Saru kani kassen

Corso di Laurea magistrale (ordinamento ex
D.M. 270/2004)
in Lingue e culture dell'Asia Orientale
Tesi di Laurea
Saru kani kassen:
riscritture e reinterpretazioni
di un mukashibanashi
in periodo Tokugawa
Relatore
Ch. Prof. Bonaventura Ruperti
Correlatore
Ch. Prof.ssa Luisa Bienati
Laureando
Elena Follador
Matricola 815685
Anno Accademico
2012 / 2013
要旨 今日語られている『猿蟹合戦』は次のような内容で知られている。 むかしむかし、あるところに蟹と猿がいた。ある日、二匹が山へ遊びに行った。そこで、
蟹はおにぎりを、猿は柿の種を見つけて拾った。猿は柿の種とおにぎりをむりやり交換さ
せてから帰ったが、蟹は真面目に種を蒔き、水をやり育てた。木が大きくなり、実も多く
生った時、蟹が枝まで登ろうとしたが、出来ずにあきらめたところ、猿がやって来た。猿
は実をもいであげると嘘をつき、木に登り熟した柿を食べながら、蟹には渋いものだけを
与えた。蟹がそれについて文句を言い出すと、猿は怒り、柿を激しく投げつけ、甲羅を破
り蟹を殺してしまう。しかし、みじんに砕けた甲羅からは小さい子蟹が生まれ、親の仇討
を誓う。友達の臼・蜂・栗・牛の糞と共に計略を企て、猿が留守の時に、家に忍び込み、
皆がそれぞれの場所に隠れる。そこへ猿が帰り、暖まろうと囲炉裏の傍に座ったところ、
灰の下に身を潜めていた栗が飛び出し、火傷をさせる。その痛みを和らげるために水桶に
近づくと、そこから蜂(又は蟹)が出てきて猿を脅かす。怖がって家の外へ出ようとする
猿は、入り口の近くで待っていた牛の糞に滑ってしまい、屋根の上から落ちた臼に潰され
る。 猿が死んだかが分からないままで終わるバージョンもあるし、謝るので蟹がそれを勘弁
し命を助けるといったバージョンもある。今の子供絵本にはこのように二つの話があるの
は、江戸時代の大衆文学の流れのためであると言えよう。実際には、江戸時代の作品には
結末のみならず、人物の数や助っ人の種類など、話の筋の様々な面が異なっていたのであ
る。この論文では、 猿蟹合戦に関してすでに行われた研究に伴い、その最も古いとされ
ている作品の時代、十八世紀の始まりにまで溯り、この昔話を分析したいと思う。 第一章では、十九世紀より近年までの研究がまとめられている。猿蟹合戦に興味を持
ち、初めてそれに関して調べた学者は、戯作や読本の作家として有名な滝沢馬琴と、その
弟子の山東京伝であった。二人とも話の由来が大陸にあると思っており、中国とインドの
古典文学に猿蟹合戦の根と「枝葉」を探ってみた。 その後、再び昔話を研究しようとした学者が現れるまで百年ほど待たなければならな
い。小池藤五郎氏は、一九三〇年代に小学国語読本をめぐって発生した論争をきっかけに、
猿蟹合戦の起源を改めようと思い、それを日本文学の中に探るべきであると判断した。
元々は室町時代に成立した、蟹の眷属(親族)と猿の眷属との戦争物であったらしく、お
伽草子の一つのジャンルである異類合戦に基づいていると述べている。助っ人が家の中に
隠れ、順番に猿を攻める箇所が後から加えられ、徐々に戦争の話より仇討の話になってき
たと論じている。 数年後、島津久基氏が日本だけではなく,外国にも猿蟹合戦の前半と後半に似た独立の
昔話があるということに気がつく。もとよりの合戦型の話が少しずつ仇討型になり、曽我
兄弟の伝説の影響を受け、子蟹の人物も登場するようになったという。島津氏は初めて口
承文学で伝えられた話も取り扱い、中国にとどまらず、韓国やモンゴル、インドネシアな
どといった様々な国の昔話を日本の昔話と比べてみたのである。 その次に論文を出した柳田国男氏は、二十世紀の始まり頃、日本中で語られていた昔
話を中心に、猿蟹合戦の最も古い筋を復元しようとした。柳田氏は、猿と蛙が一緒に餅を
搗くが、猿の我がままな行動で餅の入っていた臼が山より転び落ち、結局蛙がそれを全て
食べてしまうというのが、東北に数多く残った話であり、本来の内容であったと述べてい
る。 仇討ちの部分の方は、自立した昔話として中国などに見つけられるが、それは恐ら
く後から渡来され、腕利きの座頭により猿と蛙(のちに蟹)の話に面白く付けられたのか
もしれないと述べている。 柳田氏の行った日本国内の昔話に関する調査を踏まえつつ、今川恵美子氏は自身でも
猿蟹合戦の例を集め、それにいくつかの江戸時代の作品を平行させ、筋の展開を明らかに
することを試みた。その結果として、島津氏の推測したように、合戦型より個人の仇討型
へ変化し、最終的に親孝行仇討になったと論じている。 1980年代に入ると、関敬吾氏は、島津氏と柳田氏の研究と共に、フィンランド人
の民俗学者、アンティ・アアルネとドイツ人のフリッツ・ルムプの研究を付加し、猿蟹合
戦を中心にアジア中の昔話を考察した。数多くの例を取りつつ、アジアの話がどこで発生
したものかは分かり得ないが、猿蟹合戦が二つの昔話の総合によって成立した日本のみの
昔話であると説いている。 『日本昔話事典』の編集者でもある稲田浩二氏も、前半の「動物葛藤」と後半の「仇
討ち型」を別々で分析し、それぞれが日本列島並びに世界の口承文学の中にどれほど広が
っているかを詳しく調べた。特に、後半か又は後半に似た話が欧米にも存在するモチーフ
であり、稲田氏は原初の思想アニミズムに基づいていると述べている。採集狩猟時代の人
類が巨人動物を狩っていた時、成員が各人各様の分担をもって参加してきた様相をこの話
に含めていたという。 一方、斧原孝守氏は、猿と蟹の一つだけの話を考察し、結末に蟹がなぜ螯に毛がある
のかを説明して、「なぜ話」のように終わるものが、アジア諸国においてどれほど伝播し
ているかを調査した。 初めて江戸時代の猿蟹合戦に関する作品を全て集められたのは、沢井耐三氏である。
沢井氏の目的は、今日知られている「猿蟹」の話と少し異なった形が例外ではなく、西日
本に「猿ヶ島敵討」という類型であったのを論証することである。その類型には、おにぎ
りと柿の種の交換がなく、蟹が猿にいじめられてから、敵討ちに出かけ、猿が島へ向かう
途中で栗・挽臼・鋏などに黍団子を与えて家来にし、最後に計略による順を追った攻撃で
はなく、普通の戦いで猿を退治する。 最も新しく出された花部英雄氏の論文では、桃太郎系猿蟹合戦が取り扱われる。それ
が北より来た怪物退治譚と、南より来た食物争い譚の二つの気流が、日本において会った
時に産まれた昔話であり、その後その話より桃太郎が産まれたという。
第二章では、猿蟹合戦の徳川時代の作品が大きく四つの節に分かれており、分析され
ている。最初の節には最も古いとされている宝永年間(一七〇四
は正徳年間(一七一一
一七一一)の赤本、又
一七一六)の絵巻より黄表紙の現れる頃までの赤本と黒本青本、
第二節には十八世紀の最後の三十年間の黄表紙と漢文の版本、第三節には十九世紀の前半
の合巻・読本・随筆・漢文での写本と版本、第四節には幕末の豆本・おもちゃ絵・錦絵・
双六・絵巻が集まっている。それぞれの作品の内容や伝わってくるメッセージ、登場人物
の擬人化の仕方などに関して記されている。このような分析をもって時間と共に猿蟹合戦
がどのように変化してきたかということが若干でも理解できるであろうと思っている。
例えば、最初の絵本の頃は、様々な筋もあったし、蟹の助っ人には臼・杵・蜂・栗/
卵の他に包丁・荒布・蛇・真名板・杓子・蛸なども登場するし、猿が一匹のバージョンも
あるが数多くの敵を討つ本もあることから、まだ話が一つの形に定まっていなかったこと
が伺える。なお、大人向けの黄表紙となると、話の中心が蟹の仇討ちではなくなり、その
代わりに猿と蟹が最後に仲直りするというめでたい結末になる。又、現在語られている話
には蟹の子供が必ずいるが、猿蟹合戦の筋に親の蟹が殺されるのが一般になるのは十九世
紀に入ってからである。それは、悲劇や哀感に満ちていた合巻や読本の作品の流行が、こ
の昔話にも影響を受けたからであると言えよう。しかしながら、猿蟹合戦が今日のものに
近づいてきたのは幕末の豆本などの影響のためであろう。その頃は、助っ人が三人(臼・
蜂・卵)に定まり、結末には今と同じように二つのパターンがあり、猿が臼に押さえられ
ることによって、蟹がそれで敵を討ったというパターンと、猿が謝り蟹が勘弁するという
パターンがある。
第一章に見た学者達が、全て明治時代以降に集められた資料を使いつつ研究を行って
いたが、江戸時代の昔話集などがないため、どのように話が伝われていたかを知るために
文学作品を見るべきであると言えよう。
第三章では、天明元年(一七八一)に刊行された『蟹牛房挾多』という黄表紙を紹介
する。日本語での部分とイタリア語での部分と二つに別れており、日本語での部分におい
て、まず、変体仮名を現代仮名遣に直し、翻刻を行った。そして、単語に漢字を与えるこ
とと、句読点を打つことによって校訂を施し、最後に注釈をつけた。その上に、イタリア
語の翻訳とイタリア語での注釈も補った。
この作品は、教訓的な話で有名であった市場通笑(一七三七
一八一二)が著し、挿
絵は黄表紙の最初の発達段階において活躍していた鳥居清長(一七五二
一八一五)が描
いたものである。"教訓の通笑"と呼ばれていたにも関わらず、よく知られていた猿蟹合戦
に当時の様々な流行していた歌謡やお店などを加え、ユーモアに富んだ黄表紙を作り上げ
た。それゆえに、猿蟹合戦の流れを研究するためだけではなく、江戸時代後期の風俗を理
解するのにも重要な資料になるであろうと思っている。
INDICE INTRODUZIONE : che cos'è oggi Saru kani kassen.......................................................................... 3 CAPITOLO 1 : Gli studi precedenti.......................................................................................................... 10 1.1 Takizawa Bakin................................................................................................................................. 11 1.2 Santō Kyōden...................................................................................................................................... 15
1.3 Koike Tōgorō....................................................................................................................................... 16
1.4 Shimazu Hisamoto............................................................................................................................ 19
1.5 Yanagita Kunio...................................................................................................................................
22
1.6 Imakawa Megumi.............................................................................................................................. 27
1.7 Seki Keigo.............................................................................................................................................
29
1.8 Inada Kōji.............................................................................................................................................
32
1.9 Onohara Takashi...............................................................................................................................
35
1.10 Sawai Taizō.......................................................................................................................................
37
1.11 Hanabe Hideo................................................................................................................................... 38 CAPITOLO 2 : Testi di periodo Tokugawa........................................................................................... 43 2.1 Opere 1-­‐13: primi kusazōshi, kabuki, manoscritti............................................................. 56 2.2 Opere 14-­‐24: kibyōshi, kanbun................................................................................................... 69
2.3 Opere 25-­‐37: gōkan, yomihon, zuihitsu, kanbun................................................................
80
2.4 Opere 38-­‐ 61: mamehon, e (omochae, sugoroku, nishikie), emaki.............................
89
2.5 Conclusioni..........................................................................................................................................
98
BIBLIOTECHE / COLLEZIONI.............................................................................................................. 103
FONTI IMMAGINI SECONDO CAPITOLO........................................................................................
1
108
CAPITOLO 3 : Kani ga gobō hasanda...................................................................................................... 113 3.1 市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の翻刻........................................................................... 114 3.2 市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の校訂........................................................................... 146
3.3 市場通笑の黄表紙『蟹牛房挾多』の注釈........................................................................... 152
3.4 Traduzione e commento................................................................................................................
167
3.5 画像 -­‐ Apparato di immagini........................................................................................................ 181
APPENDICE : 現代の子供絵本................................................................................................................. 193 GLOSSARIO....................................................................................................................................................... 195 BIBLIOGRAFIA................................................................................................................................................. 200 2
INTRODUZIONE: CHE COS'È OGGI SARU KANI KASSEN 猿 蟹合戦 Entrando in una qualsiasi libreria giapponese e recandosi al reparto dedicato alle letture per l'infanzia, ci si imbatte sempre in una folta schiera di libri che ripropongono i cosiddetti mukashibanashi 昔話, ovvero quelle che noi denominiamo "fiabe" o "favole". Yanagita Kunio 柳 田 国 男 (1875-­‐1962) individua nel genere quattro specifiche caratteristiche: (上略)昔話の方には、始めからもっとはっきりとした意味があって、単に古い話または昔
の話というだけではないのである。子供が親から聴き、もしくは老人の記憶している話にも、
いろいろさまざまの種類がある。「昔話」はその中のたった一つ、すなわち形式としてその
話の初めの一句に、必ず昔とか昔々とか、あるいはもっとたわむれて「とんと昔」、「昔の
昔のその昔」等の語を用い[る。] [1](中略)話だから信じてはいけない、もしくはおも
しろければそれでよろしいという心持があって、(中略)古く伝わった「信ずべき物語」と、
差別をしようとしたもののようである。現在の昔話においても、この表示法はかなり堅苦し
く守られている。その形式は少なくとも三つあって、一つは(中略)東京とその付近では
「あったとさ」、「言ったとさ」とトサを添え、上方では多くトイナをつけて話す。東北の
ムカシコは「あったづぉん」又は「あったちふ」という土地もある。(中略)中国九州では
普通には「あったげな」を用い[る。][2] (中略)第二の形式としては、固有名詞の故意
の省略がある[3]。これは年代を超越した昔という表現に伴うもので、やはりまた聴く人話
す人に、なんのかかわりもないことを明らかにした手段であったろうと思う。(中略)第三
の形式がある。(中略)最後に(中略)必ず形式の句があって、それが地方毎に一定してい
る[4]。(中略)一番単純で数の多いのはこれでおしまい、または話はこれだけという意味
の短句である。(中略)もう一つ、今も残っている昔話の末の文句に、「めでたしめでたし」
というのがあって、これは文学にも多く採用せられている。1 [...] Per quello che riguarda i mukashibanashi, vi è un significato molto più esplicito fin dal principio: non si tratta semplicemente di vecchie storie o di racconti del passato. Ci sono molte svariate categorie di storie che i bambini ascoltano dai genitori e che gli anziani hanno impresse nella loro memoria. I "mukashibanashi" rappresentano soltanto una di queste categorie; in particolare, per convenzione nell'incipit della storia viene sempre usata una parola che può essere "tanto tempo fa" (mukashi 昔) o "tanto tanto tempo fa" (mukashi-­mukashi 昔々), o ancora in tono più scherzoso "troppo tempo fa" (tonto mukashi とんと昔) o "in un tempo prima del tempo di 1 YANAGITA Kunio, "Kōshō bungei shikō" (Studio sulla storia della letteratura orale), Kōdansha, Tōkyō, 1976, pp. 90-­‐93. 3 tanto tempo fa" (mukashi no mukashi no sono mukashi 昔の昔のその昔). [...] Poichè sono racconti (hanashi 話) non si doveva crederci, v'era la sensazione che bastava che suscitassero interesse [...] ed erano un qualcosa che si cercava di tenere separato dalle "storie a cui bisognava credere" tramandate dall'antichità. Questo modo di esprimerlo è stato conservato alquanto rigidamente anche nei mukashibanashi odierni. Le sue forme sono almeno tre; la prima [...] è di narrare aggiungendo a fine frase, a Tōkyō e nelle zone limitrofe, to sa とさ (atta to sa あったとさ, itta to sa 言ったとさ), mentre nel Kamigata molti usano to ina といな. Nei mukashiko2 del Tōhoku ci sono regioni in cui si aggiunge atta zuon あったづぉん o atta-­chifu あったちふ. [...] Nelle zone del Chūgoku e del Kyūshū solitamente si usa atta gena あったげな. La seconda convenzione è l'abbreviazione intenzionale di nomi propri. Questa si accompagna all'espressione di "un tempo passato" -­‐che ha superato generazioni-­‐ e ritengo sia un mezzo con cui si specifica che si tratta di eventi che non hanno nulla a che fare né con l'ascoltatore né con il narratore. [...] Vi è una terza convenzione. [...] Alla fine [...] c'è sempre una locuzione prestabilita, la quale è standardizzata per ogni regione. [...] Le più semplici e diffuse sono brevi frasi dal significato "questo è tutto" (kore de oshimai これでおしまい) o "la storia è tutta qui" (hanashi wa kore dake 話はこれだけ). [...] Ve n'è un'altra rimasta tutt'oggi tra le espressioni finali dei mukashibanashi, "lunga vita, lunga vita!" (medetashi-­medetashi めでたしめでたし) e viene utilizzata diffusamente anche in letteratura. Tornando idealmente agli scaffali dei libri per bambini, tra i mukashibanashi è sempre presente in considerevole numero anche la storia conosciuta come Saru kani kassen, o Saru kani gassen, 猿蟹合戦 ("La battaglia tra la scimmia e il granchio"). Sebbene sulle copertine dei vari volumi si possano trovare anche titoli diversi da questo (vedi appendice 1), il racconto proposto dalla quasi totalità delle opere segue a grandi linee la stessa trama, proposta qui di seguito: Un granchio ed una scimmia stanno passeggiando insieme quando, a un certo punto, il primo trova per terra un onigiri3 e la seconda un seme di kaki. Gelosa del ritrovamento dell'amico, la scimmia impone uno scambio al granchio; questi, una volta tornato a casa, pianta subito il seme e, mentre lo irrora d'acqua, canta la seguente filastrocca: "Presto, seme di kaki, germoglia! Se non lo fai, ti tagliuzzo con le mie chele!" (Hayaku me wo dase, kaki no tane. Dasanu to hasami de chongiru zo. 早く芽を出せ、柿の種。出さぬとはさ
みでちょん切るぞ). Il seme, spaventato, subito fa uscire una piantina, così il granchio continua a cantare: "Presto, germoglio di kaki, diventa un albero! Se non lo fai, ti 2 Altro nominativo per i mukashibanashi. Onigiri おにぎり, polpettina di riso. 3
4 tagliuzzo con le mie chele!" (Hayaku ki ni nare, kaki no me yo. Naranu to hasami de chongiru zo. 早く木になれ 、柿の芽よ。ならぬとはさみでちょん切るぞ). In un istante dal virgulto cresce un alto albero, sicché il granchio continua con la sua nenia: "Presto, albero, da' frutti! Se non lo fai, ti tagliuzzo con le mie chele!" (Hayaku mi ga nare, kaki no ki yo. Naranu to hasami de chongiru zo. 早く実がなれ 、柿の木よ。ならぬとはさみで
ちょん切るぞ), ed ecco che sui rami dell'albero fanno comparsa frutti a non finire. Il granchio gioisce dell'impresa, ma non sa come raccogliere i kaki, così chiede aiuto alla scimmia promettendole di dividere il raccolto. Quella, non appena arrampicatasi sull'albero, comincia a mangiare senza sosta i frutti maturi e passa al granchio solo quelli acerbi, per poi lanciarglieli contro di cattiveria quando questi comincia a lamentarsi. Per le ferite subìte il granchio muore, ma dalla corazza crepata nascono tanti piccoli granchi che giurano di vendicare la crudele uccisione del genitore. Chiamano così a raccolta il mortaio, l'ape, la castagna e l'escremento di mucca, con i quali progettano un piano. Approfittando di un momento di assenza, si recano a casa della scimmia: la castagna si nasconde tra la cenere del focolare al centro della stanza, l'ape all'interno della tinozza d'acqua, l'escremento di mucca vicino all'entrata e il mortaio sopra la porta dell'abitazione. Quando quella rientra a casa, si siede vicino al focolare per riscaldarsi, ma all'improvviso balza fuori la castagna che la ustiona; la scimmia corre allora verso la tinozza d'acqua, ma quando scopre il coperchio si ritrova davanti l'ape con il pungiglione sfoderato. Spaventata, cerca via di fuga fuori di casa, ma scivola sull'escremento e il mortaio cade di peso dall'alto schiacciandola. A questo punto, sconfitta, la scimmia chiede pietà scusandosi del torto fatto e promettendo di non far più del male, per ricevere infine la grazia dai granchi, che la perdonano. Vi sono alcuni fattori che cambiano da testo a testo, quali l'esclusione del personaggio dell'escremento dal gruppo degli aiutanti (o la sua sostituzione con un'alga konbu 昆布) o la non ben definita sorte della scimmia (nella metà dei casi visionati l'ultima frase spiega semplicemente che la scimmia rimane schiacciata dal mortaio). In un'unica opera si aggiunge alla storia un dettaglio piuttosto significativo. Si tratta del libro della casa editrice POPLAR PUBLISHING CO.4 : in questa versione i figli del granchio, dopo la morte 4 SAIGŌ Takehiko (testo), FUKUDA Shōsuke (illustrazioni), Saru kanibanashi, "Mukashi mukahsi ehon", vol. 13, POPLAR PUBLISHING CO., 1967. 5 del genitore, si recano da soli verso la montagna dove vivono le scimmie per mettere in atto la loro vendetta; lungo la strada si uniscono a loro l'ape, il mortaio, la castagna5 e l'escremento di mucca, i quali diventano loro vassalli dopo aver ognuno ricevuto in dono un kibidango6. Questo è lo stesso modo con cui Momotarō 桃太郎, nella fiaba omonima, recluta la scimmia, il cane e il fagiano prima di recarsi all'Isola Dei Demoni (oni ga shima 鬼ヶ島) per sconfiggerli definitivamente e riportare a casa il tesoro da loro rubato. Non si tratta, tuttavia, né di un errore di memoria, né di un pastiche creato appositamente dall'autore : una storia dal contenuto simile a questo si ritrova, infatti, in altri testi di periodo Tokugawa (1600-­‐1868) che propongono Saru kani kassen, e non è un caso che traccia di questa versione sia sopravvissuta fino a tempi recenti. Dell'esistenza di testi in cui la trama dei due mukashibanashi viene in parte a coincidere si parlerà in dettaglio al capitolo 2. Allargando il campo d'indagine dalle versioni che circolano tramite i libri per l'infanzia a quelle tramandate oralmente (e raccolte nelle antologie di fiabe), scopriamo che a poter subire variazioni non è solo la seconda parte del racconto. Alla voce「さるか
にがっせん 猿蟹合戦」del Nihon mukashibanashi jiten7 si legge: 動物葛藤譚の1つ。猿がカニから柿または餅を騙しとり,カニが栗,蜂,牛糞,臼などの援
助を得て,合戦の後,猿に仇を討つという形式が最も多く報告されている。しかし,この昔
話の後半部とほぼ同じ内容の合戦譚を有する昔話は,「猿と雉の寄合田」「猿と蟇の寄合田」
などと同型の昔話で雉やヒキに代わってカニとなっている昔話,「猿と蟹と柿」「蟹の仇討」
「餅争い」「雀の仇討」「牛方山姥」「爺と猿」などの多くにわたる。また,この昔話の全
半部とほぼ同じ内容を有する昔話は,合戦譚を持つ型と持たない型が併存している。分布状
況を考慮してその実態をみると,まず前者のうち餅が争いの原因となる昔話は青森・岩手・
秋田,柿の場合が東北・関東・北陸・山陽・四国に分布し,後者のうち餅が争いの原因とな
る昔話は東北・関東・関西・山陽・九州,柿の場合が本州・四国のほぼ全域となる。ここに
本昔話の基本形を設定することが,形式的にも内容からいっても困難な状況がある。 Uno dei racconti di conflitto tra animali. La forma riportata in numero maggiore parla di una scimmia che porta via con l'inganno un kaki -­‐o un mochi8-­‐ a un granchio; questi ottiene l'aiuto di una castagna, un'ape, un'escremento di mucca, un mortaio e, dopo la battaglia, si vendica della 5 Nello specifico si tratta di un igaguri 毬栗. 6 Kibidango 黍団子 = dolcetto tradizionale fatto con farina di miglio mischiata a farina di riso. 7 INADA Kōji (hen), Nihon mukashibanashi jiten, Kōbundō, Tōkyō, 1994 , pp. 388-­‐389. 8 Mochi 餅 = dolcetto tradizionale, polpetta di riso cotto a vapore e poi pestato. 6 scimmia. Tuttavia, i mukashibanashi che hanno un racconto di battaglia dal contenuto praticamente uguale a quello della seconda parte di questa favola, si dividono principalmente in: mukashibanashi quali "Il campo comune della scimmia e del fagiano" o "Il campo comune della scimmia e del rospo"; mukashibanashi che appartengono allo stesso tipo di queste ultime e al posto di fagiani e rospi hanno un granchio; favole come ad esempio "La scimmia, il granchio e il kaki", "La vendetta del granchio", "La lotta per il mochi", "La vendetta del passero", "Il bovaro e la yamanba [strega delle montagne]", "Il vecchio e la scimmia". Inoltre, tra nei mukashibanashi che hanno un contenuto quasi identico alla prima parte di questa favola coesistono la tipologia con annessa la storia della battaglia e quella sprovvista della stessa. Ragionando sulla diffusione di queste ed indagandone la reale situazione, innanzitutto, tra le prime, i mukashibanashi nei quali la causa della disputa è un mochi sono diffusi nelle regioni di Aomori, Iwate e Akita, mentre quelle in cui si parla di un kaki si trovano nelle zone del Tōhoku, del Kantō, dello Hokuriku, del San'yō e dello Shikoku; tra le seconde, i mukashibanashi nelle quali la causa della disputa è un mochi ci sono nelle zone del Tōhoku, del Kansai, del San'yō e del Kyūshū, mentre quelle in cui si parla di un kaki si trovano nell'isola dello Honshū e dello Shikoku -­‐ovvero quasi in tutto il paese. Di fatto, delineare qui una forma base di questo mukashibanashi, sia da un punto di vista strutturale che di contenuto, è arduo. Il fatto che al giorno d'oggi la favola faccia parte del bagaglio culturale comune alla maggior parte della popolazione nipponica in una versione pressoché uniformata è anche il risultato della politica di unificazione identitaria attuata con enfasi dal governo Shōwa negli anni trenta: By means of centrally unified teaching plans and curriculum, regional differences were to be leveled out, including linguistic and dialectical differences. National pride and a pan-­‐Japanese sense of community were instilled in children by means of stories in the readers for primary education (Shogaku kokngo tokuhon) [SKT]. [...] In the 12 small volumes of the SKT of the Showa years 8 to 13 (1933-­‐38), there is a wide variety of subject areas. The curriculum included the most varied topic groups, insofar as they could be presented.[...] A certain group of reading pieces is particularly well represented in booklets 1, 2 and 3: fairytales. In book 1 one finds the fairytales Shitakiri suzume, Usagi to kame and Momotarō; book 2 contains four fairy tales: Saru to kani, Nezumi no yomeiri, Kobutori, Hanasaka jiji; book 3 contains: Issunbōshi, Kachikachi-­yama, Nezumi no chie, Kin no ono and Urashima Tarō. [...] They form the core of Japanese “national fairy tales” , stories now familiar to every person in Japan. Their great popularity can be attributed to the fact that they were included in these elementary school readers. In this way they gained the status of widely disseminated pan-­‐Japanese fairy tales. Though some of them might have been known in different regions in different variant 7 forms, the school had a normative effect on the tales and thus fulfilled its task of developing a common national consciousness.9 Tuttavia, come sottolinea il Nihon mukashibanashi jiten, cercare di risalire alla versione originaria di Saru kani kassen è alquanto problematico. Innanzitutto, non risulta esserci alcun documento scritto che testimoni l'esistenza stessa del mukashibanashi fino al periodo Tokugawa e, in particolare, prima dell'inizio del diciottesimo secolo, quando appaiono le prime opere letterarie narranti una vicenda simile a quella sopra descritta. In passato non sono stati in pochi a tentare una ricostruzione dell'evoluzione della favola: personaggi storici quali Yanagita Kunio, insieme a studiosi contemporanei quali Hanabe Hideo, hanno cercato di rintracciare l'origine del mukashibanashi in quanto prodotto della narrazione orale, attraverso l'analisi comparativa con altre favole o la valorizzazione di taluni aspetti antropologici presenti all'interno della narrazione. Altri come, ad esempio, Koike Tōgorō o Sawai Taizō hanno, invece, preso in considerazione Saru kani kassen da un punto di vista più prettamente letterario. Il fatto che i risultati di questi studi portino tutti a conclusioni differenti lascerebbe presupporre che la favola non abbia un'unica genesi, ma molteplici e tutte ugualmente possibili. Tradizione orale e tradizione scritta sono state finora mantenute separate e studiate isolatamente su binari paralleli. Questa tesi si propone di associare per la prima volta i due aspetti nel tentativo di far chiarezza su una loro possibile e reciproca influenza. Si è cercato, inoltre, di tentare di ricostruire l'evoluzione della favola in periodo pre-­‐
moderno, utilizzando fonti temporalmente precedenti alle raccolte di mukashibanashi redatte a partire dal periodo Meiji dai primi antropologi giapponesi. Nel primo capitolo si presenta, dunque, una panoramica sugli studi che già hanno affrontato l'argomento, alla quale si combina, nel secondo capitolo, un lavoro di confronto delle opere prodotte in periodo Tokugawa che trattino anche solo in parte Saru kani kassen. Durante questo lavoro di ricerca si tenterà di individuare quelli che sono gli elementi della favola che rimangono costanti e le variabili che li accompagnano; ci si chiederà, quindi, la motivazione di questi cambiamenti e si cercherà di capire se la storia ha seguito o meno Klaus ANTONI, "Momotarō (The Peach Boy) and the Spirit of Japan: Concerning the Function of a Fairy Tale in Japanese Nationalism of the Early Shōwa Age", Asian folklore studies, 50, 1, 1991, pp. 160-­‐161. 9
8 un processo evolutivo lineare che ha portato a una graduale trasformazione fino ad assumere la forma attualmente più diffusa. Nel terzo capitolo, invece, verranno presentati la traslitterazione, la traduzione e il commento del kibyōshi 黄表紙 Kani ga gobō hasanda 『蟹牛房挾多』 ("Il granchio ha pinzato una bardana"). L'opera non solo viene portata ad esempio di come il mukashibanashi sia stato ripreso e adattato10 nella seconda metà del XVIII secolo, ma si presenta anche come un'utile fonte per meglio comprendere la quotidianità e le mode del tempo. 10 "Adaptation can be a transpositional practise, casting a specific genre into another generic mode, an act of re-­‐vision in itself. It can parallel editorial practice in some respects, indulging in the exercise of trimming and pruning; yet it can also be an amplificatory procedure engaged in addition, expansion, accretion, and interpolation." [Julie SANDERS, Adaptation and appropriation, London/New York, Routledge, 2006, p. 18] 9 CAPITOLO 1 : GLI STUDI PRECEDENTI Di seguito si presenta una panoramica quanto più possibile completa degli studi già effettuati su Saru kani kassen. Con l'unica eccezione di Sawai Taizō (come si vedrà nella sezione 1.10), la totalità degli studiosi che si sono occupati di questa favola la hanno presa in esame nella sua forma orale così come veniva narrata ai loro tempi o come era stata trascritta nelle varie raccolte di mukashibanashi. Nonostante alcuni, nella loro indagine, si siano serviti anche di opere letterarie per comprovare i loro ragionamenti, nessuno di loro si è soffermato ad analizzare con rigore un numero consistente di testi scritti, né si è interrogato sull'evoluzione della favola sui manoscritti e sulle opere a stampa. Si sono, infatti, più interessati a Saru kani kassen in quanto 'masterplot'1 , ritenendo sufficiente basare le loro ricerche principalmente su una delle due forme in cui la favole è stata tramandata nel tempo, quella orale. Le domande che si sono posti nell'arco della propria ricerca, infatti, sono state altre, quali ad esempio: • Qual è il luogo di origine del mukashibanashi; • Qual è il periodo storico in cui esso è andato formandosi; • Con quali altri mukashibanashi giapponesi esso condivida intere parti o singoli elementi; • Quali sono i punti di contatto con storie simili narrate in altre parti del mondo; • Quali sono gli aspetti antropologici o naturalistici presenti all'interno della storia. "Masterplots: Recurrent skeletal stories, belonging to cultures and individuals that play a powerful role in questions of identity, values, and the understanding of life. [...] As masterplots, by their nature, recur in many different narrative versions, it is at least a technical mistake to employ the common term "master narrative" for this concept." [H. Porter ABBOTT, The Cambridge introduction to narrative, Cambridge, Cambridge University Press, 2002, p. 236] 1
10 1.1 TAKIZAWA BAKIN 滝 沢馬琴 (1767-­1848) Il primo, in ordine cronologico, ad interrogarsi su Saru kani kassen è stato Takizawa Bakin, scrittore inizialmente di kibyōshi sotto la guida di Santō Kyōden 山東京伝 (1761-­‐
1816), ma famoso soprattutto per gli yomihon 読本 composti a partire dagli ultimi anni del diciottesimo secolo. Bakin, il quale provava un forte interesse per i mukashibanashi, dedicò ad essi un intero volume, il quarto, del suo zuihitsu 随筆 Enseki Zasshi2 燕石雑志 (1811). Il quarto capitolo, quello dedicato a Saru kani kassen, inizia con la versione che l'autore richiama alla memoria dalla sua personale esperienza. Le differenze rispetto alla trama proposta in introduzione di tesi e radicatasi ormai nell'immaginario collettivo, possono essere così schematizzate: -­‐ all'inizio della favola, viene specificato che il granchio e la scimmia stanno gironzolando ai piedi della montagna; -­‐ i figli del granchio vittima delle vessazioni della scimmia non nascono dal guscio crepato (non viene specificato nemmeno che questi muore, si dice semplicemente che "non riuscì più ad alzarsi" e okizu 得起きず), ma sono già presenti all'interno della narrazione, e a giurare vendetta sono i parenti tutti del granchio, i quali vogliono scatenare una battaglia con il popolo delle scimmie; -­‐ per mettere in atto il piano di vendetta, invitano con l'inganno il re delle scimmie nella loro tana mostrandosi intenzionati a stipulare la pace ed evitare così la guerra tra i due popoli; -­‐ gli aiutanti dei granchi sono: un uovo (che brucia la scimmia sul braccio, al posto di una castagna), un'ape (nascosta nel barile dell'acqua), un'alga arame3 荒布 (invece dell'escremento di mucca), un pestello (il quale cade dagli scaffali della cucina) e un mortaio; SANTŌ Kyōden Kottōshū, KYOKUTEI Bakin Enseki zasshi, RYŪTEI Tanehiko Yōshabako, Yūhōdō bunko, vol.3, Tōkyō, Yūhōdōshoten, 1915, pp. 470-­‐486. 3 Eisenia bicyclis, tipo di alga che cresce lungo le coste giapponesi. Veniva usata, oltre che come ingrediente in cucina, anche come detergente per il bucato e per questo in periodo Tokugawa era presente in qualsiasi casa. 2
11 -­‐ alla fine i granchi uccidono la scimmia tagliandone la testa. Bakin, di seguito, prende in esame separatamente alcuni elementi della favola e ne ricerca le fonti in testi cinesi, portando ad esempio numerosi passaggi di racconti che vi assomigliano e che secondo lui dimostrerebbero come la favola sia nata da un reimpasto di tutti questi frammenti, adattati al contesto e al pubblico giapponese. Di seguito si propone una cernita di questi passaggi. In primo luogo, Bakin analizza la combinazione dei due animali protagonisti della discordia, per poi, più avanti nel saggio, passare anche ai personaggi inclusi negli aiutanti. Esempi di granchi (in particolare lo yūbō 蝤蛑, una specie dalle grandi dimensioni) che combattono contro tigri si ritrovano nel Zoku hakubutsushi4 続博物志 e nello Seikan kairoku5 晴川蟹録 (da qui in poi abbreviato Kairoku), mentre nel Kōiki6 廣
異記 si parla della lotta tra un granchio e il dio della montagna dalla forma di serpente, il quale in conclusione muore decapitato dal crostaceo. Similarmente, nello Zuda monogatari7 頭陀物語 si ritrova un episodio di un granchio che combatte un lombrico, dove si specifica anche che il secondo mangia gli uomini e il primo, uccidendolo, assurge a salvatore dell'umanità. Secondo Bakin, la tigre delle storie cinesi è stata trasformata in scimmia per il fatto che il felino non è presente sul territorio giapponese. A conferma del legame che ci sarebbe tra i crostacei e le scimmie e del sentimento di rancore dei primi nei riguardi delle seconde, vengono quindi portati ad esempio vari estratti da testi cinesi citati nel Kairoku. Innanzitutto, nello Shoshō8 書蕉 di Mei Gong9 眉
広 si parla di un uomo di piccola stazza che vive sulle montagne di nome di Sansan 山犭參 , il quale si nutre di granchi. Bakin si chiede se il sansan non sia un differente tipo di 4 Seguito e ampliamento dello Hakubutsushi 博物志 , raccolta di informazioni su animali e piante rare, credenze di popoli stranieri e storie fantastiche attribuito al poeta Zhang Hua 張華 (232-­‐300). Lo Zoku hakubutsushi è stato invece scritto da Li Shi 李石 (1108-­‐1181) dei Song. 5 Qingchuan xie lu, compendio in 4 volumi su caratteristiche, fatti, brani letterari e poesie sui granchi del XVII/XVIII secolo scritto da Sun Zhilu(ji) 孫之騄(輯) dei Qing. 6 Guang yi ji, raccolta originariamente in 12 volumi di storie fantastiche del regno dei Tang (618-­‐907) redatto da Dai Fu 戴孚 nel 757, per poi essere ampliato dai figli alla sua morte. 7 Altro nome del Bashōō zudamonogatari 芭蕉翁頭陀物語, scritto da Kyūroan Ryōtai 吸露庵涼袋 (Takebe Ayatari 建部綾足) nel 1751, presenta aneddoti delle vite di poeti di haikai 俳諧. 8 Shu jiao, anche noto col titolo Bi ji 筆記. 9 Mei Gong è uno degli epiteti di Jiru Chen 陳繼儒 (1558-­‐1639). 12 santo 山都, un babbuino anziano , che secondo quanto riferito nel Jutsuiki10 述異記 ruba i granchi strappando le trappole preparate dai pescatori; a ulteriore riprova di questo, nello I'en11 異苑 si parla di un animale denominato sansei 山精, simile alle persone, mangiatore di granchi di fiume. A spiegare la moltitudine di granchi che decidono di attaccare la scimmia sarebbe, poi, un aneddoto del Shukuen zakki12 菽園雑記 (citato nel Kairoku), che narra di come un pescatore che si alimentava quotidianamente di crostacei pescati agli argini del fiume smise definitivamente la sua attività dopo essersi commosso, un giorno, nel vedere due granchi aiutarne a scappare un terzo ormai sprovvisto di tutte e otto le zampe. Altro esempio di granchi che si radunano e combattono insieme si trova anche in Giappone, nel caso della leggenda sulla fondazione del tempio Kanimanji (nominato nello Enseki: Kanimandera) 蟹満寺 che si trova a Kizugawa, nella prefettura di Kyōto. Raccontata, ad esempio, nel Genkōshakusho13 元享釋書, la storia narra di come migliaia di granchi di piccole e grandi dimensioni abbiano combattuto e sconfitto un serpente che rivendicava il possesso della figlia di un uomo, promessagli in sposa da quest'ultimo affinchè lasciasse vivere un rospo che stava per divorare. Una volta seppelliti i resti del serpente e dei granchi sacrificatisi per la propria figlia, i genitori vi costruirono sopra il tempio buddhista dal nome sopra indicato. Bakin ricorda, inoltre, le leggende per cui gli spiriti rancorosi di guerrieri morti in battaglia si sarebbero impressi sulla corazza del granchio Heikeopsis japonica, denominato a seconda dei luoghi di provenienza delle leggende heikegani14 平家蟹, takebun kani 15 武文蟹, shimamuragani 16 嶋村蟹. Tutti questi esempi chiarirebbero 10 Shu yi ji, vi sono due testi con lo stesso titolo, i quali raccolgono miti, leggende, storie di medicine miracolose e altro ancora: uno redatto da Zu Chongzhi 祖冲之 dei Qi meridionali (479-­‐502) in 10 volumi e l'altro da Ren Fang 任昉 dei Liang (502-­‐557) in due volumi. 11 Yi yuan, redatto da Jingshu Liu 劉敬叔 dei Song (420-­‐479), tratta in 10 volumi di dèi e spiriti. 12 Shu yuan za ji, testo dello studioso Rong Lu 陸容 (1436-­‐1494) dei Ming (1368-­‐1644). 13 Testo storico sul buddhismo di fine periodo Kamakura (1185-­‐1333) in 30 volumi, scritto dal monaco della scuola Rinzai Kokan Shiren 虎関師錬 (1278-­‐1347). 14 Nominativo più comune per questo granchio, deriva dalla famiglia Taira, sconfitta nella battaglia di Dan no Ura (1185) dai Genji, i cui membri morirono tutti annegati.
15 Altro nome dello heikegani. Il nome deriva da quello del guerriero Hata no Takebun 秦武文, morto affogato durante la guerra Genkō (1331). 16 Altro nome dello heikegani. Il nome deriva da quello di un guerriero di periodo Sengoku (1467-­‐1573) che mentre il suo padrone Hosokawa Takakuni 細川高国 (1484-­‐1531) veniva ucciso, sconfitto in battaglia, si era gettato in mare con combattendo con due nemici, morendo annegato. 13 perchè i granchi della favola in questione abbiano il forte desiderio di vendicarsi di un torto subìto. L'accoppiata ape/scimmia deriverebbe, invece, dalla lettura on dei due caratteri, rispettivamente 'hō' (ほう 蜂) e 'kō' (こう 猴), che ricordano la parola hōkō 封侯, dal significato di daimyō, mentre quella pestello( 杵 )/mortaio( 臼 ) dal nome di un discendente (kōson 公孫) della casata dei Chō17 趙 Shokyū 杵臼 (? -­‐ 597 a.C.), il quale, secondo quanto riporta lo Shiki18 史記, aiutò insieme a Tei'ei 程嬰 a vendicare l'unico erede rimasto in vita dello statista Chōsaku 趙朔 (? -­‐ 598 a.C.), dopo la sua morte e la temporanea caduta della casata. Il fatto che il granchio conceda il riso trovato per terra alla scimmia, ovvero il motivo scatenante della discordia tra i due, sarebbe da ricondurre a un episodio inserito nel Chōshōshū19 張敞集, dove si parla dell'uomo chiamato Shō il quale decise di condividere la polpa di granchio sotto sale (kani no hishio 蟹の醤) ricevuta in dono con le altre persone rispettose dell'operato degli anziani (sanrō no okonai 三老の行20). Il titolo Saru kani kassen deriverebbe, infine, dal termine utilizzato nella cultura Wú21 (go 呉) kakōkairan 蝦荒蟹乱, che indicava l'andare in guerra con un'armatura coriacea (come un carapace di granchio) e un'arma affilata e tagliente (come le sue chele). Bakin si concentra sui singoli elementi compositivi della favola svolgendo un dettagliato lavoro di confronto con altri aneddoti e di ricerca di possibili fonti scritte, ma senza prendere in considerazione le numerosi varianti che già si erano espresse in opere a lui contemporanee e senza cercare di trarre conclusioni globali che possano far luce sullo sviluppo complessivo della favola nel tempo. Resta da chiedersi se il suo scopo non si limitasse al semplice divertissement letterario o se Bakin considerasse la sua analisi punto di partenza per uno studio successivo, se non un già esauriente risultato. 17 Risiedente nel regno di Jin 晋. 18 Shi ji, testo sulla storia cinese in 130 volumi, compilato da Shiba Sen 司馬遷 (ca 145 a.C. -­‐ ca 86 a.C.) degli Han (206 a.C.-­‐220 d.C.). 19 Non è stato possibile rintracciare notizie riguardo a questo testo. 20 Anziani suddivisi in tre fasce d'età: sopra i 100 anni, sopra gli 80 anni, sopra i 60 anni. Secondo un'altra teoria gli anni sarebbero da suddividersi in 100, 90 e 80. 21 Regno cinese nel periodo delle primavere e degli autunni (770 a.C. -­‐ 403 a.C.) che si trovava a valle del fiume Yangtze. 14 1.2 SANTŌ KYŌDEN Famoso scrittore di gesaku 戯作 di tardo periodo Tokugawa, in un primo momento si dedica a kibyōshi e sharebon22 洒落本 per poi spostarsi, dopo i problemi con la censura avuti a causa dei secondi, a yomihon e saggi. Incluso in quest'ultima categoria è il Kottōshū23 骨董集, scritto nel 1813 e pubblicato nei due anni successivi (il primo e secondo volume nel 1814 e il terzo nel 1815). Secondo Kyōden, i mukashibanashi deriverebbero in larga parte da racconti buddhisti (bussetsu 仏説), ma anche da monogatari storici (kokushi monogatari bumi 国史物語ぶ
み) o da aneddoti cinesi (kando no koji 漢土の故事), e in particolare Saru kani kassen sarebbe la versione più estesa di una storia narrata nel Konpon setsu issai ubu binaya zōji24 根本説一切有部毘奈耶雑事, contenuto a sua volta nel ventiquattresimo volume del Giso rikujō25 義楚六帖: 有(あり)二隠(いん)ー人(じん)一。有(ありて)二果樹(くわじゆつの)下(もとに)一座(ざす)。被(ら
れて)二(さ)ー猴(るに)擲(なげ)一レ果(くわを)(クダモノ)。破(やぶる)レ額(ひたひを)。忍(しのび
て)レ之(これを)不(ず)レ報(むくは)。後(のち)有(あり)二獵(れう)(カリ)ー者(しや)(ウト)一。與
(と)レ仙人為(たり)レ友(とも)。来(きたつて)在(あつて)二樹(じゆ)ー下(かに)一坐(ざす)。擲(な
ぐる)如(ことごとし)レ前(さきの)。獵(れう)ー者(しや)怒(いかつて)射(いて)レ之(これを)致(い
たす)レ死(しを)。佛(ほとけと)與(と)レ天(てん)ー受(じゆ)26 Un eremita era seduto sotto un albero quando [all'improvviso] gli vengono lanciati contro dei frutti da una scimmia [che si trovava sui rami], ma anche se viene ferito alla fronte lui sopporta [il dolore] senza vendicarsi. Tempo dopo l'eremita insieme ad un cacciatore suo amico si siedono sotto lo stesso albero; come la volta precedente, vengono lanciati loro contro dei frutti, ma il 22 Tipo di kusazōshi pubblicati inizialmente nella zona del Kamigata a partire dalla seconda metà dell'era Kyōhō (1716-­‐1736) e, in seguito, anche a Edo. Sono storie ambientate nei quartieri di piacere e anche le storie narratevi erano incentrate in quel mondo. 23 Kokumintosho kabushikikaisha (hen), Nihon zuihitsu shū (Raccolta di zuihitsu giapponesi), vol. 13, Tōkyō, Kokumintosho, 1928, pp. 99-­‐100. 24 Testo tramandato della scuola buddhista indiana Setsu issai ubu (nata a 300 anni dalla morte del Buddha storico) tradotto in cinese dal monaco Tang Gijō 義淨 (635-­‐713). 25 Shishi liutie, sorta di enciclopedia buddhista redatta dal monaco Shi Yichu 釋義楚 in 24 volumi (terminati nel 954) che raccoglie non solo precetti, ma anche estratti di testi precedenti. 26 Kokumintosho kabushikikaisha, Nihon zuihitsu..., op. cit., p.100. 15 cacciatore al comportamento della scimmia si adira e la uccide scoccando una freccia. La scimmia, così, riuscì a raggiungere il paradiso insieme a Buddha. Kyōden fa un lavoro opposto e complementare rispetto a quello di Bakin, in quanto è andato a cercare quella che ritiene essere l'ossatura, la struttura centrale della favola, alla quale sarebbero poi stati aggiunti vari dettagli (edaha 枝葉) che potrebbero essere quelli individuati da Bakin e riassunti nella sezione precedente. 1.3 KOIKE TŌGORŌ 小 池藤五郎 (1895-­1982) Koike Tōgorō, padre di Koike Masatane e professore dell'Università Imperiale di Tōkyō, scrisse un articolo su Saru kani kassen nel 193727, prendendo come pretesto una polemica accesasi qualche anno prima a partire da un articolo comparso sullo Yomiuri Shinbun e alimentata da alcuni intellettuali dell'epoca. In quel pezzo, uscito il primo settembre del 1933, si parlava dei cambiamenti apportati alla storia Saru to kani サルト
カニ nel nuovo libro di letture per le scuole elementari (Shōgaku kokugo tokuhon 小学国
語読本) che sarebbe dovuto entrare in uso in tutto il paese a partire dal mese successivo. Si intendeva, con questa nuova ristampa, rimuovere qualsiasi elemento ritenuto inadatto alla sensibilità dei giovani scolari e inappropriato alla loro educazione. Koike in apertura di saggio riporta l'articolo del quotidiano nel quale si legge: 改正の主な點は、舊讀本に、「ハヤクメヲダセ、カキノタネ。ダサヌトハサミデハサミキ
ル。」とあるを、「早クメヲ出セ、 早クメヲ出セ。」と改めて、脅迫がましい態度を除いた
事が第一である。次に前には猿が青い柿を投げつけて叩き殺す處を、新讀本ではちょっと怪
我した程度にとどめた。子蟹が蜂や臼などの友達の助けによって、親の仇を討つところを、
今度は、「サルハ、トウトウ、ジブンガワルカッタトアヤマリマシタ。カニハ、ユルシテヤ
リマシタ。」と改めて残虐味を一掃した。 27
KOIKE Tōgorō, "Saru kani kassen no hensen", Yōji no kyōiku, 37, 4, 1937-­‐04, pp. 10-­‐19. 16 I principali punti emendati sono stati i seguenti. Il primo consiste nella eliminazione del comportamento dal tono minaccioso [del granchio] e ove nel vecchio libro di letture v'era "Presto, seme di kaki, germoglia! Se non lo fai, ti sforbicio con le mie chele!" (Hayaku me wo dase, kaki no tane. Dasanu to hasami de hasamikiru. ハヤクメヲダセ、カキノタネ。ダサヌトハサミデハサミ
キル。) si è modificato in "Presto, germoglia! Presto, germoglia!" (Hayaku dase. Hayaku dase. ハヤ
クダセ。ハヤクダセ。). In secondo luogo, dove prima la scimmia uccideva [il granchio] lanciandogli contro i kaki acerbi, nel nuovo libro di letture si limita a provocare una ferita da poco. Il punto in cui i piccoli granchi si vendicavano del genitore con l'aiuto degli amici quali l'ape o il mortaio, nella nuova versione questa atmosfera di brutalità è stata eliminata completamente modificando [il testo] in "La scimmia, alla fin fine, si scusò di essere stata cattiva e il granchio la perdonò" (Saru wa, tōtō, jibun ga warukatta to ayamarimashita. Kani wa, yurushite yarimashita. サ
