プロローグ プロローグ 真のイスラームの理解をめざして サウジアラビアは、2010年第 回東京国際ブックフェアにテーマ国として参加することになりま した。それは、両国の交流を政治、産業 経 ・ 済を主とする協力関係から、文化 教 ・ 育分野を含むより深 く豊かな関係構築に向け、新しい一歩を踏み出したい、という願いと意志の表れです。別の言い方をす るなら、学生や一般の人々にまで相互理解の輪を広げ、ともに 世紀の両国のありかたを考えましょう という呼びかけでもあります。 泉であり、時空を超えて未知の世界を読者に提示してくれます。2010年第 回東京国際ブックフェ サウジアラビアでは、書物を大切にし、多くの本を読み、愛蔵する人を敬います。本は新しい智の源 21 7世紀から一貫してイスラームが大事にしてきた価値観でもあります。その意味で、イスラームは古い をも提供しています。多様性と寛容にもとづく共存は、今世紀のキーワードですが、それは 奇しくも く ラームが現代の、そして未来の日本にとって、どのような意味を持ちうるかを考えるための多くの視座 を越え、イスラームの真髄と日本におけるその実践の歴史をありありと伝えています。同時に、イス アをきっかけとして生まれた本書『日本に生きるイスラーム│ 過去・現在・未来│』は、まさに時空 17 歴史がありながらも極めて今日的な思想であり、生活実践であると言えましょう。この本が読者の皆さ 1 17 まにとって、さらなるイスラーム理解の扉を開く鍵となることを願ってやみません。 本の執筆者と構成 本書の最大の特色は、第一線で活躍しておられるイスラーム研究者ならびにイスラームに帰依し実践 しておられる方々が、それぞれの視点からイスラームの真価について語ってくださっていることでしょ う。 第一章では、7世紀にアラビア半島にはじまり、いまや世界人口の約3人にひとりがムスリム(イス ふ かん ラーム教徒)といわれるまでに広がったイスラームが、どのようなものであり、いかにして各地へ伝播 していったのかをグローバルな視点から俯瞰します。 第二章では、日本人ムスリムの先達たちの信仰と、胸を打つ真摯な実践がいきいきと語られています。 ま た、 イ ス ラ ー ム と 日 本 仏 教 が そ の 真 髄 に お い て 意 外 な ほ ど 共 通 し て い る と い う 比 較 文 化 論 的 視 座 は 、 イスラームが日本人の心に響くものを多く宿していることを示すとともに、宗教間対話の重要性と可能 性を示唆するものとなっています。 かったつ そして第三章では、座談会形式で、6人の先生方に、自らのイスラームとの出会い、日本とイスラー ム諸国との関係、そして日本社会におけるイスラームの価値と将来の展望など縦横無尽かつ闊達な論議 を繰り広げていただきました。イスラームが各地の土着文化と融合し、発展してきた歴史そのままに、 今、ここ日本において新しいイスラームの萌芽を感じさせるものとなりました。 2 プロローグ 謝辞 寄稿ならびに座談会へのご参加をお願いした先生方は本書の意義に温かい理解を示し、ご多忙にも関 わらず、快く私どもの依頼をお引受けくださいました。この場をお借りし、改めてお礼を申し上げます。 特に小杉泰氏には専門分野からの貴重なご助言 ご ・ 助力を賜りました。奥田敦氏には座談会の座長をお 務めいただき、原稿をまとめる際にも多くのご示唆を頂戴しました。また、前野直樹氏にも多大なるお 力添えをいただきました。表紙には本田孝一氏のすばらしい作品の中から一点を使わせていただきまし た。お礼を申し上げます。これらの方々のご協力なくして、本書は生まれませんでした。心から敬愛の 意を表すとともに、厚く感謝申し上げます。 本書の刊行と第 回東京国際ブックフェアへのテーマ国参加をサポートしてくださり、また平素より サウジアラビア王国大使館 文化部の活動や、サウジアラビア留学生へご支援をいただいている二聖モ スク守護者アブドッラー・ビン・アブドゥルアジーズ・アール・サウード国王陛下ならびに、スルターン・ ビン・アブドゥルアジーズ皇太子兼国防・航空相兼総監察官殿下、およびナーイフ・ビン・アブドゥル アジーズ第二副首相殿下へ感謝の意を表すとともに、本書の完成をここにご報告できることを幸せに存 じます。また、文化部の活動にいつも多大なるご支援を頂戴しております、サウジアラビア高等教育省、 ハーレド・アルアンカリー高等教育大臣、ならびにアリー・アルアティーヤ高等教育副大臣にも、深く 感謝いたします。さらに、アブドゥルアジーズ・トルキスターニ駐日サウジアラビア王国特命全権大使 にも厚く御礼申し上げます。 3 17 最後に、私を支えてくれ、本書製作に携ってくれた文化部のスタッフ、その他製作スタッフの皆さま にも謝辞を述べたいと思います。 2010年第 回東京国際ブックフェア・プロジェクトは、それ自体がひとつの日本とサウジアラビ 2010年6月(1431年6月) イサム・ブカーリ Dr. Eng. サウジアラビア王国大使館 文化部 文化アタッシェ を目指し、ここに本ができ上がった喜びを、ともに分かち合いたいと思います。 アとの交流の場でもありました。両国の文化や慣習・考え方の違いなどを確認しながら、より良いもの 17 4 プロローグ 5 6 8 目 次 プロローグ ………… 目次………… イスラーム文化入門 第一章 イスラームとは ………… 塩尻和子 (筑波大学理事・副学長) イスラームのグローバリゼーションと日本 ………… 深見奈緒子 (早稲田大学イスラーム地域研究機構研究院准教授) 世界に広がるイスラーム建築 ︱普遍性と多様性︱ 小杉 泰 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授) 15 日本に生きるイスラーム 第二章 ………… イサム ブカーリ (サウジアラビア王国大使館 文化部 文化アタッシェ) Dr. Eng. 1 鈴木紘司 (イスラーム研究者) ………… 35 日本イスラーム史 ︱7世紀から 世紀前半(1945年)まで︱ 71 8 20 91 10 目 次 ………… 日本のイスラーム、戦後の歩み ︱ 世紀後半から今日まで︱ 樋口美作 (宗教法人日本ムスリム協会名誉会長) (新居浜マスジド代表) 統計から見た日本のイスラーム ………… 浜中 彰 イスラームと日本の仏教 ︱無関係からの出発︱ 水谷 周 (アラブ イスラーム学院学術顧問) 107 ………… ………… 日本人が語る ︱イスラームと我々の未来 第三章 座談会 (早稲田大学 人間科学学術院 教授) 奥田 敦 (慶應義塾大学 総合政策学部 教授) 店田廣文 片倉もとこ (国立民族学博物館、総合研究大学院大学 名誉教授) 173 157 129 20 徳増公明 (宗教法人 日本ムスリム協会会長・拓殖大学 イスラーム研究所 客員教授) 片山 廣 (アラブ イスラーム学院 顧問) 森 伸生 (拓殖大学 イスラーム研究所 教授) 編集後記………… 日本とイスラーム交流の歴史 [口絵] 11 204 1 イスラーム 文化入門 イスラームとは 小杉 泰 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授 イスラームの生誕地 遠隔地へのキャラバン隊の旅は危険が伴い、交易には大きなリスクもあった。それを生業とするマッ と運び、また、その逆のコースで地中海地域の産物をイエメンへと届けるキャラバン貿易を発展させた。 が紅海側の通商路を開拓したのであった。彼らはインド洋を渡ってイエメンに届く産物を地中海地域へ が衰えていた。そこで、アラビア半島よりも北に位置していた従来の交易路にかえて、マッカ商人たち 時、このあたりの支配権をめぐってササン朝ペルシアとビザンツ帝国が争っていたため、従来の交易路 中東のあたりは「文明の十字路」と呼ばれ、古くから東西の民族や文物が交流してきた。ところが当 好位置にあったため、貿易に従事し、商業が発展することになった。 たが、農業をするほどではなかった。そのかわり、南方にあるイエメンと北方の地中海地域との中間の シスなどの水源があると、人びとが定住し、町を作った。マッカは、人間が住める程度には水源があっ 当時のマッカは、商人の町であった。アラビア半島は西アジアの乾燥地帯で、砂漠が広がる中にオア イスラームとは何かと深く関わっている。その内容は、もう少し後で詳しく考えることにしたい。 していたムハンマドが預言者と自覚するようになった時であった。「預言者とは何か」ということは、 宗教としてのイスラームが始まったのは、もう少し前のことで、西暦610年頃、マッカの町に暮ら いう町に小さなイスラーム共同体が誕生し、その後イスラームの教えが世界に広がる中核となった。 世紀前半のことで、イスラーム暦の元年は西暦では622年にあたっている。この年に、マディーナと イスラームは今から 世紀前に、アジアの西端に位置するアラビア半島で生まれた。西暦で言えば7 14 16 イスラームとは カ商人たちが進取の気質や勇猛さを持っていたことは、想像にかたくない。ところが、彼らの多くが自 分たちの生活様式や宗教については非常に保守的であった。 当時は、部族の血統を重んじ、偶像崇拝の多神教を父祖の宗教として尊んでいた。大商人が富貴を誇 り、貧しい者や孤児などの弱者を虐げることもあった。マッカの住民はクライシュ族という部族であっ たが、その中の支族の間でも激しい勢力争いがあった。ムハンマドが説いたイスラームの教えは、絶対 的な唯一神の信仰と神の前での人間の平等を主張したから、クライシュ族の多くは新しい教えを拒絶し、 その信徒たちを迫害した。 二大聖地 マッカ時代はおよそ 年に及ぶが、迫害があまりに強くなり、故郷にいられなくなったムハンマドは、 それまでにイスラームに帰依した弟子たちを連れ、北方のマディーナに移住することになった。これを ヒジュラ(移住、聖遷)という。 マディーナに移住した弟子たちと、この頃マディーナで新たにイスラームに加わった者たちが、新し いイスラーム共同体を作った。これを記念して、イスラーム暦では、この年が紀元として定められた。 ムハンマドは没年までのおよそ 年をマディーナで過ごした。ここでは、もはやクライシュ族の迫害 を恐れなくてもよかったが、その代わり、クライシュ族はマディーナを武力で破壊するために軍勢を送 10 り、大きな戦いがおこった。しかし、イスラーム側はその戦いをよくしのぎ、さらにイスラームの勢力 17 13 が大きくなるとマッカを無血開城した。この時、クライシュ族の人びとは皆イスラームに加わった。ム ハンマドの晩年には、アラビア半島のほぼ全域がイスラームとなっていた。 マッカには、カアバ聖殿がある。「神殿」と訳することもあるが、アラビア語では「神聖なる館」と いう( ページ参照)。神へ礼拝を捧げるための立方体の石造建造物で、神を祀っているわけではない。 性形はムスリマ)」は、「イスラームする人」つまり「帰依する人」のことである。さらに、神の摂理に 「イスラーム」とは、アラビア語で「帰依すること」「従うこと」を意味する。信徒を意味する 「ムスリム (女 ﹁帰依﹂という教え 発信する出発点と言える。 めて信徒が祈りを捧げ、巡礼に集まる集合点であり、マディーナはイスラームの教えを世界に向かって があり、ムハンマドが信徒の模範となる教えを確立した聖域である。比喩的に言えば、マッカは神を求 殿のあるマッカは、唯一神アッラーのための聖域である。これに対して、マディーナには預言者モスク マッカとマディーナは、イスラームの二大聖地として今日まで続いている。簡単に言えば、カアバ聖 壊された。 持ち込まれたのであった。そのため、マッカがイスラーム勢によって征服されると、すべての偶像は破 アバ聖殿は古の時代に唯一神アッラーのために建造されたが、後に一神教が忘れられ、少しずつ偶像が イスラーム以前には、この周りに360体の偶像が並べられていた。イスラームの立場から言えば、カ 38 18 イスラームとは 従って存在するすべてのものも「帰依するもの」とされる。聖典であるクルアーンには、次のように帰 言え、「 諸天と地にあるすべてのものは、好むと好まざるとにかかわらず、かれ(アッラー)に帰依し、 かれへと還りゆく。(イムラーン家章 節) 依が説かれている。 私たちは、かれ(アッラー)に帰依する者です」(同 節) ・・・ このあたりの人間観を理解しないと、「イスラーム=帰依」こそが普遍的な教えである、という主張 という。 ことが、人間精神を自由にする、という。神に隷属する者は、他の人間に従属することから自由になる、 べなければすぐに飢え、病を得ればたちまち弱まってしまう。むしろ、この客観的な限界性を理解する していないという。空を飛べるわけでもなく、走ってもさほど速くなく、命の長さにも限りがある。食 しかし、イスラームでは、人間は力の限られた卑小な存在であり、自由と言ってもたいした自由を有 もべ」といい、人間を神に隷属させる考え方で、自由な精神に反しているように見える。 うに、近代人というものは、自由で自立していることを尊ぶ。その観点から言えば、 「帰依」といい「し 間を創造した神が「諸世界の主」で、人間はその「しもべ」であるという。私たちもよく知っているよ クルアーンには「アブド(しもべ)」という語も、人間を表す言葉として何度も出てくる。世界と人 83 も理解できない。クルアーンは、「まことにアッラーの御許の教えは、イスラームである」 (イムラーン 19 82 家章 節)と述べて、帰依し従うことの重要性を説いている。 すなわち人間の代表としてメッセージを受け取り、それを他の人びとに届ける、という位置づけとなっ 使徒」という表現は、ムハンマドが神の側にいるように見えなくもないが、実際には、啓示の受け手側、 預 か っ た 言 葉 を メ ッ セ ー ジ と し て 広 く 知 ら せ る 人 が 使 徒 = メ ッ セ ン ジ ャ ー と な っ て い る。 「アッラーの つまりメッセージを届ける人である。神の啓示(神の言葉)を預かる人が「預言者」で、その中でも、 あず る人であることを意味する。使徒はアラビア語で「ラスール」というが、英語ならばメッセンジャー、 次に、「ムハンマドはアッラーの使徒なり」とは、ムハンマドが唯一神から啓示を受け、それを伝え リスト教の聖書でも、アラビア語版では「アッラー」と表記していることを見れば、それがよくわかる。 けの特別の神が存在するわけではない。唯一絶対の神をアラビア語で「アッラー」というのである。キ 「アッラーのほかに神なし」とは、神が唯一であることを意味する。「アッラー」というイスラームだ なることができる。 「ムハンマドはアッラーの使徒なり」というもので、これを公に認める者は誰でもイスラームの信徒と 教義はかなり単純である。その要諦は、「二つの言葉」にまとめられる。それは「アッラーのほかに神なし」 宗教の教義というと、なにやら複雑な神学的な議論がありそうな雰囲気がただようが、イスラームの イスラームは、どのような教義を唱えているのであろうか。 シンプルな教義 19 20 イスラームとは ている。 そうであるならば、この二つの根本教義から、もう一つ大事なポイントが生まれる。それは、唯一の 神が存在し、その神のメッセージがムハンマドという伝達者を通じて伝えられる以上、そこにメッセー ジが存在するということである。メッセージとは、聖典クルアーンにほかならない。 従って、イスラームの教義を言いかえると、聖典クルアーンを唯一神からの啓示としてムハンマドが 受け取ったと信じることなのである。 啓示の始まり 啓示とは、どのようなものであろうか。 うれ クルアーンの啓示が最初に訪れた時、ムハンマドはマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたとい う。当時のマッカで享楽的な生活と社会的な不正が広まっていたことを憂えていたともされる。瞑想中 の彼を、何者かが訪れ、突然、「読め!」と命令した。 読み書きのできないムハンマドが、「私は読む者ではありません」と答えると、その何者かは彼を息 が詰まるほど締め上げ、再び、「読め!」と命じたという。三度それが繰り返され、ムハンマドがとう ぎょう け つ とう観念して、「読め!」という言葉を復唱してみると、その何者かはその続きを言った。それが最初 の啓示とされる「凝血章」の冒頭部分である。 21 読め! 「創造なされた汝の主の御名によって。 かれは、凝血から人間を創られた」 読め! 「汝の主はもっとも尊貴なお方、 かれは筆によってお教えになった方、 人間に未知なることをお教えになった」(凝血章1~5節) ムハンマドは最初、文字を読むのだと思って「私は読む者ではありません」と答えたが、実際に彼が したのは言われた言葉の復唱であるから、ここでの「読め!」は、耳から覚えて朗唱する意味にもなる。 その場合は、日本語では「誦め!」と訳される。実際に、「クルアーン」という名称そのものが「読ま れるもの/誦まれるもの」を指す。「読め!/誦め!」という命令に対して読み上げるものが聖典とい うことになる。 聖典というと書物の形をしているように思えるが、クルアーンの場合は、暗唱されているのがむしろ 本体で、書物は文字を使ってそれを記録したものと言うことができる。ムハンマド時代には、クルアー ンは弟子たちが彼に教わって暗唱するものであった。本の形にまとめられたのは、 彼の没後 年近くたっ でもクルアーン全巻を暗唱している人はたくさんいる。聖典の暗記は、 徳の高い信仰行為とされている。 唱する係がいる。そのような人びとはクルアーンをすべて暗記しているのが基本であるし、一般の信徒 てからである。今日でも、イスラーム諸国を訪れると、モスクにはどこでもクルアーンを美しい声で朗 20 22 イスラームとは 聖典クルアーンの特性 クルアーンには、他の聖典には見られないような特性がいくつかある。暗記して朗唱する聖典、とい うことも、その一つである。もう一つは、朗唱するにしても記録するにしても、すべてアラビア語、と いう点である。 アラビア語から別な言語に翻訳すれば、それはもはやクルアーンではなく、他言語で著したクルアー ンの解釈書とされる。漢訳されたお経もお経であるし、聖書の日本語訳も聖書と見なされていることを 考えると、原語のアラビア語だけが聖典である、という考え方が珍しいことがわかる。 なぜ、そうなっているのであろうか。その最大の理由は、クルアーンは言語的な「奇跡」であるとい う考え方にある。当時のアラビア半島は、尋常ならざる言語能力を有する詩人が活躍する時代であった。 人びとはアラブ人としての誇りを持っていたが、アラブ人たる証左は、部族的な血統の純粋さとならん で、雄弁で美しいアラビア語を話せることであった。 部族の争いがあった場合でも、勝敗は戦場だけで決するものではなかった。部族の優れた詩人が、自 分たちの勇敢さを美しい詩で謳いあげ、敵の軍事的な勝利を卑小なものとすることができれば、立場が 逆転することもあった。そのような時代であったから、「神の啓示」が下るとすれば、その言葉は人間 の力量をはるかに超えている必要があったのである。 実際に、クライシュ族の人びとは、クルアーンの章句が超常的な言語であることを察知し、イスラー ムに反対するために、ムハンマドにさまざまな嫌疑をかけた。彼はマッカで「正直者」で通っていたの 23 つ ふ しゃ で虚言とは言われなかったが、「ジン(幽精)に憑かれた」「巫者である」 「(超人的な)詩人であろう」 などと言われた。 イスラームが最終的に勝利したのは、アラビア半島の人びとがクルアーンを言語的な奇跡と認め、そ の教えに帰依したからであった。それ以降、イスラームがアラビア半島の外に出て、アジア、アフリカ の東西に広がるとともに、この言語的な奇跡という立場が非アラブの信徒たちにも広まり、アラビア語 はイスラーム世界にとって聖なる言語となった。 天から下された神の言葉、という考え方から、クルアーンにはそれ以外の言葉を一切書き加えないと いう原則も生まれた。つまり、クルアーンはムハンマドが「これが啓示である」として伝えた言葉以外、 何も記録されていない。ふつうであれば、先に引用した凝血章の冒頭も、 「これは預言者ムハンマドが ヒラーの洞窟で受け取った啓示である」という説明くらいありそうなものである。しかし、クルアーン のその箇所を見れば、いきなり、「読め!」とあるだけで、誰が誰に言ったかも、どのような状況だっ たかも説明されていない。 クルアーンを手にする読者は、一切説明のない7世紀の言葉に直接出会うわけで、一般の読者が「ク ルアーンはわかりにくい」とこぼすのも当然のことであろう。 一神教の系譜 イスラームについて、一般の日本人から見て理解しにくいことの一つは、唯一絶対の神の言葉が、特 24 イスラームとは 定の時代に特定の人に下されている、という点であろう。宇宙が整然とした法則によって運行している ことから、超越的な絶対存在があると考える人は多い。そのような人にとって、「絶対神」というもの はよくわかる。しかし、宇宙を超えた絶対者が人間に特定の命令を下す、ということは不可解に思える。 確かに、マッカに向かって日に5回祈る、毎年1ヶ月の断食月があって、その月には毎日夜明け前か ら断食を始め、日没まで飲食を断つ、というような具体的なことが、なぜ絶対神から命じられるのか、 という疑問は正当なことのように思える。あるいは、なぜ、啓示が下ったのが7世紀のアラビア半島で、 ムハンマドという人だったのか、という疑問もありうる。ほかにもたくさんいる諸預言者の中の、とあ る一人がムハンマドであるなら、理解できるが、ムハンマドが人類全体に遣わされた最後で最大の預言 者であるというのであれば、なぜ、7世紀のアラブ人だったのか、という疑問を持つ人がいても不思議 ではない。 このことを理解するためには、一神教の系譜というものを考える必要がある。ユダヤ教、キリスト教、 イスラームは通常、セム的一神教と呼ばれ、唯一神を信じる姉妹宗教とされている。「セム的」 というのは、 セム諸語(ヘブライ語、アラム語、アラビア語など)で「神の啓示」が語られるところからの命名であ るが、かといって「セム的」ではない一神教があるわけではない。今日この系譜の一神教を信じる人び とは世界人口の過半に及ぶが、要するに、唯一神の信仰と、創造神からの啓示という原理に基づく宗教 は、この地域で誕生して世界に広がったのである。超越的な唯一神が、人間に対しては特別なことを語 りかけるという理解は、この系譜の中では当然のこととされる。 この地域には、メソポタミアからシリアにかけての肥沃な三日月地帯、エジプト、アラビア半島など 25 が含まれている。筆者はここを「セム的一神教の故地」と呼んでいるが、 「セム的」という外からの呼 称ではなく、本人たちの言い方を借りるのであれば「アブラハム的一神教」と言うこともできる。 旧約聖書のアブラハムは、クルアーンでは「イブラーヒーム」と発音されるが、「諸預言者の父」と される。彼は純粋な一神教を説いたが、子イサクの系譜からモーセやダビデが現れ、ユダヤ教に発展し、 またその子孫からイエス・キリストが登場し、キリスト教が誕生した。他方、旧約聖書には、アブラハ ムのもう一人の子イシュマエルからアラブ人が生まれたことが記されている。クルアーンでは 「イスマー イール」と発音されるが、彼の子孫がアラブ人の諸部族であり、その中から登場したのがムハンマドで ある。 実際に、クルアーンは、イスラームがイブラーヒーム(アブラハム)の純粋一神教の再興をめざすも のであることを宣言している。そもそも、カアバ聖殿を神の命令で建設したのは、イブラーヒームとそ の息子イスマーイールとされる。また、イスラームはエルサレムが聖なる都であることを認め、二大聖 地に続く第三の聖地としている。 ムハンマドという模範 教義について前述したように、唯一神の信仰と合わせて、ムハンマドを使徒と認めることがイスラー ムの根幹をなしている。ムスリムにとって、ムハンマドが弟子たちに与えた教えは、聖典クルアーンに 次ぐ重みを持っていた。 26 イスラームとは それは、クルアーンを人類に伝えるメッセンジャーである以上、ムハンマドこそ、そのメッセージを よく理解していたと考えられるからである。実際、クルアーンの内容は多くが総合的なガイドラインで あり、それを実践するためには具体的で追加的な指示が必要とされた。 たとえば、 「礼拝を確立し、定められた喜捨をおさめなさい」(巡礼章 節ほか)という章句だけでは、 汝ら にとってアッラーの使徒〔ムハンマド〕は、アッラーと終末の日を望み、アッラーをしきり に思い出す者にとって、よき模範であった。(部族連合章 節) 体的な実例を示し、それが信徒にとっての手本となった。クルアーンには、 5回ということも、クルアーンの中には明示されていない。そのような指示は、すべてムハンマドが具 どのように礼拝を行うのか、財産の中からどのくらい喜捨をすればよいのか、わからない。礼拝が日に 78 歳で結婚してからは 歳で世を去るまで、よき家庭 63 た。生計も、最初の妻が豪商であり、彼自身が商業に従事して暮らしを立てていた。預言者となってか 人として夫・父・祖父の役割を果たした。預言者と名乗ってからも、俗世を捨てるようなことはしなかっ 若き日は「アミーン(正直者)」として知られ、 預言者としてのムハンマドの生涯を概括するならば、彼は血筋のいい生粋のアラブ人として生まれ、 るのである。 と明言されている。クルアーンのこの章句に従うムスリムは、ムハンマドを人生の「よき模範」とす 21 らは、宗教指導者として弟子たちを率い、マディーナに移住してからは、共同体と国家の指導者として、 27 25 統治や政治、法の整備も行い、師として弟子たちの間を仲裁するのみならず、必要に応じて厳格な司法 の裁きを行った。対外的には、外交を指揮し、戦いにおいては戦略を立て、 時には自ら剣を持って戦った。 要するに、宗教と世俗のすべての領域で活動したのである。そうであれば、その「模範」がすべての 領域にわたることも不思議ではない。現代においては、しばしば「イスラームはなぜ宗教と政治を分離 しないのか」と問われるが、ムスリム社会がムハンマドの事績にならうものであれば、ここまでが宗教、 ここからは俗世で、イスラームの教えとは関わりない、というような形にならないのは当然と言える。 イスラーム世界の広がり ムハンマドの没後、イスラーム軍は当時の近隣の二大強国であったササン朝ペルシアとビザンツ帝国 つい と戦うことになり、アラビア半島を出て、東西にその版図を広げることになった。ササン朝ペルシアは イスラーム軍によって潰え、ビザンツ領も過半がイスラームの版図に入った。わずか1世紀ほどの間に、 東は中央アジア、西はヨーロッパのイベリア半島(今日のスペイン)までを征服し、広大なイスラーム 王朝が成立した。 この大征服のゆえに、西洋では「イスラームは武力で広がった」という誤解が生じたが、実際にはイ スラーム王朝は改宗を強制することはなく、主として支配地での徴税を重んじた。どの地域でも、住民 の改宗は宗教的・文化的現象として進行し、住民のイスラーム化はゆるやかに、たいていは3世紀ほど かかった。 28 イスラームとは 8世紀半ばに成立したアッバース朝は、その後5世紀も続くが、特に8~ 世紀に首都バグダッドな り続けてきたと言える。 おおよその流れとしては、アラビア半島で始まったイスラームは、 世紀間にわたって東西南北に広が 東アフリカや東南アジアなどのイスラーム化は、その典型である。地域によって多少の違いはあるが、 さらに時代が進むと、国際貿易の広がりとともに、商人たちがイスラームの教えを運ぶようになった。 かったが、各言語がアラビア文字を採用し、語彙にも多くのアラビア語単語が入った。 などのペルシア語圏、中央アジア・トルコなどのチュルク語圏などでは、母語こそアラビア語にならな ある。アラブ化にはいくつか段階があり、この地域では住民が話す母語までもがアラブ化した。イラン 今日アラブ諸国として知られているのは、この時代にイスラーム化とともにアラブ化が進んだ地域で 文法学も整備され、アラビア語はイスラーム世界の宗教的・文化的な共通語となった。 言行録はアラビア語で記録されており、これらの学問を修めるにはアラビア語の知識が不可欠であった。 の収集と確立、法学や神学の整備などによって、体系的に示されるようになった。クルアーンや預言者 アッバース朝の時代には、イスラームの教えも、聖典の読誦学や解釈学、預言者言行録(ハディース) 日本の子どもにとっても、シンドバッドの冒険などはなじみ深いものとなっている。 栄華や海洋を渡る商人たちの様子は、後に『千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)』などにも描かれた。 東西南北に街道が走って、東は中国から西は地中海を結ぶ広大な貿易圏が生み出された。バグダッドの どを中心に大きく栄えた。バグダッドでは「平安の都」と名付けられた円形都城が建設され、そこから 10 広大な地域に展開するイスラーム世界は、しばしば「統一性と多様性」という言葉で語られる。神の 29 14 唯一性、預言者ムハンマド、聖典クルアーン、イスラームの同胞精神などを共有する一方、地域毎の文 化や言語は多岐にわたり、環境や生業も異なる人びとが多様なムスリム社会を形成してきたのである。 イスラームの地と言えば、どこにでもモスクがあり、モスクの中ではマッカに向かって日に5回の礼拝 さんぜん が捧げられている。その一方で、モスクの建築の様式や材料は多種多様である。これも統一性と多様性 をよく物語っている。 イスラーム文明の輝き かんがい イスタンブルを経由して、ヨーロッパでコーヒーとして広がり、日本にもやってきた。 アラビア半島のイエメンで飲料として用いられるようになった。アラビア語の「カフワ」が、カイロや あるいは米を意味するライスなども、名称はアラビア語に起源がある。時代は後になるが、コーヒーも その名称が日本にも数多く伝わっている。オレンジ、レモン、ライムなどの柑橘類、バナナ、シュガー、 種改良を行って、農業の革新を行った。イスラーム圏の農産物や農業技術が北進してヨーロッパに入り、 たとえば、ペルシアやメソポタミアなどの灌漑技術を取り入れ、熱帯の作物を温帯でも育つように品 た。 マ文明を受け継ぐビザンツ領などに広がると、先行する諸文明を吸収し、さらに独自の文明をうち立て ラームは、古代から文明地帯であったメソポタミアやペルシア、エジプト、あるいはヘレニズムやロー 8世紀から 世紀頃までは、イスラーム文明が燦然と輝いた時代であった。宗教として始まったイス 15 30 イスラームとは マッカの方角を知り、礼拝の時間を確定する必要性もあって、天文学も発達した。今日でも、肉眼で 見ることのできる天の星は、4分の3がアラビア語起源の名前を持っている(残りはギリシア語、ラテ ン語)。私たちが誰でも知っている星で言えば、七夕の彦星、織姫、すなわちアルタイル、ヴェガもそ れぞれ、アラビア語の「アッターイル=飛ぶ(ワシ)」「ワーキウ=降下する(ワシ) 」が語源である。 この時代のイスラーム文明は西洋に大きな影響を与えた。科学技術が特に発展した分野として、天文 学(理論天文学、実地天文学)、数学、光学、工学、医学、生命科学(植物学、薬理学)などがある。 さらに、地理学や化学なども重要な成果を上げた。イスラーム圏の天文学、地理学、そして中国から輸 入して改良した羅針盤が、西欧の「大航海時代」を生み出したことは、よく知られている。 今日のイスラーム 世紀あたりを境目として、イスラーム文明よりも、西洋の近代文明が科学技術でまさるようにな り、特に 世紀以降は産業革命と軍事技術の力で、列強がイスラーム圏のほとんどを植民地化するよう の支えであり続けた。世界中で少なからぬ宗教が、近代科学の発展の前に「時代遅れ」と思われるよう しかし、精神文明としてのイスラームは、西洋列強の強勢にもかかわらず、ムスリムたちの心と生活 の兆候を見せ始めたのである。 になった。イスラーム文明を、物質文明と精神文明の二つの側面に分けるならば、前者は明らかに衰退 19 になったことを考えると、近現代にもイスラームが大きな力を持ち続けていることは驚きに値する。聖 31 17 典クルアーンに対する信仰もよく保たれているし、現在でもイスラーム圏にはたくさんのクルアーン暗 唱者がいる。