ISSN 0910-9436 山形県立博物館研究報告 第29号 BULLETIN OF THE YAMAGATA PREFECTURAL MUSEUM NO. 29 山形県立博物館 YAMAGATA PREFECTURAL MUSEUM February 4, 2011 はじめに 山形県立博物館は、明治百年を契機として昭和 46 年に設置された、自然系と 人文系からなる総合博物館です。また、本館は、昭和 51 年に自然学習園(琵琶 沼)、昭和 55 年に教育資料館(旧山形師範学校:国重要文化財)を併設し、平 成 23 年度には創立 40 周年を迎える、歴史ある博物館であります。加えて近年 は、収蔵資料の整理とデジタル化を進め、データベースのウェブ公開を行うな ど、各界の注目を集めておりますが、これまでの博物館刊行物等のアーカイブ 化をもあわせて推進するなど、未来を志向する博物館でもあります。 昨今の経済情勢の悪化にともない、博物館等の施設にとりましては、冬の時 代とも言えるような厳しい財政状況が続いておりますが、博物館法に示されま すように、博物館は、資料の収集・保管さらには公開とともに、資料に関する 調査研究が重要な役割を持っています。したがいまして、学芸員にとりまして は、資料の収集・保管・展示並びに調査研究にあたった業務の報告を行うこと が、様々な収蔵品等の意味と価値を次代に伝える役割を担う、大切な任務の一 つであります。 本館では、厳しい財政事情を踏まえながら、研究報告の刊行は博物館の重要 な業務の一つとして位置づけております。簡易な製本の形ではありますが、今 年度も刊行を継続するとともに、全内容を山形県立博物館のホームページに掲 載することといたしました。県立博物館職員の調査研究の内容をひろく県民の みなさまにご覧いただきますよう、祈念しているところであります。 今回刊行いたします「山形県立博物館研究報告第 29 号」には、地学・植物・ 考古・歴史・民俗・教育の6部門から、計 9 編の論文を掲載することができま した。東北6県で最大の収蔵資料数を持ちながら、最少の人数で企画運営を行 うかたわらの研究でありますので、不備な点も多々あろうかとは存じますが、 わが郷土山形をより深く理解していただくために、今後より一層の努力を重ね てまいる所存でございますので、各位のご理解とご指導をお願い申し上げるし だいです。 平成23年2月 山形県立博物館 館長 石 垣 立 郎 目 次 <地学部門> 高橋麻美 企画展「うつくしい鉱物や岩石」にむけてー展示品の紹介ー ・・・・・1 <植物部門> 川上新一 「山形県産変形菌類目録-List of Myxomycetes collected from Yamagata Prefecture-」 ・・・・・5 <考古部門> 押切智紀 「企画展『縄文のキセキ』展を振り返って」 ・・・・・13 <歴史部門> 山口博之 「中世前半期の追善仏事とその周辺」 ・・・・・19 熊谷水緒 「近世山形に見る交通の一様相」 ・・・・・27 <民俗部門> 秋葉正任 調査ノート「米沢の土人形~相良人形と幻の下小菅人形~」 ・・・・・31 <教育部門> 石垣立郎 「化学実験室ことはじめ」 ・・・・・35 菅野史郎 「「地域資源のデジタル化推進事業」の取組み」 ・・・・・41 青木章二 「明治期の評伝類にみる三島通庸の異名について」 ・・・・・47 山形県立博物館研究報告, 29:1-4, February 4, 2011 企画展「うつくしい鉱物や岩石」にむけて -展示品の紹介- 高橋 麻美* Asami Takahashi 1.はじめに 平成 22 年度山形県立博物館第5回目の企画展 の二酸化ケイ素からなり、花崗岩などの酸性の火 「うつくしい鉱物や岩石」 (平成 23 年 2 月 26 日 成岩・変成岩に含まれている。水晶(石英)は壁 ~5 月 8 日)が開催されることとなった。そこで 開がないため加工しやすく、装飾品の材料として 本稿は、この企画展における展示構成といくつか よく利用されている。古代から信仰や呪術、まじ の展示品を紹介します。 ないに用いられ、現在でも占いなどで使われてい る。さらに、癒し効果を期待してか、ブレスレッ 2.ねらい トなどのアクセサリーとして人気を博している。 子供の頃、河原で小石を拾って遊んだり、気に 水晶は“水精”とも書き、一年中雪を頂くアルプ 入った小石を持ち帰ってみたり…そんな思い出を スの山中から産することが古くから知られ、昔の もっているひとは少なからずたくさんいるのでは ローマ人はこれを水の化石と信じていたという。 ないだろうか。今回の企画展は、山形県立博物館 中国でも同じ考えがあり、これから水晶という名 の収蔵品を中心としながら、色鮮やかな色・ユニ 前が生まれた。今回の企画展では、1992 年に開催 ークな模様・形など、ひとつひとつ個性あふれる された企画展「鉱物の世界‐人とのかかわり‐」 鉱物や岩石を展示することで、いままでに鉱物や で展示されて以来、収蔵庫に眠っていた誕生石な 岩石に興味のなかった方でも楽しむことができる ども展示します。 展示を目指している。 次に、形がユニークで、山形県天然記念物に指 定された「ソロバン玉石」を紹介します(図3)。 3.展示構成 ソロバン玉にそっくりなソロバン玉石は、産地で ・うつくしい鉱物 ある小国町十四ヶ森地域が山形県の天然記念物に このコーナーでは色彩豊かな鉱物を主に展示し、 指定され、保護されている。新第三紀の海底火山 そのほかにユニークな形をした鉱物などを紹介し の活動によって流紋岩質マグマが噴出すると、小 ます。展示する鉱物の中でも人気・知名度ともに さなボール状の球顆ができ、そのなかのすき間に 高いのが水晶である(図 1、2)。水晶は無色透 ソロバン玉石はできる。このソロバン玉石は珪酸 明な自形結晶の石英のことをいう。石英とは最も を94%以上ふくみ、玉髄に該当する鉱物である。 普遍的に産出する造岩鉱物の一つで、ほぼ 100% もうひとつ、ユニークな形のもので異彩を放っ ているのが「砂漠のバラ」である(図4)。バラ *山形県立博物館嘱託職員 -1- の彫刻のように見えるが、これは人の手によって れた石ころのなかには、近くの河原で見たことが つくられたのではなく、自然がつくりだしたもの ある石ころがあるかもしれません。ここでは、そ である。この正体は石膏という鉱物がバラの花び のなかの球状閃緑岩を紹介します(図6)。この岩 ら状に結晶し集合したもので、バラのように見え 石は閃緑岩を母体とし、その中に大小の球状体が るその姿から「砂漠のバラ」と呼ばれている。サ 密集している。この球状体は白っぽい鉱物(斜長 ハラ砂漠をはじめ、アメリカやメキシコなどの大 石?)を核として、これをとりまく黒っぽい鉱物 陸の乾燥地帯の砂の中から発見される。砂漠では、 (角閃石?)の部分と白っぽい鉱物の部分が交互 古い海が塩湖として残されており、これが干上が に重なっている。 ると、塩分が結晶して岩塩をつくるのだが、その 図7、8の奇怪な形をしているこの岩石は、黒 なかの硫酸カルシウムは石膏として結晶し、時折 鴨石とよばれる飾り石である。産地としては山形 こうした姿となって砂の中に埋もれているのであ 県白鷹町が有名で、1960 年代には一時期ブームと る。 なり、川沿いに落ちている黒鴨石を拾いに来る人 がたくさんいたという。しかし、その後白鷹町の ・くらしを支える鉱物 文化財として保護されたため、採集することはで 資源として利用価値の高い鉱物は、現在私たち きない。黒鴨石は、泥の堆積物が泥岩に変わる過 の生活に欠かせない電気製品や自動車などのあり 程で石灰質に富む部分が濃集して形成された泥灰 とあらゆるものに使われており、まさに陰で支え 質ノジュール(泥灰質団塊)である。泥灰質ノジ る“縁の下の力持ち”である。このコーナーでは、 ュールは、県内に広く分布する新第三紀の泥岩の 各々の鉱物がどのようなものに利用されているの 地層の中からもよく見つかっている。 かを紹介します。その中でも、山形県産の鉱物資 ほかにも、卵、パン、玉葱のように見える石こ 源として有名なのがベントナイトである(図5)。 ろ、へび皮に似ている石ころなど、個性豊かな岩 ベントナイトは、堆積した火山灰などに温度や圧 石を展示します。 力が加わることによって変質してできたモンモリ 4.おわりに ロナイトという粘土鉱物を主成分としており、ほ かに石英や雲母、長石、ゼオライトなどの細かな 以上、企画展の構成や展示品についていくつか 鉱物を含んでいる。大江町の月布鉱山から採れる 紹介をしてきた。そのほか、今回の企画展では直 ベントナイトは膨潤性が強く質がよく、全国的に 接鉱物や岩石に触れて、感触を確かめられるコー も有名な鉱山である。主な用途として鋳物生型砂 ナーを設けます。ガラス越しに見るだけではなく、 の粘結材、土木基礎用安定液、ボーリング用泥水 実際に手で触れて質感の違いを感じていただけれ や農薬基材があるが、最近では猫や小動物のトイ ば幸いです。 レ砂(ペットサンド)や化粧品への需要もある。 ・めずらしい石ころ このコーナーでは山形県内外のめずらしい模様 や形をした岩石を展示します。山形県内で産出さ -2- 図4.砂漠のバラ 図 1.水晶(両錐形) ブラジル産 図5.ベントナイト原石 図 2.水晶(群晶) 山形県大江町産 アメリカ産 図6.球状閃緑岩 図3.ソロバン玉石 チュニジア産 山形県小国町産 -3- 山形県小国町産 図7. 黒鴨石 図8. 黒鴨石 山形県白鷹町産 山形県白鷹町産 -4- 山形県立博物館研究報告, 29:5-12, February 4, 2011 山形県産変形菌類目録 川上 新一* List of Myxomycetes collected from Yamagata Prefecture, Japan Shin-ichi Kawakami (Yamagata Prefectural Museum) 1.はじめに に従った。科内の学名をアルファベット順に整列 変形菌(Myxomycetes)とは、真性(真正)粘 し、種・変種・品種名の前に通し番号を付した。 菌(true slime molds)とも呼ばれ、アメーバ動 また、本目録では、現在標準的に用いられている 物類(Amoebozoa)に属する。このグループは植 学名を採用した。syn.を頭に付した学名は以前用 物・動物・菌類などから独立した生物群であるこ いられていた学名(異名)である。cf.を種小名の とが明らかになりつつある。変形菌はアメーバ状 前に付した学名は、用いた標本が最も当てはまる 態になったり、鞭毛を形成したりする一方で、胞 学名である。また、雪解けの環境下で採集された 子を有する子実体を形成するという、独特な生活 種類には、和名の後に「好雪性」と付記した。 環を示す。日本でのフロラ的研究において、昭和 国立科学博物館の変形菌標本の番号は、変形菌 天皇、南方熊楠、江本義数などの研究が有名であ 研究会コレクションには TNS-M-H、小畔四郎コ る。近年では、山本幸憲や萩原博光らの日本変形 レクションには TNS-M-K、南方熊楠コレクショ 菌研究会による調査により見出される種類が飛躍 ンには TNS-M-M、山本幸憲コレクションには 的に増加した。現在までに日本では、変種・品種 TNS-M-Y が各々付されている。昨年筆者らが採 を含めて 500 種程度発見されている。 集し、本博物館に収蔵した標本には YAMA-M を 標本番号の前に付した。 2.山形県産変形菌標本について 以下の目録における記載で、標本番号の後、括 山形県産標本の多くが(独)国立科学博物館植 弧内に、採集年月日;採集場所;採集者;同定者; 物研究部(茨城県つくば市)の標本庫に収められ 備考の順に記載した。ただし、採集者と同定者が ている。当博物館では、昨年まで変形菌の標本が 同じ場合は同定者を省略した。また、次に示す氏 一つも収められていなかった。 名はリストに頻出するため、張尾雅信を張尾、山 今まで、県内のフロラに関しては断片的な報告 本幸憲を山本、萩原博光を萩原、小畔四郎を小畔 がある(参考文献 5-8)ものの、本報告のような のように各々略した。さらに、以下の4つの記載 まとまった目録が示されるのは初めてである。 パターンが頻出するため、A~Dで代用した。 (A)1987.8.26.;朝日町朝日鉱泉;萩原 3.標本リスト (B)1987.8.27.;朝日町朝日鉱泉;萩原;山本 本目録では、変種、品種を含めて計 58 種類を (C)1987.8.27.;朝日町朝日鉱泉;萩原 掲載した。本目録の分類体系は参考文献 3 のそれ (D)1987.8.27.;朝日町朝日鉱泉;萩原;山本 変形菌綱 *山形県立博物館嘱託職員 -5- Myxomycetes Ceratiomyxomycetidae ツノホコリ亜綱 TNS-M-H5164(B) ツノホコリ目 Ceratiomycales TNS-M-H5182(C) ツノホコリ科 Ceratiomyxaceae YAMA-M7(2010.10.16.;山形市霞城町、霞城 この生物群は、近年の分子系統学的解析により、 公園;川上新一) 9. L. exiguum Morgan コマメホコリ 狭義の変形菌類に含まれない傾向にある。 TNS-M-H5183(C;Cribraria sp. もあり) 1. Ceratiomyxa fruticulosa (Mueller) T. Macbr. ツノホコリ TNS-M-H5178(C) ケホコリ目 Trichiales 2. C. fruticulosa var. descendens Emoto エダナ ウツボホコリ科 シ ツ ノ ホ コ リ (syn. C. descendens (Emoto) 10. Arcyria affinis Rostaf. クロエウツボホコリ Arcyriaceae TNS-M-H5200・5201(D) Emoto) 11. A. cinerea (Bull.) Pers. シロウツボホコリ TNS-M-H5179(C) 3. C. fruticulosa var. porioides (Alb. et Schw.) TNS-M-H5167(A) Lister タマツノホコリ(syn. C. porioides (Alb. et TNS-M-H5192(C) 12. A. denudata (L.) Wettst. ウツボホコリ Schw.) Schroet.) TNS-M-H5180(C) TNS-M-H5194 (A) TNS-M-H5195・5196・5197・5198 (D) モジホコリ亜綱 コホコリ目 Myxogastromycetidae TNS-M-H5199(C) Liceales アミホコリ科 TNS-M-M4439(1924.9.22.;鶴岡市(旧温海 Cribrariaceae 町);小畔;標本の破損が激しい) 4. Cribraria intricata Schrad. var. dictydioides 13. A. obvelata (Oeder) Onsberg キウツボホコ (Cooke et Balf.) Lister サラナシアミホコリ リ(syn. A. nutans (Bull.) Grev.) TNS-M-H5165・5166(B) TNS-M-H5168(A) TNS-M-H5184・5185・5186・5187・5188・ 5189・5190・5191(D) ケホコリ科 Trichiaceae 5. C. pyriformis Schrad. var. notabilis Rex マル 14. Hemitrichia clavata (Pers.) Rostaf. ヌカホ ナシアミホコリ コリ TNS-M-M3487(1926.9.22.;鶴岡市(旧温海 TNS-M-H5170(A) 村);小畔;標本の破損が激しい) 15. H. clavata var. calyculata (Speg.) Y. Yamam. 6. Lindbladia tubulina Fr. フンホコリ ホソエノヌカホコリ (syn. H. calyculata (Speg.) TNS-M-H3587(1984.6.28.;川西町玉庭、小 Farr) TNS-M-H5169(A) 林山荘庭;萩原) 7. Lycogala conicum Pers. イクビマメホコリ(図 TNS-M-H5202(C) 1) TNS-M-H5203(1987.8.28.;朝日町朝日鉱泉; TNS-M-H5181(C) 萩原;未熟体白色) 8. L. epidendrum (L.) Fr. マメホコリ 16. H. serpula (Scop.) Rostaf. ヘビヌカホコリ -6- europaeum (Buyck) H. Singer, G. Moreno & (図2) TNS-M-H5204・5205・5208・5209・5238・ Illana ナガレマルホネホコリ?;好雪性 5239(C;5208 は子実体未熟、薄黄色) YAMA-M1(2010.6.5.;西川町大字志津、スキ 17. Metatrichia vesparium (Batsch) Nann. ー場;川上新一・小林美紀;山本;生ササ葉上) -Bremek. ハチノスケホコリ 2004 年にヨーロッパで新品種として記載さ TNS-M-H5237(D) れた種類で、日本ではまだ殆ど報告例がない。 18. Trichia decipiens (Pers.) T. Macbr. エツキケ 本標本では正確な同定が困難である。 