新潟大学人文学部・情報文化課程 文化コミュニケーション履修コース 2009 年度 卒業論文概要 相沢 咲希子 現代日本のサブカルチャーにおける異性装の表象 .............. 1 朝熊 裕里 伊坂幸太郎論 .............................................. 2 荒川 智秋 アンパンマン論 ............................................ 3 今井 さくら メディアをつなぐ声 ―声優の生成― ........................ 4 江川 亜矢 舞城王太郎論 .............................................. 5 小黒 美奈 テレビドラマにおける「擬似家族」 .......................... 6 徹 携帯電話が社会に与えた影響について ........................ 7 小野寺 片野 優 サイバーパンクSFにおける身体とセクシャリティ ............ 8 黒木 奈緒美 ロードムービーにみる「逃走」 .............................. 9 桑原 理沙 欲望する女、欲望される男 .................................. 10 佐野 香織 アニメロボットに投影されるアイデンティティ ................ 11 下里 純平 現代社会における「お笑い」の影響 .......................... 12 高橋 朊子 グスタフ・クリムト論 高橋 理紗 マンガにおける身体と内面描写 .............................. 14 田口 紘子 阿部和重『シンセミア』における逸脱するリアリズム .......... 15 竹田 尚美 女芸人論 土屋 美穂 中園ミホ作品研究 .......................................... 17 花田 みどり 桐野夏生作品研究 .......................................... 18 PERVERSI Simone ―彼女たちの両義性― ................ 13 ―現代日本のテレビにおけるその姿―............... 16 モダニティ再考 ―海外テレビドラマ『LOST』シーズン1・2―............. 19 水落 絵理香 現代日本における仮想現実感覚の変容 ........................ 20 矢部 桃子 梅佳代論 .................................................. 21 吉岡 千秋 アニメーションにおける生と死 .............................. 22 河邑 淑子 ミヒャエル・エンデ論 渋谷 香菜子 ハリウッド映画における日本の表象と渡辺謙 .................. 24 日下部 央里絵 老人と子どもの絆 ―物語と遊び― ...................... 23 ―児童文学に表されるイメージ― .......... 25 星野 桃子 カントリーミュージック論 ~ディクシーチックス論争を通して~......................... 26 迎田 涼子 人形に魂は宿るか ―『砂男』と『未来のイヴ』からみる自動人形への夢 ........ 27 青木 美桜 クリスチャン・ディオールとファッションの恍惚 .............. 28 金澤 知佳 C.ドビュッシー論 川上 舞子 ビジネスと表現から見る「エヴァンゲリオン」シリーズの 14 年.. 30 齋藤 竜也 トランスフォーマー論 ...................................... 31 杉山 絵理子 ヒップホップにおける踊る身体 .............................. 32 中島 友美 越境する身体 .............................................. 33 野村 暁也 スティーヴン・スピルバーグ論 斎藤 拓 池波正太郎論 .............................................. 35 ―『月の光』における一考察― .......... 29 ―『宇宙戦争』を中心に― .... 34 現代日本のサブカルチャーにおける異性装の表象 相沢 咲希子 手塚治虫『リボンの騎士』に端を発する異性装を取り扱った漫画作品は、今日に到るま で多数生まれている。ジェンダーや性別越境というテーマが、尐女、尐年、そして青年漫 画誌においていかに描かれてきたかを歴史的に考察する。本論では「女装尐年」を特に取 り扱う。 まず第 1 章では男装尐女の歴史を振り返りつつ女装尐年の生まれた背景を明らかにす る。70 年代に『ベルサイユのばら』において男装尐女の 1 つの完成形が示されたのとほ ぼ同時に、尐女漫画で女装尐年が出現した。女装尐年に頭良し顔良し運動良しのスーパー マン的付加価値をつけることで、女装尐年はヒーローとして存立したのだ。同時に尐年愛 作品も生まれた時代で、ジェンダー・イメージの混乱の手法として女装尐年が採用された と言える。また 80 年代には尐年誌において『ストップ!!ひばりくん!』がヒットする。 ひばりくんもスーパーマンではあるが、男性性を巧妙に隠すことで彼(女)は尐女漫画と は逆にヒロインとして成立した。 第 2 章では 90 年代尐女漫画における女装尐年を見る。90 年代は低年齢向け尐女漫画 誌において女装尐年作品が多数生まれた時代であった。尐女の同一化対象としての女装尐 年や、内面的にも身体的にもヒロイン以上に過度な女性性を持っている女装尐年等が生ま れた。これらはヒロインと相対することで、関係性の中で内面の男性性が強調されるよう になった為だ。内面を絶対的スーパーマンにすることで成立した女装尐年が、ここでは相 対的になり、敶居が低くなったと言える。 第 3 章では 00 年代青年漫画における女装尐年を見る。ここに至って、女装尐年は初め てリアルな身体性や社会性を獲得し始めた。『放浪息子』では女装尐年の夢精、声変わり、 脛毛、周囲の偏見等避けられない問題が提示される。ここでは主人公が成長する中で、能 動的に女性性(受動的なもの)を獲得しようと足掻く様子が描かれる。また普通の会社員 が女装する『ニコイチ』では既存ジェンダー観の崩壊や女装者に寛容な社会が描かれる。 一般人がオン(会社)とオフ(私生活)でキャラクターを切り換えることと、女装してキ ャラクターを切り換えることは同一だと示す。女装過程も細かに描かれ、性はいくらでも 演じられる、可塑性を備えているものだと示唆している。 終章では、90 年代尐女漫画において生まれた女装尐年像が、近年男性向けアダルトゲ ームにおいて“萌え要素・男の娘”として現れ始めたことに触れた。過度な女性性を持つ 女装尐年が“犯される”対象となったのだ。成年向けでは既存尐女漫画以上のファンタジ ックな身体性を持つ女装尐年が描かれ、青年誌ではリアルな身体を持った女装尐年が描か れる。同時代に対照的な描かれ方をしている女装尐年ではあるが、1 つの新たな境地にた どり着こうと様々な可能性が提示されていると見ることができる。 1 伊坂幸太郎論 朝熊 裕里 伊坂幸太郎は、2000 年に『オーデュボンの祈り』でデビューした作家である。伊坂の 作品にはいくつかの作品に共通する表現や設定、登場人物、世界観などが多く見られる。 それらの作品間のリンク、共通点は、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』で述べている、現 代の想像物をかたちづくる想像力、「決断主義」とどこか関係しているように感じられる。 そこで、本稿では、宇野の『ゼロ年代の想像力』を用いながら伊坂作品を分析していくこ とで、伊坂作品に共通して見られる設定、登場人物、世界観などがどのような意味を持つ のかについて考察した。 第 1 章では、伊坂幸太郎についてまとめた。そして、一般的に言われている伊坂作品 の特徴の中から 3 つを挙げ、それらが極めて表面的であることを述べた。 第 2 章では、『オーデュボンの祈り』について分析し、「優午」が「名探偵」同様、 物語全体を俯瞰し、物語を紡ぎだす役割を持っていたことを指摘した。そして、「優午」 ではなく、物語内部に組み込まれた存在である「伊藤」が探偵役を務めることで、「名探 偵」が抱える問題を回避し、現代を生きる私たちの象徴である「伊藤が」、島の住人達や 「世界」に触れ、「死」を受け入れていく過程を描くことで、そこには「終わりのある (ゆえに可能性にあふれた)日常」が広がっていることを私たちに示しているのではない かと考えた。 第 3 章では、『ラッシュライフ』から『終末のフール』までの作品について分析した。 『ラッシュライフ』の「高橋」と『陽気なギャングが地球を回す』の「タダシ」について 分析し、「優午」の「死」以降、物語全体を俯瞰する超越的な視点を持つものの存在は、 極めて限定的なものとなっていることを指摘し、人々は物語の断片から、自分で物語を構 築するしかない状態であることを述べた。また、「荻島」的空間として『終末のフール』 の「ヒルズタウン」を例に挙げ、「荻島」的空間、つまり、伊坂作品における「仙台」と は、周囲の人々とのつながりの中から物語を引き出し、「運命」や「死」を受け入れ、 「終わりのある(ゆえに可能性にあふれた)日常」を生きる人々の空間であると考えた。 第 4 章では、『ゴールデンスランバー』について分析した。そして、もはや「優午」 のような超越的な視点を持つものが存在せず、世の中の全体像が把握できなくなってしま った世界において、人々は樋口晴子のように「世界」を個人的な生活に関わる範囲にまで 縮小し、その中で超越性を獲得しようとしていることを指摘した。一方、その外側に放り 出された、青柳雅春は、周囲の人たちとのつながりの中から物語を紡ぎだそうとしており、 そのつながりこそが、物語中において超越性として機能しているのではないかと考えた。 このように、伊坂作品は、現代を生きる私たちの状況を読み取り、作品同士のリンクや、 個性的な登場人物たち、独特な空間設定などを通して、この時代を豊かに生きるためのヒ ントを示してくれているのではないだろうか。 2 アンパンマン論 荒川 『それいけ! 智秋 アンパンマン』は、やなせたかしの絵本『アンパンマン』シリーズを原 作としたテレビアニメ及び劇場版アニメシリーズの総称である。他の子供向け作品と比較 して、主な対象である児童からの人気は男女を問わず高く、名前は児童に限らず非常に広 い範囲で知られている。しかしその人気と知名度に反し、テレビアニメの視聴率や絵本の 売り上げは決して高くはない。こうなっている理由の一つとして、本論文では、作品より もそれに登場するキャラクターが人気を集めていることを挙げ、特に常に作品の中心にい るキャラクターであるアンパンマンについて考察した。 第一章では、ギネスに認定されるほどの膨大なキャラクター群をある程度整理し、その 中から「普通でないもの」を抜き出した。それらは物語に存在する一定の法則から外れて いるが、物語を決定的に崩壊させるに至らない。その理由は、それら全てにアンパンマン が深く関わっているからであり、異質なものが存在していても、物語の中心に位置するア ンパンマンが普段通りのキャラクターである限り『それいけ! アンパンマン』の世界は 崩れないことを論証した。 第二章では、キャラクターが作品から独立することについて考察した。アンパンマンは 作品以外の機会、例えば企業のイメージキャラクターなどとしてすでに確立されているイ メージを利用する形で使われ、それがますます強固なキャラクターイメージを作り上げる。 その一方で、作品や既存のイメージとまったく関係ない分野でもキャラクターの名前だけ が使われるほどの知名度もある。また、キャラクターの人気が先行した結果のひとつとし て数多いキャラクターグッズが挙げられる。既に多くの人々の間に知れ渡っているアンパ ンマンというキャラクターのイメージとそのグッズ類の力により、もはやアンパンマンは アニメや絵本、劇場版作品等の原作による後押しがなくとも人気キャラクターであり続け るだけの地盤を得ていると結論づけた。 第三章では、アンパンマンと近代アニメについて考察した。その共通点として、まず二 次創作を挙げた。近代アニメもまたキャラクターの人気が作品の人気に先行することがあ り、作品から独立したキャラクター群が二次創作の元になる。しかしアンパンマンの場合 はあまりにキャラクター人気が先行しており、原作であるはずの劇場版ですら二次創作に なっているのではないかと考えられる。また、キャラクター商品の展開を強く行う、とい う点でもアンパンマンと現代アニメは共通していることを指摘した。 『それいけ! アンパンマン』は、キャラクターを前面に押し出すアニメとしては、対 象層における人気や、それ以外の人々に対する知名度において、おそらく現代日本で最大 の成功を収めている作品である。現在の人気や知名度から見て、他にも存在する「キャラ クター人気が先行する作品」の究極形であると言える。 3 メディアをつなぐ声――声優の生成―― 今井 さくら 私たちは声帯を振動させることによって声を発する。つまり声を発するには身体が必 要であったし、その声が届くのは限られた範囲でしかなった。