ルハ、トウトウ、ジブンガワルカッタトアヤマリマシタ。カニハ、ユルシテヤリマシタ。). Nell'articolo si faceva dunque notare che se la storia contenuta nel vecchio sussidiario faceva riferimento alla versione proposta da Takizawa Bakin nello Enseki Zasshi (vedi sezione 1.1), i cambiamenti apportati avrebbero fatto capo a un testo successivo, lo Hina no ukegi 雛廼宇計木 dello shintōka 神道家 Kamo no Norikiyo28 賀茂規清 (1847). Koike ricorda che ci fu chi accolse la nuova versione con relativa soddisfazione, spiegando che entrambe le opere di partenza erano ugualmente autorevoli e, dunque, ambedue meritevoli di essere utilizzate come fonte; ci fu anche, però, chi, come lo psicologo infantile Tanaka Kan'ichi 田中寛一 (1882-­‐1962) riteneva che le modifiche avessero reso il testo meno interessante per i giovani e chi, come l'autore di libri per bambini Kurushima Takehiko 久留島武彦 (1874-­‐1960) giudicava la favola qualcosa di più di una mera storia di vendetta, spiegando che veicolava un messaggio positivo di rivincita del personaggio debole, ma buono, sul più forte. Koike afferma che l'errore fondamentale commesso da questi intellettuali è quello di prendere in considerazione solo due testi e tra i più vicini temporalmente, mentre per fornire una versione veritiera è necessario risalire il più possibile indietro nel tempo e andare a vedere quello che era considerato il testo più antico pervenuto 29 . Nello specifico, per lo studioso si tratta dello akahon 赤本 di Nishimura Shigenaga30 西村重長 28 Il testo è così catalogato nel Nihon kotenseki sōgō mokuroku, tuttavia Koike indicava l'autore dell'opera come anonimo (作者不明). 29 In realtà ad oggi ne sono rimasti intatti o in frammenti altri tre precedenti o dello stesso periodo, come si vedrà nel secondo capitolo. 30 Vedi pp. 60-­‐61. 17 Saru kani kassen さるかに合戦, di periodo Kyōhō 享保 (1716-­‐1736) che, spiega, avrebbe registrato, senza apportare modifiche, la versione orale della favola che circolava allora31. Eppure, secondo lo studioso la storia originaria sarebbe più vicina a quella della 'embedded narrative' contenuta nello yomihon pubblicato nel 1753 Momotarō monogatari 桃太郎物語, nella quale la scimmia, invitata nella tana del granchio, viene attaccata da tutti gli aiutanti insieme dopo esser scivolata sull'escremento di vacca che si era posizionato sull'ingresso. Tutta la fase di contrattacco dei vari oggetti e animali nascosti all'interno della casa sarebbe, dunque, un'invenzione aggiunta successivamente per rendere più accattivante il racconto. Un altro elemento che, secondo Koike, sarebbe appartenuto alla storia narrata nella sua forma primitiva sarebbe il coinvolgimento delle popolazioni tutte dei granchi e delle scimmie nella diatriba tra i loro rispettivi re -­‐dettaglio rintracciabile nella versione fornita da Bakin nello Enseki Zasshi. Questa battaglia tra specie ricorderebbe quella tra pesci e verdure dello Shōjin gyorui monogatari 精進魚類物語 o quella tra corvi e aironi dello Aro kassen monogatari 鴉鷺合戦物語, otogizōshi お伽草子 di periodo Muromachi (1336-­‐1573). Anche Saru kani kassen risalirebbe dunque, secondo Koike, allo stesso periodo; a riprova di ciò, vi sarebbe nello akahon di Nishimura, considerata una delle prime versioni scritte della favola, l'uso di appellativi per gli animali protagonisti che richiamano quelli di personaggi dei racconti guerreschi, così come accade per i due otogizōshi sopracitati. All'origine della storia non vi sarebbe altro che il divertimento di far combattere due tipologie di animali diversi e non, come si discuteva in quegli anni, la sopraffazione del forte sul debole o un giudizio morale sul desiderio di ciò che appartiene ad altri (in questo caso, la polpetta di riso rinvenuta dal granchio). Lo scambio tra i due animali sarebbe stato aggiunto in seguito da altri mukashibanashi quali mochi arasoi 餅争い o saru to kani(kiji) no yoriai ta 猿と蟹(雉)の寄合田, prendendo come oggetto i due cibi in quanto cari ai bambini, così come successivo sarebbe stato lo slittamento da "battaglia" a semplice "vendetta". Koike sposta il fulcro della ricerca dal territorio cinese a quello giapponese, andando a rintracciare possibili indizi nelle opere scritte in periodo Tokugawa e cercando un nesso connettivo con la precedente letteratura di periodo Muromachi. Cerca di andare oltre la semplice polemica sulla moralità del messaggio veicolato dal mukashibanashi, 31 Tuttavia non fornisce né spiegazioni né prove a questa affermazione. 18 conducendo una ricerca di tipo filologico sul testo scritto considerato in quanto tale, tralasciando, però, qualsiasi elemento di tipo antropologico, retaggio della tradizione orale, presente nella favola. 1.4 SHIMAZU HISAMOTO 島 津久基 (1891-­1949) Distintosi soprattutto per gli studi sul Genji monogatari 源氏物語, Shimazu lavorò molto anche su leggende, monogatari 物 語 e setsuwa 説 話 di periodo antico e medioevale. Sui mukashibanashi pubblica un lavoro nel 1944, Nihon kokumin dōwa jūnikō, nel quale troviamo un capitolo, il quinto, dedicato a Saru kani kassen32. Come Koike, anche Shimazu ritiene che se le prime opere scritte risalgono alla prima metà del 1700, è naturale pensare che la favola si sia formata e diffusa in forma di racconto orale qualche tempo prima e, quindi, che si sia cominciato a narrarla dalla fine del periodo Muromachi o all'inizio del periodo Tokugawa. In particolare, Shimazu fa riferimento allo akahon Saru kani kassen 猿蟹合戦, che risalirebbe al periodo Hōei33 (1704-­‐1711), del quale sono rimaste solo alcune pagine inserite negli zuihitsu Enseki Zasshi di Bakin e Sunkin zattetsu 寸錦雑綴 di Morishima Chūryō 森島中良 (1754-­‐1810). Come la versione della favola data da Bakin, anche lo akahon Saru kani kassen sembrerebbe rifarsi alle atmosfere degli iruigassen 異類合戦 degli otogizōshi, e Shimazu ritiene che la trama all'origine sarebbe stata più vicina al genere dei racconti di battaglia (kassengata 合戦型), per poi andare a semplificarsi sempre di più e, in ultimo stadio, mantere traccia del genere solamente nel titolo. Lo studioso ritiene, inoltre, che si possa anche immaginare, al contrario, che la storia in origine fosse più lineare e semplice, e che poi sia andata arricchendosi di nuovi elementi sotto l'influsso degli iruigassen e dividersi successivamente in due filoni: uno in cui questi elementi aggiunti sono rimasti intatti e l'altro in cui sono stati progressivamente fatti sbiadire per infine essere cancellati definitivamente. Il fatto, poi, che la storia abbia assunto i toni della vendetta personale 32 SHIMAZU Hisamoto, Nihon kokumin dōwa jūnikō, Tōkyō, Ōzorasha, 1987 (ed. or. 1944), pp. 82-­‐101. 33 Ne parla anche Mizutani nel 1937, vedi: MIZUTANI Futō, Kusazōshi to yomihon no kenkyū, "Mizutani Futō chosaku shū" , vol.2, Tōkyō, Chūōkōronsha, 1973-­‐1977, p.38. 19 dei figli del granchio sarebbe da ricollegarsi alla tradizione di esaltazione della virtù etica della pietà filiale inaugurata dalla vicenda dei fratelli Soga34, ripresa in numerose opere letterarie e teatrali. Shimazu, però, è il primo tra gli studiosi visti finora a introdurre un ulteriore elemento all'interno dell'analisi di questo mukashibanashi, ovvero l'affiancamento di alcune versioni orali della favola. Inizia con la favola diffusa nel Kyūshū, la cui trama può essere così riassunta: Un granchio e una scimmia trovano dei mochi, ma la seconda, volendo tenerli tutti per sé, scappa su un albero. Il granchio, però, riesce ad ingannarla, dicendole che mettendo il sacco con i mochi su un ramo questi sarebbero diventati più buoni, ma facendo così il ramo secco si spezza e allora quello ne approfitta per scappare con i mochi nella sua tana. La scimmia, infuriata, mette il sedere dentro al buco dove si trova il granchio per vendicarsi espletando una funzione corporale, ma quello reagisce prontamente pizzicandole il sedere. Così si spiega perchè le scimmie abbiano il sedere rosso e i granchi il pelo sulle chele. Shimazu afferma inoltre che una favola dal contenuto quasi identico, della quale, tuttavia, non viene fornita la trama, si ritrova anche in Corea35. Anche se non può essere ricondotta direttamente a Saru kani kassen, questa storia assomiglia molto alla sua prima parte; alla seconda sono vicine, invece, delle fiabe narrate nelle regioni di Saga e Satsuma, dove un cavallo vessato dalla yamanba chiede aiuto a un'ape, un serpente, dell'argilla, un ago da tatami e una castagna (a Satsuma si trovano versioni in cui compaiono anche scolopendre e granchi) per vendicarsi. In Mongolia una storia simile narra di bambini che con un uovo, un mortaio in pietra, un ago, delle forbici e un cinghiale hanno la meglio su una strega che ha ucciso e mangiato loro la madre. In 34 Soga kyōdai 曽我兄弟, protagonisti di numerosi drammi kabuki, jōruri e di romanzi. Il loro vero cognome era Kawazu, ma dopo l'uccisione accidentale del padre in una battuta di caccia la madre si risposa con il signore della casata dei Soga, e i due fratelli diventano Soga Jūrō Sukenari e Soga Gorō Tokimune. All'età rispettivamente di ventidue e vent'anni, mettono in atto la vendetta contro il responsabile della morte del padre, Kudō Suketsune, incontrando, però, loro stessi la morte (Jūrō durante l'attacco, Gorō il giorno seguente per pena capitale). La leggenda narra che anche dopo la morte i due abbiano continuato a perseguitare altre casate in tutto il Giappone orientale, divenendo così personaggi temuti. Al tempo stesso, tuttavia, vi sono credenze che celebrano i due fratelli in tutto il paese. [INUI Katsumi (hen), Nihon denki densetsu daijiten, Tōkyō, Kakukawashoten, 1986]
35 MIWA Tamaki, Densetsu no Chōsen, Tōkyō, Hakubunkan, 1919 (三輪環、『伝説の朝鮮』、東京、博文
館、1919年). 20 Indonesia, inoltre, si racconta la storia di una ricca ma tirchia vedova attaccata e uccisa da un gruppo di animali. Innanzitutto un topo la sveglia spaventandola, poi un albero spinoso le punge una mano e quando quella, scappando, si avvicina al forno, un uccellino comincia a sbattere le ali alzando la cenere che le finisce negli occhi. La donna corre, dunque, al tubo di bambù contenente l'acqua, ma da lì esce una scolopendra che la attacca; cerca infine salvezza fuori di casa, ma scivola su un'anguilla che stava aspettando sulle scale e, rotolando, finisce con lo sbattere la testa su una roccia. Questa è la versione che si trova nell'isola indonesiana di Sulawesi (chiamata al tempo di Shimazu isola di Celebes), ma altre che contano tra i personaggi un uovo, un serpente, una scolopendra, una formica e un escremento si ritrovano in altre isole dell'arcipelago. Allo stesso modo, Shimazu fa notare come nei mari meridionali vi siano altre favole che rassomigliano alla prima parte di Saru kani kassen: ad esempio, sempre nell'isola di Sulawesi ve n'è una che ha per protagonisti una scimmia e una tartaruga che coltivano ognuna un albero di banana, ma la prima fa seccare il proprio albero e, invidiosa dell'altra, va a rubarne i frutti. Quando, però, scende per tornare a casa non si accorge del bastone di bambù che l'altra per ripicca aveva piantato alle sue radici e rimane infilzata. Vi sono anche altre storie in cui la tartaruga, non soddisfatta della morte della scimmia, completa la sua vendetta mangiandone le ossa e sterminando tutta la sua famiglia, o altre ancora in cui al posto di una tartaruga si trova un granchio. Shimazu non solo è il primo ad accostare esempi della favola provenienti dalla tradizione orale, ma lo fa spostandosi anche al di fuori del territorio nazionale e della zona d'influenza diretta cinese, proponendo un interessante confronto tra alcune versioni giapponesi con altre asiatiche. Questa sarà la strada che verrà percorsa e ampliata anche dalla maggior parte degli antropologi che verranno analizzati di seguito. 21 1.5 YANAGITA KUNIO Considerato il padre fondatore del folklore in Giappone, Yanagita è interessato a quella che lui stesso definisce in giapponese per la prima volta 'kōshō bungei' 口承文芸, traduzione del termine introdotto da Paul-­‐Yves Sébillot 'littérature orale'36.Dopo aver pubblicato nel 1948 una raccolta di mukashibanashi37 provenienti da tutti gli angoli del paese, nel 1957 fa uscire un saggio, Mukashibanashi oboegaki 昔話覚書, che analizza svariate fiabe e favole tra cui quella presa in esame in questa tesi, al capitolo Saru to kani38. In esso, vengono prese in considerazione molte versioni della storia nella loro forma orale, cercando analogie e differenze tra le varie regioni del Giappone grazie alle quali lo studioso cerca di delineare l'aspetto originario della favola. Innanzitutto, Yanagita fa notare come nella trama di Saru kani kassen che circolava ormai diffusamente al suo tempo fosse innaturale il dettaglio dei piccoli granchi venuti fuori dal guscio del genitore ormai morto i quali, una volta cresciuti, cercano vendetta. Il motivo della vendetta dei figli si può far risalire, ad esempio, alla popolarità letteraria della leggenda dei fratelli Soga (come proponeva anche Shimazu, vedi p.20), ma si tratta in ogni caso di un'opera di manipolazione della trama avvenuta a posteriori. L'antropologo sostiene, infatti, che nonostante le versioni della favola che includono questo elemento si trovino nelle regioni di Yamanashi, Niigata e altre, esse sono state probabilmente influenzate dalla riscrittura operata in alcuni dei libri illustrati pensati, creati e pubblicati nelle grandi città39 in periodo Tokugawa e diffusisi poi in tutto il paese. Anche il titolo Saru kani kassen non sarebbe quello originale, bensì attribuito a posteriori sulla scia delle opere letterarie che narravano storie di animali, uccelli, piante, utensili da cucina e quant'altro che venivano fatti combattere in quelle che vengono denominate iruigassen. Secondo Yanagita, il mukashibanashi dal contenuto più vicino alla versione di Saru kani kassen dell'inizio del novecento sarebbe "La vendetta del passero" (Suzume no 36 YANAGITA Kunio, Kōshōbungeishikō, Tōkyō, Kōdansha, 1976 (1942), p. 15. 37 YANAGITA Kunio (kanshū), Nihon hōsō shuppan kyōkai (hen), Nihon mukashibanashi meii, Tōkyō, 1948. 38 YANAGITA Kunio, Mukashibanashi oboegaki, "Yanagita Kunio zenshū", vol.13, Tōkyō, Chikumashobō, 1997 (1957), pp. 561-­‐582. 39 Principalmente Edo, seguita da Ōsaka. 22 adauchi 雀の仇討), il quale si trova, con alcune varianti, nelle zona del Tōhoku, della regione di Tochigi e di Hiroshima. Nelle storie raccontate nel Tōhoku si parla di un passero che cova con cura le sue uova nascoste in un cespuglio, ma una yamanba non solo mangia l'uccellino, ma anche tutte le uova. Se ne salva solo una, dalla quale nasce un passero che, cresciuto, parte per riscattare la morte del genitore preparando dei kibidango con cui fa suoi vassalli una castagna, ecc. Nella storia che si ritrova nell'area di Tochigi, al posto di una strega si trova una scimmia, e l'aiutante del passero è un corvo che interviene subito in favore dell'unico uccellino sopravvissuto per salvarlo, mentre in quella di Hiroshima a mangiare le uova è un demone (oni 鬼). Yanagita passa dunque ad analizzare l'oggetto causa della disputa tra i due animali. Se in alcune delle versioni da lui collezionate si parla di kaki come nella versione odierna, in altre si parla di mochi (che la scimmia ruba al granchio e vuole mangiarsi da sola) e, secondo lo studioso, quest'ultima sarebbe da considerarsi più antica. L'introduzione del frutto nella narrazione, insieme con il testo che il granchio canta quando coltiva l'albero, sarebbe da ricollegarsi alla tradizionale cerimonia del narikizeme 成木責め, alla quale partecipavano anche i bambini. Questa si teneva in tutto il paese la mattina del quindicesimo giorno del primo mese dell'anno (o la sera del giorno precedente) e consisteva nel recarsi sotto gli alberi da frutta ed intonare una formula magica per far promettere alle piante di dare un abbondante raccolto nell'anno che si apprestava a cominciare. La connessione col granchio sarebbe dovuta alla somiglianza delle sue chele con le braccia alzate in segno di preghiera tipiche del rituale. Il seme di kaki, inoltre, sarebbe stato, nell'immaginario infantile, l'oggetto di minor valore a cui si potesse pensare e compare anche in altre storielle divertenti (waraibanashi40 笑話), per esempio quella in cui un tengu viene imbrogliato e convinto a scambiarne uno con il suo mantello e il suo cappello di paglia che rendono invisibili. Questo tipo di narrazioni, un tempo indipendenti, si sarebbero fuse con quella della scimmia e del granchio. Yanagita riporta, dunque, il caso dei mukashibanashi diffusi nel Kyūshū di cui parlava anche Shimazu, nei quali dalla storia di Saru kani kassen è totalmente assente la seconda parte, quella della controffensiva da parte di mortaio e compagni, e al suo posto vi è la 40 Una delle tipologie di 'mukashibanashi derivati' (hasei mukashibanashi 派 生 昔 話 ), che Yanagita distingue da quelli 'conclusi' (kankei mukashibanashi 完形昔話). Seki Keigo (vedi sezione 1.7) divide invece i racconti in tre categorie: mukashibanashi di animali (dōbutsu mukashibanashi 動 物 昔 話 ), mukashibanashi autentici (honkaku mukashibanashi 本格昔話) e storie divertenti (waraibanashi). 23 spiegazione del perchè le scimmie abbiano il sedere glabro e rosso, mentre i granchi di montagna abbiano il pelo sulle chele. Viene però fatto notare che, in metà delle favole presenti nella regione, al posto di kaki si trovano dei mochi, e vi sono inoltre versioni in cui all'inizio della favola si spiega che i due animali hanno deciso di prepare del mochi insieme, ma la scimmia cerca di far fare tutto il lavoro al granchio per poi prendere per sé il prodotto ultimato. In quella più diffusa, il granchio comincia a lavorare per primo, ma quando scende dalla montagna per portare il pestello alla scimmia, questa si lamenta che lo strumento è tutto deformato e che, quindi, non può usarlo. Chiede al granchio di tornare sulla montagna a fabbricarne uno nuovo e di andare avanti col lavoro, ma ogni volta che questi finisce il suo turno si sente dire la stessa cosa. Secondo Yanagita, la sostituzione del mochi e del pestello con un seme di kaki e l'onigiri sarebbe stata possibile da chiunque ed è difficile pensare che entrambe le storie coesistessero allo stesso tempo, anche perchè granchi e kaki non avrebbero nulla che li accomuni. Tuttavia, mukashibanashi dall'inizio simile, in cui però ad essere stati rubati sono nella totalità dei casi dei kaki, si trovano anche nell'area di Saitama; alla fine, però, la scimmia non va subito dalla tana del granchio e minaccia invece di tornare la sera a rubare i kaki che quello era riuscito a portarsi a casa e a ucciderlo. Il crostaceo comincia a piangere disperato e così passano a trovarlo i suoi amici attirati dalle grida che lo aiutano a liberarsi della scimmia nascondendosi in casa sua. Yanagita nota come la regione centrale dello Honshū intorno alla regione di Saitama funga quasi da spartiacque tra Kyūshū e Tōhoku: innanzitutto a causare il conflitto sono nel Kyūshū indifferentemente kaki o mochi, nella zona di Saitama solo kaki, mentre nel Tōhoku soprattutto i mochi (e questa sarebbe la conferma che la versione con i kaki sarebbe posteriore all'altra); in secondo luogo, un mukashibanashi che comprenda la scena dell'offensiva ai danni portata avanti da svariati personaggi non è del tutto assente nel Kyūshū, ma mai legata alla storia del granchio e della scimmia, mentre dalla zona centrale dello Honshū fino più a est avvicinandosi a Saitama i tre aiutanti del granchio -­‐
mortaio, ape, castagna-­‐ diventano una costante. In realtà nel Tōhoku, osserva Yanagita, eccezion fatta per il particolare del mochi, la trama è simile a quella delle storie di Saitama, ma i personaggi non sono sempre una scimmia e un granchio; in particolare al posto della prima ci possono essere un coniglio o una rana. Causa del litigio può essere il mortaio che accidentalmente rotola giù dalla montagna, ma mentre l'animale pigro che non voleva lavorare gli corre appresso (questo spiega perchè le rane hanno le zampe 24 corte, essendosi consumate nella corsa disperata) o per la rabbia di aver perso un facile boccone si mette a mordere un albero (questo spiegherebbe l'abitudine dei conigli a fare ciò), mentre il granchio si accorge che nella caduta il mochi è uscito e si è fermato tra le radici di un albero e riesce a portarsi il bottino a casa. Come aveva fatto in precedenza anche Shimazu, Yanagita prova a spostarsi fuori dai confini nazionali, anche se fin dall'inizio dubita che queste storie non siano state esportate dai soldati giapponesi durante i periodi di occupazione bellica. Nella provincia cinese di Canton, ad esempio, vi è la favola di una donna alle prese con un demone che minaccia di andare a divorarla quella notte. Tornata a casa si mette e piangere disperata, quando la ode un venditore ambulante che le fa dono di 12 spilli; allo stesso modo, passando casualmente da quelle parti un allevatore di bovi le regala degli escrementi, un venditore di serpenti due dei suoi rettili, un pescivendolo due dei suoi pesci, e così via per uova e mortaio. Grazie a questi oggetti e animali nascosti nella sua casa, riesce a mettere in fuga il demone e sfuggire al suo attacco. Vengono, quindi, riportati anche gli esempi delle favole mongole e coreane citate anche da Shimazu, che dalla versione cinese differiscono per il numero e la natura degli aiutanti, oltre che dei personaggi protagonisti (ad esempio, in quella coreana c'è una donna anziana che decide di uccidere una pericolosa tigre che conosceva da molto tempo). Il fatto che gli aiutanti variino così tanto da versione a versione, dimostrerebbe, secondo Yanagita, come la favola originaria fin dal principio avrebbe subìto un incessante processo di metamorfosi, dettato anche dalla necessità di rendere il racconto il più possibile interessante alle orecchie del pubblico astante: 昔話は [...] 、時々別な話をよそから借りて来て、後へ繋いで面白味を新たにする技術であつた。
それも聴手が子供なら子供に向くやうに、下品な笑ひしかわからぬ人ならば又その様に、目
先をかへて行く方法が幾らでもあつて、それを生計にする者が世に現はれてから其変化が目
まぐるしくなつたやうである。41 Il mukashibanashi [...] era un'arte per cui talvolta si prendeva a prestito un'altra storia da un altro paese e poi la si legava insieme [ad altre] rinnovandone l'interesse. Vi erano, tuttavia, molti modi di cambiarle e trasformarle: se l'uditore era un bambino lo si faceva in maniera consona agli infanti, se era una persona che non capiva che la comicità oscena, lo si faceva in quest'altra 41 YANAGITA Kunio, Mukashibanashi oboegaki, "Yanagita Kunio zenshū", vol.13, Tōkyō, Chikumashobō, 1997 (1957), p. 574. 25 direzione. Sembra che questi cambiamenti siano cresciuti in maniera vorticosa dopo l'apparizione di persone [raccontastorie, n.d.t.] che nella società facevano questo per guadagnarsi da vivere. La seconda parte potrebbe anche essere stata un racconto venuto dal continente in periodo pre-­‐moderno il quale, grazie all'abilità di qualche narratore cieco (zatō 座頭), avrebbe acquistato grande popolarità e, infine, essere stata annessa in via definitiva alle storie autoctone sopra presentate. Nelle città, così come nelle zone limitrofe, si sarebbe poi cominciato a far circolare la nuova storia, mentre nelle campagne giapponesi si continuava a raccontare le vecchie versioni rimaste intatte fino a tempi recenti. Tuttavia, spiega Yanagita, il fatto che sia nel Kyūshū che nel Tōhoku al centro della vicenda vi sia un mochi (tipologia del mochi arasoi), dimostrerebbe come questa sia una versione più antica rispetto a quella con i kaki. Ugualmente, lo studioso è inoltre convinto che la più larga diffusione di versioni in cui al posto di un granchio c'è un rospo o una rana sarebbe dovuta al fatto che queste siano nate precedentemente. Nella maggior parte dei casi, queste storie terminano spiegando "perchè" gli animali protagonisti hanno determinate caratteristiche (appartengono alla categoria delle cosiddette nazebanashi な ぜ 話 ) -­‐per esempio il rospo avrebbe un corpo così arrotondato per via dell'abbuffata di mochi. Lo studio presentato da Yanagita Kunio ha il pregio di aver posto per la prima volta in maniera consistente l'attenzione sugli aspetti antropologici della favola; inoltre, vi è una visione d'insieme delle varianti presenti su tutto il territorio nipponico, alle quali viene data ugualmente importanza, che consente di avere un'idea più chiara sulle differenti forme con cui la storia veniva raccontata all'inizio del novecento. 26 1.6 IMAKAWA MEGUMI Il punto di maggiore interesse dell'articolo di Imakawa sull'origine e la trasmissione di Saru kani kassen42 consiste nell'approccio sia letterario che antropologico con cui la studiosa affronta il problema. Imakawa non solo utilizza le favole collezionate da Seki Keigo nel Nihon mukashibanashi shūsei 日本昔話集成, ma ne raccoglie personalmente un settantina di esempi. Questi vengono presentati ordinati per tema (tabella imm. 1) e, poi, anche per provenienza geografica (tabella imm. 2) negli schemi riproposti qui di seguito43(tra parentesi è il numero di mukashibanashi collezionati per ogni tipologia): Imm.1: tabella 'tipologie Saru kani kassen' Imm.2: tabella 'regioni di diffusione' L'unica versione distribuita su tutto il territorio nipponico è quella del mochi arasoi appartenente al gruppo A che si conclude con la spiegazione del perchè le scimmie abbiano il sedere rosso (forma I). Versioni che vedono protagonista al posto del granchio una rana e che cominciano con i due animali che rubano il mochi (forma RO) o che decidono di coltivare insieme un campo per poi farci del mochi (forma HA) si trovano nello Honshū, e Imakawa sostiene che queste siano varianti della forma I. Anche la forma NI presente nel Kyūshū (corrispondente al gruppo B), deriverebbe da I. In questa, il granchio riesce a ottenere il mochi ingannando la scimmia, scappata su un albero, dicendole che sarebbero diventati più buoni li avesse fatti dondolare su un ramo secco. La sua caratteristica è quella di avere per protagonisti, a differenza delle favole 42 IMAGAWA Emiko, "Saru kani kassen no genwa to denpa", Joshidai Kokubun, 52, 1969, pp. 31-­‐40. 43 Ibidem, p. 32. 27 del gruppo A, solo scimmie e granchi, senza varianti. Inoltre, in conclusione vi sarebbe anche spiegato perchè i granchi hanno il pelo sulle chele, dettaglio mancante nelle storie dello Honshū. Nel gruppo C sono incluse due versioni di mochi arasoi (forme HO e HE) diffuse nel Tōhoku che nella seconda parte vedono l'intervento degli aiutanti, come nella moderna Saru kani, e che al posto del granchio possono avere un fagiano. Secondo Imakawa, questa versione potrebbe essere definita intermedia tra Saru kani kassen e i mukashibanashi del gruppo A. Infine, il gruppo D corrisponde con la forma TO, nella quale la scimmia e il granchio scambiano tra loro l'onigiri e il seme di kaki, ma nella seconda parte il granchio riesce a rubare i kaki alla scimmia come nella forma NI, e nel finale, al posto della controffensiva collettiva, c'è la spiegazione sul pelo delle chele. Imakawa sostiene che la questa forma deriverebbe appunto da quella NI, ma sarebbe precedente alle forme del gruppo C in quanto finirebbe come una nazebanashi. Riassumendo, dalla forma I si sarebbero diramati due filoni: uno sviluppatosi nello Honshū nelle forme RO e HA, poi ulteriormente evolutesi in HO e HE; un altro si sarebbe originato nel Kyūshū e nello Shikoku prima nella forma NI e, successivamente, nella forma TO. Infine, questi due filoni si sarebbero congiunti dando vita alla Saru kani kassen oggi conosciuta. La studiosa passa, quindi, in rassegna alcune opere scritte di periodo Tokugawa che, nella tabella proposta nel secondo capitolo dalla p. 46, corrispondono a [n.1], [n.4], [n.6], [n.18], [n.26], [n.29], [n.34], [n.43] e [n.36]. Ricorda che, come sosteneva Shimazu, si è passati da una kassengata ([n.1], [n.29]) a uno di vendetta personale ([n.4], [n.6], [n.26], [n.36]), fino alla storia di rivalsa dei figli ([n.34], [n.43]). Secondo Imakawa, questo processo sarebbe da spiegarsi anche storicamente: con la transizione dal lungo periodo di guerre intestine che interessarono tutto il paese a quello della pace Tokugawa, anche le aspettative dei lettori sarebbero mutate. Di conseguenza, se prima poteva sembrare più interessante un racconto sviluppato su toni guerreschi, successivamente si sarebbe andati a preferire una storia di semplice vendetta per, infine, aggiungere un tocco di dramma familiare sulle rimembranze della saga dei fratelli Soga introducendo i personaggi dei figli, anche forse sotto l'influenza della popolarità del mukashibanashi Momotarō. Imakawa, dunque, concorda con Yanagita nell'affermare che la vendetta operata dalla seconda generazione di granchi sarebbe un dettaglio aggiunto in un secondo momento nelle versioni create nelle città ma poi diffusosi anche nelle campagne di tutto il paese. 28 1.7 SEKI KEIGO 関 敬吾 (1899-­1990) Allievo di Yanagita Kunio, fu presidente dell'Associazione di letteratura orale (Kōshō bungeikai 口 承 文 芸 会 ) e pubblicò molti lavori su folklore e mukashibanashi, mantenendo un occhio di riguardo alla relazione esistente tra i due (da ricordare almeno le raccolte Nihon mukashibanashi shūsei e Nihon mukashibanashi taisei 日本昔話大成). Seki pone al centro del suo metodo di ricerca44 il confronto tra fiabe di paesi diversi, portando avanti ed ampliando le intuizioni avute da Shimazu e Yanagita. Anche la favola qui presa in esame non sarebbe una storia solamente giapponese, come afferma all'inizio del capitolo dedicatole nell'opera Nihon mukashibanashi no hikaku kenkyū intitolato Saru kani hanashi 猿蟹譚 45 . Egli riprende la classificazione proposta dal folklorista finlandese Antti Aarne (1867-­‐1925) nel saggio "Gli animali giramondo" (Die Tiere auf der Wanderschaft, 1913), il quale era riuscito ad individuare una famiglia di storie simili in tutto il mondo che aveva diviso in due gruppi: tipo asiatico46 e tipo europeo, quest'ultimo ulteriormente diviso in est europeo e ovest europeo. La forma base del tipo asiatico, sulla quale ci si concentrerà in questa sezione, corrisponderebbe alla seguente trama: Un uovo, uno scorpione, un ago, un escremento e un mortaio si incontrano durante un viaggio e decidono di mettersi insieme per giocare un brutto scherzo ad una vecchia. Approfittano di un momento d'assenza e si nascondono all'interno della sua casa. Quando la vecchia ritorna, viene ustionata dall'uovo che aspettava sopra il forno, morsa dallo scorpione spuntato fuori dalla tinozza d'acqua, punta dall'ago infilzato nel pavimento e, infine, scivolando sull'escremento vicino all'uscio, rimane uccisa schiacciata dal mortaio che cade dall'alto. Seki, dunque, riflette sul fatto che nonostante sia impossibile poter comprendere quale fosse la forma primaria dalla quale sono state originate le favole asiatiche, risulterebbe evidente che il mukashibanashi giapponese sarebbe una forma composita di 44 SEKI Keigo, Nihon mukashibanashi taisei -­ Dōbutsu mukashibanashi, vol.1, Tōkyō, Kakukawashoten, 1979. 45 SEKI Keigo, Nihon mukashibanashi no hikaku kenkyū, "Seki Keigo chosakushū", vol. 4, Dōhōsha shuppan, Tōkyō, 1980, pp. 66-­‐73. 46 Seki fa notare, tuttavia, che per il Giappone Aarne aveva selezionato solamente due versioni della favola, entrambe traduzioni di akahon. 29 due storie. Lo stesso processo di combinazione sarebbe successo in altri paesi: lo studioso riporta di seguito l'esempio della favola della popolazione Seran47. Una scimmia e una tartaruga vedono un albero di banana galleggiare vicino alla spiaggia; la tartaruga lo porta a riva e i due decidono di tagliarlo a metà e dividerselo. La scimmia prende la parte superiore, ma una volta mangiati i frutti la lascia seccare, mentre l'altra ripianta l'arbusto e lo coltiva con pazienza. Quando escono i primi frutti, non riuscendo ad arrampicarsi sull'albero, chiede aiuto alla scimmia che, però, le lancia solo le bucce delle banane che si mangia. La tartaruga si arrabbia, ma per vendicarsi aspetta il momento giusto: quando la rincontra, la convince con la propria dialettica a battere un alveare, facendo infuriare le api che la pungono senza pietà, mentre in un'altra occasione le fa mettere il capo dentro il guscio di un grande mollusco, che si chiude all'improvviso staccandole la testa. Secondo lo studioso, questa storia assomiglierebbe molto a quella di Saru kani, ma la seconda parte sarebbe più vicina al mukashibanashi Kachi kachi yama かちかち山 nella sua versione diffusa nel Tōhoku. Ad esempio, nel villaggio di Shizukuishi 雫石, situato nella regione di Iwate, un coniglio riesce ripetutamente a prendere in giro un orso mantenendo salva la vita, grazie all'ingegno e alla sua abilità oratoria. Altri casi di favole che hanno combinato il modello base individuato da Aarne con altre autoctone si troverebbero in Mongolia e Cina. Seki propone una storia mongola identica a quella rintracciata da Shimazu (presa dall'opera di Torii Michiko del 1927 土
俗学上より観たる蒙古 Do zokugaku jō yori mitaru mōko, per la trama si veda p.20) e una cinese presa dalla raccolta di fiabe48 di Hellmut Wihelm (1905-­‐1990), simile a quella trascritta nel saggio di Yanagita (presentata a p. 25). In questa si narra di due figlie che si difendono dall'attacco di un leopardo che ne ha divorato la madre e il fratello grazie ai doni che vengono loro fatti da un venditore di spilli, uno di uova e uno di pestelli, e da un cacciatore di scorpioni e uno di tartarughe. Seki riporta, dunque, i risultati della ricerca del nipponista tedesco Fritz Rumpf (1888-­‐1949), il quale, a partire dal confronto tra queste varianti della stessa favola, 47 Così trascritto in rōmaji nell'originale, non è però chiaro se si riferisca alle popolazioni indonesiane che vivono nella zona di Serang, nell'isola di Java, oppure a quelle della regione della Malesia denominata Selangor. 48 Non è, purtroppo, specificato il titolo. 30 aveva estrapolato quelli che considerava i punti essenziali del racconto, l'ultimo dei quali uguale per tutte le versioni analizzate: 1) un amico inganna l'altro e si comporta in modo crudele nei suoi confronti (tipo giapponese); 2) un animale selvatico prima tranquillizza un bambino per poi prendere le sembianze della madre con l'intento di ucciderlo (tipi cinese e mongolo); 3) la vittima si vendica con l'aiuto di animali, mobili e altro nascondendosi con loro nella casa. Il secondo punto, dice Seki, in Giappone si è legato ad altre storie, e allo stesso tempo il primo e il terzo punto esistono anche come mukashibanashi a sé stante. Nel caso del primo punto, come racconto indipendente viene portato ad esempio mochi arasoi, il quale si conclude con il granchio che si vendica da solo del torto subìto pinzando il sedere della scimmia, senza che vengano introdotti ulteriori personaggi a portargli aiuto. Similarmente si conclude la favola indonesiana della scimmia e del granchio che Seki trova nell'opera di Roland B. Dixon del 1916 "Oceanic mithology", già presa in considerazione da Shimazu (si veda p. 21). Nel caso, invece, del terzo punto isolato in un'unica favola vi sono i racconti indonesiani dell'isola di Sulawesi nei quali un gruppo di animali e oggetti decide, senza provare particolare rancore nei suoi confronti, di uccidere una vecchia. In India, a Mirzapur, si trova la storia di un ago che parte per vendicarsi di una tigre e, lungo la via, si uniscono a lui un bastone, uno scorpione, degli insetti e un escremento di vacca. Una tigre viene uccisa anche nella storia coreana presentata da Yanagita, che Seki legge dall'opera del 1930 Chōsen mintan shū 朝鮮民譚
集 di Son Shintai 孫晋泰. L'accurato lavoro di confronto tra fiabe di vari paesi operato da Seki Keigo si rivela molto interessante per riuscire a comprendere se tra le diverse versioni sia possibile individuare una base comune che potrebbe lasciar suggerire quale fosse la forma primitiva di Saru kani e fornire degli indizi su come essa sia cambiata una volta penetrata e stabilitasi nel territorio giapponese. 31 1.8 INADA KŌJI Inada Kōji, uno degli editori del Nihon mukashibanashi jiten e della raccolta Nihon mukashibanashi tsūkan, si interroga sul momento di formazione di Saru kani kassen, che ricerca attraverso la comparazione delle sue varie versioni presenti nell'Asia orientale e delineando con precisione le loro zone di diffusione49. Lo studioso lamenta, infatti, la mancanza di studi specifici sull'argomento, considerando insufficienti le poche informazioni giunte fino a noi dal periodo pre-­‐moderno: cita, in particolare, il Tanzennō 丹前能 di Nishizawa Ippū 西沢一風 (in cui si legge: saru to kani no furuki hanashi 猿と蟹
の古き話, "l'antica storia della scimmia e del granchio") e lo Enseki zasshi di Bakin (mukashi yori warahabe no sunaru monogatari 昔より童蒙(わらはべ)のすなる物語, "il raccconto per bambini esistente fin dall'antichità"). Facendo riferimento agli esemplari del Nihon mukashibanashi tsūkan 50 , Inada sottolinea, come già altri prima di lui avevano fatto, che la storia di Saru kani kassen è presente su tutto il territorio giapponese, con l'eccezione dell'arcipelago di Okinawa. Osserva, dunque, come le versioni mancanti della seconda parte del contrattacco degli aiutanti del granchio che lui definisce kaki arasoi -­ shiri hasami kata 柿争い̶尻はさみ型 (battaglia per i kaki: tipologia del sedere pinzato), si estendano e al contempo siano limitate a Kyūshū e Shikoku. Ricorda, inoltre, come Yanagita Kunio precedentemente avesse notato che uno dei sottotipi di questa versione, mochi arasoi -­ shiri hasami kata 餅争い̶尻はさみ型 fosse presente in un'area centrata sempre nel Kyūshū, andando a coincidere con quella di kaki arasoi -­ shiri hasami kata. Vengono, di seguito, presentati molti esempi della favola divisi per categorie. Innanzitutto, quella del dōbutsu kattō 動物葛藤 (conflitto tra animali), presente nelle isole di Filippine, Indonesia, Taiwan, Palao e Melanesia, che varia nei suoi dettagli ma nella quale la struttura in cui due personaggi (animali o demoni) litigano per del cibo (solitamente un frutto da albero). Inada osserva, inoltre, che simili racconti di faide tra animali dove, in particolare, il più piccolo riesce a prendere il sopravvento sul più forte grazie all'ingegno, si trovano in largo numero anche in opere letterarie quali le fiabe di 49 INADA Kōji, "'Saru kani kassen' no seiritsu", in Mukashibanashi no genryū, Tōkyō, Miyaishoten, 1997. 50 Raccolti a partire dal periodo Meiji. 32 Esopo e l'antica raccolta di favole indiana Pañchatantra. Al riguardo, cita un passo di Vladimir Propp, il quale sosteneva che inizialmente questo tipo di storie in cui il debole vince sul più forte sarebbero state più vicine alla formula magica e si sarebbero originate quando l'umanità era dedita ancora alla caccia e alla raccolta di frutta. La trasformazione in favola sarebbe avvenuta successivamente, quando la loro funzione di incantesimo venne ad estinguersi insieme con le credenze che le animavano. Allo stesso modo, secondo Inada, kaki arasoi -­ shiri hasami kata e mochi arasoi -­ shiri hasami kata si sarebbero originate nell'era in cui gli uomini erano ancora cacciatori-­‐raccoglitori, per poi diffondersi in tutta la zona dei mari meridionali avendo il Kyūshū come limite settentrionale. Successivamente, insieme alla cultura Yayoi penetrata nell'arcipelago giapponese, le favole di mochi arasoi si sarebbero consolidate non solo nel Kyūshū, ma anche nello Shikoku e nello Honshū, mentre kaki arasoi sarebbe rimasta solamente nella regione del Kyūshū, dove la precedente cultura Jōmon avrebbe mantenuto più forti le sue radici. Inada si sposta, dunque, alla seconda parte di Saru kani kassen, che indica con adauchi kata 仇 討 ち 型 , la quale non si lega solamente al suddetto mukashibanashi. Rintracciandone tutti i possibili esempi nel Nihon mukashibanashi tsūkan, egli osserva che: Yoriai ta 寄合田 è presente nello Honshū e principalmente nel Tōhoku; Saru no yatō 猿の夜盗 si trova in quasi tutte le regioni dello Honshū; Suzume no adauchi 雀の仇討 si estende dallo Honshū ad Okinawa; Kouma no adauchi 子馬の仇討 si limita alla parte occidentale dello Honshū e alle isole di Okinawa e, in particolare, nelle regioni di Fukuoka, Saga e Ōita i personaggi possono essere un cavallo, un bue o un umano e la storia sarebbe vicina ad una trasformazione del mukashibanashi Kouma to yamanba 子
馬と山姥 mentre in quelle di Iwate, Okayama e Kagawa anche in alcune versioni di Momotarō si trovano nella seconda parte l'aiuto di, ad esempio, un'alga konbu o un escremento. Questo motivo è presente anche in favole occidentali, tanto da essere stato incluso da Stith Thompson nel suo 'Motif-­‐Index of folk-­‐literature' al numero K1161 come "Animals hidden in various parts of a house attack owner with their characteristic powers and kill him when he enters". Presente su tutto l'arcipelago giapponese, a cominciare da alcune narrazioni della cultura Ainu, si ritrova anche in Cina, Sud-­‐est asiatico, India, Siberia e persino in America. Inada si concentra soprattutto su un esempio indiano presente 33 nell'opera sopra citata Pañchatantra, la quindicesima favola del primo volume intitolata "I passeri, il picchio, la mosca, il ranocchio e l'elefante". In questa, un elefante imbizzarrito distrugge l'albero su cui una coppia di passeri aveva costruito il proprio nido e deposto le uova, le quali finiscono tutte in frantumi. Avendo assistito alla tragica scena, il picchio cerca di consolarli, poi seduce una mosca e la fa sua alleata; questa, poi, convince a partecipare alla vendetta anche il suo amico ranocchio. Innanzitutto la mosca, con il suono delle sue ali, incanta l'elefante, al quale vengono rovinati gli occhi dal picchio, per poi essere condotto dalla rana verso un grande stagno dove morirà annegato. Secondo lo studioso, questa favola possederebbe uno spirito animistico primitivo il quale si sarebbe propagato fino all'arcipelago giapponese. Se il motivo K1161 è presente in Hokkaidō come kinan kokufuku hanashi 危難克服譚 (storia di sventato pericolo), nello Honshū esso è andato trasformandosi nella storia di Saru kani kassen, mentre nelle isole di Okinawa è andato affievolendosi sempre più fino a non rimanerne più traccia. Secondo Inada, dunque, Saru kani kassen sarebbe una storia creatasi nello Honshū e non vi è possibilità che sia stata importata dall'esterno. Il motivo K1161, continua, sarebbe nato agli albori della civiltà umana, quando gli uomini andavano in gruppo a caccia di grossi animali quali elefanti, mammuth o balene, e ognuno di loro partecipava con un determinato ruolo mettendo al servizio della comunità le proprie peculiari abilità. La prima e la seconda parte di Saru kani kassen si sarebbero unite non casualmente, ma da una comune ripresa di coscienza da parte dei narratori del medioevo o dell'inizio del periodo pre-­‐moderno, i quali avrebbero riportato alla memoria questo motivo comune conservato nella memoria collettiva per anni. Ad ulteriore riprova del fatto che il mukashibanashi si sarebbe formato in quel periodo sarebbe la totale assenza dello stesso dalle isole più meridionali dell'arcipelago giapponese. Il regno delle Ryūkyū51 e l'isola dello Honshū interruppero, infatti, le loro relazioni diplomatiche alla fine del nono secolo ed è impensabile, afferma lo studioso, che almeno una versione della favola non abbia raggiunto le isole meridionali durante i lunghi anni di scambi commerciali. Inada, dunque, conclude proponendo un possibile periodo di formazione di Saru kani kassen tra il XII-­‐XIII secolo e il XVIII secolo, ovvero cominciarono ad apparire le prime opere letterarie del mukashibanashi. 51 Prima dell'annessione al Giappone, le isole di Okinawa erano un regno indipendente ed autonomo. 34 1.9 ONOHARA TAKASHI Antropologo con un forte interesse per mukashibanashi e leggende, Onohara si concentra su un particolare di Saru kani kassen, quello della spiegazione del pelo presente sulle chele del granchio presente in alcune delle versioni orali52. Onohara si riferisce alle favole catalogate nel Nihon mukashibanashi taisei di Seki Keigo con i numeri 23 e 24 diffuse principalmente nel Kyūshū e intitolate rispettivamente Saru to kani no yoriai mochi 猿と蟹の寄合餅 (Il mochi in comune della scimmia e del granchio) e Saru kani kaki kassen 猿蟹柿合戦 (La battaglia della scimmia e del granchio per i kaki). Se la prima presenta una trama che coincide con quella del mochi arasoi, la seconda comincia con lo scambio tra i due animali del seme di kaki con l'onigiri, per continuare con il granchio che fa crescere l'albero, la scimmia che cerca di rubare i frutti ma grazie all'astuzia del crostaceo li fa cadere dall'albero, per concludersi come una nazebanashi. Onohara, quindi, riassume la trama di varie favole dal simile contenuto di animali che combattono per un frutto (categoria che denomina dōbutsu no kaijitsu arasoi 動物の果
実争い) presenti in molti paesi dell'Asia orientale, dalla Cina alle Filippine, dalla Micronesia all'Indonesia. Le coppie di protagonisti sono diversificate: scimmia-­‐tartaruga, topo-­‐suppon (Trionychidae, anche detta tartaruga dal guscio molle), topo-­‐granchio, ma anche scimmia-­‐granchio. Secondo lo studioso, la favola giapponese fa indubbiamente parte di questo filone asiatico; a riprova di ciò sarebbe il fatto che quando l'antagonista è una scimmia, sono maggiori i casi in cui a fare da controparte c'è un granchio. Si interroga, poi, sulla tipologia di granchio scelto per le due favole 23 e 24: si tratta dello Eriocheir Japonicus, in giapponese mokuzugani モクズガニ, il più grande tra i granchi giapponesi di acqua dolce, il quale presenta all'estremità delle chele anteriori una peluria dal colore molto simile a quella del pelo delle scimmie. Nonostante si possa trattare solamente di questa specie, Onohara fa notare che spesso all'interno del testo dei mukashibanashi venga semplicemente denominato kani, ma vi sono esempi in cui viene specificato, con vocaboli dialettali regionali, di che tipo di granchio si tratti: zugani (Tottori), yamadachigani (Fukuoka), yamagani o yamatarōgani (Kumamoto), tsugane o 52 ONOHARA Takashi, "'Saru kani kassen' to mokuzugani ― Saru to kani wa naze arasou ka", Densetsu denshōgaku, 13, 2005, pp. 114-­‐126. 35 yamatorogani (Saga), tsugani (Kagoshima). L'antropologo fornisce anche la citazione del kyōka 狂歌 del quattordicesimo volume dell'opera Kyōka saizō shū 狂歌才蔵集 di Ōta Nanpo 大田南畝 (1749-­‐1823), autore anche di gesaku e fine intellettuale: 焼めしの めしにかへつゝ かきのたね 柿八年が そのあいだ もくぞう蟹や 猿のしり53 Yakimeshi no meshi ni kahetsutsu kaki no tane kaki hachi nen ga sono aida mokuzōgani ya saru no shiri Il mokuzōgani non sarebbe altro che una variante dialettale della zona del Kantō per mokuzogani. Questo, sostiene Onohara, non dimostra che la versione fosse diffusa nel Kantō in periodo Tokugawa, ma fa capire che essa fosse conosciuta al pari di mukashibanashi quali Momotarō e Shitakiri suzume 舌切り雀. Storie dal contenuto quasi identico e con il medesimo finale sono state rinvenute dallo studioso anche nella penisola coreana e in Cina, ad esempio nella regione dello Zhejiang dove la storia si differenzia da quella di Saru kani kaki kassen solamente per la sostituzione del seme di kaki con un seme di pesco. Onohara non esclude l'ipotesi che la favola sia stata esportata dal Giappone al continente, ma fa un'ulteriore osservazione estremamente interessante: nonostante al giorno d'oggi la specie di Eriocheir Japonicus sia diffusa anche in Europa ed America, in origine essa era presente nella zona alquanto limitata compresa tra le isole Sakhalin, scendendo giù per l'arcipelago giapponese, la parte meridionale della Corea, Taiwan, fino all'area di Hong Kong. Inoltre, una specie simile a questa, la Eriocheir Sinensis, si trova sulle coste della Cina continentale comprendendo la riviera occidentale della penisola coreana. La zona di divulgazione della favola, dunque, corrisponderebbe con quella di diffusione del crostaceo suo protagonista. Onohara conclude affermando che probabilmente la stessa favola esisteva su tutto il territorio giapponese, ma col tempo la sua narrazione è andata affievolendosi, in favore di altre versioni di Saru kani kassen; se nel Kyūshū la sua presenza sarebbe ancora forte è perchè forte sarebbe rimasto il legame della popolazione locale con il mokuzugani, a NAKANO Mitsutoshi, HINO Tatsuo, Ibi kōkō (chū), Neboke sensei bunshū; Kyōka saizō shū; Yomo no aka (Ōta Nanpō cho), "Shin nihon koten bungaku taikei", 84, Tōkyō, Iwanamishoten, 1993, p. 229. 53
36 contrario delle altre zone del Giappone dove lo spirito di osservazione delle persone si sarebbe allontanato sempre più dal mondo naturale. 1.10 SAWAI TAIZŌ Nonostante al centro della ricerca di Sawai Taizō, professore all'università Aichi, si trovino principalmente la letteratura medioevale e di inizio era pre-­‐moderna, tra il 1999 e il 2011 egli dedica una serie di articoli a trascrizioni e commentari di opere di tardo periodo Tokugawa che hanno per soggetto la storia di Saru kani kassen. Tra questi, oltre alla presentazione di un emaki che potrebbe essere l'esemplare di documento scritto più antico che ne attesti l'esistenza, l'ultimo 54 ad essere uscito fornisce una meticolosa lista di tutti i testi che trattano il mukashibanashi dall'inizio del diciottesimo secolo fino agli ultimi anni dell'ottocento. L'obiettivo di Sawai era di individuare le opere letterarie che vedono la storia di Saru kani kassen avvicinarsi a quella di Momotarō, con l'intento di dimostrare che non si tratta di eccezioni isolate, ma di un vero e proprio filone autonomo centrato nell'area del Kamigata ed estintosi solo nell'era Meiji (1868-­‐1912). Queste storie spesso hanno come titolo Saru ga shima katakiuchi 猿ヶ嶋敵討 (Vendetta all'isola delle Scimmie), sono sprovviste della prima parte con lo scambio tra i due animali e vedono il granchio partire da solo alla volta dell'isola del nemico dopo essere stato ferito dalla scimmia; lungo la via, però, ottiene l'aiuto di alcuni personaggi consegnando loro dei kibidango. Nota, inoltra, che tra questi vi sono sempre una castagna al posto dell'uovo e un mortaio a macina. L'elenco di queste opere viene in parte riproposto, riorganizzato cronologicamente, alle pp. XX-­‐YY ed è stato utilizzato per raccogliere il materiale di cui si discuterà nel secondo capitolo di questa tesi. SAWAI Taizō, " 'Saru kani kassen' no iden to rufu: 'Saru ga shima katakiuchi' kō", Kinsei bungei, 93, 2011-­‐
01, pp. 45-­‐58. 54
