校 歌 - 白幡同窓会

目
次
︰︰︰︰︰︰︰︰︰
会長挨拶 ︰︰︰︰︰︰︰︰︰
校長挨拶
平成 年度総会報告 ︰︰︰︰3
平成
年度総会案内
︰︰︰︰4
同窓会便り
︰︰︰︰︰︰︰︰4
進路状況
︰︰︰︰︰︰︰︰︰
所蔵美術品紹介
︰︰︰︰︰︰
事務局から
︰︰︰︰︰︰︰︰
同窓会会員名簿発行
︰︰︰︰
トピック
︰︰︰︰︰︰︰︰︰
多士済々
︰︰︰︰︰︰︰︰︰
母校と私の人生
︰︰︰︰︰︰
16
15
14
10
歌
先輩の語る仕事を聴く会
︰︰
16
校
教室から
︰︰︰︰︰︰︰︰︰
16
部活動状況
︰︰︰︰︰︰︰︰
17
母校の想い出
︰︰︰︰︰︰︰6
部活動奨励金贈呈式
︰︰︰︰
18
編集後記
︰︰︰︰︰︰︰︰︰
生活体験発表会
︰︰︰︰︰︰
キャリアサポートプラン
︰︰
百十五周年SSH記念講演会︰︰
18
作詞
寺田 彰司
一 千秋の雪積もりたる
富士の高嶺の雄姿ぞ
幾万代の後までも
変わらぬ誠の鑑なる
二 奔流百里石をかみ
巌に激しいや増しに
勢加わる利根の水
これ剛健のためしなり
三 あゝ此の山と此の川と
日夕眺むる健男児
自然の示す巨人をば
如何に学ばん習わなん
四 白幡台の雪月花
四季の折々常総の
平野にしるく輝くは
高潔無垢の別天地
五 石段登る六十余
一足ごとに踏みかため
心を鍛え身を練りて
忠良有為の基たてん
白幡同窓会事務局
2
19
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〒301-0844 龍 ケ 崎 市 平 畑 2 4 8
TEL 0297-62-2146 FAX 0297-62-9830
メールアドレス [email protected]
印刷所:倉沢印刷㈱ 題字:秋山海堂(中 21) 表紙写真:佐藤 有(高8) 竜ヶ崎第一高等学校内
27
28
20
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
(1)
ご挨拶
この参加理念は、少しでも﹁顔
す。
ろしくお願いをいたします。
席して贈呈してまいりまし
の見える﹂同窓会にしたいと
た。
昨 年 度、 文 部 科 学 省 よ り
今回勇退された齋藤佳郎氏
いう有志の思いがこもったも
並びに副会長を退任された横
本会ではまた、会員相互の ﹁ ス ー パ ー サ イ エ ン ス ハ イ ス
のです。
クール S
須賀英明氏には、長年のご貢
親睦を図ることを目的として
( S H ﹂) と し て 五
後輩の皆さんの活動に関し
年間の指定を受け、二年目と
献に敬意を表するとともに心
五年に一度同窓会会員名簿を
ては、折にふれ校長先生はじ
なる今年度は、SSHの中心
から感謝申し上げます。
発行しています。本年度は当
め職員の皆さんからご案内を
となる二年生の課題研究やハ
該年となり、この会報と前後
ま た、 総 会 に お い て は、
いただいております。先生方
ワイ研修などが実施され、創
招 待 学 年 の 高 十 八 回 生、 高
して、ご希望いただいた皆様
の 熱 心 な ご 指 導 に つ い て は、 のお手元にお届けします。
造性豊かで国際的な視野に
三 十 三 回 生、 高 四 十 八 回
心から感謝申し上げます。
立った人材の育成を目指した
生、 高 五 十 八 回 生 並 び に 定
最後に、会員の皆様のます
白幡同窓会会員の皆様には
本 会 で は、 文 武 両 面 に わ
時 制 十 四 回 生、 二 十 九 回 生、
ますのご多幸ご活躍と母校の ﹁ 輝 く﹃ め ﹄ プ ロ ジ ェ ク ト ﹂
ますますご健勝にてご活躍の
たって、関東大会以上の大会
の一層の充実が期待されま
四十四回生、五十四回生の出
さらなる充実発展をご祈念申
こととお慶び申し上げます。
に出場する生徒に対して﹁奨
す。
席者の皆さんに陶芸家植竹敏
し上げて、ご挨拶といたしま
日頃本会並びに母校の充実
励金﹂を贈呈しています。今
氏︵高二十七回︶作製の湯飲
す。
一方、昨年度は二十七年ぶ
発展のため深いご理解と温か
年も私が代表し、壮行会に出
みを記念品としてお贈りしま
りに体育祭を復活させ、今年
いご支援を賜り衷心より感謝
した。総会の審議・承認事項
度、第一回音楽祭を開催する
申し上げます。
本校は、明治三十三年 西
等については﹁総会報告﹂の
ことで、
﹁白龍祭、飛龍祭 体
(
(
本 年 四 月 四 日︵ 土 ︶、 竜 ヶ
暦一九〇〇年 に
欄をご覧ください。
育 祭 、) 音 楽 祭 ﹂ の 三 つ を 軸
崎一高体育館において同窓会
﹁白幡﹂の絆
) 茨城県土浦
中学校龍ケ崎分校として開校
同窓会活動の活性化のた
に、学校行事の一層の活性化
総会が開催されました。総会
以来本年で、創立一一五周年
め、校外幹事の皆さんにお骨
を図っているところです。部
前には昨年同様、在校生の吹
を迎えることとなりました。
折りをいただいております
活動においても、全国大会常
奏楽部によるすばらしい演奏
が、お陰様で会報も年内に会
連となっている射撃部、ソフ
と応援団及びチアリーダーか
平成二十二年に創立一一〇
周年を迎え、その年度に県教
員の皆様のお手元にお届けす
トテニス部、陸上部や、春夏
らのエールで総会を盛り上げ
育 委 員 会 よ り﹁ い ば ら き 版
ることができるようになりま
あわせて十回の甲子園出場を
ていただきました。
サイエンスハイスクール I
した。その会報も年々充実し
誇る硬式野球部等を中心とし
(
なお本年は役員改選の年に
SH ﹂)に指定され、﹁医学・ て、熱心な活動を行い、昨年
ていますが、これも偏に会員
当たり、会長副会長が交代し
染谷信洋会長をはじめとい
難関理系進学コース﹂が設置
の皆さんがご多忙にもかかわ
度、県高校総合体育大会学校
たしまして、白幡同窓会会員
ました。そして齋藤佳郎前会
されるとともに、この年度の
らず快く協力してくださって
別得点男子の部で県立高校一
の皆様には、日頃より本校の
長の後任として、私が大役を
新入生から全クラスが国公立
いるお陰と有り難く感謝いた
位となるなど、校是である﹁文
教育活動に対しまして、格別
お引き受けすることになりま
大学進学クラスとなりまし
しております。
武両道﹂は脈々と受け継がれ
のご理解とご協力を賜り、厚
した。もとより浅学非才、身
ています。また、定時制課程
く お 礼 申 し 上 げ ま す。 特 に、 た。その結果、今春の卒業生
に余る大役で文字どおり身の 六月の白龍祭には、同窓会
は一一一人が国公立大学合格
会員有志が参加して餅つき大
においては、県教育委員会と
長年にわたり白幡同窓会のた
引き締まる思いであります
を果たすなど、近年、現役で
連携した﹁生徒・保護者・教
めにご尽力いただきました齋
が、皆様のご支援をいただき、 会を行い、販売したところ二
の国公立大学合格者一〇〇名
時間弱で完売しました。売上
員のためのキャリアサポート
藤佳郎前会長には、重ねて厚
役員一同力を合わせて精一杯
を超える実績を残しておりま
金 は 生 徒 会 に 寄 付 し ま し た。 く感謝申し上げます。
プラン﹂による﹁キャリアセ
務めてまいります。どうぞよ
校 長
小沼 光一
(2)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
白幡同窓会会長
染谷 信洋
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
総会報告
︻本部役員︼
会
長
染谷
信洋︵高
副会長
小倉
培夫︵高
副会長 大和佐知雄︵高
監
事
関口
広行︵高
監
事
山田
實︵高
顧 問 野口武太郎︵中 ︶
ミナー﹂を実施するなど、キャ
顧
リア教育の一層の充実を図っ
問
齋藤
佳郎︵高8 ︶
顧 問 横須賀英明︵高 ︶
ているところです。
平成二十七年度の白幡同窓
事務局
会総会が四月四日に竜一高体
矢口
博︵高 ︶
全日制課程と定時制課程あ
わ せ て 二 四、五 七 五 名 の 卒 業
育館で開催されました。開式
生を誇る竜ヶ崎第一高等学校
の言葉に続いて、応援団とチ ︻校外幹事︼
幹事長
は、 一 一 五 年 の 伝 統 の 上 に、 アリーダーによる校歌と応援
大野
英二︵高 ︶
副幹事長 小嶋
﹁スーパーサイエンスハイス
歌の斉唱の後に、恒例の吹奏
豊︵高 ︶
副幹事長 宮本 正俊︵高 ︶
クール S
楽部による演奏の披露があり
( S H ﹂) と い う 日
本の教育の先駆けとなる事業
ま し た。 出 席 者 は ア イ ガ ー
を推進し、新たなステージを
デン下平での懇親会を含め
歩み始めています。白幡同窓
て 百 四 十 余 名 で し た。 今 年
会の皆様には、本校教育活動
度 の 招 待 学 年 は 高 校 十 八 回、
に対しまして、一層のご支援
三十三回、四十八回、五十八
をお願い申し上げます。
回と定時制十四回、二十九回、
昨年度の同窓会会報﹁白幡﹂ 四十四回、五十四回でした。
の発行後、旧職員や白幡同窓
審議・報告事項は次の通り
会会員である教え子からもこ
です。
の会報が縁となり数多くの連
一
平成二十六年度事業・決
絡を受けることができ、私自
算
身、旧交を温めることができ
二
平成二十六年度会計監査
ました。この同窓会会報﹁白
報告
幡﹂が会員相互の絆をより強
三
役員改選
くするとともに、白幡同窓会
四
平成二十七年度事業・予
会報の益々の発展・充実に繋
算案
がることを祈念いたしまし
五
学校概況報告
て、あいさつといたします。
進学・部活動の状況につ
いて
(3)
︶
︶
︶
︶
︶
26 26 28 20 15
平成 26 年度白幡同窓会収支決算書
︵収入の部︶
収入総額 15,795,732 円 支出総額 5,053,459 円 差引残高 10,742,273 円 ( 平成 27 年度へ繰越)
科
本年度
予算額
目
比
本年度
決算額
較
増
摘
減
要
平成 25 年度より繰越
内訳 定期① 5,961,809 円 常陽銀行
定期② 1,653,981 円 水戸信用金庫
(H26.8.6 解約 )
定期③ 1,253,891 円 水戸信用金庫
会計用 1,748,263 円 常陽銀行 普通預金
預金用 0 円 常陽銀行 普通預金
1
繰 越 金
10,617,944
10,617,944
2
入 会 金
1,812,000
1,812,000
全日制 6,000 円× 277 名= 1,662,000 円
定時制 6,000 円× (19 + 6) 名= 150,000 円
2,000,000
3,252,006
1,252,006
4
雑 収 入
1,966
113,782
111,816
5 回卒業寺田さん(50,000 円)
・25 回卒業生(52,000 円)から寄付金
定期預金利息 定期① 1189 円 , 定期③ 251 円 , 定期
②解約利息 142 円
普通預金利息 200 円,名簿売上 9,000 円,記念誌
売上 1,000 円
14,431,910
15,795,732
本年度
予算額
本年度
