんな自由だというのだろうか。ドイツ・カトリックお レヒト おりである。そのような法を打ち立てようとすれば、国家と自 レヒト 由な人間を制限する私有財産も廃棄しなければならない。たっ シスマ よび「光の友」のこのような運動はすべてがきわめて悲惨であ る。この運動はつねに単に新しい宗派、新しい分裂を生み出す レヒト だけである。地平は同じままだが、まさしく脆い地点の地平で レヒト た一つ、真の権利、個人の自由な人格な人権の権利しか存在し ない。しかし、このようなことは国家や私有財産という制限に もろ よって人間から奪い取られたのである。それ故リベラルな人々 ある。宗教は地上を盗まれた人間に天国の彼岸を本当だと思わ フォルク せて、世俗支配や抑圧のために天国という慰めによって、人間 を白痴にし、押しとどめようとする。人間は彼岸での生命とい レヒト には入れていないのだ。法を暴力から切り離し、それにもかか は法治国家を主張することによって、民衆も個別な自由も視野 わらず国家を存続させるという馬鹿馬鹿しさを除いても、立憲 権を忘れるだろう。しかし、彼岸は「自由」についていい加減 う鏡像にまやかされている限り、地上の軛に固執し、自由な人 出さない。しかし、民衆の利害を主張することを通して、彼ら る。彼岸を全力で押しとどめるのではなく、自由な人間を本当 能にする。このことは宗教という仕組みの見せかけの原理にあ な話をする様々な宗派を存続させる、それ故自由な人間を不可 くびき 主義者の人々も単に統治における私有財産の代弁を目指しての は民衆の厚生という仮面をかぶって自らの利害を促進するため フォルク み働いている。民衆、個人の自由はその「代弁」では何も作り に、顔を覆って偽善者であることを証明するか、あるいは法概 ( 66 ) ベルリン(八) この党派は真実で、開かれており、その立場からは、すなわち かない。 それがミ ュ ンヘンの『 歴史政治新聞 』 のそれである。 存在しない。宗教内部にとどまろうとすると真の唯一の党派し ある。制約の中には、それが宗教というものであるが、自由が な人間が宗派の選別や教会への囲い込みを知らないのと同様で 岸と関わりを持たず、己の生きる権利を視野に入れている自由 逆らって行動し、それで宗教を放棄することになるだろう。彼 に作ろうとするのであれば、様々な宗派は宗教としての利害に がるからである。 の自由は無神論に、あらゆる「宗教」や「教会」の解消につな タンティズムは教会として同様に間違いである。何故なら研究 が信仰の大元にあるからである。研究の自由に対してプロテス らカトリシズムだけが真の「信仰」を知っており、完全な服従 ンティズムはカトリシズムに比べ完全に間違っている。何故な 無意味である。宗教として、すなわち信仰としてはプロテスタ 部分を堅持しようとするプロテスタンティズムは半陰陽であり、 を原則として、それでも宗教であり続ける、すなわち信仰の一 政治的リベラリズムの問題はユダヤ人の「市民としての立場」 宗教の立場からは最も完全な正当性を唯一有している。神や彼 岸への信仰を保持しようとすれば、哲学的検証と自由な認識は 存続で完全な信仰と無条件の服従を要求して完全に権利を有し 半分の営みに対しミュンヘンの『歴史政治新聞』は「信仰」の と教会には「自由」が踏み越えてはならない限界がある。この 麦藁を掴もうと試みていた。このような神学上の争いはリベラ がキリスト教国家の原理に背かないようにとフラフラしながら を使う。政治的リベラリズムはユダヤ人問題で、ユダヤ人解放 法の政治の立場から換気するために神学上のあらゆるトリック に政治はこの問題を「実態」の立場から、すなわち腐敗した無 であり、この問題においてリベラリズムは法概念の、その浅薄 ている。 それに対し検証や認識の自由を許容しようとすれば、 リズムの狡猾な本質そのものと同じように空虚で、何も語って な理論をすべて白日の下にさらした。政治は神学の半陰陽の制 それは完全に与えられなければならない。そしてこのことは宗 いない。ユダヤ人解放の唯一の問題はユダヤ人の平等の権利の 可能ではない。 検証や認識の自由は神や彼岸に触れない限り、 教や教会を廃止するという意味である。認識が宗教の本質に触 問題であった。この平等の権利がキリスト教国家に好ましいか どの宗教においても許容されるだろう。自由な宗教や教会の宣 れることを許されるや否や、宗教は自ずと休止する。何故なら どうかは少なくともどうでも良いことであった。