2013 年度 参加のしおり

2013 年度
参加のしおり
参加のしおり
2013 年 7 月 13 日(土)・14 日(日)
国立オリンピック記念青少年総合センター
●目次
1
●2013 年度 哲学若手研究者フォーラム 案内
4
●タイムスケジュール
5
●講演・発表要旨
○テーマレクチャー「普遍者」講演要旨(五十音順)
倉田 剛
7
8
「普遍者の理論と種問題」
山内 志朗 「普遍をめぐる中世的構図―オブジェクトと普遍論争―」
○ワークショップ
12
14
「モーリス・ブランショとジャン=リュク・ナンシーの共同体論をめぐって」
伊藤亮太 「モーリス・ブランショにおける「関係なき関係」をめぐって」
15
渡辺健一郎 「ジャン=リュック・ナンシーの共同体論における「死」の位相」 17
伊藤潤一郎 「ジャン=リュック・ナンシー『声の分有』読解―ハイデガーとデ
リダの交錯のなかで」
18
○個人研究発表 発表要旨(発表順)
19
鹿野 祐嗣 「
『意味の論理学』における意味の理論と出来事の概念について」
槇野 沙央理
20
「ウィトゲンシュタイン解釈における超越論的自然主義批判―
22
「訓練」と「自然誌」の検討を通して」
岩井 拓朗 「
『純粋理性批判』における原則について」
1
23
青田 麻未
「自然の美的鑑賞における認知モデル―生態学的知識の観点からの
25
批判的検討―」
長門 裕介
「人生における過去の物語化と計画概念―何が人生を構造化するの
27
か―」
五味 竜彦 「前期フィリッパ・フットにおける道徳の合理性の問題」
28
渡邊 雄介 「
『言説、形象』を読む――「抗争」の場としての言説――」
30
木田 翔一
「チャルマーズの二次元意味論との関連で見る思考の本性―狭い内
32
容とは何か」
山本 哲哉「ニーチェ的パロディーにおける弁証法―ニーチェ「プリンツ・フォ
34
ーゲルフライの歌」読解」
仲宗根 勝仁 「二次元意味論にもとづくチャーマーズのフレーゲ的意味論につ
35
いて」
小林 知恵 「自然主義的な道徳実在論に基づく道徳的知識の批判的検討」
田邉 健太郎
37
「音楽作品の反実在論について―ロス・キャメロンの議論を検討
38
する―」
太田 陽 「社会科学・行動科学における科学的実在論 ―Trout の測定実在論の
39
批判的検討―」
工藤 顕太 「デリダと精神分析―デリダのラカン批判を中心に―」
原田 淳平
41
「真理はいかにして多元的でありうるのか―真理の多元主義自体の
43
多元性を検討する―」
武蔵 義弘 「色彩の間主観性をめぐって」
44
横路 佳幸 「同一性と因果関係」
46
米田 翼
「ベルクソン哲学における individu、individualité、individuation
48
①―物質と生命―」
50
森永 豊 「ファイル説の論駁」
満江 亮 「不登校経験者の体験記述を理解すること―解釈学的現象学の議論を
52
手がかりに―」
呉羽 真 「認知科学における研究戦略としての〈拡張した認知〉―広い計算の
54
事例を巡って―」
鈴木 雄大 「行為の理由に関する選言節の検討」
55
飯塚 理恵 「性格論争の行方と徳認識論の弁明」
57
下山 惣太郎
59
「実体の区別とルーマンにおけるオートポイエーシス」
2
鴻 浩介 「実践的推論の諸位相」
60
高崎 将平 「自由の不可能性論証と認識論的自由論」
62
那須 洋介 「数学の哲学における構造主義と数学の認知科学」
64
●各種お知らせ・世話人一覧
65
●地図
66
3
■■ 2013年度哲学若手研究者フォーラム案内 ■■
●開催日:: 2013年7月13日(土)・14日(日)
初日受付開始時刻:8:30
受付場所: センター棟 4F 416号室
●会場::国立オリンピック記念青少年総合センター
〒151-0052 東京都渋谷区代々木神園町3番1号 TEL: 03-3469-2525 (代表)
●交通
[電車]
・東京駅から:JR中央線 約14分 新宿駅乗り換え 小田急線各駅停車 約3分 参宮橋駅
下車
・小田急線:参宮橋駅下車 徒歩約7分
・地下鉄千代田線:代々木公園駅下車(代々木公園方面4番出口) 徒歩約10分
[京王バス]
・新宿駅西口(16番)より 渋谷駅行き(宿51)乗車 代々木五丁目下車
・渋谷駅西口(14番)より 新宿駅西口行き(宿51)乗車 代々木五丁目下車
●初日の昼食について
初日の昼食は、こちらで用意しておりません。 また、厳守していただきたい点です
が、オリンピック記念青少年総合センターへの弁当の持ち込みは禁止されています。セ
ンターの外でお食事をとられるか、センター内の食堂をご利用ください。
●駐車場について
地下駐車場があります。200台収容、入出庫は6:30-23:00、普通車で8時間未満30分
150円、それ以降は30分50円です(入庫後30分未満で出庫する場合は無料)。
●ご宿泊の方へ
国立オリンピック記念青少年総合センターにはリンスインシャンプー、ボディーソー
プ以外は用意されておりませんので、その他必要なものは、各自ご用意ください。また、
二日目は個人研究発表前に、朝食と部屋の清掃をお済ませください。
●二次会について
初日夜の二次会以降については自由行動となります。各自、責任をもって行動してく
ださい。
●全体会について
全体会は、若手フォーラムのあり方について意見交換をする場です。決算報告や次期
世話人の承認も行われます。今年度は二日目に行われます。
4
昼食休憩
使用不可
使用不可
411
412
長門裕介 人生におけ
る過去の物語化と計画
概念―何が人生を構造化
するのか―
(司会:林)
テーマレクチャー 普遍者 (会場 416)
倉田剛 普遍者の理論と種問題
山内志朗 普遍をめぐる中世哲学的構図ーオブジェクトと普遍論争ー
山本哲哉 ニーチェ的
仲宗根勝仁 二次元意
田邉 健太郎 音楽作品
パロディーにおける弁
小林知恵 自然主義的な
味論にもとづくチャーマ
の反実在論について―ロ
証法―ニーチェ
「プリン
道徳実在論に基づく道徳
13:55-15:10
ーズのフレーゲ的意味論
ス・キャメロンの議論を検
ツ・フォーゲルフライの
的知識の批判的検討
について
討する―
歌」読解
(司会:林)
(司会:成瀬)
(司会:北村)
(司会:山田)
15:20-18:20
303
305
五味竜彦 前期フィリッ
パ・フットにおける道徳の
合理性の問題
(司会:北村)
使用不可
杉本道哉 ヘーゲル
体系形成
(司会:木本)
槇野沙央理 ウィトゲン
青田麻未 自然の美的鑑
シュタイン解釈における 岩井拓朗 『純粋理性
賞における認知モデル―
超越論的自然主義批判ー 批判』における原則につ
生態学的知識の観点から
「訓練」
と
「自然誌」の検
いて
の批判的検討―
討を通して
(司会:平賀)
(司会:高江)
(司会:林)
受付(会場 416)
木田翔一 チャーマーズ 久保啓文 カントの道徳
渡邊雄介 『言説、形象』
の二次元意味論との関連 論に対するマクダウェル
を読む―「抗争」の場とし
12:35-13:50
で見る思考の本性―狭い の批判は討議倫理にも当
ての言説―
内容とは何か
てはまるのか (司会:山田)
(司会:成瀬)
(司会:木本)
11:35-12:35
使用不可
伊藤亮太、渡辺健一郎、
伊藤潤一郎 モーリス・
ブランショとジャン=リュ
10:20-11:35
ク・ナンシーの共同体論
をめぐって
(ワークショップ)
(司会:成瀬)
410
使用不可
408
鹿野祐嗣 『意味の論理
学』における意味の理論
9:00-10:15 と出来事の概念につい
て――
(司会:山田)
8:30-9:00
会場
7月13日
(土)
2013年度哲学若手研究者フォーラム タイムスケジュール
408
410
411
412
満江亮 不登校経験者
森永豊 ファイル説の の体験記述を理解するこ
論
と――解釈学的現象学の
(司会:林)
議論を手がかりに――
(司会:平賀)
昼食休憩
米田翼 ベルクソン哲学
におけるindividu、indivi
dualite、individuation
(司会:高江)
16:10-17:00
14:50-16:05
全体会 (会場 416)
那須洋介 数学の哲学に
鴻浩介 実践的推論の 高崎将平 自由の不可能
おける構造主義と数学の
諸位相
性論証と認識論的自由論
認知科学
(司会:木本)
(司会:林)
(司会:山田)
呉羽真 認知科学におけ
下山惣太郎 実体の区別
る研究戦略としての〈拡張 鈴木雄大 行為の理由に 飯塚理恵 性格論争の行
とルーマンにおけるオー
13:30-14:45 した心〉―広い計算の事 関する選言説の検討?
方と徳認識論の弁明
トポイエーシス
例を巡って―
(司会:木本)
(司会:北村)
(司会:平賀)
(司会:高江)
12:15-13:30
11:00-12:15
横路佳幸 同一性と
因果関係
(司会:山田)
太田陽 社会科学・行動
原田淳平 真理はいかに
工藤顕太 デリダと精神
科学における科学的実在
して多元的でありうるの 武蔵義弘 色彩の間主観
分析――デリダのラカン
9:40-10:55 論―Troutの測定実在論
か−真理の多元主義自体
性をめぐって
批判を中心に
の批判的検討―
の多元性を検討する−
(司会:木本)
(司会:成瀬)
(司会:平賀)
(司会:北村)
会場
7月14日
(日)
2013年度哲学若手研究者フォーラム タイムスケジュール
303
使用不可
305
テーマレクチャー
普遍者
倉田
剛(九州大学)
普遍者の問題と種問題
山内
志朗(慶應義塾大学)
普遍をめぐる中世哲学的構図―オブジェクトと普遍論争―
7
普遍者の理論と種問題
倉田 剛(九州大学)
本発表で吟味してみたい問いは次のように表現される.普遍者の理論(Theory of
Universals)は,生物学における「種問題」
(Species Problem)との生産的な接点をも
ちうるのか.もしそうだとすれば,前者は後者から,いかなる条件の下で,何を,どの
程度まで学ぶことができるのか.
素朴に考えると,普遍者の理論の中でも,生物種(species)に関する議論と密接な
関係に立つように見えるのは,とくに類(kinds)あるいはタイプ(types)を,性質・
関係とは区別される独自のカテゴリーとして要請する形而上学であろう.決して多数派
とは言えないが,こうした形而上学は,主にロウ(Lowe 2006),マイクスナー(Meixner
2004),ウェッツェル(Wetzel 2009)などによって展開されている.彼らは,類ない
しタイプを実体的普遍者(substantial universals)として捉え,それらを性質・関係
といった非実体的普遍者(non-substantial universals)と区別する.
(こうした区別は
現代の普遍者理論において必ずしも一般的ではない(cf., Armstrong 1999).)むろんこ
こでは,金や水といった自然種(自然類 natural kinds),イヌやカエルといった生物種
が,類(タイプ)の典型例として分析される.
だが残念ながら,このことを根拠に,普遍者の理論が種問題との重要な接点をもつと
結論することはできない.なぜかと言えば,現代のほとんどの生物学者(および生物学
の哲学者)たちにとって,もはや生物種は哲学者たちが論じるような自然種ではないか
らである.彼らにとって,生物種は,それに属するすべての生物個体(かつそれらのみ)
が共通してもつ何らかの(内在的)性質によって定義されるものではない.これより,
生物種は哲学者が特権視してきた物理・化学の領域における自然種とは異なる,という
コンセンサスがすでに形成されている(ソーバー2009).他方で,形而上学者たちの側
にも,生物学の議論を一顧だにせず,生物種を従来通りの自然種として扱いつづける態
度,あるいは,生物学者たちが論じる種は,類の名に値しないと断ずるといった態度が
顕著に見いだされる.
とくに後者のような態度をとるのはロウである.ロウは,生物学の哲学者デュプレの
仕事(反本質主義と多元主義)を評して,「形而上学的に興味深いものはない」,「そも
そも形而上学に真に関わるものではない」と述べ,さらに,共通の祖先をもつという観
点から種を個別化する「系統学的」アプローチについては,「生物学的な自然種ターム
が,部分的に進化論的由来によって決定される外延をもつという学説を私は認めない」
(Lowe 1999: 187)と一蹴する.ロウのような形而上学者にとって,遠い銀河のどこ
8
かの惑星で,地球上のイヌとは形態的にも生態的にも,また DNA の構造においても
まったく区別がつかないが,しかし地球上のイヌと系統的な繋がりをもたないような生
物が発見されたとしても,それはイヌであることに変わりない.(より正確に言えば,
それはイヌ類(dog kind)のインスタンスである.)だが,生物学者たちにとって,そ
れはイヌ種(dog species)に属する生物ではない.この一例でも分かるように,形而
上学における類の議論と生物学における種の議論は大きなすれ違いを見せてしまうの
である.
たしかにロウのこうした態度には,いたずらに経験科学の顔色を窺うことをしないと
いう点で,形而上学者の面目躍如たるものがある.しかしながら,ここでロウの言う「類」
にはある限定が加えられていることに注意しなければならない.それは「自然の」とい
う 限 定 で あ る . ロ ウ は 自 ら が 設 け た 類 の 下 位 区 分 で あ る 「 非 ‐ 自 然 種 ( 類 )」
(Non-natural Kinds)に関しては,意図的に議論を避けているのである.ここにはロ
ウが考える以上に大きな問題が隠されているように思われる.われわれは,非自然種あ
るいは「人工的タイプ」の形而上学こそが,生物学における「種問題」との生産的な関
係を取り結びうると主張したい.以下でその理由のいくつか挙げておく.
