本文は - 化学と生物

バイオサイエンススコープ
農政新時代を切り拓く技術の現在と未来 -7
わが国の感染症研究の現状と方向性について
松岡謙二
文部科学省研究振興局研究振興戦略官
はじめに
しく超高齢社会を迎えるということが予測されています (1).
化学と生物
●
日本農芸化学会
わが国は世界最高水準の平均寿命を達成し,人類誰もが
願う社会を実現しました.これからは,さらに,若い世代か
2015 年10 月,農林水産省から人事交流で文部科学省に出向
ら高齢者に至るまで国民誰もが健康な状態を維持し,本人が
して,研究振興戦略官として先端医科学研究を担当していま
希望するライフスタイルに沿って,社会で活躍したり,余暇
す.先端医科学研究とはどんな研究領域なのか.ライフサイ
を楽しんだりするなど,生き生きとした実り豊かな生活を営
エンスのうち,その成果を社会還元するに当たって,省内,
めるような社会を構築していくことが重要となります.
関係府省が密接に連携して取り組む必要がある医学研究領域
このような社会の構築を目指して,政府は取り組むべき
とされており,感染症,がん研究,ゲノム医療などを担当し
施策の基本方針,達成すべき成果目標(KPI),施策の推進
ています.
方策を「健康・医療戦略」
(平成 26 年 7 月 22 日閣議決定)と
「先端医科学研究」と聞いて,農芸化学会の方々には,
してとりまとめました (2).研究開発については,健康・医療
「自分とは遠い領域」とお感じになる向きもあるかもしれま
戦略に即して医療分野研究開発推進計画を策定し,これに基
せんが,後で述べるとおり,実際には新興感染症などの次々
づき国立研究開発法人日本医療研究開発機構(AMED)
,関
と生じる新たな事態への対応にブレークスルーをもたらすに
係府省,国,地方,大学,医療機関,民間事業者が連携協力
は,幅広い領域の専門家がこの問題にかかわることが不可欠
して推進されています (3).
であり,私自身,農林水産省から出向して本業務に携わるな
多岐にわたる医療分野の研究開発のうち,「各省連携プロ
かで,農芸化学を含む農学が担うべき部分も大きいと感じて
ジェクト」として,医薬品創出,医療機器開発,革新的な医
いるところです.
療技術創出拠点,再生医療,オーダーメイド・ゲノム医療,
また,この分野の研究推進においては,高度な研究環境
がん,精神・神経疾患,新興・再興感染症,難病の 9 つにつ
の整備が求められるために,高度研究施設を拠点として,関
いて,各省の関連する研究開発プログラムを統合的に連携し
係省庁,大学,研究機関のネットワーク構築による人材育成
一つのプロジェクトとして一体的な運用が図られています
まで含んだ研究の推進と安全の確保の両面を満たす体制の整
(図 1).
備など,農林水産研究の分野でも参考になる先導的な取り組
感染症研究
みが行われています.
そうした観点から,今回ご紹介させていただく内容が皆
様のご参考になれば幸いです.
健康・医療研究の戦略推進
9 つの各省連携プロジェクトのうち感染症研究に関連し
て,文部科学省に設置された検討会において,感染症研究の
現状や課題,今後の感染症研究のあり方について検討が行わ
れました.7 月に「感染症研究の今後の在り方に関する検討
わが国の経済社会のあり方を考えていくためには,日本
が世界最高水準の高齢化社会であり,ますますその傾向が強
会報告書」がとりまとめられましたので,その概要を紹介さ
せていただきます (4).
くなることを考えておかなくてはなりません.
わが国の総人口は,長期の人口減少過程に入っており,
平成 72 年には 9,000 万人を下回ります.昭和 25 年頃と同程度
1.
感染症を巡る事情
グローバル化の進展等に伴い,感染症が国境を越えて拡
の総人口となります.また,生産年齢人口はその半分と推計
散するリスクが増えています.近年では,鳥インフルエン
されています.65 歳以上の高齢者人口と 15〜64 歳人口の比
ザ, 重 症 急 性 呼 吸 器 症 候 群(SARS)
,中東呼吸器症候群
率は,昭和 25 年の 1 : 12 に対し,平成 72 年には 1 : 1.3 と恐ろ
(MERS)
,エボラ出血熱などの流行が国際的に大きな脅威と
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なりました.わが国においても,2014 年 70 年ぶりにデング
感染症に関する国内対策を強化するとともに,国際協力
熱の国内発生が確認されました.本年は中南米中心に流行し
による感染症制御に関する取り組みを進めることが急務と
ているジカウイルス感染症の輸入症例が確認されました.ジ
なっています.