23. D. cf. chondrioderma (de Bary et Rostaf.) G. ホコリ TNS-M-H5171(A) Lister キ ノ ウ エ ホ ネ ホ コ リ ? (syn. D. cf. TNS-M-H5207・5211(C) arboretum G. Lister et Petch) TNS-M-H5230(D;T. cf. decipiens 未熟) TNS-M-M3492(1924.9.22.;鶴岡市(旧温海 19. T. favoginea (Batsch.) Pers. ヒョウタンケホ 村);小畔;標本の破損が激しい) 24. D. testaceum (Schrad.) Pers. マンジュウホ コリ TNS-M-H5210(C) ネホコリ 20. T. favoginea var. persimilis (Karsten) Y. TNS-M-H5172・5174 (A) Yamam. トゲケホコリ(syn. T. affinis de Bary) 25. Didymium angularisporum J. Matsumoto TNS-M-H5206(C) カクミカタホコリ(図3) (参考文献 2、4、10) TNS-M-H3525 (ISOTYPE) ・ TNS-M-H3526 モジホコリ目 Physarales (HOLOTYPE)(1983.10.14.;川西町玉庭;萩 カタホコリ科 Didymiaceae 原;松本淳) 21. Diderma alpinum (Meylan) Meylan ミネホ 26. D. dubium Rostaf. ハイカタホコリ TNS-M-H6965(1994.5.9.;米沢市板谷;張尾; ネホコリ:好雪性 TNS-M-H6966(1994.5.10.;米沢市天元台; 山本) 張尾) YAMA-M5(D. cf. dubium;2010.6.5.;西川町 TNS-M-Y3932(1994.5.10.;米沢市天元台;張 大字志津、スキー場;川上新一・小林美紀;山 尾;山本) 本;生ササ葉上) 27. D. minus (Lister) Morgan コカタホコリ TNS-M-Y3944(1994.5.10.;米沢市天元台、標 高約 1350m;張尾;山本) TNS-M-H3581・3582(1984.6.28.;川西町玉 TNS-M-Y3945(1994.5.21.;西川町大字志津、 庭;萩原;松本淳氏へ永久貸与) 標高約 700m;張尾;山本) TNS-M-H3583 ・ 3584 ・ 3585 ・ 3586 TNS-M-Y3946・3947・3948・3949・3950・ (1984.6.28.;川西町玉庭、小林山荘庭;萩原; 3951(1994.5.21.;西川町月山、標高約 800m.; TNS-M-H3586 の み 国 立 科 学 博 物 館 の 講 座 張尾;山本) (1991. 2. 14)に使用) TNS-M-Y15244(1994.5.20.;西川町月山、標 28. D. serpula Fr. ヘ ビ カ タ ホ コ リ (syn. D. 高 1100m;張尾;山本) complanatum (Batsch) Rostaf.) 22. D. cf. alpinum (Meylan) Meylan TNS-M-K3246・12581(1938.9.20.;鶴岡市; f. -7- 小畔) 34. Physarum conglomeratum (Fr.) Rostaf. オ TNS-M-M3490(1924.9.20.;鶴岡市鶴岡公園; シアイフクロホコリ TNS-M-H5212(C);未熟 小畔;桜木につく) 35. P. contextum (Pers.) Pers. ヨリソイフクロ 参考文献 1 の p.234 に分布県として山形県が 記載されている(参考文献 9)が、これらの標 ホコリ TNS-M-Y10095(1986.8.1.;米沢市滑川;張尾; 本を根拠にしている可能性あり。 29. Lepidoderma alpestroides Mar. Mey. et 山本) 36. P. digitatum G. Lister et Farq. タチフクロ Poulain ヤマキララホコリ:好雪性 TNS-M-Y16866(1994.5.8.;米沢市板谷、スキ ホコリ TNS-M-H5213・5214(D) ー場;張尾;山本) YAMA-M4(2010.6.5.;西川町大字志津、スキ 37. P. globuliferum (Bull.) Pers. シロジクモジホ ー場、標高約 1200m;川上新一・小林美紀;山 コリ TNS-M-H5215(C) 本;生小枝上) 38. P. newtonii T. Macbr. ニュートンモジホコリ 2002 年にヨーロッパで新種記載された種類 TNS-M-H5216・5217(D) で、日本ではあまり報告例がない。 30. L. carestianum (Rab.) Rostaf. ハイキララホ 39. P. nutans Pers. シロモジホコリ TNS-M-K8718(1938.9.20.;鶴岡市鶴岡公園; コリ:好雪性 近年、この種の再定義がなされたため、再同 小畔) 40. P. penetrale Rex ツキヌキモジホコリ 定が必要(参考文献 14)。 TNS-M-Y8144・8145(1994.5.10.;米沢市天 TNS-M-H5218・5219(D;子実体未熟) 41. P. pusillum (Berk. et Curt.) G. Lister コシ 元台;張尾;山本 31. L. granuliferum (Phill.) R. E. Fr. ツブキララ アカモジホコリ TNS-M-H5220・5221(D) ホコリ:好雪性 TNS-M-Y8171(1994.5.20.;西川町大字志津、 42. P. tenerum Rex アシナガモジホコリ(図4) 西斜面;張尾;山本;雪の下の生枝に着生、ぬ TNS-M-H5222・5223・5225(D) れた状態で採集、雪の厚さ約 1.4m) TNS-M-H5224(C) TNS-M-Y8172(1994.5.20.;西川町大字志津; 43. P. viride (Bull.) Pers. アオモジホコリ TNS-M-H5175(A) 張尾;山本) TNS-M-H5227・5228・5229(1987.8.27.;朝 モジホコリ科 Physaraceae 日町朝日鉱泉;萩原;川上新一) 32. Craterium leucocephalum (Pers.) Ditmar シ 44. P. viride f. aurantium (Bull.) Y. Yamam. ダ ロサカズキホコリ イダイモジホコリ TNS-M-H5173(A) TNS-M-H5226(D) 33. Fuligo septica (L.) Wiggers ススホコリ TNS-M-H6376 ( 1992.10.29. ; 朝 日 町 朝 日 鉱 ムラサキホコリ亜綱 泉;伊沢正名) ムラサキホコリ目 -8- Stemonitomycetidae Stemonitales ムラサキホコリ科 45. Collaria Stemonitaceae arcyrionema (Rostaf.) TNS-M-Y7537(1994.5.20.;西川町月山;張尾; Nann. 山本) -Bremek. ツ ヤ エ リ ホ コ リ (syn. Lamproderma 49. L. echinosporum Meylan ヤマルリホコリ: arcyrionema Rostaf.) 好雪性 TNS-M-H6433(1992.10.30.;月山;伊沢正名) TNS-M-Y7561(2001.4.28.;米沢市白布温泉; 46. Lamproderma aeneum Mar. Mey. et Poulain 酒井ひろみ;山本) 50. L. pseudomaculatum Mar. Mey. et Poulain ヒカリルリホコリ:好雪性(図5) 2002 年にヨーロッパで新種記載された種類 コアナルリホコリ:好雪性(図6) (参考文献 4、11)。山形県新産。 山形県新産。 YAMA-M6(2010.6.5.;西川町大字志津字姥ヶ YAMA-M2・3 (2010.6.5.;西川町大字志津、 岳、山形県立自然博物園、標高 845m;川上新 スキー場;川上新一・小林美紀;山本;生ササ 一・小林美紀;山本;生小枝上) 葉上) 47. L. columbium (Pers.) Rostaf. ルリホコリ 51. L. sauteri Rostaf. ザウタールリホコリ:好雪 TNS-M-H5234(C;未熟体、白色、岩石上の 性 TNS-M-Y7691・7697・7698・7699・7714・ コケに発生) 48. L. cribrarioides (Fr.) R. E. Fr. アミクロミル 7717・7700・7701(1994.4.26.;高畠町、標高 リホコリ:好雪性 400m;張尾;山本;枯ススキ上) TNS-M-Y7700 は、M. Meyer 氏によると、L. cf 近年、この種の再定義がなされたため、再同 ovoideum Meylan と同定された。 定が必要(参考文献 4、12、13)。 TNS-M-H6967・6968(1994.5.20.;西川町月 52. L. splendens Meylan シロイトルリホコリ: 山;張尾;TNS-M-H6968 は 1997 年国立科学 好雪性(参考文献 10) 博物館の企画展に使用) TNS-M-Y8053(1994.5.8.;米沢市板谷、スキ TNS-M-H12396(2004.4.13.;米沢市板谷;張 ー場;張尾;山本) 尾;枯イタドリ上に発生、細毛体白色、胞子完 TNS-M-Y8087・8088(1994.6.9.;米沢市白布 全網目型) 峠;張尾;山本) TNS-M-Y7518(1994.5.20.;西川町大字志津; TNS-M-Y8098(1994.5.9.;米沢市板谷、五色 張尾;山本; 巨大胞子を含む) 温泉;張尾;山本) TNS-M-Y7523(1994.5.21.;西川町大字志津; 53. Stemonitis axifera (Bull.) T. Macbr. サビム 張尾;山本) ラサキホコリ (syn. S. ferruginea Ehrenb.) (図 TNS-M-Y7528(1994.5.20.;西川町月山、標高 7) 約 800m;張尾;山本) TNS-M-H5176(A) TNS-M-Y7529・7530・7531(図2)・7532・ TNS-M-H5235(C) 7533・7534(1994.5.21.;西川町大字志津、標 TNS-M-K6233(1938.9.20.;鶴岡市(旧鶴岡 高約 700m;張尾;山本 ) 町);小畔;子実体小型) TNS-M-Y7535・7536(1994.5.20.;西川町月 54. S. axifera var. smithii (T. Macbr.) Hagelst. 山、標高 800m;張尾;山本) スミスムラサキホコリ -9- TNS-M-H5177(B) る。こうして変形菌フロラを明らかにすることは、 TNS-M-H5236(D) その分類・生態学などの分野に寄与するものと考 55. S. herbatica Peck クサムラサキホコリ える。変形菌の行動の研究はイグ・ノーベル賞を TNS-M-H7416(1996.7.10.;朝日町朝日鉱泉; 2度も獲得している。このユニークな生き物が今 田中弘美;?) 後、幅広く学際的研究に利用されることを期待す 56. S. pallida Wingate イリマメムラサキホコリ る。 (図8) TNS-M-M3486・4439・4506(1924.9.22.;鶴 4.参考文献 岡市(旧温海村);小畔) 1. Emoto, Y. 1977. The Myxomycetes of Japan. 57. S. splendens Rost. var. webberi (Rex) Lister 263pp. +125pls. +3photos. Sangyo Tosho Publishing Co., Ltd., Tokyo. スカシムラサキホコリ TNS-M-K5741・9918(1938.9.20.;鶴岡市鶴 2. Matsumoto, J. and Deguchi, H. 1999. Two 岡公園;小畔) new species of Didymium (Physarales, 58. Stemonitopsis typhyna (Wiggers) Nann. Myxomycetes) from Japan. Mycotaxon 70: -Bremek. ダ テ コ ム ラ サ キ ホ コ リ 153-161. (syn. Comatricha typhoides (Bull.) Rostaf.) 3. 山本幸憲.1998.図説日本の変形菌.700pp. TNS-M-H5231・5232・5233(C) 東洋書林. TNS-M-H10209 ( 1996.7.10. ; 朝 日 町 朝 日 鉱 4. 山本幸憲.2006.図説日本の変形菌・補遺. 124pp.日本変形菌研究会. 泉;田中弘美;川上新一) TNS-M-M3700(1924.9.22.;鶴岡市(旧温海 5. 張尾雅信.1993.福島周辺の変形菌.変形菌 (11): 3-4. 村);小畔;cf.) 6. 張尾雅信.1995.宮城・山形両県の変形菌2. 変形菌 (13): 12. 3.おわりに 本目録には、変種・品種を含めて 58 種類を掲 7. 張尾雅信.1995.好雪性粘菌を求めて.変形 菌 (13): 37-39. 載した。その中には再検討が必要な種類がいくつ か認められる。また、張尾雅信氏の標本には、こ 8. 玉山光典・張尾雅信.1997.東北地方で観察 された変形菌の垂直分布.変形菌(15): 28-32. こに掲載した種類以外の種類がいくつも認められ る(参考文献 5-8)。今後の調査研究に期待したい。 9. 玉山光典.江本義数博士の『日本変形菌原色図 譜』に挙げられた採集地.変形菌 (15): 35-36. 一方で、山形県産標本にタイプ標本が存在する ことや好雪性2種が山形県新産として発見されて 10. 山本幸憲.2002.最近日本から記載された変 形菌の新分類群と和名. 変形菌(19): 8-14. いることは特筆すべきである。 また、11 種類の好雪性変形菌が認められたこと 11. 山本幸憲.2003.ヒカリルリホコリ(新称) について. 変形菌(21): 31-32. は比較的多雪地帯である、山形県の環境を特徴づ 12. 山本幸憲.2005.ルリホコリ属の好雪種の新 ける点である。 今後の探索により少なく見積もっても 100 種類 以上が山形県新産として得られるものと予想され 学名と和名. 変形菌(23): 24-27. 13. 山本幸憲.2006.好雪性のハクモウアイルリ - 10 - ホコリとタマゴルリホコリ類について. 変形菌 (24): 17-22. 14. 山本幸憲.2009.キララホコリ属の分類につ いて. 変形菌(27): 9-12. 5.謝辞 国立科学博物館植物研究部の細矢剛氏および保 坂健太郎氏には、収蔵標本の検索および観察にお いて便宜を図っていただいた。山本幸憲氏には、 昨年の採集標本のうち一種類(マメホコリ)を除 図 2 . Hemitrichia serpula ヘ ビ ヌ カ ホ コ リ いて同定していただいた。また、山本氏と国立科 TNS-M-H-5239.スケールバー:1mm. 学博物館名誉研究員の萩原博光氏からは、本報告 に対して貴重なコメントをいただいた。山形県立 自然博物園には、園内における採集を許可してい ただいた。末筆ながら感謝申し上げる。 図3.Didymium angularisporum カクミカタホ コリ TNS-M-H3526 (HOLOTYPE). スケール バー:1mm. 図 1 . Lycogala conicum イ ク ビ マ メ ホ コ リ TNS-H-5181.スケールバー:1mm. 図4.Physarum tenerum アシナガモジホコリ TNS-M-H5222.スケールバー:1mm. - 11 - も合わせて示す。 図5.Lamproderma aeneum ヒカリルリホコリ YAMA-M-6.スケールバー:1mm. 図8.Stemonitis pallida イリマメムラサキホコ リ TNS-M-M3486.スケールバー:1cm.南方コ レクションの標本箱も合わせて示す。 Summary 図6.Lamproderma pseudomaculatum コアナ Fifty-eight taxa of Myxomycetes collected ルリホコリ YAMA-M-3.スケールバー:1mm. from Yamagata Prefecture, until 2010, are reported. Among Lamproderma them, aeneum two species, and L. pseudomaculatum, collected in 2010, are new to this area. In addition, it is worthy of special mention that type specimens of Didymium angularisporum, had been Kawanishi, Yamagata Pref.. 図7. Stemonitis axifera サビムラサキホコリ (syn. S. ferruginea Ehrenb.) TNS-M-K6233.ス ケールバー:1cm.小畔コレクションの標本箱も - 12 - collected from 山形県立博物館研究報告, 29:13-18, February 4, 2011 企画展「縄文のキセキ」展を振り返って 押切 智紀* Tomoki Oshikiri 1.はじめに 3.資料調査について 当博物館では平成 22 年 10 月 9 日から 12 月 5 資料調査は、今年 4 月 13 日からの開始となった。 日までの会期で企画展「縄文のキセキ―半世紀の 県内各地の機関・個人に向けて聞き取り調査をし 時を越えて―」を開催した。実際の事前調査・借 た後に、現地に資料の所在と資料の状態を確認し 用依頼は 4 月以降から開始したため半年しか事前 た。結果的に縄文時代後半期の土偶の原状が明ら の準備に費やせなかったが、会期中入場者の反応 かになり、借用点数も 700 点と多くなった。 はいたって良く、概ね意図した成果が表れたと思 以下、主な資料調査の例を3つ紹介したい。 える。 また、資料調査から資料借用にかかわって多く の県内外の機関・個人より御理解と御協力を賜っ ① 真室川町正源寺所蔵釜淵遺跡結髪土偶 (1)資料確認 た。この場をお借りして厚く感謝を申し上げたい。 正源寺は、約 450 年前(天文 5 年)、鮭延典膳貞 綱の菩提寺として開かれた古刹である。山門は湯 2.展示会が行われた経緯 殿山大日坊総門であったものを移築したもので、 今展示会は、奈良国立博物館(以下奈良博)と 町の指定文化財となっている。 の考古資料相互活用促進事業により行われた。昨 事前に仲介役を通して日程調整を進め、写真撮 年夏ごろから本格的に進み、奈良博から本県遊佐 影を含めた資料調査を依頼した。住職である鮭延 町杉沢遺跡から出土した土偶(以下杉沢土偶)を 氏の許可を得て、4 月 13 日に直接お伺いした。 借用することとした。当初の企画展名は「50 数年 結髪土偶は、最近は蔵に収められ、山門から外 ぶりの里帰り遊佐町杉沢の土偶(仮称)」であった。 に出されたことがない。保存状態も良く、持ち主 その後会議を重ねることにより企画展「縄文のキ の思いが感じられる。 セキ―半世紀の時を越えて―」が誕生した。展示 大正時代に釜淵地区の農家の方が耕作中に発見 費用として、従来型の県費のみの予算編成と違い、 されたものである。その後、正源寺が所有するに 外部資金(芸術文化振興基金)の導入も行われた。 至った。 その後、本県から山形県立うきたむ風土記の丘 保管用の箱の中には、メモ書きが入っており、 考古資料館(以下うきたむ資料館)所蔵の押出遺 全て重要文化財指定以後に書かれたものである。 