(1)われわれが非自然種(人工的タイプ)として念頭に置いているのは,主に言語タ
イプ,車種,音楽作品(文学作品),貨幣,国家,株式会社などであるが,これらはあ
る時点で生成し,後のある時点において消滅しうるような存在者である.生物種につい
ても同様のことが言われる.こうした種ないしタイプをまとめて「歴史的類」
(historical
kinds)と呼び,それらを「永遠的自然類(種)
」
(eternal natural kinds)と対比させ
ることはもっともらしい(cf., Millikan 1999)
.
(2)非自然種(人工的タイプ)のほとんどは,系統樹の中に位置づけられる.また,
作者という起源を有するものもある.例えば,現在よく使われるいくつかの書体タイプ
(フォント)が,共通の祖先をもっていたり,最新のビートルという車種が,
「モデル・
チェンジ」を経てきた系譜の中にあったりすることは否定しがたい.このことから,非
自然種(人工的タイプ)に関しても,生物種と同様に,その「進化」を語りうるように
思われる(cf., 三中 1997)
.また,多くの音楽作品(文学作品)には,作品間の系譜関
係があるだけでなく,作者‐作品という由来関係も存在する.
(3)化学元素といった自然種とは異なり,非自然種(人工的タイプ)については,基
本的にその境界が曖昧であるというだけでなく,そのインスタンス(トークン)がもち,
かつそれらのみがもつ,トリヴィアルでない性質を特定できないケースがしばしば見ら
れる.やや極端な例ではあるが,哲学という学問タイプを考えてみよう.われわれは,
9
何らかの思考トークンや書物トークンが「哲学」あるいは「哲学書」であるための,必
要かつ十分な性質(の集まり)を特定できるであろうか.つまり程度の差こそあれ,非
自然種は,単純な本質主義と相容れないという意味において,生物種と同様の問題を抱
えている.(ただし,このことは安易な本質主義批判を直ちに導くわけではない(cf.,
Devitt 2008).
)
(4)よく知られているように,生物学者たちの中には,生物種をクラスではなく,個
体(individuals)として捉えようとする者たちがいる(Ghiselin 1974; Hull 1976)
.
われわれの立場に従えば,そもそも類(タイプ)はクラスではなく普遍者であるが,形
而上学の内部においても,類という普遍者を個体(メレオロジカルな和)に還元しよう
とする動きがつねに見られる.種問題の内部における「個体説」をめぐる議論の蓄積は,
非自然種の形而上学に何らかの示唆を与えうるように思われる.
以上を,冒頭の問いに即して簡単に纏めてみよう.まず,普遍者の理論が種問題との
生産的な接点をもちうるとすれば,それは類(タイプ)を独自のカテゴリーとして扱う
形而上学の中でも,とりわけ非自然種(人工的タイプ)の問題を重要視する形而上学で
ある.これは両者が同じ土俵にあがる条件と言える.次に,普遍者の理論は何を学びう
るのかという点については,網羅的とは言い難いが,種に関する「歴史性」
,
「系統関係」
,
「単純な本質主義からの脱却」
,
「個体説との折り合い」などが挙げられた.最後に「ど
の程度まで」という問いに関して一言述べておこう.むろん非自然種と生物種との違い
は数多くあり,両者のアナロジーがあらゆる場面において通用するということはない.
その違いの中でもとくに重要だと思われるのは,社会的・制度的種(タイプ)が,われ
われの心の志向性にその存在を依存するということである.一例を挙げるならば,われ
われの社会における家族や国民という制度的種は,個体間の類似性や系統的な繋がりの
みによって個別化されうるものではない.しかしながら今回の発表では,そうした無視
できない差異を念頭に置きつつも,いかにして形而上学と生物学(の哲学)という二つ
の領域が互いに生産的な関係に立ちうるのかという問題に焦点をあてることにしたい.
主な参考文献
Armstrong, D. M. ( 1989 ) Universals: An Opinionated Introduction, Boulder:
Westview Press.
Devitt, M.(2008)“Resurrecting Biological Essentialism”, Philosophy of Science 75:
344-82.
10
Dupre, J.(1981)“Natural Kinds and Biological Taxa”, The Philosophical Review XC,
No. 1: 66-90.
Ereshefsky, M.(2002) “Species”, in E. N. Zalta(ed.), The Stanford Encyclopedia
of Philosophy, Available at: http://plato.stanford.edu/entries/species/
Ghiselin, M. T.(1974)“A Radical Solution to the Species Problem”, Systematic
Zoology 23: 536-44.
Hull, D. (1976)“Are Species Really Individuals?”, Systematic Zoology 25: 174-91.
Lowe, E. J.(1999)The Possibility of Metaphysics: Substance, Identity, and Time,
Oxford: Oxford University Press.
Lowe, J.(2006)The Four-Category Ontology, Oxford: Oxford University Press.
Meixner, U.(2004)Einführung in die Ontologie, Darmstadt: Wissenschaftliche
Buchgesellschaft.
Millikan, R. G.(1999)“Historical Kinds and the Special Sciences”, Philosophical
Studies 95: 45-65.
三中信宏(1997)
『生物系統学』
,東京大学出版会
ソーバー,E. (2009)
『進化論の射程―生物学の哲学入門』,松本俊吉・網谷祐一・森
元良太訳,春秋社
Wetzel, L. (2009) Types & Tokens: On Abstract Objects, Cambridge: The MIT
Press.
11
普遍をめぐる中世哲学的構図―オブジェクトと普遍論争―
山内 志朗
普遍論争とは,普遍をめぐる存在論の問題と考えられてきた.プラトン的実在論とア
リストテレス的唯名論,スコトゥスの実在論とオッカムの唯名論などと対比図式を設定
すると問題の姿が現れてくるようで,なかなか判然と見えてくることはない.
いや,そもそも普遍とは何なのだろうか.普遍とは事物,概念,名称,名辞,述語,
記号,関数,トロープのいずれなのだろう.初めから排除しておかないといけないのは,
普遍とは事物や名称ではないということだ.普遍を事物と捉える実在論(実念論)や,
普遍を名称と捉える唯名論は,初めから成り立たない理論であり,それらを主張した人
物は存在しないと言ってもよいのではないか.ただ,実在論と唯名論という分類は,大
雑把な分類としては便利なので,以下でも用いるが,実在論や唯名論ということで共通
の理論があるとは考えないでほしい.語り尽くされた観があるが,普遍をめぐる問題の
中心が普遍の存在とは別のところにあることは気づかれにくいままだ.
今回の普遍論争をめぐる分水嶺がどこにあるのかを中世哲学の中に探りたい.スコト
ゥスの実在論とオッカムの唯名論というように,そこに最大の截断を見出すことは,迷
い道に入り込むことになる.
中世における普遍論の基本的枠組みとして,実在論や唯名論,そして概念論というの
が忘れ去られるべき枠組みであるとして,様々な立場がある以上,それぞれを概観し,
場合によっては適切な名前をつけるしかない.これは大変な仕事である.ともかくも,
問題となるのは,従来の哲学史で,十三世紀の「穏やかな実在論」と言われる立場を分
類し,そしてそこにアヴィセンナとアヴェロエスの影響を組み込んだ図式を作る必要が
ある.そのために,有益なのが,ヨハネス・シャルペ(Johannes Sharpe)の『普遍に
関する問題(Quaestio super universalia)』である.
シャルペは,1360 年頃ミュンスター近郊に生まれ,1379 年プラハ大学でバチェラー
となり,オックスフォードでその後の学問人生を過ごした思想家である.シャルペの没
年は不詳で、1415 年以降に亡くなったと推定されるだけである.彼はウィクリフの影
響を強く受け,実在論の立場であり,「オックスフォード実在論者(Oxford Realists)
」
の一人である.イギリスと言えば,オッカムが活躍し,その後のイギリス経験論の系譜
を見ても,唯名論の傾向が強いものと考えがちだが,ウィクリフにしろ,シャルペやア
リントン(Robert Alyngton)やペンビガル(William Penbygull)などのオックスフ
ォード実在論のように,実在論の流れも強かったのである.
シャルペは普遍について見解を以下のように分類する.
12
1)ビュリダン,2)オッカム,3)ペトルス・アウレオリ,4)エギディウス・ロマ
ヌスとアルベルトゥス・マグヌス,5)プラトン,6)ドゥンス・スコトゥス,7)ウォ
ルター・バーレー,8)ウィクリフ,9)自らの見解
この分類で重要なのは,普遍が実在するかどうかはあまり問題ではないということだ.
もちろん,普遍とは名のみのものでもない.
問題の要となるのは,実はオブジェクト論であると言ってもよいというのが,現在の
私の見通しである.オブジェクト論については,中畑正志『魂の変容:心的基礎概念の
歴史的構成』(岩波書店,2011 年)という名著がある.そこでの分析と結びつくとこ
ろも多いが,シャルペの分類で注目したいのは,アウレオリである.ペトルス・アウレ
オリはドゥンス・スコトゥスとオッカムの中間にあり,初期唯名論者として有名である
が,その唯名論は,志向的存在(esse intentionale),仮現的存在(esse apparens)を
めぐるものだった.なぜそのような道筋が現れるのか,一見分かりにくいが,普遍は概
念としてあるというのが,古代から近世に足るまで標準的見解なのである.これは唯名
論者であろうと実在論者であろうと共通である.そして,普遍が事物としてあると述べ
た実在論者はほとんど存在しないし(ウィクリフなどは別だが),普遍が名称でしかな
いと述べる唯名論者も存在しないと言ってよい.
問題は概念としての普遍がいかなるものかということになる.近世に入り,スアレス
は,客象的概念(conceptus objectivus)と形相的概念(conceptus formalis)に分け,
普遍の問題も存在一義性の問題も,客象的概念の一性に問題の焦点を見定めた.スアレ
スは,アヴィセンナからヘンリクス,スコトゥス,アウレオリ,オッカムに至る問題の
系譜をかなり正しく整理していると思われる. 普遍論争は,存在論というよりは,半
ば認識論の問題なのである.今回の発表では,普遍論争をオブジェクト論として捉え,
その基本的流れを整理することを目指したい.