しかし、法の 度なしに済ませることができないし、真の法概念に戻る代わり 無神論とは宗教の解消ということであるからだ。 「教会」の言う 問題をリベラリズムはほとんど視野に入れていなかった。そし 言はまやかしである。何故なら自由が半分だけだからだ。宗教 意味で、カトリシズムが唯一の真の「宗教」であると宣言すれ レヒト ベレヒティグング ば、ミュンヘンの『歴史政治新聞』は全く正しい。検証の自由 ( 67 ) 髙 木 文 夫 かが重要なのではなく、全個人の人間としての同等の権利が重 も良かっただろう。ユダヤ人が宗教の権利を持っているかどう えもリベラリズムはこの問題を単に人間的な問題として扱って 的にも偏狭だった。世に言うところのキリスト教の立場からさ ことにする本能に従って行動した。その立場は宗教的にも政治 て大部分は国家の「宗教政党」の抑圧や締め出しを卑しむべき でもなく、唯一真に純粋な、人間的な問題であった。 ダヤ人解放の法律問題は政治的な問題でもなく、宗教的な問題 のすべてのことはそこに秩序づけられねばならない。それ故ユ 最初の、そして本来の権利は自由かつ人間的な権利であり、他 然の本性は自由で人間的なものだ。 その権利が話題になれば、 ないようにするならば、ユダヤ人も同じ権利を有している。自 るのも良い。しかし、このような囲いのどれにも閉じ込められ 世論における、このようなリベラル派の代表として現在のプ 要なのである。この純粋に人間的な問題に、リベラリズムはあ くまでも「キリスト教的」であろうとすれば、同様にキリスト を代弁し、大衆や個人の権利をその枠内で守ることを主張する ロイセンの日刊紙の大部分や通信が目に入る。リベラルな傾向 法治国家という立場である。 憲法問題においては、『 ケルン新 の多様性に応じた比較的小さな亜種はこの場合考慮に入ってい の権利を有している」と言っただろう。しかし、政治的リベラ 聞』はまったく単純な立場に立っているが、それは個人の権利 教から正しく答えることができたのである。リベラリズムはキ リズムは完全に国家のキリスト教神学の原理内に執着している。 「民衆」の、つまり持て の「代弁」についていい加減な話をし、 リスト教をあるがままにして、人間的な道徳哲学として、そし そして、本能によってのみ導かれるこの法律家たちが依然とし る者の要求の根拠付けにフリードリヒ・ヴィルヘルム三世の勅 ない。全体として政治的リベラリズムはその浅薄さや空虚さに て「最もリベラルな」人たちなのである。神学的な国家体制の 語を正権原や証明として常に前面から齧り付く。宗教の問題に 応じて、ほとんどの場所で反対派に生じている。現在の典型は 混乱は他の人々、 「リベラルな人々」も、ユダヤ人は国家におい おいては『ケルン新聞』は同様に中途半端な検証と認識という て偏狭な宗教としてではなく、見ることができただろう。そし て権利を持たないと主張するまでに至っている。もちろん国家 みすぼらしい立場を取っているが、その際我々は決してこの新 『ケルン新聞』である。その暴力支配に対峙する立場は持てる者 において、キリスト教国家の神学においてである。真の法治国 聞が最も身近にいる持てる者の利害を受けて、自らこの中途半 て偉大な人間の「権威」に基づいて「人間はすべて兄弟だ、ユ 家、真の法律問題は宗教というものを知らない。何故なら宗教 端な検証を慎重に取り扱おうとしていることを考慮に入れるつ ダヤ人であれ、どのような宗教であれ、我々と同じ人間として は個人のことがらだからだ。誰かが「ユダヤ人」であろうとす フォルク れば、これは彼自身のことであり、 「キリスト教徒」たろうとす ( 68 ) ベルリン(八) もほんの僅かでも、もしくは少なくともあくまでも人間の権利 私有財産という神聖な信仰までである。 それ故『 ケルン新聞 』 約まで、政治に関する件では政治的自由の制約まで、すなわち いるだけである。教会に関する件ではいわゆる宗教的自由の制 だと見た検証の自由はリベラルな信仰の制約にまで広げられて ようとした学術記事に反論した。繰り返し認識することが必要 で多様な人種が同時成立したという主張に― 聖書から反論し もりは決してない。最近『ケルン新聞』は文芸欄でことに地上 の名前を個人的利害の製品のために盗むリベラリズム、このリ その利害を確信できず、そのあからさまな発言を恥じ、「民衆」 きる。しかし、本来の支配の利害を敢えて口に出さず、それ故 る。そして彼らにおいては少なくとも確信を尊重することがで ちである。