かつてわが国の死因の 1 位であった感染症は,衛生環境の
カウイルス感染症は,妊娠時には小頭症などの先天性の障害
を起こすおそれがあります.
改善,抗菌薬やワクチン開発などが功を奏し,撲滅可能な疾
患であると楽観的な見方が主流となっていました.しかし,
世界的には 3 大感染症(エイズ,結核,マラリア)の死者は
年間 300 万人を超えています.加えてエボラ出血熱,SARS,
健康・医療戦略 各省連携プロジェクト(KPI)の例
化学と生物
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日本農芸化学会
○ オーダーメイド・ゲノム医療
【2020 年-2030 年頃までの達成目標】
・生活習慣病(糖尿病や脳卒中、心筋梗塞など)の劇的な改善
・発がん予測診断、抗がん剤等の治療反応性や副作用の予測診断の確立
・うつ、認知症のゲノム医療に係る臨床研究の開始
・神経・筋難病等の革新的な診断・治療法の開発
○ 疾患に対応した研究<がん>
【2020 年頃までの達成目標】
・5年以内に日本発の革新的ながん治療薬の創出に向けた10 種類以上の
治験への導出
・小児がん、難治性がん、希少がん等に関して、未承認薬・適応外薬を含
む治療薬の実用化に向けた6種類以上の治験への導出
・小児がん、希少がん等の治療薬に関して1種類以上の薬事承認・効能追加
・いわゆるドラッグ・ラグ、デバイス・ラグの解消
・小児・高齢者のがん、希少がんに対する標準治療の確立(3件以上のガ
イドラインを作成)
○ 疾患に対応した研究<新興・再興感染症>
【2020 年頃までの達成目標】
・得られた病原体(インフルエンザ・デング熱・下痢症感染症・薬剤耐性菌)
の全ゲノムデータベース等を基にした、薬剤ターゲット部位の特定及び新
たな迅速診断法等の開発・実用化
・ノロウイルスワクチン及び経鼻インフルエンザワクチンに関する非臨床試
験・臨床試験の実施及び薬事承認の申請
※2030 年までの達成目標
・新たなワクチンの開発(例:インフルエンザに対する万能ワクチンなど)
・新たな抗菌薬・抗ウイルス薬等の開発
・WHO、諸外国と連携したポリオ、麻疹等の感染症の根絶・排除の達成(結
核については2050 年までの達成目標)
MERS,デング熱,ジカウイルス感染症などが猛威をふる
い,薬剤耐性(AMR)微生物の脅威も拡大しています.
かつてわが国は,北里柴三郎,野口英世,志賀
潔など
の著名な研究者を多く輩出し,世界をリードしてきました.
その後,感染症患者が大幅に減少したことに伴い,感染症研
究,とりわけ基礎研究に取り組む研究者の減少の要因となっ
てしまいました.
このようななか,2015 年 12 月に大村
智北里大学特別栄
誉教授がオンコセルカ症およびリンパ系フィラリア症の治療
薬のシーズとなる物質の発見などの功績によりノーベル賞を
受賞されました.このことは,わが国の感染症研究の潜在的
なレベルの高さを示すものであり,学生,若手研究者,感染
症領域以外の研究者に感染症に関心をもっていだく契機とな
るものと期待しています.
2.
感染症研究の現状
感染症に関しては,健康・医療戦略の下での各省連携プ
ロジェクトである「新興・再興感染症制御プロジェクト」
(図 2)により,病原体の全ゲノムデータの構築,薬剤ター
ゲット部位の特定,新たな迅速診断法の開発・実用化が進め
られています.