37 1.11 HANABE HIDEO Professore dell'università Kokugakuin specializzato nella letteratura orale e nel folklore giapponesi, Hanabe Hideo pubblica nel 2012 un interessante articolo55 sulla relazione tra i due mukashibanashi Saru kani kassen e Momotarō, ricostruita a partire dalla disamina di numerose versioni orali di fiabe che ne intrecciano le trame. Dopo un breve excursus sullo stato dell'arte della ricerca su Momotarō, Hanabe presenta un riassunto delle caratteristiche della storia e delle varianti regionali che si possono trovare in vece del più diffuso modello di svolgimento degli eventi, divise nelle tre categorie già proposte da Seki Keigo56: nascita (tanjō 誕生), compagni e scopo di viaggio (nakama to kadai 仲間と課題) e conclusione (ketsumatsu 結末). In particolare, all'interno della seconda categoria si legge che in versioni della fiabe collezionate nelle aree di Iwate, Tōkyō, Hyōgo, Fukuoka, Tottori e Ehime ad accompagnare Momotarō nel suo viaggio sono, per citarne alcuni, una castagna, un mortaio, un granchio. Nonostante Yanagita Kunio e Takagi Toshio 高木敏雄 (1876-­‐1922), ricorda Hanabe, non menzionino queste versioni nei loro studi e Iwaya Sazanami 巖谷小波 (1870-­‐1933) si trovi d'accordo con Kurushima Takehiko nell'affermare che nella storia principale di Momotarō si sia stata innestata quella secondaria di Saru kani, Kita Sadakichi 喜田貞吉 (1871-­‐1939) nel 1913 scrive nel numero di luglio della rivista Kyōdo kenkyū 郷土研究 quanto segue: 今日では学校の教科書や、少年雑誌の普及のお蔭で、小生の郷里の子供でも英雄桃太郎を口
に致し候へども、小生の子供の自分には、少なくも阿波国などでは、一向知らなかった事に
候。その代わり桃太郎話の中の筋は、猿蟹合戦の話と混同して語り伝へられて居り候。猿蟹
合戦といふ名も実は阿波にはなかったものにて候。小生らは之を「猿が島敵討」と教えられ
たものにて、蟹の子が桃太郎もどきに天下一の吉備団子を腰に付け、栗(卵にあらず)や、
剪刀や挽臼(立臼にあらず)が犬、雉、猿の代わりにそれを半分づゝ貰つて家来になるとい
ふ筋に出来て居り候。57 55 HANABE Hideo, "Momotarō no sujō: Ajia no "Saru kani kassen" to no hikaku kara", Kokugakuin zasshi, 11, 5, 2012, pp.1-­‐17. 56 In 関敬吾、「桃太郎の郷土」、『 関敬吾著作集4』、同朋舎、1980年. 57 HANABE, "Momotarō..., op.cit., p. 8. 38 Al giorno d'oggi, grazie ai libri di testo scolastici e alla diffusione dei giornali per ragazzi, anche i bambini del mio villaggio natale raccontano [la storia] dell'eroe Momotarō. Tuttavia, quando ero piccolo io, almeno nel paese di Awa58 questa storia era completamente sconosciuta. Al suo posto, veniva tramandato un racconto che all'interno della trama della storia di Momotarō mischiava quella di Saru kani kassen. Il titolo stesso di Saru kani kassen in realtà ad Awa non esisteva. Da noi questa veniva insegnata come 'Saru ga shima katakiuchi', dalla trama seguente: i figli del granchio porta al fianco i kibidango più buoni del paese alla maniera di Momotarō e, invece del cane, del fagiano e della scimmia, una castagna (non un uovo), un paio di forbici e un mortaio a macina (e non a pesto) ne ricevono metà e diventano suoi vassalli. Questa trama sarebbe molto simile a quella del libro illustrato di fine periodo Edo presentato da Sawai Taizō59, ma Hanabe riconosce la difficoltà di poter giudicare se sia stata la versione tramandata verbalmente ad aver ispirato l'opera letteraria o se sia stata la lettera scritta ad aver inaugurato una tradizione orale. Hanabe organizza gli esempi raccolti di questo tipo di Momotarō/Saru kani kassen in una tabella che si riporta qui di seguito: Imm. 3: tabella 'Momotarō/Saru kani kassen' 60 58 Oggi fa parte della regione di Tokushima, nella parte settentrionale dello Shikoku. 59 SAWAI Taizō, "Nihon mukashibanashi ni kansuru shiryō nōto: 'Saru kani kassen' 'Tengu no uchiwa' ", Literary symposium, 120, 1999-­‐12, pp. 78-­‐81. 60 HANABE, "Momotarō..., op.cit., p. 8.p.10. 39 Dal fatto che sono presenti solamente in quattro degli esempi raccolti, conclude lo studioso, gli aiutanti cane-­‐fagiano-­‐scimmia non sarebbero originari, ma aggiunti successivamente a quelli resi famosi da Saru kani: castagna, ago, ape, escremento di vacca, mortaio. In aggiunta a ciò, egli nota, consultando il Nihon mukashibanashi tsūkan, che sia che questi ultimi decidano di accompagnare il figlio del granchio all'Isola delle Scimmie, sia che si preparino ad accogliere la scimmia nella tana del granchio (come, ad esempio, nella seconda parte di mochi arasoi), gli esemplari di favole in cui decidono di prestare il proprio aiuto in cambio di kibidango si trovano nelle regioni di Fukushima, Gunma, Niigata, Ishikawa, Okayama, Hiroshima, Tottori, Kōchi e Kumamoto. Considerando questo particolare comune ai due mukashibanashi pregno di significato, Hanabe analizza, dunque, i racconti in coppia cercando di invertire il punto di vista. Per quello che riguarda la spedizione punitiva verso il luogo del nemico, egli ritiene che l'Isola dei Demoni di Momotarō non sia affatto di natura diversa da quella dell'Isola delle Scimmie di Saru kani kassen. Anzi, se nel secondo caso dietro alla decisione di partire vi è una motivazione di vendetta, nel caso di Momotarō, secondo lo studioso, si può dire che manchi un movente realistico che giustifichi l'impresa. Ampliando il discorso alle favole asiatiche, Hanabe ricorda, tra gli altri, uno studio del 2010 di Onohara Takashi61 in cui si osservava che storie in cui un protagonista parte per un viaggio conducendo degli aiutanti con sé si trovano in Cina e zone limitrofe. Racconti simili, inoltre, sono diffuse anche in altre aree orientali del continente, in particolare dalla penisola dell'Indocina alla Cina sud-­‐occidentale, dalla Cina settentrionale alla Siberia. Alle favole raccolte in questo studio e in quello presentato nella sezione precedente da Inada Kōji, Hanabe ne aggiunge altre e le riorganizza in uno schema, divise per paese (Cina, Mongolia, Siberia, Ainu, Taiwan, Corea, Vietnam, Thailandia, Filippine, Palau, Indonesia, Bhutan e India), tema e personaggi: 61 斧 原孝守、「チベット族の昔話と「桃太郎」の源流-­‐-­‐黍団子と三匹のお伴をめぐって」、 承学、第18巻、2010年、pp.158-­‐169. 40 説話・伝
Imm. 4: tabella 'favole asiatiche' 62 Lo studioso conclude osservando che nell'Asia sud-­‐orientale (da Taiwan alle coste cinesi, dalla Thailandia alle Filippine, fino all'Indonesia) è presente solamente la tipologia del tabemono arasoi 食物争い (battaglia per il cibo), dove un animale (a nord un granchio, a sud una tartaruga) si prende da solo la rivincita su un altro più forte (solitamente una scimmia); nel continente, invece, nella seconda parte al protagonista vessato (ad esempio un'anziana o un uccello) vengono in aiuto altri personaggi per attuare un piano di vendetta. Questi due filoni potrebbero entrambi essere partiti dall'India, come, viene ricordato, proponeva Robert J. Adams 63 , andandosi poi a sovrapporre con la tipologia di spedizione contro mostri, kaibutsu taijibanashi 怪物退治
譚 (che Onohara ha denominato eiyū kata 英雄型, tipo dell'eroe), originatasi nella Cina settentrionale. L'arcipelago giapponese, trovandosi in mezzo a queste due correnti provenienti dal nord e dal sud, le avrebbe assorbite ma al tempo stesso manipolate e trasformate in maniera affatto personale. Conseguentemente, secondo Hanabe, Momotarō sarebbe un sotto-­‐tipo di questo filone che si sarebbe poi evoluto nella moderna Saru kani kassen. A riprova di ciò, vi sarebbero alcune fiabe presenti nelle isole 62 HANABE, "Momotarō..., op.cit., p. 14.
63 ロバート・J・アダムス、「昔話と南九州に伝わった太平洋文化」、『東アジアの古代文化別冊 集西南日本の古代文化』、東京、大和書房、1977年. 41 特
sud-­‐occidentali del Giappone: dall'isola di Okinoerabu della regione di Kagoshima a quelle più meridionali di Okinawa, vi sono diversi racconti di due animali o due umani che litigano dopo aver ritrovato un seme di pesca ed aver cresciuto l'albero insieme (momo arasoi 桃争い). L'anello di congiunzione con il continente sarebbe da ricercarsi in alcune favole cinesi (che già aveva individuato Onohara -­‐vedi sezione 1.8) che terminano con la spiegazione del perchè i granchi hanno il pelo sulle chele, le quali hanno per oggetto della contesa non dei kaki, ma, appunto, delle pesche. 42 CAPITOLO 2: TESTI DI PERIODO TOKUGAWA Di seguito si presentano i testi di periodo Tokugawa che propongono la storia di Saru kani kassen o che prendono spunto dalla sua trama per la creazione di opere anche non necessariamente vicine al genere del mukashibanashi. Nel corso di questo capitolo, al fine di una più agevole analisi, i testi sono stati divisi, sebbene in modo arbitrario, in quattro sezioni: la prima presenta quelli più antichi, principalmente akahon, kurohon, aobon e manoscritti tra cui un emaki, e va dall'inizio del diciottesimo secolo fino al 1775; la seconda tratta soprattutto kibyōshi e pertanto comprende gli anni dal 1775 al 1806; nella terza sezione si vedranno opere della prima metà dell'ottocento, dai gōkan agli zuihitsu, ai testi in kanbun; infine, nella quarta ed ultima sezione si raccolgono mamehon e stampe quali nishikie, omochae, sugoroku, oltre a un secondo esemplare di emaki.
Le domande teoretiche riproposte per ognuna delle sezioni che hanno accompagnato questa operazione di lettura e analisi sono state le seguenti:
• quali sono gli elementi che rimangono costanti per tutti i testi?
• come cambiano trama e personaggi?
• che cosa è considerato medetai alla fine della narrazione?
• nel caso degli ehon, vi sono cambiamenti sostanziali nelle illustrazioni (resa antropomorfica dei personaggi, vestiti, ambientazioni)?
La cernita dei suddetti testi è stata possibile grazie all'elenco fornito dal saggio di Sawai Taizō di cui si è già parlato nel capitolo precedente alla sezione 10. Di seguito a questa introduzione, nella tabella 1, si propone tale elenco riorganizzato cronologicamente, nel quale vengono indicate altre informazioni (nell'ordine: anno di composizione/pubblicazione, tipologia di testo, titolo, autore/illustratore, formato) reperite dal saggio stesso, dal catalogo online di testi giapponesi pre-­‐moderni del Kokubungaku kenkyū shiryōkan, o dalle fonti secondarie attraverso le quali si è reperito il documento stesso. Per facilitare la citazione dei testi si è scelto di numerarli in ordine cronologico1; i testi non più esistenti dei quali rimane solamente il titolo sono stati scritti 1 Nel caso in cui la data di pubblicazione o di composizione di un'opera non fosse certa, ma se ne conoscano l'autore o l'illustratore, si è scelto di collocare nella tabella l'opera tenendo conto del periodo di attività di questi ultimi.
43
in corsivo e non sono stati enumerati, ma invece indicati con il simbolo '★'. Compresi questi ultimi, i testi che non è stato possibile visionare sono stati contrassegnati nella tabella dal colore grigio; in questo caso le informazioni reperite su di essi nelle tabelle successive e nel testo del capitolo provengono dal saggio di Sawai. Sotto ad alcuni titoli, tra parentesi, vengono indicati titoli alternativi. Le biblioteche e le collezioni presso cui sono conservati i testi sono stati raccolti ed elencati alla fine del capitolo, a partire da pagina 103.
Nell'analisi seguente, tuttavia, non sono stati presi in larga considerazione kyōka e haikai, in quanto la brevità dei testi non ha permesso di reperire ulteriori informazioni utili riguardo alla trama e al messaggio trasmesso, nonostante spesso sia facilmente possibile ricondurli a uno dei due filoni di Saru kani.
La seconda e la terza tabella non vengono proposte con l'intento di presentare un quadro preciso e completo del contenuto dei testi presi in esame, quanto invece per fornire un colpo d'occhio sull'evoluzione della storia nel tempo, nonché per permettere una più rapida operazione di comparazione tra i testi stessi. In queste, le opere non più esistenti non sono state prese in considerazione.
La seconda tabella riassume quali siano i personaggi presenti all'interno della storia nel ruolo di aiutanti del granchio, mentre nell'ultima colonna si indica se il granchio partecipi o meno all'attacco finale ai danni della scimmia. Nell'ordine, i personaggi elencati sono: mortaio, pestello, ape, ago, castagna, uovo, coltello, forbici, alga, escremento, serpente, altro (specificando sotto di che oggetti o animali si tratti), partecipazione del granchio. Nel caso nel testo venga esplicitamente specificato un tipo preciso di oggetto -­‐o animale-­‐, o ancora nel caso in cui i personaggi non siano esattamente coincidenti con quelli indicati in cima alla colonna, tale informazione è stata scritta nella parte inferiore della casella.
Nella terza tabella si forniscono tre tipi di informazioni. Innanzitutto si riferisce della classificazione operata da Sawai, il quale divide i testi in due filoni, 'saru kani kassen' e 'saru ga shima'. Nel primo gli elementi costanti sono: scambio iniziale tra il granchio e la scimmia di onigiri e seme di kaki; mortaio (con pestello), ape e uovo (talvolta sostituito da un igaguri) sempre inclusi tra gli aiutanti; finale con l'attacco combinato degli aiutanti nascosti all'interno della casa della scimmia. Nel filone 'saru ga shima', invece, si trovano le seguenti caratteristiche: assenza della scena iniziale dello scambio tra i due animali; partenza del granchio per l'Isola delle Scimmie dopo il torto subìto; consegna di kibidango ai personaggi che poi diverranno suoi vassalli; mortaio a macina, castagna, 44
coltello o forbici tra gli aiutanti; assenza, nella maggior parte dei casi, della scena dell'attacco in successione degli oggetti a favore di una battaglia finale in cui tutto i personaggi partecipano insieme all'azione o di un finale in cui viene semplicemente spiegato che, approdando all'Isola delle Scimmie, il granchio riuscì a portare a termine la sua vendetta. Nella seconda colonna, invece, si indica se il granchio muoia o meno in conseguenza al lancio di kaki della scimmia, e di conseguenza se a completare la vendetta sia il granchio stesso oppure il figlio. Con un triangolo sono state segnalate le opere in cui il granchio muore in maniera anomala (ad esempio, se si tratta di suicidio o se dopo essere morto resuscita). Nella terza colonna, infine, sono stati fedelmente trascritti i finali delle opere o, nel caso la storia di Saru kani kassen consista semplicemente in un episodio all'interno di un testo più complesso, il finale della vicenda del granchio e della scimmia. Nel caso la trascizione non sia stata ripresa da una pubblicazione, ma sia opera dell'autore, questa è stata racchiusa tra parentesi angolate. Quando, invece, al posto di una trascrizione è stato inserito un commento (soprattutto quando nell'ultimo chō vi siano solo dialoghi o l'opera consista solo in immagini), questo è stato incluso tra parentesi quadre. 45
TABELLA 1: Elenco delle opere che trattano Saru kani kassen 1 宝永頃 (1704-1711) 赤本 猿蟹合戦 ? 猿ヶ嶌敵討 久城春台? 奥村政信画 十二枚 西村重長画 二巻 2 1715 絵巻 3 1715? 絵 4 享保頃 赤本 (1716-1736) 1727 赤本 ★ ? 17251760 再版: 宝暦 明和頃 赤本 6 さるかにかっせん さるがしまかたきうち 奥村古絵
おくむらふるえ 猿蟹合戦 ★
5 滝沢馬琴の
『燕石雑
志』と 森島中良の
『寸錦雑
綴』に引用 黒本 さるかにかっせん (さるかに合戦 さるかにかっせん) 猿蟹合戦 近藤清春画 さるかにかっせん さるかに 鳥居清信二世画 蟹金猿栄 鳥居清倍画 かにはかねさるはさかえ 黒本 青本 目附絵猿蟹合戦 (1751-1771) めつけえさるかにかっせん 1752 黒本 猿蟹夢物語 7 1753 読本 桃太郎物語 8 1759ころ 絵本 絵本猿島六本杉 さるかにゆめものがたり ももたろうものがたり えほんさるがしまろっぽんすぎ 一巻 一巻 ? 二巻 (全九丁半・
十は半丁) ? 三巻 (猿蟹合戦 さるかにかっせん) ★ 一巻 布袋室主人作 西村重長画 ? 五巻五冊 六丁 (末丁欠か) 今様噺猿蟹合戦 9 ? ★
1763 10 1764 11 1764 絵本 歌舞伎 いまようばなしさるかにかっせん (化物今様噺 ばけものいまようばな
し) 猿が嶋かたきうち 大坂 竹田座 さるがしまかたきうち 歌舞伎 京都 嵐松之
丞座 昔真向猿島敵討 むかしまっこうさるがしまのかたきうち 絵本番附 昔真向猿島敵討 むかしまっこうさるがしまのかたきうち 12 1772頃 和文 そそくり物語 写本 そそくりものがたり 13 ? 説話 14 1776 黄表紙 15 1781 黄表紙 写本 めのとものかたり むかしむかしさるとかに かみ様内にか/蟹牛房挾多 かみさんうちにか/かにがごぼうはさん
だ 46
□山氏筆作? 岡山繁信画? 七丁 ? ?
? 一冊 成島峯雄(成島
衡山)等著 住吉広美画 藤原利陳 (猿蟹合戦の事) 鳥居清経画 市場通笑作 鳥居清長画 二冊 一冊 二巻 三巻 交古世むかし噺 16 1781 黄表紙 まぜこぜむかしばなし 芝全交一世 二巻 鳥居清経画 二巻 恋川春町一世 二巻 ? 一巻 (交古世昔咄・交古勢昔咄) 17 18 1781 黄表紙 往古新今/桃と酒雀道成寺 おうこしんこん/ももとさけすずめどう
じょうじ 浦島が帰郷八島の入水/猿蟹遠
昔噺 1783 黄表紙 ★
? 赤本 黒本 青本 猿蟹大合戦 19 1787 狂歌 狂歌才蔵集、「猿蟹」 20 1788 黄表紙 ★
1791 絵題簽のみ うらしまがききょうやしまのじゅすい/
さるにかにとおいむかしばなし さるかにおおかっせん きょうかさいぞうしゅう、さるかに 小倉山時雨珍説 おぐらやましぐれのちんせつ 新版猿蟹合戦 しんぱんさるかにかっせん 大田南畝 山東京伝 二冊 ? 含餳記事 21 1792 漢文 版本 がんとうきじ (台州先生含餳紀事 たいしゅうせ
んせいがんとうきじ) 22 1793 黄表紙 昔語銚子浜 23 1794 黄表紙 百人一首戯講釈 むかしばなしちょうしのはま ひゃくにんいっしゅおどけこうしゃく 増補獼猴蟹合戦 24 1798 黄表紙 ぞうほさるかにかっせん (増補猿蟹合戦) 島村蟹湊仇撃 25 1807 合巻 しまむらがにみなとのあだうち (島村蟹水門仇撃) 蟹猿奇談 かいえんきだん 26 1807 読本 27 1808 読本 (復讐昔説蟹猿奇談 ふくしゅうむ
かしばなしかいえんき、絵本蟹猿奇
談 えほんかいえんきだん、昔咄蟹
猿奇談 むかしばなしかいえんきだん) 春雨物語** 28 1809 俳諧 暁台句集・上、「蟹取歌」 29 1811 随筆 燕石雑志 はるさめものがたり ぎょうたいくしゅう 熊阪台州 森羅亭万宝 (七珍万宝)作 歌川豊国一世画 芝全交一世作 山東京伝校 歌川豊国一世画 傀儡子 (曲亭馬琴)作 北尾重政一世画 三巻 三巻 二巻 曲亭馬琴作 歌川豊広画 前編三巻 後編三巻 栗杖亭鬼卵作 青陽斎蘆国 (浅山蘆国)画 五巻五冊 上田秋成 五巻 久村暁台 滝沢解(曲亭馬
琴) えんせきざっし 三巻一冊 五巻六冊 47
30 1814 随筆 骨董集 31 1814 32 ? 狂歌 漢文 掛け軸 めざめぐさ 解師切袁図 33 1824 合巻 童蒙話赤本事始 34 1830 猿蟹ものがたり 35 1845頃 戯文・ 狂歌 漢文 狂文 せきせきしゅんじゅう 36 1847 随筆 写本 雛廼宇計木 37 1850 合巻 昔咄猿蟹合戦 38 嘉永 安政頃 おもちゃ絵 39 1851 雑俳 画口合瓢之蔓・上 40 1853 おもちゃ絵 昔咄さるかに合戦 41 1854 42 1857 錦絵 (死絵) 錦絵 こっとうしゅう かいしばつえんず わらべはなしあかほんじし さるかにものがたり 昔昔春秋 ひなのうけぎ むかしばなしさるかにかっせん 新板昔々さるかに咄し しんぱんむかしむかしさるかにばなし えぐちあわせひさごのつる むかしばなしさるかにかっせん むかしはなしさるかにかっせ
ん 昔ばなし一覧図会 むかしばなしいちらんずえ 岩瀬醒(山東京
伝)作 喜多武清・ 歌川豊広・ 岩瀬京山(山東
京山)等画 雨亭作 中井履軒作 岩崎象外画 曲亭馬琴作 歌
川国貞(歌川豊
国三世)画 六々園春足 (遠藤春足)作 赤井東海作 瑞烏園斎守 (賀茂規清)作 仮名垣魯文作 一光斎芳盛画 歌川国郷画 雲和亭主人湖竜
さ作 松川半山画 三巻四冊 縦205.3 横58.7 三編六巻 一冊 一冊 三冊 二巻一冊 大判 歌川芳綱画 大判 歌川豊国画 大判 歌川重宣 (広重二代)画 大判3枚続 童話長篇 43 1857 狂文 どうわちょうへん 1858 (童話考 どうわこう) 新版さるかに合戦 おもちゃ絵 45 1859 雑俳 芽吹柳 46 安政末
慶應頃 錦絵 昔噺猿ケ島/昔咄さるがしま 47 1860 錦絵 猿蟹敵討之図 48 1860 双六 昔咄赤本寿語録 44 しんぱんさるかにかっせん めぶきやなぎ むかしばなしさるがしま さるかにかたきうちのず むかしばなしあかほんすごろく 48
黒沢翁満作 一冊 年々坊叟夫(叟
夫)、雪光庵素
洲(素洲)等 ? 大判3枚続 歌川芳幾画 大判3枚続 歌川芳幾画 大判タテ4枚
貼 猿ヶ島敵討 49 文久年間 中本 50 1862 51 さるがしまかたきうち (敵討猿ヶ島 かたきうちさるがし
ま) 一斎画 豆本 昔ばなし・さるかにかっせん ?
1864? 瓦版 猿か嶋敵討 52 幕末 俳諧 53 幕末* 双六 さるかにむかしはなし 新版猿ヶ嶋敵討飛廻双六 54 幕末 豆本 柿の種猿蟹はなし 55 幕末 小本 猿ヶ島 56 幕末 おもちゃ絵 歌川国芳画 ★
幕末 咄本 さるかに合戦 さるかにかっせん 善悪猿蟹咄 57 幕末 58 幕末 豆本 猿かに合戦 歌川国網画 59 幕末 豆本 復讐猿ヶ嶋 60 幕末 豆本 桃太郎 むかしばなし・さるかにかっせん さるかしまかたきうち しんぱんさるがしまかたきうちひまわり
すごろく かきのたねさるかにはなし さるがしま ぜんあくさるかにばなし 無可誌噺/猿蟹物語 むかしばなし/さるかにものがたり さるかにかっせん ふくしゅうさるがしま ももたろう 一冊 十二冊の 一冊(5丁) 3 3cm ?
? 42
一巻八丁 10.5 7.5cm 一冊 二代目十返舎一
九草稿 11.5
61 幕末 絵巻 猿蟹合戦絵巻 常酔翁柹團
* : Nel Kotenseki tenkan dainyūsatsu mokuroku viene tuttavia indicato come 江戸中期. ** : È possibile pensare ad un errore da parte di Sawai, in quanto nello Haruzame monogatari non si è riusciti a rintracciare l'episodio su Saru kani kassen di cui parla nel suo saggio. 49
54cm 8cm TABELLA 2: Personaggi aiutanti e presenza del granchio nella scena della vendetta
作
品 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 臼 杵 蜂 針 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 立臼 ○ 搗臼 石臼 立臼 立臼 立臼 ○ 立臼 ○ 挽臼 ○ 石臼 ○ ○ 立臼 栗 ○ 毬栗 卵 包丁 鋏 海藻 糞 蛇 その他 ○ 小かた ○ ミル 蟹も 参加 ○ ○ ○ ○ 真魚箸 毬栗 ○ 真名板, 杓子, 擂粉木 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 蛸 ○ 最初の戦 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 菜刀 ○ ○ ? ○ 荒布 ○ ○ ○ 熊蜂 熊蜂 毬栗 ○ 山蜂 ○ 毬栗 ○ 毬栗 ○ 毬栗 荒布 荒布 荒布 荒布 行灯 14 15 16 17 18 19 ○ ○ ○ ? ○ ○ ○ ○ 20 ○ ○ ○ 荒布 21 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 23 ○ ○ 24 ○ ○ ○ 25 ○ ○ ○ ○ ○ 26 ○ 27 22 立臼 ○ 熊蜂,
山蜂 50
荒布 荒布 鶴,亀 棒 桃太郎,兎,
犬,雉 ○ 28 29 ○ ○ ○ ○ 31 ○ 石臼 32 ○ 麻石 ○ ○ ○ 33 ○ ○ 34 ○ ○ ○ 35 ○ ○ ○ ○ 30 36 立臼 37 38 39 40 41 42 ○ ○ ○ ○ ○ ○ 43 ○ 横臼 44 45 ○ ○ 荒布 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ◎ ○ ◎ (序文) 真名板 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ? ○ ○ ○ 刀前 (序文) 荒布 黒菜子 雉,犬,兎,
魚,桃太郎,
等 46 ○ ○ ○ ○ 47 ○ ○ ○ 48 ○ ○ ? 50 51 52 ○ ○ 石臼 ○ ○ ○ 53 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 61 ○ 立臼 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 荒布 49 54 55 56 57 58 59 60 丹波栗 51
○ 兎,鷄,猫,等 桃太郎等 ○ 細引 ○ TABELLA 3: Contenuto dei testi (classificazione di Sawai; morte del granchio; finale***) 作
品 沢井 蟹が死ぬ 1 猿蟹合戦 ? 2 猿ヶ島 3 4 5 (猿蟹) (猿蟹) 猿蟹合戦 6 猿蟹合戦 7 猿蟹合戦 ○ 8 (猿ヶ島) 9 猿ヶ島 10 猿ヶ島 ? △ 11 猿ヶ島 12 猿蟹合戦 13 (猿蟹) 14 猿蟹合戦 15 猿蟹合戦 16 猿蟹合戦 ? 甲にあたりみ
しんとなる 殺された蟹の
魂が人間の体
を借りる 結末 <其ひまに立うすお□□ひて、さるを取ておさへ残
る。やつばら手きねかゝつて、おつちらし。皆々し
ゆく所へかへりけり>(五丁裏欠) つきうす、上よりおちかさなり、なんなくましらを
うちとりける、蟹のけんそく、すゑ繁昌とそきこへ
る さるにげる [猿が臼におさめられているところに話が終わる] [猿が臼におさめられているところに話が終わる] 立臼、魚楽という身にて押さえける。ついに蟹、か
たきを討つ。ここに又、蛸の芋堀は、岡へ上る所
を、この年月、猿に眷属を取られ、干蛸となしたる
恨み、この時なり、とて、ごぼう焼いて猿の尻へお
っつけ、とどめをさす。 蟹がとび出(いで)はさむやらたちうすはころびおち
蟹はかたきをうちとりてよろこひいさみかたかたに
礼義をのべもとの浜辺にかへる〔 〕 蟹は喜び限りなく、芝居の者ども大きに勇みて、猿
を退治したればとて、やくしを猿楽と祝わんと、太
夫元、総座中、「狂言・操り、繁盛の吉相めでたし
めでたし」と言う〔 〕 泡吹蟹大夫が妄念、いろいろと化け出で、こけ猿に
業をなす。こけ猿難儀。〔 〕 (最後の丁欠) ? / 蟹はうれしくて、もろはさみにはさみふせて、終
に、ほゐ(本意)をとけぬとかや。〔 〕 <さるかになり、むつましくなり、ほうらいのまいを
まわんとよろこび、めでたけれ> <かにがせわにて[さるの]ふうふの中もなをし、た
がいに中よくさかゑけり。御子様方のおはなしにさ
るのかたきをうちしとは、あふまちがい〔 〕> 蟹は駆けつけ来たり、「おめゝが嫉妬深きもわれゆ
へ、また猿殿の敵と狙はるゝも親不孝の道。そのい
にしへ、親猿を討ちしも同じ道理。いつまでもかわ
りがわり敵を狙いても果てが尽かぬ」とかんしんし
て、切腹するぞ哀れなり。〔 〕 52
17 猿蟹合戦 18 猿蟹合戦 19 (猿蟹) 20 猿蟹合戦 21 猿ヶ島 22 (猿蟹) 23 (猿蟹) 24 猿蟹合戦 25 酒呑童子 26 (猿ヶ島) ○ 27 28 猿ヶ島 猿ヶ島 / 29 猿蟹合戦 30 31 32 / 猿ヶ島 猿ヶ島 / ○ △ [自殺] △ 得起きず / / ○ <かにが、おいどへはいこむたれぞとつてくれろくれ
ろ。さるとては、むごいきやうげんだぞ〔 〕> 平家蟹の働きにて乙姫の生肝元のごとくに戻り、本
復し給ひしかば、父七代龍王喜び給ひ、安徳天皇を
八代目の龍王とし、能登の守教経蟹を執権職とし安
徳天皇御疱瘡前なれば、猿をお守役となし〔 〕 / 猿丸は、とぼ口より逃げんとせしが、荒布にて滑り
しところに、上より杵落ち、頭を打ち壊す。三条の
右大臣はすかさず、囲炉裏にて店の牛蒡を焼き、猿
丸が尻へおつつけて、なんなく敵を討つ。〔 〕 杵丈夫・臼力士、乃ち梁上より下りて、倶に之を撃
つ。胡孫[さる]、竟(つひ)に脳砕け、腸(はらわた
)断へて死す。是に於いて、公子[かに]大詫(ミソ
ヲアゲル)して曰く「果たせるかな、我が謀る所に出
でず」と。〔 〕 <うすがきて、おさへ、とうとういけどりにして、い
もむしのこうろをとりかへし〔 〕> 猿丸は、とぼ口より逃げんとせしが、荒布にて滑り
しところを、光孝天皇、 杵にて頭を打ち壊し、すか
さず店の 牛蒡を焼き、猿丸が尻へおつつけ、なんな
く敵を討つ。お猿が尻はまつかいな、牛蒡焼いてお
つつけつと申事、この時よりぞ始まりける。〔 〕 猿蟹、和睦整ひければ、山蜂、臼、杵も猿と中直り
して、中睦まじく栄えける。 ましだは、なほさけにえひて、うちふせしが、この
ものおとをきいて、はねおきんとするにて、あしに
かにいくつともなくとりついて、しんたいじざいな
らざれば、つひに国わか丸にうたれけり <ましだ:「汝(なんぢ)我(われ)に親(おや)を討(うた)
れ無念(むねん)の年月(としつき)を数百歳(さい)経
(へ)し心中(しんちう)思ひやるわが首(くび)取(と
つ)て親(おや)の供養(よう)になすべし」と云(いゝ)
も果(はて)ぬにいふにや及(およ)ぶ観念(くはんね
ん)せよと大きなる鋏(はさみ)をもて猿(さる)が首
(くび)を切落(きりおと)し〔 〕> / 臼は金門の上より転落ちて、ふたたび背をうち砕く
に、よわり果て得も起きず。そのとき蟹ども群だち
来て、螯をあげ猴を挟み、その宍を喰ひて喜びあへ
り〔 〕 / / 解子、剣を揮(ふる)ひ、三撃して之を剄(くびき)
53
33 猿蟹合戦 34 猿ヶ島 ○ 35 猿蟹合戦 死して 後に蘇す 36 猿蟹合戦 37 猿蟹合戦 38 39 40 41 42 猿蟹合戦 猿ヶ島 猿蟹合戦 猿ヶ島 猿蟹合戦 / 43 猿ヶ島 ○ 44 45 46 47 48 (猿ヶ島) (猿蟹) / / / / 49 猿ヶ島 ○ 50 51 52 53 54 (猿蟹) (猿蟹) (猿ヶ島) (猿蟹) △ / / る。遂に袁の族を滅(ほろ)ぼす。戊丑(ぼちう)、袁
侯を用ひて以て其の母を祭るなり。 熊八・玉五郎もろ共に猿九朗に一味の悪者をことご
とく搦め取りて、柿実形の硯さへ取り返しつつ帰り
〔 〕 床の下より大声をあげて、はやうわおのれがために
ころされたる蟹の子こゝにあり、いでおやの仇むく
いてんといふまゝにはひ出て、かの猿の手あしより
かしらにいたるまで、きだきだにはさみきりておも
ひのまゝにほいとげてかへりぬ〔 〕 蟹候[略]乃ち、猿の裳を褰(かか)げ、其の臀を露
はして、三軍に詢(とな)へしめて曰く「猿の尻は真
赫いな、牛房(ごぼう)を燋(や)いて伝之(おつつけろ
)」と。三軍、曷采(かやかや)として譁(はや)す。遂
に之を放つ。〔 〕 猿ハ是迄ノ悪事ヲ詫(ワビ)テ、心ヲ改ム事ナレバ、
三人ノ者モ、打首ニモ為(ナス)ベキ奴ナレド、心ヲ
改ム事ナレバ助ケベシトテ逃シケレバ、辛キ命助ヲ
リケリ。又、蟹ノ歓ビ大方ナラズ、三人ニ礼物ヲ贈
リ、ソレヨリ世ノ中鎮リテ天下太平トゾナリニケリ 猿は皆々について、いよいよ善心に立ち返り、蟹を
始め臼蜂玉子に詫び入りて、「どうぞこれからは兄
弟同様に心安くしてくれるべし。」と、折り入って
頼みければ、そんなら仲直りさせん〔 〕 [生け捕り] / [臼が猿をおさめる] [猿が牛蒡を押し付けられる] / よくすの落まろび来て たちまちにおしにうたれて いきのをハ終に絶にき 蟹のかはら打つるがごとや
やぶれしがごとや / / / 石うす、はさみ、たんばぐりなど、だんごをあた
へ、すけ太刀をたのみ、さるがしまへわたり、親の
かたきをうちしは、誠におやかうかうのほど〔 〕 猿:「まっぴらごめん、まっぴらごめん」 / / 猿はもふ叶はぬと逃げ出すところへ臼がどつさり落
54
55 56 57 猿ヶ島 (猿蟹) 58 (猿蟹) 59 60 猿ヶ島 61 (猿ヶ島) ○ ちかゝり、猿を打ち殺す。 / さるはこれにてせんひをくやみ、これよりは心をあ
らため舛からいのちはかりはてたすけ、といろいろ
にわびけるゆへ、うすはよをよをすみにける。さ
て、かには三人のたすけにてさるはこり、心をあら
ためたるをよろこび、三人にれいもつをいろいろだ
し、よの中をさまり、天下たいへいにみなみなうち
よりよろこび、めでたしめでたし さるのくひを、かにのはさみにてふつつりとはさみ
けり。さて、ほうてう、はち、ほそびき、あらめ、
たてうすへ「おかけで、おやのかたきをしゆびよし
うちかたしけなふござる」と〔 〕 *** : Si è scelto di mantenere il giapponese per i finali in quanto riguardo ad essi viene già discusso ampiamente in italiano lungo tutto il capitolo. 55
2.1 OPERE 1-­13: PRIMI KUSAZŌSHI, KABUKI, MANOSCRITTI
Nonostante la parola kusazōshi, dal significato di libri ('sōshi' 双紙) non seri, amatoriali ('kusa' 草), sia nata nella regione del Kamigata2, essa indica soprattutto libri stampati a Edo a partire dall'era Kanbun (1661-­‐1673) fino al decimo anno dell'era Meiji (1877)3. Le loro caratteristiche principali sono il formato chūhon 中本 (circa 18 x 13 cm), la divisione in volumi (satsu 冊) da cinque chō 丁 l'uno (all'inizio in due satsu e col tempo raggruppati in tre o più satsu) la presenza nella stessa pagina di immagine e testo, i quali vanno letti ed interpretati insieme per comprendere meglio l'opera. Dapprincipio l'illustrazione era prevalente sulla parola (limitata a pochi dialoghi in stile colloquiale), tanto che i primi a cominciare firmare i loro lavori sono stati proprio gli illustratori, mentre l'autore rimaneva nella quasi totalità dei casi anonimo4.
I primi ad essere apparsi sul mercato sono stati volumi dalla copertina rossa e per questo denominati akahon 赤本, akakohon 赤小本, o anche hiinabon 雛本. Venivano venduti a partire da capodanno e comprati dagli adulti come regalo per i bambini, per il loro intrattenimento ma al contempo anche come oggetto di buon auspicio per l'anno nuovo5. In quanto rivolti ad un pubblico infantile, il contenuto degli akahon era di conseguenza alquanto semplice, soprattutto fiabe e favole tramandate sia dalla tradizione orale che da quella scritta (ovvero gli otogizōshi), ma anche racconti guerreschi ripresi dagli spettacoli di teatro jōruri e kabuki.
Se sia stato il primo testo ad averne riportato la storia su carta non e possibile saperlo, ma gli zuihitsu di Takizawa Bakin e Morishima Chūryō6 riportano alcune pagine di quello che rimane tutt'oggi l'esemplare più antico di akahon di Saru kani kassen [n.1] e che fanno risalire al periodo Hōei (1704-­‐1711). Due sono le scene riportate: la prima (1v), in cui la scimmia e il granchio fanno lo scambio tra il seme di kaki e lo onigiri, e la penultima (4r-­‐5v), quella della battaglia finale. In quest'ultima, però, gli oggetti aiutanti TANAHASHI Masahiro, Kūzen zetsugo no kibyōshi sanjūnen, "Edo gesaku kusazōshi", Tōkyō, Shōgakukan, 2000, p. 6. 3
KIMURA Yaeko, Kusazōshi no sekai: Edo no shuppan bunka, Tōkyō, Perikansha, 2009, p. 2. 4 Leon M. ZOLBROD, "Kusazōshi : chapbooks of Japan", The transactions of the Asiatic Society of Japan, 10, 1968, pp. 118. 5 Fin dall'antichità il rosso era, infatti, considerato il colore portafortuna per antonomasia, sicchè ogni oggetto (e in particolare, ogni libro) tinto di rosso diveniva una specie di talismano che allontanava malattie e cattiva sorte. 6 Vedi capitolo 1, p. 19. Il verso del chō contenuto nello Enseki zasshi, inoltre, anche in [n.52]. 2
56
del granchio, a differenza della maggior parte delle versioni della favola narrate successivamente, non si nascondono nella casa della scimmia, bensì vi è una battaglia vera e propria, un tutti contro tutti dove a perire non è solo l'animale protagonista dello scambio iniziale, ma un'intera schiera di scimmie. Sono presenti anche la moglie e il figlio della scimmia iniziale, i quali, approfittando di un momento di confusione, riescono a scappare. Nella resa grafica, il granchio e il coltello sono vestiti da guerrieri, mentre il mortaio, il pestello e la castagna lasciano scoperti i muscoli indossando abiti con il disegno dell'oggetto che rappresentano. Nonostante manchi l'ultimo chō, dalle ultime righe di 5v (Sono hima ni usu o□□hite saru wo totte osahe, nokoru yappara tekine kakatte occhirashi, minamina shukusho he kaerikeri, "Il mortaio al momento giusto cade prendendo e bloccando una scimmia, e il pestello parte all'attacco dei nemici rimasti mettendoli in fuga. [Dopodiché] tutti fecero ritorno a casa") si può intuire che il messaggio augurale alla fine del racconto fosse la sconfitta della stirpe delle scimmie. È anche da notare il disegno della pesca sulla veste
Imm. 2: Saru kani kassen [n.1], 4r-­‐5v Imm. 1: Saru kani kassen [n.1], 1v della scimmia nel primo chō (che si ripresenterà anche in opere successive), forse dovuto alla naturale associazione che, nei libri per bambini, veniva ormai fatta tra l'animale della scimmia e la storia di Momotarō.
Risalente allo stesso periodo è l'emaki [n.2] attribuito al medico di fama nonché scrittore di prosa e kanshi (漢詩 poesie in cinese) Kujō Shundai (1640-­‐1715), vissuto 57
nello han 藩 di Matsue7 松江. La trascrizione e il commentario del rotolo sono stati presentati dallo stesso Sawai Taizō nel 20028. L'atmosfera è completamente diversa da quella puerile degli akahon: il testo, infatti, è corredato da immagini realizzate da mano esperta, così come da numerosi ed eruditi riferimenti a testi cinesi e da kanshi composti dall'autore stesso. La trama, come prevede quella del filone 'saru ga shima', è sprovvista della scena iniziale dello scambio tra il granchio e la scimmia. Inoltre, l'attuazione del piano di vendetta è più articolato della Saru kani conosciuta oggi: dal palazzo sottomarino del Re Dragone viene inviata all'Isola delle Scimmie una ragazza per farne innamorare il re e renderlo più debole, riuscendo così a coglierlo di sopresa con un attacco congiunto di granchi e utensili da cucina, tra i quali, oltre agli usuali mortaio e pestello, anche taglieri e bacchette. La vicenda si conclude brevemente spiegando che con la rivincita sulle scimmie la famiglia dei granchi prosperò per gli anni a venire. Anche nel caso di questo testo, la scena della battaglia finale è un tafferuglio generale dove gli aiutanti del granchio hanno tra le mani gli oggetti che rappresentano.
Imm. 3: emaki Saru ga shima katakiuchi, ottava illustrazione Il set di dodici immagini di mukashibanashi, incluse le tre dedicate a Saru kani kassen, di Okumura Masanobu [n.3] risalgono probabilmente allo stesso anno dell'emaki appena descritto, ma lo stile con cui la storia viene disegnata è molto più vicina allo akahon di 7 Comprendeva quello che è l'odierna parte nord-­‐orientale della provincia di Tokushima. 8 SAWAI Taizō, "Emaki "Saru ga shima katakiuchi" honkoku to chūshaku: "Saru kani kassen" kō (sono san), Literary symposium, 126, 2002, pp.23-­‐37. 58
periodo Hōei. Questo soprattutto nell'unica delle tre immagini che vede i personaggi antropomorfizzati, vestiti in abiti guerreschi in maniera molto simile alla scena di vendetta che si vede nell'immagine numero 2 presentata pocanzi: Imm. 4: Okumura furue, quinto foglio Tuttavia, nell'immagine successiva si rivela chiaro come la storia segua il modello di 'saru kani kassen', con gli oggetti nascosti nella casa, e in particolare nella cucina, della scimmia: Imm. 5: Okumura furue, sesto foglio 59
È interessante notare come questo, insieme con l'opera di cui si parlerà di seguito, sia l'unico esempio in cui nella scena della vendetta tutti gli oggetti e il granchio non siano antropomorfizzati. Il titolo dell'opera è Okumura furue ("disegni nel vecchio stile Okumura") e rimane l'interrogativo sul fatto se i primi ehon di Saru kani kassen fossero tutti disegnati a questa maniera. Inoltre, la presenza del granchio nella tinozza d'acqua ricorda lo scorpione delle favole mongole e indiane di cui si è discusso al capitolo 1, ed è opportuno ricordare come nonostante in alcuni degli odierni libri per l'infanzia questo dettaglio sia tornato ad essere presente, durante tutto il periodo Edo scompare (fatta eccezione per il [n.21]), lasciando nella maggior parte dei casi al granchio solo il ruolo di vittima passiva del sopruso della scimmia.
Della successiva era Kyōhō (1716-­‐1736) è un altro akahon dal titolo Saru kani kassen [n.4] illustrato da Nishimura Shigenaga. La prima scena disegnata è chiaramente ripresa dallo akahon [n.1]. Non solo la composizione dell'immagine, ma anche la gestualità dei due personaggi, le loro espressioni e persino il design della pesca per l'abito della scimmia sono quasi identiche. Cambia la disposizione del testo all'interno della pagina: siamo in una fase leggermente più avanzata degli akahon, dove ormai il testo si fonde completamente con le immagini, inserito in spazi lasciati appositamente bianchi dall'illustratore. Con questo testo fa per la prima volta comparsa il personaggio dell'uovo, che Sawai riconduce al filone di 'saru kani kassen', il quale si alternerà in opere dal numero quasi eguale a quelle in cui compare la castagna, per poi scomparire completamente da qualsiasi versione della favola a partire dalla sua introduzione nei libri di testo per le scuole elementari di periodo Taishō. È questo, inoltre, il primo testo in cui viene fatta l'associazione tra la scimmia della favola e quella della filastrocca saru ga shiri wa makkai na, gobō yaite ottsukero (猿が尻は真っ赤いな、牛蒡焼いて押っ付
けろ, "La scimmia ha il sedere tutto rosso, arroventiamo una bardana e ficchiamogliela dentro!"), di cui si parlerà più approfonditamente nelle note del testo tradotto e presentato al capitolo 39. Nell'ultima pagina la bardana infilata nel sedere è la punizione finale inferta alla scimmia per la sua malefatta.
9 Vedi nota 61 p. 176. 60
Imm.6: Saru kani kassen [n.4]; 1r-­‐2v
1v 3r-­‐4v 2r-­‐3v 5r 4r-­‐5v 61
Con il tempo gli akahon si fanno più sofisticati, aumentando la quantità di testo presente e rendendo le storie più complesse. In conseguenza a ciò, i volumetti cominciano ad essere venduti a due o tre alla volta e anche la copertina cambia colore10: da rossa diventa nera o bluastra11, motivo per il quale i kusazōshi di questo tipo vengono chiamati rispettivamente kurohon e aobon. Un esempio di essi è il [n.5], Kani wa kane saru wa sakae. All'interno della narrazione principale nella quale Kūkai12 空海 viaggia per il Giappone compiendo numerosi Imm. 7: confronto grafico tra lo akahon Saru kani kassen [n.4] (sopra) e Kani wa kane saru wa sakae (sotto), dal lavoro di Uchigasaki Yuriko -­‐ scena della visita miracoli, si inserisce quella di Saru kani per un totale di tre chō, nei quali l'autore ripropone, semplificandolo e riducendolo ma al contempo rimanendone fedele, il contenuto dello akahon appena visto. Al riguardo ha già scritto ampiamente Uchigasaki Yuriko13, la quale oltre ad un interessante confronto grafico tra le due opere fa anche notare come siano stati introdotti in quest'opera elementi del teatro kabuki, com'era in voga fare allora con i kurohon. In particolare cambia il modo con cui il mortaio, nell'ultimo atto della vendetta, schiaccia la scimmia, più somigliante alla posa di un attore kabuki che nel caso dello akahon. 10 Si pensa che questo avvenne per via del fatto che la pigmentazione che occorreva per fare il colore rosso era diventata più rara e quindi costosa. 11 Gli aobon sarebbero stati una sorta di prima edizione, mentre i kurobon edizioni successive, più economiche. [KIMURA, Kusazōshi no..., op. cit., p. 90] 12 (774-­‐835), monaco buddhista fondatore della scuole Shingon 真言.
13 UCHIGASAKI Yuriko, Edoki mukashibanashi ehon no kenkyū to shiryō, Tōkyō, Miyaishoten, 1999.
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L'episodio si conclude senza specificare se la scimmia sotto il peso del mortaio muoia o kusazōshi meno, si ma il sviluppa ulteriormente con Kūkai che risveglia i due protagonisti Saruemon e Kanizō14 ai quali aveva fatto sognare di aver vissuto in prima persona la storia di Saru kani kassen, per far loro meglio comprendere il significato delle loro cattive azioni e farli redimere. Altro kurohon che sviluppa la trama di Saru kani kassen in maniera più originale è Metsuke e saru kani kassen. La Imm. 8: confronto grafico tra lo akahon Saru kani kassen [n.4] (sopra) e Kani wa kane saru wa sakae (sotto), dal lavoro di Uchigasaki Yuriko -­‐ scena dell'attacco
storia comincia come un seguito di un altro mukashi-­
banashi, Saru no ikigimo, con la scimmia che per guarire da un'infiammazione procuratasi durante la fuga dal palazzo del Re Dragone ha bisogno del miso di granchio. Il figlio Sarubei parte dunque alla ricerca di un crostaceo, ne trova uno vicino ad un albero di kaki e cerca di estrarne il miso rompendogli la corazza lanciandogli i frutti acerbi, ma nel mentre arriva il figlio Kanihachi che lo salva. Volendo vendicare il torto subìto dal padre, Kanihachi chiede aiuto e supporto al granchio Hada no Takebun15, il quale lo consiglia di pensare a un piano ben ponderato per raggiungere nell'intento. Viene quindi ingaggiata una battaglia tra i due popoli, ma i granchi devono battere in ritirata e Kani-­‐hachi invita Saruzō nella propria tana per stipulare la pace: è qui che ha inizio lo stratagemma previsto dalla storia di 'saru kani kassen', con i vari aiutanti che 14 Saru 猿 significa "scimmia", mentre kani 蟹 significa "granchio". Spesso i nomi dei protagonisti derivano da questi due sostantivi. 15 Disegnato come uno takebun kani. 63
attaccano la scimmia a turno, per finire con il polipo che approfitta dell'occasione per vendicarsi personalmente16 con una bardana. Nell'illustrazione di quest'ultima scena i personaggi sono per metà antropomorfizzati (mortaio, pestello, polipo, coltello) e per metà no (ape, alga, uovo, serpente), mentre il granchio non partecipa all'attacco osservando tutto da una finestra: Imm. 9: Metsuke e saru kani kassen, 8r-­‐9v Nel 1753 viene pubblicato uno yomihon17 scritto da Hoteishitsu Shujin ed illustrato ancora una volta da Nishimura Shigenaga, Momotarō monogatari [n.7]. La storia è quella di Momotarō, bambino dalla forza straordinaria nato dopo il miracoloso ringiovamento di due anziani dovuto ad una pesca magica risalita lungo il fiume. Una volta cresciuto, un giorno Momotarō vede in sogno la storia di Saru kani kassen: dopo la morte del genitore ad opera della scimmia, il figlio del granchio parte per la montagna dove quella vive per vendicarne la memoria, e lo seguono, mossi a compassione, una castagna, un mortaio, un'alga e un escremento di vacca (quest'ultimo fa la sua prima apparizione in quest'opera). Non vi sono immagini a corredare l'episodio, ma la descrizione della messa in atto della Imm. 10: Momotarō monogatari, vol.1, 11r vendetta è leggermente diversa dall'usuale. Ad attendere al suo ritorno la scimmia 16 Si riteneva che le scimmie pescassero polipi per farli essiccare. [SUZUKI Jūzō, KIMURA Yaeko (Edo-­‐hen), Kinsei kodomo no ehon shū, Tōkyō, Iwanamishoten, 1985, p.56] 17 Chiamati così in contrapposizione agli ehon, in quanto le immagini non erano più preponderanti e anzi erano relegate solamente a qualche chō inserito in mezzo al testo. 64
sull'ingresso di casa è, infatti, l'escremento, che la fa scivolare e battere il sedere su una roccia; a questo punto la castagna le punge la testa, il granchio la pinza con le chele e, infine, il mortaio cade dall'alto. Il granchio, soddisfatto, ringrazia i suoi aiutanti e ritorna alla spiaggia. Momotarō rimane impressionato da questo sogno e ritiene che se persino un piccolo crostaceo ha avuto il coraggio di vendicare il proprio genitore, anche lui in quanto essere umano ha il dovere di partire alla volta dell'Isola dei Demoni per debellarli. Di poco successivo, pubblicato nella zona del Kamigata intorno al 1759, è uno ehon dal titolo Ehon saru ga shima roppon sugi. In questo caso, è completamente assente la prima parte della storia di Saru kani in cui i due animali litigano; il samurai Kanie Kōsuke decide, tuttavia, di recarsi all'Isola delle Scimmie per vendicare il proprio antenato rimasto ucciso molti anni prima mosso dalla notizia che un gruppo di tengu stava creando disordini nei teatri e nelle locande in cui passavano. Giunto sull'isola con un manipolo di familiari, di scimmie, tuttavia, ne trova solo una, la quale era contraria alla volontà delle altre e perciò non era partita con loro; li avverte, dunque, che i tengu che stanno creando scompiglio altro non sono che le scimmie travestite. Decidono allora di aspettarle cogliendole alla sprovvista e compiere un attacco a sorpresa accerchiandole: Imm. 11: Ehon saru ga shima roppon sugi, 8r-­‐9v Ottiene, invece, salva la vita l'unica scimmia che non aveva preso parte alla scorreria, alla quale viene richiesto, anche per celebrare la vittoria dell'impresa, di fare una danza 65
augurale per l'anno nuovo in una scuderia18. Con l'eccezione di un'unica scena in cui non vengono antropomorfizzati, i granchi sono resi graficamente come esseri umani, con dei crostacei o dei rivoli d'acqua disegnati sugli abiti.
La data di composizione dell'ehon Imayōbanashi saru kani kassen [n.9] non è conosciuta. Mancando i primi chō del libro non è possibile sapere se vi fossero descritti lo scambio tra il granchio e la scimmia e la conseguente lite, anche se è credibile pensare che non fosse così. La scena presentata a partire dal retro del terzo chō, infatti, vede uno scontro tra i vassalli granchi e le scimmie capitanate da Kokezaru, il quale uccide Kanidayū e ne rapisce la figlia. Per vendicare l'affronto subìto partono, dunque, alla ricerca della ragazza due vassalli di Kanidayū e, una volta scovata la villa di Kokezaru, lo attaccano con l'aiuto di altri crostacei e di alcuni oggetti animatisi magicamente. Persino uno dei granchi si trasforma egli stesso in mostro, nello specifico si tramuta nel mortaio a macina che schiaccia Kokezaru. A differenza di altri testi in cui i personaggi (ad eccezione delle scimmie che sono sempre rese come animali) sono di solito disegnati come umani con in testa l'oggetto o l'animale che rappresentano, qui invece è l'intero corpo ad essere antropomorfizzato: i granchi hanno al posto delle mani le chele e al posto della testa la corazza; a mortaio e forbici vengono solamente aggiunti occhi, naso e bocca; leggermente diversa è la castagna, a cui, sì, è stato aggiunto un corpo, ma al posto della testa ha il frutto al quale sono stati disegnati solo una paio di occhi.
Imm. 12: Imayōbanashi saru kani kassen, 8r-­‐9v 18 Vedi nota 48 p. 174. 66
Mancando gli ultimi chō, non è possibile affermarlo con certezza, ma si può pensare che la narrazione si concludesse con la sconfitta di tutte le scimmie e il ritorno a casa della figlia di Kanidayū. Menoto monogatari è un manoscritto che raccoglie dieci fiabe e favole giapponesi, ognuna accompagnata da un'immagine, redatte da diversi autori. Segue temporalmente un altro manoscritto composto intorno al 1772, Sosokuri monogatari, che non è stato possibile visionare; tuttavia Sawai Taizō spiega come il contenuto di Menoto monogatari sia, con qualche piccola differenza, identico al precedente esemplare al quale aggiunge due ulteriori favole19. La sezione Saru kani kassen no koto è stata scritta da Fujiwara Toshinobu 藤原利陳, del quale non si hanno informazioni precise. La storia è quella classica di Saru kani, con l'unico particolare del granchio che nel finale taglia la testa alla scimmia, immobilizzata L'immagine dal relativa mortaio. a questo mukashibanashi vede il granchio che si felicita della scimmia in difficoltà sotto l'attacco congiunto di uovo, ape e alga, in una composizione che Imm. 13: Menoto monogatari ricorda vagamente quella dello akahon di Nishimura Shigenaga. Infine bisogna ricordare che tra il 1763 e il 1764 sono stati messi in scena due spettacoli di teatro kabuki purtroppo andati persi, ma dei quali dà notizia il Kabuki nenpyō: rispettivamente, Saru ga shima katakiuchi, rappresentato al teatro Takeda di Ōsaka e, l'anno successivo, Mukashi makkō saru ga shima no katakiuchi, al teatro Arashimatsu di Kyōto. Del secondo sono rimasti, però, un banzuke20 番付 [n.10] e un ebanzuke21 絵番付 conservati al museo teatrale dell'università di Waseda. Dal primo si 19 SAWAI Taizō, "Nihon mukashibanashi shū "Menoto monogatari" (1) "Hachi no enjo" "Kuwazu nyōbō" "Saru kani kassen", Literary symposium, 121, 2000, p. 78. 20 Stampa per la pubblicizzazione di spettacoli kabuki, in cui venivano riportati titolo, soggetto, nome del teatro, elenco degli attori protagonisti ed altre informazioni. 21 Piccoli volumi illustrati venduti nei teatri kabuki sulla cui copertina erano scritti il titolo dello spettacolo, il nome del teatro in cui veniva messo in scena e, in quarta di copertina, il nome dell'autore dell'opera. Ogni atto era rappresentato in disegni con i nomi degli attori a fianco dei personaggi e alcune spiegazioni sulla trama. 67
riesce a capire che il testo dello spettacolo, con la consegna dei kibidango ai vassalli mortaio, castagna, spada e forbici, apparteneva senza ombra di dubbio al filone 'saru ga shima'. Dal secondo, invece, si evince che la storia cominciava con il granchio che chiedeva aiuto alla scimmia per raccogliere delle pesche, ma quella lo uccide lanciandogliele contro violentemente. Si susseguono una serie di eventi, ma alla fine lo spirito del granchio prende in prestito il corpo di un umano e riesce a penetrare nella dimora delle scimmie travestendosi da harugoma22, con uno stratagemma che, si vedrà nella terza sezione, ricorda da vicino quello dello yomihon [n.26]. Lo ehon non presenta l'ultima scena della vendetta, dunque si può solo immaginare che la trama si concludesse con una battaglia in cui le scimmie venivano sbaragliate. Il punto di maggior interesse di questo testo è la scena iniziale del granchio e la scimmia: a causare la lite tra i due, infatti, sono delle pesche e non dei kaki. Nonostante non sia possibile escludere completamente che la scelta del frutto sia stata fatta semplicemente per rendere la narrazione più interessante, è ipotizzabile pensare che questo spettacolo si rifacesse a una versione di 'saru ga shima' precedente, più vicina alla favola del tabemono arasoi importata dal continente nel sud del Giappone (di cui facevano menzione nei loro studio Inada Kōji e Hanabe Hideo).
Imm. 14: Mukashi makkō saru ga shima no katakiuchi
6r-­‐3v (sopra), 5r-­‐6v (sinistra) 22 春駒, tipo di kadozuke che prevedeva la manipolazione della marionetta di una testa di cavallo. L'artista si presentava con quella alle porte della gente nei primi giorni di primavera offrendo la propria arte in cambio di denaro. 68
2.2 OPERE 14-­24: KIBYŌSHI, KANBUN
I kibyōshi, letteralmente "(libri dalla) copertina gialla", sono un'ulteriore evoluzione dei kusazōshi. Non più rivolti ad un pubblico infantile, questi libri solitamente venduti in gruppi di tre volumi raccontano quello che Tanahashi Masahiro definisce il "mondo dei divertimenti degli adulti"23 (otona no asobi no sekai 大人の遊びの世界): giochi di parole, umorismo, descrizioni di mode e locande in voga al tempo, tutto è volto a far ridere e a intrattenere il lettore adulto. Così come il testo si fa più elaborato, anche le illustrazioni si fanno più raffinate e particolareggiate, ricche di dettagli e più realistiche. Convenzionalmente, si indica come primo kibyōshi il testo di Koikawa Harumachi del 1775 Kinkin sensei eiga no yume 金々先生栄花夢 e si fa terminare il periodo nel 1804, quando pare che per la prima volta sia stato utilizzato il termine gōkan 合巻, in riferimento all'opera Tōkaidō matsu no shiranami 東海道松白浪24. I gōkan, "volumi raccolti insieme", nacquero dall'enorme successo riscontrato dai kibyōshi che narravano storie di vendetta, andando a sviluppare ed estendere trame sempre più complicate e intricate, lasciando anche gradualmente posto a scene di violenza efferata e drammi strappalacrime. Nei kibyōshi è stato fatto anche largo uso del materiale dei mukashibanashi (o meglio, dei masterplot associati ad essi25), in svariati modi: in combinazione con altri mukashi-­
