第3章 妙見信仰について

第3章 妙見信仰について
第1節 秩父神社の妙見信仰
第1章で書いたように、秩父神社の妙見信仰について、秩父神社の公式ホームページ並び
に社報「柞乃杜(ははそのもり)」では、次のように述べられている。すなわち、
『 中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合
し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判 然令により秩父神社の旧
社名に復しました。』
『 「秩父夜祭」の名で知られる秩父神社の例祭は、能楽を想わせる典雅な神代神楽に勇
壮な屋台囃子、豪華な笠鉾・屋台の曳き回しに呼応する盛大な打ち上げ花火の競演など、
人々を魅了するお祭りとして知られ、例年20万人以上の人出が見込まれています。
そもそもこのお祭りは、ご祭神である妙見様にちなんだ祭礼であり、かつては旧暦11月3
日に行われていたものが、明治の改暦によって12月3日となり、現在に至っています。
妙見信仰とは、古代バビロニアにはじまり、インドと中国を経て、仏教と共に我が国に伝
来したものが、平安時代に献灯をもってする北辰祭として都に流行し、 時を経て上野
(今の群馬県)の国衙に近い花園妙見寺から秩父平氏が招来したもので、北辰(北極
星)・北斗(七星)を神座とする星辰の信仰として伝えられま した。』
『 ところで、このお祭りには更に古層とも言うべき隠れた神聖コードが潜んでいます。
それを解読するヒントが、ご神幸行列の先頭を行く大榊に巻きつけられた藁 づくりの竜
神です。』
『 現行12月3日の夜祭をめぐっては、今でも地元に語り伝えられる微笑ましい神話が
ある。それが語るには、神社にまつわる妙見菩薩は女神様、武甲山に棲む神は男神さま
で、お互いに相思相愛の仲である。ところが残念なことに、実は武甲山さまの正妻が近く
の町村に鎮まるお諏訪さまなので、お二方も毎晩逢瀬を重ねるわけにもゆかず、かろうじ
て夜祭の晩だけはお諏訪さまの許しを得て、年に一度の逢引をされるというのであ
る。』・・・と。
秩父平氏のことについては、第2章の第2節で詳しく述べた。秩父平氏がそれまでの信仰
に妙見信仰を習合して以来、秩父神社は 長く秩父妙見宮として隆盛を極めたが、明治の
神仏判然令により秩父神社の旧社名に復したのだという。秩父神社といえば、何と言って
も秩父夜祭とイメージがだぶっているが、秩父夜祭も含めて、正に、現在の秩父神社があ
るのは、妙見信仰のお陰である。秩父夜祭というのは、秩父神社に祀られる女神(妙見菩
薩)が武甲山の男神に逢うのを祝う祭なのである。秩父夜祭は妙見祭と言っても決して過
言ではない。
では、秩父神社の妙見信仰について、その歴史的なものを勉強しておきたい。
平成12年11月7日に、秩父神社で行なわれた秩父神社氏子青年会主催の勉強会で秩父
神社権禰宜の甲田豊治さんが講演なさっている内容がネットで紹介されているので、その
中から大事な部分のみを紹介しておきたい。
『 秩父郡の総鎮守である秩父神社の秩父妙見の分社を郡境の交通の要所七か所に攘災の
守り神として配置したのが秩父七妙見社であり「秩父志」に記載されている。その中で妙
見さんの姿が判る妙見社は二つある。 第四所 東秩父村安戸の妙見社は近くの槻川が流
れを変えたため社地を移した。ここの氏子は「ここの妙見様は秩父神社の中姉」と言い、
長女は小川町木部の妙見様だと語っている。明治初年に社号を身形神社と改めている。本
殿には妙見神立像が奉安されている。第五所 都幾川村大野の妙見社は 日本武尊が来て
身形神社と称したのが始まりと伝えられる。江戸末期となり北滝山妙見宮と改め、秩父七
妙見宮に数えられた。明治初年に社号をもとの身形神社 に戻したが、明治43年地名を
採って大野神社として現在に至る。本殿に安置されている毘沙門天像は北方の守護神であ
るため、北極星を祀る妙見信仰により奉 安されることになる。』
『 初代国造の知知夫彦命から九代目の子孫にあたる 狭手男臣が允恭天皇の勅命を受け
て、御祖(みおや)の御璽(みたま)を葉葉染(柞)の杜に祀ったとしている。』
『「風土記稿」には、天慶年中(938∼947)に、村岡五郎平良文が、下野国で平将
門と合戦中、奇瑞があり、里老を招いて問うたところ、上野国群馬郡花園(現、群馬県群
馬町)に妙見菩薩の霊場があることを開き、それを秩父神社へ勧請したと伝える。』
『 また、この妙見神の導入、習合については、「秩父大宮妙見宮縁起」に、四条天皇の
嘉禎元年(1235)9月の落雷で秩父神社の社殿が消失したため、妙見神を秩父神の鎮
座する柞森に合祀し、秩父神は神宮地司摂社に祀られたとある。』
『 これらの伝承は、古代からの在地神、秩父の国魂的な秩父神が、武士団の持ちこんだ
戦勝守護神である妙見神と習合し、社名や信仰を変容したことを物語っているのであろ
う。』
『 社家は累代薗田家が勤め、社人には宮前家、権代家・橋塚家があった。薗田家は秩父
郡中および上野国甘楽郡山中領の触頭であった。 触下の神主ほ、年中三度の神事・祭礼
の際には秩父神社に出仕した。』
『 伝承によると、承平元年(931)平良文・将門が連合軍を組んで、伯父の国香の軍
勢と上 野国府中花園村の染谷河で七日七夜にわたって合戦に臨んだ。良文軍は苦戦を強
いられ、わずか七騎までになってしまった。そこへ雲に乗った一人の童子が現わ れ、敵
の軍勢に剣の雨を降らせた。良文軍は勝利をおさめ、助けてくれたその童子を訪ね歩く
と、近くの七星山息災寺という寺に祀る妙見菩薩であることがわ かった。良文はその妙
見を守護神と崇め、本拠である武蔵国大里郡藤田に勧請、その後良文軍は妙見神と共に秩
父に流入してきた。』
『「秩父大宮妙見宮縁起」によれば、四条天皇の嘉禎元年(1235)秋9月に落雷があ
り、秩父神社の社殿が焼失してしまった。そして、秩父・真奈井原(現秩父市宮地)に鎮
座していた妙見神を、秩父神社の鎮座する柞の杜に合祀し、知知夫彦命は神宮地司摂社に
祀られるようになったと記されている。これより、秩父神社は「秩父大宮妙見宮」と称さ
れ、明治の神仏分離までのながい歴史の問、妙見信仰は広い崇敬をあつめた。』
『 「妙見」(みょうけん)とは、星宿の代表として北極星
(北斗七星)を神格化したものであり、国土を守護し、災
いを除き、敵を却 け、人々の生活に福をもたらすものとさ
れてきた。そして、この「妙見」は仏教・道教・陰陽五行説
からの妙見菩薩・北辰尊星王・真武神・鎮宅霊符などのそ
れ ぞれの影響がみられ、現在に伝わっている。』
右の図は、ネットサーフィンで見つけた図 であるが、秩
父神社の公式ホームページの図とほとんど同じであるが、
北斗七星と妙見星神と秩父神社という説明が描かれている
ので、それが珍しく、ここに紹介させていただいた次第で
ある。秩父神社の女神・妙見さんは、妙見菩薩と呼ぶより
妙見星神と呼ぶ方が良いかもしれない。
秩父夜祭で山車や屋台が団子坂を登りきって集結するあの広場・秩父公園内のお旅所に
は、妙見さんを象徴している亀の形をした「亀の子石」があ り、ここで妙見さん(女
神)と武甲山に住む龍神(男神)が年に一度、12月3日に逢い引きをすると言われてい
る。亀の子石は、姿は亀、顔は人間 のような形をしている。本当は亀ではなく、「玄
武」と呼ばれる古代中国の想像上の霊獣である。
秩父神社神社に祀られている女神・妙見さんの御霊(みたま)が神輿に担がれ、12月3
日に秩父神社からこのお旅所までやってくる。これを御神幸行列というが、実は、これが
秩父夜祭のいちばんのハイライトである。その御神幸行列に先立って、 秩父神社では、
12月1日から、神輿に本殿の御霊を遷す儀式など祭りに関する神事が粛々と開始され
る。 そして12がち3日の夜、いよいよ御神幸行列が始まるのである。その御神幸行列
おたちの場面は、次のYouTubeをご覧いただきたい。
https://www.youtube.com/watch?v=jgO-xRPG4CY
そして、神輿(みこし)がお旅所に到着後、秩父神社の女神・妙見さんの御霊(みたま)
はこの霊獣の背中に降り立って、武甲山の男神とお会いになるのである。御霊(みたま)
のこと故、眼には見えないけれど、心眼で見れば見える筈だ。そのお姿は、上の図のよう
で姿である。
第2節 妙見信仰の世界性
1、宗教の近代化の足がかり・・・マダラ神(後戸の神)の宇宙性
歴史というものは誠に重要である。私は、これからの地域活性化にとって文化観光が必