跡の彩漆土器などを貸し出すことになった。 内容は、土偶の特徴や計測値などが記されていた。 本年 10 月の会期前に奈良博、当館、うきたむ資 料館の三者による「覚書」が調印された。 *山形県立博物館学芸員 その他、指定書と指定時の写真が額におさめられ ていた。 - 13 - 4 月 26 日に杉沢遺跡の現況確認と景観の写真撮 影を目的として調査に赴いた。現地での土地勘が ないため、地元、遊佐町教育委員会大川貴弘氏に 同行していただいた。ちょうど春の陽気にさそわ れるように桜が咲き誇っていた。遺跡近くに斜面 を利用して啓翁桜が栽培されていた。土偶出土地 点付近の農道沿いに今でも「土偶発掘の地」と刻 まれた石柱がたっていた。あたりを見渡すと、西 箱内に土偶とともに入っていたメモ類 所属時期は、縄文時代晩期末で、該期の特徴で 側から南側にかけて天狗森に囲まれ、北方面に向 ある「工字文」が胸から背中にかけて見られる。 かって鳥海山だけが映る景色が広がっている。こ 腰から臀部にかけてはパンツ状の区画に細かな の地は、祭祀的な用途で使用された土地ではなか 刺突文が施されている。全面に赤彩が認められ、 ったかと想像してしまう。出土地点は、荒れ地に 表面は細かな調整が認められる。昭和 40 年に国の なっており、耕されてはいないようだ。 重要文化財に指定されている。 釜淵遺跡結髪土偶実測図1 杉沢遺跡と鳥海山(丸く囲った部分が出土地点) (2)現地確認 この調査での大きな成果は、土偶発見者の関係 釜淵C遺跡はJR釜淵駅の南約 800m、真室川 者と会うことができたことである。偶然、畑仕事 の上流である塩根川左岸の河岸段丘上にある。平 で来ていた個人と会い、発見当時のエピソードを 成 13 年に(財)山形県埋蔵文化財センターにより 聞くことができた。 土偶は、昭和 28 年 7 月に当時山間部の開拓の 発掘調査が行われた 2。 この土偶の出土場所について、以前は五郎前遺 ため入植をした個人が、新築後に玄関前の小高い 跡(釜淵D遺跡)と思われていたが、町の検証の 場所を掘削した際に発見されたものである。地下 ための発掘調査によって当該遺跡であることがわ 1mほど鍬やスコップで掘り下げた時に薄い扁平 かっている。現在、発掘調査の行われた箇所は、 な石が数枚あったそうである。その石を取り除き、 整然とほ場整備がなされ、以前の面影が無い状態 さらに少し掘ると完形の土偶があったようである。 であった。 鍬で掘った際に結髪と右脚が欠けたが、右脚はす ぐ見つかり接合された。その後、土偶は仏様とし ② 奈良国立博物館所蔵杉沢土偶 て仏壇に置かれ、ご飯とお水を毎日あげられるよ (1)現地確認 うになったという。次第に町の評判となり、遠方 - 14 - から研究者が頻繁に訪れるようになった。翌年に る。 は学会誌(考古学雑誌)に取り上げられるまでに その他、同遺跡からの表採品として土器、石器 なった。昭和 30 年に国庫に帰属し、現在奈良博 をご厚意でお借りできた。これらの貴重な採取品 が所蔵している。 に関し、主なものを実測し、資料として活用でき (2)資料確認 るよう本人に快諾を頂いた。また、許可を得て、 杉沢土偶は 10 月 1 日に 50 数年ぶりとなる帰県 を果たした。館内にて、奈良博担当者同席の中、 縄文時代の深鉢を復元して展示に供することがで きた。 資料を行った。 土偶は、高さ 18.3cm を測る。右側結髪部と左 乳房の先端、右足先端を欠くのみの完形に近い中 空土偶である。頸部から脚部に篦ミガキ痕がみら れる。文様は縄文晩期後半段階(大洞 C2段階) 玉ノ木平 A 遺跡遮光器土偶実測図 4 のフラスコ状の摩消縄文(雲形文)が腰部にみら れる。表面の調整が丹念で優品と言える。 (2)現地確認 展示開始後であったが、現地確認を行う。遺跡 は、最上川左岸にあり、大石田町の市街地の北西 2.5km にあたる。山道を西側に行くと、山腹の平 場に畑が広がる。以前から遺物が表採できる場所 としてあり、山形大学でも黒滝地区の踏査によっ て遺跡を確認している。近くに工事のための資材 置き場や重機などが置かれ、造成が行われたよう だ。今回復元した深鉢も斜面に露頭していたもの を採取したようだ。 4.借用した資料 遊佐町「杉沢土偶」実測図 3 今回の展示で借用した土偶や関連資料は 700 点 ③ 個人所蔵玉ノ木平A遺跡遮光器土偶 (1)資料確認 である。中でも土偶の借用点数は、368 点を数え 6 月 25 日に所有者である個人宅にお伺いして資 る。縄文時代後半期の土偶を集めた関係で、県内 料確認と借用作業を行った。土偶は、箱に入って での全出土量(管見では 975 点)の 3~4 割ほど おり、内部には発見日などが書かれている。 におさまったが、後半期のものだけを一堂に集め 遺物の遺存状態は良く、きれいに保管されてい たのが今回初めてとなったため大変反響があった。 今回、縄文後半期の土偶を県内 4 地域に分けて、 た。頭部のみであるが、王冠状の結髪部が欠損し ている。遮光器土偶の頭部で、大きな目、眉間か 遺跡ごとに展示するスタイルをとった。以下、4 ら下に配置された突起のある鼻、口などがある。 地域の主な特徴を概観する。 残存高が 7.6cm で、幅 9.4cm、全体の推定高は (1)置賜地区 30cm ほどになろうかと思われる。一部赤彩も残 - 15 - 縄文中期の米沢市台ノ上遺跡にみるような爆発 的な出土量は影をひそめ、後期を中心に一定量の タイプの土偶が遺存状態も良く残っている。 出土がある。 晩期終末期の結髪土偶のタイプは天童市砂子田 特に後期前半のハート形土偶の破片は米沢市は 遺跡、寒河江市高瀬山遺跡・石田遺跡、尾花沢市 じめ高畠町など散見できる。米沢市の指定文化財 漆坊遺跡からも出土している。 になっている竹井境遺跡の土偶は顔や左足を欠く (3)最上地区 のみの優品である。前につきだした首や胴長の形 縄文中期の最上町水木田遺跡や新庄市中川原遺 状、そして妊婦をあらわす膨らんだ腹部は見る者 跡、舟形町西ノ前遺跡にみるように 30 点以上の を圧倒する。福島県や北関東を中心とするハート 出土があったが、後・晩期になると、最上町を中 形土偶文化圏の広がりを把握するに好資料である。 心に散見される程度になる。近年発掘調査された 後・晩期の出土量が薄かった同地区であるが、 最上町かっぱ遺跡など後期半ばを中心とした土偶 近年小国町下叶水遺跡の土偶など後期を中心に出 の出土量が増えている。顔に粘土紐を使い眉毛か 土量の蓄積があった。 ら鼻筋にかけて表現したもの、体部で刺突文を使 (2)村山地区 い腹部から縦方向に文様を施しているものなどが 縄文中期から引き続き一定量が出土している。 見られる。晩期でも重要文化財の結髪土偶を産し 特に最上川沿いに出土地点が広がる。後・晩期に た真室川町釜淵 C 遺跡はじめ、新庄市宮内遺跡な ついても村山市宮の前遺跡や天童市渡戸遺跡のよ どがある。出土量も少ない。 うに 1 遺跡で 50 点前後の出土量のある遺跡があ (4)庄内地区 る。また、晩期の終末期に登場する結髪土偶が一 定量見つかっているのも特徴である。 縄文中期では庄内平野東側縁辺を中心に出土し た遺跡が散見される。酒田市(旧平田町)山谷新 天童市渡戸遺跡からは、南部で見られるハート 田遺跡では中期北陸系の土偶も出土している。後 形土偶に北の地域の特徴の刺突文を体部に付すも 期以降は他地区と同じように一定量の土偶の出土 のが出土している。また、頭部に鉢巻き状の突起 を見る。鶴岡市(旧朝日村)砂川 A 遺跡からは、 を持つものも多い。顔に刺青をしている「鯨面土 縄文後期~晩期初頭にかけての土偶が 30 点ほど 偶」があるのも特徴である。中には、割れ口にア 出土している。丸顔の鼻筋に粘土紐をはった後期 スファルトを塗っているものもあり、再利用され 末の土偶のほか遮光器土偶の頭部も出土している。 たと思われる。 遊佐町神矢田遺跡や酒田市(旧平田町)高畑遺跡 遮光器土偶もあり、大石田町玉ノ木平 A 遺跡や からは遮光器土偶の頭部破片が出土している。小 村山市宮の前遺跡からも僅かに出土している。今 型であるが遮光器土偶が一定量出土していること 回、全容のわかる資料が県内から出土していない がわかる。晩期終末期になると、鶴岡市(旧羽黒 ため、岩手県立博物館所蔵の「豊岡土偶」をお借 町)高森遺跡や同市(旧藤島町)添川開拓地遺跡 りして参考資料として展示できた。大きな頭部に などの結髪土偶が散見される。高森遺跡のものは 不釣り合いな手足、体部には炎が上がっているよ 頭部の全長が 7.5cm あり、釜淵遺跡の結髪土偶と うな文様まで細部にわたって観察できるよう立ケ 同様に 20cm 程度までの大きさの土偶が想定され ースでの展示とした。 る。 同地区は、晩期半ばの資料も豊富で、村山市宮 以上4地域の特徴や遺跡名をあげてきたが、時 の前遺跡や東根市蟹沢遺跡でも「杉沢土偶」と同 代ごとの共通性もあり、北東北(亀ヶ岡文化圏) - 16 - や北関東(ハート形土偶文化圏)などの影響を受 岡土偶」の 3 点が多くの方の印象に残ったようだ。 けながら、精巧な土偶を作ってきた祖先の歩みを (6) 企画展全体に関しての意見・提案 見ることができたと思う。それは、県内の後・晩 展示会そのものに関してのご意見や展示方法な 期の土偶を一堂に会したことで目的は明確になっ どに関してのものもあった。特に印象に残ったの たように思える。 は「実物の土偶を見たのは初めて」というご感想 であった。また、展示方法などの要望は、出来る 5.企画の成果 限り対応した(キャプションの追加、照明の調整 最後に、今回の展示会で行ったアンケート結果 など)。 をもとに主な項目について見ていきたい。 以上アンケート結果を概観したが、印象に残る このアンケートは 10 月 9 日から 12 月 5 日まで 展示をするという当初の目的は達成できたように の会期中に行われた。集計方法は展示室前にアン 思える。また、それは協力機関・個人の方々、県 ケート BOX を設け、展示を見学した入館者が任 博職員一人一人の協力がなければなしえなかった 意に記入し、投函する方法をとった。有効回答は ことだと思う。なお、集計結果の詳細は引用文献 136 枚あった。 の次に掲載している。参考にされたい。 (1) 回答者の年代 総数 136 名 県博の展示が終了すると、奈良博で 1 月 18 日 全体の 50%近くを 50 代、60 代がしめる。20 代は少なく 3%にとどまった。 (2) 住所 から 2 月 13 日まで、うきたむ資料館保管の押出 遺跡の資料を展示する「縄文のタイムカプセル― 総数 135 名 押出遺跡―」が開催される。 県内でも村山地区が約半分をしめる。また、宮 城県の方からの回答が多かった。入館者の中にし 本県と他県の機関との益々の協力を祈念しつつ 筆を置きたい。 める割合も宮城県の方が多かった印象がある。そ の他、関東、東海地方の方の回答もあった。 (3) 本企画展を知ったきっかけ 総数 145(複 1 会田容弘,1979,「東北地方における縄文時代終 数回答可) 末期以降の土偶の変遷と分布」 『山形考古』3 巻 ポスターをみてとの回答が、30%近くをしめる 2 号,山形考古学会 他は、HP やテレビ・ラジオなど 10%ずつとなっ 2 (財)山形県埋蔵文化財センター,2003,『釜淵 た。その他という回答が 40%をしめるが、内訳を C 遺跡発掘調査報告書』同センター調査報告書 みると、新聞を見てという回答が 30%を超す。偶 第 111 集 然という回答も 20%あるが、やはりメディアの力 3 阿部明彦,1998,「遊佐町杉沢遺跡出土の土偶」 『山形県立博物館ニュース第 135 号』 が大きいことがわかる。 (4) 本講座はいかがでしたか 総数 105 名 4 大類誠,2000,「尾花沢盆地出土土偶 4 例」 『山形 評価は概ね良く、「とても良かった」が 64%、 「良かった」が 35%をしめた。 考古』第 6 巻第 4 号,山形考古学会 ※土偶の所見については『企画展 (5) 印象に残った展示品 縄文のキセキ ―半世紀の時を越えて―』 (2010)によった。 展示室中央に配置したということもあり、舟形 町「西ノ前土偶」や遊佐町「杉沢土偶」、岩手県「豊 - 17 - 4.本企画展はいかがでしたか? - 18 - 山形県立博物館研究報告, 29:20-26, February 4, 2011 中世前半期の追善仏事とその周辺 山口 博之* Hiroyuki Yamaguchi 1 はじめに とが出来ることであって、当時の追善供養などに さきに追善仏事の中世前半の展開について石造 ついて一般性(広域的要素)と特殊性(地域的あ 品銘文を手掛かりとして概観した(投稿中:山口 るいは限定的要素)を理解することができる。ま 博之「中世前半期の追善仏事~石造物銘文より~」 た、中世前半でこうした全国的な情報を、数千件 『宗教考古学論叢』(藤澤典彦先生献呈論文集) という数量で知り得る資料は石造物銘文以外には 2011 年4月刊行予定:高志書院)。小稿では石造 存在しない。 品銘文の様相をさらに理解するために、文献資料 一方こうした特長を持つ反面、石造物に記され を使用しながら補足を図ろうとするものである。 た銘文はあくまでも石造物の造立趣旨を記載する 行論の関係上前稿と多少の重複を含むがご寛恕賜 ものであり、例外はあるが記された追善などの行 りたい。 為は3回忌や13回忌など単独で存在し、連続し 中世の石造品(以下石造物)銘文は、歴史考古 た姿を理解することはなかなか困難(広範である 学研究会の手により集成が試みられ、『歴史考古 が断片的)である。文献史料は、政治的内容は全 学』第22・24・28・31・35号に集成(以 国に及ぶがその他の内容(仏事など)は、家族あ 下「銘文集成」)が収録されている(歴史考古学研 るいは一族との関わりが深いこともあり地域的に 究会 1988「石造品銘文集(一)」 『歴史考古学』第 比較的限定される。 22号、同 1989「石造品銘文集(二)」 『歴史考古 小稿では石造物銘文の理解のために、石造物銘 学』第24号、同 1991「石造品銘文集(三)」 『歴 文にはあまり記載されないでは追善供養を取り巻 史考古学』第28号、同 1992「石造品銘文集(四) 」 く様相について文献資料を参考としようというも 『歴史考古学』第31号、同 1994「石造品銘文集 のである。なお、史料は石造物銘文集成の守備範 (五)」 『歴史考古学』第35号)。5冊には約 9000 囲とほぼ同時代史料である『玉葉』と『吾妻鏡』 件のデータが集録されている。採録の期間は奈良 を主としている。 時代辛巳歳(681)の群馬県高崎市山名町神山「山 ノ上碑」から南北朝前期の貞治 2 年・正平 18 年 2 銘文集成に見る追善仏事の概要 (1363)に及び、日本国内を網羅するという重厚 中世前半期の石造物銘文について、追善仏事の なものである。集成に当たられた方々にこころよ 忌日を表す次の語句を銘文集成に調査した。 「初七 り敬意を表したい。 日」 「二七日」 「三七日」 「四七日」 「五七日」 「六七 石造物銘文の大きな特長は日本全国に存在する 日」 「七七日」 「百日」 「一周忌」 「三年忌」 「七年忌」 ため、広範な比較の中でその独自性を理解するこ 「十二年忌」 「十三年忌」 「十七年忌」 「二十三年忌」 *山形県立博物館学芸専門員 - 19 - 「二十五年忌」 「二十七年忌」 「三十三年忌」 「三十 また『玉葉』と『吾妻鏡』についてはデータ版 五年忌」 「百年忌」である。この語句について銘文 (新訂増補国史大系本 吾妻鏡・玉葉 データベ 集成から特徴的に得られたのは、 「初七日(再考必 ース CD-ROM 版 要)」「五七日」「七七日」「百日」「一周忌」「三年 刊本で補足したがこれまた十分な集成とは言えな 忌」「七年忌」「十三年忌」「十七年忌」「二十三年 い部分が残る。この反省はこれからの取組に活か 忌」 「二十五年忌」 「二十七年忌」 「三十三年忌」 「三 していきたいと考えている。 十五年忌」であった(異称を含む)。 (1)石造物銘文・文献史料の特徴 吉川弘文館)で検索を行い、適宜 なお、9000件の銘文集成を読むことはなか まずそれぞれの特徴について概観しよう。取り なか大変なことであった。今回の基礎的作業であ 扱う資料のうち、銘文集成の採録期間は奈良時代 る忌日の採集は数字の既述を手がかりとしたため、 辛巳歳(681)から貞治 2 年・正平 18 年(1363) 銘文表記が数行に分かれている場合や、十二年忌 である。 『玉葉』は周知のように九条兼実の日記で などは十二年忌という語句が銘文に存在しないた あり長寛 2 年(1164)に始まり建仁 3 年(1203)に至 め採集出来ないなど、多数存在した。また種子な る記録が収められている。時期的に後続する『吾 どから忌日を調査する必要も当然あったのだが行 妻鏡』は治承 4 年 (1180)に始まり、文永 3 年 えていない。労作である銘文集成を活かす研究と (1266)に至る記録が収められている(諸本あり)。 してはまだまだ不十分であると深く感じた。 このように比較資料には時期幅が存在し、かなら 30 25 20 15 10 5 1341年~ 1321~1340年 1301~1320年 0 35日 1281~1300年 100日 1261~1280年 1年 3年 ~1260年 13年 33年 表1 石造物銘文に見る各忌日の時間的分布 - 20 - ずしも同時代の傾向を的確に把握することにはな 『吾妻鏡』にはこのうち、「初七日」「二七日」 らない。また石造物銘文、日記、編纂された文献 「三七日」 「四七日」 「五七日」 「六七日」 「七七日」 というそれぞれの性格が異なっているものが、お 「百日」「一周忌」「三年忌」「十三年忌」がある。 なじように比較の対象となるのかという資料批判 このうち「七七日」 「一周忌」 「三年忌」 「十三年忌」 も本来は必要であるが、これまた小稿では十分に の記載が多い。また追善仏事の傾向は玉葉と同じ 扱えていない。こうした問題点は意識しつつも一 であり、追善仏事の中心は死後七日毎の中陰の仏 旦措き、中世前半期の資料としてまとめて扱って 事+百日+年忌+月忌+臨時の仏事となる。おお おくことにしたい。 まかには石造物と史料は、出現の傾向性を同じく 「銘文集成」には忌日供養を表すと考えられる していると見ておきたい。 記載を384件ほど見ることができる。この内訳 は「初七日(再考必要)」1件(0.02%)、 「五七日」 3 82件(21,3%)、 「七七日」28件(7.2%)、 「百日」 (1)藤原忠通の追善仏事 81件(26%)「一周忌」36件(9.3%)、 「三年忌」 玉葉に見る仏事 九条兼実の父である藤原忠通は永長 2 年閏 1 月 43件(11.1%)、 「七年忌」14件(3.6%)、 「十三 29 日(1097)に生まれ、長寛 2 年2月 19 日(1164) 年忌」47件(12.2%)、 「十七年忌」3件(0.7%)、 に死去した。