banashi, traslandone il significato o ancora utilizzandone solo i personaggi per creare storie affatto originali. Nakamura Masaaki26 ha analizzato un gran numero di questo tipo di testi, riuscendo a trarre regole generali di adattamento che vengono qui di seguito schematizzate (tra parentesi quadre il numero delle opere di Saru kani kassen che fanno 23 TANAHASHI Masahiro, Kūzen zetsugo no kibyōshi sanjūnen, "Edo gesaku kusazōshi", Tōkyō, Shōgakukan, 2000, p. 17. 24 Così riferisce Kimura Yaeko [KIMURA, Kusazōshi no..., op. cit., p. 134]. Vi sono altri studiosi, quali Tanahashi Masahiro, i quali invece danno come primo esempio della nuova tipologia di libro il 1806, quando Shikitei Sanba dà alle stampe un'opera in dieci volumi definendolo egli stesso col termine gōkan, Ikazuchi Tarō gōaku monogatari 雷太郎強悪物語 [TANAHASHI, Kūzen..., op.cit., p. 22]. Bisogna, tuttavia, ricordare che nonostante dall'inizio del diciannovesimo secolo incominci e fiorisca la produzione di gōkan, quella di kibyōshi, intesi come libri venduti a due o tre volumi, non si ferma completamente (di ciò si vedrà un esempio anche nella sezione successiva). 25 In giapponese vengono solitamente indicati con mukashibanashi mono 昔話物 , nonostante l'espressione non si sia ancora stata determinata come termine scientifico. [NAKAMURA Masaaki, "Mukashibanashi mono kibyōshi no gaiyō to tenkai", Mukashibanashi densetsu kenkyū, 23, 2003-­‐4, p. 81] 26 NAKAMURA, "Mukashibanashi mono...", op.cit., p. 81-­‐93.
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capo a quella determinata tipologia di ripresa; vi possono anche essere casi in cui la stessa opera appartenga a più tipologie diverse): 1. Ripresa totale I: mukashibanashi come "mondo" (全体的趣向1:世界としての
昔話) → La storia si sviluppa avendo come perno centrale la trama del mukashi-­
banashi, alla quale vengono inseriti degli elementi contemporanei (ovvero, i personaggi parlano e vestono secondo i costumi della Edo del tempo). [n. 24 (14)27] 2. Ripresa totale II: mukashibanashi come premessa (全体的趣向2:前提としての
昔話) → le storie si sviluppano come sequel (il termine usato è gonichibanashi 後
日譚) di favole ormai note a tutto il pubblico; vi sono anche testi che nonostante nel titolo contengano la parola gonichibanashi nel contenuto rivelano non aver nulla a che vedere con la favola. [n. 16, 18] 3. Ripresa parziale I: commistioni e combinazioni (部分的趣向1:綯交ぜ・吹寄せ) → due o più mukashibanashi vengono fusi e combinati insieme all'interno di un racconto ambientato in un mondo che può anche discostarsi da quello delle favole originarie. [n. 15, 16, 17, 18, 20, 22] 4. Ripresa parziale II: utilizzo dei soli personaggi (部分的趣向2:キャラクターの
みの取込み) → il contenuto solitamente non è quello del mukashibanashi dal quale provengono i personaggi stessi e per questo, come la tipologia 2, viene fatto affidamento alle conoscenze generali del lettore. 5. Ehon pubblicati ex novo (新板絵解き絵本) → opere composte in quegli anni sulla base dei testi precedenti all'entrata in scena dei kibyōshi; dei mukashibanashi mantengono inalterati dialoghi e parti descrittive, rinnovando solamente la veste grafica che si fa più contemporanea. 6. Ristampe di akahon, kurohon, aobon, ( 赤 本 ・ 黒 本 ・ 青 本 類 の 再 板 物 ) → ristampe di akahon, kurohon, aobon dei quali era rimasto intatto lo hangi28 ai quali vengono aggiunti la classica copertina gialla dei kibyōshi e un nuovo edaisen29. [è questo il caso della ristampa nel 1791 del n.6] 27 Non inserito nell'analisi di Masaaki in quanto non visionato, ma riconducibile a questa tipologia. 28 版木, matrice di legno. 29 絵題簽, daisen (foglietto con scritto il titolo del testo attaccato alla copertina) accompagnato da un'immagine. 70
Il primo kibyōshi, in ordine cronologico, ad adattare la trama di Saru kani kassen è Mukashi mukashi saru to kani [n.14], pubblicato nel 1776. In questo testo, il granchio Kaniemon prova del rimorso nei confronti delle scimmie poichè queste, con l'inganno (ovvero con la scusa di poter raccogliere meglio i kaki dall'albero), gli hanno sottratto un cimelio di famiglia, la spada Akaki. I fratelli Kanizō e Kanihachi decidono di recarsi all'isola dello Shikoku per andare a riprendere la spada e per vendicarsi sulle scimmie, pregando la madre di preparare dei kimidango30 da poter portare con loro. Dopo aver sventato il tentato attacco del passero amico delle scimmie, che avendo sentito del loro piano aveva provato a rovinare la partita di dolcetti, i fratelli si mettono in viaggio; lungo la via incontrano una gru e una tartaruga che fanno loro vassalli grazie ai dango, e insieme raggiungono lo Shikoku. Qui incontrano la scimmia capo e il passero, ingaggiano una breve battaglia che li vede nettamente vincitori e si fanno restituire il cimelio. La scimmia si scusa debitamente e nel finale tutti banchettano, danzano e cantano insieme in armonia. Nell'ultimo chō, Kaniemon e la scimmia ballano la danza di hōrai31 sopra il guscio della tartaruga, con sullo sfondo altri elementi medetai quali la gru, rami di bambù e pino. La resa grafica dei personaggi con i kibyōshi va gradualmente stabilizzandosi: i granchi in ogni scena sono disegnati come umani con un piccolo crostaceo appoggiato sopra la testa, ma tartaruga e gru sono ancora disegnati come animali dalle movenze umane.
Nel 1781 escono tre kibyōshi che nella trama intrecciano quella di Saru kani kassen. Uno è Kani ga gobō hasanda [n.15], proposto in traduzione al terzo capitolo. La storia comincia come un normale Saru kani, con il granchio e la scimmia che scambiano onigiri e seme di kaki, fino al momento in cui con i suoi amici non decide il piano di contrattacco. La scimmia viene, però, avvertita del piano dalla medusa che risiede nel palazzo del Re Dragone insieme all'alga amica del granchio, la quale s'era lasciata sfuggire tutti i dettagli della vendetta. Decide, così, di scappare insieme alla moglie e alla figlia e inizialmente si recano a Edo. Non sentendosi, tuttavia, al sicuro, la scimmia padre lascia la famiglia nella grande città e parte per lo Shikoku dove spera, girando l'isola, di 30 Uguale a kibidango. 31 蓬萊, anche detta hōraisan 蓬萊山, terra fantastica che sarebbe situata nei mari orientali più remoti dove vivrebbero i saggi immortali. Leggenda originariamente appartente all'immaginario cinese, venne poi importata anche in Giappone. Con hōraidai 蓬萊台, inoltre, si intende un tavolino esposto in giorni di festa o durante i banchetti con la ricostruzione di questa terra lontana, decorato con simboli augurali come ad esempio piante di pino, bambù, prugno, o rappresentazioni di gru, tartarughe, coppie di anziani. 71
riuscire ad assumere le sembianze di un uomo32 per così tornare a casa senza paura di essere riconosciuto. Il granchio, venuto a conoscenza della fuga del nemico, parte anch'egli per cercarlo e si reca proprio a Edo, dove riconosce per caso la figlia della scimmia, diventata geisha per soddisfare il desiderio di lusso della madre. Dopo aver ascoltato le vicissitudini affrontate dalle due, tuttavia, decide di dimenticare il torto subìto, promettendo di perdonare la scimmia una volta tornata a casa. Quella, però, nei panni di essere umano si era lasciata prendere dall'ebbrezza della vita mondana e, avendo udito cattive dicerie sulla relazione tra il granchio e sua moglie, si era decisa di chiedere il divorzio e scaricare la consorte al nemico. Il granchio, nonostante le calunnie sul suo conto, riesce a far fare la pace alla coppia e il testo si conclude, abbastanza similarmente a kibyōshi visto in precedenza, con i due personaggi che Imm. 15: Kani ga gobō hasanda, 15r
discorrono amichevolmente sullo sfondo uno hōraidai33. In Mazekoze mukashibanashi [n.16] la storia di Saru kani kassen è incrociata non solo con quella di altre favole, Hanasaki jijii 花咲爺 ("Il vecchio che faceva sbocciare i fiori") e Mimizu no uta to hebi no me 蚯蚓の歌と蛇の目 ("La canzone del lombrico, gli occhi del serpente"), ma anche a filastrocche come "Shikoku no Sajibei"34 四国の佐次兵衛, la canzone ripresa dal teatro nō "Hachi no ki" 鉢木, i drammi kabuki Dan no ura kabuto gunki 壇浦兜軍記 e Kyōga no komusume dōjōji 京鹿子娘道成寺35. Inoltre, nello stesso episodio del granchio e della scimmia si innesta anche la filastrocca in voga al tempo, Kani ga momo hasanda36, della quale, però, non si sa molto. In questa storia, seguito della vicenda di Saru kani kassen, il granchio cerca di rubare le pesche dal giardino di 32 Vedi nota 29 p. 171. 33 Vedi nota 31. 34 Vedi nota 29 p. 171. 35 NAKAMURA Masaaki, "Shiba Zenkō saku kibyōshi "Mazekoze mukashibanashi": honkoku to chūshaku", Kokugakuin daigaku kinsei bungakukai kaihō, 10, 2004, p.18. 36 Vedi nota 68 p. 178. 72
Hanasaki Jijii, ma lo coglie di sorpresa la scimmia assoldata Imm.16: Mazekoze mukashibanashi, 9r-­‐10v dallo stesso vecchio come guardia del corpo, la quale è desiderosa di vendicarsi della morte del padre. I due si rincontrano poi sulle vie dello Shikoku, travestiti entrambi da pellegrini, ma il granchio riconosce il nemico per primo e sta per prendersi una rivincita per la seconda volta quando sente la voce della moglie, che nel racconto è un lombrico, intonare un canto dalle parole rancorose nei suoi confronti -­‐il marito l'aveva, infatti, abbandonata dopo averla convinta a fare a cambio dei suoi occhi per la sua voce. Il granchio decide, allora, di commettere suicidio, riconoscendosi colpevole dell'infelicità della moglie, ma anche per spezzare il circolo vizioso di vendette ormai instauratosi con la scimmia e i suoi discendenti. Nel kibyōshi Momo to sake suzume Dōjōji [n.17] la storia di Saru kani kassen è semplicemente menzionata in un paio di pagine. I cattivi di questa storia, raccolti da svariate favole -­‐scimmia, gatto, procione, medusa-­‐ rapiscono la ragazza passero e la fanno danzare per loro; questa viene, però, salvata con un attacco a sorpresa da altri personaggi -­‐cane, coniglio, granchi. In particolare, questi ultimi saltano fuori a centinaia da una cassa per gli indumenti e puntano subito alla scimmia, memori delle ferite e dell'onta subìte dal loro antenato a causa del crudele lancio di kaki. I granchi, in questa scena, non vengono antropomorfizzati. Nel finale, tuttavia, la scimmia è Imm. 17: Momo to sake suzume Dōjōji, 8r-­‐9v 73
l'unica che ha salva la vita grazie alla mediazione del fagiano, che ricorda al cane e agli altri come in passato fossero stati alleati per la giusta causa (si ricorda, ovvero, il mukashibanashi di Momotarō).
Nel 1793 viene pubblicato Urashima ga kikyō yashima no jusui/Saru to kani tōi mukashibanashi [n.18], scritto e illustrato da Koikawa Harumachi. Anche in questo caso le storie intrecciate tra loro sono numerose, da Saru kani kassen a Saru no ikigimo, da Urashima Tarō al dramma nō Dōjōji, fino alla leggenda della battaglia di Dan no Ura e dello heike-­
gani. La trama narra di come una Imm. 18: Saru to kani tōi mukashibanashi, 3r-­‐4v scimmia si innamori di Urashima Tarō dopo aver ingoiato il fegato della principessa Otohime, andato perso per via del grande spavento provocatole dall'incontro con un grande heikegani
37
. Quest'ultimo Imm. 19: Saru to kani tōi mukashibanashi, 9r-­‐10v viene catturato e interrogato dal Re Dragone, al quale confessa di aver scambiato il fegato della principessa per un seme di kaki con una scimmia. Gli viene perciò incaricato di andare a recuperarlo. La scimmia, nel frattempo, decisa a ritrovare Urashima, si traveste da donna e dopo aver capito Imm. 20: Saru to kani tōi mukashibanashi, 10r 37 Nell'originale vi è un gioco di parole con ikigimo wo nuku 生き肝を抜く, "estrarre il fegato ancora vivo", che significa "atterrire qualcuno". 74
che il ragazzo si è nascosto sotto alla grande campana di un tempio si tramuta in serpente e gli si arrotola intorno. A questo punto interviene il granchio, che tagliando la coda alla scimmia riesce a fare uscire il fegato di Otohime. Nel finale la principessa riacquista la salute, il Re Dragone, soddisfatto, abdica in favore dell'imperatore Antoku38, al granchio viene conferito il titolo di vassallo e alla scimmia quello di guardia del corpo.
Di Santō Kyōden è Ogurayama shigure no chinsetsu [n.20], pubblicato nel 1788, il quale ha come protagonisti i poeti dello Hyakunin isshu39 百人一首 inseriti in storie originali che giocano molto con i nomi dei letterati. La vicenda di Saru kani kassen ivi inserita che apre e chiude l'opera (nel mezzo vengono raccontate le vicissitudini di Ono no Komachi, la quale scopre di non avere una vagina e si industria per recuperarne una), vi sono Imm. 21: Ogurayama shigure no chinsetsu, 1r-­‐2v Kakinomoto Hitomaru40 e il figlio Sanjō no Udaijin 41 in difficoltà economiche dopo che quest'ultimo è stato espulso dalla corte dell'imperatore per la sua sfacciataggine. Hitomaru decide allora di cominciare a commerciare i kaki dell'albero che si trova nel loro giardino, ma essendo ormai anziano e non riuscendo a salire sui rami chiede aiuto al vicino Saru Maru Dayū 42 , esperto di arrampicate. Questi, tuttavia, tiene per sé i frutti maturi e lancia al vecchio quelli Imm. 22: Ogurayama shigure no chinsetsu, 9r-­‐10v 38 安徳天皇, l'imperatore bambino (1178-­‐1185) morto annegato a soli sette anni nella battaglia di Dan no Ura. 39 Antologia poetica che raccoglie gli waka di cento tra i poeti più famosi. Ogurayama è il luogo dove il letterato Fujiwara no Teika 藤原定家 (1162-­‐1241) scelse le cento poesie da incluedere nella sua antologia, che prese appunto il nome di Ogura hyakunin isshu 小倉百人一首.
40 Nel testo 柿本人丸, si riferisce a Kakinomoto no Hitomaro 柿本人麻呂, attivo tra la fine del 600 e i primi anni del 700 e considerato uno dei più importanti poeti presenti nell'antologia del Man'yōshū 万葉集 (fine periodo Nara).
41 三条の右大臣, si riferisce all'imperatore Sanjō 三条天皇 (976-­‐1017), incluso nello Ogura hyakunin isshu. 42 猿丸太夫, figura avvolta nella leggenda inclusa tra i 36 Grandi Poeti di Waka, il cui nome si legge anche nell'introduzione in cinese dell'antologia imperiale Kokin waka shū 古今和歌集 (905). 75
acerbi ferendolo alla schiena. Sanjō no Udaijin decide allora di partire alla ricerca di Saru Maru per vendicare il padre; giunto sul Sumidagawa incontra per caso l'amico Ariwara no Narihira43 e decidono di prendere in affitto due locali insieme, aprendo un negozio di verdure a fianco. Proprio di lì passa un giorno Saru Maru Dayū, il quale, riconosciuto il figlio di Hitomaru, cerca subito di fuggire fuori, ma scivola su un'alga e viene schiacciato da un pestello che cade dall'alto. Sanjō approfitta dell'attimo e cuoce una bardana per poi infilargliela nel sedere, ultimando così la sua vendetta. Continuando con i kibyōshi, è del 1793 Mukashibanashi Chōshi no hama [n.22], scritto da Shinratei Manpō e illustrato da Utagawa Toyokuni. Come è stato detto per Momo to sake suzume Dōjōji, la parte riguardante il granchio e la scimmia occupa solo poche pagine. Saruzō deruba Imm. 23: Mukashianashi Chōshi no hama, 10r Urashima Tarō del tesoro di famiglia, un incensiere, e Kaniemon si mette sulle sue tracce, anche per vendicarsi del dolore sofferto a causa sua in passato (per il lancio dei kaki). Avendo sentito voci che riferirivano di un ritorno della scimmia a casa della madre, si reca sulle montagne per scovarla, ma alla vista di una pianta di pesco non resiste alla tentazione di rubarne i frutti (si fa qui riferimento alla filastrocca Kani ga momo hasanda, già utilizzata nei kibyōshi [15] e [16]) e scappare con la refurtiva. Torna, però, dopo aver reclutato alcuni utensili da cucina quali il mortaio, il pestello, l'ape e con il piano noto di 'saru kani kassen' riescono a catturarla viva e a riportare l'incensiere a casa. Nel finale dell'episodio la scimmia si scusa pubblicamente del proprio comportamento, per il quale Imm. 24: Mukashibanashi Chōshi no hama, 13r-­‐14v prova vergogna, mentre, per quello che 43 在原業平 (825-­‐880), poeta incluso nel Kokin waka shū, nello Shin Kokin waka shū 新古今和歌集 (1205), nonché protagonista dello Ise monogatari 伊勢物語.
76
riguarda il libro, in conclusione Otohime fa ritorno al palazzo sottomarino, mentre Urashima ricomincia, con grande profitto, l'attività di pescatore con il padre.
Di un anno successivo, uscito nel 1794, è Hyakunin isshu odoke kōshaku [n.23] scritto da Shiba Zenkō e illustrato anche in questo caso da Utagawa Toyokuni. Viene ripresa l'intuizione già avuta da Santō Kyōden nel 1788 di creare dei personaggi sulla falsa riga dei poeti dello Hyakunin isshu e di farli interagire tra di loro in situazioni inconsuete. La vicenda che si basa su Saru kani kassen è simile a quella narrata in [20], seppur con delle differenze: Kakinomoto no Hitomaru ha due figli, uno scellerato dedito all'alcol -­‐
Sanjōin
Imm. 25: Hyakunin isshu odoke kōshaku, 6v Imm. 26: Hyakunin isshu odoke kōshaku, 14r 44
-­‐ e l'altro serio e rispettoso dei doveri filiali -­‐Kōkō Tennō 45 -­‐. Nonostante il primo venga diseredato per la sua vita sregolata, quando il padre muore in seguito ai traumi causatigli dal lancio di kaki di Saru Maru Dayū, i due fratelli decidono di cercarlo per vendicare Hitomaru. Aprono insieme un negozio di verdure e fino alla fine dell'episodio la trama è identica a quella di Ogurayama shigure no chinsetsu.
Ultimo kibyōshi a essere presentato è Zōho saru kani kassen, testo di Takizawa Bakin e disegni di Kitao Shigemasa, del 1798. La storia è Imm. 27: Zōho saru kani kassen, 5r-­‐6v quella classica di Saru kani kassen, molto simile a quella narrata nei primi akahon, anche se raccontata in modo più sofisticato. Inoltre, ogni scena è corredata da dei commenti sulle fonti cinesi che Bakin rintraccia per alcuni degli elementi della storia, commenti poi raccolti e ampliati nel suo saggio Enseki zasshi del quale si è già parlato al capitolo 1. Dopo il dispetto della scimmia, il granchio chiama a consiglio i suoi amici con cui decide di prendersi la rivincita, ma quando il contrattacco sembra stia 44 三条院, altro nome dell'imperatore Sanjō (vedi nota 41). 45 光孝天皇 (830-­‐887), imperatore incluso anch'egli nello Ogura hyakunin isshu. 77
per essere portata a termine con successo, quella riesce ad approfittare di un attimo di distrazione generale per scappare. Organizza quindi il popolo delle scimmie in un esercito, così come il granchio fa con i suoi parenti, e si fanno preparativi per una grande campagna militare. Poco prima di Imm. 28: Zōho saru kani kassen, 7r-­‐8v cominciare la battaglia, tuttavia, fanno la loro apparizione le due divinità Hachidai Ryūō46 e Tatsuta Hime47 che riappacificano i due comandanti, i quali da quel momento in poi diventano amici. I personaggi sono antropomorfizzati con il disegno dell'oggetto o animale che rappresentano sopra la testa, ma si comportano in tutto come umani, Imm. 29: Zōho saru kani kassen, 9r-­‐10v come si vede anche nella scena della vendetta a casa della scimmia. Inoltre, nella seconda parte riappaiono, dopo diversi anni di assenza, anche le raffigurazioni dei personaggi con indosso un'armatura.
Sono stati volutamente tralasciati e spostati alla fine di questa sezione i testi [n.19] e [n.21], rispettivamente un kyōka di Ōta Nanpo inserito nell'opera Kyōka saizō shū (1787) e un testo a stampa in kanbun del 1792, Gantō kiji, scritto da Kumasaka Taishū, un impiegato del bakufu proveniente dal Tōhoku. Del primo si è parlato al capitolo 1 (p.22) in riferimento all'articolo di Onohara Takahashi: si tratta di una citazione della lite tra il granchio e la scimmia di Saru kani kassen all'interno di un brano in cui, uno dopo l'altro, vengono sciorinati tutti i più famosi mukashibanashi del tempo. Il libro di Kumasaka, invece, era probabilmente un libro di testo per imparare il kanbun48 rivolto ai ragazzi appartenenti alla classe dei bushi49, nel quale si trova anche 46 八大龍王, "gli otto grandi Re Dragoni", divinità buddhiste che compaiono nel Sutra del Loto. Dal momento che nell'illustrazione vi è solo una divinità, probabilmente si intende per sineddoche il Re Dragone Shagara 娑伽羅龍王, custode e signore della pioggia e dei mari.
47 龍田姫, divinità del vento, di solito venerata in coppia con Tatsuta Hiko 龍田彦. 48 漢文, cinese. 78
l'episodio del granchio e della scimmia con il titolo Ki kaien ji 記蟹猿事. La trama è molto vicina a quella del filone 'saru ga shima': un granchio trova per caso un seme di kaki, lo raccoglie e lo semina. Ne cresce un grande albero, ma non riuscendo ad arrampicarsi chiede aiuto alla scimmia, la quale mangia tutti i frutti maturi lanciando a terra solo bucce e semi. Quando quella se ne va, lasciando sui rami solamente un kaki acerbo, il granchio si ripromette di vendicarsi; conscio, tuttavia, della sua piccola stazza decide di farsi degli alleati e così, prima di partire, prepara dei kibidango. Lungo la strada incontra un mortaio, un pestello, un ago, un uovo, un escremento e un bastone tutti desiderosi di mangiare un dango promettendo in cambio i loro servigi. Il granchio, dopo aver osservato le caratteristiche dei suoi vassalli, spiega loro il piano di attacco pensato in base a esse e una volta arrivati alla casa del nemico tutti si nascondono nei luoghi impartiti. Quando la scimmia ritorna, va a letto, ma l'ago punzecchiandola la sveglia. Va allora a scaldarsi vicino al focolare, ma l'uovo salta fuori ustionandola, e quando cerca sollievo con dell'acqua il granchio, dall'interno della tinozza, le taglia un dito. La storia continua come un normale Saru kani kassen, ma alla fine viene specificato che il granchio completa la sua vendetta tagliando la testa alla scimmia e che, ringranziandoli per i loro servigi, prima di licenziare i suoi vassalli fa loro dono di ricche ricompense. Questo racconto è un'interessante commistione dei due filoni 'saru ga shima' e 'saru kani kassen'50, avvolto da un'atmosfera solenne e di fedeltà vassallatica che ben si intonava all'educazione di quelli che sarebbero diventati i nuovi membri della classe guerriera. 49 Così spiega Uchigasaki Yuriko, per via non solo del contenuto -­‐alcuni dei mukashibanashi più famosi-­‐ ma anche per la presenza nel testo di lettura dei caratteri e kunten (segni scritti a fianco al carattere per indicarne l'ordine di lettura). [UCHIGASAKI Yuriko, "Edoki mukashibanashi kanbun gesaku "Gantō kiji" ni tsuite: 'Ki kaien ji' ni tsuite", Udai kokugo ronkyū, 7, 1995-­‐8, pp.17-­‐18] 50 Nonostante Sawai riconosca solo il primo. 79
2.3 OPERE 25-­37: GŌKAN, YOMIHON, ZUIHITSU, KANBUN A quasi dieci anni di distanza dal kibyōshi Zōho saru kani kassen, nel 1807 Takizawa Bakin pubblica un gōkan dal titolo Shimamuragani minato no adauchi [n.25], illustrato da Utagawa Toyoshige. Nonostante l'autore nella prefazione spieghi che questo libro prenda spunto dalla storia della "vendetta della scimmia e del granchio tramandata fin dal passato nei racconti per bambini" (kono sōshi wa, mukashi yori harahabe no kataritsutahetaru saru to kani to no adauchi ni mototsuki,... この草紙は、むかしより侲子の語り
Imm. 30: Shimamuragani minato no adauchi, jobun 1v 伝へたる猿と蟹との仇討に根き[略]), di Saru kani kassen in realtà mantiene solo i personaggi, aggiungendone molti altri ancora e intrecciandoli in una storia originale che Sawai Taizō ricollega in parte anche a quella di Shutendōji. La narrazione ha inizio con Koeda, la figlia del cacciatore Shibukaki51 Sajibei, la quale si innamora di un bello straniero che comincia a farle visita tutte le notti di nascosto. Quando Sajibei lo scopre, una mattina segue il ragazzo per scoprire dove abita e per dargli una lezione, ma il giovane si rivela essere una grande scimmia demone che vive nella profondità delle montagne. Riesce ad ucciderla con un manipolo di altri cacciatori, ma la figlia scopre essere incinta del mostro; decide, tuttavia, di dare alla luce il bambino e gli dà nome Mashida52. Con il tempo, però, nonostante l'apparenza sia quella di un essere umano, il piccolo dimostra di avere una cattiveria intrinseca del tutto fuori dal normale e, così, viene abbandonato dalla famiglia. Trova rifugio nelle montagne diventando un bandito; al soldo di Kaiun viene incaricato di rapire una ragazza di nome Otohime, della quale il vecchio si è invaghito. Mashida ha successo nel rapimento e a causa di ciò il vassallo Shimamura Takanori commette suicidio insieme alla moglie, perseguitando, in quanto spiriti, la nave con a bordo il bandito. Si succedono omicidi, 51 Shibukaki 渋柿 significa "kaki acerbi" ed è un riferimento a Saru kani kassen. 52 Da mashira 猿, un altro modo di dire "scimmia". 80
suicidi e torture di ogni sorta, ma alla fine il figlio di Otohime, Uma no suke, riesce a ritrovare la madre in una grotta nel cuore di una montagna. Grazie al consiglio dello spirito di Shimamura, Uma no suke e i suoi vassalli Kuni Wakamaru, Usui Kinematsu53 e Kuribara Tamagorō54 attaccano a sorpresa Mashida che si era ormai trasformato in un demone scimmia. Nel mezzo della rappresaglia compaiono anche una miriade di granchi, compresi gli spiriti dei coniugi Shimamura, i quali Imm. 31: Shimamuragani minato no adauchi, 13v-­‐14r fanno cadere, pinzandone le gambe, Mashida che viene prontamente decapitato da Kuni Wakamaru. Eccezion fatta per i due demoni scimmia e per i granchi che appaiono nella scena dell'attacco finale, nessuno dei personaggi viene reso come oggetto o animale, mentre sono invece resi come uomini guerrieri che combattono con le loro spade.
Dello stesso anno è lo yomihon Kaien kidan [n.26], scritto da Ritsujōtei Kiran, il quale combina insieme, inserendoli al contempo in un nuovo contesto, i due mukashibanashi Saru kani kassen (che nella prefazione viene tuttavia indicato come Saru ga shima) e Momotarō. La storia si evolve nel tempo passando dall'era dell'imperatore Kanmu55, al periodo Kamakura (1185-­‐1333). La scimmia, il granchio e il cinghiale sono i figli dello spirito demoniaco Aguromaru; questi viene ucciso per via di un furto commesso ai danni della corte imperiale e i tre fratelli sono costretti a scappare in tre direzioni diverse: la scimmia, dopo aver rubato tre tesori, fugge sul monte Ishimaki; il cinghiale si rifugia sulle pendici del monte Fuji, ma verrà ucciso in una battuta di caccia; il granchio si nasconde in una grotta lungo il fiume Suzuka. Quest'ultimo, tuttavia, con il passare degli anni si pente delle malefatte del padre e cerca di andare a convincere anche la scimmia a fare altrettanto, senza ottenere risultato. La minaccia, allora, di andare a confessare tutto 53 Nome che include i sostantivi usu 臼, "mortaio", e kine 杵, "pestello". 54 Nome che include i sostantivi kuri 栗, "castagna", e tamago 卵, "uovo". 55 桓武天皇, regnante tra il 781 e l'806. 81
alle autorità, ma la scim-­‐
mia, per impedirglielo, lo Imm. 32: Kaien kidan, vol. 2, 14r-­‐15v uccide sotto all'albero di kaki che coltivava nel suo giardino per poi far ritorno sulle montagne. La trama si sposta, dunque, sul personaggio di Momotarō ( 桃 太 郎 ), il quale viene rinominato Momotarō ( 百 太 郎 ) Yoshitsuna Fujitsuna
56
da Aoto . All'età di sedici anni, Momotarō decide di partire per il Giappone orientale al fine di perfezionare la sua tecnica militare e il suo spirito guerriero; sulla via incontra Iwatsuki Kiji57 nonché la giovane Toyohime, della quale si innamora a prima vista. Questa viene, però, rapita e il ragazzo parte per il Kamigata alla sua ricerca, incontrando altri guerrieri che diverranno pur'essi suoi vassalli in cambio dell'insegnamento dell'arte militare: Kidō Inuwaka58, Tawara Gengō e U 59 no matsu. Toyohime viene ritrovata, ma per poterla sposare Momotarō deve intraprendere un ulteriore viaggio per ottenere il permesso dal padre. Toyohime viene però di nuovo rapita in seguito all'attacco al castello dove stava aspettando il ritorno del suo amato, attacco guidato dalla scimmia e altri due banditi, nominati generali sankō60 da Yoshimura Danjō. Momotarō, lungo la via, incontra un granchio dalle sembianze simili a quelle umane che lo informa del rapimento ad opera dei tre generali e lo invita a vendicarsi:
56 青砥藤綱, samurai di periodo Kamakura al servizio del reggente Hōjō Tokinori 北条時頼 (1227-­‐1263), era noto per il suo carattere retto e virtuoso. 57 Kiji 雉 significa "fagiano", uno dei tre aiutanti di Momotarō nella favola omonima (vedi anche note successive) . 58 Inu 犬 significa "cane" 59 U, viene scritto col carattere兎, "coniglio". 60 三公, sorta di gran consiglieri. 82
Imm. 33: Kaien kidan, vol.13, 6r-­‐7v
Grazie al consiglio dello stesso granchio, riesce a penetrare nel castello dei sankō sull'isola di Ōmisaki sotto le spoglie di un attore di kadozuke61, ma quando sta per infliggere il colpo finale alla scimmia appare il granchio, il quale rivela essere il figlio di quello ucciso dalla stessa sotto l'albero di kaki. La scimmia comprende il sentimento di rimorso del nemico, e gli porge il proprio collo per permettergli di portare a termine la sua vendetta:
Imm. 34: Kaien kidan, vol.18, 6r-­‐7v
61 門付, un tipo di spettacolo che vedeva l'attore girare per tutte le case offrendo la sua arte (che poteva includere il canto, la danza, o il marionettismo) in cambio di denaro. 83
La vicenda si conclude con il tentativo di U no suke di vendicare la propria madre, con il ritrovamento dei tesori rubati dalla scimmia all'inizio della storia e con il matrimonio di Momotarō con Toyohime. Come nel gōkan pubblicato lo stesso anno, anche in questo caso i personaggi sono quasi sempre disegnati come esseri umani normali, ma i due granchi e la scimmia sono resi come animali antropomorfizzati, i primi con un granchio sulla testa e, nel caso del figlio, con delle chele al posto delle braccia, la seconda con il corpo interamente coperto di peli.
Per i due zuihitsu di Bakin [n.29] e Santō Kyōden [n.30], si vedano rispettivamente le sezioni 1 e 2 del primo capitolo.
Risalente ai primi decenni dell'ottocento è un kakejiku 62 intitolato Kaishi batsu ezu [n.32], scritto in kanbun da Nakai Riken e con un'illustrazione di Iwasaki Shōgai. Quest'ultima vede il granchio capeggiare su castagna, forbici, mortaio e ago, ognuno con l'oggetto rappresentato al posto della testa. Il testo è diviso in due parti: kyō 経, in cui vengono presentati dei fatti storici, e den 伝, spiegazione dettagliata del fatto storico, in questo caso una parodia 63 dell'antico testo di cronaca cinese Shunjū sashiden 春秋左氏伝 (Chun qiu zuo shi zhuan). Il granchio sta camminando per i campi quando vede che una scimmia su un albero sta mangiando dei kaki. Quando gliene chiede uno, quella si arrabbia e le lancia addosso i frutti acerbi, crepandone il guscio e uccidendolo. Dalla ferita nasce un figlio che parte giurando vendetta, reclutando sulla via grazie ai kibidango un mortaio, una Imm. 35: Kaishi batsu ezu castagna, un ago, un escremento e delle forbici. Dopo l'attacco in successione secondo le modalità di 'saru kani kassen', il figlio del granchio taglia la testa alla scimmia sradicandone, così, la stirpe. È da notare che questo è il primo 62 掛け軸, rotoli dipinti (possono anche essere accompagnati da un testo o avere, al posto di un disegno, una calligrafia) da appendere alla parete. 63 Nel senso genettiano del termine, ovvero una "trasformazione" di un testo pre-­‐esistente, uno "sviamento semantico di un testo realizzato attraverso una trasformazione minimale". [Gérard GENETTE, Palinsesti. La letteratura al secondo grado, Torino, Einaudi, 1997, p. 30] 84
esempio di testo in cui il granchio figlio, nato dalla corazza del genitore morto, cerca vendetta mosso dal sentimento confuciano della pietà filiale nei confronti del genitore. Del 1824 è un'altra opera di Bakin, Warabe hanashi akahon jishi [n. 33], un altro gōkan in cui vengono mescolati senza soluzione di continuità svariati mukashibanashi nonché una trama originale che funge da filo conduttore Imm. 36: Warabe hanashi akahon jishi, 5r lungo tutti i sei volumi che compongono il testo. Tentando di isolare la parte che riguarda Saru kani kassen, all'inizio del testo viene rubata una pietra da inchiostro a forma di seme di kaki, cimelio della famiglia del benestante Fukutomi, ma dopo un paio di pagine si scopre che il ladro è Sarukurō. Questi, infatti, la scambia per un onigiri con Kanijirō, entrambi superstiti di un'alluvione, mettendosi in salvo il primo su un albero e il secondo sul tetto della sua casa. La pietra viene, tuttavia, rubata nuovamente da Sarukurō più avanti nella narrazione, e dallo stesso viene anche rapita la figlia di Fukutomi, Suzume hime, senza che i suoi vassalli Tamagorō e Usugorō possano fare nulla per impedirlo. Alla fine, però, commosso dai poteri e dalla misericordia del bodhisattva Kannon, Sarukurō si redime. In quest'opera i personaggi sono tutti rappresentati come esseri umani.
Saru kani monogatari [n.34], scritto da Endō Harutani nel 1830, è composto da due parti, una prima di gibun 戯文, scrittura parodistica, e una seconda di kyōka. In questa sede ci si soffermerà solo sulla prima, come spiegato in introduzione al capitolo. Il granchio a causa del lancio di kaki muore, dando così luce a un piccolo granchio che, portando con sé kibi-­
dango, parte per uccidere il colpevole. Dopo l'attacco combinato degli aiutanti, taglierà la testa alla Imm. 37: Saru kani monogatari scimmia, vendicando così il genitore morto ingiustamente. Anche in questo caso, vi è un sentimento di amore filiale dietro alla decisione del granchio di non lasciare il crimine impunito.
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Intorno al 1845 viene pubblicato un altro testo in kanbun scritto da Akai Tōkai, Seki seki shunjū [n.35]. Come Kaishi batsu ezu, riprende e parodizza il testo cinese Shunjū sashiden, dividendo ogni capitolo in kyō e den. Saru kani kassen non è, però, trattata singolarmente, bensì mescolata ad altri mukashibanashi, in particolare a Saru no ikigimo, e descritta come fosse un evento storico64. In questa storia, la scimmia scappata dal palazzo del Re Dragone dopo che dalla tartaruga le è stato rivelato che le verrà estratto il fegato per far guarire la regina, incontra il granchio e lo inganna facendosi dare l'onigiri che quello aveva trovato per terra. Il granchio coltiva il seme di kaki, ma quando la scimmia vede che i frutti sono maturi sale sull'albero e comincia a mangiarli. Il granchio le chiede di lanciargliene uno, ma per tutta risposta gli vengono lanciati contro violentemente quelli ancora duri, uccidendolo; magicamente, però, resuscita e chiede aiuto ai suoi amici per vendicarsi. Riesce nell'impresa grazie all'attacco combinato degli aiutanti e così catturano viva la scimmia con l'intento di riportarla al palazzo del Re Dragone. Nel tragitto, tuttavia, la scimmia con la dialettica convince il granchio a lasciarla andare, minacciandola di dire al re che a svelarle il piano permettendole di salvarsi la vita non era stata la tartaruga, ma il granchio stesso. Spaventato, il granchio si risolve di liberarla, non prima, però, di infliggerle come punizione una bardana dentro il sedere, come recita la filastrocca saru ga shiri wa makkaina.
Lo zuihitsu di Kamo no Norikiyo Hina no ukegi [n.36] del 1847 è già stato introdotto nel primo capitolo alla sezione 3, in riguardo alla polemica degli anni trenta sui libri di testo volti alle classi elementari. Il capitolo Saru kani kassen no ben è diviso in due parti: la prima presenta la versione di Saru kani dell'autore, la seconda un commento su quello che sarebbe il vero e intrinseco significato della favola. Per quello che riguarda la prima parte, la trama raccontata è quella del filone 'saru kani kassen', con l'introduzione della scena dell'ape che mette in fuga la scimmia mentre sta lanciando i kaki, salvando così il granchio, e un finale moraleggiante con la scimmia che si pente della sua cattiveria e alla quale viene, dunque, risparmiata la vita. La seconda parte spiega che questa è una storia che parla di Bene e Male. Lo Spirito (shin 心) è paragonato al Cielo, quindi all'ordito, al verticale; il Pensiero (i 意 ), invece, alla Terra, quindi alla trama, all'orizzontale. Quest'ultimo viene rappresentato dal granchio, che notoriamente si muove solo in orizzontale. Ognuno alla nascita possiede un Pensiero immacolato, bianco, il quale può 64 SAWAI Taizō, "Kanbuntai "Saru kani kassen" sanshu: "Saru kani kassen" kō (sono 5)", Literary symposium, 129, 2004, p. 23.
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essere tinto sia dal Bene che dal Male; solo con l'educazione ricevuta nel periodo dell'infanzia si viene a delineare quella che sarà la propria via di condotta. L'onigiri della storia di Saru kani rappresenta proprio questo Pensiero originario, ancora bianco, perchè bianco è il riso ottenuto dalla macinatura del mortaio (e per questo è un mortaio ad intervenire nel finale). La polpetta viene dunque fatta scambiare dalla scimmia malevola con un seme di kaki: il seme rappresenta il Male, così come il kaki che ne nasce da esso il Desiderio -­‐e il kaki è il frutto preferito dalla scimmia. Il granchio, allora, si ritrova ad auspicare che quel seme cresca in un grande albero dai mille frutti, così lo semina e lo coltiva. Ma la scimmia è la prima a bramare quei frutti del Desiderio, così sale sull'albero tenendo per sé i desideri che possono esserle utili e lasciando al granchio solo quelli non profittevoli. Quello, però, viene salvato dall'ape che punge la scimmia, rappresentando la Vergogna, il sentimento volto a far pentire delle proprie azioni che può giungere inaspettato in qualsiasi momento. L'amico dell'ape è il mortaio, che come detto prima è colui che rende bianco il riso e, quindi, corrisponde al Maestro che indica la Via, mentre il pestello è la Via stessa, che con la sua forza riesce a lavorare e malleare la ricerca della conoscenza. L'uovo, invece, rappresenta la natura del Bene Originario, così come è il cuore di un neonato. Inoltre, il nukamiso verso cui la scimmia si precipita per alleviare il bruciore dell'ustione simbolizzerebbe il Desiderio di tutte le cose, prima tra tutte la vita stessa; eppure tutte le cose, compreso il nostro corpo, appartengono al Cielo, ed è un errore pensare che ci appartengono -­‐questo è il motivo per cui la scimmia nella favola non viene lasciata avvicinare al nukamiso. La scimmia, tuttavia, nel finale viene risparmiata, perchè nonostante rappresenti la Bramosia e la Lussuria, essa mostra di voler cambiare e rinnovare il suo Cuore.
Un altro gōkan65 viene pubblicato nel 1850, scritto da Kanagaki Robun e illustrato da Utagawa Yoshimori, dal titolo Mukashibanashi saru kani kassen [n.37]. La trama è quella del filone 'saru kani kassen' con un paio di differenze: il granchio all'inizio viene salvato dall'ape che si accorge del sopruso in corso, mettendo in fuga la scimmia; nel finale la scimmia si pente del suo comportamento, se ne scusa e chiede al granchio, all'uovo, al mortaio e all'ape di diventare come fratelli. Interessante, in quest'opera, è la resa grafica dei personaggi. Se da una parte le illustrazioni riprendono le stesse scene degli akahon 65 Con i suoi due volumi e sedici chō, tuttavia, avrebbe un formato più vicino a quello dei kibyōshi (i quali, si ricorda, sono solitamente composti da tre volumi da cinque chō), ma per la convenzione di far terminare il periodo dei kibyōshi all'inizio dell'ottocento sia sul Nihon kotenseki sōgō mokuroku che in altre sedi viene indicato come gōkan. 87
di un secolo precedente (la scena iniziale dello scambio tra i due animali, granchio e ape antropomorfizzati con un piccolo animale sopra la testa, la scimmia che nella scena del lancio dei kaki indossa un furoshiki -­‐tessuto quadrato usato per avvolgere oggetti-­‐ in testa, il mortaio che schiaccia la scimmia), dall'altra vedono l'introduzione di nuovi elementi (scimmia, mortaio e uovo sono resi con corpo di umano ma testa di animale/oggetto, i tre aiutanti alla fine vestono come samurai e combattono con le spade, inserimento di nuove scene come quella dell'ape che mette in fuga la scimmia). Imm. 38: Mukashibanashi saru kani kassen, 5r-­‐6v Imm. 39: Mukashibanashi saru kani kassen, 6r-­‐7v Imm. 40: Mukashibanashi saru kani kassen, 10r-­‐11v Imm. 41: Mukashibanashi saru kani kassen, 11r-­‐12v Imm. 42: Mukashibanashi saru kani kassen, 12r-­‐13v Imm. 43: Mukashibanashi saru kani kassen, 14r-­‐15v 88
2.4 OPERE 38-­61: MAMEHON, E (OMOCHAE, SUGOROKU, NISHIKIE), EMAKI
Verso la fine del periodo Tokugawa, in particolare negli ultimi due decenni prima della restaurazione Meiji, sul tema di Saru kani kassen escono una serie di prodotti a stampa rivolti a un pubblico esclusivamente infantile: si tratta di mamehon 豆本, omochae おもちゃ絵 e sugoroku 双六. I primi sono dei libri di fiabe e favole illustrati in miniatura, spesso della grandezza di un palmo di mano, i quali pare abbiano fatto la loro comparsa sul mercato editoriale verso la metà dell'era Bunka (1804-­‐1818) 66 . Gli omochae sono fogli stampati e venduti solitamente uno a uno adibiti, più che a una contemplazione silenziosa, a un utilizzo attivo della manualità dei bambini67. Alcuni dovevano essere ritagliati e piegati per creare paesaggi tridimensionali, altri erano affollati di piccole figure che per tipologia variavano dagli eroi delle leggende ai demoni e mostri delle storie di paura, dagli oggetti di vita quotidiana a piante e animali. Altri ancora avevano più scopo didattico e presentavano elenchi di parole, precetti morali, nomi di strade, o anche immagini delle quattro stagioni o dei rituali che si susseguivano durante tutto l'anno68. Infine per sugoroku in questo caso si intendono gli e sugoroku69 絵双六, passatempo simile al nostro "gioco dell'oca", in cui delle pedine avanzano su un foglio diviso in caselle in base al risultato del lancio di dadi.
Quelli che potrebbero essere i primi di questi nuovi prodotti editoriali ad avere per soggetto Saru kani kassen sono due omochae, uno la cui data di pubblicazione è incerta, Shinpan mukashibanashi saru kanibanashi [n.38] e l'altro del 1853, Mukashibanashi saru kani kassen [n.40], illustrati da esponenti della scuola Utagawa, rispettivamente Kunisato e Yoshitsuna:
66 SUZUKI Jūzō, "Edo no mukashibanashi ehon no sugaki", in 1986 nen kodomo no hon sekai taikai shūhen puroguramu iin kikaku (a cura di), Nihon no kodomo no hon rekishiten: zuroku 17 seiki kara 19 seiki no eiribon wo chūshin ni, Tōkyō, Nihon kokusai jidō tosho hyōgikai, 1986, p. 53. Suzuki ricorda, inoltre, come anche i primi akakohon fossero di piccola misura, ma a differenziarli dai mamehon di fine periodo Tokugawa è il contenuto, che nel caso dei primi era molto più variegato. 67 SETA Teiji, "Omochae to sugoroku", in 1986 nen kodomo no hon sekai taikai shūhen puroguramu iin kikaku (a cura di), Nihon no kodomo no hon rekishiten: zuroku 17 seiki kara 19 seiki no eiribon wo chūshin ni, Tōkyō, Nihon kokusai jidō tosho hyōgikai, 1986, pp. 66. 68 Ibidem, p. 6. 69Ne esiste, infatti, un altro tipo più antico dello e sugoroku. Si tratta del ban sugoroku 盤双六, originario dell'India, nel quale i giocatori dovevano cercare di penetrare nel territorio dell'avversario con le loro pedine, avanzando attraverso il lancio di dadi su una scacchiera di legno. [Ibidem, pp. 68] 89
Imm. 44: omochae Shinpan mukashibanashi saru kanibanashi Imm. 45: omochae Mukashibanashi saru kani kassen Entrambe le opere vedono il granchio, vittima delle vessazioni della scimmia, affidare ai tre amici mortaio, uovo e ape (che nel [n.40] interviene per salvare il granchio dal lancio di kaki) l'attacco ai danni del nemico. Nel finale la scimmia viene catturata viva o schiacciata dal mortaio, senza specificarne ulteriormente la sorte. In ambedue i casi le antropomorfizzazioni vengono rese attraverso la sostituzione della testa con l'oggetto o animale rappresentato. Un ultimo omochae di fine periodo Tokugawa è quello di Utagawa Kuniyoshi, Saru kani kassen [n.56], dove le antropomorfizzazioni sono identiche a quelle degli omochae appena descritti. In tutti e tre gli omochae gli aiutanti si vendicano della scimmia non più come oggetti nascosti all'interno della casa, ma come veri e propri guerrieri duellanti con spade alla mano:
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Imm. 46: omochae Saru kani kassen Imm 47: Mukashibanashi akahon sugoroku Del 1860 è invece un sugoroku dal titolo Mukashibanashi akahon sugoroku [n.48] disegnato da Utagawa Yoshiiku, nel quale, com'è spiega il titolo, vengono citati alcuni dei personaggi e alcune delle scene delle favole rese famose dai kusazōshi dei decenni precedenti. A Saru kani kassen è dedicata la scena del mortaio che schiaccia la scimmia, dalla quale purtroppo non si possono reperire ulteriori informazioni.
Un altro sugoroku, Shinpan saru ga shima katakiuchi himawari sugoroku [n.53], viene indicato nel saggio di Sawai come pubblicato alla fine del periodo Tokugawa, nonostante nel catalogo del Kotenseki tenkan dainyūsatsukai mokuroku del 2007 l'opera venga fatta risalire alla metà del periodo Purtroppo Tokugawa. le ridotte dimensioni della foto inserita nel catalogo non lasciano comprendere in maniera completa le dinamiche della Imm. 48: Shinpan saru ga shima katakiuchi himawari sugoroku
storia qui proposta, ma si può 91
capire che tra i personaggi vi sono un mortaio, delle forbici e una castagna, il che fa pensare che la trama possa seguire quella del filone 'saru ga shima'.
Su Saru kani vengono anche stampate dei nishikie. Il primo di questi, in ordine temporale, è del 1854 ed è uno shinie
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di Utagawa Toyokuni dedicato all'attore kabuki Ichikawa Danjūrō VIII (1823-­‐1854), morto suicida quell'anno ad Ōsaka per ragioni tutt'oggi sconosciute. Il Imm. 49: Mukashi hanashi saru kani kassen titolo, Mukashi hanashi saru kani kassen [n.41], non lascia dubbi sull'intenzione di citare la favola, ma il perché dell'allusione a questa non è chiaro: il granchio non è presente nella scena e al suo posto, a impartire gli ordini per l'offensiva che in questo caso consiste nell'infilare un gran numero di bardane nel sedere della scimmia, è un dango. Ad eccezione delle due scimmie, disegnate come animali, tutti gli altri personaggi sono rappresentati come degli esseri umani, a distinguerli solo il nome scritto sugli abiti. Nel 1857 viene pubblicato Mukashibanashi ichiran zue, di Utagawa Shigenobu, un nishikie costituito da tre fogli messi insieme che consentono una ampia visione panoramica. In questo caso sono mischiate insieme, oltre a Saru kani, altre favole come Momotarō, Shitakiri suzume, Hanasaki jijii e altre ancora. Di Saru kani, in particolare, vengono rappresentate tre scene: lo scambio iniziale, il lancio di kaki della scimmia, lo scoppio dell'uovo e l'attacco dell'ape. Qualche anno dopo escono altri due nishikie, anche questi come trittici particolarmente ricchi di dettagli e accomunati da un elemento: in entrambi, infatti, manca il personaggio del granchio. Del primo, Mukashibanashi saru ga shima [n.46] non si sanno nè anno di pubblicazione, che si pensa tra la fine dell'era Ansei (1854-­‐1860) e l'era Keiō (1865-­‐1868), né l'autore. Il secondo è datato 1860 ed è firmato da Utagawa 70 死絵, stampe commemorative di famosi attori (ma anche scrittori e pittori popolari) deceduti, con impressi il ritratto e altre informazioni, quali la data della morte e il nome postumo buddhista. 92