しかしラジオやテレビとい ったメディアの登場は、声と身体を切り離し、声を時間的にも空間的にも広範囲へと伝え ることを可能にした。このことは声優という存在が誕生したことからも明らかになる。 近年声優の動きは大変活発である。声優が CD を発売し、大規模なライブを行っている。 雑誌やテレビにおいても声優はキャラクターの身体のみならず、声優自身の身体を現すよ うになっている。声の演技をする存在であった声優たちが広くメディアに露出し人気を博 している。声優はメディアの発達と共に変化し活躍の場を変えているために、声優という 定義じたいが曖昧になっている。声優が注目される今、本稿では声優の歴史を振り返り、 各時代とメディアにおいて声優たちがいかなる存在であり、声優たちの声がいかなる力を もっていたのかを考察していく。 第一章ではラジオドラマにおける声優について論じた。1925 年に日本におけるラジオ 放送が開始され声優が誕生することとなる。ここで声優がどのように生まれ、養成が展開 されてきたのかを明らかにした。また、このときラジオという音声のみを伝えるメディア において声優の声は、見えない身体から発せられる声であった。つまりラジオドラマにお いては声こそが身体であり、聴取者にとって耳に入ってくるその声から想起される身体は 実に理想的なものであった。 第二章では海外テレビドラマの吹き替えにおける声優について論じた。テレビという 音声と映像を伝える新たなメディアが登場する。そこで声優たちは、他者の身体に声を当 てる吹き替えという仕事を得ることになる。ここでは声と身体の不一致が起きることにな るが、そこには気味の悪さというものが垣間見えるのではないかと考察した。声は人格を 表す大きな要素であり、他者の声を奪い別の声を吹き込むということが、声優が冷遇され た一つの大きな理由ではないかと考える。その後声優の「持ち役」システムが確立したこ とで声優たちは人気を集め、地位を向上させることになったが、これもまた声と身体の一 致を求める意識の表れであるといえる。 第三章ではアニメーションにおける声優について論じた。アニメーションにおいては キャラクターの身体という実在しない身体に声を吹き込むことになる。このとき、実在し ない身体を保証するものとして機能する声について分析した。アニメーションにおける声 はキャラクターの人格を強化する働きをし、絵でしかない二次元のキャラクターに生命を 感じさせる実に大きな役割を果たすものだと明らかにした。だからこそアニメーションと いう場において声優ブームが質を変えながらも活発に起き、声優を愛する声優ファンと呼 ばれる者たちが現れるほどに、声優たちの存在がより一層魅力的なものとなっているので ある。 4 舞城王太郎論 江川 亜矢 本論文では、舞城王太郎を扱った。それは、舞城王太郎の作品と存在が特殊であると感 じたからである。それは、舞城が純文学小説とエンターテイメント小説を明確な区別なく 発表していることや、覆面作家として自らの顔や経歴を明かさないことなどが理由として 挙げられる。序章では舞城がどのような作家なのか述べた。 続いて、第 1 章では舞城王太郎という作家の存在はどのような評価を受けているのか 取り上げた。大塚英志は、舞城王太郎のハンドルネーム的なペンネームを批判しているが、 大塚の批判は、舞城が覆面作家であることによる「匿名性」に終始しており、肝心の個々 の作品への評価への言及がされていない。また、宇野常寛は舞城をファウスト群の作家陣 に分類し、90 年代的な古い想像力として切り捨てた。だが、本論文では舞城の作品はそ の想像力を含みつつも、新たな世代の想像力を積極的に取り入れているという結論に達し た。舞城が新たな想像力に自覚的であり、他のファウスト群の作家陣とは一線を画してい ることを指摘した。また一方で、大塚や宇野などの批評家とは違った形の舞城作品の評価 もある。それは、文体や、作品分析レベルでの評価である。本論文では、舞城が『阿修羅 ガール』で三島由紀夫賞を受賞した際の選評を用いた。選評を述べた作家達の間でも、賛 否があるもののそこでは文体や、作品分析、そして人間の実存的な問題の表現力による評 価がある。零れ落ちる文学の実存的な問題や、弱体化した文体がゼロ年代では評価されに くい。そこに、このような評価の視点のズレが存在することを指摘した。 第 2 章では舞城のデビュー作『煙か土か食い物』と『暗闇の中で子供』を比較するこ とによって、舞城作品における、「ミステリー小説的な事件の謎」と「純文学小説的な自 分の謎」の存在を考察した。この二作品の主人公は、自己の「私」の揺らぎつまり「自分 の謎」については自覚的であり、それをどのように乗り越えていくかということが書かれ る。それに対して、第 3 章の『阿修羅ガール』のアイコは「自分の謎」に無自覚的であ る。アイコの自己は無意識を暴走し、意図せず他人を巻き込む。「私」の揺らぎへの対処 も成り行きでしかなく、無自覚の決断主義の危うさが描かれている。アイコは最終的にな んとか生き延びるが、それも自分の力ではなく他者との関係において居場所を見つけてい くというあり方である。第 4 章で扱った『好き好き大好き超愛してる。』は他作品とは 尐し異質であり、作品の「解釈可能性」を与え、読者自身に作品の謎を考察させる仕組み になっている作品であると結論付けた。第 5 章では、舞城の比較的新しい 2 作品『ディ スコ探偵水曜日』と『ビッチマグネット』を比較しつつ、前章までに扱ってきた「事件の 謎」と「自分の謎」という問題や、「解釈可能性」という視点から分析した。そして『ビ ッチマグネット』における舞城の示す新たな「私」の確立への手段が、近代文学的な方法 つまり、「小説を書く」という、意外にもシンプルな形で示されていることを述べた。 5 テレビドラマにおける「擬似家族」 小黒 美奈 テレビドラマで描かれる家族のあり方は、多様化している。「擬似家族」は、その多様 化した家族のあり方の一つと言えるだろう。「擬似家族」を描くドラマは以前から存在し たが、近年その数が増えたことから、「擬似家族」は近年のホームドラマの特徴だと捉え ることができるのではないか。本論文では、「擬似家族」を描くホームドラマ分析を通し て、新たな家族の形と考えられる「擬似家族」の特徴を考察するとともに、家族の多様化、 個人化が進む現代において、家族を描くときに「擬似家族」が描かれる理由を論じること とした。 第一章では、社会における家族の問題を踏まえながら、転換期を迎えた 1970 年代から 現代に至るまでのホームドラマ史を辿り、近年のテレビドラマでは親子というタテの関係 ではなく、兄弟姉妹に軸を置いたヨコの関係が模索されるようになったと論じた。 第二章では、ヨコの繋がりを描くホームドラマが行き着いた先が「擬似家族」であると 考え、「擬似家族」の定義をした上で、現代の特徴とも言える「擬似家族」の描かれ方を 考察した。「擬似家族」を描くドラマでは、登場人物達の実の家族や愛する者の「死」が 「擬似家族」としての生活をスタートさせる契機の一つとして描かれている。また、家族 愛に飢え、孤独を知る登場人物達は「擬似家族」を通して、孤独から解放され、生きる意 味を獲得していくことを論じた。 第三章以降は、『ホームドラマ!』と『アタシんちの男子』を中心に作品分析を行った。 この二作品を選んだ理由は、「擬似家族」を描くドラマの中でも、「個々人の意思」と 「家族としての役割」を特徴とする、今まで描かれていなかった新たな形の「擬似家族」 が描かれていると考えたからである。まず第三章では、食卓のシーンを中心に、この二作 品の「擬似家族」はタテとヨコの関係が入り交ざっていること、「擬似家族」は非情なも のとして描かれる世間を回避せず、メンバー同士の協力で、世間と向き合うことを選択す ることを述べた。続く第四章では、「擬似家族」は血の繋がりはないが、他者とはきちん と境界があると考え、この境界は「擬似家族」にとっては血の繋がりよりも必要なもので あること、「擬似家族」のメンバー同士を縛り付けるものは何もなく、独自性を尊重し合 う姿が描かれることを述べた。 第五章では、「擬似家族」が初めから終わりを見据えて生活しているが、物語では終わ りが描かれないことを述べた。登場人物の恋が実らないことや、血の繋がりのある実の家 族に回帰しないという結末は、ヨコの繋がりの可能性を表していると考えられる。 二作品において「擬似家族」は、全員が自らの意思で「擬似家族」としての生活を選択 し、ヨコの関係を築きながらも、「家族としての役割」を担い、タテの関係も築く。以上 から、新たな家族の形の提示からは、家族が多様化する今だからこそ、ヨコの繋がりを求 める一方で、タテの繋がりの強い、大家族の時代への郷愁が感じられると結論付けた。 6 携帯電話が社会に与えた影響について 小野寺 徹 携帯電話(以後ケータイと表記)が社会に与えた影響について考察した。近年、ケータ イが爆発的に普及し、私たちの生活にケータイは欠かせないものとなっている。このよう にケータイが普及したことによって、私たちの生活や社会はケータイが普及する以前と比 べて、多かれ尐なかれ変化があったはずである。本論では、この変化について主にコミュ ニケーションのあり方の変容から考察した。 第 1 章では、ケータイの普及率を示し、ケータイがどれくらい私たちの生活に浸透し ているのか明らかにした。また、ケータイの多機能化について考え、ケータイがどのよう な性格を持ったメディアであるのかを考察した。ケータイのもつ新しさは、個々の機能そ のものには無く、人類が今まで体験してきたさまざまなメディア機能を小型端末の中に包 含しており、それがパーソナルなメディアとして個人卖位で所有することができる点に集 約される。 第 2 章ではケータイの技術革新によって、多様な機能・サービスがもたらされ、私た ちの生活はますます便利な方向へと変化しつつある。その中で、ケータイの普及によって もたらされたもっとも大きな変化はコミュニケーション環境であると考え、具体的にコミ ュニケーション環境がどのように変わったのか考察した。ケータイの普及によって、私た ちは初めて、コミュニケーションの「即時性」「モバイル性」「非干渉性」「情報発信 性」「情報獲得性」を同時に満たす環境を手にし、「いつでも」「どこでも」他者とつな がっていることができるようになった。ケータイは「いつでも」「どこでも」つながって いたいという私たちの欲求を満足させるものであるが、その反面、「いつでも」「どこで も」連絡を取れるようにしなければならないという一種の強迫観念を与える可能性もある。 また、このような状況下では、尐し連絡が途絶えただけでかえって孤独感を感じることが あったり、1 人の時間がほしい人にとってはストレスになりうる。 第 3 章では、前章で示したケータイの普及によるコミュニケーション環境の変容が、具 体的に私たちの生活にどのような変化をもたらしたのかを、ケータイ依存(ケータイ・ネ ット依存)、スマートモブズ、日常生活の調整役の 3 つの面から考察した。これらの考 察から明らかになったことは、ケータイを使用することによって得られるメリットとデメ リットは表裏一体であり、使用者や使用方法や考え方次第で、ケータイは善にも悪にもな りうるということである。しかしながら、ケータイを使用することによって得られる利便 性は大きく、もはやケータイは私たちの生活に欠かせない存在である。これからもケータ イはいっそう私たちの生活に関わってくるだろう。だからこそ、ケータイを使う個人個人 が、自分にあった利用方法を考えた上で、賢くケータイと付き合っていくことが求められ る。 7 サイバーパンク SF における身体とセクシャリティ 片野 優 SF の作品世界において、ロボットやアンドロイド、サイボーグといった表象がなされ るたびにテーマとなってきたのは人間/機械という二項対立であった。だが、その二項対 立を解消していくような作品が SF 小説において登場する。そのはじまりは 60 年代から 70 年代におけるニューウェーブ SF 運動である。その時代の代表的作品であるフィリッ プ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)は、その後の 80 年 代に登場し流行するサイバーパンク SF の前駆的作品として評価されている。サイバーパ ンク SF では、人間と機械の二項対立が強調されるのではなく、人間と機械が融合する電 脳空間が刺激的に描かれ、もてはやされた。こうした旧来の二項対立が機能しなくなり、 人間の身体の定義が曖昧化したサイバーパンク SF の世界において、新たに人間/動物と いう関係構造が浮上してきたのではないか。これが、本論文で考察する仮説である。 第一章では、フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 (1968)に注目し、そこでは動物を所有することが社会的ステータスとなっている世界 が描かれており、人間が失われた身体を憧憬する装置として働いていることを明らかにし た。それに対し、同作を原作とした劇場映画『ブレード・ランナー』(1982)では動物は 描かれておらず、あくまで人間と機械の二項対立に終始してしまっている。しかし、『ブ レードランナー』に影響を受けた押井守監督による長編アニメ映画『攻殻機動隊』 (1995)とその続編映画『イノセンス』(2005)では、写実的に描かれた動物はふたた び身体を憧憬する装置として登場している。 