“謙遜” ルカの福音書 10 章 17-20 節 人がなぜ謙遜になれないかというと、人の罪の性質だと思うのです。謙遜の反対である傲慢について 考えてみると分かると思います。 人は自分が何か偉い存在になりたい時に傲慢になります。 聖書で罪の始まりについて書いてある創世記 3 章は、私達人間に関して色々なことを教えてくれるの ですが、その中でも注目したいのは、蛇がイブに言った嘘の情報についてです。蛇はイブに実を食べ させるために、嘘を吹き込んだのですが、その嘘の中の一つに、「あなたは神のようになる」という 言葉が入っています。 創世記 3 章 5 節 「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を 知るようになることを神は知っているのです。」 私は真剣に神のようになりたいと思っている人は少ないと思うのですが、実は私達は多かれ少なかれ そう思っているところがあるとおもうのです。自分が何かを好きなように決めることができるように したいとかも、そういう思いから始まっていると思います。権威欲というのもそこから来ていると思 います。 イエス様が宣教活動を始める前に悪魔から試みを受けたことがマタイの福音書 4 章に書かれています。 悪魔は 3 つの誘惑をしました。二つはとても分かりやすい人間の欲に対しての誘惑でした。 「石をパンに変えてみたら」というのは、人間の肉体的な欲に対してです。イエス様は肉体的な欲に 従っていてれば必ずしも人が幸せになれるわけではなく、人は神様の言葉を必要としていることを教 えました。 3 番目の誘惑の「この世の国々の栄華をあげよう」という誘惑は、物欲です。私達はものが自分を幸せ にしてくれると勘違いすることがありますが、決してそうではありません。 問題なのが、「高い所から飛び降りてみなさい、天使があなたを助けてくれるでしょう」と言った 2 番目の誘惑についてです。これは何の欲に挑まれているのでしょうか。イエス様の答えは「神様を試 してはいけない」だったのですが、どうして試してはいけないのでしょうか。ここの部分がよく理解 されていない部分だと思うのですが、これは人間の傲慢という罪にたいして挑まれていると私は理解 しています。 悪魔は、「どうだ?お前は特別なんだよな?お前はすごいんだよな?お前は神様に特別に愛されてい る存在なんだから、ちょっとそれを確認してみろよ?」と聞いてきたわけです。自分は特別だと思い たい人間の欲に悪魔は挑んできたのです。自分は特別だと思いたい、そこに傲慢になるきっかけがあ ります。 この傲慢にさせる問題を解決するための一番の方法は、確かにあなたは特別だと理解することです。 本当にあなたは特別な存在なのです。ただ、ここが問題なのはどういう風に特別なのかということで す。はっきりと答えを言っておきますが、「あなたは神様にとって特別なのです」これはもう絶対に 変らないのです。神様にとってあなたは絶対に唯一の存在で、特別なのです。 あなたは神様にとって特別ということを理解した上で、もう一つ理解しなくてはいけないことがある と思います。「あなたは神様にとって特別です。それと比較できものはない」ということです。 最初に言わなくてはいけないのは、これは向上心を捨てて良いと言っているのではなくて、あなたに 与えられている、色々な才能を充分に発揮することは良いことですが、それによってあなたは特別に なるのではないということです。神様はあなたが誰であって、何を出来るかで見ているのではなく、 あなたを見ているということです。あなたが自分に与えられている才能を発揮することは良いことで すが、あなたはそのことで特別なのではなくて、あなたが特別だから特別なのですということです。 何年の出来事だったか忘れてしまったのですが、私が Los Angeles の郊外に住んでいた時に、プロバ スケットボールの Lakers という、LA を本拠地にしたチームが優勝しました。LA のダウンタウンで優 勝パレードがありました。私はその日用事があって、LA のダウンタウンに出かけなくてはいけなかっ たのですが、うちの車の調子が悪くて、バスでダウンタウンに行きました。バスの中はパレードを見 に行く Lakers フゔンがたくさんいました。