今日、イスラームは「世界宗教の中で最も速く信徒が増加している」と言われる。 とはいえ、 世紀は伝統的なイスラーム世界が激しく揺らいだ時代であった。1932年にサウジア 本章の内容に関連する著書を紹介いたします。 『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』山川出版社、2002年 (興亡の世界史6)講談社、2006年 『イスラーム帝国のジハード』 『イスラームとは何か─その宗教・社会・文化』講談社現代新書、1994年 「クルアーン」―語りかけるイスラーム』岩波書店、2009年 『 読書案内 結び合わせる、というイスラームの姿は、おそらくこれからも変わらないであろう。 を終えた信徒は、その足でマディーナへ向かい、預言者モスクを訪れる。二聖都が世界中のムスリムを その一方、マッカへ向かっての日々の礼拝、毎年の巡礼は途切れることなく続いている。マッカ巡礼 ム諸国が「イスラーム諸国会議機構」を結成し、今日に至っている。 国と共に、イスラーム首脳会議を呼びかけてからである。その決議によって、国連に加盟するイスラー イスラーム世界が国際的なレベルで再び姿を現したのは、1969年にサウジアラビアがモロッコ王 ズム、社会主義などが広がっていたのである。 支配下にあった。そして、独立する場合でも、国家のレベルでは西洋起源のナショナリズム、リベラリ ラビア王国が二聖都を擁して正式に王国の樹立を宣言した時、イスラーム圏のほとんどが西欧の植民地 20 32 イスラームとは 『ワードマップ イスラーム―社会生活・思想・歴史』(共編)新曜社、2006年 (共著)山川出版社、2010年 『イスラーム銀行―金融と国際経済』 筆者 小杉 泰 (こすぎ やすし) 1953年生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授。研究科附属イス ラーム地域研究センター長。専門はイスラーム学、中東地域研究、比較政治学。東京外国語 学イスラーム学部卒業。法学博士(京都大学) 。ケンブリッジ大学中東研究センター客員研 大学アラビア語学科に学び、政府招聘留学生としてエジプト留学。エジプト国立アズハル大 任。日本学術会議会員。サントリー学芸賞、毎日出版文化賞、大同生命地域研究奨励賞など 究員、国際大学教授などを経て、現職。日本中東学会会長、日本比較政治学会理事などを歴 を受賞。著書に『現代イスラーム世界論』 『ムハンマド―イスラームの源流をたずねて』 『 「ク ルアーン」―語りかけるイスラーム』など。 33 世界に広がるイスラーム建築 ―普遍性と多様性― 深見 奈緒子 早稲田大学イスラーム地域研究機構研究院准教授 はじめに イスラーム教は、7世紀アラビア半島で預言者ムハンマドによって説きはじめられてから、世界各地 へと広がった。 世紀までには西はスペインから東は中央アジアまでの中緯度乾燥地域を覆い、 世紀 15 理想の地であった。そして、預言者ムハンマドの言行が信徒の規範となり、神を偶像化すること、具象 各地のイスラーム教徒が共有するようになる。その姿は、イスラーム教の発祥地アラビア半島における られた聖典クルアーンによって、アラビア語が共通語となった。さらにクルアーンに綴られた天国像を も包括した宗教で、イスラームという思想のもとに似かよった社会が営まれた。また、アラビア語で綴 つづ て、以下の諸点が説かれる。イスラーム教が単に精神的な教えだけではなく、日常生活の道徳や規範を したモスクや宗教建築だけでなく、歴史的な宮殿や市場、あるいは伝統的住宅をも含む。その理由とし イスラーム建築という枠組みの成立については、後述するが、通常イスラーム建築という場合、前述 るようになる。 待つ墓建築が発達する。特に聖なる人を葬った墓は、人々の参詣の対象となり、教団によって管理され が建設される。そして、イスラームの法学や神学を学ぶマドラサ(学院) 、あるいは死者が復活の日を イスラーム教徒が住む地域には、毎日の礼拝、あるいは金曜日の昼の集団礼拝を行うモスク(礼拝所) 代では西欧、北米、南米、日本にもイスラーム教徒が分布する。 越えて西アフリカへ、インド洋を渡って東アフリカへと伝播した。スペインからは後退したものの、現 末までにはアナトリアから東ヨーロッパ、南インドから東南アジアを経て中国沿岸部へ、サハラ砂漠を 10 36 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 的な絵画で宗教建築を飾ることを否定した。それゆえ、極度に抽象化された幾何学紋、文字紋、植物紋 が発展した。こうした文様は宗教建築に限らず世俗建築にも用いられた。 このようなイスラームという宗教の下での普遍性を、広大な地域、長大な歴史に展開するさまざまな 機能の建築の中に見出すことができる。それは、イスラームという枠組みなしには考えられない文化交 流である。とはいえ、材料や構法の相違、技術の進化などから地域や時代の特色も顕著で、多様性も観 ]に 察できる。本稿では、モスク建築に話題を絞り、歴史的、地域的な広がりを見定めながら、双方の側面 を考えてみたい。 普遍性の根源 ―原型としてのイスラーム建築 イスラーム建築の原型は、マッカのカアバ神殿 [写真1]と、マディーナの預言者のモスク [写真 番目の月には、マッカへの大巡礼が行われ、イスラームの一体感を体感する。 連れて遠いマディーナの町へと逃れた。しかし、マッカのカアバを礼拝の方角に定め、8年後にはマッ 彼は、唯一神を信じるイスラーム教を説きはじめると、周囲の多神教徒から迫害を受け、共同体を引き 預言者ムハンマドが生まれた町マッカには、彼の生前からカアバがあり、当時は多神教の神殿だった。 イスラーム教徒としては可能ならば生きているうちに一度は大巡礼に参加することを切望する。 え て、 イ ス ラ ー ム 暦 の ある。イスラーム教徒に課せられた毎日の5回の礼拝は、マッカのカアバ神殿に向かって行われる。加 2 カを奪還し、偶像を一掃してイスラームの中心拠点とした。クルアーンによれば、カアバは神が人間に 37 12 写真1:マッカのカアバ神殿 38 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 写真 2:マディーナの預言者のモスク 39 与えた神の館である。 mの広さで、高さが mの石造の建物である。高さ2mの基壇の上に3本 カアバはキューブ(立方体)の語源のごとく、箱形である。ムハンマドの頃から矩形の囲いであった という。現在は、縦 m横 10 15 ひ ぼしれん が 預言者ムハンマドが、共同体を引き連れてマディーナに逃れた時、彼が建てたモスクが共同体の拠点 がっていく。この世界観を支えるのはカアバである。 ム教徒の世界の中心には、中空の立方体があり、水紋のようにイスラーム教徒が同心円状に世界へと広 大巡礼のとき、数万人の巡礼者がカアバの周りを左回りに巡る。その渦を映すかのように、イスラー の柱が建ち、天井を支える。ただし建物の中には何も置かれていない。 12 し ゆうがい て開放的な多柱室を造り、さらにフレキシブルで快適性をもたらす中庭(サハン)を置く。中庭の周囲 このモスクは、その後のモスク建築の規範となった。敷地を壁で囲み、マッカの方角に柱を林立させ な部屋が仕切られていた。ムハンマドは亡くなると、東南の隅の妻の部屋に葬られた。 など様々なことが行われた。なお、ムハンマドと何人かの妻のために東側の壁に沿っていくつかの小さ このモスクでは、日々の礼拝が行われただけでなく、子供たちの教育や話し合い、あるいは共同作業 ときにはマッカに向かって肩と肩を並べて横一列に並び、その列が増えていく。 けではなく、多数の柱が林立する開放的な空間であった。イスラーム教徒は神の前には平等で、礼拝の いアラビア半島では、露天の庭だけでなく屋内の空間が必要であった。柱の間には間仕切りがあったわ 対側の北壁に沿って棗椰子の柱を並べ立て、その葉で屋根を架け、有蓋空間とした。日中の日差しの強 なつめ や となった。縦横 mほどの敷地を、干乾煉瓦の厚い壁で囲み、広い庭とした。マッカの方角の南壁と反 50 40 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― よ には回廊(リワーク)が巡るようになる。そして、礼拝の場としてだけでなく、教育や集会、あるいは 休憩などに利用され、共同体の拠り所となる。 これら2つの建築は、聖化された立方体、中庭を用い数多くの人を収容できる空間造りが特色で、と もにアラブの基層文化を源泉とする。イスラームの理念的中核を設定し、基本的礼拝の場を提示し、イ スラーム教徒の建築における普遍性の基盤を築いた。 多様性の基盤 ―形態としての借入 イスラームがはじまった頃、地中海世界はビザンツ帝国のキリスト教文化が覆っていた。ユダヤ教、 キリスト教の聖地であったエルサレムに、預言者ムハンマドが生前に諸天訪問へ旅立ったという岩を記 念して、691年に「岩のドーム」が建てられた [写真3] 。岩の上にドームを構築し、二重の回廊で囲 む建築である。この建築は礼拝を行うモスクではなく、聖なる岩を祀る建築である。新興の一神教たる イスラーム教勢力としては、既存の一神教の聖地に宗教的記念碑を残さねばならなかったのだろう。 この建築の様式は、キリスト教会堂の中で、集中式教会堂と呼ばれるものと類似している。ガラス・ モザイクをビザンツ帝国の工人が担当していることからも、キリスト教会堂の様式や技法が用いられた と言えよう。集中式教会堂は、洗礼堂や殉教者聖堂などに使われる。その後、イスラーム建築において は、「岩のドーム」の形は、死者が復活の日を待つ墓建築へと応用される。 706年に完成したダマスカスのウマイヤ・モスクにも、キリスト教会堂との共通性がみられる [写真4] 。 41 写真3:エルサレムの岩のドーム 42 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 写真4:ダマスカスのウマイヤ・モスク 43 モスクとしてマッカに向かって横幅の広い礼拝室を持つ。礼拝室を中庭からみると、ラヴェンナの教会 堂にビザンツ宮殿を描いた絵とよく似ている。 モスクの必須要素は、マッカの方角を指し示すミフラーブ(壁がん) である。入念な細工を施され、 アー チ形をしているものが多い。預言者ムハンマドの時代には、壁に槍をたてかけて礼拝の目印にしたとい ちな う。金曜日の昼の集団礼拝が行われる大モスクには、ミフラーブの横に礼拝の先導者が上るミンバル(説 教壇)がおかれる。預言者ムハンマドが、マディーナで説教するときに3段の台に腰掛けたことに因む という。そして、日に5回の礼拝の呼びかけを行うミナレット(光塔)も、 ムハンマドの時代にはなかっ たが、次第に形を整えていく。こうした要素は、ユダヤ教のシナゴーグやキリスト教会堂に類似する装 置を見出すことができる。 こだわ このように、新興のイスラーム教徒が礼拝施設としてのモスクの様式を整えていくときに、既存の建 築文化を拘りなく取り入れていった側面が明らかである。無論、ユダヤ教、キリスト教といった一神教 の造形様式だけでなく、各地に根付いていた伝統的建築文化を吸収し、イスラームの規範のもとに再構 築したのである。こうした拘りのなさは、イスラーム教徒の建築文化の多様性の根源となっている。 普遍性の伝播 ―広域への様式普及 イスラーム教は、成立以来、拡張を続けていくが、建築様式の伝播には大きな3つの波が観察できる。 44 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 最初の波は、7世紀後半からはじまるアラブ様式の伝播である。先述したマディーナの預言者のモスク を原型とした多柱式モスクが、1000年頃までに西はコルドバから東はサマルカンドにまで達する [写真5] 。預言者のモスクでは棗椰子の幹を使っていたが、柱は古代建築の石円柱を転用する、あるい とら は煉瓦積みの太い柱を用いるなど、土地によってさまざまで、次第に壮麗化する。柱を林立させた空間 しょう ろ う は、柱が無数に反復しているために同質性が高く、内部にいると自分がどこにいるのか捉え難くなる空 間である。ミナレットはキリスト教会堂の鐘楼の形を継承し、角塔となることが多い。 2番目の波は、 世紀末から 世紀に成立したペルシャ様式の伝播である。大ドームやイーワーン(前 12 世紀末までに、西はエジプト、東はインドにまで到達する。建築様式そのものではないが、当時イ 12 3番目の波は、 世紀初頭からのオスマン様式の伝播である。オスマン朝は、1453年にビザンツ 国沿岸部と、当時のイスラーム世界全域を巻き込む文化交流であった。 ス(鍾乳石飾り)なども含めれば、西はマグリブ(北アフリカ) 、南はスワヒリ(東アフリカ) 、東は中 スラーム全域で流行し、そのルーツがペルシャにあったマドラサ(学院)建築やタイル技法、ムカルナ ら るかのような象徴的な空間で、対称的な塔は建築をより壮麗化する。この一連の様式は、 世紀後半か クな建築となる [写真6] 。ミナレットは円塔となり、二基一対に配置される。大ドームは天を具現化す 面を大アーチで開口する大広間)などが多柱式モスクに組み込まれ、空間が分節され、よりダイナミッ 11 のキリスト教会堂に学び、今までにない大空間のモスクを造るようになる [写真7] 。そして、この様式は、 帝国からコンスタンティノープルを奪取すると同時に、既存のモスクの様式から抜け出して、ビザンツ 16 首都イスタンブールに限らず、オスマン朝が領土とした東地中海全域で採用される。イエメンやアルジェ 45 14 写真5:7世紀創建のサナアの大モスク 46 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 写真6:イスファハーンの大モスク 47 写真7:イスタンブールのスレイマニエ・モスク 48 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― リアにも、大ドームと特徴的な鉛筆型のミナレットを持つモスクが残る。 こうむ イスラーム発生の地、およびそれを取り巻く乾燥地域の建築文化が普遍的様相として、各地へ普及し たのである。武力によってイスラーム教徒の支配に巻き込まれ、新たな文化の波を被る場合ばかりでは なかった。イスラーム商人の商業活動や教団の布教活動とともに西アジアの建築文化が遠くの土地へ伝 播する場合もあった。 多様性の開花 ―風土に即した土着様式 3つの文化伝播の波を被っても、イスラームの建築様式が統一されたわけではない。渡来様式は土地 の持つ土着様式と折衷しながら取り入れられるので、地方色が盛り込まれる。そして、時の経過ととも に次第に地方色が顕著になる。 加えて、早い時期にイスラームが伝播したスペインから中央アジア一帯の中緯度乾燥地域、およびア ナトリアとインドを加えた地域の外側には、異なる風土に即して、より土地に根差した建築文化でモス クを構築する伝統が色濃い。 木造建築の系譜に、南方系と北方系がある。湿潤気候の地では、豊富な木材を用い、傾斜屋根を特徴 とする木造モスクが造られ、中庭を持たないものも多い。 南方系は、インド洋沿岸部の南インド、東南アジア、中国沿岸部に分布する。マディーナにある預言 者のモスクも最初は棗椰子の幹を柱に用いて、棗椰子の葉で屋根をかけていたが、乾燥地域のアラビア 49 写真 8:ジョクジャカルタの大モスク 50 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 半島では、降雨量が少ないので、屋根は平らに造る。しかし熱帯あるいは温帯雨林の湿潤気候の土地で し ん きょう は、雨を凌ぐために屋根を傾斜させる [写真8] 。屋根を傾斜させるために、柱の配置に工夫をし、小屋 組みをすることによって、西アジアの造形とは全く異なる建築が造られる。 [写真 ] 。 の長い平面とし、中庭を持たない [写真 ] 。また、サハラ南部の西アフリカには泥造建築の系譜がある インド洋西海域のスワヒリ地方には珊瑚石建築の系譜が確認できる。比較的分厚い壁で囲み、奥行 さん ご 様な様式がロシア人ムスリムとともに移入する [写真9] 。 北方系は、ロシアのウクライナ地方にある。やはり傾斜屋根を戴くモスクで、 世紀には新疆にも同 19 スラームながら、異なる背景を誇張するかのように、自らの個性を主張する。その陰には、多様性を肯 る生態系とそこから生じる建築材料、加えて濃厚な基層建築文化の存在が大きいのであろう。宗教はイ 彼らはなぜローカルな道筋を選択したのだろうか。ひとつには、中緯度乾燥地域とはあまりにも異な と回帰してしまう。 アジアや北アフリカからの建築文化の移入を語る事象を確認できるが、持続的ではなく、土着の様式へ こうした土地に、先述した普遍性をもったイスラーム様式が届かなかったわけではない。各地で、西 10 定するイスラームの思想があるのかもしれない。 51 11 写真9:イーニンのノガイ・モスク 52 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 写真 10:ラム島シェラの大モスク 53 写真 11:トゥンブクトゥーの大モスク 54 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 他者からの枠組み ―イスラーム建築の成立 くく 今まで用いてきたイスラーム建築という括りは、イスラーム教徒の発案ではなく、 世紀西欧が構想 した「サラセン建築」に由来する。西欧では、 世紀頃から、当時のムスリム三大帝国―オスマン朝、 19 サファヴィー朝、ムガル朝―の首都を飾る壮麗な建築が銅版画で紹介されはじめ、 世紀後半以来、ス 17 19 ] 。彼らは、現地に残る歴史的建築をも併せて、これらイスラーム風の建築をサラセン建築、あ 世紀には、自由、平等、科学、進歩で代表される西欧に対し、狂信、独裁、野蛮、専制のイスラー るいはサラセン様式と呼んだ。 [写真 地としたイスラームの国々にも、イスラーム各地の細部、あるいは西洋建築を折衷した建築を建設する テイストも加味し、今までにない「イスラーム風建築」が西欧で造られた。そして、同時に西欧が植民 と異国趣味の建築が持て囃され、各地から紹介された事例の要素を混入、折衷、さらにはゴシック風の はや ペインやシシリーのムーア建築を含め、より詳細な建築図版が出版されるようになった。 世紀になる 18 ムという二項対立的な図式が導かれたという。そして、この時代に初めて「イスラーム世界」という概 念が成立したと考えられる。イスラーム建築も同様で、このような経緯から先述したように、モスクや 宗教建築以外のイスラーム教徒の関係する建築すべてをイスラーム建築と呼ぶようになったのである。 このような状況下で、 世紀から 世紀前半にかけて、モスク建築はどのような動向をとったのだろ 20 う。多くの国々に、当時の壮麗なモスクが残っているが、その多くは、各地の前時代の様式に沿ったも 19 ので、特別な西欧化が確認できるわけではない。 55 12 19 写真 12:ムンバイのタージ・ホテル 56 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 西欧に近いオスマン朝では 世紀後半から、モスクにバロック的な曲線装飾や楕円形などを用いるよ は 低 い [写真 ] 。一方、古い実例が残っていない地では、マリのジェンネのモスクのように、 20 モスク建築で、過去からの離脱を求めて、自らの同胞観に基づく「イスラーム建築」への挑戦がはじ 普遍性への挑戦 ―現代モスクの潮流 在しなかったように思われる。 ムスリムの側に、地域を超え、支配領域を超えた、建築文化全体を覆う同胞観は、この時代にはまだ存 ろうし、カアバを核とした世界観から派生する装飾プログラムなど普遍性への認識は存在する。しかし、 認識があったかというと疑わしい。モスクの場合には、イスラームの礼拝所を造るという意識は濃厚だ ただし、これら各地の伝統様式を造っていた側に、世界に広がる長く包括的なイスラーム建築という 建築をもって、変わらずに造られ続けたその土地の持続的な伝統様式と説く場合もある。 世紀の 当たらない。既往の規範の上での過剰な装飾、新奇性の欠如などから、退廃的傾向とも捉えられ、評価 けれども、多くのモスクはいわゆる伝統を深化させた状況にあり、過去の建築文化との不連続性は見 れるような特例はある。 スクのように西欧の建築家によって、各地の寄せ集め様式や現地の時間的に離れた過去の様式が採用さ うになった。また、マレーシアのクアラルンプールのモスクや、エジプトはカイロのリファーイー・モ 18 まったのは、第二次世界大戦の終結後であった。アジアやアフリカで植民地から現代的国民国家成立の 57 13 写真 13:テヘランのセパ・サラール・モスク 58 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 過程で、イスラームを国教とした国、あるいは多くのムスリムを抱える国で、国立モスクにその様相が 観察できる。 そのデザインは大きく三つに分けられる。第一に新たな革新的な技術を誇示する現代様式、第二に前 時代に規定されたイスラーム建築の括りの要素を混在させた折衷様式、第三に既存のある伝統的様式に 依拠した復古様式である。 現代様式は、 世紀前半から欧米でおこったモダニズムの血をひく。従来の歴史的様式建築から離れ、 機能主義と合理主義を目指し、鉄筋コンクリートとガラスによる無装飾な建築がインターナショナルな スタイルとなった。この潮流は1970年代頃から、装飾性を取り戻そうとするポスト・モダン建築へ とつながる。 きつりつ インドネシアのジャカルタに1954年にキリスト教徒の建築家シラバンによって設計された独立モ スクでは、大ドームと屹立するミナレット、それらを統括する中庭というイスラームの普遍性に基づく 造形言語を用いるが、既存様式に依拠せず、鉄とステンレス、コンクリートとガラスという新素材と新 技術を用い、新たな現代様式を生み出した [写真 ] 。 折衷様式は、 世紀にヨーロッパで確立した「イスラーム建築」を、彼らがミックスしたのと同様な がマジョリティーの地域の実例は1990年以後減少する。 し、こうした挑戦は、1992年完成のローマのモスクのように欧米の建築はあるが、イスラーム教徒 大ドームを折板構造という現代技術に置き換え、普遍的イスラーム建築に挑戦するものもある。ただ 14 手法で混交し、新たなる汎イスラーム様式を築こうとする。1980年代からサウジアラビア政府によっ 59 20 19 写真 14:ジャカルタのイスティクラール・モスク 60 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― は ん ちゅう て進められたマッカの聖モスクとマディーナの預言者のモスクの大改修もこの範疇に属する。 きら 普遍的イスラーム建築を目指し、多様なる歴史的要素を入れ込むという、それぞれの建築での工夫は ] 。 された様式とをどのような分脈で結び付けるのか、理解に苦しむものも多い。 レバノンのベイルートのムハンマド・アル・アミン・モスク(2005年)[写真 ]は、オスマン朝 プ ト 風 [写真 ] 、アブ・ダビのシェイフ・ザーイド・モスクはムガル朝インド風で、都市の歴史と採用 年)は、土着のモロッコの様式を採用する。しかし、ドバイのジュメイラ・モスクはマムルーク朝エジ 規模モスク建設は、この範疇に大きく偏る。モロッコのカサブランカにあるハサン二世モスク (1993 復古様式は、現代的技術を用いて過去のある一つの様式へ傾倒する。近年、アジアやアフリカでの大 [写真 混在させ、オイル・マネーをつぎ込んで、イスラーム建築のさらなる様式化を図っているかのようだ めくアラベスク文様、錯綜するムカルナス(鍾乳石飾り)、イスラームを表象するアラビア文字などを 読み取れるが、この解法はすでに 世紀の植民地で試行された。加えて、ドームやアーチをはじめ、煌 19 21 本の東京ジャーミィをはじめ、トルコ人の故地中央アジアにも多い。過去の大イスラーム帝国の栄光、あ 過去の様式の踏襲という点では、必ずしもオスマン朝様式だけが用いられるわけではない。しかし、日 と う しゅう 合点がいかない。 様式を採用するが、1516年にオスマン帝国に編入されたベイルートで、 世紀の造形という点では 17 16 るいは汎トルコ主義を求めて、世界各地にオスマン朝風の造形が蔓延することも現代モスクの趨勢である。 61 15 写真 15:マスカットのスルタン・カーブース・モスク 62 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 写真 16:ドバイのジュメイラ・モスク 63 写真 17:レバノンのムハンマド・アル・アミン・モスク 64 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 様式の借入と組み合わせ ―日本のモスク建築 前述のような潮流の中で、日本のモスク建築を位置付けてみたい。日本で初めてモスクが建設された のは、西欧でイスラーム建築という括りが成立した後である。193 年に神戸モスク、1938年に 東京ジャーミィが完成した。 神戸モスクは、いまだに当時の建築が現存する[写真 ] 。建築家は、チェコ人のヤン・ヨーセフ・スワガー 5 しゅう れ ん で、ライトの帝国ホテル建設に伴い来日したアントニン・レーモンドの弟子にあたるモダニズムの建築 ふく 家である。神戸モスクは、前述の第二の折衷様式に該当する。ある一つの様式に収斂するわけではない が、インド風の膨らむドームと室内の折上天井、ペルシア風の二基一対のミナレットと正面入り口の大 アーチ、エジプト風のミナレットの分節など、各地由来の要素が混在する。 一方、今は、老朽化によって撤去された東京ジャーミィも、同じく折衷様式に相当するものであった。 りょく ゆ う 全体的な趣は、ドームとミナレットの形からマムルーク朝エジプト風にまとめられているが、中央アジ アのリバッティ・マリク風の入口を囲む緑釉のピシュターク、およびその内部のファーティマ朝風の竜 骨 ア ー チ、 コ ル ド バ の メ ス キ ー タ を 思 わ せ る 室 内 の キ ブ ラ 壁 の 2 色 の ゼ ブ ラ 紋 様 の ア ー チ な ど の イ ス ラームの要素が、モダニズムを思わせる縦長のガラスを多用した側面ファサードの分割と混在している。 イスラーム風の要素は、西欧から移入されたサラセン様式や、当時出版されていた建築史の著作に掲 載されたものを、建築家がモスク建設に際して利用したのであろう。サラセン様式は、赤坂離宮に見る ように、洋館の喫煙室でも好まれた。一方、西欧列強の進出の影で、エジプトで研究をしたクレスウェ 65 18 写真 18:神戸モスク 66 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― ルをはじめ、それぞれの地域でのイスラーム建築史研究が深化を遂げていた。 日本のモスク建設に際して、イスラーム建築の認識に基づいた普遍性を表現するために、いくつかの 歴史的要素を借り入れることによって表現したと思われる。同じ頃、雲南地方で建設された清真寺を見 れば、いわゆる中国風の建物で、形態における普遍性を見出すことは難しい。日本には、意識的なイス ラーム建築成立以前にモスクが設立されなかったので、土着の伝統様式を表現するモスク建築は成立し なかった。 2000年に完成した東京ジャーミィは、先述のごとく、 世紀のオスマン朝建築の様式を写したも の で あ る [写真 ] 。地権や歴史的経緯から意図的に採用された様式で、建設に当たっては日本の建設会 16 社が担当したものの、トルコ人の建築家が設計し、トルコ人技術者が参加し、鉄筋コンクリート造なが ら本格的なオスマン風に仕上がっている。 ただし、現在日本にあるモスクは、こうしたモニュメンタルな建造物ばかりではない。既存のビルを そのまま利用したり、あるいは一室を転用したり、無理やり既存の建築要素や、既存イスラーム建築様 式の採用に固執しないモスクも数多く存在する。 おわりに ―イスラームが希求する建築とは ムハンマドにはじまるイスラームは、世界各地に壮麗で美しい建築を残した。その根底には、カアバ を極とする世界観があり、美の理想にはクルアーンが語る天国像があった。イスラームの拡張とともに、 67 19 写真 19:東京ジャーミィ 68 世界に広がるイスラーム建築 ― 普遍性と多様性 ― 普遍性を目指しながら、土地の状況に即した多様な建築文化が育まれた。 世紀にはじまるイスラーム でする礼拝より 段階も優っている。というのは汝らのうちだれでも身をよく浄めてから、礼拝するこ アブー・フライラによると、預言者は次のように言った。「モスクで行う集団礼拝は個人の家や市場 のような一説がある。 えれば、モスク建築はいつの時代にあってもひとつの様式に収斂するわけではない。ハディースに以下 今後、モスク建築はどのような道筋をたどるのだろう。多様性を鼓舞するイスラーム建築の側面を考 建築の覚醒にはじまり、第二次世界大戦後、世界のモスク建築は新たな時代へと踏み出した。 19 とをただひたすらに望んでモスクに向かうならば、彼が一歩あゆむごとに神は彼を一段ずつ高め、モス クに達するまでに彼の罪をとり除かれるからである。そしていよいよモスクに入ると、彼は礼拝に没頭 一 することになる。また彼が礼拝の場所に留まる間、天使達は『神よ、彼が穢れに染まらぬ限り、彼を赦 し、恵みを与え給え』と祈る」と。 カアバを中心とした世界観を体現する場として、数多くの信者が一堂に礼拝できる清浄な場を目指し、 牧野信也 訳『ハディース イスラーム伝承集成』(2001年 中公文庫) 今後もさまざまな挑戦が続いていくのであろう。その進化は見逃せない。 一 69 25 筆者 深見 奈緒子 (ふかみ なおこ) 東京都立大学大学院工学研究科修士課程修了。博士(工学) 。早稲田大学イスラーム地域研 究機構研究院准教授。 著書に『イスラーム建築の見かた―聖なる意匠の歴史』 (2003年 東京堂出版) 、 『世界の イスラーム建築』(2005年 講談社現代新書) 、 編著『イスラム建築がおもしろい』(2009 年 彰国社)など。 70 イスラームのグローバリゼーションと日本 塩尻 和子 筑波大学理事・副学長 一.﹁グローバリゼーション﹂とは何か 「今日の世界では、米国が覇権的に設定する「標準」に基づくグローバリズムと、こ れとは別のイスラーム的アーバニズムのグローバリズムとがせめぎ合い、しかし、 東大名誉教授の板垣雄三は、世界には二つのグローバリズムがあるという。 一 年 以 上 も 前 に、 相互浸透しながら、全体として近代世界のあり方をかき混ぜ、突き動かして、編成 させつつあるということに目を向けなければならない。 」 こ れ は 1 9 9 8 年 に 発 表 さ れ た 論 文 の 最 後 で 述 べ ら れ て い る こ と で あ る。 今 か ら 9・ の同時多発テロ事件発生の前に書かれた主張であるが、現在世界の構造について見事にあてはま 10 据えていかなければならない、とさえ考えている。その一方で、 世界第二位の宗教勢力を有するイスラー ローバルビレッジ」といわれるほど狭くなっており、すでにポスト・グローバリゼーションの時代を見 と考えている。しかも、今はグローバリゼーションが予想以上に進展した時代であり、 世界はまるで「グ とした現代世界の構図であり、情報網や交通手段が極度に発達した現代の世界的状況を指す概念である る。私たちは、特に日本人は、グローバリズム、あるいはグローバリゼーションといえば、欧米を中心 11 72 イスラームのグローバリゼーションと日本 ム思想の中に、現代的なグローバリゼーションに通じる概念があることには、気づこうとさえしない。 そもそもセム的三宗教の中では、当初からイスラームが最も顕著に多元主義的である。