第二章では『攻殻機動隊』の続編テレビアニメシリーズ『S.A.C.』をとりあげた。そこ では写実的な動物は描かれない代わりに、思考戦車「タチコマ」が登場し、人気を確立し た。その非写実的な記号的身体を持つ「タチコマ」が人間よりも感情的に振舞い、人間の 身体や精神について言及することで、『S.A.C.』では、身体を憧憬するにとどまらない新 たな動物の一形態を描くことに成功していることを明らかにした。さらに、「笑い男事 件」で記号化した顔の特権化して描くことで、サイバーパンク SF の新たな表現ができて いることを示した。 第三章では、『2nd GIG』において、写実的な身体で、かつ、傷を負うことが可能な身 体が、復活し、特権化されていることを明らかにした。男性が抱えている身体に関する問 題が物語に直接関わってくることから、身体への強迫観念的な恐怖が生まれており、写実 的身体の復活と特権化に関係があることを示唆した。 最後に、身体を考える上で重要な問題であるセクシャリティの問題について触れ、サイ バーパンク SF が進化していくうえで、身体とそれに伴うセクシャリティの描かれ方が、 今後も重要なファクターであると結論づけた。 8 ロードムービーにみる「逃走」 ―「荒野」への視線の反復と差異― 黒木 奈緒美 ロードムービーとは、旅や放浪といった言葉が連想されるように、主人公が歩んできた 旅路を緩やかに描いた映画のことをいう。様々な空間の移動によって紡ぎ出される物語は、 土地への視線を重要視し、その場所が内包する特有のイメージを映し出している。中でも、 広大な土地を持つアメリカのロードムービーにおいて主人公が移動する時、そこには国家 や都市といった共同体から「逃走」する姿があった。そして多くの者が、「逃走」の果て にある「荒野」へ視線を向け続けてきた。本稿では、映画の誕生から現在まで魅了してや まない「荒野」を着地点に、主人公たちは一体何から「逃走」しているのかを探っていっ た。 第一章では、「荒野」の歴史的起源に迫った。西部として喚起される「荒野」は、フロ ンティア・ラインが進むにつれて消滅する、曖昧かつ不安定な地である。それ故に「荒 野」における想像力が生まれ、西部劇の誕生へとつながった。東から西へとさすらうカウ ボーイたちの「荒野」への軌跡は、「強くて、男らしい」ヒーロー像を作り上げ、神話を 確立した。 第二章からは、西部劇で創造された「荒野」の神話性を打ち破ったと考えられる作品分 析を行った。一つ目に、反体制文化の中で誕生したアメリカン・ニューシネマを代表する 作品、『イージーライダー』(1969)を扱った。バイクに跨った主人公たちは、西部劇 で表象された「荒野」の道を、西部劇とは反対に「西」から「東」へ走り去るだけで、以 前の「荒野」は存在しないことを示した。彼らが「逃走」するのは、出口のないアメリカ という「国家」からであり、そこから自由になろうとする彼らには最終的に「死」が待ち 受けていた。旅路と結末は、西部劇が創造した神話の崩壊を告げていた。 そんな出口のない「荒野」から解放を試みたのが『テルマ&ルイーズ』(1991)だっ た。第三章では、女性が「荒野」を目指したこの作品を分析するにあたって、実は「荒 野」とは男性によって支配され続けてきたことを述べた。彼女たちが「逃走」するのは、 女性という「社会的に付与された自己」であった。最後の「死」は、主人公自らが選択す る「死」であり、それは新たな側面から「荒野」におけるイデオロギーを崩壊したことを 象徴した。 第四章の『イントゥ・ザ・ワイルド』(2007)では、西部として喚起される「荒野」は ただの通過点でしかなく、「ラスト・フロンティア」と呼ばれるアラスカが舞台となった。 主人公が「逃走」するのは、家族によって縛られた「自己」からであり、毒草を食して迎 える「死」は、「荒野」が本来持つ自然としての絶対的な猛威や極限の孤独を表した。 以上のように、ロードムービーの概念が誕生した 1960 年代から 2000 年代までの「荒 野への逃走」を追っていくと、国家から自己へと、次第に内面化していく流れが見られた。 最も近年の『イントゥ・ザ・ワイルド』は、西部劇を議論ともせず、自己愛に孕んだ「荒 野」が表象されたことから、「ラスト・フロンティア」のアラスカが物語るように、新た な、もしくは最後に残された「荒野」への視線を描いたと言える。 9 欲望する女、欲望される男 桑原 理沙 かつて、女性は男性に「見られる存在」であった。そして男性は女性を「見る存在」で あった。しかし近年では、この男女間の「見る」、「見られる」の関係が変化してきてい る。女性も男性を「見る」ようになり、男性も女性に「見られる」ようになってきている ようである。たとえば、ここ数年の「イケメン」や「○○男子」といった言葉は、女性が 男性を「見る」とか「評価」をすることによって生まれたものである。そしてこのことは、 「女性が自身の欲望を口にすることができるようになってきた」ということと関係してい るのではないだろうか。この論文では、女性誌のグラビアなどの分析を通して、主に男女 間の「見る」、「見られる」の立場の変化に着目しながら「女性の欲望の変化」について 論じた。 一章では、まず女性側の変化について分析した。ここで、近代では男性から「見られ る」のみの存在であった女性が、現代では男性を「見る」存在にもなってきたということ を確認した。 二章では、男性側の変化について分析した。女性から「見られ」、「愛でられ」る存 在、また女性の視線を内面化した存在として、ここ数年で「○○男子」や「オトメン」と いった「中性的な男性」がブームになっていることを指摘した。 三章では、女性誌『anan』のグラビアなどを参照しながら、女性の「欲望」の性質を 分析した。女性は、男性の「ヌード」ではなく、男性の手や鎖骨といった「パーツ」に欲 望しているのだということを述べた。 四章では、『anan』の男性ヌードを参照しながら、「男性ヌード」が女性の欲望の性 格にどのように影響してきたかを分析した。 「美しく」、「中性的」なものとして女性に提示され、女性に消費されてきた「男性 ヌード」は、女性の「視線」を内面化する「中性的な男性」の台頭を促した。これは、女 性が「中性的な男性」を好む傾向になってきたということと、いわばパラレルに起こった ことだろう。「中性的な男性」は、女性から「見られる」存在である。よって、この「中 性的な男性」の台頭は、今まで男性の特権であった「見る」という行為が、女性にも開放 されるようになったということを意味する。つまり、「男性ヌード」の普及が、女性が自 身の欲望を口にすることができるようにする、いわば土台づくりとなったのである。 そして、その流れにさらに拍車をかけたのが 2005 年の「○○男子」の登場であり、こ れにより「女性が欲望を口にする」という行為は禁忌的なものではなくなってきた。女性 誌『anan』に見られる男性の「パーツ」写真は、禁忌意識が薄れたことの表れである。 男女間においての「見る」、「見られる」の関係が昔のように一方通行ではなくなっ たということが、「女性が自身の欲望を口にすることができるようになってきた」ことに つながっているのである。 10 アニメロボットに投影されるアイデンティティ 佐野 香織 文化の中に表されるロボットは、様々な表象を担ってきた。特に人間に近い等身大のロ ボットたちは、人間のアイデンティティの投影として描かれる傾向にあると言える。本論 文では、文化の中のロボット表象の変遷を追うことで、そこに投影される私たちのアイデ ンティティの様子、及び獲得の手段がどのように移り変わっているのかを見ていった。実 際的な作品分析として、1973~1974 年、1993 年、2008~2009 年の各年代で制作・放映 されたロボットアニメーション「キャシャーン」シリーズを分析し、更にシリーズ第 3 作目である「キャシャーン Sins」について考察を加え、現代において私たちのアイデン ティティはどう獲得されてゆくのかを論じた。 まず序章で、人間のアイデンティティを追うのになぜ日本のロボットアニメを分析す るのかということを、日本人にとっての「ひとがた」と「機械」を論点に説明する。第 1 章では、ロボットが小説や漫画・アニメに表れる時、どのような表象を担っているのかを 一般的な流れの中で見ていくことで、日本においてその表象に変化が生じていることを確 認した。 第 2 章では、第 1 章で確認したロボットの表象の変化を追う具体的な作品として「キ ャシャーン」シリーズを取り上げる。キャシャーンが生まれた経緯と物語の結末の 2 つ に注目して分析を行い、各々のキャシャーンがその時代を反映し、そのストーリーも社会 と関わりのある展開となっていることを述べた。第 1 作目のキャシャーンは使命感と確 信に満ちて今より良い未来を信じて疑っておらず、それは「大きな物語」が社会の中で機 能していたからではないかとした。第 2 作目の、人間の「心」と不死身の身体の不均衡 に悩むキャシャーンの姿からは、大きな後ろ盾を失い、社会不安やポストモダンの進行に よってもたらされたアイデンティティの迷走が見える。第 3 作目のキャシャーンは、旅 の過程で様々なロボットたちと出会い、自ら選びとった者たちとの繋がりの中で確固たる アイデンティティを見つけ出した。それは、現代に生きる私たちのアイデンティティも何 かによって保障されるものではなく、自ら選び獲得してゆくものなのだということを体現 しているようでもある。 また、第 3 作目「キャシャーン Sins」のキャシャーンは、その存在の不安定さから現 代の青尐年と通底するものがあると考え、第 3 章にて分析を掘り下げている。主に、ア イデンティティの形成をめぐって作品、及び現代社会について考察した。医療技術の発展 によって死そのものの概念が曖昧なものとなり、インターネットの力で自分が遍在する社 会となった現代で、私たちもまた、キャシャーンと同様に自分のアイデンティティは自分 で見つけなければならない。そのために必要不可欠なのが、キャシャーンが旅の中で紡い できた他者との繋がりであるとし、現代は、「死なないために生きる」という空疎な生よ りも、「生きるために生きる」という充実した生を得るために多様で濃密なコミュニケー ションが求められてゆく時代だと結論付けた。 11 現代社会における「お笑い」の影響 下里 純平 日本人はユーモアがない、感情に乏しく笑わない民族として、そのステレオタイプは広 く世界に知られているという。しかし、そのような日本人像は今や稀有であると、日本人 自身がよく感じているのではないだろうか。特に現代の若者たちは、他者とのコミュニケ ーションにおいて、昔より「笑い」をとることに貪欲になっているように思われる。 そこで本稿では、現代の「笑い」を介したコミュニケーションと、2000 年代のお笑い 番組(「お笑い」)との関係性に着目し、「お笑い」の歴史的変化が私たちの「お笑い 観」をどのように変えてきたのかを探った。また、現代社会の様相はコミュニケーション や「お笑い」にどのように反映されているのかも明らかにした。 第一章では、「今の私たち」の「お笑い観」とはいかなるものかということを、主に太 田省一の論を参考にしながら述べた。太田は、1980 年代を境に、私たちの「笑い」に対 する意識が明らかに変わったと述べている。また、テレビというメディアの登場や、演じ られる芸の種類の違いなども、私たちの「笑い」に対する意識に変化を与えてきたと言う。 第一章を踏まえ、第二章では「キャラ」をキーワードに設定している。2000 年代は芸 人があるキャラに自己のアイデンティティを委ねるという、「キャラ化」が多く見られる 時代である。また私たちも日常で「いじられキャラ」などの言葉を当たり前のように使い、 「キャラ的コミュニケーション」(相原博之)を行っている。なぜ社会と「お笑い」で 「キャラ化」が推奨されているのかということを、ポストモダンの観点から分析した。 第三章では「ボケとツッコミ」をキーワードに設定している。「キャラ化」によって 「お笑い」では漫才のボケ役が目立つ一方、ツッコミ役は目立たなくなりがちだが、その 一方でツッコミ自体はボケとともに多様化している、ということを解説した。そして、イ ンターネット上の掲示板、ブログ、ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどにおい て、なぜ人々はボケとツッコミを行いがちなのかということを、これらのシステム上の特 徴などから分析した。 なんらかのかたちで、「お笑い」はコミュニケーションに影響を与え、反対にコミュニ ケーションも「お笑い」に影響を与えている。しかしそれ以上に、「お笑い」と日常のコ ミュニケーションに、同じような「笑い」の手法が用いられていることからもわかるよう に、時代の流れ(ポストモダン的状況など)が確実に「お笑い」にもコミュニケーション にも影響を与えている。また、「笑い」を介した現代のコミュニケーションには、コミュ ニケーションを渇望している現代だからこそ、自分の属する共同体から「排除されたくな い」という人々の必死さが垣間見える。このことから、「笑い」を介したコミュニケーシ ョンは、楽しさだけでなく、ある種の悲劇性をも孕んでいるのである。 12 グスタフ・クリムト論―彼女たちの両義性― 高橋 朊子 19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて活動したグスタフ・クリムトは「女」、「生と死」 という題材を描き続けた画家である。