少なくとも彼らは支配の原則を公然と正直に発言す まやかしの原理に対しては、暴力支配の警官さえも正直な男た ムのまやかしの原理は目に入るだけで反感を招く。このような 民衆の権利に基づいており、自ら人権の略奪であるリベラリズ 全体的に見て、 利の侵害についてはまったく話題とならない 。 承認することはない。そして首尾一貫して無産階級に対する権 編集部着任時にリベラリズムの真の本質、所有を巡る利害を完 璧に権利を有するのである。 暴力支配の支持者は仮面を剥ぎ取り、暴力の足下に歩むとき完 ベラリズムは尊敬すべき同情に対してほんの僅かも要求せず、 * 問題に拠らないで無産階級の面倒を見ている。かように浅薄で 璧に支持した。特に労働階級に取り組んでいた。パリ通信員の フォルク リベラルな政治の最も際立った典型であるブリュッゲマン氏は 解雇は、それ以降首尾一貫して常に有産階級の利害だけからは ゲマン氏自身は有産階級と「国 民」であると、金融貴族の富 彼らは暴力の原理に抵抗して闘うこともなく、原理の真の表現 概念、 すべての人々 の権利への理解力を持っ ていないからだ。 彼らの武器は常套句である。というのはリベラリズムは真の法 この党派の男たちは総じて原理の空虚さを刻みこまれている。 を「国民の富」であり、 「すべての人々」の富であると、そして に対抗して闘っている。そして専制主義そのものを憎むことも ナツィオーン 目を離さなかった、このような支配の始まりだった。ブリュッ このような貴族の弁護を「法治国家」であると説明した。無産 レヒト 階級の権利は、このような『ケルン新聞』のリベラルな政策を * ご く最近『ケルン新聞』はケルンでの「惜しむべき」出来事について言及する際に、軍人による虐殺を「唯一人だけが命を失った」と語るほ どに美化していた。この「個人」の権利をリベラルな『ケルン新聞』は気にとめなかったが、しかし、それは貧しい手工職人にすぎなかった。 ローエ男爵あるいは利益代理人ロイエがそのような「惜しむべき」出来事に遭遇したのであれば、 『ケルン新聞』は疑いようもなく法治国家の損 傷に大声を出していただろう。このような私有財産権の原則の例えを『ケルン新聞』はどのような機会にも取り上げ、ブリュッゲマン氏はこの 新聞にすべての信義を重んじる人々に、目下の『ライン新聞』に対してよりももっと深刻な不評を与えたのである。 ( 69 ) 髙 木 文 夫 持者であり、状況の外面によって誤ってこの方向に追い込まれ 理で見極められる。彼らの多くは以前は暴力支配の支 を特徴付ける、茶番じみた長い常套句の藁のように軽くくだら 外れない。この党派の男たちは世論においてはリベラルな政治 なく、所有支配の専制主義である専制主義だけを憎む原理から 可能である。リベラルな議会の構成員は、バーデンやザクセン の文献だけでなく、それの社会的な表現においても示すことは おいてだけが必要なのである。このような推移はリベラリズム 向から逸れることはそれほど遠くないし、せいぜい個々の点に はない。暴力支配に「代弁者」を見いだすためにリベラルな方 特にリベラリズムは専制主義に対しては全く疎遠というわけで きる。 支配勢力への「 仲介 」 はそれほど困難なことではない。 れによって互いにいちゃつき、恐れさせ、出世させることがで 原理に奉仕する資格を見事に有している。他の者たちはリベラ れば、彼らはリベラルな金銭エゴイズムのへつらうような進歩 いない、双方の通信員がこれに属している。その素 けではなく、個人としてリベラルな政治全体の歩みである道を れない。彼らは自分たちの原理に決して忠実ではないというわ てこの人々には愚者の目にのみ背信という非難が当たるかもし が証明しているように、見事な暴力支配の大臣となった。そし レソンヌマン たのである。とりわけ我々がすでにロホウ氏の御用ジャーナリ ない論 性によ ルな政治の本質を意識もせず、理解もせずにリベラリズムに身 歩いている。政治的リベラリズムは支配に到達すると民衆には アンテツェデンス ズムに所属するものとして、それ以来上層指導部とは接触して を投じた。この人々は単にでたらめを言い、本来何が問題なの 常に抑圧となるだろう。 かも知らずにただスキャンダルだけを起こそうとしている、通 信員の中で最も多数の連中である。そこで重要なのは真実の探 ラリズムと取引し、いずれかの特別なエゴイスティックな目的 とは他の国ではあり得ないからである。