13
ワークショップ
モーリス・ブランショとジャン=リュク・ナンシーの
共同体論をめぐって
●伊藤亮太(早稲田大学)
モーリス・ブランショにおける「関係なき関係」をめぐって
●渡辺健一郎(早稲田大学)
ジャン=リュック・ナンシーの共同体論における「死」の位相
●伊藤潤一郎(早稲田大学)
『ジャン=リュック・ナンシー『声の分有』読解
14
モーリス・ブランショにおける「関係なき関係」をめぐって
伊藤亮太(早稲田大学)
モーリス・ブランショの『明かしえぬ共同体』がジャン=リュック・ナンシーの『無
為の共同体』への応答として書かれたことはよく知られている。同様に、ナンシーが自
らの書物のタイトルに冠する「無為」という概念がブランショに由来していることも周
知のとおりだろう。こうした事情が一つの要因となって、両者の共同体論はほとんど同
様の試みとして扱われてきたように思われる。確かに両者は、ジョルジュ・バタイユの
思想から新たな共同体理論を構築しうる、と考えている点で同意している。その新たな
理論とは「何らかの集合的位格への融合」を排除した共同体を志向するものである。し
かしながら、共同体ないし人々の関係の基礎として扱われるものは、それぞれ異なって
いる。ナンシーにとって共同体の基礎となるのは「共に」、
「分有」、
「共‐存在」などだ
と言っていいだろうが、ブランショはこれらすべてを決して積極的には評価してはいな
い。
そこで本発表では、長らく見過ごされてきたブランショとナンシーそれぞれの共同体
論の違いを問題にしつつ、ブランショがどのような仕方で、いかなる共同体の可能性を
描出しようとしていたのかを論じていく。主に扱うのは『明かしえぬ共同体』ではなく、
それ以前の著作、特に『終わりなき対話』である。この著作では明示的に共同体ないし
共同性について論じられているわけではないが、エマニュエル・レヴィナスの『全体性
と無限』の受容の結果として、他なるものといかに関係するかという問題が全編の通奏
低音となっていると言える。そしてこの取り組みの読解から見出されるのは、ブランシ
ョが存在さえ共通のものとして持つことがないとみなす関係、いわば関係なき関係とい
うあり方なのだ。
「関係なき関係」といった撞着的表現はブランショの著作に頻繁にみられるものだが、
これは彼の共同体論を考えていくうえで一つの重要なカギとなっている。というのも、
ここで二つの同じ語のあいだに置かれた「…なき sans」は、前後の語を切り離しなが
ら結びつける、媒介なき媒介となっているからである。著作のタイトルとして用いられ
ている「対話 entretenir」という語にブランショは、こうした媒介なき媒介としての「あ
いだ entre」を「保つ tenir」という意味を見出している。この点において entretenir
は dialogue と決定的に区別される。ブランショにとって dialogue とは「二つのロゴス」
でしかなく、つねに同一性にもとづいた弁証法的二者関係にすぎないのである。
したがって、ブランショが『終わりなき対話』で目指すのは、「ロゴス」に回収され
ないような「対話」の言葉の在り処を標定することとなる。そして「対話」における言
15
葉はそれ自体同一性としての意味を逃れるものとなるだろう。これをブランショは「中
性的なもの」と呼ぶ。原義としてラテン語の「ne uter(一方でも他方でもない)」を持
つこの語は、誰に対しても非固有のもの、誰にも我有化されえないなにものかを言わん
としている。この「中性的なもの」から発した「関係なき関係」の様相を描くこと、こ
れが本発表の目論見となる。
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ジャン=リュック・ナンシーの共同体論における「死」の位相
渡辺健一郎(早稲田大学)
「共同体の哲学者」
、ジャン=リュック・ナンシー。彼は一般にそう呼ばれることが
多い様に思う。
『無為の共同体』という出世作がまさしく彼を「共同体の哲学者」たら
しめているのであるが、ここでいう「共同体」がどの様なものであるかということは、
必ずしも明らかにされているとは言えないだろう。ナンシーの共同体論は彼の用いる中
心的な諸ターム―有限性、分有、特異性、複数性、意味、創造、自由等々―と共に、そ
してそれらと同時に理解されなければならない。本発表では、中でもとりわけ「有限性」
という問題にこだわってナンシーの共同体論にアプローチしたいと考えている。
例えば『無為の共同体』における以下の様な言表が問題となるだろう。「共同体は有
限性を露呈させるのであって、その有限性にとって代わるものではない。共同体とは結
局、それ自体この露呈と別ものではないのだ。共同体とは有限な存在たちの共同体であ
り、それ自体がそのようなものとして有限な共同体である」
(p.49)。この記述は当然「死」
の問題と共に考えられなければならないが、端的に「有限性=死」とするのは誤りであ
る。すなわち「共同体は有限性を露呈させる」という文言を、「共同体によってわれわ
れが死すべき存在であるということが開示される」などと理解してはならないというこ
とだ。この様な理解では、ナンシーの哲学を、彼の批判する「営み=作品 〔œrvre〕 の
領域に属する共同体」の枠に閉じ込めてしまうことになるだろう。
「無為=脱作品化 〔désœuvré〕」に関わる有限性と死が問題なのだ。ここで大きな
参照項となるのは『複数にして単数の存在』である。『無為の共同体』では、「共存在
〔Mitsein〕」の存在論的な読み直しが大きな問題として掲げられていた。しかしこの時
点ではハイデガーという固有名はあまり登場することはない。その続編ともいえる『複
数にして単数の存在』
、とりわけその11~13章において、ハイデガーへの直接的な
言及を多く見ることができる。ここでの有限性、死をめぐるハイデガーとの差異を確認
することで、改めてナンシー哲学における共同性が浮き彫りになるだろう。それゆえ、
本発表では『存在と時間』における死と Mitsein の扱われ方に言及した後、それに対す
るナンシーの応答を検討する。
参考文献
ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』西谷修、安原伸一朗訳、以文社、2001
年
ジャン=リュック・ナンシー『複数にして単数の存在』加藤恵介訳、松籟社、2005 年
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『ジャン=リュック・ナンシー『声の分有』読解
―ハイデガーとデリダの交錯のなかで―
伊藤潤一郎(早稲田大学)
ジャン=リュック・ナンシーは、フィリップ・ラクー=ラバルトとともにデリダ派と
称され、デリダの思想から大きな影響を受けて思索を始めた哲学者であり、その思想の
最大のテーマは共同体についての問いである。ナンシーが共同体についての思考を始め
たのは、
『無為の共同体』
(1986)の雑誌初出年である 1983 年頃とされているが、本発
表で読解の対象とする『声の分有』は、1982 年に出版され、
「分有 partage」という語
が共同体との関係で初めて語られたテクストである。そこでの中心的なテーマこそガダ
マーをはじめとする解釈学批判なのだが、解釈学批判が最終的に共同体の問題系に接続
されるところに特徴があり、
『無為の共同体』に先立つナンシーの共同体についての最
初期の思考が表れているテクストだといえる。
『声の分有』においてナンシーは、近代解釈学が意味の根源を想定し、解釈学的循環
を通じて、最終的に意味の十全な現前を目指していることを批判する。このような意味
の根源を想定しない解釈学的循環の可能性を見出すために、ナンシーはまずハイデガー
の『存在と時間』における解釈学的循環の議論を読解する。現存在と存在の関係におい
て、存在は意味の根源ではなく、現存在との関係としてのみあり、現存在にはつねに他
なる意味が告知される。
『存在と時間』における現存在と存在の関係を、他なるものへ
の開けと解釈するナンシーの読解には、デリダの「差延」、
「痕跡」の思考の影響が見ら
れる。そしてデリダの思想とハイデガーの思想の交錯する地点に立ちながら、ナンシー
はプラトンの『イオン』の読解へと向かう。ナンシーは吟誦詩人の特異な能力をめぐる
この対話篇を、特異な声の受容と告知の連鎖として、差異をともなった複数の声の伝達
として読解する。そしてこのような声の分有としての共同体が提示されるのだが、ここ
においてもデリダの「差延」
、
「痕跡」の思考の影響が見出されるのである。
『声の分有』におけるナンシーの議論をこのように整理していくことによって、ナン
シーの共同体についての最初期の思想の輪郭を明らかにすることが本発表の目標の一
つである。そしてそこでは、ナンシーの思想に大きな影響を与えた哲学者として挙げら
れるデリダとハイデガーのナンシーへの影響を垣間見ることができるだろう。分有とい
う語が共同体との関係で初めて語られるテクストにおいて、その語が現れる背後にハイ
デガー、デリダの思想があったことを明確にしたい。「ナンシーとデリダ」、「ナンシー
とハイデガー」という思想史的テーマは非常に大きなテーマであるが、その一端を明ら
かにすることが本発表のもう一つの目標である。
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個人研究発表
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『意味の論理学』における意味の理論と出来事の概念について
鹿野祐嗣(早稲田大学)
フランス現代哲学の隆盛と分析哲学の成立を見ればわかるように、20 世紀の哲学は
様々な立場や見解を超え、一貫して出来事と言葉という二つの問題圏をめぐっていたと
言っても過言ではない。その中でもとりわけドゥルーズの『意味の論理学』は、出来事
の概念に基づく形而上学を展開しつつ、その出来事を語るために論理学や意味の理論に
も焦点を当てたことにおいて、出来事と言葉、形而上学と論理学を架橋しようとする画
期的な書物であった。そこで本発表ではまさに『意味の論理学』のこうした側面に焦点
を当て、ドゥルーズが形而上学的な出来事の概念と論理学における意味の理論を交差さ
せたことの意義を、哲学史的な観点から明らかにすることにしたい。
具体的な内容としては以下のようになる。
第一節では、ドゥルーズの出来事の形而上学を解説する。ドゥルーズは、実際に起き
た出来事を「偶発事(accident)」と呼び、実現されたものから切り離されてそのもの
として捉えられた「純粋な出来事」ないし「端的な出来事」と明確に区別している。純
粋な出来事とは、それ自身においてはいかなる現前の契機も持たない純粋なポテンシャ
ルに他ならない。それはまさに感覚的事物とは異なる「理念的(idéel)
」あるいは「理
想的(idéal)
」なものであり、経験的な次元ではなく超越論的な次元、物理的な次元で
はなく形而上学的な次元に属している。そしてこの超越論的な出来事の実現こそが、既
成の事物や状態を変形して何か新しいものを創造していくのである。
第二節では、こうした形而上学的な出来事と命題論理学との関係を検討する。また、
出来事の概念をフレーゲの意味論とマイノングの対象論に接続し、ラッセルの記述理論
と対比させることで、出来事の形而上学に基づいた意味の理論と誕生時点での分析哲学
との関係をも明らかにする。ドゥルーズによれば、出来事こそが命題の<意味>だとい
う。だが、この<意味>とは、ラッセル以降の分析哲学が扱う記述理論では捉えきれぬ
ものであり、むしろ分析哲学と交差しながらも論理学には収まりきることのなかったフ
レーゲの意味論やマイノングの対象論に通じるものなのである。
第三節では、この特異な出来事=意味の次元が、中世スコラ哲学における「普遍」や
ストア派の論理学における「レクトン(語られうるもの)」に通じていることを示す。
ドゥルーズの出来事の形而上学と意味の論理学は、まだ形而上学と論理学が粗雑に切り
離されてはいなかった時点にまで遡ることで、その輪郭がより明確になるのである。
このようにして展開される本発表は、ドゥルーズとともに哲学史を横断しながら「出
来事」
「意味」
「普遍」といった概念を扱うことになるだろう。大陸系の形而上学と英米
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系の分析哲学といったおそらくはあまり実りのない対立構図を括弧に入れて、本発表が
出来事と言葉について改めて思考を促す契機となることを願う。
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ウィトゲンシュタイン解釈における超越論的自然主義批判
—「訓練」 と「自然誌」の検討を通して
槇野沙央理(千葉大学)
ウィトゲンシュタインは『哲学探究』198 節の対話的記述において、「規則の表現は
私の行動とどういう関わりがあるのか」という問いに対し、「私はこの記号に一定の仕
方で反応するよう訓練されているから、こんどもそのように反応する」と答える。この
回答は、規則遵守に因果的説明を与えたのではなく、「人はある恒常的な慣用、ある慣
習のあるときに限って道しるべに従う」ことを「暗示」しているのである。
マリー・マッギンは“Wittgenstein and Naturalism”
(2010)において、ウィトゲ
ンシュタインのこうした姿勢を「自然主義的傾向」と呼んだ。マッギンによれば、ウィ
トゲンシュタインは、訓練や実践が背景となって規則遵守が意味をもつようになると考
えていた、という意味で自然主義的である。マッギンの考察は、規則遵守の可能的条件
を訓練の考察によって与えようとするものであり、これを超越論的自然主義と呼ぶこと
ができる。
本発表の目的は、超越論的自然主義がウィトゲンシュタイン解釈として不適切である
ことを証明することにある。そのために、ウィトゲンシュタインの訓練に関する記述と、
「自然誌」概念の検討を行う。
第一に、ウィトゲンシュタインの訓練に関する記述の検討では、
『心理学の哲学』2 巻
300 番台前半の節に着目する。ウィトゲンシュタインにとって訓練の考察が、規則遵
守の背景を与えるためではなく、概念の本質的な特性(
「内的性質」
)を明らかにするた
めであることを示す。ウィトゲンシュタインが、
『哲学的文法』1 巻 43 節において「前
史」や因果的説明を関心外としたのも、同じ理由によるものと見なせるだろう。
第二に、ウィトゲンシュタインの「自然誌」概念の検討では、
『数学の基礎』に登場す
る「自然誌」や「人類学」に着目する。発表者の考えでは、ウィトゲンシュタインが「自
然誌」という概念によって示そうとしたものは、人間の営みとして言語操作の記述を眺
めた際、そこに規範性が内在していることを見てとることである。このことから規則遵
守が成立していることを示し、ウィトゲンシュタインはその可能的条件としての訓練を
考察していたわけではないことを明らかにする。
『哲学探究』219 節で「規則に盲目的
に従っている」と言われるのも、こうした事情のもとに読まれるべきであろう。
発表者は、こうした検討によって超越論的自然主義を退けたのち、ウィトゲンシュタ
インの自然主義的傾向を、
「共助関係」という独自の概念によって特徴付ける。
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『純粋理性批判』における原則について
岩井拓朗(東京大学)
本発表は、
『純粋理性批判』
(以下『批判』)
「純粋悟性のすべての原則の体系」におけ
るカントの考えを明らかにし、時間空間とカテゴリーの関係についての理解を前進させ
ることを目指す。
哲学の歴史において認識とその対象との関係は繰り返し問われてきた問題だと言え
る。この問題に対して、独自の方針に基づいて解答を与えようとしたのがカントの『批
判』である。認識の対象成立を、私たちの認識能力と不可分なものとして考えるという
のが彼の基本的な方針であり、これは今日では「コペルニクス的転回」の名で知られて
いるだろう。このカントの方針はマクダウェルの仕事により新たな光を当てられ、再び
注目されるようになったと言える。
こうした背景の下で実際の『批判』の記述に目を向けてみると、時間空間とカテゴリ
ーを関係させるというアイデアに私たちはぶつかる。時間空間は直観形式として、私た
ちが対象に出会う仕方という形で特徴づけられている。他方カテゴリーは私たちの概念
的な能力の中核的なはたらきに由来するものという形で特徴づけられている。したがっ
てこのアイデアは、概念的な能力の下で対象との出会いを考える方向性をもっていると
言えるだろう。そしてこのアイデアの重要性は、カント解釈の文脈にとどまらず、認識
と対象との関係に関する問題圏にまで及ぶと思われる。
しかしこうした重要性にも関わらず、そのアイデアの内容はそれほど明らかにされて
いないのが現状である。背景の一つには、「原則の分析論」内の「純粋悟性のすべての
原則の体系」という箇所が正確に理解されていない状況があると思われる。ここは、原
則と呼ばれる一連の命題がカ テゴリーに対応する形で導入され、これによって問題の
アイデアが比較的具体的に展開されている箇所である。したがってこの箇所の理解は、
問題のアイデアの評価に直結すると言える。そして当該箇所の理解のために必要なのは、
こうした命題の位置づけや、そこでのカントの狙い、そして カントが採用している戦
略についての正確な理解である。しかし発表者の見るところ、これらの要素はしばしば
看過ないし誤解されており、その結果問題のアイデアの正体が見えにくくされているよ
うに思われる。
そこで本発表はこれらの要素をカントの記述から明らかにし、それによって時間空間