エロティシズムにあふれたその作品は「ファム・フ ァタル」のテーマを多用したことで知られる。私はクリムトが描く女性像に興味をもち、 彼が描いたのはファム・ファタル的な一面だけだったのだろうかと疑問を抱いた。生涯女 を描き続けたクリムトが繰り返し描いた「男女の抱擁」にはその答えがあるように思われ、 この疑問を追うことにした。 第一章ではクリムトの生涯を辿り、彼が生きた時代背景とその歩みを追うことで、まず 全体の整理を行った。 第二章からは分析に入る。この章で取り扱ったのはファム・ファタルである。ファム・ ファタルの定義付けを行った後、モローやフランツ・フォン・シュトゥックの描いたファ ム・ファタルとの比較などを行った。そして男を誘い、地獄へ突き落す残忍な妖婦である はずのクリムトのファム・ファタルたちは、実は男を誘っているのではなく最初からその 存在を受け入れること自体を拒否しているという結論に達する。 第三章に入って、ファム・ファタルとは逆に男の愛を必要とする女たちについて検証し た。とりあげたのは「ダナエ」や上流階級の婦人たちの肖像画、素描である。ファム・フ ァタルたちとは違って柔らかな曲線と姿勢、笑顔をもってこちらを見つめる彼女たちは恋 人の訪れを待っているのである。また、この章ではクリムト作品に欠かすことのできない 要素である装飾、黄金、またタッチの変遷についてもとりあげ、それらが最終的には一貫 して女たちを飾り立てるものであるということに着目した。 第四章ではクリムトが描いた数尐ない男性像について触れ、排除され続けてきた男たち が実は重要な登場人物であることを述べた。そしてその男たちが必ず登場してくるテーマ が「抱擁」である。主に「ベートーヴェン・フリーズ」、「ストックレー・フリーズ」、 「接吻」に見られる抱擁がここでのテーマとなった。ここに描かれたのはファム・ファタ ルや求める女のどちらかに偏った存在ではなくその両面を併せ持った女、最も自分に近し い女、「恋人」としての女なのである。それを最も顕著に表しているのがクリムト自身と その恋人であるエミーリエ・フレーゲがモデルになったとされる「接吻」だ。こわばった 手や足から感じられるのはファム・ファタル的な拒絶の要素だが、その頬は赤く染まり、 恋人への愛を物語っている。ここに至って女たちがそれぞれに主張してきた特質が融合し たのだ。しかしクリムトはそれに満足して女たちを見つめることをやめようとはしなかっ た。彼はその多面性を描き出すことに成功しながらも、飽くなき探求心で一生女たちを見 つめ続けたのである。 13 マンガにおける身体と内面描写 高橋 理紗 目には見えない内面を、主に視覚にうったえるマンガという媒体においていかに描写さ れているのか、考察した。マンガという視覚的媒体には、その視覚を刺激するような形で 内面が描写されているのではないだろうか。そのひとつとして「身体」をキーワードに考 えていった。 まず、本稿における「内面」とはどのようなものか、鷲田清一がいう<わたし>という 言葉をかり定義した。<わたし>とは、自分自身が「わたしとはこういうもの」と想像す る<像>であり、また、他者から見られることによって付与される<意味>であると解釈 できる。また<像>や<意味>の形成には、身体が不可欠であることが鷲田により示唆さ れていることから、マンガにおける身体と内面描写の関係を考察していった。 第一章では、泉信行の先行研究を参考に、マンガにおける視点と内面描写の関係性を明 らかにした。マンガの読み方についての論考において、泉は<プライヴェート視点>とい う言葉を用い、どの人物の視点で描かれるかによって登場人物の描写がかわってくると述 べている。そのような描写が、登場人物の心情が読みとるヒントとなると考えられる。こ こでは、主に津田雅美作品の<プライヴェート視点>の描き分けを論じた。 その<プライヴェート視点>に映るのは、視られている人物の「身体」のはずである。 このように考えると、身体の描写と内面描写にはなんらかの関係性が見出せるのではない だろうか。つづく第二章では、津田雅美の『彼氏彼女の事情』を分析し、身体と内面描写 の関係を考えていった。身体の変化に伴い内面の変化がみられる登場人物を挙げ、泉の論 考を参考にしながら、表現方法について考察した。また、複雑な内面をもつ有馬総一郎と いう人物のアイデンティティが確立されていく過程を分析した。身体によって自己イメー ジである<像>が形成され、他者によって<意味>が付与されることでアイデンティティ が確立されていることを論じ、マンガにおける身体と内面描写の関係を明らかにした。 第三章では、浅野いにおの『おやすみプンプン』における身体描写を考察した。この 作品は普通の尐年の成長物語を描いた王道のストーリーであるが、主人公の姿は人間らし い形をしていない。主人公は、「プン山プンプン」という名に落書きのような身体という 人間性を排除された設定となっている。このような特殊な主人公のマンガにおいて、身体 はいかに描かれるのだろうか。マンガ独特の身体描写の在り方を考察していった。主人公 の成長とともに描かれ方が変化していることに着目し、主人公が「自分とはなにものか」 と自問自答することで人間らしい身体を得ていくことを分析した。 以上のように、マンガにおいては、身体によって登場人物らの内面が描写されている ことを明らかにした。視覚的媒体であるマンガだからこそ、身体描写はより自由に描かれ、 身体による内面描写もより緻密に表現することが可能であるとの結論に達した。 14 阿部和重『シンセミア』における逸脱するリアリズム 田口 紘子 『シンセミア』は 1600 枚からなる長編であり、「神町」を舞台に 60 人もの人物が入 り乱れる群像劇である。本論文では『シンセミア』が構造主体のポリフォニー小説を「過 視的」(過剰に視覚的)に描くことによって、いかにして同時代的なリアリズムを獲得し得 たかということについて、語りの形式、とりわけメディアとの関わりに焦点を当て分析し た。尚、従来のリアリズムとの違いを明らかにするために、阿部がその存在を強く意識し て書いたであろう中上健次『枯木灘』との比較を要所に織り込んだ。『シンセミア』と 『枯木灘』はそれぞれ「神町」、「紀州の路地」を舞台にしているという局所性や、「父 親殺し」という主題において共通点が見られる。 第一章では、阿部の作品における語りの形式の変遷について論じた。自己批評によるア イデンティティの確認を主題とした初期の一人称小説から、その批評的存在を複数化する ことによって他者との関係性を描くポリフォニー小説へと移行し、さらにその小説の主人 公を小説の構造そのものとする、『シンセミア』のような構造主体の小説へという変遷を、 主に小説における視点の変遷と共に分析した。 第二章では、阿部和重を論じる際に外すことの出来ないメディアについて論じ、阿部は 自身の小説空間において映画的な試みを導入することによって、内面の不在と権力の反転 という新たなリアリティを獲得するに至ったとした。 そして第三章では「物語」と「世界観」という概念を区別し、出来事を過視的に描くこ とによって個々の物語に還元し、それらを構築することによって不可視の世界観を獲得す るという阿部和重の手法について論じた。なお、阿部が「構造を主体とした作品の、僕な りの"決定打"」という『シンセミア』で描こうとしたのは不可視の世界観そのものであり、 過視のなかで偶発的に引き起こされるリアリティが生成される「場」であるともいえる。 このような従来のリアリズムから逸脱した方法で獲得されたリアリティは、世界にお ける内面の不在、権力の反転、偶発性という極めて希薄なものである。しかしここで重要 なのは、『シンセミア』におけるリアリティが希薄なのではなく、「希薄であること」こ そがリアルであるという逆説である。文学においては、未だに不可視のもののリアルさが 重視され、曖昧な表現や構築性の破綻といったやり方でそれが描かれてきた。しかし、ハ リウッド映画に代表される大衆文化がそのような態度を放棄してしまっている今、不可視 のなかに見ていたリアルさはもはや前時代的であると言えまいか。阿部和重は『シンセミ ア』において、小説空間へのメディアの導入を積極的に推し進めることによって、硬直し た純文学におけるリアリズムに新たな可能性を見出した。恐らく現代においては、『シン セミア』で描かれたような「希薄さ」こそがリアルなのであり、このような点で『シンセ ミア』におけるリアリズムは純文学の新たな可能性を見出したと考えられる。 15 女芸人論-現代日本のテレビにおけるその姿- 竹田 尚美 現在、あらゆる番組にお笑い芸人が出演し、テレビに笑いをもたらしている。しかし、 昔からお笑い芸人になりたいという女性は尐なく、現在のバラエティ番組を見ていても、 活躍している女芸人は限られており、男芸人に比べ尐ないように感じられる。本論では、 女芸人がいかにして笑いを取っているのかということを、男芸人と比較しながら分析し、 加えてテレビの笑いの現状を捉えることで、テレビの笑いの世界において女芸人がどのよ うな存在であるかを論じた。 第 1 章では、簡卖にお笑いの歴史に触れ、現在のテレビにおいては、「トーク」を中 心としたバラエティ番組の占める割合が非常に高く、バラエティ番組の中では、芸人の 「キャラ」を生かすことで笑いが生まれていると述べた。 第 2 章では、まず、芸人の「キャラ」を生かすために重要な「いじる」という行為に ついて触れた。「いじる」とは、相手の「キャラ」を際立たせるために、話を振ったり、 芸人の「ボケ」に対し「ツッコミ」を入れたりする行為である。現在放送されているバラ エティ番組の中で、女芸人がどのような「キャラ」で「いじられ」、笑いを取っているの かを分析した。結果として、女芸人は、不細工、モテないという「キャラ」が多く、異性 から恋愛対象外である「キャラ」として「いじられる」ことで笑いを取っていると考えら れた。 第 3 章では、それに対し、男芸人は、芸人が持つさまざまな個性を「キャラ」として 笑いにつなげ、異性にとって恋愛対象ではない「キャラ」という扱いを受けているとは言 い難い場合も存在するということを論じた。 芸人の「キャラ」を形成する上で、「いじる」側も重要な役割を担っていると考えたた め、第 4 章では、「いじる」側にいるときの女芸人について分析した。女芸人が相手を 「いじった」行為が、更に男芸人に「いじられる」ことで、女芸人は結果的に「いじられ る」存在となっていること、また、数尐ない女芸人の MC の場合、番組でゲストに対し 「いじる」役割を与えられていない演出がなされていたり、「いじる」際に男芸人の MC とは違い、攻撃性が薄く、腰が低いと感じさせる特徴があることを明らかにした。以上の ことから、バラエティ番組の中心となり相手を「いじる」ことで笑いにつなげる役割は、 男性がほぼ独占しており、「いじる」側の視点が男性の視点中心で、性別に偏りがあるこ とが、先の女芸人と男芸人で「いじられ」方に違いが出る原因の一つとして考えられる。 現代のテレビのバラエティ番組の中で笑いを取る際、このように男性優位の現状があり、 その中で女芸人は、男芸人に比べて、生み出せる笑いの種類の幅は狭く、この点では男芸 人に务っているといえる。しかし、女芸人は、その与えられた状況の中でしっかりと笑い を取っており、男芸人同様に、バラエティ番組の笑いを支える存在なのである。 16 中園ミホ作品研究 土屋 美穂 中園ミホは東京都出身の脚本家で、今日のテレビドラマ業界を支えているひとりである。 1988 年のデビュー以来ほとんど休むことなく活動し、これまでに、数多くの脚本を手掛 けてきた。そんな中園の近年のヒット作が 2007 年に放送された『ハケンの品格』である。 この作品で中園は第 33 回放送文化基金賞の脚本賞や放送ウーマン賞などを受賞した。 では、『ハケンの品格』は中園の他の作品とは全く異なるものであっただろうか。派 遣社員を主人公とし、その労働形態を明らかにしたという点では、画期的であったといえ るだろう。しかし、設定は違っても、話の展開やキャラクターの作り方に 2000 年に放送 された同じくコメディドラマの『やまとなでしこ』共通する点が多く見受けられる。そこ で、『やまとなでしこ』のヒロイン神野桜子と『ハケンの品格』のヒロイン大前春子の共 通点を挙げることで中園の描くコメディの特徴を明らかにする。 第一章では、桜子と春子の基本的なキャラクターについて考察した。中園の描く等身大 のヒロインには定評があるが、桜子や春子は現実とは大きくかけ離れていて、超人的な存 在であった。また、彼女たちの過激な言動やデフォルメされた行動は、それぞれの作品の 「笑い」の要素となった。 第二章では、桜子や春子の過去や、涙を見せるシーンに着目した。桜子や春子は悪女や 強い女性として描かれがちであった。しかし、これらのヒロインが第一章で挙げたような キャラクターになる以前の過去を表すシーンや、涙を流すシーンを挿入することで、彼女 たちがもとは善人であり、強いキャラクターの中にも弱さを持った存在として描かれてい た。 第三章では、強さと弱さを兼ね備えた桜子や春子が最終的にどのように変化したか、そ れぞれの作品の後半部を中心に分析した。これらのヒロインには、相対する考えを持ち、 一見敵とも取れる相手役がいた。そして、その相手役との衝突はヒロインのキャラクター に変化をもたらしたが、その変化が原因となってヒロインは相手役とすれ違うこととなる。 しかし、『やまとなでしこ』も『ハケンの品格』も最後には、遠くに行ってしまった相手 役のもとをヒロインが訪れる。