さらに別の人々はリベ ル派政治新聞すべてが毎日もたらすような愚かさを提示するこ 無知無学な輩のための土地である。というのはドイツのリベラ そういう未熟さの中にあるドイツはとりわけかように代弁する、 の件ではいつでも同様にスキャンダルだけを追い求めるだろう。 野に入れることでのたうち回っている。彼らは判断を持たない とした戦いを恐れ、法律問題ではなく、細かな実態の観察を視 することを求めている。彼らはお互いの原理を対抗させる公然 るだけだ。駆け引きだけの落ち着き払った姿勢で彼らは「仲介」 が知っているわけではない。彼らはただ「現状」を凝視してい を演じている。もちろん今リベラリズムが持つ原理もこの人々 べないこの亜種は諸党派の間でほとんど駆け引きのような役割 リベラリズムの議会内党派は空論家ばかりである。党派とは呼 フ ラ ク シ ヨ ン リベラリズムと御用ジャーナリズムの間に重点を置いている に投機する。この人々はいずれにせよリベラリズムの本質を最 求ではなく、彼らは自身が欲していることすら全く知らず、他 もよく理解していた。リベラリズムは社会的な力になった。そ ( 70 ) ベルリン(八) だろう。それは特に静逸さという原理であり、スキャンダルを 原理は「慈悲深い」専制政治、 「善良な」国王という理想である たがるほどにもつれ合っている。持っているとすれば、彼らの 理と根拠を顧慮し、個々の結果や外的状況で駆け引きして整え と同じ一つの段階にいる。彼らは支配的な党派とともにその原 さで粗野な暴力原理を嫌悪する限りでは、彼らはリベラリズム し、 「意見表明」をするだけである。駆け引き上の狡猾な用心深 かが話題となる。フォン・ファルンハーゲン氏はこのような地 たか、あるいは王室に近いあれこれの宮中女官が何を発言した その際につねに「宮廷において」どのように「大騒ぎ」になっ 発的なシステムについて苦情を訴えることが確信できるのだ。 ンダルだけを視野に収め、無分別なあまり、個々の官吏等に誘 法律の根拠に拠ろうとするのではなく、この最終結論のスキャ むべき現状について話しているのを耳にすれば、彼らが現状を れば、彼らは驚くだろう。彼らが暮らしの見かけで一定の哀れ 自体の本質に畏敬の念に満ちあふれて帰って行く。多かれ少な 平の状態のみすぼらしさについて、不利益が起こりえない限り かれ同じ方法で数人の年老いた人たちが彼に続くが、特にヒッ 引き起こすことなどとんでもないことだったのである。彼らは ような人々の典型は、ベルリンでは時折大いに用心して公的な ツィッヒ氏は、人生の問題で旗幟を鮮明にできない偉大な人た で言及するような外交的な流儀を、とりわけ文学に導入したの 件で「意見表明する」フォン・ファルンハーゲン氏である。公 ちのちっぽけな友人である。ヴィリーバルト・アレクシスは『モ カタツムリのように、受け継がれてきた秩序と生まれつきの先 の暮らしでは既存の状態をよく認識するが、要領の良い如才な ルゲンブラット』紙の通信員としてここで話題にできる。彼の 入見という殻をかぶって政治の道を這い回っている。何らかの さでそのような譲歩から引き出せるすべての結論から逃れるす 歩みは「確かな」状態を手荒にではなく、言及するために慎重 である。彼は半歩進んで専制政治の極端な結果と取り組んだが、 べを心得ている、この枢密顧問官のような人々はもっと頻繁に であり、表現を十重二十重にくるみ、巻き付けた。これらの人 そもそも自分が専制主義の敵である、あるいはそもそも一つの 見つけることができる。彼らは既存のことに立脚するが、しか たちが表現にどれだけの価値を置き、どのような尽力をしたか 躓きの石にぶつかると彼らは繊細な触覚で急ぎ殻の中に戻り、 し、既存のことが法であり、正当なことであるかどうかは彼ら は奇妙なことである。彼らは上流階級の「確かな」状態を、自 再びゆっくりと慎重に、この接触が大きすぎる活動を引き起こ には関わりがない。彼らのせわしない政治は幼時から見ること 原理を持っていると信じられるように、再びただちに専制主義 や主張することに慣れている制約を踏み出すこともない。現在 分たちが最初から知られていない人間を理解していないことを さないかと当たりを見回すのだ。音を立てずにそっと歩むこの の状況から彼らを連れ去り、自由な法の地平に立たせようとす ( 71 ) 髙 木 文 夫 だ君たちと同様にもっと上流の階級の人たちの傾向を一つのス んな抽象的なのらくら者の文士どもの数人はひょっとしたらま がら笑みを浮かべる、前世紀の枢密顧問官数人だけなのだ。