とカテゴリーとの関係に関するアイデアの理解を前進させることを目指す。「純粋悟性
のすべての原則の体系」でカントは何をやろうとしたのか。彼はそこで何をどのように
して達成したのか。これらの 問いに答えることが本発表の課題である。本発表は、ま
23
ず「経験」や「客観的妥当性」などの基礎的な術語の理解から出発する。これによって
当該箇所で原則を導入したカントの狙いが理解されるだろう。また問題のアイデアの内
容に関しては、限定的ではあるものの、原則の一つである 「直観の公理」に注目し、
時間空間(特に空間)とカテゴリーの関係としてカントが考えようとした事柄の内実を
ある程度まで明らかにする予定である。その際にはカントが時間空間とカテゴリーの関
係を明らかにする際に採用した戦略への着目が必要になるだろう。
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自然の美的鑑賞における認知モデル―生態学的知識の観点からの批判的検討―
青田 麻未(東京大学)
本稿の目的は、環境美学における自然の美的鑑賞モデルのひとつである認知モデル
について生態学的知識の観点から検討を行うことで、このモデルの乗り越えるべき問題
点を明確化し、その批判的な発展形である<制限的認知モデル>の可能性を示唆するこ
とである。ここでいう認知モデルとは、<自然を美的に鑑賞する際には自然に関する知
識が重要な役割を果たす>と考える立場である。認知モデルは、環境美学という分野の
成立そのものと内在的に関係している。
環境美学の勃興の背景には、美学内的な要請と美学外的な要請が存在していた。第一
に美学内的には、自然の美学の復権が要請された。たとえば、英米環境美学者の嚆矢と
も言うべきロナルド・ヘプバーンは、19 世紀以降の西洋美学がその対象を芸術に限る
傾向にあったことに対し、自然もまた再考する価値ある対象だと主張した。彼はその際
に、自然を芸術作品のようにではなく、まさに「自然として」鑑賞するために求められ
る条件として、科学的真実の必要性を求めた。第二に環境美学は、美学外的な意味で、
環境保護論によって要請された。アルド・レオポルドに典型的にみられるように、北米
の環境保護論は美と密接な関係を築いてきた。そうした論調を受けて勃興した環境美学
にあって、自然に対する倫理的判断と美的鑑賞を架橋しているのが、生態学の知識に代
表される科学的知識なのである。こうした歴史的経緯によって、科学的真理・知識を重
視する認知モデルが重要なものとして注目されることとなる。
認知モデルの代表的な論者であるアレン・カールソンは、<自然の適切な美的鑑賞に
おいては、対象に関する常識的/科学的知識が必要である>という論を展開した。この
常識的/科学的知識の中でも特に重要なものとして、生態学的知識が挙げられる。これ
はカールソンに続くその他の認知モデルの論者(たとえば Yuriko Saito など)にもお
おむねあてはまる傾向である。そこで本稿では、生態学的知識に注目することで認知モ
デルを検討し、その問題点を指摘する。
第1節では、生態学的知識に注目した際の美的鑑賞の対象をめぐる問題について論じ
る。生態学的知識に注目すると、その美的鑑賞の対象が生態系全体となることにつなが
りかねない。また、それを避けて美的鑑賞の対象を個々の事物に限定しても、その際に
美的なものは当の事物であるのか、あるいはその事物が持つ生態学的な秩序であるのか
は不明なままである。第2節では、生態学的知識が我々の知覚を変容させることが正し
いとして、その変容は美的な変容と呼べるのかという問題について論じる。認知モデル
の論者は、我々が知識を持って対象を鑑賞することではじめて見出される美的性質があ
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ると主張するが、これが本当に美的であるのかについては十分な論証がなされていない。
第3節では以上の問題点を指摘している先行研究への再反論を通じて、今後なされる課
題としての<制限的な認知モデル>の構築の可能性を示唆し、認知モデルそのものを棄
却する必要はないと結論づける。
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人生における過去の物語化と計画概念 −何が人生を構造化するのか−
長門裕介(慶應義塾大学)
我々は、いつもではないにせよ、何らかの関心や契機に導かれて、現在だけではなく、
「これまでのこと」や「これからのこと」を巻き込んだ人生全体に思いを巡らせること
がある。単に過去の経験を思い出したり、何かを行為しようと思うだけでなく、それを
人生全体と結びつけて考えるときのある種独特の感覚については、例えば「実存論的不
安」や「不条理」の問題として哲学の議論にたびたび登場してきたものである。
さて、もし我々が自分自身の人生全体、あるいは少なくとも長期的な幅を持った出来
事を把握し、それに対して意味を見出そうとするならば、現在の欲求状態だけではなく、
過去に対するものと未来に対するもの、その二つの志向を持つことが必要になるように
思われる。本発表では、過去に対する態度についてはポール・リクールが提案した「(過
去の)物語化」の概念を、未来に対する態度についてはマイケル・ブラットマンによっ
て知られる「計画」の概念を、それぞれ人生全体を語る上で最も馴染むものとして取り
上げたい。かいつまんでいえば、リクールの物語論は一定の関心に従ってこれまでの人
生のなかで起きた経験を合理的かつ理解可能な仕方で構造化することを上手に説明し
てくれるのに対し、計画概念は、それは我々のこれからの行為を合理的に制御する指針
を与える下図を提供してくれるものである。
このような準備を行った上で、さしあたり問題になるのはこの二つの志向の関係であ
る。ごく日常的な場面においても、我々はこれまでのことを振り返ってそれを評価・点
検したり、これからのことを計画して、それと適合するようにおおまかに行為の連関を
定めたりする。さてそのとき、過去の物語化と計画は我々のなかでどのような関係にな
っているだろうか。もう少し突っ込んでいえば、それらは我々が今立っている現在を蝶
番にして、対称的な関係になっているのか、そうではないのか、どちらなのだろうか。
これを確認することが第一の課題である
二つ目の問いはより根本的なものである。それは、なぜ我々は過去に対しては「そん
な昔のことは忘れた」と言ったり、未来に対しては「そんな先のことはわからない」と
言ったりせずに(つまり現在しかない、という態度を取らずに)、過去や未来を志向し
てしまうのか、という点に関わっている。これについては、過去の物語化や計画といっ
たものが、人生の意味や価値を把握しようとする場面で、どのような意義を果たしてい
るかを考察することで答えることになる。
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前期フィリッパ・フットにおける道徳の合理性の問題
五味 竜彦(慶應義塾大学)
人はなぜ善いことをするのだろうか。あるいは、なぜ善い行為をすべきであると考え
られているのか。こうした道徳的行為の理由を巡る問題は、古代ギリシアの時代から続
いてきたといえるが、その問いに対しては大きく二つの答え方があるといえるだろう。
ひとつは道徳的行為の結果にその理由を求めるものである。すなわち、道徳的行為は行
為者自身にとって利益となるという理由から道徳的行為を肯定しようとする主張であ
る。もうひとつは、道徳的行為の動機に理由をもとめるものである。ここには、道徳的
行為を行うこと自体が行為の理由となりえるという主張や、道徳の要求の普遍性や不可
避性に訴える主張が含まれるだろう。
しかしどちらの答え方においても、問題が生じてしまうように見える。もし前者を採
用するならば、行為者の利益にまったくならないような善い行為(例えば公平な取引や
約束の遵守など)をするための理由が生じえないという問題が想定されるだろう。また
後者を採用した場合は、なぜ行為者の自己利益や欲求に関わらず道徳の要求に従う必要
があるのかという問題や、他人の幸福に喜びを感じる人が決して道徳的に善いと評価で
きないという問題が生じてしまう。このように、道徳的行為の理由に関する問題には、
自己利益と道徳的善、道徳判断の方法、行為の理由などといった様々な要素が含まれて
いたため、現在にいたるまで困難な問題であり続けてきたといえるだろう。
そうした背景を踏まえた上で、本発表ではフィリッパ・フット(Philippa Foot)が
行った議論を検討し、道徳的行為の合理性について考えていく。フットは現代に徳倫理
学を復権させた第一人者のひとりとして広く知られているが、その一方で、道徳判断や
道徳的行為の理由等を考察したメタ倫理学的な議論を数多く行っている。今回はその中
でも彼女が前期から中期にかけて行った議論を検討する。なぜなら、この時期にフット
は、まさに先述のような道徳的善と行為者の自己利益の不一致という問題や、道徳がそ
れ自体で行為の理由を与えると主張する理論への反論を行っており、道徳的行為の合理
性を考慮する際に非常に有用であると考えられるからである。
そこで、本発表は大きく分けて三つの内容に分けられるだろう。まず、フットはこの
時期に、道徳的善と行為者の自己利益・欲求との関係について自身の見解を大きく変化
させている。そのため、彼女の考え方の変化を整理することが第一の内容である。次に、
フットはそうした思想的変化を経て、ひとつの大きな結論に達し、「仮言命法としての
道徳」というひとつの理論を考案している。ここでの見出される理論とはどのようなも
のか、それを見ていくのが第二の内容となる。更に本発表では、ここで示された「仮言
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命法としての道徳」を理解するうえで鍵となるのが、徳の概念であるという見解を取り
たい。要約すれば、フットは道徳的善と自己利益や欲求の関係を、徳の概念を介在させ
ることで、それぞれを包括的に結び付けてようとしたのではないかと提案するつもりで
ある。このように第三の内容として、フットの理論において、徳の概念がどのように作
用しているかを検討していく。以上の議論を通じて、前期から中期にかけてのフットの
理論が、道徳的行為の理由という問題に対して解答し得るかを検討していきたい。
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『言説、形象』を読む――「抗争」の場としての言説――
渡邊雄介(早稲田大学)
本発表では、ジャン=フランソワ・リオタールの 1971 年の著作『言説、形象』の議
論の読解を行う。彼の構造言語学、言語哲学、現象学、精神分析等を横断していく議論
を、「言説」概念をキーワードにして読解することが本発表の目標である。この際、彼
が語る「言説」とはどのような性質をもつものなのかを明確にしようと思う。またその
上で、単なる議論の整理にとどまらず、彼の後期思想のキーワードである「抗争
différend」という側面が、既に前期の代表的著作である『言説、形象』のなかにも潜
んでいるということを示したいと思う。具体的な議論の論点は次の様になっている。
第一節では、そもそも『言説、形象』とは何を問題にしている著作なのか、という問
いを扱う。そして、そこではある種の「テクスト」概念に対する批判が行われているこ
とを確認する。リオタールが批判するのは、感覚的なものを知解可能なものに還元しよ
うとする構造言語学や記号論的言説の全体化的傾向である。この時、テクストに還元さ
れえない「厚みを持った視覚的なもの」が存在しているというのがリオタールの大きな
主張なのである。言い換えれば、テクスト、言説、形象はどのように絡み合っているの
かという問いこそが、
『言説、形象』が全体を通して取り組んでいる問いである。
第二節では、リオタールが言う「言説」とは何かという問題を扱う。彼は「言説」は
「シニフィアン」
、
「シニフィエ」
、
「指示されたもの designé」の三幅対によって成り立
っていると述べる。これによって彼が何を言わんとしているのかを理解する為に、リオ
タールが言及する「構造主義的否定性」と「現象学的否定性」の差異を整理し、
「言説」
という場においては、それら二つが絡み合っているということを論じる。
第三節では、形象‐像はいかに言説に働きかけるのか、という問題を扱う。これは言
い換えれば、第二節にて言及した「指示されたもの」がどのように言語構造に影響する
かという問題である。ここでは主に、フレーゲが「意義と意味について」で行った「意
義 Sinn」と「意味 Bedeutung」の区別について言及する。また、A=B 型の綜合判断
に伴う「指示されたもの」が、構造言語学が前提にする「範列関係」にどのように影響
するかが問題となる。
第四節では、
「言説」に精神分析の議論がどのように関わってくるかを問題にする。
その際、リオタールによるフロイトの「夢作業」論を論じる。ここでは、欲望の力はテ
クストを物として扱うことで、ラングの規則を侵犯する力を持っているということを論
じる。
またこのような議論から、構造主義的アプローチ、現象学的アプローチ、精神分析的
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アプローチという三つのアプローチが、言説という場においては必然的に「抗争」状態
にあることを論じたいと思う。
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チャルマーズの二次元意味論との関連で見る思考の本性――狭い内容とは何か
木田翔一(千葉大学)
思考の本性とはどのようなものか。この問いに答える際の一つの議論の枠組みとして、
思考の内容が何によって決まるのか、という論題がある。思考の内容が思考の主体の内
在的な状態の性質だけによって決定されると考える立場と、思考の内容が主体の状態と
外部の対象との関係的性質も含めて決定されるという立場がある。前者は思考の内容が
狭い内容であると主張する内在主義であり、対して後者は思考の内容が広い内容である
と主張する外在主義である。内在主義者は、思考の内容が主体の内在的状態にスーパー
ヴィーンすると考える点で、外在主義者は思考の本性が主体の外部に対する指標性を持
つと考える点で際立っている。内在的状態を共有している二つの主体が別々の環境にお
いて持つ思考を考えよう。環境の違いが主体の思考の内容に影響すると考えるならば、
外在主義の立場に加担することになり、環境の違いにも関わらず主体の思考の内容が同
じであると考えるならば、内在主義に肩入れすることになる。主体の思考の状態を個別
化するのに、外部の環境が関わってくるかどうかは重要な問題であり、思考の本性につ
いての重大な議題となる。その問いに答える際の理由づけのポイントとなるのは、思考
の内容が狭いあるいは広いと主張することが思考の性質に関するどういった帰結を持
つか、ということである。
チャルマーズは二次元意味論を狭い内容と広い内容の議論に応用し、折衷的見解を展
開している。チャルマーズは、思考の内容には外在主義的議論の教訓に適合する仮定法
的内容としての仮定法的内包と、認識的内容としての認識的内包があると主張する。認
識的内容とは、チャルマーズのアイデアによれば(1)認知システムの内在的状態によっ
て決定され、(2)それ自体真理条件的な内容であり、(3)思考の合理的な関係を反映する
ような性質である。つまり、チャルマーズは、仮定法的内容が広い内容であるとする一
方で、認識的内容が狭い内容であり、それが意味論的内容としての役割を持ち、認知と
行為のダイナミクスの中心的な役割も果たすと考えている。チャルマーズ流の二次元意
味論的な思考についての枠組みは、思考の合理的な領域が主体の内在的状態によって決
定される狭い内容であり、思考の指標的な特性を表しているのが広い内容であるという
二側面的な見方を結論する。この枠組みの下では、思考の状態の帰属も二側面的な問題
であるとされる。例えば指標的側面では矛盾しているが合理的側面においては整合的で
あるような二つの信念があり得るということになる。
本発表の目的は、狭い内容と広い内容の議論の枠組みへのチャルマーズ流の二次元意
味論の応用の可能性を探ることである。発表の流れとしては、第一に、チャルマーズ流
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の二次元意味論の枠組みが、思考の外在主義と内在主義の議論においていかなる位置を
占めているのかを明らかにする。そのため、外在主義と内在主義の議論のバリエーショ
ンを整理する必要がある。第二に、チャルマーズ流の二次元意味論の枠組みを用いて思
考の状態の帰属を考えたときにいかなる帰結がもたらされることになるのか、彼の二次
元意味論は思考の本性にどのような帰結をもたらすのかということに関して、ソームズ
による二次元意味論に対する批判も踏まえつつ、チャルマーズの議論を積極的に評価で
きる可能性を検討する。焦点は、(1)認識的内包が思考の合理的性質を例化するかどう
か、(2)思考の合理的性質は狭い内容かどうか、(3)思考の真理条件的な性質は狭い内容
かどうか、である。
33
ニーチェ的パロディーにおける弁証法
――ニーチェ「プリンツ・フォーゲルフライの歌」読解
山本哲哉(大阪大学)
本発表が取り扱うのは、ニーチェにおけるパロディーの問題、即ち、ニーチェにおけ
るパロディーの理論および実践という問題である。とはいえ、ニーチェに明示的なパロ
ディーの体系的理論があるわけではない。あるのはただ、ニーチェによるパロディーの
実践のみである。それにも拘らず、次のように問うことには意義がある。即ち、「ニー
.....