7世紀初頭の アラビア半島で見られた頑迷な部族主義や血縁主義を廃し、すべての人間を対象とする普遍的な宗教と して起こったイスラームのなかでは、 「グローバリゼーション」という語の本来的な概念が、つまり「地 球上のすべての人間は神の被造物であり、神のもとでまったく平等である」という概念がみられるから である。この概念こそが、急速なイスラームの伝播と拡大につながったと考えられる。 しかし、今日のグローバリゼーションは、アメリカ中心主義という新しい衣をまとっており、その枠 組みは西洋中心的な「自己認識」にすぎない。つまり今日のグローバリゼーションは、特定の政治的・ 経済的な意図を伴った囲い込みであり、世界の力関係によって形成されている一種の虚構でしかない。 そこから排除された「他者」には対等な関わりが持てないシステムとなっていて、決して字義通りの普 遍的なものではなくなっている。 イスラームだけではなく、世界宗教といわれる宗教が本来持っていたグローバルな側面と、現代のグ ローバリゼーションとの間に大きな断絶があることが、今日の宗教をとりまく種々の悲劇の要因となっ ていることは否めない。 イスラーム世界で展開されるさまざまなイスラーム運動は、戦闘的急進的な運動も含めて、一般に今 日的なグローバリゼーションの外側に位置づけられる。「文明の衝突」の概念を提唱した国際政治学者、 サミュエル・ハンティントンなどの主張に代表されるように、「野蛮な」文明と断じられ、イスラーム は根本的に多元主義や民主主義、人権などといった近代的な価値観とは相容れないと批判される。しか 73 し、イスラームには、西洋的な民主主義や人権思想とは基盤が異なるものの、それに近い社会観や人間 観が存在する。今、イスラームの内側においても、これらの基本的観点を踏まえながら、緊急の課題と して「国際化、グローバリゼーション、対話の可能性」が研究されている。現代の「グローバリゼーショ ン」が、異なった伝統的文化や宗教、習慣などの違いを認めあいながら形成される「世界はひとつ」と いう枠組みであるなら、宗教間対話が成立する可能性があると思われる 二。 現代は多元化とグローバリゼーションが予想以上に進展した時代であり、私たちはこれから、ポスト・ グローバリゼーションの時代の世界を見つめ、異文化理解に基づく共存体制を進展させていかなければ ならない。前述のように、今日の世界には二つのグローバリゼーションの相克があるとすれば、アメリ カ中心のグローバリゼーションと対峙するもう一方のグローバリゼーションについても、真摯に考察し なければならないのである。 二.イスラームと﹁共存﹂ ―すべての宗教に共通する教義 )が意識的に取り 伝統的なイスラーム神学思想において、今日的な意味での「共存」 ( co-existence 上げられたことは、ない。クルアーンは神が人間を創造し、地上の神の代理人として正しい道を示した が、人間は、神に感謝して信仰する者と、神を信じない者とに二分したと記している(たとえばアルイ ンサーン 章3節など)。 このことは、神が創造したこの地上に、信仰者と不信仰者という二種類の人間が存在することを示し 76 74 イスラームのグローバリゼーションと日本 ている。クルアーンはさらに、人間が信仰者となるか、不信仰者となるか、という区分けは神の意志に 節)。 よって決定されるという一方で、悔悟も改心もしない不信仰者は、来世では神の懲罰をうけると教えて いる(たとえばアッタウバ9章 節、 題に根深い影響を与えている。 三 や社会体制との結びつきの1600年を超える長い歴史的経緯は、現代においてもヨーロッパの移民問 されてからは、政治的体制としても、異教徒を差別し排除する政策が採られてきた。キリスト教と政治 リスト教は、西暦392年にテオドシウス帝の勅令によってローマ帝国の唯一の国家的宗教として認定 国」に入ることができるのは、イエスを「救い主キリスト」として信じる信仰者のみである。さらにキ のではない。強固な選民思想が中心軸となっているユダヤ教はいうまでもなく、キリスト教でも「神の 人間を「信仰者」と「不信仰者」とに二分して差別的に扱う、という宗教体制はイスラームだけのも 言い換えると、イスラームの教えでは、信仰者と不信仰者は、そもそも神の前では平等ではありえない。 スリムである、という原則を掲げていても、実際に信仰を持つ者と持たない者との区別は明瞭にされる。 イスラームでは、「人間」は超越的な神の前では絶対的に平等であり、すべて生まれながらにしてム れない者は「不信仰者」となる。 信じるとしても、ムハンマドが最後の預言者であることと、クルアーンが神の言葉であることを受け入 であり、彼に齎された啓示が神の言葉「クルアーン」であることを信じる者を指し、「神の唯一性」を もたら ここで言う「信仰者」とは、「神の唯一性」を信じるだけでなく、預言者ムハンマドが預言者の封印 90 初期から近世までの長い期間、イスラーム世界で実施されていた啓典の民に対する「保護民政策」 75 79 が比較的有効に機能したのは、イスラームの優位性を認め、イスラームによる支配を受け入れることに よって実現した共存体制であり、決して「平等な権利と義務」による社会体制ではなかった。このよう な社会体制下の保護民が「二級市民」としての苦渋の選択を強いられていた、という見解に対しては判 断が分かれるが 四、一握りの権力者に支配された社会では、現実にはイスラーム教徒であっても保護民 とほとんど変らない被支配者の暮らしを余儀なくされていたことは、あきらかである。 したがって、「イスラームにおいてのみ他宗教の信者との共存が問題となる」という設問は、最初か らイスラームに対する偏見や誤解を伴っているというべきである。どの宗教においても、他宗教の信者 との共存を成り立たせるためには、自分の宗教が自分にとって正当であるのと同様に、他者の宗教が他 者にとって正当なものであることを認め、それに敬意を持つことであるが、さらに重要なことは、自分 の主張を他者に押しつけ、自分の判断の次元で他者を判断しないことである。しかし、このような条件 は、言うはやさしいが、現実に遂行することはきわめて難しい。 今日的な「共存」が、さまざまな宗教の信者が、同じ地域社会で平等な権利と義務のもとで、ともに 暮らすということを意味しているのであれば、それは、どの宗教においても決して平等ではない「信仰 者」と「不信仰者」が共存することにつながる。この問題をどのように解決することができるのか、今、 最も問われることかもしれない。 76 イスラームのグローバリゼーションと日本 三.神道文化との共存 しんとう や お よろず 日本の神道は、宗教の分類から見ると「民族宗教」であり、「多神教」のなかに配置される。一般に は神道は、日本古来の伝統を取り込んで自然発生的に成立し、八百万の神々を崇拝する宗教であると定 義される。私もこの定義を否定するつもりは、ない。 しかし、日本神道の神観念には、単に多神教や偶像崇拝とは言えない独自の様相がある。たとえば、 ないぐう こうたいじんぐうごしょうぐう あまてらしますすめおおみかみ あいどのかみ 日本で最も高位の神社として知られる伊勢市の神宮は、日本神道の神観念の独自性をよく表している 五。 げ ぐう とようけおおみかみごしょうぐう とようけおおみかみ みとものかみ 言うまでもなく、内宮の皇大神宮御正宮には天照坐皇大御神と二座の相殿神が東西に合祀されている。 外宮の中心となる豊受大神宮御正宮には豊受大御神が祀られ、東西に三座の御伴神が祀られている。内 宮も外宮も、相殿神を合祀しているが、あくまでも主神はそれぞれ、 天照坐皇大御神と豊受大御神である。 一つの神殿には一柱の神が祀られている、と言っても言い過ぎではないように思える。ところが、これ こう そ しん らの神々は「姿」を持っていない。崇拝対象としての神々の木像や銅像が造られないだけでなく、絵画 さえも描かれることは、ない。 それでは、人びとは何を拝みに神宮へやってくるのか。皇祖神である天照坐皇大御神や食物を司る豊 せいひつ 受大御神を拝礼するために参拝に訪れる、という説明では不十分であるような気がする。神々が鎮座し ているということと同時に、静謐な神宮の神域が、そこへ参拝する人びとの魂の救済と肉体の健康を約 束してくれる「聖地」であるからに違いない。 神宮には、世界の他の諸宗教にも共通の「神との応答」が可能となる「宇宙の中心」があるように感 77 よ じられる。神と神殿と悠久の自然がひとつに融合した神宮の霊性は、自然と人間をつなぐ魂の「拠り所」 なのであり、神宮の荘厳な神域そのものが、永遠のときを生きる動かない聖地そのものである。 あか このように考えると、日本の伝統宗教と一神教、とくにイスラームとの相互理解も共存も不可能では ないように思える。人間も含めた森羅万象がすべて神の被造物であると同時に、神の存在を証すもので あるというクルアーンの教えと、神殿を宇宙の中心と位置づけ、自然界の営みに神性を見ようとする神 道の教えとは、相互に矛盾しないように思われる。魂の救済を求める人々にとって、 「神あるいは神々 との応答」の場が、宗教であることを考えると、日本に生きるイスラームにとって、日本の伝統思想を 理解することを通じて宗教の新しい地平が開けてくるように感じられるのである。 四.仏教との対話 今日の日本の仏教学者の中には、イスラームに対して厳しい目を向ける人も少なくない。 元駒沢女子大学長の東隆眞は『日本の仏教とイスラーム』 六 の中で、 「慈悲あまねく慈愛深き神の 御名において」(「ビスミッラーヒッ・ラフマーニッ・ラヒーム」クルアーン第1章第1節)に触れて、 仏教用語の「慈悲」がイスラームやキリスト教の神の愛と同じかどうか、ということを検討している。 (176〜85、195ページ) 東は中村元の文章、「われわれにかかる苦しみを与えた世界創造神が絶対的な慈悲であるということ は考えられない」「世界創造神を想定する多くの宗教においては、たとえ人が神に救われたとしても、 78 イスラームのグローバリゼーションと日本 ぼん ぷ 神と人との間には絶対の断絶がある。…仏教においては、仏がわれわれ凡夫を救い取ったあとでは、凡 夫は仏そのものとなるのである」などを引いて、神と人間との間に差別があるのなら、その神の「慈悲」 は絶対的なものではないと分析する。 東は、ここでは「イスラームの神」と限定しているが、人間との間に絶対的な断絶があるのはユダヤ 教、キリスト教も含む「一神教の神」の特性である。そして、 「この〝慈悲〟を、その性格や教義が全 く相違するイスラームの神にあてるのは、少なくとも仏教の側からみると、不適正であるといわなけれ ばならない」(185、195ページ)と厳しく批判している。 一神教の教義では、永遠の神と有限な被造物である人間との、この絶対的断絶をさまざまな工夫によっ て乗り越えようとしてきた。ユダヤ教では信徒を「選民」とし、「約束の地を与える」という囲い込みによっ ちゅう ほ し ゃ て、神との結びつきをはかろうとしてきた。キリスト教では、言うまでもなく、 創唱者イエスを「救い主・ 神の子」として神と人間の仲保者とみなした。イスラームでは、人間に神の言葉クルアーンを与えるこ とによって、神の意志を地上に実現させようとした。このような図式化は、単純すぎるかもしれないが、 唯一の絶対者に立ち向かう人間の側から見れば、それらは人間が生きるための指針となる工夫である。 一神教のこのような工夫は、仏教の天地自然の法則「ダルマ」 の考えと似ていないであろうか。東は 「週 刊仏教タイムス」の紙面で、日本ムスリム協会の名誉会長、樋口美作と対談した際に「ブッダは目覚め げ だつ た人で、法に目覚めるということなのです。法に目覚めれば、誰でもブッダになれる」(2005年8 月4日付、第2面、「イスラームの1000年」)と言っている。 「法」(ダルマ)は宗教的な解脱にいた る道へと人びとを導く正しい教え、あるいは「真理」を意味するといわれるが、これを一神教の神の導 79 きや神の教えと同様に考えることはできないであろうか。 仏教は世界中にさまざまなかたちで展開しているので、一概に「仏教では」と断言することはできな いが、一般に仏教では、「神」のような恒久的な実体の存在を認めない反面、 「法」には絶対的な価値が あると考えられている。 この絶対的真理「ダルマ」に覚醒した人間が「仏」となる、ということは、全身全霊で「法」に従う 人が「仏」となることと同じことではないかと思われる。そうであれば、 「魂の救済」という意味にお いては「神に従う者」と「法に従う者」は同じ次元にあるのではないか。神と人間、法と人間、それぞ れの間には教理的には大きな断絶があるが、「従う」あるいは「悟る」という行為によって、どちらの 側の人間も救われるのである。 ここで、一神教の「神」は、仏教では仏ではなく「法」と対比されるということに気づく。それでは 「仏」は何に対比されるであろうか。私は、「仏」は「神の子」あるいは「聖者」と対比されるのではな いかと考える。「神の子」や「聖者」は覚者でもあり、普通の人間には得ることのできない聖性を与え られた特別な存在である。イスラームの聖者崇敬については、 ここではこれ以上言及しないが、イスラー ム世界に広く根づいている民衆的信仰であることは言うまでもない 七。 「神の子」を三位一体説にしたがって「イエス・キリスト」と固定してしまえば、このような対比は成 り立たないかもしれないが、聖書の記述にもあるような「人の子」というように、 広い範囲で考えるなら、 「仏」と対比され得よう。人間は、誰でもが真理に目覚めることによって、 「人の子」にも「聖者」にも 「仏」にもなる可能性がある。しかし、現実には、「真理に目覚める」ことは極めて難しいことであり、 80 イスラームのグローバリゼーションと日本 実際には誰にでもできることではない。この点は仏教においても同様である。 イスラームの神に従う者も、仏教の法に目覚める者も、どちらの魂も信仰によって救済されると考え るなら、一神教の神が無慈悲で、仏教の仏こそが慈悲深い、と断言することはできない。中村元は「世 界創造神」は慈悲深い神ではあり得ないというが、「存在の苦しみ」はダルマのもとにある仏教徒にも 平等に降りかかる。 一神教において「世界創造神」に「絶対的な慈悲」や「絶対的な愛」をあてるのは、神は正しいこと しか行わない、という神義論が基盤となっているからである。しかし、この「絶対的な慈悲」や「絶対 的な愛」などは、現実の世界では実現不可能な究極の理想である。実現不可能な理想は、現実の社会の 中では、机上の空論にすぎないが、宗教においては、理想が実現不可能であればあるほど、尊くありが たい教えとなる。なぜなら、社会も現実も超越した高い次元に魂の救済を求める精神の働きこそが信仰 となり修行となるからである。この点は、日常性・社会性を重要視するイスラームにおいても同様である。 一神教の神の「愛」と仏教の「慈悲」との相違点については、さまざまな立場があるが、私は突き詰 めて考えれば、どちらも同じく究極の理想であり、宗教を支える原動力ではないかと思う。 五.宗教用語の日本語化 前述の「仏教用語」の借用について、もう一度考えてみたい。たしかに、東隆眞の批判や疑問は、日 本のイスラーム研究者が、イスラームの教義を日本語で解説する際に、あまり深い意図を持たないまま、 81 仏教用語を多用してきたことについては的を得ている。 また、イスラームの基本的な宗教儀礼の「五行」(信仰告白、礼拝、ザカート、斎戒、巡礼)の3番 目にくる「ザカート」を「喜捨」とすることについても、彼は仏教学の立場から異論を呈している。(前 掲書、102~3ページ)たしかにザカート(ザカー)は、一定の税率が決まった税金であり、イスラー ム教徒同士の相互扶助のために用いられる公益福祉税ともいうものである。これを「宗教税」と訳すこ ともあるが、日本語にあてはめることは難しい。しかも、国民国家が成立して、国家財政上の所得税法 が施行されている現代世界にあっては、どのイスラーム国・地域も、現実にザカートは義務の献金では なく、任意の献金となっているという実情があり、ザカートの訳語として適切な日本語を探す作業は、 ますます困難になっている。私も著作の中で、ザカートを「喜捨」としながら「一定の税率があり宗教 税の役割を持つ」と記しているが、これも苦しい言い訳である。 しかし、一般に日本語の中でも、宗教に関連する用語のほとんどは仏教用語であるといっても過言では ない。もともとアラビア語で記されたイスラームの思想を日本語に翻訳することは、極めて難しい作業で あり、新しい用語を発案するより、それらしい仏教用語をあてはめることのほうが、多くの人々の理解 を得やすい、もっとも安易な方法であったことも事実である。新しく異文化を導入する際に、独自の慣 行や教義上の用語が、その土地の文化や用語と習合するという現象は、どの宗教にも見られることである。 日本におけるイスラームの導入に際して、仏教用語を借用することは、自然な現象であり、やむを得な いことであったといえないであろうか。最近では、イスラーム独自の意味を含有する用語は、カタカナで 示すことも多くなってきているので、次第に原音に近い表記を採用する傾向が進むことと思われる。 82 イスラームのグローバリゼーションと日本 六.新しい対話と共存を 現在、イスラーム世界では、さまざまな近代思想の相克が見られる。近代主義者の代表格であるエジ プトのアシュマーウィー(1932年~)も、エジプト出身でカタール在住の、現代のイスラーム運動 を代表するカラダーウィー(1926年~)も、ヨーロッパで活動を展開するラマダーン(1962年 ~)も、アメリカで活躍するインド出身のシーア派のサチェディーナ(生年不詳)も、高名なシーア派 学者ナスル(1933年~)も、思想的な立場が異なっていても、現代のグローバリゼーションの中で の対話と共存を模索している。 中世のアッバース朝(750〜1258年)下で実現した多宗教・多文化・多民族の共存は、イスラー ムの支配権を認めるという条件下であったが、今日では、世界中で活躍するイスラームの思想家たちが、 さまざまな立場を掲げながらも、理性主義的傾向を持つ議論を展開することによって、イスラーム教徒 と他の宗教の信者たちとが平和的に共存することができる地平を作り出すことができるはずである。そ こでは、もはや、どの宗教が支配権を執るかということは問題にされず、どの宗教を信じていても、人 間としての尊厳と権利と義務が尊重される「新しい共存」の世界であるべきである。 人間に可能な共存とは、「神における共存」でしかないであろう。しかし、信仰的には、絶対的な神 章 節)と記されてい であるゆえに「神と被造物の共存」が可能となるのではないかとも思える。クルアーンに、神は絶対的 けい な高みに存在するが、同時に「人間の頚動脈よりも人間に近く在る」(カーフ 16 る。このような「いと高く、いと近く」在る神のもとでは、「神と人間の共存」は創造的な意味をもって、 83 50 人間に決断を迫る究極的な「共存」となる。このような「神と人間の共存」のもとでは、人間同士の差 異はなんら問題にもならず、共存を阻む要素さえ存在することはなくなるのである。 スイスを中心に欧州で活躍する前出のラマダーンは「神とともに在ることは、人類とともに在ること である」として、これを「タウヒード」 (神の唯一性)の本来の意味であると説明している。このタウヒー ドは、4つの次元を持って展開しているが、まず、家族との関係から始まり、次に五行の宗教的儀礼を 実行することによって集合的側面を持つことになり、信仰者はすべて信仰共同体に所属する。第三にこ の信仰共同体は「信仰告白」シャハーダによって結ばれる「信仰、感情、同胞、運命の共同体」ウンマ となる。すべてのムスリムは個人として信仰に入るが、同時にひとつのウンマの成員としての義務を負 うことになる。さらに第四の次元にいたると、ウンマは、ムスリム以外の全人類に対しても、あらゆる 状況下において正義と人間の尊厳の側に立つことによって、自らの信仰について証言する義務を負うこ とになるのである 八。ラマダーンはムスリムが全人類に対して正義を行うという原則が、タウヒードの 実践であり、ムスリム共同体全体の任務を真に理解することに基づいていると言う。 このような「共存」を、ラマダーンは伝統的な「イスラームの家」 dār al-Islām と「戦争の家」 dār al3 という区別から、 「告白の家」 dār al-shahādah へと転換をはかるための鍵概念であるとしている。 harb 彼は、さらにヨーロッパに住むムスリムにとって、もっとも重要な課題はシティズンシップであるとして、 ムスリムの側からは、移住し共存して住む運命にある土地・国家・都市への忠誠を守ることを、ヨーロッ パ社会の側からは、ムスリムにシティズン(市民)としての平等な権利と義務を与えることを要求する。 ラマダーンの主張する「ヨーロッパ社会」を「日本社会」と置きかえて検討することもできよう。日 84 イスラームのグローバリゼーションと日本 本ではイスラーム教徒数もまだ少なく、イスラーム研究者の人数も限られている。いまだ欧米のような 社会生活上の大きな問題は生じていないが、少数者の宗教であるという理由づけで、イスラームを客観 的に学ぶことを避けてはならない。世界的に急増するイスラーム教徒の勢力を考えると、イスラーム世 界のグローバリゼーションの理想が、「人間はすべて森羅万象と同様に神の被造物であり、すべて平等 である」という理想が、やがて欧米中心のグローバリゼーションにとって代わる時代がくる可能性があ る。よりよい対話と共存のために、今、日本人である私たちにできることは何か。 同一の社会の中でのよりよい共存のためには、それぞれの宗教の教義などあまり知らなくても、人格 的な交わりが重要であると「非ロゴス的対話」を強調する立場もある 九。 それぞれの教義や思想について専門的に学ぶ機会がなくとも、人間同士としての平和な日常的なつき あいを行うことも、もちろん重要である。私もこの立場に賛同するものであるが、同時にそれぞれの思 想を、偏見を排して客観的に学ぶことはさらに重要なことであると考える。特に日本人は知識欲が旺盛 であり、歴史を生き延びて世界中に大きな影響を与えている異文化や他宗教を理解することの重要性を 熟知する国民でもある。 最後に、カトリックの神父で宗教学者のハンス・キュンクの以下の言葉を紹介したい。 「宗教間の平和なくしては民族間の平和はない。 宗教間の対話なくしては宗教間の平和はない。 85 一 宗教の基盤についての研究なくしては、宗教間の対話はない」 十 偏見と蔑視を排して、世界中で 億人に迫る信者数を要するイスラームを学び理解することは、平和 二 三 五 四 六 七 東隆眞 著『日本の仏教とイスラーム』 (2002年 春秋社) イスラームの聖者崇敬に関する研究書としては、私市正年 著『イスラーム聖者』 (1996年 講談社現代新書)が特筆される。 拙稿「永遠の聖地―神宮のご神縁によせて」 『瑞垣』(2009年 神宮司庁)101〜7ページ。 活を知る事典』 (2006年再販 東京堂出版)6ページ、195〜6ページを参照されたい。 拙著『イスラームを学ぼう』188〜92ページ参照。『イスラームの人間観・世界観』256〜7ページ。 拙著『イスラームの人間観・世界観』 (2008年 筑波大学出版会)253〜60ページ、塩尻・池田 著『イスラームの生 バース朝下では多神教徒であるゾロアスター教徒やヒンズー教徒、仏教徒も同様の保護と地位を与えられた。 較的うまく機能していた。保護民規定(ウマル規定)は、文言上はかなり厳しいものであったが、実際には柔軟に運用され、アッ をあたえた契約に基づくシステムを意味している。この制度は紆余曲折を経ながらも1922年のオスマン帝国の滅亡まで、比 に対して、イスラームの支配者に服従することと、イスラームの支配を認めることを条件として、信教・居住・移動などの自由 拙著『イスラームを学ぼう』 (2007年 秋山書店)212〜49ページ、特に238ページを参照されたい。 民政策はズインマと呼ばれるが、イスラーム支配下の領域に居住する聖典を共有する一神教徒(ユダヤ教徒、キリスト教徒) 保護 とモダニティー(近代性)が現代世界の礎となったことを論じている。(『イスラーム誤認』218〜37ページを参照) 人類の歴史は〝近代〟を迎えたと考えています」 (『イスラーム誤認』227ページ)として、イスラームのアーバニズム(都市性) 板垣雄三 著『イスラーム誤認』 (2003年 岩波書店)9ページ 板垣は、イスラームは都市の宗教であるとして、独自の文明論に基づきイスラーム文明の近代性を主張しているが、この点が日 本人のイスラームについてのもっとも大きな誤解であるとも言う。「私は、西暦7世紀にイスラーム文明が成立した時点から、 することでもある。 的共存のために相手をよりよく知るだけではなく、日本人が日本人としてのアイデンティティを再確認 16 86 イスラームのグローバリゼーションと日本 八 ) Western Muslims and the Future of Islam, (Oxford University Press, 2004) 〜 Tariq Ramadan ページ、210ページなどを参照。ターレク・ラマダーンはエジプトのムスリム同胞団の指導者として知られるハサン・バン レク・ラマダーン( ター ナーの孫でもある。現在はオックスフォード大学教授。 宗教間対話』 (2004年 大正大学出版会) 〜 ページ。 リックの神学者ハンス・キュンク(1928~)は「地球倫理」の構築のために積極的に活動をしているが、宗教間の平和 カト あう「体解」を提唱している。 (鎌田繁「イスラームの知と宗教間対話の意味」 星川啓慈・山梨有希子 編『グローバル時代の 交わり」である「非ロゴス的な交わり」を、言い換えると、教義論争や言葉による「理解」ではなく行動を通して人格的に学び 関心であった、というのも大きな理由ではなかったか、と思う」として、宗教間対話を成功させるために「言葉を超えた人格的 繁は、伝統的イスラーム社会で啓典の民の共存が成功的であったのは「教義については、互いに無知であった、あるいは無 鎌田 90 張している。 Jonathan Magonet,Talking to the Others, ( L.B.Tauris, 2003 ) ページ。キュンクの主張には、可能なかぎり、 他者を理解し他者の宗教を学ぶことの重要性がみられる。 的共存を実現するためには、宗教が互いによく知りあうことが重要だとして、非ロゴス的な共存と同時に、ロゴス的な共存も主 74 国立大学法人筑波大学理事・副学長。 岡山県出身。大阪外国語大学アラビア語学科卒業。東京大学大学院博士課程単位取得。 筆者 塩尻 和子 (しおじり かずこ) 19 九 十 67 著書に 『イスラームの人間観 世界観ー宗教思想の深淵へー』(2008年 筑波大学出版会) 、 ・ 『イスラームを学ぼう 実りある宗教間対話のために』 (2007年 秋山書店)など。 87 91 2 日本に生きる イスラーム 日本イスラーム史 イスラーム研究者 鈴木 紘司(アフマド) ―7世紀から 世紀前半(1945年) まで― 20 イスラームと日本人 西暦 世紀にアラビア半島で誕生したイスラームは、古代文明発祥の地オリエントに生まれた啓示宗 する傾向が見られるが、決してそうではない。現在、その信徒は世界中に住んでおり、既に 世紀の時 をもち、同じセム人種の習慣や伝統を有する。イスラームと聞くと、アラブの地域色だけを殊更に強調 教で、ユダヤ教、キリスト教の姉妹宗教であり、この三つの宗教の背景はいずれも砂漠という似た環境 7 だから日本は、アラビア語で〝未知の国〟という意味を込めた「ワークワーク( Waqwaq ) 」の名称で 長い間呼ばれてきた。これは〝倭国〟がマレー語などに多い反復形式で伝えられたものという。また、 「知識を求めて中国まで行け」とあるが、当時で遥か遠方を表現した中国よりもさらに日本は遠かった。 地理上で実際に日本はアラブから最も遠く離れた場所に位置している。よく知られたアラブの伝承に となるであろう。 信徒が少ない理由は何か」に対する答えは、日本の置かれた地理的、歴史的な立場から眺めれば明らか 教徒の日本人が皆無に近い〟のは不思議だと世界から見られているのだ。しかし、 「日本にイスラーム の1はイスラーム信徒である〟という事実の前で、1億2, 000万の人口を持つ日本に〝イスラーム ぬ神にたたりなし〟とばかりに、無関係を決め込んでいる人達が少なくない。さらに〝世界人口の4分 世界史に大きな影響を及ぼしたイスラームであるが、日本では未だに不可解な宗教と思われ〝さわら しながら理解する必要があるだろう。 を積み重ねて、人間の生死の意味を教示してきたが、イスラームを知るには、前述の一神教を全て比較 14 92 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― 日本にとってもアラブ、オリエントの地は、〝唐(中国)と天竺(インド)〟という2つの巨大文明圏の さらなる向こうに存在した地域であり、2つの文明の影に隠されてきた事実は否めない。 イスラームと日本の接点 み よ 時代的な検証を行えば、イスラームの預言者ムハンマド(570~632年)の一生は、実に聖徳太 子(574~622年)の御世に重なっている。アジア大陸の西端と東端において同時代に偉大な足跡 を共に残された2人の存在は歴史の偶然であろうか。さらには預言者ムハンマドが初めて啓示に接し 〝誦 ど ん ちょう め「汝の主は、こよなく尊いお方。筆持つすべを教え給う。人間に未知なることを教え給う」 〟と読み 書きによる知性の大切さを教示された西暦610年といえば、日本へ高句麗の僧、曇微が紙を移入した 年号と一致する。こうして中国と日本、イスラームの筆記家だけが、当時の世界で文字を書道空間の主 役にさせていったのである。特にイスラームは言語を通じて事物を抽象化し、極端なまでに偶像崇拝を た 排除したが、反対に日本は事物の具象化に専念し、仏像の創作が盛んとなり、現在まで続く〝物造り〟 に長けた社会を形成したのは対照的である。しかしながら歴史上で、日本とイスラームの接点はほとん どなかったに等しい。わずかに人的な交流で、遣隋使、遣唐使が中国の宮廷でイスラーム圏の使節と顔 じゅう た ん こ こく ご ま きゅうり く る み を合わせた程度であり、また物的な交流では、中国西域に延びるシルクロードを通じてイスラーム世界 の楽器、絨毯などが搬入され、西域、胡国の特産品である胡麻、胡瓜、胡桃などが日本へ伝来したこと などである。 93 さらに 世紀にユーラシア大陸を席巻したモンゴル軍は、1258年に西でバグダッドを陥落させ、 達している。現在の中国に広く分布する回族は、 世紀以降に移住してきたトルコ、イラン、アラブな た〝海のシルクロード〟による交易を通じて着実に東南アジアへと流布され、中国の広州、泉州まで到 録にすぎない。こうした激動の陸路の動きとは別にイスラームの教えは、アラビアからインド海岸に沿っ 軍が派遣した使節団の1人に〝サラディン〟というムスリム名が見られることが、日本史に残された記 アッバース・カリフ朝を滅ぼし、中国では元朝(1271~1367年)を興したが、1275年に元 13 ド洋航海が行われている。しかし、 世紀の大航海時代にヨーロッパ人が、この海域に参入して歴史の に雲南省出身のムスリムでマッカ巡礼を果たした有名な鄭和により、1405年から七回にわたりイン てい わ 時代に日本へ来て永住した楠葉入道・モスリー(1486年没)ともいわれる。中国では永楽帝の治世 族と定義され、その数は1,000万人を超えている。その中の1人が明朝(1366~1644年) どのイスラームを信仰する外来民族の子孫を中核にして、漢族その他民族との通婚により形成された民 13 製造した事実は興味深い。次いで、1549~51年にかけてザビエルが日本に滞在しキリスト教を伝 すぐ後に、ポルトガル船が1543年に種子島に漂着して鉄砲をもたらし、これを日本人が自らの手で バスコダ・ガマによるインド航路発見(1498年)とマゼランの世界一周(1519~22年)の イスラーム伝来がなかった日本 流れは大きく転換し、日本の歴史にも大きな影響を与えたことは特筆に値しよう。 