ヒラー,G.G.の「現実近接学校」をめぐって(‡)* −その基本課題と基幹学校改革モデルー 小野 蹟男** (教育学教室) 要旨:前稿に続いて、ヒラーの「現実近接学校」の構想を検討した。ヒラー は、現代社会は、「部分システム」と「生活世界」の緊張関係において特色 づけられるとし、学校教育もまた、それと関連づけられた、四つの課題領域 に方向づけられなくてはならないとする。提示された基幹学校の改革モデル をも併せて検討し、今日の学校教育において、「学校と現実世界との連続性」 「学校の内的改革」「共生者としての教師」という視点が、特に重要であるこ とを明らかにした。 キーワード:部分システム、生活世界、学校の内的改革 は じ め に 前痛定は、ドイツにおいて、とりわけハンディをもつ子どもたちの学校(S。nd。rSh。1。)の 「現実近接」について、その必要性とそこから導き出されてくるカリキュラムについて、ヒラ ーの論考を検討した。本論文では、ヒラーのその後の論述や構想の検討を通して、彗乳実近接」 という問題を、現代学校の問題として、より一般的に捉えることの意味と課題について考察す る。 ヒラーは、現実近接を問題とする前提として、今日の社会構造と関連づけて、要約的に、学 2) 校が基本的に応えるべき課題を次のように述べる。 現代の工業化社会は、一方で自立的な「部分システム」(Teilsystem)、他方で様々な「生活 世界」(Lebenswelt)との緊張関係の葛藤において特色づけられる。その両方の領域で、人は うまくやって行かなくてはならない。必然的に学校教育も、この二つの領域に方向づけられ る。 部分システムというものは、例示すれば、生産(工業や手工)、経済、公衆衛生、行政、交 通、法律、政治といったものであり、それらは内的な法則性に従って機能し、個々人の裁量権 や構成力からは、かけ離れたものであるが故に、時として人々に無力感を与える。それに対し て、生活世界は、伝統的な行動様式、宗教的な感覚、社会道徳的な環境を基礎とし、個々人が 対話的にその経験領域を構築し、その日常実践を構成し、アイデンティティを得、生きること *on“RealiはtsnaheSchule,,ofHiller,G.G.(lI) **HirooOno(か坤α細川f〆純血g砂地和と毎料雛頻りが且血朋南鯛) −69− の意味を了解する。したがって学校の基本課題は、そこにおいて、子どもたちが(a上方でその 部分システムに根ざし、(b)他方で生活世界の構成に関与することができる、ことを可能とする ということである。 ヒラーはこの二つの基本的課題に、「解釈知への批判力」、「人格諸力の発達」を加え、四つ を学校の基本課題領域とする。以下、まず、その四つの領域を概観す震 I 学校の四つの課題領域 第1の課題領域:部分システムとの接合 学校には、後継者たちを、できるだけ速やかに、そして適切に、部分システムに接合するこ とが要請されている。そのシステムに必要な方略や行為についての知識および実践力の形成に は、とりわけ一連のトレーニングが要請される。それは望まれる習慣を形成するものであり、 それ無くして熟達者として、そのシステムに関与できない。そうしたトレーニングは、できる だけ早い時期に開始されるべきである。 (1)現実を見すえた教育内容 このことは、学校に次のことを問う。どんな知識と技能をどんな部分システムと関連させ て、どの学校段階で形成するのか。そして、どの時点で学校のシステムは分化すべきなのか。 確かに学校は、こうした問いに、答えを準備しているが、時代遅れになってはいないか。 例えば、学校が、書き言黄の正字法的テキストについての能力形成に、多大の時間を費やし てきたという事実は、学閥主義的(schoIstisch)伝統と結びついているといってよい。その際 次のことは考慮されなかった。こうした技能は、その読み書きのやり方からみて、どんな社会 システムと、.どの程度の接続能力を作り出しているかということを。逆に言えば、非文字的コ ードの領域、つまり特別なカード、絵文字、フローチャート、回路や組織図、技術的な記号や グラフ、あるいは図像的な媒体といったものに関して、継続的な基礎教育を行うことを、今日 もっと真剣に検討する必要がある。 (2)学校外教育との調整 こうしたことを考えただけでも、部分システムと結びつきを作り出すという問題ては、これ までに十分に解決されているとは言い牡い。それは非常に不均衡になされており、伝統に基づ いているだけであって、かなり盲点があり、どの水準においても、時代遅れの状況を呈してい る。したがってあらゆる学校階梯においてカリキュラムだけでなく、その時間配分を、システ ムの適切な基準に従って根本的に検証する必要がある。その際、学校と相競い合って、そのた めの技能を、より直接的に形成する「教育」機関(通信教育、専門学校や教室、研究サークル など)が発展してきており、それとの調整をどうはかるかということも検証しなくてはならな い。 第2の課題領域:「解釈知」への批判力 学校に期待される第二のことは、子ども達を自らに対してまたその諸関係に対して、省察で −70− きるようにするということ。別言すれば、学校は、今日的な重要問題を取り上げ、それがどの ように論じられているか、つまりどのような解釈がそこでなされているのか(「解釈知」 (Reflexions−undInterpretationswissen)、その論じられ方を検討することがここでの課題とな る。こうした問題について、関心を呼び起こし、批判的構成的力を育てるということが要請さ れている。 このようなことを論議することによって、二つのことが問い直される。一方では、部分シス テムがどう監視され、どうコントロールされているかということ。そこから得られる市民生活 上の便宜とともに、それがわれわれに及ぼす危険性を明らかにすること。他方、こうした論議 は、生活世界及び伝統の基礎、あるいは美的、道徳的基準、さらには認識や判断や行為の習慣 を問題視する。これらすべてのことが一度、異なった生活世界と比較され関連づけられて、問 いなおされることになる。 (1)マルチメディア的教材 その際、問題は次の所にある。子どもや青年は、やや極論すれば、印刷物や文献によってこ うした論議に参加しようとはしない。今日、圧倒的に青少年が校外で熟読しているテキスト は、文字で書かれ、音声と表記とを対応させ、行で並んでいるそれではない。新たなテキスト は、「言語一俊一音声」が調和した形でコード化され、テレビ放送として、またビデオで利用 できるものなのである。だとするならば、文字や作文に関するなじみの方法を、ビデオ利用や その作成といったことに移し変えてみるという努力を、怠ってはならないであろう。 ただ注意すべきは、解釈知への到達が、この領域での中心課題ではない。学ぶべきことは、 視点(Aspekt)と結びついた事実や思考やそのモンタージュは、ある特定の目的に対し、ど んな技術で選択的に選びとられ、そのことによって、どんな世界像をつくり出し、広めている のかということである。解釈知が設定され、流布される、その形式に対して、効果的な距離を とり得ることが、この領域における課題となる。 (2)「道化」としての教師 ところで多くの場合、生徒たちは、多量で多様な解釈知をモデルを手がかりに、その扱い方 を学ぼうとする。必然的に教師たちは、より厳しく見つめられることになる。生徒たちは、教 師を手がかりにどんなことに気づくのか。いやどんなことに気づくことが望ましいことなの か。 生徒たちは、その当意即妙性、警句、その意地悪のほんの僅かなものを用いることで、教師 たちを「古臭い」ものに仕立てることができる。そして大抵の場合、教師をむき出しの道徳主 義、偏狭な不寛容さ、構造的な暴力の使用、世界や自己の意味づけについての原理主義者へと 追いやるのに多くを要しない。生徒たちを条件つきで受けとめ、彼らとともに、決まりきった 結論で終わりはしないドラマを、多くの教師はつくろうとしない。 こうした状況を踏まえたとき、教育関係者は、学級で、教員室で、ゼミナールや教育行政機 関において、まさしく「道化」(Narr)として、自らを演出することが必要ではないか、とヒ ラーはいう。文学や神学において道化は、あらゆる愚かな誤解を締め出すための立派な、まじ −71− めに受け取られるべき存在である。