チェにおいてパロディーとは何であるか?」――というのも、彼は「パロディー」を、
..
「悲劇」でもあるはずの彼の主著『ツァラトゥストラはこう言った』を指す言葉として
もまた使うからである。そしてまた一般的に言って、「パロディー」とは「悲劇」に対
する二次的なある種の解釈のことであり、その意味で区別されている概念だからである。
従って冒頭で取り上げた問は次のようになろう。即ち、「パロディーが悲劇に、また悲
劇がパロディーに変容するということはいかにして可能であるか?」。本発表ではこの
問を(限定された形で)
、ニーチェによるパロディーの実践である、
「プリンツ・フォー
ゲルフライの歌」
(
『喜ばしき知恵』第二版付録)を手がかりに取り扱う。なんとなれば
この一連の歌に言及するときに、ニーチェは悲劇のパロディーへの変容をほのめかして
もいるからである(
『喜ばしき知恵』序文、382 番)。
パロディーとはそもそも何かをもじったもの、何かをほのめかすものであり、その意
味で何かに対する関係性を含んだ行為である。しかもパロディーは同時に、自分自身が
パロディーであると、言い換えれば、自分自身が偽物であると告白する。つまりパロー
ディーは、偽物として自身を提示しつつ、偽物に対する原型を提示している。しかもそ
の際両者のあいだには相互関係が生じており、この相互関係による効果をパロディーは
目指しているのである。
パロディーに見られるこのような或る種の弁証法。ニーチェのパロディー実践におい
てそれは、いかなる形態をとっているのだろうか。
「プリンツ・フォーゲルフライの歌」
の分析により、我々はこの問いに答えることを目指す。発表を通して我々は、ニーチェ
のパロディーが、原型とその解釈との同時的提示が生み出す効果によって原型の意味合
いを転じてしまう、このことを確認するだろう。一度この弁証法を経てしまったあとで
..
....
は、パロディーがほのめかすのは、もはや元の原型からは全く変じてしまったあらたな
原型である。いいかえればこのようなパロディーは、解釈の提示によるあらたなテキス
トの創出の試みなのである。こうした答えを、我々は冒頭で提示した問いに対する限定
的な答えとして提示することになる。
34
二次元意味論にもとづくチャーマーズのフレーゲ的意味論について
仲宗根勝仁(大阪大学)
意識の哲学の分野で有名なチャーマーズは、認識的二次元主義にもとづく二次元意味
論を提唱していることでも知られている。本稿の主題は、チャーマーズの二次元意味論、
特にチャーマーズ(2002)で打ち出されたフレーゲ的意味論について考察することであ
る。その論文におけるチャーマーズの二次元意味論がフレーゲ的意味論と目されるのは、
彼が自身の意味論における認識論的内包(一次内包)がいわゆるフレーゲ的意義に類す
る役割を果たすからである。
チャーマーズによれば、認識的内包は認識的可能性(シナリオ)との関係から定義され、
また(フレーゲより弱い意味ではあるが)認識的内包は外延を決定する働きをも持つ。こ
のような働きをする認識的内包は、確かに、認知的意義を反映しまた対象同定の役割を
も担うフレーゲ的意義に類似しているように思われる。しかしながら、このようなフレ
ーゲ的枠組みを採用する、あるいは認識的側面を意味論に導入すると、たちまちクリプ
キによる記述群理論批判に類するような批判に晒される。というのも、あらゆる通常の
固有名は意義を持つというフレーゲ的見解は、固有名の意味はその指示対象のみである
というクリプキ以降支配的な見解と相容れないからである。そこで考察すべきは、フレ
ーゲ的意味論一般に当てはまるようなクリプキの議論、いわゆる様相の議論と認識の議
論がチャーマーズのフレーゲ的意味論にも当てはまるのか、ということである。このこ
とに対してチャーマーズは、クリプキの議論はチャーマーズのフレーゲ的意味論には当
てはまらない、あるいはクリプキによる記述群理論批判はチャーマーズのフレーゲ的意
味論と整合的である、というものである。このチャーマーズの結論が果たして正当かど
うか、正当でないとするといかなる問題を解決しなければならないのか、ということを
明らかにするのが本稿の中心的課題である。
このような問題意識を持ったうえで、第1節ではチャーマーズのフレーゲ的意味論を
粗描し、第2節ではクリプキによる様相の議論と認識の議論を確認し、第3節ではクリ
プキの議論に対するチャーマーズからの応答を紹介し、第4節では、チャーマーズのフ
レーゲ的意味論はクリプキの批判を逃れているわけではない、あるいは少なくともクリ
プキの議論の根底にある言語観とチャーマーズのそれとは根本的に異なるために、議論
がすれ違っている、ということを明らかにする。最後に、チャーマーズがクリプキの議
論を正当に扱い応答するためには、結局のところ、クリプキ以来広く支持されてきた固
有名の直接指示性(あるいは純正指示性)を再考し、チャーマーズの言語観が私たちの言
語直観に合うことを示すか、あるいは、チャーマーズのフレーゲ的意味論の方がより多
35
くの言語哲学的問題を納得のいく仕方で解決するということを示さなければならない、
ということを指摘する。
36
自然主義的な道徳実在論に基づく道徳的知識の批判的検討
小林知恵(北海道大学)
現代の道徳認識論の中心をなす問題として、「道徳的知識は存在するのか(しうるの
か)」という問いが存在する。古典的な知識の定義(行為者 S が P を知っているのは、
(1)S が P という信念を持っており、かつ(2)S の P という信念は真であり、かつ(3)S の
P という信念は正当化されている場合であり、その場合に限られる)に依拠し、「道徳
的知識とは、正当化された真なる道徳的信念である」という定義を採用した上で、自然
主義的な道徳実在論に基づく道徳的知識を批判的に検討する。ゆえに、扱う知識の範囲
を命題知に限定し、徳倫理学理論などと結びついている実践知については取り上げない
ことをお断りしておきたい。
「真理」
「正当化」
「信念」が意味するものを理解する仕方によって、道徳的知識の定
義に多様な解釈を加えることができる。例えば、「道徳的言明は話者の態度を表してい
る」とする表出主義者は道徳的知識の存在を主張できないように一見思われるが、真理
のミニマリズムを採用することによって自身のメタ倫理学上の立場と道徳的知識が両
立すると主張している。本発表ではこの表出主義をめぐる論争には立ち入らず、道徳的
事実の存在を認め、道徳的知識の対象を道徳的事実と解する道徳実在論に基づく道徳的
知識のみを検討の対象とする。
道徳実在論に基づく道徳的知識の説明は、大まかに三種類に分類することができる。
(a)道徳的知識は神学に基づくものである、(b)道徳的事実は神的でも自然的でもなく、
独特の仕方で(直観的)に知ることができる、(c)道徳的事実は科学的に探求される自然
界の一部をなすものであり、観察によって知ることができるとする三つの立場がある。
本発表では、これらのうち(c)の自然主義を主に扱うが、さらに還元主義的自然主義的実
在論と D. ブリンクの非還元主義的自然主義的実在論に分類しそれぞれに対して批判
を加えていく。具体的には、前者の問題点として、還元による説明を以てしても、なお
自然的な事実と規範の間に埋められるべきギャップが存することを指摘する。後者の問
題点としては、科学哲学の領域において受容されている道具主義的な真理概念を道徳認
識論に適用することが困難であることを指摘する。すなわち、道徳認識論においてはあ
る特性が最善の説明に役立っているからといって、その特性を支える信念が正当化され
るわけではないということを指摘することによって、ブリンクの非還元主義的自然主義
的実在論に対する批判を提示することを試みる。
37
音楽作品の反実在論について
‐ロス・キャメロンの議論を検討する‐
田邉健太郎(立命館大学)
本発表では、「音楽作品は世界のうちに存在しない」と主張するロス・キャメロン
(Cameron, Ross.)の議論を概観し、それに対して提起されている反論を取り上げる
ことによって、その論争点を正確に見積もることを目的とする。キャメロンがそれらの
反論に再反論できるか、などの考察は、文字通りこれからの課題とする。
キャメロンは次のようなトリレンマを示す。
1.音楽作品は創造される
2.音楽作品は抽象的対象である
3.抽象的対象は創造されない
これらの文は、それぞれ直観にかなうと考えられているものの、併せて考えるときに
不整合が生じる。従来の音楽作品の存在論では、音楽作品を永久に存在するものと考え
て(1)を否定する(Dodd, Julian.など)か、創造される抽象的対象を提唱して(3)
を否定する(Levinson, Jerrold.など)か、いずれかの立場が選択された。
キャメロンはこのトリレンマをどのように論じているか。キャメロンの提案の背後に
は、二つの動機がある。第一に、彼が考えるところの直観に適う主張を擁護することで
ある。第二に、存在論を複雑化することを避けることである。こうした動機を背景とし
て、キャメロンは次のように述べる。(1)と(2)は真であるが、(3)は偽である。
というのも、世界の基礎的なありかた(the way the world is fundamentally)は、特
定の抽象的対象が創造されることを宣言する日本語文を真とするからである。また、
(3)は直観的な主張ではなく、存在論的な動機に支えられた主張であるから、「直観
的な主張の擁護」に反するものではない。他方で、世界は基礎的には音楽作品を含んで
はいないと主張する。日本語の文「音楽作品は創造される」を真とする世界の基礎的な
ありかたとは、作曲家が特定の音の構造を指し示し(indicate)、演奏のための指示
(instruction)を規定することであって、音楽作品という新しい存在者が存在し始める
ことではない。したがって、
「存在論を複雑化することを避ける」という動機もみたさ
れる。
発表は、以下のような構成となる。第1節で問題の所在を確認したのちに、第2節で
はキャメロンの議論が多くを負っているレヴィンソンの議論を簡潔に概観する。第3節、
第4節において、要旨にごく簡潔に示したキャメロンの議論を詳しく確認したのちに、
第5節でキャメロンに対する反論を示す。
38
社会科学・行動科学における科学的実在論 ――Trout の測定実在論の批判的検討
太田陽(名古屋大学)
本発表では、
科学哲学者 J.D.Trout の唱える科学的実在論の 1 ヴァージョンである「測
定実在論(Measured Realism)
」を取り上げて、従来、科学的実在論論争において提
案されてきた実在論のいくつかの立場との比較をおこなう。また測定実在論が反実在論
からの批判に答えられているかどうかを考察する。
科学的実在論論争の中心は、科学理論で措定される観察不可能な対象が存在するのか
どうかという問題であった。Trout によれば、その論争のなかで従来の実在論の立場は
もっぱら物理学を典型例とする成熟した科学を扱っており、社会科学・行動科学のよう
な未成熟な科学の状況をうまく説明することができていないと言う。
一方で Trout は、社会科学は未成熟ながらも定量的な研究方法を採用(たとえば、心
理学における統計をもちいた心理測定法の使用など)することによって、科学としてあ
る程度の成功をおさめているとみなす。そして、この成功を説明するために、社会科学
でおこなわれている測定にかんして実在論の立場を採る。Trout が自ら「測定実在論」
と呼ぶ彼の主張は、以下のテーゼからなる。
(1)社会科学の定量的な方法のうちのいく
つかは、理論によって措定された対象を検出・同定しており、(2)社会科学の理論は、
その方法によってときどき確証されている。
(3)その確証関係は「認識的に一口大」で
あり、それゆえ理論のある部分は確証にかんして外的な「脂肪」のようなものである。
(4)社会科学の理論によって記述される実在はその実在の認識主体としての私たち人
間から独立である。
測定実在論は、Boyd に代表されるロバストな実在論と、Hacking に代表されるミニ
マルな実在論の中道を行くとされる。ロバストな実在論は、成熟した科学において理論
語は指示し、理論は近似的に真であることを主張する。ミニマルな実在論は、操作可能
な理論的対象の存在のみを主張し、理論の近似的真理にはコミットしない。これら既存
の立場と比較すると、測定実在論は、社会科学における測定の結果を因果的に引き起こ
す何らかの構造/傾向性の存在にのみコミットメントを限る点で、ロバストな実在論に
比べて弱い主張である。一方で測定実在論は、社会科学の理論一般の近似的真理にはコ
ミットしないが、局所的な法則的一般化の近似的真理にはコミットしており、ミニマル
な実在論に比べて強い主張であると言える。このように中間的な穏当な主張をおこなう
測定実在論が、他の立場と比べて社会科学の実態の説明として妥当と言えるのかどうか
評価をあたえる。
また、測定実在論は、奇跡論法に類する最良の説明への推論にもとづいて実在論を擁
39
護する。すなわち、さまざまな測定方法による結果の一致や、歴史的な測定手続の改良
といった、社会科学における定量的な研究方法の成功を最もよく説明するのは、実在論
であると主張する。このような実在論擁護のための最良の説明への推論は Boyd によっ
て正当化が試みられているが、これは論点先取であるとして反実在論者によって批判さ
れている。Trout はこの批判にたいして社会科学の局所的な法則が理論から独立してい
ることを根拠にして応答を試みている。この応答の成否についても評価をおこなう。
40
デリダと精神分析――デリダのラカン批判を中心に――
工藤 顕太(早稲田大学)
「難解であり、メディアやアカデミー、あるいは出版界による平準化におよそ従順で
ないような思考、ディスクール、エクリチュールに対し、公然とオマージュを捧げるこ
と、私はそれを文化的レジスタンスであると考える」。これはデリダがラカンの仕事を
評した言葉である。デリダはラカンを、ラカン派を、精神分析を批判している。そのよ
うな「対立関係」を声高に語る言説は珍しくないし、それは必ずしも間違ってはいない。
ラカンとデリダの議論は、確かにある部分ではその拮抗を鮮明にしている。しかしそれ
でも、両者の関係はそれほど単純なものだろうか、と問うてみる余地はつねにある。デ
リダがラカンに捧げるオマージュについて多少なりとも真剣に考えるならば、性急で単
純な図式化こそむしろ避けられるべきだろう。