Yoshiiku, dal titolo Saru kani katakiuchi no zu [n.47]. In Mukashibanashi saru ga shima i due eserciti (quello delle scimmie da una parte, quello composto da forbici, mortaio, castagna, escremento, fagiano, coniglio, Momotarō e altri ancora vestiti in abiti militari dall'altra) si stanno reciprocamente studiando guardandosi dalle rive opposte di due terre divise dall'acqua:
Imm. 50: Mukashibanashi saru ga shima
In Saru kani katakiuchi no zu, invece, l'azione è già in corso, con i due schieramenti impegnati nel combattimento:
Imm. 51: Saru kani katakiuchi no zu
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Anche in questo caso i personaggi sono tutti provvisti di spade e duellano tra loro. Dalla parte del granchio, nonostante quest'ultimo sia assente, si trovano un ape, un mortaio, un coniglio, un gallo, un uovo e dei gatti. Entrambe le stampe più che alla storia di Saru kani in sé sembrano porre maggior peso al curioso raggruppamento di personaggi provenienti da differenti storie, nonché al fascino delle atmosfere guerresche che il gran numero di figure in tenuta militare evoca. Per quello che riguarda i libri su Saru kani kassen, invece, negli ultimi anni del periodo Tokugawa sono stati pubblicati cinque mamehon, un kohon 小本 e un chūhon 中本. Dei mamehon, è stato possibile visionarne tre, mentre per un altro, che corrisponde nella prima tabella al [n. 60], si farà ricorso all'articolo di Sawai71. Il primo mamehon che verrà trattato è del 1862, e fa parte di una collezione di dodici mukashibanashi dal titolo omonimo, in cui ogni volumetto misura in altezza e larghezza circa tre centimetri: Imm. 52: mamehon Mukashibanashi, copertina esterna (a sinistra) e copertine dei singoli volumetti (destra) Il libretto con la storia di Saru kani kassen comprende cinque scene divise in dieci facciate: tre sono dedicate agli aiutanti mortaio, ape e uovo che, spade in mano, attaccano la scimmia; una vede la scimmia scusarsi per le proprie malefatte; l'ultima Imm. 53: mamehon Mukashibanashi, 4r-­‐5v rappresenta il granchio che si felicita per l'avvento del nuovo anno, cominciato in modo propizio. Dello stesso periodo, risalente all'era Bunkyū (1861-­‐1863) è il chūbon Saru ga shima katakiuchi [n.49], la cui storia appartiene pienamente a quella del filone di 'saru ga 71 SAWAI Taizō, "Nihon mukashibanashi ni kansuru shiryō nōto: 'Saru kani kassen' 'Tengu no uchiwa' ", Literary symposium, 120, 1999-­‐12, pp. 71-­‐90.
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shima', con un piccolo granchio che nasce dalla corazza crepata del genitore morto che, a quindici anni, decide di partire per la vendetta. Nel testo è data molta più importanza alla prima parte della vicenda, fino al momento in cui il figlio, che viene adottato da una coppia del villaggio vicino e a cui viene dato il nome di Kanitarō, riesce ad ottenere l'aiuto del mortaio, della castagna e Imm. 54: chūhon Saru ga shima katakiuchi, 3r-­‐4v delle forbici consegnando loro dei kibi-­
dango. La scena della vendetta viene riassunta in poche parole, mentre ha più largo spazio nelle immagini, che esplicano come i vari aiutanti, nascosti nella casa, siano riusciti ad ottenere la vittoria.
I mamehon Kaki no tane/Saru kani hanashi [n.54] e Saru kani kassen [n.58] presentano, invece, la storia classica del filone 'saru kani kassen', con due sostanziali differenze. Nel primo dei due testi, il granchio dopo essere stato vittima del lancio di kaki torna a casa dalla moglie e, dopo l'attacco combinato dei tre aiutanti nascosti nella casa, taglia la testa alla scimmia; Imm. 55: Kaki no tane/Saru kani hanashi, 4r-­‐5v Imm. 56: Kaki no tane/Saru kani hanashi, 7r-­‐8v nel secondo testo, il granchio viene salvato dall'ape, la quale poi insieme agli altri due aiutanti combatte la scimmia con le spade, ma nel finale questa viene perdonata e ha salva la vita.
Momotarō [n.60], infine, racconta la storia di 'saru ga shima' con gli aiutanti castagna, mortaio e forbici che partono insieme al protagonista alla volta dell'Isola delle Scimmie, 95
con il particolare, tuttavia, del protagonista stesso, il quale non è un granchio bensì l'eroe dell'omonimo mukashibanashi Momotarō.
Scritto in versi è invece Dōwa chōhen [n.43], di Kurosawa Okinamaro, studioso di letteratura e poeta. La storia è presentata in maniera piuttosto lineare: il granchio, dopo il lancio di kaki, muore e il figlio parte per la vendetta. Sulla strada, mossi a compassione dalla vicenda, si uniscono a lui un mortaio, una castagna e un'ape. L'attacco si svolge secondi i modi di 'saru kani kassen', con il figlio del granchio che alla fine taglia la testa alla scimmia.
Per ultimo è stato lasciato il secondo emaki (nello specifico, un koemaki 小絵巻, rotolo dalle piccole dimensioni), Saru kani kassen emaki [n.61], il quale se da una parte appartiene al filone di 'saru ga shima' come quello presentato all'inizio della prima sezione, dall'altro la trama segue in parte anche quella di 'saru kani kassen'. In questo testo, il granchio e la scimmia all'inizio scambiano tra loro onigiri e seme di kaki. Il figlio del granchio, che trova il genitore morente dopo il dispetto della scimmia, giura vendetta e parte per l'Isola delle Scimmie portando con sé dei kibidango. Lo affiancano, diventandone vassalli in cambio di un dango, un coltello, un'ape, un mortaio, una vecchia fune e un'alga. I primi due innanzitutto spaventano la scimmia mettendola in fuga e facendola correre verso l'alga, che la fa scivolare; infine, il mortaio, sostenuto dalla fune sui rami di un albero, cade schiacciandola. Il figlio del granchio ne approfitta, allora, per tagliare la testa al nemico, riuscendo così a vendicare il proprio genitore. In questo emaki è interessante notare come nessuno dei personaggi sia reso antropomorfizzato, ma ognuno di loro mantenga la forma originaria di animale od oggetto.
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Imm. 57: quattro scene da Saru kani kassen emaki: lo scambio tra i due animali, il ritrovamento del cadavere del genitore da parte del figlio granchio, l'incontro con gli aiutanti e l'uccisione della scimmia
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2.5 CONCLUSIONI
Nella prima sezione, che corrisponde alla prima fase di produzione dei kusazōshi più il rotolo illustrato attribuito a Kujō Shundai, si nota anzitutto una grande varietà nella scelta dei personaggi che aiutano il granchio a vendicarsi: non solo i canonici mortaio, pestello, ape, castagna/uovo e alga, ma anche utensili da cucina, serpenti, coltelli, fobici. L'attacco finale viene descritto in due modi differenti: con l'attacco combinato e coordinato degli aiutanti del granchio, i quali utilizzano ognuno le proprie caratteristiche (opere [n.3], [n.4], [n.5] e [n.13]) o con una scena affollata di figure che combattono tra loro in modo confusionario (opere [n.1], [n.2], [n.8], [n.9]). In questo ultimo caso il nemico di cui vendicarsi non viene individuato in un unico animale, ma in una folta schiera di scimmie, che vengono tutte uccise senza esclusioni. Quando la scimmia è solo una, invece, nel finale non viene specificato se questa muoia o meno. Spesso il testo si conclude con il mortaio che le cade sulla schiena e con la descrizione del granchio che così riuscì a completare la sua vendetta. In riguardo a ciò, in questa fase vi è una netta differenza tra i testi pubblicati nel Giappone occidentale ([n.2], [n.9] e [n.10]) e quelli stampati a Edo: nei primi, infatti, è completamente assente la descrizione dell'attacco con gli aiutanti nascosti nella casa della scimmia. Inoltre, il movente per la vendetta è quasi sempre di ordine personale, con il granchio che vuole la rivincita sul torto subìto; unica eccezione, la scena del sogno di Momotarō nel [n.7], in cui è il figlio a voler rivendicare la morte del genitore.
Con i kibyōshi vi è un sostanziale cambiamento nel messaggio veicolato dal finale. Nella maggior parte dei testi (fanno eccezione [n.20] e [n.23], oltre al testo [n.21]), infatti, non è più considerato medetai l'uccisione, o il ferimento, della scimmia, quanto piuttosto l'accettazione delle scuse di quella con conseguente ristabilimento della pace fra i vari personaggi. Vi è, in questa fase, meno interesse per la scena della battaglia finale mentre a essere ripresi con continuità sono i due protagonisti della favola, solitamente fatti interagire con altri personaggi di altri mukashibanashi. Si riscontrano, inoltre, due esempi di testi con trama vicina al filone 'saru ga shima' a Edo, ovvero il kibyōshi [n.14] e il testo in kanbun [n.21]. Con le opere della prima metà dell'ottocento la storia di vendetta del granchio (o del personaggio ispirato ad esso) acquista toni più drammatici e fantastici ([n.25], [n.26]), probabilmente anche sotto l'influsso della letteratura in voga al tempo, arricchitasi in 98
quegli anni di tragedie e pathos. Con il [n.32] si ha il primo esempio di testo in cui a cercare vendetta sia il figlio del granchio nato dalla corazza crepata del genitore morto sotto il lancio di kaki, in un messaggio che è quello di mantenere fede alla pietà filiale. I finali delle opere di questo periodo si dividono in due categorie: quelli in cui la scimmia viene uccisa decapitata dal granchio e quelli in cui invece viene perdonata dopo essersi pentita e scusata delle proprie azioni. Appaiono, inoltre, per la prima volta opere in cui gli aiutanti sono limitati a tre o a quattro (mortaio, ape, uovo e, talvolta, anche alga) come avviene nelle versioni odierne della favola (con la differenza che al posto dell'uovo oggi c'è una castagna).
Negli ultimi anni del periodo Tokugawa continua la compresenza delle due tipologie di finali, ovvero quella in cui la scimmia si scusa ([n.50] e [n.58]) e quella in cui invece viene uccisa dal granchio ([n.43], [n.49], [n.54] e [n.61]). Vi è, inoltre, un ulteriore esempio di trama che vede i piccoli granchi nascere dal carapace spezzato del genitore ([n.49]), così come ve ne sono altri in cui sono i figli -­‐già nati-­‐ a completare la vendetta ([n.43], [n.61]). Sia nei nishikie [n.46] e [n.47] che nei libri [n.49] e [n.60] vi è quella che sembra una commistione tra i due mukashibanashi Saru kani kassen e Momotarō, anche se è difficile decretare, soprattutto nel caso delle stampe policrome, se la motivazione di tale compresenza sia dovuta alla grande popolarità del secondo o a semplice trovata creativa degli artisti. Nel caso dei libri, invece, non è dato sapere fino a che punto la storia di Momotarō abbia influenzato la trama di 'saru ga shima'. Infine, si vede confermata la tripletta di aiutanti mortaio-­‐ape-­‐uovo, soprattutto negli omochae e nei mamehon; scelta dovuta probabilmente anche al limitato spazio disponibile per raccontare l'intera storia di Saru kani kassen72. Diverso è, infatti, per i nishikie in tre fogli che vedono invece partecipare alla scena un gran numero di personaggi.
Analizzando, dunque, cronologicamente il susseguirsi dei cambiamenti avvenuti all'interno della trama, si possono fare le seguenti considerazioni:
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Il fatto che nella prima fase di produzione scritta del mukashibanashi la trama non fosse ancora ben definita (ci si riferisce alle diverse modalità di attuazione della vendetta da parte del granchio e alle variazioni negli aiutanti) lascerebbe presupporre che la nascita stessa della favola, o meglio, la fusione delle due favole esistenti separatamente in quella che oggi viene chiamata Saru kani kassen, fosse 72 La struttura della favola, nonché la presenza fissa degli stessi tre aiutanti si manterrà anche nei libri illustrati del periodo Meiji. 99
ancora relativamente recente. Questo spiegherebbe anche la totale assenza del filone 'saru kani kassen' nel Giappone occidentale, dove fino alla fine del periodo Tokugawa si mantiene più radicato nell'immaginario collettivo la trama di 'saru ga shima'. Si può dunque ipotizzarne la formazione, in accordo con il periodo proposto da Inada Kōji, tra la fine del periodo Muromachi e l'inizio del periodo Tokugawa.
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Nei primi akahon e kurohon è, inoltre, notevole che a essere sconfitta non sia una sola, ma tutto un gruppo di scimmie. Questo dettaglio spiega forse come nel momento in cui la favola che nell'indice Thompson corrisponde a K1161 venne importata in Giappone dal continente si fosse arricchita di elementi locali, quali il motivo dell'oni ga shima che si ritrova anche in Momotarō. Inoltre, il gran numero di personaggi coinvolta nella scena finale della vendetta sembrerebbe confermare, come sosteneva Shimazu, una possibile influenza avuta dagli irui gassen di periodo Muromachi, mentre la presenza di una ragazza da salvare dalle grinfie di una scimmia ricorda vagamente il motivo del mukashibanashi Sarugami taiji 猿神退治.
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Con l'avvento dei kibyōshi, il messaggio veicolato dalla storia cambia radicalmente: se per i bambini, fruitori di akahon e kurobon, una storia lineare di vessazione del più forte sul più debole con un finale in cui il personaggio cattivo viene punito poteva dare sufficiente soddisfazione, per gli adulti, lettori dei kibyōshi, poteva risultare troppo semplicistica. Ecco, dunque, che il mukashibanashi viene mescolato e reinventato insieme ad altri, in opere che da fiabe e favole riprendono solo trame e personaggi come pretesto per giochi di citazioni e spunti di umorismo. Probabilmente il lettore coevo provava maggior gratificazione nel terminare il suo volume con un messaggio positivo di pentimento da parte dell'antagonista, con conseguente riconoscimento della sua volontà di migliorare e, infine, il ristabilimento della pace e dell'armonia.
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Le opere dell'ottocento che trattano Saru kani kassen risentono fortemente delle mode letterarie del tempo, prima tra tutte quella di acutizzare i drammi presenti nelle storie a cominciare da quelle narrate nei gōkan. L'efferatezza della scimmia, dunque, porta sino alla morte del granchio e a vendicarne la memoria sarà, soprattutto da questo periodo (nonostante un paio di esempi di trame simili si trovino anche in passato), il figlio. La motivazione dell'attacco sulla scimmia, allora, 100
si sposta da una semplice rivincita personale a un'azione morale pregna del valore della pietà filiale e per portarla a termine è necessario che il fautore della malefatta venga ucciso. Tuttavia, forse influenzati dai kibyōshi degli anni precedenti, gli autori dei testi di quel periodo hanno anche lasciato spazio all'ottimismo, e dunque i finali che invece fanno vedere granchio, aiutanti e scimmia ritrovare la pace perduta si alternano a quelli in cui alla scimmia viene recisa la testa. L'interesse insito nella favola si sposta ancora una volta in un'altra direzione, sicché se con i primi kusazōshi i bambini probabilmente si soffermavano maggiormente sulla scena della vendetta, con oggetti e animali che attaccano ognuno con le proprie peculiari caratteristiche, in questo periodo, invece, è l'azione stessa ad aver maggior peso. È il sentimento che anima il granchio a cercare vendetta, ovvero la volontà di stabilire giustizia, ad attrarre il lettore adulto. •
Verso gli ultimi anni del periodo Tokugawa i fruitori della storia Saru kani kassen tornano ad essere principalmente i bambini: mamehon, sugoroku, omochae sono tutti pensati per un pubblico infantile. Di conseguenza, anche il contenuto della favola ritorna ad essere più semplice e lineare, con il granchio che vuole riprendersi personalmente la rivincita sulla scimmia. Il passaggio in cui quello muore sotto il lancio dei kaki viene eliminato, forse per la sua crudeltà ritenuta inappropriata per i bambini, forse semplicemente perché il supporto cartaceo su cui la storia veniva rappresentata (pochi chō nel caso dei libri, un solo foglio nel caso delle stampe) non consentiva di dilungarsi troppo con la trama, riducendo, inoltre, i personaggi a tre. L'ambivalenza del finale, con alcuni testi che si concludono con il successo dell'offensiva alla scimmia, se non con la sua uccisione, e altri in cui l'animale si scusa e si pente delle proprie azioni, continua dagli anni precedenti e si ritrova inalterata anche oggi (vedi Appendice 1).
•
In linea con quanto detto da Sawai Taizō, la presenza lungo tutto il periodo Tokugawa di testi in cui il granchio per vendicarsi si reca all'Isola delle Scimmie o in cui per ottenere i servigi degli aiutanti offre loro dei kibidango non si può ricondurre a semplice tentativo di ripetere il successo avuto da Momotarō. Tutt'al più, una possibile influenza si può pensare per i testi di fine periodo Tokugawa, soprattutto per quello che riguarda il modo di illustrare la storia o alcuni dettagli nella descrizione degli eventi. Tuttavia, ricondurre quello che Sawai indica come filone 101
'saru ga shima' al solo Kamigata potrebbe essere in parte inesatto. Non solo, infatti, nei testi scritti qui raccolti vi sono almeno tre opere composte nel Giappone orientale che ne riprendono la trama ([n. 14], [n.21] e [n.61]73), ma anche le versioni orali raccolte da Hanabe Hideo nella regione di Iwate lascerebbero pensare che questa tipologia di favola fosse più diffusa di quanto previsto da Sawai. •
Così come propone Hanabe Hideo, Saru kani kassen sembrerebbe, dunque, essere nata dall'incontro di due correnti provenienti da nord (con la storia K1161 degli animali nascosti in varie parti della casa che ne attaccano il proprietaro con i loro poteri caratteristici e lo uccidono) e da sud (oltre che con i tabemono arasoi, diffusosi in tutto il paese, anche con il motivo del giovane che parte per un viaggio accompagnato da degli aiutanti). L'analisi delle opere letterarie di periodo Tokugawa confermerebbero questa teoria, in quanto si può vedere come nel settecento, quando probabilmente la favola Saru kani kassen com'è conosciuta oggi non era ancora diffusa in tutte e regioni, ci sia una netta differenza tra le opere del Giappone orientale e quello occidentale. Nei testi prodotti a Edo in questa fase, infatti, si trova già la commistione del tabemono arasoi con quella di K1161, mentre più a ovest è completamente assente la parte dell'attacco combinato di oggetti e animali nascosti nella casa della scimmia, sostituita dal viaggio verso l'Isola delle Scimmie (o il luogo dove vive la scimmia protagonista nella prima parte) con conseguente battaglia finale. È solo all'inizio dell'ottocento che il motivo del viaggio del protagonista, con la consegna ai vassalli dei kibidango, incontra quello proprio delle favole K1161, con il testo in kanbun Kaishi batsuen zu. Si può, dunque, pensare che in questo periodo storico la popolarità della storia Saru kani kassen così come veniva conosciuta a Edo, insieme con la circolazione dei kusazōshi all'interno del paese, avessero portato a far conoscere questa nuova storia ormai anche nel Kamigata.
73 Nonostante non sia stato possibile capire né dove sia stato prodotto l'emaki nè chi ne sia l'autore firmatosi sotto pseudonimo, il modo di terminare le frasi con "-­‐tosa" farebbe pensare a una provenienza vicina alla regione del Kantō. 102
BIBLIOTECHE/COLLEZIONI [n.1] 「燕石雑志」・「寸錦雑綴」・「さるかにむかしはなし」所引 [n.2] 【写】沢井耐三 [n.3] 大英博物館 [n.4] 東洋文庫(岩崎文庫),西尾市立図書館岩瀬文庫,大東急記念文庫 [n.5] 東京都立中央図書館加賀文庫,大東急記念文庫 [n.6] 大東急記念文庫 [n.7] 国立国会図書館 [n.8] 国立国会図書館,京都大学附属図書館蔵 [n.9] 中村幸彦蔵 [n.10] 早稲田大学 [n.11] 早稲田大学,大阪城天守閣南木文庫 [n.12] 東京大学 [n.13] 【写】西尾市立図書館岩瀬文庫(安政三写) [n.14] 大東急記念文庫 [n.15] 国立国会図書館,東北大学狩野文庫,東京都立中央図書館加賀文庫 [n.16] 国立国会図書館,東京都立中央図書館加賀文庫,大東急記念文庫 [n.17] 国立国会図書館,東北大学狩野文庫,東京都立中央図書館加賀文庫,無窮 会図書館神習文庫 [n.18] 国立国会図書館,東洋文庫(岩崎文庫),香川大学図書館神原文庫,関西大 学,京都大学潁原文庫,東京大学,大阪大学,東京都立中央図書館加賀文 庫,東京都立中央図書館東京誌料,西尾市立図書館岩瀬文庫,天理大学附
属天理図書館果園文庫,大東急記念文庫,旧安田,[補遺]京都女子大学 [n.19] 【写】慶應義塾大学(版本写),早稲田大学 【版】国立国会図書館(巻一‐九),東京国立博物館,京都大学,慶應義塾 103
[n.20] [n.21] [n.22] [n.23] [n.24] [n.25] [n.26] [n.27] [n.28] [n.29] 大学,国学院大学,早稲田大学,東京大学,東北大学狩野文庫,西尾市立 図書館岩瀬文庫,大橋図書館(大橋本は震災焼失), 江戸川乱歩,二松学舎
大学竹清文庫, [補遺] 東京都立中央図書館特別買上文庫諸家 国立国会図書館,東京国立博物館,京都大学,京都大学潁原文庫,東京大 学,天理大学附属天理図書館果園文庫,東京大学霞亭文庫,東京都立中央 図書館加賀文庫,東北大学狩野文庫,大東急記念文庫,旧安田 国立国会図書館,国立国会図書館鶚軒文庫,静嘉堂文庫,九州大学,京都 大学,慶應義塾大学幸田文庫,東京大学,東北大学狩野文庫,日本大学, 大阪大学,秋田県立図書館,東京都立中央図書館加賀文庫,福島県立図書 館, 杏雨書屋(藤浪剛一旧蔵書)乾々斎文庫,中山久四郎,[補遺]上田市 立図書館花月文庫,無窮会図書館平沼文庫 国立国会図書館,慶應義塾大学,東京大学霞亭文庫,東北大学狩野文庫, 東京都立中央図書館加賀文庫,東京都立中央図書館東京誌料, 大橋図書館 (大橋本は震災焼失),大東急記念文庫 国立国会図書館,東洋文庫(岩崎文庫),早稲田大学(黄表紙集の内),東京 都立中央図書館加賀文庫,東京都立中央図書館東京誌料,西尾市立図書館 岩瀬文庫,天理大学附属天理図書館果園文庫,大東急記念文庫 国立国会図書館,京都女子大学,京都大学潁原文庫,慶應義塾大学,東北 大学狩野文庫,大阪大学,東京都立中央図書館加賀文庫,西尾市立図書館 岩瀬文庫,栗田文庫(栗田元次旧蔵書),大東急記念文庫 国立国会図書館,東洋岩崎,林美一 国立国会図書館(一冊),学習院大学(三冊),京都大学,大橋図書館(大橋本 は震災焼失),豊橋市中央図書館橋良文庫 【写】 昭和女子大学桜山文庫,天理図書館,富岡鉄斎旧蔵本,漆山又四郎 (天保一四写) 【写】[補遺]講談社松宇文庫(版本写) 【版】国立国会図書館,学習院大学,京都大学,聖心女子大学,東大洒竹 文庫,大阪大学,西尾市立図書館岩瀬文庫,柿衛文庫,講談社松宇文庫, 天理図書館綿屋文庫,藤園堂文庫 【写】 国立公文書館内閣文庫,大橋図書館(大橋本は震災焼失)(抜萃) 【版】国立国会図書館,国立公文書館内閣文庫,静嘉堂文庫,宮内庁書陵 部,東京国立博物館,大谷大学,学習院大学,関西大学,慶應義塾大学, 筑波大学,東京大学,東京大学教養学部,東京大学史料編纂所,東北大学 大狩野文庫,日本大学,広島大学,北海道大学,早稲田大学,秋田県立図 書館,大分県立図書館,大阪府立中之島図書館,大阪府立中之島図書館石 104
[n.30] [n.31] [n.32] [n.33] [n.34] [n.35] 崎文庫,京都府立総合資料館,東京都立中央図書館加賀文庫,東京都立中 央図書館東京誌料,宮城県図書館小西文庫,刈谷市中央図書館, 西尾市立 図書館岩瀬文庫,天理大学附属天理図書館果園文庫,昭和女子大学桜山文 庫,神宮文庫,前田育徳会尊経閣文庫,成田山仏教図書館,旧浅野,旧三 井,[補遺]国立国会図書館亀田文庫,香川大学図書館神原文庫,京都大 学谷村文庫,滋賀大学,竜谷大学,岡山県立図書館,東京都立中央図書館 特別買上文庫諸家,足利学校遺蹟図書館,上田市立図書館花月文庫,豊橋 市中央図書館,市立米沢図書館林泉文庫 【写】静嘉堂文庫,西尾市立図書館岩瀬文庫,無窮神習,旧浅野 【版】<文化年間版>国立国会図書館,静嘉堂文庫,宮内庁書陵部,金沢 大学,関西大学,九州大学,京都大学,京都大学谷村文庫,筑波大学, 東 京芸術大学音楽学部,東京芸術大学美術文庫,早稲田大学,東京大学,東 京大学教養学部,東北大狩野,日本大学,広島大学,竜谷大学,大阪府立 中之島図書館,京都府立総合資料館,徳島県立図書館,東京都立中央図書 館加賀,東京都立中央図書館東京誌料,西尾市立図書館岩瀬文庫,金沢市 立図書館藤本文庫,市立米沢図書館林泉文庫,大橋図書館(大橋本は震災焼 失),昭和女子大学桜山文庫,神宮文庫,お茶の水図書館成簣堂文庫,無窮 神習,江戸川乱歩,幸田成友,[補遺]東京大学史料編纂所,岡山県立図 書館,東京都立中央図書館特別買上文庫諸家,川越市立図書館<天保七版 >国立国会図書館亀田文庫,国立公文書館内閣文庫,東京国立博物館,学 習院大学,関西大学,京都大学,慶應義塾大学,早稲田大学,東京大学, 東京大学史料編纂所,山口大学,天理大学附属天理図書館果園文庫,神宮 文庫,礫川文庫(戦災焼失),旧浅野,[補遺]上田市立図書館花月文庫< 弘化三版>旧浅野<刊年不明>国立国会図書館,静嘉堂文庫,京都大学, 筑波大学,慶應義塾大学,東京大学,富山大学ヘルン文庫,秋田県立図書 館,刈谷市中央図書館,高山市郷土館荏野文庫,古靭,神宮文庫,前田育 徳会尊経閣文庫,長野県立歴史館温古堂丸山文庫,仙台伊達家 「中尾松泉堂書店目録」 懐徳堂 慶應義塾大学,早稲田大学,大阪府立中之島図書館,江戸川乱歩,学書言 志 国立国会図書館,石川県立図書館李花亭文庫,徳島県立図書館,東京都立 中央図書館加賀文庫,昭和女子大学桜山文庫 【写】無窮会図書館平沼文庫(明治写) 【版】宮内庁書陵部,東京国立博物館,関西大学,京都女子大学,京都大 学,筑波大学,慶應義塾大学,早稲田大学,東京大学, 明治大学,東北大 学狩野文庫,大阪大学,明治大学,大阪府立中之島図書館,大阪府立中之 島図書館石崎文庫,千葉県立中央図書館,東京都立中央図書館加賀文庫, 宮城県図書館,大阪市立中央図書館,金沢市大島,刈谷市中央図書館,名 105
[n.36] [n.37] [n.38] [n.39] [n.40] [n.41] [n.42] [n.43] [n.44] [n.45] [n.46] [n.47] [n.48] [n.49] [n.50] [n.51] [n.52] 古屋市蓬左文庫,大橋図書館(大橋本は震災焼失),神宮文庫,前田育徳会 尊経閣文庫,お茶の水図書館武藤文庫,無窮会図書館織田文庫,無窮会図 書館真軒文庫,学書言志 【写】国立国会図書館,東京国立博物館,大阪市立大学森文庫,東北大学 狩野文庫 尾崎久弥 沢井耐三 国立国会図書館,東京国立博物館,東京大学,東北大学狩野文庫,早稲田 大学,大阪府立中之島図書館,京都府立総合資料館,東京都立中央図書館 加賀文庫,阪急学園池田文庫 / 早稲田大学 / 【写】国立国会図書館(大正写),東京都立中央図書館加賀文庫(明治写) 【版】国立国会図書館,国立国会図書館亀田文庫,静嘉堂文庫,学習院大 学,九州大学,東北大学狩野文庫,石川県立図書館李花亭文庫,大阪府立 中之島図書館,東京都立中央図書館東京誌料,高野山持明院,無窮会図書 館神習文庫,林美一,[補遺]上田市立図書館花月文庫 沢井耐三 同志社大学 / 沢井耐三 / 沢井耐三 東京大学霞亭文庫 「文学堂古書目録」平成十五年 大東急記念文庫 106
[n.53] [n.54] [n.55] [n.56] [n.57] [n.58] [n.59] [n.60] [n.61] 「古典籍展観大入札会目録」平成十九年 白百合女子大学附属図書館 白百合女子大学附属図書館 / 鈴渓学術財団 三康図書館 アン・ヘリング 「黒崎古書目録」平成二十年 遠野市立博物館 107
FONTI IMMAGINI SECONDO CAPITOLO Imm. 1: http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i05/i05_00116/i05_00116_0004/i05_ 00116_0004_p0018.jpg Imm. 2: http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_05344/ri05_05344_ p0017.jpg Imm. 3: SAWAI Taizō, "Emaki "Saru ga shima katakiuchi" honkoku to chūshaku: "Saru kani kassen" kō (sono 3), Literary symposium, 126, 2002, p. 36
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Imm. 24: SHINRATEI Manpō (SHICCHIN Manpō) (testi) / UTAGAWA Toyokuni issei (ill.), Mukashibanashi Chōshi no hama, Kansei go kan, Kokuritu kokkai toshokan
Imm. 25: Santō Kyōden zenshū henshū iinkai (hen), SANTŌ Kyōden, Santō Kyōden zenshū, Tōkyō, Perikansha, 1992, p. 533 Imm. 26: Santō Kyōden zenshū henshū iinkai (hen), SANTŌ Kyōden, Santō Kyōden zenshū, Tōkyō, Perikansha, 1992, p. 544 Imm. 27: SAWAI Taizō, "Takizawa Bakin "Zōho (sa) Saru kani kassen" honkoku to chūshaku ("Saru kani kassen" kō (sono 4)), Literary symposium, 127, 2003, p. 40
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109
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Imm. 52: http://kateibunko.dl.itc.u-­‐tokyo.ac.jp/katei/cgi-­‐bin/gazo.cgi?no=592&top=1 http://kateibunko.dl.itc.u-­‐tokyo.ac.jp/katei/cgi-­‐bin/gazo.cgi?no=592&top=2 Imm. 53: http://kateibunko.dl.itc.u-­‐tokyo.ac.jp/katei/cgi-­‐bin/gazo.cgi?no=592&top=7 Imm. 54: SAWAI Taizō, "Nihon mukashibanashi ni kansuru shiryō nōto: 'Saru kani kassen' 'Tengu no uchiwa' ", Literary symposium, 120, 1999-­‐12, p. 78 Imm. 55: KATŌ Yasuko(hencho), Bakumatsu/Meiji mamehon shūsei, Tōkyō, Kokushokankōkai, 2004, p. 43 Imm. 56: KATŌ Yasuko(hencho), Bakumatsu/Meiji mamehon shūsei, Tōkyō, Kokushokankōkai, 2004, p. 44 Imm. 57: foto dell'autore 111
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う
で
も
は
な
つ
ぽ
みろ
へと
け
り
115 一
ウ
二
オ
116 やき
はうさ
でにま
の
は
む
け
ま
いむひ
れいと
してつ
か
し
は
さ
み
て
は
む
け
ま
い
117 ぬ
か
に
は
し
ご
く
り
ち
ぎ
も
の
に
て
さ
る
と
と
り
か
へ
し
か
き
の
た
ね
を
う
へ
け
れ
は
た
い
ぼ
く
と
な
り
て
八
ね
ん
め
に
お
び
た
ゝ
し
く
な
り
け
り
き
さ
ま
と
と
り
か
へ
し
た
る
か
き
の
た
ね
こ
と
し
は
じ
め
て
な
り
ま
し
た
と
は
な
し
け
れ
は
さ
る
見
に
来
り
わ
し
が
き
の
ぼ
り
は
ゑ
て
も
の
も
い
で
や
り
ま
し
や
う
と
う
ま
い
や
つ
は
う
ぬ
が
さばやかほ
つかづにう
けり
ゝへ
る
はし
しよ
ふし
いめ
二
ウ
三
オ
118 い
事ふ
成
り
119 だき
ないや
りふう
ん
こ
の
こ
ろ
も
か
に
な
ど
は
お
ご
り
も
の
と
見
へ
て
き
や
う
そ
く
に
も
た
れ
い
る
今
ど
き
の
か
に
な
ど
は
き
や
う
そ
く
な
ど
は
見
た
事
も
な
し
し
か
し
む
か
し
の
か
に
は
唐
つ
く
へ
は
見
あた
まる事
は
い
まきだ
し
れ
た
か
な
り
こきみ
れたまにつ
きう
はるいてれたふねす
に
り
なおひ御こ日たこうこかつむあしさ
さしと子く本るわちうにけしてぶる
れりり様ち
事し
らの
やがかは
ぬ
でかう
は
を
うふきか
は
もたの
にのをに
なみ
ゝ
げな
ら
ず
な
し
そ
れ
よ
り
か
に
は
た
い
ひ
や
う
と
な
り
け
れ
は
こ
ゝ
ろ
や
す
き
も
の
み
ま
い
に
き
た
り
け
る
今
の
よ
の
中
と
は
ち
が
い
こ
の
ぢ
ぶ
ん
の
にであつ
てやじき
かいなや
に
い
が
は
う
す
や
き
ね
と
つ
き
や
い
は
ち
な
ど
の
と
り
や
わ
せ
う
た
く
つ
て
み
れ
は
う
そ
ら
し
け
れ
と
も
三
百
五
十
たかやこ
に
とつすゝ
な
ろぶすはよる
んいなりと
しのし
三
ウ
四
オ
120
121
おすし
もこや
らしう
い
へ
ん
を
いね
申
たりちた
すやとい
く
を
み
な
〳
〵
の
せ
わ
を
や
く
に
つ
け
て
も
か
に
と
い
ふ
も
の
は
よ
い
なも
りの
い
つ
は
い
た
べ
た
ら
む
し
や
う
に
し
や
う
しべ
たん
いか
か
に
は
ひ
や
う
き
も
ほ
ん
ふ
く
し
て
も
と
か
く
く
ち
お
し
く
お
も
ひ
い
し
か
へ
し
を
し
た
く
と
も
た
ち
を
よ
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あ
つ
め
そ
う
た
ん
す
れ
ば
た
ま
し
て
たくよいさ
まりるるる
ごととりを
か
のよ
そぶ
ばか
へよ
か
ろ
ふ
は
ね
だ
し
や
け
と
を
し
て
きおはすうつはぬ
ねちつべしぶりか
で
たらのしがみ
あ
りせくてはそ
た
とそにいへ
ま
ことけつて
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ろあるてを
へら所いつ
うめをるゝ
すで
きこ
が
もむ
をと
は
り
た
を
す
こ
ゝ
を
し
き
つ
て
こ
ふ
し
め
て
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事つそ本
なかつ蔵
りもちも
なへゆ
いゆら
はけの
かと介
も
り
四
ウ
五
オ
122 さ
る
り
こ
う
と
は
よ
う
な
れ
ど
ぢ
よ
さ
い
の
な
い
し
ら
ず
ず
い
ぶ
ん
あ
る
事
は
ゆ
め
に
も
さやこ二来かよ
るすゝ人りゝく
がくろのけるい
事
せり所ふ
に
ん
へた
て
ぞ
くも
らの
げな
り
く
ら
げ
は
お
ふ
か
ぶ
り
だ
の
し
み
は
か
り
事
の
い
わ
れ
ひ
る
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う
ち
よ
り
ば
ん
に
は
な
し
に
ご
ざ
れ
と
さ
る
は
か
に
が
所
よ
り
お
や
の
こ
と
く
む
す
こ
の
く
ら
け
も
お
し
や
べ
り
に
て
こ
ん
ど
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さ
る
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おさ来ひりくい
しるりとうちか
へに
はくかさ
け
しうすま
れ
りよべに
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にりりお
おしふ
しを事
おきあ
くゝら
りかめ
にぢゝ
てりが
たきさよきひ
ゝもるくもつ
るにと〳をく
も
い〵つり
の
ふ
ぶし
と
も
すて
の
は
み
へ
た
り
123 五
ウ
六
オ
124 〳〳き
〵〵や
つ
く
た
び
れ
た
ら
の
み
や
れ
し
み
づ
で
も
た
ち
い
で
け
り
そ
れ
ぞ
と
い
ふ
あ
て
も
こ
ゝ
ろ
づ
き
よ
か
ろ
ふ
と
と
か
く
は
江
戸
が
て
き
ま
い
し
所
で
は
と
せ
い
も
か
け
お
ち
し
て
ほ
か
の
な
し
に
こ
き
や
う
を
125 け
が
で
も
せ
ぬ
や
う
に
そ
だ
さくて
れだゝ
さ
る
は
く
ら
け
が
し
ら
せ
に
お
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ろ
き
女
ぼ
う
む
す
め
三
人
つ
れ
に
て
か
け
お
ち
な
ん
の
か
の
と
て
や
く
に
も
た
ゝ
ぬ
も
の
ま
で
ひ
と
ふ
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き
こ
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を
さ
る
ひ
き
ど
う
ぐ
と
い
ふ
な
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お
や
こ
三
人
に
て
江
戸
へ
お
ち
つ
き
も
し
や
は
ん
く
わ
の
佐あさむなからなち
次りるかりぶれしゆ
平
たし
じて見へ
と
めも
まはつた
けづ
し
い
ね
て
こ
ま
い
も
の
で
は
い
ふ
も
の
し
こ
く
を
め
く
り
て
さ
る
と
な
る
も
し
さ
る
に
て
め
ぐ
り
た
ら
ば
けいなれじあむ女か人
るでりいゆづすほとに
ぞ
てとんけめうおも
あ
をにもな
わ
ひら
れ
ん
な
り
六
ウ
七
オ
126 む
か
し
よ
り
さ
る
の
か
た
き
を
う
ち
し
よ
ふ
に
お
も
ひ
し
が
ま
づ
江
戸
と
こ
ゝ
ろ
が
け
う
な
ぎ
が
所
へ
た
づ
ね
つ
けき
り
127 あ
ら
わ
し
や
れ
し
た
の
あ
し
を
ま
づ
は
い
つ
て
と
ん
と
り
や
う
け
ん
ち
が
い
さ
る
は
か
け
お
ち
し
て
し
ま
い
か
に
は
い
よ
〳
〵
く
ち
お
し
く
お
も
ひ
ほ
う
あよ人と〴
るこよか〵
くにりくと
こ
は
ゝ
た
ろ
づ
もあら
ね
おかちゆ
あ
なずがへ
る
した
け
ど
事れ
が
も
ぜはおう
な
ぎ
か
女
ぼ
う
七
ウ
八
オ
128
129
こもき
せんつ
いでい
す
のすわ
みこた
ましし
す
は
と
いかまあ
あまめすか
かでしがく
あるもるさな
ろで
しだり
う
はめ
て
とざす
まりるさ
せ
でき
かう
もの
こ
とそまの
ふうすこ
ろ
だは
の
は
う
な
ぎ
は
ふ
か
か
わ
の
き
ば
に
き
れ
い
な
る
す
ま
い
に
て
そ
ふ
お
う
に
く
ち
も
き
く
も
と
は
ぬ
ら
り
く
ら
り
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うらもふし
まれちかた
い
い川も
も
での
の
な
ゝ
れ
お
ど
や
か
た
と
な
り
か
に
か
た
づ
ね
て
来
り
し
ゆ
へ
ぐ
つ
と
の
み
こ
み
ま
ん
ね
ん
は
し
に
い
る
か
め
ど
も
こ
ゝ
ろ
や
す
け
れ
は
し
ら
せ
て
や
り
か
に
が
い
ち
ぶ
し
ぢ
う
を
き
く
な
ん
の
か
け
ず
か
ま
わ
ぬ
う
す
や
き
ね
や
う
し
の
く
そ
ま
で
そ
の
や
う
に
せ
わ
を
し
た
に
事
に
さ
る
に
は
い
し
ゆ
も
あ
り
お
や
じ
の
か
ふ
ら
が
い
ま
で
も
と
よ
う
か
ん
に
は
そちうかぜまい
へかたたひすた
るらそき
み
をふを
と
八
ウ
九
オ
130
131
お
そ
め
と
て
むひあ
すとぶ
めりら
に
や
の
あ
ね
さ
ん
こ
さ
ろ
なんなび
さ
る
は
女
ぼ
う
む
す
め
を
江
戸
へ
お
き
け
れ
ば
か
せ
い
の
も
の
に
て
す
ゝ
ぎ
せ
ん
た
く
も
の
な
ぞ
し
て
む
す
め
を
そ
だ
て
ゑ
ん
を
も
と
め
て
両
こ
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よ
ね
ざ
は
丁
八
丁
目
に
た
な
を
か
り
き
ん
じ
よ
に
中ふお十よおおしうやへぼびてきひふけう
むじも人くやもくらうつうんんんきねふつ
やじかほ
らまひなめのひ
むかへはく
の
ねへゆおし
まかうど
みに
ふのの
のおくやき
と
が
くふとしげ
い
しふときい
りりあし
そかすや
でへはあ
り
て
な
おどけなでぎり
どもれ
う
わら
は
せ
をり
さけかだゆふおお
せいけしさねんや
るこん
ん
まし
と
に
やき
は
九
ウ
十
オ
132
せ
な
か
へ
らすご
れゝざ
めれ
と
の
せ
て
けい
りで
む
か
し
は
さ
る
を
の
せ
こ
ん
ど
は
か
に
を
の
せ
る
133
あ
じ
な
なも
りの
す
ご
し
お
と
こ
の
子
よ
り
む
す
め
が
よ
い
と
よ
ろ
こ
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け
り
か
に
は
さ
る
を
た
づ
ね
ん
と
お
も
へ
ど
も
て
が
ゝ
り
も
な
く
か
め
に
す
ゞ
み
に
い
ん
ね
ん
と
い
ふ
も
の
は
う見よせ
つ給しん
のくひのせ
をい
あがし
る
い
さ
る
は
と
う
や
ら
こ
ふ
や
ら
げ
い
し
や
と
成
す
ゞ
み
ぶ
ね
で
か
ね
を
も
ふ
け
は
ゝ
を
ら
く
〳
〵
と
十
ウ
十
一
オ
134
135
此
や
ね
ぶ
ね
は
お
ふ
や
さ
のま
あ
ね
さ
だん
やはわおひ
まりさしるつ
んもとか
す
で
き
か
に
は
す
ゞ
み
に
い
で
さ
る
の
お
ど
り
を
見
て
お
や
子
と
は
い
ゝ
な
が
ら
お
も
ざ
し
が
そ
の
ま
ゝ
も
し
や
か
た
き
の
む
す
め
に
て
は
な
き
か
と
両
ご
く
よ
り
あ
が
り
う
ち
へ
つ
け
ん
と
ま
な
べ
か
し
と
い
ふ
所
の
い
し
か
け
の
き
わ
を
い
つ
た
り
き
た
り
ま
ち
け
れ
ば
ふ
ね
は
や
な
ぎ
は
し
へ
つ
き
う
ち
へ
つ
れ
か
へ
り
け
る
を
は
ゝ
ざ
る
む
か
い
に
い
て
け
る
か
ほ
ゝ
見
れ
ば
か
た
き
の
女
ぼ
う
ゆ
へ
よ
ろ
こ
び
か
へ
り
け
り
か
に
は
か
ふ
ら
に
に
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て
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な
を
ほ
る
と
は
む
よ
す
く
めもい
ののふ
た
お
も
ざ
し
に
て
お
や
の
あ
り
か
を
し
り
う
な
き
か
た
へ
か
へ
り
か
た
き
を
う
た
ん
と
お
も
へ
と
も
さ
る
は
か
ね
て
なめき
かいの
〳じほ
〵んり
の
あ
ま
く
ち
で
は
い
か
ず
と
こ
ふ
し
た
も
の
と
そ
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ん
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ば
む
か
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よ
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さ
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が
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ま
つ
か
い
な
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ぼ
う
や
い
て
お
つ
つ
け
ろ
と
い
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と
も
つ
い
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ご
ぼ
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や
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た
事
は
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ん
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り
に
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あく
り事
も
十
一
ウ
十
二
オ
136
せ
ん
ぎ
し
て
も
137
はごか
うか
さぼににちみ
さ
だんうかか
ん
うか
にちみ
か
さ
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か
に
は
三
人
よ
つ
て
も
も
ん
じ
ゆ
の
ち
ゑ
も
で
ず
さ
る
の
し
り
に
ご
ぼ
う
と
い
へ
は
ま
づ
き
ら
い
と
お
も
ひ
や
く
事
は
い
ろ
〳
〵
と
ん
と
し
れ
ず
な
ま
な
や
つ
を
壹
ほ
ん
も
ち
さ
る
が
か
ど
ぐ
ち
に
ま
ち
か
け
い
れ
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大
ぜ
い
子
ど
も
見
つ
け
か
み
さ
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う
ち
に
か
き
やぐどあいだはごかのそははか
こにふちくじへとさぼにちれやさに
の
には
んうがにをしんが
けだご
りとぼ
う
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あそ
せし見さかまゆ
のそりふ事しらろんみ事れ
なふ
はど
成
とに
りな
て
も
十
二
ウ
十
三
オ
138
し
た
139
く
ち
に
は
どこ
しふれ
ずれかは
い
へ
ど
も
人
の
わ
はも
かだはごか
るださゝ
にのさぼに
とんをが
んうが
たはやおいさ
んなうつるる
〳しすと事か
をのを女
〵
しぼ
の
りう
てお
うも
ちて
へに
いか
れに
が
あ
や
ま
り
に
て
ふ
う
ふ
も
わ
か
れ
〳
〵
とお
なじめお
も二そわむ
がつれさ
ん
にの人だたす
のてしめ
事
まがを
を
こ
り
や
う
お
ね
が
い
け
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ひ
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へ
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申
し
ま
す
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かもときよ たか事こもさな あ か む
わのはゝふ んになののるし や に し
ゆゝいにす〳もり女と
を や
い
ふくを〵
のは
う
い
に
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おかや事に子
こらすもけを
り
きとるす
し
こくて
事
ゝらゝ
ろい
の
此
う
へ
は
か
へ
り
し
だ
い
わ
ぼ
く
せ
ん
と
い
へ
ば
は
ゝ
も
む
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め
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よ
ろ
こ
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こ
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よ
り
こ
ゝ
ろ
や
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く
な
けり
り
十
三
ウ
十
四
オ
140
まよにしさ
すいもをか
い
ふ
も
ん
ねた
141
ね
い
つ
ぱ
い
な
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か
を
だ
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の
も
お
事ば
のれさ
おん
さぬ
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る
の
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こ
く
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ま
わ
り
て
人
と
な
り
さ
つ
そ
く
女
ぼ
う
む
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め
を
も
た
づ
ね
る
は
づ
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ど
も
か
に
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よ
ふ
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を
き
ゝ
う
ち
と
す
か
た
を
や
つ
し
し
を
か
ら
こ
へ
な
れ
ど
も
す
こ
し
う
な
り
ぢ
う
ぶ
ん
なあきそつ太まげゑ
いるでのき夫るいら
が
は
と
しい
やき
にで
な
り
わげあがいよげ〴すむくた
お
太まさ
るいりしそくい〵きしふで
か
夫るる
くか
い
てが
も
ししも
て
も
も
お
か
し
い
で
は
や
る
も
あ
り
事おうふう
なれとつ
しるつく
りちし
くよい
つやも
とう
も
な
り
十
四
ウ
十
五
オ
142
な
つ
た
と
お
も
つ
て
143
人
のかあ
てけたか
か
かばまりどきに
をてくのは
と
お
も
ひ
て
い
き
な
お
と
こ
に
た
いい
すけへ
い
ねか
へ
ら
く
か
〽
は
さ
ま
れ
る
さ
る
と
い
ふ
て
は
わ
か
ら
すりぬ
ぞるゑゆ
んへ
お
れ
が
女
ほ
う
を
さ
る
は
よ
ふ
す
を
き
ゝ
だ
し
今
で
は
か
に
が
せ
わ
を
す
る
と
い
ふ
事
き
ゝ
大
や
き
も
ち
に
て
ぐ
つ
と
ふ
ん
ご
み
は
ら
を
た
ち
し
か
ほ
に
も
ち
ま
ち
ま
い
の
さ
る
ま
な
こ
す
こ
し
て
ま
い
も
今
は
い
き
人
の
き
に
な
り
よ
い
さ
い
わ
い
に
し
て
か
に
ゝ
お
つ
ゝ
け
る
つ
も
り
か
に
が
さ
る
に
ご
ぼ
う
を
も
つ
て
か
た
き
を
う
と
ふ
と
い
ふ
は
こ
ゝ
ろ
い
ち
が
い
む
か
し
も
こ
ふ
い
ふ
た
め
し
も
あ
り
む
づ
か
し
い
事
を
し
り
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い
ふ
う
そ
も
ま
つ
か
な
う
そ
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い
ふ
さ
る
は
ご
ぼ
つ
し
か
り
ん
き
を
や
く
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い
ふ
う
ぬ
が
あ
き
た
女
ほ
う
を
か
に
ゝ
お
つ
つ
け
る
こ
ゝ
ろ
さ
る
が
し
り
は
ま
つ
か
い
な
ご
ん
ぼ
う
や
い
て
お
つ
つ
け
ろ
此
り
く
つ
は
こ
れ
で
さ
ら
り
と
わ
か
り
し
な
り
十
五
ウ
144
あ
や
ま
り
清
長
画
145
通
笑
作
か
に
は
む
し
つ
の
な
ん
を
い
ゝ
か
け
ら
れ
け
れ
ど
も
し
や
う
じ
き
の
こ
う
へ
の
う
ゑ
に
か
に
や
ど
る
さ
ら
り
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わ
か
り
今
さ
ら
さ
る
も
か
ほ
を
ま
つ
か
に
し
て
是
ま
で
の
ま
た
そ
の
う
へ
に
中
を
ま
ん
〳
〵
か
に
が
せ
わ
に
て
ふ
う
ふ
の
中
も
御
子
様
方
の
さ 中 な
か よ を
ゑ く し
た
け
が
り
い
に
お
は
な
し
に
さ
る
の
か
た
き
を
か
に
が
う
ち
し
と
は
あ
ふ
ま
ち
が
い
な
に
が
な
春 はる
の
お
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な
ぐ
さ
み
に
じ
つ
せ
つ
を
さ
が
し
い
だ
し
御
ら
ん
に
そ
な
へ
奉
り
候
千
秋
万
歳
つ
る
か
め
さ
る
か
に
め
で
た
し
〳
〵
一
一
一
一
誤
記
な
ど
と
判
断
さ
れ
る
も
の
に
つ
い
て
は
送
り
仮
名
を
補
濁
点
・
半
濁
点
は
反
復
記
号
適
宜
補
は
原
文
の
ま
ま
に
用
い
た
が
原
文
中
の
片
仮
名
表
記
適
宜
句
読
点
を
施
し
た
ハ
ま
た
台
詞
に
は
か
ぎ
括
弧
を
付
し
た
中
の
漢
字
に
は
新
た
に
そ
の
読
み
方
を
ふ
ら
な
か
原
文
は
ほ
と
ん
ど
平
仮
名
な
の
で
ミ
原
文
中
の
漢
字
に
ふ
り
が
な
が
つ
い
て
い
た
場
合
ふ
り
が
な
を
た
の
中
に
示
し
た
で
示
し
た
適
宜
漢
字
を
当
て
原
文
の
仮
名
は
ふ
り
が
な
で
示
し
た
ま
た
原
文
は
平
仮
名
に
変
え
て
記
号
を
ふ
り
が
な
で
示
し
た
・
ゝ
は
平
仮
名
に
表
記
し
た
た
平
仮
名
を
ふ
り
が
な
の
た
市
場
通
笑
の
黄
表
紙
蟹
牛
房
挟
多
の
校
訂
> と
し
て
そ
の
ま
ま
記
し
た
原
文
に
な
か
マ
マ
た
場
合
〳
〵
凡
例
3.2 一
一
<
一
一
校
訂
一
丁
表
146
す き な 此
へ 飯 めし れ は
た と ど
か 柿 かき も 桃 もゝ
も の
栗 くり
た
か
し
知 種ね蟹に三
ら と が 年 ねん
ず 取 と 拾 ひろ か
り い き
案 あん 替 か し の
ず へ 焼や八
る
き 月
に 拾 ひろ 飯 めし の
猿 さる う は 事
が く つ な
ど ら ま り
う い ら と
で の ぬ よ
も 根 こん 物 もの
は 性 じや
猿 さる
う
な
し は
で
つ
柿 かき
か か
柿き
ぽ
し の
の
ろ
種た
た
種ね こ ね
と
腰しを
と
見
弁べ拾ひ
取 と んと ろ
当うい
へ
り
け
か け
か
替
ら り
り
へ
で
る
も こ
も
落おれ
お
と は
か
し
し
た ず
し
物 もの い
か ぶ
た
知しん
だ
ら あ
し
ず り
そ
焼や
そ ふ
き
の な
飯 めし や も
焼 物の
が
)
)
一
丁
裏
・
二
丁
表
(
(
づ し け 蟹 かに
ば が り は
蟹 猿
か 木き
至し
り 登 のぼ
極 ごく
さ
き
き
貴 さ ひ 授 づ り 貴 さ 律 りち
様まと け は 様ま義ぎ
の つ る 得 ゑ と 者 もの
や 剥む
て 取とに
う い
物 もの り て
に て
替か
ま
は
も へ 猿 さる
歯 参い
い し と
で れ
で た 取と
は
や る り
剥むし
け か
り 柿 かき 替 か
ぬ し
ま の へ
し 種 たね し
は
柿 かき
や
挟 さみ
こ
う 今との
で
年 し 種 たね
は
と 初 はじ を
剥む
め 植う
け
う て へ
ま
ま 生なけ
い
い り れ
や ま ば
つ し
は た 大 たい
木 ぼく
う
ぬ と と
が 話 はな な
方 ほう し り
へ け て
し れ
よ ば 八
し
年 ねん
さ
め 猿る目め
見 に
お
蟹 かに に
夥 びた
に 来
ゝ
は り し
く
渋 しぶ
な
い
や わ り
二
丁
裏
・
三
丁
表
ん い 来 き 御 猿 さる
臼
し こ 心 こゝ
た 子 は
蜂
ろ
は
の
様 蟹 かに
杵
や 蜂 ち り
安
し 頃 ころ す な け 方 がた に
二
か
人 誰 だれ か も
ど る 一 ひと 渋 しぶ
か つ
づ
人 り 柿 かき
の
連 か し 蟹に
た
き
と
れ 来
な
取 今 で を
と
に ま 昔 むか ど
り の も あ
い
し
て し
は
合や世よお て
の
お ふ
見みた
わ の 知しが
か 驕 ご
事
蟹に
ま
舞
せ 中 り ふ
り
成
は
と な の
い
者 もの
唐
り
う
に
づ と
た
疑ぐはちさ み
机 くへ 見
来き
違がれ な
つ
た
は へ
い ぬ ら
て
る
見 て
は ず
み
た
こ な
れ
こ
事 脇 きや
の し 無む
ば
う
し
れ
は 息そ
時ぢ
性 やう
ぶ
く
分
そ
は
あ
に
嘘 うそ ん
に
き
る
の れ
兄 やう
も
ら
投な
つ
ま
付 よ
し
た
弟 だい
げ
き り
い
れ
け
分 ぶん
か つ
合や蟹に
れ
い
け
な
い は
り
ど
る
た
は 大い か
も
び 蟹 に
や
今
あ 病 う の
味じ
ど
三
時き
と 甲 こう
な
な 羅ら
の
百
出で
り を
蟹 かに
五
会や
け 打う
十
な
い
ど
れ ち
に
に
は
ば 壊 こわ
な
て
き
し
る
脇 やう
年 とし か 心 こゝ た
そ
息く
蟹
寄 よ に ろや る
な
が 安す
事
り
ど
臼 うす き
の
も は
は
者の
は や
話 なし 杵 きね
見
日
た
と 見み
本
つ
ま
ず 付 舞
事
国 こく
も
い き い
中 ちう
な
ぶ 合やに
の
う
す
き
ね
ふ
た
り
)
三
丁
裏
・
四
丁
表
(
)
147
ち へ 味み
蟹 かに
う
そ
へ 臼す噌 だ は
み
杵 蜂
な
行 が へ ま 病 びや
う
け ば 手てし
〳
気き
し
〵 小やい と つ を て
も
う
の
つ つ た 突 つ 猿 さる ほ
便 べん
本ん
せ
ぱ が り つ を
世
復ぷ
を
話わ すい も 落お込こ呼よ く
少こ た
し
を
食 な ち む ぶ
て
し
や
と が
焼
べ い
お
も
は
き
た 謀か杵ね
く
も
は
に
ら り で 針りよ
ら
と
事 頭 あた が か
つ
い
か
ま
は
む
け
無 な
入いろ
く
を
申
し
り
て
つ ふ
た 性 やう
張は
口 くち
て
も
い に
り
惜お
囲い
た い
し
倒を
し
小 やう
る 炉る
蟹 かに
く
す
ち
べ
り
裏
と
便ん
と
思 おも
き
い
胆もの
ね が
こ
練り
ひ
し
ふ
を そ
薬 やく
こ
つ
も
た
潰ぶば
を
を
意い
い
の
し へ
い
趣し
し
は
て 寄よ が
た
切き
返へ
よ
る
す
つ
し
に
い
逃 と
て
を
も
げ
く し
る 栗り
の
こ
た
な
所 と
ふ
た く
り
を 卵ま
し
牛 うし ご と
め
が 友も
の
だ
は 達
て
く 跳
ち
糞そ
ね を
と
出だ呼よ
と
荒 あら
本
し び
布め
集 あつ
蔵
で
や
火 め
も
滑す け
由ゆ べ傷ど
ら
良ら
を 相 そう
せ
の
し 談 だん
之
て す
介
と
も
れ
こ
糠 ぬか ば
そ
ろ
つ
(
)
四
丁
裏
・
五
丁
表
(
猿 さる 猿 さる 二 ず 猿 さる
に が 人
は
教 おし い の ず 蟹 かに
へ か 先 せん い が
け さ 祖ぞぶ 所
れ ま 心 こゝ ん よ
ろ
ば に
如ぢり
安や よ
会 お す 才 さい
く
の 晩 ばん
び ふ
な に
つ 事
猿 さる
く
い 話 はな
が
し
よ
り 荒 あら
事
に
う
し 布め
ご
に
て め
な
て
ざ
が
く れ
れ
き
く 海
胆 も 口 ち らげ ど
月
を が
は
と
潰 つぶ 滑 すべ お 猿 さる い
大ふ り言
す り
利
か
わ
し
口 こう
ぶ
れ
よ を
と
り
き
く 聞
は
昼 ひる
〳 き
お よ
親や
の
く
〵 か
う
の
さ
猿るぢ
言い
ご
ち
と り
ふ
よ
と
い
た
り
り く
ふ 竜う むも
楽 だの
ぐ 息
も 宮 う すこ の
子
し
の よ
な
み
の
は り
く り
海
き
胆 も 押 お らげ
月
謀 はか
か
に し
も
り
祟 たゝ 送 おく
かゝ
お
事
る り
る
し
の
も に
所
や
あ
の て
へ
ひ べ
く る
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海ら
り
事
月げ
見 走 はし
に
は
来
へ り
て
夢 ゆめ
り
た に
に
り 来
け
今 こん
も
り
り
度ど
知し
の
ら
五
丁
裏
江 一 ひと 猿 さる
戸 風ふは
夫
が 呂 ろ 海 くら
猿
良 よ 敷 しき 月 げ
か
が
く ろ こ 知し
た ふ れ ら
び と を せ
れ 心 こゝ 猿 さる に
ろ
引 ひき 驚 おど
た
づ
ら
道 どう ろ
き
き
具ぐ
し
清み
と
そ
女
水づ
言い ぼ
れ
房う
で
ふ
む
ぞ
も
な 娘 すめ
と
り
飲の
い
三
み
ふ
や
か 人
あ
れ
け 連づ
て
落おれ
も
ち に
な
し て
し
て か
に
け
故こ ほ お
き 他 か 落
郷 やう の ち
を 所
立たで な
ち は ん
出い渡との
で 世 せい か
け も の
り で と
き て
ま 役 やく
い に
し も
立た
と た
か ぬ
く 物 もの
は ま
で
)
し
た
じ 四
巡 ゆん 国 こく 尋 づ
ね
礼 れい を
め て
と 巡ぐ こ
な り 来
り て ま
て 猿 さる い
と も
出いな の
で る で
は
け
る も な
ぞ し し
哀 あわ
れ さ 見
な る つ
り に け
て ら
巡 めぐ れ
り て
は
六
丁
表
(
)
た 株 かぶ 親 おや
ら 仕じ子こ
父 母
ば 舞 まい 三
猿 猿
な 人
人 り に
怪けき に
て
我がや も
江
で つ な 昔 むか 戸
し
も 〳ら
も へお
せ 〵ん
さ 落
ぬ 〳か
る ち
や 〵
た 着 つ
と 例 めし き
う
に
思 おも あ
そ
育だ
ひ り も
て
し
女 佐 や
てゝ
く
房 ぼう 次 繁 はん
だ
に 平 華 くわ
む
さ
娘 すめ と の
れ
い 地ち
を
あ ふ
預づ もゆ
者のへ
け
(
)
蟹か
誰 たれ に
は
が
こ い
心 ゝろ よ
も
(
六
丁
裏
・
七
丁
表
148
同 おな 〳 昔 むか
し
鰻 鰻 じ 〵く よ
事 口ち
り
が
惜お
女
猿 さる
ま し
ぼ ま
房う
の
づ づ く
か
お
は
お 敵 た
思も き
は 入 い
鯊ぜ
つ 江 ひ を
て 戸
打う
と 方 ほう ち
下 した 心 こゝ 〴 し
ろ
〵 よ
の
あ が
と ふ
足し
け
を
尋 たづ に
あ
洗 ら う ね 思 おも
わ 鰻 なぎ 歩 ある ひ
し が け し
や 所 ど が
れ へ も
と
訪 たづ
ね と ん
か と
着 つ く 料 りや
う
き 人
簡 けん
け よ
違 ちが
り り
い
は
よ
横こ さ
猿る
に
あ は
歩る
か
く
け
ゆ
落お
へ
ち
ら し
埒ち
て
が
し
明あ
ま
か
い
ず
う
な
ぎ
)
)
七
丁
裏
・
八
丁
表
(
) ) ) き
つ
い
も
ん
で
ご
ぜ
い
す
(
(
(
(
亀
用 よう 杵 きね に ど 鰻 うな
ぎ
寒 かん や い
鰻 お 蟹
う
ふ は
に 牛しる 深か ふ
鯊
深か
は の 亀 かめ 川
川 がわ
い
く
痛た糞そど で
の
こ 洲 すさ 私 わた み ま も 用 もち き
木
し
こ
ま で 心ゝい
の 崎き
場ば
は
ろ
こ
ら
頃ろの
す す
安 やす
に
ざ 少 こ
れ
は 笊る
そ
き
し
け
で
ぜ の
れ
れ
飲の
ひ や
う
ま も
い
ば
み
か
う
す 取と
ま
ま 敵 たき
な
い
に
そ り
す を
知し
る
せ
も
う ま
世
と 打う わら
住す
話
は せ
の
せ
た
ま
ど う
を
のゝ
て
赤 あか そ
お い
し
ふ か
親や
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方 かた
た
て
な
り
の
に
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り と
な
ま 力 ちか
蟹 かに
相 そふ
り
ら 事
応 おう
す
が
を に
い
一ち かに
が
添そさ
蟹
部 ぶ に 口 くち
る
が
さ へ
し
定だ
始
た も
る に
ぢ 尋 づ
め
終う
利き
は
ね
て
を
く
意い きて
亀 かめ
し 聞
来
趣ゆ
じ
く
も
印 るし
り
も
と
あ
し
は
は
り
ゆ
な
い
へ
今ま
ん
ぬ
で
ら
の
も
ぐ
り
お
あ
上
親や
つ
く
か
と
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父じ
け
ら
る
の
飲の
り
か ず
で
甲ふ
み
と
ら
こ
あ
羅
込
し
か
ろ
が
み
ま
た
今
う
わ
ま も
で
万ん
ぬ
ね の
も
う 年 ん
臼
な
す
土ど
橋 ばし
や
れ
八
丁
裏
・
九
丁
表
出 だ 欲 よく 替 か 両 猿 さる
し 目 め へ 国 ごく は
先
か に
米 よね 女
生
け 十 引 ひ 沢 ざは 房 ぼう
ん 人 き 丁 娘 むす
あ
な
め
油 ぶら と け 並 み 替 か 八 を
へ 丁
い と
屋 や稽
江
古 こ 思 おも
の さ ひ 大お目
戸
ふ に
一 ひと せ
ふ
た へ
り 店 な
人 りる 藤ふ振
そ
置お
む
じ 袖 で を
す
娘 め
間ま
借かき
に
銀 ぎん り け
れ
お
中 棟 むね
む
き ば
そ
村らの 近ん
染め
の 櫛 くし 所 じよ
と
流 りう
に 我 がせ
て
て
ぎ
儀 天 ん 美 うつ 勢 い
で 秤 びん く の
し も
あ
は 棒 ぼう
姉ね
き の
な ほ
さ
芸 げい に
け ど
ん
者 しや て
れ の
あ 濯す
ど 鼈 べつ
ゝ
転 ころ
か り
ぎ
も 甲う
び
て
の
な
お
や
踊 ど 楊 う け 洗 せん
さ
今
り 枝 じ ふ 濯 たく
ん
か 日
を
物 もの
ふ
な
な 笄 が は
習ら い おな
御
わ
屋やぞ
せ う
敷 しき し
ら
て
御おや
明あ む
屋やま
日 す 娘 すめ
し
敷きし
は を
は く
ふ
そ
お
お 船 ね 育 だ
御ん思も
へ
て
厩 まや ひ
行ゆ
く 縁 ゑん
船 ふね 親 おや
と を
遊ゆの
さ
求 もと
山ん
取とめ
に
り て
)
九
丁
裏
・
十
丁
表
(
ら が 猿 さる
れ よ は
亀
い ど
ふ
背せ
先 せん 中 なか と や
生 せい へ 喜 よろ ら
載のびここ
ふ
吉 よし せ
け
や
野のて
り
を 出い
ら
げ
見 で
か 芸 い
蟹に し
者や
給 け
は
ひ り
と
猿 さる
成
う
む を
美 つく 昔 かし 尋 たづ り・
し は ね
涼 すゞ
い 猿 さる ん
み
の を と
ぶ
お 船 ね
が 載の思も
で
あ せ へ
金 かね
ど
る
を
今 こん も 儲 もふ
度ど
け
は 手て
蟹 かに 掛 が 母 はゝ
を かゝを
載のり ら
せ も く
る な 〳
く
〵
い
因ん かと
ね 亀
縁ん め過す
と に ご
い
す し
ふ 涼ゞ
も み
の に 男 おと
こ
は ご
味 あじ ざ の
な れ 子
よ
も
の とすりむ
な 勧 ゝ 娘 すめ
り め
)
十
丁
裏
(
)
149
ゆ 待 ま て 蟹 かに
へ ち は は
漁
よ
け な 涼 すゞ
師 喜 ろこ
れ き み
び
ば か に
此
出い
か
帰へ ふ
や
屋
船ねと で
り
根ね
は 両
け
や
船 ぶね
国ご猿さ
り 柳 なぎ く る
は
橋 ばし よ の お
り 踊ど
へ
大 おふ
上あり
つ
着
家や
が を
き
り 見
様 さま
て
の
う
家ち う
姉 あね
内ち
へ
さ
へ
連つ
ん
つ 親 おや
れ
だ
け 子こ
帰 かへ
ん と
り
と は
け
間 まな 言 い
る
部べいゝ
を
川がな
母 はゝ し
が
ざ 岸
猿る
ら
と
迎む
い
か
ふ 面 おも
い
所 差ざ
に
の し
出い い
石しが
で
垣 かけ そ
け
の の
る
際 きわ ま
を まゝ
顔 かほ い
行
ほゝ
つ も
見
た し
れ
り や
ば
か
か
敵 たき
た
敵き来き
の
の た
む
女 り 娘 すめ
房 ぼう
に
)
十
一
丁
表
(
(
を と り 蟹 かに
焼 や 相 そう
は
蟹
い 談 だん 敵 かたき 甲 かふ
た す を 羅ら
引 ひ 事 れ 打う に
つ は ば た 似に
掻 か 料 りや
ん せ
う
て
き
り
理
む と
あ
お 穴な
か
お
に 昔し 思も
る
を
も よ へ
と
掘ほ
な りさ ど
る
し 猿る も
と
わ
が
し
さ は
し
ね
人 ん 尻り 猿る
も
じ
は よ
は 参 ん は
く
挟さ
ま か
真
は
ん
言い
せ
咳き つ ね
で
ふ
か
の 赤 て
や
く
き た
す い
り 薬り な の も
ま に
ぼ の
す 焼や 牛 ご り
む
く
蒡 ぼう の 娘 すめ
事
焼 や 名 めい の
も
い 人 じん 面 おも
あ
て
差ざ
り
な し
押お か に
つ 〳 て
付 つ 〵 親 おや
け 甘 あま の
ろ 口 くち 在 あり
で 所か
と は を
言い い 知し
へ か り
ど ず
う
も
鰻 なぎ
ど
か
つ ふ 方た
い し へか
に た 帰へ
牛ごも
蒡 ぼう の
十
一
丁
裏
・
十
二
丁
表
蟹 かに
が
牛ご
蒡 ぼう
挟 はさ
ん
だ
か か
み み
さ さ
ん ん
内 うち 内 うち
に に
か か
150
つ 〳 蟹 かに
け 〵 は
詮 せん
議ぎ三
か し 人
み て 寄よ
さ も つ
て
ん
う
も
と
内ち
も
に ん 文 んじ
か と 珠ゆ
知し の
か
蟹に れ 知 ち
が ず 恵ゑ
も
牛ご
真 ま 蒡 ぼう 生 なま 出 で
事 挟 はさ な ず
は ん や
か だ つ 猿 さる
み
を の
さ と 壹 尻 しり
ん 囃 はや 本 ぽん に
に し 持も 牛 ご
ぼ
け ち 蒡う
見 り
と
ろ
猿 さる い
が へ
そ
と
門 かど ば
れ
て
口 ぐち
を
し
知
ま
の に
ら 後ち 待ま づ
せ に ち 嫌 きら
し
い
か か
事 蟹に け と
成 が ご い 思 おも
り・ 牛 ぼ れ ひ
蒡うば
は
そ 挟さ
焼や
ん
大 く
ふ
あ だ 勢 ぜい 事
り
子 は
そ と ど い
ふ 言いも ろ
な へ 見
ば
味 あじ
に
毒 どく
口 ぐち
の
や
ふ
に
聞き
こ
ゆ
れ
ど
も
)
も
の
子 子
な
供 供
り
(
)
十
二
丁
裏
・
十
三
丁
表
(
)
十
三
丁
裏
・
十
四
丁
表
帰 かへ い 申 別 わか 猿 さる
蟹 り と し れ が
が 次しは ま 〳 女
牛 ご 第 だい い す 〵 房 ぼう
蒡 ぼう
ふ
挟 はさ 和 わ も と 娘 むすめ 表 おも
て
ん 睦 ぼく の 無 む を
に
だ せ の ゝ 性 しやう わた
私 し 蟹 かに
の ん
に が が
蟹 かに そ い
蟹 かに と か を 育 だ
る
が 言いわ あ て
事
ま
も へ ゆ や
を
し
ゝ ば い な
知し
た
を
子 し
り
は
は
挟 さ 母ゝ を
て
二
ん も 捨す さ
む
人
だ 娘 すめ て る
内 うち
と も てゝも の
も へ
よ
人
ろ
の
喜
の 入い
こ
の
に
逃
と
れ
悪 わる び げ は に
く
お
口ち
お
る こ
め
に こ く の 免 ん 夫 つと
は れ ら 女 じ の
言 い よ い の な 様 やう
へ りこ の 事 さ 子 す
ど 心 ゝろ 事 な れ を
も 安 やす も り
話 はな
お
つ
夫とし
く と
こ
か
こ な
ゝ 蟹に が
れ り 心 ろや も 事
は け 安す だ を だ
ど り き ん ご ん
か
り 〳
ふ
ら 〳 料 やう 〵
か
起 お 〵 簡 けん の
知し
あ
こ のよ
れ
様 ふ ひ 誤 やま
り
ず
す
し 子 と り
を
へ に
事
聞き に て
ふ
ゝ
此 き おね夫う
婦ふ
上 うへ
に 願 が
憎
く
も
い
は
か
に
) (
) (
(
事 忙 いそ 丸 まる も 万 ばん
が
な
太
事じ
下 猿 客
し
か
夫 蟹に の
り
女
い
と が 事
も
付 つ 様 よふ
あ
さ
い
い
言 酒か 一つ
き 子 す 押お
り
し
ぱ
ふ 塩を 杯い
を す
も に な
聞き に
げ そ
芸い
の き ゝ 押お
ん も る
が
だ 酔 よ 顔 かを
気き
さ
悪 わる
ね い だ
で 家 うち れ
く
ま が
は と ぬ
て
す の
あ 姿 すがた も
も
る を の
お
ま や
か
い つ 猿 さる
し
が し は
い
四し
で
さ
こ
し 国
猿
流 は るま 塩 をか く
丸
を
行 や る 辛 らご ま
太 声 へ 回わ
る
夫 な り
も
も れ て
あ
お ど
り
か も 人
と
う し
美 つく し
す な
少こ
り
し
た し
い 蓼 で 唸 うな
も 食 く り 早 さつ
ふ
速 そく
太 とつ ふ む
虫 し 十 ぢう 女
ち
も 分 ぶん 房 ぼう
よ
好 す ゑ 娘 むす
や
め
き ら
う
を
〴 い
も
も
〵 気き た
売う
訪づ
れ
ね
げ で
げ
芸 い 芸い
る
る
が 者 しや
は
理り
よ に
づ
屈 くつ
く な
と
な
て り
同 おな
れ
ど
じ
)
<
> <
>
十
四
丁
裏
・
十
五
丁
表
を 難 むづ る し 猿 さる
蟹 かに か つ 顔 かほ は
し
も に 様 よふ
にゝ
い
り も 子す
押お
事
ち を
つ
を
付 つ し 蟹 かに ま ママ 聞 き
尻り
け
が
きゝ
と
る
猿 さる ち ママ 出 だ
こ い
心 ゝろ ふ に ま し
牛ごい
今
蒡ぼ
嘘 うそ う の さ
を 猿るで
さ
猿るも
ま は
も
が 真ま
眼 なこ か
つ
蟹に
し
尻りつ
て
が
は 赤か
少 すこ 世 せ
ま
真 な
か し
話わ
つ 嘘 うそ 敵 たき 手 て
を
か
赤 い と を 前 まい
す
な い 打うも
る
ふ と 今
と
ご
ふ は
牛ん
い
ぼ
さ
蒡 う 猿 る と 粋 いき
ふ
焼やは い 人
事
ご
い 牛 ふ の
聞き
ぼ
て 蒡つは 気き ゝ
き
し
尻り
に
こ
押お
心ゝな 大
つ 悋 りん ろい り
得
焼 やき
付つ気き ち
餅 もち
違が
け を
よ
い
に
ろ 焼や
い て
さ
く
む
幸いぐ
と 昔 かし わ
つ
此 い も い
と
に
理りふ こ
踏ふ
く
し
ふ
屈つ
ん
は う い て
込ご
こ ぬ ふ
か み
れ が 例 ため 蟹 に
で 飽あ しにゝ は
も 押お腹ら
さ き
あ つ を
ら た
り 付ゝ立た
り 女
け ち
と 房 ぼう
(
わ
か
蟹
蟹
父
り
は
猿
し
気き
な
の
粋 いき 毒 どく お り
な が れ
お
男 とこ り が
て 女
に
房 ぼう
な
あ
を
つ 頭 たま
さ
た を
る
と か
と
お
思もけ
い
つ ば
ふ
て
て
人
は
た
太いの
へ
平い手て
わ
楽 らく か
か
が と
お ら
い 思も
ぬ
け ひ
ゆ
す
好 て
へ
か
は
ね 挟さ り
離
へ ま
縁 ゑん
れ
す
る
る
ぞ
か
に
) 十
五
丁
裏
(
151
実 じつ 中 を 蟹 かに
説 せつ 良 よ 真 ま は
を く つ 無む
捜 さが 栄 さか 赤 か 実 じつ
し ゑ に の
出 い け し 難 なん
だ り て を
し
言い
御 是 いゝ
御 子 ま か
覧 らん 様 で け
に 方 の ら
供 そな の 中 れ
へ お を け
奉 話 はな だ れ
し
り
ん ど
に
も
候
さ 〳
猿る
〵
の
あ
し
千
か 謝や 正 や
ま
た
秋 敵 き り 直 うじ
き
万 を
の
か
歳 蟹にま
こ
が た 頭 うべ
鶴 つる 打 う そ の
亀 かめ ち の 上 うゑ
猿 さる し 上 うへ に
蟹 かに と に 蟹 かに
は 蟹 かに 宿 やど
め
が る
で 大 あふ 世 せ
た 間 ま 話わ さ
し 違 ちが に ら
〳 い て り
〵
夫 ふう と
何 なに 婦 ふ わ
が の か
な 中 り
春 はる も な
直を 今
の し さ
お
ら
御 んな
さ
た 猿 る
ぐ
慰 さ 互が
も
み い
顔 かほ
に
に
通
笑
作
清
長
画
④
物
事
に
心
が
ひ
き
つ
け
ら
れ
な
い
③
不
都
合
で
あ
る
②
苦
労
の
む
く
い
が
困な
るい
①
お
さ
ま
り
が
つ
か
な
い
つ
ま
ら
ぬ
つ
ま
な
ら
窮張落な
と
1く
すり着い
6で
る合し
7き
いな
1な
意
がい
に
な
い
上
満
いま
ばとた
た
小かるな
ひ
哥げにい
きや
・て足
あり
しいり興
わく
なり
るな味
み
いが
いが
せ
わ
つ
ん
価か
うか
引
値な
まな
も
がい
らい
の
な
な
は
いお
い金
も
に
野
些し
困
良
細ろ
る
・
でく
さ
あな
ん
るい
や
を
と
も
と
し
て
略
**
*
々譬浮の評
十喩世浮判
三尽草世記
子に・
年
1・さ役
7浮さ者
8世の評
6親で判
仁あ蚰
八形そ蜒
気べ
桃
1
栗1
6
三7
7
年2
4
0
モ
秋
モ四
田
ク・
彦
リ一
三
サ
郎
ン昔
ネよ
桃
ンり
栗
桃
自栗
モ
モ
柹
ク
八モ
リ
年モ
ク
三
ハリ
年
チ
柿
ネ三
ン年
柿
カ
キ
枇
杷カ
八
はキ
年
九
人
年八
の
で年
命
登と
は
兼言
五
るへ
十
梅ば
年
は
夢
酸
い年桃☆ も
酸
と諺 も
い
栗
十柚は桃 く
三
芽栗 り
年ゆ生
三 三
ずえ
ね
な
て年 ん
どはか柿
の九ら八 か
句年三年 き
の
をの年
つ花
を 八
け盛柿も 月
たりはじ
り
芽
桃
す
生
た 栗
る枇え
杷て
三
か
年
びら桃 か
わ八栗
年三 き
はで年 の
九実柿 八
年を八 月
で結
なぶ年
りと
かい
ねう
るこ
と
枇
杷
は
九
年
で
登
り
か
ね
る
梅
は
酸
こ
の
下
に
梅
は
酸
い
酸
い
十
三
一
丁
表
注
記
が
な
い
も
の
は
全
て
日
本
国
語
大
辞
典
に
よ
る
筆
者
の
注
記
は
☆
で
示
し
た
3.3 ⑤
対
象
と
し
て
と
り
あ
げ
る
ね
う
ち
が
な
い