決算額
計
︵支出の部︶
科
目
1 事 務 費
280,000
1,363,822
比
増
294,735
較
摘
減
10,000
3,708
2 印刷通信費
250,000
291,027
6,292 定期残高証明書,合鍵代,振込手数料
費
20,000
0
20,000
2 事 業 費
4,500,000
3,578,245
921,755
1 総 会 費
200,000
155,586
2 施設補助費
0
0
3 会報発行費
2,500,000
2,418,159
4 会 議 費
100,000
118,500
5 招待学年
記念品費
0
0
6 卒 業 記
念 品 費
200,000
151,000
49,000
7 部 活 動
奨励金等
1,300,000
475,000
825,000
総会案内用往復葉書・宛名ラベル代,
同窓会用封筒印刷,会報原稿依頼郵送料
41,027
44,414 総会経費補助
81,841
18,500
幹事会経費
8 国際交流基金
200,000
260,000
3 慶 弔 費
350,000
185,200
4 予 備 費
9,301,910
995,279
8,306,631
14,431,910
5,053,459
△ 9,378,451
計
会報 26 号印刷代 (582,940 円)
会報郵送代(1,835,219 円)
60,000
卒業記念品代 ( 卒業生へ証書用筒)
※ 20,000 円+ 5,000 円×出場者人数 (10 万円限度 )
関東 ( 陸上部,射撃部,ソフトテニス )
全国(射撃部,ソフトテニス)
国際交流補助(平成 26 年度∼ 28 年度)
164,800 餞別金(25 年度定期異動 12 名),顧問葬儀香料等
SSH講演会講師謝金補助,同窓会空調設備,棚,
チアガールユニホーム代,生徒研究発表会経費
40
本田
︶
仁子︵高 ︶
︶ 山崎
睦︵高 ︶
︶ 海田磨起代︵高 ︶
︶
※校内幹事は十三名です。
︶
︶
︶
︶
︶
1 消耗品費
3旅
要
14,735
29 10
木野内昭治︵高
服部 俊夫︵高
倉持
正男︵高
篠塚
文男︵高
横田
久︵高
櫻井
篤美︵高
大野
雅之︵高
大野
雅彦︵高
福田
道義︵高
協 力 金
10 10 11
幹
事
3
ゆうちょ銀行扱い分 (26.3.7 ∼ 27.3.6)
873 件 1,667,100 円−手数料 102,850 円
コンビニエンスストア入金分 (26.3.7 ∼ 27.3.6)
933 件 1,761,000 円−手数料 107,244 円
現金預かり分 10 件 34,000 円
31 31 30 29 28 28 27 25 13
36 31 31
平成二十八年度
総会の案内
なお、招待学年の出席者
の方には、陶芸家・植竹敏
氏︵高 回︶作製のオリジ
平成二十八年度の総会は
四月二日︵土︶に竜一高体
ナル校章入りの 白「萩釉鎬
育館にて開催予定です。今
湯呑 」を記念品として贈呈
回ご案内の往復葉書を差
いたします。
し 上 げ る の は、 各 卒 業 回
招待学年以外の同窓生の
の 幹 事 の 方 々 と、 招 待 学
参加は例年少ない状況です
年 の 高 校 十 九 回・ 三 十 四
ので、是非参加をお願いし
回・四十九回・五十九回及
ます。
び定時制十五回・三十回・
総会終了後には、例年通
四十五回・五十五回の卒業
り懇親会を竜一高下のアイ
生全員です。お誘い合わせ
ガーデン下平で開催する予
の上、多数の同窓生の参加
定です。
をお待ちしています。
同窓会
便り
高校第二十六回
今年還暦を迎える竜ヶ崎第一
高等学校第二十六回卒業生同
窓会が開催されました
赤石
守
平成二十七年十月十七日
︵ 土 ︶ 十 七 時 か ら、 竜 ヶ 崎 第
一高等学校第二十六回卒業生
同窓会が市内﹁喜仙﹂におい
て開催されました。
第 二 十 六 回 卒 業 生 は、 大
(4)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
27
高校第三十二回
半 が 昭 和 三 十 年 ま た は 昭 和 ﹁俺だよ、俺。
﹂
三十一年生まれのため、今年
日頃から頻繁に会う仲間同
宮本
度六十歳を迎えることになり
士もいるし、高校卒業以来初
順紀
ます。白幡台の学び舎を昭和
めて顔を合わせた同窓生もい 八月八日︵土︶に第三十二
回高校卒同窓会を、アイガー
四十九年三月に十八歳で卒業
た り、 名 前 と 顔 が 一 致 す る
デン下平で開催しました。同
した我々も、四十二年が過ぎ、 と、高校の時の文化祭の思い
窓生八十二名が参加しまし
信じられないことですが還暦
出だったり、部活動の思い出
た。卒業時にご指導を賜った
の年となったのです。これま
だったり、やんちゃをしたク
渡邊雄一先生、齋藤佳郎先生、
で四年毎にオリンピックが開
ラスの思い出だったり、高校
麻生太治郎先生、藤沢宏至先
かれる年に同窓会を開催する
生当時の話に花が咲いていま
生、礒洋先生にご多用のとこ
ことで検討しておりました
す。いくら話しても話し足り
ろご臨席賜り、たいへんにぎ
が、同窓生と会うたびに、
﹁還
ません。料理を食べることも
やかな会になりました。愛知
暦の節目の年だから開催しよ
忘れ、もちろんお酒は酌み交
県や四国から参加した同窓生
う。﹂ と の 話 が 出 て き て お り
わしていましたが、会場のい
もいましたが、中にはイタリ
ましたので、今年第二十六回
たるところで旧交を温める姿
アからはるばる参加した同窓
卒業生同窓会を開催する運び
が見られました。
生や海外出張を途中で切り上
となった次第です。
夜 も 遅 く な っ て き て も、
げて参加した同窓生もいまし
まったく解散する気配もあり
今回の同窓会には、齋藤佳
た。昨年度同窓会総会招待学
郎先生、横須賀英明先生、石
ませんでしたが、最後に竜ヶ
年であったにもかかわらず参
神 由 範 先 生、 大 崎 高 嗣 先 生、 崎第一高等学校校歌を声高ら
藤沢宏至先生の五名の恩師の
かに歌い、閉会となりました。 加者が少なくてさびしい思い
をしたことから、実行委員会
出席を得て、また、第二十六
もちろん名残尽きない面々
を立ち上げて準備を進めてき
回卒業生は八十四名の参加が
は、高校時代を過ごした龍ケ
た努力が報われました。参加
あり盛大に開催されました。
崎の街に繰り出そうと、還暦
者全員に実行委員会が作成し
発起人代表関口広行氏の挨
とは思えない元気さで夜の街
たオリジナルタオルが配られ
拶、恩師の先生方の挨拶、記
に歩いて行きました。
ました。
念写真の撮影、そして乾杯と、
年を重ねて大人になった同
同窓会は粛々と進められてい
今回の第二十六回卒業生同 窓生同士、名札をもとにお互
窓会は四回目の開催でした
きました。しかし、時間が過
いの顔を思い出し、三十年以
が、 い ろ い ろ な 方 の 協 力 が
ぎ て い く う ち に、 実 年 齢 は
上の年月の重さと時の流れの
あって、盛大に開催すること
六十歳ですが、気持ちは十八
速さを実感しました。当時の
ができました。出席して下さ
歳という、ある意味トランス
生徒会長は誰だったかという
い ま し た 先 生 方、 そ し て 第
状態となって盛り上がってい
ことが、準備段階で実行委員
二十六回卒業生の皆様に改め
きました。
の間では少し話題になってい
﹂
﹁あなたは誰?﹂ て感謝申し上げます。
﹁久しぶり。
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
二
四
四
八
高校第三十三回
高校第五十五回
ましたが、皆記憶があいまい
ら約半年の準備を経て、平成
あり、まとまりはいい方だと
で は っ き り し ま せ ん で し た。
二 十 七 年 一 月 二 日、 柏 市 の
思っています。懇親会はさら
しかし、参加してくれた辻君
シャンティにて第五十五回生
に増え、六十三人の参加とな
友信
勝美
に尋ねると、辻君が副会長で、
同窓会が開かれました。
りました。旧中卒の方々も交
平成二十七年 月 日
会長は今回参加できなかった ︵土︶、白幡同窓会に招待者の
遠藤& 脇山の名司会の元に
え な が ら、 下 平 の 二 階 会 場
若松君であったということが
幕を開けた同窓会は、当時お
いっぱいの参加者で懇親会も
一人として参加してきまし
わかったというエピソードも
世話になった野口先生、村松
大いに盛り上がりました。大
た。今回の招待学年は、昭和
ありました。
先 生、 中 澤 先 生、 浅 野 先 生、
野英二先生や持丸修一先生の
四十一年卒十九名、平成 年
矢口先生をお招きし、野口先
卒 名、 平 成 十 八 年 卒 十 名、 元 気 な お 姿 に も お 会 い で き、
久しぶりに再会した仲間た
ちと時間の許す限り語り合
生の乾杯のご発声の元、盛大
仲間とともにいい思い出とな
そ し て、 私 た ち 高 校 三 十 三
い、二次会にも六十三名が参
に始まりました。今同窓会の
り、また励みにもなりました。
回、昭和五十六年卒四十二名
加し、さらに常磐線利用者の
参加者は百二十名を超え、幹
といった、複数年での招待と 懇親会では収まらず、その
同窓生は三次会も多数参加で
事たちの当初の目標百名を大
後私たちは二次会に突入。さ
な り、 本 部 役 員 の 方 々、 先
実施しました。
きく上回り、感謝感激であり
らにヒートアップ、ここから
生、幹事などを含めると優に
ました。卒業から十二年とい
の参加者もあり、宴は深夜ま
一〇〇名を超える参加者の中
当時の応援団のメンバーを
中心に、竜ヶ崎一高でのよき
う 月 日 が 経 っ て い ま し た が、
で続きました。
での総会となりました。
思い出を胸に校歌を声高らか
皆顔を合わせれば一瞬にして
この間亡くなられた仲間も
校舎は私立と見間違うほど に歌い、お互いの健康と多幸
当時に戻るようで、話も弾み
あり、こうした機会が貴重で
洗練されたものになっていま
関
達則
を祈り、再び同窓会で会うこ
楽しい時間を過ごすことがで
あることは歳を重ねるごとに
したが、私たちの在学前くら
とを誓って会を閉じました。
きました。会の後半ではクラ
実感しています。今は連絡が 全てはこの一言から始まっ
いにおそらく竣工した会場の
た。 そ れ は 昨 年 四 月 の こ と。 ス対抗クイズ大会で懐かしの
取れなくとも、いずれ再会で
新体育館は、当時のまま残っ
因数分解をしたり、卒業アル
きる仲間もいるかもしれませ ﹁ 同 窓 会 や ろ う よ ﹂ と い う 奈
ており、感慨深く思い出に浸
良君の言葉をふと思い出した
バムのスライドを観賞したり
ん。その時を楽しみに、私た
ることができました。私たち
僕と木村君は、勢い半分で同
と、十二年ぶりの高校生気分
ちはこの場所で飲み会を重ね
の頃にはおよそ想像もできな
窓 会 を 計 画。 ⋮ た だ こ こ で
に会場は大いに盛り上がりま
ていきたい、と思います。
かったチアリーダーに迎えら
早々に問題が発生!男クラの