図 1 ■ 健康・医療戦略各省連携プロジェクトの KPI
文部科学省においては感染症研究国際展開戦略プログラ
図 2 ■ 新興・再興感染症制御プロジェクト
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日本農芸化学会
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図 3 ■ 感染症研究国際展開戦略プログラム
ム(J-GRID)により,海外 9 カ所の拠点を活用し,インフル
病原性メカニズムなどを標的とした抗菌薬の開発を急ぐ必要
エンザ,デング熱,薬剤耐性菌,下痢症感染症等を対象に,
があります.また,従来の抗菌薬(低分子化合物)とは異な
疫学研究や診断治療薬等の基礎的研究を行っています(図
るアプローチにより,薬剤耐性菌を対象とした抗体医薬品や
3).日本には存在しない感染症が蔓延している現地で患者に
ワクチンの開発が期待されます.
直接接することができるため,人材育成の面からも評価され
ています.
化学と生物
このほか文部科学省では,政府開発援助(ODA)と連携
して行う感染症研究にも取り組んでいます.
ワクチンについては,必要性やその開発状況などを把握
したうえで,新たな視点でワクチン開発に向けた基礎的研究
を推進することが必要です.薬剤耐性が問題となっている細
菌などを対象としたワクチンが開発されれば,薬剤耐性菌問
厚生労働省では,
「新興・再興感染症に対する革新的医薬品
題の解決につながります.またアカデミア研究者には,トレ
等開発推進研究事業」により,サーベイランスなどの感染症
ンドを追うだけではなく,ぜひトレンドを先取りした研究も
対策に関する基盤研究の強化,治療薬・診断薬・ワクチン開
期待します.
発などにつなげることを目的とした研究を実施しています.
3.2
人材育成
これらの各省連携プロジェクトの実施により収集された病
研究のトレンドの変化により,若い研究者が微生物学よ
原体の全ゲノムデータが構築され一部は公開されています.
りも神経科学や分子生物学,ゲノム科学などの領域に関心を
示す傾向が指摘されています.
今後の展開方向
3.
3.1
感染症治療薬やワクチンの開発
1928 年のペニシリン発見以後,各種の抗菌薬が開発され,
医療のみならず畜産業,水産業などでも活用されてきまし
た.各種のワクチンと衛生環境の改善も伴って,先進諸国で
しかし,感染症・微生物学領域は,新興感染症などのア
ウトブレイクの発生に対し迅速に対応するためには不可欠な
学問です.微生物学に関心をもつ学生を増やし,将来の感染
症研究者を養成する仕組みを考えることが必要です.
また医学,歯学,獣医学,薬学,農学などの学問分野,
は,世界的に死因の上位を占めていた肺炎や結核,消化管感
昆虫や植物などに付着する微生物を扱う研究との連携,微生
染症などが激減し,感染症はすでに制圧されたかのように思
物学以外の生命科学,さらには工学,情報科学など幅広い領
われました.しかしながら,現在でも世界的に見ると,各種
域のテクノロジーや人材が求められています.
の感染症がいまだに死因の上位を占めており,特に発展途上
最近の若手研究者は,生きた病原体を丸ごと使用したり,
国などでは,感染症が主要疾患の地位を占めている状況にあ
感染現象そのものを見る経験が少なくなったことが指摘され
ります.先進国においても,新興・再興感染症の脅威が高ま
ています.
るとともに,薬剤耐性菌の出現と蔓延が深刻化しつつあるな
これらを解決するため,多様な領域の研究者が加わり,
かで,抗菌薬をはじめとする感染症治療薬や,ワクチンの開
分野横断的に創造的な感染症研究が展開できるような仕組み
発を推進することが課題となっています.
が期待されています.
このため,従来の抗菌薬とは作用機序等が異なる革新的
な新規薬剤の開発に向けた取り組みの推進が期待されます.
たとえば,耐性化が生じないように,菌を殺すのではなく,
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3.3
研究環境の整備
2014 年の西アフリカにおけるエボラ出血熱のまん延は,
世界中に大きな衝撃と不安を与えるとともに,わが国におい
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化学と生物
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図 4 ■ 感染症研究体制推進プロジェクト
図 5 ■ 今後強化が求められる研究領域
てもエボラウイルスなどの高病原性ウイルスが研究と高度な
安全設備を備えた実験施設(BSL4 施設)の必要性の認識が
広まりました.
があります.