あ た形のカフスで満足し、ひそかに愉快がり、コーヒーを飲みな 小さな拳を上げていることをしっかりと隠すだけのささくれだっ 君たちを知りもしない。君たちが書いた物を読むのは君たちが るし、下層階級の人たちは君たちが書いた物を読みもしないし、 かれ。上流階級の人たちにとっては君たちは本当に無意味であ そして大衆を前にしてそれほどに勝利を確信して威張ることな 良なる紳士方よ、 それほどに不安そうに上方を見る事なかれ、 暗示するときに、驚嘆に値する行為を行ったと信じている。善 かにすることはできない。というのはそれは単に既存のことを とを知るであろうからである。ラジカリズムはこの原理を明ら 有財産と財産所有はそもそもこの普遍的な権利の制限であるこ そうでなくても人権の「代表」は存在し得ないこと、そして私 ズムはまだ完全に法律上の理由には至っ ていない。 何故なら、 かな期待を抱いているかについては理解が及ばない。ラジカリ ほど私有財産の整理、真の民衆代表等々についてどれだけ不確 をもっとたやすく変えることが可能だと答える。しかし、どれ 利が剥奪されると非難されると、ラジカリズムは共和国はこれ その本領を発揮し、無産階級は以前と変わらず人間としての権 同様に私有財産による支配、しかももっと「自由な」やり方で な定義は特有なものではない。ラジカリズムに対し共和国では える。ラジカリズムは暴力支配を憎むのと同様に立憲主義的に ない公明正大さが存在する限りで、立憲主義リベラリズムを超 エゴイズムにではなく、本質における確かな実直さや情け容赦 ももっとキッパリとした法律批判をリベラルな政治の欺瞞的な できないと自らを説き伏せたがらないのだ。しかし、少なくと いる。目標は確かな状態のせいで率直に目的を口にすることは 態の絶対性を攻撃する限りで、リベラルな反対派と結びついて いる政治的ラジカリズムである。それは政治の基盤にも既存状 いて、それ自身が共和国における手段を見るならば、言ってい の単なる手段に過ぎず、目標ではない。このような関わりにお きるものである。ラジカリズムは、その内容に拠れば、法概念 足をある程度補充し、不足に対する共感を呼び覚ますことがで りは闘争であり、いずれにせよその実直さは確固たる目標の不 ことによって真の法概念に最も近い。その存在は尽力というよ 否定し、少なくともいかなる形でも無法や専制主義を否定する てラジカリズムは、既存の誤った前提を一緒に、そして特別に 判に過ぎず、それ以上に前に進むことはない。この批判におい る。その本来の目標は根底において単に既存のことに対する批 目前にして、原理的な法の地盤に歩み寄ることはないからであ 私有財産を代弁するリベラリズムを魂の奥底から軽蔑する。理 政治的リベラリズムのもう一つの分派は対立する側に向いて タイルであるとは分かっていないのかも知れない。 想はいくらかぼやけているが、共和国であり、この目標の確か ( 72 ) ベルリン(八) ムは要求しない。何故ならそのラジカリズムは内容から言って ることは正しい。しかし、それゆえ法概念の関与をラジカリズ この党派は決定的な際だった原理、すべての人々の自由な権利 生活の楽しみの略奪として追求する社会主義者である。しかし、 奪として、金銭による専制を権利の、すなわちすべての人々の 政治党派に寄り掛かっているのはまずは暴力支配を自由の略 考慮されるので注目に値する。専制政治とすべての誤った法律 体に何の意味を与えなくても、それが専制政治との闘争として ラジカル派の活動は、たとえ一定の法原理の不足が法概念自 な拡大を見せた。 近年脅威を感じるほどの大きさで出現した、 の自由な個性の樹立である。この党派はごく最近ドイツで法外 に違いない、しかし、その目標は自由な人間性、すべての人々 て有している。社会主義はあらゆる政治、あらゆる支配の否定 の原理を、誰に対してもその必要に応じて、という信条に従っ レヒト 政治的ラジカリズムとして政治のまっただ中にあり続け、一歩 政治に対する闘争をいかなる個人的な私利私欲もなく導くため 労働階級の困窮はこの党派にようやく公の場において同じ党派 レヒト 一歩本来の地盤を求めて闘うだけだからである。 に、 生活すべてを犠牲にするこの党派の男たちを観察すれば、 党派の間でもっと高い位置を与える。しかし、プロレタリアー 確かに注目に値する感覚を拒否できない。