した。
れた時は、驚きとともに時代 時間のない中、参加者への
片隅でひっそりと高校生活を
あっという間の三時間が過
連絡や事前準備などに奔走し
の流れを実感しました。とて
送っていた僕らだけでは、ど
ぎ、気がつけば会も終盤。久々
てくれた皆さん、本当にご苦
も楽しく心地よい時間であり
うにもならんぞ!という事実
の竜一校歌を歌いながら感じ
労様でした。参加して下さっ
ました。
たことは、こうして共に昔を
た先生、仲間の方々、そして、 が判明。そこで、言い出しっ
私たちは、少し前から三年
ぺ奈良君に加え、海老原さん、 懐かしめる、思い出を共有で
この機会を設けて下さったす
くらいを周期に同窓会を重ね
関口さん、中村さん、丸山さ
き る 仲 間 が い る と い う の は、
べての方々にお礼申し上げま
て お り ま す。 そ の お か げ も
ん、脇山君、遠藤君に協力を
素晴らしいなということでし
す。今後ともよろしくお願い
あって、連絡が取りあえる関
お願いして幹事会を発足する
た。僕たちを結びつけてくれ
いたします。
係が多く、さらに世話人が地
こととなったのです。それか
た竜ヶ崎一高に感謝です!最
元に多くいる、ということも
(5)
高 19 回
大竹 喜士郎
母校の想い出
始め、宴会の開始前にはすで
先輩から後輩へ、後輩から先
後に、今回参加して下さった
らの二十キロマラソン。思い
に盛り上がっていました。
輩へとお誘いがかかり年を追
先生方と同級生にこの場を借
浮かぶすべてが懐かしい。
集まった年代の幅広さもあ
うごとに参加する年代が多く
りて御礼申し上げます。
思い返せば、竜一の良さは
り、初めて顔を合わせる先輩
なってきました。
過去を生き
誰 を も 受 け 入 れ る 懐 の 深 さ。
今を生き
後輩も多くいましたが、年代
学生一人一人の生き様が一見
さらに開催日も母校吹奏楽
ごとに自己紹介と近況報告な
部の演奏会を見に来る卒業生
バラバラに見えて、それらが
ども行い、宴が進むにつれ年
も多くいることから、母校吹
適度に調和し、変に齷齪しな
代の垣根を越え昔話に花が咲
奏楽部の定期演奏会当日とし
い竜一高気質。一種のDNA。
きました。
て開催してきました。
時を経て母校に奉職。卒業
生であることを意識しての勤
さらに、現役当時に先輩が 開催計画や準備も当初集ま 約半世紀前のあれこれを思
撮影してくれた写真も登場
りを計画した先輩方にお任せ
い出す。巻紙で張り出された
務。十六年間で、様々な個性・
し、若かりし頃の自分に懐か
の状態が続き、お忙しい先輩
合格発表。三〇〇名を超す団
才能を持った生徒たちに出会
しさと恥ずかしさを感じなが
方も都合がつかず開催しない
塊世代の大人数。明治的情緒
えたことは何にも代えがた
らも当時の思い出が鮮明によ
年もあり不定期での開催が続
漂
う
講
堂
で
の
厳
か
な
入
学
式
。
い。さらに、部の顧問として
みがえってきました。
いていましたが、今後は私も
その講堂で先輩の日大教授か
平 成 二・三 年 連 続 甲 子 園 出 場
積極的にかかわる一方、各年
ら特別に受けた音楽授業。職
の機会に恵まれたことは大き
とても盛り上がった楽しい
宴の時間はあっという間に過
代にも幹事をおいて、定例で
員玄関から講堂に至る一直線
な宝。当時の持丸監督にひた
ぎ、 そ の 後 時 間 が 許 す メ ン
の開催を目指すとともにより
の通路。幾多の人間模様と喜
すら感謝である。
吹奏楽部 OB・OG会
バーで終電後まで語らいまし
多くの卒業生に参加を呼び掛
怒哀楽を包み込んできた木造
縁あって教員生活最後の四
た。
けていきたいと思います。
校舎。指導スタイルは各人各
年 間、 母 校 の 長 と し て 勤 務。
松本
光弘︵高 回︶
吹奏楽部では一時は卒業生
様で、厳粛な中に自信が漲っ
歴史と伝統の重みを改めて知
三月二十二日︵日︶に吹奏 が集まってOBバンドを結成
て
い
た
先
生
方
。
様
々
な
個
性
を
ることになり、学校力の向上
楽部OB・OG会の集まりを
持った学生像と自律を促す
と文武両道・文武不岐の精神
﹁ 魚 よ し ﹂ で 開 催 し ま し た。 し、コンサートを開催したこ
ともありましたが、みな社会
おっとり型の校風。一年次に
を継承し発展させることが使
開催日まで一か月を切ってか
人となり練習に顔を出すこと
は東京オリンピック。柔道部
命であった。しかし、歴史を
らの案内と日曜日の夕方から
が難しくなったことなどもあ
所属だったお陰で岡野先輩の
刻む緊張感も愉しいことで
の開催ということもあり、参
り、残念ながら数年で終了し
優勝パレードに便乗。友の影
あった。
加者が大変少ないのではと心
てしまいました。その後、同
響を受けて本の虫になったの
配もしましたが、二十七名も
若 木 の 現 役 生 に 届 け た い。
期だけで同窓会を行っていた
もこの時期。三年夏には戦後 ﹁エバーオンワード﹂
。周囲の喧
の卒業生が集まりました。集
年代もありましたが、年代の
初
の
甲
子
園
出
場
。
ア
ル
プ
ス
ス
騒から離れた白幡台で学べる
まった年代も高二十四回卒
枠を超えて集まる機会はほと
タンドで味わった一体感。口
ことに感謝あれ。そして、今
の初代指揮者の先輩から高
んどありませんでした。
ず さ む 校 歌 に 顕 れ る 竜 一 魂。 為すべきことに意を注ぎ、二
四十六回卒までこれまでで一
秋 の 体 育 祭 で は、 校 訓 の 下、 度ない人生を有意義に歩めよ。
番幅広くなりました。
しかし、先輩方が近い年代
に声をかけ集まるようになっ
全学年縦割になっての応援合
﹁路行かざれば、到らず。事
たことをきっかけに、徐々に
戦。冬には、額に塩噴きなが
為さざれば、成らず﹂です。
36
会場に入ると懐かしの顔を
見つけてさっそく思い出話を
(6)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
ひと夏の思い出
したが、技術レベルは言わず
もがなです。
それでも士気は高く、意気
揚々と甲子園に乗り込みまし
た。
当時、東名高速は未だ存在
せ ず、 前 日 夕 方 バ ス で 出 発
し、一晩中国道一号線を走り
続け、翌朝試合前に到着する
ような状態でした。
初戦は沖縄興南高校でした
が、当時沖縄は未だ日本に返
還されておらず、また鹿児島
勢を破って初出場ということ
もあり、我が竜ヶ崎一高の応
援席以外は、全て興南高校の
応援団と化している様な状態
でした。
試 合 中、 我 々 は 少 な い レ
パートリーを繰り返し、繰り
返し吹き続けました。
試合は接戦となり、延長戦
の末、六︱五で見事勝利しま
した。
二回戦は報徳学園に敗れま
したが、堂々と戦った野球部
員の勇姿は、今でも心に焼き
付けています。
もちろん我が母校の思い出
は沢山有りますが青春真っ只
中の鮮烈なひと夏の思い出と
して、この話を書かせて頂き
ました。
私の文明開化
で、個々の価値観や生き方を 後々、大変貴重な経験をさ
せていただいたと感謝してい
身につけていったように思い
る の が、 高 一 の 冬 休 み の ス
ます。
キーでした。生物の佐藤先生
最近の竜一高と違って、当
と 化 学 の 大 塚 先 生 が、 一 ∼
時は一学年約二五〇名中、女
三 年 の 希 望 者 を 募 っ て、 山
子生徒は約一割、三十名位し
形蔵王へ連れて行って下さっ
かおらず、A∼F組までのク
朝夕に秋の訪れを感じる九
たのです。スキーが今の様に
月半ば、
私達同級生仲間は﹁持
ラスのE、F2クラスにしか
ポピュラーなスポーツではな
丸監督の御苦労さん会﹂に集
入っていませんでした。今で
い時代に、スキーの楽しさや
まりました。持丸修一監督が、 も年一回、女性だけのクラス
冬山の美しさを伝えようとし
今夏、専修大松戸高を率いて
会を開いておりますが、当時
て下さった先生方の熱意を今
念願の甲子園出場を果たした
男子生徒の中で埋もれていた
でも折りにふれ感じておりま
お祝い会を催したのでした。 ︵ ︶〝 女 性 ら し さ 〟 を 確 認
し合っております︵!︶
す。最終日に頂上付近で見た、
私達十九回卒業生は、高三
朝日に輝く眩いばかりの﹁樹
の夏、この持丸監督を含む当 高校は中学校と違い個性的
な先生ばかりで、授業も興味
氷﹂は、高校時代のモニュメ
時の野球部が、実に四十四年
も深かったことを覚えており
ントの一つとして私の中に在
振りの甲子園出場を果たすと
ます。特に社会と理科は分野
り続けております。
いう歴史的な一幕に立ち会う
別に各科目化し、専門的でお
ことができた学年だったので
あの坂道の途中で
もしろくなりました。個人的
す。私達一般生徒も俄応援団
には世界史と生物、化学が好
を作ったり、急拵え吹奏楽部
きでした。中でも、とても楽
で何とか応援合戦に花を添え
しみにしていた授業の一つ
たり、バス十数台を連ねて大
が、 松 崎 先 生 の 古 典 で し た。
阪へ急行したり⋮大変エキサ
大柄な男の先生でしたが、ハ
イティングな夏を過ごしまし
た。それ以後、私達の年代は、 リ の あ る お 声 で 毎 授 業 五 十 私が大学を卒業して、そろそ
ろ三十年になろうとしていま
分、一話完結の落語を聞いて
監督に就任された持丸君を応
い る よ う な お か し み が あ り、 す。
援しつつ、共に夢を見させて
その間、ずっと高校の教員と
最後に〝オチ〟を言い終える
いただくという幸運を享受し
して働いてきました。現在の
と休み時間の鐘がなる、とい
続けております。
学校で四校目。どの学校でも、
う絶妙さでした。その間に板
私達の世代は、昭和二十三、
順「調なことばかり と
書も右端から左端まで等間隔
二十四年生まれが中心の、い
」 は言え
ないような気もしますが、私な
に要点だけ書かれているとい
わゆる﹁団塊の世代﹂で、何
りに頑張って働いてきたつも
うプロフェッショナルな授業
をするにも人数が多く否応な
りです。その間に、二人の子ど
でした。
しに競争社会という原理の中
高 34 回
磯山 佳美
高 19 回
塚本 賢治
私が三年生、まさに受験勉
強真っ最中の昭和五十一年
夏、我が竜ヶ崎一高野球部は
見事東関東大会を制し、戦後
初の甲子園出場を果たしまし
た。優勝パレードを観て、涙
の出るほど感激したのをよく
覚えています。
パレードの翌日、学校から
招 集 が 掛 か り、﹁ 我 が 校 に は
今まで吹奏楽部は無かった
が、応援団にブラスバンドが
無いのはいかにも寂しい。楽
器は直ぐに調達するので、中
学の経験者を集め、急遽結成
したい。﹂とのこと。
一年生∼三年生まで中学時
代のブラスバンド経験者十六
名が集められました。
私はトロンボーンを担当し
ていましたが、何せ三年ぶり
の演奏、しかも試合当日まで
十日足らずしか有りません。
楽器が揃った翌日から連日
猛特訓︵朝八時から暗くなる
まで︶が始まりました。
上唇が腫れ上がり鼻にくっ
付いた記憶があります。何と
か 六、七 曲 を マ ス タ ー 出 来 ま
?!