要であり「歴史と伝統・文化」にもっともっと重大な関心を持つべきだと思っているが、
「歴史と伝統・文化」の重要性はなにも文化観光だけにとどまらない。私たちの生き方、
社会のあり方などすべての面で「歴史と伝統・文化」が強く意識されなければならない。
ところで、現代科学文明 の行き過ぎが大きく問題視されるなか、中沢新一などごく一
部の人たちではあるけれど、人類学的な見地から・・・芸術や宗教をもう一度見直すこと
の重要性も認識され始めている。そこで、私は今ここで、地域における文化観光という立
場から、現在ではほとんど忘れられてしまった宗教である・・・・「妙見信仰」と 「マ
ダラ神」の問題を取り上げたい。実は、この問題は、ただ単に観光だけでなく、人々の生
き方や社会のあり方にも関係している・・・地域文化の基盤を形成 する極めて重要な問
題である。文化は、前に述べたように、地域が作るものであり国が作るものではない。し
たがって、観光目的で・・・地域における「妙見信仰」と「マダラ神」の見直しが始ま
り、地域における原始宗教に対するあこがれが定着していけば、地域文化が変ってくる
し、結果として、日本文化に世界性というものが備わってくる。
なお、私は、マダラ神と書いたり、摩多羅神と書いたりするが、摩多羅神は天台宗にお
ける「後戸の神」であり、比叡山延暦寺の常行堂、日光の常行堂、中尊寺の常行堂に祀ら
れているが、日光の常行堂の摩多羅神については、私のホームページがあるので、それを
ここに紹介しておく。是非、クリックを続けて下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nikokage.html
マダラ神はそれ以前の「古層の神」である。ともに金春禅竹のいう 「翁=宿神」であ
り、さまざまな姿に変化するので、両者を区別する必要はないのかもしれない。マダラ神
と摩多羅神は、同じといえば同じだし、違うといえば 違うのである。
この「妙見信仰」と「マダラ神」の問題は、実は、広大な広がりと奥行きを持ってい
る。それは将に人類学的な問題というか宇宙的な問題を含んでいるのである。だからこ
そ、その地域が文化観光を目指すなら、「妙見信仰」と「マダラ神」の歴史的な痕跡を探
し出して、それに磨きをかけることが肝要である。地域的整備を行いながら、国際的な繋
がりも含めて、他の地域とのネットワークを組むと良い。
私は先に、 中沢新一 の「精霊の王」(2003年11月/講談社)をひとしきり勉強
したことがある。その中から、今ここでの脈絡で結論的な部分を再掲しておきたい。すな
わち、
『 アーサー王=聖杯伝説を、金春禅竹の記述する「翁=宿神」と比較してみると、あ
まりの近しさに驚かされる。宿神である「翁」は北極星として、天体全体の連行ばかり
か、その連行に影響される人間世界の秩序のことにまで、気配りのきいた支配をおこなっ
ている、と そこには書かれているが、この実質的な「世界の王」は王としてのたたずまい
をもって表面に出てくることをしないで、石の神の姿をとったり、温泉の熱湯とし て出現
したり、一見みすぼらしい塩焼きの老人として示現しているので、愚かな常識に縛られて
いる人には、目の前に大変なものが出現していることさえ見えな い。しかもケルト世界
の妖精たちのように、宿神の住む特別な空間は、胞衣の防御膜で遮られていて、世間の人
の目から隠されている。「王のなかの王」である 宿神=北極星の住む王宮は、ふつうの
人の目からは隠されているのだ。
また「翁=宿神」の内部には、イニシエーションの儀式を司る「人食いの王」のイメー
ジが隠されていることも、私たちはすでに見てきた(第六章)。中世の摩多羅神である。
人は生まれたまま、そのまま素直に成長をしても、世界の表面から隠されている真実を見
ることはできない。その心が常識でがんじがらめにされているからだ。イニシエーション
は、常識によってつくられた心の状態を作りかえて、いままで見えなかった真実を見える
ようにしようという、慈悲深い儀式なのである。そのとき、イニシエーションを受ける者
の前に、暗闇のなかからさまざまな姿をした「人食いの王」が出現する。
この「人食いの王」は、イニシエーションを受ける者の古い自我を食い尽くして、破壊
する。北方の狩猟文化では、しばしばこの役目を神としての熊がつとめ た。熊こそが、
死の領域の支配者であるからだ。熊は古い自我を抱えた人間をずたずたにひき裂いて、そ
こから真実を見る目を備えた新しい主体を生み出すので ある。この事態は、イニシエー
ションを受ける者の側からすると、荒々しい自然力にさらされながら、真実の「主権者」
の姿を見届けることによって、認識の構 造を根底から作りかえられることを意味するだろ
う。力と認識力の源泉。「翁=宿神」はそのままで、別の形をした「聖杯」なのである。
そして、重要なことはアーサー王の王宮にせよ、キリストの血を受けた神秘の聖杯にせ
よ、また宿神としての「翁」にせよ、世間の目から隠されている特別な時空間に潜んでい
ると いうことだ。「王のなかの王」は、世俗の王たちのように人の目に自分をさらすこ
とで権力を得ようとはしない。社会の周辺部、移動しつづける空間、壷や胞衣 のような
防御膜の内部などに隠れて、この世の「主権」の真実の体現者である「世界の王」は、
じっと私たちの世界を見守りつづけているのである。』・・・・ と。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seireo00.html
なお、冒頭に示した私の勉強を辿っていただければ判るように、妙見さん、マダラ神
(後戸の神)、宿神としての「翁」も、まあ同じようなものである。これらの人類学的な
広がり、宇宙的な広がりについて、中沢新一は「精霊の王」の中で次のように述べてい
る。すなわち、
『 後戸の空間は、どうやら時間の軸を遡行したり、存在の構造を底のほうに向かっ
て潜っていったりするだけでなく。民族や国家の壁を自在に越えて行き来で きる能力を
備えているらしい。「翁宿神である」、金春禅竹がこのように断言したとたん、能=猿楽
をめぐるナショナルな幻想はぐらぐらと動揺を始める。「古層の神」としての本質を持つ
宿神という存在が、猿楽を日本文化のアイデンティティの向こう側に広がる、広大な人類
の神話的思考の領域に連れ出して行くのと 一緒に、それを東北アジアの古代文化に、さ
らには環太平洋神話学の広大な世界へといってしまうのである。お納戸のような薄暗い後
戸の空間の向こう側には、 じつに広々とした世界が広がっているのだ。』・・・・と。
私は、ジオパークを究極の観光資源と考えており、その旗を振っているが、私は、究極
の観光開発としてジオパークを進める場合、他地域とのネットワークとい うものがその
成否を決める鍵であり、地球的な視野、人類学的な視野がその根底になければならない。
したがって、冒頭に述べたように、 「妙見信仰」と「マダラ神」の歴史的な痕跡を探し
出して、それに磨きをかけることが肝要なのである。磨きをかければ、ほとんど忘れさら
れた何の変哲もない ようなところから、中沢新一がいうように、環太平洋神話学の広大
な世界へと飛び出していくことができる。
「妙見信仰」と「マダラ神」は地域を救うし日本国を救う。まずこのことを言ってお
きたい。その上で先に進みたい。摩多羅神については、中沢新一の「精霊の王」をもとに
一応の勉強をしたので、これからは少し「マダラ神」と「妙見信仰」の繋がりについて勉
強することとしたい。
摩多羅神(マダラ神)は、変幻自在にいろんなものに姿を変え、宇宙のどこかから突
然私たちの前に現れ出てくる。そういう意味で、摩多羅神(マダラ神)の本 質はその宇
宙性にある。妙見さんは、本来、その世界性に本質的な特徴を持っているのだが、摩多羅
(マダラ神)と結びつくことによって、さらに奥行きを増 し、哲学性というか宇宙性を
帯びるようになる。摩多羅神(マダラ神)はまさに妙見さんにとっても「後戸の神」なの
である。逆に、 摩多羅(マダラ神)は妙見さんと結びつくことによってさらに広がりを
増し、人類学的というか世界性を帯びるようになる。妙見さんは、 摩多羅神(マダラ
神)にとっても「後戸の神」であるということもできよう。
では、「宗教の近代化と観光開発」と題して、これからあるべき宗教の勉強を始めよ
う! 狙いは観光開発でもあり宗教の近代化である。はたして妙見さんはどのようにし
て摩多羅神(マダラ神)と結びつくのか???