道化を際だたすものは、自己の対象化であり、自己に対す る逆説である。自らをどう演出し、関心を引き起こすかということにおいて、故意に理想像の 機能を放棄し、そのことによって熟慮を引き出す。 道化が非軍事的奉仕活動を行い、自転車で学校に出かけ、生徒の職業訓練先や奨学金のため に奔走し、最も優れた授業を提供し、学校経営と教師集団に心を砕く。自分たちがやらない時 には、他の者がこれを行うだろうという意識において。彼らに重要であるもの、彼らが力を尽 くしているものを、他者が笑うとき、彼らはまたともに笑う。道化は巧みに規則、指図、因習 を取り扱う。道化は、教育法、教育課程、学校や会議の秩序、あらゆる命令といったものを、 専門的なファンタジーや皮肉(Ironie)を喚起するものとして用いる。道化は観客とともに、 また余り好ましく思われていない者とともに、はっきり言えば、行動を乱す者、騒がしい者、 パンク、スキンとともに、そしてまた逃亡者や外国人とともに、ユーモア、礼儀正しさ、好奇 心を生み出す。 第3の課題領域:人格話力の発達 学校に期待される第3の課題として、青少年の身体、精神、及び知的話力を目覚まし、開花 させ、それを絶えず養育し、保持し、開発することがあげられる。このことはとりわけ、活動 し、行為するという学習方法との関連が問題となるが、近年、特に「実践的学習」 (praktischesLernen)の促進や計画と結びついて、様々な校種や学年段階で、かなりの前進を みた、とヒラーはいう。 この課題領域においては、三つの視点が特に重要となる。 (1)生活リズム 身体、精神、及び知的諸力の形成と開発は、適切なリズムで調節される、二つの異なる行為 と時間配分において実現される。つまり、ルーティーンをつくり出すということと、きわだっ た出来事や計画の演出において。 一方では子どもたちにおいて、その関心を、絶えず繰り返される生活行為に結びつけ、それ を経験させることが問題となる。主観的にも客観的にも満足のいくやり方で、どう形成しリズ ム化するか、ということである。 他方、ルーティーンというのは、非常にそれがl央適に構成されたリズミックなものであった としても、いつかは単調なものとなる。だから、それとは性格を異にする計画、つまりコント ラストをなす経験の形式が、日常に休止符を打つものとして、演出され、構成されなくてはな らない。そうした「島」(Insel)が、時間の流れを分節化する。ずっと前からそれを楽しみに し、永くそれを心に刻むことになるのである。 (2)「熟達者」との連携 学校が青少年の生活行動を啓発しリズムをつくろうとするとき、一方では遊び的な練習、練 習的な遊び、他方においではプロジェクトにおいて、それを学校外の場で実現するということ が重要となる。またプロジェクトを遂行する中で、生徒たちが校外の諸団体や施設との結びつ −72− きを兄い出し、必然的に限界をもった学校のプロジェクトを越えて、そこで更に共同活動を展 開できることが望まれる。 学校的な努力による青少年の日常の啓発ということでは、学校に多くの幸運はもたらされな かった。僅かばかりの例外を除けば、教師たちは生きる技術における師匠として立ち現れるこ とはできない。遊び的な練習、練習的な遊びの基本形式は、目的から開放された行為や技術で あり、それは職人的な達人が実現しているものである。彼らこそが、生徒たちにとって、欠く ことのできない手本であり、助言者であり批判者となる。青年の「生きるカ」(Lebenskunst) を高めるために、より広範で良質の活動を総動員しなくてはならないのである。 (3)地域社会との連揚(ネットワーク) あらゆる学校は、それが置かれている地域において、そこにおける施設や人材との、持続性 のある共同作業の形式において、青年が絶えず、被必要感を体験できるように、どう根づき、 ネットワーク化されうるかを真剣に考える必要がある。学校は、その生徒たちに要求している 諸形式を、再検討し、最適化しなくてはならない。例えば、次のようなことを、もっと積極的 に考えてみる必要がある。 