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
(7)
高 19 回
田坂 由美子
ように思える瞬間が幾度かあ
居心地のいい空間
生の夏休み以降、ドクタース
もを育てて、それも と「っても
今までに聞い
またある日、
りました。その度に何とも言
トップがかかり、自分の体を
立派に育ちました 」と胸を張
たことのない単語が耳に飛び
えない良い気持ちになったの
思うようにコントロールでき
れるようなものではありませ
こ
ん
で
き
た
。
を覚えています。 自由な校風
ないという状況の中、ふてく
んが、やはり私なりに仕事と家
﹁アヨ、アヨ⋮﹂
は今も受け継がれているので
されて誤った方向に進むこと
庭との両立にベストは尽くし
自分の背後から聞
なんか、
しょうか。一見のんびりして
なく生活できたのは、このユ
てきたつもりです。
こえるのだが⋮?
いるようでも、ここぞというと
ニークで心許せるメンバーに
﹁なんという所に来てしまっ ﹁アヨ、アヨ!﹂
大きくザックリと振り返っ
きに力を発揮できる、そんな学
恵まれたからであろう。
てみますと、
﹁女性職業人とし
たのか⋮。
﹂
再び同じ声に振り向いてみ
校だったなあと記憶していま
ては普通の人生を歩んでいる
﹁ねえ、ねえ﹂と話しか 卒業後も定期的に集まって
ると、
入学直後の緊張感が少しず
す。
い る メ ン バ ー が い る。 話 し
のかな﹂と思います。 そして
ける時に行う手招きする動作
つほぐれ、教室内をよく見渡
私は今、勤務している学校
ている時の気分は、あの当時
同 時 に、 普 通 に 生 き る っ て、
を
し
な
が
ら
自
分
に
話
し
か
け
て
せ
る
状
況
に
な
っ
た
時
に
感
じ
た
「
で 学 年 主 任 を し て い ま す。
のままであるが、話題の中心
結構しんどいことなんだ 」と
いるではないか!これは人に
気 持 ち で あ っ た。 我 が 一 E
きっと竜ヶ崎一高でも似た光
はいつしか健康や体調のこと
も思います。
話しかける時に使う言葉なの
教室に飛び交う言葉に、生ま
景 で し ょ う が、主 任 と し て、 れも育ちも﹁取手﹂の自分に
となり、五十代の同窓会的雰
だ! 国 語 を 得 意 科 目 と す る
三十六年前、私は竜ヶ崎一高
﹁勉強しよう﹂とか﹁センター
囲気がにじみ出る。 しかし、
に入学しました。
自分の単語データの中に﹁ア
とって驚きの連続であった。
試験はね⋮﹂と生徒に話す毎
気心を許せるこの集まりは安
ヨ、アヨ﹂はなかった。
数学が好きでした。周りに
﹁オレよ∼、昨日よ∼⋮﹂
日 で す。 か つ て 私 が 励 ま さ
らぎの場であり、これからも
は優秀な同級生がたくさんい
という会話が聞こえてきた。 これ以外にも新しく出会っ
れたように、
﹁人生はこれから
大切にしたい。
ました。 私は数学が好きなだ
た 単 語 は 数 知 れ な い。 中 で
その話し手の方へ目を向ける
「
よ。﹃自分を生かす道はこれ
けで、センスはないな と
も揺らぐことのないナンバー
と、なんと自分のことを﹁オ
」 、高
しかない﹄そんな道を見つけ
笑ったり悩んだり
校に入学して早々に気づきま
ワ ン は、
﹁けったくりマシー
レ﹂と言いながら、楽しそう
て。
﹂と背中を押していくこと
高 回
松浦
範子
したが、
﹁負けないように勉強
ン﹂
︵マシーンっていったい
に話しをするその人は、女子
しよう﹂と思いました。ある日、 が、私の役目と考えています。
何 時 代 の 言 葉 な ん だ よ。︶教 遠方から来客があった時の
ではないか!近所のばあちゃ
こと、近所の神社や小貝川を
先生から一回だけ、数学につい 在 学 中 こ れ と い っ た 取 り
員である自分は、国語で方言
﹁オラさのほう
ん で あ れ ば、
散 歩 し て い て ふ と 思 い 立 ち、
て褒められたことがあります。 柄もなかった、こんな小さな
の学習をする時や低学年の授
でよ、⋮﹂などの言葉はよく
特
白 幡 台 を 訪 ね た こ と が あ る。
今でもそのことを覚えている
業の填補に出た時に、とって
( に才能に恵まれていない ) 聞いていたし、所詮茨城多少
私ですが、気持ち一つで胸を
竜一という母校にはどこかそ
のですから、とてもうれしかっ
おきのナゾナゾとして出す
の訛りでは驚くことはない。
張ってやっていけると信じて
んな気にさせるものがあるら
たのでしょう。そして数学の
が、まず正解は出ない。
しかし、ここは竜ヶ崎第一高
います。竜ヶ崎一高OGとし
しい。
教員になりました。
等 学 校 第 一 学 年 E 組 の 教 室、 こ の よ う に、言 葉 の カ ル
て、それを体現するためにも、 こ れ か ら の 生 活 を 輝 か し い
高校時代の私は、入学して
チャーショックを数多く受け
高校時代、私は竜ヶ崎一高の
これからもあの坂を登るよう
早々授業をさぼり武道館のコ
雰囲気がなんとなく好きでし
た教室であったが、数カ月い
ものにしようと、多少なりと
に、じっくりと歩みを進めて
ンサートに行ってしまうよう
た。 どういうところがと聞か
や数週間その場にいると、あ
もかっこつけて﹁ちょっとよ
いきたいと思っています。
な不真面目な生徒だった。自
れても上手く言えませんが、た
れだけ衝撃を受けたことがま
そ行きモード﹂であるはずの
習時間には音楽室でピアノを
とえば、一高の校舎に続く坂道
るで夢であったかのように何
このタイミングで、女生徒が
弾いていたり、昼休みには学
を登るとき、歴史とか伝統が
の違和感もなく心地よい空間
﹁ オ レ よ ∼﹂と は 本 当 に 衝 撃
校を抜け出してラーメンを食
ふんわりと私にも降りかかる
に な っ て い た。 自 分 は 一 年
であった。
34
(8)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
高 34 回
早乙女 剛
校風を感じた。﹁自分も先輩
び、吸収していく素地を作る
もが持つであろう、日常の風
業に二対三というスコアで敗
べに走ったなんてことも。だ
達のようにがんばらなければ
ことができたと感謝しており
景、登下校時の会話、授業中
れました。水戸市民球場で行
がそのくらいなら目をつぶっ
ならない﹂と、背筋がぴんと
ます。
なわれた決勝戦は、地元水戸
てもらえた︵と思っている︶
、 に回しあった小さな手紙や教
伸びたのを覚えている。
科書を汚した落書きなどの記
商業との対戦ということもあ 最後になりますが、いまで
古き良き時代のおおらかさと
竜一では、尊敬できる先生
も野球部でない同窓生に会っ
憶。笑ったり悩んだりの日々
り、独特な雰囲気だったこと
いうか適当さというか、が当
方 に 出 会 っ た。 古 文 の 授 業
たときに、高校時代の思い出
を一緒に過ごした仲間たちか
を記憶しております。
時の竜一にはあって、そんな
と し て﹁ 夏 の 高 校 野 球 応 援 ﹂ はわかりやすく、一文一文を
ら受けた影響は計り知れない。 私達の代では、秋・春とそ
学校が私は好きだった。
現代語に訳していくことが楽
を挙げてくれることがありま
細かいことをよく覚えてい
れなりの成績を残し、シード
天体観測や地学部キャンプ し か っ た。 部 活 動 の 疲 れ か
す。改めて野球部への注目度
る旧友に会いたくなってきた。 校として最後の夏の大会に臨
に参加したくて入った地学部
らか、つい居眠りをしてしま
の高さを感じるとともに、感
私が忘れてしまっている奇談
みましたが、初戦でまさかの
では、天気図の書き方をまず
謝 の 気 持 ち が 溢 れ て き ま す。 うクラスメイトにも優しく声
の数々を、きっと面白おかし
敗戦を喫し、儚くも甲子園出
教わった。机にかじりついて
をかけ、一人一人に丁寧に向
現役時代には貢献できません
く思い出させてくれるに違い
場の夢は破れました。
地図上に各地の気圧や天候の
き合って教えてくださるこ
でしたが、野球部OBとして
ない。
数字・記号を記入してゆく作
チームを率いる立場になっ
微力ながら古豪復活へ尽力し、 と が 嬉 し か っ た。 教 え る こ
てからは、うまく軌道に乗せ
業は、ある種のゲームのよう
と へ の 興 味 が 芽 生 え た の は、
竜ヶ崎一高をさらに盛り上げ
ることができず、苦悩の日々
高校時代を振り返って
でとても面白かった。また部
ちょうどこの頃だった。
が続いたことを思い出します。 たいと改めて思いました。
室 に は 暗 室 が あ り、 一 時 期、
その頃は、練習帰りに寄るコ
夢中で写真の現像をしていた。
現代文の授業では、文学作
品を読み味わうことの奥深さ
ンビニでのひと時が、安らぎ
画像は天体観測の際に望遠鏡
私の歩む道
を熱心に語ってくださった。
の時間でした。
で覗いた月のクレーターや星
情熱をもって教えれば、学ぶ
などでなく、チョビ髭をつけ
一方、学校生活では、なぜ
べき内容だけでなく、教科そ
か勉学に勤しんだ記憶があり
竜ヶ崎一高での思い出とい
たり持っていたお金をチラつ
のもののおもしろさが伝わる
ません。テストでも毎回散々
えば、硬式野球部に所属して
かせたりして撮った自分たち
のだと感じた。これがきっか
な結果でした。
いたこともあり、放課後のグ
のふざけた写真ばかりだった
け で、
﹁ ど う 教 え る か ﹂に 関
しかし、授業の合間のふと
ラウンド、そして部室での思
竜ヶ崎一高は、私にとって
と記憶している。
心をもつようになった。自分
した先生の雑談は、いまでも
い出がほとんどです。
憧 れ の 学 校 だ っ た。 合 格 を
ひとに〝母校の想い出〟を
が好きなことを職業とするこ
よく覚えています。大学で生
知ったときは、目標が達成で
訊ねると、茶道の教諭の﹁お 昼夜を問わず、仲間達と白
との素晴らしさも知った。
涯の伴侶を見つけられたとい
球を追いかけた日々は、辛い
きたことへの喜びと、自分と
花がありませんわね﹂の一言
う話や、アメリカ旅行で飛行
ことも含め、かけがえのない