その時のヒロインは内面的には変化をしていたが、その言 動は第一章で挙げたパターンを踏襲していた。 『やまとなでしこ』や『ハケンの品格』は中園の代表作であると同時に、「荒唐無稽 な作品」と、批判されることがある。その中で最も荒唐無稽な存在が、桜子や春子といっ た超人的なヒロインである。これらのヒロインは内面的に変化を持ちながらも、キャラク ターの根底を保つことで、結末を迎える。そして、そのことによってそのキャラクターは 強調された。したがって、『やまとなでしこ』や『ハケンの品格』の魅力はヒロインのキ ャラクターにあるといえる。 17 桐野夏生作品研究 花田 みどり 桐野夏生は 1951 年生まれ、石川県出身の小説家である。1997 年に出版され、第 51 回 日本推理作家協会賞を受賞した『OUT』と、2009 年に出版され、『OUT』以降の一応の 総括であると桐野が位置づけしている『IN』の二つの作品を中心に、桐野が小説によっ て描く「虚構と現実の関係」はどういったものであるのかについて、また、そこから桐野 にとっての小説という虚構に対する考えについても考察した。 第 1 章では桐野が書いてきた今までの作品の変化や特徴について述べた。新しい作品 を出すたびにこれまでのイメージを払拭してきた桐野の作品はミステリー小説、ハードボ イルド小説、社会派小説、リアリズム小説など、多くのジャンルにカテゴライズされてい るが、はじめはミステリー作家を目指していた桐野は、作家としての自分のイメージが固 定化することを嫌い、徐々に規定された枠組みに捉われず自由に小説を書くことを望むよ うになった。 第 2 章では、作品に女性主人公が多い背景や、社会に存在する差別の描き方、「夢」 や「妄想」といったキーワードなど、過去の作品に頻出するものについて分析した。桐野 は矛盾に満ちた社会の中で抱く様々な感情、特に女性が抱いている感情に対する際立った 洞察力、社会で起こっている事に対する関心や鋭い観察力を持ち合わせており、小説から は自分が女性であるがゆえに感じてきた様々な感情を読み取ることができる。 第 3 章では、主に『IN』について分析した。桐野は小説を書くうちに「書くこと」、 さらには言葉そのものに対して懐疑を抱くようになり、小説を「書くこと」とはどういう ことなのかという問いや、作家という職業に対する好奇心などから自分に近い状況である 女性小説家を主人公とした『IN』という小説を書き、『OUT』以降の総括としてこの作 品を位置づけした。女性小説家が主人公であるため、桐野自身の考えがわかりやすく表れ ているであろうこの小説は、これまでに取り組んできた主題のほか、桐野の小説観、作家 としての矜持などが読み取れる作品であり、桐野が虚構と現実の関係性や虚構の持つ力、 特に小説の持つ力について考えた作品でもある。 桐野は虚構を現実と同じくらい重要視しており、虚構を現実と拮抗するもの、もしくは 現実を凌駕するほどのものであると考えているようである。そして、自分の書いた小説と いう虚構が自分の生きる現実に何らかの影響を与えていると感じており、桐野にとって小 説の持つ力は時に恐ろしいものでもある。小説を書くことで自分が生きている現実に影響 があり、何らかの変化が起きたことで自分の周りにも迷惑をかけてしまうかもしれないと 考えているため「書くこと」の暴虐さや罪深さをも感じ、作家という職業の業の深さも感 じている。桐野の作品は鋭い洞察力や観察力、そして豊かな想像力から生まれたものであ り、桐野にとっては小説も現実を凌駕する力を持っている虚構であるといえるだろう。 18 モダニティ再考-海外テレビドラマ『LOST』シーズン 1・2 PERVERSI Simone アメリカの連続テレビドラマ『LOST』は、「テレビで放送される」という事実と 「その物語構造と物語内容」の双方においてモダニティ(現代性)の表象と深く関わる作 品である。この連続テレビドラマには「モダニティの混在」という現象が見られる。 1 章では、テレビというメディア自体がその構造と、扱うテクストの両方においてモダ ニティを体現していることを「シャノン・モデル」を参考に考えた。また、「連続テレビ ドラマ」が大きくモダニティの作用を受けるジャンルであるということを、テレビドラマ の製作者が視聴者を手放さないために視聴者に常に気を配って製作してるということなど の事実から明らかにした。 2 章では『LOST』の物語構造とその内容に焦点を当て、『LOST』とモダニティ について論じた。『LOST』の一般的な紹介とシーズン 1 と 2 のあらすじを踏まえつ つ、『LOST』をモダニティの表象という視点で捉えた。人間の歴史をプレモダン-モ ダン-ポストモダンという 3 つの域に分け、それぞれの域に現れる社会的、文化的、思 想的特徴が『LOST』の物語内容に現れることを詳細な分析を通じて示した。プレモダ ンについては、主にキリスト教的な描写の多さが挙げられる。モダンについては、その時 代の啓蒙主義の影響を受けた自然科学と自然哲学の対立を思わせるジャックとロックの対 立が指摘できる。ポストモダンについては、『LOST』に主人公がおらず、物語進行に おいて十数人の人物が同じような位置を保っているという構造的な問題と、キリスト教的 あるいは政治的な「大きな物語への不信」を表明する人物の存在が挙げられる。 さらに 2 章の最後では、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』と『LOST』の比 較を行った。モダンを代表するデフォーの小説と『LOST』を比較すると、『LOS T』では上記の 3 つのモダニティの混在が起こっていることがさらに鮮明になる。また、 『ロビンソン・クルーソー』と違い、『LOST』が連続テレビドラマであることに焦点 を当て、『LOST』がモダンからポストモダンへの移行により深く関わる作品であると 結論づけた。 たしかに『LOST』の分析だけでは「現代社会にもモダニティの混在が起こってい る」と結論づけることは、分析対象が限られているため困難であるだろう。とはいえ、本 論で明らかにしたとおり、『LOST』に生じているモダニティの混在を考察することは、 わたしたちにモダニティ再考の契機を与えてくれるのである。 19 現代日本における仮想現実感覚の変容 水落 絵理香 ポストモダンと呼ばれる現代において、大きなイデオロギーは失われ、人々は徐々に 社会への期待を放棄したと言われる。更にインターネットの普及によって個人から世界へ 直接アクセスすることが可能になり、更に中間項の存在の希薄化を加速させた。しかしイ ンターネットは実体を持たないネットワークの集合であり、世界と関わりを持っているつ もりでも、そこから身体的な実感を得られるわけではない。現代の人々は非現実の世界と、 自分の存在する世界の2つを生き、その二つの世界の間に曖昧な境界線しか持てない。 その問題を検討するために、「仮想現実」の問題をとりあげた。まず第1章では、日 本における「仮想現実」という語の使用頻度、使用法を調べた。大まかに辿ると、仮想現 実が日本に浸透しはじめた 90 年~94 年ではその革新的な技術として歓迎、期待されてい た。しかし 95 年~99 年においては、オウム事件をきっかけに物語の中だけで起こるはず の出来事が現実にも起こりうるという認識は人々の間に広がり、途端に仮想現実は危険視 される。そして 2000 年代に入ると、あまりにも普及した仮想現実は、そのものの存在感 が薄くなり、人々の生活に溶け込んでいった。このような仮想現実に対する日本人の感覚 を前提に、第2章では物語としての仮想現実を分析した。文学における仮想現実の古典的 作品である『ニューロマンサー』と日本における仮想現実の先駆的存在の『クラインの 壷』は、ともに仮想現実と現実の間で葛藤する主人公を通して、仮想現実と現実の間の絶 対的な境界が揺らぐことに対する緊張感を描いている。仮想現実の古典作品をおさえた上 で、以降は現代の希薄化した社会に対する感覚を捉えたライトノベルの中の 1 類型であ るセカイ系作品について考察した。第 3 章でライトノベルとセカイ系作品の特徴を整理 し、第 4 章から具体的な作品分析に入った。上遠野浩平の『ぼくらは虚空に夜を視る』 では、仮想現実と現実を反転させることで、現実そのものの不安定さが示される。続編の 『私は虚夢を月に聴く』は、自分の現実が仮想であると知ってしまった主人公が、一度は 自分の内に閉じこもり、その世界に対して見切りをつけるものの、やはりそこしか自分の 生きていく場所はないという現実を受け止め、世界を救う物語である。この二作品は、共 通して、現実だと思い込んでいたものに対する疑いをもつことのなかに、人間の成長のヒ ントが隠れているのではないかという主張を持っている。一方、『涼宮ハルヒの憂鬱』、 『涼宮ハルヒの消失』においては、仮想現実と現実に境界線を引く必要性自体がなくなっ ている。彼らにとっては、自分たちの生きている世界が仮想であれなんであれ、仲間と楽 しい時間を過ごすことが最優先事項であり、そこに緊張感は無い。これこそが現代人の感 覚そのものではないだろうか。だが、仮想と現実の区別が難しい現代において、人々はそ の峻別を放棄している。自分の本当の世界を知るためには、上遠野の言うように世界その ものを疑う心を持たなければならないのではないだろうか。 20 梅佳代論 矢部 桃子 梅佳代は近年活躍が目覚しい写真家の一人である。彼女は身近な場所で撮影し、身の回 りの人物を被写体としている。写真では一般的に、写真家と被写体は、撮影者としての写 真家と対象としての被写体という二項対立的な関係性を持つとされる。しかし梅佳代の作 品においては両者の関係はそうした主体と客体という二項対立によって括りきってしまう には、どこか違和感が残る。梅佳代を特徴づける要素としてこの違和感に焦点を当て、あ わせて時代背景等も考慮に含めながら考察を行い、梅作品を日本写真史の中に位置づけて いく。 まず第一章では、この論を展開していく前提として、梅の略歴や活動について紹介す る。 次に第二章では、梅の独自性を探るために、梅作品が登場する以前の日本写真史の流 れや作品について考察する。梅の作品の特徴として、本人にとって身近な場所で身の回り の人々や出来事を写し取るという手法が挙げられるが、これは日本写真史に特徴的な「私 写真」的な側面だといえる。さらに梅が女性写真家であるということも注目すべき点であ る。ここでは「私写真」としての日本写真史の中でも特に、1990 年代に女性写真家たち の存在が一般的に知られるきっかけとなった「女の子写真」ブームを取り上げる。そして 「女の子写真」に特徴的だった撮影者の女性としての自意識に焦点を当て、徹底して自己 の内面に向かうベクトルを持っていたことを指摘するとともに、ブームによってその後に 続く梅をはじめとする女性写真家たちの出現する素地ができたことを明らかにする。 以上の予備考察を行った上で、第三章では梅作品を分析する。梅作品は「私写真」で ありながらも、その被写体たちはただ卖に作品を構成する客体なのではない。梅は撮影の 際に被写体との交流を持ち、被写体を卖なる対象とはしないが、同時にしかし感情移入を しすぎないように意識している。これらのことから、梅作品の被写体は従来の写真に比べ、 撮影者と対等な立場にある点に独自性があると考えられる。 さらに終章では、第三章で明らかにしたこと、すなわち撮影にかける梅の思いや被写 体との関わりに見られる独自性を踏まえ、梅にとって写真の撮影とは他者と関わっていく ための手段の一つであることを指摘する。その上で、写真の撮影を通して興味を持った他 者の個人的領域にまで踏み込んでいく梅の撮影スタイルは、人間関係の中で過度に空気を 読み合い、他者との距離を量りあうことが常態化していることが生き辛さにつながってい るという現代的な問題に対する対処法であり批判であること、そして同時にこのスタイル は、梅作品に特徴的な撮影者と被写体との関係性の新しいあり方をも提示したことを考察 する。それによって梅は、「私写真」の範疇にありながらも、従来の「私写真」が孕んで いた撮影者の主観による自己語りという限界から脱却し、新しい「私写真」のありかたを 提示した写真家となったと結論づけた。 21 アニメーションにおける生と死―ティム・バートンの人形アニメーションを中心に 吉岡 千秋 本論文は、アニメーションの登場人物である人形等の客体を 1 コマずつ動かして撮影 する立体アニメーション、中でもストップモーションアニメーションないし人形アニメー ションを取り上げ、そこから、命を持たないものに「生命」を吹き込むという「アニメー ションの原理」について考えてみた。その中でも、現在は映画監督としても有名なティ ム・バートンのアニメーションを取り上げ、ディズニー出身でありながらも独特のスタイ ルを貫く彼を、「アニメーションの原理」という観点から論じた。 第 1 章では、大衆的、商業的アニメーションの代表とも言えるディズニーアニメーシ ョンを中心に取り上げた。ディズニーアニメーションの発展の歴史を通し、それが「大衆 の好みを嗅ぎ分ける嗅覚」を用いて多くの人々に受け入れられていく様子について述べた。 また後半は、そのような「ディズニー」に違和感を感じ、「ディズニーらしくない」スト ップモーションという撮影技術、ホラーテイストの作品を作ったティム・バートンに焦点 をあて、彼とディズニーの関係や、バートン作品の「アウトサイダー」性について触れた。 