16 94 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― えている。競い合うスペインは、セブ島〝発見〟を口実に艦隊を派遣し、1571年にマニラを占領支 配する。武力とキリスト教による植民地支配を確立し、それまでイスラームを奉じていたフィリピンは、 ミンダナオ南部を残してキリスト教化された。 その頃の日本は戦国時代の末で、織田信長が天下統一の地歩を固めたが、キリシタン伝道は日本でも 盛んとなり、ザビエルに続き1565年にフロイスが訪れ、日本人信徒を増やした。植民地支配の野望 は、確実に日本へも伸びていたのである。信長を継いだ豊臣秀吉は海外情報の入手に積極的であり、す でにスペインが宗教を流布する手口でマニラを支配して民衆の蜂起を武力で鎮圧した情報を得ていたと される。それゆえ秀吉は1587年、九州を平定した際に自ら外国船を検分した後で宣教師たちへの退 去命令を出し、キリシタン禁止令を敷いた。これには実際に外国勢力が日本を武力で征服する計画をも ち、それを記した極秘文書が残されているという。徳川時代にも海外からの干渉は続いたが、1612 年のキリシタン禁令、翌々年に高山右近をマニラへ追放して締め付けが強化された。1633年、植民 地支配を断固として拒絶する幕府は鎖国に入り、外からの干渉を完全に排除した。ちなみに中国の歴史 も同じように1644年からキリスト教禁止に踏み切り、再三にわたり布教を禁じている。 こうしてアジアにおけるキリスト教国はスペインの植民地支配に従属したフィリピンだけに留まった が、このためにイスラームの東進は切断され、日本が鎖国政策を採択したことによりイスラームの日本 への到来の道は完全に閉ざされた。この結果、7世紀に誕生したイスラームが日本へ紹介されるのは、 明治の開国まで待たねばならなかった。こうした歴史の事実認識こそが、日本イスラーム史を知る上で 最も重要なのである。 95 初期の日本人イスラーム教徒 黒船が来航(1853年)して開国となり、日本は明治維新(1868年)を迎えたが、時代は大英 帝国を筆頭とする欧米の列強が覇権を競い合い、イスラーム圏の多くが植民地化され、盟主オスマン大 帝国も落日の一途を辿っていた。当時の世界を結ぶ交通手段はもっぱら船舶に依存し、中東ではアジア とヨーロッパを直結するスエズ運河が1869年に開通している。 日本とイスラームの新たな幕開けで起きたのは、1889年にオスマン帝国が派遣した訪日使節団の ぎ えんきん 艦船エルトゥールル号が、帰路に和歌山沖で台風に遭い沈没した海難事故である。救助された生存者 ルを命名されている。こうしてトルコにおいて初めて日本人ムスリムが誕生したが、 世紀初頭、イン はトルコ皇帝アブドゥルハミト二世の勧めで1902年頃にイスラームに入信して、アブドゥルハリー る。次いで、山田はその後トルコに長期滞在して実業家となり、両国の架け橋として活躍をした。山田 ぶと共に、日本語を教えたという。この野田が日本人最初のムスリムとして現地の記録にも残されてい 兵学校でイスラームへ入信し、アブドゥルハリームの名前を貰い、同兵学校でイスラーム神学などを学 の2人である。この際、野田はイギリス人ムスリムに導かれ、1891年イスタンブールのバンガルティ 山田寅次郎(群馬・1866~1946年)と当時の時事新報、記者の野田乙太郎(1868年~不詳) 名は、翌年に日本軍艦でイスタンブールへ無事送還されたが、その義捐金の届け役を自ら務めたのが、 69 という実業家の勧めで入信し、アフマッドの教名を受けている。有賀は、還暦を迎えた引退後にもイス ドのボンベイでも南洋貿易に従事していた有賀文八郎(福島・1868~1946年)が、ハイダリー 20 96 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― ラーム活動に奉仕して、神戸、名古屋、東京モスクの創建や、外国人ムスリムの支援などに大きく貢献 した。 日本人聖地マッカ巡礼者と活躍した先駆者 これら先駆者の中で日本人としてマッカ巡礼者(ハッジ)第1号の栄誉を保持するのが、山岡光太郎 オ ・ マル(広島・1880~1959年)である。山岡は東京外国語学校ロシア語科を卒業後、中国、 はかま えっけん ロシアの現地踏査に従事したが、ロシアのアブドゥルレシト イ ・ ブラーヒーム師の教示により1909 年、インド経由にて聖地マッカの巡礼を行った。その時にサウジアラビア建国の父アブドルアジーズ・ フイフイ アール・サウード国王に黒紋付袴の礼装で謁見を果たしている。著書に 『アラビア縦断記』(1912年) 、 くんとう 『回々教の神秘的威力』(1921年)、 『血と銭』(1936年)など多くあり、足跡はアジア、アフリカ、 しげ ヨーロッパ三大陸から南米に迄及んだ。山岡の薫陶を受けた人材には三田了一、小村不二男などがいる。 山岡は終戦後も健在で国会図書館に足繁く通い、長い白髭のため仙人と呼ばれ、イスラーム会合にもよ く顔を見せた。終生独身を守り、最後は堺市の老人施設「福生園」で波乱万丈の生涯を終えた。 山岡に次ぐ、日本人巡礼者第2号は田中逸平・ヌール(東京小金井・1882~1934年)であ り、1924年に中国の山東省モスクで正式な入信式を行い、マッカ巡礼を済ませて翌年『イスラム 巡礼 白雲遊記』を出版している。田中は1933(昭和8)年に再度マッカ巡礼に参加するが、帰途 の船中で病に倒れ、帰国後直ぐに他界した。葬儀は青山斎場において日本人で初めて、また戦前で唯 97 一のイスラーム式葬儀をイブラーヒーム導師が執り行っている。その他、昭和以前の主な動きとして は、1909年にロシアから前述のアブドゥルレシト・イブラーヒーム師の最初の訪日があり、その後 日本に亡命したこと。同じくロシア赤軍から逃れたクルバンアリーやアヤス・イスハキーらが1920 ~25年にかけて日本に亡命し、イスラーム運動を活発化させたことが挙げられる。これは日本軍部の アジア大陸政策遂行に呼応した動きでもあり、その頃から日本はイスラーム圏を知る必要に迫られてい た。イスラーム研究では、満州鉄道調査部に属して、その後『回教概論』や邦訳の『古蘭』を著した大 川周明(山形・1886~1957年)、聖心女子大学名誉教授をつとめた内藤智秀(山形・1886 けんさん ~1984年)、新聞記者で中国情勢に詳しく『回教の動き』などの著作をもつ佐久間貞次郎(東京浜町・ 1886~1979年)、イスラーム関係資料の保存に尽力した大村健太郎などが研鑽を続けていた。 昭和に入ると当時の国策を背景に、現地でイスラームの実践的活動を推進する新しい動きが加速する。 中国大陸では、山岡と師弟関係を結んだ三田了一・オマル(山口・1892~1983年)が満鉄(南 満州鉄道)に入社して現地ムスリムとの親交を深め、中国回教総連合会の主席顧問を歴任した。三田は 戦後にマッカ巡礼を行った最初の人であり、『日亜対訳・注解 聖クルアーン』を完成している。須田 政継(山梨・1893~1963年)は山岡の後輩にあたり、ロシア語科を卒業して通訳官になり従軍 した。中央アジアでムスリムに接し、ロシア イ ・ スラームの専門家として満鉄調査部で三田と机を並べ た。 日 本 に 亡 命 し た ロ シ ア 人 グ ル ー プ を 支 援 す る と 共 に 蒙 古 の 地 で は 自 宅 を 開 放 し て 食 客 を 歓 待 し た 。 須 田 の 指 導 に よ り、 戦 後 の 若 手 日 本 人 ム ス リ ム を 多 く 育 て た 斉 藤 積 平・ ア ブ ド ゥ ル カ リ ー ム( 静 岡・ 1908~98年)がイスラームに入信したと聞いている。松林亮(仙台・1891~1980年)は、 98 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― 筋金入りの国士であり、満州での生活が長く奉天の「文化清真寺」顧問などを務めた。なお松林の後は 川谷建彰がその意志を継いでいる。戦後に『日本イスラーム史』を出版した小村不二男・ムスタファー (京都・1912~98年)も内蒙古で活躍をしたひとりで、戦前から三田と共に活動してきた。 日本人留学生の系譜 イスラームを学んだ初の日本人留学生は、田中逸平の地方公演に感銘し入信を決意した青森の陸軍中 尉、益子勇である。クルバンアリーの推薦で1930年にカイロのイスラーム最高学府アズハル大学へ 留学した。しかし満州事変の勃発で中国人留学生と乱闘して居づらくなり、翌年イランに移るが、テヘ ラン南方のモスクで病没した。そのアズハル大学では1934年に日本語講座を開設して、その時の外 務省留学生、中野英治郎が教えていた時期があった。 当時のカイロには外務省から、戦後にアラビスト大使として中東外交で功績を上げられた田村秀治、 小高正直、多田利雄、および、アラビア語辞書をまとめ、創価大学教授となった川崎寅雄、アラビア石 油の創立者山下太郎の通訳者として活躍する林昂・オマルなどがおられた。 その後のアズハル大学留学組には1936年、小林哲夫・オマル・ファイサルがおり、1939年に は中野学校出身の萱葺信正・イブラーヒーム、後藤信厳が続いている。 日本人のマッカ巡礼は1934年、一挙に4人が参加した。郡正三・ムハマッド・アブドゥルワリー を団長にして、鈴木剛・ムハマッド・サーリフ、細川将・ムハマッド・アブドゥルムナイムに加えてカ 99 ブールから来た山本太郎・ムハマッド・アフマッドであった。 翌年にも郡正三と2名がカイロまで来たが、旅費が届かずに巡礼を断念して帰国している。1936 年には、鈴木剛と細川将が二回目のマッカ巡礼を敢行し、「上海毎日」勤務の榎本桃太郎を伴った。榎 本は終戦後にインドへ渡るが、1951年にネパールの滝で投身自殺をした。その翌年も鈴木剛は山本 太郎を伴い、満州国のムスリム張世安を連れて、三度目のマッカ巡礼を果たし、この後で著書『メッカ 巡礼記』を出版している。なお、鈴木らの後ろ盾となり巡礼費用を工面したのは、『日本とイスラム世界』 の著書もある右翼の若林半であった。同年にカイロから小林哲夫も巡礼に参加しているが、 鈴木剛グルー プとの遭遇はなかった。翌1939年にも小林は、アズハル留学生の萱葺、後藤と一緒に再度のマッカ 巡礼をしてから、単独でシーア派の聖地であるイラクのカルバラ、ナジャフを訪れている。 イスラーム機関の創設 太平洋戦争を控えたその頃は、東南アジアを含む〝大東亜共栄圏〟と名付けた日本軍部にとりイス ラ ー ム 対 策 は 急 務 で あ っ た。 す で に 1 9 3 4 年 イ ン ド 系 ム ス リ ム の 手 で 神 戸 モ ス ク が 建 立 さ れ た が、 月で半年余りの突貫工事であったが、5 1938(昭和 )年、東京の代々木大山町にエジプト様式の華麗な光塔(ミナレット)を持つ「東京 回教寺院(東京ジャーミィ)」が完成する。起工式は前年の ワハバ駐英公使、イエメンからサイフル・イスラーム ア ・ ルフセイン王子とキブシー宗教大臣、エジプ 月の落成式は内外から著名な招待客が参集して盛大であった。サウジアラビア国王代理、ハーフィズ・ 10 13 100 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― トはシュクリー駐伊領事はじめ中国、ロシア代表など200余名、日本政府から内ヶ崎文部政務次官、 小橋東京市長、遠山満翁、松井石根陸軍大将、山本英輔海軍大将など名士300余名に達した。翌月に 「東京イスラム教団」が結成され、名誉顧問:遠山満、川島義之陸軍大将、南郷次郎海軍少将など、顧問: うた 若林半、加藤久、相談役:鈴木剛、団長:ナジムデン・モヒート、副団長:アブドゥルレシト・イブラー ヒームが名を連ねた。さらに同年9月には東亜の新秩序建設を謳い 「大日本回教協会」設立の運びとなり、 千代田区麹町に事務所を置き、初代会長は林銑十郎(元内閣総理大臣、 陸軍大将)、副会長を小笠原長生 (海 軍中将)と村田肖蔵(通信大臣、大阪商船社長)という威容を誇る顔ぶれを揃えた。協会の趣旨・方針 は、(1)皇道精神に基づき回教諸民族と密接なる融和を図り、相互の文化通商、親善及び福祉を増進、 以って世界平和、人類幸福に寄与する。(2)回教に関する調査研究の基礎を確立し、国内における各 事業の指導、統制及び援助等を行う。(3)世界の現状に鑑み、回教徒との関係を密接にするため諸準 備事業を行うとし、主要事業としては、(1)回教会館の設立、(2)親善代表の交換と斡旋、 (3)回 教地方留学生の招致、指導、世話。(4)回教地方へ医療、日本語の教授、親交機関の設置、(5)マッ カ巡礼。回教大会への代表派遣が挙げられ、機関紙『回教世界』の発刊を定めた。同誌は昭和 年4月 に創刊、 年1月1日第3巻 号で廃刊となっている。この事業の一環で日本に招聘された南方留学生 13 イスラーム研究の分野も同年に「回教圏研究所」が設立されて、所長の大久保幸次、研究部長の小林 戦後に日本の親善に果たした功績を忘れてはならない。 の、パンギラン・ユースフ(元首相:ブルネイ)、ハリム・アブーバクル(弁護士:フィリピン)等が、 12 元をはじめ、野原四郎、蒲生礼一などの精鋭が机を並べることになった。それから物資統制で窮乏する 101 16 あき 1944年頃まで、イスラーム関係の出版物は多く刊行されている。 1940年、岩波新書の『回教徒』は元イラン公使の笠間呆雄の著作であり、 同新書の中野好夫著『ア ラビアのロレンス』もよく読まれた。また小林元が『回回』を博文館から刊行。さらに翌年博文館から 出版された井筒俊彦著『アラビア思想史』はイスラーム哲学・神学を解説した名著であり、再販され今 なお価値ある稀有の書である。井筒俊彦博士(東京・1914~93年)は、言語哲学専攻で世界諸言 語に通じ、アラビア語もイブラーヒーム師に学び、岩波文庫『コーラン』の邦訳もあるが、イスラーム 研究の世界的権威として国外の評価が高い。また同年に前島信次の『アラビア民族史』が出版され、戦 後は慶應義塾大学教授となりアラブの歴史を広く紹介した。 太平洋戦争時のイスラーム活動 1941年 月8日、対米英戦を発動して太平洋戦争に突入した日本軍は、翌年6月までに東南アジ の人材が、各方面に分散されることになる。 ラム教団」の鈴木剛、郡正三、松林亮などと協議した。こうしてイスラームに入信した日本人ムスリム ここで参謀本部は「大日本回教協会」の林銑十郎、若林半、須田正継らに協力を要請し、 「東京イス 等でイスラーム宣撫工作が重要視されることになった。 せん ぶ 須となり、インドネシア、ボルネオ、ニューギニア諸島、マレー半島、インド東部、フィリピンの一部 アのほとんど全地域を支配下に置き、占領地域では軍政を敷いて行政に当った。現地では宗教対策が必 12 102 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― インドネシアでの民族工作は「ジャワ回教別班」と「セレベス回教協会」が担当した。「ジャワ回教別班」 には中野学校出身者が多く、また現地に長く在住した邦人も含まれ、この責任担当者がマッカ巡礼者の 細川将であり、細川が途中で帰国したことで、ハッジ・鈴木剛に交代した。鈴木は日本での業務を松林 亮に託し、日本で入信して戦後に一部上場企業となる丹青社を創立した渡辺正治・アブドゥルモニール (新潟・1913~96年)を伴った。現地では在住者の大西伸治・アブドゥルハミッドらの協力を得 て、ボゴールに優秀なインドネシア人青少年を募集し「ジャワ回教青年隊(ヒズブッラー)」を結成し、 日本式のイスラーム教育訓練を施した。これが1939年「ジャワ郷土防衛義勇軍」の母体となり、柳 川宗成、吉住留五郎、市来竜夫らが参加したインドネシア独立戦争に続く。柳川はインドネシア人部隊 を指揮して生き残り、現地に帰化するが、吉住と市来は壮烈に戦い殉死した。ちなみに吉住の妻はハッ ジ・小林哲夫の実妹という関係にあった。 他方「セレベス回教協会」は海軍に属し、現地在住が長かった近藤三郎、加藤常松らがいたが、そこ に派遣されたのがカイロで学んだ、ハッジ・小林哲夫・オマル・ファイサル(兵庫・1911~43年) だった。1939年末に帰国した時に外務省から執筆を依頼された遺作『インドネシアの回教』の出版 は小林が出発した後となる。小林はアズハル時代からインドネシア留学生と親しく交際し、気心を通じ ていたので現地にすぐ溶け込み、セレベスだけでなく「ボルネオ回教協会」や、アンボンに「セラム回 教協会」も設立している。1942年のミッドウェー海戦から戦局が変わり、セレベス方面も安全では なかったが、1943年6月に小林はアンボンへ出張し、前田大将と同乗して空路マカッサルへ向かっ た。その途中不幸にも米空軍機B29と遭遇して撃墜され、ポマラ南方の海中に墜落した。小林の墓地 103 は、マカッサル市西方の霊園の中で今も静かに佇む。 マレー半島の昭南島(シンガポール)から北上してビルマのアラカン地方アキヤブにはハッジ・萱葺 信正が派遣されて、ビルマ ム ・ スリムの宣伝宣撫工作に従事した。萱葺はマレーで日本軍が〝イスラー ム礼拝の方角を聖地マッカでなく皇居の方向に変えよ〟と布令した愚につき述懐しており、完敗したイ ンパール作戦を目にしながらも無事に引き揚げてきた。 戦後は三菱商事のインド駐在員、カイロ支店長、中東監督・取締役に昇進して、アラブ諸国との商談 に敏腕を発揮された。同じ頃にマレー半島へ軍属の通信員として派遣された好青年の五百旗部陽二郎・ ムハンマド・オマルは、現地で入信し戦後は日本ムスリム協会会長に就任している。 終戦と日本のイスラーム 終戦の年、1945年4月、日本イスラーム史でかけがえのない2人の貴重な人材を同時に失うこと になる。この頃は日本本土への空襲が激しくなり、周辺の制空権と海路の安全は奪われて母国への帰還 は不可能に近かった。だが連合軍との特別協定により、南方各地に収容されている軍人捕虜への慰問品 などを輸送する任務のチャーター船、1万トン余の新造貨客船「阿波丸」が就航したのである。航行途 中で敵味方に誤認されないよう、船腹を白く塗装して大きな緑十字が描かれ、安全保障のため事前にそ 倍を超す2, 000人以上を乗せてジャカルタから出航した。だが日本軍はその協定を逆 のコースが連合軍側に通達されていた。母国へ帰還できる最後のチャンスとして乗船の希望者が殺到し、 実に定員の 15 104 日本イスラーム史 ― 7 世紀から 20 世紀前半(1945 年)まで ― 用して戦略物資を大量に積載したことが連合軍側に知られて、米海軍潜水艦の追尾を受けたのである。 あき 4月1日の深夜近く中国福建省沖合の公海上で魚雷4本の攻撃により「阿波丸」は撃沈された。同船に は当時外務省きってのイスラーム通と言われた「大日本回教協会」の幹部で元駐イラン公使、笠間呆雄 がおり、またインドネシア独立に関し参謀本部と直接交渉のため出航寸前の同船へボートで漕ぎつけ間 際に乗船できたハッジ・鈴木剛がいたのである。 戦争により多くの重要な人材を喪失したが、特にこの2名を失ったのは日本のイスラーム発展の上で 大きな痛手となった。 8月の終戦を迎えて日本のイスラームにとり不幸中の幸というべきは、名古屋モスクこそ焼失したも のの、神戸と東京の2つのモスクが共に戦災を免れたことであった。真のイスラーム信徒(ムスリム) はクルアーンとハディースに明らかなように〝知性を用いて学び、意図をもって行動する〟ことで生ま れるのであり、この基礎インフラの残存が日本のイスラームを繋ぎとめ重要な役割を果たしたことを、 最後に銘記しておきたい。 筆者 鈴木 紘司 (すずき ひろし) 東京都出身。エジプト、アズハル大学イスラーム高等学部卒業。住友商事業務部中近東担当。 ミンダナオ州政府経済顧問、在京アラブ イスラーム学院顧問、東洋大学講師など、地域文化 学会理事、NHK衛星放送アラビア語同時通訳者。著書 『預言者ムハンマド』PHP新書、 『真実のイスラーム』学研など。 105 宗教法人日本ムスリム協会名誉会長 樋口 美作(ハーリド) 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 世紀後半から今日まで― 20 イスラームが日本において初めて宗教として認知されたのは、1939年に「宗教団体法案」が帝国 議会で議決された時であり、それまで不明確であったイスラームの地位も、仏教やキリスト教と同じ法 的な監督と保護を受けるようになった。そして、二年後の1941年 月8日には、太平洋戦争が勃発 は戦禍を免れて、祈りの場として存在していたのである。無事に帰還したムスリムたちが、週に一度金 (現東京ジャーミィ)が健在だったことである。戦禍で廃墟と化した東京ではあったが、この建物だけ 命と連帯感で結ばれていた同胞の消息であったに違いない。何よりも幸運だったことは「東京回教寺院」 戦後の社会混乱が多少落ち着きを取り戻し、彼らが折に触れ時々思い出すのはやはり、かつて同じ使 一.戦後の混乱の中で とっては、毎日がその日その日の食うことで精一杯の生活であったに違いない。 た。しかし帰国して彼らが見た日本の姿は混乱そのものであり、その中で生活することになった彼らに ムということで現地の人たちとの交流は友好的であったと言われている。やがて故国に帰還する時が来 1945年に日本が戦争に敗れ、現地で捕虜として捕らわれの身となった彼らではあったが、ムスリ 主義者に対する聖戦(ジハード)の気概さえあったとも推察される。 なって宣撫活動に身を挺した。彼等は東南アジア諸国のムスリムと共闘しながら、いわば欧米の植民地 ぜん ぶ 的戦略の一翼を担うことになった。若いムスリムたちは、東亜共栄圏建設の旗印のもとに、その尖兵と し、日本は挙国一致で戦争に突入したのである。そのような国家体制の中で、イスラームは重要な国家 12 108 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― 曜日の礼拝には顔を合わせ、お互いが健在であることを確かめ合っていた。そしてある時点から彼らの 間に互助会的な「イスラーム友の会」が設立されたのである。 二.新しいイスラームの胎動 1953年3月9日、世話人一同の名で、東京上野の韻松亭で開催された「イスラーム友の会」では、 一年前からの懸案事項であった、日本人回教徒の団体結成について協議された。そして申し合わせ事項 として (一)現下の国際情勢、新興イスラーム世界の動向、再建途上の日本の回教問題の性格等に鑑み、日 本人回教徒の団体結成の必要性の再確認。 (二)団体名は「日本ムスリム協会」とする。 (三)会則、趣意書の起草委員に今泉義雄、渡辺正治、脇坂利徳、松林亮を選任。 (四)発会までの準備委員に小津幸雄、川崎寅雄、秋沢克己、古澤賢太郎、栗城赳、山路廣明、鳥山 和人を選任。 日、今泉義雄(サディーク) 次いで当時知り得た日本人ムスリム全員と、これまで回教問題に関わってきた従来の有力者を含めた 一 人に対し、「日本ムスリム協会」の結成を呼びかけ、ついに同年4月 を会長に選出し 人の会員をもって発足したのである。 65 28 これからは、かつての様な国家的組織の中で生きるのではなく、会員一人ひとりが、それぞれの仕事 109 47 で生活を維持しながら、一般市民として戦後の混乱の中で、イスラームという精神的絆に結ばれて平和 的に生きなければならない、という会員一人ひとりの決意であったと思われる。 こ こ イスラームの布教活動が初めて日本人ムスリム団体の手によって展開することになったのである。今 日にまで継承されている日本人ムスリムの源泉は此処にあると言えるであろう。 三.海外から布教者の来日 この頃になると海外からの布教者グループの来日が始まった。1956年から1960年にわたり4 回来日したインドとパキスタンのタブリーグ・ジャマートの布教活動は注目に値するものがある。なぜ ならこの活動によって、後の日本イスラーム界の指導者となった斉藤積平(アブドゥルカリーム)や、 回目に来日したアブドッラシード・エルシャド師(パキスタン)との出会いは、 木場公男(ハーリド)が入信し、また三田了一(オマル)と技術者でありながらクルアーンのハーフィ ズ(暗記者)で、第 五百旗頭陽二郎(ムハンマド・オマル)、林昂(オマル)、小村不二男(ムスタファ)、木場の名が挙げ スリムの顔触れは、今泉、三田、斉藤、森本武夫(アブーバクル) 、 渡 辺 正 治( ア ブ ド ゥ ル モ ニ ー ル ) 、 コ人やパキスタン人の布教活動で入信したムスリムの両者によって構成されていた。その主な日本人ム 戦前戦中に入信し中国大陸や東南アジア諸国で、ムスリムとして生活体験のあるムスリムと、在日トル 後の三田による『日亜対訳・注解 聖クルアーン』の翻訳に繋がったからである。 このように1960年代の日本におけるイスラームの活動は、「日本ムスリム協会」を主体として、 3 110 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― られる。 1953年の「日本ムスリム協会」の結成にかかわったムスリムでは、最近まで健在だった五百旗頭 が今年(2010年)2月に逝ったため、現在では林ただ一人になった。諸先輩はある時期においてそ れぞれの重責を果たし、初代会長の今泉は「多磨霊園」に、他の諸先輩は塩山の「イスラーム霊園」に 眠っている。いずれも日本人ムスリムとして、人間味溢れる個性豊かな人格者で、戦後の厳しい環境の 中で日本にイスラームの礎を築いた人たちである。 「インナー リッラーヒ ワ インナー イライヒ ラージウーン」 (げに我々はもともとアッラーの もの。そしてアッラーの許に帰り行くものなり) 名と少数であった。しかし世界のイスラーム諸国からは常に温かい 「日本ムスリム協会」は1968年に日本で初めてのイスラームの宗教法人として認可された。当時の 機関誌によると会員数は僅か約 配慮と援助の手が差し伸べられていたことがわかる。中でもサウジアラビアの「世界イスラーム連盟」 、 エジプトの「イスラーム問題最高評議会」と「アズハル大学」 、 イ ン ド ネ シ ア 政 府、 マ レ ー シ ア 政 府 は イスラーム国際会議や行事への招待、留学生の受け入れなど、日本人ムスリムに勇気を与えてくれたも のである。 111 60 四.外国人ムスリム学生の活動 この時代になると少数ではあったが、在日外国人ムスリム留学生を中心にした布教活動が始まった。 日本のいわば一流大学で学ぶ彼らは、日本の風土が好きで日本語をよく理解した。そして1961年に は「ムスリム学生協会」を組織したのである。 その主な学生にはサーリハ・サマライ(イラク)、オマル・ムーサ(スーダン) 、アブドッラハマーン・ シッディーキ(パキスタン)、アブドゥルバースィト・セバイ(エジプト)らが挙げられる。彼らは生 まれながらのムスリムとして、イスラームの知識と語学力で、未だ不十分だった日本人ムスリムのイス ラーム知識をよくカバーした。 もう一人忘れてならないのは、日本におけるアラビア語の普及に貢献し、イスラームの布教にも熱心 だった、ハサン・エルサムニー(エジプト)である。寛大なイスラームの解説と美しいクルアーンの読 誦には、誰もが魅了された。日本人婦人と結婚されたこともあり、多くの日本人に知遇を得、布教活動 の力となった。 五.「日本ムスリム協会」の活動 協会活動は発足以来、ムスリムと非ムスリムのイスラーム専門学者や知識人との協力関係にあった。 しかし1963年には、そうしたイスラーム専門学者たちによる社団法人「日本イスラム協会」が学術 112 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― 団体として設立されたことにより、以後の日本のイスラーム界は、 宗教法人としての 「日本ムスリム協会」 と社団法人としての「日本イスラム協会」の両者に担われることになった。そうした状況の中で、日本 におけるイスラームの布教は「日本ムスリム協会」と「ムスリム学生協会」の、いわば二人三脚の関係 で推進されたと言えるであろう。 主な活動 (一)1 9 59年に初めての協会機関紙『イスラームの声』が永瀬華州(ファールーク)の献身的な努 力によって発行された。その流れは変遷を重ねながら現在も「イスラーム」の名のもとで継続発 行されている。 (二)『日 亜対訳・注解 聖クルアーン』の刊行は、第二代会長だった三田の「ムスリムの訳したクルアー ンが必要だ」の一念で、1959年に開始された。三田は1962年に 歳の高齢を押して聖地 マッカに飛び、かつて東京で面識のあったパキスタンのハーフィズ、アブドッラシード・エルシャ ドと再会を果たした。三田は氏の指導と、「世界イスラーム連盟」の財的支援によって、2年を 掛けて翻訳作業を終了し、1972年には念願であった、日本人ムスリムの手による初めての聖 クルアーンの出版を果たした。しかしその初版判には僅かであったが印刷上の間違いが発見され、 一旦配布された全冊が回収され破棄されたのである。 協会 は委員会を組織して改訂版の発行に着手した。まずはアラビア語のクルアーン(原本)に新 たな版を用いるなど、日本語の対訳にもアラビア語を理解する複数の人たちによって逐次検討を 113 70 重ねるなど、協会は活動を一時的にこの出版プロジェクトに集中し、1982年にようやく改訂 版を完成させることができたのである。それまでには 年の歳月を費やしたのであった。 は約2万冊になる。 そのつど訳文に検討を加えながら、現在では第 刷まで増刷を続けている。これまでの出版総数 け継ぎ、当時の刊行経緯をよく知る有見次郎(アブドッサラーム)を中心に、再版に当たっては、 この 改訂版の刊行過程で付言すべきことは、かつてエジプトやサウジアラビアへ留学した学生た ちのアラビア語の力が大いに役立ったことである。現在も協会は原著者、三田の当初の精神を受 10 1958年の2人、浜田明夫(オマル)と鈴木珀郎(ズべイル) 。 19 65年の6人、小笠原良治(モハセン)、樋口美作(ハーリド)、武藤英臣(タイエブ・ムフ タール)、新井卓夫(アーミル)、近藤公隆(ザーキル)、徳増公明(アミーン)らが派遣された。 野田美紀(サーレハ)。 1962年の8人、磯崎定基(ラマダーン)、飯森嘉助(ユーセフ)、片山廣(スィッディーク)、 鈴木紘司(アハマド)、西郷諭(ハーリド)、近藤充茂(アブドッラー) 、谷正則(アブドッラー)、 ル大学へ留学生として招待することが実現したのである。 ム協会」の活動に、できる限りの援助を尽くした。その結実として日本の若いムスリムをアズハ の存在であろう。彼は日本におけるイスラームの布教に熱心で、開設して間もない「日本ムスリ (三)「留 学生の派遣」は、初代会長の今泉と、三代会長の斉藤の人材育成のための悲願だった。記憶 すべきことは、当時、在日エジプト大使館の文化参事官であったモフタール・エル・ガウハリー 10 114 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― その 後も協会のイスラーム諸国への留学生の派遣は、布教と合わせ協会の主要課題に位置づけら れ、2000年代までに各世代ごとに約 人の学生を派遣しているが、留学先はエジプトからサ この (ムハンマド)がいた。 頃、自分で渡航しアズハル大学から奨学金を受けていた人物に渥美堅持 主に挙げられる顔触れには、斉藤力二郎(ムハンマド)、遠藤利夫(ヤヒヤ)、長南雅夫(アブドッ ラー)、佐藤知子(アジーザ)、奥野英樹(ヒダーヤトッラー) 、有見次郎(アブドッサラーム)、 ウジアラビアが主力となった。 森伸生(ヌールッディーン)、柏原良英(ユーセフ)、四戸潤弥(ムアンマル)、富岡幸喜(アブ ドルカリーム)、木村遼(アブドルワーセイ)などであり、いずれも帰国後は協会活動に尽力し ている。 しか し 年代の終わりころからは、海外旅行自体が簡易化されたこともあって、留学も協会に頼 ることなく個人的な手続きで可能となった。行き先もシリア、ヨルダン、リビア、湾岸諸国やマ レーシア、インドネシアなど多様化している。 