ラジカル派は以前か トの問題は直接社会主義の生命に関わる問題ではなく、本来の が、たぶんもっとゆっくりだが、同じように確実に内面的な真 べての統治の欺瞞と政治に対し立腹するまじめな確信の刻印を 生命に関わる問題、自由な人権の問題に由来する。この傾向の 実によって自らを獲得するであろう意義を獲得することができ 押されている。彼らの活動は日刊紙に散りばめられている。こ 最初の代表者はドイツではまず最初に『ライン新聞』に、突然 ら「個人の」名前と結びついていなかった。この男たちは自ら の僅かな、専制政治に迫害され、確信から引きこもって生活す た。プロレタリアートの廃止はおそらく社会主義者に政治的諸 るだけの男たちの名前を知ることもなく、功名心の世界は通り あのように高く、輝くばかりにドイツの新聞の悲惨の闇の中に の利害も問わない。彼らは栄誉と「名前」を手に入れるために 過ぎた。彼らの作品の総体を図書館や芸術的な書斎で見つけ出 た。現在はまだ「ブルジョワ」の立場にとらわれているとは言 登場し、同様に不意に永遠に消えてしまったあの流星に見られ 空虚で愚かな名誉欲から行動するのではない。彼らの意義はす すことは決してないだろう。彼らはただ単に功名心やエゴイズ このような党派にいる者として我々はルーテンベルク、ブール、 退屈さに取っ て変えようとする無為の世界にも属していない。 プロイセンの上級検閲法廷の『トリアー新聞』に対する処置は ている唯一の機関紙である『 トリア ー 新聞 』 がある。 しかし、 え、最も重要で、最も真実な方向をジャーナリズムで見いだし メテオール ムだけを尊重し、無用な、どうでも良いような無駄話を無為の ― そしてマイエンの名を上げよう。 ( 73 ) 髙 木 文 夫 おそらくこの最後の「合法的な」社会主義者の機関紙を廃刊す 会の鏡)』である。さらにそれと並んで『ヴェストフェーリッ 状況を批判するM・ヘスの『ゲゼルシャフツシュピーゲル(社 る機関誌は断固として、そして情け容赦ない鋭さで現在の社会 くなるだろうからである。このような機関紙の喪失は社会主義 るようにはできていない。 『トリアー新聞』は中断せざるを得な て、警察の命令により、確信したことを衣服のように取り替え ― 長編小説にとって、より良い時代を期待させる。 スケッチ』は、何も言わない通俗文学を通して品位を落とした ケッペンが無定見な文学に持ち込んだが、彼らの『ベルリン・ 的に関与している。より高い社会観察をA・フレンケルとL・ シェ・ダンプボート』と一連の定期刊行物が社会問題への全般 ゲヴァルト 行人になり、検閲を受けた新聞は路線変更を警告することによっ ることになるだろう。というのはこの「法廷」が権 力の死刑執 者にとっては、一方で不都合を持てないわけではない。何故な ウア ー である。 哲学の可笑しさと不遜さだけが生活を「 超越 」 者』と『孤独な者』、ユリウス・シュティルナーとブルーノ・バ らを「超えて」二つの個別の部署が哲学の霧の中にある。『唯一 これらの党派に並んで、彼ら自身が信じるところでは、これ ら歴史はこのようなジャーナリズムに対する措置は生活の実践 への抑圧された傾向への関与を引き出すことを示しているから この場合疑いもなく新聞雑誌で公けに表現することを奪われ すると主張でき、これら二つの図式は特別に哲学が最後の無に だ。 た社会主義者たちは、部分的には、ことにライン地方の各都市 会問題にとっての将来を決定的にするだろう。しかし、ミュン て全般的に広がっており、増大し続ける社会格差の裂け目は社 者の間では社会主義の基本原理はフランスの党派の影響によっ 会主義者一党は様々に思われているほどに少なくはない。労働 権を奪われた民衆の間の、労働も支配階層を養う階級の間の社 の「馬鹿話」を等閑に付することで、生きる目標を最も良く追 彼らは暮らしを「超越」しているので、暮らしが哲学的な超人 とりぼっちで哲学という雲の中に存在させることができるのだ。 ことができ、とにかくかような「哲学的道化者」を無頓着にひ ている人々は、このドイツの学識の「カテゴリー」から逃れる 帰した空虚さにあることを示す使命を持っている。暮らしを見 シェーマ でも試みられたように、実践的な生活に身を投じるだろう。人 ヘンの『歴史政治新聞』 (一八四六年第一輯)が告白するところ 求するだろう。 うが、思われているよりも解決が近いかも知れない社会領域で んでこの時期の大半の行為は、空虚なおしゃべりになってしま いに盛り上げて、我が物とし、騒ぎ立てようとする戦士群の周 る。