2、妙見信仰の世界性
摩多羅神についてはここをクリックしていただきたいが、その中から今ここでの脈絡か
ら問題となる部分だけを再掲しておくと以下のとおりである。
常行堂(じようぎようどう)というお堂のある天台系の寺院に祀られている「摩多羅(ま
たら)神」は、仏教の守護神としては異様な姿をして
いる。
だいたい仏法を守る守護神としては、インド伝来の
神々の姿をしているものが、おおむね主流である。こ
れらの神々は、もとはと言えば仏教とは関わりのない
「野生の思考」から生み出されたインド土着の神々
で、象徴的に含蓄の多い姿をしているものである。
ところが、常行堂の後戸の場所に祀られているこの神
は、 少しもインド的でない。さりとて中国的ですらな
く、かといって日本的かと言えば、そうとも言いきれ
ない。かつては天台寺院において重要な働きをした神
であるのに、摩多羅神は謎だらけの神なのである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seireo07.html
摩多羅神の神像図(「摩多羅神の曼陀羅」)といわれているものが、古くから伝えられて
いるから、まずそれをよく見てみよう。
中央には摩多羅神がいる。頭に中国風のかぶり物をかぶり、日本風の狩衣(かりぎぬ)を
まとっている。手には鼓をもって、不気味な笑みをたたえながら、これを 打っている。両
脇には笹の葉と茗荷(みようが)の葉とをそれぞれ肩に担ぎながら踊る、二人の童子が描
かれている。この三人の笹と茗荷の繁る林が囲み、頭上 には北斗七星が配置される。
再掲の部分は以上であるが、頭上の北斗七星に注目願いたい。北斗七星は航海をする
海の民にとって誠に大事な星であるが、それが何故こんなところにでてくるのか? 不思
議といえば不思議ではないか。さあ、では、いよいよここでの問題、「何故摩多羅神の頭
上に北斗七星があるのか」という問題に入っていこう。
私は先に、『「古層の神」としての本質を持つ宿神という存在が、猿楽を日本文化の
アイデンティティの向こう側に広がる、広大な人類の神話的思考の領域に連 れ出して行く
のと一緒に、それを東北アジアの古代文化に、さらには環太平洋神話学の広大な世界へと
いってしまうのである。』という中沢新一の言葉を紹介し たが、「古層の神」と摩多羅
神との繋がり、「古層の神」と北斗七星との繋がりはどうなっているのか、それが終局的
な問題である。しかし、その前に、はたし て「古層の神」とは何か? この基本的な問
題から解きほぐさなければならない。
古層と簡単にいうが、古層とはいつの頃のことなのか? 古墳時代か。弥生時代か。縄
文時代か。旧石器時時代か。皆さん、どう思います・・・??? 私がまえに黒曜石に焦点を当てて旧石器人の遊動について勉強したことがある。1 万
年前、2万年前の旧石器時代においても人々の行き来は結構盛んであったようだし、山の
尾根筋を歩いて日本列島を遠くまで遊動した人たちもいた。そういう 人たちは自ずと星
をナビゲーターにせざるを得なかったであろうし、日常的な生活においても星は身近な存
在であったにちがいない。星に対する親近感と神秘性 が渾然一体となって、私は、旧石
器時代においても星信仰はあったのではないかと思っている。しかし、ここでは単なる想
像であるから、それをもとに古代信仰 について云々することは差し控えよう。今後の学
問的な研究に期待したい。
縄文時代に入れば、まちがいなく星信仰は古代信仰といえるほどに成熟したものになっ
ていたようだ。その辺の事情は、「縄文の星と祀り」(堀田総八郎、1997年12月、
中央アート出版社)をご覧頂きたい。
それまで光り輝いていた星が太陽が昇り始めるときに星の煌めきが消える瞬間がある。
その点を「フラッシング・ポイント」という。上記の本によれば、「フラッシング・ポイ
ント」と神奈備など特異な形状の山や磐座を結ぶ線を「天文祭祀線」と言い、祭祀にかか
わる縄文遺跡の多くはその「天文祭祀線」上にあるのだそうだ。 堀田総八郎 は、上記の
本の中で、『 特定の煌めきが消えた瞬間に、星の精(神)が山の上に垂直降臨し、そこ
からさらに「天文祭祀線」を水平に通って祭祀点に至ること で、神との気脈が通じると
考えたのでしょう。』・・・と言っているが、私も判るような気がする。「古層の神」と
はそういう星の精(神)であろう。
ところで、妙見信仰は、そういう「古層の神」に、道教における星辰信仰、特に北極
星・北斗七星に対する信仰が習合して出来上がっていく。
道教では、北天にあって動かない北極星(北辰ともいう)を宇宙の全てを支配する最
高神・天帝(太一神ともいう)として崇め、その傍らで天帝の乗り物ともさ れる北斗七
星は、天帝からの委託を受けて人々の行状を監視し、その生死禍福を支配するとされた。
そこから、北辰・北斗に祈れば百邪を除き、災厄を免れ、福 がもたらされ、長生きでき
るとの信仰が生まれ、その半面、悪行があれば寿命が縮められ、死後も地獄の責め苦から
免れないともされた。
この北辰・北斗を神格化したのが『鎮宅霊符神』(チンタクレイフシン)で、それが仏
教に入って『北辰妙見菩薩』と変じ、神道では『天御中主神』(アメノミナカヌシ)と習
合したという。
この北辰・北斗信仰がわが国に入ったのは推古天皇のころというが、その真偽は不
明。ただ、奈良・明日香の高松塚古墳の天井に北斗七星が、北壁に北斗の象徴 である玄
武像(ゲンブ、亀と蛇とがかみついた像)が描かれ、また正倉院御物にも金泥・銀泥で北
斗七星が描かれた合子(ゴウス)があることなどからみると、 奈良時代に知られていた
のは確かである。
しかし、ここで大事なことは、妙見信仰には、新しい時代の信仰が習合しているとはい
え、古代信仰がその基盤(ベース)にあるということだ。中沢新一の言い方に倣って言う
ならば、「古層の神」としての本質を持つ星の精(神)「妙見さん」という存在が、私た
ちを日本文化のアイデンティティの向こう側に広がる、広大な人類の神話的思考の 領域に
連れ出して行くのと一緒に、それを東北アジアの古代文化に、さらには環太平洋神話学の
広大な世界へ連れて行ってしまうのである。
上述のように、私は、旧石器時代にも星の精(神)は人々の意識の中にあったと思っ
ているが、それは不確かなので、その真偽は今後の学問的研究に待つことに して、ここ
では、「古層の神」は「縄文の神」であり具体的には星の精(神)であるとしておきた
い。星の精(神)はいうまでもなく「天の神」である。ところ で、「縄文の神」として
は、「地の神」が居られる。これを忘れてはなるまい。
3、マダラ神と妙見さん(天の神)との結びつき
先に述べたように、中沢新一は、 金春禅竹の考えを推し量り、『宿神である「翁」は
北極星』と言い切っているが、山本ひろ子はその著書「異神」(1998年3月、平凡
社)の中で、摩多羅神=非北極星説を唱えている。どちらが正しいのだろうか。なるほ
ど、金 春禅竹はその著書「明宿集」のなかで、「翁」=宿神と言い、『 太陽、月、星
宿(星宿神=北極星)の意味を込めて、宿神・・・・云々。「宿」という文字に は、星
が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行なうという意味が込められてい