あまりにもフゔンを多くみたので、用事の間に、私も遠く からパレードを見ました。正直言ってパレードよりもパレードを見に来ている人達を見ていた状態で した。遠くの方で、選手を乗せているであろうバスが動いているのを見ました。家に帰って、テレビ でニュースを見ていたら、地元のチームのことですから大騒ぎで報道していて、何分もそのパレード の映像が流れるのですが、パレードの映像はだいたい、オニールという選手か、ブライゕントという 選手が映っているものばかりです。その時すごく不思議に感じました。すごく沢山の人が関わってい るパレードなんです。私からすると、オニールやブライゕントという選手よりも、見ている人達の熱 狂ぶりの方が印象に残っていたのですが、テレビでは、あの二人の選手がとにかく特別なんです。二 人が特別に注目されているのです。私はその映像を見ながら、あ、人は確かにこの特別な存在の方に なりたいと思うよなーと感じたと同時に、神様の目はこれとはまったく別だろうと考えました。神様 がそのパレードを見ているとして、神様も視線が二人の選手ばかりに向けられているでしょうか。そ んなことはないはずなんです。神様はもちろん二人の選手も見ているでしょうが、他の選手のことも、 そして選手だけではなくて、選手を乗せたバスの運転手、警備の警察、そして観にきている一人一人 にも目が向けられ、さらには、遠くからチラッとみていた私のような存在にも、神様は目を向けてい て、一人一人を特別としているでしょう。テレビには限界があるので、特別に映る人は少ないですが、 神様には限界がなくて、ここにいる一人一人が特別なのです。このことに本当に満足して、このこと を本当に喜ぶことが、私達を傲慢から遠ざけると思うのです。 イエス様はこのことをはっきりとルカの福音書 10 章 20 節で言っているのです。ルカの 10 章 20 節の 前で、弟子たちが宣教旅行に行って来て、本当に悪霊を追い出すこともできましたと喜んで報告しま した。きっと報告の中には、感動の話も詰まっていたと思います。「悪霊に苦しんでいた女の子を助 けることができました。すごかった、あの時の女の子の顔、その両親の顔を見ると今でも興奮で涙が でます!」そんな話も報告の中に入っていたと思うのです。しかし、イエス様はその感動の話に一緒 になって感動するよりも、弟子たちが傲慢になっていかないように、そこに注目していたようで、こ う言ったのです。 ルカの福音書 10 章 20 節 だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがた の名が天に書きしるされていることを喜びなさい。 あなたが喜ぶべきところ、それは神様にあるあなたの存在なんだと教えたのです。あなたが愛されて、 神の子とそれていること、そのことが喜びでなくてはいけないと言ったのです。イエス様は悪霊を追 いだすのを止めなさいとは言いませんでした。むしろ、そのことも続けさせるのですが、その成功を 喜ぶのではなくて、神様に特別とされている自分を喜びなさいと言ったのです。これは、選択の問題 です。 傲慢という罪が私達を謙遜から遠ざけてしまう。傲慢という罪から解放されるためにも、私達は神様 に愛されていることを知らなくてはいけないでしょう。そして、自分が何を喜ぶのかを選ばなくては いけません。人の評価を喜ぶのですか、それとも神様が特別としてくれたことを喜ぶのですか。神様 が特別としてくれたことを喜ぶ、これを選ばなくてはいけません。 ということで、私は謙遜になるために二つのことが必要だと思います。一つは、福音を理解して、福 音によって教えられたように、自分よりも優れた者とすることです。 そして、もう一つが、自分の行ったことは当然誇れることであっても、それ以上に神様の存在を喜ぶ ことです。自分の行動がたとえ特別であったとしても、神様が自分を特別としてくれていることを喜 ぶことです。自分の行動は何も特別ではないとしても、神様が自分を特別としてくれていることを喜 ぶことです。 今日、謙遜になるということを真剣に受け止めてください。謙遜は神様の祝福の源になります。 少し、祈る時間を持ちましょう。
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