以上のような問題意識のもとで、本発表ではジャック・デリダの「真理の配達人」
(Jacques Derrida, Le facteur de la vérité, in La carte postale, Flammarion, 1980)
を取り上げる。このテクストでデリダは、ジャック・ラカンが自身のセミネールをもと
に書き起こしたテクスト「
『盗まれた手紙』についてのセミネール」
(Jacques Lacan, Le
séminaire sur «La lettre volée » , in Ecrits, Seuil, 1966)を批判的に読解している。し
たがって、
「真理の配達人」を読解することは、デリダとともにラカンを読解すること
でもある。デリダはそこで、精神分析のテクストと文学のテクストの特異な交錯を暴き
出しながら、言説、テクスト、レトリック、真理とフィクション、法、権力、セクシュ
アリティ等々、多岐にわたる論題を提起している。本発表は、「真理の配達人」を詳細
に読解し、そこでなされている議論のポイントを明確化しながら、その射程を明らかに
することを試みる。
上で列挙した問題群は、デリダの批判において、ある論点を介して緊密に結びついて
いる。それは、ラカンが(
「セミネール」における言説に限らず)その理論の中心的な
概念装置として用いている<シニフィアン>の特権性である。ラカンは『盗まれた手紙』
を、特権的な<シニフィアン>としての手紙が絶えず移動しながら、登場人物たちの欲
望を組織化してゆく物語として解釈し、自身の理論の例示としている。そうしたラカン
の言説において、<シニフィアン=手紙>は、真理とフィクションの錯綜関係を巧妙に
くぐり抜けながら、象徴界の法を措定し、性分化の体制を布き、超越論的な特権を保持
しているのではないか。この問いが、デリダをラカンのシニフィアン概念を脱構築する
ことへと向かわせている。そしてその脱構築の帰結として、デリダはラカン的なシニフ
ィアンに<散種>を対置するに至る。
41
この議論を辿り直すことで、デリダの哲学と(主にフロイト・ラカンの)精神分析の
間にある緊張関係の一端を示し、そこからラカンの<シニフィアン>概念を再検討する
ことが、本発表の企図である。
42
真理はいかにして多元的でありうるのか-真理の多元主義自体の多元性を検討する-
原田淳平(日本学術振興会特別研究員・大阪大学)
本稿の主な目的は、
「真である仕方は一つより多い」というテーゼを掲げる真理の多
元主義(alethic pluralism)が主張する内容と、それが抱える問題点を検討することで
ある。真理の多元主義は、真である仕方が複数あると主張する点で、唯一の真である仕
方が存在すると主張するインフレ主義(伝統的な真理の理論)と対立する。他方で真理
の多元主義は、真理には哲学的関心を持つに値する実質的な本性があると主張する点で、
真理を単なる論理的装置とみなし、実質的な本性を持たないとするデフレ主義
(deflationism)と対立する。それゆえ真理の多元主義は、既存の二つの真理の理論と
は異なる第三の真理の理論である。
しかしながら、現在では様々なアプローチから真理の多元主義が研究された結果、細
部において異なる複数の多元主義的な理論が提出されている。それに加え、ここ二十年
という短い期間で様々な多元的理論が十分精査されないまま生み出された結果、多元主
義の批判者からは、真理の多元主義が誤りであるというよりは、その主張がそもそも曖
昧であると指摘されることも多い。こうした背景を鑑みて、本稿では議論を次のように
進める。
第一に、どのような理論が真理の多元主義と呼ばれるのかを明らかにする。ここでは
ペダーセンと C.D.ライトの議論を手がかりに、
「真理が実質的性質を持つかどうか」と
「真理は単一の性質を持つかどうか」という基準を用いて、カテゴリー分けを行う。第
二に、中心的な多元主義のモデルを取り出して、それらの定式化を行い、各多元主義間
の差異が分かるように理論の輪郭を描写する。具体的には、C.ライトの解釈として M.P.
リンチが提出した単純な真理の多元主義(simple alethic pluralism)、ペダーセンの真
理の選言主義(alethic disjunctivism)
、リンチの真理の機能主義(alethic
functionalism)などの定式化を通じて、各理論が真理の「多元性」をどのように理解
しているのかを明らかにする。最後に、真理の多元主義が直面する問題および多元主義
に対する批判を概括した上で、上での定式化した多元主義がこれらに対してどのような
対応が可能なのかを考察する。
43
色の間主観性をめぐって
武蔵
義弘(千葉大学)
本論は、直接にはカントが『判断力批判』第一部 美学的判断力の批判で述べられて
いるところの、色彩は感覚的なため〈美〉の要素たり得ないとある点に疑義を呈し、色
彩には合目的性を措定し得る面があることゆえに、間主観的な美的判断を成立させるこ
とを論じようとしたものである。併せてカントが人間を〈類〉としての存在と〈個〉と
しての存在、そして間主観性との関係で行けば〈人々〉としての存在という三局面から
捉えている点に着目し、そこから読み取れるものを考えて行く。構成と内容は以下の通
り;
① 色の見えの問題では、色の知覚の間主観的同一性はどのようにして確かめられ得
るかを追求してみる。まず無彩色(白、黒、灰色)には間主観的同一性を適用ができる
ことをあげ、ついで有彩色でこの同一性が言えるかを検討してみる。同一性を確保した
としても、それは言語のレベルでのことにすぎないのではとする逆転スペクトルの懐疑
論があるが、混色実験によってその当否は確かめ得ることを指摘する。
② ヴァルールについてでは、西欧絵画における色の位置の変遷を扱う。近代以前に
あっては、画家が際だたせたい対象をいかに人工的な明暗の対比の下で浮かび上がらせ
るかという点に色は関係した。これに対し近代絵画(印象派)では、画面全体の配置の
中で〈色〉がいかに合目的的に扱われているかということになり、絵画における色彩の
の自立となった。線描的要素だけを絵画の〈美〉と見たカントへの反論である。
③ 自然の技巧の問題では、人工美よりも自然美の方が美しいとしたカントの所説は、
景観の美―それは人間の手が加わっていることが多い―に対してはどうかということを
問題にする。カントは(動物の中の)〈類〉としての人間の営みの結果として社会や歴
史を眺める。この立場からすれば、景観美は自然美の一種ということになる。景観美を
感ずることも、景観を描いた風景画の美を感ずることも、ともに間主観的な一致を基盤
にしている。
④ 政治と色彩では、カントにおける人間の三局面の問題に迫ってみる。すなわち前
節であげた〈類〉としての人間に対し、
〈個〉としての人間があり、カントはそれを『純
粋理性批判』や『実践理性批判』で扱っている。これに対し、間主観性は〈人々〉とし
ての人間、つまり社交と趣味が成立する場での人間が関係する。ここからハンナ・アレ
ントはさらに、美的判断と政治判断の類縁性へと進んで行く(『カント政治哲学講義』
)。
正統的カント解釈からは異端視される彼女の見解だが、本論はこれに従ってみる。ただ
しアレントの言う政治判断とは、政治の局外に立ち事件を傍観する人間が下す判断であ
44
る。これとは別に、政治家が下す判断があるわけで、それがどう〈色〉的なものと結び
つくかを見る。
45
同一性と因果関係
横路 佳幸(慶応義塾大学)
同一性は単純である。あらゆるものは自身と同一で、自身以外のものと同一であるこ
となどありえない。それゆえ、この意味では同一性はまったく問題とはならない
(unproblematic)。
おそらくこうした説明は、直観的にも形式的にも正しいだろう。同一性そのものを論
じる機会がこれまでそれほど多くなかったのも、そのためかもしれない。しかし、本発
表の目的は、そのような説明とは独立に、同一性そのものが、それだけで立派な哲学的
議論の対象である可能性を示すことにある。その検討は、一見無関係にも思われる同一
性と因果関係(causal relation)の二つの関係を比較しながら、進められることになる。
それによって、デイヴィッド・ヒューム以来、多くの哲学者にとって論争の的であり続
けてきた因果関係と比べて、同一性がそれと似通った問題意識を持つ点で同等か、もし
くはそれ以上に問題となりうることが示されうる。もちろん、冒頭で述べられた文脈で
は、同一性はまったく問題とはならない。きっと誰も、その意味での単純さを否定する
ことはできないだろう。だが、
「関係(relation)」の分類を軸とした文脈においては、同
一性は、因果関係以上に厄介な問題をいくつも抱えた関係であることが、本発表の中で
明らかになる。したがって、この意味では同一性は問題となる(problematic)のである。
本発表は次のような具体的な構成から成る。第一に、同一性が一般にどのようなもの
であるかを簡単に確認したのち、デイヴィッド・ルイス(Lewis (1999), p. 26, fn. 16; and
ibid., p. 129)にしたがって、同一性もその一種である、「関係」の多少細かい分類、す
なわち内的/外的および内在的/外在的という二つの区別を導入する(第 2 節)。ここまで
が準備である。第二に、前者の分類に従って、同一性が内的であるかどうかを検討して
いく中で、個体に関する形而上学において論じられがちな不可識別者同一の原理の妥当
性と、この問いが密接に関わることを明らかにする。それは、その原理の妥当性に未だ
大きな論争がある以上、同一性が内的な関係であるかどうかもまったく不透明であると
いう帰結を生む(第 3 節)。第三に、今度は後者の分類に従って、同一性が内在的な関
係であるかどうかを検討する。だが、その問いは因果関係の内在性もしくは外在性をめ
ぐる一連の問題と類似した構造を持つことにくわえて、同一性のケースでは特に、「こ
のもの性(thisness)」や「個別化(individuation)」などが同一性の内在性/外在性と関連
することが指摘される。そうして、この問いの答えもまた明らかでないことが導かれる。
というのも、内在性/外在性のどちらを取ったとしても、同一性について問われるべき
問題は残るからである(第 4 節)。最後に、因果関係とおなじく同一性は、即座には解
46
決できない問題を複数抱えている関係であると結論付けられるが(第 6 節)、その前に
今後の展望という形で、同一性に関する私自身の立場を素描する (第 5 節)。それは、
デイヴィッド・ウィギンズによって先鞭がつけられたと発表者が解釈する、同一性の内
在性と外在性の融和を唱える立場である。とはいえ、本発表ではそれを提示するだけに
留めたい。本発表が目指すのは、問題の解決ではなく、因果関係と比較しながら、あく
まで同一性について問題を提起することなのである。そして、そのことは結果的に、こ
れまで別々の文脈で論じられてきた、同一性に関する諸問題を整理する役割も同時に果
たしていることになるだろう。
47
ベルクソン哲学における individu、individualité、individuation①
ー物質と生命ー
米田翼(大阪大学)
本発表は、20 世紀フランスを代表する生の哲学者の一人 H. Bergson(1859-1941)の
哲学における個体論の再構成というプログラムの一貫であり、ここでは、物質と生命の
関係性を、個体論の観点から問い直すことを主眼とする。ベルクソン哲学において、物
質と生命がどのように関わっているか、という問題は明らかにされているとは言い難い。
また、従来のベルクソン読解では、彼の唯心論的な側面が強調されてきたきらいがある。
例えば M. Kolkman は、
『物質と記憶』における逆転のモデルから、『創造的進化』に
おける中断(あるいは衝突)のモデルへとベルクソンが変更を加えた、と指摘している
(Kolkman, 2007)。しかし発表者はコルクマンのように、「逆転か中断か」を問うのは
擬似問題であると考える。結論を先取りすれば、ベルクソン哲学において、物質と生命
の関係性が錯綜しているように見えるのは、個体 individu、個体性 individualité、そ
して個体化 individuation のいずれの観点から物質と生命について語っているのを考
慮していないためである。この問題を検討するために、本発表は以下のような構成をと
る。
まず第一節では、先行研究がほとんど存在しないベルクソンの栄養摂取論を検討す
る。彼の哲学において個体性とは、栄養摂取という自己保存的な欲求にしたがって行動
する際に、知覚の働きによって形成されるものである。また、そうして外界に個体性を
見出しつつ行動する各身体を形成する要因として意識が浮かびあがってくる。この意識
は、生命そのものである超意識とは階層が異なることが神経系の議論を通して明らかに
なるであろう。生命が三つの主要なラインー植物的麻痺、本能、知性ーへと次第に分化
していく中で、意識が徐々に具現化されていったものが神経系なのであって逆ではない。
神経系はすでに形成された個体であり、個体化を考えなければ、我々は生命そのものへ
と迫ることはできないのだ。しかし、個体化を実際に観察することはできず、われわれ
が経験的に知りうるのは、生命の現われとして生じてくる個体のみである。そこで、個
体化の一端としての個体、すなわち生命の通路としての個体について見ていくことが必
要となる。ベルクソンの個体化論を検討する第二節で、われわれは「弾み」の遺伝とい
うベルクソンに固有の遺伝論を見出すであろう。ただし、個体は「弾み」として捉えら
れる生命性のみを遺伝しているわけではない。ベルクソンにおいては、個体化が生命と
物質のせめぎ合いとして考えられていることが重要である。第三節では個体論の観点か
ら物質と生命の関係性を問い直し、通常生命の哲学者として読まれることが多いベルク
48
ソンの物質論もまた、注目に値することが示されるだろう。
本発表を通して、Q. Maillassoux をはじめとする思弁的実在論 Speculative realism
におけるドゥルーズ再読のプログラム、あるいは J. Gayon や C. Malaterre といった生
物学の哲学者(あるいはエピステモローグ)が問いに付す生命の定義 Definition of life
という問題系に対して、何らかの示唆を与えることができるのではないかと思う。また、
ベルクソン個体論という先行研究がほとんど存在しないプログラム全体を通じて、ベル
