悟達の書―『ドゥイノの悲歌』について―

 悟達の書―『ドゥイノの悲歌』について―
竹内 豊
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『マルテの手記』において「醜悪な現実」を見つづけたリルケは、『ドゥイノの悲歌』においても依
然として存在の悲惨に目を注いでいる。そこにおいてみとめられるのは没落したマルテの影を引き
摺った詩人のすがただ。
とはいえ悲歌の成立史をみると、第一、第二の全部、そして第三と第十の冒頭の部分が最初に
書かれたことがわかる。ということは、人間の生の悲惨に対する嘆きにはじまって、その生の肯定
へと向かう流れをもつ悲歌全編は、最初においてそのヴィジョンを与えられていたということである。
したがって『ドゥイノの悲歌』は、この垣間見られたヴィジョンを確たるものとして自らの手に獲得す
るために、この詩編をたんなる概念的なものにとどめず、最も緊張と充実を要する言語的受肉化に
よって形象化しようとしたものであるということができる。
☆
さて、『ドゥイノの悲歌』は、ある内的な叫びが詩人の内奥から迸りでたところからはじまっている。
第一悲歌の冒頭がそれである。
ああ、いかにわたしが叫んだとて、いかなる天使が
はるかの高みからそれを聞こうぞ?
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悲歌全編を貫く嘆きはこの冒頭の一節に凝集されている。この嘆きの根底には超越的実在に対
比された己れの卑小さの自覚がある。これは宇宙の無限を前にしたパスカルの驚嘆を想起させる。
が、そのむかうところはまったく異なっている。さしずめキリスト教徒なら、己れの悲惨を偉大なる創
造神への帰依によって、すなわち信仰告白によって存在の恢復を獲ようとするであろう。パスカル
がそれである。だがリルケはそのようには自らの悲惨を自覚しない。かれにはあの天使と格闘した
ヤコブのような雄々しい人間像への共感があり、自らの悲惨を天使のような至高の実在者との競
合において捉えるのである。かれが「神」とは呼ばず「天使」と呼ぶのも、天使が神ほどには人間と
隔絶していないという認識がはたらいているからであろう。
とはいえ詩人は天使と自らの間の隔たりの絶大であることに戦慄せざるをえないのである。この
絶望的な嘆きのさなかにあって、いかにして存在を恢復しうるのか。これが『ドゥイノの悲歌』全編を
貫くモティーフである。
☆
人間の悲惨とは、いうまでもなく存在のもつ矛盾、その分裂した状態をいう。そのような状態に
あって空虚を満たし存在の充実をもたらしてくれるものがあるとすれば、それは愛であろう。リルケ
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手塚富雄訳。『ドゥイノの悲歌』からの引用はすべて手塚訳である。
にとって愛とはひとまずエロスの愛である。かれはそこに人間性そのものを、そして深い根源性を
認めている。たとえばかれはこう述べている。
「夜中にひとつになり、揺り上げる快楽のなかに絡み合う者たちは、言いがたい歓喜を歌うため
にいつか立ち現れてくる未来の詩人のために、甘味さと深さと力とを集めて、真面目な仕事をして
いるわけです。」
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これは徹底的な官能の肯定であるが、しかしリルケにあって愛は究極において無償の愛へと昇
華されていくような純粋さを秘めている。かれはそのような愛の典型を「愛する女性」という女性像
のうちにみとめていったのである。
それにしても、あこがれに堪えぬなら、
あの愛に生きた女たちを歌うがよい、
彼女らの世にきこえた心根はまだまだ不滅のものとはなっておらぬのだ。
あの捨てられた女たち、それは着ち足りたものたちより、'
はるかにはるかに愛するカをもつ存在だったのだ、ほとんどおまえがねたましさを感ずるほどに。
いかに頌めても頌めきれぬ彼女たち、その頌め歌をくりかえし高らかに歌え。
(第一悲歌)
だが詩人が歌うに足るその愛も、悲歌のなかでは自己の存在を恢復する鍵とはなっていない。
むしろ愛の限界、その基盤の脆さのほうに意識は傾いている。