同じ思いで入学してくるであ 私 は 今、小 学 校 教 諭 と し
に、校庭の桜の大木によじ登
て、大好きな子ども達と共に
機に乗り遅れた話など、さま
青春時代の宝物になっていま
ろう新しい仲間との生活が始
り一枝折ってきたという武勇
毎 日 楽 し く 過 ご し て い る。
ざまなエピソードが大変人生
す。
まることへの期待でいっぱい
伝あり、破門された恩師の前
過去に受けもった子ども達の
勉強になりました。
だった。
で来る日も来る日も正座して その中でも印象に残ってい
中には、すでに成人している
竜ヶ崎一高での日々は、部
るのは、夏の甲子園大会出場
入学式では、初めて聞いた
過ごしたという青春を絵に描
子もいる。果たして、自分は
活動を含めた学生生活の随所
をかけた茨城県大会です。
校歌に驚いた。小学校、中学
いたような逸話あり。
その子達の人生に、少しでも
で教育の理念が感じられ、そ
二年生のときは、決勝戦ま
校の校歌とはまるで違う荘厳
その一方で、言葉にするほ よい影響を与えられたのだろ
の先の人生で多くのことを学
で駒を進めましたが、水戸商
な響きから、伝統を重んじる
どのものではないけれど、誰
高 49 回
持丸 信彰
高 49 回
青田 美由希
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
(9)
高 10 回
井原 哲夫
母校と私の人生
うか。竜一で出会った素晴ら
きく違いますが、生徒を思う
間に会議を重ね、本番が近づ
したのは、紙幣のデザインが
もう一度やってみろと言われ
し い 先 生 方 の こ と を 思 う と、 一 新 さ れ た 平 成 十 六 年 の こ
教員の姿勢や答えのないもの
けば夜遅くまで残って準備を
てもできないだろう。それが
いささか不安になる。
を生み出すために努力するこ
し
て
い
ま
し
た
。
私
は
セ
レ
モ
と
。
そ
の
頃
は
、
高
校
生
と
も
な
で
き
た
の
は
、
若
さ
故
の
勢
い
か
。
とは、竜ヶ崎一高で学んだこ
ニーを担当し、良いものに作
ると携帯電話を持っているの
いや、支えてくれた友や先生
日々の生活に追われ、高校
時代の仲間と会うことは少な
とが基礎となり、活かされて
り上げられるかは自分たちの
が普通であった。SDカード
の存在。人に恵まれたなぁと
くなってしまったが、時々思
ア イ デ ア 勝 負 と い う な か で、 います。
には、当時の懐かしい写真が
しみじみ思う。無我夢中でア
わぬ場所で再会する。自分の
たくさん残っている。クラス
ツくなれた高校生活。改めて、 本番まで悩みは尽きませんで 最後になりましたが、恵ま
職業を大切にし、生き生きと
した。悩むなかで、岩﨑先生、 れた環境を作っていただきま
メイトと弁当を囲んだベラン
卒業式に泣ける高校生活でよ
活躍しているのを見ると、同
した担任の辻先生、菅原先生、
木内先生やスタッフなど多く
ダ。部室での団欒。合宿での
かったと心から思う。
じ母校で過ごせたことを嬉し
教育実習でご指導いただきま
の人に支えられながら企画を
友人の寝顔。想いを寄せたあ
多くの人と出会い、たくさ
く 思 う。 そ し て、
﹁自分もが
した吉田先生をはじめ多くの
つ
め
て
い
き
、
本
番
で
も
多
く
の
の
子
と
。
白
幡
台
か
ら
望
む
美
し
ん
の
こ
と
を
学
ん
だ
白
幡
台
の
んばろう﹂と元気をもらう。
先生方に感謝し、母校の益々
スタッフの協力や生徒の参加
い夕日。三年間が本当に充実
地。これからも、変わること
私達の歩む道を与えてくれた
の発展を心より祈念しており
により、良いものを作り上げ
した日々だったと思う。この
なく﹁竜一生﹂を輩出し続け
竜ヶ崎一高に、心から感謝し
ます。
ることができました。答えの
三
年
間
で
み
ん
な
﹁
竜
一
生
﹂
に
て
欲
し
い
。
ている。
ないものを作り出すことの苦
なる。それぞれの形で﹁竜一
高校時代の思い出
労を超えて共に白龍祭を作り
生﹂を胸に抱いていく。
高校時代の思い出
上げた仲間と感じた充実感や
高三の六月はW杯中田英寿
無銭の旅のはじまり
閉会セレモニーのジェット風
の引退、ではなく白龍祭の話
船の飛ぶ体育館の天井の美し
題で持ち切りだった。本気で
さは何物にも代え難いすばら
仲 間 と 取 り 組 ん だ 半 年 間 で、
しいものでした。
言い尽くせない程の体験をす
ることができた。この経験は、 卒業してから九年目を迎え 現在、私は東京で教員をし
ております。高校卒業を前に、
今 の 私 の 土 台 と な っ て い る。 た今、母校での生活を振り返
﹁ 夏 の 野 球 応 援。 仲 間 の 全
ると様々なことが思い出さ
力プレーに、声が枯れるまで
五十九年前、竜一高二年の
教職の道を選ぼうと決めたの
たくさん面倒見ていただいた
れ、私にとって切り離せない
応援した。試合後、ナインが
夏休みのことであった。叔父
も、先生方にご指導していた
岩崎先生や生徒会に入るきっ
挨拶に来たときには涙が流れ
の話に刺激を受け、房総半島
だくなかで、教職という仕事
か け を く だ さ っ た 菅 原 先 生、 も の ば か り で す。 あ れ も こ
れ も と 色 々 な こ と を 欲 張 り、
た。
﹂
一周の自転車旅行を計画した。
の
や
り
が
い
を
感
じ
た
か
ら
で
駆
け
付
け
て
く
れ
た
O
B
の
方
々
様々な事を経験させていただ
五人の仲間がすぐに集まった。
す。大学四年次には教育実習
には感謝し切れぬ思いだ。
平成十九年三月一日卒業
式。緊張の中で読み上げた答
きました。
親戚でテントを借り、米、味噌、
を行わせていただき、三週間
﹁ い ー か、 お 前 ら。 最 後 の
辞の一節。しんとしていた体
飯盒、水筒とそれぞれの家に
という短い期間でしたが、先
ド ッ キ ン グ だ ぞ。
﹂ 模 試 の 判 今でも鮮明に思い出される
のが三年生の白龍祭です。産
育館に、こらえていた音が溢
あった野菜、缶詰などを荷台
生方の働く姿勢や生徒との関
定に青ざめた夏。苦しい受験
みの苦しみと、その先に待つ
れた瞬間。壇上にいる私は背
に積んで朝六時に出発した。
わりを教員という立場で経験
勉強の日々も仲間と遅くまで
充実感を味わった忘れること
中で、確かに聞いた。おさえ
し、教職を目指す気持ちを一 はじめての冒険の旅である。
教室に残ることで乗り越えら
きれない想いが溢れる音を。
のできない経験でした。十二
不安は感じなかった。利根川
層強くしました。今勤務して
れた。振り返ると、どんなこ
を渡し船で渡り、成田を通り、
いる高校は母校とは環境が大
と も、 そ れ な り に 努 力 し た。 月にスタートした準備期間の
私達が伝統ある竜一に入学
高 59 回
吉田 雄哉
高 59 回
大野 豊司
(10)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
んでした。又それを理由に退
次の日、小田原駅前の預かり
世の中の人の人情に接した旅
ひたすら海に向かってペダル
我々新人もお手伝いに大わ
部してしまいました。校長先
所に自転車を預け、ヒッチハ
だった。
をこいだ。
らわだった。NHKのお昼の
生に学校の何処かで会うと海
イクで箱根にいった。そろそ
ニ
ュ
ー
ス
で
毒
蛾
の
放
映
が
あ
る
いまでもたまに、自宅があ
ついに太平洋が目の前に姿
老原君と呼ばれて色々な話を
る松戸から二十三キロ先の
を 現 し た。 歓 声 が あ が っ た。 ろお金が底をつき米を飲食店
と校長先生から聞かされ授業
聞かせてくれました。校長先
へもっていって買ってもらっ
ディズニーリゾートまでの歩
﹁来てよかった﹂と思った一瞬
中にもかかわらず校長先生と
生は何でも知っていて我々に
た。それでも、
お金が足りない。 きを楽しみ、好きなものを食
だった。でも、そこが九十九
足立先生と我々生物クラブの
教えてくれました。野鳥の剥
外食費が見込みより嵩むのだ。 べてくる。これでは、自動車
里浜のどこかはわからなかっ
生徒 名位が当時一高下に
製を作ったら名人でもありま
そのとき﹁明日、二年生が
を運転しようなどいう気には
た。地図をもっていなかった
あった井原文房具店の店頭の
した。教えて頂きたくて、先
修学旅行で小田原駅を通るか
ならずいまだに運転免許証を
し、気にする仲間もいなかっ
テレビを今か今かと見守った
生の横町の自宅に夜になると
もしれない﹂というものがい
もっていない。
た。房総を一周するには海に
事を覚えている。
通いました。キジバト、トラ
た。藁をもつかむ思いで、駅
慶応義塾大学名誉教授
沿って右にいけばよかったの
飯塚校長先生は校長室の外
ツグミ、キジ等剥製の手ほど
のホームに立った。そのとき、
である。
でカルガモを二十羽ほど飼っ
きを受けました。
列車が入ってきた。奇跡がお
飯塚宗之助校長先生から野鳥
ていましたが、それはカルガ
そこでテントを張り一夜を
こった。なんと見慣れた顔の
のことを学んで﹁野鳥人生﹂
すごした。次の晩は野島崎灯
モの換羽︵とや︶の調査の為 竜一の近くの現在日立建機
高校生の集団が乗った車両が
台の近くで、その次の晩は木
であった。換羽の調査といっ ︵TCM︶工場の所に戦時中軍
需工場だった羽田精機工場の
目の前に止まったではないか。
更津でテントを張り、布川の
て、カルガモ等のカモ類は繁
跡地に沢山の野鳥が繁殖して
これで、飢えないで竜ヶ崎ま
橋を渡って竜ヶ崎に戻ってき
殖のある時期に一斉に風切り
いました。コチドリもその中
で帰ることができた。お金を
た。地図を持たない旅は意外
羽が抜けて飛べなくなる時期
の一種類でした。コチドリの
貸してくれた先生は関西でひ
性があって面白かった。次の
が
あ
り
、
ど
う
し
て
そ
の
よ
う
な
営巣を観察中にコチドリが急
もじい思いをしたのではなか
年、この旅の話を聞いて竜一
習性があるのか、そしてどの
私は竜一高に入ったら陸上
ろうか。
部で走り高跳びと短距離競走
高の二学年下の連中がやって