建物の柵、あるいは公共の壁の彩りを、専門家と子ども達のコンビチームに、もっと与えて みてはどうか。共同体の宣伝パンフレット、あるいは観光協会のそれの作成に、高校生を組み 入れることを考えてはどうか。適訳の委託を英語やフランス語の重点コースを組み入れたり、 地域新開が、その商圏にある学校の協力のもとに、青年に紙面を構成させてみるといったこ と。小規模ではあっても印象的な展覧会を構想したり、企業や共同体が祝祭に際して、ちょっ とした芸術家と契約するときに、学校もその対象とすること。 第4の課題領域:生活技術と日常生活における見通し。 近年、20歳代以下の「固有の現象」として、次のようなことが指摘されている。決められた 期間や申し合わせは守られず、書類の山は整えられず、期間、申請、決定をうまく行えず、法 的な手続きでは何も始められず、また何の異議も差し挟めない。分割払いやリースや借用ある いは仕事や予約の契約を、全体を見渡して行うという、その鳥敵性の欠如。不必要で高嶺の保 険契約がなされ、生活費について、ほとんど十分な観念が無く、安易なクレジットやカード利 用による犯罪を、いつの間にか犯してしまう。様々な買い物を時間やコストを念頭において処 理するということを、どこでも学ぶことができなかったのである。一週間の中で決まってやる べきことを、合理的に処理し、それを自分の関心と賢く結びつけるということを、学んでこな かったのである。 こうしたことは、「出来のよくない」とされる青年の問題であるというだけでなく、ギムナ ジウムの生徒や大学生ですら、共同で休暇の予算を立てたり、共同生活で電話代をどう分担す るかが問題とされるようなときには、幼児のよう.に振る舞うことが少なくない。更に、給与所 得税の算定や労働許可書がどのように、どんな基準でつくられているかを、どれだけの人が明 確に知っているのだろうか。連邦奨学金の申請や所得申告をどうするのか、行進をどう組織 −73− し、意に沿わざる妊娠や父権が生じたときどうするか、ということについても同様である。 若者は、その秩序破壊を喜んでいるわけではない。彼らに欠如している、生活の実践的技術 を伝えるということ、日常における見通しをつくることが、いま、ますます緊急な課題となっ ているのである。学校によって、準備され組織された日常実践、例えば、青年の養育施設、あ るいは住居共同体での何週間かの滞在、学区内の異校種間の生徒交流、ホストファミリー、 生活共同体、あるいは個人の所への期限を限っての青年の宿泊。そうした体験を通して、様々 な生活様式や生活術を学ぶことができるであろう。 Ⅲ 基幹学校改革モデル 上述してきた現代学校の課題を踏まえたとき、学校はより具体的にどのような姿を示すこと になるだろうか。ヒラーが、チュービンゲン市の南部地域における、基幹学校改革のために提 示した改革構感)(下前を通して、そのことを見ておきたい。 基幹学校の改革モデル 【 ≡≡ ≡ 】 巴 迅 盟 関連の職業学校 企業実習 担当 M AS :中間修了 巳4 2 g 羞彗学校 腑 鯛 警篭 高領域 邑遠 さヨ 讐莞芸寓 HSA : 基幹学校修了 BⅥ: 職業準備年 −74− (1)基本的特色 図示された、この改革モデルの基本的特徴は、次の点にある。 6) 1)学校が置かれている地域の特性を教育に生かすこと。 2)基幹学校、職業学校、促進学浸ら共同・協力のもとに改革を進めること。 3)現行の5年制の基幹学校を基本的に6年制とすること。そのことにより、 ・他の中等教育機関と同様の中間修了(mittlererAbschluB海格の取得可。 ・カリキュラムにおける、基幹学校と職業学校の無駄な重複の排除と統合。 (2)三つの階梯とコース 改革された基幹学校は、三つの階梯と三つのコースによって特色づけられる。 三つの階梯:入門学年(第5・6学年)中間学年(第7・8学年)職業準備学年(第9・10学 年) 三つのコース: Aコース;中間修了を目指し、商業領域の教育を重点化したコース。特に女生徒をその対象と する。第9年次に基幹学校を修了することも可。 Bコース;基幹学校及び職業学校(Berufsfachschule=BFS)第1年次修了資格を目指す。