る。』・・
・と言っているので、中沢新一の解釈はごく自然である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/maramyou.html
しかし、縄文の神・星の精(神)がな ぜ摩多羅神と結びついているのかという説明は
できていないように思われる。また、山本ひろ子の非北極星説も、天台密教の儀式にもと
づいて論を展開している ので、これもまた縄文の神・星の精(神)が摩多羅神と結びつい
ているのかいないのかという論考にはなっていないように思われる。
摩多羅神の原姿は、先にいろいろ勉強したとおり、縄文の神のうち、「天の神」=星の
精(神)と対極的に存在する「摩訶不思議な神」=石棒である。この「摩訶不思議な神」
=石棒がどのようにして「天の神」=星の精(神)と結びつくのかという説明がなされな
いと、摩多羅神=北極星ということの説明にはならない。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/seireo00.html
石棒など摩訶不思議な神々について、次に掲げるページは、私の旅のページであり、面
白いので是非ご覧頂きたい。
● 胞衣(えな)信仰
● 柳田国男と胞衣(えな)信仰
● 富士見町・井戸尻遺跡
● 須玉町歴史博物館
● 日光の陰・礼讃
さて、今ここで私のいちばん言いたいことは、柳田国男と胞衣(えな)信仰に出てくる
「富士眉月弧(ふじびげつこ)文化圏」において、ミシャクジは、古くから信仰されてき
た土着の神であり、石棒や丸石などが御神体とされる・・・ということである。このご神
体は、土地精霊と見られている原姿の神で、諏訪大社によって祀られてきた神としてもよ
く知られている。
次に、諏訪大社といえば、御柱(おんばしら)が有名であるが、 御柱(おんばしら)
は神が降臨する依代(よりしろ)といわれている。神が降臨する依代(よりしろ)として
の 御柱(おんばしら) ・・・・、これが二番目に言いたいことだ。
伊勢神宮にも心御柱というのがある。心御柱を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、
夜間に行われ、それを建てる「心御柱奉建祭」も秘事として夜間に行われ る。すべて、
非公開で、しかも、夜間にのみ行われるというのは異常だ。もし心御柱が精霊(神)だと
すれば、異常な神、すなわち異神であり、山本ひろ子の言 う異神・摩多羅神と同じでは
ないか。しかも、猿田彦神社の宇治土公宮司に聞いた話によると、伊勢神宮でもっとも重
要な行事であり、猿田彦神社の宇治土公宮 司がそれを司祭するのだそうだ。隠れている
ということで摩多羅神とイメージがだぶり、猿田彦ということでシャクジンとイメージが
だぶっている。誠に不思議 な心御柱ではある。
私は、祭祀として立てる柱は、環状木柱列遺跡の柱なども含め、神が降臨する依代(よ
りしろ)であり、縄文人の観念としては、天の神と地の神をつなぐ通路であったと思う。
その通路によって、天の神と地の神は合体し威力はさらに強大なものとなる。私は、縄文
人はそんな観念を持って柱を立てたのだと思う。
上述のように、金春禅竹は、「星が地上に降下して、人間に対してあらゆる業を行な
う」と考えていたが、その通路が柱であったり、先に述べた堀田総八郎のい う「天文祭
祀線」であったりしたのであろう。いずれにしろ、星というか天の神が地上に降下して、
母なる地の神と一体になって人間に対するあらゆる業を行 なったのである。その導きの
神が、土地精霊と見られている原姿の神としての石棒がある。すなわち、神が降臨する依
代(よりしろ)としての 御柱(おんばしら)の源流に精霊(神)としての石棒がある。猿
田彦大神はその変形である。
かくして、マダラ神は、天の神・妙見さんと結びつくのである。 マダラ神は、変幻自
在にいろんなものに姿を変え、宇宙のどこかから突然私たちの前に現れ出てくる。そうい
う意味で、マダラ神の本質はその宇宙性にある。誠に摩訶不思議な神である。妙見さん
は、本来、私たちの生活に直接役に立つ身近な存在であり、庶民的である。そして、その
世界性に本質的な特徴を持っている のだが、マダラ神と結びつくことによって、さらに奥
行きを増し、哲学性というか宇宙性を帯びるようになる。マダラ神はまさに妙見さんに
とっても「後戸の 神」なのである。
第3節 妙見菩薩について
古代中国の思想では、北極星(北辰とも言う)は天帝(天皇大帝)と見なされた。これに
仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、妙見菩薩と称するようになった。「妙見」
とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。
妙見菩薩信仰には,星宿信仰 に道教、密教、陰陽道などの要素が混交しており、像容も一
定していない。 他に甲冑を着けた武将形で玄武(亀と蛇の合体した想像上の動物で北方
の守り神)に乗るもの、唐服を着て笏を持った陰陽道系の像など、さまざまな形がある。
北極星と北斗七星の信仰は 推古天皇のころ日本へ入ってきたと言われている。奈良の明
日香にある高松塚古墳の天井に北斗七星が描かれ、北壁には北極星の象徴である玄武像
(カメと蛇が絡み合った像)が描かれていたのは日本へ北極星と北斗七星の信仰が入って
きた証拠と言われている。正倉院の御物にも北斗七星が描かれているので奈良時代には北
辰信仰が入っていたのは間違いない。この北辰信仰が時代とともに仏教と混淆して、現在
の妙見信仰へと変化していったのである。
東西南北の方位の四神(守護神)のうち、北は玄武である。北方の守護神、玄武(げん
ぶ)は、中国の想像上の神獣で、足・首の長い亀に蛇が巻きついた形をしている。また玄
武は亀蛇(キダ)とも呼ばれる。この事から、北極星や北斗七星の化身、妙見菩薩の神使
は、北の守護神の玄武(亀蛇)とされ、一般には亀が象徴している。なお、妙見菩薩は、
神仏習合や陰陽道の中で、鎮宅霊符(チンタクレイフ)神、北辰尊星王、真武神ともよば
れる。また、神社系妙見社では仏教系の妙見菩薩ではなく、天御中主命(アメノミナカヌ
シノミコト)を主祭神ともする。
写真は玄武神社(京都市北区紫野雲町88)の玄武と絵馬
( http://www9.plala.or.jp/sinsi/07sinsi/fukuda/kame/kame-1-1.htmlによる )
今より1200年昔、船岡山は大地の生気のほとばしり出る玄武の小山と卜(ぼく)さ
れ、ここを北の起点として平安京が造営された。建勲神社境内にある船岡妙見社は、船岡
山の地の神・玄武大神をお祀りしている神社である。
霊符縁起集説には「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩
にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。 病魔退散の神な
り。」とあり、船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・万病平癒・家宅守護の御神徳