じ ラーム霊園」の一ヶ所に過ぎない。ムスリムの生活圏も全国的に広範なものとなっており、将来 295坪)の土地を購入し、1987年に認可を得てその一部を造成し管理運営している「イス を受けているのは現在「日本ムスリム協会」が1966年、山梨県塩山市に7,585㎡(2, な (四)日 本における「イスラーム霊園」の管理運営は大きな課題である。イスラームの埋葬は、現在の 日本人の生活感覚に馴染まず、用地の確保と自治体の認可を取得するのに苦難が伴う。正式認可 70 的には各地域に合った墓地の確保と、限られた墓地の有効活用として一区画を家族単位で再利用 115 90 するなどの検討が大きな課題であろう。 六.「石油危機」と日本におけるイスラーム 1973年の「石油危機」を契機にして、日本人のイスラームに対する関心が一気に高まり、国も企 業も熱い視線をイスラーム産油国に向けた。 日本ムスリム協会が開講した「アラビア語講座」はどのクラスも満員だった。 この時代の特記事項として挙げられるのは、1974年に「イスラミックセンター・ジャパン」が東 京に設立されたことである。 この設立に関わった主要メンバーは、サーレハ・サマライ他かつての「ムスリム学生協会」の人たち であった。日本人ムスリムでは「日本ムスリム協会」会長を体験した斉藤、渡辺、木場、小村、黒田壽 郎(ヒシャーム)が参画した。情報誌『アッサラーム』や日本語のイスラーム解説書を発行し、またシ ンポジウムや学会を開催して、日本人のイスラーム理解に貢献した。 一方「日本ムスリム協会」の活動の中心は、留学経験のある若い会員に移り、固有の活動を展開する ようになった。 (一)そ の最も大きな課題は三田訳『日亜対訳・注解 聖クルアーン』の改訂版の発行であった。読者 の利便性を考慮しながら日本語訳をさらに検討し、携帯に便利な縮小版にしたのもこの時期で ある。 116 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― (二)イ スラームへの関心が高まる時代的背景にあって、イスラームを紹介する書籍の出版は急務で あった。この時期、特に「日本サウジアラビア協会」のイスラーム関連書籍の出版に対する尽力 は大きかった。協会のエジプトやサウジアラビアの留学経験者を、著作や翻訳に推薦した。 ハデ (上・ ィース『サヒーフ・ムスリム』(3巻)には、磯崎、飯森、小笠原、『正統四カリフ伝』 下巻)は森と柏原。『預言者伝』は中田考(ハサン)。『預言者の妻たち』は徳増輝子(ファーティ なお この時期の協会活動に、出版だけでなく資金的な面においても常に支援の労を忘れなかった、 アズハル大学の最初の留学生であった浜田の尽力は記憶に留めなければならない。 また 最高顧問として、アラブ・イスラーム諸国での長い経験と幅広い人脈で、ことの要所で尽力 された林の貢献も忘れてはならない。 マ)の執筆によるものである。 (三)若 いムスリムが増加し、彼らが家族を構成するようになっても、日本の生活環境は、ムスリム同 志の日常の交流を難しいものにしている。会員がお互いに顔を合わせ知り合うことは団体組織の 要でもあろう。一つの手段として始めたのが、年に1回の「イスラームキャンプ」である。2泊 3日の限られた時間と場所の中でも、プログラムによる信者同士の交流と知識の習得を図り、あ 年目を数える。 117 わせて一般人の希望者にも公開して、ムスリムの生活を体験する場となっている。この企画も今 年で 23 七.外国人ムスリムの増加とイスラーム環境の変化 「石油ショック」の危機を乗り越えた日本の経済の発展は円高現象を生み、外国人ムスリムの日本への 流入を誘発した。また一方で、国際社会におけるイスラーム諸国の政治的経済的地位の向上は、日本企 業の進出やイスラーム諸国からの留学生や企業研修生の来日など、人的交流を急速に促進させた。現在 では約 万人を超す外国人ムスリムが、首都圏を中心に全国の地域社会に居住している。礼拝所も各地 かつて「日本ムスリム協会」だけであったイスラーム系宗教法人も、現在では「イスラミックセンター・ きく貢献している。 でイスラーム理解講座を開設するなど、正しいイスラームの理解とイスラームのイメージアップにも大 築様式を一般に公開し、1ヶ月に千人以上の参観者があるほどの好評を博している。また日本的な手法 首都圏の本格的な礼拝堂(モスク)として、華麗で芸術的なオスマン・トルコ調のイスラーム文化と建 運営に協力し、プログラム推進の要となっている。また2000年に再建された「東京ジャーミィ」は、 なアラビア語の教育とアラブ・イスラーム文化を紹介している。片山は開所当初から情熱をもってこの この間1982年には「アラブ イスラーム学院」が開設され、日本の学生や一般社会人に、組織的 し、今やイスラームは日本人にとっても身近な存在になったと言えるであろう。 域に確保され、ハラール食品も宅配便を利用すれば入手も容易になった。ムスリムとの国際結婚も増加 10 118 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― ジャパン」、 「東京ジャーミィ」、 「大塚モスク」、 「名古屋モスク」 、 「神戸モスク」など6法人に増加した。 近年では岐阜や福岡に新しいモスクが建設された他、中古ビルを購入してモスク風に改装したり、ビル の一室を賃貸して礼拝所(ムサッラー)にしているものもあり、合わせるとその数は全国で約 ヶ所に なる。そのほとんどが特にパキスタンの各グループを中心とした外国人ムスリムの管理運営に委ねられ ているが、そうした傾向の中で唯一日本人ムスリムが自己資金で建立し、管理するモスクが四国の新居 浜にある。管理者の浜中彰(スレイマーン)は数少ないリビア留学生の一人であった。現在は自分の特 技とするスポーツを生かして、イベントの企画や、用具の販売業を営みながらモスクを管理し、主とし て在日外国人ムスリムの祈りと交流の場として感謝されている。 「日本ムスリム協会」も、発足以来長年の課題としていた礼拝所兼事務所の確保が、1999年にマン ションビルの一戸を購入することで実現した。最近では、今のスペースでは活動に支障をきたすように なり、より広い場所を確保すべく新たな動きが始まっている。ここで忘れてはならないことは、協会が 発足して以来、サウジアラビア政府並びに歴代の大使閣下からは、多岐にわたる支援が寄せられたこと である。 戦後の足取りを1969年の協会誌に遡って見ると次のような記事がある。 「現在日本におけるイス ラームの教勢はまだ微々たるもので、日本人ムスリムは約二千人、外国人ムスリムは約千五百人、イス ラームの団体は当協会を含め四団体であります」と。現在も依然としてイスラーム・マイノリティーと 言われる日本だが、徐々にではあるが着実に伸張していると言えるであろう。 119 60 八.同時多発テロ事件後の日本におけるイスラームの動向 2001年9月 日、アメリカで起きた同時多発テロ事件は、犯人がムスリムとされたことで、イス 水谷周(アミーン)などが挙げられる。 10 たり、他に 人の日本人ムスリムがそれぞれの知識と体験をもとに思うところを書き下ろすもので、こ とである。これには総編集者に水谷、編著者には飯森、河田尚子(ヤスミーン) 、協力者には樋口が当 最近の出来事として注目されるのは、『イスラーム信仰叢書』全 巻が国書刊行会から出版されるこ ムスリム協会」関係者の活躍もあった。その主な顔触れは黒田、鈴木、奥田敦(カマール) 、中田、渥美、 ラーム書籍が並んだ。そうした書籍の中には、イスラーム諸国で学び、帰国後大学の教壇に立つ「日本 れた。出版界ではイスラームの広い分野にわたって書籍が出版され、一時大型書店のコーナーにはイス ムの本質について問う声も広がり、学会や宗教界でもイスラームに関するシンポジウムが頻繁に開催さ り、イスラームはその影だけではなく、光の部分についてもこれまでにない関心が集まった。イスラー て開始されたアフガニスタンやイラクへの一方的な過剰報復攻撃には、有識者からも批判的な声が上が ラームに対する厳しい目が向けられた。しかしその後、テロ攻撃の名のもとに、アメリカの主導によっ 11 語教育を教科として採用したこともあって、学生たちの卒業論文や修士論文のテーマにもイスラーム関 一時的なブームが沈静化しても、日本の大学がイスラーム教学やイスラーム圏の地域研究、アラビア れまでになかった企画であり、注目したいところである。 13 120 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― 連のものが多く見られるようになった。特記すべきことは、同志社大学が「一神教学際研究センター」 を創設して学生にユダヤ教、キリスト教、イスラームの教学の門戸を開放したことである。学部の教授 陣には中田、四戸、サミール・アブドゥルハミード・ヌーハ(エジプト)がいる。また拓殖大学では 2002年 月に「イスラーム法研究所」を開設して、クルアーンの解釈やハラール食品、イスラーム 年代後半になると、日本におけるイスラームは多様性を帯びてきた。その原因の一つは、日本のバ 九.多様化した日本のイスラーム 柏原、有見、遠藤、四戸他である。 学経験者の日本人ムスリムが中核になっている。その顔触れは森を所長とし、飯森、渥美、武藤、徳増、 金融など、時宜に合ったテーマで講演会を定期的に開催して一般に公開している。これらの活動にも留 12 ブル期に始まった外国人ムスリムの増加にある。この現象が数年後には、外国人ムスリムの中に日本人 女性と結婚して長期滞在許可を取得して定住する人や、事業を起こして成功する人を出現させたのであ る。こうした国際結婚によるムスリマたちは、家庭を大切にし、配偶者である夫の国のイスラームの慣 習を大切にしながら、日本の習慣との協調を模索している。 また一方、日本人ムスリムにも新しい傾向が見られるようになった。かつて若いムスリムが留学する 時は、日本ムスリム協会の紹介や推薦を必要とする場合が多かった。しかし1990年代になると留学 生の受け入れ国が広がり、手続きも簡素化したこと、さらには、航空運賃が安くなり海外旅行がより一 121 90 般化されたことで、個人的なルートでイスラーム圏への留学や旅行が可能になったのである。そうした 日本人留学生の中には留学先で知り合った、日本人ムスリム同士、あるいは外国人ムスリムと結婚する 人も出てきた。この現象は、留学生に限らず、企業で働く人にも海外勤務中に知り合い、結婚するケー スが多くある。 彼等は帰国後もそれぞれの分野で働きながら、執筆や日常の生活の中で布教活動を行っている。フラ ンスで入信し、短命にして世を去った故中田香織(ハビーバ)の活躍は目覚しかった。シリアに留学し た前野直樹(アハマド)、松山洋平(ムジャーヒ)、マレーシアに留学した塩崎悠輝(アフマド) 、他に もサウジアラビアとマレーシアに留学した大木博文(アーディル)や在インドネシア日本大使館時代に 入信した永井彰(A.アリフィーン)らがいる。両者とも国際結婚である。 結婚前からお互いにイスラームの知識があり、結婚した日本人ムスリム家庭と、かつて一般的であっ た、結婚のために配偶者の一方が入信したムスリム家庭の場合とでは、イスラームに対する向き合い方 にも違いがあり、生活のスタイルにも違いがある。 近年になって見られる新しい動向は、ムスリム留学生の活動である。外国人ムスリム留学生の存在は 日本全国の大学に見られ、多国籍のムスリム学生たちが同じ学園で生活を共にしている。 彼等はイスラー ム生活を守るために礼拝と交流の場を求め、地域的に礼拝所(ムサッラー)の確保に積極的である。具 体的な例として、最近建設された筑波、岐阜、福岡のモスクは、学生たちの働きが大きかったという。 大学にも近く、授業の合い間でも礼拝が可能であり、交流と憩いの場として喜ばれている。彼らはいず 122 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― れもIT知識に長けており、インターネットによる情報の交換と相互支援や布教活動にも連携している。 さらに新しい動きとして、社会的、経済的、政治的なものがある。日本とインドネシア政府は「経済 連携協定」(EPT)を締結し、1年前から数百人単位のムスリム男女が来日し、日本の老人介護の分 野で働くようになった。またイスラーム諸国からの留学生や技術研修生の数も増加しており、今後も国 際交流は拡大するに違いない。 こうした多様性は、イスラーム社会においては一般的なことであるが、日本では未だ馴染みが浅い。 多様化した日本のイスラームが、次世代を担う二世、三世の子供たちに、いかにしてイスラームの教理 を教え、今後の日本社会といかに共存し、貢献して行くことができるのかが注目されるところである。 十.宗教対話 日本の宗教界は1970年代から、神道、仏教、教派神道、新宗教、キリスト教の5団体が協力し、 国内外の宗教間対話による相互理解と世界平和実現を祈る集いや、研究集会、シンポジウムを開催して いる。特に「パレスチナ・イスラエル問題」については当初から大きな関心を寄せ、これまでにもイス ラーム指導者を含めた世界各国の宗教指導者を招聘し、国際会議での対話の場を提供している。 当初この運動に対する日本のイスラームの参加は、斉藤や森本を中心に、在日外国人ムスリムの協力 を得ながら協会活動というよりむしろ個人的な人脈による参加であった。 年代になると世界情勢はイ ラクのクウェート侵攻と湾岸戦争、さらにはボスニア・ヘルツェゴビナでも内戦が勃発するなど、イス 123 90 ラームに絡む紛争が続発した。日本の宗教者の中にも、イスラームとの対話を望む声が一層大きくなり、 対話の機会が多くなった。このような状況の中で斉藤は当時会長であった樋口にも参加を求めるように なり、2人での行事参加が多くなった。しかし高齢の斉藤(1998年没)の参加は短期間であった。 1990年8月2日から2日間にわたって京都で開催された「ムルタカー比叡山会議」は、旧ソビエ ト連邦、エジプト、サウジアラビア等 ヶ国のイスラーム指導者を招聘しての、日本宗教者とイスラー いる。 候補者の推薦など、 億人ともいわれる世界のムスリムの日本における窓口として諸行事に参加して 織である2団体からの勧誘を受け、2001年に「世界連邦日本宗教委員会」 二 に、そして2002 年には財団法人「世界宗教者平和会議日本委員会」(WCRP) 三 にそれぞれ正式メンバーとして入 会した。日本で開催される世界諸宗教者の平和会議に参加するイスラーム指導者の招聘にあたっては、 対する一層の関心となった。そうした国際情勢の中で「日本ムスリム協会」は、日本の諸宗教の連携組 その後、2001年にアメリカで同時多発テロ事件が発生すると、諸宗教対話の動向はイスラームに ディーキ(パキスタン)であった。 ト(トルコ)、サーレハ・サマライ(イラク)、オマル・ムーサ(スーダン)、アブドッラハマーン・シッ この時出席した日本側のイスラーム関係者は、斉藤、渡辺、樋口、外国側からはテミルダル・モヒー ど 衝撃的な会議であった。 ムの対話であったが、会期中にイラクのクウェート侵攻が勃発し、会議の様子がテレビで放映されるな 11 日本の宗教指導者のもとには数千万人の信者が包摂されており、宗教指導者の日常の発言や説教の影 13 124 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― 響力には絶大なものがある。その意味においても、日本の宗教指導者との不断の対話と協調関係の維持 は、日本に正しいイスラームの理解を深めるものであり、今後の日本におけるイスラーム活動にとって ページ、イスラミックセンタージャパン も不可欠の課題であろう。 号、 ヶ国に国内委員会がある。 世界 平和の実現に向けて活動している国連経済社会理事会に属し、総合協議資格を1999年7月に取得したNGO。世界の約 国連 のNGO「世界連邦運動」に所属する日本宗教者の委員会。宗教者の立場から世界平和を推進することを目的に1967年 に創設され、超宗教、宗派で構成されている。世界の諸宗教の協調と共生を促す活動を国内外で展開する。 一 『アッサラーム』 二 三 44 号 イスラミックセンタージャパン 周年記念・協会小史』 日本ムスリム協会 ・ 『アッサラーム』 ・ 『創立 参考資料 125 87 86 50 75 2005 年 「アジア仏教者との対話」 (京都、比叡山) カマール・ハサン博士、マレーシア国際 イスラーム大学学長(マレーシア) 「パレスチナ人から視た 2006 年(東京) 中東和平への展望」 ムンサル・ダジャーニ博士、アルクドゥ ス大学教授(パレスチナ) エルハサン・ビン・タラール(WCRP 国 際委員会実務議長・ヨルダン王子) 、ム 「第 8 回世界宗教者平和会議世 ハンマド・ハタミ博士(イラン前大統領) 、 2006 年(京都) 界大会―紛争解決、平和構築、 ムスタファ・セリッチ師(ボスニア・ヘ 持続可能な開発―」 ルツェゴビナ・イスラーム共同体最高指 導者) 、 シェーク・シャバン・ムバジェ師(ウ ガンダ・ムスリム最高議会法律顧問)他 2007 年 「平和の祈りの集い」 (京都、比叡山) 2008 年 (北海道) アブドッラー・アルレへダン博士、寄進・ 宣教・善導省、イスラーム問題審議官(サ ウジアラビア) 、 デイーン・シャムスデイー ン博士、ムハンマディーヤ会長(インド ネシア) 、ムハンマド・アブドゥルファー デル・アブドゥルアジーズ博士(エジプ ト) 、ワリド・リドワン氏、ムハンマディー ヤ国際渉外部副部長(インドネシア) アブドッラー・アルレヘダン博士、宗教 省副大臣補佐(サウジアラビア) 、シェ イク・シャバン・ムバジェ、イスラーム 最高協議会最高指導者(ウガンファリー 「G8―洞爺湖サミットに向けて ダ・アリ氏、イスラミック・へリテージ・ ―平和のための提言」 ソサダ) 、ムハンマド・アルサンマック師、 キリスト教・ムスリム対話委員会事務総 長(レバノン) 、イェティ名誉会長(パ キスタン) 「アフガニスタン和解と平和に 2009 年(東京) 関する円卓会議」 ムハンマド・マスーム・スタナクザイ、 アフガニスタン大統領顧問(アフガニス タン)他パキスタン、イラン、サウジア ラビア、アメリカ、EU から外交問題担 当者、学者、宗教者参加 126 日本のイスラーム、戦後の歩み ― 20 世紀後半から今日まで ― 添付資料「日本で開催された諸宗教対話に参加したイスラーム指導者の主な顔触れ」 1987 年 「比叡山宗教サミット」 (京都、比叡山) M.A. ラウーフ博士、国際イスラーム大学 総長(マレーシア)他エジプト、サウジ アラビア、トルコ、カザフスタン各代表 タルガト・タージッディーン師、大法官 (ソビエト)他チュニジア、サウジアラビ 1990 年 「ムルタカー会議、日本宗教者・ ア、エジプト、タイ、マレーシア、イン (京都、比叡山) イスラーム指導者平和の祈り」 ドネシア、スーダン、フイリピン、トルコ、 パキスタンの各代表 「パレスチナ問題解決と宗教の アブドッラー・ビン・オマル・ナスィーフ 1992 年(東京) 役割―中東における正義と平和 博士、世界イスラーム連盟事務総長(サ を目指して」 ウジアラビア)他イスラーム指導者 11 名 「世界宗教者の祈りと 1993 年(綾部) フォーラム」 アハマド・クフターロー師、イスラーム 大法官(シリア) 1994 年 (伊勢大会) 「新世紀への宗教者の使命」 ワン・ダーウード博士、国際イスラーム 思想文明研究所教授(マレーシア) 1995 年 (東京大会) 「アジアの霊性」 アミン・ライース博士、モハンマディー ヤ会長(インドネシア) アハマド・オマル・ハーシム博士、アズ ハル大学学長(エジプト) 、ムハンマド・ アルオバイド博士、世界イスラーム連盟 1997 年 「世界宗教者平和の祈りの集い」 総長(サウジアラビア) 、アハマド・クフ (京都、比叡山) ターロー師、 イスラーム大法官(シリア) 、 ムハンマド・アブーレイラ博士、アズハ ル大学翻訳学部部長(エジプト) 2002 年 「イスラームとの対話」 (京都、比叡山) ムハンマド・サアド・アッサーリム博士、 イマーム・ムハンマド・ビン・サウード イスラーム大学学長(サウジアラビア) 他エジプト、ヨルダン、パキスタン、ボ スニア・ヘルツェゴビナ各代表 2002 年(大阪)「宗教者の祈りとフォーラム」 アハマド・オマル・ハーシム博士、アズ ハル大学学長のメッセージ(エジプト) 「中東和平の問題点 2003 年(京都) ―シンポジウム―」 タラール・シデル師、パレスチナ・アラ ファト議長宗教顧問(パレスチナ) 2004 年 「イラク諸宗教指導者会議」 (京都、東京) 127 アブドゥル・サラーム・アルクベイシ教 授(イスラーム法学者協会代表) 、サイー ド ・ ハサン・バハラルロム師(ナジャフ・ イスラーム教育機関代表) 、マジド・イ スマイール・モハンマド・アルハフィー ド師(スレマニア・クルド人共同体代表) 、 ハイダル・アブドゥルザハラー・エリー ビ氏(イスラーム教育機関代表) 、ホワー ド・モハセン・ハマシ博士(イスラーム 党上級代表) 、ガブリエル・ハナ・カッ サブ大司教(キリスト教カルデァ派代表) 他3名 筆者 樋口 美作 (ひぐち みまさか) 1936年、新潟県生まれ。宗教法人日本ムスリム協会名誉会長。早稲田大学第一法学部卒 年余り勤務。1990年日本ムスリム協 業後、エジプト政府留学生として、カイロ・アズハル大学に留学。日本航空株式会社に入社後、 佼成出版社) 、 『日本人ムスリムとして生きる』 (2007年、佼成出版社)など。 会会長就任、 2003年より現職。著書に『 ﹁叡智﹂ ・今こそ宗教対話を(鼎談) 』 (2005年、 在職中にエジプト、イラク、サウジアラビアにて 10 128 統計から見た日本のイスラーム 浜中 彰 新居浜マスジド代表 はじめに 1891年のアブドルハリーム野田氏の入信を日本イスラーム元年とするならば、約120年の時が 流れたことになる。その間にさまざまな出来事があり、ムスリムは増加してきた。そして最も大きな波 が1985年ころから押し寄せてきた。わずか二十数年前のことである。それ以降、 ムスリムは急増し、 マスジドも各地で名乗りをあげるようになった。この近年におけるムスリムおよびマスジドの増加の推 移と現状とを統計を交えて見ていこう。 一.近年のムスリム増加の推移 1969年日本ムスリム協会発行の機関紙に、日本のムスリムの数は、日本人と外国人ほぼ同数であ ると記載されていた。そして、当時のムスリムは東京と神戸の二つのマスジドに収容できるほどの数し かいなかったようである。 その後、ムスリム数は緩やかではあるが増加の一途を辿っていた。1982年アラブ イスラーム学 院の開校、イスラミックセンタージャパン本部ビルの開館と日本のイスラームにとって待望のイスラー ム情報発信の拠点が相次いで完成することにより、よりよい環境を得ることができるようになった。折 も折、1985年頃からバブル景気が訪れた。(表 参照)その時に第一波として海外からムスリムた ちが多数流入してきた。さらに、第二波、第三波と間隔をおいて波が押し寄せるたびに、日本のムスリ 1 130 統計から見た日本のイスラーム 表 1:日本のイスラーム関係年表 1935 年 神戸マスジド建立 1938 年 東京ジャーミィ建立 1952 年 日本ムスリム協会設立 1966 年 イスラミックセンタージャパン設立 1982 年 アラブ イスラーム学院開校 1982 年 12/17 イスラミックセンター本部ビル開館 1985 年 バブル景気、南アジアからの労働者流入(第一波) 1985 年 新月委員会発足 1986 年 旧東京ジャーミィ解体 1988 年 イラン・イラク戦争終結 1990 年 バブル崩壊、イランからの労働者流入(第二波) 1991 年 一ノ割マスジド開堂・・・・ムスリムたちの募金で物件購入 1992 年 Islamic Circle of Japan の設立 1994 年 松山 MICC 礼拝所・・・留学生が中心になって開堂 1994 年 Japan Islamic Trust の設立 1995 年 伊勢崎、日向、境町など関東地方で次々とマスジドが開堂 1995 年 インドネシアからの労働者流入(第三波) 1997 年 5/21 イスラームのホームページ公開 2000 年 新東京ジャーミィ開堂 2001 年 3 月富山コーラン破棄事件 富山と東京でムスリムのデモ行進 2001 年 131 9.11 事件勃発により、各地のマスジドの監視はじまる (この時点で 24 マスジド) 2001 年 10 月アフガン攻撃 2003 年 3 月 19 日アメリカ合衆国と有志連合のイラク侵攻 2009 年 すべての地方に 2 個以上のマスジドができる ム社会はかつてない規模で膨張していくことになった。 第一波:南アジア諸国からの流入 仕事口が豊富な上、高収入が得られる日本は魅力的で海外から多数の労働者が押し寄せてきた。その 中にはイスラーム圏からの労働者も含まれていた。特に目立ったのは、査証免除国であるパキスタンと バングラデシュからの入国である。しかし、査証免除といえども、原則的に観光などを目的とする短期 滞在に対して免除されるものであって、就労する場合は資格外活動ということになり、違法である。に もかかわらず、当時は、資格外活動、不法残留による就労のケースが多数あったと想像できる。そして、 ついに外務省は、バングラデシュ人、パキスタン人については1989年 月 日以降、査証免除措置 15 表 、1985年~1990年の約五年間のパキスタン人とバングラデシュ人の在留外国人登録者数 それ以降不法就労者も減少したようである。 を一時停止するという抑制策を打ち出した。その結果、1990年は両国からの入国者は激減し、また、 1 か、この時期にパキスタン男性と日本人女性の国際結婚が目立ち始める。しかし、実際に何件の国際結 その場合、就学・留学または日本人の配偶者となることなどが一般的である。そういう理由もあったの 査証免除により入国した者が、引き続き在留を可能とする方法は、在留資格の変更という形をとるが、 録をしない短期滞在者、不法残留者はカウントされていないからである。 を見れば、特に急増した様子もない。なぜならば、この数字は在留外国人登録者数であって、外国人登 2 132 統計から見た日本のイスラーム 婚が行われたのかは、正確な数字を統計で割り出すことはできない。 こうした一部のパキスタン人、バングラデシュ人が日本人配偶者を持つことにより、日本での長期滞 在が可能となり、日本のムスリム社会での大きな役割を担えるようになったのである。同時に、配偶者 である日本人女性は婚姻に際してイスラームに入信し、もともと小規模であった日本人ムスリムの構造 を変えるほどの存在となっていった。 第二波:イランからの流入 1988年イラン・イラク戦争終結により、イランでは多数の復員兵が帰還してきた。しかし、国内 には充分な仕事口がなく、海外に職を求めて出国する若者が多かった。イラン人にとって日本は査証免 除国であり、簡単に入国でき、バブル崩壊後もまだ高収入が得られる魅力的な国だったので、その中に は日本を目指す者もいた。そして、 表 のように1992年には在留外国人登録者数でパキスタンやバ ングラデシュを上回るほどとなった。しかし、1992年 月 日、外務省はイラン人に対して査証免 2 15 表 の 在 留 イ ン ド ネ シ ア 人 登 録 者 数 を 見 る と、 1 9 9 0 年 頃 に 増 加 が 始 ま り、 1 9 9 6 年 頃 に は 第三波:インドネシアからの流入 は減少の一途を辿っている。 除措置を一時停止という抑制策を講じた。それにより、1995年にピークを迎えるものの、それ以降 4 急 増 し て い る こ と が わ か る。 こ の 増 加 は、 1 9 9 0 年 外 国 人 研 修 生 受 け 入 れ 枠 の 中 小 企 業 へ の 拡 大、 133 2 2008 年度国籍別外国人登録者数から 1 中国 655,377 2 韓国・北朝鮮 589,239 3 ブラジル 312,592 4 フィリピン 210,617 5 ペルー 59,723 6 米国 52,683 その他 337,205 134 統計から見た日本のイスラーム 表 2: 『主要 5 カ国在留外国人登録者数』 パキスタン 135 バングラデシュ イラン エジプト インドネシア 1980 437 260 235 206 1,448 1981 446 260 246 191 1,462 1982 497 266 319 222 1,494 1983 518 373 394 242 1,577 1984 772 513 617 333 1,803 1985 1,032 684 682 268 1,704 1986 1,244 1,183 852 288 1,839 1987 1,435 1,291 818 285 2,038 1988 2,063 2,130 918 301 2,379 1989 1,875 2,205 988 344 2,781 1990 2,067 2,109 1,237 368 3,623 1991 3,741 2,542 3,419 428 4,574 1992 4,124 2,905 4,516 468 5,201 1993 4,443 3,319 6,754 545 5,647 1994 4,507 3,955 8,207 651 6,282 1995 4,753 4,935 8,645 636 6,956 1996 5,112 5,856 8,418 705 8,742 1997 5,593 6,095 7,946 797 11,936 1998 6,005 6,422 7,217 895 14,962 1999 6,550 6,574 6,654 1,009 16,418 2000 7,498 7,176 6,167 1,103 19,346 2001 7,903 7,850 5,921 1,231 20,831 2002 8,225 8,703 5,769 1,273 21,671 2003 8,384 9,707 5,621 1,272 22,862 2004 8,610 10,724 5,403 1,293 23,890 2005 8,789 11,015 5,227 1,366 25,097 2006 9,086 11,329 5,198 1,583 24,858 2007 9,332 11,255 5,165 1,730 25,620 2008 9,856 11,414 5,059 1,869 27,250 法務省発行:在留外国人統計から 5 ヶ国を抜粋 1993年『技能実習制度』の設立の二つが影響していると言って間違いないだろう。その後もインド ネシア人登録者数は、バングラデシュ、パキスタンに比べて急激な伸びを示し、現在ではイスラーム圏 からの在留外国人登録者の中では最大の民族となっている。 前述のパキスタン、バングラデシュ、イラン、インドネシアは、イスラーム圏から流入した代表的な 民族である。その中で増え続けているパキスタン人、バングラデシュ人、インドネシア人の在留資格別 外国人登録者数を見てみよう。 表3 1 - 〜 は2004年から2008年にかけての過去五年間の在留資格別外国人登録者数である。 はパキスタンに比べて少ない。『留学』、『就学』が多いのが特徴である。 次にバングラデシュ人は、総数ではパキスタン人を上回っているが、『日本人の配偶者等』と『永住者』 きる。 綜合すれば、自営などを行い、すでに生活基盤がしっかりしており、定住化傾向にあると言うことがで よりは『日本人の配偶者等』から、『永住者』に資格を変更しているケースが多いと考えるべきであろう。 に数字を充填できない状況と言えよう。国際結婚をした後帰国するというケースも考えられるが、それ じゅう て ん 字が近年減少しつつあるのは、国際結婚が以前に比べて減っていることにより、 『日本人の配偶者等』 ンスタントに伸びている。『日本人の配偶者等』は総数の割には多い状況がみられる。