第 9・10学年においては、一般教育と職業教育に、ほぼ同一の時間配分がなされ、 企業実習も実施される。一般教育では、細切れの時間割ではなく、ブロック化し た時間割を組み、現代的な問題に関するテーマが総合学習的に学ばれる。理数系 の教科は、専門教育と結びつけて学習され、より実践的なものとなると共に高度 化するので、補習や補助的な指導にも配慮する。 Cコース;基幹学校及び職業準備教育(B。r。fsv。rb。reit。ngSjahr=BVJ)(1年デb)修了を目指 す。 (3)Cコースの概要(四つの指標) Cコースは、特に学習面でもまた生活面においても、困難を抱えている生徒を対象とするも のであり、特に高学年での教育は、以下で示す四つの指標によって、特色づけられる。ヒラー が構想上、最も力点をおくCコースの概要を、やや詳しく見ておきたい。 1)基幹学校と職業準備教育との組み合わせ (a)一般教育面における特色 (9基礎学習の充実:促進学校の教師との共同。ドイツ語・数学に関しては、補習授業の充 実。 (参日常生活のための資質形成:諸教科と日常生活との意識的、積極的関連づけ。 ③社会能力的な資質形成:今日的であると共に歴史的であり、社会的であると共に政治的で もある論争問題をテーマ化する。社会系諸教科の総合化とプロジェクトの活用が問題とな る。 (り余暇活用に関する資質形成:文化・芸術・スポーツ領域での諸活動、また今日の様々な生 活様式やスタイルの学習。 −75− (b)職業教育における特色 ①職業に関する基礎的教育:職業準備教育修了に対応した職業基礎教育。 (診就職予定の仕事に関する準備教育。 (む日常生活で必要となる作業教育:技術や家庭科の授業との関連づけ。 2)授業と生活面における支援の組み合わせ 予想される、生徒の問題状況に対して、「社会教育的要素」との提携。 (a)人的側面に重点を置いた援助。 自活への移行において、とりわけ生活を切り開いていくことと係わって、それぞれの問題 に対応した助言や援助を、教師、社会教育者、専門家、資質豊かな一般人が行う。例えば、 就職問題、様々な事務手続き、諸団体の紹介、トラブルの際の助言や援助などに関して。 (b)体験的教育の提供 地域における自由な教育活動との共同、あるいは社会教育の主導のもと、学校教育を補完 するような形式で、様々な体験コースやプロジェクトへの参加。地理、宗教、倫理、体育の 授業との連携・共同。 (C)教師、校外の専門家、社会教育者の協力のもとでの授業 社会科や経済、ドイツ語、事象計算、家庭、保健といった諸教科の単元で、「日常を概観」 する様々なテーマを取り上げ、役所や接触すべき人との交渉のトレーニング。ゲストとして の専門家の授業への招請。 3)「改革された」共同教育(男女の共修と別学) 授業テーマに対応して、男女別の学習グループの編成。それぞれの性の視点から、見通しや 必要性を論議する。例えば、次のような授業テーマないし教科において。 ・家庭科ないし技術科で、特に日常生活の作業に係わって。 ・社会科/経済科の一部。(例えば、テーマ、連邦国防軍は男子のみ) ・関連教科と結びついた宗教/倫理の一部(妊娠/中絶、生活共同体、性) ・コンピュータ・コース等 4)教授形式と学習の場の多様化 様々な教授形式で、様々な学習の場において、授業を行うという考え方は、この構想全体に おいて重要な原理であるが、とりわけCコースにおいて、それが重視される。 (a)コース(トレーニング):ドイツ語と数学は基本的には、職業教育と結びつけながら、 ドリル的、技能習得的な形式での教授。 (b)実習:職業学校および関連の醜場で、職業実習が行われる。 (C)ワークショップ/学校を離れた提示: 社会科的教科の「修学旅行」と関連づけての学習。歴史科は、地方の新聞社と共同して 「国家社会主義」あるいは「ドイツの戦後史」について、まとまった時間で、ワークショッ プとして取り扱う。あるいは、音楽・美術のワークショップを学校外の施設で修める。 (d)「修学」旅行: −76− より活動的に、社会科的に、体験教育的に構想された旅行によって、新しい連邦(教育課程 「分割から統一」)とアルザス(教育課程「ヨーロッパ」)とを経験する。 