第 2 章では、人形アニメーションの本場チェコで、ウォルト・ディズニーと並ぶほど の巨匠と謳われる作家イジー・トルンカのアニメーションについて検討した。彼は、「ア ニメーションの原理」に意識的で、作品をメタ・アニメーションとして描くことにより、 「人形が人形らしくあること」を目指した。これは、ミッキーマウス等の擬人化したキャ ラクターを用い、高度なアニメーション技術によってキャラクターにイキイキとした「生 命」を吹き込み、「人間らしく」見せようとしたディズニーとは対象的だ。しかしそれは また、バートンの目指す「そこにある感じ」のリアリティとも異なるものであった。 第 3 章では、具体的なバートンの長編作品『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』 (1993)、『コープス・ブライド』(2005)を取り上げ、主人公やその作品の舞台となる世界 観などを分析した。第1章、第 2 章でともに「らしくない」としたバートンのアニメー ションであったが、作品を細かく見ていくと「ディズニー」と東欧に代表される「人形ア ニメーション」両者の性質が見て取れるため、バートンは両義的な作家であるとした。さ らに、「生」と「死」を対照的に描く彼の作品スタイルは、「生命」が吹き込む手段とし て「生」も「死」も同様に実現してしまうアニメーションのように、両者をより入り混ぜ、 混沌化することによって、より深みを増している。バートンのアニメーションは、このよ うな様々な要素が入り組んだ「生命」により、独特のアニメーションに仕上げられている のである。 このように、生命を持たないものに「生」を与えて動かす「アニメーションの原理」 は、ただ対象を動かすだけではなく、それにより目指すものはそれぞれ異なっていた。そ の中でもバートンは、彼の描く世界同様、様々な入り組んだ要素を備えており、独特の 「生命」をキャラクターに授け、彼流のアニメーションを実現しているのだ。 22 ミヒャエル・エンデ論――物語と遊び 河邑 淑子 ミヒャエル・エンデは、主に 20 世紀後半に活躍したドイツの児童文学作家である。彼 は約 30 作品を世に送り出し、その多くで様々な賞を受賞して世界的なベストセラー作家 となった。本論文では、『モモ』を中心に扱った。この物語は社会批判作品と言われ、エ ンデは読者の私たちに現代社会への見直しを迫っていると評される。『モモ』研究を行っ た生越達は、消費社会がどれほど人を孤立させるものか、また主人公であるモモが、人を 自己という内の世界から外の世界へ連れ出す存在であり、時間の描写が外の世界とのつな がりを暗示していることなどを指摘し、エンデは消費社会を打ち破る力として、他者との つながりを示唆していると結論付けた。この結論は納得のいくものであるが、生越は『モ モ』において重要な位置を占めると考えられる子どもの遊びについて触れることはほとん どなく、物語の中で繰り返し登場する「想像」という問題には目を向けていない。従って 本稿では、作中に現れる想像力という主題を焦点として読み進め、『モモ』の持つ新たな 一面を引き出すことを目的とした。 第一章では、作者ミヒャエル・エンデの生涯について述べた。彼は世界恐慌の始まった 年に生まれ、ドイツという国で第二次世界大戦を経験した。また青年時代は、演劇に熱を 入れた。彼は戦後から世界が復興し、劇的に変化していく様子を見てきた。彼がファンタ ジーを通じて、精神世界の見直しを促したことや、社会批判的作品を書いたことは経歴と も深く関わっている。 第二章から分析に入った。まず子どもの遊びの描写から分析を進め、子どもとは自ら 「物語る」ことによって、現実を受け止めながらも乗り越えていくことを可能にする力を 持つ存在として描かれていることが分かった。また『モモ』が、主人公と同一化し、彼女 の成長を見る教養小説ではなく、まるで舞台を見ている観客のように、読者を現実と非現 実のはざまに位置させ、物語ること自体を主題として見せている小説であるということも 明らかにされた。 第三章では、モモの親友である二人の男性、ジジとベッポは、作者であるミヒャエル・ エンデ自身であることを指摘した。ジジは想像力が豊かだがその世界に閉じこもっていた 青年時代のエンデ、ベッポは現実に留まり深い思考を持ち、かつ空想の世界にも自在に出 入りできる理想像のエンデである。 最後の第四章では、エンデが批判した消費社会の中で流れる時間は、卖一的で一方向に しか流れないことを示した。そして本来私たちは、時間の様々な流れをつくることが出来 る存在であり、その時間は主に遊ぶという行為によって得られることが判明した。そのよ うな時間こそが豊かな時間であり、エンデが理想とした時間の流れなのだ。 そしてこのような豊かな時間を持つためには、個々人が自身の物語を紡ぎ出すことなの ではないだろうかと、『モモ』は言うようである。 23 ハリウッド映画における日本の表象と渡辺謙 渋谷 香菜子 本論文は、現在、ハリウッド映画界でも活躍している日本人男性俳優である渡辺謙が、 どのようにしてハリウッドスターとなったのか、そしてハリウッド映画界においてどのよ うな存在であるのかを渡辺のハリウッド映画での表象から考察するものである。 第一章では、ハリウッド映画が誕生してから現在に至るまで、ハリウッド映画において 日本人男性がどのように登場し、それがどのような日本人男性のイメージを作ってきたの かを述べた。また、過去の日本人男性俳優がどのようにしてハリウッドスターになったの かについても触れた。 過去にハリウッド映画に登場した日本人男性のイメージと現代日本と世界の関係が組み 合わさり、現代ハリウッド映画における日本人男性の表象が作られている。現代ハリウッ ド映画における日本人男性の表象は肯定的なものと否定的なものがある。否定的なものは 「残酷」「醜い」といった人物である。肯定的なものは二パターンあり、一つは「アメリ カの事情に詳しく、主人公に協力的」、「異文化への窓口や案内役」である人物で、もう 一つは「無口でとっつきにくいが義理堅い」人物で「主人公の協力者」となる人物である。 肯定的な表象は、現代の日本と世界の関係や侍への畏敬の念によるものだと思われる。 第二章では、現代ハリウッドスターである日本人男性、渡辺謙を取り上げ、第一章で 述べてきたことを踏まえて、渡辺がどのように描かれているのかを、渡辺が主役級の役で 出演しているハリウッド映画、『ラスト・サムライ』、『硫黄島からの手紙』を分析する。 『ラスト・サムライ』の分析では、日本人スターである渡辺謙、日本人一般俳優である真 田広之、アメリカ人スターであるトム・クルーズの役柄の表象を比較し、日本人男性のハ リウッドスターである渡辺がハリウッド映画界においてどのような存在であるのかを明ら かにした。『硫黄島からの手紙』の分析では、渡辺の役柄が『ラスト・サムライ』におけ る役柄と共通部分が多いことを挙げ、そこからハリウッド映画において渡辺が演じる役柄 には一貫性があることを明らかにした。 第三章では、第二章で明らかにした渡辺の役柄から、渡辺がハリウッド映画でどのよ うに存在し、そしてどのようなスターであるのかを述べた。まず、スターである渡辺のキ ャラクターを形成している最も重要な要素を三つ挙げた。「侍」「アメリカ人に友好的な 日本人」「病気」である。これらの要素が重なり合い、他の要素を強調したりしながら渡 辺のキャラクターが形成されている。渡辺は「侍」「アメリカ人に友好的な日本人」とい う肯定的な日本人男性像の類型を代表することでハリウッド映画においてスターとして存 在している。また、「侍」の「強さ」と「はかなさ」というイメージが渡辺自身の「病 気」と結びつき、渡辺のイメージとなっている。その相反する要素の中に渡辺の魅力があ ると思われる。 24 老人と子どもの絆―児童文学に表されるイメージ― 日下部 央里絵 現代社会では、都市化や核家族化が進む中で伝統的な社会という構図が消滅し、その 一方で高齢化社会が進んでいる。このような社会の中で、老人はどのようにイメージされ ているのだろうか。高齢化社会の進行に伴い、絵本や児童文学の中で老人と子どもを扱う 物語は増えているということが言われている。絵本や児童文学は、老人のイメージを構築 する一つの要素になってくるのではないだろうかと考えられる。そこで本稿では、梨木香 歩の『西の魔女が死んだ』と、湯本香樹実の『夏の庭―The Friends―』をもとに、老人 のイメージや、老人と子どもとの関係がどのように表されているかを考察した。 第一章では伝統的な社会と、現代社会における老人のイメージの双方について確認し た。前者は、影響力や知恵を持ち、尊敬される者ということのほかに、神秘的や、魔法使 いといったように力を持つ不思議な存在というものが挙げられた。後者では、戦前のよう な老人像や、子どもとの霊的な結びつきはイメージされなくなっていた。都市化や核家族 化により老人との交流が失われたことで、老人はイメージされにくくなるか、あるいは、 ステレオタイプ化したイメージを持たれるようになったのではないかと考えた。 第二章では、『西の魔女が死んだ』の分析を行った。まいの祖母は、戦前の老人のイ メージを色濃く残した存在として描かれていた。そして子どもが一定期間、修行(イニシ エーション)のようなものをする場を提供し、生きていく上で支えとなる考え方を伝授し ていた。このように老人は子どもを正しい方向へ導いていくものとして機能していた。ま た、親との比較により、老人は子どもにプラスの影響を与える者としても表現されている と考えた。後半では「死」に着目し、老人は子どもに死を教えるという役割があるという ことを示した。 第三章の『夏の庭―The Friends―』では、親から子への悪影響という点から、核家族 という性質が子どもたちを逃げ場の無い状況に追いやっていることが読み取れると指摘し た。また、老人の役割として、「子どもを褒める」、「居場所」、「教える」という点に ついて考えた。特に、作品の根底にある「死」について、老人が教える役割を担っている ということに着目した。「死」に関しては、この作品には第二章にあったようなファンタ ジーの要素は無く、老人は現実的に、静かに「死」を子どもたちに教えていた。 分析から読みとれたことは、伝統的な老人のイメージは、現代社会において卖純に消 失したのではないということである。むしろ、ファンタジーや児童文学において、形を変 えながら転生=再生したのであるのではないだろうか。ここには、私たちの営むこの現代 社会の「現実」と「イメージ」の関係の複雑さを、あらためて見つめ直すきっかけがある と思われる。現実社会の大きな変容にもかかわらず、過去のイメージは残り、しぶとく蘇 り、私たちの感性をゆるがす。そこに表象の独自の魅力があるのではないかと感じられる。 25 カントリーミュージック論~ディクシー・チックス論争を通して~ 星野 桃子 2007 年 2 月に発表された第 49 回グラミー賞で、5 部門を受賞した Dixie Chicks(ディ クシー・チックス)という女性三人組のバンドには、この受賞に際して必ず付きまとうエ ピソードがある。2003 年のイラク戦争開戦時に、メンバーの一人であるナタリー・メイ ンズが、「大統領が(自分たちと同じ)テキサス州出身であることを恥ずかしく思う」と 発言したことにより、彼女たちはアメリカ中でラジオ局からのボイコット、公衆の面前で の CD 破壊、さらには脅迫まで受けるに至った。本論文では、カントリーミュージックが 政治に関係することとなった背景・歴史から、アメリカの政治的トピックスの中でこの音 楽がどのように反応してきたのか、その関連性を調べた。これを踏まえて今回の論争の過 程を詳しく検証することで、大規模なバッシングを受けたにもかかわらず Dixie Chicks がグラミー賞の受賞に至った要因は何だったのかを明らかにした。 第 1 章ではカントリーミュージックと政治の関係性をその歴史から考察した。当初单 部の民族音楽として捉えられていた音楽は、右派の音楽になり、このことはカントリーミ ュージックという音楽が共通の政治的信念を持つ人々の集まりを形成することにつながっ た。過去の戦時におけるカントリーミュージックは愛国的な歌詞のものが多く、彼女たち のように大統領を非難し、戦争に疑問を発することはこの業界ではまれな事態だったと言 える。 第 2 章では、この論争に対するアメリカ国内の反応や背景に加えて、抗議をした人た ちの価値観を考察した。当時のブッシュ政権が、戦争をすることによって平和を目指す予 防戦争に政策転換し、これに賛同できない彼女たちが戦争をすることに疑問を投げかけた ことがこの論争の背景にはあった。しかし一方で、その当時のカントリーミュージックで は「自由とは代価なしには成り立たないものであり、軍が払った犠牲から受ける恩義を忘 れてはならない」という考えが多く、このような価値観を支持する人々からすれば、 Dixie Chicks が投げかける戦争への疑問は受け入れられないものであったことが考えら れる。過激な抗議が起きたのは、彼女たちの発言が抗議者にとって侮辱と受け取られたた め、一部の地域においてその侮辱に対抗する形で暴力行動として表れた可能性が高い。 第 3 章では、2006 年に入ってからのアメリカと Dixie Chicks 双方の変化を追った。