昨年 2 月に国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議に
より策定された「国際的に脅威となる感染症対策の強化に関
2014 年 8 月に国立感染症研究所村山庁舎が感染症法に基づ
する基本計画」において,
「国内の大学等の研究機関におけ
く特定一種病原体等所持施設として指定されるまで,G7 の
る感染症に係る基礎研究能力の向上および危険性の高い病原
中で BSL4 施設をもってない国はわが国だけという状態でし
体等の取扱いに精通した人材の育成・確保等を図るため,病
た.村山庁舎が BSL4 として稼動できるようになっても,大
原体解析,動物実験,治療法・ワクチン開発等の研究開発が
学などの学術研究・基礎研究に使用できる BSL4 施設はない
可能な最新の設備を備え,安全性の確保に最大限配慮した
という状況は変わっていません.
BSL4 施設を中核とした感染症研究拠点の形成について,長
現在,国内の研究者は海外の BSL4 施設で共同研究などの
崎大学の検討・調整状況等も踏まえつつ,必要な支援を行う
形で BSL4 病原体にかかわる優れた研究を行っていますが,
など,我が国における感染症研究機能の強化を図る.」こと
旅費や施設使用料などの経費面,成果の帰属,人材育成,先
とされました(図 4).
進諸国との協力関係の構築などにおいて,大きなデメリット
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BSL4 施設が整備されれば,そこで取り扱う BSL4 病原体
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に関する基礎・基盤研究,医療開発研究,疫学研究,人材育
成などが可能になります.また,BSL4 病原体にかかわる研
究にとどまらず,感染症研究全体に技術的,人材育成面で大
きな効果が期待されます.
現在,長崎県,長崎市および長崎大学が「感染症研究拠
点整備に関する基本協定」に基づき,地域住民の理解促進な
どの取り組みが行われています.政府は,内閣官房,文部科
学省,厚生労働省などが構成員となる検討委員会において,
BSL4 施設を中核とした感染症研究拠点の形成に必要な支援
方策について検討・調整し,推進することとしています.
日本農芸化学会
おわりに
政府全体の医療研究に関する枠組みと,研究振興戦略官が
担当している感染症研究について紹介させていただきました.
感染症研究に関しては,検討会報告書を踏まえて,来年
度から新たなプログラムが開始できるよう,重篤感染症に関
する研究の強化,海外で活躍できる研究者などの育成,多様
な専門領域との連携方策などについて検討しているところで
●
す(図 5)
.
感染症もがんもこの世から根絶することはできませんが,
何が病気の素になるのか,病気の素は細胞や体に入って何を
しているのか,そのとき細胞や体はどのように反応するのか
化学と生物
を解明することが,病気の診断,治療や予防に結びつける近
文献
1) 内 閣 府: 平 成 28 年 版 高 齢 社 会 白 書,http://www8.cao.
go.jp/kourei/whitepaper/w-2016/zenbun/28pdf̲index.
html, 2016.
2) 健康・医療戦略推進本部:健康・医療戦略(平成 26 年 7
月 22 日 閣 議 決 定)
,http://www.kantei.go.jp/jp/singi/
kenkouiryou/suisin/ketteisiryou/dai2/siryou1.pdf, 2016.
3) 国際的に脅威となる感染症対策閣僚会議:国際的に脅威
となる感染症対策の強化に関する基本計画〜絶え間ない
感染症の脅威に挑戦する日本のアクション〜(平成 28 年
2 月 9 日国際的に脅威となる感染症対策関係閣僚会議決
定),http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokusai̲kansen/
taisaku/keikaku.html, 2016.
4) 科学技術・学術審議会:感染症研究の今後の在り方に関
する検討会報告書(平成 28 年 7 月 27 日科学技術・学術審
議会研究計画・評価分科会ライフサイエンス委員会(第
79 回)配付資料資料 2-4-2, http://www.lifescience.mext.
go.jp/files/pdf/n1739̲10.pdf, 2016.
プロフィール
松岡 謙二(Kenji MATSUOKA)
<略歴>1987 年北海道大学農学部卒/1987 年農林水産省入省/
2013 年農林水産省生産局技術普及課生産資材対策室長/2015 年,
現職<研究テーマと抱負>農業機械工学,安全工学,先端医科
学,放射線医学
Copyright © 2017 公益社団法人日本農芸化学会
DOI: 10.1271/kagakutoseibutsu.55.58
道だと思います.
「彼を知りて己を知れば百戦して殆うから
ず.彼を知らずして己を知れば一勝一負す.彼を知らず己を
知らざれば戦う毎に必ず殆うし.」です.
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