ように風切り羽が伸びるのか、 に羽をバタつかせて怪我でも
した様な仕草を観察しました。
をしたいと希望していた。し
きた。ほぼ同じコースを完走 竜一高時代に知った自分の
ヒナが飛べないうちに親も飛
その行動を先生に話しました
足で移動する旅の醍醐味をこ
かし陸上部ではマラソンしか
したそうである。
ばずにヒナを守りながら自分
ら、それは卵やヒナを守るた
のあと味わい続けた。大学の
やらせてもらえずに何日たっ
の羽を伸ばすのか、というこ
これで無銭の旅は終わりで
めのものであり、擬態︵ぎた
二年生の九月はじめ、失恋の
ても走り高跳びも短距離競走
はなかった。三年生の三月だ
との調査でした。放課後にな
い︶とか偽傷︵ぎしょう︶い
痛手を癒すのが目的だったが、 もやらせてもらえなかった。
と思うが、今度は箱根に行こ
ると真直ぐにカルガモの小屋
う習性だと教えられ驚きまし
純粋無銭で、一人東京から新
うということになった。まだ
に
行
き
、
先
生
の
指
示
で
カ
ル
ガ
文化部は生物クラブに入っ
た。今でも小学校に行ってそ
潟まで歩いていったことがあ
たのでその頃、毒蛾が大発生
寒いので旅館を利用すること
モを捕まえ翼を広げて風切羽
の話をすると児童は一番興味
る。
して毒蛾調査が大忙しだった。 を一本一本計測するのを手伝
に し た。 旅 館 は 交 渉 す れ ば
を示してくれます。
顧問の足立義夫先生と飯塚宗
三百円程度で泊まれる目処が まだ暑い季節ですぐ水筒が
う毎日でした。カルガモは食
空になる。国道の傍の農家で
之助校長先生も参加して調査
立った。三晩泊まるとして全
いつきはしませんが羽を広げ 飯塚校長先生から教えてい
ただいた野鳥のことは私に
水をもらうのだが果物など食
や飼育が行われていた。NH
部で千円と少しあれば足りる
ていると毎日のように糞を掛
とっては宝物です。私が卒業
べ物をくれる家がけっこう
Kからはテレビの取材を受け、 けられました。
だろう、との計算のもとで出
後日本野鳥の会に入会し、浮
あった。夜はお寺、学校、駅
その他にも新聞各社は毎日の
発した。
そのような忙しさでしたか
島でコジュリン︵絶滅危惧種︶
の 待 合 室 に 泊 め て も ら っ た。 ように取材に来ていた。
ら、当然陸上部には行きませ
最 初 の 晩 は 横 浜 で 泊 ま り、
(11)
高 10 回
海老原 龍夫
十
の繁殖地を発見しました。そ
りますが、﹁石段登る六十余﹂ で、さすがに数は減っていま
に、仕方ないからやるんだと
方が知っています。では一日
れ以来お陰様で龍ケ崎市では
の と お り や は り 印 象 に 残 り、 すが。もともと書くことは好
いう意識はあります︵自分が
六分間アイドリングストップ
野鳥と言えば海老原龍夫にな
ま た 伝 統 を 感 じ さ せ る 正 門、 きで、地方の広告誌などに書
そうでしたから︶
。
﹃だからこ
をして一年間続けた量と、三
り ま し た。 現 在 馴 柴 小 学 校、 思い出されます。当時、消極
そ関係ない学生は、一生のう m の樹を三本植えた量が同じ
いていたくらいだったのです
龍ケ崎小学校、八原小学校へ
的な性格で︵今もたいして変
ち、これでもうやらない可能
だと知っている方はどれだけ
が、 だ ん だ ん 本 の 四 分 の 一
は定期的に校外野鳥のおじさ
わっていませんが︶部活をす
性が高いです。だからそうい
いるでしょう。多くの企業は
ページとか半ページとか。そ
ん 講 師 と し て 務 め て い ま す。 る わ け で も な く、 先 生 方 に
う学生こそ一生懸命やるんだ
環境問題を頭に出すと仕事に
こから一冊の本の依頼がきた
バードピア運動に参加した竜
とっても印象に残らない地味
よ、そうすれば面白くなって
つながることは実践していま
ことが始まり︵でも本を書く
一高にも協力しております。
な生徒だったと思います。在
違う道も可能性が出てくるか
す。また中高生は環境のこと
とはまったく思っていなかっ
龍ケ崎市倫理法人会相談役
学中に野球部が甲子園に行っ
ら﹄
。どう感じているかは分
はすごく考えています︵でも
たので嬉しかった︶で、気が
龍ケ崎バードウオッチングク
たことは誇りであり、現在も
からないけれど、いつかそん
付いたらこういう数になって
資源のリサイクルとか無駄使
ラブ
県大会は時間が取れれば球場
な時がくれば思い出してくれ
いました。読者からは﹁他の
い と か ︶。 植 物 の 大 切 さ を 再
名誉会長
日本野鳥の会 茨城支部幹事
に行くことが楽しみの一つに
先 生 の 書 い た も の と は 違 う ﹂ るかなと。実はここに母校の
認識してもらうことを表に出
なっています。
な ど の 高 評 価 を い た だ い て、 後輩が入学してきて、先輩の
し、環境を少しでもよい方向
人生、何が起こるか分からな
非 常 に 嬉 し く 思 っ て い ま す。 先生方のそういう時を見てい
にもっていける最大の仕事を
三年になる時のクラス分け
い。だから目先のことに一生
でどうしても理系にいきた
て、そんな立場になるとやっ
テレビは父親が出ていたので
している一員としていること
懸命に!
かったので、ついいってしま
ぱり気になってかわいいもの
いつか出たいと思っていまし
が、厳しい時代を乗り切る糧
いました。これが非常に学生
だなって実感しました。私の
たが、数多く出させていただ
と考えていることを知ってい
生活を苦しむ原因になり後悔
講義に付いてきてくれた学生
いています。
ただければ幸いです。
したものです。ただ卒業時に
はすべてそうなのですが。
確実園園芸場代表
㈱鳩の樹
大学に関してはこれこそ雲
はいい仲間もでき、理系で良
さて現在ですが、私の仕事
の上の話で、考えてもみない
代表
県南造園土木㈱代表
かったなと思った次第です。
は非常に厳しい状況にいま
話でした。私が教えたのは東
NHK趣味の園芸講師
卒業後は希望通りの大学を
す。それは好景気の時のもの
京農業大学で、ここの学生は
竜ヶ崎一高を卒業して早い 出て、家業を継ぎ現在に至り ﹁純真ですれていない﹂︵いろ
だからなのですが。私たちは
もので約四十年、気が付くと
外国から母校に思いを馳せる
ます。地方のちっぽけな植木
そういう風には考えません
いろな方からもそういわれま
あっという間でした。六月の
屋ですが、人には経験できな
が、 多 く の 方 は 必 要 だ と は
す︶こともよかったのかもし
留守中に牛久栄進高校の副校
思っても、緑にまで気が回ら
れませんが、話もよく聞いて
長 先 生 が 見 え た と 言 わ れ て、 いことをやらせてもらってい
な い の が 現 状 で す。 し か し、
仕 事 の 話? と 思 い ま し た が、 ます。本を出版していること、 くれて楽しく講義をさせても
テレビに出ていること、大学
環境は良くなることは全くな
らいました。
名刺を見ると記憶にある名
で非常勤講師をさせてもらっ
いと思われます。その環境に 私は平成二十六年三月まで
前、友人でした。後に話を聞
学生に心に留めてもらいた
三十四年間県立高校の英語教
たことなどです。本は専門書
一番近い所にいるのが私たち
いことは、
﹃人生何が起こるか
くと﹁白幡﹂に寄稿してくれ
師をしていましたが、事情に
ですが、背表紙に名前がのっ
ですから、今後の花形になら
分からない。だから一生懸命
とのこと。迷いましたがせっ
より定年を待たずに数年早く
ているものが約三十冊。想像
ないといけない仕事です。例
やりなさい﹄
。実習でも大学生
かくのお話だし、受けてしま
2
退 職 し ま し た。 現 在 は ア メ
もしなかった仕事です。近年
えばCO削減にアイドリング
は将来を考えているので、自
いましたが⋮。
リ カ 合 衆 国 の 永 住 者 と な り、
ストップということは多くの
はインターネットの普及など
分に関係ないことはお座なり
学校に入る時、校歌にもあ
高 28 回
川原田 邦彦
高 29 回
玉造 守
(12)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
りの天皇杯がある中でスポー
ピッツバーグ近郊に居を構え
竜一での経験
など昔を偲ばせる建物がまだ
れていた向きがあります。 全
今の自分に活
ツ以外では農業だけが下賜さ
ています。
般に今と比べればまだまだ余
かされて
ありました。 清掃当番で旧校
れています。詳細は日本農林
舎を掃除していた折には、竜一
裕があった時代でした。運動
仕事も変わり、新たな気持
漁業振興会のウェブサイト
部の活躍も目覚ましく、硬式、
ちで再挑戦しているところで
高の歴史をそこはかとなく感
︵ http://www.affskk.jp/
︶を 参
軟式野球部の同時全国大会出
す。 長年英語を教えていたに
じ、感慨深い気持ちになったも
照いただければと思います
も か か わ ら ず な お 言 葉 の 壁、 のです。 大文化祭、小文化祭
場をはじめ、たくさんの部が全
が、 農 林 水 産 祭 と い う の は、
特にリスニングの壁は如何と ︵白幡祭、白竜祭︶
、そして隔年
国規模の大会で活躍していま
全国で農業関係の表彰が一年
もしがたく、悪戦苦闘の毎日
実施の体育祭も思い出します。 した。 現在でもその伝統が脈
伝統ある﹁白幡﹂同窓会会
間に四〇〇ほどある中で、さ
です。
体育祭では仮装行列などもお
打ち文武両道、文武不岐の校風
報に寄稿させていただく機会
らにその中から上位三者につ
USス
こなわれ、新入生の我がクラス
となっているのは周知のとお
を賜り感謝申し上げます。
ピ ッ ツ バ ー グ は、
いて天皇杯、内閣総理大臣賞、
ティール社などの鉄鋼業で隆
は当時の世相を反映させ﹁ロッ
りです。
最初に自己紹介をさせて
日本農林漁業振興協議会長賞
盛を極めましたが、現在はハイ
キード疑獄﹂を揶揄する大きな
い た だ き ま す と、 私 は 高 校
昭和六十三年から平成九年
の三賞を決めるもので、農産、
テク、保険、金融、サービス業
ピーナッツとリヤカーを骨組
までの十年間は母校に勤める