摂政関白・太政大臣に任ぜられ法性 「二十三年忌」1件(0.02%)、「二十五年忌」1 寺殿ともいう。忠通の追善仏事は、息子である兼 件(0.02%)、「二十七年忌」1件(0.02%)、「三 実により行われており、つぎのような記事を拾う 十三年忌」46件(11.9%)、「三十五年忌」1件 ことができる。 (0.02%)である。これを出現順で記せば、 「五七 仁安三年二月十九日(1168) 「・・余出仕事、頗 日」「百日」「十三年忌」「三十三年忌」「三年忌」 有其憚、依為忌日也・・」、嘉応二年二月十九日 「一周忌」 「七七日」 「七年忌」 「十七年忌」のこり (1170) 「・・故殿御忌日也、年来送法性寺堂、 ・・」、 は1回となる。「五七日」「百日」が圧倒的に多く 嘉応三年二月十九日(1171) 「・・参女院、故殿御 「十三年忌」「三十三年忌」「三年忌」がその約半 忌日也、於新御堂被修之・・」、承安二年二月十九 数、 「一周忌」 「七七日「七年忌」はやや多く、 「十 日(1172) 「・・故殿御忌日也、下官於女院御方御 七年忌」は少数、のこりは稀となる。下に触れる 堂、修之如去年・・」、承安三年二月十九日(1173) 「月忌」についてはほとんど見ることができない。 「・・今日、故殿御忌日也、於女院御堂、女院、 『玉葉』にはこのうち七日毎の追善仏事と「百日」 皇后宮、下官・・」、承安四年二月十九日(1174) 「一周忌」 「十三年忌(建久四年正月十四日条「相 「・・忌日也、仏事於女院御方御堂修之・・」、承 当高倉院十三年御忌」、建久四年十二月五日条「故 安五年二月十九日(1175) 「・・故殿御忌日也、仍 女院(皇嘉門院)御忌日也、今年当十三年」)」な 余参女院御方・・」、安元二年二月十九日(1176) どが特徴的に記されている。七日毎の追善は多く、 「・・故殿御忌日也、如例年、於女院御方御堂支 次第に減少し「十三年忌」は僅かである。このほ 座同時行之・・」、安元三年二月十九日(1177) 「・・ かに特徴的なのは、月忌という月ごとの忌日に行 今日忌日也・・参女院御方、仏事如恒・・」、治承 う仏事と臨時の仏事である。こうしたことからす 二年二月十九日(1178) 「・・此日遠忌也、午刻参 れば、追善仏事の中心は死後七日毎の中陰の仏事 女院(御于御堂) ・・」 、治承三年二月十九日(1179) +百日+年忌+月忌+臨時の仏事となる。 「・・依遠忌、参女院御堂、於此御堂、修仏事、 - 21 - 年来之例也・・」、治承四年二月十九日(1180) 「・・ 其後行舎利講、是自御故殿在世、毎月不闕事也、 故殿御忌日也、如例参女院御堂(日来御于御堂)、 故院相続而己行之給・・」と見え、故殿が存命中 仏事了退出・・」、治承五年二月十九日(1181) 「・・ には毎月欠かさずに行ってきたことであるためで 参女院御堂(日来御坐御堂)、今日、故殿御忌日 あるという。 也・・」、養和二年二月十九日(1182)「・・、此 日、故殿御忌日也、女院御沙汰之御仏事猶修之前、 4 院庁沙汰也、是先例也、午刻参御堂・・」、寿永三 吾妻鏡に見る追善仏事 次に吾妻鏡を手掛かりとして追善仏事の様相を 年二月十九日(1184)「・・此日、故殿御忌日也、 見てみよう。 仍未刻参御堂・・」、元暦二年二月十九日(1185) (1)源頼朝の追善仏事 「・・依故殿御忌日向堂・・」、文治二年二月十九 源頼朝は源義朝の 3 男として生まれ鎌倉幕府の 日(1186) 「・・故殿御遠忌也、仍未剋向堂・・」、 創設者である。久安 3 年(1147)に生まれ建久 10 文治三年二月十九日(1187)「・・依遠忌・・」、 年(1199・4月改元により正治)の1月13日に 文治四年二月十九日(1188) 「・・今日、故殿御也・・」、 死去(享年 53 歳(満 51))している。源頼朝の死 文治五年二月十九日(1189) 「・・故殿御忌日・・」、 の原因は、前年の暮れ建久 9 年(1198)12 月 27 建久二年二月十九日(1191) 「・・先公遠忌也・・」、 日に相模川で催された橋供養からの帰路での落馬 建久三年二月十九日(1192) 「・・故殿御忌日・・」、 によるものという。このことについての記事は吾 建久四年二月十九日(1193) 「・・依遠忌向九条堂 妻鏡には収められていない。 也・・」、建久五年二月十九日(1194)「・・次有 遠忌仏事(故殿)・・」などとなる。 なお、この相模川にかかる橋であるが、大正1 2年9月1日の関東大震災及び大正13年1月1 二月十九日は年忌と位置付けられているようで 5日の余震に伴う液状化現象により、橋脚の跡と あり、一部に記載の見えない年もあるが、仁安三 考えられる木材が水田の中から出現し「旧相模川 年二月十九日から建久四年二月十九日までの日記 橋脚」として、大正15年に国史跡指定されてい を見れば、27年間にわたり年忌の追善供養を営 る(神奈川県茅ヶ崎市)。 んでいることがわかる。しかしながら藤原忠通を 源頼朝の死去(建久 10 年1月13日)以降追善 供養する月忌という形で毎月の忌日に追善仏事を 仏事が営まれる。正治2年(1200)1月13日に おこなうことはあまり見られない。2月以外に忠 は頼朝の1周忌が法花堂にて営まれた。 「十三日庚 通への仏事は顕著ではない。ただし、月忌は女院 子。晴。入夜雪下。殆盈尺。椀飯。土肥弥太郎沙 (皇嘉門院)への供養としておこなっていること 汰也。迎故幕下将軍周闋御忌景。於彼法花堂。被 が見える。寿永二年七月五日(1183) 「・・依疾不 修仏事。北条殿以下諸大名群参成市。仏。絵像釈 参女院御月忌・・」などと見え、月の5日には仏 迦三尊一鋪。阿字一鋪。 (以御台所御除髪。被奉縫 事をおこなっていることがわかる。 之。)経。金字法華経六部。摺写五部大乗経。導師 供養は法住寺にて行われ前半では、女院(皇嘉 葉上房律師栄西 門院、崇徳天皇中宮、藤原聖子、忠通の長女、兼 被物十重 実の姉)も参加していたが、治承5年(1181)に 千両 亡くなっている。また仏舎利を供養する法会であ 端 る舎利講も併せて行われていたが、これは「・・ 請僧口別 - 22 - 請僧十二口 綾被物廿重 糸二千両 鞍置馬十疋 帖絹百疋 白布百端 加布施 錦被物五重 布施 唱導師 錦 染絹百端 綿 紺布百端 藍摺二百 沙金三十両 五衣一領 綾十重 帖絹三十疋 染 絹三十端 綿五百両 糸千両 白布三十端。」 云云。 ・・」、貞永2年1月13日(1233) 「・・武 源頼朝の1周忌の仏事は法花(華)堂で行われた。 州参右大将家法花堂給。今日依為御忌月也。 ・・」、 法華堂は法華三昧をおこなう道場であり、貴人の 寛元4年10月13日(1246) 「・・左親衛被参右 納骨堂(平清盛など)としても使われた。仏事の 大将家法花堂。令聴聞恒例御仏事給云云。 ・・」宝 内容は、仏一鋪は絵像の絵像釈迦三尊であり、阿 治1年9月13日(1247) 「・・左親衛令詣右大将 字一鋪は御台所(北条政子)の髪でこれを縫って 家法花堂給。恒例御仏事。・・」、宝治2年閏12 捧げた。経は金字で描かれた法華経六部と摺写の 月13日(1248) 「・・相州。左親衛等令参右大将 五部大乗経(華厳・大集・大品般若・法華・涅槃 家法華堂并右京兆墳墓堂等給。恒例御仏事之 の五経の総称)、導師は栄西である。栄西は、日本 上。 ・・」、建長2年3月13日(1250) 「・・右大 臨済宗の祖であり入宋 2 度、博多に聖福寺、京に 将家法花堂御仏事。雖為恒例。猶有別供養等事。 ・・」、 建仁寺、鎌倉に寿福寺を開き禅を広めた。また請 建長4年1月13日(1252) 「・・右大将家於法華 僧は十二口であった。導師には布施の他に加布施 堂被行恒例仏事。・・」、1月13日あるいは13 (一定の布施のほかに、たし加えて出す布施。)が 日には月忌として法要が営まれ、追善供養が半世 加えられ、さらに請僧にはそれぞれ布施が施され 紀にもわたり連続して行われていることが判明す た。 る。 この後法華堂では1月13日あるいは13日に 興味深いことに、元久1年9月13日(1204) 次の追善供養が営まれている。1月13日は頼朝 には法花堂御仏事のあと盗人が別当大学坊に入り の追善供養を行う忌日として定められ、さらに1 頼朝の御遺物など重宝を盗んだという。この盗賊 3日もまた追善供養の日として定められていくよ は同年11月17日に武蔵国で捕まり宝物は取り うである。 返され、次の日18日には法花堂にあった御剣以 正治2年1月13日(1200) 「・・迎故幕下将軍 下の重宝は返された。ここは頼朝由緒の遺品が納 周闋御忌景。於彼法花堂。・・」、建仁1年11月 められる場でもあったのである。また文暦2年9 13日(1201)今日迎故将軍家御月忌。於法華堂。 月1日(1235)には「右大将家法花堂湯屋失火」 建仁3年10月13日(1203) 「・・於法花堂。被 と見え、法華堂には湯屋があったことがわかる。 修故大将軍御追善。・・」、建仁4年2月13日 建久3年3月20日(1192)には後白河法皇の御 (1204) 「・・法花堂御仏事。導師摩尼房阿闍梨云 追福として、山内において百ヶ日の温室を設け、 云。 ・・」、承元3年10月13日(1209) 「・・当 往反の諸人や土民等が浴すべきの由を立札を路頭 于故右大将家御月忌。於法華堂。被修御仏事。 ・・」、 に立てて示したことが記されている。この湯屋も 建暦1年10月13日(1211) 「・・今日当于幕下 こうした働きがあったのかもしれない。 将軍御忌日。参彼法花堂。・・」、建暦1年12月 13日(1211) 「・・将軍家御参法華堂。有恒例御 (2)北条義時の追善仏事 仏事云云。 ・・」、建保3年3月13日(1215) 「・・ さらに追善供養の様相を北条義時の事例から見 御参法花堂。被修御仏事。 ・・」建保4年5月13 ることができる。義時は鎌倉幕府の執権であり幕 日(1216) 「・・将軍家令参法花堂給。被修仏事云 府の実権を掌握した人物である。長寛 1 年(1163) 云。 ・・」、建保4年12月13日(1216) 「・・将 に生まれ貞応 3 年 6 月 13 日 (1224)死去している。 軍家御参法華堂。有恒例御仏事。尼御台所同御参 貞応3年6月13日(1224)「十三日己卯。雨降。 - 23 - 前奥州病痾已及獲麟之間。・・遂以御卒去。(御年 日」「百日」「十三年忌」「三十三年忌」「三年忌」 六十二。)・・」ついで6月19日には「初七日御 「一周忌」 「七七日」 「七年忌」 「十七年忌」順であ 仏事」が行われ、6月26日には「二七日御仏事 り、 「五七日」 「百日」が圧倒的に多く「十三年忌」 被修之」、7月4日には「今日三七日御仏事也」、 「三十三年忌」 「三年忌」がその約半数、 「一周忌」 7月11日「今日四七日御仏事」、7月16日「五 「七七日」「七年忌」はやや多く、「十七年忌」は 七日御仏事。」、7月30日「今日四十九日御仏事 少数この他は稀となり、 「月忌」についてはほとん 也」、8月22日「故奥州禅室百ヶ日御仏事。今日 ど見ることができない 被修之。」、次の年嘉禄1年6月13日(1225) 「今 『玉葉』にはこのうち七日毎の追善仏事と「百 日相当故京兆周闋。武州新造釈迦堂被遂供養。導 日」 「一周忌」 「十三年忌」が重なり、 『吾妻鏡』に 師弁僧正定豪。請僧二十口。相州已下人人群集。」 は七日毎の追善仏事「百日」「一周忌」「三年忌」 と見え1周忌が営まれている。さらに嘉禄2年6 「十三年忌」が重なる。全体からすれば「百日」 月13日(1226)には「十三日丙申。晴。迎右京 「一周忌」 「十三年忌」が、出現が多い共通する要 兆第三年忌辰。依之。大慈寺釈迦堂被供養之。導 素であるということになろう。 師求仏房。施主武州也。」と見え、さらに嘉禎2年 5月27日(1236) 「廿七日壬午。武州被進発。是 石造物銘文に表れる「百日」「一周忌」「十三年 忌」銘には次のような地域的特徴がある。 依相当故右京兆十三年。於北条為被修御仏事也。」 として13回忌の追善供養が行われている。 銘文集成から「百日(を含む)」標記を81件採 集することができる。初出は和歌山県伊都郡高野 義時の事例では、死去の後「初七日御仏事」→ 町高野山の町石五輪卒都婆であり、表記は「右相 「二七日御仏事」→「三七日御仏事」→「四七日 当亡□比丘尼定智幽霊百箇日之忌晨造/立之但智 御仏事」→「五七日御仏事」→「四十九日御仏事 往生之日依令奉加早生之分慾我/名字是為結一仏 也」→「百ヶ日御仏事」と連続して営まれ、さら 浄土之勝縁也兼為円仏/経心両聖霊乃至法界衆生 に1年忌の「故京兆周闋」→3年忌「右京兆第三 往生極楽矣/百六町/比丘尼慈観/文永拾秊癸酉十 年忌辰」→13年忌「右京兆十三年」と仏事が重 一月五日/沙弥明智」(文永十年(1273))である。 ねられている。この他に臨時の仏事や供養も行わ 東北地方から九州地方に展開するが偏在を示す。 れている。こうした仏事の営まれ方は当然、地方 51基は東北地方に分布し関東地方には8基、近 の在地権力を掌握している者達の参考ともなった 畿12基、中国1基、四国1基、九州8基であり であろうし、影響を受けたことは想像に難くない。 東海、北陸地域には分布を見せない。東北地域の また、こうした者達が石造物造営の主体者でもあ 分布は大半が宮城県と福島県である。福島県に濃 ったのである。 密な分布を示し、13世紀末から 14 世紀の半ばに かけて福島県いわき市周辺に集中する。 5 仏事の諸相 「一周忌」は37件を採集することができる。 こうした仏事はどのような地域的広がりがあり、 初出は福島県郡山市安積町大谷地の自然石塔婆で どのような供養がなされその際に何が営まれてい あり、表記は「右相当悲母幽儀/文永六年四月三 るのであろうか。次にいくつか検討をしてみたい。 日 孝子 敬白/一周遠忌造立之」 (22 巻 64 頁・文 (1)追善仏事の全国での様相 永六年(1269))であり、東北地方の宮城県から九 石造物銘文における追善供養の出現は、「五七 州地方の鹿児島県に展開する。ただし15基は東 - 24 - 西暦 7 35 49 100 1 3 7 13 17 23 25 27 33 総 日 日 日 日 年 年 年 年 年 年 年 年 年 計 ~1260 年 1 2 1261~1280 年 2 1 2 4 2 1281~1300 年 17 6 11 3 4 17 6 15 4 6 1321~1340 年 29 7 26 10 13 1341 年~ 16 8 25 15 82 28 81 36 1301~1320 年 総計 1 1 1 1 4 8 19 6 1 14 2 2 10 1 18 11 8 43 14 47 3 49 5 70 16 114 1 1 1 1 25 128 1 46 384 表2 各忌日の出現と展開の一覧 北地方に分布し、関東地方には11基、近畿6 普利敬白/弘安八年 乙酉 四月七日大法印行覚 基、九州4基であり東海、北陸、四国、中国地域 敬白」(22 巻 124 頁・弘安八年(1285))と見え、 には分布を見せない。東北地域の分布は大半が宮 大法印行覚が祖母第十三年にあたり法華経一部八 城県と福島県であり、日本海側の山形県と秋田県 巻と開結二経などを自ら書いて、地輪の下に埋め には存在しない。福島県いわき市四倉町長友大宮 たというものである。付近に地下に埋経を持つ五 作長隆寺自然石塔婆には「為妙口百/ケ日一周忌 輪塔があり、その標識としての意味がこの板碑に 也/正和二年正月卅日」(正和二年(1313))ここ あったものかもしれない。類例として宮城県名取 では百ケ日と一周忌が連記されている。 市大門の事例では埋経施設の隣に標識としての自 「十三年忌」は47件を採集することができる。 然石塔婆が存在した。宮城県名取市高館熊堂大門 初出は埼玉県東松山市下青鳥浄光寺板碑であり、 囲自然石塔婆には「十羅刹女/為悲母/孝子/如法守 表記は「右過去慈父為奉訪/正嘉元年丁巳九月日/ 護/乾元二癸卯三月十九日/三十番神/十三年/敬 十三回忌辰造立如件」 (康元二年(1257))とある。 白」(乾元二年(1303))と記され、この自然石塔 東北地域青森県から九州地域鹿児島県に展開する。 婆の周辺からは埋経施設とともに高さ 33cmほ ただし17基は東地方に分布し関東地方には9基、 どの常滑焼の甕が出土している。この自然石塔婆 北陸・基、近畿12基、四国1基、中国 2 基、九 は埋経の供養碑であろうと整理されている(恵美 州6基であり、東海、中国地域には分布を見せな 昌之 1992「大門山の板碑と墓」 『よみがえる中世』 い。 第 7 巻)。こうした例はこの他にもあげることがで 興味深いことに埋経行為を示す事例がいくつか きる。こうしたことからすれば、13 回忌には経典 見ることができる。大阪府池田市西畑町西畑天満 を書写し埋納するという事例が全国的に行われて 宮板碑には「右造立意趣者相当祖母第十三年刻六 いたことがわかる。 万/本卒都婆手自奉書写法華経一部八巻開/結二経 心阿等経浄土三部経阿弥陀名号/ホ所奉蔵埋地輪 (2) 之下也依孝子之善根開/聖霊之覚夢餘薫所及一切 五輪塔と埋経 大阪府池田市西畑町西畑天満宮板碑銘文に見ら - 25 - れるような、五輪塔と埋経の事例については「玉 被行内侍所御神楽云々、東大寺勧進聖人来、余奉 葉」にも記されている。 渡可奉籠大仏之舎利三粒、奉納五色五輪塔、相具 養和二年四月十六日(1182)「丙辰、陰晴不定、 願文、其上入錦袋、是又五色也、」、文治元年八月 此日、如法経終写功、奉埋最勝金剛院山(故女院 廿一日(1185) 「辛未、内府送札被悦示、与比巴於 御墓所近辺也)、先奉書終之後、余書願文并名帳奉 侍従事、再三有慇懃之詞等、彼拾遺、鍾愛殊甚之 入筒了、入筒之後、書手各付封、其後補闕分(経 故也、入夜隆職宿禰来、此日、五輪塔三百五十基、 円阿闍梨勤之)、次十種供養(日来道場、依無便宜、 於鳥羽勝光明院、随被勧出者、有供養云々、」にも 奉渡御経於御堂)、導師智詮阿闍梨也、十種両方儲 見ることができる。五輪塔は平安時代の末に出現 之、其外供養八灯、其後奉渡法性寺、聖人四人之 し狭川真一が舎利信仰の関わりから詳しく整理を 外、有仮聖人等、御経奉出之後、余、大将、僧都 しているので参考にされたい(狭川真一 2001「五 同車向法性寺、自他道参会也、自御所門内歩行、 輪塔の成立とその背景」 『元興寺文化財研究所研究 輿傍奉埋之後、以石(兼運置之)築垣、其上立石 報告2001―増澤文武氏退職記念―』)。 五輪塔(法性寺座主被書梵字也)、其後於御墓所読 阿弥陀経了、帰参御堂之後帰宅、今日十種供養、」 6 まとめにかえて と見える。養和二年四月十六日(1182)に如法経 石像物銘文と文献資料を同時代資料として扱い を最勝金剛院山(故女院御墓所近辺也)に入筒し ながら、中世前半の追善仏事について検討を行っ 埋めた。その後石垣を築きその上には法性寺座主 てきた。