ア メリカ国内では世論が戦争に否定的になったこと、そして Dixie Chicks がカントリーか らロックへ方向転換したアルバムを発表したことが、グラミー賞受賞の大きな要因といえ るが、カントリー界では彼女たちの作品が評価されなかった事実もあり、この論争は彼女 たちにジャンルとの決別を決定付けたと言える。 なぜたった一言の発言でここまでの抗議が起きたのか、その不可解さを解明することは、 カントリーミュージックの背後にあったアメリカ人の価値観を明らかにすることになった。 Dixie Chicks がその価値観に合わなかったことが激しい抗議を生んだ原因と言えるだろ う。 26 人形に魂は宿るか――『砂男』と『未来のイヴ』からみる自動人形への夢―― 迎田 涼子 人形の文化の歴史は古く、今日においての我々にとってもなじみ深いものであるが、そ の中において「人形が魂を持って動き出す」という空想は、有名なピュグマリオン神話を 始め、数々のお伽噺や怪談などでしばしば見られるものである。人間の形をした人形に物 体以上の感情を持ち、そこに人間と同じような存在を認識してしまうという心理は、人間 と人形の関係を考える上で重要であり根源的なテーマであると言える。 このテーマについて、本論文では自動人形というひとつの人形文化を用いて考察するこ ととした。自動人形制作の歴史や思想などを明らかにした上で、自動人形が小説の中に登 場する品である E・T・A・ホフマンの『砂男』、ヴェリエ・ド・リラダンの『未来のイ ヴ』の二作品を読み解くことで、そこに見られる人形と魂の関係とはいかなるものか、そ の変遷を辿りながら分析した。 第一章では、自動人形というひとりでに動く仕組みを備えた人形が、18,19 世紀ヨー ロパにおいて盛んに制作され人気を博した理由を、科学技術の飛躍的向上という当時の時 代的背景と関係が深いことを示した。また自動人形制作の目的として、人形に魂を宿した いという古くからの空想を思想の原点とし、それに科学の力をもって挑むことであったこ とを、当時の新しい考え方であった「人間機械論」という説と関連付けて論じた。また自 動人形を扱った文学である『砂男』と『未来のイヴ』について、制作された背景や後世の 評価などをまとめた。 第二章では『砂男』の作品について、多義性という性質や「眼」のモティーフといった 特徴を分析した上で、作中において自動人形オリンピアの魂とはナタナエルの理想が反映 された幻影であり、その愛とはナルシシズム的愛であったと位置づけ、その思想は近代的 人形愛の発端として受け継がれていることを分析した。 第三章では『未来のイヴ』に登場する自動人形ハダリーの存在が『砂男』で見られたよ うな、恋する主人公の自己投影としてはじめは描かれるが、遂には「神秘性」という人形 としての古来からの性質の中へと回帰していることが明らかとなった。 二作品を通し、文学モティーフとしての自動人形から分析された人形の魂の本質として の二つの要素は、いずれにおいても自動人形の本来のテーマとはかけ離れたものであった ことを見てきた。また作中の自動人形に見られた「生」と「死」、「科学」と「神秘」と いった複数の矛盾した視点が存在する「二重性」も重要な性質の一つである。ピュグマリ オン神話を原点とした人形の魂の有無を決定づけるものとして、人形に関わる人間の中に こそ根源的な要素があることを、現代において我々は認識せざるを得ない。 27 クリスチャン・ディオールとファッションの恍惚 青木 美桜 ファッションにまつわる言説は常に男性/女性、見るもの/見られるもの、拘束/解放、 肉体/イメージという対立構造のなかで語られてきた。80 年代に鷲田清一はディスプロ ポーションという概念を用いて、身体とイメージのずれや裂け目を指摘し、このような対 立構造に疑問を投げかける存在として、3 人の日本人デザイナーの作品を提示した。クリ スチャン・ディオールは古典的な女性らしさをブランドの特色としたこと、制度やルール に守られてきたオートクチュールの黄金期を作り上げたことで、ファッション言説におい ては一番の典型的な標的とされてきた。しかし、現在のディオールのデザイナーであるジ ョン・ガリアーノの作品はこのような二項対立に当てはまらず、かつこれに疑問をなげか けた日本人デザイナーたちともまた別の態度でファッションに向き合っているように思わ れる。本論文ではそれまでの二項対立や鷲田による指摘に当てはまらないディオールとい うブランドの魅力について分析した。 第一章は現在のファッションのシステムが出来上がった歴史からファッションを支配す る二項対立が生まれた背景を説明した。 第二章は 1947 年のディオールのメゾン設立にさかのぼり、シャネルとの比較において 批判されてきたディオールの再定義を試みた。それまでのシャネル論は結局二項対立から 抜け出すことができなかったとし、それに対してディオールはデザイナーが欲望の主体と なることを辞めることで二項対立にとらわれず、「女性の造形美」を純粋に追い求めるこ とが可能になっていたと結論づけた。 第三章では鷲田によって優れたファッションとされた 3 人の日本人デザイナーとの比 較から 90 年代、2000 年代のデザイナーであるガリアーノの特徴を探った。鷲田は日本 人デザイナーたちのファッションに常に問題を投げかけていく姿勢を評価していたが、ガ リアーノはそのような姿勢ですらもモチーフの一つとしてしまい、彼がファッションの快 楽をひたすら追い求めていることを明らかにした。 第四章ではガリアーノが二項対立を乗り越え、ファッションの快楽のみを追求する過程 を彼のデザインを分析することによって明らかにした。ガリアーノの目的は、戦後のファ ッションにクリスチャン・ディオールが「ニュー・ルック」によって希望をもたらしたの と同じように、フェミニズムによって糾弾され、脱構築主義によって解体され、荒涼とし たファッションの世界にファッションの与える喜びをもう一度取り戻すことにあったと結 論付けた。 ディオールによるファッションの恍惚は常にその時ごとに失われつつあるファッション の喜びを提示しなおし、私たちにファッションのみが見せることを可能にする夢の世界を 思い出させる役割を担っているのである。 28 C.ドビュッシー論―『月の光』における一考察― 金澤 知佳 本稿は、近代フランスの作曲家であるクロード・ドビュッシー(1862-1918)のピアノ 作品『月の光』における一考察を試みた。『月の光』は、日本でも CM やアニメ、映画 など様々なシーンで BGM として用いられ、親しまれている。人々が音楽から受ける影響 はそれぞれだが、この曲が作曲された背景や特徴について考察し、本稿なりの解釈を導き 出した上で、この作品が人々に与える魅力とは何かについて一つの答えを出すことが本稿 の目的だ。 『月の光』が作曲された 1890 年ごろは、ドビュッシーの作曲家人生の中では初期にあ たるが、それまで深く傾倒していたワーグナー音楽から離れ、彼独自の音楽を形成してい く分岐点となる時期でもあった。そこで第 1 章ではまずドビュッシーが生まれてから、 『月の光』を作曲するまでの半生を概観したのち、彼の音楽活動に多大に影響を与えたと 考えられる文学および文士達との交流に着目し、そのなかで作り上げられていった彼の美 学観について考察した。さらに、ワーグナー音楽のどのような点にドビュッシーがはじめ 感銘をうけ、後に反駁したのかについて具体例を挙げながら整理し、それまでの考察も踏 まえた上で彼の音楽観について検討した。そうしたところから、ドビュッシーが目指した 音楽は、一義的な意味ではなく多義的な意味を喚起できるようなものであることがわかっ た。 第2章では、『月の光』の着想源になったと考えられるポール・ヴェルレーヌ(18441896)の詩篇『月の光』を考察した。ヴェルレーヌの詩は、『月の光』以外にも多くのド ビュッシー作品にインスピレーションを与えたとされていることから、ヴェルレーヌの詩 作品全般に見られる特徴や、『月の光』が収められている詩集『艶なる宴』の世界観、さ らにその詩集の着想源となったアントワーヌ・ワトー(1864-1721)の「饗宴画」にも触れ、 ヴェルレーヌ作品に対する理解を深めた上で、詩篇『月の光』の考察を行った。その結果、 この作品が没個性的な作品であり、「優雅」な雰囲気と哀愁が満ちた作品と評価されなが らも、その裏には作者の秘めた願望が隠されているのではないかという結論に至った。 第 3 章ではドビュッシーの『月の光』について、同様のタイトルを持つ2つの歌曲作 品も含め、先行研究を参考にしながら音楽分析を試みたのち、第 1 章、第2章の内容も 踏まえて、ピアノ曲『月の光』についての考察を行った。この曲の音楽的な特徴は、音の 揺らぎと、モチーフの繰り返しの中に見られる微妙なニュアンスの変化にある。ドビュッ シーはこうした表現を巧みに用いることで、クライマックスの気持ちの高まりを、ロマン 派音楽のように大袈裟な表現方法を用いることなく印象的に表現することに成功している。 本稿は最後に、ワトーやヴェルレーヌと同様、上流階級への憧れというドビュッシーの個 人的な感情がこの曲の中に秘められているのではないかという一解釈を提示した。しかし、 この曲の魅力は、こうした解釈から導きだされるものではなく、ニュアンスの違いによっ て聴く人の想像力を刺激し、多くの解釈を許すことにあるのではないだろうかと考える。 29 ビジネスと表現から見る「エヴァンゲリオン」シリーズの 14 年 川上 舞子 1995 年のテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』と、1997 年の旧劇場版から 10 年の時を経て、2007 年 9 月、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が公開された。この作 品は、10 年間ものあいだ新作がなかったにもかかわらず、興行収入 20 億円を記録し、ま た、続けて作られた 2009 年 6 月公開『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』も、それを上回 る興行収入 37 億円を記録するほどの大ヒットを成し遂げた。本稿は、この新劇場版が大 ヒット作品と成り得た秘訣を、作品自体の「表現」からの分析のみにとどまらず、「エヴ ァ」シリーズの 14 年間に焦点を置き、「ビジネス」の観点からも考察をすすめ、分析し た。 第一章では、ビジネスの観点からとして、盛んなメディアミックスを展開したビジネス モデルと、製作委員会方式を採用しない体制のもとでの制作という 2 点に着目し、考察 を行った。14 年間の盛んなメディアミックス展開は、ファンの持続や資金確保につなが り、新作製作における基盤を形成することに貢献した。そして、新作が製作委員会方式を 採らずに「自主制作アニメ」として作られていることについては、現在の商業アニメ業界 の問題点や、自主制作アニメそのものの特徴、また彼らのインディーズ時代の経験を挙げ ることで、そのメリットを指摘した。以上から、14 年間で固められた強固な基盤の上で、 多層構造におけるしがらみに縛られることなく、思い切った作品を作っていける状況が、 新作ヒットの強みのひとつであるとした。 第二章では、表現の観点から、旧作と新作の比較を中心に、新劇場版が旧作から成長を 遂げたわかりやすい娯楽大作だということを考察した。まずは、従来、日本アニメに継承 されてきた「成長物語」という主題を拒否してきた、異例な作品であるテレビシリーズと 比べ、新作ではその主題をうまく取り込み、より物語として見やすく制作されていること で、新規客や広範囲の観客により受け入れられやすくなったことを指摘した。また、それ は、映画というメディア、洗練された物語構造、高度な CG 映像などからさらに強化され、 「エヴァ」シリーズのクオリティを一層高めることになり、作品そのものとしても大いに 注目されることとなった。「エヴァ」という世界観を維持しながらも、成長物語など、一 般にわかりやすいエンターテイメントな要素を盛り込むことで、従来のファンも新規客も 満足させる構造を実現させたことが、大きな魅力のひとつであると述べた。 最後には、彼らの原点であった自主制作アニメへ立ち返ったことと、「成長物語」とい う従来のアニメの主題を取り込んだことをあわせて、新劇場版は彼らにとって、ある意味 での原点回帰であると指摘した。それは、卖なる後退ではなく、14 年間の時を経て、製 作者も作品自体も成長した先に待っていたものである。この体制と状況の中で、自分たち の作りたいアニメを思い切り作っていく彼らの強さと、生み出される作品の魅力を合わせ て、新劇場版「ヱヴァ」のヒットの秘訣であるとした。 30 トランスフォーマー論 齋藤 竜也 本論文は 2007 年公開の映画『トランスフォーマー』を中心として、それを取り巻く作 品群と比較しながら分析していくものである。「トランスフォーマー」とは日本の玩具作 品に端を発するものであり、車などの乗り物を始めとして様々なものに変形・擬態するも のである。私はそこに注目して他のロボット作品とは何かが決定的に違うのではないかと 感じ、今回の論文を書くに至った。 第 1 章では、主に日本のロボット作品との比較を考察してみた。多くのロボットは 「操作型ロボット」と「自立型ロボット」に大別することができる。そして、トランスフ ォーマーは後者に属している。機械の肉体は我々に驚異的な力をもたらすが、同時に人間 性の消失という「ダブル・ビジョン」の二面性を持つ。前者はそれを端的に表しているが、 「トランスフォーマー」を始めとする後者は生物、人間と機械の融合が逆ベクトルとして 働いているように思われる。