しかし、その数 パキスタン人の特徴として、『留学』と『就学』が少ないが、 『投資・経営』が多く、『永住者』がコ 3 136 統計から見た日本のイスラーム 表 3-1: 『在留資格別 外国人登録者数』 パキスタン人の在留資格別 外国人登録者数 2004 2005 2006 2007 2008 総数 8,610 8,789 9,086 9,332 9,856 教授 27 32 33 37 40 7 7 6 5 5 227 290 334 383 456 13 9 10 9 6 1 3 3 芸術 宗教 報道 投資・経営 法律・会計業務 医療 研究 教育 技術 50 54 62 55 50 269 362 433 516 646 63 76 85 75 76 興行 8 6 6 6 6 技能 140 140 150 154 153 人文知識・国際業務 企業内転勤 文化活動 11 9 13 19 15 短期滞在 1,683 1,453 1,239 1,094 968 留学 157 137 151 148 152 就学 26 12 19 22 17 研修 40 30 32 34 30 825 893 1,049 1,139 1,348 家族滞在 特定活動 55 86 90 92 94 永住者 1,726 1,928 2,120 2,379 2,725 日本人の配偶者等 1,348 1,265 1,225 1,144 1,017 永住者の配偶者等 108 144 184 233 279 定住者 367 421 451 522 577 5 4 3 3 3 135 133 138 110 122 1,320 1,298 1,252 1,150 1,068 特別永住者 未取得者 一時庇護 その他 137 法務省統計「出入国管理」在留資格別外国人登録者数より抜粋 表 3-2: 『在留資格別 外国人登録者数』 バングラデシュ人の在留資格別 外国人登録者数 2004 2005 2006 2007 2008 総数 10,724 11,015 11,329 11,255 11,414 教授 195 197 202 204 210 1 1 1 1 2 33 42 45 55 85 研究 92 92 87 71 73 教育 1 1 1 3 5 技術 147 224 299 393 470 人文知識・国際業務 293 373 427 487 542 15 16 16 15 11 興行 5 5 5 4 3 技能 153 206 274 375 433 芸術 宗教 報道 投資・経営 法律・会計業務 医療 企業内転勤 文化活動 58 45 47 43 50 短期滞在 1,922 1,540 1,125 825 575 留学 1,372 1,528 1,665 1,684 1,873 就学 493 387 562 442 131 研修 80 87 94 73 42 1,531 1,666 1,812 1,880 2,113 家族滞在 特定活動 89 172 208 219 190 1,048 1,208 1,348 1,557 1,789 日本人の配偶者等 603 590 580 544 499 永住者の配偶者等 59 85 96 118 133 237 277 311 344 381 249 207 208 138 153 2,048 2,066 1,916 1,780 1,651 永住者 定住者 特別永住者 未取得者 一時庇護 その他 法務省統計「出入国管理」在留資格別外国人登録者数より抜粋 138 統計から見た日本のイスラーム 表 3-3: 『在留資格別 外国人登録者数』 インドネシア人の在留資格別 外国人登録者数 2004 2005 2006 2007 2008 総数 23,890 25,097 24,858 25,620 27,250 教授 75 78 94 107 115 宗教 43 47 47 50 47 報道 1 1 18 22 芸術 投資・経営 17 1 1 22 26 法律・会計業務 医療 3 3 2 2 2 研究 29 34 30 31 36 教育 2 3 2 2 3 技術 221 260 311 371 436 人文知識・国際業務 141 181 195 199 226 企業内転勤 105 129 158 195 206 興行 1,740 2,369 787 430 264 技能 110 138 167 200 229 文化活動 33 35 33 37 80 短期滞在 1,943 1,680 1,281 963 659 留学 1,651 1,609 1,710 1,869 2,112 就学 238 239 300 338 338 研修 4,189 3,440 4,407 5,069 5,085 家族滞在 1,337 1,420 1,509 1,590 1,584 特定活動 6,211 7,008 6,639 6,390 7,542 永住者 1,404 1,676 2,034 2,436 2,967 日本人の配偶者等 2,592 2,785 3,009 3,129 3,028 永住者の配偶者等 27 40 62 83 103 1,310 1,459 1,588 1,691 1,755 定住者 特別永住者 未取得者 4 4 4 4 5 149 121 172 122 128 314 316 300 289 273 一時庇護 その他 139 法務省統計「出入国管理」在留資格別外国人登録者数より抜粋 最後にインドネシア人は、両国に比べて登録者数で大きく上回り、増加率も高い。しかし、その中で 最も多いのは『特定活動』と『研修』であって一般的に二年か三年の比較的短期の滞在である。 『日本人 の配偶者等』 が年々増えていることから、 国際結婚も増加傾向にあるのが特徴と言える。 『永住者』 数も年々 増えており2007年にパキスタンに並んだ。今後も増え続けることを考えれば、インドネシア人は国 内最大の民族であって、将来日本のムスリム社会の中で大きな役割を担っていくことは間違いない。 表 のグラフを見てみよう。三つ波が押し寄せたが、イラン人以外はその後も定住化しながら増え続 である。したがって、それらの施設で行わなくとも、小規模マスジド、留学生会館、個人宅などで行う ムの入信とは、二名の成人したムスリム証人の前で信仰告白をすることで手続きが完了する簡単なもの だろうか。しかし、これらの施設での入信は入信経路のひとつであっても、すべてではない。イスラー では、国内の宗教法人格取得のイスラーム団体やマスジドで入信を行った人の数を集計すれば、どう 宗教を記載する項目がないため、日本の統計から数を特定することはできない。 百、また一説に数千、数万と大きく二桁もの数の開きがある。日本の戸籍、パスポート、国勢調査にも 日本人ムスリムとは、日本国民でイスラームを信仰している者を指し、その数については、一説に数 (一)日本人ムスリム 二.ムスリムの数 けている。 2 140 統計から見た日本のイスラーム ことも可能である。何らかの手続きに使用するための入信証明書が必要でない限り、こうして入信する 人の数はカウントされていない。また、外国で入信する者も多数いる。イスラーム諸国に長期滞在し、 イスラームに感化されて入信するケース、または国際結婚で入信するケースなどである。最も近いイス ラーム国マレーシアの首府クアラルンプール市の日本人ムスリムは、少なく見積もっても数十人おり、 ムスリムがマイノリティーのシンガポールですら、イベントに 人以上の日本人ムスリムが集まってく 名であ 40 る。内訳は、国際結婚による入信者 名、国際結婚以外の入信者 名、ボーンムスリム約 名、帰化者 存在が日本人ムスリムの発掘に大きな役割を担い、現在判明している日本人ムスリムの数は ひとつの試みとして、愛媛県を例にとって考えてみよう。愛媛県にはふたつの礼拝施設があり、その 日本人ムスリムの数を集計することは不可能に近い。 定義に合致しているので、日本人ムスリムとしてカウントされなければならない。このように考えると ム団体の会員に登録しない限りカウントされることはない。また、外国人の帰化者も日本人ムスリムの がムスリムであれば自動的にムスリムであって、入信の手続きは踏んでいない。彼らの存在は、 イスラー それは、すでに第二世代、第三世代の日本人ボーンムスリムの時代となっているからだ。彼らは、両親 る 一 ことを考えれば、相当数の日本人ムスリムが海外に在留し、その大半が海外で入信していること がわかる。さらに、近年では、日本人の入信数だけで日本人ムスリム数を表すことはできなくなっている。 20 7 20 名である。愛媛県の人口が1, 467, 815人 二 であり、全国の人口が127, 767, 994人 二 であるから、愛媛県には全国の約1・ %の人口がいることになり、その比率で計算すると国内には約 13 14 3, 509名の日本人ムスリムが居ることになる。実は、これらの比較に使われた数字自体には問題が 141 0 ある。なぜならば、愛媛県の日本人ムスリム 名というのは、所在確認ができた数であって、実際の数 1 リムであるマレー系マレーシア人は『留学』が多く比較的短期の滞在であるが、非ムスリムの中国系マ 離れた地域にあり、この数字ほどのムスリムは在留していないと思える。またマレーシアの場合、ムス キスタン、バングラデシュを上回っていることである。両国については、ムスリム居住地区が中央から る。 表4を見ると意外な結果が出ていることに気がつく。それは、ムスリム数で中国、フィリピンがパ 表4のムスリム数は、在留外国人登録者数にその国のムスリム比率を単純にかけて算出したものであ などである。 外にも国内で目につくのが、マレーシア人、スリランカ人、インド人、トルコ人、エジプト人、中国人 前述の主要三ヶ国の2008年在留外国人登録数を合計すると48, 520人になる。その三ヶ国以 (二)在留外国人ムスリム える。 ページ』 三 のラマダーン突入時のアクセス数、各団体・マスジドの運営担当者などの見解など可能な 限りの事柄を綜合して考えた場合、日本人ムスリム人口は、現在 万人を超えたくらいではないかと思 で済ませると不消化となる。どうしても数字を発表しなければならないとすれば、 『イスラムのホーム では、実際に日本人ムスリム人口はどのくらいなのだろうか。信頼できる資料がないので分からない、 的な地域でないことも考慮されなければならない。 はもっと多いからである。また、サンプルとした愛媛県が中央から遠く離れた立地であり、全国の平均 40 142 統計から見た日本のイスラーム 表 4: 『主要国のムスリム比率により算出されたムスリム数』 国名 在留外国人登録者数 ムスリム比率(%) 27,250 88.2 24,034 中国 655,377 3 19,661 フィリピン 210,617 5 10,530 11,414 89.7 10,238 パキスタン 9,856 96.4 9,501 イラン 5,059 99 5,008 マレーシア 8,291 60.4 5,007 インド 22,335 13.4 2,992 トルコ 2,462 99 2,437 42,609 5 2,130 エジプト 1,869 91 1,700 ナイジェリア 2,598 50 1,299 ロシア 7,641 15 1,146 881 99 872 52,683 1.4 737 フランス 9,347 7.5 701 スリランカ 8,799 7 615 ウズベキスタン 655 89 582 サウジアラビア 510 100 510 17,011 2.7 459 2,604 16 416 モロッコ 386 98.7 380 ベトナム 41,136 0.85 349 349 99 345 1,906 16 304 285 94 267 ドイツ 6,018 3.7 222 カナダ 11,016 2 220 176 95 167 10,708 1.5 160 シリア 167 88 146 スーダン 207 65 インドネシア バングラデシュ タイ アフガニスタン 米国 英国 シンガポール チュニジア ガーナ セネガル ヨルダン オーストラリア 合計 ムスリム数 134 103,269 在留外国人登録者数:政府統計 2008 年国籍(出身地)別年齢・男女別外国人登録者より抜粋 ムスリム比率:International Religious Freedom Report 2004, U.S. State Department より抜粋 143 レーシア人は『永住者』となる傾向にあり数も多い。一方、スリランカについては、ムスリム比率が少 ない国だが、日本在住者についてはムスリムの比率が高く、沢山のムスリムが在留している。 こうした事柄を考慮し、さらにリストに載っていない国のムスリムを加えて考えると、約 万人の在 留外国人ムスリムがいると言える。 た。(表 参照) マスジドとしてムスリムが集まれる場所は、唯一アラブ イスラーム学院礼拝所だけという状況であっ ム学院が開校し、礼拝所をムスリムに解放したものの、1986年旧東京ジャーミィが解体され、結局 第一波として南アジアより多数のムスリムが流入してきた頃、東京では、1982年アラブ イスラー 三.マスジド(モスク)増加の推移 的に在留外国人が多い状態となっている。 一方、外国人は主に移入による社会増加であり、その増え方が急激だったため、現在では1:9と圧倒 1969年に日本人と外国人の比率が1:1だったものが、日本人は入信と自然増加で一万人を超え、 10 間と一緒に断食明けをし、タラーウィーフ(またはタラーウィーハ)の礼拝 四 を集団で行う。このよ うに、ムスリムは行を行おうとすれば自然と集まりはじめるものである。また、遠く離れた異国の地 ムスリムは、日々の礼拝を一人で行うよりは複数で行おうとし、ラマダーン月には、日没と同時に仲 1 144 統計から見た日本のイスラーム 五 を設けて集まるという動 に生活していれば、出身を同じくする仲間たちと語らう場も欲しくなるものだ。ひとつしかないアラブ イスラーム学院礼拝所に通うには遠すぎるため、賃貸の礼拝所ムサッラー きが現われはじめた。 バブル崩壊後の1991年タブリーグ・ジャマーアートは、仲間たちから募金を集め東武伊勢崎線一 ノ割駅近くに彼らの拠点となるマスジド 五 物件を購入した。これは賃貸の礼拝所ムサッラー時代から、 自前の礼拝所マスジドの時代が到来した瞬間と言えるほど衝撃的な出来事であり、全国のムスリムに影 響を与えたに違いない。その後1992年 Islamic Circle of Japan 、1994年 Japan Islamic Trust と相次いで団体も設立され、マスジド物件購入活動に拍車がかかることになった。 年間ほとんどマス 個を超えるほど急増したことになる。 表 のように、1935年神戸マスジド、1938年東京ジャーミィ開堂以来約 ジドは増えなかったものが、1995年からわずか 年間で 60 と長期にわたる募金活動が必要であった。マスジド周辺在住のムスリムたちが中心になり、さまざまな マスジド購入は、イスラーム法に触れないように、ローンを組まず現金で購入するため、遠大な計画 ド購入が現実味を帯びてきたのである。 ブル崩壊で、職を失い日本を後にせざるをえない者も出た一方、不動産の価格が下落しはじめ、マスジ カ人などの中には生活の基盤が安定しはじめ、中古車貿易で財をなすものも出てきた。1990年のバ バブル景気当時流入してきた南アジア出身のパキスタン人、バングラデシュ人、インド人、スリラン 50 ネットワークを駆使し募金活動を行い、時には全国へと展開する例も少なくなかった。一ノ割マスジド 145 15 5 開堂から数年間マスジドが増えなかったのは、募金活動期間であったというのが理由であろう。 マスジド購入がブームのようになりはじめた頃の2001年、9・ 事件が勃発し、ムスリムたちは ネ シ ア 1, 9 9 6 人、 位 バ ン グ ラ デ シ ュ 1, 6 8 3 人、 位インド 8 位サウジアラビア 位 マ レ ー シ ア 2, 3 9 5 人、 位エ ジ プト3 2 9人、 参 考 ま で に 2 0 0 9 年 の 留 学 生 数 は、 イ ス ラ ー ム 圏 か ら なった。もちろん、物件購入に当たり一部の日本人ムスリムが活躍していることも忘れてはならない。 外国人が中心となり行われていたが、2000年以降からは、留学生やインドネシア人も加わるように 留学生が年々増え始め、ムスリム社会はさらに膨れ上がった。マスジド購入計画は、主に南アジア出身 1995年あたりから、第三波として後発の外国人であるインドネシア人が流入しはじめた。また、 側の周辺住民に対する細かい心配りがあったからではなかろうか。 ドが増え続けたのは、やはり、動き始めたマスジド計画を止めるわけにはいかなかったのと、ムスリム 重報道により、周辺住民からも厳しい目で見られるようになった。そういう状況にも関わらず、マスジ 逆風を受けることになった。公安関係からマスジドや個人に対する監視が始まり、また、マスコミの偏 11 年度出身国(地域)別留学生数、独立行政法人「日本学生支援機構」より抜粋) 26 5 22 2009年は、マスジド総数が 個となり、 月に小樽マスジド、 月に福岡マスジドと、北海道と となっており、各国のムスリム比率をかけても数千人のムスリム留学生がいることになる。 253人など(平成 9 21 2 3 ジドができた記念すべき年となった。(表 、表 参照)現在進行中のマスジド建設計画が各地で聞かれ、 九州にそれぞれ二つ目のマスジドがあいついで開堂することになり、国内のすべての地方に複数のマス 55 6 不動産物件が高騰しない限り、少なくとも毎年二、三個のペースで増えていくことになるだろう。 5 146 統計から見た日本のイスラーム 表 5: 『地方別マスジドの増え方』 1935 1938 1982 1986 1991 1995 1997 北海道 0 0 0 0 0 0 0 東北 0 0 0 0 0 0 0 関東 0 1 3 2 3 5 6 中部 0 0 0 0 0 0 0 近畿 1 1 1 1 1 1 1 中四国 0 0 0 0 0 1 1 九州 0 0 0 0 0 0 0 合計 1 2 4 3 4 7 8 1999 2001 2003 2005 2007 2009 北海道 0 0 0 0 1 2 東北 0 0 0 1 2 2 関東 10 17 19 20 24 28 中部 2 4 6 6 11 12 近畿 1 2 2 3 4 5 中四国 1 1 2 2 2 4 九州 0 0 0 0 0 2 合計 14 24 29 32 44 55 イスラムのホームページ便利帳より http://www.dokidoki.ne.jp/home2/islam/ 147 順位 地方 都道府県 開堂年 36 豊田マスジド マスジド名 中部 愛知 2006 37 名古屋港マスジド 中部 愛知 2006 38 浜松マスジド 中部 静岡 2006 39 坂城マスジド 中部 長野 2006 40 小美玉第 1 マスジド(madinah) 関東 茨城 2006 41 仙台マスジド 東北 宮城 2007 42 水戸マスジド 関東 茨城 2007 43 札幌マスジド 北海道 北海道 2007 44 春日井マスジド 中部 愛知 2007 45 結城マスジド 関東 茨城 2008 46 鹿沼マスジド 関東 栃木 2008 47 徳島マスジド 四国 徳島 2008 48 バーブル ・ イスラーム岐阜マスジド 中部 岐阜 2008 49 別府マスジド 九州 大分 2008 50 岡山マスジド 中国 岡山 2008 51 小樽マスジド 北海道 北海道 2009 52 福岡マスジド 九州 福岡 2009 53 三重マスジド 近畿 三重 2009 54 小美玉第 2 マスジド(Anwar Madinah) 関東 茨城 2009 55 御徒町マスジド(As-salam Masjid) 関東 東京 2009 イスラムのホームページ便利帳より http://www.dokidoki.ne.jp/home2/islam/ 148 統計から見た日本のイスラーム 表 6: 『開堂年順マスジドリスト』 順位 149 地方 都道府県 開堂年 1 神戸マスジド マスジド名 近畿 兵庫 1935 2 東京ジャーミィ 関東 東京 1938 3 Balai Indonesia 礼拝所 関東 東京 1962 4 アラブ イスラーム学院礼拝所 関東 東京 1982 5 一ノ割マスジド 関東 埼玉 1991 6 松山イスラーム文化センター礼拝所 四国 愛媛 1994 7 伊勢崎マスジド 関東 群馬 1995 8 日向マスジド 関東 千葉 1995 9 境町マスジド 関東 群馬 1997 10 海老名マスジド 関東 神奈川 1998 11 行徳マスジド 関東 千葉 1998 12 名古屋マスジド 中部 愛知 1998 13 戸田マスジド 関東 埼玉 1999 14 大塚マスジド 関東 東京 1999 15 富山マスジド 中部 富山 1999 16 八潮マスジド 関東 埼玉 2000 17 お花茶屋マスジド 関東 東京 2000 18 浅草マスジド 関東 東京 2000 19 足利マスジド 関東 栃木 2000 20 つくばマスジド 関東 茨城 2001 21 大阪マスジド 近畿 大阪 2001 22 新安城マスジド 中部 愛知 2001 23 白井マスジド 関東 千葉 2001 24 富士マスジド 中部 静岡 2001 25 八王子マスジド 関東 東京 2002 26 岐阜ファーティハ・マスジド 中部 岐阜 2002 27 新潟マスジド 中部 新潟 2002 28 館林マスジド 関東 群馬 2003 29 新居浜マスジド 四国 愛媛 2003 30 小山マスジド 関東 栃木 2005 31 いわきマスジド 東北 福島 2005 32 京都マスジド 近畿 京都 2005 33 横浜マスジド 関東 神奈川 2006 34 所沢マスジド 関東 埼玉 2006 35 大阪茨木マスジド 近畿 大阪 2006 四.日本のマスジド マスジドとは、ドームとミナレット(尖塔)を備えた美しい外観のものが世界では一般的だ。ところ (三)富山マスジド:1999 年国道沿いのコンビニを購入、外看 板にマスジドの絵を施し、建物にはアラビア語と日本語で大き く『ラーイラーハ・イッラッラー』富山モスクと書いている。 が、日本では、地域住民が募金を重ね、やっと購入したマスジドだけに、その苦労のあとがマスジドに (二)境町マスジド:1997 年東武伊勢崎線境町駅前のパチンコ 店を購入、看板にミナレットの絵を施し、マスジドと分かるよ うにしている。 も見てとることができる。いくつかの特徴あるマスジドを写真で紹介してみよう。 (一)伊勢崎マスジド:1995 年町工場を購入、 改装をほどこした。 キブラの方向には小さなドームを日曜大工で作り、マスジドら しさをかもし出している。別名プレハブ・モスクと呼ばれていた。 現在は新築し鉄筋の立派なマスジドになっている。 150 統計から見た日本のイスラーム 一方、最近建設されたマスジドには、美しい外観のものがある。 151 (四)岐阜ファーティハ・マスジド:2002 年カラオケボックス を購入、 ボックスの壁を取り払い、 広い礼拝スペースを確保した。 (五)岡山マスジド:2008 年岡山大学に隣接するアパートを購 入。部屋の壁を取り払い、礼拝スペースを確保。残りの部屋は 女性礼拝所、会議室などに利用。 (六)東京ジャーミィ:2000 年トルコ政府によって建てられた 日本を代表するマスジド。 (七)バーブル・イスラーム岐阜マスジド:2008 年岐阜大学の 近くに建設。白壁と大きなドームは印象的。 (八)福岡マスジド:2009 年鹿児島本線箱崎駅、徒歩 1 分の 好立地の場所に鉄筋三階建ての新築マスジドを建設。 152 統計から見た日本のイスラーム 五.今後の課題 急激なムスリム増は、ムスリム社会に大きな課題を投げかけるようになった。そのうちのいくつかを 紹介しておこう。 (一)子女教育 南アジアからの流入が始まってすでに 年が経過した。彼らの二世たちにも青年期に入っている者も 多い。しかし、幼少の大切な時期にマスジドができておらず、充分なイスラーム教育を受けられなかっ た青年も多い。まさに、後発のインドネシア人たちの子女が今その時期を迎え、イスラーム教育の必要 性を訴えている。増加している日本人ムスリム子女の教育も、重要事項のひとつである。すべてのマス ジドが、子女教育を真剣にとらえ、取り組むべき時期が到来している。 (二)国際結婚 パキスタン人男性と日本人女性の国際結婚が圧倒的に多いが、インドネシア人の場合は、インドネシ ア人男性と日本人女性、また、その逆の日本人男性とインドネシア人女性との比率はほぼ同じである。 聞き取り調査をしたところ、インドネシア人男性と日本人女性の比率は、東京6:4、岐阜3:7、愛 媛2:8、福岡7:3と、都市と地方では比率が逆転している。男性がネイティブムスリムである場合 にはそれほど問題にはならないが、男性が日本人の場合、ネットワークを築きにくく、マスジド側から 153 25 の積極的な働きかけが必要となってくる。 (三)日本人の役割 民族単位でグループを作ることは何の問題もなく、その中でお互いの信仰を高めあい、協力しあうこ とは重要だ。しかし、ムスリム社会の一員として、さまざまな民族が集うマスジドに足を運ぶことも重 要である。日本人と外国人の比率が1:9である現実の中、日本人の足はマスジドからまだまだ遠のい ているが、日本人は土地の者として、企画運営面で大きな役割を担うことができる。その意味でもマス ジドは、日本人に期待している。 また、インターネットの普及で、イスラーム情報の取得が容易になったことによる入信者の増加、国 際結婚による入信者の増加、日本語ネイティブスピーカーである在留外国人二世の存在など、マスジド における日本語でのイスラーム指導の需要が高まってきつつある。日本人指導者陣の養成が必要とされ る。 (四)墓地問題 ムスリムの増加は、そのまま墓地不足につながり、新たな墓地の購入が不可欠となっている。ところ が、イスラーム団体・マスジドが墓地の確保に乗り出しながらも、まだ続くイスラームに対する逆風と、 土葬という条件から、許可が得られず膠着状態になっているものが多いのが現状である。 154 統計から見た日本のイスラーム 一 二 三 四 五 20 01年 月 日、 ムスリムが参加した。 15 名以上の日本人 る。しかし、日本に於いては、マスジドとは、すでに購入した自前の礼拝所で移転する可能性がないものを指し、ムサッラーと お篭りなど行にのみ使用される施設をいい、ムサッラーとは礼拝以外の用途でも使用可能な集会所的な施設と使い分けられてい 礼拝 所を表す言葉には、ジャーミィ、マスジド、ムサッラーなどがあり、イスラーム諸国では、一般的に、ジャーミィとは規模 の大きいマスジドをいい、マスジドとはミフラーブ(礼拝の方向を示すアーチ型のくぼみ)とミンバル(説教壇)を備え、礼拝、 。ラマダーン月の夜、イシャー(夜)の礼拝後に行うスンナ(行わなくても罪にはならないが、行えば神からの報償が tarawih 得られる)の礼拝。マスジドでは集団礼拝として行われているのが一般的。 ne.jp/~racket/ 20 http://www2s.biglobe. 日 the Muslim Converts' Association of Singapore で開催された講演会と懇親会に http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/photo/singapore.htm 16 平成 年度国勢調査 19 97年公開された最も古くからある日本語で書かれたイスラーム関係のホームページ。 10 (はまなか あきら) は、賃貸の礼拝所で移転の可能性が高いものを指すことにする。 彰 筆者 浜中 愛媛県松山市出身。新居浜マスジド代表。 イスラムのホームページ管理人。スポーツ用品店経営。 マレーシアにて入信、イスラムダアワ大学卒業(リビア) 、 155 17 イスラームと日本の仏教 ―無関係からの出発― 水谷 周 アラブ イスラーム学院学術顧問 イスラームと日本の仏教は、そもそもその歴史が異なっている以上、水と油のような縁遠い関係であっ ても何も不思議はない。そのような前提を踏まえるとしても、その割には両者の間に共通点や類似点が 多くの側面で見られるのは、実に不思議なものである。本論ではそのような近似性の諸点を振り返って みることとする。そしてそのような近似性はどのような意義を持つのかについて、一考してみたい。 両宗教を対比するとしても、その方法には特段定められたものはない。イスラームでは一日の間に、 五回礼拝することが義務となっていることは知られている。他方、仏教では元来それは一日六回であっ た。このような儀礼面での、しかも具象的な事例に関する比較をするのも興味が惹かれるだろう。しか し以下においては、信仰の真髄や信心のあり方といった、より中枢の諸点を優先することとする。その 後から、多少それ以外で注目される点にも論を及ぼすこととしたい。 一.信仰の真髄 さっそく両宗教の最も本質的な、信仰の真髄という論点を突くことにしよう。両者対比の結論から言っ てしまうと、信仰上の教義は大いに異なるが、それらの概念的な構造はほぼ同様と言えそうだ、という ことである。 め い ちょう まずイスラームの教えの中軸は、次のように整理できる。 「永遠の主であるアッラーにすべてが依拠している事実を明澄に認識して、日々の言動をその確信に基 づかせること。そしてこのアッラーこそ、有形無形のすべての事物の根拠であり原因であり、それらす 158 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― 一 べての成り行きを決めて実施され、監視されているのである。人間にとって最終的な裁きとなる、最後 ふ えん の日の審判も、その重要な一幕である。」 これを以下においてもう少し敷衍してみよう。イスラームにおける信仰とは真実であると信じ、自ら じょう と う の言動を信心に即したものとすること、ともされる。それでは、何を真実であると信じるのであろうか。 教義上の信仰箇条としては、イスラーム神学で以下の六ヶ条にまとめられるのが常套である。 第一、アッラー(唯一にして永遠なる存在) 第二、見えない世界の存在(天使) 第三、諸啓典(クルアーンはその最後のもの) 第四、諸預言者(アーダムから始まり、ムハンマド(アッラーの祝福と平安あれ)は最後の預言者) 第五、来世のあること(復活と最後の審判が行われる) 第六、定命のあること(アッラーの深慮と計画) 以上が六信と呼ばれる信仰箇条であるが、その第二から第六まではすべてアッラーの創造と差配によ るという意味では、すべてがアッラーに依拠しているとも言いうる。こうして絶対的な主であるアッラー の存在が確立される。それは初めもなければ終わりもない存在である。 次に、仏教の信仰の真髄については、次のようにまとめられよう。 ぼんのう ね は ん じゃく じょう この世はすべて有限で相対的である(諸行無常)。それはすべて原因と条件によってこの世に現れる えん ぎ のである(諸法無我)。しかし煩悩の消え去った静かな境地を得ることは可能である(涅槃 寂 静) 。こ うして教えの基調は縁起であり、それを悟ることにより人は安寧を得ることができる。 159 前述の三印と呼ばれる整理法以外によく見られるのは、四諦説(恒常であろうとする苦しみの真理― 二 苦諦、仮の姿が集まる苦しみの原因―集諦、苦しみを滅ぼす真理―滅諦、欲望を滅ぼすための真理―道 諦)である。 こ しつ 多少言い換えて具体的な形では、次のようにも理解できる。一時の繁栄や隆盛が衰えるのを見るとき、 が しゅう 悲しみを覚えない人はいない。しかしそれが悲しみとなるのは、その人が理をわきまえず我に固執して いるからである。この我執こそが苦の根本であり、それを克服するのには、縁起の法を体認することに ある。悟りを開けば煩悩を乗り越えた静かな境地が心に満ち、他者への慈悲に溢れることとなる。 以上を受けてイスラームと仏教を比べてみると、教義上の違いは改めて強調するまでもない。