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『若き詩人への手紙』1903 年 7 月 16 日付。高安国世訳。ほかにもリルケの性愛についての見解
は『ロダン』第一部において、その「地獄の門」についての記述のなかに見られる。
しかしわれらは一事に心をつくしているときに
すでに他事の損失を感じている。葛藤対立は
われらにいっとう近しいのだ。愛するものどうしは
かたく結んで、ひろい世界と狩猟と故郷とを期待しあうが
たえず相手のうちに、断崖の際に似た行きどまりを見いだすではないか。
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(第四悲歌)
☆
已れの卑小さに較べて、野生ははるかに純粋である。人間にあってこれに値する存在があると
すれば、それは幼い者、あるいは若者である。第三の悲歌で若者の性欲の底に澱むカオスがうた
われているが、これはけっして人間の悲惨の理由を示したものではあるまい。根源的な力(性欲は
根源的な力である)、暗黒なるものは、リルケにとってむしろ意義あるものである。とはいえそれが完
全に肯定されているわけではない。なぜならそれは衝動的に若者を襲うデモーニッシュな力であり、
けっして自らでは制御しえぬものだからである。それは女性が示す抱擁的な愛に較べれば、はる
かに無秩序で粗野なものである。それはエロス的な愛にとって破壊的でさえある。悲歌のなかでう
たわれている男女の愛の不毛の根源的な理由もこの辺りにあるのかもしれない。
むしろ若者の内部に漲るこの生命力は、英雄の形姿に凝集しているといってよいであろう。この
英雄の形姿は、一つはすでに触れた女性の愛を超えて、自らの生命力(粗野にして純粋な情念)
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愛の限界、その脆さについて歌った悲歌をもうひとつ挙げておこう。「けれどおんみらが、愛のきざ
す最初の出逢いの/目と目との見かわしの驚愕に堪え、窓によって愛慕に燃える憧憬に堪え、/うち
つれての最初の散策、一度かぎりのあの園の散策に堪えて、それらの時をすぎたとき、/恋するも
のたちよ、そのときおんみらはなおも永遠の持続を感知するおんみらでありつづけるか。」(第二悲
歌)
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そのものによって飛翔する若者像の結晶したすがたであり、 もう一つは地位や名誉や財産(いず
れも死の前では儚い価値であり、本当の価値ではない)といった俗人的世界の価値観からは自由
な、幼児のような純粋さを保った理想的な人間像を表している。
英雄は、早世した人々にふしきなほど近似している。持続は
かれの心を誘わない。かれは上昇が存在なのだ。たえまなく
かれは自己を拉し去って、われわれがつねに見ているのとは異なる
不断の危難の星座のなかに踏み入る。
(第六悲歌)
☆
死は、愛とともにリルケの最大のテーマである。悲歌においては、死は趣の異なる二つの側面か
ら把握されている。死はさしあたって、この世の価値の一切の否定である。したがって忌み嫌われ
るものである。人は死と向き合うことを避けようとする。もとより死を克服したわけではなく、単なる逃
避である。しかしそれはとりもなおさず悪しき死の支配下に置かれた状態なのだ。第五悲歌に現れ
るマダム・ラモールのすがたがそれである。パスカルのいう「慰戯」にうつつをぬかす生活態度であ
る。
しかし人間にとって、死とは本来そうしたものではない。リルケの死に対する本意は無論こちらに
ある。死は時に若者や幼い者を地上からさらっていってしまう。しかしそれによって彼らはその純粋
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「なぜなら、英雄こそは愛のあらゆる滞留地を踏み破って突進した。」(第六悲歌)
さを保つことができたのだ。誰が、のうのうと生き延びた者たちの生の方が、幼くして死んだ者の一
日よりも豊かだといえようか。「思ってはいけない。運命は幼い日の密度よりゆたかだと。」(第七悲
歌) リルケはそう歌っている。死は生と対立し、生を否定さるものとして忌み嫌われるべきものでは