が讃えられているそうである。符縁起集説にも「玄武神は亀なり。北方に鎮り諸厄を祓い
給う。玄武神は今の妙見菩
にして童形なり。玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして
宅神なり。 病魔退散の神なり。」とあり、船岡妙見は船岡山の地の神として諸厄消除・
万病平癒・家宅守護の御神徳が讃えられている。
ところで、 794年桓武天皇は山背国の葛野と呼ばれていたところに平安京が造られ長
岡京より遷都された。桓武天皇はそれまで怨霊の祟りに悩まされており、新都建設にあ
たって万全の怨霊対策を講じられたのである。新しい都に平安京を選んだのは、その土地
が中国の風水学的理想的地相である「四神相応」すなわち「東に川あれば青龍(加茂
川)、西に道あれば白虎(山陰道)、南に池あれば朱雀(巨椋池)、北に山あれば玄武
(船岡山)」という地相はこの条件を満たしていたからだ。桓武天皇はこのとき特に重要
視されていた山頂に古代神が鎮座する磐座のある船岡山に立ち、秦氏に西南を指して「朱
雀大路をひけ」と命じられたそうである。船岡妙見宮はその時に創建されたのではなかろ
うか。
船岡妙見社
( http://matome.naver.jp/odai/2141424121132560801/2141519441303206203 による)
第4節 天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)より妙見菩薩より新しい。妙見菩薩の誕生は仏教
が入っていたきた欽明天皇の頃か遅くとも聖徳太子の頃、それに対して 天御中主神(アメ
ノミナカヌシノカミ)の誕生は、記紀が編纂された持統天皇の頃か藤原不比等によって中
臣神道が全国的に広まった聖武天皇以降のことである。なお、ちなみに言っておけば、妙
見信仰の起源については、第3節で述べたように、縄文時代の「古層の神」まで遡る。
「古層の神」から星宿の神」、北辰の神、妙見菩薩、御中主神(アメノミナカヌシノカ
ミ)、毘沙門天へと繋がっていくのである。
「天地初めて発けし時、高天の原に成りませる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬ
しのかみ)、次に高御産巣日神、神産巣日神、此の三柱の神は、並独身神と成り坐して、
身を隠したまひき」(てんちはじめてひらけしとき、たかまのはらになりませるかみのな
は、あめのみなかぬしのかみ、つぎにたかみむすびのかみ、かみむすびのかみ、このみは
しらのかみは、みなひとりがみとなりましまして、みをかくしたまひき)
『古事記』上巻 天之御中主神は天地開闢(カイビャク)神話で宇宙に一番最初に出現し、
高天原の主宰神となった神である。 その名が示すとおり宇宙の真ん中に在って支配する
神で、日本神話の神々の筆頭に位置づけられている。 そういう偉い神なのだが、その姿
はほとんど神秘のベールに包まれているといっていい。 なぜなら、宇宙の始まりに現れた
ものの、たちまちのうちに「身を隠す」からである。 顔も姿も現さなければ、語ること
もなく、人間に分かるような形での活動は一切しない。 本来が「その姿を知らしめな
い」という日本の神さまの典型ともいえる。 仏像のような偶像の具体的なイメージに慣
れた今日的感覚からすればなんとも歯がゆい感じもするが、日本の神霊とはそういうもの
なのである。
そんなふうに人間界と隔絶した感じのする神さまであるが、だから何もしなかったとい
うわけではない。 要はその活動が人間には分からないだけで、天之御中主神(あめのみ
なかぬしのかみ)は、その後に登場してくる多くの神々による一切の創造的な作業を司令
することがその役割だったといえる。 つまり、果てしない創造力と全知全能の力を持つ
至上神なのである。
以上のように宇宙の真ん中に位置する全知全能の神という考え方から、天之御中主神は
神社信仰や神道をきちっとした体系としてとらえようとする、いろいろな神道説のなかで
も中心的な神として位置づけられたりしている。 たとえば、伊勢神宮外宮の神官の度会
(ワタライ)氏が創始した神道説に基づく度会神道や、朝廷の神祇官を務めた卜部家の子
孫、吉田兼倶(カネトモ)が大成した神道説に基づく吉田神道などがそうである。 また、江
戸時代の国学者によって提唱された復古神道(仏教や儒教の影響を排除した古代からの純
粋神道を唱える神道説)などでも中心的な神格とされている。
天之御中主神が一般に馴染みのある姿を現しているのが「妙見さん」である。 神話で
は「古事記」の冒頭と「日本書紀」の一書第四にしかこの神の名は登場しない。 それだ
けでなく、平安時代初期の全国4132の主な神社が載っている「延喜式」の神名帳などに
も、この神を祀る神社が見あたらない。 そんなふうに、中世までは庶民の信仰に顔を出
さなかった天之御中主神であるが、近世になると仏教系の妙見信仰と深い関係を持つよう
になる。
そもそもこの神の「天の中心の至高神」という性格は、中国の道教の影響による天一星
信仰、北斗信仰、北極星信仰などがベースになって成立したものと考えられている。 そこ
から、室町時代以降、日蓮宗において盛んに信仰されるようになった妙見信仰と習合した
のである。 妙見信仰は北斗妙見信仰ともいい、北極星や北斗七星を崇めるもので、俗に
「妙見さん」と呼ばれる妙見菩薩は北極星の神格化されたものである。 天のはるか高み
に隠れていた天之御中主神は、妙見菩薩と同一視されるようになったことによって、庶民
の信仰レベルに降りてきたわけである。
その妙見信仰で知られる神社のひとつに秩父神社がある。 主祭神は知知父彦命である
が、その祖神が天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とされている。 秩父神社は、
すでに何度も述べてきたように、鎌倉時代初期に妙見菩薩が合祀されて以来、秩父妙見
宮、妙見社などと呼ばれてきたが、明治維新後の神仏分離期に名称が秩父神社と定めら
れ、それとともに祭神名も妙見大菩薩から天之御中主神に改称されたという経緯がある。
それはともかく、「妙見さん」の御利益は長寿、息災、招福とされている。 また、水晶
のような澄みきった目で物事の真相を見極める能力に優れていることから眼病の神として
も信仰が篤い。
第5節 秦氏の水上交通と妙見信仰
秦氏と妙見信仰 (御影史学研究会・民俗学叢書 (著者:植野 加代子、 2010/3、岩田書
院)という本がある。 本書では、畿內を中心に古代の妙見信仰とそれに関わった氏族で
ある秦氏が、ことに海上河川などの水上の物資運搬のため、ことさら夜の水上交通の航行
に妙見 を信仰したものであることを明らかにし、併せて平安貴族社會における妙見信仰
についても考察したものである。第1章では、古代から近世までの舟運を取り上げ、夜に
舟 出する困難や潮の流れを考察。第2章では、水上交通を中心とした秦氏の物資運搬経路
を検討。第3章では、兵庫豬名川添いに秦氏の伝承が點在する理由を通し、秦氏の活動の
跡を検討。最後の第4章では、妙見の図像や修法を中心に、貴族社會での妙見信仰につい