石造物銘文で出現する追善供養は、必ず の書いた梵字を記した五輪塔を立てたというので しも文献資料の内容と同じではないことがわかっ ある。この事例については既に三宅敏之が述べて たが、文献資料に記されたようなこの時期に行わ いる(三宅敏之1983「藤原兼実の埋経」 『経塚 れている追善供養の一部が石造物には刻まれるの 論攷』)。 であろう。紙数の関係もあり十分に検討を尽くせ 三宅は、最勝金剛院山は法性寺最勝金剛院の近 なかったことはこれからの課題としたい。 くの山であろうとし、兼実の姉である女院(皇嘉 門院聖子)の墓所は、現在の京都市伏見区深草本 寺町の近くに定められていることを記している。 なお、皇嘉門院聖子は治承5年(1181)に亡くな っているため、1周忌の追善供養に関係し、経塚 の標識として営んだ可能性もあろう。先に述べた 大阪府池田市西畑町西畑天満宮板碑に記される内 容と共通すると見ておきたい。 五輪塔を造営するということについては、元暦 二年四月五日(1185) 「戊午、天晴、法性寺山立五 輪卒都婆二本了、同依夢想也、今日、隆職宿禰来、 談世上事、」にも記され、元暦二年四月廿七日 (1185) 「庚辰、天晴、此日、神鏡神璽自朝所入御 大内、先有行幸云々、子細可尋記之、自今夜、即 - 26 - 山形県立博物館研究報告, 29:27-30, February 4, 2011 近世山形に見る交通の一様相 熊谷 水緒* Mio Kumagai 1.はじめに 当博物館では、平成 19 年から毎年古文書講座を 開催している。博物館所蔵の古文書を使用し、そ れを通して山形や近世の様子を参加者全員で学ん でいくものである。この講座は、県民へ地域資源 を還元する場であることはもちろん、新しい資料 写真 3 発見の機会にもなっている。 写真 4 今回は、平成 22 年の講座で使用した古文書を 2 点紹介する。どちらも交通関係の古文書であり、 往来手形は旅行許可書と身分証明書を兼ねたも 近世山形における交通事情の一端をうかがうこと ので、関所手形は関所を通行する際に必要な身分 ができる。 証明書である。どちらも他領へ行く際に必要な文 書で、関所や番所で提出・提示した。旅行者が庶 2.「一千箇寺参詣帳」 民の場合、名主・寺社・家主などが発行した。 一つ目の古文書は、「一千箇寺参詣帳」(以下、 往来手形の翻字は、以下の通りである。 「参詣帳」)である。山形三日町(山形市三日町)の 住人・加藤佐吉が、諸国の寺院参詣に行く際に作 一、此佐吉と申者、拙寺檀那御座候處、此度心願御 成されたものと考えられる。形状は竪帳で、全部 座候ニ付、壱千ヶ寺参詣ニ罷出申候、何卒壱辺 で 6 ページからなる。表紙(写真 1)は「一千箇寺参 御首題御授歟(与)可申候、若行暮候ハゝ、壱宿 詣帳 寛政三辛亥年十一月吉日 羽州最上山形三 被仰付可申候、萬一病死も仕候砌者、以御慈悲 日町 加藤佐吉」とあり、1・2 ページ目に表題は を其御所御取置可申候、此方江者為御知及不申 ないが往来手形(写真 2・3)、3 ページ目は関所手 候、仍而一札如件 形(写真 3)、5 ページ目(写真 4)に首題が、それぞ 寛政三辛亥年十一月 れ収められている。 羽州最上山形八日町 印 浄光寺○ 諸国 御寺院中 この参詣帳は、寛政 3 年(1971)11 月に作成され、 発行者は山形八日町浄光寺、受取先は諸国の寺院 となっている。概要は次の通りである。 写真 1 *山形県立博物館嘱託職員 写真 2 「浄光寺の檀那である佐吉という者が、心願が - 27 - あって諸国の寺院参詣に行きます。なにとぞ首題 いては所持する必要がないとされていた。しかし をお授けください。行き暮れた場合は宿をお貸し 実際は、この文書のように所持していた事例も存 ください。病死した際は、慈悲によりその場所の 在するようである。 方法で処置してください。こちらへ知らせる必要 3.「覚」(先触) はありません。」 二つ目の古文書は「覚」(先触)(写真 1)である。 浄光寺は、山号は本眷山、山形市八日町にある 日蓮宗の寺院である。最上義光が、父義守の病気 所用で東叡山(寛永寺)をたずねていた吉川村(西川 平癒の報恩として八日町に寺地を与え、花の浄光 町)新山権現神官・和田新九郎の家来が帰国する際 寺とも称された。 「首題」とは、日蓮宗の寺院から の先触である。形状は切紙で、 「先触 参詣の証しとして授かるものである。おそらく佐 院 吉は、日蓮宗の寺院のみを目的として諸国参詣に 文書の表(写真 2)は「覚」とあり先触の内容が書か 向かったのではないだろうか。 れ、裏(写真 3)は「泊附」とあり宿泊日・場所が書 往来手形のおもな書式は、旅行者の名・住所、 東叡山龍王 役人」と書かれた包紙(写真 1)に包まれている。 かれている。 女性であれば家主との続柄、宗旨・檀那寺名、旅 またこの文書は、包紙と本紙がはなれないよう 行の目的、行き暮れた場合の宿の世話、死亡した 紙紐で固定されている。結合部には黒印が押して 場合の処置依頼などを明記する。この文書も、ほ あり、いかに慎重に取り扱っていたがうかがえる。 ぼそれに沿って書かれていると言えるだろう。 一方、関所手形の翻字は以下の通りである。 御関所手形之事 一、此佐吉と申者、拙寺紛無御座候處、此度心願御 座候ニ付、壱千ヶ寺参詣罷出申候、其御関所御 通被遊可下候、仍而一札如件 写真 1 寛政三辛亥年十一月 羽州最上山形八日町 印 浄光寺○ 諸国 御関所 御番衆中 年代と発行者は往来手形と同じだが、受取先は 諸国の関所役人になっている。内容は往来手形よ り簡潔で、佐吉についての説明・旅行の目的を述 写真 2 べたあとで、どうか関所を通してくださいと結ん でいる。 関所手形には、女性と鉄砲の出入りを監視する ための女手形と鉄砲手形がある。一方、男子につ - 28 - 年号は不明だが丑年で、日にちは 8 月 27 日で ある。発行者は東叡山(寛永寺)龍王院の役人・甲 田主計、受取先は千手宿から山形天童までの問屋 役人である。概要は次のようになる。 「当山(東叡山)の支配下にある羽州村山郡吉川 村の新山権現神官・和田新九郎の家来が、ここで の用事が済んだので明後日(29 日)に帰国する。書 面の通りに、馬と宿を遅滞なく継ぎ立てるように 写真 3 先触とは、旅行をする際に目的地までの必要人 せよ。ただし御定賃銭を払ってから通行させるよ うにせよ。」 馬や宿泊予定地を知らせ、その準備をさせるため この文書の発行は 8 月 27 日で、新九郎家来の に出した通知書である。公用旅行者に限り、先触 出立が 2 日後の 29 日である。出立に先立ち、こ を出すことが許されていた。また、泊付(宿泊地を の先触がまず千住宿に出され、そこから先々の宿 記した日程表)を添えることになっていた。 へ通達されたのであろう。宿ではこの文書を見て、 覚の翻字は以下の通りである。 客を迎え入れる準備をしていたと思われる。 もっとも、なぜこの通達されるべき文書が山形 覚 に残ったのかは不明である。新九郎家来が持ちか 印 印鑑○ えったのか、もともと控として所持していたのか。 一、本馬 壱疋 一、乗本馬 壱疋 右者、当山御支配下羽州村山郡吉川村新山権現神 もしくは始めから通達されず、この文書を見せる だけで継ぎ立てが可能となっていたのかもしれな い。 官和田新九郎家来、爰許用向相済候付、明後廿九 文書の初めに書かれている「本馬」とは、重量 日出立為致帰国候間、書面之馬宿々無遅滞継立肝 の荷物を乗せる馬のことである。40 貫(約 150kg) 煎可締候、尤御定賃銭相払可致通行候、以上 までの荷物を乗せることができた。 「乗本馬」につ 東叡山 いては、現時点では該当する単語をみつけること 龍王院役人 印 甲田主計○ 丑八月廿七日 ができなかったが、おそらくは「乗掛」(乗懸、乗 下とも)のことであろう。乗掛とは、人一人と 20 貫(約 75kg)の荷物を乗せることができた馬であ る。 千住宿(ヨリ) 後半に書かれている「御定賃銭」とは、藩や幕 今市宿夫(ヨリ) 府が定めた低廉の交通料である。公用の旅行者に 太田原通り 限り、この料金が適用された。 山形天童迄 裏面の泊付の翻字は以下の通りである。 宿々問屋 役人中 泊附 八月廿九日 - 29 - 杉戸 同 晦日 間々田 わせ、さらなる考察が必要であろう。山形の交通 九月 朔日 宇都宮 史研究については、最上川舟運や羽洲街道などに 同 二日 今市 ついて多くの研究がある。一方、未解読や未発見 但一日逗留 の古文書も数多く存在する。それらを一つ一つ読 同 四日 太田原 み解いていくことで、新たな山形の一面を発見す 同 五日 白川 ることができると考える。 同 六日 郡山 また古文書講座の開催により、これまであまり 同 七日 福嶋 表に出てこなかった様々な古文書に触れる機会を 同 八日 渡瀬 得た。さらに、昨年度より進めている博物館資料 同 九日 上ノ山 のデータベース公開により、資料情報の提供が可 同 十日 山形天童 能となりつつある。多くの古文書が世に出ること 以上 は、解読・研究の機会が増えることに繋がる。こ のような流れが、この先の調査研究の助けともな 杉戸から今市まで日光道中を通り、今市で一日 れば幸いである。 逗留している。今市の先は日光であり、おそらく (参考文献) は東照宮に参詣したものと思われる。 逗留後は太田原(大田原)へ向かっている。今市 「東北の街道」無明舎出版 から大田原へ行くには、宇都宮に戻り奥州道中を 「とちぎの歴史街道」栃木県立博物館 北上するルートがある。今市から宇都宮まで 1 日、 「豊橋市二川宿本陣資料館展示案内」豊橋市二川 宇都宮から大田原まで 1 日、計 2 日かかる計算に 宿本陣資料館 なる。しかし今回の泊付では、今市に逗留後、1 「日本交通史辞典」吉川弘文館 日で大田原に着いており計算が合わない。おそら 「徳川幕府事典」東京堂出版 くは、今市から直接に大田原へ抜けたのであろう。 「山形県の地名」平凡社 今市から大田原へは、大田原道という脇街道が存 在した。 さてその後、大田原から福嶋(福島)を通り、桑 折(福島県伊達郡桑折町)から羽洲街道に入る。渡 瀬(宮城県刈田郡)、上ノ山(山形県上山市)を経て山 形天童へ至っている。このうち渡瀬は、七ヶ宿(上 戸沢、下戸沢、渡瀬、関、滑津、峠田、湯原)と呼 ばれる宿場の一つであったが、昭和のダム工事で 水没した。現在は七ヶ宿ダムとなっている。 4.おわりに 今回は古文書の紹介にとどまり、詳しい内容に まで立ち入れなかった。他の古文書とも照らし合 - 30 - 山形県立博物館研究報告, 29:31-34, February 4, 2011 調査ノート 米沢の土人形~相良人形と幻の下小菅人形~ 秋葉 正任* Masato Akiba Ⅰ はじめに Ⅱ 土人形 昨今、山形県内では「やまがた雛のみち」と称し、 人形製作の歴史は古く、石偶や土偶は原初的な人 貴重な時代雛などを展示する雛人形展が盛んに行わ 形といえる。これらの人形はどのような目的で作ら れている。一方、山形の風土の中で、様々な郷土の れたのだろうか。1つは、信仰や呪に基づいたもの 人形が生まれ作り続けられてきた。郷土人形は、そ である。生命の神秘に対する人々の畏敬が、人形(ひ の地域の風土や住む人々の人情を映し出している。 とがた)を作って、豊穣や安産を求め、悪霊を払い、 明治末に発行された番付「地方玩具二百撰」には、 呪詛を行った。2つ目は子供の遊びものである。そ 全国各地の様々な玩具の中に人形が登場する。子供 の玩具には子の成長を願い、祝う意味も込められて の成長を願った「形代(かたしろ) ・天児(あまがつ)」 いる。3つ目は、鑑賞に資するものとしてである。 や「お伽這子(おとぎぼうこ)」、幼児の裸人形であ それは美しく、愛らしく作られている。これらの人 る「御所人形」 、木彫りに衣裳を着せた「極込(きめ 形にはそれぞれの要素を併せ持つものとして作られ こみ)人形」や豪華な彩色を施した「嵯峨人形」 、着 たものも多い。 せ替えが可能な「衣裳人形」 、手足が動く「市松人形」 土人形は素材によって分類された名称であるが、 など、全国に広く知られる人形に加え、それぞれ各 近世初期に製作された伏見人形が最も古く、その直 地の郷土人形が上位から記されている。番付上位に 接・間接的な影響を受けながら各地で製作された。 のっている、羽前「削懸人形」は「笹野彫」と思わ 幕末に刊行された大蔵永常著『広益国産考』には、 れる。 商品経済の発展に対応する農家経営の手段として、 これらの素朴な人形は、安価で常に人びとの身近 伏見人形を手本とする土人形の作り方が絵図入りで にあった。そして見るものたちに心の安らぎを与え 記されており、他地域との技術交流や型抜きなどは てくれた。今年度の企画展「やまがたの人形」では、 自由になされていたようである。最盛期には全国2 土人形・張子人形・和紙人形・わら細工人形など、 00ヶ所以上で作られていた。山形県内における土 このぬくもりを持つ山形の郷土人形を数多く紹介し 人形は、寛政年間(1789~1801)より作られている た。特に今回の展示の中心となった土人形では、梅 相良人形が最も古く、大正時代頃までは20ヶ所く 津宮雄氏(故人・米沢市)が長年にわたり収集され らいで作られていたようである。現在も相良人形(米 たコレクション(本館所蔵約370点)の中から、 沢市)、酒田土人形(鵜土河原人形)、鶴岡土人形が 江戸時代から現在までの相良人形と、現在は幻の存 作られている。 在となった下小菅人形を中心に展示した。そこでも これらの土人形は、高価な衣装人形の代用品であ う一度、相良人形と小菅人形のそれぞれの歴史につ り(表 1 参考) 、庶民の日常生活上の、素朴で切実な いて整理したいと思う。 願いや祈りがこめられている。信仰や縁起もの、願 いごとに関するものが多く、身近な庶民感情に根ざ *山形県立博物館学芸員 - 31 - している。時代や風俗をはじめ、日本人の種々なる 生活も垣間見える。民俗文化財であるともいえよう。 初代人形師は、相良家四代目の米沢藩士相良清左 あつ ただ 衛門厚 忠 (1760~1835)で、藩命により安永8年 (1779) 、財政立直しのため殖産興業として成島に陶 寛政 2 年(1970) 古今雛(6 番)極上 1 対 2両2分 窯を築いた(成島焼) 。そして、その余技として土人 古今雛(1 番)並製 1 対 1両2分 形製作をはじめたという(人形試作は寛政初年頃)。 厚忠もまた、仏師としての素養があり、長松寺の 文化 10 年(1813) 花巻人形内裏雛 1 対 弁天像(周囲に16童子) 、火防弁財天である相良弁 180 文 財天(米沢市花沢)などを製作している。なお人形 ※当時江戸の職人の賃金は月4~6貫文 なお あつ 1 両は銭 6 貫文 あつ まさ 師二代作右衛門直厚・三代清左衛門厚正は、焼失の 文久 3 年(1863) のち天保14年(1843)に再建された笹野観音の千 (平清水焼)どんぶり 80 文・蓋なし飯茶碗 35 文 体地蔵尊を手がけている。 ※「東北の古人形について」芦沢長介より 表1 人形の色彩は、赤を基調としたものが多く見られ る。子供の伝染病として恐れられた疱瘡の神は赤色 を好むことから、その機嫌をとって疱瘡除けに製作 されたといわれる。また、赤は高貴な色として重ん じる中国の思想を受け、人形にも用いられたことも 考えられる。 笹野観音千体地蔵尊像 以後相良家では、現在まで七代にわたって継承し 続けられている(現在は八代隆馬さんが修行中) 。土 Ⅲ 相良人形 人形の名称は、共同または競合して製作されること 相良人形は、伏見人形(京都府)の影響を強く受 が多いため地名をつける場合が多いが(例えば最盛 けているといわれ、宮城県の堤人形、岩手県の花巻 期には、伏見 50 軒、堤 13 軒、花巻 6 軒の窯があっ 人形と並んで東北三大土人形と称されている全国有 たという) 、相良人形は一子相伝的に相良家のみで製 数の土人形である。 作されたので姓名を冠につけている。相良人形につ あつ ひろ 相良家初代は相良清太夫厚熙で、越後からの上杉 いては、藩としても土人形の奨励は行っていないし、 氏家臣である。相良家には、長松寺(米沢市芳泉町) 相良家も土人形で生 の弁財天像や笹野観音(同笹野町)の地蔵尊像を製 業をたてていた訳で ただひろ 作したといわれる忠 熙(二代清左衛門正熙の妻の連 はなかった。よって れ子)がお あまり作らず、あま り、地方仏 り売れなかったよう 師としての だ。当初は、求めに 素養が培わ 応じて売る程度であ れていたと った。だから真似て いわれる。 作るものもいなかっ たのだといわれる。 笹野観音地蔵尊像 - 32 - 相良人形 相良人形は、三代まで(江戸期まで)の作品を古 いわれ、相良では代々顔だけは当主自らが描いてお 相良といい、名玩として高く評価されたという。古 り、目元の可愛らしさ・あどけなさ・気品が秀でて 相良人形が人気を博した、昭和5年(1930)頃には いる。ただし、人形師それぞれにおいて描き方・彩 1 体が 1 円 50 銭で、昭和12年(1937)からの日中 色に違いがあるが(表2参考) 、背面および底面に年 戦争頃には 1 体が3円(当時たばこが9銭)で東京 号などの記載がないと制作した人形師を断定するこ の骨董店が買い求めていった(なお、大正年間に作 とは難しい。七代隆氏は、誰が作った人形というよ られた人形の単価は 13 銭から 30 銭程度) 。戦後の玩 りは人形自体の可愛らしさを楽しんでほしいと話し 具ブームの際には、商人が地域の住人より法外な値 ている。 段で安く買いあさり、また古い相良人形を新しい相 良人形と交換してもっていったという。そのため米 沢の地から古い相良人形がなくなっていった。現在 Ⅳ 下小菅人形 米沢市東部の相良人形に対し、西部の成島周辺に の相良家にも古い相良人形はほとんど残っておらず、 2種類の土人形がある。初代広幡村長もつとめた井 七代隆氏も「人形の着色に関しては、収集家の方が 上家で作った「成島人形」 (びったら人形ともいう。 所有している古い相良を見せてもらい研究した。型 大井堰に掛かっている弥陀羅橋に由来。 )と、小山田 は数百種類残っているが、作っているのは百種類程 家で作った「下小菅人形」である。両家とも同所同 度である。他は着色の仕方などがわからないので作 時代(明治末から昭和初期)のためか似かよった着 れない」と話している。 色である。相良人形をはじめ他人形の抜き型が多く、 相良人形の特色は、彩色の豊かさ、姿態のバラン 土も成島山のものを使っているという。 スの良さなどである。大きさについては、元型を人 下小菅人形は、村山地方から来た渡り職人の小山 形師自ら制作もしたが、 「伏見七、仙台堤三」といわ 田亀蔵が、大正年間小菅で瓦焼を行い、冬期間だけ れるように、伏見や堤の抜型が多く、小柄で可憐な 土人形を作って売ったものであったようだ。亀蔵は ものになっている。顔貌については、値打ちは顔と 大正10年(1921)ごろ死去しているので、製造し たのは十年程である。