四十六回の卒業生で、硬式野
園芸、畜産、蚕糸・地域特産、
を中心とした地域経済に移行
みにした巨大な飛行機を作成
機会を得ました。 その間、多
球部が平成二年、平成三年の
林産、水産、むらづくりの七
し不況からの再生を果たして
し、大得意でグラウンド中を
くの生徒たちや先生方と出会
二年連続で甲子園に行った年
部門に分かれており、少し言
います。 また医学系で有名な
引っ張りまわしたことを覚え
うことができ、大変幸運でし
の二年目に入学しました。現
い過ぎかもしれませんが、そ
ピッツバーグ大学や工科系で
ています。 前日から学校に泊
た。竜一高は東京でオリンピッ
在は、地元龍ケ崎市の塗戸町
の年の農業分野の日本一を決
はアメリカ有数のカーネギー・ まり込みでの制作でした。 今
クが開かれる二〇二〇年に創
で水稲の生産を行う農業生産
め る と い う も の で す。 昭 和
メロン大学など多くの大学が
ではまず許可されない問題行
立一二〇周年を迎えることに
法
人
の
代
表
を
務
め
て
い
ま
す
。
三十七年の第一回から始まっ
存在し、教育分野も充実してい
動でしょうが、当時はまだ男子
なり、その長い歴史と伝統は
まず、私がなぜ今回寄稿を
た中で、茨城県内での受賞者
ます。 スポーツで盛り上がる
校の趣があり、そうするのが当
今後も継承され、ますます各
依頼されたかということから
も私で三人目という大変希少
土地柄でもあり、特にフット
然のような雰囲気だったので
方面でその名を轟かせていく
説明をしますと、おそらくは
な賞になります。
す。 文化祭では英語部が齋藤
ことは間違いないでしょう。
ボール、野球、アイスホッケー
一昨年の十一月、平成二十五
天皇杯の受賞の理由につい
などは熱狂的なファンが大勢
佳郎︵前同窓会会長︶先生のご
新旧を象徴するこの二つのイ
年度第五十二回農林水産祭農
ては、私が行っている農業経
います。 世界で二番目に橋が
指導のもと、英語劇﹁白雪姫﹂ ベントが重なるのは偶然とは
産部門にて天皇杯の受賞とい
営の中の様々な取り組みにつ
多い街︵ベネチアに次いで︶で
を上演し、私も小人のグラン
いえ、歴史は常に新しいもの
う農業界では最高位の賞をい
いて総合的に評価されたので
景観が美しいところですので、 ピー役で出たのも良い思い出
に引き継がれていくものだと
た
だ
い
た
の
で
、
そ
の
こ
と
を
書
すが、特に注目されているの
機会があればぜひ一度足を運
です。 勉学の面でも乱塾時代、 いうことを感じざるを得ませ
いてほしいというのが依頼し
は少ない農業機械と人員で大
んでみてください。
受験戦争などという言葉がす
ん。
てくださった事務局の方の意
規模な面積を効率よく栽培し
でに声高に叫ばれていました 最後になりますが、今日も
図であろうと思います。です
さ て、私 が 入 学 し た 昭 和
四十九年は正門を入ると左側
が、夏休みの英語の課外授業も
あの石段を登り降りする後輩
の で、 農 林 水 産 祭 と は 何 か、 ている点で、具体的には、一
台 の 田 植 機・ コ ン バ イ ン で
にまだ木造の旧校舎が一部
例えばギリシャ神話などを題
たちが今後も大いに活躍され、 天皇杯とは何かの説明から始
一〇〇 を超える面積の作業
残っており、他にも駒杵勤治の
材としたもので、受験への即戦
竜一高が益々発展されますこ
めようと思います。
を行っています。
設計になる講堂をはじめ、旧図
力というより、いわば教養に重
とを外国の地で祈っています。
﹁天皇杯﹂と聞くとサッカー
書館、旧柔道場、旧体育館など
きを置いた題材をあえて選ば
元竜ヶ崎一高教諭
や競馬が有名ですが、二十余 皆様ご承知のとおり、農業
ha
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
(13)
高46 回
横田 修一
母校に建つ歌碑
大野誠夫
生誕百年
れた環境の中で、自分の強み
並み負けてしまっていまし
従事者の高齢化によってリタ
琅玕のひとつまもりて年経し
に初めて掲載した歌である。
を見出して最大限に発揮させ
た。その状況の中で、当時監
イアする農家が増える一方
と誰にか告げむ木々に鳥啼く
ることで道が開けるというこ
督だった久保田純男先生の指
で、私のような地域農業の担
街道に光溢れて春さびし荷曳
とを、結果的には現在、私が
導によって、ネットの両端を
い手が農地を借り受けて、従
ける馬は疲れてゐたり
この碑は昭和六二年、彼が
行っている自身の経営の中に
いっぱいに使うトス回しで相
来では考えられなかったよう
主宰した作風社が中心となっ
活かされていると感じていま
手のブロックをかわす戦術を
な急激な規模拡大をしてい
て建てられた。敷地選定には、
歌集﹃花筏﹄の巻頭歌にも
す。
導入し劇的に変化を遂げ、強
て、受け皿となる担い手の体
同窓生の海老原龍生君︵当時
なっているが、﹁さびし﹂﹁ 疲れ﹂
高校一年で部活に明け暮れ
豪校とも競り合えるようにな
制作りが全国的にも重要な状
市教育長後市長、故人︶が尽
は生徒には不適ではと採用さ
る息子を見て、竜ヶ崎一高に
りました。
況になっていますが、一方で
力した。碑の裏面には、彼の
れなかったという。社会矛盾
通っていた頃の自分と重な
久保田先生におかれまして
お米の市場価格は下がり続け
経歴が刻まれている。
に目覚めた少年の純粋な気持
り、しみじみと感慨深く思い
は、昨年末に不慮の事故によ
ていて、大幅なコスト削減も
ちをうたった歌こそ母校に建
彼は旧龍中在学中、国語教
出しました。
り他界されました、謹んでご
同時に求められる時代になっ
師長南先生の影響で短歌に親
つ歌碑には相応しかったので
平成二十五年度農林水産祭
冥福をお祈り申し上げます。
ています。
し み、 卒 業 後 画 家 を 志 し た
は。
農産部門天皇杯受賞
私が高校時代にバレーボー
が、病気で挫折、その後苦難
私自身は、急激な規模拡大 ㈲横田農場代表取締役社長
ルを通じて学んだ、現在おか
という経営環境の変化に柔軟
曲折の多い生涯を送った。歌
藤蔵河岸の生家
に対応してきただけのつもり
集﹃薔薇祭﹄では、物語性や
でしたが、農業界の一般常識
虚構を取り入れ独自の抒情世
多士済々⑤
からはかけ離れた経営スタイ
界を開拓、昭和五九年、六九
ルになっていたようで、人と
歳で世を去るまで歌壇の第一
違うことを強く意識していた
線で活躍、中国の青緑の宝石
わけではありませんでした
琅玕の貴さを愛し、人生を生
が、 自 分 の 置 か れ た 環 境 や
き抜く心
高二回
鈴木
久
持っている資源・能力を最大
の喩とし
限に発揮させようと苦心をし
た。
彼は河内町︵藤蔵河岸︶の
た結果であります。
出身、戦後の日本短歌界を宮
柊 二、 近 藤 芳 美 ら と リ ー ド
このような状況は、ちょう
ど高校時代の三年間、バレー
した。一昨年は生誕百年、没
彼は藤蔵河岸︵河内町竜ヶ
ボール部の中で経験したこと
後三十年に当たった。わたく
崎町歩︶の回漕問屋で地主の
と重なっているように思いま
しは町史編纂の過程で初めて
﹁大野屋﹂の四男に生まれた。
す。私の学年は身長もそれほ
はじめに
彼の存在を知り、在校時代の
父三郎は、入婿で一時旧龍中
ど 高 く な く 攻 撃 力 が 低 い 上、
ことを調べにしばしば本校を この歌は、彼が生涯を終え
の英語の教師を務めたことが
龍中二八回卒の大野誠夫に
部員も少なく下の学年に頼ら
た年、歌集﹃水幻﹄からとっ
訪れた。
ついては四年前に同窓会会報
あった。県内有数の大地主で、
ざるを得ない状況で、普通の ﹃白幡﹄に書いたことがある。
たもので、その年現代短歌大
小 作 人 が 二 二 八 戸、 小 作 米
バレーボールのプレースタイ
賞を得ている。もう一首候補
琅玕のひとつまもりて
彼の歌碑は正門入ってすぐ左
千二百俵があったという。東
ルでは、練習試合をしても軒
に上ったのが歌誌﹁ささがに﹂ 京女学館卒の母ゑいには九人
に建っている。
歌碑には次の歌がある。
(14)
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
(15)
幹が連なっていたこと。校舎
を知った澤は会ったことない
の子がいたが母乳で育てるこ
にユーモアを交えて、話を進
トピック
南堤に十五本、グラウンド西
となく、彼は小学校に上がる
めてゆく﹂と彼は書いている。 彼が﹁歌人として世に出たこ
堤に十九本もの桜樹があった
とは自分の誇り﹂と分厚い封
まで丸田の小作人に預けられ
白幡台の樹木③
彼は昭和六年から短歌結社
ことである。白幡台の桜は大
書をよこした。一度も逢った
た。後年彼は人間が生涯に流 ﹁ さ さ が に ﹂ に 参 加 し て い る
ーサクラー
部分がソメイヨシノで、他に
ことのない男のことと、その
す泪がコップ一杯ならば、幼
が、その歌誌四月号に長南杜
はシダレザクラ、ヤマザクラ、
優しい心遣いとに泪を流し
時流した泪はその半分超えた
子夫選として﹁浅間農芙夫の
ヤ エ ザ ク ラ、 シ ナ ミ ザ ク ラ、
と書いた。父母との確執は生
ペ ン ネ ー ム で 六 首 が 採 ら れ、 た。彼が澤に初めて逢ったの
イヌザクラ、ヨウコウサクラ
は三年後の四三歳の時、澤は
涯続いた。
その最初の歌が﹁街道に﹂の
がある。
旧知の人を迎えるように歓待
歌である。この歌を起点とし
した。彼は澤が大事にしてい
旧龍中時代の大野誠夫
て、彼の四十数年に及ぶ作歌
桜植樹の記録は龍ヶ崎中
学 校 史 基 礎 年 表 を 見 る と、
るものを無心した。それは澤
生活が始まる。
彼は昭和
一九〇三︵明治三十六︶年新
が文学の道に迷って手紙を出
三年に龍中
築校舎の一部落成、多数の樹
した時丁寧な返事をくれた森
に入学した。
詩人澤ゆきと大野誠夫
木を校舎前と南東庭園に植え
鷗外の手紙の一通だった。
父の書棚に
る。 一 九 〇 七 明
あったシェー
( 治四十 年
)
石 段 東 側 平 地 に 小 園 を 造 り、
毎年桜の季節が近づくと白
兵たりしもの
クスピア・鷗外・漱石・一葉
校地献納記念碑を移し、桜樹
幡台坂道の桜が気になりま