て考察。
目次
第1章 海上・河川交通と信仰
第1節 夜に船を出すこと
第2節 津田川を考える 行基の開発と近木川との関わりの中で
第3節
城修験の一考察 序品の地をめぐって
第4節 海上交通と犬鳴山燈明ケ嶽と尊星王妙見大菩
との関わりの中で
第2章 妙見信仰と秦氏の水上交通
第1節 妙見信仰と秦氏の水上交通
第2節 木上山海印寺の妙見信仰 木津川の河川交通をめぐって
第3節 長岡京への物資輸送と運搬経路 妙見信仰との関わりの中で
第3章 能勢妙見と河川流通
第1節 能勢妙見と秦氏 豬名川の水上交通との関わりの中で
第2節 秦氏にとっての豬名川の役割 摂津國能勢郡の山林との関わりの中で
第3節 アヤハ・クレハ伝承と水上交通 兵庫県西宮市松原町の伝承を中心に
第4章 平安貴族社會と妙見信仰
第1節 妙見菩
の像容 平安時代後期から室町時代の図像を中心に
第2節 尊星王法と僧侶たち 11世紀の三井寺を中心に
植野 加代子 の「秦氏と妙見信仰 」という本の要点は以上のとおりであるが、さらに秦氏
と妙見信仰に関するものとしては、『 の渡来人 秦氏』(著者:水谷千秋、2009年12
月、文春新書)という本について書いたホームページがあって、そのホームページには、
次のように書かれている。すなわち、
『 京都に生まれ育ち、広隆寺、秦河勝、太秦、大堰川、松尾大社、稲荷大社、平安京遷
都などを通じて、渡来人秦氏の存在というものを知識として受け入れてきた。しかし、そ
れは漠然と知っているにとどまっていた。
先般、本著者の『継体天皇と朝鮮半島の
』を読んだとき、この『
の渡来人 秦氏』
が先に出版されていることを知った。本書は2009年12月に出版さ れていたのだ。そこで秦
氏という渡来集団の実態について、一歩踏み込んで知りたいと思い、遅ればせながら本書
を読んでみた。』
『 本書で渡来人秦氏の
が明瞭に解明されたか? といえば、
が残ったままであると
しか答えられない。しかし、先人の諸研究や著者の関連地・史跡現地踏査 を踏まえて整
理検討された思考プロセスとその論理により、
の渡来豪族・秦氏の特徴についてその全
体像を理解する助けとなった。断片的部分的知識を包括的 に整理して拡充できた点が有
益であった。』
『 著者の本書における研究の総括は、最後の弟8章「秦氏とは何か」で7ページにまと
められている。著者の総論を知るには、この章を参照されるとよい。それまでの7つの章
はこのための各論であり、著者の思考の展開プロセスの記述といえる。
著者は「私の推測では、中国の秦の遺民と称する人々を中心に、新羅・百済など朝鮮半
島各地の人々も含まれていたもの」(p219)という立場をとる。6 世紀前半頃の日本の
人口の約5%を占めていたと推論されている。その人口の多さがかれらの経済力の源泉で
あり、農業、漁業、鉱業、土木などの技術面に秀 で、殖産興業の民という生き方を貫いて
いる集団であり、政治的な局面では秦河勝とその後の数人を除き、意識的に一線を画する
という方針をとったのではない かとされる。政治と距離を置くことで、当時の最大の氏
族規模に増殖し、経済的な側面から隠然たる影響力を持ったのだろうという。』
『 本書を読んで学んだことの主な要点を列挙してみよう。そのための実証資料の提示や
論理展開については、本書を読んでいただきたい。覚書的な感想も付記しておいたい。
*日本の古代において最も多くの人口と広い分布を誇る氏族が秦氏である。 p9
→山背国を本拠地に、北は下野・上野国から南は豊前・筑後国にまたがるそうだ。
加藤謙吉氏の調査によれば、34ヵ国89部に及ぶという。p10
*秦氏とは、山背国を本拠とする秦氏本宗家(族長)を中心に、単一の血族だけではなく
ゆるやかな氏族連合を形成した集団と思われる。そして秦氏には、秦人 (朝鮮半島から
の移住民)、秦人部・秦部(共に倭人の農民)を包含するものとしてとらえることができ
る。 p10-p36
おそらく秦氏の本宗家は、中国を祖国とする秦の遺民と称する人々といえる。 p38
→秦氏については、秦の始皇帝の子孫、弓月の君の渡来説や、朝鮮半島慶尚北道蔚珍
郡(海曲県の古名が波旦[ハタ])からの渡来説など諸説ある。 p29-34
*聖徳太子に登用された秦河勝以外、特定の王族や豪族と密着した関係を築くことなく、
政治と距離をおいていたようだ。つまり、経済的な基盤形成に徹した。 p34-38
蘇我氏が山背大兄王を討った時、秦氏は救援せず見放すという選択をしたと推定する。 p112-116
*秦氏は、最初大和朝津間・腋上(現在の御所市)に定着し、5世紀後半から末ころに本
拠を置くようになる。平林章仁氏の見解を紹介し、山背への移住は
城氏の衰退に伴うこ
とと関係するとみる。賀茂氏(鴨氏)も同様である。 p39-43 *秦氏には様々な系統があるとする。
著者は『日本書紀』雄略天皇15年条にみえる秦酒公(秦造酒)を事実上の初代と推定す
る。太秦を本拠とした秦氏本宗家である。広隆寺を建てる秦河勝の本拠になる。
野郡の
嵯峨野一帯が重要な居地となる。
一方、山背国紀伊郡深草の地には深草秦氏が居た。秦大津父の伝承の地である。稲荷山
を奉斎し、伏見稲荷神社の創立に繋がっていく。ここに秦氏が狩猟祭祀 から農耕祭祀へ
と脱却を図った跡が垣間見られるという。大津父は深草から伊勢へ商業活動をしていたこ
とが記録から窺える。 p59-71
治水のプロ集団としての秦氏の側面を取り上げ、秦氏による
野川の大堰の造成や桂川
の大改修、そして松尾大社も秦氏の奉斎する神社であることに言及する。 p82-88
著者は河内国
田(まんだ)郡(現在の寝屋川市)にいた秦氏と馬の飼育の関係やこの
地に太秦・秦という地名の存在や太秦高塚古墳を例示する。 p73-76
さらに、大化改新後に『日本書紀』に名前の出てくる近江愛知郡の秦氏−依知秦氏−の
存在にふれ、朴市(えち)秦造田来津の例を挙げている。 p117-124
→京都の神社や寺を訪れると、様々なところで秦氏を見いだす。系譜のことなる秦氏が
それぞれにその定着地の産土神や土着の信仰を採り入れ、秦氏の奉斎し て行った結果だ
ということが理解できる。上賀茂神社や下鴨神社に秦氏の影響が見られるのは、秦氏と鴨
氏の融和の側面を示すというのもなるほどと思える。
*秦氏は地方に定着するにあたり、在来の神
信仰に接近し、これと融和的な関係を築く
ことを重視した。秦氏は元からあった在来の神を祭る社と、新しく他の 地域の神を勧請
するというやり方を併用しているということ。後者には、大陸から持ち伝えてきた神もい
た。「韓神(からかみ)」である。 p191-218
→第7章では、上田政昭氏と北條勝貴氏の渡来・奉祀の神々の三類型化を踏まえなが
ら、秦氏の関わる神社を考察していて、興味深い。取り上げられているのは、松尾大社、
賀茂神社、
野坐月読神社、蚕の社(木嶋坐天照御魂神社)、伏見稲荷、韓神、園韓神
祭、平野神社である
著者は第5章で摂津、播磨、豊前、若狭へと増殖し展開していった秦氏の経緯を具体的
に説明する。秦氏が中央の政治とは距離を置き、経済の側面で実利的にその存続基盤を拡
大している状況がよく分かる。
著者は上野加代子氏による秦氏が水上交通の拠点としているところに妙見菩