即ち、機械の生物化・人間化ということだ。 それは第 2 章で言うロボットの顔面表現にも現れている。昨今におけるキャラクター の顔面表現の集中などと共通点を持つように思われる。「トランスフォーマー」だけに限 らず、ロボットの表情は時に、人間以上に豊かな表現を見せるのだ。それは、私たちが 「口パク」などに代表される「リミテッド・アニメーション」の技法で培われてきた表現 を見てきたからこそ受け入れられるものなのかもしれない。 また、「トランスフォーマー」においてはアニメ・実写共に「リミテッド・アニメー ション」の技法の一つである「バンク・システム」が使われていない。斎藤環の言う「カ イロス時間」を排したものであり、そうした姿勢は実写向きだったと言える。また、彼ら が特別な過程を必要としない、生物に備わった一種の能力であるということも強調されて いるように見える。 第 3 章では、視点を変えて「アニミズム」という観点から考察してみた。周囲のもの がある日突然生を受け、我々とコミュニケーションをとるというコンセプトは何も「トラ ンスフォーマー」に固有のものではない。古来より伝わる様々な伝承・伝説に散見される ように、人々は自分たちの周りのものを擬人化してきている。ロボットもそうした擬人化 の一種の産物なのかもしれない。ロボットの生物化はここにきて、順当な理由を得たよう にも思われる。 総括として、フィクションのロボットたちを実写化する、という行為に説得力を持たせ たものが「トランスフォーマー」であると言える。我々が実際に作り出したものが超テク ノロジーの塊へと変貌する様は、人間の技術の延長として人々に受け入れられるのではな いだろうか。今後、こうした作品群は私たちにロボットの明るい未来を提示してくれるの かもしれない。 31 ヒップホップにおける踊る身体 杉山 絵理子 ヒップホップとは、1970 年代後半にアメリカで誕生した文化であり、音楽、ダンス、 あるいは生活スタイル全体を表す言葉である。ヒップホップが問題視される原因としては、 ヒップホップが白人優位のアメリカ社会の中で、貧困層の黒人たちから作られた文化であ ったこと、そしてヒップホップが誕生した時期が、人種問題に対する運動が目に見える形 となって現れた 1960 年代の公民権運動後であったことが挙げられる。このような社会的 背景から、ヒップホップは公民権運動後のアメリカが生み出した時代の産物であるとされ、 常に政治や経済と関係付けられて語られてきた。しかし、そのような場合には、身体水準 での論が抜け落ちている。 身体は育ってきた環境や階級、趣味や趣向によって異なる性格を持つため、文化によ って異なる身体が存在すると言われている。したがって、ヒップホップ文化においても、 ある特有の身体が存在するはずである。本論文ではヒップホップ文化の中に含まれるダン スに着目し、ヒップホップに特有の身体を分析することで、身体の水準から、ヒップホッ プを捉え直した。 第一章では、「ダンスと社会」をテーマに、ヒップホップがどのような社会的背景の 中で生まれてきたのか、ヒップホップ以前の時代からヒップホップ誕生までの大きな流れ を捉えた。その際に、時代毎にどのようなダンスが踊られてきたのかを社会状況と関連さ せて考察した。 続く第二章では、ヒップホップを時代毎に分け、それぞれの時代にどのようなダンス が存在したのかを論じた。その上で、実際にヒップホップダンスの身体的特徴をリズム、 動き、姿勢等の面から分析し、ヒップホップに特有の身体を他のダンスとの比較によって 明らかにした。 第三章では、ヒップホップダンスを作り出している諸記号として、場所、メディア、 朋装の問題に着目し、ヒップホップダンスの特性を論じた。また、「身体と政治性」をテ ーマに、第二章の分析の中から得られた身体的特徴が、どのような社会的意味を持つのか を考察することで、ヒップホップの身体が様々な身体に対する反抗を表していることを明 らかにした。ヒップホップダンスは、西洋的な権力と結びついた身体に対抗することで、 白人社会に対する怒りを表してきた。それと同時に、他のアメリカの黒人ダンスとも異な る身体を持つことで、対黒人としての雰囲気をも持つものであったのだ。その意味で、ニ ュースクール時代に登場したヒップホップダンスは、アメリカ黒人ダンスの歴史の一つの 区切りとなっているのであり、新しい時代の幕開けを意味しているのではないだろうか。 32 越境する身体 中島 友美 グローバル化の進んだ現代、海外へ渡航する人が増えている。そして、海外へ行く際に、 空港から飛行機に乗って行くのが一般的である。もはや現代では、空港や飛行機の存在し ない社会など想像することができないだろう。それでは、利用する人や機会が増えたこと によって、空港が私たちにとって都市と同じような身近なものとなっているのだろうか。 そこで本稿では、飛行機旅行での身体の経験、そして空港という空間について考察し、さ らにそれらと現代社会や都市との関係を論じることとした。 まず第一章では、19世紀において先端的で主要であった鉄道による旅と、飛行機によ る旅を比較し、飛行機旅行の作り出した時間と空間について先行研究等を参考にしながら 考察した。その結果、鉄道の旅は鉄道以前の伝統的な徒歩や馬車による旅と比較して、伝 統的な時間や空間の連続性が抹殺され、それらが飛行機の旅ではさらに進んでいることが 明らかになった。また今日、インターネットによって実際にその場所に足を運ぶことなく 空間の疑似体験をすることが可能であるが、それによって時間と空間に新たな変化が起き ていることについても述べた。 第二章では、まず先行研究等を参考にしながら空港における主体について考察し、空港 の中の目に見えない法的な国境である出国審査と入国審査の間の無国籍空間で、主体の同 一性は希薄化するとまとめた。それらを踏まえたうえで、さまざまな理由により空港から 出られなくなった人々を描いた映画『パリ空港の人々』『ターミナル』『ゲート・トゥ・ ヘヴン』の三作品を分析した。分析の結果、これらの作品に登場する空港を居場所とする 人々、特に『ターミナル』の主人公ビクター・ナボルスキーは、クーデターで祖国さえ失 い何物にも同定することのできない真に希薄化した主体となっているといえる。また、社 会的に外部となってしまったマイノリティーが都市の外部としての空港を居場所としてい た。 そして第三章では、三作品の中で主に『ターミナル』における空港と都市の関係を分析 したうえで、空港に措置されている監視や管理による権力と現代社会や都市のそれらを考 察した。飛行機技術によってそれまでの交通手段より圧倒的な速度で長距離を移動するこ とが可能になり、国境を越えて世界の国々を旅することも以前より容易となった。しかし その自由は、監視カメラや警備員の視線、身体検査や荷物検査、出入国審査でのパスポー トやビザの確認、指紋や顔写真の記録といった監視や管理の下におかれることが前提とな っている。今日の都市でも自由と管理が表裏一体となっているが、徹底した自由と徹底し た管理が表裏一体のものとして現象しているのが、飛行機の旅と空港での経験である。 空港とは徹底した管理によって厳密に区画された空間であり、外部からの不審なもの や規則に反するものを異物として排除する一つのテーマパーク化した空間であるといえる のではないだろうか。 33 スティーヴン・スピルバーグ論 ――『宇宙戦争』を中心に 野村 暁也 スティーヴン ・スピ ルバーグは、『 E.T.』 (1982)、『ジ ュラシ ック・パーク 』 (1993)などで知られる映画監督である。本稿では、彼の最近の作品である『宇宙戦 争』(2005)を中心に、彼の他の作品との比較を通して、スピルバーグ作品の特徴や共 通するテーマを考察することを目指した。 まず第1章で論文の概要を述べたのち、第2章でスピルバーグ監督の来歴および映画製 作の歩みをまとめた。 第3章では、『宇宙戦争』のあらすじを紹介し、『宇宙戦争』が観客にどのように受け 入れられたかを、主にインターネット上の映画関連サイトやブログに書かれた評価を参考 にまとめ、この作品に批判と絶賛の両極端の反応が起こっていることを述べた。 第4章では、『宇宙戦争』と同じくスピルバーグが宇宙人を扱った作品である『未知と の遭遇』(1977)、『E.T.』をとりあげ、そこで描かれている宇宙人像について考察し た。またそれらを『宇宙戦争』でのそれと比較し、『未知との遭遇』や『E.T.』では、見 知らぬ他者として地球を訪れた宇宙人が、交流や離別を経て人物に何らかの内面的変化や 解決をもたらしていたのに対し、『宇宙戦争』ではそのようなプロットが存在せず、卖に 否応なく行使される暴力、自然災害のような存在に宇宙人が変化していたと考えた。 第5章では、SF 映画としての『宇宙戦争』を考えるために、スピルバーグの監督作品 の中で SF に分類されると思われる5作品、『未知との遭遇』、『E.T.』、『ジュラシッ ク・パーク』、『A.I.』(2001)、『マイノリティ・リポート』(2002)をとりあげ、 それぞれの描写の特徴について述べた。この際、高千穂遥氏による SF 映画の定義と分類 を紹介し、SF 映画とファンタジー映画の境界、ファンタジー映画としての芸術性が SF 映画としての整合性より優先される場合があることを確認した。これらと比べて、『宇宙 戦争』は主人公の視点からのみ物語を描くことが徹底され、意図的に情報が制限されてお り、SF としての物語の説得力を追及することが放棄されていること、『未知との遭遇』 や『E.T.』のようなファンタジー的な側面も存在しないことを述べ、上記5作品のどれと も異質な作品となっていることが、幅広い支持を得られなかった理由になっていると考え た。 第6章では、加藤幹郎氏や伊藤計劃氏の考察を参考に、映画史的、およびスピルバーグ 作品自体における原点としてのスペクタクル(見世物)映画に回帰しようとする試みが 『宇宙戦争』であったと述べた。そして、その暴力的なあり方が常に「死」と結びついて おり、近年の他のスピルバーグ作品とも地続きになっていること、宇宙人・SF という主 題を用いて再びそのような表象が成されたということを総合して、『宇宙戦争』が今のス ピルバーグを包括する作品と言えるのではないかと結論づけた。 34 池波正太郎論 齋藤 拓 池波正太郎は時代小説作家である。主として戦国から幕末へかけての時代を背景に、 武士、忍者、盗賊、剣客などを主人公とした作品を手がけた。また女性を主人公としたも のも多い。長編小説だけでもその数は 41 作品にのぼり、それらの作品は池波の没後から まもなく 20 年経とうという今もなお人気を博している。2000 年代に入って以降は各出 版社から文庫の新装版が発売され、また関連本も出版され続けている。 第 1 章では尾崎秀樹の『大衆文学論』に依拠し、時代小説というジャンルの成り立ち と発展について述べた。時代小説というジャンルはその成り立ちから発展期において大衆 小説とほぼイコールで語られており、大正期という大衆化の時代、かつ教養主義の時代の なかで産声を上げた。大衆の教養主義的気分が蔓延する社会風潮の中で、時代小説(=大 衆小説)は文学的教養を持たない大衆的な読者層に広く読まれた。そして第 2 次世界大 戦後の経済的安定を背景にしたマスコミの発展とともに盛行していった。時代小説という ジャンルの特徴は、作者と読者との双方に当てはまる大衆性である。以上の前提をもとに、 池波が生まれ育った文化的な環境、背景を述べた。 第 2 章では池波正太郎が時代小説の発展とともに生き、それに貢献したことを、その 経歴と創作活動上の師匠である長谷川伸の影響とを関連付けながら論じた。また池波の作 品を、それが扱っている時代や、ジャンル、主人公の立場によって分類し、池波がスタン ダードな時代小説を主としながら、体制側には属さない盗賊や暗殺者をも頻繁に描いたこ とから、体制/反体制の二項対立で歴史を認識していたわけではなかったことを指摘した。 以上をふまえ、2 節では池波の作品はそれぞれが独立した作品ではなく、相関的に補完し あう一種の全体小説と見るべきであると主張した。 第 3 章では池波の作品に頻出する嗅覚表現の働きを分析した。『おとこの秘図』や 『男振り』、『夜の戦士』などでは、嗅覚表現によって主人公たちの「性的初体験」や、 「幼児期の体験」の想起がされる。それは視覚や聴覚といった精神的な感覚と、味覚や触 覚といった肉体的な感覚との中間に存在するとされる嗅覚だからこそできたことと言える。 また嗅覚表現はエロティックな場面においてもっとも多く見られるが、それ以外の場面に おいてもよく使用される。そうした嗅覚表現によって読者は登場人物の肉体をリアリステ ィックに捉えることができる。3 節では池波の忍者小説『夜の戦士』を例に、池波の作品 において嗅覚表現が登場人物と読者の身体を結びつける働きをしていると指摘した。 池波正太郎の小説は時代小説というジャンルが持つ大衆性によって時代の要請に従い つつも、同時に江戸時代が日本人にとって文化の源流であるがゆえに原風景的なものとし ても受容された。それだけではなく、近代において軽視された嗅覚を強調することで、近 代化の過程で失われていったものを作品内で前景化し、また嗅覚表現を人物描写や状況描 写にもちいることで読者と登場人物の身体を結び付けたところに特徴があると結論付けた。 35
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