この文学輜重兵は諸党派の戦いの雄叫びや個々の武器を大 政治的諸党派の付随物として、 至る所に輜 重 兵の一群がい し ちよう へい では、 「地平線に脅威的な嵐のようにかかっている社会問題と並 は恐ろしく重大なことになるだろう。」この党派のドイツにおけ ( 74 ) ベルリン(八) て、全新聞において、最小のものにおいても、最大のものにお ための最も広い戦場を文学輜重兵に与えている。全党派におい いが投機による略奪行為を栄えさせているようだが、行動する 神の戦場を歩くのだ。ドイツのジャーナリズムの堕落はせいぜ よってその日の標語を拾い上げ、ガチャガチャと音を立てて精 投機である。彼らはどこで営業できるかだけを見て、名をなす 高い努力の信用を失わせようとする。彼らの全存在は文学上の を持ってはならないと公言することで、彼らは重大さと、より 文学、いわゆる純文学はより高い目標を持たず、より深い理由 重大な物事に取り組むだけの力も認識も持たないので、無為の 文士たちはいわゆる彼らの文学の目標に文体を、娯楽を挙げる。 これまで何も学ばず、これからも何も学ぶ気のない、観念的な このような浮浪児文学の後ろを堂々として怠惰の文学が続く。 いても、後者においては最も多く文学輜重兵は本領を発揮する。 というそもそも「より高い」目標を目指して努力する。彼らは 囲に群がる。文学輜重兵は何が問題なのか知らず、ただ風聞に 中途半端な「報道の自由」と検閲の宦官部隊の間にある政治状 にする、 無定見な小説書きすべてを加える。 それに外形だけ、 ジャーナリズムを目標のための手段としてではなく、目標自体 重大な原則の真実の内的価値を疑問に付す繊細な批評家も加え 況の半陰陽性は、その愚昧さに一定の確かな保証を与え、確か で、文学輜重兵の無知無学ぶりはこれ以上ないほどの厚かまし る。さらに我々は作品を、そもそも何故この男は特定の努力を な愚昧さで彼らは物音を立て、大声を上げながら諸党派の戦い さで生活の主要問題を、すべてを「克服」し、 「解消」した哲学 見出さず、関心を感じることもなく書くのかを言えずに、最初 と し て 見 て い る。 彼 ら は「 文 士 」、 作 家 で あ ろ う と し て い る。 上の茶番を自らの模範として、最終判断を下している。確実な から最後まで読み通すことができるような、あの「有名な」作 我々はこの無為の文学に、まず最初に、恥知らずにも無定見さ、 愚昧さで判断を下すこの厚かましさは毎日ドイツのあらゆる新 家すべてを付け加える。最後に加えるのはこの無定見なおべっ の舞台に上る。マルクスとエンゲルスは書物『聖家族』におい 聞(ひょっとしたら『トリアー新聞』と『マンハイム夕刊紙』 か使いの群れすべて、文学新聞や文芸欄で本領を発揮し、文学 てフ ァ ウハ ー、 ライヒ ャ ルト等々 の諸氏のようなベルリンの、 は例外かも知れない)において見ることができるし、そこでは 輜重兵の浮浪児文学のように教養の程度に応じて何も理解でき より高い傾向やより深い教養すべての欠如を文筆業の基本条件 毎日これ以上ないほど馬鹿げた無知無学ぶりで最終判断が下さ ないすべてについて判断する愚かな若者たちである。 文学輜重兵の空虚さをそれにふさわしく嘲笑している。愚昧さ れる。特筆すべきは美的な「文体」の目的を追求する、いわゆ 確かに一般的にはベルリンはこのような無定見は免れている。 る批評家であって、最終判断の破廉恥さと無知無学ぶりで彼ら を凌駕するのは大衆作家や文芸欄執筆者だけである。 ( 75 ) 髙 木 文 夫 て引き合いに出す。何故なら無知蒙昧さは彼の愚昧さが確かで さへの不安は彼自身に委ねよう。しかし、我々は彼を典型とし の先回りをするのではなく、彼の名前はここでは無視し、不滅 個人的な名声がこの凡庸な男の目標だったので、我々はこの男 ある凡庸な通信員がこの愚かな文筆稼業の特徴的な典型である。 揮し、己の小娘をベルリンに関する報告の中心に据えたという、 ベルリンでは、しばらくの間この分野の文学機関誌で本領を発 怠惰で不安に満ちた努力にはより所を与えないからだ。しかし、 的に形成されたベルリンのセンスは個人の空虚な名声を求める、 何故なら生活の問題へのより高度な関与やもっと真剣で、批判 現代の古典作家ゲーテを「文筆活動」の無為な無関心主義に加 芸術でさえ、彼らの最も内奥の思考の最も純粋な表現になった。 ネス、ソフォクレス、プラトン、キケロの偉大な創作、彼らの てようやく干渉を受けたのである。