それは アッラーであり縁起の法であり、教義の説明の文字上からも別物なのである。しかしここで改めて見直 す必要のあるのは、むしろそれら両者の間の概念的な構造が酷似していることであろう。 さらに次のようにも表現できる。仏教の教えの出発点としては、縁起を言い換えて無が強調される。 それは有無の無ではなくて、そもそも初めから存在しないという意味で「絶対無」であると呼ぶべきだ と、前世紀の日本の哲学者が提唱して以来、その用語はすっかり定着した。 それに比べればイスラームでは、アッラーについてあらゆる意味で有を主張しており、言い換えれば 「絶対有」とも言うべき存在である。 イギリスの宗教学者が唱え始めた学説に、宗教多元主義というものがあり、それは日本でもそして世 界的にも相当注目を集めてきた。 三 それは絶対者を何と呼ぼうが、その存在を中心として構築された 教えや宇宙観の構造は、ほぼ大同小異であるというのだ。個々の宗教教義の違いは本質的ではなく、 「水 160 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― の色はその容器の色である」とするのである。この多元説は自らが特定の教えを説くものではないので、 ひょう そ く 結局珍しさを除いては影を潜めつつあるようだ。しかしわれわれが右に見た、イスラームと仏教の基本 的構造上の酷似性の指摘は、結果的にはこの宗教多元主義と平仄を一にしている。 二.信心のあり方 げ だつ 次の論点として、宗教信仰がもたらす信者の心のあり方について述べる。この側面については、イス ね はん ラームと仏教ではさらに近いものを見出すのである。 仏教に関しては、それは我執を離れた涅槃の心としてすでに前節で見たとおりである。それは解脱と いう言葉でも、日本では広く知られている。もう少し平易に言えば、達観するとも言われる。このよう 四 な日本人の信心に関する鋭い観察としては、もう古典となった鈴木大拙の多数の著書につとに詳しく記 述されてきた。 鈴木によると、日本人の信心の基本はその清純な心にあるという。それは仏教伝来の国である中国が 得てして理に走る心とも違うもので、遥かに自然体で素直で従順であるという。このような日本的な宗 教性―彼の言葉では日本的霊性―こそは、浄土系思想と禅宗という日本仏教の二大流派を貫いている精 神であると説明される。一見、普通は情の浄土教と理の禅宗という二つに分けて見がちであるが、実際 き が は同根であると指摘するのである。そしてそれは、平安という物のあわれを強調した感性的情緒的な時 代を経て、大地の上に親しく起臥して念仏のまことそのものに深化した鎌倉時代に発現したのであった。 161 みょう こ う に ん このような自然な霊性の発露として、鈴木が早くより着目してしきりに取り上げてきたのは、江戸時 代以降に各地で現れた妙好人と称される人たちであった。妙好とは、泥沼の中に咲き誇る一輪の白い蓮 の花のことである。そして妙好人とは朝な夕なに一日中、念仏三昧に明け暮れた人々であり、生きるこ と自体があり難く、生きる姿そのままが念仏になっているといった風情の、格別に徳行の高い人々であ る。島根県の浅原才一、足利源左衛門、香川県讃岐の庄松、京都府綾部市の三田源七など、多数の妙好 人の記録がつぶさに残されてきている。才一の言葉をひとつ引用しておこう。 「わたしや、あなたの六字の中に封じ込められ、なむあみだぶつ。」 これを読む人には、念仏に委ねきった才一のあり方と、その末に見出した安寧の心境を、直ちに察知 できると思われるのである。 なご さて、ここらで筆をイスラームの信心の方へ向けなければならない。その要点から始めると、 イスラー ム信仰の心根も仏教と同様に、「和やかさ(トゥマウニーナ)」であると言えるのである。 五 それは激 しさや強引さとは全く逆の、たおやかな感謝と慈しみの気持ちである。百の学説や千巻の書物ではなく、 それは静かに礼拝する人の姿や偉大な自然に、ふと教えられるものかもしれない。万物の主であるアッ ラーを思い、自分が生かしていただけるあり難さと、またそれを自らの周辺にも願う気持ちである。 ま はた め いま少し敷衍すると、次のような表現もある。信仰は単に口先の問題ではなく、太陽が光を放ちバラ が香りを蒔くように、篤信が心に満たされ、その様が傍目にも分かるようになる。アッラーと預言者ム ハンマドに対する愛情は強まり、それはその人の言動すべてに溢れ出てくることとなる。それは同時に アッラーに対する畏怖心でもある。 162 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― のっと さらに補足すると、信仰の段階論として以下のように説かれる。信心には三段階ある。第一には言動 で教義に則ること(イスラーム)。第二に内心の問題として、信仰箇条をしっかり確立し順守すること けいけん (イーマーン)。第三には、信心に基づきあらゆる善行を積むと同時に、常にアッラーを身近に感じる最 も敬虔な段階(イフサーン)である。これが最も熟した完成度の高い信心のあり方として位置付けられ ている。預言者伝承に次のようにある。 あが 「イフサーン(善行)について述べよ」と問われたのに対し、預言者ムハンマドは答えて言った、 「あ 六 たかも目前に座すかのようにアッラーを崇めることです。あなたにアッラーを拝することができなくて も、アッラーはあなたを見ておいでになるからです。」と。 以上に見た両宗教における信心のあり方は、むしろ共通点が多いというのが、読む人の率直な読後感 わた ではないだろうか。そしてさらには、良きムスリムの与える印象と、良き仏教徒が持っている雰囲気と は、余りに同質なことに驚かされてきたというのが、過去半世紀に渉る筆者の偽らざる感想でもあるこ とをここに付記しておきたい。 三.人間の捉え方 以上の、信仰の真髄と信心のあり方がイスラームと仏教の対比上、最重要な論点であろう。しかし、 思案するに意味のありそうな論点としては、それ以外にも幾つかある。 その第一は、両宗教において、人間はどのように位置づけられているのかというポイントである。 163 かたまり 人間は泥の塊からアッラーが創造されたもので、復活の日には高い山々でさえも羊の毛のように飛び 散り、まして人は蛾のように吹き飛ばされるだけの存在なのである。一生の価値はどれだけ善行が積め るかによる。それが相当あれば天国へ行くが、不十分ならば地獄行きである。人の価値はその人の篤信 ぶりであり、どれだけ神を畏怖しているかで決まるのである。同じことだが視点を変えれば、アッラー への感謝の念と言うことにもなる。 この様な中から、道徳的な意味で、忍耐、謙譲、誠実さ、公正さなどの徳目が極めて強調されること となる。その逆で、短気、焦り、尊大さ、増長、偽善、裏切りなどは、戒められることになる。またアッ は ラーの人に対する限りなき慈悲を思いつつ、人の人に対する情けや慈愛も求められる。 右に対して仏教でも、慈悲はもとより、釈迦や居並ぶ諸仏の徳の高さに思いを馳せて、倫理、道徳律 が様々に説かれてきた。その内容は右のイスラームの徳目の理解がむしろ容易であると思えるほどに、 酷似していると言えよう。 一方、かなりの違いがあると見られる側面もある。それは人間の本性をどう捉えて、どう付き合うか あまのじゃく という点である。イスラームでは人間の心には良い面と悪い面が並存していると見る。それらの両側面 ささや は、最初から最後まで、本源的に共存しているのである。天邪鬼のことをシャイターンとアラビア語で は言うが、人の心にはシャイターンがやたらと囁いているのだ。嫉妬心、恨み、反発心など、イスラー ムの神学書には数十は下らない数のジンが挙げられている。それに比べて良い面も、親切心、愛情、同 情など、やはり多数挙げられている。 これらの諸側面を併せ持つ人間に信者は十分注意しろと、クルアーンの一番最後の章は警告を発して 164 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― 締めくくっている。「(アッラーに)ご加護を乞い願う、 ・・・こっそり忍び込み、囁くものの悪から。そ れが人間の胸に囁きかける、ジンであろうと、人間であろうと。 」(人々章)このように人の心に悪を囁 くシャイターンは、自分の心にも他人の心にも潜んでいるので、それと戦い同時にそれがもたらす悪か らは、アッラーのご加護を祈願するのである。あくまでも人への警戒心は揺るがせにできないのである。 ぎょう むち あく 他方、仏教でも人はもちろん良い面と一〇八の煩悩という悪い面を併せ持つが、信者たる者、あくま でも自らは仏の心を持つことにより、接する人の仏心を引き出し育ませるように求められる。それは悪 行を黙認するのではないが、できるだけ甘受し、また無抵抗の鞭で導くという姿勢が尊としとされてい ると言えようか。 両者いずれが真実であるのかどうかは、即断も独断も不可能かもしれない。読む人の様々な人生経験 がその指標となるであろう。 四.救済の考え方 ぜんこう すでに幾度か触れたように、人は懸命にアッラーを畏怖し、敬虔な生活で善行に励むしか、イスラー ムでは選択肢はないのである。どのような小さなものでも必ず記録され、信賞必罰間違いなしとされる。 そして最後の審判では、ある者は救われる、そうでない者、特に不信者はそれまでである。それは最初 から教えに示されているところに過ぎず、何の唐突さもない。 仏教の救済理論も、基本的には全く同一であると言えよう。ただ比重の置き方で異なるのは、当初救 165 あ く に ん しょう き われなかった場合である。 浄土系の「悪人 正 機説」によって、どれほど多くの人たちが信仰上も生活上も救われてきたか、歴 史に明らかである。それによるとあの世で地獄へ行ってからでも罪を償えば、その時から極楽行きが約 束されるのであった。それどころか、その説の主眼点は、念仏にすがる悪人こそその悔い改めにより正 しく救われるというのであって、悪人こそが救済の前面に押し出されているのである。 イスラームには、こういった観念が前面に出される余地は、幸か不幸か、全くない。どんな悪人でも、 どんな愚鈍の身でも、努力はできる限りすべきであり、アッラーが求めるのはそこまでである。能力以 上のことをアッラーが求めることはありえないからだ。 たくま 何か日本的には冷たいような、突き放したような印象が残るかも知れない。しかし、これはアッラー の命令であり誰も争える話ではないし、日々善行に精出すこと以上に雑念を逞しくすることは戒めたく なるのが、ムスリムの気持ちである。 五.在家主義 と イスラームには僧侶や聖職者階級は制度として存在しない。礼拝所の指導者であるイマームも、より アッラーに近い存在であるという意味は全くない。最後の審判において信者をアッラーに執りなしてく れるという預言者ムハンマドも、人の子であることは変わりないのである。教義上、アッラーと信者の 間にいかなる中間的な存在も認めないのは、イスラームの根本に直結する事柄である。 166 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― ざい け つまりイスラームでは、浄土教で主張された在家主義が当初より徹底していたのである。そしてイス ラームの在家主義は、信仰の活力維持に積極的に貢献してきたと言えよう。それは常に一部の階層の人 たちの立場からではなく、民衆のあり方や総意を如実に反映する動向を生み出す源泉となってきた。そ い あんじん してこの事情こそは現代世界という急速な変化を見せる世の中においても、しなる竹のような柔軟性と 強靭性をイスラームにもたらしていると考えられる。 在家主義の下での懸念材料は、信仰箇条から逸脱する者の出現、あるいは浄土系で言う異安心の問題 である。過去の日本では僧侶の関与が見られるとともに、信者間の議論と説得で多くは解決されてきた。 イスラームでは信者間においてそのような大衆浄化機能が常に働いていると言える。教育機関、青年 ムスリム協会や様々な慈善団体の活動があるし、また礼拝所における輪座形式の議論などにより浄化の 実が確保されている。 在家主義による一般信者の社会各方面の最前線での活躍は、イスラームの本質に基づくあり方として、 今後の世界でイスラームが信仰体系としてさらに躍進するかどうかに関し、決定的な役割を果たすこと は間違いないだろう。 六.勤行の意識 以上の類似した諸点とは別に、少々異なる側面も取り上げておきたい。それはイスラーム独自の立場 であり、日本仏教だけではなく欧米的な文化の脈絡とも、それなりに異なっているという内容である。 167 ご ん ぎょう イスラームでは毎日の礼拝はもちろん、すべての勤行や宗教儀礼において信者は何をするつもりなの かに関して、意思を確認する。 巡礼の際にはマッカを取り巻く聖域に入る地点で宣言するが、巡礼にも種類があるので、どの巡礼を するのかも告げなければならない。また寄付をするにも、喜捨をするとの意思表明が伴っていなければ、 善行を積んだことにはならない。礼拝で言えば、早暁、正午、午後、日没、夜間という一日五回のどの 礼拝をこれからするのかを、告げなければならないのである。この様なイスラームの儀礼を実施する意 思のことをアラビア語ではニーヤと呼んでいるが、ニーヤの表明が求められるのである。 しょう みょう 筆者の知る限り仏教ではこの様な意思表明は、ほとんど求められないのではないだろうか。むしろ無 意識な中での称 名 念仏などは、妙好人の特徴であり、その信者がいかに篤心であるかの証左のように 扱われるようである。勤行を務めなければという意識が働いている間は、まだまだ本物ではないといわ れるかも知れない。 七.無関係からの出発 以上イスラームと日本の仏教は、長い歴史の差違にもかかわらず、幾つもの主要な類似点のあること を見てきた。つまり、無関係の関係は人間の本性という原点で繋がっており、その重みは馬鹿にできな いということである。そこで最後に一考しておきたいことは、この類似性が持つ意味である。 168 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― (一)相互の理解は進展するか? まずイスラームと日本の仏教間の、双方の相互理解は進みうるのであろうか、どうかという点である。 その可能性が大きいと思わざるを得ない二つの事情がある。 む こ まいしん ・負 の遺産がないこと ― 仏教にはイスラームがキリスト教と体験してきた厳しい負の遺産がないこ とは、実に多大なプラスの資産と考えられるのである。いわば双方が互いに無知ではないにしても 無辜なのであるから、白紙の状態から縦横に関係の深化に邁進することもできるはずである。 ・東 洋的秩序感覚 ― 日本は欧米文化を随分追いかけてきたが、最後まで取り付きにくかったのは、 欧米の論理的思考パターンではないだろうか。論理が重視されるのがイスラームであるが、その論 理のあり方は決して欧米流ではない。このような共通した秩序感覚は相互理解のための強力な地盤 となりうる。 (二)日本における信仰心の蘇生に貢献? それでは、努めてイスラームとの相互理解に邁進するとしても、日本にとっては何の意味があるとい うのであろうか。これは日本の現状をどう評価するかという問題でもあり、百家争鳴の議論がありうる。 ここでは限られた紙数しかないが、筆者の見るところは次の通りである。 しんとう 太平洋戦争後に日本が失ったものは少なくない。そのひとつが、正しい宗教信仰である。それは、戦 前の国家神道が即ち軍国主義を招いたという失態が一番直接の原因となった。宗教に対しては、もうた くさんだという忌避の態度が、全国にヒタヒタと浸透し充満したのであった。それが同時に、新憲法下 169 における政教分離政策をほとんど無意識のうちに下支えしたのであった。 振り子は一つの極からもう一つの極へと、一八〇度急転換してしまった。そしてそれが大きな損失、 いや間違いであったことに半世紀以上も日本は気づかないまま時間が過ぎてしまったのである。この 振り子の振動をもう一度正しい軌道に乗せなければならないのは、国としてあるいは民族として大きな きっきん 課題なのである。しかしそれはまだまだ政治レベルで扱わねばならない喫緊の課題としては見られてい ない。 このためにイスラームがそのみずみずしい力を持って、大きな警鐘を鳴らすことが期待されるのであ る。中世において日本の神道がその教義を整え威儀を正したのは、仏教伝来による刺激、さらに言えば 脅威がもたらした大きな副産物であった。イスラームの勢いが今度はそのような役割を果たすことがで きるのであろうか。いや、期待したいところである。 (三)イスラームの新たな理解者の獲得? 他方で、イスラームにとっては、日本における理解者を増やすことにどのような意味が見い出せるの であろうか。イスラームが現状の世界で、ほとんど四面楚歌の状態にあることを省みる必要がある。そ ふくそう れはただ、9・ 以降のテロ対策という流れだけではなく、ヨーロッパにおける預言者風刺画問題や女 るといった戦略感覚は歴史的に磨かれてきたものがある。イスラームの新たな理解者であり、国際社会 イスラームは敵対するものとは戦う姿勢を持つように教えられるが、味方を増やさなければ不利にな 性のヴェール問題、ムスリム移民差別問題など、輻輳する諸課題を含んでいるのである。 11 170 イスラームと日本の仏教 ― 無関係からの出発 ― における優れた味方として日本の大切さを認識することは、さほど難しい話ではない。そしてそのよう な明確な目的を持って、日本との宗教対話の促進を図ることはいわばゼロからの出発であるだけに、右 ページ以下。 拙著『イスラーム信仰とアッラー』知泉書館、2010年。3ページ。 肩上がりのカーブを描くやりがいのある仕事となるはずであると、これも期待されるのである。 一 年。『宗教的経験の事実』大東出版社、1943年。 ジョン・ヒック著『宗教がつくる虹』間瀬啓允訳、岩波書店、1987年。 二 『仏教聖典』仏教伝道協会、1973年。 三 四 『日本的霊性』岩波文庫、1972年。 『妙好人』法蔵館、昭和 は安心立命・大悟(ムトゥマインナ)である。クルアーン上の整理に関しては、 『聖クルアーン』日本ムスリム協会、2002年。 心の 状態には,三段階ある。第一は悪に傾きやすい(アンマーラ ビッスーゥ)、第二は意識して身を正す(ラウワーマ)、第三 ページ。 訳著『アフマド・アミーン自伝』第三書館、1990年。アラビア語著『日本の宗教―過去 10 第7刷。288ページ。 六 『日訳サヒーフ ムスリム』日本ムスリム協会発行、1987年。第1巻、 著書に、総編集『イスラーム信仰叢書』全 巻、国書刊行会、2010~11年。 イスラーム研究家。京大文卒、米国ユタ大学博士(歴史) 。アラブ イスラーム学院学術顧問。 筆者 水谷 周 (みずたに まこと) 28 五 51 から未来へ』 、ダール・アルクトゥブ・アルイルミーヤ社、ベイルート、2007年。など。 171 40 3 [座談会] 日本人が語る イスラームと我々の未来 店田廣文 奥田 敦 早稲田大学 人間科学学術院 教授 慶應義塾大学 総合政策学部 教授 徳増公明 片倉もとこ 宗教法人 日本ムスリム協会会長 拓殖大学 イスラーム研究所客員教授 国立民族学博物館、 総合研究大学院大学 名誉教授 森 伸生 片山 廣 拓殖大学 イスラーム研究所 教授 アラブ イスラーム学院 顧問 174 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 【主催者挨拶】 イサム ブカーリ (サウジアラビア王国大使館 文化部 文化アタッシェ) サウジアラビア王国大使館 文化部として初めて となる書籍の出版にあたり、日本におけるイスラ ーム研究・交流の場で、多大な功績を上げておら れる先生方にお集まりいただきました。今回の座 談会は、先生方のご経験にもとづく率直なご意見 をうかがいながら、日本の一般読者の方々にアラ ブ・イスラーム文化を紹介し、興味と関心をもっ ていただくことを目的としています。この試みが 今後の日本・サウジアラビア両国、また日本とイ スラーム社会との友好関係のさらなる発展につな がれば幸いです。 それでは、本日座長を務めていただきます、慶應 義塾大学教授、奥田先生に後はお任せしたいと思 います。よろしくお願いいたします。 175 【第一部】 スラームに対するネガティブなイメージに拍車が その後の相次ぐ自爆テロなどの報道によって、イ 誤解されるイスラーム、その真の魅力に迫る イスラームを遠ざける複数の要因 かかったことは否定できません。 はきちんと認識されていないのではないか」とい 自身、「日本 において、アラブ・イスラ ーム文化 じてイスラーム世界と日常的に関わってきた我々 となりましたが、研究や文化・商業活動などを通 田です。今回、サウジアラビア王国大使館 文化 部の呼びかけに応じる形で当座談会が開催の運び 人には関心がない」という内向的な若者が増えつ と、現代の日本には「自分のことは好きだが、他 に教育の現場に立つ私自身の実感として申します ムへのオリエンタリズム的な誤解が加わり、さら ギーともいえる土壌があります。そこへイスラー 新興宗教に対する警戒感から発した、宗教アレル また、もともと日本には、オウム真理教のような う疑問を、さまざまな場面で感じてきたことと思 つある。そういった複数の要因があいまって、イ イサムさんよりご紹介に預かりました、奥 います。とりわけ2001年9月 日に引き起こ スラームは多くの日本人にとって、いまだなじみ 奥田 )と、 されたアメリカでの同時多発テロ(9・ 11 11 176 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 の薄い存在なのではないでしょうか。 ﹁生き方﹂としてのイスラームの魅力 奥田 そこで、こ の座談会では「日本文 化」「イ スラーム文明」といった単なる文化論にとどまら ず、先生方がそれぞれのフィールドで活躍される なかで、肌で感じてきたアラブ・イスラーム世界 の魅力を紹介していただきたいと思います。個人 の経験を踏まえた話のほうが、信仰だけではなく 「生き方」としても、イスラームがいかにすばら しい特性をもっているかが、一般の方に伝わりや すいのではないかと考えるからです。 そのうえで、これは我々研究者・専門家の課題で もありますが、現在のイスラームが抱える問題点 を洗い出し、今後、日本とアラブ・イスラーム圏 がどのような関係を築いていくべきかについての 177 奥田 敦(おくだ あつし) 1960年生まれ。慶應義塾大学 総合政策学部 教授。慶應義塾大学 大学院政策・メディア 研究科委員。シリア国立アレッポ大学学術交 流活動日本センター副所長。法学博士。 経歴: 中央大学 法学部卒業。シリア国立アレッポ 大学 アラブ伝統科学研究所客員研究員、学 術交流活動日本センター主幹。 著書: 『イスラームの人権 -法における神と人』 (2005 年 慶應義塾大学出版会) 『フサイニー師「イスラーム神学 50の教理」タウヒード学入門』 (2000 年 慶應義塾大学 出版会) 訳書(カラダーウィーほか著) 『イスラームに おける人権』 (2001年 湘南藤沢学会) ワーイル・ハッラーク『イジュティハードの門 は閉じたのか』 (2003年 慶應義塾大学出版 会) 検証もしていきたいのですが、いかがでしょうか。 全員 意義ありません。 奥田 ありがとうございます。 本日は、戦後の日本が国際化していくなかで最前 線にいらした徳増先生、片倉先生や片山先生、そ の後、研究領域を広げてこられた店田先生と森先 生、そして私と、それぞれ違う局面からイスラー ムと関わってきた世代が一堂に会した形となりま した。そこで、まずは日本社会とイスラーム教徒 (ムスリム)の関わりについて、先駆的な立場で 研究を続けてこられた徳増先生からお話をうかが いたいと思います。 日本の国際化とともに交流が本格化 徳増 はじめに、日本におけるムスリム数の変遷 についてお話しましょう。 178 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 のうち日本人は約 %といわれています。私自身 現在、国内には約 万人のムスリムが生活し、そ ました。ムスリムになったのは1960年です。 リア…と、2000年までイスラーム圏で過ごし したから、実に小規模なスタートだったわけです。 至っては1, 000~1, 500人といわれていま 人 ム ス リ ム は 約 2, 0 0 0 人、 外 国 人 ム ス リ ム に によって現地での雇用も可能になってきました。 全員日本から連れていったものですが、技術継承 問題につながります。そんなわけで、当初職人は (組立)産業でして、ちょっとの手抜きが大きな プラント建設というのも一種のアッセンブリー その後、日本の国際化とともに、アラブ・イスラ ア ラ ブ の 人 は 勉 強 熱 心 で す よ。 お か げ で 年 間、 ーム諸国との交流が盛んになりました。当座談会 も入信して早 年がたちますが、そのころの日本 10 10 あたりのお話は、片山先生がお詳しいでしょう。 び両国の政府高官レベルの交流が主体です。この 自動車などの工業製品を輸出する経済交流、およ 本が石油を輸入し、サウジアラビアへは電化製品・ 関係を樹立しています。ただし、当時の関係は日 を主催するサウジアラビアとは1955年に外交 は、ムスリム2世のお子さんが、アラビア語を勉 アラブ イスラーム学院で活動しています。最近 学ぶべきだ」と思うようになり、2000年から 日本に帰国後、「日本こそ、アラブ諸国の姿勢を た。 失敗もなくプラント建設に携わることができまし ア、パキスタンの方も増えており、職業もダンサ 強しに当学院を訪れることが多くなった気がしま すね。アラブ諸国に限らず、イラン、インドネシ 30 片山 そうですね。私はプラント建設を手がける 企業に入社し、サウジアラビアに 年、それから 14 イラク、ヨルダン、カタール、リビア、ナイジェ 179 50 ているようです。 ーに音楽家、旅行業界関係者など、底辺が広がっ 私どもの日本ムスリム協会でも1952年の設立 い自由な風土といえるのです。 以来、会員数約300人と小所帯ながら、日本人 への正しいイスラーム伝承、信者間の相互扶助、 国内外のイスラーム団体との交流・協力と、幅広 代を境に外国人ムスリムや留学生の連携が盛んに 若い世代の関心が高まりつつある 徳増 近年のインターネットの普及がイスラーム に関する情報収集を容易にし、特に若い世代が「イ なり、現在 前後の協会・団体が存在するとされ く活動を展開することができました。また、 年 スラームとは何だろう」と関心をもつケースが増 心、見方を変えれば寛大であるともいえます。そ 日本人は面と向かって拒絶するのではなく、無関 るアレルギーがある」というお話がありましたが、 先ほど奥田先生から、「日本の社会は宗教に対す しょう。 後ますますムスリムの存在も大きくなっていくで ることによって家族が増えつつありますから、今 えているようです。また、ムスリム同士が結婚す ろに「イスラームの勉強がしたい」といって学び 学部から中央大学の大学院に入った後、私のとこ が増えていますよ。以前、早稲田大学の政治経済 イスラームへ興味をもち、勉強をはじめる人たち 片倉 徳増先生のおっしゃるように、私のまわり でも若者層、それも熱心で優秀な人材のなかから す。 イスラームの力が結集しつつあるのを感じていま ています。緩やかではありますが、しかし確実に 90 の点はムスリムが活動を行うにあたって、わりあ 60 180 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 っ た こ と が あ る け れ ど、 彼 は そ の と き 耳 に し た スクに行ってみたい」と頼まれて、連れ立ってい 東京大学で教えていた当時のこと、ある学生に「モ パターンが多いわね。 ていた若者が、イスラームに触れ、惹かれていく 初イスラームとは直接関係のないテーマを研究し にきた女子学生がいましたが、彼女をはじめ、当 同感です。 やはり、若い人のパワーに期待できるというのは 年には建物も完成したというじゃありませんか。 助させてもらったけれど、それがもう、2009 すればいいわね」と、応援の意味を込めて少し援 えず土地だけ購入したそうです。私も「早く実現 たい」と皆で少しずつお金を出しあって、とりあ 学生と日本人学生の一部が、「ぜひモスクを建て 片倉 もう一つ、日本社会についていえば、9・ 以降、欧米社会でアラブ系住民への差別や嫌が 寛容性は日本とイスラームの共通点 クルアーンの響き、イスラームの音楽性に心酔し て、大学院でイスラームの勉強をはじめたそうで すよ。モスクといえば、日本で最初にモスクが建 てられたのは神戸だったかしら。 店 田 19 3 5 年 の 神 戸 に 建 造 さ れ た の が 最 初 で、次いで 年に名古屋、東京・代々木に 年… と続きます。 る宗教的無関心もあるのでしょうが、それにも増 らせが問題化しましたけれど、日本ではそういっ た話を聞かないといいます。徳増先生のおっしゃ 片倉 そのモスクですけれど、やはり若い人たち の思いが実った例があってね。数年前、九州で講 11 して、私は日本人には受容力があると思うんです。 38 演会を開いたときに聴講してくれた九州大学の留 181 36 た記憶があります。 地の人々の寛容さやホスピタリティーを強く感じ 店田 私も1988年、イラン農村部の米作りの 実態調査のため1ヶ月くらい滞在しましたが、当 とも通じるのではないでしょうか。 容力の高さ、言い換えれば寛容性は、イスラーム 化に融合させた歴史があるでしょう。そういう受 いろな文化を平然と取り入れて、それを自国の文 それこそ縄文時代から漢字、仏教、儒教…といろ ームに対するこの種の誤解が実に多いですね。 言されているのを聞いたことがありますが、イスラ くなっても豚肉には手を出さず、死を選ぶ」と発 片山 その とおりです。作家の曾野綾子さんが「ム スリムの人は教条的だから、ほかに食べるものがな ているのでしょう。 況や、知らずに食した場合には仕方がないとされ ているけれど、これも食べなければ命に関わる状 豚肉もね、イスラームでは食べることを禁じられ を守っていらっしゃいました。 ぎらわれた経験があります。一方で厳格さが曖昧 に恵まれましたが、当地では留学生の私に奨学金 森 私は1973年にイスラームに入信し、 年 からマッカのウンム・アルクラー大学で学ぶ機会 無知がイスラームを怖れさせる 片倉 イスラームは厳格だというイメージを持っ ている人が多いけれど、それがすべてではないん ですよね。以前、断食月(ラマダン)に参加した とき、ムスリムの方に「あなたはムスリムではな なわけではなく、カナダ滞在中に見かけたムスリ を与えてくれ、くじけそうなときには友人たちの いのだから、無理しないで食べたらどう」と、ね ムの方は、誰の監視もないのにきちんとラマダン 75 182 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 国立民族学博物館、総合研究大学院大学名 誉教授。 経歴: 東京大学理学系研究科地理学専攻博士課程 卒業。理学博士。津田塾大学教授。ブリティッ シュ・コロンビア大学客員教授。アラブ文献 研究センター客員研究員。中央大学総合政 策学部教授等。 大同生命地域研究奨励賞。エッソ研究奨励 賞。石油文化賞。各務記念財団最優秀図書賞。 アジア経済研究所開発途上国研究奨励賞な どを受賞。 著書: 『Bedouin Village -A Study of Saudi Arabian People in Transition』 (東京大学出 版会) 『アラビア・ノート』 (NHKブックス) (ちくま 学芸文庫) 『イスラームの日常生活』 (岩波新書) など多数。 片倉もとこ(かたくら もとこ) 励ましを受け、どうにか自分のなかにイスラーム を築くことができたと思っています。 