⑥
道
理
に
合
わ
な
い
→
彌
太
郎
*
仮
名
草
子
・
ぬ
れ
ぼ
と
け
な
い
か
金
銀
・
家
を
う
し
1な
6い
8て
7
頃身
を
道ほ
行ろ
ぶ
是る
はと
つの
また
らま
ぬへ
おど
詞も
か
ない
よ
彌い
太よ
郎道
と理
やつ
らま
んら
をぬ
とな
むり
る
関
な
ら
ば
腰
弁
て
置
く
の
は
つ
ま
ら
ん
ぢ
*
浄
瑠
璃
・
盛
久
そ
の
弁
当
一
向
見
む
き
も
や
ら
ず
ほ
斗
を
と
め
給
へ
→ ま
た
無1
用8
だ3
0
く
だ4
ら4
頃
な
い四
弁
当
を
持
参
す
る
こ
と

画
像
ま1
た
*
忠
臣
蔵
穴
さ
が
し
腰
弁
当
⑦
不
必
要
で
あ
る
こ
し
べ
ん
と
う
] て
出
勤
す
る
よ
う
①
腰
に
弁
当
を
さ
げ
て
出
か
け
る
こ
と
[
仏
の
教
え
を
受
け
る
者
と
し
て
の
性

う
き
仏
語
②*
雑
江俳
戸・
時川
代柳
評
勤万
番句
の合
下
侍宝
が暦
袴一
の二
腰
腰に1
弁弁7
当6
を2
さ
げ宮
て二
日
出
本
仕山
隠
しう
語
たば
集
とは
ここ
1
ろし
8
か弁
9
ら当
2
の
毎支
日度
弁を
当し
を
持
な
下
級
役
人
や
安
月
給
取
り
を
い
う
‐
725 740
ち
手
に
取
る
も
け
が
は
性
質
う
③
願
事
を
す
み
や
か
に
通
し
て
く
れ
な
い
役
人
の
こ
と
→
152
こ
性
こ
ん
じ
101
て
強
い
は
た
ら
き
を
も
つ
も
の

①こ
質
ん
や
じ
資根
や
質
はう
力
が根
あ性
088
373
そ
の
人
ま
た
③
②①
*②
けた隠こ食意方 ら浄生
ちな岐んい地言 は瑠ま
なし島じ意悪
し璃れ
・つ
こ
地で
うが怒
双き
と
汚
生の
汚り
こ岩い
隅性
ま
ん手こぽ
田質
た
新じ県とい
川
そ潟
こ
多
九
1く
の県う戸まと
7
人中か郡た
越め
2好
性
0ま
け
そ根
岩
ち
のが
し
手こ人よ
一く
ん
県ん
坊
く
な
気じ食な
恐い
仙
ろ人
いい
郡
しの
しこ
島んと
や性
根坊
質
県
班に
こ
女つ
こ
ん
めい
ん
じ
がて
じ
まい
ぶ
づう
う
ろ
此
く
通こ
さ
島
りこ
り
根
ろ
県
根ね
根
隠
性
性
岐
かし
腐
島
鬼
百う
合ね
725
─
④
根
性
が
卑
し
い
こ
と
⑤
短
気
者
市
場
通
笑
の
黄
表
紙
蟹
牛
房
挾
多
の
注
釈
よは
はくな
な物つ
を
ぽ食ぽ
ろうろ
者
埼
玉食
県い
北し
足ん
立ぼ
郡う
を
掛
け
る

気
上
一
丁
裏
・
二
丁
表
054 江
戸
語
大
辞
典
北
葛
飾
郡
258 千
葉
県
東
葛
飾
郡
280 え
て
え
て
1
の
江木7
ぼ
戸登8
せ
語り7
大に
上
辞掛
気
典くえ
り
の
毛
を
三
本
ぬ
い
て
や
ま
ざ
る
は
き
の
ぼ
り
し
た
る
鼻
血
な
る
べ
>
の
給
ひ
け
る
事
を
こ
の
後
い
よ
い
よ
風
体
か
ろ得
か手
ら吉
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得
な手
ど
物
前
☆ き
条気
の
に上十 ぼ
同
一 り
じ
丁
き表
木
の
ぼに 登
十
りは り
三
<
又
*
狂
歌
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蔵
集
‐
ぼ
く
ぜ
い
き
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ぼ
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)
>
え
えて
そて
の
こ得
と手
に
巧に
み入
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あ
る
こ
と
気
上
し
し
か
つ
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真
が
ほ
(
<
得
て
体
物
得
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た
わ得
ざ手
気
持
が
の
ぼ
せ
る
こ
と
→ ゑ
て
も
の
→ ①
技
芸
な
ど
で
→ 卜
筮
②
技
芸
な
ど
で
最
も
得
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
*
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雑
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柳
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万
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く8一句
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夥2
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37暦
68一
2三
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日お7
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市り仁
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総こ戸
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村
に
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鋭
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長
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二八
階・
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り尺
で
肩
帆幅
走八
用・
に二
六尺
反
の深
帆さ
を三
は尺
る
七
押挺
しの
送櫓
りで
逆
風
も
い
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か
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ひ
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ぐ
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き
も
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き
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を
つ
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②
生
魚
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主
に
①
帆
を押
用送
い船
ず
塩
魚
・
干
鰯
な
ど
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魚
市
場
に
運
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船
櫓
を
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進
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船
常
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総
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ら
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豆
下
田
沿
岸
に
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きる
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と
い
まふ
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月
のき
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五
丁
裏
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一
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主が
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1
に
4
れ事抵乱場
対
な抗をか
し
九
欠どすきら
て
落にる
逃
人
者よたか亡
個
めけす
を
の
人
す
捜て郷にる
的
か
索居村離こ
な
し
方住を村と
色
て
法地離し
彩
銭
やをれた
が
金
罰逃るり
強
こ
を
則
く
亡と
か
な
ま
しを
り
ど
た
法
もは
の
制
行い
身
細
重
上
方う
の
則
税
で
を
置
が
か
は
く都
処
あ
ら
現
ら市
な
の
在
まへ
ふ
た
が
の
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し
れ
失
こ欠
て
中
る
踪
と落
か
世
た
に
ちめ
の
け
近
こ者
お
逃
に
い
れも
ち
散
散
は多
す
発
か的
る
ち
戸
も
に
籍た
う
離
の
上
も
さ
郷
有
ん
す
ま
る
た
が
こ
保
団
と
安
欠
落
百
姓
有
1
7
1
7
*
負禁
致令
百考
姓
欠前
落集
仕・
候第
は五
・
年巻
貢四
は三
五・
人寛
組文
又六
村年
中
と1
し6
て6
皆6
済
仕一
一
其月
上一
百一
姓日
可
尋関
出東
事御
領
所
下
知
状
‐
ひ
そ
か
に
他
所
へ
逃
げ
隠
れ
る
こ
と
七
し
て
*
浮
世
草
子
・
世
間
娘
容
気
互
い
に
し
め
しレ
合吟
わ レ味
せ
て
1
7
9
4
オ
チ
欠
落
致
し
た
る
始
末
巨
細
遂
*
地
方
凡
例
録
⑤
相
思
の
男
女
が
[
ま
江
戸
語
大
辞
典
)
腰
に
多
く
の
物
を
下
げ
る
の
を
い
う
猿
引
道
具
其
外
種
々
の
さ
る
き
道
具
さ
る
ひ
き
ご
う
ぐ
1
7
8
0
た猿
回
ごし
ちが
猿
ごに
ち芸
を
しさ
たせ
道る
具た
類め
を腰
嘲に
い
てろ
いい
うろ
道
が具
らを
く付
たけ
道て
具い
る
事
か
ら
*
根
柄
異
軒
之
伝
(
☆ く
四 た
国 び
子 れ
作 た
・ ら
鳥
居 し
清 み
長 づ
画 で
の も
黄 の
表
紙 み
や
四 れ
国
猿 く
後 た
日 び
曲 れ
馬 た
ら
安
永 清
六 水
年 で
刊 も
の 飲
影 み
響 や
を れ
受
け
た 画
か 像
6


を
掛
け
る
六
丁
表
猿
156
た
と
い
う
数
え
唄
よ
り
☆ さ
る
然 た
る め
し
と
猿
と
な


☆ 佐
佐 次
次 平
平
と
い
う
人
間
が
四
国
を
回
り
な
が
ら
押
し
送
り
じ
巡
礼
☆ さ
る
然 に
る て
ん
れ
い


と
猿
を
掛
け
る
Iunrei
聖
地
巡
拝
盗
人
仲
間
の
隠
語
特
に
キ
リ
ス
ト
教
文
化
圏
で
は
す
ひ
す
し
め
ら
く
れ
を
る
い
も
う
の
償
罪
の
行
為
と
し
て
て
い
る
と
こ
ろ
か
ら
②
*
***
①
キ国浄の俳虎日そ諸
リ訛瑠句諧明葡の方
スり璃々・本辞巡の
・
奥狂書拝神
ト
す社
傾短の言
教
城冊細・1る仏
徒
阿に道蜘6人閣
や
波書
蛛0
イ
ス
聖
のく1
3
鳴
6室
ラ
地
門
9町0
ム
霊
3末4
教
場
1
徒
を
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7
9近
参
レ
6
4世
詣
ス聖
8
頃初
し
チ地
て
ナパ
八
出
ま
のレ
羽かジ
わ
ほス
三や
る
かチ
順
山うン
こ
礼
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ナ
と
ロや
坊候イ
ジ
に者
メ
信
マ
帰は
仰
ン
れ
カ
の
メ
ス
レ
ば都グ
た
ペそ
イ
方リ
め
阿よヲ
に
イの
に
闍
り
他
い
ガ
ン
御
梨出ム
ろ
のの
報
の
た
聖
い
サ
謝
需る
ろ
ン地
順
な
チ
場
と
も礼
ア霊
と
に
場
所
ゴ
い
めて
を
・な
ふ
候
ど
巡
デ
も
に
拝
・に
柔
依
い
す
コ
る
て
ンく
や
こ
こ
ポ
さ
三
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スと
山
を
テ
し
順
ま
ラい
き
礼
う
た
フ
ラ
ン
ス
の
ル
ル
ド
な
ど
も
知
ら
れ
る
①
が
施
し
を
受
け
る
た
め
常
に
杓
を
持
腹
た
人
間
の
足
を
指
し
て
い
る
③
口
が
大
き
く
そ
の
冠
を
か
ぶ
下
の
足
六
丁
裏
・
七
丁
表
一
般
に
画
像
7
し
た
の
あ
し
ト
ル
以
下
の
小
形
鯊
☆
蟹
の
冠
の
足
で
は
な
く
淡
水
域
や
海
域
に
も
ムい
ツる
ゴが
ロ
ウ沿
岸
ヨや
シ河
ノ口
ボな
リど
の
ド汽
ロ水
メ域
なの
ふ
つ
う
全
長
二
〇
セ
ン
チ
メ
は
ぜ
]
左
右
の
腹
び
れ
は
合
し
て
吸
盤
状
と
な
る
ス
ズ
キ
目
ハ
ゼ
科
に
属
す
る
魚
の
総
称
面
は
平
た
く
[
底
層
に
す
む
種
類
が
季多
・い
秋
釣
り
魚
と
し
て
喜
ば
れ
る
マ
ハ
ゼ
の
ほ
か
チ
チ
ブ
ど
種
類
が
多
い


七
丁
裏
・
八
丁
表
一
六
画
像
8
・
9
・
1
6
元
禄
一
〇
年
深
川
の
木
場
] 浦
と
よ
ば
れ
日
本
歴
史
地
名
大
系
ふ
か
か
わ
の
き
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ふ
か
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わ
え
い
た
い
木
場
九横
七
よ
かこ
ら
江川
戸
市大
中横
の川
塵
芥の
を河
も口
に
て位
築置
立し
て
ら深
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た永
地代
→ 漫
然
と
し
て
い
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ま
を
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う
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く
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ら
つ
り
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りえ1貞
こど4
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りろ上
の
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らいら
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ひまく
ら
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りう
がな
なぎ
く綿
人
は
げ
に
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づ
へ
な
げ
た
る
ひ
ふ
に
上
り
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*
① ぬ
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世
ら り
草
か く
子
く ら
・
て り
新
ぬ
と
色
る
五
ぬ
る
巻
書
と
す
1
べ
6
9
て
8
つ
か
五
ま
・
え
三
に
く
吉
い
原
さ
通
ま
ひ
を
に
表
浅
わ
の
す
頭
語
巾
ぬ
羽
ら
織
ぬ
・
ら
脇
ぬ
指
ら
布
り
屋
こ
が
ろ
格
り
子
に
ぬ
和
ら
国
り
と
ひ
云
六
・
竹
斎
夢
想
*
浄
瑠
璃
・
田
村
将
軍
初
観
音
1
6
8
0
の
ら
り
く
ら
り
②
態
度
な
ど
が
は
*
仮
名
草
子
・
杉
楊
枝
157
1
71
67
31
3
一
一
鰻
鱺爰
が
う我
なら
ぎの
老
・功
泥
鰌ぬ
ら
どり
ぢく
ら
うり
と
とど
同ち
じら
様も
につ
か
ぬず
らの
り返
く答
らし
り
が
れ
ゆ
く
と
し
*
浄
瑠
璃
・
持
統
天
皇
歌
軍
法
と
世
を
渡
り
つ
つ
*
談
義
本
・
風
流
志
道
軒
伝
万
年
橋
享
保
年
代
に
は
八
幡
前
の
名
物
は
鰻
牡
蠣
[
]
深
川
と
い
へ
鰻
中
の鰻
略
蒲の
う
ま
い
も
の
の
親
方
画
像
1
0
]
]
蛤
で
あ
つ
小た
名
菊
木
岡
川
沾
が
凉
元
著
と
の
宇
地
奈
誌
岐
沢
江
と
戸
い
砂
つ
子
た
処
巻
か
六
ら
参
見
照
る
と
江
戸
深
川
情
緒
の
研
究
う
ま
い
も
の
ゝ
お
や
か
た
[
[
画
像
1
1
・
1
3
・
1
6
何
故
に
鰻
が
深
川
の
名
物
に
な
つ
た
か
は
分
か
ら
な
い
が
P.149̶150
ま
ん
ね
ん
ば
し
焼沢
山
鰻捕
のれ
蒲た
焼場
と所
いで
へあ
ば
深た
川こ
をと
連が
想推
し想
せ
遂ら
にれ
深
川従
をつ
鰻て
のそ
本れ
場が
と深
す川
るで
に売
至ら
つれ
たて
と美
思味
はせ
れら
るれ
→
ま
ん
ね
ん
は
し


]
(
] 八
幡
宮
が
有
名
で
あ
た
て
い
る
橋
を
永 えい
代 たい 奈
橋 ばし と
と も
い 書
く
た
の 木ぎ
で 川 がわ
へ
そ 入
魚 の
な 向 て
ど こ
の う 最
生 を 初
き 張 の
物
橋
を て が
買 付 万
い け 年
集 ら 橋
め れ で
て た あ
逃 名 る
し 前
て で こ
や あ こ
る る よ
放 ほう
り
じ
生う中 隅
田
会え略
川
と
仏 の
言
教 少
う
が し
儀
盛 下
式
江
戸
切
絵
図
で
歩
く
広
重
の
大
江
戸
名
所
百
景
散
歩
深
川
隅
田
川
か
ら
深
川
の
小お
名な
P.90
万
年
橋
の
近
く
で
は
深
川
の
富
岡
流
に
架
か
[
画
像
1
2
がん
で
8あ
月
1た
5江
日戸
に時
各代
地に
のは
神
社捕
仏え
閣ら
でれ
行た
わ鳥
れ
た獣
→ さ
る
に
で
は
亀
と
鰻
が ゝ
一 ろ
緒 や
に す
売
け
ら
れ れ
て は
い
た 万
年
橋
に
い
る
亀
ど
も
心
安
け
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ば
[
)
し
か
しさ
る
ほ
ど
に
前
項
ま
ん
ね
ん
は
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に
い
る
か
め
ど
も
こ
そ
う
こ
う
す
る
う
ち
に
☆
放
生
会
の
儀
式
と
こ
ろ
が
す
る
と
を
掛
け
て
い
る
対
立
の
関
係
に
あ
る
こ
と
を
示
す
後
続
の
事
柄
が
起
こ
る
こ
と
を
示
す
さ
る
に