古代の人々、アリストファ 定見さは文学が無知蒙昧な作家たちの運動場に堕落してしまっ 未来のより深い根拠を我々の時代を認識させないので、この無 している無定見な著述活動は、この人々は自らの教養を現代と れるか、洞察できないかなのだ。この人々が今目標にしようと らの捜索の基礎として、大衆の発展の先を行っていたことを忘 あらゆる時代の最も偉大な作家たちが時代のより深い内容を彼 力を現代の責任を負わせて中傷しようとする。しかし、彼らは を引き合いに出し、最高の人生問題へのポエジーの関与を、尽 証明するだけだ。古代の人々にあっては党派の一つに関与しな あることと同じだからだ。他の人々はこの文学通信員と同じ精 いことが大逆罪と見なされた時代があった。公けの問題への無 える者はゲーテを読んではいないし、理解もしていないことを 男はと言えば、愚昧さの中に手足を伸ばしている。彼は完全に 関心は最高の生活の利益が抑圧されることに沈黙し、人類の権 神の貧困と高慢な厚顔無恥を有している。ただ彼らは少なくと 思考力のなさにへつらい、通信文をこの方向のライプチヒの主 利に対する大逆罪に関与している。 も入念さと確信といううわべを見せているだけだ。この凡庸な 要新聞において、 通常は自分は「 何を書くべきか分からない 」 ( 一八二二~ 一八九一 ) のル Ernst Dronke 』 (一八四六年)第七章の翻訳で ポルタージュ『ベルリン Berlin ある。「 かいろす 」 前号に訳出した二章では新興のブルジ ョ ワ している、ドロンケ 本稿は本誌「かいろす」第四五号(二〇〇七年)以来に連載 【解題】 と始めている。思考力のなさは無為の文学の基本条件であるこ とを彼はわきまえていて、取り澄まし、公然と自分は何も学ば なかったし、何も学ぶつもりはないと媚びを売る。手紙、ガウ ン、下水溝の観察や思考力のなさを彼の人格と結びつける通信 文はウィーンでは多大な関心を持たれた。ごく最近彼は『ケル 通常はこの無目的な、蜉蝣のような生命は過去の偉大な作家 かげろう ― ン新聞』でも価値を認められた。 ( 76 ) ベルリン(八) ジーとブルジョワジーの台頭に必然的に随行して登場するプロ レタリア ー トの両階級が描写されていたが、 本章「 政治党派 」 においては一八四八年革命前の、それまでの封建的な社会構造 を変革しようとする党派が詳しく分析されている。この分析で 重要なのは、御用ジャーナリズムはさておき、残りの二大勢力、 リベラル派とラジカル派の相違である。この二派は厳密ではな いが、それぞれ前章の二階級と重なり合う部分がある。「自由」 と「民主」が何の矛盾もなく結びついているごとく見る現代か らは分かりにくいかも知れないが、三月前期のドイツではリベ ラル(自由)派とラジカル(民主)派は封建体制を打倒すると いう点では一致していても、現実にはその到達目標が異なって いる。すなわち、リベラル派にとって一八世紀末以来追求され てきた様々な分野での自由を求めることが重要であることは言 うまでもない。しかし、この時期の彼ら、ドイツのブルジョワ ジーにとってより重要なことは経済的自由であったし、一方の ラジカル派にとっては民主制が最重要で、君主制打倒、共和国 樹立が最重要なことであり、どちらの党派にとっても自らの主 張を公けにするのにジャーナリズム、この当時主要な手段であ る新聞雑誌を使っていた。著者ドロンケは、当時のジャーナリ ズムを分析することで、ドイツの実態の本質を見事に抉り出し なお、訳出にあたっては、これまで通り、一八四六年にフラ ている。 ンクフルト・アム・マインで出版された初版本( Berlin von Ernst ( J.Rütten ) . Frankfurt am Main. 1846 ) Dronke. Literarische Anstalt を底本としたが、 随時イリ ー ナ・ フント編集による版( Ernst Dronke. Berlin. Hrsg. v. Irina Hundt. Rütten & Loening. Berlin. )を参照し、併せてR・ニッチェによる版( Ernst Dronke. 1987 Berlin. Hrs. u. mit Nachwort von Rainer Nitsche. Sammlung )も参照した。 Luchterhand 703. Darmstadt u. Neuwied. 1987 ( 77 )
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