このため、現在ではほとんど 眼 衣装 模様 初代厚忠 二代直厚 三代厚正 三角眼(頂 三角眼(頂点 三角目、細い 点 が 柔 が鋭角、切れ 流線型の普 和)、普通 がよい) 、普通 通眼 眼も 眼も 桜模様(繊 桜模様(くぼ 細で小さ みが少ない) 、 大きい)、菊 く、花びら 胸に宝珠模様 のくぼみ も 残っておらず幻の人形となっている。しかし、米沢 市下小菅にある正光院延長寺さんの案内で、このた び下小菅と川西町下奥田にある三件のお宅を訪ね、 39体もの下小菅人形を確認した。紫かかった黒と 赤での彩色が特徴である。ニカワが強いため剥離が 桜模様(やや 目立つ。相良人形と比べ安価であったため、同村周 模様も が鋭角) その 頭部に水引 他 出 表2 下小菅人形 - 33 - 辺では手軽に求められる人形であったようで、地元 大切に保管し受け継いでいってほしいとお願いした。 にはまだ数多く存在していると思われる。春の彼岸 過ぎ節供の頃、人形の入った風呂敷をかついだ女性 が売りにきて、各家では毎年 1 体づつ買い求め、増 やしていき雛段を飾っていったのだという。 地元では、亀蔵のことを「せとかめ」と呼んでい た。現在、窯場はないが窯跡周辺からは捨てられた 多くの瀬戸物が見つかったという。亀蔵であるが、 彼はどこから移り住んできたのだろうか。村山地方 相良人形 天保14年の裏書 で代表的な土人形の一つに、東根の土赤五郎吉など このたびの報告は、企画展に絡み、各文献を調べ が明治期に作った猪野沢人形がある(その他東根に まとめた調査ノートという形で終わってしまったが、 は、花山・狐石人形も) 。猪野沢地区では、弘化年間 相良人形や下小菅人形以外にも、地元には多くの人 (1844~48)より陶器製造を行っており、小山田姓 形が残っていると思われる。私にとって始めて企画 の陶工が数多く見られる。推測ではあるが、猪野沢 したこの人形展をきっかけとして、今後とも郷土人 人形に接する機会のあった、この小山田家ゆかりの 形を触れる機会が多くあればよいと思っている。 者で焼き物製造に関わった人物が移り住んだ可能性 も考えられる。 〔引用・参考文献〕 なお、下小菅人形は京塚人形とも言ったとのこと 『相良家と相良人形』塩野徳五郎著 だが、下小菅と京塚とは離れており、それは違うと 『米沢の郷土玩具』梅津宮雄著 思われる。どちらかといえば、井上家の成島人形が 『日本の土人形』俵有作編集 京塚にあり、混同されてしまったのかもしれない。 『土人形系統分類の研究』石井丑之助著 また製陶所をおこした嵐田新蔵が明治末頃人形作り 『全国郷土玩具ガイド』畑野栄三著 を行ったという記事もあるが、地元の方は作っては 『郷土玩具辞典』斉藤良輔編 いないという(嵐田は昭和初期まで成島焼を製作)。 『全国郷土人形図鑑』足立孔著 『東北玩具集』 Ⅴ 終わりに 『相良清左衛門厚忠百五十忌祭追憶書』梅津宮雄著 相良人形や山形張子のように現在も作り続けられ 『米沢市史』民俗編 ている人形や、鶴岡瓦人形・鵜土河原(酒田)人形 『東根市史』別巻上 のように復活・復興に努力している人形もあるが、 「山形県の土人形」山形県立博物館研究報告第3号 多くの人形窯は廃絶してしまった。 「梅津コレクションにみる相良人形の形態的分析」 しかし、このたびの調査の中で、今でも下小菅人 形を節供のときに飾る家もあり、その素朴なうりざ ね顔の、土人形のもつ温もりを楽しんでいた。また、 考古・民俗篇 山形県立博物館研究報告第10号 「近世最上川の文化的考察」 山形県立博物館研究報告第13号 あるお宅では、天保14年(1843)の裏書のある相 「東北の古人形について」芦沢長介 良人形(初代はすでに死亡。二代目か三代目の作) 「米沢土人形について」足立孔著 も確認できた。大変貴重なものであり、これからも 「土人形」山形県立博物館ニュース第69号 - 34 - 山形県立博物館研究報告, 29:35-40, February 4, 2011 化学実験室ことはじめ 石垣 立郎* Tatsurou Ishigaki 1 はじめに 義』などが翻訳刊行されており、福沢諭吉は、そ 現代の日本では、小学校に理科室、中学校に の自伝の中で、実際に馬の爪からアンモニアを作 は第 1・第 2 分野のための二つの実験室と準備 る実験をしたことをユーモラスに描いている。しか 室、高等学校では、物理・化学・生物等に分かれ し、学生実験室を設備し、講義と体系的な実験を た実験室と準備室が備えられ、特別支援学校にも 積み重ね、教育効果を上げるような試みはないよ 課題に応じ設備されていることが多い。明治以前 うである。 の寺子屋や蘭学塾に理科実験室は存在しなかっ たのであるから、これらは明治以降に整備された ものであることは疑いない。では、いつ頃、どのよ うな経過で、学校における生徒用実験室の必要 性が認識され、整備されたのであろうか。 図 2:解体新書(初版 山形市郷土館所蔵) 3 明治初期の理想と現実 明治 5 年、学制が公布された。これは、全国を 図 1:高等学校における化学実験のようす 大中小の学区に分け、大学区には大学、中学区 本稿は、小学校の理科実験室と、中・高等学校 においては主として化学実験室を例に取りながら、 日本における学生実験室のルーツと山形県にお には中学校、小学区には小学校を設置して、国 民皆学を目指すものであった。 教育内容としては、フランスのカリキュラムをモデ ける児童・生徒用実験室の整備の歴史を探ったも ルとし、西洋の科学技術に追いつくことを狙って、 のである。 今で言えば小学 1 年から中学 2 年までの教育課 程を示した。 2 幕末期の化学実験のようす この小学教則の特徴として、理工系の比率が高 幕末期には、蘭学を通じて西洋の医学や科学 いことが指摘でき、明治 9 年の山形県小学教則を 技術が紹介され、一部には実地に実験が試みら もとに項目数で数えると全体の 45%が理数科目か れていたようである。化学の分野で言えば、宇田 らなる。現在の中学 1 年及び 2 年生に相当する 川榕菴の『舎密開宗』や川本幸民の『気海観瀾広 上級小学第 4 級〜第 1 級では、図 3 のように物 *山形県立博物館館長 - 35 - 理階梯や小学化学書、幾何や級数など、理数科 しかしながら明治初年には、官員で派遣された 目がほとんどといってよいほどである。基礎的な知 校長とは別に各地で雇われる教員の側は、自分 識の積み上げも乏しい時代に、理数系の苦手な 自身が化学の知識や経験はごく少なかったと思 生徒にとっては、さぞ難儀なことだろうと思われる。 われ、現代の目から見てもかなりのレベルを有す る翻訳書を用いて効果的に教えることができたと はとても思えない。実際、『小学化学書』の原著は 1873(明治 6)年に出版されたばかりであり、これを 翌年には翻訳し発行していることになる。実際に 実験をしながら考察するという、当時においては 先進的な教科書であったため、後に旧制山形中 学校においても本書が使用されたことが記録され ている。漢学等の素養を持つとはいえ、明治初年 図 3:山形県小学教則の一部(明治 9 年) の教員が知識と経験なく効果的に教えることは困 では、現実にはどうだったのかを、残された学校 難であろうと思われる。結局、明治 5 年の学制は の平面図と教科書、そして教員養成のしくみなど 明治 12 年には廃止され、教育内容も、当時の教 の面から検討する。 師が無理なく教えることができるものに変更される まず、学校の施設設備の面からは、明治 9 年に こととなった。 三島通庸の命で建設された、当時日本最大級の 明治 14 年、明治天皇の東北巡幸に際し、山形 規模を誇った朝暘学校(鶴岡市)の平面図には、 県師範学校の講堂において、付属小学校の生徒 一斉教授を行う教場が並ぶが、理科実験室など 二名が天覧実験を行った記録1が残されている。 の特別教室の表示はないことがわかる。教科書に 一名は「空気膨張の力」、もう一名は「物の燃焼に ついて見れば、図 4 に示すように、明治 7 年に文 ついて」化学実験を行っている。このことからも、 部省から発行されたロスコウ著・市川盛三郎訳の 理科実験は珍しい演目であったことが推測できる。 『小学化学書』があり、山形県師範学校の流れを 引き継ぐ山形県立博物館教育資料館に、その上 巻及び中巻が所蔵されていることから、これらが 4 外国人教師と留学生の派遣 明治初期の混乱の中でも、全国に学校を作るだ 頒布され、教師により使用されていた可能性があ けでは不足であり、学問研究の場として大学を設 る。 置し充実するとともに、教員の養成機関として師 範学校を設置することが必要であることが認識さ れていた。 その施策の一貫として、明治政府は、外国人教 師を招聘するとともに、明治 3 年に第一次、明治 8 年から 9 年にかけて第二次の留学生海外派遣 を行った。 このときの外国人教師で、化学の分野において 注目されるのは、明治 6 年にイギリスから工部大 図 4:小学化学書(上)と(中)巻 1 小形利吉『山形県の理科教育史』上巻,p.51-2 - 36 - 学校の教授として来日したダイヴァース(E.Divers, 従来の化学教育は、いわば徒弟制度で行われ 1837-1912)、明治 7 年に英国から東京開成学校2 ていたために、弟子の育成人数はごく限られてい の化学教授に着任したアトキンソン(R.W.Atkinson, た。イギリスで言えば、デイヴィーは大科学者ファ 1850-1929)である。そして、推薦者として依頼され ラデーを育てたが、ファラデーは一人の弟子も育 たのが、ロンドンのユニバーシティ・カレッジのウィ てていない。だがリービッヒは、当初は毎年 20 人、 リアムソン(A.W.Williamson, 1824-1904)であった。 後には 60 人以上の学生を育て、生涯に 751 人 さらに、海外留学生の派遣先は、長井長義 の門下生を送り出した。そのうち教授になった者 (1845-1929)と柴田承桂(1849-1910)がドイツのベ が約 60 人といわれる。同時代の科学者たちは、リ ルリン大学のホフマン (A.W.von Hofmann,1818- ービッヒの教育方法に対して、二流の化学技術者 92)教授、桜井錠二(1858- 1939)は前出の英国ウ を作るだけだと批判したが、リービッヒは一人の一 ィリアムソン教授、杉浦重剛(1855-1923)は英国オ 流を作るよりも多くの二流を作ることが大切だと信 ーエンス・カレッジのロスコウ教授(H.E.Roscoe, じていたという。 1833- 1915) となっている。 これら推薦者や派遣先の共通点は、ウィリアムソ ンやホフマンが、ドイツのギーセン大学の化学教 授であるリービッヒ(J.Liebig, 1803-73)の門下生で あり、ロスコウはリービッヒの盟友ブンゼン教授の 教え子であったように、直接あるいは間接に、リー ビッヒという化学者の影響下にあったことである。 5 リービッヒの化学教育の特徴 リービッヒは、ドイツの薬物卸売商の次男として ダルムシュタットに生まれ、宮廷図書館で化学書 に親しみ、家で実験を楽しんだ。雷酸銀という爆 図 5:ユストゥス・リービッヒの肖像 発物がお気に入りで、ギムナジウムの成績は悪く、 爆発事故で中退している。薬剤師修行のため徒 実際に、リービッヒの門下生たちは、当時需要の 弟奉公するが、ここでもまた爆発事故を起こし、ボ 多かった化学技術者として各地で活躍するととも ン大学に入るが学生運動で逮捕されるという始末。 に、大学で教授となった弟子たちは、恩師の教育 幸いに理解者があり、ルートヴィヒ I 世に認められ システムを受け継ぎ、学生実験室を中核に置いた てパリ大学に留学、帰国後 21 歳でギーセン大助 研究室経営を行った。一時はノーベル化学賞の 教授となる。ここでも先任者に冷遇され、研究室を 受賞者がリービッヒ門下生で占められていたほど 使わせてもらえないことから、以前は兵舎として使 である。リービッヒ自身は短気で喧嘩早かったが、 われていた建物を借り受け、研究室兼学生実験 盟友ブンゼンは公平で穏やかな人柄で、外国の 室として整備した。ここで、講義と学生実験を通じ 学生の面倒もよくみたという。事実、リービッヒの化 て実地に一定の人数の教育を行うという、大学に 学教室にはメキシコからの留学生の名も記録され おける化学教育の一大転換が起こった。 ており、彼の弟子たちが日本からの留学生を受け 入れたことは不思議ではない。明治初期の留学 生たちは、いわばリービッヒの孫弟子にあたるわけ 2 東京大学の前身 - 37 - である。 ると、アルコールが流出する。これをヨードホルム 反応で検出し、デンプンがアルコールに変わるこ 6 日本国内における学生実験室 とを確かめる、という実験が掲載されている。 リービッヒの孫弟子にあたる、ダイヴァースやアト 現在の高校化学の教科書にあるような量的な概 キンソンらのお雇い外国人教師は、明治政府に 念はないが、学生が実験を通じて化学を学んで 対し学生実験室の設置を要求し実現する。さらに、 いくという理念と方法が、初等中等教育の分野に 桜井錠二が帝国大学(理)、柴田承桂が大学東校、 も確かに受け継がれていく仕組みが読み取れる。 長井長義が帝国大学(薬)に着任するなど、帰国し た留学生たちも、学生用の化学実験室を教育シ 8 山形県における理科実験室 ステムの根幹として整備拡充を要求する。大学も 本県においては、明治 9 年の朝暘学校、明治 また増設や改築が行われ、学生実験室を中核に 22 年の山形市中部尋常小学校には、いずれも理 置いた近代的な洋風建築として姿を変えていく。 科実験室は設置されていない。 これが、明治中期から後期のできごとである。 では、師範学校や旧制中学校の場合はどうか。 これにあわせて、技術者を養成する工業高等専 山形県師範学校の場合は、明治 34 年の増改築 門学校や、教員養成を担う師範学校、さらには明 に係る平面図に理科棟の記載があり、実験室の 治 24 年に制定された尋常中学校設備規則にお 存在が確認できる。 いて、中学校においても、「物理化学博物図画ノ 特別教室」や「図書室器械室薬品室標本室」等の 基準が示されるなど、大学以外の高等教育・中等 教育においても、理科実験室が普及することとな っていく。 7 高等師範学校における化学教育 明治 30 年代になると、ほとんどの大学で日本 人教授が担当し、多くの卒業生を送り出すように なる。では、大学ではなく、師範学校教員を養成 する高等師範学校では、どのような教育が行われ 図 6:山形県師範学校平面図の写(明治 34) ていたのだろうか。筆者の初任地には、明治 32 年発行の東京高等師範学校『化学実験書』が所 平面図はないが、明治 26 年に改築された旧制 蔵されていたが、この内容から、講義とともに様々 山形中学校新校舎について、『明治期中学教育 な学生実験が行われていたことがわかる。 史 山形中学校を中心に』に当時の生徒の文章 たとえば、試験管にカツオブシと苛性ソーダの が載り、「理学博物ノ機器標本、各別ニ室ヲ設ケ 小片を入れて加熱すると、アンモニアガスが発生 テ之ヲ蔵ス」との記述があることから、尋常中学校 することから、カツオブシの中には窒素が含まれ 設備規則に基づき、特別教室として博物教室と理 ていることがわかる、といった初歩的な内容から始 化教室があり、それとは別に理化機器室・標本室 まり、現在の体系とは異なるが、徐々に高度なテ があったと考えられ、これが本県の理科特別教室 ーマが登場してくる。ページの終わりの方では、 の嚆矢であろう。 米にコウジを加え、一定期間保温した後に蒸留す - 38 - この校舎は火災で消失するが、明治 32 年に再 建されており、明治 41 年 9 月の皇太子(後の大 ものと推測できる。 正天皇)行啓に際し、敷地建物全図が記録されて いる。ここでは、博物教室と理化教室及び物理化 学器械室が明記されているが、理化の特別教室 が生徒実験室としての機能を持っていたのかは 確認できず、興味深いところである。 図 8:旧制山形高等学校平面図(大正 13) これらのことから、明治中期から後期にかけて、 高等教育においては学生実験室の意義が認めら れ、かなりの程度まで普及したものと考えられる。 また、歴史の古い旧制中学校等においても、尋常 中学校設備規則などに基づき、整備が行われた のであろう。 小学校においては、明治 22 年の山形一小の前 身である山形市中部高等尋常小学校の校舎平面 図にも、明治 33 年に落成した山形市立第三小学 校の平面図にも、理科実験室の記載は見られな い。山形県師範学校の附属小学校の場合は、大 正 8 年の写真帳の中に理科実験の様子を撮影し たものがあるが、生徒用の実験室があったかどう 図 7:旧制山形中学校平面図(明治 41,大正元) かは不明で、師範学校の学生用の実験室を借り 旧制山形中学校は、大正元年に再び改築され、 て使っているものと考えたい。天童市の旧東村山 昭和期には新制高等学校校舎として使用された。 郡役所資料館には、明治大正期の国定教科書等 この校舎にも、講堂に至る途中に特別教室の記 が保存されているが、この中に、大正 10 年頃と思 載がある。これらの内訳は、博物教室・同準備室、 われる、当時の授業の様子を示す書き込みが残 物理階段教室、化学実験室と物理化学の準備室 っており、その写しが昭和 61 年度の山形県高等 であり、生徒実験室の存在が確認できる。 学校教育研究会理科部会の研究誌の表紙を飾 さらに、明治 43 年には米沢工業高等専門学校 の設置も、本県の高等教育として重要なエポック った。 この年に、教科書の持ち主の一人、佐藤ふみさ であり、また大正 13 年の旧制山形高等学校の平 ん(当時 78 歳 1908-89)に筆者が直接インタビュ 面図には理科棟が明記されていることも注目され ーしたときには、授業で実験をした記憶はないと る。校種と時代からみて、学生実験室が含まれる のことであり、教師の説明と暗記が中心であったも - 39 - のと思われる。 歴史の中に、日本と世界の歴史の流れが貫かれ 時代は下って、昭和2年に改築された山形市立 ていることがわかる。 第一小学校のコンクリート校舎には、理科室の記 載があり、同年の附属小学校六日町校舎の平面 謝辞 図中にも、理科室の記載が見える。また、昭和 14 長年のテーマであった本稿をまとめるにあたり、 年に新校舎が完成した山形第三小学校において 山形県生涯学習財団理事長・日野顕正、山形市 も、平面図中には理科室が記載されている。さら 立第一小学校長・白鳥樹一郎、山形市立総合学 に、山形市立第三小学校の百周年記念誌によれ 習センター副所長・澁谷和久、山形市郷土館・旧 ば、昭和 14 年に完成した勤労青年向けの夜学 済生館、山形県立博物館および分館教育資料館 である私立山形市工業青年学校の平面図にも理 の学芸員各氏のご教示と協力をいただいた。