兵たりしものさまよへる風
などを読み漁り、横光や川端
等十余株を植える。一九〇八
す。その頃龍ケ崎に行くこと
の市白きマフラーをまきゐ
の小説、プロレタリア文学の
がある時は、一高下の東西に ︵ 明 治 四 十 一 ︶ 年 桜 樹 四 十 五
たり哀し
伏字の多い小説にも野鼠のよ
中 学 四・五 年 の 頃、 友 人 に
株を校舎西南の庭園に植え
走る市道を徐行して、開花の
う に 齧 り 付 き、
﹁読まねば恥
澤 ゆ き︵ 飯 野 酒 屋 ゆ き 夫 人 ︶
る。 一 九 〇 九︵ 明 治 四 十 二 ︶
状況を眺めながら通過しま
この歌をもって大野誠夫は
になるといった意識に追い立
の長男がいた。その友人を通
年桜六十株を敷地全面及び車
す。
てられ﹂読み漁った。自伝的
じ て 彼 は 自 分 の 詩 稿 を 託 し、 戦後彗星の如くに登場した。
道 に 植 樹。 一 九 一 六︵ 大 正
随筆﹃或る無頼派の独白﹄に
卒 業 後 も 朱 筆 を 入 れ て 貰 い、 若い人にこんな歌も遺して ソ メ イ ヨ シ ノ は 葉 が 出 る
前、 木 全 体 が 一 斉 に 開 花 し、 五︶年桜樹二七五株運動場の
は在学当時のことが詳しく書
澤の蔵書を借り、藤村・有明・ いる。
周 囲 に 植 樹 と 記 さ れ て い る。
やがて散る。まだ他の樹木が
かれている。彼の全歌集と著
露風・朔太郎、さらには光太
その後創立百周年記念に現代
芽吹く前なので遠くからも分
作 は 本 校 の﹁ 大 野 誠 夫 文 庫 ﹂ 郎・犀星・安西冬衛・丸山薫・ 戦争にやぶれし民の屈辱を知
的な素晴らしい管理・普通教
かります。花芽一個から数個
らざる世代伸びやかな四肢
に収められている。彼を短歌
北川冬彦まで眼に触れる限り
室棟が竣工した時、ブロック
花を付けるので短期間に一斉
の世界に導いたのは、国語教
のものを読み漁った。澤から
を敷き詰めた前庭にクスノキ
に多数の花が咲くのです。
彼は﹁生きることの尊厳を
師長南先生だった。中学二年
は添削とは別便で励ましの言
と共に両側の植え込みに二本
歌いつづけてきた﹂と歌人篠 今年八月の調査での印象は
の時、若いこの先生が赴任し
葉があり﹁多読多作のほかに
のシダレザクラが記念植樹さ
石段東側に広がった斜面には
弘は書いた。
て き た。
﹁よく鍛えられた弾
道がない﹂との書き添えがあ
れ た。 生 物 ク ラ ブ O B 会 も
高木の木々の間に十八本もの
力的な体躯の持主﹂
﹁テニス
り、卒業後の就職まで心配し
一九九〇年頃、坂道と校地の
桜樹も混じっていたこと。石
が巧い﹂
﹁一種のさわやかさ
てくれた。
南堤とグラウンド西斜面に桜
段下や急カーブから坂道を眺
は、教師の中で、群を抜いて
昭和二九年に朝日新聞茨城
を植え、二〇〇〇年にはシダ
めると三十四本もの太い桜の
いた﹂
﹁ 教 え 方 も 巧 い。 適 度
版の短歌の選者になったこと
木野内昭治
高
石引
督規
高
回
回
レ ザ ク ラ を 石 段 西 の 中 腹 に、
ヨウコウサクラをいろは坂の
カ ー ブ 周 辺 に 植 樹。 さ ら に
二〇一〇年にもヤマザクラと
シダレザクラを武道館南側に
植栽し、坂道にもソメイヨシ
ノを補植している。
二〇一〇年四月の朝日新聞
によると、ソメイヨシノの原
木が特定できた。上野動物園
表門に近い小松宮親王像の北
側の桜四本である。また中村
郁郎教授千葉大チームの研究
でその像周囲の他の桜七本も
全て同じ親から生まれた兄弟
樹と判明、品種改良で人為的
な交配で生まれた苗木をソメ
イヨシノと一緒に並べて植樹
した可能性が高いとしてい
る。サクラは自家不和合性で
日本全国に植栽されているソ
メイヨシノはどれも種子が出
来 ず、 実 る
ことがあっ
ても他種と
の雑種にな
り、 親 と 同
じ種類では
ない。
写真
文
・・
25 13
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竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
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大 学 名
現 役
北 海 道 大
東
北
大
福
島
大
茨
城
大
筑
波
大
宇 都 宮 大
埼
玉
大
千
葉
大
お茶の水女子大
東 京 学 芸 大
東 京 工 業 大
東 京 農 工 大
電 気 通 信 大
新
潟
大
山
梨
大
信
州
大
静
岡
大
富
山
大
名 古 屋 大
大
阪
大
島
根
大
九
州
大
青 森 公 立 大
茨城県立医療大
埼 玉 県 立 大
首 都 大 東 京
横 浜 市 立 大
都 留 文 科 大
京 都 府 立 大
兵 庫 県 立 大
名
桜
大
国公立大学合計
2
3
6
43
10
11
5
2
1
過年度
1
2
3
1
1
2
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
2
1
1
1
5
1
1
1
4
1
1
1
111
1
1
20
合 計
大学校名
現 役
過年度
2
4
6
45
13
1
12
5
2
1
2
1
2
1
1
2
1
1
1
2
1
1
1
5
1
2
2
4
1
1
1
131
自 治 医 大
獨
協
大
文
教
大
青 山 学 院 大
学 習 院 大
北
里
大
共 立 女 子 大
慶 應 義 塾 大
国際基督教大
駒
澤
大
上
智
大
順 天 堂 大
芝 浦 工 大
成
蹊
大
成
城
大
専
修
大
中
央
大
東 京 医 科 大
東 京 女 子 大
東 京 電 機 大
東 京 農 大
東 京 理 大
東
洋
大
日
本
大
日 本 女 子 大
法
政
大
明
治
大
明 治 学 院 大
立
教
大
早 稲 田 大
そ
の
他
私立大学合計
1
15
8
7
7
6
7
2
1
3
5
1
1
18
1
7
16
12
5
8
11
1
13
27
24
14
48
60
10
25
13
8
21
6
276
676
1
1
1
3
4
3
3
5
6
2
11
10
23
10
12
2
3
7
43
162
合 計
1
17
9
10
12
7
7
1
2
19
4
7
20
15
8
13
17
1
13
29
35
24
48
83
10
35
25
10
24
13
319
838
2015 年(平成 27 年)12 月発行
2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
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部活動状況
部活動奨励金
贈呈式
を考えますと、県立の進学校
で二枠を確保したことはまさ
に快挙といってよいと思いま
す。特に原・西田ペアは地区
男子ソフトテニス部
大会からの出場でありました
毎年、県外大会出場部活動
ハイスクールジャパンカップ
が、県南地区大会を優勝して
に対して、大会ごとに二万円
出場及び近畿インターハイ
勢いがつき、県大会もベスト
から十万円の範囲で﹁白幡同
二ペア出場の快挙
四に入りインターハイ出場を
窓会部活動奨励金﹂を贈呈し
決めました。この二ペア以外
経済的な支援を行っていま
六月に北海道札幌市で行わ
にもあと一歩のところでイン
れたハイスクールジャパン
す。例年、この予算は百万円
カ ッ プ の ダ ブ ル ス の 部 門 に、 ターハイを逃したペアが複数
を計上しています。この奨励
ありました。両ペアは、全国
幸坂泰輔 二
金は、全校集会で実施する壮
( 年 ・) 山 口 和 晃
三年 ペアが出場しました。 という舞台でも県代表として
行会において、白幡同窓会会
(
)
恥じない試合をして、他の部
ハイスクールジャパンカップ
長自らが直接生徒に贈呈して
員に勇気と感動を与えてくれ
に竜一生が出場するのは、二
います。この贈呈式の実施は、
ました。現在のチームは、イ
年連続三度目となります。茨
在校生の白幡同窓会への認識
ンターハイに団体で出場する
城県予選会は、決勝で敗れあ
を深める絶好の機会となって
ことを目標にして日々練習に
と一歩のところで出場権を逃
います。
励んでおります。今後ともご
したかと思われましたが、大
今年度は五月二十五日に壮
支援・ご声援の程お願いいた
会主催者からの推薦を受け
行会が実施され、男子軟式テ
します。
て、晴れて代表権を獲得しま
ニス部、射撃部、陸上競技部
した。試合は立ち上がりから 最後になりましたが、生徒
の県外大会出場へ向けて白幡
の活動を支えてくださる同窓
自分達のテニスをさせてもら
同窓会の染谷信洋会長より奨
会の皆様に、この場を借りて
えずに予選リーグでの敗退と
励金が手渡されました。
お礼申し上げます。ありがと
なりました。幸坂選手は、全
白幡同窓会の目的の一つで
うございます。
国大会トップレベルの試合を
ある﹁母校後
顧問
髙野
健二(高 回) 援のための活
二年生で経験することができ
たので、秋以降来春までの活
動﹂に対して、
躍が楽しみであります。
各部活動の部
員を初めとし
また、七月末に行われた近
畿 イ ン タ ー ハ イ に、 幸 坂 泰
て在校生の皆
輔・ 山 口 和 晃 ペ ア と 原 吉 典
さんの認識が
三
高まってきて
( 年 ・)西田昂太 三
(年 ペ
)
ア の 二 ペ ア が 出 場 し ま し た。
います。
県の代表枠が六つであること
矢口
博(高 回)
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2015 年(平成 27 年)12 月発行
竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27 号)
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竜ヶ崎一高白幡同窓会会報(第27号)
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