後
続
の
事
柄
が
反
対
☆ さ
る
猿 に
は
と
)
寒 ど
土 よ
用 う
季
か
・
ん
冬
①
先
行
の
事
柄
を
受
け
て
(
土
用
寒
②
先
行
の
事
柄
に
対
し
と
よ
う
か
ん
→ じ
る
一 し
種
の
洒 江
落 戸
言 語
葉 大
一と 辞
種す 典
のる
隠
語
と
す
る
☆
寒
土
用
と
同
じ
か
印
立
春
前
の
約
一
八
日
間
を
い
う

し
る
し

①
諸
種
の
語
に
付
け
友
右
衛
門
②
人
名
・
事
物
名
の
下
略
形
に
付
け
て
大
谷
の
友
印
イ
人
名
ま
た
は
こ
れ
に
準
ず
る
語
に
付
け
る
も
の
→ 1
8
1
0
(
画
像
1
4
・
1
5
*
当
世
気
ど
り
草
)
洲
崎
ロ
事
物
に
付
け
る
も
の
)
に
あ
り
洲
崎
の
笊
] ス
サ
キ
(
そ
ば
大
其
き
初
め
に
よそ後
ろの家
し始あ
めり
しはて
か粗仕
し々出
其たし
価るた
は小る
七
と
六 家
いなて
かり
ふし後
高が家
そ
き
而人ば
己々と
の大世
みき上
に
持と
てな
へ
1
8一
3三1
4
7
18
377
69
7
四
今
は
洲遠す
崎かさ
弁らき
財ぬの
天洲ざ
社崎る
同もそ
所いば
東はも
のば名
方江ば
戸か
洲のり
崎果さ
す
さ
き
の
ざ
る
[
そ
ば
切
屋
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り
江
戸
中
蕎
麦
切
屋
名
目
の
事
天区江
社東戸
陽深
現一川
在丁に
の目あ
洲か
崎らた
神木地
社場名
六
が丁元
お目祿
かに年
れか間
け
明て一
治の六
二一八
一帯八
年に
あ一
一た七
八る〇
八
四
八
遊
埋
覧
に
め
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は
立
地
根
て
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ら
か
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ら
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干
遊
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狩
郭
き
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た
ど
移
築
も
さ
島
行
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な
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い
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た
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在
洲
の
崎
江
弁
東
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→ 七
四
蕎
麦
全
書
・
*
洒
落
本
・
古
契
三
娼
)
津
波
に
襲
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た
今
は
ざ
る
そ
ば
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云
へ
り
深
川
洲
崎
弁
財
天
の
地
内
に
*
雑
俳
・
俳
諧
警
觿
‐
(
寛
政
三
年
一
七
九
一
九
月
四
日
ざ
る
に
入
れ
て
出
す
故
P.29
158
四
角
な
平
の
小
笊
を
用
い
た
と
い
う
今
は
大
き
に
仕
出
し
た
り
七
五
*
江
戸
名
所
図
会
(
(
厳江屋
う戸号
市は
甚中伊
だの勢
し蕎屋
く麦
屋主
では
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

いざそ
かるば
ふ
切
屋
囃
し
繁
昌
す
る
故
→
七 七 七
六 五 四

P.714
)
(1764-72)
)
鞠 まり
場ば
ま は
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設 め
け の
て
☆ ま
升 す
料 宗 そ
理
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(
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戸
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け
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は
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崎
家 現
は
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い 東
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く 場
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て のま
庭 升す
内 屋や
に と
数 さ
寄 れ
屋 る
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2 明
和
3 年
間
所
)
た
の
は
P.715
)
料
理
人
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祝
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弥
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包
丁
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略
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-
(
一
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四
略
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蜘
蛛
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糸
巻
(
日
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料
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覚
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質
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向
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た
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い
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る
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積
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て
か
ら
と
思
わ
享れ
和る
一
八安
〇永
一
天
〇明
四
一
こ七
ろ七
か二
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台八
頭九
しこ
たろ
八全
百盛
善を
の誇
八
百た
屋江
善戸
四洲
郎崎
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東
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特
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階
級
だ
け
の
も
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に
つ
い
て
同
時
代
の
一
書
江
戸
深
川
情
緒
の
研
究
P.152-153
)
二
軒
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川
八
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境
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→
(
甲
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時
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辞
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大
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四
郎
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葉
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つ立を明
た派眞和
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中つも
略たの洲
かで崎
升らあに
屋
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は諸う屋
天大
祝
明名夫阿
時の婦彌
代留とと
に守もい
は居機ふ
押者轉料
しのが理
も振利茶
押舞い屋
さひてが
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も
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し皆のた
なこみ
いゝな亭
料をら主
理定ずが
屋席
髪
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しか剃
磯た〳つ
せの〵て
ゝでの阿
り
數彌
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の
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慣す略
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京
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葛でり丸
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ら
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い
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て
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る
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い
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て
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き み 鷹がじ
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の
い
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い
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い
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挨
拶
詞
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江ら
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③
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1
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④
娼
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・
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へ
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二跋
て
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*
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形
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と
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く
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い
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る
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ス
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とか
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か
ら
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に
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す
ぽ
ん
の
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を
さ
す
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の
か
う
亀
甲
さ
し
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今
に
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り
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形
を
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に
す
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に
く
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り
な
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い
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③
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形さ
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りい
かた
たた
め
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称れ
を
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世
す
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品
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鼈甲
甲と
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らの
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こと
ろこ
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らか
いら
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じ
た
こ
と
ば
あ
る
書
に
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ふ
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髷
の
名
こ
れ
を
古
と
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ひ
思
ひ
の
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もは
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④
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豆
腐
の
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称
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か
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ら
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り
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を
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ば
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に
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り
(
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の
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郎
なま
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も
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を
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十
人
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・
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・
二
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*
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衛
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の
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は
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文
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○
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宮
の
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り
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風
習
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の
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を
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き
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生
き
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ル
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方
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産
業
の
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映
で
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こ
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た
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習
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と
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)
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ら
に
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ル
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り
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く
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も
あ
)
160
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物
の
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や
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の
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り
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る
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を
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に
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福
ル
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ル
に
の
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頭
く
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い
に
を
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け
に
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入
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時
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に
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舞
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図
彙
集
成
は
ふ 第
る 7
き 巻
古
き
P.307
こ
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図
彙
大
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成
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り
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3
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[
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国
船
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物
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船
遊
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い
辺
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る
と
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にや祷
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たじた
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り
馬になじ
とかめ
むて
ま舞に御
て所
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山は馬
の
こ
子しうし
むしよ
ことむが
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い
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山
に
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1
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8
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七暮
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句の
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フ
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き
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7
4
5
頃
*
浮
世
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子
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町
*
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諧
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秋
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八
一
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度
四
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自質の 本
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カ
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松や
良が
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娘の譚
と幼
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公おつ
人染じ
のをた
情誤ん
死
とて
し水な
て死ど
評さで
判せは
に
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りし七
わ〇
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文土
蔵宝
一
八
二
五
お
そ
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ひ
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う
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おざ
染い
久も
松ん
袂
に
た歌
そもわ
めとれ
も
よの戯
う白曲
い
で
もしも
せら多
の
く
かしの
どぼ
まりお
染
つ
久
一松
七物
一一
七一を
生
六
七がん
最だ
初
近の浄
松作瑠
半で璃
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二
作菅は
専紀
新助海
音
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歌す
祭がき
文せの
んか
しすい
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ん
ぱ
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模
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背
門
松
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浮で
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鴎
一
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七
鶴
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屋吉野涼
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・
船な
花
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・
江い
雪
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川
舟人
施
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餓
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鬼
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の
両
国
川
涼
み

1
81
17
05
3
れ江
戸
そ時
の代
豪
華隅
さ田
は川
川の
一船
丸遊
なび
どに
と用
とい
もら
にれ
た
隅最
田大
川級
のの
名町
物屋
で形
あ船
の
た名
]
→
161
歌
川
そ 広
の 重
川 画
下
を 向
間 両
部 国
河 茶
岸
と 屋
唱
へ 元
て 柳
四 橋
季
と 浜
も 町
に
月
夜
の
勝 画
景 像
い 2
8
*
談
義
本
・
水
灌
論
[
ま
な
べ
が
し
出
し
と
評
判
の
あ
る
位
な
り
*
随
筆
・
飛
鳥
川
→ 間
部
川
岸
十
丁
裏

ま
な
べ
か
し
両
国
橋
よ
り
南
の
方
の
小
川
に
架
す
る
を
元
柳
橋
と
い
ふ

と
閑
静
に
し
て
歌
気
揚
〻
の
な
が
め
あ
り
四ヤ
立ナ
ギ
づ
ぶば
濡し
でで
三
内十
ま四
で五
行の
が男
冷
か
ら
ふ
柳
橋
の
若
芸
妓
・
酒
楼
が
多
か
橋
の
北
側
一
帯
を
占
め
たる
台
東
区
南
東
端
の
地
名
東
京
都
台
東
区
柳
橋
と
中
央
区
東
日
本
橋
と
の
間
や
な
ぎ
は
し
柳
橋
や
な
ぎ
ば
し
画
像
2
江神
戸田 8
時川
代が
は隅
吉田
原川
・に
深合
川流
通す
いる
の手
船前
のに
発架
着設
所さ
でれ
た
船橋
宿
がま
集た
中
しそ
の
猪
**
竹歌洒
で舞落
伎本
お・・
銀小遊
が袖子
着曾方
物我言
を薊
借色1
り縫7
7
て
着十0
せ六
や夜発
う清端
心
小
春
1の
8こ
5ろ
9柳
略茶
舟
皆・
小ひ
屋ら
形だ
の・
み猪
な牙
り・
屋
た根
だ舟
家・
根屋
船形
舟
本の
名数
日々
よ
け
船
猪 や
牙 ね
船 ぶ
ね
ち
屋
大き
根
坂ぶ
でね 船
は
同程
程度
度の
の小
も船
のに
も簡
屋素
形な
船小
ま屋
た形
はを
屋設
形け
茶た
船一
と
い二
う挺
立
日の
除船
船
大
や形
ねの
ぶ屋
形
や船
ねと
区
別
し
た
江
戸
1
81
17
46
3
上
6
屋9
形
船前
の・
事四
で
の
呼
称
で
*
談
義
本
・
根
無
草
*
随
筆
・
塵
塚
談


牙
船
多
く
有
人
は
そ
れ
ぞ
れ
相
応
の
願
望
を
持
つ
も
の
だ
の
意
十
一
丁
表
ま
た
蟹
は
甲
羅
に
似
せ
て
穴
を
掘
る
身
分
に
応
じ
た
言
動
を
す
る
も
の
だ
か
に
は
か
ふ
ら
に
に
せ
て
あ
な
を
ほ
る
長
松
や
人
は
自
分
の
力
量
付
け
ろ

牛
蒡
焼
い
て
押
に
に
せ
て
あ
な
を
ほ
る
と
か
や
諺
)
赤
い
な
*
俳
諧
・
毛
吹
草
次
郎
吉
ま
で
が
兄
1
分
を
6
3
こ
し18
ら6
へ8二
1
か
御
敵一に
は
お誠か
てにう
き蟹に
に
をカせ
たニて
あ
く
ははな
へ甲を
ほ
カる
ウ
猿
が
尻
は
真
*
仮
名
草
子
・
都
風
俗
鑑
(
ご
ぼ
う
や
い
て
お
つ
つ
け
ろ
江
戸
語
大
辞
典
前 き
出 の
ぼ
き り
の
ぼ 木
り 登
り
・
一 気
丁 上
裏 り
・
二
丁
表
赤
い
な

猿
の
尻
は
真
さ
る
が
し
り
は
ま
つ
か
い
な
→ ⇒
→ ☆
*児
中ど這童
お
村ゝ奇が 御 さ
的猿 猿 る
正
明や見の の の
ゝ勢尻 尻 し
り
童と物を
は
は
言も語見
真
て
葉す
とれ1は
黄ば8や 赤
表猿0し い
紙を1た な
て
安
る 江
く
焼す猿文 戸
いれの句
語
たど人
大
牛
ま一 辞
蒡
ね説 典
を
に
お
猿
つ
利極
つ
口め
け
て
ろ
お明
猿白
ほ
のな
か
尻る
は事
真理
の
日
赤た
本
いと
文
なえ
學
と
論
牛い
究
蒡う
焼は
い
七
てい
一
おり
ほ
つが
けか
ろ
な
二
上
〇
略
一
二
年
好 三
色 月
艶
て
語
く猿辞
るの典
尻
伝
に
承によ
童もる に
謡性と 次
の
に的
よ
はな
直ニ牛 う
裁
蒡 に
記
的ア
なンに さ
性スは れ
て
にが
まあ黒 い
つる味 る
わこを
ると帯
唄がび
が感て
多知細
いさ長
これく
と
て
は本硬
よ童い
く謡男
知全根
ら体
れにの
て露意
い骨味
るなが
あ
春り
中
歌
略
そ
(
ト
ル
本
唄
も
や
は
り
中
と
略
記
さ
本
れ
童
て
謡
い
そ
は
る
う
で
諍
あ
い中
れ
相略
ば
手
やし
や
問か
は
題し
り
行
童
動草
謡
を双
と
起紙
い
こ類
う
すに
よ
人見
(
一
・
五
メ
猿
の
尻
を
見
て
囃
し
た
て
る
(
高
さ
一
て
い
る
よ
う
に
思
う
の
説
明
に
は
の
こ
と
を
知
る
と
162
古
く
か
ら
畑
に
栽
培
さ
れ
て
い
る
性
的
な
こ
と
ば
が
し
ば
し
ば
囃
し
言
葉
に
な
る
よ
う
に
些
か
状
況
が
異
な
江
戸
語
大
辞
典
の
色
彩
が
濃
く
な
: シ
ベ
リ
ア
原
産
で
ら
れ
る
用
例
で
は
PP. 92-­‐104
童
言
た葉
の
でと
あし
るて
の
意
味
が
強
い
物
に
対
し
て
発
す
る
罵
言
と
い
う
意
味
を
有
し
て
い
る
と
考
え
ら
れ
る
だ
ろ
う
り
は
寧
ろ
)
パ
囃
し
言
葉
と
な
(
ロ
牛
蒡
ヨ
ご
ぼ
う
キ
ク
科
の
二
年
草


らル
いぐ根
らは
で
いま
の
紫
心す
色
臓ぐ
ま
形地
た
で中
は
裏に
白
面の
色
にび
の
は紡
管
白錘
状
色形
花
ので
を
綿長
密
毛さ
生
が〇
し
密・
た
生四
球
す
状
る一
の
メ
頭
夏
花
を
ト
葉
つ
ル
間
け
か
る
根
ら
葉
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根
は
茎
は
長
を
重
柄
の
要
を
ば
な
も
し
野
ち
菜
径
と
長
四
し
さ
セ
て
四
ン
食
〇
チ
用
セ
メ
に
ン
さ
チ
ト
れ
メ
ル
ぐ
漢
ト

江
戸
語
大
辞
典
の
変
化
し
た
語
人
参
ね
ん
じ
ん
き方
すで
は
学煎
名じ
は薬
と
し
て
か
ぜ
Arctium lappa に
ん
じ
ん
▼
ご
ぼ
う
の
花
利
尿
解
毒
薬
に
す
季る
・
夏漢
名
☆
上
略和
漢
思三
う才
に図
会
牛
蒡巻
は十
俗六
に
牛
房
の
字に
をは
用
い次
るの
よ
う
に
記
さ
れ
て
い
る
ね
ん
し
ん
P.361)
巻
十
六
高
価
な
万
能
初
薬
と
人さ
参れ
にた
親
の
秤
の
欲
が
は
ね
1
7
6
5
人
参
に
ん
じ
ん
人
参
(
和
漢
三
才
図
会
P.123
(
) 顔
色
が
白虚
か実
黄を
詳
あつ
るま
いび
はら
)
人
参
ウ
コ
ギ
科
は
薬
の
最
も
大
切
な
も
の
で
)
一
概
に
人
参
の
効
用
に
頼
り
す
ぎ
に
ん
じ
ん
・
ジ
ン
ス
エ
ン
朝
鮮
人
参
)
中
略
に
次
の
よ
う
に
い
う
人
参
*
柳
多
留
(
中釈
略名
・
思発
う明
に
(
大
体
草
部
山
草
類
人
参
)
咳
に
は
ニ
ン
ジ
ン
と
ニ
ン
ニ
ク
の
お
ろ
し
た
も
の
)
中
略
(
民
謡
治
療
本
草
綱
目
→ 長
野
県
で
や
や
も
す
れ
ば
人
参
を
多
用
す
る
も
の
を
称
し
て
人
参
医
師
と
い
う
甘
草
と
効
能
は
同
じ
で
あ
る
→ に
は
か
に
せ
ず
に
(
日
本
俗
信
辞
典
べ青
き黒
でく
あて
る蕉
悴
顔す
色い
が
赤し
あた
るよ
いう
はな
黒人
いは
人
はみ
気な
が脾
壮・
肺
さ・
か腎
んに
で欠
神陥
経が
があ
強る
いの
で
こあ
うる
い
うこ
場う
合い
はう
用場
い合
ては
は人
い参
けを
な用
いい
る
)
と
書
い
て
あ
る
☆
(
に
砂
糖
と
お
湯
を
注
い
で
飲
む
(
百早
人ひ
寄薬
鑵
て天
も窓
出
や
ぬ
く
は
金
ん
な
あ
り
た
ま
三
人
寄
れ
ば
文
1
珠
6て の
5相 知
6談 恵
す
曳れ
言ば
之
話な
ん
三と
た 三
人か
人
よい
寄
れい
ば知
て
文恵
も
珠が
文
の浮
珠
ちか
ゑぶ
の
も
知
の
恵
だ
が
出
と
ず
い
う
こ
と
十
一
丁
裏
・
十
二
丁
表
(P.438)
あ
の
す
智
恵も
さ
チめ
ヱる
に
☆ 三
諺 人
よ
三 つ
人 て
寄 も
れ
も
ば
文 ん
珠 じ
の ゆ
知 の
恵 ち
ゑ
を も
も で
じ ず
モ興
ンも
ジ明
日
凡
人
で
も
三
人
集
ま
ヨ1
レ7
6
ば3
文
殊一
*
俳
諧
・
世
話
尽
七
一
三
人
寄
(
按
に
そ
の
頃
の
は
や
り
う
日
本
文
學
論
究
蟹
が
牛
蒡
挟
ん
だ
て
)
コ
メ
ン
ト
に
も
を
打
ち
ふ
*
談
義
本
・
風
流
志
道
軒
伝
(
蜂 に
屋 次
の
椎 よ
園 う
の に
記
こ さ
の れ
作 て
品 い
に る
関
す
る
か
み
さ
ん
う
ち
童
に
言
葉 か
と
黄 か
表 に
紙 が
ご
ぼ
焼 う
い
た は
牛 さ
蒡 ん
を だ
お
つ か
つ み
け さ
ろ ん
内
ほ に
か か
→ に
お
け
る
☆
中
村
正
明
稗
史
鈔
と
あ
る
よ
う
上
略
二
〇
一
二
年
三
月


にた
に
安お
永ば
・さ
天ま
明内
頃に
のか
流か
行に
りか
歌こ
だん
とぼ
いう
うは
がさ
ん
詳た
細と
はう
不た
明へ
でり
あ此
るう
た
を
と
り
て
書
目
と
せ
し
な
る
へ
し
: さ
る
も
の
十
二
丁
裏
・
十
三
丁
表
PP. 92-­‐104
を
か
け
て
い
る
→ そ
れ
相
当
の
価
値
あ
る
も
の
さ
る
も
の
ま
た
☆ さ
る
猿 も
の
と
あ
ん
な
人
②①
もそ
の
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でな
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こ
とし
か
当る
然べ
のき
こも
との
③
そ
の
よ
う
な
者
163
④
そ
れ
相
当
の
名
声
や
油地
断位
の
で才
き能
なを
い有
人し
て
かい
なる
り人
の
しし
たか
たる
かべ
者き
者

⑤
ぬ
け
め
の
な
い
人
牛
蒡
実
の
漢
名
を
悪
実
と
い
う
う
ま
ふ
ぶ
き
き
た
隣
の
う
ち
よ
り
か
み
さ
ま
う
ち
に
か
蟹
が
桃
を
挟
む
と
知
ら
せ
る
*
黄
表
紙
・
交
古
世
む
か
し
噺
1
7
8
1
上
花
咲
ぢ
ゞ
い
夫
婦
寺
参
り
せ
し
留
守
を
狙
い
庭
の
桃
を
蟹
は
挟
み
に
むも☆ か
か
に
し桃か が
噺・み も
股さ ゝ
・
ん を
も内
は
森
女に
羅
性か さ
亭
ん
の
万
性蟹 だ
宝
器が と
作
に牛 人
の
因蒡 の
黄
む挟 わ
表
こん る
紙
とだ く
か
ち
昔
らと
語
こい 蟹
銚
のう
子
も歌 が
浜
じを も
りも も
に
がじ を
も
挟
産
例
また ん
が
れか だ
あ
た
と
る
の性 人
で的 の
あな 悪
ろ意 口
う味
かを
持 画
芝つ 像
全牛 3
交蒡 0
のと
黄同
表じ
紙よ
う
交に
古
世も
を
烏
い
ひ
く
ろ
め
ん
と
*
談
義
本
・
根
無
草
*
浄
瑠
璃
・
日
本
武
尊
1
吾
7た妻
6奴鑑
3
1
6
7
9
2
0
後
・
二
一
踏
さ
み
れ
殺
共
さ
漢
ん
子
と
蹴
き
上
ぐ
つ
る
足
も
去
彼
奴
サ
も
去
る
も
者
の
に
て
し
詞
を
か
ざ
り
鷺
き
ん
じ
よ
の
こ
ど
も
が
み
て
お
ば
さ
ま
へ
い
ひ
つ
け
る
来
る
折
節
千
五
百
石
の
*
に黄
表
さ紙
る・
ぞ昔
う語
が銚
か子
く浜
れ
い1
る7
に9
ち3
が
い中
な
くか
に
もゑ
ゝも
のん
な
りこ
しの
は事
ちを
うつ
えた
あへ
りき
けい
るて
ゆ
へじ
つ
にふ
かを
さた
もゞ
にし
くに
しき
とた
り
そし
取
る
拙
者
め
で
も
の
も
ゝ
を
は
さ
み
き
り
し
を
ふ
ち
十
三
丁
裏
・
十
四
丁
表
押
す
に
押
さ
れ
ぬ
は
お
家
の
筋
目
御
恩
に
高
下
は
ご
ざ
り
ま
せ
ぬ

し
お
か
ら
押
す
に
押
さ
1
7厳 れ
4と ぬ
8し
て
七存
在
僅す
る
わ事
づ実
かで
あ
三る
人
扶
持
が
れ
声
お
す
に
お
さ
れ
ぬ
し
ど
う
し
よ
う
も
な
い
事
態
で
あ
る
し
わ
が 塩
れ 辛
声 声
御
身
分
様
で
も
つ
な
ぎ
ま
し
た
命
は
一
つ
*
浄
瑠
璃
・
仮
名
手
本
忠
臣
蔵
し
を
か
ら
こ
へ
か
す
れ
た
声