記し 科室の記載が見られるように、この時期には都市 て感謝を申し上げる次第である。 部で実験室の整備が見られ、その裾野を広げて 参考文献 いることが確認できる。 いっぽうで、現在は山形市立となっている明治 小学校の場合、大正2年の平面図にも、大正 13 年の増築された平面図、昭和 5 年の改築された ものと思われる平面図でも理科室の記載はない。 しかし、戦後の昭和 25 年には、新制中学校と共 用となっているためか、理科室と準備室の記載が ある。このあたりは、理科教育振興法の制定等に 見られる、戦後の政策の影響が指摘できる。 1. 井本稔著・日本化学会編『日本の化学 100 年のあゆみ』,化学同人,1978 2. 小形利吉『山形県理科教育史』上(明治・ 大正編),山形県理科研究同好会, 1978 3. 長岡安太郎『明治期中学教育史 山形 中学校を中心に』, 大明堂,1991 4. 島尾永康「リービッヒの薬学・化学教室」, 『和光純薬時報』 Vol.66, No.4,1998 5. 道家達将「日本の化学者の伝統」,『化学 9 まとめ のすすめ(第 2 版)』,筑摩書房,1980 以上、日本及び山形県における理科実験室、 化学実験室の普及の流れを概観した。まとめれば、 明治維新期は、世界の科学教育研究シ 6. 北康利『蘭学者 川本幸民』,PHP 研究 所,2009 7. 福沢諭吉『福翁自伝』,岩波文庫 ステムの面でも革命的な時期であり、リ 8. 『化学者リービッヒ』,岩波新書 ービッヒ流の実験室教育と研究システム 9. ロスコウ『小学化学書』(上・中),文部省,明 を、同時代に直接に導入したことが後の 発展の礎となった。 治7年 10. 『化学実験書』東京高等師範学校,明治 導入の時期はいくつかの段階があり、お 32,千葉県立多古高等学校図書館 よその目安として、明治中期から大正期 11. 『理科教育研究誌』第 22 号,山形県高等 に高等教育から中等教育まで広がり、昭 学校教育研究会理科部会,昭和 61 年度 和前期に財政力のある市町の小学校に も普及したが、周辺部の小学校にまで普 ※なお、各校の周年記念誌等については、紙幅 及したのが戦後の理科教育振興法の成 の都合で割愛した。 立の時期である、と区分できるであろう。 などが指摘でき、山形県における理科実験室の - 40 - 山形県立博物館研究報告, 29:41-46, February 4, 2011 「地域資源のデジタル化推進事業」の取組み 菅野 史郎* Shirou Sugano はじめに 1 「地域資源のデジタル化」推進事業の 概要と進捗状況 山形県立博物館は、山形県の明治百年事業の一 株式会社アーキネットから事業提案された『地 環として建設され、昭和46(1971)年4月 域資源のデジタル化及びその教材化、専門家の育 に開館した総合博物館である。 現在、 本館のほか、 成』の主要なテーマは、デジタルアーカイブを活 分館(教育資料館) 、附属自然学習園(琵琶沼)を 併設し、地学・植物・動物・考古・歴史・民俗・ 用した地域教材開発及び専門科の育成であり、主 な事業内容は以下の3点である。 教育の7部門を擁している。山形県を中心に自 然・人文に関する「もの系」資料を広く収集・保 ① デジタルコンテンツの構築と提供 ② 最上川に関わる資料のデジタル化・Webサ 管し、 その調査研究をすすめ、 それらを展示して、 イトの構築 これまで多くの県民の学習に寄与してきた。 ③ デジタル化に向けた専門家の育成 近年、都道府県立博物館の多くは情報インフラ の整備が進み、収蔵資料管理、図書管理、催事予 公募型事業は3箇年計画ではあるものの単年度 契約であることから、提案された事業内容を尊重 約管理、インターネット管理など、多岐にわたる しながらも、本館の抱える情報化の課題解決に確 情報管理システムが導入されているようである。 実に結びつくよう、初年度の事業内容を検討し補 Web上で各館の情報を見る限り、公共施設とし 整した。以下は事業名を「地域資源のデジタル化」 ての博物館に対する情報開示や情報提供の要求の 推進事業と改称した主な業務委託の内容である。 高まりに対応している。一方、山形県立博物館で は、これまで情報に対する投資がなされていなか ① 博物館アーカイブス及び、収蔵資料データベ ースの構築 ったため、デジタル情報の管理が統一されず、 「情 報系」資料の整備が進んでいなかった。情報機能 ② 公式Webサイトの構築 ③ デジタルアーカイブ・コーディネータの養成 の不備は、博物館の利便性への不満や利用者数の 減少に繋がる一因ともなっていた。 平成21年8月に契約が成立し事業がスタート したが、着手以前に、本事業の完了を見据えて解 そうした中、平成21年3月に山形県雇用対策 本部から国の「ふるさと雇用再生特別基金事業」 決しておくべき点がいくつもあった。 第一に、情報担当の専門職員が不在である本館 (設置期間:平成23年度末まで)による「山形 県公募型雇用創出事業」が募集され、株式会社ア にとって、 安全性が確保された上で、 構築した各々 のシステムを職員自が運用できる技術水準である ーキネット(代表取締役:伊勢 博)から『地域 資源のデジタル化及びその教材化、 専門家の育成』 こと。 第二に、3箇年の事業終了後のシステムの保 が事業提案された。本館にとっては時宜にかなう ものであり、本部での採択を受け昨年8月に事業 守・管理費用がきわめて安価であること。 第三に、担当部門の情報更新など、日常の運用 に着手した。 本稿では、限られた事業予算の中で「情報系」 業務については、全職員が行えるようスキルアッ プを図ること。 資料をどのように整備し、博物館運営の改善につ なげようとしているのかについて、現状を報告す そのほか、膨大な資料の整理とデータの入力人 員を確保すること、基本コンセプトの作成や多種 るとともに、課題を明らかにすることを目的とし 多様なコンテンツの作成を短期間で作成すること たい。 への職員の理解と協力を得ることなど、課題が山 積していた。 *山形県立博物館副館長 - 41 - これらの課題に対しては、毎月開催される学芸 2)HPリニューアルの基本的な考え方 課及び館内会議において繰り返し協議を続けるこ 利用者に対して、情報をより見やすく探しやす とによって、徐々にではあるが職員の理解が深ま り、協力体制が確立されていったと考えている。 くすると同時に、来館者の増加に寄与できる魅力 的で情報発信力の高いホームページとし、情報発 また、資料の整理とデータの入力人員の確保には 信者である職員にとってはより使いやすく多様な 国の「緊急雇用創出臨時特例基金事業」を活用し 表現を行えるホームページシステムを構築するこ た「県立博物館収蔵資料緊急整理事業」で予算を 確保した。当初8人、昨年11月から13人、本 となどを目的に、山形県立博物館ホームページの デザイン・機能の全面的なリニューアルを実施し 年11月には16人体制と段階的に人員増を図り、 データの蓄積が大きく前進している。 た。 <機能> 事業の2年目である今年度は、データベースの ① 外部配信向けのポータルサイトの機能(パブ 本格運用と改良、Webサイトの公開と改良、両 リックスペース) 、個人のバーチャルオフィ 者の統合を中心に作業を進め、10月上旬に第一 次公開を実施した。今後、3箇月ごとに公開数を スとしての機能(プライベートスペース)、 グループの情報共有のための機能(グループ 増やしていく予定となっている。 スペース)が1つのシステムの中で統合され ている。 2 Webサイト構築 山形県立博物館では、これまでもホームページ ② 職員(管理者)は短時間に主要ブラウザで閲 覧可能な美しくデザインされたサイトを構 を開設し情報発信を行ってきたが、常に進化し、 多様化する情報、共有すべき情報等の管理が煩雑 築することができる。 ③ 訪問者は短時間で操作方法を習得できる。 になり、ボランティアの支援を受けるなど、運用 担当職員の負担が大きかった。 <サーバ環境> ① ソフトウェア CMS Webサーバ 1)Net Commons の導入 このため、博物館のホームページ運用管理の 合理性を図るために、コンテンツマネージメント システム(Contents Management System) (以下 CMS)の導入を検討した。CMSでは、技術的 な知識がなくても、テキストや、画像等の「コン テンツ」を用意できれば、ウェブによる情報発信 : NetCommons : Apache スクリプト言語 : PHP データベース : MySQL OS ② ハードウェア : Linux レンタルサーバ使用(現在) HDD : 10GB をおこなえるように工夫されている。また、テン プレートの選択により全体のデザインを容易に変 (ホームページデータ用として) <クライアント環境> 更することができるなど、省力化にも役立つ。ホ ームページの管理システムとして様々なCMSが ① ブラウザ MicroSoft Internet Explorer 6 以降 ある中、選定条件として「職員が簡単に更新でき る」 「低予算によるランニングコスト」を重視し、 Mozilla FireFox 2 以降 ② ハードウェア 選んだのが国立情報学研究所で開発された「Net Commons」 (http://www.netcommons.org/) である。 NetCommons は、オープンソースとして提供され ているもので、公共機関をターゲットにした、 CPU メモリ : Pentium3 1GHz 以上 : 512MByte 以上 (搭載 OS 等により異なる) Web2.0 世代の情報共有基盤システムである。 複合 的なワンストップシステムとして、CMSとLM 3)利用情報と学習コンテンツの充実 山形県立博物館本館と分館である教育資料館は S(Learning Management System)、グループウェ 県都の中心にありながら、利用者、特に自家用車 アの機能が統合されており、将来的にも職員によ の交通にはわかりにくい立地環境にある。利用者 る運用管理ができるものと考えたからである。 ばかりでなく、博物館協議会委員にも度々指摘さ - 42 - れており、自家用車でスムーズに来館できるよう モバイルサイト構築についても技術面・機能面か 見やすい大きさの交通アクセス情報を掲載した。 ら検討し、9月14日に携帯サイト公開した。P また、博物館の様々な利用規程と申請書式をダ ウンロードして利用できるよう一括掲載し、利用 Cサイト同様、 今後職員が運用することを前提に、 高度なアプリケーションは使用せず、機能は限定 者の利便性を向上させた。 したものとした。 また、団体利用の頻度が高い小学校向けに、博 物館利用にあたっての事前学習、事後学習に役立 つコンテンツを掲載したキッズコーナーを設けて いる。 今後、利用者の声をいただきながら、さらに充 実させていく予定である。 図2 携帯サイト画面 3 資料アーカイブスの構築 山形県立博物館には、設立以来約40年にわた る、県内を中心とした調査研究などの様々な成果 資料があるが、その利用は存在を知る一部の人利 用に限られていた。これを、多くの県民がその恩 恵を受けられるようアーカイブの整備を進めてい る。Web上でアクセスできるよう、デジタル化 が完了したデータから、順次ホームページに掲載 している。 図1 全面リニューアルしたHP 4)モバイルサイトの構築 本事業では、PCサイトの構築を最優先に進め ているが、博物館協議会委員からの指摘のあった - 43 - 図3 アーカイブスのメニュー画面 4 収蔵資料データベースの構築 2)システムについて これまで、本館の収蔵資料に関するデータは、 基本的に資料カードや管理台帳などといった「紙 ベース」を基本とした規定集のもとで管理されて <クライアント環境> ① ソフトウェア データベース いた。最近の収蔵資料情報は、データベースや Excel のデータファイルなどの形でデジタル化さ れてはいたが、データ形式やメタデータが統一さ れておらず有効な活用は難しい状況であった。 このため、本事業の最重点項目として、資料情 報を一元管理するためにデータベースを構築し、 : FileMaker Pro 10 FileMaker Pro 10 Advanced (開発用) OS : Windows XP, Vista, 7 ② ハードウェア CPU メモリ 情報活用の環境を整備することにした。 : Pentium3 700MHz 以上 (搭載 OS 等により異なる) : 56MByte 以上 (搭載 OS 等により異なる) 併せて、本事業に先行して実施されていた「県 立博物館収蔵資料緊急整理事業」 の実施によって、 収蔵資料を点検するため、登録される資料データ 3)メタデータの検討 メタデータを決定するにあたっては、以下のよ の信頼性が確保されることになった。 1)データベース管理ソフトウェアの選定 うな様々な公開メタデータについて調査を行った。 ・Dublin Core(先駆的メタデータ.各種メタデー 資料データベースを構築するにあたって,核と なるデータベース管理ソフトウェアを選定する際 タの共通項的存在) ・Darwin Core(GBIF:Global Biodiversity には,次のような要点を押さえる必要があった。 ① 学芸員自身でメンテナンス作業が可能である こと。 ② 資料データの主要項目を山形県立博物館のホ ームページ上で検索/公開できること。 ③ データ入力/データベース構築作業が柔軟に 行えること。 これらの点を考慮した結果、データベース管理 Information Facility 地球規模生物多様性情報機構) ・ISAD (General International Standard Archival Description ・IGMOI 国際標準記録資料記述一般原則) (国際博物館会議(ICOM)の国際ド ・MODS キュメンテーション委員会) (米国議会図書館) ソフトウェアとして、 使用していた FileMaker を 選定した。 ・NDL (国立国会図書館) ・CDWA, CDWA Lite (J. Paul Getty Trust) FileMaker の特徴として、 ① 親しみやすく、専門家でなくとも扱い易い。 これらの調査を通じて,次のようなことが分か った。 様々の分野で多くの個人/現場担当者が独力 でデータベースを構築して日常の業務に活用 ① 支配的なメタデータは存在しない。 ② 公開メタデータには,汎用的なものがない。 している。本館でも、一部の部門で使用して いる実績がある。 したがって全分野で統一できない。 ③ 本館の資料データには、公開メタデータには ② Web 上でデータベースを公開し操作するため のサポート機能を持つ。 該当しない項目があり、項目削除は将来的に 大きな損失である。 ③ Excel データをはじめとした豊富な種類のデ ータをインポートする機能を持っている。ま ④ 資料データを他システムへ移行する際に新た なデータ項目の追加が必要であれば、どのメ た、小規模なスタンドアロン環境で作成した データベースファイルをほぼそのままサーバ タデータを基盤として選択しても同様である。 ⑤ 公開メタデータで必須項目は基本的なもので に移行/共有できるなど、システムの形態や 発展に合わせて柔軟に対応できる。 あり、自動的なデータ変換で対応可能である。 これらを踏まえて、公開のメタデータをある程 といった特長を持っており、コスト面でも優位で 度参考にしながらも、本館独自のメタデータを設 あった。 計・採用することにした。 - 44 - 4)データベースの構造 ② 写真データのインポート、エクスポート、消 山形県立博物館の資料は, 「地学,植物,動物, 去のボタンも設けた。 考古,歴史,民俗,教育,文献」の8つの分野で 構成されている。 ③ 誤入力を防止するため、テーマカラーを分野 ごとに設定した。 ④ XGA画面サイズに最適化した。 5)システムの改良 今秋の本格運用に向けて、各分野の既存データ である Excel および旧バージョンの FileMaker か らのデータ移行とデータ入力を行っている。 同時に、各担当者から作業上の課題や改善点に ついてヒアリングを実施し、システムの改良を図 っている。複雑性(⇔メンテナンス性)とのバラ ンスを図りながら,機能をより充実させて行く予 図4 資料データベース起動画面 将来的なメンテナンスの容易性を考え、現時点 定である。 のベーシックなシステムでは、次のような方針の もとに設計している。 6)ネットワークの構成 運用開始後のネットワーク構成を以下に示す。 ① 分野ごとにデータベースを分割する。 ② 各分野のデータベースは 1 テーブルのみで構 ① クライアントPCに FileMaker Pro 10 を搭 載し、FileMaker Server 10 を搭載したサー 成する。 ③ テーブル間のリレーションは使用しない。 バ・マシンに LAN で接続する。 ② データベースはサーバ上にて一元管理する。 ④ スクリプトの使用は最小限に止める。 分野ごとにデータベースを独立させたことによ ③ クライアントPCからサーバ上のデータベー スファイルに直接入力する。 り,各分野で項目を自由に設定できることになっ たが、各分野の共通項目も設定した。 ④ どのクライアントPCからも各分野のデータ ベースに自由にアクセスできる。 そのほか,以下のような点を考慮した。 ① 既存データとして必要なものを記載するため、 ⑤ データベースのバックアップは自動スケジュ ール化する。 備考欄を多数配置した。 サーバ・マシン FileMaker Server 10 教 育 動 物 植 物 歴 史 地 学 考 古 民 俗 文 献 LAN 接続 クライアント PC クライアント PC クライアント PC クライアント PC クライアント PC FileMaker Pro 10 FileMaker Pro 10 FileMaker Pro 10 FileMaker Pro 10 FileMaker Pro 10 動物分野の入力 地学分野の入力 - 45 - 図5 山形県立博物館内のネットワーク図 7)インターネット公開 【収蔵資料データベースシステム説明会】 本館収蔵資料のうち、資料の鑑定(同定)とデ 期日:平成22年2月25日 ータベースへの入力・点検が終了したものから逐 次公開する予定である。現在、インターネット上 対象:山形県立博物館職員 内容:開発中システムの操作説明 に資料項目を検索可能な状態で38, 228点 (第 データ入力作業演習 一次公開)を公開している。 なお、収蔵資料は原則公開としているが、個人 情報を含む資料など、非公開にすべき資料の基準 おわりに 作成を並行して進めている、先進事例をお持ちの 館はご紹介いただきたい。 芸課職員6人)という、都道府県立博物館として は少人数のスタッフで運営している。