信仰が多
く分布しているという推論を紹介してる。興味深いことだ。また、『風姿花伝』を引き、
世阿弥が秦氏を名乗っていることについて論究している点も、私には興味深い。
第6章「長岡京・平安京建都の功労者」において、秦氏の役割を考察している。
知らなかったことで、本書を読み関心をいだいたのは、長岡京の築かれた乙訓郡が秦物
集氏という枝氏の根拠地だったということ。平安京の造宮職の長官を務 めた藤原小黒麻
呂が秦氏と姻戚関係にあったこと。平安京の大内裏(平安京)のあった場所が、もとは秦
河勝の邸宅があったところだということ。桓武天皇が多 くの渡来系豪族出身の女性を
娶ったということ。ただしそこに秦氏はいないという。
桓武天皇の母高野新笠は渡来系豪族の娘であり、桓武朝においては、渡来系豪族が異例
の抜
・寵愛を受けた時代だったということ。この点は、桓武天皇が奈良の豪族旧勢力か
ら一線を画するために、平城京から平安京に遷都することと関係するのだろう。
クレオパトラのもしも・・・ではないが、著者は本書を次の段落で締めくくっている。
「あらためて考えてみると、蘇我氏と秦氏とは山背大兄王滅亡事件の際に衝突する可能性
があった。結果的には秦氏の自重によって、戦乱は拡大しなかったけれ ども、あのとき秦
氏が山背大兄王の側についていたら、あるいは蘇我氏の側についていたら、その後の歴史
はどうなっていたことだろう。この事件は、秦氏に とっても自らの行く末を左右する大き
な転機だったといえるのではないだろうか」と。』・・・と。
水谷千秋の『
の渡来人 秦氏』『 の渡来人 秦氏』という本に関するたホームページ
の要点は以上のととおりであるが、その内容は核心を突いていて、歴史認識としてまった
く正しい。
さらに、 「秦氏と水上交通」について書いたホームページがあって、それには次のように
書かれている。すなわち、
『 つまりだ、何故に水神である竜神と妙見神が結びついたのかは、やはり亀に乗って来
た女神がそのまま伝えているのだろう。亀に乗っているのは龍神である女神であり、つま
り亀は船の代わりであり、女神を運搬しているのだ。植野加代子「秦氏と妙見信仰」に
よれば、妙見という地名と秦氏が結びつく事に着目し調べると、秦氏の扱う織物であり鉱
物であり酒などを輸送する場合に船を使用していた。つまり、水上交通 である。その水
上交通を抑えていたのは秦氏であった。例えば淀川も秦氏の勢力範囲内であるが、琵琶湖
から流れる宇治川水系の淀川に祀られる與止日女は瀬織 津比咩と習合し、宇治川の橋姫
も瀬織津比咩と並び祀られる。水上交通に秦氏が関わり、秦氏と瀬織津比咩が強く結びつ
くのを感じる。例えば、「遠野物語拾遺119(神業)」においては、遠野の琴畑渓流の社に
祀られていたのは瀬織津比咩であり、そこでは木流しという、やはり樹木と言う物資を川
を利用して流す事が行われていた。前にも述べたように、琴畑には秦氏の影が見え隠れし
ている。』
『 もう一つ、妙見と水神の結び付きを示しそうな話がある。平田篤胤「古史伝」では
「必ずここは大虚の上方、謂ゆる北極の上空、紫微垣の内を云なるべし。此紫微宮の辺は
も、高処の極にて天の真区たる処なれば、此ぞ高天原と云べき処なればなり。」と、高天
原を称して述べているのは、高天原が本来、北辰崇拝に基づくものと考えたからであ
る。』・・・と。
さらに、 京都市の公式ホームページには、やはり「秦氏と水上交通」に関して次のように
書かれている。すなわち、
『 長岡京以前の都である平城京(へいぜいきょう)は,水上交通路が不便で,人口が増え
るに従って必要物資の調達に困難をきたすようになりました。また,政権 と結びついた仏
教勢力が強くなりすぎたので,桓武天皇は新しい都へ移ることを考えました。そこで,水
陸の交通に便利で,側近の藤原種継(ふじわらのたねつ ぐ)の姻戚関係にある秦氏(はった
うじ)の本拠地であり,その積極的な協力の得られる長岡の地が選ばれたと考えられてい
ます。』・・・と。
以上長々と「秦氏と海上交通」に関して人の見解を紹介してきたが、この節の最後に、私
の持論を紹介しておきたい。
まず第1に 、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の「 第6章 応神天皇と秦氏」では次
のように書いた。すなわち、
『 物部氏については、雄略天皇の時代に水軍と関係のある伊勢の豪族を征討したこと、
また継体天皇の時代に水軍500を率いて百済に向かったことなどが伝承されており、物
部氏が水軍をその傘下におさめていたことは容易に想像がつくが、学習院大学の黛(まゆ
ずみ)弘通教授がその点を別途詳しく述べておられる(「古代本の豪族」、エコールド・
ロイヤル古代日本を考える第9巻、学生者)。すなわち、「物部氏が航海民、海人族と関
係があったのは間違いがないのではないか。物部氏系統の国造を詳しく調べると、物部氏
は瀬戸内海を制覇していたことが推定される。太田亮氏は物部氏発祥の地を筑後川流域と
されているが、大分県の竹田市付近が発祥の地ということも考えられる。「日本書紀」に
豊後の直入郡の直入物部神(なおりのもののべのかみ) というのと直入中臣神( なおり
なかとみのかみ) というのが出てくる。」と述べられているのである。』
『 私は、何度も大野川に出かけていって、物部氏の本貫地は大野川の上流域ではないか
と直観していたので、黛(まゆずみ)弘通教授の見解にしたがいたいと思う。』
『 ところで、この本のいろんなところで述べてきたように、東国において、中臣氏は物
部氏の勢力を乗っ取ってしまうのであって、「日本書紀」で中臣氏と物部氏の祖先が一体
のものであったと思 わせぶりに書くことは、少なくとも物部氏についての記述が正しいこ
とを伺わせる。もともと物部氏は大野川の舟運を握っていたのではないかと思う。大野川
の舟運を握る一族 であれば、それは発展的に瀬戸内海の航海権を制覇してもおかしくない
し、いずれは伊勢や尾張、そして遂にはその覇権は東国にも及んだのではないか。物部氏
なくして東国の制覇はあり得なかったと考えては考え過ぎであろうか。記紀において、神
武東遷において熊野が重要な地点として語られているが、それと同じように、黒潮を舞台
として活躍するアタ族などの海人族向けに書かれたものではないかと思われる。
第7章に述べたように、不比等は阿多隼人などの海人族に対して随分気を使っている。 熊
野は、太平洋側におけ海上交通の要かなめの地である。太平洋側の海人族のネットワーク
にとって、もっとも大事なところである。そこは古くから大和朝廷の支配下にある。その
ことを不比等は言いたかったのであろう。熊野が古くから大和朝廷の支配下にあるのな
ら、太平洋側の海人族は、大和朝廷に反旗をひるがえすなどはもってのほか、と思うにち
がいない。不比等はそう考えたに違いない。そういう不比等の思考にもとづいて、応神天
皇東遷について、記紀では、御坊が登場する。この地は、縄文時代からの海人族の拠点で
あった。』・・・と。
さらに、私は、「邪馬台国と古代史の最新」第7章「 藤原不比等の深慮遠謀」の「第1
節 阿多隼人について」で次のように述べた。すなわち、