e)「開かれたアトリエ」: 美術領域における、開かれたアトリエ形式(「肩越しに見る」)に模しての体験的学習。例 えば、総合的な教科単元「家族生活」において、今日の「様々な生活様式」、様々な共生の あり方を、小家族や大家族、一人住まい、生活共同体、青年施設、シングル生活といった場 所で、「里子」「交換学生」「期限付きの客」となって、「肩越し」に学習する。 りティーム・ティーチング(TT): 授業は、基本的に学級担任を中心に、なるべく少人数の教師が担当することを原則とす る。また、授業の一部はティーム・ティーチングによる。例えば、「改革された」共同授業、 経済の授業の一部(教師と学校関連の社会教育者)、宗教/倫理の授業において。 Ⅲ 学校改革への合意の方策 10) ヒラーは、こうした改革を日常実践的に展開していく筋道について、次のように述べる。 構想はもたなくてはならないが、改革を最初から、人的にも、組織的にも、時由的にも、非 常に大風呂敷を広げた構想として提示しないことが大事である。狭く限定され、時間的にも区 切られた計画によっても、その効果を内外に示すことができる。一連の小計画の成功から、そ こにおいて新たな伝統が築かれ、それが一層の改革の基礎を生み出すことになる。現実的に は、改革は次のようにして展開される。 (1)永らく仕事の上で協力し合い、また学校外での諸々の関係から、共同することも多く、中 期的な構想を共有している、改革に意欲を示すグループが存在していること。 (2)一般的に、こうしたグループは、校長、その代理人、2−3の教師によって構成される。そ うした教師たちは、校長から信頼を得ており、従って相応の活動の自由を保持している。他 の状況は、計画の遂行を妨害するものではないとしても、そのテンポを遅らすものとして作 用している。 (3)改革を担う人の隣に、多数の無関心層がおり、プロジェクトの様々な局面で、その展開に 対して様々な距離を取る。そのことはまっく当然のことであり、またその理由は多様であ り、予想することは難しい。 (4)教師集団の中で影響力をもつグループが、明確に改革に異を唱えることを排斥すべきでは ない。その際、両グループにおいて、そうした対立は実践過程の批判的修正となる限りにお いて、悪いものではないことを明らかにする必要がある。 (5)対立が厳しくなった場合、教師集団において、好意的理解者を含めて改革指向が、多数派 となっていない場合、改革は押し進められないということである。改革を押し進める行政的 な支援がある場合であっても。 改革計画に対して合意がより容易になるのは、無条件の合意や称賛、その理念や計画に対す る集団的な熱狂、仲間内での全面的な同調、そういったことに対する自制を、改革者が学ぶと −77− きにである。陶酔、無条件の共同体制は、イデオロギー的な同一性と同様のものとして現れ、 そのようにして道を誤ることになる。 自分の学校の改革を述べてきたような形で、軌道に乗せることができたところでは、驚くべ きことを発見する。多くの者が考えている以上に、教師はずっと活動の余地をもっているとい うことを。 お わ り に 以上、略述してきた、ヒラーの「現実近接」学校論の異議を、次の三点においてまとめ、結 びとしたい。 〈学校と日常現実との連続性〉 ヒラーは、そのキーコンセプトを「現実近接」という概念で示すように、学校を現実の社会 と一層結びついたもの、社会とのいわば「連続性の原理」によって、構想する。 そこでは、社会的、職業的生活(部分システム)および日常生活への「適応」、あるいはも っと積施的にいえば、そこで生き抜く実際的な力量の形成が、徹底的に問題とされる。子ども たちが、将来直面するであろう生活課題に対する準備的な練習、労働(職業)や仕事と関連づ けての諸教科の学習の強調は、その現われである。もちろん、社会との連続性は、そうした 「適応」の面においてのみ強調されるのではない。「解釈知」への批判、つまり、社会的な問題 が、どのような視角から、どんな手段によって、どのように論じられているのかを、学ばせる ことで、生徒自身に、自らの手で現実を捉え、「社会批判的」な力を得させようとする。