旅立ちの際に日本の学友たちが歓送会を催してく れ、イスラーム圏に足を踏み入れるにあたって、 「タバコを吸ったら鞭打ちだぞ」「礼拝を間違えた ら首を切られるぞ」と、身震いするようなアドバ イスをいただきましたが・・・当座談会にお越し の徳増先生も歓送会に列席くださった先輩のお一 人でしたね(笑)。ともかく私は、当時1日2、 3 箱は吸っていたタバコを「機内での一服を最後に やめよう」と覚悟を決めたものです。 ところがですね、現地に到着し、これからの拠点 となる寮に入ったところ、出迎えてくれた寮生が 「よく来た、 よく来た。疲れただろう、 まずは一服」 とタバコを勧めてくれるじゃありませんか!「吸 っていいのか」 と聞き返したところ、「遠慮するな」 というので早速、言葉に甘えさせてもらいました 183 とか。 いただいたこともあります。皆、なんと優しいこ ーバン)を、大学の学部長から直々に巻き直して 然ありませんでした。まだ着慣れぬシャマーグ(タ しく諭してくれました。鞭で打たれるなんて、全 ってきて「2回やらなくていいんだよ」と、やさ とがありました。そのときは、寮の友人が駆け寄 アッサラームの後にスンナの礼拝を2回やったこ 礼拝も、最初はスンナのタイミングがわからず、 よ。 森 日本はイスラームについて知らないことが多 すぎますね。無知がイスラームを怖れさせている んでした。 ラーム圏をますます好きにならずにはいられませ さないでくれ」と呼びかけてくれましてね。イス と車の間に立ちはだかり、 「彼らは友だちだ、殺 なんと駐在先で雇っていたオフィスボーイが暴徒 取れなくなったことがありました。そのときは、 私たちの乗っていた車がひっくり返って身動きが またあるとき、街で起こった暴動に巻き込まれ、 たことがあります。 のです。 片倉 本当にそうですね。 アメリカのことなんて、 特に勉強しようと思わなくても初代大統領の名前 片山 ヨルダン駐在中にパレスチナ紛争が激化し まして、駐在員の食料品確保のためよく街に買い たい」と申し出たところ、店主に「0・5㎏しか から最近の話題まで、いつの間にか覚えています 出しに出掛けたのですが、商店で「米を ㎏買い 買えない人もうちの客なんだ。だから ㎏も売れ 60 でもが、こういう美徳を備えているのかと感動し ない」といわれましてね。街のバカーラの店主ま これはアメリカに留学していた1959年ごろ、 よね。 60 184 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 人をいきなり撃ったりはしませんものね。 けれど、ほら、アラブの人は砂漠の中で出会った 人はもちろん、撃たれる覚悟で乗り込んだらしい 降すると、丁重に迎え入れてくれたそうです。友 ふりをしてやり過ごし、夜、アルジェリア軍に投 プターに追いかけられるのを機銃掃射に当たった り、脱走したそうです。砂漠の中を延々とヘリコ 「この戦争は間違っている」という思いが強くな 最中で、友人も戦線に加わったものの、途中から ど、当時はアルジェリアの対フランス独立戦争の フランス人ムスリムの友人から聞いた話ですけれ 切れにならないよう差し込んでいくというタッグ のすごい速さでタイプする脇に私がついて、用紙 に得意な学友がいましてね。彼が大学の講義をも 当時、目が見えないけれどタイプライターが非常 やすいんでしょう。 ラビアではハンディキャップがある人でも暮らし くことはありませんでした。それほど、サウジア ーミナルも通りましたが、目の不自由な方に気づ この座談会会場にたどり着くまでに大きな街のタ 目の不自由な方を普通に見かけたものです。今日、 送っていることがありました。 大学やモスクでも、 を組んでいたことがありました。大学では講義の テキストを配らないので、皆、彼のタイプが頼り です。サウジアラビアの大学では、彼らのような つき、サポート役の学生にも奨学金を出すんです ハンディキャップをもつ人も暮らしやすい国 森 私も留学中のエピソードですが、マッカで驚 いたことの一つに、身体的なハンディキャップを ね。知り合いの教授いわく「そういった制度はア ハンディキャップをもつ学生には必ずサポートが もつ人が、社会の中で健常人と変わらぬ暮らしを 185 片山 廣(かたやま ひろし) 1938年生まれ。 アラブ イスラーム学院(サウジアラビア王国 大使館付属)顧問。 宗教法人日本ムスリム協会、監査役、諮問委 員。 経歴: カイロ アルアズハル大学留学。 千代田化工建設株式会社 勤務。 (在職中は、 ヨルダン、サウジアラビア、イラク、カタール、 リビア、ナイジェリアなどでプラント建設のた めに現地に長期滞在) ッバース朝の時代からある」というから、驚きで す。 このエピソードには後日談があります。4年前に ヨルダン大学を訪問し、シャリーア学部長に面会 を求めたところ、登場したのはなんと当時の学友、 目の不自由な彼だったのです。私のことを覚えて いてくれて、 年代の話に花を咲かせました。身 片山 私が 年近くイスラーム圏で過ごし学んだ のは、「イスラームとは、ある特定の人のもので ﹁神と自分﹂という、シンプルな関係性 だと思います。 いというのは、イスラーム世界のすばらしい特色 体的なハンディキャップが職業上の障壁にならな 70 のに人種は関係ありません。それがまた、すばら はない」ということです。イスラームの心を学ぶ 30 186 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 しい。 いう関係において正直であろうとしているので ていたのに貸さなかった』と聞かれたら弁明でき 本だといいます。でも彼は、「指が4本も多いんだ、 指は左右とも6本ずつあった。聞くと足の指も6 入れる彼の動きに違和感を覚え、よく見ると彼の 森 学生寮の門番はイエメン出身の若者で、よく 私をお茶に誘ってくれました。あるとき、お茶を 私たちはみんなムスリムだから」。 後 は 必 ず こ う い う ん で す よ、「 出 身 が ど こ で も、 しまうの。もちろん皆、答えてくれるけれど、最 るだけ。スッキリしてよろしい」とおっしゃって 区制も檀家制もなく、神様と自分という関係があ になりました。梅棹先生はイスラームの魅力を 「教 も「それやったらイスラームやろうな」とお答え きしたことがあるんです。そうしたら、お二人と 片倉 昔、梅棹忠夫さんや司馬遼太郎さんとお会 いした機会に、 「もし何らかの宗教を信奉しなけ す。 ない」と答えました。彼らは皆、「神と自分」と 片倉 私も人類学者の習性で、つい出会った人に 「あなたはどこの出身?」なんて、国籍を聞いて すごいだろう。アッラーからの贈り物だ」といっ いましたよ。 ればならないとしたら、何を選びますか」とお聞 て臆するところがない。 また、同郷の友人からよくお金を借り倒されてい る寮生がいて、なぜ返ってこないとわかっている のに貸すのかと問いただしたことがあります。彼 は「来世の審判のときに、アッラーに『なぜ持っ 187 【第二部】 イスラームが抱える課題、そして未来への展望 伺いたいと思います。 日本におけるイスラームの現状を探っていきまし とムスリムの交流が限定的なのか。ここからは、 らのすばらしい特性にもかかわらず、なぜ日本人 かなり重要な魅力を語っていただきました。それ 奥田 ここまでイスラームの寛容性、ホスピタリ ティー、ヒューマニティー、そして簡潔性という、 善促進と相互理解を目的とした「日本サウディア 航空相兼総監察官ご臨席のもと、両国の友好・親 ドゥルアジーズ・アール・サウード皇太子兼国防・ け、当時交通大臣だったスルターン・ビン・アブ 1960年に日本の財界有力者らの呼びかけを受 アとの交流の歴史は1955年にはじまります。 イスラーム諸国との関係の歴史 ょう。交流の歴史をたどることは、今後の課題や ラビア協会」が発足しました。その会員数は現在 徳増 それでは、主にサウジアラビアとの交流に な り ま す が、 お 話 し ま す。 日 本 と サ ウ ジ ア ラ ビ 展望を探ることにもつながると思います。日本ム 約 社にのぼります。 スリム協会、そして日本サウディアラビア協会事 務局長として関わってこられた徳増先生にお話を 私は1994年から2009年まで事務局長を務 40 188 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 め、イスラームやサウジアラビア関連の本の出版、 アラビア語講座の開催、文化事業への参加、会員 および一般の方へ向けた情報・資料の提供、在日 サ ウ ジ ア ラ ビ ア 王 国 大 使 館 と の 協 力 事 業、 訪 日 サウジアラビア要人の歓迎会等に携わってきまし た。 そういった活動をご評価いただき、1981年に 開催された創立 周年記念式典の折には、当時の ファハド皇太子殿下から 万ドルのご寄付が寄せ 20 万ドルの寄付をいただき、 「アブドッラ ー国王基金」を設立しまして、現在も、さまざま 下から 2006年には、訪日されたスルターン皇太子殿 連 書 籍 の 邦 訳 出 版 事 業 を 行 っ て い ま す。 さ ら に 金 を 元 に 貴 重 な イ ス ラ ー ム、 サ ウ ジ ア ラ ビ ア 関 サウディアラビア友好ファハド基金」で、この基 られました。それをもとに設立されたのが「日本 50 な文化事業に活用しています。 189 50 す。 国国民の友好関係促進にもおおいに寄与していま でいます。こうした事業を通した人的交流は、両 型石油精製・石油化学事業を開始し、順調に進ん 現在、住友化学株式会社がアラムコとの合弁で大 2000年に終了しましたが、それに代わって、 象徴してきたアラビア石油の石油採掘事業が 経 済 交 流 に 関 し て は、 長 年 に わ た り 日 サ 関 係 を 間での交流がさらに深まることでしょう。 2007年ごろからは、サウジアラビアからの留 広めるために多大な貢献をしています。 を創設し、日本にアラビア語およびアラブ文化を 政府も、東京において「アラブ イスラーム学院」 い る こ と は 注 目 す べ き 点 で す。 サ ウ ジ ア ラ ビ ア って以来、サウジアラビアと交流活動を継続して 愛知万博でサウジアラビアのホストビレッジとな こと、さらには、愛知県の豊根村が2005年の 学生も多数来日しはじめました。今後は若い世代 奥田 外交、企業間での交流が多いようですが、 民間での交流も増えてきているのではないでしょ 徳増 おっしゃる通りです。民間レベルでの交流 にも注目が集まっています。なかでも2002年 ルキスターニ大使、そしてイサム文化アタッシェ 乗り出しています。両国の友好促進に積極的なト うか。 のサッカー・ワールドカップの際にサウジアラビ のご活躍にもおおいに期待しています。 奥田 2008年にはサウジアラビア王国大使館 文化部が設置され、文化・人物間交流の本格化に ア・チームの応援都市となった調布市が、これを きっかけに「調布市サウディアラビア友好会」を 設立し、現在も同国との交流活動を継続している 190 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 店田廣文(たなだ ひろふみ) 1949年生まれ。早稲田大学 人間科学学術院 (人間科学部)教授。 経歴: 東京外国語大学 外国語学部 アラビア語学科 卒業。早稲田大学大学院文学研究科修士課 程修了。早稲田大学大学院 文学研究科(社 会学専攻)博士課程単位取得満期退学。早 稲田大学人間科学部 博士。 早稲田大学 人間科学部 教授、国立社会犯罪 研究センター(エジプト)客員研究員、カイ ロアメリカン大学ソーシャルリサーチセンター 客員研究員などを務める。 2001年 日本都市学会賞( 『エジプトの都市社 会』に対して)受賞。 著書: 『滞日ムスリムと日本のモスク調査』 (2009 年 「歴史と地理」621号、57-61頁) 『戦中期日本における回教研究』 (2006年「社 会学年誌」47号、117-131頁) 『イスラーム世界の将来人口』 (2002年「統計」 53-55号、17-25頁)など。 日本人ムスリム社会の拡大と課題 奥田 続いて、日本のムスリムやモスクの実態調 査を進めておられる店田先生にお話を伺いたいと 思います。 店田 まずは、私がこの調査を手がけるようにな った背景を簡単にご説明します。 私が所属する早稲田大学には、1930年代に日 本のイスラーム研究を手がけていた大日本回教協 会の資料を所蔵する「イスラム文庫」があります。 その貴重な資料を活かしたいと考え、2000年 初頭から日本におけるムスリム社会の研究に着手 するようになりました。資料分析によると、日本 においては戦前も外国人ムスリム社会は機能して いたことが判明しております。 2004年ごろからは、首都圏中心に全国のムス リムに社会学的なアンケートを実施するととも 191 奥田 私の学部にも今期初めてムスリム2世が入 学してきたのですが、彼ら2世世代は精神的にマ 上しつつあることが明らかになりました。 の教育問題、そして中・高年層の墓地の問題が浮 の会議によって、ムスリムの増加とともに子ども 開いたちょうど100年目にあたるのですが、こ 信とアブドゥルレシト・イブラーヒームが会談を 2009年というのは、当学創設者である大隈重 による会議が実現するに至っています。おりしも ーチの結果、2009年には全国のモスク代表者 あるのかもしれません。 か、と思われました。今後はケアしていく必要が 前と変わらない、つまりイスラームとは関わりの ら推測する限り、そういった方は実態として結婚 信した日本人ムスリムについてです。調査結果か 現在、私が気になっているのが、結婚によって入 うとする動きが見られました。 改善や日本社会でのイスラーム理解を深めていこ ク同士のネットワーク化を図り、ムスリムの生活 店田 その点はムスリム代表者会議でも問題視し ているようで、2010年の第2回会議ではモス リティではないのですよ。 イノリティとして生きている点が非常に気にかか もう一つの課題は、やはり地域社会にいかに溶け に、福岡・札幌・小樽など全国に ヶ所以上ある りました。2025年以降、ムスリムは世界人口 込むかでしょうね。岐阜市で2008年に開堂し モスクの調査もはじめました。そういったアプロ の約3人に1人を占め、キリスト教徒を超えるマ たモスクの周辺住民へのアンケートによると、ム を超えていくと言われています。決して、マイノ 10 スリムとの交流は「ほとんどない」との答えが大 ない生活様式を続けている例が多いのではない ジョリティになるでしょう。日本でも今後 万人 60 192 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 半を占めています。 クセスが増えています。特に需要が高いのが、イ スラームのハラールに関する正しい知識を教示し てほしいという問い合わせですね。ハラールとい うのは、イスラーム法で「食べてもよい」とされ ムスリムにとって欠かせない礼拝を認めるように る動きが見られますね。企業や学校によっては、 のシャリーアを、日本社会でも受け入れようとす ある森先生にご教示いただきたく思いますが、こ で、シャリーアと呼ばれます。詳しくは専門家で 徳増 ムスリムにとっての生活の基本は、クルア ーンにもとづいて実社会での規範をまとめたもの 奥田 ムスリムを受け入れる日本社会の側には変 化が見られるのでしょうか。 間によし)」というのは、シャリーアにも通じる さらに進んで「三方によし(売り手・買い手・世 人の倫理である「売り手によし、買い手によし」、 側 面 か ら 見 る と、 日 本 の 商 業、 と り わ け 近 江 商 済は私の専門とは異なりますが、シャリーア的な 学でも講演会が開催されるようになりました。経 また、イスラーム経済・金融への関心も高く、大 の存在感を増す中で注目され、産学協同での研究 ﹁三方一両得﹂を旨とするシャリーア なりましたし、イスラームの食材を扱う店やレス 考え方だと思いますね。「自分だけではなく、ま ているものを指し、イスラーム諸国が国際社会で トランも数を伸ばしています。 が、シャリーアの根底にはありますから。 わりの人にもよくなくてはならない」という思想 も活発化しています。 森 私が所長を務める拓殖大学 イスラーム研究 所では、最近、海外に進出する日本企業からのア 193 1943年生まれ。 宗教法人 日本ムスリム協会会長。 拓殖大学イスラーム研究所客員教授。 経歴: 拓殖大学 商学部貿易学科卒業。 アズハル大学 イスラーム法学部卒業。 1976年 アラビア石油株式会社入社後、東京 本社勤務。 1983 年 同社リヤード事 務 所 勤 務を経て、 1992年 再び、同社東京本社勤務となる。 日本サウディアラビア協会/日本クウェイト 協会 事務局長、拓殖大学 イスラーム研究所 客員教授、宗教法人 日本ムスリム協会会長 を務める。 徳増公明(とくます きみあき) 片山 その考え方を、私もアラブ諸国に駐在中、 身をもって体験しました。1960年代のサウジ アラビアはちょうど石油産業で国を興そうという 時期でしたが、日本はまだプラント建設の実績が なかったので、アメリカなどが権益保持のため 「日 本では無理だ」と吹聴していたものです。一方、 サウジアラビアは「日本に頼みたい」という姿勢 を示してくれました。私を含め当時の関係者は、 「サウジアラビアのために何ができるか」を懸命 に考え、結果として日本のプラント技術はアラブ 諸国から認められるようになったのです。 森 やはり相互理解が大切ですね。 ですから私も、 研究所にお越しになる皆さんには「ハラールを取 得したければ、まずはイスラームを理解してくだ さい」とお伝えしています。ハラールというのは、 イスラーム圏の人にとっては食の安全ならぬ〝信 仰の安全〟を保証するものであって、絶対に譲れ 194 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 ます。 トとしての潜在性を教えると一生懸命学んでくれ うのは実に意欲的で、イスラーム社会のマーケッ とができれば証明書も必ず出てくる。企業人とい ないものです。逆にいえば、信頼関係さえ築くこ ました。あまり過度にローカルルールを適用して で、男女別で講演してほしい」とリクエストされ 奥田 私も 経験がありますよ。とある地域の講演 に招かれたとき、「男性が女性を見てはまずいの す。 しまうと、地域住民とうまくやっていけませんよ、 と説得しましたが。 ることなんですよ。イスラームの根幹を勉強せず、 森 とはいえ、「イスラームについて学ばなくて はならない」というのは、ムスリム自身にもいえ それがイスラームです。 らうため酒宴に臨席する」という解釈は成り立つ、 いけれど、イスラームのすばらしさを理解しても 根幹は不動。だが枝葉末節は変化していい 慣習だけに従って暮らすことで非ムスリムの方に 民 族 衣 装 を 身 に ま と う と い う 戒 律 も 大 切 で す が、 森 たとえば、イスラームではお酒の席に出るこ とが禁止されています。しかし、 「自分は飲まな 誤解を与えているケースがあまりにも多い。 ちも理解できる。イスラームも、合わせられるこ が特殊な意見や慣習を日本に持ち込んで、一般の よ。1970年代にはカメラを向けることさえ考 と、変えられるものは、おおいに検討すべきです 街中でその姿を見た一般の方が引いてしまう気持 片山 一口にムスリムといっても、世界にはイス ラーム教国が ヶ国もありますからね。その一部 人に近寄りがたい印象を与えるのはとても危険で 195 45 因になりかねません。 な慣習は、やがてイスラーム世界を衰退させる原 なんです。それを頭ごなしに「ダメ」というよう わらないけれど、枝葉末節の部分は変化して当然 影可という時代なのです。イスラームの根幹は変 えられなかったカアバ神殿だって、いまや写真撮 らを受け入れる懐の深さが必要ですが。 いくだろうし、また見つけるのがムスリムの義務 森 何を変え、何を変えないのかは、ムスリムそ れぞれが暮らす地域ごとに最適な解答を見つけて ても、それはそれで構わないわけです。 らすムスリムが仏教の儀式に参列することになっ を表して生きていくのが基本ですから、日本に暮 に、クルアーンを見れば必ず「人々」という書き れたものではなく、全人類の宗教です。その証拠 徳増 皆さんの話には同感するところが実に多い ですね。イスラームは特定の国民や民族に与えら も甲斐がありました。 もうという姿勢が印象的でした。 は守っていますが、できるだけ日本社会に溶け込 いか、というスタイルです。もちろんシャリーア が非でも5ではなくて、4くらいでいこうじゃな 店田 日本在住 年以上になるムスリムに、 「郷 に入っては郷に従え」のことわざをもじって「5 だと思っています。もちろん日本人の側にも、彼 奥田 慣習的イスラームがよくない、というのは 大賛成です。この座談会で、イスラームへの誤解 方がしてある。 を招いている要因の一つが確認でき、それだけで そ れ に イ ス ラ ー ム で は、 た と え ほ か の 宗 教 の 信 片倉 そういう話を聞くと「イスラームの見通し は明るい」と実感しますね。若者の中でイスラー 者・民族であっても、お互いの立場や文化に敬意 に入っては4に従え」といった知人がいます。是 20 196 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 一般の方にもっと伝えてほしいと思います。 話題です。今日の座談会で挙がったような話を、 ムへの興味が高まっていることと併せて、心強い 解消されるのではないかと考えています。 社会とのコミュニケーションの問題なども徐々に ています。そういった人材の育成が進めば、地域 徳増 2010年2月にカイロで開催されたイス ラーム会議では、イスラーム圏の方々に「会議と いえば1分と遅れずに始まり、清潔さを重視する ません。 るお話でも、イスラーム世界全体の動向でも構い いて語っていただきたいと思います。日本におけ からのイスラームがめざすべき方向性や展望につ さて、このあたりで未来のことに目を向け、これ 奥田 片倉先生のおっしゃるとおり、私たちイス ラームに携わる者の責任は重大ですね。 的な生き方を学ぶことで解決できる話が多いと思 難問、たとえば少子化や人口減少なども、道徳や 縮まるに違いない。いま日本社会が抱える数々の うになれば、日本人とイスラームの距離はもっと ームの制度としての長所を正しく伝えていけるよ た。指導的立場にいる日本人ムスリムが、イスラ 沿った暮らしをしている」とお褒めいただきまし 脱・少子高齢化のヒントはイスラームの中に 店田 日本においては今後、日本人による、日本 人のためのイスラームが作り上げられていく時期 います。 日 本 人 は、 ム ス リ ム 以 上 に イ ス ラ ー ム の 教 え に だと思いますが、その際に日本語で、基本となる 奥田 日本人は事実が好きな民族で、 「知ること 子どもの教育に熱心で、家族愛に富むイスラーム イスラームを伝えられる人が育っていないと聞い 197 ームの考えを取り入れれば解決できるとなると見 者の急増や高齢化、少子化などの問題が、イスラ 生まれる成果を見せるのが一番効果的です。自殺 い。だったら、シャリーアを重視した生き方から イコール目に見えること」だと思っている人が多 えた。 歳の学生が、言ったのですよ。 試験は来年もあるが、友達は明日はいない」と答 うだ、といったのですが、彼は「それはできない。 いから」と言うのです。私は帰ってもらったらど のだが、友人が遊びに来ていて部屋で勉強できな を示されれば、幸せを感じる人はもっと増えると に欠けますが、死んだ後、つまり来世があること 日本のような高齢化社会で未来を唱えても説得力 逃さないでしょう。 らです。かつての日本社会もそうでした。 いかといえば、それは社会が若者を大切にするか といわれます。なぜイスラームの若者がすばらし 配の方から「昔の日本もそうだった。なつかしい」 講演会でそういったエピソードを紹介すると、年 日本に暮らす外国人イスラームの人にとっては、 ごく当たり前の長所かもしれませんが、その〝当 たり前〟を日本で暮らすにあたり、あえて見せて をつけてくれ」といってきました。つけると、そ そのとき思い浮かんだのが、明治維新後、西欧諸 片山 私は駐在時に「日本人の精神とは何か」と いう質問を受け、非常に困った経験があります。 ほしいと思います。 こで勉強をはじめたんです。「大学の試験がある 森 マッカ留学中の話ですが、ある晩、パレスチ ナ人の友人が私の部屋のベランダに現れて「電気 イスラームに垣間見える武士道の精神 思います。 20 198 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 森 伸生(もり のぶお) 1951年生まれ。拓殖大学 イスラーム研究所 教授。 経歴: 拓殖大学 政経学部経済学科卒業。キング・ アブドルアジーズ大学(在サウジアラビア・ マッカ)アラビア語イスラーム研修センター 卒業。ウンム・アルクラー大学(上記大学名 称変更)イスラーム法学部イスラーム神学科 卒業。 拓殖大学 政経学部講師、在サウジアラビア 日本国大使館 専門調査員、拓殖大学 海外事 情研究所教授・海外事情研究所付属イスラー ム研究センター長・イスラーム研究所教授、 同所長などを務める。 著書: 共著『近代日本のイスラーム認識-田中逸平 の軌跡から-』 (2009年 自由社) 共著 『ユーラシア東西文明に影響したイスラー ム』 (2008年 自由社) 共著『岩波イスラーム辞典』 (2002 年 岩波 書店)など。 国に鼻であしらわれていた日本の精神性をまと め、世界を感動させた新渡戸稲造の著書『武士道』 です。武士道の教えには仏教も、神道も、儒教も 反映されているので、日本人の精神性を語るのに はもってこいです。当時の精神を、現代の日本が 取り戻せないものでしょうか。 森 2009年に私どもの研究所ではブサイリ先 生をお招きしたのですが、先生の姿を見ていたあ る日本人が「あれこそ武士道だ」と感極まってい ましたよ。黒船来航後、初めて渡米した日本人一 行を見たアメリカ人が何に驚いたかというと、武 士の一挙一動だった。私たちもブサイリ先生の立 ち居振る舞いのすべてに美しさを見て、 世紀の アメリカ人たちが武士にみたのと同質の感動を覚 えたんですね。 ただし、感性というものは、文化を踏襲した社会 の中で培われてくるものです。非イスラーム社会 199 19 である日本に、イスラームの感性をそのまま受け 止めろ、というのは困難でしょう。 徳増 ですから、 イサム文化アタッシェを筆頭に、 日本で活動を展開し、イスラームの本質にも精通 しているムスリムの役割は重要ですよ。 奥田 その とおりだと思います。日本人は、外国 人ムスリムの行動を見て善し悪しを判断しますか ら、しっかりと規範を示していただかなくては。 物質的豊かさを競う時代から、知の時代へ― 徳増 日本におけるイスラームの課題が明らかに なり、解決策を模索する動きが各方面から芽生え はじめているのは、喜ばしいことです。ここで、 国外でのイスラームの動向をご紹介しておきまし ょう。 ご存じのとおり、世界はいま地球規模で解決しな 200 座談会 日本人が語る―イスラームと我々の未来 も自国の利益を優先する選択をしがちです。 が、経済成長を担う立場にある彼らは、どうして の政治家も平和的解決に向け調整を続けています 境、人口増加、核兵器、貧困、地域紛争…。各国 くてはならない数多くの問題を抱えています。環 奥田 徳増先生の日本ムスリム協会も、WCRP のメンバーとして活動していらっしゃいますね。 G8首脳たちに届けられました。 会議で採択された提言書は、当時の福田首相から 議―G8サミットに向けて」)を主催しています。 けた会議(「平和のために提言する世界宗教者会 そこで、人類の平和と福利を最優先するには、有 じめ諸宗教の指導者によって構成されており、現 宗教者平和会議(WCRP)は、イスラームをは つことになります。1970年に創設された世界 が可能なのではないでしょうか。 なれば、人々の心を動かし、政治をも動かすこと の尊敬を集める宗教指導者の活動がもっと盛んに 徳増 はい。少しでも平和実現への足がかりにな れば、という思いから提案を続けています。多く 識者・学者や宗教指導者の役割が重要な意味をも 在は世界 ヶ国に拡大しました。 ならびに世界各地から200名を超える宗教指導 徳増 一例を挙げますと、2008年7月に開か れた北海道・洞爺湖サミットに先立ち、G8諸国 奥田 日本支部ではどのような活動を行っている のですか。 人間はすべからく貧しいとされています。そんな イスラームでは一番豊かなのはアッラーであり、 本当の豊かさとは何でしょう。 奥田 徳増先生からのお話にもあったとおり、現 代に生きる私たちは経済成長にばかり囚われ、物 質的な豊かさだけを追求してきました。しかし、 者 を 招 い て、 人 類 が 直 面 す る 諸 課 題 の 解 決 に 向 201 70 人間同士が「お前よりも持っているぞ」と張り合 ったところで、少しも生産的ではありません。人 間にできるのは「知」、つまり「学問」を通して、 少しでもアッラーの豊かさに近づこうとする努力 だけです。 イスラームはこうして常に外からの変化を受け入 れ、その時代に生きる人々の指針になろうとして きたのではないでしょうか。もし日本でイスラー ムの知を受け入れることができれば、次に新しい イスラーム文明を生みだすのは日本かもしれませ ん。 本日は長時間にわたり、ありがとうございました。 202 編集後記 『日本に生きるイスラーム―過去・現在・未来―』を手にとり、読んでいただき、ありがとうございま す。どのような読後感をお持ちになったでしょうか。 遠いと思っていたイスラーム社会の存在が意外に身近なものだと感じられたのではないかと思いま す。それはきっと、文化や文明とは衝突するものではなく、対話するものであるからでしょう。異なる 文化を、その違いを尊重しながら学び、理解することは、より良い関係の構築に役立ち、またそのため の課題などを気づかせてくれるきっかけともなるでしょう。 今後も文明間の「衝突」ではなく「対話」を目指し、更なる友好関係の強化に努めたいと思います。 それは、日本とサウジアラビアという二国間だけの関係にとどまらず、日本とアラブ・イスラーム諸国、 さらには世界中の国々へとその輪を広げていくこととなるでしょう。 この本が、読んでくださった皆さまにとって、イスラームへの理解を深め、身近なものとして感じら れるきっかけとなることができれば、こんな嬉しいことはありません。 編集スタッフ一同 2010年6月 なお編集にあたりましては、サウジアラビア王国大使館 文化部の見解に拠らず、著者・発言者のご 意見・解釈・文体を尊重し、そのまま掲載しております。ご了承ください。 204 Copyright: 印刷 株式会社シータス&ゼネラルプレス 編集・発行者 サウジアラビア王国大使館 文化部 0011 東京都中野区中央2 3 –7 3– 中野旭ビル 〒164 – 5348 3 –011 電 話 03 – 5348 3 –012 FAX 03 – E-mail:[email protected] 2010年7月4日発行 日本に生きるイスラーム ︱現在・過去・未来︱ スタッフ 株式会社シータス&ゼネラルプレス エバ ハッサン 君野眞紀(シファー) イサム ブカーリ Dr.Eng. 山隅悠子 企画・編集 サ ウジアラビア王国大使館 文化部 編集協力 © 2010 by Cultural Office of Royal Embassy of Saudi Arabia in Japan. All rights reserved. ISBN 978-4-905029-00-7 C0000 Printed in Japan
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