蓼
食
*
俳
諧
・
桜
川
1
6
17
84
2
0秋
二
4
9荻
も
五ま
・た
中し
ほ
三か
味ら
せ声
んか
二伊
挺勢
にの
清浜
元
の則
塩止
辛
声
シ
ホ
カ
ラ
コ
ヱ
も
何
と
や
ら
)
人
の
猿
丸
太
夫
*
滑
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う
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好
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1
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1
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3.4 TRADUZIONE E COMMENTO 1オ Dovete sapere che tutto questo accadde nell'ottavo Mese Kaki del terzo Anno Pescocastano1. La Scimmia trovò per terra un seme di kaki. Questa è una cosa alquanto comune; incredibile è, invece, la polpetta di riso che trovò il Granchio2. E tuttavia poteva essere che fosse caduta dalla scatola per il pranzo3 di qualcuno. I due scambiarono tra di loro polpetta e seme, anche se è strano che il Granchio, il quale era uno che raccattava il cibo anche per strada, desse via la sua polpetta per un seme di kaki. La polpetta, ad ogni modo, poteva essere andata a male...e a ben pensarci la Scimmia gli pareva una che ingurgitava di tutto. 1ウ・2オ Il Granchio era un tipo che si dava un gran daffare: piantò il seme di kaki che aveva scambiato con la Scimmia e questi subito divenne un albero gigante4. All'ottavo anno5 spuntarono frutti a centinaia. "Il seme di kaki che avevo scambiato con te, quest'anno ha dato frutti per la prima volta", disse il Granchio alla Scimmia, e quella andò a vedere. "Io sugli alberi mi arrampico come una scimmia. Te li vado a staccare io", disse, prendendo per sé tutti i frutti buoni e dando al Granchio solo quelli acerbi. (Scimmia:) "Toh, sbucciane uno. Ma non lo sbuccerai mica con le chele, vero?" (Granchio:) "Io non sbuccio coi denti, come fai tu" 1 ottavo Mese...Pescocastano = L'autore gioca con il modo di dire "peschi e castagni tre anni, kaki otto anni" (momo kuri sannen kaki hachinen 桃栗三年柿八年), che fa riferimento al periodo necessario a questi alberi per dare i primi frutti, calcolato dal momento della semina. Inoltre, la parola kaki 柿 ha un'assonanza con la parola giapponese per autunno, aki 秋 (un tempo i mesi dell'anno erano sfasati in avanti, per cui l'ottavo mese corrispondeva non ad agosto, ma a settembre). 2 La Scimmia trovò...il Granchio = Celebre inizio della favola "La battaglia tra la scimmia e il granchio" (Saru Kani Kassen 猿蟹合戦), la cui trama (vedi pp. 3-­‐4) viene seguita senza grossi stravolgimenti fino a 4ウ. 3 scatola per il pranzo = 腰弁当 koshi bentō, veniva portata legata ad altezza delle anche e ne facevano uso soprattutto i samurai di basso rango. [Imm. 1] 4 subito diventò...gigante = In questo caso non è specificato, ma in altre versioni si spiega che il granchio intima all'albero di crescere e dare frutti in fretta, minacciando di tagliarlo, con una filastrocca che Yanagita Kunio fa risalire alla tradizione del narikizeme 成木責め. Quest'ultima era un tempo diffusa in tutti i villaggi rurali del Giappone ed era una cerimonia che si consumava il quindicesimo giorno del primo mese dell'anno (detto koshōgatsu 小正月), durante la quale si battevano gli alberi di kaki e altri frutti con un'accetta o un bastone cerimoniale per far promettere un abbondante raccolto autunnale. [Nihon daihyakka zensho (Nipponica)] 5 All'ottavo anno = Vedi nota 1. 167
2ウ・3オ Non c'è lettore in tutto il Giappone che non sappia come sono andate le cose6: la Scimmia non solo diede al Granchio i kaki acerbi, ma glieli lanciò contro all'impazzata, tanto che gli frantumò il guscio. In seguito a ciò il Granchio si ammalò gravemente e così i suoi amici più cari vennero a trovarlo. La compagnia così radunatasi in questo frangente non era di questo mondo...era un gruppo di amici affatto particolare: il Granchio stava con il Mortaio, il Pestello7, e si frequentava con l'Ape e altri. A voler diffidare sembrerà una frottola, ma è una storia di anziani di 350 anni ed erano tutti in rapporti molto stretti. In questo periodo il Granchio era visto come un amante del lusso e si distendeva anche sul poggiagomiti8. I granchi di oggi un poggiagomiti non l'hanno mai visto; ma i granchi di un tempo non avranno mai visto un tavolino cinese9. (Ape:) "E' arrivato qualcuno" Il Mortaio e il Pestello vennero a fargli visita in coppia -­‐i due erano inseparabili come fratelli. 6 Non c'è lettore...le cose = Nonostante non si possa sapere cosa circolasse fuori dai grandi centri urbani, si può tuttavia pensare che almeno in quest'ultimi la trama fosse conosciuta dalla maggior parte della popolazione, dal momento che, nei 70 anni prima della pubblicazione dell'opera qui presentata, questa favola era stata già stampata o ripresa in una ventina di opere tra Edo e Kamigata (vedi tabella 1, capitolo 2, p. 46). 7 il Mortaio, il Pestello = Rispettivamente usu 臼 e kine 杵 , utensili usati fin dall'antichità nella preaprazione del mochi 餅 , la pasta prodotta dal riso cotto e pestato. Nel testo non è specificato, ma dall'immagine si capisce che si tratta di un mortaio "a pesto" (tsukiusu 搗臼 o tachiusu 立臼 ) e non a macina (hikiusu 挽臼 o ishiusu 石臼 ), com'è in altre versioni. [Imm. 2] 8 poggiagomiti = 脇息 kyōsoku. Nell'iconografia giapponese, gli ammalati solitamente vengono disegnati con i gomiti appoggiati su questo piccolo tavolino, talvolta con una striscia di stoffa di colore viola (hachimaki 鉢巻) a cingere il capo. [Imm. 3] 9 tavolino cinese = 唐机 tōzukue. Piccolo tavolo di foggia cinese costruito con legno di sandalo rosso, il quale cominciò a diffondersi nelle case dei letterati proprio in quegli anni. L'autore gioca con le mode del tempo: i normali granchi che tutti conoscono non possiedono né case né mobilia, ma il granchio antromorfizzato di questa storia, per forza di cose, non poteva essere così al passo coi tempi da conoscere le ultime novità in fatto di design. [Imm. 4] 168
3ウ・4オ Il Granchio, anche se si riprese del tutto dalla malattia, era comunque stizzito dalla faccenda e voleva vendicarsi. Chiamò a raccolta i suoi amici e si consultò con loro: "Che ne dite se facciamo venire Scimmia con un inganno? Non appena si avvicinerà al focolare10 Castagna e Uovo balzeranno fuori11 e lei si ustionerà; quando poi affonderà le mani nel nukamiso12 ci sarà dentro il pungiglione di Ape13. Sarà così presa alla sprovvista da non aver fegato di restare, e quando cercherà di scappare scivolerà su Stercodivacca e Algadimare14, quindi Mortaio cadrà di piombo dall'alto e Pestello le spaccherà la testa. Facendo così la sistemiamo per bene!". Era un piano tanto ardito da mettere in ombra persino Honzō e Yuranosuke15. (Ape:) "Quando mangio molto mi scappa tanto la pipì" (Pestello:) "Vorrei poter disporre di un po' della tua pipì16. Ci faccio qualche pasticca medicinale17" Anche se tutti si scaldano per questa causa, da scaldato il granchio è proprio il più buono18. 10 focolare = Si tratta dello irori 囲炉裏, la buca al centro della stanza principale della casa giapponese riempita di cenere dove si accendeva il fuoco per riscaldare l'ambiente e per cucinare. 11 Castagna e Uovo...fuori = Si è tralasciato, dato sottinteso, che i due si saranno nascosti sotto la cenere. 12 nukamiso = (糠味噌) impasto di crusca di riso e acqua salata lasciato fermentare, usato oggi per conservare le verdure in salamoia (tsukemono 漬け物).Viene tuttora tenuto in un luogo fresco della casa, per questo la scimmia lo ricerca per alleviare il dolore dell'ustione. Nello Zusetsu Edo ryōri jiten si legge inoltre che in periodo Tokugawa vi erano molti modi di prepararlo e veniva usato tanto quanto il normale miso 味噌 (elemento fondamentale della cucina giapponese; impasto di semi di soia, orzo e riso). 13pungiglione di Ape = In realtà non è specificato se si tratta del pungiglione dell'ape o di un semplice ago, presente in altre versioni della favola. Si è scelta la prima possibilità per una maggiore coerenza al testo che precede. 14 Stercodivacca e Algadimare = Come nel caso dell'uovo e della castagna, anche per l'escremento di mucca e l'arame 荒布(Eisenia bicyclis, alga marina commestibile di colore marrone scuro che cresce a media profondità lungo le coste giapponesi), ma che veniva anche usata come detergente per il bucato. 15 Honzō e Yuranosuke = Personaggi del dramma per burattini (jōruri 浄瑠璃) Kanadehon Chūshingura 仮名手本
忠臣蔵, andato in scena per la prima volta nel 1748 al teatro Takemotoza di Ōsaka e ripreso poi anche dal teatro kabuki 歌舞伎. Basato su un fatto realmente accaduto 46 anni prima, il dramma narra la vicenda di 47 samurai rimasti senza padrone dopo che a quest'ultimo era stato imposto il suicidio rituale (seppuku 切腹) per aver attentato alla vita del reggente Kō no Moronao. Ōboshi Yuranosuke è colui che ideerà e organizzerà il piano di vendetta nei confronti del malefico reggente, mentre Kakogawa Honzō, nonostante non prenderà parte all'attacco finale in quanto rimane ucciso anzitempo, riesce a fornire agli altri samurai la mappa della residenza di Moronao, essenziale per l'offensiva a sorpresa. [Chushingura: The treasury of loyal retainers] 16 pipì = Una volta si riteneva che il miele fosse l'urina delle api. [Wakan Sansai Zue, voce 'ape' hachi 蜂] 17 pasticca medicinale = Dette neriyaku (o anche nerigusuri 練薬), si ottenevano mescolando il farmaco in polvere con del miele o dello sciroppo d'amido, poi fatti solidificare. Nel testo cinese di erboristeria Honzō kōmoku 本草
綱目 del 1596 (redatto dal medico Li Shi-­‐Chen 李時珍) si legge che, essendo di carattere neutro (né freddo né secco), era un ottimo rimedio per qualsiasi malattia dei dodici organi interni. [Wakan Sansai Zue, voce 'miele' mitsu 蜜] 18 Anche se tutti...buono = Nell'originale in questo commento vi è un gioco di parole tra l'espressione "prendersi cura di qualcuno" (sewa wo yaku 世話を焼く, che letteralmente si può tradurre "arrostire aiuto") e il fatto che al tempo il granchio si mangiava arrosto (yakigani 焼蟹). 169
4ウ・5オ Alla scimmia, da parte del Granchio, era stato detto: "Vieni stasera che ti devo parlare", e quella era in trepidazione19 dal pomeriggio; non si sognava nemmeno che dietro c'era un complotto. Dava mostra di essere molto astuta, ma si atteggiava solo come tale -­‐da qui viene l'espressione "scimmiottare"20 . In quel mentre arrivò la Medusa. Gli antenati dei due si conoscevano bene: per colpa di una scimmia, una medusa aveva commesso un errore madornale in passato21. Come il padre, anche il figlio Medusa era un pettegolo. Aveva carpito dalle parole scivolate di bocca a quel tipaccio, Algadimare, di un qualche attacco a tradimento ai danni della scimmia di questa storia, ed era accorsa subito dal Palazzo del Re Dragone su una barca a remi22. Quando glielo spiegò, alla Scimmia prese un tale colpo che si sentì il fegato spappolarsi23. Da questo si capisce bene come le scimmie siano deboli di fegato24. 19 era in trepidazione = Perchè pensava di approfittare della visita per rubare altri kaki. 20 "scimmiottare" = In giapponese l'atteggiamento di chi, con presunzione, fa mostra di essere più scaltro di quello che è in realtà si dice, traducendo letteralmente, "astuzia di scimmia" (sarurikō 猿利口). 21 Gli antenati...in passato = Si fa riferimento alla favola intitolata "Il fegato della scimmia" (Saru no ikigimo 猿の
生き肝), anche detta "La medusa senz'ossa" (Kurage no honenashi 海月の骨なし): per salvare la figlia del Re Dragone, in fin di vita, la tartaruga viene mandata a recuperare una scimmia dalla terraferma per poterne estrarre, ancora in vita, il fegato e somministrarlo alla malata. La tartaruga riesce ad attirare una scimmia con l'inganno, la fa salire sul proprio guscio e la trasporta fino al Palazzo Sottomarino del Re Dragone. Mentre attende di essere ricevuta fuori dai cancelli del palazzo, la scimmia viene tuttavia informata dalla medusa che stava di guardia sulla verra motivazione per la quale sia stata condotta lì; non appena la tartaruga torna a prenderla per condurla all'interno, la scimmia si mostra spiaciuta, confessando di aver dimenticato, nella fretta della partenza, il suo fegato su di un albero. Viene, dunque, ricondotta a terra, dove senza attendere attimo fugge per non mostrarsi mai più. Accecato dall'ira, il Re Dragone scaglierà un macigno addosso alla tartaruga distruggendolo -­‐da qui l'origine del carapace a scudi-­‐ ed estrarrà la spina dorsale alla medusa -­‐messa al bando dal Palazzo Sottomarino e costretta a galleggiare in eterno sulla cresta delle onde [Nihon mukashibanashi jiten, p.293]. È curioso notare come in quest'opera la medusa viva ancora sotto le acque, nonostante la storia sia ambientata successivamente alla favola appena descritta. 22 barca a remi = 押送(船) oshiokuri(bune), piccola imbarcazione veloce senza vele, usata per la pronta consegna del pesce fresco al mercato. [Imm. 5] 23 sentì il fegato spappolarsi = In giapponese, l'espressione "stritolarsi il fegato" (kimo wo tsubusu 胆を潰す ) indica una reazione improvvisa e violenta di stupore, uno spaventarsi a morte. L'espressione è presente anche in 3ウ・4オ, ma si è lì preferito tradurre in maniera diversa ("non avrà fegato di restare") al fine di una lettura più scorrevole. 24 si capisce bene...di fegato = Letteralmente, "si capisce bene come alle scimmie succedano brutte cose al fegato". Riferimento alla favola "Il fegato della scimmia" (vedi nota precedente). 170
5ウ La Scimmia rimase atterrita dalle parole della Medusa e, con moglie e figlia, tutti e tre scapparono in segreto facendo fagotto di questo e quest'altro, perfino di oggetti inutili. È questo quello che oggi si suol dire un "fagotto da scimmia domesticata" per indicare un'accozzaglia confusa e disordinata25 . Pur fuggendo di nascosto, in un altro luogo non avrebbero avuto di che guadagnarsi da vivere; comunque fosse, si resero conto che Edo26 sarebbe andata bene e senza avere nemmeno una meta precisa lasciarono il loro paese natio. (papà Scimmia:) "Se ti senti affaticata, bevi almeno dell'acqua sorgiva"27 6オ Genitori e figlia si stabilirono a Edo, ma non era detto che, siccome era una località molto popolosa, non venisse nessuno a cercarli. Se li avessero trovati sarebbe stata la fine. «Anche in passato c'è stato il caso dell'uomo di nome Sajibei che girando per lo Shikoku28 è diventato una scimmia29. Andando in giro allo stesso modo forse mi trasformerò in un uomo», pensò la Scimmia; affidò alla moglie la figlia, si fece pellegrino30 e partì...fu (un momento) commovente. (mamma Scimmia:) "Bu-­‐huu...bu-­‐huu...bu-­‐huu" (papà Scimmia:) "Crescila in modo che non si faccia del male" 25 "fagotto da...e disordinata = "Fagotto da scimmia domesticata" traduce il giapponese saru hikidōgu 猿引道具, che in periodo Tokugawa indicava la saccoccia portata sui fianchi dagli ammaestratori di scimmie girovaghi (saruhiki 猿曵 o sarumawashi 猿回し) contenente, appunto, gli strumenti per gli spettacoli di strada; derivante da questo, vi era un secondo significato di "insieme di oggetti alla rinfusa". Qui l'autore usa giocosamente il termine riferito agli affetti personali della scimmia radunati in fretta e furia prima della fuga. 26 Edo = Nome della città di Tōkyō fino al 1868. 27 "Se ti senti...acqua sorgiva" = Forse un riferimento a un'altra opera di Kiyonaga di quattro anni prima, Shikokuzaru gonichi no kyokuba 四国猿後日曲馬. Nel quinto chō(r) vi è infatti una simile composizione dell'immagine e anche la battuta sotto la parte narrativa ricorda quella di questo kibyōshi: "Se ti senti affaticato, datevi il cambio [sul cavallo]" (Kutabiretara kaharishi ni norinasai くたびれたらかはりかはりにのりなさい). [Imm.6] 28 Shikoku = Una delle quattro regioni del Giappone, isola situata nel Mare Interno di Seto tra le regioni dello Honshū e del Kyūshū. 29 il caso dell'uomo...una scimmia = Alla trama di questo racconto non si può aggiungere molto: si sa solo che era una "canzone numerata" (kazoe uta 数歌, ovvero una filastrocca in cui ogni strofa comincia con un numero progressivo) che andava di moda almeno dal 1776, ripresa e ampliata negli anni successivi in altre opere letterarie. 30 pellegrino = 巡礼 junrei, persone che giravano per i templi e i luoghi sacri del paese; vi era anche un famoso tipo di pellegrinaggio che contemplavala visita a 88 luoghi spirituali dello Shikoku (vedi nota 28), detto appunto Shikoku junrei 四国巡礼. 171
6ウ・7オ Fin dai tempi antichi, si è creduto che il Granchio si sia vendicato della Scimmia, ma è un grosso malinteso31. La scimmia scappò via di nascosto e il Granchio era sempre più seccato. Andava in giro a cercarla di qua e di là, ma poichè a differenza delle persone camminava lateralmente, la ricerca non andava molto avanti. Dal momento che tutti ragionano allo stesso modo, prima di tutto si risolse d'andare a Edo, e andò a far visita all'Anguilla. (Anguilla:) "Prego, accomodati e lavati i piedi di sotto32" La moglie di Anguilla, Alice33. 7ウ・8オ L'Anguilla viveva in una bella dimora nei pressi del deposito di legnami di Fukagawa34 e, come ci si potrebbe aspettare, era molto influente. Dapprincipio era stato un tipo sfuggevole ed evasivo, ma a Fukagawa aveva assunto un ruolo importante ed era diventato un campione di bontà35. Visto che il Granchio era venuto a fare domande, comprese tutta la situazione; siccome era molto amico della Tartaruga che stava al Ponte Millenario36 la mandò a chiamare 31 fin dai tempi...malinteso = L'autore fa un ulteriore commento riguardo alle conoscenze del lettore: se prima (2
ウ・3オ) però aveva confermato lo svolgimento dei fatti descritto nella versione della favola riconosciuta da tutti, qui interviene per richiamare l'attenzione sullo sviluppo affatto nuovo che ha ormai già intrapreso la vicenda. 32 lavati i piedi di sotto = Era usanza comune far lavare i piedi all'ospite appena arrivato. Con "piedi di sotto" qui si intendono quelli "umani" posseduti dal Granchio nella sua resa grafica antropomorfizzata. 33 Alice = Nell'originale la moglie non è un'alice, bensì un altro pesce di fiume, un ghiozzo (haze); tuttavia, si gioca anche sul nome del pesce in giapponese rendendolo simile a un nome di donna tramite il prefisso "o" (Ohaze), e qui si è preferita, alla coerenza, una più libera resa linguistica che restituisca almeno in parte il gioco di parole dell'autore. [Imm.7] 34 L'Anguilla viveva...di Fukagawa = Fukagawa 深川 è tuttora un quartiere della città di Tōkyō (oggi si trova incluso nel distretto di Etō); prima dell'opera di bonifica operata da Fukagawa Hachirōemon nei primi anni del 1600 era un'area paludosa limitrofa al delta del fiume Sumida, ma è andata poi sviluppandosi sempre più, dapprincipio in quanto zona adiacente al tempio shintō Tomioka Hachiman. Famosi a Fukagawa erano il quartiere di piacere (fiorente negli anni contemporanei a quest'opera), le locande specializzate in anguilla grigliata (vedi nota successiva) e il deposito di legname. Quest'ultimo è stato costruito all'inizio del 1700 ed era considerato il più importante di tutto il paese. [Imm.8-­‐9-­‐16] 35 pezzo grosso...campione di bontà = Nel sesto volume della corografia di Kikuoka Tenryō Edo no sunago (1732) si legge che i prodotti tipici venduti davanti al tempio Hachiman di Fukagawa durante il periodo Kyōho (1716-­‐
1736) erano anguilla, ostriche e hamaguri (tipo di vongola). Si crede che le anguille venissero pescate copiosamente sull'Onagigawa e poi vendute a Fukagawa; col tempo, l'anguilla cotta alla kabayaki 蒲焼 (ovvero grigliata infilzata in uno o più stecchini dopo esser stata cotta a vapore e ricoperta di salsa a base di soia), finì col diventare la specialità della zona [Edo Fukagawa jōcho no kenkyū, p. 149]. [Imm.10] 36 molto amico della... Ponte Millenario = O, meglio, Ponte dei Diecimila Anni (Mannenbashi 万年橋), il numero associato alla tartaruga nella tradizione giapponese e, prima di questa, cinese. È il primo ponte che si incontra sul fiume Onagi proveniendo dal Sumidagawa ed inoltrandosi verso Fukagawa. Verso la metà dell'ottavo mese dell'anno (vedi nota 1) su questo ponte si radunavano i venditori di tartarughe, anguille e piccoli uccelli da 172
ed insieme ascoltarono i dettagli della vicenda del Granchio. "Certo che se Mortaio, Pestello e persino Stercodivacca, se la sono subito presa a cuore a quel modo, deve esserci proprio del risentimento nei confronti di Scimmia!" , "Il guscio del vecchio ancora oggi gli duole in pieno inverno37. Facciamolo vendicare, ad ogni costo!", i due offrivano il loro aiuto. (Granchio:) "Io quando bevo un po' divento rosso38, ma lei, Sig. Tartaruga, di certo vorrà favorire ancora, no?" (Alice:) "Perchè non prendiamo almeno della zaru soba di Susaki39?" (Anguilla:) "Ultimamente cosa ne pensate di Masusō40?" (Tartaruga:) "Incredibile..." 8ウ・9オ La Scimmia aveva lasciato a Edo figlia e moglie. Quest'ultima era una gran lavoratrice: lavava, faceva il bucato, educava la figlia e, chiedendo aiuto a qualcuno, aveva preso in affitto una casa nell'ottavo chō di Yonezawa, nella zona di Ryōgoku41. In quei pressi vi erano geisha42 offrire al vicino tempio Hachiman il quindicesimo giorno del mese nella cerimonia dello hōjōe: tramite la liberazione di piccoli animale si esprimeva la propria gratituidine a Buddha e divinità e si guadagnavano meriti per assicurarsi una buona rinascita nella vita successiva. [Imm.11-­‐12-­‐13-­‐16] 37 pieno inverno = Nell'originale si parla di doyōkan 土用寒, ovvero dei diciotto giorni prima dell'inizio della primavera, considerati il periodo più freddo dell'anno. 38 "Io quando bevo...divento rosso" = Battuta che si trova anche in altri kibyōshi, detta da cose o animali rossi antromorfizzati. 39 zaru soba di Susaki = Con zaru soba 笊蕎麦 si intendono gli spaghettini di grano saraceno (soba) serviti su di un cesto di bambù (zaru) usato per scolare l'acqua versata per raffreddarli eventualmente rimasta. Susaki era una località nella zona di Fukagawa divenuta vivace a partire dal 1701, anno di costruzione del tempio Susaki no benten. I negozi che vendevano soba divennero molto popolari nell'era Tenmei [Edo Fukagawa jōcho no kenkyū, p. 149, 155]. In particolare, con "Susaki no zaru soba" si indicava quella della locanda Iseya 伊勢屋, la quale sembra sia stata la prima tra quelle di Edo ad introdurre l'uso del zaru [Soba zensho, p.29]. [Imm.14-­‐15-­‐16] 40Masusō = Forse un'abbreviazione di Masuya Sōsuke 升屋宗助 (rinominatosi in seguito Shukuami 祝阿彌), il proprietario e fondatore della locanda omonima (Masuya 升屋, anche se in alcuni testi la lettura dei caratteri viene data come Shōoku) che si trovava a Susaki. Aperta nell'era Meiwa (1764-­‐1772), acquisì enorme popolarità tra le successive ere An'ei e Tenmei non solo per la bontà delle pietanze che venivano servite, ma anche per il gusto raffinato con cui marito e moglie, la quale aiutava nella gestione insieme alla figlia, avevano arredato l'abitazione che forniva da locale. 41 ottavo chō...di Ryōgoku = Ryōgoku 両国 è tuttora un quartiere di Tōkyō famoso al tempo per i piccoli teatri ed i ristoranti, nonché per i fuochi d'artificio che si tenevano sul fiume Sumida. Chō indica il rione, ma è opportuno notare che la zona di Yonezawa, in realtà, era divisa solamente in tre rioni. Probabilmente vi è un gioco di parole con il termine chō 丁, che veniva anche usato per contare le pagine dei libri: la scena si svolge, infatti, sul retro dell'ottava pagina. [Imm.17] 173
meravigliose e lei provava invidia a vedere queste che andavano un giorno in una villa e il giorno dopo in giro in barca, che cambiavano e si scambiavano lunghi furisode43, pettini44 dalla costola d'argento, ornamenti per capelli a forma di stuzzicadente fatti di carapace di tartaruga45 grandi come bicolli46. Essendo di parte, come qualsiasi genitore, considerava la figlia al pari degli esseri umani: le fece imparare la danza, anche se non nello stile di Fujima o Nakamura47, e la faceva esercitare per cominciare a mandarla nelle scuderie48 -­‐al posto delle ville-­‐ e sulle barche per le escursioni49. (Maestro:) "《Il venditore d'olio aveva una figlia, Osome》50...ragazza, non cadere!"
42 geisha = Il termine, in periodo Tokugawa, indicava con accezione diversa da quella odierna non le cortugiane, bensì artisti (indiscriminatamente uomini o donne) che per intrattenimento esercitavano la propria arte -­‐fosse questa musica, canto o danza-­‐ nelle case o sulle barche di chi ne facevano richiesta. 43 lunghi furisode = 大振袖 ōfurisode, kimono dalle lunghe maniche (potevano superare i 95 cm) indossato soprattutto da giovani ragazze. [Imm.18] 44 pettini = Facevano parte degli ornamenti, detti in generale kanzashi 簪, usati nelle sofisticate acconciature femminili del tempo. [Imm.19] 45 ornamenti per capelli = Qui si parla di kōgai 笄 (e in particolare di yōjikōgai 楊枝笄, kōgai a forma di stuzzicadente) listarelle che potevano anche essere d'oro, d'argento, di cristallo o d'avorio, che si infilavano negli chignon in modo che uscissero dai capelli in ugual misura. Con "carapace di tartaruga" si intende nello specifico quello della Eretmochelys imbricata, materiale detto in giapponese bekkō 鼈甲 e utilizzato per fabbricare appunto kōgai, pettini e occhiali. [Imm.20] 46bicolli = 天秤棒 tenbinbō, bastoni portati appoggiati a una spalla, alle cui estremità venivano caricati i pesi da trasportare. [Imm.21] 47 stile di Fujima o Nakamura = Due stili di danza in voga all'epoca, il primo inauguaro nel primo decennio del 1700 da Fujima Kanpei, il secondo intrapreso da Nakamura Yahachi nella seconda metà dello stesso secolo. 48 scuderie = Era credenza diffusa che le scimmie fossero protettrici dei cavalli, che ne allontanassero le malattie e ne assicurassero parti sicuri. Era auspicabile allevarne una in prossimità delle stalle di bovi e cavalli, ma se questo non era possibile, soprattutto nei grandi centri urbani, si faceva venire uno saruhiki (vedi nota 25) solo per il primo giorno dell'anno. Un'usanza rimasta nelle campagne giapponesi fino a tempi recenti prevedeva di appendere sulla facciata o sul tetto delle stalle una scatola contenente un teschio di scimmia (usanza la cui testimonianza la cui descrizione si trova anche in antichi documenti cinesi) [Nihon zokushin jiten, p.298]. Per questo motivo, la scimmia era anche chiamata "padre della montagna" (yama no chichi 山の父) e il cavallo "figlio della montagna" (yama no ko 山の子) [Kinmō zui taisei, vol. 10, 27(v)]. [Imm.22-­‐23] 49 barche per le escursioni = 舟遊山 funayusan. È ironico che nonostante su queste barche, sulle quali si poteva assistere a svariate tipologie di spettacoli, fossero presenti anche delle vere geisha, spesso vi si trovavano anche delle scimmiette ammaestrate, adibite al divertimento del pubblico. Anche se per la madre scimmia la figlia non ha nulla da invidiare agli esseri umani, il futuro impiego di quest'ultima è molto probabilmente più vicino allo spettacolo da baraccone, che alla vera arte. [Imm. 24] 50 《Il venditore...Osome》= Si tratta forse di un verso di una danza in voga all'epoca. La storia d'amore tra la figlia di un venditore d'olio di Ōsaka, Osome お染, e il garzone del negozio, Hisamatsu 久松, finita tragicamente con il suicidio dei due giovani, basata su un fatto di cronaca accaduto -­‐si crede-­‐ nel 1710, aveva ispirato lungo tutto il diciottesimo secolo svariate opere di teatro kabuki e jōruri. Proprio l'anno precedente quello della composizione del testo qui proposto ne era stata messa in scena una nuova versione per burattini, scritta da Chikamatsu Hanji 近松半二, intitolata Shinpan utazaimon 新版歌祭文, la quale ebbe un grande successo. 174
9ウ・10オ La figlia della Scimmia, in qualche modo riuscì a diventare una geisha, guadagnava soldi sulle barche usate per prendere il fresco d'estate51 e faceva vivere fra gli agi la madre, la quale se ne rallegrava: "Piuttosto di un figlio maschio è meglio una figlia!". Il Granchio voleva ritrovare la Scimmia, ma non aveva alcuna traccia da seguire. Venne consigliato dalla Tartaruga di andare a prendere il fresco su una barca; quella lo fece montare in groppa ed insieme uscirono. La Tartaruga un tempo aveva fatto salire sul suo guscio una scimmia, stavolta fa salire un granchio. Il fato è cosa invero curiosa52. (Tartaruga:) "Capo53, guarda la Yoshino54, ce n'è una bella55" 10ウ Il Granchio era andato a prendere il fresco su una barca, vide la danza della Scimmia e pensò: «Anche se tra genitori e figli c'è una differenza d'età considerevole, il viso è sempre quello. Vuoi vedere che è la figlia del mio nemico?». Sbarcò a Ryōgoku e, con l'intento di seguirla fino a casa, faceva avanti e indietro lungo il muro in pietra della Riva Manabe56, aspettandola. La barca arrivò al Ponte dei Salici57 e la mamma Scimmia uscì per andare incontro alla figlia che stavano riportando a casa. Poichè appena ne vide il volto riconobbe la moglie del nemico, il Granchio diventò tutto contento e tornò alla casa dell'Anguilla. (Pescatore:) "Questa barca coperta? Ci lavora una ragazza del proprietario" 51 barche usate...d'estate = 涼み船 suzumibune, barche coperte al centro da un tetto usate d'estate per poter godere di un po' di fresco sulle acque del fiume Sumida o di altri. [Imm. 25] 52 La Tartaruga un tempo...invero curiosa = Riferimento alla favola "Il fegato della scimmia" (vedi nota 21). [Imm. 26] 53 Capo = Nel testo sensei 先生, letteralmente significa "maestro", si usa ancora ancora oggi quando ci si rivolge a insegnanti e medici, ma anche, in tono scherzoso, ai propri amici. 54 Yoshino = Si tratta della Yoshino Maru 吉野丸, la più grande delle navi adibite ai divertimenti dell'epoca. [Imm. 27] 55 ce n'è una bella = Forse un riferimento un'attrazione presente sulla Yoshino Maru. 56 Riva Manabe = Manabegashi 間部河岸, così veniva chiamato il tratto di riva del fiume Sumida che dal Ponte Ryōgoku si estendeva a sud passando per il Ponte dei Salici. [Imm.17-­‐28] 57 Ponte dei Salici = Yanagibashi 柳橋, si trova sul fiume Kanda poco prima che questi sfoci nel fiume Sumida. Era punto di imbarco e sbarco per le molte barche che si recavano a Fukagawa e al quartiere di piacere Yoshiwara 吉
原, situato più a nord in quello che oggi è il quartiere Asakusa 浅草. [Imm.28] 175
11オ Si dice spesso che il granchio si scava la tana della grandezza del proprio guscio58. Avendo riconosciuto il volto della figlia, il Granchio capì dove si trovavano i genitori Scimmia; ritornò all'abitazione dell'Anguilla e anche se voleva vendicarsi, essendo la Scimmia una specialista di arrampicate come di arrabbiature59, non se la sarebbe cavata troppo facilmente... Si consultò con gli altri sul da farsi: "Le scimmie fin dall'antichità hanno il sedere grosso e tutto rosso: arroventiamo una bardana60 e ficchiamogliela dentro!61", disse qualcuno, ma nessuno aveva mai cotto una bardana, nemmeno in cucina. Il ginseng invece l'avevano cotto, come medicina per la tosse62. (Granchio:) " Se lei graffia, io la sforbicio per bene" 58 Si dice spesso...guscio = Il proverbio (kani wa kōra ni nisete ana wo horu 蟹は甲羅に似せて穴を掘る) vuol dire che ognuno agisce sempre secondo la propria natura. Non centra molto con il testo che segue, ma spesso nei kibyōshi vi erano battute e dialoghi inseriti solamente per il gusto del gioco linguistico. 59 specialista di...arrabbiature = In giapponese "arrampicarsi sugli alberi" e "infuriata, arrabbiatura" possono essere espressi, come in questo caso, con due termini che hanno la stessa pronuncia (ki nobori, i cui caratteri sono nel primo caso 木登り, nel secondo 気上り). 60 bardana = 牛蒡 gobō, pianta della famiglia delle Asteraceae importata in Giappone dalla Cina nell'antichità. La radice, che può avere una lunghezza variabile tra i 40 e i 100 cm, viene molto utilizzata nella cucina nipponica. In senso metaforico, può indicare il membro maschile (nelle filastrocche è implicito questo doppio senso). [Imm.29] 61 Le scimmie fin...dentro! = "La scimmia ha il sedere tutto rosso, arroventiamo una bardana e ficchiamogliela dentro!" (saru ga shiri wa makkai na, gobō yaite ottsukero 猿が尻は真っ赤いな、牛蒡焼いて押っ付けろ) è una strofa che si ritrova molto spesso nei kusazōshi che abbiano per protagonista una scimmia; deve, quindi, appartenere a una filastrocca molto diffusa che, in periodo Tokugawa, era ormai riconosciuta da tutti. 62 Il ginseng...per la tosse = Tra le varie proprietà benefiche e curative attribuite al ginseng, si credeva anche che potesse guarire la tosse. 176
11ウ・12オ Di solito più teste ragionano meglio di una, ma anche se il Granchio era riuscito a metterne insieme tre, non riuscivano a cavare un granchio dal buco63. Pensavano che una bardana nel sedere di una scimmia, mah, fosse di per sé detestabile; anche arrovellandosi a lungo sulla cottura, non sapevano proprio come fare. Il Granchio prese una bardana cruda e si mise ad aspettare sulla soglia di casa delle Scimmie; lo videro una moltitudine di bambini e lo canzonarono così: "La signora è in casa? Il Granchio ha pinzato una bardana!64". Dopo questo fatto, quando si dice "Il Granchio ha pinzato una bardana" suona come una bella cattiveria65, ma la realtà è che si stava avvisando la signora dicendole "Attenta!". Così sembra una spiegazione plausibile. (Bambini:) "La signora è in casa? Il Granchio ha pinzato una bardana!" (Bambini:) "La signora è in casa?" 12ウ・13オ La moglie della Scimmia si rese conto che davanti casa c'era il Granchio, lo fece entrare e gli parlò della situazione del marito: "A causa dei ripetuti errori persino noi due ci siamo dovuti separare, e nostra figlia l'ho cresciuta io. Risparmialo per noi due, ti prego con tutto il cuore, perdona mio marito!"...si lavorava il Granchio con tutte le sue forze: la donna, per scimmia che sia, vince il Diavolo in furberia66. Il Granchio ascoltò le varie peripezie e anche se la cosa lo seccava, disse: "Che abbia abbandonato una figlia così carina e sia scappato via, è successo 63 Di solito più teste...dal buco = Nell'originale si gioca sulla semplice negazione di un proverbio che tradotto letteralmente suona così: "Mettendo insieme tre teste, ne esce la saggezza di Monju (bodhisattva che amministra le conoscenze dei vari buddha)" ed è simile, per significato, al nostro "Due teste ragionano meglio di una". 64 "La signora è in casa?...bardana!" = Di questa filastrocca si sa solo che era molto cantata dai bambini negli anni immediatamente precedenti e successivi a quelli di composizione di quest'opera. Si pensa che sia nata unendo il granchio de "La battaglia tra la scimmia e il granchio" e la bardana della filastrocca presentata alla nota 61. 65 una bella cattiveria = Per via del significato metaforico della bardana (vedi ntoa 60). 66 La donna, per...in furberia = Letteralmente, nell'originale: "Questa donna è una persona (mono もの) di questo genere (saru さる)"; oltre al significato veicolato da questa prima lettura ve ne sono altre due che giocano sulle parole saru e sarumono: saru, oltre a "di questo tipo, genere"(然る), significa anche "scimmia"(猿) e sarumono (然る者) in periodo Tokugawa poteva voler dire "persona scaltra". 177
perchè ci conoscevamo bene67. Perciò, non appena sarà tornato a casa, ci farò la pace." Madre e figlia se ne rallegrarono e da quel giorno divennero grandi amici. Il Granchio pinzò una bardana. Nei pettegolezzi della gente si dice che il Granchio abbia pinzato una pesca68, ma se questo sia vero o no non si può sapere. 13ウ・14オ Non ci si può sempre opporre al corso degli eventi69. La Scimmia girò per lo Shikoku e divenne un umano; sarebbe dovuta subito andare a trovare moglie e figlia, ma sentì del comportamento del Granchio. Mascherò casa e costumi adeguandoli a quelli degli umani, e anche se aveva la voce rauca quando si sforzava un poco di fare uscire la voce era un artista sufficientemente ammirevole. Decise di farsi chiamare Maru Dayū e, anche se non era cosciente della scelta fatta, è divertente che così divenne la Scimmia Maru Dayū70. Tutti i gusti son gusti: c'è chi ha tanto lavoro perchè è abile nelle arti e c'è chi va di moda non perchè è bravo, ma perchè è buffo. È la stessa ragione per cui c'è chi riesce a vendersi perchè è bello e chi perchè è grassoccio. (Cliente:) "Hai proprio una faccia di sbronzo71" (Scimmia:) "Mi ubriaco anche solo col sakè sfumato nei cibi" (Cameriera:) "Non sa proprio tenere la bocca chiusa..." 67 perchè ci conoscevamo bene = All'inizio di questa storia non è specificato, ma in altre opere che trattano la stessa favola si trova che il granchio e la scimmia, prima di fare i rispettivi ritrovamenti, stanno amichevolmente passeggiando in compagnia. 68 Nei pettegolezzi...una pesca = In altre opere contemporanee a questa che parlano anche di granchi si ritrova questo motivo del granchio che ruba pesche dal giardino di qualcun'altro, ma non si sa da dove questo abbia avuto origine. [Imm.30] 69 Non ci si può...degli eventi = L'espressione giapponese (osu ni osarenu 押すに押されぬ) tradotta letteralmente, vuol dire: "(Provando) a spingere, non si riesce a spingere". 70 Scimmia Maru Dayū = Ovvero, Saru Maru Dayū 猿丸大夫, lo stesso nome del leggendario poeta giapponese che si pensa sia vissuto alla fine del periodo Nara (710-­‐784) o all'inizio del periodo Heian (794-­‐1192). È annoverato tra i 36 Grandi Poeti di Waka (Sanjūrokkasen 三十六歌仙). Tayū (太夫, qui sonorizzato in dayū) in periodo Tokugawa connotava un artista (geisha, vedi nota 42) di sesso maschile. 71 faccia di sbronzo = In giapponese l'espressione usata è "avere un viso pieno"(ippai naru kao 一杯なる顔), che al tempo poteva voler dire due cose: avere la faccia di uno che ha bevuto molto; comportarsi come e dire tutto quello che pare e piace. Il cliente giudica ubriaca la scimmia per via del volto naturalmente rosso dell'animle. 178
14ウ・15オ La Scimmia venne a sapere della situazione, sentì che al momento il Granchio si stava prendendo cura della moglie. Pestò con forza i piedi in terra dalla gelosia e sul volto adirato rispuntarono i suoi originari grandi e rossi occhi scimmieschi72. E però adesso che credeva di essere diventato un uomo alla moda e che la sorte girava dal verso giusto, gli venne l'idea di rifilare la moglie al Granchio. La storia che il Granchio volesse vendicarsi sulla Scimmia con una bardana è un malinteso. Anche in passato ci sono stati episodi di questo genere73. Quando si è agitati perchè ci si trova in difficoltà si dice "avere il fuoco sotto il sedere"74. Come per il sedere, anche delle bugie si può dire che sono "grosse"75. Le scimmie hanno una coda corta che viene detta "sedere a bardana"76; si dice, poi, "bruciare di gelosia". La Scimmia aveva intenzione di appioppare al Granchio la propria moglie della quale s'era stufato. È così che abbiamo capito facilmente la logica di "Il sedere della scimmia è grosso e tutto rosso! La bardana va a fuoco... rifiliamogliela!"77 (Papà Scimmia:) "Dal momento che mia moglie da babbuina qual è non l'ha capita quando le ho detto che la lasciavo78, voglio il divorzio!" Il Granchio trovava tutto ciò molto penoso; per l'imbarazzo si portò una mano alla testa, ma pensò che fosse la mano di un umano e se la pinzò da solo79. (Granchio:) "Sei convinto di essere diventato un uomo raffinato...Non mi piace questo tuo fare egoista." 72 originari grandi...scimmieschi = La parola sarumanako (猿眼, ovvero "occhi da scimmia") viene usata ad indicare, appunto, un paio d'occhi grandi e sporgenti o anche molto rossi. 73 episodi di questo genere = Da qui in poi l'autore propone la sua spiegazione del significato della canzoncina di cui si è già parlato alla nota 62, tramite associazioni e scambi di parole. 74 Quando si è...sotto il sedere" = In realtà nel testo originale la frase è: "Una cosa difficile si dice sedere". Non si è, tuttavia, trovato nessun riscontro riguardo a questa accezione del termine "sedere" e si può, dunque, anche pensare che sia un significato introdotto dall'autore stesso per far filare meglio il ragionamento che segue. 75 anche delle bugie..."grosse" = Qui si è dovuto introdurre l'aggettivo "grosso", assente nell'originale, per l'impossibilità di tradurre letteralmente e mantere, allo stesso tempo, un filo logico: in giapponese, infatti, una grossa bugia si dice "bugia tutta rossa". 76 "sedere a bardana" = Si dice anche per cani e gatti dalla coda molto corta. 77 È così che...rifiliamogliela!" = Il significato finale diventa, quindi, qualcosa come: "La difficile situazione della scimmia è una bugia bella e buona! Le brucia il sedere dalla gelosia...ha pensato: la moglie rifiliamogliela al granchio!". 78 mia moglie da babbuina...lasciavo = Nell'originale si gioca ancora una volta sulla pronuncia della parola "scimmia", saru, che è la stessa del verbo "andarsene". [Imm.31] 79 pensò che fosse...pinzò da solo = Ulteriore battuta legata alla resa grafica antropomorfizzata degli animali protagonisti, che si può capire solamente guardando il disegno. 179
15ウ Il Granchio fu accusato di false calunnie, ma si sa che gli onesti hanno i loro granchi in paradiso80. La Scimmia comprese a pieno la situazione81, ormai aveva la faccia tutta rossa dall'imbarazzo e si scusò molte volte per quello che aveva pensato di lui fino a quel momento; per di più, con l'aiuto del Granchio marito e moglie si riconciliarono e prosperarono negli anni andando vicendevolmente d'accordo. Nelle storie conosciute da Voi lettori, che si dica che il Granchio si vendicò della Scimmia è un grosso errore. Mah, come intrattenimento per il nuovo anno82 ho cercato e rinvenuto la vera versione dei fatti e l'ho proposta alla Vostra attenzione. Mille autunni ancora a gru e scimmie, migliaia di questi anni a tartarughe e granchi83! Lunga vita a loro84! DISEGNI DI KIYONAGA TESTO DI TSŪSHŌ..
80 gli onesti...in paradiso = Il proverbio giapponese, dal significato simile a quello italiano, recita: "gli onesti hanno gli déi (kami) sopra la testa" (shōjiki no kōbe no ue ni kami ga yadoru 正直の頭の上に神宿る); qui però muta in "hanno un granchio (kani) sopra la testa", e vi è un doppio livello di umorismo basato sia sulla somiglianza delle parole kami e kani, sia sul fatto che il granchio è rappresentato da un umano con il crostaceo sopra la testa. 81 comprese a pieno la situazione = Ossia che il granchio non aveva avuto nessuna relazione con la moglie. 82 intrattenimento per il nuovo anno = I kusazōshi venivano sempre venduti a partire dal primo giorno dell'anno. 83 Mille autunni...e granchi! = Così come la tartaruga è associata al numero diecimila (vedi nota 36), la gru era detta vivere mille anni. Nel finale dei kusazōshi vi era sempre un lieto fine e nell'ultima pagina, come simboli augurali, si trovavano spesso questi due animali, accompagnati inoltre da immagini di pini e bambù, anch'essi di buon auspicio. L'autore a questa convenzione aggiunge, poi, i protagonisti della storia appena raccontata, i quali si accostano anche foneticamente agli altri due: la scimmia (saru) alla gru (tsuru) e il granchio (kani) alla tartaruga (kame) (tsurukame sarukani 鶴亀猿蟹). 84 Lunga vita a loro = In originale medetashi, medetashi めでたしめでたし, è la formula conclusiva che segnalava la fine della narrazione di favole e fiabe, passata poi anche alla tradizione letteraria e cristallizzatasi nel suo significato augurale. L'aggettivo di per sé indica che una situazione problematica si è risolta per il meglio e che tutto è tornato alla tranquillità.
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3.5 画 像 -­ APPARATO DI IMMAGINI 1. 腰 弁当 koshi bentō 2. 臼 の類 -­ tipi di mortaio 展示「食文化としてのお弁当」、 マルチメディア、項目「搗臼」 味の素食の文化センター Mostra "Il bentō come cultura culinaria", Multimedia, voce 'tsukiusu' Centro per la cultura culinaria Aji no moto 日本国語大辞典、項目「石臼」 『大和耕作絵抄』より Nihon kokugo daijiten, voce 'ishiusu': da Yamato kōsaku eshō 3. 脇 息 kyōsoku -­ poggiagomiti 4. 唐 机 tōzukue -­ tavolino cinese
『頭書増補訓蒙図彙』、第四冊、1695年 市場通笑作の黄表紙『瞽仙人目明仙人』、10丁裏 Kashiragaki zōho kinmō zui, vol. 4, 1695 Kibyōshi di Ichiba Tsūshō, Mekura sen'nin meaki sen'nin, 10r
181 5. 押 送船 oshiokuribune 7. 鯊 haze -­ ghiozzo 日本国語大辞典、項目「押送船」、『川船図巻』より 日本国語大辞典、項目「鯊」 Nihon kokugo daijiten, voce 'oshiokuribune': da Kawabune zukan Nihon kokugo daijiten, voce 'haze' 6. く た び れ た ら 、 清 水 で も 飲 み や れ -­ "Se ti senti affaticata, bevi almeno dell'acqua sorgiva" 四国子作・鳥居清長画の黄表紙『四国猿後日曲馬』、
5丁裏 Kybyōshi di Shikokushi (testo) e Torii Kiyonaga (ill.), Shikokuzaru gonichi no kyokuba, 5r 8. 深 川木場 Fukagawa kiba -­ deposito di legname (1) 斎藤幸雄・幸孝・幸成作 長谷川雪旦・雪堤画の地誌
『江戸名所図会』、第18冊、
11丁裏・12丁表 Guida illustrata di Saitō Yukio/Yukitaka/Yukinari (testi), Hasegawa Settan/ Settei (ill.), Edo meishō zue, vol.18, 11r-­‐12v
182 9. 深 川木場 Fukagawa kiba (2) 10. 鰻 の蒲焼 -­ anguilla alla kabayaki 歌川広重画『深川木場』、「名所江戸百景」、 1856年 Utagawa Hiroshige, Fukagawa kiba, "Meishō Edo hyakkei", 1856. 11. 万 年橋 Mannenbashi (1) 上: 山東京伝の黄表紙『唯心鬼打豆』、1792年 sopra: Kibyōshi di Santō Kyōden, Tadagokoro oni uchimame, 1792 下: 南杣笑楚満人作・歌川豊国画の黄表紙『三世相郎満八算』、 1797年 sotto: Kibyōshi di Nansenshō Somahito(testo) e Utagawa Toyokuni (ill.), Sanzesōrō no Manpachizan, 1797
12. 放 生会 hōjōe
黄表紙 『見立蓬萊』
1780年 歌川広重画『深川万年橋』、「名所江戸百景」、 1857年 Utagawa Hiroshige, Fukagawa Mannenbashi, "Meishō Edo hyakkei", 1857 183 Kibyōshi, Mitate hōrai, 1780 13. 万 年橋 Mannenbashi (2) 14. 洲 崎 Susaki 葛飾北斎画『深川万年橋下』、「富嶽三十六景」1830年 Katsushika Hokusai, Fukagawa Mannenbashi shita, "Fugakusan Jūrokkei", 1830 歌川広重画『深川洲崎十万坪』、 「名所江戸百景」、1857年 Utagawa Hiroshige, Fukagawa Susaki jūman tsubo, "Meishō Edo hyakkei", 1857 15. 洲 崎の笊蕎麦 -­ zaru soba di Susaki 斎藤幸雄・幸孝・幸成作・長谷川雪旦・雪堤画の地誌『江戸名所図会』、第18冊、10丁裏・11丁表 Guida illustrata di Saitō Yukio/Yukitaka/Yukinari (testi), Hasegawa Settan/ Settei (ill.), Edo meishō zue, vol.18, 10r-­‐11v
184 16. 深 川 Fukagawa 17. 両 国 Ryōgoku 『深川之内』、「江戸切絵図・近吾堂版」、1850年 Fukagawa no uchi, "Edo kiriezu/ Kingodō han", 1850
『日本橋北神田浜町絵図』、 「江戸切絵図・金鱗堂版」、1859年(改版) Nihonbashi kita Kanda Hama no chō ezu, "Edo kiriezu/ Kinrindō han", 1859 (ristampa) 185 18. 大 振袖 ōfurisode 19. 櫛 kushi -­ pettine
安永中 江戸の処女の容貌 Aspetto di una ragazza di Edo in pieno periodo An'ei 燈籠鬢・島田髷(とうろうびん・しまだまげ)、 安永∼寛政 Acconciatura tōrōbin/shimada-­mage in uso tra le ere An'ei e Kansei 20. 楊 枝笄・鼈甲 yōjikōgai/bekkō 21. 天 秤棒 tenbinbō -­ bicollo
鈴木春信画 『水売り』 1765年 Suzuki Harunobu, Mizu uri, 1765 鼈甲の楊枝笄、江戸時代中期 Yōjikōgai di carapace, metà periodo Edo 22. 厩 猿信仰 umayazaru shinkō 左:『石山寺縁起』、平安末期 sin.: Ishiyamadera engi, fine periodo Heian 中:厩猿、所蔵:阿部
勇氏(前沢町古城) centro: Umayazaru, proprietà di Abe Isamu (Maesawa-­‐ku, Kojō) 186 右:『絵本猿島六本杉』、十丁表、1759年頃 destra: Ehon saru ga shima roppon sugi, 10v, 1759 ca 23. 猿 回し sarumawashi 24. 船 遊山 funayusan 鳥居清長画「隅田川船遊」、18世紀末
19世紀頭頃 Torii Kiyonaga, Sumidagawa funeasobi, fine XVIII-­‐inizio XIX sec. ca. 項目「猿舞」、『訓蒙図彙大成』、 第十巻、二七丁表、1789年 25. 涼 み船 suzumibune voce 'Sarumawashi, Kinmō zui taisei', vol.10, 27v, 1789. 鳥居清長画 『吾妻橋下の涼船』 天明五年頃 Torii Kiyonaga, Azumabashi shita no suzumibune, 1785 ca. 26. 猿 の生き肝 Saru no ikigimo -­ Il fegato della scimmia
赤本『猿のいきぎ
も』、二丁表 akahon Saru no ikigimo, 2v 赤本『猿のいきぎも』
の絵題簽 Edaisen dello akahon Saru no ikigimo 187 27. 吉 野丸 Yoshino Maru 左:伊庭可笑作、鳥居清長画の黄表紙 『扨化狐通人』、1780年 sin.: Kibyōshi di Iba Kashō (testi) e Torii Kiyonaga (ill.), Satemo baketari kitsune tsūjin,1780 下:西村重長、『絵本江戸土産』、1760年 sotto: Nishimura Shigenaga, Ehon Edo Miyage, 1760 28. 間 部河岸 Manabegashi 安藤広重画 『江戸土産--〔両国柳橋〕 其二 向両国茶屋 元柳はし 濱町--上 』、 錦絵、24×34cm Andō Hiroshige, Edo miyage/ (Ryōgoku Yanagibashi) Sono ni Mukō Ryōgoku chaya, Moto Yanagihashi, Hamachō/kami, nishiki-­e, 24×34cm 188 29. 牛 蒡 gobō -­ bardana 31. 安 永時代の婦人 -­ signora di periodo An'ei
安永中 婦人の風姿 Abbigliamento di una donna sposata in pieno periodo An'ei 30. 蟹 がももはさんだ kani ga momo hasanda 右:芝全交の黄表紙『交古世むかし噺』、1781年、三丁表 destra: Kibyōshi di Shiba Zenkō, Mazekoze mukashi banashi, 1781, 3v 189 右:森羅亭万宝作、歌川豊国画の黄表紙 『昔語銚子浜』、1793年、十丁裏 sin.: Kibyōshi di Shinratei Manpō (testi) e Utagawa Toyokuni (ill.), Mukashibanashi Chōshi no hama, 1793, 10r 参考資料 -­ FONTI 1.
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http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he13/he13_02946/he13_02946_0007/he13_029 46_0007_p0012.jpg 5.
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文庫) 7.
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12. Tanahashi Masahiro/Murata Yūji (hencho), E de yomu Edo no kurashi fūzoku daijiten, Tōkyō, Kashiwashobō, 2004, p. 143
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13. http://www.k-­‐hokusai.com/%E6%B7%B1%E5%B7%9D%E4%B8%87%E5%B9%B4%
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190 14. Hori Teruaki, Jinbunsha henshūbu (hen), Edo kiriezu de aruku Hiroshige no Ōedo meisho hyakkei sanpo : Kaei, Ansei Edo no fūkei hyakujūku, Tōkyō, Jinbunsha, 1996, p. 97 堀晃明著、人文社編集部編、『江戸切絵図で歩く広重の大江戸名所百景散歩 : 嘉永・ 安政江戸の風景百十九』、東京、人文社、1996年、p. 97
15. Japanese knowledge NRK, http://www.jkn21.com/top/corpdisplay
16. HAMADA Giichirō (hen), Edo kiriezu, vol. 2, Tōkyō, Tōkyōdōshuppan, 1974-­‐1975, p. 38 浜田義一郎編、『江戸切絵図』、第2巻、東京、東京堂出版、1974-­‐1975年、p. 38 17. HAMADA Giichirō (hen), Edo kiriezu, vol. 1, Tōkyō, Tōkyōdōshuppan, 1974-­‐1975, p. 37 浜田義一郎編、『江戸切絵図』、第1巻、東京、東京堂出版、1974-­‐1975年、p. 37 18. KITAGAWA Morisada, USAMI Hideki (trasl.), Kinsei fūzokushi: Morisada mankō, vol. 2, Tōkyō, Iwanamishoten, 1996-­‐2002, p. 155 喜田川守貞、宇佐美英機(校訂)『近世風俗志 : 守貞謾稿』、第2巻、東京、岩波書店、
1996年-­‐2002年、p. 155 19. http://www.pola.co.jp/company/home/back/2004/16r060.html 20. http://stuxvc117.secure.ne.jp/collection/japan02/1268.html 21. http://yajifun.tumblr.com/post/1347908869/theshipthatflew-­‐suzuki-­‐harunobu-­‐japanese 22. (sin./左) (centro/中) http://www.isop.ne.jp/atrui/ushi/07_tomo/mayazaru/main.html (destra/右) NAKANO Mitsutoshi, HIDA Kōzō (Kamigata-­‐hen), SUZUKI Jūzō, KIMURA Yaeko (Edo-­‐hen), Kinsei kodomo no ehon shū, Tōkyō, Iwanamishoten, 1985, p.143 中野三敏、肥田晧三編『近世子どもの絵本集・上方篇』、東京、岩波書店、 1985年、p. 143 23. ASAKURA Haruhiko (kanshū), Kinmō zui shūsei, vol.7, Tōkyō, Ōzorasha, 1998-­‐2002, p.309
朝倉治彦監修、『訓蒙図彙集成』、第7巻、東京、大空社、1998-­‐2002年、p. 309 24. NARASAKI Muneshige, Kiyonaga, "Bijinga/yakushae", vol. 3, Tōkyō, Kōdansha, 1971, n. 42
楢崎宗重、『清長』、 美人画・役者絵、第3巻、東京、講談社、1971年、n. 42 25. NARASAKI Muneshige, Kiyonaga, "Bijinga/yakushae", vol. 3, Tōkyō, Kōdansha, 1971, n. 48
楢崎宗重、『清長』、 美人画・役者絵、第3巻、東京、講談社、1971年、n. 48 26. SUZUKI Jūzō, KIMURA Yaeko, Kinsei kodomo no ehon shū (Edo-­‐hen), Tōkyō, Iwanamishoten, 1985, p. 43 中野三敏、肥田晧三編(上方篇)/鈴木重三、木村八重子編(江戸篇)『近世子どもの
絵本集』、東京、岩波書店、1985年、p. 43
27. Tanahashi Masahiro/Murata Yūji (hencho), E de yomu Edo no kurashi fūzoku daijiten, Tōkyō, Kashiwashobō, 2004, p. 66-­‐67-­‐68
棚橋正博・村田裕司編著、『絵でよむ江戸のくらし風俗大事典』、東京、柏書房、
2004年、p. 66-­‐67-­‐68 191 28. http://www.library.city.chuo.tokyo.jp/bookdetail?4&num=1989592&ctg=1&area=2&area
image=1 29. http://www.kusudama.jp/recipe/keyword/d0mt3h000000876e.html 30. (sin./左) NAKAMURA Masaaki, "Shiba Zenkō saku kibyōshi "Maze koze mukashi-­‐banashi": honkoku to chūshaku", Kokugakuin daigaku kinsei bungakukai kaihō, 10, 2004, p. 23.
中村正明、「芝全交作黄表紙『交古世むかし噺』-­‐-­‐翻刻と注釈」、国学院大学 近世文学会会報、第10巻、2004年3月、p. 23. (destra/右) Shinratei Manpō (testi) e Utagawa Toyokuni (ill.), Mukashibanashi Chōshi no hama, 1793, Tōkyō toritsu chūō toshokan (Kaga bunko) 森羅亭万宝作・歌川豊国画、『昔語銚子浜』、 寛政五年、 東京都立中央
図書館(加賀文庫) 31. KITAGAWA Morisada, USAMI Hideki (trasl.), Kinsei fūzokushi: Morisada mankō, vol. 2, Tōkyō, Iwanamishoten, 1996-­‐2002, p. 156 喜田川守貞、宇佐美英機(校訂)『近世風俗志 : 守貞謾稿』、第2巻、東京、岩波書店、
1996年-­‐2002年、p. 156 192 APPENDICE: 子 供絵本 1.
西郷竹彦(著)、福田庄助(イラスト)、『さるかにばなし』、むかしむかし絵本、13、
ポプラ社、1967年. 2.
木下順二(著)、清水崑(イラスト)、『かにむかし』、日本むかしばなし、岩波書店、
1976年(初版1959年). 3.
卯月泰子(著)、成田マキホ(イラスト)、『さるかにばなし』、名作アニメ絵本シリ
ーズ、17、永岡書店、1993年(初版1988年). 4.
平田昭吾(著)、『さるかにばなし』、世界名作ファンタジー、18、ポプラ社 、
1986年. 5.
柿沼美浩(著)、井口忠一(イラスト)、『さるかにばなし』、日本昔ばなし アニメ
絵本、第2巻、永岡書店、1997年. 6.
井川洗がい(著)、『猿蟹合戦』、新・講談社の絵本、講談社、2001年. 7.
小澤俊夫(著)、『さるかにかっせん』、子どもとよむ日本の昔ばなし 12巻セット、
くもん出版、2005年. 8.
主婦と生活社(編集)、『日本昔ばなし絵本』、3歳から親子で楽しむ本、主婦と生
活社、2007年. 9.
松谷 みよ子・長谷川 義史(著)、『さるかに』、松谷みよ子むかしむかし、童心社、 2008年. 10.
いもとようこ、『さるかにがっせん』、いもとようこの日本むかしばなし、金の星
社、2008年. 11.
わらべきみか(イラスト)、『さるかに』、はじめてめいさくシリーズ、ひさかたチ
ャイルド、2009年. 12.
舟崎克彦(著)、浅賀行雄(イラスト)、『さるかにがっせん』、日本名作おはなし絵
本、小学館、2009年. 13.
川内彩友美(著・編集)、『さるかに合戦・ねずみのすも』、講談社、2009年. 14.
山下明生(著)、高畠那生(イラスト)、『さるかにがっせん』、日本の昔話えほん、
あかね書房、2010年. 15.
内田伸子(監修)、『ママ おはなし ききたいな 母と子の読み聞かせ 日本のお話
120』、ナツメ社、2010年. 16.
西本鶏介(著)、『日本むかしばなし20話』、名作よんでよんで、学習研究社、2011
年. 17.
広松由希子(著)、及川賢治(イラスト)、『さるかに』、いまむかしえほん、6、岩
崎書店、2011年. 18.
石崎洋司(著)、やぎたみこ(イラスト)、『よみきかせ日本昔話 さるかにがっせ
ん』、講談社の創作絵本、講談社、2012 年. 19.
ささきあり(著)、『親子でわくわく! 日本むかしばなし絵本』、西東社、2013年. 193
作
品 助っ人 子蟹が
子蟹も 甲羅か 水桶・水瓶
ら誕生 から参加 結末 猿が死んだ 1 蜂、臼、毬栗、牛の糞 ○ ○ 2 蜂、臼、栗、牛の糞、はぜ棒 ○ 猿がつぶされた 3 蜂、臼、栗 母蟹が 死なない みんなが仲良くなる 4 蜂、臼、栗 母蟹が 死なない みんなが仲良くなる 5 蜂、臼、栗、昆布 ○ みんなが仲良くなる 6 蜂、臼、栗 母蟹が 死なない 猿が謝る 7 蜂、臼、栗 ○ 猿が死んだ 8 蜂、臼、栗、牛の糞 母蟹が 死なない ○ 猿がつぶされた 9 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ ○ 猿がつぶされた 10 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ ○ 猿が謝る 11 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ 猿がつぶされた 12 蜂、臼、どんぐり、牛の糞 ○ 猿がつぶされた 13 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ ○ 猿が謝る 14 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ 猿が謝る 15 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ 猿がつぶされた 16 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ 猿がつぶされた 17 蜂、臼、栗 ○ 猿が謝る 18 蜂、臼、栗、牛の糞 ○ ○ 猿が謝る 19 蜂、臼、栗 ○ 猿が謝る 194
(ものもいわずぺたーんとひしゃげ
てしもうたそう) GLOSSARIO akahon 赤本 = tipo di kusazōshi pubblicati dall'era Kanbun (1661-­‐1673) fino all'era Kyōhō (1716-­‐1736). Libri per bambini dalla copertina rossa venduti a partire dall'inizio dell'anno. La pagina era occupata quasi interamente da un immagine con il testo (pochi dialoghi e qualche parte narrativa) scritto nello spazio lasciato libero da essa. Le storie rappresentate venivano riprese dai mukashibanashi o dalle trame di treatro kabuki o jōruri. akakohon 赤小本 = nome con cui venivano inizialmente chiamati gli akahon, rispetto ai quali avevano un formato più piccolo. aobon 青本 = tipo di kusazōshi caratterizzati da una copertina bluastra, spesso citati in coppia con i kurohon in quanto si ritiene che fossero una loro prima edizione leggermente più costosa. Negli stessi kusazōshi, tuttavia, con il termine aobon ci si riferisce ai kibyōshi, facendo anche pensare che potessero essere un passaggio intermedio tra i primi akahon/kurohon e gli stessi kibyōshi.
arame 荒布 = Eisenia bicyclis, tipo di alga che cresce lungo le coste giapponesi. Veniva usata, oltre che come ingrediente in cucina, anche come detergente per il bucato e per questo in periodo Tokugawa era presente in qualsiasi casa. banzuke 番付 = stampa per la pubblicizzazione di spettacoli kabuki, in cui venivano riportati titolo, soggetto, nome del teatro, elenco degli attori protagonisti ed altre informazioni.
chō 丁 = nei libri antichi giapponesi, in cui i fogli sono piegati in due e poi rilegati dalla parte non piegata, si usava come contatore per le pagine. Nello specifico, un chō corrisponde a due delle nostre pagine, in quanto vengono contati il retro e il verso del foglio. chūhon 中本 = libri della grandezza di metà minogami (circa 13 x 18 cm), formato utilizzato soprattutto per kokkeibon e ninjōbon. ehon 絵本 = libro illustrato.
emaki 絵巻 = abbreviazione di emakimono 絵巻物, rotoli scritti e illustrati apparsi in periodo Nara, ma prodotti in gran numero soprattutto nei periodi Heian e Kamakura.
furoshiki 風呂敷 = lembo di tessuto di forma quadrata utilizzato per avvolgere oggetti da trasportare. gesaku 戯作 = genere di letteratura popolare a stampa di tardo periodo Tokugawa nato come divertissement dei letterati del tempo. Si divide in sottogeneri quali kusazōshi, yomihon, sharebon, dangibon (testi in cui la società era dipinta con una vena di satira, imitando lo stile dei sermoni buddhisti), kokkeibon (nati dai dangibon, ne mantengono la visione canzonatoria della contemporaneità, ma al contempo ne accentuano i tratti umoristici) e ninjōbon (storie d'amore travagliate unite a una descrizione di usi e costumi del tempo). 195
gōkan 合巻 = tipo di kusazōshi pubblicati dall'era Bunka (1804-­‐1818) fino al periodo Meiji (1868-­‐1912) costituiti da più volumi da cinque chō. Le lunghe e complesse trame narrate in essi erano ricche di tragedia, pathos e, col tempo, anche di violenza.
hangi 版木 = matrice.
harugoma 春駒 = tipo di kadozuke che prevedeva la manipolazione della marionetta di una testa di cavallo. L'artista si presentava con quella alle porte della gente nei primi giorni di primavera cantando e ballando in cambio di denaro.
heikegani 平家蟹 = Heikeopsis japonica. Heikegani è il nominativo più comune per questa specie di granchio e deriva dalla leggenda per cui gli spiriti rancorosi dei membri della famiglia Taira, sconfitti nella battaglia di Dan no Ura (1185) dai Genji e morti annegati, si fossero impressi sulla corazza di questo granchio, facendola rassomigliare a quella di un volto umano irato. hiinabon 雛本 = tipo di akahon di piccolo formato, venivano usati in veste giocattolo o come decorazione il giorno dello hina matsuri (la festa delle bambine che si teneva il terzo giorno del terzo mese). hōrai 蓬萊 = anche detta hōraisan 蓬萊山, terra fantastica che sarebbe situata nei mari orientali più remoti dove vivrebbero i saggi immortali. Leggenda originariamente appartente all'immaginario cinese, venne poi importata anche in Giappone. hōraidai 蓬萊台 = tavolino esposto in giorni di festa o durante i banchetti con la ricostruzione di hōrai, decorato con simboli augurali come ad esempio piante di pino, bambù, prugno, o raprresentazioni di gru, tartarughe, o coppie di anziani. inu 犬 = cane. iruigassen 異類合戦 = storie di battaglie tra esseri non umani (animali, piante, cibi, ecc.).
jōruri 浄瑠璃 = teatro di marionette nato in perido Tokugawa. Ogni marionetta viene animata da tre manovratori detti ningyōzukai, ma la parola viene data loro da uno stesso narratore, detto tayū, il quale siede al di fuori della scena insieme al suonatore di shamisen che musica lo spettacolo.
kabuki 歌舞伎 = forma di teatro popolare nata in periodo Tokugawa che unisce in sé l'arte performativa, la danza e la musica. kadozuke 門付 = tipo di spettacolo che vedeva l'attore girare per tutte le case offrendo la sua arte (che poteva includere il canto, la danza, o il marionettismo) in cambio di denaro. kakejiku 掛け軸 = rotoli dipinti (possono anche essere accompagnati da un testo o avere, al posto di un disegno, una calligrafia) da appendere alla parete. kanbun 漢文 = cinese. kani 蟹 = granchio. kani no hishio 蟹の醤 = granchio sotto sale. 196
kanshi 漢詩 = poesia in cinese.
kibidango 黍団子 = dolcetto tradizionale fatto con farina di miglio mischiata a farina di riso.
kibyōshi 黄表紙 = tipo di kusazōshi pubblicati tra il 1775 e il 1806. Sono caratterizzati da una copertina di colore giallo, dalla composizione in tre voltumi da cinque chō e da un contenuto ricco di humor, satira e descrizioni di mode del tempo rivolto a un pubblico adulto. kiji 雉 = fagiano. kine 杵 = pestello. koemaki 小絵巻 = emaki di piccole dimensioni. kohon 小本 = libri della grandezza di un quarto di hanshi (circa 16 x 12 cm), formato utilizzato soprattutto per gli sharebon. konbu 昆布 = Laminaria, alga commestibile. kōshō bungei 口承文芸 = 'letteratura orale', espressione coniata da Yanagita Kunio come traduzione del termine introdotto da Paul-­‐Yves Sébillot 'littérature orale'.
kuri 栗 = castagna. kurohon 黒本 = tipo di kusazōshi pubblicati a partire dalle ere Kan'ei (1748-­‐1751) e Hōreki (1751-­‐1764), sono caratterizzati da una copertina nera. Nonostante siano ancora pensati esclusivamente per un pubblico infantile, il loro contenuto si fa leggermente più complesso rispetto ai precedenti akahon. Le storie presentate sono spesso digest di spettacoli kabuki e jōruri, ma vi sono narrati anche racconti di eroi e mukashibanashi. kusazōshi 草双紙 = nonostante la parola kusazōshi, dal significato di libri ('sōshi' 双紙) non seri, amatoriali ('kusa' 草), sia nata nella regione del Kamigata, essa indica soprattutto libri stampati a Edo a partire dall'era Kanbun (1661-­‐1673) fino al decimo anno dell'era Meiji (1877). Le loro caratteristiche principali sono il formato chūbon 中本 (circa 18 x 13 cm), la divisione in volumi (satsu 冊) da cinque chō 丁 l'uno (col tempo raggruppati in due, tre o più satsu), la presenza nella stessa pagina di immagine e testo, i quali vanno letti ed interpretati insieme per comprendere meglio l'opera. Dapprincipio l'illustrazione era prevalente sulla parola, limitata a pochi dialoghi in stile colloquiale.
kyōka 狂歌 = poesie umoristiche scritte in cinese su imitazione dei kanshi.
mamehon 豆本 = libri illustrati in miniatura, spesso della grandezza di un palmo di mano, i quali sembra abbiano fatto la loro comparsa sul mercato editoriale verso la metà dell'era Bunka (1804-­‐1818). Destinati ad essere letti dai bambini, riprendevano le storie dei mukashibanashi. mashira 猿 = altro termine per "scimmia". mochi 餅 = dolcetto tradizionale, polpetta di riso cotto a vapore e poi pestato. mokuzugani モクズガニ = Eriocheir Japonicus, il più grande tra i granchi giapponesi di acqua dolce, il quale presenta all'estremità delle chele anteriori una peluria di colore marrone.
197
monogatari 物語 = genere letterario in cui un autore racconta ('kataru' 語る) di persone e fatti ('mono' 物, "cose") in prosa e in versi. mukashibanashi 昔話 = fiabe e favole giapponesi, delle quali Yanagita Kunio ha individuato quattro caratteristiche: 1) nell'incipit della storia viene sempre usata una parola che può essere "tanto tempo fa" (mukashi 昔), "tanto tanto tempo fa" (mukashi-­mukashi 昔々), "troppo tempo fa" (tonto mukashi とんと昔) o "in un tempo prima del tempo di tanto tempo fa" (mukashi no mukashi no sono mukashi 昔の昔のその昔); 2) a fine frase si trovano sempre locuzioni quali to sa とさ(Tōkyō e zone limitrofe), to ina といな (Kamigata), atta zuon あったづぉん o atta-­chifu あったちふ (Tōhoku), atta gena あったげな (Chūgoku e Kyūshū); 3) l'abbreviazione intenzionale di nomi propri; 4) alla fine c'è sempre una locuzione prestabilita, la quale è standardizzata per ogni regione (ad esempio, medetashi medetashi めでたしめでたし). narikizeme 成木責め = tradizionale cerimonia che si teneva in tutto il paese la mattina del quindicesimo giorno del primo mese dell'anno (o la sera del giorno precedente) e consisteva nel recarsi sotto gli alberi da frutta ed intonare una formula magica per far promettere alle piante di dare un abbondante raccolto nell'anno che si apprestava a cominciare. nazebanashi なぜ話 = storie che si concludono con la spiegazione del "perchè" alcuni animali hanno talune caratteristiche. omochae おもちゃ絵 = fogli stampati e venduti solitamente uno a uno adibiti, più che a una contemplazione silenziosa, a un utilizzo attivo della manualità dei bambini. Alcuni dovevano essere ritagliati e piegati per creare paesaggi tridimensionali, altri erano affollati di piccole figure che per tipologia variavano dagli eroi delle leggende ai demoni e mostri delle storie di paura, dagli oggetti di vita quotidiana a piante e animali. Altri ancora avevano più scopo didattico e presentavano elenchi di parole, precetti morali, nomi di strade, o anche immagini delle quattro stagioni o dei rituali che si susseguivano durante tutto l'anno.
oni ga shima 鬼ヶ島 = Isola dei Demoni, motivo presente nella letteratura giapponese dal periodo medioevale, consolidatosi e diffusosi in tutto il paese soprattutto grazie al mukashibanashi Momotarō. onigiri おにぎり = polpettina di riso. otogizōshi お伽草子 = monogatari composti tra il periodo Muromachi (1336-­‐1573) e l'inizio del periodo Tokugawa. Nascono come testi manoscritti -­‐emaki, naraehon-­‐, ma il nome deriva dalla collezione di 23 storie scelte nel 1731 dallo stampatore di Ōsaka Shibukawa Seiemon intitolata Otogi bunko.
sankō 三公 = sorta di gran consiglieri. saru 猿 = scimmia. setsuwa 説話 = in senso ampio, indica leggende, miti, mukashibanashi. sharebon 洒落本 = tipo di kusazōshi pubblicati inizialmente nella zona del Kamigata a partire dalla seconda metà dell'era Kyōhō (1716-­‐1736) e, in seguito, anche a Edo. Sono storie 198
ambientate nei quartieri di piacere e anche i personaggi e le storie narratevi erano incentrati in quel mondo. shimamuragani 嶋村蟹 = altro nome dello heikegani. Il nome deriva da quello di un guerriero di periodo Sengoku (1467-­‐1573) che mentre il suo padrone Hosokawa Takakuni 細川高国 (1484-­‐1531) veniva ucciso, sconfitto in battaglia, si era gettato in mare con combattendo con due nemici, morendo annegato. shinie 死絵 = stampe commemorative di famosi attori (ma anche scrittori e pittori popolari) deceduti, con impressi il ritratto e altre informazioni, quali la data della morte e il nome postumo buddhista. sugoroku 双六 = oggi con questo termine si indica solamente lo e sugoroku 絵双六, un passatempo simile al nostro "gioco dell'oca", in cui delle pedine avanzano su un foglio diviso in caselle in base al risultato del lancio di dadi. Tuttavia in passato ve n'era un altro tipo più antico, il ban sugoroku 盤双六, originario dell'India, nel quale i giocatori dovevano cercare di penetrare nel territorio dell'avversario con le loro pedine, avanzando attraverso il lancio di dadi su una scacchiera di legno. takebun kani 武文蟹 = altro nome dello heikegani. Il nome deriva da quello del guerriero Hata no Takebun 秦武文, morto affogato durante la guerra Genkō (1331). tamago 卵 = uovo. usagi 兎 = coniglio. usu 臼 = mortaio. waraibanashi 笑話 = una delle tipologie di 'mukashibanashi derivati' (hasei mukashibanashi 派
生昔話), che Yanagita distingue da quelli 'conclusi' (kankei mukashibanashi 完形昔話). Seki Keigo divide, invece, i racconti in tre categorie: mukashibanashi di animali (dōbutsu mukashibanashi 動物昔話), mukashibanashi autentici (honkaku mukashibanashi 本格昔話) e storie divertenti (waraibanashi).
yomihon 読本 = letteralmente "libri da leggere", genere letterario idealmente contrapposto ai kusazōshi, nei quali invece ad essere prevalente era l'immagine. Risentì fortemente dell'influenza dei romanzi cinesi e spesso le storie narrate erano intrise di mistero e di elementi fantastici. yūbō 蝤蛑 = Portunus trituberculatus, è una specie di granchio di grandi dimensioni anche detta gazami. zatō 座頭 = monaci ciechi itineranti che cantavano o raccontavano storie accompagnandosi con il suono di un biwa o uno shamisen.
zuihitsu 随筆 = genere letterario dalla forma non prefissata, in cui l'autore raccoglie pensieri, commenti e annotazioni senza seguire una specifica struttura. 199
BIBLIOGRAFIA IN LINGUA GIAPPONESE FONTI PRIMARIE (testi originali) Autore sconosciuto, Mukashi makkō saru ga shima katakiuchi, Meiwa gan kan, Waseda daigaku engeki hakubutsukan dejitaru aakaibu korekushon 作者不明、『昔真向猿島敵討』、明和元刊、早稲田大学演劇博物館デジタル・アーカイ
ブ・コレクション Autore sconosciuto, Saru kani mukashi hanashi, bakumatsu, Daitōkyū kinen bunko 作者不明、『さるかにむかしはなし』、幕末、大東急記念文庫 HOTEISHITSU Shujin (testi) / NISHIMURA Shigenaga (ill.), Momotarō monogatari, Hōreki san kan, Kokuritu kokkai toshokan 布袋室主人作・西村重長画、『桃太郎物語』、宝暦三刊、国立国会図書館 ICHIBA Tsūshō (testi) / TORII Kiyonaga (ill.), Kani ga gobō hasanda, Tenmei gan kan, Tōkyōtoritsu chūō toshokan kaga bunko 市場通笑作・鳥居清長画、『蟹牛房挾多』、天明元刊、東京都立中央図書館加賀文庫所蔵 ICHIBA Tsūshō (testi) / TORII Kiyonaga (ill.), Kani ga gobō hasanda, Tenmei gan kan, Kokuritu kokkai toshokan 市場通笑作・鳥居清長画、『蟹牛房挾多』、天明元刊、国立国会図書館 ICHIBA Tsūshō (testi) / TORII Kiyonaga (ill.), Kani ga gobō hasanda, Tenmei gan kan, Kanō bunko maikurohan shūsei 市場通笑作・鳥居清長画、『蟹牛房挾多』、天明元刊、狩野文庫マイクロ版集成 ICHIBA Tsūshō (testi), Tsunezunegusa, Tenmei gan kan, Kanō bunko maikurohan shūsei
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