ないのだ。真の絶望のないところに真の希望もないように、死を包摂しえない生もないのである。
悲歌第九は全編中、最も肯定的な詩編であるが、そのなかにみられる「親しみ深い死」という表
現は、死がすでにこの世の生きとし生ける者を育む大地の「聖なる着想」であり、人を真の生へと
向かわせるものとして捉えられている。ここにはリルケの生死一如の世界観が認められるのである。
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天使たちは(言いつたえによれば)しばしば生者たちのあいだにあると
死者たちのあいだにあるとの区別を気づかぬという。永劫の流れは
生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代を拉し、
それらすべてをその轟音のうちに呑みこむのだ。
(第一悲歌)
☆
悲歌全編は至るところ悲嘆に満ちているが、同時にそこには自已是認を求める叫びに満ちても
いる。それは波のうねりのように干満をくりかえしつつ大きく揺れている。詩人は安定を求めるが、
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リルケの生死一如の思想は第一悲歌の終節でも歌われている。
それは拒絶に遭って動揺を強いられるのだ。リルケは抑圧されたこの自己是認の欲求をどこかで
漏らさずにはいられない。
「この世にある事は素晴らしい」―第七悲歌のなかで、リルケは思わずこう歌う。この世は嘆きの
声に満ちている。にもかかわらず「すばらしい」と感じるのが生というものではないだろうか。この生
の肯定は第九悲歌において一つの視点を得て成就する。その視点とは言葉だ。しかし言葉によっ
て語りうるかぎりにおいて。なぜなら死後のことはよりすぐれて言葉で語りえぬ世界であるから。「こ
の地上こそ、言葉でいいうるものの季節、その故郷だ」とかれは歌っている。
が、リルケはあたかもこの地上以外の何処に言葉という特権を行使しうる場処があるのか、と言い
た気である。なるほど今日、言葉で語りうるものは無惨な躯を晒している。それこそがとりもなおさず
悲歌が歌われなければならなかった状況を示してもいる。しかし過去においてはどうか。あの列柱
や塔は、スフィンクスやシャルトル大聖堂は。そうだ今日にあってもささやかながら灯は燃えつづけ
ていることだろう。言葉によって語りうるものとは「物」だ。「天使たちに物を語れ。……天使に示せ、
ひとつの物がいかに幸福に、いかに無垢に、そしていかにわれわれの所有になりうるかを。」―こう
して第三悲歌はその終節で頂点に達する。
見よ、わたしは生きている、何によってか? 幼児も未来も
感じはせぬ……みなきる今の存在が
わたしの心情のうちにあふれ出る。
キリスト教にあっては己れの罪を深く悔いる者ほど、許しの喜びも大きいという。なぜ許されるの
か?それはイエス・キリストの復活のうちに勝利がすでに実現されていることを信ずる信仰による。
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リルケにあっては無論この信仰は成り立たない。が、かれが「昇る幸福」に対して「降りくだる幸福」
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を歌うとき、 そこには逆転された共通の原理を認めることができる。これは奇しくもデカルトによる
神の存在証明が、実はデカルト自身のコギトによって要請されたものであるのと軌を一にしている。
リルケが天使と競合しようとしたとき、そこにあったものはデカルトと同様に自己への信頼であり、か
れもまた自己のなかに肯定の原理を求めていたのである。
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「なんじら世にありては艱難あり、然れど雄々しかれ。我はすでに世に勝てり。」(ヨハネ伝十六章三
十三節)
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「そしてわれわれ、昇る幸福に思いをはせる/ものたちは、ほとんど驚愕にちかい/感動をおぼえる
であろう、/降りくだる幸福のあることを知るときに。」(第十悲歌)