『 阿多隼人は、もともと海の民であり、海上の道を通じて交易にもたずさわっていたの
で、海人族のネットワークを持っていた。日本列島における海上の道は、隼人の国、おお
むね今の鹿児島県であるが、私の考えでは、阿多隼人が歴史的にも古く、いちばん力を
持っていたと思う。不比等としては、磐井の反乱や白村江の戦いを思うと、阿多隼人の反
乱を心配し、恐れを抱かざるを得なかった。そこで、不比等は、阿多隼人を徹底的に抑え
込む戦略を持った。その一つが、古事記における海彦山彦の物語である。海彦山彦のこと
については、後で述べるとして、先に「阿多隼人」のことについて述べる。
宮本常一は、南方から「アタ族」という海洋民族が渡来したとして、この「アタ族」の船
は集団移住のための外洋航海船だから当然構造船のはずで、したがって当然、鉄釘を使用
していたとして、アタ族の技術能力を評価し、その技術の中に製鉄技術を推定された。そ
の後、広州で、秦漢時代(紀元前221∼西暦220)の大規模な造船工場の遺跡が発見
され、その船台から幅6∼8m、長さ20mの木造船が建造されたようで、多くの鉄鋳
物、鉄釘、鉄棒や砥石などが発見された。
それらの技術は、広州からの渡来民・アタ族によって日本にもたらされたと見なされてい
るが、私は、その地点は野間岬、今のみなみ
摩市、旧加世田市であり、アタ族の後裔が
が「阿多隼人」であると考えている。』
『 不比等は阿多隼人並びに海人族のネットワークを恐れると同時に、阿多隼人を直轄の
臣下にすることによって、全國の「アタ族」を統括したのだと思う。その主なものは熊野
水軍と伊豆水軍である。白村江の戦いで、我が水軍の総司令官を勤めたのが伊豆水軍の流
れを
む庵原氏である。そういうことを不比等は十分知っていて、熊野水軍や伊豆水軍を
大事にしたのである。それは、熊野神社や伊豆山神社を朝廷が大切にあつかってきたのを
見ても解る。伊豆山神社のその伝統は、鎌倉幕府まで続く。』・・・と。
秦氏の水上交通は主として河川の舟運であり、海上交通は秦氏が牛耳っていたなどを考え
ては歴史認識を間違えるので、念のため申し上げておきたい。秦氏は主として河川の舟運
でもっぱら商売をしたのである。しかし、歴史認識としてもっと重要なことは、秦氏と妙
見信仰との関係から言うと、 歴史認識としてもっと重要なことは、秦氏と鉱山開発との
関係である。この点については節を改めて詳しく述べることとしたい。
第6節 秦氏の鉱山開発と妙見信仰
まず、秦氏の鉱山開発についてその歴史を振り返っておきたい。
「精霊の王」(中沢新一、2003年11月、講談社)からの抜粋である「奇跡の書」と
いうページには次のように述べられている。すなわち、
『 朝鮮語で「海原」を意味する「パタ」の名前を持った渡来人の集団が、はじめて日本
列島にたどり着いたのは、 五世紀の初頭ないし中頃のことと考えられる。これが秦氏で
ある。はじめは北九州の香春(かはる)に定着し、得意の鉱山技術を生かしてその地方に
大きな勢力をつくりだしたの ち、さらに拡大を求めた人々は、瀬戸内海に向かっていく
グループと、宇佐地方にひとつの勢力を確立したあと宇和海を渡って四国西南部に向かう
グループとの 二つに分かれて、列島上に散開していったのである。』・・・と。
「邪馬台国と古代史の最新」の第1章「大和盆地の地理的条件」第4節「水銀という資
源」「3、大和に運ばれた三カ所の水銀」では、次のように述べた。すなわち、
『 大和水銀がいつ頃から生産されていたかははっきりしないが、 宇陀地方の辰砂採取
は少なくとも4∼5世紀には丹生氏が採取したようだ。ただしこの頃は露天掘り
だったようで、水銀の本格的な坑道採掘は6世紀後半に秦氏によって始められ、この
宇陀の地は秦氏の管轄下におかれたようである。』・・・と。
「三峰神社の歴史的考察」の第6章「三峰神社と修験道」 では、次のように述べた。す
なわち、
『 秦氏というのは誠に不思議な一族で、この一族を理解しないで日本の歴史は語れな
いというほどのものだ。秦氏は、新羅系の渡来人であるが、新羅系に限らず、さらには渡
来系や在来の人たちに限らず、また土木や養蚕や機織りに限らず、鉱山や鍛冶に力を発揮
した一族である。その秦一族の中で、いちばん有名なのは聖徳太子の側近であった秦河勝
であろう。どうもこの人が偉大な人物であったようだ。 秦氏が丁未の乱(ていびのら
ん)以降歴史の表舞台に出てこないのは、秦河勝の深慮遠謀による。秦一族の行動原理は
あくまで裏方に徹すること、したがって、土着民に神を大切にしたのである。このような
深慮遠謀によって、中臣氏が東北地方も含めて全国を支配下に収めた後も、秦一族は、物
部氏に成り代わって全国各地において実質上の支配者となるのである。 秦河勝が播磨に
逃れて、播磨が秦一族の一大拠点になったらしいが、秦一族の中には産鉄民がいた。その
播磨の産鉄民は、播磨と同じ地質である秩父古生層を探索しながら美濃から秩父に進出し
ていく。私は、邪馬台国も古代史の最新で、諏訪の守屋を物部守屋の子孫と断定している
が、秦氏は物部守屋の関係一族を束ねたので、当然、諏訪の守屋も秦氏に従ったと思われ
る。秦氏は諏訪の守屋を引き連れて諏訪の守屋ゆかりの地・秩父に入って来たのではない
か。秩父の産鉄や養蚕かそれから盛んになる。秦氏は、諏訪の守屋と一緒に秩父に入って
来た頃、当然、秩父の産鉄民を束ねていたと思われる。』・・・と。
そして、秦氏の妙見信仰については、「三峰神社の歴史的考察」の第5章「三峰神社の御
眷属について」 では、次のように述べたのである。すなわち、
『 「山の民」が砂鉄を求めて何日も何日もかけて山を歩き回る場合に、欠かすことがで
きないのは、方向の見定め方と食糧である。方向を見定めるいちばん確かなのは北極星を
見ることであり、そのことから産鉄民の間には妙見信仰が広がる。』『三峰神社の公式
ホームページにあるような、三峰神社が「観音院高雲寺」と呼ばれる時代となり、天台修
験の修験者・日光法印が御眷属信仰を広めていくのである。「山の民」だけでなく、「里
の民」も三峰神社のお札をいただいて「お犬さま」の霊力によって、山畑を荒らす害獣
熊・猪・
等を追い払い、火災や盗難その他の災難から家々を守護してもらうことにな
る。この時点で、妙見信仰と「お犬さま」信仰とは切り離されてしまうが、それは、天台
修験の修験者・日光法印が御眷属信仰に絞って三峰神社の信仰の基としたためである。妙
見信仰の方は、秩父神社に引き継がれ、現在は、広見寺に引き継がれている。』・・・
と。
さあここで、私の考えの修正をしておきたい。上で、「 妙見信仰の方は、秩父神社に引き
継がれ、現在は、広見寺に引き継がれている。」と書いたが、これは私の早とちりで、妙
見菩
の方は広見寺に引き継がれているのはそのとおりだとしても、歴史的の大きな流れ
からすると、秩父神社が妙見菩
明治までは、妙見菩
を祀ったのは一時のことである。秩父神社は、中世から
を祀ることによって武士団の信仰を集め、隆盛を誇るのだが、その
間は長いと言えば長いが、縄文時代から続くところのもっと長い歴史から言えば、中世か
ら明治までの期間なんてものは一瞬の時間である。現在の秩父神社の妙見信仰は、本来の
姿に戻っている。そのことについては、次の節で詳しく述べる。