その ために、社会的で現代的なテーマが選ばれ、プロジェクト学習が推奨される。 さらに、そのような社会との接合は、ただ学校の側からの社会への働きかけだけではなく、 関連の専門家を学校に招致したり、その地域との教育的なネットワークを形成することで、社 会を学校の側に引き寄せようとする。学校を社会と切り離し、「閉じられた」形での社会への 準備機関とするのではなく、変化発展しつつある現代社会との、より有機的で直接的な連携を もつ組織とすることを主張する。 ヒラーが特に念頭においている学校は、その卒業生の市民的、職業的な自立が緊急に求めら れている、中等教育機関としての基幹学校や促進学校である。直接的には、そうであったとし ても、今日、「基礎学力形成」のみを学校教育の至上命題とするのではなく、提起された、よ り積極的な社会との連続性の原理を、学校教育において、根本的に見直してみる必要があろ う。今日の日本の教育実践において、大きな注目を集めているものもまた、こうした方向と関 連づけることができる。 〈学校の内的改革〉 ヒラーの提示する基幹学校の改革モデルは、基幹学校、促進学校、職業学校の統合=総合化 である。発想としては、基幹学校、実科学校、ギムナジウムを統一した総合制学校 (Gesamtschule)の構想と似通っているといえる。しかし、ここにおいても、その立場は現実 主義的であり、「問題は、個別学校の充実か諸学校の統合か、ということにあるのではなく、 −78− 現に存在する(また、し続ける)ハンディを背負う青少年に、どんな教育内容や教授組織を用 11) 意してやれるのか、ということである」という。カリキュラムの改革や教授体制の改革とい った内実が伴わない限り、学校制度の改革論議は意味をなさないとする。 そのカリキュラムの特色は、見てきたように「現実近接」的なものであるが、一般教育レベ ルにおいて「改革された共同学習」ということで、男女共修と別学の新たな捉え直しは、興味 深いものがある。とりわけ理科、家庭、技術科の授業において再度検討されるべき視点であろ う。単なる形式主義的な男女の平等という原理を越えて、社会的に、あるいは生理的に規定さ れたそれぞれの性の特性を生かし、あるいは補完するという視点から、共学を前提としつつ、 共修と別学とを改めて検討するということは、いま重要なことであろう。 立地に恵まれるならば、学校の統合を考えなくとも、それぞれの学校の教師間の共同は可能 (勿論、教員増をある程度見込む)である、という見方。それは、教科担任は、初等と中等の 両学校を担当できるという発想でもある。あるいは、改革の方策として、「完全主義」からの 脱却と期限付きでの実験的な試行を許容することによって、つまりは現在の制度の若干の組み 替えや「日常的」な改革努力によって、予想以上の大きな成果が生まれるとする。学校を、も っと社会に開かれたものにしようと試みるとき、堅く閉じられた組織ではなく、より柔軟で、 教育効果の高い、組織体制が生み出される。こうした主張は、やはり示唆的である。 〈共生者としての教師〉 教師はいうまでもなく、教える人であり、被教育者を導くことができなくてはならない。し かしそのことは、被教育者に、ある特定の価値を注入したり、教師の意のままに、彼らを引き 回すということではない。教師の働きかけが、被教育者に本質的な意味をもち、その働きかけ が成立するのは、彼らに対する洗い洞察と共感をもって接する時である。それは教師に、自己 自身の相対化を要請する。とかく人は、そして教師は、自己自身が歩んできた生活や文化を絶 対化し勝ちである。その特色は「小市民的」意識であり、「文化帝国主義」的感覚であると、 ヒラーはいう。 勿論、比喩的ではあるが、「『道化』としての教師」という主張は、教育的活動において教師 が真聾であり、かつ、状況に柔軟で、絶えず自己を異化し、相対化できることを要請してい る。道化は自らを「笑いもの」にさせることで、ことの真実を際立たせ、観客は笑いながら、 その世界に引き込まれ、ふと自らを省みる。教える者と教えられる者の立場は異なるが、いま 重要なことは、同じ時代を生きる者として、両者にとって、共同し共感し合える場があるとい うこと。