クソン読解に新たな展望を与えることができると確信している。
49
ファイル説の論駁
森永豊(東京大学)
ファイル説とは、ひとが特定の対象を思考するときに、その対象が思考においてどの
ように表象されているかを説明する理論である。ファイル説論者のフランソワーズ・レ
カナッティ(François Recanati)は、新しい著書(Mental Files(2012))において、ここ数
年の間に出されたファイル説に対する反論に応答している。本発表のテーマは、この応
答の成否を検討することである。
心的ファイル(mental file)とは、主体が個別の対象について蓄える情報の束のことで
ある。たとえば、東京タワーから知覚や伝聞を介して得た情報(「港区にある」など)
の束は、
「東京タワー」の見出しを持った心的ファイルである。一般に心的ファイルは、
単称名辞の指示対象から主体への情報の流路を為す因果関係のトークンによって個別
化される。このように関係性に着目して心的ファイルを特徴づけることで、心的ファイ
ルが同一の対象に関係しながら数的に異なったものであることが可能性となる。
このアイデアによって de re 的な思考における共指示の現象を説明することが、ファ
イル説を強く売り出すカギとなってきた。「東京タワーは港区にある」と「日本電波塔
は港区にある」という二つの思考に対して、主体が異なる認知的態度をとることがあり
うる。ファイル説的な説明によると、「東京タワー」ファイルと「日本電波塔」ファイ
ルは、ともに東京タワーからの情報の引き受け先でありながら、因果関係のトークンが
異なった別々の心的ファイルである。そして、「東京タワーは日本電波塔である」とい
った同一性の判断は、
「東京タワー」ファイルと「日本電波塔」ファイルが同一の対象
に関係すると認識することに依存する。この認識に応じて二つの心的ファイルは連結さ
れ、この連結を通じて両ファイルが情報を完全に共有する。その後、主体は上に例示し
た二つの思考に対して共通した認知的態度をとるようになる。このような仕方で、心的
ファイル間の同一性関係を使えば、認識的価値を持つような同一性の判断を説明できる
と期待される。
本発表では、最新のバリエーションとしてレカナッティのファイル説を紹介する。ま
た、ファイル説へのいくつかの反論のうちで特に威力が大きいふたつを取り上げ、これ
らに対する彼からの応答も検討する。ひとつ目の反論は、心的ファイルによって同一性
判断を説明することには循環があるというものである。 (Murez “Self
Location
Without Mental Files”(2009)) 反論のふたつ目は、共指示の現象をとらえるためには従
来よりも精細な区別が必要であるという、言語哲学者の間で共有されつつある認識に関
わる。すなわち、二つの単称名辞が同一の対象を指示すると主体がみなすことには二種
50
類あるといわれる(de facto/de jure coreference)。ファイル説の説明ではこの区別を扱
えないという反論がある。(同上、Pinillos “Coreference and Meaning”(2011)) Mental
Files でレカナッティは、“linking”や「異なるタイプの心的ファイル同士の階層性」と
いった新しい道具立てを理論に組み込んだうえで、これらの批判に応答している。本発
表では、これらの応答が成功していないことを示し、ファイル説が、その魅力にもかか
わらず失敗を余儀なくされることを確認する。
51
不登校経験者の体験記述を理解すること
――解釈学的現象学の議論を手がかりに――
満江
亮(山口大学)
発表者は、かつて不登校を経験し、なおかつ精神疾患を抱えている若者たちによる或
る自助グループと交流している。メンバーたちは4か月に1回会報を発行して互いに交
流し合っている。会報には、詩やイラストなどを載せたりするほか、自分の不登校体験
を記述して発表したり、精神保健に関する情報を掲載している。とくに、このグループ
の代表であるAさんは、毎号、膨大な量の記述を発表し続けており、彼女にとって会報
は自分自身を表現できる重要な場となっていると思われる。
このグループのメンバーには、リストカットなどの自傷行為を繰り返している(ある
いは、かつて繰り返していた)者もいる。自傷行為の意図のひとつとして、自傷者の苦
しみの身体的表現が挙げる専門家もある。そこで、自傷者へのケアの手段のひとつとし
て、自分の苦しみを言葉で表現することを勧められることがあり、このグループもそれ
を活動目的のひとつとしている。けれども、彼/彼女たちは、そもそも言葉にできない
ほどの苦しみを感じざるをえなかったのであり、それを表現する手段がないために、や
むにやまれず自傷行為を行ったのではないのだろうか。彼/彼女たちの経験は、実は言
葉では汲み尽くせないものなのではないか。その理由のひとつとして、Aさんが毎号記
事を掲載するのは、一つの記事では自分の苦しみを表現しえないからであると考えられ
るからである。
このように考えるならば、彼/彼女たちの記述の一つ一つには、言外に汲み尽くしえ
ない苦しみが隠れているのだといえる。そして、読み手は、単にそれが存在することだ
けを知るのみである。だが、彼/彼女たちを理解するとは、書き手が表現し尽くせない、
言外に隠された苦しみを理解することではないだろうか。それは、単にその苦しみの存
在を認めるだけでなく、それがどれほどの苦しみであったのかを見出せることなのでは
ないのか。
では、それはどのようにして可能なのか。書き手が表現し尽くせない事柄を、読み手
が理解するとはいったいどういうことか。また、それは、書き手としての主体性を尊重
する行為であるのだろうか。本発表では、以上のような問いを挙げながら、不登校経験
者による表現を理解するとはどういうことかについて考察していく。
方法としては、発表者がAさんの記述を読みながら書き留めたメモをもとに、発表者
による読書体験の考察をするという手法を用いる。その際、解釈学でよく用いられる「著
者が自分自身を理解していた以上に彼をよりよく理解することが大切である」という命
52
題についてのボルノウ(Otto Friedrich Bollnow, 1903-1991)の考察や、
「ミメーシス」
概念を用いて読書することの意味を解明しようとしたリクール(Paul Ricoeur,
1913-2005)の議論を手がかりにする。
53
認知科学における研究戦略としての〈拡張した認知〉――広い計算の事例を巡って――
呉羽 真(日本学術振興会・立教大学)
近年の認知科学は、われわれの認知においてその身体や環境が一定の重要な役割を担
っている、という事実に着目するようになってきている。われわれの知的行動が脳内の
神経メカニズムのみによって生み出されると想定してきた古典的認知観に対して、近年
の身体的(embodies)あるいは状況的(situated)な認知観は、それが脳‐身体‐環境
間の相互作用から生じる、という点を強調するのだ。
本発表は、特に認知の状況性を話題とし、それが認知の境界(認知プロセスはどこま
で広がっているか)についてどのような含意をもつか、について論じる。Robert A.
・
・
・ ・
・
Wilson や Andy Clark は、認知の状況性を認知の拡張として理解すべきだ、と提案し
ている。すなわち、彼らが提唱する〈拡張した認知〉テーゼによれば、認知プロセスは
必ずしもすべて頭の中にあるのではなく、時として環境にまで広がっているのである。
しかしこれに対して、Keith Butler、Robert D. Rupert らは、認知プロセスは環境に
依存してはいるが、広がってはいない、と反論している。
本発表では、Clark、Wilson らが挙げた「広い計算」の事例を採り上げて、彼らの
〈拡張した認知〉テーゼを検討する。この際に発表者が着目するのは、「誰の認知プロ
セスが広がっているのか?」という論点である。認知の境界を巡る論争では、しばしば
以下二つのテーゼが混同されてきた。
(1) 個人の環境に広がった認知プロセスが存在する。
(2) 個人の認知プロセスがその環境に広がっている場合がある(〈拡張した認知〉テ
ーゼ)。
発表者はこの内、(1)を認めるが、(2)を否定する。そこでまず、科学史的・科学哲学
的考察により「認知システム」の概念を明確化することを通して、われわれ(個々の人
間的行為者)の環境に広がった認知システム/プロセスは存在するが、それはわれわれ
の認知システム/プロセスとは見なせない、ということを示す。次に、われわれは自ら
の認知システムを拡張することによってではなく、自らの認知システムとは異なったよ
り広い問題解決システムを形成することによって知的行動を産出する、という観点から、
認知の状況性を捉え直すことを試みる。最後に、〈拡張した認知〉論者たちに対して、
暗黙裡に知能を個人の専有物と見なしてきた古典的認知観の見方を引きずっているの
ではないか、という批判を提起する。
54
行為の理由に関する選言節の検討
鈴木雄大(東京大学)
知覚の哲学における「選言説」という立場が近年注目を集めている。その立場の主要
な論点は、知覚と非知覚的な経験(以下その代表を幻覚としよう)の間に共通部分があ
るという「共通項原理」を否定することにある。それによって選言説は、知覚の対象は
外的世界に実在する対象ではなく、主観的なセンスデータであるとするセンスデータ論
、 、
、
、 、
を退けるのである。これと同様の議論の構造が、行為の理由に関する議論にも見られる
として、さらに最近いくつかの哲学者の注目を浴びている。本発表の主旨は、この行為
の理由に関する選言説をめぐる既出の論考を整理し、それに検討を加えることにある。
だがその前にまず、行為の理由に関してどのような哲学的問題があるか、その問題
に対して選言説がどのような種類の立場であるかを確認したい。行為の理由に関する問
題としては、行為の理由がいかなる存在者かという問題がある。行為論における標準的
、 、 、
、
、 、
、 、
な理論となっているデイヴィドソン流の因果説は、行為の理由を行為者の心的状態(欲
求や信念)とする点で「心理主義」と呼ばれる。心理主義によれば、たとえば虫を追い
払うために相手の背中を叩いたとき、その行為の理由は「背中に虫がいたと思った」と
、 、
、
、 、
いう行為者の心的状態である。それに対して、「背中に虫がいた」という外的な事実を
行為の理由とする反心理主義の立場が近年盛んになっている。この両者の対立は、行為
論における大きな対立点である因果説と反因果説の対立にも無関係ではない。というの
も、行為の理由が行為者の心的状態であれば(心理主義)、行為とその理由の関係が因
果的である(因果説)と考えることに無理はないが、行為の理由を外的な事実とすれば
(反心理主義)
、行為とその理由の関係は因果関係以外のものである(反因果説)と考
える方向に流れやすいからである。
さて、では行為の理由に関する選言説は、行為の理由がいかなる存在者かという以
上の問題に対して、どのような種類の立場なのだろうか。それはいわば心理主義と反心
理主義の中間に位置するような立場である。一般的に行為の理由に関する選言説は、行
為の理由を、行為者の信念が真のときは外的な事実とし、偽のときは行為者の信念とす
る。そのように考えることが可能なのは、行為者の信念が真のときと偽のときとで行為
の理由には共通部分がなければならないという、上記の共通項原理に相当するものを選
言説が否定しているからである。心理主義はセンスデータ論に、反心理主義は知覚に関
する志向説に相当 すると発表者は考える。
以上の議論状況を踏まえた上で、行為の理由に関する選言説をめぐって出された論
考を整理し、それに検討を加える。選言説の支持者としては J. ホーンズビーを、反対
55
者として は J. ダンシーを、それぞれ代表として取り上げる。発表者は、ダンシーの反
心理主義の方 に説得力を感じている。
56
性格論争の行方と徳認識論の弁明
飯塚理恵(東京大学)
近年、実験社会心理学的な発見を基礎に哲学者の John Doris (2002, 2005)、 Gilbert
Harman (1999, 2000, 2005) らは性格特性概念の批判をしてきた。彼らが参照する経験
的データは、
ムード効果
(Isen and Levin 1972)、
傍観者効果 (Latané and Darley 1970)、
善きサマリア人の実験(Darley and Batson 1973)、正直とごまかしに関する実験
(Hartshorne and May 1928)
、ミルグラム実験(Milgram 1974)、スタンフォード監
獄実験(Zimbardo 1974)等、多岐にわたる。まず、心理学的状況主義者達はこれらの
実験から、人間の行動が道徳に 関係のない状況要因によって著しく影響を受けること
を発見し、様々な状況を通じて保持されると想定されてきた性格特性の存在を否定した。
我々は日常的に「彼は思いやりのある人だ」、
「彼女は勇気がある」等の性格特性帰属を
行っており、心理学的状況主義の帰結は大きな論争を巻き起こしたが、それ自体哲学的
な主張を含んではいなかった。しかし Doris に代表される哲学的状況主義者達は、心
理学的状況主義の主張を押し進め、ほとんどの人が性格特性などというものを持ってい
ないならば、性格特性をベースにしている伝統的な徳の理論は経験的に不適切であると
いう哲学的主張を展開した。
以上のような状況主義からの挑戦に対して、徳倫理側から応答がなされている。それ
らの応答はいくつかの種類に分けることができる。まず、状況主義の理論的想定を疑う
立場がある。例えば、多くの人が徳を持たないことから、
「徳を持つ人の数が不十分で、
徳倫理は経験的に不適切な理論である。」と帰結するのがなぜ正しいのかという疑問が
ある(Sreenivasan 2013)
。また、Upton(2009) は、Doris の薦めるローカルな(貫状
況的でない)性格特性を受け入れた方がむしろ我々の性格特性や徳概念をよく理解でき
ると言う。他に、状況主義が依拠する経験的データの解釈を疑う立場がある。例えば、
Alonza(2005)、Sreenivan (2008, 2013)らは、一回の実験で性格関連行動が見られなか
ったという事実のみ から状況主義的結論を導くのは誤りであり、行動の群を見れば性
格特性は十分 示されると主張する。最後に、経験的データがむしろ徳倫理を支持して