先般、県の 山形県立博物館は、常勤職員が11人(内 学 出先機関の見直しを進めている県行政支出点検・ 行政改革推進委員会において、見直しを検討する 30施設の一つとして選定されているため、今日 的な課題である人員の充実、常設展示や情報設備 の整備、収蔵設備の改善などを直ちに解決するこ とは難しくなっている。県内唯一の総合博物館と して、本館の職員全員が、①われわれの使命は何 か、②われわれの顧客は誰か、③顧客は何を価値 あるものと考えるか、④われわれの成果は何か、 ⑤われわれの計画は何かを再考し、強みや弱みを 再認識して、県民ニーズに沿った存在意義のある 活動を展開していく必要がある。 図6 資料データベース検索例 この一年、 「地域資源のデジタル化」推進事業を とおして、学芸課職員がはじめての体系的な情報 <データベース公開用サーバ環境> ① ソフトウェア データベース Webサーバ 化業務に携わってきたが、職員が「情報系」資料 の重要性を自認した意味は大きい。本館を取り巻 : FileMaker Server 10 : IIS (OS 付属) く社会環境を考えたとき、博物館職員全員が県民 の貴重な財産である博物館資源を積極的に情報公 ※Web 試験公開用 スクリプト言語 : PHP 開し、県民の便益を最優先に業務を展開していく ことが、これからの博物館活動の大きな柱である ※Web 試験公開用 ② ハードウェア と考えるからである。 本館は来年度に創立40周年を迎えるが、現時 CeleronD プロセッサ 331(2.66GHz) HDD : 250GB メモリ OS 点で将来ビジョンの策定は行われていない。 今後、 博物館情報を戦略的に提供することによって、県 : 1GB : Windows Server 2003 民の認知度を高めるとともに、利用者増につなげ ていき、博物館充実の機運が生まれるよう努力し 5 職員の資質向上研修 博物館職員を対象とした講習会を開催しデジタ ルアーカイブのスキルアップを図った。 【デジタル・アーカイブ講座】 期日:平成22年2月19日 対象:山形県博物館連絡協議会会員館職員 内容:事例紹介:資料の保存と情報の発信 ていきたい。 最後に、本稿作成にあたりご尽力いただいた株 式会社アーキネット 伊勢 博氏 並びに、清野 哲二氏にお礼を申し上げる。 ※ 本事業の成果及びアーカイブスは山形県立博 文化情報のDB: 開発中システムの紹介 講師:伊勢 博(上級デジタル・アーキビスト) - 46 - 物館のHPで確認できるので、参照されたい。 (http://www.yamagata-museum.jp/) 山形県立博物館研究報告, 29:47-52, February 4, 2011 明治期の評伝類にみる三島通庸の異名について 青木 章二* Shouji Aoki 1 はじめに 統一山形県の初代県令をつとめた三島通庸は、 明治期 『府県長官銘々伝』は、表 1 中の№1~3 の通り、明 の行政官・政治家としてはきわめて毀誉褒貶に富む人物 治 14 年版、同 15 年版、同 17 年版がある。版元はそれ として知られる。山形、またそれに続く福島・栃木県令 ぞれ異なるが、15 年版及び 17 年版は 14 年版の重版で 時代には、 大規模な土木工事等を起こして殖産興業や交 ある。本書は全国各府県の県令及び開拓使長官 41 人の 通の発展に尽力し、 地方の近代化に大きく寄与した辣腕 人物列伝であり、 毎半葉ひとりずつ人物の小伝が挿絵と の地方長官として評価される一方、 その強権的かつ専制 ともに掲載されている。3 種の版本に内容の異同はほぼ 的な政治理念・手法や福島事件を始めとする自由民権運 ないが、たとえば挿絵をみると、同じ人物像を同じ構図 動に対する激しい弾圧は後世までも厳しい非難を浴び で描いてはいても、14 年版の絵(立斎広重画)を写し取 た。 った重版の15年版及び17年版の挿絵には明らかに技術 三島に対する人物評は、時や所、また思想的立場など の拙さが見てとれる。 により大きく揺れ動くものであるが、本稿は、明治期に 3 種の版本を比較すると、 「山形県令三島通庸君」の 著された三島に関する評伝類、 とりわけその中にみられ 項には、違いがひとつみられる。14 年版(図 1)および る異名の検討を通して、 三島における評価史の一面を考 15 年版においては、表題中の「三島通庸」のルビは「み 察するものである。なお、本稿で紹介する明治・大正期 しまみちつね」となっているが、17 年版(図2)のそれは の書籍資料はすべて、国立国会図書館が「近代デジタル 「みしまみちやす」になっている。三島(名は弥兵衛) ライブラリー」(http://kindai.indl.go.jp/)として の諱である「通庸」は、 「つうよう」という音読みのほ web 公開しているものである。 かに 「みちつね」 という訓読みが一般に通行しているが、 三島自身の署名に「みちやす」と仮名書きしている文書 2 国立国会図書館所蔵の評伝類 があることから、 「みちやす」と読むべきであるという 国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にお いて閲覧できる、 三島通庸に関する明治期の評伝類は次 の表 1 の通りである。 説がある1。 表 1 中の№4「人物管見」は、当時、雑誌『国民之 友』 を主宰していた徳富蘇峰(猪一郎)による人物評論集 この中で、№5『三島通庸』(平田元吉)のみが単行の である。本書に所収の「三島通庸君」は、三島が世を去 評伝であり、その他はいずれも、人物評論集、伝記集、 った直後、 『国民之友』第 33 号(明治21 年 11 月)に掲載 逸話集の一編として収められた短編である。 された。この中で筆者が、三島を評して「六尺の身を以 2 て明治政府の長城となり」 と述べたことは有名である。 *山形県立博物館教育資料館学芸員 - 47 - 表 1 明治期の評伝類 № 書 名 編著者 発行者 発行年 表題 1 府県長官銘々伝 伊東橋塘編 紅英堂 明治14 年(1881) 山形県令三島通庸君 2 府県長官銘々伝 伊東橋塘編 本田市治郎 明治15 年(1882) 山形県令三島通庸君 3 府県長官銘々伝 伊東橋塘編 田中治兵衛 明治17 年(1884) 山形県令三島通庸君 4 人物管見 徳富猪一郎 民友社 明治25 年(1892) 三島通庸君 5 三島通庸 平田元吉 平田元吉 明治31 年(1898) 茶話主人 文友館 明治33 年(1900) 三島通庸 維新後に於ける名士の逸 6 談 7 茶話 読売新聞社編 東京堂 明治34 年(1901) 三島通庸 8 明治百傑伝 干河岸貫一編 青木嵩山堂 明治35 年(1902) 三島通庸 9 近世偉人百話 中川克一編 至誠堂 明治42 年(1909) 三島通庸の圧制,保安条 例,通庸の土木 10 修養立志編 高市予興 修文館 明治43 年(1910) 三島通庸の自信 11 立志訓話 吉丸一昌編 武田文盛館 明治44 年(1911) 三島通庸の信念 表 2 三島通庸の異名 № 書 名 1~3 府県長官銘々伝 異名の記述 なし 4 人物管見 なし 5 三島通庸 道路県令 6 維新後に於ける名士の逸談 なし 7 茶話 なし 8 明治百傑伝 なし 9 近世偉人百話 道路県令 圧制県令 10 修養立志編 道路県令 圧制県令 鬼総監 11 立志訓話 道路県令 圧制県令 鬼総監 - 48 - 図 1『府県長官銘々伝』(明治14 年版) 図 2『府県長官銘々伝』(明治17 年版) 「近代デジタルライブラリー」より転載 「近代デジタルライブラリー」より転載 №5 平田元吉の『三島通庸』は、公刊された最初の本 格的評伝といえるものである。第一編「緒論。幼年。 」 3 三島通庸の異名について 三島通庸の人物を語る場合には、 必ずといっていいほ から第七編 「三島通庸とは何ぞや」 まで本文206 ページ、 ど「土木県令」 、 「鬼県令」などの異名が付される。これ 附録として「逸事録」及び「格言集」が 29 ページ、 「遺 らの異名は評伝『土木県令三島通庸』(丸山光太郎著、 詠」として 11 ページが収められている。 栃木県出版文化協会、昭和 54 年)や小説『鬼県令・三島 №6『維新後に於ける名士の逸談』および№7『茶話』 に所収の 「三島通庸」 という文章はまったく同じであり、 警視総監時代の逸話が短く紹介されている。 通庸と妻』(阿井景子著、新人物往来社、平成 20 年)な ど、書名にもつかわれている。 これらの異名が意味することについては、 最近出版さ №8『明治百傑伝』は人物列伝であるが、三島通庸に れた 『評伝三島通庸 明治新政府で辣腕をふるった内務 は 6 ページ強程の紙面が割かれ、 その生涯が編年的にま 官僚』 (幕内満雄著、暁印書館、平成22 年)の「はじめ とめられている。 に」で、 「そうした三島通庸の明治史における一般的な №9『近世偉人百話』には、 「三島通庸の圧制」 、 「保安 イメージとしては、自由民権運動を弾圧した『鬼県令』 条例」 、 「通庸の土木」の 3 編が収められている。自由民 であり、 独善的な県政運営によって多くの道路開さく工 権運動への弾圧や大規模な土木工事など、 三島に関して 事を行い、また県庁、学校、産業施設などの擬洋風建築 よく知られている話がまとめられている。 物を次々と建てた『土木・道路県令』であったというよ №10『修養立志編』および№11『立志訓話』に所収の うな、どちらかというと藩閥官僚の代表的人物として、 文章は、表題や表現に多少の異同はあるが、同一内容の 批判的に見た評価が定着しているのではないかと思い 文章である。 ます。 」と概括されているのが、ひとつの典型である。 - 49 - 一方で、 『山形県史』(通史編第四巻 近代編上、昭和 精神の人でありました。 59 年)は次のように述べる。 「三島は『土木県令』とか 其知事時代には道路県令だの圧制県令だのと悪名 『鬼県令』とかのニックネームで広く呼ばれている。こ を蒙つたにも係らず山形では栗子嶺の大随道を作り、 の“土木”と “鬼”とは本来無縁な概念ではあるが、 三 福島白河の難路を開いて通行の便利を計つた人であ 島にとっては見事に合体した人物像を表している。 明治 りますから、当時は其費用の莫大なのと其工事の六 初期の政府が政策スローガンに掲げた『富国強兵』 『殖 かしいので、県民が誰一人として通庸を好く云ふも 産興業』 『文明開化』の中で、土木や道路は殖産興業に のはなく、県会なぞでは頻りに排斥運動も致しまし とって、もっともかなめとなる事業であるだけでなく、 たが、それが今日では其道路の便利の為めに、県民 軍事面からも要請されていた。したがって、土木は産業 は何れも交通と商業との便利を得て始めて其恩を知 開発を表わし、 鬼はそれを強力に推進していく力を示し、 り、今では誰一人として通庸を賞めぬものはなく、 3 三島の人物像を的確に表わしたものといえよう。 」 前者 遂には三島大明神として祭られるやうになりました。 とは異なって、ここでは、三島を高く評価する立場から 之と云ふのも通庸の心には一点の私と云ふものな 「土木」や「鬼」は批判的・否定的な「概念」として理解 く一度信じたことは天地に向つて恥ぢず神明に照し されているのではないことがわかる。 て疑はないと云ふの自信と勇気とがあつた為であり 三島の人物像が功罪相半ばして語られるのに照応す まして、寝ても覚めても思ふは只国事のことばかり るかのように、 「土木県令」や「鬼県令」という異名も でありました。それでありますから通庸が警視総監 また正と負両方のイメージをもって受けとめられてい となつては鬼総監とまで呼ばれるほど果断な処置を るといってよい。 して、終には保安条例を設定して、時の政府に反抗 今日では人口に膾炙した異名であるが、 歴史的にはこ する政治家や壮士を捕へて東京以外五里の地に立ち れらの異名はどのようにつかわれてきたのだろうか、 前 退かしめた為め、 「三島斬るべし三島斬るべし」と叫 掲の評伝類を手がかりにして検討したい。 んで其官邸に迫つて来た者共も、其死を聞いては均 これらの評伝類にとりあげられている異名をまとめ しく悲しんだと云ふことであります。何事も誠実で たものが表 2 である。具体的にみるために、 『修養立志 真面目な自信さへあらば決行して出来ぬことはない 編』(明治 43 年)中の「三島通庸の自信」という文章の ことであります4。 全文を紹介する。 この文章の中で、三島の異名に着目すると、①三島が 「鬼総監とまでうたはれた」こと、②知事時代には、 「道 「荒がねも岩もまがねも一すぢに貫くものは誠な 路県令」や「圧制県令」などと「悪名」を蒙っていたこ りけり」 「ねては夢さめてはうつつ国の為尽くすこゝ と、③「鬼総監とまで呼ばれるほど果断な処置をして、 ろは神や知るらん」とは今日の貴族議員の牛耳をと 終には保安条例の設定」があったこと、の3点が挙げら り、未来の大蔵大臣を以て望まるゝ正金銀行専務取 れる。 締の職にある明治の俊才三島弥太郎の父で鬼総監と まず、①及び②をみると、 「鬼総監」の異名はあるが、 までうたはれた三島通庸の歌であります。此歌はま 巷間いわれる「鬼県令」はみられないことに気づく。さ ことに通庸の心中を残りなく表はしたものでありま らに、①での「鬼総監」の異名が「明治の俊才三島弥太 して、彼れは剛直誠実を以て世の中に知られ、自分 郎」を称揚する文脈でつかわれ、この場合の「鬼」が否 の信ずる処は如何なる反対に会つても決して屈撓せ 定的なニュアンスを持つ異名とは理解できないこと、 ま ず、之れを貫かねば止まぬと云ふ た、④からは、 「鬼総監」の名づけと「保安条例の設定」 - 50 - という自由民権運動に対する弾圧との間には直接的な なかった。史実からすれば、三島の県令時代は「道路県 因果関係は読み取れないことにも留意する必要がある。 令」や「圧制県令」などの異名が一般に流行し8、警視 これまで指摘されてきたように、 三島の批判的人物像 総監となって以降に、 「鬼」の異名が付けられたのであ は主に自由民権運動史のなかで形成されてきたもので った。言い換えれば、 「道路県令」や「圧制県令」など あった5。大正期の自由民権運動に大きな影響を与えた の「悪名」を経て、「鬼(総監)」と呼ばれるようになった 中野正剛の『明治民権史論』(有倫堂、大正2年)の中で ということである。総監時代の「鬼」に関連して、 『修 は、 「福島事件以来鬼と唄はれし専制吏の標本たる三島 養立志編』と同内容の『立志訓話』(明治 44 年)には、 通庸あり」6と酷評されており、三島が福島県令時代か 「鬼総監ともうたはれたほどの偉人物」9という記述が ら「鬼」と呼ばれていたように記されている。しかし、 みえる。この表現からすれば、 「鬼」は否定的・批判的 表 2 の通り、他の明治期の評伝類をみても、 「鬼県令」 な負のイメージを持つ呼称ではなく、 明らかに積極的な という異名はみられない。これをみる限り、少なくとも 評価を込めた異名であるといえる。 三島の県令在任時に「鬼県令」という異名が一般的に流 こうした異名に見られる負から正への評価の変遷に 布していたとは言い難い。三島の職名に「鬼」が付けら ついては、 「それが今日では其道路の便利の為めに、県 れるようになった時期については、 知事(県令)在任時で 民は何れも交通と商業との便利を得て始めて其恩を知 はなく警視総監就任時からであったと考えるのが妥当 り、今では誰一人として通庸を賞めぬものはなく」とい であろう。 う先の文章が想起されよう。大規模な道路建設など、き また、「鬼」の名づけが警視総監就任以降であり、その わめて悪評を蒙っていた県令時代の事業が、 時を経るう 時代の「保安条例の設定」とも直接的な因果関係がない ちにその成果が現われ、 次第に大きな賞賛へと変わって とするならば、 「鬼」が自由民権運動の弾圧者に対して いった、という三島に対する世評の推移である。 のネーミングであるともいえなくなってくる。 『近世偉 以上を勘案すれば、明治の人たちが呼んだ「鬼」の異 人百話』(明治 42 年)に、 「其の福島県令となるや、頗る 名には、 三島の経世家としての一貫した在り様が反映さ 圧制の名あり、終に暴動を惹起するに至る、人呼んで圧 れていたと考えるべきであり、 三島通庸の警視総監時代、 制県令といふ。 」7とあるように、福島事件を始めとする すなわち、晩年になって付された「鬼」の異名は、三島 自由民権運動への苛烈な弾圧に対する非難の呼称とし の県令時代を含めた行政・政治手腕や治績全般に対する てならば、 「鬼県令」よりは「圧制県令」の方が直截的 世人の積極的な評価に裏打ちされた呼称であったとい である。 えよう。 おそらく、 「鬼県令」という異名は、大正期以降の自 由民権運動の高まりの中で、 三島が自由民権運動に敵対 4 おわりに した専制的な地方長官の代表格と位置づけられ、 警視総 三島に対する積極的な評価を意味していた「鬼」の異 監三島通庸に付けられていた「鬼」の否定的な負のイメ 名が、 負のイメージをもって語られるようになったのは、 ージのみが次第に増幅されて定着していったものであ 大正デモクラシーの時代思潮も関係したであろう。 また、 ろう。 本来は「悪名」であった「道路(土木)県令」の異名が、 明治の人たちが三島通庸を「鬼」と呼んだことの意義 昭和になって再び脚光を浴びるようになったのは、 国土 について改めて考えてみたい。 これまで検討してきた通 開発に沸いた戦後の高度経済成長期という時代背景が り、三島の県令在任時に「道路(土木)県令」と「鬼(県 あったからとも考えられる。 令)」という異名が広く並び称されていたとは認められ - 51 - 本稿では、 三島の異名についてその流布や受容の歴史 をたどってみたが、ひとつの異名にも、時代や人々がつ くりあげた様々な「三島像」が映し出されていることを 改めて認識させられる。 (注) 1 後藤嘉一,『やまがた史上の人物』,p128,郁文堂書店, 昭和 40 年。 2 同書,p16。 3 同書,p196。 4 同書,p59‐61。 5 丸山光太郎, 『土木県令三島通庸』 ,p184。 6 同書,p224。 7 同書,p123‐124。 8 「道路県令」と同義の「土木県令」という異名につ いては、 『東陲民権史』 (関戸覚蔵編,養勇館,明治 36 年)に「夙に喜びて土木を窮極し、時人呼ぶに土木 県令を以てせり」 (同書 p93)とあるのがみえる。 9 同書,p26。 - 52 - 山形県立博物館研究報告 第29号 平成23年2月4日 発行 編集・発行 山形県立博物館 〒990-0826 山形県山形市霞城町1番8号 電話 023 ・ 645 ・ 1111 © 2011 Yamagata Prefectural Museum. Printed in Japan
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