それを教師は、教育的関係の基礎に、つくり出さなくてはならないのである。 別のところでヒラーは、教育的関係を、「無力な援助者から有能な『共犯者』(Komplize) へ」と表現しているが、ある時間を限っての、自己の相対化と他者への共感・共同(共犯)関 係の中で、状況の変化・発展が生まれることを述べている12と多元的な価値が競合している社 会の中で、自らも被教育者とともに共存、共生できる力を獲得していかなくてはならない。そ の意味でも、価値一元的な、教師の引回しによる教え込みは、無力であり、意味をなさない。 −79− 注 1 )拙稿「ビラ-、 G.G.の『現実近接学校』をめぐって」 『奈良教育大学教育研究所紀要』第 32号、 1996年 2 ) Hiller, G. G.: Schule zwischen alien Stuhlen? Chancen padagogischer Verst急ndigung in pluralen Gesellschaft.王n: Die Dt. Schule 86. Jg. 1994. H. 2, (Ss. 160-178) S. 161. 3 ) ebd. Ss. 163-174 4 ) Hiller, G. G. (Hg.) : jugendtauglich. Kozept紬r eine Sekundarschule. Ulm 1994. Ss. 29-70. なお、この改革については、 1992年5月にチュ-ビンゲン市の要請により、研究グループが 形成され、ヒラーが、その理論面において中心的役割を果たした。答申は93年5月に提出 さ、同書はその公刊書。ただ、その後、同市の政権が交代し、現在のところ、この計画の実 施には至っていない。 5 ) ebd. S. 70. 6)この地域は、外国からの移住者と既住者の共同・共生の促進という基本課題を抱えてお り、学校の立地としては、基幹学校、促進学校、職業学校センターが隣接地に建てられてい る。また:職業教育と係わる教育内容として、病院事務や木材関係といった、地域の産業と 関連のあるものが位置づけられている。 7 )様々な学習上のハンディを抱えた(lernbehindert)青少年のための学校の呼称を、近年、 特別学校(Sonderschule)から促進学校(Forderschule)に代えている。 8)キムナジウム(9年制)の6年次修了生、及び実科学校(6年制)修了生に与えられてい る社会的な資格であるが、基幹学校修了生( 5年)には与えられていない。 9 )基幹学校を修了しても、就職や職業教育機関への進学が出来なかった者に対して開設され ている、 1年制の学校。多くは職業学校に併設されており、一般教育的内容や社会生活に係 わる基礎知識、及び職業教育に向けての基礎が教えられる。 10) ebd. Ss. 174-177. ll) Hiller, G. G∴ Perspektive der Schule fur Lernbehinderte. Umrisse eines Bildungskonzeptes far Kinder und Jugendliche der unteren Statusgruppen. In Ausbruch aus Bildungskeller. Ulm (Dritte 1994) S. 63 12) Hiller, G. G. : Von hilflosen Heifer zura kompetenten Komplizen. Zur Befeiung p邑dagogi- scher Verhaltnisse aus fundamentalistischen Ideologien. In : Schroeder, J. Stort, M. (Hg.) : Einmischungen. Alltagsbegleitung junger Menschen in riskanten Lebenslagen. Ulm. 1994. Ss. 209-228. -80-
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