いるという立場がある。近年 Alfano(2013)は、グローバルな性格特性が持つ自己充足
的予言の機能が我々に与える影響を考慮し、徳を擁護している。
以上のような応答によってある種の性格特性や徳倫理理論が擁護され得たとして、そ
れが全体としてどのようなものになるかまだ明らかになっていない。更に、徳認識論の
57
うち主に性格特性を基礎にする責任主義と呼ばれる立場は徳 倫理と同様にこの問題に
正面から対峙せねばならないにもかかわらず、徳認識論と性格論争の議論が尽くされて
いない。本発表では既存の徳倫理の応答や状 況主義の分析を手がかりに、徳認識論は
いかなる性格概念や徳の擁護をすべきかを示し、その結果徳認識論が受ける影響や理論
的制約を明らかにしたい。
58
実体の区別とルーマンにおけるオートポイエーシス
下山惣太郎(大阪大学)
社会なるものが一体どのように成立しているのかを明らかにすることは、ルーマンが
彼の仕事を通じてなそうとしたことの中で大きな位置を占めているだろう。ここでいう
社会とは決して秩序だった社会だけを想定しているのではない。問題になっているのは
非常に小さな範囲での対話や闘争をも含む社会的なコミュニケーション全般である。こ
れは社会問題を解決しようとする試みや、あるいは現在ある社会を記述するものとして
の社会学とは一線を画している。現にある社会を説明するのに都合のいいモデルを用意
しようとするものでもない。それは社会を対象にしているという点で奇異に見えるもの
の、なにか特定のものが存在することのできる条件について問うている哲学として考え
られるべきものだろう。
こうした観点からルーマンを読み解き、ひいては社会とはなにかということを考える
にあたっては哲学における知見を活用しなければ不十分である。本発表の大きな目的は
そうした関心の下で哲学と社会学の接点を示すことである。これは単にルーマンがなし
たと思われる社会の研究を推し進めるだけではなく、哲学から見ても社会という従来重
要視されていなかったものを存在論的に重要なものとみなすというような新たな視点
をもたらすという点で、十分価値のある帰結を導けるだろう。
その具体的なやり方としては本発表では以下のような方法をとる。ルーマンは社会を
オートポイエーシス・システムというものの一つの種類だと考えていたが、今回はこの
システム一般の水準で話を進めることにする。そしてこのシステムは哲学においては実
体にあたるものを指しているのであり、いわゆるルーマンのシステム論とは実体論なの
だということを示す。それに属するものに先立ちそれらの可能性の条件となるというも
のとしての実体とシステムをつなぎあわせることができれば、システムを、ひいては社
会を、社会的なものはいかにして存在しえているのかという問題関心のうちでとらえる
ことに大きく寄与するだろう。 ただしルーマンのシステム論が従来の実体論の単なる
一亜種として考えられるというだけではそれを示すことに大きな価値はないと思われ
るので、その後ルーマンのシステム論は哲学に一定の寄与をするということをそのシス
テムについての考え方そのものから導きたい。そのため今までの哲学における議論で問
題になっていた実体はその他のものといかにして区別することができるのか、という問
題をとりあげる。そしてこれはルーマンの理論におけるオートポイエーシスという概念
を導入することで解決可能であるということを示し、この目的を満たす予定である。
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実践的推論の諸位相
鴻浩介(東京大学)
分析哲学において行為を論じた本を適当に手にとって、目次を眺めてみたならば、相
当に高い確率で”practical reasoning(実践的推論)”と題された一章なり一節なりが見
つかるだろう。アンスコム以来、分析的行為論の最も重要なトピックの一つであり続け
てきたこの概念は、同時にまた最も多様な対立の軸となってきたトピックの一つでもあ
る。
ごく雑な言い方をすれば、実践的推論とは「行為へと向けられた推論」のことである。
人間は知的な行為者であると考えられているから、人間の行為の中心的・典型的事例に
おいてはフィジカルな行為だけでなく、その行為に関する何らかの思考もまた同時に働
いていると考えるのは自然なことだ。いま、私が体中にキュウリの輪切りをたくさん張
り付けて寝転がっている。私はおかしくなってしまったのだろうか? そんなことはな
い。私はひどい日焼けをしてしまったのであり、キュウリの成分が日焼けの痛みを和ら
げると聞いたので、このようにしていたのである。この時私は、「日焼けのせいで痛み
がある」「体にキュウリを張れば日焼けの痛みは和らぐ」という前提から実践的推論を
行い、
「体にキュウリを張る」という行為を結論として導出したのだ――行為論ではその
ように表現される。
一見非合理的に見える行為でさえも、実はその裏で何らかの実践的推論が行われて
いたと分かったならば、れっきとした「理由」と「意図」が帰属され合理的に理解可能
となる。以上の理屈はわかるとしよう。だがそもそも、実践的推論を「行い」、結論を
「導出する」とは一体何を意味しているのだろうか? 明らかに、前提を信じたうえで
行為している、というだけでは十分ではない。そこで哲学者たちは、さらに適切な付加
条件を考えようとしてきた。たとえば、前提の心的状態が心的原因としてはたらき行為
を引き起こしている、という条件(デイヴィドソン) 。あるいは、前提の心的状態が、
その内容上、論理的に結論を必然化しているという条件(フォン・ウリクト)。または、
行為者当人が前提を行為の理由として了解しているという条件(アンスコム)などであ
る。これらの見解はそれぞれに長所や短所が指摘され、議論が行われてきた。
本発表では、この論争状況を整理し決着への方向性を示すため、ごくふつうの観察か
ら出発したい。つまり、実践的推論とは何かを考える前に、そもそも推論とは何かを考
え直してみなければならないのだ。私は B. Streumer(2007)などの分析を手掛かり
にして、推論とは論理と心理のそれぞれにかかわる位相を持ったものであること、それ
らの位相は区別されるべきものであるが無関係ではなく、理由や合理性といった概念に
60
よって結びついていること、を確認する。そして、これらのポイントを実践的推論の議
論に応用し、今までの様々な論争の本質を明らかにする試みを行う。その上で、C.
Vogler(2001) 、M. Alvarez(2010)等によって近年再解釈され、発展的に継承され
ているアンスコム的な実践的推論概念を検討し、これを擁護する。
61
自由の不可能性論証と認識論的自由論
高崎将平(東京大学)
自由論は伝統的に、決定論と自由という二項対立図式の中で論じられてきた。しかし
現在、問題はさらに錯綜をきわめていると言えるかもしれない。例えばヴァン・インワ
ーゲンは、非決定論下においては行為の生起は「全くの偶然」であるから、自由は存在
し得ない、と主張している。このことは従来の二項図式に加えて、非決定論と自由とい
う対立図式も自由論において見逃せないということを示唆している。
このような「自由対決定論」及び「自由対非決定論」という二重の二項対立を擁する
問題圏においては、従来の「固い決定論」に加え、さらに自由を否定する立場が存在す
る。それは、
「自由と決定論の両立可能性」と「自由と非決定論の両立可能性」の両方
を否定する立場である(以下自由不可能説)。本発表は、自由を擁護する論者はいかに
して自由不可能説に応答できるか、という問いから出発することになる。具体的には、
自由不可能説の代表的な論者としてヴァン・インワーゲンを取り上げ、彼の議論を批判
的に検討することになるだろう。
さて、自由不可能説に対してはさまざまな観点からの応答が考えられるため、本発表
がいかなる観点から自由不可能説にアプローチするのか、それを明確にする必要がある。
そのためにもまず、自由不可能説の主張(以下自由の不可能性論証)を簡潔に定式化し
ておきたい。自由の不可能性論証は、その大まかな骨子としては以下のような形式をと
る。
(1)世界は決定論的であるか非決定論的であるかのいずれかである。
(2)世界が決定論的であるならば、自由は存在し得ない。
(3)世界が非決定論的であるならば、自由は存在し得ない。
(4)(1)~(3)より、自由は存在し得ない。
この論証のどの部分を反駁するかは、論者の立場により異なる。例えば両立論者であ
れば、命題(2)の妥当性を否定することだろう。あるいは非両立説の立場から、命題
(3)を否定する、すなわち非決定論的世界において自由を肯定するという試みも有力
である。しかし第三の選択肢として、命題(1)の妥当性を吟味するという道も、我々
に残されているように思われる。すなわち、「自由不可能説」を主張する論者が理解す
る意味での「決定論」と「非決定論」は、果たして排中律の事例を成しているのだろう
か、と問うことは十分可能であるように思われるのである。私が本発表で採用する戦略
は、まさにこの第三の道である。
「決定論」と「非決定論」のはざまに自由を見出すこ
とは果たして可能であるのか、また可能であるならばそれはいかにして可能であるのか。
62
本発表ではこの問いに答えるために、チザムの「内在因果」説を検討することになるだ
ろう。
以上の考察を通じて、我々は命題(1)を肯定する論者(自由不可能説)も命題(1)
を否定する論者も、
「形而上学的飛躍」のジレンマに陥るさまを見ることになる。では、
そのような困難を回避することは可能だろうか。私はこの問題に関して、自由と決定論
の対立を認識論的なレベルで捉えることによって解決を試みたい。
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数学の哲学における構造主義と数学の認知科学
那須 洋介(名古屋大学)
本発表では、数学の哲学における構造主義、特にその認識論について心理学的知見を
援用しながら考察する。哲学的立場としての構造主義は、Paul Benacerraf (1965)
“What Numbers could not be” を契機として盛んに論じられるようになり、数学の哲
学における主要な立場の一つとなっている。現在における代表的な論者としては
Geoffrey Hellman、Stewart Shapiro が挙げられる。しかしながら、本発表では、彼ら
より一世紀ほど以前に構造主義のアイデアを示唆していた Richard Dedekind に焦点を
当てる。また、本発表で主に考察の対象とする数学の分野は、Dedekind (1888) “Was
sind und was sollen die Zahlen?” で主題となっている自然数論である。
まず、Dedekind を構造主義者として見たとき、そして Hellman や Shapiro などの
今日の論者と比較したとき、どのような位置づけになるかを考察する。Dedekind は自
然数をそれ自体で真正な対象と見なしていると解釈することができる。この点は、構造
を ante rem と見なす Shapiro の立場に親和的である。しかし、Dedekind の見解は
Shapiro のものと決定的に異なっているように思われる。Shapiro は ante rem な構造
が文字通り存在するというプラトニズム的な主張をする。他方、Dedekind は数を「人
間の心の自由な創造」であると考えている。
Dedekind の位置づけを議論した後、構造主義の認識論の話題に移る。Shapiro (1997)
Philosophy of Mathematics: Structure and Ontology おいて、Shapiro は自らの立場
を擁護するための認識論的説明を与えている。この説明は、Shapiro 自身の立場を擁護
するものとしては上手く機能しないが、Dedekind の見解を支持するものとしては一定
の価値があるということを論じる。
この Shapiro による認識論的説明は、ある種の心理的メカニズムに訴えるものであ
る。したがって、この説明が心理学的な見地から支持されうるものであるかを検討する
ことは有意義であるように思われる。本発表では、いくつかの心理学の文献を参照し、
数(の認識)が ante rem な(しかしプラトニズム的ではない)特徴を持ちうるかどう
かを考察する。
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★『哲学の探求』最新号・第 40 号が刊行されました
『哲学の探求』は、前年のフォーラムに基づく論考を収めた、フォーラム機関誌です。
最新の第40号は、フォーラムレクチャラーによる論文3本、個人研究発表者による論
文9本を収めた充実の内容となっております。『探求』各号の内容目次は、下記ウェブ
サイトでもご覧いただけます。
『探求』40号購入をご希望の方は、お名前、住所、電話番号、ご希望の号数と冊数をお
知らせいただければ、こちらから郵送いたします (郵送料はいただきません) 。
お問い合わせは、[email protected]まで
★若手フォーラム・ウェブサイトについて
若手フォーラムに関する情報をウェブ上でも公開しています。情報の再確認、ご学友
に若手フォーラムのことを紹介して下さるときなどにもご利用ください。
ウェブサイトに関しましてご意見、ご要望がありましたらお知らせください。
ホームページのアドレス:http://www.wakate-forum.org/
■■ 2013 年度若手フォーラム世話人(五十音順) ■■
氏名
役職
所属
北村 直彰
総務
慶應義塾大学
木本 周平
『哲学の探求』編集
首都大学東京
高江 可奈子
フォーラム会計、宿泊
東京大学
成瀬 翔
ホームページ
名古屋大学
新川 拓哉
通信
北海道大学
林 禅之
『哲学の探求』販売
東京大学
平賀 直哉
テーマレクチャー
首都大学東京
山田 浩司
『哲学の探求』会計
